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マンデラエフェクトについて、考えてみる

 昨年(2021年)の5月頃、この世の中で「マンデラエフェクト(マンデラ効果)」という、不思議な現象が起きていることを初めて知った。このことが世間で認識され始めたのは2010年ごろからだそうなので、自分は気づきが遅い方だったが、この2,3年で、その事実を知る人が、急増したようだ。
 「マンデラエフェクト」について、すでにご存じの方も多いと思うが、簡単に言えば、多くの人々が現在の世界とは異なる、辻褄の合わない過去の記憶を共有している現象のことだ。
 このブログはここ2年ぐらい、ぼんちゃんと自動車の、二つの話題に絞ってきたが、この「マンデラエフェクト」はきわめて重要な情報だと思い、今回はこの話題を取り上げることにする。
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https://livedoor.blogimg.jp/katatematter-snnzonxb/imgs/c/c/cc9bcd7b-s.png
この不思議な現象の話題を扱ったブログやツイッターはネットで探すとたくさんあり、興味のある方はこの記事の文末の引用元などを手掛かりにぜひ検索してみてください。この記事がそのための一助となれば幸いだ。マンデラエフェクトを知り、探索する人達のことを、世間では“マンデラー”と呼ぶようだが、この記事は最後の纏めの9項以外、そのマンデラーの方々からのマンデラエフェクト情報の引用で構成している。自分の手抜きもあるが、マンデラエフェクトを発見した時の、その驚きの臨場感が伝わるように文章をそのままコピーして、いつものように青字に色分けして区別してある。そして参考にしたすべての情報源は番号をつけて、これもいつものように文末の引用元一覧として記してある。上の画像は(「マンデラ効果まとめブログ」=引用(A))よりコピーした。

マンデラエフェクトは、“記憶違い”なのか
あらためて、wikiによればマンデラエフェクトとは、「事実と異なる記憶を不特定多数の人が共有している現象を指すインターネットスラング、およびその原因を超常現象や陰謀論として解釈する都市伝説の総称」という解釈になり、陰謀論や都市伝説扱いに貶めようとしているが、マンデラエフェクトが記憶違いなどではなく、実際におこっていることは、厳然たる事実だ。そのもっともわかりやすい例として、以下の2つを掲げておく。1つ目は、オーストラリアの位置の変化だ。
マンデラエフェクトの事例としてもっとも多く引き合いに出されるものだが、オーストラリアの場所は、多くの人の記憶では下の地図のように、太平洋上にぽつんと孤立したイメージだったはずだ。
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https://pbs.twimg.com/media/Esv7whlU4AEwfaZ.jpg:medium
 ところが今では下図のようにいつの間にか、遥か上方のアジア寄りに大きくシフトしているのだ!
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https://stat.ameba.jp/user_images/20210915/10/hamanaaya77777/71/c7/j/o0807086815001256818.jpg?caw=800

 もう一つ、身近に起きたマンデラエフェクト(長いので、以下の文中では“マンデラ”と略す場合が多くなると思います)として、直接体感できるものが、心臓の位置だ。
 自分の心臓を確認するのに手っ取り早い方法は、左胸に手を当てて、その鼓動を確認することだったが、今やその常識は通用しない。いつのまにか心臓の位置が、体の真ん中寄りに移動したからだ!(②、(B)、(H)等参考)
 心臓の鼓動を確認し難くなったのは、場所の移動だけが原因ではない。以前と違って胸の真ん中に胸骨というものが生まれ、ろっ骨とともに心臓を強固にガードする構造に変化したため、鼓動が伝わり難くなったからのようだ。『胸骨、ありませんでした。私がいた世界では肋骨は繋がってなく先端が尖っていました。事故で肋骨が肺に刺さる事もありました。』(引用(①、2019.08.18ツイート)
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https://pbs.twimg.com/media/ECQm8DUUwAEndYj?format=jpg&name=small
さらに眼球の後ろには骨が存在し脳をガードしているなど、人体構造の急激な変化については後の3項で記しておく。以上の2つは、けっして”記憶違い“では済まされない、とてつもなく大きな変化だ。

 ここからさらに話を進める前に、誤解がないように予め3点お断りしておく。
1点目は、すべての人が共通の過去の記憶をもっているわけでは無いことだ。
たとえばAさんはオーストラリアの現在の位置に違和感を感じるが、心臓の位置は左胸ではなくもともと真ん中だったと記憶していたが、Bさんはその逆だったりする。さらにCさんはこの2点についてはAさんと同じ記憶の持ち主だが、京都府に海がなかったはずだという記憶ではAさんと意見が食い違ったりする。過去の記憶の経過は各人それぞれで、想像以上にばらけているようだ。そのためこれから記していく、マンデラエフェクトが起こった可能性のあるとされている事例も、みなさんの記憶に当てはまらない場合が多く出てくるはずだ。人の記憶というもののあいまいさもあるだろうが、現在は同じ世界に暮らしていながら、過去の記憶が人それぞれで異なる部分がある点も、この現象の不思議さを物語っている。(引用(C)参考;『マンデラエフェクトを通じて、異なった過去の認識を持つ方々が、同じ世界に混在していることが明らかに』
さらに、マンデラエフェクトが生じると、現在だけでなく、過去の出来事も同時に書き換えられてしまう。そのため、たとえばオーストラリアの位置に違和感を感じて、あらためて確認しようと、古い世界地図を広げてみても、そこには今の世界線での位置情報が反映されているだけだ。人体図や歴史なども同様で、マンデラエフェクトが起きると、自分の記憶だけを取り残して、過去も含めてすべての情報が入れ替わってしまうのだ。(これも引用(C)参考)
最後に1点、マンデラエフェクトは現在進行形で変化のスピードを加速させつつあり、今この瞬間も、変化を遂げている可能性がある。いったん真ん中に移動した心臓の位置が、再び左胸に戻っている可能性だって、まったくあり得ない話ではないのだ!(引用(②)等参考)

話を戻し、マンデラエフェクトが起きているジャンルとして、(引用③、11/21のツイート)によれば概ね、以下のように分類されるという。( )内はその参考事例だ。
1.地形出現、変更系(新小島、オーストラリア)
2.建物出現、変更系(新仏塔、まねき屋根)
3.人体(生物)進化系(胸骨、心臓位置)
4.新生物出現系(マンデラ生物)
5.歴史過去改変(日本のオーストラリア空爆)
6.デザイン変更系(ピカチュウ、企業ロゴ)
7.文字変更系(漢字、つづり)
8.機能変更系(航空機エンジン位置)
9.天体出現、変更系(星座)

この記事では上記の各ジャンルについて概ねこの順番通りに、ネット上から拾った事例をいくつか紹介し、最後の9項で自分なりにこの現象についての考察を行なってみたい。(4/9に追加済み。)

1.-1マンデラエフェクト 地形出現・変更(海外)編
先に紹介した、オーストラリアの世界地図上の変化について補足すると、小さくて見ずらいと思うが下のNHKのアプリの画面にマンデラ(注;マンデラエフェクトの略。以下同様)前の痕跡が残されているとの情報がある。『NHKアプリの遠地地震の背景地図がマンデラ前の地図に見えてしょうがない。オーストラリアの位置、ニュージーランドの位置····。』(引用(4)、2021.08.23ツイート)
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https://pbs.twimg.com/media/E9crcJ8VgAcjYb7?format=jpg&name=medium
『オーストラリアの位置があなたの記憶の中の場所と合致しないですか⁉️「この世界地図は驚くべきことに1418年の世界地図だという!コロンブスがアメリカ大陸を発見したのは1492年のこと それより70年以上前にアメリカ大陸が描かれている」』(引用㊺、2022.01.13リツイート)
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https://pbs.twimg.com/media/FBqPfmZVUAUpeid?format=jpg&name=small
既述のようにマンデラが起きると過去の情報も同時に書き換えられてしまうが、このように稀に、マンデラ前の痕跡が残されている場合がある。写真や実写の動画などよりも、絵やイラスト、アニメ等に移し替えが行われた情報に、“生存率”が高いようだ。
『ジャイカ 池上彰 水問題で検索すると出て来る地図子午線・経線のある地球 オーストラリア離れ過ぎ感もある…』(引用㉛、2020.07.25ツイート)
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https://twitter.com/kR0SVgfuiUXUOYF/status/1286907009212665858/photo/1
オーストラリア以外の世界地図上の変化について、いくつか掲げておくと、有名なところでは、イギリスの位置の変化がある。ただし自分は世界地図に関して、元の知識に欠けるため、オーストラリアの移動以外では、ドーバー海峡や、カナダのハドソン湾ぐらいしかマンデラ効果を判別できないのだが。
『イギリスとフランスが近すぎて笑うしかないわ ドーバー海峡が145キロあったはずなのに34キロしかない!ドーバー海峡を泳ぐ番組で確かにキリのいい数字で145キロ!って言ってたはずなのに滅茶苦茶近くなってる。』(引用(A)-1)もっと北寄りだったが、フランスやドイツ方向に移動した結果、ドーバー海峡の距離が短くなったようだ。
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https://livedoor.blogimg.jp/katatematter-snnzonxb/imgs/8/9/899bbd3d-s.jpg
イタリアはどうかといえば『こんなに、イタリア半島とシチリア島は近かった??(半島の形も違う様な、、、)』(引用(C))地図で見る限りほとんどくっついている。
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https://stat.ameba.jp/user_images/20200509/20/hikaru-33/fb/38/j/o0663108014756241679.jpg?caw=800
『シチリア島とイタリア本土の距離はこれくらいが「正解」です。』(引用④、2021.09.18ツイート)下が旧世界のイメージ。
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https://pbs.twimg.com/media/E_jsxa7UcAIET3G?format=png&name=small
『ドイツの形が変わってる感。斜線で示した場所はドイツ領土だったと思うがチェコに大きく侵食された感じ。たぶん』(引用⑤、2020.12.05ツイート)自分にはまったくわからないけれど。
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https://pbs.twimg.com/media/EobtcOtVQAAfMhd?format=jpg&name=small
『ロシアとフィンランドが繋がった!フィンランド、ノルウェー、スエーデンでヨーロッパとは繋がってなくて島の記憶。しかもかなり巨大になってないか』(引用⑥、2021.10.07ツイート)これもまったくわかりませんが。
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https://pbs.twimg.com/media/FBE6MHtVUAMI5QJ?format=jpg&name=medium
『私の目には ロシアがどんどん 東に伸びてきたように見える』(引用⑮、2022.02.04ツイート)
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https://pbs.twimg.com/media/FKvQbQQVEAEHHnj?format=jpg&name=small
『この方の感想と一緒です 「どう見てもロシアが東に伸びている 長い‼︎ 横に長い‼︎ 前はね 日本の上に こんなに長いロシアは無かったんです 私の記憶の中のロシアは日本の北 だいたいこのあたりで終わってたんですよね」』(引用⑰、2022.03.30ツイート)
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https://pbs.twimg.com/media/FPELf7ZaMAAclC2?format=jpg&name=900x900
『ロシアが異常に大きくなっている( ゚Д゚y)y !?? ロシア拡大 中国縮小 ヨーロッパ縮小 日本拡大 朝鮮半島拡大』『元居た世界とは似て非なる世界地図!!!∑(゚ロ゚! 夜中に疲れる図』(引用㊷、2022.03.31ツイート)
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https://pbs.twimg.com/media/FPHZzADaUAArLPq?format=jpg&name=small
『窓から見える景色。こんな景色でもスロバキアには海が無かったんで嬉しいです』(引用㉑、2022.01.15ツイート)現地にいる方から、喜びの声があがっている。
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https://pbs.twimg.com/media/FJIJjNkaUAAtDdD?format=jpg&name=small
『アンドラなんて国初めて知ったわ』(引用㉚、2020.08.20ツイート)「アンドラはピレネー山脈の麓にあり、フランスとスペインの間に挟まれている小さな独立公国です。」いくら468㎢という小国とはいえ、自分も今まで聞いたことなかった。
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https://pbs.twimg.com/media/Ef8Qh5BUEAA1XJg?format=jpg&name=small
『カナダのハドソン湾の存在に強烈な違和感を感じます』(引用(B)-1)さすがにこれは目立つ。さらにこの地図上のアラスカにも違和感を感じる人もいるようだ。
http://maneffe.info/archives/6529904.html)
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https://livedoor.blogimg.jp/etoutarou/imgs/8/3/83f37153.jpg
 カナダが大きく削られて、巨大な湾ができあがっている。
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https://pbs.twimg.com/media/E16pPCEVcAQmOla?format=jpg&name=900x900
『カリフォルニア半島が、アメリカじゃなくメキシコになってる。趣味が英会話なのに、海外経験は1回きりの私。カリフォルニアへの新婚旅行でした。そうですか……メキシコになっちゃいましたか……』(引用⑦、2021.08.27ツイート)新婚旅行ともなれば、記憶も鮮明でしょう。
地形ではないが、アメリカの州の数がハワイを入れて51州だったのが、マンデラで50州に減ったとする声も多い。『アメリカの52番目の州は「日本」っていうジョークだった気がしてきました。』(引用③、2021.12.27ツイート)
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https://pbs.twimg.com/media/E9xT5elVEAA5mDa?format=jpg&name=small
さらに南米方向に降りていくと『いや何回見てもチリの形おかしい。こんな真っ直ぐじゃなくてもう少し起伏があったよね?上から下までストーン、としすぎてる。』(引用⑧、2021.11.26リツイート)
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https://pbs.twimg.com/media/FFGcYdYaAAAPpD1?format=jpg&name=small
『アルゼンチンの国境って切れてたっけ?』(引用⑧、2020.10.16ツイート)
ここからいきなりアジアに飛ぶとたとえば『スリランカの位置はインド半島先端から南の沖合にあったものが、半島先端に隣接するような形になっていた。』(引用⑨、2021.08.17)
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https://pbs.twimg.com/media/E8_7WXQXoAI68Ij?format=jpg&name=medium
あちこち飛ぶが『グリーンランドの位置、大きさ、形の違和感』(引用(B)-2)
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https://livedoor.blogimg.jp/etoutarou/imgs/b/e/be80d0b2.jpg
『南極大陸(南アメリカ大陸)の南方辺りね。マイクロソフト(Bing Map)だと、フォークのような尻尾のような半島があるのだけど、グーグルマップだと、こんなものないの。上のウネウネもちょっと違うし、島や凸なんてないし。』(引用(E))
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https://stat.ameba.jp/user_images/20210718/20/b-otan/c2/c0/j/o0864037914973994779.jpg?caw=800
世界地図上で、今後その認識がもっとも激変しそうなのが、いまだに飛行禁止区域が多く、世界でもっとも謎めいた場所である南極大陸ではなかろうか。
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https://pbs.twimg.com/media/FDiOF6KWYAcl7h6?format=jpg&name=small

 世界地図上における地形の変化の事例は、枚挙に暇がないので、1.1項のまとめとして?(引用⑨、2021.08.27のツイート)『大雑把にこれだけ変化している認識です。 現在のオーストラリアは3000km程西へ位置し、南アメリカ大陸は現在の位置より大陸1つ分くらい西へ位置してました。』
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https://pbs.twimg.com/media/E9ui4-MVgAQkRgt?format=jpg&name=small
下に、旧世界(青線)と新世界(黒線)?地形の違いを表す、イメージ図もコピペしておく。
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https://minkara.carview.co.jp/image.aspx?src=https%3a%2f%2fcdn.snsimg.carview.co.jp%2fminkara%2fuserstorage%2f000%2f057%2f144%2f072%2fe7bf20bd25.jpg?ct=ebf5f83f9ea7

1.-2マンデラエフェクト 地形出現・変更(国内)編
より身近な例として、日本国内の地形の変化はどうだろうか。これが外国に劣らず、物凄いことになっているのだ!
九州全体が激しく変形した!
 自分が感じたところ、もっとも違和感だらけなのが、最近の九州の地形だ。日本列島全体のマンデラについて、その概要を説明している(引用J)でも『九州はもう、県の位置関係はあってるけど、面積とか県境が全体的におかしいので割愛』と、さじを投げているように、あまりの変形ぶりに、逆に指摘し難いほどなのだが、まずは全体像を把握するため、ツイッターからいくつか情報を拾ってみる。その前に、下が今の九州の地図だ。画像はwikiwandより。まずはその変貌ぶりをよ~くご確認いただきたい。
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https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/34/Geofeatures_map_of_Kyushu_Japan_ja.svg/480px-Geofeatures_map_of_Kyushu_Japan_ja.svg.png
以下の文と地図は「マンディ」さん(引用⑧、2021.08.15ツイート)より。
『たとえば「九州の形状変化。変わりすぎで良く分からないことになってますがw
・鹿児島湾、福岡、熊本、国東辺りの縮小
・大分、天草辺りの拡大と複雑化
・島の位置変化と増加?』

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https://twitter.com/LINE96199575/status/1426681837674393602/photo/1
「ミユキ@マンデラー」さん(引用⑦、2021.09.10ツイート)『九州の地図を書きました。全県すごく変わってるんだけど、大きな特徴は、次の5つ。
‘①佐賀は有明海に面していない 
②国東半島は、今みたいなたんこぶではない 
③桜島は、島。
④熊本に、あんな大きな諸島は無い 
⑤下関は、九州にかぶさってない』

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https://pbs.twimg.com/media/E-31wpbVUBM4mvz?format=jpg&name=small
下は「シロニクルshironicle」さんが描いた図で『私が過去・現在に住んだことがある場所を元記憶の九州(大雑把)の位置に当てはめる。』(引用㉝、2022.01.22ツイート)みなさん記憶を頼りに描いたものなので、微妙に違ってくるのは当然だが、いずれにしても、すさまじい変形ぶりだ。
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https://pbs.twimg.com/media/FJqyo9maQAEtOHV?format=jpg&name=900x900
下は「いと」さんが発掘?したもので『ありがとうございます!一般の人の意見が聞きたいのですが、マンデラエフェクトは都市伝説の類とされてますが、不特定多数の記憶違いだけでなく、実際に過去が書き変わった痕跡が残ってます。物的証拠です。画像のような痕跡を見てどう思います?長崎の形について、黒板の九州が変化前の痕跡です。』(引用㊳、2022.01.25ツイート)『コレも懐かしい九州の地形。形が変わり過ぎて元の形を忘れかけていた。桜島もこの黒板のような感じだったよ』(引用⑯、2022.01.25リツイート)黒板の地形が旧世界?により近い図で、緑がこの世界の地形だ。
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https://pbs.twimg.com/media/FJ8iFdEaAAIXaal?format=jpg&name=small
以下、個別にみていくと、『九州出身ですが福岡県、佐賀県、長崎県の地形は私の記憶と著しく違います。福岡県が有明海に面しています。』(引用①、2021.04.05ツイート)
『下野と北九州、ほとんど地続き?くっつきそう』(引用⑧、2021.01.05ツイート)
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https://pbs.twimg.com/media/Eq7I5O2UcAAtzGz?format=jpg&name=900x900
『はじめまして、横からすみません。JRこんな接続でしたか?』(引用㉜、2022.01.22ツイート)地元出身者からすれば、郷土がこれだけグジャグジャ(グニャグニャ?)になってしまえば、一言いいたくなって当然だろう。
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https://pbs.twimg.com/media/FJq3ddPaMAAKQJK?format=jpg&name=large
上の、現在の路線図との比較として、旧世界の痕跡が残る『ハウステンボスHPの地図ですが、九州と下関の接点と、新幹線の線路図がこの世界と違います。』(引用④、2022.01.05ツイート)
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https://pbs.twimg.com/media/FIVOc80aQAICIgg?format=jpg&name=small
『関門海峡の橋の位置ww陸地の先端同士だったのではと思うのですが。』(引用⑬、2022.01.22ツイート)関門大橋が短くなり、関門橋と簡略化されちゃっているそうです。(㉜、⑬の2022.01.22の会話によれば)
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https://pbs.twimg.com/media/FJq_gNQagAA-5b4?format=jpg&name=small
九州人以外にとって、もっとも認識しやすい変化は、“天草下島/上島”の出現だ。九州の地形の変化は、大半の人はここだけで十分納得いくはずだ。はたしてこんな大きな島が、こんな場所にあっただろうか。
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https://stat.ameba.jp/user_images/20171209/13/hiho-haiko/19/d3/p/o0489045914087424321.png?caw=800
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https://pbs.twimg.com/media/FHLaEtvaIAE2wLr.jpg
本土とは橋で結ばれているようだ。
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https://www.t-island.jp/assets/images/old-plan/bridge/head.jpg
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http://kami-amakusa.jp/wp-content/uploads/0_RHvIMlZlGoY_o.jpg
絶好のドライブコースが誕生したようだ。
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https://www.city.kamiamakusa.kumamoto.jp/pub/25319_filelib_18fbacc98ee6bfb9d1a45c58dda761a0.jpg
 逆に桜島は小さくなったように思える。
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そもそも昔、自分が九州旅行した時、記憶では船で渡ったような?記憶違いだっただろうか?現在では、大正の大噴火で陸続きになり車で行き来できるようになっているとのことだ。
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https://www.nishimura-mokei.com/wp/wp-content/uploads/2015/09/5a231ca8f05b9595a63330ae810a679a1-1-715x536.jpg
最近の九州の地形の劇変ぶりを、マンデラー以外の、“一般の”地元出身の方々はどのように感じているのだろうか。日常暮らしている場所の変化はなかなか判別し難いが、久々に故郷に戻った時に、その“異変”を肌で感じた人もいるのではないかと思う。
『彼女は最初 お馴染みの「辻」に 疑問を持っていた。人体図、世界地図など いろいろと話を進め、でもまだ半信半疑。が、日本地図を見た時 ノックダウンをくらったようで 「九州はこんな形じゃなかった!!」と言い放った。おちた瞬間であった』(引用㉘、2021.11.15ツイート)

 九州の変形ぶりを把握するのが困難なため、この辺であきらめて中国・四国地方に移る。『広島県生まれ広島県育ちだけど、愛媛の佐田岬、知りませんでした。地元出身の同僚10人に聞いてみましたが、9人が知りませんでした。海を挟んでるとはいえ隣県。そんなことある?ないよ。』(引用⑦、2021.08.25ツイート)
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https://pbs.twimg.com/media/E9lfWH6VkAI32gA?format=jpg&name=900x900
四国も『やっぱり香川小さすぎ』(引用㊳、2022.02.9ツイート)
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https://pbs.twimg.com/media/FLHng1ZaIAErYWR?format=jpg&name=small
『愛媛県もいつのまにか形変わってる…』(引用㉟、2022.01.22ツイート)
『広島県呉市から、ギリギリ愛媛までをつなぐらしい『とびしま海道』。広島県民のくせに、先月知りました。マンデラエフェクトだと思います。島々が近づいたので、橋をかけれたのでは。』『自転車で瀬戸内海を渡れるのは唯一しまなみ海道だけだから、大量のサイクリストが団体バスで尾道にやってくる、と、1,2年前に聞いたのに、今は、とびしま海道でもサイクリングできるらしい。』(以上、引用⑦、2021.09.16ツイート)確かに「しまなみ海道」は全国的に有名だったが「とびしま海道」は初耳かもしれない。下の図によれば、「ゆめしま海道」というものもある。
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https://www.jb-honshi.co.jp/shimanami/images/about/sankaidou/img_map.png
『近畿がさらに西に押された気がする 私の県がどんどん曲がっていくし、和歌山と四国がまた少し近付いたかも。』(引用②、2021.12.09ツイート)
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https://pbs.twimg.com/media/FGHeA5gVcAIXpuZ?format=jpg&name=small
それどころか、もっと大胆に『私にとって、とどめとなったマンデラエフェクトは、島根県と鳥取県が入れ替わってたこと。広島県に生まれ、広島県で育ちました。間違えて覚えるなんて、あり得ない。』と記憶している人もいるのだ!(引用⑬、2021.08.18ツイート)
『コメント欄に書いたことを、本ツイートにも残しておきます。記憶の中の山陰を、書きました。島根半島あたりと宍戸湖あたりが、今の地図を見るとドッキングしてるようなので、驚愕。県境の微妙な位置に、パッと見、境港が島根に見え、うろたえました』(引用⑦、2021.08.25ツイート)自分もその記憶だったかな?自信はないが。
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https://pbs.twimg.com/media/E9lc44iVgAE5wAN?format=jpg&name=small
再確認のため、下は現在の、県の配置図だ。
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https://pbs.twimg.com/media/E9DkaTpUYAcU25S?format=jpg&name=small
『岡山の横幅が……小さくなってます。いつからかな。広島と同じか、もしかしたら広島より大きいのかな、くらいのイメージだったのに。他にも気になるところは色々あるけど……愛媛の北、こんなえぐれてなかったような。』(引用⑦、2022.04.22ツイート)
『これ凄い!!他マンデラーさんが見つけてくれた地図。敦賀の歴史のサイトらしい。鳥取・境港が、山陰の左の県に存在してます。調べたら、浜田・美保関も鳥取県の知名。
鳥取県と島根県が逆だった頃の名残と思われます 嬉しい♪』
(引用⑦、2021.09.04ツイート)よかったですね!
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https://pbs.twimg.com/media/E-ar_ypVUAED1fR?format=jpg&name=small

中国・四国地方もこのように激しくマンデラしているのだが、このままだと終わらなくなるので、先に進み、関西方面に移る。ここも同じく大変な状況なのだ。
『京都の北と福井がまた抉られた感が。若狭湾広すぎ…というか、京都の北の海は若狭湾ではなかったよ。』(引用⑩、2021.12.19ツイート)
『前は接していなかった記憶です 京都が下に伸びて兵庫にも食い込み 奈良の領土が 三重と和歌山に侵出され小さくなり 三重県が大きくなってる 何がしたいのか理解できん😑』⇒『京都が三重と隣接してるわけが…あるのか…orz』(引用⑩、2022.01.31リツイート)
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https://pbs.twimg.com/media/FKXTSOOVkAIlT_V?format=png&name=small
『京都府こんなに長かったんですね』(引用㉟、2022.02.07ツイート)
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https://pbs.twimg.com/media/FK_swDdVkAIS9gL?format=jpg&name=small
京都に海はなかった
そもそも「京都に海はなかった」と記憶している関西人が多い、というか、自分もそうだがほとんどの日本人が、京都府は内陸にあったと認識していたはずなのだ。
『「今から25年前くらいに、同僚の弟が舞鶴にある企業に就職したって聞いて、その時、舞鶴ってどこなんだろうって、私は地理に疎いので調べたら滋賀県だったので、印象に残っています。」⇒「ありがとうございます。京都に海がなかった頃 滋賀がこんなに内陸ではなかった頃 この辺はどーだったっけ?と常々思ってました。琵琶湖はもっと日本海に近かったし 滋賀県はほぼ琵琶湖でした。天の橋立実際に訪れたのは京都でしたが それまでの記憶は滋賀でした!」』(引用㉘、2021.09.17ツイート)
以下は、陰謀論たたきの代名詞みたいな?yahoo知恵袋の(引用(ア))より引用する。
京都府に海がなかった記憶の人いませんか?今まで何度か京都に用があり行ってましたが海なんてありませんでした。天橋立は福井県舞鶴市にあったのにいつの間にか京都府のものになってました。~ 仕事でしょっちゅう京都府に行く方に去年、京都府に海があるか聞いたら、なかった。知らない。と言われました。」この問いに対しの、ベストアンサーが、なんと以下のとおりなのだ。
確かに海はなかった。3年前に京都に海が現れた。大きな災害の後は移動しやすいらしい。同じように急に海が現れたって言ってる人はけっこういるよ。オカルトサイトのまとめにもなってるし。この現象をマンデラエフェクトって言います。』と珍しく肯定的な回答なのだ!この、京都人に降りかかった大きなマンデラを、東京人の身に、逆パターンとして置き換えてみれば、東京湾が消えて東京が内陸地帯になり、代わりに海なし県だった埼玉に“埼玉湾”が出現したようなものなのだ!もう隠しようなどなく、開き直るしかないのだろう。
下はかつて福井県舞鶴市にあり、現在は京都府宮津がその所在地だという「天橋立」。日本海の宮津湾にあるこの『天橋立』は今でも、陸奥の『松島』・安芸の『宮島』とともに日本三景の一つに数えられる名勝として知られている。
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下の図の黄色い部分が京都府なので、現在、天橋立は間違いなく京都にある。念のため。
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この、かつて京都には海がなかったという痕跡が、なんと日本の言論界を代表する、朝日新聞社の誇るオピニオンリーダー誌、AERAの記事に残されているという。以下「なぜ、海のない京都で「ハモ」が名物なのか?」(2017年7月の記事、引用(イ))より
『「夏の京都」といえば、なんといっても「祇園祭」。7月17日に行われる山鉾巡行が有名だが、~ その祇園祭、別名「鱧(はも)まつり」と異名をとるほどに、ハモ料理と結びつきが強い。なぜ、海のない京都で「ハモ」が名物となったのか。~ 内陸盆地である京都でハモが獲れるはずはありません。したがって、ハモは、瀬戸内や玄界灘など西の海から京都へと届けられます。そのハモを、なぜ、夏一番のご馳走としたのでしょうか。(以下略)』
『なるほどこういう痕跡があるのか…』(引用⑩、2022.01.05ツイート)よく見つけました!
鱧(はも)がどうのこうのという記事の内容よりも、京都に海がないというこの世界線では矛盾に満ちた前提に立つこの記事が、なぜ敢えて今の現実の中で、痕跡として残されたのか、人々に“気づき”を与えるためなのか、その意図することの方がより興味深い。
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そして京都は、“水の都”にもなった
『京都の魅力は神社仏閣だけじゃない 和製ヴェネツィアのような水の都が美しい』(引用㉝、2021.07.29リツイート。今や“水の都”としての魅力も加わったのだ!
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確かに“京風ベネチア(ヴェネツィア)”?新たな京都の魅力だ。
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下の画像は「日本のヴェネツィアと話題!別世界を楽しめる京都・伊根町の観光スポット6選♪」(引用(ツ))よりコピーした。
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 まるで絵葉書のようだが、京都・伊根町の美しい冬景色を最後にもう一枚
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余談だが下は本家『ヴェネツィア、"水上都市"』(写真ともに引用㊻、2021.11.18ツイート)当たり前だが、ぐっと洋風だ。
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 はたして奈良も京都に続くのだろうか!『京都に続いて、マンデラエフェクトで海あり県に変化するまで、あともうちょっと… だんだん削れてきているので、きっと海が現れると思ってる 海無し県民、ソワソワです』(引用②、2021.12.30ツイート)あと、もう一押し?!
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富士山が大きく見えるようになった
 日本の地形の変化で、九州の地形の変化と京都に海が有った/無かったとともに、もっとも明確にわかりやすいのが、日本を代表する山と湖である、富士山と琵琶湖の変化だ。まずは富士山から。
 自分もそうだったが、関東の住民にとって、富士山が、ある時期から、以前より異様に大きく見えるようになった人が多いようだ。『最近一番驚いたマンデラエフェクト東京と富士山の距離。遠近感おかしい すごい世界』(引用㉓、2021.02.20ツイート)
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以下(引用(F))より
『前、富士山の位置が変わったと書いてるブログがあって でも意味が分からなかったんだけど、最近富士山の写真を見て驚いた。』
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『新宿から見た富士山。これを見てびっくり!富士山は新宿から見えるには見えるけど、指の先っぽくらいで極々小さかったよ。これ、どう見ても近いんですけど。』(下は国会から見た富士山)
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『大黒ふ頭とみなとみらい。この辺はデートで数十回は行ってるけど、富士山を見た
記憶は一つもないわ。』

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『さらに羽田空港の写真。』
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『なにこれ・・・羽田の横に富士山があるじゃん。羽田は結構な回数行ってるけど、富士山はなかったよ。飛行機に乗って、しばらく経ってからやっと下の方に見えるだけで空港の横にはなかったわ。~ いったいどうしちゃったんでしょう。』(以上引用(F))
今や『羽田が富士山の絶景ポイント』(引用(G))なんだそうだ。
下は『静岡の街並みと富士山が物凄く絶景.』(引用⑯、2021.02.09リツイート)写真はレンズの倍率にもよるので判別し難い面もあるが、富士山の見える大きさからすると、東京や横浜とほぼ対等の立場のように見える。
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『デカいなぁ…富士山』(みなとみらいから見る紅富士。)』(引用⑯、2022.02.09リツイート
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 しかも驚くべきことに富士山は、ごく最近もまだ“移動中”のようなのだ。
『とんでもない驚愕の出来事!!ぎょえー富士山移動した!! 今までこんな方向にこんな巨大な富士山なかった 地平線の彼方に富士山沈んでた それがいきなり巨大なシルエット マジですか!!』(引用⑪、2022.01.14リツイート)
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『うちも移動しました。入居前は右半分見えてなかったのに!びっくりです。2020年元旦に気付きました』(引用⑫、2022.01.15リツイート)あるいは2022年の初めごろから、富士山が大きく見えるこの世界線に“移住”してきた人が多かった結果かもしれない。
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富士山はかつて、山梨・静岡・長野の3県にまたがっていた!?
 話を戻すが、信じがたいことに、いつのまにやら富士山は、関東寄りに移動してきたようなのだ。『#意外にこれ知られてないんですけど 浜松は東京より富士山から遠い。』(引用⑱、2021.03.20ツイート)
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『富士山は三県にまたがってたような気がする 山梨と静岡とあとどこかは忘れた。この(yahoo)知恵袋だともう一つは神奈川らしい』(引用⑤、2019.09.01)
しかし、かつて『富士山は長野、山梨、静岡の3県に跨がっていました。』(引用①、2020.05.18ツイート)
富士山は山梨・静岡と、もう1県は神奈川県ではなく長野県の3県にまたがっていたと、記憶している人がいる。自分もそのうちの一人だ。しかし現在は、山梨・静岡・神奈川県の3県にまたがり存在している。仮にそうだとすれば、相当な“移動距離”だったはずで、周囲からの見え方も大きく変わって当然だろう。
『富士山に対しての信仰で代表的なのは浅間大神への浅間信仰だけど、この「浅間」は群馬と長野の県境にある浅間山と同じだよね。古い日本語ではアサマという単語が火山を意味していた名残が今の浅間山や浅間大神に残っているんじゃないかと言われているんだよ。』(引用㉜、2022.01.20リツイート)旧世界の痕跡がかすかに残る下の地図は『富士山の位置が内陸寄りです。』(引用④、2021.12.31ツイート)
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『(動画内の)富士山の位置と実際の違いは下図の通りです。』(引用④、2021.10.17ツイート)かなり内陸寄りだった。
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下は『朝日に照らされ浮かび上がる富士山の存在感。』(引用⑬、2021.11.29リツイート)文脈からは無関係だが、とても美しい写真だったので。さすがに地元、富士駅前の方がやはり大きく見えるようです。
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下の写真は『どでかい富士山がみえる街。』(引用㉘、2021.09.15リツイート)上の写真と同じく富士駅前からの富士山だが、レンズの倍率等の違いで(たぶん)、さらに雄大に見える。富士山が関東地方で前より大きく見えるようになった理由は、その距離が近くなったのが主因だと個人的には思うが、あるいはそれが全ての理由ではない可能性もある?『山が大きく見える問題は富士山だけじゃないよね うちは栃木なのですが、昨年から男体山が急に大きく見えるようになり、さらに北に高原山という山々が突然現れました… 今日も男体山はかなりちかづいてきていて、はぁ~???と大声出してしまいました…』(引用㉗、2022.01.22ツイート)たとえば地球全体も“変形”して、一時的かもしれないが地表の曲率がよりフラットな方向にシフトしつつあるとか?富士山が急に大きく見えるようになった要因については、今のところ、不明としておく。
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 これは富士山とはまったく関係ないけれど、雄大な写真だったので『北海道、真狩村から見た蝦夷富士が圧巻』(引用㉜、2022.01.08リツイート)
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話を戻し、しかも富士山は、場所の移動だけでなく山容も周辺も変化を遂げている。『富士山の形も大変なことに「裂け目 こんなに大きかった?』(引用⑧、2021.08.29リツイート)「大沢崩れ」の痕だそうです。『富士山の特徴の1つに宝暦噴火口があったけど、大沢崩れみたいな大きな抉れは無かったんだけど かなり昔から存在している様だ。それにかなりの規模なので、最近まで富士山は何度もちょくちょく見てたのに全く気付かなかったのもおかしな話だ。』(引用⑨、2021.08.28ツイート)
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『エラいこってす!最近、東に大移動した富士山の西側にパカっと割れた大亀裂に沿って大沢崩れの富士三柱神社から潤井川なんてえものが出来ちまって 麓に人造湖の田貫湖も出現して 川は田子ノ浦へ!噴火は免れたと思ったら富士6湖になっちまいやがった!何が何だかこの新世界線?』(引用⑧、2021.08.26リツイート)
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『世界線移動で富士山がモデルチェンジ 富士山に川が!(潤井川)富士山に割れ目が!(大沢崩れ)ふもとに人造湖が!(田貫湖)』(引用⑭、2021.08.27ツイート)『大沢崩れ 聞いたことない。住所を見て富士宮市だったから 昔の癖で南側かと思っちゃった。そうそう愛鷹山ができて 富士宮は西に移動したんだった。富士山東に移動して歪みが出たの?あっマンデラ発言なのでお気になさらず』(引用㉘、2021.08.27ツイート)
宝永大噴火(江戸中期の1707年(宝永4年)に起きた富士山の噴火)の痕もさらに拡大したような。
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『実は私は田貫湖も知らなかった 富士五湖以外の湖は四尾連湖と忍野八海山梨側だけだった…ような。マンデラかな?田貫湖も富士宮市。』(引用㉘、2021.08.27ツイート)下は新たに出現した?人造湖の田貫湖 
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周辺情報をついでに『河口湖って こんな形だっけ?』(引用㉘、2021.07.11ツイート)
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・静岡県富士山世界遺産センター 『世界遺産云々は記憶にありますけど、こういうのが出来ていたんですねー』(引用⑰、2021.12.17ツイート)
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これだけ変形すれば、やはり静岡県全体の地形も、『まぁ近頃は、どの県見ても『こんな形じゃなかったな~』って思うものばかりですけどね でもやはり、近隣県が変わるとなかなか衝撃的です』(引用⑦、2022.04.22ツイート)確かにこのかたちは衝撃的で、以前の静岡県はやたらと横長だった記憶があるが・・・?
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琵琶湖も大きく変化した
続いて日本を代表する湖の、琵琶湖について。『琵琶湖が記憶より左上に有りませんか?』((B)-3)下は現在の世界線の地図だ。『私は何処から来たのだろう 京都に海がなかった話は マンデラ界隈でよく話題になってたけど たった今 滋賀に海がないことを知った 滋賀県の殆どは琵琶湖で その琵琶湖は南北に長くて 北は海に繋がってた記憶です。2日前の境港に続き大打撃です』(引用㉘、2021.10.11ツイート)
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『滋賀県はほぼ琵琶湖でした』(引用㉘、2021.09.17ツイート)と記憶している人が多い。自分もたぶんその一人だ。
『更にいうなら、以前の琵琶湖はもっと大きくて住むところがない県。滋賀県はこんなイメージ。この絵は、琵琶湖が既に京都寄りに曲がってしまっているけど 元の世界線での、滋賀県と琵琶湖の比率は完璧。まさにコレ!』(引用⑭、2021.08.15ツイート)確かに地図で見た滋賀県って、下のようなイメージだった記憶もある。
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琵琶湖のマンデラ情報は(引用⑭「Beiko」さん)が詳しい。以下も(引用⑭、2021.08.22ツイート)
『【琵琶湖改変の記録】
6月6日午前5:44分 
「滋賀県、琵琶湖ヤバい。さらに変形し大阪府民水道の今後に震える」
6月12日午前5:34分
「滋賀県、琵琶湖 また改変 近江八幡市付近がナミナミ
滋賀県、琵琶湖 沖島また改変」
6月17日午前8:13分
「琵琶湖 矢橋帰帆島公園、西の湖、新たにできる」』
『スキー場の琵琶湖バレイへ何度か行った 比叡山延暦寺も行った 滋賀県の道の駅全部制覇した でも、沖島。わたしの人生に存在しなかった。
2021年初夏。ある日突然、地図に出現し驚愕。今、目の前にある不思議。』
(引用⑭、2021.08.16ツイート)別のマンデラーの方も、
『京都時代、1年間ヨット部に在籍していた。毎週土日は、電車で琵琶湖へ。でも、琵琶湖に島は無かった記憶です。』(引用⑦、2021.09.07ツイート)
琵琶湖が身近な存在だった人も多いだろうから、みなさん記憶も鮮明だ。
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『2019年に滋賀県道の駅制覇のためビワイチ(琵琶湖一周)達成。記憶を照らし合わせあの時に無かったを再確認 竹生島が自分の世界線に無かった。地図を追い始めたのは5月28日 沖島が出現は6月6日、その時に竹生島は無かった いつの間にかあったが単にチェック漏れと思った』(引用⑭、2021.08.23ツイート)下が琵琶湖の竹生島。(引用⑭)のツイッターではこの立派な島が突如出現していった、マンデラの過程をリアルタイムで綴っている。
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下が現在の世界線での琵琶湖の島々の配置図です。
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琵琶湖の最後はマンデラとは無関係だけど、雄大な景色を映した写真で観光案内を。
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松尾芭蕉が愛したといわれる、湖上に突き出たお寺「浮御堂(うきみどう)」。
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下は夕陽を背に浮かび上がる(マンデラで出現した可能性がある)竹生島
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『日本最大の湖、琵琶湖。その琵琶湖には大小幾つかの島がありますが、その中で最大面積を誇るのが沖島(近江八幡市沖島町)です。湖岸から沖合1.5kmに浮かぶ周囲6.8kmの小さな島、そこには人々の暮らしがあり、今の時代に失われつつあるような温もりが未だ残されています。人の住む湖の島は日本でただ一つ、ここ沖島だけ。』(引用(テ))より、写真も引用。沖島もマンデラで出現したと噂のある島だ。
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人々が暮らしています。
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琵琶湖の内湖「西の湖」もまた、マンデラで出現した可能性があるらしい。
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そして琵琶湖大橋から望む壮大な風景
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北陸地方に移り、『能登半島の能登島って、ご存知でしたでしょうか?』(引用(I))
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しかも能登島と石川県和倉温泉地区を結ぶ立派な「能登島大橋」までできている。
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場所を関東に移して『千葉県も違和感。千葉の角度が違うような。。。あとオレンジ色の部分に強烈な違和感が。。。』(引用(H)-1)確かにオレンジ色の部分が、こんなに狭かっただろうか。
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『房総半島はこんな型でしたか?元は矢印の位置で左にズレてませんか?』(引用①、2021.09.30ツイート)、『この千葉のゆがみは地図を見るたび違和感です。凄く半島が左にずれたと思うし東京湾の狭さが目につきます 仙台のくびれも細くなったし、能登半島も頭でっかち 東京住みなので九州は疎いですが伊万里焼ってもっと内陸で作られてたのでは、、』(引用⑪、2022.01.30リツイート)
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『「さっき千葉の上を通ったよ!今日は関東平野も綺麗に撮れた😆 左下に富士山がちょこん(前澤友作ツイート)」←「東京湾ほそながいな…」』(引用㊴、2021.12.23リツイート)
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これは余談になるが、偶然にしては出来すぎた話で、以下yahooより(引用(ネ))『こんなにピッタリ合うなんて... 東京湾と鹿児島湾が、めちゃめちゃ似てるって知ってた?』より『~ こちらはツイッターユーザーの貨幣蒐集家・多禰人(@TNEJPN)さんによる、2022年2月12日の投稿。画像は東京湾周辺の地図に鹿児島湾の地図を同縮尺で重ねたものである。東京湾の地図と、その上に薄く表示されている鹿児島湾周辺の地図は、驚くほどぴったり。桜島と東京湾アクアラインの位置までほぼ同じで、まるで神様がコピー&ペーストしたかのようなのだ......。~ 編集部でも、地図を重ねてみた。同縮尺の地図で、鹿児島のほうだけを29度傾けている。やはり東京湾と鹿児島湾は驚くほどぴったり。~国造りの神々ははんこ持っていたに違いない』もともと両方とも、マンデラによる地形の変形を強く疑われていた地域で、確かに創造神(ゲームマスター)によるコピペ疑惑が生まれてしまうが、これも人々にマンデラの気づきを促すためなのだろうか・・・   『楽しいですね♪ご存知かも知れませんが 琵琶湖の土地が裏返しにペッタンって飛び出したのが能登半島かもって どなたがが言ってました☺️ 興味深いです💖』(引用㊹、2022.02.17ツイート)
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 関西方面に話が戻ってしまうが、さらに余談を『琵琶湖と淡路島』(引用㊷、2022.03.02ツイート)以下は(引用(フ);「西の禁書目録」)の「琵琶湖と淡路島の形が激似⁉2つの関係にまつわる都市伝説」という記事より、下図とともに引用『(琵琶湖と淡路島は)どちらも関西地方を中心に重要な役割を担っているのだが、「湖と島」ということで、一見関係なさそうにも思える。ところが、地図を見ると両者の姿がそっくりなことに気づくだろう。琵琶湖から南西方向、京都や大阪方面に地図をたどっていくと淡路島がある。そして淡路島をくるっと一回転させると、なんと琵琶湖とそっくりな形をしていることに気づかされる。湖と島、まさに陰陽のように、ぴったりと島が湖に収まりそうである。』
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東北に移り、たとえば、気仙沼市は現在、宮城県だが、かつて岩手県だったと記憶している人もいる。下はマンデラとは無関係だけれど、「モネも見た気仙沼の「気嵐」(けあらし) 海の霧、朝日差し込み黄金色に」なるのだという。河北新報の記事より。ちなみに石巻市も今では宮城県だそうだ。
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『秋田県と愛媛県から ニョキッとしてますね』(引用㉟、2022.02.07ツイート)
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 北海道では『洞爺湖に中島がある。嫁のお母さんが中島?!とビビってました(笑)お父さんと旅行に行ったらしく当時のことを聞いたらお父さんはあったと言っていたそうです。』(引用(H)-1)たとえ同じ家族内であっても、記憶は人それぞれなのだ。
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『ご存知でしたか……?自分は知らなかったです……😅 さっぽろ湖』(引用⑰、2022.01.24ツイート)以下(引用(T))より、写真も『さっぽろ湖は定山渓ダムなのだが 「さっぽろ湖」なる湖がある。札幌市南区にある、人造湖である。温泉街の近く、定山渓(じょうざんけい)ダムにより形成されているダム湖である。』定山渓ダムによってできた人造湖だそうです。
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『噴火湾知らん・・・』(引用㉜、2022.03.12リツイート)北海道噴火湾!
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以下wikiより「内浦湾(うちうらわん)は、北海道の南西部と渡島半島によって、北と西と南の三方を囲まれた湾である。噴火湾や胆振湾ともいわれる。」下の画像もwikiより。なんだか違和感があるが、北海道在住の方はどのように感じているのだろうか。
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他にも札幌の位置が、以前より海寄りになっているとかいろいろあるようだ。
『徐々に変化して行くってのもなぁ いちいち覚えなおすのが辛い😑
今は日本海側にあるとφ』 『私が前に居た世界の札幌は苫小牧の場所だった それが移動して、内陸になって、今は日本海側』
(引用㊷、2022.04.26ツイート)
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https://www.ikyu.com/dg/image/area/mp_110000.png

 以上、関東、東北、北海道は駆け足でたどったが、日本列島の本土を離れてもたとえば『父島、母島だけだったような。。』(引用(H)-1)この世界線では兄と弟もいたようだ。
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https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/userstorage/000/057/146/552/9a2a58fd15.jpg?ct=201ae5eba0a4
引き続き(引用(H)-1)から『石垣島殆ど台湾じゃん。。。』
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https://ishigaki.min-naraba.com/wp-content/uploads/2019/02/%E6%9C%AC%E5%B3%B6%E3%81%A8%E3%81%AE%E8%B7%9D%E9%9B%A2-728x499.jpg
日本列島編のまとめとして、全体を見渡した場合、「マンディ」さん(引用⑧、10/1のツイート)が記憶を頼りに描いたような、下の“昔の日本地図”(黒い線の部分。青は今の地図)の方が自分には違和感が少ない。マンディさんによれば、大きな部分だけでも『・北海道の角度 ・九州のサイズ ・紀伊半島の形 ・若狭湾がない ・霞ヶ浦がない? ・男鹿半島? ・東京湾の広さ』に変化を感じているそうです。
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https://twitter.com/LINE96199575/status/1311499883078062080/photo/1
『東北のくびれも気になりますが、近畿から中国地方がずいぶんとシュッとしてしまった感があるんですよねー 関東の太さに対して合わないというか…違和感。』(引用⑩、2022.01.27ツイート)
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https://pbs.twimg.com/media/FKFYq9qVkAQLEOb?format=jpg&name=small
以下も日本列島全般の地形の変化について(引用(J)より)『北海道の北方領土がやたら近かったり、樺太が近いしでかい。札幌はもっと北東のほう(旭川あたり)にあった。
東北地方の辺りも何か違うんだけど、何が違うのかわからない。(確か、山形県が福島県と新潟の間。新潟がもう少し北まであって、福島が今の半分ぐらいの大きさ。山形は内陸の県でした。) 新潟県の上にある島は、Hのような形(今と向きが90度違う)
富士山は山梨と長野と静岡の間 富山はもう少し北東にあったし、福井と隣合ってた。
石川はもう少し海に出っ張っているような形。能登島はなかった。福井はこんなに関西のところまで食い込んでなかった。
奈良がずいぶん南に広がっていてその影響で和歌山がめちゃちっちゃい。(奈良の影響だけじゃなくて、もう少し海に向かって陸があった。) 福井が食い込んでいるからか、京都の北部が兵庫に食い込んでて兵庫県の面積がその分小さくなってる。(兵庫県は四角に近い形。)
島根は、広島と山口の県境と同じぐらいの位置で、山口との県境があったし、なんなら県境はもっと東にあった。山口県、小さすぎ~。山口県と福岡県近い~。
九州はもう、県の位置関係はあってるけど、面積とか県境が全体的におかしいので割愛。
まあ、そもそも形が微妙に違うので、中にはいっている県の面積とか位置がおかしくなっていてもおかしくはないんだと思います。
あと、めちゃくちゃ島が多くて、かつほとんどが大きくなっててビックリしました。
ロシアや韓国との近さもびっくりです。日本の位置が北にあってびっくりです。
最北端は北緯32°って習ったんだけどなあ…。』

(引用(J))の指摘のように、日本列島の地形の変化以外に、そもそも世界地図上における大陸と、日本との位置関係でみても、違和感を感じている人が多い。下は現在の位置関係だが、
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『朝鮮半島は九州の上の方ではなくて 本州の真ん中の上くらいにあったのだ』(引用(K))下のような位置関係だったと記憶している人が多い。『韓国と日本て時差があったと思ったんだけど、こっちの世界線では時差はないみたい 主人にさりげなく韓国との時差を聞いたら1時間か2時間時差あるよって言っていて「こっちの世界はないみたいだよ」って言ったら、Googleで調べて「ほんとだ😳」ってびっくりしてた』(引用㉙、2022.02.09ツイート)
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https://pbs.twimg.com/media/Et6XX0MU0AQRTpI?format=jpg&name=medium
『マンデラ前の朝鮮半島は能登半島の北西辺りにありましたよ たしか春先位に能登半島や新潟の海岸から朝鮮半島が蜃気楼で観えるとニュースでよくやってました それによく日本海側の海岸で拉致事件も起きていて、新潟の夜の海岸は夜に1人歩きしない様にとの注意喚起もありました』(引用⑨、2021.08.25)『前の朝鮮半島の位置からなら北朝鮮のマンボンギョン号が新潟湾へ不定期に来ていたのも分かるけど、前世界の名残なのか未だに新潟湾へ入港している。ロシアとの中継地として使われているからなのかもしれないけど。』(引用⑨、2021,08.26) 下は一時日本中を騒がせた北朝鮮の貨客船・万景峰(マンギョンボン)号。主として新潟と北朝鮮の元山の間に就航(不定期)していた。万景峰号には1971年に就航した『万景峰号』と金日成80歳記念に1992年に寄贈された『万景峰92』があり、写真は後者の方だ。ちなみに写真のタイトルは『万景峰号が新潟西港に着岸』(christiantoday 2003.08)だ。
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https://www.christiantoday.co.jp/data/images/full/8215/92.jpg?w=672
下の世界地図は『朝鮮半島が「正しく」離れています。』(引用④、2022.01.02ツイート)旧世界の痕跡が残っている。
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日本近辺の他国の地形も、たとえば北海道との比較で、樺太はこんなに大きかっただろうかと疑問に思う人もいる。『樺太が記憶より大きくて衝撃を受けております。3倍位な印象。学生の頃、利尻岳に登りリアル樺太を眺めた程身近な樺太、昔の地図では小さかったなぁ。』(引用㉖、2019.12.29ツイート)しかも大陸に、今にもくっつきそうになるまで移動している。
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https://pbs.twimg.com/media/EM6-go4UEAADybn?format=jpg&name=900x900
『サハリン(樺太)とアジア大陸との間の海峡。文化6年(1809)間宮林蔵が発見し、シーボルトが命名。最狭部は幅7.3キロで、ロシアでは探検者の名からネベリスコイ水道とよぶ。冬季は凍結する。韃靼(だったん)海峡=間宮海峡=タタール海峡。大陸から徒歩で樺太に来れたってこと。』‘(引用㊹、2022.03.04リツイート)
1.-3マンデラエフェクト 地形出現・変更(国内観光地)編
 日本列島全体の地形がこれだけ激しく変形すれば、今まで見たことのない新たな景勝地が誕生していても不思議ではない。以下ネットから拾った情報をもとに、全国各地にマンデラエフェクトにより出現した可能性もあり得る場所を中心に、アトランダムに掲げていく。
ただし何度も繰り返すが、今まで辿ってきた世界線も人それぞれだ。そのため、これから掲げる情報に対しての受け止め方も同様に、様々だと思う。それにそもそも自分が、全国の観光地の情報に疎いので、この1.3項は、どれがマンデラで出現したかという判断は、ご覧になる方々にお任せすることにして、珍しい風景を気楽に楽しむ、観光案内気分でご覧いただきたい。
・伊豆半島西岸から駿河湾に突き出た神秘の岬「大瀬崎(おせざき)」と「神池」
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下は「大瀬埼灯台」
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https://goto.nagasaki-tabinet.com/storage/tourism_attractions/674/responsive_images/oYbuVoRz4kc1oWAJJUlyLQELNJQZI3rPIOYLGJmH__1024_768.jpeg
・同じく静岡県の「大室山」
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下は700年余りの歴史を持つ伝統行事「大室山山焼き」の様子。東京にほど近い静岡県伊東市で、こんな目立つ形の山で、毎年ド派手な行事を行っていたら、記憶に残りそうなものだが、ただどうやらマンデラでもなんでもなく、自分が知らなかっただけのようだ。それどころか、あとになって気づいたが、大室山の北東脇にあり、サボテンと動物を中心としたテーマパークである「伊豆シャボテン動物公園」には、子供のころ親に連れられて行った記憶がある。ということは、大室山もそのとき見ていた可能性が高い・・・ 記憶力がないなぁ・・・。
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https://itospa.com/lsc/upfile/spot/0001/0003/10003_5_l.jpg
初日の出は大勢の観光客でにぎわう。
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「大室山は、伊豆大島の傍らから登る初日の出と、その光を浴びる富士山が見られる「初日の出観覧」の絶好のスポットです。そのため、大室山リフトでは元旦のリフト特別運行を行っています。」山頂までリフトで登れるのだ!これはもう、マンデラとは関係なく、東京で知らなかった人は一度は行くしかないか?
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・青森県の「日本キャニオン」
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・同じく青森県の、日本最大の砂丘「猿ヶ森砂丘」。おなじみの鳥取砂丘×3倍!の大きさだそうだ。というか、後述するように鳥取砂丘がどうやら縮んだようなのだ。
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猿ヶ森砂丘はそのほとんどが防衛装備庁 下北試験場(弾道試験場)の敷地となっており、一般市民の立ち入りが禁じられているからいままで目立たなかったそうだが・・・
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https://pbs.twimg.com/media/EiCM9YiVoAAm692?format=jpg&name=large
下は何とも小じんまりしてしまった最近の「鳥取砂丘」の図。『~記憶の鳥取砂丘は今よりだいぶ大きかったです。場所が変わったことで、県内面積の都合上か気候の問題により、小さく成らざるを得なかったのでは。』(引用⑦、2021.08.26ツイート)
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https://www.sanin-chuo.co.jp/mwimgs/d/a/1200m/img_da487c1164c647fb8677f881b4f78400104685.jpg
以下(引用(ウ))より『「鳥取砂丘 緑化に悩む」鳥取砂丘(鳥取市)が、雑草の増加による「緑化」に悩まされている。~約150ヘクタールの鳥取砂丘には、厳しい自然環境に適応したハマゴウなどの「砂丘植物」が自生する一方、1970年代ごろからイネ科のチガヤなどが飛来し、繁殖。90年代には砂丘全体の約42%に雑草やマツなどが広がったという。砂が風で動いてできる現象「風紋」や「砂簾(されん)」が見られにくくなり、景観にも深刻な影響が出た。』・・・
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https://qlip-trip.com/uploadedimages/article/content/36a6aa22-1eed-4d55-b84f-7ae7851e57cb_637550112236591340.jpeg
余談だが、『東京に砂漠?裏砂漠??』(引用⑩、2022.04.21ツイート)
『日本最大の砂場と言えばみなさん「鳥取砂丘」を思い浮かべますよね。でも実は、鳥取砂丘って砂漠ではないんです。~なんと地学的には砂漠と砂丘の定義が違うらしいのです。~ 砂丘は風によって運ばれた砂でできた丘のこと、砂漠は雨量が少ないためにできた岩石や砂で構成された荒地のことをいいます。そもそもの成り立ちが違う「砂丘」と「砂漠」、少し紛らわしいですね。じゃあ肝心の「砂漠」はどこにあるんでしょうか?』(以上、「日本で唯一の砂漠」は東京にあった!伊豆大島の「裏砂漠」って知ってる?」(引用(マ)より)それが、伊豆大島にあるのだそうだ。
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https://pbs.twimg.com/card_img/1515686551988359168/xJ5bglWx?format=jpg&name=small
さらに余談になるが、世界最大の砂漠はサハラではなく南極で、極寒の南極でも砂漠の定義を満たしているという。『世界最大の砂漠はサハラ砂漠ではないってホント!?』(引用(エ)記事を参照してください。)
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話を日本に戻す。
『シュメール文字が刻んであるという巨石群、押戸石に行ってきました。(ここもマンデラだと思うんだけど)~ それにしても壮大な景観でした。』(引用㉝、2020.12.29ツイート)
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https://pbs.twimg.com/media/EqY5Ot-UcAEpH0e?format=jpg&name=360x360
熊本県阿蘇郡南小国町の標高845mに位置する「押戸石の丘」。~ この丘には9組の人工的に配置された巨石群があり、先史時代の巨石文化遺跡であることがユネスコ岩石芸術会等で認証されているという。ちょっと日本離れした景色だ。
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https://www.tabirai.net/sightseeing/column/img/0008019/kiji2Img.jpg?uid=20220116005847
・「世界遺産 鬼ヶ城」(三重県熊野市)は、たぶん自分が知らなかっただけでしょう。
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https://cdn.jalan.jp/jalan/images/pict2L/Y0/Y398080/Y398080AT5.jpg
『福岡県糸島市 ここがマンデラしてる気がする 景色とか…急に観光スポットになった気がする』(引用⑮、2021.12.08ツイート)糸島市(いとしまし)は、福岡県の最西部に位置する市で、福岡市の中心部から車で約40分と都心からほど近く、リゾート地のようなきれいな海と景色を感じることができるのが魅力、だそうだ。写真から判断する限り、(今の?)福岡県民はこんなに素晴らしいリゾート地を近場に持ち、何とも羨ましい。
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https://pbs.twimg.com/media/FGDjMfuVUAUMiSn?format=jpg&name=360x360
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https://pbs.twimg.com/media/FGDjMfwUUAAuBU5?format=jpg&name=360x360
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https://outdoors-info.com/wp-content/uploads/2020/09/Winds_of_Spring.00_04_26_23.%E9%9D%99%E6%AD%A2%E7%94%BB003.jpg
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http://img-cdn.guide.travel.co.jp/article/855/33587/2AC51C5E1D024750909F87BD4100FD36_LL.jpg
余談だが、部分的に外国風な場所ならば東京近郊にも!『千葉フォルニア?いつできたのかな😮』(引用⑫、2022.03.04ツイート)“千葉フォルニア”とは、千葉県袖ケ浦市の工業地帯の一角、袖ケ浦海浜公園に近い市道である海浜公園通りから西向きに海に臨む景観の通称で、“袖フォルニア”と呼ぶ人もいるそうだ。
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https://86toyota.com/wp-content/uploads/2019/04/chibafornia-1.jpg
・「八幡平ドラゴンアイ」は、たった2週間だけの絶景!ご存じでしたか。以前からあったと言われれば、記憶があいまいで、反論できないが。
https://www.travel.co.jp/guide/article/37214/
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https://img-cdn.guide.travel.co.jp/article/544/37214/99FFE6A3B41A469ABD690CFD9437C3DF_L.jpg
・「高ボッチ山」かなりインパクトのある名前だが以下のツイートのように確かに記憶になかった。『私は関東生まれの関東育ち 今日始めて目にしました 高ボッチ山 高ボッチ高原 昔からある有名な観光スポットだそうですが見たことも聞いたこともありません』(引用⑮、2021.10.26ツイート)下の写真はwikiより「高ぼっち高原」
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https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/eb/Mount_Takabocchi.jpg/300px-Mount_Takabocchi.jpg
下の写真は(「Koki Ueda 」さんツイッター(https://twitter.com/fuehrsn)2020.12.08より、『長野県高ボッチ高原 諏訪湖と夜景と富士山を見ることができる日本一のシャッターポイント』とのことです。
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https://pbs.twimg.com/media/EottXobVEAEf9nv?format=jpg&name=4096x4096
・下はたぶん、マンデラで出現したのではないと思うが、あまりに素晴らしい写真だったので『福井県には海外のスケールに負けない大迫力の巨岩スポットがある』((引用㉜、2022.01.10リツイート))越前海岸にある鉾島(ほこじま)で、撮影したのは、写真家の前山(@xxakaxxv)さんです。
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https://pbs.twimg.com/media/E6pjPnTVcAUGS20?format=jpg&name=medium
・上の鉾島は「ミニ東尋坊」と呼ばれているようで、心配になり本家の東尋坊を検索してみると、マンデラのせいで消えて無くなったりせずに、無事、健在でよかった。やはり本家の方が迫力あるか。
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https://fj-com.co.jp/wp-content/uploads/2020/04/fukui_01-scaled.jpg
『奇岩連なる北の秘境「仏ヶ浦」』(引用㉜、2022.01.22ツイート)これもマンデラではないが、巨石といえば外せない青森県下北半島西岸の景勝地、「仏ヶ浦」の冬景色。完全に観光案内になってきた?
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https://img.rezdy.com/PRODUCT_IMAGE/75158/IMGP3524_lg.JPG
以下の2枚の写真は「アヴェマナヴ」さんのツイッターよりhttps://twitter.com/hotateyasan
『ウソみたいだろ... これ…春限定の... 青森県なんだぜ…』(2022.04.20ツイート)仏ヶ浦です。
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https://pbs.twimg.com/media/FQwViLMaUAQA0LQ?format=jpg&name=large
『本州最果てにある幻想的な空間』(2022.04.18ツイート)水も澄んでいる。
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https://pbs.twimg.com/media/FQnbNVYaIAMZqul?format=jpg&name=large
『千葉の屏風ヶ浦はなかなか凄かった。』(「PuANDA」さん2022.03.31ツイート)
https://twitter.com/shoichirosm/status/1509164871643852801 観光案内のつもりで載せておくが、東京の身近にあって、確かに日本離れした雄大な景色ですね。
q;1
https://pbs.twimg.com/media/FPGhc4FVUAAodft?format=jpg&name=900x900
「銚子市名洗町からお隣、旭市の刑部岬まで約10キロメートルにわたり40メートル~50メートルの断崖が続きます。」
q;2
https://pbs.twimg.com/media/FPGhc4DUcAE3wmm?format=jpg&name=small
「隣接する銚子マリーナ海水浴場から続く遊歩道を歩けば、間近にその雄大な姿を見られます。」(以上、銚子市観光協会HPより)
q;3
https://www.choshikanko.com/_wp/wp-content/uploads/2020/03/DSC_0125.jpg
「三方五湖」とは?「若狭湾国定公園を代表する景勝地で、2005年11月にラムサール条約に登録されました。五つの湖は異なる水深と塩分濃度で五色の湖とも呼ばれ、海水魚から淡水魚まで様々な魚が生息し、水鳥の貴重な生息地でもあります。」
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http://www.mikatagoko.com/_image/lake11.png
『(三方五湖)レインボーライン、というのもあった。場所が、あの若狭湾……!!!』(引用⑰、2021.10.27ツイート)
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https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcQPuQrLYHqKcaugTX77WD5IIXjRqX8mN4jsag&usqp=CAU
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https://www.town.fukui-wakasa.lg.jp/kankou/sitesheeing/rainbow/img/rainbow_mainimg.jpg
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・福井県の水晶浜、ダイヤ浜海水浴場『あの若狭湾に、水晶浜、ダイヤ浜、と名付けられた場所があるらしい。しかも、環境省の「日本の水浴場88選」にも選定されているとか。知らなかったー。』(引用⑰、2022.02.09ツイート)
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以下(引用(ヌ))『若狭湾に面する福井県美浜町には読んで字のごとく美しい浜が数多く存在します。とくに敦賀半島へと続く浜にはダイヤ浜、水晶浜などの名が付けられた浜があり、名前からだけでも透明度の高い美しい海を想像できます。「水晶浜」はその名に恥じない美しい海水浴場で、環境省の「日本の水浴場88選」にも選定されています。』
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https://i0.wp.com/tabi-mag.jp/wp-content/uploads/HU004101.jpg?resize=2048%2C1614&ssl=1
確かに透明度が高そうだ。
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以下の「冬桜」と「冬のチューリップ」は植物の話題なので厳密にいえばこの項で扱うものでないが、観光案内として、ここで紹介しておく。
『桜の花見シーズンに冬桜も加わったのはマンデラエフェクトだと思うけど 紅葉と桜が混沌してる風景はさすがに初めてみたわ(@_@;)』(引用⑫)冬桜・・『以前はなかったね、十月桜、冬桜。マンデラー的発言なので お気になさらず』(引用㉘、2021.11.20ツイート)下は「紅葉と桜が同時に見頃!埼玉「城峯公園」冬桜の花見と紅葉狩り」
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https://img-cdn.guide.travel.co.jp/article/502/20151016211443/F331B83644AA4E089EF5E0FFF81762F4_LL.jpg?cache=1
『「知ってた?秋にも桜って咲くんよ」→「そうだったっけ?」』(引用⑮、2021.11.08リツイート)下も同じく城峯公園で、ライトアップも行っているそうだ。
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・下の2枚は群馬県藤岡市の桜山公園の写真だ。「広大な公園内には冬桜が約7000本植栽され、11月中旬から12月中旬にかけて見頃を迎えます。11月中旬には紅葉と冬桜が一緒に山を彩り、そのコントラストを楽しめます。」とのこと。
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https://www.poke.co.jp/media/transfer/img/eventid_13228/eventid_13228_pic1.jpg
・江の島ウインターチューリップ 湘南の宝石『ウインターチューリップは前からありましたか?』(引用㊱、2022.01.21ツイート)
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その“仕掛け”は『冬咲きのチューリップはアイスチューリップとも呼ばれ、12~1月に咲く花を楽しむもの。気温が低い時期に咲くので花持ちは抜群で、なんと1カ月以上も咲くこともあるとか。なぜ春の花がこんなに早く開花するのでしょう。それは球根を一度ポットに植え付けて根を成長させた後、そのポットごと大きな冷蔵施設に長期間入れて出芽を抑えているから。冷蔵施設から取り出して自然の温度環境にすると、チューリップは「春が来た!」と勘違いして花を咲かせるのですね。』(引用(チ))だそうです。下は千葉県船橋市のふなばしアンデルセン公園。
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https://www.city.funabashi.lg.jp/funabashistyle/jp/past-topics/p049822_d/img/009.jpg
さらに余談ですが、『花のマンデラは激しいです。前の世界線では染めしかなかったのに、最近の世界線から染めじゃないレインボーチューリップというのが現れました。』(引用㉞、2021.12.18ツイート)
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https://twitter.com/XbjM9Sg8eJ1PRcw/status/1472043626398371840/photo/1
・「九十九島」(長崎) これも記憶があいまいだ。ただこのあたりは地形が激変した地域なので・・・
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https://pbs.twimg.com/media/D_cEvNMU0AAAyl8?format=jpg&name=small
『ドローンで撮影 九十九島や西海橋』写真は地元紙の長崎新聞の記事より
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『ヤバいのが出てきました!』(引用㊿、2022.02.03リツイート)ただ、綺麗な写真だったので。場所は北海道、白老の山中だそうです。
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・海上100mに屹立する「孀婦岩」は伊豆小笠原諸島の一部でありながら、これまで詳しい調査が行われてこなかった謎の島だという。四方には、じつに80kmにわたって何物も存在しないそうだ。(NHK - 東京ロストワールド 孀婦岩(引用(オ))東京都の島とのことだが、この岩の記憶もあいまいだ。
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https://www.nhk-ondemand.jp/material/opus/N201809129600000/img/N201809129600000_h.jpg

2.マンデラエフェクト、建物出現、変更(国内)編
日本列島の変化は地形だけにとどまらない。地形が変形すれば、その上に建つ建物も当然の如く大きな影響を受けているはずだ。広範囲にわたり、今も現在進行形で変化を繰り広げているようだが、やはり観音様とか大仏様のような“大物”の方が、目立つためその変化を確認しやすい。前の1.3項に引き続きこの項も、マンデラで出現したかどうかはみなさん自身の判断にお任せして、観光案内気分で軽~く紹介していきたい。ご覧になったみなさんが興味をもち、楽しんでいただけたら幸いだ。
・たとえば東京湾、仙台、札幌、…各地に、自分がまったく知らなかった巨大観音様が多数出現している。(引用(L)他)下は高さ100mという巨大な「仙台大観音」
https://www.yomiuri.co.jp/media/2021/04/20210427-OYT1I50026-1.jpg?type=x-large
車を運転していて、こんなにデカいのがいきなり現れたら、もうびっくりだろう。『牛久大仏は勿論、2位の仙台大観音も遠近感が狂うくらい大きかった。』(引用㉕、2021.08.06リツイート)そうだろうと思います。これから紹介していく巨大な観音像の多くは、マンデラの結果出現した可能性が高いと思う。
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内部も立派な造りだ。
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その夜の佇まい
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それにしても仙台市民はこの巨大観音像の出現を、どのように感じているのだろうか。
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・そして日本の誇る数多くの観音像の中の“真打ち”は、世界一大きいブロンズ像の大仏だという「牛久大仏」。
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1992年12月というからバブル期に造られたこの大仏像は高さ120m(像高100m、台座20m)を誇り、自由の女神の3倍(自由の女神は、像の頭の部分までの高さは33.86メートル、台座部分も含めると93メートルある)、奈良の大仏(14.7m)が手に乗ってしまう程の圧倒的な巨大さだという。
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その存在感はやはりすごい。
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下の画像はCBCテレビの、「世界最大の青銅仏像『牛久大仏』“地上120m”での高所清掃!~ひたむきに働く人の“強い仕事愛”を浮き彫りにしていきます!」人間が小さくて見え難いので大きめにして貼っておく。
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『夕暮れ時、茨城のボスが神々しかった』(く引用㉞、2022.05.13リツイート)
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ここから余談だが、世界一高い像はインドにあるという。下が『世界一高い像らしいです。しかも神や仏ではなく、おじさんです。初めて知りました。』(引用④、2022.01.14ツイート)インド建国の父の一人とされる指導的政治家ヴァッラブバーイー・パテールをかたどった像で、「統一の像」と呼ばれているそうだ。(wikiより)下の写真を見れば、物凄いスケールなことがわかる。
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現在「牛久大仏」は立像の高さでは世界で6番目。ただブロンズ立像としては世界最大(wikiによれば)だそうだ。
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下はその『「統一の像」の足元を訪れた人々(2018.10.31写真:ロイター/アフロ)』人間がありんこサイズに見える。ちなみにインドのこの像が完成する前まで、世界一高い像は中国の「魯山大仏」(128m)だったそうだ。
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下はその、世界第2位の「魯山大仏」。長い長い階段を上らないと下までたどり着けないようだ。
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 話を戻し、まだまだたくさんの大仏像が日本全国にちらばる。なにせ日本の巨大仏のベスト3はすべて100m以上の高さで、ベスト10までが50m以上という層の厚さなのだ!
・しかし1982年の建立当時は世界最大の像(wikiによる)で、現在は国内No3の地位にある淡路島の「世界平和大観音像」は下の写真のように解体中だという。『手が出ているのもかわいい』(引用⑬、2022.01.04リツイート)
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『ほら、私に最後の挨拶をしてくれてたでしょ。やっぱりこれ、手を振ってくださってたんですね。』(引用②、2022.01.15リツイート)
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・「世界平和大観音像」に次ぐ国内4番手は、高さ88mの「北海道大観音」だが、同じく苦戦中のようだ。『【北海道・北の京芦別】2013年8月31日に閉館。70~80年代様式を色濃く残す宿泊施設を備えたレジャーランド。敷地内に全長88mの北海道大観音が建立され、エレベーターで頭頂部まで上れた。像前庭園はタージ・マハルを模する。』(引用㉕、2022.01.30リツイート)
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『芦別にある「北海道大観音」10年以上前に訪れた際、展望台までのエレベーターが調整中で内部の螺旋階段で上る事に(胎内めぐりと言うらしい)煌びやかな仏像や展示物が並ぶも、長年手入れのなされていない屋内は壁や天井が剥がれ、床はぬかるみ謎の虫が蠢くリアルダンジョン。今から思うと貴重な体験?』(引用㉕、2022.01.29リツイート)
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でも、美しい観音像です。
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・加賀大観音 日本の大仏の高さランキング第5位の黄金像で、73mの高さを誇るが、3,4番手と同様、その内情は厳しいようだ。以下ブログ「ディープ旅のススメ」(引用(ハ))より『総額280億円をかけたアミューズメント複合施設ユートピア加賀の郷がバブル崩壊とともに閉鎖。その後運営団体が次々と変わり巨大観音は存続しているが、営業しているか不安になるほどその他の施設は廃墟化が進んでいる。』
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・下は「東京湾大観音」(56m、千葉県富津市)。1961年像立というから東京在住者であれば当然、知っていなければおかしいが、自分は初見だ。
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・「会津慈母大観音像」は福島県会津若松市にある高さ57mなので、「東京湾大観音」より僅かに高い。”新型コロナの終息を願って”とのことだが、「マスク着用」にされてしまった・・・。
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・「高崎白衣大観音」は高さ41.8mでもベスト10圏外だが、戦前の1936年に建立された当時は東洋一の大きさを誇ったという。高崎の観音様は昔から記憶があったが、これと同じものだっただろうか。自信がない。
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・東京人にとって、近場の観音さまといえば今まで、大船の観音さまぐらいしかイメージがわかないが、その観音様は半身像だっただろうか、これも記憶に自信がない・・・
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下はANAの「ニッポン大仏巡り 仏像大きさランキング」(引用(ト))という記事から、そのランキング表をコピーしたものだ。すでに解体中なので「世界平和大観音像」が省かれているのが寂しい。だいたいのイメージはつけやすい表なので、参考までに貼り付けておく
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『千手千足観音って初めて見た。手だけじゃ足りなかったんだな…』(引用②、2022.01.23ツイート)『私も聞いたことない。千の足はムカデより多いな(・_・;』(引用⑯、2022.01.24ツイート)以下は某ツイートから引用『みうらじゅんさんに「今度仏像見に行くんですけど、おすすめは?」って聞いたら「滋賀の千手千足観音立像!」と教えてもらったので戸田響子さんとわざわざ見にいった千手千足観音立像です。最高。』
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滋賀県長浜市の正妙寺にある「千手千足観音」について詳しくは(「カンタータ日記・奥の院」ブログ(引用(S))などを参考にしてください。精細な彫刻が素晴らしく、マニアの世界では有名のようだ。以下の画像もそちら(引用(S))からコピーさせていただいた。40センチ余りの小さな観音様だそうだが、近くで見れば、なかなかの迫力だ。
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後ろにまわればさらに異様だ。
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・「大阪の葛井寺(ふじいでら)の本尊、十一面千手千眼(せんげん)観音菩薩坐像(ぼさつざぞう)(国宝)は、現存する日本最古の千手観音像にして、文字通り千本の手を持つ数少ない「真数(しんすう)千手」の代表作」(朝日新聞デジタル版より)像高は144.2cm、手の数は正確には1039本だそうです。
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下は余談で日本ではないが『中国の千手観音 高さ99メートル😅』(引用⑰、2022.02.24ツイート)中国湖南省寧郷県にある密印寺にあるそうだ。下の空撮写真は人民網日本語版より。
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・直径5mの地球儀の上に観音様が立っている珍しい「鳥居観音」(埼玉県飯能市)。マンデラ的には思わずオーストラリアの位置を確認したくなるが・・・
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『なんだ、これは、なんなんだ……… ウサギ観音、爆 誕 !!!!! 「佐渡の観光は低迷状態 シンガポールのマーライオンに匹敵するような像を設置したい、という目的」』(引用⑰、2022.01.28ツイート)佐渡にある長谷寺(ちょうこくじ)のウサギ観音。実際に140羽のウサギを飼育しているそうで、境内や敷地内を自由に走り回っているそうだ。
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・涅槃像の世界も、負けず劣らずもの凄い状況になっている。世界一大きいという、南蔵院(福岡県篠栗町)の「釈迦涅槃像」とか、
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『福岡にある堂々と眠る大仏の存在感が凄い』(引用⑥、2021.12.09リツイート)
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・競っているかのように(実際、競っているのだと思うが)、上の福岡の涅槃像を長さでは上回る(41mに対して45m)佛願寺大涅槃聖堂(札幌南区)の「札幌涅槃大仏」も、今の世界線にはある。
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『南法華寺(壺阪寺)「大観音、大涅槃石像」いらっしゃいました 山寺の雰囲気凄く良かったです』(引用㊲、2021.06.13ツイート)身長8mの像とのことだが、大きさ競いとは無縁で、広場の真ん中でのんびり寝そべっておられるようです。どこかホッとする写真だったので、息抜きに掲げておく。
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下もマンデラとはまったく無関係(たぶん)で、観光案内以外何物でもないがさらに、目立たないところで気持ちよさそうに休憩中?の涅(寝?)槃像を、引用(ヘ)の記事「群馬県で「完全にサボっているとしか思えない大仏」を発見 / 誰か起こしてやってくれ」より、『まさかの仰向け』
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『にやけている』(引用(ヘ))確かに。群馬県みどり市にある「草木ドライブイン」という「道の駅」の裏側で、くつろぎ中のようだ。
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 一方、大仏様の世界では、日本を代表する国宝の奈良の大仏さまは、その目を開けはじめた。そのマンデラの変化を(引用⑭)のツイートから追うと『5月以前・薄目を開ける→6月24日眉間が光る→7月20日超福耳に→7月21日鼻先光る→8月1日耳穴・涙袋が造り込まれる→9月1日美眉→9月10日頬ぷっくり→9月14日髪伸びる→10月11日鼻変化』(引用⑭、2021.10.11ツイート)
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下の画像について、『これは東大寺公式HPの画像です。この奈良の大仏も目が閉じています。東大寺側はこれを見てなにも思わないのでしょうか。』(引用④、2022.01.23ツイート)確かに閉じている。
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一方、不動の二番手は同じく国宝である鎌倉の大仏様だ。
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『なぜ昔の鎌倉大仏は人相が違うのでしょうか。』(引用④、2022.01.22ツイート)との指摘もあるが、
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戦後、保存のための修理が行われたようで、そのためだろうか。わかりません。
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以下からはどれがマンデラエフェクトで出現したものなのか、それとも元々あったのか、まったく判別不能なため、例によって観光案内のつもりでご覧いただきたい。地元の方なら判定できると思います。まずは日本三大仏の、三番手争いについて。
『「日本三名園は兼六園、後楽園、偕楽園。では、日本三大仏は?」。(富山)県民なら国宝の奈良、鎌倉と並んで高岡大仏(高岡市大手町)を挙げるだろう。ところが今秋、IT大手のCMで岐阜市にある大仏が三大仏の一つとして紹介された。全国を見ると、地元の大仏を「三番目」に挙げる地域が複数あるようだ。実態はどうなのか』(引用(カ))
・下は富山県民の誇り、「高岡大仏」。
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「鎌倉大仏に匹敵する巨大な大仏様が神戸市にあるんです。神戸っ子の知名度も意外と低い必見スポットですよ。」(引用(キ))下は兵庫県神戸市の能福寺にある「兵庫大仏」
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『岐阜大仏もある これは見た気がする。優しいお顔。目が笑っている笑顔 日本三大仏のひとつともいわれ、三位争奪戦で頭一つ抜けているらしい』(引用⑭、2021.09.10ツイート)下は三番手争いで、今のところ頭一つ抜けて優位にあるという、「岐阜大仏」(正法寺)-大釈迦如来像。乾漆仏としては日本一の大きさ(堂の高さ25.15m、廻り19.39m、仏像は坐像で高さ13.7m、)を誇るという。
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立派な耳だ。手のポーズが!
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・下は福井県勝山市にある「越前大仏」。この大仏も像高は17mという威容を誇る。それにしても、大きくて立派な大仏様が“多くなった”気がしてならないのだが・・・
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ついでに愛知県の誇る大仏も3つ。『愛知県には大仏が全部で7体もあるそうです~私はマンデラに感じます』(引用⑮、2022.01.22ツイート)相当な大仏王国だ。
・「聚楽園大仏」(愛知県東海市、画像はwiki)と、
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・緑色が何とも鮮やかな桃巌寺の「名古屋大仏」(名古屋市千種区)と
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・上は「布袋の大仏」(愛知県江南市)。画像はwikiより。
・下は兵庫県にある珍しい3連巨大仏、「但馬大仏」。真ん中の釈迦如来が15.8m、両サイドのお二人は15.2mというから、これも十分立派な大きさだ。「但馬大仏」のある「長楽寺」は、先の「越前大仏」がある「清大寺」と兄弟寺だとのこと。
何度も書くが、今の世界線での大柄の大仏さまは、観音さまや涅槃像と同様、やたらと数が多い。ただしこれも何度も記すが、これらのうちのどれがマンデラで誕生したものかはまったくわからないけれど。
さらに言えば、マンデラの結果、これだけ新しいものが出現すれば、その分日本の国土面積が拡大したわけでもないので、その反動で、今まで存在していたものの内のいくつかが、知らぬうちに消えて無くなっている可能性も高い。ただ人間は、無くなったものに対しては、新たに出現したものに比べてたぶん感度が鈍いので、知らずに見過ごしている場合が多いのではないだろうか。
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・高さ16.5mの不動明王坐像がそびえる成田山仙台分院『成田山仙台分院にある日本一の高さを誇る不動明王さんだそうです。雛人形の供養でも有名だとか?』(引用㉕、2022.01.28ツイート)
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・奈良県高取壷阪寺(南法華寺)大釈迦如来石像。
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台座を含めた高さが15メートルある。周囲をサクラに包まれた姿が「桜大仏」として親しまれているという。
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『満開の桜に包まれた桜大仏』(引用⑯、2022.02.17リツイート)
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・「平戸の大仏(おおぼとけ)」は観世音菩薩坐像(高さ3・93メートル)、薬師如来坐像(同3・48メートル)の2体からなり、いずれも木製の寄せ木造りの仏像としては国内最大級だそうだ。埼玉県熊谷市の源宗寺に収蔵されている。観光案内以外、何物でもないが。
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『千葉県』(引用㊿、2022.03.17ツイート) 以下、(引用((ヌ-2))より『日本寺・百尺観音 凝灰岩からなる鋸山(標高329.1m)の大半が、その霊域となっている日本寺。一歩山に踏み入れば、各所に石仏が点在し、いかにも霊山の趣となっています。その山頂の一角、金谷下山口(北口管理所)にあるのが、百尺観音。昭和41年に6年の歳月を費やして完成した巨大な磨崖仏で、高さ100尺(約30m)というのが、その名の由来です。』鋸山は昔から知っていたが、こんなに見どころ満載だったとは知らなかった。マンデラではないと思うが、珍しい観音像の観光案内として紹介しておく。
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同じ日本寺にある大仏は高31mで、座像の石仏としては日本一の大きさを誇るという。
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・万治の石仏(諏訪郡下諏訪町)。番外編ですが素朴な味わいがいいですね。『長野県には諏訪大社もありますね。諏訪=すわ=スワスティカ=卍だったりして?(すわの語源は色んな説があるようです) 下記サイトには万治の石仏と言うものもあるのですね。卍=万治? https://yatsu-genjin.jp/suwataisya/simosya/manji.htm』(引用⑲、2022.02.20ツイート)
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『ハニベ巌窟院 ここは地獄か?はたまた極楽か?!石切り場跡地の全長150mの洞窟内には、これでもか、これでもかと洞内に繰り拡げられる地獄絵巻。宗派にとらわれず幅広くどなたでもご参拝いただけるでしょう。』(引用⑰、2022.03.19ツイート)ここもかなり強烈だ。
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仏頭部分だけで15mある。場所は石川県小松市だ。
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『1500年前からマジンガーZは存在してた』(引用㉑、2022.04.03ツイート)海外の番外編として、中国の仏像を。
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・楽山大仏(らくさんだいぶつ)は、中国・四川省楽山市にある、高さ71メートルの仏像。近代以前に造られたものでは世界最大・最長の仏像であり、石像である。(wikiより)
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もう一つ、中国から『長門洞窟(つまり「ドラゴンドア洞窟」)は、中国、雲南省にある岩の聖地の一連です。 これらの洞窟は、 X山と龍門山を点けており、中国の仏教美術の最高の例の一つを表しています。 洞窟の建設は493年に始まった。 この複合体は2345の洞窟と10万以上の仏像でなる。』(「アモトから見た世界 Welcome to my world」さん https://twitter.com/MamikoIto1 2022.04.03ツイートより)
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さらに番外編ですが『奈良より大きかった!幻の「京都大仏」の悲劇』以下(引用⑭)『秀吉による「幻の京都大仏」は知っていましたが 昭和48(1973)年3月28日深夜。突然の出火で半身の大仏と大仏殿は焼失。これは知らなかった。昭和中期まで現存していたんや・・・それって普通に知られていることなんスか?』(引用⑭、2021.09.10ツイート)
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・下は大仏さまとは程遠いが、大阪市浪速区「難波八阪神社」の「獅子殿」。これも珍しいと思うが。
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・ここからは仏像の世界から離れる。下は一転して映画のワンシーンのように美しい、京都「伏見桃山陵にある大階段」。「明治天皇陵」の南側にあるこの大階段の紅葉時の景色は、JRの旅行のPRにでも使われそうだが、これもあったと言われればあったのかもしれないが、近くにあったわけでは無いので、記憶があいまいだ。地元の人はどう感じているだろうか。ちなみに230段あるとのことだ。
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・兵庫県の中山寺、青い五重塔 『こんな青い東洋テイストの建築自体初めて見ました!』(引用㉕、2021.10.24ツイート)これはマンデラなのでは?
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『なんでしょうかこの神社は。明らかに異常です。尾山神社と言います。』(引用④、2022.01.23ツイート)鳥居の奥にステンドグラスがはめられた神門がそびえ、どことなく和漢洋を匂わす魔訶不思議な雰囲気だが、確かに“なんでしょうかこの神社は!”だ。
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かなり個性的だが、昨日今日できた神社ではない。マンデラの可能性もあると思うが。
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『金沢市の尾山神社。1876年築。津田吉之助設計。重要文化財。一言で言えば擬洋風建築ですが、神社で洋風建築ってのはちょっと変ですね😅』(引用㊺、2022.01.21リツイート)日中の姿も。
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・出雲大社の巨大しめ縄も強烈な印象を与える。
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・番外編?で『京都にこんな屋根のお寺があるの、知らなかったなぁ。てっぺんに鳥がついてて』(引用⑧、2021.11.25)この「銅閣寺」はあの大倉喜八郎が建てたのだというが、これもマンデラの可能性もあるとのことだ。
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下はマンデラとはまったく無関係だが、「銅閣寺」を出たので、絵葉書みたいに美しい『雪の金閣寺』も。(引用㉟、2022.01.18リツイート)
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でも、『先日行った金閣寺の写真を見てたら漂う何か。』(引用⑩、2021.12.02ツイート)部分的にマンデラしているのだろうか。
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さて残るは銀閣寺だが、果たして”無事”だっただろうか。『銀閣寺が私の記憶と違い過ぎて寝れない😨 銀閣寺と言うからには銀だった 京都はしょちゅう行ってました』(引用㊷、2021.12.13ツイート)
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下は紅葉の銀閣寺。いぶし銀みたいな渋いイメージだ。
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これも番外編として『知恩院の鐘。日本最大級。1922年、アインシュタイン博士が実験の為、訪れている。一度つくと音の余韻が20分続く。真下に立つと音が聞こえなくなる。鐘の下では音波が相殺されて音が小さくなることを実証されて帰国したらしいよ!!』(2022.01.01リツイート)珍しいエピソードだったので、観光案内のつもりで紹介した。
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やはり大きい!
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『佐賀県鹿島の祐徳稲荷神社、特にマンデラーさんでご存じの方いますか~? って検索してみたら!!!ら!!! ………知らない!前からあってこれ知らないのおかしい!!』(引用㊴、2022.01.05リツイート)
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・佐賀県、鹿島市の祐徳稲荷神社は、日本三大稲荷だという。
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『談山神社の十三重塔です。ここは紅葉の名所ですので、季節になるとひときわその端正な姿が引き立ちます…(^^♪ 大化の改新(645年)を遂行するために中大兄皇子と中臣鎌足が談合を行ったといわれる由緒ある場所です。。』(引用㉜、2021.01.24リツイート)これもマンデラではないと思うけれど、やはり観光案内のつもりで。
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・下もマンデラではないが(たぶん)、鳥取県の国宝「三徳山三佛寺投入堂(みとくさんさんぶつじなげいれどう)」。“日本一危険な国宝!”だそうです。
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なかなかハードルが高そうだ。
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『3月3日は、#三の日 三大〇〇をあげろ!ということで、日本三大投入堂 三徳山 三佛寺 不動院岩屋堂 龍岩寺 奥院礼堂』(引用㉕、2022.03.05リツイート)ということなので、話の流れで残りの二つも紹介しておく。
・不動院岩屋堂 三徳山 三佛寺と同じ島根県にあり、天然の岩洞に設けられたこの堂は「窟堂」ともいわれ、大同年間(806~810年)の創建と伝えられてるそうだ。こちらの方がアプローチし易いか。
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・龍岩寺 奥院礼堂 大分県内で唯一の、鎌倉時代の木造建築で、国の重要文化財に指定されているという。
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『会津の『さざえ堂』は、世界で唯一の二重らせん構造の木造建築です(1796年築) 一方通行で、誰ともすれ違うことが無い不思議な仕組みです。レオナルド・ダ・ヴィンチが設計したと言われるフランスのシャンボール城の構造が日本に伝わり、この建物が設計されたそうです エネルギー発生しそう~🧐🌪』(引用㊺、2022.02.18ツイート)
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マンデラとは無関係だと思うが、珍しかったので紹介しておく。確かに螺旋状だ。
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中は複雑に入り組んでいる。写真からは、目が回りそうだ。ところがここは、確か行った記憶がある。
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・千曲の安楽寺 八角三重塔『四重塔に見えるのに三重塔、一番下は『もこし』というひさしみたい』(https://twitter.com/shii22camp「しい🐲龍宮・タルタリアを探して~」さんツイッター(2022.03.31)より)
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「八角三重塔」のある安楽寺は信州最古の禅寺として有名とのこと。場所は長野県上田市別所温泉。
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話がまったく変わる。下は言わずと知れた東京タワーだが、現在の赤と白の色が、
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赤一色だったと記憶している人がいる。マンデラ界隈では超有名な話で、ちなみにこれについては自分は以前から“赤/白だった派”だが、『~東京タワーの赤と白の色模様も同様で、毎日、東京タワーを目にしている地元の人ほど昔から今と同じ色配列だったと信じています。』(引用(R))という手厳しい指摘もある。下はTシャツのプリントに残ったその名残りで『Tシャツのイラストで赤い東京タワー見つけた』(引用㉙、2021.11.27ツイート)
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下は『雨の日に現れる 逆さ東京タワー』(引用㉘、2021.09.09リツイート)
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・築地本願寺も、こんなに立派なものではなかったとの指摘もあるが、東京在住者にも関わらず、判別がつかない・・・。
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東京近郊にお住いの方は改めて訪れてみるべきかも。
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『あれ……? 京都の本願寺に、こんな建物ありましたっけ……? 築地の本願寺みたいになってる……😅 旧真宗信徒生命保険株式会社本館(本願寺伝道院)』(引用⑰、2022.04.24ツイート)京都在住の方、いかがでしょうか?
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『ちがいますね!!ちがいますよね!!?』(引用⑧、2021.10.15リツイート)「太陽の塔」も・・・
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『太陽の塔がマンデラして顔が変わったようですね。鳥っぽくなった?知らなかったんですが、カラスがモチーフだったんですね〜 太陽信仰とカラス・・・侵略者の文化ですねー。』(引用㉕、2021.10.16ツイート)不気味な感じになった。
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・下は一部で、マンデラ出現説がある「福岡タワー」。『福岡タワーって有名なんですか…
わたし知らなかったんですけど。。』
(引用②、2021.12.03ツイート)
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以下wikiより「高さは234m。日本で1番高い海浜タワーでもある。1989年のアジア太平洋博覧会(通称:よかトピア)にあわせて建設された。」
誕生のきっかけとなったその「よかトピア」という博覧会自体が、そもそもマンデラではなかったかとの説がある。下の写真と以下の文は地元紙の西日本新聞より、『1989(平成元)年3月6日 福岡市早良区の百道浜に高さ234メートルの福岡タワーが完成。同市の市制施行100周年を記念して開かれたアジア太平洋博覧会「よかトピア」のシンボルとして建てられた。』(引用(ク))以下(引用㉕、2022.01.14ツイート)『福岡タワーとよかトピア万博ってマンデラですよね・・・?』
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国内外から目標の700万人を上回る823万人が訪れたというからそれなりの規模だ。ちなみに1970年の大阪万博(Expo ’70)が6,422万人、1985年のつくば科学万博が2,033万人、2005年の愛知万博(愛・地球博)2,204万人の来場者数だった。
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「よかトピア」は自分のように“初見”の人も多いと思うので、大目に紹介したい。以下、その盛んだった開催当時の雰囲気を伝えるスナップ写真を(引用(W)、「よかトピア アジア太平洋博覧会33周年」)より引用させていただく。下は『東ゲート』
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平成バブルの時期だし、企業も積極的に出展していたようだ。
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下は三菱グループ館だが、富士通のパビリオンの人気が高かったらしい。
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『これはアジア太平洋ゾーンの人工運河から南の油山を見たところです。』
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福岡タワーは当時、地元の人は親しみを込めて『よか塔』と呼んでいたそうだ。
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『京都タワーも赤白ではなかったと思うなー』(引用⑩、2021.11.04ツイート)タワーはマンデラを起こしやすいのだろうか。
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『水戸タワーすごいですね。』(引用⑩、2022.01.01ツイート)茨城県の「水戸芸術館」のシンボルタワーで、100mの高さを誇るという。知りませんでした。
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『話題になってた水戸の謎タワーに来てみました(笑) 下の娘と一緒に登ろうとしたらタワーはコロナで休館でした。ちなみにこのタワー三重螺旋構造みたいです。』(引用㊵、2022.03.03リツイート)光の加減で微妙に変化するようだ。
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下はライトアップした姿。正式には「アートタワー」と呼ぶそうだ。
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『いやいや、まって 秋田ポートタワーってなにーー この前、タワー調べた時に出てこなかったのにーーー 』(引用②、2022.03.28ツイート)秋田市ポートタワー(100m)
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『知らないタワー、いっぱいあるな〜』(引用②、2022.03.28ツイート)
・ゴールドタワー(香川県綾歌郡宇多津町:158m)
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・海峡ゆめタワー(山口県下関市:153m) 確かにいつのまにか、増えた気もするが、自分が知らなかっただけなのか?
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・東山スカイタワー(名古屋市千種区:134m)観光案内気分で紹介しておきます。
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・クロスランドタワー(富山県小矢部市:118m)
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・千葉ポートタワー(千葉市中央区:125m)千葉港の千葉ポートパークに建つこのタワーは、綺麗なクリスマスイルミネーションと、なぜか地震の震源地付近になる場合が多いのも、一部で有名?
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・大平和祈念塔(だいへいわきねんとう)は、大阪府富田林市にあるタワー。
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通称は「PLの塔」または「PLタワー」(wikiより)『PLの塔がデカくなってない?』(引用⑯、2021.12.01ツイート)高さが180mあるというが、さすがに大きい。
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下の写真は『日本一かっこいい通学路』(引用㊲、2021.12.01リツイート)
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『宗教都市ではないけど、兵庫にある念佛宗って宗教団体の総本山はマジでデカいよ』(引用㉕、2022.02.24?リツイート)
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広すぎてわかりにくいので、本堂を中心にもう少し部分的に
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「念佛宗 総本山 佛教之王堂(三寶山無量壽寺)は2008年に完成。総面積約180万平方メートルの広大な敷地に本堂や五重塔などの建物が並ぶ巨大寺院で、建設には7年を費やし、延べ350万人が関わったとされる。なお、同寺は1979年に京都府知事より認証を受けた単立宗教法人。包括団体である全日本仏教会には属していない。」(以上引用(ヒ)=newsポストセブン「念佛宗三寶山無量壽寺 7年 延べ350万人が関わった巨大寺院」より要約)源義経ゆかりの地・兵庫県三草山(みくさやま)のふもと(兵庫県加東市)に、所在している。
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上の写真は『念佛宗 無量壽寺 佛教之王堂 | 実績|大林組』(大林組HP)より。東大寺大仏殿を凌ぐ大きさの、写真の本堂と脇堂を中心に、全15棟が建ち並んでいるという。
下は『念佛宗が建立したナーランダ僧院』(引用㉕、2022.02.24?リツイート)無量壽寺の隣接地に建立したという。
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下の画像は『【日本郵便 近畿支社】オリジナル フレーム切手 「天高き理想 世界に響く「ナーランダ僧院」」の販売開始』より
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念佛宗の寺院はマンデラでも何でもないが、日本にはまだまだ、広く知られていないが壮大な建築物が多い。
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『佐賀県、「有田ポーセリンパーク」』(引用(B)-5)??といいたいところだが、これは知らなかっただけか。
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『17世紀以降、ヨーロッパの王候貴族を魅了し、世界の陶磁器に影響を与えた有田焼の里ならではのテーマパーク『有田ポーセリンパークのんのこの郷』。まず目に飛び込んでくるのがツヴィンガー宮殿。ポーセリンパークのシンボルともいえる建物で、18世紀初頭のドイツ・バロック建築の華といわれた宮殿を忠実に再現した華麗な建物。また、園内随所のガーデンでは、四季折々の花々と鮮やかな緑が心を癒してくれます。大人からお子様までゆっくりと楽しんでいただける施設を展開しています。』(引用(コ)=ホームページ)佐賀県にある、酒造・有田焼のテーマパークで、1993年4月18日にオープンしたとのこと。
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(有田ポーセリンパークには)『こんなのもあるみたい…謎に次ぐ謎…』(引用㊸、2022.03.02ツイート)
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ブラタモリでも放映されたそうだが・・・
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『これが香川県だと・・・?』(引用㉕、2022.02.07リツイート)・中四国最大級テーマパーク「レオマリゾート」だそうです。
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以下(引用(ナ)、「香川でアジアの世界的遺産を巡る!レオマリゾートのオリエンタルトリップ」)より『香川県丸亀市の山間にあるレジャー総合施設レオマリゾート。遊園地や宿泊、温泉、バイキング、プールなど家族で一日中楽しめるレジャー施設で、レオマと言えば特に遊園地のイメージが強いと思いますが、実は、とっても素敵なアジアの世界的遺産も見る事ができます。中でもプラサット・ヒン・アルンはアンコール王朝の寺院を忠実に再現したもので、現地の石工から高い技術提供を受け造られた美しい建物ですよ。』カンボジアのアンコール・ワットの寺院を再現したのだという・・・
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以下も(引用(ナ))より『オープンから長い年月がたち、ますます、遺跡の雰囲気が増し、異国の地へ来た気分になりますよ。』元々はバブル期に創られたもののようだ。
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『なんと日本の埼玉県!聖天宮』(引用㊿、2022.03.01ツイート)
以下はwikiより、『五千頭の龍が昇る聖天宮(ごせんとうのりゅうがのぼるせいてんきゅう)は、埼玉県坂戸市にある台湾の道教の宮である。道教建築として国内最大。台湾人貿易商の康國典(こうこくてん)により、難病治癒の記念として建立され、1995年に開宮した。』

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聖康國典氏は不治の病に侵されたが、道教の三清道祖にすがって完治した。その感謝をこめてお宮を作ろうとしたところ、神のお告げに従って、坂戸に建立することになったそうだ。
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何度もいうが、日本中探せば、あまり知られていない、謎めいた建物はまだまだありそうだ。手軽に台湾気分を味わいたい方は、埼玉県坂戸市までどうぞ!
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『全然知らない。知ってる人、居るのかな…』(引用②、2022.02.04ツイート)
奈良県宇陀市にある、室生山上公園芸術の森
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イスラエルの彫刻家 “ダニ・カラヴァン” が監修したのだという。
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犬も入園OKのようだ。
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『富士ガリバー王国のガリバー像も、撤去は勿体なかったですね。ゴルフ場、別荘地開発へ、と。』(引用㉕、2022.02.20リツイート)
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別にマンデラでもなんでもなく、以前からあったのだろうが、知りませんでした・・・
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以下の楽しげな写真と文は、「toi-mui」さんツイッター(https://twitter.com/toimui)2017年6月18日より、『古いデジカメ写真を整理してたら、1999年10月23日に撮った今は亡き富士ガリバー王国の写真が見つかった。「小さなバイキング ビッケ」のイベントがあったので行ったのですよ。』今では心霊スポットになっているのだという。
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・霊園に巨大「頭大仏」や「モアイ像」が!? 驚きいっぱい真駒内滝野霊園(以下引用(ミ)とwiki参考)
真駒内滝野霊園(まこまないたきのれいえん)は、北海道札幌市南区滝野2番地に所在する霊園。所管は公益社団法人ふる里公苑。~2016年7月から、安藤忠雄が設計した頭大仏殿が公開された(wiki)。1981年開園というから、最近できたわけでは無い。札幌から車で30分とのこと。地元北海道では有名なのだろう。
「やっぱりみなさんのお目当てはモアイですよね!ズラリと並んだその姿は圧巻です!」大きいものは高さ9.5m・重さ120t、小さいものでも6.5m・重さ60tあり、全部で33体もある。
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「「真駒内滝野霊園」のシンボルともいえる頭大仏。その大きさなんと高さ13.5m、重さ1500トン。」
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ストーンヘンジまであるのだ。ちなみに実物大サイズとのこと。
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全敷地でドーム20個分らしいので、残念なことに巨大すぎて全景を写した写真が見当たらなかった!?さすが北海道サイズだ。頭だけ出した大仏様の後ろ姿が見える。
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『ところで木津呂集落ってご存じですか?~ 5月に入ってから知りました』(引用⑧、2022.05.07ツイート)なにやら「大室山」みたいで、地形のマンデラでもありそうだが、“集落”なので、こちらに貼っておきます。
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以下、(「じゃらんニュース」;引用(ム))より、『神がこもる地に、謎めくサークル。 UFOの隠れ家。そう呼ばれる場所を熊野に発見。険しい山々に囲まれた真ん中にぽっかり馬の蹄鉄のような地形。そして山脈から地に流れるように連なる地形は、風水では「龍穴」と言われ、気のたまるポイントで強いパワーが得られるといいます。 神話の昔から紀伊山地は神々が住む世界と伝わることもあり、木津呂には何かしらメッセージが隠されていると思わずにはいられません。』パワースポットでもあるようです。ちなみに『木津呂のこの景色は和歌山県側から往復4時間の登山の上、案内板もないのでツアーに参加することが必要』だそうです。
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上は同じ熊野にある『丸山千枚田』で、同じく(ム)より引用『1340枚の田をもつ日本最大級の棚田。400年前には2240枚の棚田があったとの記録が。棚田の中を車で走ることもできますが、全景を見るには熊野古道・通り峠を30分程歩くとある展望台がおすすめです。』 下は「夕焼けの丸山千枚田」で、「丸山千枚田」の2枚の写真は、「三重フォトギャラリー」さんよりコピーした。
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ところでこの「木津呂集落」と「丸山千枚田」の絶景をそれぞれ拝むためには、それなりに険しい道を歩まねばならないが、世の中よくしたもので、なんとその二つを、合体させたような場所があるという!それが和歌山県有田川町にある「蘭島(あらぎ島)」で、「日本の棚田百選」にも選定されているという。
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・菅沼集落(富山)『知らないぞぉ』(引用⑫、2022.01.27リツイート)
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世界遺産だそうだ。
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・こちらも世界文化遺産 九州天草の崎津集落
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『尼崎城…あったかな?』(引用⑩、2022.01.08ツイート)「平成30年12月(2018)、ミドリ電化(現エディオン)創業者、安保詮氏が、尼崎城の天守を私産約10億円を投じて建設、尼崎市に寄贈した」ものだそうです。これも何とも言えない?
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『ビッグサイトはよく知ってるけど、金じゃなかった。ガラスだったはず。変わったのね(*_*)』(⑧、2021.12.14)何度も行ったはずだが、これもどうだったか、忘れてしまった・・・。
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『原爆ドーム、屋根ちょっと残ってたよねえ、緑っぽいの。なぜ、ない。』(引用⑧、2021.08.06リツイート)『実家で、広島に修学旅行に行った時の写真を見てたら、原爆ドームの丸い屋根が全部骨組みだけになってた。原爆ドームは半分くらい屋根が残ってたはず やっぱり写真もこっちの世界線仕様に変わっちゃうんだなぁ』(引用㉙、2021.11.24ツイート)これは自分も、屋根の部分が多少残っていたように記憶しています。
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下は『広島原爆ドーム 原爆が落ちる前の姿』(引用㊾、2022.01.21ツイート)
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・下は遺跡だが「五色塚古墳」(神戸市垂水区)。『えっ、こんな綺麗な円錐型の古墳が神戸に……!?知らなかった……』(引用⑰、2022.01.05ツイート)4世紀後半に築かれた兵庫県下最大の前方後円墳で、墳丘長194mだそうだ。
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・知る人ぞ知る奈良のピラミッド「史跡 頭塔」『特別公開されたのは2018年らしい。こんな派手な外観で珍しいもの、地元ニュースで絶対に目にしているはず。』(引用⑭、2021.21.21ツイート)
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『奈良に『頭塔(ずとう)』という高さ約10mの見事な石垣のピラミッドがあります😊 767年に東大寺の僧侶が建てたと言われています。最初に作った塔はすぐに崩れてしまい、その上にさらに石を積んでいるそうですよ。この下には、何が埋まっているのよ~🧐💦』(引用㊺、2022.02.18リツイート)
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『奈良が「頭塔」なら、大阪・堺市は「土塔」なんじゃあこりゃ~』(引用⑭、2021.12.22)『不思議な仏教遺跡ピラミッド『土塔』(堺市)古墳をはじめとした多くの史跡が残る堺市。その中でもひときわインパクトが強いのがこちらの土塔!四角錐に瓦が積み上げられており、その姿はまるでピラミッドのよう。この不思議な建造物は、いったい何のために造られたのでしょうか。』(引用(ケ))発掘調査の結果、一辺53.1メートル(180尺)で四角錐の頂部をカットしたような形だったという。こんなのあったかなぁ・・・
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以下、明治初期から、我々が想像する以上に日本は洋風の建築物が多かったことを、記して(=貼り付けて!)いく。『明治時代の東京〜』(引用㊹、2022.02.05リツイート)
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 まずはかつて日本に建てられたとされている“凱旋門”の数々について。
『日本橋に凱旋門……!? な、なんだってーーーっ!』(引用⑰、2022.01.11ツイート)
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『「日清、日露戦争の時代、戦勝を祝して、日本中に凱旋門が建てられました。…
凱旋門は、東京だけでも新橋、京橋、日本橋、神田、上野、浅草、品川など10カ所以上作られました。」 ビックリ…… 関西にもあったんだろうか……?』
(引用⑰、2022.01.11ツイート)『凱旋門を調べていたら戦勝門とも言われてるみたいで日本にもたくさんあったとか。。雷門も戦勝門だったそうです。神社の鳥居も戦勝門だったらしい。戦勝って誰に勝ったの???』(引用⑲、2022.01.06リツイート
 日本橋の橋のたもとに建てられたという、日本橋の凱旋門について、もう少し詳しく見ていく。以下の3枚の写真と文は、(引用(ノ):「東都のれん会」)さんよりコピーさせていただいた。
『~ 少しアングルを変えてみると、この建造物が日本橋のたもとに設置されているのがわかります。左下に「日本橋凱旋門」と書いてあります。これは明治38年10月に日露戦争の凱旋記念に造られたものなのです。高さ約14mのこの凱旋門は、実ははりぼてで、わずか7日ほどで完成しました。総工費は当時の2,000円なので、今の価格に換算すると4,000万円くらいでしょうか。「祝凱旋」の文字の上部には旧日本橋区の徽章と月桂樹が、文字の下部には桜の意匠が飾られています。』
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『凱旋門は日本橋だけでなく、京橋、新橋、上野、浅草、万世橋などの都内各所はもちろん、全国にも造られ、それぞれ独特の形状をしていました。はりぼて製の凱旋門は祝祭後に取り壊されてしまいましたが、石造りと煉瓦作りの凱旋門が現在でも鹿児島県と静岡県に残っています。』
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どうみても、わずか7日間で作られたハリボテには見えないのだが・・・。夜はライトアップされていたという。それだけでも相当な重量負荷があったはずだ。戦前の日本の、全国各地にあった凱旋門は、急ごしらえの安普請のハリボテだけでなく、元々存在していたものも多かったのではないかという疑問も、当然の如くわいてしまう。
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『皆さん、戦前日本各地にこれだけの凱旋門があったのはご存じだったょうか。このタルタリア様式建造物は戦後、殆どが破壊されています。なぜでしょうか?公式的には戦意高揚に使われからとなっています。フランスの凱旋門に引けを取らない芸術的な建造物であるのにです。』(引用㊼、2022.01.06ツイート)
 日本に多数あった、凱旋門については、(引用㊼;「m ito」さんのツイッター)が詳しい。また以下の動画も分かりやすいと思います。『明治時代にあった、日本の凱旋門の考察!』(Mチャンネル「不思議考察」)
https://www.youtube.com/watch?v=g4aaFNnxvnI&t=4s
 以下も主に(引用㊼;「m ito」さんのツイッター)から紹介する。下は『桜田凱旋門!日露戦争における。』(引用㊼、2022.01.10ツイート)
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『なんと三越にも凱旋門ありました。( ゚∀゚)』(引用㊼、2022.01.06ツイート)
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『明治38年10月、東郷平八郎一行を迎えた三越前の凱旋門』(引用㊼、2022.01.07ツイート)
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下はイラストだが、日比谷の凱旋門。特殊なかたちだった。
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実物もとんでもない大きさだったことがわかる。
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『上野の凱旋門』(引用⑰、2022.01.11ツイート)
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赤坂の凱旋門
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『青山の凱旋門!一体どんだけあるんだよ!富国強兵の政府の誘導で洗脳されてます。それともっとも重要なことは、タルタリア文明時代の遺物を全国の仮設で建てた名ばかり凱旋門と一緒にして破壊したことです。』(引用㊼、2022.01.08ツイート)なるほど。「全国の仮設で建てた名ばかり凱旋門」も含まれていたことが、隠ぺいを容易にし、話を複雑化させているようだ。
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『八王子の凱旋門!明治38年?』(引用㊼、2022.01.07ツイート)
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『かって、大阪にあった凱旋門!これは木造造りだったらしい。大阪の日本銀行前とのこと。』木製のものもあったようだ。
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『名古屋にあった凱旋門を見つけました。教えてくれた人、ありがとう😆💕✨』(引用㊼、2022.01.06ツイート)和風な感じだ。
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『「蹴上にあった昔の岡崎公園 左後方の凱旋門?のデカさと中心にある、街灯のようなモノの高さや大きさが 下にいっぱいいる人間の大きさとは全く釣り合わないのが、、気になりすぎます」⇒ここにも凱旋門があったとは。やはり明治時代の日本中にあった凱旋門は、前文明時代の遺産としか思えなくなった。』(引用㊼、2022.04.16リツイート)同じ京都でも、蹴上(けあげ)にあったということで、JR京都駅近くにあったという、下の「奉迎門」とは別物のようだ。何やらとんでもない大きさに見える。
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『京都の歴史ってなんやねん』(引用㊹、2022.04.01リツイート)ちなみに大正4年は1915年です。
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『神戸凱旋門!明治38年。』
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『北九州市門司駅前にあった凱旋門です!明治38年。』(引用⑲、2022.01.09リツイート)
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『宮城県の凱旋門!明治38年。』(引用⑲、2022.01.09リツイート)
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『山形市の凱旋門!年代不明ですが、たぶん明治時代で間違いないでしょう。( ´∀`)』(引用㊼、2022.01.07ツイート)
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『室蘭の凱旋門!明治39年。』(引用㊼、2022.01.07ツイート)
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『まだ続きます。( ´∀`) 愛媛県松山の凱旋門!明治38年。』(引用㊼、2022.01.08ツイート)
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『京城の凱旋門!現在のソウルにあったもののようです。周りの景色とこの巨大な建造物に違和感を感じるのは当方だけではないでしょう!(* ゚∀゚)』(引用㊼、2022.01.12ツイート)確かに。
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・・・日本国内のものは、ほかにも名古屋広小路、函館、岐阜、石川県の金沢、博多駅前、山形停車場前、熊本、熊谷停車場前、、浦和・・・ 終わらないのでこの辺で切り上げて、以下は現存する、貴重なものだ。
『あれ、東京以外にもあった、あった、しかも現存してるーーー?!?! 「現存する日露戦争の凱旋門は2つです。1つは静岡県浜松市引佐町渋川のレンガ造り凱旋門、もう1つは鹿児島県姶良(あいら)市山田地区の石造凱旋門。」』(引用⑰、2022.01.11ツイート)下は浜松の凱旋紀念門。なんだか見た記憶も微かにあるのだが、気のせいか?
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『鹿児島の姶良の凱旋門』(引用⑰、2022.01.11ツイート)戦後も75年以上経ち、当時のことを直接知る人もいなくなりつつあり、日本人の戦前の記憶もあいまいになってしまったが、両親が生きていたら聞いてみたかった。
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ところがさらに・・・『新宿にあった凱旋門と江ノ島に現在もあるこちら…』(引用㊸、2022.03.03ツイート)
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『江戸時代まで全国の建物は平屋瓦葺きの平屋ばかりのはずなのに、明治時代に入っていきなりこの建造物?
なぜ今まで殆どの人々が疑問に思わなかったのでしょうか?』
(引用㊼、2022.01.06ツイート)工期は10年だったということだが、日本各地に元々存在していたと思われる、凱旋門の存在を思えば、やはり微かな疑問もわく。元赤坂にある迎賓館は“公式”には、鹿鳴館などを設計したお雇い外国人建築家ジョサイア・コンドルの弟子にあたる宮廷建築家片山東熊の設計により、東宮御所として1899年(明治32年)に着工、1909年に完成したことになっている。
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『1900年ニューヨーク!車もトラックも発明されていないのに、どうやって超高層ビル、摩天楼を建築できたのか?!?』(引用㊼、2022.02.22ツイート)確かに。当時、車もトラックも少数ながら初期型はすでにあったが、どうみても困難だったように思える。公式とされている歴史とは異なった文明の手によって、すでに建てられていたのではないかという疑問がどうしてもわいてしまう。重要なので少し大きめに貼っておきます。
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『ニューヨーク市マンハッタン、5番街 1908年 トラックの無い時代』(引用⑲、2022.03.25ツイート)
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『100年前のマンハッタンと、日本の日本橋 100年前に、こんなに凄い建築技術、なんですかね。 1日1食エンデゥさんのマッドフラッドでは、前文明の名残りではないか?と、推測されています。日本はまだしも、マンハッタンの高層ビル、凄すぎる。。』(引用⑬、2022.03.29ツイート) 画像は「NHKスペシャル映像の世紀 第3集 それはマンハッタンから始まった」より
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下は「東京・日本橋(大正9年=1920年頃)」 ということは、関東大震災の前だ。
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『アメリカ・シカゴ 1893年 近代的な電動工具がない時代に、どうしてこのような壮大な建造物ができたのだろうか。アメリカの初期の歴史の真実は、私たちが教えられている物語とは明らかに違っているのです。』(引用㊼、2022.04.19リツイート)
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『ずいぶん変わった形・・・浅草の凌雲閣も知らなかったけどこれも。』(引用㉕、2022.02.07ツイート)
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下の画像はジャパンアーカイブスより、『大阪(明治23年)前年に竣工の凌雲閣』俗に「北の九階)と呼ばれていたそうだ。
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以下wikiより『凌雲閣(りょううんかく)は、明治時代に大阪と東京にて建てられた眺望用の高層建築物。大阪の凌雲閣は1889年竣工の高さ39m・9階建て、東京の凌雲閣は1890年竣工の高さ52m・12階建て。どちらも現存しない。』下の画像もwikiより、浅草の凌雲閣。
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『浅草凌雲閣は設計開始が1889年10月、着工が翌年1月4日で竣工同年10月25日と超高速! レンガ造りで「世界の最先端」だった電動エレベーターも設置。』(引用㊻、2022.02.20リツイート)1890年当時とすれば、東京スカイツリーを建てるようなものだったと思うが、スカイツリーは工期だけでも3年半かかっている。10ヶ月という工期は、この規模の建物とすれば、現代の基準で考えても短いが・・・。それと上のwikiの写真と、周辺の景色も微妙に異なるが、写真を撮った時の年代の差だろうか。
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旧警視庁(赤い建物)と旧帝国劇場(白い建物)『どちらもとても立派な建築だ🤩。~ 明治の風景は味わい深く素敵だ』(引用㊽、2022.01.05リツイート)
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、『浅草寺の仲見世は、関東大震災の前までレンガ造りでした 左側の時計塔もとんがってるわ~』(引用⑲、2022.01.18リツイート)震災前らしいが、かなりの“洋風”で、今まで刷り込まれてきたイメージとなんだか違う・・・
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『明治時代の浅草だと思われます。並び立つ建物が洋風!』(引用㉑、2022.02.20ツイート)
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以下(引用㊽、2022.01.04ツイート)『これが明治~昭和初期の吉原遊郭かぁ~建物凄いなぁ━w』(下の2枚の写真は、引用(W)さんのブログからです。詳しくはそちらをご覧ください。)
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『明治辺りの吉原は面白いですね。』(引用㊻、2022.01.19リツイート)
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『街の引の画像はどっちが吉原かな?奥はもはや日本離れしてますな』(引用㊻、2022.01.19リツイート)
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『東京勧業博覧会!明治40年、1907年、その他。場所は上野。日本じゃないみたいな景色!』(引用⑲、2022.01.27リツイート)
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『1914年(大正3年)に上野恩賜公園で行われた「東京大正博覧会」は、750万人もの入場者があったそうです。東京都が主催したこの博覧会には、巨大噴水⛲、エスカレーター、ロープウェイ🚡、ライトアップ✨、そして、巨大な西洋建築物🏰が立ち並んでいたそうです。本当に税金で建てたの・・🤔?』(引用㊺、2022.02.28ツイート)以下の4枚の画像も(引用㊺;「まるげりーた」)さんの同ツイートよりコピーした。
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『関東大震災直後の、御茶ノ水の東京復活大聖堂(ニコライ堂)現在の外壁より石垣がさらに下にもあって、結構な高さだったんですね。』(引用㊺、2022.02.27ツイート)
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『関東大震災以前の絵葉書。この石垣は、江戸城とつなかっていたのかしら🤔』(引用㊺、2022.02.27ツイート)絵葉書には「御茶ノ水橋」と書いてあるが、周囲に洋風の建物が多いように見える。
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『銀座煉瓦街 明治6年』(引用⑲) 明治6年=1873年だが、なんだか外国みたいだ・・・。戦前の東京は、関東大震災やたびたび起きた大火の復興のあとに、洋風化されたと思い込まされてきたが、その先入観はどうやら間違いだったかもしれない・・・・
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『明治5年から10年に作られたとされる銀座煉瓦街。延べ約10㎞にも及ぶ壮大✨な煉瓦街でした。人がほとんどいない写真がいくつも残っているのは、当初不人気だったから・・と言われています そんな都市計画するかなぁ・・ にぎわう様子を伝えた錦絵は、プロパガンダとしか思えないですね。』(引用㊺、2022.04.10ツイート)
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下は『京都三条通り』(引用㉑、2022.02.12リツイート)やはり明治というイメージとは少々違う。
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『大阪シリーズ Osaka Station, Osaka 1900s』(引用㉑、2022.03.05ツイート)
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『Osaka City Hall in Nakanoshima』(引用㉑、2022.03.05ツイート)
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『Osaka, Japan. Year 1900.』(引用㉑、2022.03.05ツイート)大阪も想像以上に洋風化していた。
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『第五回内国勧業博覧会 英字新聞の記事 『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』1903年(明治36)🇯🇵大阪』(引用㊻、2022.04.11ツイート)
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『明治43年に名古屋の鶴舞公園で行われた【共進会】(産業の発展のため、各地の産物・製品を集め展覧品評する会) 夜もイルミネーション✨で飾られ、当時の名古屋市民の6倍以上の入場者が訪れたそうです。もう、どうみても、日本じゃない 素敵~』(引用㊺、2022.04.22ツイート)遠くの方に凱旋門も見える。
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下記資料の赤線部分には以下のように記されている。「臨時列車の乗車券のなかには、断片ながら「池上本門」「新橋大森」と判読できるものがあった。これは池上本門寺のお会式法要に際して発券された臨時列車の乗車券だろう。~ これらの乗車券は、表記形式や臨時列車の運行年代から一八八一年(明治十四)~八八年(明治二一)に使用された切符であることがわかった」(出典;「鉄道考古学事始新橋停車場 第5章モノが語る鉄道史P74~75」)
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『東京でも... 新橋停車場跡の発掘調査で1881年〜88年に使用された切符が300枚出土🤭。あれ?池上-蒲田間が開通したのは1922年だけど...一般には使えない線が昔からありましたね…』(引用㊸、2022.03.01リツイート)
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『明治初頭の博多山笠の山車ってすごい!日本らしくない装飾と巨人。。🤔』(引用㊺、2022.01.06ツイート)
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『右が明治3年10月に作られた横浜市中区周辺の地図。左が明治5年3月に作られたもの。わすが1年半で、田んぼを埋め立て、運河を整備し、橋をかけ、土地が埋まるほど家を建てたそうです😅』(引用㊺、2022.01.25ツイート)何気に見過ごしているが、歴史は不可解なことが多い。
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『戦前にできたという巨大リゾート。オタモイ遊園地。今は跡だけが残る。この建物、鳥取の投入堂より怖い 小樽出身のたぶんマンデラーであろう母親は、「オタモイ遊園地」聞いたことないとのこと。』(引用⑥、2021.03.29ツイート)スリル満点すぎて、落ち着いて居られなさそうだが・・・ 以下の5枚の写真及び引用文は「小樽オタモイ遊園地跡地を再開発調査❕」(引用(U))よりコピーさせていただいた。
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下の場所にありました。
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以下も(引用(U))より『オタモイ遊園地は1931年(昭和6年)、日本海に面した市内オタモイ海岸で建設が始まり、断崖絶壁に建つ高級料亭の龍宮(りゅうぐう)閣や演芸場、海水浴場などが集積する人気行楽地となった。(しかし)1952年(昭和27年)に龍宮閣が焼失。その後、事実上閉鎖された』という。(引用(U))。下は「武石英孝氏の作品((当時の)オタモイ竜宮閣)」。木造3階建ての龍宮閣1934年(昭和9年)に完成したという。
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『龍宮閣の焼失後、小樽市が1974年(昭和49年)に遊歩道を整備したが崩落が相次ぎ、2006年(平成18年)から市が《一部を立ち入り禁止❕❕》としている。』下は「オタモイ海岸と竜宮閣跡地」。
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下の画像は「消えた楽園 オタモイ遊園地」(北海道バンザイ)よりコピーさせていただいた。
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「オタモイ遊園地」跡地利用については、ニトリが事業化の検討を行っているそうだ。下は昔の絵です。
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まだまだ続々とあるが、話を現代に戻して、変わった形の建物を3つ。
『「ソーラーアーク。東海道新幹線近くの異様な巨大建造物…2002年に建設された太陽光発電の施設。全長315メートル、高さ37.1メートル。年間発電量53万キロワット時。表面に貼られた太陽光パネルは5046枚。21世紀に力強く船出する箱舟をイメージした」新幹線の近く?!全然知らないです…』(引用⑰、2021.12.15ツイート)新幹線の岐阜羽島を発車し、長良川を渡った直後に視界に飛び込んでくる、宇宙船のような巨大な黒い構造物。旧三洋電機岐阜事業所に建つ太陽光発電施設「ソーラーアーク」で、パナソニックになる前のサンヨーが大量に発生した不良パネルを回収して、二度と不良パネルを出さない強い意思を示すために、モニュメントとしてつくったものだそうです。サウンドバーが変形したみたいな建物だけど、知らなかっただけなんでしょう。
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https://i2.wp.com/mega-hatsu.com/column/wp-content/uploads/2017/09/39fcbefee84d040540f22f9f867ea861.jpg?w=412&ssl=1
『河津七滝ループ橋 1978年の伊豆大島近海地震の際に起こったがけ崩れをきっかけにして、このループ橋が作られたそうな』(引用㉕、2022.02.16ツイート)マグニチュード7というから相当な大地震だったようだ(他人事のようだが・・・)
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https://pbs.twimg.com/media/FLtkiwpaQAAxiiy?format=jpg&name=360x360
「天城越え」の国道414号線が通るループ橋で、二重のループで高低差45mをいっきに解消しているそうだ。『有名なループ橋。桜の季節は格別🌸』(引用㉟、2022.03.16リツイート)
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『変わった建物は増殖してますね……これも黒川紀章らしいです。』(引用⑰、2021.12.15ツイート)東京都・銀座8丁目に建つ、建築家・黒川紀章の代表作の一つ「中銀カプセルタワービル」(1972年竣工)が解体されるという。
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・最後はかなりローカルな話題だが、東京三鷹市にあるという、「三鷹天命反転住宅」。三鷹方面は長年仕事で通ったけれど、こんなカラフルな住宅あっただろうか。“日本編”をこれで終わりにする。
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 世界の遺跡の変化について、きりがなくなるので大幅にはしょり、代表例を二つだけ例を掲げておく。有名なエジプトのギザのピラミッドの前に、小さなピラミッドが3つ追加されて、さらに手前のスウィンクスの足の部分が異様に伸びた。写真から判断する限り、全体的にしょぼくなった印象だ。
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https://stat.ameba.jp/user_images/20200611/21/mosscual/b5/1f/j/o1000066714772729977.jpg?caw=800
『どうやらスフィンクスは目を閉じたようだ。』(引用㉑、2022.05.17リツイート)
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『ナスカの地上絵がさらに低レベル化してる 「未だに信じられないなぁ 2000年以上前に書かれて去年発見… 37m… 風化されてない感じ… そしてクオリティ」』(引用⑯、2021.12.30リツイート)確かに子供のいたずら書きみたいだ。
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https://pbs.twimg.com/media/FHrKMeRaQAEb383?format=jpg&name=small
続いて人体編に移る。

3.マンデラエフェクト人体(生物)進化編
 身近に起きたマンデラエフェクトの中で、もっとも手軽に体感できるのが、心臓の場所の変化(左胸→真ん中に“移動”)であることは既に記した。下の画像は(引用⑤、2020.03.05のツイート)からのコピーで、wikiからの引用のようだが、さすがに長かっただけに?かつて心臓が左胸にあった時代の痕跡は、まだあちらこちらに残されている。特にイラストとかアニメに、その残像が残りやすいようだ。
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https://pbs.twimg.com/media/ESWgLX6U8AAd2wh?format=jpg&name=900x900
『下記は21年3月放送の図ですが、本当の心臓の位置は真ん中です。NHKに文句を言って下さい。』(引用④、2022.02.01ツイート)左胸の心臓のイラストは探せばたくさん出てくるのだろうか?
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https://pbs.twimg.com/media/FKd7BulaQAAIaoF?format=png&name=small
 心臓が左胸にあった時代の痕跡は、自分もミュージックビデオ(MV)の中から見つけ出した。下の画像は「アラン・パーソンズ・プロジェクト(The Alan Parsons Project)」の、「ドント・アンサー・ミー(Don't Answer Me)」という曲のMVで、スペクターサウンド調の、オーソドックスだがなかなか良い曲で、暇なときにでもぜひ、お聴き(ご覧)いただきたいが、
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https://www.youtube.com/watch?v=JLvFbBR4XOg
下はその動画の一場面をキャプチャしたものだ。アニメのストーリー展開の中で男女のハートがときめく場面があったので、もしやと思い再度聴いて(見て)みたが、期待通りだった。下のように心臓は真ん中ではなく、左胸がドキドキしており、“改ざん”されていなかったのだ!
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 たいしたネタではないが、今回のマンデラエフェクトの記事の中で、これが唯一、自分独自に見つけたネタだ(といってもマンデラエフェクト自体ではなく、マンデラ前の痕跡だけど)!!(なので目立つように、この2枚だけ少し大きめに貼っておく。)
話を戻す。人体の構造について、まったく知識に乏しく、内容を理解できていないが、とりあえず引用した文章をペタペタと貼り付けておく。詳しくは元ネタの方を確認してください。
(引用(G))『人体に至っては無茶苦茶だ。眼窩の後ろは空洞のはずなのに骨がある。左にあったはずの心臓がど真ん中(中よりと言われてはいても真ん中ではなかった)。肺が3つに分かれ、大きくなっている。胃の下にあったはずの肝臓が上に来ている(肝臓が悪いと腰の後ろ側に重みがきていたはずだ)。腎臓は、もっと尿道に近い下の方にあったと思うが…。』
『肺が肺左右対称じゃないと聞いて調べたらほんとに変わってた どちらも上葉と下葉に分かれてて左右対称だったと思うけどね…』(引用⑳、2021.08.29ツイート)
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https://pbs.twimg.com/media/E97C9wgVUAkwHN4?format=jpg&name=small
(引用(H)-2)がよく纏められているので以下引用『ここまで変わっている所をまとめて見てみると、人体の構造がより強固になっている気がします。頭蓋骨は蝶形骨で強化されてますし、顎のあたりも若干変わっている感じがします。肋骨は固定され、肝臓は大きくなり、腎臓は肋骨近くまで上がっています。』胃袋は小さくなっているようだ。
 しかし体の構造の変化はまだ現在進行形のようだ。人体構造の変化を追いかけている(引用②)によると驚くことに、せっかく苦労して?真ん中に移動した心臓の位置が、また左胸に戻ろうとしている兆候すら窺えるのだという!「気になっているのが、最近、イラストの人体図で、心臓が左になっているものが増えているんですよね。少し前は、こんなにいっぱい出てこなかったのに… (※個人の感想です)これはもしかして… やっぱり心臓が正しい位置に戻る兆し⁉︎(※個人の想像です)」(引用②、10/24ツイート)
「人体図に、心臓が左になっているものが混ざり始めました。いよいよですね〜 心臓の位置の変化解剖学的な心臓 左⇨真ん中⇨左寄り⇨ 左‼︎」(引用②、12/7ツイート)
https://minkara.carview.co.jp/userid/2505097/blog/44874544/
『心臓がほぼ左の、解剖学のデータがちらほら出てきました 販売中のデータで、ここまで左寄りなのは初めて登場したかも。やっぱり合流したのかな⁉︎』(引用②、2022.04.03ツイート)
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https://pbs.twimg.com/media/FPXp1zPaIAAblUv?format=jpg&name=large
 我々の体は今現在も、日々変化(進化?)を遂げているようなのだ!いったい人類は、どこに向かって“進化”し続けているのか。これだけ内臓の“配置換え”を強行すればその過程で「たとえば肋骨の辺りが痛むのは肋間神経痛ではなくて。肋骨が増えていたからで。胸が苦しいのは心臓が悪いのではなくて。左側にあった心臓が中央に移動したから」(引用(M))だとの指摘もあることを追記しておく。

『<マンデラー8日目> 今さらなのかもしれないけど、人体のアップグレード「肝臓」。胃の上斜め右に配置され肥大化している。記憶の肝臓は、胃の下にあって一回り以上は小さい。』(引用㊷、2022.03.10リツイート)
『肝臓は胃の下でした こんなに大きくなかったです なんか二つに分かれてるし!』『肝臓が増々大きくなってます😃 酒飲みの人は良かったね🥰』(引用㊷、2022.03.10ツイート)人体図にまったく無知なので、そのまま情報を載せておきますが、現在も着々と進化し続けているようなので何よりです!
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https://www.tyojyu.or.jp/net/kenkou-tyoju/imgs/images_taberu-nouryoku.png
『肋骨の浮遊肋が5本あった骨格が、一部を残してほぼ消えているので、やっぱり大きな流れがあったんだと思います』(引用②、2022.04.03ツイート)

 以下、引用⑩(ちばさん〜マンデラ用〜))さんから、重要な情報提供がある。(『DNAも進化を始めている?』(2022.02.09ツイート) 以下の文と画像は、そこで紹介されていた(引用(ニ))より『「“三重らせん”構造のDNAを持つ子どもがいる?「超人類」への進化が始まった可能性!」 米・カリフォルニア州、シャスタ山にあるアヴァロン・ウェルネスセンターに所属するブレンダ・フォックス博士。とある情報筋によると、彼女はなんと“三重らせん”構造のDNAを持つ子どもたちを発見しているようだ。』
 現在の人類のDNAは、(引用(ニ))にあるように“二重らせん”構造であるが、元々の人間のDNAは、二重、三重どころか、”十二螺旋構造”であり、途中で劣化改変させられた結果だと、一部では言われている。いま行われている“人体構造のバージョンアップ”は、本来の人間の姿に戻るための修復過程であると、個人的には思うのだが、いかがであろうか。
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『ヒトに4重らせんDNAもあるんですねー』(引用⑩、2022.04.22ツイート)下の画像は、「健康なヒト細胞の中で「四重らせん構造のDNA」を初めて確認! 四本鎖DNAのはたらきとは?」(引用(ホ))より。どんどん進化しつつあるところなのか。
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https://pbs.twimg.com/card_img/1516233911730589698/AW21e6p3?format=jpg&name=small

 人の体がこれだけ変わるのであれば、動物の世界だって、同じく変化の真っ只中にある。
一番驚きなのが「ヘビは卵を産むと思ってたけど 今の世界ではヘビは子どもも産むらしい」(引用(N))今でも卵から産まれるヘビが多数派のようだが、中には胎内で赤ん坊を育て、出産するものもいて、世界のヘビの30%は赤ちゃんを出産し、子孫を残すのだという。(多少不気味ですが、(N)には動画もあります。興味のある方はどうぞ)人類に近づこうとしているのだろうか。
他にもカエルやカマキリ、ゴキブリが脱皮したり、さらにゴキブリは鳴くようになるなど!生態の変化が感じられる事例は多い。下の画像はかわいい話で『ニホンリスが毒キノコをいつも食べてる……!?!?!? 「しかしこのほど、長野県の山林において、ニホンリスが、毒キノコとして有名なベニテングタケやテングタケを日頃から常食していることが明らかになりました。」』(引用⑰、2022.01.09ツイート)
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下は(引用(B)-3)より『ティラノサウルスの骨格の追加マンエフェ』人間に胸骨が加わった影響が、恐竜の骨格の構造にも及んだのだろうか?
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続いて動物の形態の変化で目立ったところは、たとえばキリンは最近明らかに、首が短くなったようだ。(引用(H)-3、(B)-3他)下の画像も以前だったらもっと楽に、窓に届いたはずなのに。
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『キリンの首が短くなったマンエフェは、以前に記事にいたしましたが、足の長さにも違和感ありませんか?』(引用(B)-4)確かに首と足の長さのバランスが変わったみたいだ。『キリンの足が長くなったマンデラでこんな影響が(笑)』(引用㉞、2022.01.16リツイート)
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像の前足は長くなったようだ。
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マンデラエフェクトでよく引き合いに出される事例として、カイコの成虫がかわいらしくなった。
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 逆にアイアイは『私の記憶とは全く異なる~邪悪さを感じる』(引用(C))コウモリみたいな生き物に見た目が変わってしまった。

4.マンデラエフェクト 新生物出現編
 動植物の世界も、まったく詳しくないため、マンデラエフェクトの結果、新たに出現した生き物なのか、単に知らなかっただけでなのか、わからないものだらけだ。前の世界にも、珍しい生き物はたくさんいたように思う。
たとえば「ホッキョクウサギって、ご存知でしたでしょうか?」(引用(B)-5)
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・ピンク色のイルカ(引用(O)-1)
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・黄金の馬、アハルテケ。世界に3,500頭生息しているそうだ。『え。え……えええーーーっ?????黄金の、馬??!?!……本当に黄金なんだ、なんじゃこりゃーーーっ』(引用⑰、2022.01.11ツイート)
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 これらの生き物が果たして“初見”かどうか、自分には判別がつかない。ただ少なくとも、“黄金の馬”は自分の記憶になかったが、“アハルテケステークス”という競馬のレースも東京競馬場で毎年行われているようだし、競馬の聖地、東京競馬場に行くときに、京王線の府中競馬正門前駅、改札口を出たすぐの場所に“アハルテケ”の黄金の馬像があるくらいなので、競馬ファンには常識で、これは自分が知らなかっただけだった可能性も高い。
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 だが視点を別に移して、現在の世界線ではその昔、巨人(読売ジャイアンツではなく大きな体の人の意味)と共存しつつ暮らしていたことを、半ば肯定的に受け止めているように見受けられる点が、今までの世界と確実に違っている。
『高さ約24メートルの巨人の骨格が1938年にナポリで発見されました。 ナポリ考古学博物館のサラ・デッラ・メリディアナホールには、先史時代に住んでいた身長約24メートルの男性の骨が展示されていました。』(引用㉑、2021.12.21ツイッター)
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『ストックホルムのヴァーサ号博物館。タルタリアの巨人が展示されています。スケルトンはヨーロッパの土壌で発見された実際の巨人から収集されました。』(引用㉒ツイッター)
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『タルタリアのクリミア首長の宮殿内部の絵だそうです。ドアの高さがやっぱり高いですね😊』(引用㊺、2022.01.25ツイート)
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『絵画に描かれた巨人 フランチェスコ・グアルディは、イタリアの画家で、故郷を細部まで描き上げることを好んでいた 人物を執念で描き続けた。この絵と実際のドージェ宮殿の写真を見比べると、描かれたもののほとんどが巨人であるように見えるだろう 小さいのが私達😱』(引用㊽、2022.01.14リツイート)
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下の画像は(引用(Y);「メモ・独り言のブログ」)の記事「1900年代初頭に数千体の巨大人骨を破壊していた」よりコピー。以下の文も(引用(Y))より『米国最高裁判所の判決により、スミソニアン博物館は1900年代初頭の機密文書を公開することを余儀なくされました。この機密文書によると、スミソニアン博物館は、数万体の巨人の遺骨がアメリカ全土で発見され、当時主流であった人類の進化の年代を守るために高官が破壊を命じたという証拠の重大な歴史的隠蔽に関与していたことを証明しています。』この裁判の中で、スミソニアンの内部告発者が、身長6フィートから12フィートの人間の骨格が何万体も破壊されたことを証明するとされる文書の存在を認めたことで、新事実が明らかになったという。
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内容からするとむしろ次項の「歴史過去改変編」の方かもしれないが、今まで隠ぺいされてきたというよりも、世界線の移動の結果、表の世界に唐突に出てきた印象がある。この世界線では、かつて巨人族のいたことを、半ば容認しているみたいなのだ。
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5.マンデラエフェクト 歴史過去改変編
 まずは日本史編で、第二次世界大戦における日本の戦史で、有名なところを二つ掲げておく。
『風船でなくて?』(⑤、2019.08.24リツイート)
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アメリカ本土に対しての爆撃は「零式小型水偵」によるものだという。潜水艦に搭載できるメリットを活かして、空母艦載機ですら到達できなかったエリアまで遠征したそうだ。下はプラモデルのパッケージです。発動機は日立「天風」12型 空冷星型9気筒 340 ㏋という九三式中間練習機などに搭載されていた小型のもので、もとは瓦斯電(日野自動車の前身)が設計・製作した航空機用エンジンだ。(このブログ記事の「⑱ 日本の自動車産業の“育ての親”は日本陸軍だった?(戦前の日本自動車史;その3)」の、「≪備考12≫瓦斯電のシャドーファクトリー構想について」を参照してください。http://marupoobon.com/blog-entry-197.html)
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・以下(引用(サ)=ニューズウィークジャパン)より『2月15日にシンガポールを陥落させた旧日本軍は、連合国軍が退却したオーストラリア北部の軍事基地機能を破壊して補給路を断ち、反撃に出ないようにするため、その最大拠点となっていたダーウィンに最初の攻撃を仕掛けたとされる。』以後、100回以上の空襲を行ったという。この世界線では、オーストラリアが太平洋の陸の孤島みたいな世界線でなく、はるかにアジア方面にすり寄ってきたので、日本にとってもその分ハードルが低かったのだろうか。
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・戦艦大和も、初陣であえなく撃沈されたはずなのに、驚くことに何度も出撃している。さらに『レイテ沖海戦で大和と武蔵がコラボしてる』(引用(A)-2)
『さらに驚くのは、戦後日本にGHQ(米国)以外にイギリス連邦諸国連合軍なるものが進駐したとされていること。イギリス連邦占領軍が中国・四国を統治したという。日本が分割統治されたことは、前の地球ではなかった。「広島県呉市内を行進する英領インド陸軍の王立第5グルカ銃連隊(1946年)」なる写真まであった!・・・・あ・り・え・な・い・・・』(以上引用(G))下はその、アリエナイ写真をwikiより。
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・話題がまったく変わるが、「北海道胆振東部地震(ほっかいどういぶりとうぶじしん)」は、2018年(平成30年)9月6日3時7分に起こったMj6.7の地震、というから最近のことだ。確かに北海道でそのころ、それなりの規模の地震が起こった記憶もないわけではないが、そんなに大きい地震があったという記憶が薄い。下の画像はwikiより。
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『胆振東部地震と見ると何となく記憶にある気も… しかし熊本地震被災者である私がこんな大地震知っていたら、すごく色々感じると思うんだけどな… 未就園児と赤ちゃんの世話、産後ダイエット、副業の勉強と色々していた時期だったから… いや、だからこそ色々情報収集もしていた時期だった。』(引用㉝、2021.09.05ツイート)最大震度は震度7で、北海道では初めて観測されたという。
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https://pbs.twimg.com/media/E-fo35fUcAYyyU-?format=jpg&name=small
・続いて世界史編を。これも有名な事例で、『ケネディ大統領の暗殺、車に乗ってたのは4人だったのに今では6人に…』(引用(A)-3)射殺の時の角度も違うらしい。ちなみに自分も“4人派”だ。
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https://livedoor.blogimg.jp/katatematter-snnzonxb/imgs/a/c/ac89a932-s.jpg
・一方アポロの月面着陸が6回行った事になっている(実際には行っていないにせよ)のに、1回がやっとこだったはずだと記憶している人が多いが、ちなみに自分は“6回派”だ!
『飛行船の最悪の死亡事故は、1937年のヒンデンブルク号事故(36名死亡)ではなく、1933年のアクロン号の事故(73名死亡)』(引用(B)-6)下の写真は有名なヒンデンブルグ号の爆発した瞬間をとらえた写真だが、アクロン号の方は爆発ではなく『ニューイングランド沖合にて突風に巻き込まれて墜落』(wiki)したのだという。
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http://blog-imgs-66.fc2.com/k/h/1/kh16549/388b3680.jpg
・そして最近になり、タルタリア帝国( (Tartary) タータリーとも読むようです)という、19世紀初頭まで存在し、今まで歴史上隠されてきたという、大帝国の情報がいきなり、表に出てきた。歴史の中でも陰謀論系の歴史だけには、それなりに強いと自負する自分も、こんな話は一切聞いたことがなかった。
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https://livedoor.blogimg.jp/kaikaku33/imgs/0/4/048fada3-s.jpg
しかも驚くべきことに、巨人族と共存し(4項参照)、フリーエネルギーのような技術を使っていたという。世界線の移動の結果、まるで異世界から突如現れたようなこの歴史を、我々はどのように解釈すべきなのか、非常に悩ましい話だ。
「タータリー(Tartary)-歴史に隠された帝国。 かつてロシアより大きかった」(引用(P))下の勢力図をみれば、いかに大帝国であることがわかる。
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https://pbs.twimg.com/media/EvuCZ84U8AQAimm?format=jpg&name=smal
※タルタリア帝国については「自然派ハニワのブログ」の中の「マッドフラッド と タルタリア帝国 について (簡易版)」(引用(V))の解説がわかりやすい。(『これマッドフラッドとタータリーの話がイイ感じにまとまってる。ハプスブルク家とロシア王朝の類似性なんて話も。歴史が変わったみたいだな』(引用⑯、2021.12.29ツイート))
以下も(引用(V))『星形要塞と呼ばれるものが世界中にあり、日本の五稜郭も同一形状をしています。これは世界広くに統一国家があったのではないかと、推察されます。』
下は『北海道の五稜郭』
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https://i2.wp.com/natural-haniwa.com/wp-content/uploads/2021/12/img_9984.jpg?w=727&ssl=1
『オランダのブールタング要塞』
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https://i2.wp.com/natural-haniwa.com/wp-content/uploads/2021/12/img_9985.jpg?w=400&ssl=1
『デンマークのカステレット要塞。北海道の五稜郭と、オランダのブールタング要塞と、デンマークのカステレット要塞など、類似形状となっています。』タルタリア帝国の痕跡だと言われている。
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https://i2.wp.com/natural-haniwa.com/wp-content/uploads/2021/12/img_9986.jpg?w=736&ssl=1
『江戸東京博物館にタルタリアの表記のある地図が展示されています。4月末に改装で5年間閉鎖されるそうです。皆さん本物の古地図を見ておきましょう!』(引用㊼、2022.02.18ツイート)5年とはあまりにも長いが、なにか事情があるのだろうか。
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https://twitter.com/jiroramo1192/status/1494515245632552965/photo/2
 まだまだたくさん事例はあるものの、だんだんとメンド-になってきたので以下省略で、先に進む!

6.マンデラエフェクト デザイン変更、その他雑多編
マンデラエフェクトが実際に起きていることを、一般の方々にどのように伝えたら理解してもらえるのか、私見を言えば、たとえば東京の「大田区」がかつて「太田区」だったとか、漢字の変化とか、珍しい動植物とか、芸能人のあの人は死んだはずだとか、あまり身近で細かい?事例を説明しても、単なる記憶違いだ!目の錯覚だ!陰謀論者!!などと、今までの常識を重んじる人たちに、突っこみどころを与えるだけだと思う。確かに、人の記憶があいまいなことも事実だし。
 それよりも最初から「心臓の位置」「オーストラリアの位置」「九州の地形の変形」「京都に海がなかった」「琵琶湖の位置と島」「富士山の位置と東京から大きく見えるようになった」「巨大観音像の出現」など、議論の余地のない大きな事象を取り上げつつ説得?を試みる方が効果的だと思う。などと、これからの細かいマンデラ事象紹介をしていくのだが、その手抜きの言い訳を?しつつ、あまりにもたくさんの事例があるので、深く考えずに列記していく。まずは企業のロゴについて。
・フォルクスワーゲンのロゴ。(引用(H)-4)
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『下の画像は映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985)の一場面です。車のロゴに注目。V と W がくっついているのが分かります。』(引用(O)-2)
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https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/userstorage/000/042/388/808/05c64222a8.jpg?ct=bd7ebc398d9e
(引用⑤、2020.03.31ツイート)によると、ワーゲン公式が出しているCMにマンデラ変化してないロゴが写っているという。
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https://pbs.twimg.com/media/EUZ3DWlU8AA7-UL?format=jpg&name=900x900
VWのロゴは公式には、今までVとWが繋がったことがないという(引用(H)-4)。
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https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/userstorage/000/057/158/394/200b02f130.jpg?ct=c466564f7dbb
・下はボルボ。(引用(H)-4)自分も自動車にはそれなりに詳しい方だが、VWもボルボも、どちらだったか忘れた・・・。
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https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/userstorage/000/057/158/410/0ea602edcd.jpg?ct=d5be54fe9942
・下は我がホンダ。『ホンダのロゴの横棒ですが、棒一つ分くらい下がってませんか??』(引用(H)-5)確かに言われてみれば・・・。ただVWのように過去からその変遷を見ないと、つっこまれるかも。
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https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/userstorage/000/059/665/300/94650f45e1.jpg?ct=c5d7ff979494
『先程見たホンダ車 以前マンデラーさんが 「H真ん中横棒が下がった」ツイートがありましたが 「H横棒もう1段下がり H上側が開き 外枠が横長に変化」 ホンダウイングも「羽が上に上がり 羽芯にスリット追加」 ホンダスペル 「O」が横長太く変化 世界線により 違いもある様です』(引用㊶、2021.10.22ツイート)
・クルマつながりでさらに『この車ライトが切れ長に長くなったからびっくりした。前からだったのかい』(引用⑳、2021.08.11ツイート)これも確かに。初代日産リーフのヘッドライトが上方向に長く伸びた?国産車の変化はわかりやすい。
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https://pbs.twimg.com/media/E8gVVLAVoAECVY5?format=jpg&name=small
しかし、マンデラは続く『こんにちは 先程見たAE86レビンと トヨタカローラディーラー ずっと『C(A)ROLLA』 の記憶でした とても気になります』(引用㊶、2022.04.25ツイート)どっちだっただろうか?正直自信がないけれど、でもコロナが「Corona」で、当時のトヨタ自販が日本人向けにそんなややこしいことをするとは思えないので、カローラはやっぱり「Carolla」だったような・・・
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https://pbs.twimg.com/media/FRKVF5qakAAbXVg?format=jpg&name=large
・話題を変えて以下(引用(B)-7)『(※イギリス研究家の方のツイート)恥を忍んで告白したい。イギリスを研究してかれこれ20年以上になるが、今日初めて英国旗が左右対称でないことに気がついた。』
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https://pbs.twimg.com/media/FARsv1ZVgAQqHkX?format=png&name=240x240
『ダズル迷彩(艦船の船体外装に全面的・全体的に施される、塗装による迷彩の一種。特に第一次世界大戦中に多くみられた)って、ご存知でしたでしょうか?』((引用(B)-7)知りませんでした。
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https://qph.fs.quoracdn.net/main-qimg-0b693339e38dda1b4338e8e12bf90252-pjlq
 技術ネタになったので、話のついでに、機能変更系のマンデラを。航空機用エンジンの位置について以下、少し長いが(引用(G))より 『まず、一目衝撃で二度見したのが、旅客機のエンジン。両翼の前に大砲のように突き出ている! 何これ?! アグレッシブ!
信じられず、思わず検索をかけた。出てくる画像がすべて大砲のごとく前に突き出ている!翼の下にエンジンがある写真が一切出てこない…あ・り・え・な・い・・・
何かの改良で、最近の飛行機がこうなったというならともかく、翼の下にエンジンがあった時代さえもないというのか?!私は結構飛行機にも乗っている。 そして、富士山や地形、雲を見るのが好きで、いつも窓際の席を取って外を眺めている。翼のすぐ前の席に座ることも多かった。だからエンジンも見ている―そう、少し飛び出してはいるけれど翼の下だ。こんなにドカンとこれ見よがしに「翼の前」に突き出ているエンジンなど覚えがない。(←これだと翼のすぐ前に座った時に、”景色じゃなくエンジン見てよ”って感じなんだろうなぁ…)
すぐに飛行機から撮った何枚かの写真を引っ張り出してみた。あれ?…エンジン上部についているアームがヌッと伸びている。すごい違和感…なのだが、写真は紛れもなく当時の物。これまたポッカーン。これが私のマンフェ体験の始まりでした。』
下はボーイング777。
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https://samchui.com/wp-content/uploads/2019/10/Qatar-Boeing-777X-e1571493171691.jpg
下の写真は『ユナイテッド、ボーイング777の運航一部停止 エンジン故障で』(ニューズウィーク日本版オフィシャルサイトより)間違いなく翼より前に、大きく突き出ている。
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以下(引用④、2021.10.23ツイート)『飛行機のエンジンはこの世界では前方についていますが、旧世界では図のように羽の下でした。飛行機免許を持つ親戚が言うには、前方の方が乱気流が入らなくてよいらしいです。』自分も最初に見たとき、強く違和感を案じた。しかし人間は見慣れてくると、だんだんと不自然さが消えてしまうのも事実だ。下の本のイラストにはマンデラ前の痕跡が残っている。
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https://pbs.twimg.com/media/FCYOKgLVEAUQ7vf?format=png&name=small
試しに過去にさかのぼって確認してみると、最初期のジェット戦闘機、メッサーシュミット me262も、ジェットエンジンの搭載位置が旧世界の時よりも、どことなく前に突き出ている気がするが、気のせいだろうか。もしそうだとすると、ジェット機開発の初期段階から、過去の世界線よりも前寄りに搭載するスタンスだったのだろうか!?不明だ。
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https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcSEynt07rLF9bEK0dAR2L2eJ1IMY0mfMHoM2Q&usqp=CAU
国産第一号機の橘花もいつの間にかエンジン前進しているような気がするのだが・・・
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https://pbs.twimg.com/media/FLIlp2GagAEq_tL?format=jpg&name=360x360

以下はマンデラ前の「旧世界」⇒マンデラ後の「新世界」の順です。
・南アフリカの首都が「ヨハネスブルグ」⇒「首都機能をプレトリア(行政府)、ケープタウン(立法府)、ブルームフォンテーン(司法府)(の3つ)に分散させている。(wiki)下の写真はヨハネスブルクにあるという「ネルソン マンデラ橋」。そういえば、南アフリカ出身でしたね!
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https://mediaim.expedia.com/destination/1/59168387e386873f1df545bc184a2b59.jpg?impolicy=fcrop&w=536&h=384&q=high
・日本の国鳥は「トキ」⇒「キジ」
・日本の国技は「相撲」⇒「法令や政令で国技を定めていない」
・「はっけよい のこった のこった」⇒「はっけよい のこったのか のこったのか」
・『日本の国石が翡翠(ひすい)翡翠?水晶?国石の設定はあったのか?』(㉓、2021.11.08ツイート)知らないことが多い。
・スターウォーズのC3POは全身が金色だったのが、片足の膝から下がだけ銀色になった。さらに口が長方形になった。
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https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51yIFCxncpL._SR600%2C315_PIWhiteStrip%2CBottomLeft%2C0
・ピカチュウのしっぽの先端が「黒い」⇒「黒くない」
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https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/userstorage/000/057/158/106/de7e513547.jpg?ct=2a84f7d855c9
・「ビッグカメラ(Big Camera)」⇒(ビックカメラ(Bic Camera))
・「アロンアルファ(Aron Alpha)」⇒「アロンアルフア」
・「グリコ カプリコーン」⇒「グリコ カプリコ」
・「ロゼッタ 洗顔パスタ」⇒「ロゼット 洗顔パスタ」
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『風月堂→凮月堂に変化』(引用㊵、2022.12.12ツイート)
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https://pbs.twimg.com/media/FLUytukVkAQjS2T?format=jpg&name=small
『キヤノン「オンキヨーが逝ってしまったな」 キユーピー「ヤツはャュョが拗音でない企業名四天王最弱」 シヤチハタ「そんな四天王があったのか」』 (「まなめ」さんhttps://twitter.com/maname 2022.05.13ツイート)頑張ってほしいですが、富士フイルム、文化シヤッター、東洋シヤッター、三和シヤッター・・・、昔からそうでしたっけ?(自分が無知だっただけ?)
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『お疲れ様です マンデラ休憩です 「びっくりドンキー」日曜に突然現れた 「びっくりマークの看板」 ロゴも変化してます』(引用㊶、2020.09.16ツイート)
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https://pbs.twimg.com/media/FDVCxJyagAAt7vu?format=jpg&name=small
人名でたとえば、
・「東條英機」⇒「東条英機」
・「梅図かずお」⇒「楳図かずお」
・「小椋桂」⇒「小椋佳」
・Led Zeppelinのギタリスト「Jimmy Paige」⇒「Jimmy Page」(引用㊳、2021.11.30ツイート)
・ご存命の著名人を、ずいぶん前に亡くなったと記憶している人も多いようだ。たとえば順不同で火野正平、志茂田景樹、柳生博、大江健三郎、畑正憲(ムツゴロウ)、大山のぶ代、渡邉恒雄、山藤章二、渡辺貞夫各氏など。自分が重要だと思うことは、中曽根康弘元首相が、複数回お亡くなりになった気がしてならないことなのだが、記憶違いだろうか。
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・芸能ネタでは『旧世界ではドリカムの吉田美和はキーボードの西川と結婚しました。その後西川は覚せい剤で捕まりました。当時は彼女はしょうもないヒモと結婚したなと思っていました。しかしこの世界では西川と結婚していません。』(引用④、2021.11.12ツイート)
『皆様 こんばんは🏙 『愛しさと切なさと心強さと』ではなかったですか』(引用㊶、2022.03.21ツイート) (「恋しさと せつなさと 心強さと」?? 歌:篠原涼子 作詞/作編曲:小室哲哉』)
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・地名で
・茨城県「いばらぎけん」の読み方が⇒「いばらきけん」
・出雲大社「いずもたいしゃ」の“正式”な読み方⇒「いずもおおやしろ」(「たいしゃ」は通称とのこと。下はマンデラ前の痕跡。『案内標識は、マンデラ修正が追いついてなかったですよー(笑)」/』(引用⑦、2021.10.19ツイート)
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・厳島神社のある島の正式名称が、「宮島」⇒「厳島」(「宮島」は同じく“通称”に格下げ)『厳島神社… 上がガッシリした気がするけど気のせいでしょう』(引用㉝、2021.07.29ツイート)
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 ついでといっては何だが?厳島神社自体のマンデラもこの場を借りて、記しておく。
『広島県民として(?)、教えていただいたもの含め、厳島神社マンデラを、まとめておきます ①鳥居の形が変化 ②陸続き→島へ変化 ③島の名前が宮島→厳島へ変化 ④ロープウェイ出現 ⑤鹿出現 ⑥不動明王とか色々出現(詳細不明だけど、こんな色々あったかな~)』(引用⑦、2021.09.26ツイート)
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『宮島 弥山からの景色。島がたくさん。私がみたときは小さい島がポツンとあるだけ。』(引用⑥、2021.12.13ツイート)
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https://pbs.twimg.com/media/FGeo17fVkAEbjkf?format=jpg&name=medium
・与論島「よろんとう」⇒「よろんじま」。下もマンデラ前の痕跡。『よろん「とう」と書いています。』(引用④、2021.11.14ツイート)『宮島 弥山からの景色。島がたくさん。私がみたときは小さい島がポツンとあるだけ。』(引用⑥、2021.12.13ツイート)
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・甲賀市「こうがし」⇒「こうかし」。甲賀忍者も「こうかにんじゃ」になっている。伊賀忍者もいずれ「いかにんじゃ」と読むのだろうか。
下の写真はその「こうかにんじゃ」だ!『2月22日は『忍者の日』!滋賀・甲賀市役所で職員が忍者姿に「迅速に仕事できれば」🤭』(引用㉛、2022.02.22ツイート)
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海外で、「ポセイドン」⇒「ポセイドーン」、「ロードス島」⇒「ロドス島」(引用㉜、2022.05.17ツイート他)

以下、さらに雑多な話題です。
・「輝け! 日本レコード大賞」⇒「輝く!日本レコード大賞」
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・JR東海のキャンペーン「そうだ 京都へ 行こう」⇒「そうだ 京都、行こう」
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『「いつやるの?今でしょ!」の記憶です』(引用㊶、2022.05.18ツイート)
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・『ラジオ体操第三』がある。
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・童謡で「メリーさんの羊」の歌詞
「メリーさんの羊~羊~羊♪」⇒「メリーさんの羊~メェメェ~羊♪」
・デフリンピック『?初耳です。歴史も古いようです。』(引用③、2021.12.27)
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https://pbs.twimg.com/media/FHkEmxBacAAGEdP?format=jpg&name=medium
『うわわわ、また、でたーーーっ 全っっっっっく記憶にございません………』(引用⑰、2022.01.02リツイート)スノードーナッツという、自然現象らしい。
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https://pbs.twimg.com/media/FH9g1NSacAAQXND?format=jpg&name=small

 この項の最後に、有名な美術作品等に現れた変化について、記しておく。
・まずは「葛飾北斎の冨嶽三十六景、神奈川沖浪裏」について、『この絵なんですが波しぶきの部分が凄く雑に見えるのです。記憶の中だともっと躍動感あったように感じます。そして船が3隻あるのも違和感があります(笑)』(引用(H)-4)
『アート関係やっぱひどくなってる感』(引用⑤、2019.09.8ツイート)下の北斎の画を見れば、かつての迫力に欠けることは一目瞭然だが、世界線の移動以降、これ以外の作品も、全般に緊張感が足りず、素人目にも芸術性が“劣化”したものが目立つ。(下の画像はwikiより)
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・下は歌川国芳が描いた、“がしゃどくろ”の作品だが、これについても(引用(H)-4)より『正直に言いますと人体構造自体に私はマンデラエフェクトが起きていますのでがしゃどくろにおどろおどろしい感じが皆無になっています。』骨の骨格が安全サイドに振れたことが、芸術性の観点からは悪影響を与えたのだろうか。
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『確かにモナリザの顔はこんなににっこり微笑んでいる感じではなかった。どちらかといえばクールな冷たい感じの顔だった』(引用(A)-2)確かに柔和でおだやかな顔つきになった。
『モナリザはベールを被っている。今日美術が詳しい人に実物ではベールを被ってたという話を熱く語られて、確認したら本当に被ってた!モナリザがベール被ってたの知ってましたか?』(引用㉜、2022.02.09ツイート)
『レオナルド・ダ・ヴィンチ モナ・リザ 1年前に髪の毛を覆うベールが現れてパーマがかかったような髪に変化🦱 今年は服が変わっている 全体的に背景も服も美しくなったので嬉しい もう昔の記憶とは別のモナリザ』(引用㉜、2022.02.09リツイート)
https://twitter.com/kenaz_hikaru/status/1256368093590249472
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・同じダ・ヴィンチの「最後の晩餐」について、以下(引用(H)-4)『私の記憶だとイエスの左手側に聖杯があったはず。そして扉の切り抜きなど無くイエスの足が見えていました。ちなみにこの世界では矢印の所に聖杯らしきものがあります。』
以下も(引用(G))より『―なぜイエスの所から聖杯がなくなったのか? その聖杯にはイエスの血が入っていて弟子たちに回し飲みさせ、 それが教会の聖餐の儀式の起源となったそうだ。なるほど…。なくなったことで「血を飲む」ことの正当化ができなくなったわけだ。悪しき風習をその起源から断ち切り、その風習を行っている者は反キリストとみなせるようにしたのかも。
また、以前はキリストの足首から下が見えていたが、以前見えていたものをわざわざ隠すと逆に注目させるよね。「血」「足首から下」に注意ということなんだろうね。』

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https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/userstorage/000/057/159/151/63519387b3.jpg?ct=1fe9d0deb9d8
・ダ・ヴィンチの作品でもう1枚、有名な人体図に対しても『記憶の中ではあと腕が2本、足が2本あったはず。そしてもっと顔がローマ人みたいなイメージでイケメンでした。』(引用(H)-4) 
マンデラ界隈ではレオナルド・ダ・ヴィンチが描いた絵画が、大きくクローズアップされているが、今後ダ・ヴィンチの数々の功績の、その他の分野においても、“修正”が行われるのだろうか。
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・これで終わりかと思ったら、ダ・ヴィンチでさらにもう1枚、『男性版モナリザとかあったんですか?』(引用⑩、2022.01.18ツイート)『巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた幻のキリスト画「サルバトール・ムンディ」(救世主)が11月15日、アメリカ・ニューヨークの競売で、4億5031万2500ドル(約508億円)で落札された。競売会社クリスティーズは「美術品のオークションで落札された史上最高額となった」と発表した。「サルバトール・ムンディ」はイエス・キリストの肖像画で、1500年ごろの作品とみられている。青いローブを身にまとったキリストが右手で天を指さし、左手に水晶玉を持っている構図で、モナリザの男性版と呼ばれることもある。』(引用(ソ))それにしてもすごい落札金額だ。
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https://img.huffingtonpost.com/asset/5c63183c230000ed0221dabd.jpeg?ops=scalefit_630_noupscale
・ボッティチェルリ作の「ヴィーナス誕生」について、(引用(Q))より『中でも衝撃的だったのは、ルネッサンス絵画「ヴィーナス誕生」と、オーストラリアの位置だ。学生時代は美術館に行くのが趣味だったし、現地イタリアのウフィツィ美術館でも見たことがあるため、1枚貝の絵を見て唖然としてしまった。』前の世界線では2枚貝の絵だった。さらに詳しい情報は、(引用(B)-9)を参照してください。
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http://maneffe.info/archives/7595298.html
『「ベートーヴェンの肖像」は、羽ペンだった。今の鉛筆(?)を見ると、以前はいかにも神がかっている印象を与えていたんだねーって思うが、次は、もっと実在に近い肖像画になるのかも。』(引用(G))頬もピンクで若返った印象だ。
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https://mijikanazatugaku.up.seesaa.net/image/beethoven3_2.jpg
『ピカソの有名な絵これになってるけど一回も見たことない。もっと違う横顔の絵が有名だった』(引用⑳、2021.05.14ツイート)
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https://pbs.twimg.com/media/E1SLfirVUAEYQUT?format=jpg&name=small
『有名な絵画、ムンクの叫びは4部作だったようです。勉強不足でした······そうでしたっけ?』(引用㉔、2020.10.18ツイート)
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https://pbs.twimg.com/media/EkitbfpVoAIA3XJ?format=jpg&name=small
以下は絵画以外で、目立った変化を遂げた美術品について
・(引用(G))より『遺跡等でビックリしたのが、ツタンカーメンの黄金マスク。コブラの横にコンドルがくっついている! 何これ?! カッコ悪い!(どういう意味か知らずに、ただ比較だけで書いていますのでご容赦を)こんな太古から変わっているとすると、確実に別の地球に今居る。(後日さらに驚いたのは、コンドルが蛇になっていたということ→世界線が、真実を暴露する方に変わり続けているのかな)』(H)-4)によれば『ピアスの穴?!!』もあるらしい。
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『「自由の女神像」は左手上げだった。それが右腕を上げている。』(引用(G))
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現地のアメリカ人たちによると、どうやら設置場所も移動したらしい。(引用㉘-2)を参考に。『あらーグーグルマップに投稿された写真、エリス島とリバティ島両方に自由の女神像が写っちゃってる』(引用⑤、2019.09.01ツイート)
『自由の女神、左足首に尖ったモノが付いて鎖が繋がっていたはずなのに、この世界線では違ってるんだ〜 少し前に「自由の女神って言うのに、足が鎖で繋がれてるんだよね〜」と話してた人の会話を覚えているし、確かにそうだったはず自由の女神
鎖が外れるなんて、メッセージ性があり過ぎる』
(引用②、2021.07.29ツイート)
『自由の女神って、今ココでは緑色なんですね。これってドラマ「フリンジ」と同じですよ。ドラマでは並行世界が描かれてて、主人公が行ったり来たりする。象徴的なのは片方が自由の女神が緑、もう片方の世界は白。私も白の世界にいた。このドラマ教えてくれた友達に感謝です。』(引用⑪、2022.02.02ツイート)確かに自分も、白だった記憶が・・・
『ぽぽろんさんの自由の女神のツイートを見て、改めて見て来たらまた変わってる自由の女神 久しぶりにがっつりマンデラを体験…
前回ツイートしてますがその時は足かせが外れた所がハッキリ見えたのに、今は布が被さってるし、鎖の切れ方も前と違ってる わたしの場合自由の女神2回マンデラしてます。』
(引用②、2022.02.02ツイート)
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https://pbs.twimg.com/media/FKk_-SoagAERCt8?format=jpg&name=small
『像と言えば、北大時代に行った羊ケ丘のクラーク像。なんと、人差し指を指して…いない!当時は、遥か遠くを指さしている姿が「少年よ、大志を抱け」の言葉にピッタリだと思っていた。が、とあるブログに『なにこの、すがりつくような手』とありましたが、まさしく・・・。』(引用(G))
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https://www.hitsujigaoka.jp/wp-content/uploads/2018/03/sp_mainv_img_01-3.jpg
『額にいってたロダンの考える人の手がアゴに戻って、今度はベレー帽かぶってるって何それ?!』(引用⑩、2022.01.22ツイート)『わたしの元々の世界では、考える人はおでこに手を当ててました こちらちばさんツィートでは顎に手→おでこに手→顎に手に変化ですね そしてベレー帽!!本当にwikiの写真も変化してるし!!』(引用⑪、2022.01.23ツイート)
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https://pbs.twimg.com/media/FJqZOnuVUAIPwF7?format=jpg&name=small
『素朴に想うのですが 現在は肩から手提げですが 二宮金次郎が担いていたのは 「薪」ではなかったですか? 小学校にあった像は『薪を担いだ二宮金次郎像』でした』『薪でしたね。二宮金次郎像もアップデートするのか』(引用⑯、2022.02.04リツイート)
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自分にも、二宮金次郎=重たそうな薪を担いでいたという記憶がある。
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Wikiの「二宮尊徳・金治郎像」の項を確認すると、『各地の小学校などに多く建てられた、薪を背負いながら本を読んで歩く姿(「負薪読書図」と呼ばれる)に関する記述は、明治14年(1881年)発行の『報徳記』が初出である。~ただし先述のように『報徳記』の尊徳幼少期の記述は信憑性が薄く、このような姿で実際に歩いていたという事実があったかは疑問が残る。~ 像のように薪を背負ったまま本を読んで歩いたという事実が確認できないことと、児童が像の真似をして本を読みながら道路を歩くと交通安全上問題があることから、1970年代以降、徐々に撤去され、像の数は減少傾向にある』とあり、マンデラというよりも、社会情勢の変化に応じた新バージョンが出てきたということなのだろうか。不明だ。下は同じくwikiより、薪を背負いながら本を読んで歩く「報徳二宮神社内の二宮金治郎像」
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「これは桃山時代になぜか写実的な西洋画技法で描かれた法華宗の坊さん」『えっ! 』(引用㉕、2022.01.23リツイート)この絵は見た記憶がある。だがあいまいだ。
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『会津若松の若松城に伝来した屏風【泰西王侯騎馬図】 画面左から神聖ローマ皇帝、トルコ皇帝、モスクワ大公、そして《タタール王》が、日本で描かれたそうです。(神戸市立博物館蔵)この絵が1600年に描けて、どうしてそのあとの時代の絵がああなっちゃうの?』(引用㊺、2022.03.25ツイート)
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https://pbs.twimg.com/media/FOpsciPUcBIG0M2?format=jpg&name=900x900
『桃山時代の絵画が、マドフラ的に面白すぎる 「洋人奏楽図屏風」油絵として描かれた2対の屏風の片方。建物は詳細まで細かく描写されているのに、羊のサイズが小さいのは、日本人が羊を見たことがなかったからだそうです😂 羊が小さいのは、人が大きいから』(引用㊺、2022.03.29ツイート)
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『桃山時代(16世紀!)に洋画教育を施された日本人によって描かれた絵画(屏風絵)とのこと…衝撃です…』(引用㊸、2022.03.30ツイート)下は部分拡大したもの。
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https://pbs.twimg.com/media/FPBQRz7VsAEXLJt?format=jpg&name=medium

7.マンデラエフェクト 文字変更(漢字、つづり)編
 さてようやく、事例の最後の項まできた。まずは漢字の字体について、以下(どこが引用したのか、わからなくなってしまった!引用元の方、すみません。)
・「外」の5画目が左に突き抜けている。
・「火」の1画目が外向き。
・「身」の6画目が右に出ていまい。
・「俱」の横線の数。
・「謎」の「辻」の2点しんにょう。
・「勉」の右側が“力”ではなく“ム”。
・「儲」の者に点。
・「達」の右側は「幸」だった。
・「準備」の、ビは「用」にノがくっついていた。
・「鯖」は、魚に青だった。
・「非」の4画目が右に突き抜けている。

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以下(引用(G))『あと、書体によって違う字になるものがある。例えば「日」のゴシックは左縦線が右より長くて違和感あるし、「牙」や「非」の字はゴシックと楷書ではもう違う字でしょう。書体の変化の範疇を超えているよね。しかも、「牙」はゴシックがおかしいし、「非」は楷書がおかしい。もうゴチャゴチャ。』“書体によって異なる字になる”というのもなんだか不思議な話だ。たとえば「辻」、「券」という漢字は、書体によって以下のように大きく変化する。以下(引用(H)-6)より
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多の異体字、夛
「幽霊文字」と呼ばれるものまである。
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マンデラとはまったく無関係の余談だが、游明朝体は『藤沢周平の小説を組むために作られた』(引用㉜、2022.02.06リツイート)のだそうだ。知らなかった。
話を戻し、熟語も、「廃墟」「完璧」とか違和感があるし、「六甲颪(六甲おろし)」とか難しい。読み方も『間髪(をいれず)』の読みが、『かんはつ』が正しいなど、?はたくさんある。
横文字の世界では、たとえば「" Yesterday "」(旧)⇒「" Yesterday "」(新) の綴りの違和感
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https://stat.ameba.jp/user_images/20210731/20/etoutarou/32/64/j/o0225022514980322344.jpg?caw=800
など、いろいろとあるが、興味のある方はマンデラエフェクトの情報まとめのブログとして、もっともポピュラーな「マンデラエフェクト情報局」(引用(B))等を、ぜひご覧ください。
 下は番外編として、『こっそり変えずにこんな風にやっていただけないもんですかね…』(引用⑩、2022.02.01ツイート)マンデラではなく、“表玄関”からの変化のようです。
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『最近の教科書には、【士農工商】は載っていないそうです これ以外にも、天皇・公家・町人・えた・ひにんなど様々な身分があったからとか・・ そんなの分かってたわぃ!』(引用㊺、2022.03.31ツイート)
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これもマンデラというわけではないが、明治の半ば過ぎまで新潟県の方が東京府よりも人口が多かった。
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8.天体も不安定な状態
 マンデラエフェクトの事例として最後に、空(天体)の変化についても触れておかねばならない。人体から地球に至るまで、あらゆるものが大きく変化しているように、地球を取り巻く宇宙全体も同様に激動期に突入しているようだ。
 多くの人が感じているように、最近明らかに空が低く感じられることと、月や太陽の軌道が外れて、あり得ない場所に出ていたりといった、説明がつき難い光景が繰り広げられているという情報がある。
 以下は個人的な印象だが、われわれが認識している「時間」は、月の周期、地球の自転、地球が太陽のまわりをめぐる公転によって、大きく規定されているのだから、その基準となる月や太陽が不安定な状態にあるとすれば、「時間」という概念そのものも、今は不安定な状態に陥っているのだと思う。そしてこの、時間という境界線の不安定さが、地球全体が大きな転換期にさしかかったことを、強く予感させているのだと思う。
 しかしこの記事では、天体の異変についての解釈は、いずれどこかの頭の良い人が、その謎をきっと解明してくれるものと信じ、それまで待つことにして(他人任せ!)、最近の低い雲の写真等、事実だけを、記録として貼り付けておく。それにしても最近の空や雲は、美しいですね。

『「雲が低いと書いていた人がいたけれど、霧になって地上まで降りてきている。こんな事は長年なかった。」 雲、、地上に降りてきてる!?とうとう…』(引用⑬、2022.01.09リツイート)
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『早朝、外に出ると。。。綺麗な境界線。何雲って言うのだろう?香川県から見るとこうです。
これが両隣の岡山県や徳島県だと、どう見えたのかな?』
(引用⑬、2021.12.21リツイート)
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『雲がすごい』(引用⑬、2021.12.21リツイート)
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『皆さんのツイートから拾った奴、、気象操作とかやってる?!』(引用㊽、2021.12.22リツイート)
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『右の、、人と雲の位置関係(⌒-⌒; )う〜ん…』(引用⑬、2021.12.12リツイート)
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『空のブルーも、水面の揺らぎも素敵なのだけど、雲 低い?』(引用⑬、2021.12.10リツイート)
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『雲、近っ!』(引用㉛、2021.03.03ツイッター)
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『まじ広くて綺麗』(引用㊽、2021.12.25ツイート)かなり低いですね。
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『「須磨の海と雲」(2021.07.19)「地平線ギリギリの雲」(2021.12.18)』(引用㊷ツイート)
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『誰も何も思わないのでしょうか 毎日、雲が低すぎて緊張が走ります 昨日、仕事で行った兵庫県姫路市の雲』(引用㊷、2021.11.13ツイート)
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『今日は一段と雲が低い🌥』(引用㉛、2022.03.17ツイート)
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『はじめて見たよこんな雲。地震雲なの?』(引用㊽、2021.12.24リツイート)
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『天空からのスポットライト 関東で天使の梯子が出現(ウェザーニュース)』(引用㉝、2021.08.28リツイート)
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『雲の圧迫感 天井が低い』(引用⑬、2022.01.20リツイート)
『滋賀県だけに出る特別な雲「琵琶湖六郎」高校生が確認、秋から冬に出現』(引用㉝、2021.10.01リツイート)
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『「今の空の色がヤバい ※iPhoneで急遽撮って色補正とか何もしてません」 RTさせて頂きます。Twitter検索したら、今空が紫だという投稿が結構ある』
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『見たことない雲の形と地平との距離 雲。。。どこまで地上に近くなっちゃうのかな…』(引用⑬、2021.01.08リツイート)
『福井で雲海がカラフルに色付いた』(2022.01.19リツイート)
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『この日の環水平アークはかなり色彩が濃く輝いていました。環水平アークや環天頂アークは雲の形により時折面白い形色を見せてくれます。』(引用㉟、2022.01.22.リツイート)
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上から見ると、『飛行機から見た虹』(引用㉝、2021.12.07リツイート)
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『富士山にオリオンが昇る夜』(引用㉞、2022.01.22リツイート)
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『朝焼けの富士山と霧氷 奇跡の一枚に大反響 「合成かと思った」』(引用㉞、2022.01.23リツイート)
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『地上が霧なのか、雲なのかの写真増えた』(引用⑬、2022.01.23リツイート)
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富士山の雲について『最近、笠雲、出過ぎじゃないですかねー』(引用⑰、2021.11.15ツイート)
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『<吊るし雲が出現 南下中の前線に吹く風の影響> 今日16日(土)の夕暮れ時になり、富士山の周辺にUFOを思わせるような雲が出現しました。吊るし雲と呼ばれる雲です。』(引用(タ))
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『「富士山の笠雲凄い」⇒「いつもありがとうございます。笠雲もだけど 空が怖いくらい」』(引用㉘、2021.09.11ツイート)
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『先ほどのダイヤモンド富士と彩雲!!新年早々凄すぎました』(引用㉝、2022.01.02リツイート)
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『雲間の富士。』(引用㉘、2021.10.01リツイート)
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『富士山上空がとんでもないことになってて完全に世紀末だった。』(https://twitter.com/marupi11y「まる」さんツイッター(2022.02.19)より)
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以下、天体についてのその他の話題について 
『しぶんぎ座がそもそも無かったのに、「しぶんぎ座流星群」が三大流星群⁉︎ 「1年の始まりを飾る、注目度の高い天文現象といえば「しぶんぎ座流星群」です。「しぶんぎ座流星群」は、8月のペルセウス座流星群と12月のふたご座流星群とあわせて三大流星群ですが…』(引用⑯、2022.01.02ツイート)
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『阿蘇の町にかかる天の川を大観峰から臨む 夕方に降った雨の影響で空が澄み渡っていて今までで1番濃い天の川でした』(引用㉝、2021.07.19リツイート)
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『絶対にラスボスのいる岐阜城』(引用㊶、2021.10.15リツイート)
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『水平線はほんのり弧を描いています 地球は丸いのか平面なのか…』(引用㊵、2022.03.02リツイート)
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『月の形が、「レモン」………?!?!?!どういうこと?????』(引用⑰、2021.11.30ツイート)→「月がレモン形をしている謎、ついに解明か【2014.07.31 AFP電】」月は完全な球形からはかけ離れており、地球に面している側とその反対側が高く出っ張った奇妙な形状をしているそうです?(引用(シ))
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『南回帰線が太陽に近いなら南極の氷は溶けて暖かくならなければいけない 北極の平均気温-20~30度 南極の平均気温-50~60度 なんでやろ』(引用⑲、2022.01.09リツイート)
『元々、月や星を見るのが好きだった。けど、今は月が怖い… 去年の秋頃、寝ていたら視線を感じて飛び起きた。何事!と窓を見たらあり得ないくらい低い位置にものすごく大きくて黄色く輝いている満月がこっちを見てた。』(引用㉗、2021.07.21ツイート)
『今日の月 もう気にしないって決めたのにやっぱり言いたい。「昨日と軌道が違いすぎます。運航マニュアル間違えてません?」』(引用㉗、2021.09.19ツイート)
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『今日の月はこれまたえらい高さの位置に出てる!ちょっと前まではとても低い所を移動してたのに、今日は窓から乗り出して真上を見ないと、見えない。多分、昨日大きく移動してる…』(引用㉗、2021.10.21ツイート)
『今年最後の満月、ほほぅ… そうきたか。北北東から登って来ましたよ』(引用㉗、2021.12.19ツイート)
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『こないだの月 なんだよコレ笑 いつから月こんなデカくしたん? でそれをスーパームーンだのピンクムーンだのみんなで普通に言いあってさ 昔はこんな月なかったのに…』(引用㉚、2021.04.30ツイート)
『月すご‼でっかくて赤い 上手く撮れないけど』(引用㉝、2021.09.20ツイート)
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『昨日の月は久しぶりにいつもの東に昇ってた。』(引用㉞、2021.10.21ツイート)
『え。ちょっと待って月大きすぎあれ月?』(引用㉘、2021.10.20リツイート)
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『昨夜1時にコンビニに行こうと玄関を開けたら真上に月満月があった あんな位置に月があったのははじめてだ いつもは縁側の真上か東側だったから(玄関出てすぐは西側)』(引用㉞。2022.01.17ツイート)
『お向かいさんの納屋の間から月満月が見えてましたが こんな位置(北東)に月が見えたことは一度もないです』(引用㉞。2022.01.21ツイート)
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『面白い月が撮れた 9月15日18時45分頃 南』(引用㉘、2021.09.15ツイート)
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『こんばんは🏙 真上に🌙が見えてます(頭の真上) 今迄 見た事ない角度です もう方角は よくわからないです🗿」』(引用㊶、2022.02.09ツイート)
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『皆様 こんばんは 帰宅途中 久し振りに 「🌙が見えました」 もう ひと月振り位でしょうか ⭐は全く見えません 風も無く 凪の状態です また何か 変わったのかも 知れません』(引用㊶、2021.06.14ツイート)
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『うわ〜〜 月が2個見えるどころか、形も違うじゃない』(引用⑬、2022.01.30リツイート)
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『本日の月は特にパワフルですね 色も変わりました🌕』(引用㉟、2022.03.16ツイート)
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『満月 すごく明るいね』(引用㉗、2022.03.17ツイート)
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『1998年のドラマに出てきた月。前はいつもこんな模様だったっけ いつから模様が横向きになっちゃったの?マンデラ発言なので お気になさらず』(引用㉘、2022.03.31ツイート)
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確かに、上の”月のかたちがレモン?”で紹介したものと違うが、
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『月の模様変わりましたね』(引用⑫、2022.04.16ツイート)また戻ったのだろうか?不明だ。
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https://twitter.com/KAGAYA_11949/status/1515271567751921665/photo/1
ところが、『こんばんはー 今頃ですいません えええっ 月の模様、変わるんてすね?!って、理由が… 月の模様は1日に360°回転 「ウサギ模様」の傾き自体は不変 月を見上げやすい方向に立ち位置を変えるため,南中前後の2時間ほどの間に,模様の傾きが大きく変わったかのように感じる』(引用⑰、2022.04.23ツイート)ということなんだそうです・・・
『公園で太陽を撮っていたら、急にピカッと輝きが増してびっくりしたキラキラ!すぐにもとに戻りました』(引用㉗、2021.10.23ツイート)
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『はんぶんこ』(引用㉝、2021.09.03リツイート)!
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部分拡大して、
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「みつとし🗣」さんツイッター https://twitter.com/2Ka8v(2022.04.04)より、『太陽がこんなでした』
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『奇妙な太陽 これも何処だか聞かないで〜』(引用㉑、2022.01.18ツイート)『不思議な太陽 何処で見れたかは聞かないで〜』(引用㉑、2022.01.18ツイート)『アレ?』(引用㉑、2022.01.14ツイート)『う〜む 太陽 雲の手前にあっちゃならないものが太陽だ!何故なら雲は地球の現象だけど、太陽は、地球外の恒星だから という概念は通用しない動画 太陽も地球のもの?』(引用⑬、2022.01.08リツイート)2つあったり、大きかったり、突然激しく光ったり。地球上の地形がこれだけ激変中なのだから、月も太陽も同様にきわめて不安定な状態にあるようだ。
『横浜1月9日13:30頃 青空と雲と 太陽の光と……月』(引用㉘、2022.01.09ツイート)
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『星は一時期見えなくなったけど、最近戻りました』(引用㉗、2021.11.11ツイート)よかった、なによりでした!
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https://pbs.twimg.com/media/FD3qGtNaMAAisuH?format=jpg&name=900x900
『ぜひ画像ご覧ください。驚くほどはっきりと太陽が二つ写っています。私の友人が旅行中に撮影したものです。本人に許可を得てアップいたします。2018年1月2日早朝にクロアチアで撮影。「幻日」で画像検索しても、ここまではっきりと写ってるのは見当たらないですね。ひとつは月ってことはないですよね?』(引用㊸、2021.06.08ツイート)
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https://pbs.twimg.com/media/E3V0Gx8VIAApRc2?format=jpg&name=small
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https://pbs.twimg.com/media/E3V0Gx9VoBkt3ag?format=jpg&name=small
『北は動き続けている』(引用㉜、2022.02.10リツイート)
『「方位磁石の指す北は動き続けています」(国土地理院HP,2022.02.02より)「地球は磁石の性質をもっているため、私たちは方位磁石を使って方角を知ることができます。しかし、方位磁石の北と地図の北(本当の北)はずれており、そのずれの角度を偏角(へんかく)といいます。偏角は場所や時間によって変わり、このことは、地球内部で発生している磁気が地球規模で複雑に分布していること、磁気が刻々と変化していることによるものです。」』
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https://pbs.twimg.com/media/FKjhLnGVUAAjdOh?format=jpg&name=large

・「宇宙からの光」で夜の地球を照らすプロジェクト:ロシア(引用(ス))
『全く聞いたことのない話だ。幾つかの国で同じ実験をしてそうだ。どうりで複数の月が見えるわけだな 実験は成功し、満月時と同じ明るさの地域が幅5kmにわたって秒速8kmで移動したという』(引用⑯、2022.01.12ツイート)
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「中国が開発した「人工の月」は本当に浮かぶのか」(引用(セ))
『2つの太陽』(引用⑩、2021.11.09リツイート)
『中国が開発する“人工太陽”が1億2000万℃に 世界記録を更新』(引用(ソ))『人口太陽…あるのか…』(引用⑩、2022.01.09ツイート)
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― 以上で8項、終わり ―

※マンデラエフェクトがなぜ起きているのか、その原因については様々な考えがあり、今のところ定説があるわけではないが、自分なりの考えをまとめ、次の9項で追記し、今回の記事を完成させたい。上記の8項までを書き込んだ1月29日時点では、まだ考えがまとまっていないけれど。
ただ大事なことは、到底答えが出せそうにないその原因の追究よりも、マンデラエフェクトという、文字通り時空を超えた、異次元の現象が実際に起きている事実を認め、天と地から自分の体に至るまで、我々を取り巻いているあらゆる事象が例外なしに、大変動期を迎えつつあることを認識し、そのことを恐れることなくむしろ積極的に楽しみながら、自分もそうだがみなさんも自身の頭でそのことについて考えてみることにあるのだと思う。マンデラエフェクトはそのきっかけを与えてくれたのだと、予め言い訳しつつ!最後のまとめの9項は、このブログの自動車の記事のまとめ部分と同様に、独断と偏見に満ちたものになると思います!

9.マンデラエフェクトとはいったい何なのか
 ということで、今日は4月9日です。ここからようやく本題?である、マンデラエフェクトがなぜ起きているのか、その原因について、記していきたい。ただ、たぶん異端なものになるはずの?自説を記す前に、マンデラ界隈でより一般的と思われる考え方を2つ、先に紹介しておきたい。

9.-1代表的な二つの意見
1つ目は、マンデラを扱ったブログの中でも(たぶん)代表格である「マンデラエフェクト情報局」の記事(引用(B-3))からの引用だ。
『- 当ブログ編者の考察 その2 -
マンデラ・エフェクトとは何なのか?と、考えた場合
1. 自分の無知さや、記憶違いを認めたくない責任転嫁の心理から生じている思い込み
2.人間の脳の誤作動、曖昧さに傾向があり同じ錯覚や、思い込みをしている人がある程度いる
3. 高次存在による過去改編によるもの
4.(CERN陰謀説など)人為的な過去改変
5. パラレルワールドの記憶説
等が挙げられます、編者は3の見解 ~ ”高次存在による過去改編の実験後のバグor人類への試し、導き”と考えております(SFで言えばスタートレックのQ連続体の干渉のような、もしくはシミュレーション仮説とセットで、我々が閉じ込められている”マトリックス”の(人類より賢い)管理者の手によるもの)。他の説としては、パラレルワールドを精神が行き来して・・と言うような、平行宇宙や霊、多次元も込みの超自然、超宇宙的な法則として起こっていると言う説も否定はできませんが、スターウォーズや日本海軍史、アニメ、ゲーム、男性器のついた地上絵や仏像、聖書改ざんなど、マンエフェ改編職人(高次のかた)のシニカルな性格、趣味が感じとれるので、個人的には法則ではなく”意思”が介在していると思います。~ いずれにせよ人智を超えた所業かと。』
大幅に省略しているので、詳しくは原文を確認してください。

 この“高次存在による過去改編説”と並ぶ代表的な意見として、(マンデラエフェクト情報局の表現を借りれば)“パラレルワールドの記憶説”がある。この説を推しているのはスピリチュアル系の論者に多いが、代表例として、笹原俊さんのブログ「笹原シュン☆これ今、旬!!」(引用(C-2))から以下引用する。
『3次元においては、時間は過去から現在、未来へと続く一方通行で、その流れはあたかも一本の線のように続いているので、世界線と呼ばれています。
 しかし世界線は一本ではなく、あり得る選択肢の数だけ、無限に存在し、それぞれの世界線が隣接して並行世界(パラレルワールド)を作っているわけです。
それぞれの世界線は、完全に独立しているわけではなく、それぞれの魂の自由意志を行使することによって、他の世界線に移動することができます。
 転移した先の世界線では、自分と異なる過去を持つ人々が生活しています。自分の家族、友人、同僚たちが、見た目は全く同じですが、前の世界線とは別の過去を持ち、別の人格を有しているわけです。
 どうやら世界線は、本来、一本の線ではなく、ぼわっとした感じで、ふちのにじんだ一本の太いロープのような形態で、過去から未来へ続いているようです。
 よく「過去は変えられない」と言われますが、これは嘘で、世界線転移によって、過去に起こった事件をも改変できることは、前記事で示した通りです。
 しかも一つの世界線上に、異なった過去を持つ人々が共存している状態になっているようです。しかし、今までこんなことを言っていた人はいませんでしたね。
 これまでのところは、過去は改変することができず、未来は選択によって変えられるが、それはあくまで全員共通のかっちり固まった過去の上に築かれていくという風に皆さん考えていたはずです。なぜこう考えていたかというと、もちろんDSによって、そう考えるように誘導されていたからです。』
こちらも抜粋なので、詳しくは笹原さんのブログの記事(引用(C-1)、(C-2))を直接確認してください。この2つの意見以外にも多くの考え方があるので、さらに興味のある方は、備考欄の引用元等を手掛かりに、ぜひ探索してみてください。

9.-2マンデラエフェクトがなぜ起きているのか、考えてみた
 何度も何度も記すがさまざまな意見がある中で、たとえ間違いであろうとも、自分の頭でアレコレと考えてみること自体が重要だと考えるので、以下、自分なりに考えた結果を記していく。
(※とは書いたものの、9.2-2項~9.2-39項までの間は、9.3項のマンデラがなぜ起こっているのかという結論を導くための、いわば自習部分だ。大半の方は結論部分を見たいだけだろう。そこで、9.3項の結論部分と、9.2-2項~9.2-39項の自習部分の順番を入れ替えて、結論を先に置くことにした。自分の勉強部分は参考用として、そのあとに置くが、興味と暇のある方は、その過程の部分もぜひお読みいただければ幸いだ。)

9.3マンデラエフェクトがなぜ起きているのか。その原因のまとめ
 それでは始めるが、今まで見てきた「プレアデス+」の2冊の本(9.2-1項参照)をもとに、地球を取り巻く状況を最初にまとめてみる。そのうえで、マンデラ現象と照らし合わせてみて、冒頭で(引用③:「HSPマンデラー有光」さんツイッター)にならい分類した中から、代表的なパターンとして「地形出現、変更系」、「人体(生物)進化系」、「新生物出現系」、「歴史過去改変」、「デザイン変更系」、「天体出現、変更系」の6っについても、簡単だが個別に考察してみたい。

9.3-1マンデラを起こす要因として、関連しそうな事のまとめ
最初に地球を取り巻く宇宙全体の大まかな状態を確認しておく。
まず、宇宙のカレンダーにおける、新時代が始まったことがある。「魚座の時代」(支配と隷属、男性的な時代)・「土の時代」(物質主義を重視)から、「水瓶座の時代」(個の時代、女性的(受容性)な時代)・「風の時代」(想像力・思考力を重視)へと移行し、全体の流れとして、閉じられた地球が解放されようとしている。
その中で、約50万年間、地球を支配してきた創造神(9.2-7~9.2-11項参照)が、地球の支配権を失いつつある状況にある。
具体的には、「時間の錠」が開られて、複数の現実や文明が融合可能となった。(9.2-18~9.2-22項) 地球上のボータルと、時間の回廊の支配権も失ったか、守勢に立たされており、これによって、ポータルを通じて挿入される光側のシナリオも実行可能になった。
さらに空の天蓋も取り払われつつあり、周波数コントロールの壁が突き破られて、光のエネルギーが地球に直接注がれる状況に変わった。それらの相乗効果で、劣化させられてきた地球人類のDNA構造の再生が可能となり、主に寝ている間に?修復が行われつつあるところだ。(9.2-31項)
こうして、三次元の、一つの現実しか認識できない固定された世界から、複数世界線間の移動と融合が始まった。すでに多次元間の融合まで部分的にではあるが起こっている?(こ~いう多次元間の融合なるものが、部分的に起こるのかどうかも、すでに怪しいが、直観的にそう思ったので!)。それらと並行して、主に夜、寝ている間に記憶の挿入(改ざん)も個別に行われている。(9.2-14項)これから人類が、多次元間の移動が可能になる世界へ、移行するためのための準備が整いつつある。
・「プレアデス+かく語りき」《引用AA》及び、・「プレアデス+地球をひらく鍵」《引用BB》(いずれもバーバラ・マーシニアック著、大内博訳)を読んだうえで自分なりに感じた、現状認識としては、このあたりでしょうか。
以下は(引用BB;P215)からの引用だが、このような状況は、マンデラーのみなさんが日々、感じているところではないだろうか。
『あなたがどれくらい首尾一貫性をもった存在か、どれくらい信頼できるか、どれくらい安定した存在であるかが試されることになるでしょう。~ さまざまな次元の出入り口が大きく開かれ、これまで別々にされてきたものがあふれ出し、移動し、変化するからです。したがって、本来そこにあるはずのない物体や、生き物や、出来事に遭遇することになるでしょう。絶滅したと考えられていた生き物が戻ってきたり、動物がとつぜん何の痕跡も残さずに消え去ったり、これまで地球になかったようなさまざまな植物が地球のいたるところにあらわれたりするでしょう。個人的にはどのような影響があるでしょうか。あなたの持ち物がとつぜん次元間の亀裂を通って姿を消してしまうこともあるかもしれません。こういう異常な出来事が起きていくなかで、存在するものすべてとの関係において自分はいったい何者なのか、ということについて再考を迫られることになるでしょう。』現状はすでに、これ以上“進展”している段階だと思う。
 最後に、マンデラの代表的なパターンについて、個別に簡単にみていきたい。

9.3-2「地形出現、変更系」マンデラの原因
『世界の地理はすべて知られているとあなた方は思っていますが、実際は、まだ多くが未発見です。それは、多くのものが一つの現実から別な現実へと移動しているからです。~ 未だに発見されていない不思議はたくさんあるのです。』(引用AA;P239)
現実が固定されたものでなくなり、今まで封じ込められていた、数多くの現実のあいだを移動したり、融合していくことが可能となり、実際にその現象が起こっている。現実が刻一刻と変わっているようだ。複数世界線間の移動と融合、及びごく一部だが、多次元間の融合まですでに起こっている?ことが、「地形出現、変更系」が起きている主な原因だと思う。(参考;9.2-10、-11、-15~-22項)

9.3-3「人体(生物)進化系」マンデラの原因
 人体の変化について、簡単に言えば、当初の十二螺旋構造から、二重螺旋構造に劣化改変されてしまった(9.2-6、-8項)、人類のDNA構造が、元の構造への復旧を目指して組み換えを開始している。(9.2-31項)その途中経過としての変化だとの認識だ。これらの修復は、主に夜、寝ている間に個別に?行われているようだ。以下長めだが、(引用AA;P88)より
『あなた方は自然に突然変異をとげ、身体を再創作しているところです。この変異は眠っているあいだに起きることが一番多いです。 ~ 初めに人間の肉体をデザインしたのは、慈悲深い存在でした。原初の創造神たちは、寛大にも、あなた方に、膨大なまでの魂の生命力と優れた能力を求める情熱を、あなた方の生命体に与えました。この情報の多くは、肉体のなかに光がコード化されたフィラメントとして貯蔵されています。それは、これまでばらばらになっていましたが、いままた、元の形に戻りつつあります。あなた方の骨、および骨格は、その情報に応じてかたちが変わっていきます。あなた方の骨格が本来のかたちに戻ったとき、聖なる場所からのエネルギーが解放され、宇宙光線が体内に入り込み、細胞内の光コードのフィラメントが自然に組み換えを開始して、あなた方は変化の真っ直中にある自分に気づくことでしょう。その変化は、どこを向いても鏡のように映し出されるでしょう。
 いくつかの次元、ないしは周波数を上昇するという、創造神によってデザインされたこの進化体系は、十二のチャクラに呼応する十二のDNAの束にその基礎を置いています。十二のチャクラのうち七つは体内にあり、五つが体外にあります。こうして、このシステムが接続するようになっています。』
今から30年前の1992年に書かれた本の一節だが、この部分に、今、人類の人体改造が進んでいる理由が、ほぼ記されているように思う。

9.3-4「新生物出現系」マンデラの原因
この原因については、世界線の移動と次元間の移動だと思うが、過去の記憶改変も一部併用されているかもしれない。その場合は、寝ている間に、記憶の挿入が行われているようだ。(9.2-14項)
『動物たちは自分自身を信頼していて、死ぬときもただかたちが変わるだけであることを知っています。彼らは新しい世界が生まれつつあることを知っています。現在「絶滅しつつある」種の多くは次元間の周波数を通り、古い地球が死につつある一方で、生まれつつある新しい地球へと向かっているのです。』(引用BB;P107)

9.3-5「歴史過去改変」マンデラの原因
 基本的には9.3-1、9.3-3項と同じで、世界線の移動とともに、たとえばタルタリヤ帝国のような大きな歴史の改変は、「時間の錠」が開けられて、次元の融合が可能な状況になったことが原因であると思う。今後は、ボータルを利用しての、光側のシナリオによる新たなドラマや文明の挿入もあり得る?(9.2-15~9.2-22項参照)
しかしこれも9.3-3項と同様、より小さな歴史の改変は、気づきや過去修正の要素もあるかもしれない。参考までに、かつて話題になった、ミステリーサークルについて、以下(引用AA;P245)より、
『ミステリー・サークルの存在理由はいくつかあります。基本的には、現実を強制的に動かすことです。すなわち、あなた方を考えることから感じることへと動かすことです。~ 
この現象には何の論理もありません。論理を基礎としている社会に、論理が通じない何かを認めることを強制しているだけです。そして、このことは、遊び心をもって、しかもはっきりとしたかたちで行われ、しかも人々の現実に対する認識を脅かすこともありません。もしも、宇宙船が地球上のいたるところに上陸したりすれば、人々は動転してしまうでしょう。しかし、トーモロコシ畑が同心円状に倒れ、折れもせず、枯れもしなければ誰も気持ちを乱すことはありません。エネルギーがどのようにしてあなた方と遊んでいるか、これで分るでしょうか。あなた方の回路を過熱させることなく、重要なことを理解させ、自分で悟るように導くために、何かをしなければなりません。』

論理を基礎としている今の社会に、論理が通じない何かを、遊び心をもって、認めさせることを意図している。まさに、マンデラエフェクトが起きている原因の一つに他ならないと思う。
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Wikiによれば「1990年代に入ってからは、製作者自身による告白や超常現象懐疑派による検証が進み、人為的なものと判明した。」という結論で、それ以外は“陰謀論”になってしまうのだが。

9.3-6「デザイン変更系」マンデラの原因
 この原因は、次元の変化というよりも、「マンデラエフェクト情報局」さんのいうように、「(高次のかた)のシニカルな性格、趣味が感じとれるので、個人的には法則ではなく”意思”が介在している」ように自分にも思える。ただ記憶の挿入(改変)なのか、世界線移動なのか、その両方あるのかはよくわからないが。
「建物出現、変更系」、「文字変更系」、「機能変更系(航空機エンジン位置)」については除いたが、これらの原因も、「高次存在による過去改編説」と「パラレルワールドの記憶説」の両方の場合がありそうに思うが、これもよくわからない。
 ただ付け加えれば、「建物出現、変更系」のジャンルで、巨大観音像のマンデラがやたらと多いのは、水瓶座の時代に入り、今まで抑圧されてきた「女神」のエネルギーを感じてほしいという衝動があって、出現したように思えるのだが、いかがだろうか。

9.3-7しかし、よくわからないことも多い
 しかし以上のような、大まかな話だけでは、説明しきれない部分も多い。特に、マンデラでなぜ、過去の記憶が人それぞれで、なぜあれだけバラけてしまうか、さらに、マンデラ否定派の中には、マンデラがけっして起こらない人もいる?それともただ単に、常に一貫して否定しているだけ?不明だ。
そもそも実態が正確に把握されていない中で、それらに対してのひとつの答えを得られればと、9.2-33項で考察してみた。実は、それぞれの人の「魂」は目的をもって地球にやってきている。そのうえで実際に、予定通りの変化をとげるかどうかは個々の自由意思による選択部分と、人類全体の集合意識の覚醒も絡んでくるうえに、変化を望んだ魂でも、そのタイミングは人それぞれで異なるようなのだ。

9.3-8「天体出現、変更系」マンデラの原因
 最後に宇宙についてだが、そもそも科学分野の三大詐欺が「宇宙詐欺」、「進化詐欺」、「重力詐欺」であると一部でいわれているなかで、今後デグラスが行われれば、フラットアース等、根本的な修正があり得る分野だ。その情報開示を待ってからの方がよさそうな気がするが、ただ、今マンデラとして起きている、月や太陽の軌道が外れて、あり得ない場所に出ていたり、月が2個出現したりといった現象については、2冊の本のなかで、多少の手がかりがあった。以下(引用BB;P280)
『月は建造された衛星です。地球をモニターするための装置、いうなればスーパーコンピューター、あるいは空に浮かぶ目として創作され、地球の大気圏内に配置されたのです。月は地球上のすべての生命形態に影響をおよぼしていますが、それは現在のあなた方の理解をはるかに超えたものです。あなた方人間の歴史を調べてみれば、地球のまわりにある二つの月についての言及がなされていることがわかるでしょう。~ 知っている人たちは知っているのです。~ 月をめぐって実の数多くの戦いが繰り広げられてきました。~ 月のプログラムは長いあいだ、地球を制限するためのものでした。』歴史の過去にも、月が2つあった時代があったようなのだ。月が人工的なものであるとすれば、対抗する2つの勢力がそれぞれの月を所有し、覇権を競っていたのだろうか。不明だ。以下は太陽に関して、
『太陽は幻想にすぎません。非常に高度な進歩をとげた世界は、みずからを太陽のように見せかけて、光の力によって侵略から身を守ることができるのです。』『太陽は同意されているひとつの根本的な仮説であり、この仮説である太陽が数多くの現実に現出し、かつ、数多くの現実が現出することを可能にしているのです。』(引用BB;P282、P286)
これは、8項の本文にも書いたことだが、われわれが認識している「時間」は、月の周期、地球の自転、地球が太陽のまわりをめぐる公転によって、大きく規定されているのだから、その基準となる月や太陽の不安定さは、「時間」という概念そのものの不安定さを表し、そしてこのことが、地球全体が大きな転換期にさしかかったことを、強く予感させているのだと思う。
下の写真は、オーストラリア大陸の一画を囲うように張り巡らされている、「ディンゴ・フェンス」(Dingo fence)。長さは5614kmにも及ぶという。しかも壁には1万ボルトの電流が流れ、武装したパトロール部隊が警備していて、中に入ったら300万円以上の罰金か懲役刑が課せられ、運が悪いと・・・ 人を絶対に立ち入らせない広大な区域があるのだという。
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フェンスの設置目的は、ディンゴという、オーストラリアに生息するオオカミの亜種とかウサギだとかが、フェンス内の環境を壊さないため、と説明されているようだが、天空の月や星に限らず、地球上にもいまだに謎の地域はあるのだ。(参考;引用(Z);「一日一食 OMAD エンドゥ」ユーチューブより)
 話を戻し、以上がマンデラエフェクトの原因についての考察だが、以下からは、そのような結論を出すに至った、自分のための予習部分です。ちなみに、長いです。

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9.2-1 地球と人を取り巻く世界の成り立ちから考えてみる
 8項までに記してきたように、マンデラエフェクトが起こっている範囲は、自分自身の体から地球上の地形、建物、歴史から天体にいたるまで、我々が知覚できるほぼすべてに及んでいる。そこでマンデラの原因を考えるに際しては、“原点回帰”して、そもそも我々「人」と「地球」を取り巻くこの世界の成り立ちから考えてみたい。
引用(B)をはじめ多くの論者が指摘するように、マンデラが起きている要因の一つとして“高次存在”による介在が濃厚だ。だとすれば、多少大げさな話になるが、その “高次存在”とはそもそもどなたのことで、地球と人類にとって、その役割は何だったのか、そこから考えてみるべきで、それさえわかれば、自ずと答えが出てくるはずだと思ったからだ。
ただそこまで風呂敷を広げてしまうと、どうしても“空想”部分が多くなり突っこみ満載となり、ますます陰謀論扱いされがちになるが、マンデラを紐解くうえで、避けて通れぬ部分だと思ったことと、なにぶんここは自分の考えを述べるブログなので!世間の一般常識に縛られずに、自由に考えてみたい。
しかしその世界に入ると、考察していくうえでのガイド役がないと、自分の頭の中だけでは到底無理だ。そこで今回、以下の2冊を全面的に参考にした。マンデラを考える上でのインスピレーションが、どこかに隠されていると思い直観で選んだ。
「プレアデス+かく語りき」(バーバラ・マーシニアック著、大内博訳、≪原題:Bringers of the Dawn(夜明けをもたらす者たち) by Barbara Marciniak 1992≫発行元コスモ・テン・パブリケーション 1994.10.01初版発行(1995.03.03第3刷版))以下《引用AA》とする。
「プレアデス+地球をひらく鍵」(バーバラ・マーシニアック著、大内博訳、≪原題:EARTH:Pleiadian Keys to the Living Library by Barbara Marciniak 1995)発行元コスモ・テン・パブリケーション 1995.10.10初版発行(1995.10.22第2刷版))以下《引用BB》。
 自分も一時期、スピリチュアル系の本は多少かじってみたが、この2冊から受けた影響がもっとも大きかった。いずれも1995年に購入しているので、もう27年も前の話になるが、当時平成バブル崩壊の時期で、浮かれた生活を送りつつも内実は混乱し、苦しい状況のなかで、心のよりどころを得ようと何度も必死に読み返しながら、生きていく上での進路を探ろうとした。スピ系だと拒絶反応される人も多いと思うが、それを抜きに一冊(正確には2冊だが)の本としてみて、歴史的な名著だと思う。ただ当時の自分は、読む準備が十分できていなかったかもしれない。
そしてあれから27年経った今、今度は自分+日本どころでなく、全人類を含む地球全体が大転換というか、文字通りひっくり返ろうとしているこのタイミングで、あらためてこの2冊を読み返すことで、その予兆であるはずのマンデラエフェクトについて考察することにした。
原書の(引用AA)は1992年、(引用BB)は1995年にアメリカで出版されたものなので、もはや最新情報とは言えないかもしれない。しかしこの本は不思議な本で、読むたびに新鮮な部分があり、妙に聞こえるかもしれないが、まるで「生きている」ようなのだ。けっして押しつけるつもりはないが、みなさん自身がマンデラについてこれから考えるうえで、多少のヒントになれば幸いだ。
なお、元々の大内博さんの訳文が素晴らしいのと、みなさんにこの本の良さをダイレクトに感じてもらうために、なるべく原文(翻訳文)をそのまま引用した。いつものように、引用個所はページも含めてすべて青字(今回多少色調を変えた)で明記してある。この記事をきっかけに出来れば、原書を手にとっていただくことを、ぜひ期待しています。
ちなみにこの本に書かれている内容について、訳者の大内博さんはある対談の中で『この本には、高次元の存在とともに仕事をしないと、人間の次元が上がっていかないというようなことが書かれています。』と、高次存在との共同作業の重要性を語っている。
一方「プレアデス+」の存在たちは、この2冊の本に対して接すべきスタンスとして、それぞれの本で以下のように語っている。
『しかし、私たちがいうことを文字通り鵜呑みにすることは決してしないでください。~ その真実の知識は、あなた方の内部に蓄積されているのです。~ 絶対的なものについてあまりにも断固たる言い方をする人については、少し疑ってみることを勧めます。多くのさまざまな意見や話に耳を傾けることは大事なことです。人の話には耳を傾けてください。そして、それがあなたにとって正しいと感じられるかどうかを確かめてください。』(引用AA;P40)
『私たちがこの本で分かち合ってきたことに執着しないでください。私たちの話を、新しい真実の聖書であるなどと主張しないでください。あなた方を楽しませるために私たちは地球にきているのです。これは前にもいったことですが、新しいイメージを創作することによって、あなた方がより高いところに行けるための梯子を提供しているだけなのです。』(引用BB;P338)
幅広く情報を得ることは重要だが、探求すべきは自分(内側)であり、この本も含めて外側の存在に依存し過ぎることなく、自分の直観を信じて現実について、自由に考えてみることを勧めている(と、ここも意訳しています)。なおこの2冊は、その後出版元を変えて再発刊されているので、頁の数字は版によって異なっている可能性が高いことも記しておく。)
「おうし座」の背中の部分にあるのが、「プレアデス星団」だ。
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それではまず、宇宙の始まりから。

9.2-2 宇宙は「根本創造主」の自己探求の旅から始まった
 この宇宙は、根本創造主が『自己探求のために、自らの喜びのために、そして自己表現のために、この宇宙での実験を遥か昔に開始』《引用AA;P42》したときから始まったのだという。あえて自らの分離の旅に出たのだ。
我々の住む宇宙が、根本創造主という一なる存在から始まったということは、我々自身も、根本創造主の小さな、一断面に他ならないことになる。さらに俯瞰すれば、『根本創造主ですら、より大きな何かの一部にすぎません。』(引用AA;P53)ということでもあるようなのだが。話を戻し、具体的には何をどのようにして宇宙をつくろうとしたのか。 
根本創造主はまず、自らの延長存在として多数の「創造神」を創造した。そしてこの創造神たちに以下のような権限を与えたという。
『根本創造主は、すべての創造神に世界を創造する自由を与えました。すなわち、生命の作り方を発見し、生命の責任ある管理人となり、創造神たちが造った銀河系の惑星の親になる自由を与えたのです。』《引用AA;P75》
さらに根本創造主は、自らを分離させた創造神たちに対して以下のように命じる。『「行きなさい、そして、創造しなさい、そして、すべてのものを私にもち帰りなさい」。これは、まことに単純な課題ではなかったでしょうか。言葉を換えると、根本創造主はこういったのです。「私はあなた方に私自身を贈り物としてさしあげましょう。あなた方は、行き、あなた方自身を惜しみなく与え、あなた方がこの宇宙で創造するものすべてがその本質は私と同じであるということを理解させてください。」』《引用AA;P42》
こうして根本創造主の意を受けた、多数の創造神たちによる、宇宙創造の旅が始まるのだが、ここで根本創造神が当初意図したことについて、もう少しつっこんで考えてみたい。

9.2-3 「根本創造主」は全体の調和をいかにして達成するかを探求した
 根本創造主自身の学びのために分離した創造神たちは『この自由意思の宇宙に飛び出すのです。彼らは存在のすべてに網の目のように浸透している根本創造主のエネルギーをもっていき、力とエネルギーについて学ぶために実験します。』(引用BB;P80)
ここで前提として、たくさんある宇宙には、それぞれにテーマが存在しているようだが、われわれの住む銀河系宇宙というシステムは、自由意思地帯としてデザインされているようだ。そして自由意思地帯のテーマとして、発展のある段階までは、お互いの存在を分離し、自由な状態にしておく方が、学びの場として、より深いものが得られると理解しているようなのだ。(引用BB;P257、AA;P186他参考)
そうなると銀河系は『自由意思の宇宙であり、自由意思地帯ですから、もちろん、基本的にはすべてが許されます。したがって、他人を支配し、人の上に立つ君主、マスター、権威者になろうとする者がつねにいるのです。』(引用AA;P169)このあたりは創造神といえども、かなり“人間臭い”部分があるようなのだ。
ただし、確かに創造神たちは基本的には、何をやってもよかったのだが、実はその中にも、守るべき神聖なルールというものがあったようだ。『というのは、干渉については神聖な決まりがあるからです。数多くの存在が、この法則を破り、地球に干渉しました。』(引用AA;P169)後述するが、後に創造神たちの中には、この深みに嵌ってしまうものも、多数現われてしまう。
もう一つ、初めに確認しておきたいが、我々が一般に、「神」として拝め、依存させられているさまざまな存在は、主にこうした「創造神」たちのことであって、「根本創造主」を指すわけではないようだ。この創造神という、『あなた方に対して“神”を代表しているという存在は、根本創造主のほんのわずかな部分にすぎません。』(引用AA;P53)根本創造主は外側に存在するのではなく、先述のように我々自身がその小さな破片でもあるので、実は内側にこそ探求すべき世界があったのだ。
やがて、創造神たちは光と闇に根差した存在に分離し、創造神同士のあいだで激しい争いが起きる。たとえば銀河系宇宙で最大級の宇宙戦争として有名な「オリオンの戦い」が有名だが、後述するように地球もまた、その例外ではなかった。
しかし『この宇宙においては、二元性と二極性は、自由意思を最大限の可能性にまで高めるために欠かせないものです。二元性のそれぞれの部分が原動力となって、それぞれの姿を相手に映し出し、その結果、二極に分離していたものがやがて統合されることになるのです。』(引用BB;P55)
 ここがまた、分かり難いところのなのだが、実際には暗闇の存在も光の存在も根本創造主に他ならない。闇が光をつくり、その逆もまた然りなのだ。『喜び、安全、調和、明確といった言葉は非常に素晴らしい言葉です。しかし、ときとしてこのような言葉の概念を本当に理解するためには、その概念の両極性を体験しなければなりません。』(引用BB;P116)
常に“光”でなく、“闇”である時もあってはじめて、深い学びを得られる。『いかなる進化の旅であっても、その真髄は、経験したことすべてを統合することであり、光と影を受容することにあります。』(引用BB;P219)
こうしていったん大きく分離したものが、再び自らとお互いを見つめなおし、やがて愛と協調と平和に根差した融合の道へと両者が歩み始める。このように、悟りをひらいていくことが、深遠な“学び”となるようなのだ。『すべての存在は根本創造主に他なりません。~ 根本創造主が自分自身を理解しようとしている行為なのです。根本創造主は調和をいかにして達成するかを探求し、同一のエネルギーの相反する力がどのような目的を達成することになるかを発見しようとしているのです。』(引用BB;P76)
 分離の旅に出た根本創造主が最終的に意図するところを、宇宙的なスケールに照らし合わせて別の表現の引用すれば、『宇宙がこれを理解したとき、宇宙はいうなれば崩壊して自分自身のうえに倒れ込み、根本創造主と一体になり、自分という存在がなんであるかを理解するでしょう。』(引用BB;P66)この境地に至るとき、この宇宙は終着点を迎えるのだろうか。
 次はこの地球を舞台に、「創造神」たちが果たしてきた役割について、みていきたい。
 下は、「ESO(ヨーロッパ南天天文台)の望遠鏡がとらえた、オリオン星雲(M42)。」
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9.2-4 地球は「銀河系宇宙間の情報交換センター」(生きた図書館)
 銀河系宇宙のなかでも美しい惑星の一つである地球は、銀河系宇宙間の情報交換センターをつくるという大きな計画の中に組み込まれていたのだという。『数多くある銀河のデータを貯蔵する巨大な図書館のシステムの一部、つまり厳密にいうと、生きた図書館になる予定だったのです。』(引用BB;P41)“予定だった”ということは、今ではその機能の多くが失われおり、現在復旧中なのだが、その経緯についてはこれから記していく。地球を含め“生きた図書館は”宇宙全体で12箇所あったという。
ちなみにその壮大な計画の拠点の一つとして地球が選ばれた理由は、『地球はひとつの銀河系のふちに位置し、他の銀河系からも近づきやすい場所にあったからでした。地球はさまざまなウェイポータルの近くに位置しています。ウェイポータルとはエネルギーが宇宙を通過するときに通るハイウェイのことです。』(引用BB;P30)地(空間)?の利にも恵まれていたようだ。プロジェクトが始まった当時の地球の状況について、以下(引用BB;P31)から引用を続ける。

9.2-5 地球のすべてのものが連携し協調し合うようにデザインされた
『すべての銀河系の代表を地球に送り込み、地球という惑星にそれぞれの銀河系の存在に似た存在が生まれるようにするため、あわただしい動きが展開されました。この計画に参画した一部の存在は創造神と呼ばれ、極めて優れた遺伝学者でした。彼らは分子を創造し、発見し、かつ結合して、分子に存在としての帰属性と周波数と電磁波を記号化して埋め込むことによって、生命体をつくることができました。数多くの意識を持った文明が、彼らの遺伝子体系とコーディングを地球という惑星上で実現するために、喜んで自分たちのDNAを提供しました。遺伝学のマスターたちは地球を情報の交換センター、そして光のセンターにするために、有意識の文明体から送られてきたさまざまなDNAをいじりまわすことによって、さまざまな種を創造しました。こうして人間や動物がつくられました。地球のデザインは壮大なものでした。』
数多くの銀河系がこの計画に協力してそれぞれの情報を持ち寄り、その知識を分かち合う場として地球は計画されたのだという。地球上の生き物が異例なほどバラエティーに富んでいる理由の一つは、たぶんこの辺にありそうだ。
たとえば動物たちは、さまざまな太陽系や惑星から収集された遺伝子を基に創られた。実際に彼らの祖先とまったく同じような外形をしているのだという。そして彼らを創造したことによって、その惑星と地球は遺伝的なつながりを持つことが可能となり、この世界をのぞきこむことも可能となり、お互い情報をわかちあうことが可能になったのだという。(引用BB;P84)
そして地球における原初の計画には、さらに重要な目的があった。創造神たちによってつくり出された、地球上のすべての創造物は、意識をもち、知性を備えた存在で、しかも元々は、すべての存在がお互い同士連結し、協調し合うようにデザインされていたのだという。(引用BB;P32他)今の人類はそのことを忘れてしまい、自分たち人間だけが特別な存在だと大きな勘違いをしているのだが。
次に、このような壮大な計画の下で、主に創造神たちの手によってつくられた我々人類の歴史について、ざっくりとみていきたい。

9.2-6 原初の人類は生物学的に完璧にデザインされていた(DNAの12螺旋構造)
念のため最初に確認しておくと、今どき「ダーウィンの進化論」を本当に信じている人は少ないと思うが、前項で記したように人類は、銀河系宇宙全体の計画の一部として、主に「創造神」たちの手により、そのプロジェクトの産物としてつくり出された。その原初の地球人類について(引用BB;P31)より
『彼らのDNAはある段階にあっては完全なもので、彼らは地球上にきわめて高度に進化した文明を発展させ』たのだという。次項で記す、地球の大戦争があった50万年前よりも遥か昔の、何百万年も前の話のようだ。『あなた方は、生物発生学的な構造から見て、夢にも想像できないほどの能力をもって』(引用AA;P109)誕生した。生物学的に完璧にデザインされた存在だったのだ。『あなた方は神のイメージ通りに創られた壮大な存在』(引用AA;P110)だったのだ。
現人類のDNAの螺旋(らせん)構造は、2重螺旋構造だが、原初の人類は複雑な12螺旋構造を有していた。そして本来の姿であった時のその『遺伝子の十二の束は、数多くの他の存在の代表、あるいは情報源と結び付いていて、それらの数もまた、十二でした。~ 十二の情報の束は、人間の体内、および体外にあるそれぞれの情報センターと人間を結び付けていたのです。』(引用AA;P101)
12のチャクラ(エネルギーが出入りしている場所)に呼応する12のDNAの束が、人類がこれからいくつかの次元ないしは周波数を上昇するという、創造神によってデザインされた進化体系の基礎をなしていた。(引用AA;P88)
さらに12のチャクラのうち、7つは体内にあるが、5つは体外にあり、銀河系の先まで伸びている。人類は広大な宇宙とを繋ぐ存在でもあったのだ。
既述のように、はじめに地球を生きた図書館にするという全体の計画があり、そのなかで原初の人類は、地球の管理人としての位置づけで創造された。たとえば他の宇宙的な存在が、生きた図書館である地球にアクセスする際の「入門カード」としての役割をも担っていたという。
多くの宇宙的な存在が『図書館のカードであるあなた方と融合することを望んでいます。人間であるあなた方を通して図書館にアクセスする場合と、リスになって図書館にアクセスする場合では、だいぶ様子が違います。あなた方は複雑です。あなた方は体内にものすごい量の知識を持っています。』(引用BB;P222)
実は我々のからだの中には、重要な情報が隠されているようなのだ。なんと、『人間の肉体の内部には、宇宙全体に存在する知的な生命体を複製するための公式が入っています。これを感じてみてください。進化した十二の束からなる人間の内部には、この宇宙の人間以外の生命体をつくるための公式が入っているのです。』(引用BB、P55)この話はとても重要なのだが、自分が十分理解できていないので、ここでは省略する。興味のある方はぜひ原書で確認してみてください。自分が理解できた範囲で、簡単に言えば、すべての情報はわれわれの内側に既にあり、これからはそのことを、いかに思い出すかにかかっているようだ。

9.2-7 地球が乗っ取られる!(約50万年前)
しかし、この地球を取り巻く宇宙空間が自由意思の地帯で、創造神たちの行いに事実上制限がなかったことは何度も記した。『やがて、地球を生きた図書館にするというプロジェクトをめぐって争いが起こりました。小競り合いが始まり、地球は争いと二元性の場所になりました。地球は自由意思地帯ですから、自分が望むことは何であれする権利を持っていた創造神の一部がこうして地球にやってきて、地球を乗っ取りました。これらの創造神が地球を乗っとったのは約五十万年前のことです。歴史的にいうと、あなた方が人間の文明の始まりと呼んでいる時期にあたります。』(引用BB;P42)
アトランティスやレムリアの文明が栄えた時代よりもはるか以前の時代だ。このときは“小競り合い”だけでは終わらず、「オリオンの戦い」の時のように、地球を舞台に壮絶な戦いが繰り広げられた。下の写真のように、現在の地球のいたるところに、その痛々しい痕跡が残されている。
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『もうご理解頂けますよね 信じられませんが…』(引用㉑、2021.11.09ツイート)
『岩山=古代大木。グランドキャニオン=採掘後の荒れ地。山=ほとんどの山は山ではない(火山噴火で山ができるのなら1個だけの山は有り得ない)』(「ななニャー子」さんのリツイート)かつての地球は文字通り、「巨大樹」が生い茂げる世界だったのだという。上と下の写真は無残に刈り取られた切り株。
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下は余談だが、とあるツイッターより『・・が大阪府民からばっさり切られる日も近いという事や!!~!!この生きている木たちの気分を思い知れ!!』このような惨い政治を行えば、いずれブーメランのように跳ね返ってくるだろう。
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話を戻し、『光が常に勝利するとはかぎりません。光はあなた方が考えるように、つねに勝利者であるとはかぎりません。というのは、光も闇もまた根本創造主の一部です。したがって、光は自分自身の暗い部分とも一体とならなければなりません。』(引用AA;P243)この時はたぶん、“光の存在”の勢力の側も内部に問題を抱えていて、つけ入られる隙があったのかもしれない。それがなんだかわからないけれど。俗にいう“闇の存在”の方が勝利したのだ。
その結果、“光の存在”側が主導していた、「銀河系宇宙間のための情報交換センターの一環としての、生きた図書館である地球の創設」という大計画はいったん頓挫し、破壊されていくことになる。
『光とは情報を促進し、伝え、分かち合うものであると定義します。暗闇とは、情報を支配し、情報を抑える力です。』(引用AA;P119)=ということは、地球の情報は統制され、外部に対して、徹底して閉ざされていく。
『現実を取り巻く時間の錠は、あなたの家の電灯のスイッチと同じように、つけたり消したりできるのです。~ 意識に時間の鍵をおろして閉じ込める方法を知っている存在がいます。地球のポータル(多次元間の出入り口)に時間の鍵がかけられているために、また、時間の回廊がある存在によって所有されているために、宇宙の彼方にいる存在たちは地球を見つけることができないでいるのです。地球という存在の光が消されていたのです。地球がもっている意識を記録しない、無害の電磁波のスペクトルが地球の上にかけられていたのです。こうして地球にはおおいがかけられ、地球は他の宇宙から隔離されてしまったのです。』(引用BB;P260)
地球のポータル(多次元間の出入り口)も、時間の回廊も、特定の存在たちにより支配され、外部の勢力に対しては閉ざされ、空には天蓋がかけられて遮断された。『電磁気の壁に似た周波数の壁が地球のまわりに作られ、これによって人間の周波数をどの程度加減し、変化させるかが調整されることとなりました。こうして、周波数の壁のために、情報そのものである光の周波数が届きにくくなりました。光の周波数がこの壁を突き破ることができても、それを受け止める光がなかったのです。』(引用AA;P46)地球は大宇宙の中で孤立させられてしまったのだ。そしてこの時、生きた図書館の管理人的立場として大事に育てられてきた人類の祖先たちも、大きな災厄に見舞われていく。

9.2-8 DNA構造が劣化改変されてしまう!(12螺旋→2重螺旋構造へ)
『地球にやってきて地球を支配した、乗っ取り屋の創造神たちは、あなた方を支配するためには、あなた方の行動を操る必要がありました。あなた方の知性の電源を切ることが必要でしたから、DNAの螺旋を構成する光コードのフィラメントをばらばらに切断することによって電源が切られました。』(引用AA;P89)遺伝子操作が行われ、十二螺旋構造だったDNAの束が、一気に二重螺旋構造まで劣化改変させられてしまう。
『あなた方が、組み替えられたとき、二つのDNAだけ残されました。生存するのに不必要なDNA、あなた方に情報を与えるDNAは切り離され、彼らにとって支配しやすく、操縦しやすい周波数に閉じ込められることとなったのです。』(引用AA;P46)
そのためかつては『神のイメージ通りに創られた壮大な存在』であったはずの人類が、今では脳の機能のわずか8~10パーセントしか使えていない状態だという。(引用AA;P46)たとえば『アインシュタインのレベルにいる人でも、せいぜい十五~二十パーセント』しか使えていないそうだ(引用BB;P182)。仮に、脳の機能を9割,10割使えるようになれば、人類はとんでもない“超人”のような存在になるのだろう。
しかし限られた、低い周波数の情報の中でしか、機能しなくなり、無知でコントロールしやすい状態に堕とされたわれわれ人類は、新たな地球の支配者となった創造神を疑いもなく、「神」として崇め奉ることになる。
実際には『あなた方が神と呼んできたのは、小さな神々であり、彼らは崇拝されたいと願い、あなた方を惑わせ、地球を一つの属国とみなして、自由意思が尊ばれる宇宙の銀河系にある彼らの財産にしてしまったのです。』(引用AA;P57)『世界中の文明には、一般の人々には理解されていない内的な真実があります。これは他人を支配するためでした。神々はすべての人々に力を与える代わりに少数の人々に権限を与えることによって、自分の権力を保持したのです。これは人々のあいだに、序列による分割をつくり出しました。』(引用BB;P126)
こうして“属国日本”ならぬ「属国地球人」に対しての支配体制が確立されていった。一般に属国の民は宗主国から、過酷なまでに搾取されるものだが、具体的に、主に何を搾取されてきたのだろうか。以下(引用BB;P49)
『人間を所有し、いかなる尊敬の思いももたずに取り扱ってもかまわないという考えは、約50万年前に地球にもたらされました。~ 数多くの人間が、あるいは人間の別なヴァージョンが、鉱山の奴隷として利用され、一定の感情的なパターンの波動を送るための奴隷として使われたのです。』
ここで奴隷(人類)の用途として、一般的に知られている「鉱山の奴隷」とともに、「一定の感情的なパターンの波動を送るための奴隷」という、聞きなれない文言が出てくる。
このうち「鉱山の奴隷」については、母星の大気シールド用として、金(ゴールド)が必要で、金鉱山で働く奴隷が欲しかったと、ゼカリア・シッチンの著書などを基に一般論として言われている。ただ金の価値がそれだけだったかは不明だ。(参考までに(引用BB;P111)『黄金は次元のドアを開けることを可能にするもののひとつです。黄金はポータルを固定させ、物事の変換をもたらすもので、飾りや王冠、仮面、宝石のためだけにあるのではありません。~地球上の文明は黄金のもつ影響力によって生まれたのです。』
一方、「一定の感情的なパターンの波動を送るための奴隷」という、言葉の意味するところについて、(引用AA;P56)より、

9.2-9 人間の恐怖の感情が食料にされてきた!
『意識が意識に食べ物を与えます。あなた方には、この概念を理解することは難しいようです。それは、あなた方は、実際に食べ物を食べて生きているからです。存在の中には、意識を糧としている者もいるのです。~あなた方の感情は他の存在にとっての食べ物なのです。』
新たな地球の支配者は、恐怖、心配、混乱、暴力、飢餓、落胆などのネガティブな、低い周波数の感情をおいしい食料源にしたのだという。宇宙人から見ると『あなたは周波数であり、エネルギー』(引用AA;P219)なのだ。なおこの対比として、愛や調和などの高周波数の感情も、エネルギー源にできることも追記しておく。以下(引用AA;P189)から、引用を続ける。
『人間のDNAを再編成することによって人間の周波数を変え、さまざまなシナリオや出来事をこの地球上で引き起こして、さらにそのような状況で生まれる人間の霊的なエネルギーの結果をさまざまなポータルを通じて自己目的のために宇宙に送り出してきた存在がいるということを考えれば、あなた方がどのような敵と戦っているかが理解できるでしょう。あなた方、および地球が、論理だけに基づいて機能することを欲している存在がいます。その論理とは恐怖の論理です。』
地球上で定期的に戦争などの“イヴェント”を引き起こし、そこで沸き起こる恐怖などの負の感情のエネルギーを、彼らが占有するポータルから時間の回廊を経て、遠く離れた帝国の本拠地に送り込んでいたのだろうか。地球上の振幅の激しい人口爆発と激減のサイクルも、この辺りにも一因があるかもしれない。ここで今までたびたび用語として出てくる、「ポータル」とは何なのか、(引用BB;P263)で触れておきたい。

9.2-10 時空間の出入り口「ポータル」
『すべての時間は同時に存在します。惑星にはいくつもの層からなるエネルギーのグリッドがあり、これによってさまざまな時間の枠組みからその惑星を体験することが可能なのです。ある惑星に入るためには、意識をもった生命体が存在するその惑星の現実へと連れていってくれるポータルを見つけなければなりません。ポータルを通っていかないと、まったく何も存在しないからっぽの世界に着陸してしまう可能性もあるのです。ポータルを通ることによって、そのポータルにかかわる現実・時間の枠・時間の回廊のすべてにアクセスできるのです。したがって、だれかが二百五十年前の地球、あるいは五百年前の地球に戻ることは可能なのです。これらの現実は存在しているのです。』単に場所の移動のための拠点ではなく、そのポータルにかかわる過去や未来、次元など、(たぶん)時空を超えたすべての移動が可能になる場所のようだ。引用を続ける。
『 ~ ポータルは惑星のまわりに配置されている保護装置です。ポータルを所有すること、あるいはポータルをつくるということはすさまじいほどの仕事です。ポータルを開いた状態に保つためには、維持しなければならない周波数のエネルギーがあります。地球にはたくさんのポータルがあります。そのうちのごく少数を取り上げてみましょう。中米のメキシコにひとつあります。シナイ半島にひとつ、それからチベットにもひとつあります。~ 
中東のポータルは地球への主要な入り口のひとつです。昔のアトランティス大陸のポータルであるバーミューダ・トライアングルもまた、過去においては地球への主要な玄関口としての役割を果たしていました。~ 
そのほかのポータルには、イースター島、富士山、マウント・シャスタ(米国カリフォルニア州北部)、チチカカ湖、ナスカ山脈、ウルル(エアーズロック)があります。』

日本の富士山は、地球上の主要なポータルの一つでもあるのだ。下の巨大なUFOみたいな“つるし雲”をみれば、ポータルをめぐる激しい攻防を、思わず想起させてしまうのだが・・・
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新たに地球の支配者となった神々(創造神)は、地球への出入り口であるこれらのポータルを占有し、原初の地球のプロジェクトにかかわってきた、他の創造神たちが地球に入ることを阻んだ。そしてポータルを通じて、彼らの栄養源となる人間の負の感情(エネルギー)の移動だけでなく、次に記すように、負のエネルギーの発生源となる数々の宗教や戦争などのドラマ、そして文明そのものも、丸ごと造り込み、挿入していたようなのだ!以下(引用AA;P64)より
『このポータル(注;この文脈では中東の)を通じて、数多くの宗教や文明が導入されてきました。これは実に巨大なポータルで、半径が1000マイル(1600キロメートル)あまりあります。中東でさまざまな活動がつねに展開しているのはこのようなわけなのです。』この、我々の一般常識では到底理解しがたい“歴史のつくり方”について、さらに(引用AA;P138)より続ける。

9.2-11 「ポータル」を通じて数々の文明やドラマが挿入されてきた!
『地球に映画産業があるのと同じように、宇宙にはホログラフィー産業があります。彼らはホログラフィーの挿絵を造り、それは真に迫ったドラマそのものですが、それをポータルを通してあなた方の現実のなかに挿入するのです。~ 人類の周波数はコントロールされているために、人間を騙すことは彼らにとってはまったく簡単なことです。』
以下は(引用AA;P139)『ホログラフィーの挿絵は、三次元の世界とまったく同じように見えます。それは作られた出来事であり、それをあなた方の現実に、現実の続きであるかのように挿入します。~ 見分けるのはきわめて困難です。』低い周波数の狭いバンド内に制限されている、今の三次元の地球人類の限られた知覚では、ホログラフィーとして導入された世界を見破ることは難しいようなのだ。(引用AA;P140等参考)

9.2-12 「現実」の壁は薄く、柔軟なもの(あとから修正も可能)
 このようにみていくと、歴史的に大きな出来事のうちの多くは、ホログラフィーの挿絵だった可能性がある?!『三次元の世界は、一度に一つの現実に焦点を合わせるようにデザインされて』(引用AA;P154)いるのだから、少なくともここ50万年ぐらい前から、最近までの「属国地球人」の時代は概ね、9.2-15項で説明する別の、光側の勢力が挿入した文明を除けば、司馬遼太郎原作のNHKの大河ドラマみたいな、一本の筋の歴史ドラマを見せられてきたのかもしれない??
こうなると果たして我々が今まで見て、信じてきた“現実”とは、いったいどのような性質のものだったのだろうか。ここでさらに話が逸れてしまうが、みなさんが考える上でのヒントになりそうな文章を、順不同でいくつか拾ってみた。自分では満足な説明が到底できないのでコメントなしだが、多少の参考になれば幸いだ。
『現実はさまざまな層から出来上がっており、常に新しいヴァージョンが生み出しているため、瞬間ごとに変わっていきます。あなた方の宇宙の鼓動は大きな変化を体験しつつあります。』(引用BB;P56)
『時間は皆さんが考えているよりもずっと広大なものです。実際には、時間は情報を記号化し、情報と遊ぶものです。時間を延ばし、歪め、曲げ、捩じることによって、皆さんがさまざまな現実に同時に存在することを可能にしてくれるものです。時間の楕円形のカーブに乗り、時間は固定されたものではなく、したがって、現実も固定されたものではないことを理解することによって、多くの現実を同時に体験できます。
すべての現実は固定されたものではなく、したがって、未来も固定されたものではない(いくつかの可能性があるだけです)というわけで、地球にとってのもっと明るい可能性を挿入する機会がいまだと私たちは感じます。』
(引用AA;P32)終わりの部分の、“明るい可能性を挿入するなら今”については後述する。
『時間は折れ込むように崩壊しつつあります。 時間の崩壊は、あなた方の世界を規定する、周波数の支配によってつくられた境界線の破壊を意味します。宇宙光線が太陽によって捕捉され、エネルギーを増大させて太陽系のなかに入ってくると、全てが加速されます。これによってより多くの可能性が現在という時にもたらされ、さまざまな出来事が展開する舞台を決定している三次元の時間の壁が打ち壊されるのです。』(引用BB;P254)
『時間にはさまざまな「いま」があります。時間をはかることはもうできません。時間を変え、曲げ、動かすことができるのです。時間が崩壊するにつれて、さまざまな新しい概念・考え・発明・選択肢が、数秒ごとに地球の人々の精神に襲いかかっています。いまという瞬間のさまざまな蓋然性があなた方の自己実現の体験によって目覚め、拡大しつつあります。あなた方は地球外の知性と接触できる親和性をマスターしたために、地球全体がより高い知性を獲得し、より大きな責任を引き受ける準備が整いつつあります。』(引用BB;P256)

9.2-13 自分が世界を変えるのではなく、住む世界を変える(「世界は一つ」でなくなる)
 自分は以下の言葉は、特に重要だと感じた。(引用AA;P219)より、
『可能性の概念によれば、現実が一つであることはなく、あなた自身も思いを通して絶え間なくさまざまな現実に入っていく体験をしています。あなたが世界を変えるというのではなく、あなたが住む世界を変えるということです。これは、世界は固定したものではないという考えに繋がります。世界はエネルギーによって構成されています。そして、エネルギーは、その世界に参加している者が抱く考えによって形つくられています。』さらに、『現実にはさまざまなヴァージョンがあり、それぞれのヴァージョンには独自の目的と意図があります。時間、空間、存在するさまざまな世界には、決まったかたちはありません。あなた方が払う注意に応じて現実があらわれるだけです。数多くの地球があって好きなものを選ぶことができます。物語にはさまざまな時間軸があるのですが、それはいまでは忘れられ、あるいは意図的にあなた方の意識や発展過程からそらされてしまったのです。』(引用BB;P28)
希望的な観測も含めて言えば、近い将来は、自分の周波数エネルギーにあった現実世界を、自らの意思で選択していく形になるのではないか。あるいはすでに、そのような世界に移行しつつあるのかもしれない。『思い出してもらいたいのですが、これからは「世界はひとつ」ではなくなります。何が起きつつあるかについて、だれもが同意できる世界はなくなるでしょう。』(引用BB;P118)マンデラに対しての認識の違いでも、その兆候の一つだろうか。
『可能性としてのさまざまな地球、可能性としての体験がつねに存在しているし、これまでもつねに存在していました。いまの”あなた”が知っているものとはまったく異なった人生を生きている、可能性としてのさまざまな”あなた”がいます。あなたは周波数であり、エネルギーです。』(引用AA;P219)複数の世界線が存在することを示唆しているように思える。ちなみにこの世界線にいる自分は60歳で定年退職する道を選んだが、60を過ぎても、雇用延長して会社勤めする道を選んだもう一人の自分に、夢の中で頻繁に出会う。スケールの小さい世界の話だが。

9.2-14 寝ている間に、記憶の挿入も行われている
この辺りまではなんとなく感覚的には、理解可能な範囲だが?ここでさらに情報を付け加えると、たとえば我々が夜、寝ている間に、記憶の挿入も行われているようだ。以下(引用BB;P179)より
『しばしば電磁波が急上昇して体内を駆け巡るのを感じるはずです。これは次の冒険に向かう準備のために、記憶の挿入が行われているのです。
記憶挿入による体験と実際の体験には、ほとんど違いがないことを理解してください。というのは、現実はきわめて創作可能なものなのです。現実はなくなってしまうようにはデザインされていません。現実や文化は何度もくり返して再創造することができるのです。』
(引用BB;P179)
ほとんど“何でもアリ”の世界のようだが、「現実」というものは、“いま”この瞬間に自分が選択した世界で、その“壁”は、我々が常識として理解しているものよりも実際には薄く、あとから加工や修正すら可能なものであり、しかもその上、今は次第に崩壊しつつあるようだ。ただ現実はなくなってしまうようにはデザインされていないそうだから、その点は安心したいが。

9.2-15 地球占領下にも、文明の芽は蒔かれた
話を戻して、先に9.2-7項で、この50万年間地球は乗っ取られていたと記したが、しかしその過酷な占領下?においても、『最初の図書館の最初の図書館プロジェクトに参加していた様々な星によって、地球に様々な文明のタネが蒔かれて』(引用BB;P48)きたという。強固な支配体制の間隙を縫って、9.-2-11項で記したように、ポータルを開けて新たな文明を、挿入してきたのだ。そしてこの50万年の間に『高い理想を達成した文化は、みなゲームマスターによって考え出されたもの』(引用BB;P49)だったという。
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『これらの文明は、五百年、五千年、一万年とさかえました。すると地球を所有している勢力が、なんらかの方法でこれらの文明を追い払うか破壊してしまうのでした。というわけで、これらの文明は地球の所有権を確立するにはいたりませんでした。』(引用BB;P48)エジプトやアトランティス、レムリア、インカなど、一時的にせよ、それぞれが個性ある文明を築いたことはご存じの通りだ。
この「ゲームマスター」という“職業”を、一言であらわせば、『さまざまな現実を調整し、それからその現実を生命体としてさまざまな惑星に挿入すること』(引用BB;P50)にあるという。そこでこの「ゲームマスター」と呼ばれる存在が、果たしてきた役割について、次に見ていきたい。

9.2-16 「ゲームマスター」が意図したこと
 まず、光側の勢力のゲームマスターが、暗黒時代であった?地球のこの時期に、新たな文明を挿入しようと思った動機から確認しておきたい。以下(引用BB;P50)
『ゲームマスターは、地球を取り戻し、生命の価値を教え直すためになんらかの方法を考え出さねばなりませんでした。』
生きた図書館としての地球を再建していくためには、地球の管理者であった人類の目覚めが大きな鍵を握る。いつまでも眠らせておくわけにはいかなかったのだ。原初の地球を計画した創造神たちの後押しも当然あっただろう。
実際問題として、この宇宙には、生きた図書館である地球にアクセスすることができないために死につつある文明がたくさんあるという。(引用BB;P69)『宇宙のコースを変えるために生きた図書館に戻ることを望んでいる文明が数多く存在します。』(引用BB;P78)宇宙の文明同士が、自由に情報を交換し合うことができる場が、ぜひとも必要だったのだ。
それでは当時の属国地球の状況下で、どのようにデザインされた文明を地球人類にむけて挿入しようとしたのだろうか。以下も(引用BB;P50)
『やがて、ひとつの理想的な文明のかたちが、人々の最大の必要性を満たすためにこの地球に生まれました。この惑星にもたらされたもっとも偉大な教えは、すべての人間は平等につくられており、あらゆるかたちの生命が尊重されねばならないという理想でした。この理想は存在のすべてのレベルまで浸透することはできませんでしたが、数多くの社会の慣行として根づいていることは確かです。もちろん、石、樹木、植物、動物、人間を等しく尊重することのできる人々もいました。しかし多くの人々にとって、何を尊重すべきかということになれば、それは自分自身であり、知性をもって行動でき、地球という惑星の素晴らしさをきわめることのできる人間でした。』
元々の地球においては、地球はもちろん人間も動物も植物も樹木も石も、地球上のすべての生きとし生けるものが連携しており、尊敬と調和と協調心のもとにお互い同士高めつつ、かつお互いの自由も表現していくという高い理想のもとに、デザインされてきた。ここが地球の原点だ。
しかし、いきなりこのレベルまでは到底無理だっただろうから、まずは人間同士がお互い平等で、あらゆる生命を尊重しなければならないという理念を持つ、理想にいたるまでの中間的なレベルだが、その時点で許容される最大限度の文明をデザインしたようだ。
次にそれらの、新たな文明の作り方について、より具体的にみていく。この部分は、光も闇側も、大筋同じだと思われる。以下(引用BB;P50~P53)からの引用だ。

9.2-17 「ゲームマスター」たちの、文明の作り方
順番として、まずは全体の青写真(ゲームプラン)を考えるところから始めるようだ。
『ゲームマスターはゲームを考え出し、文明の青写真を腕のいい職人から乞食にいたるまですべてを創造』していく。その文明を構成する、詳細な部分に至るすべてをデザインするのだという。考えただけでも気の遠くなるような作業のはずだ。そして周辺のさまざまな現実と調整したうえで『それからポータルを開けて、文字通りその文化を地球に挿入します。』
そのための手段として、『ゲームマスターたちは活動するための基本的な道具として、音と、光と、幾何学模様を用いる』(引用BB;P298)のだそうだ。まさに異次元の世界だ。
さらにその文明に生きる居住者たちも、『さまざまな星から居住者を連れてきて、これらの文明の種を地球に蒔いたのです。星の存在の遺伝子を地球の人間の遺伝子に合うように調整したあとでこれが実施されました。』このように文明一式を丸ごと作り込み、ポータルを通じて地球の現実のなかに挿入していくようだ。
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ここで特徴的なことがある。『自分自身をも種としてその文明のなかに蒔くのです。彼ら自身が文明と融合し、文明のなかに入って同時にその文明を創造するとき、彼らの文明が完成するということを知っているのです。』どのような立場でその文明に紛れ込んでいるのかは不明だが、自らプランを立てたその文明の中の一員として過ごし、その後の文明の盛衰を見守っていくのだという。
『それからこれらの文化が発達し成長するにまかせ、さらにその文化が別の時代に文化の種を蒔き、別の文化に影響をおよぼすことを許すのです。』そのような法則があるようだ。ただしゲームマスターともなれば、当然多次元の世界に生きる存在だと思うので、ひとつの“分身”のような存在を送り込んでいるのだと思うが、ということは我々の生きているこの世界にも、どこかにゲームマスターが潜んでいることになる。
9.2-17-2 「ゲームマスター」たちの、文明の作り方(その2;妄想編)
なお新たな文明の挿入のような作業は一人でなく『複数のゲームマスターが一緒に集まって』(引用BB;P50)行うのだという。
以下からはまったくの私見というか、全編妄想になるが、今のような、光側と闇側の、両方の勢力が拮抗している世界では、どちらかが一方的に、この現実世界を力ずくで決められる情勢下になく、実際には光と闇という、反対の勢力のゲームマスター同士も、その時々の勢力図を視野に入れ、(やむを得ず)打合せを行いつつ、地球に挿入する“ドラマ”を決めているのではないだろうか。あるいはエネルギーのバランスで、自ずと決まる世界なのだろうか?
両勢力の「ゲームマスター」的立場の方々が、後述する「時間の守り手」、「存在の守り手」や、「ガーディアン」などとも適時確認をとりつつ、全体のゲームプランを進めているような気がする。部分的にみると矛盾だらけながらも全体のバランスは辛くも保ちつつ、それでもある方向に向かって進んでいる、今の現実世界を思うとそのように思えてしまうのだが、いかがだろうか。
さらに、ポータルを通じて挿入されたある物語を、他の存在がその物語を襲い、目的の異なった物語を挿入し破壊することも可能なんだそうだ。(引用AA;P145参考)
なんだかますます、ゲーム感覚であるが、この辺も、COVID‑19と💉による、煙のない第三次世界大戦の人口削減計画+DNAの改変による支配の強化という、闇の勢力側の食料源である恐怖のエネルギーを巨大発生させるという大計画にかぶせた、光側の勢力による水面下の悪魔崇拝者の大量逮捕と金融/社会のリセット+デグラスの実行という、まるで世界観の違う、二本立ての映画が同時に上映されているかのようなこの現実世界を思うと、最近のドラマも、光側と闇側のゲームマスター同士の激しい攻防の産物である気がする。そして清濁併せ飲むような幅の広いトランプさんの性格は、過渡期のゲームをやるうえでは都合がよいような。さらにさらに妄想すれば、この世界線における構図は、別の次元のどこかの宇宙で行われているかけひきと、相似形ではないかと。
しつこいが、更に更に、さらに妄想すれば、以下は(引用BB:P268)より、
『~ 多くの存在は、ある領土を所有するために、あるいは所有する領土に対してより大きな影響力をもつために、複数の時間軸を一緒にまとめます。できるだけ多くの時間軸を接続するか、できるだけ多くの時間を廃止するかのどちらかの方法をとるのですが、それは目的によってことなります。』ここで記されていることを、拡大解釈しつつ妄想すれば、両勢力のかけひきの中で、世界線の調整(取捨選択 ⇒ 一部切り捨て)も行われているのではないだろうか。『思いだしてもらいたいのですが、これからは、「世界はひとつ」ではなくなります。』(引用BB;P118)
たとえば、(a)という世界線では、トランプさんが大統領にならずにそのまま日本をも巻き込む“煙の出る”本格的な第三次世界大戦に突入し、闇側にとっての食料源である恐怖のエネルギーを吸い尽くしつつ滅亡させるが、世界線(b)ではその正反対で、少数ながらすでに、2012年頃の段階でアセンションを達成させて、五次元の新地球に移行させている。
一方、世界線(a)から途中で分岐した?残りの”その他大勢組”?の、世界線(c)=我々が今住んでいる世界線は、実は、光と闇の融合を、いささか荒っぽいシナリオの下で強引に試みた世界線なのだろうか?繰り返しになるが、パンデミック→💉(恐怖による統制社会)の演出という、煙の出ない第三次世界大戦と、水面下での闇側支配勢力の大掃除の同時進行という、両極端の2本の映画が同時上映中になってしまい、結局のところ『エネルギーの巨大な二極化が起きつつ』(引用AA;P220)ある状況だろうか。
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こうなると今、我々が住む、世界線(c)のその先は、魂のレベルでそれぞれが選択した地球へと、再び分離していくしかないのではなかろうか。
『すべての人々が自由を望んでいるわけではありません。光の家族であるあなた方は、自由な新しい地球を創造することになるでしょう。自由を望まない人々も彼ら自身の地球をもつことになるでしょう。分裂があり、別れのときが訪れるでしょう。光の家族には、どんなことであれ強制する必要はないことが理解されています。あなた方はただ調和のなかで協力しあい、お互いを助け合い、お互いを探し求め、慰め合っていくだけなのです。』(引用AA;P122)
『道をつくるのはあなたであることを忘れないでください。その道があなたの気に入らないのなら、新しい道を行けばいいのです。どうぞこの旅行を楽しんでください。』(引用BB;P202)
『全体の一部でないものは存在しません。全体的なデザインとしてあるのは自由意思の地域です。それは限りない交換と相互の影響を創出します。あなた方の仕事は同盟を結び、選択をすることです。』(引用BB;P204)
世界線(c)は、光側のシナリオである世界線(d)と闇側のシナリオの世界線(e)にいったん分離させたのちに、世界線(d)は第2ラウンドとして?別のかたちで、融合を試みることになるのだろうか。
以上、まったくの妄想でした。

9.2-18 「時間の守り手」としての「マヤ族」
 話を戻し、ここでやや唐突だが、「マヤ族」について、触れておく。この項と次の項は余計なコメントは無用だと思うので、抜粋した引用文をそのまま書き写します。興味のある方はぜひ原書をご確認ください。
『私たちは彼ら(注;マヤ族)を「時間の守り手」と呼びます。彼らはもちろんプレアデスのシステムとかかわりがあります。彼らは時間的な出来事のなかに入り、またそこから脱出する名人です。彼らはまた時間の錠をつくる名人でもあります。つまり、彼らは物事を遮断することができ、そうすると、ある出来事が目に前で起きていても、時間の錠がかかっているためにそれが見えないのです。時間の錠は、あなたの意識が現在という時間を知覚するのをさまたげるのです。マヤ族の人々は、今日起きるべき出来事の時間的な土台を築いていきました。』(引用BB;P257)
『彼らはあなた方の宇宙をいくつもの切片にきざみこむことができ、それによってあなた方の宇宙は相互に接続することが可能となります。エネルギーが宇宙のひとつの切片から別な切片へと移動し、一部の切片は分離されたままの状態にとどまります。これが、あなた方が時間として認識しているものです。』(引用BB;P257)以下の3枚の素晴らしい写真は「Kunioの世界の切手紹介と海外写真集」http://kunio.raindrop.jp/stamp-aracart-worldame-cs.htm
よりコピーさせていただいた。
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「時間の守り手」は、「存在の守り手」と呼べれることもあるという。(引用BB;P30)なお、より狭い範囲の、現実の(その世界線の?)責任を負っている存在を、「ガーディアン」と呼ぶそうだ。『一つ一つの現実には、それぞれのガーディアンがいて、異なった時間帯はそれぞれ異なったように管理され、異なったガーディアンがいるということを理解しなければなりません。私たちは、ガーディアンという用語を、中立的な意味で使っています。私たちは、ガーディアンは現実の責任を負っている人で、その現実を他人から守ってくれる人という意味で使っています。』(引用AA4;P91)
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9.2-19 マヤ人が地球の「時間の錠」を開けてくれた
『マヤ族の時間の守り手は、未来の世代であれば理解できるデータを地球に埋めていったのです。彼らは多次元の存在であるがゆえにこれができました。彼らは時間の中を後戻りすることもあれば、前に進むこともでき、横にも進むことができたのです。~
マヤ族の人々は、太陽系のそれよりもさらに巨大な周期の一部であることの自覚にもとづいて、あなた方のシステムのなかに時間を創造し、時間というものを規定したのです。~
実際の話ですが、彼らは宇宙が始まった時へも、また、宇宙が終わった時へも自由自在に移動できるのです。宇宙のすべての部分が機能し、機が熟したときに、すべてが崩壊するのを見届けるのが彼らの仕事なのです。時期尚早に崩壊しないようにするのも彼らの任務です。このようなマヤ族の時間の守り手とのつながりを感じてください。そして、あなた方が発見できるようにと彼らが準備してくれた鍵に対して、あなたの心を開いてください。
現実を取りまく時間の錠は、あなたの家の電灯のスイッチと同じように、つけたり消したりできるのです。』
(引用BB;P259)
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『マヤ族の人々の目的は、地球にやってきて、未来のパラダイムを確立していくことでした。さまざまな文明が、集団の意識によってエネルギーのポータルを開いた状態に保っています。他のさまざまな現実を支持したり維持したりしているエネルギーを、数に限りはあるものの地球に引き寄せることができます。~
 あなた方の意識の鍵はいま、時間の鍵を通り抜けています。それは、マヤの人々が錠を上げてくれているからです。時間の守り手である彼らは、いま地球のいたるところで数多くの時間の錠を開けています。』
(引用BB;P261)・・・ただ感謝しかありません。

9.2-20 数多くの「現実」が融合していく
 宇宙のカレンダーでは「魚座の時代」(支配と隷属、男性的(物質的)な時代)が終わり、「水瓶座の時代」(個の時代、女性的(受容性)な時代)に移ろうとている。『あなた方の一人ひとりは、いま、きわめて深遠な時間の流れのなかにいることを知っています。いろいろな本に書かれて来た時代、到来を囁かれてきた時代、噂されていた時代が、いままさにきています。』(引用AA;P113)
その中で、「時間の守り手」であるマヤ族が、地球上の「時間の錠」を開けていくと、どのような変化が起きるのか。今まで封じ込められていた、複数の文明や数多くの現実が融合していくことが可能になるのだという。以下(引用BB;P263)
『時間の錠は、複数の文明や現実が融合することをさまたげます。時間の錠が開けられ、新しい世界が誕生すると、数多くの現実が融合することになるでしょう。』
9.-2-12項で記したように、“光の勢力”側からすればようやく、生きた図書館としての地球を復興していくための、待ちに待ったタイミングがやってきたのだ。以下(引用AA;P32)の再掲
『すべての現実は固定されたものではなく、したがって、未来も固定されたものではない(いくつかの可能性があるだけです)というわけで、地球にとってのもっと明るい可能性を挿入する機会がいまだと私たちは感じます。』以下(引用AA;P193)より、
『過去において、多くのさまざまな次元が、同時に、この地球に存在していた時代がありました。しかし、この数千年のあいだに、人類が大きな混沌と暗黒に覆われる中で、これらの次元は減退していきました。このような次元、現実、別な言い方をすると、存在の法則が少し異なった場所が、いま、戻りつつあります。あなた方は、これらの次元をこの地球に引っ張り、次元の融合を生み出すことによって、彼らが地球に戻るよう助力することができるのです。』

9.2-21 破壊されなかった「アトランティス文明」もあった(復活の可能性)
「時間の錠」が開けられて、次元間の融合が進んでいくなかで、これから“浮上”してきそうな文明の一つとして、どうやらアトランティス文明がありそうだ。以下(引用BB;P258)
『アトランティスもまた、この現在の時間の枠のためにひとつの情報を挿入していった文明です。思い出してください。すべてのことが現在も進行しており、文明が終わるということはないのです。アトランティス文明は破壊され、もはや存在せず、したがってそれは過去のことであるとあなた方は考えています。それは現実のひとつのヴァージョンにすぎません。実際には破壊されなかったアトランティス文明もあるのです。』
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ゲームマスターの手で挿入された文明の一つであったアトランティス文明にも、複数のバージョンがあり、多くの現実局面で展開されていたのだろう。『すなわち、ひとつのアトランティス文明はさまざまなジレンマを解決し、解決策を見いだしたのです。エネルギーを濫用してみずからを破壊するという道をたどらずにすんだのです。』
以下は引用から外れるが、2021年の10月の半ばごろ、ある情報によれば、この世界線における、地球のポータルを所有する勢力図が変わったという。その結果、いささか唐突な印象を与えつつも「タルタリヤ(Tartaria)帝国」という幻の?大帝国が、自分にとってもそうだが多くの人にとってもいきなり、歴史の表舞台に登場してきた。しかもこの文明は、フリーエネルギーを使用していた高度な文明だったという。現代の日本においても、いきなりテスラタワーもどきの建築物がいくつか出現するなどの影響をおよぼした。そしてこの“幻の大帝国”は、アトランティスの流れをくむ文明だったという説がある。再び引用に戻る。以下(引用BB;P258)
『自分で解決策を見いだしたアトランティスの未来ヴァージョンは、~ 同じような機会に恵まれなかった、または解決策を見つけることができなかった自分のヴァージョンを援助するのです。』別の説によれば、レムリア系だという説もあり、そのルーツに関して、今の段階では判然としないが、このタルタリヤ帝国と、その後継国のような印象を与える現在のロシアが今後どのような形で展開されていくのか、我々の想像をはるかに超えている、ゲームマスターたちが考えたプランの成り行きを、ワクワクしつつ見守っているところだ!
下は北海道・札幌の五稜郭。この星型の濠(水)を周囲に巡らせた造形は、「星形要塞」と呼ばれ、タルタリア文化圏に多く見られるが、実はエネルギーシステムだったと一部でいわれている。
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9.2-22 失われた文明や、古代の神々たちが戻ってくる!?
 そしてアトランティスに限らず、ボータル支配の勢力図が変わり、「時間の錠」が解かれた今、砂漠の砂の下やジャングルの奥深くに、南極の氷の下や大海原の海底深く、長いあいだ埋もれてきたさまざまな年代の文明が浮上してきそうだ。
『世界の地理はすべて知られているとあなた方は思っていますが、実際は、まだ多くが未発見です。それは、多くのものが一つの現実から別な現実へと移動しているからです。~ 未だに発見されていない不思議はたくさんあるのです。』(引用AA;P239)『さまざまな文明が、集団の意識によってエネルギーのポータルを開いた状態に保っています。』(引用BB;P260)『地表の下には数えきれないほどの聖地が埋もれたままで、次元の融合が起きるのを待っています。』(引用BB;P101)
先に引用したように、この世界線では閉じられているが、未来や過去の別の次元の地球には、今も存続している、その文明の別のヴァージョンが、待ちに待ったこのタイミングで、復活させようと働きかけるようなのだ。
 以下(「🌟: クルル 🦋 ルルク :🌟」さんツイッター;引用⑬)より転記
『ボルネオ島が大きくなった。インドネシアあたりの島々が、どんどん大きくなっている。オセアニアの海には、細かい島々が10日くらい前からたくさん現れた。ムー大陸が復活するのではと、思うときがある。』(引用⑬、2020.08.18ツイート)
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『ムー大陸があったとされた場所に、たくさんの島々がどんどん現れている。昨日偶然、ムー大陸は沈んでいなくて、別次元にある。レムリアの民が待っている。と言う記事を読んだ。
 マトリックスにバグが増えてるから(マンデラ)ウソ世界が消えて言って、真実が浮き出してるならすごく嬉しい☆』
(引用⑬、2020.08.21ツイート)
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『色んな人が色んなコトを言っているムー大陸ですが、マンデラエフェクトで現れてる古代にあった大陸(ジーランディア、サフル陸棚)やオーストラロネシア言語圏、アボリジニと縄文人の共通性などを考えるとムー大陸とはこの黄色のエリアの事を指すのでは? 知り得ないことをマンデラは伝えてくれます』(引用㉕、2022.01.16ツイート)マンデラが激しい地帯だ。
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ほかにも、『タルタリアの次は、アステカかな?』(笹原俊さんツイッター、2022.04.01よりhttps://twitter.com/shun_sasahara/status/1509796838878363652)なぜかアステカ文明の記録がたくさん残っている世界線に変わったみたいだという指摘もあり、今後が楽しみだ。
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(AA;P51)からの引用に戻すが、この結果、『さまざまな存在が混じりあって一体となり、さまざまな文化が合体し、多くの“新しい世界の秩序”が導入され、大変な混乱が生ずることになるでしょう。』この状況はマンデラーの方々ならばすでに、実感されていることと思う。
さらに地球の歴史からすれば、“近代”に当たる、これらの文明でなく、地球が属国化された年代よりはるか前に、地球上に文明を築いていた、古代から続く創造神たちが、今後どのようなかたちで登場するのか、興味津々だ。(その復活の“気配”はすでに感じられる?)
選択肢の多い、バラエティーに富んだ世界になることは、今の地球人類にとっても大歓迎だが、しかしその一方で、過去、『地球における問題というのは、つねに、創造神であった』(引用AA;P195)!こともまた、事実だというのだ。

9.2-23 問題はつねに「創造神」!?
『彼らの中には、すでに地球にきているものもいます。~ 大きな援助を与えるためにきている者もあれば、自ら学び、進化するためにきている者もいます。あまりよくない意図をもっていない者もいます。』(引用AA;P69)もうすでに、地球にお住まいのようだ。そしてその方々は、今の我々からすれば抜群の知能を備えた存在であるに違いない。
『これらの存在が地球に戻ってくるとき、多くの人たちは彼らを見て次のようにいうでしょう。「これは素晴らしい神々だ。まったくすごい存在だ。彼らは最高だ。彼らの能力は実に素晴らしい」。これらの創造神のなかには、あなたの世界を癒し、救ってくれるように思われる存在もいるでしょう。
ここが誤解されやすいところで、より大きな全体像を見失ってしまいがちなところです。彼らは一見したところあなた方の世界を救うためにやってくるように見えますが、実際は、彼らは権威と支配の新しい形態を作り出すだけです。』
(引用AA;P75)

9.2-24 答えを自分の外に探すように操られてきた
豊富な知識と経験を誇る偉大な存在たちで、我々地球人類からすれば、得られる知識や情報は貴重なものだし、霊性の高い存在からの導きは、これからも必要だと思う。しかしその一方で、同じ歴史の繰り返しで終わってしまう可能性もあり得るのだ。以下(引用AA;P78)
『あなた方は、答えを自分の外に探すように操られてきました。新しい神々が登場すれば、あなた方は先を争うようにして彼らを崇拝するでしょう。』
最近の💉の状況を思えば、今の地球人は、内側(自己免疫力)に解決策を求めるのではなく、外側に頼る傾向がまだ強い。一方、一部の創造神側にも、意外と人間臭いところがあり?崇め讃えられれば、やはり悪い気はしないようなのだ。『あなた方は、神についてもっている愚かしい考えを捨てなければなりません。つまり、特別な才能や能力をもった存在が空から地球に降りてきて、彼らは、皆、霊的な存在であるという考えです。』(引用BB;P169)「特別な才能や能力をもった存在」=「霊性が高い」ではない場合もあるようなのだ。『師を祭壇にまつりあげるのは無駄なことです。彼らはそこから落ちるしかないのですから。』(引用BB;P98)・・・「プレアデス+」の存在たちは、自らも人類に対しての創造神の一人でもあったのだが、自戒を込めてだと思うが、「創造神」に対してかなり手厳しい。
しかし、創造神自身にとっても、地球の民とかかわることで、ときには大きなジレンマを抱え込んでしまう場合があるのだという。

9.2-25 「創造神」たちが抱え込んだジレンマ
『あなた方の祖先である神々も、ある程度はこの罠にはまってしまいました。彼らの被造物に崇められたために、このゲームによって力づけられ、被造物のために存在することにしたのです。しかし、やがてこの神々も自分たちが罠にはまって、それ以上前進できない状態にあることに気づきました。』(引用BB;P134)いつのまにか、相互依存の関係ができ上ってしまい、お互いの成長を妨げ合う事態に陥りがちのようだ。
この項で引用している『プレアデス+』の存在にとっても、ある一面では同じような事情があったようだ。
『私たちの祖先は、あなた方が非常に数多くの変化をとげてくるなかで援助の手を差し延べてきただけでなく、地球に混乱を引き起こしてきました。あなた方はプレアデスから二種類の影響を受けてきたのです。プレアデスが与えた影響の記録を見てみると、プレアデスのエネルギーは地球では愛され、尊重されており、地球上の文化でプレアデスに対して否定的な感情をもっているものはほとんどないことがわかります。しかし、はるか昔にプレアデスのエネルギーが人間の遺伝子系列を操作し、また爬虫類ともつながりをもっていたということは私たちも認めざるを得ないのです。私たちがいまこの時間に戻ってきて癒そうとしているのは、このことにほかなりません。それこそ、私たちが地球にきている目的なのです。』(引用BB;P41)過去のある時期のプレアデスの存在たちが犯した過ちが、未来のプレアデス人の身にカルマとして跳ね返ってきているようなのだ。
『別ないい方をすると、私たちが創造したすべての存在に、私たちのもっている能力と権利のすべてを与えるまでは、創造者として進化することはできないのです。自分が創造したものを、制限したりコントロールしたりすることは許されないのです。これが私たちのジレンマです。~ あなた方が創造者としての自分自身の体験を発見するのを待っているのです。』(引用BB;P43)『私たちが自分たちの進化の道をさらに遠くまで進んでいくためには、そしてエネルギーと、意味と、生命の新しい形態を探し求める旅を歩みつづけるためには、私たちが創造し、始動させたすべての生命形態に、私たちが享受したいと思っているのと同じだけの自由を保証してやらなければならないのです。』(引用BB;P57)
実際にははるかに奥深い内容があり、自分の今の頭(二重螺旋のDNA構造)では到底表現しきれないので、詳しくはぜひ、本書を読んで確認していただきたい。非常に簡略化していえば、「今まで深く、子育てに関与してきたが、独り立ちさせなければならない(「子離れ」しなければならない)時期にきた」、ということのようだ。
裏を返せば、地球人類側にも「親離れ」が必要で、外側の「権威」に依存するのでなく、自分たちが主権をもち、内側(自分)に答えを求め、解決していく時代へと移ったのだ。
ただ個人的な気持ちとしては、数多くの宇宙的な存在たちが、今、このタイミングで、地球にきているという本当の真意を明かしてくれない(もっとも彼ら側からすれば、そこまでの親しさがないのだから、礼儀としても当たり前なんだと思うが)中で、オープンな姿勢で接してくれる「プレアデス+」のエネルギーが好きです。

9.2-26 生命と権力の濫用の結果、自らを羽交い絞めにした!
話を戻し、一方、ここ50万年のあいだ、地球を乗っとり属国化してきた創造神(一般に「アヌンナキ」として知られている存在)にとっては、事態はより深刻のようだ。宇宙の中でも一等地であった『地球上の現実を襲い、そこで生じる感情的混乱を食事とし、それによって生命を保ち活動をつづけ、自らを太らせてきた』(引用AA;P256)ことは何度も記したとおりだ。
しかし自分たちの価値観でみた場合、このプロジェクトは一見大成功をおさめたかに思えたのだが、いくら自由意思の宇宙といえども『干渉については神聖な決まり』というものがあった。『数多くの存在が、この法則を破り、地球に干渉しました』(引用AA;P169)。『彼らは存在の網を尊重せず、時間の回廊を通り抜け、好き勝手なことを』(引用BB;P267)やってしまったのだ。ほどほどにして、手を引いておけばよかったのだが?なまじ成功し過ぎたためにやり過ぎてしまい、『力を用いることによって現実を操作したり超越したりすることにかかわればかかわるほど、さらなる深みにまで落ちて』(引用BB;P44)しまうようなのだ。
『これらのエネルギーにかかわっている存在たちは、非常に理想的な高みから落ちてしまった存在なのです。その高みにあったとき、おそらくは間違った、あるいは不適切な決定をくだしたために、自分を高みまで引き上げてくれる現実を建設する能力を失ってしまったのです。』
エンキとエンリルの話として一部では有名だが、ことの発端として、以下のような逸話がある。『はるか離れた大帝国の一属国になってしまった地球を想像してみてください。ひょっとしたら、その帝国の支配者が子供たちを扱いかねて、「地球にでも行って少し遊んでこい」といったのかもしれません。子供に対してこういったとき、神々は自分たちが始動させていることが、やがて彼らをはがいじめにすることになるだろうとは思ってもみませんでした。神々の子供たちは、黄金や遺伝学、そして血をいじりまわし、女性の力をもてあそびはじめたとき、自分たちが何をつくっているのか全然わかっていませんでした。』(引用BB;P41)結果として、地球&人類と共に創造神自身も、抱き合わせで羽交い絞め状態にされてしまったのだ。以下(引用BB;P128)
『ある時点においては、それは歴史をはるかさかのぼった昔のことですが、爬虫類の家族はきわめて情け深い、精神の高揚をもたらしてくれる人種でした。』数多くの創造神の中でも、昔はとても崇高な存在であったのだが、それから長い戦いの年月を経て、ほんの気まぐれのつもりで掘った小さな穴が次第に大きくなり、最後にはその穴に自ら嵌り、抜け出せなくなってしまったような話だろうか。カルマの法則からすれば、『生命と権力を濫用すれば、それと同じ体験を被害者として体験することに』(引用BB;P80)なってしまうのだ。
そして、この解決の糸口として、皮肉なことに、この創造神により、一定の低い周波数の範囲で反応する(たとえば“洗脳装置”であるTVのニュースとか)、奴隷の存在に堕とされてしまった我々人類の、進化というか再生が、どうやら一つの鍵をにぎっているらしいのだ。
ただその話の前に、ここ50万年ほどの地球のほとんどを支配してきた、ハッキリ言ってしまえば爬虫類の創造神は、実は地球を「生きた図書館」にするという、プロジェクトの創成期に、深くかかわりがあった存在であった。このことを確認しておきたい。

9.2-27 人類の祖先は、爬虫類の意識と深くかかわりがあった
最近では、比較的知られていることだと思うが、我々の先祖の家系図をさかのぼっていくと、爬虫類の存在とのかかわりに、たどり着くといわれている。(引用BB;P127)より、以下要約で引用する。
爬虫類の人種は、あなたの祖先の系譜の不可欠な部分なのだ。彼らは畏敬の念を起こさせるような恐ろしい、そして優雅な意識の集合体である。というのは、彼らは多くの存在がひとつになったものだからだ。爬虫類はあなたを、あなた自身の遺産・過去の深い根っこと結びつけてくれる存在の一側面であると理解することが大切である。
 爬虫類のエネルギーは創造神からきていることを理解してほしい。彼らは最初に地球を計画した存在たちが生きた図書館をデザインするのを手伝った、すぐれた遺伝子学者であった。彼らは古代から存在する人種であり、意識のある生物を創造することにおいて非常にすぐれた存在である。彼らはそもそも地球において人間をつくり出すことを考えた存在の仲間なのだ。
 遺伝的に生命を調整する能力において、彼らはその他の数多くの輝かしい能力をもった存在をはるかに凌駕している。存在の無限な広がりのなかで、爬虫類の家族は創造者として知られており、生命形態の遺伝子の構造を組織する責任を負っているのだ。(以上、要約終わり)
しかし何度も記すがその後、創造神たちは分離と戦いの旅に出て、長い年月の果てに、かつて自分たちの祖先がかかわったプロジェクトの星でもあった、自分たちの帝国からは遠く離れた地球を属国化していったのだ。
しかし、『爬虫類の影響力があなた方の生物としての構造の核心にあり、いまこの存在があなた方の意識によみがえりつつあるのです。彼らはおもちゃとして登場し、映画やテレビ番組に登場し、広告でもかっこよく描かれ、あえて思い出す選択をしている人々に名前を貸しているのです。彼らは、表現され、愛され、癒され、統合され、受け入れられる必要のある自我の一部としての潜在意識から発しているのです。あなた方の霊的な自我、生物としての自我がこのプロセスの鍵を握っています。』(引用BB;P128)確かにマンデラでも、爬虫類系の話題はよく出てくる。

9.2-28 爬虫類の存在は、人類の祖先として認識されることを願っている
『あなた方は自由意思をもった、その他の分離した、ユニークで古典的な生物を発見しつつあり、結局みなひとつなのだということを悟りつつあるのです。数えきれないほどの生物があなた方の世界に姿をあらわし、内なる真実にいたる障害を取りはずしつつあるいまこそ、知性の無限の独自性を承認すべきでしょう。
古代の爬虫類の祖先は、いったん現存する存在として認識され、承認されれば、彼らがこれまで演じてきた役割から解放されるでしょう。』
(引用BB;P128)
『巨大トカゲペット、アルゼンチンレッドテグドーゲ』(引用⑮、2022.02.23リツイート)これがこれからの、お互いの一つのかたちなのだろうか。共に、癒しを求めているのだ。
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以下は個人的な意見もかなり入るが、まずは人類と、爬虫類の創造神とのつながりのすべてを、隠ぺいせずに明らかにすることが先決で、その事実を確認したうえで、お互いの存在を認め合うことが必要だとしている。光とは情報を促進し、伝え、分かち合うもので、暗闇とは、情報を支配し、情報を抑える力として作用する(引用AA;P119参考)。闇側の論理だけでは解決できない、光と愛のエネルギーを注ぐことで、情報がオープンにされることではじめて、爬虫類の創造神も人類も、共に癒しが得られて、子離れと親離れが同時に可能になるのだ。個人的には、爬虫類の創造神に限らず、人類創世から現在に至る歴史のすべてを、オープンにすべきだと思う。できればほかの世界線や次元に無数存在しているはずの、ほかの地球の状況も含めて!!
 下の画像は「世界一謎めいている図書館」と呼ばれている、バチカン教皇庁図書館。今まで封印された情報の開示が今後、期待されている場所だ。
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https://livedoor.sp.blogimg.jp/karapaia_zaeega/imgs/6/1/61180d18.jpg
以上のことは、過去から未来に至る、爬虫類と人類の、お互いの種、全体としての癒しについてだが、現在の爬虫類の創造主と人類とのかかわりについては、今まで記してきたように、別の大きな問題が立ちはだかる。以下(引用AA;P48)より、

9.2-29 地球を支配してきた「創造神」の学び(「手放す」ことを学ぶ)
『現在、地球を所有している者たちが食料としている恐怖、心配、混乱、飢餓、落胆を除去しなければなりません。』今はその状況から脱しつつあるところだが?電磁波でコントロールされていて、ある一定の現実のスペクトルのなかだけでしか体験を想像できなくなっていた、地球人類が発する、負のエネルギーを食料源にしていることは、何度も記した。ここが根本原因で、地球と人類の進化を抑圧しているのみならず、創造神側からしても、進化を拒む大きな要因であるのだ。(※ここから先は意訳と想像の部分も入るので、正しくは原書を読み、判断してください。)
 まず前提として、ここでもっとも避けるべきことは、50万年前の再現で、争いで解決を目指すことだ。『~ 光と闇の戦いは、あなたのためになるものではありません。それは分離の物語であり、あなた方を混乱した状態に止めておくものです。実際には、個々人の魂のさまざまな側面が、さまざまにかたちを変えて、自分自身と争っているだけです。自分自身と戦っているのです。光と闇の戦い、善と悪の戦いは、あなた方自身のさまざまな部分同士の戦いにすぎません。』(引用AA;P119)この一文にある「あなた方自身のさまざまな部分同士の戦いにすぎない」という部分については9.2-38、-39項で補足を試みる。
この宇宙は分離ではなく、集合すべき局面に、すでに入ってきているのだ。『地球の計画を最初に立てた存在たちは、宇宙全体の見地からすれば、彼らのプロジェクトを奪った創造神を許し、理解することが彼らにとっての教訓であることを知っていました。』(引用AA;P47)我々人類以上に、創造神たちも身にしみてわかっていることなのだ。
『いかなる進化の旅であっても、その真髄は、経験したことすべてを統合することであり、光と影を受容することにあります。』(引用BB;P219)では具体的に、何をどうすべきなのか。ここで「プレアデス+」の存在はいう。
『感情こそ食料の根源です。食料源を愛にしている存在がいます。原初の立案者たちは地球の周波数を愛に変えようと意図しています。』(引用AA;P48)愛や平和、調和といった、高い周波数のエネルギーに、食料源を変えていただければよいのだ。
確かに彼らも、『もし、周波数を換えなければ滅亡していく時期』(引用AA;P48)に差し掛かっていることは十分承知している。
しかし、言うは易しで、『自らの一部を放棄し、自分自身のプロジェクトに安住し、それを溺愛して』(引用AA;P65)いる立場からすれば、180度の方向転換は、そう簡単なことではないに違いない。より具体的には、誰がどうしたら達成できるのか。
ここで「プレアデス+」の存在はさらにいう、『この食料源を除去するのは誰だと思いますか。あなたです!』(引用AA;P48)がーん!なんと、我々人類の役割だというのだ!!!

9.2.30「根本創造主」からの宇宙の光を受けとめる
 しかし、そのあとに続く文章を以下要約すると、『人々を説得して考えを改めさせるというのは、あなた方の仕事ではなく、ただ、入れ物としての役割を果たすだけだ。人間としての肉体のなかに創造の宇宙光線を受け入れるだけで、ある一つの過程があなたのなかで起きることを許す』(引用AA;P48要約)だけで良いそうです。
宇宙的なカレンダーにある「魚座の時代」が終わり、「水瓶座の時代」に移ろうとしつつある中で、「時間の錠」が開られて、時間の回廊や地球上のボータルの支配者が変わりつつあり、空の天蓋も取り払われつつある。こうした状況変化の中で地球に向かって宇宙から、愛と光のエネルギーが注がれるようになり、我々はそのエネルギーを受けとめるようになれば良いだけのようだ。(別に何かの反対デモに参加して意思表示する必要まではなさそうだ。)
しかも今回の、その“宇宙光線”は強力なもののようなのだ。『根本創造主と原初の計画立案者から送られてくる創造の宇宙光線は、この周波数防御壁を貫いて地球に届いています。この光線は地球を爆撃しているのです。しかし、この光線を誰かが受け止めなければなりません。』なんと今回は、異例なことに「根本創造主」の協力も得られているのだという。その“効能”として、光のエネルギーを受けとめることで、次元転換の際に安定要因としての役割を果たすことになり(引用BB;P34等)、それによって、地球に高い周波数が固定されることになるのだという。しかし、関与に関しては、宇宙の神聖な法則があり、この作業は地球人自身がやるしか方法がないのだ。

我々の時間の未来に生きている「プレアデス+」の存在たちは、自らに降りかかろうとしていた危機を解決するための、その糸口を得ようとさらに未来に旅し、そこで「存在の守り手(あるいは「時間の守り手」)、マヤの人々など」と出会ったという。さらに『原初の計画者たちは、根本創造主に地球への関心を向けてくれるように特別に依頼』(引用AA;P79)したのだという。
大きな計画のなかの一部として、地球を宇宙の生きた図書館として再興するプロジェクトが動かされているようだ。あるいは、爬虫類の意識の一部も、自らの種,全体としての存亡の危機を打開するために、そのプロジェクトの中に加わっているのかもしれない。『あなた方の惑星を所有し、この惑星を支配する神であると自称する存在たちも愛について学びつつあります。』(引用BB;P91)という。
我々が受け持つポジションとしては、「全体の計画の中に多数ある小さな計画の中のそのまた一部の、さらに末端の役割」ぐらいなんだと思うが、しかしその計画はたぶん、神聖なもので、われわれは小さいながらもその中で、重要な役割を担っていることは間違いない。
 ただし我々が、その光のエネルギーを十分受け止められるようになるためには、これから乗り越えなければならない課題もいくつかあるようだ。ここから先は、ますますワカラナイ領域に突入していく。読みが浅いため、引用文が大半になってしまうことを承知いただきたい。以下は(引用AA;P59)より

9.2-31 現在、「DNAの修復」(肉体の作り替え)が行われている
『いま現在、地球に存在することのもっとも心ときめく側面の一つは、あなた方のDNAの組み換えが行われているということです。宇宙光線が地球に注がれ、変化が生ずるだろうことが地球に住む人々に知らされ、肉体の再編成が始まっています。』既述のようにDNAの螺旋を構成する光コードのフィラメントをばらばらに切断されてしまったが(9.-2-8項参照)、『根本創造主から発せられる電磁波のエネルギー』(引用AA;P59)である、コード化された光線が、光子(フォトン)として地球に注ぎこまれ、人間の肉体に刺激を与え、変化と再編成を引き起こし(引用BB;P45)、新しいDNAの束が形成されつつあるのだという。『科学者たちが、”ジャンクDNA”と呼んでいるものは、長いあいだあなた方の身体のなかで眠ってきましたが、~ 特別な知覚を宿しています。この知覚こそ、あなた方が、すべてを知覚する存在、すなわち、四次元の存在になることを可能にしてくれるものです。このDNAの目覚めによって、あなた方の視覚が変わり、聴覚が変わり、寿命が長くなるなど実にさまざまな変化が起きます。科学者たちにとって謎の存在であった、DNAの眠っていた部分が、いま、目覚めようとしているのです。』(引用AA4;P87)
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しかしその一方で、再び進化の流れに乗ろうとするのを阻止するかのように、例の💉接種によるDNA構造改変とチップや謎の微生物等異物挿入+5G等による支配構造の継続と強化も同時進行しており、人類のDNA構造支配の覇権をめぐり、激しい攻防が今も続いている。『この戦いは誰の周波数が、この惑星を支配し、誰があなた方を所有し、操作し、訓練するのかということがかかった大戦争だからです。』(引用AA;P288)そして別の勢力側の視点(人類=自由を与えることなく、隷属させる奴隷)からすれば、こちらの方向もまた、“進化”の過程なのであろうか。

9.2-32 原初の「地球を生きた図書館にする計画」が復活した
 9.2-4項で記したとおり、原初の計画では、地球は「銀河系宇宙間の情報交換センター」(生きた図書館)のひとつとして計画されてきたが、50万年前に乗っ取られてしまい(9.2-7項)、人体構造は劣化改変させられてしまったが(9.2-8項)、再びもとに戻されようとしている(9.2-31項)。ということはこれから、地球を生きた図書館にするという元々のプランが復活していくことになる。以下、(引用AA;P101)より
『遺伝子の十二の束は、数多くの他の存在の代表、あるいは情報源と結び付いていて、それらの数もまた、十二でした。思い出してください。現実は現実を映し出すのです。十二の情報の束は、人間の体内、および体外にあるそれぞれの情報センターと人間を結び付けていたのです。
 地球は、いま、本来の目的と連結しつつあり、こうすることによって、原初の計画立案者たちが地球に戻り、人間の十二の螺旋を活性化して、地球を本来の道に戻そうとしています。
遺伝子の十二の束は、数多くの他の存在の代表、あるいは情報源と結び付いていて、それらの数もまた、十二でした。思い出してください。現実は現実を映し出すのです。十二の情報の束は、人間の体内、および体外にあるそれぞれの情報センターと人間を結び付けていたのです。』
正確に言えば順番は、生きた図書館としての地球を復活させるために、地球の管理人であり、図書館への入門カード役であった人間の機能を(9.2-6項参照)復活させようとしているのだ。
『人間が本来のあり方で存在し、様々な現実を理解できたとき、多次元で同時に存在することができました。すなわち、神々と等しく一体でいることが可能だったのです。あなた方は、この本来のあり方を自分自身のなかに目覚めさせようとしています。』(引用AA;P56)
 しかしこの計画を、“完全復活”させるためには、さらに、いくつかの大きな壁が立ちはだかるようだ。
これからの我々人類が、再び進化の過程をたどっていくうえで、越えなければいけない最大のハードルは、現在進行形である「人体改造」の延長線上にある、「多次元の人間になる」ことのようだ。
多次元人間となると、肉体と魂が分離していることが前提となるが、その“魂”の話に移る前にわき道に逸れるが、ここで確認しておきたいことがある。そもそも今の地球の人類の身体には、どのような魂が宿っているのだろうか。しかしこの“魂”の問題になると、宗教的な見地からも、詳しい方々がたくさんおられるので、次の項(9.2-33)は特に、突っこみどころ満載になると思います?

9.2-33 地球人類に宿る魂
 まずこの話は、肉体と、魂が分離しているという前提に立つが、参考として以下(引用BB;P170)と(引用AA;P290)
『あなたの肉体は周波数の装置として存在します。あなた方は骨と肉の存在であると考えていますが、実際は知的な電磁波の信号の組み合わせなのです。』『精神の身体と肉体は平行していて、感情の身体と魂の身体が平行しています。魂の身体は非物質的なものであり、あなたは物質的なレベルに押し込められているので、非物質の世界にアクセスするには、あなたの感情を通る必要があります。』なにやら難しいが、ここでいう、「魂の身体」の部分を、とりあえず今回は「魂」だと解釈しておく。読みが浅くてなんだか違うかもしれないが?これ以上考えてもますますわからなくなりそうなので、話を前に進める! 
一大変革期を迎えた現在の地球は、その大イヴェントの場に参加することで大きな覚醒が得られるため、何百万という、多数の宇宙人(の魂)が地球にやって来ているようだ。以下(引用BB;P79)
『あなた方の世界が霊的な進化をとげるプロセスにあるときには、地球という図書館に一度でもかかわったことのある存在であればだれでも宇宙的な壮大な飛躍をとげる機会なのです。そういうわけで、数多くの存在がはるか彼方からこのドラマに参加するために地球にきています。彼らには彼らの予定があり、計画のなかで別の計画が進行しています。(あなた方がマイナスとみなす種も)彼らは地球に癒しのためにきているのです。光と愛の波動のなかに自らを注ぎこみ、彼ら自身の種のあり方においてより高い状態に到達しようとしているのです。その理由は、地球に住む存在たちが忘れてしまったように、彼らもまたすべてはひとつであるということを忘れてしまったからです。』
今回地球に大勢の宇宙人が集まった、もう一つの理由がある。『根本創造主のエネルギーと一緒に仕事をすれば、誰でも豊かな意識を達成できる可能性がきわめて高いことを知っていたからです。』(引用AA;P158)今回の“宇宙のパーティー”は、成功する確率が高いとみなされているのだ。
ただその“参加”の方法には、いくつか種類があるようだ。『数多くの地球外生物は、その分子構造を変えて、人間のかたちをとって地球にやってくるにはどうすればよいかを知っています。』(引用AA;P153)人間などに変装して参加する場合もあれば、観客席から見守りつつ、立ち会う場合もあるようだ。『地球がこれからさまざまな体験を推し進めていくとき、肉体のない数多くの存在が、エーテル会の観覧席にすわって、因果の法則がつぎつぎと展開されるさまを見物することになるでしょう。』(引用BB;P302)そもそも多次元的な存在なので、魂の分身のような存在が観覧しているのでしょう?
一方人間などに“変装”して参加する際にも、最初から宇宙人としての自己を認識して参加する場合と、周波数コントロールされた三次元の重たい現実のなかで以前の過程の記憶がいったん消去され、地球人と同じ法則の下で行動していく中で、地球人と共に“進化”を成し遂げながら、自分が実は他の星からきた存在だったということを理解し、地球の通過儀礼に立ち会い覚醒を得る、という、より複雑なパターンの場合もあるようだ。しかも後者の場合、地球人に転生したけれど『二回に一回は、その意図がなんであったのかを忘れて』(引用AA;P234)しまうものらしい!本来の自分が誰であるかを忘れてしまった魂は、そのことをまず、思い出すことが必要になる。
これに対して多数派である“一般参加”?の、われわれ地球人類の魂も、通過儀礼を迎えつつあるこの時期の地球に魂として宿ることは、大きな成長が期待できるため、“参加希望者”が多く、その中から特に選ばれた“魂”なのだと、この本の一節でも、他の多くの本でも記されている。ご存じの方も多いと思いますが。
ということで、高い競争率の中から選ばれた、今の地球人類の魂だが、では、どのような参加者が多いのだろうか。誤解を招くかもしれないが、そのまま引用すると、『すべての人が新しい地球の誕生を見るためにここにやってきたわけではありません。~ いまという時代に地球にやってきた人の多くは、死とはどういうことかを理解するという目的でやってきたのです。彼らはアストラル界の低い局面に抑えこまれ、周波数をコントロールされてきた人たちです。』(引用BB;P308)
以上の(引用BB)の文章は今から27年前(1995年)に書かれた本の一節であることを追記しておく。『この意識の道を旅することができない存在もいますが、それはそれでよいのです。』(引用AA;P115)何度も記しておくが、(引用AA)は30年前(1992年)の本で、多くの時がすでに経過している。
しかし、高次の存在から見ると『これまでもっていなかった新しいものの見方を身につけて去っていくのがわかる』(引用BB;P308)のだという。魂の成長としてみた場合、大きな成果が得られたのだ。
したがって、次項で記すような、多次元世界を認識するような、意識のヴァージョンアップを、『地球に住むすべての人々が、いま、このような体験をしているわけではありません。というのは、あなた方のすべてが、いまという時期に反応するようにコード化されていないからです。あなた方の一人ひとりが、それぞれ、ある命令を受けてきているのです。』ということはたぶん、それぞれの魂(人)が地球に来た目的を、無意識のうちに行動していることになる。
しかも、変化を体験することを目的とした魂でも、『人それぞれ、異なったタイミングで、これらの変化を体験することに』なるのだという。その理由は、『一度にこのような変化を起こしたのでは、うまくいかないのです。そんなことをすれば混乱が生じてしまうでしょう。一定の秩序が必要です。』(以上、引用AA;P90)混乱が生じないように、世界線や多次元間の移動や融合を、個別に調整しているのだろうか?
さらに上記のように、時期が来たら反応するように、あらかじめコード化された存在であっても、『実際に変化をとげるかどうかはそれぞれの自由意思による選択にまかされています。』(引用BB;P34)どの道を選ぶのか、そしてどこまで進むかの最終判断は、自分で行うもののようだ。
さらにさらに、ややこしい問題がある。『世界はエネルギーによって構成されています。そして、エネルギーは、その世界に参加している者が抱く考えによって形つくられています。~ あなたは周波数であり、エネルギーです。』(引用AA;P219)人類の集合意識というものがあるが、『大変化が起きるためには、一般の人の意識の目覚めが必要』(引用BB;P37)なんだという。集合意識の覚醒も必要なようだ。しかしそもそも、“覚醒の度合い”などわかるのだろうか。
『地球を創造した神々は、人間の意識の進化を測定できるクロノメーターと呼ばれる装置を埋め込んでいきました。十分な数の人間が目を覚まして、クロノメーターを刺激すると、地球上で新しいデータが開かれるのです。それは百万人目の入場者が商品をもらうのと同じようなものです。ただ違うのは、一人の人だけが賞をもらうのではなく、地球上の十分な数の人間が彼らの青写真にしたがって行動できるようになると、一般の人々の意識がとつぜん開かれるのです。』(引用BB;P98)・・・わかるようなのだ。
そのうえ、さらに×3、以下のような複雑な仕組みもあるようだ。どんどん深みに嵌っていくようだが!よく理解できていないので、貼っておくだけになるが、わかる人にはわかる世界かもしれない?以下(引用BB;P263)より、
『いくつもの層からなるグリッドワーク(宇宙エネルギーのネットワーク)が世界を取り囲んでいます。これらのグリッドワークが動かされると、さまざまな現実が創造され、さまざまなエネルギーが生まれます。グリッドワークが動かされると、現在・過去・未来の世界に同時にはいることができるのです。』この“グリッドワーク”なるものを動かせるか否かが、一つの鍵になるようだ。このことと、9.2-30で記した、「「根本創造主」からの宇宙の光を受けとめる」がどのようにリンクするのか、不明だ。関連する情報として、以下は(引用AA;P238)より、
『現在、地球のグリッドワークに浸透している魂の聖職者集団のメンバー数は14万4千人です。それぞれのマスターが光の言語の一部を表す言語の一部を表す独自の象徴記号をもっています。そして、14万4千の象徴記号からなるエネルギーが、いずれあなた方の存在の中に注ぎこまれることになるでしょう。まず最初に、あなた方の身体が保持できる十二のかたちから始まることになります。そのずっと後になってから、つまり大転換が起きてから、14万4千の象徴言語構造のすべてがあなた方の存在に注入されることになるでしょう。その展開はこの人生においては説明することすら不可能です。』自分にも当然、「説明することすら不可能な世界」だが、たとえば後述する地球の通過儀礼(9.2-35項)を経て、次元上昇を果たし無事新地球へと移行した際の、移動先の次元に違いかあるのだろうか(たとえば五次元より高次とか)?話を戻す。
『人が地球という舞台から退場していくとき、その人がそうする機はまさに熟していて、完璧なタイミングなのだということがわかるでしょう。そうです。さまざまな出来事がすべて計画されているのです。しかし、その計画にマッチした意識がなければ出来事は展開されないのです。』(引用BB;P309)何ともコメントし難いが、それぞれの魂が、予め目的をもち、この地球で開催される一大イヴェントに参加しているが、自らの魂の進化と、集合意識の覚醒度合いもよるが、どの道を歩むのか、その決断はあくまで、自分自身が下していくしかない、ということであろうか。
ちなみに、“入れ物”の方の人間の肉体について、『理解してほしいのですが、人間をつくるにはさまざまな方法があるのです。』(引用BB;P186)いずれ、デグラス(機密情報の情報開示)があるだろうが、人間の身体の、その多様な“製造方法”とその実態について、開示があるその時は、覚悟しておいた方がよさそうだ。

話を戻し、そしてこの、それぞれの魂の目的と行動の違いが、マンデラエフェクトを認識する際の、個人差が生じる一因にもなっているように思う。地球のプロジェクトにさまざまな形で関与してきた創造神たちや、ゲームマスター、存在の守り手たちが設定した「地球の通過儀礼」という現在進行形の大舞台の中で、それぞれが演じている役割と、各自の行動が、異なっているからではないのだろうか。(私見です。)

9.2.34「多次元の人間」とは?(その概要)
話を戻し、9.-2.32項の続きです。「多次元の人間」とは、いったいどのような人間のことを言うのか。以下(引用AA;P114)より『多次元の人間とは、同時にいくつもの異なった場所に意識的に存在する人間です。人間は突然変異を起こしつつあります。別な言い方をすると、人間は一つの次元から別な次元にチャンネルを切り替えることができ、自己存在の偉大さを理解できる存在に進化をとげつつあります。つまり、肉体だけが自分の存在のすべてではないということを理解するようになります。人間は、オーラ、あるいは霊体だけで終わる存在ではありません。人間は多くの異なった次元で存在します。』周波数コントロール下の三次元世界では、一度に一つの現実に焦点を合わせるだけだったのだから、それに比べればなかなかハードルが高そうだが!!しかし、
『もしも、あなた方がこのゲームを真面目にプレーするつもりであるならば、多次元の世界は行かなければならないところです。多次元の現実においては、あなた方は様々な自己存在を同時に保持し、しかも焦点を合わせることを学ばねければなりません。』(引用AA;P203)ここは、避けては通れない関門のようだ。
『神聖な道とは、意識の進化を求めるものです。』(引用AA;P194)絶えず進化を目指していかねばならないようで、『ただぶらぶらして何かが起きるのを待っているふりをしている自分をどうにかしなければなりません。』(引用BB;P207)!
『多次元の自己と出会い、~ 空間と時間を超えて、つねに拡大しつつある現在のなかに存在する知性の集合体を完璧に理解し、体験し、遭遇し、そして、その集合体と融合することを意味します。』(引用AA;P124)9.2-38、39項で後述するが、多次元の自己を融合するところまで到達することが、当面の目標のようだ。

 ところで多次元の存在になるということは、実は原初の人間に戻るということでもある。『人間が本来のあり方で存在し、様々な現実を理解できたとき、多次元で同時に存在することができました。』(引用AA;P56)のだから、そこが、本来の人としての、あるべき姿であるのだ。
そしてさらに大枠にある、宇宙全体における「神聖な計画」の中にあっては、いったん退化させられた人類を再び進化させて多次元人間化させる目的として、「銀河宇宙からの光のエネルギーを受けとめる存在」(9.2-30項)にさせることや、「生きた図書館の一部」として機能させることにある(9.2-32項)ことはすでに記した。しかしそれ以外にも、いくつか目的があるようだ。すべてが微妙に結びついており、内容がかぶる部分もあるかもしれないが、自分が理解した範囲で以下、順不同で記していく。まずは、「生きた図書館」の部分とも被るが、いま迎えつつある、「地球の通過儀礼」との関連性について。

9.2-35「地球の通過儀礼」と、どのように向き合うのか
 何度もくり返すが、地球は宇宙の銀河系の情報交換センター(数多くある銀河のデータを貯蔵する巨大な図書館のシステムの一部=生きた図書館→その管理人役が人間)になる予定だった(9.2-4項)。
さらに地球というシステムが、自由意思地帯としてデザインされていて、ここでは、すべてのものがお互いに結び付いていて、協調しあっていることは、愚かにも人間だけは特別だと妄信していることも含めて、9.2-5項で記した。以下(引用AA;P215)より、
その『地球が危機にさらされ、人間が破壊の道を行きすぎてしまったとき、人間が自らの住家をきちんと面倒見なければならないことを悟らせるために必要なことを地球はするでしょう。~ その目的は、あなた方が不遜な態度を捨て、地球との協調と愛情に満ちた気持ちでこの大地を歩むにはどうすればよいか、その方法を教えることです。
このことはほぼ不可避的に、地球が何か大きな変化を引き起こすという圧倒的な可能性に繋がっていきます。』
当然ながら地球も、意識をもった存在なのだ。
恐ろしい可能性と結末が脳裏をよぎるが、しかし、今まで記してきたように現在の地球はすでに、さまざまな次元が衝突するコースに進路をとっている。その結果次第では、海面上昇ぐらいで、壊滅的な災いまでは何とか避けられる可能性も、残されていると思う(まったくの楽観的な私見ですが)。
9.2-20~9.2-22項で記したように次元の融合により、今まで“存在の法則が少し異なった場所”にあった、フリーエネルギーなどを使い環境負荷のより少ない技術に根差した文明(ストレートに言えば、たとえばアトランティス?→タルタリヤ→そしてこれからのロシア?を中心とした流れのような)などが、我々の今の次元の現実のなかに戻りつつある。他の文明も、ものすごいスピードで押し寄せていることは、みなさんご存じの通りだ(などといいつつ、私見です。)。人類が地球との共存の方向へと、舵を切りつつあることは確かなことで、今後もさまざまな、“存在の法則が少し異なった場所”にあった、“古くて新しい文明?”が、次元の融合の結果、いきなり我々の現実のなかに登場してくる可能性が高いと思う(これまた私見です。)。以下(引用BB;P135)
『思い出してほしいのですが、地球は数多くの存在にとっての家でもあるのです。あなた方はまだ会ったこともないかたちの生命体と、あなた方の現実を分かち合っているのです。~ あなた方のいる同じ空間に、いくつの並行次元が存在しているのでしょうか。~ ほかの形態をもった生命体は、さまざまな次元が開かれるなかで地球の仲間として統合されるのを待っているわけです』。

9.2-36「次元上昇」を成し遂げることができるのか
 そして地球の通過儀礼=そこで肉体としての自分は終わり、ではなく、多次元人類となり次元上昇することによって、進化を遂げた肉体とともに、別の次元にある新地球へ移行できる可能性もあるのだという。以下は(引用AA;P235)より、
『今回は、あなた方は肉体を地球に置いていく必要はありません。あなたの肉体の周波数を変え、分子の構造を再編成することによって、肉体をもっていくことができるという考えを想像できますか。』以下は(引用AA;P236)より、
『次元上昇という飛躍をとげ、この地球における旅を完了することは、地球に住む数多くの人々にとって可能なことです。~ あなた方は光の都市へと上昇し、別な現実のなかで生活することができるようになるでしょう。これらの現実は現在においてもあなた方のまわりに存在しているのですが、あなた方の三次元的な目がそれを見ることを許していないだけです。~ そして、地球は転換をとげることになるでしょう。地球は宇宙に漂う美しい一つの宝石になるでしょう。次元上昇こそ、この惑星のゴールです。』
 これはまったくの個人的な意見(妄想というか単なる思いつき)だが、人類というか自分が、次元上昇後、その新地球に身体をもって移行できるか否かの条件の一つとして、「地球の通過儀礼」(地球のリセット)後の世界を自分なりにイメージしておくことが重要だと思う。
「神聖な計画(ゲーム)」が行われていくなかで、移行した新地球の管理人という立場としては、その枠内で単なる「ゲームの駒」を演じるだけでなく、自由で独立した存在として、創造神たちに多くを依存することなく、自分たちが主権者として、独自に決めていかねばならないからだ。以下(引用BB;P70)
『あなた方が自分自身のより大きな能力を発揮して主権者となり、他の誰かを崇拝したりすることのないようにしてほしいと思います。あなた方が何よりも尊重すべき原則は、あなた方の乗り物である地球と、地球に住むすべての生命体を尊重することです。あなたの肉体を、あたかも完璧な宝石のように尊重し、宇宙であなたが所有するもっとも貴重な生命体であるかのように扱ってください。まず何よりも地球を尊重してください。これはあなたの任務のひとつであり、そこにこそ、あなたの価値があるのです。』=人類を残しておく価値があるかどうかが、そこで問われるからだ!?(何度もいうがもちろんまったくの私見=思いつきです。)
『理想通りにいけば、あなた方は何者にも支配されない主権者として自分自身を確立することになるでしょう。』(引用BB;P91)ということのようなので、主権としての自由を得るために、この記事の最後の9.4項で、自分なりに「新地球」をイメージしてみたい!
 ところで地球の通過儀礼は、宇宙スケールではまた別の、大きな効果をもたらすのだという。以下(引用AA;P118)

9.2-37「地球の通過儀礼」が宇宙全体のドミノ現象を引き起こせるのか
『地球は、いま、一つの通過儀礼を体験しつつあります。あなた方も地球の一部ですから、通過儀礼を体験しつつあります。あなた方は地球のあり方から離れることはできません。地球は自らを変革し、太陽系にドミノ現象を引き起こす存在になろうと意図しています。地球は、さまざまな世界を一つに融合させ、これらのすべての世界が存在できるための安定した基盤となり、その体験を説明しようとしています。これがいま地球がやろうとしていることです。ですから、もちろん、あなた方も同じことに取り組まなければなりません。』(引用AA;P118)この最後の、「あなた方も同じことに取り組まなければなりません」という部分については、9.2-39項で補足する形になるが、地球と太陽系で変革が成し遂げられれば、銀河系宇宙全体までその影響力を及ぼす可能性があるようだ。
(引用AA;P186)によれば、『この宇宙は、ドミノシステムに基づいたかたちですべてが連結して』いるのだ。実際、以下のように記されている。
『地球は大宇宙に存在する小宇宙です。宇宙全体で起こりつつあることの縮小版です。ただし、地球は引き金の役目ももっており、いうなれば「核」です。』(引用BB;P38)宇宙全体にドミノ現象までを引き起こせるかはともかく、少なくとも重要なきっかけぐらいは与えられそうだ。
 実際、12箇所の「生きた図書館」としての機能が全て復活をとげれば、「何も破壊せずに未来の宇宙を完全に変えることが可能」なんだという。以下(引用BB;P77)
『生きた図書館は歴史的な記録を保持しているだけではありません。いかなるものも想像できる、知識のすべてが貯蔵されている図書館なのです。地球上の生命体には、発展可能なあらゆる種類の現実のための公式や青写真が貯蔵されている図書館なのです。~ 未来の時点からこれを見ると、これらの図書館が失われてしまったのです。(十二の図書館のすべてが100%の力を発揮するように活性化されれば)、この道具は、時間の回廊をたどるコースを変更し、未来の宇宙が開始された場所からその宇宙の存在そのものを消し去ることによって、何も破壊せずに未来の宇宙を完全に変えることが可能なのです。』
多くの宇宙の、多くの未来においては、「暴虐の力によって蹂躙」されている世界があるのだという。
『宇宙のコースを変えるために生きた図書館に戻ることを望んでいる文明が数多くあります。私たちは未来からきています。数多くの未来がありますが、多くの未来において、世界は暴虐の力によって蹂躙されています。数多くの存在が、あなた方とともに仕事ができるように紹介してもらうことを楽しみに待っています。』(引用BB;P78)
 そして、ここで再び前項に戻るが、この、『地球がこの宇宙全体に影響をおよぼすのに必要な飛躍をとげるためには、「地球の浄化と癒し」というひとつの通過儀礼が必要』(引用BB;P301)になるようだ。いずれにせよ、すべてがつながっているので、「地球の通過儀礼」は、避けて通れないようだ。
 
9.2-38「多次元の人間」=「多次元の自己の融合」を意味する
ここからは9.2-34項の続きになる。復習すると、多次元の人間になるということは、『多次元の自己と出会い、~ 空間と時間を超えて、つねに拡大しつつある現在のなかに存在する知性の集合体を完璧に理解し、体験し、遭遇し、そして、その集合体と融合することを意味します。』(引用AA;P124)しかしここで「プレアデス+」の存在があっさりと述べるこの部分から先が、めちゃくちゃハードルが高い!以下(引用AA;P114)
『いまは、多次元の自己の時代です。すなわち、多くの異なった現実の中で意識をもって移動する自己、やがて二つの場所に同時に存在し、消えることもできる自己、四次元の意識のなかにはいっていくことができる自己、考える存在ではなく、知覚する存在としての人間の時代です。自己の考える部分は非常に重要ではありますが、それは人間の肉体を統括する社長ではなく、アドバイザーであることを理解するような自己の時代です。』頭でっかちでは乗り切れない世界のようだ。
ところで、今の現実以外の自己の他の側面が現れ始めるとき、どのようにそれとわかるのか、以下(引用AA;P116)『それは、非常に微妙な現れ方をするかもしれませんし、頭を角材で殴られるような劇的な現れ方をするかもしれません。』個人差があるようだ。
たとえば何かの引き金によって、『ほんの一瞬のあいだ、あなたの意識は漂い、あなたの同時的な存在、すなわち、あなたと同時に存在しているあなたのイメージがはっきりと見えるのです。肉体としては存在していないあなたの側面を発見しはじめるでしょう。』こうして、肉体としては存在していない別のあなたとの、“ファーストコンタクト”を行うようだ。
まずは2つの自己を管理するところから慣れ始めて、その後次第に、3、4、5、6(人?)と、徐々に管理する現実の数を増やしていくようだが、しかしその前提として、DNAの修復により、並行して、知能を上げていくことが必要になるだろう。今は一人の管理でも精一杯なのに、とても処理しきれないに違いない。
そしていよいよ?、予習部分である9.2項のラストの、次の9.2-39項でこれから記す内容が、多くの人が信じている道徳心や信仰心からしても、もっとも受け入れ難い内容になると思う。以下、要約で記す。

9.2-39「多次元の自己の融合」はハードルが高い!
 あなた方は現在人間なので、魂の肉体化が常に人間になって現れる輪廻の周期で進化してきたと信じるのが一番安全なやり方であったが、しかし、人間であるという部分は生命の表現の一部に過ぎない。あなた方は意識をもったエネルギーの集合体であって、創造の全体を理解するために輪廻転生するために、宇宙のシステムのあらゆる場所に種として蒔かれており、数多くの場所で、半分人間、半分動物というかたちで存在しているのだ、という。(引用BB;P74、206、AA;P61)。
現実のすべてのヴァージョンをさらに深く理解するために、あなたの中心的な魂はさまざまな人格を持ち、そのさまざまなあなたが融合し、ひとつの調和のとれた集団を形成することになる。なかにはあなたと波長が合わないと感じているあなたのヴァージョンもいるが、調和のとれた集団をつくるために、波長を合わせるよう指導しなければならない。
あなた自身のある部分が暗闇にいたとき、その部分が暗闇を抜け出して光を発見するには、あなたを通じてやるしか方法がない。彼らもまた光がほしいのだ。彼らはその答えを模索し、解決策を求めている。あなたの仕事の一部は、一見、あなたの敵であり、あなたから遊離しているように見えるあなたの自己とあなた自身が融合することを許してあげることだ。存在のもっとも深い核心部分において、自分が一体どのような存在なのかを自覚しなければならない。(以上、引用AA;P119、121、BB;P209等を基に要約。下はBB;P297)
『思い出してほしいのですが、あなたという存在の全体には影と光の両方がふくまれているのです。』追記すれば、「魂の主要な担い手」は、多次元にいる他の自分?ではなく、この次元に人類として暮らしている自分になるようだ。ということは、他力本願でなく、今いる自分が主権者として、あくまで自分で対処すべき問題のようだ。
ただし助言は得られるようで、『ハイヤーセルフの援助を受けられることを覚えておいてください。ハイヤーセルフとは、あなたの体験が宇宙の因果の法則のなかをうまく旅できるように操縦しているあなたのことです。』(引用BB;P209)高次の存在としての自分自身なのだろうか。また、数多くの指導霊にも見守られているという。
我々も根本創造主の小さなかけらであり、その一部として、根本創造神や創造神と同じような学びの道を歩むことになるようだ。すべてが内側に倒れ込み、ひとつである(ONENESS)ということを学ぶために。

9.4 「新地球」をイメージしてみる
ここで大胆にも、自分で「新地球」をイメージしてみたい。理由は9.2-36項で記したとおりだ。
まず状況として、地球の通過儀礼の後、今まで「存在の法則が少し異なった場所」にあった文明が融合し多数現れて、一通り出そろった段階だとする。『ゲームマスターは、はるか彼方にありなあがら同時に内包しつつ、さまざまな現実を交錯させ、調和させ、創作することを楽しんでいる』(引用BB、P340)。たぶん地球のどこかにいるはずの、ゲームマスターたちが描いた世界だ。
さて、恐れ多くも地球の管理人という大役を仰せつかった我々人類だが、たいした予備知識もない中で、いきなり出てきたそれらの文明を、どのように判断すればよいのか。ただここで、創造神たちに助言は求めても、そこに過度に依存してしまうと、今まで見てきたような、過去の歴史の繰り返しになってしまう。
地球の管理人役としては主権者として、あらかじめ、その文明を新地球として受け入れるための基準を、用意しておくのが重要だ。それさえ守られれば、あとは個々の文明の個性を生かして、自由にやってもらえばよいことにする!?
その基準だがシンプルに、最初に地球がデザインされたときの根本理念に立ち戻りたい。これならば、地球人類がどう対応するかを見守って(実際には外側から管理して)いる創造神らの高次の存在たちにとっても、異存ないはずだ。それは以下の通りだ。
『地球はもちろん、人間も動物も昆虫も植物も樹木も石も、地球上の生きとし生けるものすべてが連携しており、尊敬と調和と協調心のもとにお互い同士高めつつ、かつお互いの自由も表現していく。』当然ながら文明・国・地域・サークルの単位でも、その理念に従ってもらうことになる。
フリーエネルギーぐらいはどの文明も達成しているだろうが、当初から、その理念をすべて満たしている文明はたぶんないだろう。そこで、そこに至る、具体的なプランを示してもらい、高い理想に向かおうとしている文明なのか、僭越ながらも地球の管理人役としては、再び道から外れないように、確認していく必要がある。『なぜなら、あなた方は疑問をもつ権利があるだけでなく、義務があるからです。』(引用BB;P212)それが義務であるのだ。

ここで目標を達成するための具体策のなかでも、自分が重要だと思うポイントを、何度も僭越ながら1点だけ、掲げておきたい。
それは人類自身の問題で、食べ物の種類を変えるということだ。今までみてきたように、高次元の存在は、現物の食物でなく、意識を食料としているようだ。次のステップとして、人類もそこまで進化を遂げるべきだと思う。 “恐怖”でなく、“愛”や“調和”といった、高い周波数の食物であることはもちろんだ。地球上の生きとし生けるものすべての調和を達成するためには、避けて通れない課題だと思う。以下(引用BB;P84)
『動物はきわめて聡明で、人間よりもずっと賢い存在です。~ 動物はこの惑星での友達としてあなた方に与えられました。彼らを食べるかたべないかはあなた方人間にまかされました。動物たちは自分が食べられることに反対はしません。ただし、それがあなた方の生命の本質、そして彼らの生命の本質に貢献すればの話です。しかしながら、現在の地球では動物は彼らのもつ生命の本質のゆえに尊敬され、尊重されるということがありません。動物たちはまるで生き物でないかのように扱われ、なにも感じることがないかのように、まるで人間の奴隷であるかのように扱われています。動物は人間の友達となって、生き方をあなた方に教え、示し、分かち合うように計画され、つくられたのです。』
たしかに今までの、三次元の重たい現実のなかでは、人間に食べられることもやむを得なかったかと思うが、当面は代替肉で十分だし、人類の周波数が上がれば、動物、植物など他の生態系に対しても、好ましい影響を与えるだろう。ここは高次元の存在の指導を受けて、不食を目指すべきだと思う。
下の写真は「鼻ぐりという牛の鼻にはめられる鼻輪が奉納される岡山の「鼻ぐり塚」。」
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https://pbs.twimg.com/media/FJ87mKxaMAknHA_?format=jpg&name=small
以下は「カワウソマン@マンデラエフェクト」さん;引用㉕、2022.01.25ツイートより
『岡山県にあるという食肉となった牛の鼻輪の鼻ぐり塚。700万頭分の鼻輪が塚になっています。この場が訴えかけるもの、何を感じますか?私達はいつまでも脳天氣でいてもよいのでしょうか?私達の世界に対する認識の反転も始めましょう。動物も自然も私達と根底で繋がっています。自傷行為はやめないと』ちなみに自分も、ここ1,2年の話だが、肉はほとんど受け付けなくなってしまった。ただ外食でギョーザやシュウマイやハムサンドはたまに食べるし、他人と会って外食するときは肉も食べるし、そもそも魚は食べるので、ベジタリアンには程遠いが。ただ単に、歳をとって食べ物の好みが変わったせいかもしれないし、ぼんちゃんと同じような体形をしている生き物の肉は、生理的に受け入れ難くなったのか、理由はよくわからない。
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https://pbs.twimg.com/media/FJ87nQOakAAJ9Zh?format=jpg&name=small
何度もいうようだが、このような分野こそ、創造神などの高次元の存在の出番で、人類に対しての指導が必要な分野だ。
 また話が変わるが、自分がどの文明のなかで生活するのか、その選択は個人の自由に委ね、複数選択も可能としたい。
たとえばある国では、同じ国内のなかでも、都市部では主にニューアトランティス系の文明が展開し、地方都市でレムリア系の、農村部で日本土着の縄文系の文明が展開されたとする(そもそもレムリア系と縄文系はそのルーツが同じかもしれないが、日本(ヤマト)土着度などの違いがあるとして。たとえばの例として、同じ「ロハスの生活」を標榜していても、藤原直哉さんとハナリン(大花慶子)さんでは目指すところはたぶん違うように)。
その世界で、自分が生きていくとすれば、ロシアのダーチャ的な生活を目指したい。週の半分(3,4日)は都市部のウサギ小屋マンションで過ごし、残りの半分は地方都市や農村部の小さな家で土に親しむような生活だ。地方にあるそれらは、村やサークル的な組織の中にあるものかもしれないが、もちろん旅行者気分でなく、ある程度は、その秩序に依存して生活することになる。実際に暮らしてみないと、ぼんちゃんとの相性だってあるだろう。もちろん、先方が受け入れてくれるか否かの問題もあるが!地域文化の側としても、その人を受け入れるか否かの、自由があるのだ。『土を愛し、土の反応、すなわち地球の反応を引き出すことができる人々とともに生活するというのは、あなたの人生においてもっとも生きがいのある経験となるかもしれません。土を愛し、地球にあなたが何を求めているのかを知らせれば、地球はあなたに滋養を与え、あなたの面倒を見てくれるでしょう。』(引用AA;P225)
ただやはり、多くの文明のなかで生活し、体験することで、その文明が自分にとって、マッチしたものなのか、はじめてわかるし、その流れの延長線上に、やがて文明間の融合も、より「自然な形」で起こってくるのだと思う。
 ただし、自身の魂が目的をもって地球にきているのだとすれば、その目的に沿った文明と、自然に結びついてしまうかもしれない。さらにそもそも、多次元の人間になっているならば、それぞれの文明のなかで、同時に暮らせるものなのかもしれないが?
 
 さて、長かったこの記事も、これでようやく終わりだが、このブログは本来、犬(ぼんちゃん)と自動車の歴史を綴るブログなので、最後は「プレアデス+」の本のなかで、動物に関して記された部分で、みなさんの興味を引きそうな箇所を抜粋してみた。なお、いち自動車マニアの視点から見た、近未来の自動車像については、このブログの記事「⑳ 戦前日本のオート三輪史」 http://marupoobon.com/blog-entry-214.html という中の最後の部分、「15.9項:この記事のまとめ、孫悟空の“きんと雲”の時代に」という部分で書いているので、参考までに。では転記を始める。

動物はきわめて聡明で、人間よりもずっと賢い存在
『動物はきわめて聡明で、人間よりもずっと賢い存在です。多くの動物がいま、光の世界に移動しています。いわゆる種の絶滅が地球上で起きているのは、これが理由なのです。動物とあなた方人間には数多くの違いがあります。もっとも大きな違いのひとつは、動物は死んでもそれで命が終わることはないと知っていることです。動物は死後も生きつづけることを知っています。~ 彼らには内在的な英知と信頼の心があります。
動物はこの惑星での友達としてあなた方に与えられました。~ しかしながら、現在の地球では動物は彼らのもつ生命の本質のゆえに尊敬され、尊重されるということがありません。動物たちはまるで生き物でないかのように扱われ、なにも感じることがないかのように、まるで人間の奴隷であるかのように扱われています。
動物は人間の友達となって、生き方をあなた方に教え、示し、分かち合うように計画され、つくられたのです。動物はさまざまな太陽系や惑星から収集された遺伝子にもとづいてつくられた存在です。彼らを創造したことによって、これらの太陽系または惑星のシステムは地球と遺伝的なつながりを持つことが可能となり、この世界をのぞきこむことが可能となり、情報を伝えることが可能となったのです。~ 動物には一種の直観があり、それによってお互いの役割を理解することができます。彼らはさまざまな地球外の社会からきており、彼らの祖先とまったく同じような外見をしています。』
(引用AA;P84)
『動物の生命形態をあなた方と同等な存在として扱うようになったら、その時こそあなた方も、より高い存在局面において会議の席にすわることができるでしょう。~ 人間がみずからを、もっとも進化した種であると考えたりみなしたりすることは大きな間違いです。それは完全に誤った考えです。』(引用AA;P88)
イルカとクジラとは
『たぶんあなた方は、別のかたちの身体をもっていることを知らないかもしれません。たとえば、イルカは人間のもうひとつのかたちです。イルカは水のなかだけでなく、地上にも空中にも存在します。彼らは数多くの次元に同時に存在しています。~ イルカとクジラは特別な音の周波数を出して、あなた方の惑星を保持する役目をはたしています。あなた方と同じように、イルカとクジラは星からやってきた古代の存在の子孫であり、地球を維持し、愛する古代の叡智をあなた方人間に伝えるために地球にきているのです。』
『イルカとクジラは光のメンバーです。~ アトランティス文明の時代にいたイルカに、アトランティス文明が絶滅する前にコードが埋め込まれ、遺伝子を通して、またテレパシーによって伝達できる情報を与えられたのです。彼らはいまこの情報を人間に伝えています。彼らはまたひとつの明確なメッセージを伝えています。そのメッセージとは、彼らの生命の本質が危機に瀬しているというメッセージです。そして彼らの生命の本質が危機に接しているということは、人間も危機に瀬しているということです。彼らはいま、あなた方の鏡となっているのです。』
『数多くのイルカたちが地球を離れつつあります。~ イルカはきわめて聡明な動物です。彼らは犠牲者ではありません。地球の世話をあなた方人間にまかせようとしているのです。あなた方がそうする時期がきたのです。動物たちは自分自身を信頼していて、死ぬときもただかたちが変わるだけであることを知っています。彼らは新しい世界が生まれつつあることを知っています。現在「絶滅しつつある」種の多くは次元間の周波数を通り、古い地球が死につつある一方で、生まれつつある新しい地球へと向かっているのです。』
(以上、引用BB;P106)
動物たちはさまざまな次元のなかを移動している
『多次元性との融合という領域において、動物たちは達人です。動物たちはさまざまな次元のなかを移動しています。たったいまそこにいた動物や鳥が、次の瞬間に姿を消してしまったというような体験はありませんか。動物は聡明で柔軟で、人間よりもずっと多くの冒険を楽しんでいます。 動物たちは、あなた方には理解できないような実にさまざまな冒険を楽しんでいるのです。いつかあなた方にもわかる日が来るでしょう。すべての動物は夢をみて、さまざまな現実へと旅をします。』(引用BB;P220)
動物園に入っているのはあなた
『昆虫は、いまのあなた方にはわからないような方法で、あなた方と一緒に仕事をしています。(人間の体に接触するのは)あなたの電磁波の周波数を調べているのです。
彼らの目からすると、動物園に入っているのはあなた方なのです。彼らはあなた方に手を貸して、異種間のコミュニケーションができるようにしてあげたいと思っているのです。
彼らはあなたが特定の動物または特定の種と関係を樹立できるかどうか、様子を見ているのです。すべての生命形態の知性を認識できるようになったとき、あなたはさまざまな種を代表する大使・外交官になるのです。』
(引用BB;P221)
最近じっくり腰を落ち着けて犬や猫と話をした人が何人いるだろうか
『あなたが住むコミュニティ、あるいは住む場所を決めるとき、植物や動物と話をすることを学ばねばなりません。これは不可欠なことです。これはとんでもない話のように聞こえるかもしれませんが、そうではありません。いまのあなた方の生活ではこのようなことをする時間をとっていません。あなた方のなかで、最近じっくり腰を落ち着けて犬や猫と話をした人が何人いるでしょうか。こうすることによってあなたの感受性が高まり、何かの決定をくだしたり忠告をするに際して、新しいレベルから物事を見ることができるようになるでしょう。というのは、動物や植物は大地から直接情報を受けとっているのです。彼らはあなた方と波長を合わせて待っています。彼らにはあなた方に力を貸し、忠告を与えることができるのだ、ということにあなた方が気づくのを辛抱づよく待っているのです。彼らが知っている癒しの秘密をあなた方に教えてくれるでしょう。また、エネルギーのつぼがどこにあるかも教えてくれるでしょう。彼らは何でもあなた方に教えてくれるでしょう。彼らは知っているのです。彼らがなぜ知っているのかわかりますか。その理由は、彼らは自然や地球を搾取しないからです。あなた方人間は種全体として地球を搾取しているために、これらの秘密は人間には隠されているのです。
動物や植物はディーバの世界、聖霊界、自然界への道案内をしてくれるでしょう。これらの世界は、あなた方の世界では認知されていない力によって支配されています。菊の花のなかに、バッタのなかに、アリのなかに、すべての存在のなかにある知性を見つける時間をとってください。この体験は、地球と繋がりたいという気持ちをもっている人々にとって内発的な体験となります。地球の癒しは、地球に住むすべての存在と会話を交わし、かかわりをもつことによって達成されるでしょう。』
(引用BB;P318)

 最後の最後ですが、「プレアデス+」の存在たちと、チャネラーのバーバラ・マーシニアック、訳者の大内博さんと、脇でず~と書き写す作業を見守ってくれていた、ウチのぼんちゃんにあらためて感謝します。(背景は汚いけれど、いつもいっしょです。)
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― ― ― 引用先一覧表 ― ― ―
(A):「マンデラ効果まとめブログ」
http://mandela.livedoor.biz/
(A)-1:http://mandela.livedoor.biz/archives/11891381.html
(A)-2:https://matomame.jp/user/etoutarou/3d3b258ca25e354ccf9b?page=2
(A)-3:http://mandela.livedoor.biz/archives/11094136.html
(B):「マンデラエフェクト情報局」
http://maneffe.info/
(B)-1:http://maneffe.info/archives/6529904.html 
(B)-2:http://maneffe.info/archives/6772555.html
(B)-3:http://maneffe.info/archives/6369398.html
(B)-4:http://maneffe.info/archives/12305875.html
(B)-5:http://maneffe.info/archives/11196212.html
(B)-6:http://maneffe.info/archives/10903614.html
(B)-7:http://maneffe.info/archives/10845160.html
(B)-8:http://maneffe.info/archives/10682019.html
(B)-9:http://maneffe.info/archives/7595298.html
(C):「笹原シュン☆これ今、旬!!」ブログ
https://shunsasahara.com/entry/2021/07/11/194847
(D):「Kenaz光(ひかる)の占いブログ゙」
https://ameblo.jp/hikaru-33/entry-12595872005.html
(E):「新おたんこブログ」
https://ameblo.jp/b-otan/entry-12687187341.html
(F) :「介助犬 留奈」ブログ
https://ameblo.jp/momonyan-love/entry-12553952743.html
(G) :「あるがままの自分を取り戻す」ブログ
http://nakaosodansitu.blog21.fc2.com/?no=3347#21
(H) :「スカムコのページ」ブログ
https://minkara.carview.co.jp/userid/2505097/profile/
(H)-1:https://minkara.carview.co.jp/userid/2505097/blog/44871033/
(H)-2:https://minkara.carview.co.jp/userid/2505097/blog/44874544/
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(H)-4:https://minkara.carview.co.jp/userid/2505097/blog/44874304/
(H)-5:https://minkara.carview.co.jp/userid/2505097/blog/45588276/
(H)-6:https://minkara.carview.co.jp/userid/2505097/blog/44871438/
(I) :「江藤さんのブログ」
https://ameblo.jp/etoutarou/entry-12689611831.html
(J) :「自分を好きになる・応援される自分になる!」ブログ
https://ameblo.jp/ei4441/entry-12603529900.html
(K) :「キャラ弁日和」ブログ
https://plaza.rakuten.co.jp/kyarabenbiyori/diary/202109030000/
(L) :「よーこの哲学記」ブログ
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(O)-2:https://www.jikanryoko.com/timewarp512.htm
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(Q): 「宇宙人のひとり言」ブログ
https://ameblo.jp/m0r1y055/entry-12693342083.html
(R):「インテリアームズ」ブログ
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(ア) :「yahoo知恵袋」
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10243353290
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https://fundo.jp/296216
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(キ) :「神戸散歩」ブログ
https://kobe.charact.net/map/hyogo01/
(ク):「西日本新聞」
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(ホ):「ナゾロジー」
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(マ):「RETRIP」
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(ミ):「北海道ファンマガジン」
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(ム):「じゃらんニュース」
https://www.jalan.net/news/article/102172/


(AA):「プレアデス+かく語りき」(バーバラ・マーシニアック著、大内博訳、
≪原題:Bringers of the Dawn(夜明けをもたらす者たち) by Barbara Marciniak 1992≫
発行元コスモ・テン・パブリケーション 1994.10.01初版発行(1995.03.03第3刷版))
(BB):「プレアデス+地球をひらく鍵」(バーバラ・マーシニアック著、大内博訳、
≪原題:EARTH:Pleiadian Keys to the Living Library by Barbara Marciniak 1995)
発行元コスモ・テン・パブリケーション 1995.10.10初版発行(1995.10.22第2刷版))


ふだんのぼんちゃん(その94)

 年内は自動車の話題は中断して、ここ1年ぐらい(2020.10~2021.10)のぼんちゃんの写真をアップしていきたい。
 写真は家で寝ている時のモノばかりだが、実際には今でも平均して、毎日1時間半ぐらいは外で散歩している。ただもう走らなくなったし、歩く距離も次第に短くなってきたが。でも歳の割には(2021.11現在で推定13歳半ぐらい)じゅうぶん元気な方だと思います。

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ということで、いつも家で寝ています。
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TVの近くでも寝ています。
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座椅子も相変わらず好きです。
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どうやらくつろぐようです。
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⑳ 戦前日本のオート三輪史 (日本の自動車産業の“育ての親”は日本陸軍だった?小型自動車と、商工省標準型式自動車(戦前の日本自動車史;その5) 《 前編:独自の発展を遂げたオート三輪と小型四輪車》 )

≪※オート三輪編だけ先に出し、その後の小型四輪車編の部分はあとで追加します。≫

 この記事では自動車製造事業法成立(1936年5月)以前で、さらに前回“その4”で記したフォードとGMのKD生産進出以外の、日本の自動車産業/社会について記していきたい。
早い話が、オート三輪と、小型四輪車のダットサンと、じり貧だった国産トラック/バスについて記すのだが、この記事は《前編:独自の発展を遂げたオート三輪と小型乗用車》と《後篇:商工省標準型式自動車》の2つに分けて、今回は前編のうちの、オート三輪編のみをアップする。

 前回の記事の最後で“商工省、日本陸軍、さらには日本フォードとGM抜きに、戦前の日本の自動車史は語れないような言い方をしてしまったが、実はオート三輪と小型四輪車について、それは当てはまらない。特にオート三輪は人々の日々の営みの中から生まれた、日本独特の自動車だった。

オート三輪は民間主導で発展してきた
繰り返すが、オート三輪は、商都、大阪を中心とした商人たちの日々の生業の中から生まれ、独自に発展を遂げたものだ。国の保護の下で国策として計画的に、軍・官・民が連携しつつ大事に育てられた四輪自動車産業とは違い、民間主導で起こされた産業だった。戦前の四輪車市場を席巻していたアメリカ車と競合しない分野で、『必死に働く庶民のエネルギーを象徴する輸送機関であった』(引用②「懐旧のオート三輪車史」、「はじめに」)。
日本独自の交通体系の中から生まれた他国に無いジャンルの乗り物だったが、軍用には適さなかったために国からの手厚い支援は無く『運転免許などのいわば減免措置であり、保護政策とは異なっていた』(④-4、P167)。しかし市場原理に基づいた競争市場の中で、戦後の一時期まで、国産自動車産業の主流の一角を成していたのだ。

戦後の10数年間は、オート三輪が国内自動車市場の主役だった
この記事の“守備範囲”は戦前なので、戦後は詳しくは触れないが、オート三輪の全盛期は戦後の十数年で、戦前はその“序章”であった。その戦前部分については、本題の“戦前編”に入る前に、この場を借りて最初にまとめて触れて(例によって脱線して?)おきたい。
敗戦後の経済復興の中で、オート三輪は大型化を図りつつ勢いを増していき、今の若い人たちからはほとんど信じがたい話だと思うが、オート三輪界の二大メーカーであったダイハツとマツダの生産台数は、戦後の一時期、トヨタと日産の台数を上回っていた。しかしこの重要な事実を、数字でハッキリと示した情報が、不思議と少ない。そこで今回調べた範囲でここに明示しておきたい。
トヨタですら、乗用車がトラック・バスの台数を上回ったのが1966年だった
まず前提として、戦後の日本の自動車市場は長い間、トラック等の商用車が主流だった。たとえば1952年の小型乗用車は年間たったの4,700台で、オート三輪の約1/10に過ぎなかった(②、P13)。戦前と同様にタクシーが主体だった当時の国内乗用車市場で、国産乗用車の生産台数はごく少数で、トラックが主体の市場だった。  
下表は、トヨタ自動車のHP“トヨタ自動車75年史”のサイトより、「(トヨタ車の)国内生産台数の推移」のグラフをコピーさせて頂いた。
https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/data/automotive_business/production/production/japan/production_volume/index.html)
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https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/data/automotive_business/production/production/japan/production_volume/images/index_graph01.gif
上のグラフはあくまで、トヨタ自動車の分だけの、国内生産台数の推移だが、特に1955年の、クラウン登場以前の乗用車の生産台数の少なさがわかる。国内メーカーの中では、乗用車にもっとも強かったはずのトヨタですら、トラック/バスの生産台数を上回ったのは、1966年以降だったのだ。
 下の表は、上記のトヨタのHPのトヨタ車の生産台数と「日産自動車50年史」(引用㉟)の日産車の生産台数と、さらに別の資料(「日本自動車工業史―小型車と大衆車による二つの道程」呂寅満(引用①))にあったダイハツとマツダのオート三輪の生産台数の数値を合体させたものだ。(表14;「トヨタ/日産(四輪車)と、ダイハツ/マツダ(三輪車)の生産台数比較表」)
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かなり強引なまとめ方だと思うし、三輪車の細かい数字は、資料によってばらつきがあり、多少怪しい?と思える部分もある。しかし、オート三輪と、四輪車の生産台数の傾向は、大筋このようなものではないかと思う。そしてこの表の赤字の部分の、1952年から1955年までの生産台数の数字に注目したい。
その時々の市場において、どのメーカーの自動車が主役だったかをはかる第一の尺度は、やはり生産台数だろう。何度も記すが、生産台数ベースでみれば、戦後の一時期、オート三輪の勢いが圧倒的だった。(⑨)によれば『昭和30年(1955)には10万台を超える生産台数となり、復興のために優遇されたトラックを含む四輪自動車全ての生産台数約3万台を、はるかに凌ぐほどだった。』(⑨、P105)とあるが、四輪の台数はもう少し多かったように思うのだが?不明です。
その中でも、『東洋工業とダイハツ工業がいわゆるトップ争いを演じつつ、シェアを拡大していった』(⑰、P222)。『東洋、ダイハツの2社をあわせた(三輪の)シェアは25年(1950年)の54.0%から27年の57.5%へ拡大』していったという(⑰、P222)。
1952~55年はマツダ・ダイハツがトヨタ・日産の生産台数を上回っていた
下のグラフ(「トヨタ/日産/マツダ/ダイハツの生産台数推移(1935~1956)年」)は、上記「表14」から、4社の生産台数部分を抜き出して折れ線グラフ化したものだ。しつこいようだがどうみても、1952年~1955年の4年もの長いあいだ、ダイハツとマツダの自動車の生産台数は、トヨタ、日産のそれを上回っていた(たぶん)。
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日本の自動車産業史を記すうえで、オート三輪と、マツダとダイハツの重要度がわかろうというものだ。
後の15.3項のマツダの項で触れる、1960~1962年の3年間、軽のオート三輪、K360の大ヒットでマツダが国内自動車生産台数の、僅差ではあったがトップであったことと合わせて、日本の自動車史を語るうえで、もっとクローズアップされるべき事実だと思う。
(下の表は、各社の1951年上期から1957年下期までの半期ごとの売上高推移だ。それぞれの社史(トヨタ;㉘、P796)(日産;㉟、P270、)(ダイハツ;㉙、資料編P22)(マツダ;⑰、頁がふられていない!が終わりの方)から数字を抜き出してグラフ化したものだ。自動車部門以外の金額も含んでいると思われるし、メーカー間で期間も若干ずれがあるが、大体の規模の差はわかると思う。経済評論家や経済学者の方々からすれば、このグラフを見て一安心し、生産しているクルマの単価が違い過ぎるのだから、一概に台数だけでは決められないと主張すると思うし、実際その通りだとも思うが、1951年~1955年頃の売上に限って言えば、大手四輪メーカーと比べても、驚くほどの差があったわけでもなかった。グラフ中の数字は、トヨタとマツダの一部を表示させたものだ。
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なお、古いトラック好きからするとなんとも楽しいブログ“旧式商用車図鑑”さん(web30-1)に、「戦後の「小型三輪トラックの販売推移」」というグラフがあり、そちらの方がわかりやすく工夫されているので是非ご覧ください。アドレスだけ貼り付けておきます。http://blog-imgs-56.fc2.com/r/o/u/route0030/20120703231301293.jpg )
(上で紹介したブログ“旧式商用車図鑑”さんに、戦後の高度成長期と重なる、オート三輪を取り巻く“歴史”を要領よくまとめて記していたので、安直ですが以下、引用させていただく。
『1950年(昭和25年)は朝鮮戦争が勃発した年ですが、この時期はマツダやダイハツ共にオートバイの前半分に荷台を組み合わせたスタイルの車両を制作していました。 
一方小型四輪トラックの方は、ダットサンやトヨタSB型が造られていたものの、まだ年産1万台弱の市場規模でした。
1953年(昭和28年)にかけて三輪トラック市場が急成長している背景には”神武景気”と呼ばれるものがあり、白黒テレビ、電気冷蔵庫、電気洗濯機といった”三種の神器”が家庭に普及しだし、ゆとりのある生活をしだした時代です。』(下のグラフは、その“神武景気”より後の時代だが、「トヨタ自販30年史」P100の数字を元に作成した。やはりTVの急激な普及が目立つが、最初は限りなく0%だった乗用車も10%を超えてきた。)
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『三輪トラックにはウインドスクリーンやキャンパス製の屋根が付き、また荷台の拡大や積載量の増大等により車体が大型化するのもこの頃からです。』(web30-1)
当時は過積載が当たり前だったが、公称積載量が1トン積のオート三輪でも、2、3トンの積載を想定して、普通トラック並みのリアスプリングを採用し、車体側も頑丈に作られていた。さらに小回りが利いて、細い路地でもどんどん走っていけるし、四輪に比べて荷台が低いので積み下ろしの作業も容易だった。確かに最高速度や居住性、乗り心地では四輪トラックには到底かなわないが、まだ高速道路もなかった時代で、高速安定性など求められなかったし、価格も当然安かった。その上、故障しても修理に日数がかからないし修理代も安かったという。荷物運びに徹していたのだ。(⑳、P77~、①、P334等要約)
『しかも、当時の免許制度では、小型車は18歳以上にならなければ所得できなかったが、軽自動車とオート三輪車、さらに50ccのバイクは16歳になれば免許を取得できた。現在のように、誰でもが高校や大学にいく時代ではなく、中学を卒業すればすぐに働く人たちが多かったから、こうした点でもオート三輪車は有利であった。』(②、P23)再び、(web30-1)からの引用に戻る。
『1954年(昭和29)にトヨタから小型四輪トラックのSKB型(のちにトヨエース)が登場し、幾度かの車両価格の値下げによって販売の方は軌道にのり、三輪トラック市場に割って入るようになったのです。その頃の三輪トラックはフルキャビンに覆われ、バーハンドルから丸ハンドルに変更され、小型四輪トラックに匹敵する装備をもちだしました。
1958年(昭和33年)金融引締政策によって景気が後退し“なべ底景気”の時期を迎えた。(東京オリンピックや高速道路、新幹線などの工事を行うことでその後は成長への途を歩んでいきました)
『三輪トラックの方は、エンジンを空冷から水冷にしたり改良を加えるものの小型四輪トラックの勢いに敗れ、1970年代の初めまで大きなモデルチェンジを行うことなく生産がされたのでした。』
(web30-1)以上、戦後のオート三輪史の、簡潔でわかりやすい歴史の要約を引用させて頂いた。
戦後のオート三輪=貧しさから脱するための原動力
戦後の復興期と、オート三輪の全盛期は重なっている。今の人たちにはたぶん理解しがたい、当時の人々がオート三輪に託した心情を、以下はオート三輪史を記した代表的な本である、「懐旧のオート三輪史」桂木洋二監修(②)の「はじめに」からの引用
『(オート三輪は)荷台には満載の荷物が、いまにも落ちそうなほど積まれた姿が似合う乗り物だった。現在の自動車のように安全性や快適性などを言い募っている時代ではなく、そんなことをくどくど言う暇があったら、もっと働け、と叱咤される時代のものだった。効率を求めるというより、貧しさから脱しようとする原動力が、オート三輪を求めていたといえるだろう。』wikiにも書かれているように少しでも多くの荷物を運ぼうと、『小型オート三輪メーカーの2トン積み車でも4トン、5トン過積載していた時代』だった。
(下の写真はそんな「過積載が当たり前」の時代を象徴するような写真として、愛知機械製のヂャイアント三輪車のトラクターの画像を、ブログ“ポルシェ356Aカレラ”さん(web❻-3)よりコピーさせていただいた、愛知機械は戦後のオート三輪業界の八大メーカー(ダイハツ、マツダ、くろがね(日本内燃機)、みずしま(新三菱重工業)、ジャイアント(愛知機械工業)、オリエント(三井精機工業)、アキツ(明和自動車工業)、サンカー(日新工業))のうちの一社で、水冷4気筒1488cc58HPエンジン搭載のAA-24T型は、5トン積(②、P147)トラクターを牽引したようだが、天下の日通といえども、見た目からはどうみてももっと積まれているような・・・。
https://ameblo.jp/porsche356a911s/entry-11665570175.html
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https://stat.ameba.jp/user_images/20160508/17/porsche356a911s/3d/e0/j/t02200165_0800060013640701091.jpg?caw=800
 以下、戦後の高度成長期を象徴する、エポックメイキングな3台(+番外編の2台)のトラックを紹介することで、この時代を別の角度からさらに掘り下げて、“番外編”としての戦後編を終えたい。

オート三輪大型化の先駆、マツダCT型
 1950年9月、マツダが新型のCT型を発売し、オート三輪の大型化に先鞭をつける。その時代の背景を、法規制の面から以下(⑳、P177)より引用
『1951(昭和26)年には、三輪トラックに対する排気量や車体寸法の制限が撤廃された。四輪車に比べて安定性に劣るという構造的な弱点があるとされ、これ以上のむやみな拡大は技術的に難しいという前提で、「制限する必要がない」という意味での制限撤廃だった。しかし実際には、通常の使用で三輪と四輪の安定性に、差はなかった(注;当時は速度が低かったので)。いずれにせよ、どこまで大きくしても構わなくなったのだ。一方で、小型四輪トラックに対しては、道路運送車両法によって全長4.7メートル以下という制限が続く。~ 三輪トラックの絶頂期が訪れる。』(⑳、P177)
こうしてオート三輪はロングボディを用意することができるようになったが、オート三輪メーカー以外の世間一般の認識としては『当時三輪車は「本建築を見るまでのバラック建」てなものという認識が一般的だった』(①、P343)
しかし、過当競争のこの業界では、そうこうしているうちに、マツダに続けとばかりに『50年代半ばまでにはほとんどのメーカーが小型四輪車より大型の三輪車を生産するように』(①、P334)なっていく。
戦前~戦後のこの時期の国内トラック市場において、最大のボリュームゾーンであったのが、フォードとシヴォレーが開拓し、戦前はその両社が市場を独占していた、1~2トン積のいわゆる「大衆」トラック市場だった。
通産省と運輸省の意図としては、この市場は三輪トラックのためではなく、大事に育てていた四輪の自動車産業のために用意されたものだったはずだが、『この大型化によって、1950年代半ばにおける三輪車は750kg~2トン積までのトラック市場をほぼ席巻することになった』(①、P334)!
官側の思惑が外れて、なんと“本命”の四輪トラックを差し置いて、オート三輪がその市場をカヴァーしてあいまうという、非常に不本意な状況が?生まれてしまったのだ。(①、P334参考)
そしてこの、オート三輪の大型(巨大?)化は、後手に回った運輸省が『55年7月に「現在制作されている最大の小型三輪トラックの大きさを越してはならない」という通達を出し、その拡大競争に歯止めがかけられるまで続けられた。(①、P335他)
 マツダのCT型はその嚆矢として、業界初の1トン積トラックとしてデビューした。そしてそのスペックも、非常に先鋭的であった。空冷V2型1157ccのOHVエンジンは半球型燃焼室と油圧タペットを持ち、32㏋と当時としては大パワーを誇った。その他、セルモーター式のエンジン始動、ラバー式のエンジンマウント、フロントウインドウに合わせガラスの採用など、新技術のてんこ盛りだった。
『~この先進的なオート三輪がその後のスタンダードになり、方向を大きく決めた。他のメーカーはマツダを追いかける立場となり、マツダは業界をリードするメーカーとしての地位を確保した。』(②、P84)
1950年当時の同クラスの四輪トラックのエンジンは、トヨタでいえば1947年に戦後型として新規開発した1,000ccのS型エンジンだが、4気筒とはいえSVの27㏋と非力で、パワーでマツダに劣っていた。日産に至っては、戦前の設計を引きずったD10型の860ccSVの21㏋で、大きく引き離されていた。企業としての勢いの差が、エンジン出力の差となって現れたのだと思う。
オート三輪から三輪トラックへ
戦前を思えば、立派に成長したオート三輪だが、CT型の完成は、マツダの事実上の創業者である松田重次郎(15.3項参照)にとっても感慨深かったのだろう。以下⑳より引用『これを機に、当時は健在だった重次郎はオート三輪を「三輪トラック」と名づけ、それまでのオート三輪とは一線を画す製品であることを打ち出した。確かに従来のオート三輪は、オートバイに荷台をつけた印象で、オートバイの延長線上と感じさせる。しかしCT型は、明らかにオートバイというよりは「トラック」の雰囲気を持っている。』(⑳、P176)この記事では区分けがメンドーなので、まとめてオート三輪として表記してしまうが…。
(下の写真はトヨタ博物館所蔵のマツダCTA型(1953年製)で、写真も同館のものです。CT型の発展型で、さらに積載量が多く、2トン積を誇ったという。戦後の復興期で、日本中が少しでも安く、より多くの荷物を運ぼうと必死だった時代に、スペックの面からみても、四輪より需要が大きくなって当然だっただろう。日本のインダストリアルデザイナーの草分け的な存在であった、社外デザイナーの小杉二郎の手になる、生産性も充分考慮に入れたと思われる、鋭角的で、見方によっては恐ろしくモダーンなデザインは、今見ても実に斬新だ。ムチャクチャに思われるかもしれないが、「ニューヨーク近代美術館」に展示されたとしても、おかしくないくらいのレベルにあるようにも思う。)
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https://pbs.twimg.com/media/EaN4kUPU4AEj2ep?format=jpg&name=4096x4096
オートバイ/オート三輪/乗用車・小型トラック/大型トラックが棲み分けしていた
余談の中の余談だが、(②、P10)によれば、『オート三輪車が全盛を誇った1950年代の自動車は、大きく分けて①オートバイ、②オート三輪車、③乗用車及び小型トラック、④大型トラック及びバスという4つに分類される。そして、これら4種類の分野ごとに異なるメーカーが活動していたのが、この時代の大きな特徴だった。』
誤解されないように追記しておくが、たとえば日本のオートバイ産業には、(⑥)の巻末の「日本の二輪車メーカー一覧表」を数えると、かつて278社もあったという。そのカテゴリーの中での過酷な生存競争の末に、今日の4社が生き残ったのだが、1950年代は、各カテゴリー間に於いては『~直接的な競合関係になく、お互いを意識することもあまりなかった』という。

トヨエースの登場で、三輪トラックは引導を渡される
しかしその業界の間にあった暗黙の“垣根”を壊しにかかったのが、当時の日本の自動車業界の中では珍しい、“猛禽類”?的な側面も併せ持っていたトヨタで、トヨエース(最初は1954年型「トヨペット ライトトラックSKB型」で、1956年に「トヨエース」と改名)の登場によってオート三輪の全盛時代はその幕を閉じていくことになる。
元々『SKB型の発想は、S型(注;先に記したが1000cc)エンジンの生産設備の有効活用を検討する過程で生れたものだった。』(㉝、P65)パワフルな1500ccのR型に小型車系を全面的に切り替えたため、宙に浮く形になった、『S型エンジンの利用を前提とした商品の検討を急ぎ進め、その結果、当時根強い勢力を持っていた小型三輪トラック市場の切崩しを狙いとするSKB型の構想が生まれたのである。』(㉝、P65)(余談だがS型の活用としてこのとき、フォークリフトも作られた(LA型フォークリフト、1956年(㉜、P210))。トヨタフォークリフトの始まりだ。考えることに無駄がない。2016年の豊田自動織機の記事で、国内販売台数50年連続 No.1を達成したという記事があるが、たぶん今もその記録を更新中なのだろう。下の写真は豊田自動織機製作所のHPよりコピーさせて頂いた。)
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https://www.toyota-shokki.co.jp/about_us/items/1950_2.jpg
話を戻し、いわば、有り合わせの材料で作られたトヨエースだったが、しかしトヨタ自工の石田退三と、自販の神谷正太郎のとった、対オート三輪史上攻略のための販売戦略は画期的なもので、その展開も実にドラマチックだった。またもや脱線してしまうが、長い引用で、紹介させていただく。最初の引用は(②、P25)より
『トヨタでは、オート三輪の買い替え周期が、およそ5年前後であることをつかみ、需要が急速に伸びた1950年頃のユーザーが買い替え時期を迎える1955年を目標にして、その前年にオート三輪車ユーザーを引き寄せる小型四輪トラックを発売する計画で開発に着手した。』以下はトヨタ自工の社史の(㉘)より引用。
『わが社の技術陣が、戦後のヨーロッパの自動車市場の動きを調べたところ、特に我が国と同じように戦争による損害が大きかったドイツにおいて、終戦直後は三輪車が急速に伸びたが、やがて復興が進むにつれて、三輪車が次第にキャブオーバータイプの小型トラックや、コマーシャル・トラックに置き換えられつつあるのを知った。そして、こうした傾向が、遠からずわが国においても現れるであろうと推察し、~当時、小型トラックの6倍以上の市場規模を持つ三輪車市場』(㉘、P370)を奪うべく、虎視眈々と狙いを定めていたのだ。(㉘)の自工の社史では“わが社の技術陣が”と強調しており、初期の企画段階では、自販側でなく自工側の主導だと感じさせるニュアンスで書かれているが?そこは不明だ。話を続ける。
 こうして既成の部品を多く流用しコストダウンを徹底させたこのトラックの特徴は、社史にあるようにヨーロッパの動向をにらんで『キャブオーバータイプにしたこと』で、『荷台のスペースを広くとることに成功した』(②、P24)。
しかし、原価計算の結果から割り出された販売価格は、東京店頭渡しで62.5万円(1954年9月、SKB型)で、『三輪トラックの約2割高。売れ行きはさっぱり』(㉝、P66)であった。以下は(⑤、P85)からの引用
『~発売当初は景気も良くなく、目立つ売れ行きをしめさなかった。しかし、徐々に販売台数は上向いた。そこで、トヨタはそれまでの常識を破る販売政策を実施した。このときのトヨタ自動車工業の社長は石田退三で、トヨタ自動車販売の社長は神谷正太郎だった。
トヨタきっての商売人といわれた二人のトップが増販のために打ち合わせて、大幅に車両価格を引き下げると同時に販売体制を強化することになった。1台当たりの利益を少なくする代わりに大量に販売することで採算をとる方針であった。
1956年1月に車両価格を一気に7万円引き下げて、車名をトヨエースと改めたのである。トヨタでは、普通トラックにディーゼルエンジンを搭載して新しい販売店を作っていたが、これを元にして新しい販売チャンネルをつくって大幅に店数を増やして、トヨエースの販売に力を入れた。』

“販売の神様”と讃えられた神谷正太郎が残した名言の中に「一升のマスには一升の水しか入らない」というものがあるが、この時生れた名セリフだ。⑤より引用を続ける。
『これは、明らかにオート三輪車の顧客を取り込もうとする作戦であった。この後も、タイミングよく車両価格を引き下げていき、最終的には46万円とほとんどオート三輪車とそん色がない価格となり、トヨエースの販売台数は鰻登りとなった。
1956年8月には月産1000台を突破していたが、1957年4月には月産2000台に達した。これはトヨタ自動車の生産台数の3分の1を占める数字であった。』
以下は(㉗、P118)
『トヨタの作戦が成功した背景には、日本経済の成長があったものの、次々と手を打った石田と神谷という「商売人」による連携プレーがあった。トヨタは乗用車中心になると見越しても、堅調な需要が見込まれるトラック部門をおろそかにしなかった。これも、その後に日産との企業格差が生じる原因のひとつになった。』
オート三輪のピークは1957年で、その後急速に衰退していった
結局オート三輪のピークはこの1957年であった。『道路事情が改善されてくると、それまではあまり問題にならなかった速度や安定性など、走行性能の面で、三輪は四輪にかなわない。やはり三輪トラックは、社会基盤が発展途上にある過渡期の製品に過ぎないのだ。』(⑳、P182)
(逆の言い方をすれば、1957年までは、日本の自動車市場はオート三輪が主流だったことになる。下図は(㉛-2、P144とP146の資料を元に作成した、道路投資額と道路舗装率の推移。自動車重量税をはじめ自動車関係諸税による税収の確保で、日本の道路も着々と整備されていき、走行速度も高速化していった。)
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三輪車は、宿命的な欠点を併せ持っていたので、社会インフラの整備が進み四輪車が普及すれば、いつかは消え去る運命にあったものの、トヨエースが引導を渡した形となり、その後急速に衰退していった。そしてこの“正常化?”は、自動車行政を司る国(通産省と運輸省)側にとっても、望ましい結果だったに違いない。
トヨエースの登場は、マツダとダイハツにも幸いした?(私見)
しかしこのトヨエースの登場を、ダイハツとマツダの側の視点からみると、賓よくなトヨタが早々に引導を渡してくれたおかげで、両社はズルズルと、出口のない深みに嵌る直前の段階で脱皮を迫られて、結果として何とか、四輪自動車メーカーへの転換を果たせたともいえると思う。マツダとダイハツは、トヨタ自工&自販が放ったトヨエースという「刺客」に、感謝すべき面もあったと思うが?ただしあくまで、今となって考えれば、の話ですが。ちなみにトヨタ自販の社史では、トヨエースが日本の自動車市場/業界に対して果たした役割について、以下のように記されている。
『トヨエースの成功は、自動車業界に新たな動きをもたらした。すなわち、従来のボンネット型の貨客兼用車に加えて、積載本位のキャブオーバータイプのトラックが各社からつぎつぎと発売され、市場を形成した。それに伴い三輪トラックが急速に衰退する運命をたどり、三輪トラックメーカーの四輪車分野への進出が始まった。』(㉝、P67)
(下の写真はそのSKB型で、JSAEの「日本の自動車技術330選」より。以下(㊱-3、P11)『このクルマの出現で、バーハンドル車オーナーは激しい劣等感を抱いた。それゆえ、50年代末にはバーハンドルを丸ハンドルに改造するキットまで販売されたほどである』
まったくの個人的な好みでいえば、乗用車/トラックを問わず80年以上の歴史を持つトヨタの歴代全車種の中で、歴史的なこのSKB型トラックがもっともグッドデザインだったと思う。徹底したコストダウンを貫徹したが故の、無駄のない合目的なデザインだった。なおトヨタ博物館によれば、カンフル剤は「値下げ」とともに、「車名公募」であったという。募集数は20万通以上に及んだという、その最終候補に残ったのが「トヨエース」と「トヨモンド」で、審査員による最終評決(6票対4票)でSKB型は「トヨエース」に決まったそうで、「トヨモンド」の可能性もあったそうだ!(web27-2))
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https://www.jsae.or.jp/autotech/photos/3-12-1.jpg

軽のオート三輪、ミゼットの大ヒット
 ダイハツのミゼットは、webで検索すると多くの情報があり、映画の“出演”も多かったせいか、たぶんすべてのオート三輪の中でもっとも話題が豊富だ。その中で安直だが、wikiの記述が簡潔にまとまっているので、そのままコピペして引用させていただく。『ダイハツは、これまでオート三輪でも高価で手が届かず、専ら自転車やオートバイなどを輸送手段としていた零細企業・商店主などの、小口輸送需要を満たす廉価貨物車の開発を着想した。これは当時におけるいち早いマーケティングリサーチの成果であった。1950年代中期の日本能率協会の調査によれば、従業員10人以上の事業所には小型オート三輪トラックが相当に普及していたのに対し、全事業所数の93 %もの比率を占めた従業員9人以下の小規模事業所ではオート三輪はほとんど使われておらず、オート三輪メーカーにとっては未開拓のマーケットだったのである。』
ミゼット誕生のきっかけとして『1956年(昭和31年)夏のある雨の夜に大阪梅田を歩いていた同社社長と専務は、ビールを積んだスクーターが横転し、すべてのビール瓶が割れるという光景を目撃した。こんな時に幌付三輪スクーターがあったら・・・という発想が生まれ、ミゼットの開発に活かされたというエピソードが』(web30-3)あるようだ。Wikiからの引用を続ける。
『このため、車検免除(当時)や安い税額などのメリットを持つ軽自動車枠に目をつけ、当時存在した軽自動車免許(現在は普通自動車免許に統合され、未済条件として存続)で運転できる軽オート三輪トラックを開発した。開発は1954年(昭和29年)から着手され、1956年(昭和31年)には試作車が完成した。』以下は⑱より引用『(1958年)8月に市場デビュー。英語で「超小型のもの」という意味を持つ、ミゼットの愛称が与えられた。』(⑱、P28)以下もwikiから引用
『販売戦略も、その軽便性を売りとする「街のヘリコプター」なるユニークなキャッチフレーズ、楠トシエの歌うコマーシャルソング「みんみんミゼット」など個性的であったが、特筆すべきはテレビコマーシャルのいち早い活用であった。当時ダイハツがスポンサーとなっていたコメディドラマ「やりくりアパート」(1958年 - 1960年)の生CMに、ドラマの主役である大村崑を起用、番組終わりのCM枠では毎回、大村がギャグ混じりで両手を扇形に広げるアクションとともに「ミゼット! ミゼット!」と連呼した。これらの拡販策は大当たりとなり、ミゼットは一躍ベストセラーとなった。』(下の折れ線グラフは、ミゼットが生産されていた頃のダイハツの生産台数の推移で、ダイハツの数字は社史の㉙、P42より、参考までに載せたトヨタの合計の数字は自販の社史(㉝)のP74からとったものだ。このグラフからはやはり、トヨタとの勢いの差が感じられる)
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(下の写真は軽三輪車という新しいジャンルを開拓したダイハツミゼット。ミゼットはタイの三輪タクシー「トゥクトゥク」のベースとなった点でも重要だ。少々長くなるが、以下(web❽)より引用『オート三輪は日本国内のみならず海外にも輸出され、(中略)中でも東南アジア方面へは敗戦国日本の戦後賠償として大量のオート三輪が輸出され、特にダイハツミゼットは中古車や解体車の部品が無償で輸出され、東南アジアではトラックとしてだけでなく、荷台を客室に改造し軽便な旅客輸送車両としても重宝されました。』こうしてダイハツミゼットをベースに「トゥクトゥク」が誕生するのだが、驚くべきことに、(web❽)によれば『~日本のダイハツミゼットの末裔ということは現在もタイを走り回ってるトゥクトゥクの部品とダイハツミゼットの部品と互換性があるのか?(中略)答えは「Yes」』なんだという。想像以上の血のつながりの濃さだ。トヨタ博物館所蔵の1959年製DKA型は初期型で、写真も同館のものです。ミゼットは1957年~1971年まで生産されたが、その生産台数は317.152台(輸出台数 19.382台)に達したという(web30-3)。)
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http://home.q01.itscom.net/taichi/event/201507/26.jpg

以下の2台のトラックは“番外編”として記す。戦前フォードとシヴォレーが開拓し、戦後の一時期はオート三輪が握っていた、普通免許で乗れる2トン積級のトラックの市場を受け継ぎ、さらに発展させた、“正統的?な後継車”として、トヨエースの上のクラスを担った2台のトラックを紹介しておきたい。
小型トラックの代名詞、いすゞエルフ
1台目は小型トラックの代名詞的な存在であるエルフ。以下の説明文は「日本自動車殿堂 歴史遺産車」(web❼-5)より引用
『いすゞエルフは、日本の狭い道路事情で「最も効率よく荷物を運ぶ」という目的を達成するため、1959年にいすゞ自動車初の本格キャブオーバー 2 トントラックとして誕生した。
(中略)広いキャビンと良好な視界、 3人乗りのベンチシートなど、キャブオーバートラックとしての効率的なレイアウトの追求と、耐久性・経済性に優れたディーゼルエンジンの採用により、市場の高い支持を得て、ベストセラー小型トラックとしての基礎を確立した。』
エルフという名の由来だが『エルフとは英語で「小さな妖精=茶目っ気少年」の意味で、いすゞの乗用車ヒルマンのミンクス=おてんば娘と称されたのに合わせて命名されたといわれている。』(㉓、P52)“ミゼット”の名前の由来に似ているが、大型トラックが主体だったいすゞにとっては、小さなトラックだったのだろう。
画像は“response” https://response.jp/article/img/2020/08/25/337781/1554031.html
よりコピーさせて頂いた。小型トラックの世界に、ディーゼル・エンジン車を定着させて、後に続いた三菱キャンターと共に、2トントラックの市場を牽引していった。
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https://response.jp/imgs/fill/1554031.jpg
“4トン車”市場を定着させた、三菱ふそうT620
“番外編”の残りの1台は、現在に至る4トン積中型トラック市場を本格的に開拓し、その初代王者として君臨した、三菱ふそうT620型。この歴史的なトラックの誕生の経緯については、一般で入手可能な本としては、㉕が比較的詳しかったのでそれをガイド役に、さらにインサイドストーリーが記されている(㉛、ふそうの歩み)と(web30-4)で補足しつつ、以下要約して引用させていただく。
戦後の三菱車を説明する上でややこしいのが、三菱重工業が、戦後3社に分割されたことで、自動車関連は、東京(丸子)・川崎でふそうトラック/バス、名古屋で各種車体、京都でエンジン、岡山・水島でオート三輪やスクーターの生産を行う等、各事業所で分担?していた。しかし、1964年に旧三菱重工系の3社が合併し、再び三菱重工業として復活していく過程で、自動車分野も整理・統合されていく。
中型トラック分野では、三菱はもともと先駆者で、オート三輪等をつくっていた水島製作所で作られたジュピターという、他社にない大きさの2.5~3トンクラスのボンネットトラックのシリーズがすでにあった。
水島では、下火になったオート三輪に代わる生産品目としての位置づけだったが、一方大型が中心だった川崎/丸子のふそうトラック部門では早くも『1950年代には5トン前後の中型トラックの占めるシェアが大きかったことから、このクラスへの参入計画が立てられた』(㉕、P110)という。下表は(㉛、P335)に記載されていた、1952、54、56年度の普通トラックの生産台数の数字を元に作成したグラフだ。この表では参考用として、日産とふそうの数字だけ示しておく。元データの数字がまるめてあったので、参考扱いとしておくが、全体の傾向はわかる。
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この表を見ると、普通トラック(大ざっぱに言えば、5トントラック以上の大きさ)の市場は、戦前から商工省に目をかけられて、大事に育てられてきた、トヨタ、日産、いすゞのいわゆる“御三家”の台数が突出している。そしてこの3社が握っていた、5トントラックの市場に、ふそうが参入したかった気持ちは理解できる。日野やふそうは当時その上の、より需要の少なかった7~8トンクラスの大型トラックの製造を担っていたのだ。話が脱線するが、それにしてもこの時代は、トヨタも日産も5トントラックの生産台数が多かった。戦前から軍用トラックを量産していたのだから当然なのだが、たとえばクラウン登場以前のトヨタは、小型四輪車と普通(大型)トラックの生産台数に、大きな差はなかったのだ。下表も(㉛、P334)の生産台数の数値を元に作成したものだ。参考までに。
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話を戻し、ふそうが大型トラックメーカーから総合トラックメーカーへと発展するために、(㉛、P491)によれば早くも1954,5年頃から、中型トラックの検討が始まっている。その際、電通に委託して2度にわたり大規模な市場調査まで行い、高い出費だったようだが『この調査により四トン車進出への自信は固められ、後年十二分に報いられた』(㉛、P494)という。その後、1958~9年頃に中/小型平行検討となり、エルフの登場もあり、小型の開発が優先されたが、中型トラックの方は、足掛け7年かかり1961年11月に、漸くに試作1号車が完成する(㉛、P492)。
この中型トラックは、4気筒2,000ccのキャンターのエンジン(4DQ型)を6気筒化した3,000cc102㏋/4,200rpm(6DQ型)という、比出力の非常に高い高回転型のエンジンを搭載する計画で進んでいた(余談だが、4DQ型の前身だった4DP型は当時の小型車規格内であった1,500ccにして、52㏋という高出力型で、1960年度の日本機械学会賞を受賞したそうだ。)
しかしこのエンジンでは余裕が少なく、将来的なパワーアップ競争に耐えられないと判断されて、急遽、より大排気量のエンジンを新開発(6DS1型)し、置き換えることになったという。(㉕、P113)この間、水面下では事業所間で、生産品目の整理統合(それと内部競争も?)もあったのかもしれない。(下の表は㉛、P336で記されていた数字をグラフ化したもので、1960→1965年の大型トラックの生産台数の推移で、やはりふそうの伸びが目立つ。数字はふそうのみ示しておく。)
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ふそうの社員の生の声を綴った(㉛)では、当時のふそう開発陣の気持ちとして『全員が「トラックで飯を食うんだから、まず日野を抜きたい」の一点に結集して努力をしているうちに、完全に抜き切ったと判った頃にはいすゞも下がって来ていて、自動的に抜いていたというのが実感であった』(㉛、P427)と記されている。もともと潜在的な力はあったのだろう。もっともその後、日野も激しい巻き返しに転じて、大型トラック分野ではこの2社を中心に、熾烈なトップ争いを繰り広げることになる。あの事件が起きる前までは・・・。
1964年10月、最初の企画から約10年という、長期計画になったが、満を持して、4トン積み中型トラック“ふそうT620シリーズ”がデビューした。そのスペックは、同クラスの他車を圧倒し、余裕ある6気筒4,678㏄(110ps)ディーゼルエンジンを搭載し、普通免許で運転できる最大の積載量を誇った。荷台長も4,270mmと6トン積トラックに匹敵する長さで、しかも荷台が低く積み下ろしも楽だった。キャブオーバー型スタイルのキャブの室内は、乗車定員2名が普通であったところ、3名乗車が可能だった。発売以来わずか2年7ヶ月で国内販売累計2万台を突破し、中型4トントラックの市場を確定させた。(㉕、P113、web30-4参照)その後、巻き返しを図る日野のレンジャーや、いすゞのフォワードなどと、激しいシェア争いを繰り広げていくことになる。
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上の画像はなんと、ユーチューブの「#旧車カタログ #三菱ふそう4トントラック #T620」https://www.youtube.com/watch?v=L0lgO10ydRA
からコピーさせていただいた。それにしても、この歴史的なトラックの情報が、webであまりにも少ない・・・。)
早くも延々と脱線してしまったが話を戻し、オート三輪が、4輪の自動車のように“人工的”に育成されたものでなく、戦前/戦後の動乱の時代に、必死に働いた日本人の、日々の生活の中から生まれたのであれば、そのルーツは何だったのか、まずはそこから確認していきたい。
(※いつものように文中敬称略とさせていただき、直接の引用/箇所は青字で区別して記した。また考える上で参考にしたものや、写真の引用元まで含め、出来るだけすべての元ネタを明記している。この記事のたぶん9割以上が、それら参考文献に依存するものだが、今回は特に以下の三氏の著作に多くを頼ったので、最初にネタばらしをしておきたい。
・呂寅満著『日本自動車工業史-小型車と大衆車による二つの道程-(東京大学出版)=引用①』と、
・『懐旧のオート三輪史(GP出版)=引用2』をはじめとするGP出版の桂木洋二氏の一連の著作(他に引用⑤、⑦、㉖、㉗、㉜)及び、
・マニア向けの旧車誌、月刊オールドタイマー(八重洲出版)の連載記事、『「轍をたどる」の中の、「国産小型自動車のあゆみ」編』岩立喜久雄氏(④-1~④-×)
以上三氏の著作だ。以下に記していくこの記事は、これらの著作から勝手に“つまみ食い”させていただいたことをあらかじめ記すとともに、深く感謝します。引用に掲げた三氏の著書を読めば、この記事はまったく不要(その大幅な劣化版なので)であることも明記しておく。特に今回、ダイハツの情報収集に苦労し、ダイハツの社史(引用㉙、㊴)を購入し確認しても内容が薄くがっかりし、困り果てていた時に出会ったものが、月刊オールド・タイマー(八重洲出版)の「轍をたどる」という60回に及ぶ連載記事の中の、「国産小型自動車のあゆみ(編)」という一連の記事だった。
岩立喜久雄氏によるこの労作が、「戦前の国産小型自動車のあゆみ」として近い将来、一冊の単行本として出版されて、より多くの方々に読まれることを切に期待したい。ただしその際には、ダイハツとマツダの車種の変遷ぐらいは、十分情報をお持ちだと思うのでぜひ書き加えていただきたいが!マツダ車については現状でも情報は得られるが、戦前のダイハツ車については、貴重な情報になるので。
 以上は戦前の国産小型三/四輪車の、自動車マニア的な側面も含めての、“歴史”についてまとまるうえで参考にしたものだが、自動車産業史としてみた場合、全体の基調を確認する上で多くを頼ったのが、先に掲げた桂木洋二氏の一連の著作と共に、呂寅満氏の著書(『日本自動車工業史-小型車と大衆車による二つの道程』;引用①)だった。
というか、今回の一連の記事(日本の自動車産業の“育ての親”は日本陸軍だった?)を書き進めるうえで、全般的にもっとも影響を受けたのがこの本だった。もちろん、同書の内容のすべてに賛同したわけではけっしてない。しかし少なくともこの本には、同時代の日本の研究者/モータージャーナリストにはない“勢い”というか、ほとばしるエネルギーが感じられた。著者は1996年から2005年にかけて、韓国から日本に留学して日本の自動車産業史の研究をされたようだが、氏の思いは同時に、日本に追いつき追い越そうと必死だった、当時の韓国自動車産業の思いでもあったのだろう。それにしても、日本の戦前の自動車産業史を記すうえで、韓国人の研究者の著した本がもっとも参考になったという事実には、少々考えさせられるものがある。そして呂氏の研究に明らかに影響を受けたと思える書き物は、今の日本に多いように思えるが、参考文献として掲げていないものがほとんどなのは、如何なものかと感じてしまう。もっともその影響が、二次的なものだったりする場合もあるので、影響を受けたこと自体、わからない方々が多いのかもしれないが。下の画像はアマゾンよりコピーした。)
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14.オート三輪へと至った道
生活者目線で日本のクルマの歴史のおさらいをする
ご存じのように明治以前の日本の社会では、欧米のような馬車という乗り物がなかった。そもそも江戸時代は統治上の理由から、スピーディーに移動することを奨励しなかったので、人々の移動手段は、駕籠(かご)もあったがもっぱら徒歩に頼った。
そんな日本だったが、幕末~明治にかけて『交通史家である斎藤俊彦(注;③の著者)によると、欧米諸国では、馬車を中心とした長い道路輸送時代を経たあとで、鉄道の時代が始まったのに対して、日本では、馬車、鉄道、馬車から鉄道への過渡的な役割を果たした鉄道馬車、自転車などの「舶来品」が、幕末から明治初期にかけてほとんど同じ時期に導入された。それらに日本人が編み出した人力車が加わって、日本独自の交通体系が形成されていった(㉚、P63)のだという。
そして戦前の国産自動車産業をみた場合、四輪の中でもいわば本流であった大衆車クラスの乗用車とトラックが、フォードやシヴォレーのKD生産車に市場を席巻される中で、国産車は軍用トラックや省営バスなど官需主体でかろうじて生き延びていたのと違い、オート三輪は『民間の需要に応じるための性能や価格を備えた製品を保護政策なしに供給する「下からの形成過程」』(①、P144)を経て独自に発展を遂げていった。そして『長期間かつ多量に三輪車が生産されたのは日本のみ』(①、P138)という、世界的に見ても例をみない、独自のクルマ社会を形成していったのだ。
そこで、日本固有の、クルマ社会の歴史を簡単に振り返りつつ、オート三輪へと至った道のりを確認していきたい。まずは日本人のための乗り物として、日本のクルマの時代の先駆けとなった、人力車の話から始める。以下は(㉚、P82)から引用する。

14.1日本人の代表的な交通手段だった人力車
『馬車や自動車では後れをとったが、日本人が発明した乗り物もある。まずは、文明開化の時代、日本人の生活の中に入り込んだ「人力車」。最初は乗ることが照れくさかったようであるが、乗ってみると、実に爽快。長らく身分制度に縛られた生活をしてきた人々にとって、背伸びをするような解放感、少し高いところからの目線で見る景色、ワクワク感があったようである。』この“解放感”の背景の一つとして(④-3、P168)『江戸時代幕末期までは諸車の使用が一部の地域、江戸、京、駿府、大阪などに限定され、その他の地域では厳しく禁じられていたが、明治維新と共にこれらの車両が一気に解禁』されたことが影響していたようだ。
14.1-1明治時代にクルマといえば人力車のこと
以下は(④-3、P168)より『明治期に最も活躍したクルマといえば、それは何と言っても人力車であった。~ 現在の我々は自動車のことをクルマと略称するが、明治期は人力車をクルマと呼んだ。たとえば我々はタクシーを呼び出すとき「クルマを呼ぶ」というが、明治の人はまったく同様にクルマ(人力)を呼び付けた。』(④-3、P170)そして人力車の普及は『鉄道立国の明治は産業経済の分野で蒸気機関車が大役を果たしたが、市井において小さな人力車が人の効率的な移動に寄与した経済効果は計り知れない。』(④-3、P168)
以下も(④-3、P172)からの引用『二輪馬車の車夫の中には1日に36里(144km)を引き、東海道(約500km)を7日で走り抜く者もあったという。市街地を駆け抜けるこれほどの高性能?な貨客運搬用小車は、西欧にもなかったろう。』狭い道幅の当時の環境下では、人力車がもっとも機動性が高く効率的な乗り物であったようだ。
14.1-2当時の日本はクルマ後進国ではなかった?
以下も(web❶)より引用『人力車が日本の代表的な公共輸送機関に取って代わった。1876年(明治9年)には東京府内で2万5038台の人力車があったと記録されており、19世紀末には20万台を越す人力車が日本にあったという。人力車は大阪でも使われるようになり、全国へと普及していった。各地に中継地ができ、道路も整備されていった。』
その普及のスピードだが『さらに信じがたいのは ~ 明治3年に東京で発生した新奇な乗り物が、わずか5年の間に10万台も普及』したことで、短期間に、ほとんど爆発的とも言えるほどの急激な普及だったと論じている。(④-3より)
さらに、大蔵省統計で明治29年(1896)年の約20万台という保有台数は、当時の人口を約4千万人とすれば、人口200人当たり1台の人力車があったことになり、『~人力車を最小サイズのクルマとみるならば、当時の日本は決してクルマ後進国ではなかった。むしろそれなりのクルマ大国であったとさえいえよう。』(④-3、P172)と、けっして“クルマ後進国”ではなかったとしている。
前回の記事で、昭和10年頃の日本には、全国で約5万台の円タクがあったと記したが、乗り物としてのスケールが違い過ぎるとはいえ、台数ベースの比較では明治時代の人力車のほうが、戦前の昭和の円タクより4倍も多かったことになる。そして明治時代の人力車の普及が、昭和の円タクの普及の下地を作っていたことになる。
(人力車がどんな乗り物なのかの説明はさすがに省略する。画像は「人力車の歴史」(web❶)より コピーさせて頂いた。http://edomingu.com/jinrikisha/jinrikisha.html
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http://edomingu.com/image/jinrikihaPostcardIx350.jpg
14.1-3人力車は日本人が発明した?
ちなみに人力車の発明者については、㉚などいくつかの本では日本人の和泉要助(ら)が発明したとしている。(たとえば『人力車の発明についてはいろいろの説があるが、日本では1868年に和泉要助、高山幸助および鈴木徳二朗によって発明されたとされている。彼等は馬車をヒントに人力車を作製した』(web❷、P35)という記述のように。)
 一方(④-3)『和泉要助、鈴木徳二郎、高山幸助の3名が提出した人力車営業願書に対し、東京府が許可を与えたのは事実だ。しかしだからといって和泉要助が人力車の代表的な発明者だったとは限らない。前述の通り人力車の改良、量産に最も貢献した功労者は秋葉大助(1843~1894)であった。』(④-3、P170)と、秋葉大助の功績が大きかったとしている。詳しくは(④-3)をぜひ確認してください。(web❶)でも『秋葉大助が西洋馬車にヒントを得て改良した舟型が祖型となった』としている。岩立氏が指摘しているように、人力車は和泉要助ら、特定の人物の“発明”によって誕生したわけではなく、多くの日本人の手を経て完成したものだと言えそうだ。
14.1-4すでにパリの道を走っていた
しかし残念なことに、交通史家である斎藤俊彦氏によれば、『人力車は日本独特の発明だと言われてきたし、誰でもそのように思ってきた。しかし、今から300年ほど昔の十七世紀から十八世紀にかけて、花のパリの道路を走っていた』(③、P39)という。『人力車はけっして日本独特ではなく、かつてのヨーロッパでも一時利用されていた』(③、P41)とし、さらに歴史をたどれば、中国などでも使われていたようだ(wiki等参照して下さい。)
 この指摘に対して(④-3)の中で岩立喜久雄氏は『~また人力車は18世紀フランスのビネグレットが原型との説もあった。確かにビネグレットも含めてほとんどの欧米製品が輸入されただろうが、日本の車大工ならば様式馬車の実物を観察しただけで、ただちに鍛冶屋に板バネを作らせ、人力車の原型を試作できたに違いない。ビネグレットと人力車では用途もレイアウトも異なり、性能も人力車のほうがだいぶ進化していた。』と新たな“定説”に対してやんわりと反論している。
 さらに、人力車が日本で生まれた最大の理由として、『二輪車のミニマムレイアウトを人間が引いた最大の理由は、単純に日本の道幅が狭かったからである。轅(ながえ、かじ棒)の先端で引き回すため、何よりも小回りが効き、取り回しが良く~』(④-3、P172)と記している。確かに、必要は発明の母だ。
さまざまな意見があるが、個人的な“感想”としては、“Rickshaw”(リクショー=“人力車”のこと。日本由来の英語になった)は、岩立氏の見方のように、確かに二輪馬車の縮小版で、板バネの技術等、その影響を受けつつも、やはり日本固有の社会と風土が育んだ、日本独自の乗り物だったと、理解して良いように思える。まわりくどい表現だが、そうだとすれば、誰か特定の人物の“発明”というわけではなく、人力車は日本(人/社会)が“発明”した乗り物として、解釈すべきように思えるのだが、如何でしょうか。
(下の画像は、https://www.wikiwand.com/fr/Vinaigrette_(v%C3%A9hicule)より
コピーさせて頂いたもので、ビネグレット(Vinaigrette)の一例。17,18世紀頃、フランスの貴族階級が旅行や外出の際、使っていたもののようだ。やはり人力車とは別の種類の乗り物だったと思いたい。ちなみに人力車に対して、欧米からは、人間にクルマを曳かせる行為は、人間の奴隷扱いで野蛮だとの批判もあったようだが、岩立氏の指摘のように現実問題として、明治時代の日本の狭い道では、人力がもっとも機動的で、それしか成り立たなかったのだろう。)
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https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5f/Beauvais-FR-60-CPA-une_vinaigrette-01.jpg/440px-Beauvais-FR-60-CPA-une_vinaigrette-01.jpg
14.1-5重要な輸出産業だった
日本人の発明であったかどうかは別としても、wiki等によると人力車は産業面でもアジア各国へ輸出され、特にインドでは、明治40年代、年間1万台が日本から輸出』されたというからすごい。
『1896(明治29)年の21万台をピークに以後は減少していくが、その代わり、人力車の輸出が増加し、それらの地域で大変重要な乗り物として定着していく。主な輸出先は中国や東南アジア。さらには周辺諸国にも広がっていった。インドのコルカタ(旧カルカッタ)ではいまでも使われている。』(③、P82)そうで、アジアを中心に人力車の世界的な普及に貢献した。先に(④-3)からの引用で、人力車の普及に最も尽した人物として、秋葉大助を紹介したが、以下は(web35、「人力車の歴史について(くるま屋)」)で、輸出を含む、秋葉の功績を要領よくまとめていたので、以下引用させていただく。
『⑤秋葉大助の貢献
秋葉大助(父子)は人力車の歴史を語る上で決して外す事の出来ない存在です。秋葉製の人力車は非常に好評で、彼の作った人力車を大阪では「大助車」と呼んだほどでした。
⑥東京銀座にあった明治期最大の人力車製造工場
「諸車製造所秋葉大助」
大助はそれまでの粗雑で殺風景な人力車を一新させ、車体に漆を塗ったり車軸にバネをつけたりして改良に様々な苦心を払いました。その結果、だいたい現在の人力車の形になり、乗り心地が快適になりました。
和泉らが営業を始めてからしばらくは人力車の形には様々なものがあり、腰掛型、坐型、二輪、三輪、四輪、ちりとり型、だるま型など、多種多様だったが明治8年ごろには現在の人力車と近い形に落ち着きました。それには初代大助の貢献が極めて大きいと言われています。
また、この年に初めて英・仏への人力車の輸出を開始し、その後次第にシンガポールやインドなどへと輸出を拡大していきました。』
(以上、web35より引用)
 以下は(④-3、P171)より『~ゴム製のタイヤ、さらには空気入り(ニューマチック)タイヤの特注から輸入、ひいては国産自転車工業の発展に至るまで、秋葉大助商店が各業界に与えた影響は大きかった。~ 上海での現地生産や、年間1万輌の輸出など、人力車製造は日本の代表的な輸出産業の一つに成長していた。』人力車の説明の最後として、たびたびですが、月刊オールド・タイマーの連載記事の(④-3、P177)から引用
『~なぜエンジンも付いていない人力車を自動車史で取り上げるのか?と疑問に思われた方もあろう。
 ただこれらを通観してみれば、日本人によるクルマ製作は、欧米から自動車が輸入された後に、初めてそれを模倣するところから始まったのではないことに気付かれるのではないだろうか。小型で効率の良さを追求した日本車の要素は、人力車の時代からすでにはぐくまれていたのである。』まず人力車作りのための産業が興り、それが自転車産業へとつながり、オート三輪へと発展していった。『一般にわが国の自動車の製造技術は、欧米製の輸入車から学び、それを模倣することで習得したとみる向きが多いが、じつはそればかりでない。ことに小型自動車の分野では、これら人力車、自転車の部品工業からのフィードバックが絶大であった。』
(④-8、P170)
この14.1項の冒頭に記したが、呂寅満氏や岩立喜久雄氏の指摘の通り、日本の自動車産業の生成過程においては、大衆車(この一連の記事で何度も何度も記してきたが、フォード、シヴォレーのクラスで、かなり大きい)と、小型車という二つの大きな道筋があったのだ。自分のこれまでの、一連の記事では延々と、“主流派”だった前者について記してきたが、今回の記事では長年傍流扱いされてきた後者の系譜を、その発端から記していくことになる。
(しかしそんな人力車も、市街電車などの発展と、廉価で大量にKD生産された自動車(≒アメ車)の“円タク”によって駆逐されていったのは前回の記事で記したとおりだ。確かに徒歩(時速4km/h)よりは速かった(8~10km/h)が、当然ながら自動車のスピードと輸送力には到底かなわない。駕籠→人力車→(輪タク)→円タク(自動車のタクシー)への進化の軌跡は、やはり絶対的なパワーの差によるスピード×輸送力=経済効率の差だったのだろう。下の写真はブログ“鈴木商店”さんより「客待ちの人力車が並ぶ神戸停車場(1907年頃)」コピーさせて頂いた。https://jaa2100.org/suzukishoten-museum/detail/013963.html)
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14.2荷物輸送の主役は人力による荷車
 明治に入り最初に登場した人力車は「人」の輸送だったが、次に「荷物」の輸送について記す。下の(表16)をご覧いただければわかるように、後述する自転車をのぞけばもっとも需要が多く、数多く製造されたのは、荷積車であったが、荷積車には荷車、荷牛車、荷馬車の3種類があった。(④-3、P168)
その中で、荷物輸送の主役もやはり、人力による荷車だった。今の若い人はイメージがわからないかもしれないが、“荷車”とは荷物運搬用の二輪車のことで、そのうち二、三人でひく大型のものは“大八車”と呼ばれて、江戸時代から盛んに使われるようになった。時代劇でご存じの方も多いと思う。(下の画像は「東京の100年を追うNHKスペシャル……震災や戦争からの復興などカラーで再現 7枚目の写真」よりコピーさせて頂いた、「大正時代の日本橋」https://www.rbbtoday.com/article/img/2014/10/17/124534/427930.html)
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14.2-1江戸時代、大八車の使用が認められていたのは江戸市中、尾張、駿府だけだった
先ほど、TVの時代劇で目にした人が多かっただろうと記したが、実際には江戸時代は、人の移動に限らず荷物の輸送についても『大八車の使用が認められていたのは、江戸市中、あと尾張、駿府、それも使用に当たっては、特別な申請と認可が必要だった』のだという。クルマなしで人が運ぶか、馬や牛の背中に背負わせるかのどちらかでは、かなり不便な生活を強いられたことだろう。(下の「江戸の世」の、「大八車騒動顛末」より引用)
https://buna.yorku.ca/japanese/library/tonbo_no_megane/3-6%e6%b1%9f%e6%88%b8%e3%81%ae%e4%b8%96.pdf
同文よりさらに引用させていただく。『そもそも、大八車は明暦の大火(1657 年)の後、江戸の町の大改造を早急に行わなければならなかったときに、土石などを運ぶのに発明された』とあり、(④-3、P168)では『1657(明歴3)年の江戸大火の後、芝車町に住む車大工、八左衛門が考案して作ったことから「大八」車の呼び名が広まったとの記録(東京史稿)があり信憑性が高い。明治期に入ってからの大八、大七、大六車の呼称は荷台長の8尺以下、7尺以下、6尺以下を意味するようになった』と記されている。治安維持のために、厳しく移動が制限されていたが、明治に入り、荷車は荷物輸送の主役として、急速に普及していく。(下の絵は「江戸の商人,大八車を引く」という、国際日本文化研究センターよりコピーさせて頂いた。
https://sekiei.nichibun.ac.jp/GAI/ja/detail/?gid=GB004022&hid=1320
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https://sekiei.nichibun.ac.jp/GAI/info/GB004/item/022/image/thumb/0/thmb.001.jpeg
なお大阪では大八車と呼ばず、「ベカ車」と呼ばれ、その構造にも違いがあったという。)
14.2-2戦前日本の、重量物運搬の主役は馬車だった
 人力による荷車では通常だと100kg~200kg程度の運搬で、庶民の通常の生活の範囲ではそこまでで充分足りる。それより重量物の輸送は、明治時代以降は馬車と牛車が担うようになる。
 下の表(表16「1920年代における諸車の保有台数の推移」)は、①のP116より転記させて頂いた。余談ながらこの表は“諸車”までだが、当時の日本の輸送体系全体としてみれば、さらにその上位に、鉄道と海運による輸送があっただろう。
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 この表をみると、人の輸送の分野では、前回の記事で再三記したように、1925年のフォードの日本進出により、大衆車クラスの乗用車の価格が低下し、割賦販売の普及との合わせ技で、人力車が営業用のタクシーに置き換わっていったことがわかる。また乗用馬車もバスに代替えされて減少していった様子が推測できる。
 ところがその一方で、荷物運搬用としては、引き続き多くの馬車と牛車が大量に使われていたこともわかる。『この表からはまず、乗合馬車と人力車の減少が目立つ一方で、荷積用馬車と牛車は減少するどころかむしろ増加していることがわかる。~これは、タクシー料金が人力車のそれとあまり差がなかったため、乗用車が経済的に既存手段を代替しうる状態に到達していたのに対して、貨物車の方はその条件がまだ不十分であったからである。』(①、P115)。
確かに表中の「荷物用自動車=トラック」も急速に増えてはいるが、馬車と牛車を代替えするには至っていない。その理由について(①、P115)は『荷物用馬車の代りに、自動車が青果・砂利・木材・生鮮・新聞などの運送に使われていたが、』1930年に至っても、急送品に属さない比較的運賃の低い荷物に対しては、経済原理が働き、荷積用馬車がトラックに置き換わらず使用続けられた、としている。
そしてもう一つの現実的な理由として、当時の道路環境の悪さがあった。以下(④-6)より
『~つまりそれまでの荷馬車、荷牛車業に代わり貨物自動車による運送業が台頭してきたわけだ。しかし当時の標準的な大きさと言えるフォード車は、A型(3285cc)が登場する以前のT型でも2896ccあり、日本の狭い道路では立ち往生する場面が度々起きた。
この道幅と輸入車の車体寸法との不釣り合いは、全国に貨物自動車が急増する大正10年(1921年)頃に顕著となる。それ以前の自動車はごく一部の富裕層の遊興用か、あるいは乗合自動車がほぼすべてであり、乗合自動車の場合はもともと乗合馬車が走っていた幹線道路を進んだわけだから、さほど問題は起こらなかった。ところが貨物自動車の場合は、その本能として市街地を自由に侵入したくなる。~ この輸入貨物車と日本の市街地や住宅地の道幅との不釣り合いは、こののち国産小型自動車を発生させる一因にもなっていく』
(④-6、P172)。小型自動車ももちろんだが、クルマにとっての道路環境の悪さが荷馬車や荷牛車が生き残る一因でもあったように思える。
なお馬車の輸送力について(①、P115)によれば『当時(注;1920年代)~営業用としては1.2~1.5トン程度の積載量を有する荷物用馬車が使われていた。』とあり、スピードでは確かに自動車にはかなわなかっただろうが、積載力はなかなかのものがあったようだ。
14.2-3農家の“自家用”は牛車だった
以下も(①、P115)の引用だが『当時(注;1920年代)、積載量が600~900kgである牛車は主に農家の自家用として使われており~』所得水準が低かった農家の“自家用?”は馬車よりももっぱら牛車だったようだ。ただし、牛車を使う農家は相当な富農の部類だろう。
(写真はhttps://4travel.jp/の「フィリピンで出会った様々な人々」より。さすがに現代の日本では、牛を“自家用”にしている人はほとんどいないと思うが、フィリピンのこのオッサンの、かなり原始的なスタイルだが、立派な“自家用”に乗った満足げな表情に思わず惹かれて、日本ではないがコピーさせて頂いた。ちなみに日本で牛車は、古くは飛鳥時代より、全国各地の車大工によって繰り返し作られてきた伝統的な在来技術であったという。(④-3、P169参考))
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https://cdn.4travel.jp/img/thumbnails/imk/travelogue_pict/39/87/32/650x_39873245.jpg?updated_at=1439510449
話を戻し、①による説明や、(表16)から判断すれば、1930年頃に至っても、庶民の生活の中で荷物の輸送の主力は、次に記す自転車やリヤカーなどの人力と、馬車/牛車で、自動車は主流とは言えなかったと思う。

14.3自転車がオート三輪誕生への架け橋となった
次にもう一度、(表16)をご覧いただき、表中の自転車の項に注目したい。諸車の中で突出して大きな保有台数だ。便利な乗り物として日本の社会でも定着していたことを表している。
14.3-1戦前日本の自転車の歴史
そこで戦前の自転車の簡単な歴史を、まず初めに確認しておきたい。以下安直だが、国土交通省のHP「自転車交通」の中の「自転車の歴史」より引用
 https://www.mlit.go.jp/common/001259529.pdf
『明治29年(1896年)頃から、セイフティ型自転車が、本格的に輸入されるようになり、明治末期には、国産製造が本格的に始まった。
明治44年には輸入関税が引き下げられて単価が下がったこともあり、全国の自転車保有台数が急激に伸び、また、第一次世界大戦で輸入が激減したことから国内生産力が急速に伸びて、価格が安価となり、庶民の生活の足として普及した。
昭和に入ると自転車の保有台数が毎年20~40万台増加し普及が拡大した。日常生活に欠かせなくなった自転車も、昭和13年(1938年)には贅沢品として製造が禁止されて、昭和15年には自転車が配給制度となった。昭和18年には資材が入手できなくなり、年間生産台数が7万台まで減少した』

(下の写真は、たびたびコピーさせて頂いている、“ジャパンアーカイブズ(Japan Archives)”さんより「丸の内(明治45/大正元)自動車・自転車・人力車(馬場先門通)」。https://jaa2100.org/entry/detail/036886.html?
自転車と人力車とともに、丸の内だけあって1台だけ自動車も映っているが、目を凝らしてみると自転車が多いようだ。この写真は1912年の光景だが『1907年に約8万6千台、1910年に約23万9千台、1915年に約68万4千台と伸び、明治時代末から大正時代にかけて自転車は急速に普及していった』(web38-2)。
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14.3-2自転車の普及率は都市部では一,二世帯に一台だった
そして『昭和初期の時点で日本の自転車保有台数はフランス・イギリスに次いで世界第三位、生産量はドイツに次いで世界第二位であった』(⑬、P185)という。さらに戦前の末期には、『特に都市部では一,二世帯に一台の普及率を示していた』(⑬、P184)という記述もあり、驚きだ。下の表は、(web36)中にあった「日本自転車の生産・輸出・輸入の推移」という表を元に作成した。生産/部品の数字は台数ではなく金額で、完成車+部品の合計とした。
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14.3-3自転車は庶民が所有し、自分で動かして乗るクルマ。日本で初めてだった
以下は、“随想・東北農業の七十五年”というブログの、「便利だったリヤカー、自転車」という随筆(web40)から引用させていただく。戦前の東北の農家(といっても、自作農の、相当富農の部類のほうでしょう)で、自転車が当時の人々に与えた影響について書かれており、含蓄のある内容だ。以下ほんの一部だけ引用させて頂く。
『~ ところで、自転車はそもそも人が乗るためにつくられたものである。今述べた運搬は本来からいえば副次的な利用法でしかない。
 人間の移動には徒歩しかなかった時代、自転車は本当に便利なものだった。もちろん鉄道はあった。しかしそれは、決まったレールの上を走るだけなので、どこにでも自由に移動できる手段ではなかった。ましてや線路はそれほど走っていない。これに対して自転車は人が通れる程度の道路さえあれば自由に移動できた。(中略)
 だから、一般庶民の乗物としては、鉄道以外、自転車が初めてではなかったろうか。もちろん、人力車が明治期に開発されている。これは駕籠の代用で、しかも他人に乗せてもらうものである。これに対して自転車は自分が所有し、自分で動かして乗る乗物である。これも日本の歴史上、初めてではなかったろうか。』

戦前の人々の移動手段としてみた場合、人力車や鉄道やバスは、他者に乗せてもらうものだ。都市部の住民が利用する最初の自動車であった円タクも、前回の記事で記したように、当時の日本人の受け取り方からすると、公共交通機関的な意味合いも強かった。それに対して自転車は、確かに荷物運びの道具としての側面も強かったが、当時の(多少上級の?)庶民が“自家用”として所有し、自分で動かして、道と体力が許す限り、どこまでも自由に乗りまわす、プライベートな乗物(“自”分で“動”かす“車”、つまり“自動車”か?)である点が、新しかった。
14.3-4戦前の自転車産業は機械工業の花形だった
話を戻して、上の表から、保有台数の着実な増加とともに、生産と輸出の金額が急激に伸びていく傾向はわかる。
戦前の日本の自転車産業は、当時の自動車産業とは違い、国際的に見ても充分競争力がある、第一級の産業だったようだ。そこで次に、産業としての自転車について、もう少し詳しく見ていきたい。まずはJETROのレポート(web36)から。
『自転車産業は、第一次大戦による輸入代替期を経て、1920年代に国産化をほぼ達成した。その生産は東京・大阪(堺)・名古屋に集中し、簡潔に表現すれば、完成車の東京、部品の大阪、その中間の名古屋といった具合であった。
1920年代後半になると、東アジア・東南アジア諸国が日本の自転車やその部品を輸入するようになった。31年の金輸出再禁止以降、為替ダンピングの影響もあり日本の輸出は急増した。部品については、実に生産の半分以上が輸出に回されていた。その後も順調に輸出台数を伸ばし続け、37年には機械輸出のトップを占めるに至った。この頃の自転車産業は機械産業の花形であった。』
以下(web36)。戦前の輸出先について(⑬)から。
『これらの自転車は主として、いわゆる「円ブロック」(当時の円が支配的な通貨である地域)に輸出された』(⑬、P186)。
(下の写真は“自転車文化センター”の「自転車から見た戦前の日本」からコピーさせて頂いた「昭和7年(1932年)頃の横浜伊勢佐木町 」。『歩道脇に多数の自転車が駐輪してある光景は今と変わらないが、車道に自動車が走っておらず、交通の中心が自転車であったことがわかる。中央の自転車のハンドル前に荷物を置くための装置が取り付けてあり、当時は自転車が荷物を運搬するための役割を果たしていた。』
http://cycle-info.bpaj.or.jp/?tid=100129)
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http://cycle-info.bpaj.or.jp/file_upload/100129/_thumb/100129_32.jpg
14.3-5自転車産業は「問屋制工業」だった
そして日本の自転車産業の産業構造は、「問屋制工業」と呼ばれた独特なものであった。まる写しばかりで恐縮だが、以下(web37「日本における自転車工業の発展」竹内淳彦、1958年)より引用
『自転車の生産は、代表的な組立産業であり、完成車組立てを最終工程としている。すなわち、自転車は、大別しても16の部品と数百の附属品が必要であり、それにタイヤ・チューブ・皮革などを結合させ完成車となるのである。
ところが、日本の自転車は、全工程が完成車メーカーにより、一貫的に生産されている場合は全く少なく、商業的色彩の強い商業卸が、部品メーカーから各部品を蒐集し、完成車を生産している場合が多い。
最終的には完成車の構成品としての部品生産を目的としながらも、完成車工場への納品を直接目的としない部品メーカーが多数をしめている結果、自動車・ミシンなど他の機械工業にみられる如き、組立工場を頂点としたピラミッド型構成が全くみられないところに、日本の自転車工業の構造的特質が存するといえる』
(web37、P33)以上は1958年の著作で、グローバル経済化が進んだ現在では、その構造が大きく変わっていると思う。しかしこの記事のテーマである戦前の、自転車産業では、宮田(東京)や岡本(愛知)のようなメーカー志向の自転車企業もあったが、それ以上に、大阪を中心とした問屋型の企業や、自転車部品企業の勢力の方が強かった。完成車メーカーを頂点としたピラミッド型下請け構造の自動車産業とは全く異なる産業構造だったのだ。
14.3-6初期のオート三輪は自転車関連企業がつくった
 話が自転車とオート三輪の間を、行ったり来たりしてしまうがお許しいただきたい。時代が少し飛んでしまうが、初期のオート三輪車市場に参入した企業は、自転車産業関連が多かった。以下①からの解説を引用する。
『まず注目されるのは、自転車工業との関連のある企業が多いことである。しかし、その企業は完成車をつくる自転車企業ではなく、自転車問屋あるいは部品製造企業であった。~ これらの自転車関連企業が三輪車の製造に関わることになるのは、自転車が問屋主導で製造されたからである。例えば、当時東京自転車問屋の類型のうち最も多いのは、全ての部品を部品企業が製造して問屋は組立のみを行うものであり、その次は問屋がフレームまで製造する類型であった。これは他の地域でも同様であったと思われるが、その問屋が自転車部品と一緒に自動自転車のエンジンも輸入し、それを自転車部品企業に依頼してあるいは自ら三輪車に改造したのである。』(①、P140)
以降で記すように、オート三輪はその後、規制緩和を受けて技術的な進化を遂げていく過程で、“四輪自動車”との近似性が強まり、“自転車色”は次第に薄まっていった。しかしスタート時点に於いては、世界的なレベルにあった自転車の高い普及率と、すでに確立していたその産業基盤が、オート三輪の市場形成に大いに役立ったことは間違いない。
14.3-7オート三輪が大阪起点だった背景
 次にオート三輪が、なぜ大阪(特に境)を中心に発展していったのか、その理由も確認しておきたい。この辺は自分にまったく知識がなく、コピーばかりで申し訳ないが、その説明を以下(web39、P68)より引用だが、
『大正年代以降、わが国の自転車工業は東京、名古屋、堺の三ケ所でほぼ並列的に発展してきた。だが、東京が完成車生産を中心にしたのに対して、堺は部晶供給を主体にし、名古屋は小規模ながら両方を抱えるように構造には多少の違いがあった。堺が部晶を主体にしたのは鉄砲鍛冶という鍛造の技術が長く息づいていたから、いいかえれば技術に対する強い自身と執着があったからであろう。大都会の東京が一見華やかに見える完成車の生産を志向し消費者への接近を図ったのに対して、地道な堺は、逆に自転車の心臓部に当たる、主要部品生産に撤して晶質の高度化にのみ生きる道を求めたのである。こういった背景には、古くから鍛え上げられた鍛冶職人たちの意地も強く働いていたといえよう。』
以下は(web36)からの引用『日本の自転車産業の歴史は,輸入自転車の修理,補修用部品の製作から,まず部品工業が形造られたのに始まり,それがやがて国産完成車の製造に進んだものであって,自動車や時計と異って,完成車組立技術そのものが自転車工業発展の決定的なポイントになり得なかった。(中略)とりわけ大阪では,堺の鉄鉋,刃鍛冶から転業した家内工業的な生産形態による補修部品の生産を出発点とした。』
引用させて頂いた(web36、39)の両方に、大阪の、堺の地名が出てくる。さらにwebで調べると、この地域は元々鍬(くわ)や、鋤(すき)を生産するための鉄の加工技術が発達していたが、16世紀に入って、ポルトガル人によって、鉄砲、タバコが伝来し、タバコの葉を刻む包丁や、種子島に渡った鉄砲の製法が堺に伝え、鉄砲作りから自転車の技術進化へと発展していったとのことだ。(“サカイーナ”というブログのhttps://www.sakaiina.com/ の「堺の自転車博物館」記事を参考)。確かに素人考えでも、鉄砲の銃身と、自転車のフレーム製作には、関連する部分がありそうだ。
そして現代に話を戻すと、堺市=世界のシマノの本拠地でもあるのだ。シマノは『スポーツ用自転車部品では世界の85%、変速機付き自転車でもおよそ7割のシェアを握っている』という(https://strainer.jp/notes/739 より)。そのため堺には、日本で唯一の?自転車博物館があるようだ。自転車に興味のある方は、大阪を訪れた際に、ぜひお寄りになったら如何でしょうか。(下の表は(web39、P68)の、「1930年代における東京、大阪、愛知の自転車生産額」の表の数字から、グラフ化したものだ。やはり安定して、大阪地区の比率が高い。
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14.3-8当時阪神工業地帯が京浜工業地帯を上回る、日本最大の工業地帯だった
自転車産業が、大阪起点であった点について、もう一つ、その理由を掲げておきたい。基本的な情報として、大阪を中心とした阪神工業地帯は、戦前、京浜工業地帯を上回る地位にあり、日本最大の工業地帯であった点だ。以下もwiki等、webからの情報の寄せ集めだが、綿紡績・鉄道などを中心に、それを支える商社や銀行などの活動が一体となって、この地域は「東洋のマンチェスター」(マンチェスターは、英国の産業革命によって発展を遂げたイギリスを代表する商工業都市)と呼ばれるようにまで成長し、日本の工業化の先頭に立っていた。特に進取の気概に富み、元気な中小企業の多かった(②、P173等)という。今の人たちからすると、大阪は「商都」のイメージが強いと思うが、戦時期に東京府に追い越されるまで大阪府は日本最大の工業生産額を誇った「工都」でもあったのだ。(画像はwikiより、新世界から見た通天閣、1920年)
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https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/56/Original_Tsutenkaku_and_Shinsekai.jpg/180px-Original_Tsutenkaku_and_Shinsekai.jpg
14.3-9関西を中心に一時期、フロントカー型の三輪自転車が普及していた
そして、大阪を中心とした関西地区や東京では、通常の二輪自転車だけでなく、荷物運搬用として三輪自転車が、一時期ではあるが、ある程度普及していたらしい(④-3、④-5及び①、②P172等を参照)。そしてこのことが、オート三輪誕生の、重要な布石にもつながるのだが、日本のクルマの歴史の中で、取り上げられることが少ない、三輪自転車が普及した過程を、ここで簡単に確認しておきたい。
まず、人力車や後述するリヤカーを生んだ、好奇心旺盛な当時の日本人は、通常の二輪自転車の変形として、実に様々なバリエーションの三輪自転車や、“四輪“自転車を考案したようだ。その目的は、少しでも多くのモノを積むためで、長くなるので省略するが、詳しくは(④-3)や、(④-5)をぜひご覧ください。
そのうち主流はやはり三輪だったが、ここでさらに、当時の国産三輪自転車を形状別に分類すると、・フロントカー式三輪自転車、・リヤカー式三輪自転車、・サイドカー式三輪自転車の3つに分類できる(④-8、P174)。
このうちサイドカー式は狭い道幅の日本では適せず、最初に普及したのがフロントカー式だった。『ただしこれは自転車系に限った話であり、リヤカー式はのちにエンジンが搭載されて発展し、やがてオート三輪になって活躍することになる(④-7、P174)このことは、後でオート三輪のところで記す。
まとめると、この当時、三輪自転車として主に使用されたものは、フロントカー式の三輪自転車と、リヤカー式の三輪の輪タクだったようだ(『~ 結果的に最も実用性が高かったのは、フロントカー式のトライシクルと、三輪のリンタクの2種であったことになる。』(④-7、P174))輪タクについても後述する。
両車が生き残った理由は、通常の二輪自転車より多く積めて「実用性が高かった」からであったが、ここで、当時の主要な顧客であった商工業事業者が、それらの三輪自転車を求めた動機を、以下(㉚)で確認しておく。
14.3-10日本人は個人的な楽しみというよりも、業務用のニーズが優先する
『~日本では、どちらかというと、これを使用することによって顧客を大幅に拡大できるという、いわば業務用の需要が主導する形で普及したのである。~ 個人的な楽しみというよりは、業務用のニーズが優先するというこの特徴は、後述するように、自動車の普及についても当てはまる日本的な個性と言えるだろう』(㉚、P65)。三輪自転車に、一定の需要があったのは、自然な成り行きだったかもしれない。
(ただ、この三輪自転車が一時期、ある程度、普及していたという事実を“証明”する資料が少ないようだ。その理由の一つとして、三輪自転車は当時、統計上では「自転車」として一括りで扱われており、数字として説明できないようだ。そのため当時の写真や雑誌記事等を掘り起こし、判断するしかなさそうだが、(④-5、P171)では、1917年の、日本自動車(あの大倉系の自動車販売大手)の雑誌広告(モーター11月号)の写真の説明の中で、以下のように指摘している。
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『~この広告で興味深いのは、フロントカー式の貨物運搬用三輪自転車の後方にスミスモーターホイールを装着し、その実用性の高さを主張している点にある。
~ この大正6年(1917年)頃には、全国の都市部の大商店では、すでに御用聞き用の国産の安全型自転車と、配達用途に運転するフロントカー(三輪自転車)が普及していた様子がわかる。商品を迅速に配達するために狭隘な路地を走り抜けていく、オート三輪の始祖がここにあった。このようなスミスモーターホイール付きフロントカーが進化していく過程で、やがて国産の小型自動車の原型が築かれていくのである。』

オート三輪の始祖
三輪自転車が普及していた様子を示すとともに、確かにこの写真は、「オート三輪」が自然発生的に生まれていった、証拠写真だ。この貴重な資料は、以下は月刊オールド・タイマー(八重洲出版)連載記事「轍をたどる」岩立喜久雄氏の「スミスモーターと特殊自動車」(2006年.8月、№.89号)(④-5として引用)のP171よりコピーさせて頂いた。何度も記すが、この「轍をたどる」が一冊の本となり、広く読まれることを切に願います。)
(下の写真はイギリスで郵便配達用に使われていた、フロントカー型の三輪自転車で、
https://www.collectgbstamps.co.uk/explore/issues/?issue=22795 よりコピーさせて頂いた。
このイラストは、1920年のモノのようだが、1880年から使われていたようだ。以下機械翻訳『1880年に最初に導入された三輪車は、大きな籐のかごを備えており、都市部や農村部で大量の郵便物を運ぶのに理想的でした。第一次世界大戦までに、それらは時代遅れであり、郵便物の重量の増加には不十分でした。』フロントカー型三輪自転車は、本場イギリスに於いては1920年ごろになると、郵便配達用としては、荷物の搭載量が不足していたようだ。)
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くり返すが(④-5)が指摘したように、このフロントカー型の三輪自転車に、これも後述するスミスモーターホイールを取り付けたものが、初期のオート三輪の直接の始祖になった。
14.3-11三輪自転車の時代は短かった
だがこの、フロントカータイプの三輪自転車が使われた期間は、どうやら短かったようだ。
 以下(①、P116)より『(上掲の「表16」により)当時大量の通常自転車が保有されていたことがわかるが、自転車の一部も早くから貨物運搬用として改造して使われていた。その形態には、前部あるいは後部に二輪の荷台を設けて三輪自転車にしたものや荷台のサイドカーを取り付けたものもあったが、もっとも多く使われたのは別に二輪の運搬車を作ってそれを自転車の後方に取り付けたリヤカーであった。』ここで、リヤカーの名前が登場する。
この間の事情を(「国産リヤカーの出現前後」、以下web41)より引用すると、『新しいタイプの荷物運搬具、リヤカーの出現によって、三輪車は徐々にその座を失っていった』(web41、P11)のだという。
ここで自転車の話は終わりにして、もう一度、荷車に戻る。上り調子にあった自転車産業の力を背景にして、様々なクルマ作りの試みが行われていく中で、荷車も進化を遂げていく。戦前から戦後の一時期まで、庶民の荷物運搬に大きな役割を果たした、リヤカーの登場だ。

14.4“庶民の自家用トラック”、リヤカーの登場
この項はいきなり写真から入る。((下の写真は「月刊Hanada」に載っていた「終戦直後の街の風景」より。以下は(③P82)から引用『次に、大正時代に現れたのが「リヤカー」。庶民にとっては、手軽な自家用トラックのような働きぶりである。』ここの記述を、14.4項のタイトルに使いました!)
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14.4-1荷車からリヤカーへ
 誰もが知っているリヤカーだが、ここで改めて「リヤカー」の定義?について、確認しておきたい。それ以前の大八車等の「荷車」と、その発展形ともいえる「リヤカー」との、ハードウェアの違いは何だったのか、リヤカーの特徴をwikiで確認すると、『ごく細身の型鋼、もしくは鋼管で牽引用の梶棒部まで含むフレーム全体を組み、車輪はオートバイや自転車と同様に金属製のワイヤースポークを利用、車軸はなく、自転車同様のボールベアリングで左右独立支持された両輪間に荷台床を落とし込んだ形態となっている。さらに車輪には空気入りゴムタイヤを填めている。結果、大八車に比して大幅な進歩を遂げた。~大八車の問題点の多くが、リヤカーでは金属部材の導入や自転車・サイドカーの手法を援用することで解決されている。』ということで、大きな進化を遂げている。
 以上は従来の荷車との比較だが、リヤカーの使用方法が、従来の荷車と大きく異なる点は、その牽引者が人に限らず、自転車の場合や、さらには戦後に入ると、原付自転車の場合もあるという、その多様性だろう。そしてその万能性ゆえに、戦前から戦後の長い期間に、相当な台数が普及していたと思われるが、残念ながら具体的な数字が調べられなかった。ただこの記事の対象範囲の戦前においては、自転車よりも人が引く使われ方の方が多かったと思われる。(下の写真はブログ“岩魚太郎の何でも歳時記”さんよりコピーさせていただいた、昭和40年(1965年)頃の豆腐屋さんの商売の一コマです。確かに昔はラッパが鳴ったものですね。
https://jp.bloguru.com/iwanatarou/329126/2018-07-19)
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https://jp.bloguru.com/userdata/40/40/201807191132420.png
14.4-2リヤカーが三輪自転車に勝っていた点
以下は、三輪自転車との比較で、リヤカーが勝っていた点として、(web41、P11)では、
・税率が安かった(昭和3年度(1928年)の東京府の例で、三輪自転車が3円66銭、二輪自転車が2円66銭に対して1円)
・価格も三輪自転車の約1/4だった
・格納が楽だった(リヤカーは立て掛けられた)等を指摘している。また
・機能としても、リヤカーの良いところが、三輪車の弱点だった、としているが、リヤカーの方が、荷物運搬用としては低重心で安定性が高かっただろう。
(下のリヤカーのチラシ広告は、ブログ「賢治と農」よりコピーさせて頂いた。
https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202101070000/
そして同ブログのおかげで、リヤカー誕生の経緯について調査した論文、「国産リヤカーの出現前後」(梶原利夫著、自転車産業振興協会 技術研究所、以下(web41))を知ることが出来た。両方の著者に感謝します。下のチラシも同論文に掲載されたモノでした。この1930年頃のチラシでは、並サイズのリヤカー完成車の価格は25円とのことだが、同論文の1935年のチラシ広告では、競争が激しくなってか、なんとほぼ半額の12円60銭まで安くなっていると、「賢治と農」のブログでは指摘している。(①、P170)で、同じ1935年の、オート三輪の価格は1,200~1,300円ぐらいだとされているので、それと比べるとやはり圧倒的に安い。
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https://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/9/2f5cc821229aacaca0dd9fb4b899310ba615d2a2.65.9.9.3.jpeg
 そしてこのリヤカーだが、wikiによれば、『1921年頃、海外からサイドカーが日本に輸入された時にサイドカーとそれまでの荷車の主流だった大八車の利点を融合して、静岡県富士市青島の望月虎一が発明した』(wiki)のだという。(下の写真は、)
14.4-3リヤカーも日本人の発明だった!?
なんと人力車に続いてリヤカーも、日本人が“発明”したというのだ!当時の日本人が、旺盛な創作意欲を持っていた事は、今までこの記事で再三指摘したことで、ある程度は納得できることだが、果たしてここまで“断定”した記述を、全面的に信じて良いのだろうか。
ところがさらに調べようとしても、リヤカーについて書かれた情報が、信じられないくらい少ないのだ!あれほど日本の経済発展に尽くしてきたのに!!以下はその数少ない貴重な資料である(web41)を参考に記す。
まず前提として、リヤカーによく似た形態のものとして、欧州では自転車やオートバイで牽引する「トレーラー」と呼ばれるものが既にあった。何度も記すが好奇心旺盛な当時の日本人、もその存在を、当然知っていただろう。だがこのトレーラーは、日本人のように、人間が荷車を曳くという慣習を、野蛮なものとみなしていた西欧社会では、発展をみなかったという。人力車の場合と同じだ。また構造的にも、車輪は一本の貫通した車軸に取り付けられているので腰高な点が、日本のリヤカーと大きく異なっていた。(下の画像はwikiより。リヤカーは省スペースで、本当によくできている。まるでスーパーのカートの収納みたいだ。)
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そして(web41、P12)によれば、日本では『大正6年(1917年)頃にリヤカーは出現したらしい』のであるが(とたえば「輪友」という自転車雑誌の大正6年10月号の広告に、初期のリヤカーのものがあるという)、その時点では、欧州のトレーラーと同じ車軸構造だったという。このトレーラー型のリヤカーを出発地点として、以下(web41、P13)から引用を続ける。
『この型式をリヤカーの祖型とするならば、その後次々と改良され発展していったリヤカーは、日本独自のものであり、それ以前のトレーラーとは同系異質といえよう。特に昭和5年頃、芦沢孝之氏が考案した人力型曳手のリヤカーに至るまで、様々な改良がなされたが、その改良の一つ一つは、日本人の考案によるものであるから、此ら総合した日本型リヤカーは、日本で発明されたと言える。だがそれは個人が発明したものではないと言えよう。』としている。確かに、ご指摘の通りだと自分も思います。
14.4-4リヤカーは日本で発明されたものだが特定の個人が発明したとは言い難い?
ただ(web41)では追記して、『初期のリヤカー製造技術で特に注意せねばならぬ点は、酸素・アセチレン溶接技術であろう』(web41、P14)としており、『国産リヤカーを、ガス溶接によってパイプフレームの構造を最初に考案、製造したものは不明である』(web41、P15)と記している。この資料が投稿されたのは1997年10月だが、その後の調査で、もしかしたら望月虎一が、その先駆者であったことが判明し、貢献大と判断したのだろうか。Wikiが根拠もナシに発明者として書いたとも思えないし、何ともワカリマセン。
ただ手持ちの情報が足りないので、ここでは(web41)に倣い、「日本型リヤカーは人力車と同様に、望月虎一氏をはじめ多くの日本人の手で改良が加えられ、完成した日本独自のものだ。その意味で、日本で発明されたと言えるが、個人が“発明”したものとは言い難い」と思ったが、如何だろうか。
(この写真も https://www.collectgbstamps.co.uk/explore/issues/?issue=22795 よりコピーさせていただいた。「オートバイとトレーラー、1902年」以下、機械翻訳『このようなオートバイとトレーラーは、1902年にケント州シッティングボーン周辺の農村地域に手紙や小包を配達するために使用されました。これは非常にローカルなイニシアチブであり、ロンドン以外で最初の電動メール配信の1つでした。』一見リヤカーと似ているが、このイギリス型トレーラー(リヤカー)の車輪は、貫通した車軸に取り付けられているのがわかる。そのせいで、荷台が腰高だ。)
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https://www.collectgbstamps.co.uk/images/gb/2018/2018_9486_l.jpg
14.4-5東北の農家で、リヤカー、自転車、牛馬車の使われ方(余談)
以下は自転車の項で先にも引用させて頂いた、“随想・東北農業の七十五年”というブログの、「便利だったリヤカー、自転車」という随筆(web40)から再度引用させていただく。戦前の東北の農家(先に記したように自作農で普通より豊かな農家に思われる)で、リヤカーが導入された当時の状況を、実体験を元に書かれている、素晴らしい文です。
http://j1sakai.blog129.fc2.com/blog-entry-257.html
『~ リヤカー、これは大正期に日本で開発されたものだそうだが、人力による牽引という点では大八車と同じであり、改良大八車ということができよう。大八車よりは小さいというのが難点といえば難点だったが、これは便利だった。
 まず軽かった。木製ではなく、車体は鉄製のパイプ、車輪は空気入りタイヤで構成されているからである。女子どもでも十分に動かせる。
 また、大八車などよりは速い。軽いし、タイヤがついているからだ。もちろん若干ではあるが。ともかく楽である。』また他のクルマとの利用の役割分担について、以下のように記されている。
『しかし、稲上げのときなどのように運ぶ量が大量のときは牛車が中心で、リヤカーは補助用となる。つまり、リヤカーと牛馬車は併存して利用された。
 もちろん、リヤカーも人間が引いて歩くわけだから、大八車より速いとはいっても基本的には徒歩と変わりはない。
 しかし、いいことがあった。リヤカーは自転車の後ろにつなげるようになっていることだ。つないで自転車に牽引してもらえば自転車と同じスピードでリヤカーは走り、かなり速くなる。もちろん、重いものを載せたり、上り坂にさしかかったりすると、自転車から降りて引っ張らなければならないなど、人力での限界はあるが、よくもまあこうしたことを考えたもの、さすが日本人と言いたいところである。
 私の物心ついたときに大八車をそれほど見かけなかったのはこうした便利なリヤカーが普及していたせいではなかったろうか。(中略)
 前にも述べたが、私の生まれたころの1930年代には、農家がこうした自転車、リヤカーを牛馬車と合わせて利用するようになっていた。
 とはいっても、当時は自転車もリヤカーも高価だった。持っていない農家の方が多かった。戦後自転車でなされた郵便配達でさえ徒歩でやっていた時代だったのである。
 また、牛馬車となると一定の経営面積をもつものしか持てなかった。(中略)
 このような問題があり、また人力、畜力という限界はあったが、ともかくこれらは生産・生活両面での利便性を大きく高めたことはいうまでもない。』

(下の写真はwikiより、現代版として電動アシスト自転車と組み合わせた、おなじみのヤマト運輸のリヤカー。
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一方『ライバル佐川急便は『リヤカー状の荷台を備えた、特製の電動アシスト三輪車で対応している。』(wiki)こちらは初期のオート三輪風だ。下の画像は
https://twitter.com/run_sd よりコピーさせていただいた。)
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https://pbs.twimg.com/media/EPrS0pnVUAAji0v?format=jpg&name=large
14.4-6人力車+自転車=輪タク(Cycle rickshaw)
ここで荷物の輸送から、人の輸送へと話がそれる。進化した荷車(大八車)であった、リヤカー+人や自転車の組み合わせが、庶民のトラックであったならば、同じく人力車の進化型+自転車の組み合わせだって当然考えられるが、それが=「輪タク」になる。日本では自転車タクシーを、そのように呼ぶことが多いが、英語では、Cycle rickshaw だという。この分野での、日本の存在感の大きさがわかる。
前の記事(12.1項)で記したように、日本では戦前から、自動車の「円タク」が大都市を中心に、普及していたが、「輪タク」は第二次大戦をはさんだ、石油の一滴は血の一滴の時代だったガソリン不足の窮乏期に、もっとも流行したようだ。(③、P82)からの引用する
『さらに、第二次大戦中のガソリン車の窮乏期に、人力車風の車体と自転車を合体させ、客を走る三輪自転車が登場。戦後は輪タクと呼ばれた。同じタイプのものとしては、ベトナムやカンボジアのシクロ、インドネシアのペチャといった人力三輪タクシーがある。モータリゼーションが進むと、急速に減少していくのであるが、気楽な足として親しまれたことは、人々の記憶の中にとどめられていくのではないだろうか。』タイやマレーシア、ベトナムなどの東南アジアを中心に、輪タク文化が栄えたことはご存じの通りだが、この流れは、日本から輸出された人力車から派生したものだったとの指摘もある。その影響もあっただろうが、その時々の社会状況に応じて、どこの国の庶民も、手持ちの材料でどうすれば便利になるのか、生き抜くために必死に考えた結果だったのだと思う。日本の電動アシストのママチャリ3人乗りも、子供を乗せて楽に移動するためのもっともベーシックな乗り物として、その現代的なアレンジとして誕生した気がする。(下は「昭和21年(1946年)、神奈川県厚木市の輪タク」ジャパンアーカイブズさんより。自転車で牽引するリヤカー型のリンタクだ。)
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14.4-7輪タクも日本の発明だったのか!?
 ところがいつものように?話はここで終わらない。(④-7、P174)で岩立氏は『~リンタクはその母体となった人力車も含めて、明治期の日本で発祥し、発達した乗り物であった』としているのだ。詳しくは一連の(④)をご覧いただくしかないが、以下(④-7、P171)から引用
『写真10(注;コピーはできないが、1913年8月付実用新案登録図)の「小磯式人働車」において、リンタクのレイアウトはすでに完成の域に到達している。写真11の「双愛号客用三輪車」(注;1912年12月15日付当時の読売新聞朝に掲載された、「双愛号客用三輪車発売」の広告の写真)も同時期の新聞広告であり、両者は酷似している。この時期にはすでに東京、大阪で製造販売が始まり、リンタク営業が起こっていたわけだ。
 リンタクの分野はその意匠はもとより、使用部品もほとんど国産であるため、これもほぼ純日本製の国産車だったことになろう。背景には明治初年よりすでに半世紀を経ていた人力車営業の伝統が流れていた。』
・・・・・
 wikiの「自転車タクシー」の項目でも、よく見ると『輪タクは当時、終戦時の物資不足から燃料がわずかで、タクシーを走らすことができなかったことから大正初期に生まれた「人働車」を新たに登場させたもの』で記されていた。大正初期というから、岩立氏の指摘の時期と一致する。世界は広いので、あまり断定的な結論は避けたいが、この分野の今後の研究の結果次第では、自転車タクシー(輪タク)も、「日本で発祥し、発達した乗り物」に、“格上げ”される可能性も充分ありそうだ。(もっとも、研究をしている人がいればの話だが。たとえば(④-7、P171)にある、1912年の「双愛号客用三輪車発売」の新聞広告の写真の「輪タク」と、下の写真の、江戸東京博物館に展示されている、「昭和20年代(1945-)のリンタク(輪タク)(複製)」
http://www.mapbinder.com/Map/Japan/Tokyo/Sumidaku/EdoTokyoMuseum/Tokyo/Tokyo.html
を比較しても、両者の形態に、何ら違いがないように見える。)
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http://www.mapbinder.com/Map/Japan/Tokyo/Sumidaku/EdoTokyoMuseum/Tokyo/20101210_17.jpg

15.黎明期のオート三輪について
 ようやくオート三輪まで一歩手前のところまでたどり着いた!先を急ぐと、(表16)で、台数が突出して多い、自転車(通常)の利用法として、三輪自転車や、リヤカー(積載量100~200kg)との組み合わせが多く含まれており、小商工業者のための自家用トラックとして愛用されていたのは既述のとおりだ。しかし人力に頼っていては、急坂などで重い荷物を運ぶのはやはり、大変な労働だ。当時『上り坂の下のところには、立ちん坊といわれた職業の人がいて、こうした自転車や大八車を後ろから押して坂を登り切ったところで、幾ばくかの謝礼をもらうことで生計をたてていた』(②、P172)そうだ。(写真は自転車文化センターより昭和35〜36年頃の光景 http://cycle-info.bpaj.or.jp/?tid=100126
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http://cycle-info.bpaj.or.jp/file_upload/100126/_main/100126_01.png

15.1「スミス・モーター・ホイール」の登場
そこに目をつけたのが大阪商人で、1917年頃から、大阪・西区の中央貿易商会が、アメリカ製の“スミス・モーター・ホイール”(以下スミスモーターホイール)という、自転車や三輪車に追加輪として駆動させる、後付け型エンジンを大量に輸入して販売する。4サイクル単気筒エンジンで201cc、2.5㏋ほどの小馬力のエンジンだった(⑥、P39等)。このスミスモーターホイールを、既述のように一部で普及していたフロントカー式三輪自転車の、後輪に取り付けたものが、商都大阪を起点として、徐々に全国に普及していく。オート三輪の始まりだ。以上が概要だが、以下もう少し詳しく、その経過を見ていく。
 この、自転車の後輪左側につける20インチの動力輪は、元々はイギリス製で(バーミンガムのROC MotorWorksで製造されていた。余談だが同社は、有名な作家アーサーコナンドイル卿によって資金提供されていたという。)
(https://translate.google.com/translate?hl=ja&sl=en&u=https://www.yesterdays.nl/product/smith-motor-wheel-1917/&prev=search&pto=aue)。)、
「ウォール・オート・ホイール」(以下ウォールオートホイール)として、中央貿易が輸入する前に『日本にも東京銀座2丁目のアンドリウス&ジョージ合名会社(横浜市山下町242)が輸入したが、その段階では大きな話題を呼ぶことはなかった』(④-5、P170)という。
 そしてこの“ウォールオートホイール”の特許権を、アメリカ、ウィスコンシン州ミルウォーキーの部品メーカー、A.O.スミス社(A O Smith Company)が購入する。同社でワイヤーホイールをディスクホイールに変更し、カムシャフトから直接ホイールを駆動し、チェーンを廃するなどいくつかの改良を施したうえで、“スミスモーターホイール”として、製造を始める。1914年末から1919年末の間に25,000台生産されたというからそれなりの数だ。(なお、日本のオートバイ史の定番本である⑥、P36では、「アメリカのブリックス・ストラットン社で開発された」とあるが、A.O.スミス社の後に、同社に製造権が移ったようだ?)このアメリカ製となった、赤く塗られた動力輪が、期が熟しつつあった、日本の市場でも浸透し始める。モーターボート商会、スイフト商会、さらに大手の日本自動車までその販売に乗り出すが、最終的に大阪の中央貿易株式会社が、東洋一手販売元の権利を獲得し、大量販売を行う。
『大正7年(1918年)の夏にはすでに一千台を売りつくし、3度目となる次の荷着を待ちながら、その人気の高さを巧妙に宣伝し続けた』(④-5、P171)というから、その人気のほどがうかがえる。
15.1-1二輪自転車にとして取りつけた場合、バランスが悪かった?
スミスモーターホイールは、のちに豊田喜一郎が、自動車産業に乗り出すにあたり、最初に分解・研究したエンジンとして広く知られており、そのためネットでも多くの情報が検索できる。トヨタ産業技術博物館には、1917年製のスミスモーターホイールが展示されているので、ご覧になった方も多いだろう。空冷単気筒4サイクルエンジンは、初期型は167cc1.5㏋だったようだが(②.P172)、日本に輸入されたものの大半は、後期型の201cc、2.5㏋のものだったようだ。下の写真は以下よりコピーさせて頂いた。
https://www.yesterdays.nl/product/smith-motor-wheel-1917/
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https://www.yesterdays.nl/site/wp-content/cache/thumbnails/2017/04/Smith-1917-Motor-Wheel-3941-5-300x600.jpg
ところで、スミスモーターホイールを通常の二輪自転車に動力輪として取りつけた場合、上の写真を一見しただけでわかるように、バランスが悪い。自動車工学の権威、富塚清先生は、東大の航空研究所に勤務当時に、同所が所有していた実車に乗ったことがあるという。その時の印象では『~ 操縦がひどく難しい。速度を高めるとハンドルが振れだし、どうにも納まらずに放り出されることがある。筆者などもこれを食い、1回でこりて、あとは近づかなかった』(⑥、P38)そうだ。
ただ、『これで正規の三輪車に組み、前方二輪後部一輪駆動か、あるいは逆に前方一輪駆動、後方二輪とすれば、推力線の食い違いと、動輪のぶらぶらがないから支障がないはずで、これらは若干の期間、小配達の面などで生き残ったと思う』(⑥、P38)とも記している。やはり運命的な出会いだったのか、フロントカー型の三輪自転車との相性が、もっともよかったようだ。)
15.1-2“走るスノコ板”、「スミスフライヤー」について
(さらに『スミスモーターホイールには「フライヤー」という名のじつに簡便な二人乗りの五輪車があり、日本にも数多く輸入された。走るスノコ板とでも呼びたくなるシンプル極まりない乗り物』(④-5、P171)だった。『フライヤーは、ギネスブックに史上最も安価な車として記載されています。この本には、1922年のブリッグス&ストラットンフライヤー(注;スミス社の後に製造権を獲得した)が125ドルから150ドル(2020年には1930ドルから2320ドルに相当)で販売されていると記載されています。』
https://vintagenewsdaily.com/smith-flyer-a-small-five-wheeled-with-two-seat-car-from-the-1910s/ の一部を機械翻訳。下の写真もコピー。この写真からなんとなく、アメリカでの使われ方がイメージできる。ちなみに1922年のT型フォード(4気筒2896cc)の価格は標準のツーリングモデルで355ドルだった。
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https://vintagenewsdaily.com/wp-content/uploads/2020/11/smith-flyer-1-1-640x381.jpg
ところがこのフライヤーが日本に持ち込まれると、紳士が乗るフォーマルな乗り物へと生まれ変わる。中央貿易により『黒塗のボディが被せられ~、さらに幌まで装備する~今日これらの写真を見ると、いい大人が子供用のペダルカーに座っているようで、いささか滑稽に映るが、当時の皆さんはじつに真剣だったのである。』(④-5、P172,3)の写真をご覧ください。)しかもどうやら、そこそこヒットしたようなのだ。以下(④-15)より引用。
『オートバイと同様に無免許で運転できて、駐車場が不要であり、税金もオートバイ並み(地方によって大きく異なるが)としたこの適用除外制度は、大正時代のユーザーにとって絶大な利点を生んでいた。当時はさほどに車税が高額であり、運転免許の取得も困難で、とどのつまりは業務用でもなければ、自動車の所有など、まだ雲の上の空夢であった。写真のように気取って豆自動車に乗った日本人は、「オーナードライバー」という概念すら湧かなかった時代に、これを楽しもうとした、ごく一部のモーターマニアだったのである。』(④-15、P175)当時の日本でこの車に乗っていた人は、本当の趣味人だったのかもしれない。
(上の白黒写真では、“走るスノコ板”の構造がわかりにくいので、下に最近のカラー写真を掲げておく。ただ木製の板だったため朽ち果ててしまい、オリジナルのものはほとんど残っていないようだ。画像は
https://www.mecum.com/lots/LJ0617-283881/1915-smith-flyer-cyclecar/
よりコピーさせて頂いた。なおスミスモーターホイールの類似品を、モーターボート商会がアメリカ製デイトンモーターサイクルのものを、二葉屋がマイケルモーターサイクル製の輸入に乗り出すが、いずれも長続きしなかったようだ。詳しい経緯及びその理由は(④-5、P170、171)をご覧ください。)
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15.1-3中央貿易製の「オートサンリン」
 こうして、フロントカー型の三輪自転車の後輪に、スミスモーターホイールを取り付ける形で、大阪や東京を中心に、オート三輪の草分け的な荷物運搬車が、自然発生的に誕生していったが、その代表格として、輸入元である、大阪の中央貿易の流れから追ってみたい。
 まず同社では、スミスモーターホイール単品以外に、上に記したようにスミスフライヤーに黒塗りの重厚な?ボディを載せて、完成車販売(カタログでは“豆自動車”と!)をしていたが、さらに同社製の完成車として、乗用専用の「自動人力車」と、フロントカー式の貨物運搬用「自動三輪車」を販売し、オート三輪時代の先鞭をつけた。そして下の写真を、よ~くご覧いただきたい。この貴重な資料は、月刊オールド・タイマー(八重洲出版)連載記事「轍をたどる」(2006年.8月、№.89号、④-5として引用)のP173からコピーさせて頂いた、1920年の雑誌モーター10月号に掲載された、中央貿易の宣伝だが、「自動入力車」の下の、「自動三輪車」の横に確かに、小さいが「AUTOSANRIN」と記されているのだ。
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 そして中央貿易製の「AUTOSANRIN」は、後にカタカナ表記となり「オートサンリン」として、さらに前面に表記されていく。下の写真も、月刊オールド・タイマー(八重洲出版)の「轍をたどる」(④-5として引用)のP173からコピーさせて頂いたものだが、フロントカー式だけでなく、リヤカー式、スクーターなど、バリエーションを広げていった様子がわかる。そして『中央貿易ではこれらの自動三輪運搬を、カタログ(注;略)にあるように「オートサンリン」と名付け、特に次の二種を主力として販売する。・フロントカー式固定オートサンリン、 ・リヤカー式固定オートサンリン のちに戦後、昭和40年代まで続いた「オート三輪」の呼び方としても、これは極めて早期の使用例だった。』(④-5、P172)下の写真は、雑誌モーターの1923年5月号のものだが、確かにカタカナで“オートサンリン”と表記されている。この“オートサンリン”という言葉が、中央貿易が使い始めたのか、他社の方が先だったのか、それとも自然発生的なものだったかは不明だ。(②、P173)では、『オート三輪という言葉が用いられるようになったのは、1922年に山成豊氏の経営する鋼輪社(KRS)が、スミスモーターを使用して、前1輪・後ろ2輪の動力付きの三輪車をつくったからだといわれている』と記してある。より一般化したのはその時期だったかもしれないが、さらにその前の、今から100年以上前に既に使われ始めていたことだけは確かだ。
15.1-4モーターホイールの応用形態から脱却しつつあった瞬間「リヤカー式固定オートサンリン」
そしてもう1点注目すべきは、このオートサンリンの写真に、外付けのスミスモーターホイールが見当たらない点だ。(④-5)の指摘のように、“固定式”オートサンリンは、モーターホイールを外付けするのではなく、汎用小型エンジン版のスミスモーターを使用していたのだ。『これらは汎用エンジンを利用した、いわば独自設計の完成車でもあった。モーターホイールの応用形態から脱却しつつあった瞬間がここにみられる。』(④-5、P172)
この「スミスモーター(エンジン)利用リヤカー式オートサンリン」は、大正13年(1924年)9月12日に、内務省より特殊自動車としての認可を得ている(④-13、P175参照)。そして(15.4-32項)で記す、鋼輪社(KRS)のリヤカー式オート三輪も、(②、P173)の記述から類推すれば、同じ構造だったように思われる。富塚先生指摘のように、フロントカー式では大きな問題は生じなかっただろうが、リヤカー式とスミスモーターホイールの組み合わせは安定性に欠けたので、この進化は重要だっただろう。
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15.2自動車取締規則が全国統一される(「自動車取締令」の発布;1919年1月)
ここで話題が少し逸れて、自動車法規の話題に移す。内務省(警察)は、交通取締りや免許等道路利用に関する「自動車取締令」を、弾力的に運用することにより、オート三輪と小型四輪車が市場を形成するのをアシストしていった。
この時代の日本の官庁では稀に思える、“上から目線”でなく、規制緩和によって自然な産業育成をはかった内務省(警察)の“粋な”施策について、その経過をたどっていく。
1919年(大正8年)1月11日、それまで地方ごとに異なっていた自動車規制が全国統一されて、内務省の省令第一号として「自動車取締令」が発布される。その背景として『大正7年(1918年)末の自動車数(内務省調べ)は、全国で4万5千台を数え、この中には専業のお抱えや営業運転手だけでなく、新たなオーナードライバーも芽生え、自動車の種類も多様に膨らんでいた。そこで必要となったのが全国的に統一された取締令だったわけである。』(④-5,P172)その概要を以下、自工会発行の“JAMAGAZINE”の中の資料、「自動車の「検査」とその変遷」(web47、P6)より引用する。
『大正 8 年(1919)1 月、内務省は自動車の保安の規定を含む規則「自動車取締令」(内務省令第1 号)を制定した。各県にあった自動車取締規則、その中の自動車検査に関する取締規則も全国統一しており、各府県警察が自動車事業とともに道路交通を取り締まるものであった。
 全 34 条で、自動車の定義から始まり、最高速度を 16 マイルとし、続いて自動車の構造装置、営業・自家用の別、検査、車両番号、登録、運輸営業、運転免許、自動車事故、罰則等を規定しており、このなかでは自動車の定期検査の実施についても規定していた。』
この法令によって、「自動車」という存在が日本で初めて定義づけられた。合わせて免許制度も整備されたが、自動自転車(オートバイ、ただしサイドカー付きのものを除く)とオートペッド(下の写真参照、アメリカ製の)については、動力付きではあるが自転車の延長線上にあるものとして、鑑札(ナンバープレート)を付けて納税さえすれば、運転免許を所得しなくてよいことになった(④-5、p173参照)。
15.2-1自動車取締令の基本的な考え方
話を戻し、以上も(④-5)、(web47)の内容と重複するが、ここで自動車取締令の、基本的な考え方を押さえておきたい。(①、P122)から以下長文になるが、引用させて頂く。
『(自動車取締令の)その内容は、最高速度、自動車の構造・装置、検査、運転免許、交通事故などに関する条項となっている。ただし、ここで対象とする自動車は、~ 実際には四輪車のみを想定していた。~これは、それまで地方ごとの取締規則が、主に営業用自動車の取締りを目的として制定されたためであった。~そこで営業用に使われていない自動自転車は自動車取締規則でなく、「自転車取締規則」の対象となっていたのである。
こうした営業用自動車を対象とした取締令の発想は運転免許の条項からも窺うことができる。~すなわち、免許は「運転免許」ではなく、「運転手(就業)免許」となっていたのである。
こうした発想と第33条の条文を合わせて考えると、サイドカー以外の自動自転車、すなわち三輪車は取締令による規定を受けないこととなり、運転免許も不要であった。ただし、この取締令では使用を希望するすべての車は、制動機・警報機などの構造を備え、検査に合格しなければならなかった。第33条の第2項の条文は、これに対して特殊自動車の場合は構造を簡単にすることができるという意味であったのである。』
ここで「特殊自動車」という語句が、初めて登場する。以下(④-5、P173)から引用を続ける
『そしてこのオートバイ並みの無免許運転許可扱いが受けられる自動車を「特殊自動車」と呼んで、やや漠然と示した。』これ以降、この記事で「特殊自動車」という語句が、何度も何度も出てくるが、その位置づけを考える上で、基本となる解説だ。
15.2-2日本が左側通行になったのは大倉喜七郎の助言?(余談)
(ここからは余談になる。(⑩)によれば、そもそも政府(内務省)が最初に自動車取り締まり規制を制定する際、黎明期の日本の自動車界の第一人者的な立場にあった大倉喜七郎による助言が大きな影響を与えたという。(⑩、P41)では『日本が左側通行となったのも、英国で自動車を学んだ大倉の助言によるものと思われる。』としている。
以下は(⑦、P16)より『(1907年に)帰国した大倉に早い時期に接触を図ったのは東京・警視庁の自動車取締を担当する原田九郎だった。彼は前年に東京帝国大学を卒業したエリート官僚で、輸入された自動車が走るようになってきたことで、これを法律的にどう対処するか検討する任務を与えられていた。当時は、自動車のナンバーも運転免許証も交付されておらず、勝手気ままに走っていたのだ。(中略)いずれにしても、大倉の意見が自動車取締法などに大きな影響を与えたことは間違いない。原田が作成した交通取締法は、警視庁管内で有効であっただけでなく、それが各地方のモデルになり、全国的なものになっている。(中略)1910年(明治43年)のナンバー交付により、自動車の安全性や車両の満たすべき基準がつくられるようになるが、それまでも自動車を走らせるには登録することが義務付けられた。』(下の写真は「天皇に拝謁の顕官(衆議院議員・貴族院議員)を待つ高級車」(1934年)で、ジャパンアーカイブスさんよりコピーさせて頂いた。)
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このため、原田のいる警視庁交通課では、どのような自動車が輸入され、あるいは日本でつくられているか、すべてを把握していたという。当時の自動車の台数ならば可能だったのだろう。さすが警察だ。そして当時の日本のVIPたちも、徐々に自動車を主体に移動するようになっていたはずだ。内務省(警察)が自動車取締令で押さえておきたかったことは、治安維持の観点からすれば普通自動車の動静で、“豆自動車”などは当初、範疇外だったのもうなずける。下の画像はwikiより日比谷赤煉瓦庁舎。1911年(明治44年)3月から1923年(大正12年)9月(関東大震災)まで使用された、東京・警視庁の日比谷赤煉瓦庁舎。)
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15.2-3免許取得のハードルはかなり高かった
話を戻す。ここで当時の一般の自動車用の、「運転手(就業)免許」としての色彩が強かったという自動車免許に求められた技能ついて、以下(⑬)より、
『戦前の自動車免許は、戦後のそれとは異なり、営業車の運転を前提としていたこともあり、自動車修理の技能なども求められるかなり難しい技能であった。そのためここでの無免許(車両)とは、構造が簡単でかつ操縦が容易であり、特別の練習を必要としない車両の意味である』(⑬、P169)。免許取得のハードルはかなり高かったようだ。GAZOOによれば、『免許取得は18歳以上が対象で、各地方官による試験もありました。期限は5年で“更新制”ではなく“再試験制”だったのも、現在とは違うところ。免許を持っていても、再試験で不合格になると免許が維持できなかったのです。』と今よりも厳しい。
https://gazoo.com/column/daily/20/03/12/ 
15.2-4特殊自動車=無免許で乗れる車というよりも、検査に合格した車&製造業者という意味合いが強かった(内務省の視点)
現在一般的には、「特殊自動車」というよりも、「無免許三輪車」とよばれていることも多いこの制度は、内務省側の視点に立てば、『無免許で乗れる車というよりは検査に合格した車という意味合いが強かった』(①、P122)のだという。『その際に、もっとも重視されたのは道路交通の視点から見て、一定以上の性能を持っているかどうかであった。』(①、P122)から引用を続ける。
『無免許車の許可が車輛ごとでなく、検査に合格した製造業者に下されたことも、車両の性能を重視する発想からきたものであったと思われる。というのは、車両検査の際には車体自体だけでなく、製造業者が検査車輛以上の性能を備えた車両を持続的に供給できるかどうかについても調べており、後述するように、三輪車の性能が問題にならなくなる30年にはこの方法が変更されたからである。』
自分も誤解していたことだが、一般に言われている特殊自動車=「無免許車」は運転手/所有者側の視点に立てば確かにそのようになるが、内務省側の立場では、そのクルマ&製造業者に対して、試験に合格したものに免許(=「特殊自動車」として許可する)を与えるという目的のものだった。後に記すように、当時オート三輪業界への参入障壁は低かった。交通体系を安全に維持していくために、一部の怪しげな、特殊自動車の申請者(15.4-13項参照)を排除する意味合いが強かったようだ。そのため内務省はこの、ままこみたいな立場の、「特殊な自動車」の普及に、当初は慎重な姿勢を示していた。
15.2-5やや曖昧だった“特殊自動車”の定義
以上のように、自動車取締令の適用除外から始まった、特殊自動車の定義自体も、やや(かなり?)曖昧なものだった。以下(④-5)から引用する。『この「特殊自動車」については、道府県知事が認めれば、第四条の規定(注;保安装置の装着義務)が省略できるとしている。~ つまり地方長官が「特殊自動車」と認めた車輛なら、運転免許も保安装置の一部も不要という解釈が成り立つ、少々不確定な条文だったのである。』(④-5、P173)日本の自動車社会が、まだ発展の初期段階にあり、方向も定まっていなかった中で、関連の法規が、このような“弾力的な運用”に頼ることになるのも、多少はやむを得なかったと思う。
そして(④-5、P174)によれば、運転免許以外にも「特殊自動車」扱いになれば、『~最低限この2項目、すなわち最高速度(16マイル=25.6km/h)と交通事故の対処、またこれらに違反した場合の罰則規定が適用されるだけだったのである。』非常にシンプルな内容で、こうなると軽車輛にとっては、「特殊自動車」として認定されるか否かが、非常に重要なポイントになったのだ。
(下の写真は最初から特殊自動車として認定された、“オートペッド”で、アメリカ製の155ccエンジン付きキックスクーターだ。中央貿易はこれを「自動下駄」のニックネームをつけて売り出したが、スミスモーターホイールと違って、日本人にはウケなかったようだ。当時の日本人の嗜好からすれば、「実用的」とは言い難い乗り物だったが、運転免許が不要との判断は頷ける。
なお、(15.1-3項)に写真を載せた「自動入力車」について、『大正9年(1920年)の夏に、「自動自転車(サイドカーを除くオートバイ)及びオートペットの類と同様に特殊自動車として」、無免許運転を認めてほしい、とする申請が現れた』(④-13、P175)が、許可されなかったという。「自動入力車」のような、人力車的な使われ方が可能なものは、営業用自動車とみなされてしまうと、扱いは厳しかったのだろう。次に記す「警山第104号」の通牒が出る前の話だ。下の写真は以下のFacebookよりコピーした。
「Scooter in 1916 ! The Autoped... - Shu Ren Learning Centre | Facebook」)
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https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcRJF-flBnfjObWLfYo6DdxjX3Nt3PcCF27CzA&usqp=CAU
15.2-6 スミスモーター系の車両は公式に「特殊自動車」のお墨付きを得る(1921年12月)
 ここからも、(④-5、P174)の一部を、丸写しさせていただく。正しくはぜひ、原文の記事をご確認してください。
『はたして特殊自動車として扱って良いものかどうか?という疑問でまず物議をかもしたのが、先のスミスフライヤーであった。スミスフライヤーのような豆自動車は、通常の自動車と同じ扱いには出来ない、と考えるものが多数現れた。これに対して内務省は、大正10年(1921年)12月22日、警保局長付けで各都道府県庁宛てに次のような通牒(書面で通知すること)を送った。』(④-5、P174)その書面の別紙として、スミスフライヤー、オートサンリン(注;ちなみにそこに図示されたものは、先に掲げた、1920年の雑誌モーター10月号の「自動三輪車」のイラストと似ている)、サイクロモビルの図を示し、『これらスミスモーター系の簡便な車両は、前出の取締令第33条の「特殊自動車」にあてはまると決めた。つまりこの時点から、スミスフライヤーとオートサンリン(この時点ではまだスミスモーター付きのフロントカーだった)は、全国的にオートバイ並みの取り扱いが許されるようになったわけだ。
 大阪の中央貿易によるスミスモーターの販売は、「小型自動車に関する件通牒」と呼ばれるこの省令によってさらに弾みがついた。前述のように大正6年(1917年)からすでに東京や大阪ではスミスモーター付きのフロントカーが自然発生的に出現し、商店の配達などに使用されていたわけだが、この通牒、警山第104号以降は「免状(運転免許)不要」のお墨付きで売ることができるようになったのである。』
(④-5、P174)
15.2-7構造簡易、操縦亦容易にして、普通自動車に比し交通上の危険も寡少((警山第104号)
そしてこの、警山第104号の文中にある『構造簡易、操縦亦(また)容易にして、普通自動車に比し交通上の危険も寡少に有之候間(これありそうろうあいだ)という根拠、つまり普通自動車と比べて簡便かつ安全であるからよいだろうとする理由付けの一節は、その後内務省が創成期の製造許可を一台ずつ下していく際に、まるで慣用句のように登場し、連呼されていく。』(④-6、P170)
このことが端緒となり、オート三輪の製造業者たちはこれ以降、内務省を中心に、警視庁、各都道府県や後には商工省も含めた関係省庁と、様々なやりとりを繰り広げつつ、優遇枠の拡大を陳情し、段階的にそれを獲得していく。一方当初はその普及に消極的であった内務省を中心とした行政側も、陸軍のような産業保護の観点からの規制ではなく、次第に規制緩和を通じて民間の活力を引き出そうとする、産業振興策で応じ、その実績を上げていく。
もちろん、それが可能だったのは、オート三輪や後に記す小型四輪車の分野が、フォードやシヴォレーとまったく競合しない市場だったからであるが、戦前の日本社会における民と官の関係性からすると、異例の展開とも思えるその道程を、この記事でこれから辿っていくことになる。
15.2-8スミスモーターが国産小型自動車の引き金をひいた
 現在の日本で、スミスモーターホイールの存在意義を問われれば、web等メディアの影響から、大半の答えは「トヨタの自動車研究が、スミスモーターの分解から始まった」ことになるのだろう。確かにその事実も大きい。しかし今までこの記事で確認してきたように、この小さな補助動力輪が、トヨタのみならず、黎明期の日本の自動車界全体に与えた影響の方が大きかったと思う。そのまとめとして、(④-5、P170)から引用させていただく。
『大正期の日本にモータリングの波を押し広めたのがスミスモーターホイールであった。まだモーターが有産階級の専用物であった時代の日本の自動車社会に、小さな風穴を空けたのが、わずか201ccのモーターホイールだったのである。
 その風穴はのちに国産小型自動車を発生させる引き金となり、自動車取締令の上に意外な影響を残すことになる。例えばもし日本でスミスモーターホイールの人気がなかったら、戦後の軽自動車の車両規格は生じていなかったといっても過言ではないだろう。』

(下の写真は、「トヨタ産業技術博物館」より、同館のfacebook(web27-3)より引用させていただいた。以下の文も引用『当館・自動車館には、米国製「スミス・モーター・ホイール モデルBA(1917年製)※」が展示されています。(中略)このエンジンを参考にして、トヨタ自動車を創設した豊田喜一郎と彼の仲間たちは、彼らにとって初となるエンジンを試作しました。』豊田喜一郎がなぜ、自動車研究の最初の素材として、このスミスモーターモーターホイールを選んだのか、エンジンの構造が単純だった理由が第一だっただろうが、下の写真に思いをはせれば、大衆のための自動車作りの、その原点に立ち戻り、そこからスタートさせたかったからかもしれない。)
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15.3実用自動車製造と「ゴルハム式三輪実用自動車」について
 ここからは、特殊自動車だと、正式に認められた、黎明期のオート三輪の発展の歴史を辿っていくことになる。しかしその“本流”の話の前に、国産三輪自動車という括りからすると、どうしても、大阪の実用自動車製造の「ゴルハム式三輪実用自動車」についても触れておかねばならない。
同車については前々回の記事の(8.3-4項)でも触れたが、今回の記事で度々引用した“轍をたどる 国産小型自動車のあゆみ”(岩立喜久雄氏著)を読むと、今まで認識不足だったこともわかってきたので、この項では、久保田鉄工所をはじめ一流企業の多額の出資を経て、鳴り物入りで登場した、ゴルハム式三輪実用自動車の初期の時代に焦点を絞り、その実像を確認しておく。
なお予め記しておくが、このゴルハム式三輪車は、今までたどってきた荷物運搬用のオート三輪の流れに属するのでなく、かといって、陸軍保護下の軍用保護自動車を目指したわけでもなかった。商人の街、大阪らしく志は高く『輸入車とはひと味違う、安くて便利な自動車をつくることをめざして設立された』(⑦、P70)のだが、すぐにその計画は頓挫し、その後紆余曲折を経て、次回の記事で記すがやがて国産小型四輪車の本流の流れへと至る。まず初めに、実用自動車製造の設立の経緯から、もう一度確認しておく。以下(④-10、P170)より引用
15.3-1久保田鉄工所直系の子会社だった
『そもそも実用自動車製造は、前述のようにゴルハム号の特許を高額で購入し製造販売する目的で、大正8年12月に発足した会社だった。当初は久保田鉄工所の創業者、久保田権四郎(1870~1959)が社長を兼務していたが、実際は娘婿にあたる久保田篤次郎が立案した事業計画の下に、久保田鉄工所はじめ、以下の関西鉄鋼界の豪商たちが参集し、合計100万円を投資していた。大正8年当時の100万円といえば、現在ならば50億から100億円に相当する。久保田権四郎(久保田鉄工所)34万円、津田勝五郎(津田鋼材社長)30万円、芝川英助(貿易商)30万円~ これらの出資者たちは、第一次大戦(大正3~8年)期の関西産業界の非常な好景気を受け、潤沢な資金を備えていたわけだ。』
(web44.P44)には『ゴーハムの権利を 10万円で買い取ることにより、自動車製造に乗りだした。』という記述があるので、ゴルハム号の特許及びその製造権に気前良く、10万円(今の価値では5~10億円)支払ったようだ。
瓦斯電と石川島が自動車事業に参入したのと、出資者たちの元の動機は同じで、第一次大戦終結後、景気が減退し、経済が縮小することは目に見えていた。みな余力のあるうちに共同で、自動車というリスクはあるが未開拓の成長分野へ投資し、進出をはかろうとしたのだろう。
15.3-2久保田鉄工所にも事情があった
それに加えて当時の久保田鉄工所側には、固有の事情があったようだ。各地で水道事業が拡大していく中で「“日本の水道管の歴史はクボタの歴史”」(wiki)と言われるほど、鋳鉄管の生産で業界トップ企業の地位にあり、大きな利益を上げていたが、『 ~ 第一次世界大戦期という好況期にもかかわらず鋳鉄管製造業者は原料の銑鉄価格の急騰に影響された需要減退に直面し、従来の生産を維持することができなかったのである。』(㊱、P56)。1912年の需要を上回るのは、1923年以降だったというから深刻だ(㊱、P56)。
先の読めない中『「鋳物のクボタ」は鋳鉄管のみならず、機械鋳物、鋳型など鋳物の強みを生かした各種鋳物製品を生産』(㊱、P193)し、鋳鉄管の減少分を立派に補ったようだが、当時、けっして明るい状況ばかりではなく、危機感も強かったはずだ。引用を続ける。
『第一次世界大戦期に銑鉄飢餓に直面した鋳鉄管専業の久保田鉄工所は製品の多角化を模索するようになる。』(㊱、P57)工作機械への進出を図るなど、製品多角化を急激に進めていく中で、自動車事業への進出もその一環として計画されたもののようだ。
15.3-3稀代の興行師、櫛引弓人が魔法をかけた?
話を戻し、以下からは(④-9、P174)からの引用だが、さらに詳しく(手厳しく?)書かれている。
『櫛引ゴルハム特許の三輪車にこれほどの高値が付いたのも大いに謎であった。さほど画期的な設計だったわけではない。
 背景にはかつての鳥人スミスの騒動と同様に櫛引の魔力が働いていたのだろうか。櫛引は傑出した興行師であったが、行く先々でトラブルを起こす行跡もまた人並み外れていた。』

「博覧会キング」と呼ばれ、『機知と天才的なハッタリを武器に』(wiki)世界を股に歩み続けてきた稀代の大興行師、櫛引弓人(くしびきゆみんど)については、webでも多くの情報が検索できる。その数々の実績の中で、とくに有名だったのは、やはり航空ショーの成功だろう。
日本におけるアクロバティック飛行興行の祖と言われ、“鳥人”ナイルス、アート・スミスやキャサリン・スティンソンらを招いて全国を巡業し、時には数十万人もの観客を集まったという。(下の写真はHonda Aircraft Co.のツイッターより『100年前の今日、本田宗一郎少年はアメリカ人飛行家アート スミス氏の曲芸飛行ショーを見学し、飛行機への情熱を燃え上がらせました。』
(https://mobile.twitter.com/hondajet/status/868656574692286464)
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https://pbs.twimg.com/media/DAyYR7RXcAA-EwZ?format=jpg&name=small
若き日の本田宗一郎に限らず、木村秀政や糸川英雄ら、その曲芸飛行の虜になった者は数知れず、そのインパクトは強烈だったようだ。外国人飛行士たちは「鳥人ナイルス」、「新しい空の王者」、「空の女王」、「宙返り女流飛行家」などともてはやされて、その人気は日本中に社会現象を巻き起こすほどだったという。そして『これらの飛行興行を裏で巧みに演出していったのが、老練な櫛引だったのである。』(④-9、P173)
クシカーも『目立ちたがり屋の櫛引は、人目を引くように乗り回していたようで』(⑦、P72)、『物珍しさもあったのだろう、これが評判となり、』(②、P191)きっかけはわからないが、久保田権四郎や津田勝五郎らの発起人たちとの“接触”もあったのだろう。そしてどうやら、櫛引の放つ“魔力?”に幻惑されていったようだ。『ゴルハム本人も同社の技師長として、まるで明治のお雇い外人並みの高級待遇で雇い入れた』(④-9、P174)。
『久保田は~製造工場を新設してもまだ相当に資金が残った』というほど、当時の久保田鉄工所には充分な資力があったようだが、今になって、その状況を振り返えれば、櫛引弓人がその“演出”にかかわったことで、クシカーやゴーハムに対して、実力以上の“付加価値”が+されたようだ。櫛引に関してのまとめ?として(⑦)から引用する。
『しかし、あとから見れば何とでもいえるもので、舶来品に対する信仰が色濃く支配していた時代に、アメリカ人の技術者によって設計製作されたものであることから、ゴルハム三輪車は、日本人のつくったものとは違うはずだと思い込んだとしても無理はないだろう。』(⑦、P77)
15.3-4「ゴルハム式実用三輪車」の実力
 そもそもこのゴルハム式三輪車は、どのような市場を狙っていたのか。以下(④)を元に考察する。
まずゴルハム号の地元、大阪の市場の状況だが、当時、東京に比べても自動車の普及が遅れていた。『この時期は、まだ大阪府内全体の自動車保有台数が、わずか612台にすぎなかった(大正8年12月内務省調査)。東京府の登録台数3000台と比較して、約五分の一の数であった。これは大阪の道路事情が良くなかったことに起因している。道幅が狭く、そのため人力車の数は東京よりもむしろ多かった。』(④-10、P172)
 この時期すでに大阪では、フロントカー型の三輪自転車にスミスホイールモーターを付けた、初期のオート三輪が、荷物を積んで市中を走っていたはずだが、荷物輸送よりも、当時の大阪に多かった、人力車からのステップアップを狙ったようだ。
15.3-5キャッチフレーズは「人力車代用車」
大阪の有力企業が出資しただけに、販売体制も関西地区は久保田が、首都圏は梁瀬自動車が行うなど本格的だった。当時ゴルハム号の販売を統括する立場にあった、金森金寿(のちの日産自動車販売社長)は以下のように証言している。(④-10、P173)
『タクシーというものは当時、大阪駅付近にも十台となかった時代ですから、凡そ自動車という観念はやはり薄かったのでありました。先ずゴルハム式の三輪車は、人力車代用という訳で、その時の印刷物にした広告も、人力車代用という名前で売り出したのです。したがってその売り先は、お医者さんとか、人力車の親方、つまり当時の車屋というのが唯一の対象であったのです。』だがゴルハム号(三輪タイプ)の価格は、幌型乗用タイプで1,615円、箱型貨物型で1,515円の正価(1922年)で、人力車の価格とはおよそかけ離れていた。しかもその上のクラスの市場には、当時世界一の、圧倒的なコストパフォーマンスを誇った、T型フォード(2,896cc)が2,500円の低価格で構えていたのだ。
15.3-6よく横転した!(欠陥車?)
『異様にもてはやされたゴルハム実用三輪車の実力はどうだったのだろうか。(中略)いざ発売してみると、あまりに前フォークが弱く、カーブでよく転倒し、そのため評判を落とした。梁瀬自動車が販売に乗り出したが、一向に売り上げを伸ばすことが出来なかった。あまりに不安定なので、急きょ大正10年末(1921年末)に四輪への設計変更を行い、平和記念東京博覧会の開催中に幌型四輪乗用車として売り出したが、もはや悪評を覆すことはできなかった。』(④-9、P175)この、腰高で不安定で、カーブでよく横転したという話だが、コストパフォーマンスの悪さ以前に、自動車としてみた場合、ほとんど致命的と思えるほどの欠点だ。そしてとうとう、ある決定的な事件を起こしてしまったという。
15.3-7致命的な事故を起こしてしまう
『平和記念東京博覧会(上野公園、大正11年3~7月)に出品し、天皇御料車の先導用に警視庁に納入したものの、テストの途中でひっくりかえり「大目玉をくらった」事件が発生した。この失態は、久保田篤次郎、後藤敬義、田中常三郎の各氏がそろって回顧しており、販売に大きなダメージを与えたようだ。』(④-10、P173)
その「大目玉をくらった」結果なのだろう、『あまりに不安定なので、急きょ大正10年末(1921年末)に四輪への設計変更を行い、平和記念東京博覧会の開催中に幌型四輪乗用車として売り出したが、もはや悪評を覆すことはできなかった。』(④-9、P175)この時点では、ゴーハムは自らの名を付けた「ゴルハム号」の販売直後に実用自動車を去り、鮎川義介の戸畑鋳物へと去っていたので、この三輪→四輪化は、若い後藤敬義(津田系の大阪製鉄(津田鋼材)出身の技術者)が中心となり実施された。(下は“むーぞう日記”さんのブログよりコピーさせて頂いた、日産ヘリテージコレクションにある「ゴルハム式三輪自動車」の模型の写真だが、これではやはり、横転は避けられなかった? 
https://minkara.carview.co.jp/userid/135242/blog/40979428/)
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https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/userstorage/000/041/718/926/d7d34bc16b.jpg?ct=2f8dac2f0f7e
15.3-8圧倒的なコストパフォーマンスの悪さ
 ゴルハム号の一番の弱点は『ゴルハム号の敗因は、まず重心が高く、不安定で、横転したことにある』(④-10、P173)だったが、問題はそれにとどまらなかった。引用を続ける。
『 ~ 設計自体が日本向きでなかったのである。926ccという排気量からしても、通常の運転免許が必要となり、小型自動車としての利点が少なかった。また自製のエンジンとしたために、製造コストが膨大に膨らんでいた。同じ時代に大阪で発生していたスミスモーターや、ビリヤスエンジン利用の特殊自動車と比較すれば、コストパフォーマンスはけた違いに悪かった。乗客数や積載量の面から見ても、ハーレーやインディアンを利用した大型リヤカー群(注;〇×項で記す)の性能に及ばず、安定性や機動力、価格の面でも、およそ勝ち目はなかったのである』(④-10、P173)。南恩加島工場は月産30~50台を想定していたが、強力な販売力をもってしても、ゴルハム号は結局、3年間で250台製造するのがやっとだった。ゴルハム号のまとめとして、またまた(④-10)より引用させて頂く。
『ゴルハム号三輪自動車の製造事業は大失敗に終わっていた。(中略)結局のところ、大阪の実用自動車製造には、南恩加島工場の立派な設備と、若い日本人技術者達が、売れないゴルハム号と、膨大な赤字と共に残されたのである。
 普通ならば、巨額な損失を生んだために会社は倒産、工場も売却となるケースだが、親会社の久保田鉄工所をはじめ、大阪鉄鋼界の強力な後ろ盾を得ていた実用自動車製造は、奇しくもそのまま存続していく。(中略)
 苦況に突入した実用自動車製造を立て直したのは、大正11年(1922年)より専務取締役を務めた久保田篤次郎と、技師長の後藤敬義の両名であった。』
(④-10、P170~P173)
そしてこの二人を中心にして、リラー号を経て、小型車ダットサンが誕生することになるのだが、それについてはオート三輪の項ではなく、この記事の後半の、小型四輪車のところで記していく。
(下の写真はゴーハムが足の不自由だった櫛引のために作った、通称“クシカー”。その説明を(web⓰-6)より、写真と共に引用
『ゴーハムは活動の不自由となった櫛引のために、特別な片足でも運転できる3輪車を作ってあげたのである。友情から誕生した手作り3輪車。これがクシ・カー号、のちに量産されてゴルハム式自動3輪車の原型となるクルマだ。大正8年(1919年)ごろの話だ。エンジンやフロン回りは、オートバイ・ハーレーダビッドソンの部品を流用し、後ろのシートは人力車のように2人掛けができるバーハンドルタイプの3輪車だ。片足でも運転ができる仕掛けとした。』この写真だけを見れば、シンプルな乗り物で好感も持てるが『この状態で眺めるとバランスは良いのだが、上にボディを架装して、3名が乗車すると、重心が非常に高くなる』(④-10、P169)。
元々櫛引向けにワンオフのつもりで、有り合わせのハーレーのパーツを使い、作ったのだから仕方がないが、貧乏性でケチな日本人の目から見れば、とても900cc+ものエンジンを載せる乗り物ではない。200~300cc程度の特殊自動車扱いの乗り物で、たとえば当初はそのクラスの定評ある輸入品のエンジンを使い、資力は十分あったのだからその後徐々に国産化をしていけば、また違った展開もあり得たと思う。しかしそうなると、最初から大規模な工場設備が不要となり、充実した工場設備という“遺産?”が残らなかったかもしれない。1920年代の全般的な不況の中で久保田本体の事業も楽ではなかった中で、身軽なため事業の撤退も容易になるなど、複雑な要素が絡んでくる。それが日本の自動車産業全体の展開として、最終的に良い方向に働いたかどうか、必ずしも、言えなそうだ。やはり後出しジャンケンであれこれ考えるのは無意味?)
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https://seez.weblogs.jp/.a/6a0128762cdbcb970c0263e9a37e11200b-250wi
15.3-9生産技術の分野で日本に貢献したゴーハム
(ゴーハムが日本で果たした数々の実績についても多くの情報があり、手短のところでは、(web⓰-5)、(web28-3)及びwiki等を参照して下さい。2013年に日本自動車殿堂にも選ばれているが(web❼-5)、その選考理由は「日本の量産・高精度技術を指導;日本のモータリゼーション黎明期に、ゴーハム氏が量産体制を確立した功績は極めて偉大」だった。日本向きではなかったという点では駄作といえた、ゴルハム号三輪車を見ればわかるが、自動車の設計・開発面よりも、生産技術や品質管理面で多大な貢献を果たした人物だったようだ。以下は(⑦、P72)より引用
『(ゴーハムは)技術的な知識を人に教えるのが好きなタイプで、当時の日本ではゴーハムの持っている知識と経験は貴重なものだった。自動車だけでなく、各種の生産技術の分野で貢献した。ちなみに、日本人になったのは太平洋戦争が避けられなくなった時点で、アメリカに帰らずに日本に骨を埋める決意をして日本国籍をとったからだ。それだけ日本が気に入っていたのだ。』桂木洋二氏は「日本人になったアメリカ人技師―ウィリアム・ゴーハム伝」という本を著すなど、ゴーハムに詳しいので、確かな評だと思う。
以下、大阪の南恩加島町にゴーハムが主導して建てた、工場設備について(web⓰-5)から引用する。『この工場の完成は大正9年7月。建坪は1349坪、鋳造、熱処理、工作機械、塗装、組み立てなどの工場のほかに、エンジン試験室、検査場、材料倉庫、製品置き場など、自動車工場として必要な設備はすべて整っていた(写真)。
工作機械として、複雑な穴を加工するブローチ加工機をはじめ旋盤、ネジをつくる転造マシンなど当時の先端のモノづくりマシンが30台ほどそろえていたという。いうまでもなく精度を管理するシステムを導入しており、日本での初の近代的な大量生産方式を導入した工場だともいえた。』

さらに、その製造技術を下支えするために、関西地区最大の官営兵器工場で高い技術力を誇った、大阪砲兵工場から技能工を引き抜いて運営させた。(⑦、p74、④-10、P171他)『砲兵工廠にしても、民間で自動車をつくることは望ましいことで、実用自動車の願いに積極的に対応するなど協力的であったという。』(⑦、P74)
大阪砲兵工廠といえば、この一連の記事の「6.2陸軍自ら、軍用トラックの試作に乗り出す」で記したように、陸軍が最初に、軍用トラックの試作を行った際に中心となった工廠であった。だがこの実用自動車製造が、それから10年もたたないうちに、陸軍の将校の斡旋で東京のダット自動車製造といっしょになり、軍用自動車の生産で糊口をしのぐことになろうとは、陸軍も大阪砲兵工廠も、この時は思ってもみなかっただろう。
エンジンはハーレーの影響を強く受けていたもののオリジナルのもので、『マグネトーと気化器は米製の輸入品だが、エンジン回りはすべて、ピストンからピストンリングまで自製していた。そのためになんとキューポラのある鋳造工場まで建設』したのだという。その分エンジンの製造コストは、相当高くついたはずだ。下の写真はgazooより、ゴルハム式三輪車の前に立つ実用自動車製造の首脳陣で、横から見ただけでは、重心が高く、不安定な様子はわかりにくいが。右がゴルハムで、その隣がゴルハムの下で自動車の設計/製作技術を学び、後に主任技師となる後藤敬義だ。
https://gazoo.com/feature/gazoo-museum/car-history/15/06/05_1/)
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https://gazoo.com/pages/contents/article/car_history/150605_1/04.jpg
15.3-10久保田篤次郎&権四郎父子について、戦前日本の自動車史の中で過小評価されている(私見)
(これより下も、まったくの雑談だ。
何度も書いてきたが、実用自動車製造で中心的な役割を果たしたのは、久保田鉄工所の久保田権四郎、篤次郎父子(篤次郎は権四郎の女婿)だった。ただ同社誕生のいきさつの中で、2人がそれぞれ果たした役割については、各文献で微妙なニュアンスの違いがあるようだ。少々長くなるが、いくつかの資料を掲げて、確認してみたい。
今回多く引用した(㊵-10、P171)では、『(クシカーに)友人を通して紹介された28歳の若き久保田篤次郎が興味をしめしたのが発端であった。これに大阪船場の豪商柴川英助の子、柴川新次郎、また西区堀江の油商水野安次郎らが加わり、事業化の話をまとめていった。いわば大戦景気で財を築いた豪商連の若き2世達による投資計画だったのである。』と記している。篤次郎主導だったという解釈だ。
他の古い資料(日本自動車工業史稿 2巻」(大正~昭和6年編)(1967.02)自工会;P396~)、(国産車100年の軌跡」別冊モーターファン(モーターファン400号/三栄書房30周年記念)高岸清他(1978.10)三栄書房)などを調べても、ほぼ同じ基調だった。
一方、当時の事情を直接知り、かつ客観的な立場にあった(久保田家とは一定の距離があったという意味で)後藤敬義は自工会が行なった座談会に於いて、現場で、肌で感じた印象として、多少ニュアンスの異なる言葉を語っている。(㊲、P56)
『クシカー三輪車は、人力車代用ということで、だいぶ世間の関心をひいたものです。櫛引さんはこの車を久保田権四郎さんに紹介されたようです。この三輪車を改造して、後席に客を乗せるように作ったならば、相当売れるだろうというのが、当時のお話のようでした。』この記述を素直に解釈すれば、櫛引のアピールが、久保田権四郎の決断に大きく影響したと受け取れる内容だ。引用を続ける。
『この三輪車の製造を企業化するため、会社設立の動きが具体化しました。久保田篤次郎さんのお話によりますと、大正8年7月頃に、篤次郎さんが直接その折衝に当たられ、その結果、当時大阪の有力な財界人である津田勝五郎さんと柴川英助さんが各33万円、久保田権四郎さんが34万円を出資することに決まり、資本金100万円の「実用自動車製造株式会社」が設立する運びになったということです。』(㊲、P56)と語っている。ここでも、実際の事業化計画を、中心になってまとめ上げたのは久保田篤次郎であったとしており、多くの資料と一致している。余談だが、当時、津田勝(かつ)と恐れられていた、大阪随一の鉄商、津田勝五郎については、以下が詳しいので参考までに。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/bhsj1966/32/2/32_2_1/_pdf
以上は自動車系からの情報だが、一般の、久保田権四郎を軸にした久保田鉄工(現クボタ)の歴史(伝記)書ではどのように評しているのだろうか。「久保田権四郎 国産化の夢に挑んだ関西発の職人魂」沢井実(PHP研究所);㊱として引用」という本から引用する。
『(クシカー)を知った大阪砲兵工廠の水野保太郎は、権四郎の娘婿である久保田篤次郎を訪ねて、その企業化を勧めた。当初、権四郎は新規事業に逡巡したものの、養子篤次郎の熱意、大阪の有力財界人である津田勝五郎、山本藤助、芝川英助らの支持もあって、結局この自動車製造事業に乗り出すことになった。』(㊱、P81)簡潔にまとまっているが、大阪砲兵工廠の水野保太郎が久保田篤次郎に企業化を勧めたと、具体的な内容で、これも参考になる。(20世紀の国産車」鈴木一義 (2000.05)三樹書房)でも水野の名前がでていてほぼ同じ内容だ。
それにしても、各資料で、多少曖昧な部分が残るのは、『権四郎が文書で指示を出すことはなかった。すべて口頭で指示を出し、それを実行させた』(㊱、P256)ことも一因なのではなかろうか!ただこの事業化の計画に、当初は久保田権四郎自身も前向きだった印象は受ける。そしてその判断に、櫛引弓人が影響を与えた可能性もやはり、感じられる。
 それらの事情を加味した上で、今回調べた資料の中で、実用自動車製造誕生の経緯について、総合的に見て、バランスの取れた?記述だと思ったのは、結局、過去の記事でも度々参考にしてきた、桂木洋二氏の「苦難の歴史・国産車づくりへの挑戦」(引用⑦、P72~P76)であった。これ以上は長くなるので引用は避けるが、桂木氏はゴーハムの伝記まで書いており、周辺の事情を充分調べ上げているようだ。参考にしてください。
 何だかしまりのない話を、迷走しつつ延々と記したが、ここで言いたかったことは、今回、実用自動車製造について、改めて調べていく中で、今さらのように感じたことは、日本の自動車史における久保田篤次郎、権四郎親子の果たした役割の大きさだった。
たとえば、日本最初の量産車はなんだったかという議論になると、通常いくつかの候補が挙がる。三菱A型(1917年夏に試作が開始され1918年11月に完成。1921年までに計22台が生産された。以前の記事の(備考9)で触れた)や、13.1項で記したオートモ号(1924~1928年にかけて累計250台以上生産された。)を推す意見もあるし、さらには瓦斯電のTGE-A型軍用トラック(1917年)を、トラックだが最初の国産量産車だとする考えもあり得る。
しかし、個人的な意見で言えば、最初から、量産を目的に工場設備を整えて、製造から販売まで、すべてに本格的な体制で挑んだのは、実用自動車製造が日本初だったように思える。(参考;『一定の資本金を準備して、最初から生産設備を整えて量産体制を敷くかたちで自動車メーカーが設立されたのは、日本では「実用自動車製造」が最初』だった(⑦、P73)。『東京にもあまり前例がないほどの近代的な機械設備と、最新の生産方式による、本格的な自動車専門工場』(④-10)が誕生した。そして販売は関西地区が久保田、首都圏は梁瀬が強力に展開した。)
ただ一番肝心の、生産車種の選定が、「人力車に動力をつけたような安くて便利な乗り物があれば、輸入車と競合することなく普及するのではないか」といった、かなり“漠然”とした、希望的観測に基づいていたものだったうえに、コスト計算などの詰めも甘く、さらにゴルハム式三輪車自体がすぐにコケる“欠陥車”だったので、その事業は大失敗に終わってしまったが、ただそれでも、苦労しながらも、三輪と四輪型の合計だが、1920年という時代に、3年間で250台も生産されたということは、それなりの偉業だったと思う。(下の画像は工場にずらりと並んだゴルハム式三輪車の威容。有名な写真だが、でも実際は売れ残りだったのだろうか?画像は追浜ガレージさんよりコピーさせて頂いた。
http://www.oppama-garage.jp/nissan_history_00002.html)
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http://www.oppama-garage.jp/Docu0009
15.3-11実用自動車製造の夢をつぶさなかった、久保田権四郎&篤次郎
(しつこいようだが、久保田父子に終点を絞った、必要自動車製造とのかかわりについて、もう少し詳しく見ていきたい。さきにゴルハム式三輪車の事業計画を立案し、根回しを行ったのが、久保田篤次郎だったと記したが、本人はその後の一時期、いったん距離があったようだ。(⑦や④)によれば、実際に実用自動車製造が発足してからは、『社長には久保田権四郎が就任したが、鉄工所社長との兼務であるために、大阪製鉄の津田勝五郎が実際の経営をつかさどることになった。クシカー号の事業化を推進した久保田篤次郎の手を離れて、久保田鉄工所を中心とする大阪財界有志による新しい事業としての色彩を強めたのであった。』(⑦、P73)
しかし販売不振の上にコスト高の採算割れで、赤字が累積していき、当初の期待は、大きな失望へと変わっていった。
『「実用自動車」設立のきっかけを作った久保田篤次郎は、「久保田鉄工所」の新しい部門開発のためにアメリカに行っていたが、帰国してしばらくして社長の久保田権四郎から「お前のつくった自動車のほうが赤字でひどい状態になっている。なんとかするように」といわれて、立て直しのために専務取締役として本腰を入れることになった。
 これ以降、久保田篤次郎は、ずっと自動車畑を歩むことになる。1921年(大正10年)7月、「実用自動車」が発足して1年8か月後のことだった。
 最初に打たれた手は、三輪から四輪にすることだった。』
(⑦、P77)
以降についての詳細は、この記事の後篇の四輪車編で記すことになるが、久保田父子が真に偉大だったのは、この後の対処だ。
あきらめずに、数知れない困難を乗り越えて(『恩加島工場を存続させるため、~一般の自動車修理にも手を染めていた』(④-17、P167)という)、最後には無免許運転可の小型自動車、ダット“ソン”まで何とか誕生させたのは、もちろん多くの自動車の歴史書で書かれている通り、設計を担当した後藤敬義の働きもあったが、本質的にはやはり、経営を主導した久保田篤次郎の功績であり、また、自身は途中で乗り気ではなくなったものの、娘婿が主導した会社を一定のケリがつくまで清算させずに、支え続けた、久保田権四郎の忍耐と、度量の大きさだったのだと思う。もし(常識的に)途中であきらめていたら、その後の日本車の歴史は大きく変わっていたはずだ。まとめとして、(④-10、P169)から引用する。
『つまり大正8年の一号車ゴルハム三輪自動車に始まり、やがて昭和6年のダット号5馬力小型四輪自動車(水冷4気筒495cc)に至るまでの一連の国産先駆車の研究開発は、久保田鉄工所傘下の実用自動車製造が独自に挑戦し、途中、大正15年には、東京における自動車製造の草分けだったダット自動車商会をも吸収合併して、ダット自動車製造株式会社と改称しながら、これらパイオニア車の製造販売を敢行していったものだ。その実用自動車製造の苦節10年の研究成果であった虎の子のダット5馬力が完成した直後の昭和6年に、同社をそっくり吸収合併したのが戸畑鋳物であり、その戸畑鋳物の後身が、現在の日産自動車(昭和9年設立)だったわけだ。すなわちゴルハム号から、ダットサンの1号車となったダット5馬力までの設計製造に挑んだのは、戸畑鋳物ではなく、久保田鉄工所系の実用自動車製造株式会社だったのである。』((④-10、P169))
 戦前の日本に於いては、運転免許などで優遇処置が得られる特殊自動車か、陸軍が主導した軍用保護自動車(自動車製造事業法後はその許可会社に指定されるか)のどちらかしか、生き残る道はなかった(④-12、P176参考)。ダット自動車製造は苦難の末に、その二つの道の両方にたどりついたのだ。(ダット自動車製造の軍用保護自動車については、この一連の記事の8.3-5項を参照してください)
まったくの個人的な意見だが、その偉大な業績に比して、久保田篤次郎と久保田権四郎父子は、戦前の日本の自動車史の中で、あまりにも過小に評価されているのではないかと思う。)
15.3-12転んでもタダでは起きなかった久保田鉄工所&久保田権四郎
(自動車事業では大きくつまずいた久保田鉄工所だったが、『久保田は自動車生産で学んだことを石油発動機生産に注ぎ込み』本体側では、自動車製造で得られた知見を活かし、大きな成功をおさめることになる。そのいきさつについて、(④-10、P173)より篤次郎の述懐を引用
『 久保田鉄工所で旋盤を作る議論が社内で持ち上がりましたが、~ 私は親父(久保田権四郎)に旋盤を作ることはやめなさいと進言しました。親父はでは何を作るかといいますから、農業用発動機がよいと答えました。ところが親父は言下に、百姓がそんな機会を使うものか、といって私はえらく叱られました。』ちなみに怒った権四郎はその勢いで、お前(篤次郎)は実用自動車に行って後始末して来いと、叱責に及んだようだ。
しかしその後『権四郎は当初積極的ではなかったようであるが、商社からの強い慫慂もあって久保田鉄工所は小型石油発動機生産を開始した。鋳物技術を活用でき、自動車生産と工作機械生産で培った機械加工技術、量産技術を武器にして、石油発動機は急速に販路を拡大した。』(㊱、P192)さらに(㊱、P184)から引用を続ける。
『実用自動車製造恩加島工場が、石油発動機の重要部品の生産を担当したことの意義は大きかった。精密な自動車部品の量産経験を積んだ恩加島工場の存在が、今度は石油発動機の高品質を支えたのである。』もちろん実用自動車製造側から見れば、工場を維持するためのありがたい、下請け仕事だったはずだ。
しかも自動車事業を経験した効果は、それだけにとどまらなかった。ダット自動車製造の売却先の戸畑鋳物から今度は、競合先だった同社の発動機部門を逆に引き取る(1933年)。『「トバタ発動機」を得たことで、久保田鉄工所機械部の販売台数は大幅に増加し~1935(昭和10)年には発動機部門の売上高が、久保田鉄工所・久保田鉄工所機械部の二社合計売上高の15%を初めて超え、内燃機が鉄管と並ぶ久保田の基軸商品となったことを物語っていた。』(㊱、P140)
それにしても世間は狭い。戸畑鋳物を率いる鮎川義介が、中央自動車製造を辞めた直後に、あのゴーハムを雇ったのも奇縁だったが、そのゴーハムに農耕用の石油発動機を設計させて、量産を始めた理由が、『自動車メーカーになるための予行演習であったと鮎川は述べている』(㉗、P33)。そしてようやく機が熟し、久保田とは逆に石油発動機事業を売却し、自動車事業のダット自動車製造を久保田から買い取る段階に達したのだ。これはまったくの余談だが、鮎川は石油発動機部門売却の話を、久保田の前に山岡発動機工作所(後のヤンマー)に持ち込んだが、体よく断られたそうだ(㊱、P90)。話を戻す。
『久保田がトバタ発動機を継承したことは決定的な意義を有したといえよう。同時に、久保田は自動車生産から撤退したわけであるが、その判断がその後の久保田のあり方を決定づけたといえよう。』(㊱、P193)久保田は自動車事業をきっぱりとあきらめ、発動機部門はやがてディーゼルエンジンの商品化へと進むことになる。
今日、我々が、クボタに対してイメージする代表的な製品は、農業用トラクターではないだろうか。下の写真はクボタのHPより「国内初の畑作用乗用トラクタT15形(1960=昭和35年)」そしてこの製品のどこかに、遠く久保田父子が夢見た、実用自動車製造時代の貴重な経験も生かされていたのだろうか。
https://www.kubota.co.jp/globalindex/backnumber/back_number/tractor/tractor_01/index_05.html 
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https://www.kubota.co.jp/globalindex/backnumber/back_number/tractor/tractor_01/images/12.jpg
15.3-13なぜ久保田篤次郎・権四郎父子がクローズアップされないのか
(以下は余談の中のさらに余談です。なぜ久保田篤次郎、権四郎父子の名前が、日本の自動車史の中で過小評価され続けてきたのか。その理由の第一は、日産自動車が一時期(川又克二“天皇”の時代)、日産創業者の鮎川義介や、クボタ系の久保田父子よりも、傍流だが“無色”の橋本増治郎を、社史の中でクローズアップしたため、その影響(誤解)が今日まで及んでいることと、第二の理由は、クボタ自体が現在は、日産とは無関係で、自動車産業にも身を置いていないためだろう。
もちろん、豊田喜一郎や鮎川義介と同等扱いまでとは到底言わないけれど、日本の自動車史の中で久保田篤次郎・権四郎父子を二人一組として、たとえば橋本増治郎やオートモ号の豊川順彌と同等ぐらいには、扱うべきではないかと思う(まったくの個人的な意見です)。
 ただ誤解を招かないように記しておくが、橋本や豊川が過大評価されているわけでは全くない。この二人は調べれば調べるほど、人物としても立派だ。
たとえば豊川順彌を(④-12、P172)では『戦前期の国産自動車史において、豊川順弥ほど技術開発に貢献した開発者は少ない。真の侍であった。』と評しているが、その歴史を辿れば、確かに“侍”という他ない。
 一方の橋本増治郎も、豊川に負けず劣らずの“侍”だった。今回、岩立喜久雄氏の、心を打つ数々の文章を読んだ中で、橋本の経歴の中でうかつにも、今まで見落としていた点があった。以下(④-13)から引用する。
『また橋本は自らの事業を差しおいても、恩人に協力を惜しまぬ義人であった。ダット41号(注;8.3-1項参照)を完成させた後の約2年間は、北陸で新たな工場建設の指揮にあたっていた。株式会社小松製作所(現在のコマツ。竹内鉱業株式会社として明治26年創設。創業者は竹内明太郎。DAT名のTの由来者)の出発点となった石川県の小松鉄工所の技術的な礎は、じつは増次郎が築いたものだ。その2年間に工場機械調達のため2度の渡米を果たし、石川県での技術指導に多くの歳月を費やした。その結果、石川県の小松鉄工所の竣工時には、橋本は取締役工場長を任されていた。ところがまもなくその職を辞退する。一般の自動車修理で糊口をしのいでいた、東京の快進社の従業員達の下に帰るためであった。』(④-13、P169) ・・・・・。 
世の中には偉い人がいたものだと思うしかないが、以前の8.3-1項でもDAT創業前の経歴を記したが、橋本が卓越した技能というか、並々ならぬ実力の持ち主だったことを物語る逸話だ。
それにしても自動車史の中で、「真の侍」や、「恩人に協力を惜しまぬ義人」と対抗するのは中々大変な話だったのかもしれない?下の写真はその後、立派に成長した?近年の姿を、コマツのHPよりコピーした。
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https://www.komatsu.jp/ja/-/media/home/aboutus/history/history_028.jpg?h=475&iar=0&w=750&rev=b96283e43f794dd298a268cc73803e49&hash=47FF412258CDF29ABDEA0A589CE267D8
 
15.4三馬力時代のオート三輪
 ここでようやく話を“本題”の、オート三輪に戻る。
脱線が長かったので、今までのおさらいを簡単にしておくと、(14.3-9項)で記したように、関西や東京で一時期普及していた、フロントカー型の三輪自転車の後輪に、スミスモーターホイールを装着する形で、初期のオート三輪と呼べるものが、自然発生的に誕生した。1917年(大正6年)頃のことだった。 
そして(15.1-3、4項)で記したように、スミスモーターホイールの輸入元である中央貿易では、自社製の完成車として、乗用型の「自動人力車」と、フロントカー式の貨物運搬用「自動三輪車」を販売していたが、内務省はこれらスミスモーターホイール付き軽車輛を、運転免許不要等、多くの特典がある「特殊自動車」であると、認定する(1921年12月)。
以上がこれまでの話だが、この絶好の商機を、機を見るに敏な他の大阪商人たちが見逃すはずがなかった。
この15.4項では、ダイハツ、マツダ、くろがね(日本自動車)といった、エンジンまで内製し量産する力を持つ、大手企業が参入し、人力車/自転車産業が由来の弱小メーカーが次第に淘汰されていく前の、関西の草分けたちが活躍した時代の、代表的な車種や話題(と事件?)を取り上げつつ、その歴史を辿っていきたい。
なおこの項も、今回の記事で多くを(ほとんどを)頼った、月刊オールド・タイマー連載の「轍をたどる 国産小型自動車のあゆみ」(引用④、岩立喜久雄氏著)を主に参考にさせていただいた。深く感謝します。同書は独自の視点も併せ持つため、世間一般ではより有名なオート三輪の歴史書である②や⑭と、若干内容が異なることをあらかじめ記しておく。
それでは初期のオート三輪の歴史を始めたいが、既にスミスモーターの輸入元の中央貿易製のフロントカー型については記したので、同じ時期に誕生したとされ、『スミスモーターホイール付きのフロントカーの流行では、関西地区の仕掛人の役割を果たした』(④-15、P168)という、元は大阪の油問屋、中島正一率いる中島商店三輪部の、ヤマータ号から、話をスタートする。
15.4-1中島商店のフロントカー、「ヤマータ号」の誕生(黎明期のオート三輪の仕掛人)
中島商会のヤマータ号誕生の経緯について、以下(web❾、P79)より引用する。
>『フロントカーの製造販売店であった中島商会を経営する中島正一が、自社が販売したフロントカーを店員が汗を流しながら運転する現場を目撃し、このスミス・モーターを三輪自転車の後輪左側に取り付ける着想を得たのが自動三輪車の始まりであるといわれている』
このエピソードは一般によく知られているもののようだが、(④-15、P168)では、
『中島正一は大正4年創業の油問屋の主人であったが、大正6年に逸早くスミスモーターを装着したフロントカーを製作し、自らの中島商店に三輪部を設けて販売を始めた』とより細かく記している。中島がオート三輪の最初期から目を付け、販売を始めた、パイオニアの一人だったことは間違いだろう。実際、中島では自社の広告に、「日本最古」の宣伝文句を多用していたという(④-15、P168)。
しかし中島と中央貿易のどちらが「日本最古」だったのかの検証は、あまり意味がない話かもしれない。それよりも、両者が>『どちらが先かは定かではない。いずれにしても商人の街である大阪で大流行し、幸いにも無免許で運転できたことから、三輪車が普及するきっかけを生んだのである。』(⑭、P10)
元々大阪、東京を中心に普及していたフロントカータイプの三輪自転車の後輪に、スミスモーターホイールを付けたものなのだから、オート三輪は(たぶん)大阪の街の中で、自然発生的に生まれたものだったと思うが、定説通り、中央貿易と中島商会の両社が先陣を切り、積極的に市場を開拓していったのは確かなようだ。
(④-15、P168)で岩立氏は、中島が掲げた「日本最古」の真意について『大正6年のスミスモーター付きフロントカーの時代より、業界をリードしてきた自負を示すものだった』と解釈して、その功績を讃えている。中島商店の「ヤマータ号」は、その後も法規の改訂の度にエンジンを換装しつつ、発展していった。戦後はオート三輪の製造を断念したが、現在でも自動車部品・用品販売の部品商として盛んに商いを行っているようだ。
https://www.nakabc.co.jp/
(ネットでスミスモーターホイール時代の、ヤマータ号の写真を検索したが、残念ながら見つからなかった。その代りといっては何だが、ライバル、中央貿易のフロントカー型の「オートサンリン」の写真は、“探検コム「オート三輪」の誕生” というところにあったので、コピーさせていただいた。ただ以前、今回の記事の下書きを書いた時点では確かにあったのだが、今は改装中なのか、元のブログが見当たらない?
https://tanken.com/tricar.html 後輪にしっかりと、スミスモーターホイールが取りつけられている様子が分かる。同時期の、中島商会の「ヤマータ号」も、同じような形態だったと思う。)
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 以上、スミスモーターホイール時代の、フロントカー型の代表として、中央貿易と中島商会の「ヤマータ号」を取り上げた。さらに話を進める。
先の14.3-10項で、日本における自動車の使われ方として『~どちらかというと、これを使用することによって顧客を大幅に拡大できるという、いわば業務用の需要が主導する形で普及したのである。~ 個人的な楽しみというよりは、業務用のニーズが優先するというこの特徴は、後述するように、自動車の普及についても当てはまる日本的な個性と言えるだろう』と、(㉚、P65)からの引用で記した。
戦前のオート三輪の歴史を辿っていくと、上記のように買う側が求めたものは一貫していて、無免許等の特典はそのまま維持しつつ、よりたくさんの、重い荷物を、安い購入費で楽に早く運ぶための、業務用の道具としてであった。
スミスモーターをつけて走り始めたオート三輪だが、『当初は自転車・荷車の代替え手段として軽量の貨物輸送に満足していた需要者が、次第により多くの貨物輸送を求めるようになった』。(①、P123)
その要求にこたえるべく、オート三輪の製作者たちは、少しでも大きな荷物を運べるように、特殊自動車の範囲内で今よりもさらに大きなエンジンの使用を許可するよう、管轄する内務省や地方の官僚機構に陳情をくり返す結果となる。
こうして法規制の変遷と連動して、オート三輪は機構的にも、より重い荷物を運ぶために進化を遂げていく。次に記す、スミスエンジンに代わり、ビリヤスエンジンの使用と、フロントカーからリヤカーへの変化も、その流れに呼応して生まれたものだ。ただしこの流れの行き着く先は、機構的にも自転車寄りから自動車寄りへの変化となり、自転車系から派生した中小業者からすると、次第にハードルが高くなっていき、自らの首を絞める結果にもなっていったのだが。
15.4-2フロントカー型からリヤカー型へ移行
 ここでもう一度、三輪自動車の形態について確認しておきたい。三輪自動車は、その構造上、前一輪・後二輪のリヤカー型、前二輪・後一輪のフロントカー型、及びオートバイ+サイドカーの、3タイプに分類される。そして再三記したが、その中で、スミスモーターホイールを後輪に取り付ける形で、最初に登場したのが、フロントカー型であった。操舵のない後輪一輪駆動の方が構造上もバランスの上でも、モーターホイールを付け易かったことも一因だった。サイドカーは車幅が広くなってしまい、狭い日本の路地まで入れないため、荷物運び用としては一番不向きだった。
15.4-3狭い日本では便利な乗り物だった
サイドカーは狭い日本の道では不向きだったという話が出たところで、オート三輪が日本で普及した理由の一つとして、荷台(積載力)の割に小回りがきき、狭小な道路の多かった日本の道路事情にマッチしていた点があった。14.2-2項の馬車のところでも記したが、戦前の日本で(自動車の)トラック=フォードとシヴォレーのトラックになるが、『T型(フォード)でも2896ccあり、日本の狭い道路では立ち往生する場面が度々起きた。~貨物自動車の場合は、その本能として市街地を自由に侵入したくなる。~ この輸入貨物車と日本の市街地や住宅地の道幅との不釣り合いは、こののち国産小型自動車を発生させる一因にもなっていく』(④-6、P172)。』以下の①では、その点を数字で示している。
『~道路の幅が3.7m以上なら小型車通行可能、5.5m以上なら普通車通行可能とされたが、1934年1月現在、大衆車の通行可能道路の全道路延長に占める割合は3.5%にすぎなかったのに対して、小型車のそれは20.9%だった。』(①、P172)
仮に道幅が3.7m未満の道路でも、コンパクトで急角度に操舵できる(ただし低速でだが)オート三輪は、『短距離の輸送のためのトラックとして四輪トラックよりはるかに安く便利であることから、需要は少しずつ増えていった。四輪のように内輪差もなく、どんな狭い道でも通れるのも、日本の土地に合ったものだった。』(⑦、P167)こうして日本特有の入り組んだ町並みに自然にとけ込みながら、小口の荷物輸送の需要を荷車やリヤカーから徐々に代替えしていった。(下の写真はナカジマ部品のHPの、「三輪自動車の歴史(2)」からコピーさせて頂いた、高知県の高知自動車工業(後にトクサン自動車工業)で製造された、特大サイズの三輪トラックの「トクサン号」。以下wikiより『大型四輪トラックのシャーシ改造によって製作され、輸送力の大きさと、山地の狭隘路でも小回りの利く三輪トラックの特性を兼ね備えていたことから、特に四国を中心とした西日本地域の林業輸送用として用いられた。』トヨタ製5t積み(主にBM型)の、多くは中古トラックをベースに3輪型シャシーを改造製作するという、『凄まじい規格外というべき三輪トラック』(wiki)だ。さらにこの規格外の大型三輪トラックが、『当時、地元の高知県陸運事務所は、「高知県の新たな産業」として期待できるトクサン号の完成車種登録申請に非常に協力的で、事務所長は四国全域を管轄する高松陸運局や東京の運輸省本省にまで認可の運動をしてくれた』(wiki)結果、四国内での使用を許可された(後に全国?)という事実もまた、規格外?の話で興味深い。下の写真は中島部品HPの「三輪自動車の歴史(2)」からコピーさせて頂いた。写真についた説明文に「2.5トン積車」とあるが『この時代のユーザー側では公称の二倍三倍の過積載がまかり通ってもいたから有名無実ではあった』(wiki)https://www.nakabc.co.jp/auto-3rin/auto3rin-2.htm
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https://www.nakabc.co.jp/auto-3rin/1956-tk-3rin.jpg
15.4-4移行期は各社、フロントカーとリヤカーの両タイプを用意していた
しかしフロントカー型は前に荷物を載せるため前輪が重くなり、舵取りが困難になるという弱点があった。そして経験的に、リヤカータイプの方が、より重い荷物を運べそうなことが次第にわかってくる。14.4項で記したように、この頃日本人の手で、リヤカーが誕生し、街中で急速に普及していった時期なので、その影響も当然受けただろう。
移行期であった時期のオート三輪業者の多くは、フロントカー式とリヤカー式の、2種類のオート三輪を用意していたようだ。15.1-4項で掲げた、1923年の中央貿易の宣伝コピー(月刊オールド・タイマーの「轍をたどる」(④-5、P173)からコピーさせていただいたもの)を見ても、両タイプを用意している。
15.4-12項で後述するが、大正14年(1925年)に国産エンジンの特殊自動車として最初に認可されたアイザワ号も、やはり両方式を用意していた。その解説文(④-8、P177)から引用『フロントカーとリヤカーのどちらの方式が便利なのか、まだ答えが出ていなかったわけだ。やがてリヤカーのほうが多量の荷物を運べると分かるのは、この直後のことだった。』つまり1925年頃が、フロントカーからリヤカー式へ移行する、一つの境目の時期だったようだ。
15.4-5リヤカーの方が米一俵分、余分に積める!
そのころ、リヤカーの開発を積極的に行っていた業者の中に、大阪浪速区の、山下市二郎率いる山下製作所があった。そしてこの山下が最初に、『リヤカーとフロントカーでは、リヤカーの方が米一俵分、余計に積むことが出来ると先見』したのだという(④-15、P169)。この「米一俵分多く積める」という文言は、多くの文献で引用されている(たとえば①、P120など)。日本のオート三輪の用途は荷物の輸送用だったため、フロントカーよりも重い荷物が積める、リヤカータイプに、急速に需要が移っていく。
15.4-6東京のリーダー格、鋼輪社の「KRS号」
 今まで見てきたように、オート三輪の製造は、大阪や神戸を中心にした関西が起点となり、東京や名古屋へと伝播していった。そして大阪における中島のヤマータ号のような位置づけの、東京のリーダー格として、業界を牽引していったのが、山成豊率いる鋼輪社(後に山成商会)のKRS号(ちなみにKRSは鋼輪社が由来)であった。スミスモーターを搭載したオート三輪の最後として、KRS号を紹介しておく。
KRS号について、(②、P173)では、『オート三輪という言葉が用いられるようになったのは、1922年に山成豊氏の経営する鋼輪社(KRS)が、スミスモーターを使用して、前1輪・後ろ2輪の動力付きの三輪車をつくったからだといわれている。』とし、さらにKRS号の写真の解説文では、鋼輪社のKRS型が『その後のオート三輪の原型となった』(②、P172)と、非常に大きく扱っている。ここまで言い切っているので、たぶん何かの文献に、そのように記されている等の根拠があるのだと思う。
 しかし、以下はまったくの私見だが、この記事で今まで、日本人が“発明”したとされる(もちろん異論もある)、人力車やリヤカー(と輪タクも?)の歴史を見てきたが、その限りにおいては、誰か特定の“個人”が“発明”したというよりも、それらは当時関係していた日本人とそれを取り巻く日本の社会の、いわば“集合体?”みたいなものが生みだしたものだったように思う。
wikiや歴史本がどうしても、個人や企業名で特定したい気持ちもわかるが、このリヤカー式オート三輪も、どこか特定の企業がその原型を示したというよりも、フロントカー式の、最初のオート三輪が誕生した経緯のように、当時の大阪を中心とした、ある種の熱気が東京にも伝播していく中から、いわば必然的に誕生したものだったと解釈したい(たぶんに個人的な意見(感想)です)。先に記したように、人力のリヤカーが街中を世話しなく駆け回っていたはずたし、15.5-1、-2項で記す、ハーレーやインディアンを改造した大型リヤカーの影響も受けていたはずだ。以下は(④-13、P176)から引用する。
『~これらの各社を見ても、最も隆盛した大阪では中島正一の中島三輪車部が、一方の東京では山成豊率いる山成商会が、この分野の牽引車だったことがわかる。フロントカーからリヤカーへ、そしてビリヤスからJAPへ(注;後述する)といった基本的な流れは、東京と大阪を中心にほぼ同時に起こってきたわけだ。』
この(④-13)の記述のように『フロントカーからリヤカーへ、~ といった基本的な流れは、東京と大阪を中心にほぼ同時に起こってきた』もので、大阪/神戸と東京で沸き起こったこのムーブメントの段階では、東京側を主導していったのが、山成豊とこのKRS号だったことは、間違いなかったと思う。(④を参考にした私見です。)
15.4-7長期間かつ大量に三輪車が生産されたのは日本のみ(余談)
(以下は余談です。もともと、誰もそのように言ってはいないが、オート三輪が、日本で“発明”されたと言い切るのは苦しい。(①、P138)の備考で記されているように、遡れば『ガソリン・エンジンの発明者であるベンツが、最初にそのエンジンを装着したのが三輪車であったし』、ゴルハム号三輪車の元ネタだった、サイクルカーは欧州を中心に一時盛んに生産されていた。荷物運搬用のリヤカー型のモデルとしては、日本にも1910年代にインディアン(有名なオートバイのブランド)を輸入していた二葉屋が、アメリカから“シグネットリヤカー”という大型リヤカー(正確には四輪だったが)を輸入していた。『また、20年代末にもドイツのDKW社はMAKという三輪車を日本に輸出しようとしたというからである』(①、P138)。『こうした三輪車の台頭は、日本独特のものではあったが、ドイツでも1920年代後半から流行』(⑭、P12)していたという。しかし『長期間かつ大量に三輪車が生産されたのは日本のみ』(①、P138)で、第二次大戦を挟んで50年近くに渡り使われていく中で、独自に発展を遂げていったのは、紛れもない事実だった。
下の写真は、https://dkwautounionproject.blogspot.com/2017/07/framo.html 
というブログからコピーさせていただいた、1928年製のDKWの三輪車の宣伝コピー(ドイツ本国向けの)で、同車は日本にも輸入された。ドイツ人が作れば当然、関西商人の想いで作った日本のオート三輪と違い、工学的に凝った作りになるが、日本にも輸入されて好評だったという。詳しくは⑭、web❷等参照してください。前輪駆動の低重心設計で、その鋼板フレーム構造は、後のマツダ製オート三輪に影響を与えたといわれている。同時代の日本製のオート三輪よりコーナリング時の安定性が高く、逓信省が郵便車に採用したという。(⑭、P13他参考))
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https://2.bp.blogspot.com/-68g8t90qWno/Uu5EHNy5FzI/AAAAAAAAdEY/lR_-Hq4Gy-I/s640/Framo+-1928.jpg
 さらに話が変わりこれも余談だが、スミスモーター時代のKRS号について、確かに写真(②に掲載されているもの)の見た目では、進歩的だが、実際には『このオート三輪は、走り出してスピードがのると、エンジンの動力が切れるようになっていて、乗り手が地面を蹴ってスピードを保つ方式であった』(②、P174)という、今の感覚からすればかなり原始的な乗り物だった。)
15.4-8初期のオート三輪メーカーの企業形態について
ここで個別の企業としてではなく、初期のオート三輪を製造していたメーカー群は、どのような仕組みで製品をデリバリーしていたのか、非常に漠然とした問いだが、①をガイドに確認しておきたい。
まず前提として、14.3-5の自転車の項で、自転車産業が特殊な産業構造で、初期のオート三輪車市場に参入した企業は、その自転車産業関連が多かったことはすでに触れた。その確認も兼ねて以下(④-15、P169)より引用
『組立メーカー、あるいは問屋物と呼ばれた、無工場の、商標のみによる国産自転車は、大正期よりすでに無数といってよいほど発生しており、そのルーツも、やはり阪神地区の自転車部品工場群に求めることができる。このような商業形態は自転車業界特有のものだったが、同じように中小企業や商店が集合した、初期の国産二輪、三輪業界にも伝播し、少なからぬ影響を与えていた。』
実際、黎明期のオート三輪業界で活躍した(乱立した?)メーカーというか、商人たちは、自転車業界特有の、ほぼすべての部品を外部調達することで成り立たせており、我々が通常、メーカーと聞いてイメージするものとは、だいぶ異なっていた。
15.4-9初期のオート三輪は輸入エンジン+内製車体の組合せ
ここで初期のオート三輪の構成を大ざっぱに確認しておくと、輸入エンジン+国内製車体(フレーム)の組合せとなる(『自転車(フレーム)を父とし内燃機関(エンジン)を母として誕生した』(①、P127)という言われ方もされていたようだ。)。
当時エンジンは、定評ある輸入品を使うのが常識だったので(さらに細かく言えば当初は、ギヤボックス、マグネトー、気化器、サドル、オイルポンプ、電装品、チェーン等も輸入(④-11,P168等参考))、あとは、フレーム他の主要部品を国内の自転車系の部品メーカーから調達して、自社(問屋型に徹してそれすらも外注する場合もあっただろう)で組み立てて完成となる。そのための肝となる、初期のオート三輪のフレーム製造技術について、(①)を参考に確認する。
15.4-10自転車とほぼ同じ設備で製作していた
『~三輪車を含む自動自転車メーカーはすべて小規模・少量生産であったので、実際にプレス機を設けていたメーカーはなかった。要するに、フレームに関する限り、基本的には自転車と自動自転車の設備は同じであったのである。』(①、P128)自転車に比べると少量ロットのオート三輪用のために、自転車部品メーカーはプレス機械等の新たな設備投資をすることなかった。しかし既存の設備で、オート三輪用のフレーム製作に対応できたようだ。
初期のオート三輪のエンジンはかなり低出力だった(スミスモーターは201cc、2.5㏋ほどだった(⑥、P39等))ため、フレーム側への負荷も比較的軽かっただろうことと、元々三輪自転車用フレームの製造技術もあった。以下も(①)より
『~それを可能にしたのは、日本において自転車のフレームに関する技術はほぼ完成のレベルに達していたし、三輪自転車も使われていたためであろう。』(①、P128)すでに国際水準にあった、高い自転車製造技術が、下支えした。そしてフレームに限らず、タイヤ、車輪など自転車用の部品類は国産化されており、オート三輪作りのための基盤はすでに整備されていた。
だが、スミスモーターの時代よりも、後に記す、エンジンパワーが上がった、3馬力時代(350cc)や5馬力時代(500cc)になると、『既存の自転車のフレームをそのまま使うことは無理であった。~ ほとんどのエンジンは欧米からの輸入品であったが、その本国ではそのエンジンの出力と振動に耐えられるフレームに取り付けられるように製造されたものであったからである。』(①、P129)
しかし、それらのよりハイパワーなエンジン向けの対応も、多額な投資が必要なプレス機械等の新規設備の導入でなく、材料・設計の改善で対処したようだ(①、P129)。その点が、後に市場が形成された段階で、大資本をもって参入した、マツダやダイハツに比べて、弱い点だったが、『全般的に1920年代の技術は、~ 自転車を基にするフレームに関しては三輪車を実現可能なものにする水準にまで向上したのである。』(①、P132)
さてこうなると残りは1点、調達した部品を社内で組立てることの、技術的なハードルは高かっただろうか?
15.4-11小さな鉄工所でも自転車小売店でも組立てられる程度(ダイハツの社史より)
これについての答えは、ダイハツの社史(「50年史」1957年発行;㊴、P34)から引用する。『当時大阪、東京などの大都市では、主として英国あたりから輸入したオートバイ用エンジンをそのまま三輪車に架装して走ることが流行していたのである。小さな鉄工所でも、自転車小売店でも小規模で組立てられるので中小企業者の歓迎するところとなり、次第に生産量が増加する傾向が看取された。』
同書の別の頁では、当時の三輪自動車工業を、『小企業者主として手工業により僅かに製造を続けていた』(㊴、P36)と記している。たとえば、JAPエンジン(3馬力)時代に栄えた、MSA号で有名な東京のモーター商会(15.4-27項で記す)の企業規模は、1932年1月の統計では、従業員12名にすぎず、同時期の中小自転車部品製造企業より小さかった。『これは、同社がエンジンだけでなくほかの部品もほとんど製造しておらず、組立のみを行ったことを意味し、こうした状況は半国産企業に共通していたと思われる。』(①、P142)
もちろん、この企業形態が可能だったのは、この項で延々と記してきたような、前提条件が満たされていたからであった。
 初期のオート三輪メーカーの企業形態について、漠然としたまとめになるが、機械工業系の企業単位で見た場合、先のダイハツの認識で間違いないのだろう。ただ我々一般人の基準で考えれば、人力車/自転車産業以来の、知恵と先見の明のある商売人たちが編み出した、効率的な生産方法であったと思う。

話を戻す。再三記したように、戦前のオート三輪の歴史は、より大きな荷物を運ぶために、特殊自動車の範囲内で、さらに大きなエンジンの使用許可を求めて、内務省他の規制する側と業者が折衝を繰り広げた歴史でもあった。ユーザーは次第に贅沢になり、スミスモーターの出力では物足りなくなくなっていく。さらに上を求め始めたのである。
 こうして、より出力の大きいオートバイ用のエンジンを、特殊自動車として“認可”するよう求める動きが起きて、やがてスミスモーターに代わるビリヤスエンジンやJAPエンジンの時代が到来するのだが、ビリヤスエンジンの話の前に、『長い間、噂だけが伝わる謎の1台』(④-8、P175)だった、大阪の「アイザワ号」が、“スミスモーター超え”の突破口を切り開いていたという。以下(④-8)を参考に記す。
15.4-12「アイザワ号」オート三輪(319cc)の特殊自動車認可(1925年6月)
このアイザワ号は、エンジンまで内製した純国産の三輪車で、上述のように今まで「謎の1台」とされてきたようだが、岩立氏の(④-8)で、(たぶん)本邦初めて、詳しく解明された。ぜひそちらをご覧ください。以下同書から大幅に省略しつつ記すと(④-8、P175~)、アイザワ号オート三輪を製作したのは、大阪の相澤造船鉄工で、第一次世界大戦の造船景気で急成長し、富を成したが(いわゆる造船成金だった)、大戦後の造船不況で一気に1/10の規模まで縮小する。そこで元々漁船用エンジンの製造経験もあり(①、P141)、『この造船不況を乗り越え、工場を維持するために、アイザワ号オート三輪の開発に進んだものであった』(④-8、P176)。15.4-8~9項で記した、他のオート三輪メーカーとはかなり動機が異なっていたことになる。
その取り組みも本格的で、エンジンはイギリスのJAPエンジン等から学んだ内製品で、4ストローク単気筒、319ccエンジンだった。スミスモーター(201cc)に比べるとかなり大きい。
相澤造船鉄工は内務省宛てに、このアイザワ号が特殊自動車扱いとなるよう、申請書を提出するが、1925(大正14年)年6月29日付けで、フロントカー式アイザワオート三輪及びリヤカー式アイザワオート三輪は特殊自動車であると認可される。国産エンジンだということと、相澤造船鉄工は当時名の知れた企業だったはずで、判断が多少、緩めだったのだろうか。しかしせっかく認証が得られたにも関わらず、本業の経営難も加わり、さしたる販売も行わないうちに、短命に終わったようだ。
15.4-13認証試験が始まる(「青写真時代」時代の到来、そのきっかけは?)
(以下は(④-9、P169~171)を元にまとめたものだ。)
アイザワオート三輪が特殊自動車と認定される1925年(大正14年)の前年の、1924年(大正13年)以降、内務省警保局が行なう、特殊自動車の認証手続きに変更があった。
申請(許可願い)の際には『必ず詳細な構造説明書と共に、設計図の青焼きの添付が義務づけられた。のちに三輪自動車業界の開拓者達は、この3馬力時代、5~6年間のことを「青写真時代」と呼んで懐古したが、青写真が申請上、必要不可欠となった時代をさしたものだ。』しかも、書類審査だけでは終らなくなった。
書面による審査と共に、『特殊自動車の製造者からの出願に対しては、とうとう一台ずつ車両を持参させ、実地試験を行うこととした。つまり認証試験の始まりである。そして審査に合格した車両については、車両名、製造者名、仕様を明記し、青写真を添付して、全国の各地方庁へ「この種の車両に対しては無免許運転を許す」と一々通牒するようになった。現在の型式認定の原型に近いものだ。』(④-9、P171) 
このような煩雑な認証手続きを生むきっかけがあった。星川商会(京都府)という業者からの度重なる、あいまいな内容の照会があり、それに業を煮やした?警保局側が、星川商会の自動自転車については実地に審査すると、応じたからだったという。詳しい経緯はこれも、(④-9、P169~170)をご覧ください。星川商会以外にも同様な申請があったのだろう。
内務省はこの(繁雑な)ルール通りに運用し、申請の度に実際に、実車試験を行い、その性能を確認していたという。たとえば『内務省技師の小野寺は、前出のアイザワ号の一件でも、試験車を東京へ1台持参させ、皇居前の砂利敷き道路で実際に試運転を行っていた。』(④-11、P171)
なぜこのような事態に陥ったのか。先に記したように、『無免許車の許可が車輛ごとでなく、検査に合格した製造業者に下されたことも、車両の性能を重視する発想からきたものであったと思われる。というのは、車両検査の際には車体自体だけでなく、製造業者が検査車輛以上の性能を備えた車両を持続的に供給できるかどうかについても調べており、後述するように、三輪車の性能が問題にならなくなる30年にはこの方法が変更されたからである。』
当時オート三輪業界への参入障壁は低かった。既存の交通体系を安全に維持していくために、審査のハードルを上げて、星川商会のような申請者(車&製造業者)を排除したかったのだ。
こうして星川商会のような一部の不届きな業者が取り除かれたため、『三馬力半時代の先駆者達は、内務省警保局からの認証を得るため、万事これに従い、また内務省警保局も真摯に各車を審査していた。』(④-11、P171)交通体系に支障がないよう、官民が協力して、特殊自動車の性能確保に努めていたわけだ。
そういった、真剣なやりとりが行なわれていた中でも、次に記す、神戸自転車業界の祖と呼ばれた有力業者、横山商会と内務省警保局の一連の折衝は、国産小型車の歴史の中で特筆すべき出来事となった。
15.4-14「横山式コンビンリヤカー」が切り開いた道
(この項“も”、④-11と④-15のダイジェストです。)
 この項の主人公の、神戸の横山利蔵率いる横山商会は、『明治30年創業の自転車輸入業の老舗で、大正8年(1919年)5月に株式会社横山商会と組織変更後は、オートバイ及び部品の輸入、また国産自転車部品の輸出を行った。』ちなみに商標名の「コンビン」は、「Convincible(確信できる)」の略だったそうだ。
横山はまず、ビリヤス自動自転車で、自動車業界に進出を果たす。15.4-27項で記す、MSA号のような、イギリス製のビリヤスエンジン(247cc及び342cc)を搭載したオートバイで、『フレームなどの車体は阪神地方で製作した、いわば半国産車であった。』当時、車両価格を抑えるためにしばしば行われた手法だったという。(以上④-11、P170。以下も同様)
『自転車部品メーカーが数多く点在した阪神地区ならではの背景が見えてくる。英社系自転車輸入業の草分けだった横山商会は、自転車フレームなど部品工場との関係が深く、そのため逸早く三輪車の製造に手が届き、コンビンリヤカーの販売に至ったものだ。』(④-11、P170)
こうして二輪だけでなく、三輪のコンビンリヤカーの販売にも商売を広げるが、その過程で、『愛知県知事より内務省警保局長にあてた、「自動車取締令適応に関する件」とする、コンビンリヤカー三輪車に対する照会』(大正14年(1925年)8月13日付)が行なわれる。
15.4-15コンビンリヤカーは特殊自動車とは認めがたく候(1925年10月)
たまたま愛知県内で走っていたコンビンリヤカーについて、愛知県より内務省警保局宛てに、特殊自動車と扱って良いかの照会だったらしいが、これに対して内務省は1925年10月10日付けで「自動車取締令に関する件回答」として、概略以下の内容の通牒を発した。
『コンビンリヤカーは、これまでの前例、オートサンリン(15.2項参照)やアイザワ号(15.4-12項参照)などと比べて、排気量が半馬力、全長が四寸、全幅が二寸オーバーしているため、無免許運転許可の特殊自動車とは認められない、との明確な回答であった。また愛知県からの照会には、構造書の写しがあるのみで、肝心な構造図面や操縦法説明書の添付がなく、これでは判定しがたいとした。』(④-11、P170)
15.4-16コンビンリヤカーは特殊自動車として取扱い相成度候(1926年1月)
(④-11)からの丸写しで恐縮だが、以下からも引用させていただく。
『右の愛知県と内務省とのやりとりをはたして察知したものかどうか、神戸の横山利蔵はすぐさま大正14年(1925年)9月24日付けで内務大臣あての陳情書を送っている。』(④-11、P170)横山は内務省から正式にNGの回答が出る前に動いている。内務省とはこの件で折衝があっただろうし、事前に感触をつかんでいたのだろう。内務省宛てで、コンビンリヤカーを特殊自動車として扱ってほしい旨の陳情書を行ったが、その内容は(④-11.P171)によれば、用意周到なものだったという。以下をダイジェストに記すが、詳しくはぜひ元ネタの方をご確認してください。
 用意した書類だが、添付を指摘された構造図面や操縦法説明書は当然ながら、大阪工業試験所による試験成績書と、三宮警察署による速力証明書まで揃えて提出した。構造書に記載のスペックも、エンジンは同じビリヤス製ながら、排気量が半馬力オーバーしているという指摘を受けて(見越して)342cc型(3馬力半)から、247cc型(2馬力半)型に変更している。車体寸法も全長8尺、全幅3尺、変速機は前進2段等、内務省の“前例主義”を見越して、過去の無免許許可車(アイザワ号など)にほぼ収まるスペックであった。
 この“反撃”に対して内務省警保局は、1925年11月14日付けの通牒で、三宮警察署の速力証明には、試験環境データ等が欠けている旨、兵庫県知事宛てに通知する。かなりの“お役所仕事”的な対応にも思えるが、ただ今まで見てきたように、元々オート三輪系の特殊自動車の発端は、自動車取締令の解釈を巡っての特例処置の扱いから始まった。その後“拡大解釈”を繰り広げつつ、市場と共に成長していくのだが、内務省側としても、要所要所で歯止めをかけておきたかった気持ちもわかる。以下(④-11、P171)から引用する。
『なんとも厳密なお仕事ではあるが、これを受け取った横山利蔵は、また一念発起したことだろう、翌月12月8日、再度周到な実地試験を施行し、警保局の疑問にすべて沿った試験結果を、兵庫県知事を通して回答した。』
その 試験結果を受領した内務省警保局は、大正15年(1926年)1月25日付けで、横山式コンビンリヤカーを、特殊自動車として扱う旨の通牒を発した。
こうして『三馬力半時代の車輛規格は、横山利蔵のビリヤス系リヤカーによって露払いが行なわれ、大きな前例となっていくのである。』(④-11、P171)
15.4-17四輪の「コンビンサイクルカー」も特殊自動車として認定される(1925年12月)
 しかも横山利蔵の功績は、これに留まらなかった。以下も(④-15、P175)より引用する。
『さて神戸の横山利蔵は、前述の三輪コンビンリヤカーと同時に、じつは四輪のコンビンサイクルカー(写真は④-15をぜひ確認してください)も制作していた。いわばコンビン号の四輪版であった。ビリヤスの2馬力半、247ccを搭載したこの豆自動車は、輸入エンジンを利用した国産サイクルカー(四輪)として初めて、特殊自動車の認可を得ることになる。』以下『難路を超えた申請の経緯』を、(④-15、P175~P177)を元に簡略にして記すが、何度も記すが詳しくはぜひ原文を参照して下さい。
まず横山が四輪版の豆自動車、コンビンサイクルカーを作った背景だが、その7年ぐらい前、アメリカから輸入された例の“走るスノコ板”、スミスフライヤーに、輸入元の中央貿易が見た目は立派な和製ボディをかぶせた豆自動車が、意外なヒットとなったことがあったと考えられる。(15.1-2項参照)
『このとき横山はフライヤーと同じ車体寸法で、同じような体裁の豆自動車を製作すれば、(スミスフライヤーのように)適用除外が受けられると判断したのだろう。つまりフライヤーの後釜を狙った国内制作車がコンビンサイクルカーだったわけだ。』(④-15、P175)スミスエンジンでなく、より出力のあるビリヤスエンジンでの適用除外を狙ったのだ。
 ところがこの横山の試みに対して、内務省でなく、なんと横山の地元、兵庫県と神戸市警察がが『横山利蔵と内務省の間に分け入って、特殊自動車の承認をふさぎとめようとした』のだという!
その反対理由だが、当時『兵庫県下では「これら除外の」特殊自動車による事故が度々起こり始め、警察は手を焼いていた』という、これも警察の立場からすれば、至極もっともな理由があったようだ。(以上④-15、P176)
当時の特殊自動車の認可の可否は、内務省警保局と車輛製造業者や販売業者だけでなく『地方長官や警視庁も含めた三つ巴のやりとり』(④-16、P164)で決定されたという。そして地方長官や警察は、地場産業振興のため好意的に受け取る場合だけでなく、その逆に出る場合もあり、コンビンサイクルカーの場合、後者だったようだ。
その後の途中経過は省略するが、内務省警保局は『じっさいに横山のコンビンサイクルカーを東京へ持参させ(恐らくは皇居前広場周辺において)実地試験を行う』④-15、P176)という、厳密な審査を行った結果、例の『普通自動車と比べて、簡便かつ安全であるからよいだろうとする』、スミスフライヤーの際と同じ理由付けで、内務省警保局は、大正14年(1925年)12月20日付けで、横山式コンビンサイクルカーを、特殊自動車として扱う旨の通牒を発した。以下まとめとして、(④-15、P177)より引用する。
15.4-18横山が開けた小さな風穴は、豆粒のまま終わらず、その後大きく広がっていった
『以上のように横山式コンビンサイクルカーは、3馬力時代の四輪乗用車の認可においても先鞭をつけることになった。やがてコンビン号の後を追いかけて、3馬力、5馬力時代の三輪・四輪乗用車が次々と出願され、のちの750cc時代の小型四輪自動車の土台が、徐々に築かれていく。コンビン号自体も、昭和7年には、500cc時代の小型乗用車へと進化していた。
 横山利蔵がここで開けた小さな風穴は、けっして豆粒のまま終わらず、大きく広がっていったのである。』

ところで横山式コンビンサイクルカーについて、岩立氏は上に引用したように、「輸入エンジンを利用した国産サイクルカー(四輪)として初めて、特殊自動車の認可を得た」と、少々まわりくどい表現を用いている。しかしここにも深い理由があった。
15.4-19スミスモーター車よりも前に電気自動車が特殊自動車認定されていた!(警視第90号)
15.1項で、スミスフライヤーや、フロントカー式の荷物運搬用オート三輪等、スミスモーター系の簡便な車両が、この記事で何度も登場した(警山第104号:大正10年12月22日)で特殊自動車として認定されたと記したが、実はそれ以前に認定を獲得したサイクルカーがあったのだ!
その8か月も前の大正10年4月28日付けの、警視第90号(「電気自転車に関する取締令適用に関する件通牒」)で、輸入されたドイツ製の電気式サイクルカー、「スラビー・ベルリンガ―」(=1919~1923年にかけて、ベルリンのスラビー博士が考案し、製造された、下の写真の緑のクルマ)が「電気自転車」として、特殊自動車認定されていたのだ。時代が逆戻りする上に、いきなり電気自動車の話になってしまうが、特殊自動車のカテゴリーの先駆車として、この記事で触れないわけにはいかない。この場で簡単に記しておく。
その経緯を例によって、(④-6)からの引用で確認する。
『この電気式サイクルカーが、大正10年(1921年)頃よりエスビー(S.B.)の略称で、日本で販売されたという記録が数多く残っている。輸入台数は300台に上ったとする記述もあるが、その数字の根拠は定かではない。』本当に300台だとしたら、当時としては大変な数字だが?なお参考までに、佐々木烈氏の「日本自動車史Ⅱ」(引用㊳、P141)では、『これから本格的に販売しようという矢先、不幸なことに関東大震災が起こって、』その被害は『事務所は幸いにも焼失を免れたが、不幸にも横浜にあった輸入電気自転車が約600台ほど焼失した』と、当時の業界紙が報じていたという記述がある。ほとんど信じがたいような数字だが、(㊳、P138)には実際に、膨大な在庫車の写真もあり、我々が常識的に想像する以上の台数が輸入されていたのかもしれない。それにしても『この損害は、概算で50万円』にものぼったそうだが、大損害だ。余計なお世話だろうが、保険はかけていたのだろうか。話を戻し、(④-6)から引用を続ける。
『エスビー車の東洋総代理店を務めたのは「日独電気自転車商会」であった。(中略) この会社が起こしたエスビー電気車販売と無免許運転許可願に対する内務省警保局よりの回答が、警視第90号(大正10年4月28日付)となったわけだ。』(④-6、P172)
さらに丸写しを続ける。『警視第90号の内容を簡単にいうと、「エスビー電気車の外観は普通自動車と似ているが、操縦はむしろ自転車よりも簡単で(左手一本のレバーハンドルで操舵した)、特別な練習も不要であり、最高速度が10km/h以下と交通上の危険も少ないようだ。したがってこの自転車は、自動自転車(オートバイ)と同様に特殊自動車として扱ってよろしい」との通達だった。』(④-6、P172)
この前例があったので、警山第104号の文中に『当省令自動車取締令の適用に付いては、本年四月二十八日警視第九十号を以て申進置候電気自転車と同様、特殊自動車として…』という一節が書き加えられる結果となったのだ。なお輸入元は自動自転車と称したが、『自転車式のペダルはなく、そのため語義からすれば電気自動車でもよかったはずだ。』(④-6、P172)ただ内務省としては自転車の表現の方が、認可する上で、都合がよかったかもしれない。
(ドイツ製の電気式サイクルカー、スラビー・ベルリンガ―の画像は以下(アウディ メディアセンター)よりコピーさせて頂いた。なぜアウディなのか、実はその後、DKW(アウディの前身)に買収されてしまうのだ。アウディとしては、古くからEVを手掛けていたというアピールになっているのだろう。(㊳、P141.④-6、P170参考)。
https://www.audi-mediacenter.com/en/photos/detail/the-slaby-beringer-electric-car-7880Slaby-Beringer electric car)
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https://audimediacenter-a.akamaihd.net/system/production/media/7880/images/59fbfe793fd8aa080b541751f56b0edb9504dd67/HI110055_full.jpg?1581998763
15.4-20国産電気自動車の先駆、「タウンスター号」
そしてさらに、このエスビー車を元にした国産の車体に、日本電池株式会社(現GSユアサ)製の国産「ジ―エス」蓄電池と、黒崎電機製作所製の電動機を組み合わせた純国産電動車、タウンスター号がその2年後の1923年に、大阪から誕生する。
以下の文章は、「大正時代の国産電気自動車」(森本雅之著)という、webで閲覧できる論文からコピーさせて頂いた。『エスビー電動車を模倣した形で国産の電動車が販売された。これはタウンスター(TS 電動車)と呼ばれ、大阪の瀬川製作所が製造した。瀬川製作所はエスビー社の輸入にも携わっていたということであるのでエスビー電動車をかなり参考にしたものとは考えられる。~うたい文句は「取り締まりや税金は自転車同様で、運転手の免状も不要」とある。』(web43、P5)写真を見比べれば、確かにその外観は酷似している。なおこのタウンスター号も、大正13年(1924年)12月24日、内務省より特殊自動車としての認可を得ている(④-13、P175参照)。以下は(④-6、P175)より引用する。
『大阪で生まれたタウンスター号は、ここに紹介した型録と写真、文書を残して歴史の闇に消えた。不成功に終わった多くのモデルの一つではあるが、草創期の国産小型自動車、とくに国産電気自動車の先駆であったことは事実である。』(下の写真も(web43)よりコピーさせて頂いた、日本電池の創業者である『島津源蔵が運転するタウンスター』
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https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcT1rM_A_hjAyZ0RUuP0nNmAW6O6R2WAr2M5Vg&usqp=CAU
国産の電気自動車が、明治・大正期から製作されていて、さらに昭和期に入ると続々と製作されていたことは、国産車の歴史の中で埋もれてしまっている。この一連の記事では戦前の電気自動車の歴史の大半を省略したが、岩立氏の労作「轍をたどる」の中で詳しく記されている(④-6、④-8等)。Webの「大正時代の国産電気自動車」(web43)という論文とともに、興味のある方はぜひご確認してください。
いつものように?寄り道をしたが、“内燃機関”のオート三輪の話に戻す。横山利蔵のコンビンリヤカーが先鞭をつけた形で、スミスモーターに代わり、よりパワフルなオートバイ用のビリヤスエンジン搭載のリヤカーが主流となっていき、さらにそれほど間を置かず、同じくイギリス製のJAPエンジン時代が次に到来する。この3馬力時代に登場し、活躍したオート三輪メーカーのいくつかを、これから紹介していきたいが、くどいようだがその前に、特殊自動車の法規についての話題を2つ、記しておきたい。
15.4-21特殊自動車の車輛規格の制定
今までみてきたように、自動車取締令の適用除外から始まった、特殊自動車の定義はスタート時点から、やや曖昧なものだった。特殊自動車として許容される、車両の仕様は何度も記すが『内務省警保局と車輛製造業者や販売業者との間で、また地方長官や警視庁も含めた三つ巴の』(④-16、P164)真摯な確認を行い、『その都度、地方庁と内務省との間で通牒を交わし、小さな改正を重ねていった。』(④-9、P171)
ただ業界関係者の間では、その時点において、容認されるスペックが、阿吽の呼吸で通じあっていたはずだが、15.4-13項で記した、星川商会のような、業界の事情が分からぬ新参者からの照会も次第に増えてきた。そのため地方局や警視庁から、『特殊自動車とはいったい何なのか、その車輛規格を明確にしてほしい、との強い要望であった。これら全国格地方庁の動きを受けて、内務省が定めた項目が、前述の特殊自動車3馬力時代の車輛規格となっていった。ここで改めてその全項目を挙げておこう。全項目といってもわずか7項目しかないのだが、これが国産小型自動車の車輛規格の出発点となった。』(④-9、P171)
その出発点の、全7項目とは以下の通りだった。
«1»エンジン3馬力以内、 «2»全長8尺(2.4m)以内、 «3»全幅3尺(0.9m)以内、 «4»高さ3尺6寸(1.08m)以内、 «5»変速機前進2段、 «6»最高速度16哩(25km/h)、 «7»40~50貫(150~187,5kg)積。引用が(④)からに偏っているので以下は(⑦)より引用
(この規格の数値は)『それまでのオートバイや三輪トラックの仕様をもとに決められたものだった。』(⑦、P167)。関係者の間で認識されていた数値を追認した形だ。外寸は大八車(8尺×2.5尺)と同じぐらいの大きさだ。
しかしその後さらに、関係者の間で調整が進み、若干の“規制緩和”が行なわれたようで、『~徐々にその輪郭が浮かび上がり、輸入のJAP(英)エンジンなどを搭載した三輪自動運搬車が急速な発展をみせた大正15年(1926年)以降には、およそ次のような認可仕様が、半ば暗黙の同意のうちに定まっていた。』(④-16、P164)
下の表は(①、P123)より転記したものだが、赤く1926年と記した項が、1926年頃から始まった「特殊自動車3馬力時代」の、その認可仕様だ。
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この部分のスペックについては、多くの著書で一致している(①、②、④、⑦等)。ただし①、②、⑦では、複雑な説明が必要となる「特殊自動車」という表現は避けて、より万人に理解しやすい「小型自動車」と記しているが、あえて表現を変えた趣旨は理解できる。ただし④では、『この3馬力時代、大正10年から昭和5年にかけては、まだ「小型自動車」の呼称は、自動車取締令の上でも、一般にも広く使用されておらず、350cc以下の三輪、四輪車は「特殊自動車」と通称されていた。』(④-15、P168)とし、より史実に忠実な表記にこだわっている。このスペックで、後に特に問題になったのが、変速機が前進2段だという点で、『のちに非力な小排気量エンジンだからこそ3段変速機が必要であるとする製造業界からの強い陳情を招くことになる。』(④-9、P171)
15.4-22特殊自動車3馬力時代のスタートがいつだったのか、正確な月日の記録が見つかっていない!!
さらに岩立氏によればなんと、『じつはこの3馬力時代の開始を示す正確な年月日については、いまだ確かな記録が見つけられない』(④-9、P167)のだという。『3馬力(約350cc)を上限とすると定めた解釈は、関東大震災ののち大正13年(1924年)から15年(1926年)にかけて、内務省警保局と各府県知事、また警視庁とのやりとりから徐々に定まっていったものであり、その経緯は少々繁雑であった。』(④-9、P167)
この「繁雑な経緯」については、この記事をここまで飽きずにお読みいただいた方々にとっては、薄々察していただけたかと思うが、それが遠因なのだろうか、特殊自動車3馬力時代のスタート時期について、各文献で年代のばらつきがある。
そもそも④のうちでも、(④-9、P166)ではその始まりを1926年としているが、(④-11、P168)では大正14年(1925年)の時点で関係者の間では、『おおむね』認識されていたと(自分の意訳も含んでいるが)している。
(①、P122)も慎重な書き方で、1926年“頃”としているが、備考欄には、1923,4年頃という説もあると、追記してある。その他では(⑨、P103)も同じく1926年だ。重要な証言として当時内務省警保局だった小野寺季六が、戦後自工会が主催した座談会で、『(大正)15年には小型車の条件を~として、無免許運転を許可することにしました。』(㊲、P47)と残されていて、やはり1926年だ。
それに対して(⑦、P167)では1924年だが(②,P178)では1925年で、さらに(⑭、P11)では1919年と受け取れる記述だ。
そしてマツダの社史(⑰、P48)では1926年だがダイハツの2つの社史(50年史:㊴、P36)、(60年史;㉙、P19)共に、内務省でなく商工省が法令を制定し、大正13年(1924年)だったと記している。㉙と㊴を元に書かれている(⑱、P11)でも同様に「商工省小型自動車規格(大正13年)」と明記されているが、そもそも商工省が誕生したのは1925年4月で、当時はまだ農商務省だったはずなのだが?
ここで当記事の認識としては、「特殊自動車3馬力時代」のスタート時期を、安全サイドに振り?一応1926年“頃”としておくが、当然異論もあるだろうし、将来どなたかの研究が進むと、訂正が必要になる可能性があることも、記しておきたい。
さらにくどいようだがもう1点だけ、今まで何度も“3馬力”時代と記してきたが、その“3馬力”の根拠について、ここで説明をしておきたい。以下も(④-9)からの引用だ。
15.4-23三馬力時代のその、“3馬力”についての説明
 まず前提として、『この時代はまだ自動車エンジンの大きさを排気量(cc)ではなく、馬力(㏋)で呼ぶのが慣例だった。現在のように何ccかではなく、何馬力かで、税率や取締種別を決めていたわけだ。』 そして『日本での馬力の決め方は、RAC(英王立自動車クラブ)馬力にならっていた。』(④-9、P172)その算定式は、次の通りだ。
RAC馬力=ボア径×ボア径×気筒数/2.5(単位はインチ)
ちなみにフランスでは、仏課税馬力 1RAC馬力=1.014仏馬力 だったという。以下のブログから引用した。https://twitter.com/chillreactor/status/1108931742931415042
出典はここだそうだ。https://en.m.wikipedia.org/wiki/Tax_horsepower#France
先に記したように日本でもRAC馬力を、『まずは東京府がこれを使って車税を課すようになり、続いて警視庁も採用した。そのためにこの算定式による馬力は別名、警視庁馬力と呼ばれた。』(④-9、P172)警視庁馬力では4ストロークと2ストロークエンジンで計算式を使い分けており、(2ストは4ストの×1.5倍の馬力数となる計算)、『警視庁はなかなか厳密であった。』(④-9、P172)
 しかしこの馬力算定方式は小排気量エンジンでは数学上、誤差が大きくなり、ショートストロークエンジンが不利だった、余談だがこの税制のため、イギリス車はロングストローク型エンジンが多かったという説もあるようだ。
 そのような点も問題視されたため、『欧州車も大正中期より、エンジンの大きさを表すのに馬力ではなく排気量ccを、また米車も排気量のci(キュービックインチ)を使用するようになってきた。』特殊自動車の“3馬力時代”はちょうどその過渡期にあたったようだ。
15.4-24三馬力とは何cc相当なのか
 さて、スミスモーター(201cc)の低出力に飽き足らない業者が、内務省警保局に働きかけて、両者の折衝の中から次のターゲットとして、“3馬力”が浮かび上がったものと思われるが、上記のように、RAC馬力の算定法では、小排気量エンジンの場合、誤差が大きかった。
そのため『内務省は当初、3馬力とは一体何ccまでのエンジンをさすものなのか、明確に出来なかった。そこで東京工業大学のブレーキテスターを使用して、当時輸入されたばかりのJAP(英)エンジンの350cc(347cc)を計測してみたところ、おおむね3馬力と出たので、これを根拠として、特殊自動車のエンジンを3馬力以内と定めた。』(④-9、P172)のだという。このあたりの事情は、内務省警保局の技手、小野寺季六の証言が残されている(㊲、P47)が、それによると『~ところがあとから考えてみると、3馬力としたけれども、馬力以外には何の規定もないのであります。イギリスから輸入したジャックド・エンジンには馬力を用いていないので困りました。そこでオートバイからヒントを得て、3馬力を出すには気筒容量何ccかを試験するために、大岡山の工業大学のブレーキ試験機で計ったところ、350ccと出たので、3馬力を350cc対象としました。』としている。
このような試行錯誤だったという記録のように、特殊自動車3馬力時代の、その“3馬力”の、実際の運用は、それほど厳密なものではなかった。
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15.4-25三馬力"半"時代と呼ぶ人もいた
 上の表は、(④-9、P172)に記述されている、特殊自動車3馬力時代の代表的なエンジンとして、掲げられていたものを、表にしたものだ。その説明を、以下(④-9、P173)より引用する。
『つまりこの時期の小排気量エンジンは、およそ排気量(cc)を100で割ったじつに何とも単純な数字が馬力数として通用していた。警視庁馬力の算定式による4衝程、2衝程の区別も、小排気量の場合は煩雑になるのであえて度外視した形だ。そのために3馬力以内という特殊自動車の規定が、いつのまにか3馬力半以内とすり替わる地方例が出た。
 結局のところ2衝程のビリヤスについても、3馬力半(342cc)までが特殊自動車として認められるようになる。嚆矢となった横山式コンビンリヤカー(247cc)は、一番槍ゆえに少々割を食ったかたちだ。この3馬力時代のことを、3馬力半時代と呼ぶ例(地方令から)があったのも、右のような理由だったのである。』
(④-9、P173)元の規定があいまいだと、(身内の)地方の裁量権を行使されて、後方から弾が飛んでくることもある。内務省からすれば、この時の苦い教訓を、次の5馬力時代の認可仕様に生かしていくことになる。
何度も記してきたが、特殊自動車の定義自体がもともと、やや曖昧なものだった。そのため認証仕様の詳細部分は、実態と照合しつつ『逐次問題提起され、修正されていった』(④-11、P168)。その過程で、製造業者側は徐々に、優遇枠の拡大という“戦果”を勝ち取っていった。
さて“前置き”が長くなったが、これから3馬力時代のビリヤスエンジン、続いてJAPエンジン搭載のオート三輪製造業者のいくつかを簡単に紹介して、特殊自動車3馬力時代の話題を(早く!?)終えたい。まずは(④-11、P169+④-15、P168)の引用で、業界の長老格の話から始める。
15.4-26関原製輪所のビリヤス系リヤカー(大阪阿波座の、老舗の車輛製造業者)
 関原製輪所(大阪市西区阿波座上通)の主である関原利兵衛は『明治期より人力車の改良に尽力した老舗の車両製造業者であった。明治の人力車から大正のフロントカー式自転車、そして3馬力半時代の三輪自動車に至るまで長く活躍した、大阪阿波座の古老だった』(④-11、P169)。人力車、運搬用三輪自転車の時代から積極的に開発・改良に取り組んできた。そして『3馬力ビリヤス時代のリヤカーの開発でも先導役となっていた~ 阪神地区の他の同業者たちが販売した三輪自転車、三輪自動車でも、車体製造の面で、関原は多くかかわっていた』(④-15、P168)という。
15.4-27モーター商会の「MSA号」(ビリヤスエンジン搭載の代表車)
『ビリヤスエンジン搭載の代表車としては、東京で二輪、三輪、四輪を広く手がけ製造した合資会社モーター商会(神田区錦町1丁目)が、最もよく知られていた。』(④-15、P170)モーター商会は丸石商会が出資し、丸石所属の元自転車競走の全日本チャンピオンだった小宮山長造が代表だった。そしてMSA号の設計者も元オートバイ競走選手の日野大三郎だったという。『戦前期に日本に輸入されたビリヤスエンジンは、およそ1500機を数えた。うち約300機は、神戸の横山商会がビリヤス号オートバイ、コンビン号三輪、四輪自動車に搭載して販売した。残りの約1200機の大半は、モーター商会などのMSA系オートバイに使用されたものだ。』(④-15、P170)こうしてみると、ビリヤスエンジンは、国内フレームを使用した半国産型のオートバイに積まれたものの方が多かったようだ。
15.4-28「カズ式リヤカー」(名古屋オート三輪界の始祖)
中京地区では、5馬力時代以降に入ると、前輪駆動のミズノや、水冷エンジンのヂャイアントなど、個性溢れる有力なオート三輪メーカーが育ち、地元の市場を中心に大きなシェアを占めた。しかし3馬力時代の1925年に、ビリヤスエンジン付きのリヤカー型の三輪車で、未開の道を切り開いたのは、カズ商店(名古屋市東区)の藤田和善が製作した、カズ式リヤカーだった。(④-15、P171)以下に、内務省に申請した際の詳細は書かれているので、興味のある方は(特に名古屋など中京地区にお住いの方は!)是非そちらを参照されたい。ここで特記しておきたいのは、愛知県が、地元の産業振興のため、横山の時と違い不備の目立ったカズ商店の内務省申請手続きの際にも非常に協力的であった点だ。(たとえば、カズ式三輪車はスミスモーター付き三輪車と比較して、リヤカーとフロントカーの違いであり、カズ式リヤカーの方が、むしろ前方が良く見えて安全だろう等、カズ式を援護する照会を内務省に送り続けた(④-15、P172))
これに対して内務省の担当者、警保局技手の小野寺も、愛知県の求めに応じて丁寧な説明と助言を行なっていく。そして幾度かのやりとりのうち、内務省はついに、カズ式リヤカーの車幅を3尺以内に納めるならば、特殊自動車として認めて良いという、条件付きの認可を行うのであった。この認可は、コンビンリヤカーより結果として早かった。以下、(④-15、P173)から引用する。
15.4-29車幅三尺(0.9m)以内の根拠
『興味深いのは、特殊自動車の車幅に関する件だった。道幅の狭い一間{いっけん}道路(幅員1,8m)で二台がすれ違うためにも、また通行人の安全を守る上からも、特殊自動車の車幅は三尺(0.9m)以内が適当なり、と提言している。この時代の都市部には、幅員わずか一間の狭隘な道が、まだまだ多くはりめぐらされていた。~ (ここに)特殊自動車の使用目的があるともしていた。つまり取締令上は安全第一とするものの、便益性の高いものは認めなければならない、というやや積極的な側面も見え始めるのである。これというのも3馬力時代のリヤカーが、急速に流行する兆しを見せていたからに他ならない。』カズ式リヤカーを巡っての愛知県の好意的な支援や、それを受けての内務省の丁寧な対応にみられるように、行政側もオート三輪界の動向に、前向きに取り組む姿勢に、徐々に変わりつつあったのだ。
((④-11、P169)では『特殊自動車の3馬力半時代が到来した最大の要因、立役者となったのが、ビリヤスエンジンの輸入』としている。日本での写真が探せなかったので、下の写真は下記のサイトより1926年製の「Allegro」というバイクに積まれた「Villiers社製の3 ½ HP 342 cc two stroke single」コピーさせて頂いた。
https://www.yesterdays.nl/product/allegro-1926-3%C2%BDhp-342cc-1-cyl-ts/ 
なおVilliers=ビリヤス=ヴィリアースと表記されることもある。2ストロークエンジンの権威でもあった富塚先生が(⑥、P43)で、この時代の“ヴィリアース”エンジンについて解説しているので参考までに。)
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https://www.yesterdays.nl/site/wp-content/uploads/2017/04/Allegro-1926-350-jt-4.jpg
15.4-30JAPエンジンが主流に
 さて今まで、特殊自動車3馬力時代の嚆矢となった、ビリヤスエンジン搭載のリヤカー型オート三輪について記してきたが、このビリヤス系の全盛時代は、どうやら短かったようだ。『昭和3年(1928年)からは、いよいよ4衝程のJAP(英)エンジンの輸入が本格的に始まり、2衝程のビリヤスのリヤカーは急速に退いていく。』(④-15、P171)
20年代後半の3馬力時代にもっとも人気があったのは、同じイギリスのエンジン専業メーカーであるJAP社製エンジンだった。二輪車の世界ではビリヤスのようにエンジン単体を開発・生産するエンジンサプライヤーがいくつか存在したが、JAPもその一例で、世界的に定評のあったメーカーだ。ちなみにJAPの当時の読み方だが、後の日本内燃機の国産JACエンジンが『「ジャック」ではなく「ゼー・エー・シー」と呼んだ』(④-9、P71)そうなので、推測だが「ゼー・エー・ピー」だったのだと思う。
輸入元は東西モーター株式会社で、社長の小野梧弌(後の日産自動車販売社長)は商売上手だった。『気が回ることにバーマン(英)のギヤボックス、クラッチや、ML(英)のマグネトーも同時に輸入していた。このJAP+バーマンのセットを使えば、難なく三輪自動車が作れたわけだから、この時期、製造業者が急増したのもうなずける。価格も低下し、市街地の商店や卸商などの小口運搬車として大いに活躍し始め、無免許で乗れる三輪自動車は、いわばヒット商品となっていった。』(④-13、P177)
15.4-31市場の拡大と、JAPエンジン車同士の販売競争も激化
 1929年の東西モータースの広告には、JAPエンジンを使っていた三輪車メーカーとして、『次の13車の商標名が並んでいる。ヤマータ、ウェルビー、レッドウィング、ニューエラ、ミカド、MSA、KRS、カズヨシ、イワサキ、東野、コンビン、クリスタルパラマウント、アラビア』(④-13、P176)。参入障壁も低かった結果、企業数も、1927年8社、28年16社、29年には35社と急増した。(①、P141他)
参入業者が激増したという事は、それだけ市場が急拡大していたという事を意味するが、その結果、同じJAP社製エンジンを使ったオート三輪同士で、市場を喰い合う厳しい状況に陥っていく。当時の状況を、以下(①、P142)より引用
『(オート三輪車のメーカーは)小規模企業による少量生産であったため、販売地域も当初は生産周辺地域に限られていた。大阪の中島三輪車部は東京での販売を早輪社という会社に委託していた。他の地域に支店・出張所を設けることになるのは1929年からであり、三輪車の先進地域である関西から関東への進出が多かった。その結果、29年には東京においてJAPエンジンを取り付けた三輪車が5社で競争する様相となり、販売競争も激しくなった。』
15.4-32ビリヤスエンジン時代のKRS号は、横山コンビンリヤカーのライセンス生産品だった?
自転車業界独特の体質が色濃く残ったこの業界は、それ以前は、特に関西と東京のように、販売地域(地盤)が違う場合には、部品を融通しあったケースもあったようだ。たとえば東京の雄、山成商会のKRS号のビリヤスエンジン時代の外観は、横山商会(神戸)の、横山式コンビンリヤカーに酷似していたという。『まったく同一のOEM製品、あるいはライセンス生産といってもよい。内務省への申請は神戸の横山利蔵のほうが一足早かったことから、おそらく山成は、神戸の横山商会からフォークなどの部品をある程度まとめて購入し、東京で組み立てて販売した』のではと、(④-15、P169)では推測している。しかしJAP時代に入り、販売が激化してくると、事情が変わっていっただろう。
JAPエンジン時代に移行すると、ヤマータやKRS、コンビンなどが主導した時代から、大阪のウェルビー、イワサキや、神戸の東野喜一率いる兵庫モータースなど、あらたな有力業者が台頭してくる。ただこの調子だと、いつまでたっても終わらなくなってしまうので!JAPエンジン搭載車をあと2台だけ紹介して、特殊自動車3馬力時代の話を終えたい。
15.4-33「ウェルビー号」時代の到来
以下は主に(②、P175)からの引用になる。強力なJAP製エンジンを搭載したオート三輪の中でも、1925年頃(②、P175では“1925年頃”としているのでそれに倣うが、各文献でばらつきがある)川内松之助率いる大阪のウェルビー商会(ちなみに当初は赤旗商会と名乗った)が作ったウェルビー(welby)号は、外観だけでなく機構的に見ても『その後のオート三輪につながる本格的なもの』(②、P175)と高く評価されている。
まだデファレンシャル装置こそなかったが、エンジン始動はキック式となり、3段変速機付きで急坂も苦にせず登坂できるようになった(②、P175)。
『~こうして、大正末期の一時期、「ウェルビー時代」が現出し、三輪トラック界はウェルビー号の独壇場ともいうべき様相をていしていた』(㉑、P48)と他ならぬ、マツダ(東洋工業時代の50年史)の社史に明記されているぐらいなのだから、3馬力時代の末期の一時期、“ウェルビー号時代”ともいうべき時期があったことは、間違いないだろう。ちなみにダイハツの社史でも『そのころよく知られたこの種の三輪車としては、ウエルビー、ヤマータ、ニューエラ、HMC、MSAなどがあった』(㉙、P19)としており、やはりウェルビーを筆頭に掲げている。両社の市場参入前夜の頃だが、仮想ターゲットでもあったのだろう。(②、P176)によれば、3速変速機に加えて、『オートバイや自動車と同じようなヘッドライトとテールライトが装備されている点でも画期的だった』としており、他車と比べて全般に、商品力が高かったようだ。
15.4-34しかし、不明な点も残る
 ただ以上の評価は、あくまで想像だが、たぶん何かの有名な文献を基に書かれていると思われ?当然ながら大筋では正しいのだと思うが、上げ足を取るようだが、細かい点では疑問も残る。以下は誰もそのようには言っていないので、まったくの私見になるが、3馬力時代のウェルビー号については、まだ不明な点も残されていると思う。
たとえば(②、P175)をはじめ多くの資料では、3速変速機の採用を高く評価しているが、資料の記述のように、JAPエンジン付きのウェルビー号の登場が1925年頃だとすると、当時特殊自動車として容認される仕様は、2速変速機までのはずで、3速はそもそも違法ではなかっただろうか?
ここで仮に川内松之助とウェルビー号が、横山利蔵の横山式コンビンリヤカー/サイクルカーの時のように、内務省と真っ向から対峙し、議論を尽くした末に、法規の方が不合理であるのだからと、2速→3速の規制緩和を認めさせたのなら、歴史上大いに評価すべきだが、特殊自動車3馬力時代の変則段数の規定はその後も変更なく2速のままで変わらなかった。次の小型自動車500cc時代に変速機の段数制限は撤廃されるが、公式には?1930年2月4日まで待たねばならなかったはずだ。
さらに法規関連でいえば、(④-15、P175)で参考にした資料(昭和10年発行「日本自動車業界誌」の調査記録)によれば、ウェルビー貨物運搬車(ウェルビー号)が特殊自動車としての認証を得たのは、昭和2年(1927年)8月3日だったという。
今まで記したように、大正14~15年(1925~1926年)の時点で、3馬力仕様の特殊自動車として内務省から認定を受けた車両/メーカーとしてアイザワ号やカズ式、横山コンビンサイクルカー/リヤカーが既にあり、それらに続いて同年の大正15年(1926年)5月20日に東京、山成商会のKRS号が認定を受けているが、これは既述のようにコンビン号リヤカーとのOEM相当だったと思われ、認証作業は容易だっただろう。
一方ウェルビー号と同じ昭和2年(1927年)には、ニューエラやイワサキ、ヤマータなども認証を得ているが、(②、P175)で提示されたようなスペックの、3馬力半(347cc)のJAPエンジン搭載の3段変速付きのウェルビー号が、公式に認証を受ける前の“1925年頃”の段階で、活発な販売活動を開始できたのだろうか?まったくの想像だが、そのスペックを満たすウェルビー号が登場したのは、もう少し後年の、たとえば、正式な認証を得た頃(1927年8月)以降だったのではないだろうか。
また車両構造上でも、「その後のオート三輪につながる本格的なもの」(②、P175)と高く評価されているが、その言い回しにも若干の疑問が残る。
(④-11、P169)で、ビリヤス時代の15.4-26項で記した、大阪、阿波座の老舗の車両製造業者、関原製輪所の主人、関原利兵衛が、1925年8月22日に「リヤカー」と称する実用新案を出願していた事を記している。(④-11、P168)には出願時の図も示されており、詳しくはぜひそちらを参照いただきたいが、以下引用する。
『図では、明らかにビリヤスエンジンとわかるエンジンの後ろに、一次チェインを介して2段変速のギヤボックスとクラッチを置き、さらに中間とファイナルのチェインによって伝動し、左後輪を駆動した。この「片輪駆動式」が、ビリヤスエンジンを搭載したリヤカー、つまり3馬力半時代の、草創期国産小型三輪自動車の典型となる。スタンダード(標準型)と呼んでよい。』
後述するダイハツ、マツダ、くろがね(日本内燃機)が登場以前である1920年代の、関西商人たちが運営する業者が競っていた、3馬力時代のオート三輪車の時代は、そのルーツからかどうしても、人力車や自転車やリヤカーの世界と、被って見えてしまう。
この1925年前後に、関原をはじめ、何人かの業界の先駆者たち(その産業構造からすれば、黒子役だった車両/部品製造業者も重要な役割を果たしたはずだ)が、横の連携もとりつつ、特定の誰か(企業)というよりも、いわば共同作業のような形でリヤカー型オート三輪の原型を築き上げていったのではなかろうか。そしてその中の一部として、川内松之助とウェルビー号も確かに含まれていたように思えるのだが、いかがだろうか。(何度も記すがまったくの想像です。)
次に特殊自動車3馬力時代の最後の話題として、機構上(スペック上)からみると、オート三輪の歴史の中で、先駆者だったと思うこの車両を、ぜひ書き残しておきたい。
15.4-35シャフトドライブ+リアデフ駆動型オート三輪の先駆、横山商会の「ミカド」
 先述のように3馬力時代も終わりの頃になると、参入企業も一気に増えて、過当競争時代に突入していった。以下は(web❷、P39)より引用する。『オート三輪車の機能の進歩は企業間競争によってもたらされた。すなわち、ある企業のオート三輪車の機能向上は、すぐに他企業に移転され、企業間の開発競争がオート三輪車の品質向上に結びついていった。ウェルビー号に影響されて、神戸の兵庫モーターもJAPエンジンを搭載した本格的オート三輪車HMCを製作している。』
JAPエンジン同士の熾烈な争いの中で、この時期特に注目を集めたのは、15.5-10項で記す広島のSSDや、JACニューエラのような、自社製エンジンを搭載した純国産オート三輪車の登場だった(④-13、P177)。ダイハツやマツダが参入直前の時代だ。
しかしエンジンの内製化はハードルが高すぎて不可能だった、既存のオート三輪メーカーにとって、他車との明確な、機能の差別化を図るための次のターゲットは、駆動系の改革であった。
この時代のオート三輪は、デフ非装着の片輪駆動だったため、右・左折時にブレーキ現象が起きて運転し難く、また後輪駆動用のむき出しの長いチェーンは泥や雨に晒されて耐久性がなく、常にメンテナンスが必要だったという。自転車やオートバイが源流だったため仕方なかったのだが、それをシャフトドライブ+リアデフ駆動方式で、ふつうの四輪車並みに進化させようとしたのだ。
(④-13)の記事の中で、『急成長し始めた国産三輪自動車業界の全貌を、初めて総括的に調査した』という、雑誌モーター(極東書院)、1930年3月号の記事を取り上げている。5馬力時代が、同年の2月からだったので、まさに業界全体が高揚していた時期だっただろう。
その雑誌モーターの記事では、当時最新のオート三輪全17車のスペック表が、写真&解説文と共に掲げてある。3馬力時代の最末期であり、『横山商会のアイデアル号は、昭和5年2月4日の5馬力時代への規格拡大を逸早く見越した、490ccJAPエンジンを搭載していた。』ことも興味深いが、(④-13、P177)以下も引用
『後車軸にデファレンシャルを備えたものが多くはなく、製造者がこぞってデフを開発中の時期だった』、そんな中で、モーター商会の「MSA号」の最新型は早くもリアデフを装着している。シャフトドライブではなくチェーン駆動で、後のマツダのオート三輪第1号、DA型と同じようなメカ構成だ。ただしマツダのように、チェーンを全てケースで覆う工夫はなかったと思われるが。
 これに対して横山商会はさらにその上を行った。名前からしても、高級型と思われる「ミカド(号)」という車種で、シャフトドライブ+リアデフ駆動を一気に実現していたのだ!(ちなみに「リヤーカー差動装置」という実用新案出願図も④-13で示されている)
その機構の詳細は不明なのでまったくの推測だが、後に登場するダイハツのDA型と同様に、エンジンから変速機までの一次伝達は従来通りチェーン駆動で、変速機からホイールまでの二次伝達をシャフトドライブに変えて、さらにリアデフ機構を組み合わせたものと思われる。以下(②)から引用する。
『一次伝達の場合はエンジン回転が減速されるからトルクのかかり方は小さいが、二次伝達の方は大きなトルクがかかる。まして、オートバイと違って何百キロもある荷物を積んで走るから、オートバイ用のチェーンではすぐに緩んだり、切れてしまうという問題を抱えていた。一次伝達用のチェーンの3分の1ほどの耐久性しかなかったという。~ チェーンが伸びた場合は、変速機とホイールの位置を変更したり、チェーンの交換作業をしなくてはならない煩わしさがあった。
 このため、差動装置をつけてドライブシャフトで後ろの2輪を駆動するものが登場すると、チェーンのメンテナンスから解放されることになった。~それに、コーナーでの曲がりにくさも解消されたのだ』
(②、P180)。この説明の記述は、実は次の500cc時代に早くからこの機構を採用し、戦前のオート三輪車の代表車種として現在でも高く評価されているダイハツHD型に対してのものだったが!この記事ではオート三輪の基礎を固めた特殊自動車3馬力時代の、その最大の開拓者、横山利蔵率いる横山商会渾身の一作、「ミカド」に対して、この文言をささげたい。
この「ミカド」が果たしてどの程度の完成度を以てリリースされていたのか、それはわからない。あるいは後のダイハツのHD型とは比較にはならない出来栄えだったのかもしれない。しかしこの「ミカド」は確かに、小型オート三輪史上で初めて、シャフトドライブ+リアデフ駆動を(少なくともスペック上は)実現してみせたのだ。
オート三輪の黎明期であった、特殊自動車3馬力時代において、たぶん生産台数が多かっただろう「ウェルビー号」をもって、その時代を代表させている歴史書が多いようだ。しかし岩立氏の「轍をたどる」(④)で記されているように、というか、ただ自分はその影響を強く受けただけですが!戦後史に与えた影響まで含めた、日本の自動車史全体を俯瞰した場合、横山商会の「コンビンリヤカー」、「コンビンサイクルカー」及びこの「ミカド」が、先駆者として果たした役割を、その誕生の背景も含めて、日本車史の中でもっとクローズアップすべきではないかと思う。(私見です。)

さてようやく、「特殊自動車3馬力時代」がこれで終わり、次に「小型自動車500cc時代」が始まる。そしてこの時代からは、ダイハツ、マツダ、くろがね(日本内燃機)の大手3社について記し、他のメーカーについてはほぼ、割愛したい。
特殊自動車規格の小型オート三輪の市場が、1920年代後半から急拡大したことはすでに記した。1930年頃にオート三輪が何台ぐらい保有されていたのか、当時の正確な台数は、不明のようだが、おおよその台数として、『実際、三輪車業者の間では、1930年頃の三輪車保有台数が、京阪神に4,000台、京浜に3,000台、その他1,000台の合計8,000台に達しているとみなされていた。この数字はやや誇張されている可能性があるとはいえ、すでに小型車の中で三輪車が中心的な地位を占めるようになったことを示している。』(①、P126)
さらに下のグラフをご覧いただきたい。「轍をたどるNo59「五馬力時代から750cc時代へ」(引用④-14)のP170に記載された数値+1933年以降は(①、P171)の数値を追加してグラフ化したものだ。ただこの数字には補足説明が必要なのだが(ある時期までは、二輪車やサイドカーの統計の数字にも、三輪車の数字が入っていたようだ?①、P127参照)、市場が急拡大していった様子だけはだいたいわかる。さらにダイハツやマツダが参入したのは1931~2年だったので、絶妙なタイミングだったこともわかる。
そして『三輪トラックが新しい時代を迎えるには、町工場規模でなく量産設備を整えて本格的に生産するメーカーの出現が必要だった』(②、P170)のも確かだ。文字通りゼロからのスタートで、今まで営々と市場を築き上げてきた、関西を中心とした中小のオート三輪業者からすれば、無念な話になるが、それも冷徹な事実なのだ。
そこで次の、小型自動車500cc時代を、戦前のオート三輪大手3社を中心に記していくが、その話をする前に、自転車系でなく、オートバイ(二輪自動自転車)系から派生した、オート三輪車についても触れておく。そのついでに?戦前の国内オートバイ産業についても、ごく簡単に紹介しておきたい。
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15.4-36JAPエンジンを巡っての余談を2つ(モーガン スリーホイーラーと公営ギャンブル)
(この記事を書いているへそ曲がりのおっさんカーマニアでなく、イマドキのおしゃれなカーマニアからすれば、三輪車と聞いて思い描くクルマは、地味な日本のオート三輪ではなく、たぶんモーガンあたりではないだろうか。そもそも「サンリンシャ」ではなく「スリーホイーラー」と呼ぶようだが、以下の写真と文章は、OCTANEのwebの記事「モーガン スリーホイラー マニアを熱狂させる現代版"車のシーラカンス"」(web44)よりコピーさせて頂いた。この記事によると、歴代の幾多のモーガンスリーホイーラーの中でも、JAPエンジン付きのものが最も人気が高い(=価値(金額)が高い)そうだ。
『~1931年スリーホイラー・スーパースポーツ・エアロと合流した。数あるスリーホイラーのラインナップの中で最も人気があるモデルで、1928年に発売した時には「正直にこう断言で36ます。世界最速のスリーホイラーであるだけでなく、値段が3倍のどんな車よりもパフォーマンスで上回っています」とパンフレットで謳っていた。~
エアロの力強さと美しさの象徴が、空冷のJAP製Vツインエンジンだ。"JAP"ことJ.A.プレストウィッチ・マニュファクチャリング・カンパニーは、1894年に弱冠20歳のジョン・アルフレッド・プレストウィッチがロンドンに創業した会社で、彼らが製作したエンジンは20世紀初頭の二輪車産業で大きな成功を収めた。モーガンもスリーホイラーの生産にあたっては、サイドバルブ式のJAP Vツインをパワーソースとして選択している。』

以下はweb“乗り物ライター矢吹明紀の好きなモノ”さんより引用(web45)
『J.A.P、それは別に日本人に対する蔑称では無い。ジョン・アルフレッド・プレストウィッチというとあるイギリス人エンジニアのイニシャルである。~
J.A.Pエンジンの顧客には初期のトライアンフ、同じくHRD、ブラフシューペリア、エキセルシャー、OECなどを数えることができた。いずれもフラッグシップやレーサーでの採用であり、後にモーターサイクルの名門とされるこれらのメーカーにおける重要な技術的バックボーンとなったのがJ.A.Pに他ならなかったのである。~
実はクラシカルなスポーツカーとして長い伝統を誇るモーガンもまたその初期においてJ.A.Pエンジンと共にその名声を得ていたという背景があった。~
モーガン3ウィラーは後に主としてコスト上の問題からそのエンジンをブラックバーンやアンザニ、そしてマチレス製へとスイッチすることとなったのだが、現時点において最も評価が高いのは言うまでもなくJ.A.P製を搭載した個体に他ならない。』

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(さらに同記事によれば、日本の公営ギャンブルのオートレースも、JAPエンジン製のレーサーから始まったのだという。『この名声は第二次世界大戦後の日本にも波及することとなり、公営ギャンブルとして開催されることとなったオートレースにおける最初の標準車はイギリスから輸入したJ.A.Pエンジン搭載のエキセルシャーだった。このレーサーをベースに極東やトーヨー、そしてメグロといった名作エンジンが誕生した他、シャシー自体は現在のものもエキセルシャーの時代からほとんど変わっていない。』後に記すように、ダイハツもマツダもくろがねも、オート三輪用エンジンは、このJAPエンジンをベースにしたエンジンからスタートした。一番の難関であった、エンジンの内製は、参考にした“先生”がよかったから、よいスタートが切れた面もあったと思う。それにしてもJAPエンジンは母国でも日本でも、三輪と縁があったようだ。なおJAP社はその後、ビリヤス(ヴィリアース)の吸収されたようだ。下はブログ“珈琲焙煎所 氷川下十番地 主の独り言”よりコピーさせて頂いた、JAPエンジンを載せたダートトラックバイク、エキセルシャー(と思われる)写真です。)
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15.5戦前日本のオートバイについて
今までこの記事では、オート三輪のルーツをたどっていくと、フロントカー型の三輪自転車にたどりつくと記してきた。従って業界としてみた場合、自転車製造業界(さらに遡れば人力車製造業界も)が、その生みの親ということになる。
一方、戦前の日本で走っていた自動自転車(オートバイ)のほとんどは、輸入品だった。アメリカの二大ブランドであったハーレー・ダビッドソン(以下ハーレーと略)とインディアンが双璧で、しかも1,000cc級という大型がざらだったという(⑥、P42)。
それら大型オートバイの後方に、着脱式のリヤカーを取り付けた、「リヤカー式大型自動自転車(オートバイ)」が大正中期の一時期に流行し、国産の小型オート三輪にも、一定の影響を与えた。
この項ではインディアンの輸入業者であった、二葉商会が輸入した「シグネットリヤーカー」と、それが与えた影響と、15.6項で記すニューエラ(くろがね)より前に、国産エンジンをひっさげて登場し、陸軍や商工省からもその性能を評価されたという、広島の宍戸製作所製SSD号の、そのオート三輪型について簡単に紹介する。
さらについでなので!それ以外の戦前の国産オートバイについても超簡単に紹介しておく。
15.5-1リヤカー式大型自動自転車、「シグネットリヤーカー」の登場((溜池の主、二葉屋が輸入)
当時インディアンの輸入業者として勢いがあった二葉屋が『まず大正5年(1916年)に、~米国製完成車「ミネアポリス号」フロントカー貨物(三輪)の輸入販売を行う。ミネアポリス号はのちに国産三輪貨物にヒントを与える重要なモデルとなる。』(④-7、P178)その写真は、(④-7、P179)を参照して下さい。典型的なフロントカー型オート三輪の姿で、欧米には既にあったスタイルだが、リヤカー式のシグネットより前に、黎明期の国産フロントカー式小型オート三輪に対して、若干の影響を与えたことになる。引用を続ける。
二葉屋は『続いて同じく米国製のシグネットリヤカー~の一手販売を手掛けた。シグネットはインディアン以外の米車、ハーレーなどにも取り付けられる、着脱自在のリヤカーであった。~前一輪、後三輪の変則的な四輪車となる。』これも写真は(④-7、P179)を参照してください。オートバイ(2輪)+リヤカー(2輪)で合計4輪だった。
大型オートバイと接続するので、法規上は特殊自動車の流れとは無縁の世界だったが、『狭隘な日本の道路向きであり、人力車やリンタクの意匠に近く、馴染みやすかった。エンジンがパワフルなため積載量が多く、簡単な四輪トラックの代用にも使うことができた。二葉屋は雑誌「モーター」の大正6年(1917年)12月号に販売予告を出した後、大正8年1月号から大正10年5月号まで、じつに長期にわたりシグネットの広告を出し続けた。予想以上の人気を博したからであり、逓信省など官公庁にも大量に納入されている。』(④-7、P179)
再三引用してきたが、フォードの『T型でも2896ccあり、日本の狭い道路では立ち往生する場面が度々起きた。~輸入貨物車と日本の市街地や住宅地の道幅との不釣り合い』があり(④-6、P172)、小回りが効き、特殊自動車よりも積載量がある貨物車の潜在的な需要があったのだ。ちなみにシグネットはハーレーにも取り付け可能だった。
この盛況ぶりに、シグネットに似ているが、三輪に改造されている「ホワイトスター号」(同じく写真は④-7、P179を参照してください)が同じ大正8年(1919年)に早くも販売される等、多くの追従者が生まれる。
中でも二葉屋の強力なライバルで、ハーレーの輸入元であった日本自動車は当然、黙ってはいられなかった。さっそくシグネットによく似た、「ニッポンリヤカー」を自社開発し、大正10年(1921年)から市場に投入する。以下、(④-11、P163)から引用する。
15.5-2日本自動車も自製の「ニッポンリヤカー号」で対抗
『ニッポンリヤカーは、~本車となるオートバイのリヤフレーム部のみの、合計4カ所の連結で済ませており、小回りの際に邪魔となるサイドフレームを廃し、脱着を容易としたもので、これは同社自動自転車部の桜井盛親(もりちか)が設計した。~桜井のキャリアは日本自動車に入社し、日本リヤカーを製作することから始まったものだ。』桜井はその後、ハーレーの代理店が三共系へ移行するとそれと同道し、後述するが後に陸王九七式側車を生むことになる。ローコストで実用性の高い商品設計が得意だったようだ。ちなみに二葉側の訴えで両社(両車)は訴訟問題に発展するが、日本自動車側がこれを退けている。
しかしニッポンリヤカーの写真は(④-11、P163)にあるが、『これらを見ても、二葉屋のシグネットリヤーカーが与えた影響がいかに大きかったか分かるだろう。』(④-7、P179)
このオートバイ後方改造型四輪車は、やがてホワイトスター号のような三輪型へと移行していき、『オートバイのフレームが、サスペンション付きのシャシ-(車台)へと発展していく』(④-11、P167)。
しかし『大型リヤカーはその流行が静まり、消滅していくのも早かった。高価だったこと、この時点の自動車取締令(明治40年以降、大正8年前)では普通自動車の運転免許が必要となったからである。』(④-7、P179)
リヤカー式三輪型となってからも、少量ながら生産が続いていくが、特殊自動車系の軽量車と違い重量級だったため、チェーンによる片輪駆動では脆弱で、『駆動系も強化され、Wチェーンとなり、デファレンシャルギヤが装備され、やがてシャフト駆動へと進んでいく。~のちの国産オート三輪の骨格の一部が築かれていたのである。
冒頭に述べたように、国産三輪自動車のルーツの主流はリヤカー式自転車にあったわけだが、これら大型のリヤカー式自動自転車群が残した影響も決して少なくなかった。リヤカー式自動自転車の血脈を正系とすれば、第二の潮流だった大型リヤカー群は傍流であった。』
(④-11、P167)さらに言えば、やはりハーレーがベースだったゴルハム号三輪車にも若干の影響は与えたのだろう。
ここまでで大型リヤカーについての話題を終える。次に戦前の日本市場におけるオートバイの2強であったハーレーとインディアンの、通常のオートバイ(自動自転車)分野の話題を簡単に記した後、国産のオートバイについて、オート三輪を手掛けたSSD号については多少詳しく、それ以外の国産オートバイについては超簡単に記す。
15.5-3ハーレー(後に陸王)とインディアンが強かった
最初にハーレーとインディアンの、当時の輸入業者について触れておく。
まずインディアンの輸入を手掛けていたのが二葉屋で、(㊱-1、P76)の記述によれば、『明治より赤坂区溜池5番地にて「溜池の主』と呼ばれた大輸入商で』『のちに赤坂溜池界隈に自動車業者の多くが集結する端緒も、じつはこの二葉屋が開いたものだ。』(④-7、P178)ちなみに日本自動車も溜池だった。当時二葉屋は大いに繁盛していたようだ。もともと日本市場ではインディアンの方が優勢で、昭和に入るとその勢いは急速に衰えるが、当時はハーレー&日本自動車陣営にとって、相当手強い相手だったようだ。
一方、先の11.2項で記したようにハーレーは当初、四輪車のディーラーの最大手だった日本自動車が扱っていたが、その後三共(薬の)が代理店の権利を奪い、やがて陸軍の勧めもあり、国内生産に乗り出し、1936年からは「陸王」と名乗ったのは前回の記事で記した通りだ。おさらいになるが、日本自動車から三共に代理店が移った経緯が(web❹-1)のM-BASEに詳しかったので、以下転記させていただく。
『ハーレーは1912年から大倉財閥系の日本自動車で国内販売され、ゴルハムなどのクシカーに転用された。しかし補修部品の注文がないことや三共系の興東貿易によって並行輸入されていたことにいぶかしがった米本社が調査、東洋代理人のアルフレッド・チャイルドが1924年に来日、三共と組んで「日本ハーレー販売所」を設立した。』
なんとなく、日本自動車が不熱心だった印象を受けるが、しかし日本自動車も営業努力を重ねていた。特に、アメリカ製大型オートバイの支援者で、かつ安定した需要が見込めた陸軍への売り込みでは、両社は激しい火花を散らした。『そのころハーレーはインディアンとの市場争いを展開しつつあり、日本陸軍にも両社の激しい売り込みがあったといわれている。』(⑫、P232)
そして日本市場におけるハーレーの販売台数は、日本自動車が扱った時代にすでに、インディアンを超えつつあったようだ。以下(④-11、P164)より引用
『日本におけるハーレー車の販売、ことに官公庁、陸海軍への納入実績については、三共よりも以前に、日本自動車株式会社の自動自転車部が築いていたものだ。』その牙城は徐々に崩されつつあった。
『大正末期のハーレー車の需要は概ね次のような数字だった。毎年の交代代品として陸軍へ100台、海軍90台、逓信省が全国で200台、そして東京市が40台、と年一千台を目指す趨勢であった。かつて年一千台に届いたといわれた二葉屋のインディアンを駆逐する勢力だったのである。』(④-11、P167)さすがに大倉財閥で、官に対して力があったのだろう。
 しかしその一方で、日本自動車内では、四輪に比べてオートバイ(自動自転車)販売にあたっては逡巡する気持ちもあったようだ。『ハーレーの車名がようやく知れ渡り、軍や官公庁への納入が拡がった矢先にもかかわらず、多くの種類の四輪自動車を主力とする日本自動車としては、これ以上の自動自転車部の拡大は望まなかった。』(④-11、P167)日本自動車側にも、その対応に隙があったようだ。だが世界市場で競い合うハーレー側としても日本市場で、インディアンに負けるわけにはいかなかったのだ。以下は(㉒、P32)より引用
『日本ハーレー販売所設立を契機に、日本陸軍はハーレーの国産化を打診、幸いにもハーレーは1936年モデルからエンジンやフレームを一新、有名なナックルヘッドOHVモデルを計画していたため、34年型の設備がそのまま…さっそくミルウォーキーから1200ccV系の設備が船積みされ、1936年には完全なる生産体制が整う。~1200ccは1934年V型、750cc系は35年のR型を国産化、ソロを主体とし、また三輪トラックも手がけられる。』
15.5-4陸王九七式側車=世界初の二輪駆動側車
(陸王の情報をwebで検索していくと、ミリタリーマニアの方々の奥深い情報に行き着く。下の写真はそのマニアたちが誇る、陸軍の「九七式側車付自動二輪車」の雄姿だが、ブログの記事「燃焼室形状とバルブレイアウトの話」よりコピーさせて頂いた。
http://www.italian.sakura.ne.jp/sons_of_biscuits/?p=1835
陸王が作ったこのサイドカーがいかなるものだったのか、以下wikiより『機能面での最大の特徴は、不整地走行性能を向上させるために、本車(オートバイ本体)だけでなく側車の車輪も駆動する二輪駆動式サイドカーとした点である。側車の車輪を駆動させる際には、操縦席左後方のクラッチレバーを左手操作した。側車側の後方フレームに沿って側車輪駆動用の横方向シャフトが装備され、この時代の軽便車両に見られたキャンバス製ジョイントを介して側車輪を駆動した。側車を外した単車でも使用でき、状況に応じて柔軟な運用がされていた』
なんと側車側も駆動が可能だったのだ。しかもこの装置の追加で、わずか6kgほど重くなったに過ぎなかったという(⑫、P240)。実に効率的だ。そして肝心の性能だが『不整地の通過テストでは、凹凸のはげしいところなどで普通の側車では通過が困難と思えるような地帯でも、かなりな速度で走行することが可能であった』(⑫、P240)のだという。
開発を手掛けたのは先にふれたように『日本自動車に所属してハーレー派生型のオート三輪製作にも携わり、ハーレーの輸入代理店が三共に移った際に三共内燃機に移籍した技術者、桜井盛親である。』(wiki)費用対効果の高い機構だったように思える。
そして、戦争映画で有名な、ドイツ軍の誇る二輪駆動機構付き側車、BMW R75 やその兄弟車のツュンダップKS750よりも少し早い採用だったので、世界初の二輪駆動側車という栄誉に即する。ただ個人的な印象では、例によって機構的に凝りに凝ったドイツ製(シャフトドライブ・差動装置付で場合によってはデフ・ロックも可能、4速T/Mは補助変速機付きで高速・低速の切替えの他、2段のリバースギアも装備していたという)に、性能的には到底かなわなかったと思えるのだが。(㊱-2、P48)でも『~残念ながらその技術の格差は著しい。つまりは日本軍の97式の側輪駆動は、急傾斜や泥濘地などでのエマージェンシー的な用途だったと考えた方が無難なのである。』と指摘している。
さらに(㊱-2)では『当時の満州ではただでさえチェインが切れて(伸びてではなく)困ると叫ばれた中』、陸王の競合先の日本内燃機では、シャフトドライブ車(1931年の91式)も納入していたという。しかし『当時の陸軍は大正期より軍用に使用されていた米車インディアンやハーレーに固執し、Vツイン、チェインドライブとするよう強く指導したため、日本内燃機も93式以降はそれに従った』(㊱-2、P50)のだそうだ。いろいろと“ケチ”もつけてしまったが、しかし“世界初!”に違いはない。)
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http://www.italian.sakura.ne.jp/bad_toys/engine/boxer/m72_002.jpg
(下の写真はBMWでなくツュンダップ(昔はツェンダップと表記していたと思っていたが記憶違いか?)KS750の雄姿で、ブログ“タイムトンネル”の記事「ショールームの一角が、WWⅡの戦線エリアと化した!!”」(web29)よりコピーさせて頂いた。元ネタはバイク雑誌の『ミスターバイクBG/2016/8月号に掲載された記事を、HP用にレイアウト変更/構成しています。』というもので、“ツュンダップ軍用サイドカーが、東部戦線ならぬ、環状8号線を疾駆する!!”図だ。
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http://timt.co.jp/time03/images/zundapp_01.jpg
以下もマニアックな同記事より引用させていただく。『ドイツ国防軍からのオーダーにより大戦中にツュンダップが作った軍用サイドカー、KS750。1943年にニュルンベルグの工場で作られたことを示すプレート付き。写真やプラモデルの箱絵でしか見たことがなかったものに、乗れたのである。
実物はものすごかった。何がすごいかっていうと、フルレストアされてサビのない美しい仕上げと、船に装着されていた本物のMG34機関銃(公安委員会の所得許可を得た無可動実銃)もすごいけれど、それより何より、作りがすごいんだ、これが。鋳物や溶接、各素材の仕上げの美しさ。ちょっとやそっとじゃ壊れにくそうに思える質実剛健な作り。機能性を考え抜いたような合理的なレイアウト。戦後ホンダが手本にしたフレーム。この時代のドイツ工業製品の実力に圧倒されて大興奮。(中略)
そして実際に乗ってみても『~あれ?拍子抜けするくらいクセのようなものがない…。クルマと一緒でハンドルを切ってコーナーリングフォースを高めて曲がる。速度を上げても不安になるような挙動は発生せず、なかなか安定している。凸凹を踏むと小さく左右に揺すられるけれど、なんとかなる。乗っても素晴らしいぞ。
シャフトで駆動するリアホイールアクスルにはデフが装着されていて、ドライブシャフトが垂直方向にも伸び、なんと船側のタイヤも駆動している。普通のサイドカーとは全く異なる2輪駆動の恩恵に感謝あるのみだ。楽しく、めったにできない体験をした。』
やはり機械的には優れモノだったようだ。)
15.5-5BMW R75も中途半端だった?(余談)
(さらにさらに脱線する。先に、陸王やくろがねについて調べていくと、コアなマニアが多いミリタリー車の世界にたどりつくと記したが、その世界はあまりにも奥が深く、我々ド素人が軽々に口出しできない世界だ。素晴らしい軍用側車付バイクに思えるBMW R75(とツュンダップKS750)だが、(web23)の見立てによれば、中途半端な性格のものだったという。以下引用させていただく。
『~R75 や KS750 は側車付自動二輪車の格好をしているにも拘らず、二輪駆動走行時における両車の本質は左右非対称なオート三輪に過ぎなかったから、これで小回りを除く運動性が非常に高かったというような理屈には到底なり得ない。その上、両車は共に自重 400kgという巨体であり、なおかつ統制型側車は機械化部隊(モーターサイクル狙撃部隊)即製のため機関銃の艤装に配慮した設計となっていた。フル装備状態で 2 ないし 3 名が乗車すれば駆動輪の輪重は小型四輪車のそれをも凌ぐレベルとなった。しかも、前輪は一つしかなく、そこに駆動力は伝達されていない。ハンドルは減速機構など無しのバーハンドルである。従って、硬い路面上ならまだしも、泥濘地走破、とりわけ旋回性能に関して両車の実力はそれ程ではなかったとしか考えられない。果せるかな、ドイツ陸軍では後年、この中途半端さを脱却し、重任務には四輪車を、軽快任務には軽量かつ廉価な単気筒バイクを充当する方針への転換を余儀無くされている。厳しい評価だ。前者の任に当ったのがかのKübelwagenである。キューベル・ワーゲンはKdF-Wagen、即ち後年のVWビートル開発の軍需転用車である。』(web23、P108)……。
ついでに前回のこのブログの記事でヨイショしたジープについても、(web23)によれば、『~しかし、Jeep を以って「アメリカを勝利に導いた車」と見做すことが“贔屓の引き倒し”であることはJeepなどより格段に車容の大きなGMC 21/2tトラックの方が先に見た通り遥かに大きな生産規模に達していたという現実だけからしても明らかである。Jeep はアメリカ陸軍の「巨大な機動力の末端の一部を担ったに過ぎない」(石川雄一氏=「4×4 マガジン」の創刊に係わり、同誌や「クロスカントリービークル」誌の編集責任者を長年務めたジャーナリスト)』(web23、P111)。こちらもかなり手厳しい。下の写真はそのGMC CCKW 353(2.5トントラック)で以下の文とともに、wikiよりコピーした。『GMCでは、第二次世界大戦の直前から大戦末にかけ、水陸両用型のDUKWを含むGMC CCKWシリーズ2.5トントラックを計562,750両生産した。第二次世界大戦時にアメリカで生産された軍用車両の生産数としては、ジープとして知られるウィリスMBの約36万台、フォードGPWの約27万台を合わせた数に次ぐ、膨大な生産数となった。』同車が日本で相当するものは、トヨタやニッサンの軍用トラックというよりも、より本格的な九四式六輪自動貨車ではないかと思うが、その生産台数については、ここでは触れないでおく。)
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15.5-6陸王の、さらに奥深い世界(余談)
(以下はさらにさらに余談だが、ハーレーの話題に戻して、ブログ「バイク豆知識」の記事「国産ハーレー『陸王』とは」https://bike-lineage.org/etc/bike-trivia/rikuo.html から、その、奥深い世界について、引用させていただく
『恐らく陸王を実際に見たことがある人はほぼ居ないと思います。これは部品が既に無いことから置物化しているという事が第一にありますがそれ以外にも幾つか理由があります。』そしてその理由の一つに『陸王は歴史からも分かる通り大日本帝国陸軍のバイクというイメージが強いため極一部の少し怖い人達に絶大な人気があり、元々の所有者が亡くなると同時に何処からか嗅ぎつけて因縁を付けられ半ば強引に持っていかれて闇に消えるという事が結構あったんだとか。』だそうです。『レア車あるあるですね。』確かに…。また別の情報によれば、陸王のサイドカーは戦後、警察車両として乗りつぶされてしまったという。なお(⑥、P62)によれば、そもそも三共の中でオートバイ事業の位置づけは、三共の創立者、塩原又策氏の女婿で、三共内燃機の専務だった永井信二郎氏を盛り立てるためのものだという側面もあったようだ。そして“陸王”という名前の由来だが、公募であったが、慶応ボーイのスポーツマンだった永井氏にちなみ、有名な応援歌の文句から選んだようだ。(⑥及びwiki)以下の画像も「バイク豆知識」の「国産ハーレー『陸王』」よりコピーさせていただいた。
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https://bike-lineage.org/etc/bike-trivia/img/new_name_rikuo.jpg
15.5-7大型をゆっくり回し、悠揚たる爆音で走るのが当時の伊達者
(下はそのハーレー/陸王のライバルであった、インディアンの1949年製スカウトの画像で、以下のブログよりコピーさせて頂いた。時代を感じさせないカッコよさだ。⑥で富塚氏の戦前のオートバイについての述懐を『当時を振り返ってみると、小型、高速、大出力という要求はほとんどなく、大型をゆっくり回し、悠揚たる爆音で走ることが、軍はもとより伊達者もねらうところだったのである。』(⑥、P56)https://www.motoinfo.it/schede-tecniche-moto/schede.php?recordid=359
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https://www.motoinfo.it/images/schede-tecniche/2007/INDIAN-SCOUT-1949-l.jpg
戦後も力士時代の力道山は真っ赤なインディアンを愛用し、本場所会場まで乗り付け、話題をまいたそうだ。)

戦前の国産オートバイについて
 ここからハーレーダビッドソンを国産化した陸王以外の、戦前の国産オートバイについても、ごく簡単にふれておく。その中で、宍戸製作所のSSD号だけは、オート三輪を多く生産した実績があるので、やや詳しく記す。主に参考にしたのは(⑥、P54~)とSSD号に関してはついては(④-18)です。
過去に何度も記したことと関連するが、1931年の満州事変以降、軍部の大陸進出が始まり、『自然、重要機材国産化のかけ声が日本でも高まってきた。オートバイは軍用としても重要であるので、そのかけ声にのって、試作に乗り出すものが現れた。』(⑥、P54)その他、国際収支の悪化による国産品愛用運動、金輸出禁止による円安と小型自動車部品の輸入関税の引き上げ等もその背景にあるのは、四輪車と同じ事情だ。以下、陸王以外の主な国産オートバイについて、定番本の⑥を参考に簡単に記す。
15.5-8日本モータースの「エーロ・ファースト号」(4サイクル単気筒、633ccc)
島津楢蔵は『大阪随一の貴金属製作所「丹金」の長男として恵まれた環境に育ち、好きなガソリンエンジンの研究に半生を捧げた在野の研究家』(④-9、P167)であった。日本最初の純国産オートバイを作ったことでも知られる((詳しくは⑥、P50、日本自動車殿堂等参照して下さい)。
さらにオート三輪の分野でも、(推定らしいが)大正10年(1921年)、エンジンまで自製した大阪発の純国産フロントカー型三輪車、「パイオニーア号」(石原モーター工業所製)の設計製作にも関わったという。『このパイオニーア号の構造は、島津楢蔵が大正2年(1913年)5月に完成させ、製作販売に辿り着いた純国産オートバイ「NMC号」を発展させたものだ。島津は国産オートバイ界の苦難の開拓者であり、この後も純国産のオートバイ、エーロファースト号(大正15年)の開発に傾注していく』(④-8、P1750)。同記事によればパイロット万年筆製造所や、鰻問屋の出雲屋(上方落語に出る)等へ納入したという文献があるようなので、ある程度製造販売されたことは確かだろう。
 一方次に係わった二輪の、エーロファースト号の方だが、建設業の大林組の資本を得て日本モータースを立ち上げて、1927年から3年間で約500台(日本殿堂によれば)生産するが、29年に解散した。その名前の由来だが「航空エンジン競作での1等賞の記念」だったというが、富塚清氏によれば、当時としても「エロ」と解され、冷やかされたりしたという(⑥、P54))。
(やはり国産オートバイ、第1号は紹介すべきだと思うので、「島津モーターNS 号(1909 年)」の写真と文を、“webオートバイ”(web24-1)から引用させて頂いく。『NS号のほとんどの部品は日本製の材料を使って、島津楢蔵によって製作された。これ以前の国産車は輸入部品を組み立てたものばかりで、純粋な国産車第1号はNS号ということになる。エンジンは4スト単気筒400cc。』後述するが島津はその後、マツダと縁が出来て、関係を結ぶことになる。)
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https://www.autoby.jp/_ct/17303386
15.5-9宮田製作所の「アサヒ号AA型」;(2サイクル単気筒、175cc)
1933年に試作車が完成、1935年から量産販売。宮田製作所については、この以前のこの記事の「5.3-2純国産ガソリン自動車第2号、“旭号”の誕生(1909年8月)」で触れているのでそちらも参照して下さい。英国のコベントリー・イーグルを参考に、同じく英国のビリヤス(⑥の表記ではビリヤ-ス)社の2ストローク単気筒175ccを模したエンジンを搭載する純国産オートバイだそうだ。(⑥、P56)によれば、当時2サイクルはミヤタだけで、4サイクルのSVが主流だったとのことだ。
このAA型は『1935年(昭和10年)4月から量産体制に入り、37~39年には月産150台を維持するという、当時としては大ヒットだった。』(web⓭-1)しかし『昭和初期に日本では最初の量産車として作られ、鋼板プレス製のフレームを使い、量産効果を高め、総数約4万台を販売した普及型として有名であるが、平凡ゆえに実車が保存されている例は極めて少なく、公共の博物館などでは見ることができない』(web❼-4)のだという。(以下の写真はブログ“レッドロカット” さんよりコピーさせて頂いた、
http://leadloquat.blogspot.com/2012/10/aa.html、アサヒ号AA型(1936年))
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http://4.bp.blogspot.com/-N6a7hTd6qQU/UIIAP19f1xI/AAAAAAAAEnQ/8BqR3U0uWR8/s320/D_1936_AA.jpg
15.5-10宍戸オートバイ製作所の「SSD号」(4サイクル単気筒、350cc,500cc)
広島の宍戸兄弟による宍戸オートバイ製作所のSSD号の自製のエンジンは、輸入車に劣らぬものだったといわれ(①、P137)、陸軍からも期待されたほどの性能を誇ったが、結局挫折した。大正14年(1925年)から昭和9年(1934年)まで約10年間に、約470台生産し、そのうち運搬用リヤカーは250台、同じく運搬用のフロントカーが10台であったという。(④-18、P174)以下、(④-18)をガイドに超簡単にその歴史を記すが、詳しくはぜひ、(「広島に現れた国産の先駆SSD」;④-18)をご覧ください。のっけからその(④-18、P166)より引用させていただく。
15.5-11技術的な基盤は呉海軍工廠で学んだ鍛造技術
『SSD号の製造者は、宍戸健一(1892~1972、長男)と宍戸義太郎(1895~1974)の2名の兄弟が中心となり、大正13年(1924年)に広島市南竹屋町におこった「宍戸オートバイ製作所」という、いわば個人経営の町工場であった。』宍戸兄弟に技術的な基盤は、呉海軍工廠だった。『呉海軍工廠は横須賀に次ぐ旧日本海軍三大工廠の一つであり、工員数では横須賀をも凌ぎ、東洋一の艦艇建造能力(後に戦艦大和など)を有していた。呉海軍工廠系の重工業、機械工業はぐんと広島の、いや日本全体の技術力の中枢を担っていたといっても過言ではない。』(④-18、P166)
呉海軍工廠や陸軍の大阪砲兵工廠が、黎明期の日本の自動車産業の発展に果たした役割については、この記事の中でもマツダやダイハツ、久保田の実用自動車製造や、アイザワ号などで触れているが、戦前に小型車用エンジンの自製を試みた企業にとって、陸/海軍工廠からの技術伝播があり、また拠り所でもあったようだ。宍戸兄弟も呉海軍工廠で技術を学び、大正8年(1919年)に独立し、工場を構える。
『特に弟義太郎の鍛造技術は当時群を抜いており、それが同製作所をエンジン製造へと走らせる原動力となった。つまり宍戸兄弟の製作所とは、兄の機械設計、金属加工、切削技術と、弟の鍛造技術とを融合させた工場だったと考えればわかりやすいだろう。』(④-18、P167)この一連の、戦前日本の自動車史で何度も何度も触れてきたことだが、戦前の国産車作りで最大のネックは、エンジン製造における鍛造技術であった。『大正期の国産小型エンジン製造で最も困難だったのはサイドバルブのシリンダー鍛造であり、優秀な鍛造工を抱えた工場から順番に自作エンジンを完成させていった。翌大正15年に登場するSSD号フロントカー、リヤカー式三輪車の宍戸製作所(広島)宍戸義太郎も呉の海軍工廠で学んだ鋳物師であった。』(④-8、P177)以上はSSD号より一足先にオート三輪を完成させていた、大阪のアイザワ号(15.4-12項)に対しての説明だが、アイザワ号も、大阪砲兵工廠出身の優れた鍛造技術者、塩谷柔太郎を抱えていた。話を先に進める。
 宍戸製作所はまず、ゴムや靴産業向けの機械製作で成功し、『開業わずか3~4年目ですでに相当の蓄財を得ていた。そしてこの自前の優秀な技術力を駆使してさらに一歩進もうとしたのが、国産SSD号の開発だったのである。SSDのエンジン開発は、マツダ(東洋工業)より6年も先行していた。』(④-18、P167)兄弟が国産エンジン開発に参入したきっかけとなった、興味深いエピソードはここでは省略するが、(④-18、P168)をご覧ください。
 そのふとしたきっかけで、トライアンフのエンジンを模した自作エンジンの製作に成功した兄弟は『この時より小型ガソリンエンジンとオートバイの開発に目覚める。翌大正13年(1924年)には「宍戸オートバイ研究所」の看板を掲げ、本格的にSSD号の研究に没頭していく。開発の実験場となったのは工場の中でなく、当時広島地方で盛んにおこなわれていたオートバイ競走会だった。』(④-18、P169)広島の“熱い血”なのだろうか、ここから関西系の企業と、まったく違う行動に出る。以下、(web⓳)より引用
15.5-12実験の場はレース場、「SSDレーサー」の誕生
『1926年(大正15)6月に第一号車(注;SSDレーサー)が完成、宍戸(ししど)の名にちなんで「SSD号」と名づけられた。ししど→SISIDO→SSD …というわけ。~SSD号はその年の12月、広島の観音グラウンドで行われた全国オートバイ競走大会で、4級車(250cc級)で1着、2級車(500cc級)で2着という好成績を収めた。』
当時の広島は、オートバイ競走がたいへん盛んで、15.8-21項のマツダのところでも触れているが、なかでも『毎年秋に行われた中国地方最大のお祭り「招魂祭」のオートバイ競走がアトラクションの目玉となっていた。~近隣の学校はみな休校となり、なんと10万人以上が集まった記録まである』(④-18、P169)というから尋常な話ではない。欧米の最新型競争車が集結していた激しい戦いの中で、『最新の技術を学ぶ上でも格好の実験室であったろう。』文字通り、“走る実験室”だった。以下も(④-18、P169)から引用する。
15.5-13恐るべき技術水準に達していたSSDレーサー
こうして『実戦で鍛え抜かれたSSDレーサーは、~恐るべき技術水準に到達していた。じっさいに好成績を上げ、複数の優勝旗も得ていたわけだから、耐久性も性能も相応だったはずだ。』
(④-18、P165)に、SSDレーサーの写真があるので、その雄姿をぜひご覧ください。今までまったく、クローズアップされることはなかったが、ひょっとすると、このSSDレーサーは、ジャンルは違うがこの記事の(13.1項)で記したオートモ号とともに、純国産の自動車の中で、国際水準に比較的近いところまで到達した、最初期の例だった可能性もある(もっと調べないとわからないけれど)。ただしあくまで優れた職人のコピー技術としてで、オートモ/アレス号のような、学術的にも優れた、オリジナリティのある技術とは本質的に違っていたが。
さてこの『大正15年(1927年)10月に行われた招魂祭余興の競技会の最中、多くの輸入車を追い回すSSDレーサーの姿を真剣に見つめる一人の男がいた。たまたま審判席に座っていた元陸軍自動車学校の教官、土橋留秋であった。』(④-18、P170)SSD号の実力を、陸軍きっての自動車通だったという土橋が見抜き、以降SSDを、各方面に積極的に紹介して回った(④-18、P170)。以下も引用する。
15.5-14SSD三輪車の完成(1926年)
『土橋大尉の推薦を得て気をよくした宍戸製作所が大正15年に完成させたのが、フロントカーとリヤカーの計5台だった。』エンジン以外の車両部分は、先行するアイザワ号などから強く影響を受けたものだったようだ。『市場性からしても、この時期はオートバイよりも自動三輪貨物のリヤカーでなければ、まず売りさばくことができなかった。どんな実力があっても同じだった。~それでもエンジンまで自製するのは時期尚早であった。』昭和7年末に、輸入関税が大幅に引き上げられるまで、量産された輸入エンジンに到底、太刀打ちできなかった。まして『有力な資本を全く持たない、いわば孤立無援のSSDには厳しい状況が続いた』(④-18、P171)こうして次第に追い詰められていった。
15.5-15陸軍と商工省から支援を得るも、ついに力尽きる
『そんな中、宍戸製作所は陸軍自動車学校からSSD号側車2台の注文を受け、昭和2年(1927年)の11月にこれを完成させた。』(④-18、P172)。さらに陸軍省から商工省に宍戸オートバイ製作所に対する研究奨励の希望が出され、商工大臣より1万円が交付されたが、『これは宍戸製作所にとって開業以来最大の栄誉』(④-18、P172)になった。こうしてSSD号はその優秀さが認められ、いよいよ陸軍好みの大型用Vツインエンジンを完成させて、同エンジンを利用した、不整地走行用の路外用車の試作注文を陸軍自動車学校から受けるなど、軍部や官公庁からもぼちぼちと発注を受けるようになった。しかし『製造分野がインデアンやハーレーと直接に競合する530cc、1,200ccだったため、原価割れの販売を強いられて経営的には芳しくなかった』(①、P137)。強力な人脈と販売力を誇る両社に立ち向かうのは、小資本で販売力など無いに等しかった宍戸製作所には、無理な相談だった。
『これらVツイン車の開発は、宍戸製作所にとって売り上げの後押しとはならなかった。いや、むしろ経営的には火に油を注ぐ結果となった。陸軍や商工省から授かった光栄を意気に感じ、奮起すればするほど、かえって資金繰りが苦しくなっていく。』(④-18、P172)  
この一連の記事の、9.8項で記したが、宍戸製作所が孤軍奮闘していたのとほぼ時期の、軍用保護自動車3社も、この事業が国家を支える事業であるというプライドを胸に、必死に耐え忍んでいた。この一時期、陸軍が宍戸のオートバイに、期待をよせていたのは確かだが(たとえば㊲、P47などに証言も残っている)元々軍縮の時代で、オートバイはさらに、国が投じる予算も、市場規模も少ない分野だった。
『SSD号は昭和8年頃に経営難に陥り、東洋工業との提携話が持ち上がったが、それを断ったため』(④-2、P171)、『資金繰りに追われ、宍戸オートバイは1934年(昭和9年)廃業した』(web⓳)。結局果たせなかったのだが、東洋工業との提携の仲介役は、日本窒素の野口遵であった(④-18、P172)。そしてその後、『SSD工場にあった工作機械や職工の多くは同じ広島の東洋工業に移っていった』(④-19、P171)という。
(下の写真は、広島市交通科学館に展示されている、宍戸製作所製オート三輪のスケールモデル。(②、P182)では、『国産エンジンの搭載されたオート三輪車は、1926年(大正15年)に広島の宍戸オートバイ製作所によってつくられたのが最初であるといわれている。』としているが、仮にリヤカー式に限定しても、アイザワ号との関係が微妙だ。ただある程度の台数が作られたものから選べば、やはりこのクルマになるだろうし、その栄誉を受けるにふさわしい気もする。外観はどことなく、アイザワ号やコンビンリヤカーなど、同時代のオート三輪車に似ている。下記のツイッターからコピーさせていただいた。)
https://twitter.com/tai_kim/status/1330035692987150336 )
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https://pbs.twimg.com/media/EnU8aBFXEAAFxjm?format=jpg&name=large
以下は(⑥)からの引用でさらに他も簡単に記すと、
・東京モーター用品製造組合員のあいこく号;エンジンは後述する蒔田氏設計のもの
・みずほ自動車製作所(愛知県犬山)の「キャプトン号」;中川幸四郎商店が発売。
・栗林部品店(大阪)のリツリン号;栗林氏はプロレーサーとしても活躍した人だという。
15.5-16目黒製作所の「メグロ号」( 4サイクル単気筒、500cc)
1936年に制作、販売されたオートバイで、日本で最初に、OHV型エンジンを採用した。『スイスのモトサコシMAGを参考にした4サイクル500ccエンジンをイギリスのベロセット型シャシーに搭載した』(㉒、冒頭ページ)。戦後も生産されたのはご存じの通り。『陸王の生産工場があった品川区北品川は、環状6号線と目黒川沿いにあり、目黒製作所とは距離的に実に近く1kmほどしか離れていませんでした。東京の二輪車のメッカは、この城南地区(注;品川区、大田区、目黒区)だったのです。』(web⓭)より引用。(下の写真は、最初の市販車である“Z97型”で、非常にスポーティーかつスタイリッシュな印象を受ける。実際に高性能で、初期のオートレースでも活躍したという。そしてその高性能を警視庁も認め、1939年には少数(10台)ながら、白バイとして正式に採用されることとなったという。)
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https://mc-web.jp/wordpress/wp-content/uploads/2020/11/th_1937_Z97-1-660x400.jpg
 目黒製作所でもう一点、特記すべきは、部品(変速機)メーカーとしての側面だ。『同社は二輪の修理からはじまって、二輪車を試作した後、1927年から変速機の製造に取り組んだ。すでに20年代からモーター商会と二葉屋に納入していたものの、輸入品との競争のために原価割れの販売であった。
 ところが、500ccエンジン時代から変速機も前進3段、後進1段となったが、当時の輸入エンジンはもともとオートバイ用であったために後進ギヤがなかった。そのため、同社の製品が優位を占めることができた』
(①、P180)という。確かに資料を調べていくと、変速機とクラッチに、メグロ製の採用例は多い。さらに(⑥,P65)には『自動車の差動歯車装置(デファレンシャル・ギヤ)にも手をつけ、数社に納入した』とあり、問屋型のオート三輪メーカーからは重宝されただろう。
ちなみに(①、P180、181)によれば、気化器(キャブレター)だけは『依然として技術上の困難によって輸入を余儀なくされた』そうで、『1932年式でそれ(気化器)を自製したマツダが、1937年式で再びアマルを使う、「逆行」現象からもうかがうことが出来る』としており、アマルなどの輸入品に性能で対抗できなかったようだ。(①、P178の表参考)(下の写真でから、目黒製作所は、オートバイとともに、ギアボックスや部品も手掛けていたことがわかる。そしてオート三輪用のエンジンも供給していたようだ。たとえば(web❷、P39に)『HMC(兵庫モータース)は国産の目黒製作所のエンジンを積んでいる。』という記述がある。画像は“バイクの系譜“
https://bike-lineage.org/kawasaki/w/meguro.html よりコピーさせて頂いた。)
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https://bike-lineage.org/kawasaki/w/img/meguro_company.jpg
15.5-17戦後と比べると、あきれるほど少量生産だった
 まとめとして、オートバイの歴史の定番本である富塚清著の⑥より『以上いずれも満州事変頃から、日支事変の頃にかけての7,8年の間に、国産化促進のかけ声で世に出たものであり、大戦直前の車はこの期間にほぼ出つくした。それ以後は、戦局悪化、航空優先のため、オートバイのほうには、資材も技術力も回らなくなったらしく、事業は停頓した。(中略)唯一の例外は陸王で、これは軍用、警察用として、戦争末期に至るまで製造を続けた。しかし、その最盛期でも月産100台程度に過ぎなかった。今から振り返ってみると、あきれるほど少量生産である。』(⑥、P56)世界を制覇した戦後の二輪産業と比べれば何ケタも少ない台数だったのは当然だが、オート三輪と比べても、戦前のオートバイは小さな市場規模だったのだ。
下図は、①、P245の表の生産台数を元に、グラフ化したもので、メーカー名でなくブランド名で表記した。なお純国産の重量級オートバイのブランドとしても重みのあった“くろがね”については、15.6項のオート三輪の項でまとめて記す。
1936年以降の、準軍事体制下の頃のデータなこともあり、やはり陸王とくろがねの台数が多い。なお“キャブトン”はみづほ自動車製作所で、戦後も活躍したブランドだった。当時の販売元は大阪の中川幸四郎商店で、以下はwikiより『キャブトンという名はCome And Buy To Osaka Nakagawa (「大阪中川まで買いに来たれ」)の頭文字を並べたもの』だったそうだ。)
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 ここで話を二輪から三輪に戻す。15.4項からの続きです。 
 特殊自動車規格の小型オート三輪の市場が、1920年代後半から急拡大したことはすでに記した。同時期の大衆トラックの保有台数3万台に比べると遥かに小さいものの、三輪車はエンジンは別として、全て国内メーカー産だった。ちなみに国産大衆車の年間生産台数は400台程度に過ぎなかった(①、P126参考)。『車輛の大きさや部品メーカーへの波及効果などに差があるとはいえ、国産自動車工業の形成にとって大衆車とは異なる有力な市場が存在したことを意味する。』(①、P127)
 そして15.4-31項で紹介した、当時の主流であったJAPエンジンの輸入元、東西モータースの1929年の広告の中で、JAPエンジンを使っていた三輪車メーカーの13車(ブランド)を掲げられていたが、その中に、「ニューエラ」の名前も含まれていた。
ニューエラは、前回の記事で記した白揚社(13.1参照)の製造部長として、オートモ号の開発に携った蒔田鉄司が起こした秀工舎のブランド名で、その名前の由来は、ニューエラ号(New Era =「昭和」という新時代の意味)であった。
さすがに白揚社で鍛えた一流の自動車技術者の作ったオート三輪のため、その出来は他とは一線を画し『チェーンが外れにくく調整も容易な独特の構造など、完成度の高い設計で人気を博し』(wiki)たという。オートバイと違い重い荷物を積むため損傷が激しく、チェーンの交換等、そのメンテナンスが煩わしかったので、好評だったようだ。(②、P180)。
 ようやく蒔田鉄司とニューエラ号まで至ったので、次に戦前のオート三輪の三大メーカーである、ダイハツ、マツダ、日本内燃機(くろがね)を記して、オート三輪についてのパートを終えたい。
まずはオート三輪への進出順に、日本内燃機(くろがね)からはじめたいがその前に、「特殊自動車3馬力(350cc)時代」から、昭和5年(1930年)2月4日に「小型自動車500cc(5馬力)時代」へと時代は移るが、その経緯について、先に記しておきたい。

15.5-18小型自動車500cc(5馬力)時代への移行
過去に遡っての説明は、今まで何度か記してきたので省略する。代わりに(④-9、P106)に記載の文面を表にしたものを掲げておく。
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元々は適用除外制度から始まった、特殊自動車だが、無免許で乗れて、税金も安い(『例えば、1935年の東京府において自家用乗用車の年間税額は、18㏋以下が72.5円、10㏋以下が59円だったが、小型車は12.4円にすぎなかった』(①.P171))上に車庫不要、小回りも効き荷物も積める便利の乗り物で、急速に普及していく。しかしそうなるとやはり、より大きな荷物を積んだり、強力な登坂応力を求めたくなるのが人情だ。以下(④-16、P164)から引用する。
15.5-19次第に違法改造車が横行する(3馬力の限界)
『相当数の三輪運搬車が走り回るようになると、製造業者だけでなく、使用者側からの苦情や要望も湧き上がってきた。~まずは最大積載量60貫(225kg)最高速度16哩(25km/h)以内という当初の制限に違反する者が現れた。また荷物満載時に登り坂にさしかかると、二速のみの変速機ではかえってエンジンに負担をかけ、故障車を増加させた。』そのため無届で、『検査が終わった後に、荷物箱の拡大、5馬力エンジンの搭載、前進3段変速機の採用などの違法改造も行われた』(①、P123)。先のウェルビー号の、3段変速機採用を謳っている例も関連するが、当時の実情はかなりグレーゾーンが多かったのかもしれない。
ただしエンジン排気量に関しては、『当時は部品の材質や精度が良くないためにエンジンの摩耗が激しかったから、シリンダーをボーリングして再使用するのが当たり前だった。ボーリングをくり返すと排気量が500ccより大きくなってしまい、結果的に違反者が横行した』(㉗、P50)という事情もあったようだ。
15.5-20社会問題にまで発展する(大阪府が動く)
さらに『そのころ大阪では、規格違反の三速変速機と五馬力エンジンを搭載していながら、堂々と「内務省認可、無免許運転可」と偽って製造販売した自動三輪車が見つかり、これが社会問題にまで発展する。』(④-16、P165)そしてついに、当局が動く。
『とうとう大阪府保安課は、昭和4年(1929年)の年の暮れも押し迫った12月25日に、市中の自動三輪車2500台から3000台すべてを一堂に集結させて、大車両検査を実施した。』!大阪冬の陣?(④-16、P165)の引用を続ける。『にわかに信じがたい数字だが、複数の証言や記録が残っているので、相応のスペクタクルが繰り広げられたのは事実であろう。』
15.5-21ほとんどが違法車であると判明(届け出時8尺の全長が9~10尺に伸びていた!)
 そして検査した車両のほとんどが、届け出時8尺(2.4m)のはずが、9~10尺に伸びていたのだという!『憤った大阪府は違反車すべてに対して、その場でただちに使用禁止を言い渡した。すると2500台のうちのほとんどが、家へ持ち帰る事も出来なくなり、更なる大混乱が展開した。』!(④-16、P165)その後『大阪弁による見事な?交渉の結果、3カ月の猶予期間を設けて、期限までに使用者が車両を規定寸法内に縮めるか、あるいは通常の自動車運転免許を取得するか(現実にはほぼ不可能だが)を選ぶことで決着した。』(④-16、P166)
15.5-22業界団体を結成して陳情を行う
実は三輪車メーカーの側でも対抗策を練っていた。業界団体が作られて、この騒動の直前頃から、『「車輛規格改正運動」が沸き起こっていた』(④-16、P167)。そして東西(大阪と東京)の業者が団結して、規格改定を求める陳情が、内務省警保局に対して行われた(④-16、P167、①、P124、⑦、P168)。以下(④-16、P167)より引用する。
『望むべく主な改正点については、小野梧弌(JAPエンジンの輸入元、東西モーター株式会社社長)が、次のような趣旨書を用意していた。「馬力を五馬力(ないしは単気筒まで)と拡張する。車両寸法は九尺、幅四尺とする。変速機は三速までとする。
これを大阪東京の両組合の陳情書と合わせて、三者が団結し、内務省警保局へ提出した。』
さきの”大阪冬の陣”の、わずか10日後という早業だったという。
15.5-23行政側にもオート三輪を発展させようとする機運が生まれる
 そしてここで大阪府は、オート三輪の製造業者に対して指導を行うとともに、内務省にも規格拡大を要求するという立場を取った(①、P124)。さすが商都、大阪府の当時の役人たちは商売人の気持ちにも通じていた。そして『内務省側もそれに真摯に耳を傾け、利用者の利益を優先させようと努めた。』(④-14、P171)『単に監督し取り締まるだけでなく、せっかく育ってきた民間の工業製品であり輸送機関である三輪トラックを発展させようとする動きが、関係官庁や一部の政治家の中にあったからだ。自然発生的に生まれ育ってきた分野の自動車に温かい目を注ぐ勢力もあったわけだ。』(⑦、P168)
内務省だけではなく、当時自動車産業全体を所管していた商工省も、オート三輪に対しては『「助成金とか或いは無理な干渉などするのは害はあっても益がない」ので、「製造者や販売者の自体の努力に依って発達を図り、之を邪魔しないようにしたい」という立場だったのである。』(①、P215)web❼-1によれば、『内務省自動車取締令と商工省小型自動車改正規格により~』とあるので、この法規改正は内務省が主導であったものの、商工省とも連携していたことがわかる。中央官庁の側も粋な計らいで応じたようだ。まだ商工省内に、統制経済を好む国家社会主義者であった“革新官僚”たちが台頭する以前の時代だ。
内務省はただちに改正案の検討に入り、陳情書を受け取ったわずか6週間後の昭和5年(1930年)2月4日、ユーザーやメーカーの要望に応えて、車両既定の改訂を行う。(④-16、P167)
15.5-24小型車規定の改訂で500ccに(1930年)
 その内容だが、排気量500cc以下、全長/全幅も2.8m/1.2m以下まで拡大され、変速機、積載量、最高速度制限が撤廃された。その内容は、先に東西モータース小野梧弌がまとめた趣旨書に概ね沿った内容で、『宿願の規格拡大が認められた喜びは小さくなかったろう。』(④-16、P170)感無量だったでしょう。内務省警保局の小野寺技手は『~それまではエンジンが350ccであって、昭和5年まで認めていたのは、大体が小野梧弌さんのエンジンでした。』(㊲、P75)と後に語っており、当時エンジンに関しては、500ccのJAPエンジンを搭載した場合を基準に考えていたようだ。またこの改正以降は、エンジンの大きさを表す単位が警視庁馬力などの呼称から排気量(cc)に、また車両寸法も尺貫法からメートル法へと改められた。
15.5-25内務省側の事情(実地試験を廃止し「青写真時代」から「通牒時代」へ)
 以下、(④-16、P170)からの引用で記す。
『もっとも内務省の側でも、(業界団体による)陳情の前から、省令改正の動きがあったようだ。三馬力時代は、先述のように製造者の出願に対して内務省警保局の技手が一台ずつ車両の実地試験を行い、合格者に対しては製造者名、車名、仕様書と共に、青写真の構造図を添付して全国の庁府県へそれを許可する旨を通牒していた。そのためこの三馬力時代を「青写真時代」と呼ぶ例もある。』この青写真時代に至った経緯は、15.5-25項を参照ください。引用を続ける。
『ところが大正15年以降は、例によって申請者が急増したため、じつのところ内務省警保局は、手が回らなくなっていた。実は度重なる実地試験が面倒だったわけだ。』各関係者の間で複雑な思惑が絡み合う、法規の改訂作業以外にも、戦後の、交通安全環境研究所・自動車審査部のような認証試験の業務も同時に、ごく少人数で担ってきたことになる。
『そこで昭和5年2月以降の五馬力時代は、実地試験を廃止して書類審査のみを行い、結果を地方庁へ通牒し、この通牒を製造許可に代えることとした。そのためこの五馬力時代のことを「通牒時代」と俗称した。』(④-16、P170)
15.5-26国産小型四輪車産業の芽生え
しかも500cc化の規定改訂に際して、急速に市場が形成されつつあったオート三輪業界だけではなく、四輪車業界のダット自動車製造(過去の記事の8.3項とこの記事の15.3項を参照ください)からの働きかけもあったという。その経緯はこの記事の後篇で詳しく記す予定だが、500ccまで拡大して、車体寸法も大きくなれば、四輪乗用車としてぎりぎり成立し得るレベルに達したのだ。
しかしその一方で、さらに750ccまで拡大されてしまうと、『わが国の小型車市場に着々と地歩を固めつつあった~強敵オースティンまで恩恵を蒙ることになり、後発のダット自動車側は断然不利になる。これを恐れた同社経営陣(注;まだ日産の鮎川が関与する前の久保田系の実用自動車製造の時期)は、無試験免許の枠拡大を500ccに止めるよう、当局に強く働きかけたといわれる。』(⑧、P41)
その当時の市場の“本流”は四輪でなく三輪の方であったので、350ccから一気に750ccまでいく可能性は元々低かったと思われるが、しかし逆に、乗車定員1名という、乗用車としては成立しにくい厳しい制限が設けられてしまう。この辺りの経緯は、この記事の後篇で記す。
15.5-27関税の引き下げと為替の切り下げで国産エンジンが優位に
500cc時代は、国産エンジンが台頭し、やがて主流になっていく時代でもあった。個々のメーカーの項でも記すが、くろがねやダイハツ、マツダといった実力のあるメーカーの国産エンジンが登場後も、当初は関税が低く量産規模の違う輸入エンジンと価格差が大きかった。『従量税式(=財やサービスの数量(個数、重量、容積など)を基準として課税する方式)としていたこの時代はJAPなど輸入エンジンの関税額が一基あたり10円ほど(販売価格の一割以下)と低く、おかげで安価なイギリス製の3馬力~馬力エンジンが年間数千台もどっと輸入されてしまった。』(④-18、P170)
しかし国産品保護政策として、1932年末に関税の大幅引き上げがあり(従量税が3割5分に;④-14、P111)、為替の切り下げもあった。そのためオート三輪の用途に特化させた、国産エンジンの性能も向上し、外国製に代わって、外販も行っていたJACやダイハツ製などの国産エンジンの採用が広がっていく。こうして量産が進んだ結果、『ついには輸入機に対して3~4割も安価となる。』(④-14、P175)輸入エンジンにとって、厳しい時代に突入していった。

15.5-28国産小型車の発展を縁の下から支えた、内務省・小野寺技手(余談)
内務省警保局にて当時、この認証の実務を(たぶん)ほぼ一手に担当していたと思われるのが、この記事で度々登場している、内務省警保局技手、小野寺季(き)六であった。小野田がこの業務に係るようになった経緯を、「日本自動車工業史座談会記録集」(㊲)から引用する。
明治27年(1894年)生まれで大正8年(1919年)米沢高等工業(現山形大学工学部)を卒業後、警視庁技手から大正12年(2023年)に内務省に出向した小野寺だったが、元々は『圧縮ガス液化法の実施が、(大正)12年4月からということで、その要因として入った』(㊲、P47)のだという。“本業”は違っていたのだ。しかし、『その頃自動車に関する問合せが全国から警保局に盛んにくるのですが、自動車の技術者がいないために私が手掛けることに』なったのだという。
 そこで小野寺はまず、状況を把握するため、過去の資料を調べていくと、『大正10年に自動車に関する通牒が警保局長名で出ているのです。この通牒は自動車の照会が警保局にくる毎に、警視庁に問い合わせて回答したものをまとめ、警保局から全国に流したものです。全くお恥ずかしい次第であります。』(㊲、P47)と、座談会で語っている。「大正10年から」とあるので、15.4-19項で記した(警視第90号)や、同じく15.2-16、17項の(警山第104号)のことを指すと思われるが、何度も記しているが自動車取締令の適用除外から始まった、特殊自動車という制度自体が曖昧で、場当たり的な対応で処理してきた結果の“ツケ”がたまっていた様子が伺える。その後試行錯誤の末に、1926年頃になってようやく、特殊自動車の仕様を確定できるところまでこぎつけたのは、15.4-21、22項で記したとおりだ。
 ちなみに戦前の内務省は、よく言われるように、陸軍省、海軍省とともに、日本の官僚機構の頂点に君臨していた(そうだ)。以下も(④-6、P169)から引用する。
『当時の内務省とは簡単にいえば現在の総務省、警察庁、国土交通省、内閣府を一つに束ねた巨大な省庁にあたる。敗戦後GHQによって解体されるまで、明治6年から昭和22年まで74年間にわたり中央官庁の枢軸として君臨を続けてきた。なかでも内務省警保局は戦前期の自動車行政をほぼ一手に担い、例えば現行の自動車関連の基本三法である道路交通法、道路運送車両法、道路運送法は警視庁と国土交通省が所管となっているが、大正8年から昭和22年までの28年間は内務省警保局が自動車取締令をもって一元的に司っていた。』
戦前も1925年に商工省が設立されると、自動車分野の産業振興策は、商工省と、国防上の観点から?何かと口を挟む陸軍にその座を譲ったとしても、交通行政としての観点から、路上を走るクルマの許認可権は、戦後その権益を引き継いだ戦後の運輸省(国土交通省)と同様、内務省がしっかりと握っていたようだ。たとえば陸軍からハーレー級の大型サイドカーか単車?だったかを、特殊自動車認定するよう横やりが入った時もそれを退けたという話が、どこかに書いてあった気がする(不確かです)。※2022.04.25追記;㊲のP74に、小野寺自身の言葉で、陸軍の鳥海大尉から、ハーレーを除外してくれとの強い申しいれを断ったと記してあった。
ただこの時代の内務省内における自動車行政のウェートは、おそらくけっして高くはなく、それ故に、たぶんキャリア組ではなかった小野寺が主担当で、その任に当たったように思える。ただ(㊲、P48)等の記述から、小野寺の上司たちは概して、小型自動車の発展に理解があったようにも感じられる。
だが、(④-16、P164)で記されていたように、当時の特殊自動車の認可の可否は、内務省警保局と車輛製造業者や販売業者だけでなく『地方長官や警視庁も含めた三つ巴のやりとり』の末に決定されていたという。そうした複雑な大人の駆け引きの中で、若輩だった小野寺がその間に立ち、苦労しただろうことは想像に難くない。
(下の写真は世界周航時、霞ケ浦に立ち寄った、ドイツの巨大飛行船「グラーフ・ツェッペリン」で画像はwikiより。日本で浮揚ガスと燃料ガスの補充を行ったのだが、『日本石油の重役奥田雲蔵と田口清行技師、カーボン・ケミカルズから来日したスコット技師が技術援助に当たり、所轄の内務省の担当は小野寺季六技師であった。当時高圧ガスは内務省が管轄していたのである。』(“蒼穹と碧洋を往く”というブログより文章を引用。
https://www.shipboard.info/blog2/archives/2007/08/
下の写真の人影の中に、小野寺の姿もあるいは映っていたのだろうか。)
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15.5-29陸軍のオート三輪なんかやめちまえ!と、“全滅”を救った小野寺の“あんぱん論”
 しかしさらに時局が進み、戦時体制に移行すると、関西商人たちとの“大人の駆け引き”から、今度は当時高圧的であった陸軍が、ようやく育ってきたオート三輪の前に立ちはだかる。
陸軍からの強引な横やりを、オート三輪を陰から支え続けてきた小野寺が必死に防戦したそのエピソードを、(web⓮「戦前の日産自動車(株)の車両開発」鍋谷正利 JSAEのインタビュー、P355)の記事が伝えている。詳しくはぜひ原文をお読みください。鍋谷氏(昭和19年に日産取締役。詳しい経歴はweb⓮を参照)によると、『陸軍の軍人さんが、日本の三輪車は少し多過ぎるんじゃないかって。そういうものはもうやめちゃったらどうかという会議があった』(web⓮、P355)という。
その会議に呼ばれたのが、トヨタ(豊田喜一郎、英二各氏)や日産(浅原源七、鍋谷正利各氏)、軍用トラック系の荒巻氏らで、同インタビューの記載からは当事者でオート三輪業界の主役だったダイハツやマツダの名前がないのだが・・・。同記事より続ける。
『~あんなものは鉄鋼の無駄だって言いだしたの。ところが内務省で、車の登録の審査をするところがありますね。小野寺さんという人が、ちょうどその席にいたんです。それが何というかと思ったら、あれは日本独特の品物である。日本人はあんこが好きで、餅に入れればまんじゅうになる。それから外に使えばおはぎになる。それと同じように、あれは日本人の考えたものだ。外国からパンがくると、あんぱんというものを作る。だから、あれは、あんぱんと同じように、日本人が考えたものだ。それを一遍にやめちゃえと言うのは少し乱暴じゃあないかと。その時分にその話が方々に流れて、いわゆる小野寺さんの「あんぱん論」というのは有名だったんです。それでダイハツ以下、あの時分には6社あった、その半分はやめさせて3社だけ残せということが、その席で決まったわけ。それがいわゆる「あんぱん論」』(web⓮、P355)この文中の「小野寺さん」は間違いなく、内務省警保局の小野寺季六その人であろう。
商工省はこの頃既に、陸軍寄りに宗旨替えしていた。当時の世相の中では、小野寺以外たぶん誰も、陸軍の意見に敢えて反論しなかっただろう。そうした重苦しい雰囲気が感じられる中で、内務官僚であったが高等官でもない(㊲によれば昭和3年に技師)立場の小野寺の発言は、相当勇気がいるものだったはずだ。
そしてあんパンの中身の“あんこ”のように、やんわりと説き伏せて、三輪車メーカーの“全滅”は防ぎ、ダイハツ、マツダ、陸王の3社体制を何とか維持できることに決まったようだ(15.7-31~33項参照)。オート三輪のめざましい発展と共に歩み続けて、戦時下においてもその実用性や経済性を評価していた小野寺の、機転と勇気が光る一幕だった。生産設備を曲がりなりにも維持できたことで、戦後すぐに生産を立ち上げることができたダイハツやマツダからすれば、小野寺は恩人だったはずだ。
(しかし戦後の1958年7月に、自工会主催で開催された座談会の(㊲、P49)の中で小野寺は、『~このように縁の下の苦労ばかりしていたので、宮田さん(注;瓦斯電出身でその後商工省の技官となった宮田応義)や陸軍の伊藤さん(注;陸軍の伊藤久雄。陸軍の立場から、自動車製造事業法成立に大きな役割を果たした)のように保護自動車の看板を掲げた仕事をうらやましく思いました。』と、当時を振り返っている。
小野寺は昭和17年(1942年)に内務省を退官し、その後は『高圧ガス工業の発展に尽くし、その功績により昭和43年(1968年)正五位勲六等に叙せられる』(㊲、P142)という。叙勲は自動車分野に対しての功績ではなかったのだ。だがオート三輪の歴史を語るうえで、目立つ存在ではなかったかもしれぬが、決して欠かすことができない人物だったと思う。小野寺の気骨を表すエピソードをもう一つ、自工会が戦後主催した座談会(㊲,P48)から紹介する。
『~その頃警衛用のサイドカーであったハーレーダビットソンの1934年式BF1200cc供奉用側車付自動自転車は、陸軍の警衛用のサイドカーでもあったのです。ところがご大典のときに、陸軍が担当する警衛区間と、名犬相の警備区間とが違うわけです。そこで警保局はサイドカーを買わなければならないことになって、私の一存で蒔田さんのニューエラーのサイドカーを買いました。これが供奉用に国産サイドカーを備えたはじめであります。もし間違いがあったら、私は腹を切る覚悟でした。』小野寺が“侍”であったことは間違いなかったと思う。それにしても戦前、“豆自動車”から発展していったオート三輪の認証業務に追われる中で、ドイツから来たまるでスケールの違う、巨大な飛行船“ツェッペリン号”を仰ぎ見た時、小野寺はどのような気持ちを抱いていたのだろうか。下の写真も“蒼穹と碧洋を往く”というブログよりコピーさせていただいた。)
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15.5-30後年の「電動アシスト自転車」の市場形成を“アシスト”した時と似ている?(私見)
さらに余談を。この戦前の、オート三輪及び小型四輪車に対して内務省が行った、民間の活力の中から芽生え始めた産業を、保護政策でなく規制緩和(減免措置)によって、側面から支援していくという構図は、まったくの個人的な意見だが、戦後のある乗り物に対しての対応とイメージが重なる。
私見だが、ヤマハPAS(Power Assist System=パスとよばれていた)に端を発する「電動アシスト付自転車」の市場形成を、道路交通法の規定を活用して警察が手助けした構図と、よく似ていたと思う。もちろん戦前のオート三輪の方が先だった訳だが、かつて無免許の「特殊自動車」として扱った時のように、あくまで「自転車」だとして、国土交通省の管轄ではなく、警察庁(=内務省系)の管轄内として処理したのだ。以下ヤマハのHPからの引用だが、そのことを証言していると思う。
https://www.yamaha-motor.co.jp/pas/campaign/25th/history.html
『それまで電池とモーターを内蔵した、第一種原動機付自転車(免許、ヘルメットが必要な乗り物)とされていたものを、「普通の自転車」として行政等、関係団体に認めていただき製品化、新たな分野を開拓したのです。』「電動」部分は人力に対しての補助力で、道路交通法上は軽車両(自転車)に該当すると警察が解釈してくれた結果、大きな市場が形成され、世界的にも影響を及ぼした。さらにwikiによればブリヂストンサイクルやミヤタサイクルなどの自転車メーカーも、PASの企画段階から車体の開発・製造などに深く関与していたという。自動車産業よりも、自転車産業との関連が深かったことも、オート三輪に近い図式だ。下の写真もヤマハのHPより、「1993年の 初代YAMAHA PAS」
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オート三輪の3大メーカー、ダイハツ、マツダ、日本内燃機(くろがね)
話をオート三輪に戻す。この500cc(五馬力)時代は3年9カ月続くことになるのだが、『その申請方法が簡略化されたことにより製造業者はさらに増え、国産三輪自動車は進化の加速度を上げながら、発展を続けていく』(④-16、P171)。三馬力時代のニューエラ(後のくろがね)に続いて、ダイハツ(発動機製造)と東洋工業という高い工業技術力を持つ、実力派の企業が参入し、『これにより、三輪トラックは新しい段階を迎えた。』(⑦、P168)
先に記したように、ここでは業界への参入順に、蒔田鉄司率いる秀工舎(後の日本内燃機)のニューエラ(後のくろがね)から話をはじめたい。

15.6国産オート三輪の草分け、日本内燃機(くろがね号)
戦前の日本内燃機の歴史は、創業者である蒔田鉄司の足跡と重なる。『二輪、三輪、四輪とすべてをこなす戦前期のトップデザイナーの一人』(④-20、P167)であり、戦前期国産自動車界の開拓者としての功績も大きかった(④-20、P166)蒔田の歩んだ道をたどりながら、戦前期のくろがね号の歴史を記していく。なお秀工舎、日本内燃機、ニューエラ、くろがねと時代と共に変遷していくが、“くろがね”と代表させて記述した場合が多くなるのを了解いただきたい。まず白揚社入社以前の蒔田鉄司について、wikiの「日本内燃機」に比較的詳しく書かれているので引用する。
『1913年(大正2年)に東京高等工業学校(現東工大)機械科を卒業した蒔田は学生時代から自動車開発の研究に打ち込み、1917年(大正6年)には機械工場「秀工舎」を開き、自転車やオートバイ(当時は自動自転車と呼ばれた)の部品製作を行い、最初の自動自転車の試作も行った。』この時試作した自動自転車(オートバイ)の写真は残念ながらまだ発見されていない(④-21、P168)。その秀工舎で2年間、自転車と自動自転車の部品製作を行った後、白揚社に招かれるのだが、その経緯について、月間オールド・タイマーの優れた連載記事(「轍をたどる」(岩立喜久雄氏著)(④-1)」が詳細に記されており、引用させていただく。
15.6-1白揚社(オートモ号、アレス号)時代の蒔田
『豊川(順弥。白揚社の創業者)には5歳年下の弟、豊川二郎(1891~1921)がおり、二郎も大正6年から7年にかけて渡米したが、その目的は自動車研究にあった。自動車製造への決意を固め帰国後、直ちに白揚社へ招き入れたのが東京高等工業時代の学友、蒔田であった。』(④-1,P159)二郎は30歳の若さで夭折するのだが、ご承知のようにその意思は兄の純弥に受け継がれて、アレス号、オートモ号として結実していく。そして蒔田は『製造部長として、設計から製造現場まで陣頭に立っていた。』(④-1、P159)白揚社時代の蒔田について、さらに(④-1)からの引用を続ける。
『~現在残るオートモ号設計図の多くに蒔田の記名や押捺があることから、その設計製図でも中心的な役割を果たしていたことがわかる。~蒔田はこの最終型オートモ号の開発まで8年間白揚社に在籍し、孤高の先駆者豊川純弥の下で誠実に活躍した技術者だった。白揚社は後の国産自動車業界で活躍する多くの人材を輩出したいわば「エリート養成所」に例えることができるが、その筆頭者だったといえる。』(④-1、P160)
15.6-2海外も注目した、オートモ号の性能(余談)
 豊川純弥の起こした白揚社のオートモ号及びアレス号については、前回の記事の13.1項で既に記したが、その高性能ぶりについて、前回時点では資料が不足していたので充分伝えられなかった。今回の記事用に新たに入手した資料(④-13、P168)に端的に記されていたので、少々脱線するが、ダイジェストで紹介しておきたい。
『東京の白揚社製作所が独力で製造販売に取り組んだ純国産小型乗用車オートモ号(943cc)の完成度は、はたしてどうだったのだろうか。オートモ号の実力を明快に示した事例が、大正14年12月6日に日本自動車競走倶楽部が主催した、東京洲崎埋立地での競走会であった。』スタックするクルマが続出する大混乱のレース展開の中、決勝レースまで駒を進められたのは、ピアース・アロー、オーバーランド、オークランド、チャルマー、アート・ダイムラー、アート・カーチス、オートモ・レーサーの、以上7台だった。このうち、アート・ダイムラー、アート・カーチスとは、アート商会の榊原郁三が中古の航空機用エンジン(メルセデス・ツェッペリンモーター200㏋と、カーチス・ジェニー160㏋)を積んで製作した、いわば半国産の怪物レーサーであった。その結果はどうだったのか。
『泥土にまみれた壮絶な15周の決勝レースで勝利したのは、アート・カーチス号であり、2着はなんとオートモ号であった。』このアート・カーチスが、現在本田コレクションホールに展示されている有名な、通称“カーチス号”だ。(④-13、P168)から引用を続ける。
そしてこの『狂気の沙汰のレースを注意深く観戦していた在東京の英字新聞「ザ・ジャパン・アドバイザー」紙の外人記者は、オモチャのように小さなオートモ号の耐久性の高さに感銘を受け、さらにこの快速の軽量車が日本製と知って大いに興味を示した。「どの部品が日本製か」と尋ね、全て日本製だと知らされると、目を丸くして驚き、この壮挙を他のどの日本語新聞よりも大きく、写真入りで報じた。~当時の国内の新聞は、まだオートモ号の可能性を理解できるレベルに到達していなかったのである。』(④-13、P168) 
このレースへの出場は、社長の豊川順弥がレース開催の1週間前に思い立ち、急遽実行に移されたものだが、『昼夜兼行で作図から製作までを遂行し、レース前日までにオートモ・レーサーを仕上げたのは、白揚社製作所長時代の蒔田鉄司であった。蒔田の神速な仕事ぶりは、白揚社時代より築かれていたのである。』英字新聞の記者は、あるいは本国へ、「日本車の将来、恐るべし」と、警戒する報告を上げたかもしれない。(下の写真は現在Hondaコレクションホールに動態保存されている、アート・カーチス(通称・カーチス号)で、ホンダのホームページよりコピーした。車体は当時、飛行機と同じ布張りだったが、エンジンとシャシーは今もほぼそのままだという。以下の文もやはりホンダのホームページより引用。
https://www.honda.co.jp/50years-history/limitlessdreams/joyofmanufacturing/index.html
『榊原氏をリーダーに、弟の真一氏、本田たち数人の弟子が加わって、レーシングカーの製作が始まったのは1923年である。1台目が、中古のダイムラーエンジンを載せたアート・ダイムラー。2台目が、アート・カーチス。今も、Hondaコレクションホールに動態保存されている通称・カーチス号である。アメリカのカーチス"ジェニー"A1複葉機の中古航空エンジンをアメリカ車のミッチエルのシャーシに載せた、このスペシャルマシンづくりを、最も熱心に手伝ったのは本田だった。アイデアを出し、部品を器用につくり、榊原氏を感心させる。1924年11月23日の第5回日本自動車競争大会には、操縦士・榊原真一氏、同乗機関士・本田宗一郎で、カーチス号が初出場し、見事に優勝している。
17歳の少年の胸に燃えたモータースポーツへの情熱は、この後、生涯、消えなかった。』

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https://www.honda.co.jp/sou50/Hworld/Hall/Power/images/photo/407.jpeg
15.6-3秀工舎に戻り、ニューエラ三輪車で再出発
以下も(④-1、P160と④-20、P168)をダイジェストして記すが、オートモ号最終型完成直前に白揚社を辞した(1926年7月)蒔田は、自らが興し、弟が引継ぎ自転車製造を継続していた秀工舎に戻る。『大正15年からの第二期秀工舎における蒔田の再出発の目的は、自らの小型三輪車の開発であった。』(④-21、P168)早速オート三輪の設計・試作を開始し、翌年の1927年2月に試作車を完成させる。そしてニューエラ((New Era =「昭和」という新時代の意味)と命名されて、同年4月には早くも内務省の許可を得ていた。『蒔田ならではの迅速さであった。一連の急展開から推しても、軽便三輪運搬車制作のアイデアは白揚社時代よりすでに温めていたのかもしれない。その手法は、白揚社での理想主義とは好対照の、まったく現実的なものだった。』(④-1、P160)
しかし手堅い設計とはいえ、白揚社で鍛えた技術者の作ったオート三輪は、他とは一線を画し『チェーンが外れにくく調整も容易な独特の構造など、完成度の高い設計で人気を博し』(wiki)たという。既述の通りオート三輪は当時、チェーン駆動だったが、オートバイと違い重い荷物を積むため損傷が激しく、チェーンの交換等、そのメンテナンスが煩わしかったという(②、P180)。『秀工舎式としたニューエラ号の方式は、スパナひとつでチェインが簡単に張れて、車体がバウンドした際にも外れ難い構造だった。』(④-1、P160)
輸入品のJAPエンジン搭載車からスタートした、ニューエラ号は市場で好評を得たが、『従業員7-8名の零細工場では、経営者の蒔田自身が作業に加わっても、生産規模の拡大は到底期待できなかった』(wiki)。そこで量産に向けて事業拡大を模索し始めるのだが、世間の方が、蒔田のような傑出した技術者を、放ってはおかなかった(④-21、P169)。
15.6-4 日本自動車(大倉財閥)の傘下に
以下もwikiで概要を引用する『(蒔田は)大倉財閥系の日本自動車の社長、石沢愛三の知遇を得た。(14.7-1項で記したように)日本自動車は当時、オートバイ部門の主力であったハーレーダビッドソン(オート三輪としても販売されていた)の販売権を他社に奪われ苦境に陥っていたため、1928年(昭和3年)1月に蒔田を常務取締役として迎え入れ、同社が所有する大森の工場を蒔田に提供し、3輪トラックの製造を委ねた。』(④-21、P169)によると、蒔田を石沢に引き合わせたのは、陸軍自動車学校研究部高級主事の長谷川正道であったという。『当時国内最高レベルの自動車研究所でもあった同校の長谷川閣下と、自動車輸入業界最古の雄、日本自動車が動き出したわけだ。』(④-21、P169)大倉財閥系の日本自動車といえば、=ハドソンというイメージがあるが、陸軍のハドソン、海軍のビュイックと当時謂われていたように(前回の記事を参照ください)、元々日本自動車は陸軍に強い人脈があったと思われるし、ハーレーの国内販売権を三共に奪われたところで、四輪の輸入車がメインだったとはいえ、この時は二輪/三輪業界に対しても、思うところはあっただろう。石沢に連れられ、大倉喜七郎に面会した蒔田は『大倉男爵から自動車に対する抱負を聞かされた蒔田は、大いに心を動かされる。そして小さな秀工舎を携え、日本自動車㈱への入社を決心した。』常務取締役として迎えられた蒔田の入社は、1928年1月であった。日本自動車側は『飛行機用の塗装工場として設けていた大森工場をそっくり蒔田に提供し、秀工舎の職工毎引き受けた』④-21、P169)こうして蒔田と大倉財閥の思惑が一致し、日本自動車製のニューエラ号が誕生する。
『ニューエラ号は「JAC(日本自動車の英語名のイニシャル)ニューエラ」と改名され、日本自動車の販売網を通じて販売されることになった。』(wiki)そして『新生の日本自動車は、それまでのオート三輪車メーカーに比較すると、資本力でも技術力でも他を圧するだけの企業として出発したのである。』(②、P105)
日本自動車の持っていた設備と強力な販売網、そして資本力を得た時田は、次のステップとしていよいよ、エンジンの内製化に取り組む。
下の写真はweb「三輪自動車の歴史」(web❸)よりコピーさせていただいた。エンジンはまだ、イギリスのJAPエンジンの時代だが、1928年とあるので、既に日本自動車の時代だ。https://www.rakuten.ne.jp/gold/nakabc/auto-3rin/auto3rin-1.htm
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15.6-5自社製JACエンジンの開発
新体制に移り、蒔田が最初に完成させたのが250cc2ストローク単気筒エンジンのオートバイで、『気筒を前傾させた先進設計であり、小柄な日本人にも載りやすい二輪レイアウトが初めて提示されていた。輸入車の模倣に走らず、独自性を打ち出している点も見事だった。』(④-20、P168+④-21、P171)その設計はツュンダップ(EM250型;3ストローク単気筒249cc)の影響もみられたとの記述もある。(④-1、P160、163)1928年の春に、3台完成させたという。
しかしJACエンジンは『当初は二輪車に装着したが、すぐに三輪車中心に方向を変更した』(①、P138)。日本自動車側としても、ハーレーの販売権を失い口惜しい思いをしていただろうし、当初はそれに対抗する国産オートバイ開発の機運もあったようだが、蒔田は元々、特殊自動車三輪車市場を狙っていたし、早めに方針転換したのが結果的には正解だった。
ただし追記しておくと、日本内燃機がその後完全に二輪をあきらめたわけではなかったようで、後述するように陸軍との関係が深かったこともあり、その後も『ハーレー並みの側車用大型車を製作した』(⑥、P60)。ここでは割愛するが、例によって?(④-20)(④-21)が詳しいので、詳しくはぜひそちらを参照して下さい。(下の写真は、“webオートバイ”(web24-1)よりコピーさせて頂いた、1928年製?の、オートバイ版の“ニューエラ号”の写真?『JACエンジンと名付けられた350cc単気筒はオートバイや三輪車にも搭載されている。』と記されているが、④や⑥の記述からすると、1928年に完成していたのは2ストローク250cc版の軽量車だったはずで、ボリューム感が全く違うが。(ワカリマセン。))
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15.6-6三輪用JACエンジンの完成
話が脱線してきたので、再びオート三輪に戻し、(④-21)を参考に記す。大森工場(当初の工場名は「日本自動車大森オートバイ工場」)が本格的に稼働し始めたのは1928年の秋からで、JAPエンジンに対抗すべく、350cc単気筒4ストロークエンジンの開発をスタートさせる。JAPやサンビーム製エンジンを参考にしつつ(wiki)、1929年春に最初のロットの試作エンジンが組みあがり、三輪と二輪に搭載されて、徹底的な走行テストを行い、不具合の洗い出しを行った。以下は(⑦、P169)より引用『蒔田は三輪用エンジンを開発する。蒔田は、使用条件を考慮して主力となっている外国製エンジンよりも使い勝手の良いエンジンをつくり、JACエンジンと名付けられニューエラー号に搭載した。輸入されるエンジンは、信頼性で優れていたが、もともと三輪車用につくられたものでない。オートモ号のエンジン開発経験を持つ蒔田にとっては、空冷単気筒エンジンの設計はむずかしいものではなく、輸入されるものより良い出来のものになった。』オートモ号時代に、空冷エンジンの経験も十分積んでいた。こうして1929年9月、JACエンジン搭載のオート三輪とオートバイ版が、同時に発売された。
15.6-7 自社の500ccエンジン搭載のニューエラ号
 オート三輪用としては、1929年に4ストローク・空冷単気筒エンジンの開発に成功、350cc型からスタートしたJACエンジンは、15.5-18項で記した1930年2月の500ccへの排気量枠の拡大に対応して、1930年6月に500cc型をデビューさせた。エンジンのボアアップで対応し、ごく一部の部品を作り替えるだけで迅速に市場に投入できた。(②、P105参考)(下はJACエンジン搭載の1930年製ニューエラ。日本自動車博物館所蔵で、ニューエラの唯一の現存車。なお国産オート三輪の量産型としては、アイザワ号と、宍戸兄弟のSSDの方が先行していた。アイザワ号は台数が少数だったようなので歴史的にどう解釈するか、微妙な立場だが。写真も日本自動車博物館よりコピーさせていただいた。)
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15.6-8外国製に負けない国産エンジンの登場
そしてこの500cc型エンジンの性能は、オート三輪用として優秀で、鉄道省が実施した試験で、燃費、登坂力などの面で輸入品のJAPエンジンに勝る成績を残したという(①、P132、web❷、P40)。『ようやく国産エンジンが、この分野で外国のものに負けないものになったというお墨付き