fc2ブログ

ふだんのぼんちゃん(その94)

 年内は自動車の話題は中断して、ここ1年ぐらい(2020.10~2021.10)のぼんちゃんの写真をアップしていきたい。
 写真は家で寝ている時のモノばかりだが、実際には今でも平均して、毎日1時間半ぐらいは外で散歩している。ただもう走らなくなったし、歩く距離も次第に短くなってきたが。でも歳の割には(2021.11現在で推定13歳半ぐらい)じゅうぶん元気な方だと思います。

]50a
 
]53a
ということで、いつも家で寝ています。
]52a

]86a

]88a

]40
TVの近くでも寝ています。
]41

]65a

]80a

]72a
座椅子も相変わらず好きです。
]70a

]75a
どうやらくつろぐようです。
]73

⑳ 戦前日本のオート三輪史 (日本の自動車産業の“育ての親”は日本陸軍だった?小型自動車と、商工省標準型式自動車(戦前の日本自動車史;その5) 《 前編:独自の発展を遂げたオート三輪と小型四輪車》 )

≪※オート三輪編だけ先に出し、その後の小型四輪車編の部分はあとで追加します。≫

 この記事では自動車製造事業法成立(1936年5月)以前で、さらに前回“その4”で記したフォードとGMのKD生産進出以外の、日本の自動車産業/社会について記していきたい。
早い話が、オート三輪と、小型四輪車のダットサンと、じり貧だった国産トラック/バスについて記すのだが、この記事は《前編:独自の発展を遂げたオート三輪と小型乗用車》と《後篇:商工省標準型式自動車》の2つに分けて、今回は前編のうちの、オート三輪編のみをアップする。

 前回の記事の最後で“商工省、日本陸軍、さらには日本フォードとGM抜きに、戦前の日本の自動車史は語れないような言い方をしてしまったが、実はオート三輪と小型四輪車について、それは当てはまらない。特にオート三輪は人々の日々の営みの中から生まれた、日本独特の自動車だった。

オート三輪は民間主導で発展してきた
繰り返すが、オート三輪は、商都、大阪を中心とした商人たちの日々の生業の中から生まれ、独自に発展を遂げたものだ。国の保護の下で国策として計画的に、軍・官・民が連携しつつ大事に育てられた四輪自動車産業とは違い、民間主導で起こされた産業だった。戦前の四輪車市場を席巻していたアメリカ車と競合しない分野で、『必死に働く庶民のエネルギーを象徴する輸送機関であった』(引用②「懐旧のオート三輪車史」、「はじめに」)。
日本独自の交通体系の中から生まれた他国に無いジャンルの乗り物だったが、軍用には適さなかったために国からの手厚い支援は無く『運転免許などのいわば減免措置であり、保護政策とは異なっていた』(④-4、P167)。しかし市場原理に基づいた競争市場の中で、戦後の一時期まで、国産自動車産業の主流の一角を成していたのだ。

戦後の10数年間は、オート三輪が国内自動車市場の主役だった
この記事の“守備範囲”は戦前なので、戦後は詳しくは触れないが、オート三輪の全盛期は戦後の十数年で、戦前はその“序章”であった。その戦前部分については、本題の“戦前編”に入る前に、この場を借りて最初にまとめて触れて(例によって脱線して?)おきたい。
敗戦後の経済復興の中で、オート三輪は大型化を図りつつ勢いを増していき、今の若い人たちからはほとんど信じがたい話だと思うが、オート三輪界の二大メーカーであったダイハツとマツダの生産台数は、戦後の一時期、トヨタと日産の台数を上回っていた。しかしこの重要な事実を、数字でハッキリと示した情報が、不思議と少ない。そこで今回調べた範囲でここに明示しておきたい。
トヨタですら、乗用車がトラック・バスの台数を上回ったのが1966年だった
まず前提として、戦後の日本の自動車市場は長い間、トラック等の商用車が主流だった。たとえば1952年の小型乗用車は年間たったの4,700台で、オート三輪の約1/10に過ぎなかった(②、P13)。戦前と同様にタクシーが主体だった当時の国内乗用車市場で、国産乗用車の生産台数はごく少数で、トラックが主体の市場だった。  
下表は、トヨタ自動車のHP“トヨタ自動車75年史”のサイトより、「(トヨタ車の)国内生産台数の推移」のグラフをコピーさせて頂いた。
https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/data/automotive_business/production/production/japan/production_volume/index.html)
m1.png
https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/data/automotive_business/production/production/japan/production_volume/images/index_graph01.gif
上のグラフはあくまで、トヨタ自動車の分だけの、国内生産台数の推移だが、特に1955年の、クラウン登場以前の乗用車の生産台数の少なさがわかる。国内メーカーの中では、乗用車にもっとも強かったはずのトヨタですら、トラック/バスの生産台数を上回ったのは、1966年以降だったのだ。
 下の表は、上記のトヨタのHPのトヨタ車の生産台数と「日産自動車50年史」(引用㉟)の日産車の生産台数と、さらに別の資料(「日本自動車工業史―小型車と大衆車による二つの道程」呂寅満(引用①))にあったダイハツとマツダのオート三輪の生産台数の数値を合体させたものだ。(表14;「トヨタ/日産(四輪車)と、ダイハツ/マツダ(三輪車)の生産台数比較表」)
m2.png
かなり強引なまとめ方だと思うし、三輪車の細かい数字は、資料によってばらつきがあり、多少怪しい?と思える部分もある。しかし、オート三輪と、四輪車の生産台数の傾向は、大筋このようなものではないかと思う。そしてこの表の赤字の部分の、1952年から1955年までの生産台数の数字に注目したい。
その時々の市場において、どのメーカーの自動車が主役だったかをはかる第一の尺度は、やはり生産台数だろう。何度も記すが、生産台数ベースでみれば、戦後の一時期、オート三輪の勢いが圧倒的だった。(⑨)によれば『昭和30年(1955)には10万台を超える生産台数となり、復興のために優遇されたトラックを含む四輪自動車全ての生産台数約3万台を、はるかに凌ぐほどだった。』(⑨、P105)とあるが、四輪の台数はもう少し多かったように思うのだが?不明です。
その中でも、『東洋工業とダイハツ工業がいわゆるトップ争いを演じつつ、シェアを拡大していった』(⑰、P222)。『東洋、ダイハツの2社をあわせた(三輪の)シェアは25年(1950年)の54.0%から27年の57.5%へ拡大』していったという(⑰、P222)。
1952~55年はマツダ・ダイハツがトヨタ・日産の生産台数を上回っていた
下のグラフ(「トヨタ/日産/マツダ/ダイハツの生産台数推移(1935~1956)年」)は、上記「表14」から、4社の生産台数部分を抜き出して折れ線グラフ化したものだ。しつこいようだがどうみても、1952年~1955年の4年もの長いあいだ、ダイハツとマツダの自動車の生産台数は、トヨタ、日産のそれを上回っていた(たぶん)。
m3.png
日本の自動車産業史を記すうえで、オート三輪と、マツダとダイハツの重要度がわかろうというものだ。
後の15.3項のマツダの項で触れる、1960~1962年の3年間、軽のオート三輪、K360の大ヒットでマツダが国内自動車生産台数の、僅差ではあったがトップであったことと合わせて、日本の自動車史を語るうえで、もっとクローズアップされるべき事実だと思う。
(下の表は、各社の1951年上期から1957年下期までの半期ごとの売上高推移だ。それぞれの社史(トヨタ;㉘、P796)(日産;㉟、P270、)(ダイハツ;㉙、資料編P22)(マツダ;⑰、頁がふられていない!が終わりの方)から数字を抜き出してグラフ化したものだ。自動車部門以外の金額も含んでいると思われるし、メーカー間で期間も若干ずれがあるが、大体の規模の差はわかると思う。経済評論家や経済学者の方々からすれば、このグラフを見て一安心し、生産しているクルマの単価が違い過ぎるのだから、一概に台数だけでは決められないと主張すると思うし、実際その通りだとも思うが、1951年~1955年頃の売上に限って言えば、大手四輪メーカーと比べても、驚くほどの差があったわけでもなかった。グラフ中の数字は、トヨタとマツダの一部を表示させたものだ。
m4.png
なお、古いトラック好きからするとなんとも楽しいブログ“旧式商用車図鑑”さん(web30-1)に、「戦後の「小型三輪トラックの販売推移」」というグラフがあり、そちらの方がわかりやすく工夫されているので是非ご覧ください。アドレスだけ貼り付けておきます。http://blog-imgs-56.fc2.com/r/o/u/route0030/20120703231301293.jpg )
(上で紹介したブログ“旧式商用車図鑑”さんに、戦後の高度成長期と重なる、オート三輪を取り巻く“歴史”を要領よくまとめて記していたので、安直ですが以下、引用させていただく。
『1950年(昭和25年)は朝鮮戦争が勃発した年ですが、この時期はマツダやダイハツ共にオートバイの前半分に荷台を組み合わせたスタイルの車両を制作していました。 
一方小型四輪トラックの方は、ダットサンやトヨタSB型が造られていたものの、まだ年産1万台弱の市場規模でした。
1953年(昭和28年)にかけて三輪トラック市場が急成長している背景には”神武景気”と呼ばれるものがあり、白黒テレビ、電気冷蔵庫、電気洗濯機といった”三種の神器”が家庭に普及しだし、ゆとりのある生活をしだした時代です。』(下のグラフは、その“神武景気”より後の時代だが、「トヨタ自販30年史」P100の数字を元に作成した。やはりTVの急激な普及が目立つが、最初は限りなく0%だった乗用車も10%を超えてきた。)
m5.png
『三輪トラックにはウインドスクリーンやキャンパス製の屋根が付き、また荷台の拡大や積載量の増大等により車体が大型化するのもこの頃からです。』(web30-1)
当時は過積載が当たり前だったが、公称積載量が1トン積のオート三輪でも、2、3トンの積載を想定して、普通トラック並みのリアスプリングを採用し、車体側も頑丈に作られていた。さらに小回りが利いて、細い路地でもどんどん走っていけるし、四輪に比べて荷台が低いので積み下ろしの作業も容易だった。確かに最高速度や居住性、乗り心地では四輪トラックには到底かなわないが、まだ高速道路もなかった時代で、高速安定性など求められなかったし、価格も当然安かった。その上、故障しても修理に日数がかからないし修理代も安かったという。荷物運びに徹していたのだ。(⑳、P77~、①、P334等要約)
『しかも、当時の免許制度では、小型車は18歳以上にならなければ所得できなかったが、軽自動車とオート三輪車、さらに50ccのバイクは16歳になれば免許を取得できた。現在のように、誰でもが高校や大学にいく時代ではなく、中学を卒業すればすぐに働く人たちが多かったから、こうした点でもオート三輪車は有利であった。』(②、P23)再び、(web30-1)からの引用に戻る。
『1954年(昭和29)にトヨタから小型四輪トラックのSKB型(のちにトヨエース)が登場し、幾度かの車両価格の値下げによって販売の方は軌道にのり、三輪トラック市場に割って入るようになったのです。その頃の三輪トラックはフルキャビンに覆われ、バーハンドルから丸ハンドルに変更され、小型四輪トラックに匹敵する装備をもちだしました。
1958年(昭和33年)金融引締政策によって景気が後退し“なべ底景気”の時期を迎えた。(東京オリンピックや高速道路、新幹線などの工事を行うことでその後は成長への途を歩んでいきました)
『三輪トラックの方は、エンジンを空冷から水冷にしたり改良を加えるものの小型四輪トラックの勢いに敗れ、1970年代の初めまで大きなモデルチェンジを行うことなく生産がされたのでした。』
(web30-1)以上、戦後のオート三輪史の、簡潔でわかりやすい歴史の要約を引用させて頂いた。
戦後のオート三輪=貧しさから脱するための原動力
戦後の復興期と、オート三輪の全盛期は重なっている。今の人たちにはたぶん理解しがたい、当時の人々がオート三輪に託した心情を、以下はオート三輪史を記した代表的な本である、「懐旧のオート三輪史」桂木洋二監修(②)の「はじめに」からの引用
『(オート三輪は)荷台には満載の荷物が、いまにも落ちそうなほど積まれた姿が似合う乗り物だった。現在の自動車のように安全性や快適性などを言い募っている時代ではなく、そんなことをくどくど言う暇があったら、もっと働け、と叱咤される時代のものだった。効率を求めるというより、貧しさから脱しようとする原動力が、オート三輪を求めていたといえるだろう。』wikiにも書かれているように少しでも多くの荷物を運ぼうと、『小型オート三輪メーカーの2トン積み車でも4トン、5トン過積載していた時代』だった。
(下の写真はそんな「過積載が当たり前」の時代を象徴するような写真として、愛知機械製のヂャイアント三輪車のトラクターの画像を、ブログ“ポルシェ356Aカレラ”さん(web❻-3)よりコピーさせていただいた、愛知機械は戦後のオート三輪業界の八大メーカー(ダイハツ、マツダ、くろがね(日本内燃機)、みずしま(新三菱重工業)、ジャイアント(愛知機械工業)、オリエント(三井精機工業)、アキツ(明和自動車工業)、サンカー(日新工業))のうちの一社で、水冷4気筒1488cc58HPエンジン搭載のAA-24T型は、5トン積(②、P147)トラクターを牽引したようだが、天下の日通といえども、見た目からはどうみてももっと積まれているような・・・。
https://ameblo.jp/porsche356a911s/entry-11665570175.html
m6.png
https://stat.ameba.jp/user_images/20160508/17/porsche356a911s/3d/e0/j/t02200165_0800060013640701091.jpg?caw=800
 以下、戦後の高度成長期を象徴する、エポックメイキングな3台(+番外編の2台)のトラックを紹介することで、この時代を別の角度からさらに掘り下げて、“番外編”としての戦後編を終えたい。

オート三輪大型化の先駆、マツダCT型
 1950年9月、マツダが新型のCT型を発売し、オート三輪の大型化に先鞭をつける。その時代の背景を、法規制の面から以下(⑳、P177)より引用
『1951(昭和26)年には、三輪トラックに対する排気量や車体寸法の制限が撤廃された。四輪車に比べて安定性に劣るという構造的な弱点があるとされ、これ以上のむやみな拡大は技術的に難しいという前提で、「制限する必要がない」という意味での制限撤廃だった。しかし実際には、通常の使用で三輪と四輪の安定性に、差はなかった(注;当時は速度が低かったので)。いずれにせよ、どこまで大きくしても構わなくなったのだ。一方で、小型四輪トラックに対しては、道路運送車両法によって全長4.7メートル以下という制限が続く。~ 三輪トラックの絶頂期が訪れる。』(⑳、P177)
こうしてオート三輪はロングボディを用意することができるようになったが、オート三輪メーカー以外の世間一般の認識としては『当時三輪車は「本建築を見るまでのバラック建」てなものという認識が一般的だった』(①、P343)
しかし、過当競争のこの業界では、そうこうしているうちに、マツダに続けとばかりに『50年代半ばまでにはほとんどのメーカーが小型四輪車より大型の三輪車を生産するように』(①、P334)なっていく。
戦前~戦後のこの時期の国内トラック市場において、最大のボリュームゾーンであったのが、フォードとシヴォレーが開拓し、戦前はその両社が市場を独占していた、1~2トン積のいわゆる「大衆」トラック市場だった。
通産省と運輸省の意図としては、この市場は三輪トラックのためではなく、大事に育てていた四輪の自動車産業のために用意されたものだったはずだが、『この大型化によって、1950年代半ばにおける三輪車は750kg~2トン積までのトラック市場をほぼ席巻することになった』(①、P334)!
官側の思惑が外れて、なんと“本命”の四輪トラックを差し置いて、オート三輪がその市場をカヴァーしてあいまうという、非常に不本意な状況が?生まれてしまったのだ。(①、P334参考)
そしてこの、オート三輪の大型(巨大?)化は、後手に回った運輸省が『55年7月に「現在制作されている最大の小型三輪トラックの大きさを越してはならない」という通達を出し、その拡大競争に歯止めがかけられるまで続けられた。(①、P335他)
 マツダのCT型はその嚆矢として、業界初の1トン積トラックとしてデビューした。そしてそのスペックも、非常に先鋭的であった。空冷V2型1157ccのOHVエンジンは半球型燃焼室と油圧タペットを持ち、32㏋と当時としては大パワーを誇った。その他、セルモーター式のエンジン始動、ラバー式のエンジンマウント、フロントウインドウに合わせガラスの採用など、新技術のてんこ盛りだった。
『~この先進的なオート三輪がその後のスタンダードになり、方向を大きく決めた。他のメーカーはマツダを追いかける立場となり、マツダは業界をリードするメーカーとしての地位を確保した。』(②、P84)
1950年当時の同クラスの四輪トラックのエンジンは、トヨタでいえば1947年に戦後型として新規開発した1,000ccのS型エンジンだが、4気筒とはいえSVの27㏋と非力で、パワーでマツダに劣っていた。日産に至っては、戦前の設計を引きずったD10型の860ccSVの21㏋で、大きく引き離されていた。企業としての勢いの差が、エンジン出力の差となって現れたのだと思う。
オート三輪から三輪トラックへ
戦前を思えば、立派に成長したオート三輪だが、CT型の完成は、マツダの事実上の創業者である松田重次郎(15.3項参照)にとっても感慨深かったのだろう。以下⑳より引用『これを機に、当時は健在だった重次郎はオート三輪を「三輪トラック」と名づけ、それまでのオート三輪とは一線を画す製品であることを打ち出した。確かに従来のオート三輪は、オートバイに荷台をつけた印象で、オートバイの延長線上と感じさせる。しかしCT型は、明らかにオートバイというよりは「トラック」の雰囲気を持っている。』(⑳、P176)この記事では区分けがメンドーなので、まとめてオート三輪として表記してしまうが…。
(下の写真はトヨタ博物館所蔵のマツダCTA型(1953年製)で、写真も同館のものです。CT型の発展型で、さらに積載量が多く、2トン積を誇ったという。戦後の復興期で、日本中が少しでも安く、より多くの荷物を運ぼうと必死だった時代に、スペックの面からみても、四輪より需要が大きくなって当然だっただろう。日本のインダストリアルデザイナーの草分け的な存在であった、社外デザイナーの小杉二郎の手になる、生産性も充分考慮に入れたと思われる、鋭角的で、見方によっては恐ろしくモダーンなデザインは、今見ても実に斬新だ。ムチャクチャに思われるかもしれないが、「ニューヨーク近代美術館」に展示されたとしても、おかしくないくらいのレベルにあるようにも思う。)
m7.png
https://pbs.twimg.com/media/EaN4kUPU4AEj2ep?format=jpg&name=4096x4096
オートバイ/オート三輪/乗用車・小型トラック/大型トラックが棲み分けしていた
余談の中の余談だが、(②、P10)によれば、『オート三輪車が全盛を誇った1950年代の自動車は、大きく分けて①オートバイ、②オート三輪車、③乗用車及び小型トラック、④大型トラック及びバスという4つに分類される。そして、これら4種類の分野ごとに異なるメーカーが活動していたのが、この時代の大きな特徴だった。』
誤解されないように追記しておくが、たとえば日本のオートバイ産業には、(⑥)の巻末の「日本の二輪車メーカー一覧表」を数えると、かつて278社もあったという。そのカテゴリーの中での過酷な生存競争の末に、今日の4社が生き残ったのだが、1950年代は、各カテゴリー間に於いては『~直接的な競合関係になく、お互いを意識することもあまりなかった』という。

トヨエースの登場で、三輪トラックは引導を渡される
しかしその業界の間にあった暗黙の“垣根”を壊しにかかったのが、当時の日本の自動車業界の中では珍しい、“猛禽類”?的な側面も併せ持っていたトヨタで、トヨエース(最初は1954年型「トヨペット ライトトラックSKB型」で、1956年に「トヨエース」と改名)の登場によってオート三輪の全盛時代はその幕を閉じていくことになる。
元々『SKB型の発想は、S型(注;先に記したが1000cc)エンジンの生産設備の有効活用を検討する過程で生れたものだった。』(㉝、P65)パワフルな1500ccのR型に小型車系を全面的に切り替えたため、宙に浮く形になった、『S型エンジンの利用を前提とした商品の検討を急ぎ進め、その結果、当時根強い勢力を持っていた小型三輪トラック市場の切崩しを狙いとするSKB型の構想が生まれたのである。』(㉝、P65)(余談だがS型の活用としてこのとき、フォークリフトも作られた(LA型フォークリフト、1956年(㉜、P210))。トヨタフォークリフトの始まりだ。考えることに無駄がない。2016年の豊田自動織機の記事で、国内販売台数50年連続 No.1を達成したという記事があるが、たぶん今もその記録を更新中なのだろう。下の写真は豊田自動織機製作所のHPよりコピーさせて頂いた。)
m8.png
https://www.toyota-shokki.co.jp/about_us/items/1950_2.jpg
話を戻し、いわば、有り合わせの材料で作られたトヨエースだったが、しかしトヨタ自工の石田退三と、自販の神谷正太郎のとった、対オート三輪史上攻略のための販売戦略は画期的なもので、その展開も実にドラマチックだった。またもや脱線してしまうが、長い引用で、紹介させていただく。最初の引用は(②、P25)より
『トヨタでは、オート三輪の買い替え周期が、およそ5年前後であることをつかみ、需要が急速に伸びた1950年頃のユーザーが買い替え時期を迎える1955年を目標にして、その前年にオート三輪車ユーザーを引き寄せる小型四輪トラックを発売する計画で開発に着手した。』以下はトヨタ自工の社史の(㉘)より引用。
『わが社の技術陣が、戦後のヨーロッパの自動車市場の動きを調べたところ、特に我が国と同じように戦争による損害が大きかったドイツにおいて、終戦直後は三輪車が急速に伸びたが、やがて復興が進むにつれて、三輪車が次第にキャブオーバータイプの小型トラックや、コマーシャル・トラックに置き換えられつつあるのを知った。そして、こうした傾向が、遠からずわが国においても現れるであろうと推察し、~当時、小型トラックの6倍以上の市場規模を持つ三輪車市場』(㉘、P370)を奪うべく、虎視眈々と狙いを定めていたのだ。(㉘)の自工の社史では“わが社の技術陣が”と強調しており、初期の企画段階では、自販側でなく自工側の主導だと感じさせるニュアンスで書かれているが?そこは不明だ。話を続ける。
 こうして既成の部品を多く流用しコストダウンを徹底させたこのトラックの特徴は、社史にあるようにヨーロッパの動向をにらんで『キャブオーバータイプにしたこと』で、『荷台のスペースを広くとることに成功した』(②、P24)。
しかし、原価計算の結果から割り出された販売価格は、東京店頭渡しで62.5万円(1954年9月、SKB型)で、『三輪トラックの約2割高。売れ行きはさっぱり』(㉝、P66)であった。以下は(⑤、P85)からの引用
『~発売当初は景気も良くなく、目立つ売れ行きをしめさなかった。しかし、徐々に販売台数は上向いた。そこで、トヨタはそれまでの常識を破る販売政策を実施した。このときのトヨタ自動車工業の社長は石田退三で、トヨタ自動車販売の社長は神谷正太郎だった。
トヨタきっての商売人といわれた二人のトップが増販のために打ち合わせて、大幅に車両価格を引き下げると同時に販売体制を強化することになった。1台当たりの利益を少なくする代わりに大量に販売することで採算をとる方針であった。
1956年1月に車両価格を一気に7万円引き下げて、車名をトヨエースと改めたのである。トヨタでは、普通トラックにディーゼルエンジンを搭載して新しい販売店を作っていたが、これを元にして新しい販売チャンネルをつくって大幅に店数を増やして、トヨエースの販売に力を入れた。』

“販売の神様”と讃えられた神谷正太郎が残した名言の中に「一升のマスには一升の水しか入らない」というものがあるが、この時生れた名セリフだ。⑤より引用を続ける。
『これは、明らかにオート三輪車の顧客を取り込もうとする作戦であった。この後も、タイミングよく車両価格を引き下げていき、最終的には46万円とほとんどオート三輪車とそん色がない価格となり、トヨエースの販売台数は鰻登りとなった。
1956年8月には月産1000台を突破していたが、1957年4月には月産2000台に達した。これはトヨタ自動車の生産台数の3分の1を占める数字であった。』
以下は(㉗、P118)
『トヨタの作戦が成功した背景には、日本経済の成長があったものの、次々と手を打った石田と神谷という「商売人」による連携プレーがあった。トヨタは乗用車中心になると見越しても、堅調な需要が見込まれるトラック部門をおろそかにしなかった。これも、その後に日産との企業格差が生じる原因のひとつになった。』
オート三輪のピークは1957年で、その後急速に衰退していった
結局オート三輪のピークはこの1957年であった。『道路事情が改善されてくると、それまではあまり問題にならなかった速度や安定性など、走行性能の面で、三輪は四輪にかなわない。やはり三輪トラックは、社会基盤が発展途上にある過渡期の製品に過ぎないのだ。』(⑳、P182)
(逆の言い方をすれば、1957年までは、日本の自動車市場はオート三輪が主流だったことになる。下図は(㉛-2、P144とP146の資料を元に作成した、道路投資額と道路舗装率の推移。自動車重量税をはじめ自動車関係諸税による税収の確保で、日本の道路も着々と整備されていき、走行速度も高速化していった。)
m9.png
三輪車は、宿命的な欠点を併せ持っていたので、社会インフラの整備が進み四輪車が普及すれば、いつかは消え去る運命にあったものの、トヨエースが引導を渡した形となり、その後急速に衰退していった。そしてこの“正常化?”は、自動車行政を司る国(通産省と運輸省)側にとっても、望ましい結果だったに違いない。
トヨエースの登場は、マツダとダイハツにも幸いした?(私見)
しかしこのトヨエースの登場を、ダイハツとマツダの側の視点からみると、賓よくなトヨタが早々に引導を渡してくれたおかげで、両社はズルズルと、出口のない深みに嵌る直前の段階で脱皮を迫られて、結果として何とか、四輪自動車メーカーへの転換を果たせたともいえると思う。マツダとダイハツは、トヨタ自工&自販が放ったトヨエースという「刺客」に、感謝すべき面もあったと思うが?ただしあくまで、今となって考えれば、の話ですが。ちなみにトヨタ自販の社史では、トヨエースが日本の自動車市場/業界に対して果たした役割について、以下のように記されている。
『トヨエースの成功は、自動車業界に新たな動きをもたらした。すなわち、従来のボンネット型の貨客兼用車に加えて、積載本位のキャブオーバータイプのトラックが各社からつぎつぎと発売され、市場を形成した。それに伴い三輪トラックが急速に衰退する運命をたどり、三輪トラックメーカーの四輪車分野への進出が始まった。』(㉝、P67)
(下の写真はそのSKB型で、JSAEの「日本の自動車技術330選」より。以下(㊱-3、P11)『このクルマの出現で、バーハンドル車オーナーは激しい劣等感を抱いた。それゆえ、50年代末にはバーハンドルを丸ハンドルに改造するキットまで販売されたほどである』
まったくの個人的な好みでいえば、乗用車/トラックを問わず80年以上の歴史を持つトヨタの歴代全車種の中で、歴史的なこのSKB型トラックがもっともグッドデザインだったと思う。徹底したコストダウンを貫徹したが故の、無駄のない合目的なデザインだった。なおトヨタ博物館によれば、カンフル剤は「値下げ」とともに、「車名公募」であったという。募集数は20万通以上に及んだという、その最終候補に残ったのが「トヨエース」と「トヨモンド」で、審査員による最終評決(6票対4票)でSKB型は「トヨエース」に決まったそうで、「トヨモンド」の可能性もあったそうだ!(web27-2))
m10.png
https://www.jsae.or.jp/autotech/photos/3-12-1.jpg

軽のオート三輪、ミゼットの大ヒット
 ダイハツのミゼットは、webで検索すると多くの情報があり、映画の“出演”も多かったせいか、たぶんすべてのオート三輪の中でもっとも話題が豊富だ。その中で安直だが、wikiの記述が簡潔にまとまっているので、そのままコピペして引用させていただく。『ダイハツは、これまでオート三輪でも高価で手が届かず、専ら自転車やオートバイなどを輸送手段としていた零細企業・商店主などの、小口輸送需要を満たす廉価貨物車の開発を着想した。これは当時におけるいち早いマーケティングリサーチの成果であった。1950年代中期の日本能率協会の調査によれば、従業員10人以上の事業所には小型オート三輪トラックが相当に普及していたのに対し、全事業所数の93 %もの比率を占めた従業員9人以下の小規模事業所ではオート三輪はほとんど使われておらず、オート三輪メーカーにとっては未開拓のマーケットだったのである。』
ミゼット誕生のきっかけとして『1956年(昭和31年)夏のある雨の夜に大阪梅田を歩いていた同社社長と専務は、ビールを積んだスクーターが横転し、すべてのビール瓶が割れるという光景を目撃した。こんな時に幌付三輪スクーターがあったら・・・という発想が生まれ、ミゼットの開発に活かされたというエピソードが』(web30-3)あるようだ。Wikiからの引用を続ける。
『このため、車検免除(当時)や安い税額などのメリットを持つ軽自動車枠に目をつけ、当時存在した軽自動車免許(現在は普通自動車免許に統合され、未済条件として存続)で運転できる軽オート三輪トラックを開発した。開発は1954年(昭和29年)から着手され、1956年(昭和31年)には試作車が完成した。』以下は⑱より引用『(1958年)8月に市場デビュー。英語で「超小型のもの」という意味を持つ、ミゼットの愛称が与えられた。』(⑱、P28)以下もwikiから引用
『販売戦略も、その軽便性を売りとする「街のヘリコプター」なるユニークなキャッチフレーズ、楠トシエの歌うコマーシャルソング「みんみんミゼット」など個性的であったが、特筆すべきはテレビコマーシャルのいち早い活用であった。当時ダイハツがスポンサーとなっていたコメディドラマ「やりくりアパート」(1958年 - 1960年)の生CMに、ドラマの主役である大村崑を起用、番組終わりのCM枠では毎回、大村がギャグ混じりで両手を扇形に広げるアクションとともに「ミゼット! ミゼット!」と連呼した。これらの拡販策は大当たりとなり、ミゼットは一躍ベストセラーとなった。』(下の折れ線グラフは、ミゼットが生産されていた頃のダイハツの生産台数の推移で、ダイハツの数字は社史の㉙、P42より、参考までに載せたトヨタの合計の数字は自販の社史(㉝)のP74からとったものだ。このグラフからはやはり、トヨタとの勢いの差が感じられる)
m11.png
(下の写真は軽三輪車という新しいジャンルを開拓したダイハツミゼット。ミゼットはタイの三輪タクシー「トゥクトゥク」のベースとなった点でも重要だ。少々長くなるが、以下(web❽)より引用『オート三輪は日本国内のみならず海外にも輸出され、(中略)中でも東南アジア方面へは敗戦国日本の戦後賠償として大量のオート三輪が輸出され、特にダイハツミゼットは中古車や解体車の部品が無償で輸出され、東南アジアではトラックとしてだけでなく、荷台を客室に改造し軽便な旅客輸送車両としても重宝されました。』こうしてダイハツミゼットをベースに「トゥクトゥク」が誕生するのだが、驚くべきことに、(web❽)によれば『~日本のダイハツミゼットの末裔ということは現在もタイを走り回ってるトゥクトゥクの部品とダイハツミゼットの部品と互換性があるのか?(中略)答えは「Yes」』なんだという。想像以上の血のつながりの濃さだ。トヨタ博物館所蔵の1959年製DKA型は初期型で、写真も同館のものです。ミゼットは1957年~1971年まで生産されたが、その生産台数は317.152台(輸出台数 19.382台)に達したという(web30-3)。)
m12.png
http://home.q01.itscom.net/taichi/event/201507/26.jpg

以下の2台のトラックは“番外編”として記す。戦前フォードとシヴォレーが開拓し、戦後の一時期はオート三輪が握っていた、普通免許で乗れる2トン積級のトラックの市場を受け継ぎ、さらに発展させた、“正統的?な後継車”として、トヨエースの上のクラスを担った2台のトラックを紹介しておきたい。
小型トラックの代名詞、いすゞエルフ
1台目は小型トラックの代名詞的な存在であるエルフ。以下の説明文は「日本自動車殿堂 歴史遺産車」(web❼-5)より引用
『いすゞエルフは、日本の狭い道路事情で「最も効率よく荷物を運ぶ」という目的を達成するため、1959年にいすゞ自動車初の本格キャブオーバー 2 トントラックとして誕生した。
(中略)広いキャビンと良好な視界、 3人乗りのベンチシートなど、キャブオーバートラックとしての効率的なレイアウトの追求と、耐久性・経済性に優れたディーゼルエンジンの採用により、市場の高い支持を得て、ベストセラー小型トラックとしての基礎を確立した。』
エルフという名の由来だが『エルフとは英語で「小さな妖精=茶目っ気少年」の意味で、いすゞの乗用車ヒルマンのミンクス=おてんば娘と称されたのに合わせて命名されたといわれている。』(㉓、P52)“ミゼット”の名前の由来に似ているが、大型トラックが主体だったいすゞにとっては、小さなトラックだったのだろう。
画像は“response” https://response.jp/article/img/2020/08/25/337781/1554031.html
よりコピーさせて頂いた。小型トラックの世界に、ディーゼル・エンジン車を定着させて、後に続いた三菱キャンターと共に、2トントラックの市場を牽引していった。
m13.png
https://response.jp/imgs/fill/1554031.jpg
“4トン車”市場を定着させた、三菱ふそうT620
“番外編”の残りの1台は、現在に至る4トン積中型トラック市場を本格的に開拓し、その初代王者として君臨した、三菱ふそうT620型。この歴史的なトラックの誕生の経緯については、一般で入手可能な本としては、㉕が比較的詳しかったのでそれをガイド役に、さらにインサイドストーリーが記されている(㉛、ふそうの歩み)と(web30-4)で補足しつつ、以下要約して引用させていただく。
戦後の三菱車を説明する上でややこしいのが、三菱重工業が、戦後3社に分割されたことで、自動車関連は、東京(丸子)・川崎でふそうトラック/バス、名古屋で各種車体、京都でエンジン、岡山・水島でオート三輪やスクーターの生産を行う等、各事業所で分担?していた。しかし、1964年に旧三菱重工系の3社が合併し、再び三菱重工業として復活していく過程で、自動車分野も整理・統合されていく。
中型トラック分野では、三菱はもともと先駆者で、オート三輪等をつくっていた水島製作所で作られたジュピターという、他社にない大きさの2.5~3トンクラスのボンネットトラックのシリーズがすでにあった。
水島では、下火になったオート三輪に代わる生産品目としての位置づけだったが、一方大型が中心だった川崎/丸子のふそうトラック部門では早くも『1950年代には5トン前後の中型トラックの占めるシェアが大きかったことから、このクラスへの参入計画が立てられた』(㉕、P110)という。下表は(㉛、P335)に記載されていた、1952、54、56年度の普通トラックの生産台数の数字を元に作成したグラフだ。この表では参考用として、日産とふそうの数字だけ示しておく。元データの数字がまるめてあったので、参考扱いとしておくが、全体の傾向はわかる。
m14.png
この表を見ると、普通トラック(大ざっぱに言えば、5トントラック以上の大きさ)の市場は、戦前から商工省に目をかけられて、大事に育てられてきた、トヨタ、日産、いすゞのいわゆる“御三家”の台数が突出している。そしてこの3社が握っていた、5トントラックの市場に、ふそうが参入したかった気持ちは理解できる。日野やふそうは当時その上の、より需要の少なかった7~8トンクラスの大型トラックの製造を担っていたのだ。話が脱線するが、それにしてもこの時代は、トヨタも日産も5トントラックの生産台数が多かった。戦前から軍用トラックを量産していたのだから当然なのだが、たとえばクラウン登場以前のトヨタは、小型四輪車と普通(大型)トラックの生産台数に、大きな差はなかったのだ。下表も(㉛、P334)の生産台数の数値を元に作成したものだ。参考までに。
m15.png
話を戻し、ふそうが大型トラックメーカーから総合トラックメーカーへと発展するために、(㉛、P491)によれば早くも1954,5年頃から、中型トラックの検討が始まっている。その際、電通に委託して2度にわたり大規模な市場調査まで行い、高い出費だったようだが『この調査により四トン車進出への自信は固められ、後年十二分に報いられた』(㉛、P494)という。その後、1958~9年頃に中/小型平行検討となり、エルフの登場もあり、小型の開発が優先されたが、中型トラックの方は、足掛け7年かかり1961年11月に、漸くに試作1号車が完成する(㉛、P492)。
この中型トラックは、4気筒2,000ccのキャンターのエンジン(4DQ型)を6気筒化した3,000cc102㏋/4,200rpm(6DQ型)という、比出力の非常に高い高回転型のエンジンを搭載する計画で進んでいた(余談だが、4DQ型の前身だった4DP型は当時の小型車規格内であった1,500ccにして、52㏋という高出力型で、1960年度の日本機械学会賞を受賞したそうだ。)
しかしこのエンジンでは余裕が少なく、将来的なパワーアップ競争に耐えられないと判断されて、急遽、より大排気量のエンジンを新開発(6DS1型)し、置き換えることになったという。(㉕、P113)この間、水面下では事業所間で、生産品目の整理統合(それと内部競争も?)もあったのかもしれない。(下の表は㉛、P336で記されていた数字をグラフ化したもので、1960→1965年の大型トラックの生産台数の推移で、やはりふそうの伸びが目立つ。数字はふそうのみ示しておく。)
m16.png
ふそうの社員の生の声を綴った(㉛)では、当時のふそう開発陣の気持ちとして『全員が「トラックで飯を食うんだから、まず日野を抜きたい」の一点に結集して努力をしているうちに、完全に抜き切ったと判った頃にはいすゞも下がって来ていて、自動的に抜いていたというのが実感であった』(㉛、P427)と記されている。もともと潜在的な力はあったのだろう。もっともその後、日野も激しい巻き返しに転じて、大型トラック分野ではこの2社を中心に、熾烈なトップ争いを繰り広げることになる。あの事件が起きる前までは・・・。
1964年10月、最初の企画から約10年という、長期計画になったが、満を持して、4トン積み中型トラック“ふそうT620シリーズ”がデビューした。そのスペックは、同クラスの他車を圧倒し、余裕ある6気筒4,678㏄(110ps)ディーゼルエンジンを搭載し、普通免許で運転できる最大の積載量を誇った。荷台長も4,270mmと6トン積トラックに匹敵する長さで、しかも荷台が低く積み下ろしも楽だった。キャブオーバー型スタイルのキャブの室内は、乗車定員2名が普通であったところ、3名乗車が可能だった。発売以来わずか2年7ヶ月で国内販売累計2万台を突破し、中型4トントラックの市場を確定させた。(㉕、P113、web30-4参照)その後、巻き返しを図る日野のレンジャーや、いすゞのフォワードなどと、激しいシェア争いを繰り広げていくことになる。
m17a.png
上の画像はなんと、ユーチューブの「#旧車カタログ #三菱ふそう4トントラック #T620」https://www.youtube.com/watch?v=L0lgO10ydRA
からコピーさせていただいた。それにしても、この歴史的なトラックの情報が、webであまりにも少ない・・・。)
早くも延々と脱線してしまったが話を戻し、オート三輪が、4輪の自動車のように“人工的”に育成されたものでなく、戦前/戦後の動乱の時代に、必死に働いた日本人の、日々の生活の中から生まれたのであれば、そのルーツは何だったのか、まずはそこから確認していきたい。
(※いつものように文中敬称略とさせていただき、直接の引用/箇所は青字で区別して記した。また考える上で参考にしたものや、写真の引用元まで含め、出来るだけすべての元ネタを明記している。この記事のたぶん9割以上が、それら参考文献に依存するものだが、今回は特に以下の三氏の著作に多くを頼ったので、最初にネタばらしをしておきたい。
・呂寅満著『日本自動車工業史-小型車と大衆車による二つの道程-(東京大学出版)=引用①』と、
・『懐旧のオート三輪史(GP出版)=引用2』をはじめとするGP出版の桂木洋二氏の一連の著作(他に引用⑤、⑦、㉖、㉗、㉜)及び、
・マニア向けの旧車誌、月刊オールドタイマー(八重洲出版)の連載記事、『「轍をたどる」の中の、「国産小型自動車のあゆみ」編』岩立喜久雄氏(④-1~④-×)
以上三氏の著作だ。以下に記していくこの記事は、これらの著作から勝手に“つまみ食い”させていただいたことをあらかじめ記すとともに、深く感謝します。引用に掲げた三氏の著書を読めば、この記事はまったく不要(その大幅な劣化版なので)であることも明記しておく。特に今回、ダイハツの情報収集に苦労し、ダイハツの社史(引用㉙、㊴)を購入し確認しても内容が薄くがっかりし、困り果てていた時に出会ったものが、月刊オールド・タイマー(八重洲出版)の「轍をたどる」という60回に及ぶ連載記事の中の、「国産小型自動車のあゆみ(編)」という一連の記事だった。
岩立喜久雄氏によるこの労作が、「戦前の国産小型自動車のあゆみ」として近い将来、一冊の単行本として出版されて、より多くの方々に読まれることを切に期待したい。ただしその際には、ダイハツとマツダの車種の変遷ぐらいは、十分情報をお持ちだと思うのでぜひ書き加えていただきたいが!マツダ車については現状でも情報は得られるが、戦前のダイハツ車については、貴重な情報になるので。
 以上は戦前の国産小型三/四輪車の、自動車マニア的な側面も含めての、“歴史”についてまとまるうえで参考にしたものだが、自動車産業史としてみた場合、全体の基調を確認する上で多くを頼ったのが、先に掲げた桂木洋二氏の一連の著作と共に、呂寅満氏の著書(『日本自動車工業史-小型車と大衆車による二つの道程』;引用①)だった。
というか、今回の一連の記事(日本の自動車産業の“育ての親”は日本陸軍だった?)を書き進めるうえで、全般的にもっとも影響を受けたのがこの本だった。もちろん、同書の内容のすべてに賛同したわけではけっしてない。しかし少なくともこの本には、同時代の日本の研究者/モータージャーナリストにはない“勢い”というか、ほとばしるエネルギーが感じられた。著者は1996年から2005年にかけて、韓国から日本に留学して日本の自動車産業史の研究をされたようだが、氏の思いは同時に、日本に追いつき追い越そうと必死だった、当時の韓国自動車産業の思いでもあったのだろう。それにしても、日本の戦前の自動車産業史を記すうえで、韓国人の研究者の著した本がもっとも参考になったという事実には、少々考えさせられるものがある。そして呂氏の研究に明らかに影響を受けたと思える書き物は、今の日本に多いように思えるが、参考文献として掲げていないものがほとんどなのは、如何なものかと感じてしまう。もっともその影響が、二次的なものだったりする場合もあるので、影響を受けたこと自体、わからない方々が多いのかもしれないが。下の画像はアマゾンよりコピーした。)
m18.png

>14.オート三輪へと至った道
生活者目線で日本のクルマの歴史のおさらいをする
ご存じのように明治以前の日本の社会では、欧米のような馬車という乗り物がなかった。そもそも江戸時代は統治上の理由から、スピーディーに移動することを奨励しなかったので、人々の移動手段は、駕籠(かご)もあったがもっぱら徒歩に頼った。
そんな日本だったが、幕末~明治にかけて『交通史家である斎藤俊彦(注;③の著者)によると、欧米諸国では、馬車を中心とした長い道路輸送時代を経たあとで、鉄道の時代が始まったのに対して、日本では、馬車、鉄道、馬車から鉄道への過渡的な役割を果たした鉄道馬車、自転車などの「舶来品」が、幕末から明治初期にかけてほとんど同じ時期に導入された。それらに日本人が編み出した人力車が加わって、日本独自の交通体系が形成されていった(㉚、P63)のだという。
そして戦前の国産自動車産業をみた場合、四輪の中でもいわば本流であった大衆車クラスの乗用車とトラックが、フォードやシヴォレーのKD生産車に市場を席巻される中で、国産車は軍用トラックや省営バスなど官需主体でかろうじて生き延びていたのと違い、オート三輪は『民間の需要に応じるための性能や価格を備えた製品を保護政策なしに供給する「下からの形成過程」』(①、P144)を経て独自に発展を遂げていった。そして『長期間かつ多量に三輪車が生産されたのは日本のみ』(①、P138)という、世界的に見ても例をみない、独自のクルマ社会を形成していったのだ。
そこで、日本固有の、クルマ社会の歴史を簡単に振り返りつつ、オート三輪へと至った道のりを確認していきたい。まずは日本人のための乗り物として、日本のクルマの時代の先駆けとなった、人力車の話から始める。以下は(㉚、P82)から引用する。

14.1日本人の代表的な交通手段だった人力車
『馬車や自動車では後れをとったが、日本人が発明した乗り物もある。まずは、文明開化の時代、日本人の生活の中に入り込んだ「人力車」。最初は乗ることが照れくさかったようであるが、乗ってみると、実に爽快。長らく身分制度に縛られた生活をしてきた人々にとって、背伸びをするような解放感、少し高いところからの目線で見る景色、ワクワク感があったようである。』この“解放感”の背景の一つとして(④-3、P168)『江戸時代幕末期までは諸車の使用が一部の地域、江戸、京、駿府、大阪などに限定され、その他の地域では厳しく禁じられていたが、明治維新と共にこれらの車両が一気に解禁』されたことが影響していたようだ。
14.1-1明治時代にクルマといえば人力車のこと
以下は(④-3、P168)より『明治期に最も活躍したクルマといえば、それは何と言っても人力車であった。~ 現在の我々は自動車のことをクルマと略称するが、明治期は人力車をクルマと呼んだ。たとえば我々はタクシーを呼び出すとき「クルマを呼ぶ」というが、明治の人はまったく同様にクルマ(人力)を呼び付けた。』(④-3、P170)そして人力車の普及は『鉄道立国の明治は産業経済の分野で蒸気機関車が大役を果たしたが、市井において小さな人力車が人の効率的な移動に寄与した経済効果は計り知れない。』(④-3、P168)
以下も(④-3、P172)からの引用『二輪馬車の車夫の中には1日に36里(144km)を引き、東海道(約500km)を7日で走り抜く者もあったという。市街地を駆け抜けるこれほどの高性能?な貨客運搬用小車は、西欧にもなかったろう。』狭い道幅の当時の環境下では、人力車がもっとも機動性が高く効率的な乗り物であったようだ。
14.1-2当時の日本はクルマ後進国ではなかった?
以下も(web❶)より引用『人力車が日本の代表的な公共輸送機関に取って代わった。1876年(明治9年)には東京府内で2万5038台の人力車があったと記録されており、19世紀末には20万台を越す人力車が日本にあったという。人力車は大阪でも使われるようになり、全国へと普及していった。各地に中継地ができ、道路も整備されていった。』
その普及のスピードだが『さらに信じがたいのは ~ 明治3年に東京で発生した新奇な乗り物が、わずか5年の間に10万台も普及』したことで、短期間に、ほとんど爆発的とも言えるほどの急激な普及だったと論じている。(④-3より)
さらに、大蔵省統計で明治29年(1896)年の約20万台という保有台数は、当時の人口を約4千万人とすれば、人口200人当たり1台の人力車があったことになり、『~人力車を最小サイズのクルマとみるならば、当時の日本は決してクルマ後進国ではなかった。むしろそれなりのクルマ大国であったとさえいえよう。』(④-3、P172)と、けっして“クルマ後進国”ではなかったとしている。
前回の記事で、昭和10年頃の日本には、全国で約5万台の円タクがあったと記したが、乗り物としてのスケールが違い過ぎるとはいえ、台数ベースの比較では明治時代の人力車のほうが、戦前の昭和の円タクより4倍も多かったことになる。そして明治時代の人力車の普及が、昭和の円タクの普及の下地を作っていたことになる。
(人力車がどんな乗り物なのかの説明はさすがに省略する。画像は「人力車の歴史」(web❶)より コピーさせて頂いた。http://edomingu.com/jinrikisha/jinrikisha.html
m19.png
http://edomingu.com/image/jinrikihaPostcardIx350.jpg
14.1-3人力車は日本人が発明した?
ちなみに人力車の発明者については、㉚などいくつかの本では日本人の和泉要助(ら)が発明したとしている。(たとえば『人力車の発明についてはいろいろの説があるが、日本では1868年に和泉要助、高山幸助および鈴木徳二朗によって発明されたとされている。彼等は馬車をヒントに人力車を作製した』(web❷、P35)という記述のように。)
 一方(④-3)『和泉要助、鈴木徳二郎、高山幸助の3名が提出した人力車営業願書に対し、東京府が許可を与えたのは事実だ。しかしだからといって和泉要助が人力車の代表的な発明者だったとは限らない。前述の通り人力車の改良、量産に最も貢献した功労者は秋葉大助(1843~1894)であった。』(④-3、P170)と、秋葉大助の功績が大きかったとしている。詳しくは(④-3)をぜひ確認してください。(web❶)でも『秋葉大助が西洋馬車にヒントを得て改良した舟型が祖型となった』としている。岩立氏が指摘しているように、人力車は和泉要助ら、特定の人物の“発明”によって誕生したわけではなく、多くの日本人の手を経て完成したものだと言えそうだ。
14.1-4すでにパリの道を走っていた
しかし残念なことに、交通史家である斎藤俊彦氏によれば、『人力車は日本独特の発明だと言われてきたし、誰でもそのように思ってきた。しかし、今から300年ほど昔の十七世紀から十八世紀にかけて、花のパリの道路を走っていた』(③、P39)という。『人力車はけっして日本独特ではなく、かつてのヨーロッパでも一時利用されていた』(③、P41)とし、さらに歴史をたどれば、中国などでも使われていたようだ(wiki等参照して下さい。)
 この指摘に対して(④-3)の中で岩立喜久雄氏は『~また人力車は18世紀フランスのビネグレットが原型との説もあった。確かにビネグレットも含めてほとんどの欧米製品が輸入されただろうが、日本の車大工ならば様式馬車の実物を観察しただけで、ただちに鍛冶屋に板バネを作らせ、人力車の原型を試作できたに違いない。ビネグレットと人力車では用途もレイアウトも異なり、性能も人力車のほうがだいぶ進化していた。』と新たな“定説”に対してやんわりと反論している。
 さらに、人力車が日本で生まれた最大の理由として、『二輪車のミニマムレイアウトを人間が引いた最大の理由は、単純に日本の道幅が狭かったからである。轅(ながえ、かじ棒)の先端で引き回すため、何よりも小回りが効き、取り回しが良く~』(④-3、P172)と記している。確かに、必要は発明の母だ。
さまざまな意見があるが、個人的な“感想”としては、“Rickshaw”(リクショー=“人力車”のこと。日本由来の英語になった)は、岩立氏の見方のように、確かに二輪馬車の縮小版で、板バネの技術等、その影響を受けつつも、やはり日本固有の社会と風土が育んだ、日本独自の乗り物だったと、理解して良いように思える。まわりくどい表現だが、そうだとすれば、誰か特定の人物の“発明”というわけではなく、人力車は日本(人/社会)が“発明”した乗り物として、解釈すべきように思えるのだが、如何でしょうか。
(下の画像は、https://www.wikiwand.com/fr/Vinaigrette_(v%C3%A9hicule)より
コピーさせて頂いたもので、ビネグレット(Vinaigrette)の一例。17,18世紀頃、フランスの貴族階級が旅行や外出の際、使っていたもののようだ。やはり人力車とは別の種類の乗り物だったと思いたい。ちなみに人力車に対して、欧米からは、人間にクルマを曳かせる行為は、人間の奴隷扱いで野蛮だとの批判もあったようだが、岩立氏の指摘のように現実問題として、明治時代の日本の狭い道では、人力がもっとも機動的で、それしか成り立たなかったのだろう。)
m20.png
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5f/Beauvais-FR-60-CPA-une_vinaigrette-01.jpg/440px-Beauvais-FR-60-CPA-une_vinaigrette-01.jpg
14.1-5重要な輸出産業だった
日本人の発明であったかどうかは別としても、wiki等によると人力車は産業面でもアジア各国へ輸出され、特にインドでは、明治40年代、年間1万台が日本から輸出』されたというからすごい。
『1896(明治29)年の21万台をピークに以後は減少していくが、その代わり、人力車の輸出が増加し、それらの地域で大変重要な乗り物として定着していく。主な輸出先は中国や東南アジア。さらには周辺諸国にも広がっていった。インドのコルカタ(旧カルカッタ)ではいまでも使われている。』(③、P82)そうで、アジアを中心に人力車の世界的な普及に貢献した。先に(④-3)からの引用で、人力車の普及に最も尽した人物として、秋葉大助を紹介したが、以下は(web35、「人力車の歴史について(くるま屋)」)で、輸出を含む、秋葉の功績を要領よくまとめていたので、以下引用させていただく。
『⑤秋葉大助の貢献
秋葉大助(父子)は人力車の歴史を語る上で決して外す事の出来ない存在です。秋葉製の人力車は非常に好評で、彼の作った人力車を大阪では「大助車」と呼んだほどでした。
⑥東京銀座にあった明治期最大の人力車製造工場
「諸車製造所秋葉大助」
大助はそれまでの粗雑で殺風景な人力車を一新させ、車体に漆を塗ったり車軸にバネをつけたりして改良に様々な苦心を払いました。その結果、だいたい現在の人力車の形になり、乗り心地が快適になりました。
和泉らが営業を始めてからしばらくは人力車の形には様々なものがあり、腰掛型、坐型、二輪、三輪、四輪、ちりとり型、だるま型など、多種多様だったが明治8年ごろには現在の人力車と近い形に落ち着きました。それには初代大助の貢献が極めて大きいと言われています。
また、この年に初めて英・仏への人力車の輸出を開始し、その後次第にシンガポールやインドなどへと輸出を拡大していきました。』
(以上、web35より引用)
 以下は(④-3、P171)より『~ゴム製のタイヤ、さらには空気入り(ニューマチック)タイヤの特注から輸入、ひいては国産自転車工業の発展に至るまで、秋葉大助商店が各業界に与えた影響は大きかった。~ 上海での現地生産や、年間1万輌の輸出など、人力車製造は日本の代表的な輸出産業の一つに成長していた。』人力車の説明の最後として、たびたびですが、月刊オールド・タイマーの連載記事の(④-3、P177)から引用
『~なぜエンジンも付いていない人力車を自動車史で取り上げるのか?と疑問に思われた方もあろう。
 ただこれらを通観してみれば、日本人によるクルマ製作は、欧米から自動車が輸入された後に、初めてそれを模倣するところから始まったのではないことに気付かれるのではないだろうか。小型で効率の良さを追求した日本車の要素は、人力車の時代からすでにはぐくまれていたのである。』まず人力車作りのための産業が興り、それが自転車産業へとつながり、オート三輪へと発展していった。『一般にわが国の自動車の製造技術は、欧米製の輸入車から学び、それを模倣することで習得したとみる向きが多いが、じつはそればかりでない。ことに小型自動車の分野では、これら人力車、自転車の部品工業からのフィードバックが絶大であった。』
(④-8、P170)
この14.1項の冒頭に記したが、呂寅満氏や岩立喜久雄氏の指摘の通り、日本の自動車産業の生成過程においては、大衆車(この一連の記事で何度も何度も記してきたが、フォード、シヴォレーのクラスで、かなり大きい)と、小型車という二つの大きな道筋があったのだ。自分のこれまでの、一連の記事では延々と、“主流派”だった前者について記してきたが、今回の記事では長年傍流扱いされてきた後者の系譜を、その発端から記していくことになる。
(しかしそんな人力車も、市街電車などの発展と、廉価で大量にKD生産された自動車(≒アメ車)の“円タク”によって駆逐されていったのは前回の記事で記したとおりだ。確かに徒歩(時速4km/h)よりは速かった(8~10km/h)が、当然ながら自動車のスピードと輸送力には到底かなわない。駕籠→人力車→(輪タク)→円タク(自動車のタクシー)への進化の軌跡は、やはり絶対的なパワーの差によるスピード×輸送力=経済効率の差だったのだろう。下の写真はブログ“鈴木商店”さんより「客待ちの人力車が並ぶ神戸停車場(1907年頃)」コピーさせて頂いた。https://jaa2100.org/suzukishoten-museum/detail/013963.html)
m21.jpg
https://jaa2100.org/assets_c/2014/03/20140307T122042Z_01-thumb-700xauto-14745.jpg

14.2荷物輸送の主役は人力による荷車
 明治に入り最初に登場した人力車は「人」の輸送だったが、次に「荷物」の輸送について記す。下の(表16)をご覧いただければわかるように、後述する自転車をのぞけばもっとも需要が多く、数多く製造されたのは、荷積車であったが、荷積車には荷車、荷牛車、荷馬車の3種類があった。(④-3、P168)
その中で、荷物輸送の主役もやはり、人力による荷車だった。今の若い人はイメージがわからないかもしれないが、“荷車”とは荷物運搬用の二輪車のことで、そのうち二、三人でひく大型のものは“大八車”と呼ばれて、江戸時代から盛んに使われるようになった。時代劇でご存じの方も多いと思う。(下の画像は「東京の100年を追うNHKスペシャル……震災や戦争からの復興などカラーで再現 7枚目の写真」よりコピーさせて頂いた、「大正時代の日本橋」https://www.rbbtoday.com/article/img/2014/10/17/124534/427930.html)
m24.png
14.2-1江戸時代、大八車の使用が認められていたのは江戸市中、尾張、駿府だけだった
先ほど、TVの時代劇で目にした人が多かっただろうと記したが、実際には江戸時代は、人の移動に限らず荷物の輸送についても『大八車の使用が認められていたのは、江戸市中、あと尾張、駿府、それも使用に当たっては、特別な申請と認可が必要だった』のだという。クルマなしで人が運ぶか、馬や牛の背中に背負わせるかのどちらかでは、かなり不便な生活を強いられたことだろう。(下の「江戸の世」の、「大八車騒動顛末」より引用)
https://buna.yorku.ca/japanese/library/tonbo_no_megane/3-6%e6%b1%9f%e6%88%b8%e3%81%ae%e4%b8%96.pdf
同文よりさらに引用させていただく。『そもそも、大八車は明暦の大火(1657 年)の後、江戸の町の大改造を早急に行わなければならなかったときに、土石などを運ぶのに発明された』とあり、(④-3、P168)では『1657(明歴3)年の江戸大火の後、芝車町に住む車大工、八左衛門が考案して作ったことから「大八」車の呼び名が広まったとの記録(東京史稿)があり信憑性が高い。明治期に入ってからの大八、大七、大六車の呼称は荷台長の8尺以下、7尺以下、6尺以下を意味するようになった』と記されている。治安維持のために、厳しく移動が制限されていたが、明治に入り、荷車は荷物輸送の主役として、急速に普及していく。(下の絵は「江戸の商人,大八車を引く」という、国際日本文化研究センターよりコピーさせて頂いた。
https://sekiei.nichibun.ac.jp/GAI/ja/detail/?gid=GB004022&hid=1320
m25.png
https://sekiei.nichibun.ac.jp/GAI/info/GB004/item/022/image/thumb/0/thmb.001.jpeg
なお大阪では大八車と呼ばず、「ベカ車」と呼ばれ、その構造にも違いがあったという。)
14.2-2戦前日本の、重量物運搬の主役は馬車だった
 人力による荷車では通常だと100kg~200kg程度の運搬で、庶民の通常の生活の範囲ではそこまでで充分足りる。それより重量物の輸送は、明治時代以降は馬車と牛車が担うようになる。
 下の表(表16「1920年代における諸車の保有台数の推移」)は、①のP116より転記させて頂いた。余談ながらこの表は“諸車”までだが、当時の日本の輸送体系全体としてみれば、さらにその上位に、鉄道と海運による輸送があっただろう。
m26.png
 この表をみると、人の輸送の分野では、前回の記事で再三記したように、1925年のフォードの日本進出により、大衆車クラスの乗用車の価格が低下し、割賦販売の普及との合わせ技で、人力車が営業用のタクシーに置き換わっていったことがわかる。また乗用馬車もバスに代替えされて減少していった様子が推測できる。
 ところがその一方で、荷物運搬用としては、引き続き多くの馬車と牛車が大量に使われていたこともわかる。『この表からはまず、乗合馬車と人力車の減少が目立つ一方で、荷積用馬車と牛車は減少するどころかむしろ増加していることがわかる。~これは、タクシー料金が人力車のそれとあまり差がなかったため、乗用車が経済的に既存手段を代替しうる状態に到達していたのに対して、貨物車の方はその条件がまだ不十分であったからである。』(①、P115)。
確かに表中の「荷物用自動車=トラック」も急速に増えてはいるが、馬車と牛車を代替えするには至っていない。その理由について(①、P115)は『荷物用馬車の代りに、自動車が青果・砂利・木材・生鮮・新聞などの運送に使われていたが、』1930年に至っても、急送品に属さない比較的運賃の低い荷物に対しては、経済原理が働き、荷積用馬車がトラックに置き換わらず使用続けられた、としている。
そしてもう一つの現実的な理由として、当時の道路環境の悪さがあった。以下(④-6)より
『~つまりそれまでの荷馬車、荷牛車業に代わり貨物自動車による運送業が台頭してきたわけだ。しかし当時の標準的な大きさと言えるフォード車は、A型(3285cc)が登場する以前のT型でも2896ccあり、日本の狭い道路では立ち往生する場面が度々起きた。
この道幅と輸入車の車体寸法との不釣り合いは、全国に貨物自動車が急増する大正10年(1921年)頃に顕著となる。それ以前の自動車はごく一部の富裕層の遊興用か、あるいは乗合自動車がほぼすべてであり、乗合自動車の場合はもともと乗合馬車が走っていた幹線道路を進んだわけだから、さほど問題は起こらなかった。ところが貨物自動車の場合は、その本能として市街地を自由に侵入したくなる。~ この輸入貨物車と日本の市街地や住宅地の道幅との不釣り合いは、こののち国産小型自動車を発生させる一因にもなっていく』
(④-6、P172)。小型自動車ももちろんだが、クルマにとっての道路環境の悪さが荷馬車や荷牛車が生き残る一因でもあったように思える。
なお馬車の輸送力について(①、P115)によれば『当時(注;1920年代)~営業用としては1.2~1.5トン程度の積載量を有する荷物用馬車が使われていた。』とあり、スピードでは確かに自動車にはかなわなかっただろうが、積載力はなかなかのものがあったようだ。
14.2-3農家の“自家用”は牛車だった
以下も(①、P115)の引用だが『当時(注;1920年代)、積載量が600~900kgである牛車は主に農家の自家用として使われており~』所得水準が低かった農家の“自家用?”は馬車よりももっぱら牛車だったようだ。ただし、牛車を使う農家は相当な富農の部類だろう。
(写真はhttps://4travel.jp/の「フィリピンで出会った様々な人々」より。さすがに現代の日本では、牛を“自家用”にしている人はほとんどいないと思うが、フィリピンのこのオッサンの、かなり原始的なスタイルだが、立派な“自家用”に乗った満足げな表情に思わず惹かれて、日本ではないがコピーさせて頂いた。ちなみに日本で牛車は、古くは飛鳥時代より、全国各地の車大工によって繰り返し作られてきた伝統的な在来技術であったという。(④-3、P169参考))
m27.png
https://cdn.4travel.jp/img/thumbnails/imk/travelogue_pict/39/87/32/650x_39873245.jpg?updated_at=1439510449
話を戻し、①による説明や、(表16)から判断すれば、1930年頃に至っても、庶民の生活の中で荷物の輸送の主力は、次に記す自転車やリヤカーなどの人力と、馬車/牛車で、自動車は主流とは言えなかったと思う。

14.3自転車がオート三輪誕生への架け橋となった
次にもう一度、(表16)をご覧いただき、表中の自転車の項に注目したい。諸車の中で突出して大きな保有台数だ。便利な乗り物として日本の社会でも定着していたことを表している。
14.3-1戦前日本の自転車の歴史
そこで戦前の自転車の簡単な歴史を、まず初めに確認しておきたい。以下安直だが、国土交通省のHP「自転車交通」の中の「自転車の歴史」より引用
 https://www.mlit.go.jp/common/001259529.pdf
『明治29年(1896年)頃から、セイフティ型自転車が、本格的に輸入されるようになり、明治末期には、国産製造が本格的に始まった。
明治44年には輸入関税が引き下げられて単価が下がったこともあり、全国の自転車保有台数が急激に伸び、また、第一次世界大戦で輸入が激減したことから国内生産力が急速に伸びて、価格が安価となり、庶民の生活の足として普及した。
昭和に入ると自転車の保有台数が毎年20~40万台増加し普及が拡大した。日常生活に欠かせなくなった自転車も、昭和13年(1938年)には贅沢品として製造が禁止されて、昭和15年には自転車が配給制度となった。昭和18年には資材が入手できなくなり、年間生産台数が7万台まで減少した』

(下の写真は、たびたびコピーさせて頂いている、“ジャパンアーカイブズ(Japan Archives)”さんより「丸の内(明治45/大正元)自動車・自転車・人力車(馬場先門通)」。https://jaa2100.org/entry/detail/036886.html?
自転車と人力車とともに、丸の内だけあって1台だけ自動車も映っているが、目を凝らしてみると自転車が多いようだ。この写真は1912年の光景だが『1907年に約8万6千台、1910年に約23万9千台、1915年に約68万4千台と伸び、明治時代末から大正時代にかけて自転車は急速に普及していった』(web38-2)。
m28.jpg
https://jaa2100.org/assets_c/2015/12/img_5675760da60ad5-thumb-autox404-38466.jpg
14.3-2自転車の普及率は都市部では一,二世帯に一台だった
そして『昭和初期の時点で日本の自転車保有台数はフランス・イギリスに次いで世界第三位、生産量はドイツに次いで世界第二位であった』(⑬、P185)という。さらに戦前の末期には、『特に都市部では一,二世帯に一台の普及率を示していた』(⑬、P184)という記述もあり、驚きだ。下の表は、(web36)中にあった「日本自転車の生産・輸出・輸入の推移」という表を元に作成した。生産/部品の数字は台数ではなく金額で、完成車+部品の合計とした。
m29.png
14.3-3自転車は庶民が所有し、自分で動かして乗るクルマ。日本で初めてだった
以下は、“随想・東北農業の七十五年”というブログの、「便利だったリヤカー、自転車」という随筆(web40)から引用させていただく。戦前の東北の農家(といっても、自作農の、相当富農の部類のほうでしょう)で、自転車が当時の人々に与えた影響について書かれており、含蓄のある内容だ。以下ほんの一部だけ引用させて頂く。
『~ ところで、自転車はそもそも人が乗るためにつくられたものである。今述べた運搬は本来からいえば副次的な利用法でしかない。
 人間の移動には徒歩しかなかった時代、自転車は本当に便利なものだった。もちろん鉄道はあった。しかしそれは、決まったレールの上を走るだけなので、どこにでも自由に移動できる手段ではなかった。ましてや線路はそれほど走っていない。これに対して自転車は人が通れる程度の道路さえあれば自由に移動できた。(中略)
 だから、一般庶民の乗物としては、鉄道以外、自転車が初めてではなかったろうか。もちろん、人力車が明治期に開発されている。これは駕籠の代用で、しかも他人に乗せてもらうものである。これに対して自転車は自分が所有し、自分で動かして乗る乗物である。これも日本の歴史上、初めてではなかったろうか。』

戦前の人々の移動手段としてみた場合、人力車や鉄道やバスは、他者に乗せてもらうものだ。都市部の住民が利用する最初の自動車であった円タクも、前回の記事で記したように、当時の日本人の受け取り方からすると、公共交通機関的な意味合いも強かった。それに対して自転車は、確かに荷物運びの道具としての側面も強かったが、当時の(多少上級の?)庶民が“自家用”として所有し、自分で動かして、道と体力が許す限り、どこまでも自由に乗りまわす、プライベートな乗物(“自”分で“動”かす“車”、つまり“自動車”か?)である点が、新しかった。
14.3-4戦前の自転車産業は機械工業の花形だった
話を戻して、上の表から、保有台数の着実な増加とともに、生産と輸出の金額が急激に伸びていく傾向はわかる。
戦前の日本の自転車産業は、当時の自動車産業とは違い、国際的に見ても充分競争力がある、第一級の産業だったようだ。そこで次に、産業としての自転車について、もう少し詳しく見ていきたい。まずはJETROのレポート(web36)から。
『自転車産業は、第一次大戦による輸入代替期を経て、1920年代に国産化をほぼ達成した。その生産は東京・大阪(堺)・名古屋に集中し、簡潔に表現すれば、完成車の東京、部品の大阪、その中間の名古屋といった具合であった。
1920年代後半になると、東アジア・東南アジア諸国が日本の自転車やその部品を輸入するようになった。31年の金輸出再禁止以降、為替ダンピングの影響もあり日本の輸出は急増した。部品については、実に生産の半分以上が輸出に回されていた。その後も順調に輸出台数を伸ばし続け、37年には機械輸出のトップを占めるに至った。この頃の自転車産業は機械産業の花形であった。』
以下(web36)。戦前の輸出先について(⑬)から。
『これらの自転車は主として、いわゆる「円ブロック」(当時の円が支配的な通貨である地域)に輸出された』(⑬、P186)。
(下の写真は“自転車文化センター”の「自転車から見た戦前の日本」からコピーさせて頂いた「昭和7年(1932年)頃の横浜伊勢佐木町 」。『歩道脇に多数の自転車が駐輪してある光景は今と変わらないが、車道に自動車が走っておらず、交通の中心が自転車であったことがわかる。中央の自転車のハンドル前に荷物を置くための装置が取り付けてあり、当時は自転車が荷物を運搬するための役割を果たしていた。』
http://cycle-info.bpaj.or.jp/?tid=100129)
m30.png
http://cycle-info.bpaj.or.jp/file_upload/100129/_thumb/100129_32.jpg
14.3-5自転車産業は「問屋制工業」だった
そして日本の自転車産業の産業構造は、「問屋制工業」と呼ばれた独特なものであった。まる写しばかりで恐縮だが、以下(web37「日本における自転車工業の発展」竹内淳彦、1958年)より引用
『自転車の生産は、代表的な組立産業であり、完成車組立てを最終工程としている。すなわち、自転車は、大別しても16の部品と数百の附属品が必要であり、それにタイヤ・チューブ・皮革などを結合させ完成車となるのである。
ところが、日本の自転車は、全工程が完成車メーカーにより、一貫的に生産されている場合は全く少なく、商業的色彩の強い商業卸が、部品メーカーから各部品を蒐集し、完成車を生産している場合が多い。
最終的には完成車の構成品としての部品生産を目的としながらも、完成車工場への納品を直接目的としない部品メーカーが多数をしめている結果、自動車・ミシンなど他の機械工業にみられる如き、組立工場を頂点としたピラミッド型構成が全くみられないところに、日本の自転車工業の構造的特質が存するといえる』
(web37、P33)以上は1958年の著作で、グローバル経済化が進んだ現在では、その構造が大きく変わっていると思う。しかしこの記事のテーマである戦前の、自転車産業では、宮田(東京)や岡本(愛知)のようなメーカー志向の自転車企業もあったが、それ以上に、大阪を中心とした問屋型の企業や、自転車部品企業の勢力の方が強かった。完成車メーカーを頂点としたピラミッド型下請け構造の自動車産業とは全く異なる産業構造だったのだ。
14.3-6初期のオート三輪は自転車関連企業がつくった
 話が自転車とオート三輪の間を、行ったり来たりしてしまうがお許しいただきたい。時代が少し飛んでしまうが、初期のオート三輪車市場に参入した企業は、自転車産業関連が多かった。以下①からの解説を引用する。
『まず注目されるのは、自転車工業との関連のある企業が多いことである。しかし、その企業は完成車をつくる自転車企業ではなく、自転車問屋あるいは部品製造企業であった。~ これらの自転車関連企業が三輪車の製造に関わることになるのは、自転車が問屋主導で製造されたからである。例えば、当時東京自転車問屋の類型のうち最も多いのは、全ての部品を部品企業が製造して問屋は組立のみを行うものであり、その次は問屋がフレームまで製造する類型であった。これは他の地域でも同様であったと思われるが、その問屋が自転車部品と一緒に自動自転車のエンジンも輸入し、それを自転車部品企業に依頼してあるいは自ら三輪車に改造したのである。』(①、P140)
以降で記すように、オート三輪はその後、規制緩和を受けて技術的な進化を遂げていく過程で、“四輪自動車”との近似性が強まり、“自転車色”は次第に薄まっていった。しかしスタート時点に於いては、世界的なレベルにあった自転車の高い普及率と、すでに確立していたその産業基盤が、オート三輪の市場形成に大いに役立ったことは間違いない。
14.3-7オート三輪が大阪起点だった背景
 次にオート三輪が、なぜ大阪(特に境)を中心に発展していったのか、その理由も確認しておきたい。この辺は自分にまったく知識がなく、コピーばかりで申し訳ないが、その説明を以下(web39、P68)より引用だが、
『大正年代以降、わが国の自転車工業は東京、名古屋、堺の三ケ所でほぼ並列的に発展してきた。だが、東京が完成車生産を中心にしたのに対して、堺は部晶供給を主体にし、名古屋は小規模ながら両方を抱えるように構造には多少の違いがあった。堺が部晶を主体にしたのは鉄砲鍛冶という鍛造の技術が長く息づいていたから、いいかえれば技術に対する強い自身と執着があったからであろう。大都会の東京が一見華やかに見える完成車の生産を志向し消費者への接近を図ったのに対して、地道な堺は、逆に自転車の心臓部に当たる、主要部品生産に撤して晶質の高度化にのみ生きる道を求めたのである。こういった背景には、古くから鍛え上げられた鍛冶職人たちの意地も強く働いていたといえよう。』
以下は(web36)からの引用『日本の自転車産業の歴史は,輸入自転車の修理,補修用部品の製作から,まず部品工業が形造られたのに始まり,それがやがて国産完成車の製造に進んだものであって,自動車や時計と異って,完成車組立技術そのものが自転車工業発展の決定的なポイントになり得なかった。(中略)とりわけ大阪では,堺の鉄鉋,刃鍛冶から転業した家内工業的な生産形態による補修部品の生産を出発点とした。』
引用させて頂いた(web36、39)の両方に、大阪の、堺の地名が出てくる。さらにwebで調べると、この地域は元々鍬(くわ)や、鋤(すき)を生産するための鉄の加工技術が発達していたが、16世紀に入って、ポルトガル人によって、鉄砲、タバコが伝来し、タバコの葉を刻む包丁や、種子島に渡った鉄砲の製法が堺に伝え、鉄砲作りから自転車の技術進化へと発展していったとのことだ。(“サカイーナ”というブログのhttps://www.sakaiina.com/ の「堺の自転車博物館」記事を参考)。確かに素人考えでも、鉄砲の銃身と、自転車のフレーム製作には、関連する部分がありそうだ。
そして現代に話を戻すと、堺市=世界のシマノの本拠地でもあるのだ。シマノは『スポーツ用自転車部品では世界の85%、変速機付き自転車でもおよそ7割のシェアを握っている』という(https://strainer.jp/notes/739 より)。そのため堺には、日本で唯一の?自転車博物館があるようだ。自転車に興味のある方は、大阪を訪れた際に、ぜひお寄りになったら如何でしょうか。(下の表は(web39、P68)の、「1930年代における東京、大阪、愛知の自転車生産額」の表の数字から、グラフ化したものだ。やはり安定して、大阪地区の比率が高い。
m31.png
14.3-8当時阪神工業地帯が京浜工業地帯を上回る、日本最大の工業地帯だった
自転車産業が、大阪起点であった点について、もう一つ、その理由を掲げておきたい。基本的な情報として、大阪を中心とした阪神工業地帯は、戦前、京浜工業地帯を上回る地位にあり、日本最大の工業地帯であった点だ。以下もwiki等、webからの情報の寄せ集めだが、綿紡績・鉄道などを中心に、それを支える商社や銀行などの活動が一体となって、この地域は「東洋のマンチェスター」(マンチェスターは、英国の産業革命によって発展を遂げたイギリスを代表する商工業都市)と呼ばれるようにまで成長し、日本の工業化の先頭に立っていた。特に進取の気概に富み、元気な中小企業の多かった(②、P173等)という。今の人たちからすると、大阪は「商都」のイメージが強いと思うが、戦時期に東京府に追い越されるまで大阪府は日本最大の工業生産額を誇った「工都」でもあったのだ。(画像はwikiより、新世界から見た通天閣、1920年)
m32.png
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/56/Original_Tsutenkaku_and_Shinsekai.jpg/180px-Original_Tsutenkaku_and_Shinsekai.jpg
14.3-9関西を中心に一時期、フロントカー型の三輪自転車が普及していた
そして、大阪を中心とした関西地区や東京では、通常の二輪自転車だけでなく、荷物運搬用として三輪自転車が、一時期ではあるが、ある程度普及していたらしい(④-3、④-5及び①、②P172等を参照)。そしてこのことが、オート三輪誕生の、重要な布石にもつながるのだが、日本のクルマの歴史の中で、取り上げられることが少ない、三輪自転車が普及した過程を、ここで簡単に確認しておきたい。
まず、人力車や後述するリヤカーを生んだ、好奇心旺盛な当時の日本人は、通常の二輪自転車の変形として、実に様々なバリエーションの三輪自転車や、“四輪“自転車を考案したようだ。その目的は、少しでも多くのモノを積むためで、長くなるので省略するが、詳しくは(④-3)や、(④-5)をぜひご覧ください。
そのうち主流はやはり三輪だったが、ここでさらに、当時の国産三輪自転車を形状別に分類すると、・フロントカー式三輪自転車、・リヤカー式三輪自転車、・サイドカー式三輪自転車の3つに分類できる(④-8、P174)。
このうちサイドカー式は狭い道幅の日本では適せず、最初に普及したのがフロントカー式だった。『ただしこれは自転車系に限った話であり、リヤカー式はのちにエンジンが搭載されて発展し、やがてオート三輪になって活躍することになる(④-7、P174)このことは、後でオート三輪のところで記す。
まとめると、この当時、三輪自転車として主に使用されたものは、フロントカー式の三輪自転車と、リヤカー式の三輪の輪タクだったようだ(『~ 結果的に最も実用性が高かったのは、フロントカー式のトライシクルと、三輪のリンタクの2種であったことになる。』(④-7、P174))輪タクについても後述する。
両車が生き残った理由は、通常の二輪自転車より多く積めて「実用性が高かった」からであったが、ここで、当時の主要な顧客であった商工業事業者が、それらの三輪自転車を求めた動機を、以下(㉚)で確認しておく。
14.3-10日本人は個人的な楽しみというよりも、業務用のニーズが優先する
『~日本では、どちらかというと、これを使用することによって顧客を大幅に拡大できるという、いわば業務用の需要が主導する形で普及したのである。~ 個人的な楽しみというよりは、業務用のニーズが優先するというこの特徴は、後述するように、自動車の普及についても当てはまる日本的な個性と言えるだろう』(㉚、P65)。三輪自転車に、一定の需要があったのは、自然な成り行きだったかもしれない。
(ただ、この三輪自転車が一時期、ある程度、普及していたという事実を“証明”する資料が少ないようだ。その理由の一つとして、三輪自転車は当時、統計上では「自転車」として一括りで扱われており、数字として説明できないようだ。そのため当時の写真や雑誌記事等を掘り起こし、判断するしかなさそうだが、(④-5、P171)では、1917年の、日本自動車(あの大倉系の自動車販売大手)の雑誌広告(モーター11月号)の写真の説明の中で、以下のように指摘している。
m33.jpg

『~この広告で興味深いのは、フロントカー式の貨物運搬用三輪自転車の後方にスミスモーターホイールを装着し、その実用性の高さを主張している点にある。
~ この大正6年(1917年)頃には、全国の都市部の大商店では、すでに御用聞き用の国産の安全型自転車と、配達用途に運転するフロントカー(三輪自転車)が普及していた様子がわかる。商品を迅速に配達するために狭隘な路地を走り抜けていく、オート三輪の始祖がここにあった。このようなスミスモーターホイール付きフロントカーが進化していく過程で、やがて国産の小型自動車の原型が築かれていくのである。』

オート三輪の始祖
三輪自転車が普及していた様子を示すとともに、確かにこの写真は、「オート三輪」が自然発生的に生まれていった、証拠写真だ。この貴重な資料は、以下は月刊オールド・タイマー(八重洲出版)連載記事「轍をたどる」岩立喜久雄氏の「スミスモーターと特殊自動車」(2006年.8月、№.89号)(④-5として引用)のP171よりコピーさせて頂いた。何度も記すが、この「轍をたどる」が一冊の本となり、広く読まれることを切に願います。)
(下の写真はイギリスで郵便配達用に使われていた、フロントカー型の三輪自転車で、
https://www.collectgbstamps.co.uk/explore/issues/?issue=22795 よりコピーさせて頂いた。
このイラストは、1920年のモノのようだが、1880年から使われていたようだ。以下機械翻訳『1880年に最初に導入された三輪車は、大きな籐のかごを備えており、都市部や農村部で大量の郵便物を運ぶのに理想的でした。第一次世界大戦までに、それらは時代遅れであり、郵便物の重量の増加には不十分でした。』フロントカー型三輪自転車は、本場イギリスに於いては1920年ごろになると、郵便配達用としては、荷物の搭載量が不足していたようだ。)
m34.jpg
https://www.collectgbstamps.co.uk/images/gb/2018/2018_9487_l.jpg
くり返すが(④-5)が指摘したように、このフロントカー型の三輪自転車に、これも後述するスミスモーターホイールを取り付けたものが、初期のオート三輪の直接の始祖になった。
14.3-11三輪自転車の時代は短かった
だがこの、フロントカータイプの三輪自転車が使われた期間は、どうやら短かったようだ。
 以下(①、P116)より『(上掲の「表16」により)当時大量の通常自転車が保有されていたことがわかるが、自転車の一部も早くから貨物運搬用として改造して使われていた。その形態には、前部あるいは後部に二輪の荷台を設けて三輪自転車にしたものや荷台のサイドカーを取り付けたものもあったが、もっとも多く使われたのは別に二輪の運搬車を作ってそれを自転車の後方に取り付けたリヤカーであった。』ここで、リヤカーの名前が登場する。
この間の事情を(「国産リヤカーの出現前後」、以下web41)より引用すると、『新しいタイプの荷物運搬具、リヤカーの出現によって、三輪車は徐々にその座を失っていった』(web41、P11)のだという。
ここで自転車の話は終わりにして、もう一度、荷車に戻る。上り調子にあった自転車産業の力を背景にして、様々なクルマ作りの試みが行われていく中で、荷車も進化を遂げていく。戦前から戦後の一時期まで、庶民の荷物運搬に大きな役割を果たした、リヤカーの登場だ。

14.4“庶民の自家用トラック”、リヤカーの登場
この項はいきなり写真から入る。((下の写真は「月刊Hanada」に載っていた「終戦直後の街の風景」より。以下は(③P82)から引用『次に、大正時代に現れたのが「リヤカー」。庶民にとっては、手軽な自家用トラックのような働きぶりである。』ここの記述を、14.4項のタイトルに使いました!)
m35.png
https://i.pinimg.com/originals/f9/c2/b6/f9c2b6e655237a887f984dffabaf19ba.jpg
14.4-1荷車からリヤカーへ
 誰もが知っているリヤカーだが、ここで改めて「リヤカー」の定義?について、確認しておきたい。それ以前の大八車等の「荷車」と、その発展形ともいえる「リヤカー」との、ハードウェアの違いは何だったのか、リヤカーの特徴をwikiで確認すると、『ごく細身の型鋼、もしくは鋼管で牽引用の梶棒部まで含むフレーム全体を組み、車輪はオートバイや自転車と同様に金属製のワイヤースポークを利用、車軸はなく、自転車同様のボールベアリングで左右独立支持された両輪間に荷台床を落とし込んだ形態となっている。さらに車輪には空気入りゴムタイヤを填めている。結果、大八車に比して大幅な進歩を遂げた。~大八車の問題点の多くが、リヤカーでは金属部材の導入や自転車・サイドカーの手法を援用することで解決されている。』ということで、大きな進化を遂げている。
 以上は従来の荷車との比較だが、リヤカーの使用方法が、従来の荷車と大きく異なる点は、その牽引者が人に限らず、自転車の場合や、さらには戦後に入ると、原付自転車の場合もあるという、その多様性だろう。そしてその万能性ゆえに、戦前から戦後の長い期間に、相当な台数が普及していたと思われるが、残念ながら具体的な数字が調べられなかった。ただこの記事の対象範囲の戦前においては、自転車よりも人が引く使われ方の方が多かったと思われる。(下の写真はブログ“岩魚太郎の何でも歳時記”さんよりコピーさせていただいた、昭和40年(1965年)頃の豆腐屋さんの商売の一コマです。確かに昔はラッパが鳴ったものですね。
https://jp.bloguru.com/iwanatarou/329126/2018-07-19)
m36.png
https://jp.bloguru.com/userdata/40/40/201807191132420.png
14.4-2リヤカーが三輪自転車に勝っていた点
以下は、三輪自転車との比較で、リヤカーが勝っていた点として、(web41、P11)では、
・税率が安かった(昭和3年度(1928年)の東京府の例で、三輪自転車が3円66銭、二輪自転車が2円66銭に対して1円)
・価格も三輪自転車の約1/4だった
・格納が楽だった(リヤカーは立て掛けられた)等を指摘している。また
・機能としても、リヤカーの良いところが、三輪車の弱点だった、としているが、リヤカーの方が、荷物運搬用としては低重心で安定性が高かっただろう。
(下のリヤカーのチラシ広告は、ブログ「賢治と農」よりコピーさせて頂いた。
https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202101070000/
そして同ブログのおかげで、リヤカー誕生の経緯について調査した論文、「国産リヤカーの出現前後」(梶原利夫著、自転車産業振興協会 技術研究所、以下(web41))を知ることが出来た。両方の著者に感謝します。下のチラシも同論文に掲載されたモノでした。この1930年頃のチラシでは、並サイズのリヤカー完成車の価格は25円とのことだが、同論文の1935年のチラシ広告では、競争が激しくなってか、なんとほぼ半額の12円60銭まで安くなっていると、「賢治と農」のブログでは指摘している。(①、P170)で、同じ1935年の、オート三輪の価格は1,200~1,300円ぐらいだとされているので、それと比べるとやはり圧倒的に安い。
m37.png
https://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/9/2f5cc821229aacaca0dd9fb4b899310ba615d2a2.65.9.9.3.jpeg
 そしてこのリヤカーだが、wikiによれば、『1921年頃、海外からサイドカーが日本に輸入された時にサイドカーとそれまでの荷車の主流だった大八車の利点を融合して、静岡県富士市青島の望月虎一が発明した』(wiki)のだという。(下の写真は、)
14.4-3リヤカーも日本人の発明だった!?
なんと人力車に続いてリヤカーも、日本人が“発明”したというのだ!当時の日本人が、旺盛な創作意欲を持っていた事は、今までこの記事で再三指摘したことで、ある程度は納得できることだが、果たしてここまで“断定”した記述を、全面的に信じて良いのだろうか。
ところがさらに調べようとしても、リヤカーについて書かれた情報が、信じられないくらい少ないのだ!あれほど日本の経済発展に尽くしてきたのに!!以下はその数少ない貴重な資料である(web41)を参考に記す。
まず前提として、リヤカーによく似た形態のものとして、欧州では自転車やオートバイで牽引する「トレーラー」と呼ばれるものが既にあった。何度も記すが好奇心旺盛な当時の日本人、もその存在を、当然知っていただろう。だがこのトレーラーは、日本人のように、人間が荷車を曳くという慣習を、野蛮なものとみなしていた西欧社会では、発展をみなかったという。人力車の場合と同じだ。また構造的にも、車輪は一本の貫通した車軸に取り付けられているので腰高な点が、日本のリヤカーと大きく異なっていた。(下の画像はwikiより。リヤカーは省スペースで、本当によくできている。まるでスーパーのカートの収納みたいだ。)
m38.png
そして(web41、P12)によれば、日本では『大正6年(1917年)頃にリヤカーは出現したらしい』のであるが(とたえば「輪友」という自転車雑誌の大正6年10月号の広告に、初期のリヤカーのものがあるという)、その時点では、欧州のトレーラーと同じ車軸構造だったという。このトレーラー型のリヤカーを出発地点として、以下(web41、P13)から引用を続ける。
『この型式をリヤカーの祖型とするならば、その後次々と改良され発展していったリヤカーは、日本独自のものであり、それ以前のトレーラーとは同系異質といえよう。特に昭和5年頃、芦沢孝之氏が考案した人力型曳手のリヤカーに至るまで、様々な改良がなされたが、その改良の一つ一つは、日本人の考案によるものであるから、此ら総合した日本型リヤカーは、日本で発明されたと言える。だがそれは個人が発明したものではないと言えよう。』としている。確かに、ご指摘の通りだと自分も思います。
14.4-4リヤカーは日本で発明されたものだが特定の個人が発明したとは言い難い?
ただ(web41)では追記して、『初期のリヤカー製造技術で特に注意せねばならぬ点は、酸素・アセチレン溶接技術であろう』(web41、P14)としており、『国産リヤカーを、ガス溶接によってパイプフレームの構造を最初に考案、製造したものは不明である』(web41、P15)と記している。この資料が投稿されたのは1997年10月だが、その後の調査で、もしかしたら望月虎一が、その先駆者であったことが判明し、貢献大と判断したのだろうか。Wikiが根拠もナシに発明者として書いたとも思えないし、何ともワカリマセン。
ただ手持ちの情報が足りないので、ここでは(web41)に倣い、「日本型リヤカーは人力車と同様に、望月虎一氏をはじめ多くの日本人の手で改良が加えられ、完成した日本独自のものだ。その意味で、日本で発明されたと言えるが、個人が“発明”したものとは言い難い」と思ったが、如何だろうか。
(この写真も https://www.collectgbstamps.co.uk/explore/issues/?issue=22795 よりコピーさせていただいた。「オートバイとトレーラー、1902年」以下、機械翻訳『このようなオートバイとトレーラーは、1902年にケント州シッティングボーン周辺の農村地域に手紙や小包を配達するために使用されました。これは非常にローカルなイニシアチブであり、ロンドン以外で最初の電動メール配信の1つでした。』一見リヤカーと似ているが、このイギリス型トレーラー(リヤカー)の車輪は、貫通した車軸に取り付けられているのがわかる。そのせいで、荷台が腰高だ。)
m39.jpg
https://www.collectgbstamps.co.uk/images/gb/2018/2018_9486_l.jpg
14.4-5東北の農家で、リヤカー、自転車、牛馬車の使われ方(余談)
以下は自転車の項で先にも引用させて頂いた、“随想・東北農業の七十五年”というブログの、「便利だったリヤカー、自転車」という随筆(web40)から再度引用させていただく。戦前の東北の農家(先に記したように自作農で普通より豊かな農家に思われる)で、リヤカーが導入された当時の状況を、実体験を元に書かれている、素晴らしい文です。
http://j1sakai.blog129.fc2.com/blog-entry-257.html
『~ リヤカー、これは大正期に日本で開発されたものだそうだが、人力による牽引という点では大八車と同じであり、改良大八車ということができよう。大八車よりは小さいというのが難点といえば難点だったが、これは便利だった。
 まず軽かった。木製ではなく、車体は鉄製のパイプ、車輪は空気入りタイヤで構成されているからである。女子どもでも十分に動かせる。
 また、大八車などよりは速い。軽いし、タイヤがついているからだ。もちろん若干ではあるが。ともかく楽である。』また他のクルマとの利用の役割分担について、以下のように記されている。
『しかし、稲上げのときなどのように運ぶ量が大量のときは牛車が中心で、リヤカーは補助用となる。つまり、リヤカーと牛馬車は併存して利用された。
 もちろん、リヤカーも人間が引いて歩くわけだから、大八車より速いとはいっても基本的には徒歩と変わりはない。
 しかし、いいことがあった。リヤカーは自転車の後ろにつなげるようになっていることだ。つないで自転車に牽引してもらえば自転車と同じスピードでリヤカーは走り、かなり速くなる。もちろん、重いものを載せたり、上り坂にさしかかったりすると、自転車から降りて引っ張らなければならないなど、人力での限界はあるが、よくもまあこうしたことを考えたもの、さすが日本人と言いたいところである。
 私の物心ついたときに大八車をそれほど見かけなかったのはこうした便利なリヤカーが普及していたせいではなかったろうか。(中略)
 前にも述べたが、私の生まれたころの1930年代には、農家がこうした自転車、リヤカーを牛馬車と合わせて利用するようになっていた。
 とはいっても、当時は自転車もリヤカーも高価だった。持っていない農家の方が多かった。戦後自転車でなされた郵便配達でさえ徒歩でやっていた時代だったのである。
 また、牛馬車となると一定の経営面積をもつものしか持てなかった。(中略)
 このような問題があり、また人力、畜力という限界はあったが、ともかくこれらは生産・生活両面での利便性を大きく高めたことはいうまでもない。』

(下の写真はwikiより、現代版として電動アシスト自転車と組み合わせた、おなじみのヤマト運輸のリヤカー。
m40.png
一方『ライバル佐川急便は『リヤカー状の荷台を備えた、特製の電動アシスト三輪車で対応している。』(wiki)こちらは初期のオート三輪風だ。下の画像は
https://twitter.com/run_sd よりコピーさせていただいた。)
m41.png
https://pbs.twimg.com/media/EPrS0pnVUAAji0v?format=jpg&name=large
14.4-6人力車+自転車=輪タク(Cycle rickshaw)
ここで荷物の輸送から、人の輸送へと話がそれる。進化した荷車(大八車)であった、リヤカー+人や自転車の組み合わせが、庶民のトラックであったならば、同じく人力車の進化型+自転車の組み合わせだって当然考えられるが、それが=「輪タク」になる。日本では自転車タクシーを、そのように呼ぶことが多いが、英語では、Cycle rickshaw だという。この分野での、日本の存在感の大きさがわかる。
前の記事(12.1項)で記したように、日本では戦前から、自動車の「円タク」が大都市を中心に、普及していたが、「輪タク」は第二次大戦をはさんだ、石油の一滴は血の一滴の時代だったガソリン不足の窮乏期に、もっとも流行したようだ。(③、P82)からの引用する
『さらに、第二次大戦中のガソリン車の窮乏期に、人力車風の車体と自転車を合体させ、客を走る三輪自転車が登場。戦後は輪タクと呼ばれた。同じタイプのものとしては、ベトナムやカンボジアのシクロ、インドネシアのペチャといった人力三輪タクシーがある。モータリゼーションが進むと、急速に減少していくのであるが、気楽な足として親しまれたことは、人々の記憶の中にとどめられていくのではないだろうか。』タイやマレーシア、ベトナムなどの東南アジアを中心に、輪タク文化が栄えたことはご存じの通りだが、この流れは、日本から輸出された人力車から派生したものだったとの指摘もある。その影響もあっただろうが、その時々の社会状況に応じて、どこの国の庶民も、手持ちの材料でどうすれば便利になるのか、生き抜くために必死に考えた結果だったのだと思う。日本の電動アシストのママチャリ3人乗りも、子供を乗せて楽に移動するためのもっともベーシックな乗り物として、その現代的なアレンジとして誕生した気がする。(下は「昭和21年(1946年)、神奈川県厚木市の輪タク」ジャパンアーカイブズさんより。自転車で牽引するリヤカー型のリンタクだ。)
m42.png
https://jaa2100.org/assets_c/2015/12/img_56762efe42aaa3-thumb-autox404-43234.jpg
14.4-7輪タクも日本の発明だったのか!?
 ところがいつものように?話はここで終わらない。(④-7、P174)で岩立氏は『~リンタクはその母体となった人力車も含めて、明治期の日本で発祥し、発達した乗り物であった』としているのだ。詳しくは一連の(④)をご覧いただくしかないが、以下(④-7、P171)から引用
『写真10(注;コピーはできないが、1913年8月付実用新案登録図)の「小磯式人働車」において、リンタクのレイアウトはすでに完成の域に到達している。写真11の「双愛号客用三輪車」(注;1912年12月15日付当時の読売新聞朝に掲載された、「双愛号客用三輪車発売」の広告の写真)も同時期の新聞広告であり、両者は酷似している。この時期にはすでに東京、大阪で製造販売が始まり、リンタク営業が起こっていたわけだ。
 リンタクの分野はその意匠はもとより、使用部品もほとんど国産であるため、これもほぼ純日本製の国産車だったことになろう。背景には明治初年よりすでに半世紀を経ていた人力車営業の伝統が流れていた。』
・・・・・
 wikiの「自転車タクシー」の項目でも、よく見ると『輪タクは当時、終戦時の物資不足から燃料がわずかで、タクシーを走らすことができなかったことから大正初期に生まれた「人働車」を新たに登場させたもの』で記されていた。大正初期というから、岩立氏の指摘の時期と一致する。世界は広いので、あまり断定的な結論は避けたいが、この分野の今後の研究の結果次第では、自転車タクシー(輪タク)も、「日本で発祥し、発達した乗り物」に、“格上げ”される可能性も充分ありそうだ。(もっとも、研究をしている人がいればの話だが。たとえば(④-7、P171)にある、1912年の「双愛号客用三輪車発売」の新聞広告の写真の「輪タク」と、下の写真の、江戸東京博物館に展示されている、「昭和20年代(1945-)のリンタク(輪タク)(複製)」
http://www.mapbinder.com/Map/Japan/Tokyo/Sumidaku/EdoTokyoMuseum/Tokyo/Tokyo.html
を比較しても、両者の形態に、何ら違いがないように見える。)
m43.png
http://www.mapbinder.com/Map/Japan/Tokyo/Sumidaku/EdoTokyoMuseum/Tokyo/20101210_17.jpg

15.黎明期のオート三輪について
 ようやくオート三輪まで一歩手前のところまでたどり着いた!先を急ぐと、(表16)で、台数が突出して多い、自転車(通常)の利用法として、三輪自転車や、リヤカー(積載量100~200kg)との組み合わせが多く含まれており、小商工業者のための自家用トラックとして愛用されていたのは既述のとおりだ。しかし人力に頼っていては、急坂などで重い荷物を運ぶのはやはり、大変な労働だ。当時『上り坂の下のところには、立ちん坊といわれた職業の人がいて、こうした自転車や大八車を後ろから押して坂を登り切ったところで、幾ばくかの謝礼をもらうことで生計をたてていた』(②、P172)そうだ。(写真は自転車文化センターより昭和35〜36年頃の光景 http://cycle-info.bpaj.or.jp/?tid=100126
m44.jpg
http://cycle-info.bpaj.or.jp/file_upload/100126/_main/100126_01.png

15.1「スミス・モーター・ホイール」の登場
そこに目をつけたのが大阪商人で、1917年頃から、大阪・西区の中央貿易商会が、アメリカ製の“スミス・モーター・ホイール”(以下スミスモーターホイール)という、自転車や三輪車に追加輪として駆動させる、後付け型エンジンを大量に輸入して販売する。4サイクル単気筒エンジンで201cc、2.5㏋ほどの小馬力のエンジンだった(⑥、P39等)。このスミスモーターホイールを、既述のように一部で普及していたフロントカー式三輪自転車の、後輪に取り付けたものが、商都大阪を起点として、徐々に全国に普及していく。オート三輪の始まりだ。以上が概要だが、以下もう少し詳しく、その経過を見ていく。
 この、自転車の後輪左側につける20インチの動力輪は、元々はイギリス製で(バーミンガムのROC MotorWorksで製造されていた。余談だが同社は、有名な作家アーサーコナンドイル卿によって資金提供されていたという。)
(https://translate.google.com/translate?hl=ja&sl=en&u=https://www.yesterdays.nl/product/smith-motor-wheel-1917/&prev=search&pto=aue)。)、
「ウォール・オート・ホイール」(以下ウォールオートホイール)として、中央貿易が輸入する前に『日本にも東京銀座2丁目のアンドリウス&ジョージ合名会社(横浜市山下町242)が輸入したが、その段階では大きな話題を呼ぶことはなかった』(④-5、P170)という。
 そしてこの“ウォールオートホイール”の特許権を、アメリカ、ウィスコンシン州ミルウォーキーの部品メーカー、A.O.スミス社(A O Smith Company)が購入する。同社でワイヤーホイールをディスクホイールに変更し、カムシャフトから直接ホイールを駆動し、チェーンを廃するなどいくつかの改良を施したうえで、“スミスモーターホイール”として、製造を始める。1914年末から1919年末の間に25,000台生産されたというからそれなりの数だ。(なお、日本のオートバイ史の定番本である⑥、P36では、「アメリカのブリックス・ストラットン社で開発された」とあるが、A.O.スミス社の後に、同社に製造権が移ったようだ?)このアメリカ製となった、赤く塗られた動力輪が、期が熟しつつあった、日本の市場でも浸透し始める。モーターボート商会、スイフト商会、さらに大手の日本自動車までその販売に乗り出すが、最終的に大阪の中央貿易株式会社が、東洋一手販売元の権利を獲得し、大量販売を行う。
『大正7年(1918年)の夏にはすでに一千台を売りつくし、3度目となる次の荷着を待ちながら、その人気の高さを巧妙に宣伝し続けた』(④-5、P171)というから、その人気のほどがうかがえる。
15.1-1二輪自転車にとして取りつけた場合、バランスが悪かった?
スミスモーターホイールは、のちに豊田喜一郎が、自動車産業に乗り出すにあたり、最初に分解・研究したエンジンとして広く知られており、そのためネットでも多くの情報が検索できる。トヨタ産業技術博物館には、1917年製のスミスモーターホイールが展示されているので、ご覧になった方も多いだろう。空冷単気筒4サイクルエンジンは、初期型は167cc1.5㏋だったようだが(②.P172)、日本に輸入されたものの大半は、後期型の201cc、2.5㏋のものだったようだ。下の写真は以下よりコピーさせて頂いた。
https://www.yesterdays.nl/product/smith-motor-wheel-1917/
m45.png
https://www.yesterdays.nl/site/wp-content/cache/thumbnails/2017/04/Smith-1917-Motor-Wheel-3941-5-300x600.jpg
ところで、スミスモーターホイールを通常の二輪自転車に動力輪として取りつけた場合、上の写真を一見しただけでわかるように、バランスが悪い。自動車工学の権威、富塚清先生は、東大の航空研究所に勤務当時に、同所が所有していた実車に乗ったことがあるという。その時の印象では『~ 操縦がひどく難しい。速度を高めるとハンドルが振れだし、どうにも納まらずに放り出されることがある。筆者などもこれを食い、1回でこりて、あとは近づかなかった』(⑥、P38)そうだ。
ただ、『これで正規の三輪車に組み、前方二輪後部一輪駆動か、あるいは逆に前方一輪駆動、後方二輪とすれば、推力線の食い違いと、動輪のぶらぶらがないから支障がないはずで、これらは若干の期間、小配達の面などで生き残ったと思う』(⑥、P38)とも記している。やはり運命的な出会いだったのか、フロントカー型の三輪自転車との相性が、もっともよかったようだ。)
15.1-2“走るスノコ板”、「スミスフライヤー」について
(さらに『スミスモーターホイールには「フライヤー」という名のじつに簡便な二人乗りの五輪車があり、日本にも数多く輸入された。走るスノコ板とでも呼びたくなるシンプル極まりない乗り物』(④-5、P171)だった。『フライヤーは、ギネスブックに史上最も安価な車として記載されています。この本には、1922年のブリッグス&ストラットンフライヤー(注;スミス社の後に製造権を獲得した)が125ドルから150ドル(2020年には1930ドルから2320ドルに相当)で販売されていると記載されています。』
https://vintagenewsdaily.com/smith-flyer-a-small-five-wheeled-with-two-seat-car-from-the-1910s/ の一部を機械翻訳。下の写真もコピー。この写真からなんとなく、アメリカでの使われ方がイメージできる。ちなみに1922年のT型フォード(4気筒2896cc)の価格は標準のツーリングモデルで355ドルだった。
m46.png
https://vintagenewsdaily.com/wp-content/uploads/2020/11/smith-flyer-1-1-640x381.jpg
ところがこのフライヤーが日本に持ち込まれると、紳士が乗るフォーマルな乗り物へと生まれ変わる。中央貿易により『黒塗のボディが被せられ~、さらに幌まで装備する~今日これらの写真を見ると、いい大人が子供用のペダルカーに座っているようで、いささか滑稽に映るが、当時の皆さんはじつに真剣だったのである。』(④-5、P172,3)の写真をご覧ください。)しかもどうやら、そこそこヒットしたようなのだ。以下(④-15)より引用。
『オートバイと同様に無免許で運転できて、駐車場が不要であり、税金もオートバイ並み(地方によって大きく異なるが)としたこの適用除外制度は、大正時代のユーザーにとって絶大な利点を生んでいた。当時はさほどに車税が高額であり、運転免許の取得も困難で、とどのつまりは業務用でもなければ、自動車の所有など、まだ雲の上の空夢であった。写真のように気取って豆自動車に乗った日本人は、「オーナードライバー」という概念すら湧かなかった時代に、これを楽しもうとした、ごく一部のモーターマニアだったのである。』(④-15、P175)当時の日本でこの車に乗っていた人は、本当の趣味人だったのかもしれない。
(上の白黒写真では、“走るスノコ板”の構造がわかりにくいので、下に最近のカラー写真を掲げておく。ただ木製の板だったため朽ち果ててしまい、オリジナルのものはほとんど残っていないようだ。画像は
https://www.mecum.com/lots/LJ0617-283881/1915-smith-flyer-cyclecar/
よりコピーさせて頂いた。なおスミスモーターホイールの類似品を、モーターボート商会がアメリカ製デイトンモーターサイクルのものを、二葉屋がマイケルモーターサイクル製の輸入に乗り出すが、いずれも長続きしなかったようだ。詳しい経緯及びその理由は(④-5、P170、171)をご覧ください。)
m47.jpg
https://cdn1.mecum.com/auctions/lj0617/lj0617-283881/images/lj0617-283881_2.jpg?1495196145000
15.1-3中央貿易製の「オートサンリン」
 こうして、フロントカー型の三輪自転車の後輪に、スミスモーターホイールを取り付ける形で、大阪や東京を中心に、オート三輪の草分け的な荷物運搬車が、自然発生的に誕生していったが、その代表格として、輸入元である、大阪の中央貿易の流れから追ってみたい。
 まず同社では、スミスモーターホイール単品以外に、上に記したようにスミスフライヤーに黒塗りの重厚な?ボディを載せて、完成車販売(カタログでは“豆自動車”と!)をしていたが、さらに同社製の完成車として、乗用専用の「自動人力車」と、フロントカー式の貨物運搬用「自動三輪車」を販売し、オート三輪時代の先鞭をつけた。そして下の写真を、よ~くご覧いただきたい。この貴重な資料は、月刊オールド・タイマー(八重洲出版)連載記事「轍をたどる」(2006年.8月、№.89号、④-5として引用)のP173からコピーさせて頂いた、1920年の雑誌モーター10月号に掲載された、中央貿易の宣伝だが、「自動入力車」の下の、「自動三輪車」の横に確かに、小さいが「AUTOSANRIN」と記されているのだ。
m48.jpg
 そして中央貿易製の「AUTOSANRIN」は、後にカタカナ表記となり「オートサンリン」として、さらに前面に表記されていく。下の写真も、月刊オールド・タイマー(八重洲出版)の「轍をたどる」(④-5として引用)のP173からコピーさせて頂いたものだが、フロントカー式だけでなく、リヤカー式、スクーターなど、バリエーションを広げていった様子がわかる。そして『中央貿易ではこれらの自動三輪運搬を、カタログ(注;略)にあるように「オートサンリン」と名付け、特に次の二種を主力として販売する。・フロントカー式固定オートサンリン、 ・リヤカー式固定オートサンリン のちに戦後、昭和40年代まで続いた「オート三輪」の呼び方としても、これは極めて早期の使用例だった。』(④-5、P172)下の写真は、雑誌モーターの1923年5月号のものだが、確かにカタカナで“オートサンリン”と表記されている。この“オートサンリン”という言葉が、中央貿易が使い始めたのか、他社の方が先だったのか、それとも自然発生的なものだったかは不明だ。(②、P173)では、『オート三輪という言葉が用いられるようになったのは、1922年に山成豊氏の経営する鋼輪社(KRS)が、スミスモーターを使用して、前1輪・後ろ2輪の動力付きの三輪車をつくったからだといわれている』と記してある。より一般化したのはその時期だったかもしれないが、さらにその前の、今から100年以上前に既に使われ始めていたことだけは確かだ。
15.1-4モーターホイールの応用形態から脱却しつつあった瞬間「リヤカー式固定オートサンリン」
そしてもう1点注目すべきは、このオートサンリンの写真に、外付けのスミスモーターホイールが見当たらない点だ。(④-5)の指摘のように、“固定式”オートサンリンは、モーターホイールを外付けするのではなく、汎用小型エンジン版のスミスモーターを使用していたのだ。『これらは汎用エンジンを利用した、いわば独自設計の完成車でもあった。モーターホイールの応用形態から脱却しつつあった瞬間がここにみられる。』(④-5、P172)
この「スミスモーター(エンジン)利用リヤカー式オートサンリン」は、大正13年(1924年)9月12日に、内務省より特殊自動車としての認可を得ている(④-13、P175参照)。そして(15.4-32項)で記す、鋼輪社(KRS)のリヤカー式オート三輪も、(②、P173)の記述から類推すれば、同じ構造だったように思われる。富塚先生指摘のように、フロントカー式では大きな問題は生じなかっただろうが、リヤカー式とスミスモーターホイールの組み合わせは安定性に欠けたので、この進化は重要だっただろう。
m49.jpg

15.2自動車取締規則が全国統一される(「自動車取締令」の発布;1919年1月)
ここで話題が少し逸れて、自動車法規の話題に移す。内務省(警察)は、交通取締りや免許等道路利用に関する「自動車取締令」を、弾力的に運用することにより、オート三輪と小型四輪車が市場を形成するのをアシストしていった。
この時代の日本の官庁では稀に思える、“上から目線”でなく、規制緩和によって自然な産業育成をはかった内務省(警察)の“粋な”施策について、その経過をたどっていく。
1919年(大正8年)1月11日、それまで地方ごとに異なっていた自動車規制が全国統一されて、内務省の省令第一号として「自動車取締令」が発布される。その背景として『大正7年(1918年)末の自動車数(内務省調べ)は、全国で4万5千台を数え、この中には専業のお抱えや営業運転手だけでなく、新たなオーナードライバーも芽生え、自動車の種類も多様に膨らんでいた。そこで必要となったのが全国的に統一された取締令だったわけである。』(④-5,P172)その概要を以下、自工会発行の“JAMAGAZINE”の中の資料、「自動車の「検査」とその変遷」(web47、P6)より引用する。
『大正 8 年(1919)1 月、内務省は自動車の保安の規定を含む規則「自動車取締令」(内務省令第1 号)を制定した。各県にあった自動車取締規則、その中の自動車検査に関する取締規則も全国統一しており、各府県警察が自動車事業とともに道路交通を取り締まるものであった。
 全 34 条で、自動車の定義から始まり、最高速度を 16 マイルとし、続いて自動車の構造装置、営業・自家用の別、検査、車両番号、登録、運輸営業、運転免許、自動車事故、罰則等を規定しており、このなかでは自動車の定期検査の実施についても規定していた。』
この法令によって、「自動車」という存在が日本で初めて定義づけられた。合わせて免許制度も整備されたが、自動自転車(オートバイ、ただしサイドカー付きのものを除く)とオートペッド(下の写真参照、アメリカ製の)については、動力付きではあるが自転車の延長線上にあるものとして、鑑札(ナンバープレート)を付けて納税さえすれば、運転免許を所得しなくてよいことになった(④-5、p173参照)。
15.2-1自動車取締令の基本的な考え方
話を戻し、以上も(④-5)、(web47)の内容と重複するが、ここで自動車取締令の、基本的な考え方を押さえておきたい。(①、P122)から以下長文になるが、引用させて頂く。
『(自動車取締令の)その内容は、最高速度、自動車の構造・装置、検査、運転免許、交通事故などに関する条項となっている。ただし、ここで対象とする自動車は、~ 実際には四輪車のみを想定していた。~これは、それまで地方ごとの取締規則が、主に営業用自動車の取締りを目的として制定されたためであった。~そこで営業用に使われていない自動自転車は自動車取締規則でなく、「自転車取締規則」の対象となっていたのである。
こうした営業用自動車を対象とした取締令の発想は運転免許の条項からも窺うことができる。~すなわち、免許は「運転免許」ではなく、「運転手(就業)免許」となっていたのである。
こうした発想と第33条の条文を合わせて考えると、サイドカー以外の自動自転車、すなわち三輪車は取締令による規定を受けないこととなり、運転免許も不要であった。ただし、この取締令では使用を希望するすべての車は、制動機・警報機などの構造を備え、検査に合格しなければならなかった。第33条の第2項の条文は、これに対して特殊自動車の場合は構造を簡単にすることができるという意味であったのである。』
ここで「特殊自動車」という語句が、初めて登場する。以下(④-5、P173)から引用を続ける
『そしてこのオートバイ並みの無免許運転許可扱いが受けられる自動車を「特殊自動車」と呼んで、やや漠然と示した。』これ以降、この記事で「特殊自動車」という語句が、何度も何度も出てくるが、その位置づけを考える上で、基本となる解説だ。
15.2-2日本が左側通行になったのは大倉喜七郎の助言?(余談)
(ここからは余談になる。(⑩)によれば、そもそも政府(内務省)が最初に自動車取り締まり規制を制定する際、黎明期の日本の自動車界の第一人者的な立場にあった大倉喜七郎による助言が大きな影響を与えたという。(⑩、P41)では『日本が左側通行となったのも、英国で自動車を学んだ大倉の助言によるものと思われる。』としている。
以下は(⑦、P16)より『(1907年に)帰国した大倉に早い時期に接触を図ったのは東京・警視庁の自動車取締を担当する原田九郎だった。彼は前年に東京帝国大学を卒業したエリート官僚で、輸入された自動車が走るようになってきたことで、これを法律的にどう対処するか検討する任務を与えられていた。当時は、自動車のナンバーも運転免許証も交付されておらず、勝手気ままに走っていたのだ。(中略)いずれにしても、大倉の意見が自動車取締法などに大きな影響を与えたことは間違いない。原田が作成した交通取締法は、警視庁管内で有効であっただけでなく、それが各地方のモデルになり、全国的なものになっている。(中略)1910年(明治43年)のナンバー交付により、自動車の安全性や車両の満たすべき基準がつくられるようになるが、それまでも自動車を走らせるには登録することが義務付けられた。』(下の写真は「天皇に拝謁の顕官(衆議院議員・貴族院議員)を待つ高級車」(1934年)で、ジャパンアーカイブスさんよりコピーさせて頂いた。)
m160.jpg
https://jaa2100.org/up/entry/s9kenkan_thumb.jpg
このため、原田のいる警視庁交通課では、どのような自動車が輸入され、あるいは日本でつくられているか、すべてを把握していたという。当時の自動車の台数ならば可能だったのだろう。さすが警察だ。そして当時の日本のVIPたちも、徐々に自動車を主体に移動するようになっていたはずだ。内務省(警察)が自動車取締令で押さえておきたかったことは、治安維持の観点からすれば普通自動車の動静で、“豆自動車”などは当初、範疇外だったのもうなずける。下の画像はwikiより日比谷赤煉瓦庁舎。1911年(明治44年)3月から1923年(大正12年)9月(関東大震災)まで使用された、東京・警視庁の日比谷赤煉瓦庁舎。)
m50.png
15.2-3免許取得のハードルはかなり高かった
話を戻す。ここで当時の一般の自動車用の、「運転手(就業)免許」としての色彩が強かったという自動車免許に求められた技能ついて、以下(⑬)より、
『戦前の自動車免許は、戦後のそれとは異なり、営業車の運転を前提としていたこともあり、自動車修理の技能なども求められるかなり難しい技能であった。そのためここでの無免許(車両)とは、構造が簡単でかつ操縦が容易であり、特別の練習を必要としない車両の意味である』(⑬、P169)。免許取得のハードルはかなり高かったようだ。GAZOOによれば、『免許取得は18歳以上が対象で、各地方官による試験もありました。期限は5年で“更新制”ではなく“再試験制”だったのも、現在とは違うところ。免許を持っていても、再試験で不合格になると免許が維持できなかったのです。』と今よりも厳しい。
https://gazoo.com/column/daily/20/03/12/ 
15.2-4特殊自動車=無免許で乗れる車というよりも、検査に合格した車&製造業者という意味合いが強かった(内務省の視点)
現在一般的には、「特殊自動車」というよりも、「無免許三輪車」とよばれていることも多いこの制度は、内務省側の視点に立てば、『無免許で乗れる車というよりは検査に合格した車という意味合いが強かった』(①、P122)のだという。『その際に、もっとも重視されたのは道路交通の視点から見て、一定以上の性能を持っているかどうかであった。』(①、P122)から引用を続ける。
『無免許車の許可が車輛ごとでなく、検査に合格した製造業者に下されたことも、車両の性能を重視する発想からきたものであったと思われる。というのは、車両検査の際には車体自体だけでなく、製造業者が検査車輛以上の性能を備えた車両を持続的に供給できるかどうかについても調べており、後述するように、三輪車の性能が問題にならなくなる30年にはこの方法が変更されたからである。』
自分も誤解していたことだが、一般に言われている特殊自動車=「無免許車」は運転手/所有者側の視点に立てば確かにそのようになるが、内務省側の立場では、そのクルマ&製造業者に対して、試験に合格したものに免許(=「特殊自動車」として許可する)を与えるという目的のものだった。後に記すように、当時オート三輪業界への参入障壁は低かった。交通体系を安全に維持していくために、一部の怪しげな、特殊自動車の申請者(15.4-13項参照)を排除する意味合いが強かったようだ。そのため内務省はこの、ままこみたいな立場の、「特殊な自動車」の普及に、当初は慎重な姿勢を示していた。
15.2-5やや曖昧だった“特殊自動車”の定義
以上のように、自動車取締令の適用除外から始まった、特殊自動車の定義自体も、やや(かなり?)曖昧なものだった。以下(④-5)から引用する。『この「特殊自動車」については、道府県知事が認めれば、第四条の規定(注;保安装置の装着義務)が省略できるとしている。~ つまり地方長官が「特殊自動車」と認めた車輛なら、運転免許も保安装置の一部も不要という解釈が成り立つ、少々不確定な条文だったのである。』(④-5、P173)日本の自動車社会が、まだ発展の初期段階にあり、方向も定まっていなかった中で、関連の法規が、このような“弾力的な運用”に頼ることになるのも、多少はやむを得なかったと思う。
そして(④-5、P174)によれば、運転免許以外にも「特殊自動車」扱いになれば、『~最低限この2項目、すなわち最高速度(16マイル=25.6km/h)と交通事故の対処、またこれらに違反した場合の罰則規定が適用されるだけだったのである。』非常にシンプルな内容で、こうなると軽車輛にとっては、「特殊自動車」として認定されるか否かが、非常に重要なポイントになったのだ。
(下の写真は最初から特殊自動車として認定された、“オートペッド”で、アメリカ製の155ccエンジン付きキックスクーターだ。中央貿易はこれを「自動下駄」のニックネームをつけて売り出したが、スミスモーターホイールと違って、日本人にはウケなかったようだ。当時の日本人の嗜好からすれば、「実用的」とは言い難い乗り物だったが、運転免許が不要との判断は頷ける。
なお、(15.1-3項)に写真を載せた「自動入力車」について、『大正9年(1920年)の夏に、「自動自転車(サイドカーを除くオートバイ)及びオートペットの類と同様に特殊自動車として」、無免許運転を認めてほしい、とする申請が現れた』(④-13、P175)が、許可されなかったという。「自動入力車」のような、人力車的な使われ方が可能なものは、営業用自動車とみなされてしまうと、扱いは厳しかったのだろう。次に記す「警山第104号」の通牒が出る前の話だ。下の写真は以下のFacebookよりコピーした。
「Scooter in 1916 ! The Autoped... - Shu Ren Learning Centre | Facebook」)
m51.png
https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcRJF-flBnfjObWLfYo6DdxjX3Nt3PcCF27CzA&usqp=CAU
15.2-6 スミスモーター系の車両は公式に「特殊自動車」のお墨付きを得る(1921年12月)
 ここからも、(④-5、P174)の一部を、丸写しさせていただく。正しくはぜひ、原文の記事をご確認してください。
『はたして特殊自動車として扱って良いものかどうか?という疑問でまず物議をかもしたのが、先のスミスフライヤーであった。スミスフライヤーのような豆自動車は、通常の自動車と同じ扱いには出来ない、と考えるものが多数現れた。これに対して内務省は、大正10年(1921年)12月22日、警保局長付けで各都道府県庁宛てに次のような通牒(書面で通知すること)を送った。』(④-5、P174)その書面の別紙として、スミスフライヤー、オートサンリン(注;ちなみにそこに図示されたものは、先に掲げた、1920年の雑誌モーター10月号の「自動三輪車」のイラストと似ている)、サイクロモビルの図を示し、『これらスミスモーター系の簡便な車両は、前出の取締令第33条の「特殊自動車」にあてはまると決めた。つまりこの時点から、スミスフライヤーとオートサンリン(この時点ではまだスミスモーター付きのフロントカーだった)は、全国的にオートバイ並みの取り扱いが許されるようになったわけだ。
 大阪の中央貿易によるスミスモーターの販売は、「小型自動車に関する件通牒」と呼ばれるこの省令によってさらに弾みがついた。前述のように大正6年(1917年)からすでに東京や大阪ではスミスモーター付きのフロントカーが自然発生的に出現し、商店の配達などに使用されていたわけだが、この通牒、警山第104号以降は「免状(運転免許)不要」のお墨付きで売ることができるようになったのである。』
(④-5、P174)
15.2-7構造簡易、操縦亦容易にして、普通自動車に比し交通上の危険も寡少((警山第104号)
そしてこの、警山第104号の文中にある『構造簡易、操縦亦(また)容易にして、普通自動車に比し交通上の危険も寡少に有之候間(これありそうろうあいだ)という根拠、つまり普通自動車と比べて簡便かつ安全であるからよいだろうとする理由付けの一節は、その後内務省が創成期の製造許可を一台ずつ下していく際に、まるで慣用句のように登場し、連呼されていく。』(④-6、P170)
このことが端緒となり、オート三輪の製造業者たちはこれ以降、内務省を中心に、警視庁、各都道府県や後には商工省も含めた関係省庁と、様々なやりとりを繰り広げつつ、優遇枠の拡大を陳情し、段階的にそれを獲得していく。一方当初はその普及に消極的であった内務省を中心とした行政側も、陸軍のような産業保護の観点からの規制ではなく、次第に規制緩和を通じて民間の活力を引き出そうとする、産業振興策で応じ、その実績を上げていく。
もちろん、それが可能だったのは、オート三輪や後に記す小型四輪車の分野が、フォードやシヴォレーとまったく競合しない市場だったからであるが、戦前の日本社会における民と官の関係性からすると、異例の展開とも思えるその道程を、この記事でこれから辿っていくことになる。
15.2-8スミスモーターが国産小型自動車の引き金をひいた
 現在の日本で、スミスモーターホイールの存在意義を問われれば、web等メディアの影響から、大半の答えは「トヨタの自動車研究が、スミスモーターの分解から始まった」ことになるのだろう。確かにその事実も大きい。しかし今までこの記事で確認してきたように、この小さな補助動力輪が、トヨタのみならず、黎明期の日本の自動車界全体に与えた影響の方が大きかったと思う。そのまとめとして、(④-5、P170)から引用させていただく。
『大正期の日本にモータリングの波を押し広めたのがスミスモーターホイールであった。まだモーターが有産階級の専用物であった時代の日本の自動車社会に、小さな風穴を空けたのが、わずか201ccのモーターホイールだったのである。
 その風穴はのちに国産小型自動車を発生させる引き金となり、自動車取締令の上に意外な影響を残すことになる。例えばもし日本でスミスモーターホイールの人気がなかったら、戦後の軽自動車の車両規格は生じていなかったといっても過言ではないだろう。』

(下の写真は、「トヨタ産業技術博物館」より、同館のfacebook(web27-3)より引用させていただいた。以下の文も引用『当館・自動車館には、米国製「スミス・モーター・ホイール モデルBA(1917年製)※」が展示されています。(中略)このエンジンを参考にして、トヨタ自動車を創設した豊田喜一郎と彼の仲間たちは、彼らにとって初となるエンジンを試作しました。』豊田喜一郎がなぜ、自動車研究の最初の素材として、このスミスモーターモーターホイールを選んだのか、エンジンの構造が単純だった理由が第一だっただろうが、下の写真に思いをはせれば、大衆のための自動車作りの、その原点に立ち戻り、そこからスタートさせたかったからかもしれない。)
m52.png

15.3実用自動車製造と「ゴルハム式三輪実用自動車」について
 ここからは、特殊自動車だと、正式に認められた、黎明期のオート三輪の発展の歴史を辿っていくことになる。しかしその“本流”の話の前に、国産三輪自動車という括りからすると、どうしても、大阪の実用自動車製造の「ゴルハム式三輪実用自動車」についても触れておかねばならない。
同車については前々回の記事の(8.3-4項)でも触れたが、今回の記事で度々引用した“轍をたどる 国産小型自動車のあゆみ”(岩立喜久雄氏著)を読むと、今まで認識不足だったこともわかってきたので、この項では、久保田鉄工所をはじめ一流企業の多額の出資を経て、鳴り物入りで登場した、ゴルハム式三輪実用自動車の初期の時代に焦点を絞り、その実像を確認しておく。
なお予め記しておくが、このゴルハム式三輪車は、今までたどってきた荷物運搬用のオート三輪の流れに属するのでなく、かといって、陸軍保護下の軍用保護自動車を目指したわけでもなかった。商人の街、大阪らしく志は高く『輸入車とはひと味違う、安くて便利な自動車をつくることをめざして設立された』(⑦、P70)のだが、すぐにその計画は頓挫し、その後紆余曲折を経て、次回の記事で記すがやがて国産小型四輪車の本流の流れへと至る。まず初めに、実用自動車製造の設立の経緯から、もう一度確認しておく。以下(④-10、P170)より引用
15.3-1久保田鉄工所直系の子会社だった
『そもそも実用自動車製造は、前述のようにゴルハム号の特許を高額で購入し製造販売する目的で、大正8年12月に発足した会社だった。当初は久保田鉄工所の創業者、久保田権四郎(1870~1959)が社長を兼務していたが、実際は娘婿にあたる久保田篤次郎が立案した事業計画の下に、久保田鉄工所はじめ、以下の関西鉄鋼界の豪商たちが参集し、合計100万円を投資していた。大正8年当時の100万円といえば、現在ならば50億から100億円に相当する。久保田権四郎(久保田鉄工所)34万円、津田勝五郎(津田鋼材社長)30万円、芝川英助(貿易商)30万円~ これらの出資者たちは、第一次大戦(大正3~8年)期の関西産業界の非常な好景気を受け、潤沢な資金を備えていたわけだ。』
(web44.P44)には『ゴーハムの権利を 10万円で買い取ることにより、自動車製造に乗りだした。』という記述があるので、ゴルハム号の特許及びその製造権に気前良く、10万円(今の価値では5~10億円)支払ったようだ。
瓦斯電と石川島が自動車事業に参入したのと、出資者たちの元の動機は同じで、第一次大戦終結後、景気が減退し、経済が縮小することは目に見えていた。みな余力のあるうちに共同で、自動車というリスクはあるが未開拓の成長分野へ投資し、進出をはかろうとしたのだろう。
15.3-2久保田鉄工所にも事情があった
それに加えて当時の久保田鉄工所側には、固有の事情があったようだ。各地で水道事業が拡大していく中で「“日本の水道管の歴史はクボタの歴史”」(wiki)と言われるほど、鋳鉄管の生産で業界トップ企業の地位にあり、大きな利益を上げていたが、『 ~ 第一次世界大戦期という好況期にもかかわらず鋳鉄管製造業者は原料の銑鉄価格の急騰に影響された需要減退に直面し、従来の生産を維持することができなかったのである。』(㊱、P56)。1912年の需要を上回るのは、1923年以降だったというから深刻だ(㊱、P56)。
先の読めない中『「鋳物のクボタ」は鋳鉄管のみならず、機械鋳物、鋳型など鋳物の強みを生かした各種鋳物製品を生産』(㊱、P193)し、鋳鉄管の減少分を立派に補ったようだが、当時、けっして明るい状況ばかりではなく、危機感も強かったはずだ。引用を続ける。
『第一次世界大戦期に銑鉄飢餓に直面した鋳鉄管専業の久保田鉄工所は製品の多角化を模索するようになる。』(㊱、P57)工作機械への進出を図るなど、製品多角化を急激に進めていく中で、自動車事業への進出もその一環として計画されたもののようだ。
15.3-3稀代の興行師、櫛引弓人が魔法をかけた?
話を戻し、以下からは(④-9、P174)からの引用だが、さらに詳しく(手厳しく?)書かれている。
『櫛引ゴルハム特許の三輪車にこれほどの高値が付いたのも大いに謎であった。さほど画期的な設計だったわけではない。
 背景にはかつての鳥人スミスの騒動と同様に櫛引の魔力が働いていたのだろうか。櫛引は傑出した興行師であったが、行く先々でトラブルを起こす行跡もまた人並み外れていた。』

「博覧会キング」と呼ばれ、『機知と天才的なハッタリを武器に』(wiki)世界を股に歩み続けてきた稀代の大興行師、櫛引弓人(くしびきゆみんど)については、webでも多くの情報が検索できる。その数々の実績の中で、とくに有名だったのは、やはり航空ショーの成功だろう。
日本におけるアクロバティック飛行興行の祖と言われ、“鳥人”ナイルス、アート・スミスやキャサリン・スティンソンらを招いて全国を巡業し、時には数十万人もの観客を集まったという。(下の写真はHonda Aircraft Co.のツイッターより『100年前の今日、本田宗一郎少年はアメリカ人飛行家アート スミス氏の曲芸飛行ショーを見学し、飛行機への情熱を燃え上がらせました。』
(https://mobile.twitter.com/hondajet/status/868656574692286464)
m53.png
https://pbs.twimg.com/media/DAyYR7RXcAA-EwZ?format=jpg&name=small
若き日の本田宗一郎に限らず、木村秀政や糸川英雄ら、その曲芸飛行の虜になった者は数知れず、そのインパクトは強烈だったようだ。外国人飛行士たちは「鳥人ナイルス」、「新しい空の王者」、「空の女王」、「宙返り女流飛行家」などともてはやされて、その人気は日本中に社会現象を巻き起こすほどだったという。そして『これらの飛行興行を裏で巧みに演出していったのが、老練な櫛引だったのである。』(④-9、P173)
クシカーも『目立ちたがり屋の櫛引は、人目を引くように乗り回していたようで』(⑦、P72)、『物珍しさもあったのだろう、これが評判となり、』(②、P191)きっかけはわからないが、久保田権四郎や津田勝五郎らの発起人たちとの“接触”もあったのだろう。そしてどうやら、櫛引の放つ“魔力?”に幻惑されていったようだ。『ゴルハム本人も同社の技師長として、まるで明治のお雇い外人並みの高級待遇で雇い入れた』(④-9、P174)。
『久保田は~製造工場を新設してもまだ相当に資金が残った』というほど、当時の久保田鉄工所には充分な資力があったようだが、今になって、その状況を振り返えれば、櫛引弓人がその“演出”にかかわったことで、クシカーやゴーハムに対して、実力以上の“付加価値”が+されたようだ。櫛引に関してのまとめ?として(⑦)から引用する。
『しかし、あとから見れば何とでもいえるもので、舶来品に対する信仰が色濃く支配していた時代に、アメリカ人の技術者によって設計製作されたものであることから、ゴルハム三輪車は、日本人のつくったものとは違うはずだと思い込んだとしても無理はないだろう。』(⑦、P77)
15.3-4「ゴルハム式実用三輪車」の実力
 そもそもこのゴルハム式三輪車は、どのような市場を狙っていたのか。以下(④)を元に考察する。
まずゴルハム号の地元、大阪の市場の状況だが、当時、東京に比べても自動車の普及が遅れていた。『この時期は、まだ大阪府内全体の自動車保有台数が、わずか612台にすぎなかった(大正8年12月内務省調査)。東京府の登録台数3000台と比較して、約五分の一の数であった。これは大阪の道路事情が良くなかったことに起因している。道幅が狭く、そのため人力車の数は東京よりもむしろ多かった。』(④-10、P172)
 この時期すでに大阪では、フロントカー型の三輪自転車にスミスホイールモーターを付けた、初期のオート三輪が、荷物を積んで市中を走っていたはずだが、荷物輸送よりも、当時の大阪に多かった、人力車からのステップアップを狙ったようだ。
15.3-5キャッチフレーズは「人力車代用車」
大阪の有力企業が出資しただけに、販売体制も関西地区は久保田が、首都圏は梁瀬自動車が行うなど本格的だった。当時ゴルハム号の販売を統括する立場にあった、金森金寿(のちの日産自動車販売社長)は以下のように証言している。(④-10、P173)
『タクシーというものは当時、大阪駅付近にも十台となかった時代ですから、凡そ自動車という観念はやはり薄かったのでありました。先ずゴルハム式の三輪車は、人力車代用という訳で、その時の印刷物にした広告も、人力車代用という名前で売り出したのです。したがってその売り先は、お医者さんとか、人力車の親方、つまり当時の車屋というのが唯一の対象であったのです。』だがゴルハム号(三輪タイプ)の価格は、幌型乗用タイプで1,615円、箱型貨物型で1,515円の正価(1922年)で、人力車の価格とはおよそかけ離れていた。しかもその上のクラスの市場には、当時世界一の、圧倒的なコストパフォーマンスを誇った、T型フォード(2,896cc)が2,500円の低価格で構えていたのだ。
15.3-6よく横転した!(欠陥車?)
『異様にもてはやされたゴルハム実用三輪車の実力はどうだったのだろうか。(中略)いざ発売してみると、あまりに前フォークが弱く、カーブでよく転倒し、そのため評判を落とした。梁瀬自動車が販売に乗り出したが、一向に売り上げを伸ばすことが出来なかった。あまりに不安定なので、急きょ大正10年末(1921年末)に四輪への設計変更を行い、平和記念東京博覧会の開催中に幌型四輪乗用車として売り出したが、もはや悪評を覆すことはできなかった。』(④-9、P175)この、腰高で不安定で、カーブでよく横転したという話だが、コストパフォーマンスの悪さ以前に、自動車としてみた場合、ほとんど致命的と思えるほどの欠点だ。そしてとうとう、ある決定的な事件を起こしてしまったという。
15.3-7致命的な事故を起こしてしまう
『平和記念東京博覧会(上野公園、大正11年3~7月)に出品し、天皇御料車の先導用に警視庁に納入したものの、テストの途中でひっくりかえり「大目玉をくらった」事件が発生した。この失態は、久保田篤次郎、後藤敬義、田中常三郎の各氏がそろって回顧しており、販売に大きなダメージを与えたようだ。』(④-10、P173)
その「大目玉をくらった」結果なのだろう、『あまりに不安定なので、急きょ大正10年末(1921年末)に四輪への設計変更を行い、平和記念東京博覧会の開催中に幌型四輪乗用車として売り出したが、もはや悪評を覆すことはできなかった。』(④-9、P175)この時点では、ゴーハムは自らの名を付けた「ゴルハム号」の販売直後に実用自動車を去り、鮎川義介の戸畑鋳物へと去っていたので、この三輪→四輪化は、若い後藤敬義(津田系の大阪製鉄(津田鋼材)出身の技術者)が中心となり実施された。(下は“むーぞう日記”さんのブログよりコピーさせて頂いた、日産ヘリテージコレクションにある「ゴルハム式三輪自動車」の模型の写真だが、これではやはり、横転は避けられなかった? 
https://minkara.carview.co.jp/userid/135242/blog/40979428/)
m54.png
https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/userstorage/000/041/718/926/d7d34bc16b.jpg?ct=2f8dac2f0f7e
15.3-8圧倒的なコストパフォーマンスの悪さ
 ゴルハム号の一番の弱点は『ゴルハム号の敗因は、まず重心が高く、不安定で、横転したことにある』(④-10、P173)だったが、問題はそれにとどまらなかった。引用を続ける。
『 ~ 設計自体が日本向きでなかったのである。926ccという排気量からしても、通常の運転免許が必要となり、小型自動車としての利点が少なかった。また自製のエンジンとしたために、製造コストが膨大に膨らんでいた。同じ時代に大阪で発生していたスミスモーターや、ビリヤスエンジン利用の特殊自動車と比較すれば、コストパフォーマンスはけた違いに悪かった。乗客数や積載量の面から見ても、ハーレーやインディアンを利用した大型リヤカー群(注;〇×項で記す)の性能に及ばず、安定性や機動力、価格の面でも、およそ勝ち目はなかったのである』(④-10、P173)。南恩加島工場は月産30~50台を想定していたが、強力な販売力をもってしても、ゴルハム号は結局、3年間で250台製造するのがやっとだった。ゴルハム号のまとめとして、またまた(④-10)より引用させて頂く。
『ゴルハム号三輪自動車の製造事業は大失敗に終わっていた。(中略)結局のところ、大阪の実用自動車製造には、南恩加島工場の立派な設備と、若い日本人技術者達が、売れないゴルハム号と、膨大な赤字と共に残されたのである。
 普通ならば、巨額な損失を生んだために会社は倒産、工場も売却となるケースだが、親会社の久保田鉄工所をはじめ、大阪鉄鋼界の強力な後ろ盾を得ていた実用自動車製造は、奇しくもそのまま存続していく。(中略)
 苦況に突入した実用自動車製造を立て直したのは、大正11年(1922年)より専務取締役を務めた久保田篤次郎と、技師長の後藤敬義の両名であった。』
(④-10、P170~P173)
そしてこの二人を中心にして、リラー号を経て、小型車ダットサンが誕生することになるのだが、それについてはオート三輪の項ではなく、この記事の後半の、小型四輪車のところで記していく。
(下の写真はゴーハムが足の不自由だった櫛引のために作った、通称“クシカー”。その説明を(web⓰-6)より、写真と共に引用
『ゴーハムは活動の不自由となった櫛引のために、特別な片足でも運転できる3輪車を作ってあげたのである。友情から誕生した手作り3輪車。これがクシ・カー号、のちに量産されてゴルハム式自動3輪車の原型となるクルマだ。大正8年(1919年)ごろの話だ。エンジンやフロン回りは、オートバイ・ハーレーダビッドソンの部品を流用し、後ろのシートは人力車のように2人掛けができるバーハンドルタイプの3輪車だ。片足でも運転ができる仕掛けとした。』この写真だけを見れば、シンプルな乗り物で好感も持てるが『この状態で眺めるとバランスは良いのだが、上にボディを架装して、3名が乗車すると、重心が非常に高くなる』(④-10、P169)。
元々櫛引向けにワンオフのつもりで、有り合わせのハーレーのパーツを使い、作ったのだから仕方がないが、貧乏性でケチな日本人の目から見れば、とても900cc+ものエンジンを載せる乗り物ではない。200~300cc程度の特殊自動車扱いの乗り物で、たとえば当初はそのクラスの定評ある輸入品のエンジンを使い、資力は十分あったのだからその後徐々に国産化をしていけば、また違った展開もあり得たと思う。しかしそうなると、最初から大規模な工場設備が不要となり、充実した工場設備という“遺産?”が残らなかったかもしれない。1920年代の全般的な不況の中で久保田本体の事業も楽ではなかった中で、身軽なため事業の撤退も容易になるなど、複雑な要素が絡んでくる。それが日本の自動車産業全体の展開として、最終的に良い方向に働いたかどうか、必ずしも、言えなそうだ。やはり後出しジャンケンであれこれ考えるのは無意味?)
m55.png
https://seez.weblogs.jp/.a/6a0128762cdbcb970c0263e9a37e11200b-250wi
15.3-9生産技術の分野で日本に貢献したゴーハム
(ゴーハムが日本で果たした数々の実績についても多くの情報があり、手短のところでは、(web⓰-5)、(web28-3)及びwiki等を参照して下さい。2013年に日本自動車殿堂にも選ばれているが(web❼-5)、その選考理由は「日本の量産・高精度技術を指導;日本のモータリゼーション黎明期に、ゴーハム氏が量産体制を確立した功績は極めて偉大」だった。日本向きではなかったという点では駄作といえた、ゴルハム号三輪車を見ればわかるが、自動車の設計・開発面よりも、生産技術や品質管理面で多大な貢献を果たした人物だったようだ。以下は(⑦、P72)より引用
『(ゴーハムは)技術的な知識を人に教えるのが好きなタイプで、当時の日本ではゴーハムの持っている知識と経験は貴重なものだった。自動車だけでなく、各種の生産技術の分野で貢献した。ちなみに、日本人になったのは太平洋戦争が避けられなくなった時点で、アメリカに帰らずに日本に骨を埋める決意をして日本国籍をとったからだ。それだけ日本が気に入っていたのだ。』桂木洋二氏は「日本人になったアメリカ人技師―ウィリアム・ゴーハム伝」という本を著すなど、ゴーハムに詳しいので、確かな評だと思う。
以下、大阪の南恩加島町にゴーハムが主導して建てた、工場設備について(web⓰-5)から引用する。『この工場の完成は大正9年7月。建坪は1349坪、鋳造、熱処理、工作機械、塗装、組み立てなどの工場のほかに、エンジン試験室、検査場、材料倉庫、製品置き場など、自動車工場として必要な設備はすべて整っていた(写真)。
工作機械として、複雑な穴を加工するブローチ加工機をはじめ旋盤、ネジをつくる転造マシンなど当時の先端のモノづくりマシンが30台ほどそろえていたという。いうまでもなく精度を管理するシステムを導入しており、日本での初の近代的な大量生産方式を導入した工場だともいえた。』

さらに、その製造技術を下支えするために、関西地区最大の官営兵器工場で高い技術力を誇った、大阪砲兵工場から技能工を引き抜いて運営させた。(⑦、p74、④-10、P171他)『砲兵工廠にしても、民間で自動車をつくることは望ましいことで、実用自動車の願いに積極的に対応するなど協力的であったという。』(⑦、P74)
大阪砲兵工廠といえば、この一連の記事の「6.2陸軍自ら、軍用トラックの試作に乗り出す」で記したように、陸軍が最初に、軍用トラックの試作を行った際に中心となった工廠であった。だがこの実用自動車製造が、それから10年もたたないうちに、陸軍の将校の斡旋で東京のダット自動車製造といっしょになり、軍用自動車の生産で糊口をしのぐことになろうとは、陸軍も大阪砲兵工廠も、この時は思ってもみなかっただろう。
エンジンはハーレーの影響を強く受けていたもののオリジナルのもので、『マグネトーと気化器は米製の輸入品だが、エンジン回りはすべて、ピストンからピストンリングまで自製していた。そのためになんとキューポラのある鋳造工場まで建設』したのだという。その分エンジンの製造コストは、相当高くついたはずだ。下の写真はgazooより、ゴルハム式三輪車の前に立つ実用自動車製造の首脳陣で、横から見ただけでは、重心が高く、不安定な様子はわかりにくいが。右がゴルハムで、その隣がゴルハムの下で自動車の設計/製作技術を学び、後に主任技師となる後藤敬義だ。
https://gazoo.com/feature/gazoo-museum/car-history/15/06/05_1/)
m56.png
https://gazoo.com/pages/contents/article/car_history/150605_1/04.jpg
15.3-10久保田篤次郎&権四郎父子について、戦前日本の自動車史の中で過小評価されている(私見)
(これより下も、まったくの雑談だ。
何度も書いてきたが、実用自動車製造で中心的な役割を果たしたのは、久保田鉄工所の久保田権四郎、篤次郎父子(篤次郎は権四郎の女婿)だった。ただ同社誕生のいきさつの中で、2人がそれぞれ果たした役割については、各文献で微妙なニュアンスの違いがあるようだ。少々長くなるが、いくつかの資料を掲げて、確認してみたい。
今回多く引用した(㊵-10、P171)では、『(クシカーに)友人を通して紹介された28歳の若き久保田篤次郎が興味をしめしたのが発端であった。これに大阪船場の豪商柴川英助の子、柴川新次郎、また西区堀江の油商水野安次郎らが加わり、事業化の話をまとめていった。いわば大戦景気で財を築いた豪商連の若き2世達による投資計画だったのである。』と記している。篤次郎主導だったという解釈だ。
他の古い資料(日本自動車工業史稿 2巻」(大正~昭和6年編)(1967.02)自工会;P396~)、(国産車100年の軌跡」別冊モーターファン(モーターファン400号/三栄書房30周年記念)高岸清他(1978.10)三栄書房)などを調べても、ほぼ同じ基調だった。
一方、当時の事情を直接知り、かつ客観的な立場にあった(久保田家とは一定の距離があったという意味で)後藤敬義は自工会が行なった座談会に於いて、現場で、肌で感じた印象として、多少ニュアンスの異なる言葉を語っている。(㊲、P56)
『クシカー三輪車は、人力車代用ということで、だいぶ世間の関心をひいたものです。櫛引さんはこの車を久保田権四郎さんに紹介されたようです。この三輪車を改造して、後席に客を乗せるように作ったならば、相当売れるだろうというのが、当時のお話のようでした。』この記述を素直に解釈すれば、櫛引のアピールが、久保田権四郎の決断に大きく影響したと受け取れる内容だ。引用を続ける。
『この三輪車の製造を企業化するため、会社設立の動きが具体化しました。久保田篤次郎さんのお話によりますと、大正8年7月頃に、篤次郎さんが直接その折衝に当たられ、その結果、当時大阪の有力な財界人である津田勝五郎さんと柴川英助さんが各33万円、久保田権四郎さんが34万円を出資することに決まり、資本金100万円の「実用自動車製造株式会社」が設立する運びになったということです。』(㊲、P56)と語っている。ここでも、実際の事業化計画を、中心になってまとめ上げたのは久保田篤次郎であったとしており、多くの資料と一致している。余談だが、当時、津田勝(かつ)と恐れられていた、大阪随一の鉄商、津田勝五郎については、以下が詳しいので参考までに。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/bhsj1966/32/2/32_2_1/_pdf
以上は自動車系からの情報だが、一般の、久保田権四郎を軸にした久保田鉄工(現クボタ)の歴史(伝記)書ではどのように評しているのだろうか。「久保田権四郎 国産化の夢に挑んだ関西発の職人魂」沢井実(PHP研究所);㊱として引用」という本から引用する。
『(クシカー)を知った大阪砲兵工廠の水野保太郎は、権四郎の娘婿である久保田篤次郎を訪ねて、その企業化を勧めた。当初、権四郎は新規事業に逡巡したものの、養子篤次郎の熱意、大阪の有力財界人である津田勝五郎、山本藤助、芝川英助らの支持もあって、結局この自動車製造事業に乗り出すことになった。』(㊱、P81)簡潔にまとまっているが、大阪砲兵工廠の水野保太郎が久保田篤次郎に企業化を勧めたと、具体的な内容で、これも参考になる。(20世紀の国産車」鈴木一義 (2000.05)三樹書房)でも水野の名前がでていてほぼ同じ内容だ。
それにしても、各資料で、多少曖昧な部分が残るのは、『権四郎が文書で指示を出すことはなかった。すべて口頭で指示を出し、それを実行させた』(㊱、P256)ことも一因なのではなかろうか!ただこの事業化の計画に、当初は久保田権四郎自身も前向きだった印象は受ける。そしてその判断に、櫛引弓人が影響を与えた可能性もやはり、感じられる。
 それらの事情を加味した上で、今回調べた資料の中で、実用自動車製造誕生の経緯について、総合的に見て、バランスの取れた?記述だと思ったのは、結局、過去の記事でも度々参考にしてきた、桂木洋二氏の「苦難の歴史・国産車づくりへの挑戦」(引用⑦、P72~P76)であった。これ以上は長くなるので引用は避けるが、桂木氏はゴーハムの伝記まで書いており、周辺の事情を充分調べ上げているようだ。参考にしてください。
 何だかしまりのない話を、迷走しつつ延々と記したが、ここで言いたかったことは、今回、実用自動車製造について、改めて調べていく中で、今さらのように感じたことは、日本の自動車史における久保田篤次郎、権四郎親子の果たした役割の大きさだった。
たとえば、日本最初の量産車はなんだったかという議論になると、通常いくつかの候補が挙がる。三菱A型(1917年夏に試作が開始され1918年11月に完成。1921年までに計22台が生産された。以前の記事の(備考9)で触れた)や、13.1項で記したオートモ号(1924~1928年にかけて累計250台以上生産された。)を推す意見もあるし、さらには瓦斯電のTGE-A型軍用トラック(1917年)を、トラックだが最初の国産量産車だとする考えもあり得る。
しかし、個人的な意見で言えば、最初から、量産を目的に工場設備を整えて、製造から販売まで、すべてに本格的な体制で挑んだのは、実用自動車製造が日本初だったように思える。(参考;『一定の資本金を準備して、最初から生産設備を整えて量産体制を敷くかたちで自動車メーカーが設立されたのは、日本では「実用自動車製造」が最初』だった(⑦、P73)。『東京にもあまり前例がないほどの近代的な機械設備と、最新の生産方式による、本格的な自動車専門工場』(④-10)が誕生した。そして販売は関西地区が久保田、首都圏は梁瀬が強力に展開した。)
ただ一番肝心の、生産車種の選定が、「人力車に動力をつけたような安くて便利な乗り物があれば、輸入車と競合することなく普及するのではないか」といった、かなり“漠然”とした、希望的観測に基づいていたものだったうえに、コスト計算などの詰めも甘く、さらにゴルハム式三輪車自体がすぐにコケる“欠陥車”だったので、その事業は大失敗に終わってしまったが、ただそれでも、苦労しながらも、三輪と四輪型の合計だが、1920年という時代に、3年間で250台も生産されたということは、それなりの偉業だったと思う。(下の画像は工場にずらりと並んだゴルハム式三輪車の威容。有名な写真だが、でも実際は売れ残りだったのだろうか?画像は追浜ガレージさんよりコピーさせて頂いた。
http://www.oppama-garage.jp/nissan_history_00002.html)
m57.png
http://www.oppama-garage.jp/Docu0009
15.3-11実用自動車製造の夢をつぶさなかった、久保田権四郎&篤次郎
(しつこいようだが、久保田父子に終点を絞った、必要自動車製造とのかかわりについて、もう少し詳しく見ていきたい。さきにゴルハム式三輪車の事業計画を立案し、根回しを行ったのが、久保田篤次郎だったと記したが、本人はその後の一時期、いったん距離があったようだ。(⑦や④)によれば、実際に実用自動車製造が発足してからは、『社長には久保田権四郎が就任したが、鉄工所社長との兼務であるために、大阪製鉄の津田勝五郎が実際の経営をつかさどることになった。クシカー号の事業化を推進した久保田篤次郎の手を離れて、久保田鉄工所を中心とする大阪財界有志による新しい事業としての色彩を強めたのであった。』(⑦、P73)
しかし販売不振の上にコスト高の採算割れで、赤字が累積していき、当初の期待は、大きな失望へと変わっていった。
『「実用自動車」設立のきっかけを作った久保田篤次郎は、「久保田鉄工所」の新しい部門開発のためにアメリカに行っていたが、帰国してしばらくして社長の久保田権四郎から「お前のつくった自動車のほうが赤字でひどい状態になっている。なんとかするように」といわれて、立て直しのために専務取締役として本腰を入れることになった。
 これ以降、久保田篤次郎は、ずっと自動車畑を歩むことになる。1921年(大正10年)7月、「実用自動車」が発足して1年8か月後のことだった。
 最初に打たれた手は、三輪から四輪にすることだった。』
(⑦、P77)
以降についての詳細は、この記事の後篇の四輪車編で記すことになるが、久保田父子が真に偉大だったのは、この後の対処だ。
あきらめずに、数知れない困難を乗り越えて(『恩加島工場を存続させるため、~一般の自動車修理にも手を染めていた』(④-17、P167)という)、最後には無免許運転可の小型自動車、ダット“ソン”まで何とか誕生させたのは、もちろん多くの自動車の歴史書で書かれている通り、設計を担当した後藤敬義の働きもあったが、本質的にはやはり、経営を主導した久保田篤次郎の功績であり、また、自身は途中で乗り気ではなくなったものの、娘婿が主導した会社を一定のケリがつくまで清算させずに、支え続けた、久保田権四郎の忍耐と、度量の大きさだったのだと思う。もし(常識的に)途中であきらめていたら、その後の日本車の歴史は大きく変わっていたはずだ。まとめとして、(④-10、P169)から引用する。
『つまり大正8年の一号車ゴルハム三輪自動車に始まり、やがて昭和6年のダット号5馬力小型四輪自動車(水冷4気筒495cc)に至るまでの一連の国産先駆車の研究開発は、久保田鉄工所傘下の実用自動車製造が独自に挑戦し、途中、大正15年には、東京における自動車製造の草分けだったダット自動車商会をも吸収合併して、ダット自動車製造株式会社と改称しながら、これらパイオニア車の製造販売を敢行していったものだ。その実用自動車製造の苦節10年の研究成果であった虎の子のダット5馬力が完成した直後の昭和6年に、同社をそっくり吸収合併したのが戸畑鋳物であり、その戸畑鋳物の後身が、現在の日産自動車(昭和9年設立)だったわけだ。すなわちゴルハム号から、ダットサンの1号車となったダット5馬力までの設計製造に挑んだのは、戸畑鋳物ではなく、久保田鉄工所系の実用自動車製造株式会社だったのである。』((④-10、P169))
 戦前の日本に於いては、運転免許などで優遇処置が得られる特殊自動車か、陸軍が主導した軍用保護自動車(自動車製造事業法後はその許可会社に指定されるか)のどちらかしか、生き残る道はなかった(④-12、P176参考)。ダット自動車製造は苦難の末に、その二つの道の両方にたどりついたのだ。(ダット自動車製造の軍用保護自動車については、この一連の記事の8.3-5項を参照してください)
まったくの個人的な意見だが、その偉大な業績に比して、久保田篤次郎と久保田権四郎父子は、戦前の日本の自動車史の中で、あまりにも過小に評価されているのではないかと思う。)
15.3-12転んでもタダでは起きなかった久保田鉄工所&久保田権四郎
(自動車事業では大きくつまずいた久保田鉄工所だったが、『久保田は自動車生産で学んだことを石油発動機生産に注ぎ込み』本体側では、自動車製造で得られた知見を活かし、大きな成功をおさめることになる。そのいきさつについて、(④-10、P173)より篤次郎の述懐を引用
『 久保田鉄工所で旋盤を作る議論が社内で持ち上がりましたが、~ 私は親父(久保田権四郎)に旋盤を作ることはやめなさいと進言しました。親父はでは何を作るかといいますから、農業用発動機がよいと答えました。ところが親父は言下に、百姓がそんな機会を使うものか、といって私はえらく叱られました。』ちなみに怒った権四郎はその勢いで、お前(篤次郎)は実用自動車に行って後始末して来いと、叱責に及んだようだ。
しかしその後『権四郎は当初積極的ではなかったようであるが、商社からの強い慫慂もあって久保田鉄工所は小型石油発動機生産を開始した。鋳物技術を活用でき、自動車生産と工作機械生産で培った機械加工技術、量産技術を武器にして、石油発動機は急速に販路を拡大した。』(㊱、P192)さらに(㊱、P184)から引用を続ける。
『実用自動車製造恩加島工場が、石油発動機の重要部品の生産を担当したことの意義は大きかった。精密な自動車部品の量産経験を積んだ恩加島工場の存在が、今度は石油発動機の高品質を支えたのである。』もちろん実用自動車製造側から見れば、工場を維持するためのありがたい、下請け仕事だったはずだ。
しかも自動車事業を経験した効果は、それだけにとどまらなかった。ダット自動車製造の売却先の戸畑鋳物から今度は、競合先だった同社の発動機部門を逆に引き取る(1933年)。『「トバタ発動機」を得たことで、久保田鉄工所機械部の販売台数は大幅に増加し~1935(昭和10)年には発動機部門の売上高が、久保田鉄工所・久保田鉄工所機械部の二社合計売上高の15%を初めて超え、内燃機が鉄管と並ぶ久保田の基軸商品となったことを物語っていた。』(㊱、P140)
それにしても世間は狭い。戸畑鋳物を率いる鮎川義介が、中央自動車製造を辞めた直後に、あのゴーハムを雇ったのも奇縁だったが、そのゴーハムに農耕用の石油発動機を設計させて、量産を始めた理由が、『自動車メーカーになるための予行演習であったと鮎川は述べている』(㉗、P33)。そしてようやく機が熟し、久保田とは逆に石油発動機事業を売却し、自動車事業のダット自動車製造を久保田から買い取る段階に達したのだ。これはまったくの余談だが、鮎川は石油発動機部門売却の話を、久保田の前に山岡発動機工作所(後のヤンマー)に持ち込んだが、体よく断られたそうだ(㊱、P90)。話を戻す。
『久保田がトバタ発動機を継承したことは決定的な意義を有したといえよう。同時に、久保田は自動車生産から撤退したわけであるが、その判断がその後の久保田のあり方を決定づけたといえよう。』(㊱、P193)久保田は自動車事業をきっぱりとあきらめ、発動機部門はやがてディーゼルエンジンの商品化へと進むことになる。
今日、我々が、クボタに対してイメージする代表的な製品は、農業用トラクターではないだろうか。下の写真はクボタのHPより「国内初の畑作用乗用トラクタT15形(1960=昭和35年)」そしてこの製品のどこかに、遠く久保田父子が夢見た、実用自動車製造時代の貴重な経験も生かされていたのだろうか。
https://www.kubota.co.jp/globalindex/backnumber/back_number/tractor/tractor_01/index_05.html 
m59.png
https://www.kubota.co.jp/globalindex/backnumber/back_number/tractor/tractor_01/images/12.jpg
15.3-13なぜ久保田篤次郎・権四郎父子がクローズアップされないのか
(以下は余談の中のさらに余談です。なぜ久保田篤次郎、権四郎父子の名前が、日本の自動車史の中で過小評価され続けてきたのか。その理由の第一は、日産自動車が一時期(川又克二“天皇”の時代)、日産創業者の鮎川義介や、クボタ系の久保田父子よりも、傍流だが“無色”の橋本増治郎を、社史の中でクローズアップしたため、その影響(誤解)が今日まで及んでいることと、第二の理由は、クボタ自体が現在は、日産とは無関係で、自動車産業にも身を置いていないためだろう。
もちろん、豊田喜一郎や鮎川義介と同等扱いまでとは到底言わないけれど、日本の自動車史の中で久保田篤次郎・権四郎父子を二人一組として、たとえば橋本増治郎やオートモ号の豊川順彌と同等ぐらいには、扱うべきではないかと思う(まったくの個人的な意見です)。
 ただ誤解を招かないように記しておくが、橋本や豊川が過大評価されているわけでは全くない。この二人は調べれば調べるほど、人物としても立派だ。
たとえば豊川順彌を(④-12、P172)では『戦前期の国産自動車史において、豊川順弥ほど技術開発に貢献した開発者は少ない。真の侍であった。』と評しているが、その歴史を辿れば、確かに“侍”という他ない。
 一方の橋本増治郎も、豊川に負けず劣らずの“侍”だった。今回、岩立喜久雄氏の、心を打つ数々の文章を読んだ中で、橋本の経歴の中でうかつにも、今まで見落としていた点があった。以下(④-13)から引用する。
『また橋本は自らの事業を差しおいても、恩人に協力を惜しまぬ義人であった。ダット41号(注;8.3-1項参照)を完成させた後の約2年間は、北陸で新たな工場建設の指揮にあたっていた。株式会社小松製作所(現在のコマツ。竹内鉱業株式会社として明治26年創設。創業者は竹内明太郎。DAT名のTの由来者)の出発点となった石川県の小松鉄工所の技術的な礎は、じつは増次郎が築いたものだ。その2年間に工場機械調達のため2度の渡米を果たし、石川県での技術指導に多くの歳月を費やした。その結果、石川県の小松鉄工所の竣工時には、橋本は取締役工場長を任されていた。ところがまもなくその職を辞退する。一般の自動車修理で糊口をしのいでいた、東京の快進社の従業員達の下に帰るためであった。』(④-13、P169) ・・・・・。 
世の中には偉い人がいたものだと思うしかないが、以前の8.3-1項でもDAT創業前の経歴を記したが、橋本が卓越した技能というか、並々ならぬ実力の持ち主だったことを物語る逸話だ。
それにしても自動車史の中で、「真の侍」や、「恩人に協力を惜しまぬ義人」と対抗するのは中々大変な話だったのかもしれない?下の写真はその後、立派に成長した?近年の姿を、コマツのHPよりコピーした。
m60.jpg
https://www.komatsu.jp/ja/-/media/home/aboutus/history/history_028.jpg?h=475&iar=0&w=750&rev=b96283e43f794dd298a268cc73803e49&hash=47FF412258CDF29ABDEA0A589CE267D8
 
15.4三馬力時代のオート三輪
 ここでようやく話を“本題”の、オート三輪に戻る。
脱線が長かったので、今までのおさらいを簡単にしておくと、(14.3-9項)で記したように、関西や東京で一時期普及していた、フロントカー型の三輪自転車の後輪に、スミスモーターホイールを装着する形で、初期のオート三輪と呼べるものが、自然発生的に誕生した。1917年(大正6年)頃のことだった。 
そして(15.1-3、4項)で記したように、スミスモーターホイールの輸入元である中央貿易では、自社製の完成車として、乗用型の「自動人力車」と、フロントカー式の貨物運搬用「自動三輪車」を販売していたが、内務省はこれらスミスモーターホイール付き軽車輛を、運転免許不要等、多くの特典がある「特殊自動車」であると、認定する(1921年12月)。
以上がこれまでの話だが、この絶好の商機を、機を見るに敏な他の大阪商人たちが見逃すはずがなかった。
この15.4項では、ダイハツ、マツダ、くろがね(日本自動車)といった、エンジンまで内製し量産する力を持つ、大手企業が参入し、人力車/自転車産業が由来の弱小メーカーが次第に淘汰されていく前の、関西の草分けたちが活躍した時代の、代表的な車種や話題(と事件?)を取り上げつつ、その歴史を辿っていきたい。
なおこの項も、今回の記事で多くを(ほとんどを)頼った、月刊オールド・タイマー連載の「轍をたどる 国産小型自動車のあゆみ」(引用④、岩立喜久雄氏著)を主に参考にさせていただいた。深く感謝します。同書は独自の視点も併せ持つため、世間一般ではより有名なオート三輪の歴史書である②や⑭と、若干内容が異なることをあらかじめ記しておく。
それでは初期のオート三輪の歴史を始めたいが、既にスミスモーターの輸入元の中央貿易製のフロントカー型については記したので、同じ時期に誕生したとされ、『スミスモーターホイール付きのフロントカーの流行では、関西地区の仕掛人の役割を果たした』(④-15、P168)という、元は大阪の油問屋、中島正一率いる中島商店三輪部の、ヤマータ号から、話をスタートする。
15.4-1中島商店のフロントカー、「ヤマータ号」の誕生(黎明期のオート三輪の仕掛人)
中島商会のヤマータ号誕生の経緯について、以下(web❾、P79)より引用する。
>『フロントカーの製造販売店であった中島商会を経営する中島正一が、自社が販売したフロントカーを店員が汗を流しながら運転する現場を目撃し、このスミス・モーターを三輪自転車の後輪左側に取り付ける着想を得たのが自動三輪車の始まりであるといわれている』
このエピソードは一般によく知られているもののようだが、(④-15、P168)では、
『中島正一は大正4年創業の油問屋の主人であったが、大正6年に逸早くスミスモーターを装着したフロントカーを製作し、自らの中島商店に三輪部を設けて販売を始めた』とより細かく記している。中島がオート三輪の最初期から目を付け、販売を始めた、パイオニアの一人だったことは間違いだろう。実際、中島では自社の広告に、「日本最古」の宣伝文句を多用していたという(④-15、P168)。
しかし中島と中央貿易のどちらが「日本最古」だったのかの検証は、あまり意味がない話かもしれない。それよりも、両者が>『どちらが先かは定かではない。いずれにしても商人の街である大阪で大流行し、幸いにも無免許で運転できたことから、三輪車が普及するきっかけを生んだのである。』(⑭、P10)
元々大阪、東京を中心に普及していたフロントカータイプの三輪自転車の後輪に、スミスモーターホイールを付けたものなのだから、オート三輪は(たぶん)大阪の街の中で、自然発生的に生まれたものだったと思うが、定説通り、中央貿易と中島商会の両社が先陣を切り、積極的に市場を開拓していったのは確かなようだ。
(④-15、P168)で岩立氏は、中島が掲げた「日本最古」の真意について『大正6年のスミスモーター付きフロントカーの時代より、業界をリードしてきた自負を示すものだった』と解釈して、その功績を讃えている。中島商店の「ヤマータ号」は、その後も法規の改訂の度にエンジンを換装しつつ、発展していった。戦後はオート三輪の製造を断念したが、現在でも自動車部品・用品販売の部品商として盛んに商いを行っているようだ。
https://www.nakabc.co.jp/
(ネットでスミスモーターホイール時代の、ヤマータ号の写真を検索したが、残念ながら見つからなかった。その代りといっては何だが、ライバル、中央貿易のフロントカー型の「オートサンリン」の写真は、“探検コム「オート三輪」の誕生” というところにあったので、コピーさせていただいた。ただ以前、今回の記事の下書きを書いた時点では確かにあったのだが、今は改装中なのか、元のブログが見当たらない?
https://tanken.com/tricar.html 後輪にしっかりと、スミスモーターホイールが取りつけられている様子が分かる。同時期の、中島商会の「ヤマータ号」も、同じような形態だったと思う。)
m61.jpg
 以上、スミスモーターホイール時代の、フロントカー型の代表として、中央貿易と中島商会の「ヤマータ号」を取り上げた。さらに話を進める。
先の14.3-10項で、日本における自動車の使われ方として『~どちらかというと、これを使用することによって顧客を大幅に拡大できるという、いわば業務用の需要が主導する形で普及したのである。~ 個人的な楽しみというよりは、業務用のニーズが優先するというこの特徴は、後述するように、自動車の普及についても当てはまる日本的な個性と言えるだろう』と、(㉚、P65)からの引用で記した。
戦前のオート三輪の歴史を辿っていくと、上記のように買う側が求めたものは一貫していて、無免許等の特典はそのまま維持しつつ、よりたくさんの、重い荷物を、安い購入費で楽に早く運ぶための、業務用の道具としてであった。
スミスモーターをつけて走り始めたオート三輪だが、『当初は自転車・荷車の代替え手段として軽量の貨物輸送に満足していた需要者が、次第により多くの貨物輸送を求めるようになった』。(①、P123)
その要求にこたえるべく、オート三輪の製作者たちは、少しでも大きな荷物を運べるように、特殊自動車の範囲内で今よりもさらに大きなエンジンの使用を許可するよう、管轄する内務省や地方の官僚機構に陳情をくり返す結果となる。
こうして法規制の変遷と連動して、オート三輪は機構的にも、より重い荷物を運ぶために進化を遂げていく。次に記す、スミスエンジンに代わり、ビリヤスエンジンの使用と、フロントカーからリヤカーへの変化も、その流れに呼応して生まれたものだ。ただしこの流れの行き着く先は、機構的にも自転車寄りから自動車寄りへの変化となり、自転車系から派生した中小業者からすると、次第にハードルが高くなっていき、自らの首を絞める結果にもなっていったのだが。
15.4-2フロントカー型からリヤカー型へ移行
 ここでもう一度、三輪自動車の形態について確認しておきたい。三輪自動車は、その構造上、前一輪・後二輪のリヤカー型、前二輪・後一輪のフロントカー型、及びオートバイ+サイドカーの、3タイプに分類される。そして再三記したが、その中で、スミスモーターホイールを後輪に取り付ける形で、最初に登場したのが、フロントカー型であった。操舵のない後輪一輪駆動の方が構造上もバランスの上でも、モーターホイールを付け易かったことも一因だった。サイドカーは車幅が広くなってしまい、狭い日本の路地まで入れないため、荷物運び用としては一番不向きだった。
15.4-3狭い日本では便利な乗り物だった
サイドカーは狭い日本の道では不向きだったという話が出たところで、オート三輪が日本で普及した理由の一つとして、荷台(積載力)の割に小回りがきき、狭小な道路の多かった日本の道路事情にマッチしていた点があった。14.2-2項の馬車のところでも記したが、戦前の日本で(自動車の)トラック=フォードとシヴォレーのトラックになるが、『T型(フォード)でも2896ccあり、日本の狭い道路では立ち往生する場面が度々起きた。~貨物自動車の場合は、その本能として市街地を自由に侵入したくなる。~ この輸入貨物車と日本の市街地や住宅地の道幅との不釣り合いは、こののち国産小型自動車を発生させる一因にもなっていく』(④-6、P172)。』以下の①では、その点を数字で示している。
『~道路の幅が3.7m以上なら小型車通行可能、5.5m以上なら普通車通行可能とされたが、1934年1月現在、大衆車の通行可能道路の全道路延長に占める割合は3.5%にすぎなかったのに対して、小型車のそれは20.9%だった。』(①、P172)
仮に道幅が3.7m未満の道路でも、コンパクトで急角度に操舵できる(ただし低速でだが)オート三輪は、『短距離の輸送のためのトラックとして四輪トラックよりはるかに安く便利であることから、需要は少しずつ増えていった。四輪のように内輪差もなく、どんな狭い道でも通れるのも、日本の土地に合ったものだった。』(⑦、P167)こうして日本特有の入り組んだ町並みに自然にとけ込みながら、小口の荷物輸送の需要を荷車やリヤカーから徐々に代替えしていった。(下の写真はナカジマ部品のHPの、「三輪自動車の歴史(2)」からコピーさせて頂いた、高知県の高知自動車工業(後にトクサン自動車工業)で製造された、特大サイズの三輪トラックの「トクサン号」。以下wikiより『大型四輪トラックのシャーシ改造によって製作され、輸送力の大きさと、山地の狭隘路でも小回りの利く三輪トラックの特性を兼ね備えていたことから、特に四国を中心とした西日本地域の林業輸送用として用いられた。』トヨタ製5t積み(主にBM型)の、多くは中古トラックをベースに3輪型シャシーを改造製作するという、『凄まじい規格外というべき三輪トラック』(wiki)だ。さらにこの規格外の大型三輪トラックが、『当時、地元の高知県陸運事務所は、「高知県の新たな産業」として期待できるトクサン号の完成車種登録申請に非常に協力的で、事務所長は四国全域を管轄する高松陸運局や東京の運輸省本省にまで認可の運動をしてくれた』(wiki)結果、四国内での使用を許可された(後に全国?)という事実もまた、規格外?の話で興味深い。下の写真は中島部品HPの「三輪自動車の歴史(2)」からコピーさせて頂いた。写真についた説明文に「2.5トン積車」とあるが『この時代のユーザー側では公称の二倍三倍の過積載がまかり通ってもいたから有名無実ではあった』(wiki)https://www.nakabc.co.jp/auto-3rin/auto3rin-2.htm
m62.png
https://www.nakabc.co.jp/auto-3rin/1956-tk-3rin.jpg
15.4-4移行期は各社、フロントカーとリヤカーの両タイプを用意していた
しかしフロントカー型は前に荷物を載せるため前輪が重くなり、舵取りが困難になるという弱点があった。そして経験的に、リヤカータイプの方が、より重い荷物を運べそうなことが次第にわかってくる。14.4項で記したように、この頃日本人の手で、リヤカーが誕生し、街中で急速に普及していった時期なので、その影響も当然受けただろう。
移行期であった時期のオート三輪業者の多くは、フロントカー式とリヤカー式の、2種類のオート三輪を用意していたようだ。15.1-4項で掲げた、1923年の中央貿易の宣伝コピー(月刊オールド・タイマーの「轍をたどる」(④-5、P173)からコピーさせていただいたもの)を見ても、両タイプを用意している。
15.4-12項で後述するが、大正14年(1925年)に国産エンジンの特殊自動車として最初に認可されたアイザワ号も、やはり両方式を用意していた。その解説文(④-8、P177)から引用『フロントカーとリヤカーのどちらの方式が便利なのか、まだ答えが出ていなかったわけだ。やがてリヤカーのほうが多量の荷物を運べると分かるのは、この直後のことだった。』つまり1925年頃が、フロントカーからリヤカー式へ移行する、一つの境目の時期だったようだ。
15.4-5リヤカーの方が米一俵分、余分に積める!
そのころ、リヤカーの開発を積極的に行っていた業者の中に、大阪浪速区の、山下市二郎率いる山下製作所があった。そしてこの山下が最初に、『リヤカーとフロントカーでは、リヤカーの方が米一俵分、余計に積むことが出来ると先見』したのだという(④-15、P169)。この「米一俵分多く積める」という文言は、多くの文献で引用されている(たとえば①、P120など)。日本のオート三輪の用途は荷物の輸送用だったため、フロントカーよりも重い荷物が積める、リヤカータイプに、急速に需要が移っていく。
15.4-6東京のリーダー格、鋼輪社の「KRS号」
 今まで見てきたように、オート三輪の製造は、大阪や神戸を中心にした関西が起点となり、東京や名古屋へと伝播していった。そして大阪における中島のヤマータ号のような位置づけの、東京のリーダー格として、業界を牽引していったのが、山成豊率いる鋼輪社(後に山成商会)のKRS号(ちなみにKRSは鋼輪社が由来)であった。スミスモーターを搭載したオート三輪の最後として、KRS号を紹介しておく。
KRS号について、(②、P173)では、『オート三輪という言葉が用いられるようになったのは、1922年に山成豊氏の経営する鋼輪社(KRS)が、スミスモーターを使用して、前1輪・後ろ2輪の動力付きの三輪車をつくったからだといわれている。』とし、さらにKRS号の写真の解説文では、鋼輪社のKRS型が『その後のオート三輪の原型となった』(②、P172)と、非常に大きく扱っている。ここまで言い切っているので、たぶん何かの文献に、そのように記されている等の根拠があるのだと思う。
 しかし、以下はまったくの私見だが、この記事で今まで、日本人が“発明”したとされる(もちろん異論もある)、人力車やリヤカー(と輪タクも?)の歴史を見てきたが、その限りにおいては、誰か特定の“個人”が“発明”したというよりも、それらは当時関係していた日本人とそれを取り巻く日本の社会の、いわば“集合体?”みたいなものが生みだしたものだったように思う。
wikiや歴史本がどうしても、個人や企業名で特定したい気持ちもわかるが、このリヤカー式オート三輪も、どこか特定の企業がその原型を示したというよりも、フロントカー式の、最初のオート三輪が誕生した経緯のように、当時の大阪を中心とした、ある種の熱気が東京にも伝播していく中から、いわば必然的に誕生したものだったと解釈したい(たぶんに個人的な意見(感想)です)。先に記したように、人力のリヤカーが街中を世話しなく駆け回っていたはずたし、15.5-1、-2項で記す、ハーレーやインディアンを改造した大型リヤカーの影響も受けていたはずだ。以下は(④-13、P176)から引用する。
『~これらの各社を見ても、最も隆盛した大阪では中島正一の中島三輪車部が、一方の東京では山成豊率いる山成商会が、この分野の牽引車だったことがわかる。フロントカーからリヤカーへ、そしてビリヤスからJAPへ(注;後述する)といった基本的な流れは、東京と大阪を中心にほぼ同時に起こってきたわけだ。』
この(④-13)の記述のように『フロントカーからリヤカーへ、~ といった基本的な流れは、東京と大阪を中心にほぼ同時に起こってきた』もので、大阪/神戸と東京で沸き起こったこのムーブメントの段階では、東京側を主導していったのが、山成豊とこのKRS号だったことは、間違いなかったと思う。(④を参考にした私見です。)
15.4-7長期間かつ大量に三輪車が生産されたのは日本のみ(余談)
(以下は余談です。もともと、誰もそのように言ってはいないが、オート三輪が、日本で“発明”されたと言い切るのは苦しい。(①、P138)の備考で記されているように、遡れば『ガソリン・エンジンの発明者であるベンツが、最初にそのエンジンを装着したのが三輪車であったし』、ゴルハム号三輪車の元ネタだった、サイクルカーは欧州を中心に一時盛んに生産されていた。荷物運搬用のリヤカー型のモデルとしては、日本にも1910年代にインディアン(有名なオートバイのブランド)を輸入していた二葉屋が、アメリカから“シグネットリヤカー”という大型リヤカー(正確には四輪だったが)を輸入していた。『また、20年代末にもドイツのDKW社はMAKという三輪車を日本に輸出しようとしたというからである』(①、P138)。『こうした三輪車の台頭は、日本独特のものではあったが、ドイツでも1920年代後半から流行』(⑭、P12)していたという。しかし『長期間かつ大量に三輪車が生産されたのは日本のみ』(①、P138)で、第二次大戦を挟んで50年近くに渡り使われていく中で、独自に発展を遂げていったのは、紛れもない事実だった。
下の写真は、https://dkwautounionproject.blogspot.com/2017/07/framo.html 
というブログからコピーさせていただいた、1928年製のDKWの三輪車の宣伝コピー(ドイツ本国向けの)で、同車は日本にも輸入された。ドイツ人が作れば当然、関西商人の想いで作った日本のオート三輪と違い、工学的に凝った作りになるが、日本にも輸入されて好評だったという。詳しくは⑭、web❷等参照してください。前輪駆動の低重心設計で、その鋼板フレーム構造は、後のマツダ製オート三輪に影響を与えたといわれている。同時代の日本製のオート三輪よりコーナリング時の安定性が高く、逓信省が郵便車に採用したという。(⑭、P13他参考))
m63.jpg
https://2.bp.blogspot.com/-68g8t90qWno/Uu5EHNy5FzI/AAAAAAAAdEY/lR_-Hq4Gy-I/s640/Framo+-1928.jpg
 さらに話が変わりこれも余談だが、スミスモーター時代のKRS号について、確かに写真(②に掲載されているもの)の見た目では、進歩的だが、実際には『このオート三輪は、走り出してスピードがのると、エンジンの動力が切れるようになっていて、乗り手が地面を蹴ってスピードを保つ方式であった』(②、P174)という、今の感覚からすればかなり原始的な乗り物だった。)
15.4-8初期のオート三輪メーカーの企業形態について
ここで個別の企業としてではなく、初期のオート三輪を製造していたメーカー群は、どのような仕組みで製品をデリバリーしていたのか、非常に漠然とした問いだが、①をガイドに確認しておきたい。
まず前提として、14.3-5の自転車の項で、自転車産業が特殊な産業構造で、初期のオート三輪車市場に参入した企業は、その自転車産業関連が多かったことはすでに触れた。その確認も兼ねて以下(④-15、P169)より引用
『組立メーカー、あるいは問屋物と呼ばれた、無工場の、商標のみによる国産自転車は、大正期よりすでに無数といってよいほど発生しており、そのルーツも、やはり阪神地区の自転車部品工場群に求めることができる。このような商業形態は自転車業界特有のものだったが、同じように中小企業や商店が集合した、初期の国産二輪、三輪業界にも伝播し、少なからぬ影響を与えていた。』
実際、黎明期のオート三輪業界で活躍した(乱立した?)メーカーというか、商人たちは、自転車業界特有の、ほぼすべての部品を外部調達することで成り立たせており、我々が通常、メーカーと聞いてイメージするものとは、だいぶ異なっていた。
15.4-9初期のオート三輪は輸入エンジン+内製車体の組合せ
ここで初期のオート三輪の構成を大ざっぱに確認しておくと、輸入エンジン+国内製車体(フレーム)の組合せとなる(『自転車(フレーム)を父とし内燃機関(エンジン)を母として誕生した』(①、P127)という言われ方もされていたようだ。)。
当時エンジンは、定評ある輸入品を使うのが常識だったので(さらに細かく言えば当初は、ギヤボックス、マグネトー、気化器、サドル、オイルポンプ、電装品、チェーン等も輸入(④-11,P168等参考))、あとは、フレーム他の主要部品を国内の自転車系の部品メーカーから調達して、自社(問屋型に徹してそれすらも外注する場合もあっただろう)で組み立てて完成となる。そのための肝となる、初期のオート三輪のフレーム製造技術について、(①)を参考に確認する。
15.4-10自転車とほぼ同じ設備で製作していた
『~三輪車を含む自動自転車メーカーはすべて小規模・少量生産であったので、実際にプレス機を設けていたメーカーはなかった。要するに、フレームに関する限り、基本的には自転車と自動自転車の設備は同じであったのである。』(①、P128)自転車に比べると少量ロットのオート三輪用のために、自転車部品メーカーはプレス機械等の新たな設備投資をすることなかった。しかし既存の設備で、オート三輪用のフレーム製作に対応できたようだ。
初期のオート三輪のエンジンはかなり低出力だった(スミスモーターは201cc、2.5㏋ほどだった(⑥、P39等))ため、フレーム側への負荷も比較的軽かっただろうことと、元々三輪自転車用フレームの製造技術もあった。以下も(①)より
『~それを可能にしたのは、日本において自転車のフレームに関する技術はほぼ完成のレベルに達していたし、三輪自転車も使われていたためであろう。』(①、P128)すでに国際水準にあった、高い自転車製造技術が、下支えした。そしてフレームに限らず、タイヤ、車輪など自転車用の部品類は国産化されており、オート三輪作りのための基盤はすでに整備されていた。
だが、スミスモーターの時代よりも、後に記す、エンジンパワーが上がった、3馬力時代(350cc)や5馬力時代(500cc)になると、『既存の自転車のフレームをそのまま使うことは無理であった。~ ほとんどのエンジンは欧米からの輸入品であったが、その本国ではそのエンジンの出力と振動に耐えられるフレームに取り付けられるように製造されたものであったからである。』(①、P129)
しかし、それらのよりハイパワーなエンジン向けの対応も、多額な投資が必要なプレス機械等の新規設備の導入でなく、材料・設計の改善で対処したようだ(①、P129)。その点が、後に市場が形成された段階で、大資本をもって参入した、マツダやダイハツに比べて、弱い点だったが、『全般的に1920年代の技術は、~ 自転車を基にするフレームに関しては三輪車を実現可能なものにする水準にまで向上したのである。』(①、P132)
さてこうなると残りは1点、調達した部品を社内で組立てることの、技術的なハードルは高かっただろうか?
15.4-11小さな鉄工所でも自転車小売店でも組立てられる程度(ダイハツの社史より)
これについての答えは、ダイハツの社史(「50年史」1957年発行;㊴、P34)から引用する。『当時大阪、東京などの大都市では、主として英国あたりから輸入したオートバイ用エンジンをそのまま三輪車に架装して走ることが流行していたのである。小さな鉄工所でも、自転車小売店でも小規模で組立てられるので中小企業者の歓迎するところとなり、次第に生産量が増加する傾向が看取された。』
同書の別の頁では、当時の三輪自動車工業を、『小企業者主として手工業により僅かに製造を続けていた』(㊴、P36)と記している。たとえば、JAPエンジン(3馬力)時代に栄えた、MSA号で有名な東京のモーター商会(15.4-27項で記す)の企業規模は、1932年1月の統計では、従業員12名にすぎず、同時期の中小自転車部品製造企業より小さかった。『これは、同社がエンジンだけでなくほかの部品もほとんど製造しておらず、組立のみを行ったことを意味し、こうした状況は半国産企業に共通していたと思われる。』(①、P142)
もちろん、この企業形態が可能だったのは、この項で延々と記してきたような、前提条件が満たされていたからであった。
 初期のオート三輪メーカーの企業形態について、漠然としたまとめになるが、機械工業系の企業単位で見た場合、先のダイハツの認識で間違いないのだろう。ただ我々一般人の基準で考えれば、人力車/自転車産業以来の、知恵と先見の明のある商売人たちが編み出した、効率的な生産方法であったと思う。

話を戻す。再三記したように、戦前のオート三輪の歴史は、より大きな荷物を運ぶために、特殊自動車の範囲内で、さらに大きなエンジンの使用許可を求めて、内務省他の規制する側と業者が折衝を繰り広げた歴史でもあった。ユーザーは次第に贅沢になり、スミスモーターの出力では物足りなくなくなっていく。さらに上を求め始めたのである。
 こうして、より出力の大きいオートバイ用のエンジンを、特殊自動車として“認可”するよう求める動きが起きて、やがてスミスモーターに代わるビリヤスエンジンやJAPエンジンの時代が到来するのだが、ビリヤスエンジンの話の前に、『長い間、噂だけが伝わる謎の1台』(④-8、P175)だった、大阪の「アイザワ号」が、“スミスモーター超え”の突破口を切り開いていたという。以下(④-8)を参考に記す。
15.4-12「アイザワ号」オート三輪(319cc)の特殊自動車認可(1925年6月)
このアイザワ号は、エンジンまで内製した純国産の三輪車で、上述のように今まで「謎の1台」とされてきたようだが、岩立氏の(④-8)で、(たぶん)本邦初めて、詳しく解明された。ぜひそちらをご覧ください。以下同書から大幅に省略しつつ記すと(④-8、P175~)、アイザワ号オート三輪を製作したのは、大阪の相澤造船鉄工で、第一次世界大戦の造船景気で急成長し、富を成したが(いわゆる造船成金だった)、大戦後の造船不況で一気に1/10の規模まで縮小する。そこで元々漁船用エンジンの製造経験もあり(①、P141)、『この造船不況を乗り越え、工場を維持するために、アイザワ号オート三輪の開発に進んだものであった』(④-8、P176)。15.4-8~9項で記した、他のオート三輪メーカーとはかなり動機が異なっていたことになる。
その取り組みも本格的で、エンジンはイギリスのJAPエンジン等から学んだ内製品で、4ストローク単気筒、319ccエンジンだった。スミスモーター(201cc)に比べるとかなり大きい。
相澤造船鉄工は内務省宛てに、このアイザワ号が特殊自動車扱いとなるよう、申請書を提出するが、1925(大正14年)年6月29日付けで、フロントカー式アイザワオート三輪及びリヤカー式アイザワオート三輪は特殊自動車であると認可される。国産エンジンだということと、相澤造船鉄工は当時名の知れた企業だったはずで、判断が多少、緩めだったのだろうか。しかしせっかく認証が得られたにも関わらず、本業の経営難も加わり、さしたる販売も行わないうちに、短命に終わったようだ。
15.4-13認証試験が始まる(「青写真時代」時代の到来、そのきっかけは?)
(以下は(④-9、P169~171)を元にまとめたものだ。)
アイザワオート三輪が特殊自動車と認定される1925年(大正14年)の前年の、1924年(大正13年)以降、内務省警保局が行なう、特殊自動車の認証手続きに変更があった。
申請(許可願い)の際には『必ず詳細な構造説明書と共に、設計図の青焼きの添付が義務づけられた。のちに三輪自動車業界の開拓者達は、この3馬力時代、5~6年間のことを「青写真時代」と呼んで懐古したが、青写真が申請上、必要不可欠となった時代をさしたものだ。』しかも、書類審査だけでは終らなくなった。
書面による審査と共に、『特殊自動車の製造者からの出願に対しては、とうとう一台ずつ車両を持参させ、実地試験を行うこととした。つまり認証試験の始まりである。そして審査に合格した車両については、車両名、製造者名、仕様を明記し、青写真を添付して、全国の各地方庁へ「この種の車両に対しては無免許運転を許す」と一々通牒するようになった。現在の型式認定の原型に近いものだ。』(④-9、P171) 
このような煩雑な認証手続きを生むきっかけがあった。星川商会(京都府)という業者からの度重なる、あいまいな内容の照会があり、それに業を煮やした?警保局側が、星川商会の自動自転車については実地に審査すると、応じたからだったという。詳しい経緯はこれも、(④-9、P169~170)をご覧ください。星川商会以外にも同様な申請があったのだろう。
内務省はこの(繁雑な)ルール通りに運用し、申請の度に実際に、実車試験を行い、その性能を確認していたという。たとえば『内務省技師の小野寺は、前出のアイザワ号の一件でも、試験車を東京へ1台持参させ、皇居前の砂利敷き道路で実際に試運転を行っていた。』(④-11、P171)
なぜこのような事態に陥ったのか。先に記したように、『無免許車の許可が車輛ごとでなく、検査に合格した製造業者に下されたことも、車両の性能を重視する発想からきたものであったと思われる。というのは、車両検査の際には車体自体だけでなく、製造業者が検査車輛以上の性能を備えた車両を持続的に供給できるかどうかについても調べており、後述するように、三輪車の性能が問題にならなくなる30年にはこの方法が変更されたからである。』
当時オート三輪業界への参入障壁は低かった。既存の交通体系を安全に維持していくために、審査のハードルを上げて、星川商会のような申請者(車&製造業者)を排除したかったのだ。
こうして星川商会のような一部の不届きな業者が取り除かれたため、『三馬力半時代の先駆者達は、内務省警保局からの認証を得るため、万事これに従い、また内務省警保局も真摯に各車を審査していた。』(④-11、P171)交通体系に支障がないよう、官民が協力して、特殊自動車の性能確保に努めていたわけだ。
そういった、真剣なやりとりが行なわれていた中でも、次に記す、神戸自転車業界の祖と呼ばれた有力業者、横山商会と内務省警保局の一連の折衝は、国産小型車の歴史の中で特筆すべき出来事となった。
15.4-14「横山式コンビンリヤカー」が切り開いた道
(この項“も”、④-11と④-15のダイジェストです。)
 この項の主人公の、神戸の横山利蔵率いる横山商会は、『明治30年創業の自転車輸入業の老舗で、大正8年(1919年)5月に株式会社横山商会と組織変更後は、オートバイ及び部品の輸入、また国産自転車部品の輸出を行った。』ちなみに商標名の「コンビン」は、「Convincible(確信できる)」の略だったそうだ。
横山はまず、ビリヤス自動自転車で、自動車業界に進出を果たす。15.4-27項で記す、MSA号のような、イギリス製のビリヤスエンジン(247cc及び342cc)を搭載したオートバイで、『フレームなどの車体は阪神地方で製作した、いわば半国産車であった。』当時、車両価格を抑えるためにしばしば行われた手法だったという。(以上④-11、P170。以下も同様)
『自転車部品メーカーが数多く点在した阪神地区ならではの背景が見えてくる。英社系自転車輸入業の草分けだった横山商会は、自転車フレームなど部品工場との関係が深く、そのため逸早く三輪車の製造に手が届き、コンビンリヤカーの販売に至ったものだ。』(④-11、P170)
こうして二輪だけでなく、三輪のコンビンリヤカーの販売にも商売を広げるが、その過程で、『愛知県知事より内務省警保局長にあてた、「自動車取締令適応に関する件」とする、コンビンリヤカー三輪車に対する照会』(大正14年(1925年)8月13日付)が行なわれる。
15.4-15コンビンリヤカーは特殊自動車とは認めがたく候(1925年10月)
たまたま愛知県内で走っていたコンビンリヤカーについて、愛知県より内務省警保局宛てに、特殊自動車と扱って良いかの照会だったらしいが、これに対して内務省は1925年10月10日付けで「自動車取締令に関する件回答」として、概略以下の内容の通牒を発した。
『コンビンリヤカーは、これまでの前例、オートサンリン(15.2項参照)やアイザワ号(15.4-12項参照)などと比べて、排気量が半馬力、全長が四寸、全幅が二寸オーバーしているため、無免許運転許可の特殊自動車とは認められない、との明確な回答であった。また愛知県からの照会には、構造書の写しがあるのみで、肝心な構造図面や操縦法説明書の添付がなく、これでは判定しがたいとした。』(④-11、P170)
15.4-16コンビンリヤカーは特殊自動車として取扱い相成度候(1926年1月)
(④-11)からの丸写しで恐縮だが、以下からも引用させていただく。
『右の愛知県と内務省とのやりとりをはたして察知したものかどうか、神戸の横山利蔵はすぐさま大正14年(1925年)9月24日付けで内務大臣あての陳情書を送っている。』(④-11、P170)横山は内務省から正式にNGの回答が出る前に動いている。内務省とはこの件で折衝があっただろうし、事前に感触をつかんでいたのだろう。内務省宛てで、コンビンリヤカーを特殊自動車として扱ってほしい旨の陳情書を行ったが、その内容は(④-11.P171)によれば、用意周到なものだったという。以下をダイジェストに記すが、詳しくはぜひ元ネタの方をご確認してください。
 用意した書類だが、添付を指摘された構造図面や操縦法説明書は当然ながら、大阪工業試験所による試験成績書と、三宮警察署による速力証明書まで揃えて提出した。構造書に記載のスペックも、エンジンは同じビリヤス製ながら、排気量が半馬力オーバーしているという指摘を受けて(見越して)342cc型(3馬力半)から、247cc型(2馬力半)型に変更している。車体寸法も全長8尺、全幅3尺、変速機は前進2段等、内務省の“前例主義”を見越して、過去の無免許許可車(アイザワ号など)にほぼ収まるスペックであった。
 この“反撃”に対して内務省警保局は、1925年11月14日付けの通牒で、三宮警察署の速力証明には、試験環境データ等が欠けている旨、兵庫県知事宛てに通知する。かなりの“お役所仕事”的な対応にも思えるが、ただ今まで見てきたように、元々オート三輪系の特殊自動車の発端は、自動車取締令の解釈を巡っての特例処置の扱いから始まった。その後“拡大解釈”を繰り広げつつ、市場と共に成長していくのだが、内務省側としても、要所要所で歯止めをかけておきたかった気持ちもわかる。以下(④-11、P171)から引用する。
『なんとも厳密なお仕事ではあるが、これを受け取った横山利蔵は、また一念発起したことだろう、翌月12月8日、再度周到な実地試験を施行し、警保局の疑問にすべて沿った試験結果を、兵庫県知事を通して回答した。』
その 試験結果を受領した内務省警保局は、大正15年(1926年)1月25日付けで、横山式コンビンリヤカーを、特殊自動車として扱う旨の通牒を発した。
こうして『三馬力半時代の車輛規格は、横山利蔵のビリヤス系リヤカーによって露払いが行なわれ、大きな前例となっていくのである。』(④-11、P171)
15.4-17四輪の「コンビンサイクルカー」も特殊自動車として認定される(1925年12月)
 しかも横山利蔵の功績は、これに留まらなかった。以下も(④-15、P175)より引用する。
『さて神戸の横山利蔵は、前述の三輪コンビンリヤカーと同時に、じつは四輪のコンビンサイクルカー(写真は④-15をぜひ確認してください)も制作していた。いわばコンビン号の四輪版であった。ビリヤスの2馬力半、247ccを搭載したこの豆自動車は、輸入エンジンを利用した国産サイクルカー(四輪)として初めて、特殊自動車の認可を得ることになる。』以下『難路を超えた申請の経緯』を、(④-15、P175~P177)を元に簡略にして記すが、何度も記すが詳しくはぜひ原文を参照して下さい。
まず横山が四輪版の豆自動車、コンビンサイクルカーを作った背景だが、その7年ぐらい前、アメリカから輸入された例の“走るスノコ板”、スミスフライヤーに、輸入元の中央貿易が見た目は立派な和製ボディをかぶせた豆自動車が、意外なヒットとなったことがあったと考えられる。(15.1-2項参照)
『このとき横山はフライヤーと同じ車体寸法で、同じような体裁の豆自動車を製作すれば、(スミスフライヤーのように)適用除外が受けられると判断したのだろう。つまりフライヤーの後釜を狙った国内制作車がコンビンサイクルカーだったわけだ。』(④-15、P175)スミスエンジンでなく、より出力のあるビリヤスエンジンでの適用除外を狙ったのだ。
 ところがこの横山の試みに対して、内務省でなく、なんと横山の地元、兵庫県と神戸市警察がが『横山利蔵と内務省の間に分け入って、特殊自動車の承認をふさぎとめようとした』のだという!
その反対理由だが、当時『兵庫県下では「これら除外の」特殊自動車による事故が度々起こり始め、警察は手を焼いていた』という、これも警察の立場からすれば、至極もっともな理由があったようだ。(以上④-15、P176)
当時の特殊自動車の認可の可否は、内務省警保局と車輛製造業者や販売業者だけでなく『地方長官や警視庁も含めた三つ巴のやりとり』(④-16、P164)で決定されたという。そして地方長官や警察は、地場産業振興のため好意的に受け取る場合だけでなく、その逆に出る場合もあり、コンビンサイクルカーの場合、後者だったようだ。
その後の途中経過は省略するが、内務省警保局は『じっさいに横山のコンビンサイクルカーを東京へ持参させ(恐らくは皇居前広場周辺において)実地試験を行う』④-15、P176)という、厳密な審査を行った結果、例の『普通自動車と比べて、簡便かつ安全であるからよいだろうとする』、スミスフライヤーの際と同じ理由付けで、内務省警保局は、大正14年(1925年)12月20日付けで、横山式コンビンサイクルカーを、特殊自動車として扱う旨の通牒を発した。以下まとめとして、(④-15、P177)より引用する。
15.4-18横山が開けた小さな風穴は、豆粒のまま終わらず、その後大きく広がっていった
『以上のように横山式コンビンサイクルカーは、3馬力時代の四輪乗用車の認可においても先鞭をつけることになった。やがてコンビン号の後を追いかけて、3馬力、5馬力時代の三輪・四輪乗用車が次々と出願され、のちの750cc時代の小型四輪自動車の土台が、徐々に築かれていく。コンビン号自体も、昭和7年には、500cc時代の小型乗用車へと進化していた。
 横山利蔵がここで開けた小さな風穴は、けっして豆粒のまま終わらず、大きく広がっていったのである。』

ところで横山式コンビンサイクルカーについて、岩立氏は上に引用したように、「輸入エンジンを利用した国産サイクルカー(四輪)として初めて、特殊自動車の認可を得た」と、少々まわりくどい表現を用いている。しかしここにも深い理由があった。
15.4-19スミスモーター車よりも前に電気自動車が特殊自動車認定されていた!(警視第90号)
15.1項で、スミスフライヤーや、フロントカー式の荷物運搬用オート三輪等、スミスモーター系の簡便な車両が、この記事で何度も登場した(警山第104号:大正10年12月22日)で特殊自動車として認定されたと記したが、実はそれ以前に認定を獲得したサイクルカーがあったのだ!
その8か月も前の大正10年4月28日付けの、警視第90号(「電気自転車に関する取締令適用に関する件通牒」)で、輸入されたドイツ製の電気式サイクルカー、「スラビー・ベルリンガ―」(=1919~1923年にかけて、ベルリンのスラビー博士が考案し、製造された、下の写真の緑のクルマ)が「電気自転車」として、特殊自動車認定されていたのだ。時代が逆戻りする上に、いきなり電気自動車の話になってしまうが、特殊自動車のカテゴリーの先駆車として、この記事で触れないわけにはいかない。この場で簡単に記しておく。
その経緯を例によって、(④-6)からの引用で確認する。
『この電気式サイクルカーが、大正10年(1921年)頃よりエスビー(S.B.)の略称で、日本で販売されたという記録が数多く残っている。輸入台数は300台に上ったとする記述もあるが、その数字の根拠は定かではない。』本当に300台だとしたら、当時としては大変な数字だが?なお参考までに、佐々木烈氏の「日本自動車史Ⅱ」(引用㊳、P141)では、『これから本格的に販売しようという矢先、不幸なことに関東大震災が起こって、』その被害は『事務所は幸いにも焼失を免れたが、不幸にも横浜にあった輸入電気自転車が約600台ほど焼失した』と、当時の業界紙が報じていたという記述がある。ほとんど信じがたいような数字だが、(㊳、P138)には実際に、膨大な在庫車の写真もあり、我々が常識的に想像する以上の台数が輸入されていたのかもしれない。それにしても『この損害は、概算で50万円』にものぼったそうだが、大損害だ。余計なお世話だろうが、保険はかけていたのだろうか。話を戻し、(④-6)から引用を続ける。
『エスビー車の東洋総代理店を務めたのは「日独電気自転車商会」であった。(中略) この会社が起こしたエスビー電気車販売と無免許運転許可願に対する内務省警保局よりの回答が、警視第90号(大正10年4月28日付)となったわけだ。』(④-6、P172)
さらに丸写しを続ける。『警視第90号の内容を簡単にいうと、「エスビー電気車の外観は普通自動車と似ているが、操縦はむしろ自転車よりも簡単で(左手一本のレバーハンドルで操舵した)、特別な練習も不要であり、最高速度が10km/h以下と交通上の危険も少ないようだ。したがってこの自転車は、自動自転車(オートバイ)と同様に特殊自動車として扱ってよろしい」との通達だった。』(④-6、P172)
この前例があったので、警山第104号の文中に『当省令自動車取締令の適用に付いては、本年四月二十八日警視第九十号を以て申進置候電気自転車と同様、特殊自動車として…』という一節が書き加えられる結果となったのだ。なお輸入元は自動自転車と称したが、『自転車式のペダルはなく、そのため語義からすれば電気自動車でもよかったはずだ。』(④-6、P172)ただ内務省としては自転車の表現の方が、認可する上で、都合がよかったかもしれない。
(ドイツ製の電気式サイクルカー、スラビー・ベルリンガ―の画像は以下(アウディ メディアセンター)よりコピーさせて頂いた。なぜアウディなのか、実はその後、DKW(アウディの前身)に買収されてしまうのだ。アウディとしては、古くからEVを手掛けていたというアピールになっているのだろう。(㊳、P141.④-6、P170参考)。
https://www.audi-mediacenter.com/en/photos/detail/the-slaby-beringer-electric-car-7880Slaby-Beringer electric car)
m64.jpg
https://audimediacenter-a.akamaihd.net/system/production/media/7880/images/59fbfe793fd8aa080b541751f56b0edb9504dd67/HI110055_full.jpg?1581998763
15.4-20国産電気自動車の先駆、「タウンスター号」
そしてさらに、このエスビー車を元にした国産の車体に、日本電池株式会社(現GSユアサ)製の国産「ジ―エス」蓄電池と、黒崎電機製作所製の電動機を組み合わせた純国産電動車、タウンスター号がその2年後の1923年に、大阪から誕生する。
以下の文章は、「大正時代の国産電気自動車」(森本雅之著)という、webで閲覧できる論文からコピーさせて頂いた。『エスビー電動車を模倣した形で国産の電動車が販売された。これはタウンスター(TS 電動車)と呼ばれ、大阪の瀬川製作所が製造した。瀬川製作所はエスビー社の輸入にも携わっていたということであるのでエスビー電動車をかなり参考にしたものとは考えられる。~うたい文句は「取り締まりや税金は自転車同様で、運転手の免状も不要」とある。』(web43、P5)写真を見比べれば、確かにその外観は酷似している。なおこのタウンスター号も、大正13年(1924年)12月24日、内務省より特殊自動車としての認可を得ている(④-13、P175参照)。以下は(④-6、P175)より引用する。
『大阪で生まれたタウンスター号は、ここに紹介した型録と写真、文書を残して歴史の闇に消えた。不成功に終わった多くのモデルの一つではあるが、草創期の国産小型自動車、とくに国産電気自動車の先駆であったことは事実である。』(下の写真も(web43)よりコピーさせて頂いた、日本電池の創業者である『島津源蔵が運転するタウンスター』
m65.png
https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcT1rM_A_hjAyZ0RUuP0nNmAW6O6R2WAr2M5Vg&usqp=CAU
国産の電気自動車が、明治・大正期から製作されていて、さらに昭和期に入ると続々と製作されていたことは、国産車の歴史の中で埋もれてしまっている。この一連の記事では戦前の電気自動車の歴史の大半を省略したが、岩立氏の労作「轍をたどる」の中で詳しく記されている(④-6、④-8等)。Webの「大正時代の国産電気自動車」(web43)という論文とともに、興味のある方はぜひご確認してください。
いつものように?寄り道をしたが、“内燃機関”のオート三輪の話に戻す。横山利蔵のコンビンリヤカーが先鞭をつけた形で、スミスモーターに代わり、よりパワフルなオートバイ用のビリヤスエンジン搭載のリヤカーが主流となっていき、さらにそれほど間を置かず、同じくイギリス製のJAPエンジン時代が次に到来する。この3馬力時代に登場し、活躍したオート三輪メーカーのいくつかを、これから紹介していきたいが、くどいようだがその前に、特殊自動車の法規についての話題を2つ、記しておきたい。
15.4-21特殊自動車の車輛規格の制定
今までみてきたように、自動車取締令の適用除外から始まった、特殊自動車の定義はスタート時点から、やや曖昧なものだった。特殊自動車として許容される、車両の仕様は何度も記すが『内務省警保局と車輛製造業者や販売業者との間で、また地方長官や警視庁も含めた三つ巴の』(④-16、P164)真摯な確認を行い、『その都度、地方庁と内務省との間で通牒を交わし、小さな改正を重ねていった。』(④-9、P171)
ただ業界関係者の間では、その時点において、容認されるスペックが、阿吽の呼吸で通じあっていたはずだが、15.4-13項で記した、星川商会のような、業界の事情が分からぬ新参者からの照会も次第に増えてきた。そのため地方局や警視庁から、『特殊自動車とはいったい何なのか、その車輛規格を明確にしてほしい、との強い要望であった。これら全国格地方庁の動きを受けて、内務省が定めた項目が、前述の特殊自動車3馬力時代の車輛規格となっていった。ここで改めてその全項目を挙げておこう。全項目といってもわずか7項目しかないのだが、これが国産小型自動車の車輛規格の出発点となった。』(④-9、P171)
その出発点の、全7項目とは以下の通りだった。
«1»エンジン3馬力以内、 «2»全長8尺(2.4m)以内、 «3»全幅3尺(0.9m)以内、 «4»高さ3尺6寸(1.08m)以内、 «5»変速機前進2段、 «6»最高速度16哩(25km/h)、 «7»40~50貫(150~187,5kg)積。引用が(④)からに偏っているので以下は(⑦)より引用
(この規格の数値は)『それまでのオートバイや三輪トラックの仕様をもとに決められたものだった。』(⑦、P167)。関係者の間で認識されていた数値を追認した形だ。外寸は大八車(8尺×2.5尺)と同じぐらいの大きさだ。
しかしその後さらに、関係者の間で調整が進み、若干の“規制緩和”が行なわれたようで、『~徐々にその輪郭が浮かび上がり、輸入のJAP(英)エンジンなどを搭載した三輪自動運搬車が急速な発展をみせた大正15年(1926年)以降には、およそ次のような認可仕様が、半ば暗黙の同意のうちに定まっていた。』(④-16、P164)
下の表は(①、P123)より転記したものだが、赤く1926年と記した項が、1926年頃から始まった「特殊自動車3馬力時代」の、その認可仕様だ。
m66.png
この部分のスペックについては、多くの著書で一致している(①、②、④、⑦等)。ただし①、②、⑦では、複雑な説明が必要となる「特殊自動車」という表現は避けて、より万人に理解しやすい「小型自動車」と記しているが、あえて表現を変えた趣旨は理解できる。ただし④では、『この3馬力時代、大正10年から昭和5年にかけては、まだ「小型自動車」の呼称は、自動車取締令の上でも、一般にも広く使用されておらず、350cc以下の三輪、四輪車は「特殊自動車」と通称されていた。』(④-15、P168)とし、より史実に忠実な表記にこだわっている。このスペックで、後に特に問題になったのが、変速機が前進2段だという点で、『のちに非力な小排気量エンジンだからこそ3段変速機が必要であるとする製造業界からの強い陳情を招くことになる。』(④-9、P171)
15.4-22特殊自動車3馬力時代のスタートがいつだったのか、正確な月日の記録が見つかっていない!!
さらに岩立氏によればなんと、『じつはこの3馬力時代の開始を示す正確な年月日については、いまだ確かな記録が見つけられない』(④-9、P167)のだという。『3馬力(約350cc)を上限とすると定めた解釈は、関東大震災ののち大正13年(1924年)から15年(1926年)にかけて、内務省警保局と各府県知事、また警視庁とのやりとりから徐々に定まっていったものであり、その経緯は少々繁雑であった。』(④-9、P167)
この「繁雑な経緯」については、この記事をここまで飽きずにお読みいただいた方々にとっては、薄々察していただけたかと思うが、それが遠因なのだろうか、特殊自動車3馬力時代のスタート時期について、各文献で年代のばらつきがある。
そもそも④のうちでも、(④-9、P166)ではその始まりを1926年としているが、(④-11、P168)では大正14年(1925年)の時点で関係者の間では、『おおむね』認識されていたと(自分の意訳も含んでいるが)している。
(①、P122)も慎重な書き方で、1926年“頃”としているが、備考欄には、1923,4年頃という説もあると、追記してある。その他では(⑨、P103)も同じく1926年だ。重要な証言として当時内務省警保局だった小野寺季六が、戦後自工会が主催した座談会で、『(大正)15年には小型車の条件を~として、無免許運転を許可することにしました。』(㊲、P47)と残されていて、やはり1926年だ。
それに対して(⑦、P167)では1924年だが(②,P178)では1925年で、さらに(⑭、P11)では1919年と受け取れる記述だ。
そしてマツダの社史(⑰、P48)では1926年だがダイハツの2つの社史(50年史:㊴、P36)、(60年史;㉙、P19)共に、内務省でなく商工省が法令を制定し、大正13年(1924年)だったと記している。㉙と㊴を元に書かれている(⑱、P11)でも同様に「商工省小型自動車規格(大正13年)」と明記されているが、そもそも商工省が誕生したのは1925年4月で、当時はまだ農商務省だったはずなのだが?
ここで当記事の認識としては、「特殊自動車3馬力時代」のスタート時期を、安全サイドに振り?一応1926年“頃”としておくが、当然異論もあるだろうし、将来どなたかの研究が進むと、訂正が必要になる可能性があることも、記しておきたい。
さらにくどいようだがもう1点だけ、今まで何度も“3馬力”時代と記してきたが、その“3馬力”の根拠について、ここで説明をしておきたい。以下も(④-9)からの引用だ。
15.4-23三馬力時代のその、“3馬力”についての説明
 まず前提として、『この時代はまだ自動車エンジンの大きさを排気量(cc)ではなく、馬力(㏋)で呼ぶのが慣例だった。現在のように何ccかではなく、何馬力かで、税率や取締種別を決めていたわけだ。』 そして『日本での馬力の決め方は、RAC(英王立自動車クラブ)馬力にならっていた。』(④-9、P172)その算定式は、次の通りだ。
RAC馬力=ボア径×ボア径×気筒数/2.5(単位はインチ)
ちなみにフランスでは、仏課税馬力 1RAC馬力=1.014仏馬力 だったという。以下のブログから引用した。https://twitter.com/chillreactor/status/1108931742931415042
出典はここだそうだ。https://en.m.wikipedia.org/wiki/Tax_horsepower#France
先に記したように日本でもRAC馬力を、『まずは東京府がこれを使って車税を課すようになり、続いて警視庁も採用した。そのためにこの算定式による馬力は別名、警視庁馬力と呼ばれた。』(④-9、P172)警視庁馬力では4ストロークと2ストロークエンジンで計算式を使い分けており、(2ストは4ストの×1.5倍の馬力数となる計算)、『警視庁はなかなか厳密であった。』(④-9、P172)
 しかしこの馬力算定方式は小排気量エンジンでは数学上、誤差が大きくなり、ショートストロークエンジンが不利だった、余談だがこの税制のため、イギリス車はロングストローク型エンジンが多かったという説もあるようだ。
 そのような点も問題視されたため、『欧州車も大正中期より、エンジンの大きさを表すのに馬力ではなく排気量ccを、また米車も排気量のci(キュービックインチ)を使用するようになってきた。』特殊自動車の“3馬力時代”はちょうどその過渡期にあたったようだ。
15.4-24三馬力とは何cc相当なのか
 さて、スミスモーター(201cc)の低出力に飽き足らない業者が、内務省警保局に働きかけて、両者の折衝の中から次のターゲットとして、“3馬力”が浮かび上がったものと思われるが、上記のように、RAC馬力の算定法では、小排気量エンジンの場合、誤差が大きかった。
そのため『内務省は当初、3馬力とは一体何ccまでのエンジンをさすものなのか、明確に出来なかった。そこで東京工業大学のブレーキテスターを使用して、当時輸入されたばかりのJAP(英)エンジンの350cc(347cc)を計測してみたところ、おおむね3馬力と出たので、これを根拠として、特殊自動車のエンジンを3馬力以内と定めた。』(④-9、P172)のだという。このあたりの事情は、内務省警保局の技手、小野寺季六の証言が残されている(㊲、P47)が、それによると『~ところがあとから考えてみると、3馬力としたけれども、馬力以外には何の規定もないのであります。イギリスから輸入したジャックド・エンジンには馬力を用いていないので困りました。そこでオートバイからヒントを得て、3馬力を出すには気筒容量何ccかを試験するために、大岡山の工業大学のブレーキ試験機で計ったところ、350ccと出たので、3馬力を350cc対象としました。』としている。
このような試行錯誤だったという記録のように、特殊自動車3馬力時代の、その“3馬力”の、実際の運用は、それほど厳密なものではなかった。
m67.png
15.4-25三馬力"半"時代と呼ぶ人もいた
 上の表は、(④-9、P172)に記述されている、特殊自動車3馬力時代の代表的なエンジンとして、掲げられていたものを、表にしたものだ。その説明を、以下(④-9、P173)より引用する。
『つまりこの時期の小排気量エンジンは、およそ排気量(cc)を100で割ったじつに何とも単純な数字が馬力数として通用していた。警視庁馬力の算定式による4衝程、2衝程の区別も、小排気量の場合は煩雑になるのであえて度外視した形だ。そのために3馬力以内という特殊自動車の規定が、いつのまにか3馬力半以内とすり替わる地方例が出た。
 結局のところ2衝程のビリヤスについても、3馬力半(342cc)までが特殊自動車として認められるようになる。嚆矢となった横山式コンビンリヤカー(247cc)は、一番槍ゆえに少々割を食ったかたちだ。この3馬力時代のことを、3馬力半時代と呼ぶ例(地方令から)があったのも、右のような理由だったのである。』
(④-9、P173)元の規定があいまいだと、(身内の)地方の裁量権を行使されて、後方から弾が飛んでくることもある。内務省からすれば、この時の苦い教訓を、次の5馬力時代の認可仕様に生かしていくことになる。
何度も記してきたが、特殊自動車の定義自体がもともと、やや曖昧なものだった。そのため認証仕様の詳細部分は、実態と照合しつつ『逐次問題提起され、修正されていった』(④-11、P168)。その過程で、製造業者側は徐々に、優遇枠の拡大という“戦果”を勝ち取っていった。
さて“前置き”が長くなったが、これから3馬力時代のビリヤスエンジン、続いてJAPエンジン搭載のオート三輪製造業者のいくつかを簡単に紹介して、特殊自動車3馬力時代の話題を(早く!?)終えたい。まずは(④-11、P169+④-15、P168)の引用で、業界の長老格の話から始める。
15.4-26関原製輪所のビリヤス系リヤカー(大阪阿波座の、老舗の車輛製造業者)
 関原製輪所(大阪市西区阿波座上通)の主である関原利兵衛は『明治期より人力車の改良に尽力した老舗の車両製造業者であった。明治の人力車から大正のフロントカー式自転車、そして3馬力半時代の三輪自動車に至るまで長く活躍した、大阪阿波座の古老だった』(④-11、P169)。人力車、運搬用三輪自転車の時代から積極的に開発・改良に取り組んできた。そして『3馬力ビリヤス時代のリヤカーの開発でも先導役となっていた~ 阪神地区の他の同業者たちが販売した三輪自転車、三輪自動車でも、車体製造の面で、関原は多くかかわっていた』(④-15、P168)という。
15.4-27モーター商会の「MSA号」(ビリヤスエンジン搭載の代表車)
『ビリヤスエンジン搭載の代表車としては、東京で二輪、三輪、四輪を広く手がけ製造した合資会社モーター商会(神田区錦町1丁目)が、最もよく知られていた。』(④-15、P170)モーター商会は丸石商会が出資し、丸石所属の元自転車競走の全日本チャンピオンだった小宮山長造が代表だった。そしてMSA号の設計者も元オートバイ競走選手の日野大三郎だったという。『戦前期に日本に輸入されたビリヤスエンジンは、およそ1500機を数えた。うち約300機は、神戸の横山商会がビリヤス号オートバイ、コンビン号三輪、四輪自動車に搭載して販売した。残りの約1200機の大半は、モーター商会などのMSA系オートバイに使用されたものだ。』(④-15、P170)こうしてみると、ビリヤスエンジンは、国内フレームを使用した半国産型のオートバイに積まれたものの方が多かったようだ。
15.4-28「カズ式リヤカー」(名古屋オート三輪界の始祖)
中京地区では、5馬力時代以降に入ると、前輪駆動のミズノや、水冷エンジンのヂャイアントなど、個性溢れる有力なオート三輪メーカーが育ち、地元の市場を中心に大きなシェアを占めた。しかし3馬力時代の1925年に、ビリヤスエンジン付きのリヤカー型の三輪車で、未開の道を切り開いたのは、カズ商店(名古屋市東区)の藤田和善が製作した、カズ式リヤカーだった。(④-15、P171)以下に、内務省に申請した際の詳細は書かれているので、興味のある方は(特に名古屋など中京地区にお住いの方は!)是非そちらを参照されたい。ここで特記しておきたいのは、愛知県が、地元の産業振興のため、横山の時と違い不備の目立ったカズ商店の内務省申請手続きの際にも非常に協力的であった点だ。(たとえば、カズ式三輪車はスミスモーター付き三輪車と比較して、リヤカーとフロントカーの違いであり、カズ式リヤカーの方が、むしろ前方が良く見えて安全だろう等、カズ式を援護する照会を内務省に送り続けた(④-15、P172))
これに対して内務省の担当者、警保局技手の小野寺も、愛知県の求めに応じて丁寧な説明と助言を行なっていく。そして幾度かのやりとりのうち、内務省はついに、カズ式リヤカーの車幅を3尺以内に納めるならば、特殊自動車として認めて良いという、条件付きの認可を行うのであった。この認可は、コンビンリヤカーより結果として早かった。以下、(④-15、P173)から引用する。
15.4-29車幅三尺(0.9m)以内の根拠
『興味深いのは、特殊自動車の車幅に関する件だった。道幅の狭い一間{いっけん}道路(幅員1,8m)で二台がすれ違うためにも、また通行人の安全を守る上からも、特殊自動車の車幅は三尺(0.9m)以内が適当なり、と提言している。この時代の都市部には、幅員わずか一間の狭隘な道が、まだまだ多くはりめぐらされていた。~ (ここに)特殊自動車の使用目的があるともしていた。つまり取締令上は安全第一とするものの、便益性の高いものは認めなければならない、というやや積極的な側面も見え始めるのである。これというのも3馬力時代のリヤカーが、急速に流行する兆しを見せていたからに他ならない。』カズ式リヤカーを巡っての愛知県の好意的な支援や、それを受けての内務省の丁寧な対応にみられるように、行政側もオート三輪界の動向に、前向きに取り組む姿勢に、徐々に変わりつつあったのだ。
((④-11、P169)では『特殊自動車の3馬力半時代が到来した最大の要因、立役者となったのが、ビリヤスエンジンの輸入』としている。日本での写真が探せなかったので、下の写真は下記のサイトより1926年製の「Allegro」というバイクに積まれた「Villiers社製の3 ½ HP 342 cc two stroke single」コピーさせて頂いた。
https://www.yesterdays.nl/product/allegro-1926-3%C2%BDhp-342cc-1-cyl-ts/ 
なおVilliers=ビリヤス=ヴィリアースと表記されることもある。2ストロークエンジンの権威でもあった富塚先生が(⑥、P43)で、この時代の“ヴィリアース”エンジンについて解説しているので参考までに。)
m68.jpg
https://www.yesterdays.nl/site/wp-content/uploads/2017/04/Allegro-1926-350-jt-4.jpg
15.4-30JAPエンジンが主流に
 さて今まで、特殊自動車3馬力時代の嚆矢となった、ビリヤスエンジン搭載のリヤカー型オート三輪について記してきたが、このビリヤス系の全盛時代は、どうやら短かったようだ。『昭和3年(1928年)からは、いよいよ4衝程のJAP(英)エンジンの輸入が本格的に始まり、2衝程のビリヤスのリヤカーは急速に退いていく。』(④-15、P171)
20年代後半の3馬力時代にもっとも人気があったのは、同じイギリスのエンジン専業メーカーであるJAP社製エンジンだった。二輪車の世界ではビリヤスのようにエンジン単体を開発・生産するエンジンサプライヤーがいくつか存在したが、JAPもその一例で、世界的に定評のあったメーカーだ。ちなみにJAPの当時の読み方だが、後の日本内燃機の国産JACエンジンが『「ジャック」ではなく「ゼー・エー・シー」と呼んだ』(④-9、P71)そうなので、推測だが「ゼー・エー・ピー」だったのだと思う。
輸入元は東西モーター株式会社で、社長の小野梧弌(後の日産自動車販売社長)は商売上手だった。『気が回ることにバーマン(英)のギヤボックス、クラッチや、ML(英)のマグネトーも同時に輸入していた。このJAP+バーマンのセットを使えば、難なく三輪自動車が作れたわけだから、この時期、製造業者が急増したのもうなずける。価格も低下し、市街地の商店や卸商などの小口運搬車として大いに活躍し始め、無免許で乗れる三輪自動車は、いわばヒット商品となっていった。』(④-13、P177)
15.4-31市場の拡大と、JAPエンジン車同士の販売競争も激化
 1929年の東西モータースの広告には、JAPエンジンを使っていた三輪車メーカーとして、『次の13車の商標名が並んでいる。ヤマータ、ウェルビー、レッドウィング、ニューエラ、ミカド、MSA、KRS、カズヨシ、イワサキ、東野、コンビン、クリスタルパラマウント、アラビア』(④-13、P176)。参入障壁も低かった結果、企業数も、1927年8社、28年16社、29年には35社と急増した。(①、P141他)
参入業者が激増したという事は、それだけ市場が急拡大していたという事を意味するが、その結果、同じJAP社製エンジンを使ったオート三輪同士で、市場を喰い合う厳しい状況に陥っていく。当時の状況を、以下(①、P142)より引用
『(オート三輪車のメーカーは)小規模企業による少量生産であったため、販売地域も当初は生産周辺地域に限られていた。大阪の中島三輪車部は東京での販売を早輪社という会社に委託していた。他の地域に支店・出張所を設けることになるのは1929年からであり、三輪車の先進地域である関西から関東への進出が多かった。その結果、29年には東京においてJAPエンジンを取り付けた三輪車が5社で競争する様相となり、販売競争も激しくなった。』
15.4-32ビリヤスエンジン時代のKRS号は、横山コンビンリヤカーのライセンス生産品だった?
自転車業界独特の体質が色濃く残ったこの業界は、それ以前は、特に関西と東京のように、販売地域(地盤)が違う場合には、部品を融通しあったケースもあったようだ。たとえば東京の雄、山成商会のKRS号のビリヤスエンジン時代の外観は、横山商会(神戸)の、横山式コンビンリヤカーに酷似していたという。『まったく同一のOEM製品、あるいはライセンス生産といってもよい。内務省への申請は神戸の横山利蔵のほうが一足早かったことから、おそらく山成は、神戸の横山商会からフォークなどの部品をある程度まとめて購入し、東京で組み立てて販売した』のではと、(④-15、P169)では推測している。しかしJAP時代に入り、販売が激化してくると、事情が変わっていっただろう。
JAPエンジン時代に移行すると、ヤマータやKRS、コンビンなどが主導した時代から、大阪のウェルビー、イワサキや、神戸の東野喜一率いる兵庫モータースなど、あらたな有力業者が台頭してくる。ただこの調子だと、いつまでたっても終わらなくなってしまうので!JAPエンジン搭載車をあと2台だけ紹介して、特殊自動車3馬力時代の話を終えたい。
15.4-33「ウェルビー号」時代の到来
以下は主に(②、P175)からの引用になる。強力なJAP製エンジンを搭載したオート三輪の中でも、1925年頃(②、P175では“1925年頃”としているのでそれに倣うが、各文献でばらつきがある)川内松之助率いる大阪のウェルビー商会(ちなみに当初は赤旗商会と名乗った)が作ったウェルビー(welby)号は、外観だけでなく機構的に見ても『その後のオート三輪につながる本格的なもの』(②、P175)と高く評価されている。
まだデファレンシャル装置こそなかったが、エンジン始動はキック式となり、3段変速機付きで急坂も苦にせず登坂できるようになった(②、P175)。
『~こうして、大正末期の一時期、「ウェルビー時代」が現出し、三輪トラック界はウェルビー号の独壇場ともいうべき様相をていしていた』(㉑、P48)と他ならぬ、マツダ(東洋工業時代の50年史)の社史に明記されているぐらいなのだから、3馬力時代の末期の一時期、“ウェルビー号時代”ともいうべき時期があったことは、間違いないだろう。ちなみにダイハツの社史でも『そのころよく知られたこの種の三輪車としては、ウエルビー、ヤマータ、ニューエラ、HMC、MSAなどがあった』(㉙、P19)としており、やはりウェルビーを筆頭に掲げている。両社の市場参入前夜の頃だが、仮想ターゲットでもあったのだろう。(②、P176)によれば、3速変速機に加えて、『オートバイや自動車と同じようなヘッドライトとテールライトが装備されている点でも画期的だった』としており、他車と比べて全般に、商品力が高かったようだ。
15.4-34しかし、不明な点も残る
 ただ以上の評価は、あくまで想像だが、たぶん何かの有名な文献を基に書かれていると思われ?当然ながら大筋では正しいのだと思うが、上げ足を取るようだが、細かい点では疑問も残る。以下は誰もそのようには言っていないので、まったくの私見になるが、3馬力時代のウェルビー号については、まだ不明な点も残されていると思う。
たとえば(②、P175)をはじめ多くの資料では、3速変速機の採用を高く評価しているが、資料の記述のように、JAPエンジン付きのウェルビー号の登場が1925年頃だとすると、当時特殊自動車として容認される仕様は、2速変速機までのはずで、3速はそもそも違法ではなかっただろうか?
ここで仮に川内松之助とウェルビー号が、横山利蔵の横山式コンビンリヤカー/サイクルカーの時のように、内務省と真っ向から対峙し、議論を尽くした末に、法規の方が不合理であるのだからと、2速→3速の規制緩和を認めさせたのなら、歴史上大いに評価すべきだが、特殊自動車3馬力時代の変則段数の規定はその後も変更なく2速のままで変わらなかった。次の小型自動車500cc時代に変速機の段数制限は撤廃されるが、公式には?1930年2月4日まで待たねばならなかったはずだ。
さらに法規関連でいえば、(④-15、P175)で参考にした資料(昭和10年発行「日本自動車業界誌」の調査記録)によれば、ウェルビー貨物運搬車(ウェルビー号)が特殊自動車としての認証を得たのは、昭和2年(1927年)8月3日だったという。
今まで記したように、大正14~15年(1925~1926年)の時点で、3馬力仕様の特殊自動車として内務省から認定を受けた車両/メーカーとしてアイザワ号やカズ式、横山コンビンサイクルカー/リヤカーが既にあり、それらに続いて同年の大正15年(1926年)5月20日に東京、山成商会のKRS号が認定を受けているが、これは既述のようにコンビン号リヤカーとのOEM相当だったと思われ、認証作業は容易だっただろう。
一方ウェルビー号と同じ昭和2年(1927年)には、ニューエラやイワサキ、ヤマータなども認証を得ているが、(②、P175)で提示されたようなスペックの、3馬力半(347cc)のJAPエンジン搭載の3段変速付きのウェルビー号が、公式に認証を受ける前の“1925年頃”の段階で、活発な販売活動を開始できたのだろうか?まったくの想像だが、そのスペックを満たすウェルビー号が登場したのは、もう少し後年の、たとえば、正式な認証を得た頃(1927年8月)以降だったのではないだろうか。
また車両構造上でも、「その後のオート三輪につながる本格的なもの」(②、P175)と高く評価されているが、その言い回しにも若干の疑問が残る。
(④-11、P169)で、ビリヤス時代の15.4-26項で記した、大阪、阿波座の老舗の車両製造業者、関原製輪所の主人、関原利兵衛が、1925年8月22日に「リヤカー」と称する実用新案を出願していた事を記している。(④-11、P168)には出願時の図も示されており、詳しくはぜひそちらを参照いただきたいが、以下引用する。
『図では、明らかにビリヤスエンジンとわかるエンジンの後ろに、一次チェインを介して2段変速のギヤボックスとクラッチを置き、さらに中間とファイナルのチェインによって伝動し、左後輪を駆動した。この「片輪駆動式」が、ビリヤスエンジンを搭載したリヤカー、つまり3馬力半時代の、草創期国産小型三輪自動車の典型となる。スタンダード(標準型)と呼んでよい。』
後述するダイハツ、マツダ、くろがね(日本内燃機)が登場以前である1920年代の、関西商人たちが運営する業者が競っていた、3馬力時代のオート三輪車の時代は、そのルーツからかどうしても、人力車や自転車やリヤカーの世界と、被って見えてしまう。
この1925年前後に、関原をはじめ、何人かの業界の先駆者たち(その産業構造からすれば、黒子役だった車両/部品製造業者も重要な役割を果たしたはずだ)が、横の連携もとりつつ、特定の誰か(企業)というよりも、いわば共同作業のような形でリヤカー型オート三輪の原型を築き上げていったのではなかろうか。そしてその中の一部として、川内松之助とウェルビー号も確かに含まれていたように思えるのだが、いかがだろうか。(何度も記すがまったくの想像です。)
次に特殊自動車3馬力時代の最後の話題として、機構上(スペック上)からみると、オート三輪の歴史の中で、先駆者だったと思うこの車両を、ぜひ書き残しておきたい。
15.4-35シャフトドライブ+リアデフ駆動型オート三輪の先駆、横山商会の「ミカド」
 先述のように3馬力時代も終わりの頃になると、参入企業も一気に増えて、過当競争時代に突入していった。以下は(web❷、P39)より引用する。『オート三輪車の機能の進歩は企業間競争によってもたらされた。すなわち、ある企業のオート三輪車の機能向上は、すぐに他企業に移転され、企業間の開発競争がオート三輪車の品質向上に結びついていった。ウェルビー号に影響されて、神戸の兵庫モーターもJAPエンジンを搭載した本格的オート三輪車HMCを製作している。』
JAPエンジン同士の熾烈な争いの中で、この時期特に注目を集めたのは、15.5-10項で記す広島のSSDや、JACニューエラのような、自社製エンジンを搭載した純国産オート三輪車の登場だった(④-13、P177)。ダイハツやマツダが参入直前の時代だ。
しかしエンジンの内製化はハードルが高すぎて不可能だった、既存のオート三輪メーカーにとって、他車との明確な、機能の差別化を図るための次のターゲットは、駆動系の改革であった。
この時代のオート三輪は、デフ非装着の片輪駆動だったため、右・左折時にブレーキ現象が起きて運転し難く、また後輪駆動用のむき出しの長いチェーンは泥や雨に晒されて耐久性がなく、常にメンテナンスが必要だったという。自転車やオートバイが源流だったため仕方なかったのだが、それをシャフトドライブ+リアデフ駆動方式で、ふつうの四輪車並みに進化させようとしたのだ。
(④-13)の記事の中で、『急成長し始めた国産三輪自動車業界の全貌を、初めて総括的に調査した』という、雑誌モーター(極東書院)、1930年3月号の記事を取り上げている。5馬力時代が、同年の2月からだったので、まさに業界全体が高揚していた時期だっただろう。
その雑誌モーターの記事では、当時最新のオート三輪全17車のスペック表が、写真&解説文と共に掲げてある。3馬力時代の最末期であり、『横山商会のアイデアル号は、昭和5年2月4日の5馬力時代への規格拡大を逸早く見越した、490ccJAPエンジンを搭載していた。』ことも興味深いが、(④-13、P177)以下も引用
『後車軸にデファレンシャルを備えたものが多くはなく、製造者がこぞってデフを開発中の時期だった』、そんな中で、モーター商会の「MSA号」の最新型は早くもリアデフを装着している。シャフトドライブではなくチェーン駆動で、後のマツダのオート三輪第1号、DA型と同じようなメカ構成だ。ただしマツダのように、チェーンを全てケースで覆う工夫はなかったと思われるが。
 これに対して横山商会はさらにその上を行った。名前からしても、高級型と思われる「ミカド(号)」という車種で、シャフトドライブ+リアデフ駆動を一気に実現していたのだ!(ちなみに「リヤーカー差動装置」という実用新案出願図も④-13で示されている)
その機構の詳細は不明なのでまったくの推測だが、後に登場するダイハツのDA型と同様に、エンジンから変速機までの一次伝達は従来通りチェーン駆動で、変速機からホイールまでの二次伝達をシャフトドライブに変えて、さらにリアデフ機構を組み合わせたものと思われる。以下(②)から引用する。
『一次伝達の場合はエンジン回転が減速されるからトルクのかかり方は小さいが、二次伝達の方は大きなトルクがかかる。まして、オートバイと違って何百キロもある荷物を積んで走るから、オートバイ用のチェーンではすぐに緩んだり、切れてしまうという問題を抱えていた。一次伝達用のチェーンの3分の1ほどの耐久性しかなかったという。~ チェーンが伸びた場合は、変速機とホイールの位置を変更したり、チェーンの交換作業をしなくてはならない煩わしさがあった。
 このため、差動装置をつけてドライブシャフトで後ろの2輪を駆動するものが登場すると、チェーンのメンテナンスから解放されることになった。~それに、コーナーでの曲がりにくさも解消されたのだ』
(②、P180)。この説明の記述は、実は次の500cc時代に早くからこの機構を採用し、現在でも高く評価されているダイハツHD型に対してのものだったが!この記事ではオート三輪の基礎を固めた特殊自動車3馬力時代の、その最大の開拓者、横山利蔵率いる横山商会渾身の一作、「ミカド」に対して、この文言をささげたい。
この「ミカド」が果たしてどの程度の完成度を以てリリースされていたのか、それはわからない。あるいは後のダイハツのHD型とは比較にはならない出来栄えだったのかもしれない。しかしこの「ミカド」は確かに、小型オート三輪史上で初めて、シャフトドライブ+リアデフ駆動を(少なくともスペック上は)実現してみせたのだ。
オート三輪の黎明期であった、特殊自動車3馬力時代において、たぶん生産台数が多かっただろう「ウェルビー号」をもって、その時代を代表させている歴史書が多いようだ。しかし岩立氏の「轍をたどる」(④)で記されているように、というか、ただ自分はその影響を強く受けただけですが!戦後史に与えた影響まで含めた、日本の自動車史全体を俯瞰した場合、横山商会の「コンビンリヤカー」、「コンビンサイクルカー」及びこの「ミカド」が、先駆者として果たした役割を、その誕生の背景も含めて、日本車史の中でもっとクローズアップすべきではないかと思う。(私見です。)

さてようやく、「特殊自動車3馬力時代」がこれで終わり、次に「小型自動車500cc時代」が始まる。そしてこの時代からは、ダイハツ、マツダ、くろがね(日本内燃機)の大手3社について記し、他のメーカーについてはほぼ、割愛したい。
特殊自動車規格の小型オート三輪の市場が、1920年代後半から急拡大したことはすでに記した。1930年頃にオート三輪が何台ぐらい保有されていたのか、当時の正確な台数は、不明のようだが、おおよその台数として、『実際、三輪車業者の間では、1930年頃の三輪車保有台数が、京阪神に4,000台、京浜に3,000台、その他1,000台の合計8,000台に達しているとみなされていた。この数字はやや誇張されている可能性があるとはいえ、すでに小型車の中で三輪車が中心的な地位を占めるようになったことを示している。』(①、P126)
さらに下のグラフをご覧いただきたい。「轍をたどるNo59「五馬力時代から750cc時代へ」(引用④-14)のP170に記載された数値+1933年以降は(①、P171)の数値を追加してグラフ化したものだ。ただこの数字には補足説明が必要なのだが(ある時期までは、二輪車やサイドカーの統計の数字にも、三輪車の数字が入っていたようだ?①、P127参照)、市場が急拡大していった様子だけはだいたいわかる。さらにダイハツやマツダが参入したのは1931~2年だったので、絶妙なタイミングだったこともわかる。
そして『三輪トラックが新しい時代を迎えるには、町工場規模でなく量産設備を整えて本格的に生産するメーカーの出現が必要だった』(②、P170)のも確かだ。文字通りゼロからのスタートで、今まで営々と市場を築き上げてきた、関西を中心とした中小のオート三輪業者からすれば、無念な話になるが、それも冷徹な事実なのだ。
そこで次の、小型自動車500cc時代を、戦前のオート三輪大手3社を中心に記していくが、その話をする前に、自転車系でなく、オートバイ(二輪自動自転車)系から派生した、オート三輪車についても触れておく。そのついでに?戦前の国内オートバイ産業についても、ごく簡単に紹介しておきたい。
m69.png
15.4-36JAPエンジンを巡っての余談を2つ(モーガン スリーホイーラーと公営ギャンブル)
(この記事を書いているへそ曲がりのおっさんカーマニアでなく、イマドキのおしゃれなカーマニアからすれば、三輪車と聞いて思い描くクルマは、地味な日本のオート三輪ではなく、たぶんモーガンあたりではないだろうか。そもそも「サンリンシャ」ではなく「スリーホイーラー」と呼ぶようだが、以下の写真と文章は、OCTANEのwebの記事「モーガン スリーホイラー マニアを熱狂させる現代版"車のシーラカンス"」(web44)よりコピーさせて頂いた。この記事によると、歴代の幾多のモーガンスリーホイーラーの中でも、JAPエンジン付きのものが最も人気が高い(=価値(金額)が高い)そうだ。
『~1931年スリーホイラー・スーパースポーツ・エアロと合流した。数あるスリーホイラーのラインナップの中で最も人気があるモデルで、1928年に発売した時には「正直にこう断言で36ます。世界最速のスリーホイラーであるだけでなく、値段が3倍のどんな車よりもパフォーマンスで上回っています」とパンフレットで謳っていた。~
エアロの力強さと美しさの象徴が、空冷のJAP製Vツインエンジンだ。"JAP"ことJ.A.プレストウィッチ・マニュファクチャリング・カンパニーは、1894年に弱冠20歳のジョン・アルフレッド・プレストウィッチがロンドンに創業した会社で、彼らが製作したエンジンは20世紀初頭の二輪車産業で大きな成功を収めた。モーガンもスリーホイラーの生産にあたっては、サイドバルブ式のJAP Vツインをパワーソースとして選択している。』

以下はweb“乗り物ライター矢吹明紀の好きなモノ”さんより引用(web45)
『J.A.P、それは別に日本人に対する蔑称では無い。ジョン・アルフレッド・プレストウィッチというとあるイギリス人エンジニアのイニシャルである。~
J.A.Pエンジンの顧客には初期のトライアンフ、同じくHRD、ブラフシューペリア、エキセルシャー、OECなどを数えることができた。いずれもフラッグシップやレーサーでの採用であり、後にモーターサイクルの名門とされるこれらのメーカーにおける重要な技術的バックボーンとなったのがJ.A.Pに他ならなかったのである。~
実はクラシカルなスポーツカーとして長い伝統を誇るモーガンもまたその初期においてJ.A.Pエンジンと共にその名声を得ていたという背景があった。~
モーガン3ウィラーは後に主としてコスト上の問題からそのエンジンをブラックバーンやアンザニ、そしてマチレス製へとスイッチすることとなったのだが、現時点において最も評価が高いのは言うまでもなくJ.A.P製を搭載した個体に他ならない。』

m70.jpg
https://images.octane.jp/articles/1000/1538/ORG/20765ee7353a5c394dce10b42b3f3cad.png
(さらに同記事によれば、日本の公営ギャンブルのオートレースも、JAPエンジン製のレーサーから始まったのだという。『この名声は第二次世界大戦後の日本にも波及することとなり、公営ギャンブルとして開催されることとなったオートレースにおける最初の標準車はイギリスから輸入したJ.A.Pエンジン搭載のエキセルシャーだった。このレーサーをベースに極東やトーヨー、そしてメグロといった名作エンジンが誕生した他、シャシー自体は現在のものもエキセルシャーの時代からほとんど変わっていない。』後に記すように、ダイハツもマツダもくろがねも、オート三輪用エンジンは、このJAPエンジンをベースにしたエンジンからスタートした。一番の難関であった、エンジンの内製は、参考にした“先生”がよかったから、よいスタートが切れた面もあったと思う。それにしてもJAPエンジンは母国でも日本でも、三輪と縁があったようだ。なおJAP社はその後、ビリヤス(ヴィリアース)の吸収されたようだ。下はブログ“珈琲焙煎所 氷川下十番地 主の独り言”よりコピーさせて頂いた、JAPエンジンを載せたダートトラックバイク、エキセルシャー(と思われる)写真です。)
m71.jpg
https://livedoor.blogimg.jp/garage_teru/imgs/7/9/79a7ac56-s.jpg

15.5戦前日本のオートバイについて
今までこの記事では、オート三輪のルーツをたどっていくと、フロントカー型の三輪自転車にたどりつくと記してきた。従って業界としてみた場合、自転車製造業界(さらに遡れば人力車製造業界も)が、その生みの親ということになる。
一方、戦前の日本で走っていた自動自転車(オートバイ)のほとんどは、輸入品だった。アメリカの二大ブランドであったハーレー・ダビッドソン(以下ハーレーと略)とインディアンが双璧で、しかも1,000cc級という大型がざらだったという(⑥、P42)。
それら大型オートバイの後方に、着脱式のリヤカーを取り付けた、「リヤカー式大型自動自転車(オートバイ)」が大正中期の一時期に流行し、国産の小型オート三輪にも、一定の影響を与えた。
この項ではインディアンの輸入業者であった、二葉商会が輸入した「シグネットリヤーカー」と、それが与えた影響と、15.6項で記すニューエラ(くろがね)より前に、国産エンジンをひっさげて登場し、陸軍や商工省からもその性能を評価されたという、広島の宍戸製作所製SSD号の、そのオート三輪型について簡単に紹介する。
さらについでなので!それ以外の戦前の国産オートバイについても超簡単に紹介しておく。
15.5-1リヤカー式大型自動自転車、「シグネットリヤーカー」の登場((溜池の主、二葉屋が輸入)
当時インディアンの輸入業者として勢いがあった二葉屋が『まず大正5年(1916年)に、~米国製完成車「ミネアポリス号」フロントカー貨物(三輪)の輸入販売を行う。ミネアポリス号はのちに国産三輪貨物にヒントを与える重要なモデルとなる。』(④-7、P178)その写真は、(④-7、P179)を参照して下さい。典型的なフロントカー型オート三輪の姿で、欧米には既にあったスタイルだが、リヤカー式のシグネットより前に、黎明期の国産フロントカー式小型オート三輪に対して、若干の影響を与えたことになる。引用を続ける。
二葉屋は『続いて同じく米国製のシグネットリヤカー~の一手販売を手掛けた。シグネットはインディアン以外の米車、ハーレーなどにも取り付けられる、着脱自在のリヤカーであった。~前一輪、後三輪の変則的な四輪車となる。』これも写真は(④-7、P179)を参照してください。オートバイ(2輪)+リヤカー(2輪)で合計4輪だった。
大型オートバイと接続するので、法規上は特殊自動車の流れとは無縁の世界だったが、『狭隘な日本の道路向きであり、人力車やリンタクの意匠に近く、馴染みやすかった。エンジンがパワフルなため積載量が多く、簡単な四輪トラックの代用にも使うことができた。二葉屋は雑誌「モーター」の大正6年(1917年)12月号に販売予告を出した後、大正8年1月号から大正10年5月号まで、じつに長期にわたりシグネットの広告を出し続けた。予想以上の人気を博したからであり、逓信省など官公庁にも大量に納入されている。』(④-7、P179)
再三引用してきたが、フォードの『T型でも2896ccあり、日本の狭い道路では立ち往生する場面が度々起きた。~輸入貨物車と日本の市街地や住宅地の道幅との不釣り合い』があり(④-6、P172)、小回りが効き、特殊自動車よりも積載量がある貨物車の潜在的な需要があったのだ。ちなみにシグネットはハーレーにも取り付け可能だった。
この盛況ぶりに、シグネットに似ているが、三輪に改造されている「ホワイトスター号」(同じく写真は④-7、P179を参照してください)が同じ大正8年(1919年)に早くも販売される等、多くの追従者が生まれる。
中でも二葉屋の強力なライバルで、ハーレーの輸入元であった日本自動車は当然、黙ってはいられなかった。さっそくシグネットによく似た、「ニッポンリヤカー」を自社開発し、大正10年(1921年)から市場に投入する。以下、(④-11、P163)から引用する。
15.5-2日本自動車も自製の「ニッポンリヤカー号」で対抗
『ニッポンリヤカーは、~本車となるオートバイのリヤフレーム部のみの、合計4カ所の連結で済ませており、小回りの際に邪魔となるサイドフレームを廃し、脱着を容易としたもので、これは同社自動自転車部の桜井盛親(もりちか)が設計した。~桜井のキャリアは日本自動車に入社し、日本リヤカーを製作することから始まったものだ。』桜井はその後、ハーレーの代理店が三共系へ移行するとそれと同道し、後述するが後に陸王九七式側車を生むことになる。ローコストで実用性の高い商品設計が得意だったようだ。ちなみに二葉側の訴えで両社(両車)は訴訟問題に発展するが、日本自動車側がこれを退けている。
しかしニッポンリヤカーの写真は(④-11、P163)にあるが、『これらを見ても、二葉屋のシグネットリヤーカーが与えた影響がいかに大きかったか分かるだろう。』(④-7、P179)
このオートバイ後方改造型四輪車は、やがてホワイトスター号のような三輪型へと移行していき、『オートバイのフレームが、サスペンション付きのシャシ-(車台)へと発展していく』(④-11、P167)。
しかし『大型リヤカーはその流行が静まり、消滅していくのも早かった。高価だったこと、この時点の自動車取締令(明治40年以降、大正8年前)では普通自動車の運転免許が必要となったからである。』(④-7、P179)
リヤカー式三輪型となってからも、少量ながら生産が続いていくが、特殊自動車系の軽量車と違い重量級だったため、チェーンによる片輪駆動では脆弱で、『駆動系も強化され、Wチェーンとなり、デファレンシャルギヤが装備され、やがてシャフト駆動へと進んでいく。~のちの国産オート三輪の骨格の一部が築かれていたのである。
冒頭に述べたように、国産三輪自動車のルーツの主流はリヤカー式自転車にあったわけだが、これら大型のリヤカー式自動自転車群が残した影響も決して少なくなかった。リヤカー式自動自転車の血脈を正系とすれば、第二の潮流だった大型リヤカー群は傍流であった。』
(④-11、P167)さらに言えば、やはりハーレーがベースだったゴルハム号三輪車にも若干の影響は与えたのだろう。
ここまでで大型リヤカーについての話題を終える。次に戦前の日本市場におけるオートバイの2強であったハーレーとインディアンの、通常のオートバイ(自動自転車)分野の話題を簡単に記した後、国産のオートバイについて、オート三輪を手掛けたSSD号については多少詳しく、それ以外の国産オートバイについては超簡単に記す。
15.5-3ハーレー(後に陸王)とインディアンが強かった
最初にハーレーとインディアンの、当時の輸入業者について触れておく。
まずインディアンの輸入を手掛けていたのが二葉屋で、(㊱-1、P76)の記述によれば、『明治より赤坂区溜池5番地にて「溜池の主』と呼ばれた大輸入商で』『のちに赤坂溜池界隈に自動車業者の多くが集結する端緒も、じつはこの二葉屋が開いたものだ。』(④-7、P178)ちなみに日本自動車も溜池だった。当時二葉屋は大いに繁盛していたようだ。もともと日本市場ではインディアンの方が優勢で、昭和に入るとその勢いは急速に衰えるが、当時はハーレー&日本自動車陣営にとって、相当手強い相手だったようだ。
一方、先の11.2項で記したようにハーレーは当初、四輪車のディーラーの最大手だった日本自動車が扱っていたが、その後三共(薬の)が代理店の権利を奪い、やがて陸軍の勧めもあり、国内生産に乗り出し、1936年からは「陸王」と名乗ったのは前回の記事で記した通りだ。おさらいになるが、日本自動車から三共に代理店が移った経緯が(web❹-1)のM-BASEに詳しかったので、以下転記させていただく。
『ハーレーは1912年から大倉財閥系の日本自動車で国内販売され、ゴルハムなどのクシカーに転用された。しかし補修部品の注文がないことや三共系の興東貿易によって並行輸入されていたことにいぶかしがった米本社が調査、東洋代理人のアルフレッド・チャイルドが1924年に来日、三共と組んで「日本ハーレー販売所」を設立した。』
なんとなく、日本自動車が不熱心だった印象を受けるが、しかし日本自動車も営業努力を重ねていた。特に、アメリカ製大型オートバイの支援者で、かつ安定した需要が見込めた陸軍への売り込みでは、両社は激しい火花を散らした。『そのころハーレーはインディアンとの市場争いを展開しつつあり、日本陸軍にも両社の激しい売り込みがあったといわれている。』(⑫、P232)
そして日本市場におけるハーレーの販売台数は、日本自動車が扱った時代にすでに、インディアンを超えつつあったようだ。以下(④-11、P164)より引用
『日本におけるハーレー車の販売、ことに官公庁、陸海軍への納入実績については、三共よりも以前に、日本自動車株式会社の自動自転車部が築いていたものだ。』その牙城は徐々に崩されつつあった。
『大正末期のハーレー車の需要は概ね次のような数字だった。毎年の交代代品として陸軍へ100台、海軍90台、逓信省が全国で200台、そして東京市が40台、と年一千台を目指す趨勢であった。かつて年一千台に届いたといわれた二葉屋のインディアンを駆逐する勢力だったのである。』(④-11、P167)さすがに大倉財閥で、官に対して力があったのだろう。
 しかしその一方で、日本自動車内では、四輪に比べてオートバイ(自動自転車)販売にあたっては逡巡する気持ちもあったようだ。『ハーレーの車名がようやく知れ渡り、軍や官公庁への納入が拡がった矢先にもかかわらず、多くの種類の四輪自動車を主力とする日本自動車としては、これ以上の自動自転車部の拡大は望まなかった。』(④-11、P167)日本自動車側にも、その対応に隙があったようだ。だが世界市場で競い合うハーレー側としても日本市場で、インディアンに負けるわけにはいかなかったのだ。以下は(㉒、P32)より引用
『日本ハーレー販売所設立を契機に、日本陸軍はハーレーの国産化を打診、幸いにもハーレーは1936年モデルからエンジンやフレームを一新、有名なナックルヘッドOHVモデルを計画していたため、34年型の設備がそのまま…さっそくミルウォーキーから1200ccV系の設備が船積みされ、1936年には完全なる生産体制が整う。~1200ccは1934年V型、750cc系は35年のR型を国産化、ソロを主体とし、また三輪トラックも手がけられる。』
15.5-4陸王九七式側車=世界初の二輪駆動側車
(陸王の情報をwebで検索していくと、ミリタリーマニアの方々の奥深い情報に行き着く。下の写真はそのマニアたちが誇る、陸軍の「九七式側車付自動二輪車」の雄姿だが、ブログの記事「燃焼室形状とバルブレイアウトの話」よりコピーさせて頂いた。
http://www.italian.sakura.ne.jp/sons_of_biscuits/?p=1835
陸王が作ったこのサイドカーがいかなるものだったのか、以下wikiより『機能面での最大の特徴は、不整地走行性能を向上させるために、本車(オートバイ本体)だけでなく側車の車輪も駆動する二輪駆動式サイドカーとした点である。側車の車輪を駆動させる際には、操縦席左後方のクラッチレバーを左手操作した。側車側の後方フレームに沿って側車輪駆動用の横方向シャフトが装備され、この時代の軽便車両に見られたキャンバス製ジョイントを介して側車輪を駆動した。側車を外した単車でも使用でき、状況に応じて柔軟な運用がされていた』
なんと側車側も駆動が可能だったのだ。しかもこの装置の追加で、わずか6kgほど重くなったに過ぎなかったという(⑫、P240)。実に効率的だ。そして肝心の性能だが『不整地の通過テストでは、凹凸のはげしいところなどで普通の側車では通過が困難と思えるような地帯でも、かなりな速度で走行することが可能であった』(⑫、P240)のだという。
開発を手掛けたのは先にふれたように『日本自動車に所属してハーレー派生型のオート三輪製作にも携わり、ハーレーの輸入代理店が三共に移った際に三共内燃機に移籍した技術者、桜井盛親である。』(wiki)費用対効果の高い機構だったように思える。
そして、戦争映画で有名な、ドイツ軍の誇る二輪駆動機構付き側車、BMW R75 やその兄弟車のツュンダップKS750よりも少し早い採用だったので、世界初の二輪駆動側車という栄誉に即する。ただ個人的な印象では、例によって機構的に凝りに凝ったドイツ製(シャフトドライブ・差動装置付で場合によってはデフ・ロックも可能、4速T/Mは補助変速機付きで高速・低速の切替えの他、2段のリバースギアも装備していたという)に、性能的には到底かなわなかったと思えるのだが。(㊱-2、P48)でも『~残念ながらその技術の格差は著しい。つまりは日本軍の97式の側輪駆動は、急傾斜や泥濘地などでのエマージェンシー的な用途だったと考えた方が無難なのである。』と指摘している。
さらに(㊱-2)では『当時の満州ではただでさえチェインが切れて(伸びてではなく)困ると叫ばれた中』、陸王の競合先の日本内燃機では、シャフトドライブ車(1931年の91式)も納入していたという。しかし『当時の陸軍は大正期より軍用に使用されていた米車インディアンやハーレーに固執し、Vツイン、チェインドライブとするよう強く指導したため、日本内燃機も93式以降はそれに従った』(㊱-2、P50)のだそうだ。いろいろと“ケチ”もつけてしまったが、しかし“世界初!”に違いはない。)
m72.png
http://www.italian.sakura.ne.jp/bad_toys/engine/boxer/m72_002.jpg
(下の写真はBMWでなくツュンダップ(昔はツェンダップと表記していたと思っていたが記憶違いか?)KS750の雄姿で、ブログ“タイムトンネル”の記事「ショールームの一角が、WWⅡの戦線エリアと化した!!”」(web29)よりコピーさせて頂いた。元ネタはバイク雑誌の『ミスターバイクBG/2016/8月号に掲載された記事を、HP用にレイアウト変更/構成しています。』というもので、“ツュンダップ軍用サイドカーが、東部戦線ならぬ、環状8号線を疾駆する!!”図だ。
m73.png
http://timt.co.jp/time03/images/zundapp_01.jpg
以下もマニアックな同記事より引用させていただく。『ドイツ国防軍からのオーダーにより大戦中にツュンダップが作った軍用サイドカー、KS750。1943年にニュルンベルグの工場で作られたことを示すプレート付き。写真やプラモデルの箱絵でしか見たことがなかったものに、乗れたのである。
実物はものすごかった。何がすごいかっていうと、フルレストアされてサビのない美しい仕上げと、船に装着されていた本物のMG34機関銃(公安委員会の所得許可を得た無可動実銃)もすごいけれど、それより何より、作りがすごいんだ、これが。鋳物や溶接、各素材の仕上げの美しさ。ちょっとやそっとじゃ壊れにくそうに思える質実剛健な作り。機能性を考え抜いたような合理的なレイアウト。戦後ホンダが手本にしたフレーム。この時代のドイツ工業製品の実力に圧倒されて大興奮。(中略)
そして実際に乗ってみても『~あれ?拍子抜けするくらいクセのようなものがない…。クルマと一緒でハンドルを切ってコーナーリングフォースを高めて曲がる。速度を上げても不安になるような挙動は発生せず、なかなか安定している。凸凹を踏むと小さく左右に揺すられるけれど、なんとかなる。乗っても素晴らしいぞ。
シャフトで駆動するリアホイールアクスルにはデフが装着されていて、ドライブシャフトが垂直方向にも伸び、なんと船側のタイヤも駆動している。普通のサイドカーとは全く異なる2輪駆動の恩恵に感謝あるのみだ。楽しく、めったにできない体験をした。』
やはり機械的には優れモノだったようだ。)
15.5-5BMW R75も中途半端だった?(余談)
(さらにさらに脱線する。先に、陸王やくろがねについて調べていくと、コアなマニアが多いミリタリー車の世界にたどりつくと記したが、その世界はあまりにも奥が深く、我々ド素人が軽々に口出しできない世界だ。素晴らしい軍用側車付バイクに思えるBMW R75(とツュンダップKS750)だが、(web23)の見立てによれば、中途半端な性格のものだったという。以下引用させていただく。
『~R75 や KS750 は側車付自動二輪車の格好をしているにも拘らず、二輪駆動走行時における両車の本質は左右非対称なオート三輪に過ぎなかったから、これで小回りを除く運動性が非常に高かったというような理屈には到底なり得ない。その上、両車は共に自重 400kgという巨体であり、なおかつ統制型側車は機械化部隊(モーターサイクル狙撃部隊)即製のため機関銃の艤装に配慮した設計となっていた。フル装備状態で 2 ないし 3 名が乗車すれば駆動輪の輪重は小型四輪車のそれをも凌ぐレベルとなった。しかも、前輪は一つしかなく、そこに駆動力は伝達されていない。ハンドルは減速機構など無しのバーハンドルである。従って、硬い路面上ならまだしも、泥濘地走破、とりわけ旋回性能に関して両車の実力はそれ程ではなかったとしか考えられない。果せるかな、ドイツ陸軍では後年、この中途半端さを脱却し、重任務には四輪車を、軽快任務には軽量かつ廉価な単気筒バイクを充当する方針への転換を余儀無くされている。厳しい評価だ。前者の任に当ったのがかのKübelwagenである。キューベル・ワーゲンはKdF-Wagen、即ち後年のVWビートル開発の軍需転用車である。』(web23、P108)……。
ついでに前回のこのブログの記事でヨイショしたジープについても、(web23)によれば、『~しかし、Jeep を以って「アメリカを勝利に導いた車」と見做すことが“贔屓の引き倒し”であることはJeepなどより格段に車容の大きなGMC 21/2tトラックの方が先に見た通り遥かに大きな生産規模に達していたという現実だけからしても明らかである。Jeep はアメリカ陸軍の「巨大な機動力の末端の一部を担ったに過ぎない」(石川雄一氏=「4×4 マガジン」の創刊に係わり、同誌や「クロスカントリービークル」誌の編集責任者を長年務めたジャーナリスト)』(web23、P111)。こちらもかなり手厳しい。下の写真はそのGMC CCKW 353(2.5トントラック)で以下の文とともに、wikiよりコピーした。『GMCでは、第二次世界大戦の直前から大戦末にかけ、水陸両用型のDUKWを含むGMC CCKWシリーズ2.5トントラックを計562,750両生産した。第二次世界大戦時にアメリカで生産された軍用車両の生産数としては、ジープとして知られるウィリスMBの約36万台、フォードGPWの約27万台を合わせた数に次ぐ、膨大な生産数となった。』同車が日本で相当するものは、トヨタやニッサンの軍用トラックというよりも、より本格的な九四式六輪自動貨車ではないかと思うが、その生産台数については、ここでは触れないでおく。)
m74.png
15.5-6陸王の、さらに奥深い世界(余談)
(以下はさらにさらに余談だが、ハーレーの話題に戻して、ブログ「バイク豆知識」の記事「国産ハーレー『陸王』とは」https://bike-lineage.org/etc/bike-trivia/rikuo.html から、その、奥深い世界について、引用させていただく
『恐らく陸王を実際に見たことがある人はほぼ居ないと思います。これは部品が既に無いことから置物化しているという事が第一にありますがそれ以外にも幾つか理由があります。』そしてその理由の一つに『陸王は歴史からも分かる通り大日本帝国陸軍のバイクというイメージが強いため極一部の少し怖い人達に絶大な人気があり、元々の所有者が亡くなると同時に何処からか嗅ぎつけて因縁を付けられ半ば強引に持っていかれて闇に消えるという事が結構あったんだとか。』だそうです。『レア車あるあるですね。』確かに…。また別の情報によれば、陸王のサイドカーは戦後、警察車両として乗りつぶされてしまったという。なお(⑥、P62)によれば、そもそも三共の中でオートバイ事業の位置づけは、三共の創立者、塩原又策氏の女婿で、三共内燃機の専務だった永井信二郎氏を盛り立てるためのものだという側面もあったようだ。そして“陸王”という名前の由来だが、公募であったが、慶応ボーイのスポーツマンだった永井氏にちなみ、有名な応援歌の文句から選んだようだ。(⑥及びwiki)以下の画像も「バイク豆知識」の「国産ハーレー『陸王』」よりコピーさせていただいた。
m75.png
https://bike-lineage.org/etc/bike-trivia/img/new_name_rikuo.jpg
15.5-7大型をゆっくり回し、悠揚たる爆音で走るのが当時の伊達者
(下はそのハーレー/陸王のライバルであった、インディアンの1949年製スカウトの画像で、以下のブログよりコピーさせて頂いた。時代を感じさせないカッコよさだ。⑥で富塚氏の戦前のオートバイについての述懐を『当時を振り返ってみると、小型、高速、大出力という要求はほとんどなく、大型をゆっくり回し、悠揚たる爆音で走ることが、軍はもとより伊達者もねらうところだったのである。』(⑥、P56)https://www.motoinfo.it/schede-tecniche-moto/schede.php?recordid=359
m76.png
https://www.motoinfo.it/images/schede-tecniche/2007/INDIAN-SCOUT-1949-l.jpg
戦後も力士時代の力道山は真っ赤なインディアンを愛用し、本場所会場まで乗り付け、話題をまいたそうだ。)

戦前の国産オートバイについて
 ここからハーレーダビッドソンを国産化した陸王以外の、戦前の国産オートバイについても、ごく簡単にふれておく。その中で、宍戸製作所のSSD号だけは、オート三輪を多く生産した実績があるので、やや詳しく記す。主に参考にしたのは(⑥、P54~)とSSD号に関してはついては(④-18)です。
過去に何度も記したことと関連するが、1931年の満州事変以降、軍部の大陸進出が始まり、『自然、重要機材国産化のかけ声が日本でも高まってきた。オートバイは軍用としても重要であるので、そのかけ声にのって、試作に乗り出すものが現れた。』(⑥、P54)その他、国際収支の悪化による国産品愛用運動、金輸出禁止による円安と小型自動車部品の輸入関税の引き上げ等もその背景にあるのは、四輪車と同じ事情だ。以下、陸王以外の主な国産オートバイについて、定番本の⑥を参考に簡単に記す。
15.5-8日本モータースの「エーロ・ファースト号」(4サイクル単気筒、633ccc)
島津楢蔵は『大阪随一の貴金属製作所「丹金」の長男として恵まれた環境に育ち、好きなガソリンエンジンの研究に半生を捧げた在野の研究家』(④-9、P167)であった。日本最初の純国産オートバイを作ったことでも知られる((詳しくは⑥、P50、日本自動車殿堂等参照して下さい)。
さらにオート三輪の分野でも、(推定らしいが)大正10年(1921年)、エンジンまで自製した大阪発の純国産フロントカー型三輪車、「パイオニーア号」(石原モーター工業所製)の設計製作にも関わったという。『このパイオニーア号の構造は、島津楢蔵が大正2年(1913年)5月に完成させ、製作販売に辿り着いた純国産オートバイ「NMC号」を発展させたものだ。島津は国産オートバイ界の苦難の開拓者であり、この後も純国産のオートバイ、エーロファースト号(大正15年)の開発に傾注していく』(④-8、P1750)。同記事によればパイロット万年筆製造所や、鰻問屋の出雲屋(上方落語に出る)等へ納入したという文献があるようなので、ある程度製造販売されたことは確かだろう。
 一方次に係わった二輪の、エーロファースト号の方だが、建設業の大林組の資本を得て日本モータースを立ち上げて、1927年から3年間で約500台(日本殿堂によれば)生産するが、29年に解散した。その名前の由来だが「航空エンジン競作での1等賞の記念」だったというが、富塚清氏によれば、当時としても「エロ」と解され、冷やかされたりしたという(⑥、P54))。
(やはり国産オートバイ、第1号は紹介すべきだと思うので、「島津モーターNS 号(1909 年)」の写真と文を、“webオートバイ”(web24-1)から引用させて頂いく。『NS号のほとんどの部品は日本製の材料を使って、島津楢蔵によって製作された。これ以前の国産車は輸入部品を組み立てたものばかりで、純粋な国産車第1号はNS号ということになる。エンジンは4スト単気筒400cc。』後述するが島津はその後、マツダと縁が出来て、関係を結ぶことになる。)
m77.png
https://www.autoby.jp/_ct/17303386
15.5-9宮田製作所の「アサヒ号AA型」;(2サイクル単気筒、175cc)
1933年に試作車が完成、1935年から量産販売。宮田製作所については、この以前のこの記事の「5.3-2純国産ガソリン自動車第2号、“旭号”の誕生(1909年8月)」で触れているのでそちらも参照して下さい。英国のコベントリー・イーグルを参考に、同じく英国のビリヤス(⑥の表記ではビリヤ-ス)社の2ストローク単気筒175ccを模したエンジンを搭載する純国産オートバイだそうだ。(⑥、P56)によれば、当時2サイクルはミヤタだけで、4サイクルのSVが主流だったとのことだ。
このAA型は『1935年(昭和10年)4月から量産体制に入り、37~39年には月産150台を維持するという、当時としては大ヒットだった。』(web⓭-1)しかし『昭和初期に日本では最初の量産車として作られ、鋼板プレス製のフレームを使い、量産効果を高め、総数約4万台を販売した普及型として有名であるが、平凡ゆえに実車が保存されている例は極めて少なく、公共の博物館などでは見ることができない』(web❼-4)のだという。(以下の写真はブログ“レッドロカット” さんよりコピーさせて頂いた、
http://leadloquat.blogspot.com/2012/10/aa.html、アサヒ号AA型(1936年))
m78.png
http://4.bp.blogspot.com/-N6a7hTd6qQU/UIIAP19f1xI/AAAAAAAAEnQ/8BqR3U0uWR8/s320/D_1936_AA.jpg
15.5-10宍戸オートバイ製作所の「SSD号」(4サイクル単気筒、350cc,500cc)
広島の宍戸兄弟による宍戸オートバイ製作所のSSD号の自製のエンジンは、輸入車に劣らぬものだったといわれ(①、P137)、陸軍からも期待されたほどの性能を誇ったが、結局挫折した。大正14年(1925年)から昭和9年(1934年)まで約10年間に、約470台生産し、そのうち運搬用リヤカーは250台、同じく運搬用のフロントカーが10台であったという。(④-18、P174)以下、(④-18)をガイドに超簡単にその歴史を記すが、詳しくはぜひ、(「広島に現れた国産の先駆SSD」;④-18)をご覧ください。のっけからその(④-18、P166)より引用させていただく。
15.5-11技術的な基盤は呉海軍工廠で学んだ鍛造技術
『SSD号の製造者は、宍戸健一(1892~1972、長男)と宍戸義太郎(1895~1974)の2名の兄弟が中心となり、大正13年(1924年)に広島市南竹屋町におこった「宍戸オートバイ製作所」という、いわば個人経営の町工場であった。』宍戸兄弟に技術的な基盤は、呉海軍工廠だった。『呉海軍工廠は横須賀に次ぐ旧日本海軍三大工廠の一つであり、工員数では横須賀をも凌ぎ、東洋一の艦艇建造能力(後に戦艦大和など)を有していた。呉海軍工廠系の重工業、機械工業はぐんと広島の、いや日本全体の技術力の中枢を担っていたといっても過言ではない。』(④-18、P166)
呉海軍工廠や陸軍の大阪砲兵工廠が、黎明期の日本の自動車産業の発展に果たした役割については、この記事の中でもマツダやダイハツ、久保田の実用自動車製造や、アイザワ号などで触れているが、戦前に小型車用エンジンの自製を試みた企業にとって、陸/海軍工廠からの技術伝播があり、また拠り所でもあったようだ。宍戸兄弟も呉海軍工廠で技術を学び、大正8年(1919年)に独立し、工場を構える。
『特に弟義太郎の鍛造技術は当時群を抜いており、それが同製作所をエンジン製造へと走らせる原動力となった。つまり宍戸兄弟の製作所とは、兄の機械設計、金属加工、切削技術と、弟の鍛造技術とを融合させた工場だったと考えればわかりやすいだろう。』(④-18、P167)この一連の、戦前日本の自動車史で何度も何度も触れてきたことだが、戦前の国産車作りで最大のネックは、エンジン製造における鍛造技術であった。『大正期の国産小型エンジン製造で最も困難だったのはサイドバルブのシリンダー鍛造であり、優秀な鍛造工を抱えた工場から順番に自作エンジンを完成させていった。翌大正15年に登場するSSD号フロントカー、リヤカー式三輪車の宍戸製作所(広島)宍戸義太郎も呉の海軍工廠で学んだ鋳物師であった。』(④-8、P177)以上はSSD号より一足先にオート三輪を完成させていた、大阪のアイザワ号(15.4-12項)に対しての説明だが、アイザワ号も、大阪砲兵工廠出身の優れた鍛造技術者、塩谷柔太郎を抱えていた。話を先に進める。
 宍戸製作所はまず、ゴムや靴産業向けの機械製作で成功し、『開業わずか3~4年目ですでに相当の蓄財を得ていた。そしてこの自前の優秀な技術力を駆使してさらに一歩進もうとしたのが、国産SSD号の開発だったのである。SSDのエンジン開発は、マツダ(東洋工業)より6年も先行していた。』(④-18、P167)兄弟が国産エンジン開発に参入したきっかけとなった、興味深いエピソードはここでは省略するが、(④-18、P168)をご覧ください。
 そのふとしたきっかけで、トライアンフのエンジンを模した自作エンジンの製作に成功した兄弟は『この時より小型ガソリンエンジンとオートバイの開発に目覚める。翌大正13年(1924年)には「宍戸オートバイ研究所」の看板を掲げ、本格的にSSD号の研究に没頭していく。開発の実験場となったのは工場の中でなく、当時広島地方で盛んにおこなわれていたオートバイ競走会だった。』(④-18、P169)広島の“熱い血”なのだろうか、ここから関西系の企業と、まったく違う行動に出る。以下、(web⓳)より引用
15.5-12実験の場はレース場、「SSDレーサー」の誕生
『1926年(大正15)6月に第一号車(注;SSDレーサー)が完成、宍戸(ししど)の名にちなんで「SSD号」と名づけられた。ししど→SISIDO→SSD …というわけ。~SSD号はその年の12月、広島の観音グラウンドで行われた全国オートバイ競走大会で、4級車(250cc級)で1着、2級車(500cc級)で2着という好成績を収めた。』
当時の広島は、オートバイ競走がたいへん盛んで、15.8-21項のマツダのところでも触れているが、なかでも『毎年秋に行われた中国地方最大のお祭り「招魂祭」のオートバイ競走がアトラクションの目玉となっていた。~近隣の学校はみな休校となり、なんと10万人以上が集まった記録まである』(④-18、P169)というから尋常な話ではない。欧米の最新型競争車が集結していた激しい戦いの中で、『最新の技術を学ぶ上でも格好の実験室であったろう。』文字通り、“走る実験室”だった。以下も(④-18、P169)から引用する。
15.5-13恐るべき技術水準に達していたSSDレーサー
こうして『実戦で鍛え抜かれたSSDレーサーは、~恐るべき技術水準に到達していた。じっさいに好成績を上げ、複数の優勝旗も得ていたわけだから、耐久性も性能も相応だったはずだ。』
(④-18、P165)に、SSDレーサーの写真があるので、その雄姿をぜひご覧ください。今までまったく、クローズアップされることはなかったが、ひょっとすると、このSSDレーサーは、ジャンルは違うがこの記事の(13.1項)で記したオートモ号とともに、純国産の自動車の中で、国際水準に比較的近いところまで到達した、最初期の例だった可能性もある(もっと調べないとわからないけれど)。ただしあくまで優れた職人のコピー技術としてで、オートモ/アレス号のような、学術的にも優れた、オリジナリティのある技術とは本質的に違っていたが。
さてこの『大正15年(1927年)10月に行われた招魂祭余興の競技会の最中、多くの輸入車を追い回すSSDレーサーの姿を真剣に見つめる一人の男がいた。たまたま審判席に座っていた元陸軍自動車学校の教官、土橋留秋であった。』(④-18、P170)SSD号の実力を、陸軍きっての自動車通だったという土橋が見抜き、以降SSDを、各方面に積極的に紹介して回った(④-18、P170)。以下も引用する。
15.5-14SSD三輪車の完成(1926年)
『土橋大尉の推薦を得て気をよくした宍戸製作所が大正15年に完成させたのが、フロントカーとリヤカーの計5台だった。』エンジン以外の車両部分は、先行するアイザワ号などから強く影響を受けたものだったようだ。『市場性からしても、この時期はオートバイよりも自動三輪貨物のリヤカーでなければ、まず売りさばくことができなかった。どんな実力があっても同じだった。~それでもエンジンまで自製するのは時期尚早であった。』昭和7年末に、輸入関税が大幅に引き上げられるまで、量産された輸入エンジンに到底、太刀打ちできなかった。まして『有力な資本を全く持たない、いわば孤立無援のSSDには厳しい状況が続いた』(④-18、P171)こうして次第に追い詰められていった。
15.5-15陸軍と商工省から支援を得るも、ついに力尽きる
『そんな中、宍戸製作所は陸軍自動車学校からSSD号側車2台の注文を受け、昭和2年(1927年)の11月にこれを完成させた。』(④-18、P172)。さらに陸軍省から商工省に宍戸オートバイ製作所に対する研究奨励の希望が出され、商工大臣より1万円が交付されたが、『これは宍戸製作所にとって開業以来最大の栄誉』(④-18、P172)になった。こうしてSSD号はその優秀さが認められ、いよいよ陸軍好みの大型用Vツインエンジンを完成させて、同エンジンを利用した、不整地走行用の路外用車の試作注文を陸軍自動車学校から受けるなど、軍部や官公庁からもぼちぼちと発注を受けるようになった。しかし『製造分野がインデアンやハーレーと直接に競合する530cc、1,200ccだったため、原価割れの販売を強いられて経営的には芳しくなかった』(①、P137)。強力な人脈と販売力を誇る両社に立ち向かうのは、小資本で販売力など無いに等しかった宍戸製作所には、無理な相談だった。
『これらVツイン車の開発は、宍戸製作所にとって売り上げの後押しとはならなかった。いや、むしろ経営的には火に油を注ぐ結果となった。陸軍や商工省から授かった光栄を意気に感じ、奮起すればするほど、かえって資金繰りが苦しくなっていく。』(④-18、P172)  
この一連の記事の、9.8項で記したが、宍戸製作所が孤軍奮闘していたのとほぼ時期の、軍用保護自動車3社も、この事業が国家を支える事業であるというプライドを胸に、必死に耐え忍んでいた。この一時期、陸軍が宍戸のオートバイに、期待をよせていたのは確かだが(たとえば㊲、P47などに証言も残っている)元々軍縮の時代で、オートバイはさらに、国が投じる予算も、市場規模も少ない分野だった。
『SSD号は昭和8年頃に経営難に陥り、東洋工業との提携話が持ち上がったが、それを断ったため』(④-2、P171)、『資金繰りに追われ、宍戸オートバイは1934年(昭和9年)廃業した』(web⓳)。結局果たせなかったのだが、東洋工業との提携の仲介役は、日本窒素の野口遵であった(④-18、P172)。そしてその後、『SSD工場にあった工作機械や職工の多くは同じ広島の東洋工業に移っていった』(④-19、P171)という。
(下の写真は、広島市交通科学館に展示されている、宍戸製作所製オート三輪のスケールモデル。(②、P182)では、『国産エンジンの搭載されたオート三輪車は、1926年(大正15年)に広島の宍戸オートバイ製作所によってつくられたのが最初であるといわれている。』としているが、仮にリヤカー式に限定しても、アイザワ号との関係が微妙だ。ただある程度の台数が作られたものから選べば、やはりこのクルマになるだろうし、その栄誉を受けるにふさわしい気もする。外観はどことなく、アイザワ号やコンビンリヤカーなど、同時代のオート三輪車に似ている。下記のツイッターからコピーさせていただいた。)
https://twitter.com/tai_kim/status/1330035692987150336 )
m79.png
https://pbs.twimg.com/media/EnU8aBFXEAAFxjm?format=jpg&name=large
以下は(⑥)からの引用でさらに他も簡単に記すと、
・東京モーター用品製造組合員のあいこく号;エンジンは後述する蒔田氏設計のもの
・みずほ自動車製作所(愛知県犬山)の「キャプトン号」;中川幸四郎商店が発売。
・栗林部品店(大阪)のリツリン号;栗林氏はプロレーサーとしても活躍した人だという。
15.5-16目黒製作所の「メグロ号」( 4サイクル単気筒、500cc)
1936年に制作、販売されたオートバイで、日本で最初に、OHV型エンジンを採用した。『スイスのモトサコシMAGを参考にした4サイクル500ccエンジンをイギリスのベロセット型シャシーに搭載した』(㉒、冒頭ページ)。戦後も生産されたのはご存じの通り。『陸王の生産工場があった品川区北品川は、環状6号線と目黒川沿いにあり、目黒製作所とは距離的に実に近く1kmほどしか離れていませんでした。東京の二輪車のメッカは、この城南地区(注;品川区、大田区、目黒区)だったのです。』(web⓭)より引用。(下の写真は、最初の市販車である“Z97型”で、非常にスポーティーかつスタイリッシュな印象を受ける。実際に高性能で、初期のオートレースでも活躍したという。そしてその高性能を警視庁も認め、1939年には少数(10台)ながら、白バイとして正式に採用されることとなったという。)
m80.png
https://mc-web.jp/wordpress/wp-content/uploads/2020/11/th_1937_Z97-1-660x400.jpg
 目黒製作所でもう一点、特記すべきは、部品(変速機)メーカーとしての側面だ。『同社は二輪の修理からはじまって、二輪車を試作した後、1927年から変速機の製造に取り組んだ。すでに20年代からモーター商会と二葉屋に納入していたものの、輸入品との競争のために原価割れの販売であった。
 ところが、500ccエンジン時代から変速機も前進3段、後進1段となったが、当時の輸入エンジンはもともとオートバイ用であったために後進ギヤがなかった。そのため、同社の製品が優位を占めることができた』
(①、P180)という。確かに資料を調べていくと、変速機とクラッチに、メグロ製の採用例は多い。さらに(⑥,P65)には『自動車の差動歯車装置(デファレンシャル・ギヤ)にも手をつけ、数社に納入した』とあり、問屋型のオート三輪メーカーからは重宝されただろう。
ちなみに(①、P180、181)によれば、気化器(キャブレター)だけは『依然として技術上の困難によって輸入を余儀なくされた』そうで、『1932年式でそれ(気化器)を自製したマツダが、1937年式で再びアマルを使う、「逆行」現象からもうかがうことが出来る』としており、アマルなどの輸入品に性能で対抗できなかったようだ。(①、P178の表参考)(下の写真でから、目黒製作所は、オートバイとともに、ギアボックスや部品も手掛けていたことがわかる。そしてオート三輪用のエンジンも供給していたようだ。たとえば(web❷、P39に)『HMC(兵庫モータース)は国産の目黒製作所のエンジンを積んでいる。』という記述がある。画像は“バイクの系譜“
https://bike-lineage.org/kawasaki/w/meguro.html よりコピーさせて頂いた。)
m81.png
https://bike-lineage.org/kawasaki/w/img/meguro_company.jpg
15.5-17戦後と比べると、あきれるほど少量生産だった
 まとめとして、オートバイの歴史の定番本である富塚清著の⑥より『以上いずれも満州事変頃から、日支事変の頃にかけての7,8年の間に、国産化促進のかけ声で世に出たものであり、大戦直前の車はこの期間にほぼ出つくした。それ以後は、戦局悪化、航空優先のため、オートバイのほうには、資材も技術力も回らなくなったらしく、事業は停頓した。(中略)唯一の例外は陸王で、これは軍用、警察用として、戦争末期に至るまで製造を続けた。しかし、その最盛期でも月産100台程度に過ぎなかった。今から振り返ってみると、あきれるほど少量生産である。』(⑥、P56)世界を制覇した戦後の二輪産業と比べれば何ケタも少ない台数だったのは当然だが、オート三輪と比べても、戦前のオートバイは小さな市場規模だったのだ。
下図は、①、P245の表の生産台数を元に、グラフ化したもので、メーカー名でなくブランド名で表記した。なお純国産の重量級オートバイのブランドとしても重みのあった“くろがね”については、15.6項のオート三輪の項でまとめて記す。
1936年以降の、準軍事体制下の頃のデータなこともあり、やはり陸王とくろがねの台数が多い。なお“キャブトン”はみづほ自動車製作所で、戦後も活躍したブランドだった。当時の販売元は大阪の中川幸四郎商店で、以下はwikiより『キャブトンという名はCome And Buy To Osaka Nakagawa (「大阪中川まで買いに来たれ」)の頭文字を並べたもの』だったそうだ。)
m82.png

 ここで話を二輪から三輪に戻す。15.4項からの続きです。 
 特殊自動車規格の小型オート三輪の市場が、1920年代後半から急拡大したことはすでに記した。同時期の大衆トラックの保有台数3万台に比べると遥かに小さいものの、三輪車はエンジンは別として、全て国内メーカー産だった。ちなみに国産大衆車の年間生産台数は400台程度に過ぎなかった(①、P126参考)。『車輛の大きさや部品メーカーへの波及効果などに差があるとはいえ、国産自動車工業の形成にとって大衆車とは異なる有力な市場が存在したことを意味する。』(①、P127)
 そして15.4-31項で紹介した、当時の主流であったJAPエンジンの輸入元、東西モータースの1929年の広告の中で、JAPエンジンを使っていた三輪車メーカーの13車(ブランド)を掲げられていたが、その中に、「ニューエラ」の名前も含まれていた。
ニューエラは、前回の記事で記した白揚社(13.1参照)の製造部長として、オートモ号の開発に携った蒔田鉄司が起こした秀工舎のブランド名で、その名前の由来は、ニューエラ号(New Era =「昭和」という新時代の意味)であった。
さすがに白揚社で鍛えた一流の自動車技術者の作ったオート三輪のため、その出来は他とは一線を画し『チェーンが外れにくく調整も容易な独特の構造など、完成度の高い設計で人気を博し』(wiki)たという。オートバイと違い重い荷物を積むため損傷が激しく、チェーンの交換等、そのメンテナンスが煩わしかったので、好評だったようだ。(②、P180)。
 ようやく蒔田鉄司とニューエラ号まで至ったので、次に戦前のオート三輪の三大メーカーである、ダイハツ、マツダ、日本内燃機(くろがね)を記して、オート三輪についてのパートを終えたい。
まずはオート三輪への進出順に、日本内燃機(くろがね)からはじめたいがその前に、「特殊自動車3馬力(350cc)時代」から、昭和5年(1930年)2月4日に「小型自動車500cc(5馬力)時代」へと時代は移るが、その経緯について、先に記しておきたい。

15.5-18小型自動車500cc(5馬力)時代への移行
過去に遡っての説明は、今まで何度か記してきたので省略する。代わりに(④-9、P106)に記載の文面を表にしたものを掲げておく。
m83.png
元々は適用除外制度から始まった、特殊自動車だが、無免許で乗れて、税金も安い(『例えば、1935年の東京府において自家用乗用車の年間税額は、18㏋以下が72.5円、10㏋以下が59円だったが、小型車は12.4円にすぎなかった』(①.P171))上に車庫不要、小回りも効き荷物も積める便利の乗り物で、急速に普及していく。しかしそうなるとやはり、より大きな荷物を積んだり、強力な登坂応力を求めたくなるのが人情だ。以下(④-16、P164)から引用する。
15.5-19次第に違法改造車が横行する(3馬力の限界)
『相当数の三輪運搬車が走り回るようになると、製造業者だけでなく、使用者側からの苦情や要望も湧き上がってきた。~まずは最大積載量60貫(225kg)最高速度16哩(25km/h)以内という当初の制限に違反する者が現れた。また荷物満載時に登り坂にさしかかると、二速のみの変速機ではかえってエンジンに負担をかけ、故障車を増加させた。』そのため無届で、『検査が終わった後に、荷物箱の拡大、5馬力エンジンの搭載、前進3段変速機の採用などの違法改造も行われた』(①、P123)。先のウェルビー号の、3段変速機採用を謳っている例も関連するが、当時の実情はかなりグレーゾーンが多かったのかもしれない。
ただしエンジン排気量に関しては、『当時は部品の材質や精度が良くないためにエンジンの摩耗が激しかったから、シリンダーをボーリングして再使用するのが当たり前だった。ボーリングをくり返すと排気量が500ccより大きくなってしまい、結果的に違反者が横行した』(㉗、P50)という事情もあったようだ。
15.5-20社会問題にまで発展する(大阪府が動く)
さらに『そのころ大阪では、規格違反の三速変速機と五馬力エンジンを搭載していながら、堂々と「内務省認可、無免許運転可」と偽って製造販売した自動三輪車が見つかり、これが社会問題にまで発展する。』(④-16、P165)そしてついに、当局が動く。
『とうとう大阪府保安課は、昭和4年(1929年)の年の暮れも押し迫った12月25日に、市中の自動三輪車2500台から3000台すべてを一堂に集結させて、大車両検査を実施した。』!大阪冬の陣?(④-16、P165)の引用を続ける。『にわかに信じがたい数字だが、複数の証言や記録が残っているので、相応のスペクタクルが繰り広げられたのは事実であろう。』
15.5-21ほとんどが違法車であると判明(届け出時8尺の全長が9~10尺に伸びていた!)
 そして検査した車両のほとんどが、届け出時8尺(2.4m)のはずが、9~10尺に伸びていたのだという!『憤った大阪府は違反車すべてに対して、その場でただちに使用禁止を言い渡した。すると2500台のうちのほとんどが、家へ持ち帰る事も出来なくなり、更なる大混乱が展開した。』!(④-16、P165)その後『大阪弁による見事な?交渉の結果、3カ月の猶予期間を設けて、期限までに使用者が車両を規定寸法内に縮めるか、あるいは通常の自動車運転免許を取得するか(現実にはほぼ不可能だが)を選ぶことで決着した。』(④-16、P166)
15.5-22業界団体を結成して陳情を行う
実は三輪車メーカーの側でも対抗策を練っていた。業界団体が作られて、この騒動の直前頃から、『「車輛規格改正運動」が沸き起こっていた』(④-16、P167)。そして東西(大阪と東京)の業者が団結して、規格改定を求める陳情が、内務省警保局に対して行われた(④-16、P167、①、P124、⑦、P168)。以下(④-16、P167)より引用する。
『望むべく主な改正点については、小野梧弌(JAPエンジンの輸入元、東西モーター株式会社社長)が、次のような趣旨書を用意していた。「馬力を五馬力(ないしは単気筒まで)と拡張する。車両寸法は九尺、幅四尺とする。変速機は三速までとする。
これを大阪東京の両組合の陳情書と合わせて、三者が団結し、内務省警保局へ提出した。』
さきの”大阪冬の陣”の、わずか10日後という早業だったという。
15.5-23行政側にもオート三輪を発展させようとする機運が生まれる
 そしてここで大阪府は、オート三輪の製造業者に対して指導を行うとともに、内務省にも規格拡大を要求するという立場を取った(①、P124)。さすが商都、大阪府の当時の役人たちは商売人の気持ちにも通じていた。そして『内務省側もそれに真摯に耳を傾け、利用者の利益を優先させようと努めた。』(④-14、P171)『単に監督し取り締まるだけでなく、せっかく育ってきた民間の工業製品であり輸送機関である三輪トラックを発展させようとする動きが、関係官庁や一部の政治家の中にあったからだ。自然発生的に生まれ育ってきた分野の自動車に温かい目を注ぐ勢力もあったわけだ。』(⑦、P168)
内務省だけではなく、当時自動車産業全体を所管していた商工省も、オート三輪に対しては『「助成金とか或いは無理な干渉などするのは害はあっても益がない」ので、「製造者や販売者の自体の努力に依って発達を図り、之を邪魔しないようにしたい」という立場だったのである。』(①、P215)web❼-1によれば、『内務省自動車取締令と商工省小型自動車改正規格により~』とあるので、この法規改正は内務省が主導であったものの、商工省とも連携していたことがわかる。中央官庁の側も粋な計らいで応じたようだ。まだ商工省内に、統制経済を好む国家社会主義者であった“革新官僚”たちが台頭する以前の時代だ。
内務省はただちに改正案の検討に入り、陳情書を受け取ったわずか6週間後の昭和5年(1930年)2月4日、ユーザーやメーカーの要望に応えて、車両既定の改訂を行う。(④-16、P167)
15.5-24小型車規定の改訂で500ccに(1930年)
 その内容だが、排気量500cc以下、全長/全幅も2.8m/1.2m以下まで拡大され、変速機、積載量、最高速度制限が撤廃された。その内容は、先に東西モータース小野梧弌がまとめた趣旨書に概ね沿った内容で、『宿願の規格拡大が認められた喜びは小さくなかったろう。』(④-16、P170)感無量だったでしょう。内務省警保局の小野寺技手は『~それまではエンジンが350ccであって、昭和5年まで認めていたのは、大体が小野梧弌さんのエンジンでした。』(㊲、P75)と後に語っており、当時エンジンに関しては、500ccのJAPエンジンを搭載した場合を基準に考えていたようだ。またこの改正以降は、エンジンの大きさを表す単位が警視庁馬力などの呼称から排気量(cc)に、また車両寸法も尺貫法からメートル法へと改められた。
15.5-25内務省側の事情(実地試験を廃止し「青写真時代」から「通牒時代」へ)
 以下、(④-16、P170)からの引用で記す。
『もっとも内務省の側でも、(業界団体による)陳情の前から、省令改正の動きがあったようだ。三馬力時代は、先述のように製造者の出願に対して内務省警保局の技手が一台ずつ車両の実地試験を行い、合格者に対しては製造者名、車名、仕様書と共に、青写真の構造図を添付して全国の庁府県へそれを許可する旨を通牒していた。そのためこの三馬力時代を「青写真時代」と呼ぶ例もある。』この青写真時代に至った経緯は、15.5-25項を参照ください。引用を続ける。
『ところが大正15年以降は、例によって申請者が急増したため、じつのところ内務省警保局は、手が回らなくなっていた。実は度重なる実地試験が面倒だったわけだ。』各関係者の間で複雑な思惑が絡み合う、法規の改訂作業以外にも、戦後の、交通安全環境研究所・自動車審査部のような認証試験の業務も同時に、ごく少人数で担ってきたことになる。
『そこで昭和5年2月以降の五馬力時代は、実地試験を廃止して書類審査のみを行い、結果を地方庁へ通牒し、この通牒を製造許可に代えることとした。そのためこの五馬力時代のことを「通牒時代」と俗称した。』(④-16、P170)
15.5-26国産小型四輪車産業の芽生え
しかも500cc化の規定改訂に際して、急速に市場が形成されつつあったオート三輪業界だけではなく、四輪車業界のダット自動車製造(過去の記事の8.3項とこの記事の15.3項を参照ください)からの働きかけもあったという。その経緯はこの記事の後篇で詳しく記す予定だが、500ccまで拡大して、車体寸法も大きくなれば、四輪乗用車としてぎりぎり成立し得るレベルに達したのだ。
しかしその一方で、さらに750ccまで拡大されてしまうと、『わが国の小型車市場に着々と地歩を固めつつあった~強敵オースティンまで恩恵を蒙ることになり、後発のダット自動車側は断然不利になる。これを恐れた同社経営陣(注;まだ日産の鮎川が関与する前の久保田系の実用自動車製造の時期)は、無試験免許の枠拡大を500ccに止めるよう、当局に強く働きかけたといわれる。』(⑧、P41)
その当時の市場の“本流”は四輪でなく三輪の方であったので、350ccから一気に750ccまでいく可能性は元々低かったと思われるが、しかし逆に、乗車定員1名という、乗用車としては成立しにくい厳しい制限が設けられてしまう。この辺りの経緯は、この記事の後篇で記す。
15.5-27関税の引き下げと為替の切り下げで国産エンジンが優位に
500cc時代は、国産エンジンが台頭し、やがて主流になっていく時代でもあった。個々のメーカーの項でも記すが、くろがねやダイハツ、マツダといった実力のあるメーカーの国産エンジンが登場後も、当初は関税が低く量産規模の違う輸入エンジンと価格差が大きかった。『従量税式(=財やサービスの数量(個数、重量、容積など)を基準として課税する方式)としていたこの時代はJAPなど輸入エンジンの関税額が一基あたり10円ほど(販売価格の一割以下)と低く、おかげで安価なイギリス製の3馬力~馬力エンジンが年間数千台もどっと輸入されてしまった。』(④-18、P170)
しかし国産品保護政策として、1932年末に関税の大幅引き上げがあり(従量税が3割5分に;④-14、P111)、為替の切り下げもあった。そのためオート三輪の用途に特化させた、国産エンジンの性能も向上し、外国製に代わって、外販も行っていたJACやダイハツ製などの国産エンジンの採用が広がっていく。こうして量産が進んだ結果、『ついには輸入機に対して3~4割も安価となる。』(④-14、P175)輸入エンジンにとって、厳しい時代に突入していった。

15.5-28国産小型車の発展を縁の下から支えた、内務省・小野寺技手(余談)
内務省警保局にて当時、この認証の実務を(たぶん)ほぼ一手に担当していたと思われるのが、この記事で度々登場している、内務省警保局技手、小野寺季(き)六であった。小野田がこの業務に係るようになった経緯を、「日本自動車工業史座談会記録集」(㊲)から引用する。
明治27年(1894年)生まれで大正8年(1919年)米沢高等工業(現山形大学工学部)を卒業後、警視庁技手から大正12年(2023年)に内務省に出向した小野寺だったが、元々は『圧縮ガス液化法の実施が、(大正)12年4月からということで、その要因として入った』(㊲、P47)のだという。“本業”は違っていたのだ。しかし、『その頃自動車に関する問合せが全国から警保局に盛んにくるのですが、自動車の技術者がいないために私が手掛けることに』なったのだという。
 そこで小野寺はまず、状況を把握するため、過去の資料を調べていくと、『大正10年に自動車に関する通牒が警保局長名で出ているのです。この通牒は自動車の照会が警保局にくる毎に、警視庁に問い合わせて回答したものをまとめ、警保局から全国に流したものです。全くお恥ずかしい次第であります。』(㊲、P47)と、座談会で語っている。「大正10年から」とあるので、15.4-19項で記した(警視第90号)や、同じく15.2-16、17項の(警山第104号)のことを指すと思われるが、何度も記しているが自動車取締令の適用除外から始まった、特殊自動車という制度自体が曖昧で、場当たり的な対応で処理してきた結果の“ツケ”がたまっていた様子が伺える。その後試行錯誤の末に、1926年頃になってようやく、特殊自動車の仕様を確定できるところまでこぎつけたのは、15.4-21、22項で記したとおりだ。
 ちなみに戦前の内務省は、よく言われるように、陸軍省、海軍省とともに、日本の官僚機構の頂点に君臨していた(そうだ)。以下も(④-6、P169)から引用する。
『当時の内務省とは簡単にいえば現在の総務省、警察庁、国土交通省、内閣府を一つに束ねた巨大な省庁にあたる。敗戦後GHQによって解体されるまで、明治6年から昭和22年まで74年間にわたり中央官庁の枢軸として君臨を続けてきた。なかでも内務省警保局は戦前期の自動車行政をほぼ一手に担い、例えば現行の自動車関連の基本三法である道路交通法、道路運送車両法、道路運送法は警視庁と国土交通省が所管となっているが、大正8年から昭和22年までの28年間は内務省警保局が自動車取締令をもって一元的に司っていた。』
戦前も1925年に商工省が設立されると、自動車分野の産業振興策は、商工省と、国防上の観点から?何かと口を挟む陸軍にその座を譲ったとしても、交通行政としての観点から、路上を走るクルマの許認可権は、戦後その権益を引き継いだ戦後の運輸省(国土交通省)と同様、内務省がしっかりと握っていたようだ。たとえば陸軍からハーレー級の大型サイドカーか単車?だったかを、特殊自動車認定するよう横やりが入った時もそれを退けたという話が、どこかに書いてあった気がする(不確かです)。
ただこの時代の内務省内における自動車行政のウェートは、おそらくけっして高くはなく、それ故に、たぶんキャリア組ではなかった小野寺が主担当で、その任に当たったように思える。ただ(㊲、P48)等の記述から、小野寺の上司たちは概して、小型自動車の発展に理解があったようにも感じられる。
だが、(④-16、P164)で記されていたように、当時の特殊自動車の認可の可否は、内務省警保局と車輛製造業者や販売業者だけでなく『地方長官や警視庁も含めた三つ巴のやりとり』の末に決定されていたという。そうした複雑な大人の駆け引きの中で、若輩だった小野寺がその間に立ち、苦労しただろうことは想像に難くない。
(下の写真は世界周航時、霞ケ浦に立ち寄った、ドイツの巨大飛行船「グラーフ・ツェッペリン」で画像はwikiより。日本で浮揚ガスと燃料ガスの補充を行ったのだが、『日本石油の重役奥田雲蔵と田口清行技師、カーボン・ケミカルズから来日したスコット技師が技術援助に当たり、所轄の内務省の担当は小野寺季六技師であった。当時高圧ガスは内務省が管轄していたのである。』(“蒼穹と碧洋を往く”というブログより文章を引用。
https://www.shipboard.info/blog2/archives/2007/08/
下の写真の人影の中に、小野寺の姿もあるいは映っていたのだろうか。)
m84.png
15.5-29陸軍のオート三輪なんかやめちまえ!と、“全滅”を救った小野寺の“あんぱん論”
 しかしさらに時局が進み、戦時体制に移行すると、関西商人たちとの“大人の駆け引き”から、今度は当時高圧的であった陸軍が、ようやく育ってきたオート三輪の前に立ちはだかる。
陸軍からの強引な横やりを、オート三輪を陰から支え続けてきた小野寺が必死に防戦したそのエピソードを、(web⓮「戦前の日産自動車(株)の車両開発」鍋谷正利 JSAEのインタビュー、P355)の記事が伝えている。詳しくはぜひ原文をお読みください。鍋谷氏(昭和19年に日産取締役。詳しい経歴はweb⓮を参照)によると、『陸軍の軍人さんが、日本の三輪車は少し多過ぎるんじゃないかって。そういうものはもうやめちゃったらどうかという会議があった』(web⓮、P355)という。
その会議に呼ばれたのが、トヨタ(豊田喜一郎、英二各氏)や日産(浅原源七、鍋谷正利各氏)、軍用トラック系の荒巻氏らで、同インタビューの記載からは当事者でオート三輪業界の主役だったダイハツやマツダの名前がないのだが・・・。同記事より続ける。
『~あんなものは鉄鋼の無駄だって言いだしたの。ところが内務省で、車の登録の審査をするところがありますね。小野寺さんという人が、ちょうどその席にいたんです。それが何というかと思ったら、あれは日本独特の品物である。日本人はあんこが好きで、餅に入れればまんじゅうになる。それから外に使えばおはぎになる。それと同じように、あれは日本人の考えたものだ。外国からパンがくると、あんぱんというものを作る。だから、あれは、あんぱんと同じように、日本人が考えたものだ。それを一遍にやめちゃえと言うのは少し乱暴じゃあないかと。その時分にその話が方々に流れて、いわゆる小野寺さんの「あんぱん論」というのは有名だったんです。それでダイハツ以下、あの時分には6社あった、その半分はやめさせて3社だけ残せということが、その席で決まったわけ。それがいわゆる「あんぱん論」』(web⓮、P355)この文中の「小野寺さん」は間違いなく、内務省警保局の小野寺季六その人であろう。
商工省はこの頃既に、陸軍寄りに宗旨替えしていた。当時の世相の中では、小野寺以外たぶん誰も、陸軍の意見に敢えて反論しなかっただろう。そうした重苦しい雰囲気が感じられる中で、内務官僚であったが高等官でもない(㊲によれば昭和3年に技師)立場の小野寺の発言は、相当勇気がいるものだったはずだ。
そしてあんパンの中身の“あんこ”のように、やんわりと説き伏せて、三輪車メーカーの“全滅”は防ぎ、ダイハツ、マツダ、陸王の3社体制を何とか維持できることに決まったようだ(15.7-31~33項参照)。オート三輪のめざましい発展と共に歩み続けて、戦時下においてもその実用性や経済性を評価していた小野寺の、機転と勇気が光る一幕だった。生産設備を曲がりなりにも維持できたことで、戦後すぐに生産を立ち上げることができたダイハツやマツダからすれば、小野寺は恩人だったはずだ。
(しかし戦後の1958年7月に、自工会主催で開催された座談会の(㊲、P49)の中で小野寺は、『~このように縁の下の苦労ばかりしていたので、宮田さん(注;瓦斯電出身でその後商工省の技官となった宮田応義)や陸軍の伊藤さん(注;陸軍の伊藤久雄。陸軍の立場から、自動車製造事業法成立に大きな役割を果たした)のように保護自動車の看板を掲げた仕事をうらやましく思いました。』と、当時を振り返っている。
小野寺は昭和17年(1942年)に内務省を退官し、その後は『高圧ガス工業の発展に尽くし、その功績により昭和43年(1968年)正五位勲六等に叙せられる』(㊲、P142)という。叙勲は自動車分野に対しての功績ではなかったのだ。だがオート三輪の歴史を語るうえで、目立つ存在ではなかったかもしれぬが、決して欠かすことができない人物だったと思う。小野寺の気骨を表すエピソードをもう一つ、自工会が戦後主催した座談会(㊲,P48)から紹介する。
『~その頃警衛用のサイドカーであったハーレーダビットソンの1934年式BF1200cc供奉用側車付自動自転車は、陸軍の警衛用のサイドカーでもあったのです。ところがご大典のときに、陸軍が担当する警衛区間と、名犬相の警備区間とが違うわけです。そこで警保局はサイドカーを買わなければならないことになって、私の一存で蒔田さんのニューエラーのサイドカーを買いました。これが供奉用に国産サイドカーを備えたはじめであります。もし間違いがあったら、私は腹を切る覚悟でした。』小野寺が“侍”であったことは間違いなかったと思う。それにしても戦前、“豆自動車”から発展していったオート三輪の認証業務に追われる中で、ドイツから来たまるでスケールの違う、巨大な飛行船“ツェッペリン号”を仰ぎ見た時、小野寺はどのような気持ちを抱いていたのだろうか。下の写真も“蒼穹と碧洋を往く”というブログよりコピーさせていただいた。)
m85.jpg
https://www.shipboard.info/blog2/HB.jpg
15.5-30後年の「電動アシスト自転車」の市場形成を“アシスト”した時と似ている?(私見)
さらに余談を。この戦前の、オート三輪及び小型四輪車に対して内務省が行った、民間の活力の中から芽生え始めた産業を、保護政策でなく規制緩和(減免措置)によって、側面から支援していくという構図は、まったくの個人的な意見だが、戦後のある乗り物に対しての対応とイメージが重なる。
私見だが、ヤマハPAS(Power Assist System=パスとよばれていた)に端を発する「電動アシスト付自転車」の市場形成を、道路交通法の規定を活用して警察が手助けした構図と、よく似ていたと思う。もちろん戦前のオート三輪の方が先だった訳だが、かつて無免許の「特殊自動車」として扱った時のように、あくまで「自転車」だとして、国土交通省の管轄ではなく、警察庁(=内務省系)の管轄内として処理したのだ。以下ヤマハのHPからの引用だが、そのことを証言していると思う。
https://www.yamaha-motor.co.jp/pas/campaign/25th/history.html
『それまで電池とモーターを内蔵した、第一種原動機付自転車(免許、ヘルメットが必要な乗り物)とされていたものを、「普通の自転車」として行政等、関係団体に認めていただき製品化、新たな分野を開拓したのです。』「電動」部分は人力に対しての補助力で、道路交通法上は軽車両(自転車)に該当すると警察が解釈してくれた結果、大きな市場が形成され、世界的にも影響を及ぼした。さらにwikiによればブリヂストンサイクルやミヤタサイクルなどの自転車メーカーも、PASの企画段階から車体の開発・製造などに深く関与していたという。自動車産業よりも、自転車産業との関連が深かったことも、オート三輪に近い図式だ。下の写真もヤマハのHPより、「1993年の 初代YAMAHA PAS」
m86.png
https://www.yamaha-motor.co.jp/pas/campaign/25th/img/history_photo.jpg

オート三輪の3大メーカー、ダイハツ、マツダ、日本内燃機(くろがね)
話をオート三輪に戻す。この500cc(五馬力)時代は3年9カ月続くことになるのだが、『その申請方法が簡略化されたことにより製造業者はさらに増え、国産三輪自動車は進化の加速度を上げながら、発展を続けていく』(④-16、P171)。三馬力時代のニューエラ(後のくろがね)に続いて、ダイハツ(発動機製造)と東洋工業という高い工業技術力を持つ、実力派の企業が参入し、『これにより、三輪トラックは新しい段階を迎えた。』(⑦、P168)
先に記したように、ここでは業界への参入順に、蒔田鉄司率いる秀工舎(後の日本内燃機)のニューエラ(後のくろがね)から話をはじめたい。

15.6国産オート三輪の草分け、日本内燃機(くろがね号)
戦前の日本内燃機の歴史は、創業者である蒔田鉄司の足跡と重なる。『二輪、三輪、四輪とすべてをこなす戦前期のトップデザイナーの一人』(④-20、P167)であり、戦前期国産自動車界の開拓者としての功績も大きかった(④-20、P166)蒔田の歩んだ道をたどりながら、戦前期のくろがね号の歴史を記していく。なお秀工舎、日本内燃機、ニューエラ、くろがねと時代と共に変遷していくが、“くろがね”と代表させて記述した場合が多くなるのを了解いただきたい。まず白揚社入社以前の蒔田鉄司について、wikiの「日本内燃機」に比較的詳しく書かれているので引用する。
『1913年(大正2年)に東京高等工業学校(現東工大)機械科を卒業した蒔田は学生時代から自動車開発の研究に打ち込み、1917年(大正6年)には機械工場「秀工舎」を開き、自転車やオートバイ(当時は自動自転車と呼ばれた)の部品製作を行い、最初の自動自転車の試作も行った。』この時試作した自動自転車(オートバイ)の写真は残念ながらまだ発見されていない(④-21、P168)。その秀工舎で2年間、自転車と自動自転車の部品製作を行った後、白揚社に招かれるのだが、その経緯について、月間オールド・タイマーの優れた連載記事(「轍をたどる」(岩立喜久雄氏著)(④-1)」が詳細に記されており、引用させていただく。
15.6-1白揚社(オートモ号、アレス号)時代の蒔田
『豊川(順弥。白揚社の創業者)には5歳年下の弟、豊川二郎(1891~1921)がおり、二郎も大正6年から7年にかけて渡米したが、その目的は自動車研究にあった。自動車製造への決意を固め帰国後、直ちに白揚社へ招き入れたのが東京高等工業時代の学友、蒔田であった。』(④-1,P159)二郎は30歳の若さで夭折するのだが、ご承知のようにその意思は兄の純弥に受け継がれて、アレス号、オートモ号として結実していく。そして蒔田は『製造部長として、設計から製造現場まで陣頭に立っていた。』(④-1、P159)白揚社時代の蒔田について、さらに(④-1)からの引用を続ける。
『~現在残るオートモ号設計図の多くに蒔田の記名や押捺があることから、その設計製図でも中心的な役割を果たしていたことがわかる。~蒔田はこの最終型オートモ号の開発まで8年間白揚社に在籍し、孤高の先駆者豊川純弥の下で誠実に活躍した技術者だった。白揚社は後の国産自動車業界で活躍する多くの人材を輩出したいわば「エリート養成所」に例えることができるが、その筆頭者だったといえる。』(④-1、P160)
15.6-2海外も注目した、オートモ号の性能(余談)
 豊川純弥の起こした白揚社のオートモ号及びアレス号については、前回の記事の13.1項で既に記したが、その高性能ぶりについて、前回時点では資料が不足していたので充分伝えられなかった。今回の記事用に新たに入手した資料(④-13、P168)に端的に記されていたので、少々脱線するが、ダイジェストで紹介しておきたい。
『東京の白揚社製作所が独力で製造販売に取り組んだ純国産小型乗用車オートモ号(943cc)の完成度は、はたしてどうだったのだろうか。オートモ号の実力を明快に示した事例が、大正14年12月6日に日本自動車競走倶楽部が主催した、東京洲崎埋立地での競走会であった。』スタックするクルマが続出する大混乱のレース展開の中、決勝レースまで駒を進められたのは、ピアース・アロー、オーバーランド、オークランド、チャルマー、アート・ダイムラー、アート・カーチス、オートモ・レーサーの、以上7台だった。このうち、アート・ダイムラー、アート・カーチスとは、アート商会の榊原郁三が中古の航空機用エンジン(メルセデス・ツェッペリンモーター200㏋と、カーチス・ジェニー160㏋)を積んで製作した、いわば半国産の怪物レーサーであった。その結果はどうだったのか。
『泥土にまみれた壮絶な15周の決勝レースで勝利したのは、アート・カーチス号であり、2着はなんとオートモ号であった。』このアート・カーチスが、現在本田コレクションホールに展示されている有名な、通称“カーチス号”だ。(④-13、P168)から引用を続ける。
そしてこの『狂気の沙汰のレースを注意深く観戦していた在東京の英字新聞「ザ・ジャパン・アドバイザー」紙の外人記者は、オモチャのように小さなオートモ号の耐久性の高さに感銘を受け、さらにこの快速の軽量車が日本製と知って大いに興味を示した。「どの部品が日本製か」と尋ね、全て日本製だと知らされると、目を丸くして驚き、この壮挙を他のどの日本語新聞よりも大きく、写真入りで報じた。~当時の国内の新聞は、まだオートモ号の可能性を理解できるレベルに到達していなかったのである。』(④-13、P168) 
このレースへの出場は、社長の豊川順弥がレース開催の1週間前に思い立ち、急遽実行に移されたものだが、『昼夜兼行で作図から製作までを遂行し、レース前日までにオートモ・レーサーを仕上げたのは、白揚社製作所長時代の蒔田鉄司であった。蒔田の神速な仕事ぶりは、白揚社時代より築かれていたのである。』英字新聞の記者は、あるいは本国へ、「日本車の将来、恐るべし」と、警戒する報告を上げたかもしれない。(下の写真は現在Hondaコレクションホールに動態保存されている、アート・カーチス(通称・カーチス号)で、ホンダのホームページよりコピーした。車体は当時、飛行機と同じ布張りだったが、エンジンとシャシーは今もほぼそのままだという。以下の文もやはりホンダのホームページより引用。
https://www.honda.co.jp/50years-history/limitlessdreams/joyofmanufacturing/index.html
『榊原氏をリーダーに、弟の真一氏、本田たち数人の弟子が加わって、レーシングカーの製作が始まったのは1923年である。1台目が、中古のダイムラーエンジンを載せたアート・ダイムラー。2台目が、アート・カーチス。今も、Hondaコレクションホールに動態保存されている通称・カーチス号である。アメリカのカーチス"ジェニー"A1複葉機の中古航空エンジンをアメリカ車のミッチエルのシャーシに載せた、このスペシャルマシンづくりを、最も熱心に手伝ったのは本田だった。アイデアを出し、部品を器用につくり、榊原氏を感心させる。1924年11月23日の第5回日本自動車競争大会には、操縦士・榊原真一氏、同乗機関士・本田宗一郎で、カーチス号が初出場し、見事に優勝している。
17歳の少年の胸に燃えたモータースポーツへの情熱は、この後、生涯、消えなかった。』

m87.png
https://www.honda.co.jp/sou50/Hworld/Hall/Power/images/photo/407.jpeg
15.6-3秀工舎に戻り、ニューエラ三輪車で再出発
以下も(④-1、P160と④-20、P168)をダイジェストして記すが、オートモ号最終型完成直前に白揚社を辞した(1926年7月)蒔田は、自らが興し、弟が引継ぎ自転車製造を継続していた秀工舎に戻る。『大正15年からの第二期秀工舎における蒔田の再出発の目的は、自らの小型三輪車の開発であった。』(④-21、P168)早速オート三輪の設計・試作を開始し、翌年の1927年2月に試作車を完成させる。そしてニューエラ((New Era =「昭和」という新時代の意味)と命名されて、同年4月には早くも内務省の許可を得ていた。『蒔田ならではの迅速さであった。一連の急展開から推しても、軽便三輪運搬車制作のアイデアは白揚社時代よりすでに温めていたのかもしれない。その手法は、白揚社での理想主義とは好対照の、まったく現実的なものだった。』(④-1、P160)
しかし手堅い設計とはいえ、白揚社で鍛えた技術者の作ったオート三輪は、他とは一線を画し『チェーンが外れにくく調整も容易な独特の構造など、完成度の高い設計で人気を博し』(wiki)たという。既述の通りオート三輪は当時、チェーン駆動だったが、オートバイと違い重い荷物を積むため損傷が激しく、チェーンの交換等、そのメンテナンスが煩わしかったという(②、P180)。『秀工舎式としたニューエラ号の方式は、スパナひとつでチェインが簡単に張れて、車体がバウンドした際にも外れ難い構造だった。』(④-1、P160)
輸入品のJAPエンジン搭載車からスタートした、ニューエラ号は市場で好評を得たが、『従業員7-8名の零細工場では、経営者の蒔田自身が作業に加わっても、生産規模の拡大は到底期待できなかった』(wiki)。そこで量産に向けて事業拡大を模索し始めるのだが、世間の方が、蒔田のような傑出した技術者を、放ってはおかなかった(④-21、P169)。
15.6-4 日本自動車(大倉財閥)の傘下に
以下もwikiで概要を引用する『(蒔田は)大倉財閥系の日本自動車の社長、石沢愛三の知遇を得た。(14.7-1項で記したように)日本自動車は当時、オートバイ部門の主力であったハーレーダビッドソン(オート三輪としても販売されていた)の販売権を他社に奪われ苦境に陥っていたため、1928年(昭和3年)1月に蒔田を常務取締役として迎え入れ、同社が所有する大森の工場を蒔田に提供し、3輪トラックの製造を委ねた。』(④-21、P169)によると、蒔田を石沢に引き合わせたのは、陸軍自動車学校研究部高級主事の長谷川正道であったという。『当時国内最高レベルの自動車研究所でもあった同校の長谷川閣下と、自動車輸入業界最古の雄、日本自動車が動き出したわけだ。』(④-21、P169)大倉財閥系の日本自動車といえば、=ハドソンというイメージがあるが、陸軍のハドソン、海軍のビュイックと当時謂われていたように(前回の記事を参照ください)、元々日本自動車は陸軍に強い人脈があったと思われるし、ハーレーの国内販売権を三共に奪われたところで、四輪の輸入車がメインだったとはいえ、この時は二輪/三輪業界に対しても、思うところはあっただろう。石沢に連れられ、大倉喜七郎に面会した蒔田は『大倉男爵から自動車に対する抱負を聞かされた蒔田は、大いに心を動かされる。そして小さな秀工舎を携え、日本自動車㈱への入社を決心した。』常務取締役として迎えられた蒔田の入社は、1928年1月であった。日本自動車側は『飛行機用の塗装工場として設けていた大森工場をそっくり蒔田に提供し、秀工舎の職工毎引き受けた』④-21、P169)こうして蒔田と大倉財閥の思惑が一致し、日本自動車製のニューエラ号が誕生する。
『ニューエラ号は「JAC(日本自動車の英語名のイニシャル)ニューエラ」と改名され、日本自動車の販売網を通じて販売されることになった。』(wiki)そして『新生の日本自動車は、それまでのオート三輪車メーカーに比較すると、資本力でも技術力でも他を圧するだけの企業として出発したのである。』(②、P105)
日本自動車の持っていた設備と強力な販売網、そして資本力を得た時田は、次のステップとしていよいよ、エンジンの内製化に取り組む。
下の写真はweb「三輪自動車の歴史」(web❸)よりコピーさせていただいた。エンジンはまだ、イギリスのJAPエンジンの時代だが、1928年とあるので、既に日本自動車の時代だ。https://www.rakuten.ne.jp/gold/nakabc/auto-3rin/auto3rin-1.htm
m88.png
https://www.rakuten.ne.jp/gold/nakabc/auto-3rin/1928-m-3rin.jpg
15.6-5自社製JACエンジンの開発
新体制に移り、蒔田が最初に完成させたのが250cc2ストローク単気筒エンジンのオートバイで、『気筒を前傾させた先進設計であり、小柄な日本人にも載りやすい二輪レイアウトが初めて提示されていた。輸入車の模倣に走らず、独自性を打ち出している点も見事だった。』(④-20、P168+④-21、P171)その設計はツュンダップ(EM250型;3ストローク単気筒249cc)の影響もみられたとの記述もある。(④-1、P160、163)1928年の春に、3台完成させたという。
しかしJACエンジンは『当初は二輪車に装着したが、すぐに三輪車中心に方向を変更した』(①、P138)。日本自動車側としても、ハーレーの販売権を失い口惜しい思いをしていただろうし、当初はそれに対抗する国産オートバイ開発の機運もあったようだが、蒔田は元々、特殊自動車三輪車市場を狙っていたし、早めに方針転換したのが結果的には正解だった。
ただし追記しておくと、日本内燃機がその後完全に二輪をあきらめたわけではなかったようで、後述するように陸軍との関係が深かったこともあり、その後も『ハーレー並みの側車用大型車を製作した』(⑥、P60)。ここでは割愛するが、例によって?(④-20)(④-21)が詳しいので、詳しくはぜひそちらを参照して下さい。(下の写真は、“webオートバイ”(web24-1)よりコピーさせて頂いた、1928年製?の、オートバイ版の“ニューエラ号”の写真?『JACエンジンと名付けられた350cc単気筒はオートバイや三輪車にも搭載されている。』と記されているが、④や⑥の記述からすると、1928年に完成していたのは2ストローク250cc版の軽量車だったはずで、ボリューム感が全く違うが。(ワカリマセン。))
m89.png
https://d1uzk9o9cg136f.cloudfront.net/f/16782548/rc/2019/09/24/20ca4d709a70f0c84c9334f2f4f354d13214691f.jpg
15.6-6三輪用JACエンジンの完成
話が脱線してきたので、再びオート三輪に戻し、(④-21)を参考に記す。大森工場(当初の工場名は「日本自動車大森オートバイ工場」)が本格的に稼働し始めたのは1928年の秋からで、JAPエンジンに対抗すべく、350cc単気筒4ストロークエンジンの開発をスタートさせる。JAPやサンビーム製エンジンを参考にしつつ(wiki)、1929年春に最初のロットの試作エンジンが組みあがり、三輪と二輪に搭載されて、徹底的な走行テストを行い、不具合の洗い出しを行った。以下は(⑦、P169)より引用『蒔田は三輪用エンジンを開発する。蒔田は、使用条件を考慮して主力となっている外国製エンジンよりも使い勝手の良いエンジンをつくり、JACエンジンと名付けられニューエラー号に搭載した。輸入されるエンジンは、信頼性で優れていたが、もともと三輪車用につくられたものでない。オートモ号のエンジン開発経験を持つ蒔田にとっては、空冷単気筒エンジンの設計はむずかしいものではなく、輸入されるものより良い出来のものになった。』オートモ号時代に、空冷エンジンの経験も十分積んでいた。こうして1929年9月、JACエンジン搭載のオート三輪とオートバイ版が、同時に発売された。
15.6-7 自社の500ccエンジン搭載のニューエラ号
 オート三輪用としては、1929年に4ストローク・空冷単気筒エンジンの開発に成功、350cc型からスタートしたJACエンジンは、15.5-18項で記した1930年2月の500ccへの排気量枠の拡大に対応して、1930年6月に500cc型をデビューさせた。エンジンのボアアップで対応し、ごく一部の部品を作り替えるだけで迅速に市場に投入できた。(②、P105参考)(下はJACエンジン搭載の1930年製ニューエラ。日本自動車博物館所蔵で、ニューエラの唯一の現存車。なお国産オート三輪の量産型としては、アイザワ号と、宍戸兄弟のSSDの方が先行していた。アイザワ号は台数が少数だったようなので歴史的にどう解釈するか、微妙な立場だが。写真も日本自動車博物館よりコピーさせていただいた。)
m90.png
http://jmm.sakura.ne.jp/wp/wp-content/uploads/2017/04/05bf774ce281d2f7ba8af16e0a3fc2a7-450x292.jpg
15.6-8外国製に負けない国産エンジンの登場
そしてこの500cc型エンジンの性能は、オート三輪用として優秀で、鉄道省が実施した試験で、燃費、登坂力などの面で輸入品のJAPエンジンに勝る成績を残したという(①、P132、web❷、P40)。『ようやく国産エンジンが、この分野で外国のものに負けないものになったというお墨付きがでたのである。』(②、P106)元々速度を追求したオートバイ用であったJAPエンジンが、荷物輸送用の日本のオート三輪用にチューニングを変えて出荷していたとは思えない。一方JACエンジンは、オート三輪用に特化させた、低速トルクを重視した特性を持たせて、JAPに対して優位に立てたのだろうか。
15.6-9白揚社の技術の中枢を継承した(余談)
この当時のJACエンジンが、優れた性能を誇っていたという別の視点からの証左として、鋳物製造技術の高さも掲げておく。この一連の記事で再三再四記してきたことだが、戦前の国産車製造の技術的なネックは、エンジンの鋳物製造技術だった。
しかしそうした中で、『昭和5年(1930年)頃より、蒔田は軍用保護自動車用の鋳物部品の製造を請け負うようになっていた。特に難易度の高いシリンダーやヘッドなどである。まだ電気炉がなく、坩堝を使っていたが、鋳物の精巧さと強度では国内最高レベルに到達し、ピカ一との定評を得ていた。陸軍もそれは認知していたようである。』(④-21、P172)エンジンの大きさがまったく違うので比較が難しいが、この当時のくろがね(この時点では日本自動車の一部門であったが、これ以降(めんどうなので!)“くろがね”と記す)が、陸軍が支援していた軍用保護自動車三社と同レベル以上のエンジン製造技術を保持していたことは確かなようだ。そしてそのことを充分認知していた陸軍と、陸海軍が最大の取引先になりつつあった日本自動車側の思惑もあり、くろがねは軍用車製造に引きずり込まれていく結果にもなるのだが。
ただくろがねの高い鋳物製造技術は、オートモ号の白揚社由来の技術を、蒔田が受け継いだからのものだった。以下、(④-20、P168)より引用する。
(豊川順弥の白揚社は)『設計者ばかりでなく、一流の職工も育成した。最大の難関だった、シリンダーブロックの鋳造では、川口の鋳物師でも吹くことができず、結局、巣鴨の白揚社内に鋳物工場を設け、鋳物師の育成から素材の研究まで自前で行った。この鋳造においても、現場で陣頭指揮にあたったのは蒔田であった。』(④-20、P168)『蒔田は白揚社の技師長、工場長も務めた。つまりオートモ号の技術責任者でもあり、設計者でもあった』(④-20、P168)。白揚社が無念の閉鎖を迎えると、『白揚社時代の職工の多くも蒔田に従っていた。白揚社が膨大な犠牲を払って築いた技術の中枢は、蒔田によって継承されたのである。』(④-20、P168)
 なんだか(④-20)、(④-21)からの引用ばかりで恐縮だが、『大正期に量産に挑んだ国産車の中で、オートモ号が最高水準に到達したことは間違いない』(④-20、P168)ので、その技術の多くを継承し、さらに発展させつつあった蒔田を擁したくろがねが、この時点に於いては、軍用保護自動車3社との比較においても、それらと同等の、国内最高レベルの技術水準だったことは間違いない。
15.6-10他メーカーへのエンジン供給も行う
 以下はwikiより『輸入エンジンは350cc級が主流で500cc級の製品がほとんどなかったことや、エンジン自体の性能が良好であったことから、販路拡大に繋がった。JACエンジンは輸入品に実用上対抗できる水準の汎用エンジンとして自社のオートバイやオート三輪に搭載されたほか、他メーカーへのエンジン供給も行われた。』国産エンジンが優位に立った大きな理由は、エンジン性能全般の向上とともに、15.5-27項で記したように、関税の引き上げと為替の円安が大きかった。さらに500cc時代はダイハツとマツダも自社製エンジンで進出を果たし、世間の国産エンジンへの不安が払しょくされていった。 
またJACエンジンの外販については、関税引き上げ後の750cc時代に本格化し、TMC(戸田商会)、クラブ、ナニワ、イワサキ(大手だった大阪の岩崎商会、後に旭内燃機)、サクセス、日曹、岡本号などの各車に採用された(④-14、P175、④-20、P166)。
だが500cc時代のくろがねは、『後輪の差動装置やフレームの強化など、改良を続け三輪トラックとしての実力を徐々に高めて』(④-21、P172)いったが、エンジン以外の技術の進化の面では、新たに登場した強力なライバルのダイハツやマツダに対して、一歩遅れをとったことも否めなかった。技術面では蒔田一人に対しての依存度が高く、生産設備で見劣りした上に、期待が高かった陸軍からの様々なリクエストにも応じなければならなかった。製造業の企業としての総合力では元々限界があり、ダイハツとマツダに一歩も二歩も劣っていたため、次第に業界3位の座が定着していった。
15.6-11日本内燃機としての独立
wikiのままで恐縮だが、『日本自動車大森工場の車両製造部門は1932年に日本自動車から独立、~日本内燃機が設立された。工場長であった蒔田鉄司は取締役として日本内燃機に移籍、技術トップとして開発を引き続き指揮した。』なお社長には、日本自動車の取締役で大倉喜七郎の姪の夫である又木周夫が就任した(wiki)。同時に増産に向けて、体制も改められたという。(②、P107)
さらに時代が進み、1933年になると、免許不要とした特殊自動車の排気量の枠が500ccから750ccに改訂されて、「小型自動車750cc時代」を迎える。そこでいったんくろがねの話題から外れて、小型車の法規の変遷について、ここで触れておく。

15.6-12排気量枠が拡大されて「小型自動車750cc」時代に
1933年、再度小型自動車規格が改訂された。車体寸法は変更なかった(長さ 2.80m、幅 1.20m、高さ 1.80m)が、排気量は750cc以下(4ストローク。2ストロークの場合は500cc)、出力4.5KW以下まで拡大されて、さらに乗車人員の制限も撤廃された。この改訂は、後述する四輪小型車にもっとも恩恵が大きかったが、もちろんオート三輪にもメリットは大きかった。パワーの増大で積載量が増えたこと以外にも、商用車は二人乗り、四輪乗用車は四人乗りが可能になった。『この改定によって、オート三輪は運転席の脇に小さなシートがつけられて、助手の同乗が可能になった。』(②、P185)輸送時の荷物の積み下ろしが楽になったという。以下、法規の決定の過程を、もう少し詳しく見ていく。まず「自動車」の定義そのものが変った。(④-14、P171)より引用する。
15.6-13「自動車かそれ以外」から「普通・小型・特殊自動車」の三分類に
『内務省は昭和5年2月の規格改正後に、各方面の識者を委員として選び、次の改正案の研究委員会を迅速に起こしていた。もともと当時の自動車取締令は、大正8年に公布した初の全国規模の取締令であり、既に時代遅れとなり、不都合が出ていたからだ。』ここで再び、業者団体等による陳情が繰り広げられることになるのだが、『法案全体の解釈に於いては、まず自動車の定義をこの時点で変更した意義が大きかった。』(④-22、P166)同書より引用を続ける。
『それまでの取締令が、自動車(普通自動車)か、あるいは自動車以外(特殊自動車など)の2種類のみとして扱っていた定義を、「普通自動車、小型自動車、特殊自動車」の3種類に分類することとしたわけだ。』そして、少々ややこしいのだが、従来“公式な自動車とは認められない”ので「特殊自動車」とされてきた、オート三輪や小型四輪車(今回の改正で750cc以下となった)は「小型自動車」と呼ばれるようになり、従来の延長線上の特典を維持したが、『特殊自動車の一つとみなされていた自動自転車(オートバイ)などは、それまで車両検査も運転免許さえも不要だったのだが、新改正令では車検も免許も受けなければ運転できなくなった。』(④-22、P166)
15.6-14運転免許も「普通免許、特殊免許、小型免許」の三分類に
そしてこのタイミングで運転免許制度も、従来「運転手免許」だったものが、「運転免許」に代わるなど、大きく変わる。以下webの「免許の歴史を徹底解説」(web46)と(④-22、P166)を参考に記すと、改正後は「普通免許」、「特殊免許」、「小型免許」の3種類に区分されるようになった。ここでもややこしいが、ここでいう「特殊免許」とは、牽引車やロードローラー、さらには電気自動車や蒸気自動車、さらには自転自動車などの、“特殊車両”に対してのもので(④-22、P166に、当時の分類表がある)、750cc以下のオート三輪と小型四輪車は「小型免許」に分類された、小型免許に関しては、従来のいわゆる無免許運転可の特典を考慮して、無試験で申請許可制とし、利便性を維持した(無免許運転制度⇒無試験運転制度へ)。しかし1936年からは教習所の10時間技能証明書を提出して学科の口頭試問をパスしないと免許が交付されないように強化されていったという。次第に「無試験」ではなくなってきたようだ。なお免許を取得できる年齢は、普通免許と特殊免許は18歳からであったが、小型免許は16歳からと規定されて、ここでも利便性を保てた。
15.6-15オースティン・セブンをめぐっての攻防
 さきの15.5-26項で、ダット自動車製造が、オースティン・セブンの無試験免許適応を阻止するため、500ccにこだわったことを記したが、逆の立場からみた場合、セブンは750ccだったからこの制度の恩恵を享受できなかった。
そこで『メイン・ディーラー日本自動車は枠拡大の働きかけを行い1932年にはこれが成功して枠は750ccに拡大された』(web❹-2)と記されている。ここで業界団体からの陳情の流れを、(④-14、P171)から確認していく。
まず初めの動きとして、蒔田ら『芽生え始めたばかりの国産エンジンの製造業者達が会合を開き、次の2点の要望を内務省に陳情した。』その2点とは、「排気量750ccへの拡大」と、「乗用人員制限の撤廃」だ。
そして内務省は、昭和7年(1932年)10月25日、改正案を事前に公表し、広く社会から意見を求めた!『内務省が公布の半年以上前に改正案の全文を公表するのも異例であった。当時の内務省による自動車行政は思いのほか民主的だったのである。』(④-14、P172)確かに、今のパブリックコメントみたいだが、形式的なものではなく、もっとオープンで民主主義的な姿勢だ。
この内務省による事前公開もあり、東京の業者による「東京自動三輪協会」(会長山成豊(KRS)、理事に小宮山晃司(MSA)、桜井盛親(ハーレー)、小野梧弌(東西モーター)、 前島益雄(ウェルビー)、そして蒔田ら)という業界団体が結成され、内務省の改正案に対して、「自動車税の減税」と「全長2.8mを3.0mに拡大」の2点を陳情している。ということは、内務省が事前公開した改正案では、750cc化と乗用人員制限の撤廃は含まれていたが、全長は2.8mのままで、変更なかったのだろう。
特に車体寸法に関しては、オート三輪メーカーとオースティン・セブンを販売する大倉財閥系の日本自動車は、拡大を強く要望していた。大倉財閥は、オート三輪メーカーの日本内燃機も擁していたこともあり、とりわけ熱心だったようだ。一方ダットサン側は現状維持を主張して激しく対立し、結局後者の意見が通る。
以下も引用を続ける。『しかし法規にはもう一つ縛りがあった。それは「車体寸法」で、全長2.8m、全幅1.2m、全高1.6mはダットサンがギリギリ収まる大きさだった。オースチンはフェンダーを加工して幅を詰めたりしてなんとか対応していたが、1933年からはシャシーが6インチ長くなり改造できる範囲では無くなってしまった。そこで生産中止となったショートシャシーをまとめて特注し、それに日本の法規に収まるボディを国内で架装すると言う方法が考え出された』のだという。
15.6-16国産のダットサンに有利に決着
ダットサン対オースティンの、小型車の法規を巡っての戦いは総じていえば、当時まだ、生産台数はけっして多くはなかったダットサン(この当時、資本的には久保田系から日産系に既に移っていた)側の主張の方が多く受け入れられたが、それは国産の小型四輪車の産業を振興させたいという、国家(この場合主に商工省と内務省)としてのスタンスでもあったのだろう。ちなみに蒔田は『こうした四輪メーカーの態度を批判的に見ていた。というのは、有力なライバルと対等に技術競争する気概がなくては、性能の良い自動車の開発などできるものではないと思っていたからだ。』(⑦、P180)さすがにオートモ号の開発に携わっただけに、気骨があった。下の写真は1928年製のオースティン・セブンで、カーグラの読者の間ではあまりにも有名な、小林彰太郎が長年、愛用したクルマ。セブンは1923年から39年までの17年間に約25万台も量産された、イギリスを代表する大衆車で、欧州各国でも生産されたロングセラーカーだった。
写真はオートカージャパンよりコピーさせていただいた。
https://www.autocar.jp/photo/event_report/368941/
m91.png
https://www.autocar.jp/wp-content/uploads/2019/05/AMC_0405_057.jpg
15.6-17 1936年の自動車製造事業法では、イギリスフォードの小型車が意識される(余談)
(ここで内務省の話からは外れて、またまた余談に入る。750cc化の3年後の1936年に、自動車製造事業法が成立する。この法律のターゲットは、何度も記してきたように、当時日本でKD生産されていたフォードとシヴォレーの乗用車とトラックだったので、3,000cc級と大きかった。小型車のように「国民の足」ではなく、陸軍の影響が強かった当時はあくまで「軍人の足」の確保だったのだ。
しかし同法が『小型車を法の対象から除外した上で、さらに750cc以上と広い範囲を設定する理由は、台数において少数だが、1,000ccクラスでの工場進出を規制することを狙ったから』(⑪、P236)だという。
当時の商工省と陸軍省が恐れていたのはもはやオースティンではなく、一世代進化したフォードやGMの欧州子会社オペルの小型車で、より具体的に言えば、当時は輸入車として日本の市場に入ってきた、英国フォードの「エイト」(933cc)や「テン」(1,172cc)が国内生産されることだったのではないかと思われる。すでに芽生えつつあったオーナーカー需要に加えて、より大きな、小型タクシーとしての需要も開拓できる存在として映ったのだろう。
前回の記事で、戦前の日本の四輪車の世界は、「タクシー(円タク)モータリゼーション」であったと記したが、①によれば、当時大需要者として一定の影響力のあった、タクシー業界からは、『小型車の規格をさらに1,200ccまで拡大し、小型タクシーの許可を求めるようになった』(①、P215)という。イギリス・フォードの“テン”を意識していただろう。ただ当然ながら、統制経済を強引に推し進めていた陸軍+革新官僚の強力なタッグの前では、その陳情は通らなかった。ちなみに自動車製造事業法の前の、小型車の750cc化への改正前にも、当時軍用保護自動車の瓦斯電で販売を担当し、後にダットサンの販売店となるダットサン自動車商会の創業者となった吉崎良造が、ニュートラルな立場から、1,200cc級を陳情していた。詳しくは(④-14、P172)を参照して下さい。下の写真は(web❻-1)(ポルシェ356カレラさん)よりコピーさせて頂いた、1936年の英国フォードのテンのカタログで、4ドアタイプを描いたこのイラストは、(web❻-1)によれば『日本人が乗車した、明らかに日本オリジナルのイラスト』だという。)
m92.png
https://stat.ameba.jp/user_images/20151122/21/porsche356a911s/d7/3d/j/t02200165_0800060013491220068.jpg?caw=800

15.6-18 750cc化で2気筒エンジンを投入、独自色を打ち出す
 くろがねの話に戻す。以上のように、1933年に小型車の規定が750ccに改訂されるが、ここで日本内燃機は他社の単気筒に対して、V型2気筒エンジンを投入し、独自性を打ち出す。この時期はすでに、ダイハツとマツダがオート三輪業界に進出済みだったが『振動や騒音の面で2気筒は単気筒より有利であった。高級感もあり、技術のわかる人たちには好評だったが、コストがかかるものだった。』(②、P107)
 このV2エンジンの選択は、単気筒だったダイハツやマツダに対しての差別化とともに、他のオート三輪メーカーと違い、オートバイも作っていたため、エンジンの共用化の可能性も考慮した結果かもしれない(下調べしていない、テキトーな考えです)。
また500ccへの改訂の時もそうだったが、『小型車の改訂に新型の発売のタイミングを合わせたことで、日本内燃機のオート三輪は好評裡に販売を伸ばしていった。』(②、P107)さすがに日本自動車の情報収集力が高かったのか、750ccへの改訂の時も、事前準備が早かったようだ。しかし『このときに同社でもシャフトドライブにしているが、こうした新技術の採用では、後発のダイハツやマツダに一歩遅れたところがあった。』(②、P107)陸軍向け車両の開発もあり力が分散した結果でもあったが、総合力で勝る上位2社に、主力のオート三輪の開発で、もはや遅れを取りつつあったのも事実だった。なお(⑭、P14)には、650ccエンジンも投入し、500cc版の12㏋に対して15㏋にパワーアップしたという記述があるが、このエンジンは単気筒型だった。戦前のオート三輪の歴史については、各資料で微妙な違いがあり、判然としない部分があることを追記しておく。
15.6-19陸軍との強いつながり
戦前の日本内燃機を特徴づけるものとして、陸軍との関係が密接だった事があった。陸軍は小型自動車に対して、軍用車としての価値が低いと評価しており、総じて冷淡だった(⑬、P171)。そのため軍事体制が本格化する前のこの時期は、オート三輪業界との関連は薄かったが、日本内燃機だけは例外だった。
日本内燃機を技術面で率いた時田が『小型ガソリン機関の先駆者であり、権威者』(⑥、P60)であったので、『機械化が遅れていた日本の陸軍は、くろがねの技術力、つまり蒔田氏のエンジニアとしての能力を当てにしていろいろな要求を日本内燃機に出してきた』のだという。(②、P108)陸軍の要求は多岐にわたり、本業のオート三輪の商売の足を引っ張る面もあったようだが、蒔田と日本内燃機は積極的に応じたのだという。さらに追記すれば、前回の記事の12.15で記したように、戦前の日本の自動車社会では「陸軍がハドソンで海軍がビュイック」と決まっていたと言われたように、大倉系の日本自動車は元々、日本陸軍との関係が深かったことも一因だったと思う。三共以前の日本自動車が代理店だった時代のハーレーも、陸軍への売り込みに成功していたのは既述の通りだ。
15.6-20 くろがねでもっとも有名なのはオート三輪でなく“くろがね四起”
 そしてその取り組みにおける最大の成果は「くろがね四起」としてあまりにも有名な、九五式小型乘用車だ。たぶん「くろがね」の名前はこの、ミリタリーマニア(ミリオタ)の間では有名なクルマの存在故に、これからも語り継がれていくのかもしれない。
ただこの記事では、web等で容易に、詳細情報が検索できる情報は、あっさり短めに扱いたいので、安直だがwiki等を参考に簡単に記しておく。まずは概要について、wikiより(要約)
『1934年、帝国陸軍は不整地走行性能に富む小型の偵察・連絡・人員輸送用車両(軽四起)の開発を、日本内燃機、豊田自動織機自動車部、発動機製造、岡本自転車自動車製作所の各自動車メーカーに依頼した。』大きく言えば、陸軍将校が載るオートバイ(側車付)に代わるものとして試作を依頼したという(⑫、P195)、⑬、P177)。後に登場するアメリカのジープや、ドイツのキューベルワーゲンのように、小型トラック的な使い方までは想定しておらず、搭載量は劣る。またオートバイの側車としても、陸王の2輪駆動型サイドカー(九七式側車付自動二輪車)が完成する前だ。
引き続きWikiより引用を続ける。『試作型の評価の結果、最も優れていた日本内燃機製が制式採用され、1936年(昭和11年)から量産された。当時の量産軍用車としては国産初の四輪駆動機構を備え、道路整備状況の悪い中国大陸や東南アジア方面などで極めて良好な走破性を発揮した。』完成した日本内燃機製の試作車は、『小型車ながら富士の演習場では高い路外走行性能を示し、関係者を驚かせた』(⑬、P178)という。
制式採用されたのちも、エンジン出力の増強や乗員数の増加等(2→3→4人)がはかられるなど改良が続けられて、終戦までに4,755台(⑫、P196では。⑬、P178では4778台)が生産された。そのうち480台が海軍向けだったという(⑫、P196)。以下は①、P301より『日本内燃機の場合、44年まで小型四輪車の生産が増加し続けたことが注目される。トヨタや日産といった軍用普通トラックを製造していたメーカーよりも同社の軍用小型車の生産がより優遇されていたことになるからである。』
(なおこのクルマのエンジンは、同じV2型なのでオート三輪用がベースだと誤解されがちだが、wikiによれば全く違い、SVでなくOHVの別系統のものだそうだ。詳しくはwikiを参照して下さい。下の写真は世界に2台しか存在しない(もう1台は日本自動車博物館)という、くろがね四起の後期型で、なんとアメリカのペンシルバニア州にある「Redball Military Transport Club」というところにある!ブログ「社長の小部屋」
http://shachonokobeya.blog71.fc2.com/blog-entry-1043.html?sp
さんの記事よりコピーさせて頂いた。
m93.png
https://blog-imgs-133-origin.fc2.com/s/h/a/shachonokobeya/IMG_1315_20191219133125222.jpg
15.6-21大倉財閥系から寺田財閥傘下へ
 このように陸軍との関係が強まり、オート三輪の販売も増え続ける中で『これらの軍需対応に伴い、生産体制の強化が必須となったが、それまで日本内燃機の後ろ盾となってきた日本自動車とその母体たる大倉財閥は、日本内燃機に対して十分な資本増強を行うことができなかった。』(wikiより)
そのため1936年に200万円に増資する過程では経営内紛が発生し、新たに株式を取得した、泉州の岸和田紡績を中心とする繊維工業資本である、寺田甚吉率いる寺田財閥が日本内燃機の経営における主導権を握る。(①、P297及びwiki)こうして、『日本内燃機は1938年頃から軍需部門へのシフトによって企業拡大を成しとげ』(①、P301)るのだが、その過程で、当初200万円だった払い込み資本金は1943年には2,500万円まで増加するなど、大幅な資本力強化を図ることになった。(①、P299及びwiki等参考。この間の大倉財閥、寺田財閥との関係について、さらに詳しく考察していきたいが、本題と逸れてしまうので割愛する。①等に詳しいので、そちらをご覧ください。ちなみに①、P297によると、1936年頃の自動車専門紙「オートモビル」によれば、当時は大倉財閥から森財閥傘下へと移るだろうとの観測だったという。さらに①によれば、38年上半期時点で豊田喜一郎が日本内燃機の株式を5%所有して、取締役にもなっている理由は、トヨタ自動車との関係というよりも、豊田自動織機との関係ではないかと考察している。(①、P298))
15.6-22“ニューエラ”から“くろがね”ブランドへ
 1937年には鉄に象徴される当時の軍国的風潮に乗じ、蒔田鉄司の名とも絡めた「くろがね」にブランド名を変更した。(wiki)以下もwikiより
『英語名では当時のユーザーに親しみを持たれにくく、また競合メーカーからは「ニューエラー(新“失敗”)だ」などとブランドをもじった悪口を言われるなどの難もあったことから、こうして名・実ともに?民需から軍需中心への移行を果たした。
『同社は1940年頃になると、定款を改正して営業品目に飛行機を追加する代わりに三輪車・二輪車を削除するなど、より軍需部門に特化する戦略を採るようになった。』(①、P299)
 次第に戦時体制下に移行する中で、後述するダイハツやマツダは、本来の企業活動の柱であるオート三輪の製造・販売が行えなくなることを危惧し、実際に業績面で大きなダメージを受けたが、日本内燃機の場合『むしろ、戦時体制になることによって、企業の規模が拡大し、従業員数も工場の数も増えていった。』(②、P110)
陸軍と強力な関係を築いた結果、企業活動が抑圧された『発動機製造や東洋工業が戦時期に「軍用に適さない」小型車から鉄道車両部品や小銃にそれぞれ主力製品を換えざるを得なかった』中で、その両社に代わり、1940年から日本内燃機が最大の小型車メーカーに躍り出たのだ。
実際には二輪・三輪の製造もやめてしまったわけではなかったが、同社の足跡をたどるのは、ここで終わりにする。
(“くろがね”を文字通り象徴する存在であった、蒔田鉄司のその後だが、寺田系の重役陣と対立するに至り、1943年に退社』し、戦時統制体制下で、小型自動車統制組合の理事長という公職に就任する。戦後も日本小型自動車競走会連合会(オートレース)の常任理事に就任するなど活躍したが、古巣のくろがねに復帰することはなかったという。(②、P110)下の写真は富士重工大宮工場製の1953年型ハリケーン350RB。⑥によれば、蒔田氏は小型ガソリン機関の権威者であるので『新興の製作所から指導を乞われる場合が多かったようである。~戦後もそれが続き、確か富士重工のハリケーン350cc型も、氏の設計によるものだったと聞き及んでいる。その他、我々の知らないもので、氏の息のかかっているものが相当あるのではないか。』(⑥、P60)という。実際(④-20、P167)によれば、メグロ号オートバイの戦後復活の足掛かりとなった250ccのジュニア号のエンジンは、『目黒製作所の鈴木高次社長の依頼により、真夏の夜、蚊帳の中で一夜にして書き上げたという。』仕事に対しての集中力が高く、仕事が早かったのも特徴で、白揚社時代『オートモ号に続く、水冷のアレス号は豊川の指示を受けて、蒔田が5日間で設計した』(④-20、P168)という。生産要件まで含めて、全体を把握していたからこそ可能だったのだろう。黎明期の国産二輪/三輪/四輪自動車の技術の発展に大きな功績を残した、自動車殿堂入りしてもおかしくない偉人だったと思う。写真はブログ「モーサイ」よりコピーさせて頂いた。
https://mc-web.jp/archive/history/21384/
m94.png
https://mc-web.jp/wordpress/wp-content/uploads/2020/01/tettai2-2_001_hurricane.jpg

15.7戦前のオート三輪業界のトップメーカー、ダイハツ
 さてここからいよいよ、戦前、戦後を通してオート三輪業界で2強だった、ダイハツ(当時の正式社名は「発動機製造」だが、以下馴染み深い「ダイハツ」と総称する)と、マツダに話が移る。この2社の戦前の活動を記して、戦前のオート三輪の話を終えたいが、この両社は、ご承知のように現在でも盛んな企業活動を行っており、トヨタほどの立派なものでないにせよ、創業時から今までの大まかな歴史がわかる、企業博物館もあるようだ(行ったことはないけれど)。戦後変遷を繰り返したくろがねのように、その現在形が日産工機?東急(車両)系??などと訳が分からなくなっている企業とは立場が違う。
通常自動車メーカーは、過去に誇るべき車種や歴史がある場合、広報活動として、企業側からも情報発信しているのが常なので、webでも多くの資料が検索できる“はず”だ(と最初は思っていた)。
この一連の記事の趣旨として、webや本で容易に情報が得られるものがあれば、その出元を紹介して、略して記そうと考えているが、しかし地味なジャンルなのか、戦前のオート三輪の情報は、非常に少ない。やはりダットサンのような、四輪の乗用車とは、関心の度合いが違い、メーカー側の扱いも違うのだろうか。
15.7-1戦前のダイハツオート三輪の正確な情報が少ない
さらに、この2社で比較してみると、マツダに比べてダイハツの情報量が圧倒的に少ない。戦後に於いては、映画への“出演”もあり、ミゼットは愛すべき人気のキャラとして、メーカー側も持ち上げているが、戦前に限定して言えば、コアなミリタリーマニアが頑張っているくろがね四起の方が、はるかに情報が多いくらいだ!
オート三輪の歴史を記すうえで欠かせない、戦前のトップメーカーであるダイハツの情報が少なかったのは大誤算だ。たとえば歴史的に節目になると思える重要なポイントでさえ、情報源によってかなり “ばらつき”があり、そのためダイハツの戦前のオート三輪の歴史を著すことが、予想に反して相当てこずってしまった。
この情報量の差は、現在の立ち位置(2016年8月にダイハツ工業はトヨタの100%出資の完全子会社化した。対するマツダに対してのトヨタの出資比率は5.1%)の違いを反映しているのかと最初は思ったが、必ずしもそうとも言えないようだ。
あまりの情報不足のために、ここは“原点”に立ち戻り、社史を調べるしかないと思い、古本で「(ダイハツ)60年史」を購入した(㉙)。ダイハツの社史としては「道を拓く ダイハツ工業100年史」(2007年)というものが新しいが、「60年史」の方が、1967年発行なので、三輪が辛くも現役(生産していた)の時代で、戦前のオート三輪について、より詳しい記載があるだろうと期待したのだ。
15.7-2その一因は、社史の内容が薄いため?!
ところがこれが、全くの期待外れだった。そもそも本全体のボリューム自体が小さい上に、当時のダイハツが、オート三輪自体を軽視していたためか(たぶん)、戦前の自社のオート三輪の変遷について記すのに必要なページ数を、割り当てられていない。
戦前のオート三輪の、名実ともにトップメーカーであったダイハツに関しての情報が、世の中でなぜ少ないのか、その理由の一つに、そもそも“教科書(社史)”の中身がスカスカだったということだけはこれで確認できたが。仕方なくその後「50年史」(㊴)も購入し、それは60年史よりは多少マシな内容だったが、とても充実した記述とは思えなかった。
そこでこの記事では、戦前のダイハツのオート三輪史の節々での、その判断の“よりどころ”としては、㉙と㊴の社史では不十分だったので、“社外品”の?①、②及び(④-19)等を基準にしたことを、お断りしておく。
(今回ダイハツの社史と同時に、ほぼ同じころに発行された他社の社史もいくつか購入したが、たとえばマツダ(50年史:⑰、本文だけでA4×551頁)やトヨタ(30年史:㉘、同A4×704頁)と比べると、年数は60年と一番歴史が長いはずなのに、本のボリューム自体がそれらの半分以下で圧倒的に少ない(㉙、同B5×P255)。
その内容も、たとえ主観が混じっていようとも、その製品に対して注がれた、熱い思いが文面から伝わってくるトヨタとマツダの社史に比べると、教科書的な編集で、読み物としても面白みに欠き、少々がっかりさせられた。
ただここで、ダイハツ側の立場に立ち、㉙の社史が編纂された1967年3月当時を振り返り、弁明?を試みれば、この時期はダイハツにとって、微妙なタイミングだったことも確かだ。オート三輪メーカーであるというイメージから何とか早く脱して、乗用車を含む四輪メーカーへ転換を図ろうと必死な時期で、オート三輪はダイハツにとって、あくまでも踏み台に過ぎず、社史に書かれていたように“~当社が、現在の乗用車メーカーに発展する輝かしい門出にもなった”程度の位置づけに落とし込みたかったようにも思える。
この当時は、通産省の行政指導による業界再編の嵐の真っ只中で、実際同年11月にはトヨタと業務提携しており、水面下ではすでに、交渉の場が持たれていた時期だったのかもしれず、そんなデリケートな状況も、社史の内容に微妙に影響を与えたのかもしれない。交渉相手のトヨタ側のスタンスとしては、『ダイハツはバランスシートをみても健全経営そのもので、そんなに困っていなかったはずだ。ただ、健全経営といっても、将来性があるとは限らない。
小石雄治社長(故人)が、先の見込みがないと判断して、三和銀行にトヨタとの提携仲介を頼んだのか、三和が小石さんを説得して仲介したのかわからない。
業界編成が盛んにいわれた当時で、中堅メーカーは浮足立っていた。』
と、トヨタの経営者は(㊵、P190)でシビアに記されている。
これがその時点における、ダイハツという会社の、“正直な気持ち”であったのであれば、その状況が社史に反映されるのも、それもまた、やむを得なかった気もするが、しかし“社史”は、その時の状況だけではなく、その会社が過去に歩んできた正確な歴史(事実)を、後世に伝えるためのものでもある。
戦前の自社のオート三輪車の車種構成の、その変遷すら省く等、あまりに簡略化して記述したために、今日、日本のオート三輪史を振り返ろうとしたときに、基本的な部分であまりに欠落が多くなり、現在の混乱の原因を招いたと思う。
下表はその㉙より引用させて頂いた、1964年度と1965年度の、全国法人申告所得上位30社の表だが、ご覧いただければわかるように、高度成長期の日本を代表する錚々たる企業に混じって、ダイハツが2年連続で堂々ランクインされている。(表18「全国法人申告所得上位30社(1964年度、1965年度)、「六十年史」ダイハツ工業株式会社(㉙)、P207より引用」)以下も(㉙、P206)より引用
『総資本の効率については、利潤追求の見地からも、きびしく方針が打ち出されていて、総資本税込み利益率10%確保を目標に努力してきたが、幸いにも、41年(1966年)4月期から、10%に達することができた。このことは、あらゆる資産が年1割の利回りで運用されていることであって、企業内容の堅実性を意味するものといい得よう。』当時のダイハツは、売上高だけではなく、高い利益率も誇る、名だたる優良企業だったのだ。しかし、同業他社に比べて中身が薄い社史編纂の方針も、厳しい原価低減の方針を貫いた結果であったとしたら、少々寂しかった。)
m95.png
15.7-3日本の自動車メーカーとして最も古い歴史を持つ名門企業
この記事の守備範囲は戦前なので、先述のように当時の社名は「ダイハツ」でなく「発動機製造」だったが、馴染みのあるダイハツの名で以下も記す。まずは有名な社名の由来から始める。以下(web28-2)より『~その後、ガス燃料発動機を製造する会社がいくつも出現するようになってきた。そこで他社と間違えないように、「大阪高等工業の発動機製造会社」と呼ばれていたものが、いつしか「大阪発動機」と短くなり、やがてこれを詰めて「大発(だいはつ)」と略して呼ばれることが普通になってきた。』
「大阪の発動機」が短縮されて「大発」から「ダイハツ」になったという。メーカー側から流布したというよりも、地元の顧客の間で自然とそう呼ばれたからというのも、大阪という地に根ざしたダイハツらしい。ダイハツ工業に“正式”に社名を変更したのは戦後の1951年だ。
そしてその創業は1907年だというから、今年(2021年)で創業114年になる。三菱重工業を源流に持つ、「三菱自動車工業」と「ふそう」をどのように考えるかにもよるが(長崎造船所を起点とすれば1884年になる)、現在量産車を手掛ける日本の自動車会社としては最も古い歴史を持つ由緒ある、名門企業なのだ。(下の写真はダイハツ創立100周年を記念して2007年にオープンした展示館、“ヒューモビリティワールド”の入り口近くに鎮座する、巨大なディーゼルエンジン。現存するダイハツ最古の発動機だという。
以下https://www.sankei.com/article/20150806-FJNZIPLMA5PVPPOLDIX4NRJXMM/
より要約すると、滋賀県内の水田で水をくみ上げる灌漑(かんがい)用に昭和8年(1933年)、納入されたものを譲り受けたもので、約20年間にわたり水田に農業用水を供給し続けたという。写真はhttps://www.transport-pf.or.jp/norimono/museum/hmw/よりコピー)
m96.png
https://www.transport-pf.or.jp/norimono/museum/hmw/photo1.jpg
15.7-4産学連携で起業
ダイハツの大きな特徴として、阪大工学部(当時は大阪高等工業学校)との、今でいうところの産学連携の形でスタートしたという、たぶん当時としては異例の、学術的な面も併せ持っていたという点だ。以下は(web⓰-3)より引用
『~ところが、ダイハツのルーツは、こうした流れ(注;三井、三菱、住友ら大財閥)とは趣を異にし、機械工学の学者たちの熱意から始まっている。企業を起こして、利益を追求するというより、むしろ学究的な動機が先行したようだ。いわば純粋理工系のアウトサイダー的事業集団。何しろ「内燃機関の国産化」が主な設立趣旨だった。』
以下はダイハツのHP(web❺)より引用
『設立を計画したのは官立大阪高等工業学校(現・大阪大学工学部)校長の安永義章博士ら学者たちであった。「日本の真の工業化には内燃機関の国産化と普及が不可欠」との信念に基づくもので、こうした想いに賛同した大阪の財界人との「産学連携」による当時では異例の企業発足となった。』内容が重複するが、ダイハツの社史を元に編纂したと思われる⑱より引用
『大阪高等工業学校の校長であった安永義章、同校機械科長の鶴見正四郎は、まだ黎明期だった内燃機関の工業化に着目し、実業家の岡実康(注;大阪機械工業事業所主)、桑原政(注;大阪商工会議所特別委員)、竹内善次郎(注;大阪巡航海部式会社社長)たちに会社設立を打診。どの結果、創立事務所が設置され、会社設立までの諸準備が進められた。創立総会は明治40年(1907年)3月に開催され、発動機製造株式会社が設立されたのである。』(⑱、P5)
設立の中心になったのが、大阪高等工業学校の校長であった安永義章と、同校機械科長の鶴見正四郎だったというところからみても、創業当初から生真面目なメーカー体質だったようだ。
そのため、創業者一族による強烈なリーダーシップで自動車作りに邁進していったという、ありがちなパターンではなく、民主的で理性的な?企業運営だったようだ。
(それにしても社史(㉙、㊴)に、せめて上位株主の変遷の表ぐらいがあれば、いくら産官学の連携でスタートしたと言っても、世の中、綺麗ごとばかりではいられないので、もう少しその“背後関係”がわかるのではと期待したのだが、表面的な社史なので、大株主の実名表記がなく、さらにがっかりさせられた。下の写真はダイハツのホームページよりコピーさせて頂いた『出力6馬力の国産第1号の吸入ガス発動機』だ。
https://www.daihatsu.com/jp/company/know/history110/index.html
以下はRJC(自動車研究者ジャーナリスト会議)の、「ダイハツの100年をかいまみる」http://www.npo-rjc.jp/daihatsu/ (web❿として引用)からの引用
『発動機製造株式会社は創業した年(1907年)の12月、製品第1号となる“6馬力吸入ガス発電機”を完成する。1917年には船舶用の蒸気機関を、1922年には“超ディーゼル小型発動機”を完成するなど、発動機を中心に活動を進めた。』ちなみに創業時の旗振り役だったとみられている安永義章は、1918年に亡くなっているので、オート三輪事業とは無関係ということになる。)
m97.png
https://www.daihatsu.com/jp/company/know/history110/img/ph-history01-02.jpg
15.7-5陸軍が自動車産業を興そうとしたとき、真っ先に声をかけた
そして、この一連の記事の“9.8項”で記したように、陸軍が軍用自動車の産業を日本で興すべく、直接の関与を始めたとき、最初に声をかけたのが、ダイハツだったのだ。以下も手抜きで、その9.8項から「 」部分をそのまま引用する。
「陸軍が瓦斯電以外に参入を期待したメーカーの中には、たとえば発動機製造(ダイハツ)、川崎造船所、三菱神戸造船所という、有力メーカー3社の名前があった。
 発動機製造は、国産エンジンを開発する目的で、当時の大阪高等工業学校(現在の大阪大学工学部)の学者や技術者が中心となり、大阪の財界も協力して興された会社で、エンジンの技術開発や生産で実績があり、既に定評がある会社だった。自動車を作る上では瓦斯電よりも実力は明らかに上で、陸軍内で軍用車の試作を担当した大阪砲兵工廠と同じ、地元大阪ということもあり、陸軍は内心期待していたようだ。しかし結局、“一歩”踏み出すことはなかった。当時各種エンジンの生産で手いっぱいで、余力がなかったことが理由とされているが、陸軍の計画があまりに楽観的で採算が合わず、リスクが大きすぎると判断したからではないだろうか。」この一文で記したように、ダイハツが当時(第一次大戦中のころ)、自動車で最重要部だったエンジンの開発に実績を持ち、その技術力を有する数少ないメーカーだと認識されていた。陸軍が最初に目を付けた理由は理解できる。
しかしダイハツは、先に記したように、当時としては例外的に?トップダウン式の決断ではなく、合議制に基づいて理性的に判断していくメーカーだったようで、陸軍からの誘惑?に、簡単には乗らず、冷静に協議し判断した結果、このタイミングでは自動車と距離を置く道を選んだ。(さらにもう一点付け加えれば、それでも国産車のまさに黎明期に、自動車産業へ興味を持ち、また不思議な縁で結ばれていたことも確かだったのだろう。そして陸軍の手引きしたこの自動車製作の経験が、社史の(㉙、P12)によれば『その後の企業としての方向づけに、大きな意味を持ったものであると考える』と記している。下の写真はダイハツのHP(web❺)からのコピーで、『設立当時の工場と製品』)
m98.png
https://www.daihatsu.com/jp/company/know/history110/img/ph-history01-01.jpg
15.7-6戦後恐慌を乗り越えて経営の自立体制を確立
こうして、『原動機の国産化による工業立国への貢献という創業の理念を、着実に具現化していった』(web❺)ダイハツだが、第一次世界大戦後の反動による不況(いわゆる“戦後恐慌”)で、創業以来最大の経営危機に直面する。以下(⑱、P8)より引用
『(経営危機に直面したダイハツは)大正10年(1921年)11月には、経費節減のために職員と工員の過半数を原因している。しかし、その非常対策が功を奏して、~大正15年頃には経営の自立体制をほぼ確立するまでに至っている。多数の企業が倒産消滅していくなかで、あくまで自力で活路を切り開いたことは、その後幾多の不況に遭遇しながらもそれらを克服し、会社創立100周年を迎える糧となっていく。』国に大きく頼らずに、ほぼ独立独歩でやってきたダイハツの、気概を感じさせる部分だ。
15.7-7不況で業績が伸び悩み、新分野に進出
 こうして『大正から昭和へと時代が移る1920(大正9)年代の日本経済は混迷を極めた』(web❺)苦しい状況の中でも、爆発的な成長こそないが、着実に成長を遂げていく。『優秀な技術者を意欲的に集め、技術的に優れた企業として活躍した。この頃の主な製品は、小型ディーゼル機関や鉄道車両用の制動装置、機関車用の給水ポンプ、重油発動機などであった。』(②、P33)特に国鉄(鉄道省)向けの製品に活路を見出したようだ。
 しかしそれでも、昭和の不況期の影響はやはり重く、ダイハツの業績も伸び悩む。そこで鉄道用機械類や各種発動機以外に、新分野の開拓として目を付けたのが、オート三輪用エンジンだった。
(ここで余談になるが、先に陸軍が瓦斯電以外に自動車産業に参入を期待したが、やんわりと断ったメーカーとして、ダイハツ、川崎造船所、三菱神戸造船所の3社の名前を掲げたが、ダイハツがオート三輪に目を付けたのと同時期の1930年頃に、奇しくもこの3社が自動車産業へ参入を果たす。次の記事で記す予定だが、三菱造船所と川崎車両(川崎造船所の自動車部から分離)は、鉄道省からの省営バス開発の呼びかけに応じて、自動車製作を始めることになる。大財閥といえどもその当時の造船部門は、造船不況の影響で、新規分野の開拓に迫られていたようだ。『これらのメーカーは本業での不況打開策の一環として、相対的に不況の影響が少なく成長分野である自動車工業への進出を行ったのである。』(①、P162)以前の記事の8.2-2で記したが、自動車に進出した石川島も、この時期は新規事業の自動車ではなく、実は主力の造船部門の不調の方が、経営全体の足を引っ張っていたという。)
15.7-8オート三輪用の500cc単気筒エンジンの完成
以下(web❿)より引用『1929年4月に2サイクル350cc単気筒、翌30年4月には4サイクル500cc単気筒ガソリンエンジンを完成、当時数多くあった小規模三輪自動車組立業者に売り込みを図った』。(⑱、P11)にも同様の記述があるが、くろがねやマツダと同じく、350ccから開発を始めて、小型車の規格変更に合わせて500ccに切り替えているが、(web❿)が正しい情報だとすれば(RJCのレポートなので正確だと思う)、350cc型は2ストロークエンジンであった。くろがねやマツダはオートバイ用だったがやはり2ストから開発を始めたが、ダイハツも同様に、自動車用エンジンの開発は2ストロークエンジンから始めている。
エンジン開発力に自信のあったダイハツが、自社の得意分野として、地元大阪を中心に中小メーカー主体で産業として勃興しつつあり、輸入品に頼っていたオート三輪用エンジンに目を付けたのは、自然な流れだったのかもしれない。下の画像はダイハツHPより、1930年に完成し、このあと記すように、オート三輪に積まれることになる、空冷4ストローク500cc単気筒ガソリンエンジン。くろがねやマツダと同様、JAPエンジンに強く影響を受けた設計だったようだ。(④-19、P170参考))
m99.png
https://www.daihatsu.com/jp/company/know/history110/img/ph-history02-04.jpg
15.7-9輸入品のJAPエンジンに勝る成績で、優秀国産品として認定されるが売れず
こうして出来上がったエンジンは、オート三輪用に特化させたため、オートバイ用を転用した輸入品の性能に負けない高性能なものだった。1930年に行われた『大阪工業試験所の比較試験でJAPに勝る成績を示し』(①、P132)、同じ30年に『商工省臨時産業合理局が主催した国産奨励のための内外品対比展覧会で優秀国産品として選ばれる』(①、P186)ほど、優れたものだったという。
慎重なダイハツが当初目論んだのは、オート三輪用エンジンの外販で、クルマを丸ごと作る予定ではなかった。しかし当時は舶来品信仰が強く、案に相違してエンジン単体では売れなかった。『こんな事業から撤退しないと会社の存続すら危なくなると忠告されたり、ひどい場合は嘲笑されんばかりであったという。』(②、P33)
ここでダイハツは一念発起して、撤退せずに自らオート三輪製作に乗り出す。
15.7-10最初のオート三輪、HA型の試作
 最初の試作車であるHA型は、エンジンを完成させた同じ年の12月に早くも完成させている。ただしダイハツ製だったのはエンジン、ミッション、後輪部のみで、他の部品は既存車の流用だった(⑭、P14)ようだ。『フロントのフォークはハーレーJD系、当時はリヤカーと呼ばれたシャシーなど車体回りも汎用の市販品だった。』(⑭、P48)大阪が地元なだけに、オート三輪用の部品の調達も容易だったのだろう。
しかしオート三輪市場へ参入するにあたり、ここでもダイハツは生来の慎重さを示す。量産化に当たっては当時すでにオート三輪を作っていた、日本エアブレーキと提携することから始めたのだ。(下の画像の、HA型の写真を見ると、確かに「ダイハツ号」と名乗っている。画像はRJC「ダイハツの100年をかいまみる」(web❿)よりコピーさせて頂いた。だが日本ブレーキとの協業については、各資料で微妙な違いがある。(②、P33)では、日本エアブレーキは、『オート三輪車メーカーとして実績のある』とし、日本エアブレーキの方が三輪の開発に先行していたような記述だが、社史の(㉙、P20)では『日本エアブレーキ社が三輪自動車の製作を希望したので共同で製作することになり、』としており、微妙にニュアンスが異なる。ちなみに(④-19、P170)では『提携関係にあった日本エアブレーキ株式会社も同時期に三輪車の製造を目指したため~』、日本自動車殿堂の(web❼-1)では『間もなく関連会社の日本エアーブレーキの希望を受け、 5 月から双方「ツバサ号」として共同生産した。』としている。この記事では一応、『日本エアブレーキ社は、オート三輪車を開発したものの、社の首脳はその製造販売に消極的だったようだ』(②、P33)と具体的な記述のある(②)が、真実に近いように感じたが、些細な違いだが、“正史”であるはずの㉙、㊴の信憑性についてどうしても、イマイチなものに感じてしまう。
m100.png
https://lh3.googleusercontent.com/proxy/KCCEqkYvgl-M6LgsrTtxvhIX-LNPfNBbFx1R7tWRKVyNGhYgZ-DnR9c0iQrEAP3WinKgO2yglqwMGtcPf1ya0N2JO4yf9mbrX0MPXUZik31ZFqbfZA
15.7-11最初の市販車のHB型は、“つばさ号”として販売
1931年3月に、HA型の改良型であるHB型を完成させて、同年5月より、日本エアブレーキとの共同製作でいよいよ市販に乗り出すが、困ったことに、初の市販車であるこのHB型の販売時期に関しても、情報源によって、微妙に異なってしまう。
(⑭、P14)では単に『車名もツバサに変更して1931年5月に量産車を送り出した』、(②、P34)では『HB型は翌1931年3月に完成、販売に乗り出した』としている。
一方webを検索すれば、自技会の日本の自動車技術330選(web❼-2)でも『実際に発売されたのは、さらに改良を加えたものを、「HB型」として1931年3月に発売した。』としていて、②と同じ“解釈”だ。一方M-BASEでは『1932年からオート3輪の市販を開始した「ダイハツ号」は、日本エアブレーキ社と共同制作したものは「ツバサ号」として販売された』(web❹-4)と、1932年から市販とあるが、これは明らかに1931年の間違いだと思えるのだが、一概に否定できないのは、他にも1932年だと記述しているサイトもあり、その根拠となる資料があるのかもしれない。1932年からが本格的な発売開始だという解釈であれば、あながち否定はできない面もあるのだが。
正直なところHB型の販売が1931年の3月か5月の違いだとしたら、大勢に影響はない?ものの、どうもスッキリとしない。
15.7-12社史ではどのように記述されているのか(余談)
(何度も記しているが、戦前のダイハツのオート三輪の変遷に関しては、情報量が少ない上に、ばらつきがあり、なんともモヤモヤした感じだ。そこで、そもそも社史ではどのように記述されているのか、確認しておく。以下(㉙、P17「完成車制作の動機」)よりその全文を転記する。
『~しかし、当時の三輪自動車組立て業者は輸入エンジンの使用に慣れ、国産品が輸入品に劣っていないことを証明されても、積極的に国内製エンジンを採用しない傾向にあったので、当初は単なるエンジン・メーカーであった当社は、ここに三輪自動車の製造をはじめることになった。これは、それまで手工業的に細々と組立てられていた三輪自動車工業が、近代工業化の第一歩を進めたものであり、わが国自動車工業史上注目すべきことであった。と同時に、当社が、現在の乗用車メーカーに発展する輝かしい門出にもなった。500cc型ダイハツ1号車HA型が完成したのは実に昭和5年12月のことであった。
 当社は、三輪自動車製作のスタートを切ったが、さらに改良したものをHB型として6年3月に販売を開始した。なお、当時、当社の関係会社であった日本エアブレーキ株式会社が三輪自動車の製作を希望したので共同して製作することになり、6年5月以降は「つばさ号」と名づけて製作したが、間もなく共同製作を中止するようになったので、「ダイハツ号」の名称にもどした。その仕様の概略は1-8表(注;「三輪自動車「ダイハツ号」HB型の仕様」)のとおりである。写真(注;HA型 三輪自動車)、仕様からもわかるように、現在からみれば、小荷物を運搬するだけの形態のようだが、その影響は大きく、その後のわが国の有力な運搬手段の一つに成長していったのである。』
・・・・・。 戦前のオート三輪の、名実ともにトップメーカーであったダイハツの、自動車メーカーとしての起点に当たる、最初の市販自動車誕生の物語がたったこれだけだ。
㉙は資料編や年表部分を除き、本編だけで255ページあるが、たった1頁分程度しかボリュームが割かれていない。冒頭に、ダイハツとダイハツディーゼルの現役員(当時)の顔写真がグラビア頁としてダラダラ5頁分も続くのに・・・。
社史に書かれているようにオート三輪は“その後のわが国の有力な運搬手段の一つに成長していった”はずなのに、しかもダイハツはマツダと並び、そのことに多大な貢献を果たしたはずなのに、HA/HB型はダイハツにとっては栄光の歴史のスタートだったはずなのに、さらにダイハツは、オート三輪のおかげで企業として大きな成長を遂げることが出来たのに、たったこれだけの記述しかない。正直、残念だ。
余計なお世話だろうが敢えて言わせて頂ければ、今後たとえば「ヒューモビリティワールド」や、トヨタ博物館からの学術研究という形でのインフォメーションなどで、我々一般人に対して、戦前のダイハツのオート三輪の変遷についての、より正確な情報提供を行うことを、ぜひ望みたい。HB型の発売時期に関して、この記事なりの解釈でまとめると、社史(㉙、P20)にあるように1931年3月に「ダイハツ号」HB型として市販型が完成したが、日本エアブレーキとの連携が決まったため、両社共同生産型として「ツバサ号」として4月に内務省の認可を受けて(④-19、P170)、1931年5月から市販が開始されたのではないかと思うが、いかがだろうか。
15.7-13日本エアブレーキとの提携
(ここでさらに、HB型で共同生産を行った、当時の日本エアブレーキ(戦後世代では「ナブコ」の名前の方が馴染み深い)について説明を加えておきたい。wikiによれば『(1924年)神戸製鋼所と米ウェスティングハウス・エア・ブレーキ(WABCO)社間で鉄道車両用エアブレーキに関する特許権実施契約が成立』した結果誕生した会社だった。そしてその背景として、『鉄道省が米国ウエスチングハウス式の鉄道用空気制動装置を全面的に採用する』(⑱、P9)こととなり、ダイハツと瓦斯電気工業は、日本エアブレーキの誕生以前から、空気ブレーキの導入に関わっていた(wiki)ようで、その関係からか、両社も日本エアブレーキに出資していた(wiki)という。さらにネットを検索してみると、「鈴木商店記念館」というwebの記述がかなり正確のように思えるので、以下引用させていただく。
http://www.suzukishoten-museum.com/footstep/company/cat14/
『日本エヤーブレーキ(NABCO)は、神戸製鋼所と米ウェスティングハウス・エヤーブレーキ(WABCO)社間で結ばれた鉄道用エヤーブレーキに関する特許権実施契約を背景に、大正14(1925)年神戸製鋼所、発動機製造(現・ダイハツ工業)、東京瓦斯電気工業(東京ガスの機械部門)の3社の出資によって神戸製鋼所の一角に鈴木商店系企業として誕生した。鈴木破綻(注;1927年)により神戸製鋼所にいったん統合された後、再び分離独立した。』他のwebの記述の中には、日本エアブレーキの設立について、全般にダイハツが主導したような印象を与える書き方のものもあるが、主体は神戸製鋼だったとするwiki等の記述の方が正しいように思える。いずれにせよ両社がもともと、資本関係を含む提携関係にあったことだけは確かだ。
 さらに神戸製鋼所とダイハツのつながりについては、(⑱、P6)に『明治44年12月、代表者の岡実康に代わって、明治42年から専務取締役だった元神戸製鋼所社長の黒川勇熊が(ダイハツ=当時は発動機製造の)初代社長に就任した。』という記述があり、資本関係を含む両社の関係を調べたかったが、㉙の社史にはまったく、手掛かりとなるような記載がなかった。この点も不明な点の一つだ。)
15.7-14ダイハツの評価を決定づけた、HD型
 そしてその1年後の1932年 5月(後述するように諸説あり)、ダイハツの評価を決定的にした、ツバサ号HD型が登場する。HD型は、従来のチェーン駆動方式で片輪駆動の、オートバイから派生した技術をベースにしたものと異なり、プロペラシャフトとデフを用いて後輪を駆動する、四輪自動車の技術を元にしたオート三輪として登場した。このプロペラシャフト+デフ駆動という、パワートレーン系の刷新の意義については、オート三輪の「3馬力時代」にダイハツHD型に先がけてこの機構を採用した、15.4-35項の横山商会のミカド号の項を参照して下さい。まだ「つばさ号」時代であったが、プロペラシャフト+デフ駆動という、パワートレーン系なので、その開発の主体はダイハツ側主導だったと思われる。ただし(⑭)冒頭の当時のカタログや、(④-19、P170)によれば、従来通りのチェーンによる片輪駆動方式のものと、チェーン駆動+バックギヤ付き、それとシャフトドライブ+バックギヤ付きの3タイプを揃えて販売しており、ここでもダイハツらしく、相変わらず慎重な対応だ。なお(④-19、P170)によれば、日本エアブレーキが製造した「ツバサ号」は「N型」、ダイハツが製造したものは「H型」と区別されていたようで、両車種の違いは『フレームがわずかに異なっていただけ』(④-19、P170)のようだ。
15.7-15四輪車に近い本格的な乗り物に進化
既述のようにこの機構自体はミカド号という先例があったが、やはりダイハツのように、総合的に高い技術力を擁する企業が、品質の安定した量産車を前提として取り組んだ製品とは、完成度が違っていたと思われる。
デフの装着+シャフトドライブにより片輪駆動の技術的な弱点だった右・左折時の運転が容易になり、またチェーン駆動の弱点の点検整備面の問題も解決された。後輪駆動用の、むき出しの長いチェーンは泥や雨に当たって耐久性がなく、常にメンテナンスが必要だったという。フロントカー型自転車にスミスモーターを取り付けることから始まったのがオート三輪の源流だが、技術的にはオートバイ系列であったものが、いよいよ四輪車並みに進化を遂げたのだ。
15.7-16HD型の成功でオート三輪業界のトップメーカーに躍進
HD型の登場によりオート三輪はそれまでのものと全く違う、乗りやすいものとなり、後発だったダイハツは瞬く間にトップメーカーに躍り出る。
ただ何度も記すが、『結果としては、町工場に近い多くのメーカーが開拓し、需要を喚起してきたところに、技術力の優れた大メーカーが乗り出してきたことになった。』(②、P35)ことでもあった。(下のつばさ号HD型の写真は、日本自動車殿堂(web❼-1)よりコピーさせて頂いた。『発動機製造は、HD型により三輪自動車を技術的に完成させたのである。』(web❼-1)まだ「つばさ」の時代だったので、タンクのところの名前は実際には「ツバサ號」だったはずだ。)
m101.png
15.7-17肝心のダイハツの社史(60年史)に、“HD型”についての記載がない!
ところが現在では、ダイハツのオート三輪の評価を決定づけたとされ、さらに戦前のオート三輪を代表する機種だといえる、この“HD”型について、奇妙なことに、㉙のダイハツの社史(「六十年史」(1967年3月発刊)の中に、一切記されていないのだ!!
いったい何がどうしてこのような結果になったのか、理解不能だが、代わりに?以下のような記載がある。
『初期の三輪自動車は、オートバイの軸距を長くして、後輪を2個にし、荷箱を取り付けるようにした、構造の簡単なものであったから、駆動方法もチェーン・ドライブ式であった。しかし、この形式のものは、後者軸を駆動するローラ・チェーンの機構に、強度上及び保守の面で非常な欠陥を持っていたし、車の回転時に生ずる後輪の回転差に対する処置も不完全であった。6年(注;1931年)8月、当社では、これらの諸点を改良し、四輪自動車と同じ差動装置付きシャフト・ドライブ方式を三輪自動車にはじめて採用した。』(㉙、P22)
この歴史的な、HD型という型式の記載が、この「60年史」の社史の中で(自分が調べた範囲では)奇妙なことに一切書かれていない上に、それに輪をかけて最後の部分の、1931年8月にデフ+シャフトドライブをオート三輪で初採用したという記述が、戦前のオート三輪の歴史を確認する上で、困った事態を生じさせているのだ。
そこでさらに調べていくと、この部分の記述は、「50年史」の(㊴、P37)に書かれている内容の焼き直しであることがわかる。ところがこの「50年史」(㊴)がさらに“曲者”だった。なんと、同じ書のなかの後段に「車種の変遷」という章があるのだが、その中で、以下のような記載があるのだ。
HB型に対しての説明として『この車の後輪を駆動する方式はいわゆるチェーン・ドライブ方式で、後車輪の一方は車軸に対してフリーに取付けた要領のものである。』とし、販売を開始したのは昭和6年(1931年)3月だとしている。(㊴、P158)
そしてこの(㊴)には、HB型の次の車種として、HD型についての記載がある。そこでは以下のように説明されているのだ。『昭和7年(1932年)夏以降は後車輪駆動の方式を普通の自動車同様に差動装置を備えたシャフト・ドライブ式とした。エンジンおよび車体その他の仕様はHB型と同一である。』(㊴、P159)・・・・・
いわば“正史”であるはずの“社史”に、このような矛盾した内容の記載が堂々と記されていれば、各文献も混乱してしまう。たとえば一般の人がダイハツの歴史書として手にする機会が最も多いと思われる、三樹書房の(⑱、P12)では(㉙)にならいHD型という記載を省いたうえで、1931年8月にシャフトドライブ+デフを採用したとしており、自技会の(web❼-2)も同様だ。一方日本自動車殿堂(web❼-2)ではHB型とHD型を区別した上で、HD型の登場を1932年5月としている。(⑭、P14)もほぼ同様の扱いだ。一方(②、P35)では、HB型とHD型を区別しているが、HD型の発売時期については、断定しきれなかったのか慎重を期し、記載を避けている。
ここで自分なりに推測(まったくの想像なので私見です)すれば、シャフトドライブ+デフ付きの量産型であるHD型のデビューは、(web❼-2)や(㊴、P159の記載のように1932年の5月~夏にかけての時期だったと思う。ただしその前年に、HD型の先行開発車として、シャフト・ドライブ+デフ付きに改造した、HB型をベースにした試作車両?が、1931年8月には完成していたものと思われる。あるいは手堅く手順を踏むダイハツの経営姿勢からして、パイロットユーザー宛てに、その時点で少数市販も行われたのかもしれない。社史に書いている以上、何らかの根拠があったハズだが、ただなぜこのような、多少無理筋に思えるような記述を残したのだろうか。
その解を解くヒントとしてさらに邪推すれば、マツダのオート三輪第一号、DA型の存在にあったと思う。ダイハツの社史の編纂時点で最大のライバルは言うまでもなく、マツダであった。そのマツダがツバサ号(HB型)を追うようにして遅れる事わずか2カ月の1931年6月、DA型の内務省の認可を得ていた(④-19、P170)。
マツダの社史(「東洋工業50年史」(⑰、P56)、(⑲、P12)も同様の記載)によれば、マツダDA型の生産が1931年10月から始まっており、このDA型は後述するように、チェーン・ドライブ方式だがデフ付きだった。最大のライバルであったマツダに対して、“自動車史”の上での些細な出来事だが、デフ付きの登場次期で、けっして負けたくないという“意地”があったのかもしれない。
(何度も似たような表を出している気がするが、下の表は、1931年から1940年の、ダイハツとマツダのオート三輪の生産台数だ。データはそれぞれの社史(㉙と⑰)による。ダイハツとマツダの1931年の生産台数はそれぞれ、177台と66台で、1932年で667台と452台だった。後発組であった両社の本格的な生産/販売は、いずれにしても1932年からだったと思えるのだ(④-19、P170参考)。
m102.png
15.7-18ダイハツはマツダの市場参入を強く意識していた?(私見)
当時のダイハツとマツダの関係について、もう少し考察してみたい(何度も記すが全くの私見です。)ダイハツはHD型において、デフだけでなくマツダにはなかったプロペラシャフトまで一気に装着し、新たに登場した強力なライバル企業に対して、迎え撃つ準備を整えたようにも思える。
元々オート三輪の市場はダイハツから見た場合、競合はくろがねくらいで、他は『小企業者主として手工業により僅かに製造を続けていた』(㊴、P36)』零細業者が相手で、当初は“楽勝?”な市場だと思って参入したオート三輪市場に、マツダがいきなり登場した時は、相当な衝撃を受けたはずだ。
この時のダイハツの認識としては、マツダの登場を、広島のいちローカル企業の市場参入とは捉えなかったはずだ。海軍工廠の一次下請け企業としてダイハツと同レベルの優れた技術力を有し、しかも当時非常に強い勢力を誇った新興財閥の日本窒素系の企業であるという、資本面も含め強力なバックを併せ持った手強い競争相手として捉えたはずだ。
さらにマツダは、量産型に先立ち1930年の秋に完成した初のオート三輪の試作車の段階では、シャフトドライブ方式、後退付き変速機、差動装置を自ら製作してまとめあげたという記述がある(⑰、P51,⑲、P12)。1年後の量産型のDA型では、チェーンドライブ駆動に戻されたが、ダイハツ側とすれば脅威に感じたはずだ。
さらにさらに、販売でも大三菱商事が受け持つという盤石な体制でスタートしており、その証としてマツダ号の燃料タンクには、当時の日本の製造業としては最高の信用の証である、スリーダイヤが輝いていたのだ!
しかもダイハツの地元大阪の経済界では、マツダを率いる松田重次郎の名前は、信管の大量生産を成しとげた実績もあり、十分轟いていただろう。そんな後発のマツダに対しての強い警戒心と共に、ここは踏ん張りどころで、絶対に負けられないという、ダイハツの意地というか決意のようなものを、HD型からは感じとれるのだ。(再三記しますがまったくの独断と偏見です。以下の画像はブログ、
http://masuda901.web.fc2.com/page5dhx53c.htmlさんからコピーさせて頂いた。スリーダイヤが輝くマツダ車の燃料タンク。)
m103.png
http://masuda901.web.fc2.com/mzdtcs3.jpg
 話をダイハツのHD型やマツダのDA型に戻し、追記しておくと、両車は後退用ギヤ付きの変速機を標準採用していた点でも新しかった。通常はオートバイ用の変速機を流用したため、前進用だけだったが、狭い道を引き返す時など不便だったのだ(②、P179等)。ただこれもマツダやダイハツ以前から採用例はあったという記述があり、(たとえば⑰、P51やweb⓫、P98、)シャフトドライブ+デフの採用と同様、オート三輪としても本邦初ではなかった点も記しておきたい。
15.7-19一次伝達系を最初にシャフトドライブ化したメーカーがどこかは不明(余談)
 全くの余談な上に、大した話でもないが、ダイハツがHD型でシャフトドライブ化したのはパワートレーン系全体の中の、二次伝達系であった。『~ 従来はエンジンのパワーをホイールに伝達するのは、オートバイと同じようにチェーンが用いられていた。エンジンから変速機までの一次伝達、さらに変速機からホイールまでの二次伝達ともチェーンが使用されていた。一次伝達の場合はエンジン回転が減速されるからトルクのかかり方は小さいが、二次伝達の方は大きなトルクがかかる。まして、オートバイと違って何百キロもある荷物を積んで走るから、オートバイ用のチェーンではすぐに緩んだり、切れてしまうという問題を抱えていた。一次伝達用のチェーンの3分の1ほどの耐久性しかなかったという。』(②、P180)。そしてそれらの問題点を一気に解消したのが、ダイハツHD型だったのだが、一次伝達系は従来同様チェーン・ドライブのままだった。しかし市場の急拡大と共に、業界の進歩は早く、さらにその数年後の『~37年には一次伝達もシャフトによるものが主流となった』(①、P179)のだという。この一次伝達系を、最初にシャフトドライブ化したメーカーがどこだったのか、結局調べきれず、わからなかった。少々残念です。
(下はダイハツHD型を上から見たところ。写真と以下のコメント『1931年にHB型を改良したHD型ですが、こうしてガン見すると荷台を取り付けたバイクですね♪』はhttps://green.ap.teacup.com/hourou2009/807.htmlより引用させて頂いた。確かにその通りで、すべてがむき出しだ。そしてこのダイハツHD型(当時はつばさ号だったが)三輪トラックこそは、確かに“日本自動車殿堂 歴史遺産車”の解説文の通り、『三輪自動車を技術的に完成させた』(web❼-1)という歴史的な意義からしても、戦前の日本のオート三輪車を代表する1台だったと思う(例によって私見です)。)
m104.png
https://green.ap.teacup.com/hourou2009/timg/middle_1315991301.jpg
15.7-20 “ツバサ号”から“ダイハツ号”へ(日本エアブレーキとの決別)
1933年6月、ダイハツは日本エアブレーキとの提携を解消する。先に記したように、同車はオート三輪事業にそれほど積極的ではなく、またダイハツも出資していたとはいえ、主体は神戸製鋼所だったので、ダイハツの意向に従うこともなかったのだろう。
ダイハツ(発動機製造)製ではあったが元々は日本エアブレーキのブランド名であった「つばさ号」から、最初の試作車のHA型で命名された「ダイハツ号」に戻したHF型で、ダイハツのオート三輪は新たな再スタートを切る。なお会社名も「発動機製造」から「ダイハツ工業」へと切り変わるのは、戦後の1951年12月だ。(「つばさ号」の名はその後も日本エアブレーキ製のオート三輪車に継続して使われた。下の写真も「日本自動車殿堂」(web❼-1)からの引用で、ダイハツと別れたあとの日本エアブレーキ製のオート三輪「ツバサ号」の代表モデルのHK型。しかしこのHK型は(㊴、P159)の記載を信じれば、HD型と併行的に生産したとあり、シャシー設計と生産は、日本エアブレーキ側の主導で行われた車両だった?以下の文も(web❼-1)から引用『~二輪前部に鋼板プレスBMW型を採用。リア車台もダイハツ車とは別設計で1940年代まで生産、販売が日本エアーブレーキ側で実施された。』
m105.png
https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcT43j2a2PNyApz1qsEp819HaTDmM5pHJMjcMg&usqp=CAU
(なお余談だが、車体部分についての進化についても、参考までに①から引用しておくと、『 ~ 骨格部分となるフレーム構造は、1920年代以来、引き抜き鋼管と鍛工材の組み合わせだったが、1937年頃にはプレス鋼板へと四輪自動車並みの構造に強化されていった。またフォーク部分の設計も進化をとげた結果、車体全体の強度が高まり、その結果積載量も、32年に60貫(225kg)だった積載量が37年には400kgに増大した。』(①、P176)エンジン出力の増強とともに、車体側も強化され、積載量の増大につながったようだ。そして車体系におきた構造上の進化も、自社で一貫生産が可能な、量産規模の大きい大メーカー側に有利に働いた。
こうして後発組のダイハツと次に記すマツダが大きく躍進したことで、オート三輪業界は新たな段階を迎えることになる。)
(さらに余談だが、ダイハツは戦後、二輪車生産のためにツバサ工業を設立し(1952年9月)、二輪車に生まれ変わったカタカナ名の「ツバサ」がダイハツの販売網を通じて販売されたという(⑭、P18)。下の画像は「モーサイ」からのコピーで、1959年ツバサ・ファイター125HC。
詳細はそちらを参照して下さい。https://mc-web.jp/archive/history/21345/2/
m106.png
https://mc-web.jp/wordpress/wp-content/uploads/2020/01/tettai1-2_003_fighter.png
15.7-21かつて日本の自動車業界で、EVに(唯一?)熱心だったのはダイハツだった!(余談)
(さらにさらに余談だが、ダイハツはさらにずっと後年の1974年、ダイハツ自身のブランド名で原付三輪車の「ハロー」の販売で、三輪車を復活させる。そして翌年には、その電動版まで販売する。当時の日本の自動車業界で、電動化にもっとも(唯一?)熱心だったのは実はダイハツだったのだ。下の写真はハローの前の1971~1974年の間に、少数が市販されたDBC-1型。電動三輪車で初期のミゼットをほうふつとさせる。それにしてもなんとキュートなデザインなのだろうか。50年後の今日の目でもけっして色褪せておらず、多少アレンジを加えれば十分モダーンなクルマになり得ると思う。
画像は「ハロー!ダイハツ【ダイハツ工業公式のツイッター】」よりコピーさせて頂いた。https://twitter.com/hellodaihatsu/status/1306790045710385154
しつこいようだがもう一度記す。地元大阪で開催された1970年の万国博覧会会場構内用の電気自動車納入あたりに端を発して、日本の自動車業界ではかつて、電気自動車=ダイハツというイメージが、長い間あったのだ。せっかく長い間、たぶん採算度外視でがんばってきたのであろうその基盤を、いよいよ“本番”を迎えつつある現代に継承できなかったのが、何とももったいなかった。EVはイメージ戦略が重要なのだから・・・。日本でなくてもたとえば、かつてのミゼットやトゥクトゥクで関連の深い東南アジア市場で現地メーカーと組み、現代版のDBC-1型でも展開できればなどと、素人考えでは思ってしまうのだが、如何だろうか。ちなみに当時の主な販売先は新聞の配達用だったようだ。)
m107.png
https://pbs.twimg.com/media/EiKXx4cU4AEWeIj?format=jpg&name=large
15.7-22 750cc化は手堅く単気筒でいく
 話をEVから戦前(の単気筒エンジンの話題!)に戻す。1933年8月の小型車の車両規定の750cc化に際して、ダイハツは新たなエンジンを開発する。ちなみに法規改正以前から、500ccエンジンを拡大する形で、小型車の枠を超える670cc型エンジンをラインナップに揃え、より大きな荷物を積みたいという需要にこたえていた。このあたりはマツダもくろがねも同じ事情だったようだ。
750cc型エンジンの開発で大きなポイントは、単気筒でいくのか、それとも振動・騒音面で有利な2気筒でいくかの選択だ。『当時の技術水準では単気筒の最大排気量は650cc程度まで』(①、P179)と一般的には言われていたという。既述のように、くろがねはV2エンジンを選択した。ハーレーやインディアンなど外国勢も750ccクラスになると2気筒の選択だった。そんな中で、ダイハツは何を選択したのか、以下(②、P36)より引用する。
『オート三輪用はシンプルであることが求められたが、750ccという排気量で単気筒ではシリンダーが大きくなりすぎるという懸念があった。
とくに当時のエンジンはサイドバルブ式であったから、熱によるひずみが大きくなり、トラブルにつながる可能性があった。
しかし、オート三輪はコストがかからないものにすることが重要であると、ダイハツは単気筒を選択した。』
くろがねが選択したV型2気筒エンジンも検討したようだが(⑦、P181)、ここでもダイハツ流に技術に溺れることなく、手堅い道を選択した。以下(①、P194)より引用『1935年には、「メーカーの乱立による自由販売競争が目に見えて激しくなった」と言われたが、その過程で性能競争はもとより、価格競争も重要なポイントとなった。』
ダイハツの読みはあたった。オート三輪は、単気筒エンジン特有の“バタバタ”とやかましい音をたてながら、忙しく走り回るその姿から「バタバタ」、「バタンコ」とも呼ばれていたが、ダイハツは安い輸送手段を求め、“バタバタ”とせわしなく動き回る使用者側の気持ちを、くろがねよりもよく、理解していたのだろう。
こうしてダイハツは、単気筒500cc,670cc,750cc(⑭、P48の記述に従えば、正確には498、667、736cc)の3タイプのエンジンを揃えることになるが、さらに1934年には、エンジンは750ccのままだが、大きさは小型車枠を超える、全長3mで1トン積みという、より大型のオート三輪も追加し、盤石な体制を整える。(写真は(web❼-1)から引用させていただいた、1933年に発売されたHF型。(同じ写真だが②によれば、“HT”型になっているが?⑱、P13でも“HF”としているので、HF型の写真としておく。新型750ccエンジンを初搭載し、同時にフレーム、荷台等、各部の強化も図ったようだ。なおダイハツ号の型式はその後も目まぐるしく変わり、『HT、SA、SBを経てSC型となり大東亜戦争に突入した』(㊴、P162)車史にはあるが、その間、どこがどのように変わったのか、まったくわからないので、説明はできません…。)
m108.png
15.7-23販売網の整備
 次にダイハツの成長を裏から支えた、販売網の整備について記す。1930年には全国で300台程度であった(②、P37)販売台数が、わずか5年後の1935年には1万台まで需要が急増する。驚くべき市場の拡大だ。その需要の急拡大に対応すべく、各社が競い、販売網の整備に取り組んだ。
今までオート三輪の販売を担っていたのは、オート三輪製造業者が、日本内燃機を除けば自転車関連商工業者が多かったことから当然だが、自転車販売店が中心だった。
しかし市場の急成長と、企業活動のルーツが自転車以外であったダイハツとマツダの進出があり、販売店も、オート三輪の専売店が次第に増えていったようだ。だがその専売店も自転車販売店からの転出が多かっただろうと思われる。
下の表(表18「小型車販売修理業者―取扱車種別店数 (昭和 9~10 年当時)」(「日本自動車整備産業形成史」小川秀貴(web❾)P84より転記させていただいた)をご覧いただければわかるように、ダイハツは地元大阪に偏らず、全国にまんべんなく販売店網を確立したことがわかる。それに比べると日本内燃機(ニューエラー)は地方に薄く、この表の時点では三菱商事に販売を頼ったマツダも東京以外が弱かった。
m109.png
それらライバル企業と比べて、ダイハツの販売網は販売店の数から言っても、ダントツと言っていいほどの強力さだ。以下は上記の表と多少時期がズレているが(②、P37)より引用『販売の伸張に伴って、販売店の整備も進んだ。~戦前の最盛期となった1937年(昭和12年)には国内販売店28店、海外5店、特約店は131店に増加した。』確かな商品力と、その販売を支えた強力な販売網が、ダイハツを業界トップ企業へと押し上げた。以下(⑭、P15)からの引用で、この時代のオート三輪の国内の地区別の販売状況についてまとめると
『第二次世界大戦直前の1936年度のベストセラーはダイハツであり、マツダが2位、3位ニューエラと順位はほぼ不動だった。これ以下のメーカー順位は地区によって異なり、東京での人気車はウェルビー(新会社の山合製作所製670cc、京都)、イワサキ(新会社の旭内燃機、大阪)。大阪では地元のイワサキ、兵庫県の2社HMC、ツバサが続いた。愛知では地元のミズノが独自の水平横型単気筒に前輪駆動方式で2位とマツダを抜き、以下ジャイアント、ニューエラ、ウェルビーが続いた。』⑭には実に様々なメーカーの、当時のオート三輪の写真が掲載されているが、その中にあってダイハツの絶対的な優位は揺るがなかった。以下も(⑭、P16)より『この頃には、どの三輪も技術的には差がなく、販売網の充実とアフターサービスが売れ行きを左右した。』
以下は海外展開について、(②、P37)から続ける『海外では、その後樺太、満州、朝鮮、台湾、青島などの日本領土あるいは日本人が多く住む地域を中心に販売された。』今まで見てきたように、オート三輪は元をたどれば人力車や自転車から発展したものだ。そして戦前の自転車産業は、満州、朝鮮などいわゆる「円ブロック圏」に盛んに輸出されていたことを思えば、その延長線として、将来的には当然、輸出の拡大を期待していただろう。
15.7-24池田工場の新設に踏み切った3つの背景
戦後世代の我々からみれば、ダイハツといえば大阪の池田(現在の本社所在地は大阪府池田市ダイハツ町)が拠点の企業だが、創業の地は同じ大阪でも現在の「新梅田シティ」の辺りだったという。『順調に売り上げを伸ばすダイハツでは、1936年(昭和11年)になって、工場設備の増設を図り、月産450台体制を敷いて販売の増加に対応した。』(②、P37)
しかし需要予想はさらに上回り、ダイハツはさらなる増産に備え、同じ大阪の池田市へ工場を新設する。その操業開始は1939年2月だったとダイハツのHPには記されている。しかし工場は戦時体制へと切り替えられたため、戦前に於いては自動車を増産することなく終わったが、ダイハツの主力工場として、戦後のオート三輪全盛時代の躍進を支えていくことになる。ここでは池田工場建設の目的を、3つの側面から見ておきたい。まずは戦前のオート三輪市場の拡大について、確認したい。
15.7-25オート三輪市場の急拡大
オート三輪車の市場拡大については何度も記してきたので重複するが、ダイハツ、マツダ、くろがねの時代であった、1930年代後半について、表で示しておく。下の「表16;自動車生産台数の推移(1935~1945)」(戦前期日本自動車産業の確立と海外展開(上)上山邦雄より引用)をご覧いただきたい。1930年代半ばごろの、日本の自動車生産に占める、オート三輪(小型三輪車の項)の台数の大きさがわかる。池田工場建設の検討時期は、時期からすると、1936~7年頃だったと仮定すれば、下表の1935年の生産台数の10,358台に対して、1937年には15,236台と、約×1.5倍も大きく増えた。『(オート三輪の)車両価格も、エンジンの大きさや仕様の違いによって、700円台のものから、1500円もする高級なものまであった。およそ1000円といったところが平均的な価格だったが、このころのフォード車は2800円ほどであったという。』(⑤、P33)前回の記事で記したように、この時代の日本の自動車市場は、フォードとGMの植民地状態だったが、オート三輪は直接対決を避けた、狭い日本に独自の、便利な乗り物として完全に定着したのだ。
この勢いのまま市場が順調に拡大していけば、当時の本社工場だけでは早晩行き詰まるとの判断だったのだろう。ただ実際には、1938年からは戦時体制に移行して、民需がほとんどだったオート三輪業界に、逆風が吹くことになる。
(表19「自動車生産台数の推移(1935~1945)」(戦前期日本自動車産業の確立と海外展開(上)上山邦雄より引用)
m110.png
15.7-26本業?のディーゼル機関や鉄道用機器類の生産も伸びていた
 この時期のダイハツは、従来の主力製品だった蒸気機関用ストーカー(自動給炭機=蒸気機関のボイラーに石炭を供給する装置;wikiより)等鉄道用機器類や、各種ディーゼル機関の生産も、一時の不況を脱して好調だったようだ。ダイハツの事業全体としてみれば、もはやオート三輪事業が主力に移っただろうが、従来の事業も好調だったため、より一層手狭に感じただろう。
15.7-27小型四輪車分野への進出を計画していた
 もう一度、上の「表16」をご覧いただきたい。オート三輪と比較すれば、まだ台数は少なかったとはいえ、次項で記す小型四輪車市場の急成長が目に付く。1935年から1937年にかけての台数の伸びは、オート三輪より大きかったのだ。750cc化で四人乗りが認められてダットサンの量産が始まり、アメリカ式の派手な広告宣伝で需要を喚起し、日本でも初めて、オーナーカー需要が芽生え始めたのだ。
ただ実際には、ダットサンの販売台数の約半分は小型トラックだったという。以下(⑧、P60)より当時のダットサンについての記述を引用
『~しかし現実にダットサンを営業面で支えたのは、全国の中小企業や小規模商店などで、自転車やリヤカーに代わって重宝がられた“ダットラ”だったのである。~ 単年度でピークの生産に達した1937年度の8353台のうち、トラックは4775台(57.2%)を占めていた。』デパートの配送なども含めオート三輪とは異なる上級の小型トラックとして使われ始めた。
ダットサンについては次の記事で記すが、今日現存する戦前のダットサンが、オーナーカー向けのセダン、4座フェートンや2座ロードスター多いので錯覚されがちだが、実際にはパネルバンやピックアップトラックの販売台数が多かったのだ。
そしてこの市場に、オート三輪で力を蓄えた実力派のダイハツとマツダが当然のごとく目をむける。マツダについては次項で記すが、ダイハツは1937年に、オート三輪用とはまったく異なる空冷水平対向2気筒、732ccエンジンを搭載した小型車規格の四輪トラックを完成させて、いよいよ四輪車へと進出する。(①、P187)には、『38年には500トンのプレス機を設けて大量生産への準備を進めた』とあるが、これも四輪小型車進出を視野に入れた、気合の入った投資だったのだと思える。
しかし時代がそれを許さず、まもなく販売中止に追い込まれたという。(下の写真はRJC(自動車研究者ジャーナリスト会議)の、「ダイハツの100年をかいま見る」http://www.npo-rjc.jp/daihatsu/ (web❿)よりコピーさせて頂いた、1937年のダイハツFA型小型四輪トラック。同記事によれば約200台生産されたというが、残念ながら現存車はない。(⑦、P182)にはこの時代の同クラス車のお手本だった、オースティン・セブンをモデルにして作られたとの記述がある。エンジンはオート三輪用とまったくの別もので、空冷水平対向2気筒732ccだったが、全体としてはセブンを参考にしたと思われる。ちなみにこのエンジン、オート三輪用としては使われなかったが、戦後の三輪乗用車の“bee”に生かされることになる。なおダイハツはFA型を完成させた1937年、陸軍の求めに応じて、1,200ccの小型四輪駆動車の試作を行っている(試製九八式小型乗用車)。(⑫、P196)によれば、日本内燃機、陸王内燃機、岡本自動車、京三製作所との競作で、この計画は結局試作だけで終わったが、⑫によれば、ダイハツのエンジン形式はV2型だったと記されている。(web❿に写真があります)。
m111.png
http://www.npo-rjc.jp/daihatsu/
15.7-28 1937年が戦前のオート三輪のピークだった
(表16)をご覧いただければわかるが結局、オート三輪の戦前のピークは1937年だった。この年ダイハツは5,122台を販売し、もちろんオート三輪の業界トップで、一社で全体の1/3以上を占めた。ちなみに2位はマツダの3,021台とかなり差があった。小型四輪車、ダットサンの生産台数のピークもこの年だったが、オート三輪にとってもダイハツにとって良い時代はここまでで、次項で記すが戦時体制への移行が強まると、純粋な民間向けであったオート三輪の生産は次第に抑制を余儀なくされていく。(下の写真はブログ“七転納豆”さんよりコピーさせていただいたもので、写真展「昭和の日本 自動車見聞録」
のもので、“戦前の神田の上田屋書店”の光景。
http://blog.livedoor.jp/taiji141/archives/65817453.html
m112.png
https://livedoor.blogimg.jp/taiji141/imgs/9/a/9adc8820-s.jpg
15.7-29戦時体制下のダイハツ
 最後に、統制経済体制が強まった、1938年から終戦までのダイハツの歩みを簡単に記して、ダイハツの項を終えたい。
 1938年の生産台数は4,396台で、前年から台数を大きく落とすが、この時点では需要減が原因ではなかった。『日本国内の各種産業の生産増強のための需要は強かった。』(13、P176)
しかし統制経済が進み、軍需品の生産が優先された結果、『三輪自動貨車は軍需とは最もかかわりが薄かった』(⑬、P176)ため、戦時に役立たない、不要不急なものと扱われた。そのため材料の供給が滞り、生産が落ち込んでしまったのだ。
 こうなるとせっかくの池田工場新設も役立たずで、ダイハツの増産計画は頓挫する。
 戦時体制下のダイハツは、日本内燃機のように、軍需企業へと積極的な転換をはかることはなかったが、軍にとってもダイハツの技術力と生産力は魅力で、鉄道車両部品や舟艇用ディーゼルエンジン等の生産で、軍の期待に応えた。
15.7-30戦時統制政策がオート三輪に与えた影響ついて
 ここで戦時体制下の、オート三輪業界全般に対して、統制経済を推し進めた当時の商工省が行った施策とその影響について、まとめて記しておく。
既述の通り、それ以前の商工省のオート三輪業界に対しての政策は、内務省と連携しつつ、過度な介入はせずに、自然な形で市場が拡大しそれに伴い産業が栄えるのを裏から支えてきた。
しかし陸軍を中心とした軍部の力が大きくなり、それに呼応して商工省を中心に革新官僚が台頭し、当時のドイツの産業合理化運動に強く影響を受けた、戦時統制経済を推し進める頃になると、様相が変わる。陸軍からは軍用車としての価値が低いと断じられ、冷淡に扱われるようになり(⑬、P171)、オート三輪車の業界は、時代の波に翻弄されていく。
この項では商工省が行った政策のうち、標準車の設定と生産の統合について触れておきたいが、その前に、統制経済下におけるオート三輪業界を取り巻いた全体の概要を先に記しておく。(web⓫「戦前・戦後の三輪自動車産業についての一考察」片山三男)の論文に手際よくまとめられていたので、以下そのまま引用させていただく。
15.7-31不急不要物資に分類される
『~1936年7月の「自動車製造事業法」の制定以降、自動車産業への統制は強まり、保護の枠外におかれた三輪自動車の生産規模は、縮小の傾向を辿る。1937年7月の日中戦争勃発直後には「輸出入品に関する臨時措置法」によって小型車(四輪、三輪、二輪を問わず750cc以下の自動車)は不急不要物資に分類され、「臨時資金調整法」では小型自動車生産では融資分類の丙類に分類され規制を受けた。さらに1938年3月の「揮発油及重油販売取締規制」では燃料が規制され、6月の「物資動員計画」では原材料が配給制となり、三輪自動車生産に必要な資材のうち約半数が規制の対象となった。軍用に適さずとして資材・資金の両面から規制が加えられ、民需用三輪車の生産は完全に行き詰まった。』(web⓫、P99)
先に記したように、需要面では引き続き旺盛だったが、統制経済が進み、軍需品の生産が優先された結果、不要不急なものと扱われたため材料の供給が滞り、生産が出来なかった。そのような情勢の中で、商工省は生産縮小に向けて、車種の統一と生産の統制に乗り出す。以下は①、②、⑪等を参考にして、まずオート三輪車業界の生産の統合について簡単にみておく。
15.7-32オート三輪業界の統制
 先の(表16)をご覧いただければわかるが、オート三輪の生産台数がピークだった1937年の15,236台に対して、1940年は資材の供給不足が原因で8,252台とほぼ半減していた。ちなみにこの間、普通車の生産は10,239台から43,706台へと急拡大している(同じく、表16参照)。当時の自動車業界の産業政策全般を司った商工省は、主力の四輪自動車市場を席巻していたフォード、シヴォレーに対抗するため、前回記事の13.3項で記したように官主導による「無から有を生む」、強引かつ強力な産業政策で国産四輪車産業の育成を試みていた。
さらに太平洋戦争に突入した翌年の1941年には、オート三輪の生産は4,666台へとさらに半減するのに対して、普通車の生産台数は43,878台と戦前のピークに達する。商工省のオート三輪業界への介入の目的が、普通車とは正反対で生産拡大ではなく、その逆で、資材の供給を極力抑制し、生産縮小を円滑に行うのが目的であったことは明らかだ。
(⑪、P432)によれば、『~本格的な小型自動車工業の整備統合を行おうとしたが、その前提として商工省は最初に小型自動車部品工業の整備統合に取り組んだ』というが、長くなるのでこの件は省略する。(⑪、P434に組合員の一覧表があるが、多くは普通車の部品製造業者と重複していた。ちなみに85社だった。)
15.7-33オート三輪の生産は4社(事実上は3社)に整理
以下は(⑬、P176)より『小型車の製造メーカーは生産を中止させられたわけではなく、資材供給が抑制され、事業継続が難しくなったというのが実態に近い。このため製造業者の統合が行なわれ、23社あった小型自動車の製造業者は1942年5月の「企業整備令」により6社にまで整理されてしまった。こうして決められた事業者が細々と小型車生産を継続させることとなる。』戦時体制下で不急不要物資に認定されたオート三輪業界に、物資の供給を極力絞るためにとられた処置であった。
以下は(②、P38)より『太平洋戦争が始まると、さらに厳しくなり、商工省の斡旋によって、三輪自動車業界の統制が実施されて、オート三輪車を生産できるのはダイハツとマツダと日本内燃機の3社に限定された。そのほかの企業はオート三輪車を作りたくても資材が供給されなくなり、転身を図る以外に方法がなかった。』(①、P245)に掲載されている、戦時期のオート三輪各社の生産台数推移表をみると、敗戦時までオート三輪の生産を維持していたのは上記3社のみだったので、②の記載のように、実質的にはこの3社だったと言って間違いとは言い切れないが、正式には4社に整理されたようだ。『1942年5月に「企業整備令」が交付されてからは、小型車業者の間で自主的に統廃合の議論が進展し~43年4月までに三輪車4社(発動機製造、日本内燃機、東洋工業、帝国製鋲)二輪車2社(宮田製作所、陸王内燃機)に整備されることになった。』(①、P247)
私見だが、資材の供給を絞る目的以外にも、ドイツの産業合理化運動に強く感化され、官主導による上から目線の整理・統制が好き?だった“革新官僚”の目から見れば、その真逆でお上に頼らず自由主義経済的な環境で育ったオート三輪業界は『乱立気味』(⑪、P432)で、合理性?に欠けていて、目障りに映った面もあったのではないだろうか。15.5-29項の“あんぱん論”も参照して下さい。
(ここで一般では聞きなれない会社名の“帝国製鋲”について、M-BASE(web❹-3)より解説しておく。『ジャイアントのルーツは名古屋市で自動車部品の販売を行っていた中野嘉四郎が、1931(昭和6)年にジャイアント・ナカノモータースを創業し、スイスのモーターサイクルメーカー、モトサコシ社製MAG(Motosacoche Acacias Genève)エンジン(498cc 空冷単気筒OHV 20馬力)を積んだ三輪車を製作し「ジャイアント」のブランド名で発売したのが始まりであった。1936年には自前の水冷単気筒とV型2気筒エンジンを完成させるが、1937年にジャイアントの権利一切を帝国製鋲(注;大阪市に本社を置くリベットメーカー。1942年に帝国精機産業に改称)に譲渡する。』(⑭、P15)から補足すればそのエンジンは『同県の高内製作所製(後にみずほ自動車のキャブトン)水冷650cc、750ccエンジンなど4輪ローランド用を基本に開発したものを搭載』とあるが、しかしローランド号は自技会の情報(https://www.jsae.or.jp/autotech/1-6.php)によれば侠角25°V4エンジン(目黒製作所製)ということになるが?ただ中部地区には当時「中京デトロイト化計画」があり、そことの関連も多少あったのかもしれない(不明ですが)。(①、P178)の表の記載では2気筒で、まさか4気筒だったとは信じがたいが、いずれにしても水冷の、かなりの高級仕様(高コスト品)だったことは確かだろう。また余談ながらM-BASEより同社の戦後についても引用すれば『1947年に愛知起業(注;日本海軍向けの攻撃機、爆撃機、水上機等を製造し、戦前は日本の五大航空機メーカーの一つであった愛知航空機が戦後社名変更)が帝国精機産業からジャイアントの権利一切を譲り受け、三輪車の生産を開始した。1949年5月、企業再建整備法により愛知起業は新愛知起業として再出発し、1952年12月、愛知機械工業に改称している。』ジャイアントは戦前から水冷エンジンが特徴だったが、愛知機械の前身の愛知航空機も、海軍の液冷エンジンを担当していた点も、奇遇というか興味深い。(下の写真は戦後のモノだが、気田森林鉄道(静岡県西部の山奥にかつてあった全長は約33kmのこの森林鉄道で、路線図は以下参照して下さいhttp://marukado.blog75.fc2.com/blog-entry-2682.html)の建設に活躍したという、ジャイアントの後ろ姿。「山里の近代化と気田森林鉄道⑩―トラック、三輪自動車も活躍」よりコピーさせていただいた。
https://arukunodaisuki.hamazo.tv/e7399844.html 以下引用。
『先ず最初の1枚は、題名が「三輪トラックに生活物資を積込む」。「谷(場所)によっては軌道付近に三輪トラックを利用、飯場へ生活物資を搬入 車の名称はジャイアントと記憶 当時人気があった 篠原貯木場 昭和31年頃」との説明が付いています。』山奥の狭隘路で行う森林鉄道建設のための資材運搬用に、オート三輪はうってつけの舞台だっただろう。ちなみに戦後、高知には、トクサン号という、林業輸送用の特大型の三輪トラックメーカーまであったことは、先にふれたとおりだ。絶滅寸前だったオート3輪を最後まで重宝した業種は材木商だったという。)
m113.png
https://img03.hamazo.tv/usr/a/r/u/arukunodaisuki/testudo214-s.jpg
続いて①及び、(②、P38)、(⑪、P432)等からの引用で、標準車両への統合について記す。
15.7-34オート三輪の標準型式の設定
 以下(⑪、P431)からの引用『自動車製造事業法がフォード、シボレークラスの普通車を国産車の標準型式として設定し、その大量生産体制を確立することを立法目的としたが、国産普通車の標準型式の設定と比べ、小型自動車の標準型式の設定に入ったのは、かなり遅れ、昭和十五年(1940年)商工省自動車技術委員会で取り上げられてからである。』国産普通車に比べて、力の入れようのなさは明らかだ。
 以下は(①、P246)より『資材の配給統制と共に、1941年からは戦時型標準小型車の試作による生産統制も試みられた。これは、当然ながら、標準型を制定して小型車を育成させるためでなく、規格以外の車の生産を全面禁止させるためであった。この計画によって、41年4月に小型車試作専門委員会が設けられ、4種類の型式と試作会社が決定した。』下表を参照してください。同時期に行った生産の統合と、ほぼ同じメーカーが残っている。
(表20「戦時標準小型車の種類」(呂寅満著『日本自動車工業史-小型車と大衆車による二つの道程-(東京大学出版)P247より引用)
m114.png
以下は⑪より続ける。『商工省自動車技術委員会は小型自動車の二輪、三輪車の型式を検討する際、~ダイハツSA6型、同SA7型、同2GA7型』とくろがねが主要に取り上げられた。』(⑪、P432)そして設計と試作車の製作にとりかかる。以下(②、P38)より
『商工省の指導によって、不足している原材料を有効にしようするために、オート三輪車メーカーとして認められた3社の車種を統一し、部品も共通化を図ることになった。ダイハツは640ccエンジンをつくることになり、各社の技術者によって話し合いがもとれ、これにのっとって開発されたオート三輪車が1942年(昭和17年)秋に完成、戦時標準型として関係者の立会いの下に性能試験が実施された。』試験の結果は良好で、1944年から本格的な生産に入る計画だったというが、『戦局の悪化とともに統制は厳しくなるばかりで、このオート三輪車が生産に移されることはなかった』(②、P39)という。
 ダイハツはその後も、ガソリン不足に対応して、『薪を燃やして発生したガスを燃料とする1280cc、V型2気筒エンジンを試作したが、販売するには至らなかった。』(②、P39)という。
(下の画像はトヨタ博物館公式HPより、同館所蔵のダイハツのオート三輪、SA6型(670cc)だ。1937年製ということなので、戦前の生産のピークの年に作られたものだ。ダイハツは戦時体制に突入する前に、H型シリーズからS型シリーズへの移行を果たし、型式の最初に“S”が付くこの系列は、戦後も長い間生産されることになるが、先に記したが、この型式変更の意味が、手持ちのどの文献にも記載がなく、よくわからない。勝手に類推すれば、今までパワートレーン系がダイハツで、車体系が日本エアブレーキの役割担当だった(これも想像)が、提携解消ですべてダイハツ製となったタイミングで、設計変更せざるを得なくなったからか?またその頃に、パワートレーン系の一次伝達系もシャフトドライブ化されて、チェーンドライブを全面的に排除したようだが、どの型式からか、不明だ。それにしてもこの写真からは、風格というか、商品としての完成度の高さが漂ってくる。
https://toyota-automobile-museum.jp/archives/car-database/detail.html?id=12915)
m115.png
https://toyota-automobile-museum.jp/archives/images/12915_1.jpg
下図は、①のP187と、P245に記載されていたデータを元に、主な三輪車メーカーの戦前の生産台数の推移をグラフ化したものだ。やはりダイハツの台数が他を圧倒する。
m116.png
 この項は元々ダイハツについての項だったが例によって脱線ばかりだ。脱線ついでにこの場を借りて?第二次大戦後の混乱の時期の、オート三輪を巡っての一つのエピソードを紹介して、15.2項を終えたい。
15.7-35アメリカにはないオート三輪の有用性を占領軍に如何に認識させるか!(余談)
 戦後のスタートも、オート三輪には波乱含みだった。そもそもアメリカには存在しない乗り物の必要性を、占領軍に納得してもらわねばならないという難題が立ちはだかっていたからだ!以下(web⓯、P29)より引用
『~こうした戦前からの三輪自動車への当局の認識は、戦後の統制経済下まで持ち越される。戦前にも増してさらに難しい問題は、軍部に代わる占領軍の三輪自動車に対する認識の欠如である。アメリカには存在しない三輪自動車の必要性をGHQの担当官にどのように説明し、認識させるかが業界がこぞって取り組むべき課題となったのである。』実際にどのようにGHQを納得させたのか、よくわかりませんが。
(戦後ミゼットが対米輸出されたが、ボーイング、ロッキードなどの巨大な工場内の部品運搬用として利用されたという。以下の画像は「名車文化研究所」よりコピーさせて頂いた。https://meisha.co.jp/?p=19614 同記事によれば、アメリカへの輸出台数は案外少なく、約800台だったという。)
m117.png
(下の写真は一転“昭和”の雰囲気が漂うが、月並みな選択で、映画「ALWAYS 三丁目の夕日」より、画像はブログ“青い空に白い雲”さんよりコピーさせていただいた。
http://blog.livedoor.jp/pape2005/archives/50836122.html
m118.png
https://livedoor.blogimg.jp/pape2005/imgs/4/7/4735e1f8.bmp

15.8オート三輪のトップメーカー、マツダ
 オート三輪車の記事を書く上で、ダイハツとマツダのどちらを業界トップメーカーとして扱うべきか、悩ましいところだと思う。個人的な好みで言えば両方とも同じくらい好きな自動車メーカーだし、この記事ではオート三輪の二大メーカーとして扱いたいが、ただ戦前はダイハツの方が明らかに上だったが、戦後に入ると両社はより拮抗し、最終的にはマツダが逆転して業界トップに立ったと扱う自動車史の本が多い。そして同じ世界で覇を競いあったこの両社の企業体質は、面白いことに正反対だった。
15.8-1 1960~1962年は自動車生産台数でマツダが国内トップだった
なんといってもマツダの偉業は『1960年、東洋工業は自動車の年間生産台数で国内メーカーのトップに躍り出て、1962年までその座を守った』(マツダのHP)ことだ。つまりこの3年間は、基幹産業の育成のために、半ば国策に近い形で官民一体で手厚く育てられたトヨタと日産を、売上高ではなく台数ベースだったとはいえ、生産台数で上回っていたのだ!(下の折れ線グラフのマツダの数字は、マツダの社史(⑰)の巻末の資料(なぜか頁がふっていない!)からとったものだ。ミゼットの項で載せた「ダイハツの生産台数の推移」のグラフと、比較が容易なように項目は合わせている。そして参考までに載せたトヨタの数字は自販の社史(㉝)のP74からとったものだが、トヨタの60年、61年、62年の生産台数はそれぞれ、154,770、 210,937、 230,350台だったので、グラフ中に数字を打ち込んだ、同じ年のマツダの台数よりも、僅かずつではあったが劣っていたのだ。ただし、あまりに差が小さいので、このグラフは縦方向に大きく引き伸ばしてある!だが1963年以降のトヨタは、“別世界”に旅立っていくのだが。
もっともこの記事の冒頭で記したように、マツダとダイハツは対トヨタで、1952~55年の間でも、生産台数で上回っていた。しかしその時代は、たとえば1955年は小型三輪トラックが『市場全体の8割以上を占めていた』(⑱、P32)、オート三輪全盛の時代だった。ちなみに1952,53年はダイハツの方が、マツダより生産台数が多かったが。
しかし1960年といえば、小型三輪トラックの市場は大幅に縮小し、コロナもブルーバードも登場後のことで、この年代にトップに立つことは、並大抵のことではなかったはずだ。)
M119.png
一応念のため、ダイハツと日産の台数を加えた表も提示しておく。赤字の部分が、“問題”の部分だ。(下に「表21」として、マツダ、ダイハツの各品目の生産台数と、比較のためにトヨタと日産の台数も追記した表を提示しておく。表中の赤字の部分が、問題の?過小だ。)
m120.png
そんなマツダの歴史については、現存する日本最古の自動車メーカーであるはずのダイハツとは違い、比較的数多くの本が出版されており、web上で公開されている情報も多い。というか、戦前のダイハツの情報量が、少なくとも一般の目に触れる範囲内では少なすぎるのだが。まるで前回の記事の、横浜製フォードに対しての大阪製シヴォレーの情報が圧倒的に少ないのと同じように。
そこで、ネットで容易に検索できて、情報量が多いマツダの歴史に関しては、この記事では“つまみ食い”している程度で、元ネタを確認いただいた方が詳しいのだし、マツダに関してはあえて簡単に扱いたい。(その予定だったのだが、ところが調べていくとやはり不明な個所もあり、“簡単”ではすまなくなってしまった・・・)
(下の写真はマツダを3年連続国内生産台数トップに押し上げる立役者となった、軽のオート三輪のK360(“けさぶろう”と呼ばれていた)。画像と以下の文はマツダのHPより引用『(K360の)3年間の総生産台数は17万台を超え、実に全体の3割近くを占める堂々の数字だった。』以下は当時バイト先でこのクルマを使っていた徳大寺有恒のK360評『K360は丸ハンドルの二人乗りで、とても軽トラックとは思えないモダーンなデザインであった。カラーもピンクとクリームのツートーンと、ずいぶんしゃれていた。~K360は現在、マツダの博物館に残されている。ぼくはそれを見るたびにスティアリングをそっと握ってみて、「ああ、これだったな」と思う。そいつはいま見てもとてもいいデザインである。』(⑮、P213)先行するミゼットに対抗すべく投入されたマツダの軽オート三輪は、センターにバーハンドルで、ドアなしの1人乗りが基本であったミゼットに対し、金属製のドアを備えて丸型ステアリングホイールは通常の自動車同様右側にあった。エンジンはミゼットの2ストローク単気筒に対して4ストロークV型2気筒を運転席背後下のミッドシップにマウントし、静粛性と安定性の高さもPRポイントだった。徳大寺さんは『このクルマはとてもおもしろかった』(⑮、P213)と記していた。多くのスペックでライバルの上をいき、外観は『日本のインダストリアルデザイナー第一世代を代表する人物として知られる(wiki)』工業デザイナー、小杉二郎の手による傑作デザインだった。
https://www2.mazda.com/ja/100th/virtual_museum/episode/episode011.html)
m121.png
https://www2.mazda.com/ja/100th/virtual_museum/episode/img/episode__image--11--02.png
15.8-2東洋コルク工業社長に松田重次郎が就任してから歴史がはじまる
 現在のマツダの前身である東洋工業の元の社名が「東洋コルク工業」であったことは比較的知られている。この記事の表記では東洋工業/東洋コルク工業と正式に記さずに、今の人に違和感のないマツダ(1984年から「マツダ株式会社」に改称)で代表させてしまうが、コルクの製造のために創業したこの会社の二代目社長として、創業の翌年に松田重次郎が就任したところから、その後の自動車に連なるマツダの歴史が始まる。
15.8-3マツダとダイハツでは企業体質が全く異なる
先にマツダとダイハツでは企業体質がまったく異なると記したが、ここからマツダの歴史に入る前に、その解説を、(②、P62)より引用する。
『両社は企業として対照的な特徴があった。どちらも、トヨタやニッサンよりも創業は古く、歴史のある会社である。
 ダイハツは内燃機関をつくるなど最初から技術を売り物にするアカデミックな側面を持つ理性的な企業であったが、組織的にはオーナー企業の色彩が薄く、社員の中から経営者が選ばれることが伝統になり、合議制で運営する組織になっていた。これに対して、東洋工業は最初からオーナーではなかったものの、松田一族が社長として采配を振るう、トップダウン色の強い企業であった。

15.8-4今日のマツダの基礎を築いたのは、松田重次郎・恒次の親子
(②、P62)より引用を続ける。『今日の東洋工業・マツダの基礎を築いたのは、松田重次郎・恒次という親子である。』
実質的な創業者であった松田重次郎のプロフィールについて、地元紙である中國新聞がまとめた本(⑯、P31)より引用『松田重次郎氏 マツダの実質的な創業者。1875(明治8)年8月生まれ。少年期から機械の技術者に憧れ、大阪と神戸の鍛冶屋、呉海軍工廠(こうしょう)や長崎の三菱造船所で腕を磨いた。起業と挫折を繰り返し、1915年に大阪で松田製作所を創立。退任後の20年1月、マツダ前身の東洋コルク工業の創立に役員として参画した。21年3月から約30年にわたり、社長を務めた。初期のコルク製造から機械に転じ、31年から三輪トラックを製造。51(昭和26)年12月に会長。翌52年3月、76歳で亡くなった。』(写真は1960年にデビューした、マツダ初の市販四輪乗用車、R360。重次郎の四輪乗用車の生産にかけた思いは約30年後、親の意志を継いだ恒次の時代にようやく実現した。画像は(web⓱-3)よりコピーさせて頂いた。)
m122.png
https://www2.mazda.com/ja/100th/virtual_museum/episode/img/episode__image--02--01.png
15.8-5東洋コルクに係る前の松田重次郎
(松田重次郎の波乱万丈の人生は、この短いスペースではとても書き尽くせない。多彩な経歴のある歴史上の偉人だが、東洋コルクに係る前の重次郎については長くなるので、今までだと小文字にするところだが、最近自分の視力が落ちて見え難くなってしまい、普通の文字サイズで記す。まずは最初のヒット作?である“松田式ポンプ”について(web⓰)から引用する。『1906年に「松田式ポンプ」を発明し、それを製作・販売する鉄工所を大阪に開設。このポンプは、ダイヤフラム式で灌漑(かいがい)用だけでなく消防、用水、排水、送水など用途が広く家庭用としても売れに入れたという。しかし重次郎は、成功にあぐらをかくのではなく、次の技術向上を考え新しい事業へとシフトしていく。なかでも、大正6年ロシアからの大量発注された軍事部品があった。』信管の大量生産の件は次に記す。下の写真は「広島市に納入された排水用の大型うず巻ポンプと松田重次郎。1913年」(⑳、P43)。不思議な縁で、なんと、発動機製造(ダイハツ)のエンジンを使ったものだという!(⑳、P44)画像はhttps://minkara.carview.co.jp/userid/1946481/blog/43692672/ 
よりコピーさせて頂いた。
m123.png
https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/userstorage/000/052/940/070/b70ba82ed8.jpg?ct=c1dc379701cf
15.8-6信管の大量生産で“大正の今太閣”と称えられるも、挫折
『~ 造船業と並んで大戦期の機械工業の拡大を象徴するのが日本兵機製造のロシア向け信管製造であった。松田重次郎は1912年設立の松田製作所とは別に15年11月にロシア向け信管製造のために株式会社松田製作所(資本金50万円)を設立した。松田製作所に信管製作の話を持ち込んだのはアンドリュース・アンド・ジョージ商会の岡本貞次郎と事業家の山口嘉道であり、山口がロシアのブリンネス・グズネソーフ商会支配人アンドレ・モライチニイから受けた話であった。山口は大阪砲兵工廠の元信管工場長の澤邊春水にも相談した。試作品によってモライチニイの信頼を獲得した松田製作所は、範田龍太郎の支援も得て生産に乗り出した。松田製作所は梅田駅裏の5000坪の土地を阪神電鉄から購入し、トタン葺きバラック式の約3500坪の工場を建て、「機械はモライチニイとの契約が成立した日から手をまわしてどしどし購入した。大阪は勿論名古屋、東京方面へも註文した。(中略)慌ただしい状況のなかで信管の大量生産が進められた。1916年12月に松田製作所は日本兵機製造と社名変更し、信管をはじめとする兵器生産に邁進することになったものの、松田と他の重役陣の意見対立が深刻化し、結局松田は17年3月に同社を離れて郷里の広島に帰郷することになった。』下の写真も(⑯、P28)と同じもので、『信管を製造する松田製作所の工場(1916年)~奥が見通せないほど広い工場で多くの人が働く写真が残る。』(web21、P49)。
m124.png
400万個というロシアからの大量の信管の注文を捌くために、相当大規模な事業だった様子が伺える。結局約1年で納品を完了させて、松田製作所の株価は大阪取引所で第二位となり、巨万の富を得た重次郎は当時“大正の今太閣”とたたえられたという。(⑳、P45~P50より)しかし、上記の文中にあるように、さらに新工場による拡張を、自らが生まれた地の広島に計画したが、他の役員と対立、結局『辞任し広島に帰った』(⑯、P29)。その辺りの経緯を、(⑰、P3)から補足すると、信管の大量受注で膨大な利益を得た松田製作所は、資本金を増資(150→500万円)し、事業の内容を兵器万般の製作に拡大しようという計画し、新工場建設を企てたが、『あるものは計画の膨大さに危惧を示し、あるものは「松田は故郷に錦を飾ろうとしている」』と疑われるなどして、こぞって反対されたという。
それにしても、「ロシアからの信管の大量注文」というフレーズは、どこかで聞き覚えのあるもので、この一連の記事の⑱番目の記事の「8.1東京瓦斯電気工業の辿った道(日野自動車のルーツ)8.1-1第一次大戦の特需で自動車産業に進出(マントルから自動車へ)」でも使ったフレーズだ!いずれも自動車メーカーとなったマツダと日野が企業として形成されていく過程で、第一次大戦のロシアからの信管の大量発注という特需が、大きく影響を与えていた点が興味深い。)
15.8-7大阪は「私を思い切り鍛錬してくれた土地」
(以下(⑯)から引用『重次郎氏は晩年「私を思い切り鍛錬してくれた土地」と大阪を振り返った。ここで磨いた技能や経営感覚が、広島でマツダの礎となった』(⑯、P31)起伏の激しかった大阪時代を、重次郎は振り返る。大阪の地でもまれながらも、技術者としてだけでなく、企業経営者/実業家としても大きな実績を残し、成長を遂げることができたのだ。ちなみに、当時“大正の今太閣”とたたえられたほどの、巨万の富の行方が気になるが、以下(⑳、P60)より引用する。)
15.8-8戦後恐慌の波に飲まれる
『当時、私の周囲には株屋なども群がっていて、実は、誰にも秘密だったが、私は儲けようとの心で、生涯初めて株に手を出した。すると、あの大暴落。私は元も子も無くした。~ 株屋の口に乗った私もどうかしていたが、あちこちの会社に関係していい気になり、自分で働いて事業を伸ばそうともしなかった当時の私は、いちばん恥ずかしい。わが人生、最大の失敗だと思う。このとき、やはり、一人一業であると深く反省させられた。』戦後恐慌の大波に飲み込まれ、『重次郎は、額に汗して働くこと、そして「一人一業」を心に誓った』(⑳、P61)のだが、この気持ちの切り替えがあって初めて、この後、重次郎の事業を支援することになる、海軍工廠長、伍堂卓雄と、日窒財閥の野口遵との信頼関係が築けたのだと思う。)
15.8-9東洋コルク工業時代の松田重次郎
こうして重次郎は生まれ故郷の広島に戻り、1917年に広島の仁保村で新たに松田製作所を創業する。しかし同社はその後、当時国内有数の軍需会社であった日本製鋼所の傘下に入り、1920年には完全に買収されて日本製鋼所広島工場となり、重次郎は同事業から身を引く。前述の株の大損の結果でもあったのだろう。
そしていよいよ、東洋コルク社長に就くのだが、その後についても、やはりwikiが手際よくまとまっているので引用する『松田重次郎はコルク栓を製造する際に出る屑コルクに目をつけ、広島高等工業学校との研究で加熱製法による圧搾コルク板を商品化し、廃材から付加価値の高いコルク製品の製造に成功する。海軍から大量の受注を得て業績は回復し、東京や大阪にも出張所を設けて経営を積極的に展開した』
(以上のwikiの説明に対して、コルク事業に関してのその背景を(⑰、P5)から付け加えると、当時『~中国地方の山間部はコルク原料の一種であるアベマキ~南欧産のコルクガシの代用にされる-が広く分布し、~これをもって瓶栓を製造するものがあらわれ、以後、アベマキコルクの生産は、広島の地場産業のひとつとなった』のだという。
そして東洋コルク工業の前身となる、清谷商会は、戦時中に洋コルクの輸入が途絶えたのに乗じて事業を拡大させたが、戦後輸入が再開されてしまい、さらに国内コルクメーカーの乱立による過当競争で、たちまち経営を悪化させて苦境に立つ。 
そこで清谷商会のメインバンクであった広島貯蓄銀行(現在の広島銀行の前身行の一つ)が融資金回収と事業存続のため、清谷角八の個人経営から会社組織に改める等再建策を立案し、東洋コルク工業が発足することになる(⑰、P6~7要約)。社長は広島貯蓄銀行社長の海塚新八(注;当時広島屈指の資産家で、「広島の渋沢栄一」と呼ばれたほどの経済人だったという(⑳、P61))で、銀行主導であったことを物語るが、役員の人選は『当時の広島財界において主導的な地位にあった人物』(⑰、P7)で固められたという。そして、清谷角八、煙谷孝吉(広島貯蓄銀行専務)らとともに松田重次郎もその中に名を連ねていた。下の写真&説明文はクリッカーより「1920年当時の東洋コルク工業」(web⓬-2)
m125.png
https://clicccar.com/uploads/2020/07/03/49ef72b19c9b2addea8db508ca9b00b7-20200701184522-800x533.jpg
重次郎は東洋コルク工業設立の翌1921年、海塚が体調不良により辞任したのを受けて社長に就任し、コルク栓の製造時に出るコルク屑を、圧縮トルク板にすることで有効活用するのだが、コルクの製造方法に独自の工夫があったという、以下、地元紙、中國新聞の記事より補足しておく。『重次郎氏は10代から培ってきた技術を発揮し、コルク材料を均等に加熱でき、作業効率も高い新型炉を考案。「松田式」と名付けた。冷蔵設備や床の断熱材となる炭化コルク板を生産し「日本一の技術」との評判も得た。』(⑯、P73)従来の工法では、『澱粉糊などを結合剤として使っていたのだが、耐久性に難があった』(⑳、P62)という。
(また上記wikiの、「海軍から大量の受注を得て」という部分の説明を(⑳、P62)より補足すると、当時圧縮トルク板は、軍事用としては砲弾などを保管する際、振動防止のための緩衝材としても多用されていたそうだ。一般的な製氷、冷蔵用の断熱絶縁材として以外に、軍需用途もあったようだ。さらに余談だが、当時“コルク”というものが、今日よりも、日常の生活に役立っていたという補足説明を、(web⓰)より加えておく。『当時、電気冷蔵庫が存在しなかったため、冷蔵庫(アイスボックス)のハウジングにコルクが使われていた。また、ご飯を保温するお櫃のハウジングの内部にもコルクが活躍しており、今以上にコルクは生活の中で必需品だった』(web⓰)という。下の写真はwikiwandより「東洋コルク工業の圧搾コルク板」
m126.png
(下の画像は松田重次郎。マツダのHPよりコピーさせていただいた。以下は“マツダ”の英語表記がなぜ“Mazda”なのについて『英語表記については、古代西アジア(イラン)の文明とともに誕生したゾロアスター教の最高神で、叡智、理性、調和の神とされる「アフラ・マズダー(Ahura Mazda)」の名称を重ね、「Mazda」と決められました。松田氏は、アフラ・マズダーを「東西文明と自動車文明の始原的シンボル」ととらえ、自動車産業の光明となるようにとの思いを込めたといいます。』ただ松田重次郎とゾロアスター教の関係はやはり不明だと思う。以上「乗り物ニュース」https://trafficnews.jp/post/80054 より引用)
m127.png
15.8-10関東大震災と工場火災の悲運
話を戻し、重次郎は海軍からの大量受注を受けて、大阪や東京にも出張所を設けるなど攻勢に出るが、1923年の関東大震災により売掛金の多くが回収不能に陥ってしまう。東京出張所の開設が裏目に出てしまった。追い打ちをかけるように、同年火災により工場設備の70%が焼失するなど(マツダのHP等より)、さらなる悲運に見舞われる。
また輸入品の増加や、頼りの海軍工廠からのコルク板の引き合いも軍縮の影響で下火となり、さらにコルクの商売は、季節変動のリスクも大きかったようだ。あまりの災難に『南米に移住して人生をやり直そうと真剣に考えた』(⑯、P73)程の落ち込みようだったという。
15.8-11東洋コルク工業から東洋工業へ(二人の恩人)
しかしこの逆風をきっかけにして、コルク製造業から、機械関連事業へと大きく舵を切ることになる。生き残りを賭けて、重次郎が目を付けたのが、得意とする機械事業への進出で、地元経済で圧倒的な存在感を放つ呉海軍工廠をはじめとした各海軍工廠向けの、機械部品の下請け工場となる道であった。
15.8-12呉海軍工廠向けの機械部品下請け工場へ
以下(wiki)よりコピーです。『松田重次郎は過当競争となっていたコルク事業から自身が得意とする機械事業への進出を決意。知遇を得ていた呉海軍工廠長の伍堂卓雄に支援を依頼し、日本製鋼所を通す形で注文を取り付け、資金面では野口が保証人となり、芸備銀行から資金を調達した。1927年(昭和2年)には社名を東洋工業株式会社に改称した。』 
以上wikiに、簡潔&手際よく書かれているとおりだが、もう少し詳しく見ていきたい。まず(⑳、P69)より引用より
15.8-13第一の恩人、呉海軍工廠長の伍堂卓雄少将
『重次郎がまっさきに訪れたのは、呉海軍工廠長の伍堂卓雄少将であった。のちには林鉄十郎内閣や阿部信行内閣で、商工大臣や鉄道大臣、農林大臣を歴任する人物である。伍堂は、重次郎が呉海軍工廠からの発注で信管を製造した時、「松田はいい仕事をする」と、重次郎の仕事を認め、重次郎という人間に好感を持った。それから重次郎は、伍堂と親しくするようになったのだ。(中略)
 重次郎は伍堂にこれまでの経緯を説明したうえで、「再出発したい」という決意を伝えた。これに対して伍堂は「相当の援助をしよう」と、支援を約束してくれた。実績のない工場を直ちに、直接受注する資格を持つ「指定工場」とすることはできないため、重次郎と関係の深い日本製鋼所を通して「間接的に注文しよう」と請け負ってくれた。』
(⑳、P68)
15.8-14地域経済にとって大きな存在であった陸/海軍工廠
下に、以前の⑱の記事で貼り付けた表(1902年の日本の工場規模ランキング)を再掲しておく(引用元;web❷、P36)。
m128.png
1902年という、少々古いデータではあるが、マツダの地元といってもいい、呉海軍工廠(さらに近い広海軍工廠も1923年に呉海軍工廠広支廠が独立したもの)はじめ、横須賀、佐世保などの海軍工廠の存在の大きさがわかる。
以下(⑳、P68)より引用『呉海軍工廠は、横須賀や佐世保など、ほかの工廠には設けられていなかった製鋼部、大砲や機関銃などを作る咆こう部、それに水雷部などがあり、軍需工場として東洋一の規模を誇っていた。のちに日本海軍最大の戦艦「大和」を建造したことでも知られる。その事業規模に従って、関係する会社に製品や部品を注文する発注額も、国内事業所トップクラスであった。』
以下は上掲の表のネタ元の(web❷、P36)からの引用だが、戦前の地方の地場産業は、陸/海軍工廠からの発注を基盤として発展していった例も多かったようだ。
『兵器工場や財閥系造船所にある機械工業の技術は地域の大企業や中小企業に次第に移転して機械工業の基盤が作られる。このように機械工業の技術はこれら工場の所在地に移転して地場産業を形成することになる。
表2(注;上の表)の呉の海軍工廠は最も規模の大きい機械工場である。これらの工場は兵器の部品を東洋工業(マツダ)から調達していた。また、この会社の創業者の1人である松田重次郎は海軍工廠に勤務していた経験がある熟練工であった。松田は大阪でも兵器の製造にかかわっていた。更に、当社は1929年に呉と佐世保の海軍の指定工場となっている。また、第2次大戦後、海軍工廠から多くの人材を雇っている。広島から自動車工場が生まれる条件はここに求められる。』

重次郎は既述のように、激動の大阪時代、松田製作所をより本格的な兵器産業メーカーへ発展させようと試みて、挫折した経験がある。過当競争のコルク製造から脱却し、海軍工廠下請けの兵器製造へ事業転換する発想は、元々頭の中にあったようにも思える。
さらに戦後のマツダの発展を、海軍工廠からの優秀な人材が支えた面も見逃せない。社長の松田恒次を支え、戦後のマツダの技術部門を率いた村尾時之助も、呉海軍工廠出身の優秀な技術者だった。マツダと海軍工廠との取引関係の推移について、以下もwikiから引用させていただく。
『1928年(昭和3年)初頭から、日本製鋼所や宇品造船所などの下請工場として海軍関係の兵器や機械、部品の製造を始めた東洋工業は、同年10月に広海軍工廠の指定工場に、翌1929年(昭和4年)1月に呉海軍工廠および佐世保海軍工廠の指定工場となり、航空機のエンジンやプロペラ、軍艦の精密機械などを受注。同年8月には海軍省購買名簿に登録され、従来の第2次下請けの立場から各海軍工廠の第1次下請け工場の地位を確立した。』(下の写真は、三井住友トラスト不動産のHPよりコピーさせて頂いた、「戦艦「大和」を建造した「呉海軍工廠」(昭和戦前期)。
https://smtrc.jp/town-archives/city/hiroshima/p07.html
以下は余談になるが、そもそも『広島県は、日本国軍にとっては戦略的に重要な所』(web28-2)だったという。以下も(web28)からの引用『本州最南端の兵站(へいたん)拠点を広島に定めた陸軍は広島市の宇品(うじな)港まで鉄道をひいて、ここから兵員と武器弾薬、さらには食料など補給物資を陸軍輸送船に積み込み、朝鮮半島や中国本土に運んでいた。一方の海軍は、佐世保や長崎に並ぶ戦略基地を、広島市から南方30キロに位置し、広島湾に包まれている呉(くれ)市に定め、江田島兵学校や海軍工廠など充実した設備を整えていた。』(web28-2))
m129.png
https://smtrc.jp/town-archives/city/hiroshima/images/07-03-01.jpg
 しかし重次郎は後に、官需に頼り、甘んじることなく、バランスをとろうと民間向けの機械製品にも乗り出そうとする。そしてこの充実した工場設備が、オート三輪業界進出に有利に作用することになるが、その話の前にここで、伍堂とともにマツダがコルク事業から機械事業へと転身を図るうえで後ろ盾となった、当時新興財閥と呼ばれた日窒コンツェルンを率いた野口遵とマツダとの関係について、触れておく。
15.8-15第二の恩人、日窒財閥の野口遵(戦前のマツダは日窒財閥系企業だった)
 話を15.3-4.2に戻し、生き残りを賭けた事業転換のために、まっさきに相談した伍堂から、呉海軍工廠の仕事のめどは取り付けた。しかし銀行はそれだけでは融資に、首を縦に振らなかった。『芸備銀行(当時のメインバンク)側から「野口遵の保証」という条件がつけられていた』(⑰、P38)のだ。
後述するが日本窒素の野口遵は、『苦境に陥るたびに「機械屋としての君を僕は信用する」』(⑯、P76)として、一貫して支えて続けてくれたという。しかし今回、銀行が求めた『「野口遵」の保証は、たんなる債務の保証だけではなく、『日本窒素肥料による東洋工業への経営参加』(⑰、P38)を求めてきたのだ。以下も社史の⑰より引用
『こうして、東洋工業の経営陣は、取締役社長松田重次郎、取締役杉本政平、野口 遵、監査役金田栄太郎の4名となったのである。いわゆる広島財界のトップグループが東洋コルク工業を発足させてから11年余りにして、松田重次郎を除く創業時のそれら役員はすべてこの企業を去り、かわって~松田社長以外の全役員が~日本窒素側によって占められたのであった。』(⑰、P39)そして当然ながら、日窒の経営参加と共に資本参加も進められた。
ここで、鮎川義介、森矗昶(のぶてる)らとともに当時新興コンツェルンと呼ばれた、巨大な日窒財閥を率いた、野口遵について地元中国新聞の本より『~日本窒素肥料の創業者。東洋工業を資金面で支援し、取締役を務めた。一時は広島市に暮らし、戦前の地場経済を導く存在だった。』(⑯、P77)参考までに現在、同コンツェルンの系譜に連なる企業として旭化成、積水化学工業、信越化学工業などがある。
試しにwikiで「日窒コンツェルン」を検索すると、1937年時点での傘下企業に、マツダ(東洋工業)も名を連ねている。松田重次郎率いるオーナー企業という側面と共に、戦前のマツダは日窒財閥系企業という側面も合わせ持っていた。しかし重次郎はけっして経営権までを手放したわけではなかった。以下(⑰、P59)より『発行株式の90%近くが日本窒素と松田一族に集中しているのであって、こうした点から、昭和初期の東洋工業の実態は、いわば松田重次郎・野口 遵のジョイント・カンパニーであったということができるのである。』以下も(⑰、P42)より
『松田重次郎は、この野口 遵を事業のよき理解者として、野口は松田を熱心な技術家経営者として』お互い厚い信頼関係が築かれていた中での経営は、重次郎にとっては、地元広島財界グループのうるさ方連中?に囲まれながら顔色を窺いつつ行うよりも、ずっとやり易かっただろう。野口の事業は次第に朝鮮半島へと舞台を移していき、野口自身多忙を極めていたはずで、資本は維持しつつも、マツダの経営に強く関与していたようには思えない。
以下も⑰より『なによりもまず、それによって金融力を向上させたことが、東洋工業にとっては第1のメリットであったといえよう。』(⑰、P42)
15.8-16実は削岩機のトップメーカーでもあった
(実はマツダが、削岩機のトップメーカーであったことはあまり知られていない。以下webの記事“【マツダのトリビア】”より引用『東洋工業は、さく岩機のトップメーカーだった!? コンクリートや岩などを砕くときに使われる「さく岩機」。実は、東洋工業(現・マツダ)は国内シェアナンバーワンを誇るさく岩機のトップメーカーでした。さく岩機は1935年から生産が始まり、1960年代には山陽新幹線の建設工事などでも活躍しました。その後、「トーヨーのさく岩機」は1970年には国内でシェアトップの44%を占めるまでになり、1989年にさく岩機部門が分社化するまで、東洋工業の主力商品のひとつだったんですよ。』
http://trd-tohoku.jp/2018/09/697/
マツダが鉱山用削岩機を手掛け、しかもトップメーカーであったという事実は、機械メーカーとして高い技術力と共に、朝鮮半島に大規模な水力発電所を作っていた日窒コンツェルンの野口とのつながりを強く想起させる。以下(web⓰-2)から引用『東洋工業の削岩機づくりも、3輪トラックづくりの時に当時名機とされたイギリスの単車を分解し研究したのと同様、削岩機の世界では世界的名声を博していたアメリカのインガソルランドの製品を手に入れ、分解し、各部品をスケッチするなどとことん研究し尽くしている。とはいえ削岩機の心臓部であるピストンの素材の焼き入れにはかなり苦心したと伝えられる。3輪トラックづくりと削岩機のモノ作りに共通しているものがあり、困難を乗り越え、市場で認められる製品と成長していった。』以下⑰より引用
『(さく岩機の生産額は)16年上半期から17年上半期までの3期間、1期平均130万円をかぞえ、なかでも16年上期は136万円の戦前ピークを記録、全社生産高の19.3%を占めて、三輪トラックや陸海軍兵器をおさえ、トップにたっている。』(⑰、P129)
マツダのさく岩機は、荒廃した戦後日本の復興も支えてきたが、2002年11月付けで、削岩機製造子会社のマツダアステックの営業権を、スウェーデンのサンドビックグループに譲渡した。(https://response.jp/article/2002/09/17/19630.html)
下の写真はマツダのHPよりコピーで「東洋工業時代の主力製品のひとつ、「トーヨーさく岩機」(トーヨーS49ジャックハンマー (1935年))」)
m130.png
https://www2.mazda.com/ja/100th/virtual_museum/gallery/img/gallery__image--032--01.jpg
しかし、『日窒コンツェルン総帥で取締役の野口遵が死亡(1944年1月)し、これを受けて同年5月までに日本窒素肥料系の役員が経営陣から去ったことから、東洋工業と日本窒素肥料の提携は終了した』(wiki)。マツダと日窒との関係は、企業間の利害関係も大きかっただろうが、それを支えていたのが松田重次郎と野口遵との間の個人的な信頼関係だったと思われ、野口の死を境にその関係は急速に途絶えたようだ。戦後のわれわれの目からするとマツダといえば、住友銀行と太いパイプを持つ企業というイメージが深いが、戦前においては、日窒系企業と目されていた点と、海軍工廠の支援もあった2点を強調しておきたい。
(以下の画像と文章は以下のブログの記事“朝鮮に世界最大級のダムを建設”(田中秀雄)
https://blog.goo.ne.jp/46141105315genkigooid/e/c9bfbe7cd0904ddf1289aea63a12326c
から引用させて頂いた。『~ 昭和7(1932)年に満洲国ができると、朝鮮と満洲の間を流れる鴨緑江は友好関係を象徴するものとなった。満洲国と朝鮮で共同事業もできるようになったのだ。そうして野口が鴨緑江に作ったのが水豊ダムである。当時世界最大級を誇った70万キロワットの水力発電所である。』この水豊ダムの発電所は今も稼働中で(現在の出力は80万キロワット)その供給電力は中国と折半しているという。
m131.png
15.8-17優れた生産設備を備える
 当時のマツダ(東洋工業)が、機械メーカーとしても潜在的なポテンシャルが高かったからだろうが、先述のように実に順調な歩みで、各海軍工廠の仕事に順調に食い込み、工場設備も徐々に取り揃えていく。そしてこれも既述のようについに念願の、一次下請け工場となった。以下は(web⓰-3)より、海軍工廠の一次下請け工場としての、高い生産技術力を支え、当時のマツダの大きな特徴でもあった、充実した工場設備について、
『昭和4年1月に東洋工業は、呉海軍工廠と佐世保海軍工廠の指定工場となっている。2年前から、クラウゼ社製の旋盤、ヒューレ製の万能フライス盤、アルフレッド・ハーバード社製のタレット旋盤、シンシナティ・ミリングマシン社製の立てフライス盤、万能工具研削盤、ライネッカー社製のかさ歯車形削盤などの輸入機械、国産工作機械数十台を導入した。一方コルク部門から機械部門へ従業員の配置転換を行うなどし、着々とモノづくりの体制を構築していたのである。』
以上のような土台があったうえで、後に建設されたオート三輪用の新工場は、『~その能率の良さは、当時から日本屈指のものといわれ評判となっていた』(②、P68)という。
(戦前のマツダが、当時の日本の自動車産業の企業の中でも特に優れた点は、②の指摘のように効率的な生産設備/技術力を持っていた点ではなかったかと思う(多少私見です)。確かに規模(投下した資金)からすれば、普通四輪車の量産を目標にしていたトヨタやニッサンの工場設備に到底及ばなかっただろうが、“効率”の面からすると、当時は官民総がかりで育成される過程で、まだスタート段階であった、両社の設備よりも、プロフェッショナルで、地に足の着いた、“充実”したものだったのではないだろうか。ここでそれを支えていた要素を、考えてみたい(ということでどんどん迷走していくが、今まで記してきたことと重なる部分が多いうえに、またダラダラと私見が多くなるハズなので、自動車史だけを読みたい方はぜひ、飛ばしてください。)
15.8-18抜群の機械センスの持ち主だった(だらだらと余談)
第一の要素として、松田重次郎、個人が、生まれながらに持っていた、機械工場主としての傑出した資質(センス)ではなかったかと思う。既述のように重次郎は鍛冶屋の修行を振り出しに、呉海軍工廠、佐世保海軍工廠、大阪砲兵工廠、長崎三菱造船所等で機械技術者としてのキャリアを積んだのち、大阪で松田製作所を興し、信管の大量生産を成功させるが、その当時重次郎と取引のあった『機械商社アンドリュース・アンド・ジョージ商会の乾善雄(のち乾商事を設立)は以下のように述べていたという。「初代社長(重次郎-引用者注)に精密機械や工具類のカタログをみせて喜んでいただきました。初代社長は説明文の横文字は読めなかったが、写真をみただけで説明文以上にその機能を了解されていた眼識に、私はたえず敬服していた」と語っている(広島市青崎学区郷土史研究会編、1989、282頁)。大阪市内の鍛冶屋や軍工廠で腕を磨いた松田重次郎の工作機械・工具に対する理解は輸入商社が認めるレベルであったのである。』(web21、P48)
確かに『「優秀な機械ですぐれた製品をつくる」、それが松田重次郎の終始かわらぬ信条であった』(⑰、P35)が、機械装置の優劣を見抜く力が、重次郎には元々備わっていた。わかる人にはわかっていただける話だと思うが、機械を直感的に理解する能力は、確かにキャリアの中で磨かれる部分もあるが、その人が生まれながらに持っていた、センスによるところが大きいと思うのだ。
 第2に、戦前の日本で最先端の技術力を誇った海軍工廠側からの支援が、やはり大きかった。重次郎と伍堂との信頼関係もあったが、工廠側としても、おひざ元に機械技術力に優れた下請けメーカーを育てたいという気があったのだと思うし、マツダはその期待に応えていった。『東洋工業の生産設備は特に優れていた。これは海軍工廠の技術と深くかかわっている。』(web❷P40)
 3番目に、地元広島高等工業学校(現在の広島大学工学部)との産学連携によるサポートがあった。同校は当時、『地元経済と密接な関係を保つため、学校開放主義を標榜し~また地元業界のための技術改良や調査研究がすすめられ』(wiki)たという。マツダも『広島高等工業学校機械工学科の田中重芳教授に技術顧問を委嘱し、研究並びに製作指導を依頼』(⑰、P34)していたという。
 そして最後に、重次郎&マツダを支えた大きな存在として、15.3-4.4項で記した、野口遵と重次郎個人の厚い信頼関係だ。工場設備を整えるうえで重要なのは、資金の調達だが、銀行側は融資の条件として、海軍工廠との関係と、『「野口遵の保証」という条件』(⑰、P38)を求め、野口がその求めに応じて、経営・資本参加を行ったことで初めて可能だったのだ。
下の写真は広島の工作機械メーカーである、トーヨーエイテックの工場の写真だが、マツダの工作機械部門として1929年に研削盤を製造したのが同社の歴史の始まりで、自社向け工作機械製造から外販向けに1950年に設立された。1989年にトーヨーエイテックとして分社・独立を果たし、現在は工作機械、自動車部品、表面処理の3分野で事業展開している、という。
以下はこのトーヨーエイテックにも関連する話として、webの“car watch”の記事(web25)の中で、マツダ創業100周年の社史編纂の担当者である広報部の植月真一郎氏が、興味深い見解を述べているので引用させていただく。
ロータリーエンジン開発成功に優れた製造技術が貢献
マツダがロータリーエンジンの開発に成功した理由としては、山本健一率いる“ロータリー四十七士”の物語があまりにも有名だが、それ以外の理由の一つとして、植月氏は、優れた製造技術を有していた点を掲げている。以下引用させていただく。
『 ~ また、当時東洋工業だけがロータリーエンジンの開発に成功した理由として挙げたのが、東洋工業は研削盤など工作機械メーカー(現在はトーヨーエイテックとして分離)でもあったこと。ロータリーエンジンは独特の曲線を描きながらローターが回るため、そのためのハウジングを作れるメーカーは世界のどこにもない。この研削盤の技術や、コルク業に由来する鋳造技術を持っていたことがロータリーエンジンの開発に成功した1つの要因である』(web25)と述べている。
下の画像は“広島企業図鑑”さんhttps://zukan.biz/maker/toyoatec/よりコピーさせて頂いた。
m132.png
https://zukan.biz/wp-content/uploads/2018/07/eitekku-3.jpg
(話はさらに飛ぶが(飛んでばかりだが!)、以下も戦後のマツダが、ロータリーエンジン開発へと走った理由について、植月氏の見解が興味深いので、長いけれど引用させていただく。
『 ~ オート三輪、つまりもともとマツダは商用車メーカーだったわけだが、戦後乗用車メーカーへの転身を図る。その第1号車が1960年4月に発売した「マツダ R360クーペ」になる。この1960年代は自動車業界にとって大きな変革のあった時代で、戦後の保護政策から自由競争の時代へ変化するため、「貿易為替自由化計画大綱」(1960年)、「自動車行政の基本方針」(1961年)、「特定産業振興臨時措置法案」(1963年)などが発表されている。
 よく知られているように、スカイラインの開発メーカーであったプリンス自動車工業も、自動車製造メーカーを集約していくという特定産業振興臨時措置法案の影響で、1966年に日産自動車と合併した。(中略)
 植月氏が強調するのは、ロータリーエンジン開発と同時期に会社が何をしていたのかということ。当時、日本政府からはドルの持ち出し制限などもあったが、ロータリー開発について日本政府の認可を獲得したことで、資金的な自由度を獲得。ここから大規模な生産設備の投資などが始まり、1965年に完成した三次試験場もその流れの中にあるわけだ。
 マツダも合併されないためには、何らかの手を打たねばならなかったが、それが世界のメーカーがどこも成功していない“実用ロータリーエンジン開発”になったという。』その当時『通産省が日本の自動車メーカーは 3つくらいに統合しないと欧米と競合してやっていけないだろうと言い出しました。その頃の社長が松田恒次さんで、このままいったら東洋工業は他の自動車メーカーに吸収されてしまうという危機感もあり、独立メーカーとして生き残る方策が必要と思われたのでしょう。』(web26-1;webモーターマガジンより、マツダOBの小早川隆治氏談。)『REが自動車業界再編を乗り切るための切り札になると確信した松田恒次は、社内の反対の声を無視して技術提携を進めることを決断。松田恒次には、REの技術力によって企業イメージの向上が図れることや、RE開発の名目で銀行からの融資が受けやすくなり、その資金で通商産業省主導の再編を乗り切るための研究開発や設備投資を強化できるといった考えがあった』(以上wikiより)自動車産業は巨大な設備産業で、膨大な資金調達が必要とされる産業だ。第三のメーカーとして生き残るために、巨額な資金調達がその成否を分けた中で、マツダはロータリーエンジンの開発と量産化を成功させる過程で、国や銀行(日銀&住友銀行)からそのサインを引き出せたようだ。それは同時に、(たとえばプリンスでもダイハツでもなく)マツダをさらに、大きく成長させようとするGOサインでもあったように思える。(私見が混じっています)。下の写真と以下の文もwebモーターマガジン(web26-2)よりコピーさせて頂いた。『松田社長の人的ネットワークは、ロータリーエンジン開発に大きく生かされた。~ 写真右から二人目は地元選出で親交の深かった当時の池田勇人首相と松田社長のひとこま。』
m133.png
(植月氏は100周年に向けて社史編纂を進めている最中だが、「細部まで分かっていないことも多い」と語っている。さらなる研究と、その成果を本にして出版されることを期待しております!以下の文もwebモーターマガジンから小早川氏の引用です。ロータリーエンジンが信頼性も耐久性もあるエンジンであるということを長距離耐久レースで実証したい、という山本部長の意を受けて、ロータリーエンジン車で本場ヨーロッパのツーリングカー耐久レースに挑戦することとなり『~マラソン・デ・ラ・ルート(ニュルブルクリンク84時間)への挑戦が決定したが、古我信生さん(レーシングドライバー・自動車評論家)の協力も大きかったようです。
マツダスピードの前身、マツダオート東京のスポーツ相談室が1967年にマツダオート東京の中にできたのも、古我さんのお力があってこそでした。そこに大橋孝至さん(後にマツダスピードを率いてル・マンに挑戦)、寺田陽次郎さん(ドライバーとしてのル・マン参戦が29回にもなる)がいた。もしあのスポーツ相談室がなかったら、ル・マン24時間レースへの挑戦もなかったでしょう。』
(web26-3)マツダのモータースポーツへの投資額は、トヨタやニッサンに比べてはるかに少なかったと思うが、山本健一はじめマツダのロータリーに賭ける思いが、古我信生や寺田洋次郎にはじまり、その後は大橋孝至を中心として、ワークスドライバーの片山や従野、そして小早川隆治らに至るまで、まさに“人”の思いとつながりによって、最後は大橋の長年培った外交力が引き寄せた“女神の微笑み”が、国産マシンによるル・マン初制覇はもたらされた。マシンの実力だけみれば、日産やトヨタが先に勝利していても不思議ではなかった。でもル・マンからすれば当時は、マツダの方が勝者によりふさわしかったのだろう。下の写真はツーリングカーレースの世界最高峰、1969年のスパフランコルシャン24時間レースにのりこみ、4台のポルシェ911に次いで見事5位、6位に入賞した時の、ファミリアロータリークーペ。1970年のレースからはより本格的に優勝を狙い、オーバーフェンダーを付けて仰々しい姿になってきたが、1969年型の姿はほんとうに、ふつうに日本の街中を走っている市販車そのままのシンプルな外観だった。そんな、全幅がわずか1480mm(ノーマルだと。今の軽自動車より狭い!)のファミリアが、スパの高速コーナーでほとんど転がりそうになりながらも?まったくのスポーツカーなのに+2のシートがあるからレギュレーション上はツーリングカーだと強弁して出場しているポルシェ911に次いでフィニッシュし、なんと“名門”BMWやアルファロメオより速かったのだ!!当時カーグラやオートスポーツを通じて海外の自動車レースをウォッチしていた日本中のカーマニアが衝撃を受け、誇りに感じた瞬間であったが、“本場”の欧州の人々にとっても同じくらい衝撃的だっただろう。画像は
https://www.automotivpress.fr/mazda-r100-aux-24-heures-de-spa-1969/
よりコピーさせて頂いたが、その様子から、反響の大きさがうかがえる。
m134.png
https://www.automotivpress.fr/img/yacco71/spa69/006.jpg

15.8-19手始めにオートバイから
話を本題に戻し、以下も安直に(wiki)の引用から『東洋工業は軍工廠の下請けという形で機械事業へと進出したが、軍からの注文は少量多品種な上に繁閑差が大きいため、量産によるコスト低減を図ることが難しいという悩みがあった。独自の製品を持ちたいと考えた松田重次郎は、最終的な目標を自動車製造に置きながらもまずはオートバイから手をつけることに』した。
民間向けの機械製品の生産で、重次郎が最終的に目標としたのは四輪の、それも乗用車であったが、前回の記事で記したように時はKD生産のフォードとシヴォレーの全盛時代、そこから手を付けるのはいかにもハードルが高い。それにそもそも、ダイハツと違い当時のマツダはエンジン作りの経験すらなかったのだ。そこで手始めに、オートバイ作りから経験を積もうとした。
15.8-20 2ストローク、250ccのバイク“トーヨーコーギョー”を30台販売
マツダがオートバイを手掛け始めた時期については、各文献の間で若干のばらつきがある。ここでは、最近三樹書房から出版された、マツダ創業以来の歴史本(引用⑲)が、ほぼマツダ“公認”のものだとして、そちらを参考に以下を記す。
まず東洋工業へ社名を変更した翌年(1928年)、イギリスからフランシスバーネット及びダネルトという2台のオートバイをサンプル輸入する。そしてそれらを分解、スケッチすることから、オートバイの研究と試作をスタートさせる。
1929年11月、基本となる2サイクル250ccエンジンを早くも完成させた。ダイハツと違いマツダは、今までエンジン作りの実績がなかったことを考えれば、早業だ。
さらに翌1930年3月には、そのエンジンを積んだ試作のオートバイ6台を完成させる。そして後述するがそのうちの1台が、広島の陸軍第5師団が主催する「招魂祭」のオートバイレースで優勝するという快挙を成し遂げる。
それに意を強くしてか、このオートバイは“トーヨーコーギョー”と名付けられて商品化する。1台350円から380円の価格で、パイロット販売的に30台の販売を行った。
(マツダがオートバイを取り組み始めた年代については、情報がばらつく。上述の“公式”の情報源であるマツダのHPやWiki、⑲と違い、この記事を書く上で最も多くを頼った②=「懐旧のオート三輪史」(2000.02.10発行)では、『~2サイクル250ccのエンジンを1926年に完成、翌27年にはオートバイの試作品を6台作ることに成功した。このオートバイは“トーヨーコーギョー”と名付けられて1台350円から380円の価格で、まず30台の販売を開始した』(②、P65)としている。今年(2021.03.12)改訂版として「日本のオート三輪車史」と改題されて再発行された。この部分の記述がどう変わったのか、それを確認するだけのために、再購入したが!その記述に変化はみられなかった(同書のP65)。なんらかの独自の根拠があったのだと思うが、たぶんこの点に関しては、⑲の記述が正しいように思えるのだが?他も調べてみると(web❷、P40)は②と同様の年代の記述だが、(web⓰-3)は『昭和の初頭にイギリス製のバイク2台(フランシス・バーベット号とダネルト号)をサンプル輸入し、各部を分解して部品を一つずつスケッチ、試作につなげた』部分は、(⑰、P44)を参考にしているようだが?試作車完成の時期は『昭和4年(1929年)11月に2サイクル250㏄エンジンを完成し、翌5(1930年)年3月には完成車の試作にこぎつけた』としており、wiki、マツダ公式及び⑲と一致している。(下の写真がその“トーヨーコーギョー”という、2ストローク250ccのバイクの姿で、マツダのHPからコピーさせて頂いた。)
m135.png
15.8-21招魂祭レースでの勝利
(1930年5月、地元広島の陸軍第5師団が主催する「招魂祭」の余興として、オートバイレースが開催され、市内の二輪車販売店店主の乗るマツダのオートバイが、本命と言われたイギリス製のアリエルを接戦の末下し、優勝したという。以下の誇らしげな分は(web⓱-1;マツダ公式ブログ)より『本命と言われていたのは、イギリス製のアリエルのオートバイでした。AJS、トライアンフ、ハーレーダビッドソン、インディアン、BMWなどとも肩を並べる世界的に著名なメーカーで、観客の誰もがアリエルの優勝を予想しながら観戦していました。ところが、レースは目を疑うような展開に。
東洋工業の試作車が並みいる輸入車に一歩も引けを取らないどころか、大接戦を演じます。そして最後に、アリエルを引き離してゴールに飛び込んだのは、何と東洋工業の試作車だったのです。』
下の写真も(web⓱-1)よりコピーさせていただいた、「1930年招魂祭での優勝記念写真」。なお15.5-12、13項で記したように、宍戸兄弟のSSD号が先行して、レースで活躍していたが、いきなりの勝利の背景として、そちらからの人材確保も当然寄与したと思う。)
m136.png
https://blog.mazda.com/wp-content/uploads/2020/05/20200527_01b-484x333.jpg
(以下、このレースの背景の補足説明として、15.5-12、13項と重複するが、宍戸兄弟のSSD号については、飛ばして読む人が多いと思うので?招魂祭のレースについてここでも記しておく。以下(web⓳)より『戦前の広島には旧陸軍の第5師団があり、軍都として発展していた。』ちなみに第5師団は帝国陸軍の精鋭部隊の一つと見なされていた(wiki)という。『その第5師団の後押しもあり広島はオートバイレースが盛んに行われ、レースの開催数も東京、大阪に次いで多かったそうな。~広島で初めてのオートバイレースが行われたのは、1918年(大正7)の招魂祭でのこと。10月23日・24日の2日間、西練兵場で18レースが行われたという。』(web⓳)
そして『(招魂祭のレースは)数万人の観客が押し寄せ、当時の一大イベントだった』(web⓱-1)という。同じ広島の宍戸兄弟のSSD号もオートバイレースの勝利で名を馳せたが、戦前のマツダの写真をみていると、一般道で車両試験をしていたり、オート三輪のレースに出場したりという、戦前においては珍しい実車試験や、レース(実戦)出場で鍛え上げている写真が、気のせいか他社よりも多い気がする(リラー号以来の、実車試験を重視した蒔田率いるくろがねは除くが)。後述する、宣伝のための全国キャラバン隊も、走行実験を兼ねていた面もあったというが、これらも広島という風土から生まれたマツダの血の伝統なのだろうか。下はやはりマツダのHPより、「1934年招魂祭レース参加中のDC型三輪トラック」の雄姿。マツダは三輪トラックで出場したこのレースに勝利したという。)
m137.png
https://blog.mazda.com/wp-content/uploads/2020/05/20200527_01e-484x301.jpg
15.8-22幻の500ccオートバイ??(余談)
(以下は余談で、まったくのあやふやな話なので余談です。マツダのオートバイについては250cc版のあとに、500cc版もあったという情報もある。以下は(web⓲)からの引用『(東洋工業)設立と同時に250ccの試作型2stエンジンを実験的に製作。更にそこから4stへと手を伸ばし翌年1930年には完成車まで製作。それがこれ。』という情報で、ただ(web⓲)が“これ”だと示している画像のオートバイは明らかに他の情報源が示す2ストローク、250cc版なのだが!さらに(web⓲)から引用を続けると『482ccのビッグシングルで姿かたちから見ても恐らくBSAをお手本にしたと思われます』としており、この500cc版オートバイが存在したという記述はざっと調べた限りでは(web⓲)だけだった。しかし、何らかの根拠があって、書いたのだと思うのだが?
ただ、個人的な感想では、次の項で記す、オート三輪用の500ccエンジンが出来上がったタイミングで、まずオートバイにそのエンジンを載せてみて、エンジンテストベンチ代わりに?エンジン性能を実車で確認した可能性もあり得る話だと思った(!?)。下のオートバイの写真は三栄書房系のweb情報、“clicccar”の記事(web⓬-2)からのコピーで、話の流れから判断すると、250ccのマツダのオートバイとして紹介している写真だが、先のマツダのHP等にある、250cc2スト版の写真と、ボリューム感がまったく違う、別のバイクのように見える。しかし三栄書房のような、1925年創刊のモーターファンを源流に持つ老舗の自動車情報媒体が、よもや他社製のバイクの写真を載せているとは思えず、他の媒体に無いマツダの“お宝”の写真があったとしても不思議ではない。そこでまったくの邪推だが、この写真が、マツダの“幻の?”500cc版オートバイの写真である可能性もあり得るのではないだろうか・・・。
などとたくましく?妄想したのだが、さらに調べていくと、⑰のマツダの社史のP124に、なんと同じ写真のバイクが載っていた!しかしそれは、陸軍向けの「九七式自動二輪車」(V2型の、たぶん陸王と同じだと思うので1272cc)としてであって、昭和13年(1938年)ごろ、陸軍兵器本廠からの要請で陸王とくろがねに加えて、マツダも軍用二輪車の生産に加わったようだ。確かにマツダ製であったことには違いがなかったが・・。結局“マツダの500ccのバイク”は幻に終わってしまったのだろうか・・・。)
m138.png
https://clicccar.com/uploads/2020/07/01/1-20200701184923.jpg
15.8-23市場調査の結果を踏まえ、仕様を割り出す
 マツダのオートバイは、陸軍の「招魂祭」のレースで外国製のオートバイを抑えて優勝するなど、一定の水準に達したようだが、国内の市場規模からみて『量産される海外のオートバイの価格より安くすることはむずかしく、販売の伸びも期待できなかった』(②、P65)。そのため、オートバイは断念、ターゲットをオートバイから、当時急速に需要が拡大し、弱小メーカーが乱立していたオート三輪に絞り、市場参入のための検討を始める。中心となったのは、重次郎の長男で、戦後のマツダを強力にリードした松田恒次と、設計技師の竹林清人の二人だった。
恒次らは、『1929年の終わり近くから、関東や関西で走っているオート三輪の実態を調査し』(②、P65)市場調査を行う。以下(web⓱-1)より引用
『「我々の手で、どうにかして信頼性の高い三輪トラックをつくりたいと思う。ついては、全国に実態調査に行ってきてほしい」重次郎の命を受けた技術者たちは、勇んで旅立っていきました。彼らにとっては、自動車がつくられ、使われる現場を自分の目で見る、絶好の機会だったのです。
 調査の目的のひとつは、製造の実態をつかむことでした。自動車には、二輪車よりも多種多様な部品が必要です。自社で製造できない部品は、どこから・どのように・どのくらいの価格で調達できるのか、具体的な方法を見通しておく必要がありました。もうひとつの目的は、生きた声を聞く需要の調査です。三輪トラックが、実際の現場でどのように使われ、どんな課題を抱えているのか?当時の、狭くて舗装のされていない日本の道路を走るには、頑丈な車体構造や安定した動力伝達機構が不可欠。そして経済の発展とともに、より多くの荷物を積める「馬力」と、より速く運ぶための「スピード」が求められていました。
「荷馬車程度のスピードが出ればええと思っとったけど、違うんやな」
「それでは足りないと思います。いま、世の中の変化は早い。3年後、5年後には、もっと高い性能を求めるようになるんじゃないでしょうか……」
予想を超える、市場の様子を技術者たちの報告で聞きながら、重次郎の頭の中で新しい三輪トラックの姿が徐々に明確になっていった』
(web⓱-1)「荷馬車にエンジンをつける」程度ではすまない、市場からの声が明らかになってきた。
そこで目標を『「クラス最高性能と最大積載量の実現」、「エンジンをはじめ各種部品の国産化」、「一貫した量産体制の確立」』(マツダのHPより)と高く掲げ、開発に取り組むことになったが、しかしその一方で、これも市場調査の結果、『オート三輪は~町工場に近い規模の企業が~主要部品の多くを輸入品に頼って~大した設備も持たずにつくっていたから、東洋工業の技術力をもってすれば、十分に採算がある』(②、P66)、オート三輪は国策の範囲外にあったため財閥系の大手の機械メーカーも参入していないしこれは好機だと捉えたのだろう。この辺の事情は、ダイハツと同様だったと思われる。そして1930年の初めから設計に着手した。
当時の国産車は、オートモ号のような特殊な例を除き、2/3/4輪を問わず必ず外国製のお手本があったが、初めてのオート三輪作りでマツダが参考にしたのは、エンジンはイギリス製JAPエンジン、トランスミッションもイギリスのバーマン社という、当時二輪で定番のものをモデルにした。
15.8-24最初の試作車は自社製エンジン+シャフトドライブ+デフ+後退ギヤ付き
『設計図を引き始めて2週間ほど経った頃 ~ 「小型自動車規格」が改定。~ 350㏄以下から500㏄以下となった』(web⓱-1)。そのため500cc対応型に全体の設計を切り替えた。当然積載量も変わっただろう。下の表は、マツダが市場参入当時の代表的なオート三輪用エンジンのスペックだが、マツダのエンジンが国産他社と違い、ロングストローク型でなかった(オーバースクエアだった)点は特徴的だろうか。
m139.png
一方車体部分については、多少異色の選択で、当時少数輸入されていたドイツのDKW製のフレームを参考にした。DKWは前輪駆動という特殊な機構ということもあり15.4-7項で記したように『鋼板フレームを採用し、荷台の高さが後車軸と低く、運転席もベンチシートに着座できるように設計されていた。日本にも輸入され、特にトラック仕様は荷物の積載時も他車のようにコーナリング時の転覆がなく、他に乗用や郵便車に転用されるほど人気があった』(⑭、P13)という。裏を返せば、当時のオート三輪は、無理な過積載の結果、転覆事故もかなり多かったと思われるが、自分たちで直接確かめた、市場調査の結果として、DKW製の三輪車の高評価があり、オーソドックスに後輪駆動としたものの、低重心のフレーム構造だけでも、参考にしたのではないだろうか。
こうして1930年の秋にオート三輪の試作1号車が完成した。前年からの市場調査を踏まえ、この試作車はシャフトドライブ方式で、リバース機構付きのトランスミッション及び差動装置付だった。
15.8-25市販車は自社製エンジン+デフ+後退ギヤ付き
そして次に記す新工場で生産された市販用のオート三輪、マツダDA型の販売が始まったのは1931年10月からであった。(②、P67他)エンジンは当然自社製で、デフと後退ギヤ付きであったが、市販化に当たって、シャフトドライブ機構は省かれたようだ。(『三輪車において、後軸軸差動装置や直線操作式後退付変速機の採用は国内初である』と、日本自動車技術会の「日本の自動車技術330選」マツダDA型(web❼-3)では記しているが、シャフトドライブ付きとは記されていない。DA型という名称の由来は、Dが差動装置付を、Aは最初のクルマであることを意味していたといい、“デフ付き”である点を強くアピールされていた。 
すべてに慎重で手堅いダイハツの最初の市販オート三輪、HB型(1931年3月)は自社製エンジンだったがチェーン駆動で、次のHD型(1932年5月)ではじめてプロペラシャフト+デフ駆動へと進化した。くろがねは一歩遅れて1933年からだ。
下の写真はマツダのHPより、マツダ最初のオート三輪車であるDA型。フレーム構造部分に、DKWっぽさも出ている。燃料タンクにスリーダイヤのマークが輝いている理由は後述する。)
m140.png
https://www2.mazda.com/ja/100th/cars/assets/img/sns/sns_001_da.jpg
15.8-26新工場も同時に建設する
 マツダの画期的な点は、エンジンはもとより、マツダ特許による後退ギア付トランスミッションやリアデフなど主要部分の自社製造を実現させるために、広島市外の府中(現在の本社所在地。松田重次郎社長の生誕地の近くだった)の新工場の建設を決断する。同工場は松田恒次が指揮し、三輪トラックの量産を主な目的にレイアウトされた。ちなみに新工場は後年の原爆被爆時に、爆心地から遠かったため、物的被害は比較的少なく済んだ。
今まで見てきたように、オート三輪用のリヤデフはマツダが初採用ではなかったものの、従来品とは一線を画す、乗用車的なパワートレーン機構を備えたマツダ初のオート三輪車は、それとセットで考えられた、一貫生産体制が整った新工場で生産が開始された。『オート三輪として、望まれる新しい機構を採用しただけでなく、生産も一貫して社内でできるように、設備から材料迄よく検討して整えられた。当時はこうした計画的で合理的な方法で、オート三輪車の生産に乗り出すところは多くなかったのだ。』(②、P66)そして『マツダ号の生産設備の充実ぶりとその効率の良さは、当時から日本屈指のものといわれて評判になっていた』(②、P68)と言われている。
15.8-27販売は当初、三菱商事に委ねるがその後解消する
『オート三輪車の製造という新しい分野への参入で、東洋工業はその販売をまず三菱商事にゆだねた』(②、P68)。三菱商事との契約は、重次郎から相談を受けた野口が、親しかった三菱商事常務に相談した結果、実現したという(⑳,P86、wiki他)。全国ブランドではなかった新参者のマツダ号にとって、燃料タンクに輝くスリーダイヤのマークは当初、販売面で大きくプラスに働いただろう。しかも販売代金の回収も確実に行え、コルクの販売で全国展開した時、関東大震災がおきて、売掛金の多くが回収不能に陥り倒産寸前に追い込まれた時のようなリスクを背負い込まずに済む。
 しかし15.2.10で記したように、ダイハツが強力な販売網を独自に全国展開し、大きく販売を伸ばしていく中で、当初はプラスに働いた三菱商事との一手販売契約が、マツダのさらなる飛躍のためには、次第に足かせとなっていった。以下、社史の⑰より引用
『(三菱商事の)そのセールスポイントは、アフターサービスの徹底におかれ、したがって、三輪トラックの完全な修理能力をもつディーラーが存在しない地方へは、かりに旺盛な需要がみこまれたとしても積極的に進出しないという方針がつらぬかれていた。』(⑰、P86)マツダ側からすると、慎重な姿勢を崩さない三菱商事の市場展開が、対ダイハツとの戦略で徐々に弱点となっていき、また市場からの声が、直接届きにくいという問題もあった。
 1936年8月、マツダと三菱商事は、一手販売とする契約を解除し、マツダの直販体制への切り替えという積極策に出る。『翌37年12月には海外市場の販売契約を解除し、三菱との提携は終った。』(②、P68)
 全国レベルでみれば、広島のいちローカル企業でしかなかった当時のマツダと、戦前の日本で最も力のあった三菱コンツェルンの中枢企業である三菱商事との販売契約の締結と、一方的とも受け取れる契約の解消が出来た背景には、当時のマツダが、この時代勢いのあった日窒コンツェルン系の企業で、しかも松田重次郎と野口遵が厚い信頼関係にあったという事実抜きには語れない話だったように思ったが(多少、私見もあります)、しかし契約解消の方は、⑳によれば、三菱商事側からの申し入れだったという。三菱商事側からしても、民間向けの薄利多売の商売は、勝手が違ったのだろうし、準戦時体制下で“本業”の方に勢力を注ぎたかったのだろう。(⑰、P86)によれば、1936年の三菱商事の年商8.8億円に対してマツダ(東洋工業)の三輪トラックの売上高は163.6万円で、単純に比率からすれば、わずか0.2%に過ぎず、お互いのためだと考えたのだと思う。なお三菱商事は、1934年に、マツダ(東洋工業)の増資(50万円→200万円)の際に出資して、取締役も派遣したが、販売契約の解除に伴い、2017年には出資も引き上げたようだ(⑰、P100)。
(三菱商事との販売提携の成果として、海外での拡販が進んだ点があげられる。1932年の大連、奉天、青島への輸出に始まり、中国や満州は当然として、『日本窒素肥料との関係もあって、そのうちの過半数が朝鮮への移出』(⑰、P87)であったようだ。昭和7年から16年までに合計1,011台が海外へと送られたが、珍しいのは、ブラジル、ウルグアイ、ペルーなど南米諸国にも約50台輸出されている。好評を博したブラジルからは、軍用三輪トラックの大量注文もあったが、三輪車の生産縮小で実現しなかったという(⑰、P87)。下の画像は、(web❻-2)よりコピーさせて頂いた、大変貴重な1935年のマツダのオート三輪のカタログに掲載された「三菱商事販売店一覧」。『日本が統治していた旧満州の奉天あたりが含まれているのはよいとしても、カサブランカ、アレキサンドリア、テヘラン、ヨハネスブルグ、ベイルートなども一覧に出ている。』という。)
m141.png
15.8-28三菱にとっても貴重な経験になった(余談)
(しかし、戦前、海軍向けの航空機を製造していた三菱重工業の水島製作所が戦後、平和産業への転換を図るために、オート三輪車“みずしま”を製作し、マツダやダイハツに次ぐポジションを獲得できたのも、製品の質も当然だが、『三菱と他社の違いは販売網にあった。旧財閥系企業ゆえに、グループ企業である三菱商事の三輪自動車市場での経験を継承できたこと。これが、他社に対する競争上の優位を生んだ』(web⓯、P41)からだという。官需が圧倒的に多かっただろう三菱商事にとっても、中小業者を相手に戸惑ったであろう戦前の経験が、戦後に役立ったはずだ。下の写真は“昔懐かしい♪画像で見る“オート三輪”よりコピーさせて頂いた、https://middle-edge.jp/articles/I0001447 三菱 みずしまTM6型。単気筒744cc・750kg積みで、岡崎技術センター内の、三菱オートキャラリーに展示されている。
m142.png
https://image.middle-edge.jp/medium/8fd394d583605d4c8acfbcfd237e4761.jpg?1469921692
15.8-29東海地区が激戦だった(余談)
下の表(表21「東京、大阪、名古屋地区別のオート三輪の新車登録台数の表(1936年)、マツダの社史(⑰、P89)より転記」させて頂いた、だが、この三地区で、ダイハツの1位は盤石だが、それ以外は確かにマツダとニューエラーは相対的には強いものの、各地区でメーカー順位は相当大きく変動している。当時のマツダの主要市場はやはり、中国、四国、九州の西日本一帯だったえお、社史に書かれている(⑰、P89)。
m143.png
(以下も⑰より引用『そのころ、名古屋を中心とする東海地方は、京浜、阪神、北九州につぐ新興工業地帯として発展の途上にあり、三輪トラックの大きな潜在需要が見込まれていた。』そのため各社とも、拡販に力を注いだが、地元勢も迎え撃つべく、頑張っていた。(下の写真はトヨタ博物館により最近レストアされたオート三輪で、「水野式自動三輪車」。(web27-1)以下の解説文もコピーさせて頂いた。『名古屋市内にあった株式会社水野鉄工所が、昭和初期から昭和15年にかけて約3,000台生産したユニークな三輪トラック。前輪駆動で、前輪の左にエンジンとトランスミッションを、右にラジエターと燃料タンクを配置しています。』燃料タンクの残量によっては、左右のバランスが多少崩れる?しかし重心は低そうだ。ちなみに水野鉄工所は現在、トヨタの協力メーカーであるそうだが、3,000台というのは相当な台数だ。上の表でも愛知県では堂々2位だ。ちなみにこれも中部地区(愛知県岡崎)の中央製作所が作った“あ志あ(アジア)号”というオート三輪も前輪駆動だったようだ。(⑭、P16)これら、前輪駆動方式のオート三輪というと、今の視点からすると突飛な印象があるが、それ以前からドイツのDKW製の前輪駆動タイプのオート三輪トラックが日本にも輸入されていて、鋼板フレームを採用した低重心設計で『コーナリング時の転覆がなく、他に乗用や郵便車に転用されるほど人気があった』(⑭、P13)という。先にマツダがそのフレーム構造を、参考にしたことを記したが、DKW製2ストロークエンジンを前輪上部に取り付け、チェーンで前輪を駆動したフラーモという前輪駆動のオート三輪が、東京中央郵便局の集配業務に使われるなど、ある程度普及しており、違和感はそれほどなかったようだ。(㉔、P128参考)なお愛知県の販売台数4位には、15.2-13で紹介した、戦後、愛知機械に吸収されてオート三輪業界の八大メーカーに名を連ねることになる、中部地区のジャイアントも名を連ねている。地場のメーカーが頑張っていたのだ。) 
m144.png
https://toyota-automobile-museum.jp/archives/images/249_1.jpg
15.8-30鹿児島→東京の宣伝キャラバン隊について
三菱商事と別れて、新しく独自の販売網の構築に乗り出したマツダは、“全国キャラバン隊”というユニークな宣伝活動に乗り出す。以下の文はマツダ公式ブログ(web⓱-2)より引用
『1936年4月29日。降りしきる雨の中、鹿児島の照國神社前で5名の社員が三輪トラックにまたがり、その時を待っていた。
雨音をかき消すようにエンジン音が軽快に響き渡る。これを合図に、新発売の「KC36型」4台に現行「DC型」1台を加えた5台の三輪トラックによる、前代未聞の鹿児島-東京間の宣伝キャラバンがスタートしたのであった。
当時は需要の伸びを背景に、三輪トラックの販売競争が激化していた。東洋工業は、自動車業界進出からまだ5年。テレビなどないこの時代、東京や大阪の大都市圏から遠い広島に本社を置く地理的ハンデは少なからず販売拡大の足かせになっていた。
そこで東洋工業は全国規模での認知を高めようと、マツダ号による宣伝キャラバンを敢行したのであった。~ キャラバン隊の訪問先は各地の特約店や商工会議所、新聞社など、全行程で計300か所。ゆく先々で必ず人だかりができ、注目の的となった。また、夜には持参した映写機を使った「マツダ号の夕(ゆうべ)」を開催。東洋工業の誇る三輪トラック、そして近代的な工場を映像と音楽で紹介した。映し出された工場の壮観な様子と働く社員たちの姿に感嘆の声も聞こえ、広島の企業・東洋工業を聴衆の胸に刻み込んでいったのである。
そして、熱海、横浜を経てついに5月22日、ゴールである東京上野の日本工業博覧会会場に到着。鹿児島から東京までの約2700㎞の道のりを「無事故・無故障」で走破したのだった。~ 担当ドライバーの一人はその後、「屋根の無い三輪トラックで、未舗装路の砂ぼこりや暴風雨の中を進むのは凄まじかったが、完走後に売り上げがぐんと伸び、よかったなぁとみんなで肩をたたきあった」と振り返っています。』
((以下の2枚の全国キャラバン隊の写真も、マツダ公式ブログ(web⓱-2)より引用した。)
m145.png
https://blog.mazda.com/wp-content/uploads/2020/06/20200624_01c-484x428.jpg
15.8-31キャラバン隊の団長は島津楢蔵!(余談)
(さらに(⑳、P100)によれば、このキャラバン隊の団長は、なんと島津楢蔵であったという(“日本の内燃機関の父”と呼ばれる島津楢蔵については、戦前の日本のオートバイの箇所を確認願います)。島津とマツダの結びつきについて、以下同書より引用すると、『~(旧知の)島津が事業に失敗したのを知った重次郎は、マツダで働くよう勧めた。こうして一九三五(昭和十)年、島津はマツダに入社したのである。
 マツダの大阪出張所長に就いた島津は、関西地区のオート三輪販売を陣頭指揮する一方、車体やエンジンの設計と試作にも才能を発揮した。』
(⑳、P100)
 以下も⑳より『「エーロファースト号」による宣伝キャラバン隊の経験を買われ、マツダ号による鹿児島-東京キャラバン隊の「団長」に指名された。~ キャラバン隊が終了すると島津は、実際に長距離走行をした結果を、オート三輪の耐久性向上にも反映させたのである。』以下は②より『マツダがエンジンの性能追及で燃焼効率を優先して設計する伝統がつくられたのは、これに由来するともいわれている。』(②、P66)島津が築いた基盤が、こんにちの“SKYACTIV”技術の源流みたいだが、当時の重次郎の思いからすれば、エンジンの製造/開発のノウハウで大きくリードするダイハツに、何とか早くキャッチアップしたかったのだろう。)
m146.png
https://blog.mazda.com/wp-content/uploads/2020/06/20200624_01b-484x349.jpg
キャラバン隊に話を戻して、再び⑳から引用『のちに九州や東北、北海道などで他社のキャラバン隊が次々と実施されたが、マツダのキャラバン隊はその先駆をなすものだった。』(⑳、P100)追記すれば、マツダ車の販促のために展開したこのキャラバン隊はたぶん、前の記事(12.2)で記した、フォードのキャラバン隊に強く影響を受けたものだろう。
15.8-32DA型以降の戦前のオート三輪
1931年10月にデビューしたDA型以降の、戦前のマツダ製オート三輪の変遷について、②と⑰を頼りに簡単に辿っていく。
DB/DC型(500ccクラス)
まず1年後の1932年11月に、改良型のDB型を出す。車体側の改良で『DA型の単一フレームを二重フレームに変更すると同時に~軽量化をはかった』(⑰、P77)のだという。
500ccの系列としてはその後、1934年1月に、DC型へと発展する。エンジン排気量が482ccから485ccとなるなど、エンジンの改良が主だったようだ。『以後、500ccクラス車はDC型一本に統一された』(⑰、P77)。
KA/CTS型(650ccクラス)
その一方で、規制の枠が750ccへと拡大されたのを受けて、1934年10月にマツダは単気筒のままで654ccまで排気量を拡大させた、KA型を発売する。(②、P67)以下(④-22、P167)より引用
『~ただしこの改正令が契機となって、それまでの5馬力時代の三輪自動車が一斉にエンジンを乗せ換えて750ccとなって発売されたわけではない。製造メーカー各社は市場の動向を慎重に見守っていた。製造コストの上からは単気筒エンジンが得策と考えられ、また単気筒ならば650ccが性能の上限とみなされていたため、中間排気量の650ccクラスが注目され始めた。』
ちなみにマツダはそれに先立ち、海軍工廠向けに10台の、750cc2気筒車を納入したが、量産車において、単気筒654ccにとどめたのは、『当時の一般三輪トラック市場において750cc車は時期尚早』と判断した結果だった。
『KA型の特徴は、エンジンとトランスミッションとを結合した単体鋳造を採用したこと、ならびに動力の伝達装置にはすべてギアを採用したことの2点であったが、それは、当時の三輪トラックとして、画期的な試みであった。』(⑰、P77)マツダはこのタイミングで、一次伝達系もチェーンを廃したようだ?戦前のマツダのオート三輪の改良の経緯を辿ると、元々得意分野であった、工場側の生産技術力のさらなる進化との関連が深かったように思える。
なおKA型のフレームは、D型と同じものを使っていたようだが、1935年6月に、単一フレームを二重フレームにあらためたTCS型が登場する。このフレーム構造の変化は、500ccレンジのDA型がDB型へ移行した時の変化と対応したものだ。(下の写真は現存するTCS型で、マツダミュージアムに展示されているものだ。ちなみに経済産業省により「近代化産業遺産」に認定されている。画像はマツダの公式ブログ(web⓱-4)よりコピーさせて頂いた)
m147.png
https://blog.mazda.com/wp-content/uploads/2014/07/20130510_01c.jpg
15.8-33KC型の登場。戦前のマツダを代表するオート三輪
ところがこのTCS型は過渡期的な位置づけのものだったようで、結局短命に終わり、同年の1935年12月に、フルモデルチェンジしたKC型を早くも登場させる。そしてこのKC型の生産台数は、戦前のマツダのオート三輪の型式別生産台数では『ずば抜けて多く(この期間(=戦前)の全生産台数の61.2%)、それが昭和11年、12年の一大飛躍をみちびきだしたのであった。』(⑰、P76)
KC型の特徴を、社史の(⑰、P78)より要約しつつ引用する。
‘①フレーム構造を再び単一フレームに戻される。しかしパイプフレームから圧延鋼板製フレームを採用する。
‘②駆動系機構の刷新。プロペラシャフトを採用し、一次伝達系と二次伝達系共に、チェーンを廃した。
‘③重量配分の見直し。積載時の重心後部移動を防止する。
‘④ボックスを拡大し、積載量を400kg(KA,TCS)から500kgへ増やした。
KC型は、その生産台数の多さからしても、戦前のマツダの躍進を支えた、代表的なモデルとなった。
(下の写真はwikiwandよりコピーさせて頂いた、そのKC36型の写真。前の写真のTCS型の外観と比べてみると、車体側の進化の度合いの大きさがわかる。オートバイスタイルから脱皮して、オート三輪トラックとして重量配分を最適化させるために、重心を極力前寄りにさせようと意図した様子がうかがえる。それと同時に、その直線的に折れ曲がったようなフレーム構造は、マツダがオート三輪をつくるうえで最初に参考にした、DKWの影響が顕著のように思える(たとえば⑭のP13に掲載されている、DKW製三輪車の写真を見ると)。それにしてもダイハツをはじめ当時の他社製品に比べて、モダーンな印象だ。そしてこの斬新なデザインの路線は、この記事の冒頭を飾る写真としてコピペした、CTA型(1953年製)などの戦後のオート三輪へと受け継がれていく。
m148.png
15.8-34GA型“グリーンパネル”
 戦前のオート三輪の市場のピークが1937年だったので、戦前のマツダ車の生産台数のピークも、結局このKC型の時代に迎えることとなったが、1938年4月、K型に代わる新型のGA型を投入する。エンジン排気量を654ccから669ccにアップし、変速機を3速から4速にしたのが特徴だった。『「三輪トラック・3段ミッション」という通念を打破し、~登坂力、加速力の増大、燃料消費、エンジン負担の減少など、数多くのメリットを発揮したが、ことに、燃料20%節約という実験データは、「ガソリン一滴は血の一滴」といわれた戦時下の燃料事情に適応するものとして、市場の歓迎を受けた。』(⑰、P123)時流にマッチした商品だったようだが、何度も記してきたようにその後、統制経済が進み、オート三輪車自体が、“不急不要物資”に認定されてしまい、市場は強制的に縮小されていく。マツダは単気筒669ccの上位として、V型2気筒750cc車の投入を計画していたが、そもそもガソリン自体が入手困になってしまい、ダイハツ同様、代燃車の開発(木炭ガス発生装置やアセチレンガス発生装置を完成させて、トーヨー式アセチレンガス発生装置として商品化)なども行いつつ、15.2-13で触れたので重複は避けるが、生産統合と標準車の開発等に取り組みつつ、終戦を迎える。なおGA型自体は戦後も生産された。(下の写真は最近マツダ自身の手でレストアされたGA型で、マツダの公式ブログ(web⓱-5)より、以下の文と共にコピーさせていただいた。『~ 操作性を高めるセンター配置の4段変速機、シャフトドライブ、流線形のハンドルバー、高剛性フレーム、リーフスプリング式サスペンションなどが採用されています。またGA型は、新開発の4段変速機を搭載して燃費性能を高めていました。「グリーンパネル」というペットネームは緑色の計器盤に由来します。そこには「青春はつらつ、平和安全」の願いが込められていました。』という。
以下は戦後の話なので余談で、マツダのオート三輪が750cc化されるのは、戦後の1949年4月のGB型の登場からであったが、戦前開発していたV2型でなく単気筒だった。ちなみにオート三輪の排気量の上限は、1947年3月に1,000cc、同年12月には1,500ccへと拡大された。マツダのオート三輪の真の戦後型は、この記事の冒頭で紹介した、V2型1157ccOHVエンジンを搭載した、1950年のCT型からだった。)
m149.png
https://blog.mazda.com/wp-content/uploads/2021/01/20210115_01a-484x323.jpg
話を本題の戦前に戻し、こうしてオート三輪車の事業が軌道に乗ったため、1936年末、重次郎の念願であった、四輪自動車の生産を計画し、その準備に乗り出す。
15.8-35四輪車生産計画と、挫折
 以下、社史の(⑰、P78)より引用する。
『松田重次郎社長は、これ(注;1936年末)よりはやく、四輪車計画をいだき、東洋工業を、乗用車をふくめた三輪・四輪自動車の総合メーカーに発展させようとの抱負をもっていたといわれるが、その四輪車計画の具体的な出発点となったのは、11年(1936年)11月13日に日窒本社で開催された、重役会(松田社長、野口、金田両取締役出席)であった。』重役人が少人数だから意思決定も迅速に行えそうだが、(⑰、P101)の記述では、野口ら日窒の役員陣は、“本業の”業務に忙しくて(日窒はもっぱら朝鮮半島を舞台に事業を急拡大させていた)出席もままならず、事実上は重次郎の“ワンマン”だった様子が伺える中、野口の出席を仰いで決議したのは、それだけ重要な決定だったのだろう。
 当時の背景を説明し始めると長くなるので、前の記事の13.3項等を参照して下さい。極力短めに補足すると、この会議の約半年前に、自動車製造事業法が成立していた。さらに『この2ヶ月前にはトヨタとニッサンが自動車事業法による許可会社に決定しており、日本の自動車産業が新しい段階に入ろうとしている時であった。』(②、P72)同法により、四輪車製造の“本流”である、フォードやシヴォレークラスの、いわゆる“大衆車”クラスへ参入する道は、すでに閉ざされていた。重役会で決議されたのは、オート三輪と同じく無免許運転許可車として、市場が拡大していた(これも15.2-11項及び14.8項参照)、750cc以下のダットサン級小型四輪車市場への参入であった。
そのための準備として、1937年4月にオースティン・セブンを購入して小型四輪車の研究を開始する。それと並行して、乗用車製造のために必要な、最新のプレス機やグリーソン社の歯車切削機等の各種設備を手配し、同年7月、四輪車開発担当の竹林清三が渡米して、プレス機の試運転立ち合いと、合わせてアメリカの自動車産業の調査を行ない11月に帰国する。
1938年5月にはオペルの37年式(1,100cc)を、1939年にはNG37年式も購入し、1940年5月、小型乗用車の試作を完成させた。以下も社史の⑰より引用
『しかしながら、そうするうちにも事態は大きく変化し、東洋工業は、陸軍から命令された小銃の大量生産と、軍需工場向け工作機械の生産に奔命することとなり(中略)小型乗用車の試作が完了したときは、すでにその生産が不可能となっていた。結局、東洋工業の四輪車計画の実現は、第二次大戦後にもちこされたのである。』(⑰、P80)
(下のクルマがその試作車で、ダイハツはトラックからだが、マツダは乗用車から四輪の歴史がスタートした点は興味深い。四輪の乗用車をつくりたいという、松田重次郎の思いの結果だったのだろう。ただマツダも市販化の段階では当然、トラック版も用意したと思われるが。画像と以下の文は、マツダの公式ブログ(web⓱-5)よりコピーさせていただいた。『東洋工業は、1940年には小型四輪乗用車を試作しましたが、量産に至らず、初めての四輪乗用車の販売は、1960年発売のR360クーペまで待つことになります。』前項のGA型(グリーンパネル)で、当時マツダは単気筒669ccの上位として、V型2気筒750cc車の投入を計画していた、と記したが、これも四輪車との部品の共通化をはかろうと計画したものだったのだろう。)
m150.png
https://blog.mazda.com/wp-content/uploads/2021/01/20210115_01g-484x296.jpg
15.3-4.4項で記したように、マツダは工作機械も手掛けていたが、戦時体制下に入り、オート三輪が激しく落ち込む一方で、工作機械の生産量は増え続けた。さらに陸/海軍共同管理工場に指定されてからは、マツダに対して、生産の主力を「自動車」から「小銃」へ移すよう命令が下り、戦時体制下のマツダは、「小銃」と「工作機械」の生産へと、移行させていった。以下、wikiが要領よくまとまっているので、そのままコピーする。
『1937年(昭和12年)7月に日中戦争が勃発し、国内の組織が総力戦体制へと再編成されていく中、東洋工業は陸軍小倉工廠から三八式歩兵銃と九二式騎兵銃の生産を申し渡された。自動車こそ戦時に必須であると主張して断ったものの、認められることはなく、年末には部品の生産が開始された。1938年(昭和13年)1月には軍需工業動員法により陸海軍共同管理工場に指定され、軍部の直接管理を受けることになった。陸軍大臣による歩兵銃生産の命令を受けた東洋工業は、1940年(昭和15年)に九九式短小銃の組み立てを始め、工場が完成した翌1941年(昭和16年)からは本格生産を開始した。呉海軍工廠からは爆弾、水雷、信管などの製造の命令を受けた。』
下の写真は、『旧軍小銃の深い沼 Part.2…九九式短小銃 東洋工業製 シリーズ<エ>東洋工業 (現:マツダ) 製の九九式短小銃 中期型 <エ>シリーズ』という記事よりコピーさせて頂いた。http://regimentals.jugem.jp/?eid=4507 内容が深すぎてとてもコメントできません・・
m151.png
http://img-cdn.jg.jugem.jp/830/1205606/20200714_1321874.jpg
(戦後マツダは、1950年6月に、マツダ史上初となる四輪の市販車である、小型四輪トラックのCA型を発売する。『CA型は、32PSを発揮する新開発の1157cc空冷2気筒OHVエンジンを搭載したジープタイプの1t積み車で、三輪トラック開発のノウハウをつぎ込み28万円という低価格で販売された。しかし、25年から27年の間にわずか35台だけで生産が中止されてしまう。』台数からすると、熱心に販促したわけではなく、あくまでパイロット販売のようだ。当時の自動車業界は、この記事の冒頭で記したように、大枠では、“棲み分け”が成立していたのであえて“波風”をたてたくなかったのかもしれないし、限られたパイの中で、通産省もそのように行政指導していた。そもそもオート三輪の生産が好調で、マツダ自身にも余力もなかったのかもしれない。だが、大量生産されていたオート三輪と、マツダ流に大胆な共通化を図っていたと思われる、当時の国内の四輪自動車メーカーにはない合理的な設計思想が、その外観からはうかがえる。)
https://clicccar.com/2020/07/06/991209/ 
m152.png
https://clicccar.com/uploads/2020/07/02/4f359af09512b45ef4466adbfa61456f-20200702201133-900x507.jpg

15.9この記事のまとめ、孫悟空の“きんと雲”の時代に

 この記事は戦前のオート三輪の歴史について、主に岩立喜久雄、呂寅満、桂木洋二各氏の著作を頼りにそれらを引用しつつ、まとめてきた。あらためて三氏並びに「オールド・タイマー」誌(八重洲出版)に感謝するとともに、この記事を契機に、戦前のオート三輪の歴史に興味を持たれた方がいれば、備考欄に示してある原書の方をぜひ、ご確認ください。
 しかしこのままでは、この記事のオリジナル性を問われてしまうので!最後のまとめの文については、三人の方とはまったく無関係の、独断と偏見に満ちた、自分の考えで記すことにする。
 
 まだ最後まで辿り着けていないが、この一連の記事の「日本の自動車産業の“育ての親”は日本陸軍だった?(戦前の日本自動車史)」におけるクライマックス部分?は、自動車製造事業法成立の経緯から、戦後自立を果たしていく部分にかけてだと想定してきた。トヨタと日産を中心とした、日本の自動車産業が、基幹産業として確立していった、その過程だ。
 ただ今回の記事を書きながら次第に、将来の日本人にとって、戦前の日本自動車史の中でより参考になる部分は、実はこの、オート三輪の歴史ではないかと思うようになってきた。しかもそれは、ダイハツやマツダといった、メジャーな企業のオート三輪車市場への進出の部分でない。
 それ以前の、自転車業界出身の進取の気概を持った商人たちが、当初一人前の自動車扱いされず、“特殊自動車枠”であった豆自動車を、柔軟に対処した内務省官僚と折衝を重ねて、次第にオート三輪という日本独特の乗り物へと、発展させていったその過程だと思う。以下はテキトーかつ久々に?思いっきり“ぶっ飛んだ”話になるので、軽い気持ちでお読みいただきたいが、そのように思うに至った理由を記していきたい。
 
15.9-1近未来は「空飛ぶクルマ」に
 まず初めに、未来の自動車はどのようになるのか。この漠然とした問いに、希望を込めてその答えを示してくれた、偉大な先人がいる。「喜一郎氏と並ぶ事実上のトヨタの創業者」(引用㊶、P283)であった、豊田英二氏(1967~1982年トヨタ自工社長)だ。以下(web48)より引用する。「 」内が氏の言葉だ。
『「馬車は自動車にとって変わられました。このことから我々が学ぶべき教訓は、馬車屋が自動車を発明したのではない。 ということです。馬車屋は馬車の改造と改善を続けていただけでした。
翻(ひるがえ)って、自動車屋が自動車にとって変わる次の乗り物を発明できる保証はどこにもないということです。では自動車の次の乗り物はどんな乗り物なのか?
 皆さんは笑うかもしれないが、私は孫悟空のキントンではないかと考えているのです。自分で操作しなくても行きたいところへ自分を運んでくれる。それが孫悟空のキントンです。 
 そのキントンの夢を若い君たちに託したい。と思います。」(以上が豊田英二氏の言葉) ~  今から30年前の言葉とは思えない凄みと目の前の現実がある。』

 この引用は(web48)によれば1981年の講演からのようだが、現在の自動車の“次”が、自動車産業の中から生まれるとは限らないという、強い“戒め”とともに、夢のある未来の自動車像も語っている。その後も同じ内容で繰り返し語られているので、冗談のつもりで語ったわけではけっしてない。
 豊田英二氏が、本田宗一郎(&藤沢武夫)氏と並ぶ、戦後の日本の自動車業界の巨人で、その立場から、自動車に係る多くの情報を、たぶん他の人より熟知していたことは、間違いないと思う。それと同時に氏が、現実主義者であり、かつ時代の先を読む鋭い感覚を持ち合わせていたことも、歴史が証明している。その実績を踏まえた上での発言なので、重みが違う。真剣な話として捉えるべきだと思う。
 豊田氏の語った言葉を、素人言葉で言い換えれば、技術的な観点からは「自動運転で超高速移動できる“空飛ぶクルマ”」であり、その一方で「自分の好きなところへ自由に行ける」という、自動車としての本質は失ってはならないと、くぎを刺している点も重要だ。

15.9-2現在は「デグラス」(機密情報開示)が行なわれつつある状況
 ここで現在の状況を確認する。たぶん大いに異論があると思うが、「脱炭素」とか「EV」とかいった生易しいレベルではなく、現在進行形の話として、いよいよ「デグラス」(Degrass Information Disclosure (機密情報の開示))が行なわれつつある状況であると、言えると思う。
 その分野は科学技術に限らず、あらゆる分野に及ぶようだが、主要なメディアがどんなに必死に隠蔽しようとも、その状況証拠は日を追うごとに多くあがってきている。一例を挙げれば、すでに実戦配備され(=ということは、最先端技術ではすでにない)、日本でも多数目撃されている米軍の反重力?戦闘機、「TR3B」の情報をネットで検索すれば、我々一般人に明かされていない未知のテクノロジーが確かに存在し、密かに運用されていたことは明白だ。もはや“陰謀論”だとして、思考をシャットダウンしてはいられない状況に来ていると思う。
 そのことを考慮に入れれば、ポケットに入るかどうかはいったん置くとして、今後さらに「デグラス」が進み、特にニコラ・テスラ由来のフリーエネルギー系の技術が一般に開示されていけば、近未来(といってもいつかは断定できないけれど)に於いては、豊田英二氏が描いた「超高速で目的地に地移動できる“空飛ぶクルマ”」は、テクノロジー的には十分実現可能な範囲にあると思う(言うまでもなくまったくの私見です)。
 以上の現状認識に対しては、反論だらけだと思うが、ここでは(なにぶん自分のブログなので!!)そのように仮定したうえで、話を先に進める。

15.9-3「自動車」というカテゴリーの“幅”が大きく拡がる?
 次に近未来における「空飛ぶ自動車(クルマ)」というカテゴリー内における、走行(飛行)速度を軸にした、その階層(クラス)について、考えてみたい。ここで前提条件として、現状の地上走行専用の自動車も、「空飛ぶ自動車」という新たなカテゴリーに含まれることとする。「空飛ぶ自動車」は地上走行も今のように可能だからだ。また列車や飛行機、トラック・バスのような公共性の高い大量輸送機関も話が拡散してしまうので除く。さらに、たとえば“ゲート”を利用しての空間移動や、アメリカ政府も今年公式に存在を認めたUFOのような、実際に多く存在し、高度な技術が使われているのは確かだが、現時点では何だかよくわからない複雑なものも除外する。
 近未来におけるあくまで地球内移動用の、個人ユースとしての「空飛ぶ自動車」というカテゴリー限定でみた場合、その最上位クラスに位置するものを、その時代の先端技術を駆使した「超高速かつ自動運転で目的地まで安全に移動できる“空飛ぶ自動車”」であると仮定する。現代で言えば、プライベートジェットみたいだが、もっと高速かつコンパクトでDoor to Doorを実現し、自動運転機能により普通免許で自分が運転する乗り物だ。細かく言えば、その中でも大きさの違いや、高級版からスタンダード版まであるのだろうが、ここではあくまで速度域で分けるので、それらも同一クラスであるとする。
 この未来の最上位クラスの自動車は、込み入った全体の交通体系の中で、超音速の移動を安全に管理していく上でも、現在の自動車産業のような、実力の備わった大規模な組織(形態は今の企業とは変わってくるだろうが)から、生み出されていくように思う。

 一方「空飛ぶ自動車」として“最下層”クラスで、もっとも身近な存在の、今で言えば、電動アシスト自転車の領域の速度はどの程度になるのだろうか。“ぶつからない技術”も進化しているだろうが、子供やお年寄りも乗ることを考えれば、現在の法定速度=24km/hの×2≒50km/h程度だろうか。それでも低空飛行までは可能だが、地上走行が主な用途の乗り物だとしておく。
 だがこの想定だと、近未来の自動車の交通体系を全体的に見れば、空を高速で飛ぶ最上位クラスの最高スピード(音速を超えるぐらい?)と走行(飛行)高度が上方に大きく伸びるため、上位と下位と間の、速度/走行領域が、今の交通体系よりはるかに大きく広がることになる。そうなれば当然、その間の領域で新たなジャンルの「自動車」が、生まれる可能性が高いように思う。
 以上のような状況になると大胆に仮定(妄想)したうえで、以降はあくまで” いちカーマニア”としてのローカルな視点から、今後新たな交通体系の中でどのような自動車が新たに出現してほしいか、希望的観測ばかり多くなるが、さらに考察を進める。

15.9-4自動車=時間や空間や他人からも自由になりたい
 ここでいったん原点に戻り、そもそも個人ユースの「空飛ぶ自動車」に求められる機能とは何なのか、あらためて確認しておきたい。
 その第一は、「目的地まで、プライベートな空間を確保しつつ、出来るだけ早く安全に移動する」ことになろうか。そしてその目的のためには、上記の、最上位クラスの自動車が最適の乗り物だろう。
 しかしこの最上位クラスの乗り物は、目的地へ如何に早く移動するかが最優先で、半ば公共交通機関の延長線上に位置するもののような気がする。確かに「自分の好きなところへ移動できる」のは事実だが、その途中で、勝手気ままな移動(行動)は許されないだろう。交通体系全体の中で、A→B間の超速の移動の際の安全を確保するためには、きっちりと管理されることはやむを得ないことと思う。このクラスの乗り物は特殊な例をのぞけば、個人所有でなく、今でいうレンタカーやカーシェアで代用されるようになるかもしれない。

 だが人々が「自動車」というものに求めているものは、単に目的地への移動手段だけではない。「 」内は前回の記事(12.14)で記したことの再録になるが、自動車が電車などと違う点は「あらかじめ決められた時間や路線にかかわりなく、自由な移動を実現すること」にある。上からの計画通りの、お仕着せの移動を嫌う人のためもので、そもそも「移動が手段ではなく目的」の場合だってある。「自動車」は元々公共性には乏しい乗り物なのだ。
 人は「時間や空間のみならず、他人からも自由になりたい」からこそ、自動車に乗るのだ。映画“ブレードランナー”の二人、デッカード(レプリカント捜査官(ハリソン・フォード))とレイチェル(レプリカントの秘書(ショーン・ヤング))の場合と同じだ。これに対しての制約を、最上位クラスの空飛ぶ自動車は受けてしまうことになるのだ。
@1
https://pds.exblog.jp/pds/1/201303/24/40/e0198040_1510323.jpg

15.9-5中速度クラスの空飛ぶ自動車が主流になる?
 話を戻すが、未来社会における、各ジャンルの自動車需要について、勝手に想像すれば、最上位クラスのような超速スピードで移動する“空飛ぶクルマ”が必要な機会は、意外と少ないのではないだろうか。
 人間に馴染む、日常領域で使いやすい速度や飛行(走行)帯域はもっと低いレベルのはずで、そもそも空を飛ばなくても地上で用が足りる場合だって多いだろう。
 運転そのものが好きで、あくまで手動運転の技量にこだわる“走り屋”は、いつの時代にもいるだろう。空を飛ぶのを嫌う人だって、いるかもしれない。そうなると、最上位クラスと最下位クラスの間の、中間(中速度)クラスが、「空飛ぶ自動車」としての“主流”になるのではないだろうか。
 この、中速度クラス(といってもMAXスピードが200~700km/hぐらい≒プロペラ機の速度ぐらいだろうか?)の空飛ぶクルマはもちろん、自動運転と地上走行機能付きで、そのテクノロジーは最上位クラスから降りた“こなれた”ものが使われて、価格的にも相対的に割安となる。台数の上でも最大のボリュームゾーンになるのではないか。そして、このクラスの空飛ぶ自動車が、個人所有用の自動車の主流になると思うのだ。「自動車っていうのは所有も維持も使用も自由だからこそ魅力的」(徳大寺有恒氏)なのだ。人は本能的に、“電車”のような共有物とは違う、自分だけの小宇宙=「自動車」を手にしたいのだ。

15.9-6コアなカーマニアの余暇の過ごし方
 ここからさらにさらに、話が大きく脱線するが、このブログの趣旨に沿って、近未来の“空飛ぶクルマ”時代の、コアなカーマニアの余暇の過ごし方について考えてみる。
 まず近未来の一般人の生活を、まったくの私見だが想像してみると、今と違い、最高クラスの空飛ぶ自動車を製造しているような、大組織に勤めている人の方が稀で、地域に根ざした中小/零細か、ほとんどは場合個人事業主みたいな形で、上から言われて指示されるのではなくて、周囲と緩やかな連携をとりつつも、何らかの自主的な活動を行い、その評価としての収益+UBI(ユニバーサル・ベーシックインカム)と合わせて、安定した生活を営んでいくような気がする(何度も言うがまったくの私見というか、妄想です)。生産はロボットやAI主体で行われるので、個人の余暇の時間は大きく増えていくだろう。そうなると日本のカーマニアたちは、どのように有意義な時を過ごせるのだろうか。

15.9-7日本人は“ものづくり”に長けている
 今回の記事作成のため、旧車マニア向け雑誌の「オールド・タイマー」誌(以下O・T誌と略)を読む機会が多かった。その記事で驚かされたのが、日本人の旧車マニアの方々の、“ものづくり”に対しての強いこだわりだ。
 不器用な上に根気も根性ない自分ではありえない話だが、たとえばまったくの、文系×ド素人の一般事務職のサラリーマンが、ある日突然旧車のレストアを思い立ち、限られた休日を利用してこつこつと、創意工夫を重ねて独自な修復の手法を編みだしつつ(O・T誌によれば『修理は推理だ』そう)、実際にレストアを成しとげてしまうのだ。
 やはり日本人は元来、ものづくりが好きで、それが得意な民族だと思うのだ。手先も器用で、職人気質なうえに、難題を解決するための、優れた想像力も持ち合わせている。そして自分だけのための、一見無益に思える“ものづくり”に黙々と打ち込む姿勢こそが、自動車というものの本質ともダブり、ピュアなカーマニアとしてのあるべき、一つの姿だと思うのだ。

15.9-8近未来の正統派カーマニアは、“自分のクルマは自分で作る”!?
 そんなO・T誌の記事を読みながら、思いにふけったことは、これだけ優れたスキルを持った日本のカーマニアであれば、進化した近未来の自動車のメカ部分は、たぶんシンプルな構成になるはずなので、昔の英国車みたいなキットカーでも販売されれば、特にコアな部類に属さない、一般カーマニアでも、長くなった余暇時間を利用して、自分のクルマは自分で組み立てようと思いたつ人が、多く出てくるのではないかということだ。
 別の筋のカーマニアである“走り屋”志向の人だって、日本人本来の技能は持ち合わせているのだから、キットカーをベースに自分仕様のマシンに改造したいだろう。
 さらに踏み込んで、部品となるパーツが豊富に出回っていれば、製作の一部はロボットやAIに外注するなどして、自分がデザインしたオリジナルのクルマを作り、乗り回したいと考える人も当然出てくるはずだ。自分だけの自動車を主体的に作る、そのハードルが低くなると思うのだ。
 そしてそれらの自分だけの“改造車?”は、最高速クラスの空飛ぶクルマで実現させようとすると何かと問題が多そうなので、中速度域クラス以下の空飛ぶ自動車のカテゴリー内で、実現されていくのではないだろうか。

15.9-9一般人も洋服を着るように、クルマで個性を主張する
 そこまではやりきれない人は、既製品や、ブランド店のオーダーメイド品などを買うことになるが、今より遥かにバラエティーに富んだ選択肢の中から自分の好みに合ったデザインの空飛ぶ自動車を選べるように、なるのではないだろうか。
 中級~下級クラスにその傾向が強くなり、特に下級クラスはあたかも洋服を身につけるように、どのブランドの空飛ぶ自動車を選択するかで、その人の個性を主張するようになっていくと思う。そしてそのことは、新たに大きな市場が生まれる可能性も、秘めていると思う。
 そしてこの新たな市場創出の“可能性”を、官/民ともに、見逃す手はないと思う。

15.9-10中・下位クラスの空飛ぶ自動車は、中・小・個人事業者が活動できるよう方向づける
 さらに“妄想”を重ねる。そんな近未来の“空飛ぶ自動車産業?”をデザインする上で、ぜひ参考にしたいのが、この記事で延々と記した、オート三輪(内務省)や、戦後の電動アシスト自転車(警察;15.5-30項参照)の産業を育成した時のような、“規制緩和”処置による市場振興策だ。
 つまり、上級クラスの空飛ぶ自動車については、「目的地まで、プライベートな空間を確保しつつ、出来るだけ早く安全に移動する」という、自動車としての第一の本質は奪わないものの、たとえば超音速飛行を行う区間に於いては、半ば公共的な移動手段だとみなし、厳しい管理のもとに置くとする。
 しかしそこから“下級”の方向にむかい、最高速度が落ちるにしたがって、段階的に規制緩和(減免処置)を行い、中速度以下の空飛ぶ自動車では「あらかじめ決められた時間や路線にかかわりなく、自由な移動を実現」できるようにしていくのだ。
 それと同時に、下に行けば行くほど、個人及び中小事業者やその地域性が有利になるような、産業の方向付けも併せて行いたい。たとえば“中級”以下の空飛ぶ自動車産業の構造は、個人や中小事業者が個々に得意分野を受け持ち、お互い助け合いながら空飛ぶ自動車作りを行うようになると想定すれば、かつての自転車産業の「問屋制工業」(14.3-5)も多少参考になるのではないかと思う。
 もちろん実用化された先端技術が、“上級クラス”から落ちてくるからこそ、成り立つ図式かもしれないが、近未来においてはたぶん、現在秘匿されているニコラ・テスラ系の、シンプルな技術が情報開示されていけば、“技術”に対しての絶対的な価値が、薄れていくことになるので、実現可能だと思う。

15.9-11自分だったらどんな「空飛ぶ自動車」を作りたいか
 この話題の最後として、仮にそんな空飛ぶ自動車の時代まで、自分が生き長らえることができて、その時運よく、自分用のスペシャルな「空飛ぶ自動車」を買うお金があったならば(近未来では思考→実現のプロセスが早まると期待して!)、どんなものが欲しいか、その製作の過程も含めて、妄想してみたい。
 まず先に記したように、自分は“不器用な上に根気も根性ない”(=スキルがない)ので、自分が思い描いた空飛ぶ自動車を、メンド~なので定評ある業者に取りまとめを依頼(=丸投げ!)することになるだろう。仮に神戸の「ヨコヤマショーカイ」にでも頼もうか(15.4-14~18参考)。さてどんなクルマにしようか。技術的にはすでに確立されている時代なので、問題はデザインをどうするかだ。

15.9-12“宇宙船ルック”でなく“名車のレプリカ”で
 この時代の最先端のデザインは、すでに情報が全面開示され、次第に交流も進んでいるだろう?UFO&宇宙人を意識した、“宇宙船(服)ルック”なのかもしれない。ただ現時点でもチラホラと情報が漏れ出てきている、UFOのその姿は、大きさも形も実にバラエティーに富んでいるが、高次元の宇宙人の方々には大変失礼で、申し上げにくいが、正直を申せば自分の好みではない。
 旧時代の機械文明に長年毒されてきた?老齢のカーマニアとしてはやはり、地上を走る時代の自動車が懐かしい。さてどうしようか。
 ここであれこれと妄想を記すと、永遠のごとく続いてしまうので結論だけいえば、やはり下のクルマのレプリカにしたい。
@2
https://i2.wp.com/classiccar-investment.net/wp-content/uploads/2017/08/b9405f8c758a71fbdca37e07a6ea4a87.jpg?ssl=1
 アストンマーティンのDB4だ。ボンドカーは時代的に次のモデルのDB5とされているが、実際には代役として、DB4が使われていたらしい。特にボンドカーよりショートホイールベースのバージョンの、DB4GTがいい。
やっぱり、DB4GTはいいな~。
@3
https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcQYNEfBQpU55xHnm1IwRyjhNa3sViu5lDDoGzsEQgCVdGl6B1Ir&s
今でもあまりに人気が高いので、2017年、ついにメーカー自ら25台、再生産したほどだ。
https://intensive911.com/?p=74240
@4
https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcQZ8oFtlcijdU6fUYW45FpG3Mq14gw2S5iAkD_JPX1hrMsouoLu&s
でもシンプルなフロントバンパーは、あった方がいいのかなぁ
@5
https://asset.watch.impress.co.jp/img/car/docs/1034/603/05.jpg
 もちろん近未来に於いても、アストンマーティン・ラゴンダ社は存続しているだろうが、そのブランドイメージからしても当然上級クラス専用だろうし、今のDB11のカッコよさからしても、空飛ぶ自動車時代でもメチャクチャかっこいいに違いないが、到底買える金額ではないにちがいない。
@6
https://assets.media-platform.com/bi/dist/images/2019/04/10/5cab9412862913503805d6b6-w1280.png
@9
https://www.autocar.jp/wp-content/uploads/2018/06/aston-martin-db11-amr_180530_01.jpg
 だが速度を中級クラス以下に落とすと、15.9-10で書いたように諸々の優遇制度が働いて、金額がぐっと下がるのだ(多少無理がある想定だが、話がつながらなくなるので、そーいうことにしておく!)。
 さて、DB4GTのボディデザインだけを真似した、中身は見掛け倒しの、“中の下クラス”の汎用部品を使った“並み”の性能の空飛ぶ自動車の製作を、神戸の「ヨコヤマショーカイ」にお願いする。地上走行用時代の自動車のレプリカ品を作るときの定石として、空中走行時にホイール部分をカウルで自動的に覆う機構は当然だが、全幅を約10cmぐらい広げて(1676→1780mm)、車高も若干下げ、ヘッドライトを現代のミニ用のものに変更する等の多少のアレンジも合わせてお願いするが、
@77
https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcRP4VolVx1IvCtiTsg7Qk1pqd_PQweuvsu-HWS1fClKx6wnUlE&s
 横山さん、どうも乗り気でないようだ!困った事態だが、 “アストンマーティン ブログ”の「Astonmartin DB4 & DB5 レプリカ」という記事『~同じ事を考える人はいるものでして、ニュージーランドでDB4を作成中の方がおりました。』の情報も、追加で紹介しておく。
https://minkara.carview.co.jp/userid/761440/blog/30807842/
@8
https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/userstorage/000/010/381/975/df7e31af2c.jpg
 ところがしばらくして連絡があり、話が大きく進展したとのこと!デザインの著作権についてはアストンマーティン・ラゴンダ社と話がつき、割安料金で使用許可が出たとのこと。アストンマーティン社の空飛ぶ自動車は、最上位クラスで登録されていており、国際ルールでは最上位クラスで申告すると、そのカテゴリー以外の自動車は作れないという縛りがある!中/下位クラス及び中小/個人事業者が優遇される制度があるのだ。(15.9-10)それに元々、音速以上に達する最上位クラス用としては、DB4GTのデザインそのままでは使えなかったようだ。またニュージーランドのアストンマーティンのマニアとも連絡が取れて、お互い協力していくことになったという。さすが、交渉上手の「ヨコヤマショーカイ」の親父さんで、自分では到底無理だっただろう。
 さらにその上に、大阪の「ナカジマショーテン」(15.4-1)、東京の「ヤマナリショーカイ」(15.4-6)、名古屋の「カズショーテン」(15.4-28)も巻き込んで、日本の4社+ニュージーランドとの共同企画品として、少量生産することに話が発展したそうだ!相変わらずの商売上手だ。その他、ボディ製作と全体の取りまとめは技術力のある大阪阿波座の「セキハラシャタイ」(15.4-26)が行ない、動力源の空飛ぶ自動車用テスラジェネレーターの汎用品(輸入品)を大阪の「チューオーショーカイ」(15.1)から、重力制御機器等周辺部品は東京の「トーザイモーター」(15.4-30)からそれぞれ調達することに決まったそうだ。どこか懐かしい名前ばかりだが?この頃になると、周辺の事業者も育ってきていたようだ。
 ところで「ヨコヤマショーカイ」のご主人、自分の提案に、実は最初から乗り気だったそうだ。それならば、製造コストも下がるはずだし、見積金額からの“値引き”も要請してみたが、「まだ結果がでていないから」と、ビシッと跳ねのけられてしまう! 結局端数だけ値引きとなったが、さすがに関西商人、近未来になっても渋い・・・。
         - 以上 -


⑳の引用元

① :「日本自動車工業史―小型車と大衆車による二つの道程」呂寅満(2011.02)東京大学出版会
② :「懐旧のオート三輪史」 GP企画センター編(桂木洋二監修)(2000.02)
(改訂版『日本のオート三輪車史』GP企画センター編(桂木洋二監修)(2021.03)
③ :「くるまたちの社会史」斎藤俊彦(1997.02)中公新書
④ :「轍をたどる」国産小型自動車のあゆみ」岩立喜久雄 月刊オールド・タイマー(八重洲出版)連載記事 ※以下「月刊オールド・タイマー(八重洲出版)」」を略
‘④-1:「国産小型車のあゆみ(14)純国産車の始まり ニューエラとJAC」(2008.04、No.99)
‘④-2:「マツダ号とつばさ号 戦前国産車型録(4)」(2010-.02、No.110)
‘④-3:「日露戦前に生まれた三輪四輪自転車」(2006.04、№.87)
‘④-4:「国産のはじまり」(2006.02、№.86)
‘④-5:「スミスモーターと特殊自動車」(2006.08、№.89)
‘④-6:「国産電気自動車と特殊自動車の始まり」(2006.10、№.90)
‘④-7:「原動機付三輪四輪車の発生」(2006.06、№.88)
‘④-8:「フロントカーからリヤカーへ」(2006.12、№.91)
‘④-9:「小型四輪乗用車の始まり」(2007.04、№.93)
‘④-10:「西のリラー 東のオートモ(前編)」(2007.08、№.95)
‘④-11:「大型リヤカーの足跡とビリヤスエンジンの輸入」(2007.02、№.92)
‘④-12:「西のリラー 東のオートモ(後編)」(2007.10、№.96)
‘④-13:「三馬力時代特殊自動車の興隆(1925~1930)」(2007.12、№.97)
‘④-14:「五馬力時代から750cc時代へ(1930~1933)」(2010.04、№.111)
‘④-15:「三馬力時代のビリヤス系三輪と四輪」(1925~1929)」(2007.06、№.94)
‘④-16:「五馬力時代の自動三輪車(1930~1933)」(2008.02、№.98)
‘④-17:「ダットサン号五馬力の登場(1921~1929)」(2009.08、№.107)
‘④-18:「広島に現れた国産の先駆SSD」(2008.06、№.100)
‘④-19:「マツダ号とツバサ号(戦前国産車型録(4))」(2010.02、№.110)
‘④-20:「くろがね号史(戦前編1)蒔田鉄司の足跡」(2001.08、№.59)
‘④-21:「くろがね号史(戦前編2)蒔田鉄司のニューエラ」(2001.10、№.60)
‘④-22:「750cc時代の自動三輪車(その1)」(2010.06、№.112)
⑤ :「小型・軽トラック年代記」桂木洋二+GP企画センター(2006.05)グランプリ出版
⑥ :「日本のオートバイの歴史」富塚清(2004.06 新訂版第2刷)三樹書房
⑦ :「苦難の歴史・国産車づくりへの挑戦」桂木洋二(2008.12)グランプリ出版
⑧ :「写真でみる昭和のダットサン」責任編集=小林彰太郎(1995.12)二玄社
⑨ :「20世紀の国産車」鈴木一義 (2000.05)三樹書房
⑩ :「小林彰太郎の日本自動車社会史」小林彰太郎(2011.06)講談社ビーシー
⑪ :「日本自動車産業の成立と自動車製造事業法の研究」大場四千男(2001.04)信山社
⑫ :「軍用自動車入門」高橋昇(2000.04)光人社NF文庫
⑬ :「日本軍と軍用車両」林譲治(2019.09)並木書房
⑭ :「国産三輪自動車の記録 1930~1974」小関和夫(2010.10)三樹書房
⑮ :「ぼくの日本自動車史」徳大寺有恒(2011.06)草思社(文庫版)
⑯ :「マツダ100年 車づくりと地域」中国新聞社 報道センター経済担当 (202012.25)中国新聞社
⑰ :「東洋工業50年史」東洋工業株式会社五十年史編纂委員会編(1972.01)東洋工業株式会社
⑱ :「ダイハツ 日本最古の発動機メーカーの変遷」小堀和則(2007.12)三樹書房
⑲ :「マツダ 東洋コルク工業設立から100年」自動車資料保存委員会編(2021.02)三樹書房
⑳ :「マツダの魂 不屈の男 松田恒次」中村尚樹(2021.06)草思社文庫
㉑:「写真でみる 昭和のダットサン」責任編集=小林彰太郎(1995.12)二玄社
㉒:「国産二輪車物語」小関和夫 (2005.09)三樹書房
㉓:「日本のトラック・バス(いすゞ、日産/日産ディーゼル、三菱/三菱ふそう、マツダ・ホンダ編」小関和夫(2007.04)三樹書房
㉔:「「ニッポンのクルマ20世紀」日本のモータリゼーション 実感!1世紀ロマン 神田重巳 (2000)八重洲出版」
㉕:「国産トラックの歴史」中沖満+GP企画センター(2005.10)グランプリ出版
㉖:「欧米日・自動車メーカー興亡史」桂木洋二(2004.08)グランプリ出版
㉗:「企業風土とクルマ 歴史検証の試み」桂木洋二(2011.05)グランプリ出版
㉘:「トヨタ自動車30年史」トヨタ自動車工業株式会社社史編集委員会(1967.12)トヨタ自動車工業株式会社
㉙:「六十年史」ダイハツ工業株式会社60周年記念社史編集委員会(1967.03)ダイハツ工業株式会社
㉚:「クルマの歴史」堺恵一(2013.03)NTT出版
㉛:「ふそうの歩み」三菱自動車工業株式会社 東京自動車製作所(1977.09)
㉜:「日本における自動車の世紀」桂木洋二(1999.08)グランプリ出版
㉝:「世界への歩み トヨタ自販30年史」トヨタ自動車販売㈱社史編纂委員会(1980.12)
㉝-2:「世界への歩み トヨタ自販30年史 資料」  〃
㉞:「間違いじゃなかったクルマ選び」徳大寺有恒(2009.10)二玄社
㉟:「日産自動車50年史」日産自動車株式会社 調査部(1983.12)日産自動車株式会社
㊱:「久保田健四郎 国産化の夢に挑んだ関西発の職人魂」沢井実(2017.12)PHP研究所
㊱-1:「インディアン再生記」月刊オールド・タイマー№.81(2005.04)八重洲出版
㊱-2:「軍用陸王97式側車」」月刊オールド・タイマー№.86(2006.02)八重洲出版
㊱-3:「三輪車実働主義月刊オールド・タイマー№.88(2006.06)八重洲出版」
㊲:「日本自動車工業史座談会記録集」自動車工業振興会(1973.09)
㊳:「日本自動車史Ⅱ」佐々木烈(2005.05)三樹書房
㊴:「五十年史 ダイハツ工業株式会社」(1957.03)ダイハツ工業株式会社
㊵:「決断」豊田英二(2000.11)日本経済新聞社
㊶:「トヨタの系譜」中日新聞社経済部編(2015.04)中日新聞社

Web
❶:「「人力車の歴史」おもしろ体験博物館 江戸民具街道でじたる案内人
http://edomingu.com/jinrikisha/jinrikisha.html」
❷:「戦前のオート三輪車とプレモータリゼーション」箱田昌平
https://www.i-repository.net/contents/outemon/ir/106/106070306.pdf
❸:「三輪自動車の歴史(1)」ナカジマ部品
https://www.rakuten.ne.jp/gold/nakabc/auto-3rin/auto3rin-1.htm
❹-1:「第1回 戦前の小型商用車」M-BASE(三樹書房)
http://www.mikipress.com/m-base/shoyosha/
❹-2:「第17回 A項-16 オースチン(1)」M-BASE(三樹書房)
http://www.mikipress.com/m-base/2014/04/post-63.html
❹-3:「第85回 「モーターファン」誌1952年1月号に載った広告」M-BASE(三樹書房)
http://www.mikipress.com/m-base/2019/08/85-1.htm
❹-4:「第48回 D項-1 DAF~DeCoucy」M-BASE(三樹書房)
http://www.mikipress.com/m-base/2016/11/post-84.html
❺:「1907年 ダイハツ ヒストリー;エンジン音とともにダイハツの歴史が始まる」ダイハツHP
https://www.daihatsu.com/jp/company/know/history110/index.html
❻-1:「★1935年英国フォード10馬力 モデルC 戦前ベビーフォード ~ 自動車カタログ棚から 294」ポルシェ356Aカレラ
https://ameblo.jp/porsche356a911s/entry-12095651827.html
❻-2:「★1935年マツダ號 戦前500cc三輪トラック~ 自動車カタログ棚から338」ポルシェ356Aカレラ
https://ameblo.jp/porsche356a911s/entry-12240184303.html
❻-3:「★1959年ヂャイアント三輪トラック 愛知機械のキツネたち ~ 自動車カタログ棚から 187」ポルシェ356Aカレラ
https://ameblo.jp/porsche356a911s/entry-11665570175.html
❼-1:「2017日本自動車殿堂 歴史遺産車 「ダイハツ ツバサ号三輪トラック」
http://www.jahfa.jp/wp/wp-content/uploads/2017/11/DaihatsuTsubasaThreeWheeledTruck.pdf
❼-2:「ダイハツ三輪車第1号車(HA型)」日本の自動車技術330選 JSAE
https://www.jsae.or.jp/autotech/3-3.php
❼-3:「マツダDA型三輪トラック」日本の自動車技術330選 JSAE
https://www.jsae.or.jp/autotech/3-4.php
❼-4:「アサヒ号 AA型 二輪車」日本の自動車技術330選 JSAE
❼-5:「2019日本自動車殿堂 歴史遺産車「」いすゞエルフ TL151型」
http://www.jahfa.jp/wp/wp-content/uploads/2019/12/2019-isuzu.pdf
❼-6:「「2013日本自動車殿堂 量産・高精度技術を指導 ウイリアム・R・ゴーハム」
http://www.jahfa.jp/wp/wp-content/uploads/2013/01/2013-william.pdf

❽:「伝説のダイハツミゼットを思わせる佇まい、トゥクトゥクと呼ばれる三輪自動車とは」
外車王SOKEN 鈴木 修一郎
https://www.gaisha-oh.com/soken/tuktuk-news/
❾:「日本自動車整備産業形成史」小川秀貴
file:///C:/Users/hirokun/Downloads/8%20(2).pdf
❿:「ダイハツの100年をかいまみる」当摩節夫 RJC
http://www.npo-rjc.jp/daihatsu/
⓫:「戦前・戦後の三輪自動車産業についての一考察」片山三男
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81005206.pdf
⓬-1:「マツダ100年史・第3回・第1章・その3」Clicccar
https://clicccar.com/2020/07/03/990912/
⓬-2:「マツダ100年史・第4回・第1章 その4」Clicccar
https://clicccar.com/2020/07/04/990924/
⓭-1:「宮田製作所 戦前からの老舗、新興勢力との競争から自転車に専念」
⓭-2:「陸王と目黒製作所 ハーレーの国産化で誕生した戦前からの老舗」
オートバイ伝説 走り出せば青春! https://bikeseisyun.kirara.st/sitemap
⓮:「戦前の日産自動車(株)の車両開発」鍋谷正利 JSAEのインタビュー記事
https://www.jsae.or.jp/~dat1/interview/interview8.pdf
⓯:「小型三輪自動車産業の競争-1945 - 1957 年」常見耕平 経営・情報研究
https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_8559327_po_tsunemi.pdf?contentNo=1&alternativeNo=
⓰-1:「みなさん!知ってますCAR?」広田民郎」「旧きをたずねて新しきを知る!重次郎とマツダヒストリー第1回」
https://seez.weblogs.jp/car/2008/11/index.html
⓰-2:「みなさん!知ってますCAR?」広田民郎」「旧きをたずねて新しきを知る! 重次郎とマツダヒストリー 第7回」
https://seez.weblogs.jp/car/2009/01/index.html
⓰-3:「みなさん!知ってますCAR?」広田民郎」「旧きをたずねて新しきを知る! 重次郎とマツダヒストリー 第3回」
https://seez.weblogs.jp/car/2008/12/page/2/
⓰-3「みなさん!知ってますCAR?」広田民郎」「日産をつくった男・鮎川義介の光と闇!(第11回)」ダットサン
https://seez.weblogs.jp/car/cat3843142/page/2/
⓰-4「みなさん!知ってますCAR?」広田民郎」「知られざるダイハツの歴史―国産エンジン開発の情熱から始まった!(第2回)」
https://seez.weblogs.jp/car/cat3843142/page/6/
⓰-5「みなさん!知ってますCAR?」広田民郎」「遅れてきたお雇い外国人 ウイリアム・ゴーハム伝(第11回)」
⓰-6「みなさん!知ってますCAR?」広田民郎」「遅れてきたお雇い外国人 ウイリアム・ゴーハム伝(第10回)」
https://seez.weblogs.jp/car/cat3843142/
⓱-1:「マツダ百年史① 自社開発へのこだわり(1930年代)」マツダ公式ブログ
https://blog.mazda.com/archive/20200527_01.htm
⓱-2:「マツダ百年史② キャラバン隊 鹿児島-東京間の旅(1930年代)」
https://blog.mazda.com/archive/20200624_01.html
⓱-3:「第2話 親子で叶えた、夢の一台 R360クーペ発表会」
https://www2.mazda.com/ja/100th/virtual_museum/episode/episode002.html
⓱-4:「マツダミュージアム探検隊!〜パート2〜」マツダ公式ブログ
https://blog.mazda.com/archive/20130510_01.html
⓱-5:「レストアプロジェクト、ついに完結!GA型三輪トラックの歴史を振り返ります」マツダ公式ブログ
https://blog.mazda.com/archive/20210115_01.html
⓲:「マツダの始まりはバイク ~バイクメーカーにならなかった理由~」ブログ“バイクの系譜”
https://bike-lineage.org/etc/bike-trivia/mazda_motorcycle.html
⓳:「宍戸オートバイ製作所とSSD号」通でがんす
https://blog.goo.ne.jp/hiroshima-2/e/c38e5568bb5f631539550927ccb44157
⓴:「DAIHATSU HS6型」(旧車シリーズ828)
http://www.asahi-net.or.jp/~ip3t-nksn/Pages/B-classic/Qrp828.htm


web21:「戦前大阪の機械工業集積:構造と展開」沢井 実
https://www.kigyoka-forum.jp/JES/JES11/JES11_04_Sawai02.pdf
web22:「【車屋四六】かつてマツダは三輪業界の王者だった。」
https://car-l.co.jp/2017/11/24/1258/
web23:「日本内燃機 “くろがね” 軍用車両史」坂上茂樹
https://core.ac.uk/download/pdf/35270985.pdf
web24-1:「日本で最初に生まれたオートバイとは?(1909-1955年)【日本バイク100年史 Vol.001】」webオートバイ
https://www.autoby.jp/_ct/17303386
web25:「【三次試験場50周年】三次試験場の歴史と、なぜマツダのみがロータリーエンジンの量産に成功したのか?」Car Watch
https://car.watch.impress.co.jp/docs/news/723141.html
web26-1:「【山本健一とロータリーエンジン】マツダ消滅の危機に結集した“ロータリー 四十七士”[第1回]」Webモーターマガジン
https://web.motormagazine.co.jp/_ct/17353592
web26-2:「【山本健一とロータリーエンジン】問題解決に大きな力となった松田恒次社長のネットワーク[第3回]」Webモーターマガジン
web26-3:「【山本健一とロータリーエンジン】「マラソン・デ・ラ・ルート」という過酷なレースへの挑戦[第6回]」
https://web.motormagazine.co.jp/_ct/17355175
web27-1:「水野式自動三輪車」トヨタ博物館
https://toyota-automobile-museum.jp/archives/car-database/detail.html?id=249
web27-2:「トヨエース」トヨタ博物館
https://toyota-automobile-museum.jp/assets/pdf/archives/magazine/magazine_66.pdf
web27-3:「」
https://www.facebook.com/TOYOTACommemorativeMuseumofIndustryandTechnology/posts/699603760103594/
web28-1:「33-08.国産車発展小史~東洋工業の変革~」クルマの歴史300話 蜷田晴彦
http://ninada.blog.fc2.com/blog-entry-1143.html
web28-2:「41-05.オート三輪車の人気アップ①~ダイハツ号の登場~」クルマの歴史300話 蜷田晴彦
http://ninada.blog.fc2.com/blog-entry-1354.html
web28-3:「31.梁瀬長太郎とゴーハム」クルマの歴史300話 蜷田晴彦
http://ninada.blog.fc2.com/blog-category-39-1.html
web29:「T.T.タイムトンネルショールームの一角が、WWⅡの戦線エリアと化した!!」タイムトンネル
http://timt.co.jp/time03/zundapp.html
web30-1:「小型三輪トラックの販売推移」旧式商用車図鑑
http://route0030.blog.fc2.com/blog-entry-171.html
web30-2:「【トヨタ SKB型 トヨエース】 トラックの国民車」旧式商用車図鑑
http://route0030.blog.fc2.com/blog-entry-132.html
web30-3:「【ダイハツ ミゼット DKA / DSA型】 幌付3輪スクーター型トラック」旧式商用車図鑑
http://route0030.blog.fc2.com/blog-entry-147.html
web30-4:「【三菱ふそうT625D】 4tクラスの初代王者」旧式商用車図鑑
http://route0030.blog.fc2.com/blog-entry-81.html
web31:「<自動車人物伝>神谷正太郎…トヨタ自動車”販売の神様”の戦略」gazoo
https://gazoo.com/feature/gazoo-museum/car-history/14/03/14/
web32:「わが国における自動車流通と販売金融 ―販売金融黎明期から法律施行期以前を中心として―」石川和男
file:///C:/Users/hirokun/Downloads/86_07%20(2).pdf
web33:「トヨタカローラ1100~100ccの余裕をアピールして大ヒットした初代カローラ」“くるまうるzooh”
https://dcome.co.jp/kuruma/post-6420
web34:「第2項 月産10万台を目指して 高岡工場、東富士工場、三好工場の建設」トヨタ自動車75年史
https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/text/entering_the_automotive_business/chapter1/section4/item2.html
web35:「人力車の歴史について(くるま屋)」
web36:「自転車産業の発達」JETRO
https://d-arch.ide.go.jp/je_archive/english/society/wp_unu_jpn30.html
web37:「日本における自転車工業の発展」竹内淳彦 東京学芸大学地理学会
https://core.ac.uk/download/pdf/15924434.pdf
web38-1:「メイドインジャパンの品質はいかにして向上したか」自転車物語web
http://www.jitenshamonogatari.com/2020/03/01/madeinjapannohinsitsu/
web38-2:「自転車実用化の歴史」自転車物語web
http://www.jitenshamonogatari.com/2019/12/27/jitensya_rekisi/
web39:「自転車産業技術の変遷に関する一考察」渡邉喜久 東海学園大学
http://repository.tokaigakuen-u.ac.jp/dspace/bitstream/11334/95/3/kiyo_005_05.pdf
web40:「☆便利だったリヤカー、自転車」随想・東北農業の七十五年
http://j1sakai.blog129.fc2.com/blog-entry-257.html
web41:「国産リヤカーの出現前後」梶原利夫 産業考古学会評議員 自転車産業振興協会 技術研究所
http://www.jbpi.or.jp/giken/l0frgpkddpf93bby/C01270.pdf
web42:「戦前期日本自動車産業の確立と海外展開(上)」上山邦雄
http://libir.josai.ac.jp/il/user_contents/02/G0000284repository/pdf/JOS-02872072-3703.pdf
web43:「大正時代の国産電気自動車 森本雅之(東海大学)」
http://www.ei.u-tokai.ac.jp/morimoto/docs/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E9%9B%BB%E6%B0%97%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A.pdf
web44:「モーガン スリーホイラー マニアを熱狂させる現代版"車のシーラカンス"」OCTANE
https://octane.jp/articles/detail/1538
web45:「JAP」乗り物ライター矢吹明紀の好きなモノ
https://ameblo.jp/akiyabuki/entry-10219053878.html
web46:「自動車免許はいつから必要になった?免許の歴史を徹底解説」武蔵教習所のブログ
https://musasisakai-ds.co.jp/blog/31171/
web47:「自動車の「検査」とその変遷」小林英世 JAMAGAZINE(2014.#48)
https://www.jama.or.jp/lib/jamagazine/jamagazine_pdf/201410.pdf

web48:「「孫悟空のキントン トヨタカンバン方式 20世紀もっともアジアで影響力があった20人」タグアーカイブ」
https://www.m-pro.tv/tag/%E5%AD%AB%E6%82%9F%E7%A9%BA%E3%81%AE%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3%E3%80%80%E3%83%88%E3%83%A8%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%B3%E6%96%B9%E5%BC%8F%E3%80%80%EF%BC%92%EF%BC%90%E4%B8%96


⑲ 日本の自動車産業の“育ての親”は日本陸軍だった?フォードとGMの日本進出とその影響(戦前の日本自動車史;その4)《- 後篇 -》

⑲ 日本の自動車産業の“育ての親”は日本陸軍だった?フォードとGMの日本進出とその影響(戦前の日本自動車史;その4)《- 後篇 -》
(※この記事はまだ書きかけです)

(元ネタに対してのガイド役になれば幸いです)
(いつものように文中敬称略とさせていただき、直接の引用/箇所は青字で区別して記した。また考える上で参考にしたものや、写真の引用元まで含め、出来るだけすべての元ネタを記載している。この記事のたぶん8割以上が、それら参考文献に依存するものであり、そのため今回の記事は青字だらけになる予定だ。もちろん、オリジナルに勝ることはけっしてないので、この記事をきっかけに興味をもった方はぜひ元ネタの方を確認願いたい。この記事がそのためのガイド役を果たせれば幸いだ。
なお前回の記事の“主題”が陸軍だったため、やたらと重苦しくなってしまった反省もあり、今回は深く考えることはせずに、流れに任せて軽いノリ書いてある。また動画の紹介部分は緑色で区別した。)
― ― ― ― ― 以下、前編より続く ― ― ― ― ―

12.戦前の“アメ車”をめぐっての、よもやま話(雑談)
 前回の記事(その3)は陸軍が主役で、そのため“総力戦構想”だとか、全般にかなり固く、重苦しいものになってしまった。そこでその反省も込めて、今回は“アメ車”の記事ということもあり、この記事の最後の纏めとなる、13項のフォード、GMの日本進出の功罪を記す前までは、軽めな話題で綴っていきたい。ただその内容は、当時の日本の自動車社会や、本国を含むアメリカ車の世界について、雑談するもので、ネットの検索で「戦前の日本の自動車史」というテーマに興味を持ち、読まれている方からすれば、12項後半のアメ車の部分は読み飛ばしてもらったほうがよいと思います。
まずは”おさらい”から
 それでは“よもやま話”を始める前に、今まで多く引用してきた五十嵐平達、神田重巳、小林彰太郎の、戦前のアメ車時代をリアルタイムで体感してきた自動車ジャーナリストの文章+戦前日本のアメ車時代に特化してもっとも詳しく書かれている①を主に参考しつつ、産業面というよりも、社会風俗面における自動車の位置づけをもう一度(多くの記述が重複するが)、おさらいするところから始めてみたい。
全体の75%が横浜製フォードと大阪製シヴォレーだった
 当時の日本の街中を走る自動車の大半が、ビッグスリーのKD生産車を中心としたアメリカ車(しかも大雑把にいえば、そのうちの3/4が横浜製フォードと大阪製シヴォレー)であり、自動車≒アメリカ車であったことは何度も記してきた。
 今ではなかなか想像しがたいし、誤解されがちな当時の“雰囲気”を㉚より引用『~何故か現在語られる日本の自動車史にはこのムードが出ていない。日本自動車史の多くはその1%の国産車だけを拾い集めて昭和初期の日本を構成しようとしているのだ。』(㉚P107)
 戦前日本の自動車“社会”(自動車“産業”でなく)について語る際に、国産乗用車を軸に記すのは、小型車分野のダットサン(次の“その5”の記事で記す予定)以外はほとんど無意味のようだ。ネットで探索すると、トヨダAA型乗用車の綺麗な写真(レプリカだが)が多く出てくるが、実際には6年間かけてようやく1,404台が手作りされたにすぎず、戦時体制下の街中で見かけることはまれだったはずだ。次回の記事(その5)で記す予定のオート三輪とダットサンを除けば圧倒的に、アメ車中心の世の中だったのだ。
自家用車はごく少なかった
 さらにこれも何度も記したが、クルマの種別も自家用車はごく少なく、乗用車はフォード、シヴォレーを中心としたタクシーや、官庁や企業向けの社用車、それにハイヤーが主体だった。人力車に代わり、都市部の中産階級では、当時円タクと呼ばれたタクシーの利用が一般化しており、その下の大多数の庶民層もイザという時は利用していたようだ。またダッジ等の上級車を使用していたハイヤーも、都市部を中心に育ちつつあったアッパーミドルクラス以上ではどうやら、日常的に使われていたようだ。さらに貨物分野でも、大八車や牛馬車の一部もトラックやオート三輪(次の“その5”の記事に記す)に徐々に代替えされていく。
 五十嵐は戦前の日米のモータリゼーションの違いについて『オーナードライバーによるファミリーカーを主体としたアメリカ式の、田舎を発展させるモータリゼーションと、(日本式の)ダンピング料金で流し営業をするタクシーの都市集中型モータリゼーションの体質的な差』(㉗-2,P43)であったと要約しているが、そんな戦前日本のタクシー主体のモータリゼーションについて、㊳の書で神田は『タクシー(“円タク”)モータリゼーション』と称して語っている(㊳P135)。
そこで、この“よもやま話”を、戦前の都市部を中心とした庶民にとって“自動車=タクシー(円タク)”だった時代の社会風景を、神田の実体験を交えた㊳の描写の引用から、スタートさせていきたい。(日本のタクシー会社の始まりについて、以下写真と文をブログ“東京のタクシー百年史”さんより引用http://www.taxi-tokyo.or.jp/100th_anniv/history/index.html 
『この年(注;1912年)の8月5日、東京・有楽町の数寄屋橋際(現在の有楽町マリオンの地点)で「タクシー自働車株式会社」(下の写真)がT型フォード6台で営業を開始。これがわが国初のタクシー事業となる。(中略)当時としてはかなり高価な乗り物だった。この発祥にちなみ、8月5日は「タクシーの日」と定められた』とのことです。)

e52.png
http://www.taxi-tokyo.or.jp/100th_anniv/history/images/ph_taishou_01.jpg

12.1戦前日本の“タクシーモータリゼーション”について(雑談その1)
『日本のモータリゼーションは、必ずしもそういう正統の路線では育たなかった。しいて言うなら「タクシーモータリゼーション」の急速な発展である。昭和初期1926年からのタクシー台数は上昇傾向を続け、都市部に暮らす市民一般にとってタクシーの利用は日常生活の中で当たり前のシーンになってきた。』(㊳P136)そのタクシーのほとんどが、KD生産された黒塗りのフォードとシヴォレーで二分していたことも既述の通りだ。
『タクシーステーションは少なく、ほとんど街角でタクシーを見つけて止め、タクシーのほうは客を見かけて拾う“流し”の形態で営業した。ただし、大都市のターミナルには駅前タクシーステーションの駐車を許可された駅待ちタクシーがあった。許可車は前端に「エ」と描いたバッジをつけていた。』
㊳の文章の途中で口を挟むと、12項の戦前日本の自動車社会の“思い出”の描写は、東京の住民だった五十嵐、神田、小林によるものなので、その舞台は東京が中心だが、円タクの発祥の地は東京でなく、実は大阪であった。(⑲P156)の記事「円タク花盛り」より引用させていただく。
“円タク”の始まりは大阪
『もともと円タクの始まりは大阪である。大正十三年(1924)六月、大阪市内を一円均一で、とその名の通りの均一タクシー株式会社が開業。乗客三人乗りトロジャン型自動車二十台でスタートした。』ということは、フォードの進出以前のことで、大阪人の商魂が生んだものだったようだ。(⑲P157)より引用を続ける。
『この均一タクシーの発足は成功するかどうか、周囲はやや悲観的な見方をしていたが、その成果は上々の首尾。この成功は同業者に大きな刺激を与え、一円均一運賃を見習う業者が続出した。』当時の日本はすでに、自動車社会に向けて、胎動しつつあったのだろう。
『この動きは早速、東京に飛び火した。その頃の東京では不況や業者乱立で競争が激しく、タクシー料金が七十種類もあると言われるほど混乱していた。メーター制、均一料金制の是非をめぐって業界の意見が対立している間に、気の早い一部の業者が東京均一タクシ-㈱をサッサと設立してしまった。大正十五年の「読売新聞」(7月9日)に「均一タクシーの流行と郊外料金の注意」という見出しで、均一性にも三マイル1円と、市内1円の円タク二通りがあることを書いている。東京はこの頃から円タク時代に突入するのである。』
e53.png
https://pbs.twimg.com/media/C10uvSPUQAAEPF4?format=jpg&name=medium
(上の写真はブログ「戦前~戦後のレトロ写真」さんよりコピーさせていただいた、1930年(昭和5年)の夜の銀座の光景。)
https://twitter.com/oldpicture1900/status/818862153339781120

子供は補助シートに座った
 再び(㊳P136)の描写に戻り、当時のタクシーの車内について『車内は前席背後に折り畳み補助シート2個を備え、乗客5人まで収容できた。』(㉑P15)の“小林少年”(1929年生まれの小林彰太郎は当時子供目線だった)によれば、当時タクシーに乗ると『われわれ子供たちは、後席の前にある補助椅子にいつも座らされた』そうだ。当時のシヴォレーのカタログの室内の写真をみると、現代のJPN TAXI(ジャパンタクシー)と比較してもずいぶんゆったりとした印象だ。小柄な日本人故もあってか本格的なリムジンのように7人乗車(乗客は5名)が可能だったようだ。
(㊳P136)に戻る『前席には、ドライバーとともに「助手」と通称する従業員が乗った。彼の仕事は通称通りドライバーの補助で、道路沿いに立っている客を素早く見つけてドライバーに知らせる。窓から腕を出して右折や左折、停止の合図を示す。クルマを客の前につけると助手は客と賃金交渉したり、ドア開閉や乗降の世話を焼く。こういうためには、歩道側に座っている彼の存在が貴重だ。ほかにも、経験からいい客が乗りそうな“穴場”にドライバーを誘導したりする。練達した腕利きの助手と組むと、“水揚げ”(売上高)が増すとさえ言われた』そうだ。
昭和10年頃、全国で約5万台のタクシーがあった
((⑲P158)によれば、東京の営業用自動車の台数は、1926年の2547台が、2年後には2倍、5年後の1931年には3倍近い台数になったといい、この台数にはタクシー以外に市営バス(無税の市営バスは除く)も含まれるが多くはタクシーの急増が主因だったとしている。(②P212の座談会で宇田川によれば、『~統計が不備なんですけれど、昭和十年ころには、全国で五万台のタクシーがあったと言われているんです。(中略)そのうちの一万台ぐらいが東京市内を走っていたという数字があります。』としているが、①では具体的に『1936(昭和十一)年に東京の円タク9,000台、トラック7,500台、自家用車1,700台、大阪ではタクシー2,500台、トラック1,000台、自家用車900台』(①P131)と記している。その結果、『この頃はタクシーの洪水とか氾濫などの表現がよくされたものだが、盛り場などに立ってみると、なるほどとうなずけるのが実感だったろう』(⑲P159)としているが、ここも①では『1933(昭和八)年3月29日(注;年度末です)東京市計画部が交通量調査をして、新宿一丁目が最大の車ラッシュで客の乗っている車が9,500台、空車タクシーが2,000余台~』(①P131)という記述がある。先の1936年の保有台数と若干矛盾があるかもしれないが?細かい話は抜きに、東京の繁華街ではこの時代すでに、タクシーが日常風景だったことは間違いない。下の写真は日劇前を走る1933年製シヴォレーで、画像はトヨタ博物館よりコピーさせて頂いた。同博物館によると撮影時期は1933年12月末に特定されるとのことです。
https://toyota-automobile-museum.jp/assets/pdf/archives/magazine/magazine_81.pdf。)

e54.png
https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn%3AANd9GcSKo9CyD7RNJJl8lEgrFjW_VD1vvRBYM8xzmw&usqp=CAU
 こうしたタクシーの普及は、後の13.5項触れるように、フォードとGMにより日本に本格的に導入された、割賦販売制度によるところが大きかった。頭金を500円程度入れれば新車が購入できたのだという(㊹P37等)。以下①より『ちなみにタクシーの95%はフォードとシボレー車で、両社の金融会社が1台三千円、四千円の購入費の七、八割を月賦販売してくれたからである。(中略)個人営業するタクシー屋の個人信用はフォード、GM両社以外、銀行等は全く相手にしてくれなかった時代であったので、勢いアメリカ車が丈夫なのと、金融制度のおかげで日本市場を席巻してしまったわけである。』(①P135)
過当競争で客の奪い合い
 しかしその結果、『売り上げ向上に焦るタクシー業者は、古い月賦が完済されないまま新車を購入するので、二重の月賦返済に追われてしまう。そのため、いきおい客の争奪が激しくなり、』小林少年の証言によれば(以下⑱P16より)『映画がはねると、帰り客を狙って帰り客を狙ってタクシーの助手がワッと集まってきて強引に客を引いた。一度など、父と母とが別々のタクシーに引っ張られそうになり、小学校1年生の筆者は怖くて泣きだしそうになった』怖い体験があったそうだ。
 過当競争で運賃値下げ競争に陥ったタクシー業者をさらに追い込んだ事情は他にもあり『円価の暴落と関税率引き上げによって米国車の販売価格は年を追って値上がりした。そして石油の値上がりも避けられなかった。(中略)この引き上げは致命的な打撃である。』(⑲P161)それだけ切迫していたのだろう。(より公正な『円タクのメーター制は1938(昭和十三)年3月1日、京都市内タクシーが最初で、11月28日から全国的に実施されるようになった』(①P131)そうだ。

12.2フォードとGMの宣伝活動について(雑談その2)
 先に『売り上げ向上に焦るタクシー業者は、古い月賦が完済されないまま新車を購入する』と記したが、フォードとGMの両社は、ライバルに勝ち、消費を刺激するために、アメリカ流儀の激しい販売合戦を展開したため、広告宣伝も盛んに行い、(以下⑲P166より)、その刺激を受けて『タクシーの客も新車を選んで乗りたがったという。』
タクシー客が新車に乗りたがるよう宣伝
 宣伝の話が出たのでここで、フォードとGMが行った広告宣伝活動についても(①P136)を参考にごく簡単に触れておきたい。一般的な広告塔(ネオンサイン、看板)、新聞広告、雑誌広告、さらにダイレクトメール等、今日でも一般的な広宣活動のほかに、目を引く活動として“キャラバン隊”という催しも行われたという(①P137)。
フォードの全国“キャラバン隊”
 この日本フォードが全国に展開した“キャラバン隊”とは、『全国でレコードコンサート、講演会、自動車の展覧会、アメリカ映画上映会等を催し、フォード車の宣伝を行った。各地で千人規模の人々が集まり、大成功を収めたので、朝鮮半島にも宣伝隊を派遣した。昭和初期まで普及不十分の全国地方各地に自動車が隊尾なして展示・試乗でき、当時流行の大衆娯楽であるレコード、映画を利用して人々を集めたので反響が大きかった』(①P137)そうだ。
 ちなみにこのキャラバン隊は①によれば、米系石油メジャー(スタンダード系)の応援を得て開催され、演芸班は日本ビクター(当時は米RCAが親会社)が協力するなど『~京浜工業地帯進出のアメリカ外資系企業総動員の形となった。』という。
アメリカ文化の宣伝隊でもあった
『つまり、フォードのキャラバン隊は、一フォードのためのものではなく、日本市場を制覇せんとするアメリカ企業の行動としての性格をもっていた。』(①P136)ようだ。アメリカの大衆文化を日本人に紹介していくこと=アメリカ企業の利益につながったのだろう。『フォード、GM両社の宣伝費は一ヶ年百万円以上を注ぎ込み、フォードのキャラバン隊には約二十万円もかけ、更に新型発表のために十万円もの宣伝費を投じた。』(①P137)両社ともに日本市場から、十分な利益を得ていた結果に他ならないが、日本全国の一般大衆に、自動車という存在を認識させる一助になったことも間違いない。なおこの活動には、特高も注視していたようだ。(①P137)
 そして、こうした宣伝活動と、“タクシーモータリゼーション”の背景にあり、それが、11.10で五十嵐が指摘したように、都市部(東京圏と大阪圏が中心)を中心とした当時の西欧風の世相/文化が微妙に絡み合い、モダンな自動車文化を形作っていたようだ。その辺の事情を、神田が簡潔にまとめていたので(㊳P135)から簡単に記しておく。
“近代的サラリーマン”の増加
『1920年代半ば(昭和初期)から1930年代(昭和10年ごろ)に至る一時代は、日本の都会のモダン、モダニズム志向文化という意味の近代的文化が、最初の成熟、ある面では爛熟といえるレベルに達した時期だった。限定された面でとらえれば、自動車文化、モータリゼーションもその枠組みに含まれる。その背後にあるのは、近代的経営形態をとる企業の増加、それに伴う“近代的サラリーマン”の増加、彼らの日常家庭生活形態の変化が、おのずからもたらしたトレンドだった。』
当時の日本は“五大国”の一員だった(余談)
(下の二つの表は(Web□27)よりコピーさせていただいた。貧富の差や都市と農村部の格差は著しく、庶民一人当たりの所得水準もまだ低かったが、それでも戦前の日本の国民総生産はすでに、米ソ英独に次ぐポジションにあり(いわゆる“五大国”の一員だった)、その経済力が、都市部の(神田が言うところの)“近代サラリーマン”を中心とした自動車利用を推し進めていった。
以下(⑲P151)より引用『~だが、この普及は単に第一次大戦の好景気や関東大震災のみに帰せられるものではない。戦中戦後にかけて、生産力は急速に膨張し、重工業地帯の形成、人口の都市への集中、都市圏の膨張などによって増大した輸送需要、自動車価格の低落、部品入手難の解消、メンテナンス技術の充実、そして道路整備の進捗など、発展への基礎的条件が熟しつつあったことを見逃すことはできない。』富の偏在は大きかったが、全体としては蓄積もされつつあったのだ。)

e55.jpg

e56.jpg

(下の写真は当時の自動車文化の一例として掲げたもので、「昭和6年(1931年)頃の顧客送迎自動車」で、銀座の松屋が運行したボンネットバスだ。『大正から昭和にかけて、銀座には百貨店が相次いでオープンし、激しいサービス競争が始まります。そのひとつは顧客のための無料送迎バスの運行。この写真は松屋が運行したボンネットバス。バスのデザインも、バスガールの制服もかなりモダンで素敵です。』タクシーやハイヤーではないが、円太郎の時代とは様変わりしたバスも、当時の東京の自動車文化の一断面であった。ブログ「MAG2ニュース」さんより写真と以下の文をコピーさせていただいた。
https://www.mag2.com/p/news/223651)

e57.png
https://www.mag2.com/p/news/wp-content/uploads/2016/11/c120891fcb718f8c378662df2f861167-450x326.jpg

12.3都市の中産階級以上ではハイヤー利用も一般化した(雑談その3)
 そしてこの頃から、タクシーのみならずハイヤーも、その利用が大都市の中産階級以上(アッパーミドル層)ではかなり一般化していたようだ。小林少年は『普通の中流家庭には自家用車はなかったが、そのかわりハイヤーを自家用代わりによく使ったものだ』(⑱P16)と記している。“ハイヤーを自家用車代わり”には使えなかった庶民階級でも、冠婚葬祭の時には利用していたようだが、以下は小林少年の目を通した、当時の都市部のアッパーミドルクラスの視点からみた、ハイヤー利用について、(⑱P16)より
ハイヤーはクライスラー系が強かった
『わが家ではいつも福田というハイヤーを頼んだ。黒か濃紺の、1933年から37年までのダッジ、プリマスばかり6、7台を揃えており、いつ見ても実に綺麗に磨かれていた。』ハイヤーはタクシーとは違いランクの上な、クライスラー系が強かったようだ。『冬にはエンジンから温水を引いた簡単な暖房装置が足下にあり、さらに寒いと毛布を膝に掛けてくれた。』タクシーとは違った文字通り、“暖かい”もてなし方だったようだ。一方、昔の夏の時の自動車は、『夏らしく暑かったのに、車に乗って熱い思いをした記憶がない。交通渋滞はおろか、信号さえもなかったから、車は走りだせば目的地に着くまで停まらず、開けた窓から涼しい風が適当に入ってきたからだろう。』(⑱P16)小林家は東京郊外の杉並だったようなので、都心に向かう、当時の青梅街道か甲州街道あたりを走った(というか、乗った)印象だろうか。「信号さえもない」というのは驚きだ。⑱の引用を続ける。
『この福田ハイヤーに乗ると、いつも独特な匂いがした。長いことこれが車の匂いだとばかり思っていたが、実はタバコの煙がモケットのシートに沁みついていたのだった。さきに述べたように、小林家一族は敬虔なクリスチャンで、父も親戚の男たちもまったくタバコを吸わなかったので、小学生の筆者は、タバコの匂いというものを、長いこと知らなかったのである。』当時のクルマの、独特な車内の匂いまで伝わってくる。ちなみに戦前の自動車は、シートは馬車時代からの伝統で、革張りより、上質なモケット張りの方が高級だったようだ。

12.4都市と農村の普及の差=貧富の差だった(雑談その4)
このことも既述だがもう一度改めて、自動車普及の地域というか、都市と農村部の格差についても、触れておきたい。フォードとGMは全国ネットで販売網を展開し、これ自体、画期的なことだったが、販売の主力はやはり京浜や京阪神、中部地区を中心とした都市部だったようだ。地方で普及が遅れたその背景としては、劣悪な道路環境とともに、都市と地方(多くが農林/漁業に従事していた)の所得格差があった。下表(表9「農工間有業者一人当所得とその格差」)のように、1916~1926年の間は、農林漁業への従事者の所得は鉱工業従事者のおよそ4割の所得水準だったが、昭和恐慌期の1926~1935年には、米(コメ)を中心とした農産物価格の下落と、生糸の輸出の大幅な下落等により、格差の拡大は一段と進み、約28%まで悪化していた(③P12.6参考)。農村部の苦境は皆さんご存じのように娘の身売りや一家心中、そして都市部への人口の流入につながっていった。
(表10:農工間有業者1人当所得とその格差:③P12.6より転記))
e58.png
都市部を中心に中産階級が育ちつつあった
(以下小林彰太郎の(⑱P13)より『戦前の昭和5年(1930年)ごろから第二次大戦がはじまる1940年ごろまでの約10年間は、中流かそれより上の人々にとって実に平穏無事で心地好い時代だっただろう。世の中はいまよりずっと単純で、時はゆったり流れていた。もちろん、社会階層による生活水準の格差は現代よりはるかに大きかった。三井、岩崎、住友などの巨大財閥がヒエラルキーの頂点にあって、ひそかに社会を支配するいっぽう、“赤貧洗うが如き”社会の下積みが、都会の陋巷(ろうこう)にも農村にも埋もれていたはずである。だがその中間には、健全な中産階級(プチ・ブルジョワと呼んでもよい)人々が確かに多く存在し、日本の社会を実質的に支えていたのである。』そんな戦前の日本の(現代社会もそうなりつつあるがそれ以上に)、超格差社会の中で“赤貧洗うが如き”生活を強いられていた人々にとっては、自動車に対して、また違った捉え方をしていただろう人々が、多数存在していたことも事実だった。11、12項で今まで触れてきた、五十嵐、小林、神田らの記述は、戦前・昭和のフォード・GM進出以降の東京など都市部における自動車社会の風俗の記述として、実体験に基づいた正しいものだと思う。しかし日本全体の産業構造からすると、まだ多くの人々が昭和恐慌下の貧困な農村部で暮らしていた。バランスを取る意味で、以下「太平洋戦争のロジスティクス」という本(⑳P70)より、農村側の視点からみた当時の“自動車”も記しておく。
その一方、電気も電話もラジオも自動車もない農村は珍しくなかった
『~また明治以降の徴兵制は、農村社会に住んでいた若者を近代的軍事組織の一員とすることで、電気や動力機構のある生活を体験させ、「教育」するという効果をもたらした。戦前の日本では、ある時期までは、兵営が日本社会の近代化(工業化)のための技術教育の場として機能していたことは、無視できない事実である。
 昭和になってさえ、電気も電話もラジオも自動車もない農村は珍しくなかった。国民の大半が農村であった戦前の日本で、徴兵された若者が兵営生活の中で、電気や電話を使い、ラジオを娯楽とし、兵種によっては自動車なり飛行機を操縦して学ぶ。それが戦前日本の社会と軍隊の関係の一断面であった。』
フォードやGMの日本進出で全国展開された結果、自動車がより身近な存在になったとはいえ、まだ縁遠い日々をおくっていた(“俺ら東京さ行ぐだ”を地で行くような)人々も多数いた。以下も同じ⑳のP78からの引用だが、多少皮肉がこもっているが、事実でもあるだろう。『戦後、日本陸軍軍人の体験記の多くは、執筆者が大学を卒業し、ホワイトカラーの生活をしていた都市部の人間という、日本人全体の中では例外的な存在(例えば昭和10年で高等教育を受けていたのは同世代の3パーセント程度)であったため、とかく陸軍での生活は劣悪な環境として紹介されることが多い。しかし、地方と都市部、あるいは地域内で社会格差の大きかった戦前の日本では、多くの日本人にとって「平時の」軍隊生活は娑婆(しゃば)の生活より快適であった。
 例えば兵食の米なども、経済性の追求だけで安い米を購入はしていない。「国民の中程度の生活」を基準として、米などが購入された。じっさい農村などで「兵役を終えた息子が、毎日のように肉が食いたいなどと贅沢を言って困る」と親兄弟が嘆いたという話もあるほどだ。
農村部の人間にとって兵営は「社会的格差」のない「平等な待遇」の場に見えた
 当時の日本には同じ国土に、毎日のように肉魚の食事ができた都市部と、それらを食するのは盆と正月くらいしかない農村部が存在していたのである。この意味において、農村部の人間にとって、兵営は「社会的格差」のない「平等な待遇」の場に見えたのも一つの事実だった。』
(下の写真は「サンデー毎日 昭和12年(1937年)1月24日号」より、「牛馬のないこの村は人の背が唯一の運搬機関で、小さい時から思い荷物を背負って働く子供たち」。以下のブログよりコピーさせていただいた。(https://togetter.com/li/1330698))
e59.png
https://pbs.twimg.com/media/D2Mu-adU4AE-NmM.jpg:small

12.5フォードに比べて、シヴォレーの情報が少ないのは何故か?(雑談その5)
 戦前の日本の自動車社会について記した本やネットの情報を調べていくと、たぶん多くの人が気付くであろう“不思議”なことがある。それはシヴォレーの地元?である“大阪発”の情報が少ないことだ。大GMを積極的に誘致して立派なKD工場を建てさせて、全国に大量のシヴォレーを送り出した、その本拠地だったはずなのに、なぜか日本における戦前のアメ車情報が“東高西低“なのだ。この不思議さは、東京のカーマニアからすると、共通の思いがあるようで、多くの東京(横浜)人から指摘されている。宝塚文化に代表されるモダンなものから、演芸のような庶民向けのものまで、大阪の文化が東京に劣っていたなどとは到底思えないのだが、なぜか戦前のアメ車時代の大阪の情報が少なすぎるので、フォードに比べて戦前のシヴォレー関連の話題も著しく少ないのだ。
なぜか大阪発の情報が少ない
 たしかに台数で比べれば『1936(昭和十一)年に東京の円タク9,000台、トラック7,500台、自家用車1,700台、大阪ではタクシー2,500台、トラック1,000台、自家用車900台』(①P131)とやはり差はあったようだが、その差以上に大阪からの情報量が少ない気がする。その理由について、ハッキリとした指摘もないし、自分もよくわからないが、一つだけ思うことは、この記事(フォードとGMの進出)の次の記事で記す予定の、戦前の日本で独自の自動車としての育ったオート三輪の中心地は、東京ではなく大阪を核とした関西の地であった。関西人にとって、自動車としての“相性”はアメ車よりもあるいは、商都大阪の商人たち自らの足として黙々と働いた、実用一点張りのオート三輪の方がよりぴったりと、肌に合っていたのかもしれない。
(下の写真はブログ“日本古写真データべース”さんよりコピーさせていただいた、「大阪駅。昭和4年(1929年)頃」の風景。http://oldphotos.blog.fc2.com/blog-entry-19.html
馬車文明のなかった日本人にとっての末端の交通機関は人力車だったが、この写真ではその姿はない。その代わりにタクシー、トラック、バス、市電、自転車などの乗り物が混在している様子がうかがえる。)

e60.png
http://blog-imgs-51.fc2.com/o/l/d/oldphotos/oosakaeki1.jpg
シヴォレーは静かに消えていった
 シヴォレーの情報が少なかったもう一つの理由として、敗戦後の日本で、フォードとシヴォレーの“生存率”を比べると、フォードの方が圧倒的に高かったことも一因だったかもしれない。以下(㉕-2、P161)より『こんな例もあった。第二次大戦が終わった時、東京の路上に残っていた車はフォードが多かった。シヴォレーは静かに消えてしまっていたのである。これでわかることはシヴォレー車の各部のライフは一定になるように計算されていたのだと思う。フォードはオーバークォリティであったから、木炭車を再度ガソリン車に仕立て直してもまだ走っていた』そうだ。シヴォレーからすれば、木炭車は”ルール違反”なのだろうが、このフォードとシヴォレーの品質に対しての考え方の差は、戦後のある時期までの日産車とトヨタ車の対比に近い(日産社車がオーバークオリティだった)。(①P209)では、同じ五十嵐からの引用で『戦争が終わって日本の路上で残された古い車は、フォードとダッヂばかりで、シヴォレーの姿は見えなかった』とあり、クライスラー系も同じく頑丈だったようだ。
 カーマニアを含む多くの識者にとって、やはり戦後の混乱期という重要な体験を“共有”できた、フォードの方により強い愛着がわくようだが、しかし小林は少し違った見方だったようだ。参考までに(⑰-1、P37)より紹介する。
A型はオーナー・ドライバー向モデルも組まれたから?
『話はちょっと脱線するけれどA型フォードは現代のクラシックカー・ファンの間で絶大な人気を持っている。(中略)ところが、当時A型と人気を二分したはずの初期の6気筒シヴォレーは、ごく一部の愛好家を除いては人気がなく、今日現存する台数もフォードに比べれば非常に少ないのはなぜだろうか。一説によれば、A型は新車のときからガタだが長持ちするのに対して、はじめは静粛でスムーズな6気筒シヴォレーは耐久性に欠けるからだとも言われる。その真偽の程はわからないが、日本でもA型はまだ散見するのに、同時代のシヴォレーは皆無といってよい。筆者が思うには、A型は基本的なタクシー仕様4ドアの他、数は少なかったが幌型やクーペなど、オーナー・ドライバー向のモデルも組まれたので、後年のクラシックカー愛好家に拾われるチャンスが多かったのではなかろうか。シヴォレーはタクシー用4ドアが圧倒的で、フェートンやロードスターは恐らく特注であったと思われる。』確かにその側面もあったとは思う。たとえば、フォードとシヴォレーのトラックは共に、日本陸軍でも大量に使用されたが、過酷な戦場においても、シヴォレーが耐久性で劣っていたという話は、自分の知る限り聞かない。ただこれは、自分が知らないだけの可能性も高いが。
 自分が思うには、日本の特殊事情として、燃料不足による代燃車への改造があり、当然ながら、豊富な石油燃料の使用を前提としていたであろうGM側からすればまさに“想定外”の出来事で、そのダメージは大きかったに違いない。さらにその『木炭車を再度ガソリン車に仕立て直してもまだ走っていた』というフォードのタフさには驚くしかないが、この時代のフォード車にはまだ、ヘンリー・フォードの自動車に対しての“哲学”が確かに息づいていたのだろう。
確かにフォードは強かった
 やはり総じて、五十嵐の言うように、『これは完全主義のフォードと実際主義のGMの哲学の差異であり、現在その優劣を論じてみても判定できないが、確かにフォードは強かったのである。』という他ないと思う。
(下の写真は“中井寛一さんのツイッター”からの引用させていただいた。
『1949年(昭和24年)6月に撮影されたカラー写真。撮影者の詳細は不明。撮影場所は横浜市だが、具体的にどこであるかは不明。写真内のタクシーは全て木炭自動車のようですね』とのことです。https://twitter.com/ichikawakon/status/12.59635288894148608

e61.png
https://pbs.twimg.com/media/ETn7M5NUcAIi4gG?format=jpg&name=900x900
 なお、12.10-1で詳報する、代変わりしてヘンリー・フォード2世の時代となった戦後型フォードの第一弾の、1949年型“ヤングフォード”は、㉒の五十嵐によると『1949年型フォードは歴史的には重要なクルマで多く話題になるが、完全な実車は意外と残されていない。それは49年型はボデー剛性に欠陥があったといううわさと一致するようにも思えるが、補強された1950年型はなるほど多く残されていた。』(㉒P188)そうだ。

12.6ヒコーキ少年が圧倒的に多く、自動車よりグンカンが人気だった!(雑談その6)
 再三繰り返すが、当時の自動車の90%ぐらいは業務用で、一般の人々にとっての自動車は、戦後のようにいつかはマイカーを持ちたいなどという、伸ばせば手に届きそうな、憧れの対象とはならなかった。鉄道等の公共交通機関の延長線上にある交通手段として、客観的な、自分とは距離を置いた存在として捉えていたようだ。
大衆はクルマに無関心だった
 以下ここでも五十嵐の(㉗-2)より、当時の日本の都市住人の自動車に対しての“心情”を引用。
『1930年代の米車は、京浜地区や京阪神にかけてモータリゼーションの現象を起こしたのだが、日本の自動車化が公共的な交通機関であり、官庁や法人のシンボルとして普及した結果、当時の日本人はタクシーを値切る術は身につけても、ハンドルを持とうとは夢にも考えず、ましてや自分の乗ったタクシーが、フォードであろうが、シヴォレーであろうが、そんなことは関係なかったのである。自動車という機械について語れるのは、それを業とする職業人と、もうひとつは庶民から遠く離れて生活した超上流の一部であって、大衆はクルマについて無関心だった』(㉗-2、P43)
 当時の大人たちは自動車を、公共的な乗り物として捉えていた中で、12.4でその一端を記したように教育も含め軍国主義色が濃かったこの時代、青少年のあこがれの対象は自動車には向かわなかったようだ。五十嵐によれば『~ところが日本の同年齢の間では、この話題(注;1930年代の日本の米車時代)について本当に語り合える者は皆無に等しい。その頃の青少年は飛行機や、軍艦(!)には詳しかったが、街を走るクルマへの関心は極めて低かった』(㉗-2、P42)という。自動車少年(カーマニア)よりもヒコーキ少年というのは、現代でもイメージしやすいが、自動車よりも軍艦だったというくだりは、なかなか理解しがたい。しかし日本海軍に憧れた当時の少年たちにとっては、直接的な武器ではない自動車は眼中になく、海軍を象徴する軍艦が行き着く先だったようだ。以下、やはり当時少数派の自動車少年だった神田の(㊳P141)から引用する。
自動車少年の見た“トヨダAA型”の衝撃
『トヨダ(トヨタに変えたのは1937<昭和12>以降)の新型乗用車AA型、新型トラックG1型と初めて対面したのは、八丁堀の店頭だった。広い道路沿いの面を、すっかりガラス張りにして、フロア全体がショーウィンドーのようになる新感覚の設計だった。その店頭で手前側道路沿いにAA型セダン、奥にトラック。どちらも道路に対してわずかに斜め位置で両車平行に陳列してあった。2台とも、つややかな黒塗りで、グリルなどクロームメッキの輝きが魅力的に映えていた。
クライスラー・エアフローが出たことは知っていた。実物は見ていなかったが、写真は雑誌で見た。新聞に線画のイラスト入りで広告を出していたと思う。しかし、クライスラーと同じレベルに見える(あるいは、それを超える)最新スタイルの乗用車が国産車で製造されるようになった事実に感動した。
(中略)
その時代の子供たちは、ワケもわからずに国粋的愛国少国民であり、何でも外国と比べて日本が勝っていなければ気がすまなかったのである。戦艦・陸奥、長門は基準排水量3万3800トンで40センチ主砲8門を装備する世界最強の主力艦であり、重巡・妙高級、高雄級は、1万トンで20センチ連装砲塔5基・計10門を搭載した最強の重巡洋艦であると、ドキドキするほど誇らしかった。
トヨダの乗用車もまったく同じだった。しばらくの間は、級友たちを捕まえて、日本でもスゴい乗用車ができたぞと説きまわっていた。ただし、自動車への興味は軍艦に対するほどではなくて、こちらの話に乗ってくれる相手が少なかったのは残念だった』
(㊳P140)という。(そういえば昔、古い(1960年代前半か、もう少し前とか)少年雑誌がたくさん置いてある家があり、そこで見た雑誌のグラビア記事はまだ、第二次大戦の国産戦闘機や軍艦の記事が多かった気もする。少年雑誌で本格的な自動車記事はボーイズライフ(中学生以上が対象の若干大人向け)あたりからだろうか?うろ覚えなので正確ではないと思いますが。下の写真は「TBSドラマ「LEADERS 2」で観たG1トラックがっ‼︎ 思わずパシャパシャ少し興奮しました」愛知トヨタ高辻営業所に展示されていた、トヨダG1型トラックを激写したという“”#日の出モータース Instagram Posts”さんよりコピーさせていただいた。)
e62.png
https://scontent-yyz1-1.cdninstagram.com/v/t512.985-15/sh0.08/e35/s640x640/17596043_1891062947780694_5035782878919655424_n.jpg?_nc_ht=scontent-yyz1-1.cdninstagram.com&_nc_cat=106&_nc_ohc=hBd0T1dNUiEAX-P2wvn&oh=fad2d4fa2fb9f1971a0bedebe3bb7fe6&oe=5FA707D6

12.7自動車セールスマンが、花形の職種だった(雑談その7)
 この“よもやま話”の前半の、“戦前日本の自動車社会編”の最後に『自動車販売業は時代の先端をいく花形産業であった』(Web⓴-1)であり、=そこで働く自動車セールスマンが時代の先端を行く花形の職種だったことを記しておきたい。まず、いかに“花形”だったかを、報酬面から以下(Web❿P86)より引用
3ケ月に 1 台売れば・・・
『「セールス・マンはといえば、3 か月に 1 台売れば、昼は帝国ホテルで、夜は新橋か赤坂暮らしの豪酒極まるものであった。」のである』。この、セールスマンの豪勢な暮らしぶりの部分は、尾崎正久著の「自動車日本史(1955)」のP.104からの引用のようだが、さらに尾崎の同書からの引用から、(Web❿P87)では『昭和 5 年の事例として P 車(ポンティアックと思われる)のセールスマン・コミッションがリムジンで 1,500 円、セダンで 1,000 円であったと紹介されている。当時の 1,000 円は 2012 年の価値に換算すると約 198 万円である。』としている。その背景としては、同じく(Web❿P86)より引用だが、『フォード、シボレーは廉価車であると考えられるが、日本ではアメリカにおける価格の実に 3.6 倍、当時の関税 50%を加味しても 2.4 倍の価格で販売されていたのである。さらに付け加えれば、ノックダウン方式の自動車製造では関税が 30~42%であることや、需要逼迫時はプレミアム価格で販売されていたことなどを考慮すれば、その販売一台当たりの利益は莫大なものであったであろう。』と、⑪のP.62、92等を参考に推測している。
自動車がモダンな文化の象徴だったが故に・・
 フォードとGMの日本法人が膨大な利益をあげていたことは、この“よもやま話”でなく11.9項や後の12.16項等でも記すが、アメ車時代の当時の自動車が、都会を中心とした“モダン”な文化の象徴だとしたら、その商品を売るための、セールスマンを含む販売部門の方々もまた、報酬面でも文化的に見ても、文系のサラリーマンにとって、時代の花形の職業だったに違いない。ということは、優秀な人材も集まったのだと思う。たとえば日本GMから後にトヨタに移る神谷正太郎や加藤誠之らのように。
1939年の原節子主演の映画「東京の女性」
 ヘタな言葉で説明するよりも、以下の映画を手っ取り早く紹介した方が早いだろう。ブログ“銀幕三昧”さんより、1939年の原節子主演の映画、「東京の女性」(製作は東宝、原作は丹羽文雄で、報知新聞の連載小説だったそうだ)を紹介させていただく。この映画は何と、自動車セールス“ウーマン”が主人公なのだ!以下は写真も含めて(Web□28)からの引用だが、この映画のすばらしさを余すことなく紹介している、そちらのブログをぜひご覧ください。
http://ginmaku1982.blog.fc2.com/blog-entry-1050.html
 この映画の紹介というか、(Web□28)からコピーさせていただいた画像をご覧いただければ、12.2項で神田が語った『~日本の都会のモダン、モダニズム志向文化という意味の近代的文化が、最初の成熟、ある面では爛熟といえるレベルに達した時期だった。限定された面でとらえれば、自動車文化、モータリゼーションもその枠組みに含まれる~その背後にあるのは、近代的経営形態をとる企業の増加、それに伴う“近代的サラリーマン”の増加、彼らの日常家庭生活形態の変化』だったとする、我々が想像する以上に“モダン”だった当時の“近代的サラリーマン”の中でも、その先端をいっていた自動車セールスマンの、華やかで生き生きとした世界を理解いただけると思う。しかも都会の文化の一つの象徴だった映画の中で、原節子という日本を代表する女優を通して。まさに一石二鳥です?
自動車セールス”ウーマン”が主人公だった!
 映画のあらすじを紹介しておくと、主演の原節子は、自動車販売会社のタイピストだったが、親の都合で金が必要になったため、なんと自動車セールスウーマンに転身し、男と同額の給料を稼ぐようになるが、その一方で恋人とうまくいかなくなるという、設定もかなり“近代的”だ?そして映画の中では、「ハドソン一台売りゃ千二百円のコミッションだろ」というセリフが出てくるが、この映画はハドソンをメインに輸入する、大倉財閥系の日本自動車が全面的にバックアップした、いわばタイアップ映画だったようだ。
e63.png
https://blog-imgs-92-origin.fc2.com/g/i/n/ginmaku1982/20160406205802053s.jpg
(何せ実際に映画を観ていないので!以下の「~」内の説明?は(Web□28)に加えて、下の2つのブログのレビューの中から適当に抜粋させていただいた。
https://filmarks.com/movies/83235)、 https://movies.yahoo.co.jp/movie/133768/
(Web□28)によると「この頃の運転手は特殊技術者かつ花形職業であり、一方、自動車のセールスマンには運転手から転進する者が多かった」という。オープンカーであることが一段と、異国情緒を醸し出す。ちなみに映画の中の「運転シーンは脇見が変に多い」!そうだ。)

e64.png
https://blog-imgs-115-origin.fc2.com/g/i/n/ginmaku1982/11_20180415213412.747s.jpg
(以下はこの映画のレビューより引用「『東京の女性』20歳の原節子。輝かんばかりの美しさと自立した女の強さ。小津映画での受け身の彼女しか知らない人は驚くだろう。戦前日本の軍国化前のいわゆる東京の文化的な爛熟とサラリーマンの世界の冷徹さ。黒いレインコートを羽織って橋に佇む美しさ~」「東京の女性陣が皆お洒落。ファッションの可愛さだけで眼福である。当時結構スカートの丈は短め(膝くらい)が流行っていたんだよな。よっぽど出世した節子は一般的ではないだろうが、1930年代末の生き生きした女性たちが見られて楽しい。」
(その一方で、家庭に戻ると昔ながらの和服姿の慎ましい生活だったようで、そのギャップもまたすごかったようだ。「オフィスと家庭の落差もやばかったなぁ。~みんな生きるのに必死だったのだ。」(映画のレビューより)それにしても、1939年という軍国主義の真只中で、映画も半ば統制下にあったと思われるこの時代に、一見すると真逆な、華やかでたくましい女性セールスマンの映画を作った意図は何だったのだろう。ひとつ勘ぐれば、前回の記事で散々記した“総力戦構想”は、女性も直接の生産活動に携わる労働力として組み込まれており、事実このすぐ後の戦時体制下においては、軍需工場に大量動員されたが、そのあたりの布石にも思えなくもないが、考えすぎだろうか。)
e66.png
https://blog-imgs-115-origin.fc2.com/g/i/n/ginmaku1982/120_2018041505344941ds.jpg
“東京の女性”は中級車ハドソンのディーラーがその舞台だったが、それ以上に激しい競争が繰り広げられたのが、当時“大衆車”と呼ばれたKD生産車のフォード対シヴォレーだったであろうことは、想像に難くない。
さらに熾烈だった、大衆車の販売競争
 以下フォード系ディーラー最大手のエンパイヤ自動車社史の(Web⓴-2)より引用する。ちなみにエンパイヤと柳田は「日本のフォード王」と称されたという(⑫、P39)。『このころ東京地域のフォードディーラーは、エンパイヤ、松永、中央、日本、太東、イサム、内田の7社があって、タクシー業者を中心に販売競争を続けていた。その中でも一番多く売っていたのがエンパイヤ自動車だった。昭和7年から12年の5年間はまさにフォード、シボレーの全盛期時代であり、燗熟期でもあった。』そしてエンパイヤ自動車を舞台にした自動車セールスマンを描いた映画もあったようだ。(Web⓴-2)より続ける。『この当時、菊地寛が書いた、自動車販売会社のセールスマンの葛藤を描いた映画の舞台として、エンパイヤ自動車の呉服橋の店舗が登場してくる。この映画の中に同じ会社のセールスマン同士が客を奪い合うという筋があるが、これは現実にあった。苦労して売って1台で50円しか利益がないという状態でセールスマン達は激しい値引き競争をしていたのである。』丹羽文雄や菊池寛といった当時の人気作家が自動車セールスマンを題材に小説を書いたこと自体興味深いが、中級車とは違い大衆車はマージンが大幅に少なかったようだ。以下は(⑫、P39)『一方では、フォード対シボレー、あるいは同じフォードでも東京地区に複数あるディーラー間の競争が激化した。』東京などの大都市における熾烈な販売競争はマージンが少ない中で、フォード対シヴォレーだけでなく、フォード対フォードの身内通しの骨肉の戦いでもあったようだ。(下の写真は(Web⓴-2)より『左)昭和8年、日本橋白木屋でY型フォードの展示発表会 / (右)昭和9年、エンパイヤ自動車ショールーム』)
e67.png
徳大寺有恒の父も自動車セールスマンだった(痛快な武勇伝の,余談)
(ここからは完全に脱線するので全文小文字で記す。自分が思うには、小林彰太郎と並ぶ、日本のモータージャーナリストの二大巨匠だと思う徳大寺有恒は、昭和14年(1939年)、原宿の竹下町生まれたが、『父親はGM系列のディーラーに勤めていて、シヴォレーの販売をやっていたという』(㊷P16)。自動車セールスマンが父親だったのだ。中古だが自家用車を持っていたそうなので、本人は謙遜しているが、相対的に見れば裕福な生活だったのだろう。そして親の影響もあってか、子供のころから大変な自動車好きで育ったようだ。
 完全にこじつけだが、戦前の自動車セールスマンの話題の延長で、そのセールスマンの子供であった徳大寺の、少年時代の武勇伝が痛快で、めちゃくちゃ面白いので、ぜひ紹介したい。
 戦火がはげしくなると一家は水戸に疎開して、やがて中学校に入り『そうこうしているうちに、ぼくは実際にクルマを運転し始める。ぼくがおやじにクルマの運転を習いたいと頼むと、このころ水戸でタクシー会社を始めていたおやじは、簡単にオーケーしてくれた。』

中学二,三年生のころには、無免許で街中を普通に運転していた
 もちろん無免許だったが『中学二,三年生のころには、ぼくはもう街中で普通にクルマを運転していた。制服の中学生がクルマを運転するというのもすごい話だが、おやじが公安委員長をやっていたものだから、警察署も大目に見てくれていたのである』『町内を走る分にはまったく問題がなかった』(㊼P84)という。
 その後十六歳(1955年)で正式に、自動車免許を取得するのだが、『疎開してオヤジは主に製材業をやるんだけど、そのほか水戸自動車工業っていう修理屋をやり、俺が中学に入る頃にはタクシー会社も経営する。』(㊼P81)手広く商売を営み羽振りの良かったお父さんは、スキあらばと新しいクルマに乗りたがる息子のために、多少くたびれたダットサンをあてがったのだという。『高校に登校するには、朝七時四分の汽車に乗らなければならなかった。それに乗り遅れると、あとは九時まで列車は来ないから完全に遅刻である。不本意にも寝坊して、七時四分の汽車に間に合わないときはぼくはいつもこのダットサンで学校に乗り付けた。

高校にクルマで乗りつけた
そして校門の横へちょこんと停めておくのである。~日本の家庭に、おそらくは一万軒に一台ぐらいしか乗用車がないときに、学生服姿の少年が自動車通学というのである。なんと生意気で軟派な高校生であったことか。ただし、軟派といっても残念ながら当時の女子はこわがって自動車には乗らなかった。クルマがこわいというのではない。自動車を運転しているような高校生はなんだかアメリカ映画の高校生のようで、理解不能もしくは不気味に見えたのだろう。』!!しかも徳大寺が通った高校は、硬派で鳴らした旧制水戸高校だった。(ちなみに小林彰太郎さんも(㉖、P143『当時本郷のキャンパス広しといえども、クルマ(注;当時の愛車はおんぼろのオースティン・セブン)で通学する学生など皆無だった(=自分だけだったという意味)』記していた。)
その後大学に進み、夏は水戸の実家に戻りごろごろしていたが『旧盆のあいだだけは、このRS40(二代目クラウン)で真面目に家業のタクシーを手伝った。この十日間、タクシー会社は猫の手も借りたいぐらいなのだ。(中略)当時、一日走ると、おやじの会社の運転手さんの中では、ぼくがいちばん稼ぎをあげた。なんとなれば、ぼくは他の運転手さんより三割方は早かったからである。砂利道ではすべてのコーナーで四輪ドリフトして、ラリードライバー並みのスピードで走った。そのためどの客さんも、降りるとヘナヘナとなってしまう。えらい神風タクシーぶりであった。』!!!さらに武勇伝を続ける。

“超神風タクシー”(砂利道のコーナーを四輪ドリフトして直線は120キロで飛ばした)
『タクシーには予約というものがある。それはたいていぼくの街から七~八キロ離れたところから、何時の汽車に間に合うようにクルマをまわしてくださいというものだった。会社の事務所には、電話番の女の子が二人いて、予約を受け付け、黒板に書きつけておくのだが、ときたまそれを書き忘れることがあった。忘れられたお客さんから、「クルマが来ない」と電話がかかってくると、女の子の顔色がみるみる青ざめるので事情はすぐにわかる。
 こんなとき、おおかたの運転手さんは行きたがらない。飛ばせば危ないし、間に合わなければ客にしかられるからだ。そこでぼくの出番となる。六キロ地点のところにいる客を、あと10分で駅まで連れていかなければならないといった場合、ぼくが行くと絶対に間に合ってしまう。ぼくは田舎の砂利道を120km/hぐらいで飛ばしたからだ。』
(㊷P94)このエピソードそっくりの場面が、フランスの大ヒット映画「TAXi」にあるが、もちろん徳大寺さんの方が先だ。徳大寺さんの痛快なエピソードは、このブログの自動車の記事の②と⑬でも紹介しているので、そちらもぜひご覧ください。

なぜ自動車殿堂に選ばれないのか?(余談)
(それにしても氏が日本の自動車社会に果たした功績の大きさを思うと、あの「日本自動車殿堂」に選ばれていないのは、何かの間違いだろうか。どうみても、もっと貢献度の低そうな人たちが選ばれているのに。それともかつて、“間違いだらけのクルマ選び”の出版に絡んで、AJAJ(自動車ジャーナリスト協会)とケンカして脱会した経緯(AJAJの総会に呼びつけられて『~ああだ、こうだとくりかえしているうちに、彼らはだんだんぼくが書いた内容に触れ始めた。するとある理事が、「われわれはメーカーと仲良く、協調関係でいきたいのだ」と、ついにホンネを漏らした。ぼくはすかさずその言葉尻を捉えて、「じゃあ、AJAJという団体はメーカーが大事なのか、読者が大事なのか」と聞き返した。するとその理事氏は「もちろんメーカーだ」という。それを聞いたぼくは、その場で「本日限り、私から辞めさせていただく」と絶縁状を叩きつけ、部屋から出ていった。』(㊷P431)より)一件が、いまだに尾を引いているのだろうか。ご遺族の方から辞退しているのなら、話は別だが、そうでないのなら、このような村社会的な体質を今でも引き摺っている限り、公式の“日本自動車史”の大筋は信じるにせよ、まるまるすべては、けっして信じられないと思う。日本の自動車史研究の第一人者である五十嵐平達氏も『明治以来の日本の過去に於いては、「自動車」は全く語られておらず、文学もマスメディアも横を向いていたし、工学の世界では学問の仲間に入れてくれなかった。そして自動車関連の企業は三流どころに位置していたのである。したがって記録としての歴史は大切にされず、「社史」は殆ど「自画自賛の羅列と化した。もちろん例外も存在するが、主に長老の体験談(それもメモを保存していた方は良いのだが)と時系列をもって歴史としているのが自動車の世界であった。」』(㉒序文)と、晩年語っている。個人的には、AJAJと絶縁するまでの徳大寺さんの波乱万丈の半生は、映画化したら面白いのにと思っています。なお小林彰太郎さんも確かそのAJAJの総会にいたけれど、そんなに大事にすべき問題ではないと、距離を置いたスタンスだったと、当時のカーグラ誌上で語っていた(記憶ですが)ことも追記しておく。下の写真は晩年の徳大寺さんがもっとも愛した猫のチャオとの日々を綴った『眼が見えない猫のきもち』のものだが、写真と以下の文は“車・自動車SNSみんカラ”より、氏と関係の深かった、フォトグラファー・小川義文氏の記事より引用させていただいた(荒木経惟氏の撮影だ)
https://minkara.carview.co.jp/userid/853612/blog/34448980/
『「間違いだらけの〜」の根底に流れている水源を見たようで、悲しいけど良い本です。』
e68.png
https://lh4.googleusercontent.com/-pFD5b8Mf8vQ/VGF8ddV_RsI/AAAAAAAAMjs/g5xLcxZUVA0/w462-h616-no/toku_3.jpg 病気で目が見えなかった子猫チャオ(徳さんは「チャオぴん」と呼んでいた)との日常を綴った心温まる本で、この本もいつかぜひ紹介したい。)
 いつものように脱線がひどくなってきたため、戦前の日本社会の自動車風俗についてはこの辺りでおしまいにして、12項の後半はアメ車の話題に移りたい。ただその前に、その”橋渡し”として?アメ車と日本車の相の子みたいだが、妙に気になるクルマの話をしておきたい。

12.8共立自動車の国産車、“日光号”のなぞ?(雑談その8)
 クライスラー系の組立生産を行っていた共立自動車は、アメリカ車排斥の時代となり、部品の輸入が困難になったため、独自の国産車(といっても当然コピー車だが)を作ろうとして、“日光号”と呼ばれる乗用車を試作する。しかし試作段階で終わり、残念ながら生産化までは至らなかったが、この異色の国産車について、記してみたい。その経緯の要約を以下は(①P12.5)の引用から。
『共立自動車はピーク時年間三千台の車を組み立てたが、自動車製造事業法に基づく許可会社の認定を受ける状況ではなく、輸入車の組立ての明日が暗くなり始めたこともあり、シリンダー、ミッションヤディファレンシャルギアの技術を持つ自動車部品の晴山自動車工業を1938年(昭和十三)年には全額出資し、株式会社に改組の上、傘下に収めた。それが後に「日光号」という純国産車のアッセンブルを行う構想を生んだ。』第二次大戦の前後の時期に、大きな力を蓄えていた安全自動車の中谷保(たとえば有名な山王ホテルも「自動車・燃料関連企業である安全自動車の経営者であった中谷保によって創業された」(wikiより))、が主導したプロジェクトだったようだ。
(下の写真はその共立自動車製の、国産乗用車である“日光号”。画像は「retorotoysのブログ」さん(以下Web□25)よりコピーさせていただいた。ちなみにこの共立自動車で、日光号の設計図面の作成に当たっていたのが、後にトヨタに転職して初代クラウンを主査として取りまとめた中村健也であったという(⑦P17参考)。
e69.png
https://stat.ameba.jp/user_images/20190604/14/retorotoys/fd/5b/j/o0613031314425066381.jpg?caw=800
日光号はダッジのコピー
 上記ブログによれば“日光号”は、クライスラー社の組立てを行っていた関係からダッジのコピーだとしている。ダッジを扱っていた安全自動車の中谷が主体だったプロジェクトだったとしたならば、うなずける話だ。
https://classiccarcatalogue.com/D/dodge%201938%20d8_custom_six_sedan.jpg
(下の写真は、1938年製ダッジの4ドアセダンだが、確かに外観は一目瞭然で、酷似している。さらに調べてみると、(㊲P122)に、『~1938年(昭和13年)3月に完成した日光号がそれでボディ・スタイルは明らかに1938年型のダッジをモデルにしているがホイールベースは3048mm、と当時の高級車パッカード120型に匹敵する長さ。全長は4887mm、全幅1791mm、全高1854mmと堂々たる貫禄。エンジンは日産からグラハム・ライセンスの直6、85馬力を供給してもらう契約で~』という内容の記述があった。)
e70.png
https://classiccarcatalogue.com/D/dodge%201938%20d8_custom_six_sedan.jpg
ところがこの日光号を調べていくと、謎深いところがあるのだ。
日光号はウィリスのコピー?
(⑦P18)等、他の資料によれば、アメリカ車としてはより小型の、ウィリス・オーバーランド社製の小型乗用車をモデルとして国産車に仕立てようとしたものだとしているのだ。(⑥-2、P378)の日光号の諸元表をみる限りでは、4気筒2,000ccで、4,200×1,730×1,700というその数値は、6気筒3リッター級(下のWebによれば3,3ℓと3.6ℓ級)の中級車であるダッジとはほど遠く、4気筒2,200cc(その後ジープにも使われたエンジンだ)のウィリスの方により近い。
(https://classiccarcatalogue.com/DODGE_1938.html)
それでは元となったウィリスの外観はどうだったのか。下の2枚の画像は「MCG Car Spotter’s Guide to the 1937 to 1942 Willys」(Webの⓮-2)という記事よりコピーさせていただいた。
e71.png
https://www.macsmotorcitygarage.com/wp-content/uploads/2013/04/Willys-Spotters-Guide.jpg
下は1938年型のウィリス 38型セダンだが、しかし外観上のイメージは日光号とはおよそかけ離れている。
e72.png
https://www.macsmotorcitygarage.com/wp-content/uploads/2013/04/1938-Willys-four-door-Sedan.jpg
確認のため“日光号”をもう1枚、⑤P20よりコピーさせていただいた(⑤の元図はカラーで綺麗です。ぜひそちらを参照ください)。こちらはイラストだが、イメージはやはりダッジに近い。
e73.png
日光号のボディはダッジを縮小(縮尺??)したが、パワートレーン系はウィリスを参考にした? 
大きさの異なる2種類の”日光号”があった!?
 ところが、(Web□25)の文章を改めて読んでみると、『因みに一年前の1938年4月に 一回り小さい 日光号を発表しています。』という一文があった!同ブログでは、当時の共立製作所が作成した日光中型自動車の資料の写真まで提示されており、“源流”までさかのぼりしっかり確認している。このブログのように軽い話題として、テキトーに書いているものとは取り組みの姿勢が違うようだ。どうやら大きさの異なる2種類の「日光号」が存在したようなのだ!
 さらに完成時期についても、各記事の内容で矛盾が生じるが、共立自動車でウィリスを参考に小型版の日光号を図面化していた中村健也は1938年8月まで在籍していた(Web□26による)という。(Web□26)ではエンジンも、ウィリスのものを真似ようと、図面を書いていたという記述もあるが、結局断念したようで、小型の日光号のエンジンも、日産から供給を受ける予定だった(4気筒2,000ccエンジン)としている(⑥-2,P377等)。ただ当時の日産車のエンジンラインナップからすると、新規設計だった可能性が高く、結局のところ、やはりエンジンが一つのネックで、小型より大型(日産でグラハム・ライセンスのエンジンは量産されつつあった)がより現実的だったのではないだろうか。ワカリマセン。さらに探求していけば、どこかにより詳しい資料があるはずなのでいずれ、確認してみたいが、それにしても、小型版の方の日光号の外観はいったいどんなものだったのだろうか。ダッジの縮小版だったのだろうか?さらにエンジンの供給以外にも日産(鮎川義介)の側の関与はあったのか?個人的には非常に興味があるのだが、小型版の方の写真は残っているのだろうか。それとも大型版だと思っていたものの中に、小型版が混じっているのだろうか。
なんだかあやふやな話になってしまった。共立自動車のその後だが、軍事体制に移行する中で『1939(昭和十四)年末で共立自動車を閉鎖して部品製造会社の精機鍛工㈱として発足することになった』(①P12.5)という。
戦時体制下でトヨタと日産も中/小型乗用車を試作
 話はさらに脱線するが、いきなりフォードやシヴォレーに対抗する3ℓ級の“大衆車クラス”の量産からスタートさせたトヨタも、1938年3月に商工省から、燃料と資材の節約のため、4気筒2,400ccの中型乗用車の開発を要請される(⑩-3P22)。こうして出来上がったのがAE型で、このクルマは車名公募により“新日本号”と命名された。なお日産も同様に“より国情に沿うように”(今更のようだが?)との要請を受けて、ニッサン50型という1,500cc級の、中型というか、小型というべきか迷うが、乗用車の試作車を完成させている(⑥-2,P324、㉓P73、㊳P12.6等)。オペルカデットを参考にしたようだ(㉓P74)。5台試作しただけで終わったというこの試作車のエンジンを、小型の方の日光号に流用する予定だったのだろうか。
 トヨタ、日産の両車とも本格的な生産には移せなかったが(ただし“新日本号”は76台作られた)、そのコンセプトは、小型版の方の日光号と共通するものがあり、いずれも国の意向に従って作られたクルマだからなのだろう。(下の写真は、トヨタ鞍ヶ池記念館に展示されている1/5スケールの“新日本号”の模型で、ブログ「ヒゲじいのつぶやき」さん(https://gabujaja.exblog.jp/5824899/)よりコピーさせていただいた。車体色は派手に見えるが車名同様公募で決めたそうで『灰桜色と決まったが、現代流にいえばピンクグレイ』(⑩-3P23)とのことで、かなりモダーンな感じのするこの色がオリジナルだったようだ。車体寸法は4,500×1,730×1,635と日光号よりも少しだけ大きかった。トヨタはその後も戦時体制下でありながらBA型、BC型という4気筒2ℓクラスの乗用車の試作を行っている。(㊳P12.8))
e74.png
https://pds.exblog.jp/pds/1/200707/07/72/f0007272_20315486.jpg
戦後ウィリスと三菱が提携して三菱ジープが誕生
 ここで日光号が参考にしたとされる、ウィリス社(正確にはウィリス・オーバーランド社)について、軽く説明しておくと、同社は何よりも、第二次大戦におけるジープの量産で世界的に有名となった(ちなみにオリジナルのジープの開発は、アメリカン・バンタム社によるものだ。(http://ktymtskz.my.coocan.jp/E/EU4/jeep2.htm)
日本との関係は、日光号のケースのように密かにコピーされる側でなく!戦後は堂々と、公式?な形となる。中日本重工業(財閥解体後の三菱重工業は東日本、中日本、西日本重工業と地域別に3分割された)と技術提携して三菱ジープが誕生するのだ。後にカイザーのところでも紹介するが(項12.12-2)、敗戦で軍需需要を失った旧三菱重工グループが、自動車産業に本格進出しようと、虎視眈々とうかがっていた様子がうかがえる。Wikiによれば『1950年 - 米国政府は、朝鮮戦争に必要となるジープを安価に調達するため、補給基地となる日本でのノックダウン生産を決定した。』とあり、占領下の冷戦構造でもあり、日本に対してのジープの導入はアメリカ主導だったようだ。
(前回の記事でも記したが、アメリカ軍欧州戦域総司令官だったアイゼンハワーが、“第二次世界大戦を勝利に導いた兵器”として、「バズーカ」、「ジープ」「原子爆弾」「C-47輸送機」の4つを挙げたことからも「"Four things won the Second World War-the bazooka, the Jeep, the atom bomb, and the C-47 Gooney Bird."」米軍がジープというクルマを重く見ていたことは理解できる。下の写真は、ブログ「三菱ジープ互助会」さんよりコピーさせていただいた「昭和30年(1955年)CJ3B-J3 JH4型」のカタログ表紙です。
https://japan-jeep-center.com/custom1.html)

e75.png
https://japan-jeep-center.com/img/img1.jpg
以下は(㉒P273)より『~ジープのノックダウンの話はアメリカ側から持ち込まれたのだという。そして警察予備隊(保安隊)向けの軍用ジープは、トヨタと日産にも試作依頼が出されていたのだというが、ここでいろいろあって、ウィリスを採用することは初めから決まっていたようなものであったらしい。』五十嵐氏は意味深に記しているが?以下(㊶,P190)『財閥グループであることから通産省も一目置いており、自動車に参入するにあたって、(たとえば)マツダが感じたような行政による圧力とは無縁だった。』五十嵐氏の話を追認する形だ。
トヨタ・ジープはランドクルーザーに発展
(下の写真と以下の文は「トヨタ自動車75年史」(web⓫-1)より引用
『1950(昭和25)年8月、米軍および発足直後の警察予備隊1から、四輪駆動の1/4トン積みトラック(ジープ型)と3/4トン積みトラック(ウエポン・キャリアー)の試作要請を受けた。朝鮮戦争が勃発してから2カ月後という、騒然とした世相のなかでの発注であった。(中略)このトヨタBJ型四輪駆動トラックは、ジープ型トラックであるところから、通称「トヨタ・ジープ」と呼ばれた。しかし、「ジープ」は米国ウィリス社の登録商標であるため、通称名を変更する必要が生じ、「トヨタBJ」と改めたのち、1954年6月に「トヨタ・ランドクルーザー」と正式名称を設定した。』)現在の陸の王者、ランドクルーザーのルーツだ。しかし世の中には詳しい人がいるもので、「ランドクルーザー」という車名は アメリカの自動車会社が最初に使っていた」そうです。スチュードベイカーが使っていたようで、さらに興味のある方は、以下を参照ください。
http://www.landcruiser-web.org/html/Studebaker.htm

e77.png
https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/text/taking_on_the_automotive_business/chapter2/section8/images/l01_02_08_02_img08.jpg

12.9クライスラー系車種の日本市場での位置づけについて(雑談その9)
 何とも締まらない話で終わってしまったが、日光号と同時期に行われた、アメ車をコピーして国産化するという試みは、他でもいろいろと試みられており、たとえば国産自動車部品組合がフォード用の国産部品を持ち合い“聖号”トラックを完成させた例なども興味深いが(⑥-2,P372に詳しい記載がある)、きりがなくなるので、ここから先は、アメ車そのものの話に移り先に進みたい。
 戦前の日本の自動車市場を支配した二大ブランドである、フォード(“横浜製”と親しまれてきたらしい)とシヴォレー(同様に“大阪製”だった)の違いは、フォードA型以降は両車が接近してくるものの、キャラクターの差は比較的明瞭で、自分のような戦後育ちのド素人にも分かりやすい。 
 しかしクライスラー系の中でその対抗馬であったプリマスとの違いとなると曖昧で、当時の雰囲気をリアルタイムで体感した自動車愛好家でも、実際に運転する機会までは持てなかったため、その違いを完全にはイメージできなかったようだ。
プリマスは、フォードやシヴォレーより少し格上だった
 “小林少年”(小林彰太郎の幼少期を称して)もそんな一人で、一家で映画を見に行くときに、タクシーを捕まえる役目を担っていたそうだが『両親に任せておくと、真っ先に来たボロのフォードかなにかを捕まえる。だがいっぱしの自動車通であった小学生の筆者には、プリマスかエセックスがお目当てで、フォード、シヴォレーでも最新型なら合格だった』(⑱P16)そうで、さすがに後に、日本のモータージャーナリストの第一人者となっただけに、子供のころから鋭い審美眼を持っていたようだ。単なる“カーウォッチ”だけでなく、後席の“乗心地”の体験からも、同じ大衆車でありながら、プリマスが格上と感じたのだろう。しかし当然ながら、実際にハンドルを握ったわけはなく、“乗り心地”で感じただけだった。
1929年型プリマスの試乗記
 そこで大人になった氏が、カーグラの編集長として、特集記事「1920年代のアメリカ車」を組む中で、ようやく念願叶い!?クライスラー車2台(クライスラーとプリマス)に実際に試乗して、そのうちの、フォードとシヴォレーの直接のライバルであるプリマス(1929年製プリマスロードスター)の試乗記事を通して、ハードウェアとしての3車(=フォード、シヴォレー、プリマス)の違い(差)を論じているので(以下引用⑰P33)、長文だが抜粋転記させていただく。
1928年に登場した新しいブランド
『~クライスラーのところで触れたように、プリマスは1928年半ばに登場した新しい銘柄で、それまでクライスラー52と呼ばれていた最も廉価な4気筒モデルを、別のブランド・ネームで売り出したものである。当時大衆車マーケットはすでにフォードA型とシヴォレー・シックスの握るところであったが、プリマスは敏腕な技術者出身の企業家W.Pクライスラーの、ビック2に対する切り札だったのである。デビューした1928年には約9万4000台に過ぎなかったが、大不況の後遺症からアメリカが脱した1935年には40万台を売り、No3の地歩を固めるに至る。フォードとシヴォレーという強敵を向こうに回して、プリマスがこの目覚ましい躍進を遂げることができた謎は一体何だったのだろうか。(中略)
 スペック上で見るかぎり、シヴォレーが6気筒である点を除けば、3車とも似たように見えるけれども、現物に乗ってみればそれぞれ全く独自であった。ビック3の車が、同じ価格クラス同士では目をつぶって乗ると区別がつかないほど、設計的に標準化されるのは戦後しばらく経ってからの話であり、少なくとも戦前型のフォード、シヴォレー、プリマスは、顔かたちからエンジンの音、乗り心地、さらに匂いまで、それぞれ独特だったのである。』
フォードとシヴォレーとプリマスの戦後型を写真で比較(余談
 話の途中で割り込むが、12項の特に後半のアメ車編は写真の方も、固いことは言わずに“軽め”の展開でいく。以下3車(ブランド)の比較の上で、戦後の同年代(1960年前後)のフォードとシヴォレーとプリマスの写真を貼っておく。まずはフォードから、
「ティファニーで朝食を」の1960年のフォードフェアレーン(余談)
(下の写真は1960年製のフォードフェアレーン タウンセダンのタクシーで、映画「ティファニーで朝食を」から。(1960 Ford Fairlane in Breakfast at Tiffany's, Movie, 1961)
e78.png
http://www.imcdb.org/i043162.jpg
下の動画「ムーンリバーのどこか切なげな音楽をバックに「ティファニーで朝食を」ではいきなり冒頭から、たぶん60年型と思われるフォードのタクシーが登場してくる。ちなみにこの映画、最近改めて観たが、オードリーヘップバーン演じる主人公は飼っていた猫をいきなり雨の中捨てたり、鳥がうるさいからと殺してはく製にしたりと、とんでもない動物虐待映画で唖然とした。しかし以前観た時はそのような印象はなかったので、ぼんちゃんと暮らすようになってからの心境の変化なのでしょう。 https://www.youtube.com/watch?v=6hTLrz7uzVs&feature=youtu.be
(Web⓮-5)に、1960年フォード(アメリカ)のラインナップを紹介した当時のCF動画があるので、さらに興味のある方は訪問してみてください。このクルマの前の、テールフィンの時代が低調だったフォードのデザインだが、60年型はモダーンなスタイルに一新し、後方に流れるような、のびやかでスポーティーなラインが新鮮だ。)
e79.png
https://www.macsmotorcitygarage.com/wp-content/uploads/2017/07/1960-Ford-starliner-.jpg
 話を戻す。『さて、ガタだが安くて丈夫なフォード、スマートな車体とスムーズな6気筒を売物にするシヴォレーに対して、プリマスの切り札はいったい何だったのだろう。その謎は今度実物に親しんでみて初めて氷解した。端的に言って、プリマスはフォード、シヴォレーよりもはるかにリファインされた良識的な設計なのであった。』
リファインされた良識的な設計
『まず、SV2873ccエンジンが、当時の4気筒としては無類にスムーズなことに驚かされる。(中略)プリマスのA形に対する絶対的な強味は、大きい4気筒に不可避な振動を、有効なラバー・マウント(ヴェルヴェット・パワーと呼ばれた)の採用によって車体にほとんど伝えないことである。因みに、A型のエンジンは4ヵ所でガッチリとフレームに固定されているので、常に微振動が絶えないし、特にエンジン・ブレーキの掛かった状態では、全身電気あんまに掛かったように、ブルブルと震える。プリマスの振動、騒音の少ないことはエンジン自体だけに限らず、パワートレーン全体に対しても然りである。クラッチのつながりもスムーズなら、3段ギアボックス(むろんノン・シンクロ)のギア・ノイズも低く、シフトも軽く、実に容易だ。』
1959年シヴォレー ビスケイン(余談)
(下は1959年製シヴォレー ビスケイン。適当な映画が見つからなかったので映画ではないが、画像は下記よりコピーさせていただいた。https://59classicchevy.com/1959-chevrolet-biscayne/  ビスケインはこの1959年モデルからラインナップに加わった下級グレードだが、過剰な装飾の無い分かえって、この時代のアメ車の伸びやかな美しさが出ているように思う。廉価版のグレードは米軍基地の近くではよく見かけて、一般の日本人にもなじみ深かった。『59年型が、ジェット機にイメージを求めた最後の年~1961年からはジェット機スタイルを否定する方向に進む。』(㊸-2)『(テールフィンの)そのピークにあたるのが1959年型で、これはその頃定年退職したアールのGMへの置きみやげともなった』(㊸-3)。ただこの時代になると、フォードとシヴォレーの違いは次第に希薄になっていった。フォード側が生き残るため、GMの戦略にすり寄った(嵌った)というべきなのかもしれないが。)
e80.png
https://www.59classicchevy.com/images/1959-chevrolet-biscayne-1.jpg
下の動画は1959年シヴォレー ビスケインの、当時の動画です。
https://www.youtube.com/watch?v=MTVWoPm9kyY&feature=youtu.be
シヴォレー エルカミーノ=贅沢な乗用車ベースのトラック
(ついでに下の写真は1959年製シヴォレー エルカミーノ。上の写真と同時期のフルサイズシヴォレーがベースの、そのピックアップトラック版だ。アメ車以外では考えられない、何ともぜいたくな空間の使い方だ。Wikiでは「クーペユーティリティ型のピックアップトラック」と説明している。もっともこの“セダンピックアップ”のジャンルではその2年前に、フォードがランチェロで先行していた(ただあまりカッコよくなかったので画像は貼らないけれど)。エルカミーノは1959年と60年型のあといったん途絶えるが、1964年にインターミディエイトサイズの、シボレー・シェベルをベースに復活し、コンパクトカーのファルコンベースに変わったフォードのランチェロとともに、独自の市場を形成していった。
下の画像は以下のサイトからコピーした。

http://www.trucktrend.com/features/1811-truck-trend-legends-chevrolet-el-camino
(Web⓮-3)のサイトには当時のCFの動画もあるので興味のある方は訪問してみて下さい。)
e81.png
http://assets.trucktrend.com/f/170375247.jpg?width=660&height=495
さらにオマケで、下は最近見事にレストアされたクルマの動画です。
https://www.youtube.com/watch?v=HrQO9X5y8ug
プリマスは、much better car
 また話を戻し⑰からの引用を続ける。『一口にいって、プリマスはライバルのフォード、シヴォレーよりもあらゆる意味においてmuch better carであった。ただ、それは実際に試乗してみなければわからないことであり、たとえ乗ってみても、プリマスの洗練された挙動を、フォード、シヴォレーとの価格差に見合うほどのメリットと受け止めることのできた人びとは、やはり当時のアメリカでは少数派に属しただろう。プリマスをmuch better carと認識できるのは、覚めた眼で冷静に比較できる現代の自動車史研究家だからであって、その当時の一般大衆は、フォードの絶対的低価格や、キャディラックをスケールダウンしたように華やかなシヴォレーのスタイリングの方により魅力を感じたのではなかろうか。プリマスが短時日のうちにNo3まで進出できたのも、また逆にフォード、シヴォレーの牙城には遂に迫ることができなかったのも、皮肉なことに同じ理由によるように思える。すなわち、プリマスはあまりにもオーソドックスで、技術的に生真面目な性格が却ってあだになったのではあるまいか。』小林さんはきっと、この時代のプリマスを長年、自らハンドルを握り確認したかったのだろう。(下の写真は引用した記事で小林さんが試乗したのと同型の、1929年製プリマス ロードスターで、色まで同じみたいです。雑誌からコピーするよりきれいなので、こちらをコピーさせていただいた。)
e82.png
https://photos.classiccars.com/cc-temp/listing/93/8931/4992742-1929-plymouth-roadster-convertible-thumb.jpg
下表のようにクライスラーは、本国アメリカでは1937年にはフォードを凌ぐまで成長して行く。それと同時に大恐慌を境にして、ビッグスリーで寡占化していく様子がわかる。
(表11:ビッグスリーの市場占有率の推移(1911→1937):web□32P43より転記))
e83.png
以上のようにフォードとシヴォレーのライバルだったクライスラー系のプリマスは、アメリカ車のマーケットの中でもこの時代、良識派のクルマと評価されていたようだ。そんなクライスラー系のダッジ、プリマス、デソートは、本国のアメリカ市場と同様に、フォード、シヴォレーの上位に位置する良質なクルマとして、日本市場においても着実に浸透していった。
「クリスティーン」で“主演”を演じた1958年プリマス フューリー(余談)
(プリマスというブランド名は、現代の日本人にとって、傑作(B級?)ホラー映画“クリスティーン”の“主役”を見事に演じた、1958年製プリマス フューリー(下の写真はその同型車)の怖い姿で記憶に残っているかもしれない。
e84.png
http://www.carponents.com/images/content/images/christine_5.jpg
下は映画“CHRISTINE”のダイジェスト動画です。
「Best of I CHRISTINE」
https://www.youtube.com/watch?v=FLhRLY-AU5o

「John Carpenter - Christine (Official Music Video)」
https://youtu.be/SH2f4A4SVNk

いかにもバージル・エグスナー時代のクライスラー車らしい、見事なテールフィンを持つ、豪快な?デザインだ。五十嵐平達は『エグズナーこそは最も趣味的にアメリカ車をデザインしたスタイリストであったと思う』(㊸-1)と評している。しかしプリマスのブランド名は2002年、クライスラー(当時はダイムラー・クライスラー時代で現FCA)のラインナップから消えてしまった。)
e85.png
https://www.americar.de/thumbs/img/News/87/35/00/p/p_full/1958-plymouth-christine-3587.jpg
さらにオマケで、(Web⓮-4)に、1958年当時のプリマスのCF(動画)があります。映画の影響からか、赤の印象が強いが、薄いブルーが基調だと少しシックな印象を与える。
e86.png
https://www.macsmotorcitygarage.com/wp-content/uploads/2017/01/1958-Plymouth-Savoy-2-Door-Club-Sedan-i.jpg
1961年型のスポーツフューリー。テールフィンは消えたが相変わらず“ド派手”(余談)
(下は3年後の1961年型のプリマス スポーツフューリーで、相変わらずド派手で迫力ある面構えだ。以下(⑮P80)より『アメリカ車が、日本やヨーロッパとは異なる方向に進んだのは、広大な国土を持つことの影響が大きいが、ほかにもいくつかの理由がある。まずはガソリンが安く入手できたことで、もう一つはヨーロッパや日本とは異なる自動車メーカーの姿勢の問題がある。寡占化が進み、勝ち組のメーカーが利益の大きい大型サイズの車にしたのだ。しかし、最初から恐竜のようなサイズが主流になっていたわけではなく、時代が進むにつれてそうなってきたのである。そのことが、後にアメリカのメーカーを苦しめることになる。』画像はmodernmopars netさんよりコピーさせていただいた。
http://modernmopars.net/mopar-b-bodyc-bodye-bodyj-body/plymouth-sport-fury-specs-1961/)

e87.png
http://modernmopars.net/wp-content/uploads/2015/02/plymouth-sport-fury-1961.jpg
しかし後姿はスリークで、前年型まであった高らかなテールフィンは失われて、時代の変化を表していた。画像は https://www.tumblr.com/tagged/plymouth-fury さんよりコピーさせていただいた。
e88.png
(下の表と引用文は、「M-BASE 第59回 1947年型アメリカ車 – ビッグ3編」からコピーさせていただいた、http://www.mikipress.com/m-base/2017/07/59-1.html
戦後に入ってからの、1947年のブランド別アメ車のランキングで、プリマスの躍進ぶりとともに、クライスラー系の好調さが目立つ。

e89.png
http://www.mikipress.com/m-base/img/05-59-00.jpg

12.10戦後型の“フラッシュサイド”デザインについて(フォード編)(雑談その10)
 この12項はあらかじめ“計算”せずに、思いつくがまま、話の成り行きにまかせて話を進めていくが、上記の表を見て、それを題材にして、話を続けていく。この表を見れば一目瞭然で、プリマスの躍進=フォードがもっとも不調で苦しかった時代だが、フォードの不調は、その沈滞ムードを一新し、3ボックススタイルのいわゆる“フラッシュサイド”の戦後型スタイルを採用し、鮮烈にデビューした1949年型の登場まで続いた。
“フラッシュサイド”スタイルとは
→ボディサイドにフェンダーなどの突出部がない車体(大車林から引用)の総称で、スラブサイドとか、ポンツーン(パンツーンン)=浮桟橋)型などの呼び方もある。
1949年、“ヤングフォード”(フォードの起死回生策)
 同車はヘンリー・フォード二世の時代となった意味も込めて“ヤングフォード”という呼ばれ方もしているが、次の話題として、この歴史的なヤングフォードについて、以下記してみたい。(下の写真はwikiwandより1950年製のフォード カスタム2ドアだが、ボディデザインは49年型とほとんど同じだ。ヤングフォードは4ドアより2ドアの方が、デザイン的にはしっくりしていた。)
e90.png
ジョージ・ウォーカーがデザイン(そのデザイン評)
 そのデザインについて松尾良彦氏(初代フェアレディZのデザイナーで有名)は『グリル中央にプロペラ・スピナーのような丸い飾りを持ち、それに横一文字のバーが走るというフロントエンドの造形は斬新だった。』(NAVI「アメリカ車デザイン小史」㉟-1より引用)以下はカーグラの編集者出身で、自動車史家の高島鎮雄氏の評(記名はないけれどたぶん)
『フォードは若いヘンリーⅡ世の時代になって、ようやくモデルTの亡霊から逃れ得たのである。ジョージ・ウォーカーの手になるボディデザインも、42年型以来の過渡期の中間型から脱出して、より統一され、一元化された、簡潔でしかも機能的な箱型になっている。このフラッシュサイド型の完成に際して、ヘンリーⅡ世がトリノから買ってきた1946年のピニン・ファリーナ・ボディのチシタリアが大きな影響を与えたというのも、今は昔の物語である。』(㉙-3))
 量産車のフラッシュサイド型のボディデザインは、次の話題で記すようにフォードが初めてではなかったが、このジョージ・ウォーカーがデザインした初の戦後型フォードは、(㉙-3の(たぶん)高島鎮雄氏の表現を借りれば)「簡潔でしかも機能的な箱型」で、バランスの取れた、現代人の目から見ても優れたデザインだった。(下はフォードのデザインに影響を与えたといわれている、イタリアのチシタリア。言わずと知れたピニン・ファリーナのデザインだ。トヨタ博物館所蔵のもので、画像と文はブログ「W12.5とGOLFⅦスカイブルー号」さんよりコピーさせていただいた。https://ameblo.jp/momochin0427/entry-12.607133114.html 『”202 Coupe”は1951年に”ニューヨーク近代美術館”に『現代の造形を代表する優秀なデザイン8車』に選ばれ、”動く彫刻”として永久所蔵されています』
e91.png
https://stat.ameba.jp/user_images/20190815/22/momochin0427/d3/56/j/o0560037414537944604.jpg?caw=800
多少余談になるが、傑作“ヤングフォード”をデザインしたジョージ・ウォーカーはその後、『フォード社がハーリィ・アールに対抗できる個性としてスタイリング部長に起用したジョージ・ウォーカーは、ICBMルックと言われた宇宙時代のセンスの導入者』(㉒P153)として、飛行機を飛び越えて宇宙路線?を掲げて、GMとクライスラーに対抗していく。しかしクロームとテールフィンの絢爛たる時代だった50年代の後半、フォードは、GMのハーリー・アールや、バージル・エクスナー率いるクライスラー系のデザインに対抗できなかったと思う(個人的な印象です)。
バットモービル
(そしてこの時代のフォードのデザインを象徴するかのようで、しかも一般の日本人にも馴染み深かったクルマは、下の“リンカーン・フューチュラ”だったのではなかろうか。1955年秋にリンカーン部門のドリームカーとして公表された、ダブルバブル・キャノピイが特徴的なこのクルマをひとめ見て、何かに似ていると感じた人も多いだろう。
e92.png
http://www.abandonedcarsandtrucks.com/sites/default/files/Lincoln%20Futura%20.jpg
そうなのだ。このクルマはその11年後、TVシリーズのバットマンに登場する“バットモービル”へと改造されていったのだ!画像は“Abandoned Cars and Trucks”さんよりコピーさせていただいた。
http://www.abandonedcarsandtrucks.com/content/building-lincoln-futura-concept-car
なおバットモービルへと至った経緯については、以下のOCTANEの記事が詳しいので、興味のある方は是非参照してください。https://octane.jp/articles/detail/4763)

シド・ミートも在籍していた
(さらに余談だが、近未来的でありながらどこかアジア的というか、独特な世界を描くあのシド・ミートも、フォードのデザインスタジオ出身だった。斬新な自動車雑誌で自分も熱心な愛読者だったNAVIを創刊したモータージャーナリストの大川悠氏によれば『ジーン・ボーディナット(=ジョージ・ウォーカーの後任)をチーフとするフォードもまた、どんどん前衛的なスタイルに挑戦するが、後に映画「ブレードランナー」のデザイン監修で知られた才気溢れるデザイナー、シド・ミートはこの時代フォードで働いており、彼の影響も大きいといわれる。』(㊺-1、P39)という。時代的に言えば、ジョージウォーカー時代の後のようだが。下の画像は映画、「ブレードランナー」のワンシーンだが、ブログ“time tripper”さんよりコピーさせていただいた。
https://ttripper.blogspot.com/2016/06/blog-post_28.html それにしても空飛ぶ車が本当に、大自動車メーカーで試作される世の中になろうとは・・・)

e93.png
https://3.bp.blogspot.com/-5i9JIssjkwc/V3JVFsSu2ZI/AAAAAAAAU_Q/QpweXV3moXE_K-g_X8vfAfBobqVjZuQOQCLcB/s320/bladerunner.jpg
カスタムが似合うクルマ?
(も~今回のこの12項は何でもアリでいいでしょう。1949年型フォードに話を戻し、下の写真は「ディスカバリー・チャンネル」でおなじみの、アメリカの有名カスタムカー・ビルダー、チップ・フースの工房で製作した、1949年製フォード カスタムをベースにした "The Foose Ford"。こういったカスタムカー文化も、アメリカの大事な自動車文化の一つだ。チップ・フースの工房が舞台となり、ディスカバリーチャンネルで放映されている「オーバーホール 改造車の世界」(ご存じない方はwiki等参照ください)という番組を自分はよく見るが、日本人の感覚からすると違和感あるのが、チップに改造依頼するほとんどの人(一般の人)が、提供したボロ車を「誰々は自分のことは後回しにして、他の人に尽くしてきた。なので、もっといいクルマに乗るべきだ!」と堂々と言い張る点で、それだけ自己主張が強くないと多民族国家では生きてはいけないのだろうと思いつつ、いつも見ています。)
e94.png
https://www.classicdriver.com/sites/default/files/styles/two_third_slider/public/import/cars/12225/1789134/biga.jpg
(ついでに、下は動画で1949年式と51年式のカスタムだが、これらも同様にカッコイイ
https://www.youtube.com/watch?v=VaM-FkDspQ8
https://www.youtube.com/watch?v=mjlafNZ8Bjk)

ライバルのシヴォレーは、少し保守的なスタンスだった
 一方、フォードの最大のライバルであるシヴォレーの動向だが、(㉟-1)より引用『一方ライバルのシヴォレーも1949年、戦後初のフルモデルチェンジを敢行する。ただし、GMとフォードのデザイン・テイストには、やはり大きな差がみられた。
GMのハーリー・アールは流麗な面を作ることに心を砕き、フロント・ウィンドシールドにカーブドグラスを採用した。それに加えて、フラッュサイドのボディにあえて流線型のリアフェンダーを独立させて組み合わせるなどして、エレガンスを強調した。
一方のフォードでは、流麗さよりも剛直なイメージを重視した。そのためチーフデザイナーのジョージ・ウォーカーは、3ボックス、フラッシュサイドのボディをテキストどおり忠実に構築、アールのように遊びを採り入れることなく、ウィンドシールドも中央分割の平面ガラスのままと、手堅いデザインをみせた。
だがどちらの車も、新車を渇望していた戦後のアメリカ大衆の心を掴み爆発的に売れた。これは黄金の時代の50年代への前奏曲といえる。』
(㉟-1、P12.6)下の画像はgazooの記事「シボレー フリートライン」よりコピーした。後ろのフェンダーラインは残し、デザイン上はフォードより温和で保守的な立場をとった。T型フォードが全盛のころと立場が逆転し、攻守ところが変わっていたのだ。
https://gazoo.com/catalog/maker/CHEVROLET/FURITORAIN/194901/)
e95.png
https://gazoo.com/catalog/car_img/7217/7217_o.jpg
 この、49年型フォードという戦後の重要モデルの項の〆は、フォードと言ったらやはりこの人で、五十嵐平達氏に記事でまとめとしたい。以下(⑩-2)より引用
7,200万ドルのギャンブル
『「ヤングフォードの7,200万ドルのギャンブル」、これは1948年6月14日号ニューズウィーク誌、ビジネス欄のトップタイトルである。この週刊誌が一企業の新車発表に、2ページ特集することすら異例といえたが、最初のページには未来都市から来たようなモダーンな車の正面と、見るからに若い30歳のヘンリー2世社長、およびGM系から引き抜いた新副社長アーネスト・ブリーチ(元ベンディックス社の社長)の写真がのっているのを、筆者は昨日のごとく記憶している。(中略)
7,200万ドルという開発費をつぎ込んだこの新型は、ヘンリー2世が1946年9月から発足させた大計画で、(中略)最初の生産車は1948年4月12日にオフラインし、6月18日には各地ディーラーのショールームで公開されたが、これはモデルTをモデルAにチェンジした時以上のビッグ・チェンジであって、同じものは名前だけといわれ、ジャーナリズムはヤング・フォードと呼んで、』
その成功を5分5分としかみなかった
(⑩-2)からの引用を続ける『その成功を5分5分としか考えず、エスカイヤー誌などは「親に似ない子」と皮肉った程だが、当のヘンリー2世はこのモデルに社運をかけていて、彼は父エドゼルの理性と、祖父の気骨を兼ね備えたような人物だった。そして1946年にはクライスラーより下に落ちていたフォード社を、復活させる大仕事に乗り出す決心をさせたのは、フォード家の威信だと説明し、自分は常に祖父や父ならどうするかを考えて行動していると答えていたが、そのヤング・フォードは立派に成功した。49年型発売後、フォード社は赤字から抜け出し、5年間に売り上げ総額が20年振りでシヴォレーを上回るに至った。(中略)現在ヤング・フォードと呼ばれるのは同名の祖父と区別する以外の意味はなくなっているが、発足当時には明らかに三代目若社長への皮肉がこめられていたのである。』(⑩-2P6)
直前のモデルと新旧比較
(下の画像はhttps://www.carandclassic.co.uk/car/C1168120というクラシックカーの販売サイトの、49年型の前のモデルである1946年型フォード4ドアセダンの“売り物”の写真だが、見た目も何とも古臭く感じられる。以下(⑩-2P8)に記されている “ヤング・フォード”の特徴と対比すれば、49年型の新しさがわかるだろう。『新型設計で最大の特徴は、全く白紙から再出発させたレイアウトで、このため全く別の車になってしまった。それは全長を変えずに車室容積を増加させることを目的としたもので、フォード社としては創立以来初めて、前車軸を独立懸架とすることで、エンジンを5インチ前方の位置へ移し、しかも低くマウントさせ、このために車高も4インチ削られたが、逆に室内は広くなり、後席もタイヤハウスをよけられたので、スペース的にも乗り心地向上にも、理想的な条件となった。そして余分の後方スペースはトランクに充当されたので、4ドアセダンでも容積は1.5倍も多くなった。』(⑩-2P8)
e96.png
https://uploads.carandclassic.co.uk/uploads/cars/ford/12253251.jpg

12.11戦後型の“フラッシュサイド”デザインについて(スチュードベーカー編)(雑談その11)
 だが、戦後の量産車でフラッシュサイド化に踏み切ったのは、実はフォードが最初ではなかった。しかしここでややこしいのは、その初めてフラッシュサイド化されたクルマを、スチュードベーカーだとする説と、いやクロスレイが最初で僅差でカイザーが続いたとする説に、自動車史家の中でもどうやら二手に分かれているようなのだ。
 果たしてどちらの説が正しいのかは、自分には何とも言えません。そこでここでは話を単純化して、新型車の発表順でいうと、スチュードベーカーが1946年5月で(web⓯-6によると)、クロスレイは6月なので(web⓯-2によれば)、スチュードベーカーから先に紹介する。続いてクロスレイ、カイザー、ハドソン、パッカードとフラッシュサイド型を投入した順番に紹介し、ビッグスリー以外のアメ車の戦後を紹介していきたい。
スチュードベーカーのラインナップ
 まず初めに、戦後のスチュードベーカーのラインナップについて確認しておく。(web⓱-2)より『スチュードベーカーは、早くも1947年(モデルイヤー)に戦後設計のニューモデルを投入した。車種バリエーションはチャンピオンとコマンダーの2種。チャンピオンは従来のスカイウェイ・チャンピオンに代わるベーシックモデル、コマンダーは本命ともいえる上級モデルだった。チャンピオンのボディバリエーションは4ドアセダン、2ドアセダン、2ドアクーペ、2ドアコンバーチブル。メインはあくまで2ドアだった。ホイールベースは112インチである。コマンダーもまた2ドアを前提としたようなボディデザインとなっていたのが特徴であり、ボディバリエーションもチャンピオンと同じという変わったモデルだった。ホイールベースは119インチである。』ちなみに(web□21-3)によれば、スチュードベーカーは元々『ガソリン自動車の誕生以前は全米トップの馬車製造メーカーであった』という老舗だったようだ。
レイモンド・ローウィのスタジオがデザインを担当
 この時代、ビックスリーには既に自社のデザインスタジオがあり、外部に依頼するケースは稀だったが、『スチュードベーカーのデザインは1936年から、わが国でもたばこのショートピースやミツワソフト石鹸のパッケージデザインで有名な、工業デザイナーのレイモンド・ローウィ(Raymond Loewy)の事務所が担当』(Web⓯-6)していた。“工業デザインの父”として日本でもあまりに有名なレイモンド・ローウィ(ちなみに昔はレイモンド・“ロウイ”と表現していたような・・・)については、wiki等を参照ください。
デザイン責任者がヴァージル・エクスナーだった
 そしてレイモンド・ローウィのスタジオで、このクルマのデザインに責任者としてかかわったのが、後にクライスラーのデザイナーとして大活躍する、あのヴァージル・エクスナーだったという。M-BASEの記事(Web⓯-1)によると『レイモンド・ローウィ事務所が担当したが、責任者に任命されたのは1937年にポンティアックからレイモンド・ローウィ事務所に移籍し、1949年にはクライスラーに移籍して野心的なコンセプトカーを次々と発表したヴァージル・エクスナー(Virgil M. Exner)で、当時スチュードベーカーの社員であり、1940年にエクスナーに認められ、ローウィのチームに加わったロバート・ボーケ(Robert E. Bourke)が中心となって作業が進められた。』
下の画像は「Gear Head Tuesday – Bob Bourke’s Studebaker Starlight」というブログからコピーさせていただいた。
https://56packardman.com/2019/09/17/gear-head-tuesday-bob-bourkes-studebaker-starlight/amp/
e97.png
https://56packardman.files.wordpress.com/2019/09/47_studebaker_commander_starlight_coupe.jpg?w=700&h=527
(下の写真はhttp://www.classiccarcatalogue.com/STUDEBAKER_1947.htmlさんより。
確かにこの写真からは、『当時のタイム誌では「行くのか来るのか(coming or going)」のタイトルで報道し話題を呼んだ』(㉒P159)とおり、確かにどちらを向いているのかわからない?)

e98.png
http://www.classiccarcatalogue.com/S/studebaker%201947%20champion_starlight_coupe_tyl.jpg
リアフェンダーラインこそ残すものの、優美なデザインだった
 以下はそのデザイン評で、カーグラの編集者の高島鎮雄は、1947年型スチュードベーカーこそが、事実上、初めてのフラッシュサイド型量産車であった(より正確に言えば“初めて成功した”だが)と解釈している。以下(㉙-5)より『~結局パンツーン形は(リアフェンダーが独立しているので完全な形とは言えないが)レイモンド・ロウイの47年型スチュードベーカーが初めて成功し、さらに49年型フォードで完成するのである。』さらに“念押しで”(㉙-9)『それはリアフェンダーこそ独立したマスを持つが、ほぼ完全なフラッシュサイドを成し、しかも47年型カイザー/フレイザーのようなあいまいなものではなく、さすがロウイと思わせるに充分なものであった。』
 この12項を記すうえで大変お世話になった、三樹書房のM-BASEさんの“見解”もほぼ同じのようで『~リアフェンダーをアクセントとして残しているが、フェンダーがボディーと一体化したフラッシュサイド(スラブサイドともいう)を米国の量産車で初めて採用』(Web⓯-6)したとしている。
(下は1947年スチュードベーカーコマンダー(1947 Commander Business Coupe)で画像はwikiよりコピーさせていただいた。確かに明確に、リアフェンダーラインが明確に描かれており、ここをどのように見るかで議論が分かれているのだろう。しかし後に記すカイザーやクロスレイよりはるかに優美なデザインであることだけは、間違いないと思う。)
e99.png
“ヤングフォード”との血のつながり
 それと共にどことなく、49年型フォードとのデザイン上のつながりが感じられる点も、クロスレイやカイザーと違う、優位な点だ。M-BASEに49年型フォードのデザイン創生過程の詳細が記されており、以下長文だが引用させていただく。(web⓯-7)『ブリーチ(GM系のベンディックス社社長から引き抜かれてフォード副社長に就任)が1946年7月、フォード社に入社した時、1949年型フォードのデザインは完成してツーリングの準備も始まっていた。ホイールベース98インチの小型車と118インチのフルサイズの2本立てであったが、1946年5月に発表された1947年型スチュードベーカー・チャンピオンを見て、その斬新さに衝撃を受け、白紙に戻してゼロからデザインのやり直しを決断する。(中略)そんな時、インディアナ州サウスベンドにあったレイモンド・ローウィ事務所のスチュードベーカー・スタジオでは数人のデザイナーがリストラされ、その中の一人ディック・カリアル?(Richard Caleal)がデトロイトのジョージ・ウォーカー事務所を就活のため訪れた。ウォーカーはカリアルに2~3週間のうちに1/4クレイモデルを添えてデザインの提案をしなさい。結果が良ければ採用しようと伝えた。(中略)フォード社において、グレゴリー、ウォーカー、カリアルの3種類の1/4クラスターモデルが審査を受けた結果、カリアル案が採用され、更にフルスケールモデルでグレゴリーとウォーカー(カリアル案)が競い、最終的にウォーカーが提案したカリアル案が採用され、更にリファインされたのが1949年型フォードであった。47年型スチュードベーカーと49年型フォードの間には確かに、“血のつながり”もあったようなのだ。以下の1948年型の画像は、
https://www.indieauto.org/2020/08/28/1948-studebaker-this-is-the-car-to-get-you-there/
よりコピーさせていただいた。この写真からはさらに、“ヤングフォード”との近似性が伺える。)

e100.png
https://i1.wp.com/www.indieauto.org/wp-content/uploads/2019/04/1948-Studebaker-ad2-col.pg_.png?w=680&ssl=1
未来のかなためざして走っていくスタイル
 1947年型スチュードベーカー(何度も記すが、1947年はモデルイヤーのことで、実際には1946年1946年5月に発表し、6月に発売されている(Web⓯-6))の、歴史的な意義を含めた解説を、自動車史家LJK.セトライト(神田重巳訳)による(㉞-1)より引用 
『ローウィのデザインした1946年スチュードベーカーは、自動車の古めかしい慣用句を一切投げ捨て、しかも間もなく他社がいっせいに真似したくなるほどの手際のよさで、新しい典型をつくり上げていた。このスチュードベーカーが登場しとき、小うるさい連中は、この車のスタイルが、こちらにむかって走ってくるところか、かなたに走っていくところか見わけもつかぬなどといって嘲笑した。しかし、この車の新奇なスタイルこそ、じつは未来のかなためざして走っていくスタイルなのだと、世界の人びとがさとるまでに長い時間は不要だった。数年とたたぬうちに、3個の箱を重ねた砲塔型(ターレット・トップ)の構成は、セダンに共通の形態となった。しかも3個の箱のうち後方のもの(つまりトランク・スペース)は、前方のエンジン・ルームと同程度に大きく、しかも中央に突出する砲塔部分に位置する乗員に対しては、前後同等の視界が与えられている。このようなボディ・プロポーションの再構成は、スタイリングとエンジニアリングの双方に全面的な影響を及ぼすものであり、同時に1901年にマイバッハが設計したメルセデスとかバッドの1916年ダッジより以降、かつ1959年のイシゴニス設計“ミニ”以前におけるもっとも根本的な、そしてもっとも成功した変革であったといえよう。その当時、まだ馴染みにくかった前後対称の形状や、ラップアラウンド・ウィンドーによって、スチュードベーカーは、今日までもなお継続する新しいファッションを創作してみせた。』(㉞-1,P233)
“シャークノーズ”の1950年型
 1947年型のその後だが、以下(web⓱-2)より引用『スチュードベーカーは1950年モデルで、ルックスを一新する大規模なマイナーチェンジを受けた。この時点で採用されたデザインは、宇宙船を想像させるほどのアグレッシブなものだったのが特徴である。ただしこのデザインは1952年に、再びコンベンショナルなものへと改められている。』(下の写真は1951年スチュードベーカー チャンピオン。五十嵐の50年型のデザインに対しての寸評を(㉒P149)より引用『シャークノーズはジェット・インテイクとも呼ばれたが、フォードの49年型との共通性はどのように理解したらよいのであろうか。』画像は“koyapop”さんのブログよりhttp://blog.livedoor.jp/koyapop2/archives/cat_50042019.html コピーさせていただいた。明らかにP38双胴戦闘機をイメージしたデザインのため“双胴機型”や“ロケット型”と呼ばれた所以がわかる。)
e101.png
https://images2.bonhams.com/image?src=Images/live/2019-06/28/24890765-1-14.jpg&width=960
 以下はwikiの要約で、その後のスチュードベーカーについて、その終わりまで『しかしビッグスリーの戦後向け新車開発と値下げ攻勢によってスチュードベーカーの経営は次第に追い込まれた。またデザインでのローウイの関与が無くなった1955年モデル以降はフルモデルチェンジの余裕も無くなった。1954年に、同じく苦境に立たされていたパッカードと合併したが、58年にパッカードブランドは終了し、さらにニッチ市場に生き残りを賭けたが、時すでに遅かった。そして1966年、最後のスチュードベーカーがラインオフした。』 
 その後のスチュードベーカーについては、特に有名な2台だけを紹介しておく。いずれもレイモンド・ローウィがデザインしたクルマだ。
1953年のスターライナー、“1950年代のアメリカ車の中で最も美しい1台”
 1台目は1953年のスチュードベーカー スターライナーだ。五十嵐は(㊸-1P90、㉒P51の要約)で、『レイモンド・ロウイの傑作デザインで、ヨーロッパ製純スポーツカーに負けないスタイルは、たしかにロウイの才能を示していた。』『レイモンド・ロウイの2度目のヒット作で非常に美しい米車だった。』と語っている。“口紅から機関車まで”と守備範囲の広かったローウィの、自動車デザインにおける最高傑作と一般に言われているようだ。その解説を、以下は古いアメ車について、相当な高い見識をお持ちだと思われる、webの“ポルシェ356Aカレラ“さんから、引用させていただく。(web□21-3)
『1950年代のアメリカ車の中で最も美しい1台は、ローウィのオリジナルデザインで生産された1953年と1954年のスチュードベーカーであったと言える。同時代のアメリカ車のトレンドであったクロームメッキの嵐、威風堂々とした体躯といったアメリカン・スタンダードとは異次元に位置する優美なクルマであった。カタログコピーでも欧州車的ルックスと謳われていた通り、アメ車としては異例にシンプルな美しさを持っていた。しかし、アメリカの一般大衆が求めた時代のトレンドとは乖離した異端児であったが故にセールス的には期待した程には伸びなかった。』(下記の画像はブログ“毎日乗りたい楽しい車達”さんよりコピーさせていただいたhttp://t34hayabusa.blog.fc2.com/blog-entry-54.html。
 実車を見たことがないので何とも言えないが、フロント側はシトロエンDSと似ているせいもあり、この後ろからの角度の方が美しく新鮮に見える。もっともシトロエンよりこのクルマの方が3年早かったのだが。ヨーロッパ車とアメリカ車の両方の良い面を持つデザインだった。(㉙-10)『ロウイの趣味性が最もよく表れているのは53年型とアヴァンティであろう。~当時この車はユーロピアン・ルックといわれたが、アメリカでもヨーロッパでもない、“ロウイ・ルック”であった。』

e102.png
https://blog-imgs-119.fc2.com/t/3/4/t34hayabusa/fc2blog_20180801053510823.jpg
 残りの2台目の話題に移る。下の1962年、スチュードベーカー アヴァンティは、起死回生の最後の一打として企画されたクルマだった。やはりローウィのデザインだが、ネットで検索すれば情報はたくさん出てくる、有名なクルマなので、ここでの解説は省略する。(以下の画像は、https://www.curbsideclassic.com/blog/ccoty-1962-studebaker-avanti/よりコピーさせていただいた。)
e103.png
https://i1.wp.com/www.curbsideclassic.com/wp-content/uploads/2012.13/Avanti-63-3.png?w=1024&ssl=1
最末期のスチュードベーカーと、日産、トヨタとの係わり
 ところでスチュードベーカーという名門のメーカーの、その命の炎が消えそうな最末期に、何といすゞやニッサン、トヨタとの提携の交渉があったそうだ。詳しくは以下の“JetBoy's Page ”さんのブログ記事を参照ください。
https://minkara.carview.co.jp/userid/1945280/blog/43898618/
興味深い話が満載だが、中でも交渉相手を秘密裏に日産からトヨタに変えようとしたときの一件が面白いので、以下引用させていただく。『~トヨタさんはちゃんと日産側に御用聞きを入れておりグランデイー氏(注;スチュード―ベーカー側の交渉役)が日産と既に交渉している事を知っており、現れたグランデイー氏に冷たくあたり、日本一の自動車会社はウチなんだ、日産に先に話に行くとは、出てけとケンホロほろに追い返されます。』すでに戦後20年以上たった頃の話で、日米の自動車会社の力関係も、ビッグスリーを除けば逆転していたようで、痛々しいというか、なかなか感慨深いものがあるが、それにしてもトヨタという会社は昔から、スキのない会社だなぁと思いました。

12.12戦後型の“フラッシュサイド”デザインについて(クロスレイ、カイザー編)(雑談その12)
 前項で、量産車のフラッシュサイド化は、ビッグスリーより小回りの利いた中小/新興メーカーの方が先で、一番乗りはスチュードベーカーだとする説を先に紹介したが、“カー&レジャー”WEBの車屋四六氏によれば(Web⓲-1、⓲-2)『フラッシュサイドの元祖はフォードと云われているが、カスタムカーなどを除き量産車ではクロスレイ…米国では珍しい小型車専門で、WWⅡ中も開発を続けていたようで、終戦直後の46年にフラッシュサイドの新型車を登場させている』(Web⓲-1)としている。1946年6月のことだった(ちなみにスチュードベーカーは5月)。
その後『二番手は、造船王から転向のカイザーで47年。三番手は老舗ハドソンと高級車のパッカーが48年。そしてフォードが49年。その49年型が111万8740台生産されたとなれば影響力は絶大で、元祖と認められても仕方なかろう。』としている。

12.12-1クロスレイこそが、フラッシュサイドの元祖だった(もう一つの説)
 ここでクロスレイの概要を超簡単に記せば以下(Web⓯-1)より『クロスレイは量産型ラジオのパイオニアで、1922年には世界最大のラジオメーカーとなり、ラジオ局や野球チームのシンシナティ・レッズのオーナーであったパウエル・クロスレイJr.(Powel Crosley Jr.)が少年時代からの夢であった自動車生産を実現したクルマであった。』
アメ車らしからぬ超小型車だった
(下の画像はそのクロスレイだが、脇に立つ女性(白人なので日本人より大柄とはいえ)との比較で大きさは想像がつくと思うが、アメ車の基準からすれば小型車というよりも、超小型車だった。(全長3683mm、全幅12.55mmのコンパクトなボディーに、当時としては先進的な722cc直列4気筒OHC 26.5馬力エンジンを搭載していた。このエンジンは海軍のPTボート(Patrol Torpedo Boat:哨戒水雷艇)の発電機駆動用として採用されたものの転用だという。以上(Web⓯-2)より。画像は
http://blog.modernmechanix.com/post-war-crosley/ よりコピーさせていただいた。確かにスチュードベーカーのような、明らかなリアフェンダーラインのない、紛れもないフラッシュサイドだ。ただアメ車では例外中の例外な超小型車で、それ故に一般的な3ボックスタイプではなかったのが印象として弱い点だ。)

e104.png
http://blog.modernmechanix.com/mags/qf/c/MechanixIllustrated/6-1946/med_post_war_crosley.jpg
e105.png
https://car-l.co.jp/wp-content/uploads/2020/04/1097-2-768x522.jpg?v=1588061186
クロスレイのそっくりさんが日本にいた!
(上の写真はそのクロスレーのデザインだけをそっくり真似した1948年型ダットサン。ただ中身はほぼ戦前型ダットサンのままだった。『クロスレイの夢をそのまま現実化したのが三菱名古屋の飛行機屋さんで、ダットサンのシャシーを利用してオールスチールボデーと取り組んで、試作車をアッピールしたのが1948年であったが、最初は日産の営業が注目したのが外注生産まで話が進められて、デラックス・セダンの名称で商品化された。シャシーは戦前そのままであったので、ボデー・スタイルとシャシー・レイアウトは相当にチグハグなものであったが、未だ朝鮮戦争以前の非占領国であった日本人には将来への夢を感じさせていたと思う。』(㉒P239)ということは、日本車初のフラッシュサイド車はこのクルマということになる。写真はCAR&レジャーWEBさん(Web⓲-2)よりコピーさせていただいた。https://car-l.co.jp/2020/05/04/30310/)

12.12-2二番手は、造船王がビッグスリーに挑戦したカイザー
 そして惜しくもわずか数か月の差で量産フラッシュサイド第一号の座を逃した『二番手は、造船王から転向のカイザー』(Web⓲-1によれば)だったという。しかしスチュードベーカーから数えた場合は3番手になるのだが。
カイザー+フレイザーで“ビッグスリーに対する最後の挑戦”
 ここからさらに脱線していくが、戦後派のカイザー・フレイザーについては、クルマそのものよりも、その“生い立ち”の方がさらに興味深い。カイザー・フレーザー社の概要は(Web⓯-3)より『カイザー・フレーザー社は、米国で道路やフーバーダムなどのダム建設、造船(第2次世界大戦中プレハブ船として有名な1万トン級の戦時標準型輸送船「リバティ船」を143隻建造している)、鉱業を手広く展開していたヘンリー・カイザー(Henry John Kaiser)と、(中略)グラハム・ペイジ 社(Graham-Paige Motors Corp.)を買い取り、会長兼社長に納まっていたジョン・フレーザー(Joseph W. Frazer)が、彼の友人であったバンクオブアメリカのジャンニーニ社長の仲介によって、1945年7月にヘンリー J. カイザー社(Henry J. Kaiser Co.)とグラハム・ペイジ社が50/50出資により資本金500万ドルで共同設立した会社である。』
 アメリカの“造船王”であったヘンリー・J・カイザーについてはwiki等を参照いただくとして省略するが、そのカイザーが、戦時経済体制が終わり、縮小を余儀なくされる造船部門に代わる新たな事業の柱として、生き残りを賭けて大胆にも、ビッグスリーによる寡占化が進みつつあった自動車産業に挑戦する。
バンクオブアメリカもバックアップ
 第二次大戦後自動車産業に挑戦した事例として、近年のテスラを除けば、大戦直後のカイザーとタッカーの2つが有名だが、カイザー・フレーザーは『カイザーは鉄鋼界の大物、フレーザーはグラハム財閥としてデトロイトでの大物、この人脈をメインとしてバンクオブアメリカもバックアップしていると報ぜられて、新規参入を嫌うデトロイトの中で』『タッカーの如くいじめられる事はなかったようである。』(㉒P265)
M-BASEの(⓯-1)の記事にもバンクオブアメリカの名前が出てくるが、国際金融資本の介入は、当時のフォードの経営危機をチャンスとみたのだろうか。(←私見です。タッカーについては映画になったほど有名だし、クルマについてはこの記事では触れないが、写真だけ、ブログ“映画とライフデザインさんの記事”「映画「タッカー」ジェフ・ブリッジス&フランシス・コッポラ」からコピーさせていただいた。ちなみにリアエンジンだった。)
https://blog.goo.ne.jp/wangchai/e/a2b1e341fb4092929a6c53f233a1385d)

e106.png
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/79/4c4c8743f62241a97926702c2d4f0ed6.jpg
巨大な“ウィローラン工場”をリース契約して生産
 話を続ける。カイザーは第二次大戦中にアメリカ政府の命を受けて、フォードがB24爆撃機(ちなみに4発エンジンの大型)の“大量生産”のために建設した巨大な“ウィローラン工場”に目をつける。戦時中に工場を建てて運営したのはフォードだったが、軍用機専用工場だったので、戦後は国の持ち物になった?『カイザー・フレーザー社は所有者であった政府機関から1955年までのリース契約を結んでいた。リース料は1946年:50万ドル、1947年:85万ドル、以降120万ドル/年であった。広大な工場で、アセンブリーラインの全長は2kmに及んだ。』(Web⓯-1)
(下の画像は(Web⓯-3)よりコピーさせていただいた。
e107.png
http://www.mikipress.com/m-base/img/05-22-02.jpg
このB24用の巨大な量産工場であった、“ウィローラン工場”については、飛行機の話題になるので、この記事の文末の備考欄に記しておくが(備考13)、終戦に伴い遊休化した同工場の民需転換を図ることで、自動車産業に必要とされる巨大な工場設備を確保した。
カイザーの方は当初、前輪駆動の予定だった!
 そして肝心のクルマのブランドとしては“カイザー”と“フレーザー”を用意したが、そのうち廉価なカイザーの方は当初何と、前輪駆動車の予定であったという!M-BASEさんが詳しいので(web⓯-1)より引用させていただく。『当初、カイザーの開発は前輪駆動で進められていた。前後ともトーションバーサスペンション、ユニットボディーで、エンジンは187cu-in(3067cc)直列6気筒92馬力、ホイールベース117in(2972mm)、全長197in(5004mm)、全幅72.87in(1851mm)であった。ヘンリー カイザーは戦前から自動車生産に興味を持ち、いくつかのプロトタイプを造っていた。 特に前輪駆動、トーションバースプリング、FRPボディーにこだわった。 前輪駆動車の1927年トラクタをはじめ、オチキス・グレゴアール、パナール・ディナ等を手掛けたフランスのグレゴアール(Jean A. Gregoire)の指導を受けたという。』(web⓯-3)(㉒P117)の記述では、戦前に独創的なリアエンジン車「スタウト・スカラブ(Stout Scarab)」を造ったウイリアム・スタウト(William B. Stout)の関与もあったという。スタウトについてはwiki等を参照ください。
以下2枚の画像はhttps://www.curbsideclassic.com/curbside-classics-american/curbside-classic-1947-frazer-manhattan-the-last-domestic-assault-on-detroit-until-tesla/
よりコピーさせていただいた。ビッグスリーへの挑戦ということで、やはり気負ったのだろうか。

e108.png
https://i1.wp.com/www.curbsideclassic.com/wp-content/uploads/2020/01/Kaiser-Front-Wheel-Drive.jpg?resize=600%2C337&ssl=1
ボディデザインはハワード・ダーリンで、完全なフラッシュサイド
(ボディデザインは有名な自動車デザイナーのハワード・“ダッチ”・ダーリンに依頼した。以下(㉒P116)より『~デザイナーのダーリンのサインが入れてあり、特にフレーザーのフロントはボデーと共色で、クロームを用いていない事に興味があろう。フレーザーは純戦後型セダンとしてシンプルな原型を示したのであり、アメリカ人の自動車観に戦時中のジープが強く入り込んでいたころである。』確かに下のフレーザーの方は、ジープ等戦時中の車のように、機能主義に徹した外装が新鮮に映る。
e109.png
https://i2.wp.com/www.curbsideclassic.com/wp-content/uploads/2020/01/kaiser-frazer-june-1946.jpg?w=864&ssl=
前の(㉒P116)の文章の続きを『しかしこの純粋なスタイリングはたちまちセールスから苦情が出たらしくクロームメッキされてしまったし、実際の生産型はフロント・ドライブも止めて全くオーソドックスなFR式のアメリカ車と化していた。』
カイザーとフレーザーは結局双子車に
 M-BASEさんによるとFWDの試作車の出来は未熟だったようで『~駆動系の騒音、振動がひどくて売れる代物ではなかったようで、1946年6月に生産開始したときは、カイザーもフレーザーと基本的に同じ双子車に化けてしまった』(web⓯-3)。以下は(㉒P120)より『1946年発表当時はダーリンのフレッシュなセンスが感じられたフレーザーのフロントは、いざ商品化されて市場に出た時にはこのようにクロームのプレートと化していた。~それにしてもFF車を半年もかけずにFR車にして販売する辺りにアメリカ部品工業の底力を感じさせた。』(㉒P121)確かに。M-BASEさんの考察によれば(web⓯-1)、広告で追跡すると1946年6月15日はまだFWDとされていたが、7月1日の広告ではRWDとなっているので、その間に前輪駆動を断念したようだ。同じ(web⓯-1)に『フレーザースタンダードはカイザースペシャルより4カ月早い1946年6月に発売された。』という記述があるので、RWDのカイザーの発表は1946年10月ということになる。恐るべきスピードだが、元々オーソドックスな設計だったフレーザーの姉妹車にしてしまったから可能だったのだろう。
エンジンは社外品のコンチネンタル社製
(下の画像はWeb⓳-1よりコピーさせていただいた。上の草色の方が“カイザー”で、下の黄色の方がその少しだけ高級版という位置付けだった“フレイザー”だ。明確な“フラッシュサイド”だが、『それは意あって力及ばずと言ったところで、つかまえどころのないメリハリのきかないものであった』(㉙-5)という評のとおり、後のフォードに比べると確かに、キレが足りないように見える。なおエンジンについては自社開発せずに社外品のコンチネンタル社製を用いていた。)
e110.png
https://ateupwithmotor.com/contentfiles/uploads/1947_Kaiser-Frazer_ad3.jpg
ハッチバック・セダンの元祖だった?カイザー トラヴェラー
(下は1949年のカイザー トラヴェラーだ。今日でいうハッチバック・セダンの元祖みたいなクルマで、そのアイデアをすでに実用化していた。『カイザーはアメリカでも当時としては最大のトランクを誇っていたが、その特徴を生かし、さらに多用途性を加えるためにこの車を設けた。たたんでしまえばごく普通のセダンにしか見えないが、後ろを上下に開き、後席をたためばかなりかさばった物も積める。(中略)アメリカにはステーションワゴンという特有な形式があるのに、わざわざこの車を設けたのは、世をあげて戦前型のプレーンバック・スタイルからノッチバック・スタイルへと変化しつつあった時代性のゆえであろう。』(㉙-5))
e111.png
https://car-from-uk.com/ebay/carphotos/full/ebay147908928052824.jpg
 ただし五十嵐は㉒で『カイザーがオリジナルを主張するトラベラー、これの上級にヴァガボンドがあったが、要するにセダン型をワゴン式に使えるようにゲイトを設定したモデルで、このオリジナルはシトロエンやルノーが1930年代前半で、すでに商品化していたのだが、アメリカには情報が到達していなかったのかもしれない。』(㉒P119)と記していたが。

五十嵐氏はこのあたりのクルマのことを指しているのだろうか。下はM-BASEさんより(web⓯-13)より引用で、トラクシオン・アヴァン シトロエンの商用モデル、コメルシアル(コマーシャルの意?)。下のカラー写真のクルマは『テールゲートが1枚の跳ね上げ式になった』1954年に再登場したタイプだが、1937年に登場した『戦前モデルのテールゲートは上下に開いた』そうです。
e112.png
http://www.mikipress.com/m-base/img/05-87-48.jpg
 この会社のその後の行く末を簡単に記せば、以下はwikiより『いわゆる「ビッグスリー」に牛耳られるようになっていたアメリカ合衆国の自動車業界において、独立した国内資本による大規模な量産自動車メーカーを新たに発足させた、ほぼ最後の例と言えるが、結果的には挫折することになった』。結論はそうなるのだが、もう少し経過をみてみる。
カイザーが誕生した当時、作れば売れる状態だった
 カイザーが誕生した当時は『第二次大戦中、1941年から45年まで、乗用車の生産はほとんど停止されたから、まさに繰り延べられた需要が急に出てきて、少なくとも50年頃まではつくれば車はいくらでも売れる状況だった』(⑬P144)。
1949年を真の戦後型とする協定があった?
㉒によれば『ビックスリーは1949年を真の戦後型とする協定があったのではないかと思える』(㉒P147)という。第二次大戦後のこの頃のフォードは『それまでのずさんな経営によって毎月1000万ドル近い赤字を出し、生産台数もビッグ3の3番目に甘んじ、フォードはシボレーに大きく水をあけられ、3位のプリムスにも肉薄されるほど危機的状態にあった。』(web⓯-7)最大のライバルであったフォードにかつての面影がなく、青息吐息だったので、合理的な経営方針を貫くGM主導で秘密裏に取り決めがあったのだろうか。
1949年からビッグスリーが戦後を投入すると、たちまち経営危機に
そのため小回りのきいた中/小、新興メーカーにもつけ入る余地が生まれたが、1949年から、ビッグスリーが戦後型のニューモデルを投入し、攻勢に出始めると、その他メーカーは次第に経営が苦しくなっていく。その後の経緯を以下wikiの記述から要約『~1949年に至ってカイザー=フレーザー製品の販売が落ち込んだにもかかわらず、カイザーはより多くの生産を指示し、その結果、1950年半ばには在庫過剰に陥った。1951年、ヘンリー・カイザーとの激論の末にジョゼフ・フレイザーは社を離れ、会社は1952年に「カイザー・モーターズ(Kaiser Motors)」へと社名変更した。』
日本と不思議な縁で結ばれる(三菱がKD生産)!
 そんな苦境にあえいでいたカイザー・フレイザーであったが、なんと日本との間で不思議な縁で結ばれる。同社のコンパクトカーとして登場したヘンリーJというモデルが、戦後3社に解体された三菱重工業のうちの、自動車分野でいえば大型自動車部門(ふそう)を引き継いだ東日本重工業の川崎工場でノックダウン生産されたのだ。(下の1951年型のカイザー ヘンリーJの画像は、http://aeronautic.dk/CC-henryjkaiser1951.htm より引用)
e113.png
https://aeronautic.dk/1951%20Henry%20J-04-05.jpg
月間30台という小規模だが1951年3月からKD生産を開始し『戦後におけるノックダウン生産の初のケースであった。』(⑩-4P60)提携に至る経緯は(㊲P326)より略して抜粋する。『(東日本重工業の)横浜造船所に出入りしていたエドガー・シャープなる人物を通してヘンリーJの組立生産販売の話が持ち込まれた。当時東日本重工業はフォルクスワーゲン社と技術提携するアイデアもあったが(!)、部品輸入への外貨支払い1ドルに対し、これを組立輸出した場合2ドルの外貨獲得になるとのソロバンを弾き出し(注;当時日本は外貨不足だった)、早くも1か月後の(1950年)9月にはカイザー社との契約に正式調印をした。』話の発端は造船業仲間からだったようだが、ものすごい速攻で話がまとまったようだ。
三菱重工内ではフィアットやVWとの提携話もあった?!
 なお(㊶,P190)には当時の三菱重工グループ内では『イタリアのフィアットと提携して乗用車の生産計画を立てたものの、これは認可されなかった』との記述もある。もしVWやフィアットとの提携が実現していたら、その後どう展開していっただろうか?興味のあるところだ。
 それにしても降ってわいたようなこのヘンリーJの組立生産の話は、元々『当時の三菱重工は日本の自動車業界に馴染まない』(㉒P268)、独立独歩のところがあったとしても、日本の自動車史全体の中で俯瞰してみて、いかにも唐突な印象が強い。そしてその“違和感”のもとは、当時の通産省の自動車政策とは恐らく、無縁なものだったからだと思う。
通産省の自動車産業育成計画と合致していたとは考えにくいが?(わからない)
 以前の記事の4項や前回の記事の6.4-4-3項でも少し触れたが、戦前の商工省時代から一貫して、国内自動車産業確立に執念を燃やす通産省は、自動車の中でも特に乗用車生産に対して逆風が吹く中で、その保護育成に必死に取り組んでいた。そんな中で、アメリカ車としては小型といえども4気筒2.2ℓ左ハンドルの2ドアでトランクすら無いという、タクシーにも法人用途にもおよそ不向きなこのクルマのKD生産が、如何に迂回的な輸出による外貨獲得というお題目はあったとしても、通産省が推進したKD生産を足掛かりに、国産車を自立させる計画と合致していたとは考え難い。占領下という難しい舵取りを求められる立場で、戦前からの御三家(許可会社)を軸に、自主開発路線のトヨタを除き日産→オースティン、いすゞ→ヒルマン(ルーツ・グループ)、日野→ルノーとの技術提携を、順序立てて計画的に進めようとしている中で、まったく別の路線で(たぶん)、三菱が真っ先に外資と話をまとめたことに、驚きとともに、(これもたぶん)頭越しされたことに対しての不快感もあったのではないだろうか。以下五十嵐の著書の㉒より引用『三菱重工は元来軍需工場で、社内情報は外部に出てこない習慣みたいなものがあったのか、戦後の行動にもジャーナリスト的な立場で見ると謎めいたことが多く残されている。~このあたりの空気が当時の通産省自動車課が画いていた構想とは関係なく動いてしまったように見える。』(㉒P272)
 ただ当時の三菱の立場からすれば、通産省頼りだった当時の日本の自動車業界に対して、戦前からの財界主流派として背後から国家を主導していく立場で、元々三菱財閥の総帥岩崎小弥太は紛れもない親米派であった(②P12.4等)。占領下の戦後でもその人脈が全て途絶えたわけではなかっただろうし、たとえ通産省が関与しない、独自の策を講じたとしても、当時の三菱の内部の視点からすれば、我々一般人の感じるほど“違和感”のある話ではなかったのかもしれない。ここで三菱×カイザーの目的は何だったのか、もう少し確認を試みたい。
KD生産してアジアに迂回輸出を計画
 三菱がカイザーとの提携に魅力を感じた理由として、日本でKD生産したヘンリーJをアジアに輸出して良いという条件が大きかったようだ。以下(web⓯-8)より『当初の計画はノックダウンにより年3000台を生産し、500台は国内向けとし、残りはフィリピン、タイ、香港等のアジア諸国ならびにアルゼンチン、ブラジル、ウルグァイ等の南米諸国に輸出するという、カイザー・フレーザー社の海外拠点の一つと位置づけられていた。』カイザー側の海外戦略を活用することで、日本国内の需要よりも輸出を主眼においていたようだ。そして輸出による外貨獲得で、貿易赤字に悩む通産省の承認も得られやすいと考えたのかもしれない。
(web⓯-8)から続ける『しかし、(国外の)販売はまったく振るわず、通産省の許可を得て国内日本人向けの販売も試みたが、当時個人需要は少なく、法人需要が中心であり、2ドアで左ハンドルであることが難点であった。後に右ハンドル車も生産し、4ドア車も数台試作したが、1953年3月、カイザー・フレーザー社がウイリス・オーバーランド社と合併し、ヘンリーJの生産を中止したため、提携は解消した。~生産台数は沖縄、タイなどへの輸出185台を含め509台であった。』(web⓯-8) “武士の商法”という言葉を思わず思い浮かべてしまう。
 商売上の計画はあえなくとん挫したが、戦後の三菱重工が、自動車事業に重点を置こうとしていたことは確かで、先に触れたジープや、このヘンリーJ以外にもこの頃、旧三菱重工業3社のうちの中日本重工業スクーターやオート三輪以外にも、トヨタやダットサンの一部ボディの架装を行っていた。しかし『当時トヨタと日産は中日本重工業製のボディに少なからず不満を持っていたという。』(㊲P321)実際その後、トヨタも日産も内製ボディに切り替え、その一方でいすゞがヒルマンを国産化する際に、そのボディ制作を請け負うことになるのだが、航空機の機体の製作とは勝手が違ったであろう、量産乗用車の生産技術の習得も目的だったようだ。以下(㉓P208)より
量産乗用車の生産技術の習得も目的
『(ヘンリーJのKD生産は)通産省の方針に基づく外国の技術導入に対する支援が行われるようになる前の1951年のことで、三菱が独自に生産技術を学ぶためであった。日本を代表する巨大な総合重工業として君臨してきた三菱は、戦後、いくつかの企業に分割されたが、実質的には一つの財閥としてのまとまりを維持していた。その中で、造船部門や機械部門は着々と戦前の活動をもとに基盤を固めていたが、航空部門に代わるもう一つの柱になる部門として自動車が大きくクローズアップされた。』将来の自社ブランドの乗用車量産化への布石でもあったのだろう。
以下(㉒P271)より『このノックダウンにはホワイトボデー組立も含まれていたので、スポット溶接と赤外線焼付機の導入は日本最初であったと「社史」に書いてある。』という。
トヨタ、日産をはじめ、国産車の生技技術の底上げに貢献
 実際『ヘンリーJの組立に際しては、米国からスポット溶接機を導入、塗装は赤外線焼付けを行なうなど、当時最先端の生産技術を採用していたので、同業他社から多数の見学者が訪れた』(web⓯-8)という。商売上で関係のあった、トヨタや日産の関係者も当然調査に来たハズで、日本の自動車産業の生産技術の底上げに貢献したようだ。
2ドアセダンでは、タクシー/法人車需要を取り込めなかった
(下の画像は国内向けの広告で(Web⓲-3)よりコピーさせていただいた。アメリカ本国ではセカンドカーなどの需要を期待できたので、この大きさ(4616×1778×1514mm(日本の乗用車図鑑 1907-1974」三樹書房、P24より、ちなみに初代クラウンは4285×1680×1525mm)の2ドアセダンが成り立ったのだろうが、当時の日本ではいかに大三菱と言えども、営業/法人車需要を取り込むのが難しかっただろう。)
e114.png
https://car-l.co.jp/wp-content/uploads/2019/03/copy_img_view32-11.jpg
(下のユーチューブの動画に、ヘンリーJがモーターショーでデビューした時の模様が紹介されている。初期型はトランクすらなかった!「KaiserFrazer Car Show, Circa 1950」)
https://www.youtube.com/watch?v=PVIRdg8jUOw
シアーズ・ローバックからも売り出された
(アメリカ国内に話を戻すと、このヘンリーJは、巨大デパートチェーンのシアーズ・ローバックからも、シアーズブランドのオールステートという名称で販売されたという。その辺りの経緯は、ブログ“乗り物ライター矢吹明紀の好きなモノ“さんの記事に詳しいのでぜひ参照して下さい(web□30-1)。同記事によればシアーズ側からの働きかけだったようだ。
下の画像は、https://www.cartalk.com/blogs/jim-motavalli/remembering-when-sears-roebuck-sold-cars よりコピーさせていただいた。)

e115.png
https://www.cartalk.com/sites/default/files/blogs/jim-motavalli/sears%20allstate%20ad%202.jpg
さらにその後のカイザー・フレイザー社だが、先に記したように業績の不振と経営理念の違いからフレーザーは会社を後にし、その後はカイザー単独でカイザー・モータースとして新たな体制での経営を開始することとなる。以下はwikiより『1953年、カイザーはウィリス車やジープのメーカー、ウィリス=オーバーランドを買収し、傘下に組み入れて、カイザーとウィリスの生産を統合した。そして1955年には、カイザー系各社に比べればまだ堅調であったウィリス系小型乗用車も含め、不採算だった乗用車事業から撤退する。』1963年にはカイザー自体が社名を「カイザー=ジープ・コーポレーション」とした。ジープを主体に事業再編を行い延命を図るが、1970年、AMC(アメリカン・モーターズ・コーポレーション) に売却され、自動車事業から撤退、ジープはAMCで生産を継続していくことになった。
スーパーチャージャーに頼ったクルマは市場から消えてゆく、というジンクス
以下は(㉙-7)より『~標準サイズのアメリカ車に対するアンチテーゼとしてのコンパクトカーは、失敗して消滅するか、しだいに大型化して普通のアメリカ車になってしまうかしかなかった。1950年代のナッシュ・ランブラー、51年のヘンリーJ、52年のウィリス・エアロ、53年のハドソン・ジェットなど、いずれもそれらを出したあとメーカー自体が長続きせず、ナッシュとハドソン、カイザーとウィリスという風に合併した。』
なんだか戦前の「スーパーチャージャーを付けた車は消滅する」(当ブログの9番目の自動車の記事を参照ください)という、戦前のアメリカ自動車界のジンクスを思い起こさせるが、なんと戦後のカイザーも『~デトロイトで行き詰ったメーカーはスーパーチャージャーをカンフル注射と考える。そしてスーパーチャージャーを付けたクルマは市場から消えてゆく、そんなジンクスがある。カイザーも1954年型でスーパーパワーの名称で過給機を付けたモデルを設定~』(㉒P121)と、禁断の?スーパーチャージャーに手を染めていたのだ!
先に記したように、カイザーとウィリスは合体することになる。そして数奇な運命だとしか言いようがないが、話が一周して?先に記したように同じ三菱重工系の、今度は中日本重工業とジープのライセンス生産で提携することになるのだった・・・。

12.13戦後型の“フラッシュサイド”デザインについて(ハドソン編)(雑談その13)
 “カー&レジャー”WEBの車屋四六氏によれば(Web⓲-1)クロスレイとカイザーに次ぐ三番手として、フラッシュサイド化を果たしたのが老舗ハドソンと高級車のパッカード(“パッカー”とあるが、たぶんパッカードのことを略しているのでしょう)だったという。先に記したようにスチュードベーカーから数えれば4番手グループとなるのだが、今回はハドソンとパッカードまでみていき、フラッシュサイドの話は終わりにしたい。
戦前のハドソンの概要から(超簡略版)
 以下M-BASEさん等を参考に、三番手(もしくは4番手)グループなので超簡単(の予定)で!まずはハドソンから、紹介しておく。詳しくはM-BASEの(web⓯-9、⓯-10)等を参照して下さい。ハドソン車誕生の経緯も省略するが、戦前の時点ですでに『~1919年には廉価版のエセックス(Essex)を追加発売し、1925、27、29年型は首位を競り合うフォード、シボレーに次いで第3位の地位を占めるまで成長した』(web⓯-9)というが、『~1930年型では約11万台で5位にとどまるが、その後は次第に影が薄くなってしまう。』(web⓯-9)大恐慌下でビッグスリーによる寡占化が急激に進んでいった時代だ。戦後は、この記事の12.9項の後ろの方にある、1947年のブランド別全米ランキングで11位、48年度版で10位(web⓯-10)の位置であった。
戦後型として一新した1948年型ハドソンは最も先進的なクルマだった
 戦後型として一新され、満を持して登場した1948年型について、『フルモデルチェンジして登場した1948年型ハドソンは当時のアメリカ車のなかで最も先進的なクルマであった。「ステップダウン」デザイン、セミオートマチックトランスミッション「ハドソンドライブマスター(HDM)」、「フルードクッションドクラッチ」、「トリプルセーフブレーキ」など先進的な仕掛けが装備されていた。』(web⓯-10)
ライバルより常にひと回り大きく、骨太で質実剛健だった
以下(㉙-6)より『ハドソン車は時にエセックス(1919-32)、テラプレーン(32-39年)、ジェット(53-54年)などの大衆車を出したが、その主力は一貫して中級車だった。それも同価格帯のライバルより常にひと回り大きく、骨太で質実剛健だった。』
『モデルバリエーションはコモドールシックス/エイトシリーズとスーパーシックス/エイトシリーズがあり、12.5in(3150mm)ホイールベースのシャシーに、新設計の262cid(4293cc)直列6気筒121馬力と254cid(4192cc)直列8気筒12.9馬力エンジンが設定されていた。』(web⓯-10)以下は五十嵐による、戦後の日本の路上で見たハドソンの印象を(㉒,P265)より『ハドソンは1948年に早くもフルモデルチェンジによる戦後型を発表したが、伝統的とも言える大まかな曲面で構成された流線型は、ロウイから肥満体質と糾弾されつつも、大きい事は良い事のアメリカ的価値観での存在感は強かった。』
完全フラッシュサイドで存在感があるデザインだった
(下の写真は1948年型ハドソン コモドーレで、確かに骨太で、その存在感は大きい。画像はhttps://www.classicdriver.com/en/car/hudson/commodore/1948/544329 よりコピーさせて頂いた。以下(㉙-6)より『この完全フラッシュサイドで、セミ・プレーンバックともいうべきボディは48年から54年まで実に6年間も使い続けた。ビッグスリーがほぼ3年目ごとにフルモデルチェンジを繰り返していたのに比べて、独立メーカーの辛いところであった。』事実上この車型が最後のハドソンだった。いかにもどっしりとしていて、中級車らしい風格がある。)
e116.png
https://www.classicdriver.com/sites/default/files/styles/two_third_slider/public/cars_images/112.871/7629/973535b37f39c7200974ff10e65e69d0.jpeg
スポーツセダン、ハドソン ホーネットの登場
 以下はgazooより(web⓱-3)『さらに1951年モデルからはスーパー系のハイパフォーマンスモデルであるホーネットを追加した。これら一連のシリーズの中で最も有名な存在といえば、それはホーネットにほかならず、戦後のアメリカ車では初というツインキャブのパワーアップキットをオプション設定していたのが特徴である。(中略)エンジンは308CI(145PS)の直列6気筒SVながら、チューンナップパーツの効果も高く、初期のNASCARストックカーレースでは一つの時代を作った。』(下の画像はその1951年型ハドソン ホーネットで、https://sportscardigest.com/hudson-hornet/fabulous-hudson-hornet/ よりコピーさせていただいた。)
e117.png
https://scardigest.s3.amazonaws.com/wp-content/uploads/20200916070317/fabulous-hudson-hornet-248x315.jpg
低重心、高剛性でハンドリング性能が高かった
 この時代のハドソンについて、アメリカのwebサイトを検索すると、その独自のボディ構造を表す“ステップダウン”という言葉とともに、当時ハドソンがレースに大活躍したという記事に多く出くわす。いささか茫洋とした外観に似合わず、低重心、高剛性のボディでハンドリング性能が高かったようなのだ。以下はwikiより『ビッグスリー各社に先駆けたモデルチェンジで完全戦後設計となった1948年式では「ステップダウン(step-down)」ボディを採用、1954年式まで継続した。
ステップダウン ボディ
「ステップダウン」とは、乗車部がペリメーターフレームの内側でフレームよりも低い位置に作られ、階段を一段下りるように乗車したところからつけられた。このため、より安全・快適で、しかも低重心のためハンドリングのよい乗用車となった。有名な自動車ライターのリチャード・ラングワースが初期のステップダウンモデルについての記事で、「コンシューマーガイドやコレクティブル・オートモビルの記事で取り上げられた当時のすばらしい自動車のひとつ」と紹介している。(画像は以下より https://www.motorcities.org/story-of-the-week/2015/the-innovative-design-of-the-1948-1952-hudson
e118.png
https://www.motorcities.org/images/file-20150930130612_Design_1948-1952_Hudson.jpg
この構造画からもなんとなく、ガッチリしたボディ構造がわかる。Wikiから引用を続ける『ハドソン社は、ステップダウンモデルの頑丈で軽量低重心な車体と、自社伝統の高トルク直列6気筒エンジン技術を駆使し、1951年から1954年まで高性能バージョンのハドソン・ホーネットを製造した。ホーネットは当時の自動車レースで多くの勝利を収め、1951年から1954年までNASCARの主役だった。』一見地味で、茫洋とした印象のあるこの時代のハドソンだが、同時代の見た目が鮮やかなスチュードベーカーや派手な生い立ちのカイザーよりも懐が深く、とても“超簡単”には片づけられない車だった・・・)(下の写真の1952年型Hudsonホーネットが(画像は以下よりコピー)
https://www.macsmotorcitygarage.com/secrets-of-the-1948-1954-step-down-hudson/
e119.png
https://www.macsmotorcitygarage.com/wp-content/uploads/2017/04/1952-Hudson-Hornet-coupe-tan.jpg
NASCARでも活躍したスポーツセダンだった
(同じ1952年型ハドソン ホーネットの2ドアをNASCAR仕様に仕立てると、このようになる。
https://www.americancarcollector.com/profile/1952-hudson-hornet-6-nascar-racer
こうして別の情報を与えられてから見ると、意外にスポーティーに見えてくるから不思議だ。低く構えた流線型の車体はいかにも運動性能が高そうで、確かにレース向けだったのだろう。)

e120.png
https://www.americancarcollector.com/wp-content/uploads/2018/10/1952-hudson-hornet-6-nascar-racer-profile.jpg
ビッグスリー+1(プラスワン)
 ハドソンのその後だが、『ハドソンは経営難から54年に同じ体質のナッシュのバッジ・エンジニアリングになったが、57年いっぱいで、その名称を失ってしまった。』(㉙-6)当時、“ビッグスリー+1(プラスワン)”と言われたその“+1”の、AMC(アメリカン・モーターズ・コーポレーション)になっていく。以下(⑮P152)からの引用で、ハドソンの経営がいよいよ立ちいかなくなった頃の、アメリカの自動車産業の状況を記しておく。
ビッグスリー以外は淘汰
『しかしながら、戦後のスタートでも、ゼネラルモータースは他のメーカーを一歩リードできる体制をつくっていた。そして1950年代の考えられないほどの繁栄が待っていた。利益の大きい大型車を数多く売ることで、自動車メーカーの利益は莫大なものだった。しかも、トップを行くゼネラルモータースの手法について行くメーカーだけが生存を保証された。(中略)毎年のようにスタイルを一新し、数年ごとに設計を大幅に変えて新しいモデルを出すためには、開発にかかる費用は多額に上り、生産ラインを新しくすることには非常な投資が必要になった。それができないメーカーは、一度出した新車が古めかしくならないようにして比較的長く売って行かなくてはならず、苦しい戦いを強いられた。アメリカ車は、ゼネラルモータースがシェアを伸ばすことで、こうした手法が主流になり、メーカー間の競争は激烈なものではなくなっていったのだ。』こうしてハドソン単独での、生存の余地がなくなっていった。

12.14ハドソンと、アメリカのロードムービーについて(雑談その14)
 ところでこの時代(戦後直後)のハドソンについて、日本の記事を検索してみても、スチュードベーカーやカイザーに比べて、情報量が少ないのに気付く。たとえばこの12項を書く上で多く参照した、五十嵐平達著の「「写真が語る自動車の戦後」(㉒)でも、スチュードベーカーやカイザーに比べて、取り上げている量はごく少ない。当時の日本人は実際に乗ることはなく見るだけだったし、NASCARとかは日本では馴染みがないせいもあり、本国での扱いとは違って、地味な存在だったのだろう。
映画の中のハドソン;「オンザ・ロード」
 そんな中で、またまた大きく脱線してしまうが、“webCG”で「オン・ザ・ロード」という映画紹介(web❼-3)の中で間接的ながら、この時代のハドソン コモドールを取り上げていた。元NAVI編集長だったという鈴木真人氏(←この時代のNAVIは知らなかったので。有名な2代目編集長の鈴木正文氏ではないので念のため)による優れた読み物だが、ここでまたまた大きく脱線して、ハドソンを使ったロードムービーであるこの映画を足掛かりに、あたかも車輪の上に乗ったような?アメリカという国というか社会の、一断面を紹介してみたい。(web)
以下写真と文は(web❼-3)より引用させていただく。(下はその映画の予告編です。)
https://www.youtube.com/watch?v=-ZaPUBQs4Ak
ロードムービーの国、アメリカ
『ロードムービーの国アメリカ  
ロードムービーを見るたび、アメリカという国を心底うらやましく思う。島国ニッポンでは、どう頑張ってもあのスケールを作り出すことはできない。かの国では、東海岸から西海岸へと走るだけで物語が生まれる。視線の欲望はスクリーンから抜けだし、遠くへ遠くへと向かっていく。そして、この映画は『オン・ザ・ロード』なのだ。ジャック・ケルアックの小説が、初めて映画化された。日本ではかつて『路上』と訳されていた、まさに道の上をクルマで走り抜けることそのものが主題なのである。ビート・ジェネレーションの代表的な作品といえる『オン・ザ・ロード』が出版されたのは、1956年のことだ。

e121.png
https://webcg.ismcdn.jp/mwimgs/1/0/200wm/img_105a188890408798620e22be270e2309288998.jpg
移動は手段ではなく目的だった
『劇的なストーリーはなく、1947年から50年にかけて繰り返された移動の記録である。物語はニューヨークから始まり、ニューヨークで終わる。結局は動いていないのだから、移動は手段ではなく目的だったのだ。』(下の写真を見ると、確かにハドソンのようだ。)
e122.png
https://webcg.ismcdn.jp/mwimgs/b/3/200wm/img_b35638f231ef0505625fc4b6057f9c5d169884.jpg
引用を続ける。『1回目の旅は、ヒッチハイクだ。デンバーにいたディーンを訪ね、サンフランシスコ、ロサンゼルスまで足を伸ばす。クルマでの旅が始まるのは、翌年になってからだ。ディーンがハドソンに乗って東部までやってきたのだ。小説では49年型ハドソンと書いてあって、映画でも49年の「ハドソン・コモドール」が使われている。ということは、ピカピカの新車だ。小説の中に前席に4人並んで座ったという描写が出てくるから、かなりの大型だ。定職についていないディーンにとっては、あきらかにぜいたくすぎるクルマである。結婚して娘も生まれ、ようやくまっとうな暮らしが始まろうとしていたのに、衝動的に貯金をはたいて買ってしまったのだ。ハドソンという自動車会社は現在は消滅してしまったが、戦前には日本に輸入されていたこともあるらしい。』
アニメ映画『カーズに登場する『かつてのレースの帝王ドック・ハドソン』
引用を続ける『アニメ映画の『カーズ』に「ドック・ハドソン」というキャラクターが登場していて、伝説のレーシングカーということになっていた。これは、1951年型の「ハドソン・ホーネット」がモデルになっている。レースでの栄光を背景に、当時は“速いクルマ”というイメージがあったのだ。』
(下の画像はhttps://gigazine.net/news/2017012.5-disney-pixar-film-connected/より引用
e123.png
https://i.gzn.jp/img/2017/012.5/disney-pixar-film-connected/s36_m.jpg
「オン・ザ・ロード」の最後の旅はハドソンでなくフォード
『3回目までの東西の往復と違い、1950年の最後の旅は、メキシコに向かって南に走る。小説には37年型のフォードのセダンと書かれていたが、映画で使われていたのはもう少し新しく、しかもクーペである。戦前型では撮影に堪えられなかったのかもしれない。ひどいボロぐるまで、右のドアが壊れているというところは原作に忠実である。南への旅は、西に向かうのとは様相を異にする。アメリカ人にとって、西を目指すのは本能のようなものだ。東海岸から始まった開拓はどんどん西へと進み、ついに西海岸に到達した。その後はハワイを併合し、この物語の少し前には日本を占領するところまでいっていたのである。西へと向かうのはもはや歴史をなぞることでしかなく、海までたどり着いたらまた東に戻るしかなかった。南にこそ、見たことのない世界があった。野性を残した大地と人々に触れてふたりは歓喜するが、それは旅の終わりを意味してもいる。』(下の画像も映画の中の1シーンで、フォードではなくハドソンの方だ。https://www.imcdb.org/v530068.html よりコピーさせていただいた。ちなみにこの映画の製作総指揮は、フランシス・フォード・コッポラだったそうだ。)
e124.png
https://www.imcdb.org/i530068.jpg
(下はアカデミー賞の作品賞他4部門を受賞した、「ドライビング Miss デイジー」に登場するハドソン。下記のブログによると、
https://plaza.rakuten.co.jp/pogacsa/diary/202006110000/ 『キャデラック以外で登場する唯一の車』だそうです。
下の画像はhttps://www.curbsideclassic.com/blog/cc-cinema-the-cars-of-driving-miss-daisy/ よりコピーさせていただいた。ところでこの映画に“出演”したハドソンと、「オン・ザ・ロード」のものは、同じクルマのように見えてしまうのは錯覚だろうか?)

e125.png
https://i0.wp.com/www.curbsideclassic.com/wp-content/uploads/2018/06/MissDaisy29.jpg
 話を戻して、鈴木氏の記事によると、映画「オン・ザ・ロード」の最後の旅はハドソンでなく戦前型のフォードだった。
ボニーとクライドのバラード
ここでまたまた脱線するが、戦前のフォードが出てくる映画は当然ながら無数にあるけれど、自分の中で、もっとも印象的だったのは、月並みな選択だがやはり、アーサー・ペン監督の傑作「俺たちに明日はない」(原題“Bonnie and Clyde”)だ。(下のユーチューブ動画「俺たちに明日はない ラストシーン」よりコピー。衝撃的なこのシーン 「Bonnie and Clyde」の衝撃のラストシーンはフォードV8 通称「死のバレエ」と呼ばれている;wikiより)で浴びた銃弾は87発だったという。そして蜂の巣のようにされた車は1934年型フォードV8だった。)
e126.png
(さらにその、ユーチューブ動画は下です。(今見ても、ちょっと刺激が強いです。)
https://www.youtube.com/watch?v=pRVe7CWkFtY
(下のフェイ・ダナウェイのいかにも決まったポーズの画像はブログ「日本人の暮らし向き」さんよりコピーさせていただいた。アメリカン・ニューシネマの代表作の一つだったこの映画の解説が記されています。https://ameblo.jp/japanism2020/entry-12.700455430.html 
e127.png
https://stat.ameba.jp/user_images/20200529/20/japanism2020/b2/b6/p/t02200120_1396076014766116206.png?caw=800
以下は今から50年以上前のカーグラに連載されていた、坂本正治氏の「ボニーとクライドのバラード-Ⅱ」(連載=砂漠の自動車―5)(㉕-3、P111)から、この映画の時代背景の説明として引用をするが、小5だった当時の自分にとってこの記事は、カーグラの本文の自動車記事よりもひどく大人びた印象があったことを思い出す。
初犯は圧倒的に自動車泥棒
『20年代から30年代にかけてのギャングの記録を見ると、初犯は圧倒的に自動車泥棒が多い。そして挙げられて、刑務所で教育され、一人前の職業的犯罪者として出てくる、というのが、おさだまりのコースだった。クライドもその一人であり、彼らは自動車が何かしら不思議な力を発揮して、国境を越えてどこまでも走りつづけ、どこか見知らぬ世界へ導いてくれると信じたから、そして自動車を買う金はなかったが、鍵なしで自動車を走らせる技術だけは心得ていたから、車を走らせたのである。』
「Bonnie and Clyde」の信頼が厚かったフォードV8
実際の2人も逃走用にフォードV8を多用したという(wikiより)。台数が多いので盗みやすいうえにパワフルで、しかも先に12.5項で記したようにとても丈夫なクルマだったので、逃走するうえで文字通り死活問題になるため大切な、信頼性も高かったのだろう。フォード宛ての感謝状は有名な話だ。以下は“めぐみカイロプラクティック”さんから
https://megumi-chiro.on.omisenomikata.jp/diary/97791
『2人が好んで乗っていた車はフォード社の「フォードV8」と呼ばれる最新モデルで、当時の大衆車の中で最高の速度と加速力を備え、実際のところ、警察の車では追いつけなかった。当時、フォード社長に対し、「貴社で製造していらっしゃるこのV8が本当に良く走るので、我々も非常に仕事がし易く、感謝している」むねの手紙をクライドがクライド・チャンピオン・バロウの名で送ったというエピソードが知られている』(以下の3枚の画像とその解説文はブログ“走る、走る映画”以下よりコピーさせて頂いた。
http://run2run3.blog40.fc2.com/blog-entry-46.html?sp
イヤ違う、これは盗まれた4気筒のフォードのクーペだ!
『途中ガソリンスタンドで仲間に入ることになるC・W・モスのマイケル・J・ポラード。この鼻にかかった声、ちょっと頭の弱そうな調子のよさそうな若者』の、仲間入りのきっかけについてもう少し詳しく、以下(㉕-3、P110)より『こんな場面もあった。ボニーとグライドが一文なしで、あるガソリンスタンドに乗りつける。そこには映画でC.Wモスの役を演じる、一見ジャガイモのような感じの男の子が働いているのだが、その坊やに、この自動車の名前はなんというのか知っているか、と聞く。4気筒のフォードのクーペだ、と答える。イヤ違う、これは盗まれた4気筒のフォードのクーペだと教えてやる。その坊やは非常に照れて、嬉しがって、スタンドの柱をどんどんと拳骨でたたく。そして3人は、結局ひとつのチームとして働くことになる。』
e128.png
http://blog-imgs-36.fc2.com/r/u/n/run2run3/20100523172444261.jpg
時間や空間だけでなく、他人からも自由になりたい
 ここでさらに脱線して、アメリカの映画で、「オン・ザ・ロード」や「ボニーとクライドのバラード」のようなものが生まれる当時のアメリカの時代背景について、話が急に固くなってしまうが、(㉛P71;堺恵一「クルマの歴史」)から引用する。狭い島国の日本と国土のスケール感がまったく違い(特にアメリカは)、早くから工業化が進み、自動車以前に馬車の文化があった欧米諸国では、自動車という存在を単なる交通手段だけではない捉え方をしていたようだ。
『自動車が広く普及し始めたのは、彼らの多くがやむを得ず鉄道を受け入れ始めつつあったとはいえ、依然として気高く己の道を邁進することができた馬車の記憶が生活の隅々まで深く浸透していた時であった。自動車とは、馬車を尊ぶ彼らのメンタリティとも合致するものであった。(中略)自動車さえあれば、疲れやすい馬の面倒をみることもなく、混み合った車室で不愉快な思いをすることもなかった。あらかじめ決められた時間や路線にかかわりなく、自由な移動を実現することができた。(中略)
 さらに言えば、彼らは、1920~30年代以降になると、彼らのような上流階級の人々のみならずより広い一般大衆にも広がっていくある種の願望先取りしていたのかもしれない。その願望とは、時間や空間のみならず、他人からも自由になりたいというものに他ならなかった。』
自動車っていうのは所有も維持も使用も自由だからこそ魅力的な商品
 以下は徳大寺さんの(㊼P12.9)より『自動車っていうのは所有も維持も使用も自由だからこそ魅力的な商品なんだよ。(中略)自由な移動体であり媒体であり・・・』まさにそこが、自動車の本質で、カーシェアみたいな考え方は、自動車の公共化(電車化)だと思うのだが・・・。
(画像はhttp://blog.livedoor.jp/kano410_farm/archives/50462889.html よりコピーさせていただいた、フェイ・ダナウェイ、ウォーレン・ベイテイ(最近はビューティと言わないようだ)、ジーン・ハックマンの豪華そろい踏みだ。)
e129.png
https://livedoor.blogimg.jp/kano410_farm/imgs/f/0/f07c842d-s.jpg
T型を持つことで、より大きな行動の自由を実感できた
 たとえば、T型フォードを生んだヘンリー・フォードが生まれたデトロイト郊外(ディアボーン)の農村は『電気もなく鉄道の駅も遠く、道路は原野を切り開いた泥道を1日に何時間も馬で歩く生活で、広い平原のなかに点在する農家が各々自給自足する生活であった。』(㉜P46)という。町に出るまで3日がかりだったという記述もあるほどで、歩くことで用が足りた日本とは移動に対してのスケール感がまったく違う。その原体験が農民のため、大衆の足としての安くて頑丈で実用的なT型フォードを生むことになるのだが、アメリカの多くの地域では水道や電気よりも先にモデルTが生活に入っていったという。(⑩-1P28)過疎の地域で暮らす多くの人びとにとっては、T型を持つことで行動範囲が広がり、その分、より大きな行動の自由を獲得したと実感したのだろう。
 また固い話に戻るが㊲からの引用を続ける。『~もちろん、自動車が発展するためには、道路をはじめとする膨大な設備投資が不可欠だった。社会的な諸関係から自由になることはありえない。自動車によって獲得できる自由とは、そのなかだけに存在する限定的な自由に過ぎず、それすらも、社会的な拘束のなかでしか実現できない性格のものなのではあるが・・・』(㉛P71)
(下の画像も映画「俺たちに明日はない」で、先に引用したブログ「走る、走る映画」からの引用」『(ボニーの)ママのところに行く彼ら。~ まるで夢の中のような、黄昏のような、死の記憶のような。にこりともしないママ。』印象的なシーンだった。
e130.png
http://blog-imgs-36.fc2.com/r/u/n/run2run3/201005231724079df.jpg
『クライドがママに「ボニーがママの近くに住みたいと言ってます」と言うとママが言います。「近くに住んだらあんたは長生きできない。逃げ続けるしかないんだ。」いつしか帰っていく親戚、知り合いたち。この夜、ボニーが言います。「すごく憂鬱なの。もうママなんていない。家族もいない。」』ボニー&クライドたちと、フォードだけが残る。)
e131.png
http://blog-imgs-36.fc2.com/r/u/n/run2run3/20100523172407dbf.jpg
(以下はhttps://plaza.rakuten.co.jp/kitanoookami/diary/200404120000/より引用
『1934年5月23日朝、二人がルイジアナ州ギブスランドで射殺された時に乗っていた1934年型フォードV8には、待ち伏せした(軍用自動ライフルで武装した)警官によって至近距離から167発の弾丸が撃ち込まれた(映画では87発)。穴だらけになった2人の死体と車は、ダラスに運ばれてさらし者にされた。
無数の弾痕が生々しい車は事件後も保存され、現在はネバダ州ラスベガスに近いカジノ付きホテルに、二人を模したマネキンとともに展示されている。「死の車」と名付けられ、遊園地や展覧会の客寄せなどで全米を引き回された末、そこに落ち着いたらしい。』
ずいぶん残酷な展示を行うものだ。さすがにその画像を貼る趣味はないので、映画のチラシ?を。下の画像はwikiより)

e132.png
 映画「ボニー・アンド・クライド(Bonnie and Clyde)」(邦題の「俺たちに明日はない」はあまり良いタイトルではなかったと思う)の最後の話題として、NAVIの(「ちょっと古いクルマ探偵団」)に、かつてフェィ・ダナウェイが愛用した1966年製のシヴォレー・コーベット・スティングレイを日本に輸入した人の記事があったので紹介しておく。
フェイ・ダナウェイが愛用したスティングレイ
(㉟-2、P62。下の写真はwikiからのコピーだが、そのNAVIの記事のクルマにそっくりだ。)。
e133.png
同記事のその車の持ち主の言葉によればスティングレイ好きだったというフェィ・ダナウェイとスティングレイにまつわる話を記しておく。『~フェイ・ダナウェイ本人は、仕事で行ったロデオ・ドライブで何度も見かけました。彼女はスティングレイが大好きなんです。』
映画の出演料で買った
『僕が買った車は327キュービックインチ(5.4ℓ)のスモールブロックのものなんですが、いまフェィが乗っている(注;この記事が書かれたのは1992年頃=平成バブルの時代と思われる)のは同じボディに427キュービックインチ(7ℓ)のV8をのせた車なんですね。』ノーマルで435馬力(SAE基準の出力だろうが)出すと言われたエンジンだ。雑誌で紹介されていた66年型スティングレイのその日本人オーナーは、アメリカの店で4万5千ドルで売っていた車を1990年に個人輸入したのだという。元フェィ・ダナウェイのクルマだったことは、買った後車検証でわかったそうで、フェイが「ボニー・アンド・クライド」の映画の出演料で買った車だったそうだ。同じスティングレイでも、より価値が感じられてしまう。(㉟-2、P62)から続ける。
マルホランドのすべてのコーナーをドリフトでクリアする(!)
『フェイはマルホランドのすべてのコーナーをドリフトでクリアするそうなんです。で、彼女のもとにあったときに、3回もエンジンをオーバーホールしてるっていうんですね。』フェイ・ダナウェイなら、ほんとうにやりそうな気がする。たとえ何度か崖から落ちそうになりながらも。
 エンジンは日本で開けてみたら、もうスリーブが限界で、結局エンジンを積みかえた(350に)そうだ。実際に走り屋だった証明だ。(下の画像は同年代のコーベット スティングレイ独特の、ボートテイルが特徴のカッコイイ後姿だ。フェイ・ダナウェイにはお似合いだっただろう。ちなみに“マルホランド”とはアメリカ西海岸、南カリフォルニアにある有名な峠道「マルホランドドライブ」のことで、ハリウッドやビバリーヒルズにもほど近く、また峠道から見下ろすロスの街並みが美しく、とても人気のあるドライブコースで(中古車のgooネットから引用)、下はその地図です。
https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=1qLgXxVrGSR0K__vvLwDybhTOAg0&ll=34.096997583477744%2C-118.77465&z=12 モータージャーナリストの飯田裕子さんが下記で紹介している。「海から山、もしくは山から海へと続く景色のよい約50マイルほどのドライブルート」だったそうです、参考までに。「DRIVE ~マルホランド・ハイウェイ~」
いうまでもないが、その名前の映画も有名だ。
https://car.watch.impress.co.jp/docs/series/cld/586927.html)

e134.png
https://cdn.car-moby.jp/wp-content/uploads/2016/08/32634d43ec54666791ad9655a742742b.jpg
戦前の日本でビュイックに匹敵する知名度があった
 大幅に脱線したが、ここで時代を戦前の日本に一気に戻し、その時代のハドソンに少しだけ触れて、この話題(ハドソンの!)を終わりにしたい。NAVIの最後の頃の編集長だった鈴木氏はハドソンについて、「戦前には日本に輸入されていたこともあるらしい。」と記しているが、ベテランのカーマニアからすれば、戦前の日本の輸入車市場でハドソンは大きな存在であったことは、よく知られている。そしてその理由も、以下のようにwikiにも書かれているように有名な話で『戦前の日本でハドソンがビュイックに匹敵する知名度があったのは、業界最古参の日本自動車と背後の大倉財閥の力あってこそであった』(wiki)。
ハドソンでなく“ハドスン”
 日本自動車では、“ハドソン”の“ソン”が気になったらしく、“ハドスン”と称していたようだ。その後の“ダットソン”が“ダットサン”に改名?したことにも影響を与えた話としても有名だ(wiki等)。(戦前の日本におけるハドソンの話題は戦後と比べると豊富だが、先に12.7項で日本自動車とのタイアップであった映画、「東京の女性」でも間接的に紹介したし、長くなるのでこれ以上は省略する。下の画像は同映画の中の、自動車ディーラーの1シーンを(Web□28)より引用させていただいた。)
e135.png
https://blog-imgs-115-origin.fc2.com/g/i/n/ginmaku1982/57_20180420012.85741es.jpg

12.15戦前日本の自動車ブランドの勢力図について(雑談その15)
 また脱線してしまうが、ハドソンと輸入元の日本自動車の話が出たついでに、ここで戦前の日本の輸入車業界の勢力図について、まとめて記しておきたい。業界を代表する梁瀬次郎が、父長太郎が三井から独立したころの業界に勢力図を以下のように語っている(㊵P34)。『当時の自動車販売業界は、大倉系のハドソンの日本自動車、パッカードの三和自動車、高田商会、山口勝蔵商会、梁瀬商会で、大正四年(1915年)の日本の自動車総数は、12.54台であった。梁瀬は、梁瀬長太郎社長でビュイック、キャデラック、三和は藤原俊雄社長でパッカード、日本自動車は石澤愛三社長でハドソン、セールフレーザーはフレーザー社長で、フォード。その後間もなくエムパイヤ自動車柳田諒三社長、安全自動車中谷保社長が誕生した。』
 前編で記した11.2の表8(全国統計車種10位までの台数(1924年12月31日時点))は、フォードのKD工場進出の直前の頃の表なので上記の約10年後ぐらいだが、ハドソンは乗用車部門でビュイックに次ぐ3位であった。梁瀬次郎の言葉を続ける(㊵P67)『三柏自動車(後の三和自動車)は藤原俊雄氏が社長でパッカードを取り扱われたが、当社のキャデラック、ビュイック、日本自動車のハドソン、安全自動車のクライスラー、ドッジブラザー(現・ダッジ)と競争してかなりの好成績をあげていた。日本陸軍が主にハドソン、海軍がビュイック、そして財界人がパッカードといわれていたのが、昭和の初期の自動車販売業界の縮図であった。』
陸軍がハドソンで海軍はビュイック
Web❻にも戦前は『陸軍がハドソン、海軍がビュイック、そして民間の有力者はパッカードとだいたい決まっていたものである』との記述がある。どのような経緯があってそのように落ち着いたのか、よくわからなかったが、その過程も興味のあるところだ。なお海軍のビュイックは三井物産時代からの引継ぎだとの記述がどこかにあった。ただ華やかな印象のあるビュイックと、質実剛健なハドソンは、それぞれのイメージに合うことも事実だ。
 以下はモータージャーナリスト側の視点で小林彰太郎の(⑱、P18)より『戦前の昭和期、日本の自動車社会を牛耳ったのは圧倒的にアメリカ車で、日本組立てのフォード、シヴォレーがタクシーの8、9割を占めた。ハイヤーはダッジ、プリマス、デソートなどが多く、官公庁や大企業ではビュイック、ハドソン、クライスラーなどが職階によって使い分けられた。』自動車にも“階級”が存在し、ブランド毎の棲み分けも、戦前の日本ではある程度できていて、その中で当時の二大自動車ディーラーであった梁瀬自動車と日本自動車の看板車種であったビュイックとハドソンが、官公庁や大企業向けの高位の方々の公用車として浸透し、確たる地位を占めていたようだ。
六甲を登るにもハドソンとビュイック
 また(⑥-2,P198)に『当時の六甲は今日と違い名だたる 坂であったので、米国製のシボレーやフォードは登れなかったといわれ、米国製で登れたのはハドソン、ビュイックであった』という言い伝えを記しているが、軽量でパワフルなV8の時代以降のフォードが登れなかったようには思えないのだが、余裕度が違ったのだろうか?
手元にカーグラの記事で五十嵐平達による「箱根の自動車」という、富士屋ホテルが経営していたバス会社の記事があるが、箱根の山でも送迎車としてハドソンが多く使われていたようだ。『フジヤガレージではハドソンを20台以上用いていたが、1913年に6気筒を発表してからは日本でも評判が高く~』と記されていた。
フォード、GM進出以前から部品輸入が多かった
 下に戦前の輸入車の推移(1913~1939年)の(表12)を記しておくが、注目すべきはフォードとGMの進出以前から、部品輸入が多かったことで、11.1項の“フォード、GM進出以前にKD生産は既に行われていた”で記したように、高額だった完成車の関税を逃れるために?KD生産の形で輸入されていたことが数字で裏付けられた形だ。(表12:自動車輸入の推移(1913→1939):⑫P21より転記))
e137.png

12.16戦前アメリカ車の革新性その1(ターレット・トップ)について(雑談その16)
 ここで戦前の日本市場でハドソンのライバルであったビュイックについて、梁瀬次郎が記した本に、当時のGM側の関係者(当然アメリカ人)の証言が記されているので紹介する。以下(㊵P76)より
梁瀬自動車のビュイック“運転者クラブ”
『ビュイックは梁瀬自動車の強力な販売によって官公庁に深く浸透していった。1927年にはどこの県庁も少なくとも1台はビュイックを持っていた。もちろん中央政府は多くのビュイックを持ち、皇族、銀行、大会社もそうだった。この間、梁瀬自動車はビュイックの運転者クラブを下町、確か本社のある日比谷だったと思うが、ここにクラブをつくり、運転者達は主人が呼び出すまでクラブでお茶やケーキあるいはゲームを楽しむことができた。こうしてビュイックは梁瀬自動車の優れたサービスと完全なバックアップの下で、日本において高い名声をあげることができたわけだ。ビュイックは梁瀬のいわば看板であった。』至れり尽くせりとはまさにこの事で、11.2の表8でビュイックが乗用車部門で堂々2位なのは、梁瀬の販売力の結果でもあったようだ。
アメリカ→イギリス→フランス→ドイツ→イタリア車の順で儲かる
 一方逆の側の立場で、自動車販売業者として梁瀬長太郎は、この時代のアメリカ車を商売の面からどのように見ていたのか、自伝的な⑧によれば戦前、欧米各国のクルマを扱ったが、その経験から利益の大きい順でいえば、アメリカ→イギリス→フランス→ドイツ→イタリアの順だったという。そしてアメリカ車でも、最大規模のGM車を扱う事が、利益が一番大きかったと記している(⑧P135)。この中で、戦前のドイツ車に対しての低い評価が戦後、VWを扱おうとした長男の梁瀬次郎と親子で激しく対立することになるのだが、余談はさておき、商売を通して、戦前のアメリカ車の圧倒的な実力を肌身に感じていたのだろう。
 戦前あらゆる面で圧倒的な力を誇ったアメリカ車の中でも、1930年代中盤以降からテールフィンの時代に突入する前までのアメリカ車の、さらに絞ればWWⅡまでの、特にGM系やクライスラー系を中心としたビッグスリーの量産車は、まったくの私見だが、他国の量産の自動車と比べてその実力差が、もっとも大きく広がった時代であったように思う。
 この話題については、今はまだ勉強不足なので、いずれ何年後かに(このペースだとゆうに5年ぐらい先?)その話題に特化した記事を書きあげたいと思っているが、この記事ではアメ車の“実力”のごく一端だけを紹介したい。まずは概要として古いカーグラの記事(㉗-2、P46)の引用から始める。
クルマの便利さは、1930年代の米車でほとんど実用化された
『1930年代の米車はオーナー・ドライバーのための発展期であったといえよう。現在のクルマの便利さは、ほとんどこの時代に実用化されたもので、基本的には広い車室(荷物室のビルトインも含めて)の完成、サスペンションと重量配分の再考による乗心地の向上、安全性向上、出力強化、運転の自動化、付属品の発展などが顕著であり、三角窓やターレットトップ、シンクロメッシュやフロント独立、流体クラッチや遊星歯車による自動変速機、シールドビーム式ヘッドランプ、フラッシュ式ターンシグナル、など皆A型フォードからウィリス・ジープへの過程で商品化され普及したもので、カーラジオ、カーヒーター、デフロスターに加えて、遂にカーエアコンが商品化されたのもこの時代であり、ACダイナモやチューブレス・タイヤはまだ完成されていなかったが、1930年型のフォード・モデルAは、現在の東京でも充分実用になる機械なのである。』
“モダーン”が日常生活へ持ち込まれた、その先導役が自動車
 別の側面としてスタイリングの面から見た1930年代のアメリカ車についてこれもカーグラの記事より『~しかし何といってもスタイルの変化は目をみはるものがあり、流線形時代も後半に入ると、スペアタイヤ、ステップボードが内蔵式になり、ヘッドランプやドアハンドルもビルトイン、フェンダーはボディと一体化され、ラジエターは内にかくされて、ボディパネルには通気孔が口を開けているだけになってしまった。(中略)アメリカ社会は近代化の夢にとりつかれていて、当時発表されたアイデアカーには、リアエンジン車やオールプッシュボタン方式車などとともに、フラッシュサイド形式がすでに含まれていて、後年代への原型が完成されていたのである。人々はそのようなモダーンが、明日にでも家庭の日常生活へ持ち込まれてきても、別に驚くことはなかったのである。アメリカ全体が前衛的な行動を試みた1930年代に、その先導を務めたのが自動車であったと言えよう。』(㉗-2、P46)
 現代にいたる自動車の基本形は、圧倒的な工業力を背景にしたこの時代のアメリカ車によって形作られたのだった。またアメリカのように、“モダーン”が自動車によって直接家庭の日常の中へ持ち込まれることはなかったものの、日本でも自動車という“媒体”がその先導役を果たしたといえるのではないだろうか。
 以下は、その数々の偉大な功績の中から、今回はGM(といってもボディ関係は実質的にはフィッシャーボディの主導となるが。GMとフィッシャーボディの関係についてはここでは省略するが、たとえば以下を参照してください。)
file:///C:/Users/hirokun/Downloads/C54234_0391.pdf )による“ターレット・トップ”に焦点を絞り、その実力の一端を紹介しておきたい。
(下の写真は、下記のブログより引用させて頂いた。
https://www.macsmotorcitygarage.com/1935-gm-introduces-the-all-steel-top/
同ブログに、1935年型シヴォレーの紹介ビデオがある。(1935 Chevrolet It's The Top All Steel Top)全金属性ボディの頑丈さをアピールしている。)
e138.png
https://www.macsmotorcitygarage.com/wp-content/uploads/2020/07/1935-General-Motors-Turret-Top-314.jpg
オールスチール化した“ターレット・トップ”
 以下は、GMのフィッシャー・ボディ・ディビジョンの出した“ターレット・トップ”の宣伝広告の解説を、昔のカーグラの記事から引用させていただく。たぶん高島鎮雄さんが書いたと思われます。
『1920年代の末頃にアメリカ車の車体形式の主流が全鋼製のセダンになってからも、屋根だけは木骨時代の名残で布地をタールで塗り固めたものであった。これは木骨時代の防水構造が残ってしまったものであった。しかしGMフィッシャーは1934年12月に発表した35年型全乗用車、即ちキャディラック、ビュイック、オールズモビル、ポンティアック、シヴォレーにオールスチール“ターレット・トップ”を採用した。これはスチールのボディ骨格を、スカットルからリアウィンドーまでプレス成型の1枚鋼板で覆ってしまうものである。今日では当たり前すぎてちっとも面白くないかもしれないが、当時としては見た目のスマートさ、生産性、剛性(即ち安全性でもある)の向上などすべての面で画期的なものであった。』(㉙-1)
自動車の屋根は「布地をタールで塗り固めたもの」だった!
 自動車の屋根がそれ以前は「木骨時代の名残で布地をタールで塗り固めたもの」だったというのは、今日の常識からは信じがたいような話だ。馬車時代からの名残だったのだろうか。高島さんは冗談で言っているのかと思ってしまうぐらいだが、本当の話なのだろう。(下の“フィッシャーボディ”の広告は、上記のカーグラの記事で題材に使っていたそのものだ。以下も(㉙-1)より引用『この頃のGMは技術的にもきわめて進歩的で、このキャディラック・シリーズ60(後の60スペシャルとは別の最廉価型)もエンジンこそSVのV8だが、ギアボックスは28年キャディラック以来のシンクロメッシュだし、38年にはステアリングコラムのリモートコントロールになる。ついでに言えば近代的な自動変速機の第1号は39年のオールズモビルに初めてオプションで装備される。サスペンションも1933年以来、フロントはGMの商品名で“ニー・アクション”と呼ぶダブル・ウィッシュボーン・コイルの独立で、そのためにフレームはXメンバー付きの強固なものになっている。むろん前後共ピストン式の油圧ダンパー付きで、後ろにはトーションバー・スタビライザーさえついている。ステアリングもキックバックの少ないセンター・ピボットである。このように1930年代は単にスタイリングばかりでなく技術面でも進歩が著しく、現代の車の基礎が固まった時代といえる。』
e139.png
https://live.staticflickr.com/1938/44329408025_e8746b761c_b.jpg
この強靭なボディ構造のクルマの試乗記(1938年製のビュイック)を、小林彰太郎がカーグラの特集記事「1930年代のアメリカ車」で記しているので以下長文となるが(㉙-3)より引用する。
1938年製ビュイックは戦後の日本で例外的に多く残っていた
『戦争直前から戦後の1950年ころまで、日本の路上で最も多く見られた車は1930年代のアメリカ車であった。正式の輸入は戦争のため1938年にストップしたから、運よく戦災にも遭わず、軍隊の徴発も免れて、戦争を生き延びることができた少数の1938年型車は、当時の日本人が合法的に乗れる最も新しい形式のアメリカ車だったわけである。
中でもビュイックはディーラーがしっかりしていたから、例外的に多くの1938年型が輸入され、戦後も多数が健在で残っていた。戦争直後の零落した日本で、38年型ビュイックに乗れたのは、政府高官、知事、大企業のトップでなければ、ヤミ成金ぐらいだったろう。』

10.3-4で記した『(1938年型ビュイックを)戦争を予感した梁瀬長太郎氏が輸入車最後のチャンスに大量輸入してストックしておいたので、戦時中の公官庁では多く見られた』(㉒P46)という記述を裏付ける。関東大震災直後に2,000台の緊急輸入をした程なので商売人としてさすがに、先見の明があった(二匹目のドジョウはいた!?)のと同時に、結果的にだがここでも梁瀬は、結果として戦争直後の日本の復興に役立ったことになる。(㉙-3)から続ける。
$495のシヴォレーから$7950のキャディラックV16まで
『~この年のビュイックは、シリーズ90リミテッドを頂点として、80、60、40の4シリーズがあった。~(試乗した)シリーズ40は最もコンパクトな廉価版で、122インチシャシーにOHV直列8気筒4032ccエンジンを積んでいる。シリーズ60以上の各車は5249ccエンジン付で、ホイールベースはそれぞれ12.7、133、140インチとなる。このシリーズ40スペシャル4ドア・セダンはアメリカで$885で買えた。ということはハドソン、6気筒クライスラーなどと同格で、中級の上というところだが、日本ではもちろんりっぱに高級車で通用した。因みに、GMの価格構成は$495のシヴォレー・スタンダード6クーペから、$7950のキャディラックV16コンバーティブルという広範囲にわたった。日本ではシヴォレーが3000円ぐらい、ビュイックは約1万円、最も高価なキャディラックV8は2万5000円もした。大学での初任給がせいぜい60円ぐらいの頃である。』
(下の写真はwikiより1938年ビュイック40 スペシャルセダンで、小林氏が試乗したクルマと同じ車種で、当時のビュイックとしてはもっとも小型だが、日本人から見ればもちろん、十分立派で大きく見える。以下は11.13項で記した内容とも重複するが、(㊻P91)より引用 『ゼネラルモーターズのアルフレッド・スローン社長は、トップメーカーとしての地位を確かなものにするために、次々と手を打っていった。そのひとつが、ゼネラルモーターズの持つ車両のランク付けであった。自動車メーカーの連合体から出発していたから、高級車から大衆車までさまざまな種類のクルマを事業所ごとに製造販売していた。それぞれの事業所で独自に開発して価格を決めるのではなく、経営首脳陣のコントロールのもとに車両サイズや装備などで差別化を図り、明確にランク付けをする方針を打ち出したのだ。具体的には、最上級に位置するキャデラックは3500ドルを上限として、その下のクルマは2500ドル、さらに1700ドル、1200ドル、900ドル、そして底辺に位置するシボレーは700ドルを上限とする設定だった。大衆車であるシボレーの販売が伸びることは良いことだったが、利益幅の大きい上級車の販売を確かなものにすることが重要だった。
所得格差の大きいアメリカでは、生活の仕方も収入に見合って異なったものになっていた。それに合わせた価格帯のクルマを用意することで、あらゆる階層の人たちをゼネラルモーターズで取り込もうとする野心的な発想であった。豊かさを実感するのも、アメリカでは階層による違いがあったから、よりランクの高いクルマに買い替えることが豊かさの階段を上ったことを確かなものにするわけだ。』
(㊻P91)“いつかはクラウン”の原型みたいな戦略だ。さらにこのころのGMは、同一ブランド内のランク(価格)分けを、ホイールベース長と搭載エンジンの大きさを一つの物差しにして行っていたようだ。)
e140.png
部品の共通化を図りながら、外観は異なる印象のデザインにする
 何度も記すが、上記(㊻)の指摘のようにこの時代のGMはすでに、下はシヴォレーから始まり、→ポンティアック→オールズモビル→ビュイックからキャディラックへと至るブランドごとのクラス分けと、さらにそのブランド内においても廉価版から高級版までを展開するという、マーケティング力と技術力、資本力と規模(大量生産)に物を言わせた縦横の関係を構築していた。そしてその中で、設計や部品の共通化を巧みに行っていた。この戦略は今日の巨大自動車産業と大筋同じものだが、何度も記すがスローン時代のGMがルーツだ。以下も11.13項の内容と重複するが、生産技術面からみた合理的な考えについて、(⑮P145)より長文で引用する。
大恐慌の危機感の中でGMは果敢に改革を進めていき『生産コストを大幅に下げることで、利益の減少を抑えることに成功した。生産を減らすことになったゼネラルモータースでは、部品の共通化によるコスト削減をいち早く実施した。鋼板を利用したボディでは、各部分ごとにプレス機でかたちをつくっていくが、デザインしたときに異なる車種でも同じもの、たとえばフェンダーなどを共通にすれば、金額が張るプレスの型の数を少なくすることが出来る。共用する部分を多くしながら、外観は異なる印象のデザインにすることで差別化を図るように配慮するこの手法は、多種生産しているメーカーでは今や常識的な手法である。これをゼネラルモータースは、世界恐慌の中で採用し、コスト削減に成功した。このため、ポンティアック、ビュイック、オールズモビルは、生産も設計も異なる部署で行われるものの、共通部品が多く使用され、サイズでも似たような大きさになっている。それでいて、それぞれに異なるクルマとしての特徴を出すようにして、販売店同士を競争させている。スローンの構築したゼネラルモータースの中央管理機構がしっかりと全体を把握しコントロールしたからできたことである。それがゼネラルモータースの強みだった。
 1932年に底を打ち、徐々に販売台数が回復してきたときに、ゼネラルモータースにとって、フォードはすでに互角のライバルではなくなっていたのだ。』以上、桂木洋二氏の「欧米日・自動車メーカー興亡史」より引用した。(下の画像は下記のサイトからコピーした。
https://www.macsm
otorcitygarage.com/master-hands-a-1936-chevrolet-film/
同サイトには、Master Hands: a 1936 Chevrolet Film
というビデオがあり、1936年製のシヴォレーの“ターレットトップ”が、巨大なプレス機からバタンバタンと次々と作り出される様子が映し出されている。参考までに。

e141.png
https://www.macsmotorcitygarage.com/wp-content/uploads/2020/06/1936-Chevrolet-Master-Hands-grille-314.png
車室は要塞のように頑丈な鋼鐵に囲まれているから真に安全
 話を(㉙)の試乗記に戻し続ける。以下の小林彰太郎による試乗記を読めば、1930年代のアメリカ車の革新性が、なかんずくGM系乗用車の持っていた時代を超えた先進性が理解いただけると思う。以下も長文になるが(㉙-3、P31)より引用
『当時のディーラー、梁瀬が出したカタログは、ビュイックのボディを次のように説明している。「ビウイクの全鋼ボデー構造は接目なしの一枚鋼鐵トップ、サイドパネル、床等全部鋼鐵で、しかも之れらが、頑丈な鋼鐵の骨組に溶接されています。車室はこの要塞のように頑丈な鋼鐵に囲まれていますから真に安全であります」(原文のまま)。全く、要塞とはよく言ったもので、このGMフィッシャー製のオール・スチール・ボディは鋼の城のようにがっちりできており、ボディ単体に足回りを付ければそのまま走れそうに思えるほどだ。もちろん、このビュイックはモノコックではなく、堅牢無比なXメンバー付梯子型フレームを持っている。サイドメンバーの深さと肉厚は、シリーズにより、また架装されるボディ形式により異なるという芸の細かさで、さすがに量産規模(1934年を例にとるとビュイックは79,000台売れた)の威力である。例えば、フレームの肉厚は標準の2.78mmに対し、コンバーティブル用は4.37mmもある。』
その強度と剛性は自動車の歴史を通じてこの年代のアメリカ車が最も高かった?
『ほとんどモノコック構造に匹敵する全鋼製、全溶接ボディと堅牢なシャシー・フレームが結合されるのだから、その強度と剛性は、恐らく自動車の歴史を通じて、この年代のアメリカ車が最も高かったのではあるまいか。事実、このビュイックは37年を経た今日(注;この記事は1975年のもの)でさえ、荒れた舗装路を飛ばしても全くと言ってよいほど軋まない。それは、同時代のヨーロッパ車、特に英国車と比較するといっそう際立つ。このビュイックに相当する英国車はハンバー・スーパースナイプとか大型のサンビームなどだろうが、ボディは依然として木骨にアルミパネルを張った木金混製で、華奢なシャシー・フレームとともに自在に捩じれるのが感じとれるし、軋音の絶え間がない。逆に言えば、英国の道路は戦前すでに100%舗装されており、新大陸ではまだラフ・ロードが多かったことを裏書きしているのであるが。』小林氏の語る、「その強度と剛性は、恐らく自動車の歴史を通じて、この年代のアメリカ車が最も高かったのではあるまいか」という感想はあくまで、この記事が書かれた1975年ごろ時点での話だが、現代の自動運転の時代においても、クルマを精度よく自在に動かす(制御する)ためには、高剛性ボディであることが重要な要素であることはご存じの通りだ。(下の写真はWikipediaより、いかにも”全金属ボディー感”の漂う1935年のラサール(キャディラックの廉価版として一時期あったブランド)の画像です。1935 LaSalle advertisement, showing the distinctive Harley Earl body design.
e142.png

12.17戦前アメリカ車の革新性その2(ニー・アクション)について(雑談その17)
(㉙-3)の1938年製ビュイックの試乗記の引用を続ける。『シャシー、ボディの剛性の高さとともに印象的だったのは、実に快適な乗り心地であった。GM各車のフロント・サスペンションは1934年、一斉に独立懸架(独立懸架が人間の膝のような動きをするところからGMでは“ニー・アクション”と称した)を採用する。シヴォレーのデュポネ式のみは失敗だったが、それ以外の車に採用された、(GMが独自に開発した)ダブル・ウィッシュボーン/コイル方式は大成功で、以後のアメリカ車の標準的設計になっただけでなく、ロールス・ロイスさえも1936年のファンタムⅢで、これを基礎にした同じタイプを採用したほどである。』(㉓-3、P31)
ロールス・ロイス ファンタムⅢまで影響を与えた
(ロールス・ロイス ファンタムⅢについて、以下(⑩-3、P103)より『V12エンジンとともにもうひとつの重要な変更は、遂に前輪独立懸架の採用に踏み切ったことである。この二つの機構的な変更は、全体のスタイリングにも明瞭な変化をもたらした。(中略)乗り心地と操縦性は画期的に改善されたが、長いボンネットと相対的に小さいキャビン、前車軸より後方に控えたラジエターという、古典的な美しいロールスのプロポーションはもはや失われた。』下の写真は、そのプロポーションが損なわれる前の、古典的なスタイルが美しいファンタムⅡの写真で(1930 Rolls-Royce Phantom II Town Car)、以下のサイトから引用した。ファンタムⅢは、007のゴールドフィンガーに出演したクルマ(ハロルド坂田が運転していた)を思い浮かべていただければよいのではと思います。“Ⅱ”の方は、長いボンネットと、エッジの効いたシャープでシックなデザインが見事というほかない。
http://www.rrec.se/arkiv/2018/2018%20nethercutt/nethercuttcars/rollsroycephantomiitowncar1.html)

e143.png
http://www.rrec.se/arkiv/2018/2018%20nethercutt/nethercuttcars/rollsroycephantomiitowncar1.jpg
あまりに美しいので後姿もコピーさせて頂いた(写真も少しだけ大きめにしました)。
e144.png
http://www.rrec.se/arkiv/2018/2018%20nethercutt/nethercuttcars/rollsroycephantomiitowncar2.jpg
当初は“ターレット・トップ”だけの話題にとどめるつもりだったが、話の成り行きから、“ニー・アクション”についても触れておく。
GMの”ニー・アクション”とロールス・ロイスの関係
 さきにロールス・ロイスの話が出たが、実はGMの”ニー・アクション”と、ロールス・ロイスは無関係ではなかった。(以下(㉞-2、P219)より『アルフレッド・スローンが社長に就任して間もなく、GMの技術研究体制は、長期先行研究を各事業部の分担で行うようになり』GM内ではキャディラック事業部がサスペンションの研究を行っていた。そのキャディラック事業部の総支配人だったローレンス・フィッシャーが乗り心地の抜本的な改善のため、ロールス・ロイスからスカウトした研究者が、のちに“ニー・アクション”の開発を主導することになる、モーリス・オーリィだったのだ。以下、これもさらに長文となるが、興味深い話なので「自動車設計者の群像6(モーリス・オーリィ(Maurice Olley)) L.J.K.セトライト著、神田重巳訳」(㉞-2、P220)より引用する。
ロールス・ロイスから来た設計者、モーリス・オーリィ
『~これに対して、タイヤの特性までも考慮に入れて車の挙動を研究した最初の設計者は、イギリスで生れ、ロールス・ロイスからGMに迎えられて以後名声をあげたモーリス・オーリィである。オーリィは、GMにおける最初の仕事として乗り心地の開発と取り組み、その結論として独立懸架方式を導入した。(中略)
 1930年11月、ロールス・ロイス社からGMに移ったオーリィは、ロールス・ロイスがGMでもてはやされているのに驚いた。ちょうどそのとき、1台のロールス・ロイスはGMの新設テストコースで参考車としてのデータ採取テストを完了、検査のために分解されたところであった。ところが一方この当時のロールス・ロイス社では、全然思い通りに解決しない難問に悩まされていた。というのは、数年来乗り心地の研究を集中的に行った結果、ダービー工場(注;ロールス・ロイスの本拠地)の技術者たちは、イギリスの道路で充分良好と判定された車が、輸出先で(たとえ進歩したアメリカの道路でも)乗り心地不適当と判定される事実に関心をそそられていた。』
イギリスとアメリカの路面で振動波形が違う
『その結果、ダービーの人びとは、アメリカの路面状態の劣っていることが原因ではなく、単にイギリスとアメリカの路面では振動波形の相違していることが原因だと、真相をつかみかけていた。』
e145.png
https://www.macsmotorcitygarage.com/wp-content/uploads/2016/05/Roller.jpg
(話の途中だが下のサイトにあるビデオ(Video: Engineering the 1939 Oldsmobile)という1939年のオールズモビルのビデオをご覧いただくと、GM自慢の“ニー・アクション”の動きがよくわかるのでぜひ参考までに。後輪にコイルスプリングを使っていることをアピールしている。同サイトの解説文ではモーリス・オーリィ(Maurice Olley)についても触れている。上の画像も同サイトよりコピーさせて頂いた。以下は(「俺と疾れ2009」徳大寺有恒ベストカー)より『GMをはじめとするデトロイトスリーの功績は大量生産によってコストを下げたこと。それによって高級なメカニズムが大衆的なプライスになったことに尽きる。』
https://www.macsmotorcitygarage.com/video-engineering-the-1939-oldsmobile/
数々の実験装置を考案
(㉞-2)からの引用を続ける。『ロールス・ロイスでは、慣性モーメント測定用に、ピボットを吊り下げた車、シャシ-/ボディの剛性測定、実車装備状態でのスプリング・レート測定などによって膨大な研究が行われた。(中略)このような研究方法のいくつかは、1930年からオーリィの手でキャディラックに導入され、間もなく慣性モーメント測定装置、スプリング・レート測定装置などが準備された。またロールス・ロイスのものに似た、デトロイトでは最初のバンプ測定用ドラムを設置し、静止・固定状態で乗り心地状態の模擬テストをおこなえるようにした。このような装置を用いての研究過程で、オーリィは、ダンパーとスプリング・レートの相関関係や、研究スタッフがK2/ABレシオと呼びならわすようになった数値-ピッチング方向慣性モーメントをホイールベースで割った数値に、とりわけ強い関心をいだくようになった。1932年、オーリィは重量の移動により前後スプリングの相対的な負荷変更、慣性モーメント変更を任意に行えるK2測定装置を製作した。この装置には乗り心地計測装置の類を一切つけていない。エンジニアたちは、ただ試乗して、主観的な評価を下すだけである。オーリィによれば「われわれが、良い乗り心地とはなにかを、過去・現在とも把握していない以上、これが最上の方法なのだ」という。しかし、この装置を用いると、エンジニアたちは、試乗の印象が新鮮なうちに基本条件を変更して再度試乗・比較できるし、1日のうちに何回となく条件を変更して試乗することも可能になったのである。』
良い乗り心地のためには独立懸架の研究が急務
『1932年のはじめ、この段階に到達したところで、オーリィは独立懸架の研究が急務であると感じ始めていた。K2装置の“測定”結果は、もしフロント・スプリングをリア・スプリングよりやわらかく設定すれば(伝統派の設計者たちが決定的な誤りとみなしてきた設定であるが)ピッチングなしの平滑な乗り心地(これまでに例のないような乗り心地)にできるということを、ありありとしめしていた。前輪懸架に、やわらかいスプリングと従来のままのビーム・アクスルを装備する方式は、ステアリング・シミ―の発生と、ハンドリングの安定性がゼロになるため、すべて失敗に終わった。
その結果、次の開発段階では、2台のキャディラック試作車に独立懸架方式を採用することになった。2台を試作する理由は、GMが、アンドレ・デュポネ考案の非常にコンパクトな独立懸架に興味をいだきながら一方ではダブル・ウィッシュボーン方式のテストも望んでいたためである。
 (下は1938年製シヴォレーの紹介動画で、独立式サスペンションの動きがわかります。Over the Waves - Chevrolet Suspension (1938) https://www.youtube.com/watch?v=ej7CRAIGXow 
 1934年式シヴォレーが採用したデュポネ式独立懸架は耐久性がなく失敗作としてあきらめて、ダブル・ウィッシュボーン方式の独立懸架に変更しているようだ。なおデュポネ式シヴォレーは日本市場でも評判が悪く、“ニー・アクション”(=前輪独立懸架式サスペンションの総称と日本では捉えられていた)はタクシー等の業務用には適さないと、日本で影響力の強かったタクシー業界から烙印を押される結果となってしまった。)

 引用を続ける。『また、オーリィがGMが出来る限り早急にリジッド・アクスル式後輪懸架を廃止すべきであるという主張もいだいていたので、その第1段階として後輪独立懸架車も試作された。(-ただし引退までとなえ続けたオーリィの主張そのものは、なかなか実現しなかったのだが)。GMのエンジニアたちがテストした、2台のキャデラックの試作車は、ハンドリングと乗り心地の両面でかつて例をみぬほどのレベルに達していた。』
総合技術委員会による公式評価テストを敢行
『そして、1933年3月には、ついにGMのお歴々、総合技術委員会のメンバーによる公式評価テストが敢行される。このテストでは2台のキャディラック試作車にくわえて、普通型サスペンションと無限段階変速機を装備したビュイック1台が試乗に供された。』2台の試作車の製作(開発)費用は、GMとしても前代未聞の25万ドルを要したという。
(ここでさらに脱線してしまうが、無限段階変速機を装備したビュイック1台も試乗に供されたという部分にも興味が惹かれる。この当時からオートマティック・トランスミッションに並々ならぬ関心があったことが伺える。
1940年オールズモビル「ハイドラマチック」(AT余談その1)
以下はwikiより『1939年、ゼネラルモーターズ(GM)がオールズモビル1940年型のオプション装備として発売した「ハイドラマチック」は、4段式の遊星歯車変速機とフルードカップリングが組み合わされ、これが実用水準に達したATの始まりと考えられている。クラッチの役目を果たすフルードカップリングにはトルク増幅作用は組み込まれていなかったものの、減速比(変速段)は油圧によって自動的に切り替えが行われ、キックダウン機構をはじめとする、後年のATでも採用される基本機能を有していた。』 (ATの歴史については、webCGの自動車の歴史「第37回:オートマチックトランスミッション」が詳しい上にわかりやすいので紹介しておく。https://www.webcg.net/articles/gallery/39842
下の画像はその「ハイドラマチック」を搭載した1939年型オールズモビルで、以下のブログよりコピーさせていただいた。
https://www.hemmings.com/stories/2014/05/16/oldsmobiles-hydra-matic-first-mass-produced-fully-automatic-transmission-turns-75 )

e146.png
https://img.hmn.com/fit-in/900x506/filters:upscale()/stories/2014/05/HydraMatic_02_800.jpg
1948年ビュイック「ダイナフロー」(AT余談その2)
次のステップはビュイックから登場した。wikiより引用『フルードカップリングを発展させてトルク増幅作用を備えたトルクコンバータ(以下、トルコン)が市販車に採用されたのはGMの「ダイナフロー」で、1948年発表のビュイックに搭載された。変速機は2速の手動変速機で、通常は2速に固定され、駆動力の必要な場合に手動で1速に切り替えるというものであった。』 (いわばセミオートマだ。画像は以下のブログ https://www.macsmotorcitygarage.com/inside-the-buick-dynaflow/ よりコピーさせていただいた「ダイナフロー」を搭載した1948年製のビュイック。)
e147.png
https://www.macsmotorcitygarage.com/wp-content/uploads/2020/08/1948-Buick-Ad-314.jpg
1949年シヴォレー「パワーグライド」(AT余談その3)
さらに引用を続ける『1949年から翌年にかけ、同じくGM系のシボレー向けに「パワーグライド」が、またパッカードの自社開発で「ウルトラマチック」が2速ATとして市販』され、2速の自動変速機となった。(以下の画像は https://www.curbsideclassic.com/automotive-histories/powerglide-gms-greatest-hit-or-deadly-sin/ からコピーさせて頂いた。)
e148.png
https://i0.wp.com/www.curbsideclassic.com/wp-content/uploads/2012/03/Powerglide-1953-Chevrolet-17.jpg?w=1024&ssl=1
以下のビデオで、「パワーグライド」付きシヴォレーの様子がわかる。
「UHD 2K Historic Stock Footage - 1950s Chevrolet Promo THE VELVET GLOVE」
https://www.youtube.com/watch?v=LHLF_01Sg_4

以上のように、オートマ車の開発とその普及も、GMが先導役を果たしたのだ。
技術委員会は全車種で独立懸架方式の採用を決断
 話を戻す。以下は(㉞-2、P223)の本文ではなく翻訳者の神田重巳の脚注部分より引用
『技術委員会の承認により、GMの1934年モデルは全車種とも独立懸架方式を採用、“ニー・アクション”の商品名ではなばなしい宣伝を繰り広げた。(中略)ただし、このとき採用されたシステムは1種類でなく、上級モデルのキャデラック、ビュイック、オールズモビルはダブル・ウィッシュボーン方式を選び、廉価モデルのポンティアックとシヴォレーとはデュボネ方式を選んだ。後者は、構造がやや簡易で生産コストも安価であったが、実用面でさまざまな支障があらわれた。GMでは、この難点を克服するためウィッシュボーン方式の鋭意改良に努め、間もなくコスト面の切り下げも達成されたので、シヴォレー、ポンティアックもこの方式に転向した。』
“トラクシオン・アヴァン・シトローエン”も1934年に前輪独立懸架を採用
いちおう追記しておくと、フランスでも、GMの“ニー・アクション”とほぼ同時期の1934年にあの有名な、トラクシオン・アヴァン・シトローエン(トラクシオン(=トラクション)・アヴァン(=前輪)は前輪駆動の意味)がデビューしていた(以下⑩-5を主に参考)。全鋼製モノコック・ボディは、高い技術を誇ったアメリカの有名な車体メーカーのバッド・マニュファクチャリング社(日本では東急車両のステンレス製車両で有名)の協力を得て完成させた。ただ地を這うような低重心の姿勢は、乗り心地向上より、ヨーロッパ車らしくコーナリング性能で威力を発揮したのだろう。FWDのため前輪独立懸架であったが『前輪は縦置きトーションバーで支持されたダブルウィッシュボーン式の独立懸架』(wiki)だった。
(ちなみに自身も1950年製のこのクルマのオーナーだったことがある小林彰太郎は(㉖、P144)で『アルバイト先のアメリカ大使館で、生徒のひとりがくれた「Road&Track」(=アメリカの有名自動車誌)を拾い読みしていたら、前輪駆動のシトロエン(注;時代的にはDSの前のこの車の時代)に乗ると、誰でもGPドライバーのようなコーナリングが可能だと書いてあった』そうだ。下の写真は1940年製の4ドアセダンだが、1934~1957年までの長きにわたり生産された。またランチア・ラムダを除けば、近代的な一体構造型モノコックボディを採用した車としても、同じ年のクライスラー・エアフローと共に一番早かった。画像は下記サイトよりコピーした。なお前輪独立懸架として現在ダブル・ウィッシュボーン方式より主流のストラット式については、13.3項の、フォード コンサルの写真の説明のところを参照してください。)https://www.carandclassic.co.uk/car/C1193276
e149.png
https://uploads.carandclassic.co.uk/uploads/cars/citroen/12.700697.jpg
“ニー・アクション”や“ターレット・トップ”を決断した時、大恐慌の真っ只中だった
 話を戻し、繰り返しになるが、3台の試乗の結果、ビュイックが提案した新型自動変速機は却下されて、前輪独立懸架式サスペンションは、シヴォレーからキャディラックに至るGMの全乗用車ブランドで、1934年モデルとしていっせいに発売されたが、以下も、イギリスの著名な自動車史家のL.J.Kセトライト氏が著した(㉞-2)の本文でなく、同書を訳した神田重巳による脚注の解説部分から主に引用していく。
 まず当時の時代背景を再確認しておくと、GMが“ニー・アクション”や“ターレット・トップ”という新技術を全面的に採用するという決断を下した時、アメリカの自動車業界は大恐慌の真っ只中にあった。以下は(⑮P143)より『自動車が十分に普及し、買い替え需要が大半を占めるようになれば、右肩上がりの伸びが止まるのが道理である。ところが、依然として成長が続くと思って設備投資を続ければ、そのしわ寄せがどこかで出る。最初のうちは1920年のときの不況のように短期間であるという希望的な観測がなされた。しかし、1930年・31年と不況は次第に深刻化していった。1929年の乗用車の生産が500万台を超えていたのに、32年には130万台余にまで減少、75%減という大幅なものだった。基盤の弱い中小の自動車メーカーは持ち超えあえることができなかった。エンジンを独自に開発製造する能力のないメーカーがまず倒産した。次いで、少量生産の高級車メーカーも資金繰りに困り、倒産するところが相次いだ。』75%減とは尋常ではない。自動車メーカーの大淘汰が行われていった中で、業界の頂点に君臨していたGMとて苦しい状況に変わりはなかった。
1929年~1932年の間にGMの生産台数はマイナス75%に達した
(㉞-2、P221)より『1929年~1932年の間に、GMの生産台数は560万台から140万台(-75%)、売上高は51億ドルから11億ドル(-78%)』と大きく減少した。(㉞-2、P221)からの引用を続ける。
『その最悪の時期に新機構を採用するのは英断であった。そのうえ、総合技術委員会が、この方式の採用を決定するや全部の事業部が乗り出してきた。結果的にはキャデラックからシヴォレーにいたるGMの全系列が、1934年モデルとしていっせいに独立懸架装備車を用意することになる。
 この英断は誤りではなかった。それ以降今日にいたるまで、大部分の自動車はGMの方式と根本的には同じ独立懸架方式をとりあげてきた。独立懸架方式という、ある意味では革命的な機構の一般化が、実験的な少量生産メーカーではなく、GMなる巨大企業の全車種採用によって端緒を開いたことに重要な示唆を読み取らねばならない。
 この《シャシー設計者たち》の章には、たまたま個人の名前、-モーリス・オーリィが掲げられている。けれども、それはかならずしも、一個人オーリィでなくてもよかった(後年オーリィがスローンの著述のために記したメモランダムの冒頭にも、その点を強調しているのだが……)。真の主役は、むしろGMなる大企業体であったというべきである。』
以下、重要部分だと思うので、強調文字で記したい。
『われわれ自動車愛好家は、ともするとアメリカ車がなんの奇もない設計で平々凡々たる無為の歴史を積み重ねて今日に至ったかのように思いがちなところがある。独立懸架方式採用にまつわる事情は、そのような認識が正確とはいいきれないことをも、同時に教えてくれるようである。』
神田重巳氏の記したとおりだと自分も思います。なおセトライト氏も本文のほうで以下のように、オーリィのみならずGM関係者の協力についても記している(㉞-2,P220)『この開発についてオーリィ自身は、絶対に彼ひとりのワンマンショーではなかったと力説するだろうが、すべての難問はオーリィの頭脳があってこそはじめて解決できたということも疑問の余地がないところだ。念のために言い添えておけば、オーリィが協力に感謝している人々のうちには、ヘンリー・クレーン、アーネスト・シーホーム(キャデラックのチーフ・エンジニア)、有名なチャールズ・ケタリング、そしてオーリィが“変わらぬ援助と寛容”に感謝しているGM・キャデラック部門支配人のローレンス・P・フィッシャーが連なっている。フィッシャーは、オーリィの要求により2台の試作車製作に25万ドルを支出するという、GMのスタッフとしては異例の英断を下した人であった。』組織としてのGMと、個人としてのモーリス・オーリィの双方が噛み合ってはじめて、偉大な成果に結びついたのであろう。
“ニー・アクション”の項の締めくくりとして、(㉞-2)でL.J.Kセトライトはモーリス・オーリィの功績について、以下のようにまとめている。
アンダーステア/オーバーステア特性などの用語を創案した
『最初の仕事によって新しい職場・GMの信頼をかちえたオーリィは、さらに研究をすすめ、乗り心地やハンドリングの特性、サスペンションとステアリングに関するすべての相関関係など、独立懸架方式の採用でいっそう顕著になった諸問題と取り組んだ。タイヤの挙動特性-定常的に変化しつづけるコーナリング・フォース、スリップ・アングル、セルフ・アライニング・トルク、速度、負荷などの関係が、ステアリング装置を中継としてドライバーがめざそうとしているコースと、現実に車がたどる軌跡との間の差異といった関係に、どのような姿で現れるかを最初に解明した人は、オーリィであった。また、この関係を大づかみに表現する手段として、アンダーステア特性、オーバーステア特性などの用語を創案したのもオーリィの仕事だった。』
シャシー設計工学の基盤を築いたのもオーリィ
引用を続ける。『ただ、いささか残念なように思えるのは、後世のエンジニアたちが、この表現を不変の教理であるかのように受け取ってしまったことだ。いずれにせよオーリィは、このような彼独自の研究成果を他人に伝達しようとした場合、相手が学者であれ、現場の人たちであれ、うまく説明するのにほとかたならず苦労しなければならなかった。しかし今日になってみると、彼の説明しようとしたことは、シャシー設計工学の基盤を据えた仕事として、その後を引き継いで大いに開拓をすすめた現代のすぐれた設計者たち(中略)によって認められたのである。』(㉞-2、P222)(「Vehicle Dynamics at General Motors Corporation 1952-1980」というSAEで紹介された論文に、GMの試験方法の変遷が記されていたので参考までに。
https://www.millikenresearch.com/VehicleDynamicsAtGMByRTBundorf.pdf )
ジム・ホールのレーシングカー、シャパラルとGMについて(余談)
 ここからまたまた話が大きく逸れてしまうが、今回紹介した「自動車設計者の群像」という記事について、個人的な思い出としてどうしても記しておきたいことがある。ずっと後年のレーシングカーの話だが、純粋なアメ車の話題だし、GMも絡んでいるのでお許しいただきたい。
 モーリス・オーリィを紹介した「自動車設計者の群像」( L.J.K.セトライト(L.J.K. Setright“The Designers”)著、神田重巳訳;㉞)という連載がカーグラの紙面を飾ったのは今からたぶん40年ぐらい前のものだったと思うが、その一連の連載記事で取り上げた人物と車に関して、大きな衝撃を受けたものがあった。
 それはアメリカの革新的なレーシングカーで、当時“怪鳥”と呼ばれたシャパラルを生んだ、ジム・ホールに関しての記述だった。
その頃の自分も含めて一般の日本人はたぶん、シャパラルはGMと関係が深く、その支援を側面から受けつつも、あくまでテキサスの石油成金だったジム・ホールが主体となって作られたものだと理解していた。(下の透視図はその代表作であるシャパラル2Eで、ハイマウントされた巨大なリヤウイングはマシン自体でなく後輪のアップライトに装着され、タイヤに直接下向きの力が作用する仕組みが新しかった。 http://www.grandprixhistory.org/chap_2e.htm よりコピーさせて頂いた。)
e150.png
http://www.grandprixhistory.org/images/chap2e2.jpg
 ところがL.J.K.セトライト(㉞-2、P222)の記述はニュアンスが違っていたのだ。『このシャパラル-というより、ホールが製作した一連のスポーツ・レーシングカー群は、1960年代から1970年代初頭にかけてテキサスで製作され、ジム・ホールとハップ・シャープというアマチュア・コンビによるプライベート・チーム同然の仕事でありながら、みごとな成功をおさめ、華麗な技術革新的実験として絶大な賞賛を浴びせかけられた。ホールとシャープの2人は、石油で財産をつくった富豪である。したがって彼ら程度の基盤を持つ挑戦なら、たとえ個人チームでも、相手に回した大企業とのハンディキャップをものともしない独創性と熱意によって、シャパラルぐらい傑出したマシンも充分に製作可能なのだろうと思わせた。
しかし後日になってみると、シャパラル作戦は単にGM後援の事業というだけでなく、これによってGMが(あるいはGM内の特定の部局が)モータースポーツへの参加を抑制するという同社の公式方針を破らずに、さまざまな実験台としてレースを活用し、データを採集する秘密手段であったことがはっきりしてきた。』

実はGMシヴォレー部門のセミワークスだった
 当時はまさに“ガーン!!”となにかに頭を殴られたかのようなに大きな衝撃を受けた。今でこそよく知られていることだが、シャパラルの実体としては、GMのシヴォレー部門の、事実上ワークスチーム的存在だったようなのだ。(今ではwikiでも『シャパラルは実戦での開発・テストを担う(GMシヴォレー部門の)セミワークス的な存在だったと見られている』と記されている。“セミ”だったかどうか、議論が分かれるところだが、主体はGM側にあったようなのだ。)
 このL.J.Kセトライトのこの記事を読んだ後は、GMは当時、公にはレース活動を禁止していたから、シヴォレー部門のレース好きが、GMのR&D部門に有り余る研究成果の一端を、シヴォレーの裏ワークスとしてレースの場で実験し、合わせてこの頃モータースポーツに力を入れていたライバルのフォードに一泡吹かせてやろうとしたのがシャパラルだったのかと、それ以上よく調べずに勝手に想像し、今までそのように理解してきた。
尾を引いていたシヴォレー・コルヴェアの欠陥車問題
 ただ今回、あらためてアメリカのweb情報を検索して調べてみたところ、その認識に少々間違いがあったようだ。
 当時のGMとそのシヴォレー部門は、シヴォレー コルヴェア(の初期型)の操縦安定性の不良と、その点を突いたラルフ・ネーダーら社会活動家による訴訟問題の解決に悩まされており、この問題が深い影を落としていたことがわかった。GM側にも切実な事情があったようなのだ。以下2つの記事から引用する。
初めはアメリカの自動車雑誌のカー&ドライバーの記事で、その一部を機械翻訳した。
https://www.caranddriver.com/features/a15388275/chaparral-2e/
『(ラルフ・ネーダーらによるシヴォレー・コルヴェアの)訴訟から生まれたビークルダイナミクスプログラムがあり、制御の限界を引き上げるために何が必要かを調べようとしました。GMR&Dには、限界まで運転するのに最適な人はレーシングドライバーだったので、ジム・ホールとミッドランドのラトルスネークレースウェイを一年中テストすることに合意しました。』もう一本、以下は http://www.deansgarage.com/2020/jim-musser-and-jim-hall-collaborators-in-the-chaparrals/ という記事から機械翻訳した。
『1960年代初頭、コルヴェアの法的な問題により、ジム・ホールとシボレーの研究開発エンジニアであるフランク・ウィンチェルとジム・マッサーが一堂に会しました。コルヴェアを守るために、R&Dはマッサーの下でビークルダイナミクスプログラムを開始し、制御のコーナリング限界での車の挙動を研究しました。当時、レースカーのドライバーよりもそのような車両の挙動について多くの知識を持っていたのは誰ですか?そのため、シボレーの研究開発はジム・ホールと試乗契約を結びました。』
 もちろん“遊び(趣味)”の要素も含まれていたに違いないが、それ以上に、GM(シヴォレー)側としても、真剣にならざるを得ない状況があったのだ。
欠番だった幻の“2B”
(下の写真の車はごく最近、初公開された、シヴォレー・コーヴェット・GSⅡB( Chevrolet Corvette GS IIB)というミッドシップレイアウトの試作車で、「ビークルダイナミクスプログラム」の一連の活動の中で1964年に製作されたものだという。外装デザイン担当がビル・ミッチェル下のもとにいた日系人デザイナーのラリー・シノダだったといのも嬉しい話だ。大半のテストはジム・ホールとシャパラル専用のテストコースで行われたというが、このクルマが2Aと2Cの間を埋める、欠番だった“2B”だったとも言われている。写真は以下より https://intensive911.com/?p=189111)
e151.png
https://intensive911.com/wp-content/uploads/2020/01/Chevrolet-GS-IIB.jpg
e152.png
http://s3.amazonaws.com/scardigest/wp-content/uploads/SCD-10-620x484.jpg
上の写真は1965年のセブリング12時間耐久レースを制したシャパラル2Aの雄姿だが、シャパラル2A/2Cと、その上の写真のシヴォレー・コーヴェット・GSⅡBとの近似性は、素人目にもありそうだ。画像はhttps://sportscardigest.com/1965-sebring-12-hour-grand-prix-of-endurance-race-profile/6/よりコピーさせて頂いた。
シャパラルは古今東西あらゆるレーシングカーの中で、自分のもっとも好きなレーシングカーなので、いつに日になるのかはわからないが、いずれこのブログで詳しく紹介してみたい。
下のクルマはそのシャパラルの中でも、自分のもっとも大好きな2Jで、このマシンの登場はリアルタイムで目撃したが、その衝撃は今でも忘れられない。車体の後部を機密構造にして、巨大なファンで空気を引き出すことで路面に吸い付かせようという、恐るべきマシーンだ。画像は以下からコピーさせて頂いた。
http://steelworksco.blogspot.com/2009/03/more-jim-hall-chaparral-2j-sucker-car.html
e153.png
http://2.bp.blogspot.com/_eAkljizJGB0/SatZ-42RCMI/AAAAAAAAArA/alHFj3MOCJI/s320/P1010150.JPG
下の動画は、その始動の様子で、ファン用のエンジン音(スノーモビル用の2ストロークエンジン)が聞ける。
e154.png
「Chaparral 2J - The Fan Car」
https://www.youtube.com/watch?v=HZkUr5cG6wE

下もイギリスのグッドウッドフェスティバルのもので、走行シーンだ。
e155.png
「Chaparral-Chevrolet 2J at Goodwood Festival of Speed 2011」
https://www.youtube.com/watch?v=STV3-5_Jzj0

 ご存じの通りこの当時、トヨタも日産も、富士の日本GPを舞台にモンスターマシンを開発し死力を尽くして戦っており、両社は活躍の舞台をシャパラルが出場していた、グループ7のCAN-AMシリーズに移そうと考えていた。本格化していた対米輸出車の宣伝も兼ねてのことだっただろうが、当時まだ小学生だった自分も大いに期待したものだった。子供ながらも日本人の誇りみたいなものも感じていたのだと思う。
 しかし冷静に考えれば、日本のビッグ2が開発した5/6ℓのターボチャージャー付のハイパワーマシンとこのシャパラル2Jと、果たしてどちらが本質的な部分でより革新的だったかは、言を俟たないだろう。
 当時余裕もなく「空気の読めない」(自動車評論家の片岡英明氏らの指摘)日本の2社が、CAN- AMという自由で開放的な一方で、どこかローカル的な雰囲気のあるレースシリーズに、あの時参戦しないで本当によかったと思う。夢は夢のままにしておいた方が、日本のカーマニアにとっても両社にとっても、その後の結果から見て正しい判断だった思う。シャシー性能が足りないままで、馬力競争に突入したら大惨事になりかねなかったし、何らかの形で、しっぺ返しだってあり得たと思う。アメリカを甘く見てはいけない(私見です)。
(下の写真と以下の文は(web□31)より『咥えタバコでシャパラル・1のシートに収まるジム・ホール』。同ブログはシャパラルの歴史を手際よく纏めており、詳しく知りたい方はぜひ参考にしてください。以下も引用で『ジム・ホールが、レーサー兼レーシングチーム・オーナー、さらにはレーシングカー・コンストラクター・オーナーの3役を担いながら「シャパラ