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⑮ 中島飛行機とプリンスにまつわる”よもやま話”

 “誉”エンジンの影
 さて、前回の記事⑭の4項と7項で私見ながら、“R38X計画”を立案したのは中川良一で、少なくとも1962年時点ですでに、その全体像が頭の中にあったことを記した。またR38×計画の主軸を成すものは中川らしくエンジン戦略で(7項)、技術的な根幹をなすものは中島飛行機時代のエンジン開発を通して得た設計、試作、チューニング技術と、苦い教訓も踏まえた実戦的ノウハウだったと記してきた(前回の記事⑭に10/25に新たに追記した10項参照)。
 さらにこれも私見として付け加えれば、中川にとっては戦前、誉搭載の戦闘機で無念にも果たせなかった、世界の頂点に向けてのリベンジもあったのではとも推測し、記した。
 しかしまだまだ出てきそうだと、ここからさらに深堀しようとすると、このテーマは幅が広く奥も深くて手に余る。(下は、国際基督教大学(中島飛行機三鷹研究所の跡地にたてられた)の敷地で見つかった、陸軍初のジェット戦闘機、“火龍”のエンジンの排気ノズルとみられる部品。何が出てくるかわからず、やっぱり奥が深い?朝日新聞より)
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https://www.asahi.com/articles/ASKCS65CZKCSUTIL061.html
 いくつかの書物(主に前間孝則氏(IHIでジェットエンジンの設計に携わったのち、ノンフィクション作家になった方で、当時の関係者一人一人を直接訪問取材してまとめている点で信頼がおけると思う)の著作等)を手掛かりに、自分なりに“採掘”を試みたが、力足らずで途中で挫折してしまった。
 ただやはり、戦前の中島飛行機の在り方が、戦後のプリンス自動車に大きく影響を及ぼしていることだけは確かなようだと感じた。特に、旧中島系でもいわば“本家”筋の富士重工(スバル)と違い、荻窪を中心としたエンジン系に特化した技術者達が中心となったプリンス自動車にはやはり、その象徴的な存在であった “誉” の影が色濃くつきまとうことも・・・。
(下は群馬県太田市に建つ、中島知久平の像 wikiより)
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「エンジン設計のキーポイント探求」(岡本和理氏著)
 ところがこれらの調べを進めていく中で、前記の前間氏の著書においても、氏が“誉”エンジンについての検証を行う上で参考にした、岡本和理氏著の私家版(非売品として、当時関係者のみに配られたようだ)「エンジン設計のキーポイント探求」(以下引用①)という、優れた研究レポートが、ありがたいことに、現在ネット上で、(無償で)公開されていることがわかった(ただし図表は省かれている)。さすがに直リンクまでは貼らないが、「荻窪FG会」さんという、旧プリンス~日産荻窪系のエンジン関係OBの方が運営されているサイトで公開されている。
https://ogikubofgkai.web.fc2.com/index.html
 まず上記の、そのサイトに訪問いただき、礼儀として、他の記事も興味深いのでぜひご覧いただいたうえで、“昔のことを話そうかい”というところから、閲覧してください。一般に公開していただいている、荻窪FG会さんに深く感謝します。
(下は日産村山工場跡地にある、“プリンスの丘公園”)
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http://yamaden-ltd.co.jp/yamaden_blog/wp/headoffice/23053.html
 著者(岡本和理)のプロフィールだが、中川良一より3歳年下で、昭和16年東京大学工学部航空学科(原動機専修)卒業。昭和17年陸軍航空技術研究所荻窪出張所に配属され中島飛行機設計部で航空エンジンの設計に従事する。戦後プリンス自動車ではエンジン、シャシー、電装補機の開発、村山工場の建設等に従事。日産と合併後は機関設計部長、中央研究所排気研究部長歴任、日産工機の代表取締役社長まで勤めあげた。(以上のプロフィールは②より引用)エンジン設計者としても高名な方だ。
中島飛行機時代は“誉”のトラブル調査やその対策、さらには“誉”より出力を高めた2450馬力を狙う“ハ44”エンジンの、主にシリンダーとピストンの設計を担当した。
(中島製“ハ44”エンジンを搭載する立川 キ-94-II 試作高高度防空戦闘機)
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https://www.1999.co.jp/image/10611214/10/1
 このレポートの存在は、航空機マニアの間ではかなり知られている事かもしれないが、自動車マニアでご存知の方は少ないと思う。しかし実際に在籍された岡本氏のレポートを読めば、“誉”を生んだ中島飛行機と、さらには自動車ファンの特にスカG党には関心が深いであろうプリンス自動車について、今までにない新たな理解が得られることと思う。
この優れたレポートについて、自分が何かコメントする余地はないが、そこで内容についてではなく、岡本氏本人と、レポートをまとめる上でのスタンスについて、以下補足しておく。
 戦前戦後の日本の技術史とそれに携わった数多くの技術者に直接取材をした、前記の前間孝則によれば、『これまで私は、多くの著名な技術者たちにインタビューしてきたが、彼らの話は年齢が加わるにつれて、過去を美化しがちになる。開発過程で起こった失敗よりも、成功して技術を進化させた話のほうにウェイトを置きがちになる。失敗話を赤裸々に語ってもらうには、なかなか難しい面もある。
 日本の企業組織や学会などでは、ともすれば“なあなあ主義”で失敗やトラブルをうやむやにし、責任も曖昧にして、過去も水に流しがちだが、岡本はそうではない。身内に対しても容赦ない。
』(引用②)と、数多くの取材経験の中から、岡本の印象を語っている。そして『中島には根本的な欠陥があった。私は、この問題を死ぬまでにあきらかにしないといかんと思っています』(引用③)という、中島飛行機とプリンス自動車、それとスカG伝説についても、中には美化して書かれたものもある中で、このレポートは内に厳しいスタンスで書かれたものだ。岡本の死の半年前に発刊された、まさに渾身の遺作であったことを感じるこのレポートは、それほど長文でもないので、ともかくぜひお読みいただければと、言う他はない。(個人的には今回の記事で、世のカーマニアにこのレポートの存在を紹介できたことだけで、意義があったと思っています!)

 さて、中島飛行機について、これ以上の深堀をあきらめ、さらに深読みを希望の方々には、引用⓵をお読みいただくとして、ここから本題に入り、一転して私見(想像、思い込み)の多い、軽めの妄想話を進めてみたい。
この記事をまとめていく中で、“誉”とプリンスにマツワルちょっと気になった(というか、思いついてしまった)話題”を3つばかり記したい。
(以下は例によって敬称略とさせていただく。なお引用箇所は青字で明記し、引用もしくは参照先は番号をふって文末にまとめて記載し、画像のコピペ先は写真の下に記載してある。なお全くの個人的な見解(いつものように“妄想”レベルのものも含む)については極力“私見”だと明記したので気に障る方は無視して読み飛ばしてください。また、文と写真の引用箇所に少しでも興味のある方はこの一文をきっかけにぜひとも、オリジナルである原書を買うなりブログを尋ねるなりしてみてください!)

2つのキーワードから考える、中島飛行機とプリンス自動車について
 ここでは、戦前と戦後に中川良一が発した2つの言葉、「100オクタン価燃料を供給できないは約束違反」と、「業界の申し合わせを守ったのだから負けても仕方がない」をキーワードに、中島飛行機とプリンス自動車について自分なりに考えてみたい。一見二つとも、多少無責任な言葉にも感じられるが、当時の中島飛行機とプリンス自動車と、それらを取り巻く世界を解き明かす上で、象徴的な言葉だと思えたからだ。 
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(上は荒涼とした、現在の村山工場跡地。日刊スポーツより)
https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/img/201901210000026-w500_0.jpg

Ⅰ.「100オクタン価燃料を供給できないは約束違反」から思う、“油(あぶら)”で負けた戦いについて
前者の言葉は、中島飛行機の“誉”エンジンにまつわる話だ。
海軍から一方的に、100オクタン価ガソリンから87~91価ガソリンに落とし、潤滑油の質も落とすとの指示が出された時、(以下、引用③)
中川は驚きであった。「そんなバカな!1年半前、和田廠長は私に対して「潤滑油も買い置きがあるから、アメリカの一番良質なものを使ってよい。世界最高の技術を使い、最も高級な材料、燃料、潤滑油を使って高性能を出したまえと約束したではないか」
中川は当時を振り返ってあらためて語った。
「あきらかに約束違反ですよ。100オクタン価の燃料で回したエンジンはきれいに回ったんです。」
』 
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https://aoghs.org/wp-content/uploads/2014/12/Eythel-Avgas-AOGHS.jpg
“誉”にまつわる話で必ず引き合いに出される、有名な100オクタン価燃料の話だが、ここは中川一人が責められる話ではまったくなく、むしろ東京帝大を出てたった3年半の、生真面目だが当然ながら世情に疎く視野も狭い当時の中川に、“誉”エンジンの設計主任という大役を担わせるという、常識では考えられない、中島飛行機の特異な開発体制や企業体質、軍部との特殊な関係、さらには戦前の日本の工業界全般の蓄積の薄さ等が問題の根幹で、この部分は(引用①)他、多くの本に記されており、ここでは説明を省略する。
(・・・省略しようと思ったが、しかし、帝大工学部卒業者を極端に優遇し、時には新卒者をいきなり設計主任に抜擢するような人事など、今の常識ではたぶんイメージがわかないだろう。そこでこの記事の文末に【参考】として、中島飛行機の成り立ちとその開発体制について、多少の補足説明を(小文字で)追記した。さらに興味のあるマニアックな方はそちらもご覧ください。)
 話を続けるが、企業側のみならず、性能至上主義で“誉”を推した軍部(海軍)の無定見さや無責任さにも問題があるだろうと思うが、この部分も前間氏の③ほか、多数に書かれており、やはり省略する。
 しかし理由はともあれ一番の犠牲者が、結果的に不具合だらけのエンジンを押しつけられて戦わざるを得なかった前線の兵士たちだった事は確かだ。
 そんな日本の状況に対して、当時(今もだが)石油を独占する石油メジャーを有し、自動車産業も古くから発展していた米英では、戦前~戦中も石油燃料の研究を着々と進めていた。ただこの話を推し進めていけば、そもそも“アメリカ(とイギリス)と戦争するんじゃなかった”まで話が辿り着いてしまうのだが。(以下引用④)
歴史家たちの中では、「ブリテンの戦い」で英国軍が勝利したのはテトラエチル鉛のおかげだ、と断言する者もいる。
(下は、アメリカの一般のガソリンスタンドのポンプに貼り付けられた、テトラエチル鉛添加を示す表示。Wikiより)
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 テトラエチル鉛は1921年にアメリカ・GM社のチャールズ・ケタリングの元で働いていたトーマス・ミジリーにより、エンジンのノッキングを防ぐアンチノック剤として開発された。そして1924年にGMとスタンダード石油との合弁事業"エチル ガソリン コーポレーション"がその供給元となった。(以上、主にwikiより)元々は石油メーカーではなく、戦前のGMの研究所から生まれた技術だったのだ。当時のGMの、すそ野の広い技術開発の底力を思い知らされる。
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https://www.si.com/vault/issue/40768/1
再び④の引用を続ける。
テトラエチル鉛を添加したガソリンがマーリン・エンジンの性能を著しく向上させたからだ。確かに図2(注;ここでは図はありません)のグラフに示されているように、“奇跡的な”添加剤のおかげでガソリンのオクタン価が大きく上昇し、その結果マーリン・エンジンの出力も大きく向上しているのがわかる。
もっともこのテトラエチル鉛は、肺や皮膚粘膜から容易に吸収され毒性が強く、後に鉛化合物による大気汚染が問題となった。
(下の写真の、メチャカッコイイ“プリマス スーパーバード”はCSの“ディスカバリーチャンネル”の番組“クラシックカーコレクション”でも紹介されていた個体で、航空機の離陸時の排ガスを測定するために排ガス測定装置を積み、飛行機と並走(後ろを追走か?)させて使用されていたそうだ。番組では確か“(航空燃料に含まれる)鉛公害の調査”とかいっていた。詳細は不明です。)
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https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/blog/000/038/417/150/38417150/p1.jpg?ct=9635fd7af590 (話を戻す)
 また触媒式排ガス浄化装置の性能低下を招くこともあり、日本は世界に先駆けて自動車用ガソリンの無鉛化が進められた。そして1986年、世界で初めて自動車用ガソリンの完全無鉛化が達成された。官主導で世界でもっとも厳しい排ガス規制を世界に先駆けて実施し、民が見事にそれに答えて成し遂げた成果で、ここに至って日本の自動車産業とそれを取り巻く世界(社会)の総合力がついてきたことが世界に証明された。(この時代、「牛込柳町鉛中毒事件」とか、「石神井南中学校光化学スモッグ事件」とか、今から思えば多少不可思議な事件もあった公害問題だったが、結果的に日本の空もきれいになったことだし、ここではあまり深く考えないことにする。
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https://imgcp.aacdn.jp/img-a/800/auto/aa/gm/article/1/9/7/7/2/5/201707051509/pixta_30616197_M.jpg
 話を第二次大戦中に戻し、④より引用を続ける。
また、マーリンが約2倍の出力を発揮するようになったのは、ロールス・ロイスの優秀なエンジニアたちが、新しく改良されたガソリンに順応するようにエンジンの開発を重ねたからだという点も強調しておきたい。』(下はタミヤ模型のパッケージ)
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https://www.tamiya.com/japan/products/61035/index.html
 ここで、戦後本田技研で、F1プロジェクト(第一期)を主導した中村良夫の述懐を(引用⑤)
昭和十九年(1944)の夏、日本軍が撃墜した欧米の航空機のエンジンを陸軍技研で分解調査した時だった。
 世界のトップを走る航空機エンジンメーカーの英ロールス・ロイス社が設計した傑作エンジン、マリン61型と、B29用エンジンの米サイクロン3350の現物をはじめて目にし、分解調査を担当した。ともに傑作と評判高いエンジンで、日本ではとても不可能な技術がふんだんに盛り込まれていた。
マリン61型は見るからに美しく、戦時中で未熟練工も大勢動員されて生産されたにもかかわらず、日本では考えられないほどの精密加工でピカピカに磨かれており、「魔性のような妖気」をたたえ、まるで「工芸品あるいは芸術品」を見ているかのようであった。またタンデム(串型)二段式の機械式駆動過給機を備えていて、出力とりわけ高空性能を飛躍的に向上させていた。
』(下はマーリン・エンジン搭載の木製機体の双発爆撃機、デ・ハビランド モスキート。下の写真はwikiより カラーだが1943年撮影のものだそうだ。)
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以下は引用⑥より
日本では「誉」の出力向上に、水やメタノールの吸気噴射のような小手先の手段で切り抜けようとしていた。(中略)それにひきかえ、「マーリン」は正面から出力向上に挑み、二段過給機によって大幅な馬力アップを果たし、高空での性能を飛躍的に高めている。さらに、日本がいっこうに完成できない排気タービン加給にも取り組み、ものにしていた。
 中村を驚かせたのはそれだけではなかった。彼が検分した「マーリン」61型が、開発した本家のロールス・ロイス製でなく、アメリカの自動車メーカーのパッカード社製であったことだ。
(下はパッカード社製マーリン・エンジンを搭載した、ノースアメリカン P-51D マスタング。画像はタミヤ模型より。戦後、零戦の堀越二郎技師は「マーリン・エンジンを選択出来るのは機体設計者の夢」と語ったという。)
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https://www.1999.co.jp/image/10144924/30/1
いかに高級車を生産してきたとはいえ、航空機では技術水準が違うばかりか、生産や技術の性格も違う。にもかかわらず、アメリカの自動車メーカーが、その技術を完全にこなして、自動車の量産技術でもって大量生産すらしていたのである。
 16万台近く生産されたマーリンエンジンのうち、1/3近い約55000台がアメリカのパッカード製だったという。パッカードは当時、イギリスのロールス・ロイスと対比される、アメリカを代表する高級車だった。(パッカードについては、自動車の⑨の記事“デューセンバーグとオーバーン、コード(その終焉まで)”でふれているが、小林彰太郎曰く、(V12は)アメリカのクラシックカー中の白眉だと評していた。下はその1934年製Packard Twelve)
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https://assets.bauer-wolke.co.uk/imagegen/p/800/600/s3/digital-cougar-assets-uk/MomoAds/2019/07/12/142347/82176_1.jpg
しかしパッカードには元々、航空機エンジンの経験もあったが、大衆車のイギリスフォードの工場でも約34000台造られたという事実も何気にすごいことだと思う。(下はイギリスフォードの小型大衆車、モデルC)
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https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcR9qKkQYj8lDUh5X7rCevGhYl2YWICBUsR9ecHis77e1bKskk12
下の写真は4発重爆撃機、コンソリデーテッドB24Eを大量生産するフォードのウィローラン工場。文と写真はwikiより。『~製造はコンソリデーテッド社のサンディエゴ工場およびフォートワースの他、ダグラス・エアクラフト社のタルサ工場、フォード・モーター社のウィローラン工場、ノースアメリカン社のダラス工場で作られた。特にフォード社は、他の航空機会社の生産能力が1日1機であったのに対して、24時間体制によって1時間1機のB-24を生産した!(遠くの方がかすんで見える。)
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※あまりにもすさまじい写真を目にしたので、多少大きめにして追加しておきます(11/21)。以下の写真と文は「品場諸友さん」よりコピーさせていただいた。‏@shinabamorotomo https://twitter.com/shinabamorotomo/status/915750001631928320
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B24の生産を指揮した(させられた)のは、ヘンリー・フォードの息子のエドゼル・フォードだったそうだ。
エドセルが社長だった40年。欧州では戦争が始まり、フォードも軍用機の委託生産を模索し始めます。30年前後には航空機部門を持ち、トライモーターを生産した経験は有るとはいえ(下はフォード・トライモーター)
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33年には撤退していたフォード。ゼロからの立ち上げになるので最初の候補は単発機P-40だったのですが…(下はP40)
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社長を退いても権勢を奮う偏屈親父は事もあろうに超大物、四発重爆コンソリデーテッドB-24の生産を決断してしまいます。ホンダが突然ジャンボジェットの生産を始めるような話で、どったんばったん大騒ぎ! まず工場をひとつB-24の為に建て直すというところからスタート。
当然量産大好きヘンリーが作る工場は半端じゃなかった。43年8月に遂に最初の機体がラインアウトした工場は、24時間操業でなんと月産600機というバケモノ工場だった。

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そしてこのバケモノを決定からたった2年で作り上げる大事業を陣頭指揮したのが、あの「エドセル・フォード」だったのです。
フォードの工場からボロボロ出て来る四発重爆や、ヘンリー・カイザーの造船所から2700隻も出て来た輸送船の群れを見て「こんな国と戦争するとはなんと無謀な!」という気持ちは判る。

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・・・・・全く同感です。
B-24の生産数はアメリカ陸軍航空隊向けとしては最多の18,431機(諸説あり)が終戦直前まで生産され、(中略)第二次世界大戦中に生産された米軍機の中で最多となる。』4発の重爆撃機が最多生産とは恐ろしい。(下はハセガワのプラモデルのB24J)
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http://www.hasegawa-model.co.jp/hsite/wp-content/uploads/2014/02/E29p.jpg
一方GMは社長のビル・ヌードセン(W.S.Knudsen)がルーズベルト大統領に任命されて 1942 年から1945 年までアメリカ陸軍省の軍需生産局長官としてアメリカ全産業の軍需生産計画を指揮した。ちなみに1940 年~ 1944 年にかけてGMの軍需契約高は 138 億ドルで全米第 1 位、フォードのそれは 50 億ドルで第 3 位、クライスラーは 34 億ドルで第 8 位であった。(下の写真はwikiより。いかにも整然とした、P-39 エアラコブラの生産ライン。一方日本の航空機の工場は・・・貼るの止めておきます。)
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https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/83/Airacobra_P39_Assembly_LOC_02902u.jpg/375px-Airacobra_P39_Assembly_LOC_02902u.jpg

 話を戻す。昭和天皇は「日米戦争は油で始まり油で終わったようなもの」というお言葉を残されたが(昭和天皇独白録)、レーシング・エンジン的な性格の、カリカリなチューニングエンジンであった “誉” も結局、“油”(だけではもちろんないが、いわば“象徴”として)で終わってしまった。

Ⅱ.「業界の申し合わせだから負けても仕方がない」、から思うこと
(⑦より引用)『中川は今回のレースは、「業界の申し合わせがあり、それを忠実に守ったのだから、たとえ負けたとしてもしかたがないだろう」』と考えた。
 この言葉はプリンス自動車時代の中川良一が発した(あるいは思った)とされる、第1回日本GPにおけるプリンスの対応のもので、これまた何度も語られる、有名な話だ。ただこの時の中川はプリンス自動車の技術陣を率いる取締役で、戦前の先の100オクタン云々の話の時とは立場が大きく変わった。中川は超甘くというか、この判断が及ぼす影響を深く考えなかったが、結果的に、プリンスの命運を悪い方に導いたことは確実だ。この問題は中川の考え次第で、社内はどうにでもなったと思える話ゆえ、こちらは責任重大だったと思う(私見ですが、結果的に多くのプリンス関係者がその後、苦難の道を歩まされたのも事実)。
以下、超長い話になってしまったが、順を追って確認しつつ、途中日産との合併問題を経て最後にⅡの話題の続きの話として、Ⅲ項の、もし第1回日本GPに勝利していたらプリンスの将来はどう変わったのかという、タラレバの雑談を軽くしてみたい。
 なお、Ⅲ項の“タラレバ”は、前提条件が架空なので当然ながら全編夢物語の妄想話なので、生真面目なプリンスファン、中島飛行機ファン、コアなスカGファンは見ないでパスしてください。
 まずはプリンス(中川)が負けても仕方がないと思った、1963年5月開催の第1回日本GPの中で、前年の秋フルモデルチェンジしたばかりのプリンスの看板車種、グロリアが出場したC-VIクラスのレースにスポットをあてて、もう一度当時の状況を確認してみたい。(下は1962年10月にフルモデルチェンジして2代目モデルに移行した、プリンス グロリア)
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https://b-cles.jp/car/wp-content/uploads/2014/12/nissan_gloria_1963_S41D_1.jpg
なおこのブログの前々回の記事、“第1回日本グランプリ(1963年)“トヨタの一人勝ち”をお読みでない方はぜひそちらを先にお読みください。

1. 第1回日本グランプリの、C-VIクラス レースを振り返る 
1.1僅差だったトヨタの勝利
(⑦より引用)『中川は今回のレースは、「業界の申し合わせがあり、それを忠実に守ったのだから、たとえ負けたとしてもしかたがないだろう」』と考えた。
 第1回日本GPは前々回のブログ記事のタイトル通り“トヨタが一人勝ち”した。確かに結果を見ればその通りだったが、たとえばトヨタ(クラウン)、ニッサン(セドリック)、プリンス(グロリア)、いすゞ(ベレル)という4社(4台)がぶつかった、国内乗用車メーカーにとってはメインレースともいうべきC-VIクラスのレースについて詳しくみていくと、20周レースで1位の多賀弘明のトヨタクラウンと、2位のいすゞベレル(K.D.スウィッシャー)の差は4.5秒という僅差であった(wikiより)。(下は1位多賀弘明と左が2位の米軍人K.D.スウィッシャー)
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http://www.motorsport-japan.com/msjf/up_img/news/WUNe3qMmFPNk/2017030913292503.jpg
先の記事で参考にした⑧より引用
問題は、有力なライバルがいるコロナとクラウンの出場するレースだ。出場を希望するドライバーを応援するだけでなく、速そうなドライバーを積極的に見つけることになった。レース出場を目指してサーキットに走りに来ている中から、多賀弘明と式場壮吉が選ばれた。(中略)結果として式場はコロナで、多賀はクラウンで優勝したから、この起用は見事にあたったことになる。
このふたりの巧みなドライビングがなければ、トヨタ車の優勝はむずかしかったといっていい。コロナは性能のいいボグゾールに苦しめられ、クラウンもいすゞのベレルをわずかに抑えての勝利だった。
』(惜しくも2位に終わったいすゞベレルの力走。)
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https://car-l.co.jp/wp-content/uploads/2019/03/617-31-768x484.jpg
つまり紙一重の勝利で、クルマの仕上がりでは、トヨタといすゞはかなり拮抗していたということだ。
1.2大久保力の語るレース界の状況
 当時のレース界を取り巻く状況は、その時代の“空気”までは、当事者でないとわからない。そんな雰囲気を伝える記事として、大久保力(レーシングドライバーとして第1回日本GPに出場)へのインタビューを通じて日本のレース史を語る、「マイ・ワンダフル サーキット」というwebがあり、その中に第1回日本GPの雰囲気をよく伝える記事があり、以下長いがそこから引用させていただく。(引用⑨)
https://f1-stinger2.com/special/mwc/chapter02/talk28/
~そうですね、ニッサンは、まあ中間派ぐらいのスタンスだったでしょう。1963年のレースについては、トヨタ、プリンス、日野自動車、富士重工、そしてスズキ、こういった面々が積極参戦派だったと見ていいと思います
―― ははあ、そういう意味では、グランプリ二日目の最終レースだった1600~2000ccのツーリングカーというのが(中略)日本の“歴史的な自動車レース”の象徴というべきクラスになったのが、それでしたね。ここには、トヨタ、いすゞ、ニッサン、プリンスというメーカーがエントリー。国産の最上級車は何なのかという“覇権”をかけてのレースとなりました。
(中略)
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https://blog-imgs-11-origin.fc2.com/s/i/n/since1957/C-6s.jpg
―― 各社を代表するようなセダンが、ということでも?
そうです、タマが豊富なクラスでした。先行しているトヨペット・クラウンとプリンスのスカイライン、グロリア。そして遅れて参入したセドリックと、同じく高級車市場に新登場のいすゞベレル。当初の“メーカー不参入”の約束などどこへ行ったかのようなテスト風景がサーキットを賑わし、スポーツ紙誌や週刊誌がその様子を報道しました。
トヨタの工場内では、サーキットの一部を模したコースを急造して、そこでテストをしているとか、グロリアは車重が重いし、ドディオン・アクスルのリアサスペンションはコーナーリングがいいのでタイヤが保たない等々。本当なのかハズレなのか、こういうパドックでの噂話は、もう誰にも止められない(笑)」
……かと思えば、トレーニング中から意外と速かった最後発のいすゞベレルが優勝候補に浮上したり。
』(下は奮闘するベレル。)
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https://motorz.jp/race/60361/
1.3クラウンに迫ったいすゞベレル
 見た目からしても(ごく大人しいセダンなので)、当時もダークホース的な存在に映ったいすゞベレルは、ヒルマンの国産化から学んだノウハウをもとに生まれた、いすゞ初のオリジナル乗用車だった。最後発としてクラウン、セドリック、スカイライン/グロリアといった強力なライバルがひしめく市場に切り込もうと、相当気合の入った取り組みで挑んだ心情は十分に理解できる。しかし元来真面目な会社だけに、レースに対する考え方は、トヨタとは違っていたようだ。以下引用⑧より
いすゞでも、レーシングチームをつくって積極的に準備したが、レースの宣伝効果を考えるより、レースそのものに対する関心の方が強い感じで、トヨタとは取り組む姿勢でかなりの違いがみられた。』本来いすゞにみられるような、メーカーとして生真面目な対応こそが、プリンスの取り組むべき姿勢だったと思うが。
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https://i1.wp.com/s-kuruma.com/wp-content/uploads/2019/01/BELLE%E3%80%80035.jpg?fit=750%2C505&ssl=1
プリンスが“積極参戦派だった?という記述はさておいても、第1回日本グランプリについて、上記の大久保力の記述と、“スカイライン神話”で語られてきた“伝説”と、ニュアンスが異なる点がいくつかある。以下4つ(1.4~1.7)の視点から振り返ってみたい。
1.4国内のレース(日本GP)を見下して、やる気が出なかった
当ブログの前の記事⑭の「7. R38×計画は、中川良一の描いた “地上の夢” だったのか」を確認いただければと思うが、第1回日本GPの前年(1962年)に、中川は櫻井をカバン持ちに従えてヨーロッパ視察旅行に出かけており、そこで本場ヨーロッパのF1ベルギーGPを観戦し大感動して、櫻井に“R38X”構想を熱く語っている。その印象が鮮烈な中で、それに比べてすべてが日本初のため、手探りの、大きな草レースみたいな日本GPは、“いずれは6ℓT/C付き1000馬力”と思っていた中川にとって、あまりにギャップが大きかったようだ。
そのため、本来率先すべき立場の中川が「こんなちっちゃなレースでは、力の入れようがないと、ややバカにしていた」(引用⑦)ため、本来自動車メーカーとして行うべきライバルの情報収集やその対応を怠ったからではないだろうか。ちなみに「追憶の日本グランプリ」というブログの、第1回日本GP編で以下のような記述がある。(引用⑩)
http://www.mmjp.or.jp/60srace/1963JAPANGP.html
レース中、ドライバーのW.レイク(注;グロリアに乗り9位だった)はラジオを聴きながら走ったという。ストレートではアクセルを目一杯踏んでもスピードは思うように上がらず、退屈であったからだろうが、当時オプション設定されることが多かったラジオをつけたままレースに出場したことは、プリンスがいかに性能向上を図らなかったかの証明になるだろう。』メーカーのやる気のなさがドライバーに乗り移ったかのようだ。
 これに対して同じ外人ドライバーでも、いすゞが雇ったのは気合の入った腕利きで、『在日米軍のK・スウィッシャー中佐が駆るベレルが派手なドリフト走行でトップのクラウンをドライブする多賀 弘明を追いかけます。そして、優勝こそできなかったものの3位以下に大差をつけての準優勝を果たした』(引用⑪)との記述があり、メーカーの真剣な取り組みがドライバーにも乗り移ったかのようだった。トヨタまでとは言わないが、中川がいすゞ並みに、レースに対して真面目な姿勢を示していれば、プリンスの将来は変わっていた、重要なレースだったと思う(私見です)。
1.5レース前の情報収集を怠った
 上の“やる気のなさ”に関連するが、“伝説”では、『レースの日も迫り、各メーカーのチームは出走車を鈴鹿サーキットに持ち込んで、練習をはじめた。そこでタイムを計ってみると、トヨタの車などに比べ、プリンス車は明らかにタイムが大きく下回った。そこで初めて、他社が出走車を大幅に改造していることがわかったのである。』(引用⑦)となる。直前までライバルの動向をほとんど知らなかったというスタンスなのだ。
 しかし大久保は、当初の“メーカー不参入”の約束などどこへ行ったかのようなテスト風景がサーキットを賑わし、スポーツ紙誌や週刊誌がその様子を報道し、トヨタの工場内では、サーキットの一部を模したコースを急造して、そこでテストをしているとか、トレーニング中から意外と速かった最後発のいすゞベレルが優勝候補に浮上したり等々、本当なのかハズレなのか、噂話でもちきりだったと述べている。(下は本文に直接関係ないが、かわいらしい画像なので、第1回GPでスバル360とスズキフロンテのガチンコ勝負!ちなみにトヨタ以上に力を入れたのが、2輪でチューニング技術の経験があったスズキだったらしい)
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http://s3-ap-northeast-1.amazonaws.com/images.motorz.jp/wp-content/uploads/2018/06/02221432/42.jpg
 あくまで憶測(まったくの想像)でしかないが、当時実際にはかなり大っぴらに、ライバル同士の情報は漏れていたのではないか。たとえばプリンスチームの生沢と、トヨタの式場と、いすゞの浅岡は親友同士で(この前々回の記事の第2回日本GPを参照)、プリンスが早くから情報をとる気であれば、いくらでもとれたはずだ。
1.6C-VIクラスは量産メーカーの“覇権”をかけての戦いだった
 また大久保証言では、C-VIクラスのレースが、クラウン、スカイラインとグロリア、セドリックと、高級車市場に新登場のいすゞベレルが出場する、いわば“日本の“歴史的な自動車レース”の象徴というべきクラスのレース“で、各社を代表するようなセダンが揃った、国産の最上級車は何なのかという“覇権”をかけての戦いのレースだったと述べている。再三記しているがプリンスにとっては、前年秋にフルモデルチェンジしたばかりの看板車種、グロリアが出場するレースだ。(話は逸れるが、この角度から見るとGMのシヴォレー・コルヴェアの影響が強く感じられる。しかしグロリアに限らず、世界の多くの車がそのデザインに影響を受けた。)
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https://b-cles.jp/car/wp-content/uploads/2014/12/nissan_gloria_1962_S40_3.jpg
(下は一世を風靡した“フラットデッキスタイル”の創始車、シヴォレー・コルヴェア)
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http://www.carstyling.ru/Static/SIMG/420_0_I_MC_jpg_W/resources/classic/1960_Chevrolet_Corvair_500_Sedan.jpg?0D06911456E0A01BE5B100F9A66A3730
当時世間一般では重要な位置づけのレースとして認識されていたのだろう。“伝説”からはそのような印象はうかがえない。
1.7悔やまれる、石橋会長に事前に対応を相談しなかったこと
 この点も、一般常識に照らし合わせてみた場合、不思議な点だ。“スカイライン伝説”の多くの記述からは、技術部門のトップの中川と、オーナーの石橋が日本GPへの対応策を、事前に十分話し合っていたようにみえないのだ。前々回の記事とも重複するが、レース後の出来事を、順を追ってもう少し詳しく見ていきたい。
 第1回日本GPの責任者として、メインスタンドの観客席から観戦していた中川は惨敗後、(以下引用⑦)
いざ結果が出てみると、自分たちがあまりにお人よしであったことを思い知らされた。惨めな思いの中で、「こんなことなら、なりふりかまわず、本腰を入れておけばよかった」と悔やまずにはいられなかった。
第一回日本グランプリ開催の話しがあったとき、F1の迫力をまざまざと見せつけられて返ってきただけに(注;前の記事の7項参照)、「こんなちっちゃなレースでは、力の入れようがない」と、ややバカにしていたところがあったのだ。

 ここから話が大きく脱線するが、「ディリィ・ニュース・エィジェンシィ(DNA)」さんのブログを紹介させていただく。前の記事の7項で記した、中川と櫻井が観戦した1962年F1ベルギーグランプリと同年に行われた、1962年F1モナコグランプリの動画が、驚くばかりの鮮明な画像でアップされている。まさに必見だ!
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http://i.gzn.jp/img/2018/05/21/monaco-gp-1962/00.jpg
同ブログより引用させていただく(引用⑫)
1975年以前に撮影されたレースの映像はあまり多く残っておらず、特に経年劣化でフィルムがダメになってしまうので、高品質なものはとても貴重といわれています。そんな中、1962年に行われたF1モナコGPに関しては、車載カメラの映像を含めてレース前後の様子を収めた高画質映像が残されています。
下がアドレスです。解説付きなのでぜひこちらに訪問してから、動画をご覧ください。
https://dailynewsagency.com/2018/05/07/monaco-grand-prix-1962-high-hfg/
(ちなみに動画の直リンクは以下です。)
https://www.youtube.com/watch?v=sCv-dIFGcd0
なおこの動画は、『この映像は西ドイツで1962年に公開された観光映画「地中海の休日」の一部。帆船フライング・クリッパー号の乗組員たちが地中海航海で立ち寄った国々の観光名所などを描くもので、モナコは立ち寄った先の一部として登場しています。』とのことだ。
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https://dnaimg.com/2018/05/07/monaco-grand-prix-1962-high-hfg/title.jpg
公開されている映像はトータルで6分52秒あり、表彰式と、レースに勝利したブルース・マクラーレンによるウィニングランまで収められています。』下は同レースに優勝したブルース・マクラーレン(クーパー・クライマックス)のウィニング・ラン。
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https://dnaimg.com/2018/05/07/monaco-grand-prix-1962-high-hfg/012.jpg
何度も記すが、“必見”です。

 話を本題に戻すと、繰り返しになるがこのような“本場”の自動車レースに魅せられた結果、技術者としては日本というローカルな世界の、草レースの延長のような低レベルのレースでは、腕の振るいようがないと認識していたのだろう。
しかし“現実”の世界に戻ると、『東京に戻った中川は、翌日、会長の石橋正二郎から呼びつけられた。京橋にあるブリヂストン本社の社長室に入るなり、怒鳴り飛ばされた。(写真は石橋正二郎。)
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http://c.nishinippon.co.jp/photolibrary/images/13126.jpg
「なんだあのレースのザマは。日ごろ「技術のプリンス」を口にしながら、恥ずかしくないのか」
中川は自動車工業会での申し合わせ事項について説明し、自分たちはフェアにやったのだと主張したが、どのような事情があろうと、負けは負け、苦しい言い訳でしかなかった。
「一体、君はなにをしているのだ。いくら車に手を加えないといっても、そのままレースに出るなんて、とんでもない。それが自動車工業会の申し合わせとでもいうのか。それをまにうけて惨敗するとは、なにごとだ。そんな甘い商売をやるものは、どこにもいないぞ」
』(以上引用⑦)
このあと中川が、石橋会長の前で翌年のGPでのリベンジを誓うという、ここも、スカイライン伝説誕生の中の、重要な場面に続く。
 しかしやはり摩訶不思議な話で、プリンスのオーナー経営者であった石橋正二郎会長に、第1回日本グランプリという、誇り高き中島飛行機出身の技術者としての想いとは別に、量産自動車メーカーにとって、本来重視すべき日本初の本格的なレースへの対応(というか、“仕事”)を、中川らが事前に充分に説明し、相談しつつ対応したという形跡が、上記の会話から感じられない。正直なところ、普通の会社組織ではあり得ない話だ。(ここで問題になるのは、中川ら旧中島系の実務を担った経営陣と、石橋の人間関係の“溝”だが、話が複雑になるのでその点は深追いしないでおく。)
 あくまで“タラレバ”の話になるが、仮にもし事前に、充分相談しつつ対処していれば、その後のプリンス自動車の歴史は変わっていたと思われる。後述するがいくつかの書物で、第1回日本GPに対する対応の不始末で、オーナーの石橋がプリンス自動車に愛想をつかしたという証言があるからだ。
 しかしその話に移る前に、回り道になるがここで、プリンスに大きな影響を及ぼした中島飛行機の経営理念についてと、自動車産業に熱意を示す資本家であると同時に、今流に言えば“カーガイ”でもあったのだが(たぶん)、スカG伝説の中では中川らの“敵役”として語られることの多い、石橋正二郎の経歴についても、ここで簡単に触れておきたい。

2. 中島飛行機の経営理念と、石橋正二郎の想い
2.1軍需に根差した中島飛行機の経営理念
 中島飛行機について、話が複雑すぎるので、あまり深入りしたくはないから短く記すが、中川が入社し育った、中島飛行機の経営理念は、中島知久平の次の言葉で示されている『経営の根本義は良い品を作ることにある。いかにそろばんに妙を得ても製品が粗悪では工場はつぶれる。これはあらゆる製造業に通ずる鉄則であり、特に飛行機を造ることに営々として性能の優れたものを生産しておりさえすれば、営利は無視しても自然に大をなすことができる』(引用⑫)に表される。
(下は1937年、東京―ロンドン間飛行で当時の世界最速記録を樹立した朝日新聞社の訪欧機“神風号”。後に陸軍に九七式指令部偵察機として制式採用されるキ-15の試作2号機を、朝日新聞社が譲り受けた。機体は三菱でエンジンが中島製「寿」3型改。)
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http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/cl-pln5/260KAMIKAZE.html
 端的に言えば、良い(性能の優れた)製品(プリンスに置き換えればクルマ)を作れば営利を無視しても自然と経営は成せるというもので、戦前の軍を相手にした商売が前提に成り立つものだった。そのため、実力を無視した軍の、たとえば“技術至上主義”の海軍の、その時々の要求を、リスクを顧みず従順に従った結果、試作で終わったものも多かったが、世間一般とは無関係に、今風に言えば、軍産複合体の内部の出来事として内々に処理が行えた。
 岡本和理の言葉を借りれば、『経営方針については、会社自体が中島知久平の意向を反映して、「利益を上げることは目的ではなく、技術能力をはるかに超える高性能エンジンの開発が要求された」という事情がある』(引用③)となり、行きつく果てが、“誉”の悲劇へとつながった。
(下はもっとも初期から誉エンジンを搭載した、海軍空技廠 陸上爆撃機 銀河。銀河設計陣の一人であった三木忠直は戦後、純然たる平和産業をと考え、国鉄鉄道車両技術者に転身。初代の新幹線車両、新幹線0系電車の先端のデザインを設計したことで知られる。そしてその新幹線の開発に、銀河の胴体形態をデザインとして流用したという。Wikiより)
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https://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/cl-pln3/images4/FR048.jpg
(下は同じく三木が設計に関わった、特攻機の桜花)
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https://i.ytimg.com/vi/5lCA4Wrmq3U/hqdefault.jpg
(悲しいかな“銀河”より同じ三木が係わった“桜花”の方が、後のシンカンセンのイメージに似ている?プロペラが無い分そう見えるだけ?)
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http://old-staff.cocolog-nifty.com/blog/photos/uncategorized/2008/12/15/001.jpg
 話を戻す。しかし戦後の民需中心の世の中にかわった後も、中川ら技術系出身者で多くが占められたプリンス自動車の経営陣には、その“技術至上主義”のDNAは色濃く受け継がれたのだと思う。
 自分たちの世界で考えた“性能の良い自動車”を目指したので、技術優先主義が貫かれ、実際の自動車を買う、一般大衆がどのレベルにあり何を欲するかとは無関係になりがちであった。また同じプリンスの仲間の、それら一般庶民と直接対峙する販社の(営業)現場を思いやる視点では、物事を考えられなかったのだと思う。
2.2大衆は日本グランプリに勝利したクルマが、性能が上だと信じた
 しかし当時の日本の一般庶民たちの、たとえば第1回日本GPを例に引けば、そもそも『自動車レースがどういうもので、一般のユーザーに渡る市販車と出走車がどれほど違うものか、ほとんど知らされていなかった時代である。一般の人々は、レースの優劣がそのまま市販車の性能の優劣をあらわしていると受け取ったのである。』(引用⑦)というレベルのものだった。
 日本グランプリ=日本のレースの最高峰なのだと単純に図式化し、このレースで勝利したクルマこそが、他車より優れた最高のクルマであるという、トヨタ自販の宣伝文句が、一般の人たちにはそのまま通用した時代だったのだ。(下は、第1回日本GPの、鈴なりの観客席。何もが手探りで始まったレースだったが、2日間での観客数はなんと23万人!人々は初めての自動車レースに熱狂した。)
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https://lexus.jp/magazine/article/contents/83/module/20170824174233_24746096599e9179abf6c.jpg
 プリンス車の販売現場にいた方々の、苦難と屈辱が思いやられる。
 何度も記すが、“V12 48バルブの6ℓT/C付き1000馬力”のレーシングカーで本場のレーシングシーンで世界の名車を相手に戦う姿まで思い描いていた中川と、当時の日本の庶民との認識のギャップは大きかった。

※トヨタ自販の“作戦”に影響を与えた?GMのモータースポーツ戦略(11/12追記)
この記事の3つ前の記事「第1回日本グランプリ(1963年)“トヨタの一人勝ち”」に、「2.トヨタ自販の“作戦”に影響を与えた?GMのモータースポーツ戦略」という記事を付け加えた。概容は、この時期GMがモータースポーツ分野で仕掛けた策略が、トヨタの第1回日本GPへの対応に影響を与えたのではないかという仮説(というか、自分が考えて自分以外誰も言っていない説=妄想?)だ。
当時アメリカの自動車業界内でルール違反だった、プライベーターに対してのメーカー(GMのシヴォレーとポンティアック部門)支援を水面下で強力に行い、その結果のNASCARシリーズでの圧勝が、販売面で大きな成果をもたらした、というもので、時期的にも日本GPのほんの1~2年程度前の出来事だった。
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https://cdn.hswstatic.com/gif/144_61-22.jpg
そして、日本の自動車産業の”お手本”である、大GMの戦果をまのあたりにして、トヨタ自販もモータースポーツによるマーケティング戦略という見地から、第1回日本GPへの対応で、GMのとった策略を参考にしたのではなかろうかという記事で、興味ある方はそちらをご覧ください。この説はあくまで仮説だが、もし一理あるとするならば、GM同様一般大衆にクルマを売って利益を出すということに、トヨタは早くから一番熱心に研究していたのだろう。そうした一つ一つの積み重ねが、徳大寺有恒氏の言葉を借りれば『顧客心理をマーケティングできる(現場(ユーザーというべきか)の欲求を吸い上げる)「技術力」がトヨタにはあった』となるのだろうが、えげつなさを別とすれば、経営的な観点からすればやはり、一枚も二枚も上手だったということなのだろう。

2.3自動車産業に夢を描いた実業家&カーガイであった石橋正二郎
 ここで中島飛行機の話題から、プリンス自動車の会長で、そのオーナー経営者であり、スカG伝説の中では敵役的な扱いも多い、石橋正二郎(以下正二郎と略す)に話題を移す。
 良く知られた話だが、正二郎は、石炭の鉱夫のためにゴム底つきの足袋(地下足袋)の考案者だ。
http://www.1242.com/lf/articles/132451/?cat=life&feat=suzukianju
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http://www.mo-hawaii.com/hilo/wp-content/uploads/sites/493/000712.jpg
このゴム足袋からゴム靴、荷馬車のタイヤへと進み、やがてブリヂストンタイヤを創業する。そして自動車用タイヤや各種ゴム製品、さらには自転車、オートバイ、そして自動車と事業を拡大させていったが、軍需主体だった中島飛行機と違い、多くは一般大衆相手の商売で財を成した大実業家であった。
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https://mainichi.jp/articles/20160904/ddm/008/020/063000c
 そして正二郎はプリンス自動車を通じて、多大なリスクを覚悟の上で。自動車事業に情熱をそそぐ事業家でもあった。
 旧中島飛行機系の技術を土台としたプリンスを、世界に通用する性能を誇る日本の誇りとなるような自動車のメーカーとして育て上げ、トヨタや日産と一味違うブランドとして確立しようと目指していたはずだ。しかしあくまで、一般の人々の視野の範囲の、高性能車というブランドなのだろう。(写真は1956年型プリンス セダン(AISH-V型)ブログ“中島飛行機の残滓を継ぎて”さんより)
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https://minkara.carview.co.jp/userid/949539/blog/c854654/
 そもそもプリンス自動車工業の社名自体が、1952年に当時の皇太子殿下(皇太子明仁親王殿下)が正式に皇太子となった儀式「立太子礼」にちなんで名づけられたものだ。下のプリンス車を前にした写真(wikiより)はあまりに有名なもの。当時の日本人の憧れそのものの光景だったろう。
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https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/22/Crown_Prince_Akihito_and_Princess_Suga_in_front_of_the_Prince_Sedan_AISH-II_in_1954.jpg
下は、愛車スカイラインにお乗りになられる皇太子明仁親王殿下の姿。プリンス車は宮内庁に多数納入され、各宮家にも愛用されていた。皇室御用達の自動車会社であったのだ。そしてそれは、正二郎の売り込みの成果でもあったのだろう。
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https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/photo/000/003/440/635/3440635/p8.jpg?ct=b1a81ab7ac36
さらに下の写真はご存知、日産・プリンスロイヤル。ロールス・ロイス等に代わる御料車としてプリンスが受注し、納入は吸収合併後になったが、元々受注した立場を尊重して“プリンス”の名前が残されることになった。御料車にも日産は関心があったという。
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https://pbs.twimg.com/media/CGlmoXHUIAE543U.jpg:large
 話を戻せば、大金持ちでありながら、叩き上げで庶民感覚も十分に理解できたはずの正二郎は、当然ながら、日本で最初の本格的な自動車レースへの期待も、内心大きかったに違いない。
以下カーグラの記事⑬より引用
ブリヂストンの石橋正二郎氏は、美術品の大コレクターとして著名だが、自動車愛好家であったことはあまり知られていない。(下はブリヂストン美術館(現アーティゾン美術館)所蔵の、クロード・モネ『黄昏、ヴェネツィア』1908年。画像はwikiより)
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(アメデオ・モディリアーニ『若い農夫』1918年頃 油彩/カンヴァス。同じくブリヂストン美術館(現アーティゾン美術館)所蔵)
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https://www.polamuseum.or.jp/special/modigliani_2014/modigliani_in_paris/img/index/sect_04_intro_img_04.jpg
大正元年(1911年)、早くもアメリカ中級車のスチュードベーカーを購入し、当時石橋家の主製品だったお座敷足袋の宣伝に使ったりしたという。九州に何台も車がなかったころの話だから、よほど先進的な頭脳の持ち主だったのだろう。昭和になり、タイヤ製造業に進出して数年たったころ、久留米工場の一隅で、同社の技術者に自動車を研究させたこともあった。少数輸入されたハノマーク“コミスブロート”(1924~1928にドイツで量産された単気筒500ccリアエンジン片輪駆動の軽便車)をコピーしたもので、ご子息の幹一郎氏は実際に乗った記憶があると伺った。戦後プリンス自動車の前身に投資し、自動車事業に進出する下地は、ごく早い時期に芽生えていたとみられる。(下は、ハノマーク“コミスブロート”(1925)。ちなみにコミスブロートとは、軍隊パンのことだという。画像はwikiより)
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https://de.wikipedia.org/wiki/Hanomag_2/10_PS
昭和10年ごろ、㈱ブリヂストンは大阪のGMにライン装着用タイヤを納入する際、同社は見返りとしてGMからキャディラック、ビュイック・リムジン、およびラサールを購入した。また翌年には、日本フォードと同様な契約を結んだ時、“流線形”という言葉を日本で一気に広めた1936年リンカーン・ゼファーを1台購入した。(中略)正二郎氏は、このV12気筒リンカーンを特に愛されたようで、戦時中もずっと使われた。
(下は石橋正二郎が創立5年目の1936年に購入し愛用したリンカーン ゼファーの実車。)
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https://blasto.c.blog.so-net.ne.jp/blog/_images/blog/_3de/BLASTO/4040101.jpg
タイヤ事業進出とほぼ同時期の、かなり早い時期から自動車事業へ関心を示すとともに、一個人としても年季の入ったカーマニアであり、当時の日本ではごく稀な、オーナードライバーであったようだ。
いわゆる飛行機屋として純粋に育った中川ら旧中島出身の技術者たちと比べて、自動車全般に対してより幅広い見識と、キャリアの持ち主であったと思われる。今風に言えば、カーガイだった大先輩の正二郎に対して、いささか礼を欠いていたようにも思えてくる。
そして正二郎の怒りは、大衆に対してのわかりやすいメッセージであった日本GP勝利という、重大な商機を逸したこととともに、なぜもっと率直に相談しなかったのかという思いもあっての、二重の怒りだったのではなかろうか。(想像(妄想)の域は出ないが。)
2.4第1回日本GP惨敗で決心したプリンス売却
 そしてこの大惨敗に対しての怒りが、前掲の岡本の(①)他いくつかの書やネット情報で、プリンスの経営を断念し、他社への売却を決心させたと記されている。スカイライン伝説で半ば美談のように語り継がれる、第2回GPでのリベンジ云々とは別の側面で、プリンス自動車の経営面からみれば、重大な出来事だったのだ。以下岡本の①より引用。
第1回日本自動車GPレース(1963年5月)のプリンスチーム惨敗により石橋正二郎はプリンス自動車の経営を断念し、身売りの準備を始めたと思われる。』以下は、桂木洋二著「日本における自動車の世紀」(引用⑭)より
販売の低迷は、不景気など外的な要因よりも首脳陣の経営の舵取りに原因があると、石橋は考えたようだ。グロリアのモデルチェンジに見られる車両開発のあり方に対する不信、第1回日本グランプリレースに対するバカ正直な態度で販売拡張のチャンスを失ったことに対する失望などが引き金になり、彼らの経営に不安を抱いた。石橋が自分で経営を切り盛りするには歳を取りすぎていたのも原因だったかもしれない。(注;1892年生まれてあった。)』
 この一文では、正二郎の年齢面での不安にも触れているが、それについては3.3等で後述する。
(下は、「宮本三郎《石橋正二郎氏像》1969-70年 油彩・カンヴァス」)
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https://casabrutus.com/wp-content/uploads/2017/04/0423bridgestone02_666.jpg
さらに①には、以下のような記述もある。
~企画関係の仕事をして会社上層部に接していた沖島光也は「プリンス荻窪の思い出」に“私のプリンス時代”と題する投稿に次のように書いている。
 “なぜ、あんなに第2回GPに力が入ったかは最近になって分った。第1回GPのあと中川さんはプリンスの成績不良で始末書をかいたのだそうである。(中略)第2回GPは予算も潤沢で開発部門の全力が傾注されたのは、実は石橋会長の命令があったからであった。あのとき、おかしなことにBSタイヤはプリンスを断りトヨタと提携した。やむなくプリンスは英国ダンロップからレースタイヤを輸入した。結果は問題なかったのだが察するにそのころから、石橋会長はプリンスの身売りを考えていたのではないかと思う。技術部門の強いことを強調したかった理由があった。それでレースに発破をかけたのではないかと思われる。これは想像である。その後石橋会長はレースについて関心すら示さなかった。”

 この文章で、私見も混じるが重要なポイントが3点あると思う。
 1つ目は、翌年の第2回日本GP必勝を“命令”したのが実は、石橋正二郎本人であったということだ。世の“スカイライン伝説”が見落としている視点だ。確かに技術陣がいくら世間知らずでその屈辱から翌年のGPでリベンジに燃えても、オーナーの石橋が潤沢な(当時のプリンスとしては、だろうが)予算をつけて初めて企業は動き出す。そして中川に始末書を書かせて、その責任者として第2回日本GPに必勝を誓わせた。
 2つ目は、「その後石橋会長はレースについて関心すら示さなかった。」というくだりだ。よほど愛想をつかし、いよいよプリンスの経営に見切りをつけて、以降は純粋に“ビジネス”だけで手仕舞いをはじめたターニングポイントだったように見えてくる。売却を念頭に、“技術のプリンス”をアピールし、付加価値(箔?)をつける算段だったのだろう。
 そして3つ目は、第2回GP用レーシングタイヤの供給でBSタイヤは身内のプリンスを断りトヨタと独占提携した、というくだりだ。この件は「激闘 ‘60年代の日本グランプリ」(引用⑧)でも触れており、以下引用する。
(トヨタの)第二回グランプリへ向けての準備としてまず行われたのが、トヨタテストコース内に鈴鹿サーキットに似たコースをつくることだった。S字コーナーやヘヤピンカーブをはじめ、鈴鹿と同じコーナーのあるコースに仕立て、そこで思い切りドライバーにトレーニングさせようという作戦であった。相当な予算をとらないとできることではない。また、レースで大切なタイヤに関しては、他社より有利な立場にたつため、ブリヂストンとレーシングタイヤの独占契約を結んだ。よかれと思ってしたことだったが、他のメーカーはイギリスのダンロップタイヤなど、高価なタイヤを金を惜しまず輸入して装着したために、これは裏目に出た形となった。』この時代、世界レベルでは国産タイヤの性能はまだまだ劣っており、トヨタの思惑とは別に、結果的にプリンス側に有利に働いたのだが、いくらなんでも、そこまで深謀遠慮ではなかっただろう。(画像は1969年発表のBS初期のレーシング・タイヤ、RA-100のカタログ。モータープレス藤原よしおのモータープレスさんよりコピーさせていただいた。)
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タイヤメーカーと、自動車メーカーを両立させるという困難さと同時に、後述する合併交渉を視野に入れた動きの一環であったとみることもできる。
 ここでまたまた話が膨らんでしまうが、プリンス自動車を語る上で避けて通れない、日産とプリンスとの合併(NP合併)に至る過程について、簡単に触れておきたい。
これまた厄介な問題だが、この“事件?”は戦後の日本経済(企業)史を研究するうえで、重要なテーマの一つになっているようで、ネットでも検索すればたくさん出てくる。そこでそれらと手持ちの本を参考に、石橋正二郎(石橋家)からの視点を中心にして、次の3項でみていく。

3.プリンスと日産の合併について
3.1プリンスと日産の合併について、公の理由

 素直に考えれば、当時の日本の二大自動車メーカーであるトヨタ(クラウンとコロナ)と日産(セドリックとブルーバード)と、主力車種がまともにぶつかるプリンス(グロリアとスカイライン)は、両社からすれば邪魔な競争相手であったことは間違いない。(写真はライバル同士の上から順番に、プリンス グロリアと、トヨタ クラウンと、日産セドリック。第1回日本GP開催年の1963年頃で。)
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http://www.asahi-net.or.jp/~rf7k-inue/izen/no-9/guro-2/guro-1.jpg
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http://www.asahi-net.or.jp/~rf7k-inue/izen/no-11/rs41/rs41-1.jpg
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(こうして見比べると、グロリアが見た目一番エグイ。ちなみにこの2代目グロリアは、元々シンプルだった外観イメージを、クロームメッキを塗りたくることで正二郎がようやく市販OKを出したと言われているが、確かに日本人感覚で、高級感はあった(当時の子供心でも)。一方セドリックは、他の2車がモデルチェンジ直後なこともあり、この時期で比べると古臭く見える。そして2代目クラウンは初代の“オリエンタル”なムードと違い、この時期の3台で見比べる限りもっともクリーンだ。お手本と言われた、フォード ファルコンの影響もあったのだろうか。)
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http://productioncars.com/send_file.php/ford_falcon_2door_sedan_blue_1961.jpg
(もう一度、見比べてみる。フロントグリルがトヨタの“T”をかたち作る。このクラウンはなかなか良いデザインだ。今のクラウンよりセンスがイイ?!)
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https://kenntaro2.up.n.seesaa.net/kenntaro2/image/EFBC92E4BBA3E382AFE383A9E382A6E383B303.jpg?d=a2
(なお、セドリックも1965年に2代目に進化した。410ブルーバードに次ぐピニンファリーナデザイン第2弾だ。)
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https://meisha.co.jp/wp-content/uploads/2019/03/129-5p01-1.jpg
(今改めて見ると、さすがにピニンファリーナで、その落ち着いた、上品な美しさは際立つ。個人的好みでは410は正直イマイチだが、この2代目セドリック(の初期型)は文句なく素晴らしいデザインだと思う。イギリスのアッパーミドルクラスのウーズレーかライレーあたりの新型上級セダンといっても十分通用しそうだ。ただ日本の市場向けではおとなし(上品)すぎたか?いっそのこと、オースチン時代に日産と関係があったBMC(BLMC)で、ライレーかウーズレーブランドのラージクラスセダン用として、ノックダウン生産でもしたらよかったと思うぐらいの出来に思えるが、ドーデショー?)
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https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-9c-7c/humihirolam/folder/337579/73/22338273/img_0?1295734527
話を戻す。
 プリンスの経営権を握るブリヂストンからすれば、最大のお得意様であるはずの両社との円満な関係は築きがたく、特に営業の現場では、タイヤ商売がやり難かったことは想像に難くない。プリンス売却を考えるうえで、誰もが分かりやすい、もっとも大きな理由だ。(以下引用⑮より)
正二郎の死後、息子の幹一郎(当時ブリヂストンタイヤ会長)は、「やはりわたしたちタイヤ会社からすると、プリンス自動車が成長すればするほど、お得意先から睨まれたんですよ。社内では声なき声がごうごうと上がっていた。でも父は無視していました。それでも結局(合併に)踏み切った」と、タイヤメーカーが自動車会社を所有する事の支障が、合併の動機であったことを、はっきりと語っている。プリンスの元経営幹部は、「ある自動車の購買担当から、実際に警告書を受け取った」と幹一郎から聞いたことがあるとも話している。』 “警告書”とは穏やかでない。
ここで“警告”を発せられても、BSタイヤの代替品がなければOKだろうが、ネットの“フィアット500大作戦!!”というブログで、「日産とプリンス 合併の裏で Part3 プリンスを手放した石橋正二郎の思惑 日本クルマ事情 PRINCE」という記事があり、その中で当時BSを脅かすライバルとして横浜ゴムが手強かったとの記載がある。けっして予断を許さない状況だったようだ。以下引用させていただく(引用⑯)
https://gianni-agnelli.hatenadiary.org/entry/20130210/1360499406
特に現実の問題として、石橋の心境を支配したのは、横浜ゴムである。(中略)当時は、競争が激化、巨大化する自動車メーカーに対し、ブリヂストンが子会社としてプリンスという特定の自動車メーカーを持っていると、やがてプリンスのライバルメーカーから取引停止をうけるおそれがあった。
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https://www.bridgestone.co.jp/corporate/history/story/images/img_story_16.jpg
 一方横浜ゴムは、現在こそ、ブリヂストンに大きく水をあけられているが、かつての横浜ゴムは、ブリヂストンなど足元にも及ばない優秀企業であった。1917年にBFグッドリッチとの合弁でできた会社である。グッドリッチの技術を背景に、飛ぶ鳥を落とす勢いで成長した企業である。それが、経営者が政治に足を入れるとか、学閥偏重などといったクダラナイことで、業績が急降下で悪化したのだ。
 それでもグッドリッチは当時、34%の株式を保有する大株主であった。資本自由化が実現すると、「横浜グッドリッチ」と改称され、両者の関係は再び緊密化するおそれがある。それを思うと、天下のブリヂストンでも、うかうかとしていられない。石橋はプリンスを手放すことによって、本来のタイヤメーカーにもどり、くまなく日本中の自動車メーカーと手を結ぶことが、経営者の取るべき道だと知ったのであろう。
』(下はヨコハマタイヤの懐かしい昭和のキャラクター「スマイレージ」マーク。今見るとちょっと不気味だ。)
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このタイヤメーカーでありながら自動車メーカーも抱え込むという微妙で危険な立ち位置に加えて、横浜ゴムという、BSの足元を脅かす強力なライバルの存在がより一層、危機感を高めたに違いない。(下は「2キロに1店ブリヂストン」の、懐かしい昔の広告)
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https://www.bridgestone.co.jp/corporate/history/story/05_05.html
次にBSのメインバンクであり、正二郎の後ろ盾的な存在であった住友銀行は、この状況をどうみていたのか、その証言を確認する。
3.2ブリヂストンのメインバンク、住友銀行の視点
 石橋正二郎と親しく、日産・プリンス合併を支援した堀田庄三元住友銀行頭取が、石橋の死後に出版された「追想録」の中で、以下のように綴っている。(引用⑦)
石橋さんとの思い出は数々あるがその中で特に忘れられないのはプリンスの問題である。(中略)プリンスは技術陣が優秀なことから製品の品質も極めて高く、充分生き残れる資格はあったが、自動車を本命にすればタイヤが売れなくなるという二者択一の運命に立って、遂にタイヤを残すことに決意された。いろいろ相手は会ったが結局日産と合併ということになった。(中略)
(しかし)日産とプリンスの合併理由は「BSのタイヤが売り難くなったので手放す」ではまずいので、当時資本の自由化で強大な米国企業が日本に進出してくるからその対抗策として企業規模を拡大すべきであるとの方針で、通産省が企業の統合合併に対して特別援助する法律を作っていたのでその方針に乗る形をとって合併することになった。
自動車とタイヤの両立の難しさを語っているが、表向きは通産省の産業政策に乗った形をとった旨、語っている。
ここでは銀行側の本音は(当然)語っていないが、当時の住友銀行は、バブル期の“イトマン”“金屏風事件”のころのイケイケ超拡大路線(しかしやがて深みに嵌まり、当時某山〇組の年頭祝賀会で住友銀行は傘下に堕ちたと豪語され、その信用が失墜した)以降とは真逆な、大違いの時代だった。
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“住銀の法皇”と呼ばれた堀田頭取が君臨した時代で、堅実かつ慎重(“ガメツイ”とか“逃げの住友”など陰口もされたが)な姿勢を崩さなかった時代だ。「プリンスは~充分生き残れる資格はあった」と語っているが、銀行家としての本心はどうだっただろうか。
いかにBSが後ろ盾とはいえ、国内競争の激化と外資の攻勢(当時は日本の自動車産業の将来に対して、先が見えない不安があった)を前に、村山工場への多額の投資に対する回収の不安も頭をよぎっただろう。
(下の図は、ネットにあった、「プリンス自動車 - 外山保/石橋正二郎」より引用(⑰)させていただいた、“中央線沿線に工場を配置したプリンス自動車”の図。自動車がカネのかかる設備産業であることを物語る。後の日産との合併時に、興銀出身の川又社長は銀行家的な発想で、高度成長下の都内の地価の上昇が見込め、その資産価値も評価したという。)
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巨額の設備投資が必要な自動車産業は、マツダの面倒だけで手いっぱいだったのではないだろうか。(想像ですがたぶん。私見です)。
(下は村山工場跡地の“プリンスの丘公園”にある、「スカイラインGT-R発祥の地」という碑)
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3.3プリンスと日産の合併について、石橋(家)側の事情 (歳には勝てなかった…)
 ここで合併問題について、さらに視点を変えて、石橋“家”のファミリービジネスという切り口でみてみたい。
プリンス経営を断念した理由の筆頭とされる、3,1で記したタイヤ事業と自動車事業の共存が難しいという矛盾はしかし、急に沸き起こった話ではない。そもそも石橋正二郎が自動車事業に進出した時点で前提だった話だ。
そんな“理屈”を超えた部分で、石橋正二郎個人の、自動車産業への大きな野望が、生来の“カーガイ”としての自動車に対する思いと相まって、プリンスへの多額の投資を支えてきたはずだ。3.1で既述したことと矛盾するが、正二郎の行動を辿ってみると、そのように感じる。
 国内市場に限らずプリンスが世界に向けて大きく飛躍しさえすれば、自動車産業の規模の大きさを考えれば、タイヤ事業に支障をきたそうとも、自動車事業をやり抜こうとするぐらいの覚悟があったはずだ。もともとリスク(爆弾?)を抱えこんだ、大きな賭けだったのだ。(下は1960年頃のトヨタ元町工場全景。当時業界に先駆けていち早く月産1万台体制を確立した。)
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https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/text/entering_the_automotive_business/chapter1/section1/images/l02_01_01_01_img06.jpg
 だがそんな“危険な賭け”の一方で、前記の2.4でも触れたが、正二郎には1889年生まれ(日産との合併当時(1966年)77歳)で、当時の常識で立派な“老人”だった。今のように一般勤労者が70(最近の説では90?)まで無理やり働かされる時代ではなかった。なんびとも乗り越えられない大きな問題が立ちはだかっていたのだ。
 時間的に差し迫った中で、自身の築いた膨大な事業を息子世代に引き継ぐにあたり、自動車事業の抱える巨大なリスクもそのまま継承させるのか。
 それよりも自身が種をまいた拡大路線を、ここで自ら大ナタを振るい整理縮小しておく。そして重要な話だが、プリンスの売却益をファミリー内にしっかりと確保したうえで、核となるBSのタイヤを中心としたゴム事業に特化する。石橋家のファミリービジネスをいかに永続させ繁栄させるかが、何よりも火急かつ重要な課題となっていったのではと想像される。
 その辺の事情について、以下ネット上でPDFファイルで一般公開されている「NP合併についての一考察 山田徹氏による」という論文で、石橋家固有の問題として掘り下げて記されている。以下引用(⑮)させていただく。
file:///C:/Users/hirokun/Downloads/KJ00004862637%20(1).pdf
さらに石橋側の事情について、留意すべき点がある。石橋正二郎(1889年生まれ)は地下足袋製造からスタートして日本一のタイヤメーカーに育て上げた創業経営者であるが、1961年はじめて株式を公開、翌年には東証一部上場をはたし、63年には社長職を息子幹一郎(1920年生まれ)に譲って会長職に退くなど、高齢対策も考えてか、着々と次世代への地固めを進めている。NP合併の翌年にはブリヂストンサイクル社のオートバイ事業も撤退している。』(下は、ブリヂストン サイクル(自転車)に保存されているBS製オートバイ)
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https://www.pref.saitama.lg.jp/potabiyori/saitama/5557/saitama0004.html
しかも幹一郎はどちらかというと文化人タイプで、事業拡大には必ずしも向いてないとも見られていた(正二郎健在の1973年、幹一郎は53歳で早くも会長職に退く)。
(下はポール・セザンヌ 「サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール」1904-06年頃 油彩・カンヴァス ブリヂストン美術館所蔵)
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https://casabrutus.com/wp-content/uploads/2017/04/0423bridgestone08_666.jpg
このような事情をみると、正二郎にとってはプリンスの始末にもまた次世代のための事業整理、本業回帰、現代流にいうならばコアビジネスへの選択と集中の判断が強く働いたと考えられる。その意味では、所有経営者の資本の論理、経営の論理に基づく賢明且つ合理的な意思決定であったということができる。しかし、このような事情を表面に出すことはできず、通産省の行政方針に便乗して「国家的見地」に終始したとみてよいだろう。
 この一文で驚くことがあり、またまた本題と逸れてしまうが「1961年はじめて株式を公開、翌年には東証一部上場をはたし~」というくだりで、それまではBSが非上場の企業だったことだ!
 それはさておき、石橋正二郎としては、表向きの理由以外に、このような自身の年齢からくる問題で、合併を急いだ事情があったようだ。そして今日の、世界最大のタイヤメーカーとしてのブリヂストンの姿を見れば、正二郎の決断は、BSとしても石橋家としても正しかったというべきなのだろう。(下は“世界最大の(大きさの)タイヤ”(当時))
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3.4この項(3項)のまとめ
 例によってダラダラになってきたので、3項についてここで、箇条書きで今までのまとめをしておく。
 石橋正二郎がプリンス自動車の他車との合併による売却を決断した理由は、自動車/タイヤ事業の最適化としての側面と、石橋家としての事業(資産)の存続の、両面(バランス)から考える必要があると思える。(参考①、⑭、⑮他。なおその解釈は、例によって私見の部分も多いです。)
(1)事業の最適化としての側面からは、元々矛盾をはらむブリヂストンのタイヤ事業と、プリンスの自動車事業の共存は、ライバルとしての横浜ゴムの存在もあり厳しさを増し、次第に困難になりつつあった。(3.1等参考)
(2)しかし正二郎個人の想いは元々、タイヤ事業に多少の犠牲を伴っても、プリンス自動車が大きく発展していけばそれで良しと、考えていたと思う。しかし現実は期待通りにはいかず、経営が成り立たぬところまでは至らないまでも、厳しい競争の下で販売不振であった。(多分に私見が混じっている)(下は、貿易自由化を伝える日経新聞の記事(1960.06.24付))
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(3)そして販売不振の原因について正二郎は、NP合併時の表向きの理由とされた外的要因以上に、第1回日本GPへの中川の甘い対応にみられるがごとく、実務を担当するプリンス経営陣の経営センスのなさに起因すると考えていた。(1.6、2.2、2.4等参考)
(4)個人としての正二郎の問題は、すでに高齢であることで、大きなリスクを抱え込む上記の諸問題を、自ら采配を振るい経営にあたるには歳をとり過ぎていた(再三記すが当時は今の常識より、早めにお年寄り=引退していた)。(2.4、3.3等参考)
(5)一方石橋“家”の側面としては、事業後継者の幹一郎が文化人タイプの温厚な人柄(常識人)で、百戦錬磨の辣腕経営者であった正二郎の引退後に、上記(1)(2)の“爆弾”を抱え込むような困難な事態に、対処できそうにないと思われた。(3.3等参考)
(6)葛藤し揺れ動いていた正二郎はついに、プリンスの存続が困難だと決断した。主な理由はタイヤと自動車の共存の困難さと、プリンスの経営力の無さと、何より年齢の問題で、これ以上プリンスに投資し続けて資産を失う不安が急に大きくなった。その不安を決定付けたのが、第1回日本GPに対する中川の世間知らずでバカ正直な対応であった。(2.4等参考)
(7)同様にグロリアのモデルチェンジ(1962.10)の際の不信感(①を参照してください)もあり、長い間気持ちが揺れ動き、踏ん切りがつかなかったが、ここでようやく気持ちの決着がつく。(多分に憶測が混じっている)
(8)話は遡るが、BSのメインバンクの住友銀行から専務の、小川秀彦を社長に向かい入れた(1959年)ことは、合併への布石でもあった。当時一般的に、企業間の合併は、銀行が仲介するのが常識的であった。
(9)しかし住銀はトヨタとの“出禁”等の問題もあり(4項で後述)銀行任せにはできず、プリンスの合併問題も正二郎自らの主導で行うこととし、事業清算後は後継者の幹一郎はじめ、BS経営陣に託すことにした。(2.4、3.3等参照)
(10)合併問題の具体的な“手順”については次の4項で記すが、第2回日本GPに向けて、技術トップの中川に必勝を誓わせてハッパをかけ、予算も潤沢に与え、GPに圧勝することで“技術のプリンス”という、合併交渉の際の“セールスポイント”つくりに動く。これは実際に後の日産との交渉で効果を発揮した。一方でトヨタにBSのレーシングタイヤを独占供給したことも、合併への布石であった。(2.4及び後述する4項等参照)
(11)しかし以上のような“舞台裏”はけっして晒すことなく、資本自由化を前に当時通産省が推進した自動車業界再編計画に乗り、表向きの大義名分を得て、日産との合併(石橋からすればプリンス=自動車事業から手を引き売却=石橋家として利益を確保する)に踏み切った。(以上、3項のまとめ、終わり)

 最後にⅢ項で、もしプリンスが第1回日本GP(のT-Ⅵ/T-Ⅴクラスのレース)に優勝していたらどう変わったかというタラレバの話をしようと思うが、その前にシツコイがもう1点、一般に言われているプリンスと日産の合併の経緯を駆け足で辿りながら、自分の感覚的(直観的)にみてここだけは少し違うのではないかと思う妄想話を、その前に記しておきたい。

4.合併交渉にあたり、石橋正二郎にとっての“鬼門”と、その落とし所について
 ここからはプリンスと日産の合併の経緯を簡単に辿りながら、自分が思うに世間一般で言われている“定説”と、この部分だけは少し“ニュアンス的に”、違うのではないかと思う点を重点的に記したい。
ただしこのNP合併については、経済史のテーマとして真面目に研究されている方も多々おられると思うし、これから突っつく話題は全体から見れば些細な問題ともいえる。それに自分は手持ちの本とネット検索で上っ面をなぞる程度に軽~く調べただけで、全く直観的に感じた(=ということは毎度のことながら“妄想”レベル)話を記したに過ぎず、以下の話の信ぴょう性は限りなく薄いかもしれない話だということをまず明記してから、話を進める。
一般には石橋正二郎がプリンスの合併先(嫁入り先)として考えたのが、一にマツダでこれは同じ住友銀行系列であり、二に業界トップのトヨタ、三にナンバー2の日産であったと言われている。そしてそれが実際の交渉の順番であったことも間違いない。
(下は交渉相手だった松田恒次東洋工業社長。三輪自動車メーカーだった東洋工業を四輪自動車メーカーに育て上げた。)
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さらにその順番が、正二郎にとっての“本音”の部分でも、プリンス合併相手の優先順位でもあったように記述されているが、その解釈はどうだろうか?と多少疑問に思う(でも自分が本やネットで見た限りそう言っている人はいない!!ただし十分調べたわけではないので何とも言えない)。
ここではプリンス側で合併交渉を主導した、石橋正二郎と、その後ろ盾であり、BSのメインバンクであった住友銀行の視点と言うか、その思惑も加味して、プリンスの合併候補とされた3社について自分なりに再考することで、プリンスの合併問題を見ていきたい。
4.1第1候補とされたマツダ(東洋工業)について。
 マツダ(ちなみに当時は東洋工業)が第1候補とされた理由は、メインバンクが同じ住友銀行だからという“縁”があったことだ。この感覚は、今の若い世代には理解しがたいだろうが、昭和の戦後の良き時代の日本は多くは銀行が核となり、三井、三菱、住友、芙蓉、一勧、三和の6つの企業集団が企業社会を支配していた。(植木等の映画のような、今となればうらやましい、サラリーマン全盛時代だ)
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そして企業間の合併交渉は、メインバンクやグループ内の重鎮が、“仲人役”を演じるのが常であった。当時はそれだけ重みがあった。そしてマツダのオーナー社長である松田常次と住友銀行の堀田頭取の信頼関係も厚かったようだ。⑯のサイトから引用すると『住友銀行頭取の堀田庄三は、経営者としての松田恒次を特に高く評価していた。』という。
しきたり的な意味合いからも、マツダが第一優先であったことは間違いないだろう。それと両社は主力車種がほぼかち合わないという利点もあった。
この“縁談”は、正二郎も納得した上で、まったくの銀行主導だったと思われるので、マツダに関しては以下、正二郎目線でなく、以下は住友銀行の視点から確認してみたい。
合併するなら、自分のところより弱い会社とはしない。強い会社、たとえば日産自動車となら考えてもよい」と松田恒次は語ったと言われている。』(引用⑯)
マツダについては、一族のオーナー社長であった松田常次と住友銀行はもともと密に連絡をとりあっていたはずなので、松田社長の意向について、住銀は当然ながら、正式な合併交渉前から、ある程度事前に感触はつかんでいたはずだ(←この部分はまったくの想像に過ぎません)。いかにメインバンクの薦めといえどもマツダ側はプリンスとは元々消極的であったことはわかっていたはずで、しかし当時の商慣習に従い、メインバンクの果たす役割の一環としてマツダを第1優先として、仲介の労をとったのだと思う。
だが実現性という観点からは当初から、あまり高くなかったように思える(まったくの私見(妄想?)です)。
(下は(下はhttp://kairou38.livedoor.blog/archives/18140512.htmlより「ロータリーエンジン開発の提携交渉のためドイツへ旅立つ恒次一行(1960年)=「松田恒次追想録」から」)
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 ここでさらに、住銀の“本音”はどうだったか、私見がますます多く(ひどく)なるが、さらに突っ込みたい。
 まずこの時代の住友銀行の慎重姿勢からして、合併後の企業体を強力に引っ張らねばならぬ立場になるはずの、松田社長が乗り気でなければ深追いはせず、銀行主導で強引にまとめるつもりまではなかっただろう。
 確かにプリンスには社長まで送り込んだが、それは正二郎の後ろ盾(銀行の論理でストレートに解釈すれば、正二郎という個人保証(担保)があった)があればこそ、であろう。(下は1964年の東京モーターショーに出品された、マツダ コスモロータリー。ロータリー路線に邁進しようとしていた。)
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その上、いくら製品群が比較的かち合わないとは言え、企業風土が全く違ううえ、マツダ+プリンスという(当時は“弱者連合”の感覚だったのでは?)、資本自由化を前にとても盤石とは言い難い体制で、トヨタや日産、さらには巨大な外資に対抗しうるかと言えば、銀行としても自信が持てなかったのではないだろうか。成長していくためには、巨大な設備投資が継続して必要とされる自動車産業に対して、住銀の本音はマツダだけでおなかがいっぱい状態だったのではなかろうか。
以上のことから、今と違い当時の商慣習では重きをなした、双方の銀行系列が同じという自然な流れで、仁義の上からも(何せ広島が相手の交渉です!)
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礼儀として、マツダが合併交渉の第一優先だったことは当然な話だ。しかしマツダはオーナー社長の松田社長の意向次第であり、それを超えて、銀行主導でリスクを背負うつもりなど毛頭なかった。そしてここが全くの妄想部分なのだが、繰り返すが、住銀は日ごろの付き合いから、マツダからの返事は予め予想できたはずだ。
 ならば、寄らば大樹の陰で、次に記すトヨタか日産とくっつけて、対プリンスの資金の回収と当座の利益の確保、そして、住銀としての新たな商流の開拓(トヨタと日産双方とも住銀との関係は薄かった)を目指した方が得策と、考えていたように思える(私見です)。
あるいはさらに想像すれば、プリンスとの交渉を“エサ”に、険悪なトヨタとの関係修復などという甘い期待すらあったかもしれない。結果は“エサ”とは全く認定されなかったようだったが。
 つまりマツダは確かに第一優先の候補先であったが、住銀の視線からみても、最初から本命ではなり得なかった?(再三繰り返すが第一印象でそう考えただけで十分に調べた結果でなくまったくの私見で、こんなこと言ってる人もいない?)。
4.2トヨタと日産両社との良好な関係維持が不可欠だった
 トヨタと日産については、こんどは石橋正二郎の視点から、まず重要となる“前提条件”からみてみたい。
プリンス売却後に石橋(一族)にとって、なによりも重要な、存続企業となるブリヂストンのタイヤの商売の今後を考えれば、圧倒的なシェアを誇る、業界のトップ企業のトヨタと、ナンバー2の日産の、ここが重要なポイントだが、片方(1社)でなく“双方”(2社)と、いかに良好な関係を保ちつつ、プリンス売却交渉を円満に終えるかが最大の課題だったと思う(これまた私見です)。
交渉(手順)を一歩間違えれば、感情的にも取り返しがつかなくなる。しかも足元では横浜ゴムの攻勢が勢いを増す中での話だ。タイヤ事業を維持、発展させていくためには、まずはこの両社との円満な関係維持が不可欠だからだ。
 しかしここで、№1のトヨタとの“縁談”の前に大きく立ちはだかったのが、BSのメインバンクで、石橋の後ろ盾でもあり、プリンスの経営にも関与していた(専務の小川英彦をプリンス社長に派遣)住友銀行(堀田頭取)とトヨタの仲が、きわめて険悪だったことだ。(画像は大阪の住友銀行本店の写真。Wikiより)
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4.3トヨタから出入り禁止だった住友銀行
 この“出禁”は、あまりにも有名すぎる話だが、プリンスの合併(売却)先を決めていく中で、きわめて重要な話だと思う。以下長文だが、まずは出禁の経緯についてwikiより(引用⑱)
『~戦後の1950年、ドッジ・ラインに伴うデフレにより、トヨタ自動車(当時・トヨタ自動車工業)は経営危機に陥った。『トヨタの倒産は東海地方の経済に危機的状況をもたらす』と判断した日本銀行名古屋支店長・高梨壮夫(のちに日銀理事)の斡旋により、帝国銀行(のちの三井銀行→さくら銀行)・東海銀行(後のUFJ銀行)を中心とする銀行団の緊急融資の条件として、販売強化のためにトヨタ自動車販売株式会社が設立される再建策が決定された。』(下の画像は日建新聞より、トヨタを救った日本銀行名古屋支店。)
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しかし、当時、帝銀・東海と共に主力銀行の一つであった住友銀行(当時は大阪銀行)は、「機屋に貸せても、鍛冶屋には貸せない」とにべもなく峻拒、貸出金の回収に走り取引を打ち切った。(下は旧豊田自働織布工場を再生したトヨタ産業技術記念館の繊維機械館)
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当時、トヨタとの取引銀行は都市銀行・地方銀行含め25行あったが、取引を断絶したのは住銀のみである。(中略)
そして住銀との交渉過程や労働争議での心労がたたったのか、豊田(章一郎)は1952年3月に急逝した。
その後、朝鮮戦争勃発による特需景気をきっかけに、トヨタ自動車は順調に経営再建を果たし日本を代表する製造業となった。
』(下は朝鮮特需で米軍に納入したトヨタBM型トラック)
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『また、帝銀の支援をきっかけにトヨタは三井グループ入りすることになる(中略)。反面、取引を断絶した住銀に対しては、石田退三や歴代のトヨタ社長が取引再開を許さず、加えて名古屋を中心とする東海経済界では「住銀はいざとなったら頼りにならない」との風評が広がり、同地で住銀が苦戦する遠因となった。』この一件から、名古屋経済圏にとどまらず全国規模で「逃げの住友」(住銀=悪どい!)との風評がよりいっそう定まったのはご存知の通りだ。
 しかも輪をかけて最悪なことに、時のプリンス自動車の小川社長が、トヨタの経営危機の際に、当時住銀名古屋支店長として融資を断った張本人だったということだ。以下wiki⑱より続ける。
『なおトヨタの経営危機から15年後の1965年、当時業界6位で経営危機に瀕していたプリンス自動車に対して、同社のメインバンクである住銀の頭取・堀田庄三は専務・小川秀彦をプリンス自動車社長に派遣し、トヨタへの救済合併と取引再開を画策した。しかし、当時のトヨタ会長・石田退三は「鍛冶屋の私どもでは不都合でしょうから」とこれを拒否している。15年前の経営危機の際、喜一郎が緊急融資に駆けずり回る中、「機屋に貸せても、鍛冶屋には貸せない」と言い放ったのが、他ならぬ当時の住銀名古屋支店長・小川であり、融資担当常務・堀田であった(プリンス自動車は1966年、日産自動車に吸収された)。』(tumuzo
‏@tumuzoさんより写真と文をコピー 「赤煉瓦の外壁とノコギリ屋根の廃工場。繊維の街なので織物工場だったのかな。かつてはガチャマン景気で湧いた街。(愛知県一宮市)」)
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⑱の引用を続ける。『トヨタ自動車と住友銀行との取引再開が本格化するのは、三井銀行の後身さくら銀行との合併により三井住友銀行(存続会社は住銀)が発足してからである。ただし、SMBC発足の際には、トヨタに対しかなりの根回しがなされた。』SMBC発足後も取引窓口は、旧三井銀出身者に限ったとの情報もあるぐらいで、その傷跡は深い。
4.4最初から無理筋だったトヨタとの“縁談”
 ここでプリンスとの交渉の経緯を、トヨタ側からの証言からも引用する。これもまたまた超有名な本だが、石田退三と並ぶトヨタ中興の祖の豊田英二が、日経新聞に連載された私の履歴書をまとめた本の「決断」(引用⑲)から当時の合併の模様を引用する。(下の豊田英二の画像は、時事ドットコムより)
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資本自由化が刻一刻と近づくにつれ、国内でも業界再編成の機運が盛り上がってきた。最初にトヨタに持ち込まれたのがプリンス自動車との合併話。これは東京オリンピックがあった三十九年に石橋正二郎さん(元ブリヂストン会長)が持ち込んで来た。石橋さんはさすが事業家で、初めから「プリンスを引き受けてほしい」と切り込んできた。当時再編成といえば合併が当たり前という空気だった。
 ここで明記されているのは、三十九年というから、第2回日本GPの開催年(1964年)に、トヨタとの合併交渉を行っていたということだ。第2回GPでトヨタに従順な姿勢で、レーシングタイヤの独占供給を行った理由の一端が窺える。
再三記すが、当時企業間の合併話は、銀行間で取り持つのが一般的だったと言われていたが、この話は石橋が直接持ち込んで来たとある。しかし⑮によれば、堀田頭取と石橋の二人で石田会長を訪ねたとされているが、前記のwikiにあるように、住友銀行(特にたぶん堀田頭取)は“出入り禁止”状態だったので、銀行は仲介の役に立たず、石橋本人が主導したのだろう。
(なおトヨタへの打診は、その後再度(翌年の1965年で日産との交渉の3か月前?)桜内通産相を介しても行われたようだ。)引き続き⑲より引用を続ける。
プリンスとの話はトヨタの方から断ったが、石橋さんはその辺はきちんとしており、「トヨタと縁がなければ、他のメーカーにもっていかざるを得ない」と言っていた。われわれが断った時点で日産自動車と合併することはある程度予測できたし、事実その通りになった。
4.5トヨタ中興の祖、石田退三会長の拒絶
 トヨタ側は、トヨタ自工会長の石田退三、同社長の中川不器男、同副社長の豊田英二、トヨタ自販社長の神谷正太郎のトヨタ首脳陣の4人で慎重に協議をしたという。
 トヨタとの“縁談”が不調に終わった理由として一般的には、プリンスの販社の抱えていた巨額の赤字や、それに関連するがトヨタは救済的な話は引き受けない(自分の城は自分で守れ!がポリシー)、独禁法の問題、神谷の主張した販社同士の融合の難しさ等、様々と言われている。
 しかしそれ以前の感情的な問題として、当時のトヨタ首脳陣の気持ちからすれば「織屋(豊田紡績)に貸せても鍛冶屋(トヨタ自動車)には貸せない!」と言い放った小川が社長を務め、その時の融資担当常務だった堀田が頭取となって持ち込んだ縁談話が、実を結ぶことは難しかったのではなかろうか。(下は石田退三会長(当時))
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この時期(1960年代中盤)のトヨタ自動車の首脳部は、ほんの10数年前に、倒産の土俵際まで追い込まれ、俵一枚で踏みとどまり、のし上ってきたツワモノ揃いだ。
 そしてここで、長年にわたりトヨタグループを率いた番頭格の石田退三会長が、創業者の豊田章一郎の無念の思いを代弁するかの如く、上記wikiにあるように万感の思いを込めて「鍛冶屋(トヨタ自動車)の私どもでは不都合でしょうから」と切り返した話は有名過ぎる(ドラマにもなった?見てないので不明だが)話だ。
 この時期4人の首脳のなかでも、その実績からして発言権(拒否権)が大きかったと思われる石田退三の意志が、とりわけ強固だったように思える。名古屋独特の(根に持つ?)風土とも相まって、昔気質の石田からすれば、過去に受けた仕打ちをビジネスライクに、易々と水に流す気など、さらさらなかったに違いない(私見が混じっています)。
(12/21追記;最近読んだ本に、上記を裏付けるかのようなエピソードがあったので記しておく)『石田退三の)ひ孫の石田泰正は2006年冬、退三が住んでいた愛知県刈谷市の実家の地下室で、住友銀から退三あてに届いた歳暮や中元が手つかずのまま積み上げられているのを見つけている。父親からは「頭取クラスが退三におわびに来た」と聞いていたが、退三のわだかまりは終生、消えなかったのだ。』(引用㉖)
 しかしその一方で、『トヨタはその恩義を忘れない。高梨(注;トヨタが倒産の危機に瀕した当時、日銀名古屋支店長として救済に尽力した高梨壮夫)が日銀を退くと、東京トヨペット会長に迎える。喜一郎の後任としてトヨタ社長となった石田退三(故人)は、「日銀に足を向けて寝ちゃいかんよ」と、喜一郎の長男章一郎に助言している。章一郎は最近まで、日銀名古屋支店長が代わるたびに会食の席を設けてきた。』(㉖)という。なおこれは雑談の部類だが、石田の人柄を物語るエピソードを『泰正が知るトヨタ社長としての退三も、無駄遣いには厳しい。大阪の出張先で河原にござを敷いて弁当を食べていた。トヨタの経理部にいた一人娘の夫が社の経費で飲食しているとのうわさを聞くと、娘を離婚させたほどだ。』(㉖)!さすが中日新聞社らしい、地元密着型の良い記事だと思うが、倒産寸前から辛くも復活を遂げたその教訓を、生涯忘れることはなかったのだろう。
(下はトヨタの救世主となった高梨壮夫。のちに日本自動車連盟(JAF)の初代会長にもなったという。画像は中日新聞社より。)
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4.6住友銀行との関係を重視した正二郎 
 しかしその一方、住友銀行側を率いた堀田頭取としても、この時代を代表する銀行家の一人として、確固たるポリシーがあり、そうそう譲れない価値観だったに違いない。トヨタとの合併交渉が行われた60年代半ば時点では、現代と違い経済界に於ける地位は住友銀行の方が格上だったはずで、その分プライドも高かったはずだ。(下は19年もの間、住友銀行の頭取をつとめ、“住友銀行の法皇”と呼ばれた堀田庄三頭取)
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https://www.nikkan.co.jp/articles/view/00372004
話が少し逸れるが以下⑰より引用。
1965年5月31日にプリンス自動車(石橋正二郎・会長)は日産自動車との合併の覚書に調印し、日産として生き残る方針を決断した。日経新聞は一面記事で「日産・プリンスが合併」と報道し、自動車産業の業界再編の先駆事例として注目され、自動車業界を初めて一面記事で本格的に報道したニュースとなった。』ここで本文より驚くのが、日産・プリンスの合併問題が “自動車業界を初めて一面記事で本格的に報道したニュースとなった” というくだりで、現代とは大違いの、当時の自動車業界の日本経済における地位を如実に語っている。
 話がさらに脱線するが、住友銀行ほどではなかったにせよ、戦後のトヨタ危機の際には三菱銀行も消極的だったという。以下「S-PROJECT 学習のすすめ」さんの記事「世界のトヨタに学ぶ 挫折に心折るな!信念と志があれば失敗は失敗ではない」より引用⑳http://sproject.jp/ 
三菱銀行(現三菱東京UFJ銀行)は、トヨタの倒産危機の時に再建案に消極的だったと伝えられている。最終的に再建案に同調するが、これがたたった。三菱銀行のトヨタとの取引は、海外決済などに限られていた時期が続いた。三菱銀行がトヨタと本格的に取引を始めるのは、旧三和銀行、旧東京三菱銀行との再編を経て、トヨタを主力取引先とする旧東海銀行が三菱東京UFJ銀行になってからだ。』という。(下はwikiより、1950年代の三菱銀行本店)
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話を戻す。
 しかしプリンス側に住銀から社長として送り込まれた小川の人選は、実は住銀主導ではなく、住友銀行久留米支店長時代、深い親交を結んだ正二郎の推しだったという経緯があったようだ(⑯による)。
正二郎からすれば人物本位の人選で、ただ信頼がおけたからにすぎなかったのかもしれない。しかし元々住銀から社長を受け入れた理由の一つに、将来の売却交渉を進める場合の仲介役としての重要な役割があったはずだ。だが対トヨタで考えれば、小川の起用はどうみても、トヨタ何するものぞと、ケンカを売っているようなもので、決定的な障害になるだろうことは十分理解していたはずだ。
だが1959年当時の正二郎は、3項で記したとおり、まだ自動車事業への夢と野望も大きく、プリンスへの野心も売却も、いずれも確たる気持ちが持てず、気持ちが揺れ動いていたのだろうと想像する(=“想像”なので、当然私見です。ただ人間必ずしも、合理的な判断だけで行動しているわけではないし、正二郎もそうだったと思う)。
 正二郎の本音の部分では、独立系企業集団として、自らの事業を築き上げた過程で、やはり住友銀行との信頼関係維持が最優先で、表面上はともかく、対トヨタ以上に住銀の立場を尊重し、優先していたように見える。それだけ堀田頭取&小川と正二郎の間で、厚い絆で結ばれていたのだろうし、当時の企業にとって、メインバンクは命綱だったのだろう。(またまた私見です。)
 ここまでみてくると、NP合併の中で表向きの“定説”として確定している、合併の第一候補がマツダ(東洋工業)で、第二候補がトヨタで第三候補が日産というのは確かなのだろうが、3社のなかでの実際の“落としどころ”(いわば“本命”)は最初から、消去法的に考えれば、やはり日産だったように、思えてならない。(再三書いておきますが、充分研究したわけでも全くなく、軽~く調べただけのまったくの印象(思い付き)で書いているだけなので、どうか軽~く受け止めてください。)
4.7トヨタやマツダより障害の少なかった日産との合併交渉
 こうして(実は意味のあった?)回り道をしつつ結局、日産との合併交渉に至るのだが、日産との交渉は、世評言われている“史実”通りだと思うので省略する。
 何よりも日産(川又会長)にはプリンスと合併したい理由があったし、当時の常識では大きな障害とされていた、日産(興銀)とプリンス(住銀)でメインバンクが違うという点も、正二郎が政治力を発揮して関係者(桜内通産相、日産川又社長、住銀堀田頭取、興銀中山頭取、そして正二郎)を集め、国を巻き込んだ大舞台を用意し決着をはかった。(下は、今の感覚からすると、違和感のある当時の新聞記事のタイトル。かつて6大企業(銀行)グループの系列はそれほど強固だったのだ。)
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 ここではNP合併のまとめとして、ネット上の「プリンス自動車 - 外山保/石橋正二郎」の記事(引用⑰)より、日経新聞(1965/06/01)P4「早まる自動車業界の再編成」から引用させていただく。
https://database-meian.jp/tse/7201b.html
自動車業界は31日、日産自動車とプリンス自動車の両者が1966年末までをメドに合併するとの方針を発表したことに伴って、業界再編成は新局面を迎える見通しである。1962年12月、通産省の産業構造調査会乗用車政策特別小委員会が乗用車の自由化を目前にして、集中生産体制の確立、メーカーの提携合併を基本方針として打ち出して以来、久しく関心を集めてきた自動車業界の再編成はこの合併計画の具体化によって、いよいよ大手メーカーによる寡占化に向かい、本格的な幕開けを迎えたわけである。
日産自動車については業界第1位のトヨタ自動車との格差はいっこうに縮まらず、現状のままではむしろそれがますます広がる恐れが強く、この辺で合併のような思い切った手を打つ必要があったこと、またプリンス自動車については乗用車中心という自由化に弱い企業体質をもっているうえ、販売網も他社に比べ見劣りのすることから、ここ当分はともかく、長い目でみて現勢力でやっていくことに不安があった

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4.8なぜ日産の前にトヨタと交渉したのか。交渉上手だった石橋正二郎
 それではなぜ、困難を極めることを承知で、元々本命(だったと思える=何度も繰り返すがまったくの私見)だった日産の前に、なぜトヨタと交渉したか、だが、先の豊田英二の本の中の、正二郎の言葉の中に、そのヒントがあると思う。⑲より再録すると、
石橋さんはさすが事業家で、初めから「プリンスを引き受けてほしい」と切り込んできた。当時再編成といえば合併が当たり前という空気だった。プリンスとの話はトヨタの方から断ったが、石橋さんはその辺はきちんとしており、「トヨタと縁がなければ、他のメーカーにもっていかざるを得ない」と言っていた。われわれが断った時点で日産自動車と合併することはある程度予測できたし、事実その通りになった。
 あらためて振り返れば、ここはさすがに、正二郎は交渉上手だったと思う。
 ここで、マツダと住銀の話は脇におき、トヨタと日産に話を絞り、正二郎(プリンス)&BSの視点から以下、要点をまとめると、まずプリンスとの合併交渉については、
《1》4.3~4.5で記したとおり住銀も小川社長も絡む上に、BSは住銀との関係も断てない(そのつもりも元々ない)ため、トヨタとの合併交渉が実を結ぶ可能性はごく低かった。
《2》一方4.7で記したとおり、日産との合併交渉は障害もあったが日産(川又社長)自身が前向きなため解決は可能で、可能性が高かった。(下は時事ドットコムニュースより、「日産・プリンス合併 正式合併で調印する川又克二日産自動車社長(右)と石橋正二郎プリンス自動車工業会長」)
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https://www.jiji.com/jc/d2?p=mos10002-01703899&d=004soc
《3》しかし先に4.2項で記したとおりBSにとってはプリンス売却後も、トヨタと日産の両社と良好な関係を保つことが、タイヤ商売の上では何より重要だった。(つまり2社“両立”させることが必要。)
《4》そこで交渉の手順として、日産の前に業界No.1企業のトヨタを優先させて、いきなり直球で「プリンスを引き受けてほしい」と断られるのを覚悟の“ダメモト”の交渉を行う。
並行して第2回日本GPへのBSレーシングタイヤの独占供給などのサービスも行い誠意を尽くす。そして予想通り『プリンスとの話はトヨタの方から断った』とトヨタ側から断ってくる。
《5》ここで、その言葉を“待ってました”とばかりに正二郎は「トヨタと縁がなければ、他のメーカーにもっていかざるを得ない」と切り返し、トヨタに日産との交渉を行うための “仁義” をきる。
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言外に “トヨタさんを優先したが、そちらさんが断ったのであっしらプリンスとしては生きるためやむを得ず、話を日産にもっていかざるござんせん” と仁義を切り、ここで日産との交渉を始める上での”免罪符“を得る。(画像はフリーソフト いらすとやさんより)
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《6》さらにトヨタの頭の石田会長からは「鍛冶屋(トヨタ自動車)の私どもでは不都合でしょうから」という“名セリフ”まで飛び出して、トヨタ陣営一同、溜飲が下がる。しかし正二郎&BS陣営からすればこれで少なからず、ガス抜きをしてもらったことになる。(下もいらすとやさんより)
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《7》またトヨタとの交渉決裂の後、日産との合併会社の正式な発足まで十分な時間的な猶予があり、トヨタは対抗手段が打てた。合併発表から正式調印までの1年近くの間に、ネガティブキャンペーンで不安感が漂うプリンス車ユーザーの切り崩しを行い、社内引き締めの材料にも利用できた。
 つまるところ、NP合併は、日産にとってもトヨタにとっても、そんなに悪い話にはならなかった。たぶんBSも2社(日産は問題ないにして特にトヨタ)から“根に持たれる”ことにはならず、この難局を無事乗り切った。正二郎の交渉の手順が正しかったからだろう。(2020.01.03追記;当時市場が拡大中だったことも大きかっただろう。)
もちろん(無事売り抜けた)石橋家や住銀にとっても悪い話ではなかった。正二郎にとっての誤算は、日産の川又会長が途中でごねて、合併比率が変更されたことと、プリンスの車名を残せなかったことぐらいだろうか。(以上、私見でした。)

Ⅲ.もしプリンスが第1回日本GPに優勝していたら、歴史はどう変わったか
 さていよいよと言うかようやくこの記事の“本題?”です。もし仮に中川良一が第1回日本グランプリに対して終始見下すことなく、途中で他社動向の変化にヤバイと気づき、石橋正二郎に相談しつつ遅ればせながらも対応し、激戦のT-Ⅵ/T-Vクラスレース(グロリアとスカイラインのクラス)でトヨタといすゞを辛くも何とか抑えきり、仮にプリンス車が勝利したとする。そうなったら、その後の“歴史”はどう転がっていったか、想像してみた。
当然ながら、以下の物語?は全てフィクションで、いちいち“私見だが”とかことわりがきは書かないが全編妄想話です(わかりやすく、“正史”に対しての“異史”としておく)。ではまずは手短に“事務的”(面白みのない)な部分から始めます。

1.中川の描いた“地上の夢”、R38Xが世界に羽ばたいた!
1.1企業業績に対する影響

 “正史”では第1回日本GPの惨敗で、プリンス車の販売が大きく落ち込み苦境に陥ったという。しかし“異史”では当然ながらその勝利を大々的に広告宣伝し、販売は落ち込むどころか逆方向のプラス側に転じた。(下の第2回日本GP後の広告、“プリンス圧勝”のように)
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巨額の費用を投じた村山工場の稼働率はアップし、販売現場ではGPに負けたための苦しい値引き販売も減り、その両面から利益率が向上した。そして合併時に問題となった販社の赤字の縮小にも貢献した。
1.2NP合併に対しての影響
 中身はともかく、大筋の内容は変わらなかった。今まで見てきたように、第1回日本GPの惨敗は、合併へのトリガーにはなっても、それが主因ではなかったからだ。“異史”においても、相手はやはり日産だったが、合併比率(“正史”では日産とプリンスの合併比率が1対2から交渉途中で1対2.5に変更されてしまう)は結局1対2以内で納まる。その比率UPの分だけ、合併後のプリンス側従業員の肩身の狭い思いは軽減された。
そして目に見える成果として何よりも大きかったのは、“プリンス”のブランドが、石橋正二郎との約束通り、当面残されることになった点だ。(”正史”では反故にされてしまった。しかし”異史”でも従業員にとって、下の写真のような場面は結局、変わらなかったか?)
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1.3 市販車への影響
 “異史”における大きな成果の一つが、プリンスのエンジン技術の集大成として、BMWを手本とし、当時の日本の量産エンジンの中でも屈指の高性能エンジンといわれた、プリンス製4気筒G15/G18エンジンの、日産系車種への採用であった。
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 両社で重複した設備投資等のタイミングの問題もあり(日産はトランスファーマシンを導入済みだった)難しい決断を要したが、ここは合併比率のUPが力となり、最後は性能本位で日産系エンジン(L16/L14)に代わり選択された。そして1960年代の国産量産車を代表する名車の、ブルーバード510にも搭載されて、全世界でより一層の好評を得る。(下の510ブルーバードは性能、品質、価格、耐久性のバランスで、世界基準を超えた最初の日本車だった(この510の評価は“正史”です。念のため)。)
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(ラリーでも大活躍し、ついに1970年のサファリラリーに総合優勝を果たす。ホンダのF1での勝利を除けば、日本の量産車で初の世界的な自動車レースの制覇だった。(これもそのまま“正史”です。)
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 そして“異史”においては存続することになったプリンスのブランドは、後述するR38×シリーズの国際レースへの参戦と並行して、海外戦略面を強化する。日産ブランドのブルーバード510の名声に相乗りする形で、海外市場ではブルーバードの上位車種として、より硬派でスポーティー路線の、プアマンズBMW的なイメージで売り出されることになった。
ここで量産車部門でのレース活動にも触れておくと、ラリーは日産(ダットサン)が受け持ったが、ツーリングカーレースはサニー(日産)とスカイラインGT-R(ハコスカ)の分担となり、特にスカイラインGT-RはスカG(輸出用は6気筒L24型搭載)の輸出市場開拓を目指して、本場欧州のツーリングカー選手権(グループ2)に2000GT-Rで勇躍参戦する。
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当時の本場のレースのライバルは、BMW2800CS、
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フォード カプリ RS2600(写真はレース仕様)
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オペル コモドーレ(この時期のオペルは実に繊細で美しいデザインだった。)
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そして大迫力の、メルセデスベンツ300SEL6.3(レース仕様)など、歴史的に見ても手強い相手が揃っていた。
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当時の白熱した“本場”グループ2ツーリングカーレースの光景です。
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 しかし国内レースでは2ℓで十分だったが、国際レースの舞台では世界の強豪相手に、パワー不足で苦戦を続けた。
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 この苦しい局面を打開すべく、スカGの国内セールスの好調をバックに力をつけた櫻井らが、(“正史”におけるスカイライン2000GTの時のように!)大排気量化したエンジンに乗せ換えて、有り余るパワーでライバルを圧倒すべく、S20エンジンの拡大版の新型“S30”(3ℓ直6DOHC24バルブエンジン)エンジン搭載案をぶち上げる!
 国内に比べて不調だった海外セールスに活を入れるべしという米国日産の後押しもあり、4代目(ケンメリ)スカG(ちなみに“異史”におけるベーシックな輸出バージョンはSOHCのL30を旧プリンス陣営の手で軽くチューニングして搭載していた)デビューのタイミングでついに実現する。歴史に残るモンスターマシン、スカイライン“3000”GT-R誕生の瞬間だった!!
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 そして1973年シーズン到来とともに高橋国光、北野元、黒沢元治、長谷見昌弘らの腕利きとともにヨーロッパのサーキットを転戦し暴れまわり、BMW、フォード、オペル、メルセデス・ベンツら世界の強敵たちと死闘を繰り広げるのであった!!・・・・・(そこにマツダロータリーも3ロータで??)
(まだまだこの先(続き)が長いが、あまり妄想がすぎるとスカG、プリンス党からイーカゲンな話ばかりやめろとブーイングが出そうなので、この辺でおしまいにします。)
1.4 レース活動への影響
1.4.1 R380でル・マン24時間&世界スポーツカー選手権へ
 話の展開上、ツーリングカーレースの話が先に出てしまったが、元々の流れはR38Xを主題としていたのでレース活動はいよいよ、ここからが(ようやく!)本題だ。
 まずは時計の針を戻し、第1回日本GPで勝ち、中川良一が石橋正二郎会長に、レースの報告に行く場面から、この“ドラマ”(“異史”)は始まる。
 ここで中川は得意満面になり、思わず(前の記事⑭の7項で記した)“R38×構想”の想いを熱く語る。この話について正二郎は以前、中川からそれとなく聞いていた話でその時は“流して”いたが、今回は、その言葉を捉えて離さなかった。
 今まで述べてきたように、正二郎の合併(売却)の腹はすでに固まっており、そのためには国内の大きな草レース的レベルだった第1回日本GPの勝利だけではアピールが弱い。売りである“技術のプリンス”のセールスポイントをさらに“盛る”必要性を感じていたところだったのだ。 
 そこでここは中川構想に乗り、手始めにR38×構想のスタートとなる、2ℓ直6プロトタイプのR380の開発を命じ、まずはルマン24時間レース参戦を目標に掲げる。国内よりもむしろ世界に目を向けて、プリンスの持つ技術力を示すことになったのだ!(ちなみに翌年開催の第2回日本GPのGT-Ⅱクラス(1001〜2000cc)には量産義務(最低100台)の規定があり、R380は出場できなかった。)
この思わぬ展開に、中川が驚喜したことは言うまでもない!これによりR38Xシリーズの開発は“正史”より実質、1年前倒しでスタートしたことになる。
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 なお同選手権はヨーロッパが主舞台なため、ジャック・ブラバム&ロン・トーラナックのシャシーコンストラクター、モーターレーシング・ディベロップメント(MRD)に全面的な協力を仰ぐこととなった(裏だけでなく両社の関係を公けにして;前の記事の9項参照)。MRDはフォーミュラが主体だったため、かち合わずにお互いメリットがあったのだ。
 以後はほぼ、中川の“R38X構想”通りに、1965年からルマン24時間レースに出場し、1966年から世界スポーツカー選手権に参戦を果たす。しかし世界の壁は厚く、2ℓクラスにはポルシェという強敵が立ちはだかり、善戦はするものの、日本GPのような“地の利”もいかせず、残念ながら目立った戦績を残せなかった。(ちなみに国内の日本GPの戦績は、結果的には大筋変わらなかった。)
1.4.2 R382(スポーツカーバージョン)で国際メイクス選手権、制覇に挑む
 結果が出せずに低迷したプリンス陣営はここで一念発起し、1969年シーズンに向けて、大きな賭けに出る。国際メイクス(メーカー)選手権の、“スポーツカー(クラス)”の生産公認に必要な連続12月間の最低生産台数が50台から25台へ引き下げられたのを受けて、それまでのプロトタイプのカテゴリーから、排気量の大きい(5ℓ)スポーツカークラス(グループ5仕様;今までと違い総合優勝狙いとなる)への挑戦を高らかに宣言したのだ!
 そしてMRDと共同で5ℓV12のGRX-1エンジン搭載のグループ5仕様(クローズドボディ)の“プリンスR382”を25台生産、FIAの公認を得る。1969年のスポット参戦を得て、いよいよ1970年シーズン、ポルシェ917とフェラーリ512の一騎打ちに割って入る、三つ巴の戦いが始まったのだ!!(下はグループ5の公認を受けるため、ずらりと並ぶ、ポルシェ917)
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下はポルシェ917とフェラーリ512
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 しかしこのときすでに日産自動車本体は、モータースポーツへの出費の多さに音をあげつつあった。しかも戦績も不振で、耐久レースへの経験不足も相まって、掛け声とは裏腹に1970年シーズンは1勝も挙げられず、社内での発言力も急速に勢いをなくしていった。
 中川のR38X構想では、6ℓT/C付1000馬力のグループ7のR383/4で、トヨタと同様Can-Amシリーズ参戦計画もあったが、排ガス規制強化で人材を割かねばならぬ必要もあり、結局1970年シーズンを最後に、前記のツーリングカーレースを除き、ワークスとしての活動をいったん中止する。(1971年シーズンは、プライベーターの支援を主体に行った。)
1.4.3 ”栄光のル・マン”
 ご存知スティーヴ・マックイーンが企画・主演した映画“栄光のル・マン”の中でも、東洋からの新参の挑戦者として、急遽短いながらもエピソードが盛り込まれ、プリンスの知名度をより一層高めた。映画の中で中川良一に似せたキャラを三船敏郎が、櫻井眞一郎役を石原裕次郎がそれぞれ演じた。
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 実際に撮影の行われた1970年のル・マン24時間に出場したプリンスワークスの、3羽ガラス(高橋国光、北野元、黒沢元治)と長谷見昌弘も撮影に協力した。中でもマックイーンは北野元のキャラを気に入り、そのため映画の中でも急遽“役”を作り、北野が”ニヒルなサムライをイメージした”、日本人レーサー役を演じることとなったという。
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下は日産が全面的に協力した1970年の石原プロ映画、「栄光への5000キロ」(富士スピードウエイにて)
左から横山達、北野元、石原裕次郎の各氏
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1.4.4 1971年ワトキンスグレン1000km、国際メイクス選手権最終戦
 鳴り物入りで登場した、5ℓV12のプリンスR382(グループ5仕様)が出場できる最後のシーズンとなった翌1971年、国際メイクス選手権最終戦のワトキンスグレン1000km(アメリカ)に、プリンスワークスは久々の出場を果たす。“異史”における” スカG伝説”では櫻井が辞表を胸に最後の1戦への参戦を、川又社長に直訴した結果だというが、実際にはアメリカ開催のレースということで、米国日産の片山豊社長の猛プッシュが効いたらしい。
 このラストチャンスにプリンスは、高橋/黒沢組と北野/長谷見組の精鋭2台のワークスR382を送り込んだ。そしてレースでは高橋/黒沢組が上位陣のトラブルもあり僅差で逃げ切り、最終戦で見事勝利を飾り、R38Xシリーズの有終の美を飾った。(下は“正史”でこのレースを制した、アルファ・ロメオT33/3)
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1.4.5 1973年スパ・フランコルシャン24時間レース ヨーロッパツーリングカー選手権
 1.3で既述の通り、期待のモンスターマシン、スカイライン“3000”GT-Rを投入した73年シーズンで、ついに大きな勝利の瞬間がやってきた。ツーリングカーレースの最高峰、スパ・フランコルシャン24時間耐久レースで、北野/長谷見組の3000GT-Rが激戦の末2台の強敵、BMW3.0CSLと、
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フォードカプリRS2600を下し、
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ついに勝利の栄冠を勝ち得るのだ!しかし排ガス規制対応もいよいよ火急を要す中での海外レースへの傾注に、社内の批判はいよいよ高まった。
1973年シーズンも終わり、プリンスワークスはついに海外活動休止を宣言し、ここに一時代を築いた、中川+櫻井による“Rの時代”は終わりを遂げることとなった。
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 次に、第2回日本GPにおける“スカイライン神話”を生むきっかけとなった、あの伝説のレースは“異史”ではどう変わっただろうか。次項で探ってみたい。

2.第2回日本グランプリ “神話” のゆくえ
2.1 R-380は出場できなかった
 ここでこのブログの前の前の⑬の記事、「第2回日本グランプリ(1964年)“スカイライン神話の誕生”」を振り返ると、“正史”では、「プリンスは3種目制覇を狙って、主力車種のスカイライン1500(T-Ⅴクラス)、グロリア(T-Ⅵクラス)に加えて、メインレースであるスポーツカー部門(GT-IIクラス)に秘密兵器のスカイライン2000GTをエントリーした。」となる。
 そこで単純に考えて、“異史”においても、メインレースであるGT-Ⅱクラスのレースに、生まれたてのR380が出場できれば何ら問題なかった。しかしことはそう都合良く運ばなかった。GT-Ⅱクラスに出場するためには、最低100台クルマを作り上げねばならない。経験のないR380は成り立ちからして、スカイラインGTのような突貫作業では作れないので、これはいくらなんでもハードルが高すぎて無理だろう。出費を考えても、ポルシェ904は過去の実績があればこそ、はじめて100台作り、高価なスポーツカーを全世界相手に売れるのだ。
2.2 “スカG神話の誕生”は(T-Ⅴクラス)、(T-Ⅵクラス)レースで圧勝できるか次第
 次に、主力車種のスカイライン1500(T-Ⅴクラス)、グロリア(T-Ⅵクラス)が出場する第2回日本GPの、2つのレースの当時の状況を再度確認してみてみたい。
気になるのは前年の“異史”における第1回日本GPを振りかえれば、プリンスの誇る中島飛行機伝来の高いチューニング技術をもってしても、グロリアは6気筒モデルの登場前で、スカイラインに至っては末期モデルだったこともあり、両レースとも辛勝だったのだ。(下は“正史”の第1回GPに出場したスカイライン。見た目からして古臭い。ドライバーは生沢徹。)
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 仮に国内セールスにもっとも影響するこれら2つのレースに、第2回日本GPで十分圧勝できる目星をつけていれば、“正史”のようにGT-Ⅱクラスに新たにスカイラインGTを作り上げてまで参戦しないだろう。“異史”ではすでに、世界(海外)を目指し始めていたからだ。
またこのクラスにプリンスは、元々該当する量産車の無かった(下の写真の、少量生産車のラグジュアリーカー、“スカイライン スポーツ”もすでに生産終了していた。国産車で言えばGT-Ⅱクラスは“フェアレディ”のクラスだった。)
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https://gazoo.com/catalog/maker/PRINCE/SUKAIRAIN_SUPOTSU/
 しかし両レースで勝つかどうかもわからないような状況まで追いつめられていれば、あるいは“正史”におけるスカGという“隠し玉”を用意したかもしれない。
 そこで、第2回日本グランプリにおいて、主力車種であるスカイライン(T-Ⅴクラス)、グロリア(T-Ⅵクラス)が出場した両レースの状況について、当時トヨタチームに所属し、ライバルの立場からプリンス車を見ていた徳大寺有恒(杉江博愛)の目を通して、状況を確認する。
2.3第2回日本GP(T-Ⅵクラス)、グロリアの圧勝だった
第2回日本GPは1964年5月開催で、その前年の1963年6月に、6気筒の“グロリア スーパー6”がデビューしている。
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このスーパー6用GR7型6気筒SOHCエンジンのパワーが、どのくらい絶大なものだったかは、当時のレース界を知る徳大寺有恒が著書で語っている。(グロリアが上位を陣取る第2回日本GPのT-Ⅵクラスのスタートの光景)
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グロリアがいかに高性能だったかは、第二回日本グランプリに登場した6気筒グロリアが同クラスの他車をまったく問題としなかったことでよくわかる。セドリックなど、おそらく最高速度で20km/h以上の差をつけられていたはずである。サーキット上のグロリアはどこでもいつでも、好きなようにライバルを抜き去ることができた。まさに「誉」ここに蘇るというやつである。』(引用㉑)と記していることからわかる。当時の同クラスの国産車比較ではブッチギリの存在だったのだ。
結果はまさに下のとおりだった。
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では、T-Ⅴクラスではどうだっただろうか。

2.4第2回日本GP(T-クラス)、同じくスカイラインのぶっちぎりだった
 スカイラインも前年の1963年9月に、フルモデルチェンジしていた。
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 この新型スカイラインがまた圧倒的に強かった。第2回日本GPでは1~8位までを独占し、まさに圧勝だった。
 これは驚くべき話だが、当時トヨタチームの一員としてコロナでこのレースを戦った徳大寺はなんと、プリンスワークスの生沢に頼んで後日こっそりと、練習中にワークススカイラインを運転させてもらったという!その時の印象を以下引用㉒より。
『~いくら友人とはいえ、ライバルチームのドライバーにステアリングを託すなど今では考えられないだろうが、実際に僕はドライブしたのである。(下は当時の生沢と杉江)
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 乗ってみて驚いた。エンジンは平凡なOHVシングルキャブにもかかわらずよく回るし、ハンドリングも軽快で、全体のバランスがすばらしかった。』(スカイラインが上位を独占した第2回日本GPのT-Ⅴクラスのスタートの光景)
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車本来の素性の良さとともに、今までみてきたように、中島飛行機伝来のチューニング技術も威力を発揮したのだろう。
 以上のように、当時のプリンス量産車の高性能さは国内では抜群なものがあり、他車(社)は全くつけ入るスキがなかったと言っていいだろう。
 となると敢えて、下の写真のクルマを作って、GT-Ⅱレースに繰り出す必要もなかったと思う。
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2.5第1回日本GPの惨敗があって、“スカG伝説”は生まれた
 さて、ここまで長い間、延々とみてきた、以下が結論になる。
 もし仮に、中川良一が第1回日本GPを見下すことなく真面目に対応し、C-VIクラス(グロリア)とC-Vクラス(スカイライン)で勝利していたならば、対第2回日本GP用に、スカイラインGTは生まれなかった可能性が高い。そうなると皮肉なことに、あの“スカイライン神話(伝説)”も生まれなかったことになる。
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http://ah5243.blog72.fc2.com/blog-entry-83.html?sp
 だがもし仮に、”異史”のように、国際レースの舞台で華々しく戦っていれば、新たな形での ”スカイライン/プリンス伝説(神話)” が誕生していたかもしれなかった。
 しかし第1回日本GPの惨敗も含め、それらすべてが、“運命のいたずら”だったのだろうか。
 と、迷走した話に無理やりオチをつけて、“ⅡとⅢ”の話をこの辺で終わりにしたい。

Ⅳ.“ 誉”エンジンと、初代スカイラインGT-R(S20エンジン)について
最後に短い小ネタを。
 “誉”について、いろいろ調べていく中で、多くの方々が指摘している結論めいたものとして、「零戦などに積まれた定評ある栄エンジン(14気筒)のボア×ストロークはそのままに18気筒化し、回転数、ブースト圧をあげて工夫を凝らしてチューンアップした、レーシング・エンジン的な性格の、デリケートさ(取り扱いの難しさ)があった」エンジンだということだ。誉のベースとなった栄エンジンの約1.3倍の排気量で約2倍の出力を狙ったのだからどうしてもそうなるのだろう。
 アメリカの同時代の2000馬力級エンジンと比べても、“誉20型”のリッター当たり出力が、55.8馬力なのに対して、同じ空冷二列星形18気筒エンジンで、陸軍の爆撃機向きのエンジンといわれたライト社の“R3350は、1943年実戦投入の“R3350-23”で39.6馬力、(下はR3350×4発のB29)
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http://blog-imgs-34.fc2.com/n/a/b/nabe3rr/Boeing_B-29.jpg
 より小径で戦闘機向きと言われたP&W社製“ダブルワスプR2800”も1939年型で43.5馬力に過ぎなかった。(下はR2800エンジン。Wikiより)
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誉はダントツで、ハイチューン・エンジンだったのだ。
 そこで思い出すことが一つある。初代スカイラインGT-R(レース仕様でなく市販車)の“気難しさ”だ。(下は見事に整備された、GT-R用S20エンジンの一例)
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https://plaza.rakuten.co.jp/edigi/diary/200602080003/
 といっても、自分は当時カーグラのテスト記事を追っていただけで、ごく限られた情報の中から受けた印象に過ぎないのだが、以下スカイライン ハードトップ2000GT-R(レギュラー仕様)を谷田部でフルテストした、当時のカーグラの記事より抜粋する。(引用㉓)
『~顧みると、GT-Rに関する限りわれわれはどうもついていなかったということができる。1969年春GT-Rセダンがデビューした直後、直ちに谷田部に持ち込んだが(リポートはC/G90号)、エンジンの不調で5速より4速の方がスピードの出る始末だったし、クラッチ・スリップのため加速テストを中止せざるを得なかった。数日後に修理なったGT-Rを再び借りたところ、何たることか東京は3月としては気象台はじまって以来という大雪に見舞われ、あたらGT-Rは2日間、30cmの積雪に埋もれてしまったのである。(中略)
 前記のように、以前GT-Rセダンを谷田部に持ち込んだ際は、エンジンの整備不十分のため高速域でパワーが出ず、最高速は179.55km/hにとどまった。以来、GT-Rの実力を確認することが、C/G読者に対するわれわれの公約であったし、筆者自身にとってもひとつの執念のようなものとなったのである。
 今回の谷田部テストは、理想に近い条件の下で行うことができた。車の整備状態は完全であり、気象も快晴、ほとんど無風、低温高湿度で申し分ない。
(中略)
 結局、フライング1kmの平均は185.56km/h、5.5kmのラップ平均は風の影響が多少出て184.01km/hであった。これはうえに説明した理由で、レギュラーGT-Rの実力と考えられるが、率直に言ってわれわれの期待を若干下回る者であった。
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 確かにGT-Rは、たとえばファミリアロータリーみたいに直線だけが取り柄のクルマではなかったが、この”若干”低い数値には、読者も失望を通り越して、戸惑いを覚えたものだった。
 そしてこの初代スカイラインGT-Rのエンジン、S20型こそ、あのR380に積まれたGR8型の直系エンジンであることは、言うまでもない。まさに中川の息のかかった、最後のエンジンと言ってよいだろう。思わず“誉”と“S20”をオーバーラップさせてしまった。
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https://carview.yahoo.co.jp/news/market/20190612-10418337-carview/5/#contents
 この記事の約20年後、R32 GTRが出たころ、カーグラは“スカイラインGT-R OLD&NEWという特集を組んだ。その中で小林彰太郎は、「GT-Rに嫌われたぼく」という題の一文を寄せている。(引用㉔)
GT-R(PCG10)とぼくはどうも相性がよくないらしい。それが新車だった当時、何度日産広報から借りてテストしても完調ではなく、また調子がよいときには雪が降ったりして、谷田部で満足すべきデータを採れたためしがなかった。』という文章で始まるのだが、このGT-R特集の中で、“ミスターGT-R”と名乗る四国在住のGTR愛好家が、自身の“改良”GTRを持ち込み、CGのテストに供した。昔のCGデータが不満で仕方がなかったという氏の持ち込んだクルマはまるで別物のようによく走ったそうで、『ぼく(小林)が参ったというと、今夜の酒は美味いでしょうなあと、さも愉快そうに白い歯を見せた。』そうだ。このGT-R愛好家氏の心情はよくわかる。
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 当時のカーグラのテストも、今から読み返せば、雪に災いされた面もあったようだし、思いのほか低速でも粘る、かなりフレキシブルなエンジンだったようだ。全般的に“神経質”そうなクルマだという先入観があったのは、最高速の低さから受けた印象からだったように思える。
 なおGT-Rハードトップのテスト車両は、低圧縮比のレギュラー・ガソリン仕様(ハイオクVerの160馬力に対して155馬力)で、『実際のパワーダウンは5Hp以上のものがあったといわれるから、これが実力だろうとわれわれは慰め合った』(㉔)という。当時“低鉛ガソリン”(92オクタン程度)と呼ばれていた。
 それにしてもこの、オクタン価が低いから性能が出なかったと言う話は、誉みたいで何やら因縁めく。(こじつけ過ぎ? Ⅳ項終わり。)

【参考】
以下の文章は、ほとんどが前間孝則氏著の「悲劇の発動機「誉」(引用③)と、+桂木洋二氏の「歴史の中の中島飛行機」(引用㉕)から引用させていただいた。興味のある方はぜひ原書で確認願います。技術論の部分は省いているが、中島知久平という、時代が生んだ偉人とその会社について、理解の一助になれば幸いだ。
自分から一言だけ付け加えれば、中島が育てた優秀な技術者たちの恩恵をもっとも授かったのが、戦後の自動車産業であろう。そのことの一端を、次回の⑯番目の記事で記しておきたいと思っている。なお、文中に挿入したイラストと機種の解説の多くは、「中島飛行機 物語」よりコピーさせていただいた。感謝します。(下記のwebです。)
http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/nakajima/naka-cont.html

日本の飛行機王、中島知久平
『戦前の軍需企業としての主要航空機メーカーの歴史を見ると、航空機の機体あるいはエンジン分野への進出はほとんどが』大正期である。それも、巨大財閥系化か、あるいはそれに近い企業集団として確固たる経営の基盤をもっている企業がほとんどである。
 それらの大企業は、日本の陸海軍が、航空機先進国である欧米諸国が軍用機に力を入れはじめたことに追随しようとしているのを見定めて、「これは将来、航空機が事業として発展する」と見込んでこの分野への進出を決め、社内に新たな一部門として新設している。
 ところが中島飛行機だけは異色である。創業者の中島知久平は、海軍の技術士官として将来を嘱望されながら三十三歳の若さで軍人を辞して、細々とながら航空機機体の製作会社を立ち上げた。知久平の熱い志からはじまった会社で、今にいう脱サラのベンチャービジネスだった。
(日本の飛行機王、中島知久平。画像はwikiより)
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 群馬県の片田舎の農家出身だった知久平が、航空機の将来性に賭け、同地近くに飛行機研究所を立ち上げたのが大正六(1917)年。その後は政府の空軍力増強という時代の追い風に乗って急発展を遂げ、一代で二五万人(昭和二十年時点)を擁するまでの巨大企業を築き上げることになる。
 知久平は後に社長を辞して、代議士となって大政党の政友会のリーダーとなり、近衛内閣の時に鉄道大臣も経験した。それでも社内では「大社長」と呼ばれて実質的なトップとして君臨し、第二次大戦の敗戦を迎えるまでワンマン体制を敷いた。中島飛行機について語るとき、また「誉」エンジンに着目するとき、彼を抜きにして語れない。
 知久平の考え方は、中島飛行機の経営理念や軍部とのつながり方、新機種の開発戦略や設計思想、人材配置などすべてにわたり、すみずみまで深く浸透していた。知久平は絶対的存在であり、中島飛行機という企業に、また、「誉」に、直接的あるいは間接的にさまざまな影を投げかけている。
 日本において国を代表するような一大企業を築き上げた一連の創業者を思い浮かべても、その経験が元軍人で大物政治家でもあったという例はきわめてめずらしい。その点においても知久平は稀有な存在であり、また異色の存在でもあった。
 また巨大航空機メーカーを一代で築き上げたことで、知久平はいつしか「日本の航空機王」と呼ばれるようになる。』
中島知久平の信条
『そんな知久平の真骨頂は、その時代時代において、誰にもまして、先を見通しながら大胆な賭けをともなう決断を行い、その目的に向かって旺盛な行動力で突き進んでいく姿勢であろう。その時代の常識的な見方には目もくれず、危ぶむ周囲の意見や批判にもほとんど耳を貸すことなく、自信満々、あるいは自信過剰なまでの泰然とした姿勢で臨む。徹底的なプラス思考である。
たしかに「創業は衆に諮らず」との格言もあるが、周囲の人々は彼の行動を見て、「はたしてこの人物はリスクというものを考慮に入れているのだろうか」と疑いたくなるほどであったという。』
航空機専業の巨大軍需企業
『航空機専業メーカーで、大きく発展を遂げた企業といえば、日本の航空100年の歴史において中島飛行機一社のみであった。
 軍用機専業メーカーとしての中島飛行機の成功は、知久平の特異な資質を抜きには語れない。
 その第一は、民生品の事業では考えられないほど大胆というか向こう見ずなまでの決断力である。第二は、資金調達能力であり、第三は、軍および政府への食い込みによるコネクションづくりのうまさであった。
 知久平は、政治力の不足を痛感していた。明治の時代から、政界や軍部に深く食い込んで「国家とともに歩んできた」総合メーカーの三菱など財閥系企業と比べれば、明白である。それゆえ、より軍部との密接な関係を強め、政商一体の経営体制を築こうとした。
 戦前の航空機メーカーが生産する航空機はほとんどが軍用機であって、いわゆる軍需企業である。このため、市場原理で動く民生品を生産する民間企業とはおのずと行動様式や経営の性格が異なる。
 現在の日本には軍需専門の巨大企業は存在しない。それだけに、今の時代の巨大企業トップの行動基準から、経営者としての中島知久平に迫ろうとしても、その真髄を捉えることは難しいだろう。しかも、中島飛行機は他の航空機メーカーと違って、航空機専業のメーカーであった。三菱や川崎、石川島などの航空機メーカーはいずれも総合重機械工業であって、航空機生産は数ある事業部門の一つでしかない。』
中島知久平の経営理念
『常日頃から知久平は次のような経営信条を口にしていた。
「経営の根本義は良い品を作ることにある。いかにそろばんに妙を得ても製品が粗悪では工場はつぶれる。これはあらゆる製造業に通ずる鉄則であり、特に飛行機を造ることに営々として性能の優れたものを生産しておりさえすれば、営利は無視しても自然に大をなすことができる」(佐久間一郎伝)
 このような経営姿勢は軍を相手の受注競争では有利に働くが、マイナス面も多くあった。
 他社と比べて、できるだけ陸海軍双方からの要望や要求に沿うかたちでの新鋭機開発が行われるために、無理強いされて容易に試作されがちで、その数もやたら増えて、失敗作が目立っていた。』
日本の航空史;外国機の模倣期⦅1915~1931年頃⦆
『一般に戦前日本の航空史を区分すると、明治末から大正四(1915)年頃までの欧米機輸入時代を「揺籃期」と呼んでいる。中島飛行機が創業をスタートさせた大正五(1915)年頃から、昭和六(1931)年頃までを「外国機の模倣期」と呼んでいる。
(下は、陸軍九一式戦闘機。空冷9気筒「中島ジュピター」7型450馬力を搭載していた。)
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 海軍航空技術廠の大築志夫技術士官はこの「模倣期」について次のように記している。
「海軍の試作計画は昭和六、七年頃迄は確固独立のものではなく、漠然とした要求-設計技術が十分にできておらなかったために、実現可能範囲と作戦上の要求とを、はっきり検討することができなかった-に基き、そのタイプモデルを外国の既成機にも求め、これをやや日本的に改造して要求を決める程度であった。そしてこの頃は作戦的に要求の酷似している米国から購入することが最も多かった』(「日本航空学術史」「海軍航空技術研究機関の活動」)
(下は、中島 三式2号 艦上戦闘機。中島ジュピター7 450馬力搭載。)
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日本の航空史;自主開発政策による自立期⦅1932~1945年⦆
 昭和六年九月、満州事変が勃発して戦闘が拡大、日本は国際的な非難を浴びて孤立化の道を歩み、軍事情勢が緊迫化するなか、陸海軍は航空機の自主開発政策を推し進めることになるが、これ以降を「自立期」と呼んでいる。
 だが、自主開発による自立化とはいっても、急に実現できるわけではない。実際は、評価の高い外国機の技術導入によるライセンス生産がますますさかんとなって、その数を増していた。それら外国の機体やエンジンを模倣したり、異なるメーカーの数機種のいいところだけを真似て国産機を設計し、生産する方式が主流だった。
 いつの時代でも、技術は一足飛びに飛躍するものではない。自主開発といっても、なにもかもが新しくて、独創的な自前技術ですべて設計することなど、あり得ない。外国のメーカーも多かれ少なかれ、世界で発表されている評価の高い製品の技術を盗んだり真似したり、あるいはそれをベースにして独自の技術も盛り込んで発展させて新機種を開発する。
 ただし日本ほど極端ではない。みずからの伝統やオリジナリティも大事にしていたし、独創性を重んじる風土があってプライドもあった。それが工業先進国と後発国の違いであり、モノづくりに対する伝統や文化の違いである。
 日本が軍用機の性能面で航空機先進国に追いついたとされるのは、昭和十年代に開発された海軍の九六式艦上戦闘機や
(下は、中島製“寿”エンジン搭載の三菱 九六式二号艦上戦闘機)
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陸軍の九七式戦闘機(下は同じく中島製“寿”エンジン搭載の中島 九七式戦闘機)
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あたりであるといわれている。(下は、中島97式艦上攻撃機。ハセガワのプラモデルの絵)
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 とはいえ、航空機産業を支える部品や材料、電気、化学分野などの周辺工業はまだ十分に育っておらず、またその裾野は狭くて基盤は第二次大戦の終わりまで脆弱であった。』

東京帝大工学部卒の若手技術者に多大な期待をかけた
『中島知久平は、みずからの技術知識あるいはモノづくりのセンスの不十分さを自覚するとともに、日本の航空技術の水準の低さも認識していた。その思いもあってか、帝国大学で最新の工学を学んできた新卒者に過大な期待をかけ、ことのほか優遇した。
 この志向は、伝統も歴史もある財閥系あるいは総合重工業(造船業)傘下の航空機メーカーである三菱や川崎などよりもはるかに強く、際立っていた。
 日本のトップ企業である三菱重工などには、東京帝国大学工学部も含めた主要な帝国大学工学部卒などの優秀な技術者がごろごろいた。
(上から順番に、三菱の 零式艦上戦闘機と、九六式陸上攻撃機と、一式陸上攻撃機。絵はいずれもハセガワのプラモデルのもの)
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http://www.hasegawa-model.co.jp/hsite/wp-content/uploads/2014/02/jt42pk.jpg
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http://www.hs-tamtam.co.jp/media/catalog/product/cache/1/image/1200x/040ec09b1e35df139433887a97daa66f/4/9/4967834021037_2.jpg
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それに引き換え、中島飛行機の創業時のメンバーをみると、飛行機の製作を担当した栗原金吾がただ一人、大正四(1915)年三月、東北帝国大学専門部機械科を卒業していた。あとの幹部はいずれも低い学歴で、いわば現場の叩き上げであった。大正十年代前半まで、中島飛行機は規模も小さく、世間の評価も知名度も高くはなかったため、帝国大学卒業者を採用することができなかったのである。
 知久平自身、海軍機関学校卒で、帝国大学工学部のような高度な工学教育を受けたわけではない。こうしたコンプレックスもあってか、帝国大学の工学教育をやたら理想化して高く評価していた。」
『また、一日も早く航空機先進国に追いつきたいとの思いから出た知久平の方針でもあった。優秀な新入社員に大きな権限を与えて思う存分に力を発揮させて能力を伸ばし、総合メーカーに打ち勝っていこうとしたのである。
 中島飛行機では、帝大工学部卒業者の多くが設計部に配属された。航空機の優劣を決める決定的な要素は設計にあると見ていたからだ。これは知久平が海軍時代に身につけた、日本海軍の特徴である技術至上主義、性能第一主義に基づいていた。
 帝大工学部卒業者を優遇しての技術優先、設計重視、性能第一主義を打ち出したのだった。こうした考え方は、知久平のワンマン体制によって社内に徹底されていたため、事務系の従業員のあきらめも含めた嫉妬を生み、社内組織あるいは経営上のひずみまで生じさせることになるが、それもまた中島飛行機らしさであった。』
(画像は、東京帝国大学航空研究所の長距離飛行用実験機の“航研機” 製作は東京瓦斯電気工業(日野自動車の前身)による)
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『しかし、エンジン自主開発に関しての中島飛行機のやり方は、かなり特殊なものということができる。中島知久平がエンジン自主開発の大号令をかけたのは1926年(大正15年)のことだった。そして、設計主任にはその春に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業したばかりの田中正利を任命した。中島飛行機は、優秀な若い技術者にどしどしチャンスを与え、進取の気性に富んでいるのが伝統であるといわれたが、そのもとをつくったのは当然のことながら中島知久平だった。中島飛行機は設計がオールマイティであるという思想が流れており、貴重な存在である大学出の技術者はほとんど設計にまわされた。若い技術者に仕事を任せ、責任と誇りを持たせるのが中島知久平のやり方だった。』(引用㉕)
『中島飛行機に初めての学卒者が入社したのは大正十三(1924)年。そのときの従業員数は三百人ほどに膨らんでいた。この年、入社したのは吉田孝雄で東京帝国大学航空科卒業(第二回卒)では民間会社就職第一号であった。
 着任初日の大歓迎ぶりは滑稽なほど盛大なもので、吉田が東武鉄道で工場の最寄りの駅となる大田に到着すると、駅前には会社の幹部ら一同がずらりと並んで出迎え、加えて太田の住民までが提灯行列で歓迎の意を表したのである。帝国大学工学部卒業者に対する期待はそれほど大きかったのだ。
 吉田は当時を、「航空科出身なら、飛行機のことはなんでも知っているだろう」と思われ、面食らったという。
 だが、日本の帝国大学の工学系は、理論ばかり教えることで有名である。大学を卒業したばかりの新入社員は、理論でいっぱいの頭でっかちであり、実際的な飛行機づくりモノづくりに関してはほとんど素人にすぎないだけに、彼らは困惑して数々の失敗や珍事を生み出すことになる。
 海軍航空本部や航空技術廠の部員で、戦時中は四年間ほどドイツに駐在していたこともある巌谷英一元技術中佐は「航空技術の全貌」のなかで反省を込めて記している。
「海軍の航空技術廠は(中略)高性能に憧れ、所謂性能偏重方針を固執し、研究者設計者に非ざれば、技術者に非ずの風潮を生じ、遂にはこれが大学の学生にまで影響して、現場軽視の弊風が官民の航空工業に根強く植え付けられた。「設計偏重」の中島知久平も同様であった。』
『中島飛行機のエンジン部門には、昭和二(1927)年に帝国大学卒が二人入社した。その後は「昭和恐慌」による不況の時代が長引いて、毎年一名ずつになったが、航空機生産が急増してくる昭和十一(1936)年には一挙に増えて、中川良一ら四名が入社した。翌年はさらに六名に増えたが、七割は東京帝大だった。ちなみに、昭和十三年以降の学卒の採用人数は一挙に増えて二十名近くにもなった。入社して最初の三年間は毎年十五円の昇給があり、その後は十円ずつになり、八年すると課長になるのが慣例となっていた。大学も学部も中川と同期で中島飛行機に入社した水谷は語った。
「中島飛行機はなんでも好きな仕事をやらせてくれ、明るくて自由な雰囲気があり、三菱や東京瓦斯電気より給料も良かったので、伝統あるこの二社よりも人気が高かった。」
 東京帝大機械工学科の求人掲示板には「成績二番までのもの一名」と貼り出されたという。優秀な学生を集めることができ、その意味では知久平の戦略は功を奏していたといえるが、半面、中島飛行機の“事務屋”からは「うちの会社では、技術屋でなければ社員ではない」といったひがみや妬みをかっていたという。
 東京帝国大学機械科を卒業してわずか三年半ほどしかたっていない中川を主任設計者として、海軍がすべてを賭けたといわれる「誉」エンジンの開発をまかせたのであるが、こうした決定は中島飛行機では別にめずらしいことではなかった。」
(下は中島 B6N 艦上攻撃機 天山。中島製“護”と、後に三菱の“火星”エンジンが搭載された。)
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http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/cl-pln6/images8/Tenzan1.jpg

なお参考までに、ある資料によれば、昭和13年頃、東京近辺の工学部機械専攻の卒業生は、東工大が25人、東大が85人、あと早稲田、日大を合わせても合計で150人ぐらいしかいなかったという。
以上



― 以下引用元一覧 ―
①:「エンジン設計のキーポイント探求」岡本和理 (私家版 非売品) 引用先は「荻窪FG会」さん https://ogikubofgkai.web.fc2.com/index.html
②:「自動車用エンジンの性能と歴史」岡本和理(1991.07)グランプリ出版
③:「悲劇の発動機「誉」」前間孝則(2015.04)草思社文庫
④:「ガソリンに添加するテトラエチル鉛開発の歴史」モーターファン・イラストレーテッド(2012.08)三栄書房
⑤:「技術者たちの敗戦」前間孝則(2013.08)草思社文庫
⑥:「「マン・マシンの昭和伝説 航空機から自動車へ 上」前間孝則(1996.02)講談社文庫
⑦:「マン・マシンの昭和伝説 航空機から自動車へ 下」前間孝則(1993.07)講談社
⑧:「激闘 ‘60年代の日本グランプリ」桂木洋二(1995.05)グランプリ出版
⑨:「マイ・ワンダフル・サーキットⅡ 鈴鹿から世界へ」web
https://f1-stinger2.com/special/mwc/chapter02/talk28/
⑩:「“追憶の日本グランプリ”日本モーター・スポーツ史の夜明け」web
http://www.mmjp.or.jp/60srace/1963JAPANGP.html
⑪:「かつて『三大自動車メーカー』と呼ばれていたいすゞが描いた夢とは?フルサイズセダンのベレルを知っていますか?」web Motorz
https://motorz.jp/race/60361/
⑫:「1962年のF1モナコグランプリを70mmフィルムで記録した超高画質カラー映像」webディリィ・ニュース・エィジェンシィ(DNA)
https://dailynewsagency.com/2018/05/07/monaco-grand-prix-1962-high-hfg/
⑬:「石橋家に伝わる車」カーグラフィック 二玄社
⑭:「日本における自動車の世紀」桂木洋二(1999.08)グランプリ出版
⑮:「NP合併についての一考察」山田徹 経営研究 第15巻第2号(平成13年12月)
file:///C:/Users/hirokun/Downloads/KJ00004862637%20(1).pdf
⑯:「日産とプリンス 合併の裏で Part3 プリンスを手放した石橋正二郎の思惑」ブログ“フィアット500大作戦!!”
https://gianni-agnelli.hatenadiary.org/entry/20130210/1360499406
⑰:「プリンス自動車 - 外山保/石橋正二郎」
https://database-meian.jp/tse/7201b.html
⑱:「住友銀行 - トヨタ自動車との確執」wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8F%E5%8F%8B%E9%8A%80%E8%A1%8C
⑲:「決断(業界再編⓵フォード、プリンス)」豊田英二 (2000.11)日経ビジネス人文庫
⑳:「S-PROJECT 学習のすすめ 世界のトヨタに学ぶ」
http://sproject.jp/」
㉑:「ぼくの日本自動車史」徳大寺有恒(2011.06)草思社文庫
㉒:「間違いじゃなかったクルマ選び」徳大寺有恒(2009.10)二玄社
㉓:「ROAD TESTニッサン スカイライン ハードトップ 2000GT-R」カーグラフィック 二玄社
㉔:「GT-Rに嫌われたぼく 小林彰太郎」カーグラフィック 二玄社
㉕:「歴史のなかの中島飛行機」桂木洋二(2002.04)グランプリ出版
㉖:「時流の先へ トヨタの系譜」中日新聞経済部編 (2015.04)中日新聞社

⑭ 第3回日本グランプリ(1966年)               再び“プリンス(R380)対ポルシェ(906;カレラ6)”

第3回日本グランプリは、本来ならば1965年5月に鈴鹿で開催される予定だったが、JAFと鈴鹿サーキットの交渉が金額&メンツ等で決裂したため、1年のブランクの後の1966年、舞台を富士スピードウェイに移しての開催となった。
まずは概要から、主に引用⓵とwikiよりまとめた。でも動画をご覧いただくのが手っ取り早いので、リンクをはっておきます。「第3回日本グランプリの動画」
https://www.youtube.com/watch?v=FQWjSlB8f4I
(以下は例によって敬称略、引用箇所は青字で、引用もしくは参照先は番号をふって文末にまとめて記載し、画像のコピペ先は写真の下に記載。なお全くの個人的な見解(いつものように“妄想”レベルのものも含む)についてはあくまで“私見”だと明記してあるので気に障る方は無視して読み飛ばしてください。なお、引用箇所に少しでも興味のある方はぜひともオリジナルである原書を買ってお読みください。)

1.レースの概要
第3回日本GPから、今まで車種・排気量ごとに細かく分けていたレース方式を廃止して、60周(360km)のグランプリはメインレースに一本化し、サポートレースは特殊ツーリングとグランドツーリングの2レースだけで、レースは1日で行われることになった。
グループ6カーによるメインレースは、プリンスは国産初のプロトタイプレーシングカーのR380を4台(生沢徹、砂子儀一、横山達、大石秀夫)投入。
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https://www3.nissan.co.jp/crossing/jp/exhibition_vehicle_10.html
トヨタはヤマハと共同開発した2000GTのプロトタイプをレース仕様に改造。
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https://www.webcartop.jp/2017/06/115280/2
日産は前哨戦の全日本クラブマンレースに続き、6気筒DOHCエンジン(これもトヨタ2000GT以前にヤマハと協業したもの)を搭載するフェアレディS(北野元)で参戦した。
外国車に乗るプライベーター勢の中では、滝進太郎のポルシェ906が注目された。第2回大会のGTクラスでポルシェ・904にプリンス・スカイラインGTが敗れたことからR380が誕生したという経緯があり、ポルシェ対プリンスの再対決に関心が集まった。(下はポルシェ906)
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https://octane.jp/articles/detail/2182
 レースは生沢のR380のリードで始まったが、2周目に砂子のR380が生沢を抜いてトップに立ち、マシンの不調でペースが上がらない生沢は数周にわたり滝の906を執拗にブロックし、チームメイトの砂子を逃がす役割を務めた。
滝は6周目にようやく生沢をかわすと砂子を追い上げ、25周目にトップに立った。8秒ほどリードして31周目にピットインしたが、この給油作業のロスタイムが勝敗に大きく影響した。滝のチームはプライベートチームの悲しさで、ポリタンクから給油したため約55秒を要したのに対し、37周目にピットインした砂子はプリンス陣営が準備した秘密兵器、“重力式スピード給油装置”の効果で15秒たらずで作業終了。ピットワークでトップを奪い返してコースに復帰した。この40秒の差を取り戻すべく滝は猛迫するのだが、42周最終コーナーでオイルに乗りスピン、ガードレールへとクラッシュしてしまう。生沢は46周目にギアトラブルでストップ。最終コーナーからピットまでマシンを押して戻る生沢に対して、健闘を讃える拍手とブロック走行を非難する罵声が浴びせられた。
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画像はwikiより
 砂子は独走状態で60周を走破して優勝した。プリンスワークスは1、2、4位という好成績を収めた。3位は無給油作戦を実行した細谷四方洋(トヨタ)。予選ポールポジションの北野(日産)はエンジントラブルでリタイアした。
日本初の本格的なレーシングカーとなったプリンスR380は、性能面ではポルシェ906に劣っていたが、チームプレーや給油を含むピットワーク、それに豊富な練習量で補い、ワークスとプライベーターの総合力の差が結果に表れた。この時すでにプリンス自動車は日産自動車に吸収合併されることが決まっており、プリンスとしての最後の大舞台を勝利で締めくくった。下は懐かしいプリンスのマーク。
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https://minkara.carview.co.jp/userid/1054261/blog/38603719/
 前回の第2回日本GPで確執のあった生沢と砂子だが、この第3回GPで生沢はマシンの不調もあり首位の砂子を逃がすためのブロック役という、地味なチームプレイに徹した。このことについて砂子は『~私は表彰台の真ん中で幸せを噛みしめた。そしてチームプレーに徹し、ブロック役という、言わば憎まれ役に回ってくれた生沢氏にも感謝した。』と語っている。(引用①)

2.勝敗の分かれ目
 上記のように、勝敗を決したのはレース途中の20ℓの給油時間であった。ここでプリンス陣営の開発した秘密兵器?“重力式スピード給油装置”について補足説明すると『このレースのレギュレーションでは、2ℓクラスのマシーンの場合、燃料タンクの容量が100ℓに制限されたため、給油を行わずに完走するには3.6km/ℓ以上の燃費が要求される計算になる。R380の燃費は、2分04秒台で約3km/ℓ、12~13秒台まで落とせば給油せずに完走できる見込みはあったが、ポルシェ906という強敵の存在を考えるととてもここまでは落せず、結局レース途中に燃料を補給することに決め、給油時間を短縮する方法が検討された。
レギュレーションではまた、ポンプ類による燃料の圧送を禁止していた。そこでプリンスの技術陣は、ピットの天井近くの高い位置にタンクを配置し、そこから太いホースを通じてマシーンのタンクに燃料を注入する、いわゆる重力式の給油装置を製作し、さらに給油の練習を重ねるなどして、結果的にこの周到な準備がレースで大いに物をいうことになったのである。』
(引用②)非常に泥臭い戦術だが、費用対効果は大きかった!
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https://www.chubu-jihan.com/subaru/news_list.php?page=contents&id=314&block=2
 ちなみに『この作戦はトップシークレットで、サーキットでは練習せずに荻窪工場内でこっそり行われていた。なんと私(注;生沢とともにプリンスのワークスドライバーのエース格だった砂子儀一)がこの給油装置を知ったのは日本グランプリ決勝当日のドライバーミーティングの時というぐらい、極秘作戦だった』(引用①)そうだ。

3.プリンス陣営の“秘策”(ただし未遂に終わる)
 プリンス陣営はこれとは別に、対ポルシェ優勝阻止で大胆不敵な作戦も考えていた。以下③より引用。
『「何としてもポルシェ906を購入せよ」
プリンスR380プロジェクトの一員だった武井道男にあまり気乗りしない命が伝えられたのは1966年の春のことだった。5月に迫った第3回日本グランプリに向け、万全の体制を整えていたプリンスチームにとって、ポルシェ906参戦のニュースは悪夢以外の何物でもない。かつてスカイラインGTのデビューウィンを904に阻止され、ポルシェの底力を思い知らされた記憶はトラウマとなって疼いているのである。(中略)三和自動車経由で906を注文したのは滝進太郎。カレラ6こそはプライベーターがワークスに一泡吹かせる秘密兵器にほかならない。
(下は906に乗る滝進太郎)
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https://octane.jp/articles/detail/2182
「それをプリンスが買って、レースに出走させないというのだから無茶な話ですよ。ポルシェの知り合いに訊いてみましたが、結局、時間切れで906はタキレーシングの手に渡ることになりました。」(武井)』(下の写真はポルシェ906がライバルとして意識した、フェラーリ ディーノ206(2ℓのV6。世界基準では当然ながらライバルはR380ではなくフェラーリだった。)
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http://www.vistanet.co.jp/museum/f206s.html
 これはなかなか、ウルトラC級の作戦だ!目的は出場阻止と同時に、その後のポルシェ製レーシングカーの基礎を築いた傑作、906の調査もあっただろう。下の写真はフェルディナント・ポルシェとふたりの孫。右が若き日に906をデザインし先ごろ亡くなったフェルディナント・ピエヒ。
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https://clicccar.com/2019/09/12/910949/
ちなみに904に比べて906で大きく進化したのは空力特性で、以下③より引用
『906のカウルデザインにはピエヒによってK理論が採用されています。これは高さと長さの比が1:6のときにもっとも空気抵抗が小さいという理論で、飛行機の設計に用いられていたものです。906はK理論を最初に採用したレーシングカーで、それまでいかに空気抵抗を小さくするかだけに注意が向けられていたのを、ダウンフォースによる操縦安定性を加味した意味で画期的といえるでしょうね』(前記の武井氏)
 話は脱線して、ここからは余談(私見)になるが、60年代の日本グランプリについて、第1回と第2回GPでトヨタ自販が仕掛けた(主に)対プリンスつぶしの作戦があまりに鮮烈かつ効果抜群だったので、“トヨタはプリンス(ニッサン)陣営に比べて裏で汚い手を使う”という風評があるが、その後のGPの経過をたどれば、自分は実際のところ、五十歩百歩だったと思う(個人の見解です)。
 正確に記せば、第1、2回GPについては確かにトヨタ自販はそう(汚い手を使った)だったが、トヨタのレース分野の担当が自販からトヨタ自工主導に移った第3回GP以降について言えば、立場が逆転したと思う。68年GP(注;68年GPから開催数から年度表記に変わった)の3ℓトヨタ7に対抗するため、5.5ℓシヴォレーエンジンを搭載したニッサンR381シヴォレーや、69年GPの5ℓトヨタ7に対抗するため+1000ccの余裕(まるでサニーがカローラに販売面で+100ccの差で劣勢に立たされた、意趣返しのように)を持たせた6ℓR382など、確かにルール違反ではないが、T対Nのガチンコ勝負を期待していたファン目線からすれば、ニッサン(旧プリンス主導)陣営の“だまし討ち”的な、手段を選ばず勝ちに行く姿勢の方に余裕の無さというか、あさましさを感じた。(下はニッサンR381シヴォレー)
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https://mjlab.ko-co.jp/e161171.html
 まったくの偏見で言えば、第2回GPのいきなりのポルシェ904登場などは、まるで推理小説みたいな知的なゲーム感覚が感じられるが、R381やR382については、シテヤラレタというよりも、むしろ軍隊的な奇襲作戦のように感じてしまう。櫻井は68年GPのR381について、苦し気に『逃げるわけにはいかない』からと弁明していたようだが(引用⑤)、いくら5ℓV12の内製GRX-1エンジンが間に合わないからといっても、なにか他に策は考えられなかったのだろうか。
 そこで自分なりに代替案をだせば?(後出しジャンケンみたいなイー加減な話ですが!)たとえばR380(68年GP向けなのでR381世代のバージョン)と同時代に、本場の世界スポーツカー選手権でポルシェ910と同じ2ℓクラスで戦ったアルファロメオのティーポ33がある。当初2000ccバージョン(ちなみにV8)でデビューしたが、後に2500ccバージョンも追加した。下の写真の車もそうだ。
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https://www.girardo.com/available/1968-alfa-romeo-tipo-33-2-daytona_0/
さらにその後3ℓバージョンに進化し、王者ポルシェ908の牙城まで迫るのだが、(下の写真はそのtipo33/3.1971年のメイクス選手権ではブランズハッチ、タルガフローリオ、ワトキンスグレンと3勝を挙げ、他にも2位2回、3位3回と安定した強さを見せ、ポルシェに次ぐシリーズ2位の座に就いた。)
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https://www.webcartop.jp/2017/06/121898/3
R380も2.5ℓバージョンでも作り(5ℓV12の片割れだと考えれば、そんなに難しくはなかったはずだとド素人判断では思うのだが?まして先行開発だと思えば無駄にもならず??…)、3ℓのトヨタ7に対抗すれば、トヨタとニッサンのドライバーの腕の差(言うまでもなく日産勢が圧倒的に有利だった)+3ℓトヨタ7の出来の悪さを考えれば十分良い勝負になったと思うのだが。
68年日本GPバージョンのR381は例えていうならば、中島飛行機製の機体に、アメリカのP&W製エンジン(誉(中島飛行機)の技術的な流れからすればカーチス・ライト社になろうがエンジンの製造をやめてしまったので)でも積んだかのようで、“エンジンこそ命”だったプリンスからすれば“魂”を譲り渡した抜け殻のようだ。それにトヨタ7より500cc少ない排気量で打ち破ってこそ、うたい文句の“技術のニッサン(プリンス)”を証明できたはずだ。これではトヨタ陣営目線で言えば、第2回GPでポルシェ904の登場に思わず櫻井が叫んだ“あんなことが許されるなら技術の競争など無意味になってしまう。やることが汚いぞ!”に他ならないと思うのだが。(飛び道具的な二分割ウィングがパタパタと動くことで視覚的に騙されてしまう?)
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https://a248.e.akamai.net/autoc-one.jp/image/images/1580369/034_o.jpg
繰り返し引用される逸話として、トヨタのモータースポーツ史の語り部でもある細谷四方洋が、当時の豊田英二社長に「トヨタもベンツとかのエンジン買って搭載しますか」と軽く言ったところ「トヨタがレースを行うのは技術の開発と蓄積を行うのが目的。将来はガラスとタイヤを除きすべての部品を自前で作る」とビシッと返されたという有名な話があるが、ニッサン陣営(の特に旧プリンス系)は二の句が継げない言葉だろう。ただ“櫻井一家”にも苦しい事情があったようだ。以下はR382の時の話だが、⑩より引用。
『~予選では三車(注;R382と5ℓトヨタ7とポルシェ917(4.5ℓ))とも横並びで、勝者はわからないといわれた。だが、日産の川又克二社長からは、二位はない、絶対に優勝しろ、といわれていたから、勝つしか道は残されていなかったのである。そこで櫻井たちは何度も対応策を協議した。
 みんな気が気でなかったが、櫻井は同僚や部下たちにも知らせず、用意周到に対応策を講じていた。考えた作戦は、R382のエンジン排気量を引き上げ、パワーで押し切ることだ。』

 余談になるが自動車レースは当時は今以上に、勝負の結果が販売に結びついたため、経営トップからのプレッシャーはどこの国でも同じようだった。フェラーリの買収話が破談となり、自社開発で巨費を投じてル・マン24時間レースに挑戦したものの2年連続で惨敗したフォード帝国の最高経営責任者、ヘンリー・フォード2世が、部下たちに投じたメッセージもなかなか強烈だった。(以下引用⑫)
1965年の夏の終わり、ヘンリー2世は各部署のトップに1枚のカードを送った。
彼らは、初めてそのカードを見たときの衝撃を忘れない。
カードにはル・マンのステッカーが貼られ、短いメッセージが添えられていた。
                       「勝ったほうが身のためだ」
                                 ヘンリー・フォード2世  
』 
このメッセージが功を奏したのかわからぬが、フォードは翌1966年から4年連続でル・マンを制することになる。(下はヘンリー・フォード2世(ヘンリー・フォードの孫、エドゼル・フォードの息子。))
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 話を戻し、このあたりのお家の事情と、宗旨替えせざるを得なかった櫻井の真意(の推測)も含め、R381以降とトヨタ7、そして両陣営の“幻のCAN-AM参戦計画”も合わせてこの記事の2つ後(たぶん?)の、“北野元編”でより詳しく触れる予定だ。以上、私見だらけの余談でした。

4.プリンス(ニッサン)R38×シリーズの“生みの親”
 今回の記事の一連のテーマは、チームやマシンが主役ではなく、あくまで “ドライバー目線”でレースを語ることだが、この第3回日本GPに関してだけは、ドライバーよりも主役はやはり、打倒ポルシェ904を目標に国産初の本格的なレーシングカーとして登場し、ワークスの強みがあったにせよ、昨年の雪辱を果たし見事優勝したプリンスR380そのものであろう。
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https://www.imgrum.pw/tag/princer380a1
当初のターゲットは第2回GPを制したポルシェ904であったが、日本GPが1年延期となり、その間に出てきた後継機種のポルシェ906との競合となってしまったため、906との性能比較では劣勢だったが、日本人がゼロから作り上げた、本格的な国産レーシングカー1号車としてみれば、そのプロフェッショナルな出来栄えは、同時期のホンダF1マシンのRA271/RA272(画像は64年のRA271、wikiより)とともに、高く評価されてしかるべきだと思う。
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これは私見だが、1970年に日本GPが中止となるまでの、プリンス/ニッサン、トヨタが日本GPを舞台にもっとも激しく激突し戦った、あの時代の数々の国産レーシングカーのなかでも、第3回日本GPに勝利した初代プリンスR380こそ、もっとも意義のあるクルマ(その意味での名車。ただし国内で戦ったマシンという限定付きで。限定ナシとなればやはり、1965年のF1シーズン最終戦のメキシコGPで優勝したホンダRA272か。画像はRA272でwikiより)だったと思う。(異論もあると思いますが。)。
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少なくとも同じ時点で、トヨタやニッサンでは実現不可能な仕事を成し遂げたと思う。そしてその開発の実務的な取りまとめ役は言うまでもなく、類稀なる情熱で“チーム櫻井(櫻井一家)”を引っ張った櫻井眞一郎で、やはりその功績は大きい。(下は”育ての親”?櫻井眞一郎)
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http://since1957.blog130.fc2.com/blog-entry-24.html
 このR380については、ほぼ同時に語られる“櫻井眞一郎伝説”とともに、すでに語り尽くされた感もあり、第2回日本GP編が長くなりすぎたこともあったので、第3回日本グランプリは自動車雑誌の記事をベースに、軽~くまとめて終える予定だった。なにせイーカゲン急がないと、本題の“日産三羽烏”のまだ誰にもたどり着いていないので!
ところが、改めていろいろと調べていくうちに、どうも自動車系のメディアはプリンス(ニッサン)R38×伝説の “源流” まで辿らずに語っている気がしてきた。(以下は私見です)
 R38×伝説の、本当の立役者は、表の看板役として、マスメディア及びニッサン自身に宣伝のため半ば祭り上げられたようにも感じられる櫻井眞一郎ではなく、やはりどうみても当時プリンス自動車の技術部門の責任者として櫻井に指示して作らせた、中川良一常務本人のように自分には思える。この後から記すが、R380の成り立ちを簡単に記せば、中島飛行機時代のエンジン開発の魂が色濃く宿るDOHC4バルブのレーシングエンジンを、ブラバムの協力を得て製作したシャシーに載せたものと言える(これも私見です)。この件については、この記事の7項で詳しく触れたいが、R38×計画を通じて、プリンス自動車の技術と、そしてエンジン設計者としての自らの力を、日本と世界に向けて示したいというのが、中川の構想ではなかったかと思う(これまた私見です)。(下は”生みの親”?中川良一)
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https://minkara.carview.co.jp/userid/1949099/blog/37642366/
 それでは話を戻してまずは手始めに、自動車雑誌が語る範囲で、プリンスR380が成功したポイントを自分なりに手短にまとめてみる。例によって参考にした本から引用する形となるが、興味ある方はぜひ、実際に買ってお読みください。

- R380成功のポイント -
5.中島飛行機の“魂”が宿っていた
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https://nissangallery.jp/ghq/r380-1_201807/
 プリンスでR380の開発がプリンス自工内でスタートしたのは、正式には1964年初夏の役員会だが、実質的には第2回日本GPに惜敗した直後の1964年5月に、打倒ポルシェ904の戦闘モードにすでに入っていた櫻井らの手によって、きわめて迅速に動き始めていた。思い返せば1964年といえば戦後から数えてまだ19年目のことである。プリンス自動車は旧立川飛行機系(機体分野)と、旧中島飛行機系(の原動機部門)を源流としていたが、主流派は原動機部門のように感じられる。中島は戦時中は日本最大級の規模(一説には25万人以上!)を誇り、日本の産業界の叡智の結晶とも言えた。そしてプリンスR380開発の時代には、航空機産業を支えた技術者たちの血流が、まだ脈々とたぎっていた。(下は中島飛行機の“栄”エンジン)
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http://stella55.cocolog-nifty.com/blog/2006/10/post_a3d5.html
 彼らは、サーキットを疾走する戦闘機のようなレーシングカー作りに、思いの丈をぶつけた。以下、時折トヨタと対比を行いながら見ていきたい。④より引用する。
『~同じ時期につくられたレーシングカーとしては、やはりプリンスR380だけが頭抜けたポテンシャルであった。これは第二回日本グランプリで、スカイライン2000GTがポルシェ904に敗れたことによって、つくられることになったものだった。2000GTを開発した技術者にとって、同じ土俵の上での勝負なら望むところであるのに、ヨーロッパから格上のマシンを急遽取り寄せて、前に立ちはだかったことに対する反発が強かった。よし、それならポルシェ904に負けないマシンをつくってやろうということになった。第一回グランプリでもトヨタにしてやられ、さらに第二回でもトヨタ自販がバックアップして出場したポルシェに苦杯をなめさせられたことが、プリンスの技術者の闘争心を大いに刺激したのである。』(打倒904!櫻井の下で一丸となる)
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http://www.sportwagen.fr/guide-porsche-904-carrera-gts.html
引用を続ける。『中島飛行機を前身にもつプリンス自動車は、こうした目標ができれば全社が一丸となって進む会社であった。敵との戦いに性能で勝つことが求められる戦闘機の開発・製造のためにつくられた会社だった中島飛行機は、終戦によって分断され、自動車メーカーとしては富士重工とプリンス自動車に別れることになったが、プリンスには多くの航空技術者がおり、戦時中の技術者魂が脈々と受け継がれていた。終戦から20年近くたった当時、車両開発の首脳陣はそうした技術者によって占められていた。
会社の規模がトヨタやニッサンよりはるかに小さかったにもかかわらず、トヨタやニッサンができなかった本格的なレーシングカーにいちはやく取り組んだのは、生産者の開発と同時に進行させる、いってみれば特命プロジェクトであったからだ。このため、開発の中心となる櫻井眞一郎たちは、二人前の働きをしなくてはならなかった。しかし、戦時中に一刻も早く敵にうち勝つ戦闘機の開発が至上命令であったように、こうした困難にたち向かうことが、真の技術者であるという思いが強かったのであろう。

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http://since1957.blog130.fc2.com/blog-category-4.html
自動車メーカーがみずから出場するレースは、サーキットという限定されたところでスピードを競う、戦闘そのものである。技術者を動員した平和時の戦争であるといっていい。プリンスは、それを戦うための組織としては、もっとも適したムードをもっていた。これこそが、プリンス自動車の強みであった。』
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:R380_(1966)jpg
 戦後、翼を失った旧中島飛行機系の技術者たちが数多く残ったプリンスにとっては、日本グランプリは久々の、血湧き肉躍る、活躍の舞台と映ったのだろう。そして誉エンジンの設計者であった中川良一率いるプリンス技術陣にとって、航空機造りの“魂”が宿っていたのはやはりエンジンにおいてであった。それについては、次項で述べたいがその前にここで、ヒコーキ屋(しかも機体側よりエンジン寄り)でなく生い立ちから自動車屋であったトヨタとの対比をしておく。
 日本GPへの対応が、営業戦略上の視点からのトヨタ自販主導から、本来の自工主導に戻ったが、しかし自工側は企業経営の全体の中の位置づけとして距離を置き、冷静に判断していた。以下引用④
『64年のトヨタは乗用車生産台数が18万台を超え、2位のニッサンに1万台以上の差をつけてトップメーカーとなっていた。クラウン、コロナ、パブリカのいずれもが好調で、ベストセラーであるブルーバードに対してコロナは差をつけられていたが、65年にRT40という1500ccの斬新なスタイルであるコロナにモデルチェンジして、ブルーバードをしのぐ売れ行きを示した。(写真はコロナ(RT40)発表会の様子)
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https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/text/entering_the_automotive_business/chapter1/section1/item4.html
トヨタは4年サイクルとなるモデルチェンジと、新しいモデルの開発に全力投球していた。新しい工場を建設し、設備投資にも積極的だった。67年にはサニーと大衆クラスで激突することになるカローラを発売し、68年にはコロナの上級車種としてマークⅡが発売される。これらの開発もこのころ佳境に入っていた。(下は初代カローラ)
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https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/text/entering_the_automotive_business/chapter1/section3/item1.html
量産車とはなり得ないスポーツカーの開発に人材をさくのは、トヨタのポリシーではなかった。そこで、河野二郎をチーフとするレース部門が主導権をとり、ヤマハの技術を利用することになったのである。』
 トヨタにも適任の人材がいなかったわけではない。ただしエンジンではなくシャシーだが。(また設計技術者数はトヨタ全体のキャパに比べ不足気味ではあったようだが。)たとえば戦時中立川飛行機で、試作高高度防空戦闘機“キ94”の設計主務をつとめた長谷川龍雄のような、航空機畑出身のエース級設計者もいた。
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http://karen.saiin.net/~buraha/ki-94.html
しかしトヨタは長谷川に、量産車の初代トヨエース、初代クラウンに関わらせたのち、主査(開発責任者)として初代パブリカ、(下の画像はパブリカと、それに影響を与えたと言われるBMW700)
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https://www.goo-net.com/magazine/105741.html
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https://www.conceptcarz.com/images/BMW/BMW-700-Image-0008-800.jpg
その派生車種のスポーツ800(画像は「トヨタスポーツ800 hashtag on Twitter」より。ちなみに長谷川によれば、日本の量産車で初めて風洞実験を行ったクルマだそうだ。長谷川の作ではもっとも、元飛行機屋の作らしい。)、
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初代カローラ等、トヨタの重要車種の開発の重責を担わせたが、レース部門には関与させなかった。
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上の画像はシンプルで合理的なデザインが清々しい初代トヨエース。長谷川が主査としてまとめた。https://tanken.com/tricar.html
企業体質の違いが、レースに対する“気合”の差を生んでいたのだろう。

6.中島飛行機のエンジン技術が活かされた
 トヨタは手っ取り早い方法として、2輪用レーシングエンジンで実績のあるヤマハとの提携の道を選んだが、プリンスには当時まだ、中島飛行機時代に培ったエンジン技術が温存されていたため、敢然と自社開発の道を選んだ。そのためのポイントと思える点を3点掲げてみる。

6.-1 4バルブDOHCの採用
以下⑤より引用する。
『R380に搭載されたエンジンは2ℓ直列6気筒のGR8である。目標はリッター100馬力。(注;ポルシェ904の180馬力に対して200馬力)いまでは当たり前の4バルブDOHCヘッドだが、ようやくOHCが一般化しつつあった昭和39年という時代を考えれば、その先進性は特筆ものといえるだろう。』以下は②より引用
『動弁方式はDOHC4バルブ、多球形燃焼室と、革新的な点こそないが、当時としては最高レベルのメカニズムが盛り込まれた。』(写真はGR8型エンジン)
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https://motorz.jp/race/17695/
今では当たり前のように軽乗用車にも積まれている技術だが、DOHCで気筒あたり4バルブエンジンは当時、レーシングカーでもごく少なかった。
下の写真はR380と同様、旧中島飛行機系エンジン技術も宿っていた(番外編その2で記す)、12気筒4バルブエンジン採用のホンダRA271(1964年)のリアビュー(wikiより)
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第3回日本GPで、R380の前に立ちはだかったポルシェ906は911系の水平対向6気筒SOHCであった。それでも210馬力は出ていたが。

6.-2 中島飛行機の高い試作、チューニング技術があった
 エンジンを含む自社製レーシングカーの開発を成功に導くためには、やはり大元である高度で複雑な構造のエンジンを、机上の設計レベルだけでなく、実際に試作してチューニングを行い、実戦用としての性能を引き出せるか否かにかかってくると思う。そしてR380で何が一番すごかったかと言えば、当時の先端技術を詰め込んだエンジンを、短期間で実際にレーシングカー用としてモノにしてしまった点ではなかったかと思う(私見です)。
以下⑥より引用。
『(GR8の)設計が始まったのは64年9月で、翌年1月に実験部に引き渡された、当時の印象を古平(注;エンジン実験部所属で社員ドライバー)は次のように語る。
「さすがに元・航空機メーカーの技術はすごいと思いましたよ。DOHCを作ると言って、本当に作ってしまったんだから」。』
当時の日本の量産車の状況を思えば、まったく同感です。そしてこの離れ技を可能にしたのは、中島飛行機伝来の、軍用機用エンジン製作のために、現場に蓄積されてきた、試作・チューニング技術だったようだ。以下⑦より引用
『R380を操縦した経験のあるドライバーは今でもGR8の性能と信頼性を絶賛する。なぜあの時代、きわめて短時間のうちにそれほど優れたレーシングエンジンを作り上げることができたのだろうか。中村(注;GR8の動弁系の設計を担当した中村哲夫)はこう言い切る。「設計だけでエンジンは速くなりません。DOHCはプリンスが先駆者だったんですが、他のメーカーに先駆けて技術レベルの高いモノを開発できたのは、やはり試作の力だったんだと思います。中島飛行機ゆずりの施策の技術、職人芸ですよ。しかも若い会社だったから、会社に入って2年、3年の若手が好き勝手やっていて開発が速かった。その若さを、軍用機エンジンを作っていたころから現場にあった職人芸が支えた結果なんですよ。」』
引用⑥より、牛島氏(注;GR8のエンジン設計に携わった牛島孝)の証言
『カムシャフトはチェーン駆動ではなく、耐久性に勝るギア駆動にしました。目標の1万回転には届かず、最終的に9000回点ほどで古平 勝君に引き渡したと記憶しています。』
牛島からエンジンを引き継いだ古平はチューニングに必要な多くのパーツをすぐに開発し、図面に「R」の印を押して製造ラインに持ち込んでいる。この判があれば量産車部品の製造ラインを止め、最優先でレース部品を作ってくれたからだ。』
『こうして古平はGR8を最終的に1万2000回転、220馬力以上のエンジンに仕上げている。これは設計した牛島が想定した以上の性能だった。』

ここでまた、トヨタとの対比をおこなえば、R380より後の、1967年春に開発計画がスタートした、トヨタ初の本格的なレーシングカーである、3ℓの初代トヨタ7は、経験がないため冒険を避け手堅く、気筒あたり2バルブのDOHCであったが、その後パワー不足に悩まされることになる。(下の写真は3ℓトヨタ7のレプリカ。トヨタ自身の手で全て破棄されてしまったため現車は1台も存在しないと言われている。)
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https://pbs.twimg.com/media/DFUOacXUwAEZdJC.jpg:large

6.-3 直6レイアウト採用。
この時代のレーシングエンジンにおいてもすでに、2ℓ級で直6レイアウトをとる例は少なかった。以下②より。
『気筒配列には、基本構想で述べたように直列6気筒が選ばれた。理由は、高回転まで回せることや振動面で有利などの長所に加えて、それまでG7型で慣れ親しんでおり、そのノウハウが活かせるためであった。初めて本格的なレース用エンジンを手がけることになった榊原は渡欧中、当時はまだ新興のエンジンチューナーであったコスワース・エンジニアリングを訪れた際、直列6気筒のチューニングの難しさを指摘されたが、市販車への将来的なフィードバックも考えて、あえてこのレイアウトでの開発に取り組んだという。』そして『革新的な点こそないが、当時としては最高レベルのメカニズムが盛り込まれた。』
プリンスは1963年6月、高級車グロリアに、戦後日本初の直列6気筒SOHCエンジン、G7型を搭載した“グロリア スーパー6”(下の写真)を追加した。R380を市販車とつながりがあるものとしたかった意図は理解できる。
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https://gazoo.com/catalog/maker/PRINCE/GURORIA/196301/990000807/
以下は⑤より
『同じ6気筒ならV型にした方がクランクシャフトが短い分、高回転には有利なはずだが、青地康夫が率いるエンジン開発チームは7ベアリングによって見事に直6の弱点を克服してみせた。
「10000回転以上回しました。そこが飛行機屋で、振動を抑えるベアリングをどこに何個入れるかをずいぶん検討したものです」(櫻井)』


7.R38×計画は、中川良一の描いた “地上の夢” だったのか
 ただこの、直6採用について、中川良一が以下のような、非常に気になる?証言を残している。この言葉から、自分なりにさらに“妄想”を広げてみた。(引用⑥)
『~実は1962年に櫻井は技術担当役員である中川良一の鞄持ちという名目でヨーロッパに随行していた。この時、ふたりはF1ベルギーグランプリを観戦しており、(ちなみにこのレースはジム・クラークのF1初勝利だった。マシンは下の写真のロータス25・クライマックスV8)
http://gita.holy.jp/img2/P20170115d.jpg
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ホテルに戻ると中川は深夜に櫻井の部屋に電話し、「オレが12気筒48バルブのエンジンを作ってやるから、おまえはシャシーを作れ」と熱く語ったという。』
⑧でも同様な、さらに具体的で驚くべき証言があり引用する。『車は二人乗りのGTカーがいいだろう。チュ-ンアップ・エンジンは水冷V型の十二気筒で四弁(48バルブ)がいいかもしれん……。これなら六リッターで千馬力くらいはらくにでるだろう。ロールス・ロイスもダイムラー・ベンツもそうだが、飛行機用エンジンをそのまま搭載するんだから、日本ではおれが一番向いているのは間違いない』
!!! 1969年の6ℓのR382ですら日本GP当時600馬力がやっとだと言われていたので、この時代(1962年)に6ℓで1000馬力を楽に達成するためには誰が考えても当然、ターボチャージャー付が前提だろう。
(まさか中島飛行機時代、ターボチャージャーは”鬼門”だったから、スーパーチャージャーで行く!ということはなかろうが。 下はターボチャージャー付プラット・アンド・ホイットニーR2800エンジンを積んだ、リパブリックP47 サンダーボルト)
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https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/718Lgko7ZtL._SL1378_.jpg
(下の写真は、陸軍中島キ-87試作高々度戦闘機。中島製エンジンはターボチャージャー付だったが、タービン自身の耐熱性不足などのため、予定の性能を発揮できず、試作で終わった。)
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https://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/nakajima/Ki87Spec.html
 そうなると、1962年の時点で早くも、直6のR380からスタートして、6ℓV12、48バルブのR382(1969年)をさらに飛び超して、1970年のニュートヨタ7同様、ターボチャージャー付になると言われていたR383(1970年用)やR384(1971年用)ぐらいまでの構想が、中川の頭の中にはハッキリと描かれていたことになる!(下は、ずらりと並ぶR38シリーズ)
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https://scontent-cdt1-1.cdninstagram.com/v/t51.2885-15/e35/42310070_277872192852124_2618826705152415283_n.jpg?_nc_ht=scontent-cdt1-1.cdninstagram.com&se=7&oh=f7a922ebd7e53dd38971ed16ea8f7b50&oe=5E0D14BC&ig_cache_key=MTg4MTk5MjUzODEzNzQ4MTA4OQ%3D%3D.2
 我々日本のモータースポーツファンは1970年の夏、日本GPの中止が唐突に決定された(日産の敵前逃亡?私見です)後に公開された、5ℓで800馬力以上と言われたニュートヨタ7ターボに、日本のレーシングカーも遂にここまで来たかという感慨とともに、その完成された、危険な香りのする妖しい美しさに、何か異次元なクルマが舞い降りてきたかのような、不思議な感覚を味わったものだった。(画像はwikiより)
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しかしこの話が事実なら(もちろん“捏造”などではなく、事実なんだろうと思うが)、それから8年さかのぼること1962年の時点で、トヨタのさらに上を行く、6ℓ1000馬力の構想を、中川は温めたことになる。驚くほかない。
 この大構想の実現のためにはまずベースとなる、直6、2ℓDOHC気筒あたり4バルブのレーシングエンジンをモノにすることが大事だ。それさえモノにできれば、国内レースを制した後にルマン&スポーツカー世界選手権(自動車の耐久選手権)でまずはポルシェと戦いクラス優勝を狙う。あるいは量産義務のないプロトタイプクラス狙いか?ニッサンR380がルマン出場を検討していたことは有名な話だが、下記の octane誌(のweb版)によればプリンスR380時代にすでにルマン出場を目指していたらしい。
https://octane.jp/articles/detail/2163/2/1/1 より以下引用。」
『~実のところプリンスはひそかにルマンを目指していた。そのため、1965年4月から45日間にわたり193馬力にチューンされたS54CR1台と三名のスタッフを欧州に派遣している。クロスフロー化され193馬力のパワーを得たS54をカルネナンバーで欧州を走らせ、なかでも入念にルマンのコースで計時とデータ取りを行なっている。』(下はS54スカイラインGT-Bのノーマル車)
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https://meisha.co.jp/wp-content/uploads/2018/05/55ec1b2ca92d6519958efb17228f7614-e1540610222661.jpg
『帰国後、そのデータはR380でルマンに挑戦する際の検討に用いられ、机上計算で最適のギア比などが求められている。後々もプリンスが得意としたコース走行シミュレーションである。そうした検討のさなか、突然おこったのが日産との合併。これによりルマン参戦は叶わぬ夢となった。』
 さらに次のステップとして、直6を2基組み合わせる形でV12,48バルブ6ℓの高出力のレーシングエンジンへとつなげていく。当時排気量無制限かつ量産義務規定もなかったGTプロトタイプクラスで、大胆にも打倒フェラーリ!を目指し、国際マニュファクチャラーズ選手権の年間総合優勝と、ルマン24時間制覇だったに違いない。(下はプロトタイプ部門の1966年式の美しいフェラーリP4と、)
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http://www.bingosports.co.jp/news/detail_131.html
(その下は1966年、ついにフェラーリを下し、念願のルマン制覇を成し遂げたフォードGT40.この年から69年まで四連覇を成し遂げる。)
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https://gazoo.com/article/car_history/170210_1.html
 そしてそれを実現させるための秘密兵器が、第二次大戦中、中島飛行機の“誉”でついに果たせなかった、あの“ターボチャージャー”なのだろう。(しかもツインターボの構想だろうか?)
(下は連合艦隊司令長官山本五十六大将搭乗の一式陸上攻撃機の撃墜に成功した、双発ターボチャージャー付エンジン搭載のロッキードP38)
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中島飛行機時代に無念にも、“誉”エンジン付きの戦闘機で果たせなかった単座戦闘機における世界頂点の座を、地上を走る戦闘機たるR38×を武器に、モータースポーツの分野で今度こそ世界王座を目指す算段だったのか?(下は中川が中島飛行機時代に設計した誉エンジンを搭載した本土決戦機、陸軍四式戦闘機“疾風”)
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https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13199671163
 ここで脱線というか、一服する。
 これからさらに、“誉”(=戦前の中川及び中島飛行機、創業者の中島知久平を語る事になる)とR38×(=戦後の中川及びプリンス自動車とそのモータースポーツ活動を語る事に繋がる)との関係性を深堀しようとしても、元々“誉”自体が賛否両論あるのはご存知の通りで、迷路に嵌るだけのように思える。
それにそもそもこのブログは、犬(ぼんちゃん)がメイン+自動車のブログで、飛行機を扱うブログではなくこれ以上手を広げるつもりも毛頭ない。
ただこの記事をまとめていく中で、“誉”とプリンスにマツワルちょっと気になった事を思いついてしまったので、本編とは別に、この頁の終わりに“番外編”をもうけて、軽~く、話を二つばかり記して、中途半端にこの“命題?”を終わらせることにする。当然ながら、独断と偏見に満ちた妄想話になると思うので!陰謀論?に全く興味ない方は無視して、どうか興味のある方のみあくまで“余談”程度としてご覧ください!(下はR382用の、GRX-3エンジン)
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https://minkara.carview.co.jp/userid/210141/blog/37384331/
 ここで話を戻すが、中川はレーシングカー用エンジンのチューニング技術において、内に秘めた自信があり十分勝算ありと踏んだようだ。⑧より引用
『レース用エンジンのポイントとなるエンジンの吸気効率を上げるとか、クランクシャフトを磨くとか、吸入ポートの設計などでは、かつて「栄」「誉」をともに研究し、つくりあげてきた戸田泰明博士がいる。戦前、アメリカやヨーロッパのエンジンを調べたが、われわれの方が立派なものができていた。結局は戦争でだめになったが、そうしたきめ細かいことをやるのは、世界でもわれわれのグループが一番だ』(下記画像は“古典航空機電脳博物館”さんより、力強く上昇する疾風)
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https://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/cl-pln/FR047.html
(下は同じく誉エンジン搭載の、川西 局地戦闘機 紫電改。ハセガワのプラモデルのパッケージ)
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http://www.hasegawa-model.co.jp/hp/catalog/st_series/st33/index.html

 しかしここでまた、話の腰を折ることになるが、レーシングエンジンの世界ではその後、大きな技術革新があった。フォード・コスワースDFVエンジンの登場(1966年)だ。写真はDFVの透視図。)
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https://gazoo.com/article/car_history/150403_1.html
(以下wikiより)F2 用に開発した直4 ,1.6ℓ の「 FVA(Four Valve type A)」エンジンを結合してF1用に V8,3ℓ 化したものを「Double Four Valve」の頭文字を取り「DFV」としたのだが、『ダックワースはマルチバルブの考察を更に進め、バルブ挟み角の小さいペントルーフ型燃焼室による高圧縮化・急速燃焼と、シリンダー内の縦の渦流(タンブル流)を利用した充填効率の向上により、レーシングエンジンで高出力と低燃費を両立させる事に初めて成功、これを DFV に適用した。』
(写真はマクラーレンM23に搭載されたDFVエンジン。Wikiより)
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DFVエンジンの登場により、レーシングエンジンは車両全体のパッケージングの一部として、軽量コンパクトかつ高出力、低燃費であるという、一段ハイレベルなスペックが求められるようになった。そしてレーシングカーは次第に、空力特性が重要視されるようになっていく。(下はロータス72フォード コスワースDFV)
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https://www.webcg.net/articles/gallery/35456
 当初の中川の頭の中にあった、いかにもエンジン設計者らしい思想の、 “はじめにエンジンありき” の、いわばエンジンパワーでぶっちぎろうという思想は、当時としてはハイスペックだがオーソドックスな(大きくなる)直6の4バルブDOHCのGR8エンジン搭載のR380が、ポルシェ904~910相手に戦った1960年代の2ℓクラスのレーシングカーの世界では、まだ何とかギリギリ通用したレイアウトだった。(下はニッサンR380-Ⅱと、)
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https://pbs.twimg.com/media/DTr-ID1VwAAAkXV.jpg
(ポルシェ910)
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https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/25/06739ef91f21a41421cc2c84d66783e9.jpg
限界的な小型化設計だったがゆえに信頼性不足に悩まされた“誉”エンジンの反動もあってか、GR8エンジンは戦中のアメリカの航空機エンジンみたいに、無理な小型化は行われず設計されており、事実R380のエンジンは高い信頼性を誇り、ニッサン/プリンスのワークスレーサーたちの信頼も厚かった。だがその半面、大きさと重量面ではどうしても、大きなハンディキャップを背負うこととなった。(画像はこれも“古典航空機電脳博物館”さんよりコピーさせていただいた。有名な“我ニ追イツクグラマン無シ”の電文で知られる、誉エンジン搭載の艦上偵察機「彩雲」)
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https://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/cl-pln/saiun.html
しかし1970年代に入るとすぐに、軽量コンパクトな直4エンジンのコスワースやBMWを用いたレーシングカーが出現、席巻していった。(画像はのちに日本のGCシリーズでも大活躍したシェブロンB19)
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https://www.oldracingcars.com/chevron/b19/
その直6の延長線上の設計で、中川の構想した直6×2のV12、48バルブのGRXシリーズを載せたレーシングカーでは、世界基準ではすでにその大きさ故に滅びた恐竜のごとく、時代遅れになりつつあった(のだと思う。まったくの私見です)。(画像はR382wikiより)
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下は、手前がプリンスR380用に開発されたGR8エンジン。奥がGRX-3。
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https://web.motormagazine.co.jp/_ct/17194286
だがそれも、中川の元々の構想自体が(少なくとも)1962年という、あまりに早すぎたからなのだろう。
 ちなみにここでGRX-3エンジンについて、トヨタ(+ヤマハ)との対比をおこなえば、これも私見だが、プリンス/ニッサン勢に絶えず遅れをとり劣勢だったトヨタ陣営は、5ℓトヨタ7のエンジン設計で、当時最新トレンドであったコスワースDFVをお手本とした軽量コンパクトでハイパワーなエンジンをものにした。これに対して冒険せずに、R380世代の古典的な設計のままで留まったニッサン(実質は旧プリンス)のレーシングエンジンとの比較で、技術レベルはついに、(少なくともコンセプト上は)逆転したと思う。投下した資金量も、トヨタの方が明らかに多かったと思うが、すでに中島飛行機時代の遺産を使い果たしたこともあり、プリンス/ニッサンは進化の幅が少なかったと思う。(全くの私見です。下は5ℓトヨタ7のエンジン)
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http://f1-web-gallery.sakura.ne.jp/cn21/pg104.html
ただ実際のレースとなれば、ドライバーの腕の差(日産側が圧倒的に有利)もあるのでどっちに転ぶかわからないが。(下の写真は1969年の日本CAN-AMに鮒子田寛のドライブで出場したマクラーレン・トヨタ。マクラーレンの市販シャシー(M12)にトヨタ7の5ℓエンジン搭載。当時の内製シャシーとの出来の差故に参考とし、翌年のターボ世代のニュートヨタ7に影響を与えたと言われる。鮒子田はトヨタ製シャシー剛性の低さ、ステアリングの重さを指摘し、「マクラーレンのシャシーだったら69年の日本GPで勝てたと思うと述べており、エンジンの差ではなかったと指摘していた。細谷四方洋も「正直に言うと、5リッターモデル(注;トヨタ内製シャシーの)よりも走りやすかったですね(笑)。非常に完成されたマシーンという印象を受けました」と語っている(wikiより)。)
マクラーレンで”学習”し、新たにエース級の設計者(田中堯)を投入し、過去膨大な資金を投じてきた成果がようやく出始めた結果、70年時点ではシャシー性能も追いつき追い越せの勢いだったように思う。(私見です。)
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https://web.motormagazine.co.jp/_ct/17085805
以上、私見と言うか、まったくの妄想でした。R381以降については、日産3羽ガラスの北野元の記事であらためて詳しく触れる予定です。
以下、R380のエンジン以外の部分は手短に片づけて終わりにしたい!

8.エンジン以外は即戦力目指し、実戦的なアプローチをとった
 エンジンに対しては、プリンス技術陣の“魂”であったため妥協なしで、あくまで“内製”にこだわったが、そのエンジンを載せる、マシン全体の構築に関しては即戦力を目指し、こだわりを捨てて、現実路線に徹して主に海外からの外部調達を頼った。上記、7項の中川の言葉の続きとして、⑥から引用する。
『~こうした背景もあってプリンスはイギリスのコンストラクターに関する知識とつてを持っていた。そのため櫻井がフレームの購入を要請した時、上層部はすぐにブラバムとロータスを推薦している。』
この“上層部”とはやはり、開発部門トップの中川のことだろう。エンジンさえ自力で作ることができれば、シャシーはイギリス製の定評あるレーシングカー専業メーカー(ブラバムかロータス)から調達し、(下の写真はブラバムBT8)
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http://stat.ameba.jp/user_images/ee/77/10069789879.jpg
トランスミッション、ブレーキ等の主要部品類もレーシングカー用として実績のあるメーカー品を調達し組付けて、ボディはこれもフェラーリ(R380の場合250LMあたりを参考にした?ちなみに250LMは今では美術品としてきわめて高価で2015年8月に1760万ドル(当時約21.6億円)で落札されたとのこと)
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https://www.autocar.jp/news/2018/09/02/302629/5/
や宿敵!ポルシェ(同じくポルシェ904<似ているがR380の写真ではない!>)
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http://car.bau-haus.com/?p=1789
あたりを見よう見まねで形を作り(失礼(私見です)!東大の宇宙航空研究所の風洞も用いられたようだが、ポルシェ906のように何か理論的な裏付けがあって形づくられたわけではなさそう?(これも私見です))、あとは櫻井の剛腕で全体を取り纏められるのでなんとかなると目論んだのだろう(これまた私見です)。こうして国産初の、自社製レーシングカーが1台完成する。中川らがそのための事前のリサーチと調達準備を行っていたからこそ、迅速に動けたのだろう。以下②より
『R380の開発がスタートする直前の64年6月、田中設計部長はエンジン設計課の課長であった榊原雄二とヨーロッパへ飛んだ。出張の目的は、キャブレターやタイヤなど部品の調達と、レース関連企業を訪れて当時の最新のレース技術を視察することだった。イギリスではコンストラクター(ロータス/ブラバム)、エンジンチューナー(コスワース)、部品メーカー(ダンロップ/ガーリング/ボルグ・ワーナー)などを訪問して回り、イタリアではボローニャにあるウェバーの本社を訪れて、スカイラインGTの生産に必要なキャブレターを買い付けた。』実に手回しがいい。
以下⑤より引用。
『レーシングマシンの開発において、コントラクターの実力の程はいかに適切な部品を集められるかで判断される。R380の場合、トランスミッションはヒューランド、ブレーキはガーリング、クラッチはボルグ&ベック、ダンパーはアームストロングを使用しているが、いずれも世界の一級品と呼ばれる逸品揃いで、当時のプリンス技術陣の選択眼と交渉能力には驚かされる。』
そして上記6.2で紹介した、エンジン分野における試作能力の高さは、エンジン以外の分野の特殊部品の製作や組付けや、改良においても、中島飛行機時代から引き継いだ試作部門の力が威力を発揮したようだ。⑤より引用『「プリンスは中島、立川飛行機で育った腕利きの作り手が揃っていましたから、スペースフレーム制作にしても、歪の出ない溶接の順序といった職人技はどこにも負けなかった』と櫻井は語る。』
ここでトヨタとの対比をすれば、第3回日本GP(1966年)の2年後の、’68日本GP用にトヨタ初の本格的なレーシングカーとして送り出された3ℓトヨタ7は、ヤマハとの共同開発であったが、試作にあたり経験不足に悩まされた。以下⑨より引用
『415S(注;3ℓトヨタ7の開発コード)の1号機は67年12月26日に完成しているが、磐田工場(注;ヤマハの工場)でわずかな距離の試運転を受けただけで深刻な問題が発生した。ブラインドハンドリベットで留めたアルミパネルが、振動で緩んだり抜け落ちたりしたため、フレーム自体の強度が著しく低下したのである。このリベットはトヨタがヤマハに持ち込んで来たものであったが、使用には幾分の慣れを必要とし扱いを間違えるとそのような問題の起こる代物であった。(下の画像は3ℓトヨタ7)
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https://toyotagazooracing.com/archive/ms/jp/F1archive/experience/features/2004/toyota7/index.html
多くの細かい構造物で形成されているこのフレームで、これらを繋ぐリベットに問題があるとなれば、その影響はボディ全体におよび深刻な影響となる。リベットの打ち直しやサイズアップ、さらには接着剤の応用など、ありとあらゆる方法で手直しをしたものの、この問題の抜本的な解決にはいたらなかった。』
そしてブラバムでは、足回り研究用としてF2用のBT10を購入した。(写真はBT10)
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https://www.flickr.com/photos/tim0854/43086324932
 話をR380に戻す。②によると、ブラバム訪問時に、レーシング・スポーツカーのBT8Aも間近で見る機会があったそうだが、『そして帰国後、R380の開発が本格的にスタートすると、前例が全くない車種だけに、ヨーロッパの似たようなマシーンを参考にしようということからこのBT8Aが輸入され、結局そのスペースフレームがR380の1号車のフレームのベースとして使用されることになる。』そしてここで、R380開発の指揮を執った櫻井が、先進的な技術で知られたロータスでなく、手堅い設計思想のブラバムを選択したことが、エンジンの開発の成功とともに、R380を成功に導く大きな要因となったと思う。そこで次に、櫻井のレーシングカー開発における思想からみてみたい。

9.櫻井の堅実な設計思想と、ブラバムの協力
④より引用『プリンスの場合は、ポルシェ904に負けない性能のクルマをつくる、という明確な目標を立ててスタートした。中心となって設計を進めた櫻井眞一郎には強い信念があった。パワーウェイトレシオをよくすることはおろそかにはできないが、エンジンのパワーを支えるシャシー性能がすぐれていることが最も重要であるというものだ。シャシー性能よりエンジンパワーの方が上回っていると、マシンをコントロールすることが難しくなる。マシンの安全性を確保するためには、シャシー性能が勝っているマシンにしなければならないというのが、櫻井のクルマづくりの原点であった。
当時生産車はモノコックフレームが主流になりつつあり、これを応用すれば軽量化が図れるが、それよりも信頼性が高いパイプフレームを採用することにした。このほうがサスペンションアームをしっかりと固定できるし、フレームの補強が容易である。モノコック構造のものは、まだどこに応力が集中するかわからないところがあった。最初のR380は、たまたま研究用に購入したブラバム製の2シーターカー用スペースフレームを流用して作られた。』

以下②から引用するが、櫻井が、当時戦績では優勢であったロータスでなく、ブラバムを選んだ理由として『ロータスはフレームを構成するパイプの本数が少なく、ドライバーに危険に思え、冷たい感じを受けた。一方ブラバムはパイプが多く、ドライバーの安全を優先した、人間重視の感じがしたから』と語ったそうだ。(写真はブラバムBT8のライバルのロータス23)
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https://en.wikipedia.org/wiki/Lotus_23
⑥からも引用『「私は優れたエンジニアでありながら、冷たい性格のコーリン・チャップマン(ロータスのオーナー)ではなく、ロン・トーラナックのいるブラバムを選びました。」チャップマンが冷たい男だというのは事実で、当時F1に参戦していたホンダの中村良夫は、契約ドライバーが事故死しても平然としている彼の冷たさに怒りを覚えたという。
櫻井が選んだブラバムのロン・トーラナックは、実直な技術者でプリンスの要請を快く受け入れている。そして参戦するレースやエンジンの排気量などを尋ね、ブラバムBT8Aの鋼管フレームを推奨した。』
(写真はブラバムBT8)
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https://en.wheelsage.org/brabham/bt8/pictures/v0fqaw/
さらに驚くべきことに、御大ジャック・ブラバムがR380のセッティングに協力し、何度も来日したようなのだ!!下記の動画、「1966 プリンス R380 櫻井真一郎が語る【Best MOTORing】」の4分40~50秒あたりです。
https://www.youtube.com/watch?v=Y9R8aXFLycI
(下の写真はジャック・ブラバムと設計者のロン・トーラナック)
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https://i.pinimg.com/736x/40/f4/60/40f4607b46fb8f2679f11cd78ea69f17.jpg
動画のナレーションをそのまま引用すれば、『~ちなみに、プリンスとブラバムの親交は深く、ジャック・ブラバムは村山テストコースでプリンスのマシンを何度も試乗したという。』
言うまでもなくジャック・ブラバムはF1世界王座に3度輝いた名手中の名手だ。ブラバム(MRD)とはただ単に、シャシーを売り買いしただけでなく、R380の評価と調整に、世界最高レベルでのアドバイス付きだったわけで、ある時期のブラバムとプリンスはパートナーの立場に近かった?R380の国産プロトタイプレーシングカーとしての成功の影に、ブラバムの強力なサポートがあったことは間違いなさそうだ。この時点で、プリンスR380の、少なくともある一定レベル以上の成功は約束されたようなものだ(私見です)。(下は1959,60年と、二年連続でF1を制した、ミッドシップのクーパーT53)
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http://livedoor.blogimg.jp/mkz/imgs/d/b/dbde53ee.jpg
 その後同郷出身のロン・トーラナックと共に、シャシーコンストラクターのモーターレーシング・ディベロップメント (MRD) を設立。1966(ジャック・ブラバム)、1967(デニス・ハルム)と2年年連続F1王座に輝いた。(下の写真はデニス・ハルム(マシンの中)とジャック・ブラバム)
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http://blog.livedoor.jp/markzu/archives/51870978.html
 なおこの時期のブラバム(ジャック・ブラバムと設計者のロン・トーラナック)は、商売を通じて日本とのつながりが深くなっていた。(以下は主にwikiより)とりわけホンダとの関係は強く、1966年のF2ではホンダ製エンジンを搭載したマシンで、ジャック・ブラバム、デニス・ハルムの2人の手により開幕11連勝を達成。最終戦ではジャック・ブラバムが2位となり惜しくもシーズン全勝は逃すものの、圧倒的な強さを見せた。(写真は1966年のF2を席巻したブラバム・ホンダ BT18)
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https://www.honda.co.jp/sou50/Hworld/Hall/4rrace/345.html
またこの頃、鈴鹿サーキットがフォーミュラカーを日本に普及させようと、ブラバム製フォーミュラマシンを大量購入した。このマシンは後にプライベーターに放出され、日本のフォーミュラレース振興に貢献する。ホンダ関係にも用事があったハズで、それもあって来日していたのだろうか。
 ホンダのF1を主導していたのは中村良夫で、ロータスとの間では大きな軋轢があった。以下wikiより。
『(F1に)当初ホンダはエンジンサプライヤーとして参戦する予定だったのである。フェラーリとBRMは自社製エンジンを使っているため除外、ブラバムとロータスとクーパーにしぼられそのうちのブラバムにほぼ内定。ブラバムのシャシーに載せることを前提にエンジンの熟成が進められた。
1963年秋、ロータスのコーリン・チャップマンが急きょ来日、ホンダ本社に訪れこう言った。「2台走らせるロータス・25のうち1台はクライマックスエンジンを載せるが、もう1台にホンダを載せたい。場合によってはジム・クラークにドライブさせてもいい」と。(下の写真はコーリン・チャップマンを載せてビクトリーランするジム・クラークのロータス 25)
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https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/userstorage/000/035/201/039/1ee5126c62.jpg?ct=a84b84b29280
これを機にコンストラクターはブラバムからロータスに変更され、エンジン開発もロータス・25にあわせて行われた。ところが1964年2月、チャップマンから電報が届いた。「2台ともクライマックスエンジンでやる。ホンダのエンジンは使えなくなった。あしからず」というものだった。となると自社でシャシーを造るしか道はなくフルコンストラクターとして参戦することになった。』コーリン・チャップマンは、ギリギリのタイミングまでひっぱったうえでキャンセルし、他のチームがホンダエンジンを使えないように画策した。ホンダは急遽、シャシーを内製化して参戦することとなった。(下はF1デビュー戦の1964年ドイツGPのホンダRA271(ドライバーはロニー・バックナム))
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https://ehonkuruma.blog.fc2.com/blog-entry-446.html
中村良夫は1940年4月に東京帝国大学工学部航空学科(原動機專修)卒業後、中島飛行機に入社したが、その時の上司が、中川良一だったという。仮に二人は連絡を取り合ったならば、中村の助言がブラバムの選択に影響を与えた可能性があった??(証拠のない、全くの憶測です。)
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https://selfieus.com/tag/%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B9%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A%E5%B7%A5%E6%A5%AD

10.GR8エンジンの源流は、コベントリークライマックスエンジンにあったのか?(10/25追記)
 この⑭の記事を書き終えて、今は次の⑮の記事を書いている途中だが、GT-R用のS20エンジンについての調べ物をしているなかで、手持ちの雑誌で新しい情報に出くわした。書き上げたあとから気付くことをいちいち追記していったらキリが無くなるので普段はやらないけれど、この情報だけは追記しておく。情報元は一時復刊したが、すぐにまた休刊となってしまったモーターファン(イラストレーテッドでない方の、2016.10号)の、「<再録>MFロード・テスト 日産スカイライン2000GT-R」という記事の中の一部分だ(引用⑪とする)。ちなみにこの記事の構成は、1969年6月号のスカイラインGT-Rのロード・テスト記事(大学の先生方や日産の設計者たち;田中次郎、岡本和理、榊原雄二、櫻井眞一郎各氏も出席して、テスト結果を踏まえた座談会を行っている)を、50年近くあとの現代の技術者の目で、こちらも座談会形式であらためて検証する、という内容だ。
見逃せない内容だったため、その一部を引用させていただく。興味のある方はぜひ本書で確認ください。
   S20型エンジン
エンジン設計者 第2回GPで前月の64年6月に、座談も行っている田中次郎さんらがヨーロッパに視察に出かけ、そのときの印象を踏まえてR380の開発に先立ちブラバムBT8A(2座オープン・グループ6カー)を輸入、R380の1号車(R380-1)はそのシャシーナンバーSC-9-64のチューブラーフレームそのものを改造して使ったということなんですが。
シャシー設計者 サスもですか。
エンジン設計者 アームは新製したようですが形状はそのまま、アルミホイールまで流用したようです。海外のサイトでは「R380はBT8AのRebodied」と断じているものさえありました。「プリンス/ニッサン-R380/R381/R382/R383」(檜垣和夫著 二玄社刊注;この記事でも②として引用している)という本の34ページには「ギヤボックス(ヒューランドHD5型)もBT8Aのものを流用した可能性が高い」と書いてあります。ということになるとエンジンはどうなんだろうと。海外の研究サイトによるとプリンスが購入したSC-9-64に搭載されていたのは2ℓのコベントリークライマックス。おそらくFPF(1957年設計のレーシングエンジン、直4・2弁DOHC、1.5~2.8ℓ)だろうということで、断面図や外観図を探して見てみたら、第一印象としてR380用に設計されたGR8型とかなり似ているなと。滅多なことは言えませんが、純粋な私見では、「やったな」って感じでした。

文中のエンジン設計者氏は、この事実を”発見”したとき思わず”ビンゴ!”って叫んだことでしょう。上記でも引用されていた本の②でも『(注;GR8エンジンの設計を担当した榊原雄二)は次にボア・ストロークの検討に取りかかり、当時世界有数のレーシング・エンジンのメーカーであったコヴェントリー・クライマックスが行った実験において、ストローク/ボア比(以下S/B比)の最適値が0.76であるという報告を参考にし、最終的に82.0×63.0mm(総排気量1996cc、S/B比は0.768)と決定した。』という記述もある。手持ちのグロリア用G7型6気筒を、レース用エンジンに仕立て直すのが難しいと分かった時、やはりベースとなるエンジンが必要だったのだろう。(上の写真は、Coventry climax 2.5ltr FPF エンジンで、下はプリンスR380用GR8型エンジン)
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(写真はhttps://crosthwaiteandgardiner.com/index.phpより)
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(写真はhttps://nissangallery.jp/wp-content/uploads/2016/01/20151107_ghq_304-640x480.jpgより) 引用を続ける。
『(中略)GR8とFPFが似ていると言ったのは設計の基本ポイントです。直4→直6、2弁→4弁と形式もボアスト比もまったく違うんですが、例えばヘッドはどちらも吸排気カム室をヘッドと左右別体の2階建てにしてバルブ挟角と直角にマウント、左右カムカバーは別々です。カム駆動はギヤですが、その特徴的な配列の設計も非常に似ています。
――うーん。
エンジン設計者 座談の中にベアリングキャップの話が出てきますが、メインベアリングキャップを下からだけでなく横からもボルトで締結するサイドボルト式を併用、これもFPFと同じ形式です。あとエンジン前方にウォーターポンプを配置して前方から冷却水を入れて排気側の側面に抜く設計、ドライサンプのオイルパンにぶら下げたスカベンジポンプをワイドスパンの脚で支える設計なんかもそっくりです。
シャシー設計者 まあサスとフレームを改造して使ったくらいですからねえ。
エンジン設計者 第2回GPの直後の64年初夏に設計を始めて65年4月には初号機が完成、しかもG7型とはほとんど共通点がない。
自動車設計者 そういう指摘はこれまでどこかで出たことはありますか。
エンジン設計者 少なくとも自分は聞いたことがないです。今回両方のエンジンの写真や図版を比較して気がつきました。
――68年GPのR381なんかムーンチューンのシボレーV8を買ってきて積んじゃったくらいですからね。「勝つためには手段は問わない」という空気はあったでしょう。
(以上⑪より、後略)』
 この一文を読んで自分なりに感じたこと(感想文?)の第1点目は、この時代のプリンス自動車のエンジン(と設計者たち)には、中島飛行機時代の苦い教訓が十分に生かされていたという点だ。中島飛行機の航空機用エンジンは大きくは、ブリストル社(英)とカーチス・ライト社(米)からの技術導入で始まり、基本技術は両社の流れのなかにあったが、後の自主開発エンジンでは、両エンジンのもつ真のノウハウを会得するに至らないまま、異なる設計思想のエンジンの折衷型(=いいとこどり)エンジンを目指して、それがトラブルと性能不足の原因につながったとの貴重な教訓があった。
 プリンス自動車のエンジン部門の前身の富士精密が、初代プリンス セダン用エンジン(FG4A型)を開発するとき、新山専務が中島飛行機時代の経験(失敗)から、オーナーだった石橋正二郎所有のプジョー202のエンジンをそっくり真似ろと指示したのは有名な話だ。
 またグロリアスーパー6用の、プリンス初の6気筒エンジン開発に当たっても、『当時はまだOHVの時代で、OHCも6気筒も日本にないためベンツの6気筒OHCを参考にしました。こうして完成したのがG7型で、プリンスの独自技術で開発したエンジンではありませんでした』(⑥より、GR8のエンジン設計に携わった牛島孝談)と正直に語っている。しかしこのとき得られた直6エンジン開発の知見は、”某FPFエンジン”を参考に、直6、4バルブ化したエンジンを仕立て直す時、貴重なノウハウとなっていたに違いない。時間の無かったGR8エンジン開発に当たっては、真似するところはそっくり真似して、中途半端な妥協はしないのが”プリンス流”なのだろう。写真はG7型エンジン。(wikiより)
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 第2点目は、そっくり真似したところはあったにしても、それでもこれだけ短時間に最新鋭のレーシングエンジンをモノにしてしまうのだから、プリンスにはやはり当時の日本の同業他社には無い、中島飛行機伝来の高度なエンジン設計、試作、それにチューニング技術があったということだ。
 そして第3点目は、プリンスはやるときは中途半端なマネはせず、なりふり構わず勝ちにいくという点だ。このひたすら実戦的で割り切った姿勢が、ドライバー陣の力量の差と相まって、日本グランプリでトヨタを圧倒し続けた理由だったのだろう。
 まとめれば?GR8エンジンの“源流”を辿れば、あるいはコベントリークライマックス社製エンジン(FPF型)に行きつくかもしれないけれど、中島飛行機時代に培った技術と教訓、そして“プリンス自動車の魂”は確かに息づいていると思ったが、如何でしょうか。(以上10/25追記)

さて第3回日本GPがこれで終わり、いよいよ本題の(ようやく!)、国光(“ニッサン”R380-Ⅱ)×生沢(ポルシェ906)の舞台となる、第4回日本GPへと話が進めることにする。
(番外編は追って書込みます。

― 引用元 ―
①:「クルマ界 歴史の証人」プリンス―日産ワークスドライバー 砂子儀一 PART Ⅴ」ベストカー 講談社ビーシー
②:「プリンス/ニッサンR380/R381/R382/R383」檜垣和夫(2009.08)二玄社
③:「時代を移すスーパーメカの系譜 ポルシェ906」モーターファン・イラストレーテッド(2007.05)三栄書房
④:「激闘 ‘60年代の日本グランプリ」桂木洋二(1995.05)グランプリ出版
⑤:「レーシングカーのテクノロジー」モーターファン・イラストレーテッド(2010.01)三栄書房
⑥:「スカイラインGT-Rストーリー&ヒストリー」(2019.04)モーターマガジン社
⑦:「古の日本グランプリPartⅡ」Racing on(2014.05)三栄書房
⑧:「マン・マシンの昭和伝説 航空機から自動車へ 上」前間孝則(1996.02)講談社文庫
⑨:「トヨタ7 その開発から撤退まで」ノスタルジックヒーロー(2007.06)芸文社
⑩:「スカイラインを超えて “伝説のクルマ屋”櫻井眞一郎の見た夢」片岡英明(2012.03)PHP研究所
⑪:「<再録>MFロード・テスト 日産スカイライン2000GT-R」モーターファン(2016.10号)三栄書房
⑫:「フォードVSフェラーリ 伝説のル・マン」A・Jベイム著(赤井邦彦、松島三恵子訳)(2010.09)祥伝社

⑬ 第2回日本グランプリ(1964年)“スカイライン神話の誕生”

あのスカイライン神話が誕生した第2回日本グランプリは、あるいは日本の自動車レース史上もっとも有名なレースなのかもしれない。レース翌日のスポーツ紙の一面は、「泣くなスカイライン、鈴鹿の華」という大見出しが踊ったという。そして『レースを見たこともない人もスカイラインという名前を覚えた。以来、スカイラインは日本で一番浪花節の似合う車となった』(引用①)
ちなみにスカイラインGTにちなんで命名された、“羊の皮をかぶった狼”というフレーズは、東京新聞の記者の命名だったそうだ。
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https://minkara.carview.co.jp/image.aspx?src=https%3a%2f%2fcdn.snsimg.carview.co.jp%2fminkara%2fblog%2f000%2f032%2f695%2f233%2f32695233%2fp1.jpg%3fct%3d8aa663e023cb
それにしてもなぜあれほどまでに、日本中が盛り上がったのだろうか。
このレースが開催された1964年は言うまでもなく、東京オリンピックが開催された年だ。新幹線が走りだし、自動車の世界でも前年の名神高速の開通に続き、東京では首都高速の建設が進み、高速道路時代を迎えようとしていた。まさに欧米に追い付き、追い越せという機運が日本中で高まったその時に、ドイツの高性能車の代表格であるポルシェに、国産のスカイラインが追いつき、一瞬にせよ追い越したという構図がピッタリはまったのだろう。 (以下は例によって敬称略、引用箇所は青字で、引用もしくは参照先は番号をふって文末にまとめて記載し、画像のコピペ先は写真の下に記載。なお全くの個人的な見解についてはあくまで“私見”だと明記してある。たぶんこの記事については“私見”が増えそうです。
まずは、雪辱に燃えるプリンス側の視点で見てみたい。
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https://www.weibo.com/ttarticle/p/show?id=2309404316017575753825&mod=zwenzhang?comment=1

1.必勝体制で挑んだプリンス
第2回日本グランプリに向けて、ベース車両の性能で勝るプリンスの技術者たちは、まともに競争したら他のメーカーチームに負けるはずがないと自負していたので、前年の失敗をバネに必勝態勢で臨んだ。その中心となったのは車両開発では櫻井真一郎、走行実験では青地康夫で、この体制は後の日産と合併後もそのまま引き継がれた。
プリンスは3種目制覇を狙って、主力車種のスカイライン1500(T-Ⅴクラス)、グロリア(T-Ⅵクラス)に加えて、メインレースであるスポーツカー部門(GT-IIクラス)に秘密兵器のスカイライン2000GTをエントリーした。
GT-Ⅱクラスを制するためには、1500ccのスカイラインではパワー不足だし、グロリアは高性能な6気筒エンジンは魅力でも、大柄なため鈍重だった。
そこで櫻井は、1500ccのスカイラインのボディを、フロントタイヤ後方で切ってホイールベースを200mm延長してグロリアの6気筒エンジンを載せた。そしてそこに高価なウェーバーのキャブレターを3個取り付けてパワーアップした。ちなみにこのウェーバーは、櫻井がアメリカに行ったときに、これを付ければ速くなるんじゃないかと思い、買ってきて研究したのが発端だったそうだ。当時は1ドル360円の時代で外貨の持ち出しが制限されていたから、自分のニコンのカメラを現地で売って用立てしたとのことだ。(参考②)GT-IIクラスにエントリーするためには、最低100台の生産が義務付けられていたので、プリンスはイタリア製の高価なキャブを300個も輸入したことになる。(下はスカイラインGTの日本GP仕様。櫻井がポルシェ904との戦いを、“エイとダックスフンドの戦い”と言った意味がわかる)
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https://car.watch.impress.co.jp/docs/news/1014119.html
 スカイラインとグロリアは、下馬評通りそれぞれのレースで圧勝した。スカイラインはコロナを全く寄せつけず、グロリアも食い下がるトヨタのエース、式場壮吉のクラウンを3位に退けて優勝した。この第2回日本グランプリで、前年のトヨタのように、レースで勝ったといえるのは、今度は実力を発揮したプリンスだった。(下は復元された第2回日本GP仕様のグロリアで、さすが当時の“高級車”らしくなかなかカッコイイ)
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https://car.watch.impress.co.jp/img/car/docs/1186/945/html/013_o.jpg.html
そしてメインレースであるGT-Ⅱクラスでも、優勝間違いなしとふんだプリンス陣営の前に突然立ちはだかったのが、当時バリバリの市販レーシングカーとして限定販売された、ポルシェ904だった。(やはりスカイラインと比べれば重心の低さが際立つ。そのスペックは空冷DOHC水平対向4気筒1,966cc、180PS/7,200rpmエンジンを搭載、優れた空力と軽量ボディ(650kg)で、最高速度は260-262km/hを記録したという。)
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https://matome.naver.jp/odai/2137152377534366101
しかもこれを手に入れて出場したのがトヨタ・チームに所属し、そのエース格の式場壮吉だったのだ。
以下③より引用する。

2.突然、ポルシェ904の登場
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http://www.mooneyes.co.jp/wildman/2012/0811/3406
『トヨタが、勢いに乗るプリンスチームの出鼻をくじく作戦で、このポルシェ904の購入資金を出したというウワサは、レース前からあった。最初からそうした作戦を立てたわけではないだろうが、レベルの違うスポーツカーでさっそうとレースを走りたいと考えた式場のプランに乗り、トヨタ自販がバックアップしたというのが真相であろう。プリンスに名をなさせるよりは、ポルシェ904がそのレースで勝った方が、間接的にトヨタの利益となることは自明の理だ。レースが宣伝の場として有効であることを良く知っているトヨタ自販のレース担当者が、そのくらいの計算ができないはずはない。』
この思わぬ展開にプリンス陣営はどういう思いだったか。櫻井の次の一言に代表されるだろう。『櫻井は「やることが汚いぞ」と思ったという。』(引用④)プリンス陣営からすれば、『昨年の惨敗で売れ行きが急降下していたスカイラインが復活できるかどうか、この一戦にかかっていた。』(当時櫻井の下で開発に携わった島田勝利氏⑤)という瀬戸際だったわけで、別段レギュレーション違反でもなんでもないのだが、心情的には理解できる。
以下③から引用を続ける。『この式場のポルシェ904が、予選の走行中にクラッシュし、
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http://www.mooneyes.co.jp/wildman/2012/0811/3406
徹夜の修理の末にようやくグリッドに並びスタートにこぎつけた。』

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http://www.mooneyes.co.jp/wildman/2012/0811/3406
決勝の朝、名古屋の修理工場から鈴鹿まで自走させて戻るとき、渋滞で遅れそうになったが、たまたま居合わせた白バイが先導してくれて間に合ったという、有名なエピソードもある。
だがこのエピソードも、プリンス陣営の目線では『決勝当日、名古屋を発った904ですが、名四国道は大渋滞。このままでは、鈴鹿に辿り着く頃には、レースが終わってしまいます。そこに、白バイが登場。鈴鹿まで先導を頼むと、到着は何とスタート4分前。ところが、本来ならばこれでもDNS。リタイヤ扱いです。プリンス陣営は、激しく抗議します。主役の奇跡的な再登場。まるで、ドラマの様な筋書きに観客は大熱狂。それもあって、904の決勝出場が許可されます。』(引用⑥)となってしまうのだが。
病み上がりとはいえ、さすがにポルシェ904は速かった。特に加速性能で大差があったという(②)。しかし一度だけ生沢徹のスカイライン2000GTがトップに立った。(その“ドラマ”は後述する)
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https://genroq.jp/2019/02/16613/
『こうしたレースのドラマが話題となり、逆にポルシェに敗れて2位となったスカイライン2000GTは名車と呼ばれるようになり、そのイメージが次のモデルとなるスカイラインGTRに受け継がれる。このポルシェ904とスカイライン2000GTの走ったスポーツカーレースが、第二回グランプリレースのハイライトであった。』(③)
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http://www.mooneyes.co.jp/wildman/2012/0811/3406
今の時代、ここは、動画を実際にごらんいただくのが一番だろう。 「第2回日本グランプリレース「プリンス勝利の記録」」
https://www.youtube.com/watch?v=sNl7RSjfDlE

③の引用を続ける。『ツーリングカーを改造したスカイライン]2000GTの健闘ぶりは日本人の半官びいきにぴったりのものだった。もしポルシェ904の出場がなかったら、スカイライン2000GTは、楽々と優勝できたものの、これほど注目されなかったことは確かだ。スカイライン神話は、逆にポルシェ904の出場によって、トヨタがバックアップしてつくられたということもできる。考えてみれば皮肉なことである。』
余談だが、レース当時のポルシェ904の貴重な写真のいくつかをコピぺさせていただいたweb(引用⑦)によれば、その後このクルマは『秋田のコレクターのもとにあった904は美しくれストアされ、ナンバーも取得しロードバージョンとして素敵な余生を送っていました。』とのことだ。904までは、このあとのモデルの906(カレラ6)以降と違い、一般路上で実用にも使えた。この歴史的な名車は、果たして今も日本にあるのだろうか。
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http://www.mooneyes.co.jp/wildman/2012/0811/3406

3.ポルシェ904出場は“トヨタの陰謀”だったか?
さて③の自動車史家、桂木氏も指摘した、“トヨタ陰謀説”については、たとえばレース専門誌(Racing onやオートスポーツ)などもトヨタ関与説をとっている(たとえばRacing onは『式場本人はいまだ否定しているが、対プリンス用にトヨタが手配したというのが定説になっている』(引用⑧)、“60年代レーシングカーのすべて”(引用⑨)では『式場壮吉の個人エントリーだったが、プリンスの勝利を阻止したいトヨタの積極的な支援があったと言われる』というスタンスだ。)
ただこの“トヨタ関与説”の中にも諸説あり、たとえば大久保力氏は自著で(引用⑩)『いかにレースに出す車が無いといっても、大トヨタともあろうものが、そんなセコイ手を使う筈もなく、いつまでもそう思われるのは甚だ迷惑だろう。当時のメーカーは、参考とする外国車があれば何でも買い入れて研究したし、最新技術の車が発売されればいち早く購入したものである。AJAJ元会長の池田英三氏(注;当時トヨタチームと関係が深かった)は、かつて「トヨタという会社は実に色々な車を買ってテストしているが、一体どういう車を造ろうとしているのか、全く解らない」と語っていた如く、他社に見られない多種のテスト車があったようだ。そういったメーカーだから、トヨタはパブリカのエンジンが空冷であるように、ポルシェの高性能空冷エンジンスポーツカーがでれば、絶好のテスト車として購入するのは当然で、たまたまレース間近の時期に輸入したメーカーの実験車を、式場が借り受けるのは珍しいことではない。』としており、こちらはむしろ逆に、より“トヨタ主導”に傾いた見解となる。
もちろんその一方で、日本のモータージャーナリストの第一人者で、生真面目な性格で“陰謀論”のたぐいを嫌う小林彰太郎氏の「いずれも根も葉もない噂に過ぎない」(wiki)と言うような反論もある。
しかしここはやはり、式場氏自らの言葉に耳を傾けるべきだろう。式場氏は77歳で亡くなる9年前(2007年)に、1冊まるごとこのレースのことを扱った「日本の名レース100選、‘64 第2回日本GP」(引用⑪)発刊の際にロングインタビューに応じている。様々に尾ひれがつきつつ語られているその伝説に自ら終止符をうつべく、いわば“決定版”にするつもりで受けたインタビューのように感じられた。なおこの記事は、後にweb上でも公開されている。詳しくはそちらを確認してください。
https://note.mu/kanekohirohisa/n/nf52264b2172d (下の画像もwebよりコピー)
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以下長いが、その記事から以下抜粋する。

4.式場自らが語る “43年目の真実”
『「あれは、第1回からトヨタと約束していたんです。“トヨタが出場する予定のないGTやスポーツカーレースには、トヨタ以外のクルマで個人エントリーしても構わない”って」
第2回日本グランプリのGT-2レースについて記した書物や記事の多くでは、“式場の904カレラGTSは、プリンス・スカイラインGTを負かしたくとも対抗するクルマのないトヨタが式場に買い与えたものだという説がある”という記述が必ずなされている。
「ああ、産業スパイ小説まがいの話は、僕もよく聞きましたね」
 購入資金がトヨタから出されたことを否定するのもバカバカしいといった口調で、式場は続ける。
「904を買って僕が第2回に出る話のキッカケは、実は第1回が開催される前からあったんです」
 ええっ!? でも、904カレラGTSが発表されたのは、第1回日本グランプリが終了してからのはずだ。
「僕はオンボロの1500スーパーに乗っていたでしょう。ポルシェのクラブを作ろうという話はずいぶん前から出ていて、僕ともうひとりの若い仲間が連絡を取り合って始めました。でも、ほとんどのメンバーは中年以上の方々でしたよ。初代の会長を大川又三郎さんという日本信託銀行の頭取にお願いしてね。で、第1回グランプリに、招待選手ということでハンシュタインが来ることになった」
フシュケ・フォン・ハンシュタインは、当時のポルシェのレーシング部門の監督だ。レーシングドライバー出身で、1938年に距離を短縮して行われたミッレミリアにBMW328で優勝している。1956年には、ポルシェ550スパイダーでタルガフローリオでも勝利を収めている。
「できたてホヤホヤのポルシェクラブですから、当時の僕らにしてみればハンシュタインは“ポルシェの神様”なんですよ。レースの前後で食事会をしたり、講演会で話してもらったり、大歓迎したんです。西ドイツへ帰国する日も、羽田空港まで送っていきました」
 式場は、羽田までの道中おそるおそる願いごとを切り出した。
「できたら、僕は来年の第2回グランプリにポルシェで出場したいんです。今回の鈴鹿でハンシュタインさんが乗られた356のカレラ2000GSのような、レースに勝てるようなクルマを中古でも構いませんのでお世話願えないでしょうか」
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https://genroq.jp/2019/01/14936/maina-min/
ポルシェ356B 2000GS カレラGTは、水平対向4気筒DOHC 1966cc 175hpで、確かにこれぐらいの性能でも十分だっただろう。
『ハンシュタインは、一瞬、言葉を飲み込んでから答えた。「今ここでは言えないんだけれども、カレラ2000GSよりもスゴくいいクルマを造っているんだ。帰国したら、それについての情報を送ってあげるよ」
体よく断れたかと、ちょっとガッカリした。
「やっぱり厚かましかったかなと反省していたら、すぐに手紙が来ました。“カレラ2000GSの中古を探すこともできるけれど、このクルマは100台作る予定だから、ちょっと待ってみたらどうか?” それが、904だったんですよ」
手紙には、904カレラGTSのプラスチックボディの軽さを強調するために、ふたりのメカニックがボディをつかんで持ち上げている写真が同封されていた。
「そのシーズンの『Automobile Year』に掲載されているのと同じ写真ですよ。言葉も出ないほどビックリして、値段を聞くためにすぐに三和自動車に飛んでいきました」
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http://takumi-yoshida901.way-nifty.com/start/images/DSC05334.40Kai.JPG
当時のポルシェの輸入総代理店である三和自動車は、904カレラGTSがホモロゲーションを取得するために100台以上生産され、一般に売り出すGTカテゴリーのクルマであることを伝える広告を『カーグラフィック』誌に掲載した。
「確か、571万円じゃなかったかな?」
式場が金額を思い出したと同時に、編集を担当する林信次が当該号のコピーを取り出した。ぴたり571万円である。
「ワハハハハハハッ。憶えているもんですね。当時の571万円はとても高価ですけど、内容を考えれば、僕は安いと思ったんだ。356SCにスライディングルーフを付けると250万円ぐらいだったから、2倍ちょっとで最新鋭のポルシェのレーシングマシンが買えるんだから。904までが、言葉の本来の意味での“GT”ですね。サーキットまで自走して、プラグとタイヤを変えてレースを戦えるクルマだった。この次の906となると完全なレーシングカーになっちゃって、自走はできません。フェラーリの250LMも自走できない」(下は”空からやってきました”という、当時の三和自動車の広告)
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https://www.weibo.com/ttarticle/p/show?id=2309404316017575753825&mod=zwenzhang?comment=1
ハンシュタインからの手紙は、全部で4通来た。最初の手紙以外は、途中から電報に代わった。
「アメリカ行きの3台のうちの1台を、僕に都合してくれたんだそうです」
うまく行く時には、何でもうまく運ぶもので、式場の904カレラGTSでの第2回日本グランプリ参戦に、パンナムがスポンサーに付いた。ボーイング707のカーゴ便で、904カレラGTSは羽田空港に到着した。
(中略)
「5月1日の2日目の予選で、まさかのクラッシュをしたんです。電報に書かれていた通り、ペダル位置を調整するピアノ線が切れて、ペダルが手前に押し出されてきた。エンジン回転が上がると同時に、クラッチも切れた。ノーブレーキでスピンしながら、1コーナーに突っ込んでガードレールにクラッシュです。プラスチックボディって、ショックを上手に吸収するんですね」
904カレラGTSがクラッシュした瞬間、プリンスチームのピットから「やった!」という歓声が上がって狂喜しているのを、『カーグラフィック』誌編集長の小林彰太郎は、「苦々しい思いで聞きながら」現場に急行したという。
フロントフェンダーは破れ、ボンネットが外れて、オイルクーラーも垂れ下がった。絶望的な状態の904カレラGTSは名古屋の藤井正行氏の工場に運ばれ、藤井氏とメカニックたちの二晩にわたる徹夜の奮闘で修復がなされた。藤井氏は、『カーグラフィック』誌に「ポルシェ904を修理して」という手記を発表している。
プリンスチームのエースとして、このレースでも式場と一戦交えることになっていた生沢徹が修復作業を手伝ったのも、この時代の彼ららしいエピソードだ。ライバルである前に、友人だからだ。(中略)
「3日の決勝の朝、名古屋から鈴鹿まで、修復できた904で自走しなくちゃならなかったのですが、渋滞で遅れそうになった。居合わせた白バイが先導してくれて、間に合ったんです」
〈もうスタート4分前、グリッドに並んだ他の車はエンジンを止めてシンと静まり返っているところへ、辛くも間に合ったポルシェがスレスレで滑り込んだ時には、敵も味方もなく、恩讐を越えた嵐のような拍手が渦巻いた。〉(『カーグラフィック』誌64年7月号)』

ここで式場のインタビューを中断して、名古屋で行った修理について、藤井氏の手記ではないが、当時ポルシェの輸入代理店だった三和自動車の広告にたびたび登場して有名だった、“Yメカ”こと吉岡晶氏が当時の状況を語っている記事があったので引用する。(引用⑫)
『あれはねぇ、僕がビリヤードをやってた時ですよ。どうやってかわからないけど会社から呼び出しがあってね。工具も何も持たないで夜行に乗ったんだ。新幹線がまだ走ってないころだったからね。現場にいた連中にはバラせるだけバラしとけっていって。名古屋に藤井さん(藤井正行氏)ていう修理屋さんがいてね。この人はもともとフルート奏者で、好きでフルートを直したりとか、そんなことをしていた人なんだけど、そこへ車を持ち込んでさ。工具も貸してもらって。あの頃はFRPなんてホンダのバイクにしか使われてなくて、そう簡単には手に入らないんですよ。頼んでも手に入らないから、できるだけ使わないようにしてね。木綿の布なら何とか代わりになるだろうってんで、藤井さんに着物があれば貸してくれないかって頼んで浴衣をもらったんだね。結局丸一日で直したかな。レースの1~2時間前に出来上がって、名古屋市内から自走で鈴鹿に向かったんだ。』この、修理に浴衣を使ったというのも有名なエピソードだ。⑫の証言を続ける。
『庄野川を渡ったあたりで式場さんに運転を代わったんだ。そこへちょうど白バイが来て、これがなかったらレースが始まりませんねっていって先導してくれることになったんだ。着いたのがレースの何十分前だったかな。走りながらフロントのカウルが浮いてるのに気づいたんだけど、もう時間ないじゃない。みんなテープ貸してくれないんだよ。それで知ってる連中を見つけて、むこうでひと騒ぎしてこいって言ったんだ。みんながそっちに気をとられてる隙にJAFのガムテープを借りて、直したんだ』
と生々しく語っている。ただ式場のインタビュー内容を裏付ける内容だ。ちなみに下の写真で、レース直前の車検チェックを受ける中、“Yメカニック”が寝転んで、ガムテープを使い応急処理をしている姿が映し出されている。
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http://www.mooneyes.co.jp/wildman/2012/0811/3406
参考までに“トヨタ陰謀説”についてY氏はこの記事で、
『式場さんが買ったのかねぇ。僕はダイハツかトヨタがスポンサーだったと思うんだけど。その頃、両方とも一生懸命に空冷のエンジンを作りたがってたからねぇ。あの後もいろんなメーカーの人が会社に来ましたよ。トヨタとかニッサンの人とか。買ってくれたわけじゃないけれど、あっちこっちの寸法調べたり覗き込んだりしてね。特にカレラ6はよく見に来てたな』と語っている。カーグラは、“真実を確認するには、まだ少しの時間の猶予が必要なようである”と結んでいた。話を式場のインタビュー(⑪)に戻す。
『決勝レースがスタートすると、冒頭で式場が語ったように、904カレラGTSとスカイラインGTでは、レースにはならなかった。GTとはいえ、競技用に作られたミッドシップカーと、1500ccクラスの乗用車をストレッチし、半ば強引に2000ccの6気筒を押し込んだ特殊なクルマとでは勝負になるはずがない。
「藤井さんをはじめとして、みんなの協力で修復できましたけど、真っ直ぐ走らなかったし、タイヤの状態だって悪かったんです。904の本来の実力の半分も出せていなかった。それでも勝てたのは、本来だったら同じカテゴリーで競い合わないはずのクルマ同士だからです」
(中略)
「ハンシュタインは、東洋の島国・日本で行われた第1回日本グランプリを自ら走ってみて、この国でもやがてモータースポーツが盛んになるに違いないと確信したのではないでしょうか。ポルシェクラブもできて、関心だって高い。だったら、1台都合してやってもいいじゃないかって思ってくれたんでしょう。運も良かったんです」

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http://since1957.blog130.fc2.com/blog-entry-43.html

ここからは全くの私見です。式場がこの(おそらく最後の)インタビューを通して本当に言いたかったことは、ポルシェ904で日本GPに出場した動機は、けっして某メーカー主導などという “どす黒い” 話が前提であったわけではなく、その発端は、ハンシュタインとの交渉の過程でポルシェ904という当時世界で100台限定発売の最新鋭のレーシングマシンが奇跡的に手に入りそうになったので、そいつで日本GPのメインレースに出走して、(当然トヨタ以外の、という注釈付きだが、)国内ワークス勢をぶっちぎってやりたいという、自動車レース大好きの若者(当時まだ25歳だった!)の、熱い気持ちだったことを、後世まで誤解なく伝えたかったのではあるまいか。
ただ式場は同時にトヨタ・チームの一員だったので、いかに契約に縛られないとはいえ、904での出場にあたっては当然事前にトヨタと相談し、たぶん式場の側から提案し、見返りに資金援助の申し入れをしたのだろう。確かに571万円は、式場からすれば全額払えない額ではなかったと思う。しかし、このブログの年初に、自動車欄に書き込んだ “②幻の“ロータス・ヨーロッパ ロータリー ゼロ” をぜひ参照いただきたいが、この当時式場とその盟友の杉江(徳大寺)は大志を抱く、野心ある若者で、このすぐ後に、レーシングメイトを設立したように、国内自動車メーカーの意向に左右されない、独立した存在になることを夢見ていた(と思う)。お金はいくらあっても、邪魔にならない状況だったはずだ。一方この取引でトヨタ陣営が得られる対価は、スカイラインのGP制覇阻止と、空冷エンジン&レーシングカー研究用に、入手困難な904を検分できることで、2度おいしいような、文句ない取引だっただろう。
それにしても、たぶん当時トヨタと交わした約束を守るため、終生否定で貫き通し、変わることのなかった氏の言動の中に、”男のダンディズム”を感じるのは、ひいき目過ぎるだろうか。 (ちなみに式場氏の奥様は、歌手の欧陽菲菲さんです。)
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https://www.nikkansports.com/sports/news/1650014.html
次にトヨタサイドから、“正史”以外の情報は出ているか、確認してみた。

5.トヨタ関係者からの証言
黎明期のトヨタのレーシングヒストリーについては、チームトヨタのキャプテン格であった細谷四方洋氏が、当時の生きた証人として、トヨタのレース活動の“正史”を語るいわば“語り部”的な役割を長年はたしてきた。しかし氏の発言は当然ながら、会社に忠誠をつくし、その立場を十二分に踏まえたうえでの発言であるため、中には肝心なポイントが見えてこないものもある。細谷氏に限らず当然ながらトヨタ関係者の間では、暗黙のかん口令が敷かれているはずで、“証拠”となる証言は、レース前からヒソヒソ話では多々あったようだが、記録に残る文字情報ではなかなか出てこない。
ところがwikiの情報で、当時のトヨタ製品企画室工長(チーフメカニック)がそれとなく“匂わせている”との情報があり、そこでその貴重な歴史的証言を確認してみた。
ノスタルジックヒーロー誌の「トヨタ2000GTを支えたメカニックたち いまだから話そう。いいたい放題座談会」という、サブタイトルからも何やら期待の持てそうな記事だ。(引用⑬)
『トヨタ2000GT』に関して今までは設計者、ドライバー、監督などが発言してきた。今回はその裏方ともいうべきメカニックたちに本音を語ってもらった。深読みすれば、当時のメーカーの姿勢やドライバーの本質が浮かび上がってくるはず。ぜひ、一度ではなく二度読んでいただきたいトークである。』という、かなりマニアックな内容だ(文のまとめは片岡英明氏)。
ちなみに出席者が8名(平博氏、高橋敏之氏、都築憲司氏、堀尾幸雄氏、中村武彦氏、内藤宏氏、栗谷正彦氏、鵜飼好文氏の8名)というかなり大掛かりな座談会で、この座談会当時で既に約30年前の話なので、もうそろそろ時効?だろうと、みなさん率直に語っている。この中で(どなたかは伏せるが)、司会役(たぶん片岡氏)の“トヨタ2000GTは’64年秋から本格的な開発が始まったそうですが、このプロジェクトの前は社内でどんな仕事についていたのでしょうか”との問いに、“某氏”が以下のような、なかなか興味深い発言を残している。
『トヨタ2000GTの前にもいろいろな車を担当しましたね。このころはパブリカ700の試作車を手がけ、運行試験を行っています。新車ができると、役員がお伊勢参りに行くのでメカニックが随行するんです。あの当時はおおらかな時代で、豊田英二さん(現トヨタ自動車名誉会長)や豊田章一郎さん(現経団連会長)がときどき一緒に運行試験にされていました。私は第1回日本GPは、エンジンの供給を担当していました。第2回日本GPからサーキットに行くようになりました。このときは式場壮吉さんの助っ人でした。大切なポルシェ904GTSを壊されないように、コースに陣取って監視していました。(編集部注 当時ポルシェ904GTSはトヨタが輸入したと噂された)』
さらっと述べているがきわめて重要な証言だ。トヨタにとっては研究目的を兼ねた貴重な個体でもあったことが、行間からわかる。
なお本題とは離れるが参考までに、座談会でのメカニックたちのトヨタ系ドライバー評は、
『田村三夫さんはプロ中のプロで、常に飄々としていましたね。メカニック連中にもっとも好かれていたドライバーです。みんなから“みっちゃん”と呼ばれ、慕われていました。走りのセンスも冴えていた。』
『浮谷さんは、チームの中でブレーキングポイントをもっとも奥にとっていたんです。速く走ろうとする執念は凄かった。
しかし、あの船橋サーキットのCCCレースは感激したな。(中略)あのアクシデントの後、勝てるとは思いませんでした。』
『津々見友彦さんは、他のドライバーより遅れて日産からトヨタ・チームに入ってきたので不利だったと思いますよ。マシンに恵まれなかったけど、人間的にはとてもいい人ですね。
津々見さんは努力派のドライバーですよ。速く走ろうと、常に努力していました。』
『鮒子田さんは慎重なドライバーでしたね。みんなから、“京都のボンボン”と呼ばれ、レースの駆け引きがうまかったですね。
商売人としてのセンスもありました。よく気配りする人でしたね。トヨタの中では浮谷か鮒子田か、といわれた時代もありました。物事の先を常に考えて行動していました。』
『細谷四方洋さんはチームの中で一番早めにブレーキングするんです。だから練習中のタイムはそれほど速くない。でも、ここ一番(編集部注 契約更改時)というときは非常に速い。
とくに河野さん(注;開発リーダー)が見ているときは速かった。最速タイムをたたきだすんですよ。
私たちが唸るほど頑張っちゃうんですね。』

トヨタ・チームを現場で支えた人たちの正直な感想として、“某氏の発言”も十分信用できる情報だと思われる。
次の話題は、このレースで最大の見せ場で、スカイライン伝説の始まりとなった、一瞬だけでも式場のポルシェ904を、生沢のスカイラインGTが抜いたという、その“真相”について。

6.スカイラインがポルシェを抜いた、神話誕生の瞬間
この問題のシーンは、gazooの記事がよくまとまっていたので以下引用(⑭)
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http://since1957.blog130.fc2.com/blog-entry-43.html
『3番目のポジションからスタートした904は瞬発力を生かして1コーナーでトップに立ち、生沢 徹の乗るカーナンバー41のスカイラインGTが必死に追いすがった。周回を重ねても、2台の差は思ったほどには広がらない。904は外面は修復できたものの、クラッシュによるシャシーの損傷は完全には直っておらず、直進すらできない状態だったのだ。
そして7周目、大事件が発生する。ホームストレートに戻ってきた生沢のスカイラインGTが、後ろにポルシェ904を従えていたのだ。国産車が世界最先端のスポーツカーを抜いたという光景を目の当たりにし、グランドスタンドの観客は総立ちになった。次の周で式場は生沢を抜き返し、最終的には大差をつけて優勝した。それでも、一瞬でもスカイラインがポルシェを抜いたという事実は観客の脳裏に焼き付けられ、伝説となって語り継がれていくことになる。
圧倒的な性能差にもかかわらずスカイラインがポルシェの前に出たことは、さまざまな臆測を呼んだ。いわゆる密約説である。レーシングドライバーたちはライバルでありつつも仲間意識を持っていて、生沢、式場を含め、浮谷東次郎、杉江博愛(後の徳大寺有恒)らは仲のよい友人だった。生沢に頼まれて式場がわざと先に行かせたという話がまことしやかにささやかれた。実際、レース前にそんな会話があったことは両人が認めている。しかし、それはただの冗談で、実際には周回遅れのトライアンフTR-4を抜きあぐねていた式場のスキを突き、生沢がトップを奪い取ったのだった。ただ、すぐに抜き返せるのにホームストレートを過ぎるまで待ったという側面はあったらしい。』

ここで神話を誕生させた生沢と、再び式場氏にも登場いただき、その“真実”を直接語ってもらおう。
雑誌 NAVIの記事より引用する。(⑮)「GT-Rが蘇らせた3人“式場壮吉”“生沢徹“”杉江博愛“の青春」を紹介する。「スカイライン神話を直接的につくりあげた神々、式場壮吉、生沢徹、そしてそれを影で見守った杉江博愛(徳大寺有恒)の3人がここに再開、スカイライン神話をよみがえらせたGT-R(R32)を箱根で走らせる」という面白い企画だ。3人は過去を振り返り、懐かし気にその“真相”を語っている。
『~ 3人の話は日本のモータースポーツの黎明期への回想へと自然に向かっていく。スカイライン神話誕生の瞬間に、若き3人は立ち会っていた。』
式場 ~ でもね、このGT-Rにはただただ、たまげましたよ。僕がね、1周我慢してテツに前を走らせてやった成果が、今、これを生んでるんだから(笑)。
生沢 あの1周がなかったら、スカイラインGTはなかったんだから。
杉江 でも何で、あんなことになっちゃったの?
生沢 あの女のドライバーがいなかったら。
杉江 テツは、「チャンスがあったら、俺に1周、前走らせて」って前から言っていたんだよな。で、ほんとうにそのチャンスができたんだ。
式場 それはヘヤピンで起こったのね。前がウロウロしてるわけよ。それで、前、女性だから、俺が待っていたわけ。そしたら、こいつが内側からビュッと先に行ったんだ。でもね、スプーンの出口のところまではテツの後ろにピッタリ付いていたの。あそこでアクセル踏めば先に行けるの。でも、1周待とうと思ってね。
杉江 それでグランドスタンドをテツが下ってきたからね。
式場 そのおかげでスカイラインがここまで来たんだ。
生沢 日産から表彰されていいよ(笑)。
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https://matome.naver.jp/odai/2137152377534366101
杉江 いや、ふたりともそうは思ってないんだけどさ、ホント、あの事件てのは大変な事件だよ。でも、テツは、どっかでスピンして3位になっちゃったじゃない。
生沢 違う。砂子にぶつけられちゃったの(笑)。
式場 いろいろ出てくるね(笑)。表彰台に乗っかって、オープンカーでコースを1周パレードしていると、観客席から「式場、お前、次は国産車に絶対乗れよ」(笑)。「分かりましたあ」とか言ってさ(笑)。なんかテツは1位取ったみたいなんだよ。
生沢 だけど最終コーナー降りて行く時、スタンドが総立ちになったもんね。だって起こり得ないことが起きたから。
杉江 あのレースは楽しかったな。
式場 あの時は杉江がピットマネージャーやってくれてたんだよね。サインボードも出してくれて。それからテツが優勝した時も、彼がやったんだよな。スポンサー集めもやって。
生沢 日本のノイバウアー(戦後、メルセデスのレース全盛時代を築いた名監督)ですよ(笑)。』

この話に出てくる、“前をウロウロ走っている女性ドライバー”について、より生々しい証言が、「帰ってきたTETSU “プロローグから終焉まで”」というブログ(以下引用⑯)にあるのでその部分を引用する。
『生沢:レース前に、頼む1周だけトップやらせてよって…、やってたのね!冗談だよ!(笑)
本心は、勝とうと思っているけど、どっちにしても車のレベルが違って、まともに行ったら行っちゃうから、1周だけ・…(笑)。
式場:それは、ずいぶん頭にこびりついてたんですがね、まあ、女性のドライバーの…、今思うと信じられない人がこのレースに出てたんですよ。TR-4(イギリスの名門スポーツカーのトライアンフTR-4のこと)かなんかで・・・。
生沢:仮免練習中みたいなさ…。(笑)
(注;ちなみにこのトライアンフTR-4で出場した紅一点、塚本♡子女史について、“スカイライン伝説誕生の、影の大根役〇”という風評もあるらしい…)
式場:その人に・・・、2周したら、あっという間に追いついちゃったんですよね。
生沢:遅いんだよね。2周で1周遅れだよ!
式場:その方が、ヘアピンに出てきちゃったんで、僕がそこでどっち行くのかわかんないんで、一瞬躊躇してたら、そうしてたら徹が内側からダーと抜いてって・・・。
生沢:それからはもう、1周だけでもトップと思うからさ…。
式場:徹は、バックミラーも見ずにプラクティスのような走りで、全然バックミラーも見ない。正直言って、スプーンのアウトで抜けたんですけど、抜けたんだけど、いやこりゃ~、あいつも言ってたから、1周徹の後ついてこうかと……。そしたらメインストレートで観客が立ってるのよね。
生沢:観客の…、あの当時シケインないでしょ、カシオトライアングル?何しろ、あそこから全開で降りてくるわけね、正面にスクリーンみたいに観客席が見えるのよ、ワァーッて立ってるのが見えるんだよね。それこそこんな感じよ!(生沢が笑顔でピースサインをする)
式場:ずっとピッタシ…、ずっと我慢して、すると後ろが迫ってくるわけですよね。ヘアピンからスプーンで今度は前行かせてもらおうと、そっから、今度は、真面目に行こうと…。結果的には、もう徹のスカイラインGTを褒め上げる結果になりましたよね、私は。(笑)
生沢:というか、あれが日本の自動車工業界の曙だよね!!(誇らしげなTETSU!)』

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https://minkara.carview.co.jp/userid/360315/blog/37947790/
式場と生沢による“神話誕生”のまとめとして、当時二人をもっとも近いところから見ていた、徳大寺(杉江)さんの以下の言葉で要約されていると思う(引用①)。『当時、私は式場壮吉君のピット責任者をやっていた。式場君と生沢君はレースを通じて仲がよかった。このレースを走る前も、生沢君が「式場、もしも俺が抜いたら1周ぐらいトップを譲れよ」と冗談を言っていたのを思い出す。予想外にも式場君は周回遅れのクルマに手間取ったところを生沢君に抜かれたが、すぐに抜き返すこともできた。ところが、しばし華を持たせたというのが真相だ。実際、式場君はその後軽々とスカイラインを抜き去った。しかし、17万人が詰めかけた鈴鹿サーキットのファンはそうはとらえなかった。』

7.生沢と砂子の確執
話を戻す。最近は便利な世の中で?この式場、生沢、杉江(徳大寺)氏による、「第2回日本グランプリの真実」という動画があり、貼っておく。
https://www.youtube.com/watch?v=DkA2g8t0yUs
この動画の中で式場は、「誰がみても勝たねばならないというプレッシャーが大変だった」と語っている。確かにそうだったろう。それとNAVIの記事でも語っている事だが、生沢はこの動画の中で、生沢がなぜ3位になったかについて「砂子にぶつけられたからだ。チーム側から“ホールド(そのまま順位をキープ)”のサインが出たので無理せずに走っていたら、砂子がガン、ガン、ガンとぶつけてきて、押し出されてしまいコースアウトしてしまった」と悔し気に語っている。
ただ当ブログの趣旨としては、できるだけ公平にと思い、砂子氏側に立った“反論?”も載せておきたい。ベストカー誌の「クルマ界 歴史の証人」(引用⑰)で、当時同じプリンスのワークスドライバーでありながら、生沢とはスタンスの違った砂子儀一は以下のように語っている。生粋のワークスドライバーの気概が窺える。
『必勝態勢で臨んだ鈴鹿の地で突如現れた強敵
第1回日本グランプリでの惨敗という汚名を返上するために、準備万端で臨んだ私たちプリンスチーム。もちろん目指すはT-Ⅵクラスのグロリア、T-Ⅴクラスのスカイライン1500、そしてメインレースとも言えるGT-ⅡクラスのスカイラインGTによる「3クラス制覇である。」とくに7台のスカイラインGTで戦うことになるGT-Ⅱクラスでの勝利は、是が非でも手に入れなければならなかったのだ。(中略)櫻井眞一郎氏に厳命を下した中川良一氏も、1週間前から四日市のステーションホテルに泊まりこんで最高指揮官として臨む程であるから、現場にはお祭り気分などはなかった。当然のようにライバルの各メーカーも今回はワークス体制を作り上げ、全精力をつぎ込んできた。(中略)そんな中で私はT-Ⅵクラスに臨んだのだが、グロリアのエンジントラブルでリタイヤしていた。このレースでは、ほかのメーカーのクルマにガンガン当てに来られ、それだけでも「今回は様子が違うな」と怖さを感じるほどだった。話によれば「砂子をつぶせ」などといった指令まで出ていたという。事実、身の危険を感じるようなことがたまにあったので、私はボディガードを雇ったぐらいだった。少々物騒な話まで飛び出すほどにプリンスの下馬評は高く、有形無形のプレッシャーを受けざるを得なかったわけである。』

メーカー間の戦いが次第にエスカレートしていった様子がうかがい知れる。そしていよいよ問題の、GT-Ⅱレースだ。
『だがメインレースであるGT-Ⅱクラスには、練習走行で日本車として初めて2分50秒の壁を破ったスカイラインGTという強力なマシンがあると自負していた。周囲からは本番での上位独占は間違いないと見られていたし、チームの士気もかなり高かった。
 ところが、そんな我々の元に衝撃的な情報がもたらされた。なんとトヨタワークスであるはずの式場壮吉氏が個人参戦という形でポルシェ904を持ち込んで走るというのである。(中略)このポルシェの参戦には、今もっていろいろな話がある。GT-Ⅱクラスに有力なマシンを持たなかったトヨタが金を出して式場氏にポルシェ904を与えたとか、研究用のマシンを貸したとか、その噂はにぎやかだ。勝利確実と言われ、下馬評のもっとも高かったプリンスのドライバーである私にすれば、この904の参戦はトヨタによるスカイラインGT潰しによるものだと思っている。
 だがポルシェ904は予選中にクラッシュし、大きなダメージを負った。中には喜ぶ者もいたが、徹夜の修復作業を経て本戦に挑んできた。手負いの状態とはいえ、相手は純粋なレーシングマシンであり、侮ることなどもちろんできるわけがない。
 そしてついにレースがスタートした。予選3位だった式場氏が一気に加速し、第1コーナーまでにトップに立つと、それを予選1位のカーナンバー41、スカイラインGTの生沢徹氏が追い、それに続いて予選2位だったカーナンバー39の私が追従するという展開となった。(中略)そして迎えた7周目のことだった。生沢氏は遅いクルマに手こずる式場氏と、その遅いクルマともども、2台をまとめてヘヤピン手前で抜き去ったのである。そのままトップに躍り出た生沢氏が、ポルシェ904を従えてホームストレートに現れたのだから、メインスタンドの観客は総立ちとなり、大歓声を送るわけだ。3位だった私は、その様子をずっと後ろから見ていたわけであり、会場の異様な盛り上がりは走りながらでも感じることができたのだ。
 後に語られる“スカイライン伝説誕生の瞬間”などと言われる場面である。この時、私は「さすが生沢!これでプリンスは勝てる!」と思ったのだ。そして私もレーサーであるから、黙って見ていたわけではない。このままポルシェを追いかけ、生沢氏に続いて抜き去ってやろうとさえ思い、どんどん追い上げていった。
ところがスプーンコーナーを立ち上がった時、信じられない光景が起きたのだ。生沢氏は式場氏に、まるで道を譲るかのように抜かせたのである。私に言わせれば“抜かせてあげた”という印象だった。後に生沢氏は「実力の差は明らかであり、スポーツ精神にのっとってどいたのだ」と言っている。だが、私はポルシェを追いかける様子をなかなか見せないその走りを目にした時、“生沢はレースを放棄した”と思ったのだ。
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https://clicccar.com/2014/11/20/277882/
よく考えれば、生沢氏と式場氏は普段から六本木などで遊んでいた仲間のような関係であったことは誰もが知っていた。もちろんやっかみなどで言っているのではないが、私たちのような庶民派レーサーとは、少しばかり違った生活をしていた人達である。そんな友人関係がある故に、ふたりの間には「話ができていたのだ」と思ったのである。もちろんだからと言ってレースを放棄することなど、私には納得できるはずがない。第一、性能差こそ大きいとはいえ、この鈴鹿でスカイラインGTがポルシェ904と比べてそれほど遅いとも感じていなかったのだ。
そんな自信があるからこそ、とにかく先行する2台を追い上げるだけであった。実はその自信には根拠があった。このレースでは私のクルマの方が生沢氏のクルマより仕上がりが良く、速かったのだ。
そこでプリンスに勝利をもたらすためには、まず生沢氏を抜かなくてはならないと思うのは道理である。さらにもう1点、式場氏の最速ラップは2分48秒4であるのに対して、私は2分48秒9であり、ふたりの間に大きなタイム差などはなかったのだ。私は「これなら勝負できる!」と思った。
 そこで「どけ、どけ!お前が行かないなら俺が行く」と、ボディを左右に振って私は生沢氏に意思表示をした。だが、私にはなかなか先を譲ってくれないのである。そんなイライラした状態で走りを続け、ついにダンロップブリッジのところまできたときだ。私は“とにかく先に行かせてくれ”という意思を表すために、しかたなく生沢氏の後ろからマシンをぶつけて合図した。すると彼は少し驚いた様子を見せ、姿勢を乱した。そこを狙ってなんとか抜いて前に出て、式場のポルシェの追い上げを始めたのだが、すでにレースが後半戦に入った12周目であった。そして16周目、私はポルシェに次いで約10秒遅れの2位、そして私よりさらに約10秒遅れで生沢氏が3位でゴールした。このタイム差では確かに完敗と言われても仕方がないし、私の中には悔しさが残った。』

砂子からすれば、同じプリンス陣営でいながら、式場と厚い絆で結ばれていることを隠さない生沢の行動は不審に思えただだろう。以下は私見です。
ただ仮に式場のポルシェ904を、砂子のスカイラインGTが二番手で本気になって追いかけていたら、あのスカイライン神話はけっして生まれなかったのではないだろうか。盟友である生沢だからこそ“高速ランデブー走行”を二人で楽しみつつ、かつ観客も喜ばせつつも、気心の知れた生沢だからこそブロックせずに1周だけ抜かせてやったのであり、砂子が相手ならそんな“粋な演出”なしに、見せ場を作らすこともなく、手加減せずに安全圏に逃げこんでいたことだろう。式場はトヨタのエース格であり、そのテクニックは定評があるところだ。
「日本の名レース100選 ‘64 第2回日本GP」(引用⑨)に、このレースを報じたオートスポーツ誌の再録があり、砂子と生沢のレース直後のインタビュー記事があるがそれぞれ「でも、10周過ぎあたりから、どうもエンジンの力がなくなった」(砂子)、「後半、エンジンの力が出なくて……」(生沢)と語っており、スカイラインGTはレース後半息切れ状態だったことがわかる。原因はわからないが。いかに手負いのポルシェ904とはいえ、生沢の言うようにそもそもポテンシャルが違いすぎる(いくら病み上がり状態とはいえ、空気抵抗もパワー/ウェイトレシオも違いすぎる)ので、追いつき追い越すのも無理だったと思う(以上、全くの私見でした)。
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https://www.webcartop.jp/2016/05/42012

8.そして日本GPはワークス同士の戦いへと変貌していった
ここからもまったくの私見が続く。
また砂子は、“生沢氏と式場氏は普段から六本木などで遊んでいた仲間のような関係で、私たちのような庶民派レーサーとは、少しばかり違った生活をしていた”と(多少憎々し気に?)語っているが、生沢と砂子の確執の背景として、第1回日本GPにおけるトヨタの勝利が、販促効果として大成功をおさめた結果、日本GPという舞台が、形を変えたメーカー同士の激烈な販促活動の場へと変貌してしまったことも影響していると思う。
ワークスという巨大な会社組織の一員として、会社の看板を背負い戦いの最前線に立つ、企業戦士であることを第一義に考える砂子。なにせ今と違い、高度成長の真っ只中だ。
しかし組織にすべてを渡したくない、一人の自動車競走好きの独立したレーサーとしての気概を何とか持ち続けていきたい、そして企業の枠を超えた友情も大切にしたいという、式場や生沢との立場の違いが浮き彫りにされているような気がする。
そんな板挟みの中で、その圧力に押しつぶされそうになりながらも、日本グランプリという大舞台で、ポルシェ904の力で思いっきり横一直線に駆け抜けてやりたいと考えたのが、式場と生沢、そして二人の“ノイバウアー”役だった杉江(徳大寺)ではなかったのだろうか。

前記のNAVIの記事⑮)で、当時の生沢や式場、杉江らの世界を「GT-Rが蘇らせた3人“式場壮吉”“生沢徹“”杉江博愛“の青春」で語っている。
『プロローグ
ビンテージ・クラブ
11月だというのに生暖かい夜。それほど遅くない時間。杉江博愛(注;徳大寺有恒氏の本名)は飯倉片町の交差点の地下道を谷町方面へ向かって歩いていた。暗闇から金髪のパンク少女がヌッと顔を出す。六本木の日常風景。地下道の階段を一段一段登ると、目の前にピザレストラン、ニコラスがあった。
― 溜まり場にしていたというニコラスは、昔からここにあったんですか。
杉江 違う。あそこにあったんだ。
 杉江は振り返って、飯倉方町の交差点、首都高速2号線の陸橋の下あたりを指す。
杉江 2階建か3階建の古い洋館で、暗い小っちゃい扉だった。そこを開けると赤い絨毯で、アメリカナイズされた場所だったな。
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http://montorio.seesaa.net/article/111437096.html
 杉江は目の前のニコラスの扉を開ける。
杉江 内装は同じなんだよ。キャンティの空き瓶が並べてあって。60年から63~64年くらいまでここに入りびたってた。63年ごろ高速道路の下にあったニコラスがなくなって、それから3年ぐらい後にこの店が出来たんだと思う。
― その時の仲間が、式場壮吉さんと生沢徹さんなんですね。
杉江 そう。式場壮吉、生沢徹、ミッキー・カーチス、浅岡重輝、津々見友彦、三保敬太郎、福沢幸男、くろすとしゆき、石津祐介(石津謙介の次男)というのが溜まるわけだ、ここへ。
― その時はまだ、みなさんレーシング・ドライバーじゃなかったんですよね。
杉江 真っただ中だよ。石津君が三菱に、浅岡とミッキーがいすゞに、テツがプリンスに、俺と式場君がトヨタに、三保さんが日産に。でも、みんなチームを超えて仲がよかったね。
― じゃあ、それ以前からみんな知り合いだったんですね。
杉江 そう。お揃いの真っ赤なブレザーつくったよ。ビンテージ・クラブって行ってさ
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https://clicccar.com/2014/11/20/277882/
(中略)
― どうしてみんなレーシング・ドライバーになっちゃったんですか。
杉江 鈴鹿で最初のレースが開かれるっていうんで、オートバイレースだったんだけど、みんなで見に行ったわけ。カッコいいクルマ、連ねてね。土砂降りの雨でさ、みんな泥の中に靴を無くして来た(笑)、それで、ここへ帰ってきてさ、「おい、レースやろうよ」って。
― でもみんなワークスドライバーになれちゃったっていうのはスゴイですね。
杉江 バカな暴走族だもの、俺たち。走り屋。なんかね、当時はみんな急に思い立つんだよ。「これから湘南へ行ってこようか」なんて、4~5台連ねて行ったりとか、湘南で走り屋に会って友達になったりとかさ。
― 翌日のことは考えてなかったんですか。
杉江 なかったなあ。だってね、鈴鹿に練習に行く時だって、夕方土曜日、ここ(ニコラス)か、日比谷の三信ビルの中にあったピータースっていうレストランに集まるわけ。それで軽くメシ食って、7時か8時頃出て、東海道を走っていく。鈴鹿の正門に着くのが朝の6時。それからひと寝入りして、9時ごろ起きて、タイヤ交換して、午前中の走行会走って、また仮眠して、午後の走行会走って、夕方5時頃向こうを出る。そうすると月曜日の朝5時頃東京に着くわけだよ。それからみんな仕事してたもの。
― 六本木族っていう自覚はあったんですか。
杉江 なかったよ。六本木は好きだったけれどね。』

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http://montorio.seesaa.net/article/111437096.html

第2回日本GPのまとめを、⑪より部分的に引用して終わりにしたい。
『日本初の本格的レーシングコースとして誕生した鈴鹿サーキット。その最初の4輪レースは、全員が無知な新人だった。ところが一年後、状況は一変する。
トヨタはクラウン/コロナ/パブリカ、ニッサンはセドリック/フェアレディ/ブルーバード、プリンスはグロリア/スカイラインGT/スカイライン1500、いすゞはベレル/ベレットGT、ベレット、三菱はコルト1000、マツダはキャロル600/キャロル360、日野はコンテッサ、本田はS600、スズキはスズライトをそれぞれ送り込んだ。64年2月に乗用車生産を始めたばかりのダイハツを除けば、当時存在した国内の全自動車(乗用車)メーカーがワークス体制で臨んだ一戦ということになる。後にも先にも国内レース史上、唯一の事例。そうやって大幅にレベルアップした第2回日本GPは、確かに充実して面白い内容を持ってはいた。しかしこの時点で、メーカー主導の国内レースという路線が敷かれてしまったのもまた事実。
国内レース界はここで一気に加速に入る。ゴールがどこにあるかは誰も知らない。それでも走り続けるのが60年代の勢いだった。』

なかなか本題の、高橋国光編までたどり着けない。そこで次回の第3回日本GPは大幅にはしょる予定です。

― 引用元 ―
① :「秋の徳大寺スペシャル スカイラインの今と昔を語る」ベストカー 講談社ビーシー
② :「追悼 櫻井眞一郎氏」三本和彦 ベストカー 講談社ビーシー
③ :「激闘 ‘60年代の日本グランプリ」桂木洋二(1995.05)グランプリ出版
④ 「スカイラインGT-Rストーリー&ヒストリー」(2019.04)モーターマガジン社
⑤ :「歴史の証言 R380シリーズ開発者 嶋田勝利PART2」ベストカー 講談社ビーシー
⑥ :「スバルの兄弟分、プリンス自動車の歴史。」
https://chubu-jihan.com/subaru/news_list.php?page=contents&id=314&block=1
⑦ :「WILDMAN'S BLOG」http://www.mooneyes.co.jp/wildman/2012/0811/3406
⑧ :「古の日本グランプリPartⅡ」Racing on(2014.05)三栄書房
⑨ :「60年代レーシングカーのすべて」(2018.02)三栄書房
⑩ :「サーキット燦燦」大久保力(2005.02)三栄書房
⑪ :「日本の名レース100選、‘64 第2回日本GP」(H19.05)三栄書房
⑫ :「独り歩きした逸話」カーグラフィック 二玄社
⑬ :「トヨタ2000GTを支えたメカニックたち」ノスタルジックヒーロー(1996.04)芸文社
⑭ :「日本グランプリ――そして伝説へ(1964年)」
https://gazoo.com/article/car_history/140509_1.html
⑮ :「GT-Rが蘇らせた3人“式場壮吉”“生沢徹“”杉江博愛“の青春」NAVI 二玄社
⑯ :「帰ってきたTETSU “プロローグから終焉まで”」
https://www.ne.jp/asahi/60srace/models/Tetsu2.html
⑰ :「歴史の証人 プリンス―日産ワークスドライバー 砂子儀一 PART Ⅳ」ベストカー 講談社ビーシー

⑫ 第1回日本グランプリ(1963年)“トヨタの一人勝ち”

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http://since1957.blog130.fc2.com/blog-entry-34.html
第1回から第3回までの、日本グランプリについて、プリンスとトヨタの戦いを中心に振り返り、それから本題である第4回GPへとつなげておきたい。(以下はwiki、⓵、②、③を参考にまとめた)
1.レースの概要
 1962年に日本で最初の本格的なレーシングコースの鈴鹿サーキットが、本田技研により完成し、その鈴鹿で1963年5月に「第1回日本グランプリ自動車レース大会」が開催された。このレースが日本における本格的な自動車レースの始まりとなった。第2回GPまでは市販車を改造したツーリングカーやグランドツーリングカーを中心に、排気量ごとにクラス分けして行われた。
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https://www.honda.co.jp/50years-history/challenge/1962suzuka/page04.html
 第1回日本グランプリは、開催するサーキットも主宰するクラブもホンダ色の強いものとなり、その流れに反発した日本自動車工業会では、拘束力こそなかったものの、このレースにメーカーとしては協力しないという申し合わせを行っていた。

 ところが、販売の神様、神谷正太郎率いるトヨタ自販(当時トヨタはまだ自工と自販は分離されていた時代で、都合が良かった)の宣伝部は、レースに勝つことが、クルマの宣伝に大きな効果があると、着目していた。レースへの参加を自粛したのは自動車工業会というメーカー側の団体であり、トヨタ自販は販社なので拘束されないという独自の解釈で、自工とのあうんの呼吸で自販主導の下で、勝つための取り組みを積極的に行い、中途半端な対応の他社を完全にリードした。
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https://gazoo.com/article/car_history/140509_1.html
 当時はトヨタに限らず2輪のレースでノウハウのあるスズキ以外、どこの4輪メーカーも自動車レースに対してのノウハウは持ち合わせていなかった。そこで性能アップのために2輪のチューニングで実績のあった山田輪盛館に協力を依頼し、レース出場を目指して練習に来ているドライバーの中から群を抜いた速さをみせていた多賀弘明、式場壮吉らと契約し出場させた。結果として式場はコロナで、多賀はクラウンで出場し、それぞれ接戦を制して優勝し、このふたりの巧みなドライビングがなければ、トヨタ車の優勝は難しかったといわれたので、この起用は見事に当たった。
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http://www.mmjp.or.jp/60srace/1963JAPANGP.html
 9レースのうち3レースは外国車が勝ち、トヨタ以外で国産車が優勝したのは、スズキのフロンテと日野コンテッサ、日産フェアレディだけだった。これに対してパブリカ、コロナ、クラウンという主力車種すべてでレースを制覇したトヨタは、レース後すぐに各地のディーラーに“トヨタ車、グランプリに優勝”という垂れ幕を大きく掲げ、アピールした。
 そして優勝車がパレードして各販売店を訪れ、グランプリに優勝したのは、トヨタ車の性能が良いからだという印象を一般に植え付けた。さらに新聞やテレビなどで大々的なキャンペーンを繰り広げた結果、販売は軒並み伸び、セールスマンの意気もあがった。このトヨタの巧みな戦略に、他社は指をくわえて見ているしかなかった。

 このトヨタの策略に、もっとも大きな痛手を受けたのは、トヨタ、日産より技術志向が強く、明確に高級/高性能車路線を歩み、明らかにベース車の性能が勝っていたはずのプリンスであった。
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https://octane.jp/articles/detail/2101
 当時プリンスの技術陣を率いていたのは、中島飛行機で、太平洋決戦機の期待を一身に背負う、2000馬力級(100オクタン燃料使用時)発動機“誉”の主任設計者であった中川良一常務であった。
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https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nakajima_Homare_at_London_Sceience_Museum02.JPG
 中川はレースが近づくころ、各メーカーが鈴鹿にレースカーを持ち込んでテストを開始する中で、パワーの劣るはずの他メーカーのクルマに、いとも容易に抜かれる様を見て、敗北を確信する。しかし同時に、自工会の申し合わせ事項を遵守したのだから、敗北も致し方なしと考えていた(!ナイーブ過ぎた?引用③)。大惨敗に終わったレースの翌日東京に戻った中川は、当時プリンスの経営権を握っていた石橋正二郎会長に呼びつけられ、激しく叱責される。一方惨敗のショックから、鈴鹿からの帰途に脳貧血で倒れた小川社長は、中川らはビジネスの基本をわきまえていないと、始末書をとった。中川は翌年の雪辱を石橋の前で誓う他なかった。
以下、自動車史家の桂木洋二氏による優れた分析の一文を①より引用する。
『トヨタ以外のメーカーの多くはプリンスと同じような思いをしたといっていい。これを挽回するためには、翌年の第二回グランプリレースでがんばる以外に方法はなかった。各メーカーは、それぞれにレースを戦う組織を作り、真っ向からレースに取り組むこととなる。その取り組みは、各社とも生き残りをかけての挑戦といっても大げさでないものだった。
 結果として、そうした取り組みが日本の自動車技術のレベルアップに貢献することになったが、レースがクルマの宣伝や企業のイメージアップにきわめて効果のあるものという認識が、メーカーの中に強く定着することになった。
 初めてのレースの熱狂と、未成熟な時代の主力量産車のレースでの勝利がPR効果を発揮できる絶妙のタイミングは、トヨタに幸運をもたらしたということができる。
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http://file.magni.blog.shinobi.jp/5bfbf7d8.jpeg
 これ以降のグランプリレースは、メーカーチームの主導で行われることになるが、レースに出場したメーカーはいずれも、第一回のトヨタがおさめた成功を目指して戦うことになる。しかし、それはもはや幻でしかなかった。レースで勝つことが企業のイメージアップにつながるものの、クルマの販売に直接むすびつくことは次第になくなっていく。レースの勝利における宣伝効果の大きさと、それによる販売の増進を求めても所詮はむなしい幻影であったが、第一回日本グランプリの強烈な印象故に、その後もその幻影を追い求めたのであった。ほかならぬトヨタ自身もその例外ではなかった。』


2.トヨタ自販の“作戦”に影響を与えた?GMのモータースポーツ戦略(11/12追記)
 第1回日本グランプリにおいて、トヨタ自販がとったこの戦術というか、販売戦略について、そのヒントを与えた可能性が考えられる(私見です)、自動車の“本場”アメリカにおいて、GMとフォードの間で生じたモータースポーツを巡っての争いを記した本を偶然読んだ。以前古本屋で購入したまま未読だった、「フォードVSフェラーリ 伝説のル・マン」A・Jベイム著(赤井邦彦他訳;以下引用④)という本の中に書かれていた、ごく短い一文だったが、時代的にも第1回日本GPのほんの数年前の出来事だ。
トヨタは初代クラウンで大胆にもアメリカ輸出を試みたり、通産省の“国民車構想”との絡みでフォードとの合併会社設立の交渉も行われた(1960~61年頃で、結局破談に終わったが)ぐらいで、アメリカの自動車産業の動向は絶えずウォッチしていたはずだ。
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https://kuruma-news.jp/photo/97111#photo7
そのアメリカにおけるモータースポーツを利用したGMとフォードの販売戦略に、クルマを売ることにかけては国内最強の、トヨタ自販が無関心なはずはなかったと思う(でも今までこのような視点で書かれたものが見当たらないので、あくまで想像です)。以下長文になるが④より引用しつつ、参考意見として記しておきたい。(下は2016年、デイトナ500マイルレースを初制覇したトヨタカムリ)
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https://toyotagazooracing.com/pages/contents/jp/nascar/release/2016/16nascar01_2.jpg
~1961年2月27日月曜日の朝、デトロイト郊外の住宅地に住む自動車業界の重役たちは、玄関先に新聞が落ちる音で目覚めた。「デトロイト・ニュース」紙は全国紙だったが、自動車業界紙でもあり、ゴシップ新聞でもあった。(中略)
スポーツ欄にはデイトナ500(注;訳文では“インディ500”となっているが明らかに間違いなので以下訂正して記す)の特集記事が掲載されていた。フロリダの有名なサンダードームの約4kmのコースを平均時速約240.7kmというデイトナ史上最速のスピードで走ったポンティアックのマーヴィン・パンチが、日曜日のデイトナ500で優勝を飾っていた。
コラムニストのドク・グリーンのコメントの中に、彼らは興味深い情報を発見した。
ヨーロッパのレース界では、優勝は直接売上に結びつく。実に単純な理由がクルマを選ぶ動機に繋がるからだ。たとえば、ル・マン24時間耐久レースで5台のフェラーリが上位入賞を果たすとする。すると、過酷なレースに勝ち残ったフェラーリが“買うべき車”となるわけだ。
「うちも、それでうまくいった」と、優勝した車をスポンサーしたデトロイトのポンティアック・ディーラーのビル・パッカーは語る。
「バンキー・クヌッドセンが1957年にポンティアック部門を引き継いだ当時も、ポンティアックはまあまあ良い車だったが、高齢の女性向けの車という評判が根強かった。おばあちゃんには最高ってね。その後、ストックカー・レースで良い成績をおさめ始めると、ほんの数年であっという間に売上が伸びたんだ。」

下はデイトナ500マイルを制したポンティアック。
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http://www.cruisenewsonline.com/SpringDaytonaShow2004/60PontiacDaytona500Win.jpg
引用を続ける。『当時、ストックカー・レースはデトロイトには無関係であるはずだった。自動車メーカーのレースへの出資に対する禁止令があったからだ。1950年代後半のアメリカの自動車メーカーは、広告を通して、一般のドライバーに公道でスピードを出すことを奨励していると非難されていた。
 また当時、フォード、GM、クライスラーは、顧客確保のためにより大きなエンジンを開発し、「馬力競争」を続けていた。強力なエンジンが冷戦に対するデトロイトの答えだったのだ。
 NASCAR(National Association for Stock Car Auto Racing)と呼ばれる日曜日のレース・シリーズにクルマを出場させることで、自動車メーカーは自分たちのクルマをアピールしていた。
 スピードの戦いと市場争いの関係を、アメリカ政府は快く思わなかった。1957年、アメリカ連邦議会は自動車製造者協会に、「安全に関する決議」の作成を要求した。この規約により、デトロイトの自動車メーカーは「エンジンサイズ、トルク、馬力、もしくは、スピードを連想させる競技会での加速性能あるいは性能」を宣伝しないことに合意した。
 しかし、それでも「デトロイト・ニュース」紙のドク・グリーンのコラムには、1961年のデイトナ500に自動車メーカーの有力者の団体がやってきたと書かれていた。
「あなたが目にする重役たちは、たまたまテキサスかダビュークかどこかに行く途中に通りがかっただけ、もしくは見なかったことにしなければならない。彼らの言うこともすべてオフレコだ」
 ある大物がこのように語ったと書かれている。
「親会社からの協力なしにレースに出場するのは、へその緒のない赤ん坊を産もうとするようなものだ。不可能に等しい」
 その夏にはGMのレースへの投資は周知の事実となっていた。シボレーは船舶用機関プロジェクトの名目でレースへの投資を行っていた。ポンティアックにも独自の秘密プロジェクトがあった。
「奴らはズルをしている」と、ヘンリー2世
(注;ヘンリー・フォード2世=創業者の孫でフォードの最高経営責任者)はアイアコッカ(注;リー・アイアコッカ=当時フォードの副社長でマスタングの生みの親)に言った。
「我々も何か手を打たなければ」
 しかし、ヘンリー2世はレースに資金を投じることを拒否した。評判を落とすことを恐れたのだ。彼は自動車製造協会の会長であり、安全に関する決議も彼の裁量で行ったことだ。
 アイアコッカのフォード初年度である1961年の終わりには、ポンティアックとシボレーがNASCARの52戦中、41勝で優勝を収めていた。
 その年のGM市場は急成長を遂げた。ポンティアックは、その年の新車の売上が36年の歴史において最高額に達したことを報告した。
 4月にはシボレーがリッチモンド、コロンビア、グリーンビル、ウィンストンセーラムのレースに優勝、同じ31日間にシボレーは、記録的な月間売上を達成した。
下の写真はダン・ガーニーの1961年シヴォレーインパラ(なかなかカッコイイ)
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https://s.yimg.com/ny/api/res/1.2/Knw1Y4qRhCAdoucQwUhvhw--/YXBwaWQ9aGlnaGxhbmRlcjt3PTEyNDI7aD02OTguNjI1/https://s.yimg.com/uu/api/res/1.2/pU9l6SJtmK01Zq6H2PFg.w--~B/aD0xMDgwO3c9MTkyMDtzbT0xO2FwcGlkPXl0YWNoeW9u/http://media.zenfs.com/en-US/homerun/autoclassics_668/b3606174acf9e863066d7efd80bddd8f
「ヘンリー・フォードの全盛期のティン・リジー(モデルT)以来、市場をこれほどまで独占したクルマはなかった」と、「ニューズウィーク」誌はレポートした。
「先週、アメリカのショールームから出てきた車の3台のうち2台はシボレーだった。」
 グラスハウスの廊下に不安感が漂い始めた。これほど急激にマーケットシェアが大きく変化したのは、ヘンリー2世が社長になって初めてのことだった。
 フォードの重役たちは、地元の若者たちが街頭で、街に合法なスピード競争用のコースを作って欲しいとでもパレードを行っていることを新聞で知った。
 子どもたちはスピードを求めていた。そして、ゼネラルモーターズは最もホットなエンジンを作っていた。
 4月27日、ヘンリー2世はゼネラルモーターズのジョン・F・ゴードン社長に手紙をしたためた。
「短期的には現在シボレーやポンティアックが提供しているような高性能車を開発するつもりだ」と、彼は書いた。
「我が社の製品の競争力を維持するためには、実行しなければならないことだと考えている。長期的には、さらに満足のいく合意を自動車業界の他のメンバーと取りつけたいと思っている」
 ヘンリー2世がその手紙の返事を受け取ることはなかった。

 その後ヘンリー・フォード2世は“安全決議”から手を引くと宣言(1962.06.11)、いわば宣戦布告したかたちで1963年のデイトナ500マイルレースに新開発の427立方インチ(7ℓ)のパワフルなエンジンを搭載したフォード ギャラクシー500を投入した。
 一方『対外的には反レース派を貫いていたゼネラルモーターズは、安全に関する決議を支持する決断を下した。しかしプライベート・チームとしてシボレーで出場するスモーキー・ヤニックは、デトロイトから資金を得ていると関係者は信じていた。すべては偽装であると。』(➃より)結局この戦いで今度はフォードが、デイトナ500初制覇を果たす。
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 フォードのモータースポーツ戦略はさらに加速し、アメリカ国内レースにおいてはインディー500制覇へとつらなり、ついには世界戦略として、フォードGTでのル・マン24時間制覇へと目標を広げていった。(下は初優勝した1966年のル・マン24時間)
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https://hips.hearstapps.com/hmg-prod.s3.amazonaws.com/images/pmx110119feagt40-002-1570456974.jpg?resize=980:*
レース活動と並行して、第二次世界大戦以降に出生したいわゆるベビーブーマー世代向けのスポーティーな中型車のマスタングを市場に投入し、大ヒットさせたのはご存知の通りだ。
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https://stat.ameba.jp/user_images/20190522/18/yongousen/f4/30/j/o0953059814414457322.jpg?caw=800
 一方「安全に関する決議を支持する決断を下した」ため表立った活動ができなかったGMは、ジム・ホールのシャパラルという“窓口”を通して、その有り余る技術開発力の一端を披露していった。(下は“怪鳥”シャパラル2Eと、“ファンカー”の2J。ちなみに古今東西のあらゆるレーシングカーの中で自分が一番好きなのが2Jだ。いつかこのブログの中で、シャパラル特集をやってみたい。)
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 本題と逸れてしまうのでフォードとGMの話題はここで止めるが、この時期の、モータースポーツを巡る日米の構図は「自動車製造者協会における“安全に関する決議”(アメリカ)」と、「日本自動車工業会は、日本GPにメーカーとしての参加を自粛する(日本)」という足かせ(業界内での約束事)があった中での出来事で、よく似ていた。
 そんな中でGM(シヴォレーとポンティアック部門)が仕掛けた、水面下での強力なメーカー支援によるNASCARシリーズでの圧勝が、風下の実車の販売にも絶大な効果をもたらした。時間軸ではアメリカの方が先行していたため、GMの大戦果をまのあたりにして、トヨタ自販もモータースポーツによるマーケティング戦略という見地から、対日本GP対策のため、GMの戦略に着目したのではないだろうか。
シヴォレーは“船舶用機関プロジェクト”という苦しい名目だったようだが、トヨタは工販分離を逆手に取り、自工と切り離した自販主導という名目でレースへの投資を行なえた(と、拡大解釈した)。裏工作であったが、当時世界最強の、あのGMで行った戦略なのだからと、トヨタの背中を後押しした?
 全くの想像だがどうも自分には、当時日本の自動車業界のお手本であった、海の向こうのアメリカでの出来事が、このレースに対するトヨタの戦略に影響を与えたような気がしてならない(以上、何度も書くが私見でした)。
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参考の動画を掲げておきます。ちなみに二日にわたって行われたレースには20万人を超す観客が押し寄せ、TV中継もされたという。
「TOYOTA  MOTORSPORTS  HISTORY 2」
https://www.youtube.com/watch?v=fjVUsc3zJcY
いよいよ次はあの、“スカイライン伝説”を生んだ第2回日本グランプリです。

引用元
①:「激闘 ‘60年代の日本グランプリ」桂木洋二(1995.05)グランプリ出版
②:「日本における自動車の世紀」桂木洋二(1999.08)グランプリ出版
③:「スバルの兄弟分、プリンス自動車の歴史」
https://www.chubu-jihan.com/subaru/news_list.php?page=contents&id=314&block=1
➃:「フォードVSフェラーリ 伝説のル・マン」A・Jベイム著(赤井邦彦、松島三恵子訳)(2010.09)祥伝社

⑪ オートスポーツ誌50年の歴史を彩った ドライバー50選 総番付について

 年間50本の自動車の記事を書き込む目標が、今のところ10本…。月に1~2本がやっとになってしまった……。そこで目標を半分の25本に下げて、何とかその数字は必達したい。(数字ありきで何だか粗製濫造になりそうだが)
 さて自動車に限らずだが、話題を現代(リアルタイム)に戻すと、どうしても話がシビアになりがちだ。そこで少しだけ過去に遡り、軽め(のつもり)の話題を1つ。
 雑誌「オートスポーツ」(当然日本版の)が創刊50周年を迎えた2013年、その半世紀を振り返る「オートスポーツ・メモリーズ ぼくらのレーシングデイズ1963-2013」(以下引用①)という特別号を刊行した。
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 その中で、「オートスポーツ50年の歴史を彩った ドライバー50選 総番付」を発表している。『50周年にちなんで選んでみました 1963~2013年の日本のレーシングドライバー50傑 異論反論はご遠慮ください!ひろ~い心で、笑って読んでいただければ幸いです』という、何とも楽しい企画で、世のモータースポーツファンならば、その番付と選定理由を見ながらあーでもない、こーでもないと、いくらでも楽しめるような企画だ。(以下、この記事を引用①とする。例によって引用部分は青字で、引用元は全て文末にまとめて記載した。また文中敬称略とさせていただく。)

1.ゴメンナサイ
 だがこの企画は、誰が選んでも異論が出る話で、今回の選者の林信次氏と遠藤俊幸氏が、のっけからいきなり弁明に務めているのがおもしろい。(引用①)
『林:マシン編と違って、こっちは人が相手だけにシビアでした。
遠藤:まず、最初に謝っておきましょう。ゴメンナサイ。
林:「レーシングカーも運転できない奴が偉そうに何言ってんだ」って声が湧きそうだけど、今回の番付編成会議はあくまで読者目線、長年のレースファンの視点なんだよね。横綱審議委員会というか、演芸評論家のノリで。
遠藤:そうです。公式なレース経験が僅かでもある人は、この番付のず~っと下の方に位置してしまうわけで、当事者としてむしろ不自然かなと。それよりも、あえてレース経験ゼロのふたりがグランドスタンドから評価するみたいな。
林:お金を払って見ている(いた)んだから、きちんと評価させてもらうってことだよね。だから選考基準のひとつは、いかに我々観客を楽しませてくれたか、インパクトを与えてくれたか、あるいは期待させてくれたか。
遠藤:(中略)でもこの番付って、1カ月後に同じふたりで選んでも変わるんですよね、きっと。引退したドライバーでも、なんかその時の「時節柄」で評価が変わる。だからこれはあくまで2013年の6月のある日の番付ってことで、全面的にご容赦いただきたい。
林:必死に弁明しています(笑)。』

 なかなか面白い選者の方々です。かつては三栄書房系よりカーグラ(当時は二玄社)系の方がマニアックだったが、立場はとうに入れ替わってしまった。
 こうして出来上がった番付表(1963~2013.06時点)は下のようだが、なかなか味わいある結果?で、だいたい共感できる内容だと自分は思うがみなさんはいかがでしょうか?
 なおこの選者たちにならい自分も、以下の雑文で普段の運転すらロクでもないレベルの底辺の身分でありながらエラソーにアアダコウダと天下のレーシングドライバーを批評する非礼を先にお詫びしておく。ゴメンナサイ!
2.番付表発表(選者;林信次氏と遠藤俊幸氏。2013.06時点)
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 この番付について、東の正横綱が“日本一速い男”星野一義であることに異論をとなえる人は少ないだろう。もちろん、西の正横綱の中島悟の立場からすると『~ただ、あの言葉はちょっと違うんじゃないの?と言いたかったね。だって5年も6年も僕がチャンピオンを取っているのに、なんであっちが日本一なのって(笑い)。』(引用②)となるだろうが。
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https://www.scoopnest.com/ja/user/suzuka_event/572019279148662784-vs-srsf-f1jp-sformula
 しかし『レースの本場、英国のオートスポーツ誌が創刊50周年「モータースポーツの歴史を変えた50人」に、日本人唯一のドライバーとして選ばれ、星野が参戦しなかったのはグランプリ最大の損失、と書かれた。』(引用③)という事実は重い。世界の中でも見る人はしっかりと見ていた、ということなのだろう。
 日本のF3000シリーズに参戦し、1993年は最終戦まで当時46歳の星野一義と壮絶なチャンピオン争いを演じ、惜しくもチャンピオンを逃したエディー・アーバインは、その経験から星野に一目置くようになった。彼はF1初優勝時のレース後記者会見で以下のように語ったそうだ。(以下引用⑥)
『「ここに来るまでの道のりは簡単ではありませんでした。私は日本でレースをしていた時にミスターホシノというグレートドライバーと激しくバトルをしました。彼はとても速いだけではなく、勝利を掴む為の精神力が素晴らしくいつも見習い、そして中々勝たせてもらえませんでした。このような時期があったからこそ今の私がありミスターホシノに感謝しています」と話し、同じレースで表彰台を飾り同時期に日本で同じレースを戦っていたハインツ・ハラルド・フィレンツェンが会見時に頷いていた。』そのため、欧州などのジャーナリストが「ホシノとは何者だ?」と日本人ジャーナリストに聞きまわったという逸話がある。
 また『~鈴鹿の日本GPの際、某誌が当時の帝王、ミハエル・シューマッハに日本人ドライバーとの対談取材を申し込んだ時のこと、シューマッハが「相手がホシノでなければ、その依頼は受けない」と言ったのもよく知られている逸話だ。』(引用⑤)
星野の盟友として長年支えてきた金子豊氏(星野の義弟でホシノインパル元副社長、故人)は『~もちろん走る者として悔しい思いはあるし、「なんで中嶋が」って僕の前では何回も泣いてます。でも国内で戦った外国人ドライバーたちが「星野こそF1に来るべきドライバーだった」って言ってくれている。そんな声がせめてもの慰めになっているんじゃないでしょうか』と語っていた。(引用②)ホンダの厚遇を得てF1へのステップアップを果たした中島とは、海外のレーシングドライバーたちの見る目も違っていたというべきだろう。
 さて、星野の話を始めるとあまりにも話題が豊富過ぎて、終わりが見えなってしまう。じきに“二代目日本一早い男”だった本山哲についても触れたくなるし。ただ星野についてはすでに多くの出版物で語りつくされていることもあり、このブログで星野を語るのはここで止めて、この番付表の下の方にも目を通してみる。
 この番付表を見渡して、もし一般的な視点から“異論”が出るとすれば、しいて言えば、メーカー系の括りで言えば、たとえばプリンス/日産勢では、1966年の日本グランプリをプリンスR380で制した砂子儀一の名前が見当たらない(地味だった都平健二もそうだが)。またトヨタ勢では、チームトヨタ(トヨタワークス)のキャプテン役を長年務め、黎明期のトヨタのレーシング部門の構築にも功績があった細谷四方洋の名前がなく、マツダ勢からは、マツダオート東京の立場で、長年ル・マン24時間に挑戦し続けて、マツダのル・マン制覇の露払い役を果たした寺田陽次郎の名前もない。代わりに?久木留博之と武智俊憲の名前がそれぞれ選ばれている。所属企業に対しての貢献度でなく、あくまでレーシングドライバーとしての資質に重きを置いた結果なのだろう。ちなみに久木留について細谷は、チームキャプテンの立場から『久木留は天才でした。足回りが少し壊れたくらいでも、平気でクルマを乗りこなしてしまう。そういう意味ではあまりテストには向かない男でした。』と評していた。(引用④)
 またもし2019年8月版を作り直せば当然ながら、インディー500を制した佐藤琢磨の横綱昇進は間違いないところだ。
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https://www.as-web.jp/overseas/127163
ル・マン24時間と世界耐久選手権を2年連続で制覇した中嶋一貴はメーカー(トヨタ)の力によるところ大とは言うものの、やはり大幅な昇進は間違いないだろう。
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https://response.jp/article/2019/05/05/322000.html
 番付の話はこれくらいにして次回から、この番付表の上位に君臨する、星野、中島世代より前の、その各々の時代に、実力No.1を誇った日産ワークスの名手たちにスポットを当て、自分なりに思うところを軽めに論じてみたい。予定では、日産3羽ガラスと呼ばれた高橋国光(クニさん)、北野元(キタさん)、黒沢元治(ガンさん)の3人と、この3人と星野をつなぐ世代に位置した長谷見昌弘について、とりあげる予定だ。
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http://vital.sakura.ne.jp/NISSAN%20SKYLINE%20KGC10%20HP/sakurai.html
 さて各記事のまとめ方だが、その人の現在に至る歴史(伝記)まで書くつもりはなく、そのドライバーの、代表的なレースだと自分が思うものを一つ取り上げて、そこを多角的に掘り下げてみたい。それで何か見えてくるものがあるのか、実際に書き進まないとわからないが。またレースなので必ずレーシングカーとのかかわりが出てくるわけだが、設計者(メーカー)目線でなく、あくまでも個人としてのレーサー目線を重視してまとめてみたい。そのため生(ナマ)の声として、本人の雑誌インタビュー記事の引用が多くなる予定だ。なお引用した書物は、入手できるものはほとんど全て購入して、実際に確認した(その本が、本の中でさらに引用していた場合等は除く)ことも追記しておく。
 それではまず、3羽ガラスの中でも番付が一番上の、横綱“高橋国光”から話を始めたいが、クニさんの代表的なレースとして、R380-Ⅱで生沢徹のポルシェ906とデッドヒートを演じた第4回日本グランプリをとりあげる予定だ。ただ物事は連続して起きているため、第4回GPを語るためには、微妙に関連していく第1回、2回、3回GPに先に触れてから、横綱クニさんの話を始めたい(目標達成のため記事の件数を稼ぎたいためでもあるが!)。
以下引用先
①:「オートスポーツ・メモリーズ ぼくらのレーシングデイズ1963-2013」(2013.08)三栄書房
②:「星野一義 がむしゃらフォーミュラ編」Racing on(2014.01)三栄書房
③:「CARトップ」(2019.09号)交通タイムス社
④:「古の日本グランプリ」Racing on(2013.05)三栄書房
⑤:「星野一義ファンブック」(2017.04)モーターマガジン社
⑥:「星野一義氏の思い出5」 https://urochiiko.exblog.jp/20189619/

プロフィール

マルプーのぼんちゃん

Author:マルプーのぼんちゃん
【ぼんちゃん】
推定年齢10歳ぐらいの、オスのマルプー犬のぼんちゃん。年より若く見える。マルプーではちょっと稀な“キレカワ系”💛 性格は、おとなしくてやさしくて人懐っこくて庶民的?でも対犬ではかなり臆病。散歩だけはたくさん(1日1~3時間ぐらい)させてもらっている。選択の余地なく、毎日おっさんの面倒をみている。
【おっさん】
推定年齢60歳くらいのシガナイ初老の独身オヤジ。ひょんなことからぼんちゃんと2人で暮らすことになったが、おかげさまで日々シアワセに暮らしている。

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