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㉒ダットサン他,戦前小型四輪車の歴史 ≪日本の自動車産業の“育ての親”は日本陸軍だった?戦前日本の自動車史(その7)≫

※この記事は書きかけです。

 この記事(17項)では戦前日本の小型四輪車の歴史を記す。
 早い話が、戦前の国民車的な存在であった「ダットサン」について、主に記す記事だが、今回の記事ではその「ダットサン」を、以下の3つの視点から、多面的に辿ってみたい。
・1つは、久保田鉄工所系の「実用自動車製造」による「ゴルハム式三輪車」から発展した小型四輪車の「リラー号」から始まり、「ダット自動車製造」時代を経て「日産自動車」の小型車「ダットサン」へと至った、その製品の成長過程を辿る、一般的な歴史だ。(17.1項、17.2項、17.4項で記す。)
・2つ目は、初の量産型国産四輪車「ダットサン」の誕生と不可分な存在にある、日産コンツェルン創業者、鮎川義介による自動車産業への進出と、量産車ダットサン誕生へと至ったその過程の歴史だ。(17.3項)
・3番目は、適応除外の「特殊自動車」枠から始まった四輪の豆自動車が、日本固有の「無免許許可小型四輪車」として、法規の変遷とともに市場を形成していくその過程を、ダット自動車製造製の「ダットソン」誕生の直前頃まで簡単に辿った。(17.5-1項)
 最後の(17.5-2、-3項)では、戦前のダットサンの全盛時に、そのライバルとして立ちはだかった「オオタ」他、同時代の小型四輪車のいくつかを簡単に記した。
※なお今回の「小型四輪車」の記事では、戦前の国産小型車として取り上げられる機会の多い「白揚社」の「オートモ号」(13.1項参照)や、生産台数は多かった「日本内燃機」の「くろがね四起(九五式小型乗用車)」軍用車両(15.6-20項参照)のように、法規上の優遇処置の適用を考慮しなかった「小型車」は除外した。

 戦前の日本車のなかでも、オールド・ダットサンはもっとも人気があり、コアなマニアも多い。ということは、このブログの「戦前日本の自動車史」の記事で、もっとも読まれる可能性が高いということになる。
 しかし、このへそ曲がり気味の一連の記事では、戦前のオート三輪車史(その6の記事)のような、今まで語られることが少なかった日陰的な?存在であった日本車の歴史を記すことに、力を注いできた。ダットサンについては詳しくて面白い情報が、ネットや文献ですでにあふれている。この記事で新たに付け加えるような情報はほとんどない。という、後ろ向きな言い訳をしつつ、話を始めるが、いつものように、引用文は区別して青字で記すとともに引用元はすべて明記し、巻末にまとめて記してある。前回からだが写真解説部分も区別し、緑文字で区別した。なお引用した本はすべて実際に購入したものだ。また文中敬称略とさせていただく。

 まず初めに、戦前日本の小型四輪車の歴史を記すうえで、なぜダットサンが中心なのかという点だが、下表をご覧いただければその理由が分かる。数字は京三号のみ(㉖P217)、それ以外は(⑤P245)から引用した。このうちくろがね(日本内燃機)は軍用車両の「くろがね四起」(1,300cc)で、無免許小型車の枠外なので参考用だ。小型四輪車の国内市場が一応確立した時期の、市場におけるダットサンの存在感は圧倒的だったのだ。
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 上の表には参考までに、オート三輪界のトップ2、ダイハツとマツダの数字も載せたが、小型四輪車全体では、(台数ベースでは)オート三輪より市場規模が小さかったにもかかわらず、ダットサンの生産台数はダイハツ+マツダの台数を超える勢いだったのだ。
ということで今回の記事(17項)では、戦前のダットサンの歴史に重点を置き、それ以外の小型四輪車については簡単に記すのみとしたい。

17.1実用自動車製造の小型車 「リラー号」と「ダットソン」
「ダットサン」のルーツを辿れば、橋本増治郎が創業した東京の「快進社」(8.3.1~3項参照)と、久保田鉄工所の久保田権四郎を中心とした関西財界人が興した大阪の「実用自動車製造」(8.3.4,5項及び15.3項参照)が合併して、1926年に誕生した「ダット自動車製造」に辿り着く。この2社がダットサンのいわば“生みの親”になるが、“育ての親”はもちろん戸畑鋳物を振り出しに巨大な新興財閥、日産コンツェルンを築いた一代の企業家、鮎川義介だ。
 ここで当記事の過去記事からの抜粋で、まずは“生みの親”である両社の歴史をあらためて振り返っておきたい。詳しくは過去の記事及び各引用先をご覧ください。
(参考までにwebで手軽に検索できる情報として、たとえば「「みなさん!知ってますCAR?」「ダットサンのルーツ」広田民郎」https://seez.weblogs.jp/car/2008/05/index.html を紹介しておく。これから記す自分のブログの記事みたいにまわりくどく無く?率直でわかりやすい内容です。)

17.1-1快進社のダット号と橋本増治郎について
 まず「快進社」の創業者、橋本増治郎について。東京工業学校(現・東京工業大学)機械科を首席で卒業後、数年の社会経験を積んだのち、農商務省海外実業練習生となり1902年に渡米する。キャデラックやリンカーンの生みの親で、「機械技術の巨匠」と呼ばれたヘンリー・リーランドに面会する機会もあったという。渡米中の体験から、日本でも自動車産業を興すことの重要性を胸に抱きつつ帰国する。
 帰国後は東京砲兵工廠技術将校として機関銃の改良を行い、軍事功労章を受ける。日露戦争後に勤務した九州炭鉱汽船で社長の田健治郎と、役員で土佐の有力政治家の子息である竹内明太郎(吉田茂の実兄)と出会い、九州炭鉱汽船崎戸炭鉱所長として有望な炭坑の鉱脈を探り当てる。
 さらに月日は飛ぶが、後に『ダット41号を完成させた後の約2年間は、北陸で新たな工場建設の指揮にあたっていた。株式会社小松製作所(現在のコマツ。竹内鉱業株式会社として明治26年創設。創業者は竹内明太郎。DAT名のTの由来者)の出発点となった石川県の小松鉄工所の技術的な礎は、じつは増次郎が築いた』(③-1、P169)のだという。
 こうして自動車以外の足跡をざっと辿るだけでも、橋本が傑出したエンジニアだった事はわかる。九州炭鉱汽船より1,200円の功労金を受け取った橋本は退社し、いよいよ自動車製作に乗り出す。
 1911年(明治44年)、竹内の尽力により吉田茂の所有する東京麻布の土地を借りて工場を作り、快進社自働車工場を創業する。そして数々の苦労の末に、独自の設計・製作による、水冷直列4気筒エンジンを搭載したダット(DAT)41型を完成させる。
(「ダット(DAT)」は橋本の協力者の田、青山、竹内のイニシャルを組み合わせた名前で、脱兎(だっと)の意味も込められていた。1921年の東京平和記念博覧会で金牌授与の栄誉を受けた(web〈4〉)。下のダット41型の画像は以下より引用
http://www.nissan-global.com/JP/HISTORY/firsthalf.html)

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https://clicccar.com/uploads/2015/10/01-300x222.jpg
『モノブロック直列4気筒エンジンにすることで、出力が15馬力に達した。しかもセルスターター付きでバッテリー点火、ギアは前進4段後進1段という当時としては先進的な機構を備えている。前席に2名、後席に5名の計7人乗車の本格的乗用車である。4気筒エンジンとしてはフォードのモデルTに8年遅れ、セルスターターはキャデラックに7年遅れではあるが、日本人の手によって造られた純ジャパニーズカーとしては、世界レベルに達していたといっていい。』(〈web〉1))
この41型の完成を見て橋本は自社技術に自信を得て、その製造へと乗りだすことになるのだが、しかし販売は不振で1919年以降,完成したのは 4~5台(web〈3〉P42)にとどまったという。
 日本の道路事情に合わせた小型乗用車だったが、『日本人にあったサイズのクルマであるといっても、輸入されるアメリカ車に比べて小さいことは、それだけ高級感のないクルマであると思う人が多かった。この当時は、舶来品のほうが優れているという先入観を持つ人が多く、自動車メーカーとしての前途に光明を見つけるのはむずかしいことだった。』(②P42)
結局販売不振に苦しんだ末に、同じく乗用車生産からスタートした石川島と同様に、軍用自動車保護法に望みを託すことになる。しかし改進社には設備等で、陸軍の軍需企業として受け入れられる体制は整っておらず、橋本と陸軍との間にも確執が生じてしまい、ことは思惑通りに運ばなかった。以下(②P101)より
『「東京瓦斯電気工業」と「東京石川島造船所」自動車部に続いて、軍用保護トラックに認定されたのが橋本増治郎の「改進社」のダット41型であった。しかし、企業としての規模が異なることもあって、前記2社とは異なる展開となっている。それは、公官庁が大企業の方しか向いていないことを如実に示すものだった。零細企業などは相手にしないという態度で、橋本のところはしばらく翻弄され続けた。(中略)陸軍は、瓦斯電や石川島からは、軍用保護トラックを買い上げるなどしているが、橋本のところから購入するつもりはなかったようだし、瓦斯電や石川島のような設備を持っていないことも、橋本の泣き所であった。』この間の経緯は8.3-2項を参照して下さい。こうして経営不振は続き、関東大震災後には米国車の販売急伸で決定的な打撃を受ける。1925年 7月、株式会社快進社を解散し,試験的なバス営業等を行う合資会社ダット自動車商会へと業務縮小を行ない、かろうじて生き延びるだけとなる。

17.1-2実用自動車製造のゴルハム式3/4輪車について
 実用自動車製造の創業の過程を、冒頭から手抜きで、(③-2、P170)から引用する。
『そもそも実用自動車製造は、前述のようにゴルハム号の特許を高額で購入し製造販売する目的で、大正8年(1919年)12月に発足した会社だった。当初は久保田鉄工所の創業者、久保田権四郎(1870~1959)が社長を兼務していたが、実際は娘婿にあたる久保田篤次郎が立案した事業計画の下に、久保田鉄工所はじめ、以下の関西鉄鋼界の豪商たちが参集し、合計100万円を投資していた。大正8年当時の100万円といえば、現在ならば50億から100億円に相当する。久保田権四郎(久保田鉄工所)34万円、津田勝五郎(津田鋼材社長)30万円、芝川英助(貿易商)30万円~ これらの出資者たちは、第一次大戦(大正3~8年)期の関西産業界の非常な好景気を受け、潤沢な資金を備えていたわけだ。』
 瓦斯電と石川島が自動車事業に参入したのと、出資者たちの元の動機はだいたい同じで、第一次大戦中に巨利を得た日本の産業界/企業家たちだが、戦争終結後、景気が減退し、経済が縮小することは目に見えていた。余力のあるうちに共同で、自動車というリスクはあるが未開拓の成長分野へ投資し、進出をはかろうとしたのだ。「ゴルハム式三輪車」誕生のいきさつと、その“関係者”で仕掛け人であった“稀代の大興行師”、櫛引弓人(くしびきゆみんど)及び設計者、ウィリアム・ゴーハムについての詳細はここでは省略する(15.3項参照)。
(下は日産ヘリテージコレクションに展示されていた「実用自動車製造」製の最初のクルマ、「ゴルハム式三輪車」のスケールモデルで、画像は以下よりコピー。
https://www.automesseweb.jp/2020/06/22/422105/2 見るからにバランスが悪い。その上、本格的な幌を装着すると、視界も悪かったという。

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https://www.automesseweb.jp/wp-content/uploads/2020/06/AMW_HaradaRyo_1920_Gorham-shiki-Three-wheelerScale-Model_IMG_5717_1.jpg
 ゴルハム式三輪車は『ヨーロッパ、特にフランスで1910-20年ごろに大いに流行したサイクルカーの一種』(①P37)で、『さほど画期的な設計だったわけではない』(③-3)のだが、実用自動車製造ではゴルハム号の特許及びその製造権に気前良く、10万円(今の価値では5~10億円)支払い、ゴーハムを月給1,000円という高給(当時、巡査の月給が35円ぐらいだっただろうという;④P79)で技師長として迎える。久保田権史郎と娘婿の久保田篤次郎父子はじめ関西財界人たちは、ゴルハム式三輪車でどのような絵(夢?)を描いたのか、以下(③)の考察を元に記す。
 まずゴルハム号の地元、大阪の市場の状況だが、当時、東京と比べて自動車の普及が遅れていた。『この時期は、まだ大阪府内全体の自動車保有台数が、わずか612台にすぎなかった(大正8年12月内務省調査)。東京府の登録台数3000台と比較して、約五分の一の数であった。これは大阪の道路事情が良くなかったことに起因している。道幅が狭く、そのため人力車の数は東京よりもむしろ多かった。』(③-2、P172)
 この時代の大阪は特に、四輪の自動車の市場が小さかった。当時すでに、フロントカー型の三輪自転車にスミスホイールモーターを付けた、初期のオート三輪が、荷物を積んで市中を走りはじめていたはずだが(15項参照)、荷物輸送よりも、当時東京よりも多かったという、人力車からのステップアップを狙った(キャッチフレーズは「人力車代用車」だった)のだ。
(下の写真は大阪ではないが、大正時代の名古屋駅前の光景で、客待ちの「韋駄天人力車」の車夫たちが並んでいる。画像http://network2010.org/article/1100 よりコピーした。)
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http://network2010.org/contents/files/serialization/01hirokoji/04_07_01.jpg
 しかし『異様にもてはやされたゴルハム実用三輪車の実力はどうだったのだろうか。(中略)いざ発売してみると、あまりに前フォークが弱く、カーブでよく転倒し、そのため評判を落とした。(中略)あまりに不安定なので、急きょ大正10年末(1921年末)に四輪への設計変更を行い、平和記念東京博覧会の開催中に幌型四輪乗用車として売り出したが、もはや悪評を覆すことはできなかった』(③-3、P175)という。自動車としての機能面で、ほとんど致命的とも思える欠陥を抱えていたのだ。
三輪から四輪への設計変更は、せっかく『天皇御料車の先導用に警視庁に納入したものの、テストの途中でひっくりかえり「大目玉をくらった」事件』(③-2、P173)が契機だったという。ゴーハムは自らの名を付けた「ゴルハム号」の販売直後に実用自動車を去り、鮎川義介の戸畑鋳物へと去っていたので、この三輪→四輪化は、ゴーハムの助手格だった若い後藤敬義(久保田系でなく津田系の大阪製鉄(津田鋼材)という鉄鋼会社出身の技術者)が中心となり実施された。
(下は「ゴルハム式四輪トラック」で三樹書房 http://www.mikipress.com/books/pdf/668.pdf よりコピーさせていただいた。急遽四輪化したため、三輪型同様に右後輪のチェーン駆動で、操向機構もティラーハンドルのままだった。
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(下は乗用車タイプのスケールモデルで、ゴルハム式を4輪化したことがわかる。350cc程度でも十分だったように見えるが・・・。日産ヘリテージコレクションからのコピーだ。)
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https://www.nissan-global.com/EN/HERITAGE/img/modelDetail/uploader/data/en/Web/1317104763101051288.jpg
 南恩加島工場は先進的な『本邦初のマスプロ自動車工場』(⑬P72)で、月産30~50台を想定し、ヤナセ(当時は梁瀬自動車)の協力を得るなど強力な販売網も組織したが、ゴルハム号は結局、3年間で約250台(三輪型150台、四輪型100台)製造するのがやっとだった。ゴルハム号のまとめとして、またまた(③-2)より引用させて頂く。
『ゴルハム号三輪自動車の製造事業は大失敗に終わっていた。(中略)結局のところ、大阪の実用自動車製造には、南恩加島工場の立派な設備と、若い日本人技術者達が、売れないゴルハム号と、膨大な赤字と共に残されたのである。 普通ならば、巨額な損失を生んだために会社は倒産、工場も売却となるケースだが、親会社の久保田鉄工所をはじめ、大阪鉄鋼界の強力な後ろ盾を得ていた実用自動車製造は、奇しくもそのまま存続していく。(中略)
 苦況に突入した実用自動車製造を立て直したのは、大正11年(1922年)より専務取締役を務めた久保田篤次郎と、技師長の後藤敬義の両名であった。』
(③-2、P170~P173)
 実は1919~21年の初めにかけて、久保田権四郎・篤次郎父子は商売の種を求めて長期にわたり欧米各地を回っており、創業当初の実用自動車製造は、『通称津田勝と恐れられた大阪随一の鉄商、津田勝五郎が実は中心的な経営者となっていた』(③-2、P171)という。しかしこの惨状により、義父の権四郎に『実用自動車製造に行って後始末しろと、厳しく命令され』て(本人談(3-2、P174))、元々のプランナーであった久保田篤次郎が責任を取らされる形で、専務取締役として経営立て直しに奮闘することになるのだ。
 こうして親会社の久保田鉄工所をはじめ発動機製造(ダイハツ)や戸畑鋳物などの下請け工場として糊口をしのぎつつも、小型乗用車を諦めずに、次の「リラー号」を誕生させる。

17.1-3リラー号の誕生
 リラー号はエンジンこそ空冷V型2気筒のゴルハム式を踏襲(初期型は926ccのままだったが後期型はボアアップして1,087ccに拡大)したが、デフを備えて後車軸をシャフトドライブする本格的な四輪自動車の体裁を整えた。もちろん丸ハンドルで、車体寸法も大型化(ゴルハム式のホイールベース/トレッドが1,828/914mmに対し、リラー号は2,133/965mm)された。
(下の写真はクボタのホームページより、当時のカタログで、リラーとはライラック(藤の花)の意味で、淡い藤色のボディカラーがトレードマークだったという。)
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https://www.kubota.co.jp/museum/img/history/1890_1926/h_photo_0113.jpg
 しかし横浜の日本フォード社のKD方式による組立台数は1926年に8,677台(ちなみに本国ではT型モデルの最末期で落ち込んだがそれでも1,629,184台と桁違いだった)に達し、『T型フォード4人乗りの東京標準価格が1700円だった当時、それは幌型1750円、箱型2,000円もしたから、当然ながら苦戦を強いられた。』(①P39)((⑤P73)によれば『1925~26年頃フォードの5人乗り幌型の価格は1,475円』であったという。)
 結局リラー号は1922年末~1926年の間に約200台(②P78、③-2、P175、④P80。①P39で150台、⑤P191では250台)生産されたにとどまった。
(以下からの3台はすべて、日産の日産ヘリテージコレクションに展示されている、リラー号のスケールモデルで、日産自動車のHPからコピーした。ゴルハム式3輪/4輪と比べると、だいぶ自動車“らしく”なったが、やはりサイクルカー風だ。下は前期型の2人乗りロードスターだが、後方に1席分のランブルシートがつく。他に3(4)人乗車型と貨物用タイプが用意されていた。
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https://www.nissan-global.com/EN/HERITAGE/img/modelDetail/uploader/data/en/Web/1317103875972034851.jpg
(下はその貨物用タイプで、ワイヤーホイールでなく、ディスクタイプなので後期型だ。)
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下の写真も後期型のスケールモデルで、幌型のフェートン型だ。下の日産HPにあるリラー号はラジエターがメッキされているが、こちらは塗装されていて、形状も多少異なる。藤色の車体が鮮やかだ。
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https://www.nissan-global.com/EN/HERITAGE/img/modelDetail/uploader/data/en/Web/1317104270350022102.jpg
(「リラー号」について最後に追記すれば、初歩的な部分で不明な点がある。肝心なエンジン排気量の情報が確定していないのだ。たとえば日産のホームページではリラー号(下の写真だが、ディスクホイールタイプなので後期型だ)は1,260ccとしているが、
https://nissan-heritage-collection.com/NEWS/publicContents/index.php?page=6

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https://nissan-heritage-collection.com/NEWS/uploadFile/p08-01.jpg
三樹書房の下記や、「轍をたどる」国産小型自動車のあゆみ」岩立喜久雄(③-2)では1,087cc(後期型の場合。初期型は926cc)としているのだ。
http://www.mikipress.com/books/pdf/649.pdf
 不明確だからか、大人の対応なのか、意図的に?排気量を記載しない文献も多い。とりあえず今回は、一連の記事作成の上でたいへんお世話になっている「轍をたどる」の記載にならった(日産のHPでなく!)。しかし当然ながらもっとも資料が豊富な“本家”の日産自動車が1,260ccだと、自社のホームページで堂々とうたっている、その根拠があるはずで、本当のところはどちらなのでしょうか。)


17.1-4「実用自動車製造」+「ダット自動車商会」=「ダット自動車製造」の誕生
 8.3-3項で記した内容と重複し、ほとんどそのコピーになってしまうが、共に苦境に立たされて生き残り策を模索していた「実用自動車製造」と「ダット自動車商会」にようやく、一筋の光明が差し始める。後にはまた陸軍の方針が変わるのだが、この当時は『将来的に見て、保護自動車メーカーが三つぐらいあることが望ましいと考えていた』(③P105)という陸軍の能村元中将(のちの「自動車工業㈱」社長)の斡旋があり、両社の合併による打開策が俎上に上がってきたのだ。
「ダット」のもつ軍用保護自動車認定という実績(看板)+「実用自動車製造」のもつ設備+久保田鉄工所の傘下企業であるという、陸軍と商売するうえで重要な信用力を結び付けようとする動きだった。
 1926年、ダット自動車商会と、実用自動車製造は合併して、ダット自動車製造が誕生する。社長には久保田鉄工所社主の久保田健四郎が就任し、橋本増次郎と久保田篤次郎が専務取締役に納まったが、実質的には実用自動車製造による、ダットの吸収だった。(1926年9月「ダット自動車製造」を設立し、「実用自動車製造」を吸収、12月に「ダット自動車商会」を吸収し合併完了;(web〈2〉。)
 主な製造品目のダット製トラックの製造・開発の拠点も大阪に移る。「DAT」の意味するところも、Durable(頑丈)、Attractive(魅力的)、Trustworthy(信頼性)という略称に置き換えられた。以下、(②P106)より引用を続ける。
『「ダット自動車製造」となって最初の自動車としてつくられたダット51型は、41型の改良ということで、とくに陸軍の検定審査を受けることなく保護自動車として認定された。陸軍も「改進社」時代の軋轢を引きずらずに、ダット自動車に対して協力的になっていた。』
 大阪の有力財界人をバックにした旧実用自動車側の信用力がついたためようやく陸軍からも買い上げられるようになり、ダット51型保護自動車は(②P106)によれば1927~29の間に106台生産されたという。『明治以来苦節16年、国産自動車製造の草分けとしてその身を捧げてきた橋本の偉業は、自分を身売りする形となったこの時点で、終着点を迎えていたことになる。まもなく橋本は自ら同社を退職し、東京に引き揚げ、小さな私設研究所を開く。その姿は殉難の士のようでもあった。』(③-4、P169)
ダット61型保護自動車以降は橋本に代わり後藤敬義が主体となり設計・開発に取り組んでいく。
(下表は(③-4、P169~170)の記述等を基に作成した、快進社系のダット号の足跡を記した表だ。ちなみに(⑥P89)では小型車ダット91型に先立つ最初の小型試作車をダット「81型?」としている。そうなると繰り上がって71型が試作6輪車ということになる。(⑥P87)※なお馬力表記は“警視庁馬力”(15.4-23項参照)だ。念のため)
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軍用トラック以外にも、フォードとシヴォレーのサービス部品も製造したという。(⑧P30)こうして経営的にようやく、一息ついたところで、久保田篤次郎や橋本増治郎、後藤敬義らダット自動車製造の首脳陣は次なる一手を考える。
しかしここで、瓦斯電や石川島のように、安定した需要が期待できる、陸軍向けの軍需関連特殊車輌の拡充などへと向かわないところが、「実用自動車製造」と「快進社」の合弁企業という成り立ちの違いからであった。リラー号の後継として、さらに小さいがより本格的な小型乗用車の製作に挑戦するのだ。

17.2小型車ダットサンの誕生
 この項ではダットサンの定番本として「写真でみる 昭和のダットサン」(責任編集;小林彰太郎)(引用①)と、「轍をたどる(国産小型自動車のあゆみ(19))」岩立喜久雄(引用③-4)を主に参考にしつつ記す。
 まず初めに「ゴルハム式3輪車」という欠陥車?の製造・販売からスタートしたために出鼻をくじかれて、続くリラー号も販売不振に終わった、苦い教訓を経て、次はいかなるコンセプトの乗用車を作ろうとしたのか。具体的に、どのような市場を狙ったのか。ここでは当時の“生きた市場”の空気を伝聞や推測でなく、幼少期とはいえ直接肌で感じとっていた、小林彰太郎、五十嵐平達両氏の記述を参考に記したい。

17.2-1オースティン・セブンの与えた影響
 誤解のないように最初に記しておくが、戦後日産がオースティン(A40/A50)のライセンス生産を行ったことも相まってか、ハードウェアとしての戦前のダットサンがオースティン・セブン(Austin 7)のコピーだという説が、本国の英国を中心に一時流布されたというが、十分参考にしたとは思われるものの、次項で記すが事実に反する。
 しかし小型四輪車としての全体の製品コンセプトとして、オースティン・セブンという存在が戦前のダットサンに、もっとも大きな影響を与えたクルマであることは間違いないようだ。当時の日本の小型車市場の状況を、五十嵐平達の筆による(⑦-2、P34)から長文だが以下、引用する。
『~こんな意味で日本人に忘れられぬ車がオールド・ダットサンと、そのライバルであったオースティン・セブンである。この場合ライバルといっても台数の上ではオースティンはダットサンの1/100にも達していなかったと思われるが、そもそもダットサンの生まれた理由がこのオースティン・セブンにあったといえるのだから、この少数派のオースティンの存在はダットサンにとってライバルに相当するものであった。(中略)
 1923年に現れたこの画期的な小型車は、それ迄小型な車は自転車並みと思われていた不完全を全く変えてしまったのであった。イギリスではこれ以前の小型車をサイクルカーと呼び、一種の軽便自動車として区別していたのが、このセブン以降はライトカーとして一般普通車と同じ仲間へ入れるようになったのであった。要するにオースティン・セブンは普通の車と同じ実用価値を持った小型車であり、特に性能と信頼性をエコノミックな意味からバランスを完成したクルマであった。』

小林彰太郎によれば『セブンはひと口に言えば“小さな大型”であった。つまり、本質的には大型車のスケールを縮小し、簡素かつ軽量にしたものであった。』(⑦P29)
 実用自動車製造の「ゴルハム式三輪車」 は典型的なサイクルカーだったが、ゴルハム式実用自動車の926ccに対してセブンは747.5ccと、排気量こそ小さかったものの、普通車並みの4気筒で、自動車としては全体的に遥かにリファインされていた。
(下の画像はwikiからで「Austin Seven 1922」とあるので、プロトタイプだろうか。不明です。)
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以下も引き続き、(⑦P34)から引用する。
『当時のモータリゼイションが公共的なバスやタクシーにより始まったばかりの日本では、先ずフォードT型の普及が約束されていたが、それでもようやく一般庶民のなかにもオーナードライバーを夢見る傾向が現われ、特に町のお医者さんが自家用の人力車をこの小型車へ替える可能性は大きかった。そしてこのような小さな市場ではあったがこのオースティン・セブンは日本に輸入しても売れる目安がつくようになったので、多分大正末期の関東大震災以降、急激な自動車普及の一環として京浜、阪神地区へその姿を現したのであった。』
 この一連の「戦前日本の自動車史」の記事の中で何度も記してきたことだが(たとえば12項等参照)、フォードやGMのKD生産車を筆頭に圧倒的なコストパフォーマンスで、黎明期の国産車を、完膚無きまでに打ちのめしたアメリカ車が、戦前の日本の町中を走る自動車の大半を占めていた。当時は自動車≒アメリカ車で、しかも大雑把にいえば、そのうちの3/4が横浜製フォードと大阪製シヴォレーだったのだが、クルマの種別としては、自家用車はごく少なく、乗用車はフォード、シヴォレーを中心としたタクシーや、官庁や企業向けの社用車、それにハイヤーが主体だった。人力車に代わり、都市部の中産階級では、当時円タクと呼ばれたアメ車のタクシーの利用が一般化し始めて、その下の大多数の庶民層もイザという時は利用するようになっていく。
(「大大阪の表玄関大阪駅(昭和10年頃)」客待ちの円タクがずらりと並ぶ。見たところ人力車は見当たらない。画像は以下のブログより)https://www.asocie.jp/archives/osaka/umeda/index.html)
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https://www.asocie.jp/archives/osaka/umeda/image/image021.jpg
(戦前の日本は「タクシー(円タク)モータリゼーション」だった。下は「大阪の円タク村/アサヒグラフ」画像はブログ「昭和からの贈りもの」よりコピーさせていただいた。http://syowakara.com/05syowaC/05history/historyS11.htm 同ブログより『円タクブームのこの頃、ブームを物語るように円タク村が大阪東郊区に建設されます。5万坪の草地を開拓して出来た村は、150戸の文化住宅に家族1300人が住み、タクシーのガレージ、修理工場、共同市場、共同耕作地なども備えた一大部落です。』1936年のことだったという。)
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http://syowakara.com/05syowaC/05history/11/HS110603taxi.jpg
「ゴルハム式三輪車」の企画段階で当初漠然と意図した、旅客運送業としての人力車代替えの需要はKD生産のアメ車の円タクが握っていくのだが、遥かに小さな市場ながらも、主に開業医など、人力車を自家用に所有する富裕層がおり、オースティン・セブンはそこをターゲットにしたようだ。引用を続ける。
『この頃の相手は国産ゴルハム3輪車、オートモ号、及びフランスのシトロエン10馬力なでであったが、オースティンの普通車並みの乗心地や信頼性は数年の間に市場を独占してしまったし、他の車が最も圧力を受けた国内組立のフォードに対しても、その独自のメリットを持って自己の存在を守り通したのであった。』
 1920年代に芽生えつつあったが、まだ小さかったオーナードライバー市場を、オースティン・セブンが席巻してしまったようだ。この層は自家用人力車のステップアップとして、「普通の車と同じ実用価値を持った小型車」を求めたようだ。小型ながらも大型車の縮小版で、優れた総合性能と、高い信頼性を誇ったセブンだったからこそ、フォードやシヴォレーにも対抗できたのだろう。個人が身銭を切って買うクルマとして、オースティン・セブンが持つ1922年~1939年の間に約29万台生産された舶来品の量産車で、自動車の本場、米・独・仏でもライセンス生産されていたという“社会的な信用”は重要で、たぶん性能で対抗できたはずのオートモ号には、それが備わっていないと感じられたのかもしれない。輸入ディーラーが老舗の日本自動車(大倉財閥系)だったことも信頼感を与えた要素の一つだっただろうか。
(下の画像はwikiより、「1926 Austin 7 Box saloon」さきに“医者向けのオーナードライバー市場”と記したが、(⑨P26)によれば当時の医者の往診時は、2ドア・サルーンのオースティンに『まず医師が後席に乗り込み、看護婦が黒いかばんを膝に載せて、ちょこんと隣に座った。』フロントシートに座る運転手は別にいて、診察中は外で『退屈顔で待っていた』そうだ。)
(下の1926年製「Austin Seven Chummy」の画像は以下のサイトよりコピーさせていただいた。 https://www.prewarcar.com/290860-austin-seven-chummy
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https://images.prewarcar.com/pics/r2w-1200x800-caradverts/290860/290860-1565674249-6809228.jpg)
(⑦P34)からの引用を続ける。
『この頃のオースティンは日本国内価格がフォードの2/3位であったから、決して安い車ではなかったが、小型で狭い道を走れ、置き場所も不自由なく、しかも走行経費は絶対的に安上がりであったわけで、フォード以外にもこの種の車が成長する市場が存在し、しかもそれが日本の風土にピタリである事を示したのが、外ならぬオースティンであったといえるだろう。であるから32年より発売されたダットサンが、このオースティンを見て企画された事は歴史的にも理解できるのである。』関連した引用として、以下は(①P19)の小林の記述より
『当時小型車市場を握っていたのは、断然英国製のオースティンである。輸入したシャシーに、日本の小型車規格の狭いボディを載せたオースティンは、東京でも頻繁に見ることができた。その多くは開業医で、住宅地に黒塗りのセヴンが停まっていれば、まずその家に重病人がいると知れた。わが家の近くにもそんな家があって、毎日のようにオースティンが往診に来ていた。
 そのうちに路上で見るダットサンの数がめっきり増えた。横浜工場の量産が順調に進んだからで、資料によると昭和12年には、8353台という多数がラインオフしている。ダットサンが目指したのは、新しいオーナードライバー層だったから、日産の販売網はいろいろ手を尽くして市場開拓に苦心したらしい。』

 時代が先に行ってしまったので話を戻す。二輪車のハーレーの空冷V2気筒エンジンを参考にしたエンジンを搭載した(野蛮な?)サイクルカーであった「ゴルハム式三輪車」と、そこから発展した「リラー号」に対して、オースティン・セブンが開拓し、徐々に芽生えつつあったオーナードライバー市場の取り込みを目標に、より本格的な小型四輪車を作ろうと、水冷4気筒のオースティン・セブンを全体としては「ベンチマーク的存在」(wikiの表現を引用)として、その開発計画は、『後藤敬義の談話などを総合すると、昭和3年(1928年)』(①P40)にスタートした。
そして『後藤がのちに語ったところによると、最初は実際に750ccエンジンを試作した』(①P41)と言われている。後述するようにコピー元のエンジンが750ccであったので、基本的な性能確認もあり、750ccエンジンを最初に試作したのは間違いないだろう。しかし次に記すオート三輪業界を巡る新たな動きを受けて、計画の早い段階で、より小型の500ccエンジンの検討を始めたものと思われる。

17.2-2小型自動車500cc時代の流れに乗る
 詳しくは15.5-18~15.5-30項をぜひご覧いただきたいが、以下略して記すと、ダット自動車製造が後にダットサンとなる小型車の開発に着手したころ、特に地元の大阪を中心地として、特殊自動車適応を受けた350cc以下のオート三輪が、無免許で乗れて、税金も安い(例えば、1935年の東京府において自家用乗用車の年間税額は、18㏋(課税馬力)以下が72.5円、10㏋以下が59円だったが、小型車は12.4円にすぎなかった)上に車庫不要、小回りも効き荷物もたくさん積める便利な乗り物として、急速に普及していた。
(下の画像は戦前の、繁盛した商店の店先で、以下よりコピーさせていただいた。https://www.nihondo.net/aboutus/histry.html)
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https://www.nihondo.net/aboutus/images/syodai.jpg
 1930年頃にオート三輪が何台ぐらい保有されていたのか、当時の正確な台数は、不明のようだが、おおよその台数として、『実際、三輪車業者の間では、1930年頃の三輪車保有台数が、京阪神に4,000台、京浜に3,000台、その他1,000台の合計8,000台に達しているとみなされていた。この数字はやや誇張されている可能性があるとはいえ、すでに小型車の中で三輪車が中心的な地位を占めるようになったことを示している。』(⑤P126)
 エンジンは輸入品が多かったにせよ、ほぼすべてが国内製造だ。国産小型乗用車のリラー号(合計で200台程度)や、オートモ号の生産台数(同じく300台近く)及び輸入車のオースティン・セブンの台数(正確な数字は不明だが)と比較しても、とてつもない数字であることが分かる。保護自動車(3社合計で年間250~400台程度)も含め、従来の国産四輪車の世界の“常識”とはおよそかけ離れた新しい流れで、しかもその熱い勢いはさらに加速しつつあったのだ。
 オート三輪車の市場の急拡大の過程で、メーカー間の競争の激化と、より多くの荷物を積むため、違法改造車が横行していたが、1929年末に大阪府が実施した大車両検査ですべてが公となる。というか、ほとんどが違法車であることが判明(たとえば届け出時8尺の全長が9~10尺に伸びていた!)してしまうのだ。
 その一方で、身に覚えのある?三輪車の製造業者側でも対抗策として、それ以前から業界団体を結成し、規格改定を求める陳情を、所管する内務省警保局に対して行なっていた。
『望むべく主な改正点については、小野梧弌(JAPエンジンの輸入元、東西モーター株式会社社長)が、次のような趣旨書を用意していた。「馬力を五馬力(ないしは単気筒まで)と拡張する。車両寸法は九尺、幅四尺とする。変速機は三速までとする。これを大阪東京の両組合の陳情書と合わせて、三者が団結し、内務省警保局へ提出した。』(③-5、P167)JAPエンジンは三馬力(350cc)時代、最大多数派であった英国製の輸入品だ。
 その結果、排気量500cc以下、全長/全幅も2.8m/1.2m以下まで拡大され、変速機、積載量、最高速度制限が撤廃された。その内容は、東西モータース小野梧弌がまとめた趣旨書に概ね沿った内容であった。
内務省の担当官であった警保局の小野寺技手は『~それまではエンジンが350ccであって、昭和5年まで認めていたのは、大体が小野梧弌さんのエンジンでした。』(⑧P75)と後に語っており、最大の検討課題であるエンジンに関しては常識的な判断で、500ccのJAPエンジンを搭載した場合を基準に考えたようだ。下は参考までに、戦前の小型自動車規格の変遷を示した表だ。時代はまさに三馬力から五馬力時代への移行期であったのだ。
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オート三輪市場の“熱い風”を小型四輪車の市場に取り込みたかった
 こうした大阪を震源地とする熱い動きに、地元関西の有力企業である久保田鉄工所を親会社とするダット自動車製造が、指をくわえて見ている筈はなかった。たとえば実用自動車製造時代の初期のリラー号の時代に、自動車取締令からの適応除外を求めて内務省宛に、代表取締役久保田権四郎名で願い書を送っている。1924年某月とのことで、法規の動向には早くから関心を寄せていたのだ。(詳しくは③-2、P175~P176参照してください。『特殊自動車と認むるに能はず、ただし乙種免許でよい』との回答を得ている。)
『内務省認可の小型自動車の排気量が350ccから500ccに引き上げられたのは、昭和5年(1930年)2月からだったが、後藤と久保田(篤次郎)の両氏も当然ながら、その動きはキャッチしていた。取締令の改定(排気量拡大)は、昭和4年大阪の三輪業界の陳情によって大きく進展したものであり、おそらく後藤らも関西の部品工場を通じて情報を共有していたに違いない。』(③-4、P170)
 オースティン・セブンが持っていた価値観=「普通の車と同じ実用価値を持った小型車」=「小さな大型」の実現のため、設計担当者の立場として後藤は『理想的には750ccを希望』(①P41)していたが、350ccでは実現不可能だが500ccあればなんとか、「小さな大型」が成立すると睨んでいた。
 しかしその一方で、規程が750ccまで拡大されてしまうと、『わが国の小型車市場に着々と地歩を固めつつあった~強敵オースティンまで恩恵を蒙ることになり、後発のダット自動車側は断然不利になる。これを恐れた同社経営陣は、無試験免許の枠拡大を500ccに止めるよう、当局に強く働きかけたといわれる。』(①P41)
 350ccからいきなり750ccまで拡大させるという、関係者である後藤敬義が生前語っていたその働きかけが、どの程度強い陳情であったかは不明だが、そのような動きがあれば、強敵オースティンを排除したうえで、特典の多い内務省認可の小型四輪車となるために、久保田側は750cc化阻止に当然動いたと思われる。関連して(⑨P28)に『オースチン輸入代理店、日本自動車㈱の背後には、実業界の大立て者大倉喜七郎男爵が控えていた』との記述もある。オート三輪業界とは別の次元で、内務省に対して、大倉喜七郎と久保田(権四郎と篤次郎)の駆け引きもあったのかもしれないが、詳細は不明だ。日本自動車はこの頃すでに、のちに「日本内燃機(くろがね)」となる自社製JACエンジン搭載のオート三輪、“ニューエラ号”の製造を、同社大森工場の車両部門で行っていた(15.6項参照)。オート三輪の業界にも足を踏み込んでいたのだ。
 いずれにしても500ccエンジンの試作は1929年の秋から始めて、省令発布の前月の1930年1月には早くも最初のエンジンを完成させるという早業だった。(③-4、P170)(ちなみに①P40では1929年末に試作エンジン完成とある。)続いてはハードウェアとしてのダットサンの特徴に移る。

17.2-3参考にしたエンジンはベンジャミン(フランス)
 戦前の国産車ではエンジンの設計製作が最大の課題であったので、前回の記事の統制型ディーゼル・エンジンのような、ごく限られた例外を除き、手本となる何らかのコピー元があった。そしてよく知られている話だが、戦前のダットサンのエンジンは、フランスのベンジャミン(benjamin)というサイクルカーがそれにあたったと、関係者自身の証言(久保田篤次郎と後藤敬義)ですでに明らかにされている。
『さて(リラー号に代わる小型車の)研究試作を進めるうちに、後藤君から試作車のエンジンを4気筒にしたいとの提案が出ました。しかし私はいまから4気筒の研究をしたのでは時間もかかるし金もかかると判断し、フランスのベンジャミンという小型車を買って、そのエンジンをスケッチすることにしました。ですから最初のダットソンのエンジンはベンジャミンそっくりであります。』(①P42、久保田篤次郎の証言)当時としては賢明な判断だったのだろう。京都にあったベンジャミン車を買い取ったのだという。『オースチン(英)セブン(747cc)はすでに大阪でも多く走っていたため、あえて敬遠したのかもしれない。』(③-4、P172)岩立氏のこの推測も当たっていそうな気がする。
(小林彰太郎の考察によればベンジャミンのなかでもおそらく1921/23年のB型またはC型で、水冷4気筒SV751cc(54×82mm)エンジンを搭載していた。下の写真は1922年製の「Benjamin Type B」で、以下のサイトよりコピーさせていただいた。
https://magazine.derivaz-ives.com/superlight-cyclecars-from-the-1920s-which-are-accessible-and-yet-fun/

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https://magazine.derivaz-ives.com/content/images/2022/02/1_Benjamin-Type-B-1.jpg
 ところがこのクルマのエンジンは実は同じフランスの大手自動車メーカーで、『1921年に出現したプジョー・クァドリレットの設計をそっくり模倣したものだという。』(①P43)!
(下はその1921-22年 プジョー・タイプ161 クァドリレット(Peugeot Type 161 Quadrilette)で、画像は以下よりコピーさせていただいた。https://patrimoineautomobile.com/peugeot-type-161-quadrilette/
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https://i0.wp.com/patrimoineautomobile.com/wp-content/uploads/2020/12/peugeot-quadrilette-161-1921-1.jpg?ssl=1
4気筒SVの667cc(50×85mm)エンジンを積み、車重僅か345kgの軽量車だった。このシリーズは5年間に12,000台以上量産されたプジョーの成功作だった。(①P43他参考)
 ところがここから話がさらに複雑化するが、『かのオースティン・セヴンも、元をただせばこのプジョー・クァドリレットのエンジンを大いに参考にしたふしが見られる。したがって、1929/30年のダットサンも、1922年のオースティンも、エンジンに関する限り同じルーツから出たと言っても差し支えないのである。』(①P43)!せっかくオースティン・セブンと被らないよう、意図的に“外した”?つもりだったのに、巡り巡って“大当たり”を喰らってしまったのか。しかし安心あれ、結果として『ダットサンとオースティンのエンジンはまったく別の設計であり、なにひとつ共通点はない』(①P43)。よかった!さらに『エンジンを除けばどこにもベンジャミンから直接学んだと思われる技術的特徴は見当たらない』(①P43)のだという。
 はなしが脱線したが、DATの500cエンジンは4気筒SV495cc(54×54mm)というスクエアで、ロングストローク型が主流の『当時としては非常に異例』(①P47)であったが、先に記したようにベンジャミンのエンジンが、4気筒SV751cc(54×82mm)であったので、急いで新法規に適応させるため、そのままショートストローク化したようなエンジンだったようだ。

17.2-4 当時500ccエンジンで4気筒は異例だった
 しかし世界的に見ても、500ccという小排気量で4気筒エンジンは当時異例だった。下表は500cc時代の主要な国産オート三輪用エンジンだが、用途が全く違うとはいえ、すべて単気筒だ。後の750cc時代に入っても、業界のトップメーカーだったダイハツは単気筒で押し通し、成功したくらいだ。乗用車用なので単気筒はともかく、2気筒(V型や水平対向型)の選択肢はなかったのか。4気筒化を強く主張したのは後藤敬義だったといわれている。後藤のその“思い”を代弁した(③-4、P171)より引用する。
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『後藤が望んだ4気筒案の根拠は次の2つだ。まずDAT61型の設計改良の経験を通して、後藤は2400ccエンジンで54㏋(1ℓ当たり21.6㏋)の実馬力を得ることに成功していた。もともと軍用保護自動車として採用時のDAT61型は35㏋と見られていたが、ベンチテストで約1.5倍の出力を出したことで、相応の手応えを掴んでいたのだろう。実車500kg程度の、内務省許可の小型自動車ならば、実馬力が7~8㏋あれば十分だ。500ccでも高回転型の4気筒であれば、さらに出力が得られる。アルミピストンにジュラルミン鍛造のコンロッドを使用すれば、4000rpmは回ると考えていた。』(③-4、P171)
 シリンダーブロックもヘッドもすべて鋳鉄製なのに、コンロッドが“ジュラルミン鍛造”だという“謎”について、(①P48)では『あまり例のない設計で~甚だ不可解というべき』なのだが、『おそらく採用した理由は、参考にしたベンジャミンのエンジンがそうだったということであろう』としている。正確なところは不明だが、きわめて異例な設計だったことは確かだ。(③-4P172)から引用を続ける。
『また同時に後藤らは、高級感のある小型自動車を市場に送り出したいとも望んでいた。芽生え始めたばかりの国産四輪自動車(MSAやコンビン号など)のエンジンは、単気筒か、せいぜい2気筒にすぎず、市場から実用的な乗用車として注目されるのは、オートバイに毛が生えたようなサイクルカーの類ではなく、水冷の4気筒、四輪ブレーキ付きといった本格的な仕様が不可欠と見込んでいた。またその胸中には、4年前の大正15年4月に後藤が自らハンドルを握り参加した、大阪東京間機関無停止定時間運転競技会での苦い経験があったかもしれない。あのノンストップレースで、リラー号(V型2気筒)は、東京のオートモ号(4気筒)に惨敗していた。』
 750ccのオースティン・セブンのもつ『“小さな大型” ~ つまり、本質的には大型車のスケールを縮小し、簡素かつ軽量にした』(⑦P29)という“世界観”を、特典の多い内務省認可の小型車規程内の500ccで実現しようとしたのが500cc(五馬力)ダットサンの基本的なコンセプトで、そのためには4気筒エンジンは必須であった。なおここで指摘のある、大阪~東京ノンストップ競技でリラー号は、ハーレーのコピーに端を発する狭角45°V2型エンジンが発する振動に起因するエンジントラブルに泣かされたという。(②P172)
 以上のように、“500cc版のオースティン・セブン”が、狙いだったとすれば、『これは筆者(注;小林彰太郎さん)の推察であるが、ダットサンを設計する上で、実際に身近に置き、技術上もっとも参考にしたのは、やはりオースティン・セヴンだったと考えるのが自然に思われる。それも、数百台規模で輸入された英国製ではなく、少数ながら入ってきた1930~31年型アメリカン・オースティンを入手し、設計の参考にしたのではないだろうか。そう推定した根拠を以下に示す。まず外観から。~(後略)』(①P43)と、以下省略するが、小林さんは具体的な根拠を示し、解説するのだが、それはあくまでも目標とすべき基準としてであって、既述のようにエンジンはもとより、たとえばシャシーのフレーム形状等もオースティン・セブンとはまったく異なる(①P47)。詳しくは本書をお読みください。
『~ 以上は長年にわたり筆者が抱いていた疑念なのだが、最近になってこれがほぼ事実であること確信するに至った。』(①P44)日産自動車広報資料室で、ダット自動車製造の大阪工場内で撮影されたと思われる1930/31年アメリカン・オースティンのロードスターの写真が最近(といっても、この本「写真でみる昭和のダットサン」が出版されたのは1995年12月です)“発掘”されたという。小林さんの長年の研究の成果と、日本を代表するモータージャーナリストとしての海外にむけての情報発信力で、現在ではwikiでも『実際はフランスの「ベンジャミン」1922年型が主たる参考で、「セブン」は先行したベンチマーク的存在』(「オースチン・7」の項)だったと正確に記されている。
(ここでは紹介しないが、(①P48)に“発掘”されたその写真が掲載されている。また(⑱P17)に、イギリスのビューリー・ナショナル・ミュージアムの一角に展示されている、750cc時代のダットサン(1935年製の14型)の写真があるが、博物館の説明内容には『サー・ハーバート・オースチンによって輸入され、特許権侵害の可能性を調べたが問題なく、そのまま登録されることなく保管された』と記されているという。下は「1931 American Austin Roadster」の写真で以下のサイトより。レストア前だが、かえって“アメリカンな雰囲気”が出ていると思い、選びました。https://car-from-uk.com/sale.php?id=22043&country=us)
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https://car-from-uk.com/ebay/carphotos/full/ebay203333.jpg
 以上、当初の意図とは外れて、のっけからかなりまわりくどい話になってしまったが、以下からは脱輪しないように?戦前のオート三輪以来お世話になりっぱなしの、月刊オールド・タイマー(八重洲出版)連載記事、岩立喜久雄氏の「轍をたどる」国産小型自動車のあゆみ」の「750cc時代の小型四輪車」(③-6)中のP175から書き写した表をもとに順番に、①と③の記述を主な参考にしつつ、手短に淡々と記します。さっそく(①P40、③-4、P172)をもとに以下記す。
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17.2-5 試作1号車の完成
 先述のように1929年末~1930年1月ごろに完成した水冷4気筒495ccの試作エンジンを載せたシャシーが、1930年5月に完成する。同年8月初旬には手製のボディを架装して試作1号車が完成する。
『この試作1号車というのは、後期型リラーをベースとしたシャシーに、水冷4気筒再度バルブ495ccの新エンジン/3段ギアボックスを搭載したものだったと、後藤敬義はのちに語っている。』(①P40)

17.2-6 一万マイル耐久試験の敢行
 そして素早いことに、1930年10月には大阪府を通して、内務省小型自動車としての登録を終えるのだが、『ただしその時点でも久保田は、過去の苦い経験から、本格的な発売には慎重を期した。』(③-4、P172)ここでいったん冷静になり、客観的な立場として、豊国自動車(のちにダットサンの関西総発売元になる)社長、梅村四郎(梁瀬商会出身の販売の第一人者)に助言を求める。
『その梅村から「もしトラブルなしで一万マイル走れたら、必ず成功する」と奨励されたことから、久保田と後藤はそれを実証するため、1万マイル(16,000km)の長距離運行試験を決行する。』(③-4、P172)オースティン・セブンに対抗するために、あるいはサイクルカーとは違い一人前の乗用車としての品質を認知させるために、まず耐久性を示せ、ということのようだ。
 後藤敬義、甲斐島衛両名の運転で1930年12月、恩加島工場を出発、東京~大阪間(当時の東海道は片道620km)の往復をくり返し、1931年1月、33日間を擁して無事成功させる。(③-4、P172。①P40では春ごろ実施とある。)
(下の写真は「gazoo」https://gazoo.com/feature/gazoo-museum/car-history/14/06/06_1/
よりコピーさせていただいたが、(①P40)にある『おそらくこれが1号車と思われる』という写真と同じもの(ただし左右裏焼?)で、『シャシーフレームは最後期型リラー号を短縮するなど改造したものらしい。2号車以降とはまったく別物』(①P40)だという。①によれば1万マイル運行試験もこの車輛で行ったようだ。『左ハンドル型で、奇妙に小さいドアも左側にしか付いていない』(①P41))と書かれているが・・・

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(下の写真は(②;「苦難の歴史 国産車づくりの挑戦」桂木洋二、P174)よりコピーさせていただいた、『1万6000キロ走行テストを敢行した、箱根時のひとこま。』ベアシャシーに近い状態にした2人乗りで後方に燃料とスペアタイヤなどの部品、工具類を積んでいた。(③-4、P169他参考)『16インチで幅の細いタイヤの耐久性がなくパンクが多かったものの、たいした故障もなくテストを完了した。~ このとき出たいくつかの問題点を改良して新しい試作車が完成』(②P174)することになる。)
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17.2-7ダット91型試作車の完成
『後藤らは、リラー号をベースとした試作車に続き、新規格に合致したまったく新たな小型車を設計した。これがダット91型と呼ばれるプロトタイプで、ダットサンの直接の祖である。』(①P41)耐久試験を好成績で終えたのを受けて久保田は、その直後にダット91型にダットソン(Datson)という車名をつける。『ユニバーサルジョイントやリアアクスルなどの部品はダット号のものを使用した』(②P175)ことで、『敬意をこめてDATの息子(SON)としたという。また当時のフォード製のトラクターがフォードソンだったことにもあやかっていた。』(③-4、P172)
(下はオールド・ダットサンの世界では有名な写真で『完成直後に大阪工場の正門前で記念撮影したものらしい。これが2号車か3号車』(①P44)という。アルミボディの右ハンドル、単座シート車だ。量産型(ダット10型以降)以前は左/右ハンドルの両方があったが、量産型の500cc時代(10、11型)は左ハンドルとなる。『おそらく法規上は1人乗りなので、歩道側にドアがあった方が便利だと思ったのだろう。』(①P45)『そして左ドアならば、左側にシートを配置した方が乗りやすい。そのために左ハンドルとなったものだろう。ただしそのような使い勝手ばかりを優先させていたわけではなく、「一人乗り」仕様の法令を遵守する姿勢を強調したようにも思える。』(③-4、P173)乗員制限が撤廃された750cc時代の12型以降は右ハンドルになった。(以下の2枚の画像は三樹書房の下記ブログよりコピーさせていただいた。http://www.mikipress.com/books/pdf/665.pdf)
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(下の画像は『1931年(昭和6年)の年末、まず大阪で発売されたときのカタログ』(①P47)の表紙で、上の写真と同じ試作車輛と思われる「ダット91型」のイラスト画だ。
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 下もそのカタログ中のもので、https://kurubee.jp/hobby/10958.html よりコピーさせて
いただいた。まだ社名もダットソンだが、この後すぐに「ダットサン」に改称する。)

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17.2-8「ダットソン」市販型の完成(10型)
 1931年8月、『市販型のダットソンの一号車が完成し、その記念すべき車体番号1番は、四国在住の医者に販売したという。』(③-4、P172)当初意図した、オースティン・セブンの市場の片隅を侵食できたということだろうか。引用を続ける。『残念ながらその写真は残っていないようだ。ダットソン一号車の発売時期は、昭和6年(1931年)10月頃であったと考えられる。』(③-4、P173)
(下の写真はhttps://kurubee.jp/hobby/11011.html よりコピーさせていただいたもので、同じ写真が(①P47)で『ごく初期の生産型の1例』と紹介されている。①と③では若干見解が異なるが、(③-4、P172)に従えば、『同年8月に完成した一号車に近い最初期の一台。~ ダット91型の試作車と比べると左ハンドルの左一枚ドアなのが特徴。このボディは大阪市此花区の豊国自動車か、あるいは日本自動車大阪支店に外注して架装したもの。大阪製ボディの特徴はエンジンフードの再度ルーバーが横向きで、左1枚ドアであった。~ 法規上は一人乗りだが、後部座席(2座)用のスペースを確保しており、実質は3人乗りに変更できた』。なお『この時代、小型車の標準形式は世界的にオープン4座だった』(①P50)という。
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17.2-9「ダットサン自動車商会」の助言による商品改良(11型)
 まったく新しい小型四輪車であったダットソンを市販化にあたり、さらなる資金投入が必要とされた中で、次の(17.3項)で詳しく触れるが1931年8月、久保田鉄工所系企業だった「ダット自動車製造」は、自動車事業への進出を計画していた鮎川義介率いる戸畑鋳物の傘下企業へと移行する。
 この17.2項では500cc時代の製品の流れを記すのみとするが、それに伴い販売体制が大幅に拡充されて、『翌年の1932年(昭和7年)4月に、銀座にある「戸畑鋳物」のショールームの一角に販売会社となる「ダットサン自動車商会」が設立された。どのくらいの需要が見込めるか不明だったが、自動車販売のプロとしてヤナセ自動車にいた吉崎良造をスカウトして運営に当たらせている。』(⑩P45)
 そして大阪の地で誕生した『ダットソン号をさらに洗練させて、世に広めた最初の功労者は、東京の吉崎良造であった。』(③-4、P174)首都圏はこの「ダットサン自動車商会」が、関西地区は「豊国自動車」などが販売を担当するようになる。
(下も有名な写真で、1932年型ダットサン11型ロードスターに乗る松竹スターの水の江瀧子。『(1932年)10月8日から東京劇場(築地)で上演したレビュー「大東京」(報知新聞の懸賞当選作)に、ダットサンに乗った松竹の水の江瀧子が登場し好評を博した。ダットサン自動車商会が行った秀逸な宣伝のひとつであり、写真は銀座の同商会前での運転練習した際に写した。』(③-4、P174))画像は「くるびー」https://kurubee.jp/hobby/10958.html
からコピーさせていただいた。水の江瀧子というと、我々世代はNHK番組「ジェスチャー」の紅組キャプテンの印象が強かったが、戦前は「男装の麗人」として国民的なスターだったという。Wikiで調べるまで知らなかったが、戦後は映画プロデューサーとしても日活の黄金時代を支えたようだ。余談でした。)

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17.2-10「ダットソン」から「ダットサン」へ
 吉崎が果たした大きな功績について、以下も(③-4)の引用ばかりで恐縮だが、文章力に大きな差があり、自分が書くより説得力あるので、引用を続ける。
『ダットソンの車名をダットサンに改名させたのも吉崎だったという。大阪から送られてきた全車のエンブレムを、DATSONのOをヤスリで削り、Uに見せて販売した。その後は大阪側の型録もダットサンの表記に変わっていく。』戦前の国内自動車界で陸軍が重用するなど重きをなした「ハドソン」だが、輸入元の日本自動車が、「ハドソン」の”ソン”が気になり、「ハドスン」と改称したことに習ったようだ。(12.14項参照) 引用を続ける。
『「明治の人力車、大正の自転車、昭和のダットサン」の宣伝文句も、吉崎の筆によるものだ。少し前のニューエラ号の「明治の舶来、昭和の国産」と共に時代を反映する名作となったのである。』(③-4、P175)
(下の「1932年に発売された最初のダットサンである10型のカタログ」の画像も三樹書房の下記ブログよりコピーさせていただいた。http://www.mikipress.com/books/pdf/665.pdf 小さくて見難いが、「明治の人力車、大正の自転車、昭和のダットサン」と確かに記されており、「10型」の時代にすでに、“改名”が行われたことが判る。)
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 前掲の表や、上のカタログにあるように、ダットサンは初期の10型の時代から、セダン、フェートン、ロードスター、貨物タイプなどのボディバリエーションを有していた。この時代のボディはすべて外注で、その展開を主導したのは、吉崎が日本GMから引き抜いた田中常三郎だった。以下も(③-4)の引用を続ける。
『大阪製のボディを架装したのは~3台のみであり、~4台目以降は、吉崎に賛同し同商会に入った田中常三郎が、梁瀬自動車の芝浦工場へ持ち込み、すべて改装を行った。全幅が1.2mしかなかったこの時代のものは、カーブでよく横転したため、左一枚のドアでは、左側に倒れると外に出られなくなり、まず田中が左右2枚ドアに直した。そればかりでなく、だいぶ垢抜けたスタイルに次々と変身させ、人気を集め、2人乗りから、3人乗り、4人乗りへと発展させていった。』(③-4、P174)
(下の写真は「ジャパンアーカイブズ」さんhttps://jaa2100.org/entry/detail/041453.html
よりコピーさせていただいた、1932年型の11型フェートンと思われるイラスト画だ。なお、10型と11型の識別点だが、上記の右側にもドアが付いたこと以外では『ルーバーが縦型になったこと、ラジエターバッジが付いたことなど』(①P50)が主な点だ。
こうして田中常三郎の手で改良が施されて、ダットサンは次第に実用的でハイカラなものに変わっていく。田中は梁瀬時代に、アメリカのビュイックの工場で実地訓練を受けており、GMは日本進出にあたり、ボディ関係の製作現場の監督として田中を引き抜きその任に当たらせるなど、経験は豊富だった。後に日産横浜工場が稼働すると、田中は車体生産に関する責任者に就任する。(⑪P42)

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 しかし、吉崎や田中らが、拡販のための数々の手段を講じたにもかかわらず、前掲の表にあるように、500cc時代のダットサンは、販売に苦戦した。法規上で一人乗りという制約があり、実質的には二人乗り以上としたものの、『巡査の姿が見えたときには隣のシートに座っている人は見えないようにしたほうが良いと、セールスマンが心得を話して購入してもらったという。~ 小さくて窮屈な室内のダットサンに興味を示す人は少なかったようだ。』(⑩P45)
500cc時代の乗車定員だが、(③-9、P175)によると、『内務省警保局の考え方が、三馬力時代の当初には「運転者のみ」であったものが、業者の申し出に応じ、いつのまにか「運転者以外一人乗り」と微妙に変化していた~ これが各都道府県に届くとなるとまた見解に相違が出た。』のだという。いずれにしても売り難かったことは確かだろう。
 しかしこれらの積極的な販促策は、直ちに販売増には結び付かなかったものの、人々の間で小型四輪車=ダットサンと結び付くきっかけを与えていく。750cc時代に入り乗員制限も撤廃されると、次第にその成果をあげはじめて、文字通り「昭和のダットサン」の途へとつながっていくのだ。
(下の写真は、1932年製のダットサン11型フェートンで、(①P6)で『現在生き残っている最も古いダットサン』で、『信じられないほどよい状態にあり、もちろんよく走る』と紹介されていた個体だ。①の出版された1995年当時は東京のY氏の個人所有だったが、現在の所有者について、以下の写真と文はブログ「フィアット500大作戦!!」さんより引用させていただく。https://gianni-agnelli.hatenadiary.org/entry/20150528/1432821330
(『~ 伝え聞くところによれば、「貴重な現存する最古の11型」であり保存状態も良好だったようだ。遺族は礼儀としてというか、当然買ってくれるだろうと考え日産に声をかけたのだが、値段で折り合いがつかなかったそうな。いろいろあってトヨタ博物館が引き取るに到った経緯のようだ。遺族が日産に提示した買い取り料は数百万という良心的なものだったようだが、そんな金額ならゴーン会長のポケットマネーで楽に買うことが出来ただろう。予算など日産には事情があったのだろうが、会社にとって大切なものであろう「現存する最古のダットサン」を手に入れるチャンスを逃してしまったのは事実である。』・・・・・日本車の歴史を語る上で重要極まりない、かけがいのない貴重なこの1台は、現在トヨタ博物館に常設展示されている。トヨタ博物館全体の価値が高まったのは間違いないだろう。このクルマのプレートには「ダット自動車製造株式會社」の文字が記されている(①P7に写真がある)。ちなみに日産が保存している一番古いダットサンは、750cc時代の12型で、そちらのプレートは「戸畑鋳物株式會社自動車部」だ(①P9写真参照)。)

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 次の750cc時代にこのまま入る前に、ここで鮎川義介によるダット自動車製造買収に至る経緯を記しておきたい。

17.3 日産自動車のダットサンへ
 時は少し遡り、17.2-5~8項辺りの、ダットソンの初期の試作車が出来上がったころに戻る。計画時の原価の試算では『1000円の価格で月10台程度の販売で採算がとれる見込みだったが』(⑪P21)、出来上がった試作車は、当初の計画よりもアメリカ製の輸入部品の使用が多くなり、目論見よりも製造コストがかさんでいた。製造・販売へと移行させるためには製造設備の一部更新など新たな設備投資が必要となり、販売面では目標台数を増やすか、価格の引き上げが必要な状況だった。
『親会社である「久保田鉄工所」ではためらいがあった。これまで注ぎ込んだ資金の回収すら目処が立っておらず、ここで新しく注ぎ込んでも、それが生きるかどうか分からないと思われたからだ。』(②P175)
 前回記事の16.3-1項で記したように、久保田鉄工所を率いる久保田権四郎は、自動車事業の芽をつぶさないように、今まで辛抱強く支えてきたが、これ以上、好転は期待できまいと、すでに見切っていた。
 鋳物部品(戸畑鋳物)や特殊鋼(安来製鋼)の納入でダットと取引があった鮎川義介率いる戸畑鋳物に、ダット自動車製造に対して資本参加を申し入れる。
 一方、自動車産業の将来性を確信し、国内軍用保護自動車3社をはじめ、日本フォード、日本GMなどに対しての自動車用鋳物品等の納入などを通じて、着々と準備を進めつつ、参入の機会を窺っていた鮎川義介は、この申し入れに応じ、腹心の山本惣治を役員に送り込む。
『1931(昭和6)年6月、戸畑鋳物は定款の事業目的に自動車工業の製造を加え、同年8月、久保田鉄工所傘下のダット自動車製造の株式の大半を買収し、同社の経営権を獲得した。』(⑫P93) 実質的には『戸畑鋳物と久保田との間で石油発動機事業と自動車事業の交換を行う形になった』(⑬P74)ことも既述の通りだ。(15.3-12項)
 この申し入れは鮎川の方からだったという説もあり(戸畑鋳物の営業部長、山本惣治が試作1、2号車を見て興味を持ち、鮎川に伝えられたという。山本が中継役を果たしたことは確かなようだ)、前回の記事(16.3-1項)ではその説を採ったが、いずれにしても久保田鉄工所は、所有株式一切を戸畑鋳物に譲渡して、10年以上に及んだ自動車事業から撤退する。
(下の写真と以下の引用は「農研機構」のHPより、大正14年(1925年)の『農業用小型発動機比較審査』に出品されたトバタ(戸畑)農耕発動機(2型式(2Hp、4Hp)のいずれか)で『第一次審査、第二次審査を通過し最終審査で両型式とも優良と判定されている。』不思議な縁なのだが、実用自動車製造から戸畑鋳物に移ったウイリアム・ゴーハムが、トバタ石油発動機の開発に従事した。ちなみに『20年代にこの分野において代表的なメーカーは戸畑鋳物、久保田鉄工所、大阪発動機製造などであるが、いずれも小型車に参入することになる。』(⑤P42)https://www.naro.affrc.go.jp/org/brain/iam/DGArchives/01.html
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https://www.naro.affrc.go.jp/org/brain/iam/DGArchives/images/01/img544.jpg

 この17.3項では鮎川義介による、ダット自動車製造買収に至る経緯を簡単に振り返りたいが、wikiで「鮎川義介」をご覧いただければ一目瞭然だが、今の日本(人)では全くあり得ないような、とてつもないスケールをもった人物だ。今回の記事では鮎川の数々の業績のなかで、その一部に過ぎない自動車事業の、その中のさらに一部の小型四輪車事業の話題を重点に記す。鮎川にとっては“本命”だった、当時“大衆車クラス”と呼ばれていた、フォード、シヴォレー級への展開については次回(その8)の記事で記す予定だが、それよりも一回り大きい、中型トラック分野については前回の記事(16.3項)を参照されたい。

(鮎川の話題に入る前に、何度か記してきたのでクドイと言われそうだが、ここで今まで延々と記してきた戦前日本の自動車史(その1~7まで)を振り返った時に、個人的な印象として、もっとも違和感を覚えるのは、久保田権四郎・久保田篤次郎父子及び、企業としての久保田鉄工所が日本の自動車史の中で果した偉大な役割に対しての、過小評価であると思う。もっとも自分も、月刊オールド・タイマー誌(八重洲出版)の連載記事『「轍をたどる」国産小型自動車のあゆみ」岩立喜久雄著』に出会うまで、そのような“気づき”はなかったのだが。
15.3-11項をもう一度再録しておくが、戦前に於いては、運転免許などで優遇処置が得られる特殊自動車か、陸軍が主導した軍用保護自動車(自動車製造事業法後はその許可会社に指定されるか)のどちらかしか、生き残る道はなかった(③-7、P176参考)。実用自動車製造 ~ ダット自動車製造は幾多の苦難の末についに、その二つの道の両方にたどりついた。
あきらめずに、数知れない困難を乗り越えて、最後には無免許運転可の小型自動車、ダット“ソン”まで何とか誕生させたのは、もちろん多くの自動車の歴史書で持ち上げられている通り、開発や製造技術で貢献した、後藤敬義や、ウイリアム・R・ゴーハムらの貢献もあったが、本質的にはやはり、経営を主導した久保田篤次郎の功績であり、自身は途中で乗り気ではなくなったものの、娘婿が主導した会社を一定のケリがつくまで清算させずに、支え続けた、久保田鉄工所率いる久保田権四郎の忍耐と、度量の大きさだったのだと思う。
もし常識的に、途中であきらめていたら、その後の日本車の歴史は大きく変わっていたはずだ。再録になるが、久保田鉄工所による自動車事業のまとめとして、岩立氏の(③-2、P169)から引用する。
『 ~ つまり大正8年の一号車ゴルハム三輪自動車に始まり、やがて昭和6年のダット号5馬力小型四輪自動車(水冷4気筒495cc)に至るまでの一連の国産先駆車の研究開発は、久保田鉄工所傘下の実用自動車製造が独自に挑戦し、途中、大正15年には、東京における自動車製造の草分けだったダット自動車商会をも吸収合併して、ダット自動車製造株式会社と改称しながら、これらパイオニア車の製造販売を敢行していったものだ。その実用自動車製造の苦節10年の研究成果であった虎の子のダット5馬力が完成した直後の昭和6年に、同社をそっくり吸収合併したのが戸畑鋳物であり、その戸畑鋳物の後身が、現在の日産自動車(昭和9年設立)だったわけだ。すなわちゴルハム号から、ダットサンの1号車となったダット5馬力までの設計製造に挑んだのは、戸畑鋳物ではなく、久保田鉄工所系の実用自動車製造株式会社だったのである。』追記すれば、岩立喜久雄氏の労作、『「轍をたどる」国産小型自動車のあゆみ」』がより多くの人の目にとまるように、単行本として出版されることを切に期待したい。
(下の久保田篤次郎の写真も、(③-2、P177)からスキャンさせて頂いた。)
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17.3-1 鮎川義介と日産コンツェルン
 この「戦前日本の自動車史」の冒頭部分で、日本の自動車産業の“生みの親”の代表格が「豊田喜一郎」と「鮎川義介」の二人で、一方“育ての親”の代表が「日本陸軍」(と「商工省」)であったと記した。そこがこの一連の記事の骨格となる部分だ。
 鮎川義介(あいかわ(あゆかわ)よしすけ(ぎすけ)⇒『正式な読み方は「あいかわ よしすけ」で、鮎川本人が外国企業と交わした契約書にはそのようにサインしている』(⑭P7)というが、一般的には「あゆかわ」と読まれるケースも多い)は、日本の自動車史を記すうえで最重要人物の一人なのだが、ダットサンの話に限定する前に、鮎川が戦前歩んだ道と、日産コンツェルン生成の過程について、今回の記事のこの場で簡単に確認しておきたい。
 この話題の関連で今回入手した資料の中でもっとも詳しかったのは、鮎川と日産コンツェルンの研究の第一人者ではないかと思う、宇田川勝氏の⑭(「日産の創業者 鮎川義介」(吉川弘文館))だったが、このブログを読んで頂ける多くの方々の利便性を考えればやはりネットなので、ここでは安直にwikiを元に、+なるべくweb上で読める宇田川氏の論文その他からの引用で補足していく。
ところが、この項をあらかた書き終わった後に見つけたのだが!(web17)=『「鮎川義介 我が道を往く」松野浩二 鳳陽会(山口大学経済学部同窓会)』が鮎川義介及び戦前の日産史について、相当詳しく書き込まれている。これから自分が記す内容よりもはるかに詳細な上に、まとまっており、これから記すこの項の存在意義自体が問われるが?詳しく正確な情報を知りたい方はぜひ(web17)や、本の⑭の方を、ご一読してください。ただテキトーに知りたい人?はこの項(17.3-1)を、ダットサンの話題だけ知れば十分だという人は、この項は飛ばして、17.3-2項から読んでください。それではまず安直に、wikiの引用から始める。

17.3-1.1華麗なる閨閥(濃密な長州人脈)
『明治13年(1880年)、旧長州藩士・鮎川弥八(第10代当主)を父とし、明治の元勲・井上馨の姪を母として山口県吉敷郡大内村(現在の山口市大内地区)に生まれた。』(wiki)
 生活は貧乏士族の典型だった(①P101)という。しかし長州ファイブの一人で明治の元勲の一人、井上薫が大叔父であり、その後援を得て早くから事業に乗り出すことができたことは広く知られているが、『岸信介、佐藤栄作も親戚』(web6)だったという。岸と松岡洋右は親戚だったというので、有名な「満州の弐キ参スケ」(にキさんスケ)のうちの”さんスケ”の方は元々つながりがあったことになる。
 長州藩(萩藩)の狭い一角から、日本を動かす重要人物が数多く輩出したことは、日本史の謎の一つだが、しかし鮎川の人脈というか血脈はそれだけにとどまらない。強力な支援者であった『井上の世話で』(web11、P150)、姉妹たちも有力な事業家に嫁いだ結果、華麗な閨閥を築くことになるのだ。
(下の鮎川義介の写真は「国立国会図書館」よりコピーした。ちなみに12,13歳のころ、父が神父に感化され、家長の一存で家族の猛反対を押し切り一家で洗礼を受けたというが、その後、父が『神父と仲たがいしたので仏教に戻った(web17-2)そうだ。その神父が「フランス人宣教師・ビリヨン神父」(1843-1932)で、この神父はあのナポレオンの側近という名門の出でありながら辺鄙な地での「低処高思」な生き方を貫き、その後の鮎川の人生に大きな影響を与えたという。“日本資本主義の父”渋沢栄一(1840-1931)にもフランス語を教えている」(web14要約)という“謎の宣教師?”だが、鮎川もこの牧師から早くからフランス語訛りの英語を教わっていたため、後の渡米生活中にも語学にさほど苦労しなかったという。)
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 その閨閥について、話を続ける。『弟の政輔は藤田財閥の一門、藤田小四郎の養子になってその家を継いだ。長姉すみは、三菱の大番頭だった木村久寿弥太に嫁ぎ、妹ふじは九州財閥の貝島太市に嫁ぎ、妹きよは久原房之助の妻となった。』(web7)
 井上の鮎川に対する肩の入れようはよほどのもので、長州出身の逸材として、早くからその将来を見込んでいたようだ。ちなみに鉱山系事業で有名な藤田、久原両家だけでなく貝島家も「筑豊の炭鉱王」と呼ばれていたそうで、鮎川の親族は鉱山事業との関連が深かった。
 鮎川義介のこうした『濃密な長州人脈』(web6)の中でも、特に久原房之助が義弟(といっても10歳以上年長)になったことで、後に日産コンツェルンを築く大きなチャンスが生まれることになる。余談だが、豊田喜一郎とも親戚同士(『二人の夫人は従姉妹』(高島屋飯田家))(⑪P13)であったという。以下(wiki)からの引用に戻る。
『山口県立山口尋常中学校、旧制山口高等学校を経て、1903年(明治36年)に東京帝国大学工科大学機械科を卒業。芝浦製作所に入社。身分を明かさない条件で日給48銭の職工となる。』
 以下補足すると、エンジニアへの道を勧めたのは井上馨で、東大へは、麻布の井上邸で書生生活を送りながら通った。大学卒業後は(西郷隆盛から)「三井の番頭」と揶揄された、井上が勧める三井財閥入りを断り、職工として芝浦製作所(後の東芝=三井系)へ入社するが、その動機を以下(web〈9〉P9)より引用する。
『~ 井上家の書生をしている時に見聞した財界人の行動には裏表があり、とても尊敬できず、そうした人たちの下で働くよりも、将来独立して事業を営みたい、そのためには、現場の経験が是非とも必要であると、いうことにあった。このように、名よりも実を取るという合理的な思考方法や、先ず自分で身をもって実際に経験するという態度は、その後、鮎川の事業経営の中に一貫して生かされていくことになる。』
 ちなみに『当時は、東京帝大の卒業生は約300名、工学部は全科合わせても100名足らずの貴重な存在で、』(⑪P15)エリート中のエリートだったわけだが、早くから独立心が旺盛だったようだ。なお芝浦製作所入社への労をとったのも井上だった。以下、wikiの引用を続ける。
『その後、当時の技術はすべて西欧の模倣であったので、西欧の状況を体験すべく渡米。約1年強を可鍛鋳鉄工場(グルド・カプラー社)で労務者として働く。』(wiki)以下補足する。
 芝浦製作所時代、週末に東京近郊の工場を70~80箇所も見学して回ったという。そこで鮎川が得た結論は、『わが国の工業技術は外国からの直輸入によるものか、またはその模倣にすぎない、ということであった。日本に居ては、最新の技術に接することは不可能であると悟った鮎川は、職工生活三年目に入った明治三八年九月、芝浦製作所を退社し、アメリカに渡って実地に工業技術を修得しようと考えた。鮎川の関心は、鋼管と可鍛鋳鉄の製造技術の修得にあった。この二つの分野は、工場見学を通じて、わが国工業界の弱点であり、かつ将来有望な事業分野であることを見て取ったからであった。』(web〈9〉P10)実に計画的な人生設計だ。
 こうして『井上馨の口利きで、三井家から、三井物産ニューヨーク支店長岩原謙三宛に招介状を出して』もらうなどの便宜を受けつつ渡米し、『三井物産と取引のあったバッファロー市外のグルド・カプラー社に見習工として採用された。』(以上もweb〈9〉P10)補足すると『可鍛鋳鉄とは鋳造した後に、熱処理を施して炭素分を減らすか黒鉛化して、加工可能性を豊富に持たせた鋳鉄のこと。肉薄で強いため、機械部品に使われ、現在の主たる用途は自動車産業である。』(web8)
 なおグルド・カプラー社は『エリー湖畔にあり、対岸は自動車の町デトロイト』(⑪P15)で、当時のアメリカのこの地域では『ちょうど自動車産業が勃興しつつある時期』(⑩P32)にあたり、活況に満ちていた。工場主の息子の自動車に同乗しドライブを楽しむなど(⑪P15)、自動車及び自動車産業というものに、強いインパクトを受けたようだ。
 アメリカで最新の可鍛鋳鉄の製造技術と、合理的な工場運営手法等を学び、帰国するが、日米で前後4年、自ら職工生活を送った体験から、日本人は白人労働者に比べて体力に劣るが、手先の器用さ、動作の機敏、コツの活用等で勝り、労働能力ではけっして劣らない。しかも賃金は米国の五分の一程度なので、適切な事業展開さえ行なえば、輸入品を駆逐し、輸出も可能な製品を生み出せることも可能だという確信を持つに至る。(web〈9〉P11参考)このことは20年後、起業した可鍛鋳鉄事業で自ら実証してみせることになる。
(下の写真は①P103よりスキャンさせていただいた、『アメリカの鋳物工場で実習中の鮎川義介。』鋳物産業の現場は典型的な3Kだ。
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 以下(wiki)の引用に戻る。

17.3-1.2戸畑鋳物の設立
『1910年(明治43年)、井上馨の支援を受けて福岡県遠賀郡戸畑町(現・北九州市戸畑区)に戸畑鋳物株式会社(現日立金属)を創立。マレブル(黒芯可鍛鋳鉄)継手を製造。 継手の表面が瓢箪のように滑らかであってほしいという思いを込めて「瓢箪印」をトレードマークにし、ヒット製品となる。』以下も(web〈9〉を参考に補足する。
 鮎川から帰京の報告を受けた井上は、これまでの鮎川の努力と可鍛鋳鉄の将来性を認め、事業化に向けての協力を約束する。戸畑鋳物の資本金30万円は、井上馨侯の肝いりで、『東京藤田家・貝島家からの各一〇万円、三井家からの五万円と鮎川個人の出資分五万円からなっていた。また、工場敷地は、貝島家の所有地一万五〇〇〇坪を借受けたものであった。』(web〈9〉P11)
(下の写真は戸畑鋳物の工場の全景で、下記のブログより。https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12177482585.html
戸畑鋳物について、鮎川自身の言葉によれば、それは『「一本の糸がきれることなく」続いていく日産コンツェルンの始まりであった。』(web14)
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https://stat.ameba.jp/user_images/20160705/11/shimonose9m/18/7f/j/o0470031213689815197.jpg?caw=800
 以下も(web〈9〉P13)より。『このように、恵まれた環境の中で発足した戸畑鋳物は、明治四五年(1912年)四月から、わが国最初の黒心可鍛鋳鉄の生産を開始した。しかし、創業期の苦しみは、鮎川義介においても例外ではなかった。』以下は(web5)より
『自ら主任技術者となって可鍛鋳鉄工場を開業した。製造も販売も手探りの当初、鮎川義介は会社存続のため資金繰り忙殺され、海軍へ納品した六インチ砲弾が全部不合格になるといった失態も演じたが、~ この間、株主が揃って追加出資を渋るなか藤田小太郎(長州人で藤田財閥を築いた藤田伝三郎の甥)の未亡人藤田文子だけが増資を快諾してくれ、これで窮地を脱した鮎川義介は生涯藤田文子を井上馨と並ぶ恩人と敬った。』
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 販路の開拓に苦心し、経営危機脱出を賭けて、海軍演習用砲弾の製造を引き受けるが、逆に大損失を出してしまい、破産やむなしというところまで追い込まれたが、上記のように、東京藤田家の40万円全額融資によって救われたという。(web〈9〉P13)ちなみに海軍演習用砲弾の製造に失敗した際には、その製造担当者に代わって自ら原因を究明し、その製造を成功させたという。(⑯P222) 以下もweb〈9〉P14)より
『このように、親類縁者の援助によってかろうじて経営を維持していた戸畑鋳物にとって、第一次大戦の勃発は、経営的自立を達成する機会を与えた。戦争の影響は、外国品の輸入杜絶、国内需要の急増という形で現われ、戸畑鋳物の販路も次第に拡大し、大正三年下期には、操業以来初めて利益を計上した。』
 下の図は(web〈9〉P14と⑭P34)の表を折れ線グラフ化したものだ。戸畑鋳物が第一次大戦に救われた状況とともに、大戦後も着実に成長を遂げ、利益を出しつづけていた様子が分かる。以下(web17-3)より、『好景気に踊る世間に背を向けて、「戦争の後には地震(不況の意味だと(web17)では解釈しているが)が来る」と事業の拡張を抑制し、売掛債権の回収に全力を注ぎ、戦後、その豊富な資金で設備の合理化、企業の買収を進めた鮎川の慧眼と行動力は賛辞を呈するに値する。』
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『さて、軍需景気の波に乗り成長を続ける鮎川義介と戸畑鋳物は、可鍛鋳鉄への電気炉の導入、農業用・工業用・船舶用の石油発動機製造、電線製造などへ技術分野を広げつつ、帝国鋳物・木津川製作所・安来製鋼所・東京製作所・東亜電機などを次々傘下に収め業容を急拡大、人材と資金の機動的な運用を図り戸畑鋳物グループの組織効率を高めるべく持株会社「共立企業」を設立し系列企業群を再編した。』(web5)
 電気炉の導入で焼鈍時間の短縮と品質の向上を図り、合わせて製品の多角化も推進した。(⑫P92参考)
 特に反射炉から電気炉に切り替えた効果が大きく、焼鈍日数を従来の反射炉の7~10日から一挙に30時間の短縮し、欧米の工業先進国をしのぐ生産性を達成、製造コストを大幅に低減させた。そして、電気炉製造法は可鍛鋳鉄の品質も向上させて、戸畑鋳物は海軍省、鉄道院の指定工場となった。(⑭P35、①P102)
 性能・品質が大きく向上した結果、輸入品との競争にも打ち勝ち、中でもひょうたん印の鉄管継手は競争力抜群で、日本の鉄鋼関連製品で初めて欧米進出を果たし『本邦初の快挙として大きく報道された。』(①P102)(下の画像は日立金属のHPよりコピーさせていただいた。同社は戸畑鋳物の直系企業だが、日立グループの事業再編により外資系に売却されるようだ。)
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『こうして、アメリカでの労働者生活を通じて鮎川が目指した可鍛鋳鉄製品の国産化とその輸出は、二十年の歳月をかけて見事に実現されたのである。』(⑭P36)
 ここまでは戸畑鋳物を中心とした展開だが、日産コンツェルンは戸畑鋳物が大拡大を遂げて誕生したわけでは無い。次に記す、久原鉱業の再建が、鮎川が日産コンツェルンを形成する上で、決定的な役割を果たすことになる。まずは概要を、以下(wiki)より

17.3-1.3久原鉱業の再建
『1928年(昭和3年)、義弟・久原房之助の経営する久原鉱業の社長に就任し、同社を日本産業(日産)と改称。久原鉱業は、当時は、第一次世界大戦後の恐慌と久原の政界入りで経営破綻に瀕していた。立憲政友会の田中義一(元陸軍大将)らの再建の懇請に鮎川は渋々応じた。会社を持株会社に変更し、公開持株会社として傘下に、日産自動車・日本鉱業(同年12月、日本産業株式会社に社名変更)・日立製作所・日産化学・日本油脂・日本冷蔵・日本炭鉱・日産火災・日産生命など多数の企業を収め、日産コンツェルンを形成。 1929年(昭和4年) 戸畑鋳物東京製作所(深川)を新設し自動車用マレブル鋳鉄製造開始。同年4月24日、日本産業の鉱業部門が分離独立、日本鉱業株式会社を設立。』
wikiらしく簡潔で要領よく纏められているが、以下からも主に(web〈9〉;『日産財閥形成過程の経営史的考察』宇田川勝)を元に補足していく。詳しくはぜひ原文を確認してください。(下の写真は久原房之介(左)と鮎川義介だが、久原はいかにも“生臭そう”だ。画像は以下のブログより。http://www.shunko.jp/shunko/enkaku/enkaku.html)
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http://www.shunko.jp/shunko/enkaku/images/enkaku01.gif
 まず「鉱山王」と呼ばれた義弟の久原(くはら)房之助率いる久原財閥については(web17-3と4)が一番詳しいが、以下は超簡略版として(wiki、web11、⑭P73他)を元に要約すると、まず房之助の父、庄三郎は養子入りしたため久原姓を名乗っているが、藤田財閥の創始者、藤田伝三郎の実兄で、藤田組は伝三郎の3兄弟(藤田伝三郎・藤田鹿太郎・久原庄三郎)で経営されていた。房之介も藤田組の後ろ盾である井上薫の命により、叔父の藤田組に入社するが、閉山処理で赴任した秋田県の小坂鉱山を、新技術の導入と、主要産品を銀から銅へ転換する等の改革により蘇らせて、逆に大きく業績を伸ばす。
 1905年、分与金を手に藤田組と分かれた房之介は、茨城県の小鉱山だった赤沢銅山(後に日立鉱山と改称)を買収して久原鉱業所を創業、短期間で「日本の四大銅山」(足尾鉱山、別子鉱山、小坂鉱山、日立鉱山)のひとつに数えられるまでに発展させた。なお日立鉱山で使用する機械の修理製造部門から発展したのが、小平浪平率いる日立製作所だ。(下の日立鉱山の画像はhttps://blog.hitachi-net.jp/archives/51672836.html よりコピーした。)
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 第一次世界大戦の活況のもとで、最新式の採掘・精錬技術の導入と、全国各地の銅山を積極的に買収した結果、急膨張を遂げる。後発の不利をよそに、1918年までに国内と朝鮮に31ヵ所の非鉄金属鉱山を保有し、『わが国の金の四十%、銀の五十%、銅の三十%を産出する非鉄金属業界のトップ企業に発展した』(⑭P74)というからまさしく“鉱山王”と呼ぶに相応しい。鉱山事業を担保に積極果敢に事業の多角化を図り短期間で一大財閥を形成する。ついには、あの鈴木商店にも比肩し得る規模に達したという。
 しかし、大戦後の反動恐慌で一気に転落、1926年には主力である久原鉱業自体の産銅事業の不振と、傘下の久原商会の投機取引失敗により、破綻寸前まで追い込まれる。ちなみに頼るべき井上薫は1915年にすでに亡くなっていた。
(「鉱山王」としての久原房之介について、ネットで調べていくと、自分が日本の鉱山についていかに無知であったかがよく分かった。たとえば自分が知らなかった大金山に、大分県日田市の「鯛生金山」(たいおきんざん)というものがあった。明治時代に発見された比較的新しい金鉱山で、一時期(1926~1928年)久原鉱業に経営を委任されていたが、この鉱山の全盛期の金産出量はあの佐渡金山を上回り、「東洋一の大金山(黄金郷)」と謳われたという。山坑道の総延長は 110km、地下500mにも達する竪坑が5本も掘られ、従事者3,000人を抱えていたそうだ。下は「鯛生金山地底博物館」のHPより、その「坑道断面図」で、当然、奥行き方向も深い。東京タワーとの比較で、いかにすさまじい規模で、深く掘り進んでいたかがわかる。)
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 ここに至り、wikiにあるように、鮎川や久原と同じ長州人脈で次期総理大臣候補の立憲政友会、田中義一らは、久原の親族でもある鮎川に再建を託すが、鮎川は当初、断る気でいたという。
実は『鮎川は一九一二年の久原鉱業株式会社創立時から取締役に就任していたが、同社の経営には参画していなかった。』(⑭P69)しかしその後、製鉄所建設を巡ってのいきさつ(ここでは省くが⑭他参照してください)があり、『「久原と私との間に思想の断層を発見したので、将来事業を共にすまいと決し」(鮎川「私の履歴書」)、』1918年1月に久原鉱業の取締役を辞任していた。(以上⑭P70)
 しかし、『田中の再三の説得と義兄で三菱合資総理事であった木村久寿弥太のいま久原鉱業が破綻すれば「三菱にも飛び火するし、日本中が大騒ぎになる。なんとしても食い止めるべきだ」(⑭P77)との説得で、結局引き受けざるを得なかった。以下も詳細は略すが、『弟政輔の養子先である東京・藤田家や妹フシの嫁ぎ先である貝島家など、井上馨につながる親族に援助を頼って当座をしのいだ。』(web11、P147)
(下表は(⑭P76)の表より作成した「久原鉱業の債務整理資金」の提供者を示したグラフで、全体金額(\20,722,159.ただし帳簿価格)に対して貝島家が実に7割もの、当時の貨幣価値からすれば気の遠くなるような、膨大としか言いようのない資金(\14,007,234.)を拠出している。今までの記事の中で、30万円(16.5.3-1)とか40万(16.5-6)で“大金”だとしてきた感覚すると“別次元”の金額で、どうもスケール感が合わない。ただこの資金提供がなかったら、この時点で久原鉱業は破綻して、後の鈴木商店の破綻の時のような大きな社会問題に発展しただろうことは間違いない。以下もっとも詳しく書かれている(web17-4)より引用。
『照査の結果、払込資本2500万円の6割相当の穴があいていることがわかった。「これじゃ助からん」と思ったが、貝島太一が久原の監査役をしていることを知り、貝島家を動かしてみることにしたところ、貝島家は思い切った決断をした。
「一族協議の結果、貝島は井上侯に恩返しするつもりで、稼働中の炭鉱と住宅だけを残して、未稼働の鉱区はもとより各家の別荘、土地、有価証券、現金等合わせて簿価1400万円のものを提供するが、以後久原とは縁を切る」と申し出た。~ この結果、久原の骨董品を含めて2500万円の穴を埋めることができた。』
鮎川は当時貝塚家の顧問代理(注;貝塚家の家憲の一項に「貝塚家顧問は永代、井上家の当主をもってする」というものがあった)を引き受けていた(詳細は⑭P70参照)。
 井上薫のおかげで貝島家は事業に成功したのだからその報いとして、井上から全幅の信頼を得ていた鮎川にすべてを託し、惜しげもなく差し出したようでもあるが、(⑯P86)によれば解釈が少々異なり、『貝塚家が膨大な資産を提出した裏には、同家から井上勝之助家、とくに顧問代理の鮎川を排斥する意図があった。』としている。一時苦しかった貝塚家は鮎川の主導した経営改革によって復興し、その基盤を確かなものにしたというが、その時のやり方がドラスティックだったが故に、一族の中に反発するものも少なくなかったという。
 しかし問題の種を作った久原房之介自身は、一切の関係事業との絶縁を声明後、政界で暗躍(真偽は不明だが226事件の黒幕とも一部では言われている)するのだから、その全体の関係というか構図は、なんだかよくわからない部分が多い。なお下表の田村市郎は久原房之介の次兄、斎藤幾太は長兄だ。)
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 話を進める。こうして鮎川の主導で『1927年2月の金融恐慌発生直前に債務整理を行い、世間では鈴木商店より先だと言われていた久原鉱業の破産を回避させた』(⑭P78)という。鮎川が男を上げたことは言うまでもないが、客観的に見れば、この件に関してだけ言えば、やはり貝塚家の貢献がもっとも大きいように思える。続きは(web9、P22)より、
『そして、昭和二年(1927年)六月、一応の整理終了を機に、鮎川は、同社取締役に、さらに年度末の同三年(1928年)三月、久原房之助に代わって、社長に就任し、名実ともに久原系事業の経営全権を掌握した。~ 鮎川は、債務整理を推進する一方、多角経営による業績の安定化、持株会社構想実現の伏線としての関係会社投資の増大を主眼とする、以下のような経営再編に着手している。』債務整理について(web17-4)によれば、『まず、久原グループのなかで、どうしようもない会社を「合同肥料」に抱き込んで蓋をし、健康部門と戸畑鋳物を併せ再編成した』のだという。
 経営再編の具体的な中身は、(web9)によれば「電力部門の分離」,「石炭部門兼営」,「所有株式の放出」,「資本金徴収」,「関係会社への投資の増大」だった。社外投資総額は下表で示すように、1927年の上期と下期の間で約二倍に増加している。詳しくは(web9、P22)を参照してください。
 さらにこの表に関連して追記すれば、『それまで同社株を有していなかった久原鉱業は、同三年(1928年)三月には戸畑鋳物の全株式二〇万株の約三分の一に当たる六万株を所有し、共立企業に代わって筆頭株主になり、戸畑鋳物は、同社傘下の有力会社の一つになる。したがって、久原鉱業の持株会社移行への諸条件は、すでに熟していた、とも考えられる。』(web9、P25)
 より規模の大きい久原鉱業を母体とする、鮎川主導による持株会社構想を実現させるための布石を打っていたとも考えられる。
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引用ばかりで恐縮だが、以下も(web9、P23)より。
『このように、久原鉱業は、鮎川の指揮の下で着々と内部整備を実施していった。しかし、金融恐慌の真只中で、強力な金融力の背景もなく、しかも同業他社に比して生産・加工・販売の一貫体制を欠き、その上、傘下各事業も沈倫しているという、久原鉱業の経営を軌道に乗せることは、至難であった。とくに、鮎川の企図する多角経営による経営安定、ならびにこれに伴う新事業への進出には、さらに多額の資金を必要としたが、当時の状況の下では、その調達は不可能であった。』
 久原財閥の再建から日産コンツェルンがスタートした初めの数年は、途中で世界大恐慌も始まる昭和の大恐慌期と重なる。最悪の経済環境下で、鮎川の描く遠大な構想を実現させるためには、資金難の解消が前提だった。

17.3-1.4日産コンツェルンの誕生
 その抜本的な打開案として、打ち出された策が、久原鉱業の公開持株会社構想だった。独立系の新興財閥であった久原財閥は元々、依存すべき有力な金融機関を持たず、資金調達を株式の公開に求めていた。下表に示すように、1916年の資本金3,000万円への増資を機に、プレミアム付で株式を公開して以来、株主数は増加し、1927年下期には15,200名に達し、株式の分散は著しく進んでいた。(web9、P24要約)当時としては珍しい株主構成だったのだ。
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『ここに着目した鮎川は、共立企業での経験を生かして、久原鉱業を持株会社に改組し、そして、持株会社自体の株式を公開することによって一般大衆の資金を吸収し、これによって金融梗塞下に萎靡沈滞した経営を一挙に復興させ、さらに進んで傘下各事業を拡張しようとした。』(web9、P25要約)そのための第一ステップとして『鮎川の狙いは久原鉱業の大衆株主を日本産業株主に移行させ、同時に久原財閥の傘下企業を日本産業の統括管理下に置くことにあった。』(⑭P80)
 公開持株会社構想実現のために、1928年12月の株主総会で、次の三点を骨子とする改革案を提出する。
(1) 久原鉱業を傘下企業の統括持株会社にする。
(2) 同社の株式を公開する。
(3) 社名を久原なる私人名を避けて「日本産業」に改称する。
 以上の3議案の承認を得て、『久原鉱業から日本産業への社名変更わずか四カ月後の昭和四年(1929年)四月、その主要資産たる鉱業部門の事業を分離して、資本金五〇〇〇万円の日本鉱業株式会社を創立し、日産は、その全株式を保有して他日公開する機会を持った。鮎川の新構想実施当時の日産の保有株式とその投資額は、第七表(下表)の通りであった。』
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 こうして久原財閥は、公開持株会社日本産業(通称、日産)を頂点とする日産コンツェルンとして再編成された。久原財閥の中核企業だった久原鉱業は日本産業に改組され、現業部門は新設の日本鉱業に引き継がれ、日本産業は本社機構として、株式市場から広く資金を仰ぎながら傘下企業の日本鉱業・日立製作所・日立電力・戸畑鋳物等の管理や新事業の開拓に専念する持株会社とした。(以上web9、13、⑫P93他参考)

 本拠地を満州国に移すまでの鮎川と日産コンツェルンの歩みについて、以下(⑫)からの引用で先に要約する。
『昭和恐慌時に出発した日産コンツェルンの経営は、傘下企業の不振もあって困難を極めた。しかし、1931年9月の満州事変の勃発、同年12月の金輸出再禁止措置を契機に日本経済が長期不況から脱出して再び成長軌道に乗ると、傘下企業は立ち直り、日本産業の株価も上昇した。そうした機会の出現を待っていた鮎川は日本産業設立時に構想した大衆資金に依拠する日産コンツェルンの形成を図るために、傘下企業の株式をプレミアム付きで公開して巨額の株式売却差益を入手し、さらに株価高騰の日本産業株式と既存会社株式の交換による既存企業の吸収合併を中心とするコングロマリット的拡大戦略を積極的に展開して急成長を遂げ、1937年までに住友を抜いて三井、三菱両財閥に次ぐ企業集団を形成した。』(⑫P93)
 遂には三井、三菱といった旧財閥と並ぶ、一大企業集団にまで発展するのだが、以下からは(web12、P65)と⑭からの引用で、その鍵となった資金調達面に主にスポットを当てた、日産コンツェルンの形成過程について補足する。
『日本産業は,当初,総投資額の約 7 割を鉱山部門(久原鉱業の鉱山部門を引き継いで設立された日本鉱業)に投下していたので,当時の世界恐慌の煽りを受けて昭和 5 年(1930年)上期以降5期連続の無配を余儀なくされる状況に追い込まれた』(web12、P65)
 鮎川と日産コンツェルンの歩みは、「戦前日本の自動車史」どころか、「戦前の日本史」全体にもかかわる話になるが、上記の鉱山部分への重点投資は、世間では世界恐慌のあおりで経営難に陥っていた日本鉱業に対しての『累積債務の隠蔽工作であるとみなされた。大衆資金を動員してコンツェルン経営を実践するという鮎川のビジネスモデルは当時の財界の通念とはかけはなれており』(⑭P81)、市場の理解が得られず、逆に大きな批判を浴びせられたという。
 既述の通り「鉱山王」、久原房之介の久原財閥を引き継いだ、この当時の日本産業の中核企業は日本鉱業だった。そして下記(web12)によると同社は「金,銀,銅の全国産出高の約 3 割を占めていた」という。
 鮎川は久原や藤田家など自らの親族が長年その経営に携わり、激しい浮き沈みを経験してきた鉱山事業というものが、外部要因により、その資産価値を大きく変動させることを誰よりも熟知していたはずだ。苦境の時代にも諦めずに維持し続けて、やがて来るであろう「激動の時代」の新たな大波の到来に、期待をよせていたのではないだろうか。(私見です。)
(web17-4)によると『このころ鮎川は「日本の産金量は、金の買上げ値段に比例する」という論文を書き、高橋是清蔵相に意見具申したところ、深く頷いた蔵相は、即座に金の値上げを実行した』という。ひたすら“待つ”だけでなく、自らその波を引き寄せる努力(この件がそうだとは一切言っていないが、局面打開のため、結果としては、際どいケースもあるいはあったのかもしれない?まどろっこしい言いまわしになるが)をも行ったようだ。(web12、P65)からの引用に戻る。
『昭和 6 年の満州事変以後の景気回復過程のなかで,同社の業績は急激に好転するに至った。というのは,傘下の日本鉱業は,金,銀,銅のそれぞれに於いて全国産出高の約 3 割を占めており,金輸出再禁止措置,政府の金買い上げ価格の引き上げ等を背景に大幅に業績が回復したからであった。こうした状況を受けて日本産業の株価は,昭和5 年に一時12 円にまで下落したが,その後急騰して昭和9年には145.6 円を付けるまでになった。』ちなみに額面50円の株です。下は(web17-1)の数字をグラフ化した、1929年下期~1932年下期の日産の純利益推移のグラフで、いったん水面下に沈んだが、1931年に起こった2つの外部要因によりV字回復した様子が分かる。
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 世の批判に耐えつつひたすらビジネスチャンスの到来を待ち、満州事変の勃発(1931年9月)と金輸出再禁止処置(1931年12月)により、金融市場で「錬金術」を展開する機会をついにとらえたのだ。(web12、P65)からの引用を続ける。
『このような状況を背景に,日本産業は,「公開持株会社日本産業の機能と機構をフルに活用した多角化戦略を展開した。即ち,「満州事変以降の株式ブームに乗っての傘下子会社株式のプレミアム付き公開・売出し→その直後の親・子会社株式の株主割当による未払込資本金の徴収と増資→プレミアムや払込資本金の新事業分野への投下,あるいはそれらの資金を利用しての,また株価の高騰している日本産業株式との交換を通じての既存企業の吸収合併→日本産業株主の増大→同社の払込資本金の徴収と増資……」といった循環過程の中でコングロマリット的企業集団を急成長させていったのである。』
『鮎川は「私の発明である」と主張しているが、今日の言葉で言えば、それはM&A戦略、コングロマリット操作、企業再生ファンドなどの「複合経営戦略」と呼ぶべきものであった。』
(⑭P83)
(下表は⑭P86の表をもとに作成。総株主数51,804名のうち、持株数が1~499株のいわゆる“大衆株主”(50,783名)の持株が全体株式数の51.8%と過半数以上を占め、鮎川の思惑通り見事に、大衆からの資金取込みに成功した。なお30,000株以上は7名(8.6%)だ。)
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『その結果,日産コンツェルンは,久原財閥から引き継いだ日本鉱業,日立製作所といった企業に加えて,日本水産,日産自動車,日本化学工業,日本油脂,等の多角的分野で有力企業を擁する一大コンツェルンを形成したのである。昭和 7 年から 12 年にかけて日本産業の払込資本金は 5250 万円から 1億 9837万円へ,収入は179 万円から1570 万円へ,内配当収入は157 万円から1355 万円へと増大し,その結果,「日産コンツェルンは三井,三菱両財閥につぐ一大企業集団」となった。』(web12、P65)
(日産コンツェルンの成功は、上記でいう「複合経営戦略」の所産であったが、別の側面から見ると、それは今まで見てきたように『その戦略展開に鮎川義介の親族各家が協力した結果でもあった。日本水産に結集した水産関連会社は田村家(注;創業者の田村市郎は久原房之介の実兄)、日産火災海上保険(旧社名日本火災傷害保険)は貝塚家、日立製作所に吸収合併された国産工業(一九三五年に戸畑鋳物が社名変更)、日本蓄音器商会(日本コロムビア)、日本ビクターは東京藤田家が、それぞれ筆頭株主の会社であった。親族各家は鮎川の要請に応じてこれらの会社を日本産業株式取得を条件に日産コンツェルン傘下に移行させたのである。~ 同コンツェルンは久原・鮎川の親族各家の事業活動の集合体という側面を有していたと言える。』(⑭P90)下の表は日立のHPよりコピーした。因みに⑫P94にも「日産コンツェルン組織図(1937年6月)」として同じ表がある。)https://www.hitachihyoron.com/jp/column/gf/vol10/index.html
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 さらに別の一面として、(web12、P65)の引用を続ける。『同時に日産コンツェルンは「確かに重化学工業を中心とする企業集団であったが,他の新興財閥にみられない水産,保険などの事業を経営しており,既成財閥の特徴とされる,いわゆる『八百屋式』コンツェルンの様相を呈していた」ことも,その事業構成上の特質とされた。』
(下表(太字が日産系企業)のような、日立製作所の躍進は、前回記事の(16.3-5項)で記した「日産による瓦斯電の解体」の効果も大きかったようだ。どこに書かれていたかは忘れたが、日立製作所を率いていた小平浪平が瓦斯電の吸収を強く要望していたという理由が分かる。なお「国産工業」は、「戸畑鋳物」が社名変更したものだ。グループ再編のなかでその後日立製作所と合併し、戦後の1956年、旧国産工業系の5工場が分離独立して「日立金属」となる。(web17-5参考)
さらに☆2022.11.12追記:日立による軍需企業、瓦斯電吸収の経緯については、「1930年代の電機企業にみる重工業企業集団形成と軍需進出」(吉田正樹)=web29が詳しい。ぜひ一読してみてください。)
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 満州事変以降、日銀引き受けによる巨額な財政出動により、軍事予算の大膨張(1930年には約5億円と米の1/3、英の1/2程度だった軍事費が1931年から急拡大し、日中戦争開戦の1937年には50億円と十倍増して英米の軍事費を上回るほどに膨張、1940年には遂に100億円を超えた(以上web5による))が行われていく中で、日産も軍事予算の獲得のため、革新官僚や一部軍部との連携に乗り、兵器を含む重化学工業分野を拡大させていく(ここでは省略するが、一例としてこのブログの記事の16.3-5項参照)。
 日産はいわゆる「新興財閥」の中の筆頭格で、試しに「新興財閥」という言葉をネットで検索すると『三井・三菱などの明治以来の旧財閥に対し、満州事変前後から軍部と結んで台頭してきた財閥。日産・日窒・森・日曹・理研などの各コンツェルン』(goo国語辞書)と、真っ先に「日産」の名前が出てくる。
 しかし、2つ上の表が示すように、満業移行前の日産コンツェルンの陣容は、「共同漁業」(日本水産)、「中央火災海上」(日産火災海上)、「日本蓄音器商会」(日本コロンビア)、「日本ビクター」、さらには日産自動車の「小型車ダットサン」の事業など、民需が主体の業種も多く傘下に抱えるなど、(web12)の指摘のように、他の新興財閥のように極端に軍需に特化していたわけでもなかった。(web12、P65)からの引用に戻る。
『このように日本産業は,短期間に三井,三菱に匹敵する大コンツェルンを形成したわけであるが,公開持株会社であるがゆえのジレンマもまた持っていた。』鮎川は旧大財閥に対しての対抗心を、表向きも隠さなかった。そんな鮎川と日本産業に向けて、旧財閥側からの攻撃も当然ながら半端なく強かっただろう。

17.3-1.5満州への移転と撤退
 日本産業が満州国政府と関東軍の要請を受ける形で、本社を満州国首都、新京に移し、社名を「満州重工業開発株式会社」(満業)と改め、鮎川がその初代総裁に就任し、その重工業部門を満州へ移転していく以降については、今回の「小型車ダットサン」の記事を書くうえでは、記す必要性が薄い。そこで満州への展開の部分は次の(その8)の記事に関連してくるのでそちらでより詳しく記すことにして、この項では以下の概要的な(web12、P74中の一文;「新興財閥-日産を中心に-」宇田川勝,安岡重明編,『日本の財閥』からの再引用)と(web5)からの引用で、鮎川義介と戦前の日産コンツェルンの歩みについての記述を終えたい。
『日本産業の株式市場を利用した急膨張は,その後徐々に翳りをみせ,プレミアム稼ぎの減少を補うための借入金の増大や同社の高株価を利用した合併政策の困難化等の事態が発生した。さらに追い討ちをかけるように昭和12年に入ると,戦時体制の一環として臨時租税増徴法,北支事件〔変〕特別税等の政策が実施され,子会社並びに持株会社に対して特別税が課されることになった。』(web12、P74)
 日産の成功に倣う形で、旧財閥が傘下の有力企業の株式公開を一斉に行ったため、株式相場が急落し、株式ブームは去る。さらに増税が追い討ちをかけて、旧大財閥と違い、傘下に金融機関をもたない日産コンツェルンは、資金調達に苦しみ始める。(下の二つの表は(⑯P69)の表をグラフ化したものだ。)
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(下表のように、日本産業の借入先金融機関は分散していた。その中でも政府系金融機関の興銀の比重が大きいのは新興財閥に共通していた傾向だったのだろう。)
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『こうした苦境の折に,当時の満州国から極めて有利な条件で産業誘致の話が持ち込まれ,日産はその本拠地を昭和12年(1937年)11月20日に満州国へ移し,満州国法人となって会社名も「満州重工業開発」となったのである。』(web12、P74)
 満業(満州重工業開発株式会社)は満州国法人の国策会社として、「満州産業開発五ヵ年計画」の遂行機関となるのだが、満州と満業をユダヤ(河豚計画)/アメリカからの資本・技術の導入で大きく発展させたかった鮎川と、軍部との考えは同床異夢に近かった。鮎川は真剣に、『技術や資本で提携関係を結んでアメリカとの関係を深めれば、戦争などという馬鹿げた事態を防げると信じていた』(⑩P38)ようなのだ。(下の画像は以下よりコピーで、
https://iccs.aichi-u.ac.jp/database/postcard/manzhou/category-39/entry-2478/
(web17-1)に、ほぼ同じアングルの写真が「満州重工業株式会社(満業)の本社が置かれた満州国新京の大同大街」として紹介されている。手前の白っぽいビルは百貨店で、その奥の三階?の塔がある薄茶色の建物に入居していたようだ。道路の幅は70~100mもあり、電柱はなく、地下埋め込みだったという。)
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(下の写真は「満州重工業開発株式会社」(略して「満業」)の首脳陣で、中央の黒っぽい服の人物が鮎川総裁だ。満業の資本金総額は4.4億円と、日本産業時代に比し倍額増資されたが、増資分は「満州国」政府が出資した。半官半民の国策会社となったのだ。)
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 満業を展開していく上で、鮎川にとって大きな誤算だったのは、よく知られている日本を取り巻く国際情勢の悪化とともに、朝鮮との国境に近い満州東南部の、“東辺道”(現在の吉林省の東南部一帯)と呼ばれていた地域の地下資源の埋蔵量が、事前の予想を大きく下回ったことだったという。
 鮎川の構想では、謳い文句では製鉄で有名なドイツの「ザール」地域と肩を並べ、当時『「東洋のザール」と呼ばれていた東辺道地域の地下資源を開発し、それを既設の鞍山・本渓湖地域の鉱工業や鴨緑江水系の電源開発と有機的に結合させれば、南満州地域に世界的規模の重化学工業地帯を建設可能であると考えていた。』(⑭P120)
 ところが満業成立直後に実施した、日本の非鉄金属のトップ企業で、傘下の日本鉱業技術陣による東辺道地域の資源調査結果と、その後、地質鉱物学の権威で、元アメリカ政府鉱山局長のフォースター・ベイン博士を招いて実施した、東辺道地域を含む全満州の詳細な資源調査結果は、鮎川の期待を大きく裏切るものだった。
 実は東辺道の資源開発こそ、「満州産業開発五ヵ年計画」の中軸をなすもので、鮎川は東辺道の地下に眠るとされていた、膨大な資源を誘い水にして外資導入を図ろうと計画していたのだという。
 日産コンツェルン生成の重要なポイントは、中核企業である日本鉱業の持つ金鉱山資源を呼び水とし、大衆をターゲットにしたいわば「金(ゴールド)資源担保型」による資金調達を、そのスタートとしたことだ。同じように満業の場合でも、東辺道の膨大な石炭・鉄鉱石等地下鉱物資源を担保にして(「石炭・鉄鉱石資源担保型」)、外資が抱く満州への投資に対しての不安感を拭い、米/ユダヤ系資本の資金導入をはかり、その後連鎖的に発展させようと画策したのだ(多少私見です)。
 ところが事前に流布されていた、満鉄や満州国による資源調査結果を鵜呑みにした結果、肝心な地下資源量に大きな見込み違い(資源(担保)不足による信用力の低下)が生じてしまい、全体計画の破綻に拍車がかかっていく。
 下のグラフは(⑭P112)の表「満業の産業別投資推計」をグラフ化したものだが、今回の記事の調べを行う以前に自分が漠然とイメージしていた満業=重化学工業(鮎川は「重工業王」とも呼ばれていた)、と単細胞的に考えていたイメージとはだいぶ異なっている。『要するに、満業の満州産業開発投資の大半は各種鉱山、鉄鋼、軽金属などの基礎資材部門に向けられており、日本産業の満州移転時の主眼であった飛行機、自動車などの機械工業部門への投資ウェイトは大きくなかったのである。』(⑭P112))
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 満業事業を取りまく経営環境の悪化のなかで、失望した鮎川は撤退を決意する。以下(web5)より引用する。
『専横を強める関東軍を見限った鮎川義介は1939年には満州撤退の検討を始め、日産傘下の日本食糧工業(日本水産)取締役の白洲次郎らと話すうち欧州戦争はドイツ敗北・英仏勝利と確信した。ミッドウェー敗戦を知らない日本国民が未だ戦勝気分に沸く1942年、鮎川義介は満州からの全面撤退を決断し、各事業部門を国内と満州に分割再編したうえで満州重工業開発総裁を辞任し資本を引上げた。膨大な設備投資を重ねた満州からの撤退は大きな痛みを伴ったが、鮎川義介の間一髪の大英断により日産は破滅を免れ資本と事業基盤の国内温存に成功、第二次大戦後も事業活動を継続した日産自動車・日立製作所・日本鉱業(JXホールディングス)の各企業グループは高度経済成長で大発展を遂げ、日本水産・ニチレイ・損害保険ジャパン・日本興亜損害保険・日油などを連ね日産・日立グループを形成した。』
 ひとくちで“撤退”といっても、“超難物”の関東軍が相手なので容易なはずはなく、鮎川だからこそなし得たことだと思う。さらにタラレバだが、東辺道地域の資源が仮に本当に“東洋のザール”であったならば、未練が残り、あるいは逃げ遅れてしまったかもしれない。(下の写真はwikiより「鞍山の昭和製鋼所」で、一時満業傘下にあったが、戦後は接収されて『鞍山鋼鉄公司の新称で1949年から再稼働となり、現行の鞍山鋼鉄集団に至る。』(wiki))
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(下の写真と以下からの文は(web15)はてなブログ「書痴の廻廊」からコピーさせていただいた。「この写真が撮られたのは、「昭和十九(1944)年十月十五日、東京紀尾井町の鮎川義介の屋敷に於いて」で、鮎川によれば『僕は当時内閣の顧問をしていたから、政府の高官連中の苦悩の程は察するに余りあった。そこで、一夕連中を当時紀尾井町の拙宅に招いて、日ごろの労をねぎらう意味でご馳走したことがある。』下の記念写真?は『その「ご馳走」の席に招かれた面々というわけだ。左端から順々に名を挙げてゆくと、中島知久平、重光葵、南次郎、松平恒雄、岡田啓介、広田弘毅、鮎川義介、近衛文麿、木戸幸一、小磯国昭、鈴木貫太郎、伊藤文吉、米内光政の計十三名。錚々たる顔ぶれといっていい。現役の内閣総理大臣に外務大臣、海相に宮内大臣と、日本を動かす男ども、その大半がずらりと並ぶ。』
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https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/S/Sanguine-vigore/20200426/20200426170908.jpg
((web15)からの引用を続ける。『この「豪華メンバー」をもてなすべく腕をふるうは、もちろん初代銀座久兵衛、今田寿治その人である。彼の力量を遺憾なく発揮させるため、鮎川も骨折りを厭わなかった。日水社員を総動員し、北は函館東は勿来、西は松江に南は別府に至るまで、算盤勘定を度外視して良質なタネを掻き集めさせたものという。
ついでながら触れておくと、冒頭に掲げた面子のうち、戦後戦犯容疑を受けたのは、中島知久平、重光葵、南次郎、広田弘毅、鮎川義介、近衛文麿、木戸幸一、小磯国昭の計八人と、実に半数を超えている。巣鴨プリズンで合うたびごとに寿司の味を懐かしがったという噺にも、おのずから信憑性が増してくるというものだ。』
 以下はまったくの私見だが、最近の某宗教団体の話もそうだが、現在日本史のあらゆる分野でデクラスが進行中で、米内光政や山本五十六(=偽装工作により戦後も生き続けていたとの証言もある)など、「海軍の首脳=善玉」という刷り込みもいずれひっくり返されるのではないかと思う。真珠湾攻撃の最初から英米の計画の共犯者として“内側”に居たので、戦犯にはならずに済んだだけなのではないだろうか。

 1942年12月、満業総裁を辞任し帰国後の鮎川は、上記のように東條英機内閣の顧問も務めるなどしたため、戦後はA級戦犯容疑で投獄されて日産への経営復帰は叶わなかったが、鮎川が久原や久保田らから引き継ぎ、大きく発展させた企業群は日本に残り、戦後の高度経済成長の波に乗り、力強い成長をとげていく。
(下表は(⑯P82)の表を転記させていただいた。1946年の数字は、戦後、「財閥指定時」のもので、日産コンツェルン傘下企業の払込資本金合計額(17億9166万円)は、三井財閥(34億9166万円)、三菱財閥(31億1673万円)、住友財閥(19億2183万円)に次ぐものだった。満州への移転と撤退という、大きな痛みを伴った上で達成した数字だ。満業移行以後の、戦時体制下の日産コンツェルンは、他の財閥同様に、重化学工業分野への膨張が顕著だが、とりわけ『「時局」に適合しえた日立製作所と日本鉱業の二大会社の急成長を通じて達成されたということができよう。』(⑯P83)
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 下は以前、16.3-9項で掲げた、「ヂーゼル自動車工業」(たぶん設立時)の株主構成だが、ここでも戦時体制下に於いては、日立製作所が機械工業分野での日産系の中核企業であったことが判る。
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(下は「戦争と人間:山本薩男監督(日活)」のBD版のジャケットだ。3部作の超大作だが、この映画で描かれている「五代財閥」が「日産コンツェルン」をモデルとしていることは広く知られている(原作者の五味川純平は満業傘下の昭和製鋼所に勤務していた)。だが財閥当主の「伍代由介」という“人間モデル”は鮎川義介ではなく、戦後の石坂泰三(東芝社長のあと、高度成長期に経団連会長を務め“財界総理”と謳われた)をイメージしたものだったようだ。知りませんでした。(下の評論のP75参照)
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/20676/1/kokusainihongaku_11_2_65.pdf
http://www4.airnet.ne.jp/tomo63/taidanninngennno3.html

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https://movies-pctr.c.yimg.jp/dk/movies/poster-images/133168_01.jpg?w=312&h=297&fmt=webp&q=90
 以下からは“本題”に戻り、鮎川義介の、自動車事業進出に的を絞り記していく。

17.3-2 鮎川義介によるダットサンの量産化
 正直なところ、前項については全体のスケールがあまりに大きすぎて、“視界不良”に終わったが、話題を小型車ダットサンに絞れば、大筋で不明な点は少なく、話がスッキリとしてくる。
 アメリカで修業時代の鮎川は、デトロイトの対岸の工場で働きながら、アメリカの自動車産業勃興期の活況を肌で感じつつ、『将来、自動車工業が機械産業の中核に位置することを確信した。』(⑫P92)
 帰国後しばらくは、起業した戸畑鋳物の立ち上げに忙殺されるが、鮎川自身の言葉によると、自動車事業に進出しようと最初に試みた時期は1920年だったという(⑩P33、雑誌「モーターファン」インタビュー記事による)。可鍛鋳鉄事業の国産化に成功し、大戦後の反動不況も乗り切り、ようやくひと段落したころだったのだろう。

17.3-2.1自動車部品から始める
 しかし事業化に向けて、メインバンクの三井銀行他に相談したところ、時期尚早だと猛反対される。第一次大戦の特需を得て自動車産業に進出した東京の瓦斯電と大阪の久保田系の実用自動車製造が、当初の思惑が大きく外れて苦境に立たされていた頃のことだ。ちなみに三井財閥の最高顧問格だった大叔父の井上薫はすでに没していた。
『そこで、鮎川は迂回作戦をとり、まず自動車部品事業に進出して技術と経験を積み、それから本体の自動車工業に着手する計画を立てた。』(⑫P92)
まず実用自動車製造をクビになった直後のウィリアム・ゴーハムを、自動車事業に向けた技術面でのアドバイザー役として、高給で雇い入れる。鮎川とゴーハムは、以前から面識があったようだ。
戸畑鋳物時代のゴーハムは、各種自動車部品をはじめ農業・漁業用の石油発動機(トバタ石油発動機)、さらには炭坑用に使用するトロッコの車輪(⑩P33)などの製品化にも携わるが、その後も『窮地を救ってくれた鮎川に感謝する気持ちをもち続けて』(⑩P34)、日産時代に移ってからも終始、鮎川の事業に協力し続けた。
(下の写真は「日本自動車殿堂」より日産自動車 横浜工場の建設現場の写真で、左側から5人目(立っている人物で数えると4人目)の大柄の人物が、ウィリアム・ゴーハムだ。https://www.jahfa.jp/wp/wp-content/uploads/2013/01/2013-william.pdf )
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 この頃の鮎川の心境を現す言葉としては、以下のような言葉が残されている。
『戸畑鋳物は鋳物では日本一だが、船舶用小型発動機や水道管の継手のようなものを造っていたのでは、会社としてこれ以上発展しない。自動車エンジンを主体として自動車関係に入るのがよい』(「日本自動車工業史口述記録集(自動車工業振興会編;1975)」)
 自動車部品事業としては、『昭和初期までに自動車製造に必要な鋳鋼品、マリアブル部品(戸畑鋳物)、特殊鋼(安来製鋼所)、電装部品(東亜電機製作所)塗料(不二塗料製造所)などを、戸畑鋳物とその関連会社で生産する体制を整えた。』(⑫P92)東亜電機でディストリビューターやイグニッションコイルを、安来製鋼所では自動車用の鋼鈑を作り始める。地味だが着実な取り組みだった。
 これらの工場で製造された自動車部品は、石川島、瓦斯電、ダット自動車製造の国内3社などに納入されたが、1929年からは戸畑鋳物「東京工場」を開設、日本フォードや日本GM向けにマリアブル(可鍛鋳鉄)部品の納入を開始した。『戸畑鋳物は鮎川の高度な経営判断からフォード車のキングピンやエンジンなどの重要部品を積極的に請け負い、』(③-9、P172)フォードとGMに部品として採用されたということは、戸畑のマリアブル製品が工業製品として、世界水準にあったという証でもあった。
(下の戸畑鋳物「東京工場全景」(江東区深川越中島)画像は以下より、https://aucview.aucfan.com/yahoo/q1046947838/)
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https://auctions.c.yimg.jp/images.auctions.yahoo.co.jp/image/dr000/auc0304/users/2a93348826e760e8a5872026728da29bfe88a26e/i-img1200x788-1649646484kzdo7l167839.jpg
以下は(⑤P169)より
『戸畑鋳物では29年からGMとフォードにもマリアブル部品を納入していたが、それは「舶来品に劣らない優良な品質のものでなおかつ価格はそれ以上でない」という外国メーカーの納入条件を満たしていたためであった。そして、30年代に入ってその納入部品の種類や量を急増させていった。こうした経験から、日産は後述する小型車生産と共に部品生産を通じて、大衆車への段階的な参入を計画することになる。』
 前項(17.3-1)を飽きずにお読みいただいた方にはわかると思うが、久原財閥の再建に取り組み始めた1926年以降の鮎川は、まさに怒涛のような日々だっただろう。そのなかの一部の取り組みとして堅実に行われてきた、自動車事業への進出計画だが、その動きが本格化するのは、本体の日本産業の収益がV字反転し始めて、自動車事業の本格的な展開のために必要な、膨大な資金調達の目途が徐々に見え始めた1931年半ばごろからだった。

17.3-2.2ダット自動車製造の買収
 ここで17.3項の冒頭部分と話がつながる。その部分を要約し再録すると、久保田鉄工所系のダット自動車製造がリラー号の後継として試作した小型車ダットソンは、計画時の試算では『1000円の価格で月10台程度の販売で採算がとれる見込みだったが』(⑪P21)、目論見よりも製造コストが嵩んだ上に、製造・販売へと移行させるためには新たな投資が必要となった。
 親会社である久保田鉄工所の総帥、久保田権四郎は、軍用保護トラックの製造権利を持つ東京のダット自動車と合併しても、軍縮予算下で期待したほど効果が上がらず、相変わらず投資資金回収の目途が立たない中で、新たな投資にためらいがあった。そこで鋳物部品等の納入でダットと取引のあった鮎川義介の戸畑鋳物に、ダット自動車製造に対して資本参加を申し入れる。鮎川が以前から、自動車メーカーになることに意欲的だったことを、久保田も承知していたのだろう。
 以下も手抜きで再録になるが、自動車用鋳物品等の納入などを通じて、着々と準備を進めつつ、参入の機会を窺っていた鮎川義介は、この申し入れに応じ、まず100万円が出資されて(⑪P21)、腹心の山本惣治を役員として送り込み、ダットの内部状況の確認を行う。その後の判断は素早かった。
『1931(昭和6)年6月、戸畑鋳物は定款の事業目的に自動車工業の製造を加え、同年8月、久保田鉄工所傘下のダット自動車製造の株式の大半を買収し、同社の経営権を獲得した。』(⑫P93) 実質的には『戸畑鋳物と久保田との間で石油発動機事業と自動車事業の交換を行う形になった』(⑬P74)ことも既述の通りだ。(15.3-12項)
 こうして『大阪にある工場とクルマの製造権、さらには技術陣を含めた数百人の従業員すべてが鮎川の傘下に入り、ダットソン製造のメドがたったのである。』(⑩P45)
 17.2-9項、17.2-10項で記したように、販売にあたっては「ダットサン自動車商会」を設立し、梁瀬商会から引き抜いた吉崎良造に拡販にあたらせるなど必要な手立てを素早く打つ。しかし鮎川の描く壮大な自動車製造事業の構想からすれば、当初「月10台程度の販売」が目標計画だったダットサンは、『自動車の製造販売のプラクティス』(②P175)程度にすぎなかった。以下、小林彰太郎の記した(①P51)より。

17.3-2.3ターゲットはあくまで“大衆車”(フォード/シヴォレー級)
『だが鮎川の自動車産業に関する構想は確かに雄大なものであった。たかだか年間数百台のダットサン製造など、彼の眼中にはなかった。当面は小型車ダットサンの生産と並行して、フォード、シボレー用のアクスルシャフト、スプリング・ブラケット、ハブなどの部品を製作し、日本フォード、日本GMに納入して、自動車産業の経験を積む。しかるのちに、アメリカ式量産システムにより、フォード、シボレーに対抗できる普通サイズ乗用車を、年間2万台規模で量産すること、これが鮎川の真の目標だったのである。』
 何度も記してきたが当時の日本では「自動車≒アメリカ車」で、しかもそのうちの約3/4はフォード/シヴォレー(GM)のKD生産車(3リッター級のいわゆる“大衆車”と呼ばれていた)だった。
③からの引用で何度も記したが、戦前の日本に於いては、運転免許などで優遇処置が得られる特殊自動車か、陸軍が主導した軍用保護自動車(自動車製造事業法後はその許可会社に指定されるか)のどちらかしか、生き残る道はなかった(③-7、P176参考)。しかし鮎川の目標は小型車ダットサンを年間数百台程度作ることでも、当時3社合計で年間250~400台程度の軍用保護自動車を地味に作ることでもなかった。
 第三の新たな道として、『鮎川義介は自動車産業開拓に際して、日本に進出している「アメリカのビッグスリーのどらかと提携することを起業の基本戦略としていた」(日本自動車工業史座談会記録集)』(⑭P44)
 日本フォードと日本GMが開拓した、戦前日本の自動車市場のボリュームゾーンであり、当時の日本では、陸軍/商工省や大財閥も直接“かかわることを恐れた”、大衆車市場をターゲットに据えたのだ。
 米2社の力を借りて部品製造から始めて大衆車の国産化を行い、その次のステップとして、自社製国産車による自動車産業の確立を図ろうとしたのだ。『大衆車の国産化においても、日産の戦略が唯一の現実的な方法とみなされていた。』(⑤P216)下表の国内市場の状況をみれば、その意味合いが分かる。表中の米2社の台数は、日本国内のKD生産台数だが、本国では、さらに×100倍ぐらいの台数を生産していた。その背中ははるか彼方にあったのだ。(たとえばフォードは1929年に約195万台を生産。)
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17.3-2.4国産自動車会社の大合同に動く
 鮎川のここからの行動は、前回の記事(16.3-1~16.3-5項)で触れた、国産3社の統合とリンクしていく。詳しくはそちらか、さらに詳しくは主な元ネタの(⑤、⑩、⑪、⑫、⑰)あたりを直接ご覧いただきたいが!ここでも全体の流れだけは簡単に追っておく。
ジリ貧だった国産軍用保護自動車3社(石川島、瓦斯電、ダット)の統合が、陸軍省と商工省主導の下で明確に方向づけられたのは、「自動車工業確立調査委員会」(1931.06発足)の前あたりからだったが、鮎川がダットの経営権を取得したあたりから、同委員会を舞台に、両省主導による斡旋が本格化する。
 3社合同案に直ちに賛成した鮎川は、『ダットを国に差し出すつもりで、交渉のテーブルについた』(⑪P22)。そして日本フォード、日本GMの両外資系企業が国内の自動車市場を支配している中で、自動車国産化を達成するためには国産メーカーを大同団結させて、強力な国産メーカーを育成し、早期に量産システムを構築する必要があると強く主張する。
『三社が合併した会社の首脳になることは、日本の自動車業界を手中にすることを意味した。鮎川に大きなチャンスが訪れたといっていい。』(⑪P22)
 しかし、1932年12月、林桂陸軍省整備局長を立会人として、3社の間で仮契約が成立したものの、『すぐに腰くだけになった。』(⑪P22)
 仮契約の翌日、瓦斯電側から、メインバンクの十五銀行の都合により合併に参加できずとの一方的な申し出があり、鮎川の描いた自動車産業界の大合同を基軸とする自動車国産化構想はスタートから躓く。
 翌年3月に石川島とダットの2社合弁による新会社「自動車工業株式会社」が先行して誕生するが、陸軍・商工省の意向を踏まえて、軍用保護自動車と標準型式自動車(16.2項参照)の生産に集中し、鮎川が要望する大衆車クラスの乗用車/トラックの生産が見送られてしまう。(瓦斯電の自動車部門が合流し、「東京自動車工業」として3社統合を果たすのはさらに4年後の1937年で、ここでは略すが16.3-4、-5項参照)
 石川島とダットの合併の具体的な中身だが、ダット側としては大阪の工場を現物出資したかったが、石川島はそれらを(大型のミリングマシン1台以外)無価値と判断していた。石川島側が欲しかったのは、ダットの軍用トラックの製造権だけで、施設などは不要だった。そのため少し複雑だが、ダットの工場は戸畑鋳物が買い取り、機械設備等の評価額に該当する70万円でダットが増資株を引き受けることで、両社が合併することになった。『結果としては「ダット」が「石川島」に吸収合併』される形となった。(⑪P22他参考)
 もともとこの業界自体が設備過剰気味だったのだろう。ダットの大阪工場は「戸畑鋳物自動車部」(1933年3月設置(⑫P95)、(⑱P8)では2月)の帰属となり、同部は山本惣治取締役を部長に、久保田篤次郎取締役を製造担当として発足するが、肝心の小型車ダットサンの製造権は契約上、新会社の「自動車工業」に移ってしまっていた。
 しかし同社に小型乗用車を造る意思は全くなかったため、戸畑鋳物は自動車工業に対して『ダットサンの製造・販売権の譲渡を申し入れた。その結果、1933年9月、両社の間にダットサンとその部品に関する製造および販売権一切を、ダット自動車製造と石川島自動車製作所の同年2月にさかのぼって戸畑鋳物が自動車工業から無償で譲り受ける契約が成立した。』(⑫P55)
 鮎川の関心はすでに、後述するGMとの交渉に移っていたので、未練は少なかったようだが、山本惣治や久保田篤次郎、吉崎良造らは小型車ダットサンの事業に愛着を持ち始めており、鮎川に権利奪還を働きかけた結果のようだ。この結果、「自動車工業」に出向していた浅原源七や後藤敬義ら旧ダットの技術陣も「戸畑鋳物自動車部」に戻り(⑩P49)、こうして空白期間を経たのちに、ダットサンは元の鞘に収まった。
 以上の結末は、鮎川側からすれば、なんとも中途半端なものだったが、しかし鮎川はこの一連の交渉の過程で、それを補って余りある大きな手掛かりをつかむ。日本GMから商工省宛に、国産3社の合同に合流したい旨、打診があったのだ。
当時の『GMは進出国の自動車国産化政策が明示されると、生き残り戦略としてその政策に協力し、あるいは現地メーカーと提携する戦略を採っていた。』(⑭P45)
 同じ情報を掴んでいたフォードは、GMと違い日本フォードに対して大規模な設備投資を行い、製造工場の建設による現地生産方式に移行することによって日本国内に定着をはかろうとするのだが(引用⑳、NHK「ドキュメント昭和3 アメリカ車上陸を阻止せよ」等参照)、その方法は違えども、両社共に大きな利益を上げていた日本市場から、将来排除される可能性を恐れたのだ。
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 商工省による国産3社合同案は、陸軍の意向も大きく影響していたため、GMのこの申し出は一蹴される。しかしGM側のこの打診は、フォードかGMとの提携を前提にした国産自動車産業の確立を熱望していた鮎川からすると、『そのチャンスが向こうからやってきた』(②P196)ことになる。鮎川は国策に頼る方針を改めて、自らの力で道を切り開く決意を固める。
 1933年2月、鮎川は極秘裏に『日本GMの「日本化」を主眼とする』(⑰P31)提携についての申し入れを行い、GMもそれに応じる。以下は鮎川の「決意表明」となる重要なポイントなので(⑫P93)から長文引用する。

17.3-2.5「自動車製造株式会社」の設立
『日本産業は、1931年1月、所有する日本鉱業株式のうち15万株、同年10月、日立製作所株式のうち10万株をプレミアム付きで公開し、これによって巨額の株式売却益金を獲得した。その直後、鮎川は戸畑鋳物の幹部を集め、つぎのように語った。
「1千万円という金が手に入った。よくいえば天から授かったようなもので無くしても惜しくはない。ほんとうはこの金を借金の整理に回せばよいのだが、そうしなくとも日本産業の計画に支障をきたすことはない。そこでその金を戸畑鋳物に注ぎ込んでかねての考えどおり田舎の鋳物会社から自動車部品会社に転向することにしたい。というのは幸か不幸か三井、三菱の財閥が自動車工業に手を出そうとしていないし、住友も傍観している。われわれ野武士が世に出る近道は、いま自動車をやることにおいてはほかにない。」(自動車工業振興会編《1975》P96)』

 当時の日産コンツェルン全体の状況については、前項(17.3-1項)を確認されたいが、この後で記す、日本GMとの交渉の具体的な進展があり、いよいよ大勝負の時を迎えたのだ。
 ここで追記すれば、(web17-1)他の指摘では、鮎川の事業展開の特徴の一つとして、旧財閥の支配権の確立していなかった分野を狙ったとあり、自動車産業はまさにそれに当てはまるが、その後の新天地、満州への展開なども含め、旧財閥に対しての対抗心を隠さない一方で、旧財閥を極力刺激しないように、リスキーなことは承知で、違う土俵で戦おうとしていたようだ。

 1933年8月(日産のHPによれば10月)、戸畑鋳物は横浜市神奈川区守屋(新子安の湾岸埋立地で現横浜工場敷地)に約2万坪の敷地を入手する((⑫P96)。
 1933年12月26日、「戸畑鋳物自動車部」を分離させて、「自動車製造株式会社」を設立、新会社の社長には鮎川本人が就任する。日産自動車ではこの日を創立記念日としている。資本金は「1千万円」(出資比率は「戸畑鋳物」40%、「日本産業」60%)(⑩P47))で、ただちに横浜工場建設に着手する。
 この会社の設立の目的は、GMとの提携後の受け皿の予定だったとともに、自動車製造事業法制定の動きを、鮎川がすでに察知していたからでもあった。(⑰P51)
 そしてこのような矢継ぎ早の展開は、GMとの交渉が順調に推移した結果に他ならない。順番からすればここで、横浜工場立上げについて触れることになるが、一連のGMとの交渉を先に記し、工場の方は後回しにする(17.3-2.8項で記す)。以下鮎川(日産)とGMとの交渉の経過を簡単にたどる。

17.3-2.6「GMとの提携交渉(第1次)」の決裂と、「日産自動車」の誕生
 本題に入る前に、GMが対外進出する際の、一般的なその手法について、過去の記事の11.11項からの抜粋で再確認しておく。
まずフォードとGMの海外進出方法の違いだが、フォードが100パーセント子会社方式で、いわゆる“フォーディズム”を押し通す新会社を新たに立ち上げていくのに対して、GMは多くの場合、相手国の自動車メーカーに資本参加して、後に子会社化する手法をとった。たとえば対英進出の際は1925年にボクスホールを、1929年には当時ドイツ最大の自動車会社であったアダム・オペルを買収し、欧州の拠点とした。
 そのため日本の場合も、適当な提携先があればその方法も考慮に入れたはずだが、今まで延々とみてきたように、GMの検討段階で、日本で大量生産体制を確立した自動車メーカーは無く、そのため日本進出は単独で行わざるを得なかった。
 しかし、陸軍を中心に排外的な産業政策を日本が検討し始めると、その対抗策として日本GMでも本来の現地主義に立ち戻るのだが、この時GMは、国産3社の統合計画へ参加すべきか、それとも『三井・三菱・住友・日産といった財閥と手を組むべきか』(⑳P90)で迷っていたという。
 一方この記事で今まで見てきたように、日本でも、鮎川義介率いる当時の日産は、大衆車(=当時のフォード、シヴォレー)クラスの乗用車/トラックの大量生産を志向し、日本の自動車工業が自立するためには、外資との提携が不可欠であると、一貫して考え続けてきた。こうして軍部の圧力を感じ始めたGMと、後にはフォードも、日本における“受け皿”として、鮎川の日産と接触していくことになる。
 しかし次の記事(その8)で記すが、GMの日本化の動きは、フォードの本格的な工場着工計画とともに陸軍の強い警戒心をよんでしまい、排外的な自動車製造事業法を早急かつ強引に生みだそうとする逆のパワーを生むという、多少やぶ蛇的な結果も招いてしまうのだが、今回の記事では日産-GMの合併交渉のみを記し、より厳しい対立を引き起こすフォードとの合併交渉は次回の記事で記すことにする。
 話を戻し、先に記したように、日産-日本GMとの交渉は1933年2月からスタートし、初めに「日本GMの日本化はGM本社にもその意思がある」ことを確認したのち、鮎川と日本GM専務のK.A.メイとの間で話し合いは頻繁に行われた。
 鮎川の、日本GM/フォード向けの大規模な部品製造会社設立の構想に対して『GM側は関心を示した。鮎川の新会社がGMと特別な関係になることが望ましかったからである。鮎川は、どのメーカーにも部品を供給するニュートラルな会社にするつもりだったが、GMが望むなら株の過半数を所有することができる権利を認めた。』(⑪P24)
 1933年9月23日、両社の提携に関する草案が鮎川とメイによって署名された。日本GMの経営権を握ることになる日産側への51%の株式譲渡時期は、5年後を目処とした。商工大臣(この時期は松本烝治と町田忠治)も自由貿易論者であったので、この提携に理解を示していた。既述のようにその3か月後に鮎川は「自動車製造株式会社」を設立することになる。
 その後、日産が取得することになる日本GMの株の売価を巡る折衝(当初GM側の主張の600円を退け日産の求めた400円で決着)等、かなりタフな交渉期間を経て、1934年4月26日に、以下の内容を骨子とした正式契約が成立する。
『(1)GMは日本GMの株式の49%を日産に譲渡する。(2)日産は前年設立した自動車製造(この後、日産自動車と改称)株式49%をGMに渡す、という子会社株式の相互持合いを主内容とする提携契約が成立した。』(⑰P31)
『これにより、将来的にはゼネラルモーターズのシボレー国産化を図ることが可能になり、日本の自動車メーカーとしては最初に車両、生産、販売という三拍子が揃う可能性が大きくなったのである。』
(⑪P48)大財閥もなし得なかった、歴史的な計画案だったのだ。
 商工省からは『日産-GM,Cooperationハ至極結構ナリ』との言質を、工務局長の竹内可吉からとり、大蔵省外国為替管理部長からも非公式に送金許可を得て(以上⑰P31)、三和銀行から800万円を借り入れて、GMに払い込もうとしたその直前に、陸軍が『ニッサンと日本GMの提携に不快感を表明し、待ったがかかった。』(以上⑪P25)
 「自動車製造㈱」の株式をGMが過半数近く握ることを、『外国資本を利するもの』であるとストップをかけたのだ。(以上⑩P48、⑪P25)
 主導権を握れていない陸軍の「不快感」表明という、感情論を含む判断により、鮎川&日産は『土壇場ではしごを外された格好になった』(⑩P49)のだ。
 当初GMとの提携の受け皿の予定だった『「自動車製造」が「日産自動車」に改称されたのは、日本GMとの交渉が暗礁に乗り上げた直後の1934年6月の事で、この改名はGMとの提携が不成立に終わったことと関係があるだろう。』(⑪P26)資本金は同じ1,000万円だったが、戸畑鋳物の所有株式分を日本産業が買い取り、全額日本産業の出資会社となった。その背景として、戸畑鋳物の本社首脳陣(村上正輔社長ら)がリスキーな自動車事業の拡大に反対していたという事情もあったようだ。(⑰P51)
(下の画像は日経ビジネス(下のweb)よりコピーした「日産自動車の系譜図」
https://business.nikkei.com/atcl/NBD/19/special/00074/?SS=imgview&FD=-1299436387)
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https://cdn-business.nikkei.com/atcl/NBD/19/special/00074/g1.jpg?__scale=w:1000,h:715,q:100&_sh=02d0e90270
 鮎川は実は、『GM側の要求があれば、ダットサンの組立と販売権を日本GMに譲渡することを約束している。日本GMという大魚を釣るためには、小型乗用車のことは眼中になかったようで、』その内容も契約に盛り込まれていた(⑪P25)。
 最初の構想では、横浜工場は部品製造工場の予定であったが、陸軍の横槍により、見通しの暗くなったGMとの提携交渉の経緯を踏まえ、計画変更を余儀なくされて、小型車ダットサンの量産工場として立ち上げることとなる。(17.3-2.8項参照)
(ご承知のように「ダットサン」というブランド名は、1981年に一度廃止されたのちに、カルロス・ゴーン時代の2012年に、新興国向けの廉価車のサブブランドとして寂しい復活を果たすが、今年(2022年)に入り、ブランド廃止が正式に発表された。
しかし戦前、「ダットサン」の運命が最初の育ての親である鮎川義介の掌中にあったこの時期にも、上記のようにその存続が、何度か危うい立場に立たされていた。さらにその後、戦後の混乱期にも、『ダットサンの製造権が欲しいという人がいて、危うく売り渡すところだったという。』(⑩P97参照)
 下の写真は1971年のサファリラリーにおける“ダットサン”240Zの雄姿。1970年秋のRACラリー(英)で5位デビューを果たし、翌1971年のサファリラリーでは、前年(1970年)の名車、510ブルーバードによる総合&チーム優勝に続き、再び総合優勝とチーム賞を獲得する。画像は「名車文化研究所」よりコピーさせていただいた。
https://meisha.co.jp/?p=16434&utm_source=sotoshiru )
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(下の写真はラリーの最高峰、1972年のモンテカルロラリーに3位入賞を果たした、日産ラリーチームのエース、ラウノ・アルトーネン/ジャン・トッド(その後国際自動車連盟(FIA)9代目会長まで昇り詰める)組のダットサン240Z。翌年1973年のサファリラリーでは、この年から始まったWRC(FIA世界ラリー選手権)で日本車初のWRC総合優勝とチーム賞も獲得する。
世界のひのき舞台で、ポルシェ911、フォードエスコートRS、ルノーアルピーヌ、ランチア、サーブ、プジョーなどと同じ土俵で堂々と闘うタフな「ダットサン」の姿に、日本人のカーマニアは皆、日本車もとうとうここまで来たかという感慨と共に、当時の日本の自動車界で通用していた「技術の日産」という言葉を、感じとったものだ。画像は「ラリージャパン」よりコピーさせていただいた。https://rally-japan.jp/wrc/legend-car/legend-car-515/

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(冬のモンテのような氷結路のレースでは、重量級FRは不利だと言われていた中での3位入賞だった。あまりに誇らしいので、もう一枚貼っておく。今から50年前の話だ。モンテ仕様とサファリ仕様ではフォグランプの位置が違っていた。因みに優勝は本命だったRRのルノー・アルピーヌ勢が全滅したため、ランチアのエース、サンドロ・ムナーリの駆るランチア・フルビア・クーペHF(FF)だった。画像は(auto sport web)より。)
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 「第1次日産-日本GM提携交渉」に話を戻す。『こうした陸軍省のかたくなな態度に接しても、GMはこの提携に希望を持ち、交渉の継続を求めた。』(⑰P32)その後の経過を、以下(⑫と⑰)からの引用で記す。
『鮎川は陸軍省の同意が得られなければ提携成立は不可能であることをGM側に伝え、譲歩を求めた。その結果、1934年10月、GM本社は日本産業が提示したつぎの提携案に同意した。
‘1)日本GM株式の51%を日本産業が即時取得する。
‘2)日産自動車全株式をGMが希望するならばGM本社ではなく日本産業が経営権を取得する日本GMに所有させる。
‘3)日本産業は提携成立後5年以内に日産自動車株式の51%を日本GMから買い戻す権利を保有する。
この3点は、陸軍省が日産-GMの提携成立要件として強く主張したものであった。』
(⑫P100)
 しかし、GMとフォードを日本から完全に駆逐せねば、国産自動車工業確立の機会を失い、産業及び国防上重要な欠陥を生ずることになると頑なに信じる陸軍省の同意が得られず(⑩P48)、『日産-GM提携交渉は1934年12月に解消された。』(⑫P101、⑰P32)
 以上が「第1次日産-GM提携交渉」の顛末となるが、その半年後、両社の間で再び「第2次交渉」が開始される。小型車ダットサンの話を記す上で、第2次交渉の経緯は必要性が薄く、次の(その8)の記事に先延ばししようとも思ったが、行きがかり上、この記事のこの場で簡単に記しておく。

17.3-2.7「GMとの提携交渉(第2次)」が再度決裂
 日米関係が一段と険しさを増す中で、日産-GMの提携交渉が、『「自動車工業法要綱」の閣議決定が確実となった1935年6月頃から、今度はGM側の要求により』(⑰P32)開始される。日産コンツェルンについての研究家、宇田川勝は、1935年8月の「自動車工業法要綱」の閣議決定を境にして、日産-GMの提携交渉を、「第1次段階」と「第2次段階」に分けている(⑰P31)。その「日産-GMの第2次提携交渉」について、以下も(⑫と⑰)からの引用を元に記す。
 頑迷な陸軍の対応を背景に、容易な妥協では解決できないと判断した鮎川は、GM側に強硬姿勢をもって対応した。強気の背景には、次項(17.3-2.8項)で記す、当初の思惑と違い小型車ダットサンの量産車工場となった横浜工場で、国産四輪車の量産・販売に日本で初めて成功し、軌道に乗せた自信もあった。
 下図はGMとの第2次提携交渉を行った1935年の国産自動車のメーカー別生産台数の内訳で、(⑱P231)の表、他を基に作成した。4輪車の分野では、台数ベースでは日産(ダットサン)が圧倒的な存在であったとともに、オート三輪も含めた総生産台数ベースでは、この1935年時点の「国産車」は、オート三輪と小型4輪車という民需主体の「750cc以下の無免許許可自動車」が主流だったことがわかる。(⑪P26)によれば、GMとの交渉決裂の理由の一つに、この頃になると日産内部にも、営業部門の責任者だった山本惣治らを中心に『ダットサンの製造販売を中心にやっていくべきだ』という意見が根強くあり、鮎川もそれを無視できなくなってきたからだという。)
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 話を戻す。鮎川は、もしGMが提携の実現を本当に望むのであれば、単なる資本提携でなく、日本GMと日産自動車の合併による新会社を設立し、その新会社を自動車製造事業法にもとづいて制定される許可会社とすべきであると主張する。そして現時点であれば、それが可能であると強調した。(⑰P32+⑫P102)その根拠として、
『この時点では、まだ商工省は自動車製造事業法による許可会社の少なくとも1社は外国資本との提携を認める姿勢をとっていたからである。』(⑰P32)
 1935年10月1日、鮎川はGM輸出会社役員H.Bフィリップスを伴い吉野信次商工事務次官を訪ね、その点の確認を行っている。岸信介工務局長も当時は同意見だった。(⑰P33)
 仮に自動車製造事業法が制定されれば、最悪の場合日本撤退を避けられないという危機感から、日本GM側が大幅に譲歩し、鮎川のその主張を受け入れる。
 交渉は比較的順調に進み、1935年10月末には日本GMと日産自動車の合併による新会社設立案も大筋で合意に達した。
 しかし翌11月、合併契約作成に入るとGMの本社側が突然態度を翻す。
 合併時の日産の資産評価等5つの項目を掲げて不満を表明し、日産の反論には直接回答せずに、新会社設立の最終交渉をニューヨークの本社で行いたい旨、提案してきた。
 1936年1月、日本産業取締役浅原源七と日産自動車取締役久保田篤次郎を派遣して行った最終交渉の結末について、(⑧P62)の座談会記録集に、浅原自身の証言が残されている。以下長文引用する。
『そのときのゼネラル・モータース本社の考えは「日本の軍部は国産車の生産を確立したいという考えを強く持っている。しかもドイツにおいては,ヒットラーがオペルの工場を接収した直後であり,日本における合弁会社もオペルと同じ運命をたどるのではないか」という懸念と,投資に対する不信感とのために,合弁会社の設立を見合わせることになったものと思われます。
 そのようなわけで、ニューヨークで合併会社の設立が不可能であるとの確証を得たので、両社の共同声明をニューヨークで行いました。それによりますと、日本に合併会社を作ることは、いまは適当な時期でないから、この計画は将来に延期したい、という趣旨のものでした。』

(下はPinterestより、「The Columbus Circle in New York City, 1930」の写真で、浅原と久保田はこのビルに向かい、交渉に挑んだのだろうか。)
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 wikiで当時のオペルについて調べると『GMはナチスの圧力で権利を放棄し、』とあるが、(web18、P148)や(⑲P230)でさらに確認すると、ドイツでナチス政府が樹立されると、その企業支配を排除する政策を次々と打ち出し、詳細は略すがオペル社は『民族資本系国産車メーカーに編成替え』させられてしまったとある。
 GM側からすれば、当初よりも大幅に不利な条件となった上に、大規模な投資が必要となり、そのうえ陸軍の一貫した厳しい姿勢からすれば、オペルの二の舞で、投資に対する安全性が保障されない、だから当面見合わせたい、というのが浅原の証言の趣旨だ。
さらに追記すれば、GM本社が「1935年11月」というタイミングで態度を翻した背景として、自動車製造事業法立法化を巡ってのアメリカ国務省と日本政府の折衝の結果が影響を与えていた。以下(⑳、⑤)を元に記す。
 1935年8月の「自動車工業法要綱」の閣議決定を受けて、自動車製造事業法の制定及び施行へと急ぐ日本政府に対して、同年11月、アメリカ国務省はこの法案が「日米通商航海条約」に違反するとし、駐日アメリカ大使館を通じて日本外務省に抗議を行う。
 これに対して日本政府は「国防(ナショナル・ディフェンス)」という理由を盾に、諒解を求めるのだが、アメリカ国務省は『これに異をとなえることは、~ 日米両国間の、いっそう深刻な対立につながる恐れ』があるとし、そのため、1935年11月というこのタイミングでは『これ以上深入りすることを避けた。アメリカ政府としては“ウェイト・アンド・シー(wait and see)”-静観する、という態度に出たのである。』(以上⑳P150)
 本件につき、事前に国務省と十分協議したであろうGM本社側もこうして、しばらく“静観する”ことにしたのだ。(⑧P62)からの引用を続ける。
『ところが、日本ゼネラル・モータースとの合併会社が不調に終わった直後に、自動車製造事業法が発布されることが決ったので、日本産業は日産自動車株式会社をして、同法による許可会社の申請を急いで出させることになりました。
 このように、3社合併の話は急転して、まるで筋合いの違ったものになりました。また、日産自動車は外車との提携から一転して、純国産車を造ることになったのであります。」
(⑧P62)
 実は浅原と久保田は『渡米に際して、鮎川からもう1つの使命を与えられていた。それは、GMとの交渉が不調に終わった場合、自動車製造事業法の許可会社申請に必要な大衆車設計図と、その量産に必要な機械設備一式を買い付けることであった。自動車製造事業法の許可を受けるためには、750cc以上の車種を生産しなければならなかったからである。』(⑫P102)
 陸軍・商工省の立案した国策に則った、シヴォレー+フォードの混成型大衆車の量産に動き、同法適用のための先手を打った豊田(トヨタ)の動向を踏まえてのことだが、ここからあとの話は、次の(その8)の記事で記すことにする。
 以下からは多少余談になる。先にオペルはナチス政権により『民族資本系国産車メーカーに編成替え』されていったとwikiから引用したが、さらにwikiを読み進むと、オペルの工場がドイツ政府に実際に接収されたのは、第二次世界大戦勃発後の1940年で、日産-GMとの最後の交渉の5年近くも後のことだった。裏を返せば、『ドイツでは、べつにアメリカの会社があってもいいではないか、それを自分たちはフルに活用すればいい、戦争がはじまったらそれを接収してしまえばいい、という考えです。日本でもそういう考えも一時はあったようです。』(⑳P218;宇田川氏談)
 設備投資させた後に外資を追い払っても、工場まで持って帰るわけでは無いという、割り切った(老獪な)考え方はしかし、純血主義?に徹した日本陸軍では受け入れられなかったのだ。
戦前日本の試作小型車に影響を与えた「オペルオリンピア」と「カデット」
 余談を続ける。下の写真のオペルの小型車「カデット」(Ope l Kadett)の生産も打ち切られるのだが、プレス型や設計図などは保管されていたため、ドイツの敗戦後、生産設備はソ連に運び去られ、戦後ソ連で「モスクヴィッチ((Moskvitch)=モスクワっ子の意味)・400/420」として生産されて、東側の世界で“有効活用”された。
(ちなみに「カデット」とは(士官候補生)意味で、オペルの上級車「カピテーン」(艦長)や「アドミラル」(提督)と同じく、海軍の職位を表していた。画像は以下のブログよりコピーした。https://www.favcars.com/opel-kadett-4-door-limousine-k38-1938-40-images-55335
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https://img.favcars.com/opel/kadett/opel_kadett_1938_images_1_b.jpg
(当時のオペルは『民族資本系国産車メーカーに編成替え』されたというが、その外観からは、小さいながらもGM車らしい雰囲気がただよう。上の写真の1938年型の初代カデット(K38型;4気筒SV1,073cc)と、(17.4-7項)の1938年型ダットサンと見比べてれば、排気量(大きさ)の違いはあるものの、自動車としての機能の差は見た目からも明らかで、このクルマならば小型タクシー用途でも、十分実用的だっただろう。実際、当時大需要者として一定の影響力のあったタクシー業界は、『小型車の規格をさらに1,200ccまで拡大し、小型タクシーの許可を求めるようになった』(⑤P215)という。
自動車製造事業法(1936年5月29日に公布)が、大衆車(フォード、シヴォレー級=3ℓ級)がターゲットなはずなのに敢えて750cc以上と、下の排気量からカバーしたその理由は、以前の記事(15.6-17項)でも記したが、オースティン対策ももちろんあっただろうが、この時代になるとそれ以上に、英国フォードやこのオペルのような米資本系の欧州子会社製の、より近代的な設計の小型量産車の排除を意識した結果だという。(⑲P236参考)
 実際wikiにも、『1940年前後にトヨタ自動車・日産自動車がいずれもオリンピア(カデットと同じオペルの一つ上のクラス;4気筒OHV1,488cc)の影響を感じさせる小型乗用車を次々に試作するなど、勃興期にあった日本の自動車技術にも影響を及ぼした』と記されている。石油資源の節約もあり、3,000cc級の“大衆車”は乗用車用途では日本ではムダに大きすぎることが次第にわかってきたのだろう。
 下の写真は「カデット」→「オリンピア」のさらに上位の、1939年型「オペル カピテーン」で、2.5リッター6気筒なので、当時の日本のいわゆる“大衆車”よりも小ぶりだが、日本ならば要人向けの公用車としても十分通用する、堂々たる車格だ。画像は以下よりコピーしたが、どうやら映画のワンシーンらしい。
 https://www.imcdb.org/v407375.html)
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https://www.imcdb.org/i407375.jpg
(さらにまったくの余談だが、オペルと日産自動車について、ネット上で面白いエピソードがあったので、ここで紹介する。JSAEのインタビュー(web19:「戦前の日産自動車(株)の車両開発」鍋谷正利)のなかで記されている逸話で、当時の日産自動車の、あの!久保田篤次郎常務が会社の通勤にオペル(カデットだったようだ)で通っていたのだが、鍋谷氏ら日産の開発陣はそのクルマを当然社用車だと思い込み、久保田氏の海外出張中にそのオペルをスケッチしようと分解・再組み立てを行ったのだが、あとで自家用車だとわかったのだという!平謝りに謝ったそうだが、後の車両開発に大いに役立ったそうだ。17.3-2.7
仮に戦時体制に突入せずに、ダットサンの生産を中止しなかったら、次のモデルチェンジの際には、オペルのカデットあたりを強く意識した設計になっていたのではないだろうか。ダットサンと係わりの深かった久保田篤次郎の愛車だったことを考え合わせればなおさらそのように思えるのだが。下のカタログはいつもこの記事でお世話になっているブログ「ポルシェ356Aカレラ」さん(web22-2)よりコピーさせていただいた、こちらは(たぶん商工省・陸軍省がオペル以上に警戒した?)「1935年 英国フォード「テン」本カタログ」だ。4気筒SV 1172ccだから、カデットとほぼ同クラスだ。

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17.3-2.8横浜工場の稼働と日本初の量産体制の確立
 ここで先送りにしていた、日産自動車(着工当時は「自動車製造株式会社」だったが)横浜工場の着工と稼働について触れておく。
 1933年8月(日産のHPによれば10月)、戸畑鋳物は横浜市神奈川区守屋(新子安の湾岸埋立地で現横浜工場敷地)に約2万坪の敷地を入手する((⑫P96)。
 そして同年12月、横浜工場建設に踏み切るのだが、既述の通り当初の構想では、当時進展していたGMとの提携を前提とした、大規模な部品製造工場の創設だった。
ここでも本題に入る前に、くどいようだが日産横浜工場建設にあたり鮎川が当初目論んだことを、再度確認しておきたい。以下(⑰)より引用。
『鮎川の計画によれば、5年間でシボレー部品の50%、フォード部品の30%の国産化を実現し、同時にダットサンの年間5,000台生産体制を予定していた。そして、鮎川は5年間で自動車製造技術を習得し、人材を育成したのち、本来の目的である大衆車の製造に進もうと考えた。自動車部品の国産化とダットサンの大量生産は、鮎川の自動車国産化計画において、困難な目標に近づくための迂回戦略として位置づけられていたのである。』(⑰P50)
 周回遅れ中だった日本の自動車産業を一気に確立するために、鮎川が現実的かつ最善な方法だと考えて、実行しようとしていた重要なポイントになるので、次項でまとめて、(⑤P191、P216)、(③-6、P173)等を参考に、少し突っこんで解説を試みる。

17.3-2.9鮎川の構想した「日本の自動車産業の確立策」(多少私見)
 まず当時、自動車を所管する官庁だった商工・陸軍・鉄道各省など官側が考えていた、自動車産業振興策について、前回記事(16.2-2項)の「商工省標準型式自動車」(=大きさはフォードやシヴォレーの“大衆車”より少し大きい中型トラック級)を事例に、再録で以下確認する。
「商工省・陸軍省と実務面を支えた鉄道省が標準型式自動車で目論んだことは、アッセンブリメーカーの統合+自動車部品の外注化・国産化という合理的な分業生産体制による、国産自動車工業の確立で、後の自動車製造事業法による、トヨタ、日産を担いで、フォード、シヴォレーのKD生産車に対抗するという“本番”に先立ち、TXシリーズはそのための試行(模索、予行演習?)というか、その出発点だったとも、言えるかもしれない。」
 そのため、「商工省標準型式自動車」の「実際の設計と試作にあたって鉄道省側が特に留意した点は、輸入部品依存体質を改めさせ、国産品に代替えさせることと、JIS及び国際規格に極力適合させる設計を行ったことだった。」
補足すれば、当時のメーカー側の立場に立てば、陸軍側から高い品質を求められていたので、軍用保護自動車では性能の劣る国産部品の使用は控えていた面もあったのだ。以上のように、自分の私見も交えて前回記事で記した。

 フォードとGMのKD生産車による国内市場支配を横目で見ながら、日本の自動車産業を確立するためには、市場の論理をいったん脇に置けば、生産規模の拡大(メーカーの統合による量産体制の確立)と、自動車部品の国産化を成し遂げることが、“肝” の部分であることが、官民ともに、次第にわかってきた。もちろん、自動車部品の国産化の前提として、自動車向けの素材や工作機械等の質の向上など、産業基盤全般の底上げが必要であり、そう単純な話ではないのだが。
 アメリカの自動車産業勃興期の状況を現地で目のあたりにした鮎川は、早くから“肝”となる技術の一つである自動車用マリアブル(可鍛鋳鉄)部品の国産化事業を立ち上げるなど、米2社の日本進出以前から、そのことを十分理解し、自ら率先して行動を起こしてきた。 
 しかし「日本の自動車産業の確立」という目的自体は、陸軍・商工両省と同じでも、鮎川のプランははるかに現実的かつ具体的なものだった。
 統制経済体制に移行し、政策の支柱部分を担った陸軍の論理では、GM・フォード等外資との提携は国策上(陸軍の視点に立てば「国防上」)考慮せず、市場の論理は重要視されなかった。あくまで供給側の論理に立ち、国産車を“大きく背伸び”させつつ、外資を排除していけば、最初は見切り発車気味に思えても、その間に官民一丸となり改善に取り組めば、次第に何とか立ち上がると甘く判断した。
 その結果、『ほとんど無から有を生ぜしめるような形で、』(⑳P72;岸信介談)“大衆車”を量産するための自動車工業を立ち上げることになるのだが、結局時間切れで未完成品のまま戦場に投入された、トヨタや日産のトラックを運悪くあてがわれた兵士達は、出発に際して水杯を交わす事態に陥った。戦場の兵站線確保が本来の目的だったはずの陸軍の大衆車政策は、肝心な戦争遂行の上では失敗で、大きな犠牲を払ったと言わざるを得ない。
 これに対して鮎川の自動車産業確立策は、官側よりもはるかに、国内自動車市場を含めた現実世界を見据えたアプローチだった。
 鮎川の冷静な判断では、『当時の日本の状況から考えたらすぐには国産化は無理』(⑳P218)であり、国産化が可能な水準まで引き上げるために、官側のようにGM/フォードを恐れずに、逆に懐に入りその力を最大限借りて、周辺技術を習得し、その差を埋めていきながら『それまでの外国メーカー向けの部品生産を拡大させる段階を経て完成車生産に行くという漸新的な計画であった。』(⑤P216)
 市場での直接対決を避ける(クラスを違えた「商工省標準車」のように(16.2-4項参照))訳でも、徹底排除(自動車製造事業法)するのとも違い、外資との協力姿勢を保ちながらも、『外国メーカーへの納入部品を増加させていくと、「5年もたてば和製の部品で全部の完成車ができあがる」(引用「日産自動車三十年史」P40)と見たのである。この戦略からGMとの提携交渉がはじまった』(⑤P216)。やがてシヴォレーの完全国産化が自然と実現できると踏んだのだ。
 さらにフォード/GM車と市場が被らない小型車『ダットサンの年間5,000台生産体制』を確立することにも大きな意味があった。
鮎川と日産の首脳陣は『小型自動車は形こそ小さいが主たる機構はほとんど大型車と同様であるから、(小型車で日産が独自に経験を積むことは)、進んで大型自動車の制作に転換するのに最も容易、且つ安全なる方策である』(⑤P192)(日産自動車、田中常三郎(17.2-10項参照)の証言)と考えていた。
「大衆車向けの部品製造」と、「日産独自の小型車の量産化」という、「二本立て」の戦略で得た知見の合わせ技により、シヴォレーの国産化のさらに次の段階では、日産自動車の自社開発の“大衆車”を市場に投入しようと構想していたのだ。鮎川(や、次の(その8)の記事で記す豊田喜一郎)のような、ずば抜けて頭のいい人は、やはり常人とは考えるスケールが違う。
 ここで、この一連の記事の“〆”の部分で、度々引用した(「轍をたどる」国産小型自動車のあゆみ」岩立喜久雄)より、今回の記事でも以下、引用させていただく。
『日本の自動車業界において誰よりも先見の明があり、また巨大企業グループを支配していた鮎川は、日本GMと提携を結び、やがて経営権を得てシボレーを一手に国産化する遠大な計画を進めていた。当時もっとも高度で現実的な計画だったのだが、これは陸軍によって阻止される。陸軍と商工省は昭和11年に自動車製造事業法を制定し、日本フォードと日本GMを国外へ排除してしまった。 極東一の自動車量産工場として昭和9年(1934年)に完成した日産自動車の横浜工場も、当初はダットサンのための工場ではなかった。』(③-6、P173)

 「戦前~戦中」という期間の、歴史の括りの中で考えた場合、この時期の日産の鮎川の壮大な計画が、「誰よりも先見の明があり、~当時もっとも高度で現実的な計画だった」という岩立氏の見解に自分もまったく同意です。切迫した時局と陸軍の度重なる阻止に直面したために、全般に時間が不足気味になってしまったことも事実だったが。
 ただその一方で、これも今まで何回か記してきたが、現実の歴史の複雑怪奇なところは、戦後世界一まで上りつめた、日本の自動車産業全体の歴史として俯瞰した場合、陸軍・商工省革新官僚が戦前に主導し、一部からは「天下の悪法」とさえ呼ばれた「自動車製造事業法」立法化をはじめとする数々の施策が、結果としては、戦後の国産自動車産業保護振興策として機能したこともまた確かだったのだ。
 “潔癖症”の日本陸軍がGMとフォードを早くから徹底排除した日本と違い、『ドイツは戦争中にフォード、GMを接収しますが、戦争が終わると両社とも再び活動を開始する。しかし日本には帰る足場がなかった。この差は大きい』(⑳P229;宇田川勝談)
GHQ占領下という、きわめて脆弱な基盤の上にたった、戦後初期のトヨタ・日産両社にとっては、このことが決定的な保護政策につながった。さらに戦前の統制経済体制下で陸軍・商工省革新官僚がうった数々の布石は、戦後通産省がその政策を引き継ぎ、一時期迄の日本の自動車産業の保護・育成策として、有効に作用した。
「戦前の国防」が最大の目的だったはずが、国防よりも「戦後の経済成長」の方に役立ち、後から考えれば、「結果オーライ」となっていく。
戦前の国家社会主義的な統制経済体制 ⇒敗戦 ⇒戦後の復興 ⇒高度経済成長(ゴルバチョフから「最も成功した社会主義国」(一億総中流化社会)と呼ばれた)までが、あたかも一つの「セット」としてプラニングされたかのような、謎の展開に至るのだ。

 ということで、例によって本題よりも前置きが長くなってしまったが、ここから前項(17.3-2.8)の横浜工場建設の話に戻り、以下(⑪、⑫、⑰)を参考(引用)して記す。

 まず横浜工場建設にあたっての基本方針として、『その範をアメリカに求め、主要機械設備を同国から輸入し、当時のアメリカの自動車工場で実施されていた生産方式の導入を計画した。』
 この計画実施のために、『プレス・鍛造用機械、その他工作機械類200台、それに付随する切削工具をアメリカから輸入するために三菱商事を一手買付け業者に指定し、同時にゴーハムをアメリカに派遣して、これらの機械類の選定と招聘する外国人技術者の人選に当たらせた。』(以上⑰P50)
 実際に輸入された機械類の80%は中古で、新品の購入は20%だった。当時アメリカは不況で、中小の自動車メーカーが倒産していたため、比較的安価に揃えられたという。(⑪P32)とはいうものの中古機械だったため、『そのオーバーホール、セッティングには多大な苦労があった』(⑬P74)ようだが、ゴーハムがアメリカから連れてきた優秀な技術者の指揮により、工場内に整然とレイアウトされていった。
『同時に、外国人技術者は、日本人技術者、工員に対して機械の操作と時間研究法による作業動作の把握、標準時間の設定方法などの工程管理技法を実地に指導した。』(⑰P51)量産工場を目指し作業内容はマニュアル化されて、『リミット・ゲージを用いて部品間の互換性を維持した。』(⑤P191)
 1934年になると、大阪の旧ダットの工場から後藤ら技術陣や工場従業員も横浜に移ってきたが、『大阪工場は当座、鋳物工場として存続』(⑬P74)していたという。
 こうして1935年4月、『わが国最初のシャシーからボディーまで一貫生産による年間5,000台の生産能力を持つ ~自動車工場を完成させた。』(⑫P96)
(下の写真は日産自動車HPより、(横浜)工場は、日本で最初にベルトコンベアーを導入した近代的な量産工場でした』ベルトコンベアーは70mだったという。(⑭P42))
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https://www.nissan-global.com/JP/PLANT/KIDS/ABOUT/IMAGES/img_01_04.jpg
 工場規模は1935年時点で敷地6.5万坪(⑤P191)まで拡張されて、その中には『機械工場、熱処理工場、組立工場、材料倉庫、車体工場、鍛造冶金工場、さらには事務所など』(⑪P34)が整然と配置された。『日産(戸畑鋳物)は参入当時から四輪車企業としては群を抜いて大規模な設備を保有し、~ 当時の大手三輪車企業あるいは軍用車メーカーよりも先進的であった。』(⑤P191)以下は(⑫P96)より引用する。
『横浜工場が本格稼働した2年後の1937年4月までにダットサンの累計生産は1万台に達した。年間5,000台の生産体制確立を目指した鮎川の計画は、2年目で早くも実現されたのである。ただしその一方で、』下表に見られるように、『自動車部品の生産はダットサンの量産化が予想を超えて進行したこともあって、計画通りには進捗しなかった。』多難だった今までの経緯を思えば、やむを得ないことだったと思います。
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 以上で「ダットサンの育ての親」である鮎川義介を通して、量産車としてのダットサン誕生までの経緯を記した17.3項は終わりで、次項(17.4項)は17.2項の続きでクルマ自体の話題に戻る。750cc時代に移行後の歴史を(今度こそ!)簡単に記して、戦前のダットサンの歴史を終えたい。だがその前に、1933年に無免許許可車の規格改正があり、750ccまで規制緩和されたその経緯を最初に触れておきたい。ただこの部分は、前々回の記事の(15.6-12~17項)と完全にダブり、そちらで長々と書いたので、詳しくはそちらをお読みいただくこととし、今回はダットサンに大きくかかわる部分のみ抜粋して記すこととしたい。

17.4-1小型自動車規格改訂(500⇒750cc)はダットサン有利に決着
 1933年、自動車取締令が改正され(公布が8月18日、施行が11月1日から;(③-8、P173))、それに伴い再度小型自動車規格が改訂された。車体寸法は変更なかった(長さ 2.80m、幅 1.20m、高さ 1.80m)が、排気量は750cc以下(4ストローク。2ストロークの場合は500cc)、出力4.5KW以下まで拡大された。さらに乗車人員の制限も撤廃されたため、四輪乗用車で四人乗りが可能になった。そしてこの改訂は、オート三輪以上に、小型四輪車のダットサンにもっとも恩恵が大きかった。
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 先にダット自動車製造が、オースティン・セブンの無試験免許適応を阻止するため、500ccにこだわったことを記したが、逆の立場からみた場合、セブンは750ccだったからこの制度の恩恵を享受できなかった(17.2-2項参照)。オート三輪の業界内では、各業者とも概ね同じ訴えであったので、この法規改正を巡っては、ダットサン対オースティンの第2ラウンドになるのだが、ここでは三輪の業界団体などからの陳情等を元に、(③-8)を参考書に、全体の流れを確認していく。
 まず初めの動きとして『芽生え始めたばかりの国産エンジンの製造業者達が会合を開き、次の2点の要望を内務省に陳情した。』その2点とは、「排気量750ccへの拡大」と、「乗用人員制限の撤廃」だった。
 その陳情を受けて内務省は1932年10月25日、改正案を事前に公表し、広く社会から意見を求めた!『内務省が公布の半年以上前に改正案の全文を公表するのも異例であった。当時の内務省による自動車行政は思いのほか民主的だったのである。』(③-8、P172)確かに、今のパブリックコメントみたいだが、現代のように形式的なものではなく、戦前なのにもっとオープンで民主主義的な姿勢だ。
 この内務省による事前公開もあり、東京で業界団体が正式に結成され、内務省の改正案に対してさらに「自動車税の減税」と「全長2.8mを3.0mに拡大」の2点を陳情している。ということは、内務省が事前公開した改正案では、750cc化と乗用人員制限の撤廃は含まれていたが、全長は2.8mのままで、変更なかったようだ。
 特に車体寸法に関しては、オート三輪メーカーの「日本内燃機」(くろがね)とオースティン・セブンの販売会社を抱える、大倉喜七郎男爵率いる大倉財閥系が、拡大を強く要望していた。一方日産コンツェルン系のダットサン側(「戸畑鋳物」⇒「自動車製造」の頃)は現状維持を主張して対立し、結局後者の意見が通る。以下も引用を続ける。『全長2.8m、全幅1.2m、全高1.6mはダットサンがギリギリ収まる大きさだった。オースチンはフェンダーを加工して幅を詰めたりしてなんとか対応していたが、1933年からはシャシーが6インチ長くなり改造できる範囲では無くなってしまった。』実際オースティンを2800mm以下に改造することはまず不可能だった(①P116)。そこで生産中止となったショートシャシーをまとめて特注し、それに日本の法規に収まるボディを国内で架装すると言う方法が考え出されたという。
 なお、この自動車取締令改定のタイミングで、法規上の「自動車の定義」が、「自動車とそれ以外(=「特殊自動車」(特殊な自動車)」から「普通・小型・特殊自動車」の三分類に変更される(詳しくは15.6-13参照;オート三輪やダットサンなどは「小型自動車」に分類)。
 それに合わせて運転免許制度も改訂されて、従来「運転手免許」だったものが、「運転免許」に代わり、「普通免許、特殊免許、小型免許」の三分類に変更された。小型免許に関しては、従来のいわゆる無免許運転可の特典を考慮して、無試験で申請許可制とし、利便性を維持した(「無免許運転制度」⇒「無試験運転制度」へ)。
 しかし1936年からは教習所の10時間技能証明書を提出して学科の口頭試問をパスしないと免許が交付されないように強化されて、次第に「無試験」ではなくなっていく。ただ免許取得可能な年齢は、普通免許と特殊免許は18歳からだったが、小型免許は16歳からで、ここでも利便性を保てた。この辺も詳しくは(15.6-14項)を参照してください。
 話を戻し、ダットサン対オースティンの、小型車の法規を巡っての戦いは、ダットサン側の主張の方が多く受け入れられたが、それは国産の小型四輪車の産業を振興させたいという、国家(この場合陸軍省を除く、主に商工省と内務省)としての意思も働いたのだろう。
 ここから先は下表に従い、1933年の“12型”から、戦前最後の1938年の“17型”までの各モデルについて、その変遷を記していくが、この部分は、日本のオールドカーの一番人気のオールドダットサンの世界の中でも、もっとも親しまれてきた部分で、web上でも情報があふれているはずなので(調べていませんがたぶん)、この記事では簡単に記し、戦前のダットサンについての項を終わりにしたい。
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17.4-2新規格(750cc)対応のダットサン「12型」(1933年)
 この記事の(17.3-2項)の冒頭で、「話題を(製品としての)小型車ダットサンに絞れば、大筋で不明な点は無く、話がスッキリとしてくる」と記したが、しかしこの「12型」だけは例外で、なんだかスッキリしない。その原因は2つあると思う。
 1番目の原因は下の写真の、日産自動車が昔から保管している「1933年型ダットサン12型フェートン(748cc型(日産自動車の表記)。747.5/747/745ccなどの表記もあるが、要は750cc規制時代エンジンの初搭載車)」 における“歴史改ざん”問題で、日産自動車自身が、このクルマの履歴を長いあいだ、下の写真のプレートにあるように(1932年製500ccの)「ダットサン1号車」だと偽ってきたことに端を発する。(画像は「名車文化研究所」からコピーさせて頂いた。https://meisha.co.jp/?p=11847)
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https://meisha.co.jp/wp-content/uploads/2019/11/176-1P01-1.jpg
そのことが尾を引いて、日本車の歴史で最も権威があるハズの「日本の自動車技術330選」(自動車技術会(web21))では、この写真のクルマのことを「1932年ダットサン 11型フェートン(747cc)」であると、相当矛盾のある表記を行っているし、「2011年日本自動車殿堂 歴史車(web4)」では「1932年ダットサン12型フェートン(495cc)」だと、さらに“異なった解釈”を行っているのだ。(2022年10月時点の話です。)
 しかし、(17.2-10項)で紹介したように、このクルマより明らかに古い、「戸畑鋳物㈱」が買収後の「ダット自動車製造㈱」時代の「1932年ダットサン11型フェートン(495cc)」が実在する(しかも近年、トヨタ博物館に収まった!)ため、当の日産自動車自身も、「日産に残る最も古いモデルである」と徐々にニュアンスを変えていく。
そして今では公式の見解として、『日産自動車が創業した1933 (昭和8)年12 月当時に製造されていた日産最古のモデル(=1933年型ダットサン12型フェートン(748cc型)』であるという、かなりまわりくどい表現ながらも、正しい歴史に軌道修正したのは何よりの話だ。(以上の“言い回し”は下記「日産ヘリテージ コレクション」より引用
https://nissan-heritage-collection.com/DETAIL/index.php?id=1 )
 しかし“本家”に途中で梯子を外された結果、一般人がweb上で戦前のダットサンの歴史を調べる際に、wikiや日産HPとともにもっとも引用すると思われる、上記の2つの“権威筋”が取り残されてしまったのだ。
 この2つの団体が国内に基盤を置く自動車メーカーの立場に配慮するのは当然で、そんなに野暮の事を言うつもりは毛頭ない。ただ90年近くも前の戦前の日本車の歴史に対してまでも、その時々の事情で“ローカルルール”を適用した結果の“負の遺産”を、いつもでも“継承”し放置しておくことは良くない。特に両webサイトが外国から検索されるケースも多いだろうことを考慮に入れれば、日産及び日本の自動車産業界全体にとっても、マイナスでしかないと思う。(5.2-8項)に記した「タクリ―号」の件もそうだが、せめて戦前の日本車の歴史については、一切の忖度なく公正中立な立場で、より正しい日本車の歴史の記述を行ってほしいと思います。(以上、まったくの個人的な意見です。)
 なお日産の現在の「公式見解」にも、かなりの“注釈”が必要で、(17.3-2.5項)に記したように、1933年12月26日、「戸畑鋳物自動車部」を本体の「戸畑鋳物㈱」から分離させて「自動車製造㈱」を設立、現在の「日産自動車」では確かにこの日を創立記念日としているので、上記の日産の表現で間違いではないのだが、厳密にはこの「自動車製造㈱」がその後1934年6月に改称し、ここで初めて「日産自動車㈱」が誕生する(同時に「日本産業」全額出資に変更している(17.3-2.6項参照))。さらに追記すれば、日産保管の実車の製造プレートには「自動車製造㈱」ではなく、それ以前の「戸畑鋳物㈱自動車部」製と刻印されている。(①P9に写真あり)
 こんなややこしい解釈を、後々まで延々と行うことになるのであれば、(17.2-10項)で写真を紹介した、個人所有だったが程度が良い上に、リーゾナブルな価格で日産に優先購入権があったとされている、大変貴重な「1932年製ダットサン11型フェートン(495cc)」を買い取っておけば、「現存するもっとも古いダットサン」の一言の説明で終わったと思うのだが・・・。
 次に2番目の理由だが、(17.3-2.4項)で記したのでその経緯は再録しないが、この時期のダットサンは、その存在自体が、半年ぐらい宙に浮いてしまい、消滅の危機さえあったという、非常に危うい状況にあり、1933年秋(10月?)の「12型」登場の前あたりが、ちょうどその混乱期にあたった。しかも前項で記したように500→750cc時代への移行時期とも重なったので、後の歴史の記述に多少の混乱が生じても、ある程度はやむを得なかったと思う。

以下からは「12型」のクルマ自体について、①と⑫を参考に「11型」との比較で記すが、基本的には法規対応によるエンジン排気量のアップ(495cc→748cc)と狭いながらも4人乗車になった事以外、「11型」と同じだった。細かい違いは①と㉑によれば、「外寸は変わらなかったが(2.8×1.2m)、ホイールベースを若干(1918mmに)伸ばし4人乗り仕様になり、右ハンドルでドアは前開き。セダンはディスクタイプホイールとなる。」ただ日産の保存車のドアは後ろ開きのようだが。
 その登場時期だが、(①P54)に『同年(1933年)秋に発表された1933年12型はエンジンを745cc12㏋/3600rpmに換装し~』と記されているが、法規改正((公布が1933年8月18日、施行が11月1日)とのタイムラグがない。(17.2-3項)で既述のように、750ccのエンジンの試作は既に終えていたという裏事情があったにせよ、混乱期にありながら迅速な対応だ。事前に入手していた情報に確信を得ていたのだろう。さらに追記すれば、ダットサンとオースティン・セヴンの両エンジンを分解調査して比較した(web20)P32のレポートによると、『オースチンセブンのエンジンのボア径およびストローク径が同一であり,シリンダピッチも同じ』だというので、基本設計はベンジャミンエンジンベースを踏襲したとはいえ(17.2-3項参照)、750cc版エンジンの市販化にあたり、やはりオースティンのエンジンも改めて参考にしたと言えそうだ。ボア×ストロークはスクエア(54×54mm)からロングストローク化(56×76mm)されたので、排気量UPとともに、スペック上はより扱いやすいエンジンになったように思える。
(誤解のないように追記しておくと、ダットサンの1933年の生産台数が202台にすぎないのだから、この日産自動車の保存車も、きわめて貴重な個体であるのは間違いない。なお下記のブログ(ペン・オンライン)によると、『この個体は「フェアレディZの父」として知られる故片山豊が1950年代に探し出し、レストアしたもの』だそうだ。下の画像も同ブログよりコピーさせて頂いた。https://www.pen-online.jp/article/006683.html
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https://s3-ap-northeast-1.amazonaws.com/statics.pen-online.jp/image/upload/news/vmagazine11/vmagazine11_NkUlJXE.jpg

17.4-3「ハート型グリルの」ダットサン「13型」(1934-1935年前期)
 「13型」以降の戦前のダットサン車の歴史に不明な点は無く、web上にも多くの情報がすでにあるが(たぶん)、「13型」から戦前最後の「17型」までの解説は、①からの丸写しに近い形で記していく。
『1934年9月に発表されたダットサン13型は過渡期的なモデルである。1934年当時は横浜工場がフル稼働する以前であったから、13型の部品製作・加工は、大阪工場と横浜工場で並行して行われていた。そのため、13型の完成シャシーには、時期により大阪製と横浜製があったと思われる。』(①P55)
 補足すれば、「13型」の時代は実用自動車製造以来の大阪工場から、量産のために建設中だった横浜工場への移行期にあたった。1934年に大阪の旧ダットの工場から後藤ら技術陣や工場従業員も横浜に移動してくる。こうして「13型」以降は車両開発の拠点が大阪から横浜に移るのだが、既述のように『大阪工場は当座、鋳物工場として存続』(⑬P74)していたようだ。(以上17.3-2.8項参照)
 以下、機構的な特徴を(①P55)の要約で引用すると、「13型」は機構的には「12型」を踏襲しており、エンジンも「12型」と同一だが、『シャシーはホイールベース、後トレッドをそれぞれ僅かに広げ、ボディも全長を5インチ延長した。因みに設計はなおインチ規格で行われていた。』という。
 この「13型」の特徴は何と言っても外観で、角形に露出したラジエターに代わり、傾斜したハート型のグリルが付いた点だ。『この通称“ハート型グリル”は、1932年の英国製小型フォード、8㏋モデルYに初めて現われ、翌1933年には米国製フォードV8に採用されて以降、全世界のメーカーが競って真似たデザインである。』(①P55)
(下の画像はいわゆる“ベビー・フォード”と呼ばれた英国フォードの小型車(933cc)モデルY(8㏋)で、これは1933年モデルだ。以下五十嵐平達による解説を(㉒)より
『この頃のダットサンはフォードのスタイルを踏襲していたが、これは世界的にも言えたことで、フォードのグレゴリーが1932年のイギリス・フォードYのためにハート型グリル付きのファッション的流線型は、その評判が良いことから米本国のV8モデルにも1933年型として採用され、それ以降世界の自動車スタイルにハート型グリルの時代を残すまでに普及した』(㉒P247)自動車デザイン史に「ハート型グリルの時代」というものがあったようだ。ちなみに「13型」からエンジンルーバーに傾斜が付くが、下の写真を見ると、これもフォードからの影響だったようだ。画像は以下よりコピーした。https://classiccarcatalogue.com/FORD_GB_1933.html )

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https://classiccarcatalogue.com/F/Ford%20gb%201933%208HP-Model-Y-TudorSaloon.jpg
(下の画像は1年遅れで「ハート型グリル」を採用した、アメリカ本国の1933年型フォード クーペ。画像は以下よりコピーした。
https://www.pinterest.jp/pin/531847037239544541/ )

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https://i.pinimg.com/originals/a1/c4/c8/a1c4c8119a65e650b788579c21c2ea09.jpg
(さらに下の画像は、(㉒)で五十嵐平達が『GMのハーリー・アール以外の殆どのデザイナーがハート型を志向したなかで、(本家のフォード以外で)一番魅力的に仕上がっていたのがシトロエン7CVから11CVへのスタイルであったと思う』とした、シトロエン7CVのクーペだ。画像は以下のサイトよりコピーした。https://www.citroenorigins.jp/ja/cars/traction-7 )
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https://www.citroenorigins.jp/sites/default/files/styles/1600/public/traction_faux_cabrio_62_1620x1000_2.png?itok=g17j6Ovf
(ところで肝心のダットサン「13型」の写真だが、webで検索しても、なぜか「大阪・交通博物館」にかつて展示されていたという、あまり程度がよくないクルマの写真しか出てこない。そこで(①P65)の「13型ロードスター」の写真をスキャンさせていただいた。ロードスターとフェートンのドアが後ろ開きの点も、「13型」の特徴の一つだった。
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17.4-4横浜工場で量産された初のダットサン「14型」(1935年-1936年前期)
 1935年春にデビューしたダットサン「14型」は、(17.3-2.8項)で記した横浜工場の稼働の時期と重なる。『それまで梁瀬自動車、日本自動車、大阪の豊国自動車に外注していたボディを自製し、その他機械加工、鍛造、板金加工などをも内製に転換した。』(⑤P193)
 シャシー/ボディの一貫生産体制を確立し、製造台数は一気に(3,800台/1935年)に達した。少数ながら輸出が始まったのも「14型」からだ(①P72)。(⑤P193)からの引用を続ける。
『日産は母体の戸畑鋳物がマテリアル(可鍛鋳鉄)の老舗であったし、特殊鋼・電装品・塗料などを製造する企業を傘下に抱えていたので、材料および部品調達の面でも他の企業より有利な立場にあった。』国産車の量産体制を日本で初めて確立するにあたり、過去鮎川が打った数々の布石が生きてきたのだ。
(下の写真は日産自動車のHPより、『横浜工場でのダットサンオフライン式の様子』1935年4月12日、「14型」ダットサンセダンが横浜工場の全長70mのコンベアラインに乗り、ラインオフした。左から四人目が鮎川義介だ。その左隣(左から三人目)が浅原源七、その隣が山本惣治、左端は久保田篤次郎だろうか(推測です)。)
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https://www.nissan-global.com/JP/img/80th/top/tail03-sp.png
 GMとの交渉が決裂し、思惑とは異なり当面ダットサンを主力とせざるを得なかった鮎川と日産首脳陣は、その拡販に力を注ぐ。
『ダットサンは販売促進ポリシーの点でも新しかった。~ ダットサンの主な顧客は、オーナードライバーや小売店店主などである。各販売店では運転講習会やユーザーによる遠乗り会を催す一方、女学校を卒業したての知的な女性を募ってデモンストレーターを養成、上・中流家庭を訪問させてご婦人のダットサン・ユーザー獲得に努めたりもした。大都市に、ダットサン専門の運転教習所が出来たのもこのころである。』(①P53)
(下の写真は有名なもので、「松竹歌劇団の舞台に登場したダットサンと“男装の麗人”水之江滝子」当時の日産の宣伝課には、「Z-car(フェアレディZ)の父」として1998年、日本人として4人目の米国自動車殿堂(Automotive Hall of Fame)入りを果たす片山豊ら、気鋭の人材がおり、斬新な企画を次々と行った。下の画像は下記ブログの「ミスターKの功績」より。ハート型グリルで兎のマスコット付きなので、「14型」ロードスターと思われる。)
https://car-l.co.jp/2020/07/18/35585/)
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https://car-l.co.jp/wp-content/uploads/2020/07/1120-3-768x612.jpg?v=1594960444
(下の写真も有名なもので、「多摩川で優勝のダットサン・レーサー(トロフィーには{商工大臣賞}とある)」。画像は上と同じく「CAR&レジャー」よりコピーさせて頂いた。https://car-l.co.jp/2016/03/08/3927/ 
以下、このレーシングカーの誕生のいきさつだが、1936年6月、多摩川河畔に建設された玉川スピードウェイを舞台に日本初の本格的な自動車レースが、報知新聞主催で3万人以上の大観衆を集めて開催される。この中で「商工省大臣カップ・レース」と称された小型車レースに出場したダットサンが、ライバルでワークス仕立てのオオタに惨敗を喫する。
主な敗因は、ダットサン側の出場車が、生産型を軽度にチューンした程度のほぼノーマルに近い、アマチュアの参加者だったためだが、たまたま子供を連れて観戦していた鮎川は激怒し、次回(同年10月25日)の第2回レースに優勝するよう厳命する。日産技術陣は白紙から僅か4カ月で、スーパーチャージャー付4気筒DOHCエンジンの純レーシングカーを作り上げ、同レースに雪辱を果たす(ちなみにオオタは出場せず)(①P85~P96とが詳しい)。
なお、どの文献に記されていたかは忘れたが、第1回レースでオオタに敗れた悪影響が、ダットサンの販売に現れたという。鮎川/ダットサン側からすれば、『外国車一辺倒の当時のわが国の社会で、国産車でもこれだけ行えるのだということを、レースによって立証したかったに相違ない』(①P87)という大義名分ともに、レースの細かい裏事情を知らない一般大衆に向けての、企業防衛的な活動でもあったのかもしれない。なおまったくの余談ながら、(①P85~P96)と(㉔P61~P72)は記述がかなり似通っているのに、著者名が違う(㉔は小林彰太郎、①が有賀次郎)が、後者は小林さんのペンネームだそうだ。)

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 話を戻し、以下は(①56)よりハードウェアとしての「14型」の特徴を転記する。
『14型からダットサンは初めて根本的な機構変更を受けた。基本的な設計は変わらないが、13型に比べて細部はかなり異なる。まずエンジンは全面的に設計変更を受け、排気量が戦後まで連綿と続く722cc(55mm×76mm)型になった。吸・排気系も改良され、出力は15㏋/3600rpmに向上した。』
 補足すれば、ボア径を縮めて748cc⇒722ccへの変更は、当時のエンジンはシリンダー壁の摩耗が激しく、ボーリングを定期的に行うのが当たり前で、そのたびにシリンダー径が大きくなり、1回のボーリングで750ccをオーバーしてしまうためにとられた処置だった。(⑪P43参考)
(オールドダットサンのなかでも量産体制に入った「14型」以降になると、netの画像も急に増えてくる。下は日産自動車保有の1935年型ロードスターで、画像は日産ギャラリーより。兎のマスコットが付くのも「14型」特徴だが、言うまでもなく“ダット”⇒“脱兎”⇒“兎が走る”をイメージしたものだ。日産の工業デザイナーで、戦後「フライングフェザー」や「フジキャビン」を生む富谷龍一がデザインした。)
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(富谷は兎のスケッチのため、上野動物園へ行くが“珍種”ばかりだったそうで、結局兎を(なぜか?)たくさん飼っていたという久原房之介の白金の豪邸(今の「八芳園!」)でスケッチしたという。(①P114参考)下のお洒落な画像は以下よりコピーさせて頂いた。https://ganref.jp/m/forging/portfolios/photo_detail/2758012
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(下はその室内だ。ちなみに(⑦P32)によれば、当時の銀座のプレイボーイの資格は、ライカ、手風琴、ダットサンの3つを持っていることだったそうです。画像は以下よりコピーした。https://car-moby.jp/article/automobile/nissan/phaeton/history-6/)
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①の引用に戻る。『シャシーでは、ホイールベース、トレッドともさらに若干拡大された。最大の変更点は、前輪の横置き板バネの位置で、前車軸の後方から前方に移されたことである。これ以前のダットサンは、前輪回りジオメトリー設計に初歩的なミスがあり、悪路などで大きく上下動すると前車軸、ステアリング・リンクの動きが干渉し合い、横振れを起こしてついには転覆する悪癖があった。これが、ジオメトリーの変更とフリクション・ディスク型ダンパーの採用によって、大幅に改善されたのである。』((①P56)
 今でいえばかなり深刻な欠陥だった。それとは逆に、戦前のダットサンが対オースティン・セブンで明確に勝っていたのはブレーキ性能で、『鋳鉄製ドラム(オースティンは最後期の37年までプレス製)の径は大きく、~当時の日産の資料によれば、50km/hから14mで停止するから、これは現代の車に近い。オースティンについては正確にわからないが、経験的にはこの倍くらいの制動距離』(⑦P27)を要したという。
(下は1935年製の「14型」のフェートンで、上の日産保有のロードスター同様程度が良いが、トヨタ博物館の所有車だ。画像はgazooよりコピーした。「14型」は「13型」と外観はよく似ているが、プレス成型のためボディの曲面が確かにリファインされた。ヘッドライトも曲面レンズの砲弾型になり、ハート型のグリルはやや縦長で、バーの数も多くなった。(①P69、㉑P9参考)まったくの個人的な好みで言えば、オールド・ダットサンのなかで、この「14型」のフェートンと次のセダンのデザインが一番好きだ。
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(下の2枚の画像は「14型」セダンで、画像は日産ギャラリーより。『14型のボディには、乗用車3種(セダン、ロードスター、フェートン)と商用車2種(14T型トラック、パネルバン)が揃っていた。』価格はセダン1,900円、フェートン1,800円、ロードスター1,750円、トラック1640円で、量産により「13型」に比べて価格引き下げが断行された。たとえば「13型」のセダンは1,975円、フェートンは1,850円だった。(①P57、P66、㉑P7参考))
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(下は後ろ姿で、この「14型」の時代では、小型自動車の規格内の全長2.8m以内に抑えるために、スペアタイヤはボディ内に埋め込む形状になっている。4人乗りのセダンを規制値内に収めるのは苦労があったようだ。だがバンパー分は除いても良いことになり、取り外し式にして規制をクリヤーさせている。)
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(下は同型車のカタログで、画像は「ジャパンアーカイブス」さんの「ダットサン14型」よりhttps://jaa2100.org/entry/detail/052660.html)
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(下の写真もカタログのコピーだが、facebookの「【にっちゃん資料室】第1回」よりコピーさせて頂いた、「14型」のセダンだ。
https://www.facebook.com/NissanJP/posts/975376245815889/?_rdr 横浜工場に本格的なプレスマシンを導入したといっても、セダンのルーフ用鋼鈑を打ち抜くまでの大型プレスマシンはまだなく、下のカタログのイラストの色の違いでわかるように、戦前のダットサンのセダンの『ルーフは鋼板ではなく防水布が張られており、それは遮音、防振に役立った。』(①P12)

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https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcTU-X3SUuatmNtwhdIeBuVFDoQaUBoTtv19cA&usqp=CAU
(余談になるが、ちょうどダットサン「14型」とちょうど同じ頃に、アメリカで起こった、自動車の屋根部分の金属化について、以前(12.16項「戦前アメリカ車の革新性その1(ターレット・トップについて)」)の記事を再録しておく。
『1920年代の末頃にアメリカ車の車体形式の主流が全鋼製のセダンになってからも、屋根だけは木骨時代の名残で布地をタールで塗り固めたものであった。これは木骨時代の防水構造が残ってしまったものであった。しかしGMフィッシャーは1934年12月に発表した35年型全乗用車、即ちキャディラック、ビュイック、オールズモビル、ポンティアック、シヴォレーにオールスチール“ターレット・トップ”を採用した。これはスチールのボディ骨格を、スカットルからリアウィンドーまでプレス成型の1枚鋼板で覆ってしまうものである。今日では当たり前すぎてちっとも面白くないかもしれないが、当時としては見た目のスマートさ、生産性、剛性(即ち安全性でもある)の向上などすべての面で画期的なものであった。』この頃のアメ車のなかでも特に、GM系自動車の技術力は圧倒的だったのだ。下の画像は以下より。https://www.atticpaper.com/proddetail.php?prod=1935-turret-top-cadillac-ad

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https://www.atticpaper.com/prodimages/090610_A/turrettop.jpg
(自分はこの一連の記事の(その4の後編)を書くため調べる前までは、戦前の多くのセダン型の自動車の屋根が、「木骨時代の名残で布地をタールで塗り固めたもの」であることを、恥ずかしながら知りませんでした。戦前のダットサンのボディが木骨に鉄板パネルを被せる構造で、セダンの屋根が防水布であっても、当時の常識では大きく劣っていたわけではなかったが、その点、トヨタ初の乗用車、「トヨダAA型」(1936年)は『キャビンのルーフをオールスチール製のターレットトップ(1枚ものの屋根)』(JSAE)にしており、GM(フィッシャー・ボディ)のように大型のプレスマシンで打ち抜いていたわけではもちろんなかったはずだが、当時としてはかなり進歩的な構造を採用したことになる。(https://www.jsae.or.jp/autotech/1-7.php) なお(①P114)に富谷龍一氏の回想として、日産横浜工場がダットサンのシャシーフレームの長大なサイドメンバー成形用に、米国クリアリング社製1,500トンのプレスマシンを導入し、富谷氏がデザインした1枚プレス用のラジエターグリルを、ワンプレスで打ち抜いた様子を語っている。下の雰囲気のある写真は「トヨタ自動車創業の地、豊田自動織機自動車部旧試作工場(現 愛知製鋼(株)刈谷工場)でのトヨダAA型乗用車」画像はgazooより。
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https://gazoo.com/pages/contents/article/event/170519/1.jpg

17.4-5「キャデラック型グリル」のダットサン「15型」(1936年-1937年前期)
①からの丸写しで恐縮だが、「15型」についての小林彰太郎さんの解説を引用する。
『ダットサンは年々着実に改良を受けてきたが、1936年後期型として現れた15型に至って、戦前のいわゆるオールド・ダットサンは、技術的にもスタイリング上でもほぼ成熟の域に達したといえる。』
(下の「15型」ロードスターの写真は、以下のブログより。https://minkara.carview.co.jp/userid/149144/car/46368/106417/1/photo.aspx#title 「15型」以降の写真のクルマは、バンパー付きでスペアタイヤが飛び出すが、その理由は『これら装備品が「小型車寸法枠外」となったため』(㉑P9)だ。)
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https://cdn.snsimg.carview.co.jp/carlife/images/UserCarPhoto/106417/p1.jpg?ct=484373bdffe4
 引用に戻る。『722ccエンジンは圧縮比を5.2から5.4に上げ、出力を16㏋/3600rpmに高めた。~ プロペラシャフト両端部にある十字型Uジョイントは短命で、ダットサンのアキレス腱と言われたが、これも15型から強化された。』(①P57)
「15型」のデザインについて、『15型のボディ・スタイリングは、明らかにGMのハーリー・アール調(自動車スタイリング研究家の五十嵐平達氏によれば、特に1934年のラサール)に範を求めたと見られ、細部まで神経のよく行き届いた成功作といえよう。』(①P57)
(下の「ダットサン15型フェートン」は、日産ヘリテージコレクションの所蔵車で、画像もコピーした。ちなみに個人的な好みで言えば、自分は「14型」の繊細な感じの方がより好みだが、多くの人が、オールドダットサンでイメージする姿は、この「15型」~「17型」だろう。確かにデザインの完成度が高く、凝縮された力強さが感じられる。実際にクルマを購入する側の目から見れば、より頼もしく感じられたのかもしれない。販売台数の伸びからしても、日本の市場でも好評だったことは間違いないのだろう。
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https://nissan-heritage-collection.com/CMS/IMAGES/car/2400/003.jpg
(下は「15型」ダットサンがモチーフにした、1934年型の「LaSalle sedan」で、画像は下記サイトよりコピーした。http://carstylecritic.blogspot.com/2018/04/lasalle-1933-to-1934-redesign.html
GMのブランド戦略のなかで誕生した「ラ・サール」の解説を、安直だがwiki+「yahoo知恵袋」より『1928年からは(キャディラックの)兄弟ブランドである「ラ・サール」を設立し、年々豪華さを増してゆくキャデラックより内外装の装飾を簡略化した廉価なモデルを発売することで、新たなユーザー層の獲得を狙った』、『キャデラックがお贈りする、ちょっと安く、肩の力を抜いたヨーロッパ風デザインの新ブランド」って感じです』

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https://4.bp.blogspot.com/-G-1p8FfwZHs/WhM9SEXGa0I/AAAAAAAAYUs/SdRqpzP8-ssF8Pf8nfCHBa70kc3xNicmACLcBGAs/s1600/1934%2BLaSalle%2BSedan%2B-%2Bfor%2Bsale%2Bpic.png
(下の2枚も1934年型「LaSalle Convertible Coupe」で、画像は下記サイトよりコピーした。さすがに流麗且つ、力感みなぎるデザインだ。https://www.conceptcarz.com/vehicle/z13444/lasalle-series-350.aspx
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https://www.conceptcarz.com/images/LaSalle/34-LaSalle-50_Fltwd-DV-14-PBC_t030.jpg
日本車とは別世界だ。
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https://www.conceptcarz.com/images/LaSalle/34-LaSalle-50_Fltwd-DV-14-PBC_t031-800.jpg

17.4-6販売の主力はトラックだった “ダットラ”の祖先「14T?型」「15T型」「17T型」(1935年-1944年))
 「ラ・サール」が誕生したアメリカの自動車社会とは背景が全く違う、当時の日本の社会のなかでは、ダットサンの販売台数は、セダンやフェートン、ロードスターなどの乗用車系よりも、下表のようにトラック系の方が多かった。『現実にダットサンを営業面で支えたのは、全国の中小企業や小規模商店などで、自転車やリヤカーに代わって重宝がられた“ダットラ”だったのである。』(①P60)この17.4-6項で戦前のダットサン・トラックについて、まとめて記しておきたい。
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 引用を続ける。『初期のダットサン・トラックは、乗用車と共通のシャシーに外注のピックアップあるいはパネルバンを架装したものだった。これが1936年になると、初めてトラック専用シャシーが現われ』た。(以上①P60)
トラック専用型シャシーの誕生は「14型」からだ。以下の引用は(⑩P51)より
『一九三四年一二月には従来からある「ダットサン自動車販売』を乗用車専用の販売店にして、新たに「ダットサントラック販売」というトラックの販売会社を設立した。日産の販売店が日本全国に張り巡らされ、販売とサービスの体制がつくられた。』トラックの拡販に向けて、一層の力を注ぐようになる。1937年2月には、両販社は「日産自動車販売」として再び統合されるが、販売の主力はトラックへと移行していた。
(話が前項の「14型」の時代に遡ってしまうが、下の写真はハート型グリルの『1935年型ダットサンのライトバンを横浜の本社正面に置いて撮影されたもの』(㉒)だ。背後に14型と思われるフェートンが10台ほど並んでいる。初期の14型パネルバンと思われる(①では「14T型」と記している)が、この時期は大阪と横浜の双方で組まれていたから、あるいは大阪製13型かもしれないという。ボディも外注と思われ、過渡期(初期)型であることは間違いない。(以上①P80要約)
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https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcT6BoDIVUI9sxUwlmOl-CJsQ-wU8iOIaYP7TFkzvzcUwDCgIyI5-9Y_kuszbhfAUVgf7oI&usqp=CAU
(“ショートケーキの生みの親”、銀座の洋菓子店「コロンバン」では、『皇室や宮内省への納品には、日産自動車が130台だけ生産した、当時としては珍しいダットサントラック14型を2台購入して使用していたそうです。』以上の文面と下の写真は、以下よりコピーした。https://news.line.me/detail/oa-preciousnews/36dc0d2682ce ただ写真のクルマはなんとなく、「14型」というよりも、フロントグリルの形状からは「15T型」(もしくは「17T型」)のようにも見えてしまうのだが、自分の見当違い?上の写真の初期型「14型」ベースのパネルバンと、下の「コロンバン」のトラックのボンネットの長さを比べれば明らかだが、後者の方はトラック専用シャシーで、荷室長を稼ぐために『同時期の乗用車に比べ極端にボンネットが短く、その分乗員は前に出され、立ったハンドルを抱え込んで運転しなければならない。荷物優先の』(①P82)設計だった。これに対して上の写真のシャシーは、トラック専用型ではないように(自分には)見える。
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https://scdn.line-apps.com/stf/linenews-issue-1728/rssitem-11576740/9bf06da18ca91217297e8415cec3a0fc9ac6f161.jpg
(下は日産自動車が保存している、「ダットサン14型 トラック」(1935年型)で、画像は以下よりコピーした。https://twitter.com/kousagisan_z/status/1215980706385416194 乗用車系よりもボンネット長の短い、明らかに14型のトラック用シャシー車だ。非常に些細な(ドーデモイーヨーナ)点だが、①では14型のトラック系シャシーのクルマを「14T型」としていたが、日産では“T”と謳っていない。後に示すが、「15T型」と「17T型」ではトラック系を“T”と謳っており、手持ちでもっとも古い資料の(㉖P137~P141)に「ダットサン小型自動車の製造系譜」というものがあるが、そちらでも日産と同様だ。①の認識違いなのだろうか?)
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https://twitter.com/kousagisan_Z/status/1215980706385416194/photo/3
(その車内で、やはり窮屈そうだ。画像は「日産ギャラリーフォトギャラリー」より)
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https://i0.wp.com/nissangallery.jp/wp-content/uploads/2018/08/20180803_ghq_085.jpg?resize=640%2C360&ssl=1
 1936年の「15T型」からは、シャシーだけでなく、ボディまで載ったトラック完成車として一貫生産されるようになる。エンジンは乗用車に準ずるが、シャシーは専用型として各部が強化される。フレーム部が強化され、後ろのバネは枚数を増し、タイヤも6プライになった。最終減速比は標準型で6.5だったが、最大500kgの荷物を積んで急坂を上る際に備えて、オプション型では8.66に引き下げられた。ボディにはパネルバンと一方開きピックアップがあった。(以上①P60、P83参考)
(以下からの「15T型」の3枚の写真は、いつもお世話になっている、ブログ「ポルシェ356Aカレラ」さん(web22-1)よりコピーさせて頂いた。)
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https://stat.ameba.jp/user_images/20141015/23/porsche356a911s/53/bd/j/t02200293_0800106713099288293.jpg?caw=800
 下の「ライトバン」型のカタログの文面には『【生きた廣告 移動する店舗】『美術的な色彩と意匠 印象的な可愛ゆき姿 街から街へ お店の商品とノレンとを暗示しながら スピードとスマイルとを振撒きながら 忠実な達者な配達車』と記されているそうだ。
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https://stat.ameba.jp/user_images/20141015/23/porsche356a911s/dd/9e/j/t02200165_0800060013099288291.jpg?caw=800
(「お店の商品とノレンとを暗示しながら」の、まさに「走る広告塔」だ。なお国産品奨励のなかで、ダットサンは警察や陸軍,逓信省などでも使用されていた。適当な写真が無かったので貼りませんが。)
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https://stat.ameba.jp/user_images/20141015/23/porsche356a911s/76/5f/j/t02200165_0800060013099302580.jpg?caw=800
 ところで、①など戦前のダットサンを扱った歴史書では「15T型」トラックが、『戦前最後の“ダットラ”』(①P81)だとしていたものがあったが、どうやら1938年モデルで『17T型』トラックというものが、存在していたようだ。
(下のヤオフクに出品されたhttps://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/o1050077493 の当時のカタログを見ると、確かに「17T型ダットサン トラック」と書かれている。)
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https://auctions.c.yimg.jp/images.auctions.yahoo.co.jp/image/dr000/auc0305/users/fb05aba95a2dd33123ba08380933e0b64370212b/i-img1200x900-1651396415rnoc9i105789.jpg 「日産ヘリテージコレクション」(下記サイト)でも、『ダットサントラック17T型は、15T型(1936年発売)の後を受けて1938年に登場』としている。https://nissan-heritage-collection.com/DETAIL/index.php?id=251
(以下の2枚の写真は日産が保存している「17T型」トラック(1938年)だ。)
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https://nissan-heritage-collection.com/CMS/IMAGES/car/2400/251.jpg
(17.3-2項の冒頭で、製品としての戦前のダットサンについて、「不明な点はない」などと書いてしまったが、書き進んでいくうちに、ごく細かい点では不明な点も出てくる。①だけで書き進んでは不安になり、古本で同じく定番本の㉔を購入し確認してみた。日本の代表的な自動車史家である五十嵐氏の「オールド・ダットサンの研究」が記されていたからだが、①の小林彰太郎氏と全体の基調は同じものの、トラック系の記述は若干異なり、小林が「戦前のトラック系は「15T」最後で、「17T」はない代わりに「14T」があった」としているのに対して、五十嵐は『「15T」系には社内呼称として、「16T」、「17T」もあった』(㉔P39)としている。些細なことだし、日産自動車が決めれば良い問題だと思えるのだが、日産自動車に対しての希望として、「日産ヘリテージコレクション」の“学術研究?”などの一環として、ハードウェアとしての戦前のオールド・ダットサンと、その“前史”としてリラー号(ゴルハム号を含め資料により排気量の記述がマチマチ)の、正しい歴史と体系を、型式/年代別に分けて、一度解説してもらえると、混乱がなくなり大変ありがたいのだが。過去のさりげない訂正にもなるし。ネットの時代なので、情報配信に、たいした経費もかからないだろう。下の写真は「日産ギャラリーフォトギャラリー」より、)
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https://i0.wp.com/nissangallery.jp/wp-content/uploads/2014/11/20141112_ghq_154.jpg?resize=640%2C480&ssl=1
オート三輪でなく“ダットラ”を選ぶ理由
 それにしても、ダットサンの“T(トラック)型”はボンネット・室内長を限界まで詰めるなど、相当頑張ってはいるのだが、それでも上の写真の荷台を見ても、全長(このクルマの場合、バンパー部分を含めて3,020mm)に制約があるため、荷室は広くはない。純粋に“荷物運搬車”の機能として、たとえば同じ750ccの小型自動車規格のオート三輪と比較した場合(以下㉓P77参考)、最小回転半径は小回りが利くオート三輪の2.40~3.40mに対して、大径タイヤを履いたダットサンは5.20m(ちなみにオオタは4.75m)というから格段に劣り、当時の日本の狭い街並みの中で、『小規模運送用車両としてこれは不適格である。』(㉓P77)(ちなみに同じ著者の(web23、P88)では最小回転半径を『“ダットサン”(4,120mm)、“オオタ”(4,723mm)』としており、年代によって違っている?)
 一方エンジンも、以下も(㉓P77)の略で記すが、たとえば750cc級3輪車の代表格、“くろがね”のVツイン731cc型エンジンとの比較で、くろがね側はフラットで扱いやすいトルク特性を誇ったが、ダットサンの722cc4気筒エンジンは高出力狙いで、『典型的な高回転低トルク型機関である。Vツイン機関の貨物自動車用原動機としての優位性は歴然としていた。』(㉓P77)ダットサンエンジンのトルクピークは3.75kg・m/2,000rpm、パワーピークは15HP/3,600rpmであったが、この回転数でのトルクは 2.98kg・mへと急激な落込みを示していたという(web23、P131)。しかも価格は、一概には言えないがオート三輪の×1.5倍ぐらいしていたようだ。
(下の写真は戦前のオート三輪の代表車種と言える、ダイハツHD型のバーズアイビューだが、荷物運搬に徹した潔い姿だ。)
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https://green.ap.teacup.com/hourou2009/timg/middle_1315991301.jpg
 それでもダットサンはトラック分野に限定しても、下表にみられるように、戦前のオート三輪メーカーのトップ2であり、トラックとしてのコストパフォーマンスでは大きく勝っていたダイハツとマツダの三輪トラックに対して、市場では十分伍して戦った。
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 オ-ト三輪には望み難い、「走る広告塔」としての効用以外の要素として、同時代を学生で過ごした五十嵐平達によれば、当時、以下に記すような“空気”があったという。
『~ その頃、大人になったら自動車を持とうなんて考えてる中学生は、公表したら精神鑑定されかねない世情ではあったが、私の夢はダットサンに向いていた。そして最も注目していたのがライトバンであった。ぜいたくがしたいのではない、運転がしたいんだと思う少年にとって、中小企業の社長さん級が自分で運転している社用のライトバンは何とも魅力的であったし、当時の庶民が自家用車を持つ手段としての姿がそこにはあった。~ 非常時に世間から非難されずに自家用車に乗りたい庶民の気持ちを、日産は知っていたらしいのである。』(⑦-2)
 戦前のダットサンの華やかな広告宣伝活動に、その一端が示されているように、「大正デモクラシー」の延長のような自由主義的なムードも、当時たぶん残っていたのだ。しかし日中戦争に突入し、自家用車を所有し乗り回す事自体、憚る雰囲気がどんどん醸し出されていったのだろう。そんな時代背景のなかで、オート三輪ではなく、“ダットラ”に乗ることは、本当は自分で乗用車に乗りたかった人たちの、ささやかな、自由の表現でもあったのだ。
『乗用車は1938年度をもって生産を中止するが、ダットサン・トラックは主として軍需用にその後も生産続行され、最後は1944年に及んだ。』(①P61)
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https://pbs.twimg.com/media/DhzIczFU8AEJiog?format=jpg&name=small

17.4-7「15型」の小変更型だった「16型」(1937年-1938年前期)と「17型」(1938年)
 再び乗用車系に話を戻す。以下も、(①P58)からのほぼ丸写しです。
「ハートグリル」で登場した「13型」の1934年以降、日産は早くもアメリカ流に、年々細かいモデルチェンジを繰り返す手法を取り入れていた。1937年にデビューした「16型」は機構的には「15型」と変わらず、主な変更はボディ細部の意匠だった。『16型からグリルはいっそう繊細なデザインになり、エンブレムとマスコットの変更を受けた。セダンのドアは後ろ開きのままだが、オープンモデルと新型クーペは前ヒンジに変更され、安全性を高めた。』(①P58)以上のような小変更なので、「16型」については、ネットで拾った写真だけ貼っておく。
(下は日産が保管している「日産ギャラリーフォトギャラリー」より、16型フェートンだ。)
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https://i0.wp.com/nissangallery.jp/wp-content/uploads/2021/04/20201127_ghq_053.jpg?resize=640%2C360&ssl=1
(同形車の当時のカタログから、「福山自動車時計博物館」のツイッターより)
https://twitter.com/facm_0849228188/status/1352134647560376323
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https://pbs.twimg.com/media/EsO9uWaVgAEZLog?format=jpg&name=medium
(下はトヨタ博物館所蔵の16型セダンだ。16型の外観上の特徴である、グリル中央のクロームメッキのバーがわかる。)
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https://i.pinimg.com/736x/71/34/39/713439d220486649ee67df2a101ad3a0--old-cars-japanese-cars.jpg
(下の16型ロードスターのカタログはブログ「ポルシェ356Aカレラ」さん(web22-3)よりコピーした。ドアは前ヒンジに変更された。)
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https://stat.ameba.jp/user_images/20131127/00/porsche356a911s/82/98/j/t02200165_0800060012762308460.jpg?caw=800
「16型」の目玉は下の写真のスタイリッシュなクーペだ。「16型」クーペは、『15型クーペよりも全体に丸みを増し、フェンダーはステップなしで前後は独立している。ドア窓はサッシュ式であり、ハンドルは楕円形の窪みに埋め込まれるなど、なかなか凝ったディテールを持った野心作であった。』(①P58)画像は以下よりコピーした。https://minkara.carview.co.jp/userid/582478/blog/34533176/)
(下の日産保管のクーペの塗装色の、ブルー系の淡いグレーが、当時の標準塗装色だった。なお「16型」のクーペは、石川県小松市の「日本自動車博物館」にも展示されているが、総生産台数は約200台といわれているようなので、いずれも貴重な個体だ。
https://www.motorcar-museum.jp/about/featured/feat-2f/ )
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https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/userstorage/000/019/626/043/258344845f.jpg
 クーペの解説を(①P58)からの引用で続ける。『これらの特徴は、当時少数ながらドイツから輸入され、日産でも購入したに違いない、1936年オペル・オリンピアから直接学んだことは明白である。』
(下の1936年型オペル・オリンピアの画像は以下よりコピーした。確かに全体的にエッジの立った、シャープなイメージは似通う。既述のようにオリンピアは、戦時下に試作されたトヨタや日産の多くの小型車のモデルになったクルマだ。https://12vshop.jimdofree.com/modelle-sondermodelle/opel-olympia/)
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https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=450x10000:format=jpg/path/sa64097db8e45f43c/image/iceeb6c36cb23b72c/version/1358520481/www-12vshop-jimdo-com-opel-olympia.jpg
(下の16型クーペのカタログもブログ「ポルシェ356Aカレラ」さん(web22-3)よりコピーした。クーペは「10型」、「11型」、「12型」時代からあったが、「13型」と「14型」には設定がなかった。「15型」から再登場するものの「17型」では再び廃止されてしまう。以下参照。https://nissan-heritage-collection.com/DETAIL/index.php?id=278
「16型」ダットサンが登場した1937年は、戦前のダットサンの生産台数のピーク(8,353台)の年だった。1937年7月から日中戦争が始まり、もはや「クーペ」が許容されない時代に突入していくのだ。)

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https://stat.ameba.jp/user_images/20131127/22/porsche356a911s/ef/0c/j/t02200165_0800060012763197841.jpg?caw=800
 続いて「17型」ダットサンの時代に移る。「17型」は、『ごく細かい点を除けば、機構的には16型を踏襲して、戦時のため乗用車生産が禁止される1938年8月まで生産が続行された。ラジエター・グリルの意匠だけは改められ、中央にボディと共色に塗装された太いバーが通り、エンブレムもその上に付いた。これはスタイリングよりも、実用上の必要から行われた変更と思われる。』(①P58)
 この時代は65オクタン程度の低質なガソリンなどが原因で、寒い冬の朝などはスターターではエンジンのかかりが悪く、クランクバーをバンパーとグリルの下部に設けられた穴に差し込んで、ガラガラ回してかけるのが日課だったという。その時に構造的に弱いグリルを損傷させる場合があり、その対策もあって、太い縦バーを通したのではないかと(①P58)では推察している。なお(㉑P9)では、機構面でバッテリーの6V⇒12V化を行ったと記しているが、(①)ではそのような記述がなかったことを追記しておく。
(下の写真は「日産ヘリテージコレクション」より、日産が保存している「17型」セダンだ。https://nissan-heritage-collection.com/DETAIL/index.php?id=6 5枚上の写真の「16型」セダンと外観上の比較をすると、「16型」はグリル中央にクロームメッキのバーが走るが、「17型」はボディと同色の、より太めの縦バーが入る点が異なる。写真では分かり難いが。)
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https://nissan-heritage-collection.com/CMS/IMAGES/car/2400/006.jpg
「17型」ダットサンの時代にも、乗用車系にはセダン、フェートン、ロードスターがあったが、実際には上の写真のクルマのように『ほとんどが黒か濃紺のセダンになった。ガソリンの配給は僅か5ガロン(18ℓ)/月に減ったから、大型車を休ませて専らダットサンを使う人が増えた。』(①P77)小型タクシー用としても重宝がられたという。先に記したように、1938年度をもって、乗用車の生産は中止される(トラックの生産は1944年まで継続)。
『そしてついにガソリンの使用が禁止されたのちには、木炭や薪などを蒸し焼きする釜を背負い、平ギアのセカンドをヒーヒーいわせながら、オールド・ダットサンは健気に走り続けたのであった。』(①P60)
 戦前の量産型ダットサンのまとめとして、最後も(①P61)から引用で終えたい。
『オールド・ダットサンは、当時の外国車、例えばオースティン・セヴンなどに比べると、品質・性能とも格段に劣り、故障も多かったのは事実である。しかし各部はよくバランスがとれており設計者の。想定した用途と限界を弁えて使いさえすれば、意外に長持ちし、それなりに役立つ昭和初期の国民車だったのである。』

 ハードウェアとしてみた場合、オールド・ダットサンは基本設計の古さから、上記のようにその性能に限界があったのも事実で、フルモデルチェンジが待たれていた。
 仮に陸軍の強引な横槍が入らずに、日産とGMとの提携がそのまま実現していれば、仮定の話なので以下は、あまり意味のない妄想になるが、小型車ダットサンの次のモデルは、(17.3-2.7項)の余談の所で記したように、「オペル カデット」(1,073cc)をベースに、日本市場向けに日産側でアレンジしたものになっただろうか。小型車の法規も、“国民車・ダットサン”に合致させるように変わっただろうか?オペルカデットからは、学ぶべき点が多かっただろうし、日産が次のステップで、独自の大衆車を造る際にも、大いに参考になったと思う。

17.5戦前のダットサンのライバル、オオタ他の小型四輪車について
 ようやく?戦前のダットサンの項が終わったので、次にその最大のライバルだったオオタをはじめ、その他のいくつかのメーカーについても触れて、この記事を終えたいが、この記事の冒頭で記したように、戦前の小型四輪車の世界では、ダットサンの存在が圧倒的に大きく、それ以外のメーカーについてはごく簡単に記すのみとしたい。

17.5-1ダットサン、オオタ以前の小型四輪車の歴史を簡単に振り返る
 だがここで、いきなりオオタ自動車の話に移る前に、ダットサンやオオタのような量産型が登場する以前の、戦前の国産小型四輪車の過去の歴史を、簡単に振り返っておく。
 ただしここで言う“小型車”とは、自動車取締令の適用除外を受けた「特殊自動車」として始まり、量産型ダットサンの登場で花開いた750cc規制の「小型自動車」(17.4-1項参照)へと至る、日本固有の法規上の小型四輪車(この項ではオート三輪は除く)の系譜のことで、オートモ号(諸説あるが945cc~1,800cc)や、リラー号(同様に926cc~1,260cc)などのような、法規上の優遇処置の適用を考慮しなかった小型車は除外する。
 前置きが長くなったが、この17.5-1項は前々回の記事「戦前日本のオート三輪史」から四輪に関連する部分を抜粋し、簡略化したものだ。引用元はすべて明記してあるので(=といってもほぼすべて、「轍をたどる」国産小型自動車のあゆみ」岩立喜久雄 月刊オールド・タイマー(八重洲出版)の連載記事からです)さらに興味のある方はこの貴重な労作を、ぜひ直接手に取り確認してください。
(※この項は年代的には、本来一番初めに来るべきなのだが、このような超マイナーな話題を最初に持ってくると、以降の本題であるダットサンの部分が読まれなくなるので、後方に持っていきました!)

17.5-1-1「自動車取締令」が発布(1919.01)
1919年(大正8年)1月11日、それまで地方ごとに異なっていた自動車規制が全国統一されて、内務省の省令第一号として「自動車取締令」が発布される
 その背景として『大正7年(1918年)末の自動車数(内務省調べ)は、全国で4万5千台を数え、この中には専業のお抱えや営業運転手だけでなく、新たなオーナードライバーも芽生え、自動車の種類も多様に膨らんでいた。そこで必要となったのが全国的に統一された取締令だったわけである。』(③-10、P172)(※前々回の記事の15.2項の引用。自動車取締令の基本的な考え方については(15.2-1~4項)を参考)
 この法令により、日本で初めて「自動車」という存在が定義づけられるが、『そしてこのオートバイ並みの無免許運転許可扱いが受けられる自動車を「特殊自動車」と呼んで、やや漠然と示した。』
メリットが大きかった「特殊自動車」
 しかしこの「特殊自動車」適用を受けると、無免許運転扱い以外にも『~最低限この2項目、すなわち最高速度(16マイル=25.6km/h)と交通事故の対処、またこれらに違反した場合の罰則規定が適用されるだけだったのである。』(③-10、P174)非常にシンプルな内容で、こうなると軽車輛の製造/販売業者にとっては、「特殊自動車」として認定されるか否かが、重要なポイントとなったのだ。
やや曖昧だった「特殊自動車」の定義
 だが以上のように、やや曖昧な定義からスタートしたため、この後「特殊自動車」として許容される車両の仕様は、社会情勢の変化を配慮しつつ、『内務省警保局と車輛製造業者や販売業者との間で、また地方長官や警視庁も含めた三つ巴の』(③-5、P164)、真摯な確認のなかで、『その都度、地方庁と内務省との間で通牒を交わし、小さな改正を重ねていった。』(③-3、P171)
 いささか“不透明”な決着方法でもあったが、日本の自動車社会が、まだ手探りの発展途上の段階にあり、小型車の方向も明確に定まっていない中で、関連する法規が、このような“弾力的な運用”に頼るのも、やむを得かったと思う。
(※この記事では省略するが、内務省・警保局の若手担当官として全体の調整役を果たし、国産小型車の発展を縁の下から支えたのが小野寺季六だった。戦前日本の自動車史を記す上で、欠かせない人物だったと思う。小野寺のことを記した15.5-28と15-5-29項及び、戦前の小型車を巡っての内務省による一連の施策が、私見ながら同じく旧内務省系の戦後の警察が、「電動アシスト自転車」の市場形成を“アシスト”した例と似ている?という15-5-30項記事は、この一連の記事の中でも特に読んでもらいたい部分です。
 下の写真は、後述する「警山第104号通牒」以前に、最初から「特殊自動車」として認定された、「オートペッド」で、アメリカ製の155ccエンジン付きキックスクーターだ。最近流行りの電動キックボードみたいだが、輸入元の中央貿易はこれに「自動下駄」のニックネームをつけて売り出した。しかし後述するスミスモーターホイールと違って、これはウケなかったようだ。当時の日本人の嗜好からすれば、「実用的」とは言い難い乗り物だったが、運転免許が不要との判断は頷ける。

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https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcRJF-flBnfjObWLfYo6DdxjX3Nt3PcCF27CzA&usqp=CAU

 以下からは、四輪車の分野に限定して、小型車の法規の変遷の中で、新たな時代を切り開いた、エポックメイキングな出来事だと自分が感じた(=自動車史の定説ではなく、あくまで個人的な意見というか、「「轍をたどる」岩立喜久雄(月刊オールド・タイマー・八重洲出版)」の、一連の連載記事を読んだ上での“感想”に近い)、3つの出来事を取り上げながら、その大まかな歴史をたどっていく。最初の歴史的な出来事は、下の写真のクルマから派生する。(以下からは前々回記事の15.1項のダイジェストです。)
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17.5-1.2スミスモーター系の車両が「特殊自動車」のお墨付きを得る(1921年12月)
 このクルマはアメリカ製の輸入車で「スミスフライヤー」(岩立氏曰く“走るスノコ板”)という。その動力源は、上の写真では見難いが、真ん中後方の“第5輪”?部分の「スミスモーターホイール」で、日本ではトヨタ(豊田喜一郎)が、自動車産業に乗り出すにあたり、最初に分解・研究したエンジンとして広く知られている。
 この「スミスモーターホイール」は当初複数の商社から輸入されていたが、最終的に大阪・西区の中央貿易㈱が、東洋一手販売元の権利を獲得する。そして二輪/三輪自転車用の、便利な後付けエンジンとして宣伝し、大量に販売する。
『大正7年(1918年)の夏にはすでに一千台を売りつくし、3度目となる次の荷着を待ちながら、その人気の高さを巧妙に宣伝し続けた』(③-10、P171)というから、その人気のほどがうかがえる。4サイクル単気筒201cc、2.5㏋ほどの小馬力のエンジンだった。下は通常の2輪自転車に動力輪として取りおうじとしては付けた例だが、この組み合わせは、一見してわかるように、駆動時のバランスが悪い。
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「オート三輪の始祖」の誕生
 やはり運命的な出会いだったと言うべきか、フロントカー型の三輪自転車との相性が、もっともよかったようだ。今回の記事では三輪の話はしない予定だったが、ジャンルは違うとはいえオート三輪の進化と発展の上に相乗りした形で、小型四輪車は発展して行った側面があるので、その“原点”の部分だけはこの項でも確認しておきたい。
 下の写真は(③-10、P171)からのコピーで、中央貿易ではなく、日本自動車の雑誌広告(雑誌「モーター」1917年11月号)だが、確かにこの広告には、関西や東京で一時期普及していたという「フロントカー型三輪自転車」の左側後輪に、「スミスモーターホイール」を装着する形で、「初期のオート三輪」と呼べるものが、自発的に誕生していった、その証拠が示されている。
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 下はスミスモーターの輸入元の中央貿易が、自社製の完成車として販売した、同じくフロントカー型の「オートサンリン」の写真だ。後輪左側にハッキリと、スミスモーターホイールが取りつけられている様子が分かる。
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 話を4つ上の写真の補助駆動輪付き四輪車、「スミスフライヤー」に戻す。この「スミスモーター」を原動機とした軽車両の「スミスフライヤー」や、1~2つ上の写真の「オートサンリン」の類を、通常の自動車と同列で扱うべきか、議論が巻き起こる。
『はたして特殊自動車として扱って良いものかどうか?という疑問でまず物議をかもしたのが、先のスミスフライヤーであった。スミスフライヤーのような豆自動車は、通常の自動車と同じ扱いには出来ない、と考えるものが多数現れた。これに対して内務省は、大正10年(1921年)12月22日、警保局長付けで各都道府県庁宛てに次のような通牒(書面で通知すること)を送った。』(③-10、P174)
「構造簡易、操縦亦容易にして、普通自動車に比し交通上の危険も寡少」(警山第104号通牒)
『その書面の別紙として、スミスフライヤー、オートサンリン ~ サイクロモビルの図を示し、『これらスミスモーター系の簡便な車両は、前出の取締令第33条の「特殊自動車」にあてはまると決めた。つまりこの時点から、スミスフライヤーとオートサンリン(この時点ではまだスミスモーター付きのフロントカーだった)は、全国的にオートバイ並みの取り扱いが許されるようになったわけだ。
 大阪の中央貿易によるスミスモーターの販売は、「小型自動車に関する件通牒」と呼ばれるこの省令によってさらに弾みがついた。前述のように大正6年(1917年)からすでに東京や大阪ではスミスモーター付きのフロントカーが自然発生的に出現し、商店の配達などに使用されていたわけだが、この通牒、警山第104号以降は「免状(運転免許)不要」のお墨付きで売ることができるようになったのである。』
(③-10、P174)
 スミスフライヤーは、本国のアメリカでは1922年当時で125ドル~150ドル(ちなみに同年のT型フォード(4気筒2,896cc)の価格は標準のツーリングモデルで355ドル)で販売されていたというが、下の写真からはアメリカでの使われ方がなんとなくイメージできる。
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 ところが、この超小型車が日本に持ち込まれると、紳士の乗り物へと変身するのだ。スミスモーターホイールの輸入元である中央貿易自身の手で、『黒塗のボディが被せられ~、さらに幌まで装備する~今日これらの写真を見ると、いい大人が子供用のペダルカーに座っているようで、いささか滑稽に映るが、当時の皆さんはじつに真剣だったのである。』(③-10、P172)
(下の写真は(③-10)=「轍をたどる」国産小型自動車のあゆみ」岩立喜久雄(月刊オールド・タイマー(2006.08八重洲出版)連載記事「スミスモーターと特殊自動車」、P173)からスキャンさせて頂いた。
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国産ボディを架装した小型乗用車の始祖、「フライヤー」
以下も(③-11)より引用。
『オートバイと同様に無免許で運転できて、駐車場が不要であり、税金もオートバイ並み(地方によって大きく異なるが)としたこの適用除外制度は、大正時代のユーザーにとって絶大な利点を生んでいた。当時はさほどに車税が高額であり、運転免許の取得も困難で、とどのつまりは業務用でもなければ、自動車の所有など、まだ雲の上の空夢であった。写真のように気取って豆自動車に乗った日本人は、「オーナードライバー」という概念すら湧かなかった時代に、これを楽しもうとした、ごく一部のモーターマニアだったのである。』(③-11、P175)
 前々回の記事で延々と記したように、戦前のオート三輪の歴史を辿っていくと、買う側が求めたものは一貫していて、無免許等の特典はそのまま維持しつつ、よりたくさんの、重い荷物を、安い購入費と維持費で運ぶ、業務用の道具としてであった。そして戦後の復興期に大型化を果たし、日本独特の乗り物へと更に進化を遂げたオート三輪は、同級の四輪トラックを圧倒し、その目的においてひとつの頂点に達する。
 しかし、オート三輪と同じ「特殊自動車」枠から発し、小型四輪車の始祖となったこの「フライヤー」号は、三輪系とは全く趣が異なる、オーナードライバー向けのサイクルカーとしてスタートした。当時の日本でこの車に乗っていた人は確かに、本当の自動車趣味人だったのかもしれない。
 当記事の編者の独断と偏見で、「スミスモーターホイール」を駆動輪としたアメリカ製豆自動車「スミスフライヤー」の“スノコ板”の上に、日本人の機微を十分理解した「スミスモーターホイール」の輸入元、大阪の中央貿易が、フォーマルなボディを架装した「フライヤー」号を、国産小型車四輪車の変遷を記す上で、最初のエポックメイキングな出来事(クルマ)とさせていただく。
(下の画像も、中央貿易が架装した格調高い?車体を載せた、「フライヤー」号の後ろ姿で、(③-11)、P175の画像をスキャンさせていただいた。)
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「スミスモーターホイール」が国産小型車誕生の引き金を引いた
17.5-1.2項のまとめとして、岩立氏の(③-10、P170)から引用させていただく。
『大正期の日本にモータリングの波を押し広めたのがスミスモーターホイールであった。まだモーターが有産階級の専用物であった時代の日本の自動車社会に、小さな風穴を空けたのが、わずか201ccのモーターホイールだったのである。
 その風穴はのちに国産小型自動車を発生させる引き金となり、自動車取締令の上に意外な影響を残すことになる。例えばもし日本でスミスモーターホイールの人気がなかったら、戦後の軽自動車の車両規格は生じていなかったといっても過言ではないだろう。』

 以上がガソリンエンジン(内燃機関)を動力源とする、「特殊自動車」認定された小型四輪車の歴史の始まりだが、実はそれ以前に、「特殊自動車」認定を受けた小型四輪車があったという!?(以下も前々回の記事の15.4-19、20項の、ほとんどコピーです。)

17.5-1.3スミスモーター車よりも先にEVが特殊自動車認定されていた!(1921年4月)
 スミスフライヤーや、フロントカー式の荷物運搬用オート三輪等、スミスモーター系の簡便な車両が、「警山第104号」で特殊自動車として認定された、その8ヶ月前の1921年4月28日付けの、「警視第90号」(「電気自転車に関する取締令適用に関する件通牒」)で、ドイツから輸入された電気式サイクルカー、「スラビー・ベルリンガ―」(「Slaby-Beringer electric car」=1919~1923年にかけて、ベルリンのスラビー博士が考案し、製造された、下の写真のクルマ、が、「電気自転車」(「自動車」でない)として、特殊自動車認定されていたという。
(画像は以下より https://timelineimages.sueddeutsche.de/slaby-beringer-elektrowagen-1919_00243886 )
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https://timelineimages.sueddeutsche.de/T/slaby-beringer-elektrowagen-1919_00243886_p_259868.jpg
 その経緯を例によって、岩立氏の(③-12)からの引用で確認する。
『この電気式サイクルカーが、大正10年(1921年)頃よりエスビー(S.B.)の略称で、日本で販売されたという記録が数多く残っている。輸入台数は300台に上ったとする記述もあるが、その数字の根拠は定かではない。』本当に300台だとしたら大変な台数だ。
 参考までに(㉕P141)によれば、このエスビーを『これから本格的に販売しようという矢先、不幸なことに関東大震災が起こって、』その被害は『不幸にも横浜にあった輸入電気自転車が約600台ほど焼失した』と、当時の業界紙が報じていたという記述がある。
 関東大震災により壊滅した市電網の臨時代替用として、東京市電局がフォードから緊急輸入して仕立て上げた「円太郎バス」の約800台が、画期的な台数だったと言われた時代だ。300台でも驚きだが、さらに600台となるとほとんど信じがたいような数字だ。(ちなみに参考までに、下記資料によると、EV「テスラ・モデルS」の2015~2020年の輸入台数総計が1,826台だ。もっと多い気がしていたが。https://www.businessinsider.jp/post-251790 )
 だが具体的な台数はともかく、今日我々が想像する以上の台数のEVが、当時の日本に輸入されていたことは、どうやら間違いなさそうだ。(③-12)から引用を続ける。
『エスビー車の東洋総代理店を務めたのは「日独電気自転車商会」であった。(中略) この会社が起こしたエスビー電気車販売と無免許運転許可願に対する内務省警保局よりの回答が、警視第90号(大正10年4月28日付)となったわけだ。』(③-12、P172)
 さらに丸写しを続ける。『警視第90号の内容を簡単にいうと、「エスビー電気車の外観は普通自動車と似ているが、操縦はむしろ自転車よりも簡単で(左手一本のレバーハンドルで操舵した)、特別な練習も不要であり、最高速度が10km/h以下と交通上の危険も少ないようだ。したがってこの自転車は、自動自転車(オートバイ)と同様に特殊自動車として扱ってよろしい」との通達だった。』(③-12、P172)
 この前例があったので、警山第104号の文中に『当省令自動車取締令の適用に付いては、本年四月二十八日警視第九十号を以て申進置候電気自転車と同様、特殊自動車として…』という一節が書き加えられる結果となったのだ。なお輸入元は自動自転車と称したが、『自転車式のペダルはなく、そのため語義からすれば電気自動車でもよかったはずだ。』(③-12、P172)ただ内務省としては自転車の表現の方が、認可する上で、都合がよかったかもしれない。
(ドイツ製の電気式サイクルカー、スラビー・ベルリンガ―の画像は以下(アウディ メディアセンター)よりコピーさせて頂いた。なぜアウディなのか、実はその後、DKW(アウディの前身)に買収されてしまうのだ。)
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https://audimediacenter-a.akamaihd.net/system/production/media/7880/images/59fbfe793fd8aa080b541751f56b0edb9504dd67/HI110055_full.jpg?1581998763
純国産小型EVの先駆、「タウンスター号」
 そしてエスビー車が特殊自動車認定を受けた2年後の1923年、同車を参考にした国産の車体に、日本電池㈱(現GSユアサ)製の国産「ジ―エス」蓄電池と、黒崎電機製作所製の電動機を組み合わせた純国産電動車、「タウンスター」号が、大阪の瀬川製作所の手で誕生する。
(下の写真も(③-12、P168)「轍をたどる」国産小型自動車のあゆみ」岩立喜久雄「国産電気自動車と特殊自動車の始まり」と同じものだが、(web24、P5)よりコピーさせて頂いた、「1923年、国産タウンスター号TSG/TSH型」)
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以下も(web24、P5)より引用
『エスビー電動車を模倣した形で国産の電動車が販売された。これはタウンスター(TS 電動車)と呼ばれ、大阪の瀬川製作所が製造した。瀬川製作所はエスビー社の輸入にも携わっていたということであるのでエスビー電動車をかなり参考にしたものとは考えられる。』
 そしてこの「タウンスター」号も、1924年12月24日、内務省より特殊自動車としての認可を得ている(③-1、P175参照)。
『大阪で生まれたタウンスター号は、ここに紹介した型録と写真、文書を残して歴史の闇に消えた。不成功に終わった多くのモデルの一つではあるが、草創期の国産小型自動車、とくに国産電気自動車の先駆であったことは事実である。』以下は(③-12、P175)
(下の写真と以下の文面も(web24、P6)よりコピーさせて頂いた、日本電池の創業者である二代目『島津源蔵が運転するタウンスター』(web24、P6)。だが、同じ写真で(㉕P138)では『エス・ビー電気自転車に乗る日本電池株式会社島津源蔵(「日本電池100年史」より)』と記されてある。ちなみに岩立氏の考証によれば、『瀬川の手が加わった改造車か、あるいはエスビーを模した試作だったのではないだろうか』(③-12、P174)と推測している。詳しくは(③-12)をお読みください。)
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 国産小型車四輪車の変遷を辿る上で、「フライヤー」号の登場の次に、エポックメイキングな出来事として、当時大量に輸入され、「フライヤー」号に先駆けて、初の小型四輪車として特殊自動車認定を受けたドイツ製小型EV「エスビー」号と、車体はその模倣ながら、革新的な蓄電池製造法(「易反応性鉛粉製造法」というそうです)を発明した、二代目島津源蔵率いる日本電池製のGS蓄電池と、国産モーターを搭載した純国産小型EVの先駆、「タウンスター」号の、2台のEVの登場を掲げておく。

17.5-1.4「横山式コンビンリヤカー/サイクルカー」が切り開いた道
 話題をガソリン(内燃機関)エンジン車に戻す。
 元々は適用除外制度から始まった、特殊自動車だが、無免許で乗れて、税金も安い上に車庫不要、小回りも効き荷物も積める便利の乗り物で、急速に普及し始める。しかしそうなるとやはり、より大きな荷物を積み、強力な登坂力を求めたくなるのが人情だ。
スミスモーター(201cc)の低出力に飽き足らない需要者の声を受けて、製造業者側は内務省警保局に働きかけ行い、スミスモーターに代わる、より強力なオートバイ用エンジンの、法規適用を求めていく。
 特殊自動車の行政を司る内務省側も上記の事情は十分承知していた。しかし当時オート三輪業界への参入障壁が低かった中で、内務省警保局の立場としては、一部の不届きな業者を排除し、市場の無秩序な拡大を防ぐことで、既存の交通体系を安全に維持していくことの方を優先する。
 現在一般的には、「特殊自動車」というよりも、「無免許三輪車」とよばれていることも多いこの制度は、内務省側の視点に立てば、『無免許で乗れる車というよりは検査に合格した車という意味合いが強かった』(⑤P122)のだという。
『その際に、もっとも重視されたのは道路交通の視点から見て、一定以上の性能を持っているかどうかであった。』(⑤P122)
 一部の怪しげな、特殊自動車の申請者(15.4-13項参照)を排除する意味合いが強かったようだ。そのため内務省はこの、ままこみたいな微妙な立場の、この「特殊な自動車」の普及拡大に、当初は慎重な姿勢を示した。⑤から引用を続ける。
『無免許車の許可が車輛ごとでなく、検査に合格した製造業者に下されたことも、車両の性能を重視する発想からきたものであったと思われる。というのは、車両検査の際には車体自体だけでなく、製造業者が検査車輛以上の性能を備えた車両を持続的に供給できるかどうかについても調べており、後述するように、三輪車の性能が問題にならなくなる30年にはこの方法が変更されたからである。』(⑤P122)
認証試験の始まり(「青写真時代」)
 そのため所管の内務省警保局は、製造業者側の思惑とは裏腹に、特殊自動車の認証手続きをより厳密化し、審査(認可)のハードルを引き上げる方向に動く。
 ある不心得な許可申請をひとつの契機に(15.4-13項参照)、内務省警保局が行なう、特殊自動車の認証手続きに変更があったのは1924年以降のことだった。
 申請(許可願い)の際には『必ず詳細な構造説明書と共に、設計図の青焼きの添付が義務づけられた。のちに三輪自動車業界の開拓者達は、この3馬力時代、5~6年間のことを「青写真時代」と呼んで懐古したが、青写真が申請上、必要不可欠となった時代をさしたものだ。』(③-3、P170)しかも、書類審査だけでは終らなくなった。
 書面による審査と共に、『特殊自動車の製造者からの出願に対しては、とうとう一台ずつ車両を持参させ、実地試験を行うこととした。つまり認証試験の始まりである。そして審査に合格した車両については、車両名、製造者名、仕様を明記し、青写真を添付して、全国の各地方庁へ「この種の車両に対しては無免許運転を許す」と一々通牒するようになった。現在の型式認定の原型に近いものだ。』(③-3、P171)
 一方の製造業者側も『内務省警保局からの認証を得るため、万事これに従い、また内務省警保局も真摯に各車を審査していた。』(④-11、P171)交通体系全体に支障が起きないよう、官民が協力して、特殊自動車の性能確保に努めていたわけだ。
 そういった、内務省と製造業者の間で、真剣なやりとりが行なわれていた中で、次に記す、神戸自転車業界の祖と呼ばれた有力業者、横山商会の横山利蔵と、内務省警保局の担当官、小野寺季六の間で行われた一連の折衝は、国産小型車の歴史を記すうえで特筆すべき出来事となった。(以下は前々回の記事の15.4-14項~15.4-18項の簡略版のコピーだ。小型四輪車の歴史からすれば“前哨戦”であった、リヤカー式オート三輪の話から始めるが、元ネタはこの項“も”、岩立氏による③-11と③-13です。詳しくはぜひそちらをご覧ください。)
「横山式コンビンリヤカー」が切り開いた道
 この項の主人公の、神戸の横山利蔵率いる横山商会は、『明治30年創業の自転車輸入業の老舗で、大正8年(1919年)5月に株式会社横山商会と組織変更後は、オートバイ及び部品の輸入、また国産自転車部品の輸出を行った。』ちなみに商標名の「コンビン」は、「Convincible(確信できる)」の略だったそうだ。
横山はまず、ビリヤス自動自転車で、自動車業界に進出を果たす。イギリス製のビリヤスエンジン(247cc及び342cc;15.4-26~29項参照)を搭載したオートバイで、『フレームなどの車体は阪神地方で製作した、いわば半国産車であった。』当時、車両価格を抑えるためにしばしば行われた手法だったという。(以上③-13、P170)
『自転車部品メーカーが数多く点在した阪神地区ならではの背景が見えてくる。英社系自転車輸入業の草分けだった横山商会は、自転車フレームなど部品工場との関係が深く、そのため逸早く三輪車の製造に手が届き、コンビンリヤカーの販売に至ったものだ。』(③-13、P170)
 こうして二輪だけでなく、三輪のコンビンリヤカーの販売にも商売を広げるが、その過程で、『愛知県知事より内務省警保局長にあてた、「自動車取締令適応に関する件」とする、コンビンリヤカー三輪車に対する照会』(1925年8月13日付)が行なわれる。
コンビンリヤカーは特殊自動車とは認めがたく候(1925年10月)
 たまたま愛知県内で走っていたコンビンリヤカーについて、愛知県より内務省警保局宛てに、特殊自動車と扱って良いかの照会だったらしいが、これに対して内務省は1925年10月10日付けで「自動車取締令に関する件回答」として、概略以下の内容の通牒を発した。
『コンビンリヤカーは、これまでの前例、オートサンリンやアイザワ号(15.4-12項参照)などと比べて、排気量が半馬力、全長が四寸、全幅が二寸オーバーしているため、無免許運転許可の特殊自動車とは認められない、との明確な回答であった。また愛知県からの照会には、構造書の写しがあるのみで、肝心な構造図面や操縦法説明書の添付がなく、これでは判定しがたいとした。』(③-13、P170)
コンビンリヤカーは特殊自動車として取扱い相成度候(1926年1月)
(③-13)からの丸写しで恐縮だが、以下からも引用させていただく。
『右の愛知県と内務省とのやりとりをはたして察知したものかどうか、神戸の横山利蔵はすぐさま大正14年(1925年)9月24日付けで内務大臣あての陳情書を送っている。』(③-13、P170)
 横山は内務省から正式にNGの回答が出る前に動いている。内務省とはこの件で折衝があっただろうし、事前に感触をつかんでいたのだろう。内務省宛てで、コンビンリヤカーを特殊自動車として扱ってほしい旨の陳情書を行ったがその内容は、(③-11、P171)によれば、用意周到なものだったという。以下ダイジェストで記すが、詳しくはぜひ元ネタの方をご確認してください。
 用意した書類だが、添付を指摘された構造図面や操縦法説明書は当然ながら、大阪工業試験所による試験成績書と、三宮警察署による速力証明書まで揃えて提出した。構造書に記載のスペックも、エンジンは同じビリヤス製ながら、排気量が半馬力オーバーしているという指摘を受けて(見越して)342cc型(3馬力半)から、247cc型(2馬力半)型に変更している。車体寸法も全長8尺、全幅3尺、変速機は前進2段等、内務省の“前例主義”を見越して、過去の無免許許可車(アイザワ号など)にほぼ収まるスペックであった。
 この“反撃”に対して内務省警保局は、1925年11月14日付けの通牒で、三宮警察署の速力証明には、試験環境データ等が欠けている旨、兵庫県知事宛てに通知する。かなりの“お役所仕事”的な対応にも思えるが、ただ今まで見てきたように、元々オート三輪系の特殊自動車の発端は、自動車取締令の解釈を巡っての特例処置の扱いから始まった。その後“拡大解釈”を繰り広げつつ、市場と共に成長していくことになるのだが、内務省側としても、要所要所で厳格な審査を行うことで、一定の歯止めをかけておきたかった気持ちは理解できる。以下(③-13、P171)から引用する。
『なんとも厳密なお仕事ではあるが、これを受け取った横山利蔵は、また一念発起したことだろう、翌月12月8日、再度周到な実地試験を施行し、警保局の疑問にすべて沿った試験結果を、兵庫県知事を通して回答した。』
その試験結果を受領した内務省警保局は、1926年1月25日付けで、横山式コンビンリヤカーを、特殊自動車として扱う旨の通牒を発した。
 コンビン号よりも以前に、ビリヤス系エンジン搭載車の先例が、阪神地区で、いや全国でも発生していた可能性は高いが、内務省警保局と相対して正式に認可を得た先覚者は神戸の横山利蔵であった。こうして三馬力半時代の車輛規格は、横山利蔵のビリヤス系リヤカーによって露払いが行なわれ、大きな前例となっていくのである。(③-13、P170+P171)
(下の「コンビンリヤカー」の画像は(③-13、P175)よりスキャンさせて頂いた。)
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四輪の「コンビンサイクルカー」も特殊自動車として認定される(1925年12月)
 しかし横山利蔵の功績は、以上に留まらなかった。以下も(③-11、P175)より引用する。
『さて神戸の横山利蔵は、前述の三輪コンビンリヤカーと同時に、じつは四輪のコンビンサイクルカーも制作していた。いわばコンビン号の四輪版であった。ビリヤスの2馬力半、247ccを搭載したこの豆自動車は、輸入エンジンを利用した国産サイクルカー(四輪)として初めて、特殊自動車の認可を得ることになる。』以下『難路を超えた申請の経緯』を、(③-11、P175~P177)を元に簡略にして記すが、何度も記すが詳しくはぜひ原文を参照して下さい。
 まず横山が四輪版の豆自動車、コンビンサイクルカーを作った背景だが、その7年ほど前、アメリカから輸入された例の“走るスノコ板”、スミスフライヤーに、輸入元の中央貿易が見た目は立派な和製ボディをかぶせた豆自動車「フライヤー」号が、意外なヒットとなったことがあったと考えられる。(17.5-1.4項参照)
『このとき横山はフライヤーと同じ車体寸法で、同じような体裁の豆自動車を製作すれば、(スミスフライヤーのように)適用除外が受けられると判断したのだろう。つまりフライヤーの後釜を狙った国内制作車がコンビンサイクルカーだったわけだ。』(③-11、P175)スミスエンジンでなく、より出力のあるビリヤスエンジンでの適用除外突破を狙ったのだ。
 ところがこの横山の試みに対して、今度は内務省でなく、なんと横山の地元、兵庫県と神戸市警察が『横山利蔵と内務省の間に分け入って、特殊自動車の承認をふさぎとめようとした』のだという!
 その反対理由だが、当時『兵庫県下では「これら除外の」特殊自動車による事故が度々起こり始め、警察は手を焼いていた』という、これも地元警察の立場からすれば、至極もっともな理由があったようだ。(以上③-11、P176)
 既述のように、当時の特殊自動車の認可の可否は、内務省警保局と車輛製造業者や販売業者だけでなく『地方長官や警視庁も含めた三つ巴のやりとり』(③-5、P164)で決定されていた。地方長官や警察は、地場産業振興のため好意的に受け取る場合だけでなく、その逆に出る場合もあり、コンビンサイクルカーの場合、後者だったようだ。
 その後の途中経過は省略するが、内務省警保局は『じっさいに横山のコンビンサイクルカーを東京へ持参させ(恐らくは皇居前広場周辺において)実地試験を行う』③-11、P176)という、厳密な審査を行った結果、例の『普通自動車と比べて、簡便かつ安全であるからよいだろうとする』、スミスフライヤーの際と同じ理由付けで、内務省警保局は、1925年12月20日付けで、横山式コンビンサイクルカーを、特殊自動車として扱う旨の通牒を発した。

以下まとめとして、(③-11、P177)より引用する。
横山が開けた小さな風穴は、豆粒のまま終わらず、その後大きく広がっていった
『以上のように横山式コンビンサイクルカーは、3馬力時代の四輪乗用車の認可においても先鞭をつけることになった。やがてコンビン号の後を追いかけて、3馬力、5馬力時代の三輪・四輪乗用車が次々と出願され、のちの750cc時代の小型四輪自動車の土台が、徐々に築かれていく。コンビン号自体も、昭和7年には、500cc時代の小型乗用車へと進化していた。
 横山利蔵がここで開けた小さな風穴は、けっして豆粒のまま終わらず、大きく広がっていったのである。』
(③-11、P177)
 下の写真がその「ヨコヤマ コンビン サイクルカー」で、今日の目から見れば正直なところ、チープなアッセンブルカーの一例にしか見えない。しかし“自動車史”を記す上で、何に重きを置くかの優先順位は、単純に技術の優劣や販売台数の序列だけではないと思う。3馬力時代の小型四輪乗用車の新たな道を切り開いた先駆者として、このちっぽけなサイクルカーの誕生を、まったくの私見だが、3番目にエポックメイキングな出来事だとしたい。
(写真は「轍をたどる」国産小型自動車のあゆみ」「三馬力時代のビリヤス系三輪と四輪」(1925~1929)岩立喜久雄 月刊オールド・タイマー(2007.06、№.94、八重洲出版)」(③-11)のP168の写真をスキャンさせて頂いた。
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その後の経過を(③-3、P173)から補足すると、
『 ~ 3馬力以内という特殊自動車の規定が、いつのまにか3馬力半以内とすり変わる地方例が出た。結局のところ2衝程のビリヤスについても、3馬力半(342cc)までが特殊自動車として認められるようになる。嚆矢となった横山式コンビンリヤカー(247cc)は、一番槍ゆえに少々割を食ったかたちだ。この3馬力時代のことを、3馬力半時代と呼ぶ例(地方令から)があったのも、右のような理由だったのである。』
 再三記してきたが、特殊自動車の定義自体がもともと、やや曖昧なものだった。そのため認証仕様の詳細部分は、実態と照合しつつ『逐次問題提起され、修正されていった』(③-13、P168)。(内務省からすれば身内の)地方の裁量権を行使されて、後方から弾が飛んでくることもある。内務省警保局担当官の小野寺らは、これらの苦い教訓を、次の5馬力時代、次の次の750cc時代の認可仕様に生かしていくことになる。
 下は「特殊自動車3馬力時代の代表的なエンジン」の表で、いずれも輸入モノだ。横山のコンビンリヤカーが先鞭をつけた形で、スミスモーターに代わり、よりパワフルなオートバイ用のビリヤスエンジン搭載のリヤカーが主流となっていくが、その後すぐ後に、同じくイギリス製のJAPエンジン時代が次に到来する。
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500cc/750cc時代の小型四輪各社について
 例によってかなり長めになってしまった。ここからようやく、ダットサンやオオタが登場する500cc時代の小型四輪車の話になる。初めから(③-6、P166)の丸写しで恐縮です。
『無免許運転が認められた特殊自動車の部類に属する先駆的な国産小型四輪自動車については、古く三馬力(350cc)時代より、横山式コンビン号(大正14年;1925年)などの草分けが登場していた。昭和5年の五馬力(500cc)時代に進むと、以下の小型四輪各車が出現した。』
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引用を続ける。『~各車の多くは、この時代に勃興した三輪自動車用の輸入エンジンを流用した、手作りのアッセンブル(組立)車であった。未だ旧態依然のサイクルカー的な、一人乗りないしは二人乗りの乗用車が多く、実用に耐え得る運搬車の類は少なかった。』(③-6、P166)
 上表にある横山商会(横山式コンビン号)ついては前項で、モーター商会(MSA号)については(15.4-27項)を参照いただきたい。
『だが昭和8年に入ると、三輪業界全体の低迷を受けて、小型四輪の製作工場も激減した。』(③-6、P166)
 昭和恐慌と、フォード/シヴォレーのKD生産車との圧倒的な競争力の差で、1933年の時点では、『五馬力時代に登場した四輪各車は、すでにその多くが姿を消していたのである。』
 下表は(③-6、P170)の記述を元に列記した表だが、アッセンブル(組立)車の時代が既に終わりを告げた1936,7年頃になると、上表からの“生き残り組”はダットサン、オオタ、京三及び筑波(企業母体は異なるがローランドの後継として)だけだった。
 以下も前々回記事の(15.4-11項)の再録だが、たとえば、JAPエンジン(3馬力)時代に栄え、上表にも名前のある、MSA号で有名な東京のモーター商会(15.4-27項参照)の企業規模は、1932年1月の統計では、従業員数が12名にすぎず、同時期の中小自転車部品製造企業より小さかった。『これは、同社がエンジンだけでなくほかの部品もほとんど製造しておらず、組立のみを行ったことを意味し、こうした状況は半国産企業に共通していたと思われる。』(⑤P142)日産横浜工場が、日本初の自動車量産工場として本格稼働を始めると、量産規模の敷居が高くなり、小型四輪車市場に於いては、小規模メーカーのほとんどが淘汰されてしまう。
 ダイハツについては既に記したので(15.7-27項参照)、残りのオオタ、京三及び筑波(ローランド/みずほ)の3社について簡単に記して、今回の記事を終えたい。それではまず初めに、オオタ自動車から。(ちなみに下表の「国益号」は、3馬力オート三輪時代に全盛を誇った「ウェルビー号」(15.4-33項参照)の名称変更だ。詳しくは(③-15、P170~P171)を参照されたい。)
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17.5-2戦前のダットサンのライバル、オオタについて
 オオタ自動車と「オオタ」号についてはwikiがかなり詳しいし、内容も充実している。そこで超手抜きだがwikiをコピーしてさらに簡略化し(=この記事中のオオタ車解説の存在価値がほとんどなくなるが!)、+若干の補足をしておく。

17.5-2-1創業者の太田祐雄について
 茨城県出身の太田祐雄(1886年 - 1956年)は小学校卒業後、酒造家に奉公に出されたが、生来の機械好きと手先の器用さから、蔵の主人に見込まれて酒造工場の機械化に手腕を発揮した。長じて21歳で上京し、芝浦製作所で工員として本格的な工作技術を身に着けた。
 1910年からは、元軍人の男爵・伊賀氏広による飛行機開発研究を手伝った。しかし伊賀の飛行機開発は、試作機の横転事故で太田祐雄が負傷するなど失敗続きで、テストを繰り返しても飛行することができず、1912年初頭に伊賀は航空機開発断念に追い込まれた。
(まったくの余談というか、興味本位になるが、この「伊賀男爵」(伊賀氏広)という人物がかなり面白い。失敗に終わった伊賀のプロジェクトに関わった、太田はじめ関係者も痛手を被ったが、『伊賀男爵のほうは、さらに無念だった。「伊賀式飛ばず」の新聞記事を見た土佐の古老達は親族会議を開き、御家の将来のためと家督を嫡出に譲り謹慎させられてしまう。~(さらにいろいろとあり)~ ついには隠居を余儀なくされた』(③-14、P169)。しかしその後立ち直ったようで、wikiによれば「日本デイゼル」の設立に参加、設立後は営業部長を務めたという。画像は以下のブログの「板橋の鳥人・伊賀氏広」第三話より http://akatsuka-tokumaru.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/index.html。)
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http://akatsuka-tokumaru.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2008/03/13/1.jpg
 1912年6月、伊賀が開発用に所有していた足踏み旋盤を譲受し、これを元手として巣鴨郊外に個人経営の「太田工場」を開業する。太田工場では、教材用の小型発動機、模型飛行機、さらにオートバイ用ピストンやピストンリングの製造を行なった。

17.5-2-2最初の試作車、「OS号」の完成
 1917年には東京市神田区の柳原河岸に工場を移転、自動車や船舶用エンジン修理を本業とする傍らで小型自動車の試作に取り組む。
 1918年には友人・矢野謙治らが『イギリスの雑誌などを参考に、約950ccの水冷4気筒OHVを設計し、その図面を太田の所へ持ち込み、試作してみることを勧めた。これが太田の1号車、OS号に搭載するエンジンとなる。』(③-14、P173)
 1919年、矢野らが設計したエンジンを、太田は独力で完成させて、シャシーも製作し、ボディを架装しないままのベアシャシーに座席のみを取り付けて東京-日光間往復を敢行した。オートモ号、リラー号や後のダットの場合もそうだったが、この時代の真っ当な小型自動車の開発者たちは、実路による耐久試験という関門を自らに課していたのだ。
 その後、資金難から計画は頓挫しかけたが、資金協力者が現れて、1922年、試作シャシーに4座カブリオレボディを架装し、最初のオオタ車となる試作車「OS号」(OHV4気筒965cc9馬力・全長2895mm・車両重量570kg)がようやく完成、公式に登録されてナンバープレートも取得した。
 1923年、OS号を市販のため生産化すべく、出資者を集めて「国光自動車」を設立したが、同年9月1日の関東大震災で工場設備が全焼、自動車生産計画は頓挫した。OS号は祐雄の処女作で1台のみの試作車ではあったが、完成度は一定水準に達しており、祐雄自身が常用して、1933年(昭和8年)までの10年余りで約6万マイル(約96,500km)を走破した。
(以下からの2枚の画像は、「タマチ工業」のHPよりコピーした。https://tamachi.jp/about/history.php 下は「OS号」の写真だ。名前の由来はO=太田、S=祐(すけ)雄の姓名から名付けられた。)
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https://tamachi.jp/about/images/history-img1922.jpg

17.5-2-3小型車市場への再挑戦
(以下もwikiの簡略版で恐縮です。)1930年、神田岩本町に工場を移転、個人経営の太田工場を再開業して再起を目指す。そしてダット自動車製造と同様に、小型車の規則改定(350cc⇒500cc)の動きを受けて、水冷直列2気筒サイドバルブ484cc・5馬力(法規制の出力制限による公称)の「N-5」型エンジンを開発、OS号の4気筒エンジンを元に半分にしたようなものであったが、このエンジンは1930年の博覧会に出品され、海軍に参考購入されている。
 翌1931年、N-5エンジンを搭載した四輪小型トラックを試作、再度自動車開発に乗り出した。もっとも経営は相変わらず苦しく、すぐに市販自動車を市場に提供できる態勢にはなかったため、太田工場ではエンジンの単体販売および開発を優先した。

17.5-2-4 750ccオオタ車の完成
(またまたwiki参考で恐縮です。)祐雄は困難な状況の中で、小型車の規制緩和を見越して、やはり水冷直列式サイドバルブ型だがより上級クラスの4気筒エンジン開発を進める。
 1932年には748ccのN-7型と897ccのN-9型を完成させる。いずれもN-5に比べて重量増大を僅かで抑えつつ排気量・出力の大きな4気筒エンジンとして成立させており、祐雄の意欲を伺わせるものであった。N-7エンジンはほどなく排気量を736ccに縮小したが、戦後まで排気量拡大・強化モデルを生みながら生産される。
 1933年、750ccへの規定改定を見越し、750cc級N-7型エンジン搭載の小型自動車市販化に取り組む。梯子形フレームとリーフスプリングによる前後固定軸、機械式4輪ドラムブレーキという保守的設計のシャーシをベースとして、当時の常道として貨物車(トラックおよびバン)が製作されたほか、4人乗り乗用車も試作された。
 1933年8月、自動車取締規則が再度改定されて、同年11月以降、無免許運転許可車両の上限が750ccに拡大された。これと相前後して完成したオオタ750cc車は、太田工場での小規模生産ではあったが、1933年中からトラック・バンをメインとして市販を開始する。500kg積みのトラック・バン(カタログではそれぞれ「運搬車」「配給車」と称した)の他、4人乗りの2ドアセダンおよびフェートン、2人乗りロードスターがラインナップされた。これらはすべて小型車規格の全長2.8mに収められていたが、他にバンには小型モデルとパーツを共用しながら荷室を長くした全長3.03mの「中型配給車」もあり、このタイプのみ規格外で自動車運転免許を要した。初期の課税前価格は、トラック1,750円、セダン以外の乗用モデルと標準バンが1,850円、セダンが2,080円であった。
 750ccオオタの市販化に至ってからも、慢性的な資金不足は続き、太田祐雄個人の経営に過ぎない零細な太田工場の生産体制強化を困難としていた。当時の従業員は15人程度という町工場レベルで、1933年から1935年までのオオタ車累計生産台数は、貨物車と乗用車を合計しても160台に満たなかった。

17.5-2-5高速機関工業の設立
(相変わらずwikiです)この「太田工場」に出資することで飛躍の機を与えたのが、自動車産業進出を目論んだ三井財閥であった。これは太田祐雄の協力者の一人である藤野至人の熱心な尽力によるものである。
 当初、三井側はオオタにさほど関心を持っていなかったが、鮎川義介が日産自動車を発足させ、新興財閥「日産コンツェルン」として伸長しつつあったことが、方針転換のきっかけとなったと言われる。三井ではダットサンとオオタの両車を実地に比較し、品質面でもダットサンを凌駕するものであることを確認してから、出資に踏み切った。なお(⑪P45)によれば『(三井家の)三井高尚が個人的に応援したのが実情で、例外的な三井の資本参加だった。』との記述もあることを追記しておく。
 1934年から三井物産がオオタ車の販売代理店業務を開始し、続く1935年4月3日、三井は資本金100万円を投じて「高速機関工業㈱」を設立、「太田工場」の業務を承継し、園山芳造を代表取締役専務に送り込んだ。祐雄は取締役技術部長、野口豊は同じく取締役工務部長に就任した。
 高速機関工業は直ちに生産設備の拡張に着手し、翌1936年4月・東京市品川区東品川に、グリーソンの歯切機などアメリカやドイツから輸入した最新の工作機械を備えた、年産3,000台の能力を持つ新工場を竣工させ、従業員は一挙に250人に増えた。
(新会社は1935年に設立したが、新工場の建設が遅れたため、量産体制が整い、その披露式が行われたのは1936年6月29日だった。(㉖P226)だが下の写真の工場の様子からすると、日産横浜工場との規模の違いは歴然としている。年産3,000台という数字は、自動車製造事業法の許可会社となるための一つの基準で、実際は『月産100台規模の工場』(⑩P52)だったのだろうか。)
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 太田祐雄の長男・祐一は当時のヨーロッパ製新型車の斬新な設計に強い影響を受け、オオタ乗用車の設計を進歩的なものに改めていく。
(下は河口湖自動車博物館所蔵の、1937年型オオタOD型トラックで、画像は以下のブログより。https://minkara.carview.co.jp/userid/142472/blog/14472540/)
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 1937年型オオタ乗用車OD型には、換気性を良くするノンドラフトベンチレーション(三角窓)と、剛性を高めるX型クロスメンバー入りフレームが与えられていた。ボディは2ドアスタンダードセダン・デラックスセダン(ピラーレス構造)・フェートン・ロードスター・カブリオレと5種類も用意され、梁瀬自動車(現・ヤナセ)で外注製作された(梁瀬は「高速機関工業」に出資もしていた)が、デザインは祐一自身によるものだ。
(下は個人所有の1936年OD型フェートンで、画像はwebCGより。wikiではオオタを「当時の国産車の中では飛びぬけてモダンでスタイリッシュであった。」と絶賛しているが、個人的な好みでは、ダットサンのデザイン&配色の方が若干好きです。現存する個体が少ないので何とも言えないが。
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(以下の2枚の写真は下記のブログより https://minkara.carview.co.jp/summary/13069/58687/ 
 下は1937年のOD型フェートンだろうか。以下(②P178)より『~それでも、オオタ号が小型四輪車として存在感を示すことができたのは、性能的に優れていたからである。』後述するように、1938年からは航空機部品の下請け工場に転換されられてしまうので、戦前のオオタ車の量産期間はごく短かった。よりヨーロッパ調のように見える、完成度の高そうな1937年型の乗用車を見たかったが、現存しない?のが惜しまれる。)

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(wikiの丸写しを続ける。)とはいえ当時の日本では部品産業や工作技術も未発達であり、オオタ乗用車も2ベアリング・サイドバルブ式エンジン・4輪固定軸式サスペンション・木骨構造のボディ・前後機械式ブレーキという、トラックと大差ないスペックのままであった。1930年代後期の国際水準には到底追いついておらず、祐一は後年「不本意な製品であった」と回想している。
 またライバルであった日産自動車の「ダットサン」と比較すると、三井財閥の支援をもってしても生産規模には依然として大差があった(両車の最盛期であった1937年の年間生産台数は、オオタの960台に対し、ダットサンは8,752台で、文字どおり桁違いであった)。凝った設計による高い生産コストもあってオオタ小型乗用車の市場規模は自ずと限られたものとなり、販売の主力はあくまでトラックであった。
 一方日本のモータースポーツ原始期の1930年代後半にはモーターレースでも名をはせた。太田祐雄はモータースポーツ創成期から強い関心を抱き関与し続けたが、オオタ製のレース車はダットサンを凌駕していた。
(1936年6月に開催された日本最初の自動車レース(第1回全国自動車競走大会)の小型乗用車クラスのレースで、オオタはダットサンを破り勝利する(関連17.4-4項)。左側の「ブルーバレット号」が優勝車で、ドライバーは太田祐一だ。)
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 戦時経済体制に移行しつつあった1937年、資本が三井物産から立川飛行機に移り、航空機部品や消火装置の製造がメインとなっていく。『高速機関工業は年産能力3,000台という触れ込みであったが、新工場の完成が翌年にずれ込んだうえ、1938年からは石川島造船所系の立川飛行機の下請け部品製造に転換させられたため、“オオタ”は戦前期遂に量産されぬまま終わった。』(⑬P75)戦後のオオタ車については省略する。

17.5-3京三号と、筑波号(ローランド/みずほ)について
 ダットサン、オオタ以外の小型四輪車として、「京三号」、「ローランド/みずほ/筑波号」以外にも、ライト自動車製造の「スピリット号」、「ライト号」や、大阪の「国益号」、さらには三井物産造船部が試作した「やしま号」などにも触れたかったが、長くなったので掲記の2つを記して、今回の記事を終わりたい。

17.5-3.1京三製作所による「京三号」トラック
 まずは「京三号」を生んだ、「京三製作所」は有名な会社だが、wiki他より要約する。
 1917年、芝浦製作所の技術者であった小早川常雄(創業者)が、東京神田淡路町に東京電機工業として創立し、医療用電気機器、電気機械器具等の製造販売を開始する。その後、「京三製作所」と改名し(「京三」は京橋の京と三十間堀の三から付けられた社名)、本社および工場を鶴見区平安町に移す。
 交通信号機をはじめとする交通インフラ設備の製造販売をメインに活発に活動していくが、電気関係の製品を得意としていた関係で、1928年頃から、同社の数キロ先の横浜市子安海岸でKD生産が始まった日本フォードを始め自動車メーカーに対して、テールランプ、マフラー、電気ホーン、燃料計、配電器、付属品のレンチなどの自動車部品の納入を行っていく。この自動車部品事業への進出が、自社製小型車「京三号」誕生の伏線となっていく。以下からは(③-9、P173)、(㉖P214~P219)等を参考に記した。

17.5-3.1-1「京三号」(500cc試作型)の完成
『フォードからの発注部品が増えるに従い、自社ブランドの小型自動車の可能性を模索するようになった』(③-9、P173)京三製作所は、1930年10月、規制緩和のあった500cc小型車市場の、ただし市場で主流のオート三輪ではなく、四輪の(乗用車でなく)トラックの試作に乗り出す。この方針は終始一貫していた。
そしてその設計は『当時フォード車の車体(ボディ)メーカーとして最有力だった後藤車体製造株式会社(東京芝浦)の後藤久苗の元でバスなどのコーチを製作していた持本福松が京三製作所へ移って行ったものだ。』(③-9、P173)持本福松は東京市電気局で「円太郎バス」の製作に関係したのち、後藤車体に転じた技術者で、(web23、P52~P55)によれば、なかなか優れた技術者であったようだ。
 1931年11月には『同型の見本車五台を製作し、その企業化が社内で検討され、製造方針が決定されるとともに、引き続いて若干の台数が製造された。』(㉖P215)
 同年12月には販社の「京三自動車商会」が発足し、翌1932年3月から上野公園湖畔の産業館で開催された第4回発明博覧会に出品し、初めて一般公開された。(③-9、P173)
 ただし『この時点ではまだ車体寸法が五馬力規格に収まっておらず、内務省の認可は得ていなかったようだ。正式な販売は後のこととなる。』(③-9、P173)
 500cc時代の京三号はまだ試作の域を出ず、水冷単気筒エンジンが非力なこともあり売れず、Vツインエンジンを開発し、商品力を大きくUPした次の750cc時代から、販売が本格化する。
(以下の「京三号」の3枚の写真はすべて「京三製作所」のHP(web25)よりコピーした。下の500cc時代の京三号は、確かに少々大柄に見える。)
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https://www.kyosan.co.jp/images/company/pagePhoto_history_01.jpg

17.5-3.1-2改良型「京三号」(750cc量販型)の完成
 1932年1月、新規開発のVツイン750ccエンジンを積んだ改良型の「京三号」が完成する。持本福松が設計を主導したこのエンジンは、(web23)の考察によれば、同じVツインでも、たとえば蒔田鉄司設計のくろがね(日本内燃機)の、ハーレー模倣から派生した空冷狭角45°Vツインとの比較で、振動面他で有利な水冷90°Vツイン型を採用した、当時の日本では珍しいオリジナル性の感じられるエンジンだったようだ。この車種を本格的に量産させることに取り組む。
(下は1938年型というので750cc時代の最終型の「京三号」だ。)
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https://www.kyosan.co.jp/images/company/pagePhoto_history_03.jpg
 1937年6月には「トヨタ自動車工業㈱」、「太陽商会」の出資を得て、「京三自動車商会」を三社共同出資の「京豊自動車工業㈱」と改称、かつ増資して資本金1,000万円とした。この増資によって横浜市鶴見区市場町に新工場が建設され、同年12月には「㈱京三製作所」本体から京三号ならびに小型部品製造部門を分離し、その部門を「京豊自動車工業㈱」に移譲し、独立して生産が行われるようになる。(以上㉖P216)
(web23、P55)には『京豊自動車工業とは電装品に関して京三の協力を仰いだトヨタ自動車工業と京三自動車商会、大洋商会との共同出資により 1937 年、設立に到った会社であった』という記述があり、同社の役員には、豊田喜一郎が名を連ねていた。(㉖P216)
 現在の京三製作所のHPには、『昭和9年(1934年)、当時の株式会社豊田自動織機製作所(後のトヨタ自工)研究時代の発足から協力し、~』という記述があり、トヨタの製品ラインナップになかった、750cc以下の小型車の製造部門と、大衆車用を含む電装部品分野において、両社は協力関係を築いたようだ。
 以上のように、本格的な量産体制構築に向けて、手を打ってきたのだが、しかし時すでに遅し、1937年の日中戦争開始以降、使用燃料、生産資材の節約等の理由から、小型車生産に対して軍部から圧力がかかり、生産困難な状況に陥り、1938年 8月、「京三号」は生産中止を決定する。(㉖P217)によれば1931~1938年の間に生産された「京三号」は総計で、約2,050台とのことでオオタにほぼ匹敵する、かなりの台数だ。そのほとんどが750cc型だったという。
(下は京三製作所の手で近年レストアなった、「京三号」1937年型だ。質実剛健だが、外観からは完成度は高そうな雰囲気が感じられる。)
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https://www.kyosan.co.jp/images/company/img_gallery_03.jpg

17.5-3-2前輪駆動小型四輪車の先駆、筑波号(ローランド/みずほ号)
 前項の「京三号」が、地味で質実剛健な小型四輪トラックだったとすれば、この項で記す日本初の前輪駆動小型四輪車、ローランド/みずほ/筑波号はその正反対の華々しさで、『五馬力時代の東京で最も話題になった四輪の一つ』(③-9、P173)だった。
 生産台数はもっとも台数の多かった750cc型の「筑波号」でも、オオタや京三号の1/10にも満たなない130台程度にすぎなかったが、派手な活動だったためか残された資料も豊富で、以下(③-9、P173~P175)を基調に、(㉘P496~P499)、(㉖P237~P248)、(㉚P117~P121)及びwebの(26)などを主な参考にしつつ記す。

17.5-3-2.1生みの親、川真田和汪について
 まずは、ローランド/みずほ/筑波号誕生の立役者、川真田和汪(かずお(かずおみ?);本名は③-9、P174によれば川真田和夫?)について。1901年(明治34年)徳島県生まれで、幼いころ一家で朝鮮の京城(現在のソウル)に移り住む。冬の凍結路をバイクで走りまわり、『この「練習」が、後に日本のオートレース史に残る“逆ハン”走行を生み出したことは、当時の彼とて夢にも思わなかったに違いない。』(web26)
 本土に戻ってからは、神戸のオートバイ店で修業の後に1922年、21歳でオートバイ競走会に出走し、以後7年間、主にハーレーに乗りトップレーサーとして大活躍する。(③-9、P174参考。他の資料では履歴が若干異なる。)
 華やかな選手生活の一方で、次のステップのために独学で内燃機関の勉強も始めていた。川真田が最初に志したのはオートバイの製造だったらしい。この時期に、黎明期の日本の自動車工学の権威で、東大機械科で豊田喜一郎の同窓でもあった、東大助教授隈部一雄の知遇を得たようだ。
 しかし1929年頃、アメリカの有名な前輪駆動車、コードL29と出会い、魅了される。自分で2年ほど乗り回し、バラして、組み立ててまた乗るということを繰り返しつつ、次第にコード車を参考にした、小型の前輪駆動車の構想を思い描く。(㉚P117+③、P174)
(下の画像はhttps://www.supercars.net/blog/1929-cord-l-29/ より、低重心でスタイリッシュな前輪駆動車、1929年製のコードL29だ。このクルマに関しては、以前当ブログで記事にしたのでそちらを参照されたい。http://marupoobon.com/blog-entry-139.html
直列8気筒4,934 cc 125 ㏋エンジン(同じ企業グループ内のライカミング製)のアメリカンサイズのクルマだ。)

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https://supercars.net/blog/wp-content/uploads/2016/03/1929_Cord_L291.jpg
(でもやはりコードと言えば、次の810/812の方がメチャクチャかっこいい。画像は以下より。
https://www.autoevolution.com/news/money-can-buy-you-cord-automobile-trademarks-they-re-for-sale-86932.html )
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https://s1.cdn.autoevolution.com/images/news/money-can-buy-you-cord-automobile-now-its-for-sale-86932_1.jpg

17.5-3-2.2「ローランド号」試作車の完成
 1930年7月、意を決して名古屋市南区の「高内製作所」の工場を借り受けて、その開発に着手、工場主の内藤正一らとともに試作に没頭し、1年後の1931年7月に『まだ世界に類例の少ない小型前輪駆動車、「ローランド号」の試作一台を完成した。しかし、さらに研究を要する余地と改造の必要があり、改めてモデル車五台と部品五十台分を製作し、同年11月上野で開催された自動車市場博覧会へ試作五台中のフェートン、スポーツカー、ライトバンの三種を出品し一般から多大の賞賛を博した。その一台は東大助教授隈部一雄工学博士の推薦により、高松宮殿下の御買上の栄に浴したが、都合で一時研究製作を中止せねばならなくなった。』(㉘P497)以下からは(③-9、P175)から要約する。
 川真田は1931年4月以降、東京に住居を移し「ローランド自動車商会」を設立して出資者を募る活動を行うが、時代は昭和恐慌期で、事業化にまで至らなかった。
『前輪駆動という先進性だけが話題を呼び、一時的に注目されたが、そのじつ堅実な内容ではなく、販売できる完成度とはかなり隔たりがあったのである。』(③-9、P175)ローランド自動車商会は突然解散し、ローランド号が内務省の小型車の許可をじっさい受けていたかどうか、定かでないという。(③-9、P175)
(下はその「自動車市場博覧会」に展示した『ローランド号とローランド自動車商会の関係者達。向かって左から2人目が川真田和夫。~ 写真は完成したばかりの一人乗りロードスターで、ドアは左側一枚のみ。』(③-9、P172)画像は(web26:「トヨモーターヒストリー NO1」)よりコピーさせて頂いた。)
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(下の画像も(web26)より、「ローランド号と開発スタッフ(昭和6年・東京都芝浦:ヤナセガレージの前にて)で、右端が設計者の川真田和汪、2人おいた4番目が東京帝大の隈部一雄」車体製造はヤナセへの外注だったのだろうか?)
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 以下からは川真田と共に、試作車ローランド号の事実上の共同開発者であった内藤正一について、(③-9、P175)を要約して記す。

17.5-3-2.3エンジン製作者の内藤正一について
 内藤正一は若くして、鋳造技術を身につけて頭角を現し、三菱内燃機㈱向けの部品製作でさらに技術を磨きつつ1923年、24歳の若さで独立し「高内製作所」(後に「みずほ自動車製作所」と改称)を起こす。
 ここでいったん本題からは逸れるが、内藤は後に四輪よりも、オートバイの世界で有名になる。大阪の「中川幸四郎商店」(⇒二輪のアリエル(英)の関西総販売元だったが、1934年頃インディアン(米)350cc輸入エンジンを、アリエル型国産フレームに載せた独自のバイク「キャブトン号オートバイ」を製作)からの依頼で、アリエルのコピーエンジン(400~550cc)を製作、そのエンジンが「キャブトン号」に搭載された。戦前の生産台数は600台だったという。内藤は『名古屋地方の小型エンジンメーカーの先駆であり、また第一人者でもあった』(③-9、P174)のだ。
 戦後は中川幸四郎商店のキャブトン号の製造権を引き取り、疎開先だった愛知県犬山市南山に新たな工場をおこして、キャブトン号オートバイを製造した。(③-9、P175)
『最盛期は1953年(昭和28年)で年間生産台数2万台、資本金1億円、従業員800余名と陸王、メグロと並ぶ大型オートバイメーカーに急成長した。』(web28)内藤は「メグロ」、「陸王」と並ぶあの有名ブランド、戦後の「キャブトン号」オートバイの製作者だったのだ。(1956年に倒産。)
(下の画像は以下のブログ「キャブトンマフラーの元祖!」https://geek-japan.jp/?p=561 よりコピーさせて頂いた。キャブトンの名前の由来『「Come And Buy To Osaka Nakagawa」の頭文字をとってCABTON。日本語訳すると、大阪の中川幸四郎商店まで買いに来てや!』(同ブログより引用)も有名な話です。)
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https://i0.wp.com/geek-japan.jp/wp-content/uploads/2016/10/IMG_0674.jpg?w=1500&ssl=1
 話を戻し、ローランド号と、次項で記す「みずほ号」が搭載した、狭角26°空冷Vツイン495ccエンジンは、岩立喜久雄氏によれば、『英車マチレス、シルバーアロー号のコピーだったと考える』(③-9、P175)と、写真を示して論証している。
 しかしこれには異論があり、(web23、P87)で坂上茂樹氏は『その機関は 26°V型 2 気筒水冷で、最大出力 18HP/4,000rpm.、潤滑はドライサンプであったと伝えられているが、事実としてツインは誤り、かつ、挟み角 25°のV型 4 気筒ではなかったかと想われる。』としている。何らかの確かな根拠があって、そのような説を唱えていると思うのだが(ちなみに前者は2009.02、後者は2014.04の日付なので、前者の内容を踏まえての上だと思われる)、この記事では、エンジンを製作した内藤正一のオートバイ系のキャリアから推して、岩立氏の説の方を「正」ではないか、としておくが、何とも言えません。

17.5-3-2.4内藤正一による「みずほ号」の製造販売
 前前項で記したように、解散したローランド自動車商会では、50台分の部品を用意していた。『川真田らの計画が頓挫した後、その残部品を引き取ったのが、ローランドの共同開発者で、エンジン製作者も務めた内藤正一(1899~1960)であった。内藤は自らの高内自動車工業合資会社で再びこれを組み立て、みずほ号と改称して、名古屋地方で販売しようと試みた。』(③-9、P175)
 しかし、以下も(③-9、P175)の要約となるが、二人乗り(運転者+1人)仕様車で無免許運転許可願いを愛知県に申請するが、一人乗り仕様に座席を変更しないと製造許可が下りなかった。『内務省警保局の考え方が、三馬力時代の当初には「運転者のみ」であったものが、業者の申し出に応じ、いつのまにか「運転者以外一人乗り」と微妙に変化していた~ これが各都道府県に届くとなるとまた見解に相違が出た。』(③-9、P175)
 再三記したが、特殊自動車の認可の可否は、内務省警保局と車輛製造業者や販売業者だけでなく『地方長官や警視庁も含めた三つ巴のやりとり』(③-5、P164)の中で決定されてきた。地方長官や警察の“裁量権”は、法規の明文化が進むにつれて、次第に限定されていくが、みずほ号の許可申請のケースでは、好意的に受け取られなかったようだ。
『しかし、一人乗りでは売れるはずもなく、内藤は食い下がったものの、やがて暗礁に乗り上げてしまった。またしても内藤のみずほ号は、ほとんど売れずに終わったのである。~ 内藤正一は昭和8年(1933年)頃、みずほ自動車製作所と改称し、エンジン専門工場の道に戻っていった。』(③-9、P175)こうして四輪は諦めて、二輪の「キャブトン号」の道へとつながっていくのだ。
(しかし内務省の許可をじっさい受けていたかどうか、定かでなかった(③-9、P175)という「ローランド号」と違い、「みずほ号」は一人乗りの小型車として、内務省の認可を受けて、少数ながら正式に市販された。その事実は大きい。ローランド号の生産台数が20台だと、いろいろな文献で書かれているが、みずほ号の台数分が含まれていたように思える。「ローランド号」と「みずほ号」は明確に区別すべきだと思い、Web上で写真が探したが適当なものを見つけられなかったので、みずほ号の写真を、(③-9、P174;「轍をたどる」国産小型自動車のあゆみ」岩立喜久雄「五馬力時代の小型四輪自動車(1930~1933)」(月間オールドタイマー2009.02、№.104)の画像からスキャンさせて頂いた。
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17.5-3-2.5ローランド号の750cc改良版の実現に奔走
 内藤がローランド号の残務処理の一環として、みずほ号の製造販売に向けて奔走している『一方、川真田和汪はそのころ、いっそう改良を加えた750cc型の前輪駆動式小型車の設計を完了してその図面を東京丸ビルの汽車製造株式会社東京支店へ持ち込んで生産化の希望を訴えた。』(㉚、P117)以下は川真田和汪という人物のキャラクターについて(㉛P23)より 『積極的にいろいろな人物に近づき、知己となって活動の幅を広げていくタイプだった。』
 川真田の“交友関係”の幅広さと、その行動力には驚くばかりだ。上記の汽車製造株式会社の件も、東大隈部助教授の紹介だったという。以下(㉖P238)より、
『さらに、川真田氏は翌昭和七年(1932年)四月頃から約二カ月間にわたり、しばしば㈱石川島自動車製作所を訪れ、渋沢正雄社長や三宮五郎、楠木直道の両氏など上層幹部に会うなどして、いわば新ローランド号前輪駆動車の企業化を実現したいと希望した。
 また、一方では川真田氏が政界の鳩山一郎先生から、若干の資金援助を受けていた関係から、鳩山先生と友人関係にあった前記渋沢社長との話合いもあり、かつ汽車製造㈱の常務取締役東京支店長佐々木和三郎氏が、軍用自動車の関係から、前記三宮五郎氏と顔見知りの間柄にあり、双方乗り気になってその企業化の話し合いが軌道に乗りかけた。』

 こうしてローランド号の750cc新規格小型車版、「筑波号」の製造のために誕生したのが、「東京自動車製造株式会社」(※似たような会社名が多いが、16.3-4項の「東京自動車工業㈱」や、17.3-2.5項の「自動車製造㈱」とは全くの別の会社だ。念のため)で、「汽車製造株式会社」(大阪発祥の鉄道車輛製造工場)と「自動車工業株式会社」(16.3-3項、17.3-2.4項参照、石川島自動車の後身)が共同出資した、資本金30万円の会社だった。
 一方販売面では、汽車製造㈱の株式の全株を、大倉喜七郎が保有していた関係で、日本自動車系ディーラーの昭和自動車が総代理店となった。(㉖P239)
 よくぞここまで漕ぎつけたと感嘆するしかないが、川真田和汪の、持って生まれた才覚と言うほかない。しかし「自動車工業㈱」はほぼ同時期に、17.3-2.4項で記したように、小型車ダットサンの製造権を「戸畑鋳物」に無償譲渡しているのだから、『まことに不可解な企業行動と言わねばなるまい。』(㉓P76)大倉財閥系としても、日本内燃機(くろがね)との関係が微妙だったはずだ。
 なんだか、大阪で実用自動車製造が設立された時に、「博覧会キング」と呼ばれた稀代の大興行師、櫛引弓人(くしびきゆみんど)が“演出”にかかわったことで、クシカーやゴーハムに対して、実力以上の価値が付加された時のことを思い出してしまう。(15.3-3項「稀代の興行師、櫛引弓人が魔法をかけた?」参照)
 ただし大規模な投資を強いた実用自動車製造の時と違い、「東京自動車製造㈱」の成り立ちは、工場は東京城東区砂町にあった汽車製造の旧自動車工場を借用し、製造は後述するように完全なアッセンブル(組立)車だったため遥かに現実的で、『同社の陣容は 30 人程の小所帯に過ぎなかった』(web23、P87)という。この合理的な外注依存方式は、川真田の企業ポリシーでもあったようで、戦後大成功をおさめた二輪の「トヨモーター」の事業でも踏襲されることになる。
 しかし川真田の頭の中では、筑波号の市販車が工場からラインオフする前に、すでに次のプロジェクトが走り出していたようだ。『どうやら川真田は自分が中心になってつくったクルマの権利をあちこちに移譲したようで、自身で自動車を生産していく計画はなかったようだ。』(②P179)1932~33年の2年間、汽車製造㈱内で設計や試作に携わっただけで、『特許ならびに製造権を、新会社(注;東京自動車製造㈱)に移譲してどことなく去っていった。』(㉖P244+P239)
(下の写真の「筑波号」も(web26)からコピーさせて頂いたもので、ラジエターグリルは流行のハート型になったが、当時は「ハート型グリルの時代」(17.4-3項参照)だったのだ。)
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 筑波号の開発には、「自動車工業㈱」と「汽車製造㈱」の両社も一時的に参加したものの、『筑波号の原型はあくまでローランド号五馬力であり、ローランド号の特許等を継承して設計したものだ。』(③-15、P173)
 1934年に1号車が完成し、同年9月に前述の東京自動車製造㈱が発足するが、大きな変更点は、エンジンが750cc版になり、V2気筒から4気筒化(水冷狭角25°V型4気筒SV736cc)されたことだ。この変更は4気筒だったダットサンやオオタへの対抗もあっただろうか。以下(web23、P87)より、
『“筑波”ないし“ツクバ”の最も重要な機関・変速機(トランスアクスル)の製造は二輪車メーカー、目黒製作所に委託された。~もっとも、コードL-29 張りの“ツクバ”の前輪駆動機構は高コストであった上、お手本と同様、構造的欠陥を抱えていたらしく、130 台ばかりを販売した時点でその製造は打切りとなった。台数のほとんどは乗用車であったが、少数のトラックもこれに含まれていた。』
 当時目黒製作所では、自社製のオートバイとともに、他社向けのギアボックスや部品、オート三輪用のエンジンも供給していた。(16.5-5.16項参照)
 さらに(㉚P118)、(web27;JSAE)によれば、エンジンの製造も目黒製作所に託され、ボディは脇田ボディ(後の帝国ボディ)、4輪独立サスペンションを備えたフレームはプレス工業、ピストンは親会社の自動車工業、ラジエターは日本ラジエター製と、徹底して外注製作に頼り、『SKFのベアリングと初期に使ったゼニスのキャブレターだけが輸入品だった。』(㉚P118))
(下の画像はレストアなった、1937年製の「筑波号」セダンで、トヨタ博物館に展示されている。画像はhttp://www.faust-ag.jp/lifestyle/lifestyle054.php より。
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(話は余談気味になるが、ローランド号誕生の過程で不明なのが、トヨタ(というか、豊田喜一郎)との関係だ。(⑩P52)に以下のような記述がある。
『~ トヨタでも、小型車に興味を示し、ヨーロッパに行った際に学友であり顧問であった隈部一雄が、コンパクトなドイツのDKW車を購入し、それをもとに開発の準備が始められている。しかし、開発が軌道に乗る前に乗用車の生産に制限が加えられてプロジェクトは中止された。トヨタに出入りしていたオートバイライダーだった川真田和汪がつくった小型乗用車のローランド号は、当時としては珍しい前輪駆動車であるのは、このDKWを手本にしたものだからであろう。』(㉗P187)にも、ローランド号の試作について、コードL29に加えて『DKWフロントも参考にしながら~』という記述がある。
(下の写真は、前々回のオート三輪の記事の15.4-7項からの転載で、以下のブログからコピーした。https://dkwautounionproject.blogspot.com/2017/07/framo.html 
1928年製のDKW三輪車の宣伝コピー(ドイツ本国向けの)で、DKW製2ストロークエンジンを前輪上部に取り付け、チェーンで前輪を駆動していた。同形車は日本にもかなりの台数が輸入されて好評を博したという。低重心設計のため、日本製のオート三輪よりコーナリング時の安定性が高く、逓信省が郵便車に採用したほどだ。その鋼板フレーム構造は、後のマツダ製オート三輪の設計に影響を与えたといわれている。オート三輪の世界では、DKW製の前輪駆動型三輪車は、日本でも早くから知られた存在だった。)

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https://2.bp.blogspot.com/-68g8t90qWno/Uu5EHNy5FzI/AAAAAAAAdEY/lR_-Hq4Gy-I/s640/Framo+-1928.jpg)
(下は名古屋市内にあった株式会社水野鉄工所が戦前に生産した、前輪駆動方式のユニークなオート三輪「水野式自動三輪車(1937年製)」で、前輪の左にエンジンとトランスミッションを、右にラジエターと燃料タンクを配置していた。戦前に約3,000台作ったというから相当な台数だ。ミズノの地元の愛知県内では、最盛期はマツダより販売台数が多くダイハツに次いで2位だったという。画像はトヨタ博物館より。機構が四輪のように複雑化しないオート三輪の世界では、戦前は前輪駆動がけっして珍しくなかったのだ。詳しくは15.8-29項「東海地区が激戦だった」を参照してください。)
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(下の画像は「1932 DKW Front F1」で、「1931年から1942年のあいだ~アウディの工場で、合計25万台以上のDKW Frontシリーズモデル(第1世代のF1から最終型のF8まで)が生産」(以上Audi Japan Press Center)されたというから、大ヒット作だ。2ストローク横置き直列2気筒584 ccエンジンを搭載した前輪駆動車だ。前項で記したように、トヨタは小型四輪車に対しては、京三製作所の「京三号」に出資しているのだが、隈部/川真田そして豊田喜一郎の3人の頭の中には、500/750cc級3/4輪小型車の一つの理想像として、DKWのことが、イメージされていたのだろうか。画像は以下より。https://www.flickr.com/photos/geralds_1311/3847200425)
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☆2022.11.13追記:ここのところ、次のブログ記事のための下調べをしているところだが、トヨタ自動車のHPの“トヨタ自動車75年史”に、「EA型小型乗用車の試作」として、『1936(昭和11)年、東京帝大工学部助教授の隈部一雄がドイツで購入した小型乗用車DKW(前輪駆動車)が、芝浦の研究所に届けられた。豊田自動織機製作所自動車部では、この車を分解・スケッチして、図面を作成することとし、豊田英二がエンジンを、池永羆が足まわりやその他を担当した。そして、1937年6月ごろから刈谷の自動車組立工場の一角で、EA型小型乗用車として試作に取りかかった。~(その後1940年に)EA型小型乗用車10台の試作車が完成した。』と記されていた。2ストローク2気筒、584cc18㏋エンジンを搭載していた。
https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/text/taking_on_the_automotive_business/chapter2/section5/item8.html
下の写真はそのEA型小型乗用車のシャシーを利用した小型電気自動車ということで、同じくトヨタHPからコピーした。
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https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/text/taking_on_the_automotive_business/chapter2/section5/images/l01_02_05_08_img07.jpg
あらためてトヨタの社史も確認してみると(トヨタ自動車30年史;P160)同様に記されており、「~小型乗用車の技術保存の意味もあって、昭和15年ころには、上海工場で」これら小型乗用車の試作、研究がつづけられた。」とある。これら試作車と「ハネダ」との関連は不明だ。
 さらに川真田とトヨタ(喜一郎)との関係について追記すると、豊田喜一郎を描いた伝記小説(豊田喜一郎 夜明けへの挑戦:木本正次著(学陽書房刊文庫版)P136)に『~喜一郎は、一そう足繫く東京や仙台に通った。東京では、隈部を顧問に、いよいよ車種の決定へと急いでいたし、また部品では~川真田和汪というパーツの専門家を相談役として、その案内で部品工場という部品工場を調べ歩いた。』という一節がある(P150にも川真田関連の記載あり)。1934年のこととして記してあり、その協力関係が「筑波号」プロジェクトの離脱直後からであったことがうかがえる。以上、追記終わり。

((web26-2)を読むと、隈部を介した豊田喜一郎と川真田の三者の絆の深さが判る。豊田と隈部は『東京帝大機械工学科の同期生であり、共同で卒論を書いた仲』(web26-2)であり、隈部は戦後トヨタ自動車の副社長に就任している。
筑波号のプロジェクトから離れ、『どことなく去っていった』(㉖P244)川真田だったが、その後、当時池貝鉄工所に勤めていた和井田次郎と組んで、東京蒲田の梅屋敷に、「ハネダ・モータース社」を設け、2サイクル2気筒エンジンの開発に取り組む。
 そして、『石井某氏の注文で、その「ハネダ」エンジンを使って、純レーサーを作ってくれと頼まれ、前輪駆動式の「ハネダ」純レーサー一台を完成させる。そのボディは総ジュラルミン製で、~ きわめて優秀なレーサーであった。』(㉖P245)
 注文主の石井某氏は、例の1937年10月25日に開催されたレース(17.4-4項及び17.5-2-5項参照)に、自分ではなくトップレーサーとしての腕を持つ川真田に出場するよう勧め、川真田は『乗りたくなかったが止むなく出場』(㉖P245)したのだという。
(川真田自ら「夢の小法師」と名付けたそのレーシングカーの画像(二つ下の写真です)と以下の文章のコピー元は⇒です。https://twitter.com/racerssugo/status/1187690937083809792
『鬼才·川真田和汪氏が1937年に設計·製作した「夢の小法師」です。水冷2ストローク2気筒エンジンを前輪駆動シャーシに搭載、ボディは総ジュラルミン製です。川真田氏自らの運転で多摩川サーキットのレースに出場、ダットサンより速く走り予選1位。レース界に衝撃を与えました。』1回走るとオイルを抜いて、掃除に手間取り決勝は棄権したという。(㉖P245)整備性に難があったようだ。オオタも棄権した本レースでは、社を挙げて必勝態勢で挑んだダットサンが勝利したのは既述の通りだが、日産陣営からすれば冷や汗ものの展開だっただろう。
 以下の想像は、まったくの“邪推”だと言われそうだが、自分には戦後の第2回日本グランプリで、プリンスの圧勝が確実視されたレースに、いきなりトヨタ自販が裏から手配したポルシェ904が登場した時の“仕掛け”とイメージがダブる。
(このブログの記事の13.7項及び、「⑬ 第2回日本グランプリ(1964年)“スカイライン神話の誕生”」http://marupoobon.com/blog-entry-176.html の記事を参照。「プリンスも宣戦布告し、スカイラインGTを投入」するが、いきなりそこにバリバリのレーシングカー、「伏兵、ポルシェ904が登場」するのだ)。

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https://www.weibo.com/ttarticle/p/show?id=2309404316017575753825&mod=zwenzhang?comment=1
 川真田はその後、トヨタ自動車工業研究所嘱託勤務となり、戦後を迎えることになる。
 ここからは戦後の話になり、以下からは(web26-2)の要約だが、豊田喜一郎は、戦前にも小型三輪車を考えていたが、戦後GHQの統制の枠外となっていた小型三輪自動車の設計を川真田のグループに依頼、『川真田は三人乗りの小型FFライトバンを頭に描き、2サイクル2気筒600ccで車名を「HANEDA」と決めていた。』しかし1947年に自動車の生産統制が緩和され、トヨタは隈部が設計したトヨペットSA型の生産に踏み切り、川真田の設計した三輪乗用車は製作されることなく終わってしまった、という。
((㉖P248)によると「ハネダ」エンジンは『かなり多数のエンジンを製造した』とあるので、「ハネダ・モータース社」の“本業”が「ハネダ」エンジンの製造販売だったのは間違いない。
 しかし、以下は想像だが、川真田による戦前の、2ストローク2気筒エンジン及び前輪駆動の小型車、「ハネダ」の開発は、官民一体の体制で“大衆車”の立上げに奮闘中な上に、統制経済体制下で身動きの取れなかった本体のトヨタの外側におき、豊田喜一郎と隈部共に高い将来性を感じていた、3/4輪小型車の先行開発を担う、別働隊的な役割をも兼ねていたようにも思えるのだが、如何だろうか。)

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https://pbs.twimg.com/media/EHuGi_iVUAA6_xg?format=jpg&name=4096x4096
 川真田和汪の、自動車の世界に於ける最大の偉業は、戦前当時としては異端だった、これら一連の小型前輪駆動四輪車の開発ではなく、戦後の混乱の中の二輪車の世界にあった。「トヨモーター」という、バイクモーターから発したオートバイメーカーを立ち上げて、オートバイの定番書の(㉙P109)に『~ホンダカブの出る前は全国のトップメーカーではなかったかと思う。~ 一時はトヨタ自動車よりも利益が多かったと噂された』と記されるほどの隆盛を、短い期間だったにせよ、築き上げたことだ。(下の画像は(web26)より)
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https://pds.exblog.jp/pds/1/201908/31/92/a0386392_16051746.jpg
 詳しくはその盛衰を記した(web26):「トヨモーターと天才ライダー川真田和汪」(上の画像も同ブログより)+(㉙P109~P110)あたりをご覧ください。個人的には(web26)のトヨモーターの話の方が、多少モヤモヤ感が残るローランド/筑波号あるいはハネダなど、一連の前輪駆動小型車の開発よりも、明快な話なので面白いと感じました。
(下の画像は以下のブログより、『荷物を積んで走るトヨモーター』 戦争というスクラップアンドビルドがあって、なんだかこの記事の振り出しの「スミスモーター」の時代(17.5-1.2項参照)に戻ったみたいだ。http://as-ao.cocolog-nifty.com/blog/2018/06/post-0f1e.html
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http://as-ao.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2018/06/29/dsc03387.jpg


― 引用元一覧 ―
①:「写真でみる 昭和のダットサン」責任編集=小林彰太郎(1995.12)二玄社
②:「苦難の歴史 国産車づくりの挑戦」桂木洋二(2008.12)グランプリ出版

③:「轍をたどる」国産小型自動車のあゆみ」岩立喜久雄 月刊オールド・タイマー(八重洲出版)連載記事 ※以下「月刊オールド・タイマー(八重洲出版)」」を略
‘③-1:「三馬力時代特殊自動車の興隆(1925~1930)」(2007.12、№.97)
‘③-2:「西のリラー 東のオートモ(前編)」(2007.08、№.95)
‘③-3:「小型四輪乗用車の始まり」(2007.04、№.93)
‘③-4:「ダット号五馬力の登場」(2009.08、№.107)
‘③-5:「五馬力時代の自動三輪車(1930~1933)」(2008.02、№.98)
‘③-6:「750cc時代の小型四輪車」(その1、1933~1937)(2010.08、No113)
‘③-7:「西のリラー 東のオートモ(後編)」(2007.10、№.96)
‘③-8:「五馬力時代から750cc時代へ(1930~1933)」(2010.04、№.111)
‘③-9:「五馬力時代の小型四輪自動車(1930~1933)」(2009.02、№.104)
‘③-10:「スミスモーターと特殊自動車」(2006.08、№.89)
‘③-11:「三馬力時代のビリヤス系三輪と四輪」(1925~1929)」(2007.06、№.94)
‘③-12:「国産電気自動車と特殊自動車の始まり」(2006.10、№.90)
‘③-13:「大型リヤカーの足跡とビリヤスエンジンの輸入」(2007.02、№.92)
‘③-14:「オオタ号五馬力の登場」(2009.04、№.105)
‘③-15:「750cc時代の小型四輪車」(その2、1936~1938)(2011.04、No117)

'④:「国産車100年の軌跡」別冊モーターファン(モーターファン400号/三栄書房30周年記念)高岸清他(1978.10)三栄書房
‘⑤:「日本自動車工業史―小型車と大衆車による二つの道程」呂寅満(2011.02)東京大学出版会
‘⑥:「20世紀の国産車」鈴木一義 (2000.05)三樹書房
‘⑦:「1928 オースティン対1936 ダットサン」小林彰太郎 カーグラフィックの記事(二玄社)
‘⑦-2:「  〃  」「オースティン/ダットサン覚え書」五十嵐平達( 〃 )
‘⑧:「日本自動車工業史座談会記録集」自動車工業振興会(1973.09)
‘⑨:「小林彰太郎の日本自動車社会史」小林彰太郎(2011.06)講談社ビーシー
‘⑩:「企業風土とクルマ 歴史検証の試み」桂木洋二(2011.05)グランプリ出版
‘⑪:「日本における自動車の世紀」桂木洋二(1999.08)グランプリ出版
'⑫:「企業家活動でたどる日本の自動車産業史」法政大学イノベーション・マネジメントセンター 宇田川勝・四宮正親編著(2012.03)白桃書房
‘⑬:「鉄道車輛工業と自動車工業」坂上茂樹(2005.01)日本経済評論社
‘⑭:「日産の創業者 鮎川義介」宇田川勝(2017.03)吉川弘文館
‘⑮:「日本のディーゼル自動車」」坂上茂樹(1988.01)日本経済評論社
‘⑯:「日本財閥経営史 新興財閥」宇田川勝(1984.07)日本経済新聞社
‘⑰:「日本の自動車産業経営史」宇田川勝(2013.10)文眞堂
‘⑱:「ダットサン 歴代のモデルたちとその記録」浅井貞彦(2011.08)三樹書房
‘⑲:「日本自動車産業の成立と自動車製造事業法の研究」大場四千男(2001.04)信山社
‘⑳:「ドキュメント昭和3 アメリカ車上陸を阻止せよ」NHK取材班=編 (1986.06)角川書店
‘㉑:「(“僕のダットサンパラダイス”記事の中の)「オールドダットサン入門」月刊オールド・タイマー(八重洲出版)(2008.06、No.100)
‘㉒:「一枚の写真から(ダットサン14T型ライトバン)」五十嵐平達(CG88-03、P247)二玄社
‘㉓:「鉄道車輛工業と自動車工業」坂上茂樹(2005.01)日本経済評論社
‘㉔:「ダットサンの50年」別冊CG(1983年5月)二玄社
‘㉕:「日本自動車史Ⅱ」佐々木烈(2005.05)三樹書房
‘㉖:「日本自動車工業史稿 3巻」(昭和6年~終戦編)(1969.05)自動車工業会 「日本二輪史研究会」コピー版
‘㉗:「世界と日本のFF車の歴史」武田隆(2009.05)グランプリ出版
‘㉘:「日本自動車工業史稿 2巻」(大正~昭和6年編)(1967.02)自動車工業会 ※「日本二輪史研究会」コピー版
‘㉙:「日本のオートバイの歴史」富塚清(2004.06 新訂版第2刷)三樹書房
‘㉚:「国産車100年の軌跡」別冊モーターファン(モーターファン400号/三栄書房30周年記念)高岸清他(1978.10)三栄書房
‘㉛:「小型・軽トラック年代記」桂木洋二(2020.03)グランプリ出版

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web〈17〉-1:「鮎川義介 我が道を往く(第8回)」松野浩二 鳳陽会第167号(山口大学経済学部同窓会)
https://houyou.or.jp/wp-
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web〈17〉-2:「鮎川義介 我が道を往く(第9回)」松野浩二 鳳陽会第168号
https://houyou.or.jp/wp-content/uploads/2020/08/%E9%B3%B3%E9%99%BD168%E5%8F%B7.pdf
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https://houyou.or.jp/wp-content/uploads/2019/08/%E9%B3%B3%E9%99%BD%E4%BC%9A166%E5%8F%B7.pdf
web〈17〉-4:「鮎川義介 我が道を往く(第6回)」松野浩二 鳳陽会第165号
https://houyou.or.jp/wp-content/uploads/2020/08/%E9%B3%B3%E9%99%BD%E4%BC%9A165%E5%8F%B7.pdf
web〈17〉-5:「鮎川義介 我が道を往く(第5回)」松野浩二 鳳陽会第163号
https://houyou.or.jp/wp-content/uploads/2019/08/%E9%B3%B3%E9%99%BD%E4%BC%9A163%E5%8F%B7.pdf
web〈18〉:「快進社 ダット號(脱兎號)から、実用自動車製造、戸畑鋳物自動車部 小史」トヨタスポーツな気分
http://flattwin.cocolog-nifty.com/blog/2019/12/post-a10f3b.html
web〈18〉:「日本自動車産業と総力戦体制の形成(一)」大場四千男
http://hokuga.hgu.jp/dspace/bitstream/123456789/3484/1/p145-173%E5%A4%A7%E5%A0%B4%E5%9B%9B%E5%8D%83%E7%94%B7.pdf
web〈19〉:「戦前の日産自動車(株)の車両開発」鍋谷正利 JSAEのインタビュー
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web〈20〉「オールド・ダットサンから見る自動車技術の変遷(第二報)」山泉凌、武田克彦、伊東和彦
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web〈21〉:「ダットサン 11型フェートン」日本の自動車技術330選
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https://ameblo.jp/porsche356a911s/entry-11938740195.html
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https://ameblo.jp/porsche356a911s/entry-12095651827.html
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http://www.ei.u-tokai.ac.jp/morimoto/docs/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E9%9B%BB%E6%B0%97%E8%8
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https://www.kyosan.co.jp/company/history03.html#kyosangou-nav01
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https://motorcycle1958.exblog.jp/239529077/
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https://motorcycle1958.exblog.jp/239529078/
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http://csih.sakura.ne.jp/panerutenn/panerutenn_2020_p2_09_2020.10.20.pdf
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https://jglobal.jst.go.jp/detail?JGLOBAL_ID=200902196097683534

‘㉑ 戦前の国産トラックの歴史(後編) ≪日本の自動車産業の“育ての親”は日本陸軍だった?戦前日本の自動車史(その6)≫

※この記事は書きかけです。

この記事「戦前の国産トラックの歴史(後編)」は(その3)の続編で、戦前の国産トラック/バスの歴史の後編になる。ちなみにダットサンを中心とした小型四輪車は次回の(その7)で、そして最後の(その8)で、自動車製造事業法成立とトヨタ、日産の大衆車について記し、「戦前日本の自動車史」もようやく完結する予定だ。
だが前回の、戦前のオート三輪と違い、今回の分野は、すでに多くの方々が記されていて、不明な点もほとんどなく、その歴史も既に「確定」しているはずだ。この記事もそれらを元にダイジェストにして記すだけなので、前回よりも手短に済ませる予定だったが、ところがそう簡単には終わらず、毎度のことながらダラダラと長編になってしまった。
 まず初めに、前編の“その3”を記したのが2年前で、書いた自分すらもすでに忘れかけているので!前回記事の戦前のオート三輪以外の国産の自動車史を振り返りながら、最初に要約でまとめておく。

日本車の歴史、これまでのおさらい
 まず欧米先進諸国と日本との、自動車市場/産業の形成過程の違いだが、西欧社会ではそもそも馬車を中心とした道路輸送時代があり、その馬車を“馬なし車”に、自転車を動力付き自転車に置き換えていく形で、自動車の市場と産業が自然と形成されていった。
 しかし日本はもともと、クルマを排除した社会だったため、“馬なし車”としての自動車の、社会的ニーズ自体が、そもそも乏しかった。
 その上、日本社会全般の所得水準も低く、その一方で自動車は当初きわめて高価だったので、需要はごく一部の富裕層に限られた。
 そのため自動車の国内上陸から10年以上経過した1910年に至っても、その保有台数は全国でたった121台を数えるに過ぎず、自動車の市場規模はごく小さかった。
 このように、国産の自動車作りを志すパイオニアたちにとっては、厳しい環境下にあったが、それでもこの道の開拓者たちは、輸入車を分解・スケッチし、そのシャシーとエンジンを流用したり(=たとえばフォードN/Aモデルの主要パーツを流用し、10台ぐらい(諸説ある)“量産”した、“準国産ガソリン車”の「タクリー号」(5.2項参照))や、複製したり参考にしたり苦労を重ねて、何とか“純国産車”と呼べるクルマが誕生する(=「国末号」と「旭号」(5.3項参照))。しかし資本力もない上に、周囲の状況も整わず、結局行き詰まり挫折していく。
 当時の限られた国家予算の中で、交通機関の整備としては、まず鉄道建設と造船能力の増強に重点を置き、自動車と道路整備に対しての優先順位は低かった。自動車産業は振興すべき産業分野と見なされず、国からの支援もないままに、半ば放置されていく。

 その代わり、狭隘な日本の道路事情に適応させた、日本人が創意工夫して作り上げたミニマムサイズのクルマである人力車が、民間を主体に急速に普及していく。1896年(明治29年)に約20万台という保有台数は、人口200人当たり1台の人力車が普及していたことになる。明治の日本人にとって、クルマ=人力車であり、その面では日本もクルマ社会であったのだ。この人力車やのちの自転車、リヤカーなどの普及が、その後のオート三輪や小型車隆盛の基となっていく。
(昭和初期の時点で日本の自転車保有台数はフランス・イギリスに次いで世界第三位、生産量はドイツに次いで世界第二位であった。戦前の末期には、特に都市部では一,二世帯に一台の普及率を示していたという。自転車は庶民が所有し、自分で動かして乗る、日本で初めてのクルマだった。)
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 普通四輪自動車に話を戻す。しかし、日露戦争の戦訓で輸送力に劣ることを痛感した日本陸軍が、国防上の見地から、トラックに注目し、自らの陸軍砲兵工廠で、軍用トラックの試作に乗り出す。民間企業より優れた技術を誇った砲兵工廠以外に、この当時は適当な委託先が無かったからであった。完成したトラックはただちに、第一次大戦に投入されて(“青島の戦い”)、実績を示し、自信を深める。
 さらに総力戦となった第一次大戦の研究を通じて、来るべき第二次世界大戦に備えるための、”総力戦構想”が陸軍内で検討されていく。そして自動車もその時々の総力戦構想の中で位置づけられていき、その結果は「軍用自動車補助法」や、のちの「自動車製造事業法」(←“その8”の記事で記す予定)として結実していくことになる。
 少し話を戻し、陸軍は、限られた予算内で戦時における軍用トラックの必要量を確保する手段として、民間のトラック所有者に補助金を出して援助するのと引き換えに、戦時に軍用車として徴用することを目論む。平時から陸軍が大量の自動車を保有するのは経済的負担が大き過ぎたのが理由だが、結果的に国産四輪車を支援する国家機関が、ついに現れたことになる。
1918年3月、「軍用自動車補助法」が成立する。国産軍用トラックの生産を促進するために製造者と保有者の双方に対して補助金を交付するもので,“軍用保護自動車”として認定されるためには、厳格な走行テストを合格することが条件となった。この製造業者に対して行う、国の定める規格に準拠し、合格した軍用保護自動車に対する製造補助金の交付は、法律作成時に参考にしたドイツ,フランス,イギリス等の補助制度には無かったものであった。
 欧州諸国と比べて、そもそも自動車産業の基盤が無きに等しかったからで、同法は後の、商工省主導の自動車産業施策よりも先行した、日本初の自動車産業政策と言われ、その後の日本の自動車産業が、軍主導で発展する端緒が築かれた。
 同法は1918年5月から施行されたが、1920年3月には戦後恐慌に突入し、日本はその後長い不況に入り、軍縮の時代を迎える。圧縮された軍事予算の中で、直接の兵器でない自動車の位置づけは低かった。当初の好況期に立案された予算でさえ、目標台数達成のためには不十分な規模だったが、予算の圧縮でさらに縮小されていく。
 一方この間に、フォードとGMの日本進出があり、新たな営業車の需要が開拓されていった結果、日本の自動車市場は急速に拡大し、トラックの保有台数も急増していく。
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 巨大な自動車メーカーである米2社の進出は、軍用自動車保護法が持つ、副次的な目的であった、国内自動車産業の保護/育成の面からすれば、相反する結果をもたらすだろうことは、目に見えていた。しかし陸軍は巨大外資の“上陸”に、異議を唱えることはなかったという。同法の主目的である、高性能な軍用車を必要な数だけ確保する点においては、皮肉なことに達成されたので、予算も乏しく、国産自動車メーカーの育成に苦しむ中で、あえて目をつぶることにしたのだ。
 以上は陸軍側から見た視点だが、受け手である民間企業側は同法をどうとらえたのか。

 この当時の機械工業分野における国内民間企業の中で、実力No1とNo2は、三菱造船所と川崎造船所であった。三菱/神戸川崎両財閥の旗艦企業として、資本力と技術力があり、当時の国内先端技術であった大規模な造船所を有し、その中では原動機から工作機械まで自製していた。
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 しかし両財閥企業ともに、陸/海軍の国防としての優先事項は攻撃兵器としての軍艦であり、当時急速にクローズアップされた航空機の方で、軍用トラックの優先順位は低い(=予算配分が少ない)ことも直ちに認識した。日本を代表する実力のもち主の両社に対しては、陸軍も海軍も、自動車よりも、国防上の要となる航空機産業の方に、注力してほしいと考えていた節があった。
 そして自動車産業に対して格別の思い入れまではなかったこともあり、両社のこの時点での進出は実現せずに終わる。
(下の写真はジャパンアーカイブズさんより、『「【1918年】丸の内(大正7年)▷大戦景気の沸く丸の内ビジネス街(馬場崎門通)」右側の塔のある建物は東京商工会議所ビル、手前に向かって三菱5号館、同4号館、同1号館、左側は同3号館、古川鉱業ビル、三菱2号館』いわゆる“三菱村”と呼ばれている場所の、始まりの頃の写真だ。)
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 結局既存の一流財閥のなかで、同法を頼りに、新たに自動車産業を興そうとするものはなかった。しかし第一次大戦の戦争特需で大きな資本力を得た企業の中で、大戦終結後の需要急減を見越して、成長分野と目された自動車産業への進出を試みる企業家が現れる。
 このうち、東京瓦斯電気工業(以下“瓦斯電”と略。後の日野自動車のルーツ)は当初から明快に軍用保護自動車メーカーを目指したが、東京石川島造船所(以下“石川島”と略。後に石川島自動車製作所として分離。いすゞ自動車のルーツ)はウーズレー(英国)を国産化する形で乗用車生産からスタートした。
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 瓦斯電は苦労の末に審査試験に合格し,同法の初適用を受けた。しかし保護自動車に認定されても、実際には陸軍以外の民間で、購入するところは少なく、頼りの陸軍の発注量も、予算圧縮のなかで十分ではなく、たちまち苦境に陥る。
 石川島も、苦労の末にウーズレーの国産化を果たした。しかし『売却先の多くは渋沢栄一の縁故で仕方なく購入した人たちだったが、トラブルもあり、価格も高く不評』(①、P23)で、結局乗用車の生産中止を余儀なくされる。
 一方、他に本業がなく、十分な資本力のない中でスタートした橋本増治郎率いる東京の快進社と、商都大阪の風土の中で、久保田鉄工所をはじめとする有力な関西企業が中心となって設立した実用自動車製造も、ターゲットは異なったものの当初は乗用車生産からそれぞれスタートした。
 しかし価格競争力のない国産乗用車の需要は、ほとんどなく、紆余曲折を経て結局両社は統合し、ダット自動車製造(以下“ダット”と略。日産自動車のルーツのひとつ)となり、おなじく乗用車に見切りをつけた石川島共々、生き残りをかけて軍用保護自動車メーカーへと転身していく。フォードとGMの進出により国内の自動車市場は急成長を遂げるが、生産規模の圧倒的な違いにより、性能・品質と、特に価格面において差があまりに大きく、市場拡大の恩恵に授かれなかった。
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 当時の日本では自動車=アメリカ車のことだったのだ。(1920年代後半で、国内3社合計で年間約250~400台程度の生産台数に対し、米2社の日本での販売台数は、2社合計で約2万台程度、しかも日本で大きな利益を上げていた。ちなみに本国ではフォード単独で約195万台(1929年)と、桁違いの規模だった。)
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こうして大戦後の慢性的な不況と、フォード、GMの日本進出という荒波の中で、乗用車生産を志すものたちが次々と挫折していく中で、陸軍向けの僅かな軍用車の需要をベースとして、フォードとGMを中心としたアメリカ社以外の、狭い国内市場をこの3社で分かち合いながら、国産四輪自動車はかろうじて生き延びていくこととなった。
 1930年ごろまでのダイジェストの最後として、“その3”記事で、「軍用自動車補助法」に対してのまとめとして自分が書いた部分を要約し、再録しておく。
「~確かに同法は、市場分析と予算の裏付けも十分無い中で、たぶんに“願望”や“勢い”で作られた法案だったように思える。しかし1910年代の日本の実情を思えば、理性的な判断だけでは、自動車産業育成策など、そうそう立案できるものではなかったことも事実だった。世界を見渡せば、量産アメリカ車の背中ははるか彼方で、ますます遠ざかろうとしており、たとえ”見切り発車”でも、その”決断”は早い方が良かったのだ。
 一方企業の側も、瓦斯電、石川島及びダットの保護自動車3社は、~同法及び陸軍の下支えがあって初めて、苦しい経営を乗り切れたのは事実だ。
 しかし3社の側も、軍用保護自動車としての事業が、国を支える事業であるというプライドを胸に、脱落せずに必死に耐え忍んできた。そして厳しい環境下で陸軍の期待に応えるべく努力した末に、1930年を迎える頃にはついに、性能・品質面で、自動車としての一通りの水準まで引き上げることが出来た。もちろん量産型ではなく、主要な部品も輸入に頼っていたようだが、それでも短期間に、大きな進歩を果たしたと思う。
 同法を巡っては、たとえば当時の国情を考えれば小型車の振興に力を注ぐべきだった等々の議論があるのも事実だが、日本の自動車産業史の全体を見渡せば、この「軍用自動車補助法」と日本陸軍の果たした役割の大きさに、あらためて気づくことだろうと思う。』
以下はトヨタの社史(⑩P30)より引用する。
『関東大震災以後、外車攻勢のあらしが激しくなってからは、揺籃期にあった国産自動車メーカーにとって、あらしを避けるための“避難港”として、大きな役割を果たしたのである。』(下は「1917年 陸軍制式四トン屯自動貨車 (5台製造) 。瓦斯電社内呼称A型」以下のブログより。https://hinosamurai.org/contribution/KOREO_SHIREBA_HINO-TSU.html)
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https://hinosamurai.org/_Media/20180616_hino_1917_rikugunn_med-2.jpeg
 確かに小型車の振興策も必要だったが、どちらか一方ではなく両方とも必要で、それは「軍用自動車補助法」とは別に行うべき課題だったように思える(私見です)。
 ということで、過去を振り返り確認したので、ここから前に進みたい。なおいつものように、引用文は区別して青字で記すとともに引用元はすべて明記し、巻末にまとめて記してある。ちなみにいつものように、引用した本はすべて実際に購入した。また文中敬称略とさせていただく。

16.軍用保護自動車3社のたどった道
 圧倒的な力の差がある米2社との戦いは勝負にならず、頼みの陸軍からも、軍縮の時代に「無い袖は振れぬ」とばかりに冷たく距離を置かれてしまう。このような四面楚歌のなかで、危機感を強めた国産自動車メーカー3社はその存続をかけて団結し、政府機関に対して国産自動車支援の働きかけを強める。

危機感を募らせる国産3社と、国産自動車愛好運動
 以下(②P145)より『国産自動車メーカーの3社は,軍用トラックの生産を拡大しながら,米2社に対抗して自動車生産を確立すべく昭和2年(=1927年)に国産品愛用運動を推進し,政府に国産自動車産業の確立を要請した。』
 名門出身の石川島の渋沢正雄社長や、瓦斯電の松方五郎社長(松方正義の五男)、そしてダットの久保田権四郎社長らが、国産自動車工業振興の運動を推進し,政府,議会、軍に働きかけ,奔走したというが、なかでもその先頭に立ち、大きく旗を振ったのは、あの渋沢栄一(~1931年11月没なので、まだ存命中だった)の三男であった、渋沢正雄であったという。陸軍の伊藤久雄は、(③、P46)の座談会のなかで、以下のように語っている。
『自動車の歴史で大事なことは、昭和4年(=1929年)頃に渋沢正雄さんが,国産工業振興の運動を盛んに行なって、それがもとになって自動車工業が浮かび上がってきたことであります。渋沢さんは国産工業振興を国会にはたらきかけ,ついで自動車工業をとりあげたたことは、自動車の歴史において銘記すべきことであります。』自動車製造事業法成立の立役者による証言に従い、この、戦前日本の自動車史の記事の中でも渋沢正雄の功績を、ここに明記しておく。
渋沢や、松方らによるこの運動は、貿易収支の急激な悪化が問題となり、国産品愛用運動を推進していた商工省側の思惑とも重なり、やがて具体的な施策へとつながっていく。(②P145、③、①P28などを参照。)
 今回の記事(その6)では以下順番に、国産車振興策として商工省が行った政策(16.1項)、産業の合理化を試みた、商工省標準型式自動車の制定(16.2項)と、3社の統合(16.3項)、国産バスの発展に貢献した鉄道省(のちの運輸省)の省営バス(16.4項)、及び国産商用車のエンジン開発に多大な貢献を果たした陸軍によるディーゼル統制エンジンの確立(16.5項)、の順番に記していく。まず初めに、商工省による、国内自動車産業振興策について。

16.1商工省主導による自動車産業振興策
 1925年に農商務省を分割して設立された、商工省内では、アメリカ製自動車部品(ノックダウン生産だったので)の輸入急増に危機感を強めていく。関東震災後の復興需要で、黒字基調だった国際収支が赤字に転じた上に、自動車部門の赤字拡大が、貿易収支のさらなる悪化を招いていた。『1922年に700万円に過ぎなかった自動車・部品の輸入額が28年には3,000万円を超え、そのままいけば1億円を突破するものと予想されていた。』(④P108)という。下表のように、実際にはそこまではいかなかったようだが。
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 国産品奨励運動が盛り上がる一方で、陸軍による軍用自動車補助法を軸とした自動車メーカーに対する支援策が、手詰まり感を見せ始めていた。そこで、陸軍に代わり本来の所管である商工省が前面に立ち、国際収支の改善と、自動車産業の保護&育成のために、自動車行政に積極的に関与していくことになった。
 この時期の商工省の自動車政策の主目的は、貿易収支の悪化に歯止めをかけることだった。『日本の貿易全体で見れば、自動車関連の輸入は微々たるものだった。3000万円を超えた一九二八年ですら、全体の1.47%に過ぎなかった。だが急激な輸入超過の拡大傾向は、政府としても看過できなかった。』(⑧P38)そして11.9項の表で示したように、自動車部品の低関税率と人件費の安さもあり、米2社は日本の事業で大きな利益を上げていた。
国内自動車市場がアメリカ製自動車に占有されていくなかで、陸軍・鉄道両省の意向も踏まえつつ、現実的かつ即効性のある施策として、商工省主導で標準型式自動車の規格を制定し,生産基盤を強固にするため国産3社の合併合同を推進することとなった。以下は例によって多くを引用に依存しているので、正しくはオリジナルの方をぜひ確認いただきたい。
 まず商工省は、すでに1926年に、諮問機関として「国産振興委員会」を設置し、国産振興のための調査・審議を行わせていた。そこでは9分野について振興策が策定されたが、その中に自動車工業も含まれており、ここから商工省の自動車政策がスタートしていく。以下、商工省標準型式自動車として結実する過程を、順に追っていく。

16.1-1「国産振興委員会」が解決策を即す
 1929年9月、政府(浜口雄幸内閣の俵孫一商工大臣)は国産振興委員会に対して、3つの産業(「自動車工業」、「アルミ」、「合成硫安」)を確立させるための具体策を諮問した。『「自動車産業の振興は国際貸借の改善と主要産業の振興のための緊急課題」というのが商工省の認識』(⑧P40)で、振興すべき3つの産業のなかに自動車産業が選ばれたのは、前記の、渋沢らによる国産保護自動車3社の政府への働きかけが実を結んだ結果でもあった。

16.1-2「自動車工業確立調査委員会」が具体策を打ち出す
 これに対して委員会は1930年5月、商工大臣あてに答申を提出した。結論から先に言えば「適当なる助成の方策を講じれば、日本での自動車工業の確立は困難ではない」とし、5つの具体策を提案した。詳細は省くので興味のある方は(②P146、④P148)等を参照されたいが、特に注目すべき点は、『製造方法は分業に依ることとし、各部分につき精密なる規格を定め、自動車工場及びその関係工場を一体系の下に統制する。』(②P146)と、統制経済体制に向けて、一歩踏み込んだ記載がなされた点だ。
『いわゆる標準車が、単なる自動車の規格にとどまるものではなく、自動車産業の再編・効率化まで含んでいたことだ。~従来のような民間の自主性に期待するものではなく、「国による統制」が答申に含まれていることも見逃せない。そして一九三一年四月、有事を意識した重要産業の企業連合化を促進する重要産業統制法が公布される。~自動車産業の統制色が強まるのは避けられなかった(この四か月後に満州事変が勃発することになる)。』(⑧P41)
 この後、戦前の日本の自動車メーカーが戦時経済体制の下で、商工・陸軍両省の強力な行政指導により、自動車生産がトヨタ、日産、いすゞ(東京自動車工業)の3社に絞り込まれていったのはご承知の通りだ。
ただし、後述するが、「自動車工業確立調査委員会」の審議の過程を追った(web(3))の論文を読むと、既得権のある企業側の論理としてだが、国産軍用保護トラック3社の側も、官による、上からの強力な“統制”を望んでいた節もうかがえる。
 また「自動車工業の確立は困難ではない」とした、その根拠であるが、16.4項で記す鉄道省向け省営バスの設計に際して、その開発を主導した菅健次郎らが実施した、国産車の性能試験の結果があった。
 石川島のスミダL型、瓦斯電のTGE-L型、ダットのダット61型の3台を定地試験、運行試験の後に分解検査して、走行性能、実用走行性、各部分の構造・耐久性に対する評価を総合的に判定する内容で(⑰P53)、1930年2月答申が出された。結果は「外国車の中位」にあると判断され「多少の欠点を補正せば足るとの結論に到達し」、これが商工省標準型式自動車誕生に向けての、技術的な基盤を与えた。(㉓P9+②P173+③P40+⑰P53。なお実際の試験内容については⑳P166~178にかなり詳しい記述がある。)
 話を戻し、1931年6月、上記の答申内容を踏まえ、第二次若槻次郎内閣の商工大臣桜内幸雄は、自動車工業を確立するための施策を実施するために”自動車工業確立調査委員会”を発足させ、検討を命じる。同委員会では十分な調査研究を行なうとともに,標準型式自動車を試作して,国産車の性能を確認することとなった。
 委員会のメンバーは以下(②P147)より引用 『委員会は,東京帝国大学教授斯波忠三郎(男爵)を委員長とし,国産3社の社長渋沢正雄,松方五郎,久保田権四郎,及び各関係省庁(内務・大蔵・海軍・鉄道・商工省),さらに陸軍省整備局長林 桂,陸軍自動車学校長飯田恒次郎,兵器局長植村東彦等の計 18名のメンバーで構成された。』
 1931年7月の第一回総会の後に、3つの特別委員会(「標準型式自動車の開発」、「生産と販売体制」、「政府の保護政策に関して」)を設けて審議を行った。その中で委員会全体を“標準型式構想”へとリードしたのは、陸軍省整備局長林桂と、鉄道省工作局の朝倉希一であったという。(②P147)
 以下は(⑤P160+①P30+②P148+⑥P34等)を適当に混ぜ合わせて!記した。
 この委員会は、1932年3月まで審議を続けて、報告書が提出され、新しい国産トラック・バスの方向性が打ち出された。このときの結論が、その後の自動車メーカーの将来を大きく左右するものとなった。その内容はおおよそ次のとおりである。
(1)トラックやバスなどで3社が協力して単一車種にしぼって大量に生産することでコスト削減を図る。
(2)フォード(当時3,360cc)やシヴォレー(3,180cc)のライバル車になるのを避けて、それよりひとまわり大きい積載量1.5t、2tの中級クラスとし、エンジン排気量も4,000ccクラス(たとえばGMC4,220cc、ホワイト4,880cc)にする。
(3)生産から販売まで3社が組織的に協力して年間1,000台以上の生産を目標にする。
(4)将来的には乗用車の生産も考慮するものの、トラックやバスで十分な経験を積んでからにする。
(5)政府は、製造奨励金の交付、官庁での使用励行、所得税・営業税等の課税の減免処置、関税の改正等の保護奨励を行う。
これにより、軍用保護自動車メーカー3社は、合併する方向を確認した。狭い市場で3社共存はいかにも効率が悪く、『各メーカーが勝手につくっていたのでは、いつまでも欧米に追いつくことができないという認識が背景にあった』(⑤P161)。問題は製造技術よりも、量産による規模の経済性が発揮できていない点にあるとしたのだ。商工省はこれ以降、同調する陸軍とともに、製造と販売の統合に向けての働きかけを強めていくのだが、3社の統合については(16.3項)で記す。以下、さらに補足すると、
(2)をより具体的に記せば、“商工省標準型式自動車”と称するトラック2種とバス3種の合計5車種が決定された。
(5)により、自動車部品の税率が引き上げられ、一方で製造奨励金(1台当たり300円程度)の交付を行うこととした。
上記の(1)、(3)などでは統制経済色が色濃いものの決して背伸びした内容ではない。(2)、(4)などはフォードなどのいわゆる“大衆車”との正面衝突を避けるなど、当時の日本の自動車市場の現実を見据えた手堅い施策だった。
しかし、後の自動車製造事業法と違い“堅実”な一方で、最大のボリュームゾーンであった“大衆車”市場を避けたために、同クラスは引き続き海外メーカーに市場を委ねられることとなった。さらに以下のような指摘も一部にあることを追記しておく。『その後にトヨタと日産がそのクラスへ参入することを容易にした側面があった。結果として後発メーカーのトヨタと日産に漁夫の利をさらわれることになったのだ。』(①P30)しかし当時の保護自動車3社の内情からすれば、そこまでの余力は到底なかったし、そこはやはり、外資との“直接対決”により生じるリスクを極力回避した代償として、やむを得なかったのではないだろうか。

16.2商工省標準型式自動車の開発
 上記の方針にしたがって、標準型式自動車を試作することとなった。1932年 6月、瓦斯電、石川島、ダット自動車製造の国産3社の間で、協同組合法に基づき標準車の生産調整、補助金の割り当てを行うため「国産自動車組合」を結成し3社カルテルが成立し、経営基盤の確立策がとられた。(⑥P35参考)
試作や試験は、調査委員会の審議の趣旨に沿った形で、1931年9月から先行していたが、以降は同組合に対して、標準型式自動車の試作が委託されることとなった。

16.2-1鉄道省のノウハウを得て開発を行う
 標準型式自動車の共同設計及び試作は、国産3社の技術者に加えて、鉄道省と陸軍の技官が加わり、各メーカーの役割分担が決められた。
 鉄道省のかかわりの背景という点について、東京自動車工業の統制型ディーゼルエンジンの開発を主導し、「日本の自動車用ディーゼルエンジンの育ての親」と言われる伊藤正男(いすゞ自動車専務)は、(⑰、P54)で以下のように語っている。
『小生は、民間三社(石川島、瓦斯電、ダット)は口にこそ出さないが、意見の対立した時の中立のアンパイヤーとして鉄道省の方を向かい入れたのではないかと思います。~ 当時省営バスやトラックの注文主であり、しかも官庁として最も強い技術集団であった鉄道省が仲裁役をかねた委員として加えたと思われます(これは飽くまでも小生の推定です。)
 それに技術者としてほとんどが帝大出身者でしたから権威があったでしょう。』

敗戦当時、日本の国鉄はGHQから極めて高く評価されたという(⑰P3)。その一方で自動車は『小型車とオート3輪を除けば、日本車の設計は外国車の模倣に過ぎない』(⑰P3)と手厳しく断じられたのだが、鉄道省は戦前の国産車よりも格上だった日本の鉄道技術を主導し、自動車分野においても、後の16.4項で記す国産の省営バス開発で実力を示したこともあり、呉越同舟のなかで、高い立場からモノが言えたのだろう。以下は(web2)より引用
『標準形式自動車の製作・設計の拠点は、汐留駅近くの鉄道省の工場に置かれ、そこでは、アメリカから輸入したダッチやGMCなどのサンプルの貨物自動車4台に、日本でも大量に走っているフォードやGMの乗用車2台を加え、これら6台を最終的には分解し徹底的に調べ上げたという。』それらのデータも参考にしながら、標準形式自動車の仕様決めと開発が進められた。(③P38)には、瓦斯電の小西晴二の『鉄道の研究所の施設をよく使わせていただきました。それで早く設計ができた』という証言も残されている。試験設備も技術も、自動車よりレベルが上だったのだろう。
標準型式自動車の共同設計は,国産3社の技師陣である楠木直道(石川島;後にいすゞ自動車社長),小西晴二(ガス電;後に日野自動車専務),後藤敬養(ダット;後に日産ディーゼル社長)と鉄道省車輛課の島秀雄、そして陸軍上西甚蔵等によって行なわれたのだが、『当初メーカー3社の思惑もあり、なかなか作業が進展しなかったという。それを若輩の島がうまく取りまとめていくことで、次第に皆の信頼を得るようになり、このプロジェクトは島を中心に回りだす。』(web2)『主導的役割を演じたのは鉄道省であった。島秀雄技師(後の国鉄技師長)一派の技術陣がその設計を指導したものである』」(「ふそうの歩み」=⑮P47)という、この組合に加わっていない三菱関係者による客観的な証言もある。以下は(②P149)より
『商工省標準型式自動車を具体化させるに当っては,鉄道省の車輌生産方式が大きな役割を果した。当時,共同設計,共同生産のノウハウは,国産3社,商工省において標準型式自動車の製造に応用するほど蓄積されていず,鉄道省車輌課に負うところが大きかったのである。』『(鉄道省)技師朝倉希一は「標準設計は鉄道でほとんど出来ている」「そこでこの委員会(自動車工業確立調査)はその標準設計にすぐ持って行った」と述べている。』(②P147)

16.2-2開発を主導したのは鉄道省+石川島自動車だった
 そして各メーカーにとって、重要となる、エンジン等主要部品の各社ごとの設計分担だが、『㈠ 石川島がエンジン(X型と称される),㈡ 鉄道省がフレーム,ステアリング,ボンネット,ロード・スプリング,㈢ ダット自動車がクラッチ,プロペラシャフト,トランスミッション,㈣ ガス電がホイール・ブレーキ,フロントアクスル,リアアクスル等を担当し,共同生産組合方式を採用した。』(②P150)
 鉄道省の国産トラック3社に対しての技術評価は、たぶん公平なものと思われるので、この結果を一言で言うならば、石川島の完勝で、当時はすでに撤退気味だったダットはともかく、石川島の長年のライバルであった瓦斯電に対してのこの評価は、瓦斯電全体の経営が悪化していた中で、なお多角経営を維持していた中から生じた、自動車部門へのしわ寄せの結果ではないかと思える。(個人的な想像です。なにせ星子勇以下のごく少数の技術陣で、保護自動車の傍ら、『ル・ローン、サルムソン、ベンツ航空国産エンジンの国産化、ニューポール戦闘機(甲式4型戦闘機)の生産を行い、一九二八年には日本初の国産航空エンジン神風(しんぷう)を完成した。無謀とも見える果敢なチャレンジ』(㉑P9)!を行っており、その上でさらに、陸軍からの依頼の各種特殊車両の製作も行っていたのだ。)
 ちなみに標準車用X型エンジンのシリンダーブロックは、ダットの大阪工場で吹いたとのことで(③P82)、陰ながら“鋳物の久保田”の実力を示したという。
 なお、石川島の楠木は東京帝大工学部機械科でウエスト賞を受賞した秀才ながら石川島の自動車部に身を投じるという『決意の人』(⑰P54)(当時としては、奇特な人?)であったが、鉄道省の島は同じ賞を2度受賞した、その1年後輩だったという。『標準型式車の設計に当って、島は「大体楠木さんと二人で相談して何もかも定めればよい様な調子になってしまった」と述懐している』(⑰P54)
 実際の設計と試作にあたって鉄道省側が特に留意した点は、輸入部品依存体質を改めさせ、国産品に代替えさせることと、JIS及び国際規格に極力適合させる設計を行ったことだった。
 さらに鉄道省の技術ノウハウですごい点は、先行して行った3社のトラックの分解調査の段階で『鉄道省大井工場の設備でTGE(瓦斯電)を製造した場合の製造原価見積りを行った』(⑳P174)ことだ。
 当然ながら商工省標準車の際にも、鉄道省側で推定製造原価を算出し、『その内容を、試運転成績発表会の席上、3社の首脳者に示して考慮を求めたのであった。この原価では到底できないとは表向きの話であったが、裏の方では案外良い見積もりとして刺激を受けたらしく、自動車工業が保護自動車なる象牙の塔からでていく気運となった』(⑳P190)と、鉄道省の朝倉希一が記している。
 商工省・陸軍省と実務面を支えた鉄道省が標準型式自動車で目論んだことは、アッセンブリメーカーの統合+自動車部品の外注化・国産化という合理的な分業生産体制による、国産自動車工業の確立で、後の自動車製造事業法による、トヨタ、日産を担いで、フォード、シヴォレーのKD生産車に対抗するという“本番”に先立ち、TXシリーズはそのための試行(模索、予行演習?)というか、その出発点だったとも、言えるかもしれない。
(「新幹線の生みの親」として、あまりにも有名な島秀雄だが、厳しめなwikiの評によれば、「個別事案のディレクターとしてよりも80系電車開発や新幹線計画のような、大局的な視点を求められるグランドプラン実現のプロデューサーとしての技量を発揮した点で評価すべき人物と言える」と評されている。
商工省標準型式自動車は、個別部分の設計について、今の “自動車屋”の目で見ると、欧米の時流をもっと積極的に取り入れるべきだったとの意見もnetなどでは散見される。島は元来“自動車好き”だったというが、“自動車屋”ではなく、畑違いだったこともあり、後に指摘されているような、多少の問題点も生じさせたかもしれない。しかし全体としてみると、「大局的な視点を求められるグランドプラン実現のプロデューサー」としての島の力量が十分に発揮された仕事だったように思える。『このTX型自動車は戦後日本の自動車産業の礎となり、その発展がトラック輸送の拡大に繋がり、鉄道輸送を脅かす。鉄道技術の頂点を極めることになる人物が、鉄道輸送を脅かす種を蒔いたというのも技術史上の興味深い事実であろう。』(⑲P182)(下は、「新幹線の試験車両の前で(島秀雄、写真右)」)
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16.2-3「商工省標準型式自動車」(TX型、BX型)の完成
 こうして完成したTX、BXシリーズの仕様について、web(2)=ベストカーweb、(②P150)、(⑤P161)等を参考にし記す。
エンジンは石川島製の1機種に統一して、シャシーはホイールベース長/積載量の違いで(トラック2車種;TX35型がホイールベース長3.5m、1.5t積み(地方一般用)・TX40が4m、2t積み(都市及び近郊用))、乗員数(バス3車種;23,32,40人乗り)でバリエーション展開をはかった。ちなみにフォードやシヴォレーのトラックと差別化するためにホイールベースが圧倒的に長かった。トラックとバスはフレームをわずかに変更した程度で、シャシーとエンジンはほとんど共通だった。
 石川島が担当したエンジンは、X型エンジンと称されたが、コスト低減を狙って、それまでの石川島製A6型エンジンに比べ、材料および工作法を大量生産向きにしたものであった。
 ちなみにA6型エンジンは、アメリカ製のエンジンをスケッチあるいはコピーしたもので、クライスラーの乗用車用エンジンだという説(③P80)と、同じくアメリカのエンジン専業メーカーであるブダ社製だという2つの説がある(⑳P170)。余談だが、16.4-4項で触れる、チヨダS型の100㏋エンジンも、ブダ社製エンジンを参考にしたといわれており(②P176)、当時アメリカのエンジンメーカーであったブダ(Buda)と、ウォーケシャ( Waukesha)という2社が、今のカミンズ、キャタピラーと同じようなポジションにあったらしい。X型も同じく、ブダ社製エンジンを参考にしたといわれている(⑳P185)。
 直列6気筒SVで、排気量はA6型の4,070ccより大きい4,390cc、出力は用途によって45~65㏋/1,500~2,800rpmとし、X型エンジンと命名された。このX型エンジンは1932年に完成。シリンダボディ、クランクケース上半部を一体鋳造した。
そしてここが重要なポイントだが、『材料・電 装品・計器類に至るまで全て国産品を使用し、国産自動車工業の基礎を確立した』(web(1))ことだ。
 なお車幅は、国内の自動車通行可能な道路の80%以上が幅員2間以下という事情を考慮し、地方一般用のTX35型とBX35型の車幅を、おおよそ1間(1818mm)に収めたという。下表が5車種の仕様一覧だ。なお、商工省で標準車の制度関係に携わった宮田応義によれば、1934年まで生産されたこの5車種だけを、「商工省標準形式自動車」と称し、それ以降の生産車は、商工省標準車の改造設計による自動車で、慣例上、標準車とは称さないことになっている(⑦P12)
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 開発の経過について、以下web(2)を参考。
 1931年9月、商工省標準形式自動車の試作が開始され、1932年年3月、5車種9台(各車種2台、BX45のみ1台)が完成。1カ月間、約1000kmにおよぶ性能試験の結果を活かしてTX35、TX40、BX40の各1台を再試作し、第二次試作車として1932年11月完成した。
さらに東京、神奈川、静岡にわたる悪路の多いコースで運行試験を繰り返し、不具合個所を改修し、外観にも改善を加えて1933年8月完成した。ただここで悩ましいのが、商工省標準型式自動車として認定された年が、資料によって異なる点で、(①P30)、(⑤P161)では1934年3月としているが、資料によっては1933年3月としているところもある。この記事では一応、前者としておく。(下はTX40型標準型式トラック。JSAE日本の自動車技術330選より。“TX40”のTはトラック、Xはエンジンで、40はホイールベース長4mを表している。)
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 この標準車は、自動車工業(次項で記すが、石川島自動車製作所がダット自動車製造を吸収合併して1933年3月に創立された会社)と瓦斯電の両社で製造され、同じ車両でありながら両社の従来の呼称である「スミダ」、「ちよだ」として販売されるのは適当ではないとの判断から、1934年の量産開始を機に、伊勢の五十鈴川にちなんで「いすゞ」と命名された。もちろん、これが後の「いすゞ自動車」の社名の由来である。次項で記すが1937年、両社を併合した東京自動車工業が創立され、「スミダ」および「ちよだ」の生産は中止となり、替わって「いすゞ」の名称が全車両に冠せられるようになる。
 かくして「いすゞ」は、自動車工業ならびに瓦斯電によって量産に移ることになったわけだが(ダットが抜けた経緯は次の16.3項で記す)、後述する販売不振と、満州事変後の日本の自動車工業界の成り行きから、両社とも軍用車の生産に重点が置かれたため、商工省標準形式自動車(上記表中の5車種)としては1934年までに750台が生産されただけに終わった。
 しかしいすゞTX(とBX)は、これ以降も改良が続けられ、戦後のいすゞ5~6tトラックへと発展していくことになる。それらは16.5項で記す、陸軍のディーゼル統制エンジンとの組合せで、日本を代表する近代的で世界に通用するトラックの出発点となった。(下の写真は(web(2)より、上の写真と同様、TX40型と思われるが、時代は少し後年のもののようだ。)
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https://img.bestcarweb.jp/wp-content/uploads/sites/4/2022/04/14123702/66e091bc2d19932de79e174ad215915d20.jpg
(下の写真はweb(15)よりコピーさせていただいた、1937年モデルのいすゞBX40型観光バス仕様のカタログ。綺麗なイラストだ。)
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https://stat.ameba.jp/user_images/20140906/17/porsche356a911s/87/d2/j/t02200165_0800060013058274316.jpg?caw=800
もう一枚、下は1939年型のTX40型トラックだ。(㉖P2に掲載されている。)
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https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcR_Dj7hYZaQognHlMXyCmn5YL7TGwCzYoGYMg&usqp=CAU

16.2-4「商工省標準型式自動車」の果たした役割
 ここで「商工省標準型式自動車」をどう評価すべきか、まとめてみたい。
評価のポイントとしては、自動車の場合、“売れたか売れないか(=市場で評価され受け入れられたか)”が重要だが、その点では、タイミングの悪さも災いしたが“失敗作”であったと言わざるを得ない。
 まず当初の計画では、生産初年度が1932年であったが、運悪く?満州事変(1931.9~1933.5)と重なってしまい、軍用車両の製造を優先させた結果、標準形式自動車の事業に力を注げない状況が生まれてしまった。試作の遅れが生じた上に、『陸軍では標準車の結果をみないと、使えるかどうかわからぬと態度を保留していた』(⑦P14)ため、この時点では標準形式自動車の軍用車としての採用を控えたからだ。台数を稼ぐうえでは、もっとも大きな痛手であった。
(しかしTX40に若干の改造を加えて1937年、九七式四輪自動貨車として、後に陸軍から正式採用される。九七式に先行し、標準車の部品を最大限に活用してつくられ、日本陸軍を代表する軍用車両となった、九四式六輪自動貨車とともに、標準車政策はその後、十分に活かされていく。下の写真はブログ「自己満足日記」さんより、ハセガワの1/48プラモデルの、九七式四輪自動貨車(TX40)と、後ろ向きは田宮製のくろがね四起だ。
https://blog.goo.ne.jp/kurakin1220/e/c71691fdd97a33dc9fa5edfd825b99b6
 なお九七式自動貨車はガソリンエンジンの四輪なので、陸軍の運用上では六輪と違い、後方での輸送任務となり、その前年に自動車製造事業法が公布されていたので、本来ならばトヨタと日産の大衆車のトラックが担う分野だ。しかし1937年7月の盧溝橋事件をきっかけに日中戦争がはじまり、この時点ではトヨタと日産の生産量がまだ十分立ち上がっていなかったため、ピンチヒッター的に標準車を軍用化して戦場に送る必要があったのだという(⑧P77)。ちなみに「自動貨車」はモータートラックを直訳した陸軍用語だ。)
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話を戻し、商工省はやむを得ず予算を繰越し、翌1933年度に両社合わせて150台の製造に着手させたが、最優先の軍需に追われて部品の調達もままならなかった。しかも『なかなか思うようには売れず、~米国車レオの値段よりも安くして、東京市営バスへ納めた次第であった。』←(⑦P10)によれば市営バスに「ほとんど全部」。しかし(③P39)によれば「そのうちの50台は無理に」と微妙に異なるが、いずれにしても市営バスに押し込み販売して“消化”したようだ。
その後、満州の同和自動車工業(当時満州にあった国策自動車会社)向けの、満州移出用の300台分の部品(注;販社の「共同国産自動車」(16.3-3項参照)が、満洲国の建国と共に旧奉天軍閥が所有していた奉天造兵廠を接収し,「同和自動車」を設立し,ここを拠点に日本から300 台分の部品を送り CKD 生産を行ったという(web(18)P44))も含めても、先に記したように『商工省の補助金から推定すると750台』(④P164、⑦P12)製造しただけで終わり、1934年には製造が打ち切られた。計画では年産1,000台×5年=5,000台だったのだから、大幅な未達だ。
 このように標準形式自動車の生産は不調に終わったが、満州事変の勃発は皮肉なことに、石川島(自動車工業)と、瓦斯電にとっては幸いし、この間全般に受注は順調であった。
 特にミニ三菱重工業的な、総合重工業企業のような展開をみせていた瓦斯電の場合、今まで自動車以外の他部門の不振が全体の足を大きく引っ張り、経営難に陥っていたが(次項で記す)、1933~34年頃からは軍需の拡大により、標準車の不振にもかかわらず経営内容は一気に好転し、石川島ともども設備投資の増強へと進んでいく。(④P165)(下の画像は“尼崎市立地域研究史料館”さんhttp://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/
より「愛國第三(姫路)裝甲自動車の勇姿」。“愛国(海軍の場合は”報国“)何号”という名称は、国民の献金で兵器や車両を購入する国防献品制度により献納されたもので、「愛国三姫路号」は第十師団管区内の兵庫県から献納された車両という。(web27)によれば瓦斯電製の、ちよだGSW型装甲自動車(九二式装甲車)で、約200生産されたというから当時としては相当な台数だ。ようは忙しかったのだ。)

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http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/Uploads/Postcard/PC0000000172/PC0000000172_640px.jpg
 このように標準車の不振は、満州事変という、外的な要因に大きく作用されたが、④によれば、標準車の商品企画自体にも要因があったと分析している。詳しくは本書を確認いただきたいが、その販売戦略は、『~ まず標準車が20人乗り以上のバス部門において基盤を確保し、さらに1.5トン級の大衆トラック部門の一部を獲得するかにかかっていた。』(④P154)
 特に20人乗り以上のバス部門において市場を確保できるかが重要だったが、『当初大きな期待を寄せられていたバスでも大衆車と大型車に挟まれる結果になったのである。そのため、標準車は鉄道省が「政策的」に購入するに留まった。こうした標準車政策の失敗の結果、1935年中の国産車の保有台数は全体の0.6%にすぎなくなった。』(④P161)官民あげて取り組んだ、標準車の登場にもかかわらず、国産車のシェアはますます低下してしまったのだ。
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 標準車にとって頼みの省営バスは、国産車で統一していたが、当時はまだ路線数が少なく、購入台数もけっして多くはなかった。『(戦前で)最大であった1936年の購入台数は164台であり、当時の保有台数も431台に過ぎなかったのである。』(④P160)
ちなみに(④P161)の表によると、1930~1935年の省営バスの購入は合計で268台で、この市場を、16.4項で記すが新規参入組の、ふそう(三菱)と六甲(川崎)を含む4社(この時点でダットは撤退)で分け合っていたのだ。
 しかもその中で、標準車より出力の大きい、大型バスの方を、より重用したため、標準車は「大型車に挟まれる結果になった」のだが、これについても16.4項の省営バスの項で説明する。
 参考までに1934年9月の調査によると、当時のバスの全保有台数は20,171台で、大衆車のフォードとシヴォレーなどの小型バスの割合が圧倒的に多かった(④P159)。下表は、国鉄沿線の市営バスの使用状況で、国産バスは東京市以外では、京都市と神戸市で僅かに使用されていただけだ。省営バスとならび、国産バスの販路として期待される市営バスにおいても、大半はシヴォレーとフォード(特にシヴォレー)が、使用されていたことが分かる。
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この要因の一つとして、シヴォレー、フォードなどいわゆる“大衆車”の上級移行もあった。11.13項で詳しく記したが、1920年代後半ごろから、フォードとシヴォレーは本国で熾烈な馬力競争を展開し、フォードに例をとれば、1920年代半ばのT型フォードの時代は20㏋だったのが、1939年のV8では90㏋に達し、たった10数年の間に実に×4.5の馬力にパワーアップしていた。同じ“大衆車”という変わらぬ括りながら、たとえばトラックでは1t級から、実質的には、1.5~2t級へと、積載量は上級移行を果たしていた。下からの突き上げも激しかったのだ。
 さらに価格面だが、下表は1935年時点での、バスではなくトラックの価格表だが、やはりフォードとシヴォレーが、相対的に割安であったことがわかる。これだけ価格差があると、いかに市営交通といえども、国産品を率先して採用するわけにはいかなかったようだ。
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この結果、たとえばトヨタ自動車のHPの社史(web(4)=75年史)では、商工省標準型式自動車に対して、『しかし、商工省の計画は2年後に破綻し、この自動車国産化構想も実を結ばなかった。』と、手厳しい評価を下している。

 しかし戦前の陸軍と商工省による自動車政策で、悩ましい点は、その政策の実施段階では、必ずしも民需と合致せず、目論見通りの成果をあげられなくても、第二次世界大戦の敗戦を挟み、戦後の日本の自動車産業の発展まで枠を広げて考えると、あとから見れば実は重要な布石になっていて、高く評価すべき政策となり、結果オーライであった、という例が多いのだ。商工省標準型式自動車も、後述する陸軍が主導したディーゼル化路線(16.5項)と、省営バスの開発(16.4項)などとの合わせ技で、結果としては戦後の国産大型トラック・バスの発展に大きな貢献を果たしたと思う。ただその点については、この記事の最後の、まとめの項で記したい(と、いったん問題を先送りする!)。

16.3商工省/陸軍主導による軍用3社の合併
16.2項で記したように、「自動車工業確立調査委員会」における議論の結果を踏まえ、商工省と陸軍省は、石川島、瓦斯電、ダットの国産トラック3社を統合する意向であったが,その実現までには複雑な経過をたどった。
先に概要を示せば、ダットの大阪工場は1931年 8月に戸畑鋳物に買収されており,石川島と営業権を中心とするダットとの間で 1933年 3月、合併が成立し、自動車工業株式会社が誕生する。残る瓦斯電は、単独での生き残りを模索していたが、1937年 4月に東京自動車工業株式会社の創立により、ようやく3社の合併が実現することになった(下の表を参照)。
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以下からはより詳細に、その経緯をたどっていきたいが、その前に、多少雑談めいた話から始めたい。

16.3-1藤沢正雄(石川島)と久保田権四郎(ダット)の心境の変化
 企業の統廃合の話になると、関係する会社のトップである、渋沢正雄(石川島)、松方五郎(瓦斯電)、久保田権四郎(ごんしろう、ダット)そして鮎川義介(日産)の4人が、どのように考え、決断していったかに、大きくは懸かってくる。
 3社統合が明確に方向づけられたのは、「自動車工業確立調査委員会」(1931.06発足)の前あたりからだが、国産3社の社長が委員となった同委員会について、(web(3)P6)によると、久保田(ダット)だけは権四郎本人ではなく、専務取締役で娘婿でもあった久保田篤次郎の代理出席であったという。自動車事業の芽をつぶさないように、今まで辛抱強く支えてきたが、これ以上、好転は期待できないと、すでに見切っていたようだ。
 一方、自動車産業の将来性を確信し、参入する機会を窺っていた鮎川義介は久保田権四郎のダットに資本参加を申し入れ、久保田はこれに応じる(1931.06)。さらに同年8月、所有株式一切を戸畑鋳物に譲渡して、10年以上にわたる自動車事業から撤退する。(⑫、P83)
 だが久保田は1933年、今度はその戸畑鋳物から、競合先だった同社の発動機部門を逆に引き取ることにする。『「トバタ発動機」を得たことで、久保田鉄工所機械部の販売台数は大幅に増加し~1935(昭和10)年には発動機部門の売上高が、久保田鉄工所・久保田鉄工所機械部の二社合計売上高の15%を初めて超え、内燃機が鉄管と並ぶ久保田の基軸商品となったことを物語っていた。』(⑫、P140)自動車事業をきっぱりとあきらめたが、発動機部門はやがてディーゼルエンジンの商品化へと進み、久保田の事業を支えていく。詳しくは前回記事の15.3-12項を参照してください。
(下は久保田(現クボタ)のHPより、1938年に本格稼働の“東洋一の発動機専門工場”と称された堺工場で、「コンベヤーシステムは自動車会社を除くと、国内民間企業では初の採用」だったという。)
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 一方、瓦斯電と大きな差こそなかったものの、業界のトップ企業であった石川島自動車の渋沢社長は、同委員会の議論のなかで、自ら一歩踏み込み、『生産統制なくして販売統制は実現しないとの持論を展開しつつ、政府の方針が「明瞭」にされるのであれば、既存 3 社を「一個ノ株式会社ノ如キモノニシタイ気持ハアル」と企業合同に意欲をみせた』(web(3)P17)という。
 いざ3社統合ともなれば、各社の利害調整は難しく、実際には難航することになるのだが、文字通り“茨の道”を歩み続けてきた国産保護自動車の側からも、「国による統制」を望んでいた面もあった。(②P115)によれば、『「いすゞ自動車史」(昭和32年)では、「陸軍省兵器局の永田鐵山大佐あたりから(統合を)盛んにすすめられた」(四五頁)と指摘している』そうで、陸軍との歩調も合っていた。
 だが統制経済体制下で陸軍や商工省が描く、自動車行政に従うことは、企業の自主性を失いかねない側面がある。しかし藤沢正雄(石川島)の受容的なその姿勢の裏には、どうやら渋沢家としての事情があったようだ。父、渋沢栄一の死後(1931.11没)、一族に残された数ある事業(トヨタの社史の⑩P31では「渋沢財閥」との記述がある)のなかで、自動車よりも製鉄業を重視するという決断を下したことが影響していたようだ。以下(web5;2021年7月28日付ダイヤモンドオンライン)から要約する。
藤沢正雄は東大を卒業後、父が創設した日本最古の銀行である第一銀行への入行を皮切りに、渋沢貿易、富士製鋼、石川島造船所、石川島自動車、石川島飛行機など、渋沢財閥傘下の企業で重役を歴任するが、父の死の翌年(1932年)、製鉄業以外の関係会社の役職を全て辞任する。『製鉄業に専念することを決めたのは、~ 親父がやって失敗した製鉄業を、一生の仕事として国家に奉仕しようと考えているのである」という。偉大な父に対する尊敬の念と、その遺志を継ぐ強い思いに突き動かされていたようだ。』(web5)
 詳しくは(web5)をお読みいただきたいが、この記事が、85年以上前の1935年12月21日号の同じ「ダイヤモンド」誌の、藤沢正雄へ実際にインタビューした記事を基に書き起こされているという事実が、何気にすごい。
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 この記事には、そこまで記されていないが、生前の父、渋沢栄一や、その当時渋沢家の当主であった渋沢敬三(戦後蔵相を務め、新円切り替えと預金封鎖でも有名)とも相談の上での決断だっただろうと思う。
 これ以降の戦前の石川島自動車は、陸軍と商工省の意向に従いながら、過大なリスクは避けつつ、国策企業への道を歩んでいく。
 このように、4人の経営者のうち、1人は撤退し、1人は距離を置きつつ、概ね国策に従っていくかたちをとるのだが、残りの2人は必ずしもそのようにはならなかった。次項からは、瓦斯電とその社長である松方五郎と、日産の鮎川義介の確執を軸に、当時の自動車業界再編をみていきたい。

16.3-2鮎川義介の「自動車産業合同論」
 さきに記したように、ダットの経営権を取得した鮎川だが、陸軍の斡旋で始まった3社合同案に直ちに賛成する。後の記事で記すことになるが、一連の交渉のなかで、日本GMが加わる意思があるこが明らかになった以降は、一段と熱をおびて交渉にあたることになる。このGMの件は結局身を結ばなかった(“その8”で記す予定、今回の“その6”の記事では外資系と乗用車、大衆車系の交渉を極力除外して記していく)。以下は(⑬P99、⑭P54を主に+⑤P195)を基に記す。
鮎川は、日本フォード、日本GMの両外資系企業が自動車市場を支配している中で、自動車国産化を達成するためには国産メーカーを大同団結させて、強力な国産メーカーを育成し、早期に量産システムを構築する必要があると考えていた。さらに鮎川には、3社合同のイニシアチブをとることで、政府が進める自動車工業確立策に影響力を行使したいという思惑もあった。

16.3-3松方五郎(瓦斯電)との確執と「自動車工業」の誕生
 1932年9月から3社合同の話し合いが開始され、鮎川の登場に他の2社が警戒感を強め、対立する一幕もあったが、同年12月、林桂陸軍省整備局長を立会人として、渋沢正雄(石川島)、松方五郎(瓦斯電)、鮎川義介(ダット)3社長による3社合同の仮契約を締結するに至った。
 ところが仮契約を締結したその翌日、瓦斯電側から、メインバンクの十五銀行が昭和恐慌による破綻のための整理中だが、当社の工場が融資の担保に入っており、自動車部の資産を分離して新会社に持ち込むことが技術的にむずかしいため合併に参加できずとの、一方的な申し出がある。
鮎川は松方の申し出に当然不満であったが、1933年3月、石川島自動車製作所とダット自動車製造の2社間での合併を先行させて、「自動車工業株式会社」が誕生する。なお(㉓P10)にその際に『三井、三菱、住友の各財閥より資本参加を求め、』(⑦P10)という記述があることも、追記しておく。
 鮎川主導による自動車産業合同論に強く反発する松方であったが、自動車工業との共同出資による販売会社、「協同国産自動車」の設立にはさすがに合意し、標準形式自動車の販売に当たることとなった。これにより従来の「国産自動車組合」は解散となった。
 しかし、この自動車工業会社の成立後、鮎川の自動車産業界の大合同を基軸とする自動車国産化構想は大きく後退することになる。自動車工業会社に瓦斯電が参加しなかったことに加えて、同社は軍用保護自動車と標準型式自動車の生産に集中し、鮎川が要望する乗用車生産が見送られたからだ。

16.3-4「日産自動車」の誕生
 しかしその直後、日本GMが商工省あてに、当社も合流したい旨申し出があったという情報をキャッチする。鮎川はそこで方針を変えて、『政府補助という他力本願の考えを棄て」、日産コンツェルンの「自力をもって(自動車工業)確立に邁進する」決意を固めた。』(⑭P55)
 なお、自動車工業株式会社では小型車の製造を行わないため、交渉の結果、ダットサンの製造権は戸畑鋳物に譲渡されることになる。この小型車の件は次の記事の(その7)で細かく記すが、概略だけを先に記せば、再び小型車ダットサンの製造・販売権を取り戻すと、戸畑鋳物の出資で、「自動製造株式会社」(似たような名前が多いが、「自動車工業」とは別の会社)を設立する(1933年)。この自動車製造㈱が、GMとの提携が成立した際の受け皿となるはずであった(⑤P196)。1934年には「日産自動車株式会社」に社名変更し、自ら小型車ダットサンの大量生産に乗り出すこととなる。一方大衆車(注;何度も記すがフォード、シヴォレー級=3ℓクラス)の量産に関してはGMとの直接提携交渉に乗り出すのだが、それ以降の“大衆車”の話はいずれ(その8)で記すことにする。日産はその後、紆余曲折を得たのちに、これも後の(その8)で記すが自動車製造事業法の許可申請を行い、1936年9月、トヨタと共に許可会社となる。しかしそれだけでは飽き足らなかった。(下の写真はブログhttps://tanken.com/nissan.html より、「丸の内の日産館(本社)」
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16.3-4「東京自動車工業」の誕生でトラック3社の合同を果たす
 鮎川は『再び自動車産業界の合同論を唱え、行動を開始した。鮎川の狙いは、合同によって自動車産業界における競争激化を回避するとともに、日産自動車の生産体制を拡充することにあった。鮎川は前回の国産3社の合同問題の際、表面に出過ぎて周囲の反発を買ったことを考慮して、今回は小川郷太郎商工大臣のブレーンで、松村菊勇自動車工業会社社長と親しい朝倉毎日(当時、衆議院議員)を仲介者として話を進める方針をとった。』(⑭P56)
 その後の日産、自動車工業、瓦斯電の間における交渉の経緯は陸軍/商工省/関東軍などの思惑や、鮎川が別途進めてきた外資との提携交渉や満州進出も絡み複雑に交差して、詳細に記すと長文になるのと、不明な点多いため(たとえば②P158~161、⑭P56~60等を参照されたい。より詳しくは瓦斯電再建の功労者で元常務の内山直が記した「瓦斯電を語る」(1938年発行)や、いすゞと日野の社史を読み込む必要がありそうだ。)略して結果だけ記せば、紆余曲折を経て、『単独で設備を整える気概をみせ合併を渋った』(web(8)P46)瓦斯電も、日産による自動車工業との統合案を阻止すべくついに折れて、自動車工業と瓦斯電の自動車部がついに合併し、東京自動車工業が誕生する(1937年4月)。さらに同年9月、販売会社の協同国産自動車を吸収合併し、生産・販売を一貫して行うメーカーとなった。ここにようやく、軍用保護自動車3社の統合が実現したことになるが、ここでもまた、鮎川が目論んだ、日産を含む大合同は阻止されたことになる。

16.3-5日産による瓦斯電の解体
 ここに至り、ついに挫折したかに見えたが、『だが、鮎川は自動車産業界の合同策を断念しなかった。』(⑭P57)! 引き続き東京自動車工業と日産との合併を画策するのだ。
 下の東京自動車工業設立時の、株主構成表をご覧いただきたいが、自動車工業側の株主が合併以前に既に分散していたため、約50%の株式を、瓦斯電が握ることになった。東京自動車工業というと、我々(というか、自分だけの単なる思い込みだった?)は先入観から、一貫して石川島(渋沢財閥)色が強いように思っていたが、この項の冒頭で記したように、渋沢正雄(渋沢財閥)はすでに、自動車から鉄鋼産業へと軸足を移し、社長も第一銀行出身の加納友之助に譲っていた。そしてこの株主構成表をみれば、松方五郎からすればここにきていよいよ、勝負の時を迎えていたのだろう。
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 以下は瓦斯電から戦後、日野自動車の副社長になる家本潔に対してのJSAEインタビュー(web6)からの引用で、瓦斯電側からみた、東京自動車工業設立の経緯について、以下のように記している。
『1936年商工省は国産自動車工業確立のため、自動車工業の大規模化を狙った「自動車製造事業法」を公布しました。年間3千台作れれば5年間税金免除というもので、瓦斯電の自動車生産量では合併の避けられないものでした。
 しかし瓦斯電は航空機も作っていた大きな組織で、そう簡単にはいかず次のような過程を経ます。
 1937年4月、松方社長は「東京自動車工業」と言う新会社を設立、同9月に瓦斯電自動車部と合併、同11月にこの「東京自動車工業」「自動車工業」(前石川島自動車製作所、現・いすゞ自動車の前身)を合併しました。』
(web6P164)先に記したことと年月が合わないのだが!ここで記されているように、東京自動車工業は元々、瓦斯電側が自動車自工を合併するための準備として設立した会社で、創設時の主導権は、明らかに瓦斯電側が握っていた。『飽くまでも自動車工業株式会社との対等合併を主張して止まぬ瓦斯電』(⑨P31)の松方五郎は、自動車産業に対して一貫して大きな野心を抱いていた。(下の写真はhttps://blog.goo.ne.jp/aurora2014/e/a6c572fbb070d20f0aed29a2d41bb42eよりコピーさせていただいた、「日野オートプラザ」に掲げてある、松方正義の肖像画。)
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 こうして松方の長年の野望がついに、叶えられそうになったのだが、しかしこの時、東京瓦斯電機工業の大株主であった十五銀行の、自動車事業に対しての投資スタンスは、大きく揺らいでいた。
 この合併の結果を見て鮎川義介は、今度は東京自動車工業の株式の約半分を所有する瓦斯電そのものを買収することで、東京自動車工業をも掌中に治めるという、大胆な戦略に打って出る!
 そのためのステップとしてまず、瓦斯電のメインバンクの十五銀行(=有力華族の出資により成立した銀行で、世上「華族銀行」と呼ばれていた。しかし1927年(昭和2年) 昭和金融恐慌により経営破綻し、再建途上で当時経営が苦しく、自行の整理資金のねん出のために、株価が高騰していた瓦斯電の株式の一括購入先を探していた。(概要wiki+⑭P58より))に対して接近を試みる。東京瓦斯電気工業の株式全体の51%を十五銀行が握っていたからだ。
 鮎川は単身、十五銀行頭取西野元を訪ね、瓦斯電と東京自動車工業抜きで秘密裏に交渉を行う。『実は瓦斯電工株の値上りは今が天井であり、而も同社生産力拡充のために二倍半増資が必要だとされているその資金を賄うことは現在の整理銀行である十五にとっては殆ど不可能に近い、早晩瓦斯電工は大きな財閥に譲渡しなければ成らぬ立場にあったのである』(web38)
 1938年4月、満業(=満州重工業開発株式会社の略称で、日産コンツェルンの持株会社である日本産業を満洲に移転・改組させて設立された。陸軍(関東軍)の要請を受けて、満州国内の鉱工業を一元的に統制することを目的としていたが、後にその計画は挫折した。この当時は鮎川が総裁を務めていた。(以上概要wikiより))傘下の日立製作所が、十五銀行所有の瓦斯電の株式買収に成功する。上記のように十五銀行側は、瓦斯電株は『今が天井』(web38)で売り時だと判断したのだ。(下の画像はwikiより十五銀行本店。現在の中央区銀座八丁目にあったという。)
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 ちなみにこの当時の瓦斯電だが、(その3)の記事で説明した“暗黒の時代”とはうって変わって、日本全体が戦時体制下に移行しつつあった中で、航空機及びその発動機、自動車、戦車等の軍需製品の生産を行う、時世にマッチした花形企業として、日の出の勢いだったのだ。(たとえば“その3”の記事の「≪備考12≫瓦斯電のシャドーファクトリー構想について」や、(web(7))等、参照してください。)
『鮎川義介は東京自動車が軍用トラックを製造する最大の国策会社として発足したことから、満業の影響下に東京自動車を置き、軍用トラックを同和自動車へ供給させようと考えた。』(②P193)鮎川は日・満で展開する日産コンツェルン全体として、自動車産業の規模拡大と、今後ますます成長が期待される、航空機産業を含む軍需製品の拡充という、二兎を追ったのだ。
 しかし当時の日本では強引な買収戦略は『事態があきらかになると、東京自動車工業、とくに瓦斯電の松方五郎社長は強く反発した。そして松方は両社の事業と関連の深い陸軍省兵器局に鮎川らの行動に不満であることを伝え、善処を求めた。』(⑬P105)
『また政府自体においても自動車工業に関して内地と満洲との間に摩擦を生ずるような虞れがありはしないかを心配していた』(web38)
 こうして陸軍省の介入により、日立が株式の過半を押さえた瓦斯電が所有する東京自動車の株式のうちの半数を、陸軍の意を受けて調停役として登場した、日本高周波重工業(注;当時特殊鋼のメーカーとして急成長を遂げ、同社会長の砂田重政は政友会の幹事長でもあり、陸軍を含め各方面に顔が広かったようだ)に譲渡するよう要請される。
 そしてここでも紆余曲折を経た末に(②P158~161や⑭P58,9にざっくりと書かれている)、鮎川はその要請(陸軍省による半ば「命令」だったのだろう)を受け入れる一方で、日立製作所による東京瓦斯電気工業(=自動車を除いた部分)の合併という果実を手に入れる(1939年5月)。
 さらにこの間の経緯で複雑だったのは、(web(8))や⑮、(web(7))などを読む限りでは、満州に展開する関東軍が、商工省及び本土の陸軍省の政策とは対立する、満州国独自の自動車行政を展開しようとしていたことだ。『複雑な過程であるが想像するに、関東軍の思うままに動く会社にしたかったのであろう。』(web(8)P45)
 そのため瓦斯電も、この後記す三菱重工業も、そして日産自身もその後、『軍と政治に激しく翻弄され』(web(8)P46)ていく結末となる。
さらに☆2022.11.12追記:日立による軍需企業、瓦斯電吸収の経緯については、「1930年代の電機企業にみる重工業企業集団形成と軍需進出」(吉田正樹)=web45が詳しい。ぜひ一読してみてください。https://jglobal.jst.go.jp/detail?JGLOBAL_ID=200902196097683534)
(しかしここまでチラッとだけ見てきただけでも、ここに深入りしようとすると複雑怪奇で、そもそも『満州国』なるものの実態がいまだに解明されていない(と、自分には思える。デクラス待ち?)中で、この辺はさらっと流して、代わりに満州の街並みの写真を何枚か貼り付けてお茶を濁したい。(下は以下のwebより「建国からわずか12年で首都新京などの大都市は、東洋のパリと呼ばれるほどの美しい街になりました。」https://nezu3344.com/blog-entry-3683.html)
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https://blog-imgs-118.fc2.com/n/e/z/nezu621/20180227100119e21.jpg
(「奉天駅」引用先http://www.fadecard.com/2017/05/blog-post.html)
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https://1.bp.blogspot.com/-uEvBab1Td4o/WSTYev9IKYI/AAAAAAAAAGI/yeNQ7pzNZyIT-gv82nBJt0S75rAdNk_iwCLcB/s640/001A%2BSCN_0001.jpg
(「大連市の大広場」引用先http://tanosimi.bunka.main.jp/?eid=1104248)
写真を見ても、日本人がつくったようには見えないのだが・・・

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(「1937年、鮎川義介(右)と松岡洋右」 引用先は「2011年日本自動車殿堂」より)
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 話を戻し、瓦斯電の自動車部は、東京自動車工業とすでに合併していたので、この結果瓦斯電は解体され、航空部が日立航空機、兵器部門は日立兵器、工作機械が日立工機、計器部門は東京機器工業(現トキコ)となり、火薬部は日本窒素に売却される。鮎川は『日立製作所及びガス電の航空機部門を満州の航空機製造へ動員し、航空機工業を確立しようと全力を注いだ。』(②P194)アグレッシブに活動し二兎を追った鮎川は、最後に一兎は掴んだのであった。
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 瓦斯電は、松方の気宇壮大な構想のもとに事業の手を広げ、軍需を核とした多角化路線を展開していったが、軍靴の音が次第に大きく鳴り響く中で、ついに花開く時を迎えようとしていた、その矢先の解体であった。『瓦斯電は三菱重工業の規模を小さくし、昭和初期にコンツェルン化への発展を秘めていたが、結局、解体されてしまう。しかし、瓦斯電自動車部はその後東京自動車工業から分離され、日野重工業として発足し、中級車の主流を形成し、今日に至っている。』(②P161)ちなみに(web7)には『尚おこれに伴って瓦斯電の復興に功あった内山直氏以下の十五銀行系の重役は退陣し、松方社長は日立より瓦斯電株の一部を譲受ける高周波重工業のバックで留任するはずである』と記されており、事実、東京自動車工業の初代社長に留任している・・・。ちなみに副社長は旧自動車工業出身の新井源水だった。
 話を戻すが、合併なった東京自動車工業は、陸軍からの大量発注で、既存の大森、鶴見の工場では生産能力が間に合わなくなった。そこで元々は瓦斯電が自動車製造事業法の許可の申請用に用地買収していた(②P159)という、川崎大師河原下殿町(4万坪)に、自動車工場を急遽建設した。さらに東京府南多摩郡日野町(20万坪)にも陸軍向けの特殊車両(キャタピラ付きの)用工場を建設し、こちらに旧瓦斯電系の技術陣が集結する。戦後になり前者がいすゞ自動車の川崎工場、後者が日野自動車の日野工場へと発展していったことはご存じの通りだ。

ディーゼル自動車産業、統合への道
 話が前後するが、自動車製造事業法によるトヨタと日産の許可会社への指定と、トラック3社の統合を果たした商工省は、自動車行政の次のターゲットとしてディーゼルエンジンの統制型の指定に取り組む。陸軍が主導した、自動車用国産ディーゼルエンジンの開発と、軍用車のディーゼル化の過程については、あとの16.5項で記すので詳細は割愛するが、『これは指定された統制型ディーゼルエンジンを一社の下で大量生産し、さらに、自動車製造事業法の許可会社に指定されることを意味した。このため、自社のディーゼルエンジンが統制型に指定されるかどうかはその企業の命運を左右するものとなるのである。』(②P198)
 後の16.5項で触れる三菱、東京自工、池貝、新潟鉄工所、新興の日本デイゼル以外にも、この記事では省略するが日立、神戸製鋼(1935年)、川崎車輛、(1937年)など有力企業が続々と名乗りを上げて、ディーゼル技術の開発競争を繰り広げた。
統制経済体制下の商工省と陸軍省の狙いは、各社のディーゼル技術を結集させて、ディーゼル自動車の製造を、許可会社の一社に独占的に行なわせることであり、技術競争に勝ちあがること=自動車会社になれるチャンスだと、各社は感じ取っていた。
 結論から先に書けば、東京自動車工業の技師、伊藤正男が設計したディーゼルエンジンを統制型エンジンと指定し(16.5項参照)、技術情報を全面開示させる一方で、他の4社(三菱、池貝、川崎、日立)にも東京自動車工業に対して、自社のディーゼル自動車用の製造設備と技術を供出させる。そして東京自動車工業を母体として、4社にも出資させたうえで、あらたに「ヂーゼル自動車工業株式会社」と改称し、1941年4月30日創業される。
 このヂーゼル自動車工業は、ディーゼル車の製造を一元的に行う会社として、自動車製造事業法に基づく三番目の許可会社となった。(正確に言うと、1941年4月9日付けで東京自動車工業の段階で、許可会社に指定されていた)。こうして、国のお墨付きの、トヨタ、日産、いすゞという「御三家」が誕生するが、しかしその過程で、ディーゼルエンジンの分野で、過去もっとも多くの実績を誇ってきた三菱(重工)が、許可会社への指定をめぐって陸軍・商工省と激しく対峙していく。以下、その対立の経緯をみていきたいが、主に(②、⑮、⑳、⑦)等を基に記した。

16.3-7三菱の本格参入を巡って、陸軍・商工省と対立
 16.5項で記す内容と被るが、商工省と陸軍省は、国内ディーゼルエンジン業界の事情聴取を、以下の8社(東京自動車工業、三菱重工業、池貝自動車、神戸製鋼所、新潟鐵工所、久保田鉄工所、川崎車輛、日立製作所)に対して行う(久保田も入っている!ちなみに(⑦P88)では9社とあるが)。その中で、東京自動車、三菱、池貝、川崎、日立の5社がそれぞれ単独で、本格的なディーゼルエンジンの量産化に乗り出す姿勢を示したため、陸軍・商工両省が直接、ディーゼル自動車業界の再編に乗り出す。
 日中戦争の拡大に伴い、軍用自動車の製造に追われる東京自動車工業の生産台数は、自動車製造事業法の許可会社の条件である年産3,000台規模を上回って生産され始めていた。同社は軍用規格車を製造する会社であったため、同法による制約を受けず『資材割当でも販路でも軍需ということで別格扱いされて』(⑨P107)いたが、自動車産業に対する一元管理の実現のため、機は熟したとばかりに、『陸軍省整備局及び陸軍自動車学校は、東京自動車をディーゼル自動車の許可会社として申請することを要請し、商工省の行政指導を求めた。
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こうした東京自動車の事業法への申請の動きに対し、三菱重工業もディーゼル自動車を大量生産すべく事業法への申請に取り組むのである。』(②P201)
上記の業界に対してのヒアリングが行われたのは(⑦P88)によれば1940年末とのことだが、以下1930年初頭まで遡り、三菱の自動車事業への取り組みについて、追って行く。

三菱の自動車事業への取り組み
今まで自動車事業は“ご法度”であった三菱だったが(この一連の記事の13.3項「大財閥も動けなかった」や、6.4-3項及び(備考9)「自動車産業進出に消極的だった三菱財閥」などを参照してください)、後の16.4-2、16.4-5項で記すが、1930年代に入ると三菱重工は、当時の造船不況対策の一環として、鉄道省の誘いを受けてバス製造に乗り出す。しかし「不景気で苦しんでいたときでもあり,それに官庁相手の仕事でもあるから」(③P71;三菱神戸、大井上談)というのが理由の、慎重なスタートだった。
 その後商工省と陸軍は、フォードとGM(シヴォレー)の独占状態だった“大衆車”市場で対抗する国産車メーカーを育成すべく、自動車製造事業法の立法化に取り組むが、その検討段階で、その実力からして、もっとも期待された三菱に対して真っ先に打診を行なう。
しかし真っ当に考えれば、巨大な米2社に対抗するにはあらゆる面でリスクが大き過ぎるため、当面自動車事業はバス製造とし、航空機部門の拡充等を理由に、自動車事業への本格的な進出を躊躇う。しかしこの「企業としての冷静な判断」が陸軍側の心証からすると「冷たいそぶり」として映り、後に遺恨を残す結果を招いてしまう。
 だが立法化の過程で、自動車製造事業法が実際に施行されると、年間三千台以上の自動車製造が許可制となることが明らかとなる。自動車メーカーは国策会社(=許可会社)として保護育成され、5 年間所得税、営業収益税などの免除等“特典”も多く、省営バスをぼちぼち作る程度ならともかく、量産自動車メーカーとして存立するためには、許可会社の指定を受ける事が必須となってしまったのだ。
 この事態を受けて三菱は態度を翻すことになるが、しかし1936年9月、陸軍と商工省はトヨタ、日産の2社だけを、対フォード、GMの大衆車級のトラックと乗用車をターゲットとした許可会社として指定する。国内最大の、いわゆる“大衆車”の市場はこうして閉じられてしまったのだ。
 そのため三菱が許可会社として指定を受けられる=自動車会社となるための、残された可能性は、大衆車より一クラス大きい中型クラス以上の、トラック/バス分野のみとなる。
 もともと乗用車よりもトラック/バス志向だった三菱の思惑とも合致するのだが、しかしこの分野には、陸軍・商工省が時間をかけて育成中の、自動車工業(東京自動車工業)がすでに存在していた。
 このように陸軍・商工両省と三菱は、こと自動車分野に関しては、なかなか「嚙み合わない」関係だったのだ。

 次の16.4項、16.5項で記すように三菱は、黎明期の国内のディーゼル自動車の分野では、池貝と並び先行メーカーであったが、こうした一連の流れを受けて、中型以上のトラックのディーゼル化を推し進める陸軍の政策に則り、ディーゼル車によって、自動車製造事業法の許可会社の指定を受けるべく、本腰を入れて、自動車事業に取り組み始める。さすがに日本を代表する企業である大三菱重工のやることだけあって、その計画は具体的だった。以下(②P201~P206)と⑮を要約して記すが、詳しくはぜひ本書②、⑮、⑳、⑦等を確認してください。
 まず三菱重工内の自動車事業は、造船所系自動車部(神戸)と、航空機系の東京機器製作所(大井)の自動車部の2系統に分かれていたが、1937年それらを統合し、東京機器製作所の下に一元化する。ただしこの間の事情としては、戦時体制下に入り『神戸造船所が行っていた艦船製造や陸上機器・プラントの製造も多忙を極め』、(㉕P6)神戸が手狭になっていたという事情もあったようだ。
 そして自動車事業のための新たな拠点として、東京の下丸子に5万坪の土地を購入し、1937年3月、許可会社としての基準をクリアーすべく、年3,000台規模の一貫生産工場の建設を開始する。この下丸子工場の着工は、東京自動車の川崎工場着工とほぼ同時期の動きだ。同工場での主な生産予定車種は、アメリカのダッジ(=フォードやシヴォレーより少し大きい)の2トン積トラックをモデルとした大衆車向2トン積ディーゼルトラック(後述する「5,000円トラック」)であった。
 さらに同年7月、当時「世界最高」の高速ディーゼルエンジンと謳われた、ザウラー社(スイス)のエンジンをライセンス導入することになり、提携契約が調印される(16.5-2-3項参照)。
 東京自動車工業の需要先とかぶらない、満州国の関東軍、満鉄を主なターゲットとし、下丸子工場を満州向け自動車の生産工場と位置付けた。陸軍省と一定の距離を置き、独自の自動車政策を展開中の満州国(関東軍)並びに、自動車行政で主導権を握れず不満を募らす鉄道省との連携を強く感じさせるものだ。
 ここで「5,000円トラック」について、以下「ふそうの歩み」(⑮P63)より引用する。『十一年(1936年)の初め神戸造船所はダッジ2トン積トラックK32V型1両を購入、これをモデルとして大衆向二トン積ディーゼルトラックTD35型の試作を計画した。エンジンは予燃焼室式SHT4型50馬力を用い、年産3,000台、売価5,000円を目標とした。俗に「5,000円トラック」と称し、早速製作に着手したが、自動車事業の東京移管に伴い、本車も未完のまま東京に移された。東京機器製作所丸子工場で完成を見たのは十三年(1938年)に入ってからだった。一年有余にわたる実用試験を経て、十五年(1940年)には改造型YB40型二両の製作を開始、エンジンはSHT4型4気筒60馬力を搭載した。十六年(1941年)には完成を見た』
(下の写真のトラックはそのYB40型だが、上記のように商工省・陸軍省の自動車行政(標準車路線)と対立する車種になるので、本土向けではなく、満州国(関東軍)及び満鉄向けで計画されたものだった。しかし後述するように、内外の情勢の変化と、陸軍省・商工省×鉄道省・関東軍の対立、さらには満鉄はその後、大陸向けにより大型のトラックを欲したため、次に記すが、計画はすぐに破綻していく運命にあった。)
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 ところが、1937年7月に勃発した、盧溝橋事件を発端とする日中戦争が『三菱重工業と東京自動車の立場を逆転させ、さらに三菱重工業のディーゼル車製造から撤廃させる思わぬ帰結へ導いた。』(②P202)しばらく同書からの引用を続ける。
日中戦争の勃発により、戦車の大量配備が至上命令となる。そうなると当然のように『陸軍省は戦車の生産工場として三菱に大きな期待』(②P202)をかけた。そしてこの機をとらえて陸軍省は、丸子工場の竣工を待たずして、戦車を生産する陸軍の管理工場に指定してしまう(1938年3月)。
 丸子工場が戦車の量産工場へ転換されるなかで、思惑の異なる陸軍省と関東軍の間で激しい交渉が展開され、三菱は陸軍と満州国のあいだにたたされて苦慮したという。
(『丸子工場の跡地にはいま、高層マンションが建っています。多摩川土手のサイクリングロードは桜並木になっていて、毎年3月下旬から4月の頭にかけてお花見を楽しむ家族連れでにぎわっています。三菱重工業の「碑」に目を止める人はいません。』画像と文は以下のブログより。かつては戦車の工場だった場所だ。https://www.shifukunohitotoki.net/entry/2021/03/29/215603)
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 そのため三菱は、川崎(といっても鹿島田のあたり)に約11万坪の土地を購入し、新たな工場を建設し、陸/海軍向けの舟艇用ディーゼルエンジンの需要を満たすとともに、自動車事業をあきらめず、引き続き関東軍、満州、省営バス向けの自動車の量産を試みようとする。海軍向けの装備の生産は、陸軍省に対しての牽制にもなっただろう。しかし陸軍省・商工省の決意は固かった。以下(②P202)より引用する。
『下丸子工場が戦車工場へ転換され、ディーゼル自動車の製造を縮小すると、陸軍省は、軍の要求するディーゼル自動車を大量生産することを東京自動車に求めた。三菱重工業のディーゼル自動車製造の技術を東京自動車へ供出させるディーゼル自動車工業の再編成が陸軍省、商工省によって立案されるのである。すなわち、「陸軍としては三菱が戦車に転ずれば、自動車はいすゞ(東京自動車工業)をおいてほかならない(後略)」』
 16.5項で記すが、東京自動車工業(いすゞ)はディーゼルに関しては最後発組であったが、手堅い技術戦略と、長年の自動車製造で培った、旧石川島系のエンジン技術者たちがその実力をいかんなく発揮して(といってもディーゼルエンジンの設計・開発に当ったのは、実質は若手技師の伊藤正男ただ一人だったようだが!)、世界的にみてもオリジナル性のある、優れた燃焼室のデザインを確立していた。
 日本の国情に合った、自動車用ディーゼルエンジンとしてのその性能では、三菱を含むすべての国内先行企業のものをすでに凌駕して、当時の世界水準にいち早く到達した。このことは日本の自動車技術史で画期的な、初めての出来事だと思う(多少、私見が入っています)。しかし後発組ゆえに実績の面では、この時点では三菱や池貝などとまだ開きがあった。
 そこでこれも16.5で記すが、陸軍省の斡旋による、ボッシュとの技術提携による燃料噴射ポンプの「ヂーゼル機器」の設立で、燃料ポンプの製造実績のない東京自動車工業に対して、ディーゼルの中枢部分の技術を補完する。さらに東京自工の優れたディーゼルエンジン技術を標準設計として認定し、他社にもその技術を共有させる一方で、三菱などの“ディーゼルの先輩企業”からも、ディーゼルエンジン製造の設備と技術の供出を強要し、商工省と陸軍省はあくまでも、東京自動車工業一社のもとに、国産ディーゼル自動車の製造を集中させようと試みるのだ。
 ここで話の年代が、16.3-8項の冒頭に記した、国内ディーゼル企業へのヒアリングの場面へとつながる。
参入を断念しつつあった他社と違い、満州と鉄道省を盾に、陸軍・商工省の圧力に屈しなかった三菱重工との対立の、その決着の舞台は『ディーゼルエンジンの統制型とその製造会社の指定は、商工省自動車技術委員会ディーゼル自動車専門委員会に委ねられた。』(②P203)
 「商工省自動車技術委員会」とは『商工省、内務省、陸軍省、鉄道省、企画院の担当者、メーカーの技術責任者約25名により国産自動車技術の向上を目指す施策が議論された』(⑳P295)委員会だ。
中でもメーカーにとって重要なことは、『商工省自動車技術委員会は統制エンジン型式を決め、型式別にその製作担当会社も決められた』((②P204)日産の浅原源七の記。浅原は翌1942年から日産社長を務める)場でもあったことだ。
 ガソリン機関では1ℓ(日産)、1.5ℓ(日産)、2.5ℓ(トヨタ)、3.5ℓ(トヨタと日産)、4.5ℓ(東京自工)の5機種、ディーゼル機関では5ℓ(東京自工)がすでに決定されていた。多くは陸軍がすでに制式採用していたものや、トヨタ、日産の既存車種であったが(以上⑳P295、㉔P79)、8ℓ級ディーゼルエンジンに関しては、全くの新設計として、「商工省自動車技術委員会」の下の、「大型ヂーゼル自動車仕様 作成専門委員会」における結論に、その決定が委ねられたのだ。

16.3-8「三菱は自動車に手を出すな!(商工省)」(「国策トアラバ致シ方ナシ」(三菱))
 詳しくは(②P204)や(⑳P295~P309)を確認いただくとして、以下省略して記すと、その会議は1941年3月21日から24日にかけて行われ、『この委員会の討議に4日を費やしたことは、いかに熱心に議論されたかを、推察することができます』(③P114)と、この委員会の幹事を務めていた商工省の技師、寺澤市兵衛(ちなみに『当時、商工省の機械課には四、五人しかいなかった。その中で~正式な技師は寺沢市兵衛さん(元自動車工業振興会専務理事)しかいなかった。寺沢さんが一人で日本中の機械産業の元締めをしていた。』と、豊田英二著の「決断」文庫版P68に記されている)が後に語っているように、四日間に渡り白熱した議論が展開された。
 議論の焦点は、その時、満州国向けに三菱が量産を計画していた、8リッター級ディーゼル自動車に対しての指定の可否であったようだ。
『三菱重工のメンバーは委員会での東京自動車案を覆すため鉄道省、満鉄と協議を重ね、商工省、陸軍省、東京自動車側と対立した。このため、会議の冒頭、鉄道省技師小林英雄は、星子案(東京自動車工業案)に対し意見書を提出し、委員会で審議することを提案した。この意見書は、東京自動車と三菱重工業を統制型エンジンの製造会社に指定することを中心に次の四点にわっていた。』(②P204)その4点とは、②によれば概略以下の通り。
‘〈1〉東京自動車と三菱の両社に製作させて、
‘〈2〉両社の技術を取り入れた同一車の試作を命じ、厳重なる試験を行い評価し、
‘〈3〉両社の技術の公開並びに相互交換を行うこと、さらに、
‘〈4〉『鉄道省提出の仕様書は鉄道省省営自動車及び満鉄の大陸向CT20型の使用実績に基づいて作成したもので、大いに自信を持っている』(②P204)と申し添えた。当日の詳しい議事の内容は(⑳P295~P309)に記されているので、ぜひご覧ください。以下も省略版の(②P205)より引用、
『三菱重工業が大型のふそう号を鉄道省省営バスへ、耐寒長距離輸送用大型バス・トラックのCT20型を満鉄へ供給し、八リットルディーゼル自動車の最大メーカであったが、東京自動車は昭和十六年(1941年)当時八リットルディーゼルトラックを製造していなかった。こうした大型ディーゼル製造を背景とする三菱重工業のメンバーは鉄道省、満鉄と共に八リットルディーゼルエンジンの統制型指定とその製造許可会社となることを主張した。』
 先記のように、商工省自動車技術委員会で統制エンジン型式を指定する基準として、過去の実績を追認することも多かったようで、三菱/鉄道省側は大型省営バスでの実績(三菱神戸予燃焼室式;SHT6型(7.27ℓ)の後継のY6100AD型(8.55ℓ))と、後述する満州向けCT20型大型トラック(ザウラー直噴式;CT1D型(7.98ℓ))の実績を強調する。使用実績面では東京自工を含む三菱以外の他社には、8ℓ級ディーゼルエンジン車の、目立った実績がなかったのだ。
 しかしこれら三菱(と鉄道省)側の主張するところで、個人的な意見だが“弱さ”を感じさせる点は、世界の自動車用ディーゼルエンジンの黎明期(実用的なディーゼル自動車が初めて誕生したのが1923,4年頃;16.5-2-2項参照)で、各社のエンジン性能がまだ安定していなかった中で、肝となる燃焼室設計の開発競争で、先行メーカーであったはずの三菱が、後発の東京自動車工業にリードを許してしまった点だ。(16.5項参照)そのため三菱の8ℓ級エンジン、Y6100AD型を商工省統制エンジンとして採用させるためには、「〈3〉両社の技術の公開並びに相互交換を行うこと」により、エンジンの燃焼室の設計を、技術優位にあった東京自工の伊藤方式に習う必要があったのだ。
 実績面では、Y6100ADは(⑮P55)によれば神戸時代に数台、東京に移ってから約40台で、『今次戦争前は生産というよりもむしろ地味な試作と改造の繰り返しだった。』統制前の三菱の予燃焼室型ディーゼルは、東京自工以外の他社と同様、技術的に未完であったのだ。
(⑦P89)によれば、陸軍・商工省のディーゼル業界再編案は、『当局案として有力な方策は一社を中心として、他の四社が製造設備と技術をそれぞれ参加させるか、ないしは主要部門につき分業的にその会社を許可会社に指定するかの二案』だったという。仮に東京自工が手にした予燃焼室式ディーゼルエンジンの燃焼技術を、三菱重工が掌中に収めていたならば、たとえば重工から自動車部門を分社させるなど分業化して、新川崎の工場を8ℓディーゼル車の生産工場として、4番目の許可会社として認定されるという三菱側の主張を、当局は抑えることができなかったのではないだろうか(私見です)。
一方ザウラーエンジン系を使ったCT20型の全体の設計思想は、確かに大陸での使用を十分考慮された車体であったようだが、しかし途中でその計画は頓挫して、満州に20台((web28)P290によれば23台)を送り出しただけで終わっていた(⑳P65)。
 満州での使用実績として謳うことができたものは、実際にはイタリアのOM社(フィアットの子会社)製の輸入のトラックだった。CT20型の代わりとしてOM社のディーゼルトラック輸入し、満州国産の大豆とバーター取引するという三菱商事(満州国の大連・奉天支店が主導(⑮P89))が描いたスケールの大きい商談で、当初の計画では1,400台輸入の計画だったが、欧州戦勃発のため485台で終わった(⑮P65。同じ⑮P109で400台、P122で300台と諸説ある)。このトラックはCT20型と同じようにザウラー式直噴エンジンのライセンス生産品を積んでいたが、8ℓ級(CT1D型)より小型のCRID型(4-110×140;5.32ℓ)エンジン搭載車だった(⑮P65)。
話を戻し、商工省は、三菱と鉄道省によるこれらの意見を退け、エンジン排気量のアップ(東京自工案よりストロークを伸ばして7.98ℓ→8.55ℓ;このスペックは三菱の予燃焼室式Y6100AD型と同じ)以外、概ね東京自動車工業の原案通りに決定する。(⑳P295~P309参照)
 ディーゼルエンジンの仕様・性能を決める上で鍵となるエンジンの燃焼室の設計も、今までの実績を踏まえて統制型のいすゞ式(何度も記すが東京自工の技師、伊藤正男設計によるもの)が採用されて、東京自動車工業にその設計を委ねられることになる。(16.5-4.3項参照)
 商工省は東京自動車、三菱重工業、日立製作所、池貝自動車、川崎車輛の社長を商工省に招集し、これら5社のディーゼル自動車の製造設備と技術を供出し、ヂーゼル自動車工業㈱を設立したい旨を説明し、各社長に協力を要請する。
この要請に対し、三菱重工社長郷古潔は、満鉄向けにディーゼル自動車を製造したい旨懇願するが、『陸軍トモ協議ノ上決定セシ事』と述べ、三菱重工業の申出を拒否した。
 三菱は『国策トアラバ致シ方ナシ』と苦渋の決断で、商工省の要請(命令)を受け入れる。(三菱重工業社長、郷古潔(ごうこきよし)。太平洋戦争時の東條内閣顧問も務めた。画像は「盛岡市公式ホームページ」より)
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 こうして『満州向けふそう車の生産は十六年(1941年)をもってついに打ち切られた。』(以上②P205)以下三菱関係者の切々とした声を綴った、「ふそうの歩み」(⑮P134)から引用する。
『商工省(当時)との間にいろいろなやりとりがあった。三菱は満鉄のトラックや省営バスを造りたい、満鉄は輸送用に大型トラックを持ちたいのであったが、商工省の自動車政策は一言にしていえば日本の自動車産業は日産、トヨタで十分である。三菱は自動車に手を出すなということであった。』
 戦時下の統制経済体制において、陸軍と商工省が三菱に期待をかけた分野は、自動車ではなかった。当時の折衝の様子を直接知る三菱重工業の技師、佐竹義利によるこの最後の一節は、多くの自動車史の中で語り継がれている「名言」として、今日に残っている。
(上記のように陸軍・商工省との間の過去のいきさつも多少は影響を与えたかもしれぬが、しかしそれ以上に、戦時体制下という緊迫した時局が陸軍に、そのような判断をさせたのだと思う。
 日本における「三菱は自動車に手を出すな」と同じような事例は、実は同じ枢軸国側であり、ディーゼルの本家でもあるドイツでも見られた。1937年、MANのディーゼルエンジンが軍用トラック用制式エンジンに選定され、MAN以外の約10社でも製造されるようになった。同様に戦車用エンジンもマイバッハ(日本と違いガソリンエンジンだったが)に集中させるが、両社の選定はドイツにおけるエンジン分野のエース、『ダイムラー・ベンツの航空発動機部門への全力集中』(⑳P229)が大きな要因だったといわれている。
優れた機体や、艦船まで手掛ける三菱重工業の日本における当時の比重は、ドイツにおけるダイムラー・ベンツ以上だっただろう。WWIIでは航空機の性能が生命線だったのだ。(どれも重要だが相対的に、自動車や、さらには戦車よりも)。
さらに私見を追記すれば、そもそも当時の状況で、仮に三菱が自動車に力を注げば、陸軍のみならず海軍からも、有無を言わさぬ強烈な横やりが入ったのではなかろうか(まったくの想像ですが)『戦時中はその高い技術力を発揮し、戦艦武蔵、戦闘機零戦などを製造した三菱重工は、各種製品の増産に追われ、製作所、工場の膨張、増加を終戦まで続けていくことになった。終戦時における生産拠点は31工場に達し、1939年には約10万人だった従業員も終戦時には40万人に達していた。』(㉕P6)海軍からすれば、“自動車なんぞにうつつを抜かずに?”せっせと戦闘機でも作れ!のたった一言で終わったのではないだろうか。
下の写真はドイツにおいて「全力集中」した産物である、ダイムラー・ベンツの航空機用エンジン、DB601型で、日本でも川崎航空機・愛知航空機の両社がライセンス生産での国産化を図ったが、しかし、以下はあまりにも有名な話だが、『加工技術や材質の制約からどうしてもドイツ本国並みの工作精度や量産を達成できず、搭載する機体の実戦投入に支障をきたす重大事態まで生じた。』(wikiより)

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(多少余談となるが、以下もwikiを参考に、日立航空機(前身は解体された瓦斯電の航空機部門;16.3-5項参照)製航空機エンジンの「初風」について。ドイツの練習機用小型エンジン「ヒルト HM 504A」を日本でライセンス生産する予定だったものが、ヒルト社設計の巧緻複雑さから、日本での製造運用に適合すべく設計に大変更を施した結果、ヒルトとは事実上、別物のエンジンとなった。以下もwikiより、『ヒルトHM504は、機体への搭載性を配慮した倒立式空冷直列4気筒という独特のレイアウトを採っていたが、クランクシャフトは高精度だが製作に技術力を要する組立式、ベアリング類は精密なローラーベアリングを多用するなど、航空用としては小型のエンジンながらも、ドイツの高度な工作技術を前提とした複雑な設計が用いられていた。この設計をそのまま日本で実現しようとすれば、やはりローラーベアリングを多用し高度精密加工されたダイムラー・ベンツ DB 601の国産化同様、極めて困難な事態が予想された。』
そこで、瓦斯電/日立航空機のエンジニアたちは、当時の日本の工業技術の水準に合わせて『ヒルトの空冷倒立直列4気筒レイアウトのみを踏襲、クランクシャフトは一般的な一体鍛造、ベアリング類も当時一般的なメタルによる平軸受で済ませるなど、日本での現実的な生産性・整備性に重点を置いた設計に改変した。しかし、動弁系はヒルトがシングルカムシャフトのOHVで浅いターンフロー燃焼室だったのに対し、より高度なツインカムOHVと半球型燃焼室によるクロスフローレイアウトを採用して吸排気・燃焼効率を向上、なおかつ低オクタンガソリンでも問題なく運用できるよう図った。更に倒立エンジンで問題になりがちな潤滑システムは、ドライサンプ方式を導入して万全を期した。これらの手堅い手法で性能確保に努めた結果、結果的にはヒルトに比してわずかな重量・体積増で、これに比肩しうるスペックの信頼性あるエンジンを完成させた。』(以上wikiより)
後述する旧石川島系による予燃焼室式の統制型エンジンや、この旧瓦斯電系による「初風」エンジンの開発などは、軍用保護自動車時代から苦労を重ねつつ、陸軍などに技術開発の挑戦の機会を与えてもらいながら、地道にその蓄積を行ってきた結果の産物であったと思う。
根が“自動車屋”であった両社の技術陣は、最前線で国防を支える立場に立たされた三菱や中島飛行機の技術者みたいな「日本のエース」とはけっしてなりえなかったが、その分絶えず、理想よりも現実と向き合わされてきた。下の写真はその「初風」エンジンを搭載した、日本海軍 二式陸上初歩練習機「紅葉」

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http://www.hobbyshop-sunny.co.jp/models/images/cmr/208.jpg
 話を戻し、「ふそうの歩み」(⑮P134)の佐竹義利の引用を続ける。
『~結局国鉄や満鉄のあと押しも空しく、当時の国際情勢や物動計画、商工省の自動車政策などに押し切られて希望は容れられず、ひいては「CT20」の注文も立ち消えになってしまった。当時、満州の悪路と寒気には普通のトラックではフレームが折れたりして満足に使える車がないというところに、満鉄が大陸の長距離輸送用に最適として三菱の大型車を担いだ理由があった。』
この、度々出てくる“CT20”型だが、商工省標準車の上のクラスの、8リッター級ディーゼルエンジンを積んだトラックだった。『これより先、十四年(1939年)には関東軍から陸軍省を経てCT20型車(技術提携先のザウラーCTID型エンジン(7.98ℓ100㏋ディーゼル)搭載)300両の生産命令を受けていた。この命令受領で関係者一同大いに張り切ったのである』しかし、関東軍と満鉄(鉄道省)を後ろ盾としたこの計画は、満州国内でも波紋を呼んだと思われる。『その結果満州の自動車生産を巡って鮎川義介の満州重工業計画と対立を深めることになった。』((web13)P152)結局、『その所要資材調達は遂に本省の認めるところとならず、十五(1940年)、十六(1941年)、二年間にわたる努力もむなしく水泡に帰し実現不能に終わった』(⑮P65)。
 そしてこのトラックの開発は、次項の国産省営バス誕生の立役者の菅健次郎が、どうやら関与していたようだ。以下も(⑮P96)より、『満州国の建国と共に陸上交通は大きく取り上げられたが、国土は広く自動車への期待度は非常に大きかった。ただ道路はきわめて貧しく道なき荒野を走ることすら多いので、日産などの国産車、フォード、シボレー等の米国車は全く顧みられず、専ら強力堅牢なベンツ等欧州産の大型車が輸入されていたのであるが、関東軍は有事の際の輸入の杜絶を考慮して現体制からの脱出を企画し、自動車部を創設したのである。而して自動車部長は国鉄バスの創設者であり、初代自動車課長であった菅健次郎氏であった。外車全盛時代に全数国産車を以て国鉄バスを開業した先駆者であり、神戸造船所にホワイトをモデルとしてふそうバスの開発を慫慂(しょうよう)したのは、ほかならぬ氏であったことは、もう知らぬ人が多いのではなかろうか。』難しい(読めない!)漢字が並ぶ文章で、転記が大変だったが!省営バスにおける確かな実績から、三菱に満州国向けの、堅牢なシャシーに余裕のあるエンジンを載せた大型ディーゼルトラックを作らせたかった気持ちは伝わってくる。
(しかし、このCT20型トラックの写真をネットで検索しても、残念ながら出てこなかった。そこで下は、(①;「国産トラックの歴史」P53)の写真をスキャンさせていただいた。その印象は自分にも、戦前の『従来の「ふそう」に比し全く面目を一新したもの』(⑮P133)のように見える。
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しかしネットで写真が1枚も見当たらないとは、歴史は残酷だ。実用面では搭載エンジンを、ザウラーの直噴ディーゼル(CT1D型)から、自社の予燃焼室型Y6100ADをベースに、さらに統制型エンジンの燃焼室の仕様に置き換えることが前提条件になっただろうが、あの菅健次郎に厳しく鍛えられたはずの、このトラックが満州の広大な大地で活躍する姿を見てみたかった。
下はCT20型とは対極の立場にあった、1939年というから東京自動車工業時代の、いすゞTX40型トラックのカタログで、ブログ「ポルシェ356Aカレラ」(web15)からコピーさせていただいた。そしてカタログの文面には、以下のように高らかに謳われている。
『いすゞは政府当局が慎重審議2ヶ年有余の研究の結果制定した本邦唯一無二の国策自動車車輛である。』

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https://stat.ameba.jp/user_images/20140906/17/porsche356a911s/da/15/j/t02200165_0800060013058270779.jpg?caw=800

16.3-9「ヂーゼル自動車工業」の誕生と、「日野重工業」の設立
 16.3-6項で最初に結論を書いてしまったが、東京自動車工業はトヨタ、日産に次ぎ、1941年4月9日付けで製造事業法に基づく三番目の許可会社となった。
そして東京自動車を改組し、先述の「商工省自動車技術委員会ディーゼル自動車専門委員会」で決定された、5ℓと8ℓ級のディーゼルエンジンに関連する製造設備と技術を、三菱重工業、川崎車輛、池貝自動車などに供出させる。そのうえで1941年4月30日、新たに「ヂーゼル自動車工業株式会社」と改称し、三菱を含む協力企業にも経営に参加させて、統制型エンジンの大量生産体制を確立した。下表は「ヂーゼル自動車工業」の株主構成表だ。
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(しかしこの株主構成からも、やはり意外な印象を受ける。東京自動車工業の株主構成表の時と同じことなのだが、「ヂーゼル自動車工業」⇒「戦後のいすゞ自動車」なので、自分が抱いていたイメージからすると=「第一銀行(後の第一勧銀、みずほ)系企業」だが、この株主構成からすると、「帝国生命保険」以外は、その要素が薄い。GHQの開放政策で、戦後どのような過程を経て、「六大企業集団」が形成されていったのか、自動車産業を題材に、いつか調べてみたい。ただず~っと先の話になると思うし、ブログで紹介するようなネタでも全くないが。下はwikiより、「第一銀行本店」の写真だが、「第一銀行」自体は、渋沢栄一が創立した「第一国立銀行」が元なのだから、同じく渋沢が関わったいすゞが戦後、同銀行系の集団に属することは、元の鞘に納まっただけなので道理にかなっているだが。)
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なお商工省は認可の際に、戦車等の陸軍向け兵器工場であった日野製造所は分離すべしとの条件を付けたが、これは陸軍省からの要請でもあった。1942年5月、「日野重工業株式会社へと分離し、瓦斯電系の技術と人材を継承しつつ、陸軍の監督下に置かれる。
(下の写真は日野自動車HPより、陸軍向けの装軌車両専門工場として、ヂーゼル自工からの分離を果たした「日野重工業株式会社 全景」)
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https://www.hino.co.jp/corp/img/about_us/milestones/img_milestones_1942.jpg
(余談になるが、「軍用自動車入門」という文庫本を読むとよくわかるが、瓦斯電は陸軍向けの、実に多種多様な特殊車両の製作にかかわってきた。陸軍からすれば日野重工業は身内のような、気が許せる企業だったのだろう。下は自動車ではないが、『きわめてゲリラ的ではあったが~枢軸側として初めてアメリカ本土を爆撃した』(⑯、P48)、零式小型水上機(の「ウイングクラブ」製1/32ダイキャストモデル。)。Wikiでも『これは、大戦中のみならず現在にいたるまで軍用機がアメリカ本土の攻撃に成功した唯一の事例と言われている』と記されているが、なぜ⑯=「日野自動車の100年」に記されているかといえば、そのエンジンは、日立航空機製の「天風」12型 で、16.3-5項と、“その3”の記事の「≪備考12≫瓦斯電のシャドーファクトリー構想について」を参照していただきたいが、元々は瓦斯電航空機部製であった。ちなみに、本題がまったく逸れてしまうが、この米本土爆撃は自分には“マンデラエフェクト”案件で、自分の前の世界線では“風船爆弾”だけだった・・・
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https://auctions.c.yimg.jp/images.auctions.yahoo.co.jp/image/dr000/auc0304/users/5458ac89779ece00624534028199ed7ff5489cc4/i-img1000x667-1649325400mdmvif8248.jpg
(さらに余談が続く。一方石川島といえばやはり、ジェットエンジンが有名だ。「ネ20」は、敗戦間際の1945年に開発され、日本で初めて実用段階に達したターボジェットエンジンだ。ほぼ同時に試作された中島の特殊攻撃機橘花へ搭載され、1945年8月7日、初飛行に成功した。ドイツの軸流式ターボジェットエンジンBMW 003を参考として作られたが、コピーではなく、日本が独自に研究を続けていた噴流式発動機の研究を基に、海軍航空技術廠(空技廠)と石川島重工業が軍民一丸となって開発したものだった。(以上wikiを要約、下の画像もwikiより)
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(ところが!自分が今まで長いあいだ勘違いしていたのは、上のジェットエンジンはてっきり1924年に造船所本体から分離した石川島飛行機製作所が開発したものだと思っていたことだ。実際には本体の石川島造船所(海軍系)→石川島重工という流れで製作されたものでした。さらに、石川島飛行機が1936年に改称したのが、立川飛行機だということも、すっかり忘れていた!ということは石川島が、プリンス自動車の源流の一つでもあった訳だ。立川飛行機といえば、後にトヨタで活躍した長谷川龍雄が設計主務だったキ94-Ⅱ試作高高度戦闘機が有名だが、これは未完に終わっているので、ここでは石川島飛行機時代の設計で、多数使用された陸軍の練習機(赤とんぼ)を掲げておく。しかもエンジンは瓦斯電製だ。石川島は、もともとは、あの渋沢栄一がつくった会社だし、松方五郎率いる瓦斯電は当時、『さむらい技術者養成所』!という綽名がつけられていたそうで(⑰P54)、両社とも会社の規模以上に志が高い企業だったことは確かだ。下は「ニチモ 1/48 日本陸軍九五式一型乙中間練習機 赤とんぼ」のパッケージです。 )
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16.4鉄道省の省営バスによる国産バスの普及
 まず先に(⑱P13、②P120、P151、wiki)等を基に、鉄道省によるバス事業である、省営バスについての概要を記す。
国鉄が自らの手でバス事業を行うきっかけは、1922年に鉄道敷設法が大幅改正されて、全国に膨大な数の鉄道建設予定が立てられたからだといわれている。しかも、それらの予定線の大半が、鉄道としては採算の合わないローカル線であった。
そこでこれら、輸送量の少ない地域においては、当面は鉄道の補助・代行機関として、既設の道路を利用して自動車運輸事業を行うべきという意見が提起される。
鉄道省はこれを機会にバス事業への進出を企画すべく、1929年8月、省内に「自動車交通網調査会」を設置する。調査委員会は、国鉄自動車運輸の基本方針として、以下を中心に答申した。
・乗合自動車(以下バスと略)業務を開始し、バスを新しい交通運輸網として位置付ける。
・バスを運行する道路網の整備と建設とを行い、道路行政を推進する。
・幹線鉄道と地方鉄道間を連絡させ,或いは、補充させ観光開発を行なう等に省営バスを利用し、発展させる。
・省営バスは国産バスを使用し、国産奨励の国策を担う。
そして別紙として、鉄道の将来建設のうち自動車で代行できるもの,採算の取れない既存の地方鉄道で自動車に代行させるものを合わせ 82路線、4,896kmが、省営バスの経営する路線として示された。
 調査会の答申を受けて、鉄道省は国鉄自身が鉄道輸送の一環として、自動車運輸事業を行うことを決定した。こうして「鉄道省営乗合自動車」=略して「省営バス」(戦後、国鉄が誕生後は「国鉄バス」)が誕生する。
 この時、答申内容に沿い、日本の自動車産業を育成し、自立させることを目的に、使用する車両は国産自動車とする方針も決定された。16.1-1項で記した「国産振興委員会」の答申とも連携した動きで、国産車に軍用保護自動車以外の市場を提供することになる。こうして1930年、第1号路線として東海道線の岡崎駅-中央線岐阜県下の多治見駅間と、一部高蔵駅の支線で(65.8km)、その運行が開始された。
 開業から5年後の1935年には35路線、路線延長は1765kmに達し、377台の省営自動車で運行を行った。ちなみに戦後の1947年には4923km の路線を全国に展開するほどに、大幅に拡大していくことになる。

以下、上記概要の内容を補足する。まず、鉄道省によるバス業への介入の目的は、表向きは、全国に膨大な数の鉄道建設予定が立てられた結果、バス事業で代替することであったが、実は鉄道省としては他にも2点、目的があった。
1点目は、鉄道の衰退を防ぐため、『鉄道との競争を調整し、バス業の統制』(④P159)を行うことだ。((web3)P148)によると、『鉄道省は,国鉄に対する自動車の影響調査を大正 15年に行なった結果,国鉄沿線では1日当り旅客で 14,483人,貨物で 2,003トンが自動車に取られ,減少となっていた。自動車の輸送革命が短距離及び中距離輸送を事業とする地方鉄道の経営をかなり圧迫し始めたのである。同じ時期の別の調査に依れば,私鉄を含めた「全国の民営自動車交通運輸事業が,すでに 50km以内の貨物運輸面において 40パーセント,旅客運輸では 10パーセントほど国鉄の輸送分野を浸蝕していた」』のだという。
 自動車による輸送革命が起きて、短距離及び中距離輸送を事業とする地方鉄道の経営が、バスにより圧迫され始めたため、小規模業者が乱立していたバス業の営業許可権を鉄道大臣が管轄することを主な内容とする「自動車交通事業法」を制定し(1933年10月から実施)、許認可権を行使することにより、鉄道事業者の保護を意図したのだった。
2点目は、1点目とも多少関連するが、省営バス事業は、より積極的な意味において、『国政レベルでの諸事情を勘案しながら、鉄道とバスを一体のものとして全国公共交通網構築を図ったものとみることができる。』((web11)P49)鉄道とバス事業を一体化させて、鉄道省自らが、陸上輸送の総合経営を行うことを意図したのだ。以下も(web11)からの引用で記すが、正しくは原文をお読みください。
 既述のように省営バスのすべての路線は、鉄道の建設予定線との関係をもっていた。そのため路線の選定は、・鉄道の先行または代行・短絡・培養・補助(これらを路線開設の「四原則」という)を基準にして行われ、『これはすなわち、省営自動車はあくまでも、本業たる鉄道事業の延長上にある、という建前で、民間事業者の反発を牽制する対外的な公式見解であった。
しかし、その後の省営自動車事業の展開はこの通りではなく、鉄道の補助的存在から徐々に脱し、独自の発展を遂げ独自の地位を確立していった。青森県十和田湖周辺や、千葉県南房総方面の観光開発、群馬県草津温泉や栃木県塩原温泉などへの積極的な路線展開はその好例である。当局は、のちに「四原則」に「重要観光路線」を加えている。』
((web11)P49)その領域を、徐々に拡大させていったのだ。
 この拡張路線は、国が復興を急ぐ戦後の混乱期において、さらに強力に推進されていく。
米軍車両の払い下げ等、『GHQ の意向も受けて、貨客の輸送改善に取り組み、各地に進出して輸送規模を拡大』(web11)P49)していく。しかしこの状況は、民間の自動車事業者(バス、トラック業者)からすれば、『鉄道当局は、自動車事業全般の監督権を掌握しており、一方で自動車事業を監督しながら、他方で自らそれを経営しているという状況であったため、圧倒的に官に有利な状態』((web11)P49)の中で、行われたため、民業圧迫だとして、官民の間で激しい対立が起きたという。この混乱は、1949年の日本国有鉄道発足をもって、一応の決着をみるまで続いたそうだが、戦後の話になるので、ここまでとしたい。(さらに詳しくは(web11)を確認してください。下は16.4-3項で後述する、ふそうのBD46型省営ディーゼルエンジンバスで、「重要観光路線」にはこんなにオシャレなセミデッカータイプも投入されたようだ。この貴重な画像は、 “―前略、道ノ上より-”さん(web12)からコピーさせていただいた。)
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https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/userstorage/000/028/617/446/27bbdfd8f3.jpg?ct=dd001e9393e5

 さらに補足を続ける。話題を変えて、省営バス事業における、日本の自動車産業の育成という観点からより細かく見ると、『省営バスに国産車のみを使用し、市営などの公営バス業に国産車使用を奨励する方針をもっており、さらに外国車に不利なバス規格を定めることによって、国産バスの増加をもたらす可能性を持っていた。』(④P159)
 このうち、市営交通の国産バス奨励については、16.2-4項でみたとおり、その影響は軽微だった。
また「外国車に不利なバス規格」とは、具体的には「自動車交通事業法」と同時に実施されることになった「旅客自動車設備規定」により、「低床式バス」の使用を強制したことにあった。
 しかしこの制度の実施に当たって、バス業者や輸入商が猛反対したため、『発令された規程の附則には、規程の前に使われているバスの場合は基準に適さなくても使用可能としてなり、さらに実際の適用は3年後になった。すなわち、実際の施行は1936年10月からとなった』(④P159)。
 当初フォードやシヴォレーのバスは、トラックのシャシーを流用していたので、「低床式バス」の規定に適合していなかったが、3年後の『それまでには大衆車のバスもすでにその基準を満たすように改良され、』(④P159)国産バスに有利に働くことはなかった。
(下の写真は(web(9))からの引用で、『東浦自動車工場が1937年に作成した暑中見舞いはがきの写真。シボレーのシャーシに東浦で低床式ボディを架装しています。』確かに腰高のトラック用シャシーの流用ではなく、低床式になっている。)
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http://www5e.biglobe.ne.jp/~iwate/vehicle/extra/primer/coach/catalogue/200_body_maker_01.jpg
 そして残る、省営バスに国産車のみを使用した点だが、16.2-4項で記したとおり、当時は省営バスの創成期で、路線数がまだ少なく、購入台数もけっして多くはなかった。『(戦前で)最大であった1936年の購入台数は164台であり、当時の保有台数も431台に過ぎなかったのである。』(④P160) ちなみにこれも16.2-4項で記したが、1934年9月の調査によると、当時のバスの全保有台数は20,171台で、大衆車のフォードとシヴォレーなどの小型バスの割合が圧倒的に多かった(④P159)。
この431台は6年間の総発注量で、参入を即した4社のメーカー数で割れば、1社あたりの発注量は、今の感覚からすれば正直、”たいした台数ではない“という印象を受ける。しかもこの台数の中で、後述するように新規開発まで強いていたことを考えればなおさらだ。
 だが省営バス計画のスタート当時は、石川島も瓦斯電も、倒産の瀬戸際まで追い込まれていた苦しい“暗黒の時代”であった。『鉄道省は省営バスを始めるときに、渋沢さん、橋本さん、松方さんなどから、本腰を入れてやるのかと、真剣につめよられました。』(③P70;当時鉄道省自動車局勤務の小野盛次の談)
そして、『我々(注;鉄道省)が(省営バスの)注文を発すると、翌日は第一銀行(注;石川島のメインバンク)や、十五銀行(注;瓦斯電のメインバンク)から行員の方が来られて本當に注文したか、と問い-注文したと答えると、然らば融資しましょうと云う様な次第で』(②P177)あったという。
 発注側の鉄道省は、その発注権限を盾に、世界的な水準まで導いた鉄道車輛開発を通じて会得したノウハウを、省営バスの開発にも展開した。鉄道技術者と自動車メーカーが合同で技術開発を行い、陸軍のある意味では“過保護自動車”的?な側面もあった国産自動車会社を、技術的に厳しく鍛え上げていった。
 そしてその活動の中心人物となったのが、国鉄バスの創始者と呼ばれた、菅健次郎であり、技術的な実務を担ったのは、島秀雄らであった。当時の日本の傑出したテクノクラートとして、相当高いレベルで指導を行ったことが想像される。以下からは、主に菅の活動を通じて、省営バスの発展を見ていくこととする。
(下は滋賀県甲賀市水口町にある「菅健次郎君頌徳碑」。写真と文は(web10)「バスに関する記念碑」より以下引用『地元水口(注;滋賀県甲賀市水口町)出身の管健次郎(かんけんじろう)氏の頌徳碑。管氏は鉄道省に就職し、省営自動車創設の重責を担い、欧米での研究の後、省営自動車路線を開通させました。特に滋賀県では全国3番目の省営バス路線である亀草線(亀山~草津間)を1932年に開通させました。しかし、1946年4月に52歳の若さで病死したことから、翌月にこの碑が建てられたようです。裏面には40人に及ぶ発起人の名前が書かれています。』)
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16.4-1中型省営バスの開発(瓦斯電と石川島)
 概要で記した、1922年の鉄道敷設法の大幅改正を受けて、鉄道省はこれを契機に自動車の輸送革命に対応すべく,省内の運輸局での検討を開始する。若手技師、菅健次郎が、1927年から二年半にわたり、米・独を中心に交通運輸事情の調査留学を行い、帰国後『アメリカでの輸送革命を目のあたりにして菅健次郎は ~ その対応として省営バス事業を早期に確立することが鉄道省の緊急課題であり、陸上交通機関の総合経営を鉄道省の戦略として打ち樹てるべきである』(②P167)と具申する。
 そして運輸局長久保田敬一は,「自動車交通網調査会」の答申と、菅の報告を基にして省営バスの事業を組織し,さらに,国産の省営バスの開発を技師菅健次郎に命じる。(以上②等参考)
 こうして菅健次郎の調査結果が、その後の省営バス事業に大きな影響を与えていくことになり、菅自身も、その指導的立場に立つ。菅は省営バスの発注を通じて国産自動車産業を育てるべく、使命感に燃えて『国産自動車工業、とりわけ中級車を主要車種とする国産自動車工業を発展させるために、~省営バスを全国に蜘蛛の網の目の如く張り巡らし、その中核に国産中級バスを据え、国産中級自動車工業を確立することに全力を注ぐのである。』(②P169)のだが、菅の自動車に込めた思いについては、長くなるのでここでは省略する。(興味のある方は、たとえば②P166~P178等参照してください。)
 菅はまず初めに、国産車の実力を確認するために、16.1-2項で既に記したが、その性能試験を実施した。瓦斯電のTGE-L型、石川島のスミダL型、ダットのダット61型の3台を、定地試験、運行試験の後に分解検査して、走行性能、実用走行性、各部分の構造・耐久性に対する評価を総合的に判定し(⑰P53)、1930年2月答申が出された。結果は多少“盛って”いたかもしれないが「外国車の中位」にあると判断され「多少の欠点を補正せば足るとの結論に到達し」、これが省営バスを国産車で賄うための、技術的な根拠を示すとともに、商工省標準型式自動車誕生に向けての、技術的な基盤を与えたことも既述のとおりだ。
菅は試験結果を踏まえて、ダットを除いたTGE-L型とスミダL型の2台を選定する際、それぞれのメーカー宛に以下の購入条件を示す。
『(軍用)保護自動車よりは一廻り小さい中級自動車に改造することを要請し、その上で三つの条件を提示した。』(②P173)その条件とは、(一)バス専用シャシーの開発、(二)低床式にする、(三)流線型のボディデザインを取り入れる、以上の3点であった。
 さらに菅は、『陸軍の規格を落として値段を安くし、アメリカの自動車に対抗せしめる様に』(②P174)と、コストを度外視しがちな陸軍と違い市場におけるコストパフォーマンスも考慮に入れた。これら、菅の意図したことを一言でいえば、「軍用トラックから、商用バスへの転換」になろうか。
 一方受け手側の、瓦斯電と石川島も、こうした菅の求めに応じ、少ない経営資源(開発余力)をやりくりしつつ、専用設計部分が多かったであろう、鉄道省向け省営バスの開発に積極的に取り組んだ。
 こうして石川島のスミダ LB型低床バスと瓦斯電の TGE-L(MP)型低床バスが、省営バスとして新たに完成したが、コストを抑えた反動として、菅によれば『最初から「頑丈さに不安」を内包していた。』(②P174)という。
 岡多線のスタート時点で、鉄道省は17台のバスを用意したが、その内訳は、瓦斯電が14台、石川島が3台だった。(しかし他の資料では、当初の規模はバス7両・トラック10台であったという記述もあり、スタート時点では17台用意できなかった可能性が高い。)
この発注量の差だが、(②P174)に、『菅健次郎は石川島自動車製造所へ行って、渋沢正雄所長、石井信太朗工場長の前でスミダ-L型について「強度が足らないので、省営自動車としては不向きだと思ふが」と問い詰め、「条件付で購入」する』という記述があり、険しい道の連続だったという省営バス創業当時の路線使用においては、特に石川島が開発した低床バスの方に、強度面でより多くの不安を抱えていたようだ。
 また、「条件付で購入」という部分だが、「故障に備えた修理、保守、サービス体制を予め作りあげておく」ことで、これは両社に適応されて、瓦斯電は瀬戸に、石川島は岡崎に常駐の技術員を派遣することとなった。(以上(②P174))
このように、『最初から「頑丈さに不安」』(②P174)を抱えつつも1930年12月、最初のバス路線である岡崎―多治見間 65.8kmは、 国産バスの使用でスタートを切った。
 しかし菅の悪い予感は的中し、実際に日本の険しい山間路に投入されると、国産バスはたちまち馬脚を現すことになった。『六ヵ月も経たない内に全部のフレームが破損し』『岡多線(岡山-多治見間)に使った「17台の内、1台ぐらいしか動く日がなかった」という惨憺たる有様となった。』(②P174)
 だがこの惨状にもめげずに菅らは毎週対策会議を開き、部品サプライヤーまで巻き込んだ横断的組織を作り、不具合の改善に取り組んだ結果、『其の結果、͡此の岡多線の自動車は、今日即ち昭和五年の十二月十五日から、此の十七年の十二月迄、満十二年間、走り続け五十万粁を突破して尚使用に耐え得る事を証明したのであります。』(②P175)と言えるような、見違えるほどのバスに生まれ変わったという。一般に、省営バスの認定試験は、陸軍の認定試験よりさらに厳しかったといわれている。鉄道省によって、軍用“保護”自動車メーカーは厳しく鍛えられたのだ。
このような技術面での実践的なノウハウは商工省にはなく、後の商工省標準型式自動車や、自動車製造事業法の制定時に、商工省の施策をバックアップする形で生かされていく。
(下の写真は瓦斯電のTGE-MP型省営バス。公式の説明として、「「国鉄バス第1号車」として保存されている最初期の国産バス。鉄道省が岡崎~多治見間に初めてバスを運行したときの7台のうちの1台」とあるので、岡多線のスタート時点では、バスは7台だったようだ。窓にはカーテンがあるなど、かなりのデラックス仕様に見える。ボディ架装は、芝浦の脇田自動車工業(後の帝国自動車→日野車体)が行い、石川島の方は、横浜の倉田鉄工所だった。木骨構造でなく、鉄骨鉄張り構造で(web14)、車体メーカー側としても挑戦だっただろう。悪路対策で、スペアタイヤは2本もついている。
なおエンジンは、従来のトラック用のL型(4気筒4.4ℓ)ではなく、新たに開発されたもので、『日本初の6シリンダーで4.7リッターのP型に換装』(⑯P10)した。アメリカのグラハム・ペイジ社のエンジンを取り寄せ、スケッチして設計したもの(②P152)だと言われている(ということは、後の日産の大衆車は、経営が苦しくなったグラハム・ページ社工場設備と技術を図面ごと購入し作ったものなので、“兄弟”という間柄になる?)が、石川島より気合が入っていたようだ。このバスは自動車だけれども1969年、“鉄道記念物”に指定されている。もともとは東京の「交通博物館」に展示されていたが、大宮の「鉄道博物館」を経て、現在では名古屋市にある「リニア・鉄道館」に移されたそうだ。さらに余談だが、超多角経営の瓦斯電は、会社名から連想すると、電車もやっていそうだが?『鉄道車両では王子電気、京王、横浜市電などに車輌を製造しています。』やはり!作っていたのだった。(以下の画像は中日新聞よりhttps://plus.chunichi.co.jp/blog/ito/article/264/5923/)

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そして貴重なその車内の様子。当時としては豪華仕様だったのだろう。
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大型/小型省営バスの開発(三菱と川崎の参入)
 鉄道省による日本全国規模の省営バス網運行の第一段階(岡多線と、翌年の三山線(三田尻-山口間)は、瓦斯電及び石川島が開発した中型バス(後述する商工省標準型式自動車)を使用して展開された。
しかし3線目の第二段階の展開では『主に急坂・悪路の山間地帯を走るため,強馬力,かつ耐久力のある大型バス,或いは小型バスの国産車の導入が望まれた。』((web13)P150)
 第一段階の運用実績と、次の営業予定線の亀草線(亀山―草津間)は、難所といわれた鈴鹿峠越えなどがあることから、より強力なエンジンを備えたバスと、狭い山間路において取り回しの良い小型バスの両方が必要とされたのだ。Wikiには「最初の3線は試験路」と書かれており、予めの計画で、最初にひととおり、試しておきたかったのかもしれない。
(下はブログ「押し鉄列伝;戦前D氏の視察帳」より、「関駅 関西本線 鈴鹿峠・関地蔵院-昭和9年8月17日(金)」という戦前の駅スタンプで『関駅のスタンプには、東海道の関宿の寺と、険しい鈴鹿峠を登る自動車が描かれている。この自動車は省営バス(のちの国鉄バス)だそうで、峠を越えて草津駅まで行っていたらしい。』
http://nonban.travel.coocan.jp/stamp/guest-d/dnote02.html)
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http://nonban.travel.coocan.jp/stamp/guest-d/d2/d19340817-seki.jpg
 このうち運行実績を基に故障原因を詳細に分析した菅は、その原因の多くを、中型バスの馬力不足に見出し(②P175)、より高出力の大型バスの導入を計画する。
 だが鉄道省と菅は、新たなカテゴリーである大型バスの試作を、大型バスは三菱造船所に、小型バスは川崎車両(1932年に川崎造船所から独立)という新規参入組に、それぞれ依頼する。その頃、瓦斯電と石川島は『陸軍の発注する六輪車と戦車のガソリンエンジンの開発に忙殺され、』(②P176)開発余力に乏しかったのだ。
 三菱も川崎も鉄道省からすれば、“本業”の鉄道事業の分野で、もともと関係が深かっただろうし、機械/重工業分野で、当時の日本を代表する実力を誇ったこの両社を、自動車製造の舞台へと、登場させようとしたのだ。
 そして三菱財閥も、神戸川崎財閥も、この誘いに応じて、省営バスの開発を契機に自動車分野へ再参入する。この時は大財閥の造船部門としても、自動車に進出したい理由があったのだ。(この16.4-2項で記すべきことは、((web13)P150~151)にまとまっており、以下からもそちらを参考に記すが、当然オリジナルの方が“正”なので、ぜひそちらの方をご覧ください。という言い訳をして、((web13)P150)からさっそく手抜きでコピーさせていただく!)
『当時,造船業界は大正 11年(1922年)のワシントン海軍軍縮条約による主力戦艦(八八艦隊)と航空母艦の保有量制限(日本 31万 5,000トン)のため主力艦の整備,縮小を余儀なくされ,さらに,昭和5年(1930年)のロンドン海軍軍縮条約での補助艦保有量制限(日本 10万 8,400トン,対米比 6.02割)を受け,深刻な不況に襲われ,川崎造船,石川島造船の再建問題を生じさせていた。三菱神戸造船所も,同様に,不況対策を余儀なくされていた。これら造船所は,自動車産業への進出とその拡大を再建策の中心課題としていたが,神戸造船所も同様の動機から自動車生産に取組むのである。大井上博は,「不景気で苦しんでいたときでもあり,それに官庁相手の仕事でもあるからということで始め」(③P71)たと三菱重工業の自動車進出について明らかにする。』
 補足すれば、戦前の日本を代表する、機械・重工業メーカーであった、三菱造船所(1934年に造船と航空機が合併し三菱重工業になる)と川崎造船所の自動車産業との最初のかかわりについては、この一連の記事の“その3”の記事で記してある。国による国産車製作の最初の取り組みであった、陸軍による軍用トラックの国産化プロジェクトに、両社とも当然の如く声がかかり、それぞれ取り組んだが、その時は艦船や航空機の方に注力すべしと判断し、試験的な段階で撤退した。そしてこの判断はたぶん、国の意向とも歩調が合っていたのだ。
 しかし時代は変わり、外資のノックダウン生産の拡大により、自動車は日本の社会全般に浸透し、鉄道から自動車輸送へと、輸送革命が起こりつつあった。造船不況対策とともに、両社ともにこのままでは時代の変遷に取り残されてしまうという、危機感もあったと思う。このタイミングでの鉄道省からのこの導きは、自動車産業への再参入の時期を見計らっていた両社にとって、絶好の機会が与えられたことになる。

16.4-2三菱造船所による大型省営バスの開発
 三菱造船所は、この期待に応えるべく、『今度こそ三菱も本格的に自動車の生産を開始するのだと力を入れ、』(⑮P44)取り組む。製作を担当したのは『蒸気機関車、電気機関車、ディーゼル機関車、ロードローラ等を担当する、俗に「車屋」と称せられる車輛専門の部門』(⑮P48)だった。
 1931年、大型バス研究のための参考用として、3台のバスシャシー(アメリカのGMC(=いわゆる「イエローコーチ」、WX型5,400cc)、ホワイト(65A型6,500cc)、スイス、ザウラー(3BNPL型6,130cc)、いずれもガソリン100㏋エンジンを搭載)を購入し、ほぼ一年に及ぶ綿密な分解調査を行う。(⑮P48) その結果、『性能では最も日本に適していると考えられるホワイトをべースにし、これにGMCの多量生産性と、サウラーの登坂性能とを併せ備えさせることを狙いとして、「三菱B46型乗合自動車」仕様の骨子をまとめた』(②P48)というが、当然、菅の意向を重視した結果だっただろう。
 OHV6気筒7,010cc、100㏋という、ホワイト製エンジンをベースに新開発された強力なエンジンを搭載した、B 46型大型バス用試作シャシー第1号が完成したのは、1932年5月であった。東大の隈部一雄助教授の指導の下に、当時日本国内では数少なかった完全舗装道路であった、阪神自動車道で性能試験を繰り返し、(②P49)。「鉄道省C型乗合自動車」(ふそう号)として、省営バスに採用される。こうして三菱もようやく、自動車メーカーの仲間入りを果たした。(下の「ふそう第1号車・B46型乗合自動車」のイラストは三菱ふそうのHPより。)
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https://www.mitsubishi-fuso.com/oa/jp/corporate/history/images/70th01_03.jpg
(ちなみに「ふそう(扶桑)」という名称は、社内公募によって選ばれたものだが、その由来は「古くより中国の言葉で「東海日出る国に生じる神木」を指し、日本の別称としても使われ、実在する扶桑の木は扶桑花(ぶっそうげ)と呼ばれ、一般にはハイビスカスの名で知られている」そうです。なおB46型の、 “46”という数字はホイールベース長(4.6m)を表している。鉄道省の購入価格は、8,800円(ただしバス車体は省が別発注で、日本車両や川崎車輛で架装されたという(㉓P10))で『精一杯の値段で買ってくれた』が、『その製造原価は物凄いばかりに嵩んでいた。試作に続く生産も10台とか15台とかいうような単位では製造原価など議論の対象にはなり得ない性質のものであったろう。』鉄道省と交わした「使用年数6年、走行距離30万kmを保証する」という契約時の足枷にも、後に苦しめられることになる。大型船舶や舶用エンジンとは勝手が違う世界で、この教訓も、後の丸子/川崎工場という量産志向の工場建設へとつながっていく。下の美しい画像は(web12)よりコピーさせていただいた。)
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https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/userstorage/000/028/617/444/abc7209b5c.jpg?ct=18d750141d37

16.4-3川崎車両による小型省営バスの開発
 一方、三菱と同じく、造船を主体とする川崎財閥も、同じく造船不況対策の一環もあり、鉄道車両製造部門である川崎車両において小型バスの開発に積極的に取り組む。しかし川崎の省営バスについては、手持ちの資料が(②P154、P176)以外ほとんどないため、詳しく記せないが、やはりアメリカのホワイト(61型)をモデルにした60馬力の6気筒 KW 43型バス(六甲号)を完成させ、省営バスとして鉄道省に納入する。(下の写真はその姿だが、(鉄道P60)によれば、三菱も大型のみならず、同じくホワイト(61型)をベースに、小型省営バスをつくり納入したという。)
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https://www.khi.co.jp/corporate/history/img/002_im04.jpg
 川崎車両はさらに、省営バスの開発を契機に軍用自動車の開発へと手を広げ、1932年から 36年の間に、トラック、バス、乗用車を合計 240台、軍用制式自動貨車を 30台を製造した(web(16)P54)とあるが、(web17)では『1927年(昭和2年)に陸軍88式自動車に着手、川崎造船所兵庫工場車両部が担当、翌年に川崎車輛となる。1932年(昭和7年)に「六甲号」と命名、自動車3700台を生産し』また『(合計で?)4190台を生産した』、とも書かれている。(⑰P62)でも同じく『乗用車、トラック、バス490台、軍用制式トラック3,700台』だ。
4,000台以上とは当時としては相当大きな数字だが、(⑧P76)には『三七年から四二年までの間に同社が製造した軍用正式自動貨車は3670台』と記されており、37年以降に生産が急増したとすれば、辻褄が合う。陸軍向けの軍用車両の受注で生産台数が急増したのだろう。日本陸軍を代表する軍用トラックである、九四式六輪自動貨車は、車輛開発を行った石川島、瓦斯電、その後の東京自動車、ヂーゼル自動車とは別に、川崎車輛もその生産の一翼を担っていた。
 下表は、戦前の省営バスのメーカー別生産台数だが、付随自動車を含めると六甲の台数が意外に?多かったことがわかる。川崎は技術力もあるので、エンジンの内製も行ったが、総じて『自動車の領域では完成車組立に進出した』((web⑲)P29)という印象が強い。そのように割り切った分、戦車等特殊車両を除く一般の自動車の生産台数としてみた場合、正確には不明だが、労多くして途中で挫折した(させられた)車種の多かった戦前の三菱よりも川崎の方が、明らかに台数は多かったように思う(たぶん)。
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(「六甲号」は乗用車もあり、高級乗用車として宮家などに納入したという(川崎重工HPより)。下のやたらとオシャレに見えるクルマは、六甲号乗用車のカタログの表紙(web17)より、以下の文共々コピーさせていただいた。『アールデコ調で描かれているが、松方幸次郎が絵画コレクター(松方コレクション)だったため、欧州調にデザインしたのであろう。』川崎造船所の初代社長だった松方幸次郎は、松方正義の三男だそうで、そうなると瓦斯電の松方五郎とは兄弟ということになる(?)もっともwebで調べると、松方正義は15男11女と!子宝に恵まれたようだ!)
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http://www.mikipress.com/m-base/2017/05/post-89.html
(下の着色加工した写真は川崎車輛が製作した流線形の弾丸列車で、南満州鉄道が世界に誇った「あじあ号」の雄姿を、「満鉄アジア号を復元してみました」さん(https://blog.goo.ne.jp/sfkarasu)よりコピーさせていただいた。見事な写真なので3枚連続してコピーさせていただいた。)
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https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/88/0a9e502627101d834ec0f179ad08fd01.jpg
(この記事(その6)のあとの記事(その8)で記す予定の自動車製造事業法立法化の過程を扱った「NHKドキュメント昭和」(㉘P66)より以下引用『今でこそ世界に冠たる日本の機械工業だが、当時はわずかに「造船と汽車製造とが世界に伍していけるだけで、多に見るべきものがない。それで自動車の育成が早道だと考えた。」(日本自動車工業史座談会記録集における、自動車製造事業法立法化に尽力した小金義照の発言) 戦前、鉄道技術は一級の水準に達していたのだ。)
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https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/ea/0c31321ae02bbebd9b7c4aacf6e322e0.jpg
(この記事の本題とは多少逸れるが、「あじあ号」の写真を埋めるためについでといっては何だが、当時の陸軍・商工省がなぜ自動車が早道だと考えられたのか、(㉘P66)より引用を続ける。『自動車を国産化したいという、軍部の強い要請がまず第一にあげられる。同時に、産業政策の立場から見て、五千を超す部品を組み合わせ生産される自動車は、鉄鋼・工作機械・電気機器・ベアリング・ガラス・ゴム・塗料・繊維等々、裾野の広大な関連産業がなくては成り立たない。自動車は、多くの分野に波及する総合的な基幹産業なのである。このことは、アメリカの自動車が占めていた地位を見ても明らかである。およそ半世紀にわたって、自動車産業は最大の産業として、GNP(国民総生産)の20%を占め君臨していた。さらに日本でも、目下、自動車輸出が他を圧倒する最大の稼ぎ頭に成長したことを考え合わせれば、容易にうなずける。こうして半世紀前、自動車をてこに、日本の産業を振興しようというアイデアが生まれたのであった。』このころのNHKドキュメント番組は見ごたえ十分だった。それに引き換え、今は・・・ )
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https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/51/6822fce23f4cbf8cd1336de4dceb146e.jpg
 商工省工務局長に就任した岸信介は工政課長の小金に『俺とお前とで、二つだけやらねばならぬ仕事がある。歴代局長ができなかったこと。一つは、化学肥料の国産化。もう一つ、いつでも立ち消えになる自動車製造事業法。この二つは仕上げよう』(㉘P65)と語ったという。
(話を戻し、しかし川崎はその後、既述のように、戦時統制経済の下で陸軍省と商工省の介入により、国防の要であった航空機に特化するよう命令があり、自動車分野からは撤退させられてしまう。自動車向けの残存部品と設備一式を東京自動車工業(いすゞ)に譲渡することになるのだが、つまりいすゞと川重はもともと戦前から結びつきがあったのだ。もっとも半ば強引に、統合させられた結果だったのだが。下の写真は戦後の製品なので、本記事と直接関係は無いけれど、いすゞのバスシャシーに川崎航空機の車体を載せていた時代の代表的な観光バス、通称“オバQ”の写真。丸っこいボディに大きな正面マスク形状からそう呼ばれていた。この愛嬌ある姿は自分もそうだが、年配の自動車好きの人の脳裏に、今も焼き付いていると思う。(下はBH20型)
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https://stat.ameba.jp/user_images/20140913/18/porsche356a911s/1c/08/j/t02200165_0800060013065355944.jpg?caw=800
 話を省営バスに戻す。周囲に常に波乱を巻き起こしつつも、前へ前へと進む菅健次郎の省営バスの構想は、さらに第三段階へと進む。

16.4-4省営バスの改良(チヨダとスミダの高出力化)
 鉄道省による省営バス開発の、第三段階の主眼は、第一段階の運用実績における経験と反省を踏まえて、さらなる改善策を施すことになった。繰り返しになるが、菅は『岡多線、三山線での省営バス(L型)の故障原因について詳細な統計を取り、その分析をした結果、これまでのTGE-L、スミダL型の馬力不足に故障の原因を求めたからである。』(②P175)
 そこで菅は『L型の75馬力エンジンを新しい100馬力エンジンへと変え、開発すべくガス電と石川島自動車と交渉したが、「アワヤ、決裂かと思いお互い袂を分かつ」状態に陥った』(②P176)という。
 これも先に記したが、省営バスの開発スタート当時と情勢が変わりこの時期、瓦斯電も石川島も、満州事変勃発による陸軍からの特需があったうえに、「商工省標準型式自動車」のプロジェクトまで抱えており、開発陣はすでに手一杯であった。商工省標準車の出力サイズを大きく超えたエンジンの新規開発を、できれば避けたかったが、しかし両社ともに開発のやりくりをしながら鉄道省(菅)の求めに応じ、新たに大型の100馬力エンジンを開発した。『それぞれちよだ(TGEを変更する)S型、スミダR型とし、省営バスに採用され、三菱重工業の扶桑と共に、高馬力・大型化(36名乗りバス)の国産中級車として発展した。』(②P176)(下の写真はいすゞプラザのスミダR型のパネル。みんカラ“凌志のページ”さんよりコピーさせていただいた 
https://minkara.carview.co.jp/userid/589818/blog/m201706/)
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https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/userstorage/000/038/213/928/517c27b236.jpg?ct=93d4a772e83e

16.4-5省営バスのディーゼル化を推進する
 さらに省営バスが日本の自動車産業に果たしたもう一つの功績として、ディーゼルエンジンバスの採用を進めた点があげられる。なぜディーゼル化を推進したか、その理由について、((web13)P152)に要領よく纏められているので手抜きでそのまま引用させていただく!
『省営バスは悪路と急坂を主とする山間地方を走るために,整備された道路を走るよりもガソリンの消費量が多く,その対策を不可欠とされていた。当時,ヂィーゼル・オイルはガソリンの約4分の1の安い値段であり,ヂィーゼル化すれば,燃費は4分の1で済んだ。その上,ガソリンは揮発性が高く,蒸発する量も多かった。また,昭和恐慌期のため,輸入超過による外貨不足が日増しに大きくなっていた。石油の輸入を抑制し,節約することは,国の燃料対策としても重大問題であった。菅健次郎は,技術上,経営上,ガソリンエンジンをヂィーゼルエンジンに替えて省営バスの効率化,燃費節約を図るため,三菱神戸造船所の大井上博にヂィーゼルエンジン車の開発を依頼した。大井上博は,商工省の研究奨励金を受けて,昭和 10年に予燃焼室式ヂィーゼルエンジン(SHT6)を完成させ,11年に省営バスに納入した。』
 以下、多少補足すると、省営バスのルートは険しい道が多く、ガソリンエンジンのバスでは、1ℓ当2.5kmぐらいしか走らなかったという。(③P72)バス運行の燃費費用の節減とともに、既述のように当時の日本は、貿易収支の赤字で苦しんでいた。鉄道省としては国策の一環としても、燃料の節約をはかるため、国産車メーカーにディーゼルエンジンの開発に取組ませたのだ。
 そしてここでも、大型省営バスの開発で実績を積み、ディーゼルエンジンの開発で先行していた三菱に、ディーゼルバスの開発を要請する。既述のように当時三菱グループ内では、ディーゼルエンジンの開発を、造船所の自動車部(神戸)と、航空機の東京機器製作所(大井)の自動車部の2系統で行っていたが、省営バスに引き続き造船所が担当となった。商工省から「工業研究奨励金」(九千円)も得て、予燃焼室式ディーゼルエンジン(SHT6)を完成させて、このエンジンを搭載した省営ディーゼルバスを納入した。鉄道省による省営ディーゼルバスはその後、石川島、瓦斯電、川崎車両にも発注されることになる。(下はBD46型省営ディーゼルエンジンバスで、日本バス協会からのコピーだが、16.4項の最初に載せた、イラストのクルマと配色が違うが同型車だろうか?)
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http://www.bus.or.jp/mini/images/history05.jpg
 自動車用ディーゼルエンジン取り組みとしては省営バスよりもはるかに大規模だった、陸軍を中心とした取り組みについては、次の16.5項で記すが、客観性の高い、戦後の米軍のレポートで、惨憺たる評価だった日本車のなかで、『ただ 1 つ,ディーゼル車が戦争直後から性能・コストにおいて世界水準をゆくようになったのは,政府主導による研究開発によるもの』((web20)P14)であると評価されていた。
 自動車は元々、その国の産業の総合力が試される上に、6.4.1-2項で記したように明治維新後の戦前の日本では、「すべてが足りない中で自動車の位置づけは総体的に低かった」。国家全体としてみれば、自動車以外に、他にやるべきことがたくさんあったのだ。そんな切ない事情の中で育った戦前の日本車だが、それでも唯一、世界の第一線の技術水準に到達した、日本のディーゼルエンジン車の発展過程について、陸軍による施策を軸に次項でみていきたい。
(再三記すが、三菱はディーゼルエンジンの開発を、造船所の自動車部(神戸)の予燃焼室系と、航空機の東京機器製作所の自動車部の直噴系の2系統で行っていたが、両者の事業統合後は『この直列噴射式と予燃焼室式とは、その優劣をめぐり優雅に表現すれば切磋琢磨、泥臭くいえば主流派争い的で、』(⑮P115)後の16.5-2項で記すように主流は自社型直噴及びザウラー直噴エンジンを展開した後者であった。統合の結果、神戸系の大井上が総責任者になるのだが、『この間、神戸系予燃焼室式機関はどちらかと言えば守勢に回り、大井上氏の強い意見によって一応の命脈を保ちえたような立場に置かれたように伝えられているのである。』以上(⑳P207)(⑳P207)より引用を続ける。『しかし、後述するように時流が予燃焼室式に傾く中で、この神戸系予燃焼室式機関にもようやく陽が当たり、代表格のY6100型は商工省8.55ℓ自動車用統制ディーゼル機関のモデルのひとつとなった。のみならず、戦後同機はDB系機関として改良を重ね、昭和40年近くまで三菱大型自動車用主力機関としての地位を』保った。
下の写真は、その三菱のY6100AD型ディーゼルエンジン(1938年)。戦後DB系と改称され、長く使用されたエンジンと同一排気量の予燃焼室式8,550ccエンジンだったが、燃焼室のデザインは自社仕様から、途中で東京自動車工業の伊藤正男の手になる統制型エンジン仕様を参考に、設計が改められた(ハズだ)。)

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https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcQLDnWprEjdedcNmuQRE8NpdQxZWLKQqTVy8g&usqp=CAU

16.5陸軍主導による国産ディーゼルエンジンの開発
 まずは((web13)P151+P31)等を基に、この項の概要を先に記す。
 日本の陸・海軍は,大正末期からの世界的なディーゼルエンジンの発達と燃料対策を背景にしてディーゼルエンジンを艦船,戦車,自動車等に搭載させ,軍備の近代化を図ろうとしていた。
陸軍は1923年、戦車の国産化を計画し,その実施を試み,ガソリンエンジンと並んでディーゼルエンジンを研究し,三菱航空機にその試作を発注した。三菱は,1933年に八九式戦車用のディーゼルエンジン(A6120VD型)を開発する。
しかしその後陸軍は、ディーゼルエンジンの開発をさらに加速させるため、発注方式を改め、実績重視による分散発注方式から、企業間の熾烈な技術競争を伴う、競争試作方式に転換させる。
 たとえばガ ソリンエンジンだった94式6輪自動貨車を、ディーゼル化する際に、その試作を三菱(東京),池貝,新潟鉄工,神戸製鋼,東京自動車,川崎の6社による競争試作として行い、試作の完成が遅れた東京自動車などを尻目に、先行した池貝製エンジン(4HSD10X型)が受注を獲得する。
(下図参照。原本は(⑳P20)だが、web上で同書の一部分は一般公開されており、ここでは(web13);「本邦高速ディーゼル工業史の教訓」山岡茂樹著の、P31より転記とさせていただいた。)
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 しかしその池貝製エンジンをさらに代替えする、商工省標準型式車用ガソリンエンジン(スミダX型)の本格的な後継となる「自動車用統制発動機」の座は、三菱(神戸系と東京系の2機種)、東京自動車(いすゞ)、日立、神鋼による5基のディーゼルエンジンによる競争試作となり、東京自動車製いすゞエンジン(DA40型)が勝ち取る。
 そして熾烈な競争試作時代の、一連の技術開発競争に完勝したのは、伊藤正男設計による東京自動車(いすゞ)の予燃焼室式のディーゼルエンジンであった。以降はそのエンジンを標準設計とし、シリーズ化されて、それら「統制型エンジン」を軸とした、国内の車両用ディーゼルエンジンとその産業の一元化が図られていく。
 何度も記してきたが、陸軍省と商工省は当時一貫して、東京自動車工業を中心とした、国内ディーゼル自動車産業の一元管理を目指してきたが、東京自動車はその要となる、自動車用ディーゼルエンジン技術における比較優位でその期待に応え、両省の政策の正当性に対しての、客観的な論拠を与える結果となった。
 ただし、技術開発競争の時代は、陸軍の下で行われた企業間のフェアな戦いではあったが、16.5-6項で記す、ディーゼルエンジンの心臓部である燃料噴射ポンプの国産化のため、ボッシュの技術導入に導くなど(ヂーゼル機器の設立)、陸軍が外部からバックアップしつつ、東京自動車工業を軸に据えた統制策を予め描き、進めてきたことも見逃せない。

 以上が概要だが、ここから本題に入る前に、(web21)からの引用で、日本における初期にディーゼルエンジンの導入の歴史についても箇条書き的に、ごく簡単に触れておきたい。
☆1907年、日本石油が1台輸入した(33PSの単気筒ディーゼル機関)。これが本邦初のディーゼル機関と推定され、同社の石油採掘用機械部門であった新潟鉄工所が、この機関をもとにディーゼル機関の研究を始める。(web21)にはここまでしか書かれていないが、(㉑P9)には『日本のディーゼルエンジン研究は、一九〇七年、横須賀海軍工廠によるズルツァー60㏋によるものが嚆矢と言われている』という記述があるので、海軍が関与していたかもしれない。
☆一方、三菱重工業は1912年頃からディーゼル機関の調査研究を開始し、1917年、三菱神戸で独自の設計によるディーゼル機関を完成し、三菱名古屋に納入した。これがわが国で製作された最初のディーゼル機関とされている。この機関は(web21)の写真からすると、定置式のようだが、舶用として最初に製作されたものは、1919年の新潟鉄工製が最初とのことだ。
☆その間、海外からの技術導入が進み、『ほぼ15年間で延べ15社が製造権の取得を果している。』((web21)P7)契約先は三菱(神戸/横浜)、新潟鐵工以外は川崎造船、神戸製鋼及び日本海軍などで、海外の提携先は(Sulzer)、(MAN)、(Vickers)、(B&W)など、この世界のお馴染みの名前が並ぶ。
 いずれもほとんどがマリンエンジンで、初期は潜水艦向けが目立つが、『この頃日本海軍では、潜水艦の主機として、ガソリン機関からディーゼル機関への転換を決定し、欧州メーカーとの提携を推進していた』((web21)P7)ことが影響しているようだ。以下の歴史は省略するが、日本におけるディーゼルエンジンの実際の導入は舶用の、それも潜水艦用として始まったということは、日本海軍が重要な役割を果たしてきたことがわかる。
 一方、陸上の乗り物用の国産高速ディーゼルエンジンの開発も、陸軍による戦車用エンジンの開発が、その嚆矢となった。そして陸軍によるディーゼルエンジンの開発とその発達に中心的役割を果したのは,「戦車のエキスパート」と言われた原乙未生(とみお)であった。
 次項からは、統制型エンジンとして完成に至るその過程を、三菱、東京自動車、池貝の個別の企業の活動と、陸軍のディーゼル化政策を交差させながら、たどっていきたい。
(ここでディーゼルエンジンの世界におけるもっとも入り口の、「基礎用語」を確認しておくと、エンジン回転数によってディーゼルエンジンは、「低速」(300rpm以下)、「中速」(300~1000rpm)、「高速」(それ以上)という3つに分類されるようだ。一般に舶用の主機としては低/中速ディーゼルが、自動車、鉄道車両、戦車等特殊車両、高速艇等には高速ディーゼルエンジンが用いられる。従い以下の国産ディーゼルエンジンの歴史は、その中の一部のジャンルである、「戦前の自動車用 国産高速ディーゼルエンジンの歴史」を辿ることになる。下の写真は、新潟鉄工所の「日本初の舶用ディーゼルエンジン」だ。
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https://stat.ameba.jp/user_images/20191219/23/elicasuekawa/cc/55/j/o0828094214681666220.jpg?caw=800

16.5-1陸軍による戦車用ディーゼルエンジンの開発
 この記事を、戦車のような“特殊車両”まで広げてしまうと拡散し過ぎてしまう恐れがあるが、軍用トラックに、どうしても関連する部分があるので、なるべく簡単に、触れておく。以下(⑧P119~P126)と、wikiを基に記すが、戦車全体でなく、あくまで自動車用ディーゼルエンジンに与えた影響の部分だけに、注目していきたい。
 まず当時の時代背景として、1925年に行われた、「宇垣軍縮」による陸軍の近代化計画がある。4個師団を削減する代わりに、人員削減によって得られた財源を軍備の機械化に充てようとするもので、『主な近代化の内容として戦車連隊、各種軍学校などの新設、それらに必要なそれぞれの銃砲、戦車等の兵器資材の製造、整備に着手した。』(wikiより)戦車の導入もその一環であったが、後に陸軍の自動車政策に大きな影響を与えることになる「陸軍自動車学校」もこの時に開設されている。
 さて、最初の国産戦車の設計にあたったのは、陸軍技術本部車輌班の原乙未生大尉(当時)以下16名の人員で、車輌班が1925年2月より仕様をまとめ、6月に設計を開始、その発注先には当時の脆弱な国内自動車産業でなく、官営の陸軍造兵廠大阪工廠が選ばれた。鋼板供給は神戸製鋼所、車体組立は汽車製造株式会社が担当したほか、阪神地区の民間工場が動員され、これら関連企業との協力の下で製作が進められた。(以上wikiwandより)そして1927年2月、国産の「試製第一号戦車」が完成する。富士演習場で野外試験を行った結果、予想以上の性能を示し、これ以降、戦車を国産品で賄う道筋を作る。(下の画像もwikiより)
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 輸送時等を考慮して小型軽量化された、実用量産型である八九式中戦車も、同じく陸軍大阪工廠の手で試作され、1929年4月に制式化されたが、量産はその改修型も含め、民間企業である三菱航空機が担うことになった。エンジンは、ダイムラー式100㏋航空機用ガソリンエンジンを修正して搭載した。(下の写真はwikiより、「ノモンハン事件における八九式中戦車と戦車兵。」日本初その八九式中戦車の、ガソリンエンジン版(甲型)のエンジン担当は瓦斯電で、量産化にあたり実用性を重んじて、オリジナルのSOHCをOHVに変更したという。(写真の戦車はディーゼル版の乙型?))
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 しかし陸軍は、八九式中戦車の開発当初から、同戦車のディーゼル化を視野に入れていたという。1928~1930年にかけて、欧州に駐在し、戦車及びディーゼルエンジン関係の研究を行い帰国した原乙未生は、1931年、三菱に八九式戦車に搭載する戦車用空冷ディーゼルエンジンの試作研究を依頼する。(③P88)。⑳P120では1930年ごろから開発されはじめたとの記述がある)。
『当時の日本のエース』(⑳P146)的存在であった三菱航空機が、八九式中戦車(乙型)用のディーゼルエンジン(A6120VD型)の量産目途をたてたのが、1933年ごろのことだった。八九式戦車は生産終了の1939年までに404台が生産されたという。このA6120VD型エンジンについては、16.5-2項で記す。
(下の写真は「八九式中戦車公表写真集 上 ~知られたるわれ等の新鋭戦車 (奥州つはもの文庫/国本戦車塾)」という本の、表紙部分の写真をトリミングさせていただいた。
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(さらに遡るが、陸軍は「試製第一号戦車」の製作にかかる以前の『1923年に戦車の国産化を検討していたときに、ディーゼルエンジンを研究し、その試作を三菱重工業の大井工場に発注』(⑧P125)していたという。あくまで研究用の試作であったと思われるが、この頃はようやく、ドイツでダイムラー・ベンツ(当時はベンツ)が予燃焼室式エンジンを、またMANが渦流室式エンジンを開発し、実用的なディーゼルエンジンを積んだトラックが初めて開発された時期で、自動車用ディーゼルのまさに黎明期だった。下の写真は(webCG)より『ベンツの4気筒ディーゼルエンジンを搭載したトラック(1923年)』見方によっての違いか、1924年とする本も多いので、1923~4年頃としておく。)
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 次項でwikiなどネットの情報をダイジェストにしてさらに、原乙未生ら、陸軍軍人がいかなる理由でディーゼルの、しかも戦車用には空冷タイプにこだわったのかを記すが、陸戦での主力兵器である戦車がディーゼル化されれば、前線で使用する車輛は運用上、同じくディーゼル化するのが道理となる。こうして日本陸軍は、前線で用いる車輛(主に三菱、旧瓦斯電、石川島系が製造)は後述する「統制型ディーゼルエンジン」搭載車に統一し、後方使用を主とする大衆車型のトラック(トヨタ、日産が製造;いずれこの記事の“その8”で記す予定)はガソリンエンジンへと二分されることになった。しかし戦況の悪化もあり、実態としては『自動車隊の車両なども、前線と後方でのトラックの棲み分けをする余裕もなく、稼働する車両を使わざるを得ないのが実情だった』(⑧P70)ようだ。

陸軍はなぜ戦車用として空冷ディーゼルにこだわったのか
 ディーゼル化の狙いはいくつかあったが、16.4-5項で記した省営バスのディーゼル化の時と同様、一般的な理由として、燃料製造の歩留まりの面でガソリンより軽油が有利で、石油の輸入を抑制し,国際収支の悪化を防ぐことにあった。軽油は備蓄が容易な点でも便利だった。さらに言えば、貴重なガソリンはなるべく航空機用に充てたかったのだろう。
 そしてもう一点、今からすると違和感があるが、『当時ディーゼル自動車工業と人造石油製造事業とのリンクが真剣に考えられていた』(⑳P196)のだという。実際に1937年、「人造石油製造事業法」なるものが制定されたが、人造石油をガソリン相当に改質するよりも、ディーゼル油にする方が低コストで有利だったようだ。
 一方ディーゼル化をエンジン側で見れば、燃費が良いので航続距離が長い(同じ航続距離を狙うならタンクを小型化できる)ことや、自己点火方式のため点火用の電気系統が不要な点でも有利だった。
 しかし陸軍の場合は『それ以上に大きな理由は、被弾時の抗堪性にあった。外国からの輸入戦車がガソリンエンジンのため、発火事故が起きていたことを陸軍は重く見ていたのだ。』(⑧P125)ディーゼル燃料の軽油は引火点が高い(ガソリンが-43℃に対し、軽油は40〜70℃、重油は60〜100℃)ので、攻撃や事故で損傷した際に火災になりにくく、実際にノモンハン事件では火炎瓶攻撃により炎上するガソリンエンジン装備のソ連軍戦車が続出したという。
 しかし発火事故の根本原因について(wiki)では『元をただせば当時の部品の精度やシーリングやパッキングの技術が未熟で、燃料漏れが日常茶飯事だった』と手厳しく指摘している。以下この点をさらに詳しくyahoo知恵袋!の(web30-1)によると『燃料タンクに被弾すると炎上してしまうのは、ガソリンも軽油も同じです。戦車の燃料火災にはもう一種類あり、これは燃料配管の継ぎ目などからガス洩れ程度に洩れた燃料がエンジンルームに貯まって爆発的に火災を起こす現象。そもそも当時の技術水準ではアメリカ以外、防止出来ず、さらに戦車は不整地を走ることや、砲撃や爆撃などで大きな衝撃を受けることから、余計に燃料配管を損傷しやすくなる訳で。この、フツーに戦車を使っていれば起こる燃料洩れ火災は、ガソリンなら重大事故になるが、軽油なら白煙を上げる程度で済む。これが日ソの重視した火災の予防策としてのディーゼルを選択した理由です。』
 日本が戦車用にガソリンエンジンを放棄したのは、ガソリンもれ火災に嫌気がしたことが原因のようだ。ちなみにドイツ軍のガソリンエンジン戦車は『エンジンルームの空気の通りの悪い戦車では、一時間おきに点検することで換気していました。』(web30-2)さすがアメリカの工業力の底力には、当時のドイツも及ばなかった。
 また空冷化のメリットだが、冷却水の調達が難しい大陸内陸部や寒冷地での運用を考慮したためで(その反面、『寒冷地仕様に開発されたため、南方では、オーバーヒート気味』(web31)だったとの指摘もあるが・・・)、日本の戦車の主戦場は、北満地区など飲み水の確保にも苦労する地域があり、ディーゼル化による燃料火災防止と同等の利点だと考えられたという。
 エンジンの構造上のメリットは、冷却ファンを除く冷却装置の不要等、構造単純化によるメインテナンスの容易さや、当時の水冷ディーゼルにつきものの、シリンダヘッドガスケット吹き抜けによる冷却系トラブルを避けたかった面もあったようだ。(⑨P58)(下の写真は三菱重工業のHP「三菱高速ディーゼル史料室」より、「世界初の戦車用空冷ディーゼル(A6120VD型機関)」)
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 一方ディーゼル化のデメリットとしては、潤滑油を多く消費し、排煙、騒音、振動が大きくなり、また始動が難しく、冬の満州では車体の下に穴を掘りそこで焚き火をしてエンジンを温めて始動させていたという。さらにガソリンエンジンに比べて同一馬力あたりで、ディーゼルはどうしても大きく重くなり、特に戦車用だと狭い居住性、薄い装甲、貧弱な武装、走行性能の悪化など、燃費向上による燃料タンクが小型化できること以外、様々な面で制約を多くした。そのためバージョンアップのための改修も、車体側に余裕が少ないため、大幅な改善や能力向上ができない結果に終わったとの指摘もある。
 また空冷化のデメリットとして、『大型空冷機関の一般的短所たるバルブシート、シリンダヘッド、シリンダボディー等各部の熱変形量の過大とそれに起因する機密保持性の悪さは温度特性が相対的に高いディーゼル化には一層大きな困難を与える。』(⑳P228)高めの各部温度による耐久性や性能面で不利だったようだ。(㉑P20)
(下は八九式中戦車に大きな影響を与えたという「ヴィッカースC型中戦車」。しかし日本での輸入後の予備試験中に、エンジンから漏れた気化ガソリンに引火し、火災事故を起こした(③P88参照)ことでも、その後の日本の戦車開発の方向性に、影響を及ぼした。画像と以下の文はwikiからコピーした。『当時は工作精度やパッキンの問題から、パイプの継ぎ目などエンジンから気化燃料が漏れるのは当たり前のことであった。このことが「戦闘車輌にガソリンエンジンは危険である」という認識を生み、後に開発される日本戦車にディーゼルエンジンが採用された原因の1つになった』)
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 この話にはさらに後日談もあり、『焼損したMk.Cは三菱内燃機名古屋製作所芝浦分工場~に持ち込まれ、三ヶ月掛けて修理された。こうした実績を陸軍に買われ、三菱は八九式軽戦車を始めとする日本の戦車の生産に携わるようになった。』(wiki)日本の戦車=三菱の、最初の機会も与えたのだ。
(下はファインモールド社製のプラモデル「帝国陸軍 九七式中戦車 新砲塔 チハ 前期車台 」で、『「97式中戦車」の火力向上型として新設計の大型砲塔を搭載した「97式中戦車改」を再現』したものだそうです。八九式戦車の後継であった、九七式中戦車に搭載するエンジンは池貝との試作競争の末、採用となった三菱製の6気筒空冷直噴ディーゼル、「SA1200VD型」で、三菱の車両用高速ディーゼルについては、次項でまとめて記す。)

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16.5-2三菱の自動車用ディーゼルエンジンの開発
 戦前の三菱グループで、ディーゼルエンジンの製造と開発を行っていたのは、もちろん、「三菱重工業」(以下三菱重工と略)だが、三菱重工は1934年、「三菱造船所」と「三菱航空機」が合併して誕生した。しかし「三菱航空機」は元々「三菱造船所」から、1920年「三菱内燃機」として分離されたもので、1928年に改称し「三菱航空機」と名乗るようになった。
 なぜこのような話から始めるかといえば、先記のように三菱の自動車用高速ディーゼルエンジン開発は、三菱重工が誕生して、自動車事業が、東京大田区の下丸子の新拠点で一体化される以前は、「三菱造船所」の神戸と、「三菱内燃機/航空機」の東京(大井)の両拠点で別々に行っていたからだ。
 下表は(⑮P90)からの転記で、1939年頃までの、三菱の所要な高速ディーゼルエンジンの試作・生産表だが、主力は、戦車用エンジン開発を核とした、「三菱内燃機/航空機」系であったことがわかる。
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 この表は1939年で途絶えるが、それ以降は概ね、統制型エンジンへの吸収の過程をたどることになる。以下、上記の表に概ね従いつつ、戦前の三菱の、自動車用高速ディーゼルエンジンの歴史をたどっていきたい。

16.5-2-1三菱直噴ディーゼルエンジンの開発
 先に、1923年の時点で、陸軍より戦車用としてのディーゼルエンジン研究依頼があった(⑧P125)という記述があったが、三菱の高速ディーゼルエンジンの本格的な取り組みはもう少し後で、上の表の「三菱・直接噴射式」という部分からだった。
 1930年、三菱航空機本社(名古屋)に、渋谷常務直轄の設計室が設置されてから本格的な開発がスタートし、設計室主任の成田豊治の下で、潮田勢吉が中心となり、試作研究のための設計が開始された(⑮P72)。
 次項で記すように、高速ディーゼルの場合、燃焼室と燃料噴射ポンプの形式が重要だが、『当時採用に決定したのは、直接噴射式・円盤形燃焼室とオープン・ノズル型噴射弁であった。』(⑮P72)直噴でバルブ配置はSOHC式であった。
オープン・ノズル式の採用の根拠は、東大航空研究所教授中西不二夫の解析に依 拠した((web26)P1、⑨P27)という。この頃すでに『ボッシュ製のポンプが、大容量伝送品と共に市販されかかった時期ではあったが、』自社技術(成田豊治の考案による成田式噴射ポンプ・カム・プロフィルに関する特許があった)があったので、内製することになった(⑮P73)。上記の表をみれば、「三菱・直接噴射式」のバリエーションは多いが、燃焼室回り等、基本的な構成は同じだったようだ(⑳P120)。
 しかし『今から考えてみると、この形式の欠点は、非常に簡単、単純な構造のオープン・ノズルの採用と、燃料噴射ポンプの吐出弁との関連で、噴射後、所謂「後滴(ナハトロップフェン)」現象を伴って、運転に際し、排気が完全にクリアにならない点であった。』(⑮P72)その他、信頼性、整備性等の問題も色々とあったようだ(⑳等参照してください)。一方長所としては直噴式のため、燃費が良かった点にあったという(⑮P72、P99)。
 そしてこの「三菱・直接噴射式」ディーゼルは、当時の三菱の幅広い取引関係から、以下のようにバリエーション展開されていった。エンジンのスペックは、上記表を参照ください。
 まずこのエンジン系列の柱は、陸軍の戦車用ディーゼルエンジン用であり、八九式中戦車(乙型)、九五式軽戦車用の(空冷のA6120VD型)が、三菱関係者の証言によれば『終戦までにおよそ2100台製作』(③P91)したというから当時としては相当な台数だ。そしてこのエンジンは『三菱の他、神鋼、新潟でも製造された』(⑳P146)という。2,100台が他社生産分も含んだ台数なのかはわからなかった。
 次に海/陸軍の船舶用としては、海軍「内火艇」(=内燃機関(エンジン)を動力とする船艇の総称)用として(480MD型)が、陸軍「上陸用舟艇」用としては、(4気筒の460MD型、6気筒の680MD型)が生産された。
 さらに鉄道省向け鉄道車両用として、戦車用の(A6120VD型)の水冷版の(6100VD型)と、上の表中にはないがその直列8気筒版の(8150VD型;⑳P118によれば19.5ℓ)が生産された。戦後三菱は、国鉄動車用ディーゼル機関の分野でなぜか存在感が薄かったが、戦前の国鉄(省線)の動車での採用順でいえば戦後主力の発注先であった新潟鉄工所、神鋼造機、ダイハツディーゼル等よりも、やはり三菱が早かった。(⑳P118)ただし(web35)の池貝の項で『ディーゼル機関車のエンジンを製作し、八幡製鉄所に納入(国産ディーゼル機関車製作の先鞭となる)』とあり、機関車全体で見れば池貝の方が早かったか。
「三菱・直接噴射式」高速ディーゼルエンジンのまとめとして、マイバッハ(Maybach;独)に類似という説もあるが(⑳P141にその出典の記載あり)、三菱航空機の航空発動機技術を基礎にした、当時の日本では希少な、自社技術を基に開発された独特なもので(⑳P15、P118等。三菱独自設計なので次項の表「各種燃焼方式の創草及び日本のメーカーとの関連」には含まれない)、『本系統は本格的に開発、量産された最初の国産高速ディーゼル機関』(⑳P122)であった。(他の説として、日本で製作された高速ディーゼルの、単純に開発時期だけで判断すれば、『制作の年代は諸説あって必ずしも正確ではないが、一九三〇年頃の池貝が最初のようである』(㉒P261)、『池貝鉄工も高速ディーゼルとしては同時期に開発しており共に(注;三菱と池貝が)日本初と言える』(⑯P35)としている本もある。)
 しかし『自動車用、舶用の650AD、660MDなどはとも角、6100VD、8150VD等大型のエンジンになると、クランク軸の破損、ピストン、ピストンリング等の焼付、軸承メタルの事故等続発し、~1台1台が試作エンジンの域を脱しない時代が続いた』(⑮P101)という内部情報もあり、その苦労がうかがえる。
 当時、陸軍向けの舶用(680MD)を実際に運転させた経験を持つ、「日本における自動車用ディーゼルエンジンの育ての親」と呼ばれる伊藤正男(16.5-3項で記す)は「いざ始動してみるとすさまじいディーゼルノックと共に白煙もうもうたる状況である。伊藤は驚く半面、当時のポンポン船から押し計れば高速ディーゼルとはこんなモノなのかな、」(⑨P27)との感想を抱いたという。
 高速ディーゼルの黎明期故に、実験機関的性格が強く(⑳P121)、運用上の問題点も多々あったようだが、それでも陸軍の上陸用舟艇用エンジンなどは、ダイハツ(当時は発動機製造)、久保田、赤阪鐵工、ヤンマー(当時は「山岡発動機」)等でも量産されるなど、同時期の国内他社エンジン(池貝や新潟)との相対的な比較でいえば、『それらは高速ディーゼル技術の未発展という全般的状況の中でやはり相当信頼できる水準に達していたもの、との評価を与えておく事ができよう。』(⑳P122)

 以下からは本題の自動車用ディーゼルエンジンの話に絞ると、開発された順番は、戦車用が先というわけでは無かったようで、(⑮P72)の記述では、最初に手掛けたのが海軍向けの(480MD型)で、自動車用の(450AD型)も同じタイミング(三菱重工のHPの記述からするとこちらの完成が先か)で開発されたようだ。小型エンジンである自動車用は先行試作的意味合いもあった?((下の写真は三菱重工のHP「三菱高速ディーゼル史料室」より、「日本初の高速ディーゼルエンジン(1931年)」(450AD型機関)」))
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 そして同エンジンは『昭和6年(1931年)秋、陸軍自動車学校から貸与された英国・ソニークロフト製トラックに搭載して、運行、実用試験が行われた。
この450ADが他のエンジンメーカーあるいは自動車メーカーに魁けて、国産第一号自動車用ディーゼルエンジンとなったわけである。』
(⑮、P74)と、誇らしく記されている。((web29)P120)などには、「回った、回ったというけれども」どのようなレベルで走行できたのか不明だとの指摘もあるが、ここは素直に受け取りたい。
 この記事のテーマからすれば主題である、肝心の自動車用のディーゼルエンジンは、戦車用や船舶用と違い当初から確たる市場があったというよりも、当時はパイロット的に陸軍や民間バス会社等で使ってもらいながら、その動向を探る段階であったようだ。
自動車用ディーゼルエンジンについて、(⑮)から続けると、(450AD型)試作の経験から、『若干シリンダ容量の少ないエンジンの方が、騒音、振動も少なく、且つ販路も多い』(⑮P74)との判断から、(445AD型)が試作されて、GMのトラックに搭載して運行試験を行った。同エンジンは、満州国の鉄路総局の先駆車(=治安の悪い満州では、列車の運行の前に装甲武装した先駆車を走られ、安全を確認していたそうだ)用として納入された。
 さらに6気筒版の(650AD)も作られて、新発足した三菱重工初代会長用車であり、ときにはロールス・ロイス以上に格式が高いフランスの最高級車、イスパノ・スイザのエンジンを、なんとこの6気筒ディーゼルに換装して、PRに努めたのだという!
この(445AD型)と(650AD型)は、陸軍自動車学校研究部により、再三のテストが実施されて、たとえば「九四式六輪自動貨車」(当時三菱の神戸造船所でも組み立てていたという)に(650AD型)を搭載したり、瓦斯電製の「ちよだ」に(445AD型)を搭載するなどして、トライを重ねた。(⑮P93)また(650AD型)の方は満鉄向けのバスにも搭載されたという。
 いずれにしても自動車用としての台数は、多くはなかったと思われるが、自動車分野では後発組で、陸軍・商工省の自動車政策の本流に乗りあぐんでいた三菱は、ディーゼル技術を活路として、陸軍始め満州国(満鉄、関東軍)などにも手を広げようとしていた様子がうかがえる。

16.5-2-2 1930年代の高速ディーゼルエンジン技術の流れ
 ここで三菱の話題からわき道に逸れるが、1930年代の、自動車用高速ディーゼルエンジン界の全体像を把握するため、当時の技術的な潮流について、(⑳P88~P90)やnetの情報を基に、ごく簡単に触れておきたい。ド素人の上に技術音痴の自分が解説するのもキツイ話だが、これ以降に記す内容を理解し易くするためには、ここで先に確認しておくことがどうしても必要だと思うからだ。詳しくは(⑳)の本書及びnetで検索してみてください。
 まずいくつか前提を記しておくと、当時ディーゼルの先進国は、発祥の地である欧州だが、その高速ディーゼルエンジン技術の肝となる部分は、『狭い燃焼室内で短時間に行われる燃焼を制御する必要があり、従って燃料の噴霧性状と空気とのミキシングに関する微妙かつ経験的な工夫の積み重ねが必要であった』(⑳P7)。そのため燃焼室の形式及びその設計と噴射系ユニット(噴射ポンプとノズル等)の性能(その設計製作技術)が鍵となる(たぶん)。
 燃焼室の形式の違いを大雑把に言えば、現在主流の「直噴式」(DI:Direct Injection、燃料を主燃焼室に直接噴射)と、「副室式」(IDI:Indirect Injection、燃焼室が主室と副室に分かれ、副燃焼室に燃料を噴く形式)に大別される。その副室式はさらに「予燃焼室式」(Pre-combustion chamber type、副室は主燃焼室容積の25~45%程度と小さく着火装置のような役目を果たし、燃焼が柔らかく、シリンダ内の最高圧力も低い)と「渦流室式」(swirl chamber type、予燃焼室式より大きい副室内に強い渦流を発生させ、燃焼を促進させようとする方式)、さらにこの時代には「空気室式」(燃焼室とは別に空気溜を設ける)というものもあったそうだ。詳しくはnet(たとえば(web25)等)で検索してください。下の画像はweb「自動車用語辞典」https://clicccar.com/2019/10/18/919445/より。
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 以下ヨーロッパの主要企業/研究所における変遷をごく手短に辿る。
 まず『ディーゼル界きっての老舗MAN(Maschinenfabrik Augsburg-Nürnberg=「アウクスブルク・ニュルンベルク機械工場」の意味だそう)』(独)は『このクラスの高速ディーゼルに直噴式及び空気室式燃焼室を用いていた。』そしてMAN空気室式は『一時、高速機関に適していると考えられたものであるが、それ程長くは続いていない。』(⑳P89)しかし「MAN空気室式」は下表で示すように日本でも多くの追従者を生むことになる。(下の見事なフルトレーラー車は1932年当時、『世界最強ディーゼルトラック、MAN S1H6』の雄姿。6気筒140㏋エンジンを搭載していたという。画像と説明内容は
http://www.gruzovikpress.ru/article/2503-man-truck-bus-ag-gruzoviki-emaen-stoletniy-yubiley/ より。しかし同記事の機械翻訳によれば、『1931年にはトラックとバスのシャシーは184台しか生産されず、翌年には144台しか生産されず、1933年には生産台数がほぼ半分に減少した。』という、信じがたいような状況だが、(⑮P131)に、ディーゼルトラックの生産は『ベンツ、ヘンシェルなどの工場でも月産50~60台といわれ、』という記述があるので、ディーゼルの本家であるドイツの名門企業と言えども、生産の実情はこの程度だったようだ。
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 一方同じく名門ダイムラー・ベンツ(当時はベンツ)は、「予燃焼室式」に専念し、改良を加えながら戦後も長く、この方式に固執し続ける。(ダイムラー・ベンツは乗用車用として、マイルドな燃焼の予燃焼式を延々と使い続けた。下は1999年のE 200 CDIだが、乗用車用としてはこの時代になってようやく、直噴ディーゼルを受け入れるのだ。)
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 自動車用ディーゼルエンジンで古くから名高いスイスのザウラー(Saurer=「ザウラー」と「サウラー」の2つの表記があるが、引用箇所以外は「ザウラー」と記す)は、『自社改良アクロタイプの予燃焼室的な空気室式から直接噴射式に移行したようである。』(⑳P89)次項で記すが、八九式の後継となる九七式中戦車用エンジンを開発するにあたり、三菱はこのザウラー直噴式を当時世界最良の高速ディーゼルエンジンと評価して、自社開発から「サウラー副渦流直接噴射方式」技術の導入へと切り替えを行う。(下の画像はwikiより、本国スイスの山岳路で使われた、ザウラーのバス(1,930年)。Wikiによれば日本でも箱根登山用バスとして、ホワイト(米)を導入した「富士屋自働車」に対して「箱根登山鉄道の自動車部門では、富士屋自働車に対抗して、スイス製の高級車であるサウラーが導入された。~五十嵐平達は「活躍した場所から考えても、1930年代の遊覧バスを代表する1台」であるとしている。」ザウラーは当時、高級バスのブランドとしても有名だったようだ。)
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 しかし、1930年代前半に限れば、高速ディーゼルエンジン技術に旋風を巻き起こしたのは、ドイツ勢ではなく、『当時内燃機関の燃焼解析の権威として知られ』(⑳P89)、リカルド研究所を創始したイギリス人研究者、ハリー・リカルド(Harry Ricardo=これも「リカルド」と「リカード」と、表記が分かれるが、引用箇所を除き「リカルド」と表記しておく)による、「リカルド・コメット燃焼室」の誕生だったという。(⑳P89)
『コメットというのは彼がAEC(Associated Equipment Co.英)と協力して開発した小型高速ディーゼル機関用のいわゆる渦流室式燃焼室に与えられた称号である。』(⑳P89)
 AECディーゼルの燃焼室の性能改善の中から1931年8月に誕生したこの「リカルド・コメット燃焼室」は、AEC製の従前のエンジン(前述の直噴移行前のザウラー式燃焼室の改良型)に比べて、『85~90馬力に低迷していた出力が一挙に130馬力へと向上したというからその効果は目を見張らせるものがあった。~ 当然世界がこのコメット燃焼室に注目し、ライセンシーはたちまちのうちに世界各国30~40社に達した。』(下の画像はhttps://ricardo100.com/ より、AECのロンドンバスで使用されたのが始まりという。)
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⑳の引用を続ける『~しかしディーゼル技術の発展のなかで、この勢いも長くは続かない。改良された予燃焼室式が巻き返し、更には直噴式が発展するなどして渦流室式機関の分布はより小型のものへと進む。』(⑳P90)こうしたディーゼル技術の本場、ヨーロッパにおける激動の世界は、当然のことながら日本国内で高速ディーゼルに参入を試みていた企業のエンジン開発にも強い影響を与えていくことになる。下表は((web19)P26及び⑳P16)からの転記させていただいたもので『欧州企業の各種燃焼方式及び日本企業との係わりを示す』表だ。先行3社(三菱、池貝、新潟)以外のも、さまざまなルーツを持つ多数の有力企業の名前が連なる。そして上記の「改良された予燃焼室式が巻き返し~」の中に、我が日本の自動車工業/東京自動車工業による、伊藤式燃焼室が名を連ねることになるのだ。
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 次に燃料噴射ポンプについて、適当な資料がないので、さらに大雑把な話になってしまうが、ご承知のようにディーゼルエンジンは1892年にルドルフ・ディーゼルが発明(1893年に特許取得)したが、高圧縮比の機関をつくる技術が確立されておらず、1897年にいたって製作された。この機関は側弁式で、燃料は、高圧空気でシリンダー内に噴射される空気噴射式であった。(下はwikiより「ルドルフ・ディーゼルの1893年の特許証書」)
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 定置式や舶用などに比べて、ディーゼル自動車の実用化は遅れたが、その理由は大量生産方式が定着した廉価なガソリン自動車との競争に絶えず晒されてきたことと、技術面では『初期のディーゼルエンジンは燃料噴射に圧縮空気を用いており(空気噴射式)、そのために空気圧縮機を備えなければならず、車載に適した小型ディーゼルエンジンの開発は困難であった。結果、実際にディーゼル自動車が市販されたのはガソリン自動車よりも遅い1920年代で、無気噴射式(燃料を噴く)の高速ディーゼルエンジンの実用化がキーとなった。』(wiki)
 自動車用高速ディーゼルに不可欠な存在となる、無気噴射式の燃料噴射システムの量産を1930年頃からいち早く確立し、今日に至るまで自動車用ディーゼルエンジンの世界に裏から君臨するのがご存じボッシュだ。『特にロバート・ボッシュ社における無気噴射装置の最産化は噴射系のコンパクト化・簡素化、噴射量制御の正確さという点について各メーカー が抱えていた技術的陰路の打開となり、標準的なポッシュ製品の使用を前提とした各社各様の燃焼室形式の出現という些かチグハグな現象をまねいた。』(⑳P7)
 以下は㉑より引用『ディーゼルエンジンが自動車用としてようやく一般化したのは、ガソリンエンジンと類似な燃料噴射ポンプがロバートボッシュ社により完成、それを備えたベンツ280D(注;260Dの誤記?)が発売された一九三六年以降で、以後各種燃焼室の乱出は百花繚乱、覇を競ったが、ヨーロッパと全く時を同じくして日本の各社によっても、この百花が見られたことは特筆に値する。これは、陸軍によるディーゼルエンジン採用が契機である。』(㉑P31)(トラック用よりも一段と高いレベルの快適性や実用性が要求される、乗用車に対してのディーゼルエンジンの世界初搭載は1933年にシトロエンが制作したロザリエ(Rosalie)や、プジョー(1922年に試験走行に成功、1936年に量産に踏み切る(㉒P165))などのフランス勢が先行したが、初の“実用的な”ディーゼル乗用車はベンツ260D型(1936年)であると広く認知されている。もちろん、ボッシュの燃料噴射ポンプを搭載している。)
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(余談になるが(㉒=「20世紀のエンジン史」P323~P329)によれば、当時のドイツの先鋭的なエンジン技術を象徴するかのような存在であったユンカースも、ボッシュと同時期に同じようなコンセプトの燃料噴射ポンプの開発を行っており、両者はほとんど同じ構造であったという。
ユンカースのエンジンと言えば一般に、ジェット戦闘機メッサーシュミットMe262に搭載され、『世界で初めて実戦投入されたターボジェットエンジン、かつ世界で初めて実用化した軸流式ターボジェットエンジン』(wiki)であるユモ004型(Junkers Jumo 004)や、レシプロ戦闘機フォッケウルフFw190D-9やTa152に搭載されたユモ213型エンジンが有名だが、

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https://www.asisbiz.com/il2/Ta-152/152H-JG301/images/Focke-Wulf-Ta-152H1-Stab-JG301-Green-9-Willi-Reschke-WNr-150168-Germany-Apr-1945-0A.jpg
実はディーゼルエンジンでも高い技術力を誇り、特に一部のディーゼルマニアの間では、航空機用ディーゼルエンジンの開発(とその挫折)で知られているのだ(㉒に詳しい)。
この時代にすでに排気タービン過給器とインタークーラーを装備して!出力は880馬力まで高められていたユモ207A直噴ディーゼルエンジン(水冷上下対向直列6気筒12ピストン(1シリンダー内に2つの向かい合うピストンを持つ「対向エンジン」)を2基搭載し、与圧室を備えたユンカースJu 86Pは1940年夏から実戦配備された。当時の連合国軍戦闘機が飛行できなかった高度12,000m以上での作戦行動が可能で、第二次世界大戦の初期に高々度爆撃機・偵察機として成功を収めた、航空機用ディーゼルエンジンの歴史に残る機体となった(以上wikiより抜粋)。下は後継機のR型で、翼端を延長し(32m)、高高度性能も更に改善を加えて高度15,000m目指したが、試作に終わったという。その機体からはやはり、高高度偵察機らしい印象を受ける。なおエンジンも強化されていたが、一連の航空機用ユモ直噴ディーゼルエンジンは、最大出力付近の運転を続けるとトラブルも多かったようだ。また当時ドイツはレアアースも不足しており、ターボの開発にも苦労していたという。以上wiki+(web(30-3))参考)

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 日本の話に戻し、国内有力企業がディーゼルエンジンの開発に「百花繚乱、覇を競った」時代は、さまざまな形式の自社製噴射ポンプが内製された。『池貝式、新潟式、三菱成田式ポンプは1930年代前半の代表作であった。それ以降も各社各様の考案になる国内特許が取得された』((web19)P28)。 ((web19)P27)にその一覧『表- 4;「ボッシュポンプの特許をクリアしようとして取得された主な特許・実用新案」』があり、たくさんあって面倒なので書き写しませんが!興味のある方はぜひ参照してください。各社の涙ぐましい努力の跡が垣間見れます。)
 しかし、たとえば上述のユンカースのような技術開発力&それを支えるドイツのような産業基盤を持ち合わせていない当時の日本の産業界では、ディーゼルの基幹部品である燃料噴射装置の開発とその生産を、ボッシュの特許を回避しつつ行うことは、困難を極めた。『結局この内,戦後まで持ち堪えたのは三菱岡村式』((web19)P28)だけだったという。この状況は自社のディーゼルエンジンの開発にも暗い影を落とし、『自分のところの噴射装置と自分のところで設計したエンジン、どっちが悪いのかわからんような結果がずいぶんあった』(⑨P47)そうだ。(なお、ボッシュ製品をそのままコピーしなかった理由として、ライセンスの問題以上に、加工精度、耐久性(材質)等の立ち遅れの可能性があるとの指摘がある(⑳P141)ことも追記しておく。)
 しかしここで疑問が生じるが、当時高性能が知られているボッシュの燃料噴射ポンプがすでに量産され、市販されていたのだから(1930年には生産累計1万台を超え、1934年には累計10万台に達したという(⑳P261))、素直に輸入品のボッシュ製品を採用すれば良さそうなものだが、当時はそのようにいかない事情があった。軍事的な見地から、噴射系の国産技術化が求められたのだという。(⑳P15)ディーゼルエンジンの心臓部である燃料噴射システムが、海外からの輸入に頼ることを、主要な発注先であった陸軍が問題視していたようなのだ。
 それともう一点、製造者側の経済的な観点からも、ボッシュ製品の採用がためらわれる理由があった。非常に高価だったのだ。『ボッシュポンプの価格は非常に高くトラック1台のそれにほぼ匹敵する1台約1800円にも達したというから、いくら頑張って国産ディーゼル車輛を作っても輸入ポンプの値段によって国産化の旨味も何も無くなってしまうわけである。』(⑳P261)
(ちなみに年代によっても変わるが、(④P157)の、「普通車の価格現況(1935年)」という表によると、当時のトラック・シャシーの価格はフォード/シヴォレー(1~1.5t積)が3,230/3.275円、ダッジ(1.5~2t積)4,330円、いすゞTX40(2t積)5,800円、軍用保護六輪車が8,000円と記されている。トラック1台分というほどではないが、ダットサン(1935年当時、概ね1,800円ぐらい)が買える金額だ。)ここまで高価な製品を大量に輸入する事態ともなれば、貿易収支の悪化を招く点からも問題になっただろう。
 しかし、いくら頑張って類似の国産品を作ってみてもボッシュ製品の性能に到底追いつけなかった。この状況を打破するため陸軍も国産品の開発を見切り、ボッシュ式燃料噴射システムのライセンス導入に動くのである。
1937年に「日独伊三国防共協定」が結ばれ、日独の関係が強化される流れの中にあり、ドイツ製のボッシュの採用については「国防上の理由」という障害は薄れた。交渉にあたった東京自動車工業にボッシュ側が提示した2つ条件のうちの1つは、「ヒトラー総統の許可が下りること」だったという。陸軍による強力なバックアップを前提とした話だったのだ。こうして1939年、日独両国政府の承認の下、「ヂーゼル機器株式会社」が誕生することとなる(より細かくは、後の16.5-6項に記す)。

16.5-2-3ザウラー複渦流直噴式エンジンの導入
 話を戻す。三菱が主契約となりその開発と生産を担った、八九式中戦車の後継である、九七式中戦車の開発が具体的な計画として動き出したのは、1936年7月だった。16.5-2-1の、自社開発の三菱直噴ディーゼルの項で見てきたように、戦車の引き合いは大型案件で、三菱は十分な予備研究を行いつつ、その受注のため必勝態勢で臨んだ。まず九七式中戦車の開発経緯について、手抜きでwikiからの引用で記す。
『新型中戦車の開発に当たっては速度性能、車体溶接の検討、~防御性能の向上が求められたが、当時の道路状況、架橋資材その他の状況から車両重量増が最大のネックとなった。重量増を忍び性能の充実を求める声と、防御・速度性能を忍んでも重量の逓減を優先する意見の双方があり、双方のコンセプトに沿った車両を試作し比較試験することとなった。陸軍技術本部は、前者を甲案(後のチハ車。予定重量13.5トン)、後者を乙案(後のチニ車、予定重量10トン)として設計を開始した。』
 両案の違いを『ひと言で表わせば、第一案は八九式中戦車の発展型、第二案は九五式軽戦車の強化型となろう。』(⑧P140)しかし事前に意見調整ができず、両案の競争試作にもつれ込む事態に至ったのだ。こうして重量型の(チハ車)を三菱重工業が、軽量型の(チニ車)は大阪砲兵工廠が試作する。下表は、両案の概要について、(⑧P140)の表を転記させていただいた。
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 この表を見れば両案の性能差は明らかだが、限られた予算内であれば、軽戦車の方が数量を多くそろえることができるし(たとえば八九式中戦車は8万円で九五式戦車は5万円だった)、当時の諸外国の戦車の性能(1936年のソ連の歩兵戦車T26や初期のドイツの3号戦車、1937年のアメリカ陸軍のM1戦車)と比べても、第二案でも「歩兵戦車」という視点で見れば、カタログスペックで見る限り、この時点では劣っていたわけではなかった。(⑧P141参考)。ちなみに第二案を編成動員課である参謀本部が、第一案を軍務局軍事課がそれぞれ支持した。後に独ソの戦いなどを契機に戦車が大型化するのは、第二次世界大戦中のことであったのだ。)
そしてこの決着は、1937年の日華事件勃発とその拡大により決着を見る。「臨時軍事費特別会計法」(「第二次世界大戦以前の日本において行われていた特別会計の1つで、戦争における大日本帝国陸軍及び大日本帝国海軍の作戦行動に必要な経費を一般会計から切り離して、戦争の始期から終期までを1会計年度とみなして処理された。」wikiより)の公布により、『資材整備のために予算を流用したために、議論の前提となっていた予算の制約がなくなり、第一案の戦車を量産することが可能となった』(⑧P144)のだ。
 この結末は三菱にとっては一見、万々歳の結果であったようにみえるが、まだそうとも言い切れなかった。実は第一案(チハ車)は『2両試作されており、一方は三菱サウラー複渦流直噴機関搭載車、他方は池貝の渦流蓄熱式機関搭載車であった』のだ。(⑳P147)車体側は決着したが、エンジン側は台上及び実車試験による決着に持ち越されることになった。
 こうして陸軍主導による重量級車輛のディーゼル化政策のなかで、その技術及び生産体制の統制化を巡る第一段階の幕が、切って落とされた。以下(②P15)より引用
『九七式中戦車のディーゼルエンジンを巡る池貝自動車製造と三菱重工業業との対立、統制型五ℓ、八ℓのディーゼルエンジンを巡るいすゞ自動車(ヂーゼル自動車工業)と三菱重工業業との競争開発とその指定争いは国産自動車工業の成立とその発展を左右するほどのものとなる。』次項で、九七式中戦車搭載のエンジンを巡っての、池貝との戦いを制するための決定打として採用された、三菱によるザウラー複渦流直噴式エンジンの導入の経緯について記す。

16.5-2-4採用なったが、問題も多かった三菱ザウラーエンジン
『昭和10年(1935年)の秋、A640ADの設計に取り掛かった頃であったが、山下奉文将軍を長とする訪欧ミッションが組織され、主としてドイツに滞在して調査した。ミッションの主目的は「ソビエト陸軍の戦車の数量、配備に対して、我陸軍は如何に対処するか」であった。』(⑮P84)具体的には八九式中戦車の後継を如何にすべきかが、この調査団の重要なテーマで、陸軍の戦車のエキスパートであった、原乙未生が同行したのはもちろんだが、三菱からも「三菱・直接噴射式」開発の中心人物であった潮田勢吉も同行した。実務的には原と潮田が主となり、調査・研究を行っただろうことは想像に難くない。
そして『潮田はミッションの現地解散後、欧州各国における高速ディーゼル・エンジンの調査をしたが、特に技術的に進んでいると見られていたスイスのアルボンにあるサウラー社を訪問、帰朝後その結果を本店渋谷常務に報告した。』(⑮P84)
 ザウラーの「複渦流直噴式エンジン」は『当時、世界最高と評判をとっていたもの』(⑨P80)で、陸軍は次期主力戦車に「世界最高」の高速ディーゼルエンジンを搭載したかっただろうし、三菱も戦車受注に必勝態勢で挑みたかったのだ。以下も(⑮P83)より
『昭和11年(1936年)三月、見本エンジンを輸入して研究することとなった。最初に見本として選ばれたのは、ドイツからのヘンシェル(空気室式)とベンツ(予燃焼室式)、スイスからサウラーのCRD(直接噴射式)の三基であった。さらに同年七月にはドイツのマギルス製のディーゼル・トラック・シャシ(エンジンは予燃焼室式)を購入して研究した。これ等欧州からの輸入の見本エンジンの比較調査の結果、特に我々が興味を持ったのはサウラーであった。』以下はザウラー「複渦流直噴式エンジン」の特徴を、(⑮、P83)より引用。
『その燃焼室はピストンの頂部に設けられ、断面は尖端の切れた逆ハート型で、その形と二個の吸気弁につけたシュラウドとで、自転しながら公転する的な渦流を起こす、所謂、複渦流方式の直接噴射式であった。~ 全体的に、我々にとって、以って範となすに足る設計であったので、引き続き、CRD(シリンダ径105ミリ)より更にシリンダ径の小さいCCD(85ミリ)も入手して研究を続行した。CCDの特徴はシリンダ径の小さいことから、当時としては、破格的と考えられていた最高回転数3,000回転毎分まで運転できることであった。~ 勿論、CRD、CCD共に性能は抜群であった。』その精緻なエンジンは、三菱のエンジニアたちを魅了したようだ。
 こうして他社製エンジンとの比較検討を行なったうえで、三菱はザウラーの「複渦流直噴式エンジン」の技術導入の断をくだす。それは同時に、自社開発品であった「三菱直噴エンジン」にいったん見切りをつけたことでもあった。(ただし同シリーズのエンジンは、後に新設された川崎工場で、陸軍上陸用舟艇用水冷機関として継続生産された(⑳P148)。)
 1937年、設計主任大井上博他をザウラー社に派遣し、技術提携と、ライセンス生産の契約を締結する(1937年7月)。1937年3月には下丸子工場を着工していたので、戦車用とともに、将来ザウラー製エンジンを搭載したディーゼルエンジンのトラックを量産することも見越しての決断だっただろう。こうして三菱内部では『大筋としては、省営バスには神戸流エンジンで、陸軍向及び満州向にはサウラー式トラック及びバスで、ということで新設の丸子工場の設備その他が考えられた。』(⑮P85)主流はザウラー式へと大きくシフトしたのだ。九七式中戦車の試作車両が三菱の工場で完成したのは、1937年6月だった。
 さて本題である、三菱ザウラーエンジン×池貝の「渦流蓄熱式」エンジン対決の結末について、そのジャッジを行った陸軍の原自身の言葉を記す。以下(③P89)より、
『この両方(注;三菱と池貝)のエンジンができあがって、ベンチ試験の結果はともに良好で、次いで97式戦車に搭載して試験をした結果もよかったのであります。』どうやら出力自体は、池貝の方が上回っていたとの情報もある。引用を続ける。『ところが、東京から大阪までの長距離運行試験を行ったときに、両方のエンジンの機能の差が現れました。
 池貝のエンジンは非常に煙が出るのであります。それは不完全燃焼の煙ではなく、モービル・オイルが燃える煙なのです。大阪に着くまで車の上からモービル油を補充しながら運行するありさまで、大量のモービルを消費しました。そのようなことで、池貝の今井さんは、もっと研究する必要のあることを認められて、差し当り三菱のサウラー式エンジンを採用することになったのであります。』

 池貝のエンジンは激しいオイル上がりを生じ、潤滑油を過度に浪費すると判断されて、三菱のザウラー式に軍配が上がったのだが、『このトラブルはスカート・リングの使用をもって回避し得る性質のものだったとも言われているが、~日華事変勃発という情勢が陸軍にも池貝にも手直しのいとまを与えなかったわけである。』(⑳P151)時局はそれだけ切迫していたのだ。
 なお主力戦車用エンジンという、大型商談に敗れた池貝はしかし、陸軍から別の発注(九七式軽装甲車用空冷ディーゼルエンジン)を得て、しっかりとフォローを受けていた。
 さて、この三菱サウラー複渦流直噴式エンジン(SA12200VD型;空冷V12-120×160、170㏋/2000rpm)の実際の実力はどうだったのか。端的に言えば、以下(⑨P101)より引用。
『噴射系がデリケートで調整が難しく、その耐久性にも欠ける嫌いがあった。動力性能においても公称200PSの筈が、実力は170PS程度に止まり、しかも、白煙、黒煙が甚だしいという問題を抱えていた。』
wikiによればさらに、『耐久性を考慮した場合の出力は、140馬力に制限された』という。噴射系のトラブル等(例えばザウラー式は噴射圧が高く、長時間使用するとタイマー、そのほかの伝導装置に摩耗を生じて、噴射時期が遅れ、著しく出力低下をきたすという((web22)P67))ため、結局最大出力を抑えるという方法を取らざるを得なかったようだ。(web32)
 黒煙の問題は当時としては決定的ともいえる、深刻な事態を引き起こす。『ある年の観兵式で戦車行進の折、黒煙を吐くチハ車(注;九七式中戦車)をご覧になった天皇陛下から「あれはなんだ」とのお言葉があり、』(⑳P349)その対策で上を下への大騒ぎになったという。
 当然のことながら大問題となり、『結局、いすゞのエンジンを使えということになったという、』((web22)P74)また聞きのまた聞きの話と断ってはいるが、こうなってしまうと、いかに大三菱の力をもってしても、取り返しのつかない大きな壁になったと思われる。
 さらにエンジン音も爆音と言えるほどのもので(web32)、乗用車ではないとはいえ、戦車でも作戦上、爆音は困りものだっただろう。また寒冷時の始動性にも問題があったという。(⑳P349)その上複雑な分、価格も高かったという(⑳P349、wiki)。整備性の面でも、
『チェンブロックや他車の動力を用いたエンジン釣出しが頻々と行われたのも車載状態での整備性が悪かったからに他ならない。又、ローラータペットを用いた4弁式というのも、こなれた技術とは言えない。そして何よりも直噴方式自体が未完成の技術であった。』(⑨P101)戦場の兵卒には使いこなせない技術だった。他にも軽合金を多用するなど特殊な造りとなっていた(⑳P336)。ガスケットはドイツのラインツ社製のもので、国産化に努めたが成功しなかったなどの問題もあったようだ。(⑮P86)、(⑨P102) (下図は、論文『デコンプとその使用法について』坂上茂樹のP9、図5 より、「三菱Saurer複過流直噴 SA12200VD型機関」(docsplayer.net 経済学雑誌117巻4号.ren - PDF 無料ダウンロードより、)
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https://docsplayer.net/docs-images/88/114576963/images/9-0.jpg
 さらにこのエンジンは、三菱以外に日立でも製造されたが、『制作されたエンジンは細部の仕様・部品が異なるという事態が生じた。また異なる燃料噴射装置(三菱製エンジンは三菱製かボッシュ製、日立製エンジンは日立製の燃料噴射装置を使用)が取り付けられていると互換性は無く、損傷戦車の使えるパーツをつなぎ合わせての再生が望めない。これらは補給、補充が不足がちな日本軍にとって大きな問題になった。』(wiki)
不具合リストは続くがあとは省略する。これらの多くは次項の「統制型一〇〇式エンジン」としてモジュラー生産される際の貴重な教訓となった。『当時、世界最高と評判をとっていた』エンジンだったが、当時の日本は高度な工業製品を支える土台の部分が脆弱で、ザウラーのように正式なライセンス生産品でも劣化品しか作れなかったようだ。(次項の、工作機械の箇所を参考)
 これに対して東京自動車工業の設備で生産することを前提として開発された、『伊藤(注;東京自動車工業技師、伊藤正男設計)の予燃焼室式エンジンは若干、燃費に劣る点はあるものの、騒音が低い割に出力が高く、機械的信頼性に富み、作り易く、修理し易い構造を特徴としていた。排気色が薄いことも長所の一つであった。噴射系の寿命も直噴式より長かった。その上、直噴式と異なり予燃焼室式エンジンは粗悪な燃料にもよく耐えた。』(⑨P102)性能は燃費以外、すべてにまさっていた。両エンジンのこれらの優劣点は、戦車用、自動車用などの用途に限らず共通していただろうことはもちろんだ。
(下はブログ「重整備の詳細 & Technical waste」さんhttps://minkara.carview.co.jp/userid/339422/blog/44325715/ からコピーさせていただいた「統制型一〇〇式発動機」の写真で、V12なのでたぶん、三菱ザウラーの後継機として、東京自動車工業の予燃焼式燃焼室と技術共有を図った「統制型一〇〇式 三菱AC」と思われる。)
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 こうして陸軍は、次期主力戦車用エンジンとして、性能重視で選んだつもりが、製造上の難易度が高いため、日本で製造すると所期の性能が得られず、扱いがデリケートなザウラー直噴式から、よりシンプルな構造ながら性能で勝るうえに、粗悪な燃料等タフな環境にも耐える統制型予燃焼式の採用へと傾いていく。以下は三菱関係者の証言だ。
『戦時中、特に戦車、車両も、燃料事情、取扱い性、整備性を考え、燃費の犠牲はあったものの、当時としては信頼性の高い予室式へと大勢は傾いていたわけです。』((web28)P292) 
陸軍、原乙未生の話に戻す。
『サウラー式エンジンはよかったのでありますが、その後三菱は自発的に新しいエンジンを開発しました。このエンジンをサウラー式と置き換えて、主力戦車のメインエンジンになったのであります。』あくまで三菱側から“自発的行動だったと、穏やかな口調で語っているが、陸軍側の政策に従い、後に15.5-4項で記す、100式統制発動機(ザウラー式とまったく同一排気量の空冷V12エンジン)への置き換えを行った結果、出力は170㏋/1800rpmから240㏋/2000rpmへと向上し、なお余裕があったという。(⑨P102)
 ここで「三菱サウラー複渦流直噴式エンジン」について、まとめておきたいが、まず大枠としてみれば、『旧日本陸軍が世界に先駆けて機甲車両の全面ディーゼル化方針を打ち出し、三菱、池貝等各社がこれに向かって邁進した姿勢そのものは高く評価されねばならない』(⑳P157)。
 しかし、ザウラー式に関して言えば、高い理想を掲げてはみたものの、現実的な視点から見ると、『まるで航空機発動機のような』(⑨P101)、精緻でデリケートなこの直噴エンジンは、当時の日本の工業界全般の技術水準では受け入れ難いものだったようだ。さらに燃料事情の悪化も直噴エンジンには逆風となった。以下はwikiより、『戦況により十分な試験研究がなされないまま制式化され、信頼性を十分に持たせることができなかった。』
 まとめの最後(〆)として、戦後、三菱自工のトラック・バス技術センター所長を務めた(1981~1985年)山田剛仁が、JSAEインタビューの中で、8ℓ級統制型エンジンのベースエンジンの一つとなった自社製のY6100AD(予燃焼室型8.55ℓ)の発展形として昭和24年(1949年)に後誕生したDB型エンジンが、昭和41年(1966年)までの17年間、同一排気量のままでその出力を100㏋から220㏋(ただし過給機付き)まで向上させながら、三菱ふそうの大型トラック・バスの主力エンジンの座を守り通したと語ったのち、以下のように率直に語っている。
『戦後のディーゼルは専ら予室式からスタートでありました。これは戦時中の直噴式の苦い経験と、当時の燃料の質からみて当然の方向であったと思いますし、また、比較的高度な精密さと、デリケートな調整を必要とする直噴式が活躍できる土壌もまだ形成されていなかったためだと思います。』((web28)P291)戦前に大きな教訓を得て、戦後のエンジン開発に活かせたのだ。
(下の写真は、『わが国最初の2軸大型キャブオーバー型として登場したのが8t積のT380型で、ボンネットT330型をベースにして1959年9月から生産開始、荷台長は1000mmも長い6000mmになった。』(㉓P120) 1938年に誕生したY6100AD型100㏋エンジンに端を発するDB31A型エンジンを搭載し、Y6100と同一排気量の予燃焼室式8,550ccエンジンだったが、戦後の絶え間ぬ改良によりこの当時、165㏋を発していた。画像はhttps://twitter.com/bananu73/status/1393146303345881088よりコピーさせて頂いた。)
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 さてようやく残る話題はあと2つ、「統制型エンジン」と「ヂーゼル機器」、「日本デイゼル」誕生の経緯を記すだけとなったが、その前に、黎明期の日本の中/高速ディーゼルエンジン界で名を馳せた、池貝鉄工についても、ここで簡単に触れておきたい。

16.5-2-5池貝鉄工所をはじめ、黎明期の国産高速ディーゼルについて
 この項は(web(19)、⑳、③及び(web(23))などからの引用で記すが、③を除けばいずれも山岡茂樹による著作で、山岡氏の一連の著作は、今回の記事を記すうえでもっとも多くを頼りました。この場を借りて改めて感謝するとともに、当然のことながらオリジナル版の方が正確な情報なので、ぜひそちらを(特に⑳=「日本のディーゼル自動車」を)参照してください。また(web(19)と⑳の内容は重複する(前者が簡略版)が、この記事の読者の方々の利便性を考えて、本(⑳)よりも簡単に閲覧できるweb情報を優先して引用した。
 まず(web(19)のP28~P30の内容を基に作成した下の簡単な表をご覧いただきたいが、1930年代という日本の高速ディーゼルエンジンの黎明期に、この業界に参入しエンジン開発に取り組んだ主な企業の一覧表だ。厳密にいえばたとえば瓦斯電も兵器企業としての性格を持つなど、単純には線引き出来ない部分もあるが、概略なものだと理解いただきたい。それぞれの燃焼室の形式は、(⑰P88)から引用した。また久保田鉄工所や山岡発動機(ヤンマー)、発動機製造(ダイハツ)など、主に三菱のライセンス生産に従事した企業は除いてあるが、『様々なルーツを有するメーカー群が様々な領域における練成を経た後,ついに木格的な自動車用・車輛用高速ディーゼル機関の領域に到逹するという発展経路を示していた』((web(19)P30)ことがわかる。
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 この表中の企業のうち、三菱系や、東京自動車系は別に記すので、それ以外だと戦後の日本のディーゼル自動車における影響度合いからすれば、日産ディーゼル(後のUDトラックス)の前身にあたる日本デイゼル工業が最も重要だが、同社については後の、ヂーゼル機器設立の項に関連して(167.5-7項)で記すことになるので、それ以外の企業の活動については大幅に省略して、代表して池貝鉄工(後に池貝自動車)の1社のみ、記すこととする。
 その理由として、後に東京自動車工業が台頭する以前には、池貝が三菱、新潟鉄工所とともに、「日本の高速ディーゼルの先行3社」という、重要な位置を占めていた事とともに、(web19)による見解では、小型・中/高速ディーゼルへと至る日本企業の技術的な変遷は、池貝鉄工の活動の軌跡を辿ることで、その多くが把握できるようなのだ。以下も((web19)P19)より、
『小形ディーゼルには固有の困難があり出現も遅い事、大形・中形機関技術から小形高速ディーゼルヘの途とガソリン機関技術からの参入、という2大参入経路があった事、無気噴射技術の確立が極めて重要であった事、これら全てを一企業史の中に凝縮させている例として池貝鉄工所(以下池貝)発動機部の歩みに勝る索材はなく、しかも、それによって又世界的な技術の流れとの比較も可能になるのである。』
 以下、自分が拙い説明文を記していくよりも、山岡氏の((web19)P21)から書き写した、池貝鉄工発動機部(後の池貝自動車)の歴史を綴った表(一部省略しているのでその簡略版だが)をご覧いただいた方が、理解が早いだろう。この表をご覧いただいたうえで、引き続き、主に(web19)からの次の引用文をお読みください。
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 池貝鉄工所(現在は「株式会社 池貝」。1970年代以降、数度の経営不振、再建、中華人民共和国の上海電気集団総公司の傘下を経て現在は台湾の友嘉実業集団傘下の非上場会社となった。)は、明治時代に日本の工作機械の父と言われた池貝庄太郎によって設立された老舗企業だ。国産初の旋盤、ディーゼルエンジン量産、最初期のNC加工工作機械製造など、日本近代製造業の歴史に名を刻む企業でもある。(以上wikiより)
(下は池貝のHPより「国産 旋盤 1号機」で、「機械遺産第53号」として国立科学博物館に展示されているようだ。また第一次大戦中に、池貝式8フィート旋盤5台をイギリスに、次いでロシア向け8フィート旋盤75台を輸出したが、これが日本の工作機械の初輸出だったという。(web35)
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(またまた脱線するが、今回池貝についてnetで検索したなかで、以下のような記事に出くわした。(web(30-4))、(web33)によると、1938年満州国政府は、池貝鉄工所の現地子会社、「満州機械工業会社」に同国の工作機械工業を一元的に統制させることにしたという。池貝鉄工所の工作機械技術を利用して、本土に比べて遅れていた機械工業の底上げを狙ったもののようだが、満州の工作機械製作を事実上池貝鉄工所が独占するものこととなり、満州重工業の重工業独占と共に注目を集めたという。当時の池貝鉄工所の存在の大きさがうかがえる。下の写真は(web33)からのコピーです。)
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 しかしその一方で、戦前の日本の機械工業の大きなネックは、素材の品質と、国産工作機械の性能の低さだったと、多くの本で記されている。1940年、ABCD包囲網によりアメリカが工作機械の対日輸出許可制(事実上の禁止)を通告したため、日本は性能で大きく劣る国産工作機械のみで軍需産業を支え、太平洋戦争を戦う事態に陥ってしまう。以下((web30);「戦前のエンジン技術」)より引用
『日本のエンジンは、同一部品の大量生産品ではなくて製造工作機の精度が無いのでピストンなど高温高圧を封じ込めながら稼動する部分は、一ピストンずつ熟練工員がやすりで少しずつ削って合わせる手作業で作られていました。国産機械の摺動面磨耗は米国製品の十数倍で、わずか1,2ヶ月で精度が急速に低下した。精密な歯車などは米国製の輸入機械でしか作れずドリルなども外国制ドリルが楽々と開ける穴を和製ドリルでは数倍の時間がかかり次々に折損した(奥村正二、月間紙「バウンダリー」連載(専門は技術史)旋盤などの簡単なものは国産できたが、歯切板、フライス板などの高級工作機械は模倣すらできなかった』という。 以下(web34)より引用
『昭和11年(1936年)豊田自動車を訪問した寺内陸軍大臣と豊田喜一郎のこの会話は当時の政治家が如何に工作機械に対する見識がなかったかのエピソードとして未だに語り草になっている』という。
・陸軍大臣:「将来自動車はいくらでも要るからドンドン作ってもらいたい」
・豊田:「現在、私の工場でもいくらでも作りたいと思っておりますが、自動車を作る工作機械の大部分外国から輸入しております。外国から輸入出来なくなりましたら自動車を増産するにも出来ませんから、自動車や飛行機を保護奨励するより工作機械を保護奨励して頂きたい」
・陸軍大臣:「そんなものなら早く作ったらよいではないか」』

対する日産の鮎川義介がアドルフ・ヒトラーに面会した際に(1940年3月)、ヒトラーから『貴方の国が如何に努めてみても、我がドイツのような工作機械は作れないだろう。~』(web(30-5))と言われたという。
(自動車会社が製造ラインを立ち上げようとしたとき、歯車を外注でもしない限り設備としてなくてはならないのが、アメリカのグリーソン社(Gleason Corporation)の歯車加工設備だ。ドイツにもクリンゲルンベルグ(Klingelnberg)という有名メーカーがあるが、仮に歯車製造を外注しても、受入検査用に歯車試験機ぐらいは必要だろう。下はwikiより、ハイポイドギヤの図だが、そもそもグリーソンが開発したもので、ハイポイドギヤ自体がグリーソン社の商標登録品だ。)
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 話を池貝のエンジン部門に戻す。自家動力用の4馬力スチームエンジンを皮切りに内燃機関分野に進出、以来『財閥系重機メーカーをさしおいて据付石油発動機、ガス機関、舶用石油機関・注水式焼玉発動機・空気噴射式ディーゼル機関・無水式焼玉機関・無気噴射式ディーゼル機関等、中速機関国産化に次々と先鞭をつけて来た。加えて同社は大正5(1916)年以来、ガソリン機関製造を契機として高速機関の分野にも地歩を固めていた。(⑳P207)
(web35)の池貝鉄工の歴史年表をみれば、池貝が日本の内燃機関の歴史において、絶えず先陣を切ってきたことがわかる。
そしてもう一点、上の表が、示している重要なことがある。以下も((web19)P19)より、
『一時期,池貝によって代表された漁船用、小形舟艇用、自動車用、車輛用等日本の中・高速ディーゼル技術が空気噴射式の採用、無気噴射式の採用、高速ディーゼルにおける渦流室式の採用等についてズルツァ、ボーラー、ドイツ、オーバーヘンスリーなど、西欧メーカー製品の純然たる模倣によって成立した事を示す。』
 無気噴射式ディーゼルエンジンの開発の頃までは、正式な技術導入を伴わない、海外先進国の有力な製品に強く影響を受けた(≒模倣品)ものだったようだ。(もう一方の代表格である、新潟鉄工所は中速ディーゼルに関しては正式な技術導入を行った。((web19))
 しかしそうした長年の技術の蓄積があり、陸/海軍などから依頼を受けた高速ディーゼルエンジンの研究の過程で、次第に池貝独自の技術が編み出されていく。その開発を主導したのは、海軍で舶用ディーゼルの研究を行った後に、池貝に転じた今井武雄らによってであった。
 池貝が高速ディーゼルに手を染めるきっかけは、海軍の内火艇用石油発動機のディーゼを鉄道車両用高速ディーゼル機関であった。(③P118)そして『陸軍は,このヂィーゼルエンジンを自動車に搭載することを勧告し,その改善を命じた。』((web13)P152)
 リカルド・コメット型の渦流室式燃焼室を持つ試作エンジンの実験の中で、渦流室の容積を変えるために鉄片を挿入した結果、良好な性能が得られたことがきっかけで、焼金を備えた「池貝式渦流蓄熱式燃焼室」が誕生する。さらにはボッシュの特許を回避するために「池貝式燃料ポンプ」が考案されて、それぞれ特許を得る。(以上③P118)こうして池貝は独特の、渦流室式高速ディーゼルエンジン技術を持つに至ったのだ。
 自動車用の4気筒ディーゼルエンジンが完成すると、そのエンジンはピアース・アロー(Pierce-Arrow)の2~3t積のトラックに搭載されてテスト走行を行う。1934年だったから三菱の3年遅れということになるが、それでも2番手だ。
同年12月には『陸軍は三菱東京と池貝のディーゼル車を駆って東京-盛岡間運行試験を行っている。この時は三菱車の自家製ポンプが1回破損した。(③P118)』三菱はザウラー式導入前で、この時点では、三菱に一歩先行した印象を与える記述だ。『この結果と直接対応するわけでもなかろうが、昭和12年(1937年)、陸軍94式軽六輪トラック用制式ディーゼル機関として初の自動車用制式ディーゼルとなったのは、この4HSD10の後裔である。』(⑳P217)この件は後述する。
 国内有力企業が続々と名乗りを上げる中だったが、先行者としてノウハウの蓄積があり、アドバンテージのあったこの時期の池貝鉄工は、強豪ひしめく日本の高速ディーゼルエンジン界の最前線に立っただろうか。同年6月には『自動車部からディーゼル自動車を中心とした別会社、池貝自動車製造㈱が独立』する(⑳P337)終わってみれば短い間であったが、1937年は、池貝のディーゼルエンジンが、大きく輝いた瞬間だった。
(戦後の1951年に株式上場廃止に至った池貝自動車製造は、高度成長の到来を待つことも叶わず1952 年 12 月、小松製作所へと吸収合併された。コマツの川崎工場は、元々は池貝が1936年に、主に陸軍向けの自動車工場として建てたものだ。その時期からすれば、九七式中戦車用エンジン受注の野心も当然あったのだろう。しかしそのコマツ川崎工場自体も今はない。下の写真は「川崎工場全景空撮の歴史(1976年コマツ川崎OB会)」 http://www.komakawaobkai.sakuraweb.com/ よりコピーさせていただいた。工場の隙間を埋め尽くすかのように、黄色く見える部分が、コマツの巨大な建機だ。狭い構内をボヤボヤ歩いていると、巨大な建機の下敷きにされそうになる?!)
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 ここでもう一度、16.5項冒頭の表をご覧いただきたいが、同年(1937年)、陸軍自動車学校研究部(陸軍では戦車は原乙未生ら、陸軍省技術本部だが、自動車は陸軍技術学校が所管だった)の技師福川秀夫(後に陸軍技術大佐、戦後はJARI副理事長)は九四式軽六輪トラックのディーゼル化へ向けた水冷4気筒エンジンの試作及び供試品提出を、『当時のディーゼルメーカー全てに競争試作を呼び掛けた』(⑨P79)。陸軍の高速ディーゼルエンジンの統制化に向けた、大競争時代の幕はこの年、切って下ろされたのだ。
この呼びかけに、三菱重工業、池貝鉄工、新潟鉄工、神戸製鋼、東京自動車工業及び川崎車輛の6社が応じ、エンジンの試作に手間取り時間切れで未納に終わり敗退した東京自動車工業をはじめ、準備不足気味の他社を尻目に、先行メーカーとして機敏に対応した池貝の「蓄熱渦流式エンジン」、4HSD10XE型エンジンが選ばれる。栄えある『我国初の軍用自動車用制式ディーゼル機関となった』のだ。(⑳P212)この結果東京自動車工業は自社製のトラック用に、池貝仕様のエンジンを作らされるという屈辱を、しばらくの間、味わう羽目に陥るのだ。(下の図は((web23)P9)図7より、「池貝 4HSDD10XE ディーゼル機関」)
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(前項で記したように、九七式中戦車搭載エンジンを巡る三菱との戦いに敗れた池貝に対する救済処置として、陸軍は九七式軽装甲車(いわゆる“豆タンク”)用空冷エンジンを、単独発注する。この決定も1937年だ。『同車は他社分担分を含め、「相当数」600 両前後製造されたようであり、派生車型も少なくなかった』((web23)P26)というから池貝としても良い商売だっただろう。
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 しかし、(web23)の評者によれば、九七式系装甲車に搭載された、AHSD10XE型より一回り大きい空冷版の兄弟エンジンは、後年の研究によれば『「蓄熱式」とは形容し難いごくありきたりの渦流室を有する気筒頭と気筒胴とが一体に鋳造された如何にも苦し紛れの設計を体現する空冷ディーゼルであった。』((web23)P27)と、かなり厳しい評価だ。「池貝=“渦流蓄熱式”」というのは誤ったイメージであった?同論文から引用を続けると、池貝特許の自慢の「池貝式ポンプ」も、『~如何にもボッシュの特許回避を目的として開発されましたと言いたげなシロモノであった。然しながら、デリバリーバルブや噴射量調節用補助プランジャに切られたリードなどはボッシュ B 型そのものであり、よくこの程度で特許回避が出来た(?)ものである。』((web23)P18)さらに『噴射ポンプには Bosch B 型と池貝式とが併用された。池貝機関には池貝式ポンプというのは誤った先入主である。』((web23)P17)実際には池貝エンジンにも、自社製でなく性能や耐久性で勝る、ボッシュ製ポンプを搭載していた場合の方が多かった?
 ただこの項に掲げた二つの表が示しているとおり、池貝は日本の中/高速小型ディーゼルの世界で、絶えず先陣を切って未開の道を開いてきたが、陸軍からの大きな需要を前に新規参入してきた、資本力と技術力に勝る強力なライバル企業と対抗するために、精一杯の背伸びをした結果であったのだと理解すべきかと思う。多少、虚勢を張ったかもしれないけれども。
池谷のエンジン技術をリードした今井武雄は、戦後(1969年3月)の自工会主催の座談会で、当時の状況を振り返り、『統制エンジンになってからは、全くよくなりました。』(③P126)と、率直に語っている。(上と下の2枚の画像は「戦車のようで戦車じゃない 戦車の代わりに歩兵を助けた“豆戦車”「九四式軽装甲車」」
(https://www.excite.co.jp/news/article/Trafficnews_112447/?p=4)より、
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 池貝のエンジン部門にとって、たぶん最良の年であった1937年が終わりを告げると、16.5項の表が示すように、あっという間に東京自動車工業(いすゞ)の時代がやってくる。統制エンジンを巡る一連の戦いは同社の完勝となり、池貝自動車製の自主開発エンジンも、次第に統制型エンジンに置き換えられていき、その過程で自社の技術開発力も、徐々に失われていったようだ。同じくいすゞ系の統制型エンジンの前に完敗を喫した、後の三菱ふそうや日野自動車の技術陣のように、戦後その屈辱をバネに、逆に大きく跳ね返すような力は生まれなかった。
『戦時体制下において同社は陸軍造兵廠の管理下に置かれ、一時期三菱重工業の系列下に編入されたりもした。~こうした過程で同社は~ガソリン同車開発以来の、更にはディーゼル同車やディーゼルバスの分野でも開拓されかけていた鉄道省との関係を失う羽目に陥る。』“国鉄一家”の恨みは恐ろしいのだ。三菱も、戦後は国鉄の動車の世界から疎遠となり、新たにダイハツディーゼルなどが台頭してくる。引用を続ける。
『そして戦後、池貝自動車は極めて中途半端な境涯に取り残され、苦難の道を歩まざるを得なくなる。』(⑳P357)戦時体制下の時代の流れで、陸軍向けの軍需関連に特化していった池貝だが、そのことが裏目に出て、戦後それらの需要を一気に失ってしまう。
 その一方で、三菱、池貝とともに国産高速ディーゼルの先行3社の一角を占めていた新潟鉄工所は、そのディーゼルエンジンの『適応領域は鉄道車両分野に限定され、自動車や戦車には目立った進出を行っていない。』(⑳P127)地道な道を歩む『新潟では量産工場としての自動車工業に参入することは企業規模から見て不利と判断したようである。』(⑳P217)
 同社製の自動車用ディーゼルエンジンは、ある時点では、なかなか侮りがたい性能を示したようだ。たとえば1937年の陸軍自動車学校からのディーゼル乗用車用エンジンの競争試作は、三菱東京/神戸、新潟鉄工所、神戸製鋼、東京自動車で争われ、最終の三次テストまで勝ち残ったのは新潟と東京自動車の2社だった。結局敗退してしまうのだが(⑨P83)。しかし深入りすることはなく、『むしろ同社の高速ディーゼル機関においてはLH8X及びLH6Xを基盤とする国鉄同車用制式ディーゼル機関DMH17、DMF13への濃いつながりばかりが際立っているのである。』(⑳P218)
 戦前からの布石が生きて、国鉄一家の御用達企業の一つとなった新潟鉄工所と、孤立無援になった池谷自動車は戦後、こうして明暗を分ける結果となった。(国鉄形気動車の定番ディーゼルエンジンとなるDMH17型は1951年から製造が始まり、改良を続けながら一般形気動車から特急形気動車まで幅広く採用されたという。ちなみにその名称は、DMがディーゼルエンジン (Diesel Motor)、Hは8気筒で(アルファベットの8番目)、17は総排気量が17ℓであることを表すそうです。下の写真は千葉県の小湊線、五井駅に停車中のキハ205(1964年に製造)で、DMH17型を搭載した現役車輛だ!写真は(https://plaza.rakuten.co.jp/wasabikuma322/diary/201901230000/)より。)
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(下は新潟鉄工所が開発を主導した、DMH17C型ディーゼルエンジン(180㏋)で、まだ現役とのことだ。当時としては優れた設計だった統制式発動機系の技術は、陸軍が強く関与したからか採用されなかったが、性能はともかく、少なくとも丈夫なエンジンだったことだけは確かだったようだ。画像と文は「気動車王国千葉」を支えた DMH17 形ディーゼルエンジン」よりコピーさせていただいた。DMH17シリーズは『全国で総計1万数千台も製造され昭和 40 年代末までのほとんどの気動車に搭載された、日本を代表する鉄道用エンジンです。』http://www2.chiba-muse.or.jp/www/SCIENCE/contents/1518491068713/simple/057.pdf
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(池貝の話題の余談だが、上の表中の「焼玉エンジン」という言葉を久しぶりに目にして、もはや忘れかけていた「ポンポン船」の発する、どこか長閑なエンジン音の記憶が急に蘇ってきた。この表を書き写す作業をしなければ、あるいはもう、一生思い返すことはなかったかもしれない。
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上下2枚の写真と以下の文はhttp://toyokonakayama.web.fc2.com/tabi2.html よりコピーさせていただいた。『焼玉エンジンを知っている方は、どのくらいいるでしょうか、昭和35年位までは焼玉エンジンを搭載した船がポンポンポンと音を立てながら走って行くのうを見たことがあるでしょう。今ではもう博物館しか見る事はできないでしょう。
焼玉機関とは、ディーゼル機関と良く似ていて、シリンダー内に燃料を噴射して自己着火により燃焼させますが圧縮比を高くできないためシリンダー頭部に焼玉を入れる部屋を作り玉を入れバーナーで予熱して燃料に着火する燃焼機関です。記憶の元で思い出しながら図を書いてみました。下の図(焼玉エンジンの構造図)です。』焼玉エンジンは、「セミディーゼル」という言い方もされてきたようだ。①の赤い部分がその「焼玉」だ。

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 池貝や新潟や赤阪鐵工など上昇志向のある企業は、焼玉エンジンから早々に卒業し、ディーゼルへと移行したが、戦後の日本では全国各地に、中小の焼玉エンジンメーカーがあったようだ。下は「ジャパンアーカイブス」より、「1947年(昭和22年)、漁船用焼玉機関エンジン」の広告だ。
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 この項の最後に、誤解のないように記しておきたい。池貝自動車製造は1952 年 12 月、小松製作所へと吸収合併されてしまうが、本体の池貝鉄工所は現在、「台湾の工作機械大手の友嘉実業集団(FFG)」のグループ企業「株式会社池貝」として、「工作機械・産業機械の製造、子会社を通じてディーゼルエンジンの販売を行う機械メーカー」として健在だ。大型工作機械を得意としているようで、現在も盛んに活動を続けている。2005年に分社化された子会社の「池貝ディーゼル」は、MAN社との提携により日本でMAN社の船舶用エンジンをライセンス輸入販売、メンテナンス等を行っている。(以上、池貝のHP他より)
(下の写真はwikiより練習船「日本丸 (初代)」」(ちなみに同名の船が各種存在する)から、横浜のみなとみらいにある、「日本丸メモリアルパークで総帆展帆した日本丸」。以下の説明文は池貝のHPより、『日本丸のエンジンは、焼玉エンジンを作っていた池貝鉄工所(現 池貝)が開発の依頼を受け、池貝鉄工所の川口工場では何度も何度も試作品が作られました。やっと完成したエンジンは、日本初の舶用大型ディーゼルエンジンとなり、1984年9月まで日本丸の中で54年間にわたって活躍し、航走距離は、98万5475海里(182万5100㎞)にのぼり、世界一の稼動年数記録を打ち立てました。その稼動時間54年2月20日4時間7は、船舶用エンジンとしては世界一と認定され、1988年版ギネスブックに記録されました。』あくなき挑戦を続けた池貝の偉大な足跡を、今日に伝えている。)
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16.5-3陸軍と東京自動車工業主導による統制型ディーゼルエンジンシリーズの確立
 まずはwikiの書き写しに近いが、この項の概略を記す。
 統制型ディーゼルエンジンは、陸軍省技術本部の原乙未生(当時中佐)を中心として1930年代後半から計画され、1939年(昭和14年)~1940年(昭和15年)に車両用高速ディーゼル機関の共通仕様が陸軍省(軍需用)により、1941年(昭和16年)には商工省(民需用)により策定された。その目的は性能、生産効率の向上、ならびに部品補給の効率化を達成しつつ、併せてコストも下げることで、それまで各社各様だったエンジンの仕様を、ボア、ストローク、燃焼室形式を統一した共通のエンジン規格として制定した。(以上wiki参考)
 ここで統制型ディーゼルエンジンに集約される前の状況を確認しておく。前項で掲げた表が示すように、当時自動車用高速ディーゼルエンジンに参入した企業は錚々たる顔ぶれで、それぞれが己の信じる燃焼室等の仕様を掲げて百花繚乱の如く、覇を競っていた。三菱に至っては同じ重工内でも直噴派(航空機系)と予燃焼室派(造船系)に分かれて競い合い、自社内ですら一本化できず、陸軍の競争試作の際には両派のエンジンを参加させたほどだ!各陣営とも、自社技術の優位性を示すための、プライドをかけた戦いを繰り広げていたのだ。
 先に16.3-6項で記したように、商工省と陸軍省は、国内ディーゼルエンジン業界の事情聴取を、8社(東京自動車工業、三菱重工、池貝自動車、神戸製鋼所、新潟鐵工所、久保田鉄工所、川崎車輛、日立製作所)に対して行ったが、そのうちの東京自動車、三菱、池貝、川崎、日立の5社がそれぞれ単独で、本格的なディーゼルエンジンの量産化に乗り出す姿勢を示していた。『技術統合に対する障害=高速ディーゼル各社が負けず劣らず有していた自己技術過信癖に抜本的な改革のナタを揮える者は当時陸軍をおいて他に無かった』(⑳P254)のは確かだが、陸軍はかかる状況下で、具体的にはどのような過程を経て、統制エンジンによる一本化まで辿り着いたのか。

 各社の基礎技術を磨く重要な役割を果たした、分散発注時代を経たのち、技術本部の原乙未生と自動車学校の福川秀夫を中心とする陸軍側は、そのエンジンの選定の際に、国内の(ほぼ)すべてのメーカーに陸軍の欲する仕様書を提示して、参加を希望するメーカー側に要求仕様に従った設計図と開発仕様書の提出を求めた。このうち燃焼室の形式等は指定せず、各社技術陣のプライドを尊重したうえで、その技術を同じ土俵の上で競わせた。陸軍側は内容を精査の上で承認図として認め、このうちの数社に実機を試作させ、優秀なエンジンを制式のものとして採用し、量産化させた。(②P15参考)
 4回にも及んだ試作競争時代の、その優劣を決める実機試験は、台上試験以外にも運行試験や寒地試験、代替燃料試験などが行われ、このうち運行試験は各社公開の下で行なわれたという。以下(⑮;「ふそうの歩み」P82)より、
『自動車学校の試作は、殆ど毎年、仕様が変わって発注されたが、その優劣判定はエンジン単独の台上試験もさることながら、路上運行試験の成績も大きな要素であった。それにはメーカーからも参加が許され、設計、現場双方から出張して故障にも備え、他社の様子も見るという具合であった。運行試験立会の際には各社別の乗用車を連ねて試験車の後を行列して追って行き、どの会社のエンジンは故障したとか、どこそこの登坂では何社のエンジンの排気が一番淡かったとか、濃かったのはどこであった等と話し合ったものである。当時この様な場合、よく顔を合わせたのがいすゞの前社長の荒牧寅雄氏、新潟コンバータの現相談役松本国男氏、池貝の宮田氏等であった。』この文面からもうかがえるが、その選定は、かなりオープンかつ公正に行われ、そのため各社とも、その結果には納得せざるを得なかったのだろう。以下は(⑳P254)より、
『そこへ到達するまでには技術導入の促進や競争試作指示を通じた階梯が慎重に設けられた。とりわけ競争の機会を十分に発動させ、そこから統制へと導いた過程は陸軍統制発動機が有する歴史的意義を一身に担うもの、と言えよう。』

 しかし陸軍がいくら、統制型ディーゼルエンジンの全体図を巧妙に描いても、受け手であるメーカー側が、その構想に相応しい性能のエンジンを作らねば、“絵に描いた餅”に終わってしまった。次から記す、東京自動車工業の優れたエンジンが誕生して初めて、その歴史的な評価を得られたのだ。下の表と、以下の解説も手抜きでwikiからの転記です。
『統制型ディーゼルエンジンは、4サイクル機関であり、基本的にはボア(内径)、ストローク(行径)、燃焼室形式を統一した一種のモジュラー構造を想定していた。軍用として直列4気筒・直列6気筒・直列8気筒とV型8気筒・V型12気筒のエンジンが製造されて、戦車などに搭載された。また主に民需用として単気筒・直列2気筒・直列4気筒・直列6気筒・直列8気筒の水冷エンジンも製造された。後に海軍の特殊潜航艇「海龍」の搭載機関としても使用された。
空冷・水冷の両バージョンがあり、戦車や装甲車両用としてはシロッコファン冷却による空冷式が、また牽引車や自動車用、民需用としては水冷式が一般に用いられた。統制型一〇〇式エンジンは、標準規格では6気筒で120馬力、12気筒で240馬力を発揮した。統制型一〇〇式エンジンに過給器を装備した試製エンジンは6気筒では150馬力、12気筒では300馬力を発揮した。過給器を装着することで約15~25%出力を向上させることが可能であり、各種試作されている。』

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Wikiの引用を続ける。『統制型ディーゼルエンジンの基となったのは自動車工業(1937年(昭和12年)に東京自動車工業、1941年(昭和16年)にヂーゼル自動車工業に改名。後のいすゞ自動車、日野重工業の前身)で伊藤正男らによって開発された予燃焼室式を採用したDA40型水冷6気筒ディーゼルエンジン、DD6型水冷6気筒ディーゼルエンジン、及び予燃焼室式のDA6型空冷6気筒ディーゼルエンジン、DA10型空冷6気筒ディーゼルエンジンなどである。特にDA40型は排気量5,100cc、出力85馬力と当時のディーゼルエンジンの中では優秀な性能であった。これらのエンジンをベースに開発された統制型ディーゼルエンジンの技術が各社に開示されることとなり、東京自動車工業、三菱重工業、池貝自動車、日立製作所、新潟鉄工所、興亜重工業、昭和内燃機、羽田精機などの企業が生産を担当した。』(以上wiki)
 自動車用は“本家”の東京自動車工業(ヂーゼル自動車工業)のみが製作することになったが、戦車用、牽引車用等その他の用途のエンジンは東京自工の伊藤正男の図面を基に各社が共同で図面を作成し、製造を行った。
 以下からは、ディーゼルエンジンに関しては後発組でありながらも、技術的に大躍進を遂げて、統制型ディーゼルエンジンのいわば、基盤技術を創り上げるに至った、東京自動車工業による戦前のディーゼルエンジンの開発の歴史を簡単に辿っていきたい。
(下はDA40型ディーゼルエンジン。画像はJSAEより。戦後も連綿と改良を加えながらも、復興期の日本の物流を、文字通りエンジン役として縁の下で支え続けた。戦前の日本の自動車技術を代表する名エンジンだったと思う。以下もJSAE日本の自動車技術330選(web39)より、『商工省からも統制型に指定され、軍用のみならず民需のトラック、バス用として戦中戦時期に日本を代表する量産型ディーゼルエンジンとなり、戦後も永らく輸送革新の主力として活躍し、排気量増、改良を繰り返し半世紀近い賞品寿命を保った。・いすゞディーゼルエンジンの源である。』いすゞの、というよりも、日本の高速ディーゼルエンジンの源でもあった。)
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https://www.jsae.or.jp/autotech/photos/10-2-1.jpg

16.5-3.1「ディーゼル機関研究委員会」の発足
 下表は「日本のディーゼル自動車」(引用⑳)のP279から転記(一部省略)したもので、自動車工業株式会社(何度も記したが石川島とダットの合併会社で実質的には石川島系。後に瓦斯電と合併して東京自動車工業、ヂーゼル自動車工業へとつながる)の技術陣によって開発され、統制型エンジンへと至る、主なディーゼルエンジンの系統図だ。以下からは大筋、この表に沿って説明していくが、その内容は(web22)、⑨と⑳の大幅な簡略版に過ぎないので、正確にはぜひそちらをご覧ください。
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 まずディーゼルエンジンの開発が本格スタートした、1934年頃の「自動車工業」(念のため、社名です)の、立ち位置を確認しておくと、いずれ瓦斯電と一体になるという大前提があったが、商工省と陸軍から唯一の国策の重量級トラックメーカーとして、いわばお墨付きをもらいつつあるところだった。しかしその一方で、陸軍が、重量車のディーゼル化を推し進めようとし始めていた中で、同社はこれまで、ディーゼルエンジンの研究に取り組んだことがなかった。
 そんな中で、国産高速ディーゼルエンジンの技術の底上げのため、『陸軍技術本部は幾つかのメーカーに各社が取り組み易いよう使用目的、サイズの異なる別個のテーマを与え、開発を即そうとしていた。』(⑨P59)
 既述のように中戦車では三菱重工業と池貝鉄工所、牽引車では瓦斯電(13t)、新潟鉄工所(8t)に対して開発目標を与える。そして自動車工業に対しては、『5t牽引車用空冷ディーゼルエンジンの開発という目標を提示する。』(⑨P58)
 上記のメーカーのうち、三菱と池貝、新潟の3社は、何度も記したが高速ディーゼルエンジン分野の国内先行メーカーで、瓦斯電も既に経験を積んでいた(⑯P31によれば、本格的に研究を開始したのが1930年ごろ、1933年にリカルド・コメット式渦流室式100㏋ディーゼルエンジンを完成させたとある)。さらに先行3社に加えて日立製作所、川崎車輛、神戸製鋼所などの有力企業が、自動車工業がガソリンエンジン車で築いた既得権益を、自らのディーゼル技術をもって打ち破るべく、その参入の機会を虎視眈々と窺っていたのだ。
 そのため陸軍からの5t牽引車の引き合いは、自動車工業としては『これはディーゼルに関しては後発の同社にすれば絶対に逃してはならない最初で最後の機会であった。』(⑳P227)国策のトラックメーカーとしてのお墨付きは、ガソリンエンジンのトラックに対してであって、ディーゼルに対してはこの段階では、何らの保証もなかったのだ。
 1933年(昭和8年)5月、自動車工業は、5t牽引車用空冷ディーゼルエンジン開発に向けての第一歩として、ベンツ(OM67型6-110×130、95㏋/2000rpm、予燃焼室式)、MAN(DO540型6-105×140、65㏋/1800rpm、空気室式)、ドルマン・リカルド(4JUR型4-102×130、85㏋/2000rpm、渦流室式)の3台のサンプル用エンジンを購入、ディーゼルエンジンのテストを開始し、翌1934年8月、台上及び分解試験を完了する。同年7月以降には、クルップ(M601型、空冷水平対向4-90×130、予燃焼室式)、オーベルヘンスリー(型式不詳4-90×130、蓄熱渦流室式)の試験も追加される。
 ここで注目すべきは、5台のサンプルエンジンのなかに、直噴型エンジンが1台も含まれていない点だ。しかも一連のテストは『自動車工業と陸軍技術本部車輛班との共同で実施された。』(⑳P227)とあるので、この選択には陸軍の意思も当然、反映されていたはずだ。理屈の上からは出力も高く、燃費も良い(ハズ)だが、当時は尖った特性のエンジンだった直噴式は、戦車用として三菱が先行して研究を行っていた。陸軍としては、自動車メーカーである自動車工業向けには、よりマイルドな特性を持ち、燃料性状に過敏でない副室式を割り当てたかったのかもしれない(ワカリマセン)。
 そして1934年7月27日、自動車工業二代目社長、加納友之助(第一銀行出身)の指示で、「ディーゼル機関研究委員会」が、三十万円という、当時としては破格の予算の裏付けを基に発足する。加納の思いは、面前の5t牽引車用空冷ディーゼルエンジン開発成功はもちろんのこと、それを足掛かりに、『日本自動車工業生き残りのために必要な体外競争力、及び資源の面から見た存立基盤という2つの制約条件に即して速やかにディーゼル自動車工業確立への展望を拓け、というものであった。』(⑳P227)
 かみ砕いて言えば(以下⑨P38、(web36)P3参考)、年産 500万台規模に達している大量生産のガソリン車ではアメリカ車に到底太刀打ちできないが、欧州で研究が始まったばかりの、発展途上の自動車用ディーゼルならば、追いつくことはあながち不可能とは言えない。日本の燃料問題の将来を考える上でも、我社(自動車工業)はディーゼルの研究に力を入れるべし、ということであった。
委員会のメンバーは、ウーズレー時代から技術部門を支えた取締役の石井信太郎委員長以下、楠木直道(後にいすゞ自動車2代目社長)、荒牧寅雄(〃4代目社長)、伊藤正男ら精鋭9名だった。
(下は自動車工業2代目社長、加納友之助。画像と以下の略歴はwikiなどより、「帝国大学法科大学を卒業後、1897年農商務省に入り参事官として商工局に勤務。1902年(明治35年)に政府委員として欧州各国を巡視。のち退官して住友銀行に入行、 東京支店支配人、本店支配人、常務取締役を歴任し、東海銀行(ただし有名な東海銀行とは別らしい)頭取に転ず。金融恐慌に際し同行が第一銀行に合併した際、その取締役に就任。その後自動車工業社長に転じる。」)
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「ディーゼル機関研究委員会」に込めた、加納友之助の“思い”は、いち民間企業のスケールを超えたものであったように感じられる。その職歴は農商務省の商工局という、商務省の前身からスタートしており、加納のその“思い”は、あるいは、日本の自動車産業をいかに確立するか、日夜腐心していた当時の商工省や陸軍と共有したうえでの“思い”だったのかもしれない。
トヨタ自動車のHPの「トヨタ自動車75年史」には「自動車工業確立ニ関スル各省協議会」という、商工省工務局主催の会合の様子が幾度か書かれているが、その中で豊田喜一郎、鮎川義介とともに、加納友之介(自動車工業社長)が度々意見を陳述したことを記している。
『結果的には、実際に自動車の量産を目指して工場建設に着手していた豊田自動織機製作所と、日産自動車が当初の許可会社に指定されることになる』(web37;「トヨタ自動車75年史」)のだが、自動車の大量生産を目指した工場建設など、当時の自動車工業の財政事情では、オーナー経営者でもない加納の立場では到底許されないけれども、ディーゼル技術の確立=世界に通用する日本のトラック産業の確立、という別のアプローチからの大志を胸に、サラリーマン経営者として、30万円という精一杯の予算を投じた。ここでケチらなかったことが、試行錯誤の連続だった後のエンジン開発に余裕が生まれ、成功に導く大きな要因となった。
 次項で記すが、その試行錯誤の末に、九十二式5t牽引車(乙)用エンジンのDA6型は十分な性能を示し、陸軍技術本部の審査を受けて、無事制式化されるのだが、『銀行屋上がりながらその慧眼によって日本の自動車工業が進むべき一つの途を指示した加納はDA6の完成を見届けた八月十四日(1936年)、在職のまま世を去った。』(⑨P70)
さて以下からは、上記の系統図に従い、統制型ディーゼルエンジン開発の立役者であった伊藤正男の証言(web22;「日本の自動車用ディーゼルエンジンの基礎を築いた設計者 伊藤正男」JSAEインタビュー」)+⑳、⑨を参考に記していきたい。

16.5-3.2 伊藤正男と「DA6型」空冷ディーゼルエンジンの開発
 まず始めに、伊藤正男の略歴をwiki等を参考に記すと、1932年に明治専門学校(現九州工業大学)工学部機械工学科卒業後、陸軍運輸部(広島県宇品)勤務(1年期限の臨時雇いだった)を経て、陸軍工兵中尉だった桜井一郎の口利きで、1933年12月、自動車工業に入社する。不況下で入社当初はここでも臨時傭員の待遇だったという。(⑨P33)
 しかし陸軍運輸部時代に、桜井の助手として陸軍上陸用舟艇用の三菱直噴ディーゼルエンジンの整備を担当していた((web22)P60)関係から、「ディーゼル機関研究委員会」の9人のメンバーの末席に加えられた。なにしろ、『当時、いすゞにおける唯一のディーゼルエンジン経験者』(⑨P57)であったのだ!
 さらに、これも信じがたい話だが、伊藤の『先輩連中は陸軍の要求する応用車、今日の言葉で表現すれば特装車の設計に追われていた。~外国製ディーゼルエンジンのテストがはじまった当初から、その任についたのは、荒牧、平岩、そして伊藤の僅か三名であった。』(⑨P55)しかも平岩は間もなくその任務から外れ、荒牧はディーゼルエンジン研究のための外遊準備に追われる中で、同じ設計部内の同僚として、当時の状況を知る三浦光男(後にいすゞ特装部長)の証言によれば、当時の自動車工業内で、実質的に『ディーゼルエンジンを開発したのは伊藤正男ただ一人ではないか』(⑨P55)と後に語っているのだ。
 しかし伊藤正男の側からすれば、潤沢な開発資金があるうえに、かなりの自由裁量も与えられた、理想に近い開発環境を手に入れたことになる。
 話を戻し、輸入エンジンのテストの結果から、ベンツの予燃焼室式が燃料に対してもっとも広い許容力を示し、MANの空気室式及び、オーベルヘンスリーの渦流蓄熱式の運転が静粛だったこと、逆にドルマンリカルド型渦流式は騒音が大きかったこと等がわかった。(⑳P229)伊藤は『運転の静粛さという点でMANの技術には「頭の下がる思い」だった』(⑨P57)と語っている。
 以上の試験結果を踏まえて、『MAN空気室式を模した単気筒、4及び6気筒空冷エンジンが試作されることになる。』(⑨P59)設計着手は1934年11月、図面を引いたのは荒牧だった。荒牧は「九四式四屯牽引車」用エンジンで、空冷をすでに手掛けていたので仕上がりは早かった。最初に完成したのは6気筒型の「ADL6」で、エンジンの火入れ式は1935年5月27日だった。(下の写真は「九四式4トン牽引車の整備風景。」V8の空冷ガソリンエンジンを搭載していた。陸軍による空冷ディーゼルの開発依頼は、ガソリン版ですでに空冷をこなしていたその実績をかわれた面もあった。画像は
http://www3.plala.or.jp/takihome/mixi/diary/1763941/979571.htmlより)

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http://www3.plala.or.jp/takihome/mixi/image/photo/789184291.jpg
 しかしそのエンジンは『負荷をかけていくと発煙し、出力が頭打ちになる状況に陥る。』原因究明のために新たに購入した『マイハック高速指圧器』という、エンジンのサイクル内の筒内圧変動が判る、最新の計測器の導入により、負荷運転中に圧力漏れが発生していたことを突き止める。この計測器を手にしたことが、その後の燃焼室の設計・開発に威力を発揮したようだ。ちなみに三菱の大井上はフォンボロ指圧器という、平均値型を使っていたという。(以上⑨P60)
 結局単気筒エンジンでの基礎実験からやり直すことになるが、悪戦苦闘の末の『最大の変更点はシリンダヘッドから副室を排除して構造を単純にし、熱変形が少なく、かつ冷却風の通りが良い形状とし、温度が高く熱変形の元凶となる副室をシリンダ上部に移したことである。』(⑨P62)そのためMANのような空気室式が成立しなくなり、渦流式と予燃焼式を比較し、予燃焼室を採用することになる。
 その後の開発ストーリーは、ここでは大半を省略するが、(web22)をはじめ、⑨や⑳に詳しいのでぜひ参照してください。以下は伊藤自身の言葉だ。
『シリンダーやシリンダーヘッドの熱変形にも随分悩まされましたし、所期の出力を得るために、スワールチャンバー(渦流室)でいくかプレチャンバー(予燃焼室)でいくか、あるいはまた、プレチャンバーの形、位置、角度などをどうしたらいいのか、試行錯誤の連続でした。』(⑨P68)
DA6の開発ストーリーにはやたらと「試行錯誤」という言葉が多くなるが!燃焼方式を予燃焼室式に切り替えるなど、試みられた燃焼室及びシリンダヘッドはなんと、「五、六十種類(荒牧)とも「何十種類も」(伊藤)」』(⑨P66)とも言われている。以下も伊藤の証言だ。(⑨P67)『我々の時代は、自分でエンジンをテストして、まずければまた事務所に戻って図面をひいて、それを機械現場の人に造ってもらって、また回してみるということの繰り返しでした。』
 今どきのように燃焼の可視化技術やシミュレーション技術などない中で、伊藤のようなセンスのある技術者が燃焼室内の燃焼状態をイメージさせながら、トライ&エラーを重ねつつ、解を求めていくしかないのだが、試行錯誤の結果の、試作部品のスクラップの山を前に、当然ながら現場は嫌がるはずだ。
『けれども(工作課員が嫌がるので設計課員である)私が試作伝票を持っていくとみんな喜んでやってくれました。私が鶴見の野球部のエースだったからなんです。』!現場のヒーローでもあったようだ。ただその分、貴重な休日が野球部の練習に削られてしまったようだが、このスピード感ある開発スタイルが、三菱他、他社にはなかった要素だったと思う。
 しかしその一方で、伊藤たち設計陣も「自動車屋」として、『出来る限り加工し易い、修理し易い設計を心掛けた。前もって生産技術担当者に教えを乞うことも一再ならずあった。』(⑨P73)後述する“競争試作時代”に圧勝した要因の一つとして、荒牧と伊藤は製品品質の差、ひいては生産技術の差を掲げている。他社は手仕上げだったが、自動車工業の試作品は精度が格段に高かったという(⑨P83)。(下の写真はいすゞ自動車のHPより、「空冷DA6/DA4型ディーゼルエンジン完成」)
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https://www.isuzu.co.jp/product/i_engine/industrial_engines/about/images/pic_da6_da4.png
 今日、伊藤正男がその偉大な功績から「日本のディーゼルエンジンの育ての親」と呼ばれている所以は、エンジン開発者として、生来のセンスの持ち主だったことがまずあったが、その潜在能力をフルに引き出せる環境にあったことが、自動車工業/東京自工&伊藤自身を成功へと導いた。
 その要素として、大枠としては、全体図を構想し、その成長を裏から支えつつ見守った陸軍側の支援があり、さらに前項で記した加納友之助社長ら首脳陣も陸軍・商工省と連携して大きな絵を描き、ヂーゼル機器の創設を含む全体の体制を整えたことがあった。
さらに伊藤自身の人徳もあったと思うが、上司の楠木、荒牧らだけでなく現場の支援も含めて、自動車工業社内での連携が良好だったことも、成功へと導いた、大きな要素だったと思う。サラリーマン経験者であれば、わかる話だと思いますが。
(伊藤正男の写真をネットで検索すると、「自動車用ディーゼルエンジンの育ての親」として没後、自動車殿堂に選ばれたときの、正装をしたかしこまった姿しか出てこない。ただ何か、イメージが違う気がして、ここでは⑨P164の写真をスキャンさせていただいた。昭和31年(1956年)、寛いで隣に座るのは岡本利雄(後のいすゞ自動車5代目社長)だ。)
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(下は「いすゞプラザ」に展示されている「スミダDA4型ディーゼルエンジン」。多少“化粧”ぐらいしているのかもしれないが、“商品”らしい外観だ。画像は「4Travel.JP」より)
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https://cdn.4travel.jp/img/thumbnails/imk/travelogue_pict/48/54/32/650x_48543276.jpg?updated_at=1494363945
 こうして1936年3月、DA6型(6気筒)とDA4型(4気筒)空冷ディーゼルエンジンが完成する。DA6は九二式5t牽引車用エンジンとして陸軍技術本部の、DA4は九四式六輪自動貨車用エンジンとして陸軍自動車学校の審査を受けた。DA6は制式化され、DA4も試験にはパスするが、自動車用は水冷にするという、陸軍側の方針転換により、試作のみに終わる。(下はその、「九二式5t牽引車」画像は上の写真と同じ引用元で、「堅牢で信頼性が高く砲兵部隊では好評だった」と記されている。ちなみにDA6型エンジンの生産はダイハツ(当時は発動機製造)でも行ったという。(⑧P110))
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http://www3.plala.or.jp/takihome/mixi/image/photo/789184293.jpg
 戦後、原乙未生はDA6型を振り返り、『燃焼状況良く排気澄み、振動及び音響も大ならず。・・・・・実用および耐久性に於いて満足の結果を得、取扱操縦に何等支障なく又故障少なく信頼性も良好であった。』と記している。
 このままのペースでは当分終わらなくなるので、以降の“怒涛のエンジン開発”については極力、事務的に記していきたい。

16.5-3.3 「DC6型」水冷乗用車用ディーゼルエンジンの開発
 空冷のDA6型、DA4型を完成させた開発チーム(というか、伊藤)は、その発展型として水冷版のDB6、DB4型の開発に移行する。この頃、陸軍自動車学校研究部の福川秀夫が、九四式六輪自動貨車のディーゼル化に向けた水冷4気筒ディーゼルエンジンの試作及び供試品提出を三菱、池貝、新潟、川崎車輛及び東京自動車工業(※1937年4月に自動車工業は瓦斯電自動車部系と合併し、東京自動車工業に社名変更しているので、これ以降は東京自工と記す)に呼びかけていた。
 DB4型は1936年8月に試作し、『この時は予燃焼室式と渦流室式との対照実験用エンジンDE4を十三年(1938年)三月に試作する運びにまでなっていたのだが、』(⑨P79)時間切れで既述のように十二年(1937年)中にいつのまにか、池貝のエンジンが、制式化されてしまう。東京自工側とすれば、自社製6輪軍用トラック用の大事なエンジンだし、開発余力のない中とはいえ、腰を据えて開発しようとしていたのだろうか。しかし陸軍は東京自工の想定以上にディーゼル化を急いでいた。そのためDE4型に性能の劣る池貝製のエンジンを約一年間、作らされる羽目に陥る。(⑨P79)((web22)P75)
 しかもこの同時期に、東京自工はさらに2件のディーゼルエンジン開発案件を抱え込んでいた!一件目は1937年4月、陸軍技術本部から水冷ディーゼルエンジン付き6t牽引車を、それも年内に開発せよとの命令だ。(次項で記す。)
 2件目は、陸軍自動車学校研究部の福川からの引き合いで、1937年3月、前年デビューしたベンツ260Dに触発されて、乗用車用ディーゼルエンジンの試作呼びかけであった。福川は、当時のすべてのディーゼルメーカーに競争試作を呼び掛けた。しかも納期は同じく年内だ!だが東京自工内で『ディーゼル開発を行う能力を有するエンジニアは伊藤一人である。』(⑨P80)・・・
 優先順位は当然ながら、実績のある牽引車の方が高かったが、自動車学校からの自動車の引き合いも後々を考えれば無下には断れない。そこで260D用のベンツOM138型エンジンをデッドコピーして対応することに。ただしストロークを10mm伸ばしたうえで4気筒を6気筒化し、要求仕様を満たすことにした。基本はコピーなので別の設計者が対応していたが、計画出力(70㏋)に到達しない。原因は不明だ。しかも担当者が途中で召集されてしまい、東京自工は納期延伸願いを申し入れるが、『これに対して福川は「いすゞはディーゼル機関を作る能力なしと陸軍省に報告しなければならなくなるが、よいか」と一喝する。』!(⑨P81)結局伊藤が引き継ぐことに。
 原因究明に『万策尽きた伊藤はオリジナルよりも細長い、DA6に近い形状の三噴口型予燃焼室へ再設計を試み、テストしてみた。すると新エンジンDC6はアッサリと計画出力をマークしてしまう。』(⑨P81)滑り込みセーフで何とか間に合わせる。
 陸軍自動車学校は各社のエンジンそれぞれを三次にわたる試験に供した。参加メーカーは以下の通りで、池貝はトラック用及び戦車用エンジン開発に手一杯で参加せず。三菱は例によってダブル参加だ!
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 第三次試験は陸軍関係者だけで行われ、そこまで勝ち残ったのは東京自工の予燃焼室式と新潟鉄工所の渦流室式。満州での一カ月に及ぶ耐寒試験を仕上げとする一連の試験の結果、結局東京自工のエンジンが勝利する。しかしその後、陸軍の方針変更でこのDC6型は量産に至らなかったが、『このエンジンは次のエポック、5ℓ統制発動機を巡る戦いへの、いわば前奏曲をなすこととなったのである。』(⑨P83)無駄には終わらなかったのだ。

16.5-3.4 「DD6型」6t牽引車用水冷ディーゼルエンジンの開発
 上記DC6型と同一の短納期であった、6t牽引車用水冷ディーゼルは、5t牽引車等過去の実績から、東京自工への単独発注であった。しかし陸軍としても重要な車型であり、時間がない中でも伊藤は、それまでのディーゼルエンジンよりも何とかして優れたものを創りたいという強い思いで開発にあたったという。この項も以下引用ばかりで恐縮だが、(⑳P280)より引用する。
『特筆すべきは~垂直に立った予燃焼室を開発したことである。この形状及び配置は、設計者の伊藤正男氏に依れば:「燃焼室を垂直に、そしてできるだけシリンダの片方に片寄せて配置し、予燃焼室の下半は細長くしてできるだけ混合気の整流と過熱をよくし、噴口は予燃焼室の縦軸に対してできるだけ急激に方向を変えるように配置して、混合気の霧化を助長し、主燃焼室であるピストン頂部にも凹みを設けて、燃焼をよくするようにと考慮したものであるが、ディーゼルノックも低く、性能も予想以上の好成績が得られた』
 この“伊藤方式”の燃焼室について、世界基準で考えた場合、どのような位置づけになるのだろうか。自分にはまったくわからないので、以下も(⑨P87)の丸写しです。
『類例の多い直立、片寄せ型予燃焼室の一つであるマギルスとピストンヘッド上の主燃焼室をなす凹みの中にまで予燃焼室尖端噴口部を突き出させる伊藤の統制型予燃焼室とでは発想ないし燃焼機構に対する考え方が根本的に異なるのである。マギルスは元より、伊藤以外の予燃焼室は熱負荷を恐れる余り、主燃焼室に対して退いた、或いは逃げたスタンスを取るものばかりであった。確かに、「世界で初めて」かどうかについての証明は甚だ困難であるが、名も知れぬディーゼルエンジンなどというモノはまず無かろうから、ほぼ確実と見てよい。
そして、この時以来、伊藤の予燃焼室ないしその類似品の作品が内外に散見されるようになったことはより確実に示し得る事実である。』

 再び(⑳P281)の引用に戻る。
『このスミダDD6形機関のこの予燃焼室こそがやがて東京自工(ヂーゼル自工)の、そして戦時日本の高速ディーゼル界を支配したいすゞ統制型予燃焼室の嚆矢なのである。~何しろ、日本の主たるトラックメーカーが戦後などと言うのも愚かな昭和四十年代中盤まで、実に三十余年間、伊藤方式の予燃焼室に追随したという動かし難い歴史的事実が在るのだから。』
 戦後の復興期から高度成長期にかけて、国内市場が順調に拡大していく中で、中/重量クラスのトラック各社の業績は概して安定していた。ただし各社の乗用車部門を除けば、の話だが。2ストロークに特化せざるを得なかった日産ディーゼルを除き、本家のいすゞ以外の日野自動車も、三菱ふそうも等しく、「伊藤方式の予燃焼室」の恩恵を受け、その間に経営基盤を築くことができた。こうして基礎体力を蓄えた後に、その後各社は伊藤方式から脱却した、独自のエンジン路線を歩むことになるのだ。
『DD6型は1937年12月に完成、110㏋/1700rpmをマーク、勿論、陸軍のテストにも直ちに合格し、九八式6T牽引車のエンジンとして正式採用となった。』(⑨P89)(下の「九八式6t牽引車」の画像はhttps://twitter.com/zavety76/status/1225010941231845377よりコピーさせていただいた。)
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https://pbs.twimg.com/media/EQAc8xuXsAEs8Yu?format=jpg&name=900x900

16.5-3.5「DA40型」陸軍軍用トラック用統制ディーゼルエンジンの完成
 DC6型乗用車用ディーゼルエンジンを開発させた福川は『引き続き、三菱、日立、新潟、神鋼及びいすゞの各社にディーゼルエンジンの試作研究を命じていた。そして昭和一三年(1938年)三月、いすゞにはトラックにも乗用車にも使用可能なディーゼルエンジンを、という注文が発せられる。実はこの表現、余り適切ではないのだが、要するに商工省標準型式自動車用ガソリンエンジン、スミダX型の発展型GA40(6-90×115、72/2800)の代替機を開発せよ、という内容である。』(⑨P89)
「トラックにも乗用車にも使用可能なディーゼルエンジン」=「自動車用ディーゼルエンジン」を意味し、陸軍の自動車用ディーゼルエンジンとして制式採用されれば、当時陸軍と革新官僚が牛耳っていた商工省の自動車政策は連携していたので、⇒商工省標準車用ディーゼルエンジンとして、追って認定されることも容易に想像される。
 自動車製造事業法の制定により、いわゆる大衆車(=再三記すがフォード、シヴォレー級)クラスの自動車生産はトヨタと日産の2社で既にパイは閉じられていた。自動車産業へ参入を目論む残る企業からすれば、最後の可能性として感じただろう。
 しかし、陸軍による、ディーゼルエンジン技術/生産の統合に向けての“試作競争時代”もこの段階に至ると、東京自動車工業の技術的な優位はすでに明らかだった。
 元々陸軍と商工省は、東京自動車工業を重量級トラックメーカーとして育成してきたが、両省からすれば、ディーゼル技術を切り札に新規参入を目論んだ企業を同じ土俵で戦わせ、明確な技術の優劣をもって追随する他社にここで引導を渡し、重量級自動車を東京自動車工業に一本化できる、絶好の機会の到来にもなったのだ。
 この引き合いに対して、伊藤は自信作、DD6型の縮小版エンジン(=「ミニDD6」)でいけると直感したという。(⑨P90)伊藤の指導の下、設計を任された町田雅雄(元川崎航空機の技術者)により、1939年3月『DD6譲りの直立型予燃焼室』(⑳P285)を持つ高速軽量の水冷式ディーゼルエンジン、DA40型が完成した。陸軍自動車学校では、このエンジンを競争試作に参加した他社エンジンと比較し、最終的に三菱ザウラー(S650AD;6-90×13、80/2600)とDA40を買い上げ対象とした。
 この2台のエンジンを、数次にわたる運行試験や寒地試験、代替燃料試験などを行い、さらに従前の制式機関だった池貝のエンジン(4HSD10XE)やアメリカ製GM2サイクルディーゼルエンジン(おそらく3気筒の71型とのこと)との比較も行ったのち、1939年8月、DA40型を、5ℓ級の陸軍軍用トラック用統制ディーゼルエンジンとして採用する。(⑨P91)
(以下も⑨より引用『DA40系エンジンは元々サイズが手頃で、戦後、いすゞが得意とした5~6t車TX用パワーユニットとして好適であった。その上、当初からボアアップ、ストロークアップを考えた余裕ある設計にしてあったため、数次にわたる改修の結果、排気量は5.1ℓから6.4ℓまで増強され、85㏋から135㏋(無過給の場合)へと向上したかくてDA40系エンジンはロングセラーとなり、4気筒のDA70系等を含めた戦後の累計生産台数は721,300基に達し、自動車用として足かけ四一年、舶用に転換されたものを含めれば実に四四年間に及ぶ製品寿命を全うすることになる。』(⑨P92)下表をみれば、戦後の復興期にいすゞのディーゼルトラックが時代にマッチしていたことがわかる。しかしその後トラック市場は徐々に変化し、いすゞが得意とした5、6tクラスのボンネットトラックの市場は衰退し、2tクラスの小型と4t級の中型そして大型の、キャブオーバー型トラックの市場へと分離していくことになる。)
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(以下の写真と文は、この一連の記事で度々引用させていただいている、ブログ「ポルシェ356Aカレラ」さん(web15-2))より、「1958年 いすゞTXディーゼルトラック 専用カタログ」の表紙。『日本のボンネットバスの代表格がいすゞBXであるようにボンネットトラックと言えば、シェア50%を超えた登録台数の多さと柴犬を思わせる温もりのあるフロントマスクなどから日本人に最も郷愁を感じさせるのは1950年代のいすゞTXだろう。1960年代に入ると荷室有効スペースの広いキャブオーバー型トラックに押されボンネットトラックの需要が限定される時代となっていったのに対し、1950年代は未だボンネット・トラック黄金時代であった。その時代、ボンネットバスBXと同様に圧倒的な市場シェアを誇り日本中で見られたボンネット・トラックの代表車種がいすゞTXであったといえる。』)
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https://stat.ameba.jp/user_images/20150517/15/porsche356a911s/49/bb/j/t02200165_0800060013309610878.jpg?caw=800

16.5-4 技術統合への歩みと陸軍統制型100式統制発動機の完成
『1939年8月、陸軍が行ったDA40の統制発動機指定は、軍用ディーゼル全体の統制-陸軍100式統制発動機(昭和15年は皇紀2600年とされており、海軍では零式、陸軍では100式と称した。)への技術統合の始まりでもあった。』(⑨P100)
 のっけから引用文で恐縮だが!16.5項冒頭の表に示しているように、DA40型の、陸軍軍用トラック用統制ディーゼルエンジンへの指定をもって、試作競争の時代は終わりを告げて、次は16.5-3のwikiから引用の表のように、統制型ディーゼルエンジンシリーズ完成に向けての、統合の時代へと移る。
 その歩みを、主に東京自動車工業(の、伊藤正男が属する旧石川島系)側の視点で、ざっくりとみていきたい。

16.5-4.1旧瓦斯電系技術との統合
 技術統合でやっかいなのが、三菱の例を挙げるまでもなく、身内同士の統合だ。旧瓦斯電系の技術陣は当時、16.3-5項で記した、日産の鮎川による瓦斯電の解体という衝撃的な体験があり、その動揺とゴタゴタから、たぶん士気が落ちていたと思われる(これも想像ですが)時期だ。
 DA30型は旧瓦斯電系で開発された、空冷V12(120×160)渦流室式ディーゼルで、『潜航作業機と称する塹壕掘進車輛に搭載されるべきエンジン』(⑨P95)だった。伊藤が開発を引き継ぐことになったが、『渦流室周辺の冷却不良という根本的問題は如何ともし難く』1938年12月に完成したが、陸軍の立会検査にパスするのがやっとで、量産に至らず終わったという。(⑨96)
 DA20型(空冷6-135×170)も同じく旧瓦斯電系からの引継ぎで、『伐採機、伐掃機と称する特殊車両のエンジン』(⑨P97)だった。渦流式から予燃焼室型に変更し、難産の末、1939年9月完成したがこれも少量生産に終わる。
 瓦斯電系の技術者、家本潔が戦後の座談会でこれらのエンジン開発について当時を振り返り、『しかしいま考えますと、よく燃えないために、ピストンの焼きつきとかその他のことで数々の苦労をしました。~結局は予燃焼室式に直しましたが、燃焼の根本のところに、わけのわからない苦労をした印象が強く残っています。』(③P125)と語っている。
((web22)P80)の伊藤自身の言葉によれば、瓦斯電と自動車工業(旧石川島)が合併して東京自工が誕生した時、お互いの分担を取り決め、旧瓦斯電系は大森工場と日野工場で「キャタピラーもの」(軍用のトラクターと戦車)を、旧石川島系は川崎工場と鶴見工場で「ゴムタイヤ(車輪)のついたもの」(=自動車)を担当することになったが、旧瓦斯電系の渦流室式ディーゼルは家本の言葉にあるように、その当時、技術的に完成に至っておらず、「両方のディーゼルエンジンは伊藤が担当しろ」となったため、上記のようになったようだ。
 しかしこの後、すぐに、陸軍による統制エンジンがはじまり、伊藤の図面は公開されて標準設計となり、固有技術も含めノウハウのすべてが開示された。次に記すように、空冷6気筒の統制型エンジンは同じ社内ながらも瓦斯電系の大森工場が取りまとめを行なうなど、自然と技術統合されていったようだ。
(下の写真は戦後、すぐに誕生した有名な日野自動車のトレーラーバスで、当時の社長、大久保正二が、接収された工場内をわがもの顔で走り回る米軍のトレーラートラックをヒントに開発を命じ、日野重工業時代の空冷6気筒統制型の大型ディーゼルエンジン(DB52型)を利用して作り上げた。当時の法規では、トラックは全長7m・積載量5tという制約があったが、大久保が運輸大臣に直談判し、とりあえずの処置として認可を得て発売に踏み切った。エンジンはその後水冷化されるなど改良を重ね、都市部の通勤の足として大いに活躍した。(⑯P57参考)画像はhttps://www.excite.co.jp/news/article/Trafficnews_101923/より)
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https://imgc.eximg.jp/i=https%253A%252F%252Fs.eximg.jp%252Fexnews%252Ffeed%2

16.5-4.2 DA50型・DB50型、水・空冷式100式統制発動機の誕生
 一方、瓦斯電系の引継ぎでなく、DA40型以降の旧石川島系開発エンジンについて、⑨と⑳を頼りに駆け足で辿っておく。
 1939年に開発されたDA10型は、DA6型空冷エンジンをストロークアップした(6-110×150)戦車用エンジンで、開発は順調に進み、同年5月に完成した。(⑨P96)
 続いてはDA50型の開発に移るのだが、このあたりでようやく、16.5-3の冒頭のwiki書き写しの「統制型一〇〇式発動機」誕生の経緯に繋がってくる。以下は(⑨P100)より
『原乙未生を長とする陸軍第四技術研究所は自動車、牽引車用に水冷の、戦車用には空冷のディーゼルエンジンを統制発動機としてシリーズ化しようと企画していた。この発動機統制に当り、陸軍は実績に鑑み、その燃焼方式をいすゞの、即ち伊藤の予燃焼室式に統一するという英断・…と言うよりは当たり前の判断を下す。選択の余地など無かったのである。』陸軍は伊藤が設計した東京自工のディーゼルエンジンを、統制発動機型としてファミリー展開することに決定したのだ。
 他社でも設計・製作されることになる、100式統制型の空・水冷エンジンの基本となるエンジン、DA50型の設計図も当然ながら、東京自工の伊藤が手掛けることになる。
 DD6のストロークを5mm延長した水冷エンジンのDA50型(6-120×160)は、陸軍からのお達しの1ヶ月という短納期で設計完了させて、各社に展開される。その図面が100式水冷エンジンの設計標準となった。DA50型の初号機は東京自工の大森工場で1940年4月に完成する。『水冷100式統制発動機の嚆矢である。』(以上⑨P104参考)
 一方空冷型の統制発動機は、陸軍は当初、DA10型(6-110×150)の160mmストローク型をイメージしていたようだが、水冷空冷相互間の部品共通化等の狙いから、水冷式と同じ120mmのボア系が選択される。『伊藤はボア110mmのDA10、ボア135mmのDA20の経験からボア120mmの空冷は間違いなくモノに出来ると踏んでいた。』陸軍担当者も同じ思いだった。
『DA10、DA20、そして出来上がったばかりのDA50を参考にした空冷6気筒100式統制発動機DB50の設計は、旧瓦斯電系の大森の設計課で取りまとめられ、試作エンジンは早くも十五年(1940年)五月に同工場で完成した。』(以上⑨P105参考)

16.5-4.3「商工省・自動車技術委員会」の場で8ℓ級統制エンジン(DA60型)の仕様が決定
 ここで陸軍とそれに同調した商工省の推進した「統制型一〇〇式発動機」について、wikiベースでなく自分なりに重要ポイントをもう一度確認しておくと、
«1»東京自動車工業(以下東京自工)の伊藤正男が設計・開発した予燃焼室式の燃焼室デザイン(ボッシュ製燃料噴射装置(ヂーゼル機器製)付)を標準設計とし、すべてのディーゼルエンジンの基本仕様を統一する。(海軍系は除く。)
採用理由は、競合の三菱ザウラー直噴、池貝渦流室式などと比較して、燃費は若干劣るが、騒音が低い割に出力が高く、機械的信頼性に富み、作り易く、修理し易い構造で、排気色は薄く、噴射系の寿命も直噴式より長く、さらに予燃焼室式エンジンは、粗悪な燃料にもよく耐えたからだ。(⑨P102参考)
«2»東京自工にその設計・製造ノウハウの全てを、統制型エンジンの製造を行う参加企業に対して開示させる。
«3»東京自工の設計を基に、生産性の向上及び部品補給の便を考慮しボア/ストローク寸法を限定した、モジュラー構造の「統制型一〇〇式発動機」シリーズを構築する。教育用の単気筒から特殊車両、戦車用V12に至る水/空冷の各エンジンを、参加企業で分担し、設計・製造を行う。
«4»参加企業は陸軍主催の「戦車部会」(後述)等で技術情報の共有を行う。
«5»軍用自動車を含むディーゼル自動車の設計・製造は、東京自工を母体に、競合他社(三菱重工業、日立製作所、池貝自動車、川崎車輛)にも資本出資と技術・生産設備の供出を行わせたうえで商号を「ヂーゼル自動車工業」(1941年4月30日)と改め、同社に一元化する。(=ヂーゼル自動車工業以外、ディーゼル“自動車”の製造は不可)
«6»それに先立ち1941年4月9日、東京自工をヂーゼル自動車の生産に特化した、自動車製造事業法に基づく3番目の許可会社として認定する。
 このうち、16.3-9項ですでに記したことと重複するが、陸軍省・商工省の上記の«5»と«6»の動きに、自動車事業への単独参入を目論む三菱が激しく反発する。
 当時三菱重工は、満州国向けの大陸型8ℓ級トラックの大型の引き合いを背景に、5ℓ級DA40型ですでに商工省統制型エンジンとしての資格を有する東京自工と共に、「商工省自動車技術委員会」の場で、自社のY6100型8.55ℓ予燃焼室式エンジン(16.4-5項参照)の燃焼室を、東京自工の伊藤設計の統制型に合わせた上で、商工省統制型発動機と認めさせることで、三菱も、8ℓ級のディーゼル自動車の生産会社として、自動車製造事業法の4番目の許可会社になるべく意欲を燃やしていたのだ。(自分なりの想像部分も、かなり含んでいます。)
 その決着を巡り、鉄道省や満鉄などユーザー側も巻き込んで、1941年3月21日~24日にかけて箱根を舞台に激しいやり取りが行われたという商工省自動車技術委員会と、その後の決着についてはすでに記したのでここではくり返さない。
 この委員会でそれ以外に特筆すべきと思われることは、この「商工省自動車技術委員会ディーゼル自動車専門委員会」の場で、8ℓ級ディーゼルエンジンの詳細仕様に至るまで決定されたことだ。(⑳P295~P309参考)そもそもこの会議の主題が「大型ディーゼル機関の仕様書作成」だったのだ。
 それともう一点、4日に及んだこの会議で纏められた仕様書に基づいて、作られることになるDA60型ディーゼルエンジンが、世界基準で見ても、けっしてコピーではない、十分オリジナル性のあるエンジンであり、かつその性能も世界の第一線にあった点が凄かったと思う。トヨタ(シヴォレー)、日産(グラハム・ページ)、ダットサン(ベンジャミン(仏))は言うに及ばず、石川島、瓦斯電、ふそうなどの中型トラック/バス系のガソリンエンジンも、ブタやホワイト(いずれも米)などからの影響の強いエンジンだったのだ。
 話を戻し、会議の場で、三菱・鉄道省側は(6-110×150、8.55ℓ)のY6100系のストローク長を主張し、東京自工・陸軍側の(6-110×140、7.98ℓ)案を退けたが、それ以外は概ね後者の主張に近い線で取りまとめられる。そしてその設計は当然ながら、『許可会社、ヂーゼル自工の設立も目前に控えていたから、その設計はいすゞに委ねられることになった。』(⑨P111)
 そのDA60型エンジンは、時局からか代用鋼を全面的に使用したうえで、設計は1941年10月に完了し、1942年8月、試作エンジンが完了する。この過程で、東京自工と三菱重工のお互いの技術ノウハウの交換も進んだのだろうか。(下は『1943年11月に完成した大型トラックTB60型。ステアリングは軽くするためにボールスクリュー式になっている。』(①P48)DA60型エンジン搭載の7t積トラックで、早い話が、三菱が夢見たCT20型と同じ市場を狙った、大陸(満州)向けの大型トラックだが、時すでに遅く量産に移されることはなかった。画像は(web15-3)より。)
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https://stat.ameba.jp/user_images/20171203/22/porsche356a911s/99/8c/j/t02200165_4608345614083802135.jpg?caw=800
(下の写真と以下の文章は三樹書房http://www.mikipress.com/books/pdf/767.pdfより、
『ヂーゼル自動車工業TH20 鉱山用トラック(1943 年)現いすゞ自動車の 20トン積みの国産初のオフロード・ダンプトラックである。』同じ写真で同じ出版社(三樹書房)の最新刊(㉖P35)ではTH10型となっており、(⑨P113)でもTH10型となっているので、TH20ではなくTH10型の間違いだろう。海軍発注のTH10型鉱石運搬用20tダンプは、1943年12月に完成し、日窒鉱業向けの鉱石運搬用として活躍したという。総生産台数は17台だったというが、17台完成したのはシャシーまでで、資統制下の資材入手難で油圧ポンプが間に合わなくて架装できず,完成車は 10 台止まりだったようだ((web44)P68)。この重ダンプのエンジンもDA60型だった。結局、戦時中のDA60型エンジンの主な用途はトラックではなく、舶用エンジンであったという。)

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16.5-4.4陸軍主催「戦車部会」による各社技術の共有
 話を技術統合に戻す。「「統制型一〇〇式発動機」」に参加した企業は8社(1941年に東京自工から分離する日野重工業も含めれば9社)で、+陸軍相模造兵廠でも展開された。互換性のある、同じ部品を製造することが重要となる統制型エンジンの、企業間の情報共有は如何にして行ったのだろうか。以下も(⑨P101)より、
『陸軍第四技術研究所は戦車、自動車メーカーなどのスタッフが参加する「戦車部会」を主催し、各社の技術を公開させたうえで技術開発の方向付けを行っていた。』ここでも陸軍が、全体の“統制”を行っていたのだ。ちなみに陸軍第四技術研究所の所長は原乙未生中将だった。その会議の模様について、(⑳P287)
『各機種間の部品の互換性を持たせるために、部品の形状寸法はもちろん、仕上げの精度、はめ合いも統一するため、3カ年に20数回の打合せ会議が持たれた。会議はなごやかで、陸軍技師、上西甚蔵氏の好司会のもとで、各社を代表する技術者は常に協調的に打合せを行い、一致協力してことが運んだことは、いまでも記憶に新しい。』戦争の最中での会議で、この期に及んで、各社意地を張りあっても仕方がないというムードもあったのではないだろうか。

16.5-4.5三菱によるAL型4式中戦車用エンジンの開発
 統制型エンジンシリーズの最後に、四式中戦車用エンジンとして、三菱重工が1943年より開発設計を行い、1944年初頭に完成した三菱ALディーゼルエンジン(四式ディーゼルエンジン)についても簡単に触れておきたい。
既存の統制型エンジンの多気筒化を諦め、三菱重工が新規設計した大型ディーゼルエンジンで、燃焼室形状ならびに配置等は統制型のそれを踏襲したが、空冷3弁式V12気筒、(145×190)37.7ℓにより、従来の日本戦車のエンジンから大きく馬力も向上、列強の30トン台戦車の水準である400馬力オーバーを達成している。(原乙未生は自著『機械化兵器開発史』90頁にて、「4式V12エンジン(原文表記による)」を過給器無しで400hp、過給器を付けた試製エンジンを500hpとしている。)トランスミッションに日本戦車として初のシンクロメッシュを採用、操向装置にも初の油圧サーボを搭載している。これによってギヤチェンジや方向転換は日本の既存戦車と比較してもはるかに容易になり、また10日間をかけての実走試験でも大きな故障もなく、軽快な機動性を確保していたと伝わる。(以上、wiki他を参考。)
 東京自工系の伊藤正男設計の実績のある技術の上に、直噴系で高出力を追求した三菱が培ってきた技術を融合させた、戦前の日本の高速ディーゼルエンジン技術の、ひとつの到達点と言え、『統制型発動機の進化を表現する最高傑作であった。』(⑳P313)
(下図「四式中戦車の縦断面要領図(量産型図面もしくは三菱現存図面と言われるもの)」と以下の文はwikiより「四式中戦車の特筆すべき点は、それまでの国産戦車が基本的に歩兵支援用戦車として開発されたのと異なり、最初から対戦車戦闘を想定してつくられた本格的な戦車となったことである。しかしながら運用思想としては、単純に「敵の戦車が強力である」という思想に基づいたもので、戦車同士の大規模戦闘を意図したものではない。」)
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16.5-5項の最後に、1931~1945年の主な戦車・装甲車の生産台数の表を掲げておく。
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16.5-6「ヂーゼル機器」の設立(燃料噴射系装置の統合)
 この記事もようやく終わりが見えてきた!今まで見てきたとおり、日本では高速ディーゼルエンジンの開発を、各社が独自に競ってきたが、16.5-2.2でみてきたように、ディーゼルエンジンの基幹部品である燃料噴射系システムは、十分な性能の内製品を製造できず、国産高速ディーゼルの実用化において、大きな障害となっていた。
 このため、世界的にもっとも優秀とされていたボッシュ製のシステムを、国産ディーゼルエンジンの心臓部に、高価な輸入品よりもより廉価で搭載すべく、ライセンス導入に向けて官(陸軍省)民(東京自工他)が動くのだが、その経緯を、ボッシュ製品のライセンス導入という戦略的方針を早くから打ち立てた、自動車工業/東京自工の行動を通して、(⑳P261、②P195)等を参考に、以下簡単にみていきたい。
 まず16.5-3.1でみてきたように自動車工業は1934年7月、加納社長の指示で「ディーゼル機関研究委員会」が組織され、ディーゼルエンジンの開発をスタートさせるが、社の方針として当初から『楠木ら会社幹部がロバート・ボッシュ社製品の使用、更には同社からの燃料噴射装置に関する技術導入の断を下し』(⑨P47)ていたという。
自動車工業が最初に取り組んだディーゼルエンジンだった空冷DA6型の開発(16.5-3.2項参照)から一貫してその方針で貫かれた。そのため、噴射系システムの開発で手間取った他社を尻目に、エンジンの本体部分の開発に集中することが可能となり、一連の予燃焼室式ディーゼルエンジン開発を成功に導く要因の一つになった。
 また社長の加納友之介を通してその会社方針について、陸軍・商工省とも確認していたはずで、両省とも承知の上というよりも国策企業として、むしろその方針に則ったものだったようにも思える。
 対ボッシュとの交渉がいささか唐突にスタートしたのは1936年10月だった。ディーゼル技術の研究のため訪欧中の自動車工業、荒牧寅雄(戦後いすゞ自動車四代目社長)宛に、社長の新井源水(同年8月に急死した加納の後を引き継ぎ社長に就任)から『ボッシュと技術提携する交渉を行なえ』(③P96)と急報が入る。『日本ディーゼルの安達社長さんが、シベリア経由でドイツに向かったとの知らせがありました。そこで、私は急いでボッシュに行って、インジェクション・ポンプのライセンスについて交渉を始めました。』(③P96;荒牧談)「日本デイゼル工業」については次項で記すが、同社もボッシュとのライセンス契約締結を密かに狙っていたのだ。
 自動車工業側にとって幸いだったのは、ボッシュの日本総代理店のイリス商会ボッシュ部日本代表のツェーヘンダー氏がドイツにいたことで、最初の交渉自体は不調に終わったが、『ライセンシー側が三菱、池貝等のエンジンメーカーとの結合を図る事、ヒトラー総統の許可が下りる事、という2つの条件が整った暁には自動車工業を交渉相手として最優先するという約束が取り付けられた』(⑳P262)ボッシュとしても、インチキくさい自社製品の特許回避品が多数出回るよりも、日本市場が独占できれば旨味が大きいと考えただろう。1937年4月、瓦斯電と自動車工業の合併で東京自工が誕生し、ボッシュの提示した条件に一歩近づく。
 1938年2月、ボッシュより東京自工宛に契約交渉に応ずる旨連絡が入る。交渉は直ちに始まったが、東京自工に加えて『相手としてもう一社、有力なエンジンメーカーを加える事』(⑳P262)という条件も提示されたため、東京自工側は三菱もこの計画に抱き込もうとするが、ここから先で、⑳・(web22)と、②・③とでは、三菱側のスタンスが異なって記されている。
 前者では東京自工副社長の新井源水と、当時三菱重工の常務だった郷古潔が一高の同期生の友人であった関係から両者を中心に両社は交渉を行い、『東京自工・三菱重工を軸とするライセンシー側の統合体制に目途がつけられた。』(⑳P262)
 この結論部分は同じなのだが、そこに至る過程として、②、③では、そもそも東京自工一社では『ボッシュ社への技術提携料とライセンス料の四十万円を即座に調達できなかった。』(②P197)という問題があったと指摘している。資金が足りなかったのだ。
 そのため東京自工側は商工省、陸軍省に資金調達の支援を求めるのだが、『これを受けて陸軍技術本部の原乙未生は、ディーゼルエンジンメーカの共同会社を設立し、ボッシュ燃料噴射ポンプの大量生産を行う計画を樹て、メーカにその出資を要請した。』(②P197)
 ところがこの計画に対して、資金力のある三菱重工の元良信太郎(高名な造船技術者で(③P110)の原乙未生の証言では社長としているが、この時点では常務?で1943年から郷古の会長就任後の社長就任では?)は、三菱が全額出資して『一手にボッシュポンプを製造し、ディーゼルエンジンの生産に本格的に乗り出したいと希望を表明した。』!(②P197)(③P110)
 しかしそれでは、陸軍と商工省が国策として東京自動車工業を育成している中で、日本のディーゼルエンジンの根幹部分を、今度は三菱に握られてしまう事態に陥るため、陸軍がさらに介入し、『新会社の「イニシアチブはいすゞと三菱がとって、社長は両社から交代で出す」ことを提案した。』(②P197)実際にはさらに、東京自工の新井と三菱重工の郷古がその水面下で、実務的な裏交渉を行ない、決着点を探ったのだろうか。詳細は不明だが、三菱側が全額出資の申し出を行ったことは確かだろう。
 1938年8月、覚書を締結し日本側は仮調印し、同年12月、ドイツ側も正式に調印する。ヒトラー総統の承認を得るために、陸軍側の働きかけも当然あっただろう。全体としてみれば、陸軍主導の下、その意を受けて、東京自工が実務面を担当したように思える。
 こうして1939年7月、「ヂーゼル機器株式会社」が誕生する。以下はその株主構成だが、ヂーゼル自動車工業の最大株主であった日立製作所は出資しなかった。(その経緯はここでは省略するが、③P110に記されている。)
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(ディーゼルエンジンの世界で、ボッシュの存在がいかに大きいか、その一端を、デンソーでコモンレール式燃料噴射システム開発の統括リーダーを約10 年間(1994 年-2003 年)」務めた伊藤昇平が、JSAE エンジンレビュー誌の依頼で記した「私のコモンレール開発物語(1994 年-2003 年)」(web42)の冒頭で語っている。以下引用させていただくが、その“雰囲気”がよく伝わる文章だ。
『(前略)ある日,部長から席に呼ばれ「おい,今度の BOSCH 来社時に,向こうから恒例の技術プレゼンがあるので君も聞きなさい。」と言われた。
当時,年 1 回ライセンス契約のため,BOSCH 社ディーゼル事業部のマネージメントが来社していた。その際,彼らから「最新の技術動向のプレゼン」があるので,聞いて勉強しろということであった。狭い応接室に 20 人程壁に張り付いた状態で,マネージメントのプレゼンを随行者の通訳者が,「上から目線」の「尊大」な説明の仕方をしていた。「見下された」説明を次長職以下は立ったままで,メモを取りながら聞いていた光景は今でも忘れない。所謂「ダンスパーティーの壁の染み」状態であった。「いつか”あいつら”を見返してみせる!(現在では不適切な表現ではあるが,その時の思いを正確に伝えるために用いたことをご容赦願いたい)」と”負け犬の遠吠え”に似た「何故か悔しい思い」だけが強く残った。』
 随分昔のことだが、「実はディーゼルエンジンの性能の50%は、燃料噴射装置の性能で決まる」という言葉を、某社のエンジン開発担当者から聞き、衝撃を受けたことがあった。デンソーのコモンレール式燃料噴射システムのプロトタイプ(アメリカのスパイ偵察機というか、ロックバンドの名前みたいな“U2”と言う名で当時呼ばれていた)が、そのメーカーのテストベンチで回っていたころだったか、その前だったか、話をお聞きした正確な時期は忘れてしまったが。
 以下はド素人の感想だが、伊藤正男による予燃焼室式エンジンの改良は、戦後の貢献も含めれば、戦前の日本の自動車技術開発のなかで突出した、偉大な功績としか言いようがないが、しかしだからといって、世界のディーゼルエンジンの技術史のなかで、激震を与える類(たぐい)のものではなかったと思う。当時の日本の工業水準全般を思えば当然で、致し方ないことだったのだが。
 だがディーゼルエンジン技術の“本丸”である、ボッシュの技術に初めて先行したという意味で、1995年、デンソー(当時は日本電装)が、日野自動車とのコラボで開発した「世界初のコモンレール式燃料噴射システム」搭載車(下の写真の“ライジングレンジャー”)の市販と、それに続く三菱ふそうの量産大型トラックへの搭載は、世界のディーゼル車の世界に、日本発の衝撃を与えたのではないかと思う。)

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さてこの記事もようやく最後まで辿り着いた。この項で「日本デイゼル工業」もボッシュとのライセンス契約締結を狙っていた、と記した。戦後の「民生デイゼル工業」⇒「日産ディーゼル工業」⇒「UDトラックス」(途中省略したが)へと至る、同社の誕生の経緯と戦前の活動について、記しておきたい。

16.5-7「日本デイゼル工業」の誕生
 まず月並みだが、UDトラックスのHPから、同社の創業時について引用する。
『すべては、創業者 安達堅造の「時世の要求する自動車」を作りたい、というビジョンから始まった。~ 創業者の安達堅造(1880-1942)は、1927年に欧州の産業界を視察した際、このディーゼル車に注目した。安達は「ディーゼルエンジンは、馬力、燃料消費量など多くの点でガソリンエンジンに優れている」と記録に残している。』この事実上の創業者、安達堅造という人物について、(web43)より引用する。
『1901年(明治 34 年)、陸軍士官学校の第 13 期卒業生で、1924 年 12 月の退任まで偵察将校として活躍、退任時は航空兵中佐であった。安達は航空機界に造詣が深く、退役後の 1927年、欧州航空界を視察する機会を得た。その際、日本の航空機が欧米列強と比較して遅れている実態を目の当たりにし、自らが航空界の発展に尽力することを決意する。現地調査では、ドイツの航空機、エンジンメーカー、ユンカース社の飛行機が優れていることに着眼し、帰国後は陸軍の要請で三菱航空機がユンカース社と技術導入契約に尽力するなどユンカース社航空機の導入に活躍した。』(下の安達堅造の写真は、UD TrucksのFacebook よりコピーさせていただいた。
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 16.5-2-2項で紹介した、ユンカースの航空機用ディーゼルエンジンに魅せられた人達は、当時世界中に多かった。(㉒に詳しい)航空業界に造詣が深かったということは、安達もその一人だったのかもしれない。
 以下、日本デイゼル工業から鐘淵デイゼル工業に至る、戦前の同社の概略の歴史について記していくが、創業時のストーリー(創業の目的)に関してだけは、『残念ながら当時の資料が乏しく』(㉗P4)、詳しい(突っこんだ)情報は、webでも本でも見つけられなかった。
 ただそれ以外について、特に不明な点はないので、まずは⑦(「日本自動車工業史稿 3巻」P278~P297)、㉗、③、①、(web41)、(wab40)等を参考にアウトラインを記し、最後に憶測部分ばかりになってしまうが、同社創業時の不明な部分を自分なりに想像して補い、この記事(その6)を終わりにしたい。

 まず上記の安達の履歴の中で、三菱航空機の社名が出てくるが、日本デイゼル工業は、ディーゼル自動車の製造を目的とし、まずはディーゼルエンジンを製造するため、安達堅造と、元三菱航空機名古屋製作所長松本辰三郎の両名が中心となり、資本金600万円で1935年12月に創立した会社だ。ちなみに本社は東京丸の内の三菱二一号館だったようだ。しかし(⑦P284)では、『松本氏は日本デイゼル工業㈱に関し、三菱との間に資本投下などの関係はほとんどなかったといわれている。』と記しているが、今回創業時の株主構成表等、それを裏付ける資料が見つけられなかったので、何とも言えないところだ。(下の写真はwikiより「三菱21号館」。当時の住所は「東京府東京市麹町区有楽町1-1」)
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 会社設立の当面の目標とされた、ディーゼルエンジンの製造だが、16.5-2-5の最初の表に記したように、有力メーカーが多数、すでに参入済みのなかで、これといった母体のない、ベンチャー企業的な日本デイゼル工業は、如何成る勝算をたてたのか。以下(⑦)参考にまとめた。
 安達、松本両氏はユンカースの日本代理店(ホッケス・ウント・コッホ商会)経由で、ユンカース航空機用ディーゼルの特許をベースにした自動車向けエンジンが、クルップで製造されていること、さらに同商会の斡旋で、そのクルップ・ユンカースエンジンの一部の特許権が約300万円で手に入ることがわかり、他社製のディーゼルエンジンと明確に差別化できる、同エンジンのライセンス生産により、国内先行メーカーに十分対抗可能だと踏んだと推察される。(⑦P284参考)以上が、一般的に考えられるところだ。
(⑦;「日本自動車工業史稿 3巻」(自工会編纂)P285)では追い打ちをかけるように、『同社発足のいきさつについて、述べなければならない事項である限り、このように考える以外に、道のないことを改めて付言する。』と、後述するような余計な詮索は無用だと?くぎを刺している。
(③P132)によると、安達と懇意だったという陸軍の原乙未生は、ユンカースとの技術提携の前に訪れた安達に対して、難しいエンジンだと多少忠告めいた批判をしたそうだが、『そのとき安達さんは、平凡なものでは進歩がない、特異なものだからやるのです、とえらい勢い』だったという。
 創業の翌年、埼玉の川口市に21,000坪の工場用地を取得し、輸入品の工作機械の手配とともに、工場建設に着手する。肝心のクルップ・ユンカース製ディーゼルエンジンのライセンス契約も獲得し(1936年11月に本契約成立;①P50)、いよいよクルップのトラック国産化のために、本格的な活動を開始する。
 1936年11月に、クルップからモデル車輛となるトラック2台(2気筒型と、3気筒型各1台)が輸入されて、テスト走行の結果は良好だった。
 1937年2月に簡野信行(航空研究所出身?)が入社するなど技術陣の陣容を整えて、簡野らをクルップ社に派遣し技術習得に努める。一方クルップからは3名の技師を招聘し、技術指導にあたらせたせるなど着々と生産準備を進めていく。
 川口工場の建設も進み1937年11月末に本館事務所が落成し、東京丸の内にあった本社事務室の大部分が移転し、工場部分も完成していく。
 工場では当初は、ドイツからノックダウン部品を輸入し、その組み立てから稼働させていったが、1938年11月末に、2サイクル対向ピストン式2気筒の、クルップ・ユンカースエンジンのライセンス生産品「ND1型(鐘淵と社名変更後には「KD2型」と呼称変更)」の国産初号機が完成する。
 だがその後の生産は、けっして順調とは言えなかった。その理由の一つに『外貨不足の影響を受け、ユンカース社へのライセンス料、特殊工作機械の支払いで送金できたのは半分ぐらいであり、このため操業に入れなかった。』(②P209)さらに、『残りを国内で手当てしたのですが、その頃は工作機械メーカーは手一杯の注文を受けておったために、工場建設がだいぶ遅れた』(③P110)ことがあったという。翌1939年のエンジン生産は、2気筒型9台、3気筒型(「ND2型」(鐘淵時代は「KD3型」)2台に終わった(③P129)。
 一方車輛側だが、最初のトラックの試作車は1939年11月に完成し、3,000kmに及ぶ走行試験を実施、その性能と耐久性を実証するが、この間に経営面では赤字が累積し、トラック1号機が完成した翌月の12月、創業者の安達は業績不振の責任を取って辞任する。(①P50)
 一時は大阪砲兵工廠からの砲弾の加工や、中島飛行機から星型エンジンのコンロッドの生産等を請け負うなどで、当座の窮状をしのいだという。そしてこの頃から、繊維業をベースにした新興企業、鐘紡紡績との提携の模索が始まったようだ。
(下の写真はUD社のHPより、2気筒60㏋エンジン(ND1⇒KD2)搭載のLD3型トラックで、鐘淵デイゼル工業時代からは、TT6型と改称された。ボア径85mm固定で、3気筒型(KD3)は90㏋、4気筒型(KD4)はロスが小さくなり+5㏋の125㏋の出力が引き出せた。さらにボア径100mmと大きい165㏋エンジン(KD5)も追加されて、戦時中は南方の井戸掘り用に使われたという。(以上③P130))
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https://www.udtrucks.com/japan/-/media/images/project/udtrucks/international/about-ud/our-brand/history/1955-image1-857x524.jpg?h=524&w=857&hash=10C6EB0DF21128D90607A81F18BEB2B7
 1940年11月、重工業分野へのシフトを模索していた鐘淵紡績の子会社、鐘紡実業が経営権を取得する。そして1942年12月には、「日本デイゼル工業」から「鐘淵デイゼル工業」へと社名変更され、経営は次第に軌道に乗る。
 エンジンの国産化は、1940年ぐらいまでは、粗形材やポンプはドイツからの輸入に頼っていたが、1941年からは、難物だったポンプも含めて内製化を果たし、国産化を達成する。((web41)P42)
 こうしてエンジン生産は順調に伸びていき、1941年に161台、1941年に361台、1942年に427台、1944年には603台の生産を達成することになる。(①P50)
 トラック生産の方は1940年から2気筒型(「LD3型」、後に「TT6型」)の生産を開始する。3気筒型トラック(「TT9型」)の生産は1941年からだ。生産台数については、各文献でバラつきがあるが、たとえば(①P51)では2気筒型108台、3気筒型が73台の合計181台で、((web40)P116)に掲げてある表からすると1942~44年の3年間でそれぞれ70台と53台なので、いずれにしても総計でも200台以下だったようだ。
 ちなみの車輛全体としてみた場合で、もっとも国産化が難しかった部分は、変速機だったという。クルップではZF社からアセンブリー品を購入していたようで、その部分は図面や工作機械が入手できず、社内で歯車の勉強をしつつ、苦労の末に、新規の変速機の設計製作を成し遂げたという。(以上(web40)P114)
 1942年、創業者の安達堅造が亡くなり、同年、陸海軍の管理工場となる。また鐘紡との提携によって、主力の川口工場(ディーゼルエンジン及びトラックを製造)以外に、繊維系の鐘紡の工場の転用として新たに隅田工場(舶用ディーゼルエンジン)、神根工場(ブルドーザーやトラクター)、城東工場(神根の分工場としてブルドーザー)、市川工場(発電機)の4か所が、生産拠点として拡充される。(㉗P5参考) そして敗戦を迎える。
(以下の写真と文章は、三樹書房のサイトより引用させていただいた。http://www.mikipress.com/books/pdf/767.pdf
『鐘淵デイゼル工業 7.5トン押均機(1943 年)〈日産ディーゼル所蔵写真(平野宏氏提供)〉性能が良いブルドーザと評価が高い。独ユンカース社特許に基づく3 気筒垂直対向ピストンエンジン90 馬力を搭載して、重量は 10.3トンである。この他に 5トン、15トンの押均機があった。戦時中は鐘淵紡績の工場で約 150 台が製造され、戦後も一時生産されたが占領軍(GHQ)により生産中止させられている。押均機は海軍の呼称である。』陸軍は統制型エンジンの時代で、トラック生産が思うに任せず、何とかして活路を見いだそうとして取り組んだブルドーザーの製造だったが、評判が良かったようだ。ちなみにブルドーザーのことを陸軍は「排土機」、海軍は「押均機」と、ここでも呼び方が異なっていた。
『その頃、ブルドーザーを作ったのは小松製作所と私の方だけだったのですが、』(㉚P131;阿知波二郎談)元来小松は陸軍色が強かったため、海軍用押均機の製作は,鐘淵デイゼルが主体となり製造したようだ。((web44)P71)戦後、コマツや日立建機のような企業形態になった方向性もあり得たようだ。)

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日本デイゼル工業は海軍系企業だった
 ここで『残念ながら当時の資料が乏しく』(㉗P4)、『創立の頃のことはわかりません。書いたものによりますと、戦争中ですから怪しげな書類ばかりであります。』((③の1969年3月25日の座談会で阿知波二郎(1942年日本デイゼル工業に入社、座談会当時日産ディーゼル工業専務)の談)という、同社創業時のいきさつについて、③、⑳、⑦、②などの記述を手掛かりに、自分なりに考察してみたい。しかし多分に“想像”を含んでおり、まったくの的外れである可能性も十分ある。あくまで、みなさんの周りにもきっといるであろう、無責任なド素人の“町の歴史研究家”が、自己満足で講釈を垂れる「歴史の推理」の一つに過ぎないものだと理解いただきたい。
 以下からは、手がかりとしていくつか残されている情報の「点」を、自分なりに「線」でつないでいくが、再三記すが軽―く、流し読みしてください。
 まず(⑦P283)によれば、創業時の同社の定款の中の営業品目の1番目として、「ディーゼル発動機の製造販売、ならびにこれに付随する機械器具の製造販売」を掲げている。このうち、“これに付随する機械器具の製造販売”⇒“ボッシュの燃料噴射装置の製造販売”を、すでに念頭に置いていたようにも推測できる。
 前項で記したように、「日本デイゼルの安達社長が、インジェクション・ポンプのライセンスの契約締結を狙って、シベリア経由でボッシュに向かった」(③P96)のは創業の翌年、1936年10月頃だ。
 間一髪の差で機先を制することができた、当時陸軍が後ろ盾の自動車工業の荒牧は、『先口の私との約束を守って、ボッシュは安達さんの申し入れを断りました。やむなく安達さんは方針を変えて、ベルリン南方のテッサウ市にあるユンカース・ディーゼル社に行かれ、その製作権を契約して持ち帰られたのであります。私もこのユンカース・ディーゼル工場を見ておりますが、このエンジンはインジェクション・ポンプが個々のインジェクション・ユニットに分かれているので、単独のポンプはいらない仕組みになっています。安達さんはボッシュ・ポンプのライセンスが得られなかったために、ポンプのいらないユンカースのディーゼル・エンジンを、日本に普及する計画を立てられたものと思います。』(③P97)と語っている。1936年11月に本契約成立、とあるので、その足で、急いでクルップ・ユンカースに向かったのだろう。
(上記は(③P97)=「日本自動車工業史座談会記録集」という、自工会(正確には「自動車工業振興会」)による“公式”の歴史記録集に納められた、1969年3月5日の座談会における、当時いすゞ自動車の副社長だった荒牧寅雄の発言だ。この翌年社長に就任し、その後GMとの提携交渉等を行うことになる人物が、しかもこの座談会には原乙未生、福川国三らかつての陸軍関係者や、三菱重工関係者も同席の上での発言なので、立場上言葉に気を遣いつつも、凡そ確かな内容の発言だったと思う。下は③P87からスキャンさせていただいた、その時の座談会の様子で、中央が原乙未生、手前に寺澤市兵衛、奥が荒牧寅雄だ。)
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(⑳P241)に記述のある、『~軍用ディーゼル機関等の製造がその目的だった。そして、そのためにはボッシュの噴射ポンプをライセンス生産する事が第一と考え、直ちに接触を開始した。』のは事実だと思う。安達・松本両氏による創業時の構想当初から、実はボッシュ製燃料噴射装置のライセンス獲得が、最大の目的だった可能性があるのだ。百歩譲って、少なくとも上記の出来事があった時点では、一般に創業の目的だったとされている、クルップ・ユンカースエンジンのライセンス獲得よりも、優先順位が高かったことは間違いない。
 もう一点、これはどこにも記されていなかったことだが、そもそも「日本デイゼル工業」という社名自体が自分には気にかかる。以下からはさらに、自分の想像(妄想)部分が多くなるので、そのように理解いただければ幸いだ。
 どこかに書いてあったが(どこだか忘れたが)、戦前の日本では「ディーゼル」の表記を、陸軍系が「ヂーゼル」なのに対して、海軍系は「デイゼル」と表記する習わしがあったという。
 自動車は通常陸上で使用するし、陸軍の軍用車需要が大きいので、戦前の日本で自動車製造を志す企業は、「ヂーゼル機器」や「ヂーゼル自動車工業」のように陸軍系の表記に合わせるのが通例だ。
 たとえば「自動車工業」の前身、「石川島自動車製作所」は、1929年5月に「東京石川島造船所」から自動車部門を分離させたものだが、分社の理由の一つは、造船所の方が海軍からの仕事が中心だったため、陸軍からの受注が中心となる自動車部門を分離させたのだという。(8.2-2項参照)大手は別として戦前の軍需関連企業は、“旗色不鮮明”では難しかったのだ。
 ちなみに三菱も、16.5-2-1項の“三菱直噴エンジンの開発”で、三菱航空機本社に、渋谷常務直轄の設計室が設置されて本格的な開発がスタートしたと記したが、その渋谷常務の下ではさらに、海軍関係と陸軍関係では担当が分かれていたような記述もある。(⑮P71)上層部の意思決定も、一枚岩ではなかったのかもしれない。
 「日本デイゼル工業」は当時の常識的には、「日本ヂーゼル工業」と名乗るべきなのに、敢えてそうしなかったのは、この会社の創立時点ですでに、陸軍/商工省寄りであるはずの自動車業界の中にあって敢えて、海軍の旗を高く、明確に掲げていたからだと思う。例によって推測だが、当時の日本の社会では「日本デイゼル工業」という企業は、そのようにとらえられていたと思う。
 陸軍出身の安達だが、陸軍の自動車界隈には今まで見てきたとおり、実力のある大手企業がすでにひしめいており、自動車に関しては未開拓に近かった海軍を後ろ盾に頼った方が、ゼロからスタートするベンチャー企業にとって、狙い目であり可能性も大きいと考えたのではないだろうか。
 もし仮にそうだとすれば、「日本デイゼルの安達社長が、インジェクション・ポンプのライセンスの契約締結を狙って、シベリア経由でボッシュに向かった」目的が、その経歴からドイツに人脈を持つ安達(と松本)が、当時犬猿の仲で有名だった陸軍を出し抜こうと画策した海軍の意を受けて、高速型ディーゼルエンジンの心臓部分であるボッシュの噴射系装置のライセンス獲得交渉に向かったのではないか、という疑念が生まれてくる。
 日本海軍の後ろ盾でもなければ、誕生したばかりで実績も何もないベンチャー企業がボッシュに交渉に向かっても、門前払い同然だっただろうから、陸軍も自動車工業もあれほど慌てる必要などなかったのだ。
 さらに言えばその計画に、間接的だったとは思うが三菱が一枚かんでいたことも、あり得ない話ではないと思う。
 安達がボッシュに向かった1936年10月ごろといえば、陸軍省・商工省主導による自動車製造事業法の施行により、トヨタと日産が許可会社に認定された(1936年9月)直後だ。この後に否応もなく想定される、両省主導によるディーゼル車の一本化政策に対しての強い反発と、ボッシュのライセンス権を陸軍・商工省色の強い自動車工業に独占させない為に、海軍と三菱の思惑が一致し、その流れにくさびを打ち込もうとした可能性も十分あり得たと思う。
 実際、それから2年も経たないが、前項で記したヂーゼル機器設立の経緯の中で、大三菱の組織の中の一部の重役が、当時どのように考えていたのか、その痕跡が残っている。陸軍の斡旋に対して、三菱が全額出資して『一手にボッシュポンプを製造し、ディーゼルエンジンの生産に本格的に乗り出したいと希望を表明』(②P197)しているのだ。
(以上は何度も何度も記すが、まったくの憶測です。綺麗に纏められた下図は、ダイムラー・ベンツのDB601エンジンのライセンス生産の際の購入経緯で「航空機に見る日本陸海軍の確執」という、以下のブログ記事よりコピーさせていただいた。
http://soranokakera.lekumo.biz/tesr/2014/08/post-71f2.html
ヒトラーから「日本の陸海軍は仇同士か」と呆れられたのは有名な話だ。なにせ戦前の日本では、陸軍と海軍は別の目的のそれぞれの戦争を戦っていたのだ。(ちなみにDB601購入の実際の経緯はもっと複雑だったとの意見もあるので下記に乗せておきます。
https://carview.yahoo.co.jp/ncar/catalog/bmw/series_1_hatchback/chiebukuro/detail/?qid=11134718241)

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http://soranokakera.lekumo.biz/tesr/images/2014/08/03/db601.jpg
 しつこいようだが状況証拠?を、さらにいくつか掲げておくと、(⑦P91)に1941年、『海軍関係の自動車工業団体を作ろうとの話が出て、前記菅原氏(横浜の極東特殊自動車)が中心となり、鐘淵デイゼル工業㈱の社長榊春寿氏を会長として、海工会と呼ぶ団体が、銀座の三共㈱の二階に成立した。その事務所は当時鐘淵デイゼル工業㈱の東京事務所があったからである。』との記述がある。同社と海軍との深い結びつきがうかがえるが、いずれにせよ、統制型エンジンの流れと全くかけ離れた2ストロークのユンカース式ディーゼルを選択した時点で、陸軍と疎遠になることは避けられないことだった。
 陸軍の原乙未生は先の(③P96)の座談会で『このエンジンは難しいものですから、戦車関係では採用しませんでしたが、陸軍の燃料廠などはポンプ用に買い上げたようです。』と語っており、陸軍側は、既述のように同社の苦境時に、大阪砲兵工廠からの砲弾の下請け加工の仕事を回すなど、陸軍OBの立ち上げた企業に対して、それなりに気には掛けていたようだが。
 同じ③の座談会で阿知波二郎は『私の方ではトラックも造りましたが、それは全部海軍の施設本部に納めています。』(③P131)と語っている(((web40)P116)では『満州方面と海軍施設本部』としている)。
 以上、日本デイゼルと海軍との結びつきについて、想像しつつ記してきたが、UDのOBの方の中には、創業当初の経緯について、ここで記したような“憶測”ではなく、詳しく正確な情報をお持ちの方も多数おられると思う。そのあたりから漏れ伝わってくる情報が、同社の歴史を扱った既存の自動車の歴史書に於いても、反映されているとありがたかった。
― 以上 ―
※この記事のまとめ部分は、もう少し時間をおいてから追記します。


㉑の引用元(本)
①:「国産トラックの歴史」中沖満+GP企画センター(2005.10)グランプリ出版
②:「日本自動車産業の成立と自動車製造事業法の研究」大場四千男(2001.04)信山社
③:「日本自動車工業史座談会記録集」自動車工業振興会(1973.09)
④:「日本自動車工業史―小型車と大衆車による二つの道程」呂寅満(2011.02)東京大学出版会
⑤:「苦難の歴史 国産車づくりの挑戦」桂木洋二(2008.12)グランプリ出版
⑥:「日本の自動車産業 企業者活動と競争力」四宮正親(1998.09)日本経済評論社
⑦:「日本自動車工業史稿 3巻」(昭和6年~終戦編)(1969.05)自動車工業会 「日本二輪史研究会」コピー版
⑧:「日本軍と軍用車両」林譲治(2019.09)並木書房
⑨:「伊藤正男 トップエンジニアと仲間たち」坂上茂樹(1998.03)日本経済評論社
⑩:「トヨタ自動車30年史」トヨタ自動車工業株式会社社史編集委員会(1967.12)トヨタ自動車工業株式会社
⑪:「西のリラー 東のオートモ(前編)」「轍をたどる」国産小型自動車のあゆみ」岩立喜久雄 月刊オールド・タイマー(2007.08、№.95)(八重洲出版)
⑫:「「久保田権四郎 国産化の夢に挑んだ関西発の職人魂」沢井実(2017.12)PHP研究所」
⑬:「企業家活動でたどる日本の自動車産業史」法政大学イノベーション・マネジメントセンター 宇田川勝・四宮正親編著(2012.03)白桃書房
⑭:「日本の自動車産業経営史」宇田川勝(2013.10)文眞堂
⑮:「ふそうの歩み」三菱自動車工業株式会社 東京自動車製作所(1977.09)
⑯:「日野自動車の100年」鈴木孝(2010.09)三樹書房
⑰:「鉄道車輛工業と自動車工業」坂上茂樹(2005.01)日本経済評論社
⑱:「日本のバス年代記」鈴木文彦(1999.11)グランプリ出版
⑲:「太平洋戦争のロジスティクス」林譲治(2013.12)学研パブリッシング
⑳:「日本のディーゼル自動車」」坂上茂樹(1988.01)日本経済評論社
㉑:「ディーゼルエンジンの挑戦」鈴木孝(2003.07)三樹書房
㉒:「20世紀のエンジン史」鈴木孝(2001.12)三樹書房
㉓:「日本のトラック・バス いすゞ・日産/日産ディーゼル・三菱/三菱ふそう・マツダ・ホンダ編」小関和夫(2007.04)三樹書房
㉔:「日本における自動車の世紀」桂木洋二(1999.08)グランプリ出版
㉕:「三菱ふそうのすべて」カミオン特別編集(2011.05)芸文社
㉖:「いすゞトラック図鑑 1924-1970」筒井幸彦(2021.06)三樹書房
㉗:「UDトラックスのすべて」カミオン特別編集(2013.05)芸文社
㉘:「ドキュメント昭和3 アメリカ車上陸を阻止せよ」NHK取材班=編 (1986.06)角川書店

Webの引用元
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Web(2):「日本の自動車産業はトラックから始まった!! 国内基幹産業の礎を築いたいすゞの一大プロジェクトとは?」fullload web
https://fullload.bestcarweb.jp/feature/359335
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https://ameblo.jp/porsche356a911s/entry-12027635417.html
web(15-3):「★戦前1943年いすゞ大型乗用車PA10型「いすゞプラザ」訪問記 ~自動車カタログ棚から 367」ブログ「ポルシェ356Aカレラ」
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http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=00063512&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA
web(39):「DA40 日本の自動車技術330選」JSAE
https://www.jsae.or.jp/autotech/10-2.php
web(40):「日産ディーゼル黎明期における車輛技術」高尾章 JSAEインタビュー
https://www.jsae.or.jp/~dat1/interview/interview73.pdf
web(41):「ディーゼルエンジン研究の歩みとバス開発」阿知波二郎 JSAEインタビュー
https://www.jsae.or.jp/~dat1/interview/interview7.pdf
web(42):「私のコモンレール開発物語(1994 年-2003 年)」伊藤昇平 JSAE エンジンレビュー誌
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web(43):「埼玉産業歴史探訪」
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web(44)「外地の機械化施工」岡本直樹
https://jcmanet.or.jp/bunken/kikanshi/2015/04/065.pdf
web(45):「1930年代の電機企業にみる重工業企業集団形成と軍需進出」(吉田正樹)=
https://jglobal.jst.go.jp/detail?JGLOBAL_ID=200902196097683534

⑳ 戦前日本のオート三輪史 (日本の自動車産業の“育ての親”は日本陸軍だった?小型自動車と、商工省標準型式自動車(戦前の日本自動車史;その5) 《 前編:独自の発展を遂げたオート三輪と小型四輪車》 )

≪※オート三輪編だけ先に出し、その後の小型四輪車編の部分はあとで追加します。≫

 この記事では自動車製造事業法成立(1936年5月)以前で、さらに前回“その4”で記したフォードとGMのKD生産進出以外の、日本の自動車産業/社会について記していきたい。
早い話が、オート三輪と、小型四輪車のダットサンと、じり貧だった国産トラック/バスについて記すのだが、この記事は《前編:独自の発展を遂げたオート三輪と小型乗用車》と《後篇:商工省標準型式自動車》の2つに分けて、今回は前編のうちの、オート三輪編のみをアップする。

 前回の記事の最後で“商工省、日本陸軍、さらには日本フォードとGM抜きに、戦前の日本の自動車史は語れないような言い方をしてしまったが、実はオート三輪と小型四輪車について、それは当てはまらない。特にオート三輪は人々の日々の営みの中から生まれた、日本独特の自動車だった。

オート三輪は民間主導で発展してきた
繰り返すが、オート三輪は、商都、大阪を中心とした商人たちの日々の生業の中から生まれ、独自に発展を遂げたものだ。国の保護の下で国策として計画的に、軍・官・民が連携しつつ大事に育てられた四輪自動車産業とは違い、民間主導で起こされた産業だった。戦前の四輪車市場を席巻していたアメリカ車と競合しない分野で、『必死に働く庶民のエネルギーを象徴する輸送機関であった』(引用②「懐旧のオート三輪車史」、「はじめに」)。
日本独自の交通体系の中から生まれた他国に無いジャンルの乗り物だったが、軍用には適さなかったために国からの手厚い支援は無く『運転免許などのいわば減免措置であり、保護政策とは異なっていた』(④-4、P167)。しかし市場原理に基づいた競争市場の中で、戦後の一時期まで、国産自動車産業の主流の一角を成していたのだ。

戦後の10数年間は、オート三輪が国内自動車市場の主役だった
この記事の“守備範囲”は戦前なので、戦後は詳しくは触れないが、オート三輪の全盛期は戦後の十数年で、戦前はその“序章”であった。その戦前部分については、本題の“戦前編”に入る前に、この場を借りて最初にまとめて触れて(例によって脱線して?)おきたい。
敗戦後の経済復興の中で、オート三輪は大型化を図りつつ勢いを増していき、今の若い人たちからはほとんど信じがたい話だと思うが、オート三輪界の二大メーカーであったダイハツとマツダの生産台数は、戦後の一時期、トヨタと日産の台数を上回っていた。しかしこの重要な事実を、数字でハッキリと示した情報が、不思議と少ない。そこで今回調べた範囲でここに明示しておきたい。
トヨタですら、乗用車がトラック・バスの台数を上回ったのが1966年だった
まず前提として、戦後の日本の自動車市場は長い間、トラック等の商用車が主流だった。たとえば1952年の小型乗用車は年間たったの4,700台で、オート三輪の約1/10に過ぎなかった(②、P13)。戦前と同様にタクシーが主体だった当時の国内乗用車市場で、国産乗用車の生産台数はごく少数で、トラックが主体の市場だった。  
下表は、トヨタ自動車のHP“トヨタ自動車75年史”のサイトより、「(トヨタ車の)国内生産台数の推移」のグラフをコピーさせて頂いた。
https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/data/automotive_business/production/production/japan/production_volume/index.html)
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https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/data/automotive_business/production/production/japan/production_volume/images/index_graph01.gif
上のグラフはあくまで、トヨタ自動車の分だけの、国内生産台数の推移だが、特に1955年の、クラウン登場以前の乗用車の生産台数の少なさがわかる。国内メーカーの中では、乗用車にもっとも強かったはずのトヨタですら、トラック/バスの生産台数を上回ったのは、1966年以降だったのだ。
 下の表は、上記のトヨタのHPのトヨタ車の生産台数と「日産自動車50年史」(引用㉟)の日産車の生産台数と、さらに別の資料(「日本自動車工業史―小型車と大衆車による二つの道程」呂寅満(引用①))にあったダイハツとマツダのオート三輪の生産台数の数値を合体させたものだ。(表14;「トヨタ/日産(四輪車)と、ダイハツ/マツダ(三輪車)の生産台数比較表」)
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かなり強引なまとめ方だと思うし、三輪車の細かい数字は、資料によってばらつきがあり、多少怪しい?と思える部分もある。しかし、オート三輪と、四輪車の生産台数の傾向は、大筋このようなものではないかと思う。そしてこの表の赤字の部分の、1952年から1955年までの生産台数の数字に注目したい。
その時々の市場において、どのメーカーの自動車が主役だったかをはかる第一の尺度は、やはり生産台数だろう。何度も記すが、生産台数ベースでみれば、戦後の一時期、オート三輪の勢いが圧倒的だった。(⑨)によれば『昭和30年(1955)には10万台を超える生産台数となり、復興のために優遇されたトラックを含む四輪自動車全ての生産台数約3万台を、はるかに凌ぐほどだった。』(⑨、P105)とあるが、四輪の台数はもう少し多かったように思うのだが?不明です。
その中でも、『東洋工業とダイハツ工業がいわゆるトップ争いを演じつつ、シェアを拡大していった』(⑰、P222)。『東洋、ダイハツの2社をあわせた(三輪の)シェアは25年(1950年)の54.0%から27年の57.5%へ拡大』していったという(⑰、P222)。
1952~55年はマツダ・ダイハツがトヨタ・日産の生産台数を上回っていた
下のグラフ(「トヨタ/日産/マツダ/ダイハツの生産台数推移(1935~1956)年」)は、上記「表14」から、4社の生産台数部分を抜き出して折れ線グラフ化したものだ。しつこいようだがどうみても、1952年~1955年の4年もの長いあいだ、ダイハツとマツダの自動車の生産台数は、トヨタ、日産のそれを上回っていた(たぶん)。
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日本の自動車産業史を記すうえで、オート三輪と、マツダとダイハツの重要度がわかろうというものだ。
後の15.3項のマツダの項で触れる、1960~1962年の3年間、軽のオート三輪、K360の大ヒットでマツダが国内自動車生産台数の、僅差ではあったがトップであったことと合わせて、日本の自動車史を語るうえで、もっとクローズアップされるべき事実だと思う。
(下の表は、各社の1951年上期から1957年下期までの半期ごとの売上高推移だ。それぞれの社史(トヨタ;㉘、P796)(日産;㉟、P270、)(ダイハツ;㉙、資料編P22)(マツダ;⑰、頁がふられていない!が終わりの方)から数字を抜き出してグラフ化したものだ。自動車部門以外の金額も含んでいると思われるし、メーカー間で期間も若干ずれがあるが、大体の規模の差はわかると思う。経済評論家や経済学者の方々からすれば、このグラフを見て一安心し、生産しているクルマの単価が違い過ぎるのだから、一概に台数だけでは決められないと主張すると思うし、実際その通りだとも思うが、1951年~1955年頃の売上に限って言えば、大手四輪メーカーと比べても、驚くほどの差があったわけでもなかった。グラフ中の数字は、トヨタとマツダの一部を表示させたものだ。
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なお、古いトラック好きからするとなんとも楽しいブログ“旧式商用車図鑑”さん(web30-1)に、「戦後の「小型三輪トラックの販売推移」」というグラフがあり、そちらの方がわかりやすく工夫されているので是非ご覧ください。アドレスだけ貼り付けておきます。http://blog-imgs-56.fc2.com/r/o/u/route0030/20120703231301293.jpg )
(上で紹介したブログ“旧式商用車図鑑”さんに、戦後の高度成長期と重なる、オート三輪を取り巻く“歴史”を要領よくまとめて記していたので、安直ですが以下、引用させていただく。
『1950年(昭和25年)は朝鮮戦争が勃発した年ですが、この時期はマツダやダイハツ共にオートバイの前半分に荷台を組み合わせたスタイルの車両を制作していました。 
一方小型四輪トラックの方は、ダットサンやトヨタSB型が造られていたものの、まだ年産1万台弱の市場規模でした。
1953年(昭和28年)にかけて三輪トラック市場が急成長している背景には”神武景気”と呼ばれるものがあり、白黒テレビ、電気冷蔵庫、電気洗濯機といった”三種の神器”が家庭に普及しだし、ゆとりのある生活をしだした時代です。』(下のグラフは、その“神武景気”より後の時代だが、「トヨタ自販30年史」P100の数字を元に作成した。やはりTVの急激な普及が目立つが、最初は限りなく0%だった乗用車も10%を超えてきた。)
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『三輪トラックにはウインドスクリーンやキャンパス製の屋根が付き、また荷台の拡大や積載量の増大等により車体が大型化するのもこの頃からです。』(web30-1)
当時は過積載が当たり前だったが、公称積載量が1トン積のオート三輪でも、2、3トンの積載を想定して、普通トラック並みのリアスプリングを採用し、車体側も頑丈に作られていた。さらに小回りが利いて、細い路地でもどんどん走っていけるし、四輪に比べて荷台が低いので積み下ろしの作業も容易だった。確かに最高速度や居住性、乗り心地では四輪トラックには到底かなわないが、まだ高速道路もなかった時代で、高速安定性など求められなかったし、価格も当然安かった。その上、故障しても修理に日数がかからないし修理代も安かったという。荷物運びに徹していたのだ。(⑳、P77~、①、P334等要約)
『しかも、当時の免許制度では、小型車は18歳以上にならなければ所得できなかったが、軽自動車とオート三輪車、さらに50ccのバイクは16歳になれば免許を取得できた。現在のように、誰でもが高校や大学にいく時代ではなく、中学を卒業すればすぐに働く人たちが多かったから、こうした点でもオート三輪車は有利であった。』(②、P23)再び、(web30-1)からの引用に戻る。
『1954年(昭和29)にトヨタから小型四輪トラックのSKB型(のちにトヨエース)が登場し、幾度かの車両価格の値下げによって販売の方は軌道にのり、三輪トラック市場に割って入るようになったのです。その頃の三輪トラックはフルキャビンに覆われ、バーハンドルから丸ハンドルに変更され、小型四輪トラックに匹敵する装備をもちだしました。
1958年(昭和33年)金融引締政策によって景気が後退し“なべ底景気”の時期を迎えた。(東京オリンピックや高速道路、新幹線などの工事を行うことでその後は成長への途を歩んでいきました)
『三輪トラックの方は、エンジンを空冷から水冷にしたり改良を加えるものの小型四輪トラックの勢いに敗れ、1970年代の初めまで大きなモデルチェンジを行うことなく生産がされたのでした。』
(web30-1)以上、戦後のオート三輪史の、簡潔でわかりやすい歴史の要約を引用させて頂いた。
戦後のオート三輪=貧しさから脱するための原動力
戦後の復興期と、オート三輪の全盛期は重なっている。今の人たちにはたぶん理解しがたい、当時の人々がオート三輪に託した心情を、以下はオート三輪史を記した代表的な本である、「懐旧のオート三輪史」桂木洋二監修(②)の「はじめに」からの引用
『(オート三輪は)荷台には満載の荷物が、いまにも落ちそうなほど積まれた姿が似合う乗り物だった。現在の自動車のように安全性や快適性などを言い募っている時代ではなく、そんなことをくどくど言う暇があったら、もっと働け、と叱咤される時代のものだった。効率を求めるというより、貧しさから脱しようとする原動力が、オート三輪を求めていたといえるだろう。』wikiにも書かれているように少しでも多くの荷物を運ぼうと、『小型オート三輪メーカーの2トン積み車でも4トン、5トン過積載していた時代』だった。
(下の写真はそんな「過積載が当たり前」の時代を象徴するような写真として、愛知機械製のヂャイアント三輪車のトラクターの画像を、ブログ“ポルシェ356Aカレラ”さん(web❻-3)よりコピーさせていただいた、愛知機械は戦後のオート三輪業界の八大メーカー(ダイハツ、マツダ、くろがね(日本内燃機)、みずしま(新三菱重工業)、ジャイアント(愛知機械工業)、オリエント(三井精機工業)、アキツ(明和自動車工業)、サンカー(日新工業))のうちの一社で、水冷4気筒1488cc58HPエンジン搭載のAA-24T型は、5トン積(②、P147)トラクターを牽引したようだが、天下の日通といえども、見た目からはどうみてももっと積まれているような・・・。
https://ameblo.jp/porsche356a911s/entry-11665570175.html
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https://stat.ameba.jp/user_images/20160508/17/porsche356a911s/3d/e0/j/t02200165_0800060013640701091.jpg?caw=800
 以下、戦後の高度成長期を象徴する、エポックメイキングな3台(+番外編の2台)のトラックを紹介することで、この時代を別の角度からさらに掘り下げて、“番外編”としての戦後編を終えたい。

オート三輪大型化の先駆、マツダCT型
 1950年9月、マツダが新型のCT型を発売し、オート三輪の大型化に先鞭をつける。その時代の背景を、法規制の面から以下(⑳、P177)より引用
『1951(昭和26)年には、三輪トラックに対する排気量や車体寸法の制限が撤廃された。四輪車に比べて安定性に劣るという構造的な弱点があるとされ、これ以上のむやみな拡大は技術的に難しいという前提で、「制限する必要がない」という意味での制限撤廃だった。しかし実際には、通常の使用で三輪と四輪の安定性に、差はなかった(注;当時は速度が低かったので)。いずれにせよ、どこまで大きくしても構わなくなったのだ。一方で、小型四輪トラックに対しては、道路運送車両法によって全長4.7メートル以下という制限が続く。~ 三輪トラックの絶頂期が訪れる。』(⑳、P177)
こうしてオート三輪はロングボディを用意することができるようになったが、オート三輪メーカー以外の世間一般の認識としては『当時三輪車は「本建築を見るまでのバラック建」てなものという認識が一般的だった』(①、P343)
しかし、過当競争のこの業界では、そうこうしているうちに、マツダに続けとばかりに『50年代半ばまでにはほとんどのメーカーが小型四輪車より大型の三輪車を生産するように』(①、P334)なっていく。
戦前~戦後のこの時期の国内トラック市場において、最大のボリュームゾーンであったのが、フォードとシヴォレーが開拓し、戦前はその両社が市場を独占していた、1~2トン積のいわゆる「大衆」トラック市場だった。
通産省と運輸省の意図としては、この市場は三輪トラックのためではなく、大事に育てていた四輪の自動車産業のために用意されたものだったはずだが、『この大型化によって、1950年代半ばにおける三輪車は750kg~2トン積までのトラック市場をほぼ席巻することになった』(①、P334)!
官側の思惑が外れて、なんと“本命”の四輪トラックを差し置いて、オート三輪がその市場をカヴァーしてあいまうという、非常に不本意な状況が?生まれてしまったのだ。(①、P334参考)
そしてこの、オート三輪の大型(巨大?)化は、後手に回った運輸省が『55年7月に「現在制作されている最大の小型三輪トラックの大きさを越してはならない」という通達を出し、その拡大競争に歯止めがかけられるまで続けられた。(①、P335他)
 マツダのCT型はその嚆矢として、業界初の1トン積トラックとしてデビューした。そしてそのスペックも、非常に先鋭的であった。空冷V2型1157ccのOHVエンジンは半球型燃焼室と油圧タペットを持ち、32㏋と当時としては大パワーを誇った。その他、セルモーター式のエンジン始動、ラバー式のエンジンマウント、フロントウインドウに合わせガラスの採用など、新技術のてんこ盛りだった。
『~この先進的なオート三輪がその後のスタンダードになり、方向を大きく決めた。他のメーカーはマツダを追いかける立場となり、マツダは業界をリードするメーカーとしての地位を確保した。』(②、P84)
1950年当時の同クラスの四輪トラックのエンジンは、トヨタでいえば1947年に戦後型として新規開発した1,000ccのS型エンジンだが、4気筒とはいえSVの27㏋と非力で、パワーでマツダに劣っていた。日産に至っては、戦前の設計を引きずったD10型の860ccSVの21㏋で、大きく引き離されていた。企業としての勢いの差が、エンジン出力の差となって現れたのだと思う。
オート三輪から三輪トラックへ
戦前を思えば、立派に成長したオート三輪だが、CT型の完成は、マツダの事実上の創業者である松田重次郎(15.3項参照)にとっても感慨深かったのだろう。以下⑳より引用『これを機に、当時は健在だった重次郎はオート三輪を「三輪トラック」と名づけ、それまでのオート三輪とは一線を画す製品であることを打ち出した。確かに従来のオート三輪は、オートバイに荷台をつけた印象で、オートバイの延長線上と感じさせる。しかしCT型は、明らかにオートバイというよりは「トラック」の雰囲気を持っている。』(⑳、P176)この記事では区分けがメンドーなので、まとめてオート三輪として表記してしまうが…。
(下の写真はトヨタ博物館所蔵のマツダCTA型(1953年製)で、写真も同館のものです。CT型の発展型で、さらに積載量が多く、2トン積を誇ったという。戦後の復興期で、日本中が少しでも安く、より多くの荷物を運ぼうと必死だった時代に、スペックの面からみても、四輪より需要が大きくなって当然だっただろう。日本のインダストリアルデザイナーの草分け的な存在であった、社外デザイナーの小杉二郎の手になる、生産性も充分考慮に入れたと思われる、鋭角的で、見方によっては恐ろしくモダーンなデザインは、今見ても実に斬新だ。ムチャクチャに思われるかもしれないが、「ニューヨーク近代美術館」に展示されたとしても、おかしくないくらいのレベルにあるようにも思う。)
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https://pbs.twimg.com/media/EaN4kUPU4AEj2ep?format=jpg&name=4096x4096
オートバイ/オート三輪/乗用車・小型トラック/大型トラックが棲み分けしていた
余談の中の余談だが、(②、P10)によれば、『オート三輪車が全盛を誇った1950年代の自動車は、大きく分けて①オートバイ、②オート三輪車、③乗用車及び小型トラック、④大型トラック及びバスという4つに分類される。そして、これら4種類の分野ごとに異なるメーカーが活動していたのが、この時代の大きな特徴だった。』
誤解されないように追記しておくが、たとえば日本のオートバイ産業には、(⑥)の巻末の「日本の二輪車メーカー一覧表」を数えると、かつて278社もあったという。そのカテゴリーの中での過酷な生存競争の末に、今日の4社が生き残ったのだが、1950年代は、各カテゴリー間に於いては『~直接的な競合関係になく、お互いを意識することもあまりなかった』という。

トヨエースの登場で、三輪トラックは引導を渡される
しかしその業界の間にあった暗黙の“垣根”を壊しにかかったのが、当時の日本の自動車業界の中では珍しい、“猛禽類”?的な側面も併せ持っていたトヨタで、トヨエース(最初は1954年型「トヨペット ライトトラックSKB型」で、1956年に「トヨエース」と改名)の登場によってオート三輪の全盛時代はその幕を閉じていくことになる。
元々『SKB型の発想は、S型(注;先に記したが1000cc)エンジンの生産設備の有効活用を検討する過程で生れたものだった。』(㉝、P65)パワフルな1500ccのR型に小型車系を全面的に切り替えたため、宙に浮く形になった、『S型エンジンの利用を前提とした商品の検討を急ぎ進め、その結果、当時根強い勢力を持っていた小型三輪トラック市場の切崩しを狙いとするSKB型の構想が生まれたのである。』(㉝、P65)(余談だがS型の活用としてこのとき、フォークリフトも作られた(LA型フォークリフト、1956年(㉜、P210))。トヨタフォークリフトの始まりだ。考えることに無駄がない。2016年の豊田自動織機の記事で、国内販売台数50年連続 No.1を達成したという記事があるが、たぶん今もその記録を更新中なのだろう。下の写真は豊田自動織機製作所のHPよりコピーさせて頂いた。)
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話を戻し、いわば、有り合わせの材料で作られたトヨエースだったが、しかしトヨタ自工の石田退三と、自販の神谷正太郎のとった、対オート三輪史上攻略のための販売戦略は画期的なもので、その展開も実にドラマチックだった。またもや脱線してしまうが、長い引用で、紹介させていただく。最初の引用は(②、P25)より
『トヨタでは、オート三輪の買い替え周期が、およそ5年前後であることをつかみ、需要が急速に伸びた1950年頃のユーザーが買い替え時期を迎える1955年を目標にして、その前年にオート三輪車ユーザーを引き寄せる小型四輪トラックを発売する計画で開発に着手した。』以下はトヨタ自工の社史の(㉘)より引用。
『わが社の技術陣が、戦後のヨーロッパの自動車市場の動きを調べたところ、特に我が国と同じように戦争による損害が大きかったドイツにおいて、終戦直後は三輪車が急速に伸びたが、やがて復興が進むにつれて、三輪車が次第にキャブオーバータイプの小型トラックや、コマーシャル・トラックに置き換えられつつあるのを知った。そして、こうした傾向が、遠からずわが国においても現れるであろうと推察し、~当時、小型トラックの6倍以上の市場規模を持つ三輪車市場』(㉘、P370)を奪うべく、虎視眈々と狙いを定めていたのだ。(㉘)の自工の社史では“わが社の技術陣が”と強調しており、初期の企画段階では、自販側でなく自工側の主導だと感じさせるニュアンスで書かれているが?そこは不明だ。話を続ける。
 こうして既成の部品を多く流用しコストダウンを徹底させたこのトラックの特徴は、社史にあるようにヨーロッパの動向をにらんで『キャブオーバータイプにしたこと』で、『荷台のスペースを広くとることに成功した』(②、P24)。
しかし、原価計算の結果から割り出された販売価格は、東京店頭渡しで62.5万円(1954年9月、SKB型)で、『三輪トラックの約2割高。売れ行きはさっぱり』(㉝、P66)であった。以下は(⑤、P85)からの引用
『~発売当初は景気も良くなく、目立つ売れ行きをしめさなかった。しかし、徐々に販売台数は上向いた。そこで、トヨタはそれまでの常識を破る販売政策を実施した。このときのトヨタ自動車工業の社長は石田退三で、トヨタ自動車販売の社長は神谷正太郎だった。
トヨタきっての商売人といわれた二人のトップが増販のために打ち合わせて、大幅に車両価格を引き下げると同時に販売体制を強化することになった。1台当たりの利益を少なくする代わりに大量に販売することで採算をとる方針であった。
1956年1月に車両価格を一気に7万円引き下げて、車名をトヨエースと改めたのである。トヨタでは、普通トラックにディーゼルエンジンを搭載して新しい販売店を作っていたが、これを元にして新しい販売チャンネルをつくって大幅に店数を増やして、トヨエースの販売に力を入れた。』

“販売の神様”と讃えられた神谷正太郎が残した名言の中に「一升のマスには一升の水しか入らない」というものがあるが、この時生れた名セリフだ。⑤より引用を続ける。
『これは、明らかにオート三輪車の顧客を取り込もうとする作戦であった。この後も、タイミングよく車両価格を引き下げていき、最終的には46万円とほとんどオート三輪車とそん色がない価格となり、トヨエースの販売台数は鰻登りとなった。
1956年8月には月産1000台を突破していたが、1957年4月には月産2000台に達した。これはトヨタ自動車の生産台数の3分の1を占める数字であった。』
以下は(㉗、P118)
『トヨタの作戦が成功した背景には、日本経済の成長があったものの、次々と手を打った石田と神谷という「商売人」による連携プレーがあった。トヨタは乗用車中心になると見越しても、堅調な需要が見込まれるトラック部門をおろそかにしなかった。これも、その後に日産との企業格差が生じる原因のひとつになった。』
オート三輪のピークは1957年で、その後急速に衰退していった
結局オート三輪のピークはこの1957年であった。『道路事情が改善されてくると、それまではあまり問題にならなかった速度や安定性など、走行性能の面で、三輪は四輪にかなわない。やはり三輪トラックは、社会基盤が発展途上にある過渡期の製品に過ぎないのだ。』(⑳、P182)
(逆の言い方をすれば、1957年までは、日本の自動車市場はオート三輪が主流だったことになる。下図は(㉛-2、P144とP146の資料を元に作成した、道路投資額と道路舗装率の推移。自動車重量税をはじめ自動車関係諸税による税収の確保で、日本の道路も着々と整備されていき、走行速度も高速化していった。)
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三輪車は、宿命的な欠点を併せ持っていたので、社会インフラの整備が進み四輪車が普及すれば、いつかは消え去る運命にあったものの、トヨエースが引導を渡した形となり、その後急速に衰退していった。そしてこの“正常化?”は、自動車行政を司る国(通産省と運輸省)側にとっても、望ましい結果だったに違いない。
トヨエースの登場は、マツダとダイハツにも幸いした?(私見)
しかしこのトヨエースの登場を、ダイハツとマツダの側の視点からみると、賓よくなトヨタが早々に引導を渡してくれたおかげで、両社はズルズルと、出口のない深みに嵌る直前の段階で脱皮を迫られて、結果として何とか、四輪自動車メーカーへの転換を果たせたともいえると思う。マツダとダイハツは、トヨタ自工&自販が放ったトヨエースという「刺客」に、感謝すべき面もあったと思うが?ただしあくまで、今となって考えれば、の話ですが。ちなみにトヨタ自販の社史では、トヨエースが日本の自動車市場/業界に対して果たした役割について、以下のように記されている。
『トヨエースの成功は、自動車業界に新たな動きをもたらした。すなわち、従来のボンネット型の貨客兼用車に加えて、積載本位のキャブオーバータイプのトラックが各社からつぎつぎと発売され、市場を形成した。それに伴い三輪トラックが急速に衰退する運命をたどり、三輪トラックメーカーの四輪車分野への進出が始まった。』(㉝、P67)
(下の写真はそのSKB型で、JSAEの「日本の自動車技術330選」より。以下(㊱-3、P11)『このクルマの出現で、バーハンドル車オーナーは激しい劣等感を抱いた。それゆえ、50年代末にはバーハンドルを丸ハンドルに改造するキットまで販売されたほどである』
まったくの個人的な好みでいえば、乗用車/トラックを問わず80年以上の歴史を持つトヨタの歴代全車種の中で、歴史的なこのSKB型トラックがもっともグッドデザインだったと思う。徹底したコストダウンを貫徹したが故の、無駄のない合目的なデザインだった。なおトヨタ博物館によれば、カンフル剤は「値下げ」とともに、「車名公募」であったという。募集数は20万通以上に及んだという、その最終候補に残ったのが「トヨエース」と「トヨモンド」で、審査員による最終評決(6票対4票)でSKB型は「トヨエース」に決まったそうで、「トヨモンド」の可能性もあったそうだ!(web27-2))
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https://www.jsae.or.jp/autotech/photos/3-12-1.jpg

軽のオート三輪、ミゼットの大ヒット
 ダイハツのミゼットは、webで検索すると多くの情報があり、映画の“出演”も多かったせいか、たぶんすべてのオート三輪の中でもっとも話題が豊富だ。その中で安直だが、wikiの記述が簡潔にまとまっているので、そのままコピペして引用させていただく。『ダイハツは、これまでオート三輪でも高価で手が届かず、専ら自転車やオートバイなどを輸送手段としていた零細企業・商店主などの、小口輸送需要を満たす廉価貨物車の開発を着想した。これは当時におけるいち早いマーケティングリサーチの成果であった。1950年代中期の日本能率協会の調査によれば、従業員10人以上の事業所には小型オート三輪トラックが相当に普及していたのに対し、全事業所数の93 %もの比率を占めた従業員9人以下の小規模事業所ではオート三輪はほとんど使われておらず、オート三輪メーカーにとっては未開拓のマーケットだったのである。』
ミゼット誕生のきっかけとして『1956年(昭和31年)夏のある雨の夜に大阪梅田を歩いていた同社社長と専務は、ビールを積んだスクーターが横転し、すべてのビール瓶が割れるという光景を目撃した。こんな時に幌付三輪スクーターがあったら・・・という発想が生まれ、ミゼットの開発に活かされたというエピソードが』(web30-3)あるようだ。Wikiからの引用を続ける。
『このため、車検免除(当時)や安い税額などのメリットを持つ軽自動車枠に目をつけ、当時存在した軽自動車免許(現在は普通自動車免許に統合され、未済条件として存続)で運転できる軽オート三輪トラックを開発した。開発は1954年(昭和29年)から着手され、1956年(昭和31年)には試作車が完成した。』以下は⑱より引用『(1958年)8月に市場デビュー。英語で「超小型のもの」という意味を持つ、ミゼットの愛称が与えられた。』(⑱、P28)以下もwikiから引用
『販売戦略も、その軽便性を売りとする「街のヘリコプター」なるユニークなキャッチフレーズ、楠トシエの歌うコマーシャルソング「みんみんミゼット」など個性的であったが、特筆すべきはテレビコマーシャルのいち早い活用であった。当時ダイハツがスポンサーとなっていたコメディドラマ「やりくりアパート」(1958年 - 1960年)の生CMに、ドラマの主役である大村崑を起用、番組終わりのCM枠では毎回、大村がギャグ混じりで両手を扇形に広げるアクションとともに「ミゼット! ミゼット!」と連呼した。これらの拡販策は大当たりとなり、ミゼットは一躍ベストセラーとなった。』(下の折れ線グラフは、ミゼットが生産されていた頃のダイハツの生産台数の推移で、ダイハツの数字は社史の㉙、P42より、参考までに載せたトヨタの合計の数字は自販の社史(㉝)のP74からとったものだ。このグラフからはやはり、トヨタとの勢いの差が感じられる)
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(下の写真は軽三輪車という新しいジャンルを開拓したダイハツミゼット。ミゼットはタイの三輪タクシー「トゥクトゥク」のベースとなった点でも重要だ。少々長くなるが、以下(web❽)より引用『オート三輪は日本国内のみならず海外にも輸出され、(中略)中でも東南アジア方面へは敗戦国日本の戦後賠償として大量のオート三輪が輸出され、特にダイハツミゼットは中古車や解体車の部品が無償で輸出され、東南アジアではトラックとしてだけでなく、荷台を客室に改造し軽便な旅客輸送車両としても重宝されました。』こうしてダイハツミゼットをベースに「トゥクトゥク」が誕生するのだが、驚くべきことに、(web❽)によれば『~日本のダイハツミゼットの末裔ということは現在もタイを走り回ってるトゥクトゥクの部品とダイハツミゼットの部品と互換性があるのか?(中略)答えは「Yes」』なんだという。想像以上の血のつながりの濃さだ。トヨタ博物館所蔵の1959年製DKA型は初期型で、写真も同館のものです。ミゼットは1957年~1971年まで生産されたが、その生産台数は317.152台(輸出台数 19.382台)に達したという(web30-3)。)
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以下の2台のトラックは“番外編”として記す。戦前フォードとシヴォレーが開拓し、戦後の一時期はオート三輪が握っていた、普通免許で乗れる2トン積級のトラックの市場を受け継ぎ、さらに発展させた、“正統的?な後継車”として、トヨエースの上のクラスを担った2台のトラックを紹介しておきたい。
小型トラックの代名詞、いすゞエルフ
1台目は小型トラックの代名詞的な存在であるエルフ。以下の説明文は「日本自動車殿堂 歴史遺産車」(web❼-5)より引用
『いすゞエルフは、日本の狭い道路事情で「最も効率よく荷物を運ぶ」という目的を達成するため、1959年にいすゞ自動車初の本格キャブオーバー 2 トントラックとして誕生した。
(中略)広いキャビンと良好な視界、 3人乗りのベンチシートなど、キャブオーバートラックとしての効率的なレイアウトの追求と、耐久性・経済性に優れたディーゼルエンジンの採用により、市場の高い支持を得て、ベストセラー小型トラックとしての基礎を確立した。』
エルフという名の由来だが『エルフとは英語で「小さな妖精=茶目っ気少年」の意味で、いすゞの乗用車ヒルマンのミンクス=おてんば娘と称されたのに合わせて命名されたといわれている。』(㉓、P52)“ミゼット”の名前の由来に似ているが、大型トラックが主体だったいすゞにとっては、小さなトラックだったのだろう。
画像は“response” https://response.jp/article/img/2020/08/25/337781/1554031.html
よりコピーさせて頂いた。小型トラックの世界に、ディーゼル・エンジン車を定着させて、後に続いた三菱キャンターと共に、2トントラックの市場を牽引していった。
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https://response.jp/imgs/fill/1554031.jpg
“4トン車”市場を定着させた、三菱ふそうT620
“番外編”の残りの1台は、現在に至る4トン積中型トラック市場を本格的に開拓し、その初代王者として君臨した、三菱ふそうT620型。この歴史的なトラックの誕生の経緯については、一般で入手可能な本としては、㉕が比較的詳しかったのでそれをガイド役に、さらにインサイドストーリーが記されている(㉛、ふそうの歩み)と(web30-4)で補足しつつ、以下要約して引用させていただく。
戦後の三菱車を説明する上でややこしいのが、三菱重工業が、戦後3社に分割されたことで、自動車関連は、東京(丸子)・川崎でふそうトラック/バス、名古屋で各種車体、京都でエンジン、岡山・水島でオート三輪やスクーターの生産を行う等、各事業所で分担?していた。しかし、1964年に旧三菱重工系の3社が合併し、再び三菱重工業として復活していく過程で、自動車分野も整理・統合されていく。
中型トラック分野では、三菱はもともと先駆者で、オート三輪等をつくっていた水島製作所で作られたジュピターという、他社にない大きさの2.5~3トンクラスのボンネットトラックのシリーズがすでにあった。
水島では、下火になったオート三輪に代わる生産品目としての位置づけだったが、一方大型が中心だった川崎/丸子のふそうトラック部門では早くも『1950年代には5トン前後の中型トラックの占めるシェアが大きかったことから、このクラスへの参入計画が立てられた』(㉕、P110)という。下表は(㉛、P335)に記載されていた、1952、54、56年度の普通トラックの生産台数の数字を元に作成したグラフだ。この表では参考用として、日産とふそうの数字だけ示しておく。元データの数字がまるめてあったので、参考扱いとしておくが、全体の傾向はわかる。
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この表を見ると、普通トラック(大ざっぱに言えば、5トントラック以上の大きさ)の市場は、戦前から商工省に目をかけられて、大事に育てられてきた、トヨタ、日産、いすゞのいわゆる“御三家”の台数が突出している。そしてこの3社が握っていた、5トントラックの市場に、ふそうが参入したかった気持ちは理解できる。日野やふそうは当時その上の、より需要の少なかった7~8トンクラスの大型トラックの製造を担っていたのだ。話が脱線するが、それにしてもこの時代は、トヨタも日産も5トントラックの生産台数が多かった。戦前から軍用トラックを量産していたのだから当然なのだが、たとえばクラウン登場以前のトヨタは、小型四輪車と普通(大型)トラックの生産台数に、大きな差はなかったのだ。下表も(㉛、P334)の生産台数の数値を元に作成したものだ。参考までに。
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話を戻し、ふそうが大型トラックメーカーから総合トラックメーカーへと発展するために、(㉛、P491)によれば早くも1954,5年頃から、中型トラックの検討が始まっている。その際、電通に委託して2度にわたり大規模な市場調査まで行い、高い出費だったようだが『この調査により四トン車進出への自信は固められ、後年十二分に報いられた』(㉛、P494)という。その後、1958~9年頃に中/小型平行検討となり、エルフの登場もあり、小型の開発が優先されたが、中型トラックの方は、足掛け7年かかり1961年11月に、漸くに試作1号車が完成する(㉛、P492)。
この中型トラックは、4気筒2,000ccのキャンターのエンジン(4DQ型)を6気筒化した3,000cc102㏋/4,200rpm(6DQ型)という、比出力の非常に高い高回転型のエンジンを搭載する計画で進んでいた(余談だが、4DQ型の前身だった4DP型は当時の小型車規格内であった1,500ccにして、52㏋という高出力型で、1960年度の日本機械学会賞を受賞したそうだ。)
しかしこのエンジンでは余裕が少なく、将来的なパワーアップ競争に耐えられないと判断されて、急遽、より大排気量のエンジンを新開発(6DS1型)し、置き換えることになったという。(㉕、P113)この間、水面下では事業所間で、生産品目の整理統合(それと内部競争も?)もあったのかもしれない。(下の表は㉛、P336で記されていた数字をグラフ化したもので、1960→1965年の大型トラックの生産台数の推移で、やはりふそうの伸びが目立つ。数字はふそうのみ示しておく。)
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ふそうの社員の生の声を綴った(㉛)では、当時のふそう開発陣の気持ちとして『全員が「トラックで飯を食うんだから、まず日野を抜きたい」の一点に結集して努力をしているうちに、完全に抜き切ったと判った頃にはいすゞも下がって来ていて、自動的に抜いていたというのが実感であった』(㉛、P427)と記されている。もともと潜在的な力はあったのだろう。もっともその後、日野も激しい巻き返しに転じて、大型トラック分野ではこの2社を中心に、熾烈なトップ争いを繰り広げることになる。あの事件が起きる前までは・・・。
1964年10月、最初の企画から約10年という、長期計画になったが、満を持して、4トン積み中型トラック“ふそうT620シリーズ”がデビューした。そのスペックは、同クラスの他車を圧倒し、余裕ある6気筒4,678㏄(110ps)ディーゼルエンジンを搭載し、普通免許で運転できる最大の積載量を誇った。荷台長も4,270mmと6トン積トラックに匹敵する長さで、しかも荷台が低く積み下ろしも楽だった。キャブオーバー型スタイルのキャブの室内は、乗車定員2名が普通であったところ、3名乗車が可能だった。発売以来わずか2年7ヶ月で国内販売累計2万台を突破し、中型4トントラックの市場を確定させた。(㉕、P113、web30-4参照)その後、巻き返しを図る日野のレンジャーや、いすゞのフォワードなどと、激しいシェア争いを繰り広げていくことになる。
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上の画像はなんと、ユーチューブの「#旧車カタログ #三菱ふそう4トントラック #T620」https://www.youtube.com/watch?v=L0lgO10ydRA
からコピーさせていただいた。それにしても、この歴史的なトラックの情報が、webであまりにも少ない・・・。)
早くも延々と脱線してしまったが話を戻し、オート三輪が、4輪の自動車のように“人工的”に育成されたものでなく、戦前/戦後の動乱の時代に、必死に働いた日本人の、日々の生活の中から生まれたのであれば、そのルーツは何だったのか、まずはそこから確認していきたい。
(※いつものように文中敬称略とさせていただき、直接の引用/箇所は青字で区別して記した。また考える上で参考にしたものや、写真の引用元まで含め、出来るだけすべての元ネタを明記している。この記事のたぶん9割以上が、それら参考文献に依存するものだが、今回は特に以下の三氏の著作に多くを頼ったので、最初にネタばらしをしておきたい。
・呂寅満著『日本自動車工業史-小型車と大衆車による二つの道程-(東京大学出版)=引用①』と、
・『懐旧のオート三輪史(GP出版)=引用2』をはじめとするGP出版の桂木洋二氏の一連の著作(他に引用⑤、⑦、㉖、㉗、㉜)及び、
・マニア向けの旧車誌、月刊オールドタイマー(八重洲出版)の連載記事、『「轍をたどる」の中の、「国産小型自動車のあゆみ」編』岩立喜久雄氏(④-1~④-×)
以上三氏の著作だ。以下に記していくこの記事は、これらの著作から勝手に“つまみ食い”させていただいたことをあらかじめ記すとともに、深く感謝します。引用に掲げた三氏の著書を読めば、この記事はまったく不要(その大幅な劣化版なので)であることも明記しておく。特に今回、ダイハツの情報収集に苦労し、ダイハツの社史(引用㉙、㊴)を購入し確認しても内容が薄くがっかりし、困り果てていた時に出会ったものが、月刊オールド・タイマー(八重洲出版)の「轍をたどる」という60回に及ぶ連載記事の中の、「国産小型自動車のあゆみ(編)」という一連の記事だった。
岩立喜久雄氏によるこの労作が、「戦前の国産小型自動車のあゆみ」として近い将来、一冊の単行本として出版されて、より多くの方々に読まれることを切に期待したい。ただしその際には、ダイハツとマツダの車種の変遷ぐらいは、十分情報をお持ちだと思うのでぜひ書き加えていただきたいが!マツダ車については現状でも情報は得られるが、戦前のダイハツ車については、貴重な情報になるので。
 以上は戦前の国産小型三/四輪車の、自動車マニア的な側面も含めての、“歴史”についてまとまるうえで参考にしたものだが、自動車産業史としてみた場合、全体の基調を確認する上で多くを頼ったのが、先に掲げた桂木洋二氏の一連の著作と共に、呂寅満氏の著書(『日本自動車工業史-小型車と大衆車による二つの道程』;引用①)だった。
というか、今回の一連の記事(日本の自動車産業の“育ての親”は日本陸軍だった?)を書き進めるうえで、全般的にもっとも影響を受けたのがこの本だった。もちろん、同書の内容のすべてに賛同したわけではけっしてない。しかし少なくともこの本には、同時代の日本の研究者/モータージャーナリストにはない“勢い”というか、ほとばしるエネルギーが感じられた。著者は1996年から2005年にかけて、韓国から日本に留学して日本の自動車産業史の研究をされたようだが、氏の思いは同時に、日本に追いつき追い越そうと必死だった、当時の韓国自動車産業の思いでもあったのだろう。それにしても、日本の戦前の自動車産業史を記すうえで、韓国人の研究者の著した本がもっとも参考になったという事実には、少々考えさせられるものがある。そして呂氏の研究に明らかに影響を受けたと思える書き物は、今の日本に多いように思えるが、参考文献として掲げていないものがほとんどなのは、如何なものかと感じてしまう。もっともその影響が、二次的なものだったりする場合もあるので、影響を受けたこと自体、わからない方々が多いのかもしれないが。下の画像はアマゾンよりコピーした。)
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14.オート三輪へと至った道
生活者目線で日本のクルマの歴史のおさらいをする
ご存じのように明治以前の日本の社会では、欧米のような馬車という乗り物がなかった。そもそも江戸時代は統治上の理由から、スピーディーに移動することを奨励しなかったので、人々の移動手段は、駕籠(かご)もあったがもっぱら徒歩に頼った。
そんな日本だったが、幕末~明治にかけて『交通史家である斎藤俊彦(注;③の著者)によると、欧米諸国では、馬車を中心とした長い道路輸送時代を経たあとで、鉄道の時代が始まったのに対して、日本では、馬車、鉄道、馬車から鉄道への過渡的な役割を果たした鉄道馬車、自転車などの「舶来品」が、幕末から明治初期にかけてほとんど同じ時期に導入された。それらに日本人が編み出した人力車が加わって、日本独自の交通体系が形成されていった(㉚、P63)のだという。
そして戦前の国産自動車産業をみた場合、四輪の中でもいわば本流であった大衆車クラスの乗用車とトラックが、フォードやシヴォレーのKD生産車に市場を席巻される中で、国産車は軍用トラックや省営バスなど官需主体でかろうじて生き延びていたのと違い、オート三輪は『民間の需要に応じるための性能や価格を備えた製品を保護政策なしに供給する「下からの形成過程」』(①、P144)を経て独自に発展を遂げていった。そして『長期間かつ多量に三輪車が生産されたのは日本のみ』(①、P138)という、世界的に見ても例をみない、独自のクルマ社会を形成していったのだ。
そこで、日本固有の、クルマ社会の歴史を簡単に振り返りつつ、オート三輪へと至った道のりを確認していきたい。まずは日本人のための乗り物として、日本のクルマの時代の先駆けとなった、人力車の話から始める。以下は(㉚、P82)から引用する。

14.1日本人の代表的な交通手段だった人力車
『馬車や自動車では後れをとったが、日本人が発明した乗り物もある。まずは、文明開化の時代、日本人の生活の中に入り込んだ「人力車」。最初は乗ることが照れくさかったようであるが、乗ってみると、実に爽快。長らく身分制度に縛られた生活をしてきた人々にとって、背伸びをするような解放感、少し高いところからの目線で見る景色、ワクワク感があったようである。』この“解放感”の背景の一つとして(④-3、P168)『江戸時代幕末期までは諸車の使用が一部の地域、江戸、京、駿府、大阪などに限定され、その他の地域では厳しく禁じられていたが、明治維新と共にこれらの車両が一気に解禁』されたことが影響していたようだ。
14.1-1明治時代にクルマといえば人力車のこと
以下は(④-3、P168)より『明治期に最も活躍したクルマといえば、それは何と言っても人力車であった。~ 現在の我々は自動車のことをクルマと略称するが、明治期は人力車をクルマと呼んだ。たとえば我々はタクシーを呼び出すとき「クルマを呼ぶ」というが、明治の人はまったく同様にクルマ(人力)を呼び付けた。』(④-3、P170)そして人力車の普及は『鉄道立国の明治は産業経済の分野で蒸気機関車が大役を果たしたが、市井において小さな人力車が人の効率的な移動に寄与した経済効果は計り知れない。』(④-3、P168)
以下も(④-3、P172)からの引用『二輪馬車の車夫の中には1日に36里(144km)を引き、東海道(約500km)を7日で走り抜く者もあったという。市街地を駆け抜けるこれほどの高性能?な貨客運搬用小車は、西欧にもなかったろう。』狭い道幅の当時の環境下では、人力車がもっとも機動性が高く効率的な乗り物であったようだ。
14.1-2当時の日本はクルマ後進国ではなかった?
以下も(web❶)より引用『人力車が日本の代表的な公共輸送機関に取って代わった。1876年(明治9年)には東京府内で2万5038台の人力車があったと記録されており、19世紀末には20万台を越す人力車が日本にあったという。人力車は大阪でも使われるようになり、全国へと普及していった。各地に中継地ができ、道路も整備されていった。』
その普及のスピードだが『さらに信じがたいのは ~ 明治3年に東京で発生した新奇な乗り物が、わずか5年の間に10万台も普及』したことで、短期間に、ほとんど爆発的とも言えるほどの急激な普及だったと論じている。(④-3より)
さらに、大蔵省統計で明治29年(1896)年の約20万台という保有台数は、当時の人口を約4千万人とすれば、人口200人当たり1台の人力車があったことになり、『~人力車を最小サイズのクルマとみるならば、当時の日本は決してクルマ後進国ではなかった。むしろそれなりのクルマ大国であったとさえいえよう。』(④-3、P172)と、けっして“クルマ後進国”ではなかったとしている。
前回の記事で、昭和10年頃の日本には、全国で約5万台の円タクがあったと記したが、乗り物としてのスケールが違い過ぎるとはいえ、台数ベースの比較では明治時代の人力車のほうが、戦前の昭和の円タクより4倍も多かったことになる。そして明治時代の人力車の普及が、昭和の円タクの普及の下地を作っていたことになる。
(人力車がどんな乗り物なのかの説明はさすがに省略する。画像は「人力車の歴史」(web❶)より コピーさせて頂いた。http://edomingu.com/jinrikisha/jinrikisha.html
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14.1-3人力車は日本人が発明した?
ちなみに人力車の発明者については、㉚などいくつかの本では日本人の和泉要助(ら)が発明したとしている。(たとえば『人力車の発明についてはいろいろの説があるが、日本では1868年に和泉要助、高山幸助および鈴木徳二朗によって発明されたとされている。彼等は馬車をヒントに人力車を作製した』(web❷、P35)という記述のように。)
 一方(④-3)『和泉要助、鈴木徳二郎、高山幸助の3名が提出した人力車営業願書に対し、東京府が許可を与えたのは事実だ。しかしだからといって和泉要助が人力車の代表的な発明者だったとは限らない。前述の通り人力車の改良、量産に最も貢献した功労者は秋葉大助(1843~1894)であった。』(④-3、P170)と、秋葉大助の功績が大きかったとしている。詳しくは(④-3)をぜひ確認してください。(web❶)でも『秋葉大助が西洋馬車にヒントを得て改良した舟型が祖型となった』としている。岩立氏が指摘しているように、人力車は和泉要助ら、特定の人物の“発明”によって誕生したわけではなく、多くの日本人の手を経て完成したものだと言えそうだ。
14.1-4すでにパリの道を走っていた
しかし残念なことに、交通史家である斎藤俊彦氏によれば、『人力車は日本独特の発明だと言われてきたし、誰でもそのように思ってきた。しかし、今から300年ほど昔の十七世紀から十八世紀にかけて、花のパリの道路を走っていた』(③、P39)という。『人力車はけっして日本独特ではなく、かつてのヨーロッパでも一時利用されていた』(③、P41)とし、さらに歴史をたどれば、中国などでも使われていたようだ(wiki等参照して下さい。)
 この指摘に対して(④-3)の中で岩立喜久雄氏は『~また人力車は18世紀フランスのビネグレットが原型との説もあった。確かにビネグレットも含めてほとんどの欧米製品が輸入されただろうが、日本の車大工ならば様式馬車の実物を観察しただけで、ただちに鍛冶屋に板バネを作らせ、人力車の原型を試作できたに違いない。ビネグレットと人力車では用途もレイアウトも異なり、性能も人力車のほうがだいぶ進化していた。』と新たな“定説”に対してやんわりと反論している。
 さらに、人力車が日本で生まれた最大の理由として、『二輪車のミニマムレイアウトを人間が引いた最大の理由は、単純に日本の道幅が狭かったからである。轅(ながえ、かじ棒)の先端で引き回すため、何よりも小回りが効き、取り回しが良く~』(④-3、P172)と記している。確かに、必要は発明の母だ。
さまざまな意見があるが、個人的な“感想”としては、“Rickshaw”(リクショー=“人力車”のこと。日本由来の英語になった)は、岩立氏の見方のように、確かに二輪馬車の縮小版で、板バネの技術等、その影響を受けつつも、やはり日本固有の社会と風土が育んだ、日本独自の乗り物だったと、理解して良いように思える。まわりくどい表現だが、そうだとすれば、誰か特定の人物の“発明”というわけではなく、人力車は日本(人/社会)が“発明”した乗り物として、解釈すべきように思えるのだが、如何でしょうか。
(下の画像は、https://www.wikiwand.com/fr/Vinaigrette_(v%C3%A9hicule)より
コピーさせて頂いたもので、ビネグレット(Vinaigrette)の一例。17,18世紀頃、フランスの貴族階級が旅行や外出の際、使っていたもののようだ。やはり人力車とは別の種類の乗り物だったと思いたい。ちなみに人力車に対して、欧米からは、人間にクルマを曳かせる行為は、人間の奴隷扱いで野蛮だとの批判もあったようだが、岩立氏の指摘のように現実問題として、明治時代の日本の狭い道では、人力がもっとも機動的で、それしか成り立たなかったのだろう。)
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https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5f/Beauvais-FR-60-CPA-une_vinaigrette-01.jpg/440px-Beauvais-FR-60-CPA-une_vinaigrette-01.jpg
14.1-5重要な輸出産業だった
日本人の発明であったかどうかは別としても、wiki等によると人力車は産業面でもアジア各国へ輸出され、特にインドでは、明治40年代、年間1万台が日本から輸出』されたというからすごい。
『1896(明治29)年の21万台をピークに以後は減少していくが、その代わり、人力車の輸出が増加し、それらの地域で大変重要な乗り物として定着していく。主な輸出先は中国や東南アジア。さらには周辺諸国にも広がっていった。インドのコルカタ(旧カルカッタ)ではいまでも使われている。』(③、P82)そうで、アジアを中心に人力車の世界的な普及に貢献した。先に(④-3)からの引用で、人力車の普及に最も尽した人物として、秋葉大助を紹介したが、以下は(web35、「人力車の歴史について(くるま屋)」)で、輸出を含む、秋葉の功績を要領よくまとめていたので、以下引用させていただく。
『⑤秋葉大助の貢献
秋葉大助(父子)は人力車の歴史を語る上で決して外す事の出来ない存在です。秋葉製の人力車は非常に好評で、彼の作った人力車を大阪では「大助車」と呼んだほどでした。
⑥東京銀座にあった明治期最大の人力車製造工場
「諸車製造所秋葉大助」
大助はそれまでの粗雑で殺風景な人力車を一新させ、車体に漆を塗ったり車軸にバネをつけたりして改良に様々な苦心を払いました。その結果、だいたい現在の人力車の形になり、乗り心地が快適になりました。
和泉らが営業を始めてからしばらくは人力車の形には様々なものがあり、腰掛型、坐型、二輪、三輪、四輪、ちりとり型、だるま型など、多種多様だったが明治8年ごろには現在の人力車と近い形に落ち着きました。それには初代大助の貢献が極めて大きいと言われています。
また、この年に初めて英・仏への人力車の輸出を開始し、その後次第にシンガポールやインドなどへと輸出を拡大していきました。』
(以上、web35より引用)
 以下は(④-3、P171)より『~ゴム製のタイヤ、さらには空気入り(ニューマチック)タイヤの特注から輸入、ひいては国産自転車工業の発展に至るまで、秋葉大助商店が各業界に与えた影響は大きかった。~ 上海での現地生産や、年間1万輌の輸出など、人力車製造は日本の代表的な輸出産業の一つに成長していた。』人力車の説明の最後として、たびたびですが、月刊オールド・タイマーの連載記事の(④-3、P177)から引用
『~なぜエンジンも付いていない人力車を自動車史で取り上げるのか?と疑問に思われた方もあろう。
 ただこれらを通観してみれば、日本人によるクルマ製作は、欧米から自動車が輸入された後に、初めてそれを模倣するところから始まったのではないことに気付かれるのではないだろうか。小型で効率の良さを追求した日本車の要素は、人力車の時代からすでにはぐくまれていたのである。』まず人力車作りのための産業が興り、それが自転車産業へとつながり、オート三輪へと発展していった。『一般にわが国の自動車の製造技術は、欧米製の輸入車から学び、それを模倣することで習得したとみる向きが多いが、じつはそればかりでない。ことに小型自動車の分野では、これら人力車、自転車の部品工業からのフィードバックが絶大であった。』
(④-8、P170)
この14.1項の冒頭に記したが、呂寅満氏や岩立喜久雄氏の指摘の通り、日本の自動車産業の生成過程においては、大衆車(この一連の記事で何度も何度も記してきたが、フォード、シヴォレーのクラスで、かなり大きい)と、小型車という二つの大きな道筋があったのだ。自分のこれまでの、一連の記事では延々と、“主流派”だった前者について記してきたが、今回の記事では長年傍流扱いされてきた後者の系譜を、その発端から記していくことになる。
(しかしそんな人力車も、市街電車などの発展と、廉価で大量にKD生産された自動車(≒アメ車)の“円タク”によって駆逐されていったのは前回の記事で記したとおりだ。確かに徒歩(時速4km/h)よりは速かった(8~10km/h)が、当然ながら自動車のスピードと輸送力には到底かなわない。駕籠→人力車→(輪タク)→円タク(自動車のタクシー)への進化の軌跡は、やはり絶対的なパワーの差によるスピード×輸送力=経済効率の差だったのだろう。下の写真はブログ“鈴木商店”さんより「客待ちの人力車が並ぶ神戸停車場(1907年頃)」コピーさせて頂いた。https://jaa2100.org/suzukishoten-museum/detail/013963.html)
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14.2荷物輸送の主役は人力による荷車
 明治に入り最初に登場した人力車は「人」の輸送だったが、次に「荷物」の輸送について記す。下の(表16)をご覧いただければわかるように、後述する自転車をのぞけばもっとも需要が多く、数多く製造されたのは、荷積車であったが、荷積車には荷車、荷牛車、荷馬車の3種類があった。(④-3、P168)
その中で、荷物輸送の主役もやはり、人力による荷車だった。今の若い人はイメージがわからないかもしれないが、“荷車”とは荷物運搬用の二輪車のことで、そのうち二、三人でひく大型のものは“大八車”と呼ばれて、江戸時代から盛んに使われるようになった。時代劇でご存じの方も多いと思う。(下の画像は「東京の100年を追うNHKスペシャル……震災や戦争からの復興などカラーで再現 7枚目の写真」よりコピーさせて頂いた、「大正時代の日本橋」https://www.rbbtoday.com/article/img/2014/10/17/124534/427930.html)
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14.2-1江戸時代、大八車の使用が認められていたのは江戸市中、尾張、駿府だけだった
先ほど、TVの時代劇で目にした人が多かっただろうと記したが、実際には江戸時代は、人の移動に限らず荷物の輸送についても『大八車の使用が認められていたのは、江戸市中、あと尾張、駿府、それも使用に当たっては、特別な申請と認可が必要だった』のだという。クルマなしで人が運ぶか、馬や牛の背中に背負わせるかのどちらかでは、かなり不便な生活を強いられたことだろう。(下の「江戸の世」の、「大八車騒動顛末」より引用)
https://buna.yorku.ca/japanese/library/tonbo_no_megane/3-6%e6%b1%9f%e6%88%b8%e3%81%ae%e4%b8%96.pdf
同文よりさらに引用させていただく。『そもそも、大八車は明暦の大火(1657 年)の後、江戸の町の大改造を早急に行わなければならなかったときに、土石などを運ぶのに発明された』とあり、(④-3、P168)では『1657(明歴3)年の江戸大火の後、芝車町に住む車大工、八左衛門が考案して作ったことから「大八」車の呼び名が広まったとの記録(東京史稿)があり信憑性が高い。明治期に入ってからの大八、大七、大六車の呼称は荷台長の8尺以下、7尺以下、6尺以下を意味するようになった』と記されている。治安維持のために、厳しく移動が制限されていたが、明治に入り、荷車は荷物輸送の主役として、急速に普及していく。(下の絵は「江戸の商人,大八車を引く」という、国際日本文化研究センターよりコピーさせて頂いた。
https://sekiei.nichibun.ac.jp/GAI/ja/detail/?gid=GB004022&hid=1320
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https://sekiei.nichibun.ac.jp/GAI/info/GB004/item/022/image/thumb/0/thmb.001.jpeg
なお大阪では大八車と呼ばず、「ベカ車」と呼ばれ、その構造にも違いがあったという。)
14.2-2戦前日本の、重量物運搬の主役は馬車だった
 人力による荷車では通常だと100kg~200kg程度の運搬で、庶民の通常の生活の範囲ではそこまでで充分足りる。それより重量物の輸送は、明治時代以降は馬車と牛車が担うようになる。
 下の表(表16「1920年代における諸車の保有台数の推移」)は、①のP116より転記させて頂いた。余談ながらこの表は“諸車”までだが、当時の日本の輸送体系全体としてみれば、さらにその上位に、鉄道と海運による輸送があっただろう。
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 この表をみると、人の輸送の分野では、前回の記事で再三記したように、1925年のフォードの日本進出により、大衆車クラスの乗用車の価格が低下し、割賦販売の普及との合わせ技で、人力車が営業用のタクシーに置き換わっていったことがわかる。また乗用馬車もバスに代替えされて減少していった様子が推測できる。
 ところがその一方で、荷物運搬用としては、引き続き多くの馬車と牛車が大量に使われていたこともわかる。『この表からはまず、乗合馬車と人力車の減少が目立つ一方で、荷積用馬車と牛車は減少するどころかむしろ増加していることがわかる。~これは、タクシー料金が人力車のそれとあまり差がなかったため、乗用車が経済的に既存手段を代替しうる状態に到達していたのに対して、貨物車の方はその条件がまだ不十分であったからである。』(①、P115)。
確かに表中の「荷物用自動車=トラック」も急速に増えてはいるが、馬車と牛車を代替えするには至っていない。その理由について(①、P115)は『荷物用馬車の代りに、自動車が青果・砂利・木材・生鮮・新聞などの運送に使われていたが、』1930年に至っても、急送品に属さない比較的運賃の低い荷物に対しては、経済原理が働き、荷積用馬車がトラックに置き換わらず使用続けられた、としている。
そしてもう一つの現実的な理由として、当時の道路環境の悪さがあった。以下(④-6)より
『~つまりそれまでの荷馬車、荷牛車業に代わり貨物自動車による運送業が台頭してきたわけだ。しかし当時の標準的な大きさと言えるフォード車は、A型(3285cc)が登場する以前のT型でも2896ccあり、日本の狭い道路では立ち往生する場面が度々起きた。
この道幅と輸入車の車体寸法との不釣り合いは、全国に貨物自動車が急増する大正10年(1921年)頃に顕著となる。それ以前の自動車はごく一部の富裕層の遊興用か、あるいは乗合自動車がほぼすべてであり、乗合自動車の場合はもともと乗合馬車が走っていた幹線道路を進んだわけだから、さほど問題は起こらなかった。ところが貨物自動車の場合は、その本能として市街地を自由に侵入したくなる。~ この輸入貨物車と日本の市街地や住宅地の道幅との不釣り合いは、こののち国産小型自動車を発生させる一因にもなっていく』
(④-6、P172)。小型自動車ももちろんだが、クルマにとっての道路環境の悪さが荷馬車や荷牛車が生き残る一因でもあったように思える。
なお馬車の輸送力について(①、P115)によれば『当時(注;1920年代)~営業用としては1.2~1.5トン程度の積載量を有する荷物用馬車が使われていた。』とあり、スピードでは確かに自動車にはかなわなかっただろうが、積載力はなかなかのものがあったようだ。
14.2-3農家の“自家用”は牛車だった
以下も(①、P115)の引用だが『当時(注;1920年代)、積載量が600~900kgである牛車は主に農家の自家用として使われており~』所得水準が低かった農家の“自家用?”は馬車よりももっぱら牛車だったようだ。ただし、牛車を使う農家は相当な富農の部類だろう。
(写真はhttps://4travel.jp/の「フィリピンで出会った様々な人々」より。さすがに現代の日本では、牛を“自家用”にしている人はほとんどいないと思うが、フィリピンのこのオッサンの、かなり原始的なスタイルだが、立派な“自家用”に乗った満足げな表情に思わず惹かれて、日本ではないがコピーさせて頂いた。ちなみに日本で牛車は、古くは飛鳥時代より、全国各地の車大工によって繰り返し作られてきた伝統的な在来技術であったという。(④-3、P169参考))
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https://cdn.4travel.jp/img/thumbnails/imk/travelogue_pict/39/87/32/650x_39873245.jpg?updated_at=1439510449
話を戻し、①による説明や、(表16)から判断すれば、1930年頃に至っても、庶民の生活の中で荷物の輸送の主力は、次に記す自転車やリヤカーなどの人力と、馬車/牛車で、自動車は主流とは言えなかったと思う。

14.3自転車がオート三輪誕生への架け橋となった
次にもう一度、(表16)をご覧いただき、表中の自転車の項に注目したい。諸車の中で突出して大きな保有台数だ。便利な乗り物として日本の社会でも定着していたことを表している。
14.3-1戦前日本の自転車の歴史
そこで戦前の自転車の簡単な歴史を、まず初めに確認しておきたい。以下安直だが、国土交通省のHP「自転車交通」の中の「自転車の歴史」より引用
 https://www.mlit.go.jp/common/001259529.pdf
『明治29年(1896年)頃から、セイフティ型自転車が、本格的に輸入されるようになり、明治末期には、国産製造が本格的に始まった。
明治44年には輸入関税が引き下げられて単価が下がったこともあり、全国の自転車保有台数が急激に伸び、また、第一次世界大戦で輸入が激減したことから国内生産力が急速に伸びて、価格が安価となり、庶民の生活の足として普及した。
昭和に入ると自転車の保有台数が毎年20~40万台増加し普及が拡大した。日常生活に欠かせなくなった自転車も、昭和13年(1938年)には贅沢品として製造が禁止されて、昭和15年には自転車が配給制度となった。昭和18年には資材が入手できなくなり、年間生産台数が7万台まで減少した』

(下の写真は、たびたびコピーさせて頂いている、“ジャパンアーカイブズ(Japan Archives)”さんより「丸の内(明治45/大正元)自動車・自転車・人力車(馬場先門通)」。https://jaa2100.org/entry/detail/036886.html?
自転車と人力車とともに、丸の内だけあって1台だけ自動車も映っているが、目を凝らしてみると自転車が多いようだ。この写真は1912年の光景だが『1907年に約8万6千台、1910年に約23万9千台、1915年に約68万4千台と伸び、明治時代末から大正時代にかけて自転車は急速に普及していった』(web38-2)。
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https://jaa2100.org/assets_c/2015/12/img_5675760da60ad5-thumb-autox404-38466.jpg
14.3-2自転車の普及率は都市部では一,二世帯に一台だった
そして『昭和初期の時点で日本の自転車保有台数はフランス・イギリスに次いで世界第三位、生産量はドイツに次いで世界第二位であった』(⑬、P185)という。さらに戦前の末期には、『特に都市部では一,二世帯に一台の普及率を示していた』(⑬、P184)という記述もあり、驚きだ。下の表は、(web36)中にあった「日本自転車の生産・輸出・輸入の推移」という表を元に作成した。生産/部品の数字は台数ではなく金額で、完成車+部品の合計とした。
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14.3-3自転車は庶民が所有し、自分で動かして乗るクルマ。日本で初めてだった
以下は、“随想・東北農業の七十五年”というブログの、「便利だったリヤカー、自転車」という随筆(web40)から引用させていただく。戦前の東北の農家(といっても、自作農の、相当富農の部類のほうでしょう)で、自転車が当時の人々に与えた影響について書かれており、含蓄のある内容だ。以下ほんの一部だけ引用させて頂く。
『~ ところで、自転車はそもそも人が乗るためにつくられたものである。今述べた運搬は本来からいえば副次的な利用法でしかない。
 人間の移動には徒歩しかなかった時代、自転車は本当に便利なものだった。もちろん鉄道はあった。しかしそれは、決まったレールの上を走るだけなので、どこにでも自由に移動できる手段ではなかった。ましてや線路はそれほど走っていない。これに対して自転車は人が通れる程度の道路さえあれば自由に移動できた。(中略)
 だから、一般庶民の乗物としては、鉄道以外、自転車が初めてではなかったろうか。もちろん、人力車が明治期に開発されている。これは駕籠の代用で、しかも他人に乗せてもらうものである。これに対して自転車は自分が所有し、自分で動かして乗る乗物である。これも日本の歴史上、初めてではなかったろうか。』

戦前の人々の移動手段としてみた場合、人力車や鉄道やバスは、他者に乗せてもらうものだ。都市部の住民が利用する最初の自動車であった円タクも、前回の記事で記したように、当時の日本人の受け取り方からすると、公共交通機関的な意味合いも強かった。それに対して自転車は、確かに荷物運びの道具としての側面も強かったが、当時の(多少上級の?)庶民が“自家用”として所有し、自分で動かして、道と体力が許す限り、どこまでも自由に乗りまわす、プライベートな乗物(“自”分で“動”かす“車”、つまり“自動車”か?)である点が、新しかった。
14.3-4戦前の自転車産業は機械工業の花形だった
話を戻して、上の表から、保有台数の着実な増加とともに、生産と輸出の金額が急激に伸びていく傾向はわかる。
戦前の日本の自転車産業は、当時の自動車産業とは違い、国際的に見ても充分競争力がある、第一級の産業だったようだ。そこで次に、産業としての自転車について、もう少し詳しく見ていきたい。まずはJETROのレポート(web36)から。
『自転車産業は、第一次大戦による輸入代替期を経て、1920年代に国産化をほぼ達成した。その生産は東京・大阪(堺)・名古屋に集中し、簡潔に表現すれば、完成車の東京、部品の大阪、その中間の名古屋といった具合であった。
1920年代後半になると、東アジア・東南アジア諸国が日本の自転車やその部品を輸入するようになった。31年の金輸出再禁止以降、為替ダンピングの影響もあり日本の輸出は急増した。部品については、実に生産の半分以上が輸出に回されていた。その後も順調に輸出台数を伸ばし続け、37年には機械輸出のトップを占めるに至った。この頃の自転車産業は機械産業の花形であった。』
以下(web36)。戦前の輸出先について(⑬)から。
『これらの自転車は主として、いわゆる「円ブロック」(当時の円が支配的な通貨である地域)に輸出された』(⑬、P186)。
(下の写真は“自転車文化センター”の「自転車から見た戦前の日本」からコピーさせて頂いた「昭和7年(1932年)頃の横浜伊勢佐木町 」。『歩道脇に多数の自転車が駐輪してある光景は今と変わらないが、車道に自動車が走っておらず、交通の中心が自転車であったことがわかる。中央の自転車のハンドル前に荷物を置くための装置が取り付けてあり、当時は自転車が荷物を運搬するための役割を果たしていた。』
http://cycle-info.bpaj.or.jp/?tid=100129)
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http://cycle-info.bpaj.or.jp/file_upload/100129/_thumb/100129_32.jpg
14.3-5自転車産業は「問屋制工業」だった
そして日本の自転車産業の産業構造は、「問屋制工業」と呼ばれた独特なものであった。まる写しばかりで恐縮だが、以下(web37「日本における自転車工業の発展」竹内淳彦、1958年)より引用
『自転車の生産は、代表的な組立産業であり、完成車組立てを最終工程としている。すなわち、自転車は、大別しても16の部品と数百の附属品が必要であり、それにタイヤ・チューブ・皮革などを結合させ完成車となるのである。
ところが、日本の自転車は、全工程が完成車メーカーにより、一貫的に生産されている場合は全く少なく、商業的色彩の強い商業卸が、部品メーカーから各部品を蒐集し、完成車を生産している場合が多い。
最終的には完成車の構成品としての部品生産を目的としながらも、完成車工場への納品を直接目的としない部品メーカーが多数をしめている結果、自動車・ミシンなど他の機械工業にみられる如き、組立工場を頂点としたピラミッド型構成が全くみられないところに、日本の自転車工業の構造的特質が存するといえる』
(web37、P33)以上は1958年の著作で、グローバル経済化が進んだ現在では、その構造が大きく変わっていると思う。しかしこの記事のテーマである戦前の、自転車産業では、宮田(東京)や岡本(愛知)のようなメーカー志向の自転車企業もあったが、それ以上に、大阪を中心とした問屋型の企業や、自転車部品企業の勢力の方が強かった。完成車メーカーを頂点としたピラミッド型下請け構造の自動車産業とは全く異なる産業構造だったのだ。
14.3-6初期のオート三輪は自転車関連企業がつくった
 話が自転車とオート三輪の間を、行ったり来たりしてしまうがお許しいただきたい。時代が少し飛んでしまうが、初期のオート三輪車市場に参入した企業は、自転車産業関連が多かった。以下①からの解説を引用する。
『まず注目されるのは、自転車工業との関連のある企業が多いことである。しかし、その企業は完成車をつくる自転車企業ではなく、自転車問屋あるいは部品製造企業であった。~ これらの自転車関連企業が三輪車の製造に関わることになるのは、自転車が問屋主導で製造されたからである。例えば、当時東京自転車問屋の類型のうち最も多いのは、全ての部品を部品企業が製造して問屋は組立のみを行うものであり、その次は問屋がフレームまで製造する類型であった。これは他の地域でも同様であったと思われるが、その問屋が自転車部品と一緒に自動自転車のエンジンも輸入し、それを自転車部品企業に依頼してあるいは自ら三輪車に改造したのである。』(①、P140)
以降で記すように、オート三輪はその後、規制緩和を受けて技術的な進化を遂げていく過程で、“四輪自動車”との近似性が強まり、“自転車色”は次第に薄まっていった。しかしスタート時点に於いては、世界的なレベルにあった自転車の高い普及率と、すでに確立していたその産業基盤が、オート三輪の市場形成に大いに役立ったことは間違いない。
14.3-7オート三輪が大阪起点だった背景
 次にオート三輪が、なぜ大阪(特に境)を中心に発展していったのか、その理由も確認しておきたい。この辺は自分にまったく知識がなく、コピーばかりで申し訳ないが、その説明を以下(web39、P68)より引用だが、
『大正年代以降、わが国の自転車工業は東京、名古屋、堺の三ケ所でほぼ並列的に発展してきた。だが、東京が完成車生産を中心にしたのに対して、堺は部晶供給を主体にし、名古屋は小規模ながら両方を抱えるように構造には多少の違いがあった。堺が部晶を主体にしたのは鉄砲鍛冶という鍛造の技術が長く息づいていたから、いいかえれば技術に対する強い自身と執着があったからであろう。大都会の東京が一見華やかに見える完成車の生産を志向し消費者への接近を図ったのに対して、地道な堺は、逆に自転車の心臓部に当たる、主要部品生産に撤して晶質の高度化にのみ生きる道を求めたのである。こういった背景には、古くから鍛え上げられた鍛冶職人たちの意地も強く働いていたといえよう。』
以下は(web36)からの引用『日本の自転車産業の歴史は,輸入自転車の修理,補修用部品の製作から,まず部品工業が形造られたのに始まり,それがやがて国産完成車の製造に進んだものであって,自動車や時計と異って,完成車組立技術そのものが自転車工業発展の決定的なポイントになり得なかった。(中略)とりわけ大阪では,堺の鉄鉋,刃鍛冶から転業した家内工業的な生産形態による補修部品の生産を出発点とした。』
引用させて頂いた(web36、39)の両方に、大阪の、堺の地名が出てくる。さらにwebで調べると、この地域は元々鍬(くわ)や、鋤(すき)を生産するための鉄の加工技術が発達していたが、16世紀に入って、ポルトガル人によって、鉄砲、タバコが伝来し、タバコの葉を刻む包丁や、種子島に渡った鉄砲の製法が堺に伝え、鉄砲作りから自転車の技術進化へと発展していったとのことだ。(“サカイーナ”というブログのhttps://www.sakaiina.com/ の「堺の自転車博物館」記事を参考)。確かに素人考えでも、鉄砲の銃身と、自転車のフレーム製作には、関連する部分がありそうだ。
そして現代に話を戻すと、堺市=世界のシマノの本拠地でもあるのだ。シマノは『スポーツ用自転車部品では世界の85%、変速機付き自転車でもおよそ7割のシェアを握っている』という(https://strainer.jp/notes/739 より)。そのため堺には、日本で唯一の?自転車博物館があるようだ。自転車に興味のある方は、大阪を訪れた際に、ぜひお寄りになったら如何でしょうか。(下の表は(web39、P68)の、「1930年代における東京、大阪、愛知の自転車生産額」の表の数字から、グラフ化したものだ。やはり安定して、大阪地区の比率が高い。
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14.3-8当時阪神工業地帯が京浜工業地帯を上回る、日本最大の工業地帯だった
自転車産業が、大阪起点であった点について、もう一つ、その理由を掲げておきたい。基本的な情報として、大阪を中心とした阪神工業地帯は、戦前、京浜工業地帯を上回る地位にあり、日本最大の工業地帯であった点だ。以下もwiki等、webからの情報の寄せ集めだが、綿紡績・鉄道などを中心に、それを支える商社や銀行などの活動が一体となって、この地域は「東洋のマンチェスター」(マンチェスターは、英国の産業革命によって発展を遂げたイギリスを代表する商工業都市)と呼ばれるようにまで成長し、日本の工業化の先頭に立っていた。特に進取の気概に富み、元気な中小企業の多かった(②、P173等)という。今の人たちからすると、大阪は「商都」のイメージが強いと思うが、戦時期に東京府に追い越されるまで大阪府は日本最大の工業生産額を誇った「工都」でもあったのだ。(画像はwikiより、新世界から見た通天閣、1920年)
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https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/56/Original_Tsutenkaku_and_Shinsekai.jpg/180px-Original_Tsutenkaku_and_Shinsekai.jpg
14.3-9関西を中心に一時期、フロントカー型の三輪自転車が普及していた
そして、大阪を中心とした関西地区や東京では、通常の二輪自転車だけでなく、荷物運搬用として三輪自転車が、一時期ではあるが、ある程度普及していたらしい(④-3、④-5及び①、②P172等を参照)。そしてこのことが、オート三輪誕生の、重要な布石にもつながるのだが、日本のクルマの歴史の中で、取り上げられることが少ない、三輪自転車が普及した過程を、ここで簡単に確認しておきたい。
まず、人力車や後述するリヤカーを生んだ、好奇心旺盛な当時の日本人は、通常の二輪自転車の変形として、実に様々なバリエーションの三輪自転車や、“四輪“自転車を考案したようだ。その目的は、少しでも多くのモノを積むためで、長くなるので省略するが、詳しくは(④-3)や、(④-5)をぜひご覧ください。
そのうち主流はやはり三輪だったが、ここでさらに、当時の国産三輪自転車を形状別に分類すると、・フロントカー式三輪自転車、・リヤカー式三輪自転車、・サイドカー式三輪自転車の3つに分類できる(④-8、P174)。
このうちサイドカー式は狭い道幅の日本では適せず、最初に普及したのがフロントカー式だった。『ただしこれは自転車系に限った話であり、リヤカー式はのちにエンジンが搭載されて発展し、やがてオート三輪になって活躍することになる(④-7、P174)このことは、後でオート三輪のところで記す。
まとめると、この当時、三輪自転車として主に使用されたものは、フロントカー式の三輪自転車と、リヤカー式の三輪の輪タクだったようだ(『~ 結果的に最も実用性が高かったのは、フロントカー式のトライシクルと、三輪のリンタクの2種であったことになる。』(④-7、P174))輪タクについても後述する。
両車が生き残った理由は、通常の二輪自転車より多く積めて「実用性が高かった」からであったが、ここで、当時の主要な顧客であった商工業事業者が、それらの三輪自転車を求めた動機を、以下(㉚)で確認しておく。
14.3-10日本人は個人的な楽しみというよりも、業務用のニーズが優先する
『~日本では、どちらかというと、これを使用することによって顧客を大幅に拡大できるという、いわば業務用の需要が主導する形で普及したのである。~ 個人的な楽しみというよりは、業務用のニーズが優先するというこの特徴は、後述するように、自動車の普及についても当てはまる日本的な個性と言えるだろう』(㉚、P65)。三輪自転車に、一定の需要があったのは、自然な成り行きだったかもしれない。
(ただ、この三輪自転車が一時期、ある程度、普及していたという事実を“証明”する資料が少ないようだ。その理由の一つとして、三輪自転車は当時、統計上では「自転車」として一括りで扱われており、数字として説明できないようだ。そのため当時の写真や雑誌記事等を掘り起こし、判断するしかなさそうだが、(④-5、P171)では、1917年の、日本自動車(あの大倉系の自動車販売大手)の雑誌広告(モーター11月号)の写真の説明の中で、以下のように指摘している。
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『~この広告で興味深いのは、フロントカー式の貨物運搬用三輪自転車の後方にスミスモーターホイールを装着し、その実用性の高さを主張している点にある。
~ この大正6年(1917年)頃には、全国の都市部の大商店では、すでに御用聞き用の国産の安全型自転車と、配達用途に運転するフロントカー(三輪自転車)が普及していた様子がわかる。商品を迅速に配達するために狭隘な路地を走り抜けていく、オート三輪の始祖がここにあった。このようなスミスモーターホイール付きフロントカーが進化していく過程で、やがて国産の小型自動車の原型が築かれていくのである。』

オート三輪の始祖
三輪自転車が普及していた様子を示すとともに、確かにこの写真は、「オート三輪」が自然発生的に生まれていった、証拠写真だ。この貴重な資料は、以下は月刊オールド・タイマー(八重洲出版)連載記事「轍をたどる」岩立喜久雄氏の「スミスモーターと特殊自動車」(2006年.8月、№.89号)(④-5として引用)のP171よりコピーさせて頂いた。何度も記すが、この「轍をたどる」が一冊の本となり、広く読まれることを切に願います。)
(下の写真はイギリスで郵便配達用に使われていた、フロントカー型の三輪自転車で、
https://www.collectgbstamps.co.uk/explore/issues/?issue=22795 よりコピーさせて頂いた。
このイラストは、1920年のモノのようだが、1880年から使われていたようだ。以下機械翻訳『1880年に最初に導入された三輪車は、大きな籐のかごを備えており、都市部や農村部で大量の郵便物を運ぶのに理想的でした。第一次世界大戦までに、それらは時代遅れであり、郵便物の重量の増加には不十分でした。』フロントカー型三輪自転車は、本場イギリスに於いては1920年ごろになると、郵便配達用としては、荷物の搭載量が不足していたようだ。)
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https://www.collectgbstamps.co.uk/images/gb/2018/2018_9487_l.jpg
くり返すが(④-5)が指摘したように、このフロントカー型の三輪自転車に、これも後述するスミスモーターホイールを取り付けたものが、初期のオート三輪の直接の始祖になった。
14.3-11三輪自転車の時代は短かった
だがこの、フロントカータイプの三輪自転車が使われた期間は、どうやら短かったようだ。
 以下(①、P116)より『(上掲の「表16」により)当時大量の通常自転車が保有されていたことがわかるが、自転車の一部も早くから貨物運搬用として改造して使われていた。その形態には、前部あるいは後部に二輪の荷台を設けて三輪自転車にしたものや荷台のサイドカーを取り付けたものもあったが、もっとも多く使われたのは別に二輪の運搬車を作ってそれを自転車の後方に取り付けたリヤカーであった。』ここで、リヤカーの名前が登場する。
この間の事情を(「国産リヤカーの出現前後」、以下web41)より引用すると、『新しいタイプの荷物運搬具、リヤカーの出現によって、三輪車は徐々にその座を失っていった』(web41、P11)のだという。
ここで自転車の話は終わりにして、もう一度、荷車に戻る。上り調子にあった自転車産業の力を背景にして、様々なクルマ作りの試みが行われていく中で、荷車も進化を遂げていく。戦前から戦後の一時期まで、庶民の荷物運搬に大きな役割を果たした、リヤカーの登場だ。

14.4“庶民の自家用トラック”、リヤカーの登場
この項はいきなり写真から入る。((下の写真は「月刊Hanada」に載っていた「終戦直後の街の風景」より。以下は(③P82)から引用『次に、大正時代に現れたのが「リヤカー」。庶民にとっては、手軽な自家用トラックのような働きぶりである。』ここの記述を、14.4項のタイトルに使いました!)
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14.4-1荷車からリヤカーへ
 誰もが知っているリヤカーだが、ここで改めて「リヤカー」の定義?について、確認しておきたい。それ以前の大八車等の「荷車」と、その発展形ともいえる「リヤカー」との、ハードウェアの違いは何だったのか、リヤカーの特徴をwikiで確認すると、『ごく細身の型鋼、もしくは鋼管で牽引用の梶棒部まで含むフレーム全体を組み、車輪はオートバイや自転車と同様に金属製のワイヤースポークを利用、車軸はなく、自転車同様のボールベアリングで左右独立支持された両輪間に荷台床を落とし込んだ形態となっている。さらに車輪には空気入りゴムタイヤを填めている。結果、大八車に比して大幅な進歩を遂げた。~大八車の問題点の多くが、リヤカーでは金属部材の導入や自転車・サイドカーの手法を援用することで解決されている。』ということで、大きな進化を遂げている。
 以上は従来の荷車との比較だが、リヤカーの使用方法が、従来の荷車と大きく異なる点は、その牽引者が人に限らず、自転車の場合や、さらには戦後に入ると、原付自転車の場合もあるという、その多様性だろう。そしてその万能性ゆえに、戦前から戦後の長い期間に、相当な台数が普及していたと思われるが、残念ながら具体的な数字が調べられなかった。ただこの記事の対象範囲の戦前においては、自転車よりも人が引く使われ方の方が多かったと思われる。(下の写真はブログ“岩魚太郎の何でも歳時記”さんよりコピーさせていただいた、昭和40年(1965年)頃の豆腐屋さんの商売の一コマです。確かに昔はラッパが鳴ったものですね。
https://jp.bloguru.com/iwanatarou/329126/2018-07-19)
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https://jp.bloguru.com/userdata/40/40/201807191132420.png
14.4-2リヤカーが三輪自転車に勝っていた点
以下は、三輪自転車との比較で、リヤカーが勝っていた点として、(web41、P11)では、
・税率が安かった(昭和3年度(1928年)の東京府の例で、三輪自転車が3円66銭、二輪自転車が2円66銭に対して1円)
・価格も三輪自転車の約1/4だった
・格納が楽だった(リヤカーは立て掛けられた)等を指摘している。また
・機能としても、リヤカーの良いところが、三輪車の弱点だった、としているが、リヤカーの方が、荷物運搬用としては低重心で安定性が高かっただろう。
(下のリヤカーのチラシ広告は、ブログ「賢治と農」よりコピーさせて頂いた。
https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202101070000/
そして同ブログのおかげで、リヤカー誕生の経緯について調査した論文、「国産リヤカーの出現前後」(梶原利夫著、自転車産業振興協会 技術研究所、以下(web41))を知ることが出来た。両方の著者に感謝します。下のチラシも同論文に掲載されたモノでした。この1930年頃のチラシでは、並サイズのリヤカー完成車の価格は25円とのことだが、同論文の1935年のチラシ広告では、競争が激しくなってか、なんとほぼ半額の12円60銭まで安くなっていると、「賢治と農」のブログでは指摘している。(①、P170)で、同じ1935年の、オート三輪の価格は1,200~1,300円ぐらいだとされているので、それと比べるとやはり圧倒的に安い。
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https://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/9/2f5cc821229aacaca0dd9fb4b899310ba615d2a2.65.9.9.3.jpeg
 そしてこのリヤカーだが、wikiによれば、『1921年頃、海外からサイドカーが日本に輸入された時にサイドカーとそれまでの荷車の主流だった大八車の利点を融合して、静岡県富士市青島の望月虎一が発明した』(wiki)のだという。(下の写真は、)
14.4-3リヤカーも日本人の発明だった!?
なんと人力車に続いてリヤカーも、日本人が“発明”したというのだ!当時の日本人が、旺盛な創作意欲を持っていた事は、今までこの記事で再三指摘したことで、ある程度は納得できることだが、果たしてここまで“断定”した記述を、全面的に信じて良いのだろうか。
ところがさらに調べようとしても、リヤカーについて書かれた情報が、信じられないくらい少ないのだ!あれほど日本の経済発展に尽くしてきたのに!!以下はその数少ない貴重な資料である(web41)を参考に記す。
まず前提として、リヤカーによく似た形態のものとして、欧州では自転車やオートバイで牽引する「トレーラー」と呼ばれるものが既にあった。何度も記すが好奇心旺盛な当時の日本人、もその存在を、当然知っていただろう。だがこのトレーラーは、日本人のように、人間が荷車を曳くという慣習を、野蛮なものとみなしていた西欧社会では、発展をみなかったという。人力車の場合と同じだ。また構造的にも、車輪は一本の貫通した車軸に取り付けられているので腰高な点が、日本のリヤカーと大きく異なっていた。(下の画像はwikiより。リヤカーは省スペースで、本当によくできている。まるでスーパーのカートの収納みたいだ。)
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そして(web41、P12)によれば、日本では『大正6年(1917年)頃にリヤカーは出現したらしい』のであるが(とたえば「輪友」という自転車雑誌の大正6年10月号の広告に、初期のリヤカーのものがあるという)、その時点では、欧州のトレーラーと同じ車軸構造だったという。このトレーラー型のリヤカーを出発地点として、以下(web41、P13)から引用を続ける。
『この型式をリヤカーの祖型とするならば、その後次々と改良され発展していったリヤカーは、日本独自のものであり、それ以前のトレーラーとは同系異質といえよう。特に昭和5年頃、芦沢孝之氏が考案した人力型曳手のリヤカーに至るまで、様々な改良がなされたが、その改良の一つ一つは、日本人の考案によるものであるから、此ら総合した日本型リヤカーは、日本で発明されたと言える。だがそれは個人が発明したものではないと言えよう。』としている。確かに、ご指摘の通りだと自分も思います。
14.4-4リヤカーは日本で発明されたものだが特定の個人が発明したとは言い難い?
ただ(web41)では追記して、『初期のリヤカー製造技術で特に注意せねばならぬ点は、酸素・アセチレン溶接技術であろう』(web41、P14)としており、『国産リヤカーを、ガス溶接によってパイプフレームの構造を最初に考案、製造したものは不明である』(web41、P15)と記している。この資料が投稿されたのは1997年10月だが、その後の調査で、もしかしたら望月虎一が、その先駆者であったことが判明し、貢献大と判断したのだろうか。Wikiが根拠もナシに発明者として書いたとも思えないし、何ともワカリマセン。
ただ手持ちの情報が足りないので、ここでは(web41)に倣い、「日本型リヤカーは人力車と同様に、望月虎一氏をはじめ多くの日本人の手で改良が加えられ、完成した日本独自のものだ。その意味で、日本で発明されたと言えるが、個人が“発明”したものとは言い難い」と思ったが、如何だろうか。
(この写真も https://www.collectgbstamps.co.uk/explore/issues/?issue=22795 よりコピーさせていただいた。「オートバイとトレーラー、1902年」以下、機械翻訳『このようなオートバイとトレーラーは、1902年にケント州シッティングボーン周辺の農村地域に手紙や小包を配達するために使用されました。これは非常にローカルなイニシアチブであり、ロンドン以外で最初の電動メール配信の1つでした。』一見リヤカーと似ているが、このイギリス型トレーラー(リヤカー)の車輪は、貫通した車軸に取り付けられているのがわかる。そのせいで、荷台が腰高だ。)
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https://www.collectgbstamps.co.uk/images/gb/2018/2018_9486_l.jpg
14.4-5東北の農家で、リヤカー、自転車、牛馬車の使われ方(余談)
以下は自転車の項で先にも引用させて頂いた、“随想・東北農業の七十五年”というブログの、「便利だったリヤカー、自転車」という随筆(web40)から再度引用させていただく。戦前の東北の農家(先に記したように自作農で普通より豊かな農家に思われる)で、リヤカーが導入された当時の状況を、実体験を元に書かれている、素晴らしい文です。
http://j1sakai.blog129.fc2.com/blog-entry-257.html
『~ リヤカー、これは大正期に日本で開発されたものだそうだが、人力による牽引という点では大八車と同じであり、改良大八車ということができよう。大八車よりは小さいというのが難点といえば難点だったが、これは便利だった。
 まず軽かった。木製ではなく、車体は鉄製のパイプ、車輪は空気入りタイヤで構成されているからである。女子どもでも十分に動かせる。
 また、大八車などよりは速い。軽いし、タイヤがついているからだ。もちろん若干ではあるが。ともかく楽である。』また他のクルマとの利用の役割分担について、以下のように記されている。
『しかし、稲上げのときなどのように運ぶ量が大量のときは牛車が中心で、リヤカーは補助用となる。つまり、リヤカーと牛馬車は併存して利用された。
 もちろん、リヤカーも人間が引いて歩くわけだから、大八車より速いとはいっても基本的には徒歩と変わりはない。
 しかし、いいことがあった。リヤカーは自転車の後ろにつなげるようになっていることだ。つないで自転車に牽引してもらえば自転車と同じスピードでリヤカーは走り、かなり速くなる。もちろん、重いものを載せたり、上り坂にさしかかったりすると、自転車から降りて引っ張らなければならないなど、人力での限界はあるが、よくもまあこうしたことを考えたもの、さすが日本人と言いたいところである。
 私の物心ついたときに大八車をそれほど見かけなかったのはこうした便利なリヤカーが普及していたせいではなかったろうか。(中略)
 前にも述べたが、私の生まれたころの1930年代には、農家がこうした自転車、リヤカーを牛馬車と合わせて利用するようになっていた。
 とはいっても、当時は自転車もリヤカーも高価だった。持っていない農家の方が多かった。戦後自転車でなされた郵便配達でさえ徒歩でやっていた時代だったのである。
 また、牛馬車となると一定の経営面積をもつものしか持てなかった。(中略)
 このような問題があり、また人力、畜力という限界はあったが、ともかくこれらは生産・生活両面での利便性を大きく高めたことはいうまでもない。』

(下の写真はwikiより、現代版として電動アシスト自転車と組み合わせた、おなじみのヤマト運輸のリヤカー。
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一方『ライバル佐川急便は『リヤカー状の荷台を備えた、特製の電動アシスト三輪車で対応している。』(wiki)こちらは初期のオート三輪風だ。下の画像は
https://twitter.com/run_sd よりコピーさせていただいた。)
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https://pbs.twimg.com/media/EPrS0pnVUAAji0v?format=jpg&name=large
14.4-6人力車+自転車=輪タク(Cycle rickshaw)
ここで荷物の輸送から、人の輸送へと話がそれる。進化した荷車(大八車)であった、リヤカー+人や自転車の組み合わせが、庶民のトラックであったならば、同じく人力車の進化型+自転車の組み合わせだって当然考えられるが、それが=「輪タク」になる。日本では自転車タクシーを、そのように呼ぶことが多いが、英語では、Cycle rickshaw だという。この分野での、日本の存在感の大きさがわかる。
前の記事(12.1項)で記したように、日本では戦前から、自動車の「円タク」が大都市を中心に、普及していたが、「輪タク」は第二次大戦をはさんだ、石油の一滴は血の一滴の時代だったガソリン不足の窮乏期に、もっとも流行したようだ。(③、P82)からの引用する
『さらに、第二次大戦中のガソリン車の窮乏期に、人力車風の車体と自転車を合体させ、客を走る三輪自転車が登場。戦後は輪タクと呼ばれた。同じタイプのものとしては、ベトナムやカンボジアのシクロ、インドネシアのペチャといった人力三輪タクシーがある。モータリゼーションが進むと、急速に減少していくのであるが、気楽な足として親しまれたことは、人々の記憶の中にとどめられていくのではないだろうか。』タイやマレーシア、ベトナムなどの東南アジアを中心に、輪タク文化が栄えたことはご存じの通りだが、この流れは、日本から輸出された人力車から派生したものだったとの指摘もある。その影響もあっただろうが、その時々の社会状況に応じて、どこの国の庶民も、手持ちの材料でどうすれば便利になるのか、生き抜くために必死に考えた結果だったのだと思う。日本の電動アシストのママチャリ3人乗りも、子供を乗せて楽に移動するためのもっともベーシックな乗り物として、その現代的なアレンジとして誕生した気がする。(下は「昭和21年(1946年)、神奈川県厚木市の輪タク」ジャパンアーカイブズさんより。自転車で牽引するリヤカー型のリンタクだ。)
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14.4-7輪タクも日本の発明だったのか!?
 ところがいつものように?話はここで終わらない。(④-7、P174)で岩立氏は『~リンタクはその母体となった人力車も含めて、明治期の日本で発祥し、発達した乗り物であった』としているのだ。詳しくは一連の(④)をご覧いただくしかないが、以下(④-7、P171)から引用
『写真10(注;コピーはできないが、1913年8月付実用新案登録図)の「小磯式人働車」において、リンタクのレイアウトはすでに完成の域に到達している。写真11の「双愛号客用三輪車」(注;1912年12月15日付当時の読売新聞朝に掲載された、「双愛号客用三輪車発売」の広告の写真)も同時期の新聞広告であり、両者は酷似している。この時期にはすでに東京、大阪で製造販売が始まり、リンタク営業が起こっていたわけだ。
 リンタクの分野はその意匠はもとより、使用部品もほとんど国産であるため、これもほぼ純日本製の国産車だったことになろう。背景には明治初年よりすでに半世紀を経ていた人力車営業の伝統が流れていた。』
・・・・・
 wikiの「自転車タクシー」の項目でも、よく見ると『輪タクは当時、終戦時の物資不足から燃料がわずかで、タクシーを走らすことができなかったことから大正初期に生まれた「人働車」を新たに登場させたもの』で記されていた。大正初期というから、岩立氏の指摘の時期と一致する。世界は広いので、あまり断定的な結論は避けたいが、この分野の今後の研究の結果次第では、自転車タクシー(輪タク)も、「日本で発祥し、発達した乗り物」に、“格上げ”される可能性も充分ありそうだ。(もっとも、研究をしている人がいればの話だが。たとえば(④-7、P171)にある、1912年の「双愛号客用三輪車発売」の新聞広告の写真の「輪タク」と、下の写真の、江戸東京博物館に展示されている、「昭和20年代(1945-)のリンタク(輪タク)(複製)」
http://www.mapbinder.com/Map/Japan/Tokyo/Sumidaku/EdoTokyoMuseum/Tokyo/Tokyo.html
を比較しても、両者の形態に、何ら違いがないように見える。)
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http://www.mapbinder.com/Map/Japan/Tokyo/Sumidaku/EdoTokyoMuseum/Tokyo/20101210_17.jpg

15.黎明期のオート三輪について
 ようやくオート三輪まで一歩手前のところまでたどり着いた!先を急ぐと、(表16)で、台数が突出して多い、自転車(通常)の利用法として、三輪自転車や、リヤカー(積載量100~200kg)との組み合わせが多く含まれており、小商工業者のための自家用トラックとして愛用されていたのは既述のとおりだ。しかし人力に頼っていては、急坂などで重い荷物を運ぶのはやはり、大変な労働だ。当時『上り坂の下のところには、立ちん坊といわれた職業の人がいて、こうした自転車や大八車を後ろから押して坂を登り切ったところで、幾ばくかの謝礼をもらうことで生計をたてていた』(②、P172)そうだ。(写真は自転車文化センターより昭和35〜36年頃の光景 http://cycle-info.bpaj.or.jp/?tid=100126
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http://cycle-info.bpaj.or.jp/file_upload/100126/_main/100126_01.png

15.1「スミス・モーター・ホイール」の登場
そこに目をつけたのが大阪商人で、1917年頃から、大阪・西区の中央貿易商会が、アメリカ製の“スミス・モーター・ホイール”(以下スミスモーターホイール)という、自転車や三輪車に追加輪として駆動させる、後付け型エンジンを大量に輸入して販売する。4サイクル単気筒エンジンで201cc、2.5㏋ほどの小馬力のエンジンだった(⑥、P39等)。このスミスモーターホイールを、既述のように一部で普及していたフロントカー式三輪自転車の、後輪に取り付けたものが、商都大阪を起点として、徐々に全国に普及していく。オート三輪の始まりだ。以上が概要だが、以下もう少し詳しく、その経過を見ていく。
 この、自転車の後輪左側につける20インチの動力輪は、元々はイギリス製で(バーミンガムのROC MotorWorksで製造されていた。余談だが同社は、有名な作家アーサーコナンドイル卿によって資金提供されていたという。)
(https://translate.google.com/translate?hl=ja&sl=en&u=https://www.yesterdays.nl/product/smith-motor-wheel-1917/&prev=search&pto=aue)。)、
「ウォール・オート・ホイール」(以下ウォールオートホイール)として、中央貿易が輸入する前に『日本にも東京銀座2丁目のアンドリウス&ジョージ合名会社(横浜市山下町242)が輸入したが、その段階では大きな話題を呼ぶことはなかった』(④-5、P170)という。
 そしてこの“ウォールオートホイール”の特許権を、アメリカ、ウィスコンシン州ミルウォーキーの部品メーカー、A.O.スミス社(A O Smith Company)が購入する。同社でワイヤーホイールをディスクホイールに変更し、カムシャフトから直接ホイールを駆動し、チェーンを廃するなどいくつかの改良を施したうえで、“スミスモーターホイール”として、製造を始める。1914年末から1919年末の間に25,000台生産されたというからそれなりの数だ。(なお、日本のオートバイ史の定番本である⑥、P36では、「アメリカのブリックス・ストラットン社で開発された」とあるが、A.O.スミス社の後に、同社に製造権が移ったようだ?)このアメリカ製となった、赤く塗られた動力輪が、期が熟しつつあった、日本の市場でも浸透し始める。モーターボート商会、スイフト商会、さらに大手の日本自動車までその販売に乗り出すが、最終的に大阪の中央貿易株式会社が、東洋一手販売元の権利を獲得し、大量販売を行う。
『大正7年(1918年)の夏にはすでに一千台を売りつくし、3度目となる次の荷着を待ちながら、その人気の高さを巧妙に宣伝し続けた』(④-5、P171)というから、その人気のほどがうかがえる。
15.1-1二輪自転車にとして取りつけた場合、バランスが悪かった?
スミスモーターホイールは、のちに豊田喜一郎が、自動車産業に乗り出すにあたり、最初に分解・研究したエンジンとして広く知られており、そのためネットでも多くの情報が検索できる。トヨタ産業技術博物館には、1917年製のスミスモーターホイールが展示されているので、ご覧になった方も多いだろう。空冷単気筒4サイクルエンジンは、初期型は167cc1.5㏋だったようだが(②.P172)、日本に輸入されたものの大半は、後期型の201cc、2.5㏋のものだったようだ。下の写真は以下よりコピーさせて頂いた。
https://www.yesterdays.nl/product/smith-motor-wheel-1917/
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https://www.yesterdays.nl/site/wp-content/cache/thumbnails/2017/04/Smith-1917-Motor-Wheel-3941-5-300x600.jpg
ところで、スミスモーターホイールを通常の二輪自転車に動力輪として取りつけた場合、上の写真を一見しただけでわかるように、バランスが悪い。自動車工学の権威、富塚清先生は、東大の航空研究所に勤務当時に、同所が所有していた実車に乗ったことがあるという。その時の印象では『~ 操縦がひどく難しい。速度を高めるとハンドルが振れだし、どうにも納まらずに放り出されることがある。筆者などもこれを食い、1回でこりて、あとは近づかなかった』(⑥、P38)そうだ。
ただ、『これで正規の三輪車に組み、前方二輪後部一輪駆動か、あるいは逆に前方一輪駆動、後方二輪とすれば、推力線の食い違いと、動輪のぶらぶらがないから支障がないはずで、これらは若干の期間、小配達の面などで生き残ったと思う』(⑥、P38)とも記している。やはり運命的な出会いだったのか、フロントカー型の三輪自転車との相性が、もっともよかったようだ。)
15.1-2“走るスノコ板”、「スミスフライヤー」について
(さらに『スミスモーターホイールには「フライヤー」という名のじつに簡便な二人乗りの五輪車があり、日本にも数多く輸入された。走るスノコ板とでも呼びたくなるシンプル極まりない乗り物』(④-5、P171)だった。『フライヤーは、ギネスブックに史上最も安価な車として記載されています。この本には、1922年のブリッグス&ストラットンフライヤー(注;スミス社の後に製造権を獲得した)が125ドルから150ドル(2020年には1930ドルから2320ドルに相当)で販売されていると記載されています。』
https://vintagenewsdaily.com/smith-flyer-a-small-five-wheeled-with-two-seat-car-from-the-1910s/ の一部を機械翻訳。下の写真もコピー。この写真からなんとなく、アメリカでの使われ方がイメージできる。ちなみに1922年のT型フォード(4気筒2896cc)の価格は標準のツーリングモデルで355ドルだった。
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https://vintagenewsdaily.com/wp-content/uploads/2020/11/smith-flyer-1-1-640x381.jpg
ところがこのフライヤーが日本に持ち込まれると、紳士が乗るフォーマルな乗り物へと生まれ変わる。中央貿易により『黒塗のボディが被せられ~、さらに幌まで装備する~今日これらの写真を見ると、いい大人が子供用のペダルカーに座っているようで、いささか滑稽に映るが、当時の皆さんはじつに真剣だったのである。』(④-5、P172,3)の写真をご覧ください。)しかもどうやら、そこそこヒットしたようなのだ。以下(④-15)より引用。
『オートバイと同様に無免許で運転できて、駐車場が不要であり、税金もオートバイ並み(地方によって大きく異なるが)としたこの適用除外制度は、大正時代のユーザーにとって絶大な利点を生んでいた。当時はさほどに車税が高額であり、運転免許の取得も困難で、とどのつまりは業務用でもなければ、自動車の所有など、まだ雲の上の空夢であった。写真のように気取って豆自動車に乗った日本人は、「オーナードライバー」という概念すら湧かなかった時代に、これを楽しもうとした、ごく一部のモーターマニアだったのである。』(④-15、P175)当時の日本でこの車に乗っていた人は、本当の趣味人だったのかもしれない。
(上の白黒写真では、“走るスノコ板”の構造がわかりにくいので、下に最近のカラー写真を掲げておく。ただ木製の板だったため朽ち果ててしまい、オリジナルのものはほとんど残っていないようだ。画像は
https://www.mecum.com/lots/LJ0617-283881/1915-smith-flyer-cyclecar/
よりコピーさせて頂いた。なおスミスモーターホイールの類似品を、モーターボート商会がアメリカ製デイトンモーターサイクルのものを、二葉屋がマイケルモーターサイクル製の輸入に乗り出すが、いずれも長続きしなかったようだ。詳しい経緯及びその理由は(④-5、P170、171)をご覧ください。)
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https://cdn1.mecum.com/auctions/lj0617/lj0617-283881/images/lj0617-283881_2.jpg?1495196145000
15.1-3中央貿易製の「オートサンリン」
 こうして、フロントカー型の三輪自転車の後輪に、スミスモーターホイールを取り付ける形で、大阪や東京を中心に、オート三輪の草分け的な荷物運搬車が、自然発生的に誕生していったが、その代表格として、輸入元である、大阪の中央貿易の流れから追ってみたい。
 まず同社では、スミスモーターホイール単品以外に、上に記したようにスミスフライヤーに黒塗りの重厚な?ボディを載せて、完成車販売(カタログでは“豆自動車”と!)をしていたが、さらに同社製の完成車として、乗用専用の「自動人力車」と、フロントカー式の貨物運搬用「自動三輪車」を販売し、オート三輪時代の先鞭をつけた。そして下の写真を、よ~くご覧いただきたい。この貴重な資料は、月刊オールド・タイマー(八重洲出版)連載記事「轍をたどる」(2006年.8月、№.89号、④-5として引用)のP173からコピーさせて頂いた、1920年の雑誌モーター10月号に掲載された、中央貿易の宣伝だが、「自動入力車」の下の、「自動三輪車」の横に確かに、小さいが「AUTOSANRIN」と記されているのだ。
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 そして中央貿易製の「AUTOSANRIN」は、後にカタカナ表記となり「オートサンリン」として、さらに前面に表記されていく。下の写真も、月刊オールド・タイマー(八重洲出版)の「轍をたどる」(④-5として引用)のP173からコピーさせて頂いたものだが、フロントカー式だけでなく、リヤカー式、スクーターなど、バリエーションを広げていった様子がわかる。そして『中央貿易ではこれらの自動三輪運搬を、カタログ(注;略)にあるように「オートサンリン」と名付け、特に次の二種を主力として販売する。・フロントカー式固定オートサンリン、 ・リヤカー式固定オートサンリン のちに戦後、昭和40年代まで続いた「オート三輪」の呼び方としても、これは極めて早期の使用例だった。』(④-5、P172)下の写真は、雑誌モーターの1923年5月号のものだが、確かにカタカナで“オートサンリン”と表記されている。この“オートサンリン”という言葉が、中央貿易が使い始めたのか、他社の方が先だったのか、それとも自然発生的なものだったかは不明だ。(②、P173)では、『オート三輪という言葉が用いられるようになったのは、1922年に山成豊氏の経営する鋼輪社(KRS)が、スミスモーターを使用して、前1輪・後ろ2輪の動力付きの三輪車をつくったからだといわれている』と記してある。より一般化したのはその時期だったかもしれないが、さらにその前の、今から100年以上前に既に使われ始めていたことだけは確かだ。
15.1-4モーターホイールの応用形態から脱却しつつあった瞬間「リヤカー式固定オートサンリン」
そしてもう1点注目すべきは、このオートサンリンの写真に、外付けのスミスモーターホイールが見当たらない点だ。(④-5)の指摘のように、“固定式”オートサンリンは、モーターホイールを外付けするのではなく、汎用小型エンジン版のスミスモーターを使用していたのだ。『これらは汎用エンジンを利用した、いわば独自設計の完成車でもあった。モーターホイールの応用形態から脱却しつつあった瞬間がここにみられる。』(④-5、P172)
この「スミスモーター(エンジン)利用リヤカー式オートサンリン」は、大正13年(1924年)9月12日に、内務省より特殊自動車としての認可を得ている(④-13、P175参照)。そして(15.4-32項)で記す、鋼輪社(KRS)のリヤカー式オート三輪も、(②、P173)の記述から類推すれば、同じ構造だったように思われる。富塚先生指摘のように、フロントカー式では大きな問題は生じなかっただろうが、リヤカー式とスミスモーターホイールの組み合わせは安定性に欠けたので、この進化は重要だっただろう。
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15.2自動車取締規則が全国統一される(「自動車取締令」の発布;1919年1月)
ここで話題が少し逸れて、自動車法規の話題に移す。内務省(警察)は、交通取締りや免許等道路利用に関する「自動車取締令」を、弾力的に運用することにより、オート三輪と小型四輪車が市場を形成するのをアシストしていった。
この時代の日本の官庁では稀に思える、“上から目線”でなく、規制緩和によって自然な産業育成をはかった内務省(警察)の“粋な”施策について、その経過をたどっていく。
1919年(大正8年)1月11日、それまで地方ごとに異なっていた自動車規制が全国統一されて、内務省の省令第一号として「自動車取締令」が発布される。その背景として『大正7年(1918年)末の自動車数(内務省調べ)は、全国で4万5千台を数え、この中には専業のお抱えや営業運転手だけでなく、新たなオーナードライバーも芽生え、自動車の種類も多様に膨らんでいた。そこで必要となったのが全国的に統一された取締令だったわけである。』(④-5,P172)その概要を以下、自工会発行の“JAMAGAZINE”の中の資料、「自動車の「検査」とその変遷」(web47、P6)より引用する。
『大正 8 年(1919)1 月、内務省は自動車の保安の規定を含む規則「自動車取締令」(内務省令第1 号)を制定した。各県にあった自動車取締規則、その中の自動車検査に関する取締規則も全国統一しており、各府県警察が自動車事業とともに道路交通を取り締まるものであった。
 全 34 条で、自動車の定義から始まり、最高速度を 16 マイルとし、続いて自動車の構造装置、営業・自家用の別、検査、車両番号、登録、運輸営業、運転免許、自動車事故、罰則等を規定しており、このなかでは自動車の定期検査の実施についても規定していた。』
この法令によって、「自動車」という存在が日本で初めて定義づけられた。合わせて免許制度も整備されたが、自動自転車(オートバイ、ただしサイドカー付きのものを除く)とオートペッド(下の写真参照、アメリカ製の)については、動力付きではあるが自転車の延長線上にあるものとして、鑑札(ナンバープレート)を付けて納税さえすれば、運転免許を所得しなくてよいことになった(④-5、p173参照)。
15.2-1自動車取締令の基本的な考え方
話を戻し、以上も(④-5)、(web47)の内容と重複するが、ここで自動車取締令の、基本的な考え方を押さえておきたい。(①、P122)から以下長文になるが、引用させて頂く。
『(自動車取締令の)その内容は、最高速度、自動車の構造・装置、検査、運転免許、交通事故などに関する条項となっている。ただし、ここで対象とする自動車は、~ 実際には四輪車のみを想定していた。~これは、それまで地方ごとの取締規則が、主に営業用自動車の取締りを目的として制定されたためであった。~そこで営業用に使われていない自動自転車は自動車取締規則でなく、「自転車取締規則」の対象となっていたのである。
こうした営業用自動車を対象とした取締令の発想は運転免許の条項からも窺うことができる。~すなわち、免許は「運転免許」ではなく、「運転手(就業)免許」となっていたのである。
こうした発想と第33条の条文を合わせて考えると、サイドカー以外の自動自転車、すなわち三輪車は取締令による規定を受けないこととなり、運転免許も不要であった。ただし、この取締令では使用を希望するすべての車は、制動機・警報機などの構造を備え、検査に合格しなければならなかった。第33条の第2項の条文は、これに対して特殊自動車の場合は構造を簡単にすることができるという意味であったのである。』
ここで「特殊自動車」という語句が、初めて登場する。以下(④-5、P173)から引用を続ける
『そしてこのオートバイ並みの無免許運転許可扱いが受けられる自動車を「特殊自動車」と呼んで、やや漠然と示した。』これ以降、この記事で「特殊自動車」という語句が、何度も何度も出てくるが、その位置づけを考える上で、基本となる解説だ。
15.2-2日本が左側通行になったのは大倉喜七郎の助言?(余談)
(ここからは余談になる。(⑩)によれば、そもそも政府(内務省)が最初に自動車取り締まり規制を制定する際、黎明期の日本の自動車界の第一人者的な立場にあった大倉喜七郎による助言が大きな影響を与えたという。(⑩、P41)では『日本が左側通行となったのも、英国で自動車を学んだ大倉の助言によるものと思われる。』としている。
以下は(⑦、P16)より『(1907年に)帰国した大倉に早い時期に接触を図ったのは東京・警視庁の自動車取締を担当する原田九郎だった。彼は前年に東京帝国大学を卒業したエリート官僚で、輸入された自動車が走るようになってきたことで、これを法律的にどう対処するか検討する任務を与えられていた。当時は、自動車のナンバーも運転免許証も交付されておらず、勝手気ままに走っていたのだ。(中略)いずれにしても、大倉の意見が自動車取締法などに大きな影響を与えたことは間違いない。原田が作成した交通取締法は、警視庁管内で有効であっただけでなく、それが各地方のモデルになり、全国的なものになっている。(中略)1910年(明治43年)のナンバー交付により、自動車の安全性や車両の満たすべき基準がつくられるようになるが、それまでも自動車を走らせるには登録することが義務付けられた。』(下の写真は「天皇に拝謁の顕官(衆議院議員・貴族院議員)を待つ高級車」(1934年)で、ジャパンアーカイブスさんよりコピーさせて頂いた。)
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このため、原田のいる警視庁交通課では、どのような自動車が輸入され、あるいは日本でつくられているか、すべてを把握していたという。当時の自動車の台数ならば可能だったのだろう。さすが警察だ。そして当時の日本のVIPたちも、徐々に自動車を主体に移動するようになっていたはずだ。内務省(警察)が自動車取締令で押さえておきたかったことは、治安維持の観点からすれば普通自動車の動静で、“豆自動車”などは当初、範疇外だったのもうなずける。下の画像はwikiより日比谷赤煉瓦庁舎。1911年(明治44年)3月から1923年(大正12年)9月(関東大震災)まで使用された、東京・警視庁の日比谷赤煉瓦庁舎。)
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15.2-3免許取得のハードルはかなり高かった
話を戻す。ここで当時の一般の自動車用の、「運転手(就業)免許」としての色彩が強かったという自動車免許に求められた技能ついて、以下(⑬)より、
『戦前の自動車免許は、戦後のそれとは異なり、営業車の運転を前提としていたこともあり、自動車修理の技能なども求められるかなり難しい技能であった。そのためここでの無免許(車両)とは、構造が簡単でかつ操縦が容易であり、特別の練習を必要としない車両の意味である』(⑬、P169)。免許取得のハードルはかなり高かったようだ。GAZOOによれば、『免許取得は18歳以上が対象で、各地方官による試験もありました。期限は5年で“更新制”ではなく“再試験制”だったのも、現在とは違うところ。免許を持っていても、再試験で不合格になると免許が維持できなかったのです。』と今よりも厳しい。
https://gazoo.com/column/daily/20/03/12/ 
15.2-4特殊自動車=無免許で乗れる車というよりも、検査に合格した車&製造業者という意味合いが強かった(内務省の視点)
現在一般的には、「特殊自動車」というよりも、「無免許三輪車」とよばれていることも多いこの制度は、内務省側の視点に立てば、『無免許で乗れる車というよりは検査に合格した車という意味合いが強かった』(①、P122)のだという。『その際に、もっとも重視されたのは道路交通の視点から見て、一定以上の性能を持っているかどうかであった。』(①、P122)から引用を続ける。
『無免許車の許可が車輛ごとでなく、検査に合格した製造業者に下されたことも、車両の性能を重視する発想からきたものであったと思われる。というのは、車両検査の際には車体自体だけでなく、製造業者が検査車輛以上の性能を備えた車両を持続的に供給できるかどうかについても調べており、後述するように、三輪車の性能が問題にならなくなる30年にはこの方法が変更されたからである。』
自分も誤解していたことだが、一般に言われている特殊自動車=「無免許車」は運転手/所有者側の視点に立てば確かにそのようになるが、内務省側の立場では、そのクルマ&製造業者に対して、試験に合格したものに免許(=「特殊自動車」として許可する)を与えるという目的のものだった。後に記すように、当時オート三輪業界への参入障壁は低かった。交通体系を安全に維持していくために、一部の怪しげな、特殊自動車の申請者(15.4-13項参照)を排除する意味合いが強かったようだ。そのため内務省はこの、ままこみたいな立場の、「特殊な自動車」の普及に、当初は慎重な姿勢を示していた。
15.2-5やや曖昧だった“特殊自動車”の定義
以上のように、自動車取締令の適用除外から始まった、特殊自動車の定義自体も、やや(かなり?)曖昧なものだった。以下(④-5)から引用する。『この「特殊自動車」については、道府県知事が認めれば、第四条の規定(注;保安装置の装着義務)が省略できるとしている。~ つまり地方長官が「特殊自動車」と認めた車輛なら、運転免許も保安装置の一部も不要という解釈が成り立つ、少々不確定な条文だったのである。』(④-5、P173)日本の自動車社会が、まだ発展の初期段階にあり、方向も定まっていなかった中で、関連の法規が、このような“弾力的な運用”に頼ることになるのも、多少はやむを得なかったと思う。
そして(④-5、P174)によれば、運転免許以外にも「特殊自動車」扱いになれば、『~最低限この2項目、すなわち最高速度(16マイル=25.6km/h)と交通事故の対処、またこれらに違反した場合の罰則規定が適用されるだけだったのである。』非常にシンプルな内容で、こうなると軽車輛にとっては、「特殊自動車」として認定されるか否かが、非常に重要なポイントになったのだ。
(下の写真は最初から特殊自動車として認定された、“オートペッド”で、アメリカ製の155ccエンジン付きキックスクーターだ。中央貿易はこれを「自動下駄」のニックネームをつけて売り出したが、スミスモーターホイールと違って、日本人にはウケなかったようだ。当時の日本人の嗜好からすれば、「実用的」とは言い難い乗り物だったが、運転免許が不要との判断は頷ける。
なお、(15.1-3項)に写真を載せた「自動入力車」について、『大正9年(1920年)の夏に、「自動自転車(サイドカーを除くオートバイ)及びオートペットの類と同様に特殊自動車として」、無免許運転を認めてほしい、とする申請が現れた』(④-13、P175)が、許可されなかったという。「自動入力車」のような、人力車的な使われ方が可能なものは、営業用自動車とみなされてしまうと、扱いは厳しかったのだろう。次に記す「警山第104号」の通牒が出る前の話だ。下の写真は以下のFacebookよりコピーした。
「Scooter in 1916 ! The Autoped... - Shu Ren Learning Centre | Facebook」)
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https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcRJF-flBnfjObWLfYo6DdxjX3Nt3PcCF27CzA&usqp=CAU
15.2-6 スミスモーター系の車両は公式に「特殊自動車」のお墨付きを得る(1921年12月)
 ここからも、(④-5、P174)の一部を、丸写しさせていただく。正しくはぜひ、原文の記事をご確認してください。
『はたして特殊自動車として扱って良いものかどうか?という疑問でまず物議をかもしたのが、先のスミスフライヤーであった。スミスフライヤーのような豆自動車は、通常の自動車と同じ扱いには出来ない、と考えるものが多数現れた。これに対して内務省は、大正10年(1921年)12月22日、警保局長付けで各都道府県庁宛てに次のような通牒(書面で通知すること)を送った。』(④-5、P174)その書面の別紙として、スミスフライヤー、オートサンリン(注;ちなみにそこに図示されたものは、先に掲げた、1920年の雑誌モーター10月号の「自動三輪車」のイラストと似ている)、サイクロモビルの図を示し、『これらスミスモーター系の簡便な車両は、前出の取締令第33条の「特殊自動車」にあてはまると決めた。つまりこの時点から、スミスフライヤーとオートサンリン(この時点ではまだスミスモーター付きのフロントカーだった)は、全国的にオートバイ並みの取り扱いが許されるようになったわけだ。
 大阪の中央貿易によるスミスモーターの販売は、「小型自動車に関する件通牒」と呼ばれるこの省令によってさらに弾みがついた。前述のように大正6年(1917年)からすでに東京や大阪ではスミスモーター付きのフロントカーが自然発生的に出現し、商店の配達などに使用されていたわけだが、この通牒、警山第104号以降は「免状(運転免許)不要」のお墨付きで売ることができるようになったのである。』
(④-5、P174)
15.2-7構造簡易、操縦亦容易にして、普通自動車に比し交通上の危険も寡少((警山第104号)
そしてこの、警山第104号の文中にある『構造簡易、操縦亦(また)容易にして、普通自動車に比し交通上の危険も寡少に有之候間(これありそうろうあいだ)という根拠、つまり普通自動車と比べて簡便かつ安全であるからよいだろうとする理由付けの一節は、その後内務省が創成期の製造許可を一台ずつ下していく際に、まるで慣用句のように登場し、連呼されていく。』(④-6、P170)
このことが端緒となり、オート三輪の製造業者たちはこれ以降、内務省を中心に、警視庁、各都道府県や後には商工省も含めた関係省庁と、様々なやりとりを繰り広げつつ、優遇枠の拡大を陳情し、段階的にそれを獲得していく。一方当初はその普及に消極的であった内務省を中心とした行政側も、陸軍のような産業保護の観点からの規制ではなく、次第に規制緩和を通じて民間の活力を引き出そうとする、産業振興策で応じ、その実績を上げていく。
もちろん、それが可能だったのは、オート三輪や後に記す小型四輪車の分野が、フォードやシヴォレーとまったく競合しない市場だったからであるが、戦前の日本社会における民と官の関係性からすると、異例の展開とも思えるその道程を、この記事でこれから辿っていくことになる。
15.2-8スミスモーターが国産小型自動車の引き金をひいた
 現在の日本で、スミスモーターホイールの存在意義を問われれば、web等メディアの影響から、大半の答えは「トヨタの自動車研究が、スミスモーターの分解から始まった」ことになるのだろう。確かにその事実も大きい。しかし今までこの記事で確認してきたように、この小さな補助動力輪が、トヨタのみならず、黎明期の日本の自動車界全体に与えた影響の方が大きかったと思う。そのまとめとして、(④-5、P170)から引用させていただく。
『大正期の日本にモータリングの波を押し広めたのがスミスモーターホイールであった。まだモーターが有産階級の専用物であった時代の日本の自動車社会に、小さな風穴を空けたのが、わずか201ccのモーターホイールだったのである。
 その風穴はのちに国産小型自動車を発生させる引き金となり、自動車取締令の上に意外な影響を残すことになる。例えばもし日本でスミスモーターホイールの人気がなかったら、戦後の軽自動車の車両規格は生じていなかったといっても過言ではないだろう。』

(下の写真は、「トヨタ産業技術博物館」より、同館のfacebook(web27-3)より引用させていただいた。以下の文も引用『当館・自動車館には、米国製「スミス・モーター・ホイール モデルBA(1917年製)※」が展示されています。(中略)このエンジンを参考にして、トヨタ自動車を創設した豊田喜一郎と彼の仲間たちは、彼らにとって初となるエンジンを試作しました。』豊田喜一郎がなぜ、自動車研究の最初の素材として、このスミスモーターモーターホイールを選んだのか、エンジンの構造が単純だった理由が第一だっただろうが、下の写真に思いをはせれば、大衆のための自動車作りの、その原点に立ち戻り、そこからスタートさせたかったからかもしれない。)
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15.3実用自動車製造と「ゴルハム式三輪実用自動車」について
 ここからは、特殊自動車だと、正式に認められた、黎明期のオート三輪の発展の歴史を辿っていくことになる。しかしその“本流”の話の前に、国産三輪自動車という括りからすると、どうしても、大阪の実用自動車製造の「ゴルハム式三輪実用自動車」についても触れておかねばならない。
同車については前々回の記事の(8.3-4項)でも触れたが、今回の記事で度々引用した“轍をたどる 国産小型自動車のあゆみ”(岩立喜久雄氏著)を読むと、今まで認識不足だったこともわかってきたので、この項では、久保田鉄工所をはじめ一流企業の多額の出資を経て、鳴り物入りで登場した、ゴルハム式三輪実用自動車の初期の時代に焦点を絞り、その実像を確認しておく。
なお予め記しておくが、このゴルハム式三輪車は、今までたどってきた荷物運搬用のオート三輪の流れに属するのでなく、かといって、陸軍保護下の軍用保護自動車を目指したわけでもなかった。商人の街、大阪らしく志は高く『輸入車とはひと味違う、安くて便利な自動車をつくることをめざして設立された』(⑦、P70)のだが、すぐにその計画は頓挫し、その後紆余曲折を経て、次回の記事で記すがやがて国産小型四輪車の本流の流れへと至る。まず初めに、実用自動車製造の設立の経緯から、もう一度確認しておく。以下(④-10、P170)より引用
15.3-1久保田鉄工所直系の子会社だった
『そもそも実用自動車製造は、前述のようにゴルハム号の特許を高額で購入し製造販売する目的で、大正8年12月に発足した会社だった。当初は久保田鉄工所の創業者、久保田権四郎(1870~1959)が社長を兼務していたが、実際は娘婿にあたる久保田篤次郎が立案した事業計画の下に、久保田鉄工所はじめ、以下の関西鉄鋼界の豪商たちが参集し、合計100万円を投資していた。大正8年当時の100万円といえば、現在ならば50億から100億円に相当する。久保田権四郎(久保田鉄工所)34万円、津田勝五郎(津田鋼材社長)30万円、芝川英助(貿易商)30万円~ これらの出資者たちは、第一次大戦(大正3~8年)期の関西産業界の非常な好景気を受け、潤沢な資金を備えていたわけだ。』
(web44.P44)には『ゴーハムの権利を 10万円で買い取ることにより、自動車製造に乗りだした。』という記述があるので、ゴルハム号の特許及びその製造権に