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‘㉑ 戦前の国産トラックの歴史(後編) ≪日本の自動車産業の“育ての親”は日本陸軍だった?戦前日本の自動車史(その6)≫

※この記事は書きかけです。

この記事「戦前の国産トラックの歴史(後編)」は(その3)の続編で、戦前の国産トラック/バスの歴史の後編になる。ちなみにダットサンを中心とした小型四輪車は次回の(その7)で、そして最後の(その8)で、自動車製造事業法成立とトヨタ、日産の大衆車について記し、「戦前日本の自動車史」もようやく完結する予定だ。
だが前回の、戦前のオート三輪と違い、今回の分野は、すでに多くの方々が記されていて、不明な点もほとんどなく、その歴史も既に「確定」しているはずだ。この記事もそれらを元にダイジェストにして記すだけなので、前回よりも手短に済ませる予定だったが、ところがそう簡単には終わらず、毎度のことながらダラダラと長編になってしまった。
 まず初めに、前編の“その3”を記したのが2年前で、書いた自分すらもすでに忘れかけているので!前回記事の戦前のオート三輪以外の国産の自動車史を振り返りながら、最初に要約でまとめておく。

日本車の歴史、これまでのおさらい
 まず欧米先進諸国と日本との、自動車市場/産業の形成過程の違いだが、西欧社会ではそもそも馬車を中心とした道路輸送時代があり、その馬車を“馬なし車”に、自転車を動力付き自転車に置き換えていく形で、自動車の市場と産業が自然と形成されていった。
 しかし日本はもともと、クルマを排除した社会だったため、“馬なし車”としての自動車の、社会的ニーズ自体が、そもそも乏しかった。
 その上、日本社会全般の所得水準も低く、その一方で自動車は当初きわめて高価だったので、需要はごく一部の富裕層に限られた。
 そのため自動車の国内上陸から10年以上経過した1910年に至っても、その保有台数は全国でたった121台を数えるに過ぎず、自動車の市場規模はごく小さかった。
 このように、国産の自動車作りを志すパイオニアたちにとっては、厳しい環境下にあったが、それでもこの道の開拓者たちは、輸入車を分解・スケッチし、そのシャシーとエンジンを流用したり(=たとえばフォードN/Aモデルの主要パーツを流用し、10台ぐらい(諸説ある)“量産”した、“準国産ガソリン車”の「タクリー号」(5.2項参照))や、複製したり参考にしたり苦労を重ねて、何とか“純国産車”と呼べるクルマが誕生する(=「国末号」と「旭号」(5.3項参照))。しかし資本力もない上に、周囲の状況も整わず、結局行き詰まり挫折していく。
 当時の限られた国家予算の中で、交通機関の整備としては、まず鉄道建設と造船能力の増強に重点を置き、自動車と道路整備に対しての優先順位は低かった。自動車産業は振興すべき産業分野と見なされず、国からの支援もないままに、半ば放置されていく。

 その代わり、狭隘な日本の道路事情に適応させた、日本人が創意工夫して作り上げたミニマムサイズのクルマである人力車が、民間を主体に急速に普及していく。1896年(明治29年)に約20万台という保有台数は、人口200人当たり1台の人力車が普及していたことになる。明治の日本人にとって、クルマ=人力車であり、その面では日本もクルマ社会であったのだ。この人力車やのちの自転車、リヤカーなどの普及が、その後のオート三輪や小型車隆盛の基となっていく。
(昭和初期の時点で日本の自転車保有台数はフランス・イギリスに次いで世界第三位、生産量はドイツに次いで世界第二位であった。戦前の末期には、特に都市部では一,二世帯に一台の普及率を示していたという。自転車は庶民が所有し、自分で動かして乗る、日本で初めてのクルマだった。)
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 普通四輪自動車に話を戻す。しかし、日露戦争の戦訓で輸送力に劣ることを痛感した日本陸軍が、国防上の見地から、トラックに注目し、自らの陸軍砲兵工廠で、軍用トラックの試作に乗り出す。民間企業より優れた技術を誇った砲兵工廠以外に、この当時は適当な委託先が無かったからであった。完成したトラックはただちに、第一次大戦に投入されて(“青島の戦い”)、実績を示し、自信を深める。
 さらに総力戦となった第一次大戦の研究を通じて、来るべき第二次世界大戦に備えるための、”総力戦構想”が陸軍内で検討されていく。そして自動車もその時々の総力戦構想の中で位置づけられていき、その結果は「軍用自動車補助法」や、のちの「自動車製造事業法」(←“その8”の記事で記す予定)として結実していくことになる。
 少し話を戻し、陸軍は、限られた予算内で戦時における軍用トラックの必要量を確保する手段として、民間のトラック所有者に補助金を出して援助するのと引き換えに、戦時に軍用車として徴用することを目論む。平時から陸軍が大量の自動車を保有するのは経済的負担が大き過ぎたのが理由だが、結果的に国産四輪車を支援する国家機関が、ついに現れたことになる。
1918年3月、「軍用自動車補助法」が成立する。国産軍用トラックの生産を促進するために製造者と保有者の双方に対して補助金を交付するもので,“軍用保護自動車”として認定されるためには、厳格な走行テストを合格することが条件となった。この製造業者に対して行う、国の定める規格に準拠し、合格した軍用保護自動車に対する製造補助金の交付は、法律作成時に参考にしたドイツ,フランス,イギリス等の補助制度には無かったものであった。
 欧州諸国と比べて、そもそも自動車産業の基盤が無きに等しかったからで、同法は後の、商工省主導の自動車産業施策よりも先行した、日本初の自動車産業政策と言われ、その後の日本の自動車産業が、軍主導で発展する端緒が築かれた。
 同法は1918年5月から施行されたが、1920年3月には戦後恐慌に突入し、日本はその後長い不況に入り、軍縮の時代を迎える。圧縮された軍事予算の中で、直接の兵器でない自動車の位置づけは低かった。当初の好況期に立案された予算でさえ、目標台数達成のためには不十分な規模だったが、予算の圧縮でさらに縮小されていく。
 一方この間に、フォードとGMの日本進出があり、新たな営業車の需要が開拓されていった結果、日本の自動車市場は急速に拡大し、トラックの保有台数も急増していく。
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 巨大な自動車メーカーである米2社の進出は、軍用自動車保護法が持つ、副次的な目的であった、国内自動車産業の保護/育成の面からすれば、相反する結果をもたらすだろうことは、目に見えていた。しかし陸軍は巨大外資の“上陸”に、異議を唱えることはなかったという。同法の主目的である、高性能な軍用車を必要な数だけ確保する点においては、皮肉なことに達成されたので、予算も乏しく、国産自動車メーカーの育成に苦しむ中で、あえて目をつぶることにしたのだ。
 以上は陸軍側から見た視点だが、受け手である民間企業側は同法をどうとらえたのか。

 この当時の機械工業分野における国内民間企業の中で、実力No1とNo2は、三菱造船所と川崎造船所であった。三菱/神戸川崎両財閥の旗艦企業として、資本力と技術力があり、当時の国内先端技術であった大規模な造船所を有し、その中では原動機から工作機械まで自製していた。
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 しかし両財閥企業ともに、陸/海軍の国防としての優先事項は攻撃兵器としての軍艦であり、当時急速にクローズアップされた航空機の方で、軍用トラックの優先順位は低い(=予算配分が少ない)ことも直ちに認識した。日本を代表する実力のもち主の両社に対しては、陸軍も海軍も、自動車よりも、国防上の要となる航空機産業の方に、注力してほしいと考えていた節があった。
 そして自動車産業に対して格別の思い入れまではなかったこともあり、両社のこの時点での進出は実現せずに終わる。
(下の写真はジャパンアーカイブズさんより、『「【1918年】丸の内(大正7年)▷大戦景気の沸く丸の内ビジネス街(馬場崎門通)」右側の塔のある建物は東京商工会議所ビル、手前に向かって三菱5号館、同4号館、同1号館、左側は同3号館、古川鉱業ビル、三菱2号館』いわゆる“三菱村”と呼ばれている場所の、始まりの頃の写真だ。)
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 結局既存の一流財閥のなかで、同法を頼りに、新たに自動車産業を興そうとするものはなかった。しかし第一次大戦の戦争特需で大きな資本力を得た企業の中で、大戦終結後の需要急減を見越して、成長分野と目された自動車産業への進出を試みる企業家が現れる。
 このうち、東京瓦斯電気工業(以下“瓦斯電”と略。後の日野自動車のルーツ)は当初から明快に軍用保護自動車メーカーを目指したが、東京石川島造船所(以下“石川島”と略。後に石川島自動車製作所として分離。いすゞ自動車のルーツ)はウーズレー(英国)を国産化する形で乗用車生産からスタートした。
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 瓦斯電は苦労の末に審査試験に合格し,同法の初適用を受けた。しかし保護自動車に認定されても、実際には陸軍以外の民間で、購入するところは少なく、頼りの陸軍の発注量も、予算圧縮のなかで十分ではなく、たちまち苦境に陥る。
 石川島も、苦労の末にウーズレーの国産化を果たした。しかし『売却先の多くは渋沢栄一の縁故で仕方なく購入した人たちだったが、トラブルもあり、価格も高く不評』(①、P23)で、結局乗用車の生産中止を余儀なくされる。
 一方、他に本業がなく、十分な資本力のない中でスタートした橋本増治郎率いる東京の快進社と、商都大阪の風土の中で、久保田鉄工所をはじめとする有力な関西企業が中心となって設立した実用自動車製造も、ターゲットは異なったものの当初は乗用車生産からそれぞれスタートした。
 しかし価格競争力のない国産乗用車の需要は、ほとんどなく、紆余曲折を経て結局両社は統合し、ダット自動車製造(以下“ダット”と略。日産自動車のルーツのひとつ)となり、おなじく乗用車に見切りをつけた石川島共々、生き残りをかけて軍用保護自動車メーカーへと転身していく。フォードとGMの進出により国内の自動車市場は急成長を遂げるが、生産規模の圧倒的な違いにより、性能・品質と、特に価格面において差があまりに大きく、市場拡大の恩恵に授かれなかった。
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 当時の日本では自動車=アメリカ車のことだったのだ。(1920年代後半で、国内3社合計で年間約250~400台程度の生産台数に対し、米2社の日本での販売台数は、2社合計で約2万台程度、しかも日本で大きな利益を上げていた。ちなみに本国ではフォード単独で約195万台(1929年)と、桁違いの規模だった。)
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こうして大戦後の慢性的な不況と、フォード、GMの日本進出という荒波の中で、乗用車生産を志すものたちが次々と挫折していく中で、陸軍向けの僅かな軍用車の需要をベースとして、フォードとGMを中心としたアメリカ社以外の、狭い国内市場をこの3社で分かち合いながら、国産四輪自動車はかろうじて生き延びていくこととなった。
 1930年ごろまでのダイジェストの最後として、“その3”記事で、「軍用自動車補助法」に対してのまとめとして自分が書いた部分を要約し、再録しておく。
「~確かに同法は、市場分析と予算の裏付けも十分無い中で、たぶんに“願望”や“勢い”で作られた法案だったように思える。しかし1910年代の日本の実情を思えば、理性的な判断だけでは、自動車産業育成策など、そうそう立案できるものではなかったことも事実だった。世界を見渡せば、量産アメリカ車の背中ははるか彼方で、ますます遠ざかろうとしており、たとえ”見切り発車”でも、その”決断”は早い方が良かったのだ。
 一方企業の側も、瓦斯電、石川島及びダットの保護自動車3社は、~同法及び陸軍の下支えがあって初めて、苦しい経営を乗り切れたのは事実だ。
 しかし3社の側も、軍用保護自動車としての事業が、国を支える事業であるというプライドを胸に、脱落せずに必死に耐え忍んできた。そして厳しい環境下で陸軍の期待に応えるべく努力した末に、1930年を迎える頃にはついに、性能・品質面で、自動車としての一通りの水準まで引き上げることが出来た。もちろん量産型ではなく、主要な部品も輸入に頼っていたようだが、それでも短期間に、大きな進歩を果たしたと思う。
 同法を巡っては、たとえば当時の国情を考えれば小型車の振興に力を注ぐべきだった等々の議論があるのも事実だが、日本の自動車産業史の全体を見渡せば、この「軍用自動車補助法」と日本陸軍の果たした役割の大きさに、あらためて気づくことだろうと思う。』
以下はトヨタの社史(⑩P30)より引用する。
『関東大震災以後、外車攻勢のあらしが激しくなってからは、揺籃期にあった国産自動車メーカーにとって、あらしを避けるための“避難港”として、大きな役割を果たしたのである。』(下は「1917年 陸軍制式四トン屯自動貨車 (5台製造) 。瓦斯電社内呼称A型」以下のブログより。https://hinosamurai.org/contribution/KOREO_SHIREBA_HINO-TSU.html)
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 確かに小型車の振興策も必要だったが、どちらか一方ではなく両方とも必要で、それは「軍用自動車補助法」とは別に行うべき課題だったように思える(私見です)。
 ということで、過去を振り返り確認したので、ここから前に進みたい。なおいつものように、引用文は区別して青字で記すとともに引用元はすべて明記し、巻末にまとめて記してある。ちなみにいつものように、引用した本はすべて実際に購入した。また文中敬称略とさせていただく。

16.軍用保護自動車3社のたどった道
 圧倒的な力の差がある米2社との戦いは勝負にならず、頼みの陸軍からも、軍縮の時代に「無い袖は振れぬ」とばかりに冷たく距離を置かれてしまう。このような四面楚歌のなかで、危機感を強めた国産自動車メーカー3社はその存続をかけて団結し、政府機関に対して国産自動車支援の働きかけを強める。

危機感を募らせる国産3社と、国産自動車愛好運動
 以下(②P145)より『国産自動車メーカーの3社は,軍用トラックの生産を拡大しながら,米2社に対抗して自動車生産を確立すべく昭和2年(=1927年)に国産品愛用運動を推進し,政府に国産自動車産業の確立を要請した。』
 名門出身の石川島の渋沢正雄社長や、瓦斯電の松方五郎社長(松方正義の五男)、そしてダットの久保田権四郎社長らが、国産自動車工業振興の運動を推進し,政府,議会、軍に働きかけ,奔走したというが、なかでもその先頭に立ち、大きく旗を振ったのは、あの渋沢栄一(~1931年11月没なので、まだ存命中だった)の三男であった、渋沢正雄であったという。陸軍の伊藤久雄は、(③、P46)の座談会のなかで、以下のように語っている。
『自動車の歴史で大事なことは、昭和4年(=1929年)頃に渋沢正雄さんが,国産工業振興の運動を盛んに行なって、それがもとになって自動車工業が浮かび上がってきたことであります。渋沢さんは国産工業振興を国会にはたらきかけ,ついで自動車工業をとりあげたたことは、自動車の歴史において銘記すべきことであります。』自動車製造事業法成立の立役者による証言に従い、この、戦前日本の自動車史の記事の中でも渋沢正雄の功績を、ここに明記しておく。
渋沢や、松方らによるこの運動は、貿易収支の急激な悪化が問題となり、国産品愛用運動を推進していた商工省側の思惑とも重なり、やがて具体的な施策へとつながっていく。(②P145、③、①P28などを参照。)
 今回の記事(その6)では以下順番に、国産車振興策として商工省が行った政策(16.1項)、産業の合理化を試みた、商工省標準型式自動車の制定(16.2項)と、3社の統合(16.3項)、国産バスの発展に貢献した鉄道省(のちの運輸省)の省営バス(16.4項)、及び国産商用車のエンジン開発に多大な貢献を果たした陸軍によるディーゼル統制エンジンの確立(16.5項)、の順番に記していく。まず初めに、商工省による、国内自動車産業振興策について。

16.1商工省主導による自動車産業振興策
 1925年に農商務省を分割して設立された、商工省内では、アメリカ製自動車部品(ノックダウン生産だったので)の輸入急増に危機感を強めていく。関東震災後の復興需要で、黒字基調だった国際収支が赤字に転じた上に、自動車部門の赤字拡大が、貿易収支のさらなる悪化を招いていた。『1922年に700万円に過ぎなかった自動車・部品の輸入額が28年には3,000万円を超え、そのままいけば1億円を突破するものと予想されていた。』(④P108)という。下表のように、実際にはそこまではいかなかったようだが。
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 国産品奨励運動が盛り上がる一方で、陸軍による軍用自動車補助法を軸とした自動車メーカーに対する支援策が、手詰まり感を見せ始めていた。そこで、陸軍に代わり本来の所管である商工省が前面に立ち、国際収支の改善と、自動車産業の保護&育成のために、自動車行政に積極的に関与していくことになった。
 この時期の商工省の自動車政策の主目的は、貿易収支の悪化に歯止めをかけることだった。『日本の貿易全体で見れば、自動車関連の輸入は微々たるものだった。3000万円を超えた一九二八年ですら、全体の1.47%に過ぎなかった。だが急激な輸入超過の拡大傾向は、政府としても看過できなかった。』(⑧P38)そして11.9項の表で示したように、自動車部品の低関税率と人件費の安さもあり、米2社は日本の事業で大きな利益を上げていた。
国内自動車市場がアメリカ製自動車に占有されていくなかで、陸軍・鉄道両省の意向も踏まえつつ、現実的かつ即効性のある施策として、商工省主導で標準型式自動車の規格を制定し,生産基盤を強固にするため国産3社の合併合同を推進することとなった。以下は例によって多くを引用に依存しているので、正しくはオリジナルの方をぜひ確認いただきたい。
 まず商工省は、すでに1926年に、諮問機関として「国産振興委員会」を設置し、国産振興のための調査・審議を行わせていた。そこでは9分野について振興策が策定されたが、その中に自動車工業も含まれており、ここから商工省の自動車政策がスタートしていく。以下、商工省標準型式自動車として結実する過程を、順に追っていく。

16.1-1「国産振興委員会」が解決策を即す
 1929年9月、政府(浜口雄幸内閣の俵孫一商工大臣)は国産振興委員会に対して、3つの産業(「自動車工業」、「アルミ」、「合成硫安」)を確立させるための具体策を諮問した。『「自動車産業の振興は国際貸借の改善と主要産業の振興のための緊急課題」というのが商工省の認識』(⑧P40)で、振興すべき3つの産業のなかに自動車産業が選ばれたのは、前記の、渋沢らによる国産保護自動車3社の政府への働きかけが実を結んだ結果でもあった。

16.1-2「自動車工業確立調査委員会」が具体策を打ち出す
 これに対して委員会は1930年5月、商工大臣あてに答申を提出した。結論から先に言えば「適当なる助成の方策を講じれば、日本での自動車工業の確立は困難ではない」とし、5つの具体策を提案した。詳細は省くので興味のある方は(②P146、④P148)等を参照されたいが、特に注目すべき点は、『製造方法は分業に依ることとし、各部分につき精密なる規格を定め、自動車工場及びその関係工場を一体系の下に統制する。』(②P146)と、統制経済体制に向けて、一歩踏み込んだ記載がなされた点だ。
『いわゆる標準車が、単なる自動車の規格にとどまるものではなく、自動車産業の再編・効率化まで含んでいたことだ。~従来のような民間の自主性に期待するものではなく、「国による統制」が答申に含まれていることも見逃せない。そして一九三一年四月、有事を意識した重要産業の企業連合化を促進する重要産業統制法が公布される。~自動車産業の統制色が強まるのは避けられなかった(この四か月後に満州事変が勃発することになる)。』(⑧P41)
 この後、戦前の日本の自動車メーカーが戦時経済体制の下で、商工・陸軍両省の強力な行政指導により、自動車生産がトヨタ、日産、いすゞ(東京自動車工業)の3社に絞り込まれていったのはご承知の通りだ。
ただし、後述するが、「自動車工業確立調査委員会」の審議の過程を追った(web(3))の論文を読むと、既得権のある企業側の論理としてだが、国産軍用保護トラック3社の側も、官による、上からの強力な“統制”を望んでいた節もうかがえる。
 また「自動車工業の確立は困難ではない」とした、その根拠であるが、16.4項で記す鉄道省向け省営バスの設計に際して、その開発を主導した菅健次郎らが実施した、国産車の性能試験の結果があった。
 石川島のスミダL型、瓦斯電のTGE-L型、ダットのダット61型の3台を定地試験、運行試験の後に分解検査して、走行性能、実用走行性、各部分の構造・耐久性に対する評価を総合的に判定する内容で(⑰P53)、1930年2月答申が出された。結果は「外国車の中位」にあると判断され「多少の欠点を補正せば足るとの結論に到達し」、これが商工省標準型式自動車誕生に向けての、技術的な基盤を与えた。(㉓P9+②P173+③P40+⑰P53。なお実際の試験内容については⑳P166~178にかなり詳しい記述がある。)
 話を戻し、1931年6月、上記の答申内容を踏まえ、第二次若槻次郎内閣の商工大臣桜内幸雄は、自動車工業を確立するための施策を実施するために”自動車工業確立調査委員会”を発足させ、検討を命じる。同委員会では十分な調査研究を行なうとともに,標準型式自動車を試作して,国産車の性能を確認することとなった。
 委員会のメンバーは以下(②P147)より引用 『委員会は,東京帝国大学教授斯波忠三郎(男爵)を委員長とし,国産3社の社長渋沢正雄,松方五郎,久保田権四郎,及び各関係省庁(内務・大蔵・海軍・鉄道・商工省),さらに陸軍省整備局長林 桂,陸軍自動車学校長飯田恒次郎,兵器局長植村東彦等の計 18名のメンバーで構成された。』
 1931年7月の第一回総会の後に、3つの特別委員会(「標準型式自動車の開発」、「生産と販売体制」、「政府の保護政策に関して」)を設けて審議を行った。その中で委員会全体を“標準型式構想”へとリードしたのは、陸軍省整備局長林桂と、鉄道省工作局の朝倉希一であったという。(②P147)
 以下は(⑤P160+①P30+②P148+⑥P34等)を適当に混ぜ合わせて!記した。
 この委員会は、1932年3月まで審議を続けて、報告書が提出され、新しい国産トラック・バスの方向性が打ち出された。このときの結論が、その後の自動車メーカーの将来を大きく左右するものとなった。その内容はおおよそ次のとおりである。
(1)トラックやバスなどで3社が協力して単一車種にしぼって大量に生産することでコスト削減を図る。
(2)フォード(当時3,360cc)やシヴォレー(3,180cc)のライバル車になるのを避けて、それよりひとまわり大きい積載量1.5t、2tの中級クラスとし、エンジン排気量も4,000ccクラス(たとえばGMC4,220cc、ホワイト4,880cc)にする。
(3)生産から販売まで3社が組織的に協力して年間1,000台以上の生産を目標にする。
(4)将来的には乗用車の生産も考慮するものの、トラックやバスで十分な経験を積んでからにする。
(5)政府は、製造奨励金の交付、官庁での使用励行、所得税・営業税等の課税の減免処置、関税の改正等の保護奨励を行う。
これにより、軍用保護自動車メーカー3社は、合併する方向を確認した。狭い市場で3社共存はいかにも効率が悪く、『各メーカーが勝手につくっていたのでは、いつまでも欧米に追いつくことができないという認識が背景にあった』(⑤P161)。問題は製造技術よりも、量産による規模の経済性が発揮できていない点にあるとしたのだ。商工省はこれ以降、同調する陸軍とともに、製造と販売の統合に向けての働きかけを強めていくのだが、3社の統合については(16.3項)で記す。以下、さらに補足すると、
(2)をより具体的に記せば、“商工省標準型式自動車”と称するトラック2種とバス3種の合計5車種が決定された。
(5)により、自動車部品の税率が引き上げられ、一方で製造奨励金(1台当たり300円程度)の交付を行うこととした。
上記の(1)、(3)などでは統制経済色が色濃いものの決して背伸びした内容ではない。(2)、(4)などはフォードなどのいわゆる“大衆車”との正面衝突を避けるなど、当時の日本の自動車市場の現実を見据えた手堅い施策だった。
しかし、後の自動車製造事業法と違い“堅実”な一方で、最大のボリュームゾーンであった“大衆車”市場を避けたために、同クラスは引き続き海外メーカーに市場を委ねられることとなった。さらに以下のような指摘も一部にあることを追記しておく。『その後にトヨタと日産がそのクラスへ参入することを容易にした側面があった。結果として後発メーカーのトヨタと日産に漁夫の利をさらわれることになったのだ。』(①P30)しかし当時の保護自動車3社の内情からすれば、そこまでの余力は到底なかったし、そこはやはり、外資との“直接対決”により生じるリスクを極力回避した代償として、やむを得なかったのではないだろうか。

16.2商工省標準型式自動車の開発
 上記の方針にしたがって、標準型式自動車を試作することとなった。1932年 6月、瓦斯電、石川島、ダット自動車製造の国産3社の間で、協同組合法に基づき標準車の生産調整、補助金の割り当てを行うため「国産自動車組合」を結成し3社カルテルが成立し、経営基盤の確立策がとられた。(⑥P35参考)
試作や試験は、調査委員会の審議の趣旨に沿った形で、1931年9月から先行していたが、以降は同組合に対して、標準型式自動車の試作が委託されることとなった。

16.2-1鉄道省のノウハウを得て開発を行う
 標準型式自動車の共同設計及び試作は、国産3社の技術者に加えて、鉄道省と陸軍の技官が加わり、各メーカーの役割分担が決められた。
 鉄道省のかかわりの背景という点について、東京自動車工業の統制型ディーゼルエンジンの開発を主導し、「日本の自動車用ディーゼルエンジンの育ての親」と言われる伊藤正男(いすゞ自動車専務)は、(⑰、P54)で以下のように語っている。
『小生は、民間三社(石川島、瓦斯電、ダット)は口にこそ出さないが、意見の対立した時の中立のアンパイヤーとして鉄道省の方を向かい入れたのではないかと思います。~ 当時省営バスやトラックの注文主であり、しかも官庁として最も強い技術集団であった鉄道省が仲裁役をかねた委員として加えたと思われます(これは飽くまでも小生の推定です。)
 それに技術者としてほとんどが帝大出身者でしたから権威があったでしょう。』

敗戦当時、日本の国鉄はGHQから極めて高く評価されたという(⑰P3)。その一方で自動車は『小型車とオート3輪を除けば、日本車の設計は外国車の模倣に過ぎない』(⑰P3)と手厳しく断じられたのだが、鉄道省は戦前の国産車よりも格上だった日本の鉄道技術を主導し、自動車分野においても、後の16.4項で記す国産の省営バス開発で実力を示したこともあり、呉越同舟のなかで、高い立場からモノが言えたのだろう。以下は(web2)より引用
『標準形式自動車の製作・設計の拠点は、汐留駅近くの鉄道省の工場に置かれ、そこでは、アメリカから輸入したダッチやGMCなどのサンプルの貨物自動車4台に、日本でも大量に走っているフォードやGMの乗用車2台を加え、これら6台を最終的には分解し徹底的に調べ上げたという。』それらのデータも参考にしながら、標準形式自動車の仕様決めと開発が進められた。(③P38)には、瓦斯電の小西晴二の『鉄道の研究所の施設をよく使わせていただきました。それで早く設計ができた』という証言も残されている。試験設備も技術も、自動車よりレベルが上だったのだろう。
標準型式自動車の共同設計は,国産3社の技師陣である楠木直道(石川島;後にいすゞ自動車社長),小西晴二(ガス電;後に日野自動車専務),後藤敬養(ダット;後に日産ディーゼル社長)と鉄道省車輛課の島秀雄、そして陸軍上西甚蔵等によって行なわれたのだが、『当初メーカー3社の思惑もあり、なかなか作業が進展しなかったという。それを若輩の島がうまく取りまとめていくことで、次第に皆の信頼を得るようになり、このプロジェクトは島を中心に回りだす。』(web2)『主導的役割を演じたのは鉄道省であった。島秀雄技師(後の国鉄技師長)一派の技術陣がその設計を指導したものである』」(「ふそうの歩み」=⑮P47)という、この組合に加わっていない三菱関係者による客観的な証言もある。以下は(②P149)より
『商工省標準型式自動車を具体化させるに当っては,鉄道省の車輌生産方式が大きな役割を果した。当時,共同設計,共同生産のノウハウは,国産3社,商工省において標準型式自動車の製造に応用するほど蓄積されていず,鉄道省車輌課に負うところが大きかったのである。』『(鉄道省)技師朝倉希一は「標準設計は鉄道でほとんど出来ている」「そこでこの委員会(自動車工業確立調査)はその標準設計にすぐ持って行った」と述べている。』(②P147)

16.2-2開発を主導したのは鉄道省+石川島自動車だった
 そして各メーカーにとって、重要となる、エンジン等主要部品の各社ごとの設計分担だが、『㈠ 石川島がエンジン(X型と称される),㈡ 鉄道省がフレーム,ステアリング,ボンネット,ロード・スプリング,㈢ ダット自動車がクラッチ,プロペラシャフト,トランスミッション,㈣ ガス電がホイール・ブレーキ,フロントアクスル,リアアクスル等を担当し,共同生産組合方式を採用した。』(②P150)
 鉄道省の国産トラック3社に対しての技術評価は、たぶん公平なものと思われるので、この結果を一言で言うならば、石川島の完勝で、当時はすでに撤退気味だったダットはともかく、石川島の長年のライバルであった瓦斯電に対してのこの評価は、瓦斯電全体の経営が悪化していた中で、なお多角経営を維持していた中から生じた、自動車部門へのしわ寄せの結果ではないかと思える。(個人的な想像です。なにせ星子勇以下のごく少数の技術陣で、保護自動車の傍ら、『ル・ローン、サルムソン、ベンツ航空国産エンジンの国産化、ニューポール戦闘機(甲式4型戦闘機)の生産を行い、一九二八年には日本初の国産航空エンジン神風(しんぷう)を完成した。無謀とも見える果敢なチャレンジ』(㉑P9)!を行っており、その上でさらに、陸軍からの依頼の各種特殊車両の製作も行っていたのだ。)
 ちなみに標準車用X型エンジンのシリンダーブロックは、ダットの大阪工場で吹いたとのことで(③P82)、陰ながら“鋳物の久保田”の実力を示したという。
 なお、石川島の楠木は東京帝大工学部機械科でウエスト賞を受賞した秀才ながら石川島の自動車部に身を投じるという『決意の人』(⑰P54)(当時としては、奇特な人?)であったが、鉄道省の島は同じ賞を2度受賞した、その1年後輩だったという。『標準型式車の設計に当って、島は「大体楠木さんと二人で相談して何もかも定めればよい様な調子になってしまった」と述懐している』(⑰P54)
 実際の設計と試作にあたって鉄道省側が特に留意した点は、輸入部品依存体質を改めさせ、国産品に代替えさせることと、JIS及び国際規格に極力適合させる設計を行ったことだった。
 さらに鉄道省の技術ノウハウですごい点は、先行して行った3社のトラックの分解調査の段階で『鉄道省大井工場の設備でTGE(瓦斯電)を製造した場合の製造原価見積りを行った』(⑳P174)ことだ。
 当然ながら商工省標準車の際にも、鉄道省側で推定製造原価を算出し、『その内容を、試運転成績発表会の席上、3社の首脳者に示して考慮を求めたのであった。この原価では到底できないとは表向きの話であったが、裏の方では案外良い見積もりとして刺激を受けたらしく、自動車工業が保護自動車なる象牙の塔からでていく気運となった』(⑳P190)と、鉄道省の朝倉希一が記している。
 商工省・陸軍省と実務面を支えた鉄道省が標準型式自動車で目論んだことは、アッセンブリメーカーの統合+自動車部品の外注化・国産化という合理的な分業生産体制による、国産自動車工業の確立で、後の自動車製造事業法による、トヨタ、日産を担いで、フォード、シヴォレーのKD生産車に対抗するという“本番”に先立ち、TXシリーズはそのための試行(模索、予行演習?)というか、その出発点だったとも、言えるかもしれない。
(「新幹線の生みの親」として、あまりにも有名な島秀雄だが、厳しめなwikiの評によれば、「個別事案のディレクターとしてよりも80系電車開発や新幹線計画のような、大局的な視点を求められるグランドプラン実現のプロデューサーとしての技量を発揮した点で評価すべき人物と言える」と評されている。
商工省標準型式自動車は、個別部分の設計について、今の “自動車屋”の目で見ると、欧米の時流をもっと積極的に取り入れるべきだったとの意見もnetなどでは散見される。島は元来“自動車好き”だったというが、“自動車屋”ではなく、畑違いだったこともあり、後に指摘されているような、多少の問題点も生じさせたかもしれない。しかし全体としてみると、「大局的な視点を求められるグランドプラン実現のプロデューサー」としての島の力量が十分に発揮された仕事だったように思える。『このTX型自動車は戦後日本の自動車産業の礎となり、その発展がトラック輸送の拡大に繋がり、鉄道輸送を脅かす。鉄道技術の頂点を極めることになる人物が、鉄道輸送を脅かす種を蒔いたというのも技術史上の興味深い事実であろう。』(⑲P182)(下は、「新幹線の試験車両の前で(島秀雄、写真右)」)
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https://emira-t.jp/app/wp-content/uploads/2017/02/Ejin_001_03.jpg
 
16.2-3「商工省標準型式自動車」(TX型、BX型)の完成
 こうして完成したTX、BXシリーズの仕様について、web(2)=ベストカーweb、(②P150)、(⑤P161)等を参考にし記す。
エンジンは石川島製の1機種に統一して、シャシーはホイールベース長/積載量の違いで(トラック2車種;TX35型がホイールベース長3.5m、1.5t積み(地方一般用)・TX40が4m、2t積み(都市及び近郊用))、乗員数(バス3車種;23,32,40人乗り)でバリエーション展開をはかった。ちなみにフォードやシヴォレーのトラックと差別化するためにホイールベースが圧倒的に長かった。トラックとバスはフレームをわずかに変更した程度で、シャシーとエンジンはほとんど共通だった。
 石川島が担当したエンジンは、X型エンジンと称されたが、コスト低減を狙って、それまでの石川島製A6型エンジンに比べ、材料および工作法を大量生産向きにしたものであった。
 ちなみにA6型エンジンは、アメリカ製のエンジンをスケッチあるいはコピーしたもので、クライスラーの乗用車用エンジンだという説(③P80)と、同じくアメリカのエンジン専業メーカーであるブダ社製だという2つの説がある(⑳P170)。余談だが、16.4-4項で触れる、チヨダS型の100㏋エンジンも、ブダ社製エンジンを参考にしたといわれており(②P176)、当時アメリカのエンジンメーカーであったブダ(Buda)と、ウォーケシャ( Waukesha)という2社が、今のカミンズ、キャタピラーと同じようなポジションにあったらしい。X型も同じく、ブダ社製エンジンを参考にしたといわれている(⑳P185)。
 直列6気筒SVで、排気量はA6型の4,070ccより大きい4,390cc、出力は用途によって45~65㏋/1,500~2,800rpmとし、X型エンジンと命名された。このX型エンジンは1932年に完成。シリンダボディ、クランクケース上半部を一体鋳造した。
そしてここが重要なポイントだが、『材料・電 装品・計器類に至るまで全て国産品を使用し、国産自動車工業の基礎を確立した』(web(1))ことだ。
 なお車幅は、国内の自動車通行可能な道路の80%以上が幅員2間以下という事情を考慮し、地方一般用のTX35型とBX35型の車幅を、おおよそ1間(1818mm)に収めたという。下表が5車種の仕様一覧だ。なお、商工省で標準車の制度関係に携わった宮田応義によれば、1934年まで生産されたこの5車種だけを、「商工省標準形式自動車」と称し、それ以降の生産車は、商工省標準車の改造設計による自動車で、慣例上、標準車とは称さないことになっている(⑦P12)
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 開発の経過について、以下web(2)を参考。
 1931年9月、商工省標準形式自動車の試作が開始され、1932年年3月、5車種9台(各車種2台、BX45のみ1台)が完成。1カ月間、約1000kmにおよぶ性能試験の結果を活かしてTX35、TX40、BX40の各1台を再試作し、第二次試作車として1932年11月完成した。
さらに東京、神奈川、静岡にわたる悪路の多いコースで運行試験を繰り返し、不具合個所を改修し、外観にも改善を加えて1933年8月完成した。ただここで悩ましいのが、商工省標準型式自動車として認定された年が、資料によって異なる点で、(①P30)、(⑤P161)では1934年3月としているが、資料によっては1933年3月としているところもある。この記事では一応、前者としておく。(下はTX40型標準型式トラック。JSAE日本の自動車技術330選より。“TX40”のTはトラック、Xはエンジンで、40はホイールベース長4mを表している。)
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https://www.jsae.or.jp/autotech/photos/3-5-1.jpg
 この標準車は、自動車工業(次項で記すが、石川島自動車製作所がダット自動車製造を吸収合併して1933年3月に創立された会社)と瓦斯電の両社で製造され、同じ車両でありながら両社の従来の呼称である「スミダ」、「ちよだ」として販売されるのは適当ではないとの判断から、1934年の量産開始を機に、伊勢の五十鈴川にちなんで「いすゞ」と命名された。もちろん、これが後の「いすゞ自動車」の社名の由来である。次項で記すが1937年、両社を併合した東京自動車工業が創立され、「スミダ」および「ちよだ」の生産は中止となり、替わって「いすゞ」の名称が全車両に冠せられるようになる。
 かくして「いすゞ」は、自動車工業ならびに瓦斯電によって量産に移ることになったわけだが(ダットが抜けた経緯は次の16.3項で記す)、後述する販売不振と、満州事変後の日本の自動車工業界の成り行きから、両社とも軍用車の生産に重点が置かれたため、商工省標準形式自動車(上記表中の5車種)としては1934年までに750台が生産されただけに終わった。
 しかしいすゞTX(とBX)は、これ以降も改良が続けられ、戦後のいすゞ5~6tトラックへと発展していくことになる。それらは16.5項で記す、陸軍のディーゼル統制エンジンとの組合せで、日本を代表する近代的で世界に通用するトラックの出発点となった。(下の写真は(web(2)より、上の写真と同様、TX40型と思われるが、時代は少し後年のもののようだ。)
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https://img.bestcarweb.jp/wp-content/uploads/sites/4/2022/04/14123702/66e091bc2d19932de79e174ad215915d20.jpg
(下の写真はweb(15)よりコピーさせていただいた、1937年モデルのいすゞBX40型観光バス仕様のカタログ。綺麗なイラストだ。)
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https://stat.ameba.jp/user_images/20140906/17/porsche356a911s/87/d2/j/t02200165_0800060013058274316.jpg?caw=800
もう一枚、下は1939年型のTX40型トラックだ。(㉖P2に掲載されている。)
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https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcR_Dj7hYZaQognHlMXyCmn5YL7TGwCzYoGYMg&usqp=CAU

16.2-4「商工省標準型式自動車」の果たした役割
 ここで「商工省標準型式自動車」をどう評価すべきか、まとめてみたい。
評価のポイントとしては、自動車の場合、“売れたか売れないか(=市場で評価され受け入れられたか)”が重要だが、その点では、タイミングの悪さも災いしたが“失敗作”であったと言わざるを得ない。
 まず当初の計画では、生産初年度が1932年であったが、運悪く?満州事変(1931.9~1933.5)と重なってしまい、軍用車両の製造を優先させた結果、標準形式自動車の事業に力を注げない状況が生まれてしまった。試作の遅れが生じた上に、『陸軍では標準車の結果をみないと、使えるかどうかわからぬと態度を保留していた』(⑦P14)ため、この時点では標準形式自動車の軍用車としての採用を控えたからだ。台数を稼ぐうえでは、もっとも大きな痛手であった。
(しかしTX40に若干の改造を加えて1937年、九七式四輪自動貨車として、後に陸軍から正式採用される。九七式に先行し、標準車の部品を最大限に活用してつくられ、日本陸軍を代表する軍用車両となった、九四式六輪自動貨車とともに、標準車政策はその後、十分に活かされていく。下の写真はブログ「自己満足日記」さんより、ハセガワの1/48プラモデルの、九七式四輪自動貨車(TX40)と、後ろ向きは田宮製のくろがね四起だ。
https://blog.goo.ne.jp/kurakin1220/e/c71691fdd97a33dc9fa5edfd825b99b6
 なお九七式自動貨車はガソリンエンジンの四輪なので、陸軍の運用上では六輪と違い、後方での輸送任務となり、その前年に自動車製造事業法が公布されていたので、本来ならばトヨタと日産の大衆車のトラックが担う分野だ。しかし1937年7月の盧溝橋事件をきっかけに日中戦争がはじまり、この時点ではトヨタと日産の生産量がまだ十分立ち上がっていなかったため、ピンチヒッター的に標準車を軍用化して戦場に送る必要があったのだという(⑧P77)。ちなみに「自動貨車」はモータートラックを直訳した陸軍用語だ。)
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https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/98/c4da75a0185e8967bffb1b141f502d65.jpg
話を戻し、商工省はやむを得ず予算を繰越し、翌1933年度に両社合わせて150台の製造に着手させたが、最優先の軍需に追われて部品の調達もままならなかった。しかも『なかなか思うようには売れず、~米国車レオの値段よりも安くして、東京市営バスへ納めた次第であった。』←(⑦P10)によれば市営バスに「ほとんど全部」。しかし(③P39)によれば「そのうちの50台は無理に」と微妙に異なるが、いずれにしても市営バスに押し込み販売して“消化”したようだ。
その後、満州の同和自動車工業(当時満州にあった国策自動車会社)向けの、満州移出用の300台分の部品(注;販社の「共同国産自動車」(16.3-3項参照)が、満洲国の建国と共に旧奉天軍閥が所有していた奉天造兵廠を接収し,「同和自動車」を設立し,ここを拠点に日本から300 台分の部品を送り CKD 生産を行ったという(web(18)P44))も含めても、先に記したように『商工省の補助金から推定すると750台』(④P164、⑦P12)製造しただけで終わり、1934年には製造が打ち切られた。計画では年産1,000台×5年=5,000台だったのだから、大幅な未達だ。
 このように標準形式自動車の生産は不調に終わったが、満州事変の勃発は皮肉なことに、石川島(自動車工業)と、瓦斯電にとっては幸いし、この間全般に受注は順調であった。
 特にミニ三菱重工業的な、総合重工業企業のような展開をみせていた瓦斯電の場合、今まで自動車以外の他部門の不振が全体の足を大きく引っ張り、経営難に陥っていたが(次項で記す)、1933~34年頃からは軍需の拡大により、標準車の不振にもかかわらず経営内容は一気に好転し、石川島ともども設備投資の増強へと進んでいく。(④P165)(下の画像は“尼崎市立地域研究史料館”さんhttp://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/
より「愛國第三(姫路)裝甲自動車の勇姿」。“愛国(海軍の場合は”報国“)何号”という名称は、国民の献金で兵器や車両を購入する国防献品制度により献納されたもので、「愛国三姫路号」は第十師団管区内の兵庫県から献納された車両という。(web27)によれば瓦斯電製の、ちよだGSW型装甲自動車(九二式装甲車)で、約200生産されたというから当時としては相当な台数だ。ようは忙しかったのだ。)

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http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/Uploads/Postcard/PC0000000172/PC0000000172_640px.jpg
 このように標準車の不振は、満州事変という、外的な要因に大きく作用されたが、④によれば、標準車の商品企画自体にも要因があったと分析している。詳しくは本書を確認いただきたいが、その販売戦略は、『~ まず標準車が20人乗り以上のバス部門において基盤を確保し、さらに1.5トン級の大衆トラック部門の一部を獲得するかにかかっていた。』(④P154)
 特に20人乗り以上のバス部門において市場を確保できるかが重要だったが、『当初大きな期待を寄せられていたバスでも大衆車と大型車に挟まれる結果になったのである。そのため、標準車は鉄道省が「政策的」に購入するに留まった。こうした標準車政策の失敗の結果、1935年中の国産車の保有台数は全体の0.6%にすぎなくなった。』(④P161)官民あげて取り組んだ、標準車の登場にもかかわらず、国産車のシェアはますます低下してしまったのだ。
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 標準車にとって頼みの省営バスは、国産車で統一していたが、当時はまだ路線数が少なく、購入台数もけっして多くはなかった。『(戦前で)最大であった1936年の購入台数は164台であり、当時の保有台数も431台に過ぎなかったのである。』(④P160)
ちなみに(④P161)の表によると、1930~1935年の省営バスの購入は合計で268台で、この市場を、16.4項で記すが新規参入組の、ふそう(三菱)と六甲(川崎)を含む4社(この時点でダットは撤退)で分け合っていたのだ。
 しかもその中で、標準車より出力の大きい、大型バスの方を、より重用したため、標準車は「大型車に挟まれる結果になった」のだが、これについても16.4項の省営バスの項で説明する。
 参考までに1934年9月の調査によると、当時のバスの全保有台数は20,171台で、大衆車のフォードとシヴォレーなどの小型バスの割合が圧倒的に多かった(④P159)。下表は、国鉄沿線の市営バスの使用状況で、国産バスは東京市以外では、京都市と神戸市で僅かに使用されていただけだ。省営バスとならび、国産バスの販路として期待される市営バスにおいても、大半はシヴォレーとフォード(特にシヴォレー)が、使用されていたことが分かる。
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この要因の一つとして、シヴォレー、フォードなどいわゆる“大衆車”の上級移行もあった。11.13項で詳しく記したが、1920年代後半ごろから、フォードとシヴォレーは本国で熾烈な馬力競争を展開し、フォードに例をとれば、1920年代半ばのT型フォードの時代は20㏋だったのが、1939年のV8では90㏋に達し、たった10数年の間に実に×4.5の馬力にパワーアップしていた。同じ“大衆車”という変わらぬ括りながら、たとえばトラックでは1t級から、実質的には、1.5~2t級へと、積載量は上級移行を果たしていた。下からの突き上げも激しかったのだ。
 さらに価格面だが、下表は1935年時点での、バスではなくトラックの価格表だが、やはりフォードとシヴォレーが、相対的に割安であったことがわかる。これだけ価格差があると、いかに市営交通といえども、国産品を率先して採用するわけにはいかなかったようだ。
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この結果、たとえばトヨタ自動車のHPの社史(web(4)=75年史)では、商工省標準型式自動車に対して、『しかし、商工省の計画は2年後に破綻し、この自動車国産化構想も実を結ばなかった。』と、手厳しい評価を下している。

 しかし戦前の陸軍と商工省による自動車政策で、悩ましい点は、その政策の実施段階では、必ずしも民需と合致せず、目論見通りの成果をあげられなくても、第二次世界大戦の敗戦を挟み、戦後の日本の自動車産業の発展まで枠を広げて考えると、あとから見れば実は重要な布石になっていて、高く評価すべき政策となり、結果オーライであった、という例が多いのだ。商工省標準型式自動車も、後述する陸軍が主導したディーゼル化路線(16.5項)と、省営バスの開発(16.4項)などとの合わせ技で、結果としては戦後の国産大型トラック・バスの発展に大きな貢献を果たしたと思う。ただその点については、この記事の最後の、まとめの項で記したい(と、いったん問題を先送りする!)。

16.3商工省/陸軍主導による軍用3社の合併
16.2項で記したように、「自動車工業確立調査委員会」における議論の結果を踏まえ、商工省と陸軍省は、石川島、瓦斯電、ダットの国産トラック3社を統合する意向であったが,その実現までには複雑な経過をたどった。
先に概要を示せば、ダットの大阪工場は1931年 8月に戸畑鋳物に買収されており,石川島と営業権を中心とするダットとの間で 1933年 3月、合併が成立し、自動車工業株式会社が誕生する。残る瓦斯電は、単独での生き残りを模索していたが、1937年 4月に東京自動車工業株式会社の創立により、ようやく3社の合併が実現することになった(下の表を参照)。
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以下からはより詳細に、その経緯をたどっていきたいが、その前に、多少雑談めいた話から始めたい。

16.3-1藤沢正雄(石川島)と久保田権四郎(ダット)の心境の変化
 企業の統廃合の話になると、関係する会社のトップである、渋沢正雄(石川島)、松方五郎(瓦斯電)、久保田権四郎(ごんしろう、ダット)そして鮎川義介(日産)の4人が、どのように考え、決断していったかに、大きくは懸かってくる。
 3社統合が明確に方向づけられたのは、「自動車工業確立調査委員会」(1931.06発足)の前あたりからだが、国産3社の社長が委員となった同委員会について、(web(3)P6)によると、久保田(ダット)だけは権四郎本人ではなく、専務取締役で娘婿でもあった久保田篤次郎の代理出席であったという。自動車事業の芽をつぶさないように、今まで辛抱強く支えてきたが、これ以上、好転は期待できないと、すでに見切っていたようだ。
 一方、自動車産業の将来性を確信し、参入する機会を窺っていた鮎川義介は久保田権四郎のダットに資本参加を申し入れ、久保田はこれに応じる(1931.06)。さらに同年8月、所有株式一切を戸畑鋳物に譲渡して、10年以上にわたる自動車事業から撤退する。(⑫、P83)
 だが久保田は1933年、今度はその戸畑鋳物から、競合先だった同社の発動機部門を逆に引き取ることにする。『「トバタ発動機」を得たことで、久保田鉄工所機械部の販売台数は大幅に増加し~1935(昭和10)年には発動機部門の売上高が、久保田鉄工所・久保田鉄工所機械部の二社合計売上高の15%を初めて超え、内燃機が鉄管と並ぶ久保田の基軸商品となったことを物語っていた。』(⑫、P140)自動車事業をきっぱりとあきらめたが、発動機部門はやがてディーゼルエンジンの商品化へと進み、久保田の事業を支えていく。詳しくは前回記事の15.3-12項を参照してください。
(下は久保田(現クボタ)のHPより、1938年に本格稼働の“東洋一の発動機専門工場”と称された堺工場で、「コンベヤーシステムは自動車会社を除くと、国内民間企業では初の採用」だったという。)
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 一方、瓦斯電と大きな差こそなかったものの、業界のトップ企業であった石川島自動車の渋沢社長は、同委員会の議論のなかで、自ら一歩踏み込み、『生産統制なくして販売統制は実現しないとの持論を展開しつつ、政府の方針が「明瞭」にされるのであれば、既存 3 社を「一個ノ株式会社ノ如キモノニシタイ気持ハアル」と企業合同に意欲をみせた』(web(3)P17)という。
 いざ3社統合ともなれば、各社の利害調整は難しく、実際には難航することになるのだが、文字通り“茨の道”を歩み続けてきた国産保護自動車の側からも、「国による統制」を望んでいた面もあった。(②P115)によれば、『「いすゞ自動車史」(昭和32年)では、「陸軍省兵器局の永田鐵山大佐あたりから(統合を)盛んにすすめられた」(四五頁)と指摘している』そうで、陸軍との歩調も合っていた。
 だが統制経済体制下で陸軍や商工省が描く、自動車行政に従うことは、企業の自主性を失いかねない側面がある。しかし藤沢正雄(石川島)の受容的なその姿勢の裏には、どうやら渋沢家としての事情があったようだ。父、渋沢栄一の死後(1931.11没)、一族に残された数ある事業(トヨタの社史の⑩P31では「渋沢財閥」との記述がある)のなかで、自動車よりも製鉄業を重視するという決断を下したことが影響していたようだ。以下(web5;2021年7月28日付ダイヤモンドオンライン)から要約する。
藤沢正雄は東大を卒業後、父が創設した日本最古の銀行である第一銀行への入行を皮切りに、渋沢貿易、富士製鋼、石川島造船所、石川島自動車、石川島飛行機など、渋沢財閥傘下の企業で重役を歴任するが、父の死の翌年(1932年)、製鉄業以外の関係会社の役職を全て辞任する。『製鉄業に専念することを決めたのは、~ 親父がやって失敗した製鉄業を、一生の仕事として国家に奉仕しようと考えているのである」という。偉大な父に対する尊敬の念と、その遺志を継ぐ強い思いに突き動かされていたようだ。』(web5)
 詳しくは(web5)をお読みいただきたいが、この記事が、85年以上前の1935年12月21日号の同じ「ダイヤモンド」誌の、藤沢正雄へ実際にインタビューした記事を基に書き起こされているという事実が、何気にすごい。
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 この記事には、そこまで記されていないが、生前の父、渋沢栄一や、その当時渋沢家の当主であった渋沢敬三(戦後蔵相を務め、新円切り替えと預金封鎖でも有名)とも相談の上での決断だっただろうと思う。
 これ以降の戦前の石川島自動車は、陸軍と商工省の意向に従いながら、過大なリスクは避けつつ、国策企業への道を歩んでいく。
 このように、4人の経営者のうち、1人は撤退し、1人は距離を置きつつ、概ね国策に従っていくかたちをとるのだが、残りの2人は必ずしもそのようにはならなかった。次項からは、瓦斯電とその社長である松方五郎と、日産の鮎川義介の確執を軸に、当時の自動車業界再編をみていきたい。

16.3-2鮎川義介の「自動車産業合同論」
 さきに記したように、ダットの経営権を取得した鮎川だが、陸軍の斡旋で始まった3社合同案に直ちに賛成する。後の記事で記すことになるが、一連の交渉のなかで、日本GMが加わる意思があるこが明らかになった以降は、一段と熱をおびて交渉にあたることになる。このGMの件は結局身を結ばなかった(“その8”で記す予定、今回の“その6”の記事では外資系と乗用車、大衆車系の交渉を極力除外して記していく)。以下は(⑬P99、⑭P54を主に+⑤P195)を基に記す。
鮎川は、日本フォード、日本GMの両外資系企業が自動車市場を支配している中で、自動車国産化を達成するためには国産メーカーを大同団結させて、強力な国産メーカーを育成し、早期に量産システムを構築する必要があると考えていた。さらに鮎川には、3社合同のイニシアチブをとることで、政府が進める自動車工業確立策に影響力を行使したいという思惑もあった。

16.3-3松方五郎(瓦斯電)との確執と「自動車工業」の誕生
 1932年9月から3社合同の話し合いが開始され、鮎川の登場に他の2社が警戒感を強め、対立する一幕もあったが、同年12月、林桂陸軍省整備局長を立会人として、渋沢正雄(石川島)、松方五郎(瓦斯電)、鮎川義介(ダット)3社長による3社合同の仮契約を締結するに至った。
 ところが仮契約を締結したその翌日、瓦斯電側から、メインバンクの十五銀行が昭和恐慌による破綻のための整理中だが、当社の工場が融資の担保に入っており、自動車部の資産を分離して新会社に持ち込むことが技術的にむずかしいため合併に参加できずとの、一方的な申し出がある。
鮎川は松方の申し出に当然不満であったが、1933年3月、石川島自動車製作所とダット自動車製造の2社間での合併を先行させて、「自動車工業株式会社」が誕生する。なお(㉓P10)にその際に『三井、三菱、住友の各財閥より資本参加を求め、』(⑦P10)という記述があることも、追記しておく。
 鮎川主導による自動車産業合同論に強く反発する松方であったが、自動車工業との共同出資による販売会社、「協同国産自動車」の設立にはさすがに合意し、標準形式自動車の販売に当たることとなった。これにより従来の「国産自動車組合」は解散となった。
 しかし、この自動車工業会社の成立後、鮎川の自動車産業界の大合同を基軸とする自動車国産化構想は大きく後退することになる。自動車工業会社に瓦斯電が参加しなかったことに加えて、同社は軍用保護自動車と標準型式自動車の生産に集中し、鮎川が要望する乗用車生産が見送られたからだ。

16.3-4「日産自動車」の誕生
 しかしその直後、日本GMが商工省あてに、当社も合流したい旨申し出があったという情報をキャッチする。鮎川はそこで方針を変えて、『政府補助という他力本願の考えを棄て」、日産コンツェルンの「自力をもって(自動車工業)確立に邁進する」決意を固めた。』(⑭P55)
 なお、自動車工業株式会社では小型車の製造を行わないため、交渉の結果、ダットサンの製造権は戸畑鋳物に譲渡されることになる。この小型車の件は次の記事の(その7)で細かく記すが、概略だけを先に記せば、再び小型車ダットサンの製造・販売権を取り戻すと、戸畑鋳物の出資で、「自動製造株式会社」(似たような名前が多いが、「自動車工業」とは別の会社)を設立する(1933年)。この自動車製造㈱が、GMとの提携が成立した際の受け皿となるはずであった(⑤P196)。1934年には「日産自動車株式会社」に社名変更し、自ら小型車ダットサンの大量生産に乗り出すこととなる。一方大衆車(注;何度も記すがフォード、シヴォレー級=3ℓクラス)の量産に関してはGMとの直接提携交渉に乗り出すのだが、それ以降の“大衆車”の話はいずれ(その8)で記すことにする。日産はその後、紆余曲折を得たのちに、これも後の(その8)で記すが自動車製造事業法の許可申請を行い、1936年9月、トヨタと共に許可会社となる。しかしそれだけでは飽き足らなかった。(下の写真はブログhttps://tanken.com/nissan.html より、「丸の内の日産館(本社)」
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https://tanken.com/nissan17.jpg

16.3-4「東京自動車工業」の誕生でトラック3社の合同を果たす
 鮎川は『再び自動車産業界の合同論を唱え、行動を開始した。鮎川の狙いは、合同によって自動車産業界における競争激化を回避するとともに、日産自動車の生産体制を拡充することにあった。鮎川は前回の国産3社の合同問題の際、表面に出過ぎて周囲の反発を買ったことを考慮して、今回は小川郷太郎商工大臣のブレーンで、松村菊勇自動車工業会社社長と親しい朝倉毎日(当時、衆議院議員)を仲介者として話を進める方針をとった。』(⑭P56)
 その後の日産、自動車工業、瓦斯電の間における交渉の経緯は陸軍/商工省/関東軍などの思惑や、鮎川が別途進めてきた外資との提携交渉や満州進出も絡み複雑に交差して、詳細に記すと長文になるのと、不明な点多いため(たとえば②P158~161、⑭P56~60等を参照されたい。より詳しくは瓦斯電再建の功労者で元常務の内山直が記した「瓦斯電を語る」(1938年発行)や、いすゞと日野の社史を読み込む必要がありそうだ。)略して結果だけ記せば、紆余曲折を経て、『単独で設備を整える気概をみせ合併を渋った』(web(8)P46)瓦斯電も、日産による自動車工業との統合案を阻止すべくついに折れて、自動車工業と瓦斯電の自動車部がついに合併し、東京自動車工業が誕生する(1937年4月)。さらに同年9月、販売会社の協同国産自動車を吸収合併し、生産・販売を一貫して行うメーカーとなった。ここにようやく、軍用保護自動車3社の統合が実現したことになるが、ここでもまた、鮎川が目論んだ、日産を含む大合同は阻止されたことになる。

16.3-5日産による瓦斯電の解体
 ここに至り、ついに挫折したかに見えたが、『だが、鮎川は自動車産業界の合同策を断念しなかった。』(⑭P57)! 引き続き東京自動車工業と日産との合併を画策するのだ。
 下の東京自動車工業設立時の、株主構成表をご覧いただきたいが、自動車工業側の株主が合併以前に既に分散していたため、約50%の株式を、瓦斯電が握ることになった。東京自動車工業というと、我々(というか、自分だけの単なる思い込みだった?)は先入観から、一貫して石川島(渋沢財閥)色が強いように思っていたが、この項の冒頭で記したように、渋沢正雄(渋沢財閥)はすでに、自動車から鉄鋼産業へと軸足を移し、社長も第一銀行出身の加納友之助に譲っていた。そしてこの株主構成表をみれば、松方五郎からすればここにきていよいよ、勝負の時を迎えていたのだろう。
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 以下は瓦斯電から戦後、日野自動車の副社長になる家本潔に対してのJSAEインタビュー(web6)からの引用で、瓦斯電側からみた、東京自動車工業設立の経緯について、以下のように記している。
『1936年商工省は国産自動車工業確立のため、自動車工業の大規模化を狙った「自動車製造事業法」を公布しました。年間3千台作れれば5年間税金免除というもので、瓦斯電の自動車生産量では合併の避けられないものでした。
 しかし瓦斯電は航空機も作っていた大きな組織で、そう簡単にはいかず次のような過程を経ます。
 1937年4月、松方社長は「東京自動車工業」と言う新会社を設立、同9月に瓦斯電自動車部と合併、同11月にこの「東京自動車工業」が「自動車工業」(前石川島自動車製作所、現・いすゞ自動車の前身)を合併しました。』
(web6P164)先に記したことと年月が合わないのだが!ここで記されているように、東京自動車工業は元々、瓦斯電側が自動車自工を合併するための準備として設立した会社で、創設時の主導権は、明らかに瓦斯電側が握っていた。『飽くまでも自動車工業株式会社との対等合併を主張して止まぬ瓦斯電』(⑨P31)の松方五郎は、自動車産業に対して一貫して大きな野心を抱いていた。(下の写真はhttps://blog.goo.ne.jp/aurora2014/e/a6c572fbb070d20f0aed29a2d41bb42eよりコピーさせていただいた、「日野オートプラザ」に掲げてある、松方正義の肖像画。)
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 こうして松方の長年の野望がついに、叶えられそうになったのだが、しかしこの時、東京瓦斯電機工業の大株主であった十五銀行の、自動車事業に対しての投資スタンスは、大きく揺らいでいた。
 この合併の結果を見て鮎川義介は、今度は東京自動車工業の株式の約半分を所有する瓦斯電そのものを買収することで、東京自動車工業をも掌中に治めるという、大胆な戦略に打って出る!
 そのためのステップとしてまず、瓦斯電のメインバンクの十五銀行(=有力華族の出資により成立した銀行で、世上「華族銀行」と呼ばれていた。しかし1927年(昭和2年) 昭和金融恐慌により経営破綻し、再建途上で当時経営が苦しく、自行の整理資金のねん出のために、株価が高騰していた瓦斯電の株式の一括購入先を探していた。(概要wiki+⑭P58より))に対して接近を試みる。東京瓦斯電気工業の株式全体の51%を十五銀行が握っていたからだ。
 鮎川は単身、十五銀行頭取西野元を訪ね、瓦斯電と東京自動車工業抜きで秘密裏に交渉を行う。『実は瓦斯電工株の値上りは今が天井であり、而も同社生産力拡充のために二倍半増資が必要だとされているその資金を賄うことは現在の整理銀行である十五にとっては殆ど不可能に近い、早晩瓦斯電工は大きな財閥に譲渡しなければ成らぬ立場にあったのである』(web38)
 1938年4月、満業(=満州重工業開発株式会社の略称で、日産コンツェルンの持株会社である日本産業を満洲に移転・改組させて設立された。陸軍(関東軍)の要請を受けて、満州国内の鉱工業を一元的に統制することを目的としていたが、後にその計画は挫折した。この当時は鮎川が総裁を務めていた。(以上概要wikiより))傘下の日立製作所が、十五銀行所有の瓦斯電の株式買収に成功する。上記のように十五銀行側は、瓦斯電株は『今が天井』(web38)で売り時だと判断したのだ。(下の画像はwikiより十五銀行本店。現在の中央区銀座八丁目にあったという。)
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 ちなみにこの当時の瓦斯電だが、(その3)の記事で説明した“暗黒の時代”とはうって変わって、日本全体が戦時体制下に移行しつつあった中で、航空機及びその発動機、自動車、戦車等の軍需製品の生産を行う、時世にマッチした花形企業として、日の出の勢いだったのだ。(たとえば“その3”の記事の「≪備考12≫瓦斯電のシャドーファクトリー構想について」や、(web(7))等、参照してください。)
『鮎川義介は東京自動車が軍用トラックを製造する最大の国策会社として発足したことから、満業の影響下に東京自動車を置き、軍用トラックを同和自動車へ供給させようと考えた。』(②P193)鮎川は日・満で展開する日産コンツェルン全体として、自動車産業の規模拡大と、今後ますます成長が期待される、航空機産業を含む軍需製品の拡充という、二兎を追ったのだ。
 しかし当時の日本では強引な買収戦略は『事態があきらかになると、東京自動車工業、とくに瓦斯電の松方五郎社長は強く反発した。そして松方は両社の事業と関連の深い陸軍省兵器局に鮎川らの行動に不満であることを伝え、善処を求めた。』(⑬P105)
『また政府自体においても自動車工業に関して内地と満洲との間に摩擦を生ずるような虞れがありはしないかを心配していた』(web38)
 こうして陸軍省の介入により、日立が株式の過半を押さえた瓦斯電が所有する東京自動車の株式のうちの半数を、陸軍の意を受けて調停役として登場した、日本高周波重工業(注;当時特殊鋼のメーカーとして急成長を遂げ、同社会長の砂田重政は政友会の幹事長でもあり、陸軍を含め各方面に顔が広かったようだ)に譲渡するよう要請される。
 そしてここでも紆余曲折を経た末に(②P158~161や⑭P58,9にざっくりと書かれている)、鮎川はその要請(陸軍省による半ば「命令」だったのだろう)を受け入れる一方で、日立製作所による東京瓦斯電気工業(=自動車を除いた部分)の合併という果実を手に入れる(1939年5月)。
 さらにこの間の経緯で複雑だったのは、(web(8))や⑮、(web(7))などを読む限りでは、満州に展開する関東軍が、商工省及び本土の陸軍省の政策とは対立する、満州国独自の自動車行政を展開しようとしていたことだ。『複雑な過程であるが想像するに、関東軍の思うままに動く会社にしたかったのであろう。』(web(8)P45)
 そのため瓦斯電も、この後記す三菱重工業も、そして日産自身もその後、『軍と政治に激しく翻弄され』(web(8)P46)ていく結末となる。(しかしここまでチラッとだけ見てきただけでも、ここに深入りしようとすると複雑怪奇で、そもそも『満州国』なるものの実態がいまだに解明されていない(と、自分には思える。デクラス待ち?)中で、この辺はさらっと流して、代わりに満州の街並みの写真を何枚か貼り付けてお茶を濁したい。(下は以下のwebより「建国からわずか12年で首都新京などの大都市は、東洋のパリと呼ばれるほどの美しい街になりました。」https://nezu3344.com/blog-entry-3683.html)
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(「奉天駅」引用先http://www.fadecard.com/2017/05/blog-post.html)
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(「大連市の大広場」引用先http://tanosimi.bunka.main.jp/?eid=1104248)
写真を見ても、日本人がつくったようには見えないのだが・・・

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(「1937年、鮎川義介(右)と松岡洋右」 引用先は「2011年日本自動車殿堂」より)
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 話を戻し、瓦斯電の自動車部は、東京自動車工業とすでに合併していたので、この結果瓦斯電は解体され、航空部が日立航空機、兵器部門は日立兵器、工作機械が日立工機、計器部門は東京機器工業(現トキコ)となり、火薬部は日本窒素に売却される。鮎川は『日立製作所及びガス電の航空機部門を満州の航空機製造へ動員し、航空機工業を確立しようと全力を注いだ。』(②P194)アグレッシブに活動し二兎を追った鮎川は、最後に一兎は掴んだのであった。
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 瓦斯電は、松方の気宇壮大な構想のもとに事業の手を広げ、軍需を核とした多角化路線を展開していったが、軍靴の音が次第に大きく鳴り響く中で、ついに花開く時を迎えようとしていた、その矢先の解体であった。『瓦斯電は三菱重工業の規模を小さくし、昭和初期にコンツェルン化への発展を秘めていたが、結局、解体されてしまう。しかし、瓦斯電自動車部はその後東京自動車工業から分離され、日野重工業として発足し、中級車の主流を形成し、今日に至っている。』(②P161)ちなみに(web7)には『尚おこれに伴って瓦斯電の復興に功あった内山直氏以下の十五銀行系の重役は退陣し、松方社長は日立より瓦斯電株の一部を譲受ける高周波重工業のバックで留任するはずである』と記されており、事実、東京自動車工業の初代社長に留任している・・・。ちなみに副社長は旧自動車工業出身の新井源水だった。
 話を戻すが、合併なった東京自動車工業は、陸軍からの大量発注で、既存の大森、鶴見の工場では生産能力が間に合わなくなった。そこで元々は瓦斯電が自動車製造事業法の許可の申請用に用地買収していた(②P159)という、川崎大師河原下殿町(4万坪)に、自動車工場を急遽建設した。さらに東京府南多摩郡日野町(20万坪)にも陸軍向けの特殊車両(キャタピラ付きの)用工場を建設し、こちらに旧瓦斯電系の技術陣が集結する。戦後になり前者がいすゞ自動車の川崎工場、後者が日野自動車の日野工場へと発展していったことはご存じの通りだ。

ディーゼル自動車産業、統合への道
 話が前後するが、自動車製造事業法によるトヨタと日産の許可会社への指定と、トラック3社の統合を果たした商工省は、自動車行政の次のターゲットとしてディーゼルエンジンの統制型の指定に取り組む。陸軍が主導した、自動車用国産ディーゼルエンジンの開発と、軍用車のディーゼル化の過程については、あとの16.5項で記すので詳細は割愛するが、『これは指定された統制型ディーゼルエンジンを一社の下で大量生産し、さらに、自動車製造事業法の許可会社に指定されることを意味した。このため、自社のディーゼルエンジンが統制型に指定されるかどうかはその企業の命運を左右するものとなるのである。』(②P198)
 後の16.5項で触れる三菱、東京自工、池貝、新潟鉄工所、新興の日本デイゼル以外にも、この記事では省略するが日立、神戸製鋼(1935年)、川崎車輛、(1937年)など有力企業が続々と名乗りを上げて、ディーゼル技術の開発競争を繰り広げた。
統制経済体制下の商工省と陸軍省の狙いは、各社のディーゼル技術を結集させて、ディーゼル自動車の製造を、許可会社の一社に独占的に行なわせることであり、技術競争に勝ちあがること=自動車会社になれるチャンスだと、各社は感じ取っていた。
 結論から先に書けば、東京自動車工業の技師、伊藤正男が設計したディーゼルエンジンを統制型エンジンと指定し(16.5項参照)、技術情報を全面開示させる一方で、他の4社(三菱、池貝、川崎、日立)にも東京自動車工業に対して、自社のディーゼル自動車用の製造設備と技術を供出させる。そして東京自動車工業を母体として、4社にも出資させたうえで、あらたに「ヂーゼル自動車工業株式会社」と改称し、1941年4月30日創業される。
 このヂーゼル自動車工業は、ディーゼル車の製造を一元的に行う会社として、自動車製造事業法に基づく三番目の許可会社となった。(正確に言うと、1941年4月9日付けで東京自動車工業の段階で、許可会社に指定されていた)。こうして、国のお墨付きの、トヨタ、日産、いすゞという「御三家」が誕生するが、しかしその過程で、ディーゼルエンジンの分野で、過去もっとも多くの実績を誇ってきた三菱(重工)が、許可会社への指定をめぐって陸軍・商工省と激しく対峙していく。以下、その対立の経緯をみていきたいが、主に(②、⑮、⑳、⑦)等を基に記した。

16.3-7三菱の本格参入を巡って、陸軍・商工省と対立
 16.5項で記す内容と被るが、商工省と陸軍省は、国内ディーゼルエンジン業界の事情聴取を、以下の8社(東京自動車工業、三菱重工業、池貝自動車、神戸製鋼所、新潟鐵工所、久保田鉄工所、川崎車輛、日立製作所)に対して行う(久保田も入っている!ちなみに(⑦P88)では9社とあるが)。その中で、東京自動車、三菱、池貝、川崎、日立の5社がそれぞれ単独で、本格的なディーゼルエンジンの量産化に乗り出す姿勢を示したため、陸軍・商工両省が直接、ディーゼル自動車業界の再編に乗り出す。
 日中戦争の拡大に伴い、軍用自動車の製造に追われる東京自動車工業の生産台数は、自動車製造事業法の許可会社の条件である年産3,000台規模を上回って生産され始めていた。同社は軍用規格車を製造する会社であったため、同法による制約を受けず『資材割当でも販路でも軍需ということで別格扱いされて』(⑨P107)いたが、自動車産業に対する一元管理の実現のため、機は熟したとばかりに、『陸軍省整備局及び陸軍自動車学校は、東京自動車をディーゼル自動車の許可会社として申請することを要請し、商工省の行政指導を求めた。
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こうした東京自動車の事業法への申請の動きに対し、三菱重工業もディーゼル自動車を大量生産すべく事業法への申請に取り組むのである。』(②P201)
上記の業界に対してのヒアリングが行われたのは(⑦P88)によれば1940年末とのことだが、以下1930年初頭まで遡り、三菱の自動車事業への取り組みについて、追って行く。

三菱の自動車事業への取り組み
今まで自動車事業は“ご法度”であった三菱だったが(この一連の記事の13.3項「大財閥も動けなかった」や、6.4-3項及び(備考9)「自動車産業進出に消極的だった三菱財閥」などを参照してください)、後の16.4-2、16.4-5項で記すが、1930年代に入ると三菱重工は、当時の造船不況対策の一環として、鉄道省の誘いを受けてバス製造に乗り出す。しかし「不景気で苦しんでいたときでもあり,それに官庁相手の仕事でもあるから」(③P71;三菱神戸、大井上談)というのが理由の、慎重なスタートだった。
 その後商工省と陸軍は、フォードとGM(シヴォレー)の独占状態だった“大衆車”市場で対抗する国産車メーカーを育成すべく、自動車製造事業法の立法化に取り組むが、その検討段階で、その実力からして、もっとも期待された三菱に対して真っ先に打診を行なう。
しかし真っ当に考えれば、巨大な米2社に対抗するにはあらゆる面でリスクが大き過ぎるため、当面自動車事業はバス製造とし、航空機部門の拡充等を理由に、自動車事業への本格的な進出を躊躇う。しかしこの「企業としての冷静な判断」が陸軍側の心証からすると「冷たいそぶり」として映り、後に遺恨を残す結果を招いてしまう。
 だが立法化の過程で、自動車製造事業法が実際に施行されると、年間三千台以上の自動車製造が許可制となることが明らかとなる。自動車メーカーは国策会社(=許可会社)として保護育成され、5 年間所得税、営業収益税などの免除等“特典”も多く、省営バスをぼちぼち作る程度ならともかく、量産自動車メーカーとして存立するためには、許可会社の指定を受ける事が必須となってしまったのだ。
 この事態を受けて三菱は態度を翻すことになるが、しかし1936年9月、陸軍と商工省はトヨタ、日産の2社だけを、対フォード、GMの大衆車級のトラックと乗用車をターゲットとした許可会社として指定する。国内最大の、いわゆる“大衆車”の市場はこうして閉じられてしまったのだ。
 そのため三菱が許可会社として指定を受けられる=自動車会社となるための、残された可能性は、大衆車より一クラス大きい中型クラス以上の、トラック/バス分野のみとなる。
 もともと乗用車よりもトラック/バス志向だった三菱の思惑とも合致するのだが、しかしこの分野には、陸軍・商工省が時間をかけて育成中の、自動車工業(東京自動車工業)がすでに存在していた。
 このように陸軍・商工両省と三菱は、こと自動車分野に関しては、なかなか「嚙み合わない」関係だったのだ。

 次の16.4項、16.5項で記すように三菱は、黎明期の国内のディーゼル自動車の分野では、池貝と並び先行メーカーであったが、こうした一連の流れを受けて、中型以上のトラックのディーゼル化を推し進める陸軍の政策に則り、ディーゼル車によって、自動車製造事業法の許可会社の指定を受けるべく、本腰を入れて、自動車事業に取り組み始める。さすがに日本を代表する企業である大三菱重工のやることだけあって、その計画は具体的だった。以下(②P201~P206)と⑮を要約して記すが、詳しくはぜひ本書②、⑮、⑳、⑦等を確認してください。
 まず三菱重工内の自動車事業は、造船所系自動車部(神戸)と、航空機系の東京機器製作所(大井)の自動車部の2系統に分かれていたが、1937年それらを統合し、東京機器製作所の下に一元化する。ただしこの間の事情としては、戦時体制下に入り『神戸造船所が行っていた艦船製造や陸上機器・プラントの製造も多忙を極め』、(㉕P6)神戸が手狭になっていたという事情もあったようだ。
 そして自動車事業のための新たな拠点として、東京の下丸子に5万坪の土地を購入し、1937年3月、許可会社としての基準をクリアーすべく、年3,000台規模の一貫生産工場の建設を開始する。この下丸子工場の着工は、東京自動車の川崎工場着工とほぼ同時期の動きだ。同工場での主な生産予定車種は、アメリカのダッジ(=フォードやシヴォレーより少し大きい)の2トン積トラックをモデルとした大衆車向2トン積ディーゼルトラック(後述する「5,000円トラック」)であった。
 さらに同年7月、当時「世界最高」の高速ディーゼルエンジンと謳われた、ザウラー社(スイス)のエンジンをライセンス導入することになり、提携契約が調印される(16.5-2-3項参照)。
 東京自動車工業の需要先とかぶらない、満州国の関東軍、満鉄を主なターゲットとし、下丸子工場を満州向け自動車の生産工場と位置付けた。陸軍省と一定の距離を置き、独自の自動車政策を展開中の満州国(関東軍)並びに、自動車行政で主導権を握れず不満を募らす鉄道省との連携を強く感じさせるものだ。
 ここで「5,000円トラック」について、以下「ふそうの歩み」(⑮P63)より引用する。『十一年(1936年)の初め神戸造船所はダッジ2トン積トラックK32V型1両を購入、これをモデルとして大衆向二トン積ディーゼルトラックTD35型の試作を計画した。エンジンは予燃焼室式SHT4型50馬力を用い、年産3,000台、売価5,000円を目標とした。俗に「5,000円トラック」と称し、早速製作に着手したが、自動車事業の東京移管に伴い、本車も未完のまま東京に移された。東京機器製作所丸子工場で完成を見たのは十三年(1938年)に入ってからだった。一年有余にわたる実用試験を経て、十五年(1940年)には改造型YB40型二両の製作を開始、エンジンはSHT4型4気筒60馬力を搭載した。十六年(1941年)には完成を見た』
(下の写真のトラックはそのYB40型だが、上記のように商工省・陸軍省の自動車行政(標準車路線)と対立する車種になるので、本土向けではなく、満州国(関東軍)及び満鉄向けで計画されたものだった。しかし後述するように、内外の情勢の変化と、陸軍省・商工省×鉄道省・関東軍の対立、さらには満鉄はその後、大陸向けにより大型のトラックを欲したため、次に記すが、計画はすぐに破綻していく運命にあった。)
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 ところが、1937年7月に勃発した、盧溝橋事件を発端とする日中戦争が『三菱重工業と東京自動車の立場を逆転させ、さらに三菱重工業のディーゼル車製造から撤廃させる思わぬ帰結へ導いた。』(②P202)しばらく同書からの引用を続ける。
日中戦争の勃発により、戦車の大量配備が至上命令となる。そうなると当然のように『陸軍省は戦車の生産工場として三菱に大きな期待』(②P202)をかけた。そしてこの機をとらえて陸軍省は、丸子工場の竣工を待たずして、戦車を生産する陸軍の管理工場に指定してしまう(1938年3月)。
 丸子工場が戦車の量産工場へ転換されるなかで、思惑の異なる陸軍省と関東軍の間で激しい交渉が展開され、三菱は陸軍と満州国のあいだにたたされて苦慮したという。
(『丸子工場の跡地にはいま、高層マンションが建っています。多摩川土手のサイクリングロードは桜並木になっていて、毎年3月下旬から4月の頭にかけてお花見を楽しむ家族連れでにぎわっています。三菱重工業の「碑」に目を止める人はいません。』画像と文は以下のブログより。かつては戦車の工場だった場所だ。https://www.shifukunohitotoki.net/entry/2021/03/29/215603)
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 そのため三菱は、川崎(といっても鹿島田のあたり)に約11万坪の土地を購入し、新たな工場を建設し、陸/海軍向けの舟艇用ディーゼルエンジンの需要を満たすとともに、自動車事業をあきらめず、引き続き関東軍、満州、省営バス向けの自動車の量産を試みようとする。海軍向けの装備の生産は、陸軍省に対しての牽制にもなっただろう。しかし陸軍省・商工省の決意は固かった。以下(②P202)より引用する。
『下丸子工場が戦車工場へ転換され、ディーゼル自動車の製造を縮小すると、陸軍省は、軍の要求するディーゼル自動車を大量生産することを東京自動車に求めた。三菱重工業のディーゼル自動車製造の技術を東京自動車へ供出させるディーゼル自動車工業の再編成が陸軍省、商工省によって立案されるのである。すなわち、「陸軍としては三菱が戦車に転ずれば、自動車はいすゞ(東京自動車工業)をおいてほかならない(後略)」』
 16.5項で記すが、東京自動車工業(いすゞ)はディーゼルに関しては最後発組であったが、手堅い技術戦略と、長年の自動車製造で培った、旧石川島系のエンジン技術者たちがその実力をいかんなく発揮して(といってもディーゼルエンジンの設計・開発に当ったのは、実質は若手技師の伊藤正男ただ一人だったようだが!)、世界的にみてもオリジナル性のある、優れた燃焼室のデザインを確立していた。
 日本の国情に合った、自動車用ディーゼルエンジンとしてのその性能では、三菱を含むすべての国内先行企業のものをすでに凌駕して、当時の世界水準にいち早く到達した。このことは日本の自動車技術史で画期的な、初めての出来事だと思う(多少、私見が入っています)。しかし後発組ゆえに実績の面では、この時点では三菱や池貝などとまだ開きがあった。
 そこでこれも16.5で記すが、陸軍省の斡旋による、ボッシュとの技術提携による燃料噴射ポンプの「ヂーゼル機器」の設立で、燃料ポンプの製造実績のない東京自動車工業に対して、ディーゼルの中枢部分の技術を補完する。さらに東京自工の優れたディーゼルエンジン技術を標準設計として認定し、他社にもその技術を共有させる一方で、三菱などの“ディーゼルの先輩企業”からも、ディーゼルエンジン製造の設備と技術の供出を強要し、商工省と陸軍省はあくまでも、東京自動車工業一社のもとに、国産ディーゼル自動車の製造を集中させようと試みるのだ。
 ここで話の年代が、16.3-8項の冒頭に記した、国内ディーゼル企業へのヒアリングの場面へとつながる。
参入を断念しつつあった他社と違い、満州と鉄道省を盾に、陸軍・商工省の圧力に屈しなかった三菱重工との対立の、その決着の舞台は『ディーゼルエンジンの統制型とその製造会社の指定は、商工省自動車技術委員会ディーゼル自動車専門委員会に委ねられた。』(②P203)
 「商工省自動車技術委員会」とは『商工省、内務省、陸軍省、鉄道省、企画院の担当者、メーカーの技術責任者約25名により国産自動車技術の向上を目指す施策が議論された』(⑳P295)委員会だ。
中でもメーカーにとって重要なことは、『商工省自動車技術委員会は統制エンジン型式を決め、型式別にその製作担当会社も決められた』((②P204)日産の浅原源七の記。浅原は翌1942年から日産社長を務める)場でもあったことだ。
 ガソリン機関では1ℓ(日産)、1.5ℓ(日産)、2.5ℓ(トヨタ)、3.5ℓ(トヨタと日産)、4.5ℓ(東京自工)の5機種、ディーゼル機関では5ℓ(東京自工)がすでに決定されていた。多くは陸軍がすでに制式採用していたものや、トヨタ、日産の既存車種であったが(以上⑳P295、㉔P79)、8ℓ級ディーゼルエンジンに関しては、全くの新設計として、「商工省自動車技術委員会」の下の、「大型ヂーゼル自動車仕様 作成専門委員会」における結論に、その決定が委ねられたのだ。

16.3-8「三菱は自動車に手を出すな!(商工省)」(「国策トアラバ致シ方ナシ」(三菱))
 詳しくは(②P204)や(⑳P295~P309)を確認いただくとして、以下省略して記すと、その会議は1941年3月21日から24日にかけて行われ、『この委員会の討議に4日を費やしたことは、いかに熱心に議論されたかを、推察することができます』(③P114)と、この委員会の幹事を務めていた商工省の技師、寺澤市兵衛(ちなみに『当時、商工省の機械課には四、五人しかいなかった。その中で~正式な技師は寺沢市兵衛さん(元自動車工業振興会専務理事)しかいなかった。寺沢さんが一人で日本中の機械産業の元締めをしていた。』と、豊田英二著の「決断」文庫版P68に記されている)が後に語っているように、四日間に渡り白熱した議論が展開された。
 議論の焦点は、その時、満州国向けに三菱が量産を計画していた、8リッター級ディーゼル自動車に対しての指定の可否であったようだ。
『三菱重工のメンバーは委員会での東京自動車案を覆すため鉄道省、満鉄と協議を重ね、商工省、陸軍省、東京自動車側と対立した。このため、会議の冒頭、鉄道省技師小林英雄は、星子案(東京自動車工業案)に対し意見書を提出し、委員会で審議することを提案した。この意見書は、東京自動車と三菱重工業を統制型エンジンの製造会社に指定することを中心に次の四点にわっていた。』(②P204)その4点とは、②によれば概略以下の通り。
‘〈1〉東京自動車と三菱の両社に製作させて、
‘〈2〉両社の技術を取り入れた同一車の試作を命じ、厳重なる試験を行い評価し、
‘〈3〉両社の技術の公開並びに相互交換を行うこと、さらに、
‘〈4〉『鉄道省提出の仕様書は鉄道省省営自動車及び満鉄の大陸向CT20型の使用実績に基づいて作成したもので、大いに自信を持っている』(②P204)と申し添えた。当日の詳しい議事の内容は(⑳P295~P309)に記されているので、ぜひご覧ください。以下も省略版の(②P205)より引用、
『三菱重工業が大型のふそう号を鉄道省省営バスへ、耐寒長距離輸送用大型バス・トラックのCT20型を満鉄へ供給し、八リットルディーゼル自動車の最大メーカであったが、東京自動車は昭和十六年(1941年)当時八リットルディーゼルトラックを製造していなかった。こうした大型ディーゼル製造を背景とする三菱重工業のメンバーは鉄道省、満鉄と共に八リットルディーゼルエンジンの統制型指定とその製造許可会社となることを主張した。』
 先記のように、商工省自動車技術委員会で統制エンジン型式を指定する基準として、過去の実績を追認することも多かったようで、三菱/鉄道省側は大型省営バスでの実績(三菱神戸予燃焼室式;SHT6型(7.27ℓ)の後継のY6100AD型(8.55ℓ))と、後述する満州向けCT20型大型トラック(ザウラー直噴式;CT1D型(7.98ℓ))の実績を強調する。使用実績面では東京自工を含む三菱以外の他社には、8ℓ級ディーゼルエンジン車の、目立った実績がなかったのだ。
 しかしこれら三菱(と鉄道省)側の主張するところで、個人的な意見だが“弱さ”を感じさせる点は、世界の自動車用ディーゼルエンジンの黎明期(実用的なディーゼル自動車が初めて誕生したのが1923,4年頃;16.5-2-2項参照)で、各社のエンジン性能がまだ安定していなかった中で、肝となる燃焼室設計の開発競争で、先行メーカーであったはずの三菱が、後発の東京自動車工業にリードを許してしまった点だ。(16.5項参照)そのため三菱の8ℓ級エンジン、Y6100AD型を商工省統制エンジンとして採用させるためには、「〈3〉両社の技術の公開並びに相互交換を行うこと」により、エンジンの燃焼室の設計を、技術優位にあった東京自工の伊藤方式に習う必要があったのだ。
 実績面では、Y6100ADは(⑮P55)によれば神戸時代に数台、東京に移ってから約40台で、『今次戦争前は生産というよりもむしろ地味な試作と改造の繰り返しだった。』統制前の三菱の予燃焼室型ディーゼルは、東京自工以外の他社と同様、技術的に未完であったのだ。
(⑦P89)によれば、陸軍・商工省のディーゼル業界再編案は、『当局案として有力な方策は一社を中心として、他の四社が製造設備と技術をそれぞれ参加させるか、ないしは主要部門につき分業的にその会社を許可会社に指定するかの二案』だったという。仮に東京自工が手にした予燃焼室式ディーゼルエンジンの燃焼技術を、三菱重工が掌中に収めていたならば、たとえば重工から自動車部門を分社させるなど分業化して、新川崎の工場を8ℓディーゼル車の生産工場として、4番目の許可会社として認定されるという三菱側の主張を、当局は抑えることができなかったのではないだろうか(私見です)。
一方ザウラーエンジン系を使ったCT20型の全体の設計思想は、確かに大陸での使用を十分考慮された車体であったようだが、しかし途中でその計画は頓挫して、満州に20台((web28)P290によれば23台)を送り出しただけで終わっていた(⑳P65)。
 満州での使用実績として謳うことができたものは、実際にはイタリアのOM社(フィアットの子会社)製の輸入のトラックだった。CT20型の代わりとしてOM社のディーゼルトラック輸入し、満州国産の大豆とバーター取引するという三菱商事(満州国の大連・奉天支店が主導(⑮P89))が描いたスケールの大きい商談で、当初の計画では1,400台輸入の計画だったが、欧州戦勃発のため485台で終わった(⑮P65。同じ⑮P109で400台、P122で300台と諸説ある)。このトラックはCT20型と同じようにザウラー式直噴エンジンのライセンス生産品を積んでいたが、8ℓ級(CT1D型)より小型のCRID型(4-110×140;5.32ℓ)エンジン搭載車だった(⑮P65)。
話を戻し、商工省は、三菱と鉄道省によるこれらの意見を退け、エンジン排気量のアップ(東京自工案よりストロークを伸ばして7.98ℓ→8.55ℓ;このスペックは三菱の予燃焼室式Y6100AD型と同じ)以外、概ね東京自動車工業の原案通りに決定する。(⑳P295~P309参照)
 ディーゼルエンジンの仕様・性能を決める上で鍵となるエンジンの燃焼室の設計も、今までの実績を踏まえて統制型のいすゞ式(何度も記すが東京自工の技師、伊藤正男設計によるもの)が採用されて、東京自動車工業にその設計を委ねられることになる。(16.5-4.3項参照)
 商工省は東京自動車、三菱重工業、日立製作所、池貝自動車、川崎車輛の社長を商工省に招集し、これら5社のディーゼル自動車の製造設備と技術を供出し、ヂーゼル自動車工業㈱を設立したい旨を説明し、各社長に協力を要請する。
この要請に対し、三菱重工社長郷古潔は、満鉄向けにディーゼル自動車を製造したい旨懇願するが、『陸軍トモ協議ノ上決定セシ事』と述べ、三菱重工業の申出を拒否した。
 三菱は『国策トアラバ致シ方ナシ』と苦渋の決断で、商工省の要請(命令)を受け入れる。(三菱重工業社長、郷古潔(ごうこきよし)。太平洋戦争時の東條内閣顧問も務めた。画像は「盛岡市公式ホームページ」より)
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 こうして『満州向けふそう車の生産は十六年(1941年)をもってついに打ち切られた。』(以上②P205)以下三菱関係者の切々とした声を綴った、「ふそうの歩み」(⑮P134)から引用する。
『商工省(当時)との間にいろいろなやりとりがあった。三菱は満鉄のトラックや省営バスを造りたい、満鉄は輸送用に大型トラックを持ちたいのであったが、商工省の自動車政策は一言にしていえば日本の自動車産業は日産、トヨタで十分である。三菱は自動車に手を出すなということであった。』
 戦時下の統制経済体制において、陸軍と商工省が三菱に期待をかけた分野は、自動車ではなかった。当時の折衝の様子を直接知る三菱重工業の技師、佐竹義利によるこの最後の一節は、多くの自動車史の中で語り継がれている「名言」として、今日に残っている。
(上記のように陸軍・商工省との間の過去のいきさつも多少は影響を与えたかもしれぬが、しかしそれ以上に、戦時体制下という緊迫した時局が陸軍に、そのような判断をさせたのだと思う。
 日本における「三菱は自動車に手を出すな」と同じような事例は、実は同じ枢軸国側であり、ディーゼルの本家でもあるドイツでも見られた。1937年、MANのディーゼルエンジンが軍用トラック用制式エンジンに選定され、MAN以外の約10社でも製造されるようになった。同様に戦車用エンジンもマイバッハ(日本と違いガソリンエンジンだったが)に集中させるが、両社の選定はドイツにおけるエンジン分野のエース、『ダイムラー・ベンツの航空発動機部門への全力集中』(⑳P229)が大きな要因だったといわれている。
優れた機体や、艦船まで手掛ける三菱重工業の日本における当時の比重は、ドイツにおけるダイムラー・ベンツ以上だっただろう。WWIIでは航空機の性能が生命線だったのだ。(どれも重要だが相対的に、自動車や、さらには戦車よりも)。
さらに私見を追記すれば、そもそも当時の状況で、仮に三菱が自動車に力を注げば、陸軍のみならず海軍からも、有無を言わさぬ強烈な横やりが入ったのではなかろうか(まったくの想像ですが)『戦時中はその高い技術力を発揮し、戦艦武蔵、戦闘機零戦などを製造した三菱重工は、各種製品の増産に追われ、製作所、工場の膨張、増加を終戦まで続けていくことになった。終戦時における生産拠点は31工場に達し、1939年には約10万人だった従業員も終戦時には40万人に達していた。』(㉕P6)海軍からすれば、“自動車なんぞにうつつを抜かずに?”せっせと戦闘機でも作れ!のたった一言で終わったのではないだろうか。
下の写真はドイツにおいて「全力集中」した産物である、ダイムラー・ベンツの航空機用エンジン、DB601型で、日本でも川崎航空機・愛知航空機の両社がライセンス生産での国産化を図ったが、しかし、以下はあまりにも有名な話だが、『加工技術や材質の制約からどうしてもドイツ本国並みの工作精度や量産を達成できず、搭載する機体の実戦投入に支障をきたす重大事態まで生じた。』(wikiより)

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(多少余談となるが、以下もwikiを参考に、日立航空機(前身は解体された瓦斯電の航空機部門;16.3-5項参照)製航空機エンジンの「初風」について。ドイツの練習機用小型エンジン「ヒルト HM 504A」を日本でライセンス生産する予定だったものが、ヒルト社設計の巧緻複雑さから、日本での製造運用に適合すべく設計に大変更を施した結果、ヒルトとは事実上、別物のエンジンとなった。以下もwikiより、『ヒルトHM504は、機体への搭載性を配慮した倒立式空冷直列4気筒という独特のレイアウトを採っていたが、クランクシャフトは高精度だが製作に技術力を要する組立式、ベアリング類は精密なローラーベアリングを多用するなど、航空用としては小型のエンジンながらも、ドイツの高度な工作技術を前提とした複雑な設計が用いられていた。この設計をそのまま日本で実現しようとすれば、やはりローラーベアリングを多用し高度精密加工されたダイムラー・ベンツ DB 601の国産化同様、極めて困難な事態が予想された。』
そこで、瓦斯電/日立航空機のエンジニアたちは、当時の日本の工業技術の水準に合わせて『ヒルトの空冷倒立直列4気筒レイアウトのみを踏襲、クランクシャフトは一般的な一体鍛造、ベアリング類も当時一般的なメタルによる平軸受で済ませるなど、日本での現実的な生産性・整備性に重点を置いた設計に改変した。しかし、動弁系はヒルトがシングルカムシャフトのOHVで浅いターンフロー燃焼室だったのに対し、より高度なツインカムOHVと半球型燃焼室によるクロスフローレイアウトを採用して吸排気・燃焼効率を向上、なおかつ低オクタンガソリンでも問題なく運用できるよう図った。更に倒立エンジンで問題になりがちな潤滑システムは、ドライサンプ方式を導入して万全を期した。これらの手堅い手法で性能確保に努めた結果、結果的にはヒルトに比してわずかな重量・体積増で、これに比肩しうるスペックの信頼性あるエンジンを完成させた。』(以上wikiより)
後述する旧石川島系による予燃焼室式の統制型エンジンや、この旧瓦斯電系による「初風」エンジンの開発などは、軍用保護自動車時代から苦労を重ねつつ、陸軍などに技術開発の挑戦の機会を与えてもらいながら、地道にその蓄積を行ってきた結果の産物であったと思う。
根が“自動車屋”であった両社の技術陣は、最前線で国防を支える立場に立たされた三菱や中島飛行機の技術者みたいな「日本のエース」とはけっしてなりえなかったが、その分絶えず、理想よりも現実と向き合わされてきた。下の写真はその「初風」エンジンを搭載した、日本海軍 二式陸上初歩練習機「紅葉」

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http://www.hobbyshop-sunny.co.jp/models/images/cmr/208.jpg
 話を戻し、「ふそうの歩み」(⑮P134)の佐竹義利の引用を続ける。
『~結局国鉄や満鉄のあと押しも空しく、当時の国際情勢や物動計画、商工省の自動車政策などに押し切られて希望は容れられず、ひいては「CT20」の注文も立ち消えになってしまった。当時、満州の悪路と寒気には普通のトラックではフレームが折れたりして満足に使える車がないというところに、満鉄が大陸の長距離輸送用に最適として三菱の大型車を担いだ理由があった。』
この、度々出てくる“CT20”型だが、商工省標準車の上のクラスの、8リッター級ディーゼルエンジンを積んだトラックだった。『これより先、十四年(1939年)には関東軍から陸軍省を経てCT20型車(技術提携先のザウラーCTID型エンジン(7.98ℓ100㏋ディーゼル)搭載)300両の生産命令を受けていた。この命令受領で関係者一同大いに張り切ったのである』しかし、関東軍と満鉄(鉄道省)を後ろ盾としたこの計画は、満州国内でも波紋を呼んだと思われる。『その結果満州の自動車生産を巡って鮎川義介の満州重工業計画と対立を深めることになった。』((web13)P152)結局、『その所要資材調達は遂に本省の認めるところとならず、十五(1940年)、十六(1941年)、二年間にわたる努力もむなしく水泡に帰し実現不能に終わった』(⑮P65)。
 そしてこのトラックの開発は、次項の国産省営バス誕生の立役者の菅健次郎が、どうやら関与していたようだ。以下も(⑮P96)より、『満州国の建国と共に陸上交通は大きく取り上げられたが、国土は広く自動車への期待度は非常に大きかった。ただ道路はきわめて貧しく道なき荒野を走ることすら多いので、日産などの国産車、フォード、シボレー等の米国車は全く顧みられず、専ら強力堅牢なベンツ等欧州産の大型車が輸入されていたのであるが、関東軍は有事の際の輸入の杜絶を考慮して現体制からの脱出を企画し、自動車部を創設したのである。而して自動車部長は国鉄バスの創設者であり、初代自動車課長であった菅健次郎氏であった。外車全盛時代に全数国産車を以て国鉄バスを開業した先駆者であり、神戸造船所にホワイトをモデルとしてふそうバスの開発を慫慂(しょうよう)したのは、ほかならぬ氏であったことは、もう知らぬ人が多いのではなかろうか。』難しい(読めない!)漢字が並ぶ文章で、転記が大変だったが!省営バスにおける確かな実績から、三菱に満州国向けの、堅牢なシャシーに余裕のあるエンジンを載せた大型ディーゼルトラックを作らせたかった気持ちは伝わってくる。
(しかし、このCT20型トラックの写真をネットで検索しても、残念ながら出てこなかった。そこで下は、(①;「国産トラックの歴史」P53)の写真をスキャンさせていただいた。その印象は自分にも、戦前の『従来の「ふそう」に比し全く面目を一新したもの』(⑮P133)のように見える。
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しかしネットで写真が1枚も見当たらないとは、歴史は残酷だ。実用面では搭載エンジンを、ザウラーの直噴ディーゼル(CT1D型)から、自社の予燃焼室型Y6100ADをベースに、さらに統制型エンジンの燃焼室の仕様に置き換えることが前提条件になっただろうが、あの菅健次郎に厳しく鍛えられたはずの、このトラックが満州の広大な大地で活躍する姿を見てみたかった。
下はCT20型とは対極の立場にあった、1939年というから東京自動車工業時代の、いすゞTX40型トラックのカタログで、ブログ「ポルシェ356Aカレラ」(web15)からコピーさせていただいた。そしてカタログの文面には、以下のように高らかに謳われている。
『いすゞは政府当局が慎重審議2ヶ年有余の研究の結果制定した本邦唯一無二の国策自動車車輛である。』

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https://stat.ameba.jp/user_images/20140906/17/porsche356a911s/da/15/j/t02200165_0800060013058270779.jpg?caw=800

16.3-9「ヂーゼル自動車工業」の誕生と、「日野重工業」の設立
 16.3-6項で最初に結論を書いてしまったが、東京自動車工業はトヨタ、日産に次ぎ、1941年4月9日付けで製造事業法に基づく三番目の許可会社となった。
そして東京自動車を改組し、先述の「商工省自動車技術委員会ディーゼル自動車専門委員会」で決定された、5ℓと8ℓ級のディーゼルエンジンに関連する製造設備と技術を、三菱重工業、川崎車輛、池貝自動車などに供出させる。そのうえで1941年4月30日、新たに「ヂーゼル自動車工業株式会社」と改称し、三菱を含む協力企業にも経営に参加させて、統制型エンジンの大量生産体制を確立した。下表は「ヂーゼル自動車工業」の株主構成表だ。
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(しかしこの株主構成からも、やはり意外な印象を受ける。東京自動車工業の株主構成表の時と同じことなのだが、「ヂーゼル自動車工業」⇒「戦後のいすゞ自動車」なので、自分が抱いていたイメージからすると=「第一銀行(後の第一勧銀、みずほ)系企業」だが、この株主構成からすると、「帝国生命保険」以外は、その要素が薄い。GHQの開放政策で、戦後どのような過程を経て、「六大企業集団」が形成されていったのか、自動車産業を題材に、いつか調べてみたい。ただず~っと先の話になると思うし、ブログで紹介するようなネタでも全くないが。下はwikiより、「第一銀行本店」の写真だが、「第一銀行」自体は、渋沢栄一が創立した「第一国立銀行」が元なのだから、同じく渋沢が関わったいすゞが戦後、同銀行系の集団に属することは、元の鞘に納まっただけなので道理にかなっているだが。)
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なお商工省は認可の際に、戦車等の陸軍向け兵器工場であった日野製造所は分離すべしとの条件を付けたが、これは陸軍省からの要請でもあった。1942年5月、「日野重工業株式会社へと分離し、瓦斯電系の技術と人材を継承しつつ、陸軍の監督下に置かれる。
(下の写真は日野自動車HPより、陸軍向けの装軌車両専門工場として、ヂーゼル自工からの分離を果たした「日野重工業株式会社 全景」)
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https://www.hino.co.jp/corp/img/about_us/milestones/img_milestones_1942.jpg
(余談になるが、「軍用自動車入門」という文庫本を読むとよくわかるが、瓦斯電は陸軍向けの、実に多種多様な特殊車両の製作にかかわってきた。陸軍からすれば日野重工業は身内のような、気が許せる企業だったのだろう。下は自動車ではないが、『きわめてゲリラ的ではあったが~枢軸側として初めてアメリカ本土を爆撃した』(⑯、P48)、零式小型水上機(の「ウイングクラブ」製1/32ダイキャストモデル。)。Wikiでも『これは、大戦中のみならず現在にいたるまで軍用機がアメリカ本土の攻撃に成功した唯一の事例と言われている』と記されているが、なぜ⑯=「日野自動車の100年」に記されているかといえば、そのエンジンは、日立航空機製の「天風」12型 で、16.3-5項と、“その3”の記事の「≪備考12≫瓦斯電のシャドーファクトリー構想について」を参照していただきたいが、元々は瓦斯電航空機部製であった。ちなみに、本題がまったく逸れてしまうが、この米本土爆撃は自分には“マンデラエフェクト”案件で、自分の前の世界線では“風船爆弾”だけだった・・・
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https://auctions.c.yimg.jp/images.auctions.yahoo.co.jp/image/dr000/auc0304/users/5458ac89779ece00624534028199ed7ff5489cc4/i-img1000x667-1649325400mdmvif8248.jpg
(さらに余談が続く。一方石川島といえばやはり、ジェットエンジンが有名だ。「ネ20」は、敗戦間際の1945年に開発され、日本で初めて実用段階に達したターボジェットエンジンだ。ほぼ同時に試作された中島の特殊攻撃機橘花へ搭載され、1945年8月7日、初飛行に成功した。ドイツの軸流式ターボジェットエンジンBMW 003を参考として作られたが、コピーではなく、日本が独自に研究を続けていた噴流式発動機の研究を基に、海軍航空技術廠(空技廠)と石川島重工業が軍民一丸となって開発したものだった。(以上wikiを要約、下の画像もwikiより)
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(ところが!自分が今まで長いあいだ勘違いしていたのは、上のジェットエンジンはてっきり1924年に造船所本体から分離した石川島飛行機製作所が開発したものだと思っていたことだ。実際には本体の石川島造船所(海軍系)→石川島重工という流れで製作されたものでした。さらに、石川島飛行機が1936年に改称したのが、立川飛行機だということも、すっかり忘れていた!ということは石川島が、プリンス自動車の源流の一つでもあった訳だ。立川飛行機といえば、後にトヨタで活躍した長谷川龍雄が設計主務だったキ94-Ⅱ試作高高度戦闘機が有名だが、これは未完に終わっているので、ここでは石川島飛行機時代の設計で、多数使用された陸軍の練習機(赤とんぼ)を掲げておく。しかもエンジンは瓦斯電製だ。石川島は、もともとは、あの渋沢栄一がつくった会社だし、松方五郎率いる瓦斯電は当時、『さむらい技術者養成所』!という綽名がつけられていたそうで(⑰P54)、両社とも会社の規模以上に志が高い企業だったことは確かだ。下は「ニチモ 1/48 日本陸軍九五式一型乙中間練習機 赤とんぼ」のパッケージです。 )
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16.4鉄道省の省営バスによる国産バスの普及
 まず先に(⑱P13、②P120、P151、wiki)等を基に、鉄道省によるバス事業である、省営バスについての概要を記す。
国鉄が自らの手でバス事業を行うきっかけは、1922年に鉄道敷設法が大幅改正されて、全国に膨大な数の鉄道建設予定が立てられたからだといわれている。しかも、それらの予定線の大半が、鉄道としては採算の合わないローカル線であった。
そこでこれら、輸送量の少ない地域においては、当面は鉄道の補助・代行機関として、既設の道路を利用して自動車運輸事業を行うべきという意見が提起される。
鉄道省はこれを機会にバス事業への進出を企画すべく、1929年8月、省内に「自動車交通網調査会」を設置する。調査委員会は、国鉄自動車運輸の基本方針として、以下を中心に答申した。
・乗合自動車(以下バスと略)業務を開始し、バスを新しい交通運輸網として位置付ける。
・バスを運行する道路網の整備と建設とを行い、道路行政を推進する。
・幹線鉄道と地方鉄道間を連絡させ,或いは、補充させ観光開発を行なう等に省営バスを利用し、発展させる。
・省営バスは国産バスを使用し、国産奨励の国策を担う。
そして別紙として、鉄道の将来建設のうち自動車で代行できるもの,採算の取れない既存の地方鉄道で自動車に代行させるものを合わせ 82路線、4,896kmが、省営バスの経営する路線として示された。
 調査会の答申を受けて、鉄道省は国鉄自身が鉄道輸送の一環として、自動車運輸事業を行うことを決定した。こうして「鉄道省営乗合自動車」=略して「省営バス」(戦後、国鉄が誕生後は「国鉄バス」)が誕生する。
 この時、答申内容に沿い、日本の自動車産業を育成し、自立させることを目的に、使用する車両は国産自動車とする方針も決定された。16.1-1項で記した「国産振興委員会」の答申とも連携した動きで、国産車に軍用保護自動車以外の市場を提供することになる。こうして1930年、第1号路線として東海道線の岡崎駅-中央線岐阜県下の多治見駅間と、一部高蔵駅の支線で(65.8km)、その運行が開始された。
 開業から5年後の1935年には35路線、路線延長は1765kmに達し、377台の省営自動車で運行を行った。ちなみに戦後の1947年には4923km の路線を全国に展開するほどに、大幅に拡大していくことになる。

以下、上記概要の内容を補足する。まず、鉄道省によるバス業への介入の目的は、表向きは、全国に膨大な数の鉄道建設予定が立てられた結果、バス事業で代替することであったが、実は鉄道省としては他にも2点、目的があった。
1点目は、鉄道の衰退を防ぐため、『鉄道との競争を調整し、バス業の統制』(④P159)を行うことだ。((web3)P148)によると、『鉄道省は,国鉄に対する自動車の影響調査を大正 15年に行なった結果,国鉄沿線では1日当り旅客で 14,483人,貨物で 2,003トンが自動車に取られ,減少となっていた。自動車の輸送革命が短距離及び中距離輸送を事業とする地方鉄道の経営をかなり圧迫し始めたのである。同じ時期の別の調査に依れば,私鉄を含めた「全国の民営自動車交通運輸事業が,すでに 50km以内の貨物運輸面において 40パーセント,旅客運輸では 10パーセントほど国鉄の輸送分野を浸蝕していた」』のだという。
 自動車による輸送革命が起きて、短距離及び中距離輸送を事業とする地方鉄道の経営が、バスにより圧迫され始めたため、小規模業者が乱立していたバス業の営業許可権を鉄道大臣が管轄することを主な内容とする「自動車交通事業法」を制定し(1933年10月から実施)、許認可権を行使することにより、鉄道事業者の保護を意図したのだった。
2点目は、1点目とも多少関連するが、省営バス事業は、より積極的な意味において、『国政レベルでの諸事情を勘案しながら、鉄道とバスを一体のものとして全国公共交通網構築を図ったものとみることができる。』((web11)P49)鉄道とバス事業を一体化させて、鉄道省自らが、陸上輸送の総合経営を行うことを意図したのだ。以下も(web11)からの引用で記すが、正しくは原文をお読みください。
 既述のように省営バスのすべての路線は、鉄道の建設予定線との関係をもっていた。そのため路線の選定は、・鉄道の先行または代行・短絡・培養・補助(これらを路線開設の「四原則」という)を基準にして行われ、『これはすなわち、省営自動車はあくまでも、本業たる鉄道事業の延長上にある、という建前で、民間事業者の反発を牽制する対外的な公式見解であった。
しかし、その後の省営自動車事業の展開はこの通りではなく、鉄道の補助的存在から徐々に脱し、独自の発展を遂げ独自の地位を確立していった。青森県十和田湖周辺や、千葉県南房総方面の観光開発、群馬県草津温泉や栃木県塩原温泉などへの積極的な路線展開はその好例である。当局は、のちに「四原則」に「重要観光路線」を加えている。』
((web11)P49)その領域を、徐々に拡大させていったのだ。
 この拡張路線は、国が復興を急ぐ戦後の混乱期において、さらに強力に推進されていく。
米軍車両の払い下げ等、『GHQ の意向も受けて、貨客の輸送改善に取り組み、各地に進出して輸送規模を拡大』(web11)P49)していく。しかしこの状況は、民間の自動車事業者(バス、トラック業者)からすれば、『鉄道当局は、自動車事業全般の監督権を掌握しており、一方で自動車事業を監督しながら、他方で自らそれを経営しているという状況であったため、圧倒的に官に有利な状態』((web11)P49)の中で、行われたため、民業圧迫だとして、官民の間で激しい対立が起きたという。この混乱は、1949年の日本国有鉄道発足をもって、一応の決着をみるまで続いたそうだが、戦後の話になるので、ここまでとしたい。(さらに詳しくは(web11)を確認してください。下は16.4-3項で後述する、ふそうのBD46型省営ディーゼルエンジンバスで、「重要観光路線」にはこんなにオシャレなセミデッカータイプも投入されたようだ。この貴重な画像は、 “―前略、道ノ上より-”さん(web12)からコピーさせていただいた。)
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https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/userstorage/000/028/617/446/27bbdfd8f3.jpg?ct=dd001e9393e5

 さらに補足を続ける。話題を変えて、省営バス事業における、日本の自動車産業の育成という観点からより細かく見ると、『省営バスに国産車のみを使用し、市営などの公営バス業に国産車使用を奨励する方針をもっており、さらに外国車に不利なバス規格を定めることによって、国産バスの増加をもたらす可能性を持っていた。』(④P159)
 このうち、市営交通の国産バス奨励については、16.2-4項でみたとおり、その影響は軽微だった。
また「外国車に不利なバス規格」とは、具体的には「自動車交通事業法」と同時に実施されることになった「旅客自動車設備規定」により、「低床式バス」の使用を強制したことにあった。
 しかしこの制度の実施に当たって、バス業者や輸入商が猛反対したため、『発令された規程の附則には、規程の前に使われているバスの場合は基準に適さなくても使用可能としてなり、さらに実際の適用は3年後になった。すなわち、実際の施行は1936年10月からとなった』(④P159)。
 当初フォードやシヴォレーのバスは、トラックのシャシーを流用していたので、「低床式バス」の規定に適合していなかったが、3年後の『それまでには大衆車のバスもすでにその基準を満たすように改良され、』(④P159)国産バスに有利に働くことはなかった。
(下の写真は(web(9))からの引用で、『東浦自動車工場が1937年に作成した暑中見舞いはがきの写真。シボレーのシャーシに東浦で低床式ボディを架装しています。』確かに腰高のトラック用シャシーの流用ではなく、低床式になっている。)
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http://www5e.biglobe.ne.jp/~iwate/vehicle/extra/primer/coach/catalogue/200_body_maker_01.jpg
 そして残る、省営バスに国産車のみを使用した点だが、16.2-4項で記したとおり、当時は省営バスの創成期で、路線数がまだ少なく、購入台数もけっして多くはなかった。『(戦前で)最大であった1936年の購入台数は164台であり、当時の保有台数も431台に過ぎなかったのである。』(④P160) ちなみにこれも16.2-4項で記したが、1934年9月の調査によると、当時のバスの全保有台数は20,171台で、大衆車のフォードとシヴォレーなどの小型バスの割合が圧倒的に多かった(④P159)。
この431台は6年間の総発注量で、参入を即した4社のメーカー数で割れば、1社あたりの発注量は、今の感覚からすれば正直、”たいした台数ではない“という印象を受ける。しかもこの台数の中で、後述するように新規開発まで強いていたことを考えればなおさらだ。
 だが省営バス計画のスタート当時は、石川島も瓦斯電も、倒産の瀬戸際まで追い込まれていた苦しい“暗黒の時代”であった。『鉄道省は省営バスを始めるときに、渋沢さん、橋本さん、松方さんなどから、本腰を入れてやるのかと、真剣につめよられました。』(③P70;当時鉄道省自動車局勤務の小野盛次の談)
そして、『我々(注;鉄道省)が(省営バスの)注文を発すると、翌日は第一銀行(注;石川島のメインバンク)や、十五銀行(注;瓦斯電のメインバンク)から行員の方が来られて本當に注文したか、と問い-注文したと答えると、然らば融資しましょうと云う様な次第で』(②P177)あったという。
 発注側の鉄道省は、その発注権限を盾に、世界的な水準まで導いた鉄道車輛開発を通じて会得したノウハウを、省営バスの開発にも展開した。鉄道技術者と自動車メーカーが合同で技術開発を行い、陸軍のある意味では“過保護自動車”的?な側面もあった国産自動車会社を、技術的に厳しく鍛え上げていった。
 そしてその活動の中心人物となったのが、国鉄バスの創始者と呼ばれた、菅健次郎であり、技術的な実務を担ったのは、島秀雄らであった。当時の日本の傑出したテクノクラートとして、相当高いレベルで指導を行ったことが想像される。以下からは、主に菅の活動を通じて、省営バスの発展を見ていくこととする。
(下は滋賀県甲賀市水口町にある「菅健次郎君頌徳碑」。写真と文は(web10)「バスに関する記念碑」より以下引用『地元水口(注;滋賀県甲賀市水口町)出身の管健次郎(かんけんじろう)氏の頌徳碑。管氏は鉄道省に就職し、省営自動車創設の重責を担い、欧米での研究の後、省営自動車路線を開通させました。特に滋賀県では全国3番目の省営バス路線である亀草線(亀山~草津間)を1932年に開通させました。しかし、1946年4月に52歳の若さで病死したことから、翌月にこの碑が建てられたようです。裏面には40人に及ぶ発起人の名前が書かれています。』)
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16.4-1中型省営バスの開発(瓦斯電と石川島)
 概要で記した、1922年の鉄道敷設法の大幅改正を受けて、鉄道省はこれを契機に自動車の輸送革命に対応すべく,省内の運輸局での検討を開始する。若手技師、菅健次郎が、1927年から二年半にわたり、米・独を中心に交通運輸事情の調査留学を行い、帰国後『アメリカでの輸送革命を目のあたりにして菅健次郎は ~ その対応として省営バス事業を早期に確立することが鉄道省の緊急課題であり、陸上交通機関の総合経営を鉄道省の戦略として打ち樹てるべきである』(②P167)と具申する。
 そして運輸局長久保田敬一は,「自動車交通網調査会」の答申と、菅の報告を基にして省営バスの事業を組織し,さらに,国産の省営バスの開発を技師菅健次郎に命じる。(以上②等参考)
 こうして菅健次郎の調査結果が、その後の省営バス事業に大きな影響を与えていくことになり、菅自身も、その指導的立場に立つ。菅は省営バスの発注を通じて国産自動車産業を育てるべく、使命感に燃えて『国産自動車工業、とりわけ中級車を主要車種とする国産自動車工業を発展させるために、~省営バスを全国に蜘蛛の網の目の如く張り巡らし、その中核に国産中級バスを据え、国産中級自動車工業を確立することに全力を注ぐのである。』(②P169)のだが、菅の自動車に込めた思いについては、長くなるのでここでは省略する。(興味のある方は、たとえば②P166~P178等参照してください。)
 菅はまず初めに、国産車の実力を確認するために、16.1-2項で既に記したが、その性能試験を実施した。瓦斯電のTGE-L型、石川島のスミダL型、ダットのダット61型の3台を、定地試験、運行試験の後に分解検査して、走行性能、実用走行性、各部分の構造・耐久性に対する評価を総合的に判定し(⑰P53)、1930年2月答申が出された。結果は多少“盛って”いたかもしれないが「外国車の中位」にあると判断され「多少の欠点を補正せば足るとの結論に到達し」、これが省営バスを国産車で賄うための、技術的な根拠を示すとともに、商工省標準型式自動車誕生に向けての、技術的な基盤を与えたことも既述のとおりだ。
菅は試験結果を踏まえて、ダットを除いたTGE-L型とスミダL型の2台を選定する際、それぞれのメーカー宛に以下の購入条件を示す。
『(軍用)保護自動車よりは一廻り小さい中級自動車に改造することを要請し、その上で三つの条件を提示した。』(②P173)その条件とは、(一)バス専用シャシーの開発、(二)低床式にする、(三)流線型のボディデザインを取り入れる、以上の3点であった。
 さらに菅は、『陸軍の規格を落として値段を安くし、アメリカの自動車に対抗せしめる様に』(②P174)と、コストを度外視しがちな陸軍と違い市場におけるコストパフォーマンスも考慮に入れた。これら、菅の意図したことを一言でいえば、「軍用トラックから、商用バスへの転換」になろうか。
 一方受け手側の、瓦斯電と石川島も、こうした菅の求めに応じ、少ない経営資源(開発余力)をやりくりしつつ、専用設計部分が多かったであろう、鉄道省向け省営バスの開発に積極的に取り組んだ。
 こうして石川島のスミダ LB型低床バスと瓦斯電の TGE-L(MP)型低床バスが、省営バスとして新たに完成したが、コストを抑えた反動として、菅によれば『最初から「頑丈さに不安」を内包していた。』(②P174)という。
 岡多線のスタート時点で、鉄道省は17台のバスを用意したが、その内訳は、瓦斯電が14台、石川島が3台だった。(しかし他の資料では、当初の規模はバス7両・トラック10台であったという記述もあり、スタート時点では17台用意できなかった可能性が高い。)
この発注量の差だが、(②P174)に、『菅健次郎は石川島自動車製造所へ行って、渋沢正雄所長、石井信太朗工場長の前でスミダ-L型について「強度が足らないので、省営自動車としては不向きだと思ふが」と問い詰め、「条件付で購入」する』という記述があり、険しい道の連続だったという省営バス創業当時の路線使用においては、特に石川島が開発した低床バスの方に、強度面でより多くの不安を抱えていたようだ。
 また、「条件付で購入」という部分だが、「故障に備えた修理、保守、サービス体制を予め作りあげておく」ことで、これは両社に適応されて、瓦斯電は瀬戸に、石川島は岡崎に常駐の技術員を派遣することとなった。(以上(②P174))
このように、『最初から「頑丈さに不安」』(②P174)を抱えつつも1930年12月、最初のバス路線である岡崎―多治見間 65.8kmは、 国産バスの使用でスタートを切った。
 しかし菅の悪い予感は的中し、実際に日本の険しい山間路に投入されると、国産バスはたちまち馬脚を現すことになった。『六ヵ月も経たない内に全部のフレームが破損し』『岡多線(岡山-多治見間)に使った「17台の内、1台ぐらいしか動く日がなかった」という惨憺たる有様となった。』(②P174)
 だがこの惨状にもめげずに菅らは毎週対策会議を開き、部品サプライヤーまで巻き込んだ横断的組織を作り、不具合の改善に取り組んだ結果、『其の結果、͡此の岡多線の自動車は、今日即ち昭和五年の十二月十五日から、此の十七年の十二月迄、満十二年間、走り続け五十万粁を突破して尚使用に耐え得る事を証明したのであります。』(②P175)と言えるような、見違えるほどのバスに生まれ変わったという。一般に、省営バスの認定試験は、陸軍の認定試験よりさらに厳しかったといわれている。鉄道省によって、軍用“保護”自動車メーカーは厳しく鍛えられたのだ。
このような技術面での実践的なノウハウは商工省にはなく、後の商工省標準型式自動車や、自動車製造事業法の制定時に、商工省の施策をバックアップする形で生かされていく。
(下の写真は瓦斯電のTGE-MP型省営バス。公式の説明として、「「国鉄バス第1号車」として保存されている最初期の国産バス。鉄道省が岡崎~多治見間に初めてバスを運行したときの7台のうちの1台」とあるので、岡多線のスタート時点では、バスは7台だったようだ。窓にはカーテンがあるなど、かなりのデラックス仕様に見える。ボディ架装は、芝浦の脇田自動車工業(後の帝国自動車→日野車体)が行い、石川島の方は、横浜の倉田鉄工所だった。木骨構造でなく、鉄骨鉄張り構造で(web14)、車体メーカー側としても挑戦だっただろう。悪路対策で、スペアタイヤは2本もついている。
なおエンジンは、従来のトラック用のL型(4気筒4.4ℓ)ではなく、新たに開発されたもので、『日本初の6シリンダーで4.7リッターのP型に換装』(⑯P10)した。アメリカのグラハム・ペイジ社のエンジンを取り寄せ、スケッチして設計したもの(②P152)だと言われている(ということは、後の日産の大衆車は、経営が苦しくなったグラハム・ページ社工場設備と技術を図面ごと購入し作ったものなので、“兄弟”という間柄になる?)が、石川島より気合が入っていたようだ。このバスは自動車だけれども1969年、“鉄道記念物”に指定されている。もともとは東京の「交通博物館」に展示されていたが、大宮の「鉄道博物館」を経て、現在では名古屋市にある「リニア・鉄道館」に移されたそうだ。さらに余談だが、超多角経営の瓦斯電は、会社名から連想すると、電車もやっていそうだが?『鉄道車両では王子電気、京王、横浜市電などに車輌を製造しています。』やはり!作っていたのだった。(以下の画像は中日新聞よりhttps://plus.chunichi.co.jp/blog/ito/article/264/5923/)

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そして貴重なその車内の様子。当時としては豪華仕様だったのだろう。
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大型/小型省営バスの開発(三菱と川崎の参入)
 鉄道省による日本全国規模の省営バス網運行の第一段階(岡多線と、翌年の三山線(三田尻-山口間)は、瓦斯電及び石川島が開発した中型バス(後述する商工省標準型式自動車)を使用して展開された。
しかし3線目の第二段階の展開では『主に急坂・悪路の山間地帯を走るため,強馬力,かつ耐久力のある大型バス,或いは小型バスの国産車の導入が望まれた。』((web13)P150)
 第一段階の運用実績と、次の営業予定線の亀草線(亀山―草津間)は、難所といわれた鈴鹿峠越えなどがあることから、より強力なエンジンを備えたバスと、狭い山間路において取り回しの良い小型バスの両方が必要とされたのだ。Wikiには「最初の3線は試験路」と書かれており、予めの計画で、最初にひととおり、試しておきたかったのかもしれない。
(下はブログ「押し鉄列伝;戦前D氏の視察帳」より、「関駅 関西本線 鈴鹿峠・関地蔵院-昭和9年8月17日(金)」という戦前の駅スタンプで『関駅のスタンプには、東海道の関宿の寺と、険しい鈴鹿峠を登る自動車が描かれている。この自動車は省営バス(のちの国鉄バス)だそうで、峠を越えて草津駅まで行っていたらしい。』
http://nonban.travel.coocan.jp/stamp/guest-d/dnote02.html)
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http://nonban.travel.coocan.jp/stamp/guest-d/d2/d19340817-seki.jpg
 このうち運行実績を基に故障原因を詳細に分析した菅は、その原因の多くを、中型バスの馬力不足に見出し(②P175)、より高出力の大型バスの導入を計画する。
 だが鉄道省と菅は、新たなカテゴリーである大型バスの試作を、大型バスは三菱造船所に、小型バスは川崎車両(1932年に川崎造船所から独立)という新規参入組に、それぞれ依頼する。その頃、瓦斯電と石川島は『陸軍の発注する六輪車と戦車のガソリンエンジンの開発に忙殺され、』(②P176)開発余力に乏しかったのだ。
 三菱も川崎も鉄道省からすれば、“本業”の鉄道事業の分野で、もともと関係が深かっただろうし、機械/重工業分野で、当時の日本を代表する実力を誇ったこの両社を、自動車製造の舞台へと、登場させようとしたのだ。
 そして三菱財閥も、神戸川崎財閥も、この誘いに応じて、省営バスの開発を契機に自動車分野へ再参入する。この時は大財閥の造船部門としても、自動車に進出したい理由があったのだ。(この16.4-2項で記すべきことは、((web13)P150~151)にまとまっており、以下からもそちらを参考に記すが、当然オリジナルの方が“正”なので、ぜひそちらの方をご覧ください。という言い訳をして、((web13)P150)からさっそく手抜きでコピーさせていただく!)
『当時,造船業界は大正 11年(1922年)のワシントン海軍軍縮条約による主力戦艦(八八艦隊)と航空母艦の保有量制限(日本 31万 5,000トン)のため主力艦の整備,縮小を余儀なくされ,さらに,昭和5年(1930年)のロンドン海軍軍縮条約での補助艦保有量制限(日本 10万 8,400トン,対米比 6.02割)を受け,深刻な不況に襲われ,川崎造船,石川島造船の再建問題を生じさせていた。三菱神戸造船所も,同様に,不況対策を余儀なくされていた。これら造船所は,自動車産業への進出とその拡大を再建策の中心課題としていたが,神戸造船所も同様の動機から自動車生産に取組むのである。大井上博は,「不景気で苦しんでいたときでもあり,それに官庁相手の仕事でもあるからということで始め」(③P71)たと三菱重工業の自動車進出について明らかにする。』
 補足すれば、戦前の日本を代表する、機械・重工業メーカーであった、三菱造船所(1934年に造船と航空機が合併し三菱重工業になる)と川崎造船所の自動車産業との最初のかかわりについては、この一連の記事の“その3”の記事で記してある。国による国産車製作の最初の取り組みであった、陸軍による軍用トラックの国産化プロジェクトに、両社とも当然の如く声がかかり、それぞれ取り組んだが、その時は艦船や航空機の方に注力すべしと判断し、試験的な段階で撤退した。そしてこの判断はたぶん、国の意向とも歩調が合っていたのだ。
 しかし時代は変わり、外資のノックダウン生産の拡大により、自動車は日本の社会全般に浸透し、鉄道から自動車輸送へと、輸送革命が起こりつつあった。造船不況対策とともに、両社ともにこのままでは時代の変遷に取り残されてしまうという、危機感もあったと思う。このタイミングでの鉄道省からのこの導きは、自動車産業への再参入の時期を見計らっていた両社にとって、絶好の機会が与えられたことになる。

16.4-2三菱造船所による大型省営バスの開発
 三菱造船所は、この期待に応えるべく、『今度こそ三菱も本格的に自動車の生産を開始するのだと力を入れ、』(⑮P44)取り組む。製作を担当したのは『蒸気機関車、電気機関車、ディーゼル機関車、ロードローラ等を担当する、俗に「車屋」と称せられる車輛専門の部門』(⑮P48)だった。
 1931年、大型バス研究のための参考用として、3台のバスシャシー(アメリカのGMC(=いわゆる「イエローコーチ」、WX型5,400cc)、ホワイト(65A型6,500cc)、スイス、ザウラー(3BNPL型6,130cc)、いずれもガソリン100㏋エンジンを搭載)を購入し、ほぼ一年に及ぶ綿密な分解調査を行う。(⑮P48) その結果、『性能では最も日本に適していると考えられるホワイトをべースにし、これにGMCの多量生産性と、サウラーの登坂性能とを併せ備えさせることを狙いとして、「三菱B46型乗合自動車」仕様の骨子をまとめた』(②P48)というが、当然、菅の意向を重視した結果だっただろう。
 OHV6気筒7,010cc、100㏋という、ホワイト製エンジンをベースに新開発された強力なエンジンを搭載した、B 46型大型バス用試作シャシー第1号が完成したのは、1932年5月であった。東大の隈部一雄助教授の指導の下に、当時日本国内では数少なかった完全舗装道路であった、阪神自動車道で性能試験を繰り返し、(②P49)。「鉄道省C型乗合自動車」(ふそう号)として、省営バスに採用される。こうして三菱もようやく、自動車メーカーの仲間入りを果たした。(下の「ふそう第1号車・B46型乗合自動車」のイラストは三菱ふそうのHPより。)
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https://www.mitsubishi-fuso.com/oa/jp/corporate/history/images/70th01_03.jpg
(ちなみに「ふそう(扶桑)」という名称は、社内公募によって選ばれたものだが、その由来は「古くより中国の言葉で「東海日出る国に生じる神木」を指し、日本の別称としても使われ、実在する扶桑の木は扶桑花(ぶっそうげ)と呼ばれ、一般にはハイビスカスの名で知られている」そうです。なおB46型の、 “46”という数字はホイールベース長(4.6m)を表している。鉄道省の購入価格は、8,800円(ただしバス車体は省が別発注で、日本車両や川崎車輛で架装されたという(㉓P10))で『精一杯の値段で買ってくれた』が、『その製造原価は物凄いばかりに嵩んでいた。試作に続く生産も10台とか15台とかいうような単位では製造原価など議論の対象にはなり得ない性質のものであったろう。』鉄道省と交わした「使用年数6年、走行距離30万kmを保証する」という契約時の足枷にも、後に苦しめられることになる。大型船舶や舶用エンジンとは勝手が違う世界で、この教訓も、後の丸子/川崎工場という量産志向の工場建設へとつながっていく。下の美しい画像は(web12)よりコピーさせていただいた。)
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https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/userstorage/000/028/617/444/abc7209b5c.jpg?ct=18d750141d37

16.4-3川崎車両による小型省営バスの開発
 一方、三菱と同じく、造船を主体とする川崎財閥も、同じく造船不況対策の一環もあり、鉄道車両製造部門である川崎車両において小型バスの開発に積極的に取り組む。しかし川崎の省営バスについては、手持ちの資料が(②P154、P176)以外ほとんどないため、詳しく記せないが、やはりアメリカのホワイト(61型)をモデルにした60馬力の6気筒 KW 43型バス(六甲号)を完成させ、省営バスとして鉄道省に納入する。(下の写真はその姿だが、(鉄道P60)によれば、三菱も大型のみならず、同じくホワイト(61型)をベースに、小型省営バスをつくり納入したという。)
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https://www.khi.co.jp/corporate/history/img/002_im04.jpg
 川崎車両はさらに、省営バスの開発を契機に軍用自動車の開発へと手を広げ、1932年から 36年の間に、トラック、バス、乗用車を合計 240台、軍用制式自動貨車を 30台を製造した(web(16)P54)とあるが、(web17)では『1927年(昭和2年)に陸軍88式自動車に着手、川崎造船所兵庫工場車両部が担当、翌年に川崎車輛となる。1932年(昭和7年)に「六甲号」と命名、自動車3700台を生産し』また『(合計で?)4190台を生産した』、とも書かれている。(⑰P62)でも同じく『乗用車、トラック、バス490台、軍用制式トラック3,700台』だ。
4,000台以上とは当時としては相当大きな数字だが、(⑧P76)には『三七年から四二年までの間に同社が製造した軍用正式自動貨車は3670台』と記されており、37年以降に生産が急増したとすれば、辻褄が合う。陸軍向けの軍用車両の受注で生産台数が急増したのだろう。日本陸軍を代表する軍用トラックである、九四式六輪自動貨車は、車輛開発を行った石川島、瓦斯電、その後の東京自動車、ヂーゼル自動車とは別に、川崎車輛もその生産の一翼を担っていた。
 下表は、戦前の省営バスのメーカー別生産台数だが、付随自動車を含めると六甲の台数が意外に?多かったことがわかる。川崎は技術力もあるので、エンジンの内製も行ったが、総じて『自動車の領域では完成車組立に進出した』((web⑲)P29)という印象が強い。そのように割り切った分、戦車等特殊車両を除く一般の自動車の生産台数としてみた場合、正確には不明だが、労多くして途中で挫折した(させられた)車種の多かった戦前の三菱よりも川崎の方が、明らかに台数は多かったように思う(たぶん)。
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(「六甲号」は乗用車もあり、高級乗用車として宮家などに納入したという(川崎重工HPより)。下のやたらとオシャレに見えるクルマは、六甲号乗用車のカタログの表紙(web17)より、以下の文共々コピーさせていただいた。『アールデコ調で描かれているが、松方幸次郎が絵画コレクター(松方コレクション)だったため、欧州調にデザインしたのであろう。』川崎造船所の初代社長だった松方幸次郎は、松方正義の三男だそうで、そうなると瓦斯電の松方五郎とは兄弟ということになる(?)もっともwebで調べると、松方正義は15男11女と!子宝に恵まれたようだ!)
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http://www.mikipress.com/m-base/2017/05/post-89.html
(下の着色加工した写真は川崎車輛が製作した流線形の弾丸列車で、南満州鉄道が世界に誇った「あじあ号」の雄姿を、「満鉄アジア号を復元してみました」さん(https://blog.goo.ne.jp/sfkarasu)よりコピーさせていただいた。見事な写真なので3枚連続してコピーさせていただいた。)
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https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/88/0a9e502627101d834ec0f179ad08fd01.jpg
(この記事(その6)のあとの記事(その8)で記す予定の自動車製造事業法立法化の過程を扱った「NHKドキュメント昭和」(㉘P66)より以下引用『今でこそ世界に冠たる日本の機械工業だが、当時はわずかに「造船と汽車製造とが世界に伍していけるだけで、多に見るべきものがない。それで自動車の育成が早道だと考えた。」(日本自動車工業史座談会記録集における、自動車製造事業法立法化に尽力した小金義照の発言) 戦前、鉄道技術は一級の水準に達していたのだ。)
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(この記事の本題とは多少逸れるが、「あじあ号」の写真を埋めるためについでといっては何だが、当時の陸軍・商工省がなぜ自動車が早道だと考えられたのか、(㉘P66)より引用を続ける。『自動車を国産化したいという、軍部の強い要請がまず第一にあげられる。同時に、産業政策の立場から見て、五千を超す部品を組み合わせ生産される自動車は、鉄鋼・工作機械・電気機器・ベアリング・ガラス・ゴム・塗料・繊維等々、裾野の広大な関連産業がなくては成り立たない。自動車は、多くの分野に波及する総合的な基幹産業なのである。このことは、アメリカの自動車が占めていた地位を見ても明らかである。およそ半世紀にわたって、自動車産業は最大の産業として、GNP(国民総生産)の20%を占め君臨していた。さらに日本でも、目下、自動車輸出が他を圧倒する最大の稼ぎ頭に成長したことを考え合わせれば、容易にうなずける。こうして半世紀前、自動車をてこに、日本の産業を振興しようというアイデアが生まれたのであった。』このころのNHKドキュメント番組は見ごたえ十分だった。それに引き換え、今は・・・ )
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 商工省工務局長に就任した岸信介は工政課長の小金に『俺とお前とで、二つだけやらねばならぬ仕事がある。歴代局長ができなかったこと。一つは、化学肥料の国産化。もう一つ、いつでも立ち消えになる自動車製造事業法。この二つは仕上げよう』(㉘P65)と語ったという。
(話を戻し、しかし川崎はその後、既述のように、戦時統制経済の下で陸軍省と商工省の介入により、国防の要であった航空機に特化するよう命令があり、自動車分野からは撤退させられてしまう。自動車向けの残存部品と設備一式を東京自動車工業(いすゞ)に譲渡することになるのだが、つまりいすゞと川重はもともと戦前から結びつきがあったのだ。もっとも半ば強引に、統合させられた結果だったのだが。下の写真は戦後の製品なので、本記事と直接関係は無いけれど、いすゞのバスシャシーに川崎航空機の車体を載せていた時代の代表的な観光バス、通称“オバQ”の写真。丸っこいボディに大きな正面マスク形状からそう呼ばれていた。この愛嬌ある姿は自分もそうだが、年配の自動車好きの人の脳裏に、今も焼き付いていると思う。(下はBH20型)
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 話を省営バスに戻す。周囲に常に波乱を巻き起こしつつも、前へ前へと進む菅健次郎の省営バスの構想は、さらに第三段階へと進む。

16.4-4省営バスの改良(チヨダとスミダの高出力化)
 鉄道省による省営バス開発の、第三段階の主眼は、第一段階の運用実績における経験と反省を踏まえて、さらなる改善策を施すことになった。繰り返しになるが、菅は『岡多線、三山線での省営バス(L型)の故障原因について詳細な統計を取り、その分析をした結果、これまでのTGE-L、スミダL型の馬力不足に故障の原因を求めたからである。』(②P175)
 そこで菅は『L型の75馬力エンジンを新しい100馬力エンジンへと変え、開発すべくガス電と石川島自動車と交渉したが、「アワヤ、決裂かと思いお互い袂を分かつ」状態に陥った』(②P176)という。
 これも先に記したが、省営バスの開発スタート当時と情勢が変わりこの時期、瓦斯電も石川島も、満州事変勃発による陸軍からの特需があったうえに、「商工省標準型式自動車」のプロジェクトまで抱えており、開発陣はすでに手一杯であった。商工省標準車の出力サイズを大きく超えたエンジンの新規開発を、できれば避けたかったが、しかし両社ともに開発のやりくりをしながら鉄道省(菅)の求めに応じ、新たに大型の100馬力エンジンを開発した。『それぞれちよだ(TGEを変更する)S型、スミダR型とし、省営バスに採用され、三菱重工業の扶桑と共に、高馬力・大型化(36名乗りバス)の国産中級車として発展した。』(②P176)(下の写真はいすゞプラザのスミダR型のパネル。みんカラ“凌志のページ”さんよりコピーさせていただいた 
https://minkara.carview.co.jp/userid/589818/blog/m201706/)
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https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/userstorage/000/038/213/928/517c27b236.jpg?ct=93d4a772e83e

16.4-5省営バスのディーゼル化を推進する
 さらに省営バスが日本の自動車産業に果たしたもう一つの功績として、ディーゼルエンジンバスの採用を進めた点があげられる。なぜディーゼル化を推進したか、その理由について、((web13)P152)に要領よく纏められているので手抜きでそのまま引用させていただく!
『省営バスは悪路と急坂を主とする山間地方を走るために,整備された道路を走るよりもガソリンの消費量が多く,その対策を不可欠とされていた。当時,ヂィーゼル・オイルはガソリンの約4分の1の安い値段であり,ヂィーゼル化すれば,燃費は4分の1で済んだ。その上,ガソリンは揮発性が高く,蒸発する量も多かった。また,昭和恐慌期のため,輸入超過による外貨不足が日増しに大きくなっていた。石油の輸入を抑制し,節約することは,国の燃料対策としても重大問題であった。菅健次郎は,技術上,経営上,ガソリンエンジンをヂィーゼルエンジンに替えて省営バスの効率化,燃費節約を図るため,三菱神戸造船所の大井上博にヂィーゼルエンジン車の開発を依頼した。大井上博は,商工省の研究奨励金を受けて,昭和 10年に予燃焼室式ヂィーゼルエンジン(SHT6)を完成させ,11年に省営バスに納入した。』
 以下、多少補足すると、省営バスのルートは険しい道が多く、ガソリンエンジンのバスでは、1ℓ当2.5kmぐらいしか走らなかったという。(③P72)バス運行の燃費費用の節減とともに、既述のように当時の日本は、貿易収支の赤字で苦しんでいた。鉄道省としては国策の一環としても、燃料の節約をはかるため、国産車メーカーにディーゼルエンジンの開発に取組ませたのだ。
 そしてここでも、大型省営バスの開発で実績を積み、ディーゼルエンジンの開発で先行していた三菱に、ディーゼルバスの開発を要請する。既述のように当時三菱グループ内では、ディーゼルエンジンの開発を、造船所の自動車部(神戸)と、航空機の東京機器製作所(大井)の自動車部の2系統で行っていたが、省営バスに引き続き造船所が担当となった。商工省から「工業研究奨励金」(九千円)も得て、予燃焼室式ディーゼルエンジン(SHT6)を完成させて、このエンジンを搭載した省営ディーゼルバスを納入した。鉄道省による省営ディーゼルバスはその後、石川島、瓦斯電、川崎車両にも発注されることになる。(下はBD46型省営ディーゼルエンジンバスで、日本バス協会からのコピーだが、16.4項の最初に載せた、イラストのクルマと配色が違うが同型車だろうか?)
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 自動車用ディーゼルエンジン取り組みとしては省営バスよりもはるかに大規模だった、陸軍を中心とした取り組みについては、次の16.5項で記すが、客観性の高い、戦後の米軍のレポートで、惨憺たる評価だった日本車のなかで、『ただ 1 つ,ディーゼル車が戦争直後から性能・コストにおいて世界水準をゆくようになったのは,政府主導による研究開発によるもの』((web20)P14)であると評価されていた。
 自動車は元々、その国の産業の総合力が試される上に、6.4.1-2項で記したように明治維新後の戦前の日本では、「すべてが足りない中で自動車の位置づけは総体的に低かった」。国家全体としてみれば、自動車以外に、他にやるべきことがたくさんあったのだ。そんな切ない事情の中で育った戦前の日本車だが、それでも唯一、世界の第一線の技術水準に到達した、日本のディーゼルエンジン車の発展過程について、陸軍による施策を軸に次項でみていきたい。
(再三記すが、三菱はディーゼルエンジンの開発を、造船所の自動車部(神戸)の予燃焼室系と、航空機の東京機器製作所の自動車部の直噴系の2系統で行っていたが、両者の事業統合後は『この直列噴射式と予燃焼室式とは、その優劣をめぐり優雅に表現すれば切磋琢磨、泥臭くいえば主流派争い的で、』(⑮P115)後の16.5-2項で記すように主流は自社型直噴及びザウラー直噴エンジンを展開した後者であった。統合の結果、神戸系の大井上が総責任者になるのだが、『この間、神戸系予燃焼室式機関はどちらかと言えば守勢に回り、大井上氏の強い意見によって一応の命脈を保ちえたような立場に置かれたように伝えられているのである。』以上(⑳P207)(⑳P207)より引用を続ける。『しかし、後述するように時流が予燃焼室式に傾く中で、この神戸系予燃焼室式機関にもようやく陽が当たり、代表格のY6100型は商工省8.55ℓ自動車用統制ディーゼル機関のモデルのひとつとなった。のみならず、戦後同機はDB系機関として改良を重ね、昭和40年近くまで三菱大型自動車用主力機関としての地位を』保った。
下の写真は、その三菱のY6100AD型ディーゼルエンジン(1938年)。戦後DB系と改称され、長く使用されたエンジンと同一排気量の予燃焼室式8,550ccエンジンだったが、燃焼室のデザインは自社仕様から、途中で東京自動車工業の伊藤正男の手になる統制型エンジン仕様を参考に、設計が改められた(ハズだ)。)

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16.5陸軍主導による国産ディーゼルエンジンの開発
 まずは((web13)P151+P31)等を基に、この項の概要を先に記す。
 日本の陸・海軍は,大正末期からの世界的なディーゼルエンジンの発達と燃料対策を背景にしてディーゼルエンジンを艦船,戦車,自動車等に搭載させ,軍備の近代化を図ろうとしていた。
陸軍は1923年、戦車の国産化を計画し,その実施を試み,ガソリンエンジンと並んでディーゼルエンジンを研究し,三菱航空機にその試作を発注した。三菱は,1933年に八九式戦車用のディーゼルエンジン(A6120VD型)を開発する。
しかしその後陸軍は、ディーゼルエンジンの開発をさらに加速させるため、発注方式を改め、実績重視による分散発注方式から、企業間の熾烈な技術競争を伴う、競争試作方式に転換させる。
 たとえばガ ソリンエンジンだった94式6輪自動貨車を、ディーゼル化する際に、その試作を三菱(東京),池貝,新潟鉄工,神戸製鋼,東京自動車,川崎の6社による競争試作として行い、試作の完成が遅れた東京自動車などを尻目に、先行した池貝製エンジン(4HSD10X型)が受注を獲得する。
(下図参照。原本は(⑳P20)だが、web上で同書の一部分は一般公開されており、ここでは(web13);「本邦高速ディーゼル工業史の教訓」山岡茂樹著の、P31より転記とさせていただいた。)
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 しかしその池貝製エンジンをさらに代替えする、商工省標準型式車用ガソリンエンジン(スミダX型)の本格的な後継となる「自動車用統制発動機」の座は、三菱(神戸系と東京系の2機種)、東京自動車(いすゞ)、日立、神鋼による5基のディーゼルエンジンによる競争試作となり、東京自動車製いすゞエンジン(DA40型)が勝ち取る。
 そして熾烈な競争試作時代の、一連の技術開発競争に完勝したのは、伊藤正男設計による東京自動車(いすゞ)の予燃焼室式のディーゼルエンジンであった。以降はそのエンジンを標準設計とし、シリーズ化されて、それら「統制型エンジン」を軸とした、国内の車両用ディーゼルエンジンとその産業の一元化が図られていく。
 何度も記してきたが、陸軍省と商工省は当時一貫して、東京自動車工業を中心とした、国内ディーゼル自動車産業の一元管理を目指してきたが、東京自動車はその要となる、自動車用ディーゼルエンジン技術における比較優位でその期待に応え、両省の政策の正当性に対しての、客観的な論拠を与える結果となった。
 ただし、技術開発競争の時代は、陸軍の下で行われた企業間のフェアな戦いではあったが、16.5-6項で記す、ディーゼルエンジンの心臓部である燃料噴射ポンプの国産化のため、ボッシュの技術導入に導くなど(ヂーゼル機器の設立)、陸軍が外部からバックアップしつつ、東京自動車工業を軸に据えた統制策を予め描き、進めてきたことも見逃せない。

 以上が概要だが、ここから本題に入る前に、(web21)からの引用で、日本における初期にディーゼルエンジンの導入の歴史についても箇条書き的に、ごく簡単に触れておきたい。
☆1907年、日本石油が1台輸入した(33PSの単気筒ディーゼル機関)。これが本邦初のディーゼル機関と推定され、同社の石油採掘用機械部門であった新潟鉄工所が、この機関をもとにディーゼル機関の研究を始める。(web21)にはここまでしか書かれていないが、(㉑P9)には『日本のディーゼルエンジン研究は、一九〇七年、横須賀海軍工廠によるズルツァー60㏋によるものが嚆矢と言われている』という記述があるので、海軍が関与していたかもしれない。
☆一方、三菱重工業は1912年頃からディーゼル機関の調査研究を開始し、1917年、三菱神戸で独自の設計によるディーゼル機関を完成し、三菱名古屋に納入した。これがわが国で製作された最初のディーゼル機関とされている。この機関は(web21)の写真からすると、定置式のようだが、舶用として最初に製作されたものは、1919年の新潟鉄工製が最初とのことだ。
☆その間、海外からの技術導入が進み、『ほぼ15年間で延べ15社が製造権の取得を果している。』((web21)P7)契約先は三菱(神戸/横浜)、新潟鐵工以外は川崎造船、神戸製鋼及び日本海軍などで、海外の提携先は(Sulzer)、(MAN)、(Vickers)、(B&W)など、この世界のお馴染みの名前が並ぶ。
 いずれもほとんどがマリンエンジンで、初期は潜水艦向けが目立つが、『この頃日本海軍では、潜水艦の主機として、ガソリン機関からディーゼル機関への転換を決定し、欧州メーカーとの提携を推進していた』((web21)P7)ことが影響しているようだ。以下の歴史は省略するが、日本におけるディーゼルエンジンの実際の導入は舶用の、それも潜水艦用として始まったということは、日本海軍が重要な役割を果たしてきたことがわかる。
 一方、陸上の乗り物用の国産高速ディーゼルエンジンの開発も、陸軍による戦車用エンジンの開発が、その嚆矢となった。そして陸軍によるディーゼルエンジンの開発とその発達に中心的役割を果したのは,「戦車のエキスパート」と言われた原乙未生(とみお)であった。
 次項からは、統制型エンジンとして完成に至るその過程を、三菱、東京自動車、池貝の個別の企業の活動と、陸軍のディーゼル化政策を交差させながら、たどっていきたい。
(ここでディーゼルエンジンの世界におけるもっとも入り口の、「基礎用語」を確認しておくと、エンジン回転数によってディーゼルエンジンは、「低速」(300rpm以下)、「中速」(300~1000rpm)、「高速」(それ以上)という3つに分類されるようだ。一般に舶用の主機としては低/中速ディーゼルが、自動車、鉄道車両、戦車等特殊車両、高速艇等には高速ディーゼルエンジンが用いられる。従い以下の国産ディーゼルエンジンの歴史は、その中の一部のジャンルである、「戦前の自動車用 国産高速ディーゼルエンジンの歴史」を辿ることになる。下の写真は、新潟鉄工所の「日本初の舶用ディーゼルエンジン」だ。
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16.5-1陸軍による戦車用ディーゼルエンジンの開発
 この記事を、戦車のような“特殊車両”まで広げてしまうと拡散し過ぎてしまう恐れがあるが、軍用トラックに、どうしても関連する部分があるので、なるべく簡単に、触れておく。以下(⑧P119~P126)と、wikiを基に記すが、戦車全体でなく、あくまで自動車用ディーゼルエンジンに与えた影響の部分だけに、注目していきたい。
 まず当時の時代背景として、1925年に行われた、「宇垣軍縮」による陸軍の近代化計画がある。4個師団を削減する代わりに、人員削減によって得られた財源を軍備の機械化に充てようとするもので、『主な近代化の内容として戦車連隊、各種軍学校などの新設、それらに必要なそれぞれの銃砲、戦車等の兵器資材の製造、整備に着手した。』(wikiより)戦車の導入もその一環であったが、後に陸軍の自動車政策に大きな影響を与えることになる「陸軍自動車学校」もこの時に開設されている。
 さて、最初の国産戦車の設計にあたったのは、陸軍技術本部車輌班の原乙未生大尉(当時)以下16名の人員で、車輌班が1925年2月より仕様をまとめ、6月に設計を開始、その発注先には当時の脆弱な国内自動車産業でなく、官営の陸軍造兵廠大阪工廠が選ばれた。鋼板供給は神戸製鋼所、車体組立は汽車製造株式会社が担当したほか、阪神地区の民間工場が動員され、これら関連企業との協力の下で製作が進められた。(以上wikiwandより)そして1927年2月、国産の「試製第一号戦車」が完成する。富士演習場で野外試験を行った結果、予想以上の性能を示し、これ以降、戦車を国産品で賄う道筋を作る。(下の画像もwikiより)
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 輸送時等を考慮して小型軽量化された、実用量産型である八九式中戦車も、同じく陸軍大阪工廠の手で試作され、1929年4月に制式化されたが、量産はその改修型も含め、民間企業である三菱航空機が担うことになった。エンジンは、ダイムラー式100㏋航空機用ガソリンエンジンを修正して搭載した。(下の写真はwikiより、「ノモンハン事件における八九式中戦車と戦車兵。」日本初その八九式中戦車の、ガソリンエンジン版(甲型)のエンジン担当は瓦斯電で、量産化にあたり実用性を重んじて、オリジナルのSOHCをOHVに変更したという。(写真の戦車はディーゼル版の乙型?))
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 しかし陸軍は、八九式中戦車の開発当初から、同戦車のディーゼル化を視野に入れていたという。1928~1930年にかけて、欧州に駐在し、戦車及びディーゼルエンジン関係の研究を行い帰国した原乙未生は、1931年、三菱に八九式戦車に搭載する戦車用空冷ディーゼルエンジンの試作研究を依頼する。(③P88)。⑳P120では1930年ごろから開発されはじめたとの記述がある)。
『当時の日本のエース』(⑳P146)的存在であった三菱航空機が、八九式中戦車(乙型)用のディーゼルエンジン(A6120VD型)の量産目途をたてたのが、1933年ごろのことだった。八九式戦車は生産終了の1939年までに404台が生産されたという。このA6120VD型エンジンについては、16.5-2項で記す。
(下の写真は「八九式中戦車公表写真集 上 ~知られたるわれ等の新鋭戦車 (奥州つはもの文庫/国本戦車塾)」という本の、表紙部分の写真をトリミングさせていただいた。
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(さらに遡るが、陸軍は「試製第一号戦車」の製作にかかる以前の『1923年に戦車の国産化を検討していたときに、ディーゼルエンジンを研究し、その試作を三菱重工業の大井工場に発注』(⑧P125)していたという。あくまで研究用の試作であったと思われるが、この頃はようやく、ドイツでダイムラー・ベンツ(当時はベンツ)が予燃焼室式エンジンを、またMANが渦流室式エンジンを開発し、実用的なディーゼルエンジンを積んだトラックが初めて開発された時期で、自動車用ディーゼルのまさに黎明期だった。下の写真は(webCG)より『ベンツの4気筒ディーゼルエンジンを搭載したトラック(1923年)』見方によっての違いか、1924年とする本も多いので、1923~4年頃としておく。)
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 次項でwikiなどネットの情報をダイジェストにしてさらに、原乙未生ら、陸軍軍人がいかなる理由でディーゼルの、しかも戦車用には空冷タイプにこだわったのかを記すが、陸戦での主力兵器である戦車がディーゼル化されれば、前線で使用する車輛は運用上、同じくディーゼル化するのが道理となる。こうして日本陸軍は、前線で用いる車輛(主に三菱、旧瓦斯電、石川島系が製造)は後述する「統制型ディーゼルエンジン」搭載車に統一し、後方使用を主とする大衆車型のトラック(トヨタ、日産が製造;いずれこの記事の“その8”で記す予定)はガソリンエンジンへと二分されることになった。しかし戦況の悪化もあり、実態としては『自動車隊の車両なども、前線と後方でのトラックの棲み分けをする余裕もなく、稼働する車両を使わざるを得ないのが実情だった』(⑧P70)ようだ。

陸軍はなぜ戦車用として空冷ディーゼルにこだわったのか
 ディーゼル化の狙いはいくつかあったが、16.4-5項で記した省営バスのディーゼル化の時と同様、一般的な理由として、燃料製造の歩留まりの面でガソリンより軽油が有利で、石油の輸入を抑制し,国際収支の悪化を防ぐことにあった。軽油は備蓄が容易な点でも便利だった。さらに言えば、貴重なガソリンはなるべく航空機用に充てたかったのだろう。
 そしてもう一点、今からすると違和感があるが、『当時ディーゼル自動車工業と人造石油製造事業とのリンクが真剣に考えられていた』(⑳P196)のだという。実際に1937年、「人造石油製造事業法」なるものが制定されたが、人造石油をガソリン相当に改質するよりも、ディーゼル油にする方が低コストで有利だったようだ。
 一方ディーゼル化をエンジン側で見れば、燃費が良いので航続距離が長い(同じ航続距離を狙うならタンクを小型化できる)ことや、自己点火方式のため点火用の電気系統が不要な点でも有利だった。
 しかし陸軍の場合は『それ以上に大きな理由は、被弾時の抗堪性にあった。外国からの輸入戦車がガソリンエンジンのため、発火事故が起きていたことを陸軍は重く見ていたのだ。』(⑧P125)ディーゼル燃料の軽油は引火点が高い(ガソリンが-43℃に対し、軽油は40〜70℃、重油は60〜100℃)ので、攻撃や事故で損傷した際に火災になりにくく、実際にノモンハン事件では火炎瓶攻撃により炎上するガソリンエンジン装備のソ連軍戦車が続出したという。
 しかし発火事故の根本原因について(wiki)では『元をただせば当時の部品の精度やシーリングやパッキングの技術が未熟で、燃料漏れが日常茶飯事だった』と手厳しく指摘している。以下この点をさらに詳しくyahoo知恵袋!の(web30-1)によると『燃料タンクに被弾すると炎上してしまうのは、ガソリンも軽油も同じです。戦車の燃料火災にはもう一種類あり、これは燃料配管の継ぎ目などからガス洩れ程度に洩れた燃料がエンジンルームに貯まって爆発的に火災を起こす現象。そもそも当時の技術水準ではアメリカ以外、防止出来ず、さらに戦車は不整地を走ることや、砲撃や爆撃などで大きな衝撃を受けることから、余計に燃料配管を損傷しやすくなる訳で。この、フツーに戦車を使っていれば起こる燃料洩れ火災は、ガソリンなら重大事故になるが、軽油なら白煙を上げる程度で済む。これが日ソの重視した火災の予防策としてのディーゼルを選択した理由です。』
 日本が戦車用にガソリンエンジンを放棄したのは、ガソリンもれ火災に嫌気がしたことが原因のようだ。ちなみにドイツ軍のガソリンエンジン戦車は『エンジンルームの空気の通りの悪い戦車では、一時間おきに点検することで換気していました。』(web30-2)さすがアメリカの工業力の底力には、当時のドイツも及ばなかった。
 また空冷化のメリットだが、冷却水の調達が難しい大陸内陸部や寒冷地での運用を考慮したためで(その反面、『寒冷地仕様に開発されたため、南方では、オーバーヒート気味』(web31)だったとの指摘もあるが・・・)、日本の戦車の主戦場は、北満地区など飲み水の確保にも苦労する地域があり、ディーゼル化による燃料火災防止と同等の利点だと考えられたという。
 エンジンの構造上のメリットは、冷却ファンを除く冷却装置の不要等、構造単純化によるメインテナンスの容易さや、当時の水冷ディーゼルにつきものの、シリンダヘッドガスケット吹き抜けによる冷却系トラブルを避けたかった面もあったようだ。(⑨P58)(下の写真は三菱重工業のHP「三菱高速ディーゼル史料室」より、「世界初の戦車用空冷ディーゼル(A6120VD型機関)」)
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 一方ディーゼル化のデメリットとしては、潤滑油を多く消費し、排煙、騒音、振動が大きくなり、また始動が難しく、冬の満州では車体の下に穴を掘りそこで焚き火をしてエンジンを温めて始動させていたという。さらにガソリンエンジンに比べて同一馬力あたりで、ディーゼルはどうしても大きく重くなり、特に戦車用だと狭い居住性、薄い装甲、貧弱な武装、走行性能の悪化など、燃費向上による燃料タンクが小型化できること以外、様々な面で制約を多くした。そのためバージョンアップのための改修も、車体側に余裕が少ないため、大幅な改善や能力向上ができない結果に終わったとの指摘もある。
 また空冷化のデメリットとして、『大型空冷機関の一般的短所たるバルブシート、シリンダヘッド、シリンダボディー等各部の熱変形量の過大とそれに起因する機密保持性の悪さは温度特性が相対的に高いディーゼル化には一層大きな困難を与える。』(⑳P228)高めの各部温度による耐久性や性能面で不利だったようだ。(㉑P20)
(下は八九式中戦車に大きな影響を与えたという「ヴィッカースC型中戦車」。しかし日本での輸入後の予備試験中に、エンジンから漏れた気化ガソリンに引火し、火災事故を起こした(③P88参照)ことでも、その後の日本の戦車開発の方向性に、影響を及ぼした。画像と以下の文はwikiからコピーした。『当時は工作精度やパッキンの問題から、パイプの継ぎ目などエンジンから気化燃料が漏れるのは当たり前のことであった。このことが「戦闘車輌にガソリンエンジンは危険である」という認識を生み、後に開発される日本戦車にディーゼルエンジンが採用された原因の1つになった』)
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 この話にはさらに後日談もあり、『焼損したMk.Cは三菱内燃機名古屋製作所芝浦分工場~に持ち込まれ、三ヶ月掛けて修理された。こうした実績を陸軍に買われ、三菱は八九式軽戦車を始めとする日本の戦車の生産に携わるようになった。』(wiki)日本の戦車=三菱の、最初の機会も与えたのだ。
(下はファインモールド社製のプラモデル「帝国陸軍 九七式中戦車 新砲塔 チハ 前期車台 」で、『「97式中戦車」の火力向上型として新設計の大型砲塔を搭載した「97式中戦車改」を再現』したものだそうです。八九式戦車の後継であった、九七式中戦車に搭載するエンジンは池貝との試作競争の末、採用となった三菱製の6気筒空冷直噴ディーゼル、「SA1200VD型」で、三菱の車両用高速ディーゼルについては、次項でまとめて記す。)

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16.5-2三菱の自動車用ディーゼルエンジンの開発
 戦前の三菱グループで、ディーゼルエンジンの製造と開発を行っていたのは、もちろん、「三菱重工業」(以下三菱重工と略)だが、三菱重工は1934年、「三菱造船所」と「三菱航空機」が合併して誕生した。しかし「三菱航空機」は元々「三菱造船所」から、1920年「三菱内燃機」として分離されたもので、1928年に改称し「三菱航空機」と名乗るようになった。
 なぜこのような話から始めるかといえば、先記のように三菱の自動車用高速ディーゼルエンジン開発は、三菱重工が誕生して、自動車事業が、東京大田区の下丸子の新拠点で一体化される以前は、「三菱造船所」の神戸と、「三菱内燃機/航空機」の東京(大井)の両拠点で別々に行っていたからだ。
 下表は(⑮P90)からの転記で、1939年頃までの、三菱の所要な高速ディーゼルエンジンの試作・生産表だが、主力は、戦車用エンジン開発を核とした、「三菱内燃機/航空機」系であったことがわかる。
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 この表は1939年で途絶えるが、それ以降は概ね、統制型エンジンへの吸収の過程をたどることになる。以下、上記の表に概ね従いつつ、戦前の三菱の、自動車用高速ディーゼルエンジンの歴史をたどっていきたい。

16.5-2-1三菱直噴ディーゼルエンジンの開発
 先に、1923年の時点で、陸軍より戦車用としてのディーゼルエンジン研究依頼があった(⑧P125)という記述があったが、三菱の高速ディーゼルエンジンの本格的な取り組みはもう少し後で、上の表の「三菱・直接噴射式」という部分からだった。
 1930年、三菱航空機本社(名古屋)に、渋谷常務直轄の設計室が設置されてから本格的な開発がスタートし、設計室主任の成田豊治の下で、潮田勢吉が中心となり、試作研究のための設計が開始された(⑮P72)。
 次項で記すように、高速ディーゼルの場合、燃焼室と燃料噴射ポンプの形式が重要だが、『当時採用に決定したのは、直接噴射式・円盤形燃焼室とオープン・ノズル型噴射弁であった。』(⑮P72)直噴でバルブ配置はSOHC式であった。
オープン・ノズル式の採用の根拠は、東大航空研究所教授中西不二夫の解析に依 拠した((web26)P1、⑨P27)という。この頃すでに『ボッシュ製のポンプが、大容量伝送品と共に市販されかかった時期ではあったが、』自社技術(成田豊治の考案による成田式噴射ポンプ・カム・プロフィルに関する特許があった)があったので、内製することになった(⑮P73)。上記の表をみれば、「三菱・直接噴射式」のバリエーションは多いが、燃焼室回り等、基本的な構成は同じだったようだ(⑳P120)。
 しかし『今から考えてみると、この形式の欠点は、非常に簡単、単純な構造のオープン・ノズルの採用と、燃料噴射ポンプの吐出弁との関連で、噴射後、所謂「後滴(ナハトロップフェン)」現象を伴って、運転に際し、排気が完全にクリアにならない点であった。』(⑮P72)その他、信頼性、整備性等の問題も色々とあったようだ(⑳等参照してください)。一方長所としては直噴式のため、燃費が良かった点にあったという(⑮P72、P99)。
 そしてこの「三菱・直接噴射式」ディーゼルは、当時の三菱の幅広い取引関係から、以下のようにバリエーション展開されていった。エンジンのスペックは、上記表を参照ください。
 まずこのエンジン系列の柱は、陸軍の戦車用ディーゼルエンジン用であり、八九式中戦車(乙型)、九五式軽戦車用の(空冷のA6120VD型)が、三菱関係者の証言によれば『終戦までにおよそ2100台製作』(③P91)したというから当時としては相当な台数だ。そしてこのエンジンは『三菱の他、神鋼、新潟でも製造された』(⑳P146)という。2,100台が他社生産分も含んだ台数なのかはわからなかった。
 次に海/陸軍の船舶用としては、海軍「内火艇」(=内燃機関(エンジン)を動力とする船艇の総称)用として(480MD型)が、陸軍「上陸用舟艇」用としては、(4気筒の460MD型、6気筒の680MD型)が生産された。
 さらに鉄道省向け鉄道車両用として、戦車用の(A6120VD型)の水冷版の(6100VD型)と、上の表中にはないがその直列8気筒版の(8150VD型;⑳P118によれば19.5ℓ)が生産された。戦後三菱は、国鉄動車用ディーゼル機関の分野でなぜか存在感が薄かったが、戦前の国鉄(省線)の動車での採用順でいえば戦後主力の発注先であった新潟鉄工所、神鋼造機、ダイハツディーゼル等よりも、やはり三菱が早かった。(⑳P118)ただし(web35)の池貝の項で『ディーゼル機関車のエンジンを製作し、八幡製鉄所に納入(国産ディーゼル機関車製作の先鞭となる)』とあり、機関車全体で見れば池貝の方が早かったか。
「三菱・直接噴射式」高速ディーゼルエンジンのまとめとして、マイバッハ(Maybach;独)に類似という説もあるが(⑳P141にその出典の記載あり)、三菱航空機の航空発動機技術を基礎にした、当時の日本では希少な、自社技術を基に開発された独特なもので(⑳P15、P118等。三菱独自設計なので次項の表「各種燃焼方式の創草及び日本のメーカーとの関連」には含まれない)、『本系統は本格的に開発、量産された最初の国産高速ディーゼル機関』(⑳P122)であった。(他の説として、日本で製作された高速ディーゼルの、単純に開発時期だけで判断すれば、『制作の年代は諸説あって必ずしも正確ではないが、一九三〇年頃の池貝が最初のようである』(㉒P261)、『池貝鉄工も高速ディーゼルとしては同時期に開発しており共に(注;三菱と池貝が)日本初と言える』(⑯P35)としている本もある。)
 しかし『自動車用、舶用の650AD、660MDなどはとも角、6100VD、8150VD等大型のエンジンになると、クランク軸の破損、ピストン、ピストンリング等の焼付、軸承メタルの事故等続発し、~1台1台が試作エンジンの域を脱しない時代が続いた』(⑮P101)という内部情報もあり、その苦労がうかがえる。
 当時、陸軍向けの舶用(680MD)を実際に運転させた経験を持つ、「日本における自動車用ディーゼルエンジンの育ての親」と呼ばれる伊藤正男(16.5-3項で記す)は「いざ始動してみるとすさまじいディーゼルノックと共に白煙もうもうたる状況である。伊藤は驚く半面、当時のポンポン船から押し計れば高速ディーゼルとはこんなモノなのかな、」(⑨P27)との感想を抱いたという。
 高速ディーゼルの黎明期故に、実験機関的性格が強く(⑳P121)、運用上の問題点も多々あったようだが、それでも陸軍の上陸用舟艇用エンジンなどは、ダイハツ(当時は発動機製造)、久保田、赤阪鐵工、ヤンマー(当時は「山岡発動機」)等でも量産されるなど、同時期の国内他社エンジン(池貝や新潟)との相対的な比較でいえば、『それらは高速ディーゼル技術の未発展という全般的状況の中でやはり相当信頼できる水準に達していたもの、との評価を与えておく事ができよう。』(⑳P122)

 以下からは本題の自動車用ディーゼルエンジンの話に絞ると、開発された順番は、戦車用が先というわけでは無かったようで、(⑮P72)の記述では、最初に手掛けたのが海軍向けの(480MD型)で、自動車用の(450AD型)も同じタイミング(三菱重工のHPの記述からするとこちらの完成が先か)で開発されたようだ。小型エンジンである自動車用は先行試作的意味合いもあった?((下の写真は三菱重工のHP「三菱高速ディーゼル史料室」より、「日本初の高速ディーゼルエンジン(1931年)」(450AD型機関)」))
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 そして同エンジンは『昭和6年(1931年)秋、陸軍自動車学校から貸与された英国・ソニークロフト製トラックに搭載して、運行、実用試験が行われた。
この450ADが他のエンジンメーカーあるいは自動車メーカーに魁けて、国産第一号自動車用ディーゼルエンジンとなったわけである。』
(⑮、P74)と、誇らしく記されている。((web29)P120)などには、「回った、回ったというけれども」どのようなレベルで走行できたのか不明だとの指摘もあるが、ここは素直に受け取りたい。
 この記事のテーマからすれば主題である、肝心の自動車用のディーゼルエンジンは、戦車用や船舶用と違い当初から確たる市場があったというよりも、当時はパイロット的に陸軍や民間バス会社等で使ってもらいながら、その動向を探る段階であったようだ。
自動車用ディーゼルエンジンについて、(⑮)から続けると、(450AD型)試作の経験から、『若干シリンダ容量の少ないエンジンの方が、騒音、振動も少なく、且つ販路も多い』(⑮P74)との判断から、(445AD型)が試作されて、GMのトラックに搭載して運行試験を行った。同エンジンは、満州国の鉄路総局の先駆車(=治安の悪い満州では、列車の運行の前に装甲武装した先駆車を走られ、安全を確認していたそうだ)用として納入された。
 さらに6気筒版の(650AD)も作られて、新発足した三菱重工初代会長用車であり、ときにはロールス・ロイス以上に格式が高いフランスの最高級車、イスパノ・スイザのエンジンを、なんとこの6気筒ディーゼルに換装して、PRに努めたのだという!
この(445AD型)と(650AD型)は、陸軍自動車学校研究部により、再三のテストが実施されて、たとえば「九四式六輪自動貨車」(当時三菱の神戸造船所でも組み立てていたという)に(650AD型)を搭載したり、瓦斯電製の「ちよだ」に(445AD型)を搭載するなどして、トライを重ねた。(⑮P93)また(650AD型)の方は満鉄向けのバスにも搭載されたという。
 いずれにしても自動車用としての台数は、多くはなかったと思われるが、自動車分野では後発組で、陸軍・商工省の自動車政策の本流に乗りあぐんでいた三菱は、ディーゼル技術を活路として、陸軍始め満州国(満鉄、関東軍)などにも手を広げようとしていた様子がうかがえる。

16.5-2-2 1930年代の高速ディーゼルエンジン技術の流れ
 ここで三菱の話題からわき道に逸れるが、1930年代の、自動車用高速ディーゼルエンジン界の全体像を把握するため、当時の技術的な潮流について、(⑳P88~P90)やnetの情報を基に、ごく簡単に触れておきたい。ド素人の上に技術音痴の自分が解説するのもキツイ話だが、これ以降に記す内容を理解し易くするためには、ここで先に確認しておくことがどうしても必要だと思うからだ。詳しくは(⑳)の本書及びnetで検索してみてください。
 まずいくつか前提を記しておくと、当時ディーゼルの先進国は、発祥の地である欧州だが、その高速ディーゼルエンジン技術の肝となる部分は、『狭い燃焼室内で短時間に行われる燃焼を制御する必要があり、従って燃料の噴霧性状と空気とのミキシングに関する微妙かつ経験的な工夫の積み重ねが必要であった』(⑳P7)。そのため燃焼室の形式及びその設計と噴射系ユニット(噴射ポンプとノズル等)の性能(その設計製作技術)が鍵となる(たぶん)。
 燃焼室の形式の違いを大雑把に言えば、現在主流の「直噴式」(DI:Direct Injection、燃料を主燃焼室に直接噴射)と、「副室式」(IDI:Indirect Injection、燃焼室が主室と副室に分かれ、副燃焼室に燃料を噴く形式)に大別される。その副室式はさらに「予燃焼室式」(Pre-combustion chamber type、副室は主燃焼室容積の25~45%程度と小さく着火装置のような役目を果たし、燃焼が柔らかく、シリンダ内の最高圧力も低い)と「渦流室式」(swirl chamber type、予燃焼室式より大きい副室内に強い渦流を発生させ、燃焼を促進させようとする方式)、さらにこの時代には「空気室式」(燃焼室とは別に空気溜を設ける)というものもあったそうだ。詳しくはnet(たとえば(web25)等)で検索してください。下の画像はweb「自動車用語辞典」https://clicccar.com/2019/10/18/919445/より。
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https://clicccar.com/uploads/2019/10/glossary_injection_indirect_01-20191011190921.jpg
 以下ヨーロッパの主要企業/研究所における変遷をごく手短に辿る。
 まず『ディーゼル界きっての老舗MAN(Maschinenfabrik Augsburg-Nürnberg=「アウクスブルク・ニュルンベルク機械工場」の意味だそう)』(独)は『このクラスの高速ディーゼルに直噴式及び空気室式燃焼室を用いていた。』そしてMAN空気室式は『一時、高速機関に適していると考えられたものであるが、それ程長くは続いていない。』(⑳P89)しかし「MAN空気室式」は下表で示すように日本でも多くの追従者を生むことになる。(下の見事なフルトレーラー車は1932年当時、『世界最強ディーゼルトラック、MAN S1H6』の雄姿。6気筒140㏋エンジンを搭載していたという。画像と説明内容は
http://www.gruzovikpress.ru/article/2503-man-truck-bus-ag-gruzoviki-emaen-stoletniy-yubiley/ より。しかし同記事の機械翻訳によれば、『1931年にはトラックとバスのシャシーは184台しか生産されず、翌年には144台しか生産されず、1933年には生産台数がほぼ半分に減少した。』という、信じがたいような状況だが、(⑮P131)に、ディーゼルトラックの生産は『ベンツ、ヘンシェルなどの工場でも月産50~60台といわれ、』という記述があるので、ディーゼルの本家であるドイツの名門企業と言えども、生産の実情はこの程度だったようだ。
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http://www.gruzovikpress.ru/article/2503-man-truck-bus-ag-gruzoviki-emaen-stoletniy-yubiley/Images/19.jpg
 一方同じく名門ダイムラー・ベンツ(当時はベンツ)は、「予燃焼室式」に専念し、改良を加えながら戦後も長く、この方式に固執し続ける。(ダイムラー・ベンツは乗用車用として、マイルドな燃焼の予燃焼式を延々と使い続けた。下は1999年のE 200 CDIだが、乗用車用としてはこの時代になってようやく、直噴ディーゼルを受け入れるのだ。)
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https://img.favcars.com/mercedes-benz/e-klasse/mercedes-benz_e-klasse_1999_images_10_b.jpg
 自動車用ディーゼルエンジンで古くから名高いスイスのザウラー(Saurer=「ザウラー」と「サウラー」の2つの表記があるが、引用箇所以外は「ザウラー」と記す)は、『自社改良アクロタイプの予燃焼室的な空気室式から直接噴射式に移行したようである。』(⑳P89)次項で記すが、八九式の後継となる九七式中戦車用エンジンを開発するにあたり、三菱はこのザウラー直噴式を当時世界最良の高速ディーゼルエンジンと評価して、自社開発から「サウラー副渦流直接噴射方式」技術の導入へと切り替えを行う。(下の画像はwikiより、本国スイスの山岳路で使われた、ザウラーのバス(1,930年)。Wikiによれば日本でも箱根登山用バスとして、ホワイト(米)を導入した「富士屋自働車」に対して「箱根登山鉄道の自動車部門では、富士屋自働車に対抗して、スイス製の高級車であるサウラーが導入された。~五十嵐平達は「活躍した場所から考えても、1930年代の遊覧バスを代表する1台」であるとしている。」ザウラーは当時、高級バスのブランドとしても有名だったようだ。)
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 しかし、1930年代前半に限れば、高速ディーゼルエンジン技術に旋風を巻き起こしたのは、ドイツ勢ではなく、『当時内燃機関の燃焼解析の権威として知られ』(⑳P89)、リカルド研究所を創始したイギリス人研究者、ハリー・リカルド(Harry Ricardo=これも「リカルド」と「リカード」と、表記が分かれるが、引用箇所を除き「リカルド」と表記しておく)による、「リカルド・コメット燃焼室」の誕生だったという。(⑳P89)
『コメットというのは彼がAEC(Associated Equipment Co.英)と協力して開発した小型高速ディーゼル機関用のいわゆる渦流室式燃焼室に与えられた称号である。』(⑳P89)
 AECディーゼルの燃焼室の性能改善の中から1931年8月に誕生したこの「リカルド・コメット燃焼室」は、AEC製の従前のエンジン(前述の直噴移行前のザウラー式燃焼室の改良型)に比べて、『85~90馬力に低迷していた出力が一挙に130馬力へと向上したというからその効果は目を見張らせるものがあった。~ 当然世界がこのコメット燃焼室に注目し、ライセンシーはたちまちのうちに世界各国30~40社に達した。』(下の画像はhttps://ricardo100.com/ より、AECのロンドンバスで使用されたのが始まりという。)
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https://cdn.ricardo.com/ricardo100/media/media/home/comet-combustion-chamber-mob.png
⑳の引用を続ける『~しかしディーゼル技術の発展のなかで、この勢いも長くは続かない。改良された予燃焼室式が巻き返し、更には直噴式が発展するなどして渦流室式機関の分布はより小型のものへと進む。』(⑳P90)こうしたディーゼル技術の本場、ヨーロッパにおける激動の世界は、当然のことながら日本国内で高速ディーゼルに参入を試みていた企業のエンジン開発にも強い影響を与えていくことになる。下表は((web19)P26及び⑳P16)からの転記させていただいたもので『欧州企業の各種燃焼方式及び日本企業との係わりを示す』表だ。先行3社(三菱、池貝、新潟)以外のも、さまざまなルーツを持つ多数の有力企業の名前が連なる。そして上記の「改良された予燃焼室式が巻き返し~」の中に、我が日本の自動車工業/東京自動車工業による、伊藤式燃焼室が名を連ねることになるのだ。
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 次に燃料噴射ポンプについて、適当な資料がないので、さらに大雑把な話になってしまうが、ご承知のようにディーゼルエンジンは1892年にルドルフ・ディーゼルが発明(1893年に特許取得)したが、高圧縮比の機関をつくる技術が確立されておらず、1897年にいたって製作された。この機関は側弁式で、燃料は、高圧空気でシリンダー内に噴射される空気噴射式であった。(下はwikiより「ルドルフ・ディーゼルの1893年の特許証書」)
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 定置式や舶用などに比べて、ディーゼル自動車の実用化は遅れたが、その理由は大量生産方式が定着した廉価なガソリン自動車との競争に絶えず晒されてきたことと、技術面では『初期のディーゼルエンジンは燃料噴射に圧縮空気を用いており(空気噴射式)、そのために空気圧縮機を備えなければならず、車載に適した小型ディーゼルエンジンの開発は困難であった。結果、実際にディーゼル自動車が市販されたのはガソリン自動車よりも遅い1920年代で、無気噴射式(燃料を噴く)の高速ディーゼルエンジンの実用化がキーとなった。』(wiki)
 自動車用高速ディーゼルに不可欠な存在となる、無気噴射式の燃料噴射システムの量産を1930年頃からいち早く確立し、今日に至るまで自動車用ディーゼルエンジンの世界に裏から君臨するのがご存じボッシュだ。『特にロバート・ボッシュ社における無気噴射装置の最産化は噴射系のコンパクト化・簡素化、噴射量制御の正確さという点について各メーカー が抱えていた技術的陰路の打開となり、標準的なポッシュ製品の使用を前提とした各社各様の燃焼室形式の出現という些かチグハグな現象をまねいた。』(⑳P7)
 以下は㉑より引用『ディーゼルエンジンが自動車用としてようやく一般化したのは、ガソリンエンジンと類似な燃料噴射ポンプがロバートボッシュ社により完成、それを備えたベンツ280D(注;260Dの誤記?)が発売された一九三六年以降で、以後各種燃焼室の乱出は百花繚乱、覇を競ったが、ヨーロッパと全く時を同じくして日本の各社によっても、この百花が見られたことは特筆に値する。これは、陸軍によるディーゼルエンジン採用が契機である。』(㉑P31)(トラック用よりも一段と高いレベルの快適性や実用性が要求される、乗用車に対してのディーゼルエンジンの世界初搭載は1933年にシトロエンが制作したロザリエ(Rosalie)や、プジョー(1922年に試験走行に成功、1936年に量産に踏み切る(㉒P165))などのフランス勢が先行したが、初の“実用的な”ディーゼル乗用車はベンツ260D型(1936年)であると広く認知されている。もちろん、ボッシュの燃料噴射ポンプを搭載している。)
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(余談になるが(㉒=「20世紀のエンジン史」P323~P329)によれば、当時のドイツの先鋭的なエンジン技術を象徴するかのような存在であったユンカースも、ボッシュと同時期に同じようなコンセプトの燃料噴射ポンプの開発を行っており、両者はほとんど同じ構造であったという。
ユンカースのエンジンと言えば一般に、ジェット戦闘機メッサーシュミットMe262に搭載され、『世界で初めて実戦投入されたターボジェットエンジン、かつ世界で初めて実用化した軸流式ターボジェットエンジン』(wiki)であるユモ004型(Junkers Jumo 004)や、レシプロ戦闘機フォッケウルフFw190D-9やTa152に搭載されたユモ213型エンジンが有名だが、

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https://www.asisbiz.com/il2/Ta-152/152H-JG301/images/Focke-Wulf-Ta-152H1-Stab-JG301-Green-9-Willi-Reschke-WNr-150168-Germany-Apr-1945-0A.jpg
実はディーゼルエンジンでも高い技術力を誇り、特に一部のディーゼルマニアの間では、航空機用ディーゼルエンジンの開発(とその挫折)で知られているのだ(㉒に詳しい)。
この時代にすでに排気タービン過給器とインタークーラーを装備して!出力は880馬力まで高められていたユモ207A直噴ディーゼルエンジン(水冷上下対向直列6気筒12ピストン(1シリンダー内に2つの向かい合うピストンを持つ「対向エンジン」)を2基搭載し、与圧室を備えたユンカースJu 86Pは1940年夏から実戦配備された。当時の連合国軍戦闘機が飛行できなかった高度12,000m以上での作戦行動が可能で、第二次世界大戦の初期に高々度爆撃機・偵察機として成功を収めた、航空機用ディーゼルエンジンの歴史に残る機体となった(以上wikiより抜粋)。下は後継機のR型で、翼端を延長し(32m)、高高度性能も更に改善を加えて高度15,000m目指したが、試作に終わったという。その機体からはやはり、高高度偵察機らしい印象を受ける。なおエンジンも強化されていたが、一連の航空機用ユモ直噴ディーゼルエンジンは、最大出力付近の運転を続けるとトラブルも多かったようだ。また当時ドイツはレアアースも不足しており、ターボの開発にも苦労していたという。以上wiki+(web(30-3))参考)

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 日本の話に戻し、国内有力企業がディーゼルエンジンの開発に「百花繚乱、覇を競った」時代は、さまざまな形式の自社製噴射ポンプが内製された。『池貝式、新潟式、三菱成田式ポンプは1930年代前半の代表作であった。それ以降も各社各様の考案になる国内特許が取得された』((web19)P28)。 ((web19)P27)にその一覧『表- 4;「ボッシュポンプの特許をクリアしようとして取得された主な特許・実用新案」』があり、たくさんあって面倒なので書き写しませんが!興味のある方はぜひ参照してください。各社の涙ぐましい努力の跡が垣間見れます。)
 しかし、たとえば上述のユンカースのような技術開発力&それを支えるドイツのような産業基盤を持ち合わせていない当時の日本の産業界では、ディーゼルの基幹部品である燃料噴射装置の開発とその生産を、ボッシュの特許を回避しつつ行うことは、困難を極めた。『結局この内,戦後まで持ち堪えたのは三菱岡村式』((web19)P28)だけだったという。この状況は自社のディーゼルエンジンの開発にも暗い影を落とし、『自分のところの噴射装置と自分のところで設計したエンジン、どっちが悪いのかわからんような結果がずいぶんあった』(⑨P47)そうだ。(なお、ボッシュ製品をそのままコピーしなかった理由として、ライセンスの問題以上に、加工精度、耐久性(材質)等の立ち遅れの可能性があるとの指摘がある(⑳P141)ことも追記しておく。)
 しかしここで疑問が生じるが、当時高性能が知られているボッシュの燃料噴射ポンプがすでに量産され、市販されていたのだから(1930年には生産累計1万台を超え、1934年には累計10万台に達したという(⑳P261))、素直に輸入品のボッシュ製品を採用すれば良さそうなものだが、当時はそのようにいかない事情があった。軍事的な見地から、噴射系の国産技術化が求められたのだという。(⑳P15)ディーゼルエンジンの心臓部である燃料噴射システムが、海外からの輸入に頼ることを、主要な発注先であった陸軍が問題視していたようなのだ。
 それともう一点、製造者側の経済的な観点からも、ボッシュ製品の採用がためらわれる理由があった。非常に高価だったのだ。『ボッシュポンプの価格は非常に高くトラック1台のそれにほぼ匹敵する1台約1800円にも達したというから、いくら頑張って国産ディーゼル車輛を作っても輸入ポンプの値段によって国産化の旨味も何も無くなってしまうわけである。』(⑳P261)
(ちなみに年代によっても変わるが、(④P157)の、「普通車の価格現況(1935年)」という表によると、当時のトラック・シャシーの価格はフォード/シヴォレー(1~1.5t積)が3,230/3.275円、ダッジ(1.5~2t積)4,330円、いすゞTX40(2t積)5,800円、軍用保護六輪車が8,000円と記されている。トラック1台分というほどではないが、ダットサン(1935年当時、概ね1,800円ぐらい)が買える金額だ。)ここまで高価な製品を大量に輸入する事態ともなれば、貿易収支の悪化を招く点からも問題になっただろう。
 しかし、いくら頑張って類似の国産品を作ってみてもボッシュ製品の性能に到底追いつけなかった。この状況を打破するため陸軍も国産品の開発を見切り、ボッシュ式燃料噴射システムのライセンス導入に動くのである。
1937年に「日独伊三国防共協定」が結ばれ、日独の関係が強化される流れの中にあり、ドイツ製のボッシュの採用については「国防上の理由」という障害は薄れた。交渉にあたった東京自動車工業にボッシュ側が提示した2つ条件のうちの1つは、「ヒトラー総統の許可が下りること」だったという。陸軍による強力なバックアップを前提とした話だったのだ。こうして1939年、日独両国政府の承認の下、「ヂーゼル機器株式会社」が誕生することとなる(より細かくは、後の16.5-6項に記す)。

16.5-2-3ザウラー複渦流直噴式エンジンの導入
 話を戻す。三菱が主契約となりその開発と生産を担った、八九式中戦車の後継である、九七式中戦車の開発が具体的な計画として動き出したのは、1936年7月だった。16.5-2-1の、自社開発の三菱直噴ディーゼルの項で見てきたように、戦車の引き合いは大型案件で、三菱は十分な予備研究を行いつつ、その受注のため必勝態勢で臨んだ。まず九七式中戦車の開発経緯について、手抜きでwikiからの引用で記す。
『新型中戦車の開発に当たっては速度性能、車体溶接の検討、~防御性能の向上が求められたが、当時の道路状況、架橋資材その他の状況から車両重量増が最大のネックとなった。重量増を忍び性能の充実を求める声と、防御・速度性能を忍んでも重量の逓減を優先する意見の双方があり、双方のコンセプトに沿った車両を試作し比較試験することとなった。陸軍技術本部は、前者を甲案(後のチハ車。予定重量13.5トン)、後者を乙案(後のチニ車、予定重量10トン)として設計を開始した。』
 両案の違いを『ひと言で表わせば、第一案は八九式中戦車の発展型、第二案は九五式軽戦車の強化型となろう。』(⑧P140)しかし事前に意見調整ができず、両案の競争試作にもつれ込む事態に至ったのだ。こうして重量型の(チハ車)を三菱重工業が、軽量型の(チニ車)は大阪砲兵工廠が試作する。下表は、両案の概要について、(⑧P140)の表を転記させていただいた。
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 この表を見れば両案の性能差は明らかだが、限られた予算内であれば、軽戦車の方が数量を多くそろえることができるし(たとえば八九式中戦車は8万円で九五式戦車は5万円だった)、当時の諸外国の戦車の性能(1936年のソ連の歩兵戦車T26や初期のドイツの3号戦車、1937年のアメリカ陸軍のM1戦車)と比べても、第二案でも「歩兵戦車」という視点で見れば、カタログスペックで見る限り、この時点では劣っていたわけではなかった。(⑧P141参考)。ちなみに第二案を編成動員課である参謀本部が、第一案を軍務局軍事課がそれぞれ支持した。後に独ソの戦いなどを契機に戦車が大型化するのは、第二次世界大戦中のことであったのだ。)
そしてこの決着は、1937年の日華事件勃発とその拡大により決着を見る。「臨時軍事費特別会計法」(「第二次世界大戦以前の日本において行われていた特別会計の1つで、戦争における大日本帝国陸軍及び大日本帝国海軍の作戦行動に必要な経費を一般会計から切り離して、戦争の始期から終期までを1会計年度とみなして処理された。」wikiより)の公布により、『資材整備のために予算を流用したために、議論の前提となっていた予算の制約がなくなり、第一案の戦車を量産することが可能となった』(⑧P144)のだ。
 この結末は三菱にとっては一見、万々歳の結果であったようにみえるが、まだそうとも言い切れなかった。実は第一案(チハ車)は『2両試作されており、一方は三菱サウラー複渦流直噴機関搭載車、他方は池貝の渦流蓄熱式機関搭載車であった』のだ。(⑳P147)車体側は決着したが、エンジン側は台上及び実車試験による決着に持ち越されることになった。
 こうして陸軍主導による重量級車輛のディーゼル化政策のなかで、その技術及び生産体制の統制化を巡る第一段階の幕が、切って落とされた。以下(②P15)より引用
『九七式中戦車のディーゼルエンジンを巡る池貝自動車製造と三菱重工業業との対立、統制型五ℓ、八ℓのディーゼルエンジンを巡るいすゞ自動車(ヂーゼル自動車工業)と三菱重工業業との競争開発とその指定争いは国産自動車工業の成立とその発展を左右するほどのものとなる。』次項で、九七式中戦車搭載のエンジンを巡っての、池貝との戦いを制するための決定打として採用された、三菱によるザウラー複渦流直噴式エンジンの導入の経緯について記す。

16.5-2-4採用なったが、問題も多かった三菱ザウラーエンジン
『昭和10年(1935年)の秋、A640ADの設計に取り掛かった頃であったが、山下奉文将軍を長とする訪欧ミッションが組織され、主としてドイツに滞在して調査した。ミッションの主目的は「ソビエト陸軍の戦車の数量、配備に対して、我陸軍は如何に対処するか」であった。』(⑮P84)具体的には八九式中戦車の後継を如何にすべきかが、この調査団の重要なテーマで、陸軍の戦車のエキスパートであった、原乙未生が同行したのはもちろんだが、三菱からも「三菱・直接噴射式」開発の中心人物であった潮田勢吉も同行した。実務的には原と潮田が主となり、調査・研究を行っただろうことは想像に難くない。
そして『潮田はミッションの現地解散後、欧州各国における高速ディーゼル・エンジンの調査をしたが、特に技術的に進んでいると見られていたスイスのアルボンにあるサウラー社を訪問、帰朝後その結果を本店渋谷常務に報告した。』(⑮P84)
 ザウラーの「複渦流直噴式エンジン」は『当時、世界最高と評判をとっていたもの』(⑨P80)で、陸軍は次期主力戦車に「世界最高」の高速ディーゼルエンジンを搭載したかっただろうし、三菱も戦車受注に必勝態勢で挑みたかったのだ。以下も(⑮P83)より
『昭和11年(1936年)三月、見本エンジンを輸入して研究することとなった。最初に見本として選ばれたのは、ドイツからのヘンシェル(空気室式)とベンツ(予燃焼室式)、スイスからサウラーのCRD(直接噴射式)の三基であった。さらに同年七月にはドイツのマギルス製のディーゼル・トラック・シャシ(エンジンは予燃焼室式)を購入して研究した。これ等欧州からの輸入の見本エンジンの比較調査の結果、特に我々が興味を持ったのはサウラーであった。』以下はザウラー「複渦流直噴式エンジン」の特徴を、(⑮、P83)より引用。
『その燃焼室はピストンの頂部に設けられ、断面は尖端の切れた逆ハート型で、その形と二個の吸気弁につけたシュラウドとで、自転しながら公転する的な渦流を起こす、所謂、複渦流方式の直接噴射式であった。~ 全体的に、我々にとって、以って範となすに足る設計であったので、引き続き、CRD(シリンダ径105ミリ)より更にシリンダ径の小さいCCD(85ミリ)も入手して研究を続行した。CCDの特徴はシリンダ径の小さいことから、当時としては、破格的と考えられていた最高回転数3,000回転毎分まで運転できることであった。~ 勿論、CRD、CCD共に性能は抜群であった。』その精緻なエンジンは、三菱のエンジニアたちを魅了したようだ。
 こうして他社製エンジンとの比較検討を行なったうえで、三菱はザウラーの「複渦流直噴式エンジン」の技術導入の断をくだす。それは同時に、自社開発品であった「三菱直噴エンジン」にいったん見切りをつけたことでもあった。(ただし同シリーズのエンジンは、後に新設された川崎工場で、陸軍上陸用舟艇用水冷機関として継続生産された(⑳P148)。)
 1937年、設計主任大井上博他をザウラー社に派遣し、技術提携と、ライセンス生産の契約を締結する(1937年7月)。1937年3月には下丸子工場を着工していたので、戦車用とともに、将来ザウラー製エンジンを搭載したディーゼルエンジンのトラックを量産することも見越しての決断だっただろう。こうして三菱内部では『大筋としては、省営バスには神戸流エンジンで、陸軍向及び満州向にはサウラー式トラック及びバスで、ということで新設の丸子工場の設備その他が考えられた。』(⑮P85)主流はザウラー式へと大きくシフトしたのだ。九七式中戦車の試作車両が三菱の工場で完成したのは、1937年6月だった。
 さて本題である、三菱ザウラーエンジン×池貝の「渦流蓄熱式」エンジン対決の結末について、そのジャッジを行った陸軍の原自身の言葉を記す。以下(③P89)より、
『この両方(注;三菱と池貝)のエンジンができあがって、ベンチ試験の結果はともに良好で、次いで97式戦車に搭載して試験をした結果もよかったのであります。』どうやら出力自体は、池貝の方が上回っていたとの情報もある。引用を続ける。『ところが、東京から大阪までの長距離運行試験を行ったときに、両方のエンジンの機能の差が現れました。
 池貝のエンジンは非常に煙が出るのであります。それは不完全燃焼の煙ではなく、モービル・オイルが燃える煙なのです。大阪に着くまで車の上からモービル油を補充しながら運行するありさまで、大量のモービルを消費しました。そのようなことで、池貝の今井さんは、もっと研究する必要のあることを認められて、差し当り三菱のサウラー式エンジンを採用することになったのであります。』

 池貝のエンジンは激しいオイル上がりを生じ、潤滑油を過度に浪費すると判断されて、三菱のザウラー式に軍配が上がったのだが、『このトラブルはスカート・リングの使用をもって回避し得る性質のものだったとも言われているが、~日華事変勃発という情勢が陸軍にも池貝にも手直しのいとまを与えなかったわけである。』(⑳P151)時局はそれだけ切迫していたのだ。
 なお主力戦車用エンジンという、大型商談に敗れた池貝はしかし、陸軍から別の発注(九七式軽装甲車用空冷ディーゼルエンジン)を得て、しっかりとフォローを受けていた。
 さて、この三菱サウラー複渦流直噴式エンジン(SA12200VD型;空冷V12-120×160、170㏋/2000rpm)の実際の実力はどうだったのか。端的に言えば、以下(⑨P101)より引用。
『噴射系がデリケートで調整が難しく、その耐久性にも欠ける嫌いがあった。動力性能においても公称200PSの筈が、実力は170PS程度に止まり、しかも、白煙、黒煙が甚だしいという問題を抱えていた。』
wikiによればさらに、『耐久性を考慮した場合の出力は、140馬力に制限された』という。噴射系のトラブル等(例えばザウラー式は噴射圧が高く、長時間使用するとタイマー、そのほかの伝導装置に摩耗を生じて、噴射時期が遅れ、著しく出力低下をきたすという((web22)P67))ため、結局最大出力を抑えるという方法を取らざるを得なかったようだ。(web32)
 黒煙の問題は当時としては決定的ともいえる、深刻な事態を引き起こす。『ある年の観兵式で戦車行進の折、黒煙を吐くチハ車(注;九七式中戦車)をご覧になった天皇陛下から「あれはなんだ」とのお言葉があり、』(⑳P349)その対策で上を下への大騒ぎになったという。
 当然のことながら大問題となり、『結局、いすゞのエンジンを使えということになったという、』((web22)P74)また聞きのまた聞きの話と断ってはいるが、こうなってしまうと、いかに大三菱の力をもってしても、取り返しのつかない大きな壁になったと思われる。
 さらにエンジン音も爆音と言えるほどのもので(web32)、乗用車ではないとはいえ、戦車でも作戦上、爆音は困りものだっただろう。また寒冷時の始動性にも問題があったという。(⑳P349)その上複雑な分、価格も高かったという(⑳P349、wiki)。整備性の面でも、
『チェンブロックや他車の動力を用いたエンジン釣出しが頻々と行われたのも車載状態での整備性が悪かったからに他ならない。又、ローラータペットを用いた4弁式というのも、こなれた技術とは言えない。そして何よりも直噴方式自体が未完成の技術であった。』(⑨P101)戦場の兵卒には使いこなせない技術だった。他にも軽合金を多用するなど特殊な造りとなっていた(⑳P336)。ガスケットはドイツのラインツ社製のもので、国産化に努めたが成功しなかったなどの問題もあったようだ。(⑮P86)、(⑨P102) (下図は、論文『デコンプとその使用法について』坂上茂樹のP9、図5 より、「三菱Saurer複過流直噴 SA12200VD型機関」(docsplayer.net 経済学雑誌117巻4号.ren - PDF 無料ダウンロードより、)
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https://docsplayer.net/docs-images/88/114576963/images/9-0.jpg
 さらにこのエンジンは、三菱以外に日立でも製造されたが、『制作されたエンジンは細部の仕様・部品が異なるという事態が生じた。また異なる燃料噴射装置(三菱製エンジンは三菱製かボッシュ製、日立製エンジンは日立製の燃料噴射装置を使用)が取り付けられていると互換性は無く、損傷戦車の使えるパーツをつなぎ合わせての再生が望めない。これらは補給、補充が不足がちな日本軍にとって大きな問題になった。』(wiki)
不具合リストは続くがあとは省略する。これらの多くは次項の「統制型一〇〇式エンジン」としてモジュラー生産される際の貴重な教訓となった。『当時、世界最高と評判をとっていた』エンジンだったが、当時の日本は高度な工業製品を支える土台の部分が脆弱で、ザウラーのように正式なライセンス生産品でも劣化品しか作れなかったようだ。(次項の、工作機械の箇所を参考)
 これに対して東京自動車工業の設備で生産することを前提として開発された、『伊藤(注;東京自動車工業技師、伊藤正男設計)の予燃焼室式エンジンは若干、燃費に劣る点はあるものの、騒音が低い割に出力が高く、機械的信頼性に富み、作り易く、修理し易い構造を特徴としていた。排気色が薄いことも長所の一つであった。噴射系の寿命も直噴式より長かった。その上、直噴式と異なり予燃焼室式エンジンは粗悪な燃料にもよく耐えた。』(⑨P102)性能は燃費以外、すべてにまさっていた。両エンジンのこれらの優劣点は、戦車用、自動車用などの用途に限らず共通していただろうことはもちろんだ。
(下はブログ「重整備の詳細 & Technical waste」さんhttps://minkara.carview.co.jp/userid/339422/blog/44325715/ からコピーさせていただいた「統制型一〇〇式発動機」の写真で、V12なのでたぶん、三菱ザウラーの後継機として、東京自動車工業の予燃焼式燃焼室と技術共有を図った「統制型一〇〇式 三菱AC」と思われる。)
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https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/userstorage/000/055/128/486/3fdd12f653.jpg?ct=318a55f047f3
 こうして陸軍は、次期主力戦車用エンジンとして、性能重視で選んだつもりが、製造上の難易度が高いため、日本で製造すると所期の性能が得られず、扱いがデリケートなザウラー直噴式から、よりシンプルな構造ながら性能で勝るうえに、粗悪な燃料等タフな環境にも耐える統制型予燃焼式の採用へと傾いていく。以下は三菱関係者の証言だ。
『戦時中、特に戦車、車両も、燃料事情、取扱い性、整備性を考え、燃費の犠牲はあったものの、当時としては信頼性の高い予室式へと大勢は傾いていたわけです。』((web28)P292) 
陸軍、原乙未生の話に戻す。
『サウラー式エンジンはよかったのでありますが、その後三菱は自発的に新しいエンジンを開発しました。このエンジンをサウラー式と置き換えて、主力戦車のメインエンジンになったのであります。』あくまで三菱側から“自発的行動だったと、穏やかな口調で語っているが、陸軍側の政策に従い、後に15.5-4項で記す、100式統制発動機(ザウラー式とまったく同一排気量の空冷V12エンジン)への置き換えを行った結果、出力は170㏋/1800rpmから240㏋/2000rpmへと向上し、なお余裕があったという。(⑨P102)
 ここで「三菱サウラー複渦流直噴式エンジン」について、まとめておきたいが、まず大枠としてみれば、『旧日本陸軍が世界に先駆けて機甲車両の全面ディーゼル化方針を打ち出し、三菱、池貝等各社がこれに向かって邁進した姿勢そのものは高く評価されねばならない』(⑳P157)。
 しかし、ザウラー式に関して言えば、高い理想を掲げてはみたものの、現実的な視点から見ると、『まるで航空機発動機のような』(⑨P101)、精緻でデリケートなこの直噴エンジンは、当時の日本の工業界全般の技術水準では受け入れ難いものだったようだ。さらに燃料事情の悪化も直噴エンジンには逆風となった。以下はwikiより、『戦況により十分な試験研究がなされないまま制式化され、信頼性を十分に持たせることができなかった。』
 まとめの最後(〆)として、戦後、三菱自工のトラック・バス技術センター所長を務めた(1981~1985年)山田剛仁が、JSAEインタビューの中で、8ℓ級統制型エンジンのベースエンジンの一つとなった自社製のY6100AD(予燃焼室型8.55ℓ)の発展形として昭和24年(1949年)に後誕生したDB型エンジンが、昭和41年(1966年)までの17年間、同一排気量のままでその出力を100㏋から220㏋(ただし過給機付き)まで向上させながら、三菱ふそうの大型トラック・バスの主力エンジンの座を守り通したと語ったのち、以下のように率直に語っている。
『戦後のディーゼルは専ら予室式からスタートでありました。これは戦時中の直噴式の苦い経験と、当時の燃料の質からみて当然の方向であったと思いますし、また、比較的高度な精密さと、デリケートな調整を必要とする直噴式が活躍できる土壌もまだ形成されていなかったためだと思います。』((web28)P291)戦前に大きな教訓を得て、戦後のエンジン開発に活かせたのだ。
(下の写真は、『わが国最初の2軸大型キャブオーバー型として登場したのが8t積のT380型で、ボンネットT330型をベースにして1959年9月から生産開始、荷台長は1000mmも長い6000mmになった。』(㉓P120) 1938年に誕生したY6100AD型100㏋エンジンに端を発するDB31A型エンジンを搭載し、Y6100と同一排気量の予燃焼室式8,550ccエンジンだったが、戦後の絶え間ぬ改良によりこの当時、165㏋を発していた。画像はhttps://twitter.com/bananu73/status/1393146303345881088よりコピーさせて頂いた。)
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https://pbs.twimg.com/media/E1VzHp4UUAAuLvc?format=jpg&name=4096x4096
 さてようやく残る話題はあと2つ、「統制型エンジン」と「ヂーゼル機器」、「日本デイゼル」誕生の経緯を記すだけとなったが、その前に、黎明期の日本の中/高速ディーゼルエンジン界で名を馳せた、池貝鉄工についても、ここで簡単に触れておきたい。

16.5-2-5池貝鉄工所をはじめ、黎明期の国産高速ディーゼルについて
 この項は(web(19)、⑳、③及び(web(23))などからの引用で記すが、③を除けばいずれも山岡茂樹による著作で、山岡氏の一連の著作は、今回の記事を記すうえでもっとも多くを頼りました。この場を借りて改めて感謝するとともに、当然のことながらオリジナル版の方が正確な情報なので、ぜひそちらを(特に⑳=「日本のディーゼル自動車」を)参照してください。また(web(19)と⑳の内容は重複する(前者が簡略版)が、この記事の読者の方々の利便性を考えて、本(⑳)よりも簡単に閲覧できるweb情報を優先して引用した。
 まず(web(19)のP28~P30の内容を基に作成した下の簡単な表をご覧いただきたいが、1930年代という日本の高速ディーゼルエンジンの黎明期に、この業界に参入しエンジン開発に取り組んだ主な企業の一覧表だ。厳密にいえばたとえば瓦斯電も兵器企業としての性格を持つなど、単純には線引き出来ない部分もあるが、概略なものだと理解いただきたい。それぞれの燃焼室の形式は、(⑰P88)から引用した。また久保田鉄工所や山岡発動機(ヤンマー)、発動機製造(ダイハツ)など、主に三菱のライセンス生産に従事した企業は除いてあるが、『様々なルーツを有するメーカー群が様々な領域における練成を経た後,ついに木格的な自動車用・車輛用高速ディーゼル機関の領域に到逹するという発展経路を示していた』((web(19)P30)ことがわかる。
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 この表中の企業のうち、三菱系や、東京自動車系は別に記すので、それ以外だと戦後の日本のディーゼル自動車における影響度合いからすれば、日産ディーゼル(後のUDトラックス)の前身にあたる日本デイゼル工業が最も重要だが、同社については後の、ヂーゼル機器設立の項に関連して(167.5-7項)で記すことになるので、それ以外の企業の活動については大幅に省略して、代表して池貝鉄工(後に池貝自動車)の1社のみ、記すこととする。
 その理由として、後に東京自動車工業が台頭する以前には、池貝が三菱、新潟鉄工所とともに、「日本の高速ディーゼルの先行3社」という、重要な位置を占めていた事とともに、(web19)による見解では、小型・中/高速ディーゼルへと至る日本企業の技術的な変遷は、池貝鉄工の活動の軌跡を辿ることで、その多くが把握できるようなのだ。以下も((web19)P19)より、
『小形ディーゼルには固有の困難があり出現も遅い事、大形・中形機関技術から小形高速ディーゼルヘの途とガソリン機関技術からの参入、という2大参入経路があった事、無気噴射技術の確立が極めて重要であった事、これら全てを一企業史の中に凝縮させている例として池貝鉄工所(以下池貝)発動機部の歩みに勝る索材はなく、しかも、それによって又世界的な技術の流れとの比較も可能になるのである。』
 以下、自分が拙い説明文を記していくよりも、山岡氏の((web19)P21)から書き写した、池貝鉄工発動機部(後の池貝自動車)の歴史を綴った表(一部省略しているのでその簡略版だが)をご覧いただいた方が、理解が早いだろう。この表をご覧いただいたうえで、引き続き、主に(web19)からの次の引用文をお読みください。
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 池貝鉄工所(現在は「株式会社 池貝」。1970年代以降、数度の経営不振、再建、中華人民共和国の上海電気集団総公司の傘下を経て現在は台湾の友嘉実業集団傘下の非上場会社となった。)は、明治時代に日本の工作機械の父と言われた池貝庄太郎によって設立された老舗企業だ。国産初の旋盤、ディーゼルエンジン量産、最初期のNC加工工作機械製造など、日本近代製造業の歴史に名を刻む企業でもある。(以上wikiより)
(下は池貝のHPより「国産 旋盤 1号機」で、「機械遺産第53号」として国立科学博物館に展示されているようだ。また第一次大戦中に、池貝式8フィート旋盤5台をイギリスに、次いでロシア向け8フィート旋盤75台を輸出したが、これが日本の工作機械の初輸出だったという。(web35)
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http://www.ikegai.co.jp/02tech/images/02.jpg
(またまた脱線するが、今回池貝についてnetで検索したなかで、以下のような記事に出くわした。(web(30-4))、(web33)によると、1938年満州国政府は、池貝鉄工所の現地子会社、「満州機械工業会社」に同国の工作機械工業を一元的に統制させることにしたという。池貝鉄工所の工作機械技術を利用して、本土に比べて遅れていた機械工業の底上げを狙ったもののようだが、満州の工作機械製作を事実上池貝鉄工所が独占するものこととなり、満州重工業の重工業独占と共に注目を集めたという。当時の池貝鉄工所の存在の大きさがうかがえる。下の写真は(web33)からのコピーです。)
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 しかしその一方で、戦前の日本の機械工業の大きなネックは、素材の品質と、国産工作機械の性能の低さだったと、多くの本で記されている。1940年、ABCD包囲網によりアメリカが工作機械の対日輸出許可制(事実上の禁止)を通告したため、日本は性能で大きく劣る国産工作機械のみで軍需産業を支え、太平洋戦争を戦う事態に陥ってしまう。以下((web30);「戦前のエンジン技術」)より引用
『日本のエンジンは、同一部品の大量生産品ではなくて製造工作機の精度が無いのでピストンなど高温高圧を封じ込めながら稼動する部分は、一ピストンずつ熟練工員がやすりで少しずつ削って合わせる手作業で作られていました。国産機械の摺動面磨耗は米国製品の十数倍で、わずか1,2ヶ月で精度が急速に低下した。精密な歯車などは米国製の輸入機械でしか作れずドリルなども外国制ドリルが楽々と開ける穴を和製ドリルでは数倍の時間がかかり次々に折損した(奥村正二、月間紙「バウンダリー」連載(専門は技術史)旋盤などの簡単なものは国産できたが、歯切板、フライス板などの高級工作機械は模倣すらできなかった』という。 以下(web34)より引用
『昭和11年(1936年)豊田自動車を訪問した寺内陸軍大臣と豊田喜一郎のこの会話は当時の政治家が如何に工作機械に対する見識がなかったかのエピソードとして未だに語り草になっている』という。
・陸軍大臣:「将来自動車はいくらでも要るからドンドン作ってもらいたい」
・豊田:「現在、私の工場でもいくらでも作りたいと思っておりますが、自動車を作る工作機械の大部分外国から輸入しております。外国から輸入出来なくなりましたら自動車を増産するにも出来ませんから、自動車や飛行機を保護奨励するより工作機械を保護奨励して頂きたい」
・陸軍大臣:「そんなものなら早く作ったらよいではないか」』

対する日産の鮎川義介がアドルフ・ヒトラーに面会した際に(1940年3月)、ヒトラーから『貴方の国が如何に努めてみても、我がドイツのような工作機械は作れないだろう。~』(web(30-5))と言われたという。
(自動車会社が製造ラインを立ち上げようとしたとき、歯車を外注でもしない限り設備としてなくてはならないのが、アメリカのグリーソン社(Gleason Corporation)の歯車加工設備だ。ドイツにもクリンゲルンベルグ(Klingelnberg)という有名メーカーがあるが、仮に歯車製造を外注しても、受入検査用に歯車試験機ぐらいは必要だろう。下はwikiより、ハイポイドギヤの図だが、そもそもグリーソンが開発したもので、ハイポイドギヤ自体がグリーソン社の商標登録品だ。)
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 話を池貝のエンジン部門に戻す。自家動力用の4馬力スチームエンジンを皮切りに内燃機関分野に進出、以来『財閥系重機メーカーをさしおいて据付石油発動機、ガス機関、舶用石油機関・注水式焼玉発動機・空気噴射式ディーゼル機関・無水式焼玉機関・無気噴射式ディーゼル機関等、中速機関国産化に次々と先鞭をつけて来た。加えて同社は大正5(1916)年以来、ガソリン機関製造を契機として高速機関の分野にも地歩を固めていた。(⑳P207)
(web35)の池貝鉄工の歴史年表をみれば、池貝が日本の内燃機関の歴史において、絶えず先陣を切ってきたことがわかる。
そしてもう一点、上の表が、示している重要なことがある。以下も((web19)P19)より、
『一時期,池貝によって代表された漁船用、小形舟艇用、自動車用、車輛用等日本の中・高速ディーゼル技術が空気噴射式の採用、無気噴射式の採用、高速ディーゼルにおける渦流室式の採用等についてズルツァ、ボーラー、ドイツ、オーバーヘンスリーなど、西欧メーカー製品の純然たる模倣によって成立した事を示す。』
 無気噴射式ディーゼルエンジンの開発の頃までは、正式な技術導入を伴わない、海外先進国の有力な製品に強く影響を受けた(≒模倣品)ものだったようだ。(もう一方の代表格である、新潟鉄工所は中速ディーゼルに関しては正式な技術導入を行った。((web19))
 しかしそうした長年の技術の蓄積があり、陸/海軍などから依頼を受けた高速ディーゼルエンジンの研究の過程で、次第に池貝独自の技術が編み出されていく。その開発を主導したのは、海軍で舶用ディーゼルの研究を行った後に、池貝に転じた今井武雄らによってであった。
 池貝が高速ディーゼルに手を染めるきっかけは、海軍の内火艇用石油発動機のディーゼを鉄道車両用高速ディーゼル機関であった。(③P118)そして『陸軍は,このヂィーゼルエンジンを自動車に搭載することを勧告し,その改善を命じた。』((web13)P152)
 リカルド・コメット型の渦流室式燃焼室を持つ試作エンジンの実験の中で、渦流室の容積を変えるために鉄片を挿入した結果、良好な性能が得られたことがきっかけで、焼金を備えた「池貝式渦流蓄熱式燃焼室」が誕生する。さらにはボッシュの特許を回避するために「池貝式燃料ポンプ」が考案されて、それぞれ特許を得る。(以上③P118)こうして池貝は独特の、渦流室式高速ディーゼルエンジン技術を持つに至ったのだ。
 自動車用の4気筒ディーゼルエンジンが完成すると、そのエンジンはピアース・アロー(Pierce-Arrow)の2~3t積のトラックに搭載されてテスト走行を行う。1934年だったから三菱の3年遅れということになるが、それでも2番手だ。
同年12月には『陸軍は三菱東京と池貝のディーゼル車を駆って東京-盛岡間運行試験を行っている。この時は三菱車の自家製ポンプが1回破損した。(③P118)』三菱はザウラー式導入前で、この時点では、三菱に一歩先行した印象を与える記述だ。『この結果と直接対応するわけでもなかろうが、昭和12年(1937年)、陸軍94式軽六輪トラック用制式ディーゼル機関として初の自動車用制式ディーゼルとなったのは、この4HSD10の後裔である。』(⑳P217)この件は後述する。
 国内有力企業が続々と名乗りを上げる中だったが、先行者としてノウハウの蓄積があり、アドバンテージのあったこの時期の池貝鉄工は、強豪ひしめく日本の高速ディーゼルエンジン界の最前線に立っただろうか。同年6月には『自動車部からディーゼル自動車を中心とした別会社、池貝自動車製造㈱が独立』する(⑳P337)終わってみれば短い間であったが、1937年は、池貝のディーゼルエンジンが、大きく輝いた瞬間だった。
(戦後の1951年に株式上場廃止に至った池貝自動車製造は、高度成長の到来を待つことも叶わず1952 年 12 月、小松製作所へと吸収合併された。コマツの川崎工場は、元々は池貝が1936年に、主に陸軍向けの自動車工場として建てたものだ。その時期からすれば、九七式中戦車用エンジン受注の野心も当然あったのだろう。しかしそのコマツ川崎工場自体も今はない。下の写真は「川崎工場全景空撮の歴史(1976年コマツ川崎OB会)」 http://www.komakawaobkai.sakuraweb.com/ よりコピーさせていただいた。工場の隙間を埋め尽くすかのように、黄色く見える部分が、コマツの巨大な建機だ。狭い構内をボヤボヤ歩いていると、巨大な建機の下敷きにされそうになる?!)
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http://www.komakawaobkai.sakuraweb.com/kawakou1976.jpg
 ここでもう一度、16.5項冒頭の表をご覧いただきたいが、同年(1937年)、陸軍自動車学校研究部(陸軍では戦車は原乙未生ら、陸軍省技術本部だが、自動車は陸軍技術学校が所管だった)の技師福川秀夫(後に陸軍技術大佐、戦後はJARI副理事長)は九四式軽六輪トラックのディーゼル化へ向けた水冷4気筒エンジンの試作及び供試品提出を、『当時のディーゼルメーカー全てに競争試作を呼び掛けた』(⑨P79)。陸軍の高速ディーゼルエンジンの統制化に向けた、大競争時代の幕はこの年、切って下ろされたのだ。
この呼びかけに、三菱重工業、池貝鉄工、新潟鉄工、神戸製鋼、東京自動車工業及び川崎車輛の6社が応じ、エンジンの試作に手間取り時間切れで未納に終わり敗退した東京自動車工業をはじめ、準備不足気味の他社を尻目に、先行メーカーとして機敏に対応した池貝の「蓄熱渦流式エンジン」、4HSD10XE型エンジンが選ばれる。栄えある『我国初の軍用自動車用制式ディーゼル機関となった』のだ。(⑳P212)この結果東京自動車工業は自社製のトラック用に、池貝仕様のエンジンを作らされるという屈辱を、しばらくの間、味わう羽目に陥るのだ。(下の図は((web23)P9)図7より、「池貝 4HSDD10XE ディーゼル機関」)
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https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcR-7rHkEjFC3dbKn_qVh7sH86jxvzwLExEnkA&usqp=CAU
(前項で記したように、九七式中戦車搭載エンジンを巡る三菱との戦いに敗れた池貝に対する救済処置として、陸軍は九七式軽装甲車(いわゆる“豆タンク”)用空冷エンジンを、単独発注する。この決定も1937年だ。『同車は他社分担分を含め、「相当数」600 両前後製造されたようであり、派生車型も少なくなかった』((web23)P26)というから池貝としても良い商売だっただろう。
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 しかし、(web23)の評者によれば、九七式系装甲車に搭載された、AHSD10XE型より一回り大きい空冷版の兄弟エンジンは、後年の研究によれば『「蓄熱式」とは形容し難いごくありきたりの渦流室を有する気筒頭と気筒胴とが一体に鋳造された如何にも苦し紛れの設計を体現する空冷ディーゼルであった。』((web23)P27)と、かなり厳しい評価だ。「池貝=“渦流蓄熱式”」というのは誤ったイメージであった?同論文から引用を続けると、池貝特許の自慢の「池貝式ポンプ」も、『~如何にもボッシュの特許回避を目的として開発されましたと言いたげなシロモノであった。然しながら、デリバリーバルブや噴射量調節用補助プランジャに切られたリードなどはボッシュ B 型そのものであり、よくこの程度で特許回避が出来た(?)ものである。』((web23)P18)さらに『噴射ポンプには Bosch B 型と池貝式とが併用された。池貝機関には池貝式ポンプというのは誤った先入主である。』((web23)P17)実際には池貝エンジンにも、自社製でなく性能や耐久性で勝る、ボッシュ製ポンプを搭載していた場合の方が多かった?
 ただこの項に掲げた二つの表が示しているとおり、池貝は日本の中/高速小型ディーゼルの世界で、絶えず先陣を切って未開の道を開いてきたが、陸軍からの大きな需要を前に新規参入してきた、資本力と技術力に勝る強力なライバル企業と対抗するために、精一杯の背伸びをした結果であったのだと理解すべきかと思う。多少、虚勢を張ったかもしれないけれども。
池谷のエンジン技術をリードした今井武雄は、戦後(1969年3月)の自工会主催の座談会で、当時の状況を振り返り、『統制エンジンになってからは、全くよくなりました。』(③P126)と、率直に語っている。(上と下の2枚の画像は「戦車のようで戦車じゃない 戦車の代わりに歩兵を助けた“豆戦車”「九四式軽装甲車」」
(https://www.excite.co.jp/news/article/Trafficnews_112447/?p=4)より、
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 池貝のエンジン部門にとって、たぶん最良の年であった1937年が終わりを告げると、16.5項の表が示すように、あっという間に東京自動車工業(いすゞ)の時代がやってくる。統制エンジンを巡る一連の戦いは同社の完勝となり、池貝自動車製の自主開発エンジンも、次第に統制型エンジンに置き換えられていき、その過程で自社の技術開発力も、徐々に失われていったようだ。同じくいすゞ系の統制型エンジンの前に完敗を喫した、後の三菱ふそうや日野自動車の技術陣のように、戦後その屈辱をバネに、逆に大きく跳ね返すような力は生まれなかった。
『戦時体制下において同社は陸軍造兵廠の管理下に置かれ、一時期三菱重工業の系列下に編入されたりもした。~こうした過程で同社は~ガソリン同車開発以来の、更にはディーゼル同車やディーゼルバスの分野でも開拓されかけていた鉄道省との関係を失う羽目に陥る。』“国鉄一家”の恨みは恐ろしいのだ。三菱も、戦後は国鉄の動車の世界から疎遠となり、新たにダイハツディーゼルなどが台頭してくる。引用を続ける。
『そして戦後、池貝自動車は極めて中途半端な境涯に取り残され、苦難の道を歩まざるを得なくなる。』(⑳P357)戦時体制下の時代の流れで、陸軍向けの軍需関連に特化していった池貝だが、そのことが裏目に出て、戦後それらの需要を一気に失ってしまう。
 その一方で、三菱、池貝とともに国産高速ディーゼルの先行3社の一角を占めていた新潟鉄工所は、そのディーゼルエンジンの『適応領域は鉄道車両分野に限定され、自動車や戦車には目立った進出を行っていない。』(⑳P127)地道な道を歩む『新潟では量産工場としての自動車工業に参入することは企業規模から見て不利と判断したようである。』(⑳P217)
 同社製の自動車用ディーゼルエンジンは、ある時点では、なかなか侮りがたい性能を示したようだ。たとえば1937年の陸軍自動車学校からのディーゼル乗用車用エンジンの競争試作は、三菱東京/神戸、新潟鉄工所、神戸製鋼、東京自動車で争われ、最終の三次テストまで勝ち残ったのは新潟と東京自動車の2社だった。結局敗退してしまうのだが(⑨P83)。しかし深入りすることはなく、『むしろ同社の高速ディーゼル機関においてはLH8X及びLH6Xを基盤とする国鉄同車用制式ディーゼル機関DMH17、DMF13への濃いつながりばかりが際立っているのである。』(⑳P218)
 戦前からの布石が生きて、国鉄一家の御用達企業の一つとなった新潟鉄工所と、孤立無援になった池谷自動車は戦後、こうして明暗を分ける結果となった。(国鉄形気動車の定番ディーゼルエンジンとなるDMH17型は1951年から製造が始まり、改良を続けながら一般形気動車から特急形気動車まで幅広く採用されたという。ちなみにその名称は、DMがディーゼルエンジン (Diesel Motor)、Hは8気筒で(アルファベットの8番目)、17は総排気量が17ℓであることを表すそうです。下の写真は千葉県の小湊線、五井駅に停車中のキハ205(1964年に製造)で、DMH17型を搭載した現役車輛だ!写真は(https://plaza.rakuten.co.jp/wasabikuma322/diary/201901230000/)より。)
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(下は新潟鉄工所が開発を主導した、DMH17C型ディーゼルエンジン(180㏋)で、まだ現役とのことだ。当時としては優れた設計だった統制式発動機系の技術は、陸軍が強く関与したからか採用されなかったが、性能はともかく、少なくとも丈夫なエンジンだったことだけは確かだったようだ。画像と文は「気動車王国千葉」を支えた DMH17 形ディーゼルエンジン」よりコピーさせていただいた。DMH17シリーズは『全国で総計1万数千台も製造され昭和 40 年代末までのほとんどの気動車に搭載された、日本を代表する鉄道用エンジンです。』http://www2.chiba-muse.or.jp/www/SCIENCE/contents/1518491068713/simple/057.pdf
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(池貝の話題の余談だが、上の表中の「焼玉エンジン」という言葉を久しぶりに目にして、もはや忘れかけていた「ポンポン船」の発する、どこか長閑なエンジン音の記憶が急に蘇ってきた。この表を書き写す作業をしなければ、あるいはもう、一生思い返すことはなかったかもしれない。
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上下2枚の写真と以下の文はhttp://toyokonakayama.web.fc2.com/tabi2.html よりコピーさせていただいた。『焼玉エンジンを知っている方は、どのくらいいるでしょうか、昭和35年位までは焼玉エンジンを搭載した船がポンポンポンと音を立てながら走って行くのうを見たことがあるでしょう。今ではもう博物館しか見る事はできないでしょう。
焼玉機関とは、ディーゼル機関と良く似ていて、シリンダー内に燃料を噴射して自己着火により燃焼させますが圧縮比を高くできないためシリンダー頭部に焼玉を入れる部屋を作り玉を入れバーナーで予熱して燃料に着火する燃焼機関です。記憶の元で思い出しながら図を書いてみました。下の図(焼玉エンジンの構造図)です。』焼玉エンジンは、「セミディーゼル」という言い方もされてきたようだ。①の赤い部分がその「焼玉」だ。

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 池貝や新潟や赤阪鐵工など上昇志向のある企業は、焼玉エンジンから早々に卒業し、ディーゼルへと移行したが、戦後の日本では全国各地に、中小の焼玉エンジンメーカーがあったようだ。下は「ジャパンアーカイブス」より、「1947年(昭和22年)、漁船用焼玉機関エンジン」の広告だ。
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 この項の最後に、誤解のないように記しておきたい。池貝自動車製造は1952 年 12 月、小松製作所へと吸収合併されてしまうが、本体の池貝鉄工所は現在、「台湾の工作機械大手の友嘉実業集団(FFG)」のグループ企業「株式会社池貝」として、「工作機械・産業機械の製造、子会社を通じてディーゼルエンジンの販売を行う機械メーカー」として健在だ。大型工作機械を得意としているようで、現在も盛んに活動を続けている。2005年に分社化された子会社の「池貝ディーゼル」は、MAN社との提携により日本でMAN社の船舶用エンジンをライセンス輸入販売、メンテナンス等を行っている。(以上、池貝のHP他より)
(下の写真はwikiより練習船「日本丸 (初代)」」(ちなみに同名の船が各種存在する)から、横浜のみなとみらいにある、「日本丸メモリアルパークで総帆展帆した日本丸」。以下の説明文は池貝のHPより、『日本丸のエンジンは、焼玉エンジンを作っていた池貝鉄工所(現 池貝)が開発の依頼を受け、池貝鉄工所の川口工場では何度も何度も試作品が作られました。やっと完成したエンジンは、日本初の舶用大型ディーゼルエンジンとなり、1984年9月まで日本丸の中で54年間にわたって活躍し、航走距離は、98万5475海里(182万5100㎞)にのぼり、世界一の稼動年数記録を打ち立てました。その稼動時間54年2月20日4時間7は、船舶用エンジンとしては世界一と認定され、1988年版ギネスブックに記録されました。』あくなき挑戦を続けた池貝の偉大な足跡を、今日に伝えている。)
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16.5-3陸軍と東京自動車工業主導による統制型ディーゼルエンジンシリーズの確立
 まずはwikiの書き写しに近いが、この項の概略を記す。
 統制型ディーゼルエンジンは、陸軍省技術本部の原乙未生(当時中佐)を中心として1930年代後半から計画され、1939年(昭和14年)~1940年(昭和15年)に車両用高速ディーゼル機関の共通仕様が陸軍省(軍需用)により、1941年(昭和16年)には商工省(民需用)により策定された。その目的は性能、生産効率の向上、ならびに部品補給の効率化を達成しつつ、併せてコストも下げることで、それまで各社各様だったエンジンの仕様を、ボア、ストローク、燃焼室形式を統一した共通のエンジン規格として制定した。(以上wiki参考)
 ここで統制型ディーゼルエンジンに集約される前の状況を確認しておく。前項で掲げた表が示すように、当時自動車用高速ディーゼルエンジンに参入した企業は錚々たる顔ぶれで、それぞれが己の信じる燃焼室等の仕様を掲げて百花繚乱の如く、覇を競っていた。三菱に至っては同じ重工内でも直噴派(航空機系)と予燃焼室派(造船系)に分かれて競い合い、自社内ですら一本化できず、陸軍の競争試作の際には両派のエンジンを参加させたほどだ!各陣営とも、自社技術の優位性を示すための、プライドをかけた戦いを繰り広げていたのだ。
 先に16.3-6項で記したように、商工省と陸軍省は、国内ディーゼルエンジン業界の事情聴取を、8社(東京自動車工業、三菱重工、池貝自動車、神戸製鋼所、新潟鐵工所、久保田鉄工所、川崎車輛、日立製作所)に対して行ったが、そのうちの東京自動車、三菱、池貝、川崎、日立の5社がそれぞれ単独で、本格的なディーゼルエンジンの量産化に乗り出す姿勢を示していた。『技術統合に対する障害=高速ディーゼル各社が負けず劣らず有していた自己技術過信癖に抜本的な改革のナタを揮える者は当時陸軍をおいて他に無かった』(⑳P254)のは確かだが、陸軍はかかる状況下で、具体的にはどのような過程を経て、統制エンジンによる一本化まで辿り着いたのか。

 各社の基礎技術を磨く重要な役割を果たした、分散発注時代を経たのち、技術本部の原乙未生と自動車学校の福川秀夫を中心とする陸軍側は、そのエンジンの選定の際に、国内の(ほぼ)すべてのメーカーに陸軍の欲する仕様書を提示して、参加を希望するメーカー側に要求仕様に従った設計図と開発仕様書の提出を求めた。このうち燃焼室の形式等は指定せず、各社技術陣のプライドを尊重したうえで、その技術を同じ土俵の上で競わせた。陸軍側は内容を精査の上で承認図として認め、このうちの数社に実機を試作させ、優秀なエンジンを制式のものとして採用し、量産化させた。(②P15参考)
 4回にも及んだ試作競争時代の、その優劣を決める実機試験は、台上試験以外にも運行試験や寒地試験、代替燃料試験などが行われ、このうち運行試験は各社公開の下で行なわれたという。以下(⑮;「ふそうの歩み」P82)より、
『自動車学校の試作は、殆ど毎年、仕様が変わって発注されたが、その優劣判定はエンジン単独の台上試験もさることながら、路上運行試験の成績も大きな要素であった。それにはメーカーからも参加が許され、設計、現場双方から出張して故障にも備え、他社の様子も見るという具合であった。運行試験立会の際には各社別の乗用車を連ねて試験車の後を行列して追って行き、どの会社のエンジンは故障したとか、どこそこの登坂では何社のエンジンの排気が一番淡かったとか、濃かったのはどこであった等と話し合ったものである。当時この様な場合、よく顔を合わせたのがいすゞの前社長の荒牧寅雄氏、新潟コンバータの現相談役松本国男氏、池貝の宮田氏等であった。』この文面からもうかがえるが、その選定は、かなりオープンかつ公正に行われ、そのため各社とも、その結果には納得せざるを得なかったのだろう。以下は(⑳P254)より、
『そこへ到達するまでには技術導入の促進や競争試作指示を通じた階梯が慎重に設けられた。とりわけ競争の機会を十分に発動させ、そこから統制へと導いた過程は陸軍統制発動機が有する歴史的意義を一身に担うもの、と言えよう。』

 しかし陸軍がいくら、統制型ディーゼルエンジンの全体図を巧妙に描いても、受け手であるメーカー側が、その構想に相応しい性能のエンジンを作らねば、“絵に描いた餅”に終わってしまった。次から記す、東京自動車工業の優れたエンジンが誕生して初めて、その歴史的な評価を得られたのだ。下の表と、以下の解説も手抜きでwikiからの転記です。
『統制型ディーゼルエンジンは、4サイクル機関であり、基本的にはボア(内径)、ストローク(行径)、燃焼室形式を統一した一種のモジュラー構造を想定していた。軍用として直列4気筒・直列6気筒・直列8気筒とV型8気筒・V型12気筒のエンジンが製造されて、戦車などに搭載された。また主に民需用として単気筒・直列2気筒・直列4気筒・直列6気筒・直列8気筒の水冷エンジンも製造された。後に海軍の特殊潜航艇「海龍」の搭載機関としても使用された。
空冷・水冷の両バージョンがあり、戦車や装甲車両用としてはシロッコファン冷却による空冷式が、また牽引車や自動車用、民需用としては水冷式が一般に用いられた。統制型一〇〇式エンジンは、標準規格では6気筒で120馬力、12気筒で240馬力を発揮した。統制型一〇〇式エンジンに過給器を装備した試製エンジンは6気筒では150馬力、12気筒では300馬力を発揮した。過給器を装着することで約15~25%出力を向上させることが可能であり、各種試作されている。』

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Wikiの引用を続ける。『統制型ディーゼルエンジンの基となったのは自動車工業(1937年(昭和12年)に東京自動車工業、1941年(昭和16年)にヂーゼル自動車工業に改名。後のいすゞ自動車、日野重工業の前身)で伊藤正男らによって開発された予燃焼室式を採用したDA40型水冷6気筒ディーゼルエンジン、DD6型水冷6気筒ディーゼルエンジン、及び予燃焼室式のDA6型空冷6気筒ディーゼルエンジン、DA10型空冷6気筒ディーゼルエンジンなどである。特にDA40型は排気量5,100cc、出力85馬力と当時のディーゼルエンジンの中では優秀な性能であった。これらのエンジンをベースに開発された統制型ディーゼルエンジンの技術が各社に開示されることとなり、東京自動車工業、三菱重工業、池貝自動車、日立製作所、新潟鉄工所、興亜重工業、昭和内燃機、羽田精機などの企業が生産を担当した。』(以上wiki)
 自動車用は“本家”の東京自動車工業(ヂーゼル自動車工業)のみが製作することになったが、戦車用、牽引車用等その他の用途のエンジンは東京自工の伊藤正男の図面を基に各社が共同で図面を作成し、製造を行った。
 以下からは、ディーゼルエンジンに関しては後発組でありながらも、技術的に大躍進を遂げて、統制型ディーゼルエンジンのいわば、基盤技術を創り上げるに至った、東京自動車工業による戦前のディーゼルエンジンの開発の歴史を簡単に辿っていきたい。
(下はDA40型ディーゼルエンジン。画像はJSAEより。戦後も連綿と改良を加えながらも、復興期の日本の物流を、文字通りエンジン役として縁の下で支え続けた。戦前の日本の自動車技術を代表する名エンジンだったと思う。以下もJSAE日本の自動車技術330選(web39)より、『商工省からも統制型に指定され、軍用のみならず民需のトラック、バス用として戦中戦時期に日本を代表する量産型ディーゼルエンジンとなり、戦後も永らく輸送革新の主力として活躍し、排気量増、改良を繰り返し半世紀近い賞品寿命を保った。・いすゞディーゼルエンジンの源である。』いすゞの、というよりも、日本の高速ディーゼルエンジンの源でもあった。)
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https://www.jsae.or.jp/autotech/photos/10-2-1.jpg

16.5-3.1「ディーゼル機関研究委員会」の発足
 下表は「日本のディーゼル自動車」(引用⑳)のP279から転記(一部省略)したもので、自動車工業株式会社(何度も記したが石川島とダットの合併会社で実質的には石川島系。後に瓦斯電と合併して東京自動車工業、ヂーゼル自動車工業へとつながる)の技術陣によって開発され、統制型エンジンへと至る、主なディーゼルエンジンの系統図だ。以下からは大筋、この表に沿って説明していくが、その内容は(web22)、⑨と⑳の大幅な簡略版に過ぎないので、正確にはぜひそちらをご覧ください。
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 まずディーゼルエンジンの開発が本格スタートした、1934年頃の「自動車工業」(念のため、社名です)の、立ち位置を確認しておくと、いずれ瓦斯電と一体になるという大前提があったが、商工省と陸軍から唯一の国策の重量級トラックメーカーとして、いわばお墨付きをもらいつつあるところだった。しかしその一方で、陸軍が、重量車のディーゼル化を推し進めようとし始めていた中で、同社はこれまで、ディーゼルエンジンの研究に取り組んだことがなかった。
 そんな中で、国産高速ディーゼルエンジンの技術の底上げのため、『陸軍技術本部は幾つかのメーカーに各社が取り組み易いよう使用目的、サイズの異なる別個のテーマを与え、開発を即そうとしていた。』(⑨P59)
 既述のように中戦車では三菱重工業と池貝鉄工所、牽引車では瓦斯電(13t)、新潟鉄工所(8t)に対して開発目標を与える。そして自動車工業に対しては、『5t牽引車用空冷ディーゼルエンジンの開発という目標を提示する。』(⑨P58)
 上記のメーカーのうち、三菱と池貝、新潟の3社は、何度も記したが高速ディーゼルエンジン分野の国内先行メーカーで、瓦斯電も既に経験を積んでいた(⑯P31によれば、本格的に研究を開始したのが1930年ごろ、1933年にリカルド・コメット式渦流室式100㏋ディーゼルエンジンを完成させたとある)。さらに先行3社に加えて日立製作所、川崎車輛、神戸製鋼所などの有力企業が、自動車工業がガソリンエンジン車で築いた既得権益を、自らのディーゼル技術をもって打ち破るべく、その参入の機会を虎視眈々と窺っていたのだ。
 そのため陸軍からの5t牽引車の引き合いは、自動車工業としては『これはディーゼルに関しては後発の同社にすれば絶対に逃してはならない最初で最後の機会であった。』(⑳P227)国策のトラックメーカーとしてのお墨付きは、ガソリンエンジンのトラックに対してであって、ディーゼルに対してはこの段階では、何らの保証もなかったのだ。
 1933年(昭和8年)5月、自動車工業は、5t牽引車用空冷ディーゼルエンジン開発に向けての第一歩として、ベンツ(OM67型6-110×130、95㏋/2000rpm、予燃焼室式)、MAN(DO540型6-105×140、65㏋/1800rpm、空気室式)、ドルマン・リカルド(4JUR型4-102×130、85㏋/2000rpm、渦流室式)の3台のサンプル用エンジンを購入、ディーゼルエンジンのテストを開始し、翌1934年8月、台上及び分解試験を完了する。同年7月以降には、クルップ(M601型、空冷水平対向4-90×130、予燃焼室式)、オーベルヘンスリー(型式不詳4-90×130、蓄熱渦流室式)の試験も追加される。
 ここで注目すべきは、5台のサンプルエンジンのなかに、直噴型エンジンが1台も含まれていない点だ。しかも一連のテストは『自動車工業と陸軍技術本部車輛班との共同で実施された。』(⑳P227)とあるので、この選択には陸軍の意思も当然、反映されていたはずだ。理屈の上からは出力も高く、燃費も良い(ハズ)だが、当時は尖った特性のエンジンだった直噴式は、戦車用として三菱が先行して研究を行っていた。陸軍としては、自動車メーカーである自動車工業向けには、よりマイルドな特性を持ち、燃料性状に過敏でない副室式を割り当てたかったのかもしれない(ワカリマセン)。
 そして1934年7月27日、自動車工業二代目社長、加納友之助(第一銀行出身)の指示で、「ディーゼル機関研究委員会」が、三十万円という、当時としては破格の予算の裏付けを基に発足する。加納の思いは、面前の5t牽引車用空冷ディーゼルエンジン開発成功はもちろんのこと、それを足掛かりに、『日本自動車工業生き残りのために必要な体外競争力、及び資源の面から見た存立基盤という2つの制約条件に即して速やかにディーゼル自動車工業確立への展望を拓け、というものであった。』(⑳P227)
 かみ砕いて言えば(以下⑨P38、(web36)P3参考)、年産 500万台規模に達している大量生産のガソリン車ではアメリカ車に到底太刀打ちできないが、欧州で研究が始まったばかりの、発展途上の自動車用ディーゼルならば、追いつくことはあながち不可能とは言えない。日本の燃料問題の将来を考える上でも、我社(自動車工業)はディーゼルの研究に力を入れるべし、ということであった。
委員会のメンバーは、ウーズレー時代から技術部門を支えた取締役の石井信太郎委員長以下、楠木直道(後にいすゞ自動車2代目社長)、荒牧寅雄(〃4代目社長)、伊藤正男ら精鋭9名だった。
(下は自動車工業2代目社長、加納友之助。画像と以下の略歴はwikiなどより、「帝国大学法科大学を卒業後、1897年農商務省に入り参事官として商工局に勤務。1902年(明治35年)に政府委員として欧州各国を巡視。のち退官して住友銀行に入行、 東京支店支配人、本店支配人、常務取締役を歴任し、東海銀行(ただし有名な東海銀行とは別らしい)頭取に転ず。金融恐慌に際し同行が第一銀行に合併した際、その取締役に就任。その後自動車工業社長に転じる。」)
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「ディーゼル機関研究委員会」に込めた、加納友之助の“思い”は、いち民間企業のスケールを超えたものであったように感じられる。その職歴は農商務省の商工局という、商務省の前身からスタートしており、加納のその“思い”は、あるいは、日本の自動車産業をいかに確立するか、日夜腐心していた当時の商工省や陸軍と共有したうえでの“思い”だったのかもしれない。
トヨタ自動車のHPの「トヨタ自動車75年史」には「自動車工業確立ニ関スル各省協議会」という、商工省工務局主催の会合の様子が幾度か書かれているが、その中で豊田喜一郎、鮎川義介とともに、加納友之介(自動車工業社長)が度々意見を陳述したことを記している。
『結果的には、実際に自動車の量産を目指して工場建設に着手していた豊田自動織機製作所と、日産自動車が当初の許可会社に指定されることになる』(web37;「トヨタ自動車75年史」)のだが、自動車の大量生産を目指した工場建設など、当時の自動車工業の財政事情では、オーナー経営者でもない加納の立場では到底許されないけれども、ディーゼル技術の確立=世界に通用する日本のトラック産業の確立、という別のアプローチからの大志を胸に、サラリーマン経営者として、30万円という精一杯の予算を投じた。ここでケチらなかったことが、試行錯誤の連続だった後のエンジン開発に余裕が生まれ、成功に導く大きな要因となった。
 次項で記すが、その試行錯誤の末に、九十二式5t牽引車(乙)用エンジンのDA6型は十分な性能を示し、陸軍技術本部の審査を受けて、無事制式化されるのだが、『銀行屋上がりながらその慧眼によって日本の自動車工業が進むべき一つの途を指示した加納はDA6の完成を見届けた八月十四日(1936年)、在職のまま世を去った。』(⑨P70)
さて以下からは、上記の系統図に従い、統制型ディーゼルエンジン開発の立役者であった伊藤正男の証言(web22;「日本の自動車用ディーゼルエンジンの基礎を築いた設計者 伊藤正男」JSAEインタビュー」)+⑳、⑨を参考に記していきたい。

16.5-3.2 伊藤正男と「DA6型」空冷ディーゼルエンジンの開発
 まず始めに、伊藤正男の略歴をwiki等を参考に記すと、1932年に明治専門学校(現九州工業大学)工学部機械工学科卒業後、陸軍運輸部(広島県宇品)勤務(1年期限の臨時雇いだった)を経て、陸軍工兵中尉だった桜井一郎の口利きで、1933年12月、自動車工業に入社する。不況下で入社当初はここでも臨時傭員の待遇だったという。(⑨P33)
 しかし陸軍運輸部時代に、桜井の助手として陸軍上陸用舟艇用の三菱直噴ディーゼルエンジンの整備を担当していた((web22)P60)関係から、「ディーゼル機関研究委員会」の9人のメンバーの末席に加えられた。なにしろ、『当時、いすゞにおける唯一のディーゼルエンジン経験者』(⑨P57)であったのだ!
 さらに、これも信じがたい話だが、伊藤の『先輩連中は陸軍の要求する応用車、今日の言葉で表現すれば特装車の設計に追われていた。~外国製ディーゼルエンジンのテストがはじまった当初から、その任についたのは、荒牧、平岩、そして伊藤の僅か三名であった。』(⑨P55)しかも平岩は間もなくその任務から外れ、荒牧はディーゼルエンジン研究のための外遊準備に追われる中で、同じ設計部内の同僚として、当時の状況を知る三浦光男(後にいすゞ特装部長)の証言によれば、当時の自動車工業内で、実質的に『ディーゼルエンジンを開発したのは伊藤正男ただ一人ではないか』(⑨P55)と後に語っているのだ。
 しかし伊藤正男の側からすれば、潤沢な開発資金があるうえに、かなりの自由裁量も与えられた、理想に近い開発環境を手に入れたことになる。
 話を戻し、輸入エンジンのテストの結果から、ベンツの予燃焼室式が燃料に対してもっとも広い許容力を示し、MANの空気室式及び、オーベルヘンスリーの渦流蓄熱式の運転が静粛だったこと、逆にドルマンリカルド型渦流式は騒音が大きかったこと等がわかった。(⑳P229)伊藤は『運転の静粛さという点でMANの技術には「頭の下がる思い」だった』(⑨P57)と語っている。
 以上の試験結果を踏まえて、『MAN空気室式を模した単気筒、4及び6気筒空冷エンジンが試作されることになる。』(⑨P59)設計着手は1934年11月、図面を引いたのは荒牧だった。荒牧は「九四式四屯牽引車」用エンジンで、空冷をすでに手掛けていたので仕上がりは早かった。最初に完成したのは6気筒型の「ADL6」で、エンジンの火入れ式は1935年5月27日だった。(下の写真は「九四式4トン牽引車の整備風景。」V8の空冷ガソリンエンジンを搭載していた。陸軍による空冷ディーゼルの開発依頼は、ガソリン版ですでに空冷をこなしていたその実績をかわれた面もあった。画像は
http://www3.plala.or.jp/takihome/mixi/diary/1763941/979571.htmlより)

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http://www3.plala.or.jp/takihome/mixi/image/photo/789184291.jpg
 しかしそのエンジンは『負荷をかけていくと発煙し、出力が頭打ちになる状況に陥る。』原因究明のために新たに購入した『マイハック高速指圧器』という、エンジンのサイクル内の筒内圧変動が判る、最新の計測器の導入により、負荷運転中に圧力漏れが発生していたことを突き止める。この計測器を手にしたことが、その後の燃焼室の設計・開発に威力を発揮したようだ。ちなみに三菱の大井上はフォンボロ指圧器という、平均値型を使っていたという。(以上⑨P60)
 結局単気筒エンジンでの基礎実験からやり直すことになるが、悪戦苦闘の末の『最大の変更点はシリンダヘッドから副室を排除して構造を単純にし、熱変形が少なく、かつ冷却風の通りが良い形状とし、温度が高く熱変形の元凶となる副室をシリンダ上部に移したことである。』(⑨P62)そのためMANのような空気室式が成立しなくなり、渦流式と予燃焼式を比較し、予燃焼室を採用することになる。
 その後の開発ストーリーは、ここでは大半を省略するが、(web22)をはじめ、⑨や⑳に詳しいのでぜひ参照してください。以下は伊藤自身の言葉だ。
『シリンダーやシリンダーヘッドの熱変形にも随分悩まされましたし、所期の出力を得るために、スワールチャンバー(渦流室)でいくかプレチャンバー(予燃焼室)でいくか、あるいはまた、プレチャンバーの形、位置、角度などをどうしたらいいのか、試行錯誤の連続でした。』(⑨P68)
DA6の開発ストーリーにはやたらと「試行錯誤」という言葉が多くなるが!燃焼方式を予燃焼室式に切り替えるなど、試みられた燃焼室及びシリンダヘッドはなんと、「五、六十種類(荒牧)とも「何十種類も」(伊藤)」』(⑨P66)とも言われている。以下も伊藤の証言だ。(⑨P67)『我々の時代は、自分でエンジンをテストして、まずければまた事務所に戻って図面をひいて、それを機械現場の人に造ってもらって、また回してみるということの繰り返しでした。』
 今どきのように燃焼の可視化技術やシミュレーション技術などない中で、伊藤のようなセンスのある技術者が燃焼室内の燃焼状態をイメージさせながら、トライ&エラーを重ねつつ、解を求めていくしかないのだが、試行錯誤の結果の、試作部品のスクラップの山を前に、当然ながら現場は嫌がるはずだ。
『けれども(工作課員が嫌がるので設計課員である)私が試作伝票を持っていくとみんな喜んでやってくれました。私が鶴見の野球部のエースだったからなんです。』!現場のヒーローでもあったようだ。ただその分、貴重な休日が野球部の練習に削られてしまったようだが、このスピード感ある開発スタイルが、三菱他、他社にはなかった要素だったと思う。
 しかしその一方で、伊藤たち設計陣も「自動車屋」として、『出来る限り加工し易い、修理し易い設計を心掛けた。前もって生産技術担当者に教えを乞うことも一再ならずあった。』(⑨P73)後述する“競争試作時代”に圧勝した要因の一つとして、荒牧と伊藤は製品品質の差、ひいては生産技術の差を掲げている。他社は手仕上げだったが、自動車工業の試作品は精度が格段に高かったという(⑨P83)。(下の写真はいすゞ自動車のHPより、「空冷DA6/DA4型ディーゼルエンジン完成」)
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https://www.isuzu.co.jp/product/i_engine/industrial_engines/about/images/pic_da6_da4.png
 今日、伊藤正男がその偉大な功績から「日本のディーゼルエンジンの育ての親」と呼ばれている所以は、エンジン開発者として、生来のセンスの持ち主だったことがまずあったが、その潜在能力をフルに引き出せる環境にあったことが、自動車工業/東京自工&伊藤自身を成功へと導いた。
 その要素として、大枠としては、全体図を構想し、その成長を裏から支えつつ見守った陸軍側の支援があり、さらに前項で記した加納友之助社長ら首脳陣も陸軍・商工省と連携して大きな絵を描き、ヂーゼル機器の創設を含む全体の体制を整えたことがあった。
さらに伊藤自身の人徳もあったと思うが、上司の楠木、荒牧らだけでなく現場の支援も含めて、自動車工業社内での連携が良好だったことも、成功へと導いた、大きな要素だったと思う。サラリーマン経験者であれば、わかる話だと思いますが。
(伊藤正男の写真をネットで検索すると、「自動車用ディーゼルエンジンの育ての親」として没後、自動車殿堂に選ばれたときの、正装をしたかしこまった姿しか出てこない。ただ何か、イメージが違う気がして、ここでは⑨P164の写真をスキャンさせていただいた。昭和31年(1956年)、寛いで隣に座るのは岡本利雄(後のいすゞ自動車5代目社長)だ。)
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(下は「いすゞプラザ」に展示されている「スミダDA4型ディーゼルエンジン」。多少“化粧”ぐらいしているのかもしれないが、“商品”らしい外観だ。画像は「4Travel.JP」より)
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 こうして1936年3月、DA6型(6気筒)とDA4型(4気筒)空冷ディーゼルエンジンが完成する。DA6は九二式5t牽引車用エンジンとして陸軍技術本部の、DA4は九四式六輪自動貨車用エンジンとして陸軍自動車学校の審査を受けた。DA6は制式化され、DA4も試験にはパスするが、自動車用は水冷にするという、陸軍側の方針転換により、試作のみに終わる。(下はその、「九二式5t牽引車」画像は上の写真と同じ引用元で、「堅牢で信頼性が高く砲兵部隊では好評だった」と記されている。ちなみにDA6型エンジンの生産はダイハツ(当時は発動機製造)でも行ったという。(⑧P110))
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 戦後、原乙未生はDA6型を振り返り、『燃焼状況良く排気澄み、振動及び音響も大ならず。・・・・・実用および耐久性に於いて満足の結果を得、取扱操縦に何等支障なく又故障少なく信頼性も良好であった。』と記している。
 このままのペースでは当分終わらなくなるので、以降の“怒涛のエンジン開発”については極力、事務的に記していきたい。

16.5-3.3 「DC6型」水冷乗用車用ディーゼルエンジンの開発
 空冷のDA6型、DA4型を完成させた開発チーム(というか、伊藤)は、その発展型として水冷版のDB6、DB4型の開発に移行する。この頃、陸軍自動車学校研究部の福川秀夫が、九四式六輪自動貨車のディーゼル化に向けた水冷4気筒ディーゼルエンジンの試作及び供試品提出を三菱、池貝、新潟、川崎車輛及び東京自動車工業(※1937年4月に自動車工業は瓦斯電自動車部系と合併し、東京自動車工業に社名変更しているので、これ以降は東京自工と記す)に呼びかけていた。
 DB4型は1936年8月に試作し、『この時は予燃焼室式と渦流室式との対照実験用エンジンDE4を十三年(1938年)三月に試作する運びにまでなっていたのだが、』(⑨P79)時間切れで既述のように十二年(1937年)中にいつのまにか、池貝のエンジンが、制式化されてしまう。東京自工側とすれば、自社製6輪軍用トラック用の大事なエンジンだし、開発余力のない中とはいえ、腰を据えて開発しようとしていたのだろうか。しかし陸軍は東京自工の想定以上にディーゼル化を急いでいた。そのためDE4型に性能の劣る池貝製のエンジンを約一年間、作らされる羽目に陥る。(⑨P79)((web22)P75)
 しかもこの同時期に、東京自工はさらに2件のディーゼルエンジン開発案件を抱え込んでいた!一件目は1937年4月、陸軍技術本部から水冷ディーゼルエンジン付き6t牽引車を、それも年内に開発せよとの命令だ。(次項で記す。)
 2件目は、陸軍自動車学校研究部の福川からの引き合いで、1937年3月、前年デビューしたベンツ260Dに触発されて、乗用車用ディーゼルエンジンの試作呼びかけであった。福川は、当時のすべてのディーゼルメーカーに競争試作を呼び掛けた。しかも納期は同じく年内だ!だが東京自工内で『ディーゼル開発を行う能力を有するエンジニアは伊藤一人である。』(⑨P80)・・・
 優先順位は当然ながら、実績のある牽引車の方が高かったが、自動車学校からの自動車の引き合いも後々を考えれば無下には断れない。そこで260D用のベンツOM138型エンジンをデッドコピーして対応することに。ただしストロークを10mm伸ばしたうえで4気筒を6気筒化し、要求仕様を満たすことにした。基本はコピーなので別の設計者が対応していたが、計画出力(70㏋)に到達しない。原因は不明だ。しかも担当者が途中で召集されてしまい、東京自工は納期延伸願いを申し入れるが、『これに対して福川は「いすゞはディーゼル機関を作る能力なしと陸軍省に報告しなければならなくなるが、よいか」と一喝する。』!(⑨P81)結局伊藤が引き継ぐことに。
 原因究明に『万策尽きた伊藤はオリジナルよりも細長い、DA6に近い形状の三噴口型予燃焼室へ再設計を試み、テストしてみた。すると新エンジンDC6はアッサリと計画出力をマークしてしまう。』(⑨P81)滑り込みセーフで何とか間に合わせる。
 陸軍自動車学校は各社のエンジンそれぞれを三次にわたる試験に供した。参加メーカーは以下の通りで、池貝はトラック用及び戦車用エンジン開発に手一杯で参加せず。三菱は例によってダブル参加だ!
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 第三次試験は陸軍関係者だけで行われ、そこまで勝ち残ったのは東京自工の予燃焼室式と新潟鉄工所の渦流室式。満州での一カ月に及ぶ耐寒試験を仕上げとする一連の試験の結果、結局東京自工のエンジンが勝利する。しかしその後、陸軍の方針変更でこのDC6型は量産に至らなかったが、『このエンジンは次のエポック、5ℓ統制発動機を巡る戦いへの、いわば前奏曲をなすこととなったのである。』(⑨P83)無駄には終わらなかったのだ。

16.5-3.4 「DD6型」6t牽引車用水冷ディーゼルエンジンの開発
 上記DC6型と同一の短納期であった、6t牽引車用水冷ディーゼルは、5t牽引車等過去の実績から、東京自工への単独発注であった。しかし陸軍としても重要な車型であり、時間がない中でも伊藤は、それまでのディーゼルエンジンよりも何とかして優れたものを創りたいという強い思いで開発にあたったという。この項も以下引用ばかりで恐縮だが、(⑳P280)より引用する。
『特筆すべきは~垂直に立った予燃焼室を開発したことである。この形状及び配置は、設計者の伊藤正男氏に依れば:「燃焼室を垂直に、そしてできるだけシリンダの片方に片寄せて配置し、予燃焼室の下半は細長くしてできるだけ混合気の整流と過熱をよくし、噴口は予燃焼室の縦軸に対してできるだけ急激に方向を変えるように配置して、混合気の霧化を助長し、主燃焼室であるピストン頂部にも凹みを設けて、燃焼をよくするようにと考慮したものであるが、ディーゼルノックも低く、性能も予想以上の好成績が得られた』
 この“伊藤方式”の燃焼室について、世界基準で考えた場合、どのような位置づけになるのだろうか。自分にはまったくわからないので、以下も(⑨P87)の丸写しです。
『類例の多い直立、片寄せ型予燃焼室の一つであるマギルスとピストンヘッド上の主燃焼室をなす凹みの中にまで予燃焼室尖端噴口部を突き出させる伊藤の統制型予燃焼室とでは発想ないし燃焼機構に対する考え方が根本的に異なるのである。マギルスは元より、伊藤以外の予燃焼室は熱負荷を恐れる余り、主燃焼室に対して退いた、或いは逃げたスタンスを取るものばかりであった。確かに、「世界で初めて」かどうかについての証明は甚だ困難であるが、名も知れぬディーゼルエンジンなどというモノはまず無かろうから、ほぼ確実と見てよい。
そして、この時以来、伊藤の予燃焼室ないしその類似品の作品が内外に散見されるようになったことはより確実に示し得る事実である。』

 再び(⑳P281)の引用に戻る。
『このスミダDD6形機関のこの予燃焼室こそがやがて東京自工(ヂーゼル自工)の、そして戦時日本の高速ディーゼル界を支配したいすゞ統制型予燃焼室の嚆矢なのである。~何しろ、日本の主たるトラックメーカーが戦後などと言うのも愚かな昭和四十年代中盤まで、実に三十余年間、伊藤方式の予燃焼室に追随したという動かし難い歴史的事実が在るのだから。』
 戦後の復興期から高度成長期にかけて、国内市場が順調に拡大していく中で、中/重量クラスのトラック各社の業績は概して安定していた。ただし各社の乗用車部門を除けば、の話だが。2ストロークに特化せざるを得なかった日産ディーゼルを除き、本家のいすゞ以外の日野自動車も、三菱ふそうも等しく、「伊藤方式の予燃焼室」の恩恵を受け、その間に経営基盤を築くことができた。こうして基礎体力を蓄えた後に、その後各社は伊藤方式から脱却した、独自のエンジン路線を歩むことになるのだ。
『DD6型は1937年12月に完成、110㏋/1700rpmをマーク、勿論、陸軍のテストにも直ちに合格し、九八式6T牽引車のエンジンとして正式採用となった。』(⑨P89)(下の「九八式6t牽引車」の画像はhttps://twitter.com/zavety76/status/1225010941231845377よりコピーさせていただいた。)
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https://pbs.twimg.com/media/EQAc8xuXsAEs8Yu?format=jpg&name=900x900

16.5-3.5「DA40型」陸軍軍用トラック用統制ディーゼルエンジンの完成
 DC6型乗用車用ディーゼルエンジンを開発させた福川は『引き続き、三菱、日立、新潟、神鋼及びいすゞの各社にディーゼルエンジンの試作研究を命じていた。そして昭和一三年(1938年)三月、いすゞにはトラックにも乗用車にも使用可能なディーゼルエンジンを、という注文が発せられる。実はこの表現、余り適切ではないのだが、要するに商工省標準型式自動車用ガソリンエンジン、スミダX型の発展型GA40(6-90×115、72/2800)の代替機を開発せよ、という内容である。』(⑨P89)
「トラックにも乗用車にも使用可能なディーゼルエンジン」=「自動車用ディーゼルエンジン」を意味し、陸軍の自動車用ディーゼルエンジンとして制式採用されれば、当時陸軍と革新官僚が牛耳っていた商工省の自動車政策は連携していたので、⇒商工省標準車用ディーゼルエンジンとして、追って認定されることも容易に想像される。
 自動車製造事業法の制定により、いわゆる大衆車(=再三記すがフォード、シヴォレー級)クラスの自動車生産はトヨタと日産の2社で既にパイは閉じられていた。自動車産業へ参入を目論む残る企業からすれば、最後の可能性として感じただろう。
 しかし、陸軍による、ディーゼルエンジン技術/生産の統合に向けての“試作競争時代”もこの段階に至ると、東京自動車工業の技術的な優位はすでに明らかだった。
 元々陸軍と商工省は、東京自動車工業を重量級トラックメーカーとして育成してきたが、両省からすれば、ディーゼル技術を切り札に新規参入を目論んだ企業を同じ土俵で戦わせ、明確な技術の優劣をもって追随する他社にここで引導を渡し、重量級自動車を東京自動車工業に一本化できる、絶好の機会の到来にもなったのだ。
 この引き合いに対して、伊藤は自信作、DD6型の縮小版エンジン(=「ミニDD6」)でいけると直感したという。(⑨P90)伊藤の指導の下、設計を任された町田雅雄(元川崎航空機の技術者)により、1939年3月『DD6譲りの直立型予燃焼室』(⑳P285)を持つ高速軽量の水冷式ディーゼルエンジン、DA40型が完成した。陸軍自動車学校では、このエンジンを競争試作に参加した他社エンジンと比較し、最終的に三菱ザウラー(S650AD;6-90×13、80/2600)とDA40を買い上げ対象とした。
 この2台のエンジンを、数次にわたる運行試験や寒地試験、代替燃料試験などを行い、さらに従前の制式機関だった池貝のエンジン(4HSD10XE)やアメリカ製GM2サイクルディーゼルエンジン(おそらく3気筒の71型とのこと)との比較も行ったのち、1939年8月、DA40型を、5ℓ級の陸軍軍用トラック用統制ディーゼルエンジンとして採用する。(⑨P91)
(以下も⑨より引用『DA40系エンジンは元々サイズが手頃で、戦後、いすゞが得意とした5~6t車TX用パワーユニットとして好適であった。その上、当初からボアアップ、ストロークアップを考えた余裕ある設計にしてあったため、数次にわたる改修の結果、排気量は5.1ℓから6.4ℓまで増強され、85㏋から135㏋(無過給の場合)へと向上したかくてDA40系エンジンはロングセラーとなり、4気筒のDA70系等を含めた戦後の累計生産台数は721,300基に達し、自動車用として足かけ四一年、舶用に転換されたものを含めれば実に四四年間に及ぶ製品寿命を全うすることになる。』(⑨P92)下表をみれば、戦後の復興期にいすゞのディーゼルトラックが時代にマッチしていたことがわかる。しかしその後トラック市場は徐々に変化し、いすゞが得意とした5、6tクラスのボンネットトラックの市場は衰退し、2tクラスの小型と4t級の中型そして大型の、キャブオーバー型トラックの市場へと分離していくことになる。)
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(以下の写真と文は、この一連の記事で度々引用させていただいている、ブログ「ポルシェ356Aカレラ」さん(web15-2))より、「1958年 いすゞTXディーゼルトラック 専用カタログ」の表紙。『日本のボンネットバスの代表格がいすゞBXであるようにボンネットトラックと言えば、シェア50%を超えた登録台数の多さと柴犬を思わせる温もりのあるフロントマスクなどから日本人に最も郷愁を感じさせるのは1950年代のいすゞTXだろう。1960年代に入ると荷室有効スペースの広いキャブオーバー型トラックに押されボンネットトラックの需要が限定される時代となっていったのに対し、1950年代は未だボンネット・トラック黄金時代であった。その時代、ボンネットバスBXと同様に圧倒的な市場シェアを誇り日本中で見られたボンネット・トラックの代表車種がいすゞTXであったといえる。』)
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https://stat.ameba.jp/user_images/20150517/15/porsche356a911s/49/bb/j/t02200165_0800060013309610878.jpg?caw=800

16.5-4 技術統合への歩みと陸軍統制型100式統制発動機の完成
『1939年8月、陸軍が行ったDA40の統制発動機指定は、軍用ディーゼル全体の統制-陸軍100式統制発動機(昭和15年は皇紀2600年とされており、海軍では零式、陸軍では100式と称した。)への技術統合の始まりでもあった。』(⑨P100)
 のっけから引用文で恐縮だが!16.5項冒頭の表に示しているように、DA40型の、陸軍軍用トラック用統制ディーゼルエンジンへの指定をもって、試作競争の時代は終わりを告げて、次は16.5-3のwikiから引用の表のように、統制型ディーゼルエンジンシリーズ完成に向けての、統合の時代へと移る。
 その歩みを、主に東京自動車工業(の、伊藤正男が属する旧石川島系)側の視点で、ざっくりとみていきたい。

16.5-4.1旧瓦斯電系技術との統合
 技術統合でやっかいなのが、三菱の例を挙げるまでもなく、身内同士の統合だ。旧瓦斯電系の技術陣は当時、16.3-5項で記した、日産の鮎川による瓦斯電の解体という衝撃的な体験があり、その動揺とゴタゴタから、たぶん士気が落ちていたと思われる(これも想像ですが)時期だ。
 DA30型は旧瓦斯電系で開発された、空冷V12(120×160)渦流室式ディーゼルで、『潜航作業機と称する塹壕掘進車輛に搭載されるべきエンジン』(⑨P95)だった。伊藤が開発を引き継ぐことになったが、『渦流室周辺の冷却不良という根本的問題は如何ともし難く』1938年12月に完成したが、陸軍の立会検査にパスするのがやっとで、量産に至らず終わったという。(⑨96)
 DA20型(空冷6-135×170)も同じく旧瓦斯電系からの引継ぎで、『伐採機、伐掃機と称する特殊車両のエンジン』(⑨P97)だった。渦流式から予燃焼室型に変更し、難産の末、1939年9月完成したがこれも少量生産に終わる。
 瓦斯電系の技術者、家本潔が戦後の座談会でこれらのエンジン開発について当時を振り返り、『しかしいま考えますと、よく燃えないために、ピストンの焼きつきとかその他のことで数々の苦労をしました。~結局は予燃焼室式に直しましたが、燃焼の根本のところに、わけのわからない苦労をした印象が強く残っています。』(③P125)と語っている。
((web22)P80)の伊藤自身の言葉によれば、瓦斯電と自動車工業(旧石川島)が合併して東京自工が誕生した時、お互いの分担を取り決め、旧瓦斯電系は大森工場と日野工場で「キャタピラーもの」(軍用のトラクターと戦車)を、旧石川島系は川崎工場と鶴見工場で「ゴムタイヤ(車輪)のついたもの」(=自動車)を担当することになったが、旧瓦斯電系の渦流室式ディーゼルは家本の言葉にあるように、その当時、技術的に完成に至っておらず、「両方のディーゼルエンジンは伊藤が担当しろ」となったため、上記のようになったようだ。
 しかしこの後、すぐに、陸軍による統制エンジンがはじまり、伊藤の図面は公開されて標準設計となり、固有技術も含めノウハウのすべてが開示された。次に記すように、空冷6気筒の統制型エンジンは同じ社内ながらも瓦斯電系の大森工場が取りまとめを行なうなど、自然と技術統合されていったようだ。
(下の写真は戦後、すぐに誕生した有名な日野自動車のトレーラーバスで、当時の社長、大久保正二が、接収された工場内をわがもの顔で走り回る米軍のトレーラートラックをヒントに開発を命じ、日野重工業時代の空冷6気筒統制型の大型ディーゼルエンジン(DB52型)を利用して作り上げた。当時の法規では、トラックは全長7m・積載量5tという制約があったが、大久保が運輸大臣に直談判し、とりあえずの処置として認可を得て発売に踏み切った。エンジンはその後水冷化されるなど改良を重ね、都市部の通勤の足として大いに活躍した。(⑯P57参考)画像はhttps://www.excite.co.jp/news/article/Trafficnews_101923/より)
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16.5-4.2 DA50型・DB50型、水・空冷式100式統制発動機の誕生
 一方、瓦斯電系の引継ぎでなく、DA40型以降の旧石川島系開発エンジンについて、⑨と⑳を頼りに駆け足で辿っておく。
 1939年に開発されたDA10型は、DA6型空冷エンジンをストロークアップした(6-110×150)戦車用エンジンで、開発は順調に進み、同年5月に完成した。(⑨P96)
 続いてはDA50型の開発に移るのだが、このあたりでようやく、16.5-3の冒頭のwiki書き写しの「統制型一〇〇式発動機」誕生の経緯に繋がってくる。以下は(⑨P100)より
『原乙未生を長とする陸軍第四技術研究所は自動車、牽引車用に水冷の、戦車用には空冷のディーゼルエンジンを統制発動機としてシリーズ化しようと企画していた。この発動機統制に当り、陸軍は実績に鑑み、その燃焼方式をいすゞの、即ち伊藤の予燃焼室式に統一するという英断・…と言うよりは当たり前の判断を下す。選択の余地など無かったのである。』陸軍は伊藤が設計した東京自工のディーゼルエンジンを、統制発動機型としてファミリー展開することに決定したのだ。
 他社でも設計・製作されることになる、100式統制型の空・水冷エンジンの基本となるエンジン、DA50型の設計図も当然ながら、東京自工の伊藤が手掛けることになる。
 DD6のストロークを5mm延長した水冷エンジンのDA50型(6-120×160)は、陸軍からのお達しの1ヶ月という短納期で設計完了させて、各社に展開される。その図面が100式水冷エンジンの設計標準となった。DA50型の初号機は東京自工の大森工場で1940年4月に完成する。『水冷100式統制発動機の嚆矢である。』(以上⑨P104参考)
 一方空冷型の統制発動機は、陸軍は当初、DA10型(6-110×150)の160mmストローク型をイメージしていたようだが、水冷空冷相互間の部品共通化等の狙いから、水冷式と同じ120mmのボア系が選択される。『伊藤はボア110mmのDA10、ボア135mmのDA20の経験からボア120mmの空冷は間違いなくモノに出来ると踏んでいた。』陸軍担当者も同じ思いだった。
『DA10、DA20、そして出来上がったばかりのDA50を参考にした空冷6気筒100式統制発動機DB50の設計は、旧瓦斯電系の大森の設計課で取りまとめられ、試作エンジンは早くも十五年(1940年)五月に同工場で完成した。』(以上⑨P105参考)

16.5-4.3「商工省・自動車技術委員会」の場で8ℓ級統制エンジン(DA60型)の仕様が決定
 ここで陸軍とそれに同調した商工省の推進した「統制型一〇〇式発動機」について、wikiベースでなく自分なりに重要ポイントをもう一度確認しておくと、
«1»東京自動車工業(以下東京自工)の伊藤正男が設計・開発した予燃焼室式の燃焼室デザイン(ボッシュ製燃料噴射装置(ヂーゼル機器製)付)を標準設計とし、すべてのディーゼルエンジンの基本仕様を統一する。(海軍系は除く。)
採用理由は、競合の三菱ザウラー直噴、池貝渦流室式などと比較して、燃費は若干劣るが、騒音が低い割に出力が高く、機械的信頼性に富み、作り易く、修理し易い構造で、排気色は薄く、噴射系の寿命も直噴式より長く、さらに予燃焼室式エンジンは、粗悪な燃料にもよく耐えたからだ。(⑨P102参考)
«2»東京自工にその設計・製造ノウハウの全てを、統制型エンジンの製造を行う参加企業に対して開示させる。
«3»東京自工の設計を基に、生産性の向上及び部品補給の便を考慮しボア/ストローク寸法を限定した、モジュラー構造の「統制型一〇〇式発動機」シリーズを構築する。教育用の単気筒から特殊車両、戦車用V12に至る水/空冷の各エンジンを、参加企業で分担し、設計・製造を行う。
«4»参加企業は陸軍主催の「戦車部会」(後述)等で技術情報の共有を行う。
«5»軍用自動車を含むディーゼル自動車の設計・製造は、東京自工を母体に、競合他社(三菱重工業、日立製作所、池貝自動車、川崎車輛)にも資本出資と技術・生産設備の供出を行わせたうえで商号を「ヂーゼル自動車工業」(1941年4月30日)と改め、同社に一元化する。(=ヂーゼル自動車工業以外、ディーゼル“自動車”の製造は不可)
«6»それに先立ち1941年4月9日、東京自工をヂーゼル自動車の生産に特化した、自動車製造事業法に基づく3番目の許可会社として認定する。
 このうち、16.3-9項ですでに記したことと重複するが、陸軍省・商工省の上記の«5»と«6»の動きに、自動車事業への単独参入を目論む三菱が激しく反発する。
 当時三菱重工は、満州国向けの大陸型8ℓ級トラックの大型の引き合いを背景に、5ℓ級DA40型ですでに商工省統制型エンジンとしての資格を有する東京自工と共に、「商工省自動車技術委員会」の場で、自社のY6100型8.55ℓ予燃焼室式エンジン(16.4-5項参照)の燃焼室を、東京自工の伊藤設計の統制型に合わせた上で、商工省統制型発動機と認めさせることで、三菱も、8ℓ級のディーゼル自動車の生産会社として、自動車製造事業法の4番目の許可会社になるべく意欲を燃やしていたのだ。(自分なりの想像部分も、かなり含んでいます。)
 その決着を巡り、鉄道省や満鉄などユーザー側も巻き込んで、1941年3月21日~24日にかけて箱根を舞台に激しいやり取りが行われたという商工省自動車技術委員会と、その後の決着についてはすでに記したのでここではくり返さない。
 この委員会でそれ以外に特筆すべきと思われることは、この「商工省自動車技術委員会ディーゼル自動車専門委員会」の場で、8ℓ級ディーゼルエンジンの詳細仕様に至るまで決定されたことだ。(⑳P295~P309参考)そもそもこの会議の主題が「大型ディーゼル機関の仕様書作成」だったのだ。
 それともう一点、4日に及んだこの会議で纏められた仕様書に基づいて、作られることになるDA60型ディーゼルエンジンが、世界基準で見ても、けっしてコピーではない、十分オリジナル性のあるエンジンであり、かつその性能も世界の第一線にあった点が凄かったと思う。トヨタ(シヴォレー)、日産(グラハム・ページ)、ダットサン(ベンジャミン(仏))は言うに及ばず、石川島、瓦斯電、ふそうなどの中型トラック/バス系のガソリンエンジンも、ブタやホワイト(いずれも米)などからの影響の強いエンジンだったのだ。
 話を戻し、会議の場で、三菱・鉄道省側は(6-110×150、8.55ℓ)のY6100系のストローク長を主張し、東京自工・陸軍側の(6-110×140、7.98ℓ)案を退けたが、それ以外は概ね後者の主張に近い線で取りまとめられる。そしてその設計は当然ながら、『許可会社、ヂーゼル自工の設立も目前に控えていたから、その設計はいすゞに委ねられることになった。』(⑨P111)
 そのDA60型エンジンは、時局からか代用鋼を全面的に使用したうえで、設計は1941年10月に完了し、1942年8月、試作エンジンが完了する。この過程で、東京自工と三菱重工のお互いの技術ノウハウの交換も進んだのだろうか。(下は『1943年11月に完成した大型トラックTB60型。ステアリングは軽くするためにボールスクリュー式になっている。』(①P48)DA60型エンジン搭載の7t積トラックで、早い話が、三菱が夢見たCT20型と同じ市場を狙った、大陸(満州)向けの大型トラックだが、時すでに遅く量産に移されることはなかった。画像は(web15-3)より。)
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(下の写真と以下の文章は三樹書房http://www.mikipress.com/books/pdf/767.pdfより、
『ヂーゼル自動車工業TH20 鉱山用トラック(1943 年)現いすゞ自動車の 20トン積みの国産初のオフロード・ダンプトラックである。』同じ写真で同じ出版社(三樹書房)の最新刊(㉖P35)ではTH10型となっており、(⑨P113)でもTH10型となっているので、TH20ではなくTH10型の間違いだろう。海軍発注のTH10型鉱石運搬用20tダンプは、1943年12月に完成し、日窒鉱業向けの鉱石運搬用として活躍したという。総生産台数は17台だったというが、17台完成したのはシャシーまでで、資統制下の資材入手難で油圧ポンプが間に合わなくて架装できず,完成車は 10 台止まりだったようだ((web44)P68)。この重ダンプのエンジンもDA60型だった。結局、戦時中のDA60型エンジンの主な用途はトラックではなく、舶用エンジンであったという。)

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16.5-4.4陸軍主催「戦車部会」による各社技術の共有
 話を技術統合に戻す。「「統制型一〇〇式発動機」」に参加した企業は8社(1941年に東京自工から分離する日野重工業も含めれば9社)で、+陸軍相模造兵廠でも展開された。互換性のある、同じ部品を製造することが重要となる統制型エンジンの、企業間の情報共有は如何にして行ったのだろうか。以下も(⑨P101)より、
『陸軍第四技術研究所は戦車、自動車メーカーなどのスタッフが参加する「戦車部会」を主催し、各社の技術を公開させたうえで技術開発の方向付けを行っていた。』ここでも陸軍が、全体の“統制”を行っていたのだ。ちなみに陸軍第四技術研究所の所長は原乙未生中将だった。その会議の模様について、(⑳P287)
『各機種間の部品の互換性を持たせるために、部品の形状寸法はもちろん、仕上げの精度、はめ合いも統一するため、3カ年に20数回の打合せ会議が持たれた。会議はなごやかで、陸軍技師、上西甚蔵氏の好司会のもとで、各社を代表する技術者は常に協調的に打合せを行い、一致協力してことが運んだことは、いまでも記憶に新しい。』戦争の最中での会議で、この期に及んで、各社意地を張りあっても仕方がないというムードもあったのではないだろうか。

16.5-4.5三菱によるAL型4式中戦車用エンジンの開発
 統制型エンジンシリーズの最後に、四式中戦車用エンジンとして、三菱重工が1943年より開発設計を行い、1944年初頭に完成した三菱ALディーゼルエンジン(四式ディーゼルエンジン)についても簡単に触れておきたい。
既存の統制型エンジンの多気筒化を諦め、三菱重工が新規設計した大型ディーゼルエンジンで、燃焼室形状ならびに配置等は統制型のそれを踏襲したが、空冷3弁式V12気筒、(145×190)37.7ℓにより、従来の日本戦車のエンジンから大きく馬力も向上、列強の30トン台戦車の水準である400馬力オーバーを達成している。(原乙未生は自著『機械化兵器開発史』90頁にて、「4式V12エンジン(原文表記による)」を過給器無しで400hp、過給器を付けた試製エンジンを500hpとしている。)トランスミッションに日本戦車として初のシンクロメッシュを採用、操向装置にも初の油圧サーボを搭載している。これによってギヤチェンジや方向転換は日本の既存戦車と比較してもはるかに容易になり、また10日間をかけての実走試験でも大きな故障もなく、軽快な機動性を確保していたと伝わる。(以上、wiki他を参考。)
 東京自工系の伊藤正男設計の実績のある技術の上に、直噴系で高出力を追求した三菱が培ってきた技術を融合させた、戦前の日本の高速ディーゼルエンジン技術の、ひとつの到達点と言え、『統制型発動機の進化を表現する最高傑作であった。』(⑳P313)
(下図「四式中戦車の縦断面要領図(量産型図面もしくは三菱現存図面と言われるもの)」と以下の文はwikiより「四式中戦車の特筆すべき点は、それまでの国産戦車が基本的に歩兵支援用戦車として開発されたのと異なり、最初から対戦車戦闘を想定してつくられた本格的な戦車となったことである。しかしながら運用思想としては、単純に「敵の戦車が強力である」という思想に基づいたもので、戦車同士の大規模戦闘を意図したものではない。」)
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16.5-5項の最後に、1931~1945年の主な戦車・装甲車の生産台数の表を掲げておく。
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16.5-6「ヂーゼル機器」の設立(燃料噴射系装置の統合)
 この記事もようやく終わりが見えてきた!今まで見てきたとおり、日本では高速ディーゼルエンジンの開発を、各社が独自に競ってきたが、16.5-2.2でみてきたように、ディーゼルエンジンの基幹部品である燃料噴射系システムは、十分な性能の内製品を製造できず、国産高速ディーゼルの実用化において、大きな障害となっていた。
 このため、世界的にもっとも優秀とされていたボッシュ製のシステムを、国産ディーゼルエンジンの心臓部に、高価な輸入品よりもより廉価で搭載すべく、ライセンス導入に向けて官(陸軍省)民(東京自工他)が動くのだが、その経緯を、ボッシュ製品のライセンス導入という戦略的方針を早くから打ち立てた、自動車工業/東京自工の行動を通して、(⑳P261、②P195)等を参考に、以下簡単にみていきたい。
 まず16.5-3.1でみてきたように自動車工業は1934年7月、加納社長の指示で「ディーゼル機関研究委員会」が組織され、ディーゼルエンジンの開発をスタートさせるが、社の方針として当初から『楠木ら会社幹部がロバート・ボッシュ社製品の使用、更には同社からの燃料噴射装置に関する技術導入の断を下し』(⑨P47)ていたという。
自動車工業が最初に取り組んだディーゼルエンジンだった空冷DA6型の開発(16.5-3.2項参照)から一貫してその方針で貫かれた。そのため、噴射系システムの開発で手間取った他社を尻目に、エンジンの本体部分の開発に集中することが可能となり、一連の予燃焼室式ディーゼルエンジン開発を成功に導く要因の一つになった。
 また社長の加納友之介を通してその会社方針について、陸軍・商工省とも確認していたはずで、両省とも承知の上というよりも国策企業として、むしろその方針に則ったものだったようにも思える。
 対ボッシュとの交渉がいささか唐突にスタートしたのは1936年10月だった。ディーゼル技術の研究のため訪欧中の自動車工業、荒牧寅雄(戦後いすゞ自動車四代目社長)宛に、社長の新井源水(同年8月に急死した加納の後を引き継ぎ社長に就任)から『ボッシュと技術提携する交渉を行なえ』(③P96)と急報が入る。『日本ディーゼルの安達社長さんが、シベリア経由でドイツに向かったとの知らせがありました。そこで、私は急いでボッシュに行って、インジェクション・ポンプのライセンスについて交渉を始めました。』(③P96;荒牧談)「日本デイゼル工業」については次項で記すが、同社もボッシュとのライセンス契約締結を密かに狙っていたのだ。
 自動車工業側にとって幸いだったのは、ボッシュの日本総代理店のイリス商会ボッシュ部日本代表のツェーヘンダー氏がドイツにいたことで、最初の交渉自体は不調に終わったが、『ライセンシー側が三菱、池貝等のエンジンメーカーとの結合を図る事、ヒトラー総統の許可が下りる事、という2つの条件が整った暁には自動車工業を交渉相手として最優先するという約束が取り付けられた』(⑳P262)ボッシュとしても、インチキくさい自社製品の特許回避品が多数出回るよりも、日本市場が独占できれば旨味が大きいと考えただろう。1937年4月、瓦斯電と自動車工業の合併で東京自工が誕生し、ボッシュの提示した条件に一歩近づく。
 1938年2月、ボッシュより東京自工宛に契約交渉に応ずる旨連絡が入る。交渉は直ちに始まったが、東京自工に加えて『相手としてもう一社、有力なエンジンメーカーを加える事』(⑳P262)という条件も提示されたため、東京自工側は三菱もこの計画に抱き込もうとするが、ここから先で、⑳・(web22)と、②・③とでは、三菱側のスタンスが異なって記されている。
 前者では東京自工副社長の新井源水と、当時三菱重工の常務だった郷古潔が一高の同期生の友人であった関係から両者を中心に両社は交渉を行い、『東京自工・三菱重工を軸とするライセンシー側の統合体制に目途がつけられた。』(⑳P262)
 この結論部分は同じなのだが、そこに至る過程として、②、③では、そもそも東京自工一社では『ボッシュ社への技術提携料とライセンス料の四十万円を即座に調達できなかった。』(②P197)という問題があったと指摘している。資金が足りなかったのだ。
 そのため東京自工側は商工省、陸軍省に資金調達の支援を求めるのだが、『これを受けて陸軍技術本部の原乙未生は、ディーゼルエンジンメーカの共同会社を設立し、ボッシュ燃料噴射ポンプの大量生産を行う計画を樹て、メーカにその出資を要請した。』(②P197)
 ところがこの計画に対して、資金力のある三菱重工の元良信太郎(高名な造船技術者で(③P110)の原乙未生の証言では社長としているが、この時点では常務?で1943年から郷古の会長就任後の社長就任では?)は、三菱が全額出資して『一手にボッシュポンプを製造し、ディーゼルエンジンの生産に本格的に乗り出したいと希望を表明した。』!(②P197)(③P110)
 しかしそれでは、陸軍と商工省が国策として東京自動車工業を育成している中で、日本のディーゼルエンジンの根幹部分を、今度は三菱に握られてしまう事態に陥るため、陸軍がさらに介入し、『新会社の「イニシアチブはいすゞと三菱がとって、社長は両社から交代で出す」ことを提案した。』(②P197)実際にはさらに、東京自工の新井と三菱重工の郷古がその水面下で、実務的な裏交渉を行ない、決着点を探ったのだろうか。詳細は不明だが、三菱側が全額出資の申し出を行ったことは確かだろう。
 1938年8月、覚書を締結し日本側は仮調印し、同年12月、ドイツ側も正式に調印する。ヒトラー総統の承認を得るために、陸軍側の働きかけも当然あっただろう。全体としてみれば、陸軍主導の下、その意を受けて、東京自工が実務面を担当したように思える。
 こうして1939年7月、「ヂーゼル機器株式会社」が誕生する。以下はその株主構成だが、ヂーゼル自動車工業の最大株主であった日立製作所は出資しなかった。(その経緯はここでは省略するが、③P110に記されている。)
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(ディーゼルエンジンの世界で、ボッシュの存在がいかに大きいか、その一端を、デンソーでコモンレール式燃料噴射システム開発の統括リーダーを約10 年間(1994 年-2003 年)」務めた伊藤昇平が、JSAE エンジンレビュー誌の依頼で記した「私のコモンレール開発物語(1994 年-2003 年)」(web42)の冒頭で語っている。以下引用させていただくが、その“雰囲気”がよく伝わる文章だ。
『(前略)ある日,部長から席に呼ばれ「おい,今度の BOSCH 来社時に,向こうから恒例の技術プレゼンがあるので君も聞きなさい。」と言われた。
当時,年 1 回ライセンス契約のため,BOSCH 社ディーゼル事業部のマネージメントが来社していた。その際,彼らから「最新の技術動向のプレゼン」があるので,聞いて勉強しろということであった。狭い応接室に 20 人程壁に張り付いた状態で,マネージメントのプレゼンを随行者の通訳者が,「上から目線」の「尊大」な説明の仕方をしていた。「見下された」説明を次長職以下は立ったままで,メモを取りながら聞いていた光景は今でも忘れない。所謂「ダンスパーティーの壁の染み」状態であった。「いつか”あいつら”を見返してみせる!(現在では不適切な表現ではあるが,その時の思いを正確に伝えるために用いたことをご容赦願いたい)」と”負け犬の遠吠え”に似た「何故か悔しい思い」だけが強く残った。』
 随分昔のことだが、「実はディーゼルエンジンの性能の50%は、燃料噴射装置の性能で決まる」という言葉を、某社のエンジン開発担当者から聞き、衝撃を受けたことがあった。デンソーのコモンレール式燃料噴射システムのプロトタイプ(アメリカのスパイ偵察機というか、ロックバンドの名前みたいな“U2”と言う名で当時呼ばれていた)が、そのメーカーのテストベンチで回っていたころだったか、その前だったか、話をお聞きした正確な時期は忘れてしまったが。
 以下はド素人の感想だが、伊藤正男による予燃焼室式エンジンの改良は、戦後の貢献も含めれば、戦前の日本の自動車技術開発のなかで突出した、偉大な功績としか言いようがないが、しかしだからといって、世界のディーゼルエンジンの技術史のなかで、激震を与える類(たぐい)のものではなかったと思う。当時の日本の工業水準全般を思えば当然で、致し方ないことだったのだが。
 だがディーゼルエンジン技術の“本丸”である、ボッシュの技術に初めて先行したという意味で、1995年、デンソー(当時は日本電装)が、日野自動車とのコラボで開発した「世界初のコモンレール式燃料噴射システム」搭載車(下の写真の“ライジングレンジャー”)の市販と、それに続く三菱ふそうの量産大型トラックへの搭載は、世界のディーゼル車の世界に、日本発の衝撃を与えたのではないかと思う。)

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さてこの記事もようやく最後まで辿り着いた。この項で「日本デイゼル工業」もボッシュとのライセンス契約締結を狙っていた、と記した。戦後の「民生デイゼル工業」⇒「日産ディーゼル工業」⇒「UDトラックス」(途中省略したが)へと至る、同社の誕生の経緯と戦前の活動について、記しておきたい。

16.5-7「日本デイゼル工業」の誕生
 まず月並みだが、UDトラックスのHPから、同社の創業時について引用する。
『すべては、創業者 安達堅造の「時世の要求する自動車」を作りたい、というビジョンから始まった。~ 創業者の安達堅造(1880-1942)は、1927年に欧州の産業界を視察した際、このディーゼル車に注目した。安達は「ディーゼルエンジンは、馬力、燃料消費量など多くの点でガソリンエンジンに優れている」と記録に残している。』この事実上の創業者、安達堅造という人物について、(web43)より引用する。
『1901年(明治 34 年)、陸軍士官学校の第 13 期卒業生で、1924 年 12 月の退任まで偵察将校として活躍、退任時は航空兵中佐であった。安達は航空機界に造詣が深く、退役後の 1927年、欧州航空界を視察する機会を得た。その際、日本の航空機が欧米列強と比較して遅れている実態を目の当たりにし、自らが航空界の発展に尽力することを決意する。現地調査では、ドイツの航空機、エンジンメーカー、ユンカース社の飛行機が優れていることに着眼し、帰国後は陸軍の要請で三菱航空機がユンカース社と技術導入契約に尽力するなどユンカース社航空機の導入に活躍した。』(下の安達堅造の写真は、UD TrucksのFacebook よりコピーさせていただいた。
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 16.5-2-2項で紹介した、ユンカースの航空機用ディーゼルエンジンに魅せられた人達は、当時世界中に多かった。(㉒に詳しい)航空業界に造詣が深かったということは、安達もその一人だったのかもしれない。
 以下、日本デイゼル工業から鐘淵デイゼル工業に至る、戦前の同社の概略の歴史について記していくが、創業時のストーリー(創業の目的)に関してだけは、『残念ながら当時の資料が乏しく』(㉗P4)、詳しい(突っこんだ)情報は、webでも本でも見つけられなかった。
 ただそれ以外について、特に不明な点はないので、まずは⑦(「日本自動車工業史稿 3巻」P278~P297)、㉗、③、①、(web41)、(wab40)等を参考にアウトラインを記し、最後に憶測部分ばかりになってしまうが、同社創業時の不明な部分を自分なりに想像して補い、この記事(その6)を終わりにしたい。

 まず上記の安達の履歴の中で、三菱航空機の社名が出てくるが、日本デイゼル工業は、ディーゼル自動車の製造を目的とし、まずはディーゼルエンジンを製造するため、安達堅造と、元三菱航空機名古屋製作所長松本辰三郎の両名が中心となり、資本金600万円で1935年12月に創立した会社だ。ちなみに本社は東京丸の内の三菱二一号館だったようだ。しかし(⑦P284)では、『松本氏は日本デイゼル工業㈱に関し、三菱との間に資本投下などの関係はほとんどなかったといわれている。』と記しているが、今回創業時の株主構成表等、それを裏付ける資料が見つけられなかったので、何とも言えないところだ。(下の写真はwikiより「三菱21号館」。当時の住所は「東京府東京市麹町区有楽町1-1」)
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 会社設立の当面の目標とされた、ディーゼルエンジンの製造だが、16.5-2-5の最初の表に記したように、有力メーカーが多数、すでに参入済みのなかで、これといった母体のない、ベンチャー企業的な日本デイゼル工業は、如何成る勝算をたてたのか。以下(⑦)参考にまとめた。
 安達、松本両氏はユンカースの日本代理店(ホッケス・ウント・コッホ商会)経由で、ユンカース航空機用ディーゼルの特許をベースにした自動車向けエンジンが、クルップで製造されていること、さらに同商会の斡旋で、そのクルップ・ユンカースエンジンの一部の特許権が約300万円で手に入ることがわかり、他社製のディーゼルエンジンと明確に差別化できる、同エンジンのライセンス生産により、国内先行メーカーに十分対抗可能だと踏んだと推察される。(⑦P284参考)以上が、一般的に考えられるところだ。
(⑦;「日本自動車工業史稿 3巻」(自工会編纂)P285)では追い打ちをかけるように、『同社発足のいきさつについて、述べなければならない事項である限り、このように考える以外に、道のないことを改めて付言する。』と、後述するような余計な詮索は無用だと?くぎを刺している。
(③P132)によると、安達と懇意だったという陸軍の原乙未生は、ユンカースとの技術提携の前に訪れた安達に対して、難しいエンジンだと多少忠告めいた批判をしたそうだが、『そのとき安達さんは、平凡なものでは進歩がない、特異なものだからやるのです、とえらい勢い』だったという。
 創業の翌年、埼玉の川口市に21,000坪の工場用地を取得し、輸入品の工作機械の手配とともに、工場建設に着手する。肝心のクルップ・ユンカース製ディーゼルエンジンのライセンス契約も獲得し(1936年11月に本契約成立;①P50)、いよいよクルップのトラック国産化のために、本格的な活動を開始する。
 1936年11月に、クルップからモデル車輛となるトラック2台(2気筒型と、3気筒型各1台)が輸入されて、テスト走行の結果は良好だった。
 1937年2月に簡野信行(航空研究所出身?)が入社するなど技術陣の陣容を整えて、簡野らをクルップ社に派遣し技術習得に努める。一方クルップからは3名の技師を招聘し、技術指導にあたらせたせるなど着々と生産準備を進めていく。
 川口工場の建設も進み1937年11月末に本館事務所が落成し、東京丸の内にあった本社事務室の大部分が移転し、工場部分も完成していく。
 工場では当初は、ドイツからノックダウン部品を輸入し、その組み立てから稼働させていったが、1938年11月末に、2サイクル対向ピストン式2気筒の、クルップ・ユンカースエンジンのライセンス生産品「ND1型(鐘淵と社名変更後には「KD2型」と呼称変更)」の国産初号機が完成する。
 だがその後の生産は、けっして順調とは言えなかった。その理由の一つに『外貨不足の影響を受け、ユンカース社へのライセンス料、特殊工作機械の支払いで送金できたのは半分ぐらいであり、このため操業に入れなかった。』(②P209)さらに、『残りを国内で手当てしたのですが、その頃は工作機械メーカーは手一杯の注文を受けておったために、工場建設がだいぶ遅れた』(③P110)ことがあったという。翌1939年のエンジン生産は、2気筒型9台、3気筒型(「ND2型」(鐘淵時代は「KD3型」)2台に終わった(③P129)。
 一方車輛側だが、最初のトラックの試作車は1939年11月に完成し、3,000kmに及ぶ走行試験を実施、その性能と耐久性を実証するが、この間に経営面では赤字が累積し、トラック1号機が完成した翌月の12月、創業者の安達は業績不振の責任を取って辞任する。(①P50)
 一時は大阪砲兵工廠からの砲弾の加工や、中島飛行機から星型エンジンのコンロッドの生産等を請け負うなどで、当座の窮状をしのいだという。そしてこの頃から、繊維業をベースにした新興企業、鐘紡紡績との提携の模索が始まったようだ。
(下の写真はUD社のHPより、2気筒60㏋エンジン(ND1⇒KD2)搭載のLD3型トラックで、鐘淵デイゼル工業時代からは、TT6型と改称された。ボア径85mm固定で、3気筒型(KD3)は90㏋、4気筒型(KD4)はロスが小さくなり+5㏋の125㏋の出力が引き出せた。さらにボア径100mmと大きい165㏋エンジン(KD5)も追加されて、戦時中は南方の井戸掘り用に使われたという。(以上③P130))
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https://www.udtrucks.com/japan/-/media/images/project/udtrucks/international/about-ud/our-brand/history/1955-image1-857x524.jpg?h=524&w=857&hash=10C6EB0DF21128D90607A81F18BEB2B7
 1940年11月、重工業分野へのシフトを模索していた鐘淵紡績の子会社、鐘紡実業が経営権を取得する。そして1942年12月には、「日本デイゼル工業」から「鐘淵デイゼル工業」へと社名変更され、経営は次第に軌道に乗る。
 エンジンの国産化は、1940年ぐらいまでは、粗形材やポンプはドイツからの輸入に頼っていたが、1941年からは、難物だったポンプも含めて内製化を果たし、国産化を達成する。((web41)P42)
 こうしてエンジン生産は順調に伸びていき、1941年に161台、1941年に361台、1942年に427台、1944年には603台の生産を達成することになる。(①P50)
 トラック生産の方は1940年から2気筒型(「LD3型」、後に「TT6型」)の生産を開始する。3気筒型トラック(「TT9型」)の生産は1941年からだ。生産台数については、各文献でバラつきがあるが、たとえば(①P51)では2気筒型108台、3気筒型が73台の合計181台で、((web40)P116)に掲げてある表からすると1942~44年の3年間でそれぞれ70台と53台なので、いずれにしても総計でも200台以下だったようだ。
 ちなみの車輛全体としてみた場合で、もっとも国産化が難しかった部分は、変速機だったという。クルップではZF社からアセンブリー品を購入していたようで、その部分は図面や工作機械が入手できず、社内で歯車の勉強をしつつ、苦労の末に、新規の変速機の設計製作を成し遂げたという。(以上(web40)P114)
 1942年、創業者の安達堅造が亡くなり、同年、陸海軍の管理工場となる。また鐘紡との提携によって、主力の川口工場(ディーゼルエンジン及びトラックを製造)以外に、繊維系の鐘紡の工場の転用として新たに隅田工場(舶用ディーゼルエンジン)、神根工場(ブルドーザーやトラクター)、城東工場(神根の分工場としてブルドーザー)、市川工場(発電機)の4か所が、生産拠点として拡充される。(㉗P5参考) そして敗戦を迎える。
(以下の写真と文章は、三樹書房のサイトより引用させていただいた。http://www.mikipress.com/books/pdf/767.pdf
『鐘淵デイゼル工業 7.5トン押均機(1943 年)〈日産ディーゼル所蔵写真(平野宏氏提供)〉性能が良いブルドーザと評価が高い。独ユンカース社特許に基づく3 気筒垂直対向ピストンエンジン90 馬力を搭載して、重量は 10.3トンである。この他に 5トン、15トンの押均機があった。戦時中は鐘淵紡績の工場で約 150 台が製造され、戦後も一時生産されたが占領軍(GHQ)により生産中止させられている。押均機は海軍の呼称である。』陸軍は統制型エンジンの時代で、トラック生産が思うに任せず、何とかして活路を見いだそうとして取り組んだブルドーザーの製造だったが、評判が良かったようだ。ちなみにブルドーザーのことを陸軍は「排土機」、海軍は「押均機」と、ここでも呼び方が異なっていた。
『その頃、ブルドーザーを作ったのは小松製作所と私の方だけだったのですが、』(㉚P131;阿知波二郎談)元来小松は陸軍色が強かったため、海軍用押均機の製作は,鐘淵デイゼルが主体となり製造したようだ。((web44)P71)戦後、コマツや日立建機のような企業形態になった方向性もあり得たようだ。)

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日本デイゼル工業は海軍系企業だった
 ここで『残念ながら当時の資料が乏しく』(㉗P4)、『創立の頃のことはわかりません。書いたものによりますと、戦争中ですから怪しげな書類ばかりであります。』((③の1969年3月25日の座談会で阿知波二郎(1942年日本デイゼル工業に入社、座談会当時日産ディーゼル工業専務)の談)という、同社創業時のいきさつについて、③、⑳、⑦、②などの記述を手掛かりに、自分なりに考察してみたい。しかし多分に“想像”を含んでおり、まったくの的外れである可能性も十分ある。あくまで、みなさんの周りにもきっといるであろう、無責任なド素人の“町の歴史研究家”が、自己満足で講釈を垂れる「歴史の推理」の一つに過ぎないものだと理解いただきたい。
 以下からは、手がかりとしていくつか残されている情報の「点」を、自分なりに「線」でつないでいくが、再三記すが軽―く、流し読みしてください。
 まず(⑦P283)によれば、創業時の同社の定款の中の営業品目の1番目として、「ディーゼル発動機の製造販売、ならびにこれに付随する機械器具の製造販売」を掲げている。このうち、“これに付随する機械器具の製造販売”⇒“ボッシュの燃料噴射装置の製造販売”を、すでに念頭に置いていたようにも推測できる。
 前項で記したように、「日本デイゼルの安達社長が、インジェクション・ポンプのライセンスの契約締結を狙って、シベリア経由でボッシュに向かった」(③P96)のは創業の翌年、1936年10月頃だ。
 間一髪の差で機先を制することができた、当時陸軍が後ろ盾の自動車工業の荒牧は、『先口の私との約束を守って、ボッシュは安達さんの申し入れを断りました。やむなく安達さんは方針を変えて、ベルリン南方のテッサウ市にあるユンカース・ディーゼル社に行かれ、その製作権を契約して持ち帰られたのであります。私もこのユンカース・ディーゼル工場を見ておりますが、このエンジンはインジェクション・ポンプが個々のインジェクション・ユニットに分かれているので、単独のポンプはいらない仕組みになっています。安達さんはボッシュ・ポンプのライセンスが得られなかったために、ポンプのいらないユンカースのディーゼル・エンジンを、日本に普及する計画を立てられたものと思います。』(③P97)と語っている。1936年11月に本契約成立、とあるので、その足で、急いでクルップ・ユンカースに向かったのだろう。
(上記は(③P97)=「日本自動車工業史座談会記録集」という、自工会(正確には「自動車工業振興会」)による“公式”の歴史記録集に納められた、1969年3月5日の座談会における、当時いすゞ自動車の副社長だった荒牧寅雄の発言だ。この翌年社長に就任し、その後GMとの提携交渉等を行うことになる人物が、しかもこの座談会には原乙未生、福川国三らかつての陸軍関係者や、三菱重工関係者も同席の上での発言なので、立場上言葉に気を遣いつつも、凡そ確かな内容の発言だったと思う。下は③P87からスキャンさせていただいた、その時の座談会の様子で、中央が原乙未生、手前に寺澤市兵衛、奥が荒牧寅雄だ。)
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(⑳P241)に記述のある、『~軍用ディーゼル機関等の製造がその目的だった。そして、そのためにはボッシュの噴射ポンプをライセンス生産する事が第一と考え、直ちに接触を開始した。』のは事実だと思う。安達・松本両氏による創業時の構想当初から、実はボッシュ製燃料噴射装置のライセンス獲得が、最大の目的だった可能性があるのだ。百歩譲って、少なくとも上記の出来事があった時点では、一般に創業の目的だったとされている、クルップ・ユンカースエンジンのライセンス獲得よりも、優先順位が高かったことは間違いない。
 もう一点、これはどこにも記されていなかったことだが、そもそも「日本デイゼル工業」という社名自体が自分には気にかかる。以下からはさらに、自分の想像(妄想)部分が多くなるので、そのように理解いただければ幸いだ。
 どこかに書いてあったが(どこだか忘れたが)、戦前の日本では「ディーゼル」の表記を、陸軍系が「ヂーゼル」なのに対して、海軍系は「デイゼル」と表記する習わしがあったという。
 自動車は通常陸上で使用するし、陸軍の軍用車需要が大きいので、戦前の日本で自動車製造を志す企業は、「ヂーゼル機器」や「ヂーゼル自動車工業」のように陸軍系の表記に合わせるのが通例だ。
 たとえば「自動車工業」の前身、「石川島自動車製作所」は、1929年5月に「東京石川島造船所」から自動車部門を分離させたものだが、分社の理由の一つは、造船所の方が海軍からの仕事が中心だったため、陸軍からの受注が中心となる自動車部門を分離させたのだという。(8.2-2項参照)大手は別として戦前の軍需関連企業は、“旗色不鮮明”では難しかったのだ。
 ちなみに三菱も、16.5-2-1項の“三菱直噴エンジンの開発”で、三菱航空機本社に、渋谷常務直轄の設計室が設置されて本格的な開発がスタートしたと記したが、その渋谷常務の下ではさらに、海軍関係と陸軍関係では担当が分かれていたような記述もある。(⑮P71)上層部の意思決定も、一枚岩ではなかったのかもしれない。
 「日本デイゼル工業」は当時の常識的には、「日本ヂーゼル工業」と名乗るべきなのに、敢えてそうしなかったのは、この会社の創立時点ですでに、陸軍/商工省寄りであるはずの自動車業界の中にあって敢えて、海軍の旗を高く、明確に掲げていたからだと思う。例によって推測だが、当時の日本の社会では「日本デイゼル工業」という企業は、そのようにとらえられていたと思う。
 陸軍出身の安達だが、陸軍の自動車界隈には今まで見てきたとおり、実力のある大手企業がすでにひしめいており、自動車に関しては未開拓に近かった海軍を後ろ盾に頼った方が、ゼロからスタートするベンチャー企業にとって、狙い目であり可能性も大きいと考えたのではないだろうか。
 もし仮にそうだとすれば、「日本デイゼルの安達社長が、インジェクション・ポンプのライセンスの契約締結を狙って、シベリア経由でボッシュに向かった」目的が、その経歴からドイツに人脈を持つ安達(と松本)が、当時犬猿の仲で有名だった陸軍を出し抜こうと画策した海軍の意を受けて、高速型ディーゼルエンジンの心臓部分であるボッシュの噴射系装置のライセンス獲得交渉に向かったのではないか、という疑念が生まれてくる。
 日本海軍の後ろ盾でもなければ、誕生したばかりで実績も何もないベンチャー企業がボッシュに交渉に向かっても、門前払い同然だっただろうから、陸軍も自動車工業もあれほど慌てる必要などなかったのだ。
 さらに言えばその計画に、間接的だったとは思うが三菱が一枚かんでいたことも、あり得ない話ではないと思う。
 安達がボッシュに向かった1936年10月ごろといえば、陸軍省・商工省主導による自動車製造事業法の施行により、トヨタと日産が許可会社に認定された(1936年9月)直後だ。この後に否応もなく想定される、両省主導によるディーゼル車の一本化政策に対しての強い反発と、ボッシュのライセンス権を陸軍・商工省色の強い自動車工業に独占させない為に、海軍と三菱の思惑が一致し、その流れにくさびを打ち込もうとした可能性も十分あり得たと思う。
 実際、それから2年も経たないが、前項で記したヂーゼル機器設立の経緯の中で、大三菱の組織の中の一部の重役が、当時どのように考えていたのか、その痕跡が残っている。陸軍の斡旋に対して、三菱が全額出資して『一手にボッシュポンプを製造し、ディーゼルエンジンの生産に本格的に乗り出したいと希望を表明』(②P197)しているのだ。
(以上は何度も何度も記すが、まったくの憶測です。綺麗に纏められた下図は、ダイムラー・ベンツのDB601エンジンのライセンス生産の際の購入経緯で「航空機に見る日本陸海軍の確執」という、以下のブログ記事よりコピーさせていただいた。
http://soranokakera.lekumo.biz/tesr/2014/08/post-71f2.html
ヒトラーから「日本の陸海軍は仇同士か」と呆れられたのは有名な話だ。なにせ戦前の日本では、陸軍と海軍は別の目的のそれぞれの戦争を戦っていたのだ。(ちなみにDB601購入の実際の経緯はもっと複雑だったとの意見もあるので下記に乗せておきます。
https://carview.yahoo.co.jp/ncar/catalog/bmw/series_1_hatchback/chiebukuro/detail/?qid=11134718241)

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http://soranokakera.lekumo.biz/tesr/images/2014/08/03/db601.jpg
 しつこいようだが状況証拠?を、さらにいくつか掲げておくと、(⑦P91)に1941年、『海軍関係の自動車工業団体を作ろうとの話が出て、前記菅原氏(横浜の極東特殊自動車)が中心となり、鐘淵デイゼル工業㈱の社長榊春寿氏を会長として、海工会と呼ぶ団体が、銀座の三共㈱の二階に成立した。その事務所は当時鐘淵デイゼル工業㈱の東京事務所があったからである。』との記述がある。同社と海軍との深い結びつきがうかがえるが、いずれにせよ、統制型エンジンの流れと全くかけ離れた2ストロークのユンカース式ディーゼルを選択した時点で、陸軍と疎遠になることは避けられないことだった。
 陸軍の原乙未生は先の(③P96)の座談会で『このエンジンは難しいものですから、戦車関係では採用しませんでしたが、陸軍の燃料廠などはポンプ用に買い上げたようです。』と語っており、陸軍側は、既述のように同社の苦境時に、大阪砲兵工廠からの砲弾の下請け加工の仕事を回すなど、陸軍OBの立ち上げた企業に対して、それなりに気には掛けていたようだが。
 同じ③の座談会で阿知波二郎は『私の方ではトラックも造りましたが、それは全部海軍の施設本部に納めています。』(③P131)と語っている(((web40)P116)では『満州方面と海軍施設本部』としている)。
 以上、日本デイゼルと海軍との結びつきについて、想像しつつ記してきたが、UDのOBの方の中には、創業当初の経緯について、ここで記したような“憶測”ではなく、詳しく正確な情報をお持ちの方も多数おられると思う。そのあたりから漏れ伝わってくる情報が、同社の歴史を扱った既存の自動車の歴史書に於いても、反映されているとありがたかった。
― 以上 ―
※この記事のまとめ部分は、もう少し時間をおいてから追記します。


㉑の引用元(本)
①:「国産トラックの歴史」中沖満+GP企画センター(2005.10)グランプリ出版
②:「日本自動車産業の成立と自動車製造事業法の研究」大場四千男(2001.04)信山社
③:「日本自動車工業史座談会記録集」自動車工業振興会(1973.09)
④:「日本自動車工業史―小型車と大衆車による二つの道程」呂寅満(2011.02)東京大学出版会
⑤:「苦難の歴史 国産車づくりの挑戦」桂木洋二(2008.12)グランプリ出版
⑥:「日本の自動車産業 企業者活動と競争力」四宮正親(1998.09)日本経済評論社
⑦:「日本自動車工業史稿 3巻」(昭和6年~終戦編)(1969.05)自動車工業会 「日本二輪史研究会」コピー版
⑧:「日本軍と軍用車両」林譲治(2019.09)並木書房
⑨:「伊藤正男 トップエンジニアと仲間たち」坂上茂樹(1998.03)日本経済評論社
⑩:「トヨタ自動車30年史」トヨタ自動車工業株式会社社史編集委員会(1967.12)トヨタ自動車工業株式会社
⑪:「西のリラー 東のオートモ(前編)」「轍をたどる」国産小型自動車のあゆみ」岩立喜久雄 月刊オールド・タイマー(2007.08、№.95)(八重洲出版)
⑫:「「久保田権四郎 国産化の夢に挑んだ関西発の職人魂」沢井実(2017.12)PHP研究所」
⑬:「企業家活動でたどる日本の自動車産業史」法政大学イノベーション・マネジメントセンター 宇田川勝・四宮正親編著(2012.03)白桃書房
⑭:「日本の自動車産業経営史」宇田川勝(2013.10)文眞堂
⑮:「ふそうの歩み」三菱自動車工業株式会社 東京自動車製作所(1977.09)
⑯:「日野自動車の100年」鈴木孝(2010.09)三樹書房
⑰:「鉄道車輛工業と自動車工業」坂上茂樹(2005.01)日本経済評論社
⑱:「日本のバス年代記」鈴木文彦(1999.11)グランプリ出版
⑲:「太平洋戦争のロジスティクス」林譲治(2013.12)学研パブリッシング
⑳:「日本のディーゼル自動車」」坂上茂樹(1988.01)日本経済評論社
㉑:「ディーゼルエンジンの挑戦」鈴木孝(2003.07)三樹書房
㉒:「20世紀のエンジン史」鈴木孝(2001.12)三樹書房
㉓:「日本のトラック・バス いすゞ・日産/日産ディーゼル・三菱/三菱ふそう・マツダ・ホンダ編」小関和夫(2007.04)三樹書房
㉔:「日本における自動車の世紀」桂木洋二(1999.08)グランプリ出版
㉕:「三菱ふそうのすべて」カミオン特別編集(2011.05)芸文社
㉖:「いすゞトラック図鑑 1924-1970」筒井幸彦(2021.06)三樹書房
㉗:「UDトラックスのすべて」カミオン特別編集(2013.05)芸文社
㉘:「ドキュメント昭和3 アメリカ車上陸を阻止せよ」NHK取材班=編 (1986.06)角川書店

Webの引用元
Web(1):「いすゞTX40型トラック」日本の自動車技術330選 JSAE
https://www.jsae.or.jp/autotech/3-5.php
Web(2):「日本の自動車産業はトラックから始まった!! 国内基幹産業の礎を築いたいすゞの一大プロジェクトとは?」fullload web
https://fullload.bestcarweb.jp/feature/359335
web(3):「自動車工業の確立と「統制」-1930 年代初頭における政策構想の一側面-」加 藤健太
file:///C:/Users/Kohase/Downloads/01_%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%81%A5%E5%A4%AA%20(2).pdf
web(4):「第7項 「自動車製造事業法」の許可会社に指定」トヨタ自動車75年史(トヨタ自動車HP)
https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/text/taking_on_the_automotive_business/chapter2/section2/item7.html
web(5):「渋沢栄一の三男・正雄が語った「親父が失敗した製鉄業に専念する理由」」ダイヤモンドオンライン
https://diamond.jp/articles/-/277816
web(6):「瓦斯電から日野自動車へ」家本潔JSAEインタビュー
https://www.jsae.or.jp/~dat1/interview/interview4.pdf
web(7):「自動車工業を満業系資本で独占 (上・下)東京瓦斯電工を支配」満州日日新聞 1938.5.12-1938.5.13 (昭和13)(神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫)
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00063513&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1
web(8):「飛行機を量産したトラック会社と星子勇」鈴木孝
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsmetsd/2006/0/2006_43/_pdf
web(9):「ボディメーカーの歴史」岩手県のバス、その頃
http://www5e.biglobe.ne.jp/~iwate/vehicle/extra/primer/coach/body_history.html
web(10):「バスに関する記念碑「菅健次郎君頌徳碑」」岩手県のバス、その頃
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web(27):「日本軍の装甲車 1」
http://spww2.g2.xrea.com/unit/ac_jp1.html
web(28):「自動車用大型ディーゼルエンジンの開発について」山田剛仁 JSAEインタビュー
https://www.jsae.or.jp/~dat1/interview/interview20.pdf
web(29):「ディーゼル博士 大道寺 達氏」大道寺達JSAEインタビュー
https://www.jsae.or.jp/~dat1/interview/interview10.pdf
web(30-1)知恵袋(その1)
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11119360301?__ysp=57Wx5Yi25Z6L44Ko44Oz44K444Oz

web(30-2)知恵袋(その2)
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10200752000?__ysp=57Wx5Yi25Z6L44Ko44Oz44K444Oz
web(30-3)知恵袋(その3)
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10155665680?__ysp=57Wx5Yi25Z6L44Ko44Oz44K444Oz
web(30-4)知恵袋(その4)
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web(30-5)知恵袋(その5)
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12165321397

web(31):「戦前のエンジン技術」
http://www.bekkoame.ne.jp/~bandaru/deta021a.htm
web(32):「九七式中戦車 チハ」大日本帝国軍 主要兵器
http://japanese-warship.com/army/tank/97m/
web(33):「満州国の工作機械池貝系で独占す」神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00464552&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1
web(34):「日本の近代化への輸入工作機械の貢献」藤田哲三
https://www.jmtia.gr.jp/uploads/140805history.pdf
web(35):「株式会社池貝・史料館 川崎工場(技術のわくわく探検記)
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web(36):「いすゞ自動車の歴史とディーゼルエンジン」高原正雄
https://www.city.kawasaki.jp/kawasaki/cmsfiles/contents/0000026/26446/04takahara.pdf
web(37):「第7項「自動車製造事業法」の許可会社に指定」トヨタ自動車75年史
https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/text/taking_on_the_automotive_business/chapter2/section2/item7.html
web(38):「鮎川又も放れ業」神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=00063512&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA
web(39):「DA40 日本の自動車技術330選」JSAE
https://www.jsae.or.jp/autotech/10-2.php
web(40):「日産ディーゼル黎明期における車輛技術」高尾章 JSAEインタビュー
https://www.jsae.or.jp/~dat1/interview/interview73.pdf
web(41):「ディーゼルエンジン研究の歩みとバス開発」阿知波二郎 JSAEインタビュー
https://www.jsae.or.jp/~dat1/interview/interview7.pdf
web(42):「私のコモンレール開発物語(1994 年-2003 年)」伊藤昇平 JSAE エンジンレビュー誌
https://www.jsae.or.jp/engine_rev/docu/enginereview_06_04.pdf
web(43):「埼玉産業歴史探訪」
https://www.bugin-eri.co.jp/report/report08/file/58135442ee3c357f40326101186e46dd94095f6f.pdf
web(44)「外地の機械化施工」岡本直樹
https://jcmanet.or.jp/bunken/kikanshi/2015/04/065.pdf


⑳ 戦前日本のオート三輪史 (日本の自動車産業の“育ての親”は日本陸軍だった?小型自動車と、商工省標準型式自動車(戦前の日本自動車史;その5) 《 前編:独自の発展を遂げたオート三輪と小型四輪車》 )

≪※オート三輪編だけ先に出し、その後の小型四輪車編の部分はあとで追加します。≫

 この記事では自動車製造事業法成立(1936年5月)以前で、さらに前回“その4”で記したフォードとGMのKD生産進出以外の、日本の自動車産業/社会について記していきたい。
早い話が、オート三輪と、小型四輪車のダットサンと、じり貧だった国産トラック/バスについて記すのだが、この記事は《前編:独自の発展を遂げたオート三輪と小型乗用車》と《後篇:商工省標準型式自動車》の2つに分けて、今回は前編のうちの、オート三輪編のみをアップする。

 前回の記事の最後で“商工省、日本陸軍、さらには日本フォードとGM抜きに、戦前の日本の自動車史は語れないような言い方をしてしまったが、実はオート三輪と小型四輪車について、それは当てはまらない。特にオート三輪は人々の日々の営みの中から生まれた、日本独特の自動車だった。

オート三輪は民間主導で発展してきた
繰り返すが、オート三輪は、商都、大阪を中心とした商人たちの日々の生業の中から生まれ、独自に発展を遂げたものだ。国の保護の下で国策として計画的に、軍・官・民が連携しつつ大事に育てられた四輪自動車産業とは違い、民間主導で起こされた産業だった。戦前の四輪車市場を席巻していたアメリカ車と競合しない分野で、『必死に働く庶民のエネルギーを象徴する輸送機関であった』(引用②「懐旧のオート三輪車史」、「はじめに」)。
日本独自の交通体系の中から生まれた他国に無いジャンルの乗り物だったが、軍用には適さなかったために国からの手厚い支援は無く『運転免許などのいわば減免措置であり、保護政策とは異なっていた』(④-4、P167)。しかし市場原理に基づいた競争市場の中で、戦後の一時期まで、国産自動車産業の主流の一角を成していたのだ。

戦後の10数年間は、オート三輪が国内自動車市場の主役だった
この記事の“守備範囲”は戦前なので、戦後は詳しくは触れないが、オート三輪の全盛期は戦後の十数年で、戦前はその“序章”であった。その戦前部分については、本題の“戦前編”に入る前に、この場を借りて最初にまとめて触れて(例によって脱線して?)おきたい。
敗戦後の経済復興の中で、オート三輪は大型化を図りつつ勢いを増していき、今の若い人たちからはほとんど信じがたい話だと思うが、オート三輪界の二大メーカーであったダイハツとマツダの生産台数は、戦後の一時期、トヨタと日産の台数を上回っていた。しかしこの重要な事実を、数字でハッキリと示した情報が、不思議と少ない。そこで今回調べた範囲でここに明示しておきたい。
トヨタですら、乗用車がトラック・バスの台数を上回ったのが1966年だった
まず前提として、戦後の日本の自動車市場は長い間、トラック等の商用車が主流だった。たとえば1952年の小型乗用車は年間たったの4,700台で、オート三輪の約1/10に過ぎなかった(②、P13)。戦前と同様にタクシーが主体だった当時の国内乗用車市場で、国産乗用車の生産台数はごく少数で、トラックが主体の市場だった。  
下表は、トヨタ自動車のHP“トヨタ自動車75年史”のサイトより、「(トヨタ車の)国内生産台数の推移」のグラフをコピーさせて頂いた。
https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/data/automotive_business/production/production/japan/production_volume/index.html)
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https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/data/automotive_business/production/production/japan/production_volume/images/index_graph01.gif
上のグラフはあくまで、トヨタ自動車の分だけの、国内生産台数の推移だが、特に1955年の、クラウン登場以前の乗用車の生産台数の少なさがわかる。国内メーカーの中では、乗用車にもっとも強かったはずのトヨタですら、トラック/バスの生産台数を上回ったのは、1966年以降だったのだ。
 下の表は、上記のトヨタのHPのトヨタ車の生産台数と「日産自動車50年史」(引用㉟)の日産車の生産台数と、さらに別の資料(「日本自動車工業史―小型車と大衆車による二つの道程」呂寅満(引用①))にあったダイハツとマツダのオート三輪の生産台数の数値を合体させたものだ。(表14;「トヨタ/日産(四輪車)と、ダイハツ/マツダ(三輪車)の生産台数比較表」)
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かなり強引なまとめ方だと思うし、三輪車の細かい数字は、資料によってばらつきがあり、多少怪しい?と思える部分もある。しかし、オート三輪と、四輪車の生産台数の傾向は、大筋このようなものではないかと思う。そしてこの表の赤字の部分の、1952年から1955年までの生産台数の数字に注目したい。
その時々の市場において、どのメーカーの自動車が主役だったかをはかる第一の尺度は、やはり生産台数だろう。何度も記すが、生産台数ベースでみれば、戦後の一時期、オート三輪の勢いが圧倒的だった。(⑨)によれば『昭和30年(1955)には10万台を超える生産台数となり、復興のために優遇されたトラックを含む四輪自動車全ての生産台数約3万台を、はるかに凌ぐほどだった。』(⑨、P105)とあるが、四輪の台数はもう少し多かったように思うのだが?不明です。
その中でも、『東洋工業とダイハツ工業がいわゆるトップ争いを演じつつ、シェアを拡大していった』(⑰、P222)。『東洋、ダイハツの2社をあわせた(三輪の)シェアは25年(1950年)の54.0%から27年の57.5%へ拡大』していったという(⑰、P222)。
1952~55年はマツダ・ダイハツがトヨタ・日産の生産台数を上回っていた
下のグラフ(「トヨタ/日産/マツダ/ダイハツの生産台数推移(1935~1956)年」)は、上記「表14」から、4社の生産台数部分を抜き出して折れ線グラフ化したものだ。しつこいようだがどうみても、1952年~1955年の4年もの長いあいだ、ダイハツとマツダの自動車の生産台数は、トヨタ、日産のそれを上回っていた(たぶん)。
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日本の自動車産業史を記すうえで、オート三輪と、マツダとダイハツの重要度がわかろうというものだ。
後の15.3項のマツダの項で触れる、1960~1962年の3年間、軽のオート三輪、K360の大ヒットでマツダが国内自動車生産台数の、僅差ではあったがトップであったことと合わせて、日本の自動車史を語るうえで、もっとクローズアップされるべき事実だと思う。
(下の表は、各社の1951年上期から1957年下期までの半期ごとの売上高推移だ。それぞれの社史(トヨタ;㉘、P796)(日産;㉟、P270、)(ダイハツ;㉙、資料編P22)(マツダ;⑰、頁がふられていない!が終わりの方)から数字を抜き出してグラフ化したものだ。自動車部門以外の金額も含んでいると思われるし、メーカー間で期間も若干ずれがあるが、大体の規模の差はわかると思う。経済評論家や経済学者の方々からすれば、このグラフを見て一安心し、生産しているクルマの単価が違い過ぎるのだから、一概に台数だけでは決められないと主張すると思うし、実際その通りだとも思うが、1951年~1955年頃の売上に限って言えば、大手四輪メーカーと比べても、驚くほどの差があったわけでもなかった。グラフ中の数字は、トヨタとマツダの一部を表示させたものだ。
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なお、古いトラック好きからするとなんとも楽しいブログ“旧式商用車図鑑”さん(web30-1)に、「戦後の「小型三輪トラックの販売推移」」というグラフがあり、そちらの方がわかりやすく工夫されているので是非ご覧ください。アドレスだけ貼り付けておきます。http://blog-imgs-56.fc2.com/r/o/u/route0030/20120703231301293.jpg )
(上で紹介したブログ“旧式商用車図鑑”さんに、戦後の高度成長期と重なる、オート三輪を取り巻く“歴史”を要領よくまとめて記していたので、安直ですが以下、引用させていただく。
『1950年(昭和25年)は朝鮮戦争が勃発した年ですが、この時期はマツダやダイハツ共にオートバイの前半分に荷台を組み合わせたスタイルの車両を制作していました。 
一方小型四輪トラックの方は、ダットサンやトヨタSB型が造られていたものの、まだ年産1万台弱の市場規模でした。
1953年(昭和28年)にかけて三輪トラック市場が急成長している背景には”神武景気”と呼ばれるものがあり、白黒テレビ、電気冷蔵庫、電気洗濯機といった”三種の神器”が家庭に普及しだし、ゆとりのある生活をしだした時代です。』(下のグラフは、その“神武景気”より後の時代だが、「トヨタ自販30年史」P100の数字を元に作成した。やはりTVの急激な普及が目立つが、最初は限りなく0%だった乗用車も10%を超えてきた。)
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『三輪トラックにはウインドスクリーンやキャンパス製の屋根が付き、また荷台の拡大や積載量の増大等により車体が大型化するのもこの頃からです。』(web30-1)
当時は過積載が当たり前だったが、公称積載量が1トン積のオート三輪でも、2、3トンの積載を想定して、普通トラック並みのリアスプリングを採用し、車体側も頑丈に作られていた。さらに小回りが利いて、細い路地でもどんどん走っていけるし、四輪に比べて荷台が低いので積み下ろしの作業も容易だった。確かに最高速度や居住性、乗り心地では四輪トラックには到底かなわないが、まだ高速道路もなかった時代で、高速安定性など求められなかったし、価格も当然安かった。その上、故障しても修理に日数がかからないし修理代も安かったという。荷物運びに徹していたのだ。(⑳、P77~、①、P334等要約)
『しかも、当時の免許制度では、小型車は18歳以上にならなければ所得できなかったが、軽自動車とオート三輪車、さらに50ccのバイクは16歳になれば免許を取得できた。現在のように、誰でもが高校や大学にいく時代ではなく、中学を卒業すればすぐに働く人たちが多かったから、こうした点でもオート三輪車は有利であった。』(②、P23)再び、(web30-1)からの引用に戻る。
『1954年(昭和29)にトヨタから小型四輪トラックのSKB型(のちにトヨエース)が登場し、幾度かの車両価格の値下げによって販売の方は軌道にのり、三輪トラック市場に割って入るようになったのです。その頃の三輪トラックはフルキャビンに覆われ、バーハンドルから丸ハンドルに変更され、小型四輪トラックに匹敵する装備をもちだしました。
1958年(昭和33年)金融引締政策によって景気が後退し“なべ底景気”の時期を迎えた。(東京オリンピックや高速道路、新幹線などの工事を行うことでその後は成長への途を歩んでいきました)
『三輪トラックの方は、エンジンを空冷から水冷にしたり改良を加えるものの小型四輪トラックの勢いに敗れ、1970年代の初めまで大きなモデルチェンジを行うことなく生産がされたのでした。』
(web30-1)以上、戦後のオート三輪史の、簡潔でわかりやすい歴史の要約を引用させて頂いた。
戦後のオート三輪=貧しさから脱するための原動力
戦後の復興期と、オート三輪の全盛期は重なっている。今の人たちにはたぶん理解しがたい、当時の人々がオート三輪に託した心情を、以下はオート三輪史を記した代表的な本である、「懐旧のオート三輪史」桂木洋二監修(②)の「はじめに」からの引用
『(オート三輪は)荷台には満載の荷物が、いまにも落ちそうなほど積まれた姿が似合う乗り物だった。現在の自動車のように安全性や快適性などを言い募っている時代ではなく、そんなことをくどくど言う暇があったら、もっと働け、と叱咤される時代のものだった。効率を求めるというより、貧しさから脱しようとする原動力が、オート三輪を求めていたといえるだろう。』wikiにも書かれているように少しでも多くの荷物を運ぼうと、『小型オート三輪メーカーの2トン積み車でも4トン、5トン過積載していた時代』だった。
(下の写真はそんな「過積載が当たり前」の時代を象徴するような写真として、愛知機械製のヂャイアント三輪車のトラクターの画像を、ブログ“ポルシェ356Aカレラ”さん(web❻-3)よりコピーさせていただいた、愛知機械は戦後のオート三輪業界の八大メーカー(ダイハツ、マツダ、くろがね(日本内燃機)、みずしま(新三菱重工業)、ジャイアント(愛知機械工業)、オリエント(三井精機工業)、アキツ(明和自動車工業)、サンカー(日新工業))のうちの一社で、水冷4気筒1488cc58HPエンジン搭載のAA-24T型は、5トン積(②、P147)トラクターを牽引したようだが、天下の日通といえども、見た目からはどうみてももっと積まれているような・・・。
https://ameblo.jp/porsche356a911s/entry-11665570175.html
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https://stat.ameba.jp/user_images/20160508/17/porsche356a911s/3d/e0/j/t02200165_0800060013640701091.jpg?caw=800
 以下、戦後の高度成長期を象徴する、エポックメイキングな3台(+番外編の2台)のトラックを紹介することで、この時代を別の角度からさらに掘り下げて、“番外編”としての戦後編を終えたい。

オート三輪大型化の先駆、マツダCT型
 1950年9月、マツダが新型のCT型を発売し、オート三輪の大型化に先鞭をつける。その時代の背景を、法規制の面から以下(⑳、P177)より引用
『1951(昭和26)年には、三輪トラックに対する排気量や車体寸法の制限が撤廃された。四輪車に比べて安定性に劣るという構造的な弱点があるとされ、これ以上のむやみな拡大は技術的に難しいという前提で、「制限する必要がない」という意味での制限撤廃だった。しかし実際には、通常の使用で三輪と四輪の安定性に、差はなかった(注;当時は速度が低かったので)。いずれにせよ、どこまで大きくしても構わなくなったのだ。一方で、小型四輪トラックに対しては、道路運送車両法によって全長4.7メートル以下という制限が続く。~ 三輪トラックの絶頂期が訪れる。』(⑳、P177)
こうしてオート三輪はロングボディを用意することができるようになったが、オート三輪メーカー以外の世間一般の認識としては『当時三輪車は「本建築を見るまでのバラック建」てなものという認識が一般的だった』(①、P343)
しかし、過当競争のこの業界では、そうこうしているうちに、マツダに続けとばかりに『50年代半ばまでにはほとんどのメーカーが小型四輪車より大型の三輪車を生産するように』(①、P334)なっていく。
戦前~戦後のこの時期の国内トラック市場において、最大のボリュームゾーンであったのが、フォードとシヴォレーが開拓し、戦前はその両社が市場を独占していた、1~2トン積のいわゆる「大衆」トラック市場だった。
通産省と運輸省の意図としては、この市場は三輪トラックのためではなく、大事に育てていた四輪の自動車産業のために用意されたものだったはずだが、『この大型化によって、1950年代半ばにおける三輪車は750kg~2トン積までのトラック市場をほぼ席巻することになった』(①、P334)!
官側の思惑が外れて、なんと“本命”の四輪トラックを差し置いて、オート三輪がその市場をカヴァーしてあいまうという、非常に不本意な状況が?生まれてしまったのだ。(①、P334参考)
そしてこの、オート三輪の大型(巨大?)化は、後手に回った運輸省が『55年7月に「現在制作されている最大の小型三輪トラックの大きさを越してはならない」という通達を出し、その拡大競争に歯止めがかけられるまで続けられた。(①、P335他)
 マツダのCT型はその嚆矢として、業界初の1トン積トラックとしてデビューした。そしてそのスペックも、非常に先鋭的であった。空冷V2型1157ccのOHVエンジンは半球型燃焼室と油圧タペットを持ち、32㏋と当時としては大パワーを誇った。その他、セルモーター式のエンジン始動、ラバー式のエンジンマウント、フロントウインドウに合わせガラスの採用など、新技術のてんこ盛りだった。
『~この先進的なオート三輪がその後のスタンダードになり、方向を大きく決めた。他のメーカーはマツダを追いかける立場となり、マツダは業界をリードするメーカーとしての地位を確保した。』(②、P84)
1950年当時の同クラスの四輪トラックのエンジンは、トヨタでいえば1947年に戦後型として新規開発した1,000ccのS型エンジンだが、4気筒とはいえSVの27㏋と非力で、パワーでマツダに劣っていた。日産に至っては、戦前の設計を引きずったD10型の860ccSVの21㏋で、大きく引き離されていた。企業としての勢いの差が、エンジン出力の差となって現れたのだと思う。
オート三輪から三輪トラックへ
戦前を思えば、立派に成長したオート三輪だが、CT型の完成は、マツダの事実上の創業者である松田重次郎(15.3項参照)にとっても感慨深かったのだろう。以下⑳より引用『これを機に、当時は健在だった重次郎はオート三輪を「三輪トラック」と名づけ、それまでのオート三輪とは一線を画す製品であることを打ち出した。確かに従来のオート三輪は、オートバイに荷台をつけた印象で、オートバイの延長線上と感じさせる。しかしCT型は、明らかにオートバイというよりは「トラック」の雰囲気を持っている。』(⑳、P176)この記事では区分けがメンドーなので、まとめてオート三輪として表記してしまうが…。
(下の写真はトヨタ博物館所蔵のマツダCTA型(1953年製)で、写真も同館のものです。CT型の発展型で、さらに積載量が多く、2トン積を誇ったという。戦後の復興期で、日本中が少しでも安く、より多くの荷物を運ぼうと必死だった時代に、スペックの面からみても、四輪より需要が大きくなって当然だっただろう。日本のインダストリアルデザイナーの草分け的な存在であった、社外デザイナーの小杉二郎の手になる、生産性も充分考慮に入れたと思われる、鋭角的で、見方によっては恐ろしくモダーンなデザインは、今見ても実に斬新だ。ムチャクチャに思われるかもしれないが、「ニューヨーク近代美術館」に展示されたとしても、おかしくないくらいのレベルにあるようにも思う。)
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https://pbs.twimg.com/media/EaN4kUPU4AEj2ep?format=jpg&name=4096x4096
オートバイ/オート三輪/乗用車・小型トラック/大型トラックが棲み分けしていた
余談の中の余談だが、(②、P10)によれば、『オート三輪車が全盛を誇った1950年代の自動車は、大きく分けて①オートバイ、②オート三輪車、③乗用車及び小型トラック、④大型トラック及びバスという4つに分類される。そして、これら4種類の分野ごとに異なるメーカーが活動していたのが、この時代の大きな特徴だった。』
誤解されないように追記しておくが、たとえば日本のオートバイ産業には、(⑥)の巻末の「日本の二輪車メーカー一覧表」を数えると、かつて278社もあったという。そのカテゴリーの中での過酷な生存競争の末に、今日の4社が生き残ったのだが、1950年代は、各カテゴリー間に於いては『~直接的な競合関係になく、お互いを意識することもあまりなかった』という。

トヨエースの登場で、三輪トラックは引導を渡される
しかしその業界の間にあった暗黙の“垣根”を壊しにかかったのが、当時の日本の自動車業界の中では珍しい、“猛禽類”?的な側面も併せ持っていたトヨタで、トヨエース(最初は1954年型「トヨペット ライトトラックSKB型」で、1956年に「トヨエース」と改名)の登場によってオート三輪の全盛時代はその幕を閉じていくことになる。
元々『SKB型の発想は、S型(注;先に記したが1000cc)エンジンの生産設備の有効活用を検討する過程で生れたものだった。』(㉝、P65)パワフルな1500ccのR型に小型車系を全面的に切り替えたため、宙に浮く形になった、『S型エンジンの利用を前提とした商品の検討を急ぎ進め、その結果、当時根強い勢力を持っていた小型三輪トラック市場の切崩しを狙いとするSKB型の構想が生まれたのである。』(㉝、P65)(余談だがS型の活用としてこのとき、フォークリフトも作られた(LA型フォークリフト、1956年(㉜、P210))。トヨタフォークリフトの始まりだ。考えることに無駄がない。2016年の豊田自動織機の記事で、国内販売台数50年連続 No.1を達成したという記事があるが、たぶん今もその記録を更新中なのだろう。下の写真は豊田自動織機製作所のHPよりコピーさせて頂いた。)
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https://www.toyota-shokki.co.jp/about_us/items/1950_2.jpg
話を戻し、いわば、有り合わせの材料で作られたトヨエースだったが、しかしトヨタ自工の石田退三と、自販の神谷正太郎のとった、対オート三輪史上攻略のための販売戦略は画期的なもので、その展開も実にドラマチックだった。またもや脱線してしまうが、長い引用で、紹介させていただく。最初の引用は(②、P25)より
『トヨタでは、オート三輪の買い替え周期が、およそ5年前後であることをつかみ、需要が急速に伸びた1950年頃のユーザーが買い替え時期を迎える1955年を目標にして、その前年にオート三輪車ユーザーを引き寄せる小型四輪トラックを発売する計画で開発に着手した。』以下はトヨタ自工の社史の(㉘)より引用。
『わが社の技術陣が、戦後のヨーロッパの自動車市場の動きを調べたところ、特に我が国と同じように戦争による損害が大きかったドイツにおいて、終戦直後は三輪車が急速に伸びたが、やがて復興が進むにつれて、三輪車が次第にキャブオーバータイプの小型トラックや、コマーシャル・トラックに置き換えられつつあるのを知った。そして、こうした傾向が、遠からずわが国においても現れるであろうと推察し、~当時、小型トラックの6倍以上の市場規模を持つ三輪車市場』(㉘、P370)を奪うべく、虎視眈々と狙いを定めていたのだ。(㉘)の自工の社史では“わが社の技術陣が”と強調しており、初期の企画段階では、自販側でなく自工側の主導だと感じさせるニュアンスで書かれているが?そこは不明だ。話を続ける。
 こうして既成の部品を多く流用しコストダウンを徹底させたこのトラックの特徴は、社史にあるようにヨーロッパの動向をにらんで『キャブオーバータイプにしたこと』で、『荷台のスペースを広くとることに成功した』(②、P24)。
しかし、原価計算の結果から割り出された販売価格は、東京店頭渡しで62.5万円(1954年9月、SKB型)で、『三輪トラックの約2割高。売れ行きはさっぱり』(㉝、P66)であった。以下は(⑤、P85)からの引用
『~発売当初は景気も良くなく、目立つ売れ行きをしめさなかった。しかし、徐々に販売台数は上向いた。そこで、トヨタはそれまでの常識を破る販売政策を実施した。このときのトヨタ自動車工業の社長は石田退三で、トヨタ自動車販売の社長は神谷正太郎だった。
トヨタきっての商売人といわれた二人のトップが増販のために打ち合わせて、大幅に車両価格を引き下げると同時に販売体制を強化することになった。1台当たりの利益を少なくする代わりに大量に販売することで採算をとる方針であった。
1956年1月に車両価格を一気に7万円引き下げて、車名をトヨエースと改めたのである。トヨタでは、普通トラックにディーゼルエンジンを搭載して新しい販売店を作っていたが、これを元にして新しい販売チャンネルをつくって大幅に店数を増やして、トヨエースの販売に力を入れた。』

“販売の神様”と讃えられた神谷正太郎が残した名言の中に「一升のマスには一升の水しか入らない」というものがあるが、この時生れた名セリフだ。⑤より引用を続ける。
『これは、明らかにオート三輪車の顧客を取り込もうとする作戦であった。この後も、タイミングよく車両価格を引き下げていき、最終的には46万円とほとんどオート三輪車とそん色がない価格となり、トヨエースの販売台数は鰻登りとなった。
1956年8月には月産1000台を突破していたが、1957年4月には月産2000台に達した。これはトヨタ自動車の生産台数の3分の1を占める数字であった。』
以下は(㉗、P118)
『トヨタの作戦が成功した背景には、日本経済の成長があったものの、次々と手を打った石田と神谷という「商売人」による連携プレーがあった。トヨタは乗用車中心になると見越しても、堅調な需要が見込まれるトラック部門をおろそかにしなかった。これも、その後に日産との企業格差が生じる原因のひとつになった。』
オート三輪のピークは1957年で、その後急速に衰退していった
結局オート三輪のピークはこの1957年であった。『道路事情が改善されてくると、それまではあまり問題にならなかった速度や安定性など、走行性能の面で、三輪は四輪にかなわない。やはり三輪トラックは、社会基盤が発展途上にある過渡期の製品に過ぎないのだ。』(⑳、P182)
(逆の言い方をすれば、1957年までは、日本の自動車市場はオート三輪が主流だったことになる。下図は(㉛-2、P144とP146の資料を元に作成した、道路投資額と道路舗装率の推移。自動車重量税をはじめ自動車関係諸税による税収の確保で、日本の道路も着々と整備されていき、走行速度も高速化していった。)
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三輪車は、宿命的な欠点を併せ持っていたので、社会インフラの整備が進み四輪車が普及すれば、いつかは消え去る運命にあったものの、トヨエースが引導を渡した形となり、その後急速に衰退していった。そしてこの“正常化?”は、自動車行政を司る国(通産省と運輸省)側にとっても、望ましい結果だったに違いない。
トヨエースの登場は、マツダとダイハツにも幸いした?(私見)
しかしこのトヨエースの登場を、ダイハツとマツダの側の視点からみると、賓よくなトヨタが早々に引導を渡してくれたおかげで、両社はズルズルと、出口のない深みに嵌る直前の段階で脱皮を迫られて、結果として何とか、四輪自動車メーカーへの転換を果たせたともいえると思う。マツダとダイハツは、トヨタ自工&自販が放ったトヨエースという「刺客」に、感謝すべき面もあったと思うが?ただしあくまで、今となって考えれば、の話ですが。ちなみにトヨタ自販の社史では、トヨエースが日本の自動車市場/業界に対して果たした役割について、以下のように記されている。
『トヨエースの成功は、自動車業界に新たな動きをもたらした。すなわち、従来のボンネット型の貨客兼用車に加えて、積載本位のキャブオーバータイプのトラックが各社からつぎつぎと発売され、市場を形成した。それに伴い三輪トラックが急速に衰退する運命をたどり、三輪トラックメーカーの四輪車分野への進出が始まった。』(㉝、P67)
(下の写真はそのSKB型で、JSAEの「日本の自動車技術330選」より。以下(㊱-3、P11)『このクルマの出現で、バーハンドル車オーナーは激しい劣等感を抱いた。それゆえ、50年代末にはバーハンドルを丸ハンドルに改造するキットまで販売されたほどである』
まったくの個人的な好みでいえば、乗用車/トラックを問わず80年以上の歴史を持つトヨタの歴代全車種の中で、歴史的なこのSKB型トラックがもっともグッドデザインだったと思う。徹底したコストダウンを貫徹したが故の、無駄のない合目的なデザインだった。なおトヨタ博物館によれば、カンフル剤は「値下げ」とともに、「車名公募」であったという。募集数は20万通以上に及んだという、その最終候補に残ったのが「トヨエース」と「トヨモンド」で、審査員による最終評決(6票対4票)でSKB型は「トヨエース」に決まったそうで、「トヨモンド」の可能性もあったそうだ!(web27-2))
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https://www.jsae.or.jp/autotech/photos/3-12-1.jpg

軽のオート三輪、ミゼットの大ヒット
 ダイハツのミゼットは、webで検索すると多くの情報があり、映画の“出演”も多かったせいか、たぶんすべてのオート三輪の中でもっとも話題が豊富だ。その中で安直だが、wikiの記述が簡潔にまとまっているので、そのままコピペして引用させていただく。『ダイハツは、これまでオート三輪でも高価で手が届かず、専ら自転車やオートバイなどを輸送手段としていた零細企業・商店主などの、小口輸送需要を満たす廉価貨物車の開発を着想した。これは当時におけるいち早いマーケティングリサーチの成果であった。1950年代中期の日本能率協会の調査によれば、従業員10人以上の事業所には小型オート三輪トラックが相当に普及していたのに対し、全事業所数の93 %もの比率を占めた従業員9人以下の小規模事業所ではオート三輪はほとんど使われておらず、オート三輪メーカーにとっては未開拓のマーケットだったのである。』
ミゼット誕生のきっかけとして『1956年(昭和31年)夏のある雨の夜に大阪梅田を歩いていた同社社長と専務は、ビールを積んだスクーターが横転し、すべてのビール瓶が割れるという光景を目撃した。こんな時に幌付三輪スクーターがあったら・・・という発想が生まれ、ミゼットの開発に活かされたというエピソードが』(web30-3)あるようだ。Wikiからの引用を続ける。
『このため、車検免除(当時)や安い税額などのメリットを持つ軽自動車枠に目をつけ、当時存在した軽自動車免許(現在は普通自動車免許に統合され、未済条件として存続)で運転できる軽オート三輪トラックを開発した。開発は1954年(昭和29年)から着手され、1956年(昭和31年)には試作車が完成した。』以下は⑱より引用『(1958年)8月に市場デビュー。英語で「超小型のもの」という意味を持つ、ミゼットの愛称が与えられた。』(⑱、P28)以下もwikiから引用
『販売戦略も、その軽便性を売りとする「街のヘリコプター」なるユニークなキャッチフレーズ、楠トシエの歌うコマーシャルソング「みんみんミゼット」など個性的であったが、特筆すべきはテレビコマーシャルのいち早い活用であった。当時ダイハツがスポンサーとなっていたコメディドラマ「やりくりアパート」(1958年 - 1960年)の生CMに、ドラマの主役である大村崑を起用、番組終わりのCM枠では毎回、大村がギャグ混じりで両手を扇形に広げるアクションとともに「ミゼット! ミゼット!」と連呼した。これらの拡販策は大当たりとなり、ミゼットは一躍ベストセラーとなった。』(下の折れ線グラフは、ミゼットが生産されていた頃のダイハツの生産台数の推移で、ダイハツの数字は社史の㉙、P42より、参考までに載せたトヨタの合計の数字は自販の社史(㉝)のP74からとったものだ。このグラフからはやはり、トヨタとの勢いの差が感じられる)
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(下の写真は軽三輪車という新しいジャンルを開拓したダイハツミゼット。ミゼットはタイの三輪タクシー「トゥクトゥク」のベースとなった点でも重要だ。少々長くなるが、以下(web❽)より引用『オート三輪は日本国内のみならず海外にも輸出され、(中略)中でも東南アジア方面へは敗戦国日本の戦後賠償として大量のオート三輪が輸出され、特にダイハツミゼットは中古車や解体車の部品が無償で輸出され、東南アジアではトラックとしてだけでなく、荷台を客室に改造し軽便な旅客輸送車両としても重宝されました。』こうしてダイハツミゼットをベースに「トゥクトゥク」が誕生するのだが、驚くべきことに、(web❽)によれば『~日本のダイハツミゼットの末裔ということは現在もタイを走り回ってるトゥクトゥクの部品とダイハツミゼットの部品と互換性があるのか?(中略)答えは「Yes」』なんだという。想像以上の血のつながりの濃さだ。トヨタ博物館所蔵の1959年製DKA型は初期型で、写真も同館のものです。ミゼットは1957年~1971年まで生産されたが、その生産台数は317.152台(輸出台数 19.382台)に達したという(web30-3)。)
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http://home.q01.itscom.net/taichi/event/201507/26.jpg

以下の2台のトラックは“番外編”として記す。戦前フォードとシヴォレーが開拓し、戦後の一時期はオート三輪が握っていた、普通免許で乗れる2トン積級のトラックの市場を受け継ぎ、さらに発展させた、“正統的?な後継車”として、トヨエースの上のクラスを担った2台のトラックを紹介しておきたい。
小型トラックの代名詞、いすゞエルフ
1台目は小型トラックの代名詞的な存在であるエルフ。以下の説明文は「日本自動車殿堂 歴史遺産車」(web❼-5)より引用
『いすゞエルフは、日本の狭い道路事情で「最も効率よく荷物を運ぶ」という目的を達成するため、1959年にいすゞ自動車初の本格キャブオーバー 2 トントラックとして誕生した。
(中略)広いキャビンと良好な視界、 3人乗りのベンチシートなど、キャブオーバートラックとしての効率的なレイアウトの追求と、耐久性・経済性に優れたディーゼルエンジンの採用により、市場の高い支持を得て、ベストセラー小型トラックとしての基礎を確立した。』
エルフという名の由来だが『エルフとは英語で「小さな妖精=茶目っ気少年」の意味で、いすゞの乗用車ヒルマンのミンクス=おてんば娘と称されたのに合わせて命名されたといわれている。』(㉓、P52)“ミゼット”の名前の由来に似ているが、大型トラックが主体だったいすゞにとっては、小さなトラックだったのだろう。
画像は“response” https://response.jp/article/img/2020/08/25/337781/1554031.html
よりコピーさせて頂いた。小型トラックの世界に、ディーゼル・エンジン車を定着させて、後に続いた三菱キャンターと共に、2トントラックの市場を牽引していった。
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https://response.jp/imgs/fill/1554031.jpg
“4トン車”市場を定着させた、三菱ふそうT620
“番外編”の残りの1台は、現在に至る4トン積中型トラック市場を本格的に開拓し、その初代王者として君臨した、三菱ふそうT620型。この歴史的なトラックの誕生の経緯については、一般で入手可能な本としては、㉕が比較的詳しかったのでそれをガイド役に、さらにインサイドストーリーが記されている(㉛、ふそうの歩み)と(web30-4)で補足しつつ、以下要約して引用させていただく。
戦後の三菱車を説明する上でややこしいのが、三菱重工業が、戦後3社に分割されたことで、自動車関連は、東京(丸子)・川崎でふそうトラック/バス、名古屋で各種車体、京都でエンジン、岡山・水島でオート三輪やスクーターの生産を行う等、各事業所で分担?していた。しかし、1964年に旧三菱重工系の3社が合併し、再び三菱重工業として復活していく過程で、自動車分野も整理・統合されていく。
中型トラック分野では、三菱はもともと先駆者で、オート三輪等をつくっていた水島製作所で作られたジュピターという、他社にない大きさの2.5~3トンクラスのボンネットトラックのシリーズがすでにあった。
水島では、下火になったオート三輪に代わる生産品目としての位置づけだったが、一方大型が中心だった川崎/丸子のふそうトラック部門では早くも『1950年代には5トン前後の中型トラックの占めるシェアが大きかったことから、このクラスへの参入計画が立てられた』(㉕、P110)という。下表は(㉛、P335)に記載されていた、1952、54、56年度の普通トラックの生産台数の数字を元に作成したグラフだ。この表では参考用として、日産とふそうの数字だけ示しておく。元データの数字がまるめてあったので、参考扱いとしておくが、全体の傾向はわかる。
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この表を見ると、普通トラック(大ざっぱに言えば、5トントラック以上の大きさ)の市場は、戦前から商工省に目をかけられて、大事に育てられてきた、トヨタ、日産、いすゞのいわゆる“御三家”の台数が突出している。そしてこの3社が握っていた、5トントラックの市場に、ふそうが参入したかった気持ちは理解できる。日野やふそうは当時その上の、より需要の少なかった7~8トンクラスの大型トラックの製造を担っていたのだ。話が脱線するが、それにしてもこの時代は、トヨタも日産も5トントラックの生産台数が多かった。戦前から軍用トラックを量産していたのだから当然なのだが、たとえばクラウン登場以前のトヨタは、小型四輪車と普通(大型)トラックの生産台数に、大きな差はなかったのだ。下表も(㉛、P334)の生産台数の数値を元に作成したものだ。参考までに。
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話を戻し、ふそうが大型トラックメーカーから総合トラックメーカーへと発展するために、(㉛、P491)によれば早くも1954,5年頃から、中型トラックの検討が始まっている。その際、電通に委託して2度にわたり大規模な市場調査まで行い、高い出費だったようだが『この調査により四トン車進出への自信は固められ、後年十二分に報いられた』(㉛、P494)という。その後、1958~9年頃に中/小型平行検討となり、エルフの登場もあり、小型の開発が優先されたが、中型トラックの方は、足掛け7年かかり1961年11月に、漸くに試作1号車が完成する(㉛、P492)。
この中型トラックは、4気筒2,000ccのキャンターのエンジン(4DQ型)を6気筒化した3,000cc102㏋/4,200rpm(6DQ型)という、比出力の非常に高い高回転型のエンジンを搭載する計画で進んでいた(余談だが、4DQ型の前身だった4DP型は当時の小型車規格内であった1,500ccにして、52㏋という高出力型で、1960年度の日本機械学会賞を受賞したそうだ。)
しかしこのエンジンでは余裕が少なく、将来的なパワーアップ競争に耐えられないと判断されて、急遽、より大排気量のエンジンを新開発(6DS1型)し、置き換えることになったという。(㉕、P113)この間、水面下では事業所間で、生産品目の整理統合(それと内部競争も?)もあったのかもしれない。(下の表は㉛、P336で記されていた数字をグラフ化したもので、1960→1965年の大型トラックの生産台数の推移で、やはりふそうの伸びが目立つ。数字はふそうのみ示しておく。)
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ふそうの社員の生の声を綴った(㉛)では、当時のふそう開発陣の気持ちとして『全員が「トラックで飯を食うんだから、まず日野を抜きたい」の一点に結集して努力をしているうちに、完全に抜き切ったと判った頃にはいすゞも下がって来ていて、自動的に抜いていたというのが実感であった』(㉛、P427)と記されている。もともと潜在的な力はあったのだろう。もっともその後、日野も激しい巻き返しに転じて、大型トラック分野ではこの2社を中心に、熾烈なトップ争いを繰り広げることになる。あの事件が起きる前までは・・・。
1964年10月、最初の企画から約10年という、長期計画になったが、満を持して、4トン積み中型トラック“ふそうT620シリーズ”がデビューした。そのスペックは、同クラスの他車を圧倒し、余裕ある6気筒4,678㏄(110ps)ディーゼルエンジンを搭載し、普通免許で運転できる最大の積載量を誇った。荷台長も4,270mmと6トン積トラックに匹敵する長さで、しかも荷台が低く積み下ろしも楽だった。キャブオーバー型スタイルのキャブの室内は、乗車定員2名が普通であったところ、3名乗車が可能だった。発売以来わずか2年7ヶ月で国内販売累計2万台を突破し、中型4トントラックの市場を確定させた。(㉕、P113、web30-4参照)その後、巻き返しを図る日野のレンジャーや、いすゞのフォワードなどと、激しいシェア争いを繰り広げていくことになる。
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上の画像はなんと、ユーチューブの「#旧車カタログ #三菱ふそう4トントラック #T620」https://www.youtube.com/watch?v=L0lgO10ydRA
からコピーさせていただいた。それにしても、この歴史的なトラックの情報が、webであまりにも少ない・・・。)
早くも延々と脱線してしまったが話を戻し、オート三輪が、4輪の自動車のように“人工的”に育成されたものでなく、戦前/戦後の動乱の時代に、必死に働いた日本人の、日々の生活の中から生まれたのであれば、そのルーツは何だったのか、まずはそこから確認していきたい。
(※いつものように文中敬称略とさせていただき、直接の引用/箇所は青字で区別して記した。また考える上で参考にしたものや、写真の引用元まで含め、出来るだけすべての元ネタを明記している。この記事のたぶん9割以上が、それら参考文献に依存するものだが、今回は特に以下の三氏の著作に多くを頼ったので、最初にネタばらしをしておきたい。
・呂寅満著『日本自動車工業史-小型車と大衆車による二つの道程-(東京大学出版)=引用①』と、
・『懐旧のオート三輪史(GP出版)=引用2』をはじめとするGP出版の桂木洋二氏の一連の著作(他に引用⑤、⑦、㉖、㉗、㉜)及び、
・マニア向けの旧車誌、月刊オールドタイマー(八重洲出版)の連載記事、『「轍をたどる」の中の、「国産小型自動車のあゆみ」編』岩立喜久雄氏(④-1~④-×)
以上三氏の著作だ。以下に記していくこの記事は、これらの著作から勝手に“つまみ食い”させていただいたことをあらかじめ記すとともに、深く感謝します。引用に掲げた三氏の著書を読めば、この記事はまったく不要(その大幅な劣化版なので)であることも明記しておく。特に今回、ダイハツの情報収集に苦労し、ダイハツの社史(引用㉙、㊴)を購入し確認しても内容が薄くがっかりし、困り果てていた時に出会ったものが、月刊オールド・タイマー(八重洲出版)の「轍をたどる」という60回に及ぶ連載記事の中の、「国産小型自動車のあゆみ(編)」という一連の記事だった。
岩立喜久雄氏によるこの労作が、「戦前の国産小型自動車のあゆみ」として近い将来、一冊の単行本として出版されて、より多くの方々に読まれることを切に期待したい。ただしその際には、ダイハツとマツダの車種の変遷ぐらいは、十分情報をお持ちだと思うのでぜひ書き加えていただきたいが!マツダ車については現状でも情報は得られるが、戦前のダイハツ車については、貴重な情報になるので。
 以上は戦前の国産小型三/四輪車の、自動車マニア的な側面も含めての、“歴史”についてまとまるうえで参考にしたものだが、自動車産業史としてみた場合、全体の基調を確認する上で多くを頼ったのが、先に掲げた桂木洋二氏の一連の著作と共に、呂寅満氏の著書(『日本自動車工業史-小型車と大衆車による二つの道程』;引用①)だった。
というか、今回の一連の記事(日本の自動車産業の“育ての親”は日本陸軍だった?)を書き進めるうえで、全般的にもっとも影響を受けたのがこの本だった。もちろん、同書の内容のすべてに賛同したわけではけっしてない。しかし少なくともこの本には、同時代の日本の研究者/モータージャーナリストにはない“勢い”というか、ほとばしるエネルギーが感じられた。著者は1996年から2005年にかけて、韓国から日本に留学して日本の自動車産業史の研究をされたようだが、氏の思いは同時に、日本に追いつき追い越そうと必死だった、当時の韓国自動車産業の思いでもあったのだろう。それにしても、日本の戦前の自動車産業史を記すうえで、韓国人の研究者の著した本がもっとも参考になったという事実には、少々考えさせられるものがある。そして呂氏の研究に明らかに影響を受けたと思える書き物は、今の日本に多いように思えるが、参考文献として掲げていないものがほとんどなのは、如何なものかと感じてしまう。もっともその影響が、二次的なものだったりする場合もあるので、影響を受けたこと自体、わからない方々が多いのかもしれないが。下の画像はアマゾンよりコピーした。)
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14.オート三輪へと至った道
生活者目線で日本のクルマの歴史のおさらいをする
ご存じのように明治以前の日本の社会では、欧米のような馬車という乗り物がなかった。そもそも江戸時代は統治上の理由から、スピーディーに移動することを奨励しなかったので、人々の移動手段は、駕籠(かご)もあったがもっぱら徒歩に頼った。
そんな日本だったが、幕末~明治にかけて『交通史家である斎藤俊彦(注;③の著者)によると、欧米諸国では、馬車を中心とした長い道路輸送時代を経たあとで、鉄道の時代が始まったのに対して、日本では、馬車、鉄道、馬車から鉄道への過渡的な役割を果たした鉄道馬車、自転車などの「舶来品」が、幕末から明治初期にかけてほとんど同じ時期に導入された。それらに日本人が編み出した人力車が加わって、日本独自の交通体系が形成されていった(㉚、P63)のだという。
そして戦前の国産自動車産業をみた場合、四輪の中でもいわば本流であった大衆車クラスの乗用車とトラックが、フォードやシヴォレーのKD生産車に市場を席巻される中で、国産車は軍用トラックや省営バスなど官需主体でかろうじて生き延びていたのと違い、オート三輪は『民間の需要に応じるための性能や価格を備えた製品を保護政策なしに供給する「下からの形成過程」』(①、P144)を経て独自に発展を遂げていった。そして『長期間かつ多量に三輪車が生産されたのは日本のみ』(①、P138)という、世界的に見ても例をみない、独自のクルマ社会を形成していったのだ。
そこで、日本固有の、クルマ社会の歴史を簡単に振り返りつつ、オート三輪へと至った道のりを確認していきたい。まずは日本人のための乗り物として、日本のクルマの時代の先駆けとなった、人力車の話から始める。以下は(㉚、P82)から引用する。

14.1日本人の代表的な交通手段だった人力車
『馬車や自動車では後れをとったが、日本人が発明した乗り物もある。まずは、文明開化の時代、日本人の生活の中に入り込んだ「人力車」。最初は乗ることが照れくさかったようであるが、乗ってみると、実に爽快。長らく身分制度に縛られた生活をしてきた人々にとって、背伸びをするような解放感、少し高いところからの目線で見る景色、ワクワク感があったようである。』この“解放感”の背景の一つとして(④-3、P168)『江戸時代幕末期までは諸車の使用が一部の地域、江戸、京、駿府、大阪などに限定され、その他の地域では厳しく禁じられていたが、明治維新と共にこれらの車両が一気に解禁』されたことが影響していたようだ。
14.1-1明治時代にクルマといえば人力車のこと
以下は(④-3、P168)より『明治期に最も活躍したクルマといえば、それは何と言っても人力車であった。~ 現在の我々は自動車のことをクルマと略称するが、明治期は人力車をクルマと呼んだ。たとえば我々はタクシーを呼び出すとき「クルマを呼ぶ」というが、明治の人はまったく同様にクルマ(人力)を呼び付けた。』(④-3、P170)そして人力車の普及は『鉄道立国の明治は産業経済の分野で蒸気機関車が大役を果たしたが、市井において小さな人力車が人の効率的な移動に寄与した経済効果は計り知れない。』(④-3、P168)
以下も(④-3、P172)からの引用『二輪馬車の車夫の中には1日に36里(144km)を引き、東海道(約500km)を7日で走り抜く者もあったという。市街地を駆け抜けるこれほどの高性能?な貨客運搬用小車は、西欧にもなかったろう。』狭い道幅の当時の環境下では、人力車がもっとも機動性が高く効率的な乗り物であったようだ。
14.1-2当時の日本はクルマ後進国ではなかった?
以下も(web❶)より引用『人力車が日本の代表的な公共輸送機関に取って代わった。1876年(明治9年)には東京府内で2万5038台の人力車があったと記録されており、19世紀末には20万台を越す人力車が日本にあったという。人力車は大阪でも使われるようになり、全国へと普及していった。各地に中継地ができ、道路も整備されていった。』
その普及のスピードだが『さらに信じがたいのは ~ 明治3年に東京で発生した新奇な乗り物が、わずか5年の間に10万台も普及』したことで、短期間に、ほとんど爆発的とも言えるほどの急激な普及だったと論じている。(④-3より)
さらに、大蔵省統計で明治29年(1896)年の約20万台という保有台数は、当時の人口を約4千万人とすれば、人口200人当たり1台の人力車があったことになり、『~人力車を最小サイズのクルマとみるならば、当時の日本は決してクルマ後進国ではなかった。むしろそれなりのクルマ大国であったとさえいえよう。』(④-3、P172)と、けっして“クルマ後進国”ではなかったとしている。
前回の記事で、昭和10年頃の日本には、全国で約5万台の円タクがあったと記したが、乗り物としてのスケールが違い過ぎるとはいえ、台数ベースの比較では明治時代の人力車のほうが、戦前の昭和の円タクより4倍も多かったことになる。そして明治時代の人力車の普及が、昭和の円タクの普及の下地を作っていたことになる。
(人力車がどんな乗り物なのかの説明はさすがに省略する。画像は「人力車の歴史」(web❶)より コピーさせて頂いた。http://edomingu.com/jinrikisha/jinrikisha.html
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http://edomingu.com/image/jinrikihaPostcardIx350.jpg
14.1-3人力車は日本人が発明した?
ちなみに人力車の発明者については、㉚などいくつかの本では日本人の和泉要助(ら)が発明したとしている。(たとえば『人力車の発明についてはいろいろの説があるが、日本では1868年に和泉要助、高山幸助および鈴木徳二朗によって発明されたとされている。彼等は馬車をヒントに人力車を作製した』(web❷、P35)という記述のように。)
 一方(④-3)『和泉要助、鈴木徳二郎、高山幸助の3名が提出した人力車営業願書に対し、東京府が許可を与えたのは事実だ。しかしだからといって和泉要助が人力車の代表的な発明者だったとは限らない。前述の通り人力車の改良、量産に最も貢献した功労者は秋葉大助(1843~1894)であった。』(④-3、P170)と、秋葉大助の功績が大きかったとしている。詳しくは(④-3)をぜひ確認してください。(web❶)でも『秋葉大助が西洋馬車にヒントを得て改良した舟型が祖型となった』としている。岩立氏が指摘しているように、人力車は和泉要助ら、特定の人物の“発明”によって誕生したわけではなく、多くの日本人の手を経て完成したものだと言えそうだ。
14.1-4すでにパリの道を走っていた
しかし残念なことに、交通史家である斎藤俊彦氏によれば、『人力車は日本独特の発明だと言われてきたし、誰でもそのように思ってきた。しかし、今から300年ほど昔の十七世紀から十八世紀にかけて、花のパリの道路を走っていた』(③、P39)という。『人力車はけっして日本独特ではなく、かつてのヨーロッパでも一時利用されていた』(③、P41)とし、さらに歴史をたどれば、中国などでも使われていたようだ(wiki等参照して下さい。)
 この指摘に対して(④-3)の中で岩立喜久雄氏は『~また人力車は18世紀フランスのビネグレットが原型との説もあった。確かにビネグレットも含めてほとんどの欧米製品が輸入されただろうが、日本の車大工ならば様式馬車の実物を観察しただけで、ただちに鍛冶屋に板バネを作らせ、人力車の原型を試作できたに違いない。ビネグレットと人力車では用途もレイアウトも異なり、性能も人力車のほうがだいぶ進化していた。』と新たな“定説”に対してやんわりと反論している。
 さらに、人力車が日本で生まれた最大の理由として、『二輪車のミニマムレイアウトを人間が引いた最大の理由は、単純に日本の道幅が狭かったからである。轅(ながえ、かじ棒)の先端で引き回すため、何よりも小回りが効き、取り回しが良く~』(④-3、P172)と記している。確かに、必要は発明の母だ。
さまざまな意見があるが、個人的な“感想”としては、“Rickshaw”(リクショー=“人力車”のこと。日本由来の英語になった)は、岩立氏の見方のように、確かに二輪馬車の縮小版で、板バネの技術等、その影響を受けつつも、やはり日本固有の社会と風土が育んだ、日本独自の乗り物だったと、理解して良いように思える。まわりくどい表現だが、そうだとすれば、誰か特定の人物の“発明”というわけではなく、人力車は日本(人/社会)が“発明”した乗り物として、解釈すべきように思えるのだが、如何でしょうか。
(下の画像は、https://www.wikiwand.com/fr/Vinaigrette_(v%C3%A9hicule)より
コピーさせて頂いたもので、ビネグレット(Vinaigrette)の一例。17,18世紀頃、フランスの貴族階級が旅行や外出の際、使っていたもののようだ。やはり人力車とは別の種類の乗り物だったと思いたい。ちなみに人力車に対して、欧米からは、人間にクルマを曳かせる行為は、人間の奴隷扱いで野蛮だとの批判もあったようだが、岩立氏の指摘のように現実問題として、明治時代の日本の狭い道では、人力がもっとも機動的で、それしか成り立たなかったのだろう。)
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14.1-5重要な輸出産業だった
日本人の発明であったかどうかは別としても、wiki等によると人力車は産業面でもアジア各国へ輸出され、特にインドでは、明治40年代、年間1万台が日本から輸出』されたというからすごい。
『1896(明治29)年の21万台をピークに以後は減少していくが、その代わり、人力車の輸出が増加し、それらの地域で大変重要な乗り物として定着していく。主な輸出先は中国や東南アジア。さらには周辺諸国にも広がっていった。インドのコルカタ(旧カルカッタ)ではいまでも使われている。』(③、P82)そうで、アジアを中心に人力車の世界的な普及に貢献した。先に(④-3)からの引用で、人力車の普及に最も尽した人物として、秋葉大助を紹介したが、以下は(web35、「人力車の歴史について(くるま屋)」)で、輸出を含む、秋葉の功績を要領よくまとめていたので、以下引用させていただく。
『⑤秋葉大助の貢献
秋葉大助(父子)は人力車の歴史を語る上で決して外す事の出来ない存在です。秋葉製の人力車は非常に好評で、彼の作った人力車を大阪では「大助車」と呼んだほどでした。
⑥東京銀座にあった明治期最大の人力車製造工場
「諸車製造所秋葉大助」
大助はそれまでの粗雑で殺風景な人力車を一新させ、車体に漆を塗ったり車軸にバネをつけたりして改良に様々な苦心を払いました。その結果、だいたい現在の人力車の形になり、乗り心地が快適になりました。
和泉らが営業を始めてからしばらくは人力車の形には様々なものがあり、腰掛型、坐型、二輪、三輪、四輪、ちりとり型、だるま型など、多種多様だったが明治8年ごろには現在の人力車と近い形に落ち着きました。それには初代大助の貢献が極めて大きいと言われています。
また、この年に初めて英・仏への人力車の輸出を開始し、その後次第にシンガポールやインドなどへと輸出を拡大していきました。』
(以上、web35より引用)
 以下は(④-3、P171)より『~ゴム製のタイヤ、さらには空気入り(ニューマチック)タイヤの特注から輸入、ひいては国産自転車工業の発展に至るまで、秋葉大助商店が各業界に与えた影響は大きかった。~ 上海での現地生産や、年間1万輌の輸出など、人力車製造は日本の代表的な輸出産業の一つに成長していた。』人力車の説明の最後として、たびたびですが、月刊オールド・タイマーの連載記事の(④-3、P177)から引用
『~なぜエンジンも付いていない人力車を自動車史で取り上げるのか?と疑問に思われた方もあろう。
 ただこれらを通観してみれば、日本人によるクルマ製作は、欧米から自動車が輸入された後に、初めてそれを模倣するところから始まったのではないことに気付かれるのではないだろうか。小型で効率の良さを追求した日本車の要素は、人力車の時代からすでにはぐくまれていたのである。』まず人力車作りのための産業が興り、それが自転車産業へとつながり、オート三輪へと発展していった。『一般にわが国の自動車の製造技術は、欧米製の輸入車から学び、それを模倣することで習得したとみる向きが多いが、じつはそればかりでない。ことに小型自動車の分野では、これら人力車、自転車の部品工業からのフィードバックが絶大であった。』
(④-8、P170)
この14.1項の冒頭に記したが、呂寅満氏や岩立喜久雄氏の指摘の通り、日本の自動車産業の生成過程においては、大衆車(この一連の記事で何度も何度も記してきたが、フォード、シヴォレーのクラスで、かなり大きい)と、小型車という二つの大きな道筋があったのだ。自分のこれまでの、一連の記事では延々と、“主流派”だった前者について記してきたが、今回の記事では長年傍流扱いされてきた後者の系譜を、その発端から記していくことになる。
(しかしそんな人力車も、市街電車などの発展と、廉価で大量にKD生産された自動車(≒アメ車)の“円タク”によって駆逐されていったのは前回の記事で記したとおりだ。確かに徒歩(時速4km/h)よりは速かった(8~10km/h)が、当然ながら自動車のスピードと輸送力には到底かなわない。駕籠→人力車→(輪タク)→円タク(自動車のタクシー)への進化の軌跡は、やはり絶対的なパワーの差によるスピード×輸送力=経済効率の差だったのだろう。下の写真はブログ“鈴木商店”さんより「客待ちの人力車が並ぶ神戸停車場(1907年頃)」コピーさせて頂いた。https://jaa2100.org/suzukishoten-museum/detail/013963.html)
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14.2荷物輸送の主役は人力による荷車
 明治に入り最初に登場した人力車は「人」の輸送だったが、次に「荷物」の輸送について記す。下の(表16)をご覧いただければわかるように、後述する自転車をのぞけばもっとも需要が多く、数多く製造されたのは、荷積車であったが、荷積車には荷車、荷牛車、荷馬車の3種類があった。(④-3、P168)
その中で、荷物輸送の主役もやはり、人力による荷車だった。今の若い人はイメージがわからないかもしれないが、“荷車”とは荷物運搬用の二輪車のことで、そのうち二、三人でひく大型のものは“大八車”と呼ばれて、江戸時代から盛んに使われるようになった。時代劇でご存じの方も多いと思う。(下の画像は「東京の100年を追うNHKスペシャル……震災や戦争からの復興などカラーで再現 7枚目の写真」よりコピーさせて頂いた、「大正時代の日本橋」https://www.rbbtoday.com/article/img/2014/10/17/124534/427930.html)
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14.2-1江戸時代、大八車の使用が認められていたのは江戸市中、尾張、駿府だけだった
先ほど、TVの時代劇で目にした人が多かっただろうと記したが、実際には江戸時代は、人の移動に限らず荷物の輸送についても『大八車の使用が認められていたのは、江戸市中、あと尾張、駿府、それも使用に当たっては、特別な申請と認可が必要だった』のだという。クルマなしで人が運ぶか、馬や牛の背中に背負わせるかのどちらかでは、かなり不便な生活を強いられたことだろう。(下の「江戸の世」の、「大八車騒動顛末」より引用)
https://buna.yorku.ca/japanese/library/tonbo_no_megane/3-6%e6%b1%9f%e6%88%b8%e3%81%ae%e4%b8%96.pdf
同文よりさらに引用させていただく。『そもそも、大八車は明暦の大火(1657 年)の後、江戸の町の大改造を早急に行わなければならなかったときに、土石などを運ぶのに発明された』とあり、(④-3、P168)では『1657(明歴3)年の江戸大火の後、芝車町に住む車大工、八左衛門が考案して作ったことから「大八」車の呼び名が広まったとの記録(東京史稿)があり信憑性が高い。明治期に入ってからの大八、大七、大六車の呼称は荷台長の8尺以下、7尺以下、6尺以下を意味するようになった』と記されている。治安維持のために、厳しく移動が制限されていたが、明治に入り、荷車は荷物輸送の主役として、急速に普及していく。(下の絵は「江戸の商人,大八車を引く」という、国際日本文化研究センターよりコピーさせて頂いた。
https://sekiei.nichibun.ac.jp/GAI/ja/detail/?gid=GB004022&hid=1320
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https://sekiei.nichibun.ac.jp/GAI/info/GB004/item/022/image/thumb/0/thmb.001.jpeg
なお大阪では大八車と呼ばず、「ベカ車」と呼ばれ、その構造にも違いがあったという。)
14.2-2戦前日本の、重量物運搬の主役は馬車だった
 人力による荷車では通常だと100kg~200kg程度の運搬で、庶民の通常の生活の範囲ではそこまでで充分足りる。それより重量物の輸送は、明治時代以降は馬車と牛車が担うようになる。
 下の表(表16「1920年代における諸車の保有台数の推移」)は、①のP116より転記させて頂いた。余談ながらこの表は“諸車”までだが、当時の日本の輸送体系全体としてみれば、さらにその上位に、鉄道と海運による輸送があっただろう。
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 この表をみると、人の輸送の分野では、前回の記事で再三記したように、1925年のフォードの日本進出により、大衆車クラスの乗用車の価格が低下し、割賦販売の普及との合わせ技で、人力車が営業用のタクシーに置き換わっていったことがわかる。また乗用馬車もバスに代替えされて減少していった様子が推測できる。
 ところがその一方で、荷物運搬用としては、引き続き多くの馬車と牛車が大量に使われていたこともわかる。『この表からはまず、乗合馬車と人力車の減少が目立つ一方で、荷積用馬車と牛車は減少するどころかむしろ増加していることがわかる。~これは、タクシー料金が人力車のそれとあまり差がなかったため、乗用車が経済的に既存手段を代替しうる状態に到達していたのに対して、貨物車の方はその条件がまだ不十分であったからである。』(①、P115)。
確かに表中の「荷物用自動車=トラック」も急速に増えてはいるが、馬車と牛車を代替えするには至っていない。その理由について(①、P115)は『荷物用馬車の代りに、自動車が青果・砂利・木材・生鮮・新聞などの運送に使われていたが、』1930年に至っても、急送品に属さない比較的運賃の低い荷物に対しては、経済原理が働き、荷積用馬車がトラックに置き換わらず使用続けられた、としている。
そしてもう一つの現実的な理由として、当時の道路環境の悪さがあった。以下(④-6)より
『~つまりそれまでの荷馬車、荷牛車業に代わり貨物自動車による運送業が台頭してきたわけだ。しかし当時の標準的な大きさと言えるフォード車は、A型(3285cc)が登場する以前のT型でも2896ccあり、日本の狭い道路では立ち往生する場面が度々起きた。
この道幅と輸入車の車体寸法との不釣り合いは、全国に貨物自動車が急増する大正10年(1921年)頃に顕著となる。それ以前の自動車はごく一部の富裕層の遊興用か、あるいは乗合自動車がほぼすべてであり、乗合自動車の場合はもともと乗合馬車が走っていた幹線道路を進んだわけだから、さほど問題は起こらなかった。ところが貨物自動車の場合は、その本能として市街地を自由に侵入したくなる。~ この輸入貨物車と日本の市街地や住宅地の道幅との不釣り合いは、こののち国産小型自動車を発生させる一因にもなっていく』
(④-6、P172)。小型自動車ももちろんだが、クルマにとっての道路環境の悪さが荷馬車や荷牛車が生き残る一因でもあったように思える。
なお馬車の輸送力について(①、P115)によれば『当時(注;1920年代)~営業用としては1.2~1.5トン程度の積載量を有する荷物用馬車が使われていた。』とあり、スピードでは確かに自動車にはかなわなかっただろうが、積載力はなかなかのものがあったようだ。
14.2-3農家の“自家用”は牛車だった
以下も(①、P115)の引用だが『当時(注;1920年代)、積載量が600~900kgである牛車は主に農家の自家用として使われており~』所得水準が低かった農家の“自家用?”は馬車よりももっぱら牛車だったようだ。ただし、牛車を使う農家は相当な富農の部類だろう。
(写真はhttps://4travel.jp/の「フィリピンで出会った様々な人々」より。さすがに現代の日本では、牛を“自家用”にしている人はほとんどいないと思うが、フィリピンのこのオッサンの、かなり原始的なスタイルだが、立派な“自家用”に乗った満足げな表情に思わず惹かれて、日本ではないがコピーさせて頂いた。ちなみに日本で牛車は、古くは飛鳥時代より、全国各地の車大工によって繰り返し作られてきた伝統的な在来技術であったという。(④-3、P169参考))
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https://cdn.4travel.jp/img/thumbnails/imk/travelogue_pict/39/87/32/650x_39873245.jpg?updated_at=1439510449
話を戻し、①による説明や、(表16)から判断すれば、1930年頃に至っても、庶民の生活の中で荷物の輸送の主力は、次に記す自転車やリヤカーなどの人力と、馬車/牛車で、自動車は主流とは言えなかったと思う。

14.3自転車がオート三輪誕生への架け橋となった
次にもう一度、(表16)をご覧いただき、表中の自転車の項に注目したい。諸車の中で突出して大きな保有台数だ。便利な乗り物として日本の社会でも定着していたことを表している。
14.3-1戦前日本の自転車の歴史
そこで戦前の自転車の簡単な歴史を、まず初めに確認しておきたい。以下安直だが、国土交通省のHP「自転車交通」の中の「自転車の歴史」より引用
 https://www.mlit.go.jp/common/001259529.pdf
『明治29年(1896年)頃から、セイフティ型自転車が、本格的に輸入されるようになり、明治末期には、国産製造が本格的に始まった。
明治44年には輸入関税が引き下げられて単価が下がったこともあり、全国の自転車保有台数が急激に伸び、また、第一次世界大戦で輸入が激減したことから国内生産力が急速に伸びて、価格が安価となり、庶民の生活の足として普及した。
昭和に入ると自転車の保有台数が毎年20~40万台増加し普及が拡大した。日常生活に欠かせなくなった自転車も、昭和13年(1938年)には贅沢品として製造が禁止されて、昭和15年には自転車が配給制度となった。昭和18年には資材が入手できなくなり、年間生産台数が7万台まで減少した』

(下の写真は、たびたびコピーさせて頂いている、“ジャパンアーカイブズ(Japan Archives)”さんより「丸の内(明治45/大正元)自動車・自転車・人力車(馬場先門通)」。https://jaa2100.org/entry/detail/036886.html?
自転車と人力車とともに、丸の内だけあって1台だけ自動車も映っているが、目を凝らしてみると自転車が多いようだ。この写真は1912年の光景だが『1907年に約8万6千台、1910年に約23万9千台、1915年に約68万4千台と伸び、明治時代末から大正時代にかけて自転車は急速に普及していった』(web38-2)。
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14.3-2自転車の普及率は都市部では一,二世帯に一台だった
そして『昭和初期の時点で日本の自転車保有台数はフランス・イギリスに次いで世界第三位、生産量はドイツに次いで世界第二位であった』(⑬、P185)という。さらに戦前の末期には、『特に都市部では一,二世帯に一台の普及率を示していた』(⑬、P184)という記述もあり、驚きだ。下の表は、(web36)中にあった「日本自転車の生産・輸出・輸入の推移」という表を元に作成した。生産/部品の数字は台数ではなく金額で、完成車+部品の合計とした。
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14.3-3自転車は庶民が所有し、自分で動かして乗るクルマ。日本で初めてだった
以下は、“随想・東北農業の七十五年”というブログの、「便利だったリヤカー、自転車」という随筆(web40)から引用させていただく。戦前の東北の農家(といっても、自作農の、相当富農の部類のほうでしょう)で、自転車が当時の人々に与えた影響について書かれており、含蓄のある内容だ。以下ほんの一部だけ引用させて頂く。
『~ ところで、自転車はそもそも人が乗るためにつくられたものである。今述べた運搬は本来からいえば副次的な利用法でしかない。
 人間の移動には徒歩しかなかった時代、自転車は本当に便利なものだった。もちろん鉄道はあった。しかしそれは、決まったレールの上を走るだけなので、どこにでも自由に移動できる手段ではなかった。ましてや線路はそれほど走っていない。これに対して自転車は人が通れる程度の道路さえあれば自由に移動できた。(中略)
 だから、一般庶民の乗物としては、鉄道以外、自転車が初めてではなかったろうか。もちろん、人力車が明治期に開発されている。これは駕籠の代用で、しかも他人に乗せてもらうものである。これに対して自転車は自分が所有し、自分で動かして乗る乗物である。これも日本の歴史上、初めてではなかったろうか。』

戦前の人々の移動手段としてみた場合、人力車や鉄道やバスは、他者に乗せてもらうものだ。都市部の住民が利用する最初の自動車であった円タクも、前回の記事で記したように、当時の日本人の受け取り方からすると、公共交通機関的な意味合いも強かった。それに対して自転車は、確かに荷物運びの道具としての側面も強かったが、当時の(多少上級の?)庶民が“自家用”として所有し、自分で動かして、道と体力が許す限り、どこまでも自由に乗りまわす、プライベートな乗物(“自”分で“動”かす“車”、つまり“自動車”か?)である点が、新しかった。
14.3-4戦前の自転車産業は機械工業の花形だった
話を戻して、上の表から、保有台数の着実な増加とともに、生産と輸出の金額が急激に伸びていく傾向はわかる。
戦前の日本の自転車産業は、当時の自動車産業とは違い、国際的に見ても充分競争力がある、第一級の産業だったようだ。そこで次に、産業としての自転車について、もう少し詳しく見ていきたい。まずはJETROのレポート(web36)から。
『自転車産業は、第一次大戦による輸入代替期を経て、1920年代に国産化をほぼ達成した。その生産は東京・大阪(堺)・名古屋に集中し、簡潔に表現すれば、完成車の東京、部品の大阪、その中間の名古屋といった具合であった。
1920年代後半になると、東アジア・東南アジア諸国が日本の自転車やその部品を輸入するようになった。31年の金輸出再禁止以降、為替ダンピングの影響もあり日本の輸出は急増した。部品については、実に生産の半分以上が輸出に回されていた。その後も順調に輸出台数を伸ばし続け、37年には機械輸出のトップを占めるに至った。この頃の自転車産業は機械産業の花形であった。』
以下(web36)。戦前の輸出先について(⑬)から。
『これらの自転車は主として、いわゆる「円ブロック」(当時の円が支配的な通貨である地域)に輸出された』(⑬、P186)。
(下の写真は“自転車文化センター”の「自転車から見た戦前の日本」からコピーさせて頂いた「昭和7年(1932年)頃の横浜伊勢佐木町 」。『歩道脇に多数の自転車が駐輪してある光景は今と変わらないが、車道に自動車が走っておらず、交通の中心が自転車であったことがわかる。中央の自転車のハンドル前に荷物を置くための装置が取り付けてあり、当時は自転車が荷物を運搬するための役割を果たしていた。』
http://cycle-info.bpaj.or.jp/?tid=100129)
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http://cycle-info.bpaj.or.jp/file_upload/100129/_thumb/100129_32.jpg
14.3-5自転車産業は「問屋制工業」だった
そして日本の自転車産業の産業構造は、「問屋制工業」と呼ばれた独特なものであった。まる写しばかりで恐縮だが、以下(web37「日本における自転車工業の発展」竹内淳彦、1958年)より引用
『自転車の生産は、代表的な組立産業であり、完成車組立てを最終工程としている。すなわち、自転車は、大別しても16の部品と数百の附属品が必要であり、それにタイヤ・チューブ・皮革などを結合させ完成車となるのである。
ところが、日本の自転車は、全工程が完成車メーカーにより、一貫的に生産されている場合は全く少なく、商業的色彩の強い商業卸が、部品メーカーから各部品を蒐集し、完成車を生産している場合が多い。
最終的には完成車の構成品としての部品生産を目的としながらも、完成車工場への納品を直接目的としない部品メーカーが多数をしめている結果、自動車・ミシンなど他の機械工業にみられる如き、組立工場を頂点としたピラミッド型構成が全くみられないところに、日本の自転車工業の構造的特質が存するといえる』
(web37、P33)以上は1958年の著作で、グローバル経済化が進んだ現在では、その構造が大きく変わっていると思う。しかしこの記事のテーマである戦前の、自転車産業では、宮田(東京)や岡本(愛知)のようなメーカー志向の自転車企業もあったが、それ以上に、大阪を中心とした問屋型の企業や、自転車部品企業の勢力の方が強かった。完成車メーカーを頂点としたピラミッド型下請け構造の自動車産業とは全く異なる産業構造だったのだ。
14.3-6初期のオート三輪は自転車関連企業がつくった
 話が自転車とオート三輪の間を、行ったり来たりしてしまうがお許しいただきたい。時代が少し飛んでしまうが、初期のオート三輪車市場に参入した企業は、自転車産業関連が多かった。以下①からの解説を引用する。
『まず注目されるのは、自転車工業との関連のある企業が多いことである。しかし、その企業は完成車をつくる自転車企業ではなく、自転車問屋あるいは部品製造企業であった。~ これらの自転車関連企業が三輪車の製造に関わることになるのは、自転車が問屋主導で製造されたからである。例えば、当時東京自転車問屋の類型のうち最も多いのは、全ての部品を部品企業が製造して問屋は組立のみを行うものであり、その次は問屋がフレームまで製造する類型であった。これは他の地域でも同様であったと思われるが、その問屋が自転車部品と一緒に自動自転車のエンジンも輸入し、それを自転車部品企業に依頼してあるいは自ら三輪車に改造したのである。』(①、P140)
以降で記すように、オート三輪はその後、規制緩和を受けて技術的な進化を遂げていく過程で、“四輪自動車”との近似性が強まり、“自転車色”は次第に薄まっていった。しかしスタート時点に於いては、世界的なレベルにあった自転車の高い普及率と、すでに確立していたその産業基盤が、オート三輪の市場形成に大いに役立ったことは間違いない。
14.3-7オート三輪が大阪起点だった背景
 次にオート三輪が、なぜ大阪(特に境)を中心に発展していったのか、その理由も確認しておきたい。この辺は自分にまったく知識がなく、コピーばかりで申し訳ないが、その説明を以下(web39、P68)より引用だが、
『大正年代以降、わが国の自転車工業は東京、名古屋、堺の三ケ所でほぼ並列的に発展してきた。だが、東京が完成車生産を中心にしたのに対して、堺は部晶供給を主体にし、名古屋は小規模ながら両方を抱えるように構造には多少の違いがあった。堺が部晶を主体にしたのは鉄砲鍛冶という鍛造の技術が長く息づいていたから、いいかえれば技術に対する強い自身と執着があったからであろう。大都会の東京が一見華やかに見える完成車の生産を志向し消費者への接近を図ったのに対して、地道な堺は、逆に自転車の心臓部に当たる、主要部品生産に撤して晶質の高度化にのみ生きる道を求めたのである。こういった背景には、古くから鍛え上げられた鍛冶職人たちの意地も強く働いていたといえよう。』
以下は(web36)からの引用『日本の自転車産業の歴史は,輸入自転車の修理,補修用部品の製作から,まず部品工業が形造られたのに始まり,それがやがて国産完成車の製造に進んだものであって,自動車や時計と異って,完成車組立技術そのものが自転車工業発展の決定的なポイントになり得なかった。(中略)とりわけ大阪では,堺の鉄鉋,刃鍛冶から転業した家内工業的な生産形態による補修部品の生産を出発点とした。』
引用させて頂いた(web36、39)の両方に、大阪の、堺の地名が出てくる。さらにwebで調べると、この地域は元々鍬(くわ)や、鋤(すき)を生産するための鉄の加工技術が発達していたが、16世紀に入って、ポルトガル人によって、鉄砲、タバコが伝来し、タバコの葉を刻む包丁や、種子島に渡った鉄砲の製法が堺に伝え、鉄砲作りから自転車の技術進化へと発展していったとのことだ。(“サカイーナ”というブログのhttps://www.sakaiina.com/ の「堺の自転車博物館」記事を参考)。確かに素人考えでも、鉄砲の銃身と、自転車のフレーム製作には、関連する部分がありそうだ。
そして現代に話を戻すと、堺市=世界のシマノの本拠地でもあるのだ。シマノは『スポーツ用自転車部品では世界の85%、変速機付き自転車でもおよそ7割のシェアを握っている』という(https://strainer.jp/notes/739 より)。そのため堺には、日本で唯一の?自転車博物館があるようだ。自転車に興味のある方は、大阪を訪れた際に、ぜひお寄りになったら如何でしょうか。(下の表は(web39、P68)の、「1930年代における東京、大阪、愛知の自転車生産額」の表の数字から、グラフ化したものだ。やはり安定して、大阪地区の比率が高い。
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14.3-8当時阪神工業地帯が京浜工業地帯を上回る、日本最大の工業地帯だった
自転車産業が、大阪起点であった点について、もう一つ、その理由を掲げておきたい。基本的な情報として、大阪を中心とした阪神工業地帯は、戦前、京浜工業地帯を上回る地位にあり、日本最大の工業地帯であった点だ。以下もwiki等、webからの情報の寄せ集めだが、綿紡績・鉄道などを中心に、それを支える商社や銀行などの活動が一体となって、この地域は「東洋のマンチェスター」(マンチェスターは、英国の産業革命によって発展を遂げたイギリスを代表する商工業都市)と呼ばれるようにまで成長し、日本の工業化の先頭に立っていた。特に進取の気概に富み、元気な中小企業の多かった(②、P173等)という。今の人たちからすると、大阪は「商都」のイメージが強いと思うが、戦時期に東京府に追い越されるまで大阪府は日本最大の工業生産額を誇った「工都」でもあったのだ。(画像はwikiより、新世界から見た通天閣、1920年)
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https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/56/Original_Tsutenkaku_and_Shinsekai.jpg/180px-Original_Tsutenkaku_and_Shinsekai.jpg
14.3-9関西を中心に一時期、フロントカー型の三輪自転車が普及していた
そして、大阪を中心とした関西地区や東京では、通常の二輪自転車だけでなく、荷物運搬用として三輪自転車が、一時期ではあるが、ある程度普及していたらしい(④-3、④-5及び①、②P172等を参照)。そしてこのことが、オート三輪誕生の、重要な布石にもつながるのだが、日本のクルマの歴史の中で、取り上げられることが少ない、三輪自転車が普及した過程を、ここで簡単に確認しておきたい。
まず、人力車や後述するリヤカーを生んだ、好奇心旺盛な当時の日本人は、通常の二輪自転車の変形として、実に様々なバリエーションの三輪自転車や、“四輪“自転車を考案したようだ。その目的は、少しでも多くのモノを積むためで、長くなるので省略するが、詳しくは(④-3)や、(④-5)をぜひご覧ください。
そのうち主流はやはり三輪だったが、ここでさらに、当時の国産三輪自転車を形状別に分類すると、・フロントカー式三輪自転車、・リヤカー式三輪自転車、・サイドカー式三輪自転車の3つに分類できる(④-8、P174)。
このうちサイドカー式は狭い道幅の日本では適せず、最初に普及したのがフロントカー式だった。『ただしこれは自転車系に限った話であり、リヤカー式はのちにエンジンが搭載されて発展し、やがてオート三輪になって活躍することになる(④-7、P174)このことは、後でオート三輪のところで記す。
まとめると、この当時、三輪自転車として主に使用されたものは、フロントカー式の三輪自転車と、リヤカー式の三輪の輪タクだったようだ(『~ 結果的に最も実用性が高かったのは、フロントカー式のトライシクルと、三輪のリンタクの2種であったことになる。』(④-7、P174))輪タクについても後述する。
両車が生き残った理由は、通常の二輪自転車より多く積めて「実用性が高かった」からであったが、ここで、当時の主要な顧客であった商工業事業者が、それらの三輪自転車を求めた動機を、以下(㉚)で確認しておく。
14.3-10日本人は個人的な楽しみというよりも、業務用のニーズが優先する
『~日本では、どちらかというと、これを使用することによって顧客を大幅に拡大できるという、いわば業務用の需要が主導する形で普及したのである。~ 個人的な楽しみというよりは、業務用のニーズが優先するというこの特徴は、後述するように、自動車の普及についても当てはまる日本的な個性と言えるだろう』(㉚、P65)。三輪自転車に、一定の需要があったのは、自然な成り行きだったかもしれない。
(ただ、この三輪自転車が一時期、ある程度、普及していたという事実を“証明”する資料が少ないようだ。その理由の一つとして、三輪自転車は当時、統計上では「自転車」として一括りで扱われており、数字として説明できないようだ。そのため当時の写真や雑誌記事等を掘り起こし、判断するしかなさそうだが、(④-5、P171)では、1917年の、日本自動車(あの大倉系の自動車販売大手)の雑誌広告(モーター11月号)の写真の説明の中で、以下のように指摘している。
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『~この広告で興味深いのは、フロントカー式の貨物運搬用三輪自転車の後方にスミスモーターホイールを装着し、その実用性の高さを主張している点にある。
~ この大正6年(1917年)頃には、全国の都市部の大商店では、すでに御用聞き用の国産の安全型自転車と、配達用途に運転するフロントカー(三輪自転車)が普及していた様子がわかる。商品を迅速に配達するために狭隘な路地を走り抜けていく、オート三輪の始祖がここにあった。このようなスミスモーターホイール付きフロントカーが進化していく過程で、やがて国産の小型自動車の原型が築かれていくのである。』

オート三輪の始祖
三輪自転車が普及していた様子を示すとともに、確かにこの写真は、「オート三輪」が自然発生的に生まれていった、証拠写真だ。この貴重な資料は、以下は月刊オールド・タイマー(八重洲出版)連載記事「轍をたどる」岩立喜久雄氏の「スミスモーターと特殊自動車」(2006年.8月、№.89号)(④-5として引用)のP171よりコピーさせて頂いた。何度も記すが、この「轍をたどる」が一冊の本となり、広く読まれることを切に願います。)
(下の写真はイギリスで郵便配達用に使われていた、フロントカー型の三輪自転車で、
https://www.collectgbstamps.co.uk/explore/issues/?issue=22795 よりコピーさせて頂いた。
このイラストは、1920年のモノのようだが、1880年から使われていたようだ。以下機械翻訳『1880年に最初に導入された三輪車は、大きな籐のかごを備えており、都市部や農村部で大量の郵便物を運ぶのに理想的でした。第一次世界大戦までに、それらは時代遅れであり、郵便物の重量の増加には不十分でした。』フロントカー型三輪自転車は、本場イギリスに於いては1920年ごろになると、郵便配達用としては、荷物の搭載量が不足していたようだ。)
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https://www.collectgbstamps.co.uk/images/gb/2018/2018_9487_l.jpg
くり返すが(④-5)が指摘したように、このフロントカー型の三輪自転車に、これも後述するスミスモーターホイールを取り付けたものが、初期のオート三輪の直接の始祖になった。
14.3-11三輪自転車の時代は短かった
だがこの、フロントカータイプの三輪自転車が使われた期間は、どうやら短かったようだ。
 以下(①、P116)より『(上掲の「表16」により)当時大量の通常自転車が保有されていたことがわかるが、自転車の一部も早くから貨物運搬用として改造して使われていた。その形態には、前部あるいは後部に二輪の荷台を設けて三輪自転車にしたものや荷台のサイドカーを取り付けたものもあったが、もっとも多く使われたのは別に二輪の運搬車を作ってそれを自転車の後方に取り付けたリヤカーであった。』ここで、リヤカーの名前が登場する。
この間の事情を(「国産リヤカーの出現前後」、以下web41)より引用すると、『新しいタイプの荷物運搬具、リヤカーの出現によって、三輪車は徐々にその座を失っていった』(web41、P11)のだという。
ここで自転車の話は終わりにして、もう一度、荷車に戻る。上り調子にあった自転車産業の力を背景にして、様々なクルマ作りの試みが行われていく中で、荷車も進化を遂げていく。戦前から戦後の一時期まで、庶民の荷物運搬に大きな役割を果たした、リヤカーの登場だ。

14.4“庶民の自家用トラック”、リヤカーの登場
この項はいきなり写真から入る。((下の写真は「月刊Hanada」に載っていた「終戦直後の街の風景」より。以下は(③P82)から引用『次に、大正時代に現れたのが「リヤカー」。庶民にとっては、手軽な自家用トラックのような働きぶりである。』ここの記述を、14.4項のタイトルに使いました!)
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https://i.pinimg.com/originals/f9/c2/b6/f9c2b6e655237a887f984dffabaf19ba.jpg
14.4-1荷車からリヤカーへ
 誰もが知っているリヤカーだが、ここで改めて「リヤカー」の定義?について、確認しておきたい。それ以前の大八車等の「荷車」と、その発展形ともいえる「リヤカー」との、ハードウェアの違いは何だったのか、リヤカーの特徴をwikiで確認すると、『ごく細身の型鋼、もしくは鋼管で牽引用の梶棒部まで含むフレーム全体を組み、車輪はオートバイや自転車と同様に金属製のワイヤースポークを利用、車軸はなく、自転車同様のボールベアリングで左右独立支持された両輪間に荷台床を落とし込んだ形態となっている。さらに車輪には空気入りゴムタイヤを填めている。結果、大八車に比して大幅な進歩を遂げた。~大八車の問題点の多くが、リヤカーでは金属部材の導入や自転車・サイドカーの手法を援用することで解決されている。』ということで、大きな進化を遂げている。
 以上は従来の荷車との比較だが、リヤカーの使用方法が、従来の荷車と大きく異なる点は、その牽引者が人に限らず、自転車の場合や、さらには戦後に入ると、原付自転車の場合もあるという、その多様性だろう。そしてその万能性ゆえに、戦前から戦後の長い期間に、相当な台数が普及していたと思われるが、残念ながら具体的な数字が調べられなかった。ただこの記事の対象範囲の戦前においては、自転車よりも人が引く使われ方の方が多かったと思われる。(下の写真はブログ“岩魚太郎の何でも歳時記”さんよりコピーさせていただいた、昭和40年(1965年)頃の豆腐屋さんの商売の一コマです。確かに昔はラッパが鳴ったものですね。
https://jp.bloguru.com/iwanatarou/329126/2018-07-19)
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https://jp.bloguru.com/userdata/40/40/201807191132420.png
14.4-2リヤカーが三輪自転車に勝っていた点
以下は、三輪自転車との比較で、リヤカーが勝っていた点として、(web41、P11)では、
・税率が安かった(昭和3年度(1928年)の東京府の例で、三輪自転車が3円66銭、二輪自転車が2円66銭に対して1円)
・価格も三輪自転車の約1/4だった
・格納が楽だった(リヤカーは立て掛けられた)等を指摘している。また
・機能としても、リヤカーの良いところが、三輪車の弱点だった、としているが、リヤカーの方が、荷物運搬用としては低重心で安定性が高かっただろう。
(下のリヤカーのチラシ広告は、ブログ「賢治と農」よりコピーさせて頂いた。
https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202101070000/
そして同ブログのおかげで、リヤカー誕生の経緯について調査した論文、「国産リヤカーの出現前後」(梶原利夫著、自転車産業振興協会 技術研究所、以下(web41))を知ることが出来た。両方の著者に感謝します。下のチラシも同論文に掲載されたモノでした。この1930年頃のチラシでは、並サイズのリヤカー完成車の価格は25円とのことだが、同論文の1935年のチラシ広告では、競争が激しくなってか、なんとほぼ半額の12円60銭まで安くなっていると、「賢治と農」のブログでは指摘している。(①、P170)で、同じ1935年の、オート三輪の価格は1,200~1,300円ぐらいだとされているので、それと比べるとやはり圧倒的に安い。
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https://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/9/2f5cc821229aacaca0dd9fb4b899310ba615d2a2.65.9.9.3.jpeg
 そしてこのリヤカーだが、wikiによれば、『1921年頃、海外からサイドカーが日本に輸入された時にサイドカーとそれまでの荷車の主流だった大八車の利点を融合して、静岡県富士市青島の望月虎一が発明した』(wiki)のだという。(下の写真は、)
14.4-3リヤカーも日本人の発明だった!?
なんと人力車に続いてリヤカーも、日本人が“発明”したというのだ!当時の日本人が、旺盛な創作意欲を持っていた事は、今までこの記事で再三指摘したことで、ある程度は納得できることだが、果たしてここまで“断定”した記述を、全面的に信じて良いのだろうか。
ところがさらに調べようとしても、リヤカーについて書かれた情報が、信じられないくらい少ないのだ!あれほど日本の経済発展に尽くしてきたのに!!以下はその数少ない貴重な資料である(web41)を参考に記す。
まず前提として、リヤカーによく似た形態のものとして、欧州では自転車やオートバイで牽引する「トレーラー」と呼ばれるものが既にあった。何度も記すが好奇心旺盛な当時の日本人、もその存在を、当然知っていただろう。だがこのトレーラーは、日本人のように、人間が荷車を曳くという慣習を、野蛮なものとみなしていた西欧社会では、発展をみなかったという。人力車の場合と同じだ。また構造的にも、車輪は一本の貫通した車軸に取り付けられているので腰高な点が、日本のリヤカーと大きく異なっていた。(下の画像はwikiより。リヤカーは省スペースで、本当によくできている。まるでスーパーのカートの収納みたいだ。)
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そして(web41、P12)によれば、日本では『大正6年(1917年)頃にリヤカーは出現したらしい』のであるが(とたえば「輪友」という自転車雑誌の大正6年10月号の広告に、初期のリヤカーのものがあるという)、その時点では、欧州のトレーラーと同じ車軸構造だったという。このトレーラー型のリヤカーを出発地点として、以下(web41、P13)から引用を続ける。
『この型式をリヤカーの祖型とするならば、その後次々と改良され発展していったリヤカーは、日本独自のものであり、それ以前のトレーラーとは同系異質といえよう。特に昭和5年頃、芦沢孝之氏が考案した人力型曳手のリヤカーに至るまで、様々な改良がなされたが、その改良の一つ一つは、日本人の考案によるものであるから、此ら総合した日本型リヤカーは、日本で発明されたと言える。だがそれは個人が発明したものではないと言えよう。』としている。確かに、ご指摘の通りだと自分も思います。
14.4-4リヤカーは日本で発明されたものだが特定の個人が発明したとは言い難い?
ただ(web41)では追記して、『初期のリヤカー製造技術で特に注意せねばならぬ点は、酸素・アセチレン溶接技術であろう』(web41、P14)としており、『国産リヤカーを、ガス溶接によってパイプフレームの構造を最初に考案、製造したものは不明である』(web41、P15)と記している。この資料が投稿されたのは1997年10月だが、その後の調査で、もしかしたら望月虎一が、その先駆者であったことが判明し、貢献大と判断したのだろうか。Wikiが根拠もナシに発明者として書いたとも思えないし、何ともワカリマセン。
ただ手持ちの情報が足りないので、ここでは(web41)に倣い、「日本型リヤカーは人力車と同様に、望月虎一氏をはじめ多くの日本人の手で改良が加えられ、完成した日本独自のものだ。その意味で、日本で発明されたと言えるが、個人が“発明”したものとは言い難い」と思ったが、如何だろうか。
(この写真も https://www.collectgbstamps.co.uk/explore/issues/?issue=22795 よりコピーさせていただいた。「オートバイとトレーラー、1902年」以下、機械翻訳『このようなオートバイとトレーラーは、1902年にケント州シッティングボーン周辺の農村地域に手紙や小包を配達するために使用されました。これは非常にローカルなイニシアチブであり、ロンドン以外で最初の電動メール配信の1つでした。』一見リヤカーと似ているが、このイギリス型トレーラー(リヤカー)の車輪は、貫通した車軸に取り付けられているのがわかる。そのせいで、荷台が腰高だ。)
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https://www.collectgbstamps.co.uk/images/gb/2018/2018_9486_l.jpg
14.4-5東北の農家で、リヤカー、自転車、牛馬車の使われ方(余談)
以下は自転車の項で先にも引用させて頂いた、“随想・東北農業の七十五年”というブログの、「便利だったリヤカー、自転車」という随筆(web40)から再度引用させていただく。戦前の東北の農家(先に記したように自作農で普通より豊かな農家に思われる)で、リヤカーが導入された当時の状況を、実体験を元に書かれている、素晴らしい文です。
http://j1sakai.blog129.fc2.com/blog-entry-257.html
『~ リヤカー、これは大正期に日本で開発されたものだそうだが、人力による牽引という点では大八車と同じであり、改良大八車ということができよう。大八車よりは小さいというのが難点といえば難点だったが、これは便利だった。
 まず軽かった。木製ではなく、車体は鉄製のパイプ、車輪は空気入りタイヤで構成されているからである。女子どもでも十分に動かせる。
 また、大八車などよりは速い。軽いし、タイヤがついているからだ。もちろん若干ではあるが。ともかく楽である。』また他のクルマとの利用の役割分担について、以下のように記されている。
『しかし、稲上げのときなどのように運ぶ量が大量のときは牛車が中心で、リヤカーは補助用となる。つまり、リヤカーと牛馬車は併存して利用された。
 もちろん、リヤカーも人間が引いて歩くわけだから、大八車より速いとはいっても基本的には徒歩と変わりはない。
 しかし、いいことがあった。リヤカーは自転車の後ろにつなげるようになっていることだ。つないで自転車に牽引してもらえば自転車と同じスピードでリヤカーは走り、かなり速くなる。もちろん、重いものを載せたり、上り坂にさしかかったりすると、自転車から降りて引っ張らなければならないなど、人力での限界はあるが、よくもまあこうしたことを考えたもの、さすが日本人と言いたいところである。
 私の物心ついたときに大八車をそれほど見かけなかったのはこうした便利なリヤカーが普及していたせいではなかったろうか。(中略)
 前にも述べたが、私の生まれたころの1930年代には、農家がこうした自転車、リヤカーを牛馬車と合わせて利用するようになっていた。
 とはいっても、当時は自転車もリヤカーも高価だった。持っていない農家の方が多かった。戦後自転車でなされた郵便配達でさえ徒歩でやっていた時代だったのである。
 また、牛馬車となると一定の経営面積をもつものしか持てなかった。(中略)
 このような問題があり、また人力、畜力という限界はあったが、ともかくこれらは生産・生活両面での利便性を大きく高めたことはいうまでもない。』

(下の写真はwikiより、現代版として電動アシスト自転車と組み合わせた、おなじみのヤマト運輸のリヤカー。
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一方『ライバル佐川急便は『リヤカー状の荷台を備えた、特製の電動アシスト三輪車で対応している。』(wiki)こちらは初期のオート三輪風だ。下の画像は
https://twitter.com/run_sd よりコピーさせていただいた。)
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https://pbs.twimg.com/media/EPrS0pnVUAAji0v?format=jpg&name=large
14.4-6人力車+自転車=輪タク(Cycle rickshaw)
ここで荷物の輸送から、人の輸送へと話がそれる。進化した荷車(大八車)であった、リヤカー+人や自転車の組み合わせが、庶民のトラックであったならば、同じく人力車の進化型+自転車の組み合わせだって当然考えられるが、それが=「輪タク」になる。日本では自転車タクシーを、そのように呼ぶことが多いが、英語では、Cycle rickshaw だという。この分野での、日本の存在感の大きさがわかる。
前の記事(12.1項)で記したように、日本では戦前から、自動車の「円タク」が大都市を中心に、普及していたが、「輪タク」は第二次大戦をはさんだ、石油の一滴は血の一滴の時代だったガソリン不足の窮乏期に、もっとも流行したようだ。(③、P82)からの引用する
『さらに、第二次大戦中のガソリン車の窮乏期に、人力車風の車体と自転車を合体させ、客を走る三輪自転車が登場。戦後は輪タクと呼ばれた。同じタイプのものとしては、ベトナムやカンボジアのシクロ、インドネシアのペチャといった人力三輪タクシーがある。モータリゼーションが進むと、急速に減少していくのであるが、気楽な足として親しまれたことは、人々の記憶の中にとどめられていくのではないだろうか。』タイやマレーシア、ベトナムなどの東南アジアを中心に、輪タク文化が栄えたことはご存じの通りだが、この流れは、日本から輸出された人力車から派生したものだったとの指摘もある。その影響もあっただろうが、その時々の社会状況に応じて、どこの国の庶民も、手持ちの材料でどうすれば便利になるのか、生き抜くために必死に考えた結果だったのだと思う。日本の電動アシストのママチャリ3人乗りも、子供を乗せて楽に移動するためのもっともベーシックな乗り物として、その現代的なアレンジとして誕生した気がする。(下は「昭和21年(1946年)、神奈川県厚木市の輪タク」ジャパンアーカイブズさんより。自転車で牽引するリヤカー型のリンタクだ。)
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14.4-7輪タクも日本の発明だったのか!?
 ところがいつものように?話はここで終わらない。(④-7、P174)で岩立氏は『~リンタクはその母体となった人力車も含めて、明治期の日本で発祥し、発達した乗り物であった』としているのだ。詳しくは一連の(④)をご覧いただくしかないが、以下(④-7、P171)から引用
『写真10(注;コピーはできないが、1913年8月付実用新案登録図)の「小磯式人働車」において、リンタクのレイアウトはすでに完成の域に到達している。写真11の「双愛号客用三輪車」(注;1912年12月15日付当時の読売新聞朝に掲載された、「双愛号客用三輪車発売」の広告の写真)も同時期の新聞広告であり、両者は酷似している。この時期にはすでに東京、大阪で製造販売が始まり、リンタク営業が起こっていたわけだ。
 リンタクの分野はその意匠はもとより、使用部品もほとんど国産であるため、これもほぼ純日本製の国産車だったことになろう。背景には明治初年よりすでに半世紀を経ていた人力車営業の伝統が流れていた。』
・・・・・
 wikiの「自転車タクシー」の項目でも、よく見ると『輪タクは当時、終戦時の物資不足から燃料がわずかで、タクシーを走らすことができなかったことから大正初期に生まれた「人働車」を新たに登場させたもの』で記されていた。大正初期というから、岩立氏の指摘の時期と一致する。世界は広いので、あまり断定的な結論は避けたいが、この分野の今後の研究の結果次第では、自転車タクシー(輪タク)も、「日本で発祥し、発達した乗り物」に、“格上げ”される可能性も充分ありそうだ。(もっとも、研究をしている人がいればの話だが。たとえば(④-7、P171)にある、1912年の「双愛号客用三輪車発売」の新聞広告の写真の「輪タク」と、下の写真の、江戸東京博物館に展示されている、「昭和20年代(1945-)のリンタク(輪タク)(複製)」
http://www.mapbinder.com/Map/Japan/Tokyo/Sumidaku/EdoTokyoMuseum/Tokyo/Tokyo.html
を比較しても、両者の形態に、何ら違いがないように見える。)
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http://www.mapbinder.com/Map/Japan/Tokyo/Sumidaku/EdoTokyoMuseum/Tokyo/20101210_17.jpg

15.黎明期のオート三輪について
 ようやくオート三輪まで一歩手前のところまでたどり着いた!先を急ぐと、(表16)で、台数が突出して多い、自転車(通常)の利用法として、三輪自転車や、リヤカー(積載量100~200kg)との組み合わせが多く含まれており、小商工業者のための自家用トラックとして愛用されていたのは既述のとおりだ。しかし人力に頼っていては、急坂などで重い荷物を運ぶのはやはり、大変な労働だ。当時『上り坂の下のところには、立ちん坊といわれた職業の人がいて、こうした自転車や大八車を後ろから押して坂を登り切ったところで、幾ばくかの謝礼をもらうことで生計をたてていた』(②、P172)そうだ。(写真は自転車文化センターより昭和35〜36年頃の光景 http://cycle-info.bpaj.or.jp/?tid=100126
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http://cycle-info.bpaj.or.jp/file_upload/100126/_main/100126_01.png

15.1「スミス・モーター・ホイール」の登場
そこに目をつけたのが大阪商人で、1917年頃から、大阪・西区の中央貿易商会が、アメリカ製の“スミス・モーター・ホイール”(以下スミスモーターホイール)という、自転車や三輪車に追加輪として駆動させる、後付け型エンジンを大量に輸入して販売する。4サイクル単気筒エンジンで201cc、2.5㏋ほどの小馬力のエンジンだった(⑥、P39等)。このスミスモーターホイールを、既述のように一部で普及していたフロントカー式三輪自転車の、後輪に取り付けたものが、商都大阪を起点として、徐々に全国に普及していく。オート三輪の始まりだ。以上が概要だが、以下もう少し詳しく、その経過を見ていく。
 この、自転車の後輪左側につける20インチの動力輪は、元々はイギリス製で(バーミンガムのROC MotorWorksで製造されていた。余談だが同社は、有名な作家アーサーコナンドイル卿によって資金提供されていたという。)
(https://translate.google.com/translate?hl=ja&sl=en&u=https://www.yesterdays.nl/product/smith-motor-wheel-1917/&prev=search&pto=aue)。)、
「ウォール・オート・ホイール」(以下ウォールオートホイール)として、中央貿易が輸入する前に『日本にも東京銀座2丁目のアンドリウス&ジョージ合名会社(横浜市山下町242)が輸入したが、その段階では大きな話題を呼ぶことはなかった』(④-5、P170)という。
 そしてこの“ウォールオートホイール”の特許権を、アメリカ、ウィスコンシン州ミルウォーキーの部品メーカー、A.O.スミス社(A O Smith Company)が購入する。同社でワイヤーホイールをディスクホイールに変更し、カムシャフトから直接ホイールを駆動し、チェーンを廃するなどいくつかの改良を施したうえで、“スミスモーターホイール”として、製造を始める。1914年末から1919年末の間に25,000台生産されたというからそれなりの数だ。(なお、日本のオートバイ史の定番本である⑥、P36では、「アメリカのブリックス・ストラットン社で開発された」とあるが、A.O.スミス社の後に、同社に製造権が移ったようだ?)このアメリカ製となった、赤く塗られた動力輪が、期が熟しつつあった、日本の市場でも浸透し始める。モーターボート商会、スイフト商会、さらに大手の日本自動車までその販売に乗り出すが、最終的に大阪の中央貿易株式会社が、東洋一手販売元の権利を獲得し、大量販売を行う。
『大正7年(1918年)の夏にはすでに一千台を売りつくし、3度目となる次の荷着を待ちながら、その人気の高さを巧妙に宣伝し続けた』(④-5、P171)というから、その人気のほどがうかがえる。
15.1-1二輪自転車にとして取りつけた場合、バランスが悪かった?
スミスモーターホイールは、のちに豊田喜一郎が、自動車産業に乗り出すにあたり、最初に分解・研究したエンジンとして広く知られており、そのためネットでも多くの情報が検索できる。トヨタ産業技術博物館には、1917年製のスミスモーターホイールが展示されているので、ご覧になった方も多いだろう。空冷単気筒4サイクルエンジンは、初期型は167cc1.5㏋だったようだが(②.P172)、日本に輸入されたものの大半は、後期型の201cc、2.5㏋のものだったようだ。下の写真は以下よりコピーさせて頂いた。
https://www.yesterdays.nl/product/smith-motor-wheel-1917/
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https://www.yesterdays.nl/site/wp-content/cache/thumbnails/2017/04/Smith-1917-Motor-Wheel-3941-5-300x600.jpg
ところで、スミスモーターホイールを通常の二輪自転車に動力輪として取りつけた場合、上の写真を一見しただけでわかるように、バランスが悪い。自動車工学の権威、富塚清先生は、東大の航空研究所に勤務当時に、同所が所有していた実車に乗ったことがあるという。その時の印象では『~ 操縦がひどく難しい。速度を高めるとハンドルが振れだし、どうにも納まらずに放り出されることがある。筆者などもこれを食い、1回でこりて、あとは近づかなかった』(⑥、P38)そうだ。
ただ、『これで正規の三輪車に組み、前方二輪後部一輪駆動か、あるいは逆に前方一輪駆動、後方二輪とすれば、推力線の食い違いと、動輪のぶらぶらがないから支障がないはずで、これらは若干の期間、小配達の面などで生き残ったと思う』(⑥、P38)とも記している。やはり運命的な出会いだったのか、フロントカー型の三輪自転車との相性が、もっともよかったようだ。)
15.1-2“走るスノコ板”、「スミスフライヤー」について
(さらに『スミスモーターホイールには「フライヤー」という名のじつに簡便な二人乗りの五輪車があり、日本にも数多く輸入された。走るスノコ板とでも呼びたくなるシンプル極まりない乗り物』(④-5、P171)だった。『フライヤーは、ギネスブックに史上最も安価な車として記載されています。この本には、1922年のブリッグス&ストラットンフライヤー(注;スミス社の後に製造権を獲得した)が125ドルから150ドル(2020年には1930ドルから2320ドルに相当)で販売されていると記載されています。』
https://vintagenewsdaily.com/smith-flyer-a-small-five-wheeled-with-two-seat-car-from-the-1910s/ の一部を機械翻訳。下の写真もコピー。この写真からなんとなく、アメリカでの使われ方がイメージできる。ちなみに1922年のT型フォード(4気筒2896cc)の価格は標準のツーリングモデルで355ドルだった。
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https://vintagenewsdaily.com/wp-content/uploads/2020/11/smith-flyer-1-1-640x381.jpg
ところがこのフライヤーが日本に持ち込まれると、紳士が乗るフォーマルな乗り物へと生まれ変わる。中央貿易により『黒塗のボディが被せられ~、さらに幌まで装備する~今日これらの写真を見ると、いい大人が子供用のペダルカーに座っているようで、いささか滑稽に映るが、当時の皆さんはじつに真剣だったのである。』(④-5、P172,3)の写真をご覧ください。)しかもどうやら、そこそこヒットしたようなのだ。以下(④-15)より引用。
『オートバイと同様に無免許で運転できて、駐車場が不要であり、税金もオートバイ並み(地方によって大きく異なるが)としたこの適用除外制度は、大正時代のユーザーにとって絶大な利点を生んでいた。当時はさほどに車税が高額であり、運転免許の取得も困難で、とどのつまりは業務用でもなければ、自動車の所有など、まだ雲の上の空夢であった。写真のように気取って豆自動車に乗った日本人は、「オーナードライバー」という概念すら湧かなかった時代に、これを楽しもうとした、ごく一部のモーターマニアだったのである。』(④-15、P175)当時の日本でこの車に乗っていた人は、本当の趣味人だったのかもしれない。
(上の白黒写真では、“走るスノコ板”の構造がわかりにくいので、下に最近のカラー写真を掲げておく。ただ木製の板だったため朽ち果ててしまい、オリジナルのものはほとんど残っていないようだ。画像は
https://www.mecum.com/lots/LJ0617-283881/1915-smith-flyer-cyclecar/
よりコピーさせて頂いた。なおスミスモーターホイールの類似品を、モーターボート商会がアメリカ製デイトンモーターサイクルのものを、二葉屋がマイケルモーターサイクル製の輸入に乗り出すが、いずれも長続きしなかったようだ。詳しい経緯及びその理由は(④-5、P170、171)をご覧ください。)
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https://cdn1.mecum.com/auctions/lj0617/lj0617-283881/images/lj0617-283881_2.jpg?1495196145000
15.1-3中央貿易製の「オートサンリン」
 こうして、フロントカー型の三輪自転車の後輪に、スミスモーターホイールを取り付ける形で、大阪や東京を中心に、オート三輪の草分け的な荷物運搬車が、自然発生的に誕生していったが、その代表格として、輸入元である、大阪の中央貿易の流れから追ってみたい。
 まず同社では、スミスモーターホイール単品以外に、上に記したようにスミスフライヤーに黒塗りの重厚な?ボディを載せて、完成車販売(カタログでは“豆自動車”と!)をしていたが、さらに同社製の完成車として、乗用専用の「自動人力車」と、フロントカー式の貨物運搬用「自動三輪車」を販売し、オート三輪時代の先鞭をつけた。そして下の写真を、よ~くご覧いただきたい。この貴重な資料は、月刊オールド・タイマー(八重洲出版)連載記事「轍をたどる」(2006年.8月、№.89号、④-5として引用)のP173からコピーさせて頂いた、1920年の雑誌モーター10月号に掲載された、中央貿易の宣伝だが、「自動入力車」の下の、「自動三輪車」の横に確かに、小さいが「AUTOSANRIN」と記されているのだ。
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 そして中央貿易製の「AUTOSANRIN」は、後にカタカナ表記となり「オートサンリン」として、さらに前面に表記されていく。下の写真も、月刊オールド・タイマー(八重洲出版)の「轍をたどる」(④-5として引用)のP173からコピーさせて頂いたものだが、フロントカー式だけでなく、リヤカー式、スクーターなど、バリエーションを広げていった様子がわかる。そして『中央貿易ではこれらの自動三輪運搬を、カタログ(注;略)にあるように「オートサンリン」と名付け、特に次の二種を主力として販売する。・フロントカー式固定オートサンリン、 ・リヤカー式固定オートサンリン のちに戦後、昭和40年代まで続いた「オート三輪」の呼び方としても、これは極めて早期の使用例だった。』(④-5、P172)下の写真は、雑誌モーターの1923年5月号のものだが、確かにカタカナで“オートサンリン”と表記されている。この“オートサンリン”という言葉が、中央貿易が使い始めたのか、他社の方が先だったのか、それとも自然発生的なものだったかは不明だ。(②、P173)では、『オート三輪という言葉が用いられるようになったのは、1922年に山成豊氏の経営する鋼輪社(KRS)が、スミスモーターを使用して、前1輪・後ろ2輪の動力付きの三輪車をつくったからだといわれている』と記してある。より一般化したのはその時期だったかもしれないが、さらにその前の、今から100年以上前に既に使われ始めていたことだけは確かだ。
15.1-4モーターホイールの応用形態から脱却しつつあった瞬間「リヤカー式固定オートサンリン」
そしてもう1点注目すべきは、このオートサンリンの写真に、外付けのスミスモーターホイールが見当たらない点だ。(④-5)の指摘のように、“固定式”オートサンリンは、モーターホイールを外付けするのではなく、汎用小型エンジン版のスミスモーターを使用していたのだ。『これらは汎用エンジンを利用した、いわば独自設計の完成車でもあった。モーターホイールの応用形態から脱却しつつあった瞬間がここにみられる。』(④-5、P172)
この「スミスモーター(エンジン)利用リヤカー式オートサンリン」は、大正13年(1924年)9月12日に、内務省より特殊自動車としての認可を得ている(④-13、P175参照)。そして(15.4-32項)で記す、鋼輪社(KRS)のリヤカー式オート三輪も、(②、P173)の記述から類推すれば、同じ構造だったように思われる。富塚先生指摘のように、フロントカー式では大きな問題は生じなかっただろうが、リヤカー式とスミスモーターホイールの組み合わせは安定性に欠けたので、この進化は重要だっただろう。
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15.2自動車取締規則が全国統一される(「自動車取締令」の発布;1919年1月)
ここで話題が少し逸れて、自動車法規の話題に移す。内務省(警察)は、交通取締りや免許等道路利用に関する「自動車取締令」を、弾力的に運用することにより、オート三輪と小型四輪車が市場を形成するのをアシストしていった。
この時代の日本の官庁では稀に思える、“上から目線”でなく、規制緩和によって自然な産業育成をはかった内務省(警察)の“粋な”施策について、その経過をたどっていく。
1919年(大正8年)1月11日、それまで地方ごとに異なっていた自動車規制が全国統一されて、内務省の省令第一号として「自動車取締令」が発布される。その背景として『大正7年(1918年)末の自動車数(内務省調べ)は、全国で4万5千台を数え、この中には専業のお抱えや営業運転手だけでなく、新たなオーナードライバーも芽生え、自動車の種類も多様に膨らんでいた。そこで必要となったのが全国的に統一された取締令だったわけである。』(④-5,P172)その概要を以下、自工会発行の“JAMAGAZINE”の中の資料、「自動車の「検査」とその変遷」(web47、P6)より引用する。
『大正 8 年(1919)1 月、内務省は自動車の保安の規定を含む規則「自動車取締令」(内務省令第1 号)を制定した。各県にあった自動車取締規則、その中の自動車検査に関する取締規則も全国統一しており、各府県警察が自動車事業とともに道路交通を取り締まるものであった。
 全 34 条で、自動車の定義から始まり、最高速度を 16 マイルとし、続いて自動車の構造装置、営業・自家用の別、検査、車両番号、登録、運輸営業、運転免許、自動車事故、罰則等を規定しており、このなかでは自動車の定期検査の実施についても規定していた。』
この法令によって、「自動車」という存在が日本で初めて定義づけられた。合わせて免許制度も整備されたが、自動自転車(オートバイ、ただしサイドカー付きのものを除く)とオートペッド(下の写真参照、アメリカ製の)については、動力付きではあるが自転車の延長線上にあるものとして、鑑札(ナンバープレート)を付けて納税さえすれば、運転免許を所得しなくてよいことになった(④-5、p173参照)。
15.2-1自動車取締令の基本的な考え方
話を戻し、以上も(④-5)、(web47)の内容と重複するが、ここで自動車取締令の、基本的な考え方を押さえておきたい。(①、P122)から以下長文になるが、引用させて頂く。
『(自動車取締令の)その内容は、最高速度、自動車の構造・装置、検査、運転免許、交通事故などに関する条項となっている。ただし、ここで対象とする自動車は、~ 実際には四輪車のみを想定していた。~これは、それまで地方ごとの取締規則が、主に営業用自動車の取締りを目的として制定されたためであった。~そこで営業用に使われていない自動自転車は自動車取締規則でなく、「自転車取締規則」の対象となっていたのである。
こうした営業用自動車を対象とした取締令の発想は運転免許の条項からも窺うことができる。~すなわち、免許は「運転免許」ではなく、「運転手(就業)免許」となっていたのである。
こうした発想と第33条の条文を合わせて考えると、サイドカー以外の自動自転車、すなわち三輪車は取締令による規定を受けないこととなり、運転免許も不要であった。ただし、この取締令では使用を希望するすべての車は、制動機・警報機などの構造を備え、検査に合格しなければならなかった。第33条の第2項の条文は、これに対して特殊自動車の場合は構造を簡単にすることができるという意味であったのである。』
ここで「特殊自動車」という語句が、初めて登場する。以下(④-5、P173)から引用を続ける
『そしてこのオートバイ並みの無免許運転許可扱いが受けられる自動車を「特殊自動車」と呼んで、やや漠然と示した。』これ以降、この記事で「特殊自動車」という語句が、何度も何度も出てくるが、その位置づけを考える上で、基本となる解説だ。
15.2-2日本が左側通行になったのは大倉喜七郎の助言?(余談)
(ここからは余談になる。(⑩)によれば、そもそも政府(内務省)が最初に自動車取り締まり規制を制定する際、黎明期の日本の自動車界の第一人者的な立場にあった大倉喜七郎による助言が大きな影響を与えたという。(⑩、P41)では『日本が左側通行となったのも、英国で自動車を学んだ大倉の助言によるものと思われる。』としている。
以下は(⑦、P16)より『(1907年に)帰国した大倉に早い時期に接触を図ったのは東京・警視庁の自動車取締を担当する原田九郎だった。彼は前年に東京帝国大学を卒業したエリート官僚で、輸入された自動車が走るようになってきたことで、これを法律的にどう対処するか検討する任務を与えられていた。当時は、自動車のナンバーも運転免許証も交付されておらず、勝手気ままに走っていたのだ。(中略)いずれにしても、大倉の意見が自動車取締法などに大きな影響を与えたことは間違いない。原田が作成した交通取締法は、警視庁管内で有効であっただけでなく、それが各地方のモデルになり、全国的なものになっている。(中略)1910年(明治43年)のナンバー交付により、自動車の安全性や車両の満たすべき基準がつくられるようになるが、それまでも自動車を走らせるには登録することが義務付けられた。』(下の写真は「天皇に拝謁の顕官(衆議院議員・貴族院議員)を待つ高級車」(1934年)で、ジャパンアーカイブスさんよりコピーさせて頂いた。)
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このため、原田のいる警視庁交通課では、どのような自動車が輸入され、あるいは日本でつくられているか、すべてを把握していたという。当時の自動車の台数ならば可能だったのだろう。さすが警察だ。そして当時の日本のVIPたちも、徐々に自動車を主体に移動するようになっていたはずだ。内務省(警察)が自動車取締令で押さえておきたかったことは、治安維持の観点からすれば普通自動車の動静で、“豆自動車”などは当初、範疇外だったのもうなずける。下の画像はwikiより日比谷赤煉瓦庁舎。1911年(明治44年)3月から1923年(大正12年)9月(関東大震災)まで使用された、東京・警視庁の日比谷赤煉瓦庁舎。)
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15.2-3免許取得のハードルはかなり高かった
話を戻す。ここで当時の一般の自動車用の、「運転手(就業)免許」としての色彩が強かったという自動車免許に求められた技能ついて、以下(⑬)より、
『戦前の自動車免許は、戦後のそれとは異なり、営業車の運転を前提としていたこともあり、自動車修理の技能なども求められるかなり難しい技能であった。そのためここでの無免許(車両)とは、構造が簡単でかつ操縦が容易であり、特別の練習を必要としない車両の意味である』(⑬、P169)。免許取得のハードルはかなり高かったようだ。GAZOOによれば、『免許取得は18歳以上が対象で、各地方官による試験もありました。期限は5年で“更新制”ではなく“再試験制”だったのも、現在とは違うところ。免許を持っていても、再試験で不合格になると免許が維持できなかったのです。』と今よりも厳しい。
https://gazoo.com/column/daily/20/03/12/ 
15.2-4特殊自動車=無免許で乗れる車というよりも、検査に合格した車&製造業者という意味合いが強かった(内務省の視点)
現在一般的には、「特殊自動車」というよりも、「無免許三輪車」とよばれていることも多いこの制度は、内務省側の視点に立てば、『無免許で乗れる車というよりは検査に合格した車という意味合いが強かった』(①、P122)のだという。『その際に、もっとも重視されたのは道路交通の視点から見て、一定以上の性能を持っているかどうかであった。』(①、P122)から引用を続ける。
『無免許車の許可が車輛ごとでなく、検査に合格した製造業者に下されたことも、車両の性能を重視する発想からきたものであったと思われる。というのは、車両検査の際には車体自体だけでなく、製造業者が検査車輛以上の性能を備えた車両を持続的に供給できるかどうかについても調べており、後述するように、三輪車の性能が問題にならなくなる30年にはこの方法が変更されたからである。』
自分も誤解していたことだが、一般に言われている特殊自動車=「無免許車」は運転手/所有者側の視点に立てば確かにそのようになるが、内務省側の立場では、そのクルマ&製造業者に対して、試験に合格したものに免許(=「特殊自動車」として許可する)を与えるという目的のものだった。後に記すように、当時オート三輪業界への参入障壁は低かった。交通体系を安全に維持していくために、一部の怪しげな、特殊自動車の申請者(15.4-13項参照)を排除する意味合いが強かったようだ。そのため内務省はこの、ままこみたいな立場の、「特殊な自動車」の普及に、当初は慎重な姿勢を示していた。
15.2-5やや曖昧だった“特殊自動車”の定義
以上のように、自動車取締令の適用除外から始まった、特殊自動車の定義自体も、やや(かなり?)曖昧なものだった。以下(④-5)から引用する。『この「特殊自動車」については、道府県知事が認めれば、第四条の規定(注;保安装置の装着義務)が省略できるとしている。~ つまり地方長官が「特殊自動車」と認めた車輛なら、運転免許も保安装置の一部も不要という解釈が成り立つ、少々不確定な条文だったのである。』(④-5、P173)日本の自動車社会が、まだ発展の初期段階にあり、方向も定まっていなかった中で、関連の法規が、このような“弾力的な運用”に頼ることになるのも、多少はやむを得なかったと思う。
そして(④-5、P174)によれば、運転免許以外にも「特殊自動車」扱いになれば、『~最低限この2項目、すなわち最高速度(16マイル=25.6km/h)と交通事故の対処、またこれらに違反した場合の罰則規定が適用されるだけだったのである。』非常にシンプルな内容で、こうなると軽車輛にとっては、「特殊自動車」として認定されるか否かが、非常に重要なポイントになったのだ。
(下の写真は最初から特殊自動車として認定された、“オートペッド”で、アメリカ製の155ccエンジン付きキックスクーターだ。中央貿易はこれを「自動下駄」のニックネームをつけて売り出したが、スミスモーターホイールと違って、日本人にはウケなかったようだ。当時の日本人の嗜好からすれば、「実用的」とは言い難い乗り物だったが、運転免許が不要との判断は頷ける。
なお、(15.1-3項)に写真を載せた「自動入力車」について、『大正9年(1920年)の夏に、「自動自転車(サイドカーを除くオートバイ)及びオートペットの類と同様に特殊自動車として」、無免許運転を認めてほしい、とする申請が現れた』(④-13、P175)が、許可されなかったという。「自動入力車」のような、人力車的な使われ方が可能なものは、営業用自動車とみなされてしまうと、扱いは厳しかったのだろう。次に記す「警山第104号」の通牒が出る前の話だ。下の写真は以下のFacebookよりコピーした。
「Scooter in 1916 ! The Autoped... - Shu Ren Learning Centre | Facebook」)
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https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcRJF-flBnfjObWLfYo6DdxjX3Nt3PcCF27CzA&usqp=CAU
15.2-6 スミスモーター系の車両は公式に「特殊自動車」のお墨付きを得る(1921年12月)
 ここからも、(④-5、P174)の一部を、丸写しさせていただく。正しくはぜひ、原文の記事をご確認してください。
『はたして特殊自動車として扱って良いものかどうか?という疑問でまず物議をかもしたのが、先のスミスフライヤーであった。スミスフライヤーのような豆自動車は、通常の自動車と同じ扱いには出来ない、と考えるものが多数現れた。これに対して内務省は、大正10年(1921年)12月22日、警保局長付けで各都道府県庁宛てに次のような通牒(書面で通知すること)を送った。』(④-5、P174)その書面の別紙として、スミスフライヤー、オートサンリン(注;ちなみにそこに図示されたものは、先に掲げた、1920年の雑誌モーター10月号の「自動三輪車」のイラストと似ている)、サイクロモビルの図を示し、『これらスミスモーター系の簡便な車両は、前出の取締令第33条の「特殊自動車」にあてはまると決めた。つまりこの時点から、スミスフライヤーとオートサンリン(この時点ではまだスミスモーター付きのフロントカーだった)は、全国的にオートバイ並みの取り扱いが許されるようになったわけだ。
 大阪の中央貿易によるスミスモーターの販売は、「小型自動車に関する件通牒」と呼ばれるこの省令によってさらに弾みがついた。前述のように大正6年(1917年)からすでに東京や大阪ではスミスモーター付きのフロントカーが自然発生的に出現し、商店の配達などに使用されていたわけだが、この通牒、警山第104号以降は「免状(運転免許)不要」のお墨付きで売ることができるようになったのである。』
(④-5、P174)
15.2-7構造簡易、操縦亦容易にして、普通自動車に比し交通上の危険も寡少((警山第104号)
そしてこの、警山第104号の文中にある『構造簡易、操縦亦(また)容易にして、普通自動車に比し交通上の危険も寡少に有之候間(これありそうろうあいだ)という根拠、つまり普通自動車と比べて簡便かつ安全であるからよいだろうとする理由付けの一節は、その後内務省が創成期の製造許可を一台ずつ下していく際に、まるで慣用句のように登場し、連呼されていく。』(④-6、P170)
このことが端緒となり、オート三輪の製造業者たちはこれ以降、内務省を中心に、警視庁、各都道府県や後には商工省も含めた関係省庁と、様々なやりとりを繰り広げつつ、優遇枠の拡大を陳情し、段階的にそれを獲得していく。一方当初はその普及に消極的であった内務省を中心とした行政側も、陸軍のような産業保護の観点からの規制ではなく、次第に規制緩和を通じて民間の活力を引き出そうとする、産業振興策で応じ、その実績を上げていく。
もちろん、それが可能だったのは、オート三輪や後に記す小型四輪車の分野が、フォードやシヴォレーとまったく競合しない市場だったからであるが、戦前の日本社会における民と官の関係性からすると、異例の展開とも思えるその道程を、この記事でこれから辿っていくことになる。
15.2-8スミスモーターが国産小型自動車の引き金をひいた
 現在の日本で、スミスモーターホイールの存在意義を問われれば、web等メディアの影響から、大半の答えは「トヨタの自動車研究が、スミスモーターの分解から始まった」ことになるのだろう。確かにその事実も大きい。しかし今までこの記事で確認してきたように、この小さな補助動力輪が、トヨタのみならず、黎明期の日本の自動車界全体に与えた影響の方が大きかったと思う。そのまとめとして、(④-5、P170)から引用させていただく。
『大正期の日本にモータリングの波を押し広めたのがスミスモーターホイールであった。まだモーターが有産階級の専用物であった時代の日本の自動車社会に、小さな風穴を空けたのが、わずか201ccのモーターホイールだったのである。
 その風穴はのちに国産小型自動車を発生させる引き金となり、自動車取締令の上に意外な影響を残すことになる。例えばもし日本でスミスモーターホイールの人気がなかったら、戦後の軽自動車の車両規格は生じていなかったといっても過言ではないだろう。』

(下の写真は、「トヨタ産業技術博物館」より、同館のfacebook(web27-3)より引用させていただいた。以下の文も引用『当館・自動車館には、米国製「スミス・モーター・ホイール モデルBA(1917年製)※」が展示されています。(中略)このエンジンを参考にして、トヨタ自動車を創設した豊田喜一郎と彼の仲間たちは、彼らにとって初となるエンジンを試作しました。』豊田喜一郎がなぜ、自動車研究の最初の素材として、このスミスモーターモーターホイールを選んだのか、エンジンの構造が単純だった理由が第一だっただろうが、下の写真に思いをはせれば、大衆のための自動車作りの、その原点に立ち戻り、そこからスタートさせたかったからかもしれない。)
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15.3実用自動車製造と「ゴルハム式三輪実用自動車」について
 ここからは、特殊自動車だと、正式に認められた、黎明期のオート三輪の発展の歴史を辿っていくことになる。しかしその“本流”の話の前に、国産三輪自動車という括りからすると、どうしても、大阪の実用自動車製造の「ゴルハム式三輪実用自動車」についても触れておかねばならない。
同車については前々回の記事の(8.3-4項)でも触れたが、今回の記事で度々引用した“轍をたどる 国産小型自動車のあゆみ”(岩立喜久雄氏著)を読むと、今まで認識不足だったこともわかってきたので、この項では、久保田鉄工所をはじめ一流企業の多額の出資を経て、鳴り物入りで登場した、ゴルハム式三輪実用自動車の初期の時代に焦点を絞り、その実像を確認しておく。
なお予め記しておくが、このゴルハム式三輪車は、今までたどってきた荷物運搬用のオート三輪の流れに属するのでなく、かといって、陸軍保護下の軍用保護自動車を目指したわけでもなかった。商人の街、大阪らしく志は高く『輸入車とはひと味違う、安くて便利な自動車をつくることをめざして設立された』(⑦、P70)のだが、すぐにその計画は頓挫し、その後紆余曲折を経て、次回の記事で記すがやがて国産小型四輪車の本流の流れへと至る。まず初めに、実用自動車製造の設立の経緯から、もう一度確認しておく。以下(④-10、P170)より引用
15.3-1久保田鉄工所直系の子会社だった
『そもそも実用自動車製造は、前述のようにゴルハム号の特許を高額で購入し製造販売する目的で、大正8年12月に発足した会社だった。当初は久保田鉄工所の創業者、久保田権四郎(1870~1959)が社長を兼務していたが、実際は娘婿にあたる久保田篤次郎が立案した事業計画の下に、久保田鉄工所はじめ、以下の関西鉄鋼界の豪商たちが参集し、合計100万円を投資していた。大正8年当時の100万円といえば、現在ならば50億から100億円に相当する。久保田権四郎(久保田鉄工所)34万円、津田勝五郎(津田鋼材社長)30万円、芝川英助(貿易商)30万円~ これらの出資者たちは、第一次大戦(大正3~8年)期の関西産業界の非常な好景気を受け、潤沢な資金を備えていたわけだ。』
(web44.P44)には『ゴーハムの権利を 10万円で買い取ることにより、自動車製造に乗りだした。』という記述があるので、ゴルハム号の特許及びその製造権に気前良く、10万円(今の価値では5~10億円)支払ったようだ。
瓦斯電と石川島が自動車事業に参入したのと、出資者たちの元の動機は同じで、第一次大戦終結後、景気が減退し、経済が縮小することは目に見えていた。みな余力のあるうちに共同で、自動車というリスクはあるが未開拓の成長分野へ投資し、進出をはかろうとしたのだろう。
15.3-2久保田鉄工所にも事情があった
それに加えて当時の久保田鉄工所側には、固有の事情があったようだ。各地で水道事業が拡大していく中で「“日本の水道管の歴史はクボタの歴史”」(wiki)と言われるほど、鋳鉄管の生産で業界トップ企業の地位にあり、大きな利益を上げていたが、『 ~ 第一次世界大戦期という好況期にもかかわらず鋳鉄管製造業者は原料の銑鉄価格の急騰に影響された需要減退に直面し、従来の生産を維持することができなかったのである。』(㊱、P56)。1912年の需要を上回るのは、1923年以降だったというから深刻だ(㊱、P56)。
先の読めない中『「鋳物のクボタ」は鋳鉄管のみならず、機械鋳物、鋳型など鋳物の強みを生かした各種鋳物製品を生産』(㊱、P193)し、鋳鉄管の減少分を立派に補ったようだが、当時、けっして明るい状況ばかりではなく、危機感も強かったはずだ。引用を続ける。
『第一次世界大戦期に銑鉄飢餓に直面した鋳鉄管専業の久保田鉄工所は製品の多角化を模索するようになる。』(㊱、P57)工作機械への進出を図るなど、製品多角化を急激に進めていく中で、自動車事業への進出もその一環として計画されたもののようだ。
15.3-3稀代の興行師、櫛引弓人が魔法をかけた?
話を戻し、以下からは(④-9、P174)からの引用だが、さらに詳しく(手厳しく?)書かれている。
『櫛引ゴルハム特許の三輪車にこれほどの高値が付いたのも大いに謎であった。さほど画期的な設計だったわけではない。
 背景にはかつての鳥人スミスの騒動と同様に櫛引の魔力が働いていたのだろうか。櫛引は傑出した興行師であったが、行く先々でトラブルを起こす行跡もまた人並み外れていた。』

「博覧会キング」と呼ばれ、『機知と天才的なハッタリを武器に』(wiki)世界を股に歩み続けてきた稀代の大興行師、櫛引弓人(くしびきゆみんど)については、webでも多くの情報が検索できる。その数々の実績の中で、とくに有名だったのは、やはり航空ショーの成功だろう。
日本におけるアクロバティック飛行興行の祖と言われ、“鳥人”ナイルス、アート・スミスやキャサリン・スティンソンらを招いて全国を巡業し、時には数十万人もの観客を集まったという。(下の写真はHonda Aircraft Co.のツイッターより『100年前の今日、本田宗一郎少年はアメリカ人飛行家アート スミス氏の曲芸飛行ショーを見学し、飛行機への情熱を燃え上がらせました。』
(https://mobile.twitter.com/hondajet/status/868656574692286464)
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https://pbs.twimg.com/media/DAyYR7RXcAA-EwZ?format=jpg&name=small
若き日の本田宗一郎に限らず、木村秀政や糸川英雄ら、その曲芸飛行の虜になった者は数知れず、そのインパクトは強烈だったようだ。外国人飛行士たちは「鳥人ナイルス」、「新しい空の王者」、「空の女王」、「宙返り女流飛行家」などともてはやされて、その人気は日本中に社会現象を巻き起こすほどだったという。そして『これらの飛行興行を裏で巧みに演出していったのが、老練な櫛引だったのである。』(④-9、P173)
クシカーも『目立ちたがり屋の櫛引は、人目を引くように乗り回していたようで』(⑦、P72)、『物珍しさもあったのだろう、これが評判となり、』(②、P191)きっかけはわからないが、久保田権四郎や津田勝五郎らの発起人たちとの“接触”もあったのだろう。そしてどうやら、櫛引の放つ“魔力?”に幻惑されていったようだ。『ゴルハム本人も同社の技師長として、まるで明治のお雇い外人並みの高級待遇で雇い入れた』(④-9、P174)。
『久保田は~製造工場を新設してもまだ相当に資金が残った』というほど、当時の久保田鉄工所には充分な資力があったようだが、今になって、その状況を振り返えれば、櫛引弓人がその“演出”にかかわったことで、クシカーやゴーハムに対して、実力以上の“付加価値”が+されたようだ。櫛引に関してのまとめ?として(⑦)から引用する。
『しかし、あとから見れば何とでもいえるもので、舶来品に対する信仰が色濃く支配していた時代に、アメリカ人の技術者によって設計製作されたものであることから、ゴルハム三輪車は、日本人のつくったものとは違うはずだと思い込んだとしても無理はないだろう。』(⑦、P77)
15.3-4「ゴルハム式実用三輪車」の実力
 そもそもこのゴルハム式三輪車は、どのような市場を狙っていたのか。以下(④)を元に考察する。
まずゴルハム号の地元、大阪の市場の状況だが、当時、東京に比べても自動車の普及が遅れていた。『この時期は、まだ大阪府内全体の自動車保有台数が、わずか612台にすぎなかった(大正8年12月内務省調査)。東京府の登録台数3000台と比較して、約五分の一の数であった。これは大阪の道路事情が良くなかったことに起因している。道幅が狭く、そのため人力車の数は東京よりもむしろ多かった。』(④-10、P172)
 この時期すでに大阪では、フロントカー型の三輪自転車にスミスホイールモーターを付けた、初期のオート三輪が、荷物を積んで市中を走っていたはずだが、荷物輸送よりも、当時の大阪に多かった、人力車からのステップアップを狙ったようだ。
15.3-5キャッチフレーズは「人力車代用車」
大阪の有力企業が出資しただけに、販売体制も関西地区は久保田が、首都圏は梁瀬自動車が行うなど本格的だった。当時ゴルハム号の販売を統括する立場にあった、金森金寿(のちの日産自動車販売社長)は以下のように証言している。(④-10、P173)
『タクシーというものは当時、大阪駅付近にも十台となかった時代ですから、凡そ自動車という観念はやはり薄かったのでありました。先ずゴルハム式の三輪車は、人力車代用という訳で、その時の印刷物にした広告も、人力車代用という名前で売り出したのです。したがってその売り先は、お医者さんとか、人力車の親方、つまり当時の車屋というのが唯一の対象であったのです。』だがゴルハム号(三輪タイプ)の価格は、幌型乗用タイプで1,615円、箱型貨物型で1,515円の正価(1922年)で、人力車の価格とはおよそかけ離れていた。しかもその上のクラスの市場には、当時世界一の、圧倒的なコストパフォーマンスを誇った、T型フォード(2,896cc)が2,500円の低価格で構えていたのだ。
15.3-6よく横転した!(欠陥車?)
『異様にもてはやされたゴルハム実用三輪車の実力はどうだったのだろうか。(中略)いざ発売してみると、あまりに前フォークが弱く、カーブでよく転倒し、そのため評判を落とした。梁瀬自動車が販売に乗り出したが、一向に売り上げを伸ばすことが出来なかった。あまりに不安定なので、急きょ大正10年末(1921年末)に四輪への設計変更を行い、平和記念東京博覧会の開催中に幌型四輪乗用車として売り出したが、もはや悪評を覆すことはできなかった。』(④-9、P175)この、腰高で不安定で、カーブでよく横転したという話だが、コストパフォーマンスの悪さ以前に、自動車としてみた場合、ほとんど致命的と思えるほどの欠点だ。そしてとうとう、ある決定的な事件を起こしてしまったという。
15.3-7致命的な事故を起こしてしまう
『平和記念東京博覧会(上野公園、大正11年3~7月)に出品し、天皇御料車の先導用に警視庁に納入したものの、テストの途中でひっくりかえり「大目玉をくらった」事件が発生した。この失態は、久保田篤次郎、後藤敬義、田中常三郎の各氏がそろって回顧しており、販売に大きなダメージを与えたようだ。』(④-10、P173)
その「大目玉をくらった」結果なのだろう、『あまりに不安定なので、急きょ大正10年末(1921年末)に四輪への設計変更を行い、平和記念東京博覧会の開催中に幌型四輪乗用車として売り出したが、もはや悪評を覆すことはできなかった。』(④-9、P175)この時点では、ゴーハムは自らの名を付けた「ゴルハム号」の販売直後に実用自動車を去り、鮎川義介の戸畑鋳物へと去っていたので、この三輪→四輪化は、若い後藤敬義(津田系の大阪製鉄(津田鋼材)出身の技術者)が中心となり実施された。(下は“むーぞう日記”さんのブログよりコピーさせて頂いた、日産ヘリテージコレクションにある「ゴルハム式三輪自動車」の模型の写真だが、これではやはり、横転は避けられなかった? 
https://minkara.carview.co.jp/userid/135242/blog/40979428/)
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https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/userstorage/000/041/718/926/d7d34bc16b.jpg?ct=2f8dac2f0f7e
15.3-8圧倒的なコストパフォーマンスの悪さ
 ゴルハム号の一番の弱点は『ゴルハム号の敗因は、まず重心が高く、不安定で、横転したことにある』(④-10、P173)だったが、問題はそれにとどまらなかった。引用を続ける。
『 ~ 設計自体が日本向きでなかったのである。926ccという排気量からしても、通常の運転免許が必要となり、小型自動車としての利点が少なかった。また自製のエンジンとしたために、製造コストが膨大に膨らんでいた。同じ時代に大阪で発生していたスミスモーターや、ビリヤスエンジン利用の特殊自動車と比較すれば、コストパフォーマンスはけた違いに悪かった。乗客数や積載量の面から見ても、ハーレーやインディアンを利用した大型リヤカー群(注;〇×項で記す)の性能に及ばず、安定性や機動力、価格の面でも、およそ勝ち目はなかったのである』(④-10、P173)。南恩加島工場は月産30~50台を想定していたが、強力な販売力をもってしても、ゴルハム号は結局、3年間で250台製造するのがやっとだった。ゴルハム号のまとめとして、またまた(④-10)より引用させて頂く。
『ゴルハム号三輪自動車の製造事業は大失敗に終わっていた。(中略)結局のところ、大阪の実用自動車製造には、南恩加島工場の立派な設備と、若い日本人技術者達が、売れないゴルハム号と、膨大な赤字と共に残されたのである。
 普通ならば、巨額な損失を生んだために会社は倒産、工場も売却となるケースだが、親会社の久保田鉄工所をはじめ、大阪鉄鋼界の強力な後ろ盾を得ていた実用自動車製造は、奇しくもそのまま存続していく。(中略)
 苦況に突入した実用自動車製造を立て直したのは、大正11年(1922年)より専務取締役を務めた久保田篤次郎と、技師長の後藤敬義の両名であった。』
(④-10、P170~P173)
そしてこの二人を中心にして、リラー号を経て、小型車ダットサンが誕生することになるのだが、それについてはオート三輪の項ではなく、この記事の後半の、小型四輪車のところで記していく。
(下の写真はゴーハムが足の不自由だった櫛引のために作った、通称“クシカー”。その説明を(web⓰-6)より、写真と共に引用
『ゴーハムは活動の不自由となった櫛引のために、特別な片足でも運転できる3輪車を作ってあげたのである。友情から誕生した手作り3輪車。これがクシ・カー号、のちに量産されてゴルハム式自動3輪車の原型となるクルマだ。大正8年(1919年)ごろの話だ。エンジンやフロン回りは、オートバイ・ハーレーダビッドソンの部品を流用し、後ろのシートは人力車のように2人掛けができるバーハンドルタイプの3輪車だ。片足でも運転ができる仕掛けとした。』この写真だけを見れば、シンプルな乗り物で好感も持てるが『この状態で眺めるとバランスは良いのだが、上にボディを架装して、3名が乗車すると、重心が非常に高くなる』(④-10、P169)。
元々櫛引向けにワンオフのつもりで、有り合わせのハーレーのパーツを使い、作ったのだから仕方がないが、貧乏性でケチな日本人の目から見れば、とても900cc+ものエンジンを載せる乗り物ではない。200~300cc程度の特殊自動車扱いの乗り物で、たとえば当初はそのクラスの定評ある輸入品のエンジンを使い、資力は十分あったのだからその後徐々に国産化をしていけば、また違った展開もあり得たと思う。しかしそうなると、最初から大規模な工場設備が不要となり、充実した工場設備という“遺産?”が残らなかったかもしれない。1920年代の全般的な不況の中で久保田本体の事業も楽ではなかった中で、身軽なため事業の撤退も容易になるなど、複雑な要素が絡んでくる。それが日本の自動車産業全体の展開として、最終的に良い方向に働いたかどうか、必ずしも、言えなそうだ。やはり後出しジャンケンであれこれ考えるのは無意味?)
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https://seez.weblogs.jp/.a/6a0128762cdbcb970c0263e9a37e11200b-250wi
15.3-9生産技術の分野で日本に貢献したゴーハム
(ゴーハムが日本で果たした数々の実績についても多くの情報があり、手短のところでは、(web⓰-5)、(web28-3)及びwiki等を参照して下さい。2013年に日本自動車殿堂にも選ばれているが(web❼-5)、その選考理由は「日本の量産・高精度技術を指導;日本のモータリゼーション黎明期に、ゴーハム氏が量産体制を確立した功績は極めて偉大」だった。日本向きではなかったという点では駄作といえた、ゴルハム号三輪車を見ればわかるが、自動車の設計・開発面よりも、生産技術や品質管理面で多大な貢献を果たした人物だったようだ。以下は(⑦、P72)より引用
『(ゴーハムは)技術的な知識を人に教えるのが好きなタイプで、当時の日本ではゴーハムの持っている知識と経験は貴重なものだった。自動車だけでなく、各種の生産技術の分野で貢献した。ちなみに、日本人になったのは太平洋戦争が避けられなくなった時点で、アメリカに帰らずに日本に骨を埋める決意をして日本国籍をとったからだ。それだけ日本が気に入っていたのだ。』桂木洋二氏は「日本人になったアメリカ人技師―ウィリアム・ゴーハム伝」という本を著すなど、ゴーハムに詳しいので、確かな評だと思う。
以下、大阪の南恩加島町にゴーハムが主導して建てた、工場設備について(web⓰-5)から引用する。『この工場の完成は大正9年7月。建坪は1349坪、鋳造、熱処理、工作機械、塗装、組み立てなどの工場のほかに、エンジン試験室、検査場、材料倉庫、製品置き場など、自動車工場として必要な設備はすべて整っていた(写真)。
工作機械として、複雑な穴を加工するブローチ加工機をはじめ旋盤、ネジをつくる転造マシンなど当時の先端のモノづくりマシンが30台ほどそろえていたという。いうまでもなく精度を管理するシステムを導入しており、日本での初の近代的な大量生産方式を導入した工場だともいえた。』

さらに、その製造技術を下支えするために、関西地区最大の官営兵器工場で高い技術力を誇った、大阪砲兵工場から技能工を引き抜いて運営させた。(⑦、p74、④-10、P171他)『砲兵工廠にしても、民間で自動車をつくることは望ましいことで、実用自動車の願いに積極的に対応するなど協力的であったという。』(⑦、P74)
大阪砲兵工廠といえば、この一連の記事の「6.2陸軍自ら、軍用トラックの試作に乗り出す」で記したように、陸軍が最初に、軍用トラックの試作を行った際に中心となった工廠であった。だがこの実用自動車製造が、それから10年もたたないうちに、陸軍の将校の斡旋で東京のダット自動車製造といっしょになり、軍用自動車の生産で糊口をしのぐことになろうとは、陸軍も大阪砲兵工廠も、この時は思ってもみなかっただろう。
エンジンはハーレーの影響を強く受けていたもののオリジナルのもので、『マグネトーと気化器は米製の輸入品だが、エンジン回りはすべて、ピストンからピストンリングまで自製していた。そのためになんとキューポラのある鋳造工場まで建設』したのだという。その分エンジンの製造コストは、相当高くついたはずだ。下の写真はgazooより、ゴルハム式三輪車の前に立つ実用自動車製造の首脳陣で、横から見ただけでは、重心が高く、不安定な様子はわかりにくいが。右がゴルハムで、その隣がゴルハムの下で自動車の設計/製作技術を学び、後に主任技師となる後藤敬義だ。
https://gazoo.com/feature/gazoo-museum/car-history/15/06/05_1/)
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https://gazoo.com/pages/contents/article/car_history/150605_1/04.jpg
15.3-10久保田篤次郎&権四郎父子について、戦前日本の自動車史の中で過小評価されている(私見)
(これより下も、まったくの雑談だ。
何度も書いてきたが、実用自動車製造で中心的な役割を果たしたのは、久保田鉄工所の久保田権四郎、篤次郎父子(篤次郎は権四郎の女婿)だった。ただ同社誕生のいきさつの中で、2人がそれぞれ果たした役割については、各文献で微妙なニュアンスの違いがあるようだ。少々長くなるが、いくつかの資料を掲げて、確認してみたい。
今回多く引用した(㊵-10、P171)では、『(クシカーに)友人を通して紹介された28歳の若き久保田篤次郎が興味をしめしたのが発端であった。これに大阪船場の豪商柴川英助の子、柴川新次郎、また西区堀江の油商水野安次郎らが加わり、事業化の話をまとめていった。いわば大戦景気で財を築いた豪商連の若き2世達による投資計画だったのである。』と記している。篤次郎主導だったという解釈だ。
他の古い資料(日本自動車工業史稿 2巻」(大正~昭和6年編)(1967.02)自工会;P396~)、(国産車100年の軌跡」別冊モーターファン(モーターファン400号/三栄書房30周年記念)高岸清他(1978.10)三栄書房)などを調べても、ほぼ同じ基調だった。
一方、当時の事情を直接知り、かつ客観的な立場にあった(久保田家とは一定の距離があったという意味で)後藤敬義は自工会が行なった座談会に於いて、現場で、肌で感じた印象として、多少ニュアンスの異なる言葉を語っている。(㊲、P56)
『クシカー三輪車は、人力車代用ということで、だいぶ世間の関心をひいたものです。櫛引さんはこの車を久保田権四郎さんに紹介されたようです。この三輪車を改造して、後席に客を乗せるように作ったならば、相当売れるだろうというのが、当時のお話のようでした。』この記述を素直に解釈すれば、櫛引のアピールが、久保田権四郎の決断に大きく影響したと受け取れる内容だ。引用を続ける。
『この三輪車の製造を企業化するため、会社設立の動きが具体化しました。久保田篤次郎さんのお話によりますと、大正8年7月頃に、篤次郎さんが直接その折衝に当たられ、その結果、当時大阪の有力な財界人である津田勝五郎さんと柴川英助さんが各33万円、久保田権四郎さんが34万円を出資することに決まり、資本金100万円の「実用自動車製造株式会社」が設立する運びになったということです。』(㊲、P56)と語っている。ここでも、実際の事業化計画を、中心になってまとめ上げたのは久保田篤次郎であったとしており、多くの資料と一致している。余談だが、当時、津田勝(かつ)と恐れられていた、大阪随一の鉄商、津田勝五郎については、以下が詳しいので参考までに。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/bhsj1966/32/2/32_2_1/_pdf
以上は自動車系からの情報だが、一般の、久保田権四郎を軸にした久保田鉄工(現クボタ)の歴史(伝記)書ではどのように評しているのだろうか。「久保田権四郎 国産化の夢に挑んだ関西発の職人魂」沢井実(PHP研究所);㊱として引用」という本から引用する。
『(クシカー)を知った大阪砲兵工廠の水野保太郎は、権四郎の娘婿である久保田篤次郎を訪ねて、その企業化を勧めた。当初、権四郎は新規事業に逡巡したものの、養子篤次郎の熱意、大阪の有力財界人である津田勝五郎、山本藤助、芝川英助らの支持もあって、結局この自動車製造事業に乗り出すことになった。』(㊱、P81)簡潔にまとまっているが、大阪砲兵工廠の水野保太郎が久保田篤次郎に企業化を勧めたと、具体的な内容で、これも参考になる。(20世紀の国産車」鈴木一義 (2000.05)三樹書房)でも水野の名前がでていてほぼ同じ内容だ。
それにしても、各資料で、多少曖昧な部分が残るのは、『権四郎が文書で指示を出すことはなかった。すべて口頭で指示を出し、それを実行させた』(㊱、P256)ことも一因なのではなかろうか!ただこの事業化の計画に、当初は久保田権四郎自身も前向きだった印象は受ける。そしてその判断に、櫛引弓人が影響を与えた可能性もやはり、感じられる。
 それらの事情を加味した上で、今回調べた資料の中で、実用自動車製造誕生の経緯について、総合的に見て、バランスの取れた?記述だと思ったのは、結局、過去の記事でも度々参考にしてきた、桂木洋二氏の「苦難の歴史・国産車づくりへの挑戦」(引用⑦、P72~P76)であった。これ以上は長くなるので引用は避けるが、桂木氏はゴーハムの伝記まで書いており、周辺の事情を充分調べ上げているようだ。参考にしてください。
 何だかしまりのない話を、迷走しつつ延々と記したが、ここで言いたかったことは、今回、実用自動車製造について、改めて調べていく中で、今さらのように感じたことは、日本の自動車史における久保田篤次郎、権四郎親子の果たした役割の大きさだった。
たとえば、日本最初の量産車はなんだったかという議論になると、通常いくつかの候補が挙がる。三菱A型(1917年夏に試作が開始され1918年11月に完成。1921年までに計22台が生産された。以前の記事の(備考9)で触れた)や、13.1項で記したオートモ号(1924~1928年にかけて累計250台以上生産された。)を推す意見もあるし、さらには瓦斯電のTGE-A型軍用トラック(1917年)を、トラックだが最初の国産量産車だとする考えもあり得る。
しかし、個人的な意見で言えば、最初から、量産を目的に工場設備を整えて、製造から販売まで、すべてに本格的な体制で挑んだのは、実用自動車製造が日本初だったように思える。(参考;『一定の資本金を準備して、最初から生産設備を整えて量産体制を敷くかたちで自動車メーカーが設立されたのは、日本では「実用自動車製造」が最初』だった(⑦、P73)。『東京にもあまり前例がないほどの近代的な機械設備と、最新の生産方式による、本格的な自動車専門工場』(④-10)が誕生した。そして販売は関西地区が久保田、首都圏は梁瀬が強力に展開した。)
ただ一番肝心の、生産車種の選定が、「人力車に動力をつけたような安くて便利な乗り物があれば、輸入車と競合することなく普及するのではないか」といった、かなり“漠然”とした、希望的観測に基づいていたものだったうえに、コスト計算などの詰めも甘く、さらにゴルハム式三輪車自体がすぐにコケる“欠陥車”だったので、その事業は大失敗に終わってしまったが、ただそれでも、苦労しながらも、三輪と四輪型の合計だが、1920年という時代に、3年間で250台も生産されたということは、それなりの偉業だったと思う。(下の画像は工場にずらりと並んだゴルハム式三輪車の威容。有名な写真だが、でも実際は売れ残りだったのだろうか?画像は追浜ガレージさんよりコピーさせて頂いた。
http://www.oppama-garage.jp/nissan_history_00002.html)
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http://www.oppama-garage.jp/Docu0009
15.3-11実用自動車製造の夢をつぶさなかった、久保田権四郎&篤次郎
(しつこいようだが、久保田父子に終点を絞った、必要自動車製造とのかかわりについて、もう少し詳しく見ていきたい。さきにゴルハム式三輪車の事業計画を立案し、根回しを行ったのが、久保田篤次郎だったと記したが、本人はその後の一時期、いったん距離があったようだ。(⑦や④)によれば、実際に実用自動車製造が発足してからは、『社長には久保田権四郎が就任したが、鉄工所社長との兼務であるために、大阪製鉄の津田勝五郎が実際の経営をつかさどることになった。クシカー号の事業化を推進した久保田篤次郎の手を離れて、久保田鉄工所を中心とする大阪財界有志による新しい事業としての色彩を強めたのであった。』(⑦、P73)
しかし販売不振の上にコスト高の採算割れで、赤字が累積していき、当初の期待は、大きな失望へと変わっていった。
『「実用自動車」設立のきっかけを作った久保田篤次郎は、「久保田鉄工所」の新しい部門開発のためにアメリカに行っていたが、帰国してしばらくして社長の久保田権四郎から「お前のつくった自動車のほうが赤字でひどい状態になっている。なんとかするように」といわれて、立て直しのために専務取締役として本腰を入れることになった。
 これ以降、久保田篤次郎は、ずっと自動車畑を歩むことになる。1921年(大正10年)7月、「実用自動車」が発足して1年8か月後のことだった。
 最初に打たれた手は、三輪から四輪にすることだった。』
(⑦、P77)
以降についての詳細は、この記事の後篇の四輪車編で記すことになるが、久保田父子が真に偉大だったのは、この後の対処だ。
あきらめずに、数知れない困難を乗り越えて(『恩加島工場を存続させるため、~一般の自動車修理にも手を染めていた』(④-17、P167)という)、最後には無免許運転可の小型自動車、ダット“ソン”まで何とか誕生させたのは、もちろん多くの自動車の歴史書で書かれている通り、設計を担当した後藤敬義の働きもあったが、本質的にはやはり、経営を主導した久保田篤次郎の功績であり、また、自身は途中で乗り気ではなくなったものの、娘婿が主導した会社を一定のケリがつくまで清算させずに、支え続けた、久保田権四郎の忍耐と、度量の大きさだったのだと思う。もし(常識的に)途中であきらめていたら、その後の日本車の歴史は大きく変わっていたはずだ。まとめとして、(④-10、P169)から引用する。
『つまり大正8年の一号車ゴルハム三輪自動車に始まり、やがて昭和6年のダット号5馬力小型四輪自動車(水冷4気筒495cc)に至るまでの一連の国産先駆車の研究開発は、久保田鉄工所傘下の実用自動車製造が独自に挑戦し、途中、大正15年には、東京における自動車製造の草分けだったダット自動車商会をも吸収合併して、ダット自動車製造株式会社と改称しながら、これらパイオニア車の製造販売を敢行していったものだ。その実用自動車製造の苦節10年の研究成果であった虎の子のダット5馬力が完成した直後の昭和6年に、同社をそっくり吸収合併したのが戸畑鋳物であり、その戸畑鋳物の後身が、現在の日産自動車(昭和9年設立)だったわけだ。すなわちゴルハム号から、ダットサンの1号車となったダット5馬力までの設計製造に挑んだのは、戸畑鋳物ではなく、久保田鉄工所系の実用自動車製造株式会社だったのである。』((④-10、P169))
 戦前の日本に於いては、運転免許などで優遇処置が得られる特殊自動車か、陸軍が主導した軍用保護自動車(自動車製造事業法後はその許可会社に指定されるか)のどちらかしか、生き残る道はなかった(④-12、P176参考)。ダット自動車製造は苦難の末に、その二つの道の両方にたどりついたのだ。(ダット自動車製造の軍用保護自動車については、この一連の記事の8.3-5項を参照してください)
まったくの個人的な意見だが、その偉大な業績に比して、久保田篤次郎と久保田権四郎父子は、戦前の日本の自動車史の中で、あまりにも過小に評価されているのではないかと思う。)
15.3-12転んでもタダでは起きなかった久保田鉄工所&久保田権四郎
(自動車事業では大きくつまずいた久保田鉄工所だったが、『久保田は自動車生産で学んだことを石油発動機生産に注ぎ込み』本体側では、自動車製造で得られた知見を活かし、大きな成功をおさめることになる。そのいきさつについて、(④-10、P173)より篤次郎の述懐を引用
『 久保田鉄工所で旋盤を作る議論が社内で持ち上がりましたが、~ 私は親父(久保田権四郎)に旋盤を作ることはやめなさいと進言しました。親父はでは何を作るかといいますから、農業用発動機がよいと答えました。ところが親父は言下に、百姓がそんな機会を使うものか、といって私はえらく叱られました。』ちなみに怒った権四郎はその勢いで、お前(篤次郎)は実用自動車に行って後始末して来いと、叱責に及んだようだ。
しかしその後『権四郎は当初積極的ではなかったようであるが、商社からの強い慫慂もあって久保田鉄工所は小型石油発動機生産を開始した。鋳物技術を活用でき、自動車生産と工作機械生産で培った機械加工技術、量産技術を武器にして、石油発動機は急速に販路を拡大した。』(㊱、P192)さらに(㊱、P184)から引用を続ける。
『実用自動車製造恩加島工場が、石油発動機の重要部品の生産を担当したことの意義は大きかった。精密な自動車部品の量産経験を積んだ恩加島工場の存在が、今度は石油発動機の高品質を支えたのである。』もちろん実用自動車製造側から見れば、工場を維持するためのありがたい、下請け仕事だったはずだ。
しかも自動車事業を経験した効果は、それだけにとどまらなかった。ダット自動車製造の売却先の戸畑鋳物から今度は、競合先だった同社の発動機部門を逆に引き取る(1933年)。『「トバタ発動機」を得たことで、久保田鉄工所機械部の販売台数は大幅に増加し~1935(昭和10)年には発動機部門の売上高が、久保田鉄工所・久保田鉄工所機械部の二社合計売上高の15%を初めて超え、内燃機が鉄管と並ぶ久保田の基軸商品となったことを物語っていた。』(㊱、P140)
それにしても世間は狭い。戸畑鋳物を率いる鮎川義介が、中央自動車製造を辞めた直後に、あのゴーハムを雇ったのも奇縁だったが、そのゴーハムに農耕用の石油発動機を設計させて、量産を始めた理由が、『自動車メーカーになるための予行演習であったと鮎川は述べている』(㉗、P33)。そしてようやく機が熟し、久保田とは逆に石油発動機事業を売却し、自動車事業のダット自動車製造を久保田から買い取る段階に達したのだ。これはまったくの余談だが、鮎川は石油発動機部門売却の話を、久保田の前に山岡発動機工作所(後のヤンマー)に持ち込んだが、体よく断られたそうだ(㊱、P90)。話を戻す。
『久保田がトバタ発動機を継承したことは決定的な意義を有したといえよう。同時に、久保田は自動車生産から撤退したわけであるが、その判断がその後の久保田のあり方を決定づけたといえよう。』(㊱、P193)久保田は自動車事業をきっぱりとあきらめ、発動機部門はやがてディーゼルエンジンの商品化へと進むことになる。
今日、我々が、クボタに対してイメージする代表的な製品は、農業用トラクターではないだろうか。下の写真はクボタのHPより「国内初の畑作用乗用トラクタT15形(1960=昭和35年)」そしてこの製品のどこかに、遠く久保田父子が夢見た、実用自動車製造時代の貴重な経験も生かされていたのだろうか。
https://www.kubota.co.jp/globalindex/backnumber/back_number/tractor/tractor_01/index_05.html 
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https://www.kubota.co.jp/globalindex/backnumber/back_number/tractor/tractor_01/images/12.jpg
15.3-13なぜ久保田篤次郎・権四郎父子がクローズアップされないのか
(以下は余談の中のさらに余談です。なぜ久保田篤次郎、権四郎父子の名前が、日本の自動車史の中で過小評価され続けてきたのか。その理由の第一は、日産自動車が一時期(川又克二“天皇”の時代)、日産創業者の鮎川義介や、クボタ系の久保田父子よりも、傍流だが“無色”の橋本増治郎を、社史の中でクローズアップしたため、その影響(誤解)が今日まで及んでいることと、第二の理由は、クボタ自体が現在は、日産とは無関係で、自動車産業にも身を置いていないためだろう。
もちろん、豊田喜一郎や鮎川義介と同等扱いまでとは到底言わないけれど、日本の自動車史の中で久保田篤次郎・権四郎父子を二人一組として、たとえば橋本増治郎やオートモ号の豊川順彌と同等ぐらいには、扱うべきではないかと思う(まったくの個人的な意見です)。
 ただ誤解を招かないように記しておくが、橋本や豊川が過大評価されているわけでは全くない。この二人は調べれば調べるほど、人物としても立派だ。
たとえば豊川順彌を(④-12、P172)では『戦前期の国産自動車史において、豊川順弥ほど技術開発に貢献した開発者は少ない。真の侍であった。』と評しているが、その歴史を辿れば、確かに“侍”という他ない。
 一方の橋本増治郎も、豊川に負けず劣らずの“侍”だった。今回、岩立喜久雄氏の、心を打つ数々の文章を読んだ中で、橋本の経歴の中でうかつにも、今まで見落としていた点があった。以下(④-13)から引用する。
『また橋本は自らの事業を差しおいても、恩人に協力を惜しまぬ義人であった。ダット41号(注;8.3-1項参照)を完成させた後の約2年間は、北陸で新たな工場建設の指揮にあたっていた。株式会社小松製作所(現在のコマツ。竹内鉱業株式会社として明治26年創設。創業者は竹内明太郎。DAT名のTの由来者)の出発点となった石川県の小松鉄工所の技術的な礎は、じつは増次郎が築いたものだ。その2年間に工場機械調達のため2度の渡米を果たし、石川県での技術指導に多くの歳月を費やした。その結果、石川県の小松鉄工所の竣工時には、橋本は取締役工場長を任されていた。ところがまもなくその職を辞退する。一般の自動車修理で糊口をしのいでいた、東京の快進社の従業員達の下に帰るためであった。』(④-13、P169) ・・・・・。 
世の中には偉い人がいたものだと思うしかないが、以前の8.3-1項でもDAT創業前の経歴を記したが、橋本が卓越した技能というか、並々ならぬ実力の持ち主だったことを物語る逸話だ。
それにしても自動車史の中で、「真の侍」や、「恩人に協力を惜しまぬ義人」と対抗するのは中々大変な話だったのかもしれない?下の写真はその後、立派に成長した?近年の姿を、コマツのHPよりコピーした。
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https://www.komatsu.jp/ja/-/media/home/aboutus/history/history_028.jpg?h=475&iar=0&w=750&rev=b96283e43f794dd298a268cc73803e49&hash=47FF412258CDF29ABDEA0A589CE267D8
 
15.4三馬力時代のオート三輪
 ここでようやく話を“本題”の、オート三輪に戻る。
脱線が長かったので、今までのおさらいを簡単にしておくと、(14.3-9項)で記したように、関西や東京で一時期普及していた、フロントカー型の三輪自転車の後輪に、スミスモーターホイールを装着する形で、初期のオート三輪と呼べるものが、自然発生的に誕生した。1917年(大正6年)頃のことだった。 
そして(15.1-3、4項)で記したように、スミスモーターホイールの輸入元である中央貿易では、自社製の完成車として、乗用型の「自動人力車」と、フロントカー式の貨物運搬用「自動三輪車」を販売していたが、内務省はこれらスミスモーターホイール付き軽車輛を、運転免許不要等、多くの特典がある「特殊自動車」であると、認定する(1921年12月)。
以上がこれまでの話だが、この絶好の商機を、機を見るに敏な他の大阪商人たちが見逃すはずがなかった。
この15.4項では、ダイハツ、マツダ、くろがね(日本自動車)といった、エンジンまで内製し量産する力を持つ、大手企業が参入し、人力車/自転車産業が由来の弱小メーカーが次第に淘汰されていく前の、関西の草分けたちが活躍した時代の、代表的な車種や話題(と事件?)を取り上げつつ、その歴史を辿っていきたい。
なおこの項も、今回の記事で多くを(ほとんどを)頼った、月刊オールド・タイマー連載の「轍をたどる 国産小型自動車のあゆみ」(引用④、岩立喜久雄氏著)を主に参考にさせていただいた。深く感謝します。同書は独自の視点も併せ持つため、世間一般ではより有名なオート三輪の歴史書である②や⑭と、若干内容が異なることをあらかじめ記しておく。
それでは初期のオート三輪の歴史を始めたいが、既にスミスモーターの輸入元の中央貿易製のフロントカー型については記したので、同じ時期に誕生したとされ、『スミスモーターホイール付きのフロントカーの流行では、関西地区の仕掛人の役割を果たした』(④-15、P168)という、元は大阪の油問屋、中島正一率いる中島商店三輪部の、ヤマータ号から、話をスタートする。
15.4-1中島商店のフロントカー、「ヤマータ号」の誕生(黎明期のオート三輪の仕掛人)
中島商会のヤマータ号誕生の経緯について、以下(web❾、P79)より引用する。
>『フロントカーの製造販売店であった中島商会を経営する中島正一が、自社が販売したフロントカーを店員が汗を流しながら運転する現場を目撃し、このスミス・モーターを三輪自転車の後輪左側に取り付ける着想を得たのが自動三輪車の始まりであるといわれている』
このエピソードは一般によく知られているもののようだが、(④-15、P168)では、
『中島正一は大正4年創業の油問屋の主人であったが、大正6年に逸早くスミスモーターを装着したフロントカーを製作し、自らの中島商店に三輪部を設けて販売を始めた』とより細かく記している。中島がオート三輪の最初期から目を付け、販売を始めた、パイオニアの一人だったことは間違いだろう。実際、中島では自社の広告に、「日本最古」の宣伝文句を多用していたという(④-15、P168)。
しかし中島と中央貿易のどちらが「日本最古」だったのかの検証は、あまり意味がない話かもしれない。それよりも、両者が>『どちらが先かは定かではない。いずれにしても商人の街である大阪で大流行し、幸いにも無免許で運転できたことから、三輪車が普及するきっかけを生んだのである。』(⑭、P10)
元々大阪、東京を中心に普及していたフロントカータイプの三輪自転車の後輪に、スミスモーターホイールを付けたものなのだから、オート三輪は(たぶん)大阪の街の中で、自然発生的に生まれたものだったと思うが、定説通り、中央貿易と中島商会の両社が先陣を切り、積極的に市場を開拓していったのは確かなようだ。
(④-15、P168)で岩立氏は、中島が掲げた「日本最古」の真意について『大正6年のスミスモーター付きフロントカーの時代より、業界をリードしてきた自負を示すものだった』と解釈して、その功績を讃えている。中島商店の「ヤマータ号」は、その後も法規の改訂の度にエンジンを換装しつつ、発展していった。戦後はオート三輪の製造を断念したが、現在でも自動車部品・用品販売の部品商として盛んに商いを行っているようだ。
https://www.nakabc.co.jp/
(ネットでスミスモーターホイール時代の、ヤマータ号の写真を検索したが、残念ながら見つからなかった。その代りといっては何だが、ライバル、中央貿易のフロントカー型の「オートサンリン」の写真は、“探検コム「オート三輪」の誕生” というところにあったので、コピーさせていただいた。ただ以前、今回の記事の下書きを書いた時点では確かにあったのだが、今は改装中なのか、元のブログが見当たらない?
https://tanken.com/tricar.html 後輪にしっかりと、スミスモーターホイールが取りつけられている様子が分かる。同時期の、中島商会の「ヤマータ号」も、同じような形態だったと思う。)
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 以上、スミスモーターホイール時代の、フロントカー型の代表として、中央貿易と中島商会の「ヤマータ号」を取り上げた。さらに話を進める。
先の14.3-10項で、日本における自動車の使われ方として『~どちらかというと、これを使用することによって顧客を大幅に拡大できるという、いわば業務用の需要が主導する形で普及したのである。~ 個人的な楽しみというよりは、業務用のニーズが優先するというこの特徴は、後述するように、自動車の普及についても当てはまる日本的な個性と言えるだろう』と、(㉚、P65)からの引用で記した。
戦前のオート三輪の歴史を辿っていくと、上記のように買う側が求めたものは一貫していて、無免許等の特典はそのまま維持しつつ、よりたくさんの、重い荷物を、安い購入費で楽に早く運ぶための、業務用の道具としてであった。
スミスモーターをつけて走り始めたオート三輪だが、『当初は自転車・荷車の代替え手段として軽量の貨物輸送に満足していた需要者が、次第により多くの貨物輸送を求めるようになった』。(①、P123)
その要求にこたえるべく、オート三輪の製作者たちは、少しでも大きな荷物を運べるように、特殊自動車の範囲内で今よりもさらに大きなエンジンの使用を許可するよう、管轄する内務省や地方の官僚機構に陳情をくり返す結果となる。
こうして法規制の変遷と連動して、オート三輪は機構的にも、より重い荷物を運ぶために進化を遂げていく。次に記す、スミスエンジンに代わり、ビリヤスエンジンの使用と、フロントカーからリヤカーへの変化も、その流れに呼応して生まれたものだ。ただしこの流れの行き着く先は、機構的にも自転車寄りから自動車寄りへの変化となり、自転車系から派生した中小業者からすると、次第にハードルが高くなっていき、自らの首を絞める結果にもなっていったのだが。
15.4-2フロントカー型からリヤカー型へ移行
 ここでもう一度、三輪自動車の形態について確認しておきたい。三輪自動車は、その構造上、前一輪・後二輪のリヤカー型、前二輪・後一輪のフロントカー型、及びオートバイ+サイドカーの、3タイプに分類される。そして再三記したが、その中で、スミスモーターホイールを後輪に取り付ける形で、最初に登場したのが、フロントカー型であった。操舵のない後輪一輪駆動の方が構造上もバランスの上でも、モーターホイールを付け易かったことも一因だった。サイドカーは車幅が広くなってしまい、狭い日本の路地まで入れないため、荷物運び用としては一番不向きだった。
15.4-3狭い日本では便利な乗り物だった
サイドカーは狭い日本の道では不向きだったという話が出たところで、オート三輪が日本で普及した理由の一つとして、荷台(積載力)の割に小回りがきき、狭小な道路の多かった日本の道路事情にマッチしていた点があった。14.2-2項の馬車のところでも記したが、戦前の日本で(自動車の)トラック=フォードとシヴォレーのトラックになるが、『T型(フォード)でも2896ccあり、日本の狭い道路では立ち往生する場面が度々起きた。~貨物自動車の場合は、その本能として市街地を自由に侵入したくなる。~ この輸入貨物車と日本の市街地や住宅地の道幅との不釣り合いは、こののち国産小型自動車を発生させる一因にもなっていく』(④-6、P172)。』以下の①では、その点を数字で示している。
『~道路の幅が3.7m以上なら小型車通行可能、5.5m以上なら普通車通行可能とされたが、1934年1月現在、大衆車の通行可能道路の全道路延長に占める割合は3.5%にすぎなかったのに対して、小型車のそれは20.9%だった。』(①、P172)
仮に道幅が3.7m未満の道路でも、コンパクトで急角度に操舵できる(ただし低速でだが)オート三輪は、『短距離の輸送のためのトラックとして四輪トラックよりはるかに安く便利であることから、需要は少しずつ増えていった。四輪のように内輪差もなく、どんな狭い道でも通れるのも、日本の土地に合ったものだった。』(⑦、P167)こうして日本特有の入り組んだ町並みに自然にとけ込みながら、小口の荷物輸送の需要を荷車やリヤカーから徐々に代替えしていった。(下の写真はナカジマ部品のHPの、「三輪自動車の歴史(2)」からコピーさせて頂いた、高知県の高知自動車工業(後にトクサン自動車工業)で製造された、特大サイズの三輪トラックの「トクサン号」。以下wikiより『大型四輪トラックのシャーシ改造によって製作され、輸送力の大きさと、山地の狭隘路でも小回りの利く三輪トラックの特性を兼ね備えていたことから、特に四国を中心とした西日本地域の林業輸送用として用いられた。』トヨタ製5t積み(主にBM型)の、多くは中古トラックをベースに3輪型シャシーを改造製作するという、『凄まじい規格外というべき三輪トラック』(wiki)だ。さらにこの規格外の大型三輪トラックが、『当時、地元の高知県陸運事務所は、「高知県の新たな産業」として期待できるトクサン号の完成車種登録申請に非常に協力的で、事務所長は四国全域を管轄する高松陸運局や東京の運輸省本省にまで認可の運動をしてくれた』(wiki)結果、四国内での使用を許可された(後に全国?)という事実もまた、規格外?の話で興味深い。下の写真は中島部品HPの「三輪自動車の歴史(2)」からコピーさせて頂いた。写真についた説明文に「2.5トン積車」とあるが『この時代のユーザー側では公称の二倍三倍の過積載がまかり通ってもいたから有名無実ではあった』(wiki)https://www.nakabc.co.jp/auto-3rin/auto3rin-2.htm
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https://www.nakabc.co.jp/auto-3rin/1956-tk-3rin.jpg
15.4-4移行期は各社、フロントカーとリヤカーの両タイプを用意していた
しかしフロントカー型は前に荷物を載せるため前輪が重くなり、舵取りが困難になるという弱点があった。そして経験的に、リヤカータイプの方が、より重い荷物を運べそうなことが次第にわかってくる。14.4項で記したように、この頃日本人の手で、リヤカーが誕生し、街中で急速に普及していった時期なので、その影響も当然受けただろう。
移行期であった時期のオート三輪業者の多くは、フロントカー式とリヤカー式の、2種類のオート三輪を用意していたようだ。15.1-4項で掲げた、1923年の中央貿易の宣伝コピー(月刊オールド・タイマーの「轍をたどる」(④-5、P173)からコピーさせていただいたもの)を見ても、両タイプを用意している。
15.4-12項で後述するが、大正14年(1925年)に国産エンジンの特殊自動車として最初に認可されたアイザワ号も、やはり両方式を用意していた。その解説文(④-8、P177)から引用『フロントカーとリヤカーのどちらの方式が便利なのか、まだ答えが出ていなかったわけだ。やがてリヤカーのほうが多量の荷物を運べると分かるのは、この直後のことだった。』つまり1925年頃が、フロントカーからリヤカー式へ移行する、一つの境目の時期だったようだ。
15.4-5リヤカーの方が米一俵分、余分に積める!
そのころ、リヤカーの開発を積極的に行っていた業者の中に、大阪浪速区の、山下市二郎率いる山下製作所があった。そしてこの山下が最初に、『リヤカーとフロントカーでは、リヤカーの方が米一俵分、余計に積むことが出来ると先見』したのだという(④-15、P169)。この「米一俵分多く積める」という文言は、多くの文献で引用されている(たとえば①、P120など)。日本のオート三輪の用途は荷物の輸送用だったため、フロントカーよりも重い荷物が積める、リヤカータイプに、急速に需要が移っていく。
15.4-6東京のリーダー格、鋼輪社の「KRS号」
 今まで見てきたように、オート三輪の製造は、大阪や神戸を中心にした関西が起点となり、東京や名古屋へと伝播していった。そして大阪における中島のヤマータ号のような位置づけの、東京のリーダー格として、業界を牽引していったのが、山成豊率いる鋼輪社(後に山成商会)のKRS号(ちなみにKRSは鋼輪社が由来)であった。スミスモーターを搭載したオート三輪の最後として、KRS号を紹介しておく。
KRS号について、(②、P173)では、『オート三輪という言葉が用いられるようになったのは、1922年に山成豊氏の経営する鋼輪社(KRS)が、スミスモーターを使用して、前1輪・後ろ2輪の動力付きの三輪車をつくったからだといわれている。』とし、さらにKRS号の写真の解説文では、鋼輪社のKRS型が『その後のオート三輪の原型となった』(②、P172)と、非常に大きく扱っている。ここまで言い切っているので、たぶん何かの文献に、そのように記されている等の根拠があるのだと思う。
 しかし、以下はまったくの私見だが、この記事で今まで、日本人が“発明”したとされる(もちろん異論もある)、人力車やリヤカー(と輪タクも?)の歴史を見てきたが、その限りにおいては、誰か特定の“個人”が“発明”したというよりも、それらは当時関係していた日本人とそれを取り巻く日本の社会の、いわば“集合体?”みたいなものが生みだしたものだったように思う。
wikiや歴史本がどうしても、個人や企業名で特定したい気持ちもわかるが、このリヤカー式オート三輪も、どこか特定の企業がその原型を示したというよりも、フロントカー式の、最初のオート三輪が誕生した経緯のように、当時の大阪を中心とした、ある種の熱気が東京にも伝播していく中から、いわば必然的に誕生したものだったと解釈したい(たぶんに個人的な意見(感想)です)。先に記したように、人力のリヤカーが街中を世話しなく駆け回っていたはずたし、15.5-1、-2項で記す、ハーレーやインディアンを改造した大型リヤカーの影響も受けていたはずだ。以下は(④-13、P176)から引用する。
『~これらの各社を見ても、最も隆盛した大阪では中島正一の中島三輪車部が、一方の東京では山成豊率いる山成商会が、この分野の牽引車だったことがわかる。フロントカーからリヤカーへ、そしてビリヤスからJAPへ(注;後述する)といった基本的な流れは、東京と大阪を中心にほぼ同時に起こってきたわけだ。』
この(④-13)の記述のように『フロントカーからリヤカーへ、~ といった基本的な流れは、東京と大阪を中心にほぼ同時に起こってきた』もので、大阪/神戸と東京で沸き起こったこのムーブメントの段階では、東京側を主導していったのが、山成豊とこのKRS号だったことは、間違いなかったと思う。(④を参考にした私見です。)
15.4-7長期間かつ大量に三輪車が生産されたのは日本のみ(余談)
(以下は余談です。もともと、誰もそのように言ってはいないが、オート三輪が、日本で“発明”されたと言い切るのは苦しい。(①、P138)の備考で記されているように、遡れば『ガソリン・エンジンの発明者であるベンツが、最初にそのエンジンを装着したのが三輪車であったし』、ゴルハム号三輪車の元ネタだった、サイクルカーは欧州を中心に一時盛んに生産されていた。荷物運搬用のリヤカー型のモデルとしては、日本にも1910年代にインディアン(有名なオートバイのブランド)を輸入していた二葉屋が、アメリカから“シグネットリヤカー”という大型リヤカー(正確には四輪だったが)を輸入していた。『また、20年代末にもドイツのDKW社はMAKという三輪車を日本に輸出しようとしたというからである』(①、P138)。『こうした三輪車の台頭は、日本独特のものではあったが、ドイツでも1920年代後半から流行』(⑭、P12)していたという。しかし『長期間かつ大量に三輪車が生産されたのは日本のみ』(①、P138)で、第二次大戦を挟んで50年近くに渡り使われていく中で、独自に発展を遂げていったのは、紛れもない事実だった。
下の写真は、https://dkwautounionproject.blogspot.com/2017/07/framo.html 
というブログからコピーさせていただいた、1928年製のDKWの三輪車の宣伝コピー(ドイツ本国向けの)で、同車は日本にも輸入された。ドイツ人が作れば当然、関西商人の想いで作った日本のオート三輪と違い、工学的に凝った作りになるが、日本にも輸入されて好評だったという。詳しくは⑭、web❷等参照してください。前輪駆動の低重心設計で、その鋼板フレーム構造は、後のマツダ製オート三輪に影響を与えたといわれている。同時代の日本製のオート三輪よりコーナリング時の安定性が高く、逓信省が郵便車に採用したという。(⑭、P13他参考))
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 さらに話が変わりこれも余談だが、スミスモーター時代のKRS号について、確かに写真(②に掲載されているもの)の見た目では、進歩的だが、実際には『このオート三輪は、走り出してスピードがのると、エンジンの動力が切れるようになっていて、乗り手が地面を蹴ってスピードを保つ方式であった』(②、P174)という、今の感覚からすればかなり原始的な乗り物だった。)
15.4-8初期のオート三輪メーカーの企業形態について
ここで個別の企業としてではなく、初期のオート三輪を製造していたメーカー群は、どのような仕組みで製品をデリバリーしていたのか、非常に漠然とした問いだが、①をガイドに確認しておきたい。
まず前提として、14.3-5の自転車の項で、自転車産業が特殊な産業構造で、初期のオート三輪車市場に参入した企業は、その自転車産業関連が多かったことはすでに触れた。その確認も兼ねて以下(④-15、P169)より引用
『組立メーカー、あるいは問屋物と呼ばれた、無工場の、商標のみによる国産自転車は、大正期よりすでに無数といってよいほど発生しており、そのルーツも、やはり阪神地区の自転車部品工場群に求めることができる。このような商業形態は自転車業界特有のものだったが、同じように中小企業や商店が集合した、初期の国産二輪、三輪業界にも伝播し、少なからぬ影響を与えていた。』
実際、黎明期のオート三輪業界で活躍した(乱立した?)メーカーというか、商人たちは、自転車業界特有の、ほぼすべての部品を外部調達することで成り立たせており、我々が通常、メーカーと聞いてイメージするものとは、だいぶ異なっていた。
15.4-9初期のオート三輪は輸入エンジン+内製車体の組合せ
ここで初期のオート三輪の構成を大ざっぱに確認しておくと、輸入エンジン+国内製車体(フレーム)の組合せとなる(『自転車(フレーム)を父とし内燃機関(エンジン)を母として誕生した』(①、P127)という言われ方もされていたようだ。)。
当時エンジンは、定評ある輸入品を使うのが常識だったので(さらに細かく言えば当初は、ギヤボックス、マグネトー、気化器、サドル、オイルポンプ、電装品、チェーン等も輸入(④-11,P168等参考))、あとは、フレーム他の主要部品を国内の自転車系の部品メーカーから調達して、自社(問屋型に徹してそれすらも外注する場合もあっただろう)で組み立てて完成となる。そのための肝となる、初期のオート三輪のフレーム製造技術について、(①)を参考に確認する。
15.4-10自転車とほぼ同じ設備で製作していた
『~三輪車を含む自動自転車メーカーはすべて小規模・少量生産であったので、実際にプレス機を設けていたメーカーはなかった。要するに、フレームに関する限り、基本的には自転車と自動自転車の設備は同じであったのである。』(①、P128)自転車に比べると少量ロットのオート三輪用のために、自転車部品メーカーはプレス機械等の新たな設備投資をすることなかった。しかし既存の設備で、オート三輪用のフレーム製作に対応できたようだ。
初期のオート三輪のエンジンはかなり低出力だった(スミスモーターは201cc、2.5㏋ほどだった(⑥、P39等))ため、フレーム側への負荷も比較的軽かっただろうことと、元々三輪自転車用フレームの製造技術もあった。以下も(①)より
『~それを可能にしたのは、日本において自転車のフレームに関する技術はほぼ完成のレベルに達していたし、三輪自転車も使われていたためであろう。』(①、P128)すでに国際水準にあった、高い自転車製造技術が、下支えした。そしてフレームに限らず、タイヤ、車輪など自転車用の部品類は国産化されており、オート三輪作りのための基盤はすでに整備されていた。
だが、スミスモーターの時代よりも、後に記す、エンジンパワーが上がった、3馬力時代(350cc)や5馬力時代(500cc)になると、『既存の自転車のフレームをそのまま使うことは無理であった。~ ほとんどのエンジンは欧米からの輸入品であったが、その本国ではそのエンジンの出力と振動に耐えられるフレームに取り付けられるように製造されたものであったからである。』(①、P129)
しかし、それらのよりハイパワーなエンジン向けの対応も、多額な投資が必要なプレス機械等の新規設備の導入でなく、材料・設計の改善で対処したようだ(①、P129)。その点が、後に市場が形成された段階で、大資本をもって参入した、マツダやダイハツに比べて、弱い点だったが、『全般的に1920年代の技術は、~ 自転車を基にするフレームに関しては三輪車を実現可能なものにする水準にまで向上したのである。』(①、P132)
さてこうなると残りは1点、調達した部品を社内で組立てることの、技術的なハードルは高かっただろうか?
15.4-11小さな鉄工所でも自転車小売店でも組立てられる程度(ダイハツの社史より)
これについての答えは、ダイハツの社史(「50年史」1957年発行;㊴、P34)から引用する。『当時大阪、東京などの大都市では、主として英国あたりから輸入したオートバイ用エンジンをそのまま三輪車に架装して走ることが流行していたのである。小さな鉄工所でも、自転車小売店でも小規模で組立てられるので中小企業者の歓迎するところとなり、次第に生産量が増加する傾向が看取された。』
同書の別の頁では、当時の三輪自動車工業を、『小企業者主として手工業により僅かに製造を続けていた』(㊴、P36)と記している。たとえば、JAPエンジン(3馬力)時代に栄えた、MSA号で有名な東京のモーター商会(15.4-27項で記す)の企業規模は、1932年1月の統計では、従業員12名にすぎず、同時期の中小自転車部品製造企業より小さかった。『これは、同社がエンジンだけでなくほかの部品もほとんど製造しておらず、組立のみを行ったことを意味し、こうした状況は半国産企業に共通していたと思われる。』(①、P142)
もちろん、この企業形態が可能だったのは、この項で延々と記してきたような、前提条件が満たされていたからであった。
 初期のオート三輪メーカーの企業形態について、漠然としたまとめになるが、機械工業系の企業単位で見た場合、先のダイハツの認識で間違いないのだろう。ただ我々一般人の基準で考えれば、人力車/自転車産業以来の、知恵と先見の明のある商売人たちが編み出した、効率的な生産方法であったと思う。

話を戻す。再三記したように、戦前のオート三輪の歴史は、より大きな荷物を運ぶために、特殊自動車の範囲内で、さらに大きなエンジンの使用許可を求めて、内務省他の規制する側と業者が折衝を繰り広げた歴史でもあった。ユーザーは次第に贅沢になり、スミスモーターの出力では物足りなくなくなっていく。さらに上を求め始めたのである。
 こうして、より出力の大きいオートバイ用のエンジンを、特殊自動車として“認可”するよう求める動きが起きて、やがてスミスモーターに代わるビリヤスエンジンやJAPエンジンの時代が到来するのだが、ビリヤスエンジンの話の前に、『長い間、噂だけが伝わる謎の1台』(④-8、P175)だった、大阪の「アイザワ号」が、“スミスモーター超え”の突破口を切り開いていたという。以下(④-8)を参考に記す。
15.4-12「アイザワ号」オート三輪(319cc)の特殊自動車認可(1925年6月)
このアイザワ号は、エンジンまで内製した純国産の三輪車で、上述のように今まで「謎の1台」とされてきたようだが、岩立氏の(④-8)で、(たぶん)本邦初めて、詳しく解明された。ぜひそちらをご覧ください。以下同書から大幅に省略しつつ記すと(④-8、P175~)、アイザワ号オート三輪を製作したのは、大阪の相澤造船鉄工で、第一次世界大戦の造船景気で急成長し、富を成したが(いわゆる造船成金だった)、大戦後の造船不況で一気に1/10の規模まで縮小する。そこで元々漁船用エンジンの製造経験もあり(①、P141)、『この造船不況を乗り越え、工場を維持するために、アイザワ号オート三輪の開発に進んだものであった』(④-8、P176)。15.4-8~9項で記した、他のオート三輪メーカーとはかなり動機が異なっていたことになる。
その取り組みも本格的で、エンジンはイギリスのJAPエンジン等から学んだ内製品で、4ストローク単気筒、319ccエンジンだった。スミスモーター(201cc)に比べるとかなり大きい。
相澤造船鉄工は内務省宛てに、このアイザワ号が特殊自動車扱いとなるよう、申請書を提出するが、1925(大正14年)年6月29日付けで、フロントカー式アイザワオート三輪及びリヤカー式アイザワオート三輪は特殊自動車であると認可される。国産エンジンだということと、相澤造船鉄工は当時名の知れた企業だったはずで、判断が多少、緩めだったのだろうか。しかしせっかく認証が得られたにも関わらず、本業の経営難も加わり、さしたる販売も行わないうちに、短命に終わったようだ。
15.4-13認証試験が始まる(「青写真時代」時代の到来、そのきっかけは?)
(以下は(④-9、P169~171)を元にまとめたものだ。)
アイザワオート三輪が特殊自動車と認定される1925年(大正14年)の前年の、1924年(大正13年)以降、内務省警保局が行なう、特殊自動車の認証手続きに変更があった。
申請(許可願い)の際には『必ず詳細な構造説明書と共に、設計図の青焼きの添付が義務づけられた。のちに三輪自動車業界の開拓者達は、この3馬力時代、5~6年間のことを「青写真時代」と呼んで懐古したが、青写真が申請上、必要不可欠となった時代をさしたものだ。』しかも、書類審査だけでは終らなくなった。
書面による審査と共に、『特殊自動車の製造者からの出願に対しては、とうとう一台ずつ車両を持参させ、実地試験を行うこととした。つまり認証試験の始まりである。そして審査に合格した車両については、車両名、製造者名、仕様を明記し、青写真を添付して、全国の各地方庁へ「この種の車両に対しては無免許運転を許す」と一々通牒するようになった。現在の型式認定の原型に近いものだ。』(④-9、P171) 
このような煩雑な認証手続きを生むきっかけがあった。星川商会(京都府)という業者からの度重なる、あいまいな内容の照会があり、それに業を煮やした?警保局側が、星川商会の自動自転車については実地に審査すると、応じたからだったという。詳しい経緯はこれも、(④-9、P169~170)をご覧ください。星川商会以外にも同様な申請があったのだろう。
内務省はこの(繁雑な)ルール通りに運用し、申請の度に実際に、実車試験を行い、その性能を確認していたという。たとえば『内務省技師の小野寺は、前出のアイザワ号の一件でも、試験車を東京へ1台持参させ、皇居前の砂利敷き道路で実際に試運転を行っていた。』(④-11、P171)
なぜこのような事態に陥ったのか。先に記したように、『無免許車の許可が車輛ごとでなく、検査に合格した製造業者に下されたことも、車両の性能を重視する発想からきたものであったと思われる。というのは、車両検査の際には車体自体だけでなく、製造業者が検査車輛以上の性能を備えた車両を持続的に供給できるかどうかについても調べており、後述するように、三輪車の性能が問題にならなくなる30年にはこの方法が変更されたからである。』
当時オート三輪業界への参入障壁は低かった。既存の交通体系を安全に維持していくために、審査のハードルを上げて、星川商会のような申請者(車&製造業者)を排除したかったのだ。
こうして星川商会のような一部の不届きな業者が取り除かれたため、『三馬力半時代の先駆者達は、内務省警保局からの認証を得るため、万事これに従い、また内務省警保局も真摯に各車を審査していた。』(④-11、P171)交通体系に支障がないよう、官民が協力して、特殊自動車の性能確保に努めていたわけだ。
そういった、真剣なやりとりが行なわれていた中でも、次に記す、神戸自転車業界の祖と呼ばれた有力業者、横山商会と内務省警保局の一連の折衝は、国産小型車の歴史の中で特筆すべき出来事となった。
15.4-14「横山式コンビンリヤカー」が切り開いた道
(この項“も”、④-11と④-15のダイジェストです。)
 この項の主人公の、神戸の横山利蔵率いる横山商会は、『明治30年創業の自転車輸入業の老舗で、大正8年(1919年)5月に株式会社横山商会と組織変更後は、オートバイ及び部品の輸入、また国産自転車部品の輸出を行った。』ちなみに商標名の「コンビン」は、「Convincible(確信できる)」の略だったそうだ。
横山はまず、ビリヤス自動自転車で、自動車業界に進出を果たす。15.4-27項で記す、MSA号のような、イギリス製のビリヤスエンジン(247cc及び342cc)を搭載したオートバイで、『フレームなどの車体は阪神地方で製作した、いわば半国産車であった。』当時、車両価格を抑えるためにしばしば行われた手法だったという。(以上④-11、P170。以下も同様)
『自転車部品メーカーが数多く点在した阪神地区ならではの背景が見えてくる。英社系自転車輸入業の草分けだった横山商会は、自転車フレームなど部品工場との関係が深く、そのため逸早く三輪車の製造に手が届き、コンビンリヤカーの販売に至ったものだ。』(④-11、P170)
こうして二輪だけでなく、三輪のコンビンリヤカーの販売にも商売を広げるが、その過程で、『愛知県知事より内務省警保局長にあてた、「自動車取締令適応に関する件」とする、コンビンリヤカー三輪車に対する照会』(大正14年(1925年)8月13日付)が行なわれる。
15.4-15コンビンリヤカーは特殊自動車とは認めがたく候(1925年10月)
たまたま愛知県内で走っていたコンビンリヤカーについて、愛知県より内務省警保局宛てに、特殊自動車と扱って良いかの照会だったらしいが、これに対して内務省は1925年10月10日付けで「自動車取締令に関する件回答」として、概略以下の内容の通牒を発した。
『コンビンリヤカーは、これまでの前例、オートサンリン(15.2項参照)やアイザワ号(15.4-12項参照)などと比べて、排気量が半馬力、全長が四寸、全幅が二寸オーバーしているため、無免許運転許可の特殊自動車とは認められない、との明確な回答であった。また愛知県からの照会には、構造書の写しがあるのみで、肝心な構造図面や操縦法説明書の添付がなく、これでは判定しがたいとした。』(④-11、P170)
15.4-16コンビンリヤカーは特殊自動車として取扱い相成度候(1926年1月)
(④-11)からの丸写しで恐縮だが、以下からも引用させていただく。
『右の愛知県と内務省とのやりとりをはたして察知したものかどうか、神戸の横山利蔵はすぐさま大正14年(1925年)9月24日付けで内務大臣あての陳情書を送っている。』(④-11、P170)横山は内務省から正式にNGの回答が出る前に動いている。内務省とはこの件で折衝があっただろうし、事前に感触をつかんでいたのだろう。内務省宛てで、コンビンリヤカーを特殊自動車として扱ってほしい旨の陳情書を行ったが、その内容は(④-11.P171)によれば、用意周到なものだったという。以下をダイジェストに記すが、詳しくはぜひ元ネタの方をご確認してください。
 用意した書類だが、添付を指摘された構造図面や操縦法説明書は当然ながら、大阪工業試験所による試験成績書と、三宮警察署による速力証明書まで揃えて提出した。構造書に記載のスペックも、エンジンは同じビリヤス製ながら、排気量が半馬力オーバーしているという指摘を受けて(見越して)342cc型(3馬力半)から、247cc型(2馬力半)型に変更している。車体寸法も全長8尺、全幅3尺、変速機は前進2段等、内務省の“前例主義”を見越して、過去の無免許許可車(アイザワ号など)にほぼ収まるスペックであった。
 この“反撃”に対して内務省警保局は、1925年11月14日付けの通牒で、三宮警察署の速力証明には、試験環境データ等が欠けている旨、兵庫県知事宛てに通知する。かなりの“お役所仕事”的な対応にも思えるが、ただ今まで見てきたように、元々オート三輪系の特殊自動車の発端は、自動車取締令の解釈を巡っての特例処置の扱いから始まった。その後“拡大解釈”を繰り広げつつ、市場と共に成長していくのだが、内務省側としても、要所要所で歯止めをかけておきたかった気持ちもわかる。以下(④-11、P171)から引用する。
『なんとも厳密なお仕事ではあるが、これを受け取った横山利蔵は、また一念発起したことだろう、翌月12月8日、再度周到な実地試験を施行し、警保局の疑問にすべて沿った試験結果を、兵庫県知事を通して回答した。』
その 試験結果を受領した内務省警保局は、大正15年(1926年)1月25日付けで、横山式コンビンリヤカーを、特殊自動車として扱う旨の通牒を発した。
こうして『三馬力半時代の車輛規格は、横山利蔵のビリヤス系リヤカーによって露払いが行なわれ、大きな前例となっていくのである。』(④-11、P171)
15.4-17四輪の「コンビンサイクルカー」も特殊自動車として認定される(1925年12月)
 しかも横山利蔵の功績は、これに留まらなかった。以下も(④-15、P175)より引用する。
『さて神戸の横山利蔵は、前述の三輪コンビンリヤカーと同時に、じつは四輪のコンビンサイクルカー(写真は④-15をぜひ確認してください)も制作していた。いわばコンビン号の四輪版であった。ビリヤスの2馬力半、247ccを搭載したこの豆自動車は、輸入エンジンを利用した国産サイクルカー(四輪)として初めて、特殊自動車の認可を得ることになる。』以下『難路を超えた申請の経緯』を、(④-15、P175~P177)を元に簡略にして記すが、何度も記すが詳しくはぜひ原文を参照して下さい。
まず横山が四輪版の豆自動車、コンビンサイクルカーを作った背景だが、その7年ぐらい前、アメリカから輸入された例の“走るスノコ板”、スミスフライヤーに、輸入元の中央貿易が見た目は立派な和製ボディをかぶせた豆自動車が、意外なヒットとなったことがあったと考えられる。(15.1-2項参照)
『このとき横山はフライヤーと同じ車体寸法で、同じような体裁の豆自動車を製作すれば、(スミスフライヤーのように)適用除外が受けられると判断したのだろう。つまりフライヤーの後釜を狙った国内制作車がコンビンサイクルカーだったわけだ。』(④-15、P175)スミスエンジンでなく、より出力のあるビリヤスエンジンでの適用除外を狙ったのだ。
 ところがこの横山の試みに対して、内務省でなく、なんと横山の地元、兵庫県と神戸市警察がが『横山利蔵と内務省の間に分け入って、特殊自動車の承認をふさぎとめようとした』のだという!
その反対理由だが、当時『兵庫県下では「これら除外の」特殊自動車による事故が度々起こり始め、警察は手を焼いていた』という、これも警察の立場からすれば、至極もっともな理由があったようだ。(以上④-15、P176)
当時の特殊自動車の認可の可否は、内務省警保局と車輛製造業者や販売業者だけでなく『地方長官や警視庁も含めた三つ巴のやりとり』(④-16、P164)で決定されたという。そして地方長官や警察は、地場産業振興のため好意的に受け取る場合だけでなく、その逆に出る場合もあり、コンビンサイクルカーの場合、後者だったようだ。
その後の途中経過は省略するが、内務省警保局は『じっさいに横山のコンビンサイクルカーを東京へ持参させ(恐らくは皇居前広場周辺において)実地試験を行う』④-15、P176)という、厳密な審査を行った結果、例の『普通自動車と比べて、簡便かつ安全であるからよいだろうとする』、スミスフライヤーの際と同じ理由付けで、内務省警保局は、大正14年(1925年)12月20日付けで、横山式コンビンサイクルカーを、特殊自動車として扱う旨の通牒を発した。以下まとめとして、(④-15、P177)より引用する。
15.4-18横山が開けた小さな風穴は、豆粒のまま終わらず、その後大きく広がっていった
『以上のように横山式コンビンサイクルカーは、3馬力時代の四輪乗用車の認可においても先鞭をつけることになった。やがてコンビン号の後を追いかけて、3馬力、5馬力時代の三輪・四輪乗用車が次々と出願され、のちの750cc時代の小型四輪自動車の土台が、徐々に築かれていく。コンビン号自体も、昭和7年には、500cc時代の小型乗用車へと進化していた。
 横山利蔵がここで開けた小さな風穴は、けっして豆粒のまま終わらず、大きく広がっていったのである。』

ところで横山式コンビンサイクルカーについて、岩立氏は上に引用したように、「輸入エンジンを利用した国産サイクルカー(四輪)として初めて、特殊自動車の認可を得た」と、少々まわりくどい表現を用いている。しかしここにも深い理由があった。
15.4-19スミスモーター車よりも前に電気自動車が特殊自動車認定されていた!(警視第90号)
15.1項で、スミスフライヤーや、フロントカー式の荷物運搬用オート三輪等、スミスモーター系の簡便な車両が、この記事で何度も登場した(警山第104号:大正10年12月22日)で特殊自動車として認定されたと記したが、実はそれ以前に認定を獲得したサイクルカーがあったのだ!
その8か月も前の大正10年4月28日付けの、警視第90号(「電気自転車に関する取締令適用に関する件通牒」)で、輸入されたドイツ製の電気式サイクルカー、「スラビー・ベルリンガ―」(=1919~1923年にかけて、ベルリンのスラビー博士が考案し、製造された、下の写真の緑のクルマ)が「電気自転車」として、特殊自動車認定されていたのだ。時代が逆戻りする上に、いきなり電気自動車の話になってしまうが、特殊自動車のカテゴリーの先駆車として、この記事で触れないわけにはいかない。この場で簡単に記しておく。
その経緯を例によって、(④-6)からの引用で確認する。
『この電気式サイクルカーが、大正10年(1921年)頃よりエスビー(S.B.)の略称で、日本で販売されたという記録が数多く残っている。輸入台数は300台に上ったとする記述もあるが、その数字の根拠は定かではない。』本当に300台だとしたら、当時としては大変な数字だが?なお参考までに、佐々木烈氏の「日本自動車史Ⅱ」(引用㊳、P141)では、『これから本格的に販売しようという矢先、不幸なことに関東大震災が起こって、』その被害は『事務所は幸いにも焼失を免れたが、不幸にも横浜にあった輸入電気自転車が約600台ほど焼失した』と、当時の業界紙が報じていたという記述がある。ほとんど信じがたいような数字だが、(㊳、P138)には実際に、膨大な在庫車の写真もあり、我々が常識的に想像する以上の台数が輸入されていたのかもしれない。それにしても『この損害は、概算で50万円』にものぼったそうだが、大損害だ。余計なお世話だろうが、保険はかけていたのだろうか。話を戻し、(④-6)から引用を続ける。
『エスビー車の東洋総代理店を務めたのは「日独電気自転車商会」であった。(中略) この会社が起こしたエスビー電気車販売と無免許運転許可願に対する内務省警保局よりの回答が、警視第90号(大正10年4月28日付)となったわけだ。』(④-6、P172)
さらに丸写しを続ける。『警視第90号の内容を簡単にいうと、「エスビー電気車の外観は普通自動車と似ているが、操縦はむしろ自転車よりも簡単で(左手一本のレバーハンドルで操舵した)、特別な練習も不要であり、最高速度が10km/h以下と交通上の危険も少ないようだ。したがってこの自転車は、自動自転車(オートバイ)と同様に特殊自動車として扱ってよろしい」との通達だった。』(④-6、P172)
この前例があったので、警山第104号の文中に『当省令自動車取締令の適用に付いては、本年四月二十八日警視第九十号を以て申進置候電気自転車と同様、特殊自動車として…』という一節が書き加えられる結果となったのだ。なお輸入元は自動自転車と称したが、『自転車式のペダルはなく、そのため語義からすれば電気自動車でもよかったはずだ。』(④-6、P172)ただ内務省としては自転車の表現の方が、認可する上で、都合がよかったかもしれない。
(ドイツ製の電気式サイクルカー、スラビー・ベルリンガ―の画像は以下(アウディ メディアセンター)よりコピーさせて頂いた。なぜアウディなのか、実はその後、DKW(アウディの前身)に買収されてしまうのだ。アウディとしては、古くからEVを手掛けていたというアピールになっているのだろう。(㊳、P141.④-6、P170参考)。
https://www.audi-mediacenter.com/en/photos/detail/the-slaby-beringer-electric-car-7880Slaby-Beringer electric car)
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https://audimediacenter-a.akamaihd.net/system/production/media/7880/images/59fbfe793fd8aa080b541751f56b0edb9504dd67/HI110055_full.jpg?1581998763
15.4-20国産電気自動車の先駆、「タウンスター号」
そしてさらに、このエスビー車を元にした国産の車体に、日本電池株式会社(現GSユアサ)製の国産「ジ―エス」蓄電池と、黒崎電機製作所製の電動機を組み合わせた純国産電動車、タウンスター号がその2年後の1923年に、大阪から誕生する。
以下の文章は、「大正時代の国産電気自動車」(森本雅之著)という、webで閲覧できる論文からコピーさせて頂いた。『エスビー電動車を模倣した形で国産の電動車が販売された。これはタウンスター(TS 電動車)と呼ばれ、大阪の瀬川製作所が製造した。瀬川製作所はエスビー社の輸入にも携わっていたということであるのでエスビー電動車をかなり参考にしたものとは考えられる。~うたい文句は「取り締まりや税金は自転車同様で、運転手の免状も不要」とある。』(web43、P5)写真を見比べれば、確かにその外観は酷似している。なおこのタウンスター号も、大正13年(1924年)12月24日、内務省より特殊自動車としての認可を得ている(④-13、P175参照)。以下は(④-6、P175)より引用する。
『大阪で生まれたタウンスター号は、ここに紹介した型録と写真、文書を残して歴史の闇に消えた。不成功に終わった多くのモデルの一つではあるが、草創期の国産小型自動車、とくに国産電気自動車の先駆であったことは事実である。』(下の写真も(web43)よりコピーさせて頂いた、日本電池の創業者である『島津源蔵が運転するタウンスター』
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https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcT1rM_A_hjAyZ0RUuP0nNmAW6O6R2WAr2M5Vg&usqp=CAU
国産の電気自動車が、明治・大正期から製作されていて、さらに昭和期に入ると続々と製作されていたことは、国産車の歴史の中で埋もれてしまっている。この一連の記事では戦前の電気自動車の歴史の大半を省略したが、岩立氏の労作「轍をたどる」の中で詳しく記されている(④-6、④-8等)。Webの「大正時代の国産電気自動車」(web43)という論文とともに、興味のある方はぜひご確認してください。
いつものように?寄り道をしたが、“内燃機関”のオート三輪の話に戻す。横山利蔵のコンビンリヤカーが先鞭をつけた形で、スミスモーターに代わり、よりパワフルなオートバイ用のビリヤスエンジン搭載のリヤカーが主流となっていき、さらにそれほど間を置かず、同じくイギリス製のJAPエンジン時代が次に到来する。この3馬力時代に登場し、活躍したオート三輪メーカーのいくつかを、これから紹介していきたいが、くどいようだがその前に、特殊自動車の法規についての話題を2つ、記しておきたい。
15.4-21特殊自動車の車輛規格の制定
今までみてきたように、自動車取締令の適用除外から始まった、特殊自動車の定義はスタート時点から、やや曖昧なものだった。特殊自動車として許容される、車両の仕様は何度も記すが『内務省警保局と車輛製造業者や販売業者との間で、また地方長官や警視庁も含めた三つ巴の』(④-16、P164)真摯な確認を行い、『その都度、地方庁と内務省との間で通牒を交わし、小さな改正を重ねていった。』(④-9、P171)
ただ業界関係者の間では、その時点において、容認されるスペックが、阿吽の呼吸で通じあっていたはずだが、15.4-13項で記した、星川商会のような、業界の事情が分からぬ新参者からの照会も次第に増えてきた。そのため地方局や警視庁から、『特殊自動車とはいったい何なのか、その車輛規格を明確にしてほしい、との強い要望であった。これら全国格地方庁の動きを受けて、内務省が定めた項目が、前述の特殊自動車3馬力時代の車輛規格となっていった。ここで改めてその全項目を挙げておこう。全項目といってもわずか7項目しかないのだが、これが国産小型自動車の車輛規格の出発点となった。』(④-9、P171)
その出発点の、全7項目とは以下の通りだった。
«1»エンジン3馬力以内、 «2»全長8尺(2.4m)以内、 «3»全幅3尺(0.9m)以内、 «4»高さ3尺6寸(1.08m)以内、 «5»変速機前進2段、 «6»最高速度16哩(25km/h)、 «7»40~50貫(150~187,5kg)積。引用が(④)からに偏っているので以下は(⑦)より引用
(この規格の数値は)『それまでのオートバイや三輪トラックの仕様をもとに決められたものだった。』(⑦、P167)。関係者の間で認識されていた数値を追認した形だ。外寸は大八車(8尺×2.5尺)と同じぐらいの大きさだ。
しかしその後さらに、関係者の間で調整が進み、若干の“規制緩和”が行なわれたようで、『~徐々にその輪郭が浮かび上がり、輸入のJAP(英)エンジンなどを搭載した三輪自動運搬車が急速な発展をみせた大正15年(1926年)以降には、およそ次のような認可仕様が、半ば暗黙の同意のうちに定まっていた。』(④-16、P164)
下の表は(①、P123)より転記したものだが、赤く1926年と記した項が、1926年頃から始まった「特殊自動車3馬力時代」の、その認可仕様だ。
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この部分のスペックについては、多くの著書で一致している(①、②、④、⑦等)。ただし①、②、⑦では、複雑な説明が必要となる「特殊自動車」という表現は避けて、より万人に理解しやすい「小型自動車」と記しているが、あえて表現を変えた趣旨は理解できる。ただし④では、『この3馬力時代、大正10年から昭和5年にかけては、まだ「小型自動車」の呼称は、自動車取締令の上でも、一般にも広く使用されておらず、350cc以下の三輪、四輪車は「特殊自動車」と通称されていた。』(④-15、P168)とし、より史実に忠実な表記にこだわっている。このスペックで、後に特に問題になったのが、変速機が前進2段だという点で、『のちに非力な小排気量エンジンだからこそ3段変速機が必要であるとする製造業界からの強い陳情を招くことになる。』(④-9、P171)
15.4-22特殊自動車3馬力時代のスタートがいつだったのか、正確な月日の記録が見つかっていない!!
さらに岩立氏によればなんと、『じつはこの3馬力時代の開始を示す正確な年月日については、いまだ確かな記録が見つけられない』(④-9、P167)のだという。『3馬力(約350cc)を上限とすると定めた解釈は、関東大震災ののち大正13年(1924年)から15年(1926年)にかけて、内務省警保局と各府県知事、また警視庁とのやりとりから徐々に定まっていったものであり、その経緯は少々繁雑であった。』(④-9、P167)
この「繁雑な経緯」については、この記事をここまで飽きずにお読みいただいた方々にとっては、薄々察していただけたかと思うが、それが遠因なのだろうか、特殊自動車3馬力時代のスタート時期について、各文献で年代のばらつきがある。
そもそも④のうちでも、(④-9、P166)ではその始まりを1926年としているが、(④-11、P168)では大正14年(1925年)の時点で関係者の間では、『おおむね』認識されていたと(自分の意訳も含んでいるが)している。
(①、P122)も慎重な書き方で、1926年“頃”としているが、備考欄には、1923,4年頃という説もあると、追記してある。その他では(⑨、P103)も同じく1926年だ。重要な証言として当時内務省警保局だった小野寺季六が、戦後自工会が主催した座談会で、『(大正)15年には小型車の条件を~として、無免許運転を許可することにしました。』(㊲、P47)と残されていて、やはり1926年だ。
それに対して(⑦、P167)では1924年だが(②,P178)では1925年で、さらに(⑭、P11)では1919年と受け取れる記述だ。
そしてマツダの社史(⑰、P48)では1926年だがダイハツの2つの社史(50年史:㊴、P36)、(60年史;㉙、P19)共に、内務省でなく商工省が法令を制定し、大正13年(1924年)だったと記している。㉙と㊴を元に書かれている(⑱、P11)でも同様に「商工省小型自動車規格(大正13年)」と明記されているが、そもそも商工省が誕生したのは1925年4月で、当時はまだ農商務省だったはずなのだが?
ここで当記事の認識としては、「特殊自動車3馬力時代」のスタート時期を、安全サイドに振り?一応1926年“頃”としておくが、当然異論もあるだろうし、将来どなたかの研究が進むと、訂正が必要になる可能性があることも、記しておきたい。
さらにくどいようだがもう1点だけ、今まで何度も“3馬力”時代と記してきたが、その“3馬力”の根拠について、ここで説明をしておきたい。以下も(④-9)からの引用だ。
15.4-23三馬力時代のその、“3馬力”についての説明
 まず前提として、『この時代はまだ自動車エンジンの大きさを排気量(cc)ではなく、馬力(㏋)で呼ぶのが慣例だった。現在のように何ccかではなく、何馬力かで、税率や取締種別を決めていたわけだ。』 そして『日本での馬力の決め方は、RAC(英王立自動車クラブ)馬力にならっていた。』(④-9、P172)その算定式は、次の通りだ。
RAC馬力=ボア径×ボア径×気筒数/2.5(単位はインチ)
ちなみにフランスでは、仏課税馬力 1RAC馬力=1.014仏馬力 だったという。以下のブログから引用した。https://twitter.com/chillreactor/status/1108931742931415042
出典はここだそうだ。https://en.m.wikipedia.org/wiki/Tax_horsepower#France
先に記したように日本でもRAC馬力を、『まずは東京府がこれを使って車税を課すようになり、続いて警視庁も採用した。そのためにこの算定式による馬力は別名、警視庁馬力と呼ばれた。』(④-9、P172)警視庁馬力では4ストロークと2ストロークエンジンで計算式を使い分けており、(2ストは4ストの×1.5倍の馬力数となる計算)、『警視庁はなかなか厳密であった。』(④-9、P172)
 しかしこの馬力算定方式は小排気量エンジンでは数学上、誤差が大きくなり、ショートストロークエンジンが不利だった、余談だがこの税制のため、イギリス車はロングストローク型エンジンが多かったという説もあるようだ。
 そのような点も問題視されたため、『欧州車も大正中期より、エンジンの大きさを表すのに馬力ではなく排気量ccを、また米車も排気量のci(キュービックインチ)を使用するようになってきた。』特殊自動車の“3馬力時代”はちょうどその過渡期にあたったようだ。
15.4-24三馬力とは何cc相当なのか
 さて、スミスモーター(201cc)の低出力に飽き足らない業者が、内務省警保局に働きかけて、両者の折衝の中から次のターゲットとして、“3馬力”が浮かび上がったものと思われるが、上記のように、RAC馬力の算定法では、小排気量エンジンの場合、誤差が大きかった。
そのため『内務省は当初、3馬力とは一体何ccまでのエンジンをさすものなのか、明確に出来なかった。そこで東京工業大学のブレーキテスターを使用して、当時輸入されたばかりのJAP(英)エンジンの350cc(347cc)を計測してみたところ、おおむね3馬力と出たので、これを根拠として、特殊自動車のエンジンを3馬力以内と定めた。』(④-9、P172)のだという。このあたりの事情は、内務省警保局の技手、小野寺季六の証言が残されている(㊲、P47)が、それによると『~ところがあとから考えてみると、3馬力としたけれども、馬力以外には何の規定もないのであります。イギリスから輸入したジャックド・エンジンには馬力を用いていないので困りました。そこでオートバイからヒントを得て、3馬力を出すには気筒容量何ccかを試験するために、大岡山の工業大学のブレーキ試験機で計ったところ、350ccと出たので、3馬力を350cc対象としました。』としている。
このような試行錯誤だったという記録のように、特殊自動車3馬力時代の、その“3馬力”の、実際の運用は、それほど厳密なものではなかった。
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15.4-25三馬力"半"時代と呼ぶ人もいた
 上の表は、(④-9、P172)に記述されている、特殊自動車3馬力時代の代表的なエンジンとして、掲げられていたものを、表にしたものだ。その説明を、以下(④-9、P173)より引用する。
『つまりこの時期の小排気量エンジンは、およそ排気量(cc)を100で割ったじつに何とも単純な数字が馬力数として通用していた。警視庁馬力の算定式による4衝程、2衝程の区別も、小排気量の場合は煩雑になるのであえて度外視した形だ。そのために3馬力以内という特殊自動車の規定が、いつのまにか3馬力半以内とすり替わる地方例が出た。
 結局のところ2衝程のビリヤスについても、3馬力半(342cc)までが特殊自動車として認められるようになる。嚆矢となった横山式コンビンリヤカー(247cc)は、一番槍ゆえに少々割を食ったかたちだ。この3馬力時代のことを、3馬力半時代と呼ぶ例(地方令から)があったのも、右のような理由だったのである。』
(④-9、P173)元の規定があいまいだと、(身内の)地方の裁量権を行使されて、後方から弾が飛んでくることもある。内務省からすれば、この時の苦い教訓を、次の5馬力時代の認可仕様に生かしていくことになる。
何度も記してきたが、特殊自動車の定義自体がもともと、やや曖昧なものだった。そのため認証仕様の詳細部分は、実態と照合しつつ『逐次問題提起され、修正されていった』(④-11、P168)。その過程で、製造業者側は徐々に、優遇枠の拡大という“戦果”を勝ち取っていった。
さて“前置き”が長くなったが、これから3馬力時代のビリヤスエンジン、続いてJAPエンジン搭載のオート三輪製造業者のいくつかを簡単に紹介して、特殊自動車3馬力時代の話題を(早く!?)終えたい。まずは(④-11、P169+④-15、P168)の引用で、業界の長老格の話から始める。
15.4-26関原製輪所のビリヤス系リヤカー(大阪阿波座の、老舗の車輛製造業者)
 関原製輪所(大阪市西区阿波座上通)の主である関原利兵衛は『明治期より人力車の改良に尽力した老舗の車両製造業者であった。明治の人力車から大正のフロントカー式自転車、そして3馬力半時代の三輪自動車に至るまで長く活躍した、大阪阿波座の古老だった』(④-11、P169)。人力車、運搬用三輪自転車の時代から積極的に開発・改良に取り組んできた。そして『3馬力ビリヤス時代のリヤカーの開発でも先導役となっていた~ 阪神地区の他の同業者たちが販売した三輪自転車、三輪自動車でも、車体製造の面で、関原は多くかかわっていた』(④-15、P168)という。
15.4-27モーター商会の「MSA号」(ビリヤスエンジン搭載の代表車)
『ビリヤスエンジン搭載の代表車としては、東京で二輪、三輪、四輪を広く手がけ製造した合資会社モーター商会(神田区錦町1丁目)が、最もよく知られていた。』(④-15、P170)モーター商会は丸石商会が出資し、丸石所属の元自転車競走の全日本チャンピオンだった小宮山長造が代表だった。そしてMSA号の設計者も元オートバイ競走選手の日野大三郎だったという。『戦前期に日本に輸入されたビリヤスエンジンは、およそ1500機を数えた。うち約300機は、神戸の横山商会がビリヤス号オートバイ、コンビン号三輪、四輪自動車に搭載して販売した。残りの約1200機の大半は、モーター商会などのMSA系オートバイに使用されたものだ。』(④-15、P170)こうしてみると、ビリヤスエンジンは、国内フレームを使用した半国産型のオートバイに積まれたものの方が多かったようだ。
15.4-28「カズ式リヤカー」(名古屋オート三輪界の始祖)
中京地区では、5馬力時代以降に入ると、前輪駆動のミズノや、水冷エンジンのヂャイアントなど、個性溢れる有力なオート三輪メーカーが育ち、地元の市場を中心に大きなシェアを占めた。しかし3馬力時代の1925年に、ビリヤスエンジン付きのリヤカー型の三輪車で、未開の道を切り開いたのは、カズ商店(名古屋市東区)の藤田和善が製作した、カズ式リヤカーだった。(④-15、P171)以下に、内務省に申請した際の詳細は書かれているので、興味のある方は(特に名古屋など中京地区にお住いの方は!)是非そちらを参照されたい。ここで特記しておきたいのは、愛知県が、地元の産業振興のため、横山の時と違い不備の目立ったカズ商店の内務省申請手続きの際にも非常に協力的であった点だ。(たとえば、カズ式三輪車はスミスモーター付き三輪車と比較して、リヤカーとフロントカーの違いであり、カズ式リヤカーの方が、むしろ前方が良く見えて安全だろう等、カズ式を援護する照会を内務省に送り続けた(④-15、P172))
これに対して内務省の担当者、警保局技手の小野寺も、愛知県の求めに応じて丁寧な説明と助言を行なっていく。そして幾度かのやりとりのうち、内務省はついに、カズ式リヤカーの車幅を3尺以内に納めるならば、特殊自動車として認めて良いという、条件付きの認可を行うのであった。この認可は、コンビンリヤカーより結果として早かった。以下、(④-15、P173)から引用する。
15.4-29車幅三尺(0.9m)以内の根拠
『興味深いのは、特殊自動車の車幅に関する件だった。道幅の狭い一間{いっけん}道路(幅員1,8m)で二台がすれ違うためにも、また通行人の安全を守る上からも、特殊自動車の車幅は三尺(0.9m)以内が適当なり、と提言している。この時代の都市部には、幅員わずか一間の狭隘な道が、まだまだ多くはりめぐらされていた。~ (ここに)特殊自動車の使用目的があるともしていた。つまり取締令上は安全第一とするものの、便益性の高いものは認めなければならない、というやや積極的な側面も見え始めるのである。これというのも3馬力時代のリヤカーが、急速に流行する兆しを見せていたからに他ならない。』カズ式リヤカーを巡っての愛知県の好意的な支援や、それを受けての内務省の丁寧な対応にみられるように、行政側もオート三輪界の動向に、前向きに取り組む姿勢に、徐々に変わりつつあったのだ。
((④-11、P169)では『特殊自動車の3馬力半時代が到来した最大の要因、立役者となったのが、ビリヤスエンジンの輸入』としている。日本での写真が探せなかったので、下の写真は下記のサイトより1926年製の「Allegro」というバイクに積まれた「Villiers社製の3 ½ HP 342 cc two stroke single」コピーさせて頂いた。
https://www.yesterdays.nl/product/allegro-1926-3%C2%BDhp-342cc-1-cyl-ts/ 
なおVilliers=ビリヤス=ヴィリアースと表記されることもある。2ストロークエンジンの権威でもあった富塚先生が(⑥、P43)で、この時代の“ヴィリアース”エンジンについて解説しているので参考までに。)
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https://www.yesterdays.nl/site/wp-content/uploads/2017/04/Allegro-1926-350-jt-4.jpg
15.4-30JAPエンジンが主流に
 さて今まで、特殊自動車3馬力時代の嚆矢となった、ビリヤスエンジン搭載のリヤカー型オート三輪について記してきたが、このビリヤス系の全盛時代は、どうやら短かったようだ。『昭和3年(1928年)からは、いよいよ4衝程のJAP(英)エンジンの輸入が本格的に始まり、2衝程のビリヤスのリヤカーは急速に退いていく。』(④-15、P171)
20年代後半の3馬力時代にもっとも人気があったのは、同じイギリスのエンジン専業メーカーであるJAP社製エンジンだった。二輪車の世界ではビリヤスのようにエンジン単体を開発・生産するエンジンサプライヤーがいくつか存在したが、JAPもその一例で、世界的に定評のあったメーカーだ。ちなみにJAPの当時の読み方だが、後の日本内燃機の国産JACエンジンが『「ジャック」ではなく「ゼー・エー・シー」と呼んだ』(④-9、P71)そうなので、推測だが「ゼー・エー・ピー」だったのだと思う。
輸入元は東西モーター株式会社で、社長の小野梧弌(後の日産自動車販売社長)は商売上手だった。『気が回ることにバーマン(英)のギヤボックス、クラッチや、ML(英)のマグネトーも同時に輸入していた。このJAP+バーマンのセットを使えば、難なく三輪自動車が作れたわけだから、この時期、製造業者が急増したのもうなずける。価格も低下し、市街地の商店や卸商などの小口運搬車として大いに活躍し始め、無免許で乗れる三輪自動車は、いわばヒット商品となっていった。』(④-13、P177)
15.4-31市場の拡大と、JAPエンジン車同士の販売競争も激化
 1929年の東西モータースの広告には、JAPエンジンを使っていた三輪車メーカーとして、『次の13車の商標名が並んでいる。ヤマータ、ウェルビー、レッドウィング、ニューエラ、ミカド、MSA、KRS、カズヨシ、イワサキ、東野、コンビン、クリスタルパラマウント、アラビア』(④-13、P176)。参入障壁も低かった結果、企業数も、1927年8社、28年16社、29年には35社と急増した。(①、P141他)
参入業者が激増したという事は、それだけ市場が急拡大していたという事を意味するが、その結果、同じJAP社製エンジンを使ったオート三輪同士で、市場を喰い合う厳しい状況に陥っていく。当時の状況を、以下(①、P142)より引用
『(オート三輪車のメーカーは)小規模企業による少量生産であったため、販売地域も当初は生産周辺地域に限られていた。大阪の中島三輪車部は東京での販売を早輪社という会社に委託していた。他の地域に支店・出張所を設けることになるのは1929年からであり、三輪車の先進地域である関西から関東への進出が多かった。その結果、29年には東京においてJAPエンジンを取り付けた三輪車が5社で競争する様相となり、販売競争も激しくなった。』
15.4-32ビリヤスエンジン時代のKRS号は、横山コンビンリヤカーのライセンス生産品だった?
自転車業界独特の体質が色濃く残ったこの業界は、それ以前は、特に関西と東京のように、販売地域(地盤)が違う場合には、部品を融通しあったケースもあったようだ。たとえば東京の雄、山成商会のKRS号のビリヤスエンジン時代の外観は、横山商会(神戸)の、横山式コンビンリヤカーに酷似していたという。『まったく同一のOEM製品、あるいはライセンス生産といってもよい。内務省への申請は神戸の横山利蔵のほうが一足早かったことから、おそらく山成は、神戸の横山商会からフォークなどの部品をある程度まとめて購入し、東京で組み立てて販売した』のではと、(④-15、P169)では推測している。しかしJAP時代に入り、販売が激化してくると、事情が変わっていっただろう。
JAPエンジン時代に移行すると、ヤマータやKRS、コンビンなどが主導した時代から、大阪のウェルビー、イワサキや、神戸の東野喜一率いる兵庫モータースなど、あらたな有力業者が台頭してくる。ただこの調子だと、いつまでたっても終わらなくなってしまうので!JAPエンジン搭載車をあと2台だけ紹介して、特殊自動車3馬力時代の話を終えたい。
15.4-33「ウェルビー号」時代の到来
以下は主に(②、P175)からの引用になる。強力なJAP製エンジンを搭載したオート三輪の中でも、1925年頃(②、P175では“1925年頃”としているのでそれに倣うが、各文献でばらつきがある)川内松之助率いる大阪のウェルビー商会(ちなみに当初は赤旗商会と名乗った)が作ったウェルビー(welby)号は、外観だけでなく機構的に見ても『その後のオート三輪につながる本格的なもの』(②、P175)と高く評価されている。
まだデファレンシャル装置こそなかったが、エンジン始動はキック式となり、3段変速機付きで急坂も苦にせず登坂できるようになった(②、P175)。
『~こうして、大正末期の一時期、「ウェルビー時代」が現出し、三輪トラック界はウェルビー号の独壇場ともいうべき様相をていしていた』(㉑、P48)と他ならぬ、マツダ(東洋工業時代の50年史)の社史に明記されているぐらいなのだから、3馬力時代の末期の一時期、“ウェルビー号時代”ともいうべき時期があったことは、間違いないだろう。ちなみにダイハツの社史でも『そのころよく知られたこの種の三輪車としては、ウエルビー、ヤマータ、ニューエラ、HMC、MSAなどがあった』(㉙、P19)としており、やはりウェルビーを筆頭に掲げている。両社の市場参入前夜の頃だが、仮想ターゲットでもあったのだろう。(②、P176)によれば、3速変速機に加えて、『オートバイや自動車と同じようなヘッドライトとテールライトが装備されている点でも画期的だった』としており、他車と比べて全般に、商品力が高かったようだ。
15.4-34しかし、不明な点も残る
 ただ以上の評価は、あくまで想像だが、たぶん何かの有名な文献を基に書かれていると思われ?当然ながら大筋では正しいのだと思うが、上げ足を取るようだが、細かい点では疑問も残る。以下は誰もそのようには言っていないので、まったくの私見になるが、3馬力時代のウェルビー号については、まだ不明な点も残されていると思う。
たとえば(②、P175)をはじめ多くの資料では、3速変速機の採用を高く評価しているが、資料の記述のように、JAPエンジン付きのウェルビー号の登場が1925年頃だとすると、当時特殊自動車として容認される仕様は、2速変速機までのはずで、3速はそもそも違法ではなかっただろうか?
ここで仮に川内松之助とウェルビー号が、横山利蔵の横山式コンビンリヤカー/サイクルカーの時のように、内務省と真っ向から対峙し、議論を尽くした末に、法規の方が不合理であるのだからと、2速→3速の規制緩和を認めさせたのなら、歴史上大いに評価すべきだが、特殊自動車3馬力時代の変則段数の規定はその後も変更なく2速のままで変わらなかった。次の小型自動車500cc時代に変速機の段数制限は撤廃されるが、公式には?1930年2月4日まで待たねばならなかったはずだ。
さらに法規関連でいえば、(④-15、P175)で参考にした資料(昭和10年発行「日本自動車業界誌」の調査記録)によれば、ウェルビー貨物運搬車(ウェルビー号)が特殊自動車としての認証を得たのは、昭和2年(1927年)8月3日だったという。
今まで記したように、大正14~15年(1925~1926年)の時点で、3馬力仕様の特殊自動車として内務省から認定を受けた車両/メーカーとしてアイザワ号やカズ式、横山コンビンサイクルカー/リヤカーが既にあり、それらに続いて同年の大正15年(1926年)5月20日に東京、山成商会のKRS号が認定を受けているが、これは既述のようにコンビン号リヤカーとのOEM相当だったと思われ、認証作業は容易だっただろう。
一方ウェルビー号と同じ昭和2年(1927年)には、ニューエラやイワサキ、ヤマータなども認証を得ているが、(②、P175)で提示されたようなスペックの、3馬力半(347cc)のJAPエンジン搭載の3段変速付きのウェルビー号が、公式に認証を受ける前の“1925年頃”の段階で、活発な販売活動を開始できたのだろうか?まったくの想像だが、そのスペックを満たすウェルビー号が登場したのは、もう少し後年の、たとえば、正式な認証を得た頃(1927年8月)以降だったのではないだろうか。
また車両構造上でも、「その後のオート三輪につながる本格的なもの」(②、P175)と高く評価されているが、その言い回しにも若干の疑問が残る。
(④-11、P169)で、ビリヤス時代の15.4-26項で記した、大阪、阿波座の老舗の車両製造業者、関原製輪所の主人、関原利兵衛が、1925年8月22日に「リヤカー」と称する実用新案を出願していた事を記している。(④-11、P168)には出願時の図も示されており、詳しくはぜひそちらを参照いただきたいが、以下引用する。
『図では、明らかにビリヤスエンジンとわかるエンジンの後ろに、一次チェインを介して2段変速のギヤボックスとクラッチを置き、さらに中間とファイナルのチェインによって伝動し、左後輪を駆動した。この「片輪駆動式」が、ビリヤスエンジンを搭載したリヤカー、つまり3馬力半時代の、草創期国産小型三輪自動車の典型となる。スタンダード(標準型)と呼んでよい。』
後述するダイハツ、マツダ、くろがね(日本内燃機)が登場以前である1920年代の、関西商人たちが運営する業者が競っていた、3馬力時代のオート三輪車の時代は、そのルーツからかどうしても、人力車や自転車やリヤカーの世界と、被って見えてしまう。
この1925年前後に、関原をはじめ、何人かの業界の先駆者たち(その産業構造からすれば、黒子役だった車両/部品製造業者も重要な役割を果たしたはずだ)が、横の連携もとりつつ、特定の誰か(企業)というよりも、いわば共同作業のような形でリヤカー型オート三輪の原型を築き上げていったのではなかろうか。そしてその中の一部として、川内松之助とウェルビー号も確かに含まれていたように思えるのだが、いかがだろうか。(何度も記すがまったくの想像です。)
次に特殊自動車3馬力時代の最後の話題として、機構上(スペック上)からみると、オート三輪の歴史の中で、先駆者だったと思うこの車両を、ぜひ書き残しておきたい。
15.4-35シャフトドライブ+リアデフ駆動型オート三輪の先駆、横山商会の「ミカド」
 先述のように3馬力時代も終わりの頃になると、参入企業も一気に増えて、過当競争時代に突入していった。以下は(web❷、P39)より引用する。『オート三輪車の機能の進歩は企業間競争によってもたらされた。すなわち、ある企業のオート三輪車の機能向上は、すぐに他企業に移転され、企業間の開発競争がオート三輪車の品質向上に結びついていった。ウェルビー号に影響されて、神戸の兵庫モーターもJAPエンジンを搭載した本格的オート三輪車HMCを製作している。』
JAPエンジン同士の熾烈な争いの中で、この時期特に注目を集めたのは、15.5-10項で記す広島のSSDや、JACニューエラのような、自社製エンジンを搭載した純国産オート三輪車の登場だった(④-13、P177)。ダイハツやマツダが参入直前の時代だ。
しかしエンジンの内製化はハードルが高すぎて不可能だった、既存のオート三輪メーカーにとって、他車との明確な、機能の差別化を図るための次のターゲットは、駆動系の改革であった。
この時代のオート三輪は、デフ非装着の片輪駆動だったため、右・左折時にブレーキ現象が起きて運転し難く、また後輪駆動用のむき出しの長いチェーンは泥や雨に晒されて耐久性がなく、常にメンテナンスが必要だったという。自転車やオートバイが源流だったため仕方なかったのだが、それをシャフトドライブ+リアデフ駆動方式で、ふつうの四輪車並みに進化させようとしたのだ。
(④-13)の記事の中で、『急成長し始めた国産三輪自動車業界の全貌を、初めて総括的に調査した』という、雑誌モーター(極東書院)、1930年3月号の記事を取り上げている。5馬力時代が、同年の2月からだったので、まさに業界全体が高揚していた時期だっただろう。
その雑誌モーターの記事では、当時最新のオート三輪全17車のスペック表が、写真&解説文と共に掲げてある。3馬力時代の最末期であり、『横山商会のアイデアル号は、昭和5年2月4日の5馬力時代への規格拡大を逸早く見越した、490ccJAPエンジンを搭載していた。』ことも興味深いが、(④-13、P177)以下も引用
『後車軸にデファレンシャルを備えたものが多くはなく、製造者がこぞってデフを開発中の時期だった』、そんな中で、モーター商会の「MSA号」の最新型は早くもリアデフを装着している。シャフトドライブではなくチェーン駆動で、後のマツダのオート三輪第1号、DA型と同じようなメカ構成だ。ただしマツダのように、チェーンを全てケースで覆う工夫はなかったと思われるが。
 これに対して横山商会はさらにその上を行った。名前からしても、高級型と思われる「ミカド(号)」という車種で、シャフトドライブ+リアデフ駆動を一気に実現していたのだ!(ちなみに「リヤーカー差動装置」という実用新案出願図も④-13で示されている)
その機構の詳細は不明なのでまったくの推測だが、後に登場するダイハツのDA型と同様に、エンジンから変速機までの一次伝達は従来通りチェーン駆動で、変速機からホイールまでの二次伝達をシャフトドライブに変えて、さらにリアデフ機構を組み合わせたものと思われる。以下(②)から引用する。
『一次伝達の場合はエンジン回転が減速されるからトルクのかかり方は小さいが、二次伝達の方は大きなトルクがかかる。まして、オートバイと違って何百キロもある荷物を積んで走るから、オートバイ用のチェーンではすぐに緩んだり、切れてしまうという問題を抱えていた。一次伝達用のチェーンの3分の1ほどの耐久性しかなかったという。~ チェーンが伸びた場合は、変速機とホイールの位置を変更したり、チェーンの交換作業をしなくてはならない煩わしさがあった。
 このため、差動装置をつけてドライブシャフトで後ろの2輪を駆動するものが登場すると、チェーンのメンテナンスから解放されることになった。~それに、コーナーでの曲がりにくさも解消されたのだ』
(②、P180)。この説明の記述は、実は次の500cc時代に早くからこの機構を採用し、戦前のオート三輪車の代表車種として現在でも高く評価されているダイハツHD型に対してのものだったが!この記事ではオート三輪の基礎を固めた特殊自動車3馬力時代の、その最大の開拓者、横山利蔵率いる横山商会渾身の一作、「ミカド」に対して、この文言をささげたい。
この「ミカド」が果たしてどの程度の完成度を以てリリースされていたのか、それはわからない。あるいは後のダイハツのHD型とは比較にはならない出来栄えだったのかもしれない。しかしこの「ミカド」は確かに、小型オート三輪史上で初めて、シャフトドライブ+リアデフ駆動を(少なくともスペック上は)実現してみせたのだ。
オート三輪の黎明期であった、特殊自動車3馬力時代において、たぶん生産台数が多かっただろう「ウェルビー号」をもって、その時代を代表させている歴史書が多いようだ。しかし岩立氏の「轍をたどる」(④)で記されているように、というか、ただ自分はその影響を強く受けただけですが!戦後史に与えた影響まで含めた、日本の自動車史全体を俯瞰した場合、横山商会の「コンビンリヤカー」、「コンビンサイクルカー」及びこの「ミカド」が、先駆者として果たした役割を、その誕生の背景も含めて、日本車史の中でもっとクローズアップすべきではないかと思う。(私見です。)

さてようやく、「特殊自動車3馬力時代」がこれで終わり、次に「小型自動車500cc時代」が始まる。そしてこの時代からは、ダイハツ、マツダ、くろがね(日本内燃機)の大手3社について記し、他のメーカーについてはほぼ、割愛したい。
特殊自動車規格の小型オート三輪の市場が、1920年代後半から急拡大したことはすでに記した。1930年頃にオート三輪が何台ぐらい保有されていたのか、当時の正確な台数は、不明のようだが、おおよその台数として、『実際、三輪車業者の間では、1930年頃の三輪車保有台数が、京阪神に4,000台、京浜に3,000台、その他1,000台の合計8,000台に達しているとみなされていた。この数字はやや誇張されている可能性があるとはいえ、すでに小型車の中で三輪車が中心的な地位を占めるようになったことを示している。』(①、P126)
さらに下のグラフをご覧いただきたい。「轍をたどるNo59「五馬力時代から750cc時代へ」(引用④-14)のP170に記載された数値+1933年以降は(①、P171)の数値を追加してグラフ化したものだ。ただこの数字には補足説明が必要なのだが(ある時期までは、二輪車やサイドカーの統計の数字にも、三輪車の数字が入っていたようだ?①、P127参照)、市場が急拡大していった様子だけはだいたいわかる。さらにダイハツやマツダが参入したのは1931~2年だったので、絶妙なタイミングだったこともわかる。
そして『三輪トラックが新しい時代を迎えるには、町工場規模でなく量産設備を整えて本格的に生産するメーカーの出現が必要だった』(②、P170)のも確かだ。文字通りゼロからのスタートで、今まで営々と市場を築き上げてきた、関西を中心とした中小のオート三輪業者からすれば、無念な話になるが、それも冷徹な事実なのだ。
そこで次の、小型自動車500cc時代を、戦前のオート三輪大手3社を中心に記していくが、その話をする前に、自転車系でなく、オートバイ(二輪自動自転車)系から派生した、オート三輪車についても触れておく。そのついでに?戦前の国内オートバイ産業についても、ごく簡単に紹介しておきたい。
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15.4-36JAPエンジンを巡っての余談を2つ(モーガン スリーホイーラーと公営ギャンブル)
(この記事を書いているへそ曲がりのおっさんカーマニアでなく、イマドキのおしゃれなカーマニアからすれば、三輪車と聞いて思い描くクルマは、地味な日本のオート三輪ではなく、たぶんモーガンあたりではないだろうか。そもそも「サンリンシャ」ではなく「スリーホイーラー」と呼ぶようだが、以下の写真と文章は、OCTANEのwebの記事「モーガン スリーホイラー マニアを熱狂させる現代版"車のシーラカンス"」(web44)よりコピーさせて頂いた。この記事によると、歴代の幾多のモーガンスリーホイーラーの中でも、JAPエンジン付きのものが最も人気が高い(=価値(金額)が高い)そうだ。
『~1931年スリーホイラー・スーパースポーツ・エアロと合流した。数あるスリーホイラーのラインナップの中で最も人気があるモデルで、1928年に発売した時には「正直にこう断言で36ます。世界最速のスリーホイラーであるだけでなく、値段が3倍のどんな車よりもパフォーマンスで上回っています」とパンフレットで謳っていた。~
エアロの力強さと美しさの象徴が、空冷のJAP製Vツインエンジンだ。"JAP"ことJ.A.プレストウィッチ・マニュファクチャリング・カンパニーは、1894年に弱冠20歳のジョン・アルフレッド・プレストウィッチがロンドンに創業した会社で、彼らが製作したエンジンは20世紀初頭の二輪車産業で大きな成功を収めた。モーガンもスリーホイラーの生産にあたっては、サイドバルブ式のJAP Vツインをパワーソースとして選択している。』

以下はweb“乗り物ライター矢吹明紀の好きなモノ”さんより引用(web45)
『J.A.P、それは別に日本人に対する蔑称では無い。ジョン・アルフレッド・プレストウィッチというとあるイギリス人エンジニアのイニシャルである。~
J.A.Pエンジンの顧客には初期のトライアンフ、同じくHRD、ブラフシューペリア、エキセルシャー、OECなどを数えることができた。いずれもフラッグシップやレーサーでの採用であり、後にモーターサイクルの名門とされるこれらのメーカーにおける重要な技術的バックボーンとなったのがJ.A.Pに他ならなかったのである。~
実はクラシカルなスポーツカーとして長い伝統を誇るモーガンもまたその初期においてJ.A.Pエンジンと共にその名声を得ていたという背景があった。~
モーガン3ウィラーは後に主としてコスト上の問題からそのエンジンをブラックバーンやアンザニ、そしてマチレス製へとスイッチすることとなったのだが、現時点において最も評価が高いのは言うまでもなくJ.A.P製を搭載した個体に他ならない。』

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(さらに同記事によれば、日本の公営ギャンブルのオートレースも、JAPエンジン製のレーサーから始まったのだという。『この名声は第二次世界大戦後の日本にも波及することとなり、公営ギャンブルとして開催されることとなったオートレースにおける最初の標準車はイギリスから輸入したJ.A.Pエンジン搭載のエキセルシャーだった。このレーサーをベースに極東やトーヨー、そしてメグロといった名作エンジンが誕生した他、シャシー自体は現在のものもエキセルシャーの時代からほとんど変わっていない。』後に記すように、ダイハツもマツダもくろがねも、オート三輪用エンジンは、このJAPエンジンをベースにしたエンジンからスタートした。一番の難関であった、エンジンの内製は、参考にした“先生”がよかったから、よいスタートが切れた面もあったと思う。それにしてもJAPエンジンは母国でも日本でも、三輪と縁があったようだ。なおJAP社はその後、ビリヤス(ヴィリアース)の吸収されたようだ。下はブログ“珈琲焙煎所 氷川下十番地 主の独り言”よりコピーさせて頂いた、JAPエンジンを載せたダートトラックバイク、エキセルシャー(と思われる)写真です。)
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https://livedoor.blogimg.jp/garage_teru/imgs/7/9/79a7ac56-s.jpg

15.5戦前日本のオートバイについて
今までこの記事では、オート三輪のルーツをたどっていくと、フロントカー型の三輪自転車にたどりつくと記してきた。従って業界としてみた場合、自転車製造業界(さらに遡れば人力車製造業界も)が、その生みの親ということになる。
一方、戦前の日本で走っていた自動自転車(オートバイ)のほとんどは、輸入品だった。アメリカの二大ブランドであったハーレー・ダビッドソン(以下ハーレーと略)とインディアンが双璧で、しかも1,000cc級という大型がざらだったという(⑥、P42)。
それら大型オートバイの後方に、着脱式のリヤカーを取り付けた、「リヤカー式大型自動自転車(オートバイ)」が大正中期の一時期に流行し、国産の小型オート三輪にも、一定の影響を与えた。
この項ではインディアンの輸入業者であった、二葉商会が輸入した「シグネットリヤーカー」と、それが与えた影響と、15.6項で記すニューエラ(くろがね)より前に、国産エンジンをひっさげて登場し、陸軍や商工省からもその性能を評価されたという、広島の宍戸製作所製SSD号の、そのオート三輪型について簡単に紹介する。
さらについでなので!それ以外の戦前の国産オートバイについても超簡単に紹介しておく。
15.5-1リヤカー式大型自動自転車、「シグネットリヤーカー」の登場((溜池の主、二葉屋が輸入)
当時インディアンの輸入業者として勢いがあった二葉屋が『まず大正5年(1916年)に、~米国製完成車「ミネアポリス号」フロントカー貨物(三輪)の輸入販売を行う。ミネアポリス号はのちに国産三輪貨物にヒントを与える重要なモデルとなる。』(④-7、P178)その写真は、(④-7、P179)を参照して下さい。典型的なフロントカー型オート三輪の姿で、欧米には既にあったスタイルだが、リヤカー式のシグネットより前に、黎明期の国産フロントカー式小型オート三輪に対して、若干の影響を与えたことになる。引用を続ける。
二葉屋は『続いて同じく米国製のシグネットリヤカー~の一手販売を手掛けた。シグネットはインディアン以外の米車、ハーレーなどにも取り付けられる、着脱自在のリヤカーであった。~前一輪、後三輪の変則的な四輪車となる。』これも写真は(④-7、P179)を参照してください。オートバイ(2輪)+リヤカー(2輪)で合計4輪だった。
大型オートバイと接続するので、法規上は特殊自動車の流れとは無縁の世界だったが、『狭隘な日本の道路向きであり、人力車やリンタクの意匠に近く、馴染みやすかった。エンジンがパワフルなため積載量が多く、簡単な四輪トラックの代用にも使うことができた。二葉屋は雑誌「モーター」の大正6年(1917年)12月号に販売予告を出した後、大正8年1月号から大正10年5月号まで、じつに長期にわたりシグネットの広告を出し続けた。予想以上の人気を博したからであり、逓信省など官公庁にも大量に納入されている。』(④-7、P179)
再三引用してきたが、フォードの『T型でも2896ccあり、日本の狭い道路では立ち往生する場面が度々起きた。~輸入貨物車と日本の市街地や住宅地の道幅との不釣り合い』があり(④-6、P172)、小回りが効き、特殊自動車よりも積載量がある貨物車の潜在的な需要があったのだ。ちなみにシグネットはハーレーにも取り付け可能だった。
この盛況ぶりに、シグネットに似ているが、三輪に改造されている「ホワイトスター号」(同じく写真は④-7、P179を参照してください)が同じ大正8年(1919年)に早くも販売される等、多くの追従者が生まれる。
中でも二葉屋の強力なライバルで、ハーレーの輸入元であった日本自動車は当然、黙ってはいられなかった。さっそくシグネットによく似た、「ニッポンリヤカー」を自社開発し、大正10年(1921年)から市場に投入する。以下、(④-11、P163)から引用する。
15.5-2日本自動車も自製の「ニッポンリヤカー号」で対抗
『ニッポンリヤカーは、~本車となるオートバイのリヤフレーム部のみの、合計4カ所の連結で済ませており、小回りの際に邪魔となるサイドフレームを廃し、脱着を容易としたもので、これは同社自動自転車部の桜井盛親(もりちか)が設計した。~桜井のキャリアは日本自動車に入社し、日本リヤカーを製作することから始まったものだ。』桜井はその後、ハーレーの代理店が三共系へ移行するとそれと同道し、後述するが後に陸王九七式側車を生むことになる。ローコストで実用性の高い商品設計が得意だったようだ。ちなみに二葉側の訴えで両社(両車)は訴訟問題に発展するが、日本自動車側がこれを退けている。
しかしニッポンリヤカーの写真は(④-11、P163)にあるが、『これらを見ても、二葉屋のシグネットリヤーカーが与えた影響がいかに大きかったか分かるだろう。』(④-7、P179)
このオートバイ後方改造型四輪車は、やがてホワイトスター号のような三輪型へと移行していき、『オートバイのフレームが、サスペンション付きのシャシ-(車台)へと発展していく』(④-11、P167)。
しかし『大型リヤカーはその流行が静まり、消滅していくのも早かった。高価だったこと、この時点の自動車取締令(明治40年以降、大正8年前)では普通自動車の運転免許が必要となったからである。』(④-7、P179)
リヤカー式三輪型となってからも、少量ながら生産が続いていくが、特殊自動車系の軽量車と違い重量級だったため、チェーンによる片輪駆動では脆弱で、『駆動系も強化され、Wチェーンとなり、デファレンシャルギヤが装備され、やがてシャフト駆動へと進んでいく。~のちの国産オート三輪の骨格の一部が築かれていたのである。
冒頭に述べたように、国産三輪自動車のルーツの主流はリヤカー式自転車にあったわけだが、これら大型のリヤカー式自動自転車群が残した影響も決して少なくなかった。リヤカー式自動自転車の血脈を正系とすれば、第二の潮流だった大型リヤカー群は傍流であった。』
(④-11、P167)さらに言えば、やはりハーレーがベースだったゴルハム号三輪車にも若干の影響は与えたのだろう。
ここまでで大型リヤカーについての話題を終える。次に戦前の日本市場におけるオートバイの2強であったハーレーとインディアンの、通常のオートバイ(自動自転車)分野の話題を簡単に記した後、国産のオートバイについて、オート三輪を手掛けたSSD号については多少詳しく、それ以外の国産オートバイについては超簡単に記す。
15.5-3ハーレー(後に陸王)とインディアンが強かった
最初にハーレーとインディアンの、当時の輸入業者について触れておく。
まずインディアンの輸入を手掛けていたのが二葉屋で、(㊱-1、P76)の記述によれば、『明治より赤坂区溜池5番地にて「溜池の主』と呼ばれた大輸入商で』『のちに赤坂溜池界隈に自動車業者の多くが集結する端緒も、じつはこの二葉屋が開いたものだ。』(④-7、P178)ちなみに日本自動車も溜池だった。当時二葉屋は大いに繁盛していたようだ。もともと日本市場ではインディアンの方が優勢で、昭和に入るとその勢いは急速に衰えるが、当時はハーレー&日本自動車陣営にとって、相当手強い相手だったようだ。
一方、先の11.2項で記したようにハーレーは当初、四輪車のディーラーの最大手だった日本自動車が扱っていたが、その後三共(薬の)が代理店の権利を奪い、やがて陸軍の勧めもあり、国内生産に乗り出し、1936年からは「陸王」と名乗ったのは前回の記事で記した通りだ。おさらいになるが、日本自動車から三共に代理店が移った経緯が(web❹-1)のM-BASEに詳しかったので、以下転記させていただく。
『ハーレーは1912年から大倉財閥系の日本自動車で国内販売され、ゴルハムなどのクシカーに転用された。しかし補修部品の注文がないことや三共系の興東貿易によって並行輸入されていたことにいぶかしがった米本社が調査、東洋代理人のアルフレッド・チャイルドが1924年に来日、三共と組んで「日本ハーレー販売所」を設立した。』
なんとなく、日本自動車が不熱心だった印象を受けるが、しかし日本自動車も営業努力を重ねていた。特に、アメリカ製大型オートバイの支援者で、かつ安定した需要が見込めた陸軍への売り込みでは、両社は激しい火花を散らした。『そのころハーレーはインディアンとの市場争いを展開しつつあり、日本陸軍にも両社の激しい売り込みがあったといわれている。』(⑫、P232)
そして日本市場におけるハーレーの販売台数は、日本自動車が扱った時代にすでに、インディアンを超えつつあったようだ。以下(④-11、P164)より引用
『日本におけるハーレー車の販売、ことに官公庁、陸海軍への納入実績については、三共よりも以前に、日本自動車株式会社の自動自転車部が築いていたものだ。』その牙城は徐々に崩されつつあった。
『大正末期のハーレー車の需要は概ね次のような数字だった。毎年の交代代品として陸軍へ100台、海軍90台、逓信省が全国で200台、そして東京市が40台、と年一千台を目指す趨勢であった。かつて年一千台に届いたといわれた二葉屋のインディアンを駆逐する勢力だったのである。』(④-11、P167)さすがに大倉財閥で、官に対して力があったのだろう。
 しかしその一方で、日本自動車内では、四輪に比べてオートバイ(自動自転車)販売にあたっては逡巡する気持ちもあったようだ。『ハーレーの車名がようやく知れ渡り、軍や官公庁への納入が拡がった矢先にもかかわらず、多くの種類の四輪自動車を主力とする日本自動車としては、これ以上の自動自転車部の拡大は望まなかった。』(④-11、P167)日本自動車側にも、その対応に隙があったようだ。だが世界市場で競い合うハーレー側としても日本市場で、インディアンに負けるわけにはいかなかったのだ。以下は(㉒、P32)より引用
『日本ハーレー販売所設立を契機に、日本陸軍はハーレーの国産化を打診、幸いにもハーレーは1936年モデルからエンジンやフレームを一新、有名なナックルヘッドOHVモデルを計画していたため、34年型の設備がそのまま…さっそくミルウォーキーから1200ccV系の設備が船積みされ、1936年には完全なる生産体制が整う。~1200ccは1934年V型、750cc系は35年のR型を国産化、ソロを主体とし、また三輪トラックも手がけられる。』
15.5-4陸王九七式側車=世界初の二輪駆動側車
(陸王の情報をwebで検索していくと、ミリタリーマニアの方々の奥深い情報に行き着く。下の写真はそのマニアたちが誇る、陸軍の「九七式側車付自動二輪車」の雄姿だが、ブログの記事「燃焼室形状とバルブレイアウトの話」よりコピーさせて頂いた。
http://www.italian.sakura.ne.jp/sons_of_biscuits/?p=1835
陸王が作ったこのサイドカーがいかなるものだったのか、以下wikiより『機能面での最大の特徴は、不整地走行性能を向上させるために、本車(オートバイ本体)だけでなく側車の車輪も駆動する二輪駆動式サイドカーとした点である。側車の車輪を駆動させる際には、操縦席左後方のクラッチレバーを左手操作した。側車側の後方フレームに沿って側車輪駆動用の横方向シャフトが装備され、この時代の軽便車両に見られたキャンバス製ジョイントを介して側車輪を駆動した。側車を外した単車でも使用でき、状況に応じて柔軟な運用がされていた』
なんと側車側も駆動が可能だったのだ。しかもこの装置の追加で、わずか6kgほど重くなったに過ぎなかったという(⑫、P240)。実に効率的だ。そして肝心の性能だが『不整地の通過テストでは、凹凸のはげしいところなどで普通の側車では通過が困難と思えるような地帯でも、かなりな速度で走行することが可能であった』(⑫、P240)のだという。
開発を手掛けたのは先にふれたように『日本自動車に所属してハーレー派生型のオート三輪製作にも携わり、ハーレーの輸入代理店が三共に移った際に三共内燃機に移籍した技術者、桜井盛親である。』(wiki)費用対効果の高い機構だったように思える。
そして、戦争映画で有名な、ドイツ軍の誇る二輪駆動機構付き側車、BMW R75 やその兄弟車のツュンダップKS750よりも少し早い採用だったので、世界初の二輪駆動側車という栄誉に即する。ただ個人的な印象では、例によって機構的に凝りに凝ったドイツ製(シャフトドライブ・差動装置付で場合によってはデフ・ロックも可能、4速T/Mは補助変速機付きで高速・低速の切替えの他、2段のリバースギアも装備していたという)に、性能的には到底かなわなかったと思えるのだが。(㊱-2、P48)でも『~残念ながらその技術の格差は著しい。つまりは日本軍の97式の側輪駆動は、急傾斜や泥濘地などでのエマージェンシー的な用途だったと考えた方が無難なのである。』と指摘している。
さらに(㊱-2)では『当時の満州ではただでさえチェインが切れて(伸びてではなく)困ると叫ばれた中』、陸王の競合先の日本内燃機では、シャフトドライブ車(1931年の91式)も納入していたという。しかし『当時の陸軍は大正期より軍用に使用されていた米車インディアンやハーレーに固執し、Vツイン、チェインドライブとするよう強く指導したため、日本内燃機も93式以降はそれに従った』(㊱-2、P50)のだそうだ。いろいろと“ケチ”もつけてしまったが、しかし“世界初!”に違いはない。)
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http://www.italian.sakura.ne.jp/bad_toys/engine/boxer/m72_002.jpg
(下の写真はBMWでなくツュンダップ(昔はツェンダップと表記していたと思っていたが記憶違いか?)KS750の雄姿で、ブログ“タイムトンネル”の記事「ショールームの一角が、WWⅡの戦線エリアと化した!!”」(web29)よりコピーさせて頂いた。元ネタはバイク雑誌の『ミスターバイクBG/2016/8月号に掲載された記事を、HP用にレイアウト変更/構成しています。』というもので、“ツュンダップ軍用サイドカーが、東部戦線ならぬ、環状8号線を疾駆する!!”図だ。
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http://timt.co.jp/time03/images/zundapp_01.jpg
以下もマニアックな同記事より引用させていただく。『ドイツ国防軍からのオーダーにより大戦中にツュンダップが作った軍用サイドカー、KS750。1943年にニュルンベルグの工場で作られたことを示すプレート付き。写真やプラモデルの箱絵でしか見たことがなかったものに、乗れたのである。
実物はものすごかった。何がすごいかっていうと、フルレストアされてサビのない美しい仕上げと、船に装着されていた本物のMG34機関銃(公安委員会の所得許可を得た無可動実銃)もすごいけれど、それより何より、作りがすごいんだ、これが。鋳物や溶接、各素材の仕上げの美しさ。ちょっとやそっとじゃ壊れにくそうに思える質実剛健な作り。機能性を考え抜いたような合理的なレイアウト。戦後ホンダが手本にしたフレーム。この時代のドイツ工業製品の実力に圧倒されて大興奮。(中略)
そして実際に乗ってみても『~あれ?拍子抜けするくらいクセのようなものがない…。クルマと一緒でハンドルを切ってコーナーリングフォースを高めて曲がる。速度を上げても不安になるような挙動は発生せず、なかなか安定している。凸凹を踏むと小さく左右に揺すられるけれど、なんとかなる。乗っても素晴らしいぞ。
シャフトで駆動するリアホイールアクスルにはデフが装着されていて、ドライブシャフトが垂直方向にも伸び、なんと船側のタイヤも駆動している。普通のサイドカーとは全く異なる2輪駆動の恩恵に感謝あるのみだ。楽しく、めったにできない体験をした。』
やはり機械的には優れモノだったようだ。)
15.5-5BMW R75も中途半端だった?(余談)
(さらにさらに脱線する。先に、陸王やくろがねについて調べていくと、コアなマニアが多いミリタリー車の世界にたどりつくと記したが、その世界はあまりにも奥が深く、我々ド素人が軽々に口出しできない世界だ。素晴らしい軍用側車付バイクに思えるBMW R75(とツュンダップKS750)だが、(web23)の見立てによれば、中途半端な性格のものだったという。以下引用させていただく。
『~R75 や KS750 は側車付自動二輪車の格好をしているにも拘らず、二輪駆動走行時における両車の本質は左右非対称なオート三輪に過ぎなかったから、これで小回りを除く運動性が非常に高かったというような理屈には到底なり得ない。その上、両車は共に自重 400kgという巨体であり、なおかつ統制型側車は機械化部隊(モーターサイクル狙撃部隊)即製のため機関銃の艤装に配慮した設計となっていた。フル装備状態で 2 ないし 3 名が乗車すれば駆動輪の輪重は小型四輪車のそれをも凌ぐレベルとなった。しかも、前輪は一つしかなく、そこに駆動力は伝達されていない。ハンドルは減速機構など無しのバーハンドルである。従って、硬い路面上ならまだしも、泥濘地走破、とりわけ旋回性能に関して両車の実力はそれ程ではなかったとしか考えられない。果せるかな、ドイツ陸軍では後年、この中途半端さを脱却し、重任務には四輪車を、軽快任務には軽量かつ廉価な単気筒バイクを充当する方針への転換を余儀無くされている。厳しい評価だ。前者の任に当ったのがかのKübelwagenである。キューベル・ワーゲンはKdF-Wagen、即ち後年のVWビートル開発の軍需転用車である。』(web23、P108)……。
ついでに前回のこのブログの記事でヨイショしたジープについても、(web23)によれば、『~しかし、Jeep を以って「アメリカを勝利に導いた車」と見做すことが“贔屓の引き倒し”であることはJeepなどより格段に車容の大きなGMC 21/2tトラックの方が先に見た通り遥かに大きな生産規模に達していたという現実だけからしても明らかである。Jeep はアメリカ陸軍の「巨大な機動力の末端の一部を担ったに過ぎない」(石川雄一氏=「4×4 マガジン」の創刊に係わり、同誌や「クロスカントリービークル」誌の編集責任者を長年務めたジャーナリスト)』(web23、P111)。こちらもかなり手厳しい。下の写真はそのGMC CCKW 353(2.5トントラック)で以下の文とともに、wikiよりコピーした。『GMCでは、第二次世界大戦の直前から大戦末にかけ、水陸両用型のDUKWを含むGMC CCKWシリーズ2.5トントラックを計562,750両生産した。第二次世界大戦時にアメリカで生産された軍用車両の生産数としては、ジープとして知られるウィリスMBの約36万台、フォードGPWの約27万台を合わせた数に次ぐ、膨大な生産数となった。』同車が日本で相当するものは、トヨタやニッサンの軍用トラックというよりも、より本格的な九四式六輪自動貨車ではないかと思うが、その生産台数については、ここでは触れないでおく。)
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15.5-6陸王の、さらに奥深い世界(余談)
(以下はさらにさらに余談だが、ハーレーの話題に戻して、ブログ「バイク豆知識」の記事「国産ハーレー『陸王』とは」https://bike-lineage.org/etc/bike-trivia/rikuo.html から、その、奥深い世界について、引用させていただく
『恐らく陸王を実際に見たことがある人はほぼ居ないと思います。これは部品が既に無いことから置物化しているという事が第一にありますがそれ以外にも幾つか理由があります。』そしてその理由の一つに『陸王は歴史からも分かる通り大日本帝国陸軍のバイクというイメージが強いため極一部の少し怖い人達に絶大な人気があり、元々の所有者が亡くなると同時に何処からか嗅ぎつけて因縁を付けられ半ば強引に持っていかれて闇に消えるという事が結構あったんだとか。』だそうです。『レア車あるあるですね。』確かに…。また別の情報によれば、陸王のサイドカーは戦後、警察車両として乗りつぶされてしまったという。なお(⑥、P62)によれば、そもそも三共の中でオートバイ事業の位置づけは、三共の創立者、塩原又策氏の女婿で、三共内燃機の専務だった永井信二郎氏を盛り立てるためのものだという側面もあったようだ。そして“陸王”という名前の由来だが、公募であったが、慶応ボーイのスポーツマンだった永井氏にちなみ、有名な応援歌の文句から選んだようだ。(⑥及びwiki)以下の画像も「バイク豆知識」の「国産ハーレー『陸王』」よりコピーさせていただいた。
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https://bike-lineage.org/etc/bike-trivia/img/new_name_rikuo.jpg
15.5-7大型をゆっくり回し、悠揚たる爆音で走るのが当時の伊達者
(下はそのハーレー/陸王のライバルであった、インディアンの1949年製スカウトの画像で、以下のブログよりコピーさせて頂いた。時代を感じさせないカッコよさだ。⑥で富塚氏の戦前のオートバイについての述懐を『当時を振り返ってみると、小型、高速、大出力という要求はほとんどなく、大型をゆっくり回し、悠揚たる爆音で走ることが、軍はもとより伊達者もねらうところだったのである。』(⑥、P56)https://www.motoinfo.it/schede-tecniche-moto/schede.php?recordid=359
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https://www.motoinfo.it/images/schede-tecniche/2007/INDIAN-SCOUT-1949-l.jpg
戦後も力士時代の力道山は真っ赤なインディアンを愛用し、本場所会場まで乗り付け、話題をまいたそうだ。)

戦前の国産オートバイについて
 ここからハーレーダビッドソンを国産化した陸王以外の、戦前の国産オートバイについても、ごく簡単にふれておく。その中で、宍戸製作所のSSD号だけは、オート三輪を多く生産した実績があるので、やや詳しく記す。主に参考にしたのは(⑥、P54~)とSSD号に関してはついては(④-18)です。
過去に何度も記したことと関連するが、1931年の満州事変以降、軍部の大陸進出が始まり、『自然、重要機材国産化のかけ声が日本でも高まってきた。オートバイは軍用としても重要であるので、そのかけ声にのって、試作に乗り出すものが現れた。』(⑥、P54)その他、国際収支の悪化による国産品愛用運動、金輸出禁止による円安と小型自動車部品の輸入関税の引き上げ等もその背景にあるのは、四輪車と同じ事情だ。以下、陸王以外の主な国産オートバイについて、定番本の⑥を参考に簡単に記す。
15.5-8日本モータースの「エーロ・ファースト号」(4サイクル単気筒、633ccc)
島津楢蔵は『大阪随一の貴金属製作所「丹金」の長男として恵まれた環境に育ち、好きなガソリンエンジンの研究に半生を捧げた在野の研究家』(④-9、P167)であった。日本最初の純国産オートバイを作ったことでも知られる((詳しくは⑥、P50、日本自動車殿堂等参照して下さい)。
さらにオート三輪の分野でも、(推定らしいが)大正10年(1921年)、エンジンまで自製した大阪発の純国産フロントカー型三輪車、「パイオニーア号」(石原モーター工業所製)の設計製作にも関わったという。『このパイオニーア号の構造は、島津楢蔵が大正2年(1913年)5月に完成させ、製作販売に辿り着いた純国産オートバイ「NMC号」を発展させたものだ。島津は国産オートバイ界の苦難の開拓者であり、この後も純国産のオートバイ、エーロファースト号(大正15年)の開発に傾注していく』(④-8、P1750)。同記事によればパイロット万年筆製造所や、鰻問屋の出雲屋(上方落語に出る)等へ納入したという文献があるようなので、ある程度製造販売されたことは確かだろう。
 一方次に係わった二輪の、エーロファースト号の方だが、建設業の大林組の資本を得て日本モータースを立ち上げて、1927年から3年間で約500台(日本殿堂によれば)生産するが、29年に解散した。その名前の由来だが「航空エンジン競作での1等賞の記念」だったというが、富塚清氏によれば、当時としても「エロ」と解され、冷やかされたりしたという(⑥、P54))。
(やはり国産オートバイ、第1号は紹介すべきだと思うので、「島津モーターNS 号(1909 年)」の写真と文を、“webオートバイ”(web24-1)から引用させて頂いく。『NS号のほとんどの部品は日本製の材料を使って、島津楢蔵によって製作された。これ以前の国産車は輸入部品を組み立てたものばかりで、純粋な国産車第1号はNS号ということになる。エンジンは4スト単気筒400cc。』後述するが島津はその後、マツダと縁が出来て、関係を結ぶことになる。)
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https://www.autoby.jp/_ct/17303386
15.5-9宮田製作所の「アサヒ号AA型」;(2サイクル単気筒、175cc)
1933年に試作車が完成、1935年から量産販売。宮田製作所については、この以前のこの記事の「5.3-2純国産ガソリン自動車第2号、“旭号”の誕生(1909年8月)」で触れているのでそちらも参照して下さい。英国のコベントリー・イーグルを参考に、同じく英国のビリヤス(⑥の表記ではビリヤ-ス)社の2ストローク単気筒175ccを模したエンジンを搭載する純国産オートバイだそうだ。(⑥、P56)によれば、当時2サイクルはミヤタだけで、4サイクルのSVが主流だったとのことだ。
このAA型は『1935年(昭和10年)4月から量産体制に入り、37~39年には月産150台を維持するという、当時としては大ヒットだった。』(web⓭-1)しかし『昭和初期に日本では最初の量産車として作られ、鋼板プレス製のフレームを使い、量産効果を高め、総数約4万台を販売した普及型として有名であるが、平凡ゆえに実車が保存されている例は極めて少なく、公共の博物館などでは見ることができない』(web❼-4)のだという。(以下の写真はブログ“レッドロカット” さんよりコピーさせて頂いた、
http://leadloquat.blogspot.com/2012/10/aa.html、アサヒ号AA型(1936年))
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http://4.bp.blogspot.com/-N6a7hTd6qQU/UIIAP19f1xI/AAAAAAAAEnQ/8BqR3U0uWR8/s320/D_1936_AA.jpg
15.5-10宍戸オートバイ製作所の「SSD号」(4サイクル単気筒、350cc,500cc)
広島の宍戸兄弟による宍戸オートバイ製作所のSSD号の自製のエンジンは、輸入車に劣らぬものだったといわれ(①、P137)、陸軍からも期待されたほどの性能を誇ったが、結局挫折した。大正14年(1925年)から昭和9年(1934年)まで約10年間に、約470台生産し、そのうち運搬用リヤカーは250台、同じく運搬用のフロントカーが10台であったという。(④-18、P174)以下、(④-18)をガイドに超簡単にその歴史を記すが、詳しくはぜひ、(「広島に現れた国産の先駆SSD」;④-18)をご覧ください。のっけからその(④-18、P166)より引用させていただく。
15.5-11技術的な基盤は呉海軍工廠で学んだ鍛造技術
『SSD号の製造者は、宍戸健一(1892~1972、長男)と宍戸義太郎(1895~1974)の2名の兄弟が中心となり、大正13年(1924年)に広島市南竹屋町におこった「宍戸オートバイ製作所」という、いわば個人経営の町工場であった。』宍戸兄弟に技術的な基盤は、呉海軍工廠だった。『呉海軍工廠は横須賀に次ぐ旧日本海軍三大工廠の一つであり、工員数では横須賀をも凌ぎ、東洋一の艦艇建造能力(後に戦艦大和など)を有していた。呉海軍工廠系の重工業、機械工業はぐんと広島の、いや日本全体の技術力の中枢を担っていたといっても過言ではない。』(④-18、P166)
呉海軍工廠や陸軍の大阪砲兵工廠が、黎明期の日本の自動車産業の発展に果たした役割については、この記事の中でもマツダやダイハツ、久保田の実用自動車製造や、アイザワ号などで触れているが、戦前に小型車用エンジンの自製を試みた企業にとって、陸/海軍工廠からの技術伝播があり、また拠り所でもあったようだ。宍戸兄弟も呉海軍工廠で技術を学び、大正8年(1919年)に独立し、工場を構える。
『特に弟義太郎の鍛造技術は当時群を抜いており、それが同製作所をエンジン製造へと走らせる原動力となった。つまり宍戸兄弟の製作所とは、兄の機械設計、金属加工、切削技術と、弟の鍛造技術とを融合させた工場だったと考えればわかりやすいだろう。』(④-18、P167)この一連の、戦前日本の自動車史で何度も何度も触れてきたことだが、戦前の国産車作りで最大のネックは、エンジン製造における鍛造技術であった。『大正期の国産小型エンジン製造で最も困難だったのはサイドバルブのシリンダー鍛造であり、優秀な鍛造工を抱えた工場から順番に自作エンジンを完成させていった。翌大正15年に登場するSSD号フロントカー、リヤカー式三輪車の宍戸製作所(広島)宍戸義太郎も呉の海軍工廠で学んだ鋳物師であった。』(④-8、P177)以上はSSD号より一足先にオート三輪を完成させていた、大阪のアイザワ号(15.4-12項)に対しての説明だが、アイザワ号も、大阪砲兵工廠出身の優れた鍛造技術者、塩谷柔太郎を抱えていた。話を先に進める。
 宍戸製作所はまず、ゴムや靴産業向けの機械製作で成功し、『開業わずか3~4年目ですでに相当の蓄財を得ていた。そしてこの自前の優秀な技術力を駆使してさらに一歩進もうとしたのが、国産SSD号の開発だったのである。SSDのエンジン開発は、マツダ(東洋工業)より6年も先行していた。』(④-18、P167)兄弟が国産エンジン開発に参入したきっかけとなった、興味深いエピソードはここでは省略するが、(④-18、P168)をご覧ください。
 そのふとしたきっかけで、トライアンフのエンジンを模した自作エンジンの製作に成功した兄弟は『この時より小型ガソリンエンジンとオートバイの開発に目覚める。翌大正13年(1924年)には「宍戸オートバイ研究所」の看板を掲げ、本格的にSSD号の研究に没頭していく。開発の実験場となったのは工場の中でなく、当時広島地方で盛んにおこなわれていたオートバイ競走会だった。』(④-18、P169)広島の“熱い血”なのだろうか、ここから関西系の企業と、まったく違う行動に出る。以下、(web⓳)より引用
15.5-12実験の場はレース場、「SSDレーサー」の誕生
『1926年(大正15)6月に第一号車(注;SSDレーサー)が完成、宍戸(ししど)の名にちなんで「SSD号」と名づけられた。ししど→SISIDO→SSD …というわけ。~SSD号はその年の12月、広島の観音グラウンドで行われた全国オートバイ競走大会で、4級車(250cc級)で1着、2級車(500cc級)で2着という好成績を収めた。』
当時の広島は、オートバイ競走がたいへん盛んで、15.8-21項のマツダのところでも触れているが、なかでも『毎年秋に行われた中国地方最大のお祭り「招魂祭」のオートバイ競走がアトラクションの目玉となっていた。~近隣の学校はみな休校となり、なんと10万人以上が集まった記録まである』(④-18、P169)というから尋常な話ではない。欧米の最新型競争車が集結していた激しい戦いの中で、『最新の技術を学ぶ上でも格好の実験室であったろう。』文字通り、“走る実験室”だった。以下も(④-18、P169)から引用する。
15.5-13恐るべき技術水準に達していたSSDレーサー
こうして『実戦で鍛え抜かれたSSDレーサーは、~恐るべき技術水準に到達していた。じっさいに好成績を上げ、複数の優勝旗も得ていたわけだから、耐久性も性能も相応だったはずだ。』
(④-18、P165)に、SSDレーサーの写真があるので、その雄姿をぜひご覧ください。今までまったく、クローズアップされることはなかったが、ひょっとすると、このSSDレーサーは、ジャンルは違うがこの記事の(13.1項)で記したオートモ号とともに、純国産の自動車の中で、国際水準に比較的近いところまで到達した、最初期の例だった可能性もある(もっと調べないとわからないけれど)。ただしあくまで優れた職人のコピー技術としてで、オートモ/アレス号のような、学術的にも優れた、オリジナリティのある技術とは本質的に違っていたが。
さてこの『大正15年(1927年)10月に行われた招魂祭余興の競技会の最中、多くの輸入車を追い回すSSDレーサーの姿を真剣に見つめる一人の男がいた。たまたま審判席に座っていた元陸軍自動車学校の教官、土橋留秋であった。』(④-18、P170)SSD号の実力を、陸軍きっての自動車通だったという土橋が見抜き、以降SSDを、各方面に積極的に紹介して回った(④-18、P170)。以下も引用する。
15.5-14SSD三輪車の完成(1926年)
『土橋大尉の推薦を得て気をよくした宍戸製作所が大正15年に完成させたのが、フロントカーとリヤカーの計5台だった。』エンジン以外の車両部分は、先行するアイザワ号などから強く影響を受けたものだったようだ。『市場性からしても、この時期はオートバイよりも自動三輪貨物のリヤカーでなければ、まず売りさばくことができなかった。どんな実力があっても同じだった。~それでもエンジンまで自製するのは時期尚早であった。』昭和7年末に、輸入関税が大幅に引き上げられるまで、量産された輸入エンジンに到底、太刀打ちできなかった。まして『有力な資本を全く持たない、いわば孤立無援のSSDには厳しい状況が続いた』(④-18、P171)こうして次第に追い詰められていった。
15.5-15陸軍と商工省から支援を得るも、ついに力尽きる
『そんな中、宍戸製作所は陸軍自動車学校からSSD号側車2台の注文を受け、昭和2年(1927年)の11月にこれを完成させた。』(④-18、P172)。さらに陸軍省から商工省に宍戸オートバイ製作所に対する研究奨励の希望が出され、商工大臣より1万円が交付されたが、『これは宍戸製作所にとって開業以来最大の栄誉』(④-18、P172)になった。こうしてSSD号はその優秀さが認められ、いよいよ陸軍好みの大型用Vツインエンジンを完成させて、同エンジンを利用した、不整地走行用の路外用車の試作注文を陸軍自動車学校から受けるなど、軍部や官公庁からもぼちぼちと発注を受けるようになった。しかし『製造分野がインデアンやハーレーと直接に競合する530cc、1,200ccだったため、原価割れの販売を強いられて経営的には芳しくなかった』(①、P137)。強力な人脈と販売力を誇る両社に立ち向かうのは、小資本で販売力など無いに等しかった宍戸製作所には、無理な相談だった。
『これらVツイン車の開発は、宍戸製作所にとって売り上げの後押しとはならなかった。いや、むしろ経営的には火に油を注ぐ結果となった。陸軍や商工省から授かった光栄を意気に感じ、奮起すればするほど、かえって資金繰りが苦しくなっていく。』(④-18、P172)  
この一連の記事の、9.8項で記したが、宍戸製作所が孤軍奮闘していたのとほぼ時期の、軍用保護自動車3社も、この事業が国家を支える事業であるというプライドを胸に、必死に耐え忍んでいた。この一時期、陸軍が宍戸のオートバイに、期待をよせていたのは確かだが(たとえば㊲、P47などに証言も残っている)元々軍縮の時代で、オートバイはさらに、国が投じる予算も、市場規模も少ない分野だった。
『SSD号は昭和8年頃に経営難に陥り、東洋工業との提携話が持ち上がったが、それを断ったため』(④-2、P171)、『資金繰りに追われ、宍戸オートバイは1934年(昭和9年)廃業した』(web⓳)。結局果たせなかったのだが、東洋工業との提携の仲介役は、日本窒素の野口遵であった(④-18、P172)。そしてその後、『SSD工場にあった工作機械や職工の多くは同じ広島の東洋工業に移っていった』(④-19、P171)という。
(下の写真は、広島市交通科学館に展示されている、宍戸製作所製オート三輪のスケールモデル。(②、P182)では、『国産エンジンの搭載されたオート三輪車は、1926年(大正15年)に広島の宍戸オートバイ製作所によってつくられたのが最初であるといわれている。』としているが、仮にリヤカー式に限定しても、アイザワ号との関係が微妙だ。ただある程度の台数が作られたものから選べば、やはりこのクルマになるだろうし、その栄誉を受けるにふさわしい気もする。外観はどことなく、アイザワ号やコンビンリヤカーなど、同時代のオート三輪車に似ている。下記のツイッターからコピーさせていただいた。)
https://twitter.com/tai_kim/status/1330035692987150336 )
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https://pbs.twimg.com/media/EnU8aBFXEAAFxjm?format=jpg&name=large
以下は(⑥)からの引用でさらに他も簡単に記すと、
・東京モーター用品製造組合員のあいこく号;エンジンは後述する蒔田氏設計のもの
・みずほ自動車製作所(愛知県犬山)の「キャプトン号」;中川幸四郎商店が発売。
・栗林部品店(大阪)のリツリン号;栗林氏はプロレーサーとしても活躍した人だという。
15.5-16目黒製作所の「メグロ号」( 4サイクル単気筒、500cc)
1936年に制作、販売されたオートバイで、日本で最初に、OHV型エンジンを採用した。『スイスのモトサコシMAGを参考にした4サイクル500ccエンジンをイギリスのベロセット型シャシーに搭載した』(㉒、冒頭ページ)。戦後も生産されたのはご存じの通り。『陸王の生産工場があった品川区北品川は、環状6号線と目黒川沿いにあり、目黒製作所とは距離的に実に近く1kmほどしか離れていませんでした。東京の二輪車のメッカは、この城南地区(注;品川区、大田区、目黒区)だったのです。』(web⓭)より引用。(下の写真は、最初の市販車である“Z97型”で、非常にスポーティーかつスタイリッシュな印象を受ける。実際に高性能で、初期のオートレースでも活躍したという。そしてその高性能を警視庁も認め、1939年には少数(10台)ながら、白バイとして正式に採用されることとなったという。)
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 目黒製作所でもう一点、特記すべきは、部品(変速機)メーカーとしての側面だ。『同社は二輪の修理からはじまって、二輪車を試作した後、1927年から変速機の製造に取り組んだ。すでに20年代からモーター商会と二葉屋に納入していたものの、輸入品との競争のために原価割れの販売であった。
 ところが、500ccエンジン時代から変速機も前進3段、後進1段となったが、当時の輸入エンジンはもともとオートバイ用であったために後進ギヤがなかった。そのため、同社の製品が優位を占めることができた』
(①、P180)という。確かに資料を調べていくと、変速機とクラッチに、メグロ製の採用例は多い。さらに(⑥,P65)には『自動車の差動歯車装置(デファレンシャル・ギヤ)にも手をつけ、数社に納入した』とあり、問屋型のオート三輪メーカーからは重宝されただろう。
ちなみに(①、P180、181)によれば、気化器(キャブレター)だけは『依然として技術上の困難によって輸入を余儀なくされた』そうで、『1932年式でそれ(気化器)を自製したマツダが、1937年式で再びアマルを使う、「逆行」現象からもうかがうことが出来る』としており、アマルなどの輸入品に性能で対抗できなかったようだ。(①、P178の表参考)(下の写真でから、目黒製作所は、オートバイとともに、ギアボックスや部品も手掛けていたことがわかる。そしてオート三輪用のエンジンも供給していたようだ。たとえば(web❷、P39に)『HMC(兵庫モータース)は国産の目黒製作所のエンジンを積んでいる。』という記述がある。画像は“バイクの系譜“
https://bike-lineage.org/kawasaki/w/meguro.html よりコピーさせて頂いた。)
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https://bike-lineage.org/kawasaki/w/img/meguro_company.jpg
15.5-17戦後と比べると、あきれるほど少量生産だった
 まとめとして、オートバイの歴史の定番本である富塚清著の⑥より『以上いずれも満州事変頃から、日支事変の頃にかけての7,8年の間に、国産化促進のかけ声で世に出たものであり、大戦直前の車はこの期間にほぼ出つくした。それ以後は、戦局悪化、航空優先のため、オートバイのほうには、資材も技術力も回らなくなったらしく、事業は停頓した。(中略)唯一の例外は陸王で、これは軍用、警察用として、戦争末期に至るまで製造を続けた。しかし、その最盛期でも月産100台程度に過ぎなかった。今から振り返ってみると、あきれるほど少量生産である。』(⑥、P56)世界を制覇した戦後の二輪産業と比べれば何ケタも少ない台数だったのは当然だが、オート三輪と比べても、戦前のオートバイは小さな市場規模だったのだ。
下図は、①、P245の表の生産台数を元に、グラフ化したもので、メーカー名でなくブランド名で表記した。なお純国産の重量級オートバイのブランドとしても重みのあった“くろがね”については、15.6項のオート三輪の項でまとめて記す。
1936年以降の、準軍事体制下の頃のデータなこともあり、やはり陸王とくろがねの台数が多い。なお“キャブトン”はみづほ自動車製作所で、戦後も活躍したブランドだった。当時の販売元は大阪の中川幸四郎商店で、以下はwikiより『キャブトンという名はCome And Buy To Osaka Nakagawa (「大阪中川まで買いに来たれ」)の頭文字を並べたもの』だったそうだ。)
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 ここで話を二輪から三輪に戻す。15.4項からの続きです。 
 特殊自動車規格の小型オート三輪の市場が、1920年代後半から急拡大したことはすでに記した。同時期の大衆トラックの保有台数3万台に比べると遥かに小さいものの、三輪車はエンジンは別として、全て国内メーカー産だった。ちなみに国産大衆車の年間生産台数は400台程度に過ぎなかった(①、P126参考)。『車輛の大きさや部品メーカーへの波及効果などに差があるとはいえ、国産自動車工業の形成にとって大衆車とは異なる有力な市場が存在したことを意味する。』(①、P127)
 そして15.4-31項で紹介した、当時の主流であったJAPエンジンの輸入元、東西モータースの1929年の広告の中で、JAPエンジンを使っていた三輪車メーカーの13車(ブランド)を掲げられていたが、その中に、「ニューエラ」の名前も含まれていた。
ニューエラは、前回の記事で記した白揚社(13.1参照)の製造部長として、オートモ号の開発に携った蒔田鉄司が起こした秀工舎のブランド名で、その名前の由来は、ニューエラ号(New Era =「昭和」という新時代の意味)であった。
さすがに白揚社で鍛えた一流の自動車技術者の作ったオート三輪のため、その出来は他とは一線を画し『チェーンが外れにくく調整も容易な独特の構造など、完成度の高い設計で人気を博し』(wiki)たという。オートバイと違い重い荷物を積むため損傷が激しく、チェーンの交換等、そのメンテナンスが煩わしかったので、好評だったようだ。(②、P180)。
 ようやく蒔田鉄司とニューエラ号まで至ったので、次に戦前のオート三輪の三大メーカーである、ダイハツ、マツダ、日本内燃機(くろがね)を記して、オート三輪についてのパートを終えたい。
まずはオート三輪への進出順に、日本内燃機(くろがね)からはじめたいがその前に、「特殊自動車3馬力(350cc)時代」から、昭和5年(1930年)2月4日に「小型自動車500cc(5馬力)時代」へと時代は移るが、その経緯について、先に記しておきたい。

15.5-18小型自動車500cc(5馬力)時代への移行
過去に遡っての説明は、今まで何度か記してきたので省略する。代わりに(④-9、P106)に記載の文面を表にしたものを掲げておく。
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元々は適用除外制度から始まった、特殊自動車だが、無免許で乗れて、税金も安い(『例えば、1935年の東京府において自家用乗用車の年間税額は、18㏋以下が72.5円、10㏋以下が59円だったが、小型車は12.4円にすぎなかった』(①.P171))上に車庫不要、小回りも効き荷物も積める便利の乗り物で、急速に普及していく。しかしそうなるとやはり、より大きな荷物を積んだり、強力な登坂応力を求めたくなるのが人情だ。以下(④-16、P164)から引用する。
15.5-19次第に違法改造車が横行する(3馬力の限界)
『相当数の三輪運搬車が走り回るようになると、製造業者だけでなく、使用者側からの苦情や要望も湧き上がってきた。~まずは最大積載量60貫(225kg)最高速度16哩(25km/h)以内という当初の制限に違反する者が現れた。また荷物満載時に登り坂にさしかかると、二速のみの変速機ではかえってエンジンに負担をかけ、故障車を増加させた。』そのため無届で、『検査が終わった後に、荷物箱の拡大、5馬力エンジンの搭載、前進3段変速機の採用などの違法改造も行われた』(①、P123)。先のウェルビー号の、3段変速機採用を謳っている例も関連するが、当時の実情はかなりグレーゾーンが多かったのかもしれない。
ただしエンジン排気量に関しては、『当時は部品の材質や精度が良くないためにエンジンの摩耗が激しかったから、シリンダーをボーリングして再使用するのが当たり前だった。ボーリングをくり返すと排気量が500ccより大きくなってしまい、結果的に違反者が横行した』(㉗、P50)という事情もあったようだ。
15.5-20社会問題にまで発展する(大阪府が動く)
さらに『そのころ大阪では、規格違反の三速変速機と五馬力エンジンを搭載していながら、堂々と「内務省認可、無免許運転可」と偽って製造販売した自動三輪車が見つかり、これが社会問題にまで発展する。』(④-16、P165)そしてついに、当局が動く。
『とうとう大阪府保安課は、昭和4年(1929年)の年の暮れも押し迫った12月25日に、市中の自動三輪車2500台から3000台すべてを一堂に集結させて、大車両検査を実施した。』!大阪冬の陣?(④-16、P165)の引用を続ける。『にわかに信じがたい数字だが、複数の証言や記録が残っているので、相応のスペクタクルが繰り広げられたのは事実であろう。』
15.5-21ほとんどが違法車であると判明(届け出時8尺の全長が9~10尺に伸びていた!)
 そして検査した車両のほとんどが、届け出時8尺(2.4m)のはずが、9~10尺に伸びていたのだという!『憤った大阪府は違反車すべてに対して、その場でただちに使用禁止を言い渡した。すると2500台のうちのほとんどが、家へ持ち帰る事も出来なくなり、更なる大混乱が展開した。』!(④-16、P165)その後『大阪弁による見事な?交渉の結果、3カ月の猶予期間を設けて、期限までに使用者が車両を規定寸法内に縮めるか、あるいは通常の自動車運転免許を取得するか(現実にはほぼ不可能だが)を選ぶことで決着した。』(④-16、P166)
15.5-22業界団体を結成して陳情を行う
実は三輪車メーカーの側でも対抗策を練っていた。業界団体が作られて、この騒動の直前頃から、『「車輛規格改正運動」が沸き起こっていた』(④-16、P167)。そして東西(大阪と東京)の業者が団結して、規格改定を求める陳情が、内務省警保局に対して行われた(④-16、P167、①、P124、⑦、P168)。以下(④-16、P167)より引用する。
『望むべく主な改正点については、小野梧弌(JAPエンジンの輸入元、東西モーター株式会社社長)が、次のような趣旨書を用意していた。「馬力を五馬力(ないしは単気筒まで)と拡張する。車両寸法は九尺、幅四尺とする。変速機は三速までとする。
これを大阪東京の両組合の陳情書と合わせて、三者が団結し、内務省警保局へ提出した。』
さきの”大阪冬の陣”の、わずか10日後という早業だったという。
15.5-23行政側にもオート三輪を発展させようとする機運が生まれる
 そしてここで大阪府は、オート三輪の製造業者に対して指導を行うとともに、内務省にも規格拡大を要求するという立場を取った(①、P124)。さすが商都、大阪府の当時の役人たちは商売人の気持ちにも通じていた。そして『内務省側もそれに真摯に耳を傾け、利用者の利益を優先させようと努めた。』(④-14、P171)『単に監督し取り締まるだけでなく、せっかく育ってきた民間の工業製品であり輸送機関である三輪トラックを発展させようとする動きが、関係官庁や一部の政治家の中にあったからだ。自然発生的に生まれ育ってきた分野の自動車に温かい目を注ぐ勢力もあったわけだ。』(⑦、P168)
内務省だけではなく、当時自動車産業全体を所管していた商工省も、オート三輪に対しては『「助成金とか或いは無理な干渉などするのは害はあっても益がない」ので、「製造者や販売者の自体の努力に依って発達を図り、之を邪魔しないようにしたい」という立場だったのである。』(①、P215)web❼-1によれば、『内務省自動車取締令と商工省小型自動車改正規格により~』とあるので、この法規改正は内務省が主導であったものの、商工省とも連携していたことがわかる。中央官庁の側も粋な計らいで応じたようだ。まだ商工省内に、統制経済を好む国家社会主義者であった“革新官僚”たちが台頭する以前の時代だ。
内務省はただちに改正案の検討に入り、陳情書を受け取ったわずか6週間後の昭和5年(1930年)2月4日、ユーザーやメーカーの要望に応えて、車両既定の改訂を行う。(④-16、P167)
15.5-24小型車規定の改訂で500ccに(1930年)
 その内容だが、排気量500cc以下、全長/全幅も2.8m/1.2m以下まで拡大され、変速機、積載量、最高速度制限が撤廃された。その内容は、先に東西モータース小野梧弌がまとめた趣旨書に概ね沿った内容で、『宿願の規格拡大が認められた喜びは小さくなかったろう。』(④-16、P170)感無量だったでしょう。内務省警保局の小野寺技手は『~それまではエンジンが350ccであって、昭和5年まで認めていたのは、大体が小野梧弌さんのエンジンでした。』(㊲、P75)と後に語っており、当時エンジンに関しては、500ccのJAPエンジンを搭載した場合を基準に考えていたようだ。またこの改正以降は、エンジンの大きさを表す単位が警視庁馬力などの呼称から排気量(cc)に、また車両寸法も尺貫法からメートル法へと改められた。
15.5-25内務省側の事情(実地試験を廃止し「青写真時代」から「通牒時代」へ)
 以下、(④-16、P170)からの引用で記す。
『もっとも内務省の側でも、(業界団体による)陳情の前から、省令改正の動きがあったようだ。三馬力時代は、先述のように製造者の出願に対して内務省警保局の技手が一台ずつ車両の実地試験を行い、合格者に対しては製造者名、車名、仕様書と共に、青写真の構造図を添付して全国の庁府県へそれを許可する旨を通牒していた。そのためこの三馬力時代を「青写真時代」と呼ぶ例もある。』この青写真時代に至った経緯は、15.5-25項を参照ください。引用を続ける。
『ところが大正15年以降は、例によって申請者が急増したため、じつのところ内務省警保局は、手が回らなくなっていた。実は度重なる実地試験が面倒だったわけだ。』各関係者の間で複雑な思惑が絡み合う、法規の改訂作業以外にも、戦後の、交通安全環境研究所・自動車審査部のような認証試験の業務も同時に、ごく少人数で担ってきたことになる。
『そこで昭和5年2月以降の五馬力時代は、実地試験を廃止して書類審査のみを行い、結果を地方庁へ通牒し、この通牒を製造許可に代えることとした。そのためこの五馬力時代のことを「通牒時代」と俗称した。』(④-16、P170)
15.5-26国産小型四輪車産業の芽生え
しかも500cc化の規定改訂に際して、急速に市場が形成されつつあったオート三輪業界だけではなく、四輪車業界のダット自動車製造(過去の記事の8.3項とこの記事の15.3項を参照ください)からの働きかけもあったという。その経緯はこの記事の後篇で詳しく記す予定だが、500ccまで拡大して、車体寸法も大きくなれば、四輪乗用車としてぎりぎり成立し得るレベルに達したのだ。
しかしその一方で、さらに750ccまで拡大されてしまうと、『わが国の小型車市場に着々と地歩を固めつつあった~強敵オースティンまで恩恵を蒙ることになり、後発のダット自動車側は断然不利になる。これを恐れた同社経営陣(注;まだ日産の鮎川が関与する前の久保田系の実用自動車製造の時期)は、無試験免許の枠拡大を500ccに止めるよう、当局に強く働きかけたといわれる。』(⑧、P41)
その当時の市場の“本流”は四輪でなく三輪の方であったので、350ccから一気に750ccまでいく可能性は元々低かったと思われるが、しかし逆に、乗車定員1名という、乗用車としては成立しにくい厳しい制限が設けられてしまう。この辺りの経緯は、この記事の後篇で記す。
15.5-27関税の引き下げと為替の切り下げで国産エンジンが優位に
500cc時代は、国産エンジンが台頭し、やがて主流になっていく時代でもあった。個々のメーカーの項でも記すが、くろがねやダイハツ、マツダといった実力のあるメーカーの国産エンジンが登場後も、当初は関税が低く量産規模の違う輸入エンジンと価格差が大きかった。『従量税式(=財やサービスの数量(個数、重量、容積など)を基準として課税する方式)としていたこの時代はJAPなど輸入エンジンの関税額が一基あたり10円ほど(販売価格の一割以下)と低く、おかげで安価なイギリス製の3馬力~馬力エンジンが年間数千台もどっと輸入されてしまった。』(④-18、P170)
しかし国産品保護政策として、1932年末に関税の大幅引き上げがあり(従量税が3割5分に;④-14、P111)、為替の切り下げもあった。そのためオート三輪の用途に特化させた、国産エンジンの性能も向上し、外国製に代わって、外販も行っていたJACやダイハツ製などの国産エンジンの採用が広がっていく。こうして量産が進んだ結果、『ついには輸入機に対して3~4割も安価となる。』(④-14、P175)輸入エンジンにとって、厳しい時代に突入していった。

15.5-28国産小型車の発展を縁の下から支えた、内務省・小野寺技手(余談)
内務省警保局にて当時、この認証の実務を(たぶん)ほぼ一手に担当していたと思われるのが、この記事で度々登場している、内務省警保局技手、小野寺季(き)六であった。小野田がこの業務に係るようになった経緯を、「日本自動車工業史座談会記録集」(㊲)から引用する。
明治27年(1894年)生まれで大正8年(1919年)米沢高等工業(現山形大学工学部)を卒業後、警視庁技手から大正12年(2023年)に内務省に出向した小野寺だったが、元々は『圧縮ガス液化法の実施が、(大正)12年4月からということで、その要因として入った』(㊲、P47)のだという。“本業”は違っていたのだ。しかし、『その頃自動車に関する問合せが全国から警保局に盛んにくるのですが、自動車の技術者がいないために私が手掛けることに』なったのだという。
 そこで小野寺はまず、状況を把握するため、過去の資料を調べていくと、『大正10年に自動車に関する通牒が警保局長名で出ているのです。この通牒は自動車の照会が警保局にくる毎に、警視庁に問い合わせて回答したものをまとめ、警保局から全国に流したものです。全くお恥ずかしい次第であります。』(㊲、P47)と、座談会で語っている。「大正10年から」とあるので、15.4-19項で記した(警視第90号)や、同じく15.2-16、17項の(警山第104号)のことを指すと思われるが、何度も記しているが自動車取締令の適用除外から始まった、特殊自動車という制度自体が曖昧で、場当たり的な対応で処理してきた結果の“ツケ”がたまっていた様子が伺える。その後試行錯誤の末に、1926年頃になってようやく、特殊自動車の仕様を確定できるところまでこぎつけたのは、15.4-21、22項で記したとおりだ。
 ちなみに戦前の内務省は、よく言われるように、陸軍省、海軍省とともに、日本の官僚機構の頂点に君臨していた(そうだ)。以下も(④-6、P169)から引用する。
『当時の内務省とは簡単にいえば現在の総務省、警察庁、国土交通省、内閣府を一つに束ねた巨大な省庁にあたる。敗戦後GHQによって解体されるまで、明治6年から昭和22年まで74年間にわたり中央官庁の枢軸として君臨を続けてきた。なかでも内務省警保局は戦前期の自動車行政をほぼ一手に担い、例えば現行の自動車関連の基本三法である道路交通法、道路運送車両法、道路運送法は警視庁と国土交通省が所管となっているが、大正8年から昭和22年までの28年間は内務省警保局が自動車取締令をもって一元的に司っていた。』
戦前も1925年に商工省が設立されると、自動車分野の産業振興策は、商工省と、国防上の観点から?何かと口を挟む陸軍にその座を譲ったとしても、交通行政としての観点から、路上を走るクルマの許認可権は、戦後その権益を引き継いだ戦後の運輸省(国土交通省)と同様、内務省がしっかりと握っていたようだ。たとえば陸軍からハーレー級の大型サイドカーか単車?だったかを、特殊自動車認定するよう横やりが入った時もそれを退けたという話が、どこかに書いてあった気がする(不確かです)。※2022.04.25追記;㊲のP74に、小野寺自身の言葉で、陸軍の鳥海大尉から、ハーレーを除外してくれとの強い申しいれを断ったと記してあった。
ただこの時代の内務省内における自動車行政のウェートは、おそらくけっして高くはなく、それ故に、たぶんキャリア組ではなかった小野寺が主担当で、その任に当たったように思える。ただ(㊲、P48)等の記述から、小野寺の上司たちは概して、小型自動車の発展に理解があったようにも感じられる。
だが、(④-16、P164)で記されていたように、当時の特殊自動車の認可の可否は、内務省警保局と車輛製造業者や販売業者だけでなく『地方長官や警視庁も含めた三つ巴のやりとり』の末に決定されていたという。そうした複雑な大人の駆け引きの中で、若輩だった小野寺がその間に立ち、苦労しただろうことは想像に難くない。
(下の写真は世界周航時、霞ケ浦に立ち寄った、ドイツの巨大飛行船「グラーフ・ツェッペリン」で画像はwikiより。日本で浮揚ガスと燃料ガスの補充を行ったのだが、『日本石油の重役奥田雲蔵と田口清行技師、カーボン・ケミカルズから来日したスコット技師が技術援助に当たり、所轄の内務省の担当は小野寺季六技師であった。当時高圧ガスは内務省が管轄していたのである。』(“蒼穹と碧洋を往く”というブログより文章を引用。
https://www.shipboard.info/blog2/archives/2007/08/
下の写真の人影の中に、小野寺の姿もあるいは映っていたのだろうか。)
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15.5-29陸軍のオート三輪なんかやめちまえ!と、“全滅”を救った小野寺の“あんぱん論”
 しかしさらに時局が進み、戦時体制に移行すると、関西商人たちとの“大人の駆け引き”から、今度は当時高圧的であった陸軍が、ようやく育ってきたオート三輪の前に立ちはだかる。
陸軍からの強引な横やりを、オート三輪を陰から支え続けてきた小野寺が必死に防戦したそのエピソードを、(web⓮「戦前の日産自動車(株)の車両開発」鍋谷正利 JSAEのインタビュー、P355)の記事が伝えている。詳しくはぜひ原文をお読みください。鍋谷氏(昭和19年に日産取締役。詳しい経歴はweb⓮を参照)によると、『陸軍の軍人さんが、日本の三輪車は少し多過ぎるんじゃないかって。そういうものはもうやめちゃったらどうかという会議があった』(web⓮、P355)という。
その会議に呼ばれたのが、トヨタ(豊田喜一郎、英二各氏)や日産(浅原源七、鍋谷正利各氏)、軍用トラック系の荒巻氏らで、同インタビューの記載からは当事者でオート三輪業界の主役だったダイハツやマツダの名前がないのだが・・・。同記事より続ける。
『~あんなものは鉄鋼の無駄だって言いだしたの。ところが内務省で、車の登録の審査をするところがありますね。小野寺さんという人が、ちょうどその席にいたんです。それが何というかと思ったら、あれは日本独特の品物である。日本人はあんこが好きで、餅に入れればまんじゅうになる。それから外に使えばおはぎになる。それと同じように、あれは日本人の考えたものだ。外国からパンがくると、あんぱんというものを作る。だから、あれは、あんぱんと同じように、日本人が考えたものだ。それを一遍にやめちゃえと言うのは少し乱暴じゃあないかと。その時分にその話が方々に流れて、いわゆる小野寺さんの「あんぱん論」というのは有名だったんです。それでダイハツ以下、あの時分には6社あった、その半分はやめさせて3社だけ残せということが、その席で決まったわけ。それがいわゆる「あんぱん論」』(web⓮、P355)この文中の「小野寺さん」は間違いなく、内務省警保局の小野寺季六その人であろう。
商工省はこの頃既に、陸軍寄りに宗旨替えしていた。当時の世相の中では、小野寺以外たぶん誰も、陸軍の意見に敢えて反論しなかっただろう。そうした重苦しい雰囲気が感じられる中で、内務官僚であったが高等官でもない(㊲によれば昭和3年に技師)立場の小野寺の発言は、相当勇気がいるものだったはずだ。
そしてあんパンの中身の“あんこ”のように、やんわりと説き伏せて、三輪車メーカーの“全滅”は防ぎ、ダイハツ、マツダ、陸王の3社体制を何とか維持できることに決まったようだ(15.7-31~33項参照)。オート三輪のめざましい発展と共に歩み続けて、戦時下においてもその実用性や経済性を評価していた小野寺の、機転と勇気が光る一幕だった。生産設備を曲がりなりにも維持できたことで、戦後すぐに生産を立ち上げることができたダイハツやマツダからすれば、小野寺は恩人だったはずだ。
(しかし戦後の1958年7月に、自工会主催で開催された座談会の(㊲、P49)の中で小野寺は、『~このように縁の下の苦労ばかりしていたので、宮田さん(注;瓦斯電出身でその後商工省の技官となった宮田応義)や陸軍の伊藤さん(注;陸軍の伊藤久雄。陸軍の立場から、自動車製造事業法成立に大きな役割を果たした)のように保護自動車の看板を掲げた仕事をうらやましく思いました。』と、当時を振り返っている。
小野寺は昭和17年(1942年)に内務省を退官し、その後は『高圧ガス工業の発展に尽くし、その功績により昭和43年(1968年)正五位勲六等に叙せられる』(㊲、P142)という。叙勲は自動車分野に対しての功績ではなかったのだ。だがオート三輪の歴史を語るうえで、目立つ存在ではなかったかもしれぬが、決して欠かすことができない人物だったと思う。小野寺の気骨を表すエピソードをもう一つ、自工会が戦後主催した座談会(㊲,P48)から紹介する。
『~その頃警衛用のサイドカーであったハーレーダビットソンの1934年式BF1200cc供奉用側車付自動自転車は、陸軍の警衛用のサイドカーでもあったのです。ところがご大典のときに、陸軍が担当する警衛区間と、名犬相の警備区間とが違うわけです。そこで警保局はサイドカーを買わなければならないことになって、私の一存で蒔田さんのニューエラーのサイドカーを買いました。これが供奉用に国産サイドカーを備えたはじめであります。もし間違いがあったら、私は腹を切る覚悟でした。』小野寺が“侍”であったことは間違いなかったと思う。それにしても戦前、“豆自動車”から発展していったオート三輪の認証業務に追われる中で、ドイツから来たまるでスケールの違う、巨大な飛行船“ツェッペリン号”を仰ぎ見た時、小野寺はどのような気持ちを抱いていたのだろうか。下の写真も“蒼穹と碧洋を往く”というブログよりコピーさせていただいた。)
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15.5-30後年の「電動アシスト自転車」の市場形成を“アシスト”した時と似ている?(私見)
さらに余談を。この戦前の、オート三輪及び小型四輪車に対して内務省が行った、民間の活力の中から芽生え始めた産業を、保護政策でなく規制緩和(減免措置)によって、側面から支援していくという構図は、まったくの個人的な意見だが、戦後のある乗り物に対しての対応とイメージが重なる。
私見だが、ヤマハPAS(Power Assist System=パスとよばれていた)に端を発する「電動アシスト付自転車」の市場形成を、道路交通法の規定を活用して警察が手助けした構図と、よく似ていたと思う。もちろん戦前のオート三輪の方が先だった訳だが、かつて無免許の「特殊自動車」として扱った時のように、あくまで「自転車」だとして、国土交通省の管轄ではなく、警察庁(=内務省系)の管轄内として処理したのだ。以下ヤマハのHPからの引用だが、そのことを証言していると思う。
https://www.yamaha-motor.co.jp/pas/campaign/25th/history.html
『それまで電池とモーターを内蔵した、第一種原動機付自転車(免許、ヘルメットが必要な乗り物)とされていたものを、「普通の自転車」として行政等、関係団体に認めていただき製品化、新たな分野を開拓したのです。』「電動」部分は人力に対しての補助力で、道路交通法上は軽車両(自転車)に該当すると警察が解釈してくれた結果、大きな市場が形成され、世界的にも影響を及ぼした。さらにwikiによればブリヂストンサイクルやミヤタサイクルなどの自転車メーカーも、PASの企画段階から車体の開発・製造などに深く関与していたという。自動車産業よりも、自転車産業との関連が深かったことも、オート三輪に近い図式だ。下の写真もヤマハのHPより、「1993年の 初代YAMAHA PAS」
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https://www.yamaha-motor.co.jp/pas/campaign/25th/img/history_photo.jpg

オート三輪の3大メーカー、ダイハツ、マツダ、日本内燃機(くろがね)
話をオート三輪に戻す。この500cc(五馬力)時代は3年9カ月続くことになるのだが、『その申請方法が簡略化されたことにより製造業者はさらに増え、国産三輪自動車は進化の加速度を上げながら、発展を続けていく』(④-16、P171)。三馬力時代のニューエラ(後のくろがね)に続いて、ダイハツ(発動機製造)と東洋工業という高い工業技術力を持つ、実力派の企業が参入し、『これにより、三輪トラックは新しい段階を迎えた。』(⑦、P168)
先に記したように、ここでは業界への参入順に、蒔田鉄司率いる秀工舎(後の日本内燃機)のニューエラ(後のくろがね)から話をはじめたい。

15.6国産オート三輪の草分け、日本内燃機(くろがね号)
戦前の日本内燃機の歴史は、創業者である蒔田鉄司の足跡と重なる。『二輪、三輪、四輪とすべてをこなす戦前期のトップデザイナーの一人』(④-20、P167)であり、戦前期国産自動車界の開拓者としての功績も大きかった(④-20、P166)蒔田の歩んだ道をたどりながら、戦前期のくろがね号の歴史を記していく。なお秀工舎、日本内燃機、ニューエラ、くろがねと時代と共に変遷していくが、“くろがね”と代表させて記述した場合が多くなるのを了解いただきたい。まず白揚社入社以前の蒔田鉄司について、wikiの「日本内燃機」に比較的詳しく書かれているので引用する。
『1913年(大正2年)に東京高等工業学校(現東工大)機械科を卒業した蒔田は学生時代から自動車開発の研究に打ち込み、1917年(大正6年)には機械工場「秀工舎」を開き、自転車やオートバイ(当時は自動自転車と呼ばれた)の部品製作を行い、最初の自動自転車の試作も行った。』この時試作した自動自転車(オートバイ)の写真は残念ながらまだ発見されていない(④-21、P168)。その秀工舎で2年間、自転車と自動自転車の部品製作を行った後、白揚社に招かれるのだが、その経緯について、月間オールド・タイマーの優れた連載記事(「轍をたどる」(岩立喜久雄氏著)(④-1)」が詳細に記されており、引用させていただく。
15.6-1白揚社(オートモ号、アレス号)時代の蒔田
『豊川(順弥。白揚社の創業者)には5歳年下の弟、豊川二郎(1891~1921)がおり、二郎も大正6年から7年にかけて渡米したが、その目的は自動車研究にあった。自動車製造への決意を固め帰国後、直ちに白揚社へ招き入れたのが東京高等工業時代の学友、蒔田であった。』(④-1,P159)二郎は30歳の若さで夭折するのだが、ご承知のようにその意思は兄の純弥に受け継がれて、アレス号、オートモ号として結実していく。そして蒔田は『製造部長として、設計から製造現場まで陣頭に立っていた。』(④-1、P159)白揚社時代の蒔田について、さらに(④-1)からの引用を続ける。
『~現在残るオートモ号設計図の多くに蒔田の記名や押捺があることから、その設計製図でも中心的な役割を果たしていたことがわかる。~蒔田はこの最終型オートモ号の開発まで8年間白揚社に在籍し、孤高の先駆者豊川純弥の下で誠実に活躍した技術者だった。白揚社は後の国産自動車業界で活躍する多くの人材を輩出したいわば「エリート養成所」に例えることができるが、その筆頭者だったといえる。』(④-1、P160)
15.6-2海外も注目した、オートモ号の性能(余談)
 豊川純弥の起こした白揚社のオートモ号及びアレス号については、前回の記事の13.1項で既に記したが、その高性能ぶりについて、前回時点では資料が不足していたので充分伝えられなかった。今回の記事用に新たに入手した資料(④-13、P168)に端的に記されていたので、少々脱線するが、ダイジェストで紹介しておきたい。
『東京の白揚社製作所が独力で製造販売に取り組んだ純国産小型乗用車オートモ号(943cc)の完成度は、はたしてどうだったのだろうか。オートモ号の実力を明快に示した事例が、大正14年12月6日に日本自動車競走倶楽部が主催した、東京洲崎埋立地での競走会であった。』スタックするクルマが続出する大混乱のレース展開の中、決勝レースまで駒を進められたのは、ピアース・アロー、オーバーランド、オークランド、チャルマー、アート・ダイムラー、アート・カーチス、オートモ・レーサーの、以上7台だった。このうち、アート・ダイムラー、アート・カーチスとは、アート商会の榊原郁三が中古の航空機用エンジン(メルセデス・ツェッペリンモーター200㏋と、カーチス・ジェニー160㏋)を積んで製作した、いわば半国産の怪物レーサーであった。その結果はどうだったのか。
『泥土にまみれた壮絶な15周の決勝レースで勝利したのは、アート・カーチス号であり、2着はなんとオートモ号であった。』このアート・カーチスが、現在本田コレクションホールに展示されている有名な、通称“カーチス号”だ。(④-13、P168)から引用を続ける。
そしてこの『狂気の沙汰のレースを注意深く観戦していた在東京の英字新聞「ザ・ジャパン・アドバイザー」紙の外人記者は、オモチャのように小さなオートモ号の耐久性の高さに感銘を受け、さらにこの快速の軽量車が日本製と知って大いに興味を示した。「どの部品が日本製か」と尋ね、全て日本製だと知らされると、目を丸くして驚き、この壮挙を他のどの日本語新聞よりも大きく、写真入りで報じた。~当時の国内の新聞は、まだオートモ号の可能性を理解できるレベルに到達していなかったのである。』(④-13、P168) 
このレースへの出場は、社長の豊川順弥がレース開催の1週間前に思い立ち、急遽実行に移されたものだが、『昼夜兼行で作図から製作までを遂行し、レース前日までにオートモ・レーサーを仕上げたのは、白揚社製作所長時代の蒔田鉄司であった。蒔田の神速な仕事ぶりは、白揚社時代より築かれていたのである。』英字新聞の記者は、あるいは本国へ、「日本車の将来、恐るべし」と、警戒する報告を上げたかもしれない。(下の写真は現在Hondaコレクションホールに動態保存されている、アート・カーチス(通称・カーチス号)で、ホンダのホームページよりコピーした。車体は当時、飛行機と同じ布張りだったが、エンジンとシャシーは今もほぼそのままだという。以下の文もやはりホンダのホームページより引用。
https://www.honda.co.jp/50years-history/limitlessdreams/joyofmanufacturing/index.html
『榊原氏をリーダーに、弟の真一氏、本田たち数人の弟子が加わって、レーシングカーの製作が始まったのは1923年である。1台目が、中古のダイムラーエンジンを載せたアート・ダイムラー。2台目が、アート・カーチス。今も、Hondaコレクションホールに動態保存されている通称・カーチス号である。アメリカのカーチス"ジェニー"A1複葉機の中古航空エンジンをアメリカ車のミッチエルのシャーシに載せた、このスペシャルマシンづくりを、最も熱心に手伝ったのは本田だった。アイデアを出し、部品を器用につくり、榊原氏を感心させる。1924年11月23日の第5回日本自動車競争大会には、操縦士・榊原真一氏、同乗機関士・本田宗一郎で、カーチス号が初出場し、見事に優勝している。
17歳の少年の胸に燃えたモータースポーツへの情熱は、この後、生涯、消えなかった。』

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https://www.honda.co.jp/sou50/Hworld/Hall/Power/images/photo/407.jpeg
15.6-3秀工舎に戻り、ニューエラ三輪車で再出発
以下も(④-1、P160と④-20、P168)をダイジェストして記すが、オートモ号最終型完成直前に白揚社を辞した(1926年7月)蒔田は、自らが興し、弟が引継ぎ自転車製造を継続していた秀工舎に戻る。『大正15年からの第二期秀工舎における蒔田の再出発の目的は、自らの小型三輪車の開発であった。』(④-21、P168)早速オート三輪の設計・試作を開始し、翌年の1927年2月に試作車を完成させる。そしてニューエラ((New Era =「昭和」という新時代の意味)と命名されて、同年4月には早くも内務省の許可を得ていた。『蒔田ならではの迅速さであった。一連の急展開から推しても、軽便三輪運搬車制作のアイデアは白揚社時代よりすでに温めていたのかもしれない。その手法は、白揚社での理想主義とは好対照の、まったく現実的なものだった。』(④-1、P160)
しかし手堅い設計とはいえ、白揚社で鍛えた技術者の作ったオート三輪は、他とは一線を画し『チェーンが外れにくく調整も容易な独特の構造など、完成度の高い設計で人気を博し』(wiki)たという。既述の通りオート三輪は当時、チェーン駆動だったが、オートバイと違い重い荷物を積むため損傷が激しく、チェーンの交換等、そのメンテナンスが煩わしかったという(②、P180)。『秀工舎式としたニューエラ号の方式は、スパナひとつでチェインが簡単に張れて、車体がバウンドした際にも外れ難い構造だった。』(④-1、P160)
輸入品のJAPエンジン搭載車からスタートした、ニューエラ号は市場で好評を得たが、『従業員7-8名の零細工場では、経営者の蒔田自身が作業に加わっても、生産規模の拡大は到底期待できなかった』(wiki)。そこで量産に向けて事業拡大を模索し始めるのだが、世間の方が、蒔田のような傑出した技術者を、放ってはおかなかった(④-21、P169)。
15.6-4 日本自動車(大倉財閥)の傘下に
以下もwikiで概要を引用する『(蒔田は)大倉財閥系の日本自動車の社長、石沢愛三の知遇を得た。(14.7-1項で記したように)日本自動車は当時、オートバイ部門の主力であったハーレーダビッドソン(オート三輪としても販売されていた)の販売権を他社に奪われ苦境に陥っていたため、1928年(昭和3年)1月に蒔田を常務取締役として迎え入れ、同社が所有する大森の工場を蒔田に提供し、3輪トラックの製造を委ねた。』(④-21、P169)によると、蒔田を石沢に引き合わせたのは、陸軍自動車学校研究部高級主事の長谷川正道であったという。『当時国内最高レベルの自動車研究所でもあった同校の長谷川閣下と、自動車輸入業界最古の雄、日本自動車が動き出したわけだ。』(④-21、P169)大倉財閥系の日本自動車といえば、=ハドソンというイメージがあるが、陸軍のハドソン、海軍のビュイックと当時謂われていたように(前回の記事を参照ください)、元々日本自動車は陸軍に強い人脈があったと思われるし、ハーレーの国内販売権を三共に奪われたところで、四輪の輸入車がメインだったとはいえ、この時は二輪/三輪業界に対しても、思うところはあっただろう。石沢に連れられ、大倉喜七郎に面会した蒔田は『大倉男爵から自動車に対する抱負を聞かされた蒔田は、大いに心を動かされる。そして小さな秀工舎を携え、日本自動車㈱への入社を決心した。』常務取締役として迎えられた蒔田の入社は、1928年1月であった。日本自動車側は『飛行機用の塗装工場として設けていた大森工場をそっくり蒔田に提供し、秀工舎の職工毎引き受けた』④-21、P169)こうして蒔田と大倉財閥の思惑が一致し、日本自動車製のニューエラ号が誕生する。
『ニューエラ号は「JAC(日本自動車の英語名のイニシャル)ニューエラ」と改名され、日本自動車の販売網を通じて販売されることになった。』(wiki)そして『新生の日本自動車は、それまでのオート三輪車メーカーに比較すると、資本力でも技術力でも他を圧するだけの企業として出発したのである。』(②、P105)
日本自動車の持っていた設備と強力な販売網、そして資本力を得た時田は、次のステップとしていよいよ、エンジンの内製化に取り組む。
下の写真はweb「三輪自動車の歴史」(web❸)よりコピーさせていただいた。エンジンはまだ、イギリスのJAPエンジンの時代だが、1928年とあるので、既に日本自動車の時代だ。https://www.rakuten.ne.jp/gold/nakabc/auto-3rin/auto3rin-1.htm
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https://www.rakuten.ne.jp/gold/nakabc/auto-3rin/1928-m-3rin.jpg
15.6-5自社製JACエンジンの開発
新体制に移り、蒔田が最初に完成させたのが250cc2ストローク単気筒エンジンのオートバイで、『気筒を前傾させた先進設計であり、小柄な日本人にも載りやすい二輪レイアウトが初めて提示されていた。輸入車の模倣に走らず、独自性を打ち出している点も見事だった。』(④-20、P168+④-21、P171)その設計はツュンダップ(EM250型;3ストローク単気筒249cc)の影響もみられたとの記述もある。(④-1、P160、163)1928年の春に、3台完成させたという。
しかしJACエンジンは『当初は二輪車に装着したが、すぐに三輪車中心に方向を変更した』(①、P138)。日本自動車側としても、ハーレーの販売権を失い口惜しい思いをしていただろうし、当初はそれに対抗する国産オートバイ開発の機運もあったようだが、蒔田は元々、特殊自動車三輪車市場を狙っていたし、早めに方針転換したのが結果的には正解だった。
ただし追記しておくと、日本内燃機がその後完全に二輪をあきらめたわけではなかったようで、後述するように陸軍との関係が深かったこともあり、その後も『ハーレー並みの側車用大型車を製作した』(⑥、P60)。ここでは割愛するが、例によって?(④-20)(④-21)が詳しいので、詳しくはぜひそちらを参照して下さい。(下の写真は、“webオートバイ”(web24-1)よりコピーさせて頂いた、1928年製?の、オートバイ版の“ニューエラ号”の写真?『JACエンジンと名付けられた350cc単気筒はオートバイや三輪車にも搭載されている。』と記されているが、④や⑥の記述からすると、1928年に完成していたのは2ストローク250cc版の軽量車だったはずで、ボリューム感が全く違うが。(ワカリマセン。))
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https://d1uzk9o9cg136f.cloudfront.net/f/16782548/rc/2019/09/24/20ca4d709a70f0c84c9334f2f4f354d13214691f.jpg
15.6-6三輪用JACエンジンの完成
話が脱線してきたので、再びオート三輪に戻し、(④-21)を参考に記す。大森工場(当初の工場名は「日本自動車大森オートバイ工場」)が本格的に稼働し始めたのは1928年の秋からで、JAPエンジンに対抗すべく、350cc単気筒4ストロークエンジンの開発をスタートさせる。JAPやサンビーム製エンジンを参考にしつつ(wiki)、1929年春に最初のロットの試作エンジンが組みあがり、三輪と二輪に搭載されて、徹底的な走行テストを行い、不具合の洗い出しを行った。以下は(⑦、P169)より引用『蒔田は三輪用エンジンを開発する。蒔田は、使用条件を考慮して主力となっている外国製エンジンよりも使い勝手の良いエンジンをつくり、JACエンジンと名付けられニューエラー号に搭載した。輸入されるエンジンは、信頼性で優れていたが、もともと三輪車用につくられたものでない。オートモ号のエンジン開発経験を持つ蒔田にとっては、空冷単気筒エンジンの設計はむずかしいものではなく、輸入されるものより良い出来のものになった。』オートモ号時代に、空冷エンジンの経験も十分積んでいた。こうして1929年9月、JACエンジン搭載のオート三輪とオートバイ版が、同時に発売された。
15.6-7 自社の500ccエンジン搭載のニューエラ号
 オート三輪用としては、1929年に4ストローク・空冷単気筒エンジンの開発に成功、350cc型からスタートしたJACエンジンは、15.5-18項で記した1930年2月の500ccへの排気量枠の拡大に対応して、1930年6月に500cc型をデビューさせた。エンジンのボアアップで対応し、ごく一部の部品を作り替えるだけで迅速に市場に投入できた。(②、P105参考)(下はJACエンジン搭載の1930年製ニューエラ。日本自動車博物館所蔵で、ニューエラの唯一の現存車。なお国産オート三輪の量産型としては、アイザワ号と、宍戸兄弟のSSDの方が先行していた。アイザワ号は台数が少数だったようなので歴史的にどう解釈するか、微妙な立場だが。写真も日本自動車博物館よりコピーさせていただいた。)
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15.6-8外国製に負けない国産エンジンの登場
そしてこの500cc型エンジンの性能は、オート三輪用として優秀で、鉄道省が実施した試験で、燃費、登坂力などの面で輸入品のJAPエンジンに勝る成績を残したという(①、P132、web❷、P40)。『ようやく国産エンジンが、この分野で外国のものに負けないものになったというお墨付きがでたのである。』(②、P106)元々速度を追求したオートバイ用であったJAPエンジンが、荷物輸送用の日本のオート三輪用にチューニングを変えて出荷していたとは思えない。一方JACエンジンは、オート三輪用に特化させた、低速トルクを重視した特性を持たせて、JAPに対して優位に立てたのだろうか。
15.6-9白揚社の技術の中枢を継承した(余談)
この当時のJACエンジンが、優れた性能を誇っていたという別の視点からの証左として、鋳物製造技術の高さも掲げておく。この一連の記事で再三再四記してきたことだが、戦前の国産車製造の技術的なネックは、エンジンの鋳物製造技術だった。
しかしそうした中で、『昭和5年(1930年)頃より、蒔田は軍用保護自動車用の鋳物部品の製造を請け負うようになっていた。特に難易度の高いシリンダーやヘッドなどである。まだ電気炉がなく、坩堝を使っていたが、鋳物の精巧さと強度では国内最高レベルに到達し、ピカ一との定評を得ていた。陸軍もそれは認知していたようである。』(④-21、P172)エンジンの大きさがまったく違うので比較が難しいが、この当時のくろがね(この時点では日本自動車の一部門であったが、これ以降(めんどうなので!)“くろがね”と記す)が、陸軍が支援していた軍用保護自動車三社と同レベル以上のエンジン製造技術を保持していたことは確かなようだ。そしてそのことを充分認知していた陸軍と、陸海軍が最大の取引先になりつつあった日本自動車側の思惑もあり、くろがねは軍用車製造に引きずり込まれていく結果にもなるのだが。
ただくろがねの高い鋳物製造技術は、オートモ号の白揚社由来の技術を、蒔田が受け継いだからのものだった。以下、(④-20、P168)より引用する。
(豊川順弥の白揚社は)『設計者ばかりでなく、一流の職工も育成した。最大の難関だった、シリンダーブロックの鋳造では、川口の鋳物師でも吹くことができず、結局、巣鴨の白揚社内に鋳物工場を設け、鋳物師の育成から素材の研究まで自前で行った。この鋳造においても、現場で陣頭指揮にあたったのは蒔田であった。』(④-20、P168)『蒔田は白揚社の技師長、工場長も務めた。つまりオートモ号の技術責任者でもあり、設計者でもあった』(④-20、P168)。白揚社が無念の閉鎖を迎えると、『白揚社時代の職工の多くも蒔田に従っていた。白揚社が膨大な犠牲を払って築いた技術の中枢は、蒔田によって継承されたのである。』(④-20、P168)
 なんだか(④-20)、(④-21)からの引用ばかりで恐縮だが、『大正期に量産に挑んだ国産車の中で、オートモ号が最高水準に到達したことは間違いない』(④-20、P168)ので、その技術の多くを継承し、さらに発展させつつあった蒔田を擁したくろがねが、この時点に於いては、軍用保護自動車3社との比較においても、それらと同等の、国内最高レベルの技術水準だったことは間違いない。
15.6-10他メーカーへのエンジン供給も行う
 以下はwikiより『輸入エンジンは350cc級が主流で500cc級の製品がほとんどなかったことや、エンジン自体の性能が良好であったことから、販路拡大に繋がった。JACエンジンは輸入品に実用上対抗できる水準の汎用エンジンとして自社のオートバイやオート三輪に搭載されたほか、他メーカーへのエンジン供給も行われた。』国産エンジンが優位に立った大きな理由は、エンジン性能全般の向上とともに、15.5-27項で記したように、関税の引き上げと為替の円安が大きかった。さらに500cc時代はダイハツとマツダも自社製エンジンで進出を果たし、世間の国産エンジンへの不安が払しょくされていった。 
またJACエンジンの外販については、関税引き上げ後の750cc時代に本格化し、TMC(戸田商会)、クラブ、ナニワ、イワサキ(大手だった大阪の岩崎商会、後に旭内燃機)、サクセス、日曹、岡本号などの各車に採用された(④-14、P175、④-20、P166)。
だが500cc時代のくろがねは、『後輪の差動装置やフレームの強化など、改良を続け三輪トラックとしての実力を徐々に高めて』(④-21、P172)いったが、エンジン以外の技術の進化の面では、新たに登場した強力なライバルのダイハツやマツダに対して、一歩遅れをとったことも否めなかった。技術面では蒔田一人に対しての依存度が高く、生産設備で見劣りした上に、期待が高かった陸軍からの様々なリクエストにも応じなければならなかった。製造業の企業としての総合力では元々限界があり、ダイハツとマツダに一歩も二歩も劣っていたため、次第に業界3位の座が定着していった。
15.6-11日本内燃機としての独立
wikiのままで恐縮だが、『日本自動車大森工場の車両製造部門は1932年に日本自動車から独立、~日本内燃機が設立された。工場長であった蒔田鉄司は取締役として日本内燃機に移籍、技術トップとして開発を引き続き指揮した。』なお社長には、日本自動車の取締役で大倉喜七郎の姪の夫である又木周夫が就任した(wiki)。同時に増産に向けて、体制も改められたという。(②、P107)
さらに時代が進み、1933年になると、免許不要とした特殊自動車の排気量の枠が500ccから750ccに改訂されて、「小型自動車750cc時代」を迎える。そこでいったんくろがねの話題から外れて、小型車の法規の変遷について、ここで触れておく。

15.6-12排気量枠が拡大されて「小型自動車750cc」時代に
1933年、再度小型自動車規格が改訂された。車体寸法は変更なかった(長さ 2.80m、幅 1.20m、高さ 1.80m)が、排気量は750cc以下(4ストローク。2ストロークの場合は500cc)、出力4.5KW以下まで拡大されて、さらに乗車人員の制限も撤廃された。この改訂は、後述する四輪小型車にもっとも恩恵が大きかったが、もちろんオート三輪にもメリットは大きかった。パワーの増大で積載量が増えたこと以外にも、商用車は二人乗り、四輪乗用車は四人乗りが可能になった。『この改定によって、オート三輪は運転席の脇に小さなシートがつけられて、助手の同乗が可能になった。』(②、P185)輸送時の荷物の積み下ろしが楽になったという。以下、法規の決定の過程を、もう少し詳しく見ていく。まず「自動車」の定義そのものが変った。(④-14、P171)より引用する。
15.6-13「自動車かそれ以外」から「普通・小型・特殊自動車」の三分類に
『内務省は昭和5年2月の規格改正後に、各方面の識者を委員として選び、次の改正案の研究委員会を迅速に起こしていた。もともと当時の自動車取締令は、大正8年に公布した初の全国規模の取締令であり、既に時代遅れとなり、不都合が出ていたからだ。』ここで再び、業者団体等による陳情が繰り広げられることになるのだが、『法案全体の解釈に於いては、まず自動車の定義をこの時点で変更した意義が大きかった。』(④-22、P166)同書より引用を続ける。
『それまでの取締令が、自動車(普通自動車)か、あるいは自動車以外(特殊自動車など)の2種類のみとして扱っていた定義を、「普通自動車、小型自動車、特殊自動車」の3種類に分類することとしたわけだ。』そして、少々ややこしいのだが、従来“公式な自動車とは認められない”ので「特殊自動車」とされてきた、オート三輪や小型四輪車(今回の改正で750cc以下となった)は「小型自動車」と呼ばれるようになり、従来の延長線上の特典を維持したが、『特殊自動車の一つとみなされていた自動自転車(オートバイ)などは、それまで車両検査も運転免許さえも不要だったのだが、新改正令では車検も免許も受けなければ運転できなくなった。』(④-22、P166)
15.6-14運転免許も「普通免許、特殊免許、小型免許」の三分類に
そしてこのタイミングで運転免許制度も、従来「運転手免許」だったものが、「運転免許」に代わるなど、大きく変わる。以下webの「免許の歴史を徹底解説」(web46)と(④-22、P166)を参考に記すと、改正後は「普通免許」、「特殊免許」、「小型免許」の3種類に区分されるようになった。ここでもややこしいが、ここでいう「特殊免許」とは、牽引車やロードローラー、さらには電気自動車や蒸気自動車、さらには自転自動車などの、“特殊車両”に対してのもので(④-22、P166に、当時の分類表がある)、750cc以下のオート三輪と小型四輪車は「小型免許」に分類された、小型免許に関しては、従来のいわゆる無免許運転可の特典を考慮して、無試験で申請許可制とし、利便性を維持した(無免許運転制度⇒無試験運転制度へ)。しかし1936年からは教習所の10時間技能証明書を提出して学科の口頭試問をパスしないと免許が交付されないように強化されていったという。次第に「無試験」ではなくなってきたようだ。なお免許を取得できる年齢は、普通免許と特殊免許は18歳からであったが、小型免許は16歳からと規定されて、ここでも利便性を保てた。
15.6-15オースティン・セブンをめぐっての攻防
 さきの15.5-26項で、ダット自動車製造が、オースティン・セブンの無試験免許適応を阻止するため、500ccにこだわったことを記したが、逆の立場からみた場合、セブンは750ccだったからこの制度の恩恵を享受できなかった。
そこで『メイン・ディーラー日本自動車は枠拡大の働きかけを行い1932年にはこれが成功して枠は750ccに拡大された』(web❹-2)と記されている。ここで業界団体からの陳情の流れを、(④-14、P171)から確認していく。
まず初めの動きとして、蒔田ら『芽生え始めたばかりの国産エンジンの製造業者達が会合を開き、次の2点の要望を内務省に陳情した。』その2点とは、「排気量750ccへの拡大」と、「乗用人員制限の撤廃」だ。
そして内務省は、昭和7年(1932年)10月25日、改正案を事前に公表し、広く社会から意見を求めた!『内務省が公布の半年以上前に改正案の全文を公表するのも異例であった。当時の内務省による自動車行政は思いのほか民主的だったのである。』(④-14、P172)確かに、今のパブリックコメントみたいだが、形式的なものではなく、もっとオープンで民主主義的な姿勢だ。
この内務省による事前公開もあり、東京の業者による「東京自動三輪協会」(会長山成豊(KRS)、理事に小宮山晃司(MSA)、桜井盛親(ハーレー)、小野梧弌(東西モーター)、 前島益雄(ウェルビー)、そして蒔田ら)という業界団体が結成され、内務省の改正案に対して、「自動車税の減税」と「全長2.8mを3.0mに拡大」の2点を陳情している。ということは、内務省が事前公開した改正案では、750cc化と乗用人員制限の撤廃は含まれていたが、全長は2.8mのままで、変更なかったのだろう。
特に車体寸法に関しては、オート三輪メーカーとオースティン・セブンを販売する大倉財閥系の日本自動車は、拡大を強く要望していた。大倉財閥は、オート三輪メーカーの日本内燃機も擁していたこともあり、とりわけ熱心だったようだ。一方ダットサン側は現状維持を主張して激しく対立し、結局後者の意見が通る。
以下も引用を続ける。『しかし法規にはもう一つ縛りがあった。それは「車体寸法」で、全長2.8m、全幅1.2m、全高1.6mはダットサンがギリギリ収まる大きさだった。オースチンはフェンダーを加工して幅を詰めたりしてなんとか対応していたが、1933年からはシャシーが6インチ長くなり改造できる範囲では無くなってしまった。そこで生産中止となったショートシャシーをまとめて特注し、それに日本の法規に収まるボディを国内で架装すると言う方法が考え出された』のだという。
15.6-16国産のダットサンに有利に決着
ダットサン対オースティンの、小型車の法規を巡っての戦いは総じていえば、当時まだ、生産台数はけっして多くはなかったダットサン(この当時、資本的には久保田系から日産系に既に移っていた)側の主張の方が多く受け入れられたが、それは国産の小型四輪車の産業を振興させたいという、国家(この場合主に商工省と内務省)としてのスタンスでもあったのだろう。ちなみに蒔田は『こうした四輪メーカーの態度を批判的に見ていた。というのは、有力なライバルと対等に技術競争する気概がなくては、性能の良い自動車の開発などできるものではないと思っていたからだ。』(⑦、P180)さすがにオートモ号の開発に携わっただけに、気骨があった。下の写真は1928年製のオースティン・セブンで、カーグラの読者の間ではあまりにも有名な、小林彰太郎が長年、愛用したクルマ。セブンは1923年から39年までの17年間に約25万台も量産された、イギリスを代表する大衆車で、欧州各国でも生産されたロングセラーカーだった。
写真はオートカージャパンよりコピーさせていただいた。
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15.6-17 1936年の自動車製造事業法では、イギリスフォードの小型車が意識される(余談)
(ここで内務省の話からは外れて、またまた余談に入る。750cc化の3年後の1936年に、自動車製造事業法が成立する。この法律のターゲットは、何度も記してきたように、当時日本でKD生産されていたフォードとシヴォレーの乗用車とトラックだったので、3,000cc級と大きかった。小型車のように「国民の足」ではなく、陸軍の影響が強かった当時はあくまで「軍人の足」の確保だったのだ。
しかし同法が『小型車を法の対象から除外した上で、さらに750cc以上と広い範囲を設定する理由は、台数において少数だが、1,000ccクラスでの工場進出を規制することを狙ったから』(⑪、P236)だという。
当時の商工省と陸軍省が恐れていたのはもはやオースティンではなく、一世代進化したフォードやGMの欧州子会社オペルの小型車で、より具体的に言えば、当時は輸入車として日本の市場に入ってきた、英国フォードの「エイト」(933cc)や「テン」(1,172cc)が国内生産されることだったのではないかと思われる。すでに芽生えつつあったオーナーカー需要に加えて、より大きな、小型タクシーとしての需要も開拓できる存在として映ったのだろう。
前回の記事で、戦前の日本の四輪車の世界は、「タクシー(円タク)モータリゼーション」であったと記したが、①によれば、当時大需要者として一定の影響力のあった、タクシー業界からは、『小型車の規格をさらに1,200ccまで拡大し、小型タクシーの許可を求めるようになった』(①、P215)という。イギリス・フォードの“テン”を意識していただろう。ただ当然ながら、統制経済を強引に推し進めていた陸軍+革新官僚の強力なタッグの前では、その陳情は通らなかった。ちなみに自動車製造事業法の前の、小型車の750cc化への改正前にも、当時軍用保護自動車の瓦斯電で販売を担当し、後にダットサンの販売店となるダットサン自動車商会の創業者となった吉崎良造が、ニュートラルな立場から、1,200cc級を陳情していた。詳しくは(④-14、P172)を参照して下さい。下の写真は(web❻-1)(ポルシェ356カレラさん)よりコピーさせて頂いた、1936年の英国フォードのテンのカタログで、4ドアタイプを描いたこのイラストは、(web❻-1)によれば『日本人が乗車した、明らかに日本オリジナルのイラスト』だという。)
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15.6-18 750cc化で2気筒エンジンを投入、独自色を打ち出す
 くろがねの話に戻す。以上のように、1933年に小型車の規定が750ccに改訂されるが、ここで日本内燃機は他社の単気筒に対して、V型2気筒エンジンを投入し、独自性を打ち出す。この時期はすでに、ダイハツとマツダがオート三輪業界に進出済みだったが『振動や騒音の面で2気筒は単気筒より有利であった。高級感もあり、技術のわかる人たちには好評だったが、コストがかかるものだった。』(②、P107)
 このV2エンジンの選択は、単気筒だったダイハツやマツダに対しての差別化とともに、他のオート三輪メーカーと違い、オートバイも作っていたため、エンジンの共用化の可能性も考慮した結果かもしれない(下調べしていない、テキトーな考えです)。
また500ccへの改訂の時もそうだったが、『小型車の改訂に新型の発売のタイミングを合わせたことで、日本内燃機のオート三輪は好評裡に販売を伸ばしていった。』(②、P107)さすがに日本自動車の情報収集力が高かったのか、750ccへの改訂の時も、事前準備が早かったようだ。しかし『このときに同社でもシャフトドライブにしているが、こうした新技術の採用では、後発のダイハツやマツダに一歩遅れたところがあった。』(②、P107)陸軍向け車両の開発もあり力が分散した結果でもあったが、総合力で勝る上位2社に、主力のオート三輪の開発で、もはや遅れを取りつつあったのも事実だった。なお(⑭、P14)には、650ccエンジンも投入し、500cc版の12㏋に対して15㏋にパワーアップしたという記述があるが、このエンジンは単気筒型だった。戦前のオート三輪の歴史については、各資料で微妙な違いがあり、判然としない部分があることを追記しておく。
15.6-19陸軍との強いつながり
戦前の日本内燃機を特徴づけるものとして、陸軍との関係が密接だった事があった。陸軍は小型自動車に対して、軍用車としての価値が低いと評価しており、総じて冷淡だった(⑬、P171)。そのため軍事体制が本格化する前のこの時期は、オート三輪業界との関連は薄かったが、日本内燃機だけは例外だった。
日本内燃機を技術面で率いた時田が『小型ガソリン機関の先駆者であり、権威者』(⑥、P60)であったので、『機械化が遅れていた日本の陸軍は、くろがねの技術力、つまり蒔田氏のエンジニアとしての能力を当てにしていろいろな要求を日本内燃機に出してきた』のだという。(②、P108)陸軍の要求は多岐にわたり、本業のオート三輪の商売の足を引っ張る面もあったようだが、蒔田と日本内燃機は積極的に応じたのだという。さらに追記すれば、前回の記事の12.15で記したように、戦前の日本の自動車社会では「陸軍がハドソンで海軍がビュイック」と決まっていたと言われたように、大倉系の日本自動車は元々、日本陸軍との関係が深かったことも一因だったと思う。三共以前の日本自動車が代理店だった時代のハーレーも、陸軍への売り込みに成功していたのは既述の通りだ。
15.6-20 くろがねでもっとも有名なのはオート三輪でなく“くろがね四起”
 そしてその取り組みにおける最大の成果は「くろがね四起」としてあまりにも有名な、九五式小型乘用車だ。たぶん「くろがね」の名前はこの、ミリタリーマニア(ミリオタ)の間では有名なクルマの存在故に、これからも語り継がれていくのかもしれない。
ただこの記事では、web等で容易に、詳細情報が検索できる情報は、あっさり短めに扱いたいので、安直だがwiki等を参考に簡単に記しておく。まずは概要について、wikiより(要約)
『1934年、帝国陸軍は不整地走行性能に富む小型の偵察・連絡・人員輸送用車両(軽四起)の開発を、日本内燃機、豊田自動織機自動車部、発動機製造、岡本自転車自動車製作所の各自動車メーカーに依頼した。』大きく言えば、陸軍将校が載るオートバイ(側車付)に代わるものとして試作を依頼したという(⑫、P195)、⑬、P177)。後に登場するアメリカのジープや、ドイツのキューベルワーゲンのように、小型トラック的な使い方までは想定しておらず、搭載量は劣る。またオートバイの側車としても、陸王の2輪駆動型サイドカー(九七式側車付自動二輪車)が完成する前だ。
引き続きWikiより引用を続ける。『試作型の評価の結果、最も優れていた日本内燃機製が制式採用され、1936年(昭和11年)から量産された。当時の量産軍用車としては国産初の四輪駆動機構を備え、道路整備状況の悪い中国大陸や東南アジア方面などで極めて良好な走破性を発揮した。』完成した日本内燃機製の試作車は、『小型車ながら富士の演習場では高い路外走行性能を示し、関係者を驚かせた』(⑬、P178)という。
制式採用されたのちも、エンジン出力の増強や乗員数の増加等(2→3→4人)がはかられるなど改良が続けられて、終戦までに4,755台(⑫、P196では。⑬、P178では4778台)が生産された。そのうち480台が海軍向けだったという(⑫、P196)。以下は①、P301より『日本内燃機の場合、44年まで小型四輪車の生産が増加し続けたことが注目される。トヨタや日産といった軍用普通トラックを製造していたメーカーよりも同社の軍用小型車の生産がより優遇されていたことになるからである。』
(なおこのクルマのエンジンは、同じV2型なのでオート三輪用がベースだと誤解されがちだが、wikiによれば全く違い、SVでなくOHVの別系統のものだそうだ。詳しくはwikiを参照して下さい。下の写真は世界に2台しか存在しない(もう1台は日本自動車博物館)という、くろがね四起の後期型で、なんとアメリカのペンシルバニア州にある「Redball Military Transport Club」というところにある!ブログ「社長の小部屋」
http://shachonokobeya.blog71.fc2.com/blog-entry-1043.html?sp
さんの記事よりコピーさせて頂いた。
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https://blog-imgs-133-origin.fc2.com/s/h/a/shachonokobeya/IMG_1315_20191219133125222.jpg
15.6-21大倉財閥系から寺田財閥傘下へ
 このように陸軍との関係が強まり、オート三輪の販売も増え続ける中で『これらの軍需対応に伴い、生産体制の強化が必須となったが、それまで日本内燃機の後ろ盾となってきた日本自動車とその母体たる大倉財閥は、日本内燃機に対して十分な資本増強を行うことができなかった。』(wikiより)
そのため1936年に200万円に増資する過程では経営内紛が発生し、新たに株式を取得した、泉州の岸和田紡績を中心とする繊維工業資本である、寺田甚吉率いる寺田財閥が日本内燃機の経営における主導権を握る。(①、P297及びwiki)こうして、『日本内燃機は1938年頃から軍需部門へのシフトによって企業拡大を成しとげ』(①、P301)るのだが、その過程で、当初200万円だった払い込み資本金は1943年には2,500万円まで増加するなど、大幅な資本力強化を図ることになった。(①、P299及びwiki等参考。この間の大倉財閥、寺田財閥との関係について、さらに詳しく考察していきたいが、本題と逸れてしまうので割愛する。①等に詳しいので、そちらをご覧ください。ちなみに①、P297によると、1936年頃の自動車専門紙「オートモビル」によれば、当時は大倉財閥から森財閥傘下へと移るだろうとの観測だったという。さらに①によれば、38年上半期時点で豊田喜一郎が日本内燃機の株式を5%所有して、取締役にもなっている理由は、トヨタ自動車との関係というよりも、豊田自動織機との関係ではないかと考察している。(①、P298))
15.6-22“ニューエラ”から“くろがね”ブランドへ
 1937年には鉄に象徴される当時の軍国的風潮に乗じ、蒔田鉄司の名とも絡めた「くろがね」にブランド名を変更した。(wiki)以下もwikiより
『英語名では当時のユーザーに親しみを持たれにくく、また競合メーカーからは「ニューエラー(新“失敗”)だ」などとブランドをもじった悪口を言われるなどの難もあったことから、こうして名・実ともに?民需から軍需中心への移行を果たした。
『同社は1940年頃になると、定款を改正して営業品目に飛行機を追加する代わりに三輪車・二輪車を削除するなど、より軍需部門に特化する戦略を採るようになった。』(①、P299)
 次第に戦時体制下に移行する中で、後述するダイハツやマツダは、本来の企業活動の柱であるオート三輪の製造・販売が行えなくなることを危惧し、実際に業績面で大きなダメージを受けたが、日本内燃機の場合『むしろ、戦時体制になることによって、企業の規模が拡大し、従業員数も工場の数も増えていった。』(②、P110)
陸軍と強力な関係を築いた結果、企業活動が抑圧された『発動機製造や東洋工業が戦時期に「軍用に適さない」小型車から鉄道車両部品や小銃にそれぞれ主力製品を換えざるを得なかった』中で、その両社に代わり、1940年から日本内燃機が最大の小型車メーカーに躍り出たのだ。
実際には二輪・三輪の製造もやめてしまったわけではなかったが、同社の足跡をたどるのは、ここで終わりにする。
(“くろがね”を文字通り象徴する存在であった、蒔田鉄司のその後だが、寺田系の重役陣と対立するに至り、1943年に退社』し、戦時統制体制下で、小型自動車統制組合の理事長という公職に就任する。戦後も日本小型自動車競走会連合会(オートレース)の常任理事に就任するなど活躍したが、古巣のくろがねに復帰することはなかったという。(②、P110)下の写真は富士重工大宮工場製の1953年型ハリケーン350RB。⑥によれば、蒔田氏は小型ガソリン機関の権威者であるので『新興の製作所から指導を乞われる場合が多かったようである。~戦後もそれが続き、確か富士重工のハリケーン350cc型も、氏の設計によるものだったと聞き及んでいる。その他、我々の知らないもので、氏の息のかかっているものが相当あるのではないか。』(⑥、P60)という。実際(④-20、P167)によれば、メグロ号オートバイの戦後復活の足掛かりとなった250ccのジュニア号のエンジンは、『目黒製作所の鈴木高次社長の依頼により、真夏の夜、蚊帳の中で一夜にして書き上げたという。』仕事に対しての集中力が高く、仕事が早かったのも特徴で、白揚社時代『オートモ号に続く、水冷のアレス号は豊川の指示を受けて、蒔田が5日間で設計した』(④-20、P168)という。生産要件まで含めて、全体を把握していたからこそ可能だったのだろう。黎明期の国産二輪/三輪/四輪自動車の技術の発展に大きな功績を残した、自動車殿堂入りしてもおかしくない偉人だったと思う。写真はブログ「モーサイ」よりコピーさせて頂いた。
https://mc-web.jp/archive/history/21384/
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https://mc-web.jp/wordpress/wp-content/uploads/2020/01/tettai2-2_001_hurricane.jpg

15.7戦前のオート三輪業界のトップメーカー、ダイハツ
 さてここからいよいよ、戦前、戦後を通してオート三輪業界で2強だった、ダイハツ(当時の正式社名は「発動機製造」だが、以下馴染み深い「ダイハツ」と総称する)と、マツダに話が移る。この2社の戦前の活動を記して、戦前のオート三輪の話を終えたいが、この両社は、ご承知のように現在でも盛んな企業活動を行っており、トヨタほどの立派なものでないにせよ、創業時から今までの大まかな歴史がわかる、企業博物館もあるようだ(行ったことはないけれど)。戦後変遷を繰り返したくろがねのように、その現在形が日産工機?東急(車両)系??などと訳が分からなくなっている企業とは立場が違う。
通常自動車メーカーは、過去に誇るべき車種や歴史がある場合、広報活動として、企業側からも情報発信しているのが常なので、webでも多くの資料が検索できる“はず”だ(と最初は思っていた)。
この一連の記事の趣旨として、webや本で容易に情報が得られるものがあれば、その出元を紹介して、略して記そうと考えているが、しかし地味なジャンルなのか、戦前のオート三輪の情報は、非常に少ない。やはりダットサンのような、四輪の乗用車とは、関心の度合いが違い、メーカー側の扱いも違うのだろうか。
15.7-1戦前のダイハツオート三輪の正確な情報が少ない
さらに、この2社で比較してみると、マツダに比べてダイハツの情報量が圧倒的に少ない。戦後に於いては、映画への“出演”もあり、ミゼットは愛すべき人気のキャラとして、メーカー側も持ち上げているが、戦前に限定して言えば、コアなミリタリーマニアが頑張っているくろがね四起の方が、はるかに情報が多いくらいだ!
オート三輪の歴史を記すうえで欠かせない、戦前のトップメーカーであるダイハツの情報が少なかったのは大誤算だ。たとえば歴史的に節目になると思える重要なポイントでさえ、情報源によってかなり “ばらつき”があり、そのためダイハツの戦前のオート三輪の歴史を著すことが、予想に反して相当てこずってしまった。
この情報量の差は、現在の立ち位置(2016年8月にダイハツ工業はトヨタの100%出資の完全子会社化した。対するマツダに対してのトヨタの出資比率は5.1%)の違いを反映しているのかと最初は思ったが、必ずしもそうとも言えないようだ。
あまりの情報不足のために、ここは“原点”に立ち戻り、社史を調べるしかないと思い、古本で「(ダイハツ)60年史」を購入した(㉙)。ダイハツの社史としては「道を拓く ダイハツ工業100年史」(2007年)というものが新しいが、「60年史」の方が、1967年発行なので、三輪が辛くも現役(生産していた)の時代で、戦前のオート三輪について、より詳しい記載があるだろうと期待したのだ。
15.7-2その一因は、社史の内容が薄いため?!
ところがこれが、全くの期待外れだった。そもそも本全体のボリューム自体が小さい上に、当時のダイハツが、オート三輪自体を軽視していたためか(たぶん)、戦前の自社のオート三輪の変遷について記すのに必要なページ数を、割り当てられていない。
戦前のオート三輪の、名実ともにトップメーカーであったダイハツに関しての情報が、世の中でなぜ少ないのか、その理由の一つに、そもそも“教科書(社史)”の中身がスカスカだったということだけはこれで確認できたが。仕方なくその後「50年史」(㊴)も購入し、それは60年史よりは多少マシな内容だったが、とても充実した記述とは思えなかった。
そこでこの記事では、戦前のダイハツのオート三輪史の節々での、その判断の“よりどころ”としては、㉙と㊴の社史では不十分だったので、“社外品”の?①、②及び(④-19)等を基準にしたことを、お断りしておく。
(今回ダイハツの社史と同時に、ほぼ同じころに発行された他社の社史もいくつか購入したが、たとえばマツダ(50年史:⑰、本文だけでA4×551頁)やトヨタ(30年史:㉘、同A4×704頁)と比べると、年数は60年と一番歴史が長いはずなのに、本のボリューム自体がそれらの半分以下で圧倒的に少ない(㉙、同B5×P255)。
その内容も、たとえ主観が混じっていようとも、その製品に対して注がれた、熱い思いが文面から伝わってくるトヨタとマツダの社史に比べると、教科書的な編集で、読み物としても面白みに欠き、少々がっかりさせられた。
ただここで、ダイハツ側の立場に立ち、㉙の社史が編纂された1967年3月当時を振り返り、弁明?を試みれば、この時期はダイハツにとって、微妙なタイミングだったことも確かだ。オート三輪メーカーであるというイメージから何とか早く脱して、乗用車を含む四輪メーカーへ転換を図ろうと必死な時期で、オート三輪はダイハツにとって、あくまでも踏み台に過ぎず、社史に書かれていたように“~当社が、現在の乗用車メーカーに発展する輝かしい門出にもなった”程度の位置づけに落とし込みたかったようにも思える。
この当時は、通産省の行政指導による業界再編の嵐の真っ只中で、実際同年11月にはトヨタと業務提携しており、水面下ではすでに、交渉の場が持たれていた時期だったのかもしれず、そんなデリケートな状況も、社史の内容に微妙に影響を与えたのかもしれない。交渉相手のトヨタ側のスタンスとしては、『ダイハツはバランスシートをみても健全経営そのもので、そんなに困っていなかったはずだ。ただ、健全経営といっても、将来性があるとは限らない。
小石雄治社長(故人)が、先の見込みがないと判断して、三和銀行にトヨタとの提携仲介を頼んだのか、三和が小石さんを説得して仲介したのかわからない。
業界編成が盛んにいわれた当時で、中堅メーカーは浮足立っていた。』
と、トヨタの経営者は(㊵、P190)でシビアに記されている。
これがその時点における、ダイハツという会社の、“正直な気持ち”であったのであれば、その状況が社史に反映されるのも、それもまた、やむを得なかった気もするが、しかし“社史”は、その時の状況だけではなく、その会社が過去に歩んできた正確な歴史(事実)を、後世に伝えるためのものでもある。
戦前の自社のオート三輪車の車種構成の、その変遷すら省く等、あまりに簡略化して記述したために、今日、日本のオート三輪史を振り返ろうとしたときに、基本的な部分であまりに欠落が多くなり、現在の混乱の原因を招いたと思う。
下表はその㉙より引用させて頂いた、1964年度と1965年度の、全国法人申告所得上位30社の表だが、ご覧いただければわかるように、高度成長期の日本を代表する錚々たる企業に混じって、ダイハツが2年連続で堂々ランクインされている。(表18「全国法人申告所得上位30社(1964年度、1965年度)、「六十年史」ダイハツ工業株式会社(㉙)、P207より引用」)以下も(㉙、P206)より引用
『総資本の効率については、利潤追求の見地からも、きびしく方針が打ち出されていて、総資本税込み利益率10%確保を目標に努力してきたが、幸いにも、41年(1966年)4月期から、10%に達することができた。このことは、あらゆる資産が年1割の利回りで運用されていることであって、企業内容の堅実性を意味するものといい得よう。』当時のダイハツは、売上高だけではなく、高い利益率も誇る、名だたる優良企業だったのだ。しかし、同業他社に比べて中身が薄い社史編纂の方針も、厳しい原価低減の方針を貫いた結果であったとしたら、少々寂しかった。)
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15.7-3日本の自動車メーカーとして最も古い歴史を持つ名門企業
この記事の守備範囲は戦前なので、先述のように当時の社名は「ダイハツ」でなく「発動機製造」だったが、馴染みのあるダイハツの名で以下も記す。まずは有名な社名の由来から始める。以下(web28-2)より『~その後、ガス燃料発動機を製造する会社がいくつも出現するようになってきた。そこで他社と間違えないように、「大阪高等工業の発動機製造会社」と呼ばれていたものが、いつしか「大阪発動機」と短くなり、やがてこれを詰めて「大発(だいはつ)」と略して呼ばれることが普通になってきた。』
「大阪の発動機」が短縮されて「大発」から「ダイハツ」になったという。メーカー側から流布したというよりも、地元の顧客の間で自然とそう呼ばれたからというのも、大阪という地に根ざしたダイハツらしい。ダイハツ工業に“正式”に社名を変更したのは戦後の1951年だ。
そしてその創業は1907年だというから、今年(2021年)で創業114年になる。三菱重工業を源流に持つ、「三菱自動車工業」と「ふそう」をどのように考えるかにもよるが(長崎造船所を起点とすれば1884年になる)、現在量産車を手掛ける日本の自動車会社としては最も古い歴史を持つ由緒ある、名門企業なのだ。(下の写真はダイハツ創立100周年を記念して2007年にオープンした展示館、“ヒューモビリティワールド”の入り口近くに鎮座する、巨大なディーゼルエンジン。現存するダイハツ最古の発動機だという。
以下https://www.sankei.com/article/20150806-FJNZIPLMA5PVPPOLDIX4NRJXMM/
より要約すると、滋賀県内の水田で水をくみ上げる灌漑(かんがい)用に昭和8年(1933年)、納入されたものを譲り受けたもので、約20年間にわたり水田に農業用水を供給し続けたという。写真はhttps://www.transport-pf.or.jp/norimono/museum/hmw/よりコピー)
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https://www.transport-pf.or.jp/norimono/museum/hmw/photo1.jpg
15.7-4産学連携で起業
ダイハツの大きな特徴として、阪大工学部(当時は大阪高等工業学校)との、今でいうところの産学連携の形でスタートしたという、たぶん当時としては異例の、学術的な面も併せ持っていたという点だ。以下は(web⓰-3)より引用
『~ところが、ダイハツのルーツは、こうした流れ(注;三井、三菱、住友ら大財閥)とは趣を異にし、機械工学の学者たちの熱意から始まっている。企業を起こして、利益を追求するというより、むしろ学究的な動機が先行したようだ。いわば純粋理工系のアウトサイダー的事業集団。何しろ「内燃機関の国産化」が主な設立趣旨だった。』
以下はダイハツのHP(web❺)より引用
『設立を計画したのは官立大阪高等工業学校(現・大阪大学工学部)校長の安永義章博士ら学者たちであった。「日本の真の工業化には内燃機関の国産化と普及が不可欠」との信念に基づくもので、こうした想いに賛同した大阪の財界人との「産学連携」による当時では異例の企業発足となった。』内容が重複するが、ダイハツの社史を元に編纂したと思われる⑱より引用
『大阪高等工業学校の校長であった安永義章、同校機械科長の鶴見正四郎は、まだ黎明期だった内燃機関の工業化に着目し、実業家の岡実康(注;大阪機械工業事業所主)、桑原政(注;大阪商工会議所特別委員)、竹内善次郎(注;大阪巡航海部式会社社長)たちに会社設立を打診。どの結果、創立事務所が設置され、会社設立までの諸準備が進められた。創立総会は明治40年(1907年)3月に開催され、発動機製造株式会社が設立されたのである。』(⑱、P5)
設立の中心になったのが、大阪高等工業学校の校長であった安永義章と、同校機械科長の鶴見正四郎だったというところからみても、創業当初から生真面目なメーカー体質だったようだ。
そのため、創業者一族による強烈なリーダーシップで自動車作りに邁進していったという、ありがちなパターンではなく、民主的で理性的な?企業運営だったようだ。
(それにしても社史(㉙、㊴)に、せめて上位株主の変遷の表ぐらいがあれば、いくら産官学の連携でスタートしたと言っても、世の中、綺麗ごとばかりではいられないので、もう少しその“背後関係”がわかるのではと期待したのだが、表面的な社史なので、大株主の実名表記がなく、さらにがっかりさせられた。下の写真はダイハツのホームページよりコピーさせて頂いた『出力6馬力の国産第1号の吸入ガス発動機』だ。
https://www.daihatsu.com/jp/company/know/history110/index.html
以下はRJC(自動車研究者ジャーナリスト会議)の、「ダイハツの100年をかいまみる」http://www.npo-rjc.jp/daihatsu/ (web❿として引用)からの引用
『発動機製造株式会社は創業した年(1907年)の12月、製品第1号となる“6馬力吸入ガス発電機”を完成する。1917年には船舶用の蒸気機関を、1922年には“超ディーゼル小型発動機”を完成するなど、発動機を中心に活動を進めた。』ちなみに創業時の旗振り役だったとみられている安永義章は、1918年に亡くなっているので、オート三輪事業とは無関係ということになる。)
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https://www.daihatsu.com/jp/company/know/history110/img/ph-history01-02.jpg
15.7-5陸軍が自動車産業を興そうとしたとき、真っ先に声をかけた
そして、この一連の記事の“9.8項”で記したように、陸軍が軍用自動車の産業を日本で興すべく、直接の関与を始めたとき、最初に声をかけたのが、ダイハツだったのだ。以下も手抜きで、その9.8項から「 」部分をそのまま引用する。
「陸軍が瓦斯電以外に参入を期待したメーカーの中には、たとえば発動機製造(ダイハツ)、川崎造船所、三菱神戸造船所という、有力メーカー3社の名前があった。
 発動機製造は、国産エンジンを開発する目的で、当時の大阪高等工業学校(現在の大阪大学工学部)の学者や技術者が中心となり、大阪の財界も協力して興された会社で、エンジンの技術開発や生産で実績があり、既に定評がある会社だった。自動車を作る上では瓦斯電よりも実力は明らかに上で、陸軍内で軍用車の試作を担当した大阪砲兵工廠と同じ、地元大阪ということもあり、陸軍は内心期待していたようだ。しかし結局、“一歩”踏み出すことはなかった。当時各種エンジンの生産で手いっぱいで、余力がなかったことが理由とされているが、陸軍の計画があまりに楽観的で採算が合わず、リスクが大きすぎると判断したからではないだろうか。」この一文で記したように、ダイハツが当時(第一次大戦中のころ)、自動車で最重要部だったエンジンの開発に実績を持ち、その技術力を有する数少ないメーカーだと認識されていた。陸軍が最初に目を付けた理由は理解できる。
しかしダイハツは、先に記したように、当時としては例外的に?トップダウン式の決断ではなく、合議制に基づいて理性的に判断していくメーカーだったようで、陸軍からの誘惑?に、簡単には乗らず、冷静に協議し判断した結果、このタイミングでは自動車と距離を置く道を選んだ。(さらにもう一点付け加えれば、それでも国産車のまさに黎明期に、自動車産業へ興味を持ち、また不思議な縁で結ばれていたことも確かだったのだろう。そして陸軍の手引きしたこの自動車製作の経験が、社史の(㉙、P12)によれば『その後の企業としての方向づけに、大きな意味を持ったものであると考える』と記している。下の写真はダイハツのHP(web❺)からのコピーで、『設立当時の工場と製品』)
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https://www.daihatsu.com/jp/company/know/history110/img/ph-history01-01.jpg
15.7-6戦後恐慌を乗り越えて経営の自立体制を確立
こうして、『原動機の国産化による工業立国への貢献という創業の理念を、着実に具現化していった』(web❺)ダイハツだが、第一次世界大戦後の反動による不況(いわゆる“戦後恐慌”)で、創業以来最大の経営危機に直面する。以下(⑱、P8)より引用
『(経営危機に直面したダイハツは)大正10年(1921年)11月には、経費節減のために職員と工員の過半数を原因している。しかし、その非常対策が功を奏して、~大正15年頃には経営の自立体制をほぼ確立するまでに至っている。多数の企業が倒産消滅していくなかで、あくまで自力で活路を切り開いたことは、その後幾多の不況に遭遇しながらもそれらを克服し、会社創立100周年を迎える糧となっていく。』国に大きく頼らずに、ほぼ独立独歩でやってきたダイハツの、気概を感じさせる部分だ。
15.7-7不況で業績が伸び悩み、新分野に進出
 こうして『大正から昭和へと時代が移る1920(大正9)年代の日本経済は混迷を極めた』(web❺)苦しい状況の中でも、爆発的な成長こそないが、着実に成長を遂げていく。『優秀な技術者を意欲的に集め、技術的に優れた企業として活躍した。この頃の主な製品は、小型ディーゼル機関や鉄道車両用の制動装置、機関車用の給水ポンプ、重油発動機などであった。』(②、P33)特に国鉄(鉄道省)向けの製品に活路を見出したようだ。
 しかしそれでも、昭和の不況期の影響はやはり重く、ダイハツの業績も伸び悩む。そこで鉄道用機械類や各種発動機以外に、新分野の開拓として目を付けたのが、オート三輪用エンジンだった。
(ここで余談になるが、先に陸軍が瓦斯電以外に自動車産業に参入を期待したが、やんわりと断ったメーカーとして、ダイハツ、川崎造船所、三菱神戸造船所の3社の名前を掲げたが、ダイハツがオート三輪に目を付けたのと同時期の1930年頃に、奇しくもこの3社が自動車産業へ参入を果たす。次の記事で記す予定だが、三菱造船所と川崎車両(川崎造船所の自動車部から分離)は、鉄道省からの省営バス開発の呼びかけに応じて、自動車製作を始めることになる。大財閥といえどもその当時の造船部門は、造船不況の影響で、新規分野の開拓に迫られていたようだ。『これらのメーカーは本業での不況打開策の一環として、相対的に不況の影響が少なく成長分野である自動車工業への進出を行ったのである。』(①、P162)以前の記事の8.2-2で記したが、自動車に進出した石川島も、この時期は新規事業の自動車ではなく、実は主力の造船部門の不調の方が、経営全体の足を引っ張っていたという。)
15.7-8オート三輪用の500cc単気筒エンジンの完成
以下(web❿)より引用『1929年4月に2サイクル350cc単気筒、翌30年4月には4サイクル500cc単気筒ガソリンエンジンを完成、当時数多くあった小規模三輪自動車組立業者に売り込みを図った』。(⑱、P11)にも同様の記述があるが、くろがねやマツダと同じく、350ccから開発を始めて、小型車の規格変更に合わせて500ccに切り替えているが、(web❿)が正しい情報だとすれば(RJCのレポートなので正確だと思う)、350cc型は2ストロークエンジンであった。くろがねやマツダはオートバイ用だったがやはり2ストから開発を始めたが、ダイハツも同様に、自動車用エンジンの開発は2ストロークエンジンから始めている。
エンジン開発力に自信のあったダイハツが、自社の得意分野として、地元大阪を中心に中小メーカー主体で産業として勃興しつつあり、輸入品に頼っていたオート三輪用エンジンに目を付けたのは、自然な流れだったのかもしれない。下の画像はダイハツHPより、1930年に完成し、このあと記すように、オート三輪に積まれることになる、空冷4ストローク500cc単気筒ガソリンエンジン。くろがねやマツダと同様、JAPエンジンに強く影響を受けた設計だったようだ。(④-19、P170参考))
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15.7-9輸入品のJAPエンジンに勝る成績で、優秀国産品として認定されるが売れず
こうして出来上がったエンジンは、オート三輪用に特化させたため、オートバイ用を転用した輸入品の性能に負けない高性能なものだった。1930年に行われた『大阪工業試験所の比較試験でJAPに勝る成績を示し』(①、P132)、同じ30年に『商工省臨時産業合理局が主催した国産奨励のための内外品対比展覧会で優秀国産品として選ばれる』(①、P186)ほど、優れたものだったという。
慎重なダイハツが当初目論んだのは、オート三輪用エンジンの外販で、クルマを丸ごと作る予定ではなかった。しかし当時は舶来品信仰が強く、案に相違してエンジン単体では売れなかった。『こんな事業から撤退しないと会社の存続すら危なくなると忠告されたり、ひどい場合は嘲笑されんばかりであったという。』(②、P33)
ここでダイハツは一念発起して、撤退せずに自らオート三輪製作に乗り出す。
15.7-10最初のオート三輪、HA型の試作
 最初の試作車であるHA型は、エンジンを完成させた同じ年の12月に早くも完成させている。ただしダイハツ製だったのはエンジン、ミッション、後輪部のみで、他の部品は既存車の流用だった(⑭、P14)ようだ。『フロントのフォークはハーレーJD系、当時はリヤカーと呼ばれたシャシーなど車体回りも汎用の市販品だった。』(⑭、P48)大阪が地元なだけに、オート三輪用の部品の調達も容易だったのだろう。
しかしオート三輪市場へ参入するにあたり、ここでもダイハツは生来の慎重さを示す。量産化に当たっては当時すでにオート三輪を作っていた、日本エアブレーキと提携することから始めたのだ。(下の画像の、HA型の写真を見ると、確かに「ダイハツ号」と名乗っている。画像はRJC「ダイハツの100年をかいまみる」(web❿)よりコピーさせて頂いた。だが日本ブレーキとの協業については、各資料で微妙な違いがある。(②、P33)では、日本エアブレーキは、『オート三輪車メーカーとして実績のある』とし、日本エアブレーキの方が三輪の開発に先行していたような記述だが、社史の(㉙、P20)では『日本エアブレーキ社が三輪自動車の製作を希望したので共同で製作することになり、』としており、微妙にニュアンスが異なる。ちなみに(④-19、P170)では『提携関係にあった日本エアブレーキ株式会社も同時期に三輪車の製造を目指したため~』、日本自動車殿堂の(web❼-1)では『間もなく関連会社の日本エアーブレーキの希望を受け、 5 月から双方「ツバサ号」として共同生産した。』としている。この記事では一応、『日本エアブレーキ社は、オート三輪車を開発したものの、社の首脳はその製造販売に消極的だったようだ』(②、P33)と具体的な記述のある(②)が、真実に近いように感じたが、些細な違いだが、“正史”であるはずの㉙、㊴の信憑性についてどうしても、イマイチなものに感じてしまう。
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https://lh3.googleusercontent.com/proxy/KCCEqkYvgl-M6LgsrTtxvhIX-LNPfNBbFx1R7tWRKVyNGhYgZ-DnR9c0iQrEAP3WinKgO2yglqwMGtcPf1ya0N2JO4yf9mbrX0MPXUZik31ZFqbfZA
15.7-11最初の市販車のHB型は、“つばさ号”として販売
1931年3月に、HA型の改良型であるHB型を完成させて、同年5月より、日本エアブレーキとの共同製作でいよいよ市販に乗り出すが、困ったことに、初の市販車であるこのHB型の販売時期に関しても、情報源によって、微妙に異なってしまう。
(⑭、P14)では単に『車名もツバサに変更して1931年5月に量産車を送り出した』、(②、P34)では『HB型は翌1931年3月に完成、販売に乗り出した』としている。
一方webを検索すれば、自技会の日本の自動車技術330選(web❼-2)でも『実際に発売されたのは、さらに改良を加えたものを、「HB型」として1931年3月に発売した。』としていて、②と同じ“解釈”だ。一方M-BASEでは『1932年からオート3輪の市販を開始した「ダイハツ号」は、日本エアブレーキ社と共同制作したものは「ツバサ号」として販売された』(web❹-4)と、1932年から市販とあるが、これは明らかに1931年の間違いだと思えるのだが、一概に否定できないのは、他にも1932年だと記述しているサイトもあり、その根拠となる資料があるのかもしれない。1932年からが本格的な発売開始だという解釈であれば、あながち否定はできない面もあるのだが。
正直なところHB型の販売が1931年の3月か5月の違いだとしたら、大勢に影響はない?ものの、どうもスッキリとしない。
15.7-12社史ではどのように記述されているのか(余談)
(何度も記しているが、戦前のダイハツのオート三輪の変遷に関しては、情報量が少ない上に、ばらつきがあり、なんともモヤモヤした感じだ。そこで、そもそも社史ではどのように記述されているのか、確認しておく。以下(㉙、P17「完成車制作の動機」)よりその全文を転記する。
『~しかし、当時の三輪自動車組立て業者は輸入エンジンの使用に慣れ、国産品が輸入品に劣っていないことを証明されても、積極的に国内製エンジンを採用しない傾向にあったので、当初は単なるエンジン・メーカーであった当社は、ここに三輪自動車の製造をはじめることになった。これは、それまで手工業的に細々と組立てられていた三輪自動車工業が、近代工業化の第一歩を進めたものであり、わが国自動車工業史上注目すべきことであった。と同時に、当社が、現在の乗用車メーカーに発展する輝かしい門出にもなった。500cc型ダイハツ1号車HA型が完成したのは実に昭和5年12月のことであった。
 当社は、三輪自動車製作のスタートを切ったが、さらに改良したものをHB型として6年3月に販売を開始した。なお、当時、当社の関係会社であった日本エアブレーキ株式会社が三輪自動車の製作を希望したので共同して製作することになり、6年5月以降は「つばさ号」と名づけて製作したが、間もなく共同製作を中止するようになったので、「ダイハツ号」の名称にもどした。その仕様の概略は1-8表(注;「三輪自動車「ダイハツ号」HB型の仕様」)のとおりである。写真(注;HA型 三輪自動車)、仕様からもわかるように、現在からみれば、小荷物を運搬するだけの形態のようだが、その影響は大きく、その後のわが国の有力な運搬手段の一つに成長していったのである。』
・・・・・。 戦前のオート三輪の、名実ともにトップメーカーであったダイハツの、自動車メーカーとしての起点に当たる、最初の市販自動車誕生の物語がたったこれだけだ。
㉙は資料編や年表部分を除き、本編だけで255ページあるが、たった1頁分程度しかボリュームが割かれていない。冒頭に、ダイハツとダイハツディーゼルの現役員(当時)の顔写真がグラビア頁としてダラダラ5頁分も続くのに・・・。
社史に書かれているようにオート三輪は“その後のわが国の有力な運搬手段の一つに成長していった”はずなのに、しかもダイハツはマツダと並び、そのことに多大な貢献を果たしたはずなのに、HA/HB型はダイハツにとっては栄光の歴史のスタートだったはずなのに、さらにダイハツは、オート三輪のおかげで企業として大きな成長を遂げることが出来たのに、たったこれだけの記述しかない。正直、残念だ。
余計なお世話だろうが敢えて言わせて頂ければ、今後たとえば「ヒューモビリティワールド」や、トヨタ博物館からの学術研究という形でのインフォメーションなどで、我々一般人に対して、戦前のダイハツのオート三輪の変遷についての、より正確な情報提供を行うことを、ぜひ望みたい。HB型の発売時期に関して、この記事なりの解釈でまとめると、社史(㉙、P20)にあるように1931年3月に「ダイハツ号」HB型として市販型が完成したが、日本エアブレーキとの連携が決まったため、両社共同生産型として「ツバサ号」として4月に内務省の認可を受けて(④-19、P170)、1931年5月から市販が開始されたのではないかと思うが、いかがだろうか。
15.7-13日本エアブレーキとの提携
(ここでさらに、HB型で共同生産を行った、当時の日本エアブレーキ(戦後世代では「ナブコ」の名前の方が馴染み深い)について説明を加えておきたい。wikiによれば『(1924年)神戸製鋼所と米ウェスティングハウス・エア・ブレーキ(WABCO)社間で鉄道車両用エアブレーキに関する特許権実施契約が成立』した結果誕生した会社だった。そしてその背景として、『鉄道省が米国ウエスチングハウス式の鉄道用空気制動装置を全面的に採用する』(⑱、P9)こととなり、ダイハツと瓦斯電気工業は、日本エアブレーキの誕生以前から、空気ブレーキの導入に関わっていた(wiki)ようで、その関係からか、両社も日本エアブレーキに出資していた(wiki)という。さらにネットを検索してみると、「鈴木商店記念館」というwebの記述がかなり正確のように思えるので、以下引用させていただく。
http://www.suzukishoten-museum.com/footstep/company/cat14/
『日本エヤーブレーキ(NABCO)は、神戸製鋼所と米ウェスティングハウス・エヤーブレーキ(WABCO)社間で結ばれた鉄道用エヤーブレーキに関する特許権実施契約を背景に、大正14(1925)年神戸製鋼所、発動機製造(現・ダイハツ工業)、東京瓦斯電気工業(東京ガスの機械部門)の3社の出資によって神戸製鋼所の一角に鈴木商店系企業として誕生した。鈴木破綻(注;1927年)により神戸製鋼所にいったん統合された後、再び分離独立した。』他のwebの記述の中には、日本エアブレーキの設立について、全般にダイハツが主導したような印象を与える書き方のものもあるが、主体は神戸製鋼だったとするwiki等の記述の方が正しいように思える。いずれにせよ両社がもともと、資本関係を含む提携関係にあったことだけは確かだ。
 さらに神戸製鋼所とダイハツのつながりについては、(⑱、P6)に『明治44年12月、代表者の岡実康に代わって、明治42年から専務取締役だった元神戸製鋼所社長の黒川勇熊が(ダイハツ=当時は発動機製造の)初代社長に就任した。』という記述があり、資本関係を含む両社の関係を調べたかったが、㉙の社史にはまったく、手掛かりとなるような記載がなかった。この点も不明な点の一つだ。)
15.7-14ダイハツの評価を決定づけた、HD型
 そしてその1年後の1932年 5月(後述するように諸説あり)、ダイハツの評価を決定的にした、ツバサ号HD型が登場する。HD型は、従来のチェーン駆動方式で片輪駆動の、オートバイから派生した技術をベースにしたものと異なり、プロペラシャフトとデフを用いて後輪を駆動する、四輪自動車の技術を元にしたオート三輪として登場した。このプロペラシャフト+デフ駆動という、パワートレーン系の刷新の意義については、オート三輪の「3馬力時代」にダイハツHD型に先がけてこの機構を採用した、15.4-35項の横山商会のミカド号の項を参照して下さい。まだ「つばさ号」時代であったが、プロペラシャフト+デフ駆動という、パワートレーン系なので、その開発の主体はダイハツ側主導だったと思われる。ただし(⑭)冒頭の当時のカタログや、(④-19、P170)によれば、従来通りのチェーンによる片輪駆動方式のものと、チェーン駆動+バックギヤ付き、それとシャフトドライブ+バックギヤ付きの3タイプを揃えて販売しており、ここでもダイハツらしく、相変わらず慎重な対応だ。なお(④-19、P170)によれば、日本エアブレーキが製造した「ツバサ号」は「N型」、ダイハツが製造したものは「H型」と区別されていたようで、両車種の違いは『フレームがわずかに異なっていただけ』(④-19、P170)のようだ。
15.7-15四輪車に近い本格的な乗り物に進化
既述のようにこの機構自体はミカド号という先例があったが、やはりダイハツのように、総合的に高い技術力を擁する企業が、品質の安定した量産車を前提として取り組んだ製品とは、完成度が違っていたと思われる。
デフの装着+シャフトドライブにより片輪駆動の技術的な弱点だった右・左折時の運転が容易になり、またチェーン駆動の弱点の点検整備面の問題も解決された。後輪駆動用の、むき出しの長いチェーンは泥や雨に当たって耐久性がなく、常にメンテナンスが必要だったという。フロントカー型自転車にスミスモーターを取り付けることから始まったのがオート三輪の源流だが、技術的にはオートバイ系列であったものが、いよいよ四輪車並みに進化を遂げたのだ。
15.7-16HD型の成功でオート三輪業界のトップメーカーに躍進
HD型の登場によりオート三輪はそれまでのものと全く違う、乗りやすいものとなり、後発だったダイハツは瞬く間にトップメーカーに躍り出る。
ただ何度も記すが、『結果としては、町工場に近い多くのメーカーが開拓し、需要を喚起してきたところに、技術力の優れた大メーカーが乗り出してきたことになった。』(②、P35)ことでもあった。(下のつばさ号HD型の写真は、日本自動車殿堂(web❼-1)よりコピーさせて頂いた。『発動機製造は、HD型により三輪自動車を技術的に完成させたのである。』(web❼-1)まだ「つばさ」の時代だったので、タンクのところの名前は実際には「ツバサ號」だったはずだ。)
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15.7-17肝心のダイハツの社史(60年史)に、“HD型”についての記載がない!
ところが現在では、ダイハツのオート三輪の評価を決定づけたとされ、さらに戦前のオート三輪を代表する機種だといえる、この“HD”型について、奇妙なことに、㉙のダイハツの社史(「六十年史」(1967年3月発刊)の中に、一切記されていないのだ!!
いったい何がどうしてこのような結果になったのか、理解不能だが、代わりに?以下のような記載がある。
『初期の三輪自動車は、オートバイの軸距を長くして、後輪を2個にし、荷箱を取り付けるようにした、構造の簡単なものであったから、駆動方法もチェーン・ドライブ式であった。しかし、この形式のものは、後者軸を駆動するローラ・チェーンの機構に、強度上及び保守の面で非常な欠陥を持っていたし、車の回転時に生ずる後輪の回転差に対する処置も不完全であった。6年(注;1931年)8月、当社では、これらの諸点を改良し、四輪自動車と同じ差動装置付きシャフト・ドライブ方式を三輪自動車にはじめて採用した。』(㉙、P22)
この歴史的な、HD型という型式の記載が、この「60年史」の社史の中で(自分が調べた範囲では)奇妙なことに一切書かれていない上に、それに輪をかけて最後の部分の、1931年8月にデフ+シャフトドライブをオート三輪で初採用したという記述が、戦前のオート三輪の歴史を確認する上で、困った事態を生じさせているのだ。
そこでさらに調べていくと、この部分の記述は、「50年史」の(㊴、P37)に書かれている内容の焼き直しであることがわかる。ところがこの「50年史」(㊴)がさらに“曲者”だった。なんと、同じ書のなかの後段に「車種の変遷」という章があるのだが、その中で、以下のような記載があるのだ。
HB型に対しての説明として『この車の後輪を駆動する方式はいわゆるチェーン・ドライブ方式で、後車輪の一方は車軸に対してフリーに取付けた要領のものである。』とし、販売を開始したのは昭和6年(1931年)3月だとしている。(㊴、P158)
そしてこの(㊴)には、HB型の次の車種として、HD型についての記載がある。そこでは以下のように説明されているのだ。『昭和7年(1932年)夏以降は後車輪駆動の方式を普通の自動車同様に差動装置を備えたシャフト・ドライブ式とした。エンジンおよび車体その他の仕様はHB型と同一である。』(㊴、P159)・・・・・
いわば“正史”であるはずの“社史”に、このような矛盾した内容の記載が堂々と記されていれば、各文献も混乱してしまう。たとえば一般の人がダイハツの歴史書として手にする機会が最も多いと思われる、三樹書房の(⑱、P12)では(㉙)にならいHD型という記載を省いたうえで、1931年8月にシャフトドライブ+デフを採用したとしており、自技会の(web❼-2)も同様だ。一方日本自動車殿堂(web❼-2)ではHB型とHD型を区別した上で、HD型の登場を1932年5月としている。(⑭、P14)もほぼ同様の扱いだ。一方(②、P35)では、HB型とHD型を区別しているが、HD型の発売時期については、断定しきれなかったのか慎重を期し、記載を避けている。
ここで自分なりに推測(まったくの想像なので私見です)すれば、シャフトドライブ+デフ付きの量産型であるHD型のデビューは、(web❼-2)や(㊴、P159の記載のように1932年の5月~夏にかけての時期だったと思う。ただしその前年に、HD型の先行開発車として、シャフト・ドライブ+デフ付きに改造した、HB型をベースにした試作車両?が、1931年8月には完成していたものと思われる。あるいは手堅く手順を踏むダイハツの経営姿勢からして、パイロットユーザー宛てに、その時点で少数市販も行われたのかもしれない。社史に書いている以上、何らかの根拠があったハズだが、ただなぜこのような、多少無理筋に思えるような記述を残したのだろうか。
その解を解くヒントとしてさらに邪推すれば、マツダのオート三輪第一号、DA型の存在にあったと思う。ダイハツの社史の編纂時点で最大のライバルは言うまでもなく、マツダであった。そのマツダがツバサ号(HB型)を追うようにして遅れる事わずか2カ月の1931年6月、DA型の内務省の認可を得ていた(④-19、P170)。
マツダの社史(「東洋工業50年史」(⑰、P56)、(⑲、P12)も同様の記載)によれば、マツダDA型の生産が1931年10月から始まっており、このDA型は後述するように、チェーン・ドライブ方式だがデフ付きだった。最大のライバルであったマツダに対して、“自動車史”の上での些細な出来事だが、デフ付きの登場次期で、けっして負けたくないという“意地”があったのかもしれない。
(何度も似たような表を出している気がするが、下の表は、1931年から1940年の、ダイハツとマツダのオート三輪の生産台数だ。データはそれぞれの社史(㉙と⑰)による。ダイハツとマツダの1931年の生産台数はそれぞれ、177台と66台で、1932年で667台と452台だった。後発組であった両社の本格的な生産/販売は、いずれにしても1932年からだったと思えるのだ(④-19、P170参考)。
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15.7-18ダイハツはマツダの市場参入を強く意識していた?(私見)
当時のダイハツとマツダの関係について、もう少し考察してみたい(何度も記すが全くの私見です。)ダイハツはHD型において、デフだけでなくマツダにはなかったプロペラシャフトまで一気に装着し、新たに登場した強力なライバル企業に対して、迎え撃つ準備を整えたようにも思える。
元々オート三輪の市場はダイハツから見た場合、競合はくろがねくらいで、他は『小企業者主として手工業により僅かに製造を続けていた』(㊴、P36)』零細業者が相手で、当初は“楽勝?”な市場だと思って参入したオート三輪市場に、マツダがいきなり登場した時は、相当な衝撃を受けたはずだ。
この時のダイハツの認識としては、マツダの登場を、広島のいちローカル企業の市場参入とは捉えなかったはずだ。海軍工廠の一次下請け企業としてダイハツと同レベルの優れた技術力を有し、しかも当時非常に強い勢力を誇った新興財閥の日本窒素系の企業であるという、資本面も含め強力なバックを併せ持った手強い競争相手として捉えたはずだ。
さらにマツダは、量産型に先立ち1930年の秋に完成した初のオート三輪の試作車の段階では、シャフトドライブ方式、後退付き変速機、差動装置を自ら製作してまとめあげたという記述がある(⑰、P51,⑲、P12)。1年後の量産型のDA型では、チェーンドライブ駆動に戻されたが、ダイハツ側とすれば脅威に感じたはずだ。
さらにさらに、販売でも大三菱商事が受け持つという盤石な体制でスタートしており、その証としてマツダ号の燃料タンクには、当時の日本の製造業としては最高の信用の証である、スリーダイヤが輝いていたのだ!
しかもダイハツの地元大阪の経済界では、マツダを率いる松田重次郎の名前は、信管の大量生産を成しとげた実績もあり、十分轟いていただろう。そんな後発のマツダに対しての強い警戒心と共に、ここは踏ん張りどころで、絶対に負けられないという、ダイハツの意地というか決意のようなものを、HD型からは感じとれるのだ。(再三記しますがまったくの独断と偏見です。以下の画像はブログ、
http://masuda901.web.fc2.com/page5dhx53c.htmlさんからコピーさせて頂いた。スリーダイヤが輝くマツダ車の燃料タンク。)
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http://masuda901.web.fc2.com/mzdtcs3.jpg
 話をダイハツのHD型やマツダのDA型に戻し、追記しておくと、両車は後退用ギヤ付きの変速機を標準採用していた点でも新しかった。通常はオートバイ用の変速機を流用したため、前進用だけだったが、狭い道を引き返す時など不便だったのだ(②、P179等)。ただこれもマツダやダイハツ以前から採用例はあったという記述があり、(たとえば⑰、P51やweb⓫、P98、)シャフトドライブ+デフの採用と同様、オート三輪としても本邦初ではなかった点も記しておきたい。
15.7-19一次伝達系を最初にシャフトドライブ化したメーカーがどこかは不明(余談)
 全くの余談な上に、大した話でもないが、ダイハツがHD型でシャフトドライブ化したのはパワートレーン系全体の中の、二次伝達系であった。『~ 従来はエンジンのパワーをホイールに伝達するのは、オートバイと同じようにチェーンが用いられていた。エンジンから変速機までの一次伝達、さらに変速機からホイールまでの二次伝達ともチェーンが使用されていた。一次伝達の場合はエンジン回転が減速されるからトルクのかかり方は小さいが、二次伝達の方は大きなトルクがかかる。まして、オートバイと違って何百キロもある荷物を積んで走るから、オートバイ用のチェーンではすぐに緩んだり、切れてしまうという問題を抱えていた。一次伝達用のチェーンの3分の1ほどの耐久性しかなかったという。』(②、P180)。そしてそれらの問題点を一気に解消したのが、ダイハツHD型だったのだが、一次伝達系は従来同様チェーン・ドライブのままだった。しかし市場の急拡大と共に、業界の進歩は早く、さらにその数年後の『~37年には一次伝達もシャフトによるものが主流となった』(①、P179)のだという。この一次伝達系を、最初にシャフトドライブ化したメーカーがどこだったのか、結局調べきれず、わからなかった。少々残念です。
(下はダイハツHD型を上から見たところ。写真と以下のコメント『1931年にHB型を改良したHD型ですが、こうしてガン見すると荷台を取り付けたバイクですね♪』はhttps://green.ap.teacup.com/hourou2009/807.htmlより引用させて頂いた。確かにその通りで、すべてがむき出しだ。そしてこのダイハツHD型(当時はつばさ号だったが)三輪トラックこそは、確かに“日本自動車殿堂 歴史遺産車”の解説文の通り、『三輪自動車を技術的に完成させた』(web❼-1)という歴史的な意義からしても、戦前の日本のオート三輪車を代表する1台だったと思う(例によって私見です)。)
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https://green.ap.teacup.com/hourou2009/timg/middle_1315991301.jpg
15.7-20 “ツバサ号”から“ダイハツ号”へ(日本エアブレーキとの決別)
1933年6月、ダイハツは日本エアブレーキとの提携を解消する。先に記したように、同車はオート三輪事業にそれほど積極的ではなく、またダイハツも出資していたとはいえ、主体は神戸製鋼所だったので、ダイハツの意向に従うこともなかったのだろう。
ダイハツ(発動機製造)製ではあったが元々は日本エアブレーキのブランド名であった「つばさ号」から、最初の試作車のHA型で命名された「ダイハツ号」に戻したHF型で、ダイハツのオート三輪は新たな再スタートを切る。なお会社名も「発動機製造」から「ダイハツ工業」へと切り変わるのは、戦後の1951年12月だ。(「つばさ号」の名はその後も日本エアブレーキ製のオート三輪車に継続して使われた。下の写真も「日本自動車殿堂」(web❼-1)からの引用で、ダイハツと別れたあとの日本エアブレーキ製のオート三輪「ツバサ号」の代表モデルのHK型。しかしこのHK型は(㊴、P159)の記載を信じれば、HD型と併行的に生産したとあり、シャシー設計と生産は、日本エアブレーキ側の主導で行われた車両だった?以下の文も(web❼-1)から引用『~二輪前部に鋼板プレスBMW型を採用。リア車台もダイハツ車とは別設計で1940年代まで生産、販売が日本エアーブレーキ側で実施された。』
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https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcT43j2a2PNyApz1qsEp819HaTDmM5pHJMjcMg&usqp=CAU
(なお余談だが、車体部分についての進化についても、参考までに①から引用しておくと、『 ~ 骨格部分となるフレーム構造は、1920年代以来、引き抜き鋼管と鍛工材の組み合わせだったが、1937年頃にはプレス鋼板へと四輪自動車並みの構造に強化されていった。またフォーク部分の設計も進化をとげた結果、車体全体の強度が高まり、その結果積載量も、32年に60貫(225kg)だった積載量が37年には400kgに増大した。』(①、P176)エンジン出力の増強とともに、車体側も強化され、積載量の増大につながったようだ。そして車体系におきた構造上の進化も、自社で一貫生産が可能な、量産規模の大きい大メーカー側に有利に働いた。
こうして後発組のダイハツと次に記すマツダが大きく躍進したことで、オート三輪業界は新たな段階を迎えることになる。)
(さらに余談だが、ダイハツは戦後、二輪車生産のためにツバサ工業を設立し(1952年9月)、二輪車に生まれ変わったカタカナ名の「ツバサ」がダイハツの販売網を通じて販売されたという(⑭、P18)。下の画像は「モーサイ」からのコピーで、1959年ツバサ・ファイター125HC。
詳細はそちらを参照して下さい。https://mc-web.jp/archive/history/21345/2/
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https://mc-web.jp/wordpress/wp-content/uploads/2020/01/tettai1-2_003_fighter.png
15.7-21かつて日本の自動車業界で、EVに(唯一?)熱心だったのはダイハツだった!(余談)
(さらにさらに余談だが、ダイハツはさらにずっと後年の1974年、ダイハツ自身のブランド名で原付三輪車の「ハロー」の販売で、三輪車を復活させる。そして翌年には、その電動版まで販売する。当時の日本の自動車業界で、電動化にもっとも(唯一?)熱心だったのは実はダイハツだったのだ。下の写真はハローの前の1971~1974年の間に、少数が市販されたDBC-1型。電動三輪車で初期のミゼットをほうふつとさせる。それにしてもなんとキュートなデザインなのだろうか。50年後の今日の目でもけっして色褪せておらず、多少アレンジを加えれば十分モダーンなクルマになり得ると思う。
画像は「ハロー!ダイハツ【ダイハツ工業公式のツイッター】」よりコピーさせて頂いた。https://twitter.com/hellodaihatsu/status/1306790045710385154
しつこいようだがもう一度記す。地元大阪で開催された1970年の万国博覧会会場構内用の電気自動車納入あたりに端を発して、日本の自動車業界ではかつて、電気自動車=ダイハツというイメージが、長い間あったのだ。せっかく長い間、たぶん採算度外視でがんばってきたのであろうその基盤を、いよいよ“本番”を迎えつつある現代に継承できなかったのが、何とももったいなかった。EVはイメージ戦略が重要なのだから・・・。日本でなくてもたとえば、かつてのミゼットやトゥクトゥクで関連の深い東南アジア市場で現地メーカーと組み、現代版のDBC-1型でも展開できればなどと、素人考えでは思ってしまうのだが、如何だろうか。ちなみに当時の主な販売先は新聞の配達用だったようだ。)
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https://pbs.twimg.com/media/EiKXx4cU4AEWeIj?format=jpg&name=large
15.7-22 750cc化は手堅く単気筒でいく
 話をEVから戦前(の単気筒エンジンの話題!)に戻す。1933年8月の小型車の車両規定の750cc化に際して、ダイハツは新たなエンジンを開発する。ちなみに法規改正以前から、500ccエンジンを拡大する形で、小型車の枠を超える670cc型エンジンをラインナップに揃え、より大きな荷物を積みたいという需要にこたえていた。このあたりはマツダもくろがねも同じ事情だったようだ。
750cc型エンジンの開発で大きなポイントは、単気筒でいくのか、それとも振動・騒音面で有利な2気筒でいくかの選択だ。『当時の技術水準では単気筒の最大排気量は650cc程度まで』(①、P179)と一般的には言われていたという。既述のように、くろがねはV2エンジンを選択した。ハーレーやインディアンなど外国勢も750ccクラスになると2気筒の選択だった。そんな中で、ダイハツは何を選択したのか、以下(②、P36)より引用する。
『オート三輪用はシンプルであることが求められたが、750ccという排気量で単気筒ではシリンダーが大きくなりすぎるという懸念があった。
とくに当時のエンジンはサイドバルブ式であったから、熱によるひずみが大きくなり、トラブルにつながる可能性があった。
しかし、オート三輪はコストがかからないものにすることが重要であると、ダイハツは単気筒を選択した。』
くろがねが選択したV型2気筒エンジンも検討したようだが(⑦、P181)、ここでもダイハツ流に技術に溺れることなく、手堅い道を選択した。以下(①、P194)より引用『1935年には、「メーカーの乱立による自由販売競争が目に見えて激しくなった」と言われたが、その過程で性能競争はもとより、価格競争も重要なポイントとなった。』
ダイハツの読みはあたった。オート三輪は、単気筒エンジン特有の“バタバタ”とやかましい音をたてながら、忙しく走り回るその姿から「バタバタ」、「バタンコ」とも呼ばれていたが、ダイハツは安い輸送手段を求め、“バタバタ”とせわしなく動き回る使用者側の気持ちを、くろがねよりもよく、理解していたのだろう。
こうしてダイハツは、単気筒500cc,670cc,750cc(⑭、P48の記述に従えば、正確には498、667、736cc)の3タイプのエンジンを揃えることになるが、さらに1934年には、エンジンは750ccのままだが、大きさは小型車枠を超える、全長3mで1トン積みという、より大型のオート三輪も追加し、盤石な体制を整える。(写真は(web❼-1)から引用させていただいた、1933年に発売されたHF型。(同じ写真だが②によれば、“HT”型になっているが?⑱、P13でも“HF”としているので、HF型の写真としておく。新型750ccエンジンを初搭載し、同時にフレーム、荷台等、各部の強化も図ったようだ。なおダイハツ号の型式はその後も目まぐるしく変わり、『HT、SA、SBを経てSC型となり大東亜戦争に突入した』(㊴、P162)車史にはあるが、その間、どこがどのように変わったのか、まったくわからないので、説明はできません…。)
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15.7-23販売網の整備
 次にダイハツの成長を裏から支えた、販売網の整備について記す。1930年には全国で300台程度であった(②、P37)販売台数が、わずか5年後の1935年には1万台まで需要が急増する。驚くべき市場の拡大だ。その需要の急拡大に対応すべく、各社が競い、販売網の整備に取り組んだ。
今までオート三輪の販売を担っていたのは、オート三輪製造業者が、日本内燃機を除けば自転車関連商工業者が多かったことから当然だが、自転車販売店が中心だった。
しかし市場の急成長と、企業活動のルーツが自転車以外であったダイハツとマツダの進出があり、販売店も、オート三輪の専売店が次第に増えていったようだ。だがその専売店も自転車販売店からの転出が多かっただろうと思われる。
下の表(表18「小型車販売修理業者―取扱車種別店数 (昭和 9~10 年当時)」(「日本自動車整備産業形成史」小川秀貴(web❾)P84より転記させていただいた)をご覧いただければわかるように、ダイハツは地元大阪に偏らず、全国にまんべんなく販売店網を確立したことがわかる。それに比べると日本内燃機(ニューエラー)は地方に薄く、この表の時点では三菱商事に販売を頼ったマツダも東京以外が弱かった。
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それらライバル企業と比べて、ダイハツの販売網は販売店の数から言っても、ダントツと言っていいほどの強力さだ。以下は上記の表と多少時期がズレているが(②、P37)より引用『販売の伸張に伴って、販売店の整備も進んだ。~戦前の最盛期となった1937年(昭和12年)には国内販売店28店、海外5店、特約店は131店に増加した。』確かな商品力と、その販売を支えた強力な販売網が、ダイハツを業界トップ企業へと押し上げた。以下(⑭、P15)からの引用で、この時代のオート三輪の国内の地区別の販売状況についてまとめると
『第二次世界大戦直前の1936年度のベストセラーはダイハツであり、マツダが2位、3位ニューエラと順位はほぼ不動だった。これ以下のメーカー順位は地区によって異なり、東京での人気車はウェルビー(新会社の山合製作所製670cc、京都)、イワサキ(新会社の旭内燃機、大阪)。大阪では地元のイワサキ、兵庫県の2社HMC、ツバサが続いた。愛知では地元のミズノが独自の水平横型単気筒に前輪駆動方式で2位とマツダを抜き、以下ジャイアント、ニューエラ、ウェルビーが続いた。』⑭には実に様々なメーカーの、当時のオート三輪の写真が掲載されているが、その中にあってダイハツの絶対的な優位は揺るがなかった。以下も(⑭、P16)より『この頃には、どの三輪も技術的には差がなく、販売網の充実とアフターサービスが売れ行きを左右した。』
以下は海外展開について、(②、P37)から続ける『海外では、その後樺太、満州、朝鮮、台湾、青島などの日本領土あるいは日本人が多く住む地域を中心に販売された。』今まで見てきたように、オート三輪は元をたどれば人力車や自転車から発展したものだ。そして戦前の自転車産業は、満州、朝鮮などいわゆる「円ブロック圏」に盛んに輸出されていたことを思えば、その延長線として、将来的には当然、輸出の拡大を期待していただろう。
15.7-24池田工場の新設に踏み切った3つの背景
戦後世代の我々からみれば、ダイハツといえば大阪の池田(現在の本社所在地は大阪府池田市ダイハツ町)が拠点の企業だが、創業の地は同じ大阪でも現在の「新梅田シティ」の辺りだったという。『順調に売り上げを伸ばすダイハツでは、1936年(昭和11年)になって、工場設備の増設を図り、月産450台体制を敷いて販売の増加に対応した。』(②、P37)
しかし需要予想はさらに上回り、ダイハツはさらなる増産に備え、同じ大阪の池田市へ工場を新設する。その操業開始は1939年2月だったとダイハツのHPには記されている。しかし工場は戦時体制へと切り替えられたため、戦前に於いては自動車を増産することなく終わったが、ダイハツの主力工場として、戦後のオート三輪全盛時代の躍進を支えていくことになる。ここでは池田工場建設の目的を、3つの側面から見ておきたい。まずは戦前のオート三輪市場の拡大について、確認したい。
15.7-25オート三輪市場の急拡大
オート三輪車の市場拡大については何度も記してきたので重複するが、ダイハツ、マツダ、くろがねの時代であった、1930年代後半について、表で示しておく。下の「表16;自動車生産台数の推移(1935~1945)」(戦前期日本自動車産業の確立と海外展開(上)上山邦雄より引用)をご覧いただきたい。1930年代半ばごろの、日本の自動車生産に占める、オート三輪(小型三輪車の項)の台数の大きさがわかる。池田工場建設の検討時期は、時期からすると、1936~7年頃だったと仮定すれば、下表の1935年の生産台数の10,358台に対して、1937年には15,236台と、約×1.5倍も大きく増えた。『(オート三輪の)車両価格も、エンジンの大きさや仕様の違いによって、700円台のものから、1500円もする高級なものまであった。およそ1000円といったところが平均的な価格だったが、このころのフォード車は2800円ほどであったという。』(⑤、P33)前回の記事で記したように、この時代の日本の自動車市場は、フォードとGMの植民地状態だったが、オート三輪は直接対決を避けた、狭い日本に独自の、便利な乗り物として完全に定着したのだ。
この勢いのまま市場が順調に拡大していけば、当時の本社工場だけでは早晩行き詰まるとの判断だったのだろう。ただ実際には、1938年からは戦時体制に移行して、民需がほとんどだったオート三輪業界に、逆風が吹くことになる。
(表19「自動車生産台数の推移(1935~1945)」(戦前期日本自動車産業の確立と海外展開(上)上山邦雄より引用)
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15.7-26本業?のディーゼル機関や鉄道用機器類の生産も伸びていた
 この時期のダイハツは、従来の主力製品だった蒸気機関用ストーカー(自動給炭機=蒸気機関のボイラーに石炭を供給する装置;wikiより)等鉄道用機器類や、各種ディーゼル機関の生産も、一時の不況を脱して好調だったようだ。ダイハツの事業全体としてみれば、もはやオート三輪事業が主力に移っただろうが、従来の事業も好調だったため、より一層手狭に感じただろう。
15.7-27小型四輪車分野への進出を計画していた
 もう一度、上の「表16」をご覧いただきたい。オート三輪と比較すれば、まだ台数は少なかったとはいえ、次項で記す小型四輪車市場の急成長が目に付く。1935年から1937年にかけての台数の伸びは、オート三輪より大きかったのだ。750cc化で四人乗りが認められてダットサンの量産が始まり、アメリカ式の派手な広告宣伝で需要を喚起し、日本でも初めて、オーナーカー需要が芽生え始めたのだ。
ただ実際には、ダットサンの販売台数の約半分は小型トラックだったという。以下(⑧、P60)より当時のダットサンについての記述を引用
『~しかし現実にダットサンを営業面で支えたのは、全国の中小企業や小規模商店などで、自転車やリヤカーに代わって重宝がられた“ダットラ”だったのである。~ 単年度でピークの生産に達した1937年度の8353台のうち、トラックは4775台(57.2%)を占めていた。』デパートの配送なども含めオート三輪とは異なる上級の小型トラックとして使われ始めた。
ダットサンについては次の記事で記すが、今日現存する戦前のダットサンが、オーナーカー向けのセダン、4座フェートンや2座ロードスター多いので錯覚されがちだが、実際にはパネルバンやピックアップトラックの販売台数が多かったのだ。
そしてこの市場に、オート三輪で力を蓄えた実力派のダイハツとマツダが当然のごとく目をむける。マツダについては次項で記すが、ダイハツは1937年に、オート三輪用とはまったく異なる空冷水平対向2気筒、732ccエンジンを搭載した小型車規格の四輪トラックを完成させて、いよいよ四輪車へと進出する。(①、P187)には、『38年には500トンのプレス機を設けて大量生産への準備を進めた』とあるが、これも四輪小型車進出を視野に入れた、気合の入った投資だったのだと思える。
しかし時代がそれを許さず、まもなく販売中止に追い込まれたという。(下の写真はRJC(自動車研究者ジャーナリスト会議)の、「ダイハツの100年をかいま見る」http://www.npo-rjc.jp/daihatsu/ (web❿)よりコピーさせて頂いた、1937年のダイハツFA型小型四輪トラック。同記事によれば約200台生産されたというが、残念ながら現存車はない。(⑦、P182)にはこの時代の同クラス車のお手本だった、オースティン・セブンをモデルにして作られたとの記述がある。エンジンはオート三輪用とまったくの別もので、空冷水平対向2気筒732ccだったが、全体としてはセブンを参考にしたと思われる。ちなみにこのエンジン、オート三輪用としては使われなかったが、戦後の三輪乗用車の“bee”に生かされることになる。なおダイハツはFA型を完成させた1937年、陸軍の求めに応じて、1,200ccの小型四輪駆動車の試作を行っている(試製九八式小型乗用車)。(⑫、P196)によれば、日本内燃機、陸王内燃機、岡本自動車、京三製作所との競作で、この計画は結局試作だけで終わったが、⑫によれば、ダイハツのエンジン形式はV2型だったと記されている。(web❿に写真があります)。
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http://www.npo-rjc.jp/daihatsu/
15.7-28 1937年が戦前のオート三輪のピークだった
(表16)をご覧いただければわかるが結局、オート三輪の戦前のピークは1937年だった。この年ダイハツは5,122台を販売し、もちろんオート三輪の業界トップで、一社で全体の1/3以上を占めた。ちなみに2位はマツダの3,021台とかなり差があった。小型四輪車、ダットサンの生産台数のピークもこの年だったが、オート三輪にとってもダイハツにとって良い時代はここまでで、次項で記すが戦時体制への移行が強まると、純粋な民間向けであったオート三輪の生産は次第に抑制を余儀なくされていく。(下の写真はブログ“七転納豆”さんよりコピーさせていただいたもので、写真展「昭和の日本 自動車見聞録」
のもので、“戦前の神田の上田屋書店”の光景。
http://blog.livedoor.jp/taiji141/archives/65817453.html
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https://livedoor.blogimg.jp/taiji141/imgs/9/a/9adc8820-s.jpg
15.7-29戦時体制下のダイハツ
 最後に、統制経済体制が強まった、1938年から終戦までのダイハツの歩みを簡単に記して、ダイハツの項を終えたい。
 1938年の生産台数は4,396台で、前年から台数を大きく落とすが、この時点では需要減が原因ではなかった。『日本国内の各種産業の生産増強のための需要は強かった。』(13、P176)
しかし統制経済が進み、軍需品の生産が優先された結果、『三輪自動貨車は軍需とは最もかかわりが薄かった』(⑬、P176)ため、戦時に役立たない、不要不急なものと扱われた。そのため材料の供給が滞り、生産が落ち込んでしまったのだ。
 こうなるとせっかくの池田工場新設も役立たずで、ダイハツの増産計画は頓挫する。
 戦時体制下のダイハツは、日本内燃機のように、軍需企業へと積極的な転換をはかることはなかったが、軍にとってもダイハツの技術力と生産力は魅力で、鉄道車両部品や舟艇用ディーゼルエンジン等の生産で、軍の期待に応えた。
15.7-30戦時統制政策がオート三輪に与えた影響ついて
 ここで戦時体制下の、オート三輪業界全般に対して、統制経済を推し進めた当時の商工省が行った施策とその影響について、まとめて記しておく。
既述の通り、それ以前の商工省のオート三輪業界に対しての政策は、内務省と連携しつつ、過度な介入はせずに、自然な形で市場が拡大しそれに伴い産業が栄えるのを裏から支えてきた。
しかし陸軍を中心とした軍部の力が大きくなり、それに呼応して商工省を中心に革新官僚が台頭し、当時のドイツの産業合理化運動に強く影響を受けた、戦時統制経済を推し進める頃になると、様相が変わる。陸軍からは軍用車としての価値が低いと断じられ、冷淡に扱われるようになり(⑬、P171)、オート三輪車の業界は、時代の波に翻弄されていく。
この項では商工省が行った政策のうち、標準車の設定と生産の統合について触れておきたいが、その前に、統制経済下におけるオート三輪業界を取り巻いた全体の概要を先に記しておく。(web⓫「戦前・戦後の三輪自動車産業についての一考察」片山三男)の論文に手際よくまとめられていたので、以下そのまま引用させていただく。
15.7-31不急不要物資に分類される
『~1936年7月の「自動車製造事業法」の制定以降、自動車産業への統制は強まり、保護の枠外におかれた三輪自動車の生産規模は、縮小の傾向を辿る。1937年7月の日中戦争勃発直後には「輸出入品に関する臨時措置法」によって小型車(四輪、三輪、二輪を問わず750cc以下の自動車)は不急不要物資に分類され、「臨時資金調整法」では小型自動車生産では融資分類の丙類に分類され規制を受けた。さらに1938年3月の「揮発油及重油販売取締規制」では燃料が規制され、6月の「物資動員計画」では原材料が配給制となり、三輪自動車生産に必要な資材のうち約半数が規制の対象となった。軍用に適さずとして資材・資金の両面から規制が加えられ、民需用三輪車の生産は完全に行き詰まった。』(web⓫、P99)
先に記したように、需要面では引き続き旺盛だったが、統制経済が進み、軍需品の生産が優先された結果、不要不急なものと扱われたため材料の供給が滞り、生産が出来なかった。そのような情勢の中で、商工省は生産縮小に向けて、車種の統一と生産の統制に乗り出す。以下は①、②、⑪等を参考にして、まずオート三輪車業界の生産の統合について簡単にみておく。
15.7-32オート三輪業界の統制
 先の(表16)をご覧いただければわかるが、オート三輪の生産台数がピークだった1937年の15,236台に対して、1940年は資材の供給不足が原因で8,252台とほぼ半減していた。ちなみにこの間、普通車の生産は10,239台から43,706台へと急拡大している(同じく、表16参照)。当時の自動車業界の産業政策全般を司った商工省は、主力の四輪自動車市場を席巻していたフォード、シヴォレーに対抗するため、前回記事の13.3項で記したように官主導による「無から有を生む」、強引かつ強力な産業政策で国産四輪車産業の育成を試みていた。
さらに太平洋戦争に突入した翌年の1941年には、オート三輪の生産は4,666台へとさらに半減するのに対して、普通車の生産台数は43,878台と戦前のピークに達する。商工省のオート三輪業界への介入の目的が、普通車とは正反対で生産拡大ではなく、その逆で、資材の供給を極力抑制し、生産縮小を円滑に行うのが目的であったことは明らかだ。
(⑪、P432)によれば、『~本格的な小型自動車工業の整備統合を行おうとしたが、その前提として商工省は最初に小型自動車部品工業の整備統合に取り組んだ』というが、長くなるのでこの件は省略する。(⑪、P434に組合員の一覧表があるが、多くは普通車の部品製造業者と重複していた。ちなみに85社だった。)
15.7-33オート三輪の生産は4社(事実上は3社)に整理
以下は(⑬、P176)より『小型車の製造メーカーは生産を中止させられたわけではなく、資材供給が抑制され、事業継続が難しくなったというのが実態に近い。このため製造業者の統合が行なわれ、23社あった小型自動車の製造業者は1942年5月の「企業整備令」により6社にまで整理されてしまった。こうして決められた事業者が細々と小型車生産を継続させることとなる。』戦時体制下で不急不要物資に認定されたオート三輪業界に、物資の供給を極力絞るためにとられた処置であった。
以下は(②、P38)より『太平洋戦争が始まると、さらに厳しくなり、商工省の斡旋によって、三輪自動車業界の統制が実施されて、オート三輪車を生産できるのはダイハツとマツダと日本内燃機の3社に限定された。そのほかの企業はオート三輪車を作りたくても資材が供給されなくなり、転身を図る以外に方法がなかった。』(①、P245)に掲載されている、戦時期のオート三輪各社の生産台数推移表をみると、敗戦時までオート三輪の生産を維持していたのは上記3社のみだったので、②の記載のように、実質的にはこの3社だったと言って間違いとは言い切れないが、正式には4社に整理されたようだ。『1942年5月に「企業整備令」が交付されてからは、小型車業者の間で自主的に統廃合の議論が進展し~43年4月までに三輪車4社(発動機製造、日本内燃機、東洋工業、帝国製鋲)二輪車2社(宮田製作所、陸王内燃機)に整備されることになった。』(①、P247)
私見だが、資材の供給を絞る目的以外にも、ドイツの産業合理化運動に強く感化され、官主導による上から目線の整理・統制が好き?だった“革新官僚”の目から見れば、その真逆でお上に頼らず自由主義経済的な環境で育ったオート三輪業界は『乱立気味』(⑪、P432)で、合理性?に欠けていて、目障りに映った面もあったのではないだろうか。15.5-29項の“あんぱん論”も参照して下さい。
(ここで一般では聞きなれない会社名の“帝国製鋲”について、M-BASE(web❹-3)より解説しておく。『ジャイアントのルーツは名古屋市で自動車部品の販売を行っていた中野嘉四郎が、1931(昭和6)年にジャイアント・ナカノモータースを創業し、スイスのモーターサイクルメーカー、モトサコシ社製MAG(Motosacoche Acacias Genève)エンジン(498cc 空冷単気筒OHV 20馬力)を積んだ三輪車を製作し「ジャイアント」のブランド名で発売したのが始まりであった。1936年には自前の水冷単気筒とV型2気筒エンジンを完成させるが、1937年にジャイアントの権利一切を帝国製鋲(注;大阪市に本社を置くリベットメーカー。1942年に帝国精機産業に改称)に譲渡する。』(⑭、P15)から補足すればそのエンジンは『同県の高内製作所製(後にみずほ自動車のキャブトン)水冷650cc、750ccエンジンなど4輪ローランド用を基本に開発したものを搭載』とあるが、しかしローランド号は自技会の情報(https://www.jsae.or.jp/autotech/1-6.php)によれば侠角25°V4エンジン(目黒製作所製)ということになるが?ただ中部地区には当時「中京デトロイト化計画」があり、そことの関連も多少あったのかもしれない(不明ですが)。(①、P178)の表の記載では2気筒で、まさか4気筒だったとは信じがたいが、いずれにしても水冷の、かなりの高級仕様(高コスト品)だったことは確かだろう。また余談ながらM-BASEより同社の戦後についても引用すれば『1947年に愛知起業(注;日本海軍向けの攻撃機、爆撃機、水上機等を製造し、戦前は日本の五大航空機メーカーの一つであった愛知航空機が戦後社名変更)が帝国精機産業からジャイアントの権利一切を譲り受け、三輪車の生産を開始した。1949年5月、企業再建整備法により愛知起業は新愛知起業として再出発し、1952年12月、愛知機械工業に改称している。』ジャイアントは戦前から水冷エンジンが特徴だったが、愛知機械の前身の愛知航空機も、海軍の液冷エンジンを担当していた点も、奇遇というか興味深い。(下の写真は戦後のモノだが、気田森林鉄道(静岡県西部の山奥にかつてあった全長は約33kmのこの森林鉄道で、路線図は以下参照して下さいhttp://marukado.blog75.fc2.com/blog-entry-2682.html)の建設に活躍したという、ジャイアントの後ろ姿。「山里の近代化と気田森林鉄道⑩―トラック、三輪自動車も活躍」よりコピーさせていただいた。
https://arukunodaisuki.hamazo.tv/e7399844.html 以下引用。
『先ず最初の1枚は、題名が「三輪トラックに生活物資を積込む」。「谷(場所)によっては軌道付近に三輪トラックを利用、飯場へ生活物資を搬入 車の名称はジャイアントと記憶 当時人気があった 篠原貯木場 昭和31年頃」との説明が付いています。』山奥の狭隘路で行う森林鉄道建設のための資材運搬用に、オート三輪はうってつけの舞台だっただろう。ちなみに戦後、高知には、トクサン号という、林業輸送用の特大型の三輪トラックメーカーまであったことは、先にふれたとおりだ。絶滅寸前だったオート3輪を最後まで重宝した業種は材木商だったという。)
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https://img03.hamazo.tv/usr/a/r/u/arukunodaisuki/testudo214-s.jpg
続いて①及び、(②、P38)、(⑪、P432)等からの引用で、標準車両への統合について記す。
15.7-34オート三輪の標準型式の設定
 以下(⑪、P431)からの引用『自動車製造事業法がフォード、シボレークラスの普通車を国産車の標準型式として設定し、その大量生産体制を確立することを立法目的としたが、国産普通車の標準型式の設定と比べ、小型自動車の標準型式の設定に入ったのは、かなり遅れ、昭和十五年(1940年)商工省自動車技術委員会で取り上げられてからである。』国産普通車に比べて、力の入れようのなさは明らかだ。
 以下は(①、P246)より『資材の配給統制と共に、1941年からは戦時型標準小型車の試作による生産統制も試みられた。これは、当然ながら、標準型を制定して小型車を育成させるためでなく、規格以外の車の生産を全面禁止させるためであった。この計画によって、41年4月に小型車試作専門委員会が設けられ、4種類の型式と試作会社が決定した。』下表を参照してください。同時期に行った生産の統合と、ほぼ同じメーカーが残っている。
(表20「戦時標準小型車の種類」(呂寅満著『日本自動車工業史-小型車と大衆車による二つの道程-(東京大学出版)P247より引用)
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以下は⑪より続ける。『商工省自動車技術委員会は小型自動車の二輪、三輪車の型式を検討する際、~ダイハツSA6型、同SA7型、同2GA7型』とくろがねが主要に取り上げられた。』(⑪、P432)そして設計と試作車の製作にとりかかる。以下(②、P38)より
『商工省の指導によって、不足している原材料を有効にしようするために、オート三輪車メーカーとして認められた3社の車種を統一し、部品も共通化を図ることになった。ダイハツは640ccエンジンをつくることになり、各社の技術者によって話し合いがもとれ、これにのっとって開発されたオート三輪車が1942年(昭和17年)秋に完成、戦時標準型として関係者の立会いの下に性能試験が実施された。』試験の結果は良好で、1944年から本格的な生産に入る計画だったというが、『戦局の悪化とともに統制は厳しくなるばかりで、このオート三輪車が生産に移されることはなかった』(②、P39)という。
 ダイハツはその後も、ガソリン不足に対応して、『薪を燃やして発生したガスを燃料とする1280cc、V型2気筒エンジンを試作したが、販売するには至らなかった。』(②、P39)という。
(下の画像はトヨタ博物館公式HPより、同館所蔵のダイハツのオート三輪、SA6型(670cc)だ。1937年製ということなので、戦前の生産のピークの年に作られたものだ。ダイハツは戦時体制に突入する前に、H型シリーズからS型シリーズへの移行を果たし、型式の最初に“S”が付くこの系列は、戦後も長い間生産されることになるが、先に記したが、この型式変更の意味が、手持ちのどの文献にも記載がなく、よくわからない。勝手に類推すれば、今までパワートレーン系がダイハツで、車体系が日本エアブレーキの役割担当だった(これも想像)が、提携解消ですべてダイハツ製となったタイミングで、設計変更せざるを得なくなったからか?またその頃に、パワートレーン系の一次伝達系もシャフトドライブ化されて、チェーンドライブを全面的に排除したようだが、どの型式からか、不明だ。それにしてもこの写真からは、風格というか、商品としての完成度の高さが漂ってくる。
https://toyota-automobile-museum.jp/archives/car-database/detail.html?id=12915)
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https://toyota-automobile-museum.jp/archives/images/12915_1.jpg
下図は、①のP187と、P245に記載されていたデータを元に、主な三輪車メーカーの戦前の生産台数の推移をグラフ化したものだ。やはりダイハツの台数が他を圧倒する。
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 この項は元々ダイハツについての項だったが例によって脱線ばかりだ。脱線ついでにこの場を借りて?第二次大戦後の混乱の時期の、オート三輪を巡っての一つのエピソードを紹介して、15.2項を終えたい。
15.7-35アメリカにはないオート三輪の有用性を占領軍に如何に認識させるか!(余談)
 戦後のスタートも、オート三輪には波乱含みだった。そもそもアメリカには存在しない乗り物の必要性を、占領軍に納得してもらわねばならないという難題が立ちはだかっていたからだ!以下(web⓯、P29)より引用
『~こうした戦前からの三輪自動車への当局の認識は、戦後の統制経済下まで持ち越される。戦前にも増してさらに難しい問題は、軍部に代わる占領軍の三輪自動車に対する認識の欠如である。アメリカには存在しない三輪自動車の必要性をGHQの担当官にどのように説明し、認識させるかが業界がこぞって取り組むべき課題となったのである。』実際にどのようにGHQを納得させたのか、よくわかりませんが。
(戦後ミゼットが対米輸出されたが、ボーイング、ロッキードなどの巨大な工場内の部品運搬用として利用されたという。以下の画像は「名車文化研究所」よりコピーさせて頂いた。https://meisha.co.jp/?p=19614 同記事によれば、アメリカへの輸出台数は案外少なく、約800台だったという。)
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(下の写真は一転“昭和”の雰囲気が漂うが、月並みな選択で、映画「ALWAYS 三丁目の夕日」より、画像はブログ“青い空に白い雲”さんよりコピーさせていただいた。
http://blog.livedoor.jp/pape2005/archives/50836122.html
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https://livedoor.blogimg.jp/pape2005/imgs/4/7/4735e1f8.bmp

15.8オート三輪のトップメーカー、マツダ
 オート三輪車の記事を書く上で、ダイハツとマツダのどちらを業界トップメーカーとして扱うべきか、悩ましいところだと思う。個人的な好みで言えば両方とも同じくらい好きな自動車メーカーだし、この記事ではオート三輪の二大メーカーとして扱いたいが、ただ戦前はダイハツの方が明らかに上だったが、戦後に入ると両社はより拮抗し、最終的にはマツダが逆転して業界トップに立ったと扱う自動車史の本が多い。そして同じ世界で覇を競いあったこの両社の企業体質は、面白いことに正反対だった。
15.8-1 1960~1962年は自動車生産台数でマツダが国内トップだった
なんといってもマツダの偉業は『1960年、東洋工業は自動車の年間生産台数で国内メーカーのトップに躍り出て、1962年までその座を守った』(マツダのHP)ことだ。つまりこの3年間は、基幹産業の育成のために、半ば国策に近い形で官民一体で手厚く育てられたトヨタと日産を、売上高ではなく台数ベースだったとはいえ、生産台数で上回っていたのだ!(下の折れ線グラフのマツダの数字は、マツダの社史(⑰)の巻末の資料(なぜか頁がふっていない!)からとったものだ。ミゼットの項で載せた「ダイハツの生産台数の推移」のグラフと、比較が容易なように項目は合わせている。そして参考までに載せたトヨタの数字は自販の社史(㉝)のP74からとったものだが、トヨタの60年、61年、62年の生産台数はそれぞれ、154,770、 210,937、 230,350台だったので、グラフ中に数字を打ち込んだ、同じ年のマツダの台数よりも、僅かずつではあったが劣っていたのだ。ただし、あまりに差が小さいので、このグラフは縦方向に大きく引き伸ばしてある!だが1963年以降のトヨタは、“別世界”に旅立っていくのだが。
もっともこの記事の冒頭で記したように、マツダとダイハツは対トヨタで、1952~55年の間でも、生産台数で上回っていた。しかしその時代は、たとえば1955年は小型三輪トラックが『市場全体の8割以上を占めていた』(⑱、P32)、オート三輪全盛の時代だった。ちなみに1952,53年はダイハツの方が、マツダより生産台数が多かったが。
しかし1960年といえば、小型三輪トラックの市場は大幅に縮小し、コロナもブルーバードも登場後のことで、この年代にトップに立つことは、並大抵のことではなかったはずだ。)
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一応念のため、ダイハツと日産の台数を加えた表も提示しておく。赤字の部分が、“問題”の部分だ。(下に「表21」として、マツダ、ダイハツの各品目の生産台数と、比較のためにトヨタと日産の台数も追記した表を提示しておく。表中の赤字の部分が、問題の?過小だ。)
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そんなマツダの歴史については、現存する日本最古の自動車メーカーであるはずのダイハツとは違い、比較的数多くの本が出版されており、web上で公開されている情報も多い。というか、戦前のダイハツの情報量が、少なくとも一般の目に触れる範囲内では少なすぎるのだが。まるで前回の記事の、横浜製フォードに対しての大阪製シヴォレーの情報が圧倒的に少ないのと同じように。
そこで、ネットで容易に検索できて、情報量が多いマツダの歴史に関しては、この記事では“つまみ食い”している程度で、元ネタを確認いただいた方が詳しいのだし、マツダに関してはあえて簡単に扱いたい。(その予定だったのだが、ところが調べていくとやはり不明な個所もあり、“簡単”ではすまなくなってしまった・・・)
(下の写真はマツダを3年連続国内生産台数トップに押し上げる立役者となった、軽のオート三輪のK360(“けさぶろう”と呼ばれていた)。画像と以下の文はマツダのHPより引用『(K360の)3年間の総生産台数は17万台を超え、実に全体の3割近くを占める堂々の数字だった。』以下は当時バイト先でこのクルマを使っていた徳大寺有恒のK360評『K360は丸ハンドルの二人乗りで、とても軽トラックとは思えないモダーンなデザインであった。カラーもピンクとクリームのツートーンと、ずいぶんしゃれていた。~K360は現在、マツダの博物館に残されている。ぼくはそれを見るたびにスティアリングをそっと握ってみて、「ああ、これだったな」と思う。そいつはいま見てもとてもいいデザインである。』(⑮、P213)先行するミゼットに対抗すべく投入されたマツダの軽オート三輪は、センターにバーハンドルで、ドアなしの1人乗りが基本であったミゼットに対し、金属製のドアを備えて丸型ステアリングホイールは通常の自動車同様右側にあった。エンジンはミゼットの2ストローク単気筒に対して4ストロークV型2気筒を運転席背後下のミッドシップにマウントし、静粛性と安定性の高さもPRポイントだった。徳大寺さんは『このクルマはとてもおもしろかった』(⑮、P213)と記していた。多くのスペックでライバルの上をいき、外観は『日本のインダストリアルデザイナー第一世代を代表する人物として知られる(wiki)』工業デザイナー、小杉二郎の手による傑作デザインだった。
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15.8-2東洋コルク工業社長に松田重次郎が就任してから歴史がはじまる
 現在のマツダの前身である東洋工業の元の社名が「東洋コルク工業」であったことは比較的知られている。この記事の表記では東洋工業/東洋コルク工業と正式に記さずに、今の人に違和感のないマツダ(1984年から「マツダ株式会社」に改称)で代表させてしまうが、コルクの製造のために創業したこの会社の二代目社長として、創業の翌年に松田重次郎が就任したところから、その後の自動車に連なるマツダの歴史が始まる。
15.8-3マツダとダイハツでは企業体質が全く異なる
先にマツダとダイハツでは企業体質がまったく異なると記したが、ここからマツダの歴史に入る前に、その解説を、(②、P62)より引用する。
『両社は企業として対照的な特徴があった。どちらも、トヨタやニッサンよりも創業は古く、歴史のある会社である。
 ダイハツは内燃機関をつくるなど最初から技術を売り物にするアカデミックな側面を持つ理性的な企業であったが、組織的にはオーナー企業の色彩が薄く、社員の中から経営者が選ばれることが伝統になり、合議制で運営する組織になっていた。これに対して、東洋工業は最初からオーナーではなかったものの、松田一族が社長として采配を振るう、トップダウン色の強い企業であった。

15.8-4今日のマツダの基礎を築いたのは、松田重次郎・恒次の親子
(②、P62)より引用を続ける。『今日の東洋工業・マツダの基礎を築いたのは、松田重次郎・恒次という親子である。』
実質的な創業者であった松田重次郎のプロフィールについて、地元紙である中國新聞がまとめた本(⑯、P31)より引用『松田重次郎氏 マツダの実質的な創業者。1875(明治8)年8月生まれ。少年期から機械の技術者に憧れ、大阪と神戸の鍛冶屋、呉海軍工廠(こうしょう)や長崎の三菱造船所で腕を磨いた。起業と挫折を繰り返し、1915年に大阪で松田製作所を創立。退任後の20年1月、マツダ前身の東洋コルク工業の創立に役員として参画した。21年3月から約30年にわたり、社長を務めた。初期のコルク製造から機械に転じ、31年から三輪トラックを製造。51(昭和26)年12月に会長。翌52年3月、76歳で亡くなった。』(写真は1960年にデビューした、マツダ初の市販四輪乗用車、R360。重次郎の四輪乗用車の生産にかけた思いは約30年後、親の意志を継いだ恒次の時代にようやく実現した。画像は(web⓱-3)よりコピーさせて頂いた。)
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https://www2.mazda.com/ja/100th/virtual_museum/episode/img/episode__image--02--01.png
15.8-5東洋コルクに係る前の松田重次郎
(松田重次郎の波乱万丈の人生は、この短いスペースではとても書き尽くせない。多彩な経歴のある歴史上の偉人だが、東洋コルクに係る前の重次郎については長くなるので、今までだと小文字にするところだが、最近自分の視力が落ちて見え難くなってしまい、普通の文字サイズで記す。まずは最初のヒット作?である“松田式ポンプ”について(web⓰)から引用する。『1906年に「松田式ポンプ」を発明し、それを製作・販売する鉄工所を大阪に開設。このポンプは、ダイヤフラム式で灌漑(かいがい)用だけでなく消防、用水、排水、送水など用途が広く家庭用としても売れに入れたという。しかし重次郎は、成功にあぐらをかくのではなく、次の技術向上を考え新しい事業へとシフトしていく。なかでも、大正6年ロシアからの大量発注された軍事部品があった。』信管の大量生産の件は次に記す。下の写真は「広島市に納入された排水用の大型うず巻ポンプと松田重次郎。1913年」(⑳、P43)。不思議な縁で、なんと、発動機製造(ダイハツ)のエンジンを使ったものだという!(⑳、P44)画像はhttps://minkara.carview.co.jp/userid/1946481/blog/43692672/ 
よりコピーさせて頂いた。
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https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/userstorage/000/052/940/070/b70ba82ed8.jpg?ct=c1dc379701cf
15.8-6信管の大量生産で“大正の今太閣”と称えられるも、挫折
『~ 造船業と並んで大戦期の機械工業の拡大を象徴するのが日本兵機製造のロシア向け信管製造であった。松田重次郎は1912年設立の松田製作所とは別に15年11月にロシア向け信管製造のために株式会社松田製作所(資本金50万円)を設立した。松田製作所に信管製作の話を持ち込んだのはアンドリュース・アンド・ジョージ商会の岡本貞次郎と事業家の山口嘉道であり、山口がロシアのブリンネス・グズネソーフ商会支配人アンドレ・モライチニイから受けた話であった。山口は大阪砲兵工廠の元信管工場長の澤邊春水にも相談した。試作品によってモライチニイの信頼を獲得した松田製作所は、範田龍太郎の支援も得て生産に乗り出した。松田製作所は梅田駅裏の5000坪の土地を阪神電鉄から購入し、トタン葺きバラック式の約3500坪の工場を建て、「機械はモライチニイとの契約が成立した日から手をまわしてどしどし購入した。大阪は勿論名古屋、東京方面へも註文した。(中略)慌ただしい状況のなかで信管の大量生産が進められた。1916年12月に松田製作所は日本兵機製造と社名変更し、信管をはじめとする兵器生産に邁進することになったものの、松田と他の重役陣の意見対立が深刻化し、結局松田は17年3月に同社を離れて郷里の広島に帰郷することになった。』下の写真も(⑯、P28)と同じもので、『信管を製造する松田製作所の工場(1916年)~奥が見通せないほど広い工場で多くの人が働く写真が残る。』(web21、P49)。
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400万個というロシアからの大量の信管の注文を捌くために、相当大規模な事業だった様子が伺える。結局約1年で納品を完了させて、松田製作所の株価は大阪取引所で第二位となり、巨万の富を得た重次郎は当時“大正の今太閣”とたたえられたという。(⑳、P45~P50より)しかし、上記の文中にあるように、さらに新工場による拡張を、自らが生まれた地の広島に計画したが、他の役員と対立、結局『辞任し広島に帰った』(⑯、P29)。その辺りの経緯を、(⑰、P3)から補足すると、信管の大量受注で膨大な利益を得た松田製作所は、資本金を増資(150→500万円)し、事業の内容を兵器万般の製作に拡大しようという計画し、新工場建設を企てたが、『あるものは計画の膨大さに危惧を示し、あるものは「松田は故郷に錦を飾ろうとしている」』と疑われるなどして、こぞって反対されたという。
それにしても、「ロシアからの信管の大量注文」というフレーズは、どこかで聞き覚えのあるもので、この一連の記事の⑱番目の記事の「8.1東京瓦斯電気工業の辿った道(日野自動車のルーツ)8.1-1第一次大戦の特需で自動車産業に進出(マントルから自動車へ)」でも使ったフレーズだ!いずれも自動車メーカーとなったマツダと日野が企業として形成されていく過程で、第一次大戦のロシアからの信管の大量発注という特需が、大きく影響を与えていた点が興味深い。)
15.8-7大阪は「私を思い切り鍛錬してくれた土地」
(以下(⑯)から引用『重次郎氏は晩年「私を思い切り鍛錬してくれた土地」と大阪を振り返った。ここで磨いた技能や経営感覚が、広島でマツダの礎となった』(⑯、P31)起伏の激しかった大阪時代を、重次郎は振り返る。大阪の地でもまれながらも、技術者としてだけでなく、企業経営者/実業家としても大きな実績を残し、成長を遂げることができたのだ。ちなみに、当時“大正の今太閣”とたたえられたほどの、巨万の富の行方が気になるが、以下(⑳、P60)より引用する。)
15.8-8戦後恐慌の波に飲まれる
『当時、私の周囲には株屋なども群がっていて、実は、誰にも秘密だったが、私は儲けようとの心で、生涯初めて株に手を出した。すると、あの大暴落。私は元も子も無くした。~ 株屋の口に乗った私もどうかしていたが、あちこちの会社に関係していい気になり、自分で働いて事業を伸ばそうともしなかった当時の私は、いちばん恥ずかしい。わが人生、最大の失敗だと思う。このとき、やはり、一人一業であると深く反省させられた。』戦後恐慌の大波に飲み込まれ、『重次郎は、額に汗して働くこと、そして「一人一業」を心に誓った』(⑳、P61)のだが、この気持ちの切り替えがあって初めて、この後、重次郎の事業を支援することになる、海軍工廠長、伍堂卓雄と、日窒財閥の野口遵との信頼関係が築けたのだと思う。)
15.8-9東洋コルク工業時代の松田重次郎
こうして重次郎は生まれ故郷の広島に戻り、1917年に広島の仁保村で新たに松田製作所を創業する。しかし同社はその後、当時国内有数の軍需会社であった日本製鋼所の傘下に入り、1920年には完全に買収されて日本製鋼所広島工場となり、重次郎は同事業から身を引く。前述の株の大損の結果でもあったのだろう。
そしていよいよ、東洋コルク社長に就くのだが、その後についても、やはりwikiが手際よくまとまっているので引用する『松田重次郎はコルク栓を製造する際に出る屑コルクに目をつけ、広島高等工業学校との研究で加熱製法による圧搾コルク板を商品化し、廃材から付加価値の高いコルク製品の製造に成功する。海軍から大量の受注を得て業績は回復し、東京や大阪にも出張所を設けて経営を積極的に展開した』
(以上のwikiの説明に対して、コルク事業に関してのその背景を(⑰、P5)から付け加えると、当時『~中国地方の山間部はコルク原料の一種であるアベマキ~南欧産のコルクガシの代用にされる-が広く分布し、~これをもって瓶栓を製造するものがあらわれ、以後、アベマキコルクの生産は、広島の地場産業のひとつとなった』のだという。
そして東洋コルク工業の前身となる、清谷商会は、戦時中に洋コルクの輸入が途絶えたのに乗じて事業を拡大させたが、戦後輸入が再開されてしまい、さらに国内コルクメーカーの乱立による過当競争で、たちまち経営を悪化させて苦境に立つ。 
そこで清谷商会のメインバンクであった広島貯蓄銀行(現在の広島銀行の前身行の一つ)が融資金回収と事業存続のため、清谷角八の個人経営から会社組織に改める等再建策を立案し、東洋コルク工業が発足することになる(⑰、P6~7要約)。社長は広島貯蓄銀行社長の海塚新八(注;当時広島屈指の資産家で、「広島の渋沢栄一」と呼ばれたほどの経済人だったという(⑳、P61))で、銀行主導であったことを物語るが、役員の人選は『当時の広島財界において主導的な地位にあった人物』(⑰、P7)で固められたという。そして、清谷角八、煙谷孝吉(広島貯蓄銀行専務)らとともに松田重次郎もその中に名を連ねていた。下の写真&説明文はクリッカーより「1920年当時の東洋コルク工業」(web⓬-2)
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重次郎は東洋コルク工業設立の翌1921年、海塚が体調不良により辞任したのを受けて社長に就任し、コルク栓の製造時に出るコルク屑を、圧縮トルク板にすることで有効活用するのだが、コルクの製造方法に独自の工夫があったという、以下、地元紙、中國新聞の記事より補足しておく。『重次郎氏は10代から培ってきた技術を発揮し、コルク材料を均等に加熱でき、作業効率も高い新型炉を考案。「松田式」と名付けた。冷蔵設備や床の断熱材となる炭化コルク板を生産し「日本一の技術」との評判も得た。』(⑯、P73)従来の工法では、『澱粉糊などを結合剤として使っていたのだが、耐久性に難があった』(⑳、P62)という。
(また上記wikiの、「海軍から大量の受注を得て」という部分の説明を(⑳、P62)より補足すると、当時圧縮トルク板は、軍事用としては砲弾などを保管する際、振動防止のための緩衝材としても多用されていたそうだ。一般的な製氷、冷蔵用の断熱絶縁材として以外に、軍需用途もあったようだ。さらに余談だが、当時“コルク”というものが、今日よりも、日常の生活に役立っていたという補足説明を、(web⓰)より加えておく。『当時、電気冷蔵庫が存在しなかったため、冷蔵庫(アイスボックス)のハウジングにコルクが使われていた。また、ご飯を保温するお櫃のハウジングの内部にもコルクが活躍しており、今以上にコルクは生活の中で必需品だった』(web⓰)という。下の写真はwikiwandより「東洋コルク工業の圧搾コルク板」
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(下の画像は松田重次郎。マツダのHPよりコピーさせていただいた。以下は“マツダ”の英語表記がなぜ“Mazda”なのについて『英語表記については、古代西アジア(イラン)の文明とともに誕生したゾロアスター教の最高神で、叡智、理性、調和の神とされる「アフラ・マズダー(Ahura Mazda)」の名称を重ね、「Mazda」と決められました。松田氏は、アフラ・マズダーを「東西文明と自動車文明の始原的シンボル」ととらえ、自動車産業の光明となるようにとの思いを込めたといいます。』ただ松田重次郎とゾロアスター教の関係はやはり不明だと思う。以上「乗り物ニュース」https://trafficnews.jp/post/80054 より引用)
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15.8-10関東大震災と工場火災の悲運
話を戻し、重次郎は海軍からの大量受注を受けて、大阪や東京にも出張所を設けるなど攻勢に出るが、1923年の関東大震災により売掛金の多くが回収不能に陥ってしまう。東京出張所の開設が裏目に出てしまった。追い打ちをかけるように、同年火災により工場設備の70%が焼失するなど(マツダのHP等より)、さらなる悲運に見舞われる。
また輸入品の増加や、頼りの海軍工廠からのコルク板の引き合いも軍縮の影響で下火となり、さらにコルクの商売は、季節変動のリスクも大きかったようだ。あまりの災難に『南米に移住して人生をやり直そうと真剣に考えた』(⑯、P73)程の落ち込みようだったという。
15.8-11東洋コルク工業から東洋工業へ(二人の恩人)
しかしこの逆風をきっかけにして、コルク製造業から、機械関連事業へと大きく舵を切ることになる。生き残りを賭けて、重次郎が目を付けたのが、得意とする機械事業への進出で、地元経済で圧倒的な存在感を放つ呉海軍工廠をはじめとした各海軍工廠向けの、機械部品の下請け工場となる道であった。
15.8-12呉海軍工廠向けの機械部品下請け工場へ
以下(wiki)よりコピーです。『松田重次郎は過当競争となっていたコルク事業から自身が得意とする機械事業への進出を決意。知遇を得ていた呉海軍工廠長の伍堂卓雄に支援を依頼し、日本製鋼所を通す形で注文を取り付け、資金面では野口が保証人となり、芸備銀行から資金を調達した。1927年(昭和2年)には社名を東洋工業株式会社に改称した。』 
以上wikiに、簡潔&手際よく書かれているとおりだが、もう少し詳しく見ていきたい。まず(⑳、P69)より引用より
15.8-13第一の恩人、呉海軍工廠長の伍堂卓雄少将
『重次郎がまっさきに訪れたのは、呉海軍工廠長の伍堂卓雄少将であった。のちには林鉄十郎内閣や阿部信行内閣で、商工大臣や鉄道大臣、農林大臣を歴任する人物である。伍堂は、重次郎が呉海軍工廠からの発注で信管を製造した時、「松田はいい仕事をする」と、重次郎の仕事を認め、重次郎という人間に好感を持った。それから重次郎は、伍堂と親しくするようになったのだ。(中略)
 重次郎は伍堂にこれまでの経緯を説明したうえで、「再出発したい」という決意を伝えた。これに対して伍堂は「相当の援助をしよう」と、支援を約束してくれた。実績のない工場を直ちに、直接受注する資格を持つ「指定工場」とすることはできないため、重次郎と関係の深い日本製鋼所を通して「間接的に注文しよう」と請け負ってくれた。』
(⑳、P68)
15.8-14地域経済にとって大きな存在であった陸/海軍工廠
下に、以前の⑱の記事で貼り付けた表(1902年の日本の工場規模ランキング)を再掲しておく(引用元;web❷、P36)。
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1902年という、少々古いデータではあるが、マツダの地元といってもいい、呉海軍工廠(さらに近い広海軍工廠も1923年に呉海軍工廠広支廠が独立したもの)はじめ、横須賀、佐世保などの海軍工廠の存在の大きさがわかる。
以下(⑳、P68)より引用『呉海軍工廠は、横須賀や佐世保など、ほかの工廠には設けられていなかった製鋼部、大砲や機関銃などを作る咆こう部、それに水雷部などがあり、軍需工場として東洋一の規模を誇っていた。のちに日本海軍最大の戦艦「大和」を建造したことでも知られる。その事業規模に従って、関係する会社に製品や部品を注文する発注額も、国内事業所トップクラスであった。』
以下は上掲の表のネタ元の(web❷、P36)からの引用だが、戦前の地方の地場産業は、陸/海軍工廠からの発注を基盤として発展していった例も多かったようだ。
『兵器工場や財閥系造船所にある機械工業の技術は地域の大企業や中小企業に次第に移転して機械工業の基盤が作られる。このように機械工業の技術はこれら工場の所在地に移転して地場産業を形成することになる。
表2(注;上の表)の呉の海軍工廠は最も規模の大きい機械工場である。これらの工場は兵器の部品を東洋工業(マツダ)から調達していた。また、この会社の創業者の1人である松田重次郎は海軍工廠に勤務していた経験がある熟練工であった。松田は大阪でも兵器の製造にかかわっていた。更に、当社は1929年に呉と佐世保の海軍の指定工場となっている。また、第2次大戦後、海軍工廠から多くの人材を雇っている。広島から自動車工場が生まれる条件はここに求められる。』

重次郎は既述のように、激動の大阪時代、松田製作所をより本格的な兵器産業メーカーへ発展させようと試みて、挫折した経験がある。過当競争のコルク製造から脱却し、海軍工廠下請けの兵器製造へ事業転換する発想は、元々頭の中にあったようにも思える。
さらに戦後のマツダの発展を、海軍工廠からの優秀な人材が支えた面も見逃せない。社長の松田恒次を支え、戦後のマツダの技術部門を率いた村尾時之助も、呉海軍工廠出身の優秀な技術者だった。マツダと海軍工廠との取引関係の推移について、以下もwikiから引用させていただく。
『1928年(昭和3年)初頭から、日本製鋼所や宇品造船所などの下請工場として海軍関係の兵器や機械、部品の製造を始めた東洋工業は、同年10月に広海軍工廠の指定工場に、翌1929年(昭和4年)1月に呉海軍工廠および佐世保海軍工廠の指定工場となり、航空機のエンジンやプロペラ、軍艦の精密機械などを受注。同年8月には海軍省購買名簿に登録され、従来の第2次下請けの立場から各海軍工廠の第1次下請け工場の地位を確立した。』(下の写真は、三井住友トラスト不動産のHPよりコピーさせて頂いた、「戦艦「大和」を建造した「呉海軍工廠」(昭和戦前期)。
https://smtrc.jp/town-archives/city/hiroshima/p07.html
以下は余談になるが、そもそも『広島県は、日本国軍にとっては戦略的に重要な所』(web28-2)だったという。以下も(web28)からの引用『本州最南端の兵站(へいたん)拠点を広島に定めた陸軍は広島市の宇品(うじな)港まで鉄道をひいて、ここから兵員と武器弾薬、さらには食料など補給物資を陸軍輸送船に積み込み、朝鮮半島や中国本土に運んでいた。一方の海軍は、佐世保や長崎に並ぶ戦略基地を、広島市から南方30キロに位置し、広島湾に包まれている呉(くれ)市に定め、江田島兵学校や海軍工廠など充実した設備を整えていた。』(web28-2))
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https://smtrc.jp/town-archives/city/hiroshima/images/07-03-01.jpg
 しかし重次郎は後に、官需に頼り、甘んじることなく、バランスをとろうと民間向けの機械製品にも乗り出そうとする。そしてこの充実した工場設備が、オート三輪業界進出に有利に作用することになるが、その話の前にここで、伍堂とともにマツダがコルク事業から機械事業へと転身を図るうえで後ろ盾となった、当時新興財閥と呼ばれた日窒コンツェルンを率いた野口遵とマツダとの関係について、触れておく。
15.8-15第二の恩人、日窒財閥の野口遵(戦前のマツダは日窒財閥系企業だった)
 話を15.3-4.2に戻し、生き残りを賭けた事業転換のために、まっさきに相談した伍堂から、呉海軍工廠の仕事のめどは取り付けた。しかし銀行はそれだけでは融資に、首を縦に振らなかった。『芸備銀行(当時のメインバンク)側から「野口遵の保証」という条件がつけられていた』(⑰、P38)のだ。
後述するが日本窒素の野口遵は、『苦境に陥るたびに「機械屋としての君を僕は信用する」』(⑯、P76)として、一貫して支えて続けてくれたという。しかし今回、銀行が求めた『「野口遵」の保証は、たんなる債務の保証だけではなく、『日本窒素肥料による東洋工業への経営参加』(⑰、P38)を求めてきたのだ。以下も社史の⑰より引用
『こうして、東洋工業の経営陣は、取締役社長松田重次郎、取締役杉本政平、野口 遵、監査役金田栄太郎の4名となったのである。いわゆる広島財界のトップグループが東洋コルク工業を発足させてから11年余りにして、松田重次郎を除く創業時のそれら役員はすべてこの企業を去り、かわって~松田社長以外の全役員が~日本窒素側によって占められたのであった。』(⑰、P39)そして当然ながら、日窒の経営参加と共に資本参加も進められた。
ここで、鮎川義介、森矗昶(のぶてる)らとともに当時新興コンツェルンと呼ばれた、巨大な日窒財閥を率いた、野口遵について地元中国新聞の本より『~日本窒素肥料の創業者。東洋工業を資金面で支援し、取締役を務めた。一時は広島市に暮らし、戦前の地場経済を導く存在だった。』(⑯、P77)参考までに現在、同コンツェルンの系譜に連なる企業として旭化成、積水化学工業、信越化学工業などがある。
試しにwikiで「日窒コンツェルン」を検索すると、1937年時点での傘下企業に、マツダ(東洋工業)も名を連ねている。松田重次郎率いるオーナー企業という側面と共に、戦前のマツダは日窒財閥系企業という側面も合わせ持っていた。しかし重次郎はけっして経営権までを手放したわけではなかった。以下(⑰、P59)より『発行株式の90%近くが日本窒素と松田一族に集中しているのであって、こうした点から、昭和初期の東洋工業の実態は、いわば松田重次郎・野口 遵のジョイント・カンパニーであったということができるのである。』以下も(⑰、P42)より
『松田重次郎は、この野口 遵を事業のよき理解者として、野口は松田を熱心な技術家経営者として』お互い厚い信頼関係が築かれていた中での経営は、重次郎にとっては、地元広島財界グループのうるさ方連中?に囲まれながら顔色を窺いつつ行うよりも、ずっとやり易かっただろう。野口の事業は次第に朝鮮半島へと舞台を移していき、野口自身多忙を極めていたはずで、資本は維持しつつも、マツダの経営に強く関与していたようには思えない。
以下も⑰より『なによりもまず、それによって金融力を向上させたことが、東洋工業にとっては第1のメリットであったといえよう。』(⑰、P42)
15.8-16実は削岩機のトップメーカーでもあった
(実はマツダが、削岩機のトップメーカーであったことはあまり知られていない。以下webの記事“【マツダのトリビア】”より引用『東洋工業は、さく岩機のトップメーカーだった!? コンクリートや岩などを砕くときに使われる「さく岩機」。実は、東洋工業(現・マツダ)は国内シェアナンバーワンを誇るさく岩機のトップメーカーでした。さく岩機は1935年から生産が始まり、1960年代には山陽新幹線の建設工事などでも活躍しました。その後、「トーヨーのさく岩機」は1970年には国内でシェアトップの44%を占めるまでになり、1989年にさく岩機部門が分社化するまで、東洋工業の主力商品のひとつだったんですよ。』
http://trd-tohoku.jp/2018/09/697/
マツダが鉱山用削岩機を手掛け、しかもトップメーカーであったという事実は、機械メーカーとして高い技術力と共に、朝鮮半島に大規模な水力発電所を作っていた日窒コンツェルンの野口とのつながりを強く想起させる。以下(web⓰-2)から引用『東洋工業の削岩機づくりも、3輪トラックづくりの時に当時名機とされたイギリスの単車を分解し研究したのと同様、削岩機の世界では世界的名声を博していたアメリカのインガソルランドの製品を手に入れ、分解し、各部品をスケッチするなどとことん研究し尽くしている。とはいえ削岩機の心臓部であるピストンの素材の焼き入れにはかなり苦心したと伝えられる。3輪トラックづくりと削岩機のモノ作りに共通しているものがあり、困難を乗り越え、市場で認められる製品と成長していった。』以下⑰より引用
『(さく岩機の生産額は)16年上半期から17年上半期までの3期間、1期平均130万円をかぞえ、なかでも16年上期は136万円の戦前ピークを記録、全社生産高の19.3%を占めて、三輪トラックや陸海軍兵器をおさえ、トップにたっている。』(⑰、P129)
マツダのさく岩機は、荒廃した戦後日本の復興も支えてきたが、2002年11月付けで、削岩機製造子会社のマツダアステックの営業権を、スウェーデンのサンドビックグループに譲渡した。(https://response.jp/article/2002/09/17/19630.html)
下の写真はマツダのHPよりコピーで「東洋工業時代の主力製品のひとつ、「トーヨーさく岩機」(トーヨーS49ジャックハンマー (1935年))」)
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https://www2.mazda.com/ja/100th/virtual_museum/gallery/img/gallery__image--032--01.jpg
しかし、『日窒コンツェルン総帥で取締役の野口遵が死亡(1944年1月)し、これを受けて同年5月までに日本窒素肥料系の役員が経営陣から去ったことから、東洋工業と日本窒素肥料の提携は終了した』(wiki)。マツダと日窒との関係は、企業間の利害関係も大きかっただろうが、それを支えていたのが松田重次郎と野口遵との間の個人的な信頼関係だったと思われ、野口の死を境にその関係は急速に途絶えたようだ。戦後のわれわれの目からするとマツダといえば、住友銀行と太いパイプを持つ企業というイメージが深いが、戦前においては、日窒系企業と目されていた点と、海軍工廠の支援もあった2点を強調しておきたい。
(以下の画像と文章は以下のブログの記事“朝鮮に世界最大級のダムを建設”(田中秀雄)
https://blog.goo.ne.jp/46141105315genkigooid/e/c9bfbe7cd0904ddf1289aea63a12326c
から引用させて頂いた。『~ 昭和7(1932)年に満洲国ができると、朝鮮と満洲の間を流れる鴨緑江は友好関係を象徴するものとなった。満洲国と朝鮮で共同事業もできるようになったのだ。そうして野口が鴨緑江に作ったのが水豊ダムである。当時世界最大級を誇った70万キロワットの水力発電所である。』この水豊ダムの発電所は今も稼働中で(現在の出力は80万キロワット)その供給電力は中国と折半しているという。