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⑲ 日本の自動車産業の“育ての親”は日本陸軍だった?フォードとGMの日本進出とその影響(戦前の日本自動車史;その4)《- 後篇 -》

⑲ 日本の自動車産業の“育ての親”は日本陸軍だった?フォードとGMの日本進出とその影響(戦前の日本自動車史;その4)《- 後篇 -》
(※この記事はまだ書きかけです)

(元ネタに対してのガイド役になれば幸いです)
(いつものように文中敬称略とさせていただき、直接の引用/箇所は青字で区別して記した。また考える上で参考にしたものや、写真の引用元まで含め、出来るだけすべての元ネタを記載している。この記事のたぶん8割以上が、それら参考文献に依存するものであり、そのため今回の記事は青字だらけになる予定だ。もちろん、オリジナルに勝ることはけっしてないので、この記事をきっかけに興味をもった方はぜひ元ネタの方を確認願いたい。この記事がそのためのガイド役を果たせれば幸いだ。
なお前回の記事の“主題”が陸軍だったため、やたらと重苦しくなってしまった反省もあり、今回は深く考えることはせずに、流れに任せて軽いノリ書いてある。また動画の紹介部分は緑色で区別した。)
― ― ― ― ― 以下、前編より続く ― ― ― ― ―

12.戦前の“アメ車”をめぐっての、よもやま話(雑談)
 前回の記事(その3)は陸軍が主役で、そのため“総力戦構想”だとか、全般にかなり固く、重苦しいものになってしまった。そこでその反省も込めて、今回は“アメ車”の記事ということもあり、この記事の最後の纏めとなる、13項のフォード、GMの日本進出の功罪を記す前までは、軽めな話題で綴っていきたい。ただその内容は、当時の日本の自動車社会や、本国を含むアメリカ車の世界について、雑談するもので、ネットの検索で「戦前の日本の自動車史」というテーマに興味を持ち、読まれている方からすれば、12項後半のアメ車の部分は読み飛ばしてもらったほうがよいと思います。
まずは”おさらい”から
 それでは“よもやま話”を始める前に、今まで多く引用してきた五十嵐平達、神田重巳、小林彰太郎の、戦前のアメ車時代をリアルタイムで体感してきた自動車ジャーナリストの文章+戦前日本のアメ車時代に特化してもっとも詳しく書かれている①を主に参考しつつ、産業面というよりも、社会風俗面における自動車の位置づけをもう一度(多くの記述が重複するが)、おさらいするところから始めてみたい。
全体の75%が横浜製フォードと大阪製シヴォレーだった
 当時の日本の街中を走る自動車の大半が、ビッグスリーのKD生産車を中心としたアメリカ車(しかも大雑把にいえば、そのうちの3/4が横浜製フォードと大阪製シヴォレー)であり、自動車≒アメリカ車であったことは何度も記してきた。
 今ではなかなか想像しがたいし、誤解されがちな当時の“雰囲気”を㉚より引用『~何故か現在語られる日本の自動車史にはこのムードが出ていない。日本自動車史の多くはその1%の国産車だけを拾い集めて昭和初期の日本を構成しようとしているのだ。』(㉚P107)
 戦前日本の自動車“社会”(自動車“産業”でなく)について語る際に、国産乗用車を軸に記すのは、小型車分野のダットサン(次の“その5”の記事で記す予定)以外はほとんど無意味のようだ。ネットで探索すると、トヨダAA型乗用車の綺麗な写真(レプリカだが)が多く出てくるが、実際には6年間かけてようやく1,404台が手作りされたにすぎず、戦時体制下の街中で見かけることはまれだったはずだ。次回の記事(その5)で記す予定のオート三輪とダットサンを除けば圧倒的に、アメ車中心の世の中だったのだ。
自家用車はごく少なかった
 さらにこれも何度も記したが、クルマの種別も自家用車はごく少なく、乗用車はフォード、シヴォレーを中心としたタクシーや、官庁や企業向けの社用車、それにハイヤーが主体だった。人力車に代わり、都市部の中産階級では、当時円タクと呼ばれたタクシーの利用が一般化しており、その下の大多数の庶民層もイザという時は利用していたようだ。またダッジ等の上級車を使用していたハイヤーも、都市部を中心に育ちつつあったアッパーミドルクラス以上ではどうやら、日常的に使われていたようだ。さらに貨物分野でも、大八車や牛馬車の一部もトラックやオート三輪(次の“その5”の記事に記す)に徐々に代替えされていく。
 五十嵐は戦前の日米のモータリゼーションの違いについて『オーナードライバーによるファミリーカーを主体としたアメリカ式の、田舎を発展させるモータリゼーションと、(日本式の)ダンピング料金で流し営業をするタクシーの都市集中型モータリゼーションの体質的な差』(㉗-2,P43)であったと要約しているが、そんな戦前日本のタクシー主体のモータリゼーションについて、㊳の書で神田は『タクシー(“円タク”)モータリゼーション』と称して語っている(㊳P135)。
そこで、この“よもやま話”を、戦前の都市部を中心とした庶民にとって“自動車=タクシー(円タク)”だった時代の社会風景を、神田の実体験を交えた㊳の描写の引用から、スタートさせていきたい。(日本のタクシー会社の始まりについて、以下写真と文をブログ“東京のタクシー百年史”さんより引用http://www.taxi-tokyo.or.jp/100th_anniv/history/index.html 
『この年(注;1912年)の8月5日、東京・有楽町の数寄屋橋際(現在の有楽町マリオンの地点)で「タクシー自働車株式会社」(下の写真)がT型フォード6台で営業を開始。これがわが国初のタクシー事業となる。(中略)当時としてはかなり高価な乗り物だった。この発祥にちなみ、8月5日は「タクシーの日」と定められた』とのことです。)

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http://www.taxi-tokyo.or.jp/100th_anniv/history/images/ph_taishou_01.jpg

12.1戦前日本の“タクシーモータリゼーション”について(雑談その1)
『日本のモータリゼーションは、必ずしもそういう正統の路線では育たなかった。しいて言うなら「タクシーモータリゼーション」の急速な発展である。昭和初期1926年からのタクシー台数は上昇傾向を続け、都市部に暮らす市民一般にとってタクシーの利用は日常生活の中で当たり前のシーンになってきた。』(㊳P136)そのタクシーのほとんどが、KD生産された黒塗りのフォードとシヴォレーで二分していたことも既述の通りだ。
『タクシーステーションは少なく、ほとんど街角でタクシーを見つけて止め、タクシーのほうは客を見かけて拾う“流し”の形態で営業した。ただし、大都市のターミナルには駅前タクシーステーションの駐車を許可された駅待ちタクシーがあった。許可車は前端に「エ」と描いたバッジをつけていた。』
㊳の文章の途中で口を挟むと、12項の戦前日本の自動車社会の“思い出”の描写は、東京の住民だった五十嵐、神田、小林によるものなので、その舞台は東京が中心だが、円タクの発祥の地は東京でなく、実は大阪であった。(⑲P156)の記事「円タク花盛り」より引用させていただく。
“円タク”の始まりは大阪
『もともと円タクの始まりは大阪である。大正十三年(1924)六月、大阪市内を一円均一で、とその名の通りの均一タクシー株式会社が開業。乗客三人乗りトロジャン型自動車二十台でスタートした。』ということは、フォードの進出以前のことで、大阪人の商魂が生んだものだったようだ。(⑲P157)より引用を続ける。
『この均一タクシーの発足は成功するかどうか、周囲はやや悲観的な見方をしていたが、その成果は上々の首尾。この成功は同業者に大きな刺激を与え、一円均一運賃を見習う業者が続出した。』当時の日本はすでに、自動車社会に向けて、胎動しつつあったのだろう。
『この動きは早速、東京に飛び火した。その頃の東京では不況や業者乱立で競争が激しく、タクシー料金が七十種類もあると言われるほど混乱していた。メーター制、均一料金制の是非をめぐって業界の意見が対立している間に、気の早い一部の業者が東京均一タクシ-㈱をサッサと設立してしまった。大正十五年の「読売新聞」(7月9日)に「均一タクシーの流行と郊外料金の注意」という見出しで、均一性にも三マイル1円と、市内1円の円タク二通りがあることを書いている。東京はこの頃から円タク時代に突入するのである。』
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https://pbs.twimg.com/media/C10uvSPUQAAEPF4?format=jpg&name=medium
(上の写真はブログ「戦前~戦後のレトロ写真」さんよりコピーさせていただいた、1930年(昭和5年)の夜の銀座の光景。)
https://twitter.com/oldpicture1900/status/818862153339781120

子供は補助シートに座った
 再び(㊳P136)の描写に戻り、当時のタクシーの車内について『車内は前席背後に折り畳み補助シート2個を備え、乗客5人まで収容できた。』(㉑P15)の“小林少年”(1929年生まれの小林彰太郎は当時子供目線だった)によれば、当時タクシーに乗ると『われわれ子供たちは、後席の前にある補助椅子にいつも座らされた』そうだ。当時のシヴォレーのカタログの室内の写真をみると、現代のJPN TAXI(ジャパンタクシー)と比較してもずいぶんゆったりとした印象だ。小柄な日本人故もあってか本格的なリムジンのように7人乗車(乗客は5名)が可能だったようだ。
(㊳P136)に戻る『前席には、ドライバーとともに「助手」と通称する従業員が乗った。彼の仕事は通称通りドライバーの補助で、道路沿いに立っている客を素早く見つけてドライバーに知らせる。窓から腕を出して右折や左折、停止の合図を示す。クルマを客の前につけると助手は客と賃金交渉したり、ドア開閉や乗降の世話を焼く。こういうためには、歩道側に座っている彼の存在が貴重だ。ほかにも、経験からいい客が乗りそうな“穴場”にドライバーを誘導したりする。練達した腕利きの助手と組むと、“水揚げ”(売上高)が増すとさえ言われた』そうだ。
昭和10年頃、全国で約5万台のタクシーがあった
((⑲P158)によれば、東京の営業用自動車の台数は、1926年の2547台が、2年後には2倍、5年後の1931年には3倍近い台数になったといい、この台数にはタクシー以外に市営バス(無税の市営バスは除く)も含まれるが多くはタクシーの急増が主因だったとしている。(②P212の座談会で宇田川によれば、『~統計が不備なんですけれど、昭和十年ころには、全国で五万台のタクシーがあったと言われているんです。(中略)そのうちの一万台ぐらいが東京市内を走っていたという数字があります。』としているが、①では具体的に『1936(昭和十一)年に東京の円タク9,000台、トラック7,500台、自家用車1,700台、大阪ではタクシー2,500台、トラック1,000台、自家用車900台』(①P131)と記している。その結果、『この頃はタクシーの洪水とか氾濫などの表現がよくされたものだが、盛り場などに立ってみると、なるほどとうなずけるのが実感だったろう』(⑲P159)としているが、ここも①では『1933(昭和八)年3月29日(注;年度末です)東京市計画部が交通量調査をして、新宿一丁目が最大の車ラッシュで客の乗っている車が9,500台、空車タクシーが2,000余台~』(①P131)という記述がある。先の1936年の保有台数と若干矛盾があるかもしれないが?細かい話は抜きに、東京の繁華街ではこの時代すでに、タクシーが日常風景だったことは間違いない。下の写真は日劇前を走る1933年製シヴォレーで、画像はトヨタ博物館よりコピーさせて頂いた。同博物館によると撮影時期は1933年12月末に特定されるとのことです。
https://toyota-automobile-museum.jp/assets/pdf/archives/magazine/magazine_81.pdf。)

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https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn%3AANd9GcSKo9CyD7RNJJl8lEgrFjW_VD1vvRBYM8xzmw&usqp=CAU
 こうしたタクシーの普及は、後の13.5項触れるように、フォードとGMにより日本に本格的に導入された、割賦販売制度によるところが大きかった。頭金を500円程度入れれば新車が購入できたのだという(㊹P37等)。以下①より『ちなみにタクシーの95%はフォードとシボレー車で、両社の金融会社が1台三千円、四千円の購入費の七、八割を月賦販売してくれたからである。(中略)個人営業するタクシー屋の個人信用はフォード、GM両社以外、銀行等は全く相手にしてくれなかった時代であったので、勢いアメリカ車が丈夫なのと、金融制度のおかげで日本市場を席巻してしまったわけである。』(①P135)
過当競争で客の奪い合い
 しかしその結果、『売り上げ向上に焦るタクシー業者は、古い月賦が完済されないまま新車を購入するので、二重の月賦返済に追われてしまう。そのため、いきおい客の争奪が激しくなり、』小林少年の証言によれば(以下⑱P16より)『映画がはねると、帰り客を狙って帰り客を狙ってタクシーの助手がワッと集まってきて強引に客を引いた。一度など、父と母とが別々のタクシーに引っ張られそうになり、小学校1年生の筆者は怖くて泣きだしそうになった』怖い体験があったそうだ。
 過当競争で運賃値下げ競争に陥ったタクシー業者をさらに追い込んだ事情は他にもあり『円価の暴落と関税率引き上げによって米国車の販売価格は年を追って値上がりした。そして石油の値上がりも避けられなかった。(中略)この引き上げは致命的な打撃である。』(⑲P161)それだけ切迫していたのだろう。(より公正な『円タクのメーター制は1938(昭和十三)年3月1日、京都市内タクシーが最初で、11月28日から全国的に実施されるようになった』(①P131)そうだ。

12.2フォードとGMの宣伝活動について(雑談その2)
 先に『売り上げ向上に焦るタクシー業者は、古い月賦が完済されないまま新車を購入する』と記したが、フォードとGMの両社は、ライバルに勝ち、消費を刺激するために、アメリカ流儀の激しい販売合戦を展開したため、広告宣伝も盛んに行い、(以下⑲P166より)、その刺激を受けて『タクシーの客も新車を選んで乗りたがったという。』
タクシー客が新車に乗りたがるよう宣伝
 宣伝の話が出たのでここで、フォードとGMが行った広告宣伝活動についても(①P136)を参考にごく簡単に触れておきたい。一般的な広告塔(ネオンサイン、看板)、新聞広告、雑誌広告、さらにダイレクトメール等、今日でも一般的な広宣活動のほかに、目を引く活動として“キャラバン隊”という催しも行われたという(①P137)。
フォードの全国“キャラバン隊”
 この日本フォードが全国に展開した“キャラバン隊”とは、『全国でレコードコンサート、講演会、自動車の展覧会、アメリカ映画上映会等を催し、フォード車の宣伝を行った。各地で千人規模の人々が集まり、大成功を収めたので、朝鮮半島にも宣伝隊を派遣した。昭和初期まで普及不十分の全国地方各地に自動車が隊尾なして展示・試乗でき、当時流行の大衆娯楽であるレコード、映画を利用して人々を集めたので反響が大きかった』(①P137)そうだ。
 ちなみにこのキャラバン隊は①によれば、米系石油メジャー(スタンダード系)の応援を得て開催され、演芸班は日本ビクター(当時は米RCAが親会社)が協力するなど『~京浜工業地帯進出のアメリカ外資系企業総動員の形となった。』という。
アメリカ文化の宣伝隊でもあった
『つまり、フォードのキャラバン隊は、一フォードのためのものではなく、日本市場を制覇せんとするアメリカ企業の行動としての性格をもっていた。』(①P136)ようだ。アメリカの大衆文化を日本人に紹介していくこと=アメリカ企業の利益につながったのだろう。『フォード、GM両社の宣伝費は一ヶ年百万円以上を注ぎ込み、フォードのキャラバン隊には約二十万円もかけ、更に新型発表のために十万円もの宣伝費を投じた。』(①P137)両社ともに日本市場から、十分な利益を得ていた結果に他ならないが、日本全国の一般大衆に、自動車という存在を認識させる一助になったことも間違いない。なおこの活動には、特高も注視していたようだ。(①P137)
 そして、こうした宣伝活動と、“タクシーモータリゼーション”の背景にあり、それが、11.10で五十嵐が指摘したように、都市部(東京圏と大阪圏が中心)を中心とした当時の西欧風の世相/文化が微妙に絡み合い、モダンな自動車文化を形作っていたようだ。その辺の事情を、神田が簡潔にまとめていたので(㊳P135)から簡単に記しておく。
“近代的サラリーマン”の増加
『1920年代半ば(昭和初期)から1930年代(昭和10年ごろ)に至る一時代は、日本の都会のモダン、モダニズム志向文化という意味の近代的文化が、最初の成熟、ある面では爛熟といえるレベルに達した時期だった。限定された面でとらえれば、自動車文化、モータリゼーションもその枠組みに含まれる。その背後にあるのは、近代的経営形態をとる企業の増加、それに伴う“近代的サラリーマン”の増加、彼らの日常家庭生活形態の変化が、おのずからもたらしたトレンドだった。』
当時の日本は“五大国”の一員だった(余談)
(下の二つの表は(Web□27)よりコピーさせていただいた。貧富の差や都市と農村部の格差は著しく、庶民一人当たりの所得水準もまだ低かったが、それでも戦前の日本の国民総生産はすでに、米ソ英独に次ぐポジションにあり(いわゆる“五大国”の一員だった)、その経済力が、都市部の(神田が言うところの)“近代サラリーマン”を中心とした自動車利用を推し進めていった。
以下(⑲P151)より引用『~だが、この普及は単に第一次大戦の好景気や関東大震災のみに帰せられるものではない。戦中戦後にかけて、生産力は急速に膨張し、重工業地帯の形成、人口の都市への集中、都市圏の膨張などによって増大した輸送需要、自動車価格の低落、部品入手難の解消、メンテナンス技術の充実、そして道路整備の進捗など、発展への基礎的条件が熟しつつあったことを見逃すことはできない。』富の偏在は大きかったが、全体としては蓄積もされつつあったのだ。)

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(下の写真は当時の自動車文化の一例として掲げたもので、「昭和6年(1931年)頃の顧客送迎自動車」で、銀座の松屋が運行したボンネットバスだ。『大正から昭和にかけて、銀座には百貨店が相次いでオープンし、激しいサービス競争が始まります。そのひとつは顧客のための無料送迎バスの運行。この写真は松屋が運行したボンネットバス。バスのデザインも、バスガールの制服もかなりモダンで素敵です。』タクシーやハイヤーではないが、円太郎の時代とは様変わりしたバスも、当時の東京の自動車文化の一断面であった。ブログ「MAG2ニュース」さんより写真と以下の文をコピーさせていただいた。
https://www.mag2.com/p/news/223651)

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https://www.mag2.com/p/news/wp-content/uploads/2016/11/c120891fcb718f8c378662df2f861167-450x326.jpg

12.3都市の中産階級以上ではハイヤー利用も一般化した(雑談その3)
 そしてこの頃から、タクシーのみならずハイヤーも、その利用が大都市の中産階級以上(アッパーミドル層)ではかなり一般化していたようだ。小林少年は『普通の中流家庭には自家用車はなかったが、そのかわりハイヤーを自家用代わりによく使ったものだ』(⑱P16)と記している。“ハイヤーを自家用車代わり”には使えなかった庶民階級でも、冠婚葬祭の時には利用していたようだが、以下は小林少年の目を通した、当時の都市部のアッパーミドルクラスの視点からみた、ハイヤー利用について、(⑱P16)より
ハイヤーはクライスラー系が強かった
『わが家ではいつも福田というハイヤーを頼んだ。黒か濃紺の、1933年から37年までのダッジ、プリマスばかり6、7台を揃えており、いつ見ても実に綺麗に磨かれていた。』ハイヤーはタクシーとは違いランクの上な、クライスラー系が強かったようだ。『冬にはエンジンから温水を引いた簡単な暖房装置が足下にあり、さらに寒いと毛布を膝に掛けてくれた。』タクシーとは違った文字通り、“暖かい”もてなし方だったようだ。一方、昔の夏の時の自動車は、『夏らしく暑かったのに、車に乗って熱い思いをした記憶がない。交通渋滞はおろか、信号さえもなかったから、車は走りだせば目的地に着くまで停まらず、開けた窓から涼しい風が適当に入ってきたからだろう。』(⑱P16)小林家は東京郊外の杉並だったようなので、都心に向かう、当時の青梅街道か甲州街道あたりを走った(というか、乗った)印象だろうか。「信号さえもない」というのは驚きだ。⑱の引用を続ける。
『この福田ハイヤーに乗ると、いつも独特な匂いがした。長いことこれが車の匂いだとばかり思っていたが、実はタバコの煙がモケットのシートに沁みついていたのだった。さきに述べたように、小林家一族は敬虔なクリスチャンで、父も親戚の男たちもまったくタバコを吸わなかったので、小学生の筆者は、タバコの匂いというものを、長いこと知らなかったのである。』当時のクルマの、独特な車内の匂いまで伝わってくる。ちなみに戦前の自動車は、シートは馬車時代からの伝統で、革張りより、上質なモケット張りの方が高級だったようだ。

12.4都市と農村の普及の差=貧富の差だった(雑談その4)
このことも既述だがもう一度改めて、自動車普及の地域というか、都市と農村部の格差についても、触れておきたい。フォードとGMは全国ネットで販売網を展開し、これ自体、画期的なことだったが、販売の主力はやはり京浜や京阪神、中部地区を中心とした都市部だったようだ。地方で普及が遅れたその背景としては、劣悪な道路環境とともに、都市と地方(多くが農林/漁業に従事していた)の所得格差があった。下表(表9「農工間有業者一人当所得とその格差」)のように、1916~1926年の間は、農林漁業への従事者の所得は鉱工業従事者のおよそ4割の所得水準だったが、昭和恐慌期の1926~1935年には、米(コメ)を中心とした農産物価格の下落と、生糸の輸出の大幅な下落等により、格差の拡大は一段と進み、約28%まで悪化していた(③P12.6参考)。農村部の苦境は皆さんご存じのように娘の身売りや一家心中、そして都市部への人口の流入につながっていった。
(表10:農工間有業者1人当所得とその格差:③P12.6より転記))
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都市部を中心に中産階級が育ちつつあった
(以下小林彰太郎の(⑱P13)より『戦前の昭和5年(1930年)ごろから第二次大戦がはじまる1940年ごろまでの約10年間は、中流かそれより上の人々にとって実に平穏無事で心地好い時代だっただろう。世の中はいまよりずっと単純で、時はゆったり流れていた。もちろん、社会階層による生活水準の格差は現代よりはるかに大きかった。三井、岩崎、住友などの巨大財閥がヒエラルキーの頂点にあって、ひそかに社会を支配するいっぽう、“赤貧洗うが如き”社会の下積みが、都会の陋巷(ろうこう)にも農村にも埋もれていたはずである。だがその中間には、健全な中産階級(プチ・ブルジョワと呼んでもよい)人々が確かに多く存在し、日本の社会を実質的に支えていたのである。』そんな戦前の日本の(現代社会もそうなりつつあるがそれ以上に)、超格差社会の中で“赤貧洗うが如き”生活を強いられていた人々にとっては、自動車に対して、また違った捉え方をしていただろう人々が、多数存在していたことも事実だった。11、12項で今まで触れてきた、五十嵐、小林、神田らの記述は、戦前・昭和のフォード・GM進出以降の東京など都市部における自動車社会の風俗の記述として、実体験に基づいた正しいものだと思う。しかし日本全体の産業構造からすると、まだ多くの人々が昭和恐慌下の貧困な農村部で暮らしていた。バランスを取る意味で、以下「太平洋戦争のロジスティクス」という本(⑳P70)より、農村側の視点からみた当時の“自動車”も記しておく。
その一方、電気も電話もラジオも自動車もない農村は珍しくなかった
『~また明治以降の徴兵制は、農村社会に住んでいた若者を近代的軍事組織の一員とすることで、電気や動力機構のある生活を体験させ、「教育」するという効果をもたらした。戦前の日本では、ある時期までは、兵営が日本社会の近代化(工業化)のための技術教育の場として機能していたことは、無視できない事実である。
 昭和になってさえ、電気も電話もラジオも自動車もない農村は珍しくなかった。国民の大半が農村であった戦前の日本で、徴兵された若者が兵営生活の中で、電気や電話を使い、ラジオを娯楽とし、兵種によっては自動車なり飛行機を操縦して学ぶ。それが戦前日本の社会と軍隊の関係の一断面であった。』
フォードやGMの日本進出で全国展開された結果、自動車がより身近な存在になったとはいえ、まだ縁遠い日々をおくっていた(“俺ら東京さ行ぐだ”を地で行くような)人々も多数いた。以下も同じ⑳のP78からの引用だが、多少皮肉がこもっているが、事実でもあるだろう。『戦後、日本陸軍軍人の体験記の多くは、執筆者が大学を卒業し、ホワイトカラーの生活をしていた都市部の人間という、日本人全体の中では例外的な存在(例えば昭和10年で高等教育を受けていたのは同世代の3パーセント程度)であったため、とかく陸軍での生活は劣悪な環境として紹介されることが多い。しかし、地方と都市部、あるいは地域内で社会格差の大きかった戦前の日本では、多くの日本人にとって「平時の」軍隊生活は娑婆(しゃば)の生活より快適であった。
 例えば兵食の米なども、経済性の追求だけで安い米を購入はしていない。「国民の中程度の生活」を基準として、米などが購入された。じっさい農村などで「兵役を終えた息子が、毎日のように肉が食いたいなどと贅沢を言って困る」と親兄弟が嘆いたという話もあるほどだ。
農村部の人間にとって兵営は「社会的格差」のない「平等な待遇」の場に見えた
 当時の日本には同じ国土に、毎日のように肉魚の食事ができた都市部と、それらを食するのは盆と正月くらいしかない農村部が存在していたのである。この意味において、農村部の人間にとって、兵営は「社会的格差」のない「平等な待遇」の場に見えたのも一つの事実だった。』
(下の写真は「サンデー毎日 昭和12年(1937年)1月24日号」より、「牛馬のないこの村は人の背が唯一の運搬機関で、小さい時から思い荷物を背負って働く子供たち」。以下のブログよりコピーさせていただいた。(https://togetter.com/li/1330698))
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https://pbs.twimg.com/media/D2Mu-adU4AE-NmM.jpg:small

12.5フォードに比べて、シヴォレーの情報が少ないのは何故か?(雑談その5)
 戦前の日本の自動車社会について記した本やネットの情報を調べていくと、たぶん多くの人が気付くであろう“不思議”なことがある。それはシヴォレーの地元?である“大阪発”の情報が少ないことだ。大GMを積極的に誘致して立派なKD工場を建てさせて、全国に大量のシヴォレーを送り出した、その本拠地だったはずなのに、なぜか日本における戦前のアメ車情報が“東高西低“なのだ。この不思議さは、東京のカーマニアからすると、共通の思いがあるようで、多くの東京(横浜)人から指摘されている。宝塚文化に代表されるモダンなものから、演芸のような庶民向けのものまで、大阪の文化が東京に劣っていたなどとは到底思えないのだが、なぜか戦前のアメ車時代の大阪の情報が少なすぎるので、フォードに比べて戦前のシヴォレー関連の話題も著しく少ないのだ。
なぜか大阪発の情報が少ない
 たしかに台数で比べれば『1936(昭和十一)年に東京の円タク9,000台、トラック7,500台、自家用車1,700台、大阪ではタクシー2,500台、トラック1,000台、自家用車900台』(①P131)とやはり差はあったようだが、その差以上に大阪からの情報量が少ない気がする。その理由について、ハッキリとした指摘もないし、自分もよくわからないが、一つだけ思うことは、この記事(フォードとGMの進出)の次の記事で記す予定の、戦前の日本で独自の自動車としての育ったオート三輪の中心地は、東京ではなく大阪を核とした関西の地であった。関西人にとって、自動車としての“相性”はアメ車よりもあるいは、商都大阪の商人たち自らの足として黙々と働いた、実用一点張りのオート三輪の方がよりぴったりと、肌に合っていたのかもしれない。
(下の写真はブログ“日本古写真データべース”さんよりコピーさせていただいた、「大阪駅。昭和4年(1929年)頃」の風景。http://oldphotos.blog.fc2.com/blog-entry-19.html
馬車文明のなかった日本人にとっての末端の交通機関は人力車だったが、この写真ではその姿はない。その代わりにタクシー、トラック、バス、市電、自転車などの乗り物が混在している様子がうかがえる。)

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http://blog-imgs-51.fc2.com/o/l/d/oldphotos/oosakaeki1.jpg
シヴォレーは静かに消えていった
 シヴォレーの情報が少なかったもう一つの理由として、敗戦後の日本で、フォードとシヴォレーの“生存率”を比べると、フォードの方が圧倒的に高かったことも一因だったかもしれない。以下(㉕-2、P161)より『こんな例もあった。第二次大戦が終わった時、東京の路上に残っていた車はフォードが多かった。シヴォレーは静かに消えてしまっていたのである。これでわかることはシヴォレー車の各部のライフは一定になるように計算されていたのだと思う。フォードはオーバークォリティであったから、木炭車を再度ガソリン車に仕立て直してもまだ走っていた』そうだ。シヴォレーからすれば、木炭車は”ルール違反”なのだろうが、このフォードとシヴォレーの品質に対しての考え方の差は、戦後のある時期までの日産車とトヨタ車の対比に近い(日産社車がオーバークオリティだった)。(①P209)では、同じ五十嵐からの引用で『戦争が終わって日本の路上で残された古い車は、フォードとダッヂばかりで、シヴォレーの姿は見えなかった』とあり、クライスラー系も同じく頑丈だったようだ。
 カーマニアを含む多くの識者にとって、やはり戦後の混乱期という重要な体験を“共有”できた、フォードの方により強い愛着がわくようだが、しかし小林は少し違った見方だったようだ。参考までに(⑰-1、P37)より紹介する。
A型はオーナー・ドライバー向モデルも組まれたから?
『話はちょっと脱線するけれどA型フォードは現代のクラシックカー・ファンの間で絶大な人気を持っている。(中略)ところが、当時A型と人気を二分したはずの初期の6気筒シヴォレーは、ごく一部の愛好家を除いては人気がなく、今日現存する台数もフォードに比べれば非常に少ないのはなぜだろうか。一説によれば、A型は新車のときからガタだが長持ちするのに対して、はじめは静粛でスムーズな6気筒シヴォレーは耐久性に欠けるからだとも言われる。その真偽の程はわからないが、日本でもA型はまだ散見するのに、同時代のシヴォレーは皆無といってよい。筆者が思うには、A型は基本的なタクシー仕様4ドアの他、数は少なかったが幌型やクーペなど、オーナー・ドライバー向のモデルも組まれたので、後年のクラシックカー愛好家に拾われるチャンスが多かったのではなかろうか。シヴォレーはタクシー用4ドアが圧倒的で、フェートンやロードスターは恐らく特注であったと思われる。』確かにその側面もあったとは思う。たとえば、フォードとシヴォレーのトラックは共に、日本陸軍でも大量に使用されたが、過酷な戦場においても、シヴォレーが耐久性で劣っていたという話は、自分の知る限り聞かない。ただこれは、自分が知らないだけの可能性も高いが。
 自分が思うには、日本の特殊事情として、燃料不足による代燃車への改造があり、当然ながら、豊富な石油燃料の使用を前提としていたであろうGM側からすればまさに“想定外”の出来事で、そのダメージは大きかったに違いない。さらにその『木炭車を再度ガソリン車に仕立て直してもまだ走っていた』というフォードのタフさには驚くしかないが、この時代のフォード車にはまだ、ヘンリー・フォードの自動車に対しての“哲学”が確かに息づいていたのだろう。
確かにフォードは強かった
 やはり総じて、五十嵐の言うように、『これは完全主義のフォードと実際主義のGMの哲学の差異であり、現在その優劣を論じてみても判定できないが、確かにフォードは強かったのである。』という他ないと思う。
(下の写真は“中井寛一さんのツイッター”からの引用させていただいた。
『1949年(昭和24年)6月に撮影されたカラー写真。撮影者の詳細は不明。撮影場所は横浜市だが、具体的にどこであるかは不明。写真内のタクシーは全て木炭自動車のようですね』とのことです。https://twitter.com/ichikawakon/status/12.59635288894148608

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https://pbs.twimg.com/media/ETn7M5NUcAIi4gG?format=jpg&name=900x900
 なお、12.10-1で詳報する、代変わりしてヘンリー・フォード2世の時代となった戦後型フォードの第一弾の、1949年型“ヤングフォード”は、㉒の五十嵐によると『1949年型フォードは歴史的には重要なクルマで多く話題になるが、完全な実車は意外と残されていない。それは49年型はボデー剛性に欠陥があったといううわさと一致するようにも思えるが、補強された1950年型はなるほど多く残されていた。』(㉒P188)そうだ。

12.6ヒコーキ少年が圧倒的に多く、自動車よりグンカンが人気だった!(雑談その6)
 再三繰り返すが、当時の自動車の90%ぐらいは業務用で、一般の人々にとっての自動車は、戦後のようにいつかはマイカーを持ちたいなどという、伸ばせば手に届きそうな、憧れの対象とはならなかった。鉄道等の公共交通機関の延長線上にある交通手段として、客観的な、自分とは距離を置いた存在として捉えていたようだ。
大衆はクルマに無関心だった
 以下ここでも五十嵐の(㉗-2)より、当時の日本の都市住人の自動車に対しての“心情”を引用。
『1930年代の米車は、京浜地区や京阪神にかけてモータリゼーションの現象を起こしたのだが、日本の自動車化が公共的な交通機関であり、官庁や法人のシンボルとして普及した結果、当時の日本人はタクシーを値切る術は身につけても、ハンドルを持とうとは夢にも考えず、ましてや自分の乗ったタクシーが、フォードであろうが、シヴォレーであろうが、そんなことは関係なかったのである。自動車という機械について語れるのは、それを業とする職業人と、もうひとつは庶民から遠く離れて生活した超上流の一部であって、大衆はクルマについて無関心だった』(㉗-2、P43)
 当時の大人たちは自動車を、公共的な乗り物として捉えていた中で、12.4でその一端を記したように教育も含め軍国主義色が濃かったこの時代、青少年のあこがれの対象は自動車には向かわなかったようだ。五十嵐によれば『~ところが日本の同年齢の間では、この話題(注;1930年代の日本の米車時代)について本当に語り合える者は皆無に等しい。その頃の青少年は飛行機や、軍艦(!)には詳しかったが、街を走るクルマへの関心は極めて低かった』(㉗-2、P42)という。自動車少年(カーマニア)よりもヒコーキ少年というのは、現代でもイメージしやすいが、自動車よりも軍艦だったというくだりは、なかなか理解しがたい。しかし日本海軍に憧れた当時の少年たちにとっては、直接的な武器ではない自動車は眼中になく、海軍を象徴する軍艦が行き着く先だったようだ。以下、やはり当時少数派の自動車少年だった神田の(㊳P141)から引用する。
自動車少年の見た“トヨダAA型”の衝撃
『トヨダ(トヨタに変えたのは1937<昭和12>以降)の新型乗用車AA型、新型トラックG1型と初めて対面したのは、八丁堀の店頭だった。広い道路沿いの面を、すっかりガラス張りにして、フロア全体がショーウィンドーのようになる新感覚の設計だった。その店頭で手前側道路沿いにAA型セダン、奥にトラック。どちらも道路に対してわずかに斜め位置で両車平行に陳列してあった。2台とも、つややかな黒塗りで、グリルなどクロームメッキの輝きが魅力的に映えていた。
クライスラー・エアフローが出たことは知っていた。実物は見ていなかったが、写真は雑誌で見た。新聞に線画のイラスト入りで広告を出していたと思う。しかし、クライスラーと同じレベルに見える(あるいは、それを超える)最新スタイルの乗用車が国産車で製造されるようになった事実に感動した。
(中略)
その時代の子供たちは、ワケもわからずに国粋的愛国少国民であり、何でも外国と比べて日本が勝っていなければ気がすまなかったのである。戦艦・陸奥、長門は基準排水量3万3800トンで40センチ主砲8門を装備する世界最強の主力艦であり、重巡・妙高級、高雄級は、1万トンで20センチ連装砲塔5基・計10門を搭載した最強の重巡洋艦であると、ドキドキするほど誇らしかった。
トヨダの乗用車もまったく同じだった。しばらくの間は、級友たちを捕まえて、日本でもスゴい乗用車ができたぞと説きまわっていた。ただし、自動車への興味は軍艦に対するほどではなくて、こちらの話に乗ってくれる相手が少なかったのは残念だった』
(㊳P140)という。(そういえば昔、古い(1960年代前半か、もう少し前とか)少年雑誌がたくさん置いてある家があり、そこで見た雑誌のグラビア記事はまだ、第二次大戦の国産戦闘機や軍艦の記事が多かった気もする。少年雑誌で本格的な自動車記事はボーイズライフ(中学生以上が対象の若干大人向け)あたりからだろうか?うろ覚えなので正確ではないと思いますが。下の写真は「TBSドラマ「LEADERS 2」で観たG1トラックがっ‼︎ 思わずパシャパシャ少し興奮しました」愛知トヨタ高辻営業所に展示されていた、トヨダG1型トラックを激写したという“”#日の出モータース Instagram Posts”さんよりコピーさせていただいた。)
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https://scontent-yyz1-1.cdninstagram.com/v/t512.985-15/sh0.08/e35/s640x640/17596043_1891062947780694_5035782878919655424_n.jpg?_nc_ht=scontent-yyz1-1.cdninstagram.com&_nc_cat=106&_nc_ohc=hBd0T1dNUiEAX-P2wvn&oh=fad2d4fa2fb9f1971a0bedebe3bb7fe6&oe=5FA707D6

12.7自動車セールスマンが、花形の職種だった(雑談その7)
 この“よもやま話”の前半の、“戦前日本の自動車社会編”の最後に『自動車販売業は時代の先端をいく花形産業であった』(Web⓴-1)であり、=そこで働く自動車セールスマンが時代の先端を行く花形の職種だったことを記しておきたい。まず、いかに“花形”だったかを、報酬面から以下(Web❿P86)より引用
3ケ月に 1 台売れば・・・
『「セールス・マンはといえば、3 か月に 1 台売れば、昼は帝国ホテルで、夜は新橋か赤坂暮らしの豪酒極まるものであった。」のである』。この、セールスマンの豪勢な暮らしぶりの部分は、尾崎正久著の「自動車日本史(1955)」のP.104からの引用のようだが、さらに尾崎の同書からの引用から、(Web❿P87)では『昭和 5 年の事例として P 車(ポンティアックと思われる)のセールスマン・コミッションがリムジンで 1,500 円、セダンで 1,000 円であったと紹介されている。当時の 1,000 円は 2012 年の価値に換算すると約 198 万円である。』としている。その背景としては、同じく(Web❿P86)より引用だが、『フォード、シボレーは廉価車であると考えられるが、日本ではアメリカにおける価格の実に 3.6 倍、当時の関税 50%を加味しても 2.4 倍の価格で販売されていたのである。さらに付け加えれば、ノックダウン方式の自動車製造では関税が 30~42%であることや、需要逼迫時はプレミアム価格で販売されていたことなどを考慮すれば、その販売一台当たりの利益は莫大なものであったであろう。』と、⑪のP.62、92等を参考に推測している。
自動車がモダンな文化の象徴だったが故に・・
 フォードとGMの日本法人が膨大な利益をあげていたことは、この“よもやま話”でなく11.9項や後の12.16項等でも記すが、アメ車時代の当時の自動車が、都会を中心とした“モダン”な文化の象徴だとしたら、その商品を売るための、セールスマンを含む販売部門の方々もまた、報酬面でも文化的に見ても、文系のサラリーマンにとって、時代の花形の職業だったに違いない。ということは、優秀な人材も集まったのだと思う。たとえば日本GMから後にトヨタに移る神谷正太郎や加藤誠之らのように。
1939年の原節子主演の映画「東京の女性」
 ヘタな言葉で説明するよりも、以下の映画を手っ取り早く紹介した方が早いだろう。ブログ“銀幕三昧”さんより、1939年の原節子主演の映画、「東京の女性」(製作は東宝、原作は丹羽文雄で、報知新聞の連載小説だったそうだ)を紹介させていただく。この映画は何と、自動車セールス“ウーマン”が主人公なのだ!以下は写真も含めて(Web□28)からの引用だが、この映画のすばらしさを余すことなく紹介している、そちらのブログをぜひご覧ください。
http://ginmaku1982.blog.fc2.com/blog-entry-1050.html
 この映画の紹介というか、(Web□28)からコピーさせていただいた画像をご覧いただければ、12.2項で神田が語った『~日本の都会のモダン、モダニズム志向文化という意味の近代的文化が、最初の成熟、ある面では爛熟といえるレベルに達した時期だった。限定された面でとらえれば、自動車文化、モータリゼーションもその枠組みに含まれる~その背後にあるのは、近代的経営形態をとる企業の増加、それに伴う“近代的サラリーマン”の増加、彼らの日常家庭生活形態の変化』だったとする、我々が想像する以上に“モダン”だった当時の“近代的サラリーマン”の中でも、その先端をいっていた自動車セールスマンの、華やかで生き生きとした世界を理解いただけると思う。しかも都会の文化の一つの象徴だった映画の中で、原節子という日本を代表する女優を通して。まさに一石二鳥です?
自動車セールス”ウーマン”が主人公だった!
 映画のあらすじを紹介しておくと、主演の原節子は、自動車販売会社のタイピストだったが、親の都合で金が必要になったため、なんと自動車セールスウーマンに転身し、男と同額の給料を稼ぐようになるが、その一方で恋人とうまくいかなくなるという、設定もかなり“近代的”だ?そして映画の中では、「ハドソン一台売りゃ千二百円のコミッションだろ」というセリフが出てくるが、この映画はハドソンをメインに輸入する、大倉財閥系の日本自動車が全面的にバックアップした、いわばタイアップ映画だったようだ。
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(何せ実際に映画を観ていないので!以下の「~」内の説明?は(Web□28)に加えて、下の2つのブログのレビューの中から適当に抜粋させていただいた。
https://filmarks.com/movies/83235)、 https://movies.yahoo.co.jp/movie/133768/
(Web□28)によると「この頃の運転手は特殊技術者かつ花形職業であり、一方、自動車のセールスマンには運転手から転進する者が多かった」という。オープンカーであることが一段と、異国情緒を醸し出す。ちなみに映画の中の「運転シーンは脇見が変に多い」!そうだ。)

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(以下はこの映画のレビューより引用「『東京の女性』20歳の原節子。輝かんばかりの美しさと自立した女の強さ。小津映画での受け身の彼女しか知らない人は驚くだろう。戦前日本の軍国化前のいわゆる東京の文化的な爛熟とサラリーマンの世界の冷徹さ。黒いレインコートを羽織って橋に佇む美しさ~」「東京の女性陣が皆お洒落。ファッションの可愛さだけで眼福である。当時結構スカートの丈は短め(膝くらい)が流行っていたんだよな。よっぽど出世した節子は一般的ではないだろうが、1930年代末の生き生きした女性たちが見られて楽しい。」
(その一方で、家庭に戻ると昔ながらの和服姿の慎ましい生活だったようで、そのギャップもまたすごかったようだ。「オフィスと家庭の落差もやばかったなぁ。~みんな生きるのに必死だったのだ。」(映画のレビューより)それにしても、1939年という軍国主義の真只中で、映画も半ば統制下にあったと思われるこの時代に、一見すると真逆な、華やかでたくましい女性セールスマンの映画を作った意図は何だったのだろう。ひとつ勘ぐれば、前回の記事で散々記した“総力戦構想”は、女性も直接の生産活動に携わる労働力として組み込まれており、事実このすぐ後の戦時体制下においては、軍需工場に大量動員されたが、そのあたりの布石にも思えなくもないが、考えすぎだろうか。)
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https://blog-imgs-115-origin.fc2.com/g/i/n/ginmaku1982/120_2018041505344941ds.jpg
“東京の女性”は中級車ハドソンのディーラーがその舞台だったが、それ以上に激しい競争が繰り広げられたのが、当時“大衆車”と呼ばれたKD生産車のフォード対シヴォレーだったであろうことは、想像に難くない。
さらに熾烈だった、大衆車の販売競争
 以下フォード系ディーラー最大手のエンパイヤ自動車社史の(Web⓴-2)より引用する。ちなみにエンパイヤと柳田は「日本のフォード王」と称されたという(⑫、P39)。『このころ東京地域のフォードディーラーは、エンパイヤ、松永、中央、日本、太東、イサム、内田の7社があって、タクシー業者を中心に販売競争を続けていた。その中でも一番多く売っていたのがエンパイヤ自動車だった。昭和7年から12年の5年間はまさにフォード、シボレーの全盛期時代であり、燗熟期でもあった。』そしてエンパイヤ自動車を舞台にした自動車セールスマンを描いた映画もあったようだ。(Web⓴-2)より続ける。『この当時、菊地寛が書いた、自動車販売会社のセールスマンの葛藤を描いた映画の舞台として、エンパイヤ自動車の呉服橋の店舗が登場してくる。この映画の中に同じ会社のセールスマン同士が客を奪い合うという筋があるが、これは現実にあった。苦労して売って1台で50円しか利益がないという状態でセールスマン達は激しい値引き競争をしていたのである。』丹羽文雄や菊池寛といった当時の人気作家が自動車セールスマンを題材に小説を書いたこと自体興味深いが、中級車とは違い大衆車はマージンが大幅に少なかったようだ。以下は(⑫、P39)『一方では、フォード対シボレー、あるいは同じフォードでも東京地区に複数あるディーラー間の競争が激化した。』東京などの大都市における熾烈な販売競争はマージンが少ない中で、フォード対シヴォレーだけでなく、フォード対フォードの身内通しの骨肉の戦いでもあったようだ。(下の写真は(Web⓴-2)より『左)昭和8年、日本橋白木屋でY型フォードの展示発表会 / (右)昭和9年、エンパイヤ自動車ショールーム』)
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徳大寺有恒の父も自動車セールスマンだった(痛快な武勇伝の,余談)
(ここからは完全に脱線するので全文小文字で記す。自分が思うには、小林彰太郎と並ぶ、日本のモータージャーナリストの二大巨匠だと思う徳大寺有恒は、昭和14年(1939年)、原宿の竹下町生まれたが、『父親はGM系列のディーラーに勤めていて、シヴォレーの販売をやっていたという』(㊷P16)。自動車セールスマンが父親だったのだ。中古だが自家用車を持っていたそうなので、本人は謙遜しているが、相対的に見れば裕福な生活だったのだろう。そして親の影響もあってか、子供のころから大変な自動車好きで育ったようだ。
 完全にこじつけだが、戦前の自動車セールスマンの話題の延長で、そのセールスマンの子供であった徳大寺の、少年時代の武勇伝が痛快で、めちゃくちゃ面白いので、ぜひ紹介したい。
 戦火がはげしくなると一家は水戸に疎開して、やがて中学校に入り『そうこうしているうちに、ぼくは実際にクルマを運転し始める。ぼくがおやじにクルマの運転を習いたいと頼むと、このころ水戸でタクシー会社を始めていたおやじは、簡単にオーケーしてくれた。』

中学二,三年生のころには、無免許で街中を普通に運転していた
 もちろん無免許だったが『中学二,三年生のころには、ぼくはもう街中で普通にクルマを運転していた。制服の中学生がクルマを運転するというのもすごい話だが、おやじが公安委員長をやっていたものだから、警察署も大目に見てくれていたのである』『町内を走る分にはまったく問題がなかった』(㊼P84)という。
 その後十六歳(1955年)で正式に、自動車免許を取得するのだが、『疎開してオヤジは主に製材業をやるんだけど、そのほか水戸自動車工業っていう修理屋をやり、俺が中学に入る頃にはタクシー会社も経営する。』(㊼P81)手広く商売を営み羽振りの良かったお父さんは、スキあらばと新しいクルマに乗りたがる息子のために、多少くたびれたダットサンをあてがったのだという。『高校に登校するには、朝七時四分の汽車に乗らなければならなかった。それに乗り遅れると、あとは九時まで列車は来ないから完全に遅刻である。不本意にも寝坊して、七時四分の汽車に間に合わないときはぼくはいつもこのダットサンで学校に乗り付けた。

高校にクルマで乗りつけた
そして校門の横へちょこんと停めておくのである。~日本の家庭に、おそらくは一万軒に一台ぐらいしか乗用車がないときに、学生服姿の少年が自動車通学というのである。なんと生意気で軟派な高校生であったことか。ただし、軟派といっても残念ながら当時の女子はこわがって自動車には乗らなかった。クルマがこわいというのではない。自動車を運転しているような高校生はなんだかアメリカ映画の高校生のようで、理解不能もしくは不気味に見えたのだろう。』!!しかも徳大寺が通った高校は、硬派で鳴らした旧制水戸高校だった。(ちなみに小林彰太郎さんも(㉖、P143『当時本郷のキャンパス広しといえども、クルマ(注;当時の愛車はおんぼろのオースティン・セブン)で通学する学生など皆無だった(=自分だけだったという意味)』記していた。)
その後大学に進み、夏は水戸の実家に戻りごろごろしていたが『旧盆のあいだだけは、このRS40(二代目クラウン)で真面目に家業のタクシーを手伝った。この十日間、タクシー会社は猫の手も借りたいぐらいなのだ。(中略)当時、一日走ると、おやじの会社の運転手さんの中では、ぼくがいちばん稼ぎをあげた。なんとなれば、ぼくは他の運転手さんより三割方は早かったからである。砂利道ではすべてのコーナーで四輪ドリフトして、ラリードライバー並みのスピードで走った。そのためどの客さんも、降りるとヘナヘナとなってしまう。えらい神風タクシーぶりであった。』!!!さらに武勇伝を続ける。

“超神風タクシー”(砂利道のコーナーを四輪ドリフトして直線は120キロで飛ばした)
『タクシーには予約というものがある。それはたいていぼくの街から七~八キロ離れたところから、何時の汽車に間に合うようにクルマをまわしてくださいというものだった。会社の事務所には、電話番の女の子が二人いて、予約を受け付け、黒板に書きつけておくのだが、ときたまそれを書き忘れることがあった。忘れられたお客さんから、「クルマが来ない」と電話がかかってくると、女の子の顔色がみるみる青ざめるので事情はすぐにわかる。
 こんなとき、おおかたの運転手さんは行きたがらない。飛ばせば危ないし、間に合わなければ客にしかられるからだ。そこでぼくの出番となる。六キロ地点のところにいる客を、あと10分で駅まで連れていかなければならないといった場合、ぼくが行くと絶対に間に合ってしまう。ぼくは田舎の砂利道を120km/hぐらいで飛ばしたからだ。』
(㊷P94)このエピソードそっくりの場面が、フランスの大ヒット映画「TAXi」にあるが、もちろん徳大寺さんの方が先だ。徳大寺さんの痛快なエピソードは、このブログの自動車の記事の②と⑬でも紹介しているので、そちらもぜひご覧ください。

なぜ自動車殿堂に選ばれないのか?(余談)
(それにしても氏が日本の自動車社会に果たした功績の大きさを思うと、あの「日本自動車殿堂」に選ばれていないのは、何かの間違いだろうか。どうみても、もっと貢献度の低そうな人たちが選ばれているのに。それともかつて、“間違いだらけのクルマ選び”の出版に絡んで、AJAJ(自動車ジャーナリスト協会)とケンカして脱会した経緯(AJAJの総会に呼びつけられて『~ああだ、こうだとくりかえしているうちに、彼らはだんだんぼくが書いた内容に触れ始めた。するとある理事が、「われわれはメーカーと仲良く、協調関係でいきたいのだ」と、ついにホンネを漏らした。ぼくはすかさずその言葉尻を捉えて、「じゃあ、AJAJという団体はメーカーが大事なのか、読者が大事なのか」と聞き返した。するとその理事氏は「もちろんメーカーだ」という。それを聞いたぼくは、その場で「本日限り、私から辞めさせていただく」と絶縁状を叩きつけ、部屋から出ていった。』(㊷P431)より)一件が、いまだに尾を引いているのだろうか。ご遺族の方から辞退しているのなら、話は別だが、そうでないのなら、このような村社会的な体質を今でも引き摺っている限り、公式の“日本自動車史”の大筋は信じるにせよ、まるまるすべては、けっして信じられないと思う。日本の自動車史研究の第一人者である五十嵐平達氏も『明治以来の日本の過去に於いては、「自動車」は全く語られておらず、文学もマスメディアも横を向いていたし、工学の世界では学問の仲間に入れてくれなかった。そして自動車関連の企業は三流どころに位置していたのである。したがって記録としての歴史は大切にされず、「社史」は殆ど「自画自賛の羅列と化した。もちろん例外も存在するが、主に長老の体験談(それもメモを保存していた方は良いのだが)と時系列をもって歴史としているのが自動車の世界であった。」』(㉒序文)と、晩年語っている。個人的には、AJAJと絶縁するまでの徳大寺さんの波乱万丈の半生は、映画化したら面白いのにと思っています。なお小林彰太郎さんも確かそのAJAJの総会にいたけれど、そんなに大事にすべき問題ではないと、距離を置いたスタンスだったと、当時のカーグラ誌上で語っていた(記憶ですが)ことも追記しておく。下の写真は晩年の徳大寺さんがもっとも愛した猫のチャオとの日々を綴った『眼が見えない猫のきもち』のものだが、写真と以下の文は“車・自動車SNSみんカラ”より、氏と関係の深かった、フォトグラファー・小川義文氏の記事より引用させていただいた(荒木経惟氏の撮影だ)
https://minkara.carview.co.jp/userid/853612/blog/34448980/
『「間違いだらけの〜」の根底に流れている水源を見たようで、悲しいけど良い本です。』
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https://lh4.googleusercontent.com/-pFD5b8Mf8vQ/VGF8ddV_RsI/AAAAAAAAMjs/g5xLcxZUVA0/w462-h616-no/toku_3.jpg 病気で目が見えなかった子猫チャオ(徳さんは「チャオぴん」と呼んでいた)との日常を綴った心温まる本で、この本もいつかぜひ紹介したい。)
 いつものように脱線がひどくなってきたため、戦前の日本社会の自動車風俗についてはこの辺りでおしまいにして、12項の後半はアメ車の話題に移りたい。ただその前に、その”橋渡し”として?アメ車と日本車の相の子みたいだが、妙に気になるクルマの話をしておきたい。

12.8共立自動車の国産車、“日光号”のなぞ?(雑談その8)
 クライスラー系の組立生産を行っていた共立自動車は、アメリカ車排斥の時代となり、部品の輸入が困難になったため、独自の国産車(といっても当然コピー車だが)を作ろうとして、“日光号”と呼ばれる乗用車を試作する。しかし試作段階で終わり、残念ながら生産化までは至らなかったが、この異色の国産車について、記してみたい。その経緯の要約を以下は(①P12.5)の引用から。
『共立自動車はピーク時年間三千台の車を組み立てたが、自動車製造事業法に基づく許可会社の認定を受ける状況ではなく、輸入車の組立ての明日が暗くなり始めたこともあり、シリンダー、ミッションヤディファレンシャルギアの技術を持つ自動車部品の晴山自動車工業を1938年(昭和十三)年には全額出資し、株式会社に改組の上、傘下に収めた。それが後に「日光号」という純国産車のアッセンブルを行う構想を生んだ。』第二次大戦の前後の時期に、大きな力を蓄えていた安全自動車の中谷保(たとえば有名な山王ホテルも「自動車・燃料関連企業である安全自動車の経営者であった中谷保によって創業された」(wikiより))、が主導したプロジェクトだったようだ。
(下の写真はその共立自動車製の、国産乗用車である“日光号”。画像は「retorotoysのブログ」さん(以下Web□25)よりコピーさせていただいた。ちなみにこの共立自動車で、日光号の設計図面の作成に当たっていたのが、後にトヨタに転職して初代クラウンを主査として取りまとめた中村健也であったという(⑦P17参考)。
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https://stat.ameba.jp/user_images/20190604/14/retorotoys/fd/5b/j/o0613031314425066381.jpg?caw=800
日光号はダッジのコピー
 上記ブログによれば“日光号”は、クライスラー社の組立てを行っていた関係からダッジのコピーだとしている。ダッジを扱っていた安全自動車の中谷が主体だったプロジェクトだったとしたならば、うなずける話だ。
https://classiccarcatalogue.com/D/dodge%201938%20d8_custom_six_sedan.jpg
(下の写真は、1938年製ダッジの4ドアセダンだが、確かに外観は一目瞭然で、酷似している。さらに調べてみると、(㊲P122)に、『~1938年(昭和13年)3月に完成した日光号がそれでボディ・スタイルは明らかに1938年型のダッジをモデルにしているがホイールベースは3048mm、と当時の高級車パッカード120型に匹敵する長さ。全長は4887mm、全幅1791mm、全高1854mmと堂々たる貫禄。エンジンは日産からグラハム・ライセンスの直6、85馬力を供給してもらう契約で~』という内容の記述があった。)
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https://classiccarcatalogue.com/D/dodge%201938%20d8_custom_six_sedan.jpg
ところがこの日光号を調べていくと、謎深いところがあるのだ。
日光号はウィリスのコピー?
(⑦P18)等、他の資料によれば、アメリカ車としてはより小型の、ウィリス・オーバーランド社製の小型乗用車をモデルとして国産車に仕立てようとしたものだとしているのだ。(⑥-2、P378)の日光号の諸元表をみる限りでは、4気筒2,000ccで、4,200×1,730×1,700というその数値は、6気筒3リッター級(下のWebによれば3,3ℓと3.6ℓ級)の中級車であるダッジとはほど遠く、4気筒2,200cc(その後ジープにも使われたエンジンだ)のウィリスの方により近い。
(https://classiccarcatalogue.com/DODGE_1938.html)
それでは元となったウィリスの外観はどうだったのか。下の2枚の画像は「MCG Car Spotter’s Guide to the 1937 to 1942 Willys」(Webの⓮-2)という記事よりコピーさせていただいた。
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https://www.macsmotorcitygarage.com/wp-content/uploads/2013/04/Willys-Spotters-Guide.jpg
下は1938年型のウィリス 38型セダンだが、しかし外観上のイメージは日光号とはおよそかけ離れている。
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https://www.macsmotorcitygarage.com/wp-content/uploads/2013/04/1938-Willys-four-door-Sedan.jpg
確認のため“日光号”をもう1枚、⑤P20よりコピーさせていただいた(⑤の元図はカラーで綺麗です。ぜひそちらを参照ください)。こちらはイラストだが、イメージはやはりダッジに近い。
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日光号のボディはダッジを縮小(縮尺??)したが、パワートレーン系はウィリスを参考にした? 
大きさの異なる2種類の”日光号”があった!?
 ところが、(Web□25)の文章を改めて読んでみると、『因みに一年前の1938年4月に 一回り小さい 日光号を発表しています。』という一文があった!同ブログでは、当時の共立製作所が作成した日光中型自動車の資料の写真まで提示されており、“源流”までさかのぼりしっかり確認している。このブログのように軽い話題として、テキトーに書いているものとは取り組みの姿勢が違うようだ。どうやら大きさの異なる2種類の「日光号」が存在したようなのだ!
 さらに完成時期についても、各記事の内容で矛盾が生じるが、共立自動車でウィリスを参考に小型版の日光号を図面化していた中村健也は1938年8月まで在籍していた(Web□26による)という。(Web□26)ではエンジンも、ウィリスのものを真似ようと、図面を書いていたという記述もあるが、結局断念したようで、小型の日光号のエンジンも、日産から供給を受ける予定だった(4気筒2,000ccエンジン)としている(⑥-2,P377等)。ただ当時の日産車のエンジンラインナップからすると、新規設計だった可能性が高く、結局のところ、やはりエンジンが一つのネックで、小型より大型(日産でグラハム・ライセンスのエンジンは量産されつつあった)がより現実的だったのではないだろうか。ワカリマセン。さらに探求していけば、どこかにより詳しい資料があるはずなのでいずれ、確認してみたいが、それにしても、小型版の方の日光号の外観はいったいどんなものだったのだろうか。ダッジの縮小版だったのだろうか?さらにエンジンの供給以外にも日産(鮎川義介)の側の関与はあったのか?個人的には非常に興味があるのだが、小型版の方の写真は残っているのだろうか。それとも大型版だと思っていたものの中に、小型版が混じっているのだろうか。
なんだかあやふやな話になってしまった。共立自動車のその後だが、軍事体制に移行する中で『1939(昭和十四)年末で共立自動車を閉鎖して部品製造会社の精機鍛工㈱として発足することになった』(①P12.5)という。
戦時体制下でトヨタと日産も中/小型乗用車を試作
 話はさらに脱線するが、いきなりフォードやシヴォレーに対抗する3ℓ級の“大衆車クラス”の量産からスタートさせたトヨタも、1938年3月に商工省から、燃料と資材の節約のため、4気筒2,400ccの中型乗用車の開発を要請される(⑩-3P22)。こうして出来上がったのがAE型で、このクルマは車名公募により“新日本号”と命名された。なお日産も同様に“より国情に沿うように”(今更のようだが?)との要請を受けて、ニッサン50型という1,500cc級の、中型というか、小型というべきか迷うが、乗用車の試作車を完成させている(⑥-2,P324、㉓P73、㊳P12.6等)。オペルカデットを参考にしたようだ(㉓P74)。5台試作しただけで終わったというこの試作車のエンジンを、小型の方の日光号に流用する予定だったのだろうか。
 トヨタ、日産の両車とも本格的な生産には移せなかったが(ただし“新日本号”は76台作られた)、そのコンセプトは、小型版の方の日光号と共通するものがあり、いずれも国の意向に従って作られたクルマだからなのだろう。(下の写真は、トヨタ鞍ヶ池記念館に展示されている1/5スケールの“新日本号”の模型で、ブログ「ヒゲじいのつぶやき」さん(https://gabujaja.exblog.jp/5824899/)よりコピーさせていただいた。車体色は派手に見えるが車名同様公募で決めたそうで『灰桜色と決まったが、現代流にいえばピンクグレイ』(⑩-3P23)とのことで、かなりモダーンな感じのするこの色がオリジナルだったようだ。車体寸法は4,500×1,730×1,635と日光号よりも少しだけ大きかった。トヨタはその後も戦時体制下でありながらBA型、BC型という4気筒2ℓクラスの乗用車の試作を行っている。(㊳P12.8))
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https://pds.exblog.jp/pds/1/200707/07/72/f0007272_20315486.jpg
戦後ウィリスと三菱が提携して三菱ジープが誕生
 ここで日光号が参考にしたとされる、ウィリス社(正確にはウィリス・オーバーランド社)について、軽く説明しておくと、同社は何よりも、第二次大戦におけるジープの量産で世界的に有名となった(ちなみにオリジナルのジープの開発は、アメリカン・バンタム社によるものだ。(http://ktymtskz.my.coocan.jp/E/EU4/jeep2.htm)
日本との関係は、日光号のケースのように密かにコピーされる側でなく!戦後は堂々と、公式?な形となる。中日本重工業(財閥解体後の三菱重工業は東日本、中日本、西日本重工業と地域別に3分割された)と技術提携して三菱ジープが誕生するのだ。後にカイザーのところでも紹介するが(項12.12-2)、敗戦で軍需需要を失った旧三菱重工グループが、自動車産業に本格進出しようと、虎視眈々とうかがっていた様子がうかがえる。Wikiによれば『1950年 - 米国政府は、朝鮮戦争に必要となるジープを安価に調達するため、補給基地となる日本でのノックダウン生産を決定した。』とあり、占領下の冷戦構造でもあり、日本に対してのジープの導入はアメリカ主導だったようだ。
(前回の記事でも記したが、アメリカ軍欧州戦域総司令官だったアイゼンハワーが、“第二次世界大戦を勝利に導いた兵器”として、「バズーカ」、「ジープ」「原子爆弾」「C-47輸送機」の4つを挙げたことからも「"Four things won the Second World War-the bazooka, the Jeep, the atom bomb, and the C-47 Gooney Bird."」米軍がジープというクルマを重く見ていたことは理解できる。下の写真は、ブログ「三菱ジープ互助会」さんよりコピーさせていただいた「昭和30年(1955年)CJ3B-J3 JH4型」のカタログ表紙です。
https://japan-jeep-center.com/custom1.html)

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https://japan-jeep-center.com/img/img1.jpg
以下は(㉒P273)より『~ジープのノックダウンの話はアメリカ側から持ち込まれたのだという。そして警察予備隊(保安隊)向けの軍用ジープは、トヨタと日産にも試作依頼が出されていたのだというが、ここでいろいろあって、ウィリスを採用することは初めから決まっていたようなものであったらしい。』五十嵐氏は意味深に記しているが?以下(㊶,P190)『財閥グループであることから通産省も一目置いており、自動車に参入するにあたって、(たとえば)マツダが感じたような行政による圧力とは無縁だった。』五十嵐氏の話を追認する形だ。
トヨタ・ジープはランドクルーザーに発展
(下の写真と以下の文は「トヨタ自動車75年史」(web⓫-1)より引用
『1950(昭和25)年8月、米軍および発足直後の警察予備隊1から、四輪駆動の1/4トン積みトラック(ジープ型)と3/4トン積みトラック(ウエポン・キャリアー)の試作要請を受けた。朝鮮戦争が勃発してから2カ月後という、騒然とした世相のなかでの発注であった。(中略)このトヨタBJ型四輪駆動トラックは、ジープ型トラックであるところから、通称「トヨタ・ジープ」と呼ばれた。しかし、「ジープ」は米国ウィリス社の登録商標であるため、通称名を変更する必要が生じ、「トヨタBJ」と改めたのち、1954年6月に「トヨタ・ランドクルーザー」と正式名称を設定した。』)現在の陸の王者、ランドクルーザーのルーツだ。しかし世の中には詳しい人がいるもので、「ランドクルーザー」という車名は アメリカの自動車会社が最初に使っていた」そうです。スチュードベイカーが使っていたようで、さらに興味のある方は、以下を参照ください。
http://www.landcruiser-web.org/html/Studebaker.htm

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https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/text/taking_on_the_automotive_business/chapter2/section8/images/l01_02_08_02_img08.jpg

12.9クライスラー系車種の日本市場での位置づけについて(雑談その9)
 何とも締まらない話で終わってしまったが、日光号と同時期に行われた、アメ車をコピーして国産化するという試みは、他でもいろいろと試みられており、たとえば国産自動車部品組合がフォード用の国産部品を持ち合い“聖号”トラックを完成させた例なども興味深いが(⑥-2,P372に詳しい記載がある)、きりがなくなるので、ここから先は、アメ車そのものの話に移り先に進みたい。
 戦前の日本の自動車市場を支配した二大ブランドである、フォード(“横浜製”と親しまれてきたらしい)とシヴォレー(同様に“大阪製”だった)の違いは、フォードA型以降は両車が接近してくるものの、キャラクターの差は比較的明瞭で、自分のような戦後育ちのド素人にも分かりやすい。 
 しかしクライスラー系の中でその対抗馬であったプリマスとの違いとなると曖昧で、当時の雰囲気をリアルタイムで体感した自動車愛好家でも、実際に運転する機会までは持てなかったため、その違いを完全にはイメージできなかったようだ。
プリマスは、フォードやシヴォレーより少し格上だった
 “小林少年”(小林彰太郎の幼少期を称して)もそんな一人で、一家で映画を見に行くときに、タクシーを捕まえる役目を担っていたそうだが『両親に任せておくと、真っ先に来たボロのフォードかなにかを捕まえる。だがいっぱしの自動車通であった小学生の筆者には、プリマスかエセックスがお目当てで、フォード、シヴォレーでも最新型なら合格だった』(⑱P16)そうで、さすがに後に、日本のモータージャーナリストの第一人者となっただけに、子供のころから鋭い審美眼を持っていたようだ。単なる“カーウォッチ”だけでなく、後席の“乗心地”の体験からも、同じ大衆車でありながら、プリマスが格上と感じたのだろう。しかし当然ながら、実際にハンドルを握ったわけはなく、“乗り心地”で感じただけだった。
1929年型プリマスの試乗記
 そこで大人になった氏が、カーグラの編集長として、特集記事「1920年代のアメリカ車」を組む中で、ようやく念願叶い!?クライスラー車2台(クライスラーとプリマス)に実際に試乗して、そのうちの、フォードとシヴォレーの直接のライバルであるプリマス(1929年製プリマスロードスター)の試乗記事を通して、ハードウェアとしての3車(=フォード、シヴォレー、プリマス)の違い(差)を論じているので(以下引用⑰P33)、長文だが抜粋転記させていただく。
1928年に登場した新しいブランド
『~クライスラーのところで触れたように、プリマスは1928年半ばに登場した新しい銘柄で、それまでクライスラー52と呼ばれていた最も廉価な4気筒モデルを、別のブランド・ネームで売り出したものである。当時大衆車マーケットはすでにフォードA型とシヴォレー・シックスの握るところであったが、プリマスは敏腕な技術者出身の企業家W.Pクライスラーの、ビック2に対する切り札だったのである。デビューした1928年には約9万4000台に過ぎなかったが、大不況の後遺症からアメリカが脱した1935年には40万台を売り、No3の地歩を固めるに至る。フォードとシヴォレーという強敵を向こうに回して、プリマスがこの目覚ましい躍進を遂げることができた謎は一体何だったのだろうか。(中略)
 スペック上で見るかぎり、シヴォレーが6気筒である点を除けば、3車とも似たように見えるけれども、現物に乗ってみればそれぞれ全く独自であった。ビック3の車が、同じ価格クラス同士では目をつぶって乗ると区別がつかないほど、設計的に標準化されるのは戦後しばらく経ってからの話であり、少なくとも戦前型のフォード、シヴォレー、プリマスは、顔かたちからエンジンの音、乗り心地、さらに匂いまで、それぞれ独特だったのである。』
フォードとシヴォレーとプリマスの戦後型を写真で比較(余談
 話の途中で割り込むが、12項の特に後半のアメ車編は写真の方も、固いことは言わずに“軽め”の展開でいく。以下3車(ブランド)の比較の上で、戦後の同年代(1960年前後)のフォードとシヴォレーとプリマスの写真を貼っておく。まずはフォードから、
「ティファニーで朝食を」の1960年のフォードフェアレーン(余談)
(下の写真は1960年製のフォードフェアレーン タウンセダンのタクシーで、映画「ティファニーで朝食を」から。(1960 Ford Fairlane in Breakfast at Tiffany's, Movie, 1961)
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http://www.imcdb.org/i043162.jpg
下の動画「ムーンリバーのどこか切なげな音楽をバックに「ティファニーで朝食を」ではいきなり冒頭から、たぶん60年型と思われるフォードのタクシーが登場してくる。ちなみにこの映画、最近改めて観たが、オードリーヘップバーン演じる主人公は飼っていた猫をいきなり雨の中捨てたり、鳥がうるさいからと殺してはく製にしたりと、とんでもない動物虐待映画で唖然とした。しかし以前観た時はそのような印象はなかったので、ぼんちゃんと暮らすようになってからの心境の変化なのでしょう。 https://www.youtube.com/watch?v=6hTLrz7uzVs&feature=youtu.be
(Web⓮-5)に、1960年フォード(アメリカ)のラインナップを紹介した当時のCF動画があるので、さらに興味のある方は訪問してみてください。このクルマの前の、テールフィンの時代が低調だったフォードのデザインだが、60年型はモダーンなスタイルに一新し、後方に流れるような、のびやかでスポーティーなラインが新鮮だ。)
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https://www.macsmotorcitygarage.com/wp-content/uploads/2017/07/1960-Ford-starliner-.jpg
 話を戻す。『さて、ガタだが安くて丈夫なフォード、スマートな車体とスムーズな6気筒を売物にするシヴォレーに対して、プリマスの切り札はいったい何だったのだろう。その謎は今度実物に親しんでみて初めて氷解した。端的に言って、プリマスはフォード、シヴォレーよりもはるかにリファインされた良識的な設計なのであった。』
リファインされた良識的な設計
『まず、SV2873ccエンジンが、当時の4気筒としては無類にスムーズなことに驚かされる。(中略)プリマスのA形に対する絶対的な強味は、大きい4気筒に不可避な振動を、有効なラバー・マウント(ヴェルヴェット・パワーと呼ばれた)の採用によって車体にほとんど伝えないことである。因みに、A型のエンジンは4ヵ所でガッチリとフレームに固定されているので、常に微振動が絶えないし、特にエンジン・ブレーキの掛かった状態では、全身電気あんまに掛かったように、ブルブルと震える。プリマスの振動、騒音の少ないことはエンジン自体だけに限らず、パワートレーン全体に対しても然りである。クラッチのつながりもスムーズなら、3段ギアボックス(むろんノン・シンクロ)のギア・ノイズも低く、シフトも軽く、実に容易だ。』
1959年シヴォレー ビスケイン(余談)
(下は1959年製シヴォレー ビスケイン。適当な映画が見つからなかったので映画ではないが、画像は下記よりコピーさせていただいた。https://59classicchevy.com/1959-chevrolet-biscayne/  ビスケインはこの1959年モデルからラインナップに加わった下級グレードだが、過剰な装飾の無い分かえって、この時代のアメ車の伸びやかな美しさが出ているように思う。廉価版のグレードは米軍基地の近くではよく見かけて、一般の日本人にもなじみ深かった。『59年型が、ジェット機にイメージを求めた最後の年~1961年からはジェット機スタイルを否定する方向に進む。』(㊸-2)『(テールフィンの)そのピークにあたるのが1959年型で、これはその頃定年退職したアールのGMへの置きみやげともなった』(㊸-3)。ただこの時代になると、フォードとシヴォレーの違いは次第に希薄になっていった。フォード側が生き残るため、GMの戦略にすり寄った(嵌った)というべきなのかもしれないが。)
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https://www.59classicchevy.com/images/1959-chevrolet-biscayne-1.jpg
下の動画は1959年シヴォレー ビスケインの、当時の動画です。
https://www.youtube.com/watch?v=MTVWoPm9kyY&feature=youtu.be
シヴォレー エルカミーノ=贅沢な乗用車ベースのトラック
(ついでに下の写真は1959年製シヴォレー エルカミーノ。上の写真と同時期のフルサイズシヴォレーがベースの、そのピックアップトラック版だ。アメ車以外では考えられない、何ともぜいたくな空間の使い方だ。Wikiでは「クーペユーティリティ型のピックアップトラック」と説明している。もっともこの“セダンピックアップ”のジャンルではその2年前に、フォードがランチェロで先行していた(ただあまりカッコよくなかったので画像は貼らないけれど)。エルカミーノは1959年と60年型のあといったん途絶えるが、1964年にインターミディエイトサイズの、シボレー・シェベルをベースに復活し、コンパクトカーのファルコンベースに変わったフォードのランチェロとともに、独自の市場を形成していった。
下の画像は以下のサイトからコピーした。

http://www.trucktrend.com/features/1811-truck-trend-legends-chevrolet-el-camino
(Web⓮-3)のサイトには当時のCFの動画もあるので興味のある方は訪問してみて下さい。)
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http://assets.trucktrend.com/f/170375247.jpg?width=660&height=495
さらにオマケで、下は最近見事にレストアされたクルマの動画です。
https://www.youtube.com/watch?v=HrQO9X5y8ug
プリマスは、much better car
 また話を戻し⑰からの引用を続ける。『一口にいって、プリマスはライバルのフォード、シヴォレーよりもあらゆる意味においてmuch better carであった。ただ、それは実際に試乗してみなければわからないことであり、たとえ乗ってみても、プリマスの洗練された挙動を、フォード、シヴォレーとの価格差に見合うほどのメリットと受け止めることのできた人びとは、やはり当時のアメリカでは少数派に属しただろう。プリマスをmuch better carと認識できるのは、覚めた眼で冷静に比較できる現代の自動車史研究家だからであって、その当時の一般大衆は、フォードの絶対的低価格や、キャディラックをスケールダウンしたように華やかなシヴォレーのスタイリングの方により魅力を感じたのではなかろうか。プリマスが短時日のうちにNo3まで進出できたのも、また逆にフォード、シヴォレーの牙城には遂に迫ることができなかったのも、皮肉なことに同じ理由によるように思える。すなわち、プリマスはあまりにもオーソドックスで、技術的に生真面目な性格が却ってあだになったのではあるまいか。』小林さんはきっと、この時代のプリマスを長年、自らハンドルを握り確認したかったのだろう。(下の写真は引用した記事で小林さんが試乗したのと同型の、1929年製プリマス ロードスターで、色まで同じみたいです。雑誌からコピーするよりきれいなので、こちらをコピーさせていただいた。)
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https://photos.classiccars.com/cc-temp/listing/93/8931/4992742-1929-plymouth-roadster-convertible-thumb.jpg
下表のようにクライスラーは、本国アメリカでは1937年にはフォードを凌ぐまで成長して行く。それと同時に大恐慌を境にして、ビッグスリーで寡占化していく様子がわかる。
(表11:ビッグスリーの市場占有率の推移(1911→1937):web□32P43より転記))
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以上のようにフォードとシヴォレーのライバルだったクライスラー系のプリマスは、アメリカ車のマーケットの中でもこの時代、良識派のクルマと評価されていたようだ。そんなクライスラー系のダッジ、プリマス、デソートは、本国のアメリカ市場と同様に、フォード、シヴォレーの上位に位置する良質なクルマとして、日本市場においても着実に浸透していった。
「クリスティーン」で“主演”を演じた1958年プリマス フューリー(余談)
(プリマスというブランド名は、現代の日本人にとって、傑作(B級?)ホラー映画“クリスティーン”の“主役”を見事に演じた、1958年製プリマス フューリー(下の写真はその同型車)の怖い姿で記憶に残っているかもしれない。
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http://www.carponents.com/images/content/images/christine_5.jpg
下は映画“CHRISTINE”のダイジェスト動画です。
「Best of I CHRISTINE」
https://www.youtube.com/watch?v=FLhRLY-AU5o

「John Carpenter - Christine (Official Music Video)」
https://youtu.be/SH2f4A4SVNk

いかにもバージル・エグスナー時代のクライスラー車らしい、見事なテールフィンを持つ、豪快な?デザインだ。五十嵐平達は『エグズナーこそは最も趣味的にアメリカ車をデザインしたスタイリストであったと思う』(㊸-1)と評している。しかしプリマスのブランド名は2002年、クライスラー(当時はダイムラー・クライスラー時代で現FCA)のラインナップから消えてしまった。)
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https://www.americar.de/thumbs/img/News/87/35/00/p/p_full/1958-plymouth-christine-3587.jpg
さらにオマケで、(Web⓮-4)に、1958年当時のプリマスのCF(動画)があります。映画の影響からか、赤の印象が強いが、薄いブルーが基調だと少しシックな印象を与える。
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https://www.macsmotorcitygarage.com/wp-content/uploads/2017/01/1958-Plymouth-Savoy-2-Door-Club-Sedan-i.jpg
1961年型のスポーツフューリー。テールフィンは消えたが相変わらず“ド派手”(余談)
(下は3年後の1961年型のプリマス スポーツフューリーで、相変わらずド派手で迫力ある面構えだ。以下(⑮P80)より『アメリカ車が、日本やヨーロッパとは異なる方向に進んだのは、広大な国土を持つことの影響が大きいが、ほかにもいくつかの理由がある。まずはガソリンが安く入手できたことで、もう一つはヨーロッパや日本とは異なる自動車メーカーの姿勢の問題がある。寡占化が進み、勝ち組のメーカーが利益の大きい大型サイズの車にしたのだ。しかし、最初から恐竜のようなサイズが主流になっていたわけではなく、時代が進むにつれてそうなってきたのである。そのことが、後にアメリカのメーカーを苦しめることになる。』画像はmodernmopars netさんよりコピーさせていただいた。
http://modernmopars.net/mopar-b-bodyc-bodye-bodyj-body/plymouth-sport-fury-specs-1961/)

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http://modernmopars.net/wp-content/uploads/2015/02/plymouth-sport-fury-1961.jpg
しかし後姿はスリークで、前年型まであった高らかなテールフィンは失われて、時代の変化を表していた。画像は https://www.tumblr.com/tagged/plymouth-fury さんよりコピーさせていただいた。
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(下の表と引用文は、「M-BASE 第59回 1947年型アメリカ車 – ビッグ3編」からコピーさせていただいた、http://www.mikipress.com/m-base/2017/07/59-1.html
戦後に入ってからの、1947年のブランド別アメ車のランキングで、プリマスの躍進ぶりとともに、クライスラー系の好調さが目立つ。

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http://www.mikipress.com/m-base/img/05-59-00.jpg

12.10戦後型の“フラッシュサイド”デザインについて(フォード編)(雑談その10)
 この12項はあらかじめ“計算”せずに、思いつくがまま、話の成り行きにまかせて話を進めていくが、上記の表を見て、それを題材にして、話を続けていく。この表を見れば一目瞭然で、プリマスの躍進=フォードがもっとも不調で苦しかった時代だが、フォードの不調は、その沈滞ムードを一新し、3ボックススタイルのいわゆる“フラッシュサイド”の戦後型スタイルを採用し、鮮烈にデビューした1949年型の登場まで続いた。
“フラッシュサイド”スタイルとは
→ボディサイドにフェンダーなどの突出部がない車体(大車林から引用)の総称で、スラブサイドとか、ポンツーン(パンツーンン)=浮桟橋)型などの呼び方もある。
1949年、“ヤングフォード”(フォードの起死回生策)
 同車はヘンリー・フォード二世の時代となった意味も込めて“ヤングフォード”という呼ばれ方もしているが、次の話題として、この歴史的なヤングフォードについて、以下記してみたい。(下の写真はwikiwandより1950年製のフォード カスタム2ドアだが、ボディデザインは49年型とほとんど同じだ。ヤングフォードは4ドアより2ドアの方が、デザイン的にはしっくりしていた。)
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ジョージ・ウォーカーがデザイン(そのデザイン評)
 そのデザインについて松尾良彦氏(初代フェアレディZのデザイナーで有名)は『グリル中央にプロペラ・スピナーのような丸い飾りを持ち、それに横一文字のバーが走るというフロントエンドの造形は斬新だった。』(NAVI「アメリカ車デザイン小史」㉟-1より引用)以下はカーグラの編集者出身で、自動車史家の高島鎮雄氏の評(記名はないけれどたぶん)
『フォードは若いヘンリーⅡ世の時代になって、ようやくモデルTの亡霊から逃れ得たのである。ジョージ・ウォーカーの手になるボディデザインも、42年型以来の過渡期の中間型から脱出して、より統一され、一元化された、簡潔でしかも機能的な箱型になっている。このフラッシュサイド型の完成に際して、ヘンリーⅡ世がトリノから買ってきた1946年のピニン・ファリーナ・ボディのチシタリアが大きな影響を与えたというのも、今は昔の物語である。』(㉙-3))
 量産車のフラッシュサイド型のボディデザインは、次の話題で記すようにフォードが初めてではなかったが、このジョージ・ウォーカーがデザインした初の戦後型フォードは、(㉙-3の(たぶん)高島鎮雄氏の表現を借りれば)「簡潔でしかも機能的な箱型」で、バランスの取れた、現代人の目から見ても優れたデザインだった。(下はフォードのデザインに影響を与えたといわれている、イタリアのチシタリア。言わずと知れたピニン・ファリーナのデザインだ。トヨタ博物館所蔵のもので、画像と文はブログ「W12.5とGOLFⅦスカイブルー号」さんよりコピーさせていただいた。https://ameblo.jp/momochin0427/entry-12.607133114.html 『”202 Coupe”は1951年に”ニューヨーク近代美術館”に『現代の造形を代表する優秀なデザイン8車』に選ばれ、”動く彫刻”として永久所蔵されています』
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https://stat.ameba.jp/user_images/20190815/22/momochin0427/d3/56/j/o0560037414537944604.jpg?caw=800
多少余談になるが、傑作“ヤングフォード”をデザインしたジョージ・ウォーカーはその後、『フォード社がハーリィ・アールに対抗できる個性としてスタイリング部長に起用したジョージ・ウォーカーは、ICBMルックと言われた宇宙時代のセンスの導入者』(㉒P153)として、飛行機を飛び越えて宇宙路線?を掲げて、GMとクライスラーに対抗していく。しかしクロームとテールフィンの絢爛たる時代だった50年代の後半、フォードは、GMのハーリー・アールや、バージル・エクスナー率いるクライスラー系のデザインに対抗できなかったと思う(個人的な印象です)。
バットモービル
(そしてこの時代のフォードのデザインを象徴するかのようで、しかも一般の日本人にも馴染み深かったクルマは、下の“リンカーン・フューチュラ”だったのではなかろうか。1955年秋にリンカーン部門のドリームカーとして公表された、ダブルバブル・キャノピイが特徴的なこのクルマをひとめ見て、何かに似ていると感じた人も多いだろう。
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http://www.abandonedcarsandtrucks.com/sites/default/files/Lincoln%20Futura%20.jpg
そうなのだ。このクルマはその11年後、TVシリーズのバットマンに登場する“バットモービル”へと改造されていったのだ!画像は“Abandoned Cars and Trucks”さんよりコピーさせていただいた。
http://www.abandonedcarsandtrucks.com/content/building-lincoln-futura-concept-car
なおバットモービルへと至った経緯については、以下のOCTANEの記事が詳しいので、興味のある方は是非参照してください。https://octane.jp/articles/detail/4763)

シド・ミートも在籍していた
(さらに余談だが、近未来的でありながらどこかアジア的というか、独特な世界を描くあのシド・ミートも、フォードのデザインスタジオ出身だった。斬新な自動車雑誌で自分も熱心な愛読者だったNAVIを創刊したモータージャーナリストの大川悠氏によれば『ジーン・ボーディナット(=ジョージ・ウォーカーの後任)をチーフとするフォードもまた、どんどん前衛的なスタイルに挑戦するが、後に映画「ブレードランナー」のデザイン監修で知られた才気溢れるデザイナー、シド・ミートはこの時代フォードで働いており、彼の影響も大きいといわれる。』(㊺-1、P39)という。時代的に言えば、ジョージウォーカー時代の後のようだが。下の画像は映画、「ブレードランナー」のワンシーンだが、ブログ“time tripper”さんよりコピーさせていただいた。
https://ttripper.blogspot.com/2016/06/blog-post_28.html それにしても空飛ぶ車が本当に、大自動車メーカーで試作される世の中になろうとは・・・)

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https://3.bp.blogspot.com/-5i9JIssjkwc/V3JVFsSu2ZI/AAAAAAAAU_Q/QpweXV3moXE_K-g_X8vfAfBobqVjZuQOQCLcB/s320/bladerunner.jpg
カスタムが似合うクルマ?
(も~今回のこの12項は何でもアリでいいでしょう。1949年型フォードに話を戻し、下の写真は「ディスカバリー・チャンネル」でおなじみの、アメリカの有名カスタムカー・ビルダー、チップ・フースの工房で製作した、1949年製フォード カスタムをベースにした "The Foose Ford"。こういったカスタムカー文化も、アメリカの大事な自動車文化の一つだ。チップ・フースの工房が舞台となり、ディスカバリーチャンネルで放映されている「オーバーホール 改造車の世界」(ご存じない方はwiki等参照ください)という番組を自分はよく見るが、日本人の感覚からすると違和感あるのが、チップに改造依頼するほとんどの人(一般の人)が、提供したボロ車を「誰々は自分のことは後回しにして、他の人に尽くしてきた。なので、もっといいクルマに乗るべきだ!」と堂々と言い張る点で、それだけ自己主張が強くないと多民族国家では生きてはいけないのだろうと思いつつ、いつも見ています。)
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https://www.classicdriver.com/sites/default/files/styles/two_third_slider/public/import/cars/12225/1789134/biga.jpg
(ついでに、下は動画で1949年式と51年式のカスタムだが、これらも同様にカッコイイ
https://www.youtube.com/watch?v=VaM-FkDspQ8
https://www.youtube.com/watch?v=mjlafNZ8Bjk)

ライバルのシヴォレーは、少し保守的なスタンスだった
 一方、フォードの最大のライバルであるシヴォレーの動向だが、(㉟-1)より引用『一方ライバルのシヴォレーも1949年、戦後初のフルモデルチェンジを敢行する。ただし、GMとフォードのデザイン・テイストには、やはり大きな差がみられた。
GMのハーリー・アールは流麗な面を作ることに心を砕き、フロント・ウィンドシールドにカーブドグラスを採用した。それに加えて、フラッュサイドのボディにあえて流線型のリアフェンダーを独立させて組み合わせるなどして、エレガンスを強調した。
一方のフォードでは、流麗さよりも剛直なイメージを重視した。そのためチーフデザイナーのジョージ・ウォーカーは、3ボックス、フラッシュサイドのボディをテキストどおり忠実に構築、アールのように遊びを採り入れることなく、ウィンドシールドも中央分割の平面ガラスのままと、手堅いデザインをみせた。
だがどちらの車も、新車を渇望していた戦後のアメリカ大衆の心を掴み爆発的に売れた。これは黄金の時代の50年代への前奏曲といえる。』
(㉟-1、P12.6)下の画像はgazooの記事「シボレー フリートライン」よりコピーした。後ろのフェンダーラインは残し、デザイン上はフォードより温和で保守的な立場をとった。T型フォードが全盛のころと立場が逆転し、攻守ところが変わっていたのだ。
https://gazoo.com/catalog/maker/CHEVROLET/FURITORAIN/194901/)
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https://gazoo.com/catalog/car_img/7217/7217_o.jpg
 この、49年型フォードという戦後の重要モデルの項の〆は、フォードと言ったらやはりこの人で、五十嵐平達氏に記事でまとめとしたい。以下(⑩-2)より引用
7,200万ドルのギャンブル
『「ヤングフォードの7,200万ドルのギャンブル」、これは1948年6月14日号ニューズウィーク誌、ビジネス欄のトップタイトルである。この週刊誌が一企業の新車発表に、2ページ特集することすら異例といえたが、最初のページには未来都市から来たようなモダーンな車の正面と、見るからに若い30歳のヘンリー2世社長、およびGM系から引き抜いた新副社長アーネスト・ブリーチ(元ベンディックス社の社長)の写真がのっているのを、筆者は昨日のごとく記憶している。(中略)
7,200万ドルという開発費をつぎ込んだこの新型は、ヘンリー2世が1946年9月から発足させた大計画で、(中略)最初の生産車は1948年4月12日にオフラインし、6月18日には各地ディーラーのショールームで公開されたが、これはモデルTをモデルAにチェンジした時以上のビッグ・チェンジであって、同じものは名前だけといわれ、ジャーナリズムはヤング・フォードと呼んで、』
その成功を5分5分としかみなかった
(⑩-2)からの引用を続ける『その成功を5分5分としか考えず、エスカイヤー誌などは「親に似ない子」と皮肉った程だが、当のヘンリー2世はこのモデルに社運をかけていて、彼は父エドゼルの理性と、祖父の気骨を兼ね備えたような人物だった。そして1946年にはクライスラーより下に落ちていたフォード社を、復活させる大仕事に乗り出す決心をさせたのは、フォード家の威信だと説明し、自分は常に祖父や父ならどうするかを考えて行動していると答えていたが、そのヤング・フォードは立派に成功した。49年型発売後、フォード社は赤字から抜け出し、5年間に売り上げ総額が20年振りでシヴォレーを上回るに至った。(中略)現在ヤング・フォードと呼ばれるのは同名の祖父と区別する以外の意味はなくなっているが、発足当時には明らかに三代目若社長への皮肉がこめられていたのである。』(⑩-2P6)
直前のモデルと新旧比較
(下の画像はhttps://www.carandclassic.co.uk/car/C1168120というクラシックカーの販売サイトの、49年型の前のモデルである1946年型フォード4ドアセダンの“売り物”の写真だが、見た目も何とも古臭く感じられる。以下(⑩-2P8)に記されている “ヤング・フォード”の特徴と対比すれば、49年型の新しさがわかるだろう。『新型設計で最大の特徴は、全く白紙から再出発させたレイアウトで、このため全く別の車になってしまった。それは全長を変えずに車室容積を増加させることを目的としたもので、フォード社としては創立以来初めて、前車軸を独立懸架とすることで、エンジンを5インチ前方の位置へ移し、しかも低くマウントさせ、このために車高も4インチ削られたが、逆に室内は広くなり、後席もタイヤハウスをよけられたので、スペース的にも乗り心地向上にも、理想的な条件となった。そして余分の後方スペースはトランクに充当されたので、4ドアセダンでも容積は1.5倍も多くなった。』(⑩-2P8)
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https://uploads.carandclassic.co.uk/uploads/cars/ford/12253251.jpg

12.11戦後型の“フラッシュサイド”デザインについて(スチュードベーカー編)(雑談その11)
 だが、戦後の量産車でフラッシュサイド化に踏み切ったのは、実はフォードが最初ではなかった。しかしここでややこしいのは、その初めてフラッシュサイド化されたクルマを、スチュードベーカーだとする説と、いやクロスレイが最初で僅差でカイザーが続いたとする説に、自動車史家の中でもどうやら二手に分かれているようなのだ。
 果たしてどちらの説が正しいのかは、自分には何とも言えません。そこでここでは話を単純化して、新型車の発表順でいうと、スチュードベーカーが1946年5月で(web⓯-6によると)、クロスレイは6月なので(web⓯-2によれば)、スチュードベーカーから先に紹介する。続いてクロスレイ、カイザー、ハドソン、パッカードとフラッシュサイド型を投入した順番に紹介し、ビッグスリー以外のアメ車の戦後を紹介していきたい。
スチュードベーカーのラインナップ
 まず初めに、戦後のスチュードベーカーのラインナップについて確認しておく。(web⓱-2)より『スチュードベーカーは、早くも1947年(モデルイヤー)に戦後設計のニューモデルを投入した。車種バリエーションはチャンピオンとコマンダーの2種。チャンピオンは従来のスカイウェイ・チャンピオンに代わるベーシックモデル、コマンダーは本命ともいえる上級モデルだった。チャンピオンのボディバリエーションは4ドアセダン、2ドアセダン、2ドアクーペ、2ドアコンバーチブル。メインはあくまで2ドアだった。ホイールベースは112インチである。コマンダーもまた2ドアを前提としたようなボディデザインとなっていたのが特徴であり、ボディバリエーションもチャンピオンと同じという変わったモデルだった。ホイールベースは119インチである。』ちなみに(web□21-3)によれば、スチュードベーカーは元々『ガソリン自動車の誕生以前は全米トップの馬車製造メーカーであった』という老舗だったようだ。
レイモンド・ローウィのスタジオがデザインを担当
 この時代、ビックスリーには既に自社のデザインスタジオがあり、外部に依頼するケースは稀だったが、『スチュードベーカーのデザインは1936年から、わが国でもたばこのショートピースやミツワソフト石鹸のパッケージデザインで有名な、工業デザイナーのレイモンド・ローウィ(Raymond Loewy)の事務所が担当』(Web⓯-6)していた。“工業デザインの父”として日本でもあまりに有名なレイモンド・ローウィ(ちなみに昔はレイモンド・“ロウイ”と表現していたような・・・)については、wiki等を参照ください。
デザイン責任者がヴァージル・エクスナーだった
 そしてレイモンド・ローウィのスタジオで、このクルマのデザインに責任者としてかかわったのが、後にクライスラーのデザイナーとして大活躍する、あのヴァージル・エクスナーだったという。M-BASEの記事(Web⓯-1)によると『レイモンド・ローウィ事務所が担当したが、責任者に任命されたのは1937年にポンティアックからレイモンド・ローウィ事務所に移籍し、1949年にはクライスラーに移籍して野心的なコンセプトカーを次々と発表したヴァージル・エクスナー(Virgil M. Exner)で、当時スチュードベーカーの社員であり、1940年にエクスナーに認められ、ローウィのチームに加わったロバート・ボーケ(Robert E. Bourke)が中心となって作業が進められた。』
下の画像は「Gear Head Tuesday – Bob Bourke’s Studebaker Starlight」というブログからコピーさせていただいた。
https://56packardman.com/2019/09/17/gear-head-tuesday-bob-bourkes-studebaker-starlight/amp/
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https://56packardman.files.wordpress.com/2019/09/47_studebaker_commander_starlight_coupe.jpg?w=700&h=527
(下の写真はhttp://www.classiccarcatalogue.com/STUDEBAKER_1947.htmlさんより。
確かにこの写真からは、『当時のタイム誌では「行くのか来るのか(coming or going)」のタイトルで報道し話題を呼んだ』(㉒P159)とおり、確かにどちらを向いているのかわからない?)

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http://www.classiccarcatalogue.com/S/studebaker%201947%20champion_starlight_coupe_tyl.jpg
リアフェンダーラインこそ残すものの、優美なデザインだった
 以下はそのデザイン評で、カーグラの編集者の高島鎮雄は、1947年型スチュードベーカーこそが、事実上、初めてのフラッシュサイド型量産車であった(より正確に言えば“初めて成功した”だが)と解釈している。以下(㉙-5)より『~結局パンツーン形は(リアフェンダーが独立しているので完全な形とは言えないが)レイモンド・ロウイの47年型スチュードベーカーが初めて成功し、さらに49年型フォードで完成するのである。』さらに“念押しで”(㉙-9)『それはリアフェンダーこそ独立したマスを持つが、ほぼ完全なフラッシュサイドを成し、しかも47年型カイザー/フレイザーのようなあいまいなものではなく、さすがロウイと思わせるに充分なものであった。』
 この12項を記すうえで大変お世話になった、三樹書房のM-BASEさんの“見解”もほぼ同じのようで『~リアフェンダーをアクセントとして残しているが、フェンダーがボディーと一体化したフラッシュサイド(スラブサイドともいう)を米国の量産車で初めて採用』(Web⓯-6)したとしている。
(下は1947年スチュードベーカーコマンダー(1947 Commander Business Coupe)で画像はwikiよりコピーさせていただいた。確かに明確に、リアフェンダーラインが明確に描かれており、ここをどのように見るかで議論が分かれているのだろう。しかし後に記すカイザーやクロスレイよりはるかに優美なデザインであることだけは、間違いないと思う。)
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“ヤングフォード”との血のつながり
 それと共にどことなく、49年型フォードとのデザイン上のつながりが感じられる点も、クロスレイやカイザーと違う、優位な点だ。M-BASEに49年型フォードのデザイン創生過程の詳細が記されており、以下長文だが引用させていただく。(web⓯-7)『ブリーチ(GM系のベンディックス社社長から引き抜かれてフォード副社長に就任)が1946年7月、フォード社に入社した時、1949年型フォードのデザインは完成してツーリングの準備も始まっていた。ホイールベース98インチの小型車と118インチのフルサイズの2本立てであったが、1946年5月に発表された1947年型スチュードベーカー・チャンピオンを見て、その斬新さに衝撃を受け、白紙に戻してゼロからデザインのやり直しを決断する。(中略)そんな時、インディアナ州サウスベンドにあったレイモンド・ローウィ事務所のスチュードベーカー・スタジオでは数人のデザイナーがリストラされ、その中の一人ディック・カリアル?(Richard Caleal)がデトロイトのジョージ・ウォーカー事務所を就活のため訪れた。ウォーカーはカリアルに2~3週間のうちに1/4クレイモデルを添えてデザインの提案をしなさい。結果が良ければ採用しようと伝えた。(中略)フォード社において、グレゴリー、ウォーカー、カリアルの3種類の1/4クラスターモデルが審査を受けた結果、カリアル案が採用され、更にフルスケールモデルでグレゴリーとウォーカー(カリアル案)が競い、最終的にウォーカーが提案したカリアル案が採用され、更にリファインされたのが1949年型フォードであった。47年型スチュードベーカーと49年型フォードの間には確かに、“血のつながり”もあったようなのだ。以下の1948年型の画像は、
https://www.indieauto.org/2020/08/28/1948-studebaker-this-is-the-car-to-get-you-there/
よりコピーさせていただいた。この写真からはさらに、“ヤングフォード”との近似性が伺える。)

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https://i1.wp.com/www.indieauto.org/wp-content/uploads/2019/04/1948-Studebaker-ad2-col.pg_.png?w=680&ssl=1
未来のかなためざして走っていくスタイル
 1947年型スチュードベーカー(何度も記すが、1947年はモデルイヤーのことで、実際には1946年1946年5月に発表し、6月に発売されている(Web⓯-6))の、歴史的な意義を含めた解説を、自動車史家LJK.セトライト(神田重巳訳)による(㉞-1)より引用 
『ローウィのデザインした1946年スチュードベーカーは、自動車の古めかしい慣用句を一切投げ捨て、しかも間もなく他社がいっせいに真似したくなるほどの手際のよさで、新しい典型をつくり上げていた。このスチュードベーカーが登場しとき、小うるさい連中は、この車のスタイルが、こちらにむかって走ってくるところか、かなたに走っていくところか見わけもつかぬなどといって嘲笑した。しかし、この車の新奇なスタイルこそ、じつは未来のかなためざして走っていくスタイルなのだと、世界の人びとがさとるまでに長い時間は不要だった。数年とたたぬうちに、3個の箱を重ねた砲塔型(ターレット・トップ)の構成は、セダンに共通の形態となった。しかも3個の箱のうち後方のもの(つまりトランク・スペース)は、前方のエンジン・ルームと同程度に大きく、しかも中央に突出する砲塔部分に位置する乗員に対しては、前後同等の視界が与えられている。このようなボディ・プロポーションの再構成は、スタイリングとエンジニアリングの双方に全面的な影響を及ぼすものであり、同時に1901年にマイバッハが設計したメルセデスとかバッドの1916年ダッジより以降、かつ1959年のイシゴニス設計“ミニ”以前におけるもっとも根本的な、そしてもっとも成功した変革であったといえよう。その当時、まだ馴染みにくかった前後対称の形状や、ラップアラウンド・ウィンドーによって、スチュードベーカーは、今日までもなお継続する新しいファッションを創作してみせた。』(㉞-1,P233)
“シャークノーズ”の1950年型
 1947年型のその後だが、以下(web⓱-2)より引用『スチュードベーカーは1950年モデルで、ルックスを一新する大規模なマイナーチェンジを受けた。この時点で採用されたデザインは、宇宙船を想像させるほどのアグレッシブなものだったのが特徴である。ただしこのデザインは1952年に、再びコンベンショナルなものへと改められている。』(下の写真は1951年スチュードベーカー チャンピオン。五十嵐の50年型のデザインに対しての寸評を(㉒P149)より引用『シャークノーズはジェット・インテイクとも呼ばれたが、フォードの49年型との共通性はどのように理解したらよいのであろうか。』画像は“koyapop”さんのブログよりhttp://blog.livedoor.jp/koyapop2/archives/cat_50042019.html コピーさせていただいた。明らかにP38双胴戦闘機をイメージしたデザインのため“双胴機型”や“ロケット型”と呼ばれた所以がわかる。)
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https://images2.bonhams.com/image?src=Images/live/2019-06/28/24890765-1-14.jpg&width=960
 以下はwikiの要約で、その後のスチュードベーカーについて、その終わりまで『しかしビッグスリーの戦後向け新車開発と値下げ攻勢によってスチュードベーカーの経営は次第に追い込まれた。またデザインでのローウイの関与が無くなった1955年モデル以降はフルモデルチェンジの余裕も無くなった。1954年に、同じく苦境に立たされていたパッカードと合併したが、58年にパッカードブランドは終了し、さらにニッチ市場に生き残りを賭けたが、時すでに遅かった。そして1966年、最後のスチュードベーカーがラインオフした。』 
 その後のスチュードベーカーについては、特に有名な2台だけを紹介しておく。いずれもレイモンド・ローウィがデザインしたクルマだ。
1953年のスターライナー、“1950年代のアメリカ車の中で最も美しい1台”
 1台目は1953年のスチュードベーカー スターライナーだ。五十嵐は(㊸-1P90、㉒P51の要約)で、『レイモンド・ロウイの傑作デザインで、ヨーロッパ製純スポーツカーに負けないスタイルは、たしかにロウイの才能を示していた。』『レイモンド・ロウイの2度目のヒット作で非常に美しい米車だった。』と語っている。“口紅から機関車まで”と守備範囲の広かったローウィの、自動車デザインにおける最高傑作と一般に言われているようだ。その解説を、以下は古いアメ車について、相当な高い見識をお持ちだと思われる、webの“ポルシェ356Aカレラ“さんから、引用させていただく。(web□21-3)
『1950年代のアメリカ車の中で最も美しい1台は、ローウィのオリジナルデザインで生産された1953年と1954年のスチュードベーカーであったと言える。同時代のアメリカ車のトレンドであったクロームメッキの嵐、威風堂々とした体躯といったアメリカン・スタンダードとは異次元に位置する優美なクルマであった。カタログコピーでも欧州車的ルックスと謳われていた通り、アメ車としては異例にシンプルな美しさを持っていた。しかし、アメリカの一般大衆が求めた時代のトレンドとは乖離した異端児であったが故にセールス的には期待した程には伸びなかった。』(下記の画像はブログ“毎日乗りたい楽しい車達”さんよりコピーさせていただいたhttp://t34hayabusa.blog.fc2.com/blog-entry-54.html。
 実車を見たことがないので何とも言えないが、フロント側はシトロエンDSと似ているせいもあり、この後ろからの角度の方が美しく新鮮に見える。もっともシトロエンよりこのクルマの方が3年早かったのだが。ヨーロッパ車とアメリカ車の両方の良い面を持つデザインだった。(㉙-10)『ロウイの趣味性が最もよく表れているのは53年型とアヴァンティであろう。~当時この車はユーロピアン・ルックといわれたが、アメリカでもヨーロッパでもない、“ロウイ・ルック”であった。』

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https://blog-imgs-119.fc2.com/t/3/4/t34hayabusa/fc2blog_20180801053510823.jpg
 残りの2台目の話題に移る。下の1962年、スチュードベーカー アヴァンティは、起死回生の最後の一打として企画されたクルマだった。やはりローウィのデザインだが、ネットで検索すれば情報はたくさん出てくる、有名なクルマなので、ここでの解説は省略する。(以下の画像は、https://www.curbsideclassic.com/blog/ccoty-1962-studebaker-avanti/よりコピーさせていただいた。)
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https://i1.wp.com/www.curbsideclassic.com/wp-content/uploads/2012.13/Avanti-63-3.png?w=1024&ssl=1
最末期のスチュードベーカーと、日産、トヨタとの係わり
 ところでスチュードベーカーという名門のメーカーの、その命の炎が消えそうな最末期に、何といすゞやニッサン、トヨタとの提携の交渉があったそうだ。詳しくは以下の“JetBoy's Page ”さんのブログ記事を参照ください。
https://minkara.carview.co.jp/userid/1945280/blog/43898618/
興味深い話が満載だが、中でも交渉相手を秘密裏に日産からトヨタに変えようとしたときの一件が面白いので、以下引用させていただく。『~トヨタさんはちゃんと日産側に御用聞きを入れておりグランデイー氏(注;スチュード―ベーカー側の交渉役)が日産と既に交渉している事を知っており、現れたグランデイー氏に冷たくあたり、日本一の自動車会社はウチなんだ、日産に先に話に行くとは、出てけとケンホロほろに追い返されます。』すでに戦後20年以上たった頃の話で、日米の自動車会社の力関係も、ビッグスリーを除けば逆転していたようで、痛々しいというか、なかなか感慨深いものがあるが、それにしてもトヨタという会社は昔から、スキのない会社だなぁと思いました。

12.12戦後型の“フラッシュサイド”デザインについて(クロスレイ、カイザー編)(雑談その12)
 前項で、量産車のフラッシュサイド化は、ビッグスリーより小回りの利いた中小/新興メーカーの方が先で、一番乗りはスチュードベーカーだとする説を先に紹介したが、“カー&レジャー”WEBの車屋四六氏によれば(Web⓲-1、⓲-2)『フラッシュサイドの元祖はフォードと云われているが、カスタムカーなどを除き量産車ではクロスレイ…米国では珍しい小型車専門で、WWⅡ中も開発を続けていたようで、終戦直後の46年にフラッシュサイドの新型車を登場させている』(Web⓲-1)としている。1946年6月のことだった(ちなみにスチュードベーカーは5月)。
その後『二番手は、造船王から転向のカイザーで47年。三番手は老舗ハドソンと高級車のパッカーが48年。そしてフォードが49年。その49年型が111万8740台生産されたとなれば影響力は絶大で、元祖と認められても仕方なかろう。』としている。

12.12-1クロスレイこそが、フラッシュサイドの元祖だった(もう一つの説)
 ここでクロスレイの概要を超簡単に記せば以下(Web⓯-1)より『クロスレイは量産型ラジオのパイオニアで、1922年には世界最大のラジオメーカーとなり、ラジオ局や野球チームのシンシナティ・レッズのオーナーであったパウエル・クロスレイJr.(Powel Crosley Jr.)が少年時代からの夢であった自動車生産を実現したクルマであった。』
アメ車らしからぬ超小型車だった
(下の画像はそのクロスレイだが、脇に立つ女性(白人なので日本人より大柄とはいえ)との比較で大きさは想像がつくと思うが、アメ車の基準からすれば小型車というよりも、超小型車だった。(全長3683mm、全幅12.55mmのコンパクトなボディーに、当時としては先進的な722cc直列4気筒OHC 26.5馬力エンジンを搭載していた。このエンジンは海軍のPTボート(Patrol Torpedo Boat:哨戒水雷艇)の発電機駆動用として採用されたものの転用だという。以上(Web⓯-2)より。画像は
http://blog.modernmechanix.com/post-war-crosley/ よりコピーさせていただいた。確かにスチュードベーカーのような、明らかなリアフェンダーラインのない、紛れもないフラッシュサイドだ。ただアメ車では例外中の例外な超小型車で、それ故に一般的な3ボックスタイプではなかったのが印象として弱い点だ。)

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http://blog.modernmechanix.com/mags/qf/c/MechanixIllustrated/6-1946/med_post_war_crosley.jpg
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https://car-l.co.jp/wp-content/uploads/2020/04/1097-2-768x522.jpg?v=1588061186
クロスレイのそっくりさんが日本にいた!
(上の写真はそのクロスレーのデザインだけをそっくり真似した1948年型ダットサン。ただ中身はほぼ戦前型ダットサンのままだった。『クロスレイの夢をそのまま現実化したのが三菱名古屋の飛行機屋さんで、ダットサンのシャシーを利用してオールスチールボデーと取り組んで、試作車をアッピールしたのが1948年であったが、最初は日産の営業が注目したのが外注生産まで話が進められて、デラックス・セダンの名称で商品化された。シャシーは戦前そのままであったので、ボデー・スタイルとシャシー・レイアウトは相当にチグハグなものであったが、未だ朝鮮戦争以前の非占領国であった日本人には将来への夢を感じさせていたと思う。』(㉒P239)ということは、日本車初のフラッシュサイド車はこのクルマということになる。写真はCAR&レジャーWEBさん(Web⓲-2)よりコピーさせていただいた。https://car-l.co.jp/2020/05/04/30310/)

12.12-2二番手は、造船王がビッグスリーに挑戦したカイザー
 そして惜しくもわずか数か月の差で量産フラッシュサイド第一号の座を逃した『二番手は、造船王から転向のカイザー』(Web⓲-1によれば)だったという。しかしスチュードベーカーから数えた場合は3番手になるのだが。
カイザー+フレイザーで“ビッグスリーに対する最後の挑戦”
 ここからさらに脱線していくが、戦後派のカイザー・フレイザーについては、クルマそのものよりも、その“生い立ち”の方がさらに興味深い。カイザー・フレーザー社の概要は(Web⓯-3)より『カイザー・フレーザー社は、米国で道路やフーバーダムなどのダム建設、造船(第2次世界大戦中プレハブ船として有名な1万トン級の戦時標準型輸送船「リバティ船」を143隻建造している)、鉱業を手広く展開していたヘンリー・カイザー(Henry John Kaiser)と、(中略)グラハム・ペイジ 社(Graham-Paige Motors Corp.)を買い取り、会長兼社長に納まっていたジョン・フレーザー(Joseph W. Frazer)が、彼の友人であったバンクオブアメリカのジャンニーニ社長の仲介によって、1945年7月にヘンリー J. カイザー社(Henry J. Kaiser Co.)とグラハム・ペイジ社が50/50出資により資本金500万ドルで共同設立した会社である。』
 アメリカの“造船王”であったヘンリー・J・カイザーについてはwiki等を参照いただくとして省略するが、そのカイザーが、戦時経済体制が終わり、縮小を余儀なくされる造船部門に代わる新たな事業の柱として、生き残りを賭けて大胆にも、ビッグスリーによる寡占化が進みつつあった自動車産業に挑戦する。
バンクオブアメリカもバックアップ
 第二次大戦後自動車産業に挑戦した事例として、近年のテスラを除けば、大戦直後のカイザーとタッカーの2つが有名だが、カイザー・フレーザーは『カイザーは鉄鋼界の大物、フレーザーはグラハム財閥としてデトロイトでの大物、この人脈をメインとしてバンクオブアメリカもバックアップしていると報ぜられて、新規参入を嫌うデトロイトの中で』『タッカーの如くいじめられる事はなかったようである。』(㉒P265)
M-BASEの(⓯-1)の記事にもバンクオブアメリカの名前が出てくるが、国際金融資本の介入は、当時のフォードの経営危機をチャンスとみたのだろうか。(←私見です。タッカーについては映画になったほど有名だし、クルマについてはこの記事では触れないが、写真だけ、ブログ“映画とライフデザインさんの記事”「映画「タッカー」ジェフ・ブリッジス&フランシス・コッポラ」からコピーさせていただいた。ちなみにリアエンジンだった。)
https://blog.goo.ne.jp/wangchai/e/a2b1e341fb4092929a6c53f233a1385d)

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https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/79/4c4c8743f62241a97926702c2d4f0ed6.jpg
巨大な“ウィローラン工場”をリース契約して生産
 話を続ける。カイザーは第二次大戦中にアメリカ政府の命を受けて、フォードがB24爆撃機(ちなみに4発エンジンの大型)の“大量生産”のために建設した巨大な“ウィローラン工場”に目をつける。戦時中に工場を建てて運営したのはフォードだったが、軍用機専用工場だったので、戦後は国の持ち物になった?『カイザー・フレーザー社は所有者であった政府機関から1955年までのリース契約を結んでいた。リース料は1946年:50万ドル、1947年:85万ドル、以降120万ドル/年であった。広大な工場で、アセンブリーラインの全長は2kmに及んだ。』(Web⓯-1)
(下の画像は(Web⓯-3)よりコピーさせていただいた。
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http://www.mikipress.com/m-base/img/05-22-02.jpg
このB24用の巨大な量産工場であった、“ウィローラン工場”については、飛行機の話題になるので、この記事の文末の備考欄に記しておくが(備考13)、終戦に伴い遊休化した同工場の民需転換を図ることで、自動車産業に必要とされる巨大な工場設備を確保した。
カイザーの方は当初、前輪駆動の予定だった!
 そして肝心のクルマのブランドとしては“カイザー”と“フレーザー”を用意したが、そのうち廉価なカイザーの方は当初何と、前輪駆動車の予定であったという!M-BASEさんが詳しいので(web⓯-1)より引用させていただく。『当初、カイザーの開発は前輪駆動で進められていた。前後ともトーションバーサスペンション、ユニットボディーで、エンジンは187cu-in(3067cc)直列6気筒92馬力、ホイールベース117in(2972mm)、全長197in(5004mm)、全幅72.87in(1851mm)であった。ヘンリー カイザーは戦前から自動車生産に興味を持ち、いくつかのプロトタイプを造っていた。 特に前輪駆動、トーションバースプリング、FRPボディーにこだわった。 前輪駆動車の1927年トラクタをはじめ、オチキス・グレゴアール、パナール・ディナ等を手掛けたフランスのグレゴアール(Jean A. Gregoire)の指導を受けたという。』(web⓯-3)(㉒P117)の記述では、戦前に独創的なリアエンジン車「スタウト・スカラブ(Stout Scarab)」を造ったウイリアム・スタウト(William B. Stout)の関与もあったという。スタウトについてはwiki等を参照ください。
以下2枚の画像はhttps://www.curbsideclassic.com/curbside-classics-american/curbside-classic-1947-frazer-manhattan-the-last-domestic-assault-on-detroit-until-tesla/
よりコピーさせていただいた。ビッグスリーへの挑戦ということで、やはり気負ったのだろうか。

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https://i1.wp.com/www.curbsideclassic.com/wp-content/uploads/2020/01/Kaiser-Front-Wheel-Drive.jpg?resize=600%2C337&ssl=1
ボディデザインはハワード・ダーリンで、完全なフラッシュサイド
(ボディデザインは有名な自動車デザイナーのハワード・“ダッチ”・ダーリンに依頼した。以下(㉒P116)より『~デザイナーのダーリンのサインが入れてあり、特にフレーザーのフロントはボデーと共色で、クロームを用いていない事に興味があろう。フレーザーは純戦後型セダンとしてシンプルな原型を示したのであり、アメリカ人の自動車観に戦時中のジープが強く入り込んでいたころである。』確かに下のフレーザーの方は、ジープ等戦時中の車のように、機能主義に徹した外装が新鮮に映る。
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https://i2.wp.com/www.curbsideclassic.com/wp-content/uploads/2020/01/kaiser-frazer-june-1946.jpg?w=864&ssl=
前の(㉒P116)の文章の続きを『しかしこの純粋なスタイリングはたちまちセールスから苦情が出たらしくクロームメッキされてしまったし、実際の生産型はフロント・ドライブも止めて全くオーソドックスなFR式のアメリカ車と化していた。』
カイザーとフレーザーは結局双子車に
 M-BASEさんによるとFWDの試作車の出来は未熟だったようで『~駆動系の騒音、振動がひどくて売れる代物ではなかったようで、1946年6月に生産開始したときは、カイザーもフレーザーと基本的に同じ双子車に化けてしまった』(web⓯-3)。以下は(㉒P120)より『1946年発表当時はダーリンのフレッシュなセンスが感じられたフレーザーのフロントは、いざ商品化されて市場に出た時にはこのようにクロームのプレートと化していた。~それにしてもFF車を半年もかけずにFR車にして販売する辺りにアメリカ部品工業の底力を感じさせた。』(㉒P121)確かに。M-BASEさんの考察によれば(web⓯-1)、広告で追跡すると1946年6月15日はまだFWDとされていたが、7月1日の広告ではRWDとなっているので、その間に前輪駆動を断念したようだ。同じ(web⓯-1)に『フレーザースタンダードはカイザースペシャルより4カ月早い1946年6月に発売された。』という記述があるので、RWDのカイザーの発表は1946年10月ということになる。恐るべきスピードだが、元々オーソドックスな設計だったフレーザーの姉妹車にしてしまったから可能だったのだろう。
エンジンは社外品のコンチネンタル社製
(下の画像はWeb⓳-1よりコピーさせていただいた。上の草色の方が“カイザー”で、下の黄色の方がその少しだけ高級版という位置付けだった“フレイザー”だ。明確な“フラッシュサイド”だが、『それは意あって力及ばずと言ったところで、つかまえどころのないメリハリのきかないものであった』(㉙-5)という評のとおり、後のフォードに比べると確かに、キレが足りないように見える。なおエンジンについては自社開発せずに社外品のコンチネンタル社製を用いていた。)
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https://ateupwithmotor.com/contentfiles/uploads/1947_Kaiser-Frazer_ad3.jpg
ハッチバック・セダンの元祖だった?カイザー トラヴェラー
(下は1949年のカイザー トラヴェラーだ。今日でいうハッチバック・セダンの元祖みたいなクルマで、そのアイデアをすでに実用化していた。『カイザーはアメリカでも当時としては最大のトランクを誇っていたが、その特徴を生かし、さらに多用途性を加えるためにこの車を設けた。たたんでしまえばごく普通のセダンにしか見えないが、後ろを上下に開き、後席をたためばかなりかさばった物も積める。(中略)アメリカにはステーションワゴンという特有な形式があるのに、わざわざこの車を設けたのは、世をあげて戦前型のプレーンバック・スタイルからノッチバック・スタイルへと変化しつつあった時代性のゆえであろう。』(㉙-5))
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https://car-from-uk.com/ebay/carphotos/full/ebay147908928052824.jpg
 ただし五十嵐は㉒で『カイザーがオリジナルを主張するトラベラー、これの上級にヴァガボンドがあったが、要するにセダン型をワゴン式に使えるようにゲイトを設定したモデルで、このオリジナルはシトロエンやルノーが1930年代前半で、すでに商品化していたのだが、アメリカには情報が到達していなかったのかもしれない。』(㉒P119)と記していたが。

五十嵐氏はこのあたりのクルマのことを指しているのだろうか。下はM-BASEさんより(web⓯-13)より引用で、トラクシオン・アヴァン シトロエンの商用モデル、コメルシアル(コマーシャルの意?)。下のカラー写真のクルマは『テールゲートが1枚の跳ね上げ式になった』1954年に再登場したタイプだが、1937年に登場した『戦前モデルのテールゲートは上下に開いた』そうです。
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http://www.mikipress.com/m-base/img/05-87-48.jpg
 この会社のその後の行く末を簡単に記せば、以下はwikiより『いわゆる「ビッグスリー」に牛耳られるようになっていたアメリカ合衆国の自動車業界において、独立した国内資本による大規模な量産自動車メーカーを新たに発足させた、ほぼ最後の例と言えるが、結果的には挫折することになった』。結論はそうなるのだが、もう少し経過をみてみる。
カイザーが誕生した当時、作れば売れる状態だった
 カイザーが誕生した当時は『第二次大戦中、1941年から45年まで、乗用車の生産はほとんど停止されたから、まさに繰り延べられた需要が急に出てきて、少なくとも50年頃まではつくれば車はいくらでも売れる状況だった』(⑬P144)。
1949年を真の戦後型とする協定があった?
㉒によれば『ビックスリーは1949年を真の戦後型とする協定があったのではないかと思える』(㉒P147)という。第二次大戦後のこの頃のフォードは『それまでのずさんな経営によって毎月1000万ドル近い赤字を出し、生産台数もビッグ3の3番目に甘んじ、フォードはシボレーに大きく水をあけられ、3位のプリムスにも肉薄されるほど危機的状態にあった。』(web⓯-7)最大のライバルであったフォードにかつての面影がなく、青息吐息だったので、合理的な経営方針を貫くGM主導で秘密裏に取り決めがあったのだろうか。
1949年からビッグスリーが戦後を投入すると、たちまち経営危機に
そのため小回りのきいた中/小、新興メーカーにもつけ入る余地が生まれたが、1949年から、ビッグスリーが戦後型のニューモデルを投入し、攻勢に出始めると、その他メーカーは次第に経営が苦しくなっていく。その後の経緯を以下wikiの記述から要約『~1949年に至ってカイザー=フレーザー製品の販売が落ち込んだにもかかわらず、カイザーはより多くの生産を指示し、その結果、1950年半ばには在庫過剰に陥った。1951年、ヘンリー・カイザーとの激論の末にジョゼフ・フレイザーは社を離れ、会社は1952年に「カイザー・モーターズ(Kaiser Motors)」へと社名変更した。』
日本と不思議な縁で結ばれる(三菱がKD生産)!
 そんな苦境にあえいでいたカイザー・フレイザーであったが、なんと日本との間で不思議な縁で結ばれる。同社のコンパクトカーとして登場したヘンリーJというモデルが、戦後3社に解体された三菱重工業のうちの、自動車分野でいえば大型自動車部門(ふそう)を引き継いだ東日本重工業の川崎工場でノックダウン生産されたのだ。(下の1951年型のカイザー ヘンリーJの画像は、http://aeronautic.dk/CC-henryjkaiser1951.htm より引用)
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https://aeronautic.dk/1951%20Henry%20J-04-05.jpg
月間30台という小規模だが1951年3月からKD生産を開始し『戦後におけるノックダウン生産の初のケースであった。』(⑩-4P60)提携に至る経緯は(㊲P326)より略して抜粋する。『(東日本重工業の)横浜造船所に出入りしていたエドガー・シャープなる人物を通してヘンリーJの組立生産販売の話が持ち込まれた。当時東日本重工業はフォルクスワーゲン社と技術提携するアイデアもあったが(!)、部品輸入への外貨支払い1ドルに対し、これを組立輸出した場合2ドルの外貨獲得になるとのソロバンを弾き出し(注;当時日本は外貨不足だった)、早くも1か月後の(1950年)9月にはカイザー社との契約に正式調印をした。』話の発端は造船業仲間からだったようだが、ものすごい速攻で話がまとまったようだ。
三菱重工内ではフィアットやVWとの提携話もあった?!
 なお(㊶,P190)には当時の三菱重工グループ内では『イタリアのフィアットと提携して乗用車の生産計画を立てたものの、これは認可されなかった』との記述もある。もしVWやフィアットとの提携が実現していたら、その後どう展開していっただろうか?興味のあるところだ。
 それにしても降ってわいたようなこのヘンリーJの組立生産の話は、元々『当時の三菱重工は日本の自動車業界に馴染まない』(㉒P268)、独立独歩のところがあったとしても、日本の自動車史全体の中で俯瞰してみて、いかにも唐突な印象が強い。そしてその“違和感”のもとは、当時の通産省の自動車政策とは恐らく、無縁なものだったからだと思う。
通産省の自動車産業育成計画と合致していたとは考えにくいが?(わからない)
 以前の記事の4項や前回の記事の6.4-4-3項でも少し触れたが、戦前の商工省時代から一貫して、国内自動車産業確立に執念を燃やす通産省は、自動車の中でも特に乗用車生産に対して逆風が吹く中で、その保護育成に必死に取り組んでいた。そんな中で、アメリカ車としては小型といえども4気筒2.2ℓ左ハンドルの2ドアでトランクすら無いという、タクシーにも法人用途にもおよそ不向きなこのクルマのKD生産が、如何に迂回的な輸出による外貨獲得というお題目はあったとしても、通産省が推進したKD生産を足掛かりに、国産車を自立させる計画と合致していたとは考え難い。占領下という難しい舵取りを求められる立場で、戦前からの御三家(許可会社)を軸に、自主開発路線のトヨタを除き日産→オースティン、いすゞ→ヒルマン(ルーツ・グループ)、日野→ルノーとの技術提携を、順序立てて計画的に進めようとしている中で、まったく別の路線で(たぶん)、三菱が真っ先に外資と話をまとめたことに、驚きとともに、(これもたぶん)頭越しされたことに対しての不快感もあったのではないだろうか。以下五十嵐の著書の㉒より引用『三菱重工は元来軍需工場で、社内情報は外部に出てこない習慣みたいなものがあったのか、戦後の行動にもジャーナリスト的な立場で見ると謎めいたことが多く残されている。~このあたりの空気が当時の通産省自動車課が画いていた構想とは関係なく動いてしまったように見える。』(㉒P272)
 ただ当時の三菱の立場からすれば、通産省頼りだった当時の日本の自動車業界に対して、戦前からの財界主流派として背後から国家を主導していく立場で、元々三菱財閥の総帥岩崎小弥太は紛れもない親米派であった(②P12.4等)。占領下の戦後でもその人脈が全て途絶えたわけではなかっただろうし、たとえ通産省が関与しない、独自の策を講じたとしても、当時の三菱の内部の視点からすれば、我々一般人の感じるほど“違和感”のある話ではなかったのかもしれない。ここで三菱×カイザーの目的は何だったのか、もう少し確認を試みたい。
KD生産してアジアに迂回輸出を計画
 三菱がカイザーとの提携に魅力を感じた理由として、日本でKD生産したヘンリーJをアジアに輸出して良いという条件が大きかったようだ。以下(web⓯-8)より『当初の計画はノックダウンにより年3000台を生産し、500台は国内向けとし、残りはフィリピン、タイ、香港等のアジア諸国ならびにアルゼンチン、ブラジル、ウルグァイ等の南米諸国に輸出するという、カイザー・フレーザー社の海外拠点の一つと位置づけられていた。』カイザー側の海外戦略を活用することで、日本国内の需要よりも輸出を主眼においていたようだ。そして輸出による外貨獲得で、貿易赤字に悩む通産省の承認も得られやすいと考えたのかもしれない。
(web⓯-8)から続ける『しかし、(国外の)販売はまったく振るわず、通産省の許可を得て国内日本人向けの販売も試みたが、当時個人需要は少なく、法人需要が中心であり、2ドアで左ハンドルであることが難点であった。後に右ハンドル車も生産し、4ドア車も数台試作したが、1953年3月、カイザー・フレーザー社がウイリス・オーバーランド社と合併し、ヘンリーJの生産を中止したため、提携は解消した。~生産台数は沖縄、タイなどへの輸出185台を含め509台であった。』(web⓯-8) “武士の商法”という言葉を思わず思い浮かべてしまう。
 商売上の計画はあえなくとん挫したが、戦後の三菱重工が、自動車事業に重点を置こうとしていたことは確かで、先に触れたジープや、このヘンリーJ以外にもこの頃、旧三菱重工業3社のうちの中日本重工業スクーターやオート三輪以外にも、トヨタやダットサンの一部ボディの架装を行っていた。しかし『当時トヨタと日産は中日本重工業製のボディに少なからず不満を持っていたという。』(㊲P321)実際その後、トヨタも日産も内製ボディに切り替え、その一方でいすゞがヒルマンを国産化する際に、そのボディ制作を請け負うことになるのだが、航空機の機体の製作とは勝手が違ったであろう、量産乗用車の生産技術の習得も目的だったようだ。以下(㉓P208)より
量産乗用車の生産技術の習得も目的
『(ヘンリーJのKD生産は)通産省の方針に基づく外国の技術導入に対する支援が行われるようになる前の1951年のことで、三菱が独自に生産技術を学ぶためであった。日本を代表する巨大な総合重工業として君臨してきた三菱は、戦後、いくつかの企業に分割されたが、実質的には一つの財閥としてのまとまりを維持していた。その中で、造船部門や機械部門は着々と戦前の活動をもとに基盤を固めていたが、航空部門に代わるもう一つの柱になる部門として自動車が大きくクローズアップされた。』将来の自社ブランドの乗用車量産化への布石でもあったのだろう。
以下(㉒P271)より『このノックダウンにはホワイトボデー組立も含まれていたので、スポット溶接と赤外線焼付機の導入は日本最初であったと「社史」に書いてある。』という。
トヨタ、日産をはじめ、国産車の生技技術の底上げに貢献
 実際『ヘンリーJの組立に際しては、米国からスポット溶接機を導入、塗装は赤外線焼付けを行なうなど、当時最先端の生産技術を採用していたので、同業他社から多数の見学者が訪れた』(web⓯-8)という。商売上で関係のあった、トヨタや日産の関係者も当然調査に来たハズで、日本の自動車産業の生産技術の底上げに貢献したようだ。
2ドアセダンでは、タクシー/法人車需要を取り込めなかった
(下の画像は国内向けの広告で(Web⓲-3)よりコピーさせていただいた。アメリカ本国ではセカンドカーなどの需要を期待できたので、この大きさ(4616×1778×1514mm(日本の乗用車図鑑 1907-1974」三樹書房、P24より、ちなみに初代クラウンは4285×1680×1525mm)の2ドアセダンが成り立ったのだろうが、当時の日本ではいかに大三菱と言えども、営業/法人車需要を取り込むのが難しかっただろう。)
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https://car-l.co.jp/wp-content/uploads/2019/03/copy_img_view32-11.jpg
(下のユーチューブの動画に、ヘンリーJがモーターショーでデビューした時の模様が紹介されている。初期型はトランクすらなかった!「KaiserFrazer Car Show, Circa 1950」)
https://www.youtube.com/watch?v=PVIRdg8jUOw
シアーズ・ローバックからも売り出された
(アメリカ国内に話を戻すと、このヘンリーJは、巨大デパートチェーンのシアーズ・ローバックからも、シアーズブランドのオールステートという名称で販売されたという。その辺りの経緯は、ブログ“乗り物ライター矢吹明紀の好きなモノ“さんの記事に詳しいのでぜひ参照して下さい(web□30-1)。同記事によればシアーズ側からの働きかけだったようだ。
下の画像は、https://www.cartalk.com/blogs/jim-motavalli/remembering-when-sears-roebuck-sold-cars よりコピーさせていただいた。)

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https://www.cartalk.com/sites/default/files/blogs/jim-motavalli/sears%20allstate%20ad%202.jpg
さらにその後のカイザー・フレイザー社だが、先に記したように業績の不振と経営理念の違いからフレーザーは会社を後にし、その後はカイザー単独でカイザー・モータースとして新たな体制での経営を開始することとなる。以下はwikiより『1953年、カイザーはウィリス車やジープのメーカー、ウィリス=オーバーランドを買収し、傘下に組み入れて、カイザーとウィリスの生産を統合した。そして1955年には、カイザー系各社に比べればまだ堅調であったウィリス系小型乗用車も含め、不採算だった乗用車事業から撤退する。』1963年にはカイザー自体が社名を「カイザー=ジープ・コーポレーション」とした。ジープを主体に事業再編を行い延命を図るが、1970年、AMC(アメリカン・モーターズ・コーポレーション) に売却され、自動車事業から撤退、ジープはAMCで生産を継続していくことになった。
スーパーチャージャーに頼ったクルマは市場から消えてゆく、というジンクス
以下は(㉙-7)より『~標準サイズのアメリカ車に対するアンチテーゼとしてのコンパクトカーは、失敗して消滅するか、しだいに大型化して普通のアメリカ車になってしまうかしかなかった。1950年代のナッシュ・ランブラー、51年のヘンリーJ、52年のウィリス・エアロ、53年のハドソン・ジェットなど、いずれもそれらを出したあとメーカー自体が長続きせず、ナッシュとハドソン、カイザーとウィリスという風に合併した。』
なんだか戦前の「スーパーチャージャーを付けた車は消滅する」(当ブログの9番目の自動車の記事を参照ください)という、戦前のアメリカ自動車界のジンクスを思い起こさせるが、なんと戦後のカイザーも『~デトロイトで行き詰ったメーカーはスーパーチャージャーをカンフル注射と考える。そしてスーパーチャージャーを付けたクルマは市場から消えてゆく、そんなジンクスがある。カイザーも1954年型でスーパーパワーの名称で過給機を付けたモデルを設定~』(㉒P121)と、禁断の?スーパーチャージャーに手を染めていたのだ!
先に記したように、カイザーとウィリスは合体することになる。そして数奇な運命だとしか言いようがないが、話が一周して?先に記したように同じ三菱重工系の、今度は中日本重工業とジープのライセンス生産で提携することになるのだった・・・。

12.13戦後型の“フラッシュサイド”デザインについて(ハドソン編)(雑談その13)
 “カー&レジャー”WEBの車屋四六氏によれば(Web⓲-1)クロスレイとカイザーに次ぐ三番手として、フラッシュサイド化を果たしたのが老舗ハドソンと高級車のパッカード(“パッカー”とあるが、たぶんパッカードのことを略しているのでしょう)だったという。先に記したようにスチュードベーカーから数えれば4番手グループとなるのだが、今回はハドソンとパッカードまでみていき、フラッシュサイドの話は終わりにしたい。
戦前のハドソンの概要から(超簡略版)
 以下M-BASEさん等を参考に、三番手(もしくは4番手)グループなので超簡単(の予定)で!まずはハドソンから、紹介しておく。詳しくはM-BASEの(web⓯-9、⓯-10)等を参照して下さい。ハドソン車誕生の経緯も省略するが、戦前の時点ですでに『~1919年には廉価版のエセックス(Essex)を追加発売し、1925、27、29年型は首位を競り合うフォード、シボレーに次いで第3位の地位を占めるまで成長した』(web⓯-9)というが、『~1930年型では約11万台で5位にとどまるが、その後は次第に影が薄くなってしまう。』(web⓯-9)大恐慌下でビッグスリーによる寡占化が急激に進んでいった時代だ。戦後は、この記事の12.9項の後ろの方にある、1947年のブランド別全米ランキングで11位、48年度版で10位(web⓯-10)の位置であった。
戦後型として一新した1948年型ハドソンは最も先進的なクルマだった
 戦後型として一新され、満を持して登場した1948年型について、『フルモデルチェンジして登場した1948年型ハドソンは当時のアメリカ車のなかで最も先進的なクルマであった。「ステップダウン」デザイン、セミオートマチックトランスミッション「ハドソンドライブマスター(HDM)」、「フルードクッションドクラッチ」、「トリプルセーフブレーキ」など先進的な仕掛けが装備されていた。』(web⓯-10)
ライバルより常にひと回り大きく、骨太で質実剛健だった
以下(㉙-6)より『ハドソン車は時にエセックス(1919-32)、テラプレーン(32-39年)、ジェット(53-54年)などの大衆車を出したが、その主力は一貫して中級車だった。それも同価格帯のライバルより常にひと回り大きく、骨太で質実剛健だった。』
『モデルバリエーションはコモドールシックス/エイトシリーズとスーパーシックス/エイトシリーズがあり、12.5in(3150mm)ホイールベースのシャシーに、新設計の262cid(4293cc)直列6気筒121馬力と254cid(4192cc)直列8気筒12.9馬力エンジンが設定されていた。』(web⓯-10)以下は五十嵐による、戦後の日本の路上で見たハドソンの印象を(㉒,P265)より『ハドソンは1948年に早くもフルモデルチェンジによる戦後型を発表したが、伝統的とも言える大まかな曲面で構成された流線型は、ロウイから肥満体質と糾弾されつつも、大きい事は良い事のアメリカ的価値観での存在感は強かった。』
完全フラッシュサイドで存在感があるデザインだった
(下の写真は1948年型ハドソン コモドーレで、確かに骨太で、その存在感は大きい。画像はhttps://www.classicdriver.com/en/car/hudson/commodore/1948/544329 よりコピーさせて頂いた。以下(㉙-6)より『この完全フラッシュサイドで、セミ・プレーンバックともいうべきボディは48年から54年まで実に6年間も使い続けた。ビッグスリーがほぼ3年目ごとにフルモデルチェンジを繰り返していたのに比べて、独立メーカーの辛いところであった。』事実上この車型が最後のハドソンだった。いかにもどっしりとしていて、中級車らしい風格がある。)
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https://www.classicdriver.com/sites/default/files/styles/two_third_slider/public/cars_images/112.871/7629/973535b37f39c7200974ff10e65e69d0.jpeg
スポーツセダン、ハドソン ホーネットの登場
 以下はgazooより(web⓱-3)『さらに1951年モデルからはスーパー系のハイパフォーマンスモデルであるホーネットを追加した。これら一連のシリーズの中で最も有名な存在といえば、それはホーネットにほかならず、戦後のアメリカ車では初というツインキャブのパワーアップキットをオプション設定していたのが特徴である。(中略)エンジンは308CI(145PS)の直列6気筒SVながら、チューンナップパーツの効果も高く、初期のNASCARストックカーレースでは一つの時代を作った。』(下の画像はその1951年型ハドソン ホーネットで、https://sportscardigest.com/hudson-hornet/fabulous-hudson-hornet/ よりコピーさせていただいた。)
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https://scardigest.s3.amazonaws.com/wp-content/uploads/20200916070317/fabulous-hudson-hornet-248x315.jpg
低重心、高剛性でハンドリング性能が高かった
 この時代のハドソンについて、アメリカのwebサイトを検索すると、その独自のボディ構造を表す“ステップダウン”という言葉とともに、当時ハドソンがレースに大活躍したという記事に多く出くわす。いささか茫洋とした外観に似合わず、低重心、高剛性のボディでハンドリング性能が高かったようなのだ。以下はwikiより『ビッグスリー各社に先駆けたモデルチェンジで完全戦後設計となった1948年式では「ステップダウン(step-down)」ボディを採用、1954年式まで継続した。
ステップダウン ボディ
「ステップダウン」とは、乗車部がペリメーターフレームの内側でフレームよりも低い位置に作られ、階段を一段下りるように乗車したところからつけられた。このため、より安全・快適で、しかも低重心のためハンドリングのよい乗用車となった。有名な自動車ライターのリチャード・ラングワースが初期のステップダウンモデルについての記事で、「コンシューマーガイドやコレクティブル・オートモビルの記事で取り上げられた当時のすばらしい自動車のひとつ」と紹介している。(画像は以下より https://www.motorcities.org/story-of-the-week/2015/the-innovative-design-of-the-1948-1952-hudson
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https://www.motorcities.org/images/file-20150930130612_Design_1948-1952_Hudson.jpg
この構造画からもなんとなく、ガッチリしたボディ構造がわかる。Wikiから引用を続ける『ハドソン社は、ステップダウンモデルの頑丈で軽量低重心な車体と、自社伝統の高トルク直列6気筒エンジン技術を駆使し、1951年から1954年まで高性能バージョンのハドソン・ホーネットを製造した。ホーネットは当時の自動車レースで多くの勝利を収め、1951年から1954年までNASCARの主役だった。』一見地味で、茫洋とした印象のあるこの時代のハドソンだが、同時代の見た目が鮮やかなスチュードベーカーや派手な生い立ちのカイザーよりも懐が深く、とても“超簡単”には片づけられない車だった・・・)(下の写真の1952年型Hudsonホーネットが(画像は以下よりコピー)
https://www.macsmotorcitygarage.com/secrets-of-the-1948-1954-step-down-hudson/
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https://www.macsmotorcitygarage.com/wp-content/uploads/2017/04/1952-Hudson-Hornet-coupe-tan.jpg
NASCARでも活躍したスポーツセダンだった
(同じ1952年型ハドソン ホーネットの2ドアをNASCAR仕様に仕立てると、このようになる。
https://www.americancarcollector.com/profile/1952-hudson-hornet-6-nascar-racer
こうして別の情報を与えられてから見ると、意外にスポーティーに見えてくるから不思議だ。低く構えた流線型の車体はいかにも運動性能が高そうで、確かにレース向けだったのだろう。)

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https://www.americancarcollector.com/wp-content/uploads/2018/10/1952-hudson-hornet-6-nascar-racer-profile.jpg
ビッグスリー+1(プラスワン)
 ハドソンのその後だが、『ハドソンは経営難から54年に同じ体質のナッシュのバッジ・エンジニアリングになったが、57年いっぱいで、その名称を失ってしまった。』(㉙-6)当時、“ビッグスリー+1(プラスワン)”と言われたその“+1”の、AMC(アメリカン・モーターズ・コーポレーション)になっていく。以下(⑮P152)からの引用で、ハドソンの経営がいよいよ立ちいかなくなった頃の、アメリカの自動車産業の状況を記しておく。
ビッグスリー以外は淘汰
『しかしながら、戦後のスタートでも、ゼネラルモータースは他のメーカーを一歩リードできる体制をつくっていた。そして1950年代の考えられないほどの繁栄が待っていた。利益の大きい大型車を数多く売ることで、自動車メーカーの利益は莫大なものだった。しかも、トップを行くゼネラルモータースの手法について行くメーカーだけが生存を保証された。(中略)毎年のようにスタイルを一新し、数年ごとに設計を大幅に変えて新しいモデルを出すためには、開発にかかる費用は多額に上り、生産ラインを新しくすることには非常な投資が必要になった。それができないメーカーは、一度出した新車が古めかしくならないようにして比較的長く売って行かなくてはならず、苦しい戦いを強いられた。アメリカ車は、ゼネラルモータースがシェアを伸ばすことで、こうした手法が主流になり、メーカー間の競争は激烈なものではなくなっていったのだ。』こうしてハドソン単独での、生存の余地がなくなっていった。

12.14ハドソンと、アメリカのロードムービーについて(雑談その14)
 ところでこの時代(戦後直後)のハドソンについて、日本の記事を検索してみても、スチュードベーカーやカイザーに比べて、情報量が少ないのに気付く。たとえばこの12項を書く上で多く参照した、五十嵐平達著の「「写真が語る自動車の戦後」(㉒)でも、スチュードベーカーやカイザーに比べて、取り上げている量はごく少ない。当時の日本人は実際に乗ることはなく見るだけだったし、NASCARとかは日本では馴染みがないせいもあり、本国での扱いとは違って、地味な存在だったのだろう。
映画の中のハドソン;「オンザ・ロード」
 そんな中で、またまた大きく脱線してしまうが、“webCG”で「オン・ザ・ロード」という映画紹介(web❼-3)の中で間接的ながら、この時代のハドソン コモドールを取り上げていた。元NAVI編集長だったという鈴木真人氏(←この時代のNAVIは知らなかったので。有名な2代目編集長の鈴木正文氏ではないので念のため)による優れた読み物だが、ここでまたまた大きく脱線して、ハドソンを使ったロードムービーであるこの映画を足掛かりに、あたかも車輪の上に乗ったような?アメリカという国というか社会の、一断面を紹介してみたい。(web)
以下写真と文は(web❼-3)より引用させていただく。(下はその映画の予告編です。)
https://www.youtube.com/watch?v=-ZaPUBQs4Ak
ロードムービーの国、アメリカ
『ロードムービーの国アメリカ  
ロードムービーを見るたび、アメリカという国を心底うらやましく思う。島国ニッポンでは、どう頑張ってもあのスケールを作り出すことはできない。かの国では、東海岸から西海岸へと走るだけで物語が生まれる。視線の欲望はスクリーンから抜けだし、遠くへ遠くへと向かっていく。そして、この映画は『オン・ザ・ロード』なのだ。ジャック・ケルアックの小説が、初めて映画化された。日本ではかつて『路上』と訳されていた、まさに道の上をクルマで走り抜けることそのものが主題なのである。ビート・ジェネレーションの代表的な作品といえる『オン・ザ・ロード』が出版されたのは、1956年のことだ。

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https://webcg.ismcdn.jp/mwimgs/1/0/200wm/img_105a188890408798620e22be270e2309288998.jpg
移動は手段ではなく目的だった
『劇的なストーリーはなく、1947年から50年にかけて繰り返された移動の記録である。物語はニューヨークから始まり、ニューヨークで終わる。結局は動いていないのだから、移動は手段ではなく目的だったのだ。』(下の写真を見ると、確かにハドソンのようだ。)
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https://webcg.ismcdn.jp/mwimgs/b/3/200wm/img_b35638f231ef0505625fc4b6057f9c5d169884.jpg
引用を続ける。『1回目の旅は、ヒッチハイクだ。デンバーにいたディーンを訪ね、サンフランシスコ、ロサンゼルスまで足を伸ばす。クルマでの旅が始まるのは、翌年になってからだ。ディーンがハドソンに乗って東部までやってきたのだ。小説では49年型ハドソンと書いてあって、映画でも49年の「ハドソン・コモドール」が使われている。ということは、ピカピカの新車だ。小説の中に前席に4人並んで座ったという描写が出てくるから、かなりの大型だ。定職についていないディーンにとっては、あきらかにぜいたくすぎるクルマである。結婚して娘も生まれ、ようやくまっとうな暮らしが始まろうとしていたのに、衝動的に貯金をはたいて買ってしまったのだ。ハドソンという自動車会社は現在は消滅してしまったが、戦前には日本に輸入されていたこともあるらしい。』
アニメ映画『カーズに登場する『かつてのレースの帝王ドック・ハドソン』
引用を続ける『アニメ映画の『カーズ』に「ドック・ハドソン」というキャラクターが登場していて、伝説のレーシングカーということになっていた。これは、1951年型の「ハドソン・ホーネット」がモデルになっている。レースでの栄光を背景に、当時は“速いクルマ”というイメージがあったのだ。』
(下の画像はhttps://gigazine.net/news/2017012.5-disney-pixar-film-connected/より引用
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https://i.gzn.jp/img/2017/012.5/disney-pixar-film-connected/s36_m.jpg
「オン・ザ・ロード」の最後の旅はハドソンでなくフォード
『3回目までの東西の往復と違い、1950年の最後の旅は、メキシコに向かって南に走る。小説には37年型のフォードのセダンと書かれていたが、映画で使われていたのはもう少し新しく、しかもクーペである。戦前型では撮影に堪えられなかったのかもしれない。ひどいボロぐるまで、右のドアが壊れているというところは原作に忠実である。南への旅は、西に向かうのとは様相を異にする。アメリカ人にとって、西を目指すのは本能のようなものだ。東海岸から始まった開拓はどんどん西へと進み、ついに西海岸に到達した。その後はハワイを併合し、この物語の少し前には日本を占領するところまでいっていたのである。西へと向かうのはもはや歴史をなぞることでしかなく、海までたどり着いたらまた東に戻るしかなかった。南にこそ、見たことのない世界があった。野性を残した大地と人々に触れてふたりは歓喜するが、それは旅の終わりを意味してもいる。』(下の画像も映画の中の1シーンで、フォードではなくハドソンの方だ。https://www.imcdb.org/v530068.html よりコピーさせていただいた。ちなみにこの映画の製作総指揮は、フランシス・フォード・コッポラだったそうだ。)
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https://www.imcdb.org/i530068.jpg
(下はアカデミー賞の作品賞他4部門を受賞した、「ドライビング Miss デイジー」に登場するハドソン。下記のブログによると、
https://plaza.rakuten.co.jp/pogacsa/diary/202006110000/ 『キャデラック以外で登場する唯一の車』だそうです。
下の画像はhttps://www.curbsideclassic.com/blog/cc-cinema-the-cars-of-driving-miss-daisy/ よりコピーさせていただいた。ところでこの映画に“出演”したハドソンと、「オン・ザ・ロード」のものは、同じクルマのように見えてしまうのは錯覚だろうか?)

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https://i0.wp.com/www.curbsideclassic.com/wp-content/uploads/2018/06/MissDaisy29.jpg
 話を戻して、鈴木氏の記事によると、映画「オン・ザ・ロード」の最後の旅はハドソンでなく戦前型のフォードだった。
ボニーとクライドのバラード
ここでまたまた脱線するが、戦前のフォードが出てくる映画は当然ながら無数にあるけれど、自分の中で、もっとも印象的だったのは、月並みな選択だがやはり、アーサー・ペン監督の傑作「俺たちに明日はない」(原題“Bonnie and Clyde”)だ。(下のユーチューブ動画「俺たちに明日はない ラストシーン」よりコピー。衝撃的なこのシーン 「Bonnie and Clyde」の衝撃のラストシーンはフォードV8 通称「死のバレエ」と呼ばれている;wikiより)で浴びた銃弾は87発だったという。そして蜂の巣のようにされた車は1934年型フォードV8だった。)
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(さらにその、ユーチューブ動画は下です。(今見ても、ちょっと刺激が強いです。)
https://www.youtube.com/watch?v=pRVe7CWkFtY
(下のフェイ・ダナウェイのいかにも決まったポーズの画像はブログ「日本人の暮らし向き」さんよりコピーさせていただいた。アメリカン・ニューシネマの代表作の一つだったこの映画の解説が記されています。https://ameblo.jp/japanism2020/entry-12.700455430.html 
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https://stat.ameba.jp/user_images/20200529/20/japanism2020/b2/b6/p/t02200120_1396076014766116206.png?caw=800
以下は今から50年以上前のカーグラに連載されていた、坂本正治氏の「ボニーとクライドのバラード-Ⅱ」(連載=砂漠の自動車―5)(㉕-3、P111)から、この映画の時代背景の説明として引用をするが、小5だった当時の自分にとってこの記事は、カーグラの本文の自動車記事よりもひどく大人びた印象があったことを思い出す。
初犯は圧倒的に自動車泥棒
『20年代から30年代にかけてのギャングの記録を見ると、初犯は圧倒的に自動車泥棒が多い。そして挙げられて、刑務所で教育され、一人前の職業的犯罪者として出てくる、というのが、おさだまりのコースだった。クライドもその一人であり、彼らは自動車が何かしら不思議な力を発揮して、国境を越えてどこまでも走りつづけ、どこか見知らぬ世界へ導いてくれると信じたから、そして自動車を買う金はなかったが、鍵なしで自動車を走らせる技術だけは心得ていたから、車を走らせたのである。』
「Bonnie and Clyde」の信頼が厚かったフォードV8
実際の2人も逃走用にフォードV8を多用したという(wikiより)。台数が多いので盗みやすいうえにパワフルで、しかも先に12.5項で記したようにとても丈夫なクルマだったので、逃走するうえで文字通り死活問題になるため大切な、信頼性も高かったのだろう。フォード宛ての感謝状は有名な話だ。以下は“めぐみカイロプラクティック”さんから
https://megumi-chiro.on.omisenomikata.jp/diary/97791
『2人が好んで乗っていた車はフォード社の「フォードV8」と呼ばれる最新モデルで、当時の大衆車の中で最高の速度と加速力を備え、実際のところ、警察の車では追いつけなかった。当時、フォード社長に対し、「貴社で製造していらっしゃるこのV8が本当に良く走るので、我々も非常に仕事がし易く、感謝している」むねの手紙をクライドがクライド・チャンピオン・バロウの名で送ったというエピソードが知られている』(以下の3枚の画像とその解説文はブログ“走る、走る映画”以下よりコピーさせて頂いた。
http://run2run3.blog40.fc2.com/blog-entry-46.html?sp
イヤ違う、これは盗まれた4気筒のフォードのクーペだ!
『途中ガソリンスタンドで仲間に入ることになるC・W・モスのマイケル・J・ポラード。この鼻にかかった声、ちょっと頭の弱そうな調子のよさそうな若者』の、仲間入りのきっかけについてもう少し詳しく、以下(㉕-3、P110)より『こんな場面もあった。ボニーとグライドが一文なしで、あるガソリンスタンドに乗りつける。そこには映画でC.Wモスの役を演じる、一見ジャガイモのような感じの男の子が働いているのだが、その坊やに、この自動車の名前はなんというのか知っているか、と聞く。4気筒のフォードのクーペだ、と答える。イヤ違う、これは盗まれた4気筒のフォードのクーペだと教えてやる。その坊やは非常に照れて、嬉しがって、スタンドの柱をどんどんと拳骨でたたく。そして3人は、結局ひとつのチームとして働くことになる。』
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http://blog-imgs-36.fc2.com/r/u/n/run2run3/20100523172444261.jpg
時間や空間だけでなく、他人からも自由になりたい
 ここでさらに脱線して、アメリカの映画で、「オン・ザ・ロード」や「ボニーとクライドのバラード」のようなものが生まれる当時のアメリカの時代背景について、話が急に固くなってしまうが、(㉛P71;堺恵一「クルマの歴史」)から引用する。狭い島国の日本と国土のスケール感がまったく違い(特にアメリカは)、早くから工業化が進み、自動車以前に馬車の文化があった欧米諸国では、自動車という存在を単なる交通手段だけではない捉え方をしていたようだ。
『自動車が広く普及し始めたのは、彼らの多くがやむを得ず鉄道を受け入れ始めつつあったとはいえ、依然として気高く己の道を邁進することができた馬車の記憶が生活の隅々まで深く浸透していた時であった。自動車とは、馬車を尊ぶ彼らのメンタリティとも合致するものであった。(中略)自動車さえあれば、疲れやすい馬の面倒をみることもなく、混み合った車室で不愉快な思いをすることもなかった。あらかじめ決められた時間や路線にかかわりなく、自由な移動を実現することができた。(中略)
 さらに言えば、彼らは、1920~30年代以降になると、彼らのような上流階級の人々のみならずより広い一般大衆にも広がっていくある種の願望先取りしていたのかもしれない。その願望とは、時間や空間のみならず、他人からも自由になりたいというものに他ならなかった。』
自動車っていうのは所有も維持も使用も自由だからこそ魅力的な商品
 以下は徳大寺さんの(㊼P12.9)より『自動車っていうのは所有も維持も使用も自由だからこそ魅力的な商品なんだよ。(中略)自由な移動体であり媒体であり・・・』まさにそこが、自動車の本質で、カーシェアみたいな考え方は、自動車の公共化(電車化)だと思うのだが・・・。
(画像はhttp://blog.livedoor.jp/kano410_farm/archives/50462889.html よりコピーさせていただいた、フェイ・ダナウェイ、ウォーレン・ベイテイ(最近はビューティと言わないようだ)、ジーン・ハックマンの豪華そろい踏みだ。)
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https://livedoor.blogimg.jp/kano410_farm/imgs/f/0/f07c842d-s.jpg
T型を持つことで、より大きな行動の自由を実感できた
 たとえば、T型フォードを生んだヘンリー・フォードが生まれたデトロイト郊外(ディアボーン)の農村は『電気もなく鉄道の駅も遠く、道路は原野を切り開いた泥道を1日に何時間も馬で歩く生活で、広い平原のなかに点在する農家が各々自給自足する生活であった。』(㉜P46)という。町に出るまで3日がかりだったという記述もあるほどで、歩くことで用が足りた日本とは移動に対してのスケール感がまったく違う。その原体験が農民のため、大衆の足としての安くて頑丈で実用的なT型フォードを生むことになるのだが、アメリカの多くの地域では水道や電気よりも先にモデルTが生活に入っていったという。(⑩-1P28)過疎の地域で暮らす多くの人びとにとっては、T型を持つことで行動範囲が広がり、その分、より大きな行動の自由を獲得したと実感したのだろう。
 また固い話に戻るが㊲からの引用を続ける。『~もちろん、自動車が発展するためには、道路をはじめとする膨大な設備投資が不可欠だった。社会的な諸関係から自由になることはありえない。自動車によって獲得できる自由とは、そのなかだけに存在する限定的な自由に過ぎず、それすらも、社会的な拘束のなかでしか実現できない性格のものなのではあるが・・・』(㉛P71)
(下の画像も映画「俺たちに明日はない」で、先に引用したブログ「走る、走る映画」からの引用」『(ボニーの)ママのところに行く彼ら。~ まるで夢の中のような、黄昏のような、死の記憶のような。にこりともしないママ。』印象的なシーンだった。
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http://blog-imgs-36.fc2.com/r/u/n/run2run3/201005231724079df.jpg
『クライドがママに「ボニーがママの近くに住みたいと言ってます」と言うとママが言います。「近くに住んだらあんたは長生きできない。逃げ続けるしかないんだ。」いつしか帰っていく親戚、知り合いたち。この夜、ボニーが言います。「すごく憂鬱なの。もうママなんていない。家族もいない。」』ボニー&クライドたちと、フォードだけが残る。)
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http://blog-imgs-36.fc2.com/r/u/n/run2run3/20100523172407dbf.jpg
(以下はhttps://plaza.rakuten.co.jp/kitanoookami/diary/200404120000/より引用
『1934年5月23日朝、二人がルイジアナ州ギブスランドで射殺された時に乗っていた1934年型フォードV8には、待ち伏せした(軍用自動ライフルで武装した)警官によって至近距離から167発の弾丸が撃ち込まれた(映画では87発)。穴だらけになった2人の死体と車は、ダラスに運ばれてさらし者にされた。
無数の弾痕が生々しい車は事件後も保存され、現在はネバダ州ラスベガスに近いカジノ付きホテルに、二人を模したマネキンとともに展示されている。「死の車」と名付けられ、遊園地や展覧会の客寄せなどで全米を引き回された末、そこに落ち着いたらしい。』
ずいぶん残酷な展示を行うものだ。さすがにその画像を貼る趣味はないので、映画のチラシ?を。下の画像はwikiより)

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 映画「ボニー・アンド・クライド(Bonnie and Clyde)」(邦題の「俺たちに明日はない」はあまり良いタイトルではなかったと思う)の最後の話題として、NAVIの(「ちょっと古いクルマ探偵団」)に、かつてフェィ・ダナウェイが愛用した1966年製のシヴォレー・コーベット・スティングレイを日本に輸入した人の記事があったので紹介しておく。
フェイ・ダナウェイが愛用したスティングレイ
(㉟-2、P62。下の写真はwikiからのコピーだが、そのNAVIの記事のクルマにそっくりだ。)。
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同記事のその車の持ち主の言葉によればスティングレイ好きだったというフェィ・ダナウェイとスティングレイにまつわる話を記しておく。『~フェイ・ダナウェイ本人は、仕事で行ったロデオ・ドライブで何度も見かけました。彼女はスティングレイが大好きなんです。』
映画の出演料で買った
『僕が買った車は327キュービックインチ(5.4ℓ)のスモールブロックのものなんですが、いまフェィが乗っている(注;この記事が書かれたのは1992年頃=平成バブルの時代と思われる)のは同じボディに427キュービックインチ(7ℓ)のV8をのせた車なんですね。』ノーマルで435馬力(SAE基準の出力だろうが)出すと言われたエンジンだ。雑誌で紹介されていた66年型スティングレイのその日本人オーナーは、アメリカの店で4万5千ドルで売っていた車を1990年に個人輸入したのだという。元フェィ・ダナウェイのクルマだったことは、買った後車検証でわかったそうで、フェイが「ボニー・アンド・クライド」の映画の出演料で買った車だったそうだ。同じスティングレイでも、より価値が感じられてしまう。(㉟-2、P62)から続ける。
マルホランドのすべてのコーナーをドリフトでクリアする(!)
『フェイはマルホランドのすべてのコーナーをドリフトでクリアするそうなんです。で、彼女のもとにあったときに、3回もエンジンをオーバーホールしてるっていうんですね。』フェイ・ダナウェイなら、ほんとうにやりそうな気がする。たとえ何度か崖から落ちそうになりながらも。
 エンジンは日本で開けてみたら、もうスリーブが限界で、結局エンジンを積みかえた(350に)そうだ。実際に走り屋だった証明だ。(下の画像は同年代のコーベット スティングレイ独特の、ボートテイルが特徴のカッコイイ後姿だ。フェイ・ダナウェイにはお似合いだっただろう。ちなみに“マルホランド”とはアメリカ西海岸、南カリフォルニアにある有名な峠道「マルホランドドライブ」のことで、ハリウッドやビバリーヒルズにもほど近く、また峠道から見下ろすロスの街並みが美しく、とても人気のあるドライブコースで(中古車のgooネットから引用)、下はその地図です。
https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=1qLgXxVrGSR0K__vvLwDybhTOAg0&ll=34.096997583477744%2C-118.77465&z=12 モータージャーナリストの飯田裕子さんが下記で紹介している。「海から山、もしくは山から海へと続く景色のよい約50マイルほどのドライブルート」だったそうです、参考までに。「DRIVE ~マルホランド・ハイウェイ~」
いうまでもないが、その名前の映画も有名だ。
https://car.watch.impress.co.jp/docs/series/cld/586927.html)

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https://cdn.car-moby.jp/wp-content/uploads/2016/08/32634d43ec54666791ad9655a742742b.jpg
戦前の日本でビュイックに匹敵する知名度があった
 大幅に脱線したが、ここで時代を戦前の日本に一気に戻し、その時代のハドソンに少しだけ触れて、この話題(ハドソンの!)を終わりにしたい。NAVIの最後の頃の編集長だった鈴木氏はハドソンについて、「戦前には日本に輸入されていたこともあるらしい。」と記しているが、ベテランのカーマニアからすれば、戦前の日本の輸入車市場でハドソンは大きな存在であったことは、よく知られている。そしてその理由も、以下のようにwikiにも書かれているように有名な話で『戦前の日本でハドソンがビュイックに匹敵する知名度があったのは、業界最古参の日本自動車と背後の大倉財閥の力あってこそであった』(wiki)。
ハドソンでなく“ハドスン”
 日本自動車では、“ハドソン”の“ソン”が気になったらしく、“ハドスン”と称していたようだ。その後の“ダットソン”が“ダットサン”に改名?したことにも影響を与えた話としても有名だ(wiki等)。(戦前の日本におけるハドソンの話題は戦後と比べると豊富だが、先に12.7項で日本自動車とのタイアップであった映画、「東京の女性」でも間接的に紹介したし、長くなるのでこれ以上は省略する。下の画像は同映画の中の、自動車ディーラーの1シーンを(Web□28)より引用させていただいた。)
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12.15戦前日本の自動車ブランドの勢力図について(雑談その15)
 また脱線してしまうが、ハドソンと輸入元の日本自動車の話が出たついでに、ここで戦前の日本の輸入車業界の勢力図について、まとめて記しておきたい。業界を代表する梁瀬次郎が、父長太郎が三井から独立したころの業界に勢力図を以下のように語っている(㊵P34)。『当時の自動車販売業界は、大倉系のハドソンの日本自動車、パッカードの三和自動車、高田商会、山口勝蔵商会、梁瀬商会で、大正四年(1915年)の日本の自動車総数は、12.54台であった。梁瀬は、梁瀬長太郎社長でビュイック、キャデラック、三和は藤原俊雄社長でパッカード、日本自動車は石澤愛三社長でハドソン、セールフレーザーはフレーザー社長で、フォード。その後間もなくエムパイヤ自動車柳田諒三社長、安全自動車中谷保社長が誕生した。』
 前編で記した11.2の表8(全国統計車種10位までの台数(1924年12月31日時点))は、フォードのKD工場進出の直前の頃の表なので上記の約10年後ぐらいだが、ハドソンは乗用車部門でビュイックに次ぐ3位であった。梁瀬次郎の言葉を続ける(㊵P67)『三柏自動車(後の三和自動車)は藤原俊雄氏が社長でパッカードを取り扱われたが、当社のキャデラック、ビュイック、日本自動車のハドソン、安全自動車のクライスラー、ドッジブラザー(現・ダッジ)と競争してかなりの好成績をあげていた。日本陸軍が主にハドソン、海軍がビュイック、そして財界人がパッカードといわれていたのが、昭和の初期の自動車販売業界の縮図であった。』
陸軍がハドソンで海軍はビュイック
Web❻にも戦前は『陸軍がハドソン、海軍がビュイック、そして民間の有力者はパッカードとだいたい決まっていたものである』との記述がある。どのような経緯があってそのように落ち着いたのか、よくわからなかったが、その過程も興味のあるところだ。なお海軍のビュイックは三井物産時代からの引継ぎだとの記述がどこかにあった。ただ華やかな印象のあるビュイックと、質実剛健なハドソンは、それぞれのイメージに合うことも事実だ。
 以下はモータージャーナリスト側の視点で小林彰太郎の(⑱、P18)より『戦前の昭和期、日本の自動車社会を牛耳ったのは圧倒的にアメリカ車で、日本組立てのフォード、シヴォレーがタクシーの8、9割を占めた。ハイヤーはダッジ、プリマス、デソートなどが多く、官公庁や大企業ではビュイック、ハドソン、クライスラーなどが職階によって使い分けられた。』自動車にも“階級”が存在し、ブランド毎の棲み分けも、戦前の日本ではある程度できていて、その中で当時の二大自動車ディーラーであった梁瀬自動車と日本自動車の看板車種であったビュイックとハドソンが、官公庁や大企業向けの高位の方々の公用車として浸透し、確たる地位を占めていたようだ。
六甲を登るにもハドソンとビュイック
 また(⑥-2,P198)に『当時の六甲は今日と違い名だたる 坂であったので、米国製のシボレーやフォードは登れなかったといわれ、米国製で登れたのはハドソン、ビュイックであった』という言い伝えを記しているが、軽量でパワフルなV8の時代以降のフォードが登れなかったようには思えないのだが、余裕度が違ったのだろうか?
手元にカーグラの記事で五十嵐平達による「箱根の自動車」という、富士屋ホテルが経営していたバス会社の記事があるが、箱根の山でも送迎車としてハドソンが多く使われていたようだ。『フジヤガレージではハドソンを20台以上用いていたが、1913年に6気筒を発表してからは日本でも評判が高く~』と記されていた。
フォード、GM進出以前から部品輸入が多かった
 下に戦前の輸入車の推移(1913~1939年)の(表12)を記しておくが、注目すべきはフォードとGMの進出以前から、部品輸入が多かったことで、11.1項の“フォード、GM進出以前にKD生産は既に行われていた”で記したように、高額だった完成車の関税を逃れるために?KD生産の形で輸入されていたことが数字で裏付けられた形だ。(表12:自動車輸入の推移(1913→1939):⑫P21より転記))
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12.16戦前アメリカ車の革新性その1(ターレット・トップ)について(雑談その16)
 ここで戦前の日本市場でハドソンのライバルであったビュイックについて、梁瀬次郎が記した本に、当時のGM側の関係者(当然アメリカ人)の証言が記されているので紹介する。以下(㊵P76)より
梁瀬自動車のビュイック“運転者クラブ”
『ビュイックは梁瀬自動車の強力な販売によって官公庁に深く浸透していった。1927年にはどこの県庁も少なくとも1台はビュイックを持っていた。もちろん中央政府は多くのビュイックを持ち、皇族、銀行、大会社もそうだった。この間、梁瀬自動車はビュイックの運転者クラブを下町、確か本社のある日比谷だったと思うが、ここにクラブをつくり、運転者達は主人が呼び出すまでクラブでお茶やケーキあるいはゲームを楽しむことができた。こうしてビュイックは梁瀬自動車の優れたサービスと完全なバックアップの下で、日本において高い名声をあげることができたわけだ。ビュイックは梁瀬のいわば看板であった。』至れり尽くせりとはまさにこの事で、11.2の表8でビュイックが乗用車部門で堂々2位なのは、梁瀬の販売力の結果でもあったようだ。
アメリカ→イギリス→フランス→ドイツ→イタリア車の順で儲かる
 一方逆の側の立場で、自動車販売業者として梁瀬長太郎は、この時代のアメリカ車を商売の面からどのように見ていたのか、自伝的な⑧によれば戦前、欧米各国のクルマを扱ったが、その経験から利益の大きい順でいえば、アメリカ→イギリス→フランス→ドイツ→イタリアの順だったという。そしてアメリカ車でも、最大規模のGM車を扱う事が、利益が一番大きかったと記している(⑧P135)。この中で、戦前のドイツ車に対しての低い評価が戦後、VWを扱おうとした長男の梁瀬次郎と親子で激しく対立することになるのだが、余談はさておき、商売を通して、戦前のアメリカ車の圧倒的な実力を肌身に感じていたのだろう。
 戦前あらゆる面で圧倒的な力を誇ったアメリカ車の中でも、1930年代中盤以降からテールフィンの時代に突入する前までのアメリカ車の、さらに絞ればWWⅡまでの、特にGM系やクライスラー系を中心としたビッグスリーの量産車は、まったくの私見だが、他国の量産の自動車と比べてその実力差が、もっとも大きく広がった時代であったように思う。
 この話題については、今はまだ勉強不足なので、いずれ何年後かに(このペースだとゆうに5年ぐらい先?)その話題に特化した記事を書きあげたいと思っているが、この記事ではアメ車の“実力”のごく一端だけを紹介したい。まずは概要として古いカーグラの記事(㉗-2、P46)の引用から始める。
クルマの便利さは、1930年代の米車でほとんど実用化された
『1930年代の米車はオーナー・ドライバーのための発展期であったといえよう。現在のクルマの便利さは、ほとんどこの時代に実用化されたもので、基本的には広い車室(荷物室のビルトインも含めて)の完成、サスペンションと重量配分の再考による乗心地の向上、安全性向上、出力強化、運転の自動化、付属品の発展などが顕著であり、三角窓やターレットトップ、シンクロメッシュやフロント独立、流体クラッチや遊星歯車による自動変速機、シールドビーム式ヘッドランプ、フラッシュ式ターンシグナル、など皆A型フォードからウィリス・ジープへの過程で商品化され普及したもので、カーラジオ、カーヒーター、デフロスターに加えて、遂にカーエアコンが商品化されたのもこの時代であり、ACダイナモやチューブレス・タイヤはまだ完成されていなかったが、1930年型のフォード・モデルAは、現在の東京でも充分実用になる機械なのである。』
“モダーン”が日常生活へ持ち込まれた、その先導役が自動車
 別の側面としてスタイリングの面から見た1930年代のアメリカ車についてこれもカーグラの記事より『~しかし何といってもスタイルの変化は目をみはるものがあり、流線形時代も後半に入ると、スペアタイヤ、ステップボードが内蔵式になり、ヘッドランプやドアハンドルもビルトイン、フェンダーはボディと一体化され、ラジエターは内にかくされて、ボディパネルには通気孔が口を開けているだけになってしまった。(中略)アメリカ社会は近代化の夢にとりつかれていて、当時発表されたアイデアカーには、リアエンジン車やオールプッシュボタン方式車などとともに、フラッシュサイド形式がすでに含まれていて、後年代への原型が完成されていたのである。人々はそのようなモダーンが、明日にでも家庭の日常生活へ持ち込まれてきても、別に驚くことはなかったのである。アメリカ全体が前衛的な行動を試みた1930年代に、その先導を務めたのが自動車であったと言えよう。』(㉗-2、P46)
 現代にいたる自動車の基本形は、圧倒的な工業力を背景にしたこの時代のアメリカ車によって形作られたのだった。またアメリカのように、“モダーン”が自動車によって直接家庭の日常の中へ持ち込まれることはなかったものの、日本でも自動車という“媒体”がその先導役を果たしたといえるのではないだろうか。
 以下は、その数々の偉大な功績の中から、今回はGM(といってもボディ関係は実質的にはフィッシャーボディの主導となるが。GMとフィッシャーボディの関係についてはここでは省略するが、たとえば以下を参照してください。)
file:///C:/Users/hirokun/Downloads/C54234_0391.pdf )による“ターレット・トップ”に焦点を絞り、その実力の一端を紹介しておきたい。
(下の写真は、下記のブログより引用させて頂いた。
https://www.macsmotorcitygarage.com/1935-gm-introduces-the-all-steel-top/
同ブログに、1935年型シヴォレーの紹介ビデオがある。(1935 Chevrolet It's The Top All Steel Top)全金属性ボディの頑丈さをアピールしている。)
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https://www.macsmotorcitygarage.com/wp-content/uploads/2020/07/1935-General-Motors-Turret-Top-314.jpg
オールスチール化した“ターレット・トップ”
 以下は、GMのフィッシャー・ボディ・ディビジョンの出した“ターレット・トップ”の宣伝広告の解説を、昔のカーグラの記事から引用させていただく。たぶん高島鎮雄さんが書いたと思われます。
『1920年代の末頃にアメリカ車の車体形式の主流が全鋼製のセダンになってからも、屋根だけは木骨時代の名残で布地をタールで塗り固めたものであった。これは木骨時代の防水構造が残ってしまったものであった。しかしGMフィッシャーは1934年12月に発表した35年型全乗用車、即ちキャディラック、ビュイック、オールズモビル、ポンティアック、シヴォレーにオールスチール“ターレット・トップ”を採用した。これはスチールのボディ骨格を、スカットルからリアウィンドーまでプレス成型の1枚鋼板で覆ってしまうものである。今日では当たり前すぎてちっとも面白くないかもしれないが、当時としては見た目のスマートさ、生産性、剛性(即ち安全性でもある)の向上などすべての面で画期的なものであった。』(㉙-1)
自動車の屋根は「布地をタールで塗り固めたもの」だった!
 自動車の屋根がそれ以前は「木骨時代の名残で布地をタールで塗り固めたもの」だったというのは、今日の常識からは信じがたいような話だ。馬車時代からの名残だったのだろうか。高島さんは冗談で言っているのかと思ってしまうぐらいだが、本当の話なのだろう。(下の“フィッシャーボディ”の広告は、上記のカーグラの記事で題材に使っていたそのものだ。以下も(㉙-1)より引用『この頃のGMは技術的にもきわめて進歩的で、このキャディラック・シリーズ60(後の60スペシャルとは別の最廉価型)もエンジンこそSVのV8だが、ギアボックスは28年キャディラック以来のシンクロメッシュだし、38年にはステアリングコラムのリモートコントロールになる。ついでに言えば近代的な自動変速機の第1号は39年のオールズモビルに初めてオプションで装備される。サスペンションも1933年以来、フロントはGMの商品名で“ニー・アクション”と呼ぶダブル・ウィッシュボーン・コイルの独立で、そのためにフレームはXメンバー付きの強固なものになっている。むろん前後共ピストン式の油圧ダンパー付きで、後ろにはトーションバー・スタビライザーさえついている。ステアリングもキックバックの少ないセンター・ピボットである。このように1930年代は単にスタイリングばかりでなく技術面でも進歩が著しく、現代の車の基礎が固まった時代といえる。』
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https://live.staticflickr.com/1938/44329408025_e8746b761c_b.jpg
この強靭なボディ構造のクルマの試乗記(1938年製のビュイック)を、小林彰太郎がカーグラの特集記事「1930年代のアメリカ車」で記しているので以下長文となるが(㉙-3)より引用する。
1938年製ビュイックは戦後の日本で例外的に多く残っていた
『戦争直前から戦後の1950年ころまで、日本の路上で最も多く見られた車は1930年代のアメリカ車であった。正式の輸入は戦争のため1938年にストップしたから、運よく戦災にも遭わず、軍隊の徴発も免れて、戦争を生き延びることができた少数の1938年型車は、当時の日本人が合法的に乗れる最も新しい形式のアメリカ車だったわけである。
中でもビュイックはディーラーがしっかりしていたから、例外的に多くの1938年型が輸入され、戦後も多数が健在で残っていた。戦争直後の零落した日本で、38年型ビュイックに乗れたのは、政府高官、知事、大企業のトップでなければ、ヤミ成金ぐらいだったろう。』

10.3-4で記した『(1938年型ビュイックを)戦争を予感した梁瀬長太郎氏が輸入車最後のチャンスに大量輸入してストックしておいたので、戦時中の公官庁では多く見られた』(㉒P46)という記述を裏付ける。関東大震災直後に2,000台の緊急輸入をした程なので商売人としてさすがに、先見の明があった(二匹目のドジョウはいた!?)のと同時に、結果的にだがここでも梁瀬は、結果として戦争直後の日本の復興に役立ったことになる。(㉙-3)から続ける。
$495のシヴォレーから$7950のキャディラックV16まで
『~この年のビュイックは、シリーズ90リミテッドを頂点として、80、60、40の4シリーズがあった。~(試乗した)シリーズ40は最もコンパクトな廉価版で、122インチシャシーにOHV直列8気筒4032ccエンジンを積んでいる。シリーズ60以上の各車は5249ccエンジン付で、ホイールベースはそれぞれ12.7、133、140インチとなる。このシリーズ40スペシャル4ドア・セダンはアメリカで$885で買えた。ということはハドソン、6気筒クライスラーなどと同格で、中級の上というところだが、日本ではもちろんりっぱに高級車で通用した。因みに、GMの価格構成は$495のシヴォレー・スタンダード6クーペから、$7950のキャディラックV16コンバーティブルという広範囲にわたった。日本ではシヴォレーが3000円ぐらい、ビュイックは約1万円、最も高価なキャディラックV8は2万5000円もした。大学での初任給がせいぜい60円ぐらいの頃である。』
(下の写真はwikiより1938年ビュイック40 スペシャルセダンで、小林氏が試乗したクルマと同じ車種で、当時のビュイックとしてはもっとも小型だが、日本人から見ればもちろん、十分立派で大きく見える。以下は11.13項で記した内容とも重複するが、(㊻P91)より引用 『ゼネラルモーターズのアルフレッド・スローン社長は、トップメーカーとしての地位を確かなものにするために、次々と手を打っていった。そのひとつが、ゼネラルモーターズの持つ車両のランク付けであった。自動車メーカーの連合体から出発していたから、高級車から大衆車までさまざまな種類のクルマを事業所ごとに製造販売していた。それぞれの事業所で独自に開発して価格を決めるのではなく、経営首脳陣のコントロールのもとに車両サイズや装備などで差別化を図り、明確にランク付けをする方針を打ち出したのだ。具体的には、最上級に位置するキャデラックは3500ドルを上限として、その下のクルマは2500ドル、さらに1700ドル、1200ドル、900ドル、そして底辺に位置するシボレーは700ドルを上限とする設定だった。大衆車であるシボレーの販売が伸びることは良いことだったが、利益幅の大きい上級車の販売を確かなものにすることが重要だった。
所得格差の大きいアメリカでは、生活の仕方も収入に見合って異なったものになっていた。それに合わせた価格帯のクルマを用意することで、あらゆる階層の人たちをゼネラルモーターズで取り込もうとする野心的な発想であった。豊かさを実感するのも、アメリカでは階層による違いがあったから、よりランクの高いクルマに買い替えることが豊かさの階段を上ったことを確かなものにするわけだ。』
(㊻P91)“いつかはクラウン”の原型みたいな戦略だ。さらにこのころのGMは、同一ブランド内のランク(価格)分けを、ホイールベース長と搭載エンジンの大きさを一つの物差しにして行っていたようだ。)
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部品の共通化を図りながら、外観は異なる印象のデザインにする
 何度も記すが、上記(㊻)の指摘のようにこの時代のGMはすでに、下はシヴォレーから始まり、→ポンティアック→オールズモビル→ビュイックからキャディラックへと至るブランドごとのクラス分けと、さらにそのブランド内においても廉価版から高級版までを展開するという、マーケティング力と技術力、資本力と規模(大量生産)に物を言わせた縦横の関係を構築していた。そしてその中で、設計や部品の共通化を巧みに行っていた。この戦略は今日の巨大自動車産業と大筋同じものだが、何度も記すがスローン時代のGMがルーツだ。以下も11.13項の内容と重複するが、生産技術面からみた合理的な考えについて、(⑮P145)より長文で引用する。
大恐慌の危機感の中でGMは果敢に改革を進めていき『生産コストを大幅に下げることで、利益の減少を抑えることに成功した。生産を減らすことになったゼネラルモータースでは、部品の共通化によるコスト削減をいち早く実施した。鋼板を利用したボディでは、各部分ごとにプレス機でかたちをつくっていくが、デザインしたときに異なる車種でも同じもの、たとえばフェンダーなどを共通にすれば、金額が張るプレスの型の数を少なくすることが出来る。共用する部分を多くしながら、外観は異なる印象のデザインにすることで差別化を図るように配慮するこの手法は、多種生産しているメーカーでは今や常識的な手法である。これをゼネラルモータースは、世界恐慌の中で採用し、コスト削減に成功した。このため、ポンティアック、ビュイック、オールズモビルは、生産も設計も異なる部署で行われるものの、共通部品が多く使用され、サイズでも似たような大きさになっている。それでいて、それぞれに異なるクルマとしての特徴を出すようにして、販売店同士を競争させている。スローンの構築したゼネラルモータースの中央管理機構がしっかりと全体を把握しコントロールしたからできたことである。それがゼネラルモータースの強みだった。
 1932年に底を打ち、徐々に販売台数が回復してきたときに、ゼネラルモータースにとって、フォードはすでに互角のライバルではなくなっていたのだ。』以上、桂木洋二氏の「欧米日・自動車メーカー興亡史」より引用した。(下の画像は下記のサイトからコピーした。
https://www.macsm
otorcitygarage.com/master-hands-a-1936-chevrolet-film/
同サイトには、Master Hands: a 1936 Chevrolet Film
というビデオがあり、1936年製のシヴォレーの“ターレットトップ”が、巨大なプレス機からバタンバタンと次々と作り出される様子が映し出されている。参考までに。

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https://www.macsmotorcitygarage.com/wp-content/uploads/2020/06/1936-Chevrolet-Master-Hands-grille-314.png
車室は要塞のように頑丈な鋼鐵に囲まれているから真に安全
 話を(㉙)の試乗記に戻し続ける。以下の小林彰太郎による試乗記を読めば、1930年代のアメリカ車の革新性が、なかんずくGM系乗用車の持っていた時代を超えた先進性が理解いただけると思う。以下も長文になるが(㉙-3、P31)より引用
『当時のディーラー、梁瀬が出したカタログは、ビュイックのボディを次のように説明している。「ビウイクの全鋼ボデー構造は接目なしの一枚鋼鐵トップ、サイドパネル、床等全部鋼鐵で、しかも之れらが、頑丈な鋼鐵の骨組に溶接されています。車室はこの要塞のように頑丈な鋼鐵に囲まれていますから真に安全であります」(原文のまま)。全く、要塞とはよく言ったもので、このGMフィッシャー製のオール・スチール・ボディは鋼の城のようにがっちりできており、ボディ単体に足回りを付ければそのまま走れそうに思えるほどだ。もちろん、このビュイックはモノコックではなく、堅牢無比なXメンバー付梯子型フレームを持っている。サイドメンバーの深さと肉厚は、シリーズにより、また架装されるボディ形式により異なるという芸の細かさで、さすがに量産規模(1934年を例にとるとビュイックは79,000台売れた)の威力である。例えば、フレームの肉厚は標準の2.78mmに対し、コンバーティブル用は4.37mmもある。』
その強度と剛性は自動車の歴史を通じてこの年代のアメリカ車が最も高かった?
『ほとんどモノコック構造に匹敵する全鋼製、全溶接ボディと堅牢なシャシー・フレームが結合されるのだから、その強度と剛性は、恐らく自動車の歴史を通じて、この年代のアメリカ車が最も高かったのではあるまいか。事実、このビュイックは37年を経た今日(注;この記事は1975年のもの)でさえ、荒れた舗装路を飛ばしても全くと言ってよいほど軋まない。それは、同時代のヨーロッパ車、特に英国車と比較するといっそう際立つ。このビュイックに相当する英国車はハンバー・スーパースナイプとか大型のサンビームなどだろうが、ボディは依然として木骨にアルミパネルを張った木金混製で、華奢なシャシー・フレームとともに自在に捩じれるのが感じとれるし、軋音の絶え間がない。逆に言えば、英国の道路は戦前すでに100%舗装されており、新大陸ではまだラフ・ロードが多かったことを裏書きしているのであるが。』小林氏の語る、「その強度と剛性は、恐らく自動車の歴史を通じて、この年代のアメリカ車が最も高かったのではあるまいか」という感想はあくまで、この記事が書かれた1975年ごろ時点での話だが、現代の自動運転の時代においても、クルマを精度よく自在に動かす(制御する)ためには、高剛性ボディであることが重要な要素であることはご存じの通りだ。(下の写真はWikipediaより、いかにも”全金属ボディー感”の漂う1935年のラサール(キャディラックの廉価版として一時期あったブランド)の画像です。1935 LaSalle advertisement, showing the distinctive Harley Earl body design.
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12.17戦前アメリカ車の革新性その2(ニー・アクション)について(雑談その17)
(㉙-3)の1938年製ビュイックの試乗記の引用を続ける。『シャシー、ボディの剛性の高さとともに印象的だったのは、実に快適な乗り心地であった。GM各車のフロント・サスペンションは1934年、一斉に独立懸架(独立懸架が人間の膝のような動きをするところからGMでは“ニー・アクション”と称した)を採用する。シヴォレーのデュポネ式のみは失敗だったが、それ以外の車に採用された、(GMが独自に開発した)ダブル・ウィッシュボーン/コイル方式は大成功で、以後のアメリカ車の標準的設計になっただけでなく、ロールス・ロイスさえも1936年のファンタムⅢで、これを基礎にした同じタイプを採用したほどである。』(㉓-3、P31)
ロールス・ロイス ファンタムⅢまで影響を与えた
(ロールス・ロイス ファンタムⅢについて、以下(⑩-3、P103)より『V12エンジンとともにもうひとつの重要な変更は、遂に前輪独立懸架の採用に踏み切ったことである。この二つの機構的な変更は、全体のスタイリングにも明瞭な変化をもたらした。(中略)乗り心地と操縦性は画期的に改善されたが、長いボンネットと相対的に小さいキャビン、前車軸より後方に控えたラジエターという、古典的な美しいロールスのプロポーションはもはや失われた。』下の写真は、そのプロポーションが損なわれる前の、古典的なスタイルが美しいファンタムⅡの写真で(1930 Rolls-Royce Phantom II Town Car)、以下のサイトから引用した。ファンタムⅢは、007のゴールドフィンガーに出演したクルマ(ハロルド坂田が運転していた)を思い浮かべていただければよいのではと思います。“Ⅱ”の方は、長いボンネットと、エッジの効いたシャープでシックなデザインが見事というほかない。
http://www.rrec.se/arkiv/2018/2018%20nethercutt/nethercuttcars/rollsroycephantomiitowncar1.html)

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http://www.rrec.se/arkiv/2018/2018%20nethercutt/nethercuttcars/rollsroycephantomiitowncar1.jpg
あまりに美しいので後姿もコピーさせて頂いた(写真も少しだけ大きめにしました)。
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http://www.rrec.se/arkiv/2018/2018%20nethercutt/nethercuttcars/rollsroycephantomiitowncar2.jpg
当初は“ターレット・トップ”だけの話題にとどめるつもりだったが、話の成り行きから、“ニー・アクション”についても触れておく。
GMの”ニー・アクション”とロールス・ロイスの関係
 さきにロールス・ロイスの話が出たが、実はGMの”ニー・アクション”と、ロールス・ロイスは無関係ではなかった。(以下(㉞-2、P219)より『アルフレッド・スローンが社長に就任して間もなく、GMの技術研究体制は、長期先行研究を各事業部の分担で行うようになり』GM内ではキャディラック事業部がサスペンションの研究を行っていた。そのキャディラック事業部の総支配人だったローレンス・フィッシャーが乗り心地の抜本的な改善のため、ロールス・ロイスからスカウトした研究者が、のちに“ニー・アクション”の開発を主導することになる、モーリス・オーリィだったのだ。以下、これもさらに長文となるが、興味深い話なので「自動車設計者の群像6(モーリス・オーリィ(Maurice Olley)) L.J.K.セトライト著、神田重巳訳」(㉞-2、P220)より引用する。
ロールス・ロイスから来た設計者、モーリス・オーリィ
『~これに対して、タイヤの特性までも考慮に入れて車の挙動を研究した最初の設計者は、イギリスで生れ、ロールス・ロイスからGMに迎えられて以後名声をあげたモーリス・オーリィである。オーリィは、GMにおける最初の仕事として乗り心地の開発と取り組み、その結論として独立懸架方式を導入した。(中略)
 1930年11月、ロールス・ロイス社からGMに移ったオーリィは、ロールス・ロイスがGMでもてはやされているのに驚いた。ちょうどそのとき、1台のロールス・ロイスはGMの新設テストコースで参考車としてのデータ採取テストを完了、検査のために分解されたところであった。ところが一方この当時のロールス・ロイス社では、全然思い通りに解決しない難問に悩まされていた。というのは、数年来乗り心地の研究を集中的に行った結果、ダービー工場(注;ロールス・ロイスの本拠地)の技術者たちは、イギリスの道路で充分良好と判定された車が、輸出先で(たとえ進歩したアメリカの道路でも)乗り心地不適当と判定される事実に関心をそそられていた。』
イギリスとアメリカの路面で振動波形が違う
『その結果、ダービーの人びとは、アメリカの路面状態の劣っていることが原因ではなく、単にイギリスとアメリカの路面では振動波形の相違していることが原因だと、真相をつかみかけていた。』
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https://www.macsmotorcitygarage.com/wp-content/uploads/2016/05/Roller.jpg
(話の途中だが下のサイトにあるビデオ(Video: Engineering the 1939 Oldsmobile)という1939年のオールズモビルのビデオをご覧いただくと、GM自慢の“ニー・アクション”の動きがよくわかるのでぜひ参考までに。後輪にコイルスプリングを使っていることをアピールしている。同サイトの解説文ではモーリス・オーリィ(Maurice Olley)についても触れている。上の画像も同サイトよりコピーさせて頂いた。以下は(「俺と疾れ2009」徳大寺有恒ベストカー)より『GMをはじめとするデトロイトスリーの功績は大量生産によってコストを下げたこと。それによって高級なメカニズムが大衆的なプライスになったことに尽きる。』
https://www.macsmotorcitygarage.com/video-engineering-the-1939-oldsmobile/
数々の実験装置を考案
(㉞-2)からの引用を続ける。『ロールス・ロイスでは、慣性モーメント測定用に、ピボットを吊り下げた車、シャシ-/ボディの剛性測定、実車装備状態でのスプリング・レート測定などによって膨大な研究が行われた。(中略)このような研究方法のいくつかは、1930年からオーリィの手でキャディラックに導入され、間もなく慣性モーメント測定装置、スプリング・レート測定装置などが準備された。またロールス・ロイスのものに似た、デトロイトでは最初のバンプ測定用ドラムを設置し、静止・固定状態で乗り心地状態の模擬テストをおこなえるようにした。このような装置を用いての研究過程で、オーリィは、ダンパーとスプリング・レートの相関関係や、研究スタッフがK2/ABレシオと呼びならわすようになった数値-ピッチング方向慣性モーメントをホイールベースで割った数値に、とりわけ強い関心をいだくようになった。1932年、オーリィは重量の移動により前後スプリングの相対的な負荷変更、慣性モーメント変更を任意に行えるK2測定装置を製作した。この装置には乗り心地計測装置の類を一切つけていない。エンジニアたちは、ただ試乗して、主観的な評価を下すだけである。オーリィによれば「われわれが、良い乗り心地とはなにかを、過去・現在とも把握していない以上、これが最上の方法なのだ」という。しかし、この装置を用いると、エンジニアたちは、試乗の印象が新鮮なうちに基本条件を変更して再度試乗・比較できるし、1日のうちに何回となく条件を変更して試乗することも可能になったのである。』
良い乗り心地のためには独立懸架の研究が急務
『1932年のはじめ、この段階に到達したところで、オーリィは独立懸架の研究が急務であると感じ始めていた。K2装置の“測定”結果は、もしフロント・スプリングをリア・スプリングよりやわらかく設定すれば(伝統派の設計者たちが決定的な誤りとみなしてきた設定であるが)ピッチングなしの平滑な乗り心地(これまでに例のないような乗り心地)にできるということを、ありありとしめしていた。前輪懸架に、やわらかいスプリングと従来のままのビーム・アクスルを装備する方式は、ステアリング・シミ―の発生と、ハンドリングの安定性がゼロになるため、すべて失敗に終わった。
その結果、次の開発段階では、2台のキャディラック試作車に独立懸架方式を採用することになった。2台を試作する理由は、GMが、アンドレ・デュポネ考案の非常にコンパクトな独立懸架に興味をいだきながら一方ではダブル・ウィッシュボーン方式のテストも望んでいたためである。
 (下は1938年製シヴォレーの紹介動画で、独立式サスペンションの動きがわかります。Over the Waves - Chevrolet Suspension (1938) https://www.youtube.com/watch?v=ej7CRAIGXow 
 1934年式シヴォレーが採用したデュポネ式独立懸架は耐久性がなく失敗作としてあきらめて、ダブル・ウィッシュボーン方式の独立懸架に変更しているようだ。なおデュポネ式シヴォレーは日本市場でも評判が悪く、“ニー・アクション”(=前輪独立懸架式サスペンションの総称と日本では捉えられていた)はタクシー等の業務用には適さないと、日本で影響力の強かったタクシー業界から烙印を押される結果となってしまった。)

 引用を続ける。『また、オーリィがGMが出来る限り早急にリジッド・アクスル式後輪懸架を廃止すべきであるという主張もいだいていたので、その第1段階として後輪独立懸架車も試作された。(-ただし引退までとなえ続けたオーリィの主張そのものは、なかなか実現しなかったのだが)。GMのエンジニアたちがテストした、2台のキャデラックの試作車は、ハンドリングと乗り心地の両面でかつて例をみぬほどのレベルに達していた。』
総合技術委員会による公式評価テストを敢行
『そして、1933年3月には、ついにGMのお歴々、総合技術委員会のメンバーによる公式評価テストが敢行される。このテストでは2台のキャディラック試作車にくわえて、普通型サスペンションと無限段階変速機を装備したビュイック1台が試乗に供された。』2台の試作車の製作(開発)費用は、GMとしても前代未聞の25万ドルを要したという。
(ここでさらに脱線してしまうが、無限段階変速機を装備したビュイック1台も試乗に供されたという部分にも興味が惹かれる。この当時からオートマティック・トランスミッションに並々ならぬ関心があったことが伺える。
1940年オールズモビル「ハイドラマチック」(AT余談その1)
以下はwikiより『1939年、ゼネラルモーターズ(GM)がオールズモビル1940年型のオプション装備として発売した「ハイドラマチック」は、4段式の遊星歯車変速機とフルードカップリングが組み合わされ、これが実用水準に達したATの始まりと考えられている。クラッチの役目を果たすフルードカップリングにはトルク増幅作用は組み込まれていなかったものの、減速比(変速段)は油圧によって自動的に切り替えが行われ、キックダウン機構をはじめとする、後年のATでも採用される基本機能を有していた。』 (ATの歴史については、webCGの自動車の歴史「第37回:オートマチックトランスミッション」が詳しい上にわかりやすいので紹介しておく。https://www.webcg.net/articles/gallery/39842
下の画像はその「ハイドラマチック」を搭載した1939年型オールズモビルで、以下のブログよりコピーさせていただいた。
https://www.hemmings.com/stories/2014/05/16/oldsmobiles-hydra-matic-first-mass-produced-fully-automatic-transmission-turns-75 )

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https://img.hmn.com/fit-in/900x506/filters:upscale()/stories/2014/05/HydraMatic_02_800.jpg
1948年ビュイック「ダイナフロー」(AT余談その2)
次のステップはビュイックから登場した。wikiより引用『フルードカップリングを発展させてトルク増幅作用を備えたトルクコンバータ(以下、トルコン)が市販車に採用されたのはGMの「ダイナフロー」で、1948年発表のビュイックに搭載された。変速機は2速の手動変速機で、通常は2速に固定され、駆動力の必要な場合に手動で1速に切り替えるというものであった。』 (いわばセミオートマだ。画像は以下のブログ https://www.macsmotorcitygarage.com/inside-the-buick-dynaflow/ よりコピーさせていただいた「ダイナフロー」を搭載した1948年製のビュイック。)
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https://www.macsmotorcitygarage.com/wp-content/uploads/2020/08/1948-Buick-Ad-314.jpg
1949年シヴォレー「パワーグライド」(AT余談その3)
さらに引用を続ける『1949年から翌年にかけ、同じくGM系のシボレー向けに「パワーグライド」が、またパッカードの自社開発で「ウルトラマチック」が2速ATとして市販』され、2速の自動変速機となった。(以下の画像は https://www.curbsideclassic.com/automotive-histories/powerglide-gms-greatest-hit-or-deadly-sin/ からコピーさせて頂いた。)
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https://i0.wp.com/www.curbsideclassic.com/wp-content/uploads/2012/03/Powerglide-1953-Chevrolet-17.jpg?w=1024&ssl=1
以下のビデオで、「パワーグライド」付きシヴォレーの様子がわかる。
「UHD 2K Historic Stock Footage - 1950s Chevrolet Promo THE VELVET GLOVE」
https://www.youtube.com/watch?v=LHLF_01Sg_4

以上のように、オートマ車の開発とその普及も、GMが先導役を果たしたのだ。
技術委員会は全車種で独立懸架方式の採用を決断
 話を戻す。以下は(㉞-2、P223)の本文ではなく翻訳者の神田重巳の脚注部分より引用
『技術委員会の承認により、GMの1934年モデルは全車種とも独立懸架方式を採用、“ニー・アクション”の商品名ではなばなしい宣伝を繰り広げた。(中略)ただし、このとき採用されたシステムは1種類でなく、上級モデルのキャデラック、ビュイック、オールズモビルはダブル・ウィッシュボーン方式を選び、廉価モデルのポンティアックとシヴォレーとはデュボネ方式を選んだ。後者は、構造がやや簡易で生産コストも安価であったが、実用面でさまざまな支障があらわれた。GMでは、この難点を克服するためウィッシュボーン方式の鋭意改良に努め、間もなくコスト面の切り下げも達成されたので、シヴォレー、ポンティアックもこの方式に転向した。』
“トラクシオン・アヴァン・シトローエン”も1934年に前輪独立懸架を採用
いちおう追記しておくと、フランスでも、GMの“ニー・アクション”とほぼ同時期の1934年にあの有名な、トラクシオン・アヴァン・シトローエン(トラクシオン(=トラクション)・アヴァン(=前輪)は前輪駆動の意味)がデビューしていた(以下⑩-5を主に参考)。全鋼製モノコック・ボディは、高い技術を誇ったアメリカの有名な車体メーカーのバッド・マニュファクチャリング社(日本では東急車両のステンレス製車両で有名)の協力を得て完成させた。ただ地を這うような低重心の姿勢は、乗り心地向上より、ヨーロッパ車らしくコーナリング性能で威力を発揮したのだろう。FWDのため前輪独立懸架であったが『前輪は縦置きトーションバーで支持されたダブルウィッシュボーン式の独立懸架』(wiki)だった。
(ちなみに自身も1950年製のこのクルマのオーナーだったことがある小林彰太郎は(㉖、P144)で『アルバイト先のアメリカ大使館で、生徒のひとりがくれた「Road&Track」(=アメリカの有名自動車誌)を拾い読みしていたら、前輪駆動のシトロエン(注;時代的にはDSの前のこの車の時代)に乗ると、誰でもGPドライバーのようなコーナリングが可能だと書いてあった』そうだ。下の写真は1940年製の4ドアセダンだが、1934~1957年までの長きにわたり生産された。またランチア・ラムダを除けば、近代的な一体構造型モノコックボディを採用した車としても、同じ年のクライスラー・エアフローと共に一番早かった。画像は下記サイトよりコピーした。なお前輪独立懸架として現在ダブル・ウィッシュボーン方式より主流のストラット式については、13.3項の、フォード コンサルの写真の説明のところを参照してください。)https://www.carandclassic.co.uk/car/C1193276
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https://uploads.carandclassic.co.uk/uploads/cars/citroen/12.700697.jpg
“ニー・アクション”や“ターレット・トップ”を決断した時、大恐慌の真っ只中だった
 話を戻し、繰り返しになるが、3台の試乗の結果、ビュイックが提案した新型自動変速機は却下されて、前輪独立懸架式サスペンションは、シヴォレーからキャディラックに至るGMの全乗用車ブランドで、1934年モデルとしていっせいに発売されたが、以下も、イギリスの著名な自動車史家のL.J.Kセトライト氏が著した(㉞-2)の本文でなく、同書を訳した神田重巳による脚注の解説部分から主に引用していく。
 まず当時の時代背景を再確認しておくと、GMが“ニー・アクション”や“ターレット・トップ”という新技術を全面的に採用するという決断を下した時、アメリカの自動車業界は大恐慌の真っ只中にあった。以下は(⑮P143)より『自動車が十分に普及し、買い替え需要が大半を占めるようになれば、右肩上がりの伸びが止まるのが道理である。ところが、依然として成長が続くと思って設備投資を続ければ、そのしわ寄せがどこかで出る。最初のうちは1920年のときの不況のように短期間であるという希望的な観測がなされた。しかし、1930年・31年と不況は次第に深刻化していった。1929年の乗用車の生産が500万台を超えていたのに、32年には130万台余にまで減少、75%減という大幅なものだった。基盤の弱い中小の自動車メーカーは持ち超えあえることができなかった。エンジンを独自に開発製造する能力のないメーカーがまず倒産した。次いで、少量生産の高級車メーカーも資金繰りに困り、倒産するところが相次いだ。』75%減とは尋常ではない。自動車メーカーの大淘汰が行われていった中で、業界の頂点に君臨していたGMとて苦しい状況に変わりはなかった。
1929年~1932年の間にGMの生産台数はマイナス75%に達した
(㉞-2、P221)より『1929年~1932年の間に、GMの生産台数は560万台から140万台(-75%)、売上高は51億ドルから11億ドル(-78%)』と大きく減少した。(㉞-2、P221)からの引用を続ける。
『その最悪の時期に新機構を採用するのは英断であった。そのうえ、総合技術委員会が、この方式の採用を決定するや全部の事業部が乗り出してきた。結果的にはキャデラックからシヴォレーにいたるGMの全系列が、1934年モデルとしていっせいに独立懸架装備車を用意することになる。
 この英断は誤りではなかった。それ以降今日にいたるまで、大部分の自動車はGMの方式と根本的には同じ独立懸架方式をとりあげてきた。独立懸架方式という、ある意味では革命的な機構の一般化が、実験的な少量生産メーカーではなく、GMなる巨大企業の全車種採用によって端緒を開いたことに重要な示唆を読み取らねばならない。
 この《シャシー設計者たち》の章には、たまたま個人の名前、-モーリス・オーリィが掲げられている。けれども、それはかならずしも、一個人オーリィでなくてもよかった(後年オーリィがスローンの著述のために記したメモランダムの冒頭にも、その点を強調しているのだが……)。真の主役は、むしろGMなる大企業体であったというべきである。』
以下、重要部分だと思うので、強調文字で記したい。
『われわれ自動車愛好家は、ともするとアメリカ車がなんの奇もない設計で平々凡々たる無為の歴史を積み重ねて今日に至ったかのように思いがちなところがある。独立懸架方式採用にまつわる事情は、そのような認識が正確とはいいきれないことをも、同時に教えてくれるようである。』
神田重巳氏の記したとおりだと自分も思います。なおセトライト氏も本文のほうで以下のように、オーリィのみならずGM関係者の協力についても記している(㉞-2,P220)『この開発についてオーリィ自身は、絶対に彼ひとりのワンマンショーではなかったと力説するだろうが、すべての難問はオーリィの頭脳があってこそはじめて解決できたということも疑問の余地がないところだ。念のために言い添えておけば、オーリィが協力に感謝している人々のうちには、ヘンリー・クレーン、アーネスト・シーホーム(キャデラックのチーフ・エンジニア)、有名なチャールズ・ケタリング、そしてオーリィが“変わらぬ援助と寛容”に感謝しているGM・キャデラック部門支配人のローレンス・P・フィッシャーが連なっている。フィッシャーは、オーリィの要求により2台の試作車製作に25万ドルを支出するという、GMのスタッフとしては異例の英断を下した人であった。』組織としてのGMと、個人としてのモーリス・オーリィの双方が噛み合ってはじめて、偉大な成果に結びついたのであろう。
“ニー・アクション”の項の締めくくりとして、(㉞-2)でL.J.Kセトライトはモーリス・オーリィの功績について、以下のようにまとめている。
アンダーステア/オーバーステア特性などの用語を創案した
『最初の仕事によって新しい職場・GMの信頼をかちえたオーリィは、さらに研究をすすめ、乗り心地やハンドリングの特性、サスペンションとステアリングに関するすべての相関関係など、独立懸架方式の採用でいっそう顕著になった諸問題と取り組んだ。タイヤの挙動特性-定常的に変化しつづけるコーナリング・フォース、スリップ・アングル、セルフ・アライニング・トルク、速度、負荷などの関係が、ステアリング装置を中継としてドライバーがめざそうとしているコースと、現実に車がたどる軌跡との間の差異といった関係に、どのような姿で現れるかを最初に解明した人は、オーリィであった。また、この関係を大づかみに表現する手段として、アンダーステア特性、オーバーステア特性などの用語を創案したのもオーリィの仕事だった。』
シャシー設計工学の基盤を築いたのもオーリィ
引用を続ける。『ただ、いささか残念なように思えるのは、後世のエンジニアたちが、この表現を不変の教理であるかのように受け取ってしまったことだ。いずれにせよオーリィは、このような彼独自の研究成果を他人に伝達しようとした場合、相手が学者であれ、現場の人たちであれ、うまく説明するのにほとかたならず苦労しなければならなかった。しかし今日になってみると、彼の説明しようとしたことは、シャシー設計工学の基盤を据えた仕事として、その後を引き継いで大いに開拓をすすめた現代のすぐれた設計者たち(中略)によって認められたのである。』(㉞-2、P222)(「Vehicle Dynamics at General Motors Corporation 1952-1980」というSAEで紹介された論文に、GMの試験方法の変遷が記されていたので参考までに。
https://www.millikenresearch.com/VehicleDynamicsAtGMByRTBundorf.pdf )
ジム・ホールのレーシングカー、シャパラルとGMについて(余談)
 ここからまたまた話が大きく逸れてしまうが、今回紹介した「自動車設計者の群像」という記事について、個人的な思い出としてどうしても記しておきたいことがある。ずっと後年のレーシングカーの話だが、純粋なアメ車の話題だし、GMも絡んでいるのでお許しいただきたい。
 モーリス・オーリィを紹介した「自動車設計者の群像」( L.J.K.セトライト(L.J.K. Setright“The Designers”)著、神田重巳訳;㉞)という連載がカーグラの紙面を飾ったのは今からたぶん40年ぐらい前のものだったと思うが、その一連の連載記事で取り上げた人物と車に関して、大きな衝撃を受けたものがあった。
 それはアメリカの革新的なレーシングカーで、当時“怪鳥”と呼ばれたシャパラルを生んだ、ジム・ホールに関しての記述だった。
その頃の自分も含めて一般の日本人はたぶん、シャパラルはGMと関係が深く、その支援を側面から受けつつも、あくまでテキサスの石油成金だったジム・ホールが主体となって作られたものだと理解していた。(下の透視図はその代表作であるシャパラル2Eで、ハイマウントされた巨大なリヤウイングはマシン自体でなく後輪のアップライトに装着され、タイヤに直接下向きの力が作用する仕組みが新しかった。 http://www.grandprixhistory.org/chap_2e.htm よりコピーさせて頂いた。)
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http://www.grandprixhistory.org/images/chap2e2.jpg
 ところがL.J.K.セトライト(㉞-2、P222)の記述はニュアンスが違っていたのだ。『このシャパラル-というより、ホールが製作した一連のスポーツ・レーシングカー群は、1960年代から1970年代初頭にかけてテキサスで製作され、ジム・ホールとハップ・シャープというアマチュア・コンビによるプライベート・チーム同然の仕事でありながら、みごとな成功をおさめ、華麗な技術革新的実験として絶大な賞賛を浴びせかけられた。ホールとシャープの2人は、石油で財産をつくった富豪である。したがって彼ら程度の基盤を持つ挑戦なら、たとえ個人チームでも、相手に回した大企業とのハンディキャップをものともしない独創性と熱意によって、シャパラルぐらい傑出したマシンも充分に製作可能なのだろうと思わせた。
しかし後日になってみると、シャパラル作戦は単にGM後援の事業というだけでなく、これによってGMが(あるいはGM内の特定の部局が)モータースポーツへの参加を抑制するという同社の公式方針を破らずに、さまざまな実験台としてレースを活用し、データを採集する秘密手段であったことがはっきりしてきた。』

実はGMシヴォレー部門のセミワークスだった
 当時はまさに“ガーン!!”となにかに頭を殴られたかのようなに大きな衝撃を受けた。今でこそよく知られていることだが、シャパラルの実体としては、GMのシヴォレー部門の、事実上ワークスチーム的存在だったようなのだ。(今ではwikiでも『シャパラルは実戦での開発・テストを担う(GMシヴォレー部門の)セミワークス的な存在だったと見られている』と記されている。“セミ”だったかどうか、議論が分かれるところだが、主体はGM側にあったようなのだ。)
 このL.J.Kセトライトのこの記事を読んだ後は、GMは当時、公にはレース活動を禁止していたから、シヴォレー部門のレース好きが、GMのR&D部門に有り余る研究成果の一端を、シヴォレーの裏ワークスとしてレースの場で実験し、合わせてこの頃モータースポーツに力を入れていたライバルのフォードに一泡吹かせてやろうとしたのがシャパラルだったのかと、それ以上よく調べずに勝手に想像し、今までそのように理解してきた。
尾を引いていたシヴォレー・コルヴェアの欠陥車問題
 ただ今回、あらためてアメリカのweb情報を検索して調べてみたところ、その認識に少々間違いがあったようだ。
 当時のGMとそのシヴォレー部門は、シヴォレー コルヴェア(の初期型)の操縦安定性の不良と、その点を突いたラルフ・ネーダーら社会活動家による訴訟問題の解決に悩まされており、この問題が深い影を落としていたことがわかった。GM側にも切実な事情があったようなのだ。以下2つの記事から引用する。
初めはアメリカの自動車雑誌のカー&ドライバーの記事で、その一部を機械翻訳した。
https://www.caranddriver.com/features/a15388275/chaparral-2e/
『(ラルフ・ネーダーらによるシヴォレー・コルヴェアの)訴訟から生まれたビークルダイナミクスプログラムがあり、制御の限界を引き上げるために何が必要かを調べようとしました。GMR&Dには、限界まで運転するのに最適な人はレーシングドライバーだったので、ジム・ホールとミッドランドのラトルスネークレースウェイを一年中テストすることに合意しました。』もう一本、以下は http://www.deansgarage.com/2020/jim-musser-and-jim-hall-collaborators-in-the-chaparrals/ という記事から機械翻訳した。
『1960年代初頭、コルヴェアの法的な問題により、ジム・ホールとシボレーの研究開発エンジニアであるフランク・ウィンチェルとジム・マッサーが一堂に会しました。コルヴェアを守るために、R&Dはマッサーの下でビークルダイナミクスプログラムを開始し、制御のコーナリング限界での車の挙動を研究しました。当時、レースカーのドライバーよりもそのような車両の挙動について多くの知識を持っていたのは誰ですか?そのため、シボレーの研究開発はジム・ホールと試乗契約を結びました。』
 もちろん“遊び(趣味)”の要素も含まれていたに違いないが、それ以上に、GM(シヴォレー)側としても、真剣にならざるを得ない状況があったのだ。
欠番だった幻の“2B”
(下の写真の車はごく最近、初公開された、シヴォレー・コーヴェット・GSⅡB( Chevrolet Corvette GS IIB)というミッドシップレイアウトの試作車で、「ビークルダイナミクスプログラム」の一連の活動の中で1964年に製作されたものだという。外装デザイン担当がビル・ミッチェル下のもとにいた日系人デザイナーのラリー・シノダだったといのも嬉しい話だ。大半のテストはジム・ホールとシャパラル専用のテストコースで行われたというが、このクルマが2Aと2Cの間を埋める、欠番だった“2B”だったとも言われている。写真は以下より https://intensive911.com/?p=189111)
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https://intensive911.com/wp-content/uploads/2020/01/Chevrolet-GS-IIB.jpg
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http://s3.amazonaws.com/scardigest/wp-content/uploads/SCD-10-620x484.jpg
上の写真は1965年のセブリング12時間耐久レースを制したシャパラル2Aの雄姿だが、シャパラル2A/2Cと、その上の写真のシヴォレー・コーヴェット・GSⅡBとの近似性は、素人目にもありそうだ。画像はhttps://sportscardigest.com/1965-sebring-12-hour-grand-prix-of-endurance-race-profile/6/よりコピーさせて頂いた。
シャパラルは古今東西あらゆるレーシングカーの中で、自分のもっとも好きなレーシングカーなので、いつに日になるのかはわからないが、いずれこのブログで詳しく紹介してみたい。
下のクルマはそのシャパラルの中でも、自分のもっとも大好きな2Jで、このマシンの登場はリアルタイムで目撃したが、その衝撃は今でも忘れられない。車体の後部を機密構造にして、巨大なファンで空気を引き出すことで路面に吸い付かせようという、恐るべきマシーンだ。画像は以下からコピーさせて頂いた。
http://steelworksco.blogspot.com/2009/03/more-jim-hall-chaparral-2j-sucker-car.html
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http://2.bp.blogspot.com/_eAkljizJGB0/SatZ-42RCMI/AAAAAAAAArA/alHFj3MOCJI/s320/P1010150.JPG
下の動画は、その始動の様子で、ファン用のエンジン音(スノーモビル用の2ストロークエンジン)が聞ける。
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「Chaparral 2J - The Fan Car」
https://www.youtube.com/watch?v=HZkUr5cG6wE

下もイギリスのグッドウッドフェスティバルのもので、走行シーンだ。
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「Chaparral-Chevrolet 2J at Goodwood Festival of Speed 2011」
https://www.youtube.com/watch?v=STV3-5_Jzj0

 ご存じの通りこの当時、トヨタも日産も、富士の日本GPを舞台にモンスターマシンを開発し死力を尽くして戦っており、両社は活躍の舞台をシャパラルが出場していた、グループ7のCAN-AMシリーズに移そうと考えていた。本格化していた対米輸出車の宣伝も兼ねてのことだっただろうが、当時まだ小学生だった自分も大いに期待したものだった。子供ながらも日本人の誇りみたいなものも感じていたのだと思う。
 しかし冷静に考えれば、日本のビッグ2が開発した5/6ℓのターボチャージャー付のハイパワーマシンとこのシャパラル2Jと、果たしてどちらが本質的な部分でより革新的だったかは、言を俟たないだろう。
 当時余裕もなく「空気の読めない」(自動車評論家の片岡英明氏らの指摘)日本の2社が、CAN- AMという自由で開放的な一方で、どこかローカル的な雰囲気のあるレースシリーズに、あの時参戦しないで本当によかったと思う。夢は夢のままにしておいた方が、日本のカーマニアにとっても両社にとっても、その後の結果から見て正しい判断だった思う。シャシー性能が足りないままで、馬力競争に突入したら大惨事になりかねなかったし、何らかの形で、しっぺ返しだってあり得たと思う。アメリカを甘く見てはいけない(私見です)。
(下の写真と以下の文は(web□31)より『咥えタバコでシャパラル・1のシートに収まるジム・ホール』。同ブログはシャパラルの歴史を手際よく纏めており、詳しく知りたい方はぜひ参考にしてください。以下も引用で『ジム・ホールが、レーサー兼レーシングチーム・オーナー、さらにはレーシングカー・コンストラクター・オーナーの3役を担いながら「シャパラル・カーズ」を運営したのは、名門カリフォルニア工科大を卒業して間もない20代半ばから35歳までという若さだったというのは、今更ながらの驚きです。』世界トップクラスのドライバーにして工学系の知識を併せ持ちしかも資力もあるという、シヴォレーにとっては得難いパートナーだったのだろう。当時カーグラなどで「テキサス出身の大男で無口な石油成金」と表現されていたが、“無口(=口が堅い)”なことも両者の信頼を築く上で重要な要素だったのかもしれない。)
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https://www.powerhouse-mc.com/blog/wp-content/uploads/2016/05/Chaparral_1.jpg
 大幅に脱線したので話を1938年型のビュイックの試乗記に戻す。(㉗-3、P31)からの長文の引用で、“ニー・アクション”による素晴らしい乗り心地を堪能した小林彰太郎の記事で話題を終えたい。
腰のある、しっかりした乗り心地で実に快適
『~ビュイックは38年、さらに一歩を進め、後車軸にもコイルを採用し、トルクチューブ・ドライブ、パナール・ロッドと組み合わせた。昭和30年頃、堅川町の懇意にしていたジャンク屋で、まさに解体しようとしていた38年型のビュイックに行き会い、ちょっと運転させてもらったことがある。それはダンパーが4輪とも全然効いていなかったとみえ、一旦揺れだすと同じ振幅のバウンシングが際限もなく続いた。この経験が頭にあったので、この日もどうかな、と思ったのだが、複動式油圧ダンパーが有効に働いていれば、この全輪コイルによるサスペンションは実に快適なものであることが判明した。想像したよりも腰のある、しっかりした乗り心地で、50/60年代のアメリカ車のようにフワフワではけっしてないのである。』この時代のアメリカ車をますます好きになってしまうような記述だ。さらに引用を続ける。
高水準な動力性能と制動力、とても静かで、振動もない
『このビュイックの動力性能と制動力は、今日の交通環境ではほとんど痛痒を感じないほどの高水準にある。直列8気筒OHV4ℓエンジンは圧縮比6.15、実馬力は107㏋/3400rpmだが、強力な低中速トルクのため、出足はよく、トップギアでよく粘る。長大なクランクシャフトは先端にトーショナルダンパーを備え、効果的なラバーマウントと相俟って、あらゆる速度域にわたり振動をボディに伝えない。それにとても静かだ。急加速時によく揃った排気音が若干高まるのと、セカンドでややギアノイズが聞こえる以外は、むしろ周囲の車のノイズの方が大きい。』この時代のアメ車はレベルが高い。しかも特殊な車ではない、量産車なのだ。
アメリカ車はすでに夫人の細腕やハイヒールを前提として設計されていた
『ステアリングは傍らで見ていても軽そうだったが、後に試してみてその軽さに一驚した。この車重2トン近い重量車にして、ステアリングは歩むような低速でもまるでパワーアシスト付きのように軽いのである。同様にクラッチ、ブレーキなどの各コントロールも極めて軽い。これもまた、同時代のヨーロッパ車と実に対照的な点で、アメリカ車はすでに夫人の細腕やハイヒールを前提として設計されていたことを如実に示している。』このビュイックは今から80年以上前のものだが、現代のクルマの進化が果たして順調だったのか、考えさせられる一文だ。
昔は信号もなく、走り出せば止まらなかったから暑くなかった
 ちなみにこの小林さんの試乗記は、五十嵐平達氏が同行していたようで、お二人の会話もなかなか面白い。『われわれがビュイックで街に乗り出した日は、35℃近い焼けるように暑い日であった。冷却水量は12.6ℓもあり、大容量のラジエターを持つので、都心の渋滞でも決してオーバーヒートせず、この点でも30年代アメリカ車のタフネスを見せた。車内の通風も、三角窓とリアクォーター窓を開けて走ると十分だし、ルーフも分厚いので今時の車よりはるかに断熱がよい。ちょうど瓦ぶきの本建築とトタン屋根の違いのようなものだ。昔は車に乗って暑かった記憶というのがないのだが、どうしてだろうと、隣の五十嵐平達氏に尋ねる。要するに走り出せば止まらなかったからじゃないのか。信号はないし、40km/hぐらいで道の真ん中をスースー走れたのだから。たまに向こうから車が来ると、初めて左側によってすれ違っただろう? なるほどそう言われるとそのとおりで、車はいつも走っていたのである。』大ベテランのカーマニア同士でないとできない会話だ。
三角窓を定着させたのもGM
(“暑さ”の話題が出たところで、実用的な「三角窓」を開発し、定着させたのも、この時代のGMであった。詳しくはwiki等参照して下さい。http://www.abandonedcarsandtrucks.com/content/fisher-no-draft-ventilation-system-revolutionizes-car-comfortというブログの記事から画像をコピーさせて頂いた。)
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http://www.abandonedcarsandtrucks.com/content/fisher-no-draft-ventilation-system-revolutionizes-car-comfort

クライスラー系の“エアフロー”について(簡単に)
 今まで1930年代のGM量産車の先進技術について、記してきたが、この時代のアメリカ量産車の先進性を象徴する車は一般的には、クライスラー系の“エアフロー”だろう。ただ同車についての情報は、webを検索するだけで詳しい情報で溢れかえっている。今更あらためて付け加えるべきことなどないので、ここで取り上げる必要もないと思うが、全く触れないのも片手落ちのため、以下は小文字で控えめに小さく記しておく。
横から見ると美しいのだが・・・
下の写真はその1934年クライスラー エアフローで、風洞テストを経て誕生した、ラジカルなストリームラインを持つこのクルマは、自動車の性能を画期的に向上させた、自動車史に残る1台だ。画像は以下よりコピーさせて頂いた。。https://www.conceptcarz.com/valuation/1986/chrysler-airflow-series-cu.aspx )
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https://www.conceptcarz.com/images/Chrysler/34-Chrysler-Airflow-DV-16-SJ_a01.jpg
以下は12項全体を記すうえで多くを頼ったM-BASE(web⓯-12)より一部引用するが、当然ながら元ネタの方がはるかに詳しく正確なので、ぜひそちらを参照して下さい。『このクルマの革新的な点は、エンジンをフロントアクスルの上まで前方に移動して、リアシートをリアアクスルの前方の低い位置に移動して乗り心地を改善したこと。ヘッド/テールランプ、トランクをボディーデザインに融合させ、フロントウインドシールドに曲面ガラスを採用したこと。頑丈な骨格にパネルを溶接して一体化したボディーにサブフレームをボルト止めしたモノコックボディー方式を採用したことなどがあげられる。』下記は、1937年製デソート(クライスラー系)の工場組立の様子がわかるビデオです。
https://www.macsmotorcitygarage.com/video-building-the-1937-desoto/

その流線型のフォルムは「アメリカ人から心底毛嫌いされた」(Time誌)
しかし『その革命的な流線型のフォルムは、1934年の発売当時、「アメリカ人から心底毛嫌いされた」と『Time』誌に書かれたほどだった』という(Web⓭)。特に女性に拒絶反応されたようだが、下の写真をみれば確かにわからないでもない。結局エアフローは販売不振でデソート版が1936年、クライスラー版が1937年に生産中止に追い込まれた(web❼-2)。画像はトヨタ博物館蔵の1934年デソートエアフロー。出典元は以下より
https://ameblo.jp/msports326/entry-12.612.1021416.html。)

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https://stat.ameba.jp/user_images/20190827/21/msports326/05/ce/j/o1600120014554424248.jpg?caw=800
トヨタはより温和に修正を加えた
下は同じくトヨタ博物館でトヨダAA型と並んだところ。見ての通りそのボディスタイルが、トヨタ初の乗用車(A-1型とその量産型のAA形)に影響を与えたのは周知のとおりだ。ただトヨタでは一般の人に拒絶反応が起きないように、巧みに修正を加え、より温和な印象を与えるように工夫した。画像出典は以下より
https://car.watch.impress.co.jp/img/car/docs/12.75/028/html/021_o.JPG.html)

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史上初の流線形型量産車だった
M-BASEが記しているように、エアフローが画期的だったのは、史上初の流線形型量産車であったことと、その優れた乗り心地にあったという。重複になるが『フラットヘッドの直列8気筒エンジンと風洞テストを経て誕生したボディワークで、箱形のライバルには対抗できないパフォーマンスと燃費を誇ったのである。セミモノコックの採用で見事な強度も実現。さらに、エンジンと乗員の搭載位置を前方にすることで、重量配分が最適化され、乗り心地とハンドリングも絶妙だった。』(Web⓭)速度域は不明だが、L.J.Kセトライトは30%もの燃費向上だったと記している。
流線型は最適なバランス解を求めた結果だった
しかし(㉙-8)によれば流線型の採用は結果としてであったという。エアフローのまとめとして以下長文になってしまうが引用する。『クライスラー・エアフローが真に革新的なのは、ボディスタイリングが流線型だからではなく、実はこのまったく新しいバランスを採り入れているからなのである。エアフロー以前のセダンはラジエターがほぼ前車軸上にあり、その後にエンジンが載り、客室はその後ろから後者軸の上、時にはその後ろまであった。したがって乗客、特に後席の乗客は後車軸によって直接突き上げられる訳で、乗り心地は酷いものであった。
 これに対しエアフローでは客室を完全に前車軸間のいわゆるカンフォタブル・ゾーンに収めており、したがってエンジンの先端は前車軸を超えて前進しており、ラジエターはさらにその前方に位置している。この結果重いマスが重心位置から遠ざかり、相対的にバネ上の振動系が長くなった事になり、より柔らかいバネを用いても乗り心地はフラットになる訳だ。またその事は前輪独立懸架採用の1つの大前提でもあった。ただし奇妙なことにエアフローは前輪独立懸架では無く、それを備えているのはこの広告のスペック(注;この説明文は、1934年のクライスラーの広告に対してのものだった)でもわかるようにこの年エアフローでない唯一の車、最廉価版のクライスラー・シックスである。エアフローが流線型を用いたのは、むしろ前進したラジエター、エンジン、客室のゆえに、それまでの古典的なプロポーションを維持することができなくなった結果なのである。』
ムムム・・・、エアフローが前輪固定軸だったことはよく知られている。下はhttps://www.classiccarcatalogue.com/CHRYSLER_1935.html
より、1935年型エアフローの構造図。フロント側のリーフ式サスペンションが見える。)

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https://www.classiccarcatalogue.com/C/chrysler%201935%20airflow-12.jpg
1934年のクライスラー系は廉価モデルで前輪独立懸架を採用していた!
 だが、1934年型クライスラーはエアフローでない廉価版ですでに前輪独立懸架を採用していた事は知らなかった!さらに調べてみると、クライスラー系は1934年型で、ダッジやプリマスも前輪独立懸架を導入していた!GMもクライスラーもこのころ、新技術の導入に非常に積極的だったが、共に乗り心地の改善が大きな目標だった。そのためにエンジン搭載位置を前進させたかったのだが、GMもクライスラーも、結論はほぼ同じだったのだろうか。(下は1934年型のダッジ4ドアセダンで、画像の出典は flickriver より。1933年型の写真まで載せないけれど、と比較してみると、着実に“進化”を遂げているのがわかる。)
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https://live.staticflickr.com/4192/33703729824_6b0ee11d4b_b.jpg
 こうなると1934年というアメリカ車のモデルイヤー自体が、前輪独立懸架採用の“元年”だったのだろうか。先にも記したが、1930年代のアメリカ車がいかに先進的だったかの記事は、まだまだ勉強不足でもっと調べたうえで、あらためて書き直したい。ちなみにフォードは晩年のヘンリー・フォードの頑迷さに悩まされて、横置きリーフ/リジッドアクスル方式のレイアウトに1948年型まで固執し続けた。

12.18戦後型の“フラッシュサイド”デザインについて(パッカード編)(雑談その18)
 話を戻す。先に記したように(Web⓲-1)によれば、クロスレイとカイザーに次ぐ三番手グループとして、フラッシュサイド化を果たしたのが先に紹介した老舗ハドソンと、高級車のパッカードだったという。そこで戦後のフラッシュサイド化の話題の最後としてパッカードについて、今回こそ!超簡単に触れて終わりにしたい。パッカードの歴史については、三樹書房のM-BASE「第28回 戦後のアメリカ車 - 9 :1940年代の新型車(パッカード)」(web⓯-11)に詳しいのでぜひそちらを参照して下さい。
アメリカ人の恋人
 以下は(㉒、P33)より『パッカードは、1950年代に消えてしまったアメリカの高級車だが、現在の若い人々でもその車名を知らぬ人は居ないだろう。本国のアメリカでは「アメリカ人の恋人」とさえいわれている。少なくともアメリカ人の間ではパッカードの評価は於ては常に意見が一致してしまうともいう。そんなにも魅力的な高級車であったのだが、そのパッカードの有名なキャッチフレーズは「パッカードの真価はオーナーに聞け」であった。』
オーナーに聞け!
ということで、次はこのタイトルです。(画像はhttp://www.hovermotorco.com/2011/01/you-can-get-history-of-packard-right.html)よりコピーさせていただいた。
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https://3.bp.blogspot.com/_vQFdP6XqbvU/TSdKOFPoe8I/AAAAAAAAHb0/e1_53C3O_CI/s512/1936%20Packard%20Ad.jpg
財界人はパッカード(戦前の日本)
 戦後凋落の一途をたどったパッカードだが、戦前の日米に於いては、パッカードは名実ともに高級車の代名詞的存在だった。先の12.15項で触れたが、自動車販売業界を代表する梁瀬次郎の言葉を借りれば(㊵P67)『日本陸軍が主にハドソン、海軍がビュイック、そして財界人がパッカードといわれていたのが、昭和の初期の自動車販売業界の縮図であった』という。
 ここでもモータージャーナリスト側の視点でも確認しておくと小林彰太郎の(㉑、P216)から引用すると、『昭和5年(1930年)に当時の業界紙が編集出版した「東京自動車総覧」というもので、東京中の全自動車の番号、車名、所有者名、所有者名が、すべてわかる便利なものです。
キャディラックが66台、リンカーンは28台に対してパッカードは254台
『それでパッカードは一体どのくらい入っていたかを調べてみましたが、254台ありました。当時東京の全自動者数は21,063台(トラック・バスを含む)でしたから、これは1.2%に当たります。フォードの5~6倍もする高級車にしてはなかなかの勢力です。同書によると、キャディラックは66台、リンカーンは28台しかないからです。』GM、フォードという巨大メーカーを代表する高級車であったキャディラックとリンカーンを、戦前の日本ではパッカードが大きく凌いでいたのだ。
当時の輸入元であった「三柏商会」について、wikiは『福澤駒吉(福澤諭吉の孫)、その友人である藤原俊雄、荘清彦(後の三菱商事社長)が興した会社』としている。名門だったことは間違いないのだろう。同社は紆余曲折を経て戦後ポルシェの輸入代理店として有名になった、三和(ミツワ)自動車へとつながっていくのだが、三和では『自社の始まりを、「1931年(昭和6年)、三菱・福沢・川崎の三財閥によりパッカード自動車の日本と朝鮮、および満州国における総代理店として東京・赤坂に創業」としている』(同じくwiki)そうだ。
アメリカの大統領就任式に初めて使用した車もパッカード
(下の写真は、https://thecarnut.typepad.com/steve_parker_the_car_nut_/2010/04/our-weekend-auto-motor-racing-radio-shows.html より引用させていただいたもので、1921年3月、ウォーレン・G・ハーディングがアメリカの大統領就任式に初めて自動車を使用するが、その車はパッカード ツイン・シックスだったという。)
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https://images.huffingtonpost.com/2010-04-09-warrenharding1stprestodriveandride1921packardtwinsix.jpg
1920年代の日本の上流階級は一家に3台持ちが普通
 五十嵐平達によれば(⑰-2、P44)『1920年代の日本の上流階級にとって、自動車はもはや必需品であり、一家に3台位所有するのが普通となっていた。一台は宮中参内用のリムジン、もう一台は日常使用の高級車、さらにスポーティなドライブ用車を揃えるのが常識化していたが、先ずこのうちの2台目の高級車がアメリカ車に代替えされ、その実際的なところが買われたのだった。』この時代に乗用車の3台持ちとは驚くが、貧富の差が激しく富の分布が上に厚かったことを示すとともに、日清・日露の二つの戦争に勝利したことによって、まがりなりにも当時の日本は、上位国とは大差があったものの、世界列強の仲間入りを果たしていたという事実を思い起こさせる。(下図は「主要国のGDP水準の推移(1850~1920)」で、“日本経済研究センター”さんよりコピーさせていただいた。
当時の日本はいちおう“一等国”だった(余談)
https://www.jcer.or.jp/j-column/column-saito/20181120.html赤線が米国で薄い緑の線が日本だ。このグラフは国全体のGDPで、生糸と絹布(追記すれば裏ではアヘン等非合法なものも)の輸出で経済成長し、イタリアとはどっこいどっこいの“一等国”(12.2項で書いた”五大国”も同じような意味だろう)と呼ばれるまでになっていた。)
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https://www.jcer.or.jp/wp-content/uploads/2018/11/saito181120_2.jpg
話を戻しさらに引用を続けると、『やがて宮内省も供奉車を全部ピアース・アローにするなど、リムジンにもアメリカ車の進出が始まり、やがてパッカード時代を招く』ことになったのだという。
ピアース・アローからアメリカ最高級車の地位を奪う
 アメリカの大恐慌をうまく乗り切れなかったピアース・アローから、アメリカの最高級車の地位をパッカードが奪ったのだ。(下の写真は映画「スティング」(1973年)に“出演”した1935年製ピアース・アロー モデル12.55型で、さすがに最高級車としての風格がある。画像は下記よりコピーさせていただいた。ピアース・アローといえば何といっても、フェンダーにつけたヘッドライトが特徴だが、『これは外観上何か特徴が必要だと考えた重役人の要求により、チーフ・エンジニアのR・Hドーリーが1914年に考え出したものである。当時の車のヘッドライトは一が低く、光軸が路面に平行になって見にくいので考え出したものと言われる。しかし夜テスト走行中、モーターサイクルが2台くると思って自転車で間をすり抜けようとした男がいて、あわやという場面もあったという。』(㉙-4)さぞや驚いたことだろう。
https://www.historicvehicle.org/stars-their-cars-robert-redford-edition/

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https://www.historicvehicle.org/wp-content/uploads/The-Sting.jpg
(下の写真はパッカードの方で、同じく映画からの紹介だ。「華麗なるギャツビー(グレート・ギャツビー)」(2013年のリメイク版)に“出演”した1929年製パッカードで、グレードはV12ではなく廉価なスタンダード エイトらしい。
https://www.imcdb.org/v622219.html さらに後方にチラッと見える黄色のクルマは当時のアメリカの超高級車、デューセンバーク モデルJで、映画の中では主人公ギャツビー(レオナルド・ディカプリオ)のものだったが、この映画を観た時、自分は本物だと信じてしまったが、どうやら1983年製のレプリカだったようです。「シーザー・ブログ2」さんによる
https://ameblo.jp/caesar2222/entry-12.710159708.html?frm=theme)

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https://www.imcdb.org/i622219.jpg
宮内省を始め宮家にはパッカードが多かった
 内容が前後し、重複してしまうが小林彰太郎の述懐も記しておくと『ヨーロッパ車はよほどの好きものに限られ、やはり大半はアメリカ車であった。宮内省を始め宮家には、おそらくその気品のあるスタイルが好まれて、パッカードが非常に多かった。それにあやかってか、パッカードは上流階級の間でも人気があったようである。』(⑱、P18)(下の画像は、下記のユーチューブより引用させて頂いた。以下は㉒より『1935年から日本の宮内省でも貴賓者や行列供奉車をピアスアロウからパッカードへと代替えさせたので、当時の日本ではもはやパッカードの信用は絶対的なものとなった。』
宮内省が8気筒だった関係で、最高級のV12が使えなかった
 しかしその一方で、『宮内省がスーパーエイトを採用していた関係で、それより上級な12気筒を用いる社長族はいなかったようである。』(㉒、P33) ちなみに当時の昭和天皇の御料車はもちろん、“グロッサー・メルセデス”であった。https://www.automesseweb.jp/2019/11/19/253556 
下はユーチューブ画像で「戦前の昭和天皇御料車 パッカード (日本唯一の動態保存)」
https://www.youtube.com/watch?v=BNU5a2CI6rk

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⑱からの引用を続けると、『蛇足ながら、パッカードは乗用車としての役目を終えると、たいていは霊柩車に転用されて第二のお勤めを果たした』(⑱P18)という。
最後に霊柩車になるのが運命だった、その理由
日本では最後に霊柩車になるのが運命だったというパッカードだが、その好まれたその理由が『そのマスクがお寺の屋根に似ているからだ』(㉒、P33)とか、『あの荘厳なグリルが最もふさわしかった』(㉕-4、P85)など諸説あるようだが、五十嵐先生はさすが、ジャーナリストの鑑で実際に取材してその理由を確認したようだ。以下(㉒、P33)より『私は1950年代にいまだ1930年位のパッカードばかりを使っていた東京霊柩車のガレージを訪ねてみたことがある。
 何故パッカードばかり使うのかとの質問に対して、これ以上の車はないとの即答が返ってきたのであった。トラックのように丈夫に出来ていて、しかも供奉車のハイヤーを置いてくる程スピードが出るし、それに静かにすると走る。タイヤが減るぐらい故障もないから、一年を通じてこれ程に稼働率の良い車は新車でも見つからないよ、とそこの責任者はパッカードにべたほれであったが、ウソでないこともよく理解できた。』
さすがにここでパッカード製の霊柩車の写真は省略するが、余談だが日本には「霊柩車の誕生」(井上 章一)という名著があるのを参考までに追記しておく。
パッカードV12はアメリカのクラシックカー中の白眉(小林彰太郎)
 さてこのパッカードだが、小林章太郎によれば、実際に運転してみても、当時の水準を大きく超える、素晴らしいクルマであったという。以下このブログ内の記事「⑨デューセンバーグとオーバーン、コード、その終焉まで)」からの転記(古いカーグラの記事「世界にクラシックカーを追う」小林彰太郎 の転記)だが、
http://marupoobon.com/blog-entry-139.htm
『Sonographicのために4台選んだアメリカのクラシックの中、最も感銘を受けたのは1933年パッカードV12であった。十数年前、36年のスーパーエイト・リムジーンで箱根を走ったことがあり、当時のアメリカ車の水準をはるかに抜いたハンドリングと強力なブレーキ、洗練された走行に感心したが、V12はいっそうすばらしい。アメリカのクラシックカー中の白眉であろう。』パッカードにいたく感銘し、褒めたたえていた。(トウェルヴ(V12)は時のルーズベルト大統領から、ソビエトのスターリンまで愛用したという。以下(㉕-4)より『スターリンはパッカードが好きだったようである。(中略)ルーズベルト大統領は当時の同盟国ソ連に42年のプレスを売る様パッカード社に要求した。パッカードそっくりのソ連高級公用車ZISが登場したのである。』
ルーズベルト大統領の公用車もパッカード トゥエルヴ
(さすがにZISの写真を貼るのは気が引けるので、ルーズベルト大統領の公用車だったパッカード トゥエルヴで、さすがにいかめしく、現代の「ビースト」にどこか通じる雰囲気を醸し出す。画像はhttps://car-l.co.jp/2016/03/30/3821/ よりコピーさせていただいた。)
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https://car-l.co.jp/wp-content/uploads/2019/03/5512.1868x556.jpg
マッカーサー元帥の公用車はキャディラック75リムジン(余談)
(アメリカ大統領の公用車の話が出たので、ここから余談になるが、戦後“上陸”したマッカーサー元帥の公用車は1942年製のキャディラック75リムジンで、『戦時の名残で、空襲に備え窓枠やグリルのメッキ部分を塗装して光らないようにしてある。この車は後に払い下げられ、横浜で使われていたという』(カーグラの「OLD CAR」の記事より)。画像の方は以下のブログよりコピーさせていただいた。)
https://plaza.rakuten.co.jp/bunchan0489/diary/200712.150000/
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https://image.space.rakuten.co.jp/lg01/99/0000043299/08/imgd4067430zikezj.jpeg
(しかし下記のカラー写真では“光もの”が一部復活しているように見える。治安が安定してきた事を表しているのだろうか。画像の方はツイッター「#モージャー氏撮影写真資料」さんよりコピーさせていただいた。)
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https://pbs.twimg.com/media/DYJtOuiUMAIRBCZ?format=jpg&name=small
1950年には天皇の御料車としてキャディラックが採用(余談)
(さらに余談だが、1950年には天皇の御料車として1950年型キャディラック75リムジンが採用される。色は黒でなく、サンミストグレーだったという。(カーグラの「50年代のアメリカ車の記事(㊸-1)より」)下の画像の出典はカー&レジャーニュースより。 http://www.car-l.net/media/2018/04/07/3232)
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マッカーサーの解任直前のころは、1950年型のクライスラー・クラウン・インペリアル・リムジンに変わったという。そしてマッカーサーの後任のリッジウェイ中将は1950年型のパッカード・カスタム・エイト・リムジンを愛用していたそうだ。(カーグラの記事「マッカーサー元帥の車(補足)」より)   
話を戻し、下の写真の1933年型のパッカード トウェルヴは、小林氏が今から約50年前に乗り、感銘を受けた車そのものと(たぶん)思われるものだ。)

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https://revsinstitute.org/wp-content/uploads/2014/05/Packard-12-Sport-Phaeton-1933-front-3-4-900x600.jpg 
キャディラックに対して、次第に劣勢に
 しかしそんな、アメリカを代表する高級車であったパッカードも、大量生産で得た巨額な利益の一部を、膨大な開発費を投じて、高級車の分野でも技術革新を積極的に進めたGMのフラッグシップ、キャディラックに対して、次第に劣勢になっていった。戦後のパッカードは『1948年型は当初マイナーチェンジで進める計画であったが、時代の要求に合わせるべくビッグ・マイナーチェンジが施され』(web⓯-11)、ボディはフラッシュサイド化されたが、戦後型として中身まで一新されたのは、この1951年型からだったようだ。
パッカードには白人しか乗らない?
 なお高島鎮雄氏は1950年代前半の『イガグリ頭の中学生』のころ、自動車を通じての文通?がきっかけで、若いアメリカ人の兵隊と交流ができたそうだ。そして彼のお父さんはパッカードの広報にいたのだという。以下(㉙-11)より引用『~彼(米兵)が「どんな車が好きか」と尋ねるので、(中学生の私にはまだ外交辞令が言えなかったので)、「キャディラック」と答えてしまった。すると彼は、「うん、キャディラックはいい車だ。しかしアメリカではキャディラックには黒人も乗る。だがパッカードには白人しか乗らない」という意味のことをいっていた。このひと言は三十数年後の今も妙に頭にこびりついている。彼は別に黒人を差別するつもりはなく、ただパッカードのオーナーがアメリカの上流階級によって占められていることを言いたかったのだと思う。そういえば、1951年にフルモデルチェンジしたパッカードの最上級シリーズは、ずばり“パトリシアン(貴族的な)400”と称していた。』
戦後型の1951年パッカード
(下の写真は、外観はフラッシュサイド化はさせたが中身はマイナーチェンジだった1948年型でなく、戦後型として一新された1951年型だ。最上級の“パトリシアン”ではなく、より下位グレードの1951年型パッカードで、個人的な好みでは、この51年型パッカードはおっとりと上品な感じもしてパッカードらしくもあり、好きなデザインだ。画像は下のサイトより引用させて頂いた。
http://wildaboutcarsonline.com/cgi-bin/pub9990262549620.cgi?categoryid=9900478806400&itemid=9990479226779
上の方の写真はパッカード初のハードトップのメイフェアで(The 1951 Packard "Mayfair" (Model 2467) sat on the shorter 122' wheelbase and was a true hardtop and right in step with other manufacturers.)、
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http://wildaboutcarsonline.com/members/temp/IMG3a3c211d6c8283a1af65970708d0fb03.jpg
下は2ドアセダン型(200 Club Sedan)だ。
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http://wildaboutcarsonline.com/members/AardvarkPublisher/9990479226779/image4.jpg
その下の写真は(Web⓮-6)からのコピーで映画「ゴットファーザー」に“出演”した戦後の1954年製パッカードのロングホイールベース型リムジン。若いボス“マイケル・コルリオーネ”(アル・パチーノ)の世代の車だ。)
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https://www.macsmotorcitygarage.com/wp-content/uploads/2017/03/1954-Packard-limo-Godfather-.jpg
その後のパッカードについても省略するのでwiki等を参照されたい。(結局”フラッシュサイド”の話題はほとんどなしだった!)

“ミスター・スタイル”、ビル・ミッチェルの傑作、キャディラック60スペシャル
ここでパッカードの最大のライバルであった、キャディラック側も写真で確認しておく。
(下の写真は1938 年製のキャディラック60スペシャル セダンで、トヨタ博物館にも同型車が所蔵されている。3ボックススタイルの原型を作ったといわれている名車だ。ハーリー・アールの後継者として戦後のGMデザインを率いた“ミスター・スタイル”、ビル・ミッチェル(William L. "Bill" Mitchell。なぜ英語で記すかというと、wikiで検索するとオーストラリア人の経済学者が検索されてしまうので)の出世作でもあった。高級パーソナルカー的な位置づけで、内面の新しさが外面に現れたようなデザインだ。下記のトヨタ博物館の記事に詳しく書かれているので参考まで。
https://toyota-automobile-museum.jp/assets/pdf/archives/magazine/magazine_77.pdf)

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https://live.staticflickr.com/4526/38501636942_718b0d6d1f_b.jpg
(下は戦争直前の1941年型で、画像の出典は以下より。一段と完成したスタイルだ。もはやパッカードにとっては追い付けない領域に達してしまったように思う。
https://ateupwithmotor.com/model-histories/cadillac-sixty-special/

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https://ateupwithmotor.com/contentfiles/uploads/1941_Cadillac_60Special_front3qdusk.jpg
プレスリーは生涯200台近くのキャデラックを手に入れた
 戦後のキャディラックの話になると、どうしても“テールフィン”までいってしまうが、実は自分は、テールフィンの時代のアメリカ車が好きではない。そこでここでは、クルマそのものではなく、富の象徴としてのキャディラックという存在を示すような写真を貼っておく。
(下の有名な(たぶん)写真は(㊺-2、P40)に掲載されているものと同じだが、以下のブログよりコピーさせて頂いた。エルヴィスのファンはぜひ訪問してみてください。
https://www.travelandleisure.com/travel-tips/celebrity-travel/elvis-presley-memphis-tour-birthday
文章も(㊺-2、P40)より引用『ロックンロールのシンボルであるエルヴィス・プレスリーのクルマといえば、キャデラックの印象が強い。事実彼はその生涯で200台近くのキャデラックを手に入れたという。写真は1956年1月29日のニューヨーク市街。駐車違反チケットを切られるエルヴィスと彼にとっての1台目のキャデラックを捉えたもの。このクルマは中古車だった』そうです。駐禁でつかまった時でもしっかりとポーズを決めているところが素晴らしい。

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(CREDIT: MICHAEL OCHS ARCHIVES/GETTY IMAGES)
HTTPS://IMAGESVC.MEREDITHCORP.IO/V3/MM/IMAGE?URL=HTTPS%3A%2F%2FSTATIC.ONECMS.IO%2FWP-CONTENT%2FUPLOADS%2FSITES%2F28%2F2017%2F01%2FJIMS-BARBERSHOP-MEMPHIS-ELVIS0117.JPG
シュガー・レイ・ロビンソンのピンクのキャディラック
(成り上がり、成功をおさめた者たちが、その象徴であったキャディラックの前で見事なポーズを決めている写真では、同じく「GMの百年史」という㊺に(㊺-3,P24)、モータウンの街、デトロイト出身の伝説の黒人ボクサー、シュガー・レイ・ロビンソンがピンクのキャディラックの前で決めているものがあった。これもその写真と同じものを、以下のブログより引用させて頂いた。
https://ameblo.jp/kingcreole/entry-10444014106.html
(㊻、P25)から、この写真の説明を引用すると『場所はニューヨークの7番街と8番街の間。「シュガー・レイ・ロビンソン・ハーレム・レストランバー」の看板をバックに、ピンクの最新型キャデラックの前に立つロビンソン。キャデラックはアメリカでは富のシンボル。特にアフロ・アメリカンにとっては経済的繁栄を強く意味する。』シュガー・レイの、『そのライフスタイルは極彩色で染まっていた』(㊺-3、P25)という。)

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https://stat.ameba.jp/user_images/2010012.8/15/kingcreole/9b/37/j/o0600038410390796435.jpg

“アメリカで最初に成功した流線型”の車、リンカーン・ゼファー
 芋ずる式になってしまうが、フォード系の最高級車であったリンカーンについても触れておきたい。この当時のリンカーンは、エドゼル・フォードの趣味を反映させたリンカーン・ ゼファーが有名だ。同車は“Lincoln-Zephyr - the First Successful Streamlined Car in America”と称されているようだ。(ゼファーについては、(web□21-4)が詳しいのでぜひそちらを参照して下さい。VWビートルやプジョーなど、欧州車のデザインに大きな影響を与えたことでも有名だ。下の1940年型クーペの写真の出典は以下です。http://gtsupreme.com/lincoln-zephyr-coupe-1938-1939/
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https://gtsupreme.com/wp-content/uploads/2018/01/1940-Lincoln-Zephyr-Coupe-06H-72A-12.66-made.jpg
シヴォレーは“ベビーキャディラック”、フォードは“ミニリンカーン”
(さらに話が逸れるが下は1939年型のフォード スタンダードクーペ。画像の出典は以下より。一目でゼファーをイメージしていることがわかる。https://www.barrett-jackson.com/Events/Event/Details/1939-FORD-STANDARD-COUPE-224765)
このころの大衆車のデザインコンセプトとして、高級車をモチーフにしていた。GMはシヴォレーを“ベビーキャディラック”に、フォードは“ミニリンカーン”にしていた。)

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https://barrettjacksoncdn.azureedge.net/staging/carlist/items/Fullsize/Cars/224765/224765_Front_3-4_Web.jpg
初代リンカーン コンティネンタルのプロトタイプについて
(話を戻して)エドゼルが主導した時代のリンカーンは、この初代リンカーン コンティネンタルのような傑作デザインの高級車を生んでいく。下の写真は現存していたそのプロトタイプだが、ここでまたまた雑談をしたい。(以下の2枚の美しいカラー写真の出典は以下より。https://www.historicvehicle.org/drivehistory-profile-1939-lincoln-continental-prototype/
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https://www.historicvehicle.org/wp-content/uploads/1939-Lincoln-Continental-DHP-Photo-3.jpg
 今回リンカーンについてアメリカのwebを検索していた中で、このプロトタイプ車を発見して驚いた。何故ならカーグラの二玄社が刊行した世界の自動車シリーズ(ただし予定通り全巻発行できず途中で挫折した)の「リンカーン」(五十嵐平達著;以下(⑩-7))のP74~75に『1939年製エドゼルのための最初のコンチネンタル・カブリオレ(のプロトタイプ)』として写真が紹介されていたクルマだと思ってしまったからだ。このクルマは、当時中1だった子供の自分の目からしても、並外れて美しく思えた。
子供心にも並外れて美しく見えた、試作第1号車
 下の写真がエドゼルのために1939年2月に試作された最初の1台で、(⑩-7、P74~5)に紹介されていたものと同じ車だ。39年型リンカーンゼファーをベースにしているが(そのためアメリカでは“Lincoln Zephyr Continental”とも呼ばれているようだ)、ドライバーシートは2シーター並みに後退させて、ボンネットは約30cmも伸ばされていたという(⑩-7)。しかもこの試作第1号車(生産型の前に試作車は合計3台しか作られなかったという)は『エドゼルがサンプルカーとしてフロリダで自家用に使った後スクラップされたというが、1台きりの古カスタムカーであったから、実用上は種々な不都合があったものと考えられ、現在残されていないのは残念である。』と書かれていて、世の中にないものとされていたのだ!下の白黒画像とその2枚下の美しい絵の出典は以下より。
https://www.classiccarcatalogue.com/LINCOLN_1939.html
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https://www.classiccarcatalogue.com/L/Lincoln%201939%20Continental%20Prototype.jpg
現存していたのは2番目の試作車だった!
 実際にはスクラップされなかったのだろうか。しかし色の違いは別にしても、どう見てものびやかさが違うし、リアのフェンダーラインのふくよかさに明らかな違いがある気がする。どちらも美しい車であることには変わりはないが、やはり違う気がする。そこで改めて、(⑩-7)の頁をもう1枚前にめくってみると(P73)、その後1939年6月に黒に塗られた2番目の試作車が2台製作されて、1台はテストで破壊されたが、他の1台は現在もマニアによって保存されていると記されていた!
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https://www.historicvehicle.org/wp-content/uploads/M1A5575.jpg
プロトタイプ1号車が残っていないのが悔やまれる
写真のクルマはそちらの方だったようだ。(下は明らかにプロトタイプの1号車の方を描いているが、とても良い雰囲気の絵だったのでコピーさせて頂いた。名前の通り、“欧州大陸風”のスタイルだ。現存していたらと悔やまれる1台だ。)
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https://www.classiccarcatalogue.com/L/Lincoln%201939%20Zephyr%20Continental%20Cabriolet.jpg
 12項の最後は、この項を書く上で多くを頼った、日本の自動車史家の第一人者である(と自分が思う)五十嵐平達氏による、戦後世代のリンカーンのスタートであった1949年型リンカーン・コスモポリタンについての一文で締めくくりたい。最後に記された、『この車に感じたアメリカと、やたらと寒かった戦後の空気は、今も鮮明に残されている。』という部分が、復員して敗戦後の日本に戻ってきた当時の五十嵐氏の心境を伝えている。五十嵐氏の書き残した数多くの書き物の中で、自分はリンカーン・コスモポリタンに対してのこの一文が、一番好きです。(確かに『航空機のごとく、又深海魚のごとく』です。画像は以下より)
https://bringatrailer.com/2017/07/18/rare-flathead-v83-speed-coupe-1949-lincoln-cosmopolitan/
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https://bringatrailer.com/wp-content/uploads/2017/07/a-24.png?resize=620%2C427
戦争が終わって復員してきた昭和23年の晩秋の夜、私は初めて49年型リンカーン・コスモポリタンを見た
『堀端の岸本ビルの前に、どんな建物があったのか記憶にない。戦争が終わって復員してきたら、そこは米軍のパーキングエリアになっていた。昭和23年の晩秋、夜8時ごろに私はそこで初めて、49年型リンカーン・コスモポリタンを見た。一つだけ残されていた照明の下で、薄茶のツートーンに塗られたボディは、航空機のごとく、又深海魚のごとく静かにパークしていた。持っていた二眼レフをコンクリートの残骸上に固定し、シャッターをバルブにして4分間位露出していだであろうか。もう撮れているだろうと思うまで、そのモダーンな卵型デザインをながめ続けた。インダストリアル・デザインという言葉が、輸入される以前のあのころから、すでに20年以上の歳月は、私が何用でそこにいったのか記憶を流してしまったが、この車に感じたアメリカと、やたらと寒かった戦後の空気は、今も鮮明に残されている。』(⑩-7、P93)自分にとっても、この文章にはじめて接してから、すでに50年近くの歳月が流れてしまった。(下は1949年型リンカーン コスモポリタン。まったく寒々とした印象がない絵で恐縮です!
画像は以下より http://momentcar.com/lincoln/1949/lincoln-cosmopolitan/)
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http://momentcar.com/images600_/lincoln-cosmopolitan-1949-3.jpg
クルマをこよなく愛した、小林彰太郎さん(余談)
(なんの脈絡もない上に唐突だけれど、この項では徳大寺さんと五十嵐さんを大きくクローズアップしたので、ここはやはり、日本を代表するモータージャーナリストであり、カーマニアでもあった小林彰太郎氏にも最後に、触れておきたいと思う。
下の写真はホンダのHPの記事
https://www.honda.co.jp/sportscar/spirit-sdw2/kobayashi/ よりコピーさせていただいた、何かを見つめている本田総一郎と小林彰太郎の姿。

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(Web⓬)の松本葉氏の的確な指摘のように『小林さんは背が高く痩せていて、顔の堀りが深く、姿勢がものすごくいい。~彼の容姿と容姿そのものの性格、このふたつが彼の記す原稿とピッタリ重なって』いた。この写真からもそんな様子はうかがえる。二人の視線の先は、小林氏がヨーロッパ中を走り回ったホンダS600だっただろうか?
少し長文になるが以下も(Web⓬より引用させていただく。
『小林さんに最後に私が会ったのは90年代の終わりだっただろうか。日本に一時帰国した折に彼の自宅に招かれた。夫妻と一緒にお寿司を食べた気がするが記憶は曖昧。はっきり覚えているのは食後、ソファに移ってから。
小林さんが「キミに聞かせたいものがある」と言って一枚のレコードを手に取った。「何かは聞いてからのお楽しみにしましょう」と、彼独特の、茶目っ気たっぷりの笑い顔を見せると針をのせ、それからソファにすっと音もなく腰掛けた。
ブロッブロッブロッブロッブロッ
ブオオオオオオオーン
ブロッブロッブロッブロッブロッ
ブオオオオオオオーン
それは彼が愛するブガッティのエンジン音(だけ)が録音されたレコードだった。私は小林さんの横に座り、彼を見習い腰をのばして、膝をくっつけ、正しい姿勢でこの夜、延々、エンジン音(だけ)を聞いた。
ブロッブロッブロッブロッブロッ
ブオオオオオオオーン
小林彰太郎、クルマをこよなく愛したジャーナリスト、彼の自動車への愛が多くの書き手を生み出した。』
自分の子供のころ「Sonographic Series on the Road」シリーズという、究極のカーマニアだった小林氏が自身の夢を実現するために企画した、クラシックカーの名車の“音”付きの豪華本が出版された。当時の自分には値段が高かったことと、CG誌上で「キャラコを引き裂くような」と表現されていた(そもそも“キャラコ”なるものが何だったか、全くわからなかったが(今でも!)、その語感から連想するイメージだけで、何となくわかった気がしたものだった!)ブガッティの機械音や排気音よりも、ガキだったので「Led Zeppelin」の音の方に興奮していたので手が出せなかった。正直、肝心のレコード無しでもう少し安ければ買いたかったと思っていたが、今の基準で考えても、なんともマニアックな企画だった。
映画“ユージュアル・サスペクツ”の“コバヤシ”と小林彰太郎さん(余談の余談)
(下の写真は実は小林さんではない(見ればわかる?)。でもこの人もコバヤシさんなのだ!以前も記事にしたのだが、自分独自の説をここでもしつこく披露する。ケビン・スペイシー主演の映画、「ユージャル・サスペクツ」をご覧になった方は多いと思う。この映画の中で伝説的ギャング“カイザー・ソゼ”の代理人(弁護士)役で一人の男が登場する。この“コバヤシ”と名乗る印象的な男を一目見た時、小林彰太郎さんをヒントにしたのではと思い浮かべたのだが、考えすぎだろうか。小林さんは欧米でも日本を代表するモータージャーナリストと認知されており、知名度はあったと思うのですが。下の画像は以下よりコピーさせて頂いた。
https://note.com/kaa_saan/n/nc0fecf462c70

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https://d2l930y2yx77uc.cloudfront.net/production/uploads/images/7749625/picture_pc_0f373fb7f2aedae5ceec5836bff638c7.jpg
ちなみに映画の中の“コバヤシ”役は、英国の名優のピート・ポスルスウェイトさんでした。)


13.功罪両面のあった、GM/フォードの日本進出
 長かった“よもやま話”の12項を飛ばして11項からの続きです。
 何度も何度も記してきたが、低価格/高性能な上に高い供給力/販売力を併せ持ったフォード、GMが日本に直接進出した結果、揺籃期にあった日本の自動車市場は刺激を受け大きく拡大した。しかしその一方で、日米自動車産業の圧倒的なスケールの差により、市場を席巻された結果、黎明期の国産車はますます苦境に陥った。
 両社の進出がもたらした功罪両面については、すでに数多くの方々が鋭い分析を発表されているので、この記事では簡単に記すのみとしたい。ただ、とかく“罪”の方がクローズアップされがちだが、私見でいえば“罪”の部分よりも、特に戦前で限定せずに、戦後の日本の自動車産業の発展に寄与したことを考慮に入れれば、“功”の部分の方がはるかに大きかったと思う。その“功”としては、以下(㉜、P63)からごく簡潔に要約すれば、
(1)地場の部品産業育成の端緒を開いたこと、
(2)大量生産方式の一端を日本で実践してみせ、近代的な生産システムの見本を示したこと、
(3)モータリーゼーションの端緒を開き(市場を開拓)、近代的な販売、サービス体制、品質保証制度の事例を示したこと、
 が掲げられる。
 以下(㊳P134)より引用『~結果として、大震災による自動車交通の認知、それに伴うフォード、GMの日本進出が、最終的には日本の自動車産業を育てたことになる。不幸中の幸いは、震災では打撃を受けたものの、第一次世界大戦で日本は戦勝国側の一員に連なって、ある程度の豊かさを得ていたことである。』
独力では到底無理だった(と、個人的には思う)
 敗戦から僅か30数年後の1980年、日本はアメリカを抜いて自動車の生産台数世界一に大躍進した。もちろん中核となる自動車メーカーはじめ、すそ野の広い自動車産業に関係したすべての方々の努力の結果だったに違いないが、民間の力だけでは到底達成できなかったのも確かだ。陸軍や商工省/通産省による時には排他的な保護/育成策や、戦前フォードとGMが築いた基盤があってこそだったと、個人的には思います。しかしまず先に、“罪”の方から先に記していきたい。

13.1アメリカ車に敗れ去った純国産小型車のオートモ号(“罪”の部分)
 日本に進出したフォードとGMとクライスラーによって、すべての国産車が苦境に立たされた。軍用保護自動車3社が受けた打撃については、前回の記事(その③)の9.3項~9.8項に詳しく記し、この記事でも11.1-7で簡単に触れたのでここでは省略する。しかし陸軍の支援の無い、国産乗用車はさらに決定的な打撃を受けた。政府の支援が一切ないままに、タイミング的に“直接対決”を強いられたその代表的な被害例?として、当時の国産小型乗用車の象徴的存在であったオートモ号があった。
国産小型乗用車、オートモ号がもっとも甚大な影響を受けた
 オートモ号は日本人のための純国産小型乗用車を目指して、三菱の創業者岩崎弥太郎のいとこである豊川良平の長男、豊川順彌が、父から相続した莫大な私財を投じて設立した白楊社で生産された。この車の概要は、自技会の日本の自動車技術330選より以下引用する(web❻)
三菱財閥の重鎮の御曹司が全私財を注ぎ乗用車の量産に挑戦
『三菱財閥の重役豊川良平の長男順弥は子供の頃から、機械いじり、機械工作が大好きで、26歳の頃、辻啓信と共に白揚社を設立する。また発明好きでジャイロによる船の自動操舵の特許を取り、アメリカに渡り有名なスペリー社との交渉を始める。 一方自動車にも関心が深く、2年間の滞在中に大学にも出入りをし、自動車技術だけでなく、工場経営や機械工作も学ぶ。 大正6年(1917年)に機械輸入業も始め、蒔田鉄司を指導し、自動車の設計と製作を始める。 その製品第1号がアレス号であり、小型化したものがオートモ号である。 当初は空冷、後に水冷エンジンとしており、アレス号は小型から中型、オートモ号は小型のみである。 水冷エンジンのオートモ号はトヨタ博物館でレストアされ展示されている。』
コピーでなく純国産技術にこだわった
 コピーするのが当たり前の時代に純国産技術にこだわった点が、今までの国産車の取り組みと大きく異なっていた。あくまで日本と日本人に適した乗用車生産を目標に掲げ、莫大な私財を投げ打ち当時の国産乗用車としては異例の、約300台近く(トヨタ博物館と国立科学博物館の調査では257台;wikiより、トヨタ自動車75年史(web⓫-2)では230台、しかし自技会330選ではオートモ:230台、アレス(注;オートモ号の前身):500台?製作となっているが・・・)も生産された。
日本で最初に“本格的に”量産された純国産の乗用車
 国産量産乗用車として先行した三菱のA型(前回記事の5.6参照)よりも生産台数が圧倒的に多いうえに、純国産技術で作られた車であったため、こちらの方をしばしば「日本で最初に“本格的に”量産された乗用車」もしくは「日本の“純国産技術”で完成した初の量産乗用車」と形容されることがある(wikiより。他にも“国産車輸出第1号”の称号も持つ)。
フォードのKD生産時期と重なり解散に追い込まれる
 しかし既述のように不幸にして発売のタイミングが(1924年11月)、フォードのKD生産の開始時期とほぼ重なり、当然ながらフォードやシヴォレーに対しては価格/性能両面で全く歯がたたなかった。『1925~26年頃フォードの5人乗り幌型の価格は1,475円であったため、オートモの4人乗り幌型はそれより低い、原価割れの12.90円にならざるをえなかったのである。』(⑪、P73)こうして1台当たり1,000円の赤字が累積されていったという。この時期の国産自動車産業の自立を支援した陸軍には、日本の道路事情にあった小型車を育てようとする意志は全くなかったので、1928年、奮闘むなしく白楊社は解散に追い込まれた。このクルマに関しては、本でも(特に桂木洋二氏の④P107や㊶P19に詳しい)webでも数多く取り上げられているので、ぜひ参考にされたい。まとめとして以下(⑫、P65)だけ転記し、これ以上は割愛する。
引き際も潔かった
『フォード、GMが日本市場進出を果たした1920年代後半以降、日本の自動車工業は新たな段階に入っていた。日本自動車工業を確立するためには少なくとも日本フォード、日本GMに匹敵する経営体を構築し、量販量産体制を整備する必要があったからである。そのためには巨額の資金調達が不可欠であり、もはや橋本(注;ダットの)個人と支援者の出資金や豊川の父親の遺産ではとうてい賄い切れなかった。両者は自らの自動車工業確立に賭けた時代が終わったことを悟り、次世代の自動車製造業者にバトンタッチするため潔く引退した。』橋本増治郎と豊川順弥は二人とも、引き際も潔かったのが印象的だ。事業家としての“欲”の面で、多少淡泊な方だったのかもしれない。(ちなみにオートモ号の名前の由来は、豊川家の先祖の姓「大伴」と'Automobile'をかけて「オートモ号」としたそうだ。
多くの有能な自動車関係者を輩出した
 引用を続ける。『そして彼らが自動車工業の国産化のために播いた種子は、改進社のダット号が小型車の代名詞となった日産自動車のダットサンに引き継がれ、白揚社からは多くの有能な自動車関係者が輩出したように、その後の日本自動車工業の発展中で開花していったのである。』
(以上⑫、P65)⑫も触れているが白揚社がその後の日本の自動車産業への貢献の一つとして、人材育成面があげられる。以下はトヨタ自動車75年史より引用(web⓫-2)『白楊社には、のちに自動車業界で活躍する人々が多数在籍し、豊田自動織機製作所自動車部へは、池永羆(注;後にトヨタ重役)、大野修司(トヨタ自工副社長。ちなみにかんばん方式の大野耐一ではない)、倉田四三郎が入社した。』と記されており、トヨタが特に、その恩恵に浴した。日本内燃機(くろがね)を育てた蒔田鉄司も白揚社出身だ。
トヨタも恩を忘れなかった?
 トヨタもけっしてその恩を忘れなかったのか、国立科学博物館がオートモ号を復活させる際に、全面的に協力した。『この車の復元は大変だった。元の所有者・浦和の橋口医院から国立博物館に寄贈された時には、エンジンと変速機だけ。そこからのレストアだから、あらかたはトヨタ博物館製なのである。』(web⓲-4)下の画像は国立科学博物館に展示されているそのオートモ号で、wikiより)
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父、豊川良平は「三菱四天王」(豊川良平、近藤廉平、装田平五郎、末信道成)と称されていたという。前回の記事で紹介した国産量産車第1号の三菱A型は、三菱造船神戸造船所で製作されたが、三菱本社の指示によるもので、(⑤、P79)に『(三菱)合資会社の中枢にいた良平の意向があったことを思わせる』という記述がある。ただその後、軍部(主に海軍)の強い意向で自動車をあきらめて、飛行機製作に特化することになったとされている。
親子二代で別々の国産量産車にかかわった?
仮にそうであれば、親子二代で別々の国産量産車の第1号とされているものにかかわっていたことになる。さらにもし、父が在命で三菱が自動車作りを続行させていたら、あるいはオートモ号という”プロジェクト“自体も、三菱と微妙にかかわっていった可能性もあったと思うのだが・・・
(下の画像は「豊川良平 ・順彌親子と若き水谷八重子が乗るオートモ号」出典は“三菱グループ 三菱人物伝”(web⓫-3)より。https://www.mitsubishi.com/ja/profile/history/series/people/06/ )
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https://www.mitsubishi.com/ja/profile/history/series/people/06/img/img_02.jpg

13.2自動車部品産業育成の端緒を開いた(“貢献”その1)
 先に記したように功罪両面のあった中の、“罪”の部分はオートモ号で代表して終わりにして、次に日本の自動車産業の発展に役立った“功”(“貢献”と言い換えます)の部分の要約を(㉜、P63、⑬P118等より)もう一度確認しておく。
(1)地場の部品産業育成の端緒を開いた。 (2)コンベアーによる大量生産方式を日本で実践してみせ、近代的な生産システムの見本を示した (3)モータリゼーションの端緒を開き、市場を拡大させた。
 これらについては先にも記した通り、すでに多くの歴史研究家や経済史の研究者たちによって語りつくされており、webでも多く検索することができる。また特に、自分独自の考えがあるわけでもないので、ここは潔く?ほぼ全編にわたり、先人の研究者の方々の引用だけで済ませたい。まず部品産業の育成から始める。
市場が拡大し、補修用部品の国内調達が始まった
 掲記(1)の、地場の部品産業育成の端緒を開いたことの指摘だが、日本の自動車部品産業も、フォード、GMの純正サービス部品として採用されたいがために、技術と品質を磨き、次第に力を蓄えていった。以下引用⑲P43より『確かに完成車メーカーのレベルで見れば,GM とフォードは,揺籃期にあった日本自動車産業に壊滅的打撃を与えたことは事実だが,反面で日本の自動車部品産業を育てる点では大きな役割を果たしたのである。GM とフォードは当初は全部品をアメリカからの供給に仰いでいた。その後も(中略)部品輸入額は,車両輸入額を大きく上回り,フォードやシボレーの台数の増加につれて,ライン組つけ用だけでなく,補修用を含めた部品の国内調達の必要性が高まった。そして販売店に部品を供給する部品企業が生まれていったのである。』
品質要求が高く、両社の技術指導で部品産業が育成された
以下引用㊹P115より『しかし、我が国の当時の鋳造、鍛造、プレス、機械加工などの技術水準は低く、自動車製造用素材や部品供給市場は皆無に等しく、あっても品質水準が低かった。一方、日本フォードと日本 GM の要求技術水準は高く、両社により育成された自動車部品関係の工場は1929年時点でおよそ100社以上の規模に成長した。弛まざる努力のもとに技術水準を高め、蓄積された製造技術基盤が、後に我が国の自動車産業を発展させる土壌を形成したといっても過言ではない。』下請けの部品メーカーに対して厳しい品質管理を行い、品質保証制度の事例を示すことで、その後の国内自動車産業の発展に寄与した。
部品産業との分業関係が、後の国産車の大量生産体制の原型となった
 似たような文章ばかりになるが、それでも微妙には違うので、以下引用③P285より『日本GM、日本フォードのノックダウン生産は、アメリカ本国から送られてくるエンジン、クラッチ、トランスミッション、フロントアクスル、リアアクスル、フレーム、シャシー等と中小企業が製造するタイヤ、電装品、工具類・ベアリング・塗装・内張り等を組み立ててフォード、シボレーを完成車にした。すなわち、シャシーメーカと部品メーカの間に形成される自動車生産の企業構造がノックダウン生産方式を発展させたが、この生産の分業関係は、トヨタ自動車、日産自動車の大量生産体制の原型ともなった。』
販売店に部品を供給する国内部品企業が育った
超手抜きで引用の4連発目になり、話も前後してしまうが、以下は(web□32、P43)より『確かに完成車メーカーのレベルで見れば,GM とフォードは,揺籃期にあった日本自動車産業に壊滅的打撃を与えたことは事実だが,反面で日本の自動車部品産業を育てる点では大きな役割を果たしたのである。GM とフォードは当初は全部品をアメリカからの供給に仰いでいた。その後も表 6 に見るように部品輸入額は,車両輸入額を大きく上回り,フォードやシボレーの台数の増加につれて,ライン組つけ用だけでなく,補修用を含めた部品の国内調達の必要性が高まった。そして販売店に部品を供給する部品企業が生まれていったのである。日本フォード,日本 GM 本社は,国内調達部品に関しては厳しい検査を行ったが,このことが日本の部品企業の技術水準を大きく向上させることとなった。』13項は自分の考えを示すわけでなく、あくまでガイダンス役を果たすつもりだったが、それにしても、重複部分が多くなってしまった!
部品生産の拡大が関連分野の企業の拡大を生んだ
 しかし懲りずにさらに引用を続ける。『部品企業の拡大が,さらに鋳鍛造,機械加工,板金,メッキといった関連分野の企業数の拡大を生むこととなった』以上のように『部品メーカーの育成については、両社はまず補修部品メーカーを育て、ついで組付部品メーカーを育てた』(⑬P118)。
フォードとGMの進出で成長した企業の代表格がブリヂストン
 そしてフォードとGMの進出できっかけを得て、その流れに乗って大きく成長した企業の代表例に、ブリヂストンがあった。以下ブリヂストン(以下BSと略す)のHPの企業の歴史がもっとも詳しいので主にそこからの引用(web⓫-4、⓫-5)+⑫と㊱からの補足です。
 まずBSのタイヤ国産化への挑戦は、欧米諸国におけるゴム工業の主力製品の自動車タイヤへのシフト(⑫、P203参考)という先を見越しての事業展開であったとともにともに、目前に迫る「地下足袋の実用新案権の期限切れ」(㊱、P175)があったという。説明は略すが当時のBS=地下足袋の会社だった。以下(web⓫-4)より『日本足袋会社の創案は、1923年10月実用新案登録番号第80594号、第80595号として権利が確定。関連する実用新案を買収し、初めて商品として価値あるものにする現実的で独創的な考案でありました。こうして1923年1月から販売を開始しました。これが「アサヒ地下足袋」の誕生です。地下足袋というネーミングは商品の名前でしたが、今日では普通名詞として使用されるまでになりました。』特許切れでさらなる乱売が予想されたようだ。
純国産タイヤ生産のハードルは高かった
以下もBSのHP(web⓫-5)から足跡をたどるが、タイヤ事業を立ち上げようにも、『日本にも拠点を置いた自動車メーカーの品質検査は厳格で、国産タイヤが新車用として採用される見込みは当時ありませんでした』。技術的なハードルはきわめて高かったが、『苦労を重ねた末、自動車タイヤが完成したのは1930年4月9日午後4時。ついに第1号の「ブリヂストンタイヤ」が誕生しました。小型の乗用車用タイヤでした。』以下は(㊱、P181)より『創立直後のブリッジストンタイヤは、国内の自動車市場を支配していた日本フォードや日本GMの要求する技術水準を満たすことが出来ず、新車組付用として製品を供給することができませんでした。』
市場開拓の中心は補修用タイヤにおかれた
『そこで、市場開拓の中心は補修用タイヤにおかれ、その代理店の獲得が重要な課題となりました。』そこで市場の信頼を得るため、BS(石橋正二郎)は大胆な販促手段に出る。『タイヤ販売に当たっては、消費者に対する誠意のこもったサービスを理念として掲げ、製品の故障に際しては無料で新品と取り替えるという徹底した品質責任保証制を採用しました。』そして『社長の石橋正二郎、技師の松平以下全技術者が製品の品質改良のために血のにじむような努力を重ねました。(中略)努力が功を奏し目標は着々と達成され、不具合・返品は次第に減少し、1932年1月には商工省から優良国産品の認定を受けました。』
次第に力をつけてフォード、GMの納入適格品として認められる
そして『優良国産品の認定を受けた1932年に米国フォード本社の試験に合格し日本フォード自動車の納入適格品として認められ、さらには日本ゼネラルモータースからも採用される資格を得るなど、当社製タイヤの品質向上を証明できるようになってきました。しかし、フォードとゼネラルモータースから得た新車用タイヤとして採用される資格は、直ちに納入を実現させるものではありませんでした。』過程は省略するが幾多の努力の末に、次第に外資系企業の牙城を切り崩し、日本ゼネラルモータース、日本フォードへの新車用タイヤの納入に大きな実績を上げた(web⓫-5を要約)という。さらに『1932年、フォード本社の製品品質試験に合格したことは輸出の自信を深める機会となりました。』
輸出への自信も深める
輸出も視野に入れていたのだ。“ブリッジストンタイヤ”という名称自体が輸出を考慮したものだったという。
BSが戦前の末期に辿った道筋は、戦後の高度成長期に日本の優れた製造業がたどった道と重なってくる。そしてひとつの道しるべとなったのは、日本フォードと日本GMだった。下はBS発祥の地であるJR久留米東口に常設展示されている世界最大級のタイヤ。BSは今や「タイヤ業界のグローバル売上ランキングで、2008年から世界No. 1 を継続中」という。画像の出典は以下です。https://loveinmycar.com/tire/japan-tire-maker/
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強調文https://loveinmycar.com/wp-content/uploads/2018/04/f394530caeba25cfc920766cd6f381b5.jpg

13.3産業分野における波及効果は限定的だった
 しかしその一方で、ビッグスリーの進出はあくまで組立中心の、ノックダウン生産であったため、日本の自動車産業及び産業界全体に与えた波及効果はやはり薄く、限定的だったとの指摘もある。前項13.2を半ば否定することになるが、この項も安直に、webからコピーしたものを安直にペタペタ貼るところから始めたい。まずは(web□35)からの引用で、
実質的には日本での国産ではなく、純然たる輸入車だった
『ここで重要なのは、フォード、GMとも日本での現地生産を開始したとはいえ、両社ともあくまで「輸入車」にとどまった事です。現在の日本車が世界中で生産しているのとは違い、当時の日本には現地でフォードやGMが求めるレベルの精度で自動車部品を大量生産できる工業力がありませんでした。日本の工業は小規模な家庭内工業レベルにとどまっており、職人芸として優れた製品を作る能力はあっても、それを機械を使って大量生産する技術も無く、マトモな工作機械の国産など第2次大戦に敗戦するまで実現していません。そこで、部品を100%輸入して日本は単なる組立工場とする「ノックダウン生産」を採用しました。
関東大震災の前から、シャシーだけを輸入してボディは日本で架装する事が広く行われていましたが、大量生産のためボディも本国で大量に作って部品単位で輸入したのです。
完成されたクルマを輸入するより部品の方が安かったのですが、日本では組み立てるだけなので、実質的には日本での国産ではなく、純然たる輸入車だったのです。』
前項の議論を否定するようだが、確かにボリュームとしてみた場合には、国内産業全体に対しての寄与度は小さかったとも言えそうだ。以下㊹P38より引用。
『このようにして日本国内には自動車が急激に普及した。しかし、自動車産業への波及効果は思ったほどではなかった。確かに自動車の普及にともない、修理用部品の需要が増え、従来型の販売店の小規模な部品生産は淘汰され、専門メーカーが誕生し始める。
 だがこれらの部品は価格で輸入品より二割ほど安かったものの、品質で劣るため、組み立て工場用の供給部品としては、限定的な活用しかされなかった。そうした点で、フォードとGMの日本市場進出は、自動車の普及を急激に促した一方で、国内自動車産業への波及効果は限定的だった。
 一九二九年の調査によると、日本フォードが国内に発注した材料費・部品費は、乗用車で七七円二九銭、トラックで一〇三円〇二銭で、卸売価格で比較すると、それぞれ五・二%と六・七%に過ぎなかった。そしてこの傾向はGMでも変わらなかった。』

 確かにフォードもGMも日本で大規模な設備投資は行わなかった。しかし後年、フォードが日本への定着を図るため、より大規模な設備投資に乗り出そうとすると、今度は②のNHKドキュメント『アメリカ車上陸を阻止せよ』のように、陸軍により徹底阻止されてしまうのだが。 
(下はトヨタ鞍ヶ池記念館に展示されている、トヨタ最初の乗用車のトヨダAA型で、画像はwordpress.comより。以下は(web□36)より『喜一郎は自動車の開発にあたり、2つの方針を固めていた。「開発はアメリカの優れた部品を利用できるものは、利用することからはじまった。 エンジン、フレーム、ボディ関係部品はシボレーのものを、シャーシ及び駆動関係部品はフォードの純正部品をそのまま利用できるようにした。当時は、満足な国産自動車部品がなかったため、ユーザーのメンテナンスの利便性を考えて、保有部品の揃った外国車との互換性を保つことにしたのだ。』当時このAA型と、フォードとシヴォレーのパーツとの互換表まであったという。きわめて合理的な考え方に基づいて作られていたのだ。しかし制作に携わった池永羆は(P48、P82)の座談会で『~最初の設計は、これらのものをごっちゃにしたものでした。エンジンもシャシとともに完全なスケッチですから、設計というようなものではありません。』とそのレベルを正直に語っている。)

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https://checkmate77.files.wordpress.com/2015/06/51d89-11325200_1587062234901909_12.89400446_n.jpg?w=376

この主張のとどめとして?webCG(web❼-4)より引用する。
『日本で自動車のノックダウン生産が始まったのは、1925年のことである。1905年に日本への輸出を開始したフォードが、アジア最大の経済大国の市場を重視し、横浜に「T型フォード」の工場を建てて現地生産に乗り出したのだ。部品はすべて本国アメリカから運び、横浜では組み立てのみを行った。当時の日本の技術水準では、精度の高い部品を製造することはできなかったからだ。1927年にはゼネラルモーターズ(GM)もシボレーのノックダウン生産を開始する。日本の自動車市場は、またたく間にフォードとGMに席巻された。道を走る自動車は増えてきたものの、そのほとんどはこの2社の製品だった。フォードの横浜工場は年産1万台の規模に達し、輸出も行うようになる。それでも日本は組立工場として利用されているだけであり、自動車の製造技術を学ぶことはできなかった。この状況に危機感を持ったのが、トヨタの創業者・豊田喜一郎をはじめとした、黎明(れいめい)期の自動車開発者だった。彼らは国産乗用車の実現を目指して研究に没頭する。商品が完成し、ようやく国産車の生産が軌道に乗りかけた頃、日本におけるフォードとGMのノックダウン生産は終了した。日米関係の悪化を受け、両社の工場は操業停止を余儀なくされたのだ。』
 かつてもっとも愛読した雑誌を源流に持つメディアに対して、あまり否定的なことは書きたくないが、それにしてもこの評論は、著しく公正さを欠くと思う(CGも「地に落ちた」と書こうと思ったがそこまではやめました。)前半部分はご説ごもっともだと思うが、全体的に説明があまりにも足りないと思う。
商工省と陸軍が果たした役割
 この記述には商工省が主導した自動車製造事業法+陸軍の圧力で、フォード/GMの2社が開拓した国内自動車市場で圧倒的なボリュームゾーンであった、いわゆる“大衆車市場”向け自動車の製造をトヨタ、日産の“2社だけ”に“許可”し、 外資系は生産台数の制限から始めて、数年かけて生産中止に追い込み、市場を国内2社に独占させたうえで“国産自動車産業を確立”させようとした全体計画が、ごっそり抜け落ちている。
そして強制退場させられたビッグスリーが日本に残した販売/下請け部品網/それらの管理体制や、マーケティング含む経営ノウハウ、そして人材など一切合切が、戦後の日本車の成長の礎になったという“功”の部分も公平に記しておくべきだと思う。国産車が市場で競争していたのではないかと、錯覚している人のために以下は(③、P268)より引用
『~ 一体GM、フォードと何年ぐらい対抗して自由市場の経済に基づいてトヨタ自動車が競争を行ったのであろうか。志那事変が勃発し、準戦時統制経済に入るや事業法が統制経済立法として機能し、国策のもとに許可会社を統制することになるが、この時期にGM、フォードと対抗してトヨタ自動車、日産自動車は自由市場の原理に基づいて競争し、経営を発展させていたのであろうか。』(以下㊻、P12.8)
 自動車製造事業法の許可会社の2社に選別されることこそが、トヨタと日産にとって、国産自動車産業を成立させるための前提条件だったのだ。
トヨタも許可会社の指定をうけるため周到な準備を積み重ねた
 トヨタはそのための準備を怠らなかった。『豊田喜一郎は許可会社の指定をうけるため、自身の住居を東京に移したり、豊田英二に東京芝浦に自動車研究所を開設させたり、トラックと乗用車の生産実績を挙げるなど、周到な準備を積み重ねたのである。鮎川は外資との提携を模索するなどの活動があったため、岸は陸軍に許可を得たのであろう。当初、自動車の年間需要を推定して許可会社を 2 社にしぼった』(web❿、P116)。もちろん軍・官・民で示し合わせた上での話だったが、陸軍を後ろ盾にした統制経済下だからこそ可能の話だったのだ。
 さらに追記すれば、戦前の日本の自動車市場は確かにアメ車の植民地だったが、今まで記してきたとおり(前編の11.7参照)、当初は日本人が財界(財閥)や軍部まで含めてフォードとGMの日本進出を歓迎し、受け入れたからこそ市場も拡大していったのだ。
無から有を生む
 自動車製造事業法については、この記事の2つ後の記事で詳しく記したいので、ここではNHKドキュメントの②から、ほんのさわりだけを引用し、終わりにしたい。
 この法律の生みの親であった商工省の岸信介局長(当時は国家経済主義の“革新官僚”と呼ばれていた。いうまでもないが戦後首相となり、安倍前首相の祖父でもあった)は(②)のNHKの取材を受けて、インタビューで以下のように語っている。(②、P71)より転記する。
『「無から有を生む」
- まず、岸さんから見て、当時の状況はどうでしたか。
岸 私はトヨタの第一号車に乗ってみたが、これがどうもねー、今日の姿など想像もできなかった。
(以下省略)』そして岸が残した以下の言葉がすべてを物語っている。岸は②で『ほとんど無から有を生ぜしめるような形で、自動車工業を作る』(②、P72)と語っている。
さらに(②、P182)からの引用だが、元トヨタ自販の社長だった加藤誠之は内部関係者の証言として当時の事情を以下のように語っている。『自動車製造事業法による許可会社は、豊田自動織機の自動車部と、日産自動車の二つがなったわけですけど、許可会社となっても、製品そのものは本当に幼稚なものだったんです。形はなるほど立派だけれど、内容は当時のシボレー、フォードのトラックとはだいぶ異(こと)にしていました。材料的にも違い、強度も違っていました。形はよく似ていても、それだけの差がありました。』
フォードの基幹部品生産を阻止したのはそもそも日本
 さらにwebCG(web❼-4)の『日本は組立工場として利用されているだけであり、自動車の製造技術を学ぶことはできなかった。』という主張に対しては2点、突っ込みを入れておきたい。
確かにCGの主張はほとんど事実だと思う。そもそも日本フォードの支配人であったベンジャミン・コップが『日本では部品が海外に輸出するまで進歩したから、最早大衆車を造ることも容易である、と謂う人があるが、それは大きな間違ひである。まだ重要な部品は一つも出来ていないではないか』(⑪、P347)といっていたぐらいだ。しかし元々は、フォードが基幹部品の生産まで日本で行おうと動いたとき、NHKドキュメントの②が記したように、日本陸軍がその本格的な“上陸”を阻止した結果でもあったのだ。
大財閥も動けなかった
 別の視点にたちもう1点、記しておきたい。仮に陸軍と商工省が、ヒトラーが「豚は太らせて食え」的に立ち廻ったように日本も、フォードが部品まで製造しようとしたときそれを阻止せずに、基幹部品を国内生産させたうえで、戦時体制下の強権でそれらも全部接収しようと考えていたならば、今度は自動車産業への進出を躊躇していた三菱のみならず、三井、住友らの大財閥も黙っていなかったはずだ。事実、自動車製造事業法立法化の前後には、手のひらを反すような動きもあったのだ(次の次の記事で記す)。
設備投資や技術面でのハードルが高かったからこそ、大財閥はさんざん渋ってきたわけで、お膳立て(設備)ができていれば、また違っていただろう。当初はリスクが高かったからこそ、日産や豊田のような新興/地方財閥にも商機(勝機)が見出せたのだという視点も必要だと思う。単純な話ではないのだ。
豊田喜一郎や鮎川義介にとっては、(旧)大財閥に打ち勝つための、ピンポイントの大ギャンブルであったと思う。もちろん賭けに勝った二人が偉大だったと言えるのだが。
陸軍による外資系の徹底した排除
 さらにもう一点、歴史上隠された重要なポイントを追記しておきたい。
 自動車産業政策を主導した陸軍/商工省(敗戦時は軍需省だった)のうちの、特に日本陸軍は、フォードに大規模な設備投資を許さず、GM、フォードとの提携も一切許さないなど、「国防上の理由」を盾に『外資系会社の完全排斥を狙っていた』(㉔、P28)。そして日本との関係維持の手掛かりになりそうなものを徹底的に除去した。
その政策に合理性があったかは不明?
 この外資の大規模設備投資すら阻止するという頑迷さは、『外国メーカーはこの政策意図を理解するのに苦しんだ』(⑪、P211)という。『日本フォードが陸軍省、商工省の反対にもかかわらず、工場建設に対し楽観的立場を取っていたのは(中略)国産部品工業の確立に寄与すると考えていたからであった。』(⑪、P289)『このことは、閣議決定を知ったとき、ヘンリー・フォードが叫んだといわれることばに象徴されている。“Japanese people are not so stupid”「日本人は、それほど馬鹿ではない」』(②、P119)。wikiによれば『ヘンリー・フォードは、「自動車産業の育成は甘いものではなく、フォード工場を受け入れた方が多数の熟練工が得られて戦時の日本にもプラスになるはずだった」との書簡を残している』という。
 当時の敵国であったヘンリー・フォードがいみじくも指摘したように、この日本陸軍が一貫して行った政策が、陸軍の”本業”であった肝心な戦争遂行において、果たして有利に働いたかどうかは不明だ。さらに戦前の国内自動車産業の立ち上げに限ってみても、webCG的な主張のように、それらを接収してしまえば、生みの苦しみはより減っただろう。
しかし戦前と戦後を区切らずに、より長いスパンで戦前~戦後を一連の流れとして捉え、現在に至る日本の自動車産業史全体を俯瞰すれば、今日の隆盛は、以下に記すように戦前の陸軍による一見不合理な政策の結果、もたらされたものであることも、厳とした事実だと思う。“結果オーライ”だったのだ(多少私見です)。
仮に”不合理”であっても戦後の“再占領”を防いだ
 フォードとGMは、”豚を太らせる”政策だったヒトラー後の西ドイツと違い、戦後日本に戻ろうにも再生産するための拠点を失ってしまい、そのためアメリカの占領下にありながら、戦後の日本の自動車市場を“再占領”するきっかけも失ってしまったのだ。
 確かに終戦直後は、アメリカの国内市場が作れば売れる状況の中で、焼け野原で再起不能のように見えただろう日本市場に、フォードもGMも興味は全くなかったと思う。しかしそれでも、足場となる拠点が残っていれば、朝鮮戦争勃発のころになれば欧州の子会社で生産していた小型車を持ち込むなど、日本の復興に歩調を合わせて何らかの事業展開をはかっていった可能性は十分ある。(なお「国防(ナショナル・ディフェンス)」を盾に『フォードが日本から追い出されるとき、アメリカは国家としてほとんど援助しない』が、ヘンリー・フォードとルーズベルトとの冷たい関係(フォードは統制色の強いニューディール政策を徹底無視した)にも一因があったとの指摘があることも追記しておく(②、P215、P150)。ルーズベルトは日本に戦争を仕掛けたかったと思われる中で、この時のアメリカ政府のスタンスには不明な点も多いと思う。フォードによる大規模設備投資は戦争を前に、敵に塩を送るようなものでもあったからだ。ちなみに日本とフォードとの交渉にも関わった日米開戦時のアメリカ大使のジョセフ・グルーの、離日前最後のゴルフ相手は岸信介だったという。画像は「NHKスペシャル『戦後ゼロ年 東京ブラックホール』が映しだした世界」よりコピーさせて頂いた。https://www.chosyu-journal.jp/review/4561 )
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トヨタ、日産とフォード、GMが戦後初期に提携していた可能性
 あるいはトヨタ、日産との資本提携を通じて、占領下の強い立場で“手足”として使いながら、日本市場の“再占領”を試みたかもしれない。その際占領下にあった当時の通産省では、手出しはできにくかったはずだ。
 このことは日本人の側に立てば、自動車産業の「再植民地化」を防いだ日本陸軍の果たした非常に大きな“功”の役割で、自分がこの一連のタイトル(「日本の自動車産業の“育ての親”は日本陸軍だった?」)の記事を書こうと思った大きな動機になっているのだが、自動車産業の“日本史”に無知な(失礼ながら!実際には先刻承知済みだが敢えて書かないのだと思うが)今どきの自動車メディアに欠けている視点だと思うので、次の次の記事でより詳しく記していきたい。商工省/通産省のみならず、日本陸軍抜きに、日本の自動車史は語れないのだ。
 以上は、『戦前のフォードとGMのノックダウン生産は、日本の自動車産業にほとんど恩恵を与えなかった。』(web❼-4)と断じ、フォードとGMに対しての“敬意”が全く感じられないwebCG及びGAZOO
https://gazoo.com/feature/gazoo-museum/car-history/14/04/18_1/
の記事とは180度観点が異なる、まったくの私見(妄想)でした。
フォードコンサルが、クラウン役を担った可能性
(下の写真はフォードの英国子会社製の、1950年型のフォード コンサルで、1,500ccの4ドアセダンだ。1950年製の小型車としては世界基準で見ても、モダーンなデザインだ。元々右ハンドルだし、トヨタの手で悪路対策として各部を補強すれば、日本向きの、適当な大きさのクルマだっただろう。本国では日産がKD生産したオースティンのライバルだった。
戦前既にコンタクトのあった(詳細は次の次の記事で書くので略すが)トヨタとフォードだが、戦後もトヨタが苦境にあった時期に、再度接触の機会があった。以下(㉓、P133)より引用する。
『~生産技術を含めて、日本の自動車技術の遅れを今さらながら喜一郎は痛感していた。そうした思いが、引退直前にアメリカのフォードとの提携を模索する行動となって現れたようだ。小型乗用車であるフォード・コンサルを、提携して日本で生産する計画だった。(中略)戦前にもフォードと提携する動きがあり、戦後も1947年にGMとの提携が模索されている。したがって喜一郎時代のトヨタは、必ずしも純国産でいくという方針を貫く姿勢だったわけではない。自主的に車両開発をする意思を強くもってはいたが、それをかたくなに守ろうとするだけでなく、アメリカから学ぶべきところは学び、それをもとに日本の技術水準を上げて、やがては世界に伍したものにしようという考えだった。』この時のフォードとの提携の話は、『朝鮮戦争のあおりで(中略)アメリカの国防省が海外投資と海外派遣を規制したため』破談となったが、日本国内にフォードの拠点が残っていたら、また別の展開になっていたと思う。
もし陸軍が“徹底排除”していなかったら、戦後の混乱期にトヨタとフォードが資本提携して、フォード・コンサルを国内生産して、このクルマが“クラウン”の役割を担った可能性だってけっしてあり得ない話ではなかったのだ。写真は以下のサイトからコピーした。
https://www.autoevolution.com/cars/ford-consul-1950.html#aeng_ford-consul-1950-17

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https://s1.cdn.autoevolution.com/images/gallery/FORD-Consul-2526_4.jpg
マクファーソン・ストラット式サスペンションを始めて採用したフォード・コンサル(余談)
(以下は脱線してまったくの余談となります。このクルマは、現在主流のストラット式サスペンションを採用した最初のクルマでもあった。以下はストラット式サスペンションの歴史について(昔は考案者(Earle S. MacPherson)の名前にちなみ、マクファーソン・ストラット式と呼ばれていた)少し長いがwikiより引用『~ マクファーソンは、この簡略なサスペンションを考案した当時、ゼネラルモーターズ(GM)のために働いていたが、GMでは既に1930年代から採用して実績のあるダブル・ウィッシュボーン式独立懸架に信頼を置いて、マクファーソンの新型サスペンションの提案を顧みなかった。これには、初期の独立懸架方式の一つであるデュボネ独立懸架を「小型車向きな方式」と判断して1934年型シボレーの前輪に採用した結果、大失敗に終わったという苦い経験が影響していたともいわれる。GMの冷淡さに不満を抱いたマクファーソンは、GMを去り、競合メーカーのフォードにこのアイデアを持ちこんだ。フォードもこの新方式をアメリカ本国の大型車に使うことには躊躇したようであるが、コンパクトな構造が小型車に適していると判断され、子会社であるイギリスのブリティッシュ・フォードの新型車にこれを導入することにした。モダンで機能的なフラッシュサイドボディと新型エンジンに加え、前輪独立懸架にマクファーソン・ストラットを採用したブリティッシュ・フォードの1500ccサルーン「コンサル」が発表されたのは、1950年である。保守性の強い英国製サルーンの中では革命的だったコンサルのメカニズムの中でも、その簡潔でコンパクトな前輪独立懸架は、ウィッシュボーン式独立懸架が大勢を占めていた1950年代初頭の自動車界に大きなインパクトを与えた。』
 ここで話を戻すと、しかしコンサルは、日本でタクシーとして使われると、たちまち馬脚を現したという。以下(web⓲-5)より『その頃イギリスでは100%舗装だと聞いて感心したものだが、そんなところで生まれたコンサルのサスペンションは、名だたる日本の悪路を走るとたちまち馬脚を現した。斬新なマクファーソンストラット上部が固定されたボディー側に亀裂が発生する。どのタクシーもボンネットを開くと、その部分が丸く厚い鉄板の溶接で補強されていた。』やはり各部の大幅な補強は必要だっただろう。そしてその役割を、中村健也が担ったのかもしれない。それでもゼロスタートで作ったトヨタ・クラウン以上に、日本人&日本のタクシー市場に適した車に仕上がったかどうかは、多少疑わしいが。下は言うまでもなく、クラウンの写真です。「名車文化研究所」さんよりコピーさせて頂いた。 https://meisha.co.jp/)

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https://meisha.co.jp/wp-content/uploads/2019/10/171-9p01-1-1.jpg
国産車がどうにか“一人前”に成長したのは戦後
 話を大元まで戻す。国産の自動車が様々な努力の末に、どうにか“一人前”に成長したのは、戦後に入ってからだった。戦前の短い期間だけではどうしても、時間が足りなかったのだ。
『朝鮮戦争による「特需」は日本の自動車工業に再起のチャンスを与えた。~1949年から自動車工業のみならず、重要産業の国際競争力強化のために「産業合理化」という目標が掲げられた。』(⑪、P371)そして最大の弱点だった素材等の改善も解決に向かい、戦前は間に合わなかったが、トラックを例にとれば『1950年代半ばまでには品質の問題がほぼ解決され、価格競争力も輸入代替ができる水準まで向上した。』(⑪、P397)
 地味な話だが戦前~戦後と連綿と続いた、官民一体となり必死に取り組んだ、競争力強化策とその成果についても、次の次の記事(完結編?)で取り上げたい。(下は(web□21-5)から引用させて頂いた、1958年型いすゞTXディーゼルトラックのカタログで、TXは戦前から長く続くシリーズで、当時の日本の代表的なトラックの1台だ。ちなみに前年の1957年の日本車の生産台数は18.2万台で、そのうち乗用車は4.7万台で、まだトラックの方が多かった。しかし輸出も6.6万台になり、日本車も徐々に国際的な競争力がついていった。)
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https://stat.ameba.jp/user_images/20150517/15/porsche356a911s/05/49/j/t02200165_0800060013309610877.jpg?caw=800
まとめ(=13.2+13.3!)
 さて、またまた大きく脱線したので元に戻すが、13.2項と13.3項で矛盾するような内容になってしまったのでここで整理しておきたい。結局のところ、自動車産業というものに、どこまで期待するかだと思うが、バランスの良い?論評の桂木洋二(⑮、P165)と牧野克彦(㉜、P63)両氏を中心にまとめれば、フォードとGMの進出により、自動車の保有台数が増えたため、補修用を含めた部品需要が増えて、それに伴い自動車部品製造を活発にさせた。『その後、フォードは日本でつくられる部品を積極的に使用するようになって、部品メーカーを育成することに力を貸した。採用されるには、フォードの厳しい検査に合格しなくてはならないから、日本の自動車関連の技術レベルが向上していった。』(⑮、P166)。『日本フォードは現地調達の方針をとり、タイヤ&チューブ、バッテリー、スターター、ダイナモ、点火コイル、電球、ハーネス、バンパー、工具、エアクリーナー、シートスプリング、室内内張、ガラスなどで日本の部品メーカーを指導しながら育成し、購入した。(中略)米国の2社が撤退した後、日産、トヨタが国産乗用車の生産を拡大したがその露払いをしたことになった。』(㉜、P63)
『フォードやシボレーに使用される国産部品や材料の占める金額は10%程度にも満たなかったが、補修部品の需要の拡大で、部品メーカーは生産技術に関しても、開発技術に関しても、次第に力をつけていった。』(④、P151)
 そして部品メーカーとの『生産の分業関係は、トヨタ自動車、日産自動車の大量生産体制の原型ともなった。』(③P285)
 しかしその一方で、その“期待の大きさ”によるが、両社がもたらした産業規模自体は、すそ野の広い自動車産業として想像されるほどには、大きいものではなかった。基幹部品は全て輸入されていたためで、そのためwebCGやgazooが強く主張するようにこの時点では、エンジン製造や車体製造といった、量産車の肝となる高度な製造技術が、日本に伝授されることはなかった。

13.4近代的な生産システムの見本を示した(“貢献”その3)
 この項も深く考えることなくペタペタと、研究者の方々の論評を引用していく。前項のように異論もないので!?まずは(㉜、P63)より
『~ コンベアーによる大量生産方式を日本で実践してみせ、近代的な生産システムの見本を示したことにある。この5年後には、日産が初歩的な量産工場の創業に入っている。』(㉜、P63)以下は(⑪、P91)より
米の2社は、近代設備のシンボルとしてコンベア・ラインを盛んに宣伝した
『アメリカでのフォードの飛躍的な成長やそしてその最も特徴的な設備としてコンベア・ラインは日本にもすでに知られていた。さらにフォードも工場見学者に、近代設備のシンボルとしてコンベア・ラインを盛んに宣伝した。そして、当時はフォードやGMの組立工場の高生産性=低コスト=低価格車の供給が可能になったのはこのコンベア・ラインなどの設備によるものと認識されていた。』コンベア・ラインは近代化の一つの象徴だったようで、先の11.1-7に記したように、『それまでの日本にはなかった大規模な機械工場として評判になり、自動車工場の関係者はもとより皇族・政治家などの工場参観も相次いで行われた』(⑪P89)という。
日本のKD生産に於いてはコンベア・ラインが低コストを実現させたとは考えられない
 しかし、⑪(「日本自動車工業史―小型車と大衆車による二つの道程」呂寅満)の考察によれば、『当時の組立台数や工程を考えると、こうした設備がただちに低コストを実現させたとは考えられない。』(⑪、P91)という。その理由として、『当時両社の組立費明細表(注;下表)を見ると、まず、日本で消費されている金額が原価に占める比率は10~15%にしか達しておらず、しかもその中で設備投資によって節約されうる工賃や間接費はその半分にもなっていなかったからである。』(⑪、P91)
(表13:フォードとシボレーの組立費明細(1929年推計):⑪P92より転記))
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低コストの真の源泉はKD生産に用いられる部品が製造される本国の生産工場側にあった
『要するに、組立車の低コストの真の源泉は、「組み立てられる」日本の組立工場ではなく、それに用いられる部品が「製造される」アメリカの生産工場にあった。組立工場のコンベア・ラインも、アメリカで見られるような作業統制という意味よりは、単純に運搬の効率性のために設けられていた』(⑪、P93)。
下に前回の記事の9.4の表6を下に再録しておく。ご覧いただければわかるとおり、フォードもGMも日本で高い利益率と大きな利益を得ていた。
(表6:「日本フォードと日本GMの経営成績(1925~1934)」(「日本の自動車産業経営史」宇田川勝(㉔)P30より転記))
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コンベア・ラインに話を戻すと、両社にとって大きな宣伝効果と、日本の産業界への刺激にはなっていたと思う。

13.5近代的な自動車販売システムを日本に定着させた(“貢献”その4)
 フォードとGMが良品廉価な自動車を、全国津々浦々に展開した販売・サービス網に乗せて大量供給したことで、関東大震災後の需要の拡大に乗り、揺籃期にあった日本の自動車市場を一気に開花させた。両社の日本進出がモータリゼーションの端緒を開いたことは既に12項等で記してきた。ここでは以下の、フォードのトップディーラーであったエンパイヤ自動車のHPからの引用(web⓴-2)のみにとどめておく。
販売量の多かったバスもフォード、シヴォレーが多かった
『エンパイヤ自動車が記録した年間1100台(注;⑫P38によれば1935年と思われるという)の販売は、乗用車とトラックが半々であった。乗用車はタクシー用、個人は商店主、社長、それに宮家やお屋敷といわれる階層で、トラックは運送会社、個人商店、会社用である。トラックにバスボディーを乗せたバスの販売も盛んだった。今の東急の前進で東横乗合自動車、東武鉄道バスをはじめ、中小のバス会社がたくさんあった。』
人力車、乗合馬車の代替え輸送機関としてタクシー、バスが急速に普及していったが、当時のバスは、円太郎バスのように、フォードやシヴォレーのトラックを転用した小型の大きさのものが多用されていた。つまりバスもまた、フォードとシヴォレーが多数派だったのだ。
 次にこの項の本題である、フォード、GMの導入した近代的な量販体制とは具体的にどのようなものだったかについてだが、これについても、特に自分の考えというものは無いので、⑪と⑭とweb❶、❿等、有識者の評論をそのまま参考にして記していく。まずは概要から。

13.5-1アメリカ式販売システムをそのまま日本に導入
 フォードとGMは日本での販売網構築にあたり、アメリカン・スタイルであるフランチャイズ・システムをそのまま導入し,日本全国及び満州、さらには朝鮮、台湾に至るまで販売、サービス網を展開し、大量生産に見合う大量販売体制を定着させていく。そのフランチャイズ・システムというものの中身を超簡単に箇条書きするならば(以下⑭、P15)、
・専門販売地域の設定
・契約メーカーの製品のみを販売
・販売量は1年または5年間といった年間契約とし、期間の到来ごとに契約を更新する
という内容であった。『両社は本国において展開したディーラーシステムをほぼそのまま日本に持ち込んだ。他メーカー車輛の販売を禁ずる専売制、テリトリー制、キャッシュ・オン・デリバリー制、責任販売台数、ショールーム規模、展示台数、整備工場設備などが厳しく規定され、極めて自動車メーカー優位の専制的なシステムであった。』(web❿、P81)
旧来の日本の商慣習を一切無視したため、反発もあった
 このような販売システムは、旧来の日本の商慣習を一切無視した内容だったため、『当然のことながら一部業者から反発が起きた。例えば、GMの進出の前にはGMの全車種を梁瀬自動車が取り扱っていた。進出と共にGMは、シボレーについては1県1店主義の方針だったため、梁瀬支店が存在していない地域には新たに販売店を設けることを主張したが、梁瀬はそれに反発して全車種の販売権を放棄してしまった。』(⑪、P96)今までこの記事でさんざん見てきたが、梁瀬長太郎氏はきわめつけの頑固者で“仁義”を重んじる。相手がGMだろうが筋を曲げない明治の人間だった。
アメリカにおけるフランチャイズ・システムの生成過程(余談)
 日本の舞台に移る前に、⑪からの引用で、アメリカにおける生成過程についてみていく。以下(⑪、P93)からの引用
『アメリカにおける初期のディーラー制度=フランチャイズ・システムは中間流通業者を介した開放的なものであったが、1920年代に入ってメーカーがディーラーを支配する関係に変わった。その際にディーラーを拘束する次のような条項が契約に含まれるようになった。すなわち、排他的専属関係、販売台数割当、販売方法・地域、ディーラーの投資額基準などである。このシステムは、20年代初頭の不況期にディーラーへの新車の押し込み割当を実施したフォードに典型的に見られたが、20年代後半から30年代にかけて中小メーカーにも採用されて、一般的なシステムとなった。
 ただし、その運用に当たってはメーカー間に差が見られた。ディーラーとメーカーとの間に締結されたGMの1926年協約とフォードの29年協約を比較すると、GMは契約破棄の1ヶ月前の予告、値下げの場合にディーラーに還付金の支給などの条項を入れ、従来通りの強圧的な対ディーラー政策を貫いたフォードよりディーラーに有利であった。また、GMは統一会計の採用をディーラーに義務付け、ディーラーからの販売情報を即時に把握できるような体制を整備するなど販売政策を一層精緻化させた。
以上のような背景の下で、フォードはアメリカの販売方法をそのまま日本にも適用しようとした。』
以上(⑪、P93)。さらに前提条件として追記しておけば、フォードとGMではもともと扱い車種の違いがあり、フォードはT型の単一車種の低価格車路線であったが(リンカーンと後のマーキュリーを除けば)、GMは本国の多車種展開で対抗したように、シヴォレー、ポンティアック、オールズモビル、ビュイック、ラサールからキャディラックに至る米国車種に加えて、欧州子会社の英ヴォクスホールや独オペルなども豊富に取り揃え、さらにトラックもシヴォレー、GMCなど4車種と、セールスポイントである“フルライン戦略”を日本でも展開しようとした。
フォードの国内ディーラー網の展開(セール・フレーザーの排除)
 まず、フォードの事例から見ていく。既述の通り日本に進出前のフォード車は、セール・フレーザー商会の1社扱いだったが、1924年にその販売権を取り上げ、フォードが直接販売に乗り出すことになった。そして1925年5月、セール・フレーザーの複代理店の中から、エンパイヤ自動車、松永商店などまず13社と特約販売契約を結ぶ。フォードの販売店になるための条件は、以下となる。フォードのみの完成車・部品を扱うことは当然であった。(以上、主に⑪、P94)
・市場力に応じて十分なストック(数台乃至30~40台程度)を保有すること
・フォード所定の陳列所、サービス工場を有すること
・所定の数量を販売しうる能力を持つこと (以上、主に⑭、P10参考)
以上の3条件を満たす必要があり、フォードの場合は原則としては1県ごとに複数の販売店の競合となった。『そして、1926年上半期に70社あった販売店数は30年頃には110店まで増加したが、販売店間の競争の結果35年には70余点となった。』(⑪、P94)出入りの激しかった理由は後述する。
GMの国内ディーラー網の展開
 2番手なのでGMは端折らせていただく。大きな違いは、フォードが複数販売店制度を導入したのに対し、『GMの場合はより厳密な車種ごとの1県1店主義が採られた。創立当時の1927年にすでに27社と販売店を契約したが、その後シボレーの国内販売店だけで28年に37社、32年に40社、36年には46社となった。』(⑪、P96)梁瀬が承服しなかったのは既述の通りで、『GMは梁瀬に対し、彼が全国に設立されるシボレーディーラーの株主になり、各ディーラーをコントロールしても良いとし、キャデラックやビュイック、オールズモビルなどの高級車については従来通り販売を任せる案を提示したようである』(⑫、P27)。GM側としてはそなりに譲歩したはずだが交渉は決裂してしまう。
GMと梁瀬の和解
 しかし梁瀬抜きの高級車販売は軌道に乗せられず、一方梁瀬側も苦しくなり両社は意地の張り合い?をやめてお互い譲歩して、『GMは梁瀬に高級車ラインのディーラーになることを依頼し、梁瀬は承諾した。』(⑫、P28)1931年4月に復縁することになる。
 販売店の契約条件は基本的にはフォードと同じで『日本GM は販売店と年契約を結び,販売,アフターサービス,販売手数料,月賦支払方法等を取決める。』(web❶、P167)ただし『契約期間もフォードと同じく1年だったが、35年からは2年に延長された。』(⑪、P96)
売上内容詳細の報告義務
 GM固有の条件としては、売上報告の義務付けがあった。『特約販売店は毎10日の売上高を型、買手名、現金もしくは月賦等の明細を明記して日本GMに送付すること』(⑭、P10)という条項があったが、これは『GMは、1920年代半ばにアメリカ本国で現れた新車需要から取替需要への変化にいち早く対応し、フルライン政策に基づく製品差別化等、全社的なマーケティング体制を中心として、需要予測による販売予測と生産予測の体系化、連動化を図り、生産計画の確立を企てた。そのような対応の一環として、1924年の過剰在庫の発生を機会に採用された』(⑭、P11)この報告義務により、日本GMの日本人従業員たちは、GMの管理手法の一端を学ぶこととなった。
日本側にとって過酷な契約条件だった
 フォードとGMが課した契約条件は、『簡単な契約内容のようにみえるが、実際は両社の条件の中にみられる「ストックを常に所有する能力」もしくは「常時一定数量以上ストックすること」というのが問題であり、のちにディーラーを苦しめる要因をなしたのである。特約販売店契約が結ばれると、ディーラーは所定の台数を原則として現金で引き取らねばならなかった。常時ストックというのは、1台売れた場合、直ちに1台仕入れて補充する方式である。その特約販売店契約についてみれば、おおむね1カ年更新であり、たとえ契約期間内であっても、販売成績不良とか、外資系の一方的都合で解約されるといった状態であった。』(以上⑭、P10)また『販売台数は予め割り当てられ、その代金はすべて現金で前納させられた』(⑪、P94)という。そして『割り当てられた販売目標を達成できないことによる契約破棄=販売店の交代は頻繁に行われた』(⑪、P97)。
 以下は(⑭、P23)より『~両社はともに、大都市を除き、各府県1店制を原則としていたが、ほぼ10年の間に300ものディーラーが新設されたことからも、多くのディーラーの犠牲をうかがい知ることができる』と伝えている。(トヨタ自動車販売社史;1970年P36の引用)』
明らかな差別意識が感じられた
 日本GMから後にトヨタに移り「販売のトヨタ」を築く神谷正太郎は『その感情を“愛国心”と呼ぶのが妥当であるかどうかは判断に苦しむけれど、米人スタッフに対する反発であったことには違いない。当時、日本人社員に対する米人社員の態度は、単な経済合理主義を超える冷徹さがあり、そこには、明らかな差別意識が感じられた。(私の履歴書)』(④、P152)という。神谷は“郷に入ったら郷に従えというではないか”と記しているが『その圧倒的独占力を背景とした膨大なフランチャイズ予備軍の存在』(⑭、P16)のため、『両社に対する販売店の抗議は効力がなかった。』(⑪、P97)のだという。また『一般的にGMの販売店はフォードのそれと比べて長期間に渡って存続するケースが多かった』(⑪、P96)と言われている。
販売店の販売・経営方法の指導・監督・育成
 以下(⑪、P97)より『両社は販売店に契約遵守を厳しく要求する一方で、他方ではその販売店の販売・経営方法についても指導・育成を図っていた。GMの場合、まず、販売店に正確な簿記による経費節約のために「販売店簡易会計法」の採用を勧めた。そして、その普及のために、講習会を設けたり、出張指導を行ったりした。また、販売方法についても詳細な助言が提示されたが、例えば、トラックの販売に際しては運輸問題の専門家になるべきだと指摘した。すなわち、運転費用、積載量、ボディの構造なども考慮して買主の要求に最も適した車を販売すべきとしており、それについては本社のトラック部に相談されたいとしていた。』以下省略するが、支配人、セールスマンに対しても細かい指導と管理を、組織的に行っていたようだ。
 販売店と本社(この場合GM)の関係では、先に記した売上報告の義務付け(特約販売店は毎10日の売上高を型、買手名、現金もしくは月賦等の明細を明記して日本GMに送付)以外にも、『全国を9区に分け、区ごとに監督者を任命し、販売の奨励、本社との連絡、競争社の状況調査に勤めさせた』(⑪、P98)という。
マニュアル化
 また次に記すサービス体制についても、その方法はマニュアル化されており、研修によりレベルアップと作業の効率化を図ったという。『日本には自動車のサービス体制という考えがなかったから、こうしたアメリカのメーカーの進んだやり方を目の当たりにして驚かざるを得なかったのだ。』(④、P149)

13.5-2統一価格とアフターサービス体制の確立
 も~、⑪と⑭を実際に手に取りお読みいただいた方がわかりやすいし正解だと思いますが、ここでも⑪からベタで引用させていただく。『~ こうした販売網の整備によって両社の販売増大だけでなく、日本自動車市場の拡大が可能になった。ところで、この市場拡大にとっては統一価格の形成と割賦販売制度の普及が最も重要な要因となったと考えられる。』
自動車価格の統一で情報・取引コストが節減
『前者は1県1店主義と表裏の関係にあり、それまで販売店あるいは販売人ごとに異なっていた自動車価格が統一されることによって情報・取引コストが節減される効果があったからである。また、それには従来と違って各販売店には充実した部品・サービス工場が設けられていたことも重要であった』(⑪、P98)。(以下は④、P149より)『購入したユーザーが常に快適に乗ることができるために、販売店ではクルマのサービス体制を充実させるのがアメリカ方式だった。トラブルに対応するだけでなく、発生する前に部品交換などして未然にトラブルを防ぐサービスが実施された。それまでの日本では、ユーザーは輸入業者のサービスに頼るか、勝手に修理工場を見つけてメンテナンスするだけだった。』
以下は(web❿、P82)より
日本に初めて自動車のアフターサービスの概念が定着
『~それまでは大都市中心であった自動車流通業者網が全国的に展開されることとなった。今日のディーラー網の原型が形作られたのである。個々の販売店には併設の修理工場が併設され、自動車修理網もまた同時に全国に張り巡らされるようになった。自動車の販売側にも、利用者側にも「日本に初めて自動車のアフターサービスの概念が定着したのである。』サービス体制の整備も日本でフォードとシヴォレーの“大衆車”が普及した理由の一端だっただろう。

13.5-3月賦販売による需要の拡大
 日本においても、月賦販売によりタクシーの需要が大きく拡大したことは、12.1項(戦前日本の“タクシーモータリゼーション”について)で既に触れたが、ここではディーラー政策との関連でみていきたい。なお自動車の割賦販売全般については(web□40)が詳しいのでそちらを参照して下さい。
イントロ?として、概説的な話から、以下(⑲P166)より『日本フォード、日本GMは、月賦販売とディーラーシステムを武器に熾烈な販売合戦を繰り広げ、日本における需要層の変動をさらにうながした。皇族・華族、富豪階層から、バス・タクシー・トラックなど営業用需要への大躍進である。』
既述の引用と内容が重複するが、以下(㊹、P36)より引用『フォードとGMが販売力を強化できたのは、マージンの問題ともかかわるが、ディーラーシステムの導入があった。(中略)このディーラーシステムと表裏一体をなし、販売拡大に寄与したのが、統一価格の形成と、月賦販売制度の普及であった。どちらも今日の我々には当たり前すぎる制度で、その斬新さは実感しがたいが、当時の日本市場では画期的なものであった。(中略)月賦販売はフォードとGMの発明ではなく、すでに日本でも試みられてはいた。しかし、債務の焦げ付きも多く、成功には至らなかった。』
アメリカにおける月賦販売の発達過程(余談)
超手抜きだが、(web□40、P54)よりそのまま引用させていただく。詳しくは元ネタの方を確認してください。
『General Motors(GM)は,1919 年に子会社であるGeneral Motors Acceptance Corporation(GMAC)を設立した。GMAC の活動は,GM がディーラーに金融を行い,販売支援を行っただけではなく,GM の顧客を高金利から守り,新車・中古車流通に貢献した面があった。また,GM は月賦販売(GMAC・timepayment plan)を開始する際に,著名な経済学者であり,The Economics of Instulment Selling(1927)(『月賦販売の経済学』)を著した Seligman に,自動車の消費者信用に関する研究を依頼した。そして Seligman
は,賦払信用は貯蓄動機を高めるだけでなく,個人の貯蓄能力も高め,需要時期を早め,実際の購買力を増加させることで,生産の安定と増加のため,割賦販売における金融コストを上回る利益があることを指摘した。これにより実態面だけではなく,理論的な面からも,割賦販売を導入する合理性が得られたといえる。
アメリカでは,フォードが 1908 年に Model−T を発売し,その後,大量生産により価格を次第に低下させていったが,GM は自動車価格だけでなく,スタイルやボディカラーにより製品差別化を行うマーケティングを実施したため,20 年過ぎからは,両社の販売競
争が激しくなった。23 年には,アメリカでは自動車総数が約 364 万 4000 台となり,6 人に 1 人が自動車を所有するようになった。既に自動車販売では月賦制度が主な形態となり,乗用車の 75%,貨物自動車の90% が月賦販売で販売された。また,割賦販売は相当な重要性を持ち,割賦販売条件の変化は,自動車需要にかなりの影響を及ぼすようになった。アメリカの自動車工業を研究している一部エコノミストは,第二次世界大戦以前からの見解として,割賦販売条件を緩和することは,より消費者・ユーザーに自動車を購入させることではなく,むしろ自動車を買いたいと考えていた消費者・ユーザーに,より高級な車を購入させることであるともいっている。つまり,この頃になると,既に所有していた消費者・ユーザーは,よりグレードの高い自動車を求めるようになり,このような顧客に割賦販売が貢献するようになったという指摘である。さらに代替車を購入する場合,分割払いの頭金代わりに古い車を差し出す習慣が自然と定着し,自動車の下取り制度が形成された。このようにして,販売においては割賦販売,そして,メーカーやディーラーが顧客に買い換えを促進してもらうために,下取りという自動車独自のマーケティングが取り入れられた時期であった。』
大量生産方式が定着し、供給過多に陥ったアメリカの市場では、自動車をいかに押し込むか、という課題に科学的に取り組んでいたようだ。
日本における月賦販売の試みの歴史;フォード、GM以前
 以下は日本における月賦販売の試み(の歴史)について、フォード、GMが直接乗り出す前の日本における月賦販売の試み(の歴史)について、ごく簡単に記しておく。
(web□40、P56)より『わが国ではアメリカ系自動車メーカーによって自動車の販売金融システムが導入される以前に,内外興業や日米スター自動車のように,規模としては微々たるものであったが,自動車月賦販売が既に開始されていた。』
川崎銀行が自動車金融に最初に本格的に乗り出す
 さらにその後の話として以下は(⑭、P17)『自動車金融に最初に本格的に乗り出したのが川崎銀行だった。~ しかしながら、たちまち不良手形が嵩み、手形の悶着が頻発した。手形の知識も未だ乏しく、タクシー業に進出する者の多かった当時を考えれば、無理からぬ事態であった。』ここで川崎銀行について念のため、wikiで確認しておく『東京川崎財閥は川崎銀行を中核企業として金融財閥として発展。同じく「川崎財閥」と呼ばれる神戸川崎財閥(注;川崎重工や、川崎製鉄(現在のJFEスチール)を中核とした財閥)とは無関係。財閥の性格から「川崎金融財閥」とも呼ばれる。』川崎銀行はその後、紆余曲折を経て1943年に三菱銀行(現:三菱UFJ銀行)に吸収合併されたそうです。なお、日本における自動車の月賦販売の歴史についても、(web□40、P55)がより詳しいのでぜひそちらを参照してください。
川崎銀行が手を引き、日本フォード、日本GMが直接販売金融に乗り出す
 続きを以下も(⑭)から引用を続ける『結局川崎銀行は月賦販売から手を引き、~ そこで、日本フォード、日本GMは、それぞれ自家ディーラー救済の意味をもこめて、販売金融に乗り出すのであるが、それが同年(1929年)の日本フォード金融会社、日本GM金融会社の設立である。両社は自社製品の販売に限って月賦手形の割引を開始した。』なお『月賦金回収に際しては数々のトラブルが起こっていたようである。』(⑭、P19)
月賦販売によりタクシー需要が急拡大
 以下は(⑪)より『1930年代の半ば頃に、GMの全販売のうち、こうしたGMの割賦金融を受けたのが3分の1、販売店で独自に金融しているのが3分の1、残りの3分の1が官庁などへの現金販売であった。先述したタクシーの増加、そして1台営業の円タクが1920年代に急増し得たのはまさにこの月賦販売によるものであった。27年頃にフォードのツーリングは小型の価格は1,500円であったため、500円程度の頭金で新車の購入が可能となり、車庫料などを入れても3ケ月後には償却できたという。』(⑪、P99)
 最後に㊴では『フォードとGMのシボレーが、たちまち全国のタクシー市場を押さえることができたのは、この割賦販売方式の威力といっても過言ではない。』(㊴P21)と断じている。

13.6米2社の販売システムが日本の自動車産業に与えた影響(貢献その5)
 まず初めに、(web□40)のP56の記述が、フォードとGMの構築した販売システムが日本の自動車販売に与えた影響を、概説的にまとめていたので、今までの“おさらい”の意味も含め、以下引用して確認しておく。
『アメリカ系自動車メーカーは,わが国で KD(ノックダウン)生産を開始するため,1925 年 2月,フォードが横浜に日本フォード,27年1月,GM が大阪に日本GMを設立した。これに対抗するかたちで,国産自動車会社の育成がはじまった。 フォード,GMは優良ディーラーを傘下におさめ,系列による自動車販売組織を確立するため,激しい争奪戦を展開した。そのため,自動車流通においては1920年代後半から,外資系2社により比較的初期に近代的・合理的な仕組みが作られた。1つは,販売活動の基本となる特約ディーラーを全国主要都市に配置し,各地のフランチャイズが元売り2 社からの自動車を買取り,消費者・ユーザーに販売することであった。日本フォードは全国で13 社と販売契約を締結したが,最盛期には,約 90 社に増加した。日本 GMのディーラーも1932 年頃には約 70 社になり,日本の自動車ディーラーはこの2 系統に区分された。これらのメーカーは本国では地域を区分することによって,ディーラーを配置するという政策を行っていたが,わが国においても全国各都道府県に特約ディーラーを配置した。このシステムは,現在でもわが国自 動車メーカーの主要なディーラー政策となっている。 もう1つは高額商品である自動車を購入するにあたり,新たな市場を創出する仕組みとして消費者金融・販売金融をアメリカ同様に用意したことであった。』
トヨタと日産の大衆車販売網の構築
 アメリカの2社が日本国内で築き上げてきた販売システムを、フォードとシヴォレーの大衆車と(建前上は)正面から対決することを前提として開発された、トヨタと日産の大衆車は、具体的にどのような戦略で構築しようとしていたのだろうか。
トヨタの販売網構築
 まずトヨタの事例でみていくが、GM流の商いに疑問を持ち始めていた神谷正太郎(①、P112によれば当時日本GMの大阪本社副支配人だったようだ)は、豊田喜一郎と会い、喜一郎から『「あんたが売ってくれるなら、わが社の販売は一切あんたにお任せする。どんな方法でも構わない、あんたが作りたい金融会社も同時にやろうではないか、あんたは全国の車の販売店はGM・フォードの横暴に泣いているという。それを救うのは、あんたの責務だ。わたしは車を作る…」と言ってくれた。翌日GMに辞表を出した。』(①、P114)
(㊱、P97)より話を続ける。『喜一郎から、販売についてのすべてを任された神谷は、創業間もない豊田の流通販売システムづくりに奔走しました。~当時(最初のトラックG1型発表当時)は、豊田の本社工場がある~性能や品質に問題がありました。しかし、このような製品を外国車との競争のもとで販売することが、神谷に課せられた命題だったのです。』
外国車よりも安く価格を設定、需要を喚起する
販売網構築だけでなく、マーケティング(販売戦略)そのものに踏み込んでしまったが、“敵”を熟知する神谷の意向を、喜一郎は最大限汲んでいたようだ。引用を続ける。『神谷はまず、大量販売の前提として外国車よりも安く価格を設定して、需要を喚起したうえで大量生産に結びつける、それまで採算は度外視する、という策をとりました。』
ほとんどの本で、安値戦略は神谷の進言によるものだとしているが、③はニュアンスが違う。
自動車製造事業法の審査基準は価格面を重要視
 商工省が自動車製造事業法の許可会社として認可する場合の審査基準として、外国製の大衆車(フォード、シヴォレー)に対して、技術面、価格面、生産量で対抗することを求め(③、P294)、特に性能より価格面を重要視したため、トヨタと日産は『性能より価格を優先する大衆車の製造に取り組むことを商工省によって余儀なくされた』(③、P352)という。その点に於いてたぶん日産以上にトヨタは忠実で、『フォード、シボレーの価格以下にトヨダ号を販売しようとする大衆車の基本条件を達成するため』(③、P353)努力した結果であり、統制経済下における“強制力”からすれば、商工省による“指導”の圧力の方が大きかったように思う(私見です)。
トヨタにブランド/信用もなかった当時、地元資本によるディーラーを展開
『また、ディーラー網の整備にも積極的に取り組んでいきます。まだ、国産車に対する信用もなく、トヨタというブランドもなかった当時、直営の支店方式ではなく、各地に地元資本と地元の人材によるディーラーを展開することにしました。』
 以上の過程をもう少しビジネスライクに記した以下(web❿、P120)より引用
『トヨタはフォード、 GM の例に倣い、基本的に一県一店のディーラー制度を取り入れた。トヨタ社内では、販売組織網の構築をめぐり、地元資本によるトヨタ車専売店を設けるか、既存の米国車販売店などと併売の契約を結ぶか、自己資本により直営方式をとるかなど議論があったようであるが、元日本GMの広報部長であった神谷正太郎の意見により、地元資本によるトヨタ車専売制が取り入れられた。』
神谷正太郎のねらいはGMのディーラーを、そっくりそのままトヨタに転向させること
『神谷正太郎のねらいは、GMのディーラーを、そっくりそのままトヨタに転向させることであった。』さすがに商売人だ。次の言葉もうなってしまう。
対抗車である外車のディーラーを引き抜き、敵の戦力を根こそぎ奪う
『対抗車である外車のディーラーを引き抜けば、敵の戦力を根こそぎ奪い、そのうえ、そっくりそのまま自分の戦力に転換させうるので、これほど確実な、そして有力な方法はほかになかったのである。
GM代表社員時代の神谷正太郎の信望がものをいい、誘われた各地のディーラーは、 GMの看板を揚げたままでトヨタ車の併売を引き受けたり、あるいは GM と完全に縁を切ってトヨタのディーラーに転向した。そして、販売網は着々と整備されていった。
GM系のディーラーが多くトヨタに転向したのは、上記の神谷による影響とともに、日本フォードが 、系列販売店の日本車併売を抑圧したためである。
トヨタの全国ディーラー網は 1938 年には 22 社、1939 年には 24 社と拡張されていった。』
(以上web❿、P120)
“販売のトヨタ”は戦前から着々と準備していた
 自動車製造事業法の成立で、将来に不安を感じ始めていたGM系ディーラーはこうして、神谷正太郎によって切り崩されて、続々とトヨタ系に鞍替えしていった。自動車の歴史をたどろうとすると、自分もそうだがどうしても製造/開発側に目を向けがちになってしまう。しかし神谷の行動をみていると、“販売のトヨタ”の元は戦前から着々と構築されていたことがわかる。
日産の販売網構築
 一方日産はどうだったのだろうか。日産の場合、小型車ダットサンの量産を成功させており、『小型車ダットサンの販売に関しては1934年頃にディーラー制による販売網が出来ていた』(web❿、P121)が、フォード&シヴォレーと対峙する大衆車市場向けに、拡充が迫られていた。以下も(web❿、P121)より引用
『日産は 1938 年に日産自動車販売を日産自動車本体から分離独立せしめ、直販方式を基本とすることとなった。当初はトヨタが GM 系販売店を擁したように、日産はフォード系の販売店の活用を企図したようであるが、鮎川の決断でその案は不採用となった。鮎川が日産車の性能に十分な自信が持てず不良車問題を危惧したためと、都市部においては直販方式に良好な見通しを持っていたためとされる。ここに、現在の、地場資本中心のトヨタ系ディーラーと 、 メーカー直営店中心の日産系ディーラーの原点がみられるのである。』
直営店+旧フォード系ディーラーを中心に販売網を組織
しかし(web❿、P121)でも追記があるが、実際には『主要都市(東京、横浜、千葉、名古屋、豊橋、大阪、福岡)以外では旧フォード系ディーラーを中心に販売網を組織した』ようだ。
トヨタが戦前に設立した販売金融について
 終わりに、トヨタが戦前に設立した販売金融について、(web□40、P59)から引用しておく。『1935 年に日本 GM からトヨタに移籍した神谷正太郎は,ディーラーとの関係強化を図る一方で,外資系 メーカーに対抗するために,価格戦略と販売金融というマーケティング面に力を入れた。(中略)さらに購入しやすくするために,販売金融を行うという2 段構えのマーケ ティング手法を採用したのである。また,神谷は日本GM社時代の経験から,大衆車販売には割賦販売の採用が不可欠であることを痛感し,わが国のように消費者金融が未発達な国では,自らが金融機関を設置して,割賦販売の円滑化を図らなければならないと考えていた。豊田喜一郎も,神谷の考えに同調し,金融会社設立の方針を決めた。』豊田喜一郎が神谷正太郎に全幅の信頼を寄せ、販売にかかわるすべてを任せたことが、戦後のトヨタの躍進を支えたことも確かだと思う。そして神谷がもっとも意識していたのがGMだったことも、たぶん紛れもない事実だろう。
トヨタ自販がマーケティング推進の担い手になった
 13項は内容の重複が多いが、弁明のようだが各識者で微妙に異なるので(⑬、P209)もそのまま転記させていただく。
『~ トヨタの場合とくに目覚ましかったのは、全国的ディーラー網の設定とマーケティングの本格的展開である。とくに1950年トヨタは、銀行団の勧告もあってトヨタ自工、トヨタ自販の二社に分離し、戦前日本GMから移った神谷正太郎を社長とするトヨタ自販がトヨタにおけるマーケティング推進の担い手となった。トヨタ自販は、ローカルな資本と結んで地元資本尊重の建前でこれとの一体感を強め、可能な限りローカルな資本を活用しながら、必要な場合若干の資本投下も行って各県一店舗を原則とするディーラー網を設定していった。
GM流を日本流にアレンジしつつさらに進化させた
 この場合トヨタ自販は、GMのディーラー標準経営法を学び、ディーラーの統一勘定科目をつくって、ディーラーの財務管理、債権債務管理、在庫管理などに統一したシステムを導入した。またGMがかつて1920年代にスローンのもとで実施したのと同じ十日ごとのディーラーからの販売条件や販売台数を報告させるシステムが取り入れられ、在庫情報を中心とするディーラー情報の管理が推進させられている。このトヨタ自販の地元資本と組んだ全国的販売ディーラーネットワークの形成は、やがてトヨタの国内販売における優位を決定づけていくことになる。ここで注意すべきは、トヨタがスローンによって展開されたマーケティングのエッセンスをしっかりと学びとり、同時にそれを日本的土壌に合うように創造的に適用したことである。』(⑬、P209)
外資が日本的な商慣習を一掃したから “良いとこ取り”が可能になった(私見)
 トヨタはGM流の販売体制を日本流にアレンジしつつ構築していったという説はまったくその通りだと思う。ただしその前提として、フォードとGMが日本的な商慣習を一掃したからこそ、いわば“良いとこ取り”が可能になったのだと思う。日本の企業がその内なる“日本的土壌”を取っ払うのは、短期間ではなかなか難しかったように思う。

13.7トヨタがGMの戦略を学び独自に展開した事例(第1回日本GPの圧勝(私見))
 トヨタ(自販&自工)が、特にGMのマーケティング戦略を学び、意識しつつ独自の道を築いてきた過程を記した本はたくさんあり、その具体例も含め、webで閲覧できる情報も多い。しかしこの13項は今まで、“青字”だらけだ。さすがにこれではまずいので、ここでは“定番”を紹介せず、自分が独自に思いついた事例を紹介したい。従いその内容の信憑性についてはまったく保証の限りでない。その“思いつき”は、当ブログの自動車の12番目の記事「⑫ 第1回日本グランプリ(1963年)“トヨタの一人勝ち”」で既に記しているので、適当に修正しつつ、長文になってしまうが以下転記する。
GMのモータースポーツ戦略がトヨタ自販の第1回日本GPの“作戦”に影響を与えた?
 第1回日本GPでトヨタ自販がとったレース戦術というか、販売戦略について、そのヒントを与えた可能性が考えられる(念のため何度も言うがまったくの私見)本を偶然読んだ。
“本場”アメリカにおいて、GMとフォードの間で起きたモータースポーツを巡っての争い部分も記されていたこの本は、「フォードVSフェラーリ 伝説のル・マン」A・Jベイム著(赤井邦彦他訳;以下引用⑯、P40)という本の中の、ごく短い一文だったが、時代的にも第1回日本GPのほんの数年前の出来事だ。(ちなみにこの本はその後映画化されて、今年初めに公開された。下は「フォードvsフェラーリ」の予告編です。
https://www.youtube.com/watch?v=4rcKCkcp5gE
しかし、最近の映像技術はすごい
https://www.youtube.com/watch?v=MvfWG37jdl0 )

 トヨタはこの時期、通産省の“国民車構想”との絡みでフォードとの合併会社設立の交渉も行われていた(1960~61年頃で、結局破談に終わったが)。またクラウンの対米輸出を早くも試みるなど、特に自販は、アメリカの自動車産業の販売戦略の動向は絶えずウォッチしていたはずだ。
 そのアメリカにおけるモータースポーツを利用したGMの販売戦略の成功事例に、クルマを売ることにかけては国内最強の、トヨタ自販が無関心なはずはなかったと思う(でも今までこのような視点で書かれたものが見当たらないので、あくまで想像です)。以下長文になるが⑯より引用しつつ、その対比として第1回(1963年)及び第2回(1964年)日本グランプリにおけるトヨタとプリンスの行動を記していく。
舞台は1961年のアメリカ、デトロイトから始まる。(⑯、P40)からの引用です。
レースで良い成績をおさめ始めると、ほんの数年であっという間に売上が伸びた
『~1961年2月27日月曜日の朝、デトロイト郊外の住宅地に住む自動車業界の重役たちは、玄関先に新聞が落ちる音で目覚めた。「デトロイト・ニュース」紙は全国紙だったが、自動車業界紙でもあり、ゴシップ新聞でもあった。(中略)スポーツ欄にはデイトナ500(注;訳文では“インディ500”となっているが明らかに間違いなので以下訂正して記す)の特集記事が掲載されていた。フロリダの有名なサンダードームの約4kmのコースを平均時速約240.7kmというデイトナ史上最速のスピードで走ったポンティアックのマーヴィン・パンチが、日曜日のデイトナ500で優勝を飾っていた。
コラムニストのドク・グリーンのコメントの中に、彼らは興味深い情報を発見した。
ヨーロッパのレース界では、優勝は直接売上に結びつく。実に単純な理由がクルマを選ぶ動機に繋がるからだ。たとえば、ル・マン24時間耐久レースで5台のフェラーリが上位入賞を果たすとする。すると、過酷なレースに勝ち残ったフェラーリが“買うべき車”となるわけだ。
「うちも、それでうまくいった」と、優勝した車をスポンサーしたデトロイトのポンティアック・ディーラーのビル・パッカーは語る。
ポンティアックはNASCARでスポーティー車のイメージ作りをした
「バンキー・クヌッドセンが1957年にポンティアック部門を引き継いだ当時も、ポンティアックはまあまあ良い車だったが、高齢の女性向けの車という評判が根強かった。おばあちゃんには最高ってね。その後、ストックカー・レースで良い成績をおさめ始めると、ほんの数年であっという間に売上が伸びたんだ。」
(マーヴィン・パンチ(Marvin Panch)のポンティアックが1961年のデイトナ500を制した。画像は以下よりコピーした。
http://www.legendsofnascar.com/marvin_panch.htm)

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http://www.legendsofnascar.com/Marvin20Car1.jpg
アメリカには自動車メーカーのレースへの出資を禁止する“安全決議”があった
⑯の引用を続ける。『当時、ストックカー・レースはデトロイトには無関係であるはずだった。自動車メーカーのレースへの出資に対する禁止令があったからだ。1950年代後半のアメリカの自動車メーカーは、広告を通して、一般のドライバーに公道でスピードを出すことを奨励していると非難されていた。
 また当時、フォード、GM、クライスラーは、顧客確保のためにより大きなエンジンを開発し、「馬力競争」を続けていた。強力なエンジンが冷戦に対するデトロイトの答えだったのだ。
 NASCAR(National Association for Stock Car Auto Racing)と呼ばれる日曜日のレース・シリーズにクルマを出場させることで、自動車メーカーは自分たちのクルマをアピールしていた。
 スピードの戦いと市場争いの関係を、アメリカ政府は快く思わなかった。1957年、アメリカ連邦議会は自動車製造者協会に、「安全に関する決議」の作成を要求した。この規約により、デトロイトの自動車メーカーは「エンジンサイズ、トルク、馬力、もしくは、スピードを連想させる競技会での加速性能あるいは性能」を宣伝しないことに合意した。』

このアメリカにおけるレースに関与しないという“合意”は、第1回日本グランプリ開催前の自工会の、このレースにメーカーとしては協力しないという紳士協定に符合する。
シヴォレーは“船舶用機関プロジェクト”の名目でレースへの投資を行った
以下も⑯より『しかし、それでも「デトロイト・ニュース」紙のドク・グリーンのコラムには、1961年のデイトナ500に自動車メーカーの有力者の団体がやってきたと書かれていた。
「あなたが目にする重役たちは、たまたまテキサスかダビュークかどこかに行く途中に通りがかっただけ、もしくは見なかったことにしなければならない。彼らの言うこともすべてオフレコだ」
 ある大物がこのように語ったと書かれている。
「親会社からの協力なしにレースに出場するのは、へその緒のない赤ん坊を産もうとするようなものだ。不可能に等しい」
 その夏にはGMのレースへの投資は周知の事実となっていた。シボレーは船舶用機関プロジェクトの名目でレースへの投資を行っていた。ポンティアックにも独自の秘密プロジェクトがあった。』
(シヴォレーは1960年のデイトナ500を制した。下はダン・ガーニーの1961年NASCAR仕様、シヴォレー・インパラ。のびやかで美しい。「1961 Chevrolet Impala: Dan Gurney’s American Export
以下のユーチューブ動画のブログからコピーさせて頂いた。
https://www.youtube.com/watch?v=QkwmeYx1xr4

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https://m.roadkillcustoms.com/wp-content/uploads/2019/04/1961-Chevrolet-Impala-Dan-Gurney%E2%80%99s-American-Export-678x381.jpg
この、他の組織の名目でレースを支援するという図式も、第1回日本GPにおけるトヨタの行動と重なってくる。以下は以前書いた記事の再録だが、販売の神様、神谷正太郎率いるトヨタ自販(当時トヨタはまだ自工と自販は分離されていた時代で、都合が良かった)の宣伝部は、アメリカでの事例もあり、レースに勝つことが、クルマの宣伝に大きな効果があると睨んでいた。
レースへの参加を自粛したのは自動車工業会というメーカー側の団体であり、トヨタ自販は販社なので拘束されないという独自の解釈で、裏では自工とのあうんの呼吸で自販主導の下で、勝つための取り組みを積極的に行い、“紳士協定”が重くのしかかり、中途半端な対応の他社を完全にリードした。
「奴らはズルをしている」(ヘンリー・フォード2世)
⑯に戻る。『「奴らはズルをしている」と、ヘンリー2世(注;ヘンリー・フォード2世=創業者の孫でフォードの最高経営責任者)はアイアコッカ(注;リー・アイアコッカ=当時フォードの副社長でマスタングの生みの親)に言った。
「我々も何か手を打たなければ」
 しかし、ヘンリー2世はレースに資金を投じることを拒否した。評判を落とすことを恐れたのだ。彼は自動車製造協会の会長であり、安全に関する決議も彼の裁量で行ったことだ。
 アイアコッカのフォード初年度である1961年の終わりには、ポンティアックとシボレーがNASCARの52戦中、41勝で優勝を収めていた。
 その年のGM市場は急成長を遂げた。ポンティアックは、その年の新車の売上が36年の歴史において最高額に達したことを報告した。』

ポンティアックとシヴォレーは記録的な売上を達成した
『4月にはシボレーがリッチモンド、コロンビア、グリーンビル、ウィンストンセーラムのレースに優勝、同じ31日間にシボレーは、記録的な月間売上を達成した。
「ヘンリー・フォードの全盛期のティン・リジー(モデルT)以来、市場をこれほどまで独占したクルマはなかった」と、「ニューズウィーク」誌はレポートした。
「先週、アメリカのショールームから出てきた車の3台のうち2台はシボレーだった。」
 グラスハウスの廊下に不安感が漂い始めた。これほど急激にマーケットシェアが大きく変化したのは、ヘンリー2世が社長になって初めてのことだった。』

 話を日本に戻す。トヨタ自販の積極的な取り組みの結果、パブリカ、コロナ、クラウンという主力車種すべてで日本グランプリを制覇した(ちなみに第1回GPはメインレースが1つという構成ではなく、各クラスに分かれて2日間で11レースが行われた。)。
 早速トヨタ自販は、レース後すぐに各地のディーラーに“トヨタ車、グランプリに優勝”という垂れ幕を大きく掲げ、強力にアピールした。そして優勝車がパレードして各販売店を訪れ、グランプリに優勝したのは、トヨタ車の性能が良いからだという理屈を一般に印象付けようとした。(下の画像はトヨタ自動車75年史より、
https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/data/automotive_business/products_technology/motor_sports/details_window.html
第1回日本GPの観客数は2日間でなんと23万人!といわれ、人々は初めての自動車レースに熱狂した。)
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https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/data/automotive_business/products_technology/motor_sports/images/img02.jpg
当時のアメリカ人はスピードを求めていた
 以下⑯より『フォードの重役たちは、地元の若者たちが街頭で、街に合法なスピード競争用のコースを作って欲しいとでもパレードを行っていることを新聞で知った。
 子どもたちはスピードを求めていた。』
(下の写真はフォードでもGMでもなく本文とは関係ない、リチャード・ペティの1961年NASCAR用プリマス・フューリー。迫力あるデザインなので紹介したかったので。以下のブログより引用した。
https://www.reddit.com/r/NASCAR/comments/ad7o9u/yes_im_a_day_late_but_here_is_a_picture_of/

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https://i.redd.it/bfp5qckt9u821.jpg
当時の日本人はレースの優劣がそのまま市販車の性能の優劣だと受け取った
 またまた日本に戻るが、アメリカの50年遅れぐらいで、ようやく“マイカー”時代を迎えつつあった当時の日本人にとって、『自動車レースがどういうもので、一般のユーザーに渡る市販車と出走車がどれほど違うものか、ほとんど知らされていなかった時代である。一般の人々は、レースの優劣がそのまま市販車の性能の優劣をあらわしていると受け取ったのである。』(引用「マン・マシンの昭和伝説 航空機から自動車へ 下」前間孝則)
 日本グランプリ=日本のレースの最高峰なのだと単純に図式化し、このレースで勝利したクルマ=他車より優れた最高のクルマであるという、トヨタ自販のセールスマン達が喧伝する単純化させたセールストークが、一般の人たちにはそのまま通用した時代だったのだ。
 さらに新聞やテレビなどで大々的なキャンペーンを繰り広げた結果、販売は軒並み伸び、セールスマンの意気もあがった。このトヨタの巧みな戦略に、他社は指をくわえて見ているしかなかった。
 そしてこのトヨタの策略に、もっとも大きな痛手を被ったのは、トヨタ、日産より技術志向が強く、明確に高級/高性能車路線を歩み、明らかにベース車の性能が勝っていたはずのプリンスであった。
下の写真と以下の説明文はブログ“中島飛行機の残滓を継ぎて”さんより、
https://minkara.carview.co.jp/userid/949539/blog/26002658/
『1962年10月16日に第一期工事が完了した、最新鋭設備を誇る村山工場艤装ラインの在りし日の姿』第1回日本GPの前年である。立派な工場だが設備投資の負荷は重かっただろう。
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https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/mybbs/000/002/461/626/2461626/p1.jpg
以下は(㉒、P208)より『(1964年は)オリンピック、モーターショーと外見は派手な都市であったが、国産乗用車メーカーとしては正念場といえる年でもあった。(中略)一部のユーザーからは熱狂的な人気を得たプリンスであったが、やはり1964年3月頃は正念場であった。技術だけでは乗用車メーカーは成立しないことが明確になってきたのだ。量産、量販による低コスト化への好循環に乗り切れなかったのだ。甲州街道付中付近で発見した売れないプリンスだが、この写真は約半分を写したものである。今や歴史のひと駒として何か感傷的な写真である。』この五十嵐氏の文章の下に、同書には氏の写した大量のプリンス車の売れ残りの写真が掲載されている。この㉒:「写真が語る自動車の戦後」という本には世界の名車を含むたぶん1,000枚ぐらいの写真が載せてあると思うが、1,000枚の中でもその、プリンスの在庫の山を写した1枚がもっとも印象的で、切ないものでもあった。自動車産業というものの厳しさを教えてくれる写真だ。えげつないといえばえげつないが、勝てば官軍の恐ろしい、勝負の世界だったのだ。
 アメリカに戻り、『4月27日、ヘンリー2世はゼネラルモーターズのジョン・F・ゴードン社長に手紙をしたためた。
「短期的には現在シボレーやポンティアックが提供しているような高性能車を開発するつもりだ」と、彼は書いた。
「我が社の製品の競争力を維持するためには、実行しなければならないことだと考えている。長期的には、さらに満足のいく合意を自動車業界の他のメンバーと取りつけたいと思っている」
 ヘンリー2世がその手紙の返事を受け取ることはなかった。』

宣戦布告したフォードは1963年のデイトナ500向けにパワフルな新型を投入する
 その後ヘンリー・フォード2世は“安全決議”から手を引くと宣言(1962.06.11)、いわば宣戦布告したかたちで1963年のデイトナ500マイルレースに新開発の427立方インチ(7ℓ)のパワフルなエンジンを搭載したフォード ギャラクシー500を投入した。
 一方『対外的には反レース派を貫いていたゼネラルモーターズは、安全に関する決議を支持する決断を下した。しかしプライベート・チームとしてシボレーで出場するスモーキー・ヤニックは、デトロイトから資金を得ていると関係者は信じていた。すべては偽装であると。』(➃より)結局この戦いで今度はフォードが、デイトナ500初制覇を果たす。(下の写真は、フォードが1963年のデイトナ500必勝を掲げて送り出した“フォード・ギャラクシー500XLスポーツルーフRコード”。ブログ「乗り物ライター矢吹明紀の好きなモノ」さんの記事よりコピーさせて頂いた(□30-2)。同記事に詳しく解説されているのでぜひ参照されたい。)
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http://stat.ameba.jp/user_images/e4/35/10040057234.jpg
プリンスも宣戦布告し、スカイラインGTを投入する
 一方日本では、翌年(1964年)第2回日本グランプリに向けて、ベース車両の性能で勝るプリンスの技術者たちは、まともに競争したら他のメーカーチームに負けるはずがないと自負していたので、前年の失敗をバネに雪辱すべく必勝態勢で臨んだ。
 プリンスは3種目制覇を狙って、主力車種のスカイライン1500(T-Ⅴクラス)、グロリア(T-Ⅵクラス)に加えて、メインレースであるスポーツカー部門(GT-IIクラス)に秘密兵器のスカイライン2000GTをエントリーした。
スカイライン、グロリアは圧勝し、メインレースでもスカイライン2000GTが勝利すると予想されていたが、しかしご承知の通り、プリンス陣営の前に突然立ちはだかったのが、当時バリバリの市販レーシングカーとして限定販売された、ポルシェ904だった。
伏兵、ポルシェ904の登場
 そしてこのポルシェの購入資金はプリンスの顔に泥を塗るべく、トヨタが援助したと言われている。(公式にはトヨタ・チームのエースドライバー格であり、資産家でもあった式場壮吉が購入したとされており、本人も生前は“漢の約束”を貫き否定し続けたが、トヨタ周辺の関係者からはボロボロと情報が出てきている。)レースでは紆余曲折の末に、“スカイライン伝説”が生まれたことは承知の通りだ。しかしプリンスの実質オーナーであった、ブリヂストンの石橋正二郎は、前年の第1回日本GPの惨敗時点ですでに、プリンス売却を決意したといわれている。トヨタに”ダメ押し”されるまでもなく、プリンスの命運はすでに決していたのだ。(下の写真は日産横浜ギャラリーで並ぶスカイラインGTとグロリアスーパー6。ブログ“Like a Second Skin”さんからコピーさせていただいた。
https://minkara.carview.co.jp/userid/2449787/blog/38656178/)

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https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/userstorage/000/033/190/031/cb25c5c8f9.jpg?ct=14752bb25d14
 一方フォードのモータースポーツ戦略はさらに加速し、アメリカ国内レースにおいてはインディー500制覇へとつらなり、ついには世界戦略として、フォードGTでのル・マン24時間制覇へと目標を広げていくのだが、以下は省略する。

13.8フォードとGMによって、日本のモータリゼーションの端緒が開かれた
 13項の本文の最後は、(㉜、P63)からの引用で、上記タイトルも㉜から引用させて頂いた。
(功の3はフォード、GMの日本進出により進出により、日本の)『モータリゼーションの端緒を開き、近代的な販売、サービス体制、品質保証制度の事例を示したことにある。販売店設定にあたってフランチャイズシステムを導入し、販売契約に際しては市場分析を行い、計画台数の設定、サービス機器やピットの設定基準、補修部品の在庫基準などを検討させ、セールスマンやサービスマンの教育を実施した。また間接的消費者金融である販売金融制度を採用した。当時の一般の商売といえば、焦点の番頭・手代、丁稚がいて客の態度を見ながら、長々と駆け引きをして商談をまとめていくのが常識だったし、機械製品のアフターサービス体制についてもなにも知識がなかった。近代的なマーチャンダイジング・マーケティングのシステムがはじめて日本に導入された。
 トヨタは日本GMの営業部長だった神谷正太郎氏をトヨタに採用し、GM流の販売体制を構築させ、同氏は後に販売の神様と崇拝された。』

日本メーカーは自動車産業のノウハウをそっくりいただいた
『日産・トヨタなどの日本メーカーが自動車産業のノウハウをそっくりいただいた形となった。1960年以降日本は輸出を開始し、海外での販売体制を構築する際に、欧米のシステムを習熟していたために、混乱は何もなかった。』(以上引用㉜、P63)

13.9この記事全体のまとめ
フォードとGMは日本の自動車産業を成立させるための“踏み台”の役を果たしてくれた(私見)
 今回の長い記事について、自分なりの結論を出しておく。当然私見です。
 上記の牧野克彦氏の指摘と同じ趣旨かもしれないが、日本の自動車産業を成立させ、ジャンプアップさせるためには、何らかの“踏み台”が必要だったのだと思う。
 そしてその“踏み台”役を、日本に進出してきたフォードとGMが、結果として果たしてくれたのではないかと考えたい。
 自動車製造事業法の立法化のため、岸信介や陸軍の伊藤久雄とともに力を尽くした商工省の小金義照は当時、(国産の)「大衆車を育成し、発達するための三つの条件が我が国経済の中で熟しつつあると次のように判断を示した」(③、P279)ため、その立法化に取り組んだという。以下も(③、P279)からの引用(要約)だが、その3つとは、
『第一は、大衆車の国内市場が既に形成されていた点である。』更新と新車需要で年4~5万台の需要があり、今後加速度的に増加すると見越していた。
『第二は、自動車の製造技術が我が国経済の中で確立していた点である。』現実に相当数の国産自動車を市中に送りだしており、自動車製造技術の発展に注目した。
『第三は、部分品工業が中小企業を中心に発達していた点である。』小金義照は、中小企業の部分品製造の発達を我が国自動車産業の基礎と位置づけていた。恐らく千を超す中小業者が、単にスペアパーツの製造のみならず純正部品の製造にまで進出し、相当額の輸出まで行っているとしている。
『昭和10年頃には部品工業が日本GM、日本フォードの下請け生産で発達し、我が国での大衆車の大量生産を可能にするほど発展していた。彼はこうした部品工業の集積を踏まえて大衆車の大量生産を構想したのであった。
 小金義照は、これら大衆車の国内市場、自動車の製造技術、そして中小企業の部分品製造の三つの条件によって「小規模でありますが、又部分的ではありますが、国産自動車工業の確立に関する一応の方策なり施設なりが、其の輪廊を整えた」と判断し、大衆車の国産化とその大量生産体制の確立に取り組んだ。』
(以上③、P279)
 たとえば“第二”、“第三”に対して、先に記したように日本フォードの支配人であったベンジャミン・コップは『日本では部品が海外に輸出するまで進歩したから、最早大衆車を造ることも容易である、と謂う人があるが、それは大きな間違ひである。まだ重要な部品は一つも出来ていないではないか』(⑪、P347)と看破し、さらには有名な言葉だが『法律で自動車ができたらお目にかかりたい』(②、P100)とまで言い放った。
 小金自身もたぶん、見切り発車的に感じていただろうと思う。しかし日本の自動車産業を確立するため、この期を逃すまいと判断したのだろう。

 この一連の記事の最初(その1)「日本の自動車産業の“生みの親”と“育ての親”」で記したように、日本の自動車産業の生みの親役を果たしたのが、豊田喜一郎(トヨタ)と鮎川義介(日産)の二人であったことは広く知られている。
 しかし二人には商工省/通産省と、日本陸軍という、“育ての親”がおり、特に後者の存在はほとんど知られておらず、そこで戦前日本の自動車史を6回に分けて綴りながら(今回は4回目)、日本陸軍(陸軍省)の果たした役割を検証していこうというのが、この一連の記事の目的だった。
 しかしこの記事を書くためにさらに調べていくと、実はその、前提となるべき条件を整えてくれたのは(日本)フォードと(日本)GMであることがわかってきた。近代的な自動車産業というものを成立させるために、当時の日本側の力だけではどうしても乗り越えられない厚い壁があった。そこで両社が日本で築き上げたものを主に陸軍の圧力で”召し上げ”、“踏み台”にして初めて、“上”へと昇れる可能性を見出せたのだと思う。
 ただしそれはあくまで”可能性”だけであって、実際に昇り、その場で立ち上がれるかどうかは、その後の日本側関係者たちの努力次第であり、さらに”運”をも味方につける必要もあったわけだが。
 フォードとGMには本当は、感謝すべきだと思うのだ。
             ― 以上 -

引用、参考元一覧 (本)
①:「横浜製フォード、大阪製アメリカ車」サトウ マコト(2000.12)230クラブ
②:「ドキュメント昭和3 アメリカ車上陸を阻止せよ」NHK取材班=編 (1986.06)角川書店
③:「日本自動車産業の成立と自動車製造事業法の研究」大場四千男(2001.04)信山社
④:「苦難の歴史 国産車づくりの挑戦」桂木洋二(2008.12)グランプリ出版
⑤「20世紀の国産車」鈴木一義 (2000.05)三樹書房
⑥-1:「日本自動車工業史稿 2巻」(大正~昭和6年編)(1967.02)自動車工業会
※「日本二輪史研究会」さんのコピー版http://nirinsi4.shop-pro.jp/?pid=24381771
⑥-2:「日本自動車工業史稿 3巻」(昭和6年~終戦編)(1969.05)自動車工業会
  「日本二輪史研究会」さんのコピー版
⑦:「初代クラウン開発物語」桂木洋二(2015.07)グランプリ出版
⑧:「日本自動車史と梁瀬長太郎」「日本自動車史と梁瀬長太郎」刊行会(1950.05)
⑨:「日本自動車史Ⅱ」佐々木烈(2005.05)三樹書房
⑩-1:「フォード 1」(世界の自動車㊹)五十嵐平達(1970.12)二玄社
⑩-2:「フォード 2 マーキュリー」(世界の自動車㊺)五十嵐平達(1971.08)二玄社
⑩-3:「トヨタ」(世界の自動車㉝)五十嵐平達(  )二玄社
⑩-4:「戦後の日本車2」(世界の自動車㊱)青山順(1971.10)二玄社
⑩-5:「シトローエン」(世界の自動車⑧)大川悠(1972.10)二玄社
⑩-6:「ロールス・ロイス-戦前」(世界の自動車㉑)小林彰太郎(1971.05)二玄社
⑩-7:「リンカーン」(世界の自動車㊼)五十嵐平達(1971.12)二玄社
⑪:「日本自動車工業史―小型車と大衆車による二つの道程」呂寅満(2011.02)東京大学出版会
⑫:「企業家活動でたどる日本の自動車産業史」法政大学イノベーション・マネジメントセンター 宇田川勝・四宮正親編著(2012.03)白桃書房
⑬:「世界自動車産業の興亡」下川浩一(1992.02)講談社現代新書
⑭:「日本の自動車産業 企業者活動と競争力」四宮正親(1998.09)日本経済評論社
⑮:「欧米日・自動車メーカー興亡史」桂木洋二(2004.08)グランプリ出版
⑯:「フォードVSフェラーリ 伝説のル・マン」A・Jベイム著(赤井邦彦、松島三恵子訳)(2010.09)祥伝社
⑰-1:「1920年代のアメリカ車」1929プリムス ロードスター試乗記 小林彰太郎 二玄社(カーグラフィックの記事)
⑰-2:「1920年代のアメリカ車」“1920年代のアメリカ車” 五十嵐平達 二玄社(カーグラフィックの記事)
⑱:「写真でみる 昭和のダットサン」責任編集=小林彰太郎(1995.12)二玄社
⑲:「くるまたちの社会史」斎藤俊彦(1997.02)中公新書
⑳:「太平洋戦争のロジスティクス」林譲治(2013.12)学研パブリッシング
㉑:「小林彰太郎の世界 +徳大寺有恒との会話」小林彰太郎(1992.07)二玄社
㉒:「写真が語る自動車の戦後」五十嵐平達(1996.08)ネコ・パブリッシング
㉓:「日本における自動車の世紀」桂木洋二(1999.08)グランプリ出版
㉔:「日本の自動車産業経営史」宇田川勝(2013.10)文眞堂
㉕-1:「シヴォレー、75歳になる」二玄社(カーグラフィックの記事)
㉕-2:「日本人から見た昔の「シヴォレー」五十嵐平達」二玄社(カーグラフィックの記事)
㉕-3:「ボニーとクライドのバラード-Ⅱ」(連載=砂漠の自動車―5)坂本正治 二玄社(カーグラフィックの記事)
㉕-4:「パッカード見聞録」片岡英之 二玄社(カーグラフィックの記事)
㉖:「小林彰太郎の日本自動車社会史」小林彰太郎(2011.06)講談社ビーシー
㉗-1:「1930年代のアメリカ車」“悲劇のエアフロー” 高島鎮雄 二玄社(カーグラフィックの記事)
㉗-2:「1930年代のアメリカ車」“1930年代のアメリカ車”五十嵐平達 二玄社(カーグラフィックの記事)
㉗-3:「1930年代のアメリカ車」“1938年ビュイック40スペシャルセダン”試乗記 小林彰太郎 二玄社(カーグラフィックの記事)
㉘:「東京の青バスと市営バス」五十嵐平達 二玄社(カーグラフィックの記事)
㉙-1:「1936 Cadillac」高島鎮雄?二玄社(カーグラフィックの記事)
㉙-2:「1946 Jeep」高島鎮雄?二玄社(カーグラフィックの記事)
㉙-3:「1949 Ford Custom」高島鎮雄?二玄社(カーグラフィックの記事)
㉙-4:「1925Pierce Arrow Dual-Valve Six」高島鎮雄?二玄社(カーグラフィックの記事)
㉙-5:「1949Kaiser Traveler」高島鎮雄?二玄社(カーグラフィックの記事)
㉙-6:「1952Hudson」高島鎮雄?二玄社(カーグラフィックの記事)
㉙-7:「1952Willys Aero」高島鎮雄?二玄社(カーグラフィックの記事)
㉙-8:「1934Chryler」」高島鎮雄?二玄社(カーグラフィックの記事)
㉙-9:「1950Studebaker」」高島鎮雄?二玄社(カーグラフィックの記事)
㉙-10:「1954 Studebaker」」高島鎮雄?二玄社(カーグラフィックの記事)
㉙-11:「1951Packard」高島鎮雄 二玄社(カーグラフィックの記事)
㉚:「日本人とフォード」五十嵐平達 二玄社(カーグラフィックの記事)
㉛:「クルマの歴史」堺恵一(2013.03)NTT出版
㉜:「自動車産業の興亡」牧野克彦(2003.10)日刊自動車新聞社
㉝:「新・小林彰太郎の世界 1952TOKYO」小林彰太郎 二玄社(カーグラフィックの記事)
㉞-1:「ボディ造形者たち」自動車設計者の群像5(レイモンド・ローウィ) L.J.K.セトライト(L.J.K. Setright『The Designers』)
㉞-2:「シャシー製作者たち」自動車設計者の群像6(モーリス・オーリィ/ジム・ホール) L.J.K.セトライト
㉟-1:「アメリカ車デザイン小史」松尾良彦 二玄社(NAVIの記事)
㉟-2:「フェイのコーベット、いま僕の」ちょっと古いクルマ探偵団 その3 二玄社(NAVIの記事)
㊱:「国産自立の自動車産業」四宮正親 芙蓉書房出版(2010.04)
㊲:「国産車100年の軌跡」別冊モーターファン(モーターファン400号/三栄書房30周年記念)高岸清他(1978.10)三栄書房
㊳:「ニッポンのクルマ20世紀」日本のモータリゼーション 実感!1世紀ロマン 神田重巳
(2000)八重洲出版
㊴:「だんぜんおもしろいクルマの歴史」堺憲一(2013.03)NTT出版
㊵:「じゃんけんぽん」梁瀬次郎(1992.03)図書出版社
㊶:「企業風土とクルマ 歴史検証の試み」桂木洋二(2011.05)グランプリ出版
㊷:「ぼくの日本自動車史」徳大寺有恒(2011.06)草思社(文庫版)
㊸-1:「50年代アメリカ車のスタイリング」五十嵐平達 「50年代のアメリカ車」カーグラの記事より
㊸-2:「風俗史としての1950年代のアメリカ車」高島鎮雄 「50年代のアメリカ車」カーグラの記事より
㊸-3:「キャディラックのテールフィン」五十嵐平達「テールフィンの時代」カーグラの記事より
㊹:「日本軍と軍用車両」林譲治(2019.09)並木書房
㊺-1:「あの時代、何故テールフィンは生まれたのか?」大川悠(MOTOWN GMの百年史)(2008.08)ネコ・パブリッシング
㊺-2:「ロックンロールの夜明けを生きたクルマたち」ロッキン・エノッキー(MOTOWN GMの百年史)
㊺-3:「シュガー・レイ・ロビンソン」三浦勝夫(MOTOWN GMの百年史)
㊻:「クルマの誕生から現在・未来へ」桂木洋二(2009.07)グランプリ出版
㊼:「徳大寺有恒からの伝言」徳大寺有恒(2008.11)二玄社
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引用、参考元一覧 (WEB)
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❷:「いすゞ自動車(株)『いすゞ自動車史』」渋沢社史データベース
https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=6510&query=&class=&d=all&page=4
❸:「みんカラ」「「円太郎バス」から始まった"日本の車"」
https://minkara.carview.co.jp/userid/405365/blog/37906938/
❹:「日本自動車産業と総力戦体制の形成(一)」大場四千男 北海学園学術情報リポジトリ
http://hokuga.hgu.jp/dspace/bitstream/123456789/3484/1/p145-173%E5%A4%A7%E5%A0%B4%E5%9B%9B%E5%8D%83%E7%94%B7.pdf
❺:「新ブログ『クルマの歴史300話』のご案内①」蜷田晴彦
http://ninada.blog.fc2.com/blog-entry-1394.html
❺-1:「「32.関東大震災の悪夢」クルマの歴史300話 蜷田晴彦
http://ninada.blog.fc2.com/blog-category-40-1.html
❺-2:「「33-04.米国車の日本進出④~フォード社工場建設~」」クルマの歴史300話 蜷田晴彦
http://ninada.blog.fc2.com/blog-entry-1139.html
❺-3:「33-15.米国車の日本進出⑥~GM社その2~」クルマの歴史300話 蜷田晴彦
http://ninada.blog.fc2.com/blog-category-41-1.html
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http://ninada.blog.fc2.com/blog-category-29-5.html
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❼-2:「第16回:デソート・エアフロー――空気を形に航空機に学んだ未来志向のフォルム」(国産車ヒストリー)WEB CG
https://www.webcg.net/articles/-/38126
❼-3「第58回:ケルアックの代表作が初の映画化!『オン・ザ・ロード』」鈴木真人 webCG
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❼-4:「第65回:ノックダウン生産に学べ 欧州を範とした戦後日本の自動車産業」(国産車ヒストリー)WEB CG
https://www.webcg.net/articles/-/42135
❽:「自動車フランチャイズ・システムへの先駆的・代表的参加者 ―日本フォード特約ディーラー柳田諒三(エンパイヤ自動車商会)の創発過程―」芦田尚道
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⓫:各社のホームページ
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⓫-2:「第3項 自動車国産化――快進社や白楊社の挫折」トヨタ自動車75年史
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⓫-3:「豊川良平」三菱グループ 三菱人物伝
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⓫-5:「第2章 創業の経緯と創業期の苦難」ブリヂストン ホームページ
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⓫-6:「ヤナセ100年の轍(わだち) 第1章創立・黎明期1915-1929」ヤナセ ホームページ
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⓫-7:「Growth Story第3話 関東大震災と自動車の発展」エンパイヤ自動車株式会社HP
https://www.empire.co.jp/growth-story/post_2.html
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⓬-1:「松本 葉の自動車を書く人々 第1回 小林彰太郎」松本葉 WEB「CarMe」
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⓬-2:「松本 葉の自動車を書く人々 第6回 徳大寺有恒」松本葉 WEB「CarMe」
https://car-me.jp/ahead/articles/8852
⓭:「見た目が「奇妙」ということで注目された1930年代に登場したエアフロー」
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⓮:「MAC’S MOTOR CITY GARAGE」https://www.macsmotorcitygarage.com/
⓮-1:「Bookshelf: My Years With General Motors by Alfred P. Sloan, Jr.」
https://www.macsmotorcitygarage.com/bookshelf-my-years-with-general-motors-by-alfred-p-sloan-jr/
⓮-2:「MCG Car Spotter’s Guide to the 1937 to 1942 Willys」
https://www.macsmotorcitygarage.com/mcg-car-spotters-guide-to-the-1937-to-1942-willys/
⓮-3:「Video: Introducing the 1959 Chevy El Camino」
https://www.macsmotorcitygarage.com/video-introducing-the-1959-chevy-el-camino/
⓮-4:「Video: Betty White Pitches the 1958 Plymouth」
https://www.macsmotorcitygarage.com/video-betty-white-pitches-the-1958-plymouth/
⓮-5:「Video: Introducing the Complete Ford Line for 1960」
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http://www.mikipress.com/m-base/2014/06/30-1.html
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http://www.mikipress.com/m-base/2014/01/25.html
⓯-10:「第63回 1948年型アメリカ車 – インデペンデント編」M-BASE(三樹書房)
http://www.mikipress.com/m-base/2017/10/63-1.html
⓯-11:「第28回 戦後のアメリカ車 - 9 :1940年代の新型車(パッカード)」M-BASE(三樹書房)
http://www.mikipress.com/m-base/2014/04/28-2.html
⓯-12:「第17回 アメリカ車 :序章(5)1934~37年クライスラー・エアフロー」M-BASE(三樹書房)
http://www.mikipress.com/m-base/2013/03/17.html
⓯-13:「第87回 シトロエン トラクシオンアヴァン」M-BASE(三樹書房)
http://www.mikipress.com/m-base/2019/10/87.html
⓰:「T型フォード」クルマノエホン
https://ehonkuruma.blog.fc2.com/blog-entry-154.html?sp
⓱-1:「<カーオブザセンチェリー>T型フォード(1908年)」gazoo クルマの歴史
https://gazoo.com/article/car_history/140919_1.html
⓱-2:「スチュードベーカー コマンダー」gazoo クルマの歴史
https://gazoo.com/catalog/maker/STUDEBAKE/KOMANDA/194701/#:~:text=%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%81%AF1950,%E5%86%99%E7%9C%9F%E3%81%AF51%E5%B9%B4%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%94%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%80%82
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https://car-l.co.jp/2016/09/05/2970/
⓲-4:「【車屋四六】オートモ号という車」
https://car-l.co.jp/2016/03/10/3917/
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□21-4:「★1936年 リンカーン・ゼファー ~自動車カタログ棚から 026」
https://ameblo.jp/porsche356a911s/entry-11308945485.html
□21-5:「1950年代のいすゞTXトラック 郷愁のTX ~ 自動車カタログ棚から 265」
https://ameblo.jp/porsche356a911s/entry-12027635417.html
□22:「第2次大戦期におけるアメリカ戦時生産の実態について(2)」堀,一郎 北海道大学
https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/31504/1/30(2)_P183-250.pdf
□23:「フォードの爆撃機、あるいはロージーのリベレーター」現代史のトラウマ
https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2016/12/post-6050.html
□24:「歴史に残る機体15 B-24リベレーター爆撃機」航空宇宙ビジネス短信
https://aviation-space-business.blogspot.com/2018/01/15b-24.html
□25:「USj特注トミカ イエローキャブ クライスラー1938 と、日光号」retorotoysのブログ」
https://ameblo.jp/retorotoys/entry-12467197847.html
□26:「国産乗用車 クラウンの開発」中村健也(インタビュアー井上悳太)JSAE
https://www.jsae.or.jp/~dat1/interview/interview11.pdf
□27:「日本は戦前には既に大国だった」ブログ ”気になることを”調べてみましょう“
https://ameblo.jp/orange54321/entry-11944755619.html
□28:「東京の女性 1939銀幕三昧」
http://ginmaku1982.blog.fc2.com/blog-entry-1050.html
□29:「徳大寺有恒さんをしのぶ──好きなものから食べる、ということ」鈴木正文 GQジャパン
https://www.gqjapan.jp/life/business/20141224/obituary-aritsune-tokudaiji
□30-1:「1952 シアーズ オールステート」乗り物ライター矢吹明紀の好きなモノ
https://ameblo.jp/akiyabuki/entry-10149159781.html
□30-2:「1963フォード・ギャラクシー500XLスポーツルーフRコード」乗り物ライター矢吹明紀の好きなモノ
https://ameblo.jp/akiyabuki/entry-10064024074.html
□31:「シャパラル」パワーハウスモータークラブ川崎
https://www.powerhouse-mc.com/blog/?p=7904
□32:「日本で自動車はどう乗られたのか」小林英夫 アジア太平洋討究
https://core.ac.uk/download/pdf/46895065.pdf
□33:「みなさん!知ってますCAR?」広田民郎
https://seez.weblogs.jp/car/cat3843142/page/20/
□34:「戦前期における G M杜とフォード社の対日進出戦略」村上喜郁
https://www.jstage.jst.go.jp/article/abjaba/79/0/79_246/_pdf
□35:「部品を輸入したノックダウン生産」ancar.channel
https://www.ancar.jp/channel/2236/#i
□36:「トヨタ自動車AA型乗用車開発への挑戦 トヨタ自動車株式会社」経済産業省 中部経済産業局
https://www.chubu.meti.go.jp/b11tikei/nwm/automobile/kobetu/story001.pdf
□37:「GM社における大衆車市場への参入 - 1920年代における乗用車シボレ-の製品 ・価格政策の成果と特徴 -」高田聡
https://core.ac.uk/download/pdf/59179883.pdf
□38:「Abernathy, W. J., & Clark, K. B. (1985). Innovation: Mapping the winds of creative destruction. Research Policy」BizSciNet 管理人;管理人: 高橋伸夫 (経営学)
https://www.bizsci.net/readings/comment/abernathy&clark1985comment.html
□39:「1920-30年代GM における成長戦略とマーケティング管理の確立」齋藤雅通
file:///C:/Users/hirokun/Downloads/be444_03saito.pdf
□40:「わが国における自動車流通と販売金融」石川和男
file:///C:/Users/hirokun/Downloads/86_07.pdf


備考
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≪備考13≫ 第二次大戦下における自動車メーカーの航空機生産について
 “大型航空機用の大量生産工場”という、当時のアメリカの隔絶した物量&工業技術の脅威を、世界中にまざまざと見せつける結果となった、巨大な“ウイローラン工場”の建設とその稼働は、フォード&アメリカの自動車産業の功績のとして欠かせないものがあったと思う。以下は例によってWebからの引用を深く考えずにペタペタと貼るだけだが!途中で別の話題を割り込む形となるが、ここで簡単に触れておきたい。(下記の画像は「The Ford Motor Company Willow Run Airplane Plant」で以下のブログよりコピーさせていただいた。https://www.thisdayinaviation.com/tag/willow-run-airplane-plant/)
e208.png
https://static.thisdayinaviation.com/wp-content/uploads/tdia/2016/06/Screen-Shot-2016-06-27-at-07.54.05.png
 以下(⑮P150)より引用『自動車産業は、急成長したこともあって、政治とはもっとも関係の薄い業界となっていたが、1930年代になるとアメリカの代表的な産業になることで政治との関わりを強めていった。自動車産業がアメリカの景気の先導役になっていることがはっきりしたから、景気回復のためには自動車産業が元気になることが要請されたのだ。それにもっとも良く応えたのがゼネラルモータースである。1933年から需要が上向きになると積極的に設備投資をするようになり、やがて民主党政府が打ち出したニューディール政策を支援した。政府のほうでも、雇用対策の一環として高速道路の建設計画などを実行に移し、ますます自動車の走る環境が整えられた。』
 以下はこのブログの過去記事の「⑮ 中島飛行機とプリンスにまつわる”よもやま話”」で記したことの再録だが、第二次大戦が勃発すると、軍需生産対応に際して、民間人であるGMの社長のビル・クヌードセン(W.S.Knudsen)がルーズベルト大統領に任命されて 連邦政府内に設置された軍需生産国防委員会の委員長に就任する。以下(⑮P150)より『1941年になって、国防委員会は1941年以降は新しいモデルを開発せずに兵器の生産に従事するように通達を出した。このため、各メーカーの新型は、このときまでに用意された1942年モデルで終わり、戦後までニューモデルは出ないことになった。軍用トラックを始め、航空機用エンジン、戦車や特殊装甲車、飛行機の部品などの生産が各メーカーに割り当てられた。自動車用の生産設備を利用しながら、これらの生産のための設備が急遽ととのえられた。
各自動車メーカーに対しては、生産品に応じて株の配当で6%以内を可能にする利益が保証された。』
クヌードセンは1942 年から1945 年までアメリカ陸軍省の軍需生産局長官としてアメリカ全産業の軍需生産計画を指揮した。そして軍需契約高は1940 年~ 1944 年にかけてGMが 138 億ドルで全米第 1 位、フォードは 50 億ドルで第 3 位、クライスラーは 34 億ドルで第 8 位であったという。Wikiによれば『フランクリン・ルーズベルト大統領はデトロイトを「民主主義の兵器廠」(Arsenal of Democracy)と呼んだ』ほど、アメリカ政府や軍部の期待に応えた。
 以上が概要だが、以下、第二次大戦における自動車産業による航空機生産について、記した論文である(Web□22,P190)からの引用を手始めに、ウイローラン工場を中心により詳しく見ていく。
『自動車会社による航空機生産の引受けは,自動車エンジン製造と技術的に近似していた航空機用エンジン生産から始められた。 40年 8月にフォードがブラット・アンド・ホイットニーとエシジンのライセンス生産契約を締結したのを皮切りに,それは拡大されていった (9月にパッカードとロールス・ロイス、10月GMビュイック事業部とプラット・アンド・ホイットニー、11月スチュードベイカーとライト〉。だが軍用機生産の目標の拡大は自動車会社にエンジン生産のみならず、航空機部品製造の引受けを要求した。』
『NDAC(注;国防諮問委員会(National Defense Advisory Commission))のM.S.クヌードセンによる部品製造担当の要請に対し、自動車製造業者協会(Automobile Manufacturers Association) は40年10月末に自動車航空委員会 (Automobile Committee for Air Defense)を設け、(中略)航空機会社,自動車会社,ゴム会社を組み合せた爆撃機生産計画を作成し、41年春から実施する。この計画は、航空機会社が機体製造を担当し、自動車会社とゴム会社が部品製造を行うことを原則としていたが,例外としてフォードは部品製造とB-24の組立の両者を担当した。』以下はそのB24生産について、wikiより
『フォードは第二次世界大戦勃発後の生産増強に際し天才的な才能を発揮し、軍用機・軍用車生産の効率を飛躍的に高めた。コンソリデーテッドB-24爆撃機の製造のために1941年4月にアナーバー近郊で着工したウィローラン工場は面積33万平方メートルで、当時世界最大の流れ作業ラインを持つ工場であった。』下の画像もwikiより、ウィローラン工場。手前の部分は飛行場部分で、その奥が工場だ。『760万㎡(230万坪)の土地に、当時、一つ屋根の建物としては世界最大の幅390m、長さ975mのL字型工場と2本の滑走路を持つ飛行場も併設されていた。』当然ながら飛行場もあった。(Web⓯-1)ウィローランは元々、ヘンリー・フォードの所有する農場であったという(Web□23)。)
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(下の画像と以下の文もwikiより『フォードのウィローラン工場で大量生産されるB-24爆撃機』。以下は(Web□23、Web)からの引用で、さらに詳しく見ていく。
『各社が揃って生産に入ったB-24D系列(E/C型を含む)の機体を見ると、コ社(=コンソリ―デッド社:引用者註)のサンディエゴ工場が1942年1月、フォートワース工場が5月、ダグラスのタルサ工場が1942年8月、フォードのウィローラン工場が9月、最後に少し遅れて翌42(ママ)年4月にノースアメリカンのダラス工場が、それぞれ最初の機体を送り出している。』上記と多少重複するが、以下は(Web□24)より引用
『1941年初頭には他社もB-24生産に加わり、中でもフォード自動車が大胆にも一時間で一機完成させると公約したが、航空機産業界の嘲笑を買い、自動車産業に実現できるはずがないと見られていた。』再び(Web□24)より引用
『このうち、注目すべきはフォード社であった。優秀な特定の機体を、直接航空機と関係のない企業を含むいくつかのメーカーで生産する体制は、当時アメリカで広く行われたことであるが、とくに威力を発揮したのが自動車メーカーで、その生産能力において航空機メーカーの比ではなかった。(中略)
 フォード社も、ミシガン州ウィローランに急遽工場を新設、製作図面を量産向けに書き直したうえ、生産設備も自動車並みに変更して大量生産に入った。(中略)
 最高精密機械の航空機といえども、充分マスプロが可能なことを知らしめたのである。』(牧英雄「B-24 技術的解剖と開発、各型」『世界の傑作機No.24 B-2リベレーター』 文林堂1995 12ページ)以下はwikiより『B-24製造にあたって、飛行機会社では1日1機の製造が精いっぱいだったが、ウィローラン工場では24時間体制で1時間1機のB-24を生産した。』それにしてもこの写真を見るたびに、“アメリカと戦争なんかするもんじゃなかった”と思ってしまうが、いくらなんでも当時の日本の軍部も、アメリカとの戦争は無謀だと思っていたはずで、裏を返せば、戦争をしたかったのはたぶん、アメリカ(ルーズベルト大統領)の方だったのだろう。以下(Web□24)より『終戦までフォード自動車含む米産業界は空前の規模で軍需生産をし、米国の航空機生産は合計324,750機でトップ、二位三位の英国、ソ連の合計数を上回っていた。このうち、リベレーターは18,482機で、さらにそのうち8,685機をフォードのウィローラン工場が生産した。』4発の重爆撃機のこのB24“リベレーター”が、第二次世界大戦中に生産された米軍機の中で最多の生産数だったのだ。)

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(下の写真は“ぼろ太”さんのツイッターより引用させていただいたが、https://twitter.com/futaba_AFB/status/1154376098802618368 この写真の人物対比で、4発重爆撃機であったB24(Consolidated B-24 Liberator)のスケール感がだいたい理解いただけるかと思う。『1942年1月にフォード社長のエドセル・フォードEdsel Fordがコンソリデーテッドのサンディエゴ工場でB-24を初めて目にし「怪物のような大きさだ」と述べている。試作機はその一年前に完成していたが、全長66フィート4インチで全高17フィート11インチ、翼幅110フィートと当時の米国で最長の機体だった。』(Web□24)こんな巨大な軍用機を、24時間体制で一時間に1機も量産したのだ。
さらに恐ろしいのが、大量生産によるコストダウン効果で、『こうしたことから、最初XB-24の開発に$2.880.000、YB-24では$360.000もした価格は、1941年には平均$269.805、42年末には$137.000にまでなった。これはP-38(一人乗りの双発戦闘機である:引用者註)よりわずか1万ドル高いだけであった。』(Web□23)
しかしフォード社も大きな犠牲を払った。困難なプロジェクトであったウィローラン工場の立ち上げを、エドゼルは父親であるヘンリー・フォードの命を受けて、父親の片腕として長年技術部門を仕切ったチャールズ・ソレンセンや、工場設計を得意としたアルバート・カーンらの協力のもとに、陣頭指揮したのだが、その心労から1943年春に胃がんで亡くなってしまう。49歳という若さであった。)

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https://pbs.twimg.com/media/EAUq8E9VAAEZL-J?format=jpg&name=900x900
最後に、「Save the Willow Run Bomber Plant landmark - Amazing Local History in WW II effort」という当時のフォード社の広報用フィルムが、(Web□23)に紹介してあったので、ここでも紹介させていただく。自動車とはスケールが違うので、たとえば量産するための工作機械ひとつとっても、新規設計が多かったのではないかと思うが、よくぞ短期間に完成させたものだ。エドゼルの苦労が偲ばれるとともに、自動車で可能だったのだから、大型爆撃機でも大量生産が可能なはずだという、ヘンリー・フォードの執念みたいなものも感じられる。
https://www.youtube.com/watch?time_continue=1815&v=77_6MExOp8g&feature=emb_title
 このような動画を見せつけられると、たとえ先方から仕掛けられたにせよ「アメリカと戦争なんかするんじゃなかった」と思わざるを得ないが、その一方で、国立科学博物館研究員の鈴木一義氏が以下に指摘していることも確かだと思う。『~そして戦前、この航研機や零式艦上戦闘機(通称ゼロ戦)等に代表されるように、日本は、とりあえず、かの時点で世界レベルの飛行機を開発し、量産した。しかし、「日本航空学術史」や「マン・マシンの昭和伝説」等に詳細に描かれているように、その量産は、どう考えても、富士山のようにどっしりと裾野を広げた産業構造の上に成り立っていない。部品点数が自動車の10倍を超える航空機の製造は、たぶんに背伸び的であったといえよう。(中略)しかし、逆に言えば、そのような中で、とにもかくにもあれだけの航空機を設計、製造したというのは、個々人の能力が極めて高かったことに他ならないだろう。』(⑤、P96)

⑲ 日本の自動車産業の“育ての親”は日本陸軍だった?フォードとGMの日本進出とその影響(戦前の日本自動車史;その4) 《- 前編 -》

⑲ 日本の自動車産業の“育ての親”は日本陸軍だった?フォードとGMの日本進出とその影響(戦前の日本自動車史;その4) 《- 前編 -》
(※この記事はまだ書きかけです。) 

この記事全体の概要
 この記事(戦前の日本自動車史;その4)の要約を最初に記しておく。1923年9月に起きた関東大震災後の復興が、日本における自動車普及の大きな契機となった。フォードは壊滅した市電網の臨時代替用として東京市電局からT型フォード800台の注文を受け、日本の自動車市場に注目する。日本側からの熱心な誘致もあり、横浜に工場を設けてノックダウン生産(以下KD生産と略)を開始する(1925年)。ライバルのGMもそれに続き大阪に大規模な工場を建てて、同じくKD生産を開始する(1927年)。
 前回の記事の“9-4”で記したように、産声を上げたばかりでまったくの手作り状態だった当時の国産車と比較して、生産台数で優に×1万倍ぐらいの大量生産を行っていた両社の進出により、以降の日本の自動車市場はアメリカ車による植民地と化していく。
 しかしその一方で、廉価で良質な自動車が、両社の販売網に乗せて全国に向けて販売されたことにより、営業車が中心だったとはいえ、大阪/東京における円タクの普及に代表されるように、一般の日本人に自動車という存在を広く認知させた。
 また産業面でみた場合でも、自動車部品産業の育成や、下請けとの分業関係は、その後のトヨタや日産による大量生産体制の原型を提示した。さらに両社が展開した近代的な販売システムやマーケティング手法は、戦後の日本の自動車産業発展のための礎となり、人材育成面での貢献と共に多大な貢献を果たした。
 なおこの記事の年代の“守備範囲”は、関東大震災から、満州事変が勃発して陸軍が外資の排除へと動く前までの時代とする。
(元ネタに対してのガイド役になれば幸いです)
(いつものように文中敬称略とさせていただき、直接の引用/箇所は青字で区別して記した。また考える上で参考にしたものや、写真の引用元まで含め、出来るだけすべての元ネタを記載している。この記事のたぶん8割以上が、それら参考文献に依存するものであり、そのため今回の記事は青字だらけになる予定だ。もちろん、オリジナルに勝ることはけっしてないので、この記事をきっかけに興味をもった方はぜひ元ネタの方を確認願いたい。この記事がそのためのガイド役を果たせれば幸いだ。
なお前回の記事の“主題”が陸軍だったため、やたらと重苦しくなってしまった反省もあり、今回は深く考えることはせずに、流れに任せて軽いノリ書いてある。また動画の紹介部分は緑色で区別した。)

10.関東大震災と、その影響
 戦前の日本の自動車史を大きくみていくと、関東大震災と、満州事変を契機に、大きな変貌を遂げていった。震災後の応急処置として、緊急輸入したフォード車が、その後の日本の自動車社会に大きな転機をもたらすこととなった。
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https://pbs.twimg.com/media/D9LnBQJU8AAR-wx?format=jpg&name=360x360
(上は震災後の銀座の様子で、出典は「米澤光司(BEのぶ)@昭和史家」さんです。同氏によれば『関東大震災 で被災した銀座通り。昭和20年の空襲後の写真も見たことがありますが、こっちの方がひどいかもしれません』とのことだ。
https://twitter.com/yonezawakouji/status/1140228046323982336 )


10.1関東大震災で東京の交通網が壊滅
 1923年9月1日正午2分前に起きた関東大震災は、首都東京に壊滅的な被害を与えた。
壊滅的被害だった関東大震災
 この地震により約190万人が被災し、死亡・行方不明者は10万人を超え、全壊した建物は10万余に達した。地震発生時刻が昼時だったため、とくに火災による被害が甚大で、全焼した家屋は20万以上に及び、死者の9割は火災が原因だったという。wikiによれば新聞各社の社屋も焼失し、『唯一残った東京日々新聞の9月2日付の見出しには「東京全市火の海に化す」』だった。(下の画像の出典は「Japan Web Magazine」さんの『関東大震災後の東京の風景』だ。
https://japan-web-magazine.com/1923-great-kanto-earthquake)
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https://japan-web-magazine.com/wp-content/uploads/2014/09/031-700x466.jpg
 庶民の足であった、関東一円の輸送網と輸送手段の被害も大きかった。『具体的な鉄道車輌の被害は 1,475両,破損 423両,そして,東京の市営電車は 779両及び自動車 458台を焼失したと言われている』(❶P163)。
(参考までに下の動画『カラー映像で蘇る東京の風景 Tokyo old revives in color』をぜひご覧ください。当時の東京の街の交通の主流が路面電車で、市民生活の中に溶け込んでいた様子が、この動画からうかえる
https://www.youtube.com/watch?v=Qndcio-NjYY&feature=emb_rel_end
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軍用保護自動車3社も甚大な損害を受けた
(下の曲がった線路の写真は「総武線、両国橋(現両国)~錦糸町の高架橋梁上の光景」(新潮社)より。ちなみに前回の記事で記した、軍用保護自動車3社の状況も気になるところだが、はたしてどうだったかというと…『関東大震災により東京石川島造船所深川分工場の設備、車両ともに全焼し、一時自動車製造中止の論も出たが、新佃島の本社事務所跡に移り製造を継続することになる。東京瓦斯電気工業は大手町の本社建物を全焼、大森工場で一部建物の倒壊あり。快進社は軍用自動車製作中災禍にあい、橋本氏の独立経営不可能となる。』という惨状であった(❷より)。
https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=6510&query=&class=&d=all&page=4 )
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https://www.shinchosha.co.jp/railmap/blog/images/24/1.jpg
以下(①P34)より引用『焦土と化した帝都で、人々はまず安否の連絡を取り合う情報手段と、離ればなれになってしまった人々の移動や安全な郊外へとのがれる交通機関が必要であった。勿論、ケガの手当ての為に医薬品と病院、食物と水等が緊急要請されたが、電話、電気、ガス、水道など中心部の発展した地区でも一切使えなく、まして郊外や外国との連絡にも困る状況だった。』
復興に自動車が活躍
 こんな悲惨な状況下で、機動力のある自動車の存在が、にわかにクローズアップされていく。たとえば『震災直後、わずか数台の消防自動車が、日本銀行などの主要建築物を火災から救った』(②P34)という。『「激震と共に交通機関を失った当時に在って、自動車は唯一の通信機関であり、又運輸機関」』(①P35)だったのだ。しかしその、頼みの綱だった自動車は元々台数が限られていたうえに、『警視庁登録の東京市内自動車5,800台のうち無事だったのは、2,900台で、半数が焼失してしまった。』(①P35)
 この国家的な非常事態に時の政府(山本権兵衛内閣)は迅速に動く。首都復興にあたらせるべく、新たに「帝都復興院」が設けられて、初代総裁に後藤新平(元鉄道院総裁・東京市長)が就任、さらに当時鉄道院に在籍し、戦後「新幹線の父」として大きな功績をあげた十河信二が経理局長として出向するなど各所から有能な人材が集められた。後藤は復興資金の捻出のため、“復興債”を発行する。必要なことではあったが後々これが財政上、大きな重荷となっていく。
 話を自動車に戻すが、応急の輸送網構築のため、全国から自動車が徴用されるとともに、トラックの緊急輸入の際に、輸入税の免税を行い、自動車部品、原動機の輸入税を半減する処置を行う等、台数が不足していたトラックの輸入奨励策も実行する。(③P251等)

10.2震災後の復旧で“円太郎バス”が活躍
 一方、震災で交通機能が崩壊した東京市は、東京市電(営業キロ数103.4km、1,000両を超える車両を保有していた(④P137))を管轄していた市電局の長尾半平局長が中心となり、市電復旧までの代替交通手段として、バスの導入を検討する。
東京市がバス導入を決断
 しかし納期も長い上に高価な大型のバスを大量調達するのは現実的でなかった。そこで短納期で廉価な上に丈夫なフォードT型のトラック仕様のシャシー(TT型)を大量(当初計画の1,000台から途中で800台に減るが)に輸入し、国内で簡易なバス用車体を架装することを検討する。納期は欧州車の納期が通常6か月なのに対して3か月で、1,800円程の輸入価格は、たとえば東京の民営の“青バス”の高級仕様のバスの12,000円に比べて大幅に安かった(①P39、④P139)。
東京市会で200万円の予算が認められてGOとなり、当時のフォードの日本代理店だった、セール・フレーザー商会はアメリカのフォード本社の、ヘンリーフォード社長宛に『T型フォード、トラックシャシー千台ヲオクラレタシ・・・』と打電する(①P36、②P34等)。そしてこの電信の内容に、フォード帝国に君臨する“自動車王”、ヘンリー・フォードが関心を示す。この時点でフォードはすでにヨーロッパ及び中南米への進出を果たし、アジア進出の拠点を模索している最中であった(③P252)。この自動車王に宛てた電信が、日本の自動車史に新たな展開を呼ぶことになるのだが(11.3項参照)、その前に、震災からの復興の過程で活躍した「円太郎バス」について主に①、⑤、④の本をもとにして記す。
円太郎バスの誕生
 東京市の描いた応急用の市バスのイメージは、T型フォードのトラック仕様であるTT型(エンジンはT型と同じだがホイールベースが長い、低速・重量仕様)のシャシーに木製フレームを付けた、アメリカでは主に牛乳配達用だったトラックをフォードから購入し、その上に日本国内の“ボディ屋”が、簡易な木枠のボディにコの字型の木製シートを付けて、11人乗車の簡易バスに仕立て上げるというものだ。しかし台数の多さと短納期で『中にはやっつけ仕事の業者も出現して』(Web❺-1)、日本側の作業のその出来映えは『粗製乱造の見本といえた。』(⑤P76)なかには『「(シャーシが日本に送られてきたときの)梱包の木箱を解体して車体の材料に使った」などという風聞までささやかれた』(wikiより)という!
完成したクルマを早速視察に来た、東京市電局の長尾局長は『余りのお粗末さを驚き、「これはひどい」と嘆いた』(①P38)と伝えられている。(下の写真はブログ「初心者のためのオートオークションの基礎知識」さんよりコピー  http://www.jp-autoauction.net/2015/05/26/entarou-bus/ ご覧のようにいかにも“やっつけ仕事”的で、バスというイメージからはほど遠いものだった。ただし急増したボディ業者の中からたとえば倉田ボディ(横浜)のような、その後優れたバスの車体業者に発展していったものもあったことを追記しておく。ちなみに当時の東京都市部の人口は約250万人だったという。)
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http://www.jp-autoauction.net/wp-content/uploads/2015/05/20150110_auc_001-300x229.png
 そして1924年1月18日、急ごしらえの市営乗合自動車は、二路線,巣鴨から白山,春日町,神保町,大手町から東京駅に行くコースと,渋谷から電車通りを日比谷から有楽町を経て東京駅までのコースから営業開始した。その後大塚駅から呉服橋間,新宿から東京駅間に広げ、3月16日からは当初予定の20系統全線が運行となった。
自動車が“邪魔もの”扱いから“市民の足”へと変化
そのオンボロぶりから、「円太郎バス」というあだ名を頂戴しながらも、予想以上の利用客がいたという(1日平均乗客数が54,000人だった(⑤P76))。当初は市電復興までの一時的な運航の予定だったが、『半年間の暫定措置として路線営業の認可を出した警視庁も、また路面電車復旧までを条件にして了承した市議会も、バスの人気ぶりを眼のあたりしたので、これらを撤回し』(Web❺-1)、8月からは20系統が9系統に縮小されたものの継続して営業された。こうして「円太郎バス」は東京市営バスの源流となり、行政側と東京市民の双方にバス(自動車)の利便性を認識させる事となった。自動車が“市民権”を得たのだ。(①P39等参考)
“円太郎バス”の名前の由来
 「円太郎バス」と呼ばれた由来について、「みんカラ」の「「円太郎バス」から始まった"日本の車"」(Web引用❸)と、(㊳P133)を参考に記しておく。明治初期の落語家、四代目橘家(たちばなや)円太郎が、東京市内を走っていた乗合馬車の御者の吹く警笛のマネを得意としていた。その、すっとぼけた調子はずれの声色芸は大いに受け、乗合馬車が「円太郎馬車」と呼ばれた。この乗合馬車とバスが形態面で類似していたことから、新聞記者が「円太郎バス」と名づけ、広く呼ばれるようになったという。東京日日新聞(毎日新聞の前身)の小坂新夫記者が命名者だったらしい(㉘P143)。
(下の写真のクルマは『現存する唯一の「円太郎バス」であり、現存する国内最古のバスでもある。東京市から払い下げを受けた柏学園が使用し、1955(昭和30)年に東京の交通博物館に寄贈され、長く同館に保存・展示されていた。交通博物館閉鎖のため、2007(平成19)年からは、鉄道博物館所蔵のもと、東京都交通局にて保管中である』(以上もWeb❸より)。内容が重複するが、㉚P108によれば『現在交通博物館に保存されている1台は戦後千葉県の特殊学校で発見されたものと聞くが、円太郎が払い下げられてから多少ボデーを改造されていて真のオリジナルな姿ではない。実際には運転席にドアは無く、側面は幌を張っていた』のだそうで、もっとみすぼらしかったようだ。下の写真自体は「M-BASE」さんの記事“フォード モデルT”
http://www.mikipress.com/m-base/2012/12/14.htmlよりコピーさせていただいた。)

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http://www.mikipress.com/m-base/img/05-14-13%201924%20%E5%86%86%E5%A4%AA%E9%83%8E%E3%83%90%E3%82%B9.jpg
トラックも活躍
 一方、鉄道省も寸断された鉄道貨物輸送の臨時対策として、トラックを緊急輸入した。以下(Web❶P163)より引用『~東京― 横浜線の再建策として GMC,フェデラル,マックのトラック計 100台を輸入し,貨物運輸業を開始した。この鉄道省のトラック運輸業は,輸入トラックの払下げを通して民間の貨物運輸業を発達させ,さらに,昭和5年の「省営バス」構想(注;次の記事の“その5”で記す予定)へ発達することになるのである。』横浜~芝浦間を船舶輸送に切り替えて、芝浦埠頭に陸揚げされた貨物をトラックで市内各方面に輸送したようだ。(⑥-1P20)円太郎バスと同様に、震災が一つの契機になり、トラック輸送の実用性が世に認められることとなった。
10.2項のまとめ
 以下(⑤P76)よりこの項((10.2)のまとめとして引用させていただく。『震災前の日本の道路は自動車に対して寛容ではなかった。(青バスは)日本で最初に女性車掌を採用するなどして奮戦したが、新参者の自動車は輸送機関として市電のような行政の庇護もなく、システムの出来ている荷車や荷馬車、舟運等にも対抗する術を持たなかったのである。交通規制も同様だった。(中略)自動車は道路の邪魔者とみなされていたのである。
その邪魔者が関東大震災によって、一躍主役に抜擢され、本来の実力が発揮された。以後、自動車は急速に輸送、交通機関として普及していくことになる。フォード車はその状況を的確に見抜いていたわけだ。』
(⑤P76))
こうした震災時の東京市と鉄道省の動きに刺激されて、その後各主要都市でバス路線を開設する所が相次ぐようになったという。
青バスについて
(下の写真の東京乗合自動車は、通称“青バス”と呼ばれ、東京市民に親しまれた。実際には青というより深緑色の車体で、窓下に白線を入れていた。なおバスガール=女性車掌は当時「職業婦人」の花形だった。『三越がデザインした制服が時代の先端を行くスタイルとして市民の評判を呼んだ。』(Web❺-1)青バスは震災後ただちに奉仕活動を行ったという。『ささやかな活動ではあったが、いち早く、自動車の輸送が始まった。通称「青バス」の東京乗合自動車㈱は、焼け残ったバスを新宿~四谷路線に集め、二日には無賃の奉仕運転を開始した。甲州街道沿いに焼塵の市内から徒歩で逃れる避難民への便宜を図ったのである。』(⑲P148))
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http://blog-imgs-46.fc2.com/n/a/m/namakenako/Koyo_Ishikawa_1.jpg
(青バスはその後、『昭和17年5月に交通の地域調整によって旧市内の路線交通事業を東京市が独占経営することになったので、多くのバス会社と共に市営バスへ接収統合されてしまったが、車体の緑色に白線は、その後の市営バスに用いられるようになった』という。(㉘P152)
以下の写真と文はブログ「岩手県のバス“その頃”」さんよりコピーさせていただいた、
http://www5e.biglobe.ne.jp/~iwate/vehicle/extra/coloring/c2.html
『東京乗合自動車の遊覧バス(はとバスの前身)で、既に黄色に白帯という明るいカラーに塗られ、人目を引いていました』という。写真のクルマもそうだが、車両はアメリカの高級バスメーカーである、ダイアモンドT社製のもので、青バスも同社のバスを用いていたようだ(㉘P153))

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http://www5e.biglobe.ne.jp/~iwate/vehicle/extra/coloring/post_card/1930s_01.jpg
郊外電車の発展(余談)
(このブログでは鉄道は原則扱わないのだが、10.2項の最後に郊外電車の写真を貼っておく。下の写真と文は「藤田加奈子さんのツイッター」よりコピーさせていただいた。
https://twitter.com/foujika/status/835828736058482689
『西尾克三郎『ライカ鉄道写真全集4』より「帝都電鉄(注;現・京王井の頭線)下り永福町行普通列車 東松原ー明大前 昭11/1936-8」。林野と農地のひろがる牧歌的な沿線風景だけれど、ぼつぼつ住宅が建ちはじめている。1930年代東京の郊外生活と私鉄沿線。』以下は(③P273)をもとに要約して記すが、関東大震災によって、市内人口の約60%が住居を失い、大部分が郊外に移住した結果、たとえば1921年(大正10年)と1930年(昭和5年)の間に東京の交通人口は大きく変化した。市電(路面電車)は約70%→35%へと大きく減少したが、省電(国電)は約19%→33%に、郊外電車(下の写真のような電車)は9%→20%に、そして乗合自動車(バス)は約2%→11%へと躍進した。東京の交通網も住環境も、震災を境に大きく変貌していったのだ。)

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https://pbs.twimg.com/media/C5l1oJ7VAAQL1g2?format=jpg&name=900x900
 脱線気味になってきたので、次に“本題”であるフォードの日本進出について話を進めたいがその前に、さらに本格的な脱線になりそうな予感だが?のちに輸入車業界の不動のNo.1企業となるヤナセの創業者、梁瀬長太郎による震災直後にGM製乗用車を実に2,000台という、東京市の円太郎バスを×2.5倍上回る、当時としては空前の規模の大量輸入について、触れておきたい。

10.3梁瀬によるGM製乗用車2,000台の緊急輸入の偉業
 不振だった三井物産のGM車輸入業務を引き継ぐ形で独立した梁瀬長太郎は、外遊中に関東大震災の報を聞き、当時乗船していた船の図書館で調査した結果、震災復興時には物より人の移動が優先し、トラックよりも乗用車が優先されるという結論に達する。そこで周囲の大反対を押し切ってGM製乗用車2,000台の輸入に踏み切り、プレミアム付きで即座に完売させる。そして震災復興を急ぐ国家の指導者たちの“足”をいち早く提供することで、その復興に大きな貢献を果たした。
震災直後に500台の乗用車を緊急輸入
 以下は①P26、④P136、⑥-1P117、⑧、㊵、Web❺-1、❻(特に主に❻←非常に詳しく書かれている、と①)等を参考にした。
梁瀬長太郎とヤナセについて
 梁瀬長太郎は1879年、群馬県に生まれ、1904年、東京高商(現在の一橋大学)を卒業後大阪商船(現商船三井)に入社したが、翌年三井物産に転じた。三井物産は1912年、GM傘下のビュイックの販売代理権を獲得し、機械部で輸入販売することになった。鉱油係主任だった梁瀬が担当するようになるのはその翌年からだった(Web❻)。しかし物産の期待通りに売れず、1914年に200万円もの累積赤字を計上し、軍用自動車以外の自動車販売から撤退することになってしまった(主にWeb❻、①P22、⑫P20)。『三井物産は輸入こそできても小売りはできず、(中略)中小企業で扱った方が適切であるとの結論に達し、自動車の取り扱いを停止することとなった。』(Web❻) (下はヤナセのHPより『梁瀬長太郎会長と次郎社長(1952年)』
https://www.yanase.co.jp/company/ajax/topic1945_2.asp)長太郎の長男として戦後その事業を引き継ぎ、中興の祖として、高級ブランド”ヤナセ“を確立させた梁瀬次郎は、アメリカ車の販売に寄与したとして、2004年に日本人としては5人目となる米国自動車殿堂入りを果たした。ちなみにまったくの余談だが、梁瀬次郎は非常に達筆で、日経新聞に執筆した“私の履歴書”はまるで連載小説みたいに読み物としても面白く書かれていて、毎日の連載を楽しみにしていた記憶がある。これも父親から受け継いだ血筋だったのだろうか。「じゃんけんぽん」(㊵)という本も、父と対立しつつもVWやメルセデス・ベンツの販売権獲得に見られるように、絶えず挑戦し続けた、戦後のヤナセの軌跡が平易な文章で綴られていている。自動車以外でも「いいものだけを世界から」と、アラジンのオイルヒーターや、ウエスティング・ハウスの家電なども記されており、あのころの懐かしい記憶が脳裏に蘇ってくる。)

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三井物産からの独立
 梁瀬は『かつて三井物産の常務取締役だった山本条太郎氏から、自動車販売の引き継ぎが打診される。「お前がやるのならば自分もできる限りの応援を惜しまない。資本も出してやろう」という言葉に元気づけられ、長太郎は独立を決心したのであった。』(Web❻P15)梁瀬は三井物産からの独立を決意し、同社の支援の下に、輸入自動車及び輸入鉱油類の一手販売権を引き継ぐ形で東京・日比谷に個人商店「梁瀬商会」を設立、ビュイックとキャディラックの輸入販売を始める。三井物産から『日比谷公園前の従来の店舗・工場を安く譲ってもらい、また、自動車のストック40台ほども、顧客に販売できた後に支払う条件で譲ってもらった。』(⑫P20)
 独立当初は第一次大戦勃発による戦争特需もあり、高級車ビュイックの販売が好調だったが、間もなく特需が終わり、戦後不況に突入すると在庫の山となり、たちまち苦境に陥った。
失意の中の欧米視察旅行
 そんな折、局面打開のヒントを求めて欧米への視察旅行に旅立った梁瀬は、アメリカからヨーロッパに渡り、『もう一度アメリカに寄りたいと乗船したフランスルアーブル港で日本の九月一日の大地震の情報を知った。船は出港、アメリカニューヨークに向かった』(①P23)。まるで図ったかのような絶妙なタイミングだった。船中では『日本の東京横浜では約三十万人の市民が焼け死ぬ大地震があった』(①P26)といった悲報で持ち切りだったという。
だがここで、梁瀬が並の人間と違うところは、船の図書館を利用して、災害復興の際に、トラックと乗用車のどちらが先に必要になるか、海外の文献を調べたのだという(ただし同行した梁瀬のニューヨーク駐在員に調べさせたのだが)。そして『ロンドンの大火やサンフランシスコの大地震のときには、まず乗用車が先に動いて、その後にトラックが売れることが分かった』(④P137)。『荷物が動くのは人の次であることが判明した。荷物は口がきけない。どこにいけと指令をするのは人である。』(㊵P42)
モノより人が先に動く
 そこでニューヨークに着いた梁瀬は直ちにGMに向かい、船中で得た「復興には物より人の移動が優先する」という信念に基づき敢然と、2,000台ものビュイックとシヴォレーの乗用車を、大量輸入しようと動く。
少し話が戻ってしまうが、アメリカと欧州へと旅立つ時、梁瀬は窮地に立たされていて、相当深刻な状況だったようだ。達筆な長男の梁瀬次郎が(㊵P39)で当時の父について以下のように綴っている。『~父は無一文になってしまったのだ。その時、父は心に「じゃんけんぽん」を決意した。とてもこのままでは会社は存続できない。会社の閉鎖解散を決意したが、このままでは何とも口惜しかったであろう。私財をすべて整理して、母を連れて生まれて初めて、一生の思い出にとアメリカ、欧州へ旅に出ることを考えた。本当の一か八かの心境であったろう。』失うものがほとんどなかったが故に、起死回生の2,000台という、一世一代の大勝負を打てた面もあったかもしれない。
一世一代の大勝負
しかしこの“大勝負”は他人からは理解が得られず、『GM社からは、「トラックならわかるが、乗用車のみを持っていくとは頭がおかしくなったのではないか」と言われ、注文を受け付けてくれなかったという。輸入手続きを依頼していた三井物産のニューヨーク支店も同様の反応であり、信用状を開設してくれなかった。』(Web❻P24)
あまりの大規模な輸入計画に本社と相談した結果『物産本社の常務安川雄之助には、梁瀬自動車の従来の在庫が未整理な状況を指摘され、新規輸入は見合わせるべきと判断された』(⑫P26)ようだ。
 しかしそこで諦めずに粘りに粘り、横浜正金銀行(外国為替銀行で東京銀行の前身。(Web❺-1)によれば梁瀬商会のメインバンクだったようだ)ニューヨーク支店で、乗用車の販売には絶対の自信ありと強く主張し、何とか信用状(L/C)を開いてもらい、ビュイックの四気筒モデルとシヴォレーの乗用車計2,000台出荷の了解を勝ち取る。(主にWeb❻、①P28)そして2,000台のうちの第一陣である500台(ちなみに④P137では1,000台となっているが?)の乗用車と共に日本に向けて出港する船に自ら乗り込み、意気揚々と帰国したのが震災から1月ほどの10月4日(5日と書かれたものもある)で、円太郎バス開業の3か月以上前という、他を圧する驚くべき早わざだった。
プレミアム付きで完売、大勝負に勝利
 瓦礫の中の首都東京では『すでに芝浦の工場他の在庫の山だった自動車はすべて売れ、新入荷の五百台も即刻売り切れ、残りの千五百台もすべて予約がつき、プレミアムが一台三百円も加わり、約六か月で二千台の乗用車は完売した。』(①P28)それでも先に記したように、東京の車の半数が焼失したため、『東京・横浜政財界の指導者たちにゆき渡らない台数だった』(①P29)のだという。梁瀬の目論見通り乗用車の需要が先行し、より常識的な判断で?トラックの輸入を重視した同業他社は震災直後、その販売に苦戦したという。梁瀬の商売人としての抜群の勘と先見の明、そして果敢な行動力には、ただただ感服する以外ない。
 しかしこの大ギャンブルを成功させるためには、二つの大きな関門を乗り越えねばならなかったはずだ。
(下の広告は1925年の梁瀬自動車の広告で、大衆車のシヴォレーよりも、高級車のビュィックの方が主力だったようだ。今も昔も変わらず、梁瀬は高級車販売が得意だった様子が伺える。下の画像は「ジャパンアーカーブス」さんよりコピーさせていただいた。)
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円太郎バス×5倍近い額の大規模輸入だった?
 それにしても、梁瀬が震災直後に輸入した2,000台という台数のもの凄さを読者に理解いただくために、当時の日本の自動車社会のスケールと照らし合わせながら、ここであらためて確認しておきたい。
 まず、東京市が廉価なフォードTT型を応急の市民の足として仕立てた、円太郎バスとの台数の比較だが、10.2項で見てきたように当初の1,000台の予定が予算削減でようやく800台(より正確に言えば、800台+応急車と練習車が80台あったので880台だったらしい(①P37))輸入できたに過ぎなかった。それでも当時の日本では画期的な、まとまった台数と言われていた。
 次に円太郎バスとの1台当たりの単価で比べると、梁瀬が輸入を目論んだ乗用車は、廉価なフォードより高価なビュイックと、シヴォレー(本国ではフォードとほぼ同級だったが)の乗用車だった。その頃の日本における販売価格はシヴォレーで3,000円、ビュイックの4気が5,000~5,500円程度であったという(⑧P133)。仕入れ価格ではまた違ってくるだろうが、均して大雑把に円太郎バス(国内で行ったボディの架装込みで1,800円ぐらい)の少なくとも2倍の単価だったとして、台数が2.5倍なのだから、単純に考えれば金額面では優に、2×2.5=5倍ぐらいの大規模だったはずなのだ。梁瀬の輸入は販売目的なので同一視はできないが、当時の常識からするとすさまじい規模の、莫大な金額が動いたことだけは間違いない。
当時の国内市場との台数比較
 最後に当時の国内自動車市場との比較だが、後の11.2の“表8”「全国統計車種10位までの台数(1924.12=震災の翌年)」の表を見ても、いちいち説明はしないが2,000台という台数の大きさは一目瞭然だし(ちなみに震災によって東京市内の自動車5,800台のうちの半数が焼失した(①P35)前年の1922年の日本の自動車登録台数は14,886台だったという(①P28))、さらに言えば、次項で述べる、フォードが鳴り物入りで横浜に組立工場を作り、初年の半年間にKD生産した台数が約3,400台で、その台数でも当時画期的な台数だといわれたものだったが、フォードの単価の安さからすれば販売価格ベースで見た金額規模は、たぶん梁瀬の輸入車の合計と等しいか、それ以下だったのではなかろうか。
円太郎バスに等しいほどの偉業だった
 ここから先に記す内容は、手元にある本やネットの情報等をざっと調べた限り、どこにも書かれていない内容なので、全てが私見(ほぼ妄想)な上に、後で思えば的外れな話だったり、“本命”の情報が出てきて大恥をかいて終わる可能性も十分あることをあらかじめ記しておく。
 また誤解を招かないよう、このことも最初に明記しておきたいが、自分は梁瀬長太郎が伝えた物語の信憑性を疑っているわけでは全くない。その偉大な成果も含め誇張はなく、すべて真実を語ったものだと信じている。それどころか自動車史の中で見ればかなり過小評価されており、自分の考えでは本当は円太郎バスに等しい、もっと高く評価されるべき偉業だったと考えている。
しかし、“違和感”も覚える
 しかしその成功談に、現代の感覚(と、自分が思っただけかもしれませんが)からするとどうしても、多少の“違和感”を感じてしまう。そしてその理由は、偉業達成のための大きな関門だったはずの、莫大な資金調達の過程と、異例な短納期に対しての説明を、省略したからではなかったかと思う。
 しかしこのことは、梁瀬側の問題というわけではなく、後の時代の大学の研究者の先生方や、歴史家たちが解説すべき課題ではなかったかと思う。
 この記事の二つ前の記事の、タクリー号のところでも記したが、歴史上の解釈は、時代の変遷とともに変わっていくものだろうと思う。そして梁瀬長太郎が今から約100年も前に、その成功談を語り始めたころには、不必要と思い敢えて語らなかった部分が、今となっては興味をそそられたりするものなのだ。そこで上記の二点について、自分なりに補足を試みたが、ただしその考察は、苦労して何か新たな資料を“発掘”して判明した結果ではなく、ほとんどが頭の中で描いた想像(妄想)にすぎないことを再度念押ししておく。 
資金調達の過程
 それではまず初めに、この取引を成立させるためにもっとも重要な要素であった、莫大な資金調達の過程について、もう一度考えてみたい。
 最初に結論から言えば、梁瀬はそこまで語っていないが、その金額の大きさと、横浜正金銀行の位置づけからして、梁瀬の計画に相乗りする形で、横浜正金を通じて国(国家)もその“意思”を示し、関東大震災復興支援の一環として、間接的な支援を行ったのではないかと、自分は直感的に思った(=繰り返し言うが“直感”なので、まったく私見)のだが、その点について、以下順番に推理していきたい。
 まず話の前提として、当時の梁瀬自動車(1920年に設立)は三井物産の代理店だったという事実がある(「自動車流通の経営史」で四宮正親氏の指摘によれば、「梁瀬自動車株式会社20年史」にそのように記載されているという)。ということは、GM車の購入は三井物産経由が正式なルートであり、物産の承認がなければ進められない話だった。
 その物産に拒否されたということは、GMとのダイレクトの取引が必要となる。GM側からすれば元々梁瀬自動車との取引は、梁瀬長太郎の商才と三井物産の信用(保証)によるものであり、三井物産の信用が得られないのであれば、商談成立のハードルはさらに一段とハードルが上がってしまったことになる。それでは梁瀬長太郎はいかなる打開策を考えたのか。
『~三井物産を諦めた長太郎は、次は梁瀬商会のメインバンクである横浜正金銀行に依頼した。最初は難色を示したニューヨーク支店長は、長太郎の熱意に負けてついに信用状開設に同意してくれた。こうして、発注したGM車が揃うと、日本向けに船積みされることになり(以下略)』以上は(Web❺-1)からで、他の資料もほぼ同様の内容だが、全体の流れは、ここに記されている要約通りの展開で間違いないように思える。そして三井物産に断られた以上、商談を成立させるための、もっとも重要なポイントが、横浜正金銀行の支援を得られるか否かであったことが、この文章からも明らかだ。
横浜正金銀行が商談の成否を握った
 ここで、横浜正金のニューヨーク支店長はL/C開設に『最初は難色を示した』という部分に注目したい。支店長側からすれば、銀行マンとしての常識的な判断で、梁瀬が持ち込んだ商談の規模と内容はきわめて危険な大バクチに映っただろうから、至極まっとうな反応だっただろう。
 正金は梁瀬のメインバンクだったという記述もあるので、日ごろから付き合いはあっただろうが、大財閥でもない(三井が後ろ盾だったが、既述のようにこの“賭け”に、三井物産は反対し支援しなかった)、第一次大戦後の反動による不況で、当時業績不振だった、一(いち)民間自動車輸入業者が一度に扱う規模(金額)としては、常識外れのものだと判断されたに違いない。
 いくら梁瀬から「モノよりヒトが先に動くのでトラックでなく乗用車を輸入する」のだと熱心に口説かれても俄かには信じがたい話で、巨大なリスクを感じとり、拒否反応を示したのは当然の話だ。再三言うが当時の梁瀬は『日本の会社が在庫山をなし、成績不良、倒産破産の寸前の時』(㊵P43)だったのだ。これは長男の次郎が語っていることなので間違いない。この悲惨な状態では“熱意に負けた”ので応じたとは思えない。
 しかしもともと、“いちニューヨーク支店の支店長”の判断で決済できるような規模の取引でなかったことも間違いなく、当然のように日本の横浜正金の経営陣に急ぎ報告し、決済の判断を仰いだはずだ。こうして商談の成否を決する舞台は、ニューヨークから離れる。
廃墟を前に立ちすくむ指導者たち
ここから場面を移し、横浜正金の経営陣や華族を含む(①の言葉を借りれば)“東京・横浜政財界の指導者たち”のいた、震災直後の東京/横浜の当時の状況をよくよく考えてみたい。10.1で記したように、震災で庶民が“足”であった市電を失ったように、“東京・横浜政財界の指導者たち”も同様に自動車という“足”を失い、廃墟の中で茫然と立ちすくんでいたはずだ。
後述するように、関東大震災当時の日本における乗用車はまだ、一部の特権階級と、大企業/役所等の社用車/公用車や、タクシー、ハイヤーを使う一部の人達のものだったが、このうち自動車を足代わりに使っていた(今風に言えば)“上級国民”たちは、自らの“足”を奪われて、不安な思いにかられていたはずだ。しかし復興のためには、まずこの人たちが立ち上がり、陣頭指揮をとらねば、先に進まないのも事実だった。
 さらに人としての本音を言えば“平民”の足の確保(円太郎バス)などより先に、まずは自分たちの足の確保を優先し、安心したかったに違いない。(このあたりの当時の日本の“エライ人”たちの性分を、高級車の商売を通じて梁瀬は熟知していて、そのイメージも補完されて「モノよりヒトが先」だと確信したのだと思う(私見です)。)
渡りに船だった梁瀬の輸入(モノより人が先!)
 そんな状況下で降ってわいたような、実にタイムリーな梁瀬による乗用車の大量輸入計画は、本来自分たち支配階級の側で、“足”の確保を早急に対策せねばならなかった時に、民間企業の側からありがたく提案してくれたわけで、まさに渡りに船の話だったに違いない。しかも段取りは梁瀬がすべてつけてくれる上に、国の予算から直接支出するわけでなく、横浜正金銀行のニューヨーク支店に命じて、梁瀬商会宛にL/Cを発行してやるだけでOKだったのだ。
 梁瀬の自動車輸入の計画が当時の支配階級側に、正金のルートだけから伝達されたのか、それとも先の引用文に“長太郎の熱意に負けてついに信用状開設に同意してくれた”というくだりがあるが、“長太郎の熱意”とは、高級車の取引を通じて一部の支配層と信頼関係を築いていたと思える長太郎の側から直接の働きかけもあった、とも想像できるが、今となってはよくわからないし、100年も前の話なのでもはや永遠にわからないかもしれない。しかしそれら一連の働きかけの中から、大局を見て、梁瀬の計画を支援しようと動いた人がきっと現れたのだと想像したい。そしてたぶんその方(方々?)こそが、この大事業を支えた影の立役者だったはずなのだ。(=別の言葉で言い換えれば、当時の「横浜正金銀行の金を右から左へ動かすことが出来た人」で、限られてくるはずだ。)もはや歴史に埋もれてしまい、どこの誰だかまったくわからないけれど。
国家的な事業に格上げされた?(私見)
 以上、しつこいようだが全編まったくの私見(想像というより妄想)ながらまとめると、梁瀬によるこの歴史的な大事業は言うまでもなく、あくまで梁瀬長太郎個人の発案によるものだったが、国の側からしても、その規模の大きさと公共性(震災で失った“上級国民向け”の足の確保という意味で)故に、震災時の復興策の一環として、横浜正金銀行を通して間接的に行う、半ば国家的な、関東大震災復興事業(今に例えれば緊急の「コロナ対策」みたいなもの?少し意味合いが違うか?)へと急遽“格上げ”され、決済されていったように、自分には思えてならない。
 一方GM側からすれば、横浜正金銀行の保証≒ほぼ(日本)国の保証と判断したに違いなく(ここもある意味核心部分だと思うのだが、当時の外国の企業からしてみればふつう、そのように判断すると思うのですが如何?)安心し、積極的に応じたのだと思う(以上、再三記すが私見でした)。
 この項(10.3-3)の最初に話を戻す。横浜正金のニューヨーク支店長は、同行首脳部からの返答から、梁瀬長太郎が熱心に説いた「震災時にはモノよりヒトが先に動く」の理論の正しさを、文字通り実感したことだろう。
超頑固者だった梁瀬長太郎(余談)
(下の画像はwikiよりコピー『旧:横浜正金銀行本店(現:神奈川県立歴史博物館)』横浜正金銀行は外国為替銀行として日銀の出先機関的な機能を果たし、皇族を含む当時の日本の支配層が深く関わっていた銀行だ。ここでさらに余談を記すが、梁瀬長太郎の「モノよりヒトが先に動く」理論についてだが、その後も『後に日本が満州事変以降、陸軍が戦争にはトラックが最重要との経験から、日本政府の方針が乗用車生産を停止して、軍用トラック一本の生産に切り替えた時、梁瀬長太郎は、「戦争は物が動くより先に、人が動かなければならない。(中略)トラック九台に対し、乗用車一台は不可欠なものである」と商工省の担当官に主張し、嫌われてしまった』(①P28)ほどだったという。相当意志が固い人物(筋金入りの頑固者!)だったようだ。)
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超特急の輸入がどうやって可能になったのか
 続いて自分が“違和感”を覚えた二つ目の話題に移る。GMと交渉スタート時に大きく揉めて、ロスタイムが生じた中で、日本への輸入がなんと約1ヶ月弱という、まさに常識破りの異例のハイスピードをどうやって達成したのか、その説明をなぜか、自分が調べた限りだが既存の歴史書が行っていない。そこでその過程を自分なりに想像してみたい。
当時の輸入車納期の常識
 まず初めに、当時の輸入車の納期の“常識”から、もう一度確認しておきたい。一般に自動車の輸入のための期間は早くても3ヶ月はかかり、価格の安さとともに、それが円太郎バスに大量生産車のフォードが選ばれた理由だったことは既述の通りだ(②P34等参考)。欧州車に至っては半年かかると言われていた時代だったが、ここでもう一度、円太郎バスの導入の経過をたどることで、実際に確認してみたい。
「十月二十五日にはセールフレーザー商会と千台の契約書が交わされた」(①P36)とあるので、その前から非公式な打診はあったにせよ、1923年10月25日ごろ、フォードに対して正式に発注されたと考えてよいだろう。ちなみに3ヶ月以内の納期の約束があったとされている(①P36)。そして実際に、『1924(大正十三)年の1月12日から2月22日まで数回に分かれて、約束の800台のシャシー他が横浜港に陸揚げされた』(①P38)というので、納期は約束通り、約3ケ月かかったことになる。これに対してほぼ同時期に行われた、梁瀬による最初の輸入の500台分のタイムスケジュールと比較してみたい。
異例の超特急だった納期
 1923年9月1日に梁瀬夫妻はフランスルアーブル港から、アメリカ行きの「パリ号」という客船に乗るが、(⑧P117)によれば『この航海は五日ばかりかかる航程だった』とあるので、アメリカ(ニューヨーク港)には9月5~6日前後に到着したのだろう。
 その後既述のような紆余曲折の交渉を経て、日本到着が10月4日(10月5日という記述もある(④P137)等)だったので、太平洋航路(サンフランシスコ→横浜の貨客船「天洋丸」で輸送した)の船への積み込み&航海の日数が仮に2週間ぐらいだったとすると、逆算すれば、9月20日前後までに、500台の車を用意しなければならなかったはずだ。しかも現代のような、自動車輸出用の専用船などないため、輸出梱包された状態に仕立てる時間も必要だったはずで、前項で記したように、初期の交渉でどのくらいの時間をロスしたかも不明だが、そのことも考え合わせれば、契約成立後、実質1週間ぐらいで、500台のクルマを調達したのではないだろうか(多くの“仮定”を含んだ上での“想像”の日数です)。だが果たしてどうやって、不可能を可能にしたのだろうか。
(下の画像と文は“AUTO CAR JAPAN”よりコピーさせて頂いた『1923(大正12)年、芝浦工場に陸揚げされるビュイック』https://www.autocar.jp/news/2018/04/04/281723/3/)
これは余談だが、第二次大戦前にも『(1938年型ビュイックを)戦争を予感した梁瀬長太郎氏が輸入車最後のチャンスに大量輸入してストックしておいたので、戦時中の公官庁では多く見られた車』(㉒P46)だったそうだ。

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https://www.autocar.jp/wp-content/uploads/2018/04/yanase200Mcars_180404_003.jpg
梁瀬とGMの証言
 ここであらためて、関連する梁瀬の証言を確認してみる。船便の手配については多くの文献が、鈴木商店が木材輸入用に用船した船に、無理を言って割り込ませたことを書き残しているが、肝心の500台もの乗用車を、猛スピードで調達した過程については一切触れていない。しかしこのことは、梁瀬とGMとの商売上の分担の違いが前提としてあり、梁瀬側はメーカーではないので、クルマの確保は当然ながらGM側の問題だったからだろう。よくよく考えてみれば当たり前だが、この問題は梁瀬側でなく、GM側の問題だったのだ。(逆に申せば、つまり既存の歴史/経営史の書は、梁瀬側から“与えられた”情報の範囲内でしか物事を見ないつもりらしい?)
 そこでGM側の証言?を確認してみると、梁瀬に対して『「私どもは、代金をいただく保証さえあれば、2,000台の供給は難しいことではありません~』(Web❺-1)というスタンスだったようだ。当初から一貫して、GM側が問題にしていたのは膨大な台数に対する梁瀬の支払い能力の方だった。震災の復興用だったため、梁瀬側が希望したであろう、ほとんど“即納”のような短納期の要望自体は、不可能などと、最初から言っていなかったようなのだ。
正規輸入では不可能だった?
しかし梁瀬のような、正規ディーラーによる一般的な輸入方式の、注文(GM側からすると受注)→工場生産→出荷の手順では到底ありえない短納期だったことは、フォードによる円太郎バスの事例から見ても明らかだ。それではこの“カラクリ”はいったい何だったのだろうか。そこでまたまた手探りで、自分なりに想像(例によってまったく独自の妄想だ!)してみたが、しかし、当時のアメリカの自動車産業の状況を考えれば、その答えは、意外に簡単だったかもしれない。
当時のアメリカは供給過剰で大量の在庫車であふれていた
 この時代のアメリカ車はすでに大量生産・大量消費時代に突入しており、かなりの供給過剰状態だったといわれている。たとえば1923年のシヴォレーの生産台数はすでに48.1万台にも達していたという(M-BASEによる。ちなみに同年のフォードの生産台数は200万台だった!)それに比べれば、梁瀬の輸入第一陣の500台はその約0.1%に過ぎなかった。アメリカの市場規模から見れば、それほど大量でもなかったのだ。
 また過剰在庫状態だったと思われる記述もいくつかあり、たとえば(⑬、P99)に以下のような記述がある。
『スローン(注;11.16参照)は、GM再建の重責を担った1924年頃、GMの生産計画のたて方が、販売の実態を踏まえてたてられたものではなく、そのために過剰在庫が発生してディーラー経営を圧迫していることに気づき、自らディーラーを歴訪してまわって、ディーラー経営の実態や在庫情報をつかむことの重要性、在庫以外にもディーラーの持つ市場やユーザー情報の重要性を強く認識した。』
(⑭、P10)にも、GMが日本進出の際、ディーラーになる条件として、売上報告を義務付けた理由として『~そのような対応の一環として、1924年の過剰在庫の発生を機会に採用された・・』と記されている。以下も(⑭、P12)からの引用だが、自動車の急激な普及を経て、この時期のアメリカは早くも『新車需要が頭打ちになり、それに代わって取替需用中心の市場構造へと変化した。~それは最終需要の如何にかかわらず、マーケティング諸手段すべてについて巨大な費用を投じて、大量に自動車を市場に押し込むことであった。』(⑭,P12)
シヴォレーとフォードの熾烈な戦いの中で(11.2-2参照)、しかしこの頃はまだマネージメントの手法が十分確立されておらず、適切な生産調整がなされていない中で、供給過多による乱売合戦(たぶん)の果てに、この当時、今でいうところのディーラー在庫車みたいなものが大量に積みあがっていた可能性が高い(わかりやすくいえば、今の日本の国道のバイパス沿いに大量に並んでいる新古車のような状況か?私見です)。
在庫車を調達した?(まったくの私見)
 GMとの交渉の過程で、それらの在庫の中からまとめて、たとえばGM本社からの斡旋で西海岸あたりのシヴォレーやビュイックのディーラーの在庫車から(太平洋航路の船に積むので都合がよいので)調達することだってできただろう。あるいはもっと正統的?に、メーカーのモータープールに、大量に“在庫”されていたものの中から買い取ったのかもしれない。どこの在庫の分を融通したかはまったくわからないが、いずれにせよ、クルマの台数自体は当時の日本と事情が全く違い、十分過ぎるぐらい、アメリカ本土には溢れかえっていたのだろう。
 以上のような自分が想像した調達の過程は、梁瀬のように“正規ディーラー”を謳う立場からすれば、イレギュラーな方法だったと思うが( “正規ディーラー”として看板を掲げているが故に、梁瀬側からは敢えて語らなかったか?ワカリマセン)、震災の復興のため、納期最優先の緊急対応だったので“非正規”な輸入方式もありえない話ではなかったと思う。
 さらに記しておきたいが、空前の超短納期を実現させた大きな理由がもう一つあったと思う。(㊵P48)に夫、梁瀬長太郎とニューヨークへ同道した梁瀬夫人の書記があるのでそこから引用する『ニューヨークに着いたときは、GMの重役たちまで多数に出迎えていただいた。だれもが日本の大惨事に心から同情を寄せてくださった。』
震災に同情したGM
 先に記したように、クルマは“アメリカのどこか”にすでにあったものと仮定した場合でも、実際の納期はGM側がどのくらい“気合を入れて”船積みのための残りの作業を行い、出荷できるかに、全てがかかっていた。そもそも梁瀬(日本)側からすれば、元々納期に対しての主導権などなく、GM側の対応次第だったはずなのだ。そしてGM側は大量受注で在庫が捌けるだけでなく、震災にいたく同情し、梁瀬との今までの信頼関係+自らニューヨークに乗り込み交渉するという熱意にもほだされて、復興の助けにもなればと全力で対応した結果、異例の短納期が実現したのだと思う(当然、まったくの私見です)。
 以上、在庫車を調達+GM側の厚意による全力対応でクリアーした、超短納期の“カラクリ”を想像してみた。最後に一言、一介のド素人のカーマニアが生意気なことを申せば、既存の自動車の歴史書は、円太郎バスの導入時の説明で、輸入車の納期は最短で3ケ月だとしておきながら(はっきりと明記していないものもあるが、すべての書がその前提で書かれている。自動車殿堂でも参考にされることの多い(㊲P100)が唯一納期1ヶ月ぐらいの印象を与える記述だったが、これは単なる事実誤認だと思う)、梁瀬が交渉スタートから1ヶ月を切る超短納期で大量輸入を果たせた理由について、誰もがなぜか説明を避けている。そのため、つじつまが合わなくなっており、今回の自分のように混乱する人が、これから先も出てくると思う。今回改めて確認したところ、手持ちの資料では唯一(⑫P26)が『~それでも梁瀬は~GMと再交渉し、ついにビュイックとシボレーの乗用車合計2,000台の“買取”契約を結んだ。』と、“買取”という言葉から、意訳すれば在庫車を買い取ったのではないかという微妙なニュアンスも伝わるが、その辺の事情を、推測でもよいのでもう少し、”有識者の方々”に説明してもらえるとありがたかった。
(下の画像は梁瀬長太郎がシヴォレーと共に乗船した「天洋丸」。浅野財閥系の東洋汽船が船主で三菱造船所が建造した。1908年、貨客船として太平洋航路に就航し『日本における貨客船のクラスにおいて初めて1万トンを超えたクラス、またタービン機関の使用を選択した最初のクラスとして、日本船舶史上の一大マイルストーンとなった』(wikiより)画期的な船だったようだ。東洋汽船の経営悪化後は日本郵船の所有が移った。
なお追記しておくと、フォード系ディーラーのエンパイヤ自動車の柳田によれば『震災の後始末から復興にいたるまでの活躍もトラックが中心だった』(⑫P35)と語っており、商売上はともかく、実務面ではトラックも大活躍したようだ。下の画像は「日本郵船歴史博物館」さんより、
https://museum.nyk.com/ship_history.html)

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https://museum.nyk.com/img/ship_history_img/tenyo_thumb.jpg
フォードとGMの対日政策にも影響
 大きく脱線したので話を戻すが、梁瀬長太郎のGM製乗用車の大量輸入について、さらにもう一点付け加えれば、この快挙が、のちのGMの日本進出の際の判断の一助になるとともに、次に記す、最大のライバルであったフォードの日本進出計画にも、さらなる刺激を与えたことも、たぶん間違いないことだろう。

11.フォードとGMの日本進出
 10.2からの続きです。関東大震災当時のフォードは、すでに欧州や中南米への工場進出を果し,その世界戦略の一環として、残された有力地であった東南アジアへの進出を模索中であった。その候補地としては当初中国大陸の上海が本命であったが、東京市からのTT型1,000台受注(最終的には800台)の電報を一つのきっかけとして、日本市場を改めて調査し、社主であるヘンリー・フォードは日本進出を決断する。そして震災の2年後の1925年、現法の「日本フォード自動車株式会社」を設立して横浜の地で、T型フォードのKD(ノックダウン)生産を開始する。こうして全国に展開したアメリカ流のディーラーシステムを通じて、廉価で丈夫で実用的な横浜製のフォード車が、日本中に浸透していく。
 そしてその2年後に、フォードの後を追い大阪に進出したライバルのGMとお互い競うように、営業車を中心とした、新たな需要を開拓しつつ、日本の社会を一気に自動車化させていく。しかしそれと同時に、今まで何度も記してきたが、日本の自動車市場はアメリカ車によって事実上独占されていく事態となった。

11.1自動車王”ヘンリー・フォードの偉大な功績について
 この記事は、戦前日本の自動車史(いわば“日本史”)なので“世界の自動車史”までは触れるつもりはない。しかし世界の自動車の歴史の中で、もっとも偉大な人物&自動車であったヘンリー・フォードとそのT型フォードを、さすがにスルーできないだろう。『カール・ベンツが自動車の産みの親であるなら、自動車の育ての親はヘンリー・フォード』(wikiより)だったのだ。そこでその偉大な功績を、(㉜P46)+(⑬P47)、(Web⓰)、wiki等から要約、引用しつつ、簡単に記しておく。まずは生い立ちから簡単に(㉜P46)より
その生い立ち
『ヘンリー・フォードは、1868年にデトロイト近郊の農村に生まれた。当時は電気もなく鉄道の駅も遠く、道路は原野を切り開いた泥道を1日に何時間も馬で歩く生活で、広い平原のなかに点在する農家が各々自給自足する生活だった。ヘンリーは都市の文化的な生活とは縁のない幼少時代を経験してきた。この経験が後の“安く頑丈な大衆車の提供”を企業理念とするフォードの社是となっていく。
ヘンリー・フォードはエジソン電気会社に勤め、電気工場の技師長になっていたが、1896年には個人の自宅の裏庭で試作していた1号車を完成させ、デトロイトの街を試走した。エンジンは5馬力で最高速は32km/hであった。2号車、3号車の試作でフォードの試作でフォードの才能がデトロイトの近辺で知られるようになった。』

 アイルランド系移民の農家の生まれだったが、両親は裕福で教養もあり、教育熱心であったという。敬虔なキリスト教徒の倫理観の中で育ち、荷馬車以外の交通手段もない中で、自給自足に近かった当時の農家の生活を、もっと豊かなものにしたいという気持ちが、後の自身の車作りに大きな影響を及ぼすこととなった。(下の写真はwikiより、フォード初の自作4輪自動車 "Ford Quadricycle"(1896年)。生誕の地のディアボーンには、後にフォードの巨大な工場が建てられて、フォードの城下町へと変貌していく。)
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 ここからは大幅に省略するが、結局自動車への情熱やみ難くエジソン電気会社を退社し(1898年)、自動車会社の勤務の後、出資を得て自動車会社を起業する(結局3度目の起業でようやく経営の全権を把握することになる;wikiより)。
モデルAからSまで
 そして1903年の『モデルA型から始まってアルファベット順に次々と新車を開発』(⑬P55)していくが、『フォード社が創業してから五年間、フォードが農民のための大衆車をつくるという夢は実を結ばなかった。なぜならそれは、当時の情勢を照らしてみると、いきなり大衆車の生産に入って いくのはリスクが大きすぎたからである。一つは、まだアメリカでも1900年代は、車は金持ちのためのものであり、高級車でないと売れなかったからである。』(⑬P54)『1905年のアメリカ全体の月産台数が2000台で上層階級のみが車を買えた時代で、誰も考えたことのない“大衆のために車を”といった理想を抱き、大量生産に進むのはその当時の常識では考えられないことであった。ヘンリー・フォードも勝算あっての行動ではなかったと思われる』(㉜P47)。(下の写真はモデルK型フォード(1906年)。6気筒40馬力エンジンを搭載した、ヘンリー・フォードが作った最も高級な車だったが、株主たちの意向で不本意ながら作ったものだった。ちなみにこのモデルK型も1台、日本に輸入されたという(⑨P89)。)
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https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn%3AANd9GcTvXjEpAc2S-eEFJw0DdO6HbALR0buThuerEw&usqp=CAU
 しかし株主の中から、フォードの提唱する大衆車路線を支持する声も現れて(有名なダッジ兄弟;㉜P47)1906年にモデルN型が発表される。『N型は後にT型の原型となったモデルだが、4気筒・18hp、2座席で価格は500ドルと世間が驚くほど安く、1906年には8728台を登録し一躍全米第一位となった。売価500ドルは厳密な原価生産の上で設定されたものでなく、ニューヨークショーで発表した後に全社を挙げてコストダウンに取り組んだ。こうしてヘンリー・フォードの理念・性格が社風になっていった。』(下の写真はヘンリー・フォード自ら乗るモデルモデルN型フォードで画像はwikiより。Web⓰によれば『~この頃から部分的な「流れ作業方式」が採用されていたものの、生産が需要に追いつかなかった。従来の生産方式に限界を感じたフォードは、大量生産に適した新型車を開発する。これがモデル「T」である。』としている。)
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モデルTの誕生
 こうしていよいよモデルT型フォードの誕生である。ベルトコンベア生産方式の導入に代表されるあまりにも有名な話の数々はWebでも多数検索ができるので省略させていただく!wikiやWeb⓰、Web⓱等を参照ください。ただその時代背景だけ、(㊶P11)より引用しておく『ヨーロッパで誕生した自動車は、アメリカで大衆化し、産業として発展した。アメリカで先に自動車が大衆化したのは、ヨーロッパよりも中産階級の量的な誕生が早かったからである。移民の国であるアメリカでは、ものづくりに関して、ヨーロッパのように技能に優れた職人に頼ることができなかったから、複雑な工業製品は、優秀な工作機械で各部品をしっかりとつくって、単純化した作業で組立てることで製品化した。それが大量生産を可能にした。このシステムを導入してクルマの大衆化に成功してフォードは大メーカーになった。』
20世紀でもっとも影響力のあった車
(かつて「20世紀でもっとも影響力のあった車に与えられた自動車賞「カー・オブ・ザ・センチュリー(Car of the Century : COTC)」という世界的な催しがあったが、栄えある第一位に選ばれたのもやはり、フォード モデルT型だった。異論はほとんどなかっただろう。『1920年の時点でフォードのモデルT型は、全アメリカの自動車の三分の二、全世界の半分を占めた』(⑬P76)といい、累計1,500万台を達成した。約100年近く前の話である。「自動車でなくフォード(T型)だ」、さらには「T型は絶対に追い越せない。なぜなら何台追い抜いても、先に別のT型が走っているからだ」と言うジョークが生まれたほどだから、T型の誕生は世界的な革命みたいなものだったのだろう。『1908年に発売したT型フォードに対する販売代理店の反応が残っている。ある代理店の代表は“夢を見ているのではないかと何度も目をこすった”と、また別の代理店は“これまで手にした自動車の中でもっとも偉大な創造物であり、この報道が出されたらフォード社には注文が殺到するであろう”と驚きの声を上げた。当時、アメリカ全体の月産台数が5000台であったときに、工場で1台も生産しないうちに代理店から1万5000台の注文が入った。』(㉜P33)そのため一時、受注を停止したほどだったという。(①P30参考)写真はその初期型のもので引用元は https://car-me.jp/articles/10534)
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https://dg24ae6szr1rz.cloudfront.net/photo/39bc528aaac362a65666e50993070b1b.jpg/w1100/tr/file
(モデルTについては紹介動画もたくさんアップされている。参考までにそのうちのいくつかを。下は「The Fifteen Millionth Ford Model T - Full Documentary | HVA」という動画で、
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https://www.youtube.com/watch?v=c8ObnK8RSU0
下は独特だったT型の運転の仕方の動画だ。「Ford Model T - How to Start & How to Drive」
https://www.youtube.com/watch?v=QxfHMtgg2d8&feature=emb_rel_end

話が前後してしまうが、当初850ドルで売り出されたT型は、当時のフォードのラインナップの中で高級車のK型(2,800ドル)と、小型の廉価車、N型(500ドル)の間を埋める、中間車種として位置付けられていた。余裕のある大きさだったことも、T型がアメリカで大成功した一因だろうか。)
偉大だったヘンリー・フォード&モデルTのまとめ
 この項(11.1)のまとめを、少し長くなるが㉜P49から引用する。
『 ~ ヘンリー・フォードの素晴らしい点は、これから先である。“自動車を大衆に”の理念の元に、コストが下がった分を価格値下げで顧客へ還元した。当時自動車は2000ドル以上したが、フォードはT型の価格を、発売時に950ドルと安く設定し、1915年には490ドル、1927年には290ドルに下げた。実に70%もの値下げになる。アメリカの自動車産業全体にベルトコンベアーシステムが導入されて価格が下がり、1910~1950年の間、世界の自動車生産台数の80~90%はアメリカで生産されてアメリカの黄金時代を築いた。』
下は「Ford Model T - 100 Years Later」という5分程度の短い動画だが、当時の生産ライン他の様子がわかる。https://youtu.be/S4KrIMZpwCY
㉜P50から続ける『ヘンリー・フォードの哲学は農人や労働者も買える自動車をつくることにあったが、自社の労働者が自分で作っている車を買える賃金を支払いたいとの考えで、当時自動車会社の労働者の賃金は日給2ドルであったのを、フォード社は1911年に労働者の賃金を5ドルに上げた。法律や労働者との団体交渉の結果でそうしたのではない。
 この決断は、T型フォードの長期生産計画を練っている間に生まれてきた。生産は倍々と増えて、1910年には3万4000台、1911年には7万8000台、1912年には16万8000台、1920年の目標は100万台と増加し新工場を建設しても原価は下がり利益は増大することがわかってきた。売価を下げて購入者には還元し、社員には賃上げすると、ヘンリー・フォードは決めた。社内でも会社が潰れると猛反対が出たが、ヘンリー・フォードは利益の適正配分、能率向上対策と考えていて、決めたことは決して動かさなかった。
 この発表は世界的に大反響を巻き起こし、偉大な人道主義的行為と称賛されたが、一方会社として自殺行為、社会主義者、狂気の沙汰などの非難も集中した。
 これらのフォードの決定がフォード社の事業の様相を一変し、大きな波及効果で米国全体の企業理念と社会風潮に革命をもたらし、今日のアメリカ式生産システムと自由主義経済・資本主義経済社会を確立することとなった。
(中略)
 賃上げ機運は燎原の火のごとくアメリカ全土に広がっていった。こうして好景気が到来し、大量生産システムが導入され、自動車の価格は下がり、さらに大量販売時代が到来する。アメリカの大衆文化はヘンリー・フォードが火付け人となって広がっていった、と言っても過言ではない。
 アメリカの自動車産業は1900~1980年にわたって世界一の自動車生産国として君臨し、とくに1910~1950年の間は世界の80~90%を占めていたが、その礎はヘンリー・フォードが作った。それまでの経営者は、製造したものはできる限り高く売り、労働者の賃金は極力抑え込み、できるだけ多くの利益を上げる、というのが常識だった。ヘンリー・フォードはこの常識をぶち壊した。』
(㉜P51)
資本家としては異質だったフォードの倫理観
(ヘンリー・フォードの倫理観は、たとえば他社が導入に積極的だった『オートローンについても、顧客が借金を抱える販売手法は長い目で見て消費者と国家経済を疲弊・荒廃させるとして強く抵抗した』(wiki)事からもわかる。T型の成功は、石油産業を始め鉄鋼、建設、サービス等、あらゆる産業分野を発展させ、他の資本家たちを潤したが、その一方でヘンリー・フォードの持つ保守的な倫理観は、金もうけ第一主義の他の資本家から見たら“危険思想”で、理解不能な“奇行”の持ち主とみなされていたのではないだろうか。以下(⑮P109)より『自動車は金持ちのための道具ではなく、自分と同じ出身の人たちが使うことで、それまでより恵まれた生活ができるようになることが、フォードにとって重要なことだった。彼はヒーローとなっても自分の出目のことを忘れはしなかったのだ。』下の写真は有名なチャップリンの映画「モダンタイムス」のユーチューブ動画「Charlie Chaplin - Modern Times (Trailer)」からのコピーだが、今から思えばこのハリウッド製の映画は、単純作業を呪う労働者以上に、内心ではフォードの倫理観を毛嫌いしていたはずの当時の産業/金融資本家+政治家たちがエールを送っていた(陰で支援していた?)ことが、透けて見えるように思える。後年フォードが日本から追い出された時、アメリカ政府が概して冷ややかだったことにもつながってくるような気もする。(チャップリンはその代弁者として使われた?まったくの想像です。)
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https://www.youtube.com/watch?v=GLeDdzGUTq0

11.2フォードと日本の自動車業界との係わり(工場進出以前)
 ここからは“日本史”に戻り、KD生産による“横浜製フォード”以前の時代の、日本の自動車社会とフォード製自動車との“浅からぬ”関係(因縁?)について記しておく。
 フォードの最初のプロダクション・モデルであった(初代)モデルA(注;1928年に、T型の後継車の2代目がデビューする)が誕生したのは、先に記したように1903年のことだったが、その2年後の1905年5月に初輸入された。(⑨P86)(下の画像はwikiより「1903年12月15日に掲載されたモデルAの(アメリカの)新聞広告」。のちに日本でT型の次にKD生産されたクルマも“A型”で、紛らわしいが戦前のフォードには、全く違う二つのA型が存在する。)
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 一方、日本車の歴史上“国産ガソリン自動車第一号”とされる、タクリー号(正式名称は“国産吉田式”)のその“生い立ち”は、一般的には『~自信を得た彼(注;内山駒之助)は、国産の部品でガソリン自動車を造ることを望んだ。そこに自動車好きで知られる有栖川宮威仁親王から開発を依頼される。機は熟したのだ。内山は1906年初頭から開発に着手し、1年以上かけて「国産吉田式自動車」を作り上げた。手本にしたのは、有栖川宮家が所有していた「ダラック」である。』(WebCGより引用(Web❼-1))とされている。
 しかし当ブログの(その2)の記事の“5.2”項で記したように、当時の日本の工業技術水準からすると、エンジン等の基幹部分をそう簡単に作れるものではなく、黎明期の日本自動車史に詳しい佐々木烈によれば(⑨P86)この日本に最初に輸入された『~(フォードA型を)購入して機械をばらして国産車第1号を製作した、と考えたほうがよいのではないだろうか。』と解釈している。
タクリー号とフォード
 タクリー号の1号車はフォード モデルAがベースだったようだが、『~その後計10台が製作された』(Web❼-1)(注;台数にも諸説ある)とされている、タクリー号こと一連の「国産吉田式自動車」の実態は、『エンジンやトランス・ミッション、電気系統、タイヤなどは、恐らく20台を輸入したこの「ちどり号」(=フォード モデルN型を輸入して「ちどり号」と称した)だったと考えられる』ようで、タクリー号を縁の下?から支えたのはどうやら、フォード車だったらしいのだ。
(下の写真のタクリー号はWebCGよりコピーさせていただいたが、確かに“上物”は、「ダラック」を手本に、独自に立派なものに作り変えているので、見た目は、上の写真のフォード モデルAがベースのようには、まったく見えない。ボディはまったく別モノとして独自に製作されたのだろう。)
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https://webcg.ismcdn.jp/mwimgs/4/4/730wm/img_447f4010cfadbc539fbfb8c748bc0dd8101549.jpg 
その辺の事情についてさらに興味のある方は、前々回記事(その2)をぜひ参照してください。)
セール・フレーザー時代に既に組立生産?
 話をT型フォードの時代に進めると、日本に最初に輸入したのは、当時経営多角化の一環として自動車販売にも手を染めていた製薬会社の三共(現在の、第一三共)だったが、1911年からは、セール・フレーザー(Sale&Frazer)商会に専売権が移り、そのもとで、エンパイヤ自動車商会、松永商店、秋口自動車などが代理店となり販売にあたり、日本にフォード車(T/TT型の時代)を普及させていく。しかし後述するが、フォード自らの日本進出を機に、セール・フレーザー商会は専売契約を破棄されてしまうことになる。
(表8:全国統計車種10位までの台数(1924年12月31日時点):⑨P282より転記))
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上記の表は、フォードが横浜の組立工場を稼働させる直前のものだが、圧倒的なコストパフォーマンスを誇ったT型の猛威は極東の日本にも及び、すでに乗用車でもトラックでも、日本市場において多数派をしめていたことがわかる。特に貨物車における突出ぶりが目を引くが、質実剛健なT型らしく、早くから営業用として信頼されていたようで、『ほとんど成功した業者がフォード党であったという程の好評であった。』(⑥-1,P431)そうだ。なおフォード車以外では、より高級なビュイックとハドソンの健闘が光るが、販売代理店の力(それぞれ梁瀬と、大倉系の日本自動車)によるところも大きかっただろう。
(余談だが、薬が本業の三共だがその後、陸軍の勧めもあり、アメリカの大型バイクのハーレーダビッドソンの、国内生産に乗り出す。ハーレーに正式に申し入れて、旧モデルの生産で日本国外に輸出しないことを条件に、ライセンス生産を正式に許可される。1933年から生産を開始し、1936年からは「陸王」と名乗る。下の写真はwikiより、戦後の「陸王VFD1200(1950年)」)
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一方“セール・フレーザー商会”とはいったいどんな会社だったのか、多少複雑な側面もあったらしいこの会社について以下のwebで紹介していたので、興味のある方に参考までに。http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/50632371.html 
 さらに追記すれば、セール・フレーザー商会が輸入していた時点ですでに、T型は簡単なKD形式で輸入されていたようだ。(⑥-1,P429、㉚P109)『フォードT型の販売で知られる東京丸の内のセールフレーザー株式会社は、大正12年9月の関東大震災で横浜の組立工場が罹災(りさい)して、大損害を受けたことが文献に伝えられ、すでに震災以前からフォードT型の組立を行っていたという証拠であり~』(⑥-1,P429)と記載されている。
フォード、進出以前にKD生産は既に行われていた
 ここでフォードの話題から脱線するが、気になる情報を追記しておく。以下(㉜P60)より引用『~当時、完成車の輸入関税が100%であったが部品は30%であったために、部品を輸入し組み立てられた台数も相当数あったが統計が残っていない。英のウーズレー車、米のデュラント社のスター(Star)車などで、完成車輸入台数に負けない台数であった模様である。』11.2の表8「全国統計車種10位までの台数(1924年12月31日時点)」に、スターとウーズレーがランクインしているが、それ以上の台数がKD生産されていたのだろうか。不明である。(㊲P96)に『真偽のほどは確かではないが、そのころの東京でよく売れていた外国車はイタリア製のフィアットとイギリス製のウーズレーであったという。そこで石川島造船所はそれぞれのメーカーと提携条件について折衝を開始した』という記載があるが、石川島との提携以前にウーズレーはKD形式で輸入され、販売されていたのだろうか?この件は調べきれなかった。さらに⑥-1によれば、『梁瀬自動車株式会社の場合でみると、大正9年芝浦工場完成後米国車シボレーなど、主力販売車種は部品ノックダウンで輸入され、同工場で組立てられたように理解される。また、昭和2年日本自動車株式会社は横浜市鶴見区守屋町に、米国製乗用車エセックスの組立工場を建設しその組立を行った。』(⑥-1P430)と記されている。たとえば梁瀬のように独自に車体製作が可能なくらいの力のある大手の輸入業者が、完成車輸入と部品輸入で関税に大きな差に目をつけて、簡易的なKD生産の形で販売していたとしても不思議ではないが、㉜の指摘のように具体的な台数等の記録があまり残されていないようだ。
スター(Star)車のKD生産
 ただスター(Star)車については今でも、比較的多くの情報が残されている。以下、日本車史の原本ともいえる(⑥-1)からの引用で紹介する。まずこのスターという車だが、GM創業者のW・Cデュラントが、GMを追い出された後に創業した会社で、いわゆるアッセンブル自動車であったが、エンジンはコンチネンタル社製で、ボディはフィッシャーボディという、定評あるメーカーのもので、廉価車だが信頼性が高かったという(⑥-1P136を要約)。以下も⑥-1,より引用『ひるがえって国内の情勢をみると、まだ自動車工業とまで言われるほどの段階に達せず、わずかに軍用保護自動車の製造が、若干行われている程度に過ぎず、アメリカからスターを部品の形で輸入し、安い日本の工賃でアッセンブルすれば米国よりも安くつき、販売上も有利につくに違いない。したがって、国内の自動車発展に役立つだろう。そして、一方では順次構成部品を類似の国内製に切り替えてゆけば、さらに安い車ができる。』(⑥-1,P136)至極まっとうな考えで、完成車と部品の輸入関税の差の大きさを考えれば、このように思い立った人がいても不思議ではない。スターの成り立ちがもともとアッセンブル・カーだったこともさらに好都合だったかもしれない。(⑥-1)からの引用を続ける。『日本の自動車工業の振興はこのような方法で国産化できようし、国内産業の振興策といえる。そのように考えた相羽氏はまず最初スターの輸入販売計画を立て、米国のデュラント会社と代理権契約を結び、~ 日米スター自動車会社を創立したのは、大正十一年(1922年)頃であった。』(⑥-1、P136)きちんと手順を踏んでいる。そして試験的な販売の結果、十分な感触が得られ、『今度は腹を決め』(⑥-1,P137)て、横浜と大阪に工場を構え、いよいよ組み立てを開始する。『~特に大正十三年(1924年)から十四年(1925年)にかけての頃は最盛期を迎え、国内で圧倒的に多く使われ、一時は国内販売界をリードした。』(⑥-1,P138)
その後のフォードやGMの日本進出や、さらに言えば、戦前の官側が考えた、国産車育成策をも先取りしたものとも言えそうだ。ここでこの、先見の明があった計画を実行した相羽有(たもつ)という人物に触れなければならないが、詳しく触れるとどんどん脱線するので避けたいが、黎明期の日本の飛行機の世界で名を馳せた人物だったようで、『若冠二十一歳の大正五年現羽田国際空港の位置に格納庫を設け、日本飛行学校と日本飛行機製作所を設立し、~(その地が)現羽田国際空港の発祥となった』(⑥-1,P135)という、大きな足跡を残した事のみ、ここでは触れておく。スターのその後だが、大資本を投じて日本に進出したフォードとGMのKD生産車に押されて、本国アメリカでも同様劣勢となった結果、『昭和初期にはすでにその扱い台数はわずかとなって』(⑥-1,P138)、この先駆的な試みも結局、清算されていった。(下のスター車の写真は、「HEMMINGS FEATURE」の記事「Durant's Star」よりコピーさせていただいた。
https://www.hemmings.com/stories/article/durants-star
この写真からも、シンプルなクルマであったことが伺える。
スターについては、下記の(日本語の)ブログでも紹介されている。参考までに。
https://ameblo.jp/retorotoys/entry-12625781785.html
https://seez.weblogs.jp/car/cat3843142/page/20/(web□33)

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https://img.hmn.com/900x0/stories/2018/08/474951.jpg
ウッディ好きなアメリカ人(余談)
(後編の12項の“アメ車のよもやま話”の方にいれるような内容だが、ステーションワゴンの国のアメリカで(以下㉙-2)『(アメリカで)初めてステーションワゴンを生産したのはスター(GMを追われたかのデュラントが生んだ大衆車)で、1923年のこととされている』そうだ。スターはステーションワゴンの生みの親でもあったようなのだ。『しかし、それ以前にも同様なものがあり、例えばモデルTフォードには1914年以来“デポ・ハック”と呼ばれるモデルがあった。それは低いボディと高い柱の上に載った屋根だけから成り、側面と後面には、普段はくるくると巻いてある幌を降ろすようになっていた。スターのステーションワゴンも低い木製ボディと屋根だけで、三方はオープンであったし、初めてステーションワゴンの名を用いた1929年のモデルAのそれも同様であった。それから間もなく三方にもガラスが入り、形としてステージコーチと混同されやすくなってしまったのだ。1935年にはシボレーが初の全鋼製ステーションワゴンを発売している。ステーションワゴンに似たものとして、ヨーロッパには主として狩猟用のシューティングブレークがあり、それから現在のエステートカーが生まれた。フランスでは今でも一部にブレークの名が残っている』(㉙-2)そうです。
下はアメリカのステーションワゴンの代表例として、1939年製フォードのウッディ ステーションワゴンの写真で、出典は以下ですhttps://dyler.com/posts/188/woodies-yachts-on-four-wheels。)
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https://assets.dyler.com/uploads/posts/188/images/3166/1939-ford-woodie.jpg
(しかしアメリカ人のウッディ好きは相当なもので、下の写真の1948年のクライスラー タウン&カントリー(「街にも田舎にも」という意味で名付けられたという)はコンバーティブルだが、木目の装飾をあしらっていた。画像の出典は以下より
https://www.conceptcarz.com/view/photo/456648,9118/1948-chrysler-town-and-country_photo.aspx)

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https://www.conceptcarz.com/images/Chrysler/48-Chrysler-TnC_Conv-DV-09_PBC_dt02-800.jpg
“国産”シンプレックス号について(余談)
(ここでさらにさらに、“余談”となるが、上記のスター車とは少し違う企てとして、大阪の財界人たちが設立した、オリエント自動車製造所が製造した”シンプレックス号”についても簡単に触れておく。以下(④P130)からの要約だが、同車は国内でも製造が容易なフレームなどは内製するが、難易度が格段に高いエンジンその他の基幹部品は海外からアセンブリで取り寄せて組み立てて、1台の車として完成させて、しかし当時堂々“国産車”として売り出されたという。なんだか某車を思い起こさせるが、『実際には成功しなかったものの、(当時は合理的な方法として)一部では注目されたものだ』(④P130)という。(下の写真は(④、P130)よりコピーさせていただいた。なおオリエント自動車製作所については(⑥-1,P493)にも記載がある。)
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13.1で記す、白楊社の活動と同じ時代の話だが、あくまで純国産にこだわった、オートモ号や、DATとは違った生き方で、それでも”国産自動車”として宣伝されていたそうだが、当時の日本の工業レベルを考えればそのような“分業方式”も、合理的な方法だとされていたという。(④P130より要約)

11.3東京市の大量購入で日本市場に注目する
 フォードの日本進出決定の経緯について、①、②、④、⑥-1とWebの❺-2、❶を主に参考にして以下記す。
10.2-1に記したように、フォードは東アジアの拠点として、当初は東京ではなく中国の上海を考えていた。上海は『国際的な大都会であり各国の租界もあって自動車の保有台数は東京などよりはるかに多かったからだ。』(㊲P102)さらに『中国の広大な国土と、潜在的な購買力を期待して』(②P36)のことだったが、ヘンリー・フォードに対して北京大学のジョセフ・ベイリーによって中国進出の説得工作が1920年6月に行われており、中国への関心を持った結果、すでに中国人留学生をデトロイトの工場で受け入れていた(①P53、⑭P4等)。さらにあの孫文も、フォード宛てに歓迎する旨の書簡を送っていたという記述もあり(⑭P6)、中国側からのアプローチ(工作?)は多角的に行われていたようだ。フォード自身も上海がアジアの拠点に相応しいと考え、ほぼ決まりかけていたが、『意外と注文が来ないのに、日本からは連日フォード車の注文電報が到着したことが再考のキッカケとなった。』(①P55)。
 前項の表8の、日本市場におけるT型フォードのシェアの大きさからすれば、東京市の円太郎バス以外からの注文も相次いだのだろう。結果的に震災が起爆剤となり自動車需要が一気に増えた。
以下(㊵P65)より『大正12年の関東大震災で自動車の価値が認められ、したがって需要が急激に伸長した。第一次モータリゼーションである。大正12年の関東大震災の時、1万2765台の保有台数が翌年の13年には2万4333台と倍増した。一年間で自動車の保有台数が倍増したのは、世界中かつてなかったことであり、これを見て、アメリカの自動車メーカーは日本市場を将来性のある国と高く評価して対日進出を積極的に考えた。』
以下(㊳P134)より引用『~結果として、大震災による自動車交通の認知、それに伴うフォード、GMの日本進出が、最終的には日本の自動車産業を育てたことになる。不幸中の幸いは、震災では打撃を受けたものの、第一次世界大戦で日本は戦勝国側の一員に連なって、ある程度の豊かさを得ていたことである。』
フォードで働いていた二人の日本人
 さらにヘンリー・フォードが再考しようと思ったきっかけは、当時同社で働いていた秋口久八(=秘書室で日本関係の仕事に従事していたが、『秋口の目的は、アメリカで自動車販売の知識を習得し、それによって東京での自動車の販売をすることであった。』(⑭P4))と、川崎正二郎(フォード氏お気に入りの運転手)という二人の日本人からの進言もあったようだ。(①、⑭等による)
 そして改めて検討した結果、当初の中国進出から、日本進出へと考えを改め、1924年の9月、フォードは日本に進出すべきか否かを最終判断するために、社内の海外市場調査員を日本に派遣する。ヘンリー・フォードがアジアの拠点として日本を選んだわけは、一つの要因ではなく、複合的に判断した結果だと思われる。その個々の理由について記す前に、当時のアメリカ政府が日本市場をどのように捉えていたか、商務省のレポートというものがあり、フォードも当然目を通したであろうその内容を、主に⑤からの引用で、簡単だが紹介しておく。

11.4アメリカ政府による日本の自動車市場の報告書(1918年商務省レポート)
 ここでまた話が逸れるが(⑤)に、アメリカ商務省が当時(1918年)日本の自動車市場/産業について、どのようにみていたのか、興味深い記事(⑤P70「海外から見た状況」)があったので、以下引用させていただく。
『1918年、米国商務省の海外地域担当局から、日本や中国、ハワイにおける米車販売、商習慣、国内メーカー、部品販売、商社などの状況も含めた詳細な市場報告分析書が出されている。日本にはもっとも多くのページが割かれ、その中に「Motor-car manufacturing in Japan」という項目がある。概略、「日本は自動車製造に意欲をもっているが、まだ本格的な製造を行う企業は少ない。いくつかの企業がこの業界への参入を希望しているが、どのような自動車を製作するのかはっきりしていない。おそらく、おそらく、日本の製造施設や技術、また狭隘(きょうあい)で未舗装だらけの道路事情を考えれば、大型車は欧米に任せるしかなく、日本にもっとも適した小型車も輸入車の組立になるだろう」と分析している。今さらながら、彼国の情報収集、分析力に驚く』と紹介している。 
 1918年といえば震災の5年前だが、第一次大戦の戦争特需で日本経済が活況だった頃だ。短文の⑤からだけではこのレポートの全容まで把握できないが、当時の日本の自動車市場について、厳しい(=冷静な)見方を示していたようだ。(②)に、日本フォードの中心人物として、現法を率いたベンジャミン・コップが、不安を胸に日本に向かう道中の、以下のような記述がある。
日本の自動車購買力は、せいぜい年間3,500台?
『日本に向かう船の中で、日本の自動車産業に関するアメリカ商務省の報告書を読んだ。恐ろしいほど悲観的な内容だった。なぜフォードは、こんな国に工場を建てたがるのだろうか、不思議でならなかった。しかし、サイは投げられたのだ。(マイラ・ウィルキンス「B・コップの聞き書き」)』(②P22)。
同じく(②)には『日本の自動車購買力は、せいぜい年間三千五百台という商務省の予想』(②P27)という記述もあるが、当然ながらこの商務省による悲観的なレポートを、フォードは目を通していたはずだ。

11.5フォードが日本への進出を選んだ理由
 それではヘンリー・フォードはいかなる動機で、日本への工場進出を決断したのだろうか。前振りが長くなったが次項で、①、②、④、⑩-1、⑪、⑭等を参考にその理由を記しておく。
(1)日本市場の拡大を見越した
以下⑪より引用『~これらのアメリカ・メーカーが日本での組立てを決定したのは、完成車より部品の関税が低かったという要因に加え、運搬費の節約が可能になったからであった。ところが、現地組立のメリットを活かすためには、本格的な大規模な工場を設立する必要がある。それを可能にするような市場規模に達していなかったために、それまで外国メーカーによる現地進出は行われていなかったのである。ただし、その市場規模の制約は固定的なものではなく、供給要因によって変化しうるものである。すなわち、低価格車の供給によって市場は拡大する可能性をもっていた。従って、1910年代のアメリカだけでなく、現地進出したヨーロッパでも、その可能性を現実化させたフォードが最も早く日本に進出を決めたことは、むしろ当然のことであったのである。』(⑪P89)
ヨーロッパの成功体験
ヘンリー・フォードにはこの頃すでに、本国アメリカはもとより、日本に先行して現地進出を果たしたヨーロッパにおける、フォード流のシステム(いわゆる“フォーディズム”と呼ばれるもの)の導入により、市場は拡大していくものだという、確たる成功体験があった。 
東京市からのまとまった発注や側近の日本人からの助言、震災後の復興で活気に満ちた日本の状況の報告の中から、日本の自動車市場に対しても、その“芽”を感じとったようだ。フォードが工場進出すれば日本市場も商務省のレポートを超えて活性化し、拡大していくはずだという、商売人としての勘(嗅覚)が働いたようだ。当時世界の自動車業界を半ば制覇していただけに、自らの直感に自信もあっただろう。そしてそんなフォードの予感が的中することは後述するとおりだ。以下は②の文末の座談会で、“(フォードからみて)日本は本当に魅力のある市場として映ったのか?”というNHK解説員の問いに対して、座談会に出席した宇田川勝法政大学教授(日本経営史専攻)は以下のように答えている。(②P212)
『当時のものを見ますと、震災後の再建のために自動車が大いに活躍している。そして工業力も中国に比べて高い。しかし販売組織などはまったくない、などと書かれている。こうしたところから、日本市場で自動車の需要がそうとう見込めると考えたようです。いろいろな点で未整備なことが、かえって将来性があると判断したのかもしれませんね。』
(2)“熱烈歓迎”ぶりがさらに背中を押した?
さらに④では、その方向転換の理由について、功成り名遂げたヘンリー・フォードの“心境の変化”という側面から解説しており、以下紹介する。
すでに歴史上の人物だった
T型の大成功で、すでに巨万の富と栄誉を掌中に収めたフォードは当時早くも、“自動車王”として教科書に載るような、歴史上の偉人となっていた。モデルTの成功以降『ヘンリー自身は車の設計を離れ、自分の大企業が生産に付随して年々もたらす膨大な利益を社会へ還元することなどに熱を入れていたらしい』(⑩-1P36)。そのため『このころになると利益追求だけでなく、名誉を求める意識が強くなっていたようで、日本への進出を日本人が歓迎していることが、アジア進出を上海ではなく、日本に変更した大きな理由であると思われる』(④P140)としている。
ヘンリー・フォードは11.1-2項で記したように、この時代の多くの金融/産業資本家たちとは違い、もともと、金もうけのために自動車事業を始めたわけではなかった。『ヘンリー自身の行動は最初から晩年まで、大衆のための実用機械としての車作り一本で、その目的は金もうけでもなければ、高級車作りでもない。ほんとうに役に立つ車を作れば必ず売れるという信念は彼の一生を通じて変わらず、それは株主への配当を第一義としたGMのライバル車、シヴォレーとの戦いで余すところなく示されていると思う。だがおもしろいことにヘンリーは世界屈指の大金持ちになってしまったのであった。』(⑩-1P6)
一方この時期にフォード(社)が直接/間接に接した日本(人)は、震災復興に向けて早くも、力強く立ちあがっていた。江戸の時代から何度も大火に襲われ、被災慣れしていた?当時の東京(人)の活気に満ちた様子や、フォードの組立工場進出を“熱烈歓迎”する模様が、東京駐在の稲田や、派遣された調査員から続々と打電されていた。
外国車に好意的だった日本人
 11.1-6で記すが当時の世論は『原価の高い国産車を製作するより、市場開放により高品質の外国車を輸入して廉価に使用する方が、あくまで有利であるとの考えから、国産車製作には批判的ながらも、外車輸入には概して好意的であった。』(⑭P7)これら前向きな情報の数々が、遅々として進まぬ中国進出計画に比べて、ヘンリー・フォードに好印象を与え、日本進出への後押しとなったことは間違いないだろう。その他の理由として、当時の中国が政情不安定だったことや(②P36)、前述の秋口久八らフォードと近い位置にいた日本人からの進言ももちろん影響を与えたであろう。
 なおフォードが中国から日本進出への方向転換を模索し始めた時期は、実際には震災後の早いころだったようだ。公式な調査員派遣(1924年9月)に先立つ1924年1月に東洋出張代表事務所を開設し、稲田久作(=ハワイ移民の子で、ハワイ大学卒業後、ハワイの銀行勤務の後、日本に帰国、浅野財閥系企業の浅野物産勤務を経てフォードに就職、現法設立後に日本フォードの販売部長となる(①P54)による)を雇い、日本進出にあたっての事前準備をスタートさせている。(①P56)
早い時期に日本進出を決断?
さらに(①P56)(⑫P35)や(Web❽、Web⓴-1)によると、フォード系のディーラーであったエンパイヤ自動車の柳田諒三による以下のような記述が残っている。『柳田がアメリカ企業各社と商談を行うなかで、フォードとの交渉では、彼にとって予期せぬ副産物があった。前掲エンパイヤ編によれば、柳田はそこで、フォードが日本市場の将来性への期待と、日本を拠点とした東南アジア市場進出の目的を持っており、近々日本にフォードの現地子会社が設立される―報を得た』(Web❽-1、P25)。柳田の渡米が1923年12月とされているので、ヘンリー・フォードの日本進出の腹は、調査員を派遣する前から、半ば固まっていたようだが、先に記したように1924年9月、最終的な決断を下すために、同社の二人の調査員(輸出部長のA・ロバーヂ、W・チェース(⑭P6))を日本に派遣し、確認させる。

11.6日本に調査員を派遣し、最終決断を下す
二人は帝国ホテルに陣取り約1か月間、前記の稲田や秋口の案内で現地調査にあたったが、東京の震災からの復興の予想以上の早さと、街を覆う日本人のエネルギーに圧倒されたという。自動車の通行量も予想以上に多く、二人のもとには有力者たちが連日面会を求め、皆口々に歓迎の意を表したという。
日本は有望
以下、(Web❶P165)より引用『調査報告の第1報は日本の自動車市場は良い条件に恵まれ,有望であると告げる。第2は,大市場の東京に近く,さらに,上海等の東南アジアへ輸出するのに便利な横浜に組立工場を建設すべきである,』というものであったという。以下は(Web❺-2)より
『デトロイトで電文を読んだフォード会長は、日本への進出を決断した。そして、「帝国ホテルのピーター・フランクスへ。電文を通して、東京の回復ぶりは理解した。日本市場における自動車の将来性を期待して、私は日本法人である日本フォード株式会社を設立することを決断した。ノックダウン車の生産をできるだけ速やかに開始したいので、組立工場をどこに、どれだけの規模で建設したらいいかのプランを至急作成するように」という返電を発信した。この電文を見たチームの面々は、工場建設プランをつくりあげるまでアメリカに帰国できないことを覚悟した。』 
Yokohama is the best
引用ばかりだが以下、NHKの優れたTV番組「ドキュメント昭和―世界への登場 第3集 アメリカ車上陸を阻止せよ~技術小国日本の決断~」(1986.09.09の放映(だったらしい)
https://www2.nhk.or.jp/archives/search/special/detail/?d=special019
の取材班が、フォード博物館の資料館の膨大な資料の山から“発掘”した報告書の要約を、(②P17)より引用する。
『日本は、自動車市場として良い条件に恵まれている。乗用車は、まだお抱え運転手付きだし、フォード車もほとんどタクシー用である。
ディーラー組織も、販売能力もまったくない。最大の難関は、厳しい運転免許規則で、地域によっても違うが、車が増えるにつれて改善されよう。
当面の計画は、横浜に(組立工場の)敷地を決めることだ。その敷地は(アメリカからの部品を運び込むために便利な)税関埠頭に近く(国内出荷のために)貨物駅にも近い必要がある。
セールスの50パーセント以上は横浜・東京で占められているので、商業的にも最高であり、目下この方向で努力している。』
NHKが発見した資料には“…Yokohama is the best location…”であると記されていたようだ(Web❿P77)。
既存の販売方法に厳しい認識
“ディーラー組織も、販売能力もまったくない”と、既存の販売方法に対しての厳しい認識が特に目立つが、こうしてフォードの日本進出が“正式”に決断され、横浜組立工場設置が実行に移されることになった。事前準備を進めていたため、その決断から半年も経たない1925年2月、日本フォード自動車株式会社(Ford Motor Company of Japan Ltd)設立された。資本金の400万円は全額アメリカ側の出資で,欧州、中南米諸国への資本進出と同様に 100パーセント主義が貫かれた。日本総支配人はW・チェースが、そして総支配人補佐が、のちに支配人となりその後の日本自動車史をたびたび賑わすことになる、ベンジャミン・コップが就任する。現法設立と同時に、横浜の緑町に設けた組立工場を直ちに稼働させて、1925 年 2 月から生産を開始し 準備期間を経て6 月から販売を開始する。

11.7フォードと結びついた当時の日本側の事情を整理する
 以上のように当時の日本とフォードはスムーズに結びつき、歓迎の中で日本進出を果たす。この項では既述の文と重複するが、フォード側ではなく日本側の視点に立ち、“円満”に結びついた当時の日本社会の各断面に分解し、さらに突っ込んでみていきたい。まずは一番大枠の“国家”という視点から見ていく。
国側の事情
 国内自動車産業の育成としてみた場合、前回の記事の「9.4 保護自動車3社に与えた影響」で記したように、当時ようやく産声を上げたばかりの国産車メーカーに対して、技術力も資本力も、販売力も何もかも、比較も無理なほどすべてにおいて、圧倒的な力量差があったフォードの進出が、壊滅的な打撃を与えるだろうことは明らかだった。
 しかしこれも前回の記事で延々と記したので説明は省略するが、この時点の日本としては、国として、そもそも自動車は優先して育成すべき産業分野とみなされておらず、さらに軍用自動車補助法をもって唯一、国内自動車産業の後ろ盾となっていた陸軍が、これも前回記事の9.5~9.8で記したような事情で異を唱えなかったため、国として反対の立場はとらなかった。
 さらに地方自治体も誘致合戦を展開していく中で、なし崩し的に?歓迎ムードを盛り上げていった。自動車部品の輸入急増による貿易収支の悪化等がきっかけで問題視されるのはもう少し後のことだ。
民間側の事情
 次に民間産業側だが、もっとも直接的な“被害”を被りそうなのは、前記のようにまだ自立していなかった自動車産業で、後篇の13.1項で記すオートモ号の白楊社と「軍用保護自動車3社」だっただろう。オートモ号については13.1項で記すが、ここでは保護自動車3社(石川島、瓦斯電、ダット)について、過去に何度も触れたのでごく簡単に記しておく。
 前回記事の“表5”をご覧いただければわもう一度、下に掲げておく。
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 見ての通りで、フォードが調査員を派遣した1924年の「軍用保護自動車3社」の生産台数の合計はたったの26台で、自動車“産業”と呼ぶには憚るほどの小規模だった。予算も限られ、陸軍が次第に距離を置き始めた中で、“抵抗勢力”として力はけっして大きくはなかっただろう(多少私見です)。
 当時の日本の産業界で、各方面に対してもっとも影響力があった大財閥は、これも前回の記事で記したようにこの時期すでに、リスクの大きすぎる自動車産業への進出をあきらめており、当時の日米友好もありむしろ“歓迎”する側の方にまわっていた。
庶民の気持ち(“高かろう悪かろう”だった国産車)
 一方、一般大衆(世論)はどうだったかといえば、11.1-5でも記したように『原価の高い国産車を製作するより、市場開放により高品質の外国車を輸入して廉価に使用する方が、あくまで有利であるとの考えから、国産車製作には批判的ながらも、外車輸入には概して好意的であった』(⑭P7)。 “メイドインジャパン”は当時の一般人にとっても、“安かろう悪かろう”の代名詞だったが、自動車の場合はさらにその上をいき、 “高かろう悪かろう”だった!結局のところ『財界やユーザーは(中略)自由貿易のもと、アメリカの自動車会社同士で競争させたほうが、安くて良い車が手に入る。それが、昭和初期の日本での、自動車を巡る一般的な認識であった。』(②P40)自動車のような慎重に選択されるべき高額商品に対しては元来、舶来品趣向も強かっただろうし、さらに言えば、フォード進出当時は震災直後だったので、まずは復興が第一の目標で、人々は長期的な視点を持てる余裕もなかったのだろう。
フォードの進出に対して、当時の歓迎ぶりを表す記述として『工場が稼働してからは、それまでの日本にはなかった大規模な機械工場として評判になり、自動車工場の関係者はもとより皇族・政治家などの工場参観も相次いで行われた』(⑪P89)というものがあるが、この状況は緑町工場ではなく、子安工場完成後のことだろう。

11.8横浜緑町組立工場(仮工場)の稼働
 話を戻し11.6からの続きです。フォードは日本法人設立と同時の1925年2月に、今の神奈川県横浜市緑町(注;のちに『昭和二年に区制が敷かれ、西区緑町になった場所』(①P85)で、今の横浜市緑区の場所ではない)に設けたKD生産用の組立工場を稼働させている。11.5項と重複するが、フォードの海外進出に際しての基本的な考え方を示し、工場用地選びの過程を、①からの引用で以下確認しておく。
海外進出のセオリー
 まずフォードの海外進出の際のセオリーとして『「フォードの海外戦略(上)」(注;フランク・E.ヒル, マイラ・ウイルキンズ著の本)には、フォード社の外国における営業政策は、賃借した土地建物を使って営業することだった。もし事業が繁栄しなければ、場所を変えることも全事業を放棄することも簡単にできた。成功すれば(そこで上がった利益から土地を買い)工場を建設し、そこに永久的な基地を確立する、というしきたりだった。千九百二十年代の初期と中期にはヨーロッパにある四つのフォード会社は繁栄したので、自分の工場のために土地を買う処置をとった。(中略)これらの所有地は、いずれもその国の最大の市場に近い位置にあり、水深の深い海または川に面していた。」と記されている。』(①P56)
 そのためこのルール?に則り、組立工場の候補地は借地の工場であることを前提にして、
・最大の消費地であった首都東京に隣接する地であること、
・KD生産及び大陸への輸出も視野に入れて、海運の便があること、
・さらに生産後の輸送を考慮して、鉄道引き込み線の可能なことを条件とした。(以上①P57より)これらの条件で、駐在員の稲田が中心となり候補地を探すがなかなか見つからなかった。
緑町(仮)工場でKD生産を開始
しかし稲田が浅野物産時代に世話になった、浅野良三の斡旋で、横浜ドッグが経営不振で敷地の一部を借りられそうなことがわかった。(①P57)
 そして本社の承認を得て、フォードの組立工場は横浜市子安海岸(横浜市緑町4番地)にあった倉庫を借り受けて開設された。『フォード社日本進出は海外戦略方針のセオリー通りの立地を選択できた。横浜港に面した横浜船渠会社の空き倉庫に加えて、セメント床と波形トタン屋根を持った小屋を建てさせ、これらの小屋を含めて仮工場として借りることができた。そのうちに、より適切な用地を探すまでの間とした。』(①P58)
敷地面積約2,500坪、建坪約1,000坪ほどの、非常にこじんまりした工場だったが、1925年6月より販売が開始された初年度の生産は3,437台、翌1926年は8,677台と順調に拡大し、(まだ)左ハンドルのT型フォードの組立を行なっていった。
(下は「株式会社 日光社」さんよりコピーさせていただいた写真で、
https://ford-nikkosha.jp/company
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https://ford-nikkosha.jp/wp-content/uploads/2016/01/ford_yokohama_factory.jpg
同社のHPでは「日本フォード横浜子安工場」と紹介されているが、NHKドキュメント番組を本にまとめて角川書店から出版した②のP37で、「横浜緑町のフォード工場。子安に移るまでの短期間、ここで自動車を組み立てた」と紹介されているものと同じ写真のため、フォードの緑町(仮)工場の写真だと思われる。
見すぼらしい建屋だった緑町工場
『~横浜ドックと協定し、セメント床と波形トタン屋根をもった小屋を建てさせ、フォード車はこれらの小屋を賃借して仮工場』(⑭P7)としたものだったが、この、自動車工場というにはいかにも粗末で見すぼらしい外観を眺めていると、フォードは日本の自動車市場に対して、当初は“様子見”的なスタンスもあったのではないかという説にも、一定の信憑性を感じてしまう。以下参考(⑭P22)からの引用で、紹介しておく。
『フォードの意思決定に関して、「彼は人口と面積と、上海と香港を擁する志那に期待をかけていたが、その間に日本の自動車産業が整備されると、フォードの東亜計画に狂いを生じることになるので、とりあえず日本に東亜の一工場を設置することにした…」(尾崎正久「日本自動車史」1942年.P385)との記述がある。つまり、フォードの極東戦略の中心となるべき中国への進出を計画している間に、日本で自動車工業が展開されると、のちのちの同社の極東戦略上、将来の日本への市場進出において、極めて不都合な事態を招来することになる。したがって、まずはとりあえず、日本に進出してその市場を押さえておこうという意識がH.フォードにはあったのではないかとの推測も可能であろう。』
浜っ子に“ドッグ”と呼ばれ親しまれた横浜船渠(余談)
(さらにまったくの余談だが家主の横浜船渠について。浜っ子の間で『「ドッグ」という愛称で親しまれてきた』『この後昭和恐慌で決定的に弱り、三菱重工に合併されてしまう』(①P58)。下の写真と文はwikiよりコピーさせていただいた『横浜船渠全景(1935年以前の撮影)』で、『北米航路の中型客船氷川丸や大型客船秩父丸(後に鎌倉丸と改名)などを建造』した。現在その跡地が「横浜みなとみらい21」として再開発されたのはご存じの通りだ。)
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11.9子安新組立工場の稼働
 その後、本格的な工場を設けて日本進出を果たしたGMへの対抗と、需要増にこたえるために、20年間も生産されたT型に変わる全くの新型であったA型への切り替えのタイミングを機に、すぐ近くの横浜市神奈川区守屋町の埋め立て地に、より大規模で本格的な(敷地面積約11,000坪、建坪約5,000坪で、どうでもよい話だが、明治の末に守屋此助という人物が埋め立てた土地だそうです)子安新工場を建設して1928年末に移転を果たす。この新たな投資は、日本で十分な利益を得られた結果でもあっただろう。ただし実際にはA型の切り替え時に新工場稼働は間に合わず、A型の生産は緑町工場からスタートさせているようだ(①による)。なおT型時代は左ハンドルだったが、A型からは、日本の交通事情に適した右ハンドル型となった。ちなみに子安工場の生産台数は1929年に10,674台、1930年は10,620台であった。
(下は日本フォードの組立ラインの、KD生産の様子。なお、横浜市緑町の横浜ドック倉庫の仮(さらに借り)工場としていったんスタートし、その後、本格的な組立工場に移行していたという事実が抜け落ちている歴史書がいくつかある。その訳(ワケ)は①の指摘のように、多くの論文で参照されている、自工会の作成した「日本自動車工業史稿(2)」(⑥-1)が、その事実を誤認して記したからのようだ。)
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https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/text/taking_on_the_automotive_business/chapter2/section1/images/l01_02_01_02_img01.jpg
日本で大きな利益を上げていたフォードとGM
(下の写真は、緑町工場と違いいかにも整然とした、子安新工場の写真。当初から大規模だったGMの大阪工場への対抗心もあっただろうが、緑町工場設立時と違い、日本の自動車市場に対してのフォードの自信と期待が伺える。その自信は大きな利益で支えられていた。
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『操業当初から両社の収益は膨大な規模であり、フォードの場合、最初の2年間で資本金の回収ができたほどだった。』

(⑪、P90)下の(表9)をご覧いただければ、フォードとGMの利益率の高さがわかる。ちなみに子安工場の生産(組立)能力は、日産80台、月産2,400台であったという(⑪P91)。)

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20年ぶりの新型、モデルAの登場
1908に年Tを発売以来、ほとんど変更なしで通してきたフォードだが、シヴォレーとの熾烈な争いでついに対抗できなくなり、T型をあきらめて約20年ぶりに、まったく新しいモデルAを投入する。
このA型については、11.13項「フォードとシヴォレーの熾烈な戦い」でも記すことになるので重複してしまうが、ここでは戦前のフォード車に特に詳しい自動車の歴史研究家、五十嵐平達氏によるA型フォードの解説を(⑩-1P55)より引用しておく。
『フォード・モデルAは優れた車ではあったが、この車がシヴォレーの追い上げによって生まれたことは否定できず、ヘンリーとしては多くの妥協を余儀なくされたのが理解できる。それだけに、「自動車ではなくフォードだ」とまで形容されたモデルTに対して、モデルAは常識的な「自動車」であった。GMの前会長スローンはその回顧録の中でフォードとの競争(モデルTとの)に勝った最後の決定的は「箱型ボディ」にあったと信ずると書いているが、この新型モデルAはフォードの箱型ボディ対策としてBriggsとMurrayの両工場が専属とされ、GM直属のフィッシャー・ボディに対抗できるデザイン、技術、生産能力が用意されていた。(中略)モデルAは4年間に約500万台が生産されたが、シヴォレーとの競争はモデルTのころとは比較にならぬ激しいもので、ヘンリーをして彼の主義に反する毎年のモデルチェンジ(注;マイナーチェンジ)を行なわせるようになった。』
(下の写真はA型のトラックで、日本フォードが発行したカタログを(見事なイラスト画だ)、ブログ「ポルシェ356Aカレラ」(以下Web□21-1)さんからコピーさせて頂き、紹介しておく。KD生産された戦前のフォード車は、「横浜製」として、当時の日本人の間で親しまれた。)
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https://stat.ameba.jp/user_images/20140503/11/porsche356a911s/f1/eb/j/t02200165_0800060012928133976.jpg?caw=800
(下はきれいにレストアされた1928年製A型フォードのビデオです。参考までに。運転の方法もT型と違い一般的になっていた。以下は小林彰太郎による“日本の”A型の解説『当時タクシーといえばフォードかシボレーときまっていた。黒一色、19年間モデルチェンジなしに長期量産したT型の流れを継ぎ、1928年に出現したA型は依然として4気筒だった。スマートで静かな6気筒シボレーに対して“ガタフォード”と悪口をいわれたが、文字通り頑丈無比で、クルマ不足の戦争直後はトラックに改造され、健気にも最後のお勤めを果たした。』(㉝)ちなみにT型が『黒塗りを選んだのは、黒塗装が一番乾きが早く、作業効率が良かったから』(wiki)というのも有名な話だ。
https://www.youtube.com/watch?v=rT_GX_ufiJc&feature=emb_rel_end
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(下は1932年型V8スタンダード2ドア(画像はwikiより)。小林によれば、『廉価車として初めて強力なV8を送り出すと、人々のフォードを見る目が一変した』(㉝)という。シヴォレーの6気筒に対するフォードの回答だった。)V8については11.13項で記す。
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このように、フォードの日本進出はすぐに軌道に乗り『東洋市場,とりわけ,満州,上海を中心にかなりの台数を輸出し,東洋市場を確保した。』(Web❶P165)上海でなく日本の横浜を選択したが、大陸への輸出拠点という、重要な役目も果たすことになるのだ。この、日本の組立工場が大陸への輸出拠点だった点は、GMも同様で、同じく『満州、中国方面にかなりの台数を輸出した』(Web❶P165)という。
そこで次に、フォードに続き、2年遅れで日本へ“上陸”したGMの進出について話を移したいがその前に、フォードの日本進出が日本の社会全体に与えた影響について、長文になるが次の11.10項で、日本を代表する自動車史家(個人的な思いからすれば、)の五十嵐平達氏による一文を、㉚より抜粋して、予定よりダラダラと長くなってしまった“フォードの日本進出編”を終わりにしたい。

11.10日本人はフォードから“自動車”というものを学んだ
(以下のカーグラに投稿された五十嵐の文章が書かれた頃はたぶん1980年前後ごろ(約40年前で、ということは時代背景として、現在とは違いまだGM、フォードがいちおう、まだ勢いのあったころ)に書かれたものであることを追記しておく。)
『フォードが日本人と積極的なかかわり合いを持つようになるのは、何といっても関東大震災以降の資本進出によるものだが、フォードはGMより数年早く横浜に上陸してT型のノックダウンを始め、やがて予定通り子安工場にコンベアライン付工場を完成してA型の量産に入ったのが昭和3年12月のことである。GMが大阪に進出してきたのは昭和2年の事だから日本フォードは未だ仮工場で操業していた頃であった。フォードの新工場に設定された主コンベアラインは、チェーン駆動式で全長150ftその速度は最高12ft最低2ft9in/毎分で、日産能力200台であった。当時としてはそんなに売れるのかと心配する程の生産量をさばくため、フォードは基本的なところから計画していて先ずサービスパーツの在庫は当時で200万円といわれ、パーツデポーも設けられた他、サービススクールを開設して技術要員の養成から始めたのであった。この工場の落成式に当たりヘンリー・フォード氏から日本国民にたいする祝電が送られてきたが、それには自動車と言わず交通運輸と近代商業活動の関連の重要さを強調し、それは或る意味の進歩を促進するものだと説明されていた。面白いのはフォード氏の経験によれば自動車運輸の発展が道路建設を促進するというもので、日本で自動車が多く走るようになれば必ず国道も増長し日本の産業も発展するであろうと予言していたことである。現在公害問題が生ずるまでに発展した日本のモータリゼイションを見る時、このヘンリー・フォードの電文を思い出さずにはいられないのである。フォードはそれまでの日本人の自動車観を根本的に変えて、自動車は実用品であることを強調したが、それには低価格、下取制度、月賦販売などを導入し、一方で補給パーツを可能な限り国内発注して国産化したので、主要な鍛造品は例外として、当時は消耗品とされたフェンダーあたりは日本の下請けで造られていたし、一般工業の水準もフォードの検査基準に合わせて向上したので、陸軍などの試作車もフォードのパーツを流用する事は常識化される程となった。フォードのPR活動は自動車はどのように使えばペイするかを日本人へ教えることで、先ず先ず道路整備が良く、サービス施設の充分な都会の営業車から普及に手を付け、次が地方の国鉄駅のある都市から売り込んでいったが、格差の大きな当時の田舎には中古車という割安な商品を持って普及していった。このようにフォードは日本の事情をよく調査して年産約1万台をさばいていったのだが、その結果として、日本のモータリゼイションは都市集中型となり、一般国民は営業タクシーを共用の自家用車として車の利用に馴んでいった。後年自動車私有や運転技術の普及について特に遅れを見せた日本人の特徴は、このころ芽ばえていたともいえよう。20年前からの急速なモータリゼイションの発展に(注;先に記したようにこの記事は1980年ごろ?書かれたものだったと思う)強いアレルギー症状を見せた年齢層を考えれば、この歴史的現実は明らかなものといえるのである。日本人はフォードによって自動車を学んだと云って差し支えないが、当時のフォードは教科書的な構造であったともいえる。特に4気筒のA型こそは日本人の自動車入門に絶好の教材でもあった。そして1930年代のモダーンを都会へ持ち込んだのもアメリカの自動車であり、日本の風土と思考の中で都会の喫茶店あたりから入り込んできた近代デザインの尖兵は何といっても毎年モデルチェンジして街頭の75%を変化させるフォードとシボレーの流線形であり、当時のモダーンボーイをして、エロチシズムを感じさせるとつぶやかせる程に魅力的なスタイルと流行は、現在(注;=何度も記すが1980年ごろ)の国産新型車の一部にも表現されるようになったと思う。日本からフォードが撤退させたのは主に陸軍を中心とする外資系に対する圧力であったが、政治的なからめ手で国際常識からひんしゅくを買うような追い出し方をしたのも、当時の日本の外貨事情を考えれば理解できる。だが、その陸軍といえども中国大陸ではフォードを多用し、満州にはフォード更生工場を設ける程にフォードの真価のよき理解者であって、現在の日本人がこのフォードとの付き合いを忘れてしまったのか、知らぬのか、日本の自動車史の中でのウエイトがあまりにも少ないのは気がかりなことである。』(㉚P107)
フォードの真価をもっとも理解していたのは陸軍だった!?
 この文章から時代の空気を感じてもらいたかったので、長文で引用させていただいたが、歴史解釈上において?個人的に注目すべきだと思った箇所は、文末の方に記されている、陸軍とフォードの関係だ。陸軍は「フォードの真価のよき理解者」だったという箇所で、戦前氏が陸軍御用達のヂーゼル自動車工業に勤めていた経験があるだけにより説得力がある。当時フォードとGM(シヴォレー)の真価(実力)を日本で誰よりも、良く理解+研究していたのが実は、日本陸軍に他ならなかったということなのだろう。(私見ですが、たぶん。)
“砂漠の狐”ロンメルもフォードを高く評価していた(余談)
(下はフォード1938年式3トントラックの陸軍ヨコハマ生産型。そうは見えないけれども、プラモデルです。ちなみにタフなフォード車を『大戦中,アフリカ戦線で闘ったドイツの ロンメル(Rommel) 将軍はフォード( Ford) 社軍用トラックの性能をドイツのそれより高く評価した』(引用⑱P14)という。)
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https://dist.joshinweb.jp/emall/img/sm/JSN_C00001/middle/45/44032/4544032769116.jpg?impolicy=tp300)。
(ブログ“ディーゼルオート店”さんは『『円太郎バス』・T型フォードが日本の車基準になったのは間違いない。"全長4.62m×全幅1.58m"が、いわゆる「5ナンバー」サイズ』なのだと、指摘している。実際戦前の日本では“普通車”だと呼ばれていたが、その点でも、フォードの影響は絶大だった。
https://minkara.carview.co.jp/userid/405365/blog/c901808/p3/

フォードソン・トラクターの日本での使われ方(余談)
(下の写真はwikiwandより、フォードソン・トラクター(モデルF(Fordson Tractor model F)の写真で、農業専用だと思いきや、五十嵐によればなんと日本では『当時TT型(注;T型のトラックタイプ)は1トンか1トン半しか積めずそれ以上の重量物はこのフォードソンが夜間の路上をけん引して運搬した』(㉚P109)そうだ。(以下はwiki参照)フォードは『大衆車(T)・商用車(TT)・農業トラクター(F)という、それぞれに未開の巨大需要を擁していた市場の開拓・制覇に成功』し、一大自動車帝国を築く。フォードソン・トラクターは当時アメリカで圧倒的なシェアを誇った=1923年にはアメリカ国内のトラクター市場で77%のシェアを誇ったという。)
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11.11フォードに続きGMも日本に進出
 本国アメリカのみならず、世界の自動車市場でフォードと激しい覇権争いを繰り広げていたゼネラル・モーターズ(以下GM)は、フォードに遅れる事2年の1927年、大阪に日本ゼネラル・モーターズ株式会社を設立し、KD生産を開始(開業式は 4月)する。
 なお永年にわたり、世界最大の企業として産業界に君臨した、GMの歴史や偉大な功績についての全体像を記すことは、この記事ではほぼ省略させていただく。さらにGMの日本進出の経緯についても、“二番手”だということもありフォードと違い大幅に略して記す(このペースだと終わりが見えないので!)。とはいうものの、自動車会社という枠を超え、世界最大・最強の企業に育てあげたアルフレッド・P・スローン(Alfred P. Sloan, Jr.; 1875-1966)の功績については、11項の最後に触れておきたい。ちなみに自分の子供のころはまだ、GMの売上高が日本の国家予算(一般会計の方の)に匹敵する、と言われた時代だった。

11.12 GMの大阪組立工場の稼働
 GMの日本進出については、①と④+Web❺を中心に引用していく。以下①よりそのまま引用で、まずはGMのアジア戦略から。
中国(大陸)から徐々に軸足を移した
『GM社の海外戦略はすでに、世界四十二か国で工場生産され、ドイツ・イギリスは勿論、カナダ等へも工場進出し、アジア戦略でも、GM輸出会社がマニラ支店をして、フィリピン、中国、満州、蒙古、韓国、日本をテリトリーとして完成車及び一部組立車を輸出していた。GM輸出会社のクエードは1921(大正十)年にマニラ支店、1922年にはオフィスを上海に移し、さらに1925年11月東洋駐在員事務所を東京に移した。』(①P94)GMもフォードと同様に、中国から日本へと、徐々に軸足を移していった経過が読み取れて興味深い。
日本への進出はフォードへの対抗心もあった
 GMの日本進出は、世界市場でしのぎを削っていたフォードへの対抗心(東アジア市場をフォードに独占される懸念;(⑭P7)があったことは間違いない。また両社に共通することとして、フォーディズムに代表される大量生産体制が確立されコストダウンが進み、激しい販売競争が展開された結果、過剰生産・過剰在庫といった新たな問題が引き起こされた結果(㉛P105)、その“はけ口”を求めて海外へと進出していった面もあった。(関連;10.3、11.3他)
 さらにフォードの場合の円太郎バスのように、10.3で記したように、梁瀬による震災時の乗用車2,000台の大量販売も、GMの判断に影響を与えただろう。(関連;10.3)
シヴォレーの販売を伸ばしたかった?
 しかしその一方で上記11.2の“表8”を見れば一目瞭然だが、フォードの工場進出前の1924年末時点ですでに、日本国内におけるシヴォレーの販売台数がT型フォードに大きく水をあけられているうえに、同じGM内のより高級なビュイックよりも少ないという、大衆車より高級車が得意(熱心)だった梁瀬の販売スタイルに対しても何らかの手を打ちたかったのだと思う。
調査員を日本へ派遣
 しかし世界的な巨大企業にも関わらずヘンリー・フォードの個人企業的な色彩の強かった当時のフォード社と比べて、より近代的な経営理念(マネージメント)のもとに運営されていたGMにおいては④の指摘のように『日本に進出することの是非は、世界的な同社の経営戦略の中で考慮され、慎重に計画されたものだろう』(④P142)。この当時のGMの海外戦略については、①P102~105に詳しいが、長くなるので省略する。そして1925年4月、GMは日本進出打診を目的に、調査員(フィリップ・ハワード)を日本へ派遣する。以下も①より引用
GMも“熱烈歓迎”を受ける
 ハワードは『アメリカ大使館商務部の紹介で、政財界の名士を訪問し、ゼネラル・モータース日本工場設立の意思を披歴して回った。反響はフォード進出の後とのこともあり、大震災後の自動車時代到来の予兆も加わり、自動車販売への興味をひかれた東京・大阪の名士が続々と帝国ホテル滞在中のハワードの許を訪れ、GMの日本工場設置協力を申し出てくれた。』(①P95)フォードの時と同様に“熱烈歓迎”を受けて、前記のように上海にあったGM輸出会社の支店を東京に移し(1925.11)、工場設置の準備に入る。
 そして『1926年夏、ニューヨーク本社では、日本での組立生産を決断し、ハワード氏と十人のスタッフが来日して、扱い量と工場用地の調査手配をした。』(①P98)
激しい誘致合戦を大阪市が制す!
 横浜や大阪を筆頭に各地で激しい誘致合戦が展開されたが、なかでも熱心だったのが横浜市であったという。しかしフォードとの対抗上関東地方は避けて、その上で『大阪市が、4年間の市税の免除、工場建設に可及的便宜を図ることなど破格の好条件を提示し、誘致戦を制した。』(wikiwand.com日本ゼネラル・モータース他より)ちなみに大阪を中心とした戦前の阪神工業地帯の工業生産額は、昭和11年(1936年)で31.6億円となり、京浜工業地帯の25.45億円を上回っていた。とかく忘れられがちだが、戦前は軽工業が盛んだった関西が、工業規模で関東を上回っていたのだ。
中国市場への輸出を意識した選択
 さらにもう一つの理由として大阪の接待攻勢の成果ではなく?冷静な目で『GM側が大阪を選んだ理由には中国市場を考慮に入れていたからと言われる。大阪での組立車のうち半数は中国に輸出していた』(同じくwikiwand.com他)という。大陸への輸送が関東より近く、輸送コストの差もシビアに見ていたようだ。ただし、『東南アジア市場については、インドネシアにGMの組立工場があった(1936年時点)との記事もあり、日本GMの地域は、旧日本国の領土の範囲内に限られていた』(①P174)ようだ。
 1927年1月、日本ゼネラル・モータース株式会社が発足する。大阪の大正区鶴町にあった日本綿花の紡績工場と倉庫跡に新工場を建設し,4月からKD生産を開始する。
 GMは日本への工場進出を果たした年の1927年に、ついにフォードの販売台数を抜き、自動車の生産台数で世界最大手に躍り出た。それ以降2008年にトヨタに奪われるまで延々と、その地位に君臨していくことになるが、大阪の組立工場も世界No.1企業の海外工場に相応しい設備を誇っていた。
フォードより大規模だったGMの組立工場
(下の画像は日本GMの大阪工場の全景で、大阪市の南の端にある木津運河を利用して船舶が工場に横付けできる立地だった。テストコースまで備えており、フォードの緑町工場との規模の違いが一目瞭然だ。開業式の式典では大阪府知事が金色の鍵をもって工場の扉を開くという華々しいスタートを切ったそうだ(Web❺-3)。
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https://sapporo.gmj-dealer.jp/wp-content/uploads/sites/34/2017/06/1927.jpg
日本でもフルライン戦略を展開
 そして扱い車種も、本国アメリカで、フォードT型の単一車種の低価格車路線に、多車種展開で対抗したように、日本でも充実していた。シヴォレー、ポンティアック、オールズモビル、ビュイック、ラサールからキャディラックに至る米国車種に加えて、欧州子会社の英ボクスホールや独オペルなども取り揃え、さらにトラックもシヴォレー、GMCなど4車種と、フルラインアップを誇った。(下の画像と以下の文は、webCGより引用させていただいた。『1926年におけるGM傘下の乗用車ブランド。市場における“喰い合い”を解消することで、GMの代名詞でもあった豊富なラインナップはフォードにはない大きなアドバンテージとなった。』いわゆる“のフルライン戦略”を、日本でも展開した。)
https://www.webcg.net/articles/-/40663?page=3)
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https://webcg.ismcdn.jp/mwimgs/f/4/730wm/img_f48095f0c1c786bcbb0842d6684a3ffd308268.jpg
提携相手がなかったので単独進出だった
 話が戻ってしまうが、これも良く知られている話だがここで、当時のGMとフォードは対外進出する際に、異なる手法をとっていたことを記しておく。11.1-8で記したようにフォードは100パーセント子会社方式で、いわゆる“フォーディズム”を押し通す新会社を新たに立ち上げた。『単純化していえば、フォードの海外子会社は、本社から送られてくる「フォード聖書」(The Ford Bible)に従って行動した』(②P88)のだが、GMは多くの場合、相手国の自動車メーカーに資本参加して、後に子会社化する手法をとった。たとえば英国進出の際は1925年にボクスホールを、1929年には当時ドイツ最大の自動車会社であったアダム・オペルを買収した。『既に述べられているように、ヘンリー・フォードにとってはT型を売ることが海外戦略であったが、スローンは「最初にブランドありき」と発想し、クルマはその国情に合わせ、時代の変化に対応するようにモデルチェンジを繰り返すべきであるという思想を持っていた。』(Web❺-3)
 そのため日本の場合にも、適当な提携先があればそれも考慮に入れたはずだが、前回の記事で延々とみてきたように、GMの検討段階で、日本で大量生産体制を確立した自動車メーカーは無く、そのため日本進出は単独で行わざるを得なかった。
 しかし後に、この記事の“その6”で記していく予定だが、陸軍が中心となり排外的な産業政策を検討し始めると、その対抗策としてGM本来の『現地主義を日本でも採用すべく、日本ゼネラルモータース社に日本の自動車メーカーとの合弁計画を打診するのである』(Web❶P165)。
 一方日本でも、鮎川義介率いる当時の日産は、大衆車(=当時のフォード、シヴォレー)クラスの乗用車/トラックの大量生産を志向し、日本の自動車工業が自立するためには、外資との提携が不可欠であると、一貫して考え続けていた。こうして軍部の圧力を感じ始めたGMと、後にはフォードも、日本における“受け皿”として、鮎川と接触していくことになる。しかしフォードの本格的な工場着工計画とともに、これらの画策が裏目に出て陸軍の警戒感をよんでしまい、排外的な自動車製造事業法を早急かつ強引に生みだそうとする逆のパワーを生んでしまった。やぶ蛇的な結果に終わってしまったこれら合併交渉は、のちの“その6”の記事で詳細に記すことになる。以下もWebからの引用だが『GM社とフォード社の初期の洵外進出における基本的政策は,似通っているようで異なる。 GM社は事前の分析によって市場を質的に区分し,それぞれ異なる施策で対応した。対してフォード社は,一様な進出をおこない,何か逼迫した状況に遭遇した場合,それに対応するという策をとったのである。』(Web□34、P247)
“敵失”が幸いしたGMの日本進出
 話を戻して、GMはフォードに2年遅れての日本進出となったが『日本でそのハンディキャップを感じさせないで製造販売できたのは、ゼネラルモーターズが活動を始めるころは、フォードがT型からA型に切り替わる時期に当たり、アメリカから組立のためのフォードの部品がしばらくのあいだ途絶えたことも影響していた。』(④P143)その結果、11.13項で記すアメリカ本国同様『これで動揺したフォード車ディーラーの中にシボレーに鞍替えする所が出てくるという思わぬ幸運が舞い込む』(Web❺-3)こともあったようだ。ちなみにこのような動きは9か月新車の供給が途絶えたアメリカ本国でも同様で、『この間のデーラーの仕事は補給部品の販売だけとなり、大切なセールスマンはどんどん他社に引き抜かれてしまった』(⑩-1P57)といわれている。(㉚P109)に『~当時東京に設置されたメインデイラー4店(注;エンパイヤ自動車、松永商店、山田商会、秋口自動車)で、このうち大手の秋口は後にGM系にスカウトされてシボレー系となり話題となった』という記述があり驚いた。なんとフォードの日本進出に一役買ったあの秋口久八の販売会社が、シヴォレーに寝返ってしまったようなのだ!
最初から順調だった販売
 こうして、結果的にタイミングに恵まれたこともあり、GMの日本における組立台数は、前回の記事の“表6”にみられるように立ち上がりから順調に増えていき、1928年は15,491台、1929年には15,745台と、フォード(それぞれ10,674台と10,620台)を凌ぐほどになっていく。
(下の画像は度々の引用で恐縮だが、ブログ「ポルシェ356Aカレラ」さんのもので、『1933年 新シボレー 本カタログ』より、その室内(□21-2)。現代のJPN TAXI(ジャパンタクシー)と比較してもずいぶんゆったりとしている。(㉑P15)の描写によれば、広い後部の室内には補助席があったようで、当時のタクシーで『われわれ子供たちは、後席の前にある補助椅子にいつも座らされた。』小柄な日本人故に本格的なリムジンのように7人乗車が可能だったようだ。)
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https://stat.ameba.jp/user_images/20140510/17/porsche356a911s/e0/00/j/t02200165_0800060012936583869.jpg?caw=800

11.13フォードとシヴォレーの熾烈な戦い(アメリカ本国において)
 ここで“日本の自動車史”からは外れてしまうが、アメリカ本国で繰り広げられた、フォードとシヴォレーの大衆車市場を舞台にした熾烈な戦いについては、やはり触れておきたい。日本でも販売合戦が繰り広げられたが、本国の戦いはある意味で、その後の自動車の方向性を決定づけるものだった。以下全般には㉕、㉜、㉟-1(ちなみに㉟-1の記事を記した松尾良彦氏は初代フェアレディZのデザイナーだ)+(web□37:「GM社における大衆車市場への参入」という論文が非常に詳しい)+(web□38)で補足しつつ、それらの引用でつないでいくという超手抜きで!簡単にまとめておく。まず
当時のアメリカの状況について
(㉟-1)の引用からスタートする!『~改良はするがモデルチェンジはしないというのがフォード一世の方針で、このため原価償却に合わせてT型の価格はくる年ごとに下げられ、発表の10年後にはついに当初の価格の6割減まで値下げされた。これによってT型はアメリカ全土に普及、おかげでフォードは押しも押されぬ大企業へと成長した。』(㉟-1、P124)フォードはT型一本に絞り、生産技術の改革と量産効果でスタートの850ドルから1925年に290ドル(ツーリング型)までその価格は引き下げられて、圧倒的な競争力を誇った。
王者T型に挑んだシヴォレー 490型
 以下も(㉟-1)より引用。『一方のGMは商業主義的な車づくりを当初から推し進めた。フォードT型からの上級移行を考えているユーザーがターゲットであり、シボレーを売り出すにあたって、同社では見てくれのよさ、快適性の高さをおおいに強調した。このように、フォードにとっての自動車は、あくまで実用本位の<移動の道具>だったのに対して、GMにとっては<大衆に夢を与えるもの>だった。』(㉟-1、P124)
 以下からは、対T型フォード用にGMが最初に投入した490型の説明と、それに対してのフォードの対応策になる。まずはその尖兵となった、シヴォレー490型(1915(6?)~1922)について、『シヴォレーは1915年に、22年まで続く“490”という大衆車を出す。何とその名称はシヴォレー自身が仮想的に擬したモデルTフォードの価格(もちろんドル)であり、フォードは翌16年に460ドルに値下げしなければならなかった。』(㉕P159)
(下の写真はフォード反撃への狼煙となった490型で、トヨタ博物館所蔵のものだ(画像もgazooからの引用です。)。電気式のヘッドライト、セルフスターター付きと装備を充実させて、外装色も黒以外に赤、緑、青、黄なども選べた。)
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https://gazoo.com/catalog/car_img/7103/7103_o.jpg
(㉕-1,P159)より引用を続ける。しかし『~このようにシヴォレーは最初からフォードのライバルとして生まれたのだが、初めのうちはモデルTの量と品質は圧倒的で、まるで風車に立ち向かうドンキホーテだった。』期待の490型も当時絶好調のT型フォードの前に苦戦を強いられたのだ。以下(web□37、P120)より引用するが、結局490型も『登場後フォードとの正面きった競争は断念され,手ごろな価格での高級仕様を売りものとする製品戦略がとられた』という。T型に対抗するためには力不足だったようだ。
対抗馬としては力不足だった490型
 この490型について、スローンはかなり辛らつだった。以下は(web□37、P120)より補足する。『当時の副社長(23年以降の社長)のA.P.スローン (AlfredP.Sloan) は後の法廷証言で、1920年時点のシボレーががらくたであり,時のP.S.デュポン (PierrerS.duPont)社長はシボレーの名称変更を提案するほどだったと、述懐している。21年春の本社経営陣も,シボレーがフォードと真っ向から競争することは不可能である、との見解で一致していた』
(ちなみに当時のシヴォレーのラインナップは490型と、上位機種である下の写真のFB型の2本立てだったが、『FB型はキャディラック以外のGM 車種と競合する中価格帯にあり,低価格帯をねらうシボレー・ラインにはいかにも不釣合いな製品であった.』(web□37、P121)ようだ。画像は以下よりコピーした。確かに車格がかなり上位のクルマに見える。GM内部での製品ラインナップの整理がついていなかったのだ。
https://www.hemmings.com/stories/article/chevrolets-classic-1920-chevrolet-fb-50-touring)

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https://img.hmn.com/fit-in/900x506/filters:upscale()/stories/2018/07/41285.jpg
“抜本的な革新”を目指して空冷エンジン車を開発!
 1920年には倒産寸前の経営危機に陥ったが、GMに関心のあった巨大化学会社(デュポン財閥)のピエール・S・デュポンがGM創業者のW・Cデュラントを追い出してGMの実権を奪う。以下は(web□37、P120)より『1920年の経営危機の後,GM 社は企業再建のために製品 ・価格政策を見直す。全社的に打ち出された構想の基本は、製品政策では漸次的改良主義の徹底、価格政策では自社ライン間の競合を避けるための再設定にあった。だが,シボレー部門には例外的な方針が打ち出された。・大幅な低廉化 と・製品技術の抜本的な革新 が目指されたのである。 この決定は,シボレー・ラインの製品 一 競争力に対する絶望的認識を背景にしていた。』
 当時全世界に君臨していたT型に対抗するためには、生半可なクルマでは通用しないとの考えに至ったようだ。そして「大幅な低廉化と、製品技術の抜本的な革新」を目指した結論はなんと、研究所を率いていたチャールズ・ケタリングの推す、空冷エンジン採用だったのだ!
以下も(web□37、P121)『この帰結が技術革命戦略の採用,すなわち,GM 本社経営陣による執行委員会での「新しい革命的な種類の車によって低価格車分野に参入すべきである」との決議であった。(中略)目指した革新は空冷式の銅製エンジンであった(注;この空冷エンジンは空冷フィンとして銅板を使用していたのでそのように呼ばれていたらしい)。』イグニッションシステム、セルフスターター、電気式ヘッドライト等の数々の発明(製品化)で実績十分で、首脳部の信頼も厚かったであろうケタリングを信じてのことだったのだろうが、開発は難航し、大失敗作となってしまう。(下の画像はその空冷エンジン車。画像はwikiより。外観上はふつうの水冷エンジン車と変わらない印象だ。それにしてもシヴォレーが空冷エンジン車で躓くのは、コルヴェアが最初ではなかったようだ。ただしコルヴェアの場合は空冷エンジンが直接の原因ではなかったが。このクルマについては他のwebでは(web❺-4)等も参照ください。それによると、空冷エンジンは6気筒だったようで、さらに社長のピエール・S・デュポンも、どうやら入れ込んでいたようだ。)
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スローン体制下で立て直し、徐々にフォードを追い込む
 1923年、デュポンは社長を退き、アルフレッド・P・スローンを社長に据える。そして空冷エンジン車を断念させたスローンの指揮のもとに『マネージャーのウィリアム・S・ナットセン(1937-40年にGMの社長となる。)と、チーフ・エンジニアのオーモンド・E・ハントが1923年に登場させた“シューペリア”は、次第にモデルTを追い上げていった。』
生産台数でいえば、フォードのピークは1923年で、この年の年産は200万台を超えた。『こうしてGMとフォードの競争が始まった。頑固一徹のまじめなエンジニアであったフォード一世は<スタイリング>などという言葉は思いつきもしなかったが、GM中興の祖、アルフレッド・スローンは、それこそが商品を売るための有効な武器と考えていた。』(以上㉟-1、P124)後述するが、工場から続々と生産されてくる自動車を市場に押し込むため、デザイン力が活用されていく。
 フォードは、次第に防戦一方になっていく。ここからは、追われる側のフォードをみておきたい。
『(フォードの)その製品競争力の源泉はもっぱら値下げに求められていた。』(web□37、P109)1925年には、モデルTのツーリングモデルが290ドルという、歴史に残る最低価格が実現した。(下の画像は1924年のシヴォレー“シューペリア”シリーズFクーペ。黒一色塗られたT型と比べれば、スタイリッシュに見えたのだろう。大量に普及したT型フォードの乗り換え需要を見越してのGMのマーケティング戦略に、黒一色のT型に飽きたアメリカ人たちは、少し上の贅沢と変化を求め、嵌っていく。そしてT型も1925年にはついに、多色化に踏み切らざるを得なくなる。)
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フォードも革新的な中級車(“Xカー”)開発を断念 
以下も(web□37、P114)からの引用だが、ここで記されていたXカーの内容は手持ちで適当な資料がなく、時間をおいてあとでもう少し確認して補足しておきたい。
『この間もフォード社は単に手をこまねいていたわけではない。新車の開発も25年から急がれていた。まず,25-26年にかけては,1920年から試行されていた革命的中級車,Ⅹカーの開発が本格化された。同車には, 8つのシリンダがⅩ形に配列される工学上画期的とされる新エンジンが搭載 されるよう見込まれていた。しかし,この革命的技術開発はその構造的欠陥から26年 8月には断念されたのである。』結局空冷エンジンに手を染めたシヴォレーと同様、この野心的な計画のために貴重な時間をロスしてしまい、よりオーソドックスで、エドゼル・フォードのセンスで“デザインされた”A型投入のタイミングが遅れてしまった。フォード(ヘンリー・フォード)自身も偉大なるT型フォードの後継車作りに苦しんだのだ。
A型投入までに空白が生じる
 フォードのモデルAについては、11.9や12.4項とも重複してしまうが、アメリカ本国を舞台としたシヴォレーとの戦いを軸に、(web□37)から引用を続ける。『また,Ⅹエンジンの断念後はすぐに 4シリンダの新エンジン開発が着手された。T型からA型と名付けられた新車への移行は当初連続的に行なわれる予定であった。 しかし,周知のようにこのモデル ・チェンジにフォード社は苦しむ。A型車設計の完成が公言されるのは27年 8月10日であり, 1号エンジンの完成はさらに同年10月20日を待たねばならなかった。27年11月初旬には1号車が登場するが,この前後も製品設計は流動的なところが多かった。こうした製品設計の滞りに生産変更の遅滞が加勢し,同車のモデル ・チェンジには事実上1年半近くの期間が費やされたのである』(web□37、P114)。結局フォードのディーラーに9カ月間、新車の供給をできなかった。11.2-1でも引用したが『この間のデーラーの仕事は補給部品の販売だけとなり、大切なセールスマンはどんどん他社に引き抜かれてしまった』(⑩-1、P57)スローンがこの好機を逃すわけがなかっただろう。
息子エドゼルとの確執
 TからAへのチェンジが遅延した背景には、ヘンリー・フォードと息子のエドゼル・フォードとの対立もあったという。『このモデルAの開発でフォード父子ははじめてはげしく対立した、とソレンセンは書いているし、歴史的にもモデルAに現れたムードはエドゼルが勝ち取った部分であろうと思うのである。』と(⑩-1、P58)で五十嵐平達は記している。しかしA型のスタイリングが好評を得た結果、『ヘンリーはスタイルに関してはまったく口を出さなくなり、もともとアーチスト的性格だったエドゼルに一任されたのであった。モデルAのスタイリングはリンカーンをアイドルにしたもので(注釈の必要なしと思うがクルマのリンカーンをアイドルにした)、その表現はシンプルで魅力的であった。だがポリシイだけは逆にGMを啓発する結果となり、1932年型シヴォレーはキャディラックをアイドルにしたスタイリングで大成功をおさめたのであった。』(小林彰太郎は(㉖、P18)で『(T→Aの)この画期的なモデルチェンジに社運を賭したフォード社は、全世界で下取りしたT型をすべてスクラップ化した。これは日本でも同様だった』という。(この項全体は一応シヴォレーの方に属するので、ここはシヴォレー優先で、1932年型“ベビーキャディラック”シヴォレーの写真を。確かにやたらと華やかに見える。出典はwikiより)
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 フォードA型について最後に、ライバルであったGMのスローンは先に記したように(⑩-1、P58)『1928年にモデルAをはじめて見たころを懐想して、「流行に左右されない実用的な車というヘンリーの主義を再度具体化した立派な小型車と思った」』と評していたという。
スタイリングの重要性を深く理解していたスローン
 再びシヴォレー陣営に?話を戻す。先にも「GM中興の祖、アルフレッド・スローンは、スタイリングこそが商品を売るための有効な武器と考えていた。」と(㉟-1、P124)より引用したが、『特に1923年以来GMの社長の座にあるアルフレッド・P・スローンⅡ世が、1927年にハーリー・アールを起用してGMアート・アンド・カラー・セクション(現GMデザイン)を設けて、シヴォレーにデザインとカラーを与えてからの追い上げは急であった。たまりかねたフォードが1927年にモデルTを(既述のようにエドゼルのセンスでデザインされた)Aに切り替えると、そのギャップを突いてシヴォレーはトップに躍り出た。フォードは1929年と30年に首位を奪い返すが、以後は圧倒的なシヴォレーの優位が続き、フォードに抜かれるのはわずかに1935、57、59年のみということになる。』以上(㉕-1P159)
GMのマーケティング戦略(簡単に)
 以下はスローンによってこの時代に、試行錯誤しつつも次第に確立されていったマーケティング戦略についても、以下wikiからのコピーで簡単に触れておく『1920年代中期のGMのマーケティング戦略はさらに尖鋭化し、シャシーは前年型と共通でも、ボディデザインに年度ごとの新味を与える「モデルチェンジ政策」を用いて、在来型を意図的に陳腐化させることが行われるようになった。GMが打ち出したこの商品戦略は、競合他社も否応なしに取り入れざるを得なくなり、1970年代までアメリカの自動車は、1年ごとにボディデザインを変化させることが当然となった。』有名な「計画的陳腐化」とよばれているものだ。
 さらに(⑮P134)『これは、次第に無視することができなくなった中古市場でのクルマに対抗する狙いもあった。』という。たとえば1920年代のアメリカにおける『自動車新規販売台数にしめる下取りを伴わない販売の比率 (年平均)は,22-24年:70%、25-26年:55%、27-29年 :34%のようにこの間急低下している。』(web□37、P108)企業側の論理だけでいえば、旧製品を陳腐化させる必要があったのだ。
 しかし五十嵐は、毎年のモデルチェンジ(マイナーチェンジ)について『(フォード)モデルA以降の競争は完全にGMのペースで戦われるようになったが、それでもGMのスローンの手記によれば毎年のモデルチェンジはGMの意思ではなかったと書かれており、真の原因はフォードが哲学的にGMへ接近した相互関係で、モデルチェンジが年中行事化してしまったものと考えられる』(⑩-1P58)と、他者とは少し違った解釈を記している。)
箱型ボディがT型を追い詰めた(T型の弱点)
 GMを率いたアルフレッド・スローンはアメリカにおけるシヴォレーとT型フォードの戦いを総括して『「この競争における最後の決定的要素は、閉鎖型ボディであったと信ずる」(Sloan, 1964, p.160 邦訳p.207)』と記しているようだ。設計の古い『T型フォードは、元来オープン・カーとして設計されていたために、シャシーが軽く、重い全金属製閉鎖型ボディには不向き』という弱点を抱えていたからだった。以上と以下の部分は(web□38)より引用。『重い全金属製閉鎖型ボディは、T型にとってまさしく重荷となった。それでなくても、実質的な「モデル・チェンジ」で電装部品や内外装が追加されてきたことで、T型フォードは1~3年ごとに、どんどん重量が増えていたのである。これに全金属製ボディの重量まで加わって、もはや軽量を前提とした20馬力のエンジンでは合わなくなっていたのである。
高速道路の整備で高速化
引用を続ける『しかも、次第に道路が整備されてくると、舗装道路では、より大きな、かつスピードの出る車が求められるようになっていった。T型のように、エンジンの割には車体が重過ぎて、ノロノロとしか走れないような車は、格好が悪かった。確かに、20世紀初頭のように、悪路や道のない所を走らなくてはならないのであれば、軽量化が必要だったのだろうが、当時、既にそのような時代は終わりを告げようとしていたのである。こうなると、T型フォードは、他社製自動車と比べて性能面でかなり見劣りがすることになる。』(web□38)
以下は(web□37、P108)より『全米舗装道路距離は1921年の39万マイルから29年には66万マイルに拡張し、すでに1924年の交通事故死は23,600人にのぼっていた』そうです。高速道路網か拡張され、高速走行が日常化し、走行安定性や制動性能も求められるようになっていく。
馬力競争その1;(T→A型)で馬力が2倍に
元来が農民の足として開発され、巡航速度を60km/h程度と想定した、20㏋のT型では馬力不足だったため、フォードはA型投入時に40㏋に出力を大幅にアップさせた。しかしシヴォレーは新型フォードの出鼻をくじくため、対抗手段を用意していた。まず1928年型でアルミ・ピストン採用による高圧縮比・高出力化で、エンジン出力を大幅に向上させた(26→35㏋。なお高出力化に合わせて、シャシ・フレームの低重心化とホイールベースの延長も併せて行っている)。
馬力競争その2;満を持してシヴォレーがOHV6気筒を投入
 しかし本命は1929年モデルイヤーカーとして投入する。この年、満を持してOHVの直列6気筒モデルを投入するが(パワーは35→46㏋)、この“シックス”は早くから『シボレー事業部は6気筒エンジンの開発に着手した』(web□37、P126)という。『シボレー事業部は次のような周到な計画に基づいて,1929年の仕様変更部位をエンジンに絞っていた。スローンは 「1928年には,われわれは,-・-4輪ブレーキを取り付け,新しい6シリンダ・エンジンのために軸距を 4インチ長くした。 しかし,フォード氏が 4シリンダのA型車を投入する後の1929年まで新しいエンジンを温存した」と述べているのである』ちなみに6気筒タイプではコストを抑えるためアルミ・ピストンは鋳鉄製に戻されている。(web□37、P129)
馬力競争その3;フォードは大衆車市場に“途方もない”V8を投入
 しかしエンジンに関しては、受けて立つ側のフォードにも恐るべき秘策があった。『ヘンリーは、モデルAを発売したころすでに、次のV8エンジンを考えていた。これはモデルAの開発が急がれたので間に合わなかったらしいが、シヴォレーがシックスならことらはV8だ、といった対抗意識も感じられる。しかし低価格車にV8を採用するという、当時としては途方もない発想をもっていた』。(⑩-1、P72)
 複雑な形状となるV8エンジンを、鋳物で一体成形することは至難のわざとされてきた。しかし鋳物の得意なフォードは、鋳物製のクランクシャフト(鍛造が当たり前だったが鋳鉄に球状黒鉛を混ぜることで強度を確保した)とともにそれを成しとげて、大幅なコストダウンを達成したV8エンジンを大衆車市場に投入したのだ(㊻、P89等)。1932年モデルとしてデビューしたV-8はSVだったが65㏋を発揮し、その後1939年型では90㏋までパワーアップされて、戦後のフラッシュサイド型“ヤングフォード”(12.9-1項参照)の時代まで1953年型まで使われた。
 それにしてもアメリカ人はほんの10数年前まで、20㏋のT型に乗っていたが、1939年には×4.5倍の90㏋のV8フォードを乗りこなすことになったのだ!大衆車であるフォードのV8エンジン化は,その後の『アメリカ車がサイズを大きくするきっかけが作られた』(㊻、P90)ことでもあった。
 一方シヴォレーの“シックス”の方も『1929年のエンジン設計の基本は1953年まで維持された。』(web□37、P129)という。
 この欄の〆として五十嵐氏の(⑩-1、P72)より『このヘンリーのほんとうの、そして隠れたるベストセラーを搭載したフォードを、現在アメリカの愛好家たちは“ERRLY FORD V8”と呼んで懐かしんでいるが、4気筒に対して6気筒がなめらかなバランスのよさをもって、高級なフィーリングであったのに対し、V8フォードはまさに電気モーターのそれで、モダーンなフィーリングであった。そしてアメリカでは時のルーズベルト大統領以下、そのモーターを回す味を知らぬ者はいなかったのであろう。』(下の写真は、ルーズベルト大統領のプライベートカーであった、1936年型の“ERRLY FORD V8”( FDR's 1936 Ford Phaeton)で、画像は以下のサイトよりコピーさせて頂いた。
http://www.fdrlibraryvirtualtour.org/page11-01.asp
ハンドコントロールで操作できるように特別に改造されていて、ハイドパークにいるときはいつも運転するのを楽しんだという(機械翻訳によれば)。

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http://www.fdrlibraryvirtualtour.org/graphics/11-01/11-1-Phaeton_01.jpg)
GMのフルライン戦略
 以下(web□39、P47)を参考に、1920年代のGMのフルライン戦略について、最初に確認しておく。スローンの改革によりGM製品系列の再編と調整が終わり、その結果、各自動車事業部間で,それまで行われていた競争は,ほとんど見られなくなっていったという。そして技術や製造,販売面で,協力関係が打ち立てられていく。各事業部の関係が明確になり、キャディラック事業部が最高級車を売り,以下,順にビュイック,オークランド,オールズモビルと続き、シボレーは量産低価格車を受け持つ。
市場調査の結果、新ブランド“ポンティアック”を投入
 そして市場調査の結果、『シボレーとオールズとの中間クラスに大きな潜在市場』があると見たので,GMは1925 年に 6 気筒のポンティアック(Pontiac)を発売した。このポンティアックの開発で,GMの基本製品は事実上完成した。同社は『どんな財布にも,どんな目的にも適った車』を揃えるという目標に,近づきつつあったのである。」(web□39、P47)新ブランドであったポンティアックについて(web□37、P102)より補足しておく『,20年代後半のGM社の販売拡大に大きく寄与した車種では,シボレーのはかに25年秋に導入されたポンティアックがあげられる。同車の出荷台数は28年すでにビュイックに迫り,29年にはシボレーに次ぐ位置を占めた。そして,ポンティアックはシボレーとの部品共通化を図った GM 車初の本格的な姉妹車であった。』全くの新ブランドだったポンティアックの名前の由来だが、wikiによれば「デトロイトのネイティブ・アメリカンの「ポンティアック首長(Chief Pontiac)」」からとったのだという。余談だがシヴォレーとの姉妹車であったが故に、この記事の後篇の12.16項で記す「戦前アメリカ車の革新性(ニー・アクション)について」の、デュポネ式前輪独立懸架のトラブルに巻き込まれてしまう。(下の写真は1937年製のポンティアックだが、個人的な好みでは、この近辺の年代のGM系のアメリカ車がホント大好きです。画像は以下よりコピーさせていただいた。
https://www.hemmings.com/stories/article/sedan-of-steel-1937-pontiac-deluxe)

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https://img.hmn.com/fit-in/900x506/filters:upscale()/stories/2018/07/40484.jpg
シヴォレーでフォードに勝たねばならなかった理由(市場分析から)
 次に当時のアメリカ車市場の、価格帯別のシェアについて、以下も(web□39、)より確認しておく。『低価格車クラスの登録台数が1926年の60%から次第に上昇し,1934年には約 91%まで達しており,その後1938年には約 83%まで低下するとはいえ,アメリカ乗用車市場における950ドル未満の低価格車が圧倒的な構成比率を占めていることがわかる。そして低価格車クラスの中でも,さらに800ドル未満の下位低価格車では,27年の約44%をボトムとして次第に上昇し 1934年に約75%まで構成比率を高めていて,38 年でも 60%台を維持している。この事実は,乗用車市場の販売の圧倒的な構成部分が低価格車クラス,とくに 800 ドル未満の下位低価格車クラスであることを意味している。それと対極的に 2,000 ドル以上の高級車の登録比率は,最大時でも 5%に満たないことも分かる。この乗用車市場の 60-70%を占める圧倒的なボリュームゾーンである800ドル未満の低価格車クラスこそが,フォード車の独擅場となっているマーケットであった。』(web□39、P52).
いくらGMがフルラインナップ戦略による分厚い中/高級車群でフォードに迫りつつあっても、不況下で需要が下級車にシフトしたため、圧倒的なボリュームゾーンであった低価格車クラスのシヴォレーがフォードに勝たねばならなかったのだ。
シヴォレーの躍進でフォードとの業績が逆転
 そしてシヴォレーが躍進したことで、GM全体でシヴォレーの占めるボリュームが増えて、その結果GMに莫大な利益をもたらした。以下も(web□37)からの引用で見ていく。『事業部全体でのGM 社生産台数にしめるシボレー・ラインのシェアは20年の40%程度から27-28年には60%台半ば,29年は70%へと上昇したのである。シボレー事業部がGM社において主力事業部化していたことは,収益面からもうかがえる。(中略)GM社の5つの完成車事業部のうち稼ぎ頭がシボレー部門であるのは明白である。(中略)トラックも含むシボレーの税引前利益の5事業部合計にしめる割合は27-28年は50%台,29年には実に73%に達する。』(web□37、P102)量産効果というものが、いかに絶大な利益をもたらすかがわかる。さらに対フォードでも、『27-29年のシボレー事業部は平均して9000万ドルの税引前利益をあげていた。一方,フォード社の税引後収支は,22-25年:各年1億ドル前後の黒字、26年:7000万ドルの黒字、27-28年:両年合計で 1億ドルをゆうに越える欠損、29年9000万ドルの黒字、以上のように推移した。20年代終盤においてシボレーとフォードの収益性は明暗が鮮やかである』(web□37、P106)
(下は1928年製シヴォレー ロードスターです。画像の出典はhttps://thegarage.com.br/carro/1928-chevrolet-roadster/より。)
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https://i2.wp.com/thegarage.com.br/wp-content/uploads/2020/04/capa-chevrolet-roadster-1928.png?w=1500&ssl=1

11.14クライスラーの進出で“ビッグスリー”が揃い踏み
 話を日本に戻すが、さらにアメリカのいわゆる“ビッグスリー”(“デトロイトスリー”という呼び方もあった)の一翼を担う、クライスラーも日本進出を試みるが、ここは“3番手”ということもあるし!その経緯はさらに大幅に省略して記す。クライスラー(1928年にダッジ・ブラザース社を吸収し、大きくなった)は資本力の差からか、上位2社と違い『ゼネラルモーターズやフォードのように多額の資金を投入するのにためらいを見せた』(④P153)のだという。
安全自動車を中心に「共立自動車製作所」を設立
 結局、直接の資本進出は果たせなかったものの、クライスラー系で最も輸入台数の多かった、ダッジの代理店であった安全自動車率いる中谷保が中心となり1930年6月、4つのクライスラー代理店の共同出資で「共立自動車製作所」を設立する。鶴見と芝浦に組立工場を構えて年産 2,000台の能力を有し、ダッジ,クライスラー,プリマス、デソートのKD生産を開始する。以下①より引用
『協立自動車製作所の設立により、部品の関税率が低いのでクライスラー系各社のコストは大幅に低下し、フォード、GMの競争に加われるようになった。(中略)クライスラー社も、100%外国資本でなく、日本人経営で現地に溶け込む型での組立生産ができたことを喜んでいた。』(①P122)
こうして日本市場で、巨大な“ビッグスリー”が“揃い踏み”を果たし、本国同様に三つ巴の戦いを繰り広げることになる。
フォード対シヴォレーの戦いに巻き込まれるのを避けた?
 ただし、日本市場におけるクライスラー系の立ち位置としては『中級車を目標としてフォード、シヴォレーとの戦いは避けていた』(⑰-2,P46)ようだ。さらに追記すれば、フォードとシヴォレーの関係においても『横浜製のフォードは関東が縄張りで、大阪製のシヴォレーは関西というのは否定できない昔の市場でもあった。GM系は高級車市場に強く、シヴォレーの昭和ひと桁時代はタクシーよりもトラックに重点が置かれていたのが東京では感じられた。それがタクシーでもライバルとなった頃は戦時体制になってしまったのである。』(㉕-2)という五十嵐の記述があるが、横浜製フォードと大阪製シヴォレーの間ではその生産拠点から自然と縄張りがあり、二大消費地の関東と関西の棲み分け?がある程度、行われていた時期もあったのであろうか。仮にあったとしても初期だったと思うが、不明です。

11.15ビッグスリーの進出で自動車市場が急拡大(アメリカ車の黄金時代)
 ビッグスリーの揃い踏みの結果、日本の自動車市場は大きく拡大されていった。『日本国内供給は 1926年の 2,626台から 29年の 36,812台へと飛躍的な拡大を遂げたが,日本メーカーは技術的にも未熟な段階にあったため,国内市場は完全にフォードと GM に席巻されることとなった。』(⑨P48)そのため前回の記事からみてきたように、黎明期の日本の自動車産業とは、『(「軍用自動車補助法」の補助金を経営基盤にしてかろうじて生き永らえていく)トラックとバスと、(次回の記事で記す)3輪車、唯一の例外がダットサンとオオタであった』(㉗-2,P41)ことになるのだが、自動車製造事業法で国産車が“テコ入れ”され外国車が排除されてしまう前までの日本は、輸入組立車を中心としたアメリカ車の黄金時代であった。
全世界的だった“アメリカ車黄金時代”
 しかし排除されていったのは国産車だけではなく、『それまでいくらか日本市場に根を張っていたヨーロッパ車はたちまちにして駆逐され』(㊲P104)てしまった。
 さらに言えば、このアメ車黄金時代は何も日本に限った話ではなかった。『(1921~1940年の)この20年間はアメリカのフォードが創始したコンベアーによる大量生産システムと、それを模倣した強豪メーカー達の価格競争で価格が大幅に下がり、大衆への自動車の普及が進み、世界の自動車生産でアメリカは80~95%ものシェアを占め黄金時代を謳歌した。世界の自動車生産台数は1921年の162万台から1929年には年産536万台に達し、わずか8年間に生産台数は3.3倍にもなったが、そのほとんどはアメリカが占めていた。』(㉜P54)その背景を以下(⑬P112)より引用『アメリカの自動車王国の地位を決定的にした大量生産方式やマーケティング技術に影響されて、自動車発祥の地ヨーロッパもいろいろな形で近代産業への脱皮をはかるが、しかし何といったもこの時代は、世界的な大不況と国際貿易の縮小が、関税障壁や保護貿易主義とブロック経済化のために次々と起こって、その歯止めがかからない時代であった。そのためにヨーロッパの自動車市場も大きな影響を受け、潜在需要はありながらも、その発展は遅々として進まなかった。
結局ヨーロッパの自動車産業は、第二次大戦後の自由貿易体制・ガットIMF体制と、ヨーロッパ共同体の結成をみるまで、本格的な成長の機会には恵まれなかったのである。』
国と地域によって程度の差こそあれ、この時代は世界全体を見渡してみても、アメリカ車の黄金時代だったのだ。
自動車とは米車であって、時折見かける欧州車が外車
話を日本に戻し以下、11.1-10で記したことの補足になるが五十嵐によれば、『日本に住んでこの眼で見聞きした1930年代の米車というものは、現在のように米車=外車という感覚ではなく、自動車とは米車であって、時折見かける欧州車が外車といった感じ』(㉗-2,P41)であったという。
一例として『昭和12年夏、中国大陸で戦乱が起きた頃、カーキ色に塗られた37年生のフォードとシヴォレーが、長い長い貨車積で戦地へ送られていくのを、何度か見かけたが、金色の星のマークを付けた流線形に、外車という感じはしなかった。フォードは横浜製、シヴォレーは大阪製という先入観が、外車とか輸入車とかいうイメージとは程遠かった。』(㉗-2,P41)そうだ。当時の一般日本人にとって、国内組立で右ハンドルのフォードとシヴォレーは、ほとんど国産車並みのイメージで接していたようだ。
(下は1927年のシヴォレーの広告(岩手みちのく記念館所蔵)。フォードとGMが全国に販売網を整備したことで、日本全国の津々浦々まで、自動車販売戦線は拡大していった。その結果、全国的に自動車を目にする機会が増えたが、㉚を引用した11.1-8や12の冒頭で記すように、販売の主力はやはり都市部であった。)
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11.16 GMを世界最大の企業に育てたアルフレッド・P・スローン
“その後の自動車業界で働いてきた人々は、フォードとスローンが作った2本のレールの上を走っているに過ぎない”

 すでに11.13項でも触れてきたが、11項の最後に、GMという自動車メーカーを、世界最大・最強の企業に育て、君臨した、アルフレッド・P・スローンの偉大な功績について、もう一度触れておきたい。以下(㉜P54)からの引用で記しておく。
『1923年、アルフレッド・P・スローンが社長に就任すると大改革に着手した。
第1に組織面で軍隊方式を採用し、仕事はチームでやるものとして組織への忠誠と、命令への絶対服従を要求した。信賞必罰で、忠誠心も高く実績を挙げたものはどんどん昇進した。欧米社会では個人ベースで仕事が進んでいく。チームワーク、チームプレイには馴染んでいないが、スローン社長は強力に推進しGMの改革を進めた。
第2の改革はキャデラック、ビュイック、シボレーなどの事業を独立採算にし、GM本社を統合本部にしたことである。第3の改革は商品面での対フォード対策である。
(中略)アメリカ人は豊かになり贅沢と変化を求めるようになっていた。T型フォードには飽き飽きしていて、なにか新鮮で近代的な車を待つ気持ちになっていた。GMでは顧客心理を熟知したハリー・アールがスタイリングの責任者として就任し、スローン社長にスタイリングの重要性、モデルチェンジの効果などを進言し、新車を続々と投入しフォードの牙城に攻め込んでいった。(中略)
 GMのとった戦略は外装色と内装色を数多く用意し、外装デザインも毎年のように変更するモデルチェンジ政策である。外装デザインはフルスキンチェンジとマイナースキンチェンジがある。これを繰り返し、顧客は購入後数年すると自分の車が古臭いと感じはじめ、買い替えたい気持ちになっていく。以降世界中のメーカーがこの戦略を踏襲し、世界標準となった。商品ラインアップもフルライン政策を取り、高級車から大衆車まで、豊富な品揃えであらゆる階層の人々の要望に応えられるようにした。(中略)
 ヘンリー・フォードは“自動車を大衆へ”という哲学を追求し、燦然と輝く偉業を成し遂げた。アルフレッド・P・スローンは“大衆に合わせた自動車を”をスローガンとし、これまた偉業を成しとげた。フォードは生産技術で世界に革命をもたらし、スローンはマーケティング技術で世界に革命をもたらした。その後の自動車業界で働いてきた人々は、2人が作った2本のレールの上を走っているに過ぎない。(㉜P54)
 この一連の記事では文章の途中で強調文字にすることはないのだが、しかし㉜に記されていた、“その後の自動車業界で働いてきた人々は、2人が作った2本のレールの上を走っているに過ぎない”という言葉だけは名言で、太字で強調しておきたい。
 フォード(ヘンリー・フォード)とGM(アルフレッド・スローン)が敷いた路線から学びつつも、さらに独自の創意工夫を付け加えて、突き進んでいったのが戦後の日本の自動車産業で、そしてその基盤となった部分は、戦前のフォードとGMの工場進出によってもたらされたものだと言っても、言い過ぎではないと思う。
 これは私見でなく、多くの人がそのように語っている。ただそうなると「なんだ、育ての親は“陸軍”じゃなくてフォードとGMじゃないか!」と突っ込まれそうだが、世界レベルで“自動車産業”という大枠そのものを定義づけたのがフォードとGMで、日本の自動車産業も当然、その枠内にあったという意味なのだと思う。両社の進出で日本国内においても初めて「自動車産業の在り方」というお手本が示されて、そのお手本の上に乗っかり見切り発車的に日本の自動車産業を確立しようとしたのが、商工省、陸軍並びにトヨタと日産だったのだと思う。
(下は晩年のスローンが自ら著した、経営書の最高傑作と言われている世界的な名著、「My Years With General Motors」(邦題「GMとともに」以下(㊴P127)より『~自動車産業だけで、GNPのほぼ20%近くを占めるようになった。GMの社長・会長として君臨したスローンが引退した1955年は、自動車の販売台数が700万台を凌駕しアメリカ自動車産業のまさに「黄金時代」の絶頂期だった。』画像は⓮-1より引用させていただいた。)
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https://www.macsmotorcitygarage.com/wp-content/uploads/2015/04/Alfred-Sloan.jpg
― ― ― ― ― 以下、後篇に続く ― ― ― ― ―

⑱ 日本の自動車産業の“育ての親”は日本陸軍だった?(戦前の日本自動車史;その3) 軍用自動車補助法と、軍用保護自動車3社について

⑱ 日本の自動車産業の“育ての親”は日本陸軍だった?(戦前の日本自動車史;その3) 軍用自動車補助法と、軍用保護自動車3社について(日本陸軍の果たした役割;その1)

(いつものように以下文中敬称略とさせていただき、直接の引用箇所は青字で区別して記した。また考える上で参考にしたものも含め出来るだけすべて、参考文献として文末にその一覧を記載した。なお今回から、本とネット情報は別に分類した。オリジナルに勝るものはないので興味のある方はぜひ元ネタ方を確認してみてください。)
 この記事(戦前の日本自動車史;その3)は、日本陸軍が主導し、日本最初の自動車産業振興策となった軍用自動車補助法(1918年)について、その背景も含め記す(6,7項)。
 そして次の8項では、自動車産業を取り巻く当時の厳しい情勢の中で、同法により軍用自動車メーカーとしてかろうじて生き延びていった、国産自動車3社(東京瓦斯電気工業、東京石川島造船所、ダット自動車製造⇒それぞれ日野自動車、いすゞ自動車、日産自動車の源流となる)の、年代でいえば満州事変以降の、戦乱の昭和期になる前の1930年ごろまでの、苦難の足跡を辿る。
そして最後の9項では、軍用自動車補助法のその後の変遷を辿りながら、その間に起こった、同法を取り巻く内外の情勢変化を記していく。

6.軍用トラックを求めた日本陸軍と「総力戦構想」
<6項概要> 日露戦争の戦訓で輸送力に劣ることを痛感した日本陸軍は、当時の民間企業より優れた技術を誇った陸軍砲兵工廠で、自ら軍用トラックの試作に乗り出す。完成したトラックはただちに、第一次大戦に投入されて(“青島の戦い”)、実績を示し、自信を深める。さらに総力戦となった第一次大戦に対しての研究を通じて、来るべき第二次世界大戦に備えるための、総力戦構想が陸軍内で検討されていく。そして自動車もその時々の総力戦構想の中で位置づけられていき、その結果は「軍用自動車補助法」や、後の「自動車製造事業法」(←“その6”の記事で記す予定)として結実していった。
6.1-1陸軍が軍用トラックの研究を始める
 日本陸軍が自動車に対して関心を持つようになったのは、日露戦争のさなかの1904年であったという。『~ロシア軍との戦いは、輸送力の戦いでもあった。日露戦争では、兵站輸送は主に馬匹で行われたが、輸送路が長くなればなるほど補給は困難を極めた。荒野を行く補給ルートはまさに道なき道の泥濘悪路で人馬ともに疲労の極に達し、敵の襲撃による被害も大きく、それが戦局に影響して重大な局面を迎える事さえあった。そういった苦い経験から自動車に対する関心が高まったのである。』(①P11)
 日露戦争に勝利した結果、ポーツマス講和条約により、日本は樺太・南満州・朝鮮の植民地を支配することとなった。陸軍は上記のような日露戦争の戦訓から、広大な大陸戦線においては、従来の人馬だけに頼った輸送に限界があることを痛感した。そしてフランスに駐在していた武官ら陸軍青年将校たちが、自動車を研究する必要性を強く主張したこともあり、自動車導入についての検討を始める。(主に②P11)
1907年、自動車に関する調査研究命令が発せられ、これを受けて1908年、フランスのノーム・オートモビル社製トラック2台を購入し、東京・青森間の試験運行を行った。『自動車が通ることを考えた道路などあるはずもなく、走行テストには工兵隊が随伴して、通れないところは道を広げ、橋を架けるなど地元の人たちの協力を得ながらの走行テスト』(引用③P81)だったそうだ。
 翌年1909年、同じくフランスのシュナイダー社(スナイドル社=フランスの総合武器メーカー)のトラック2台を入手し、東京・盛岡間の運航試験を実施する。走行試験の結果、シュナイダー製の方が性能優秀だったといい、この車両をコピーすることにした。そしてその作業は大阪砲兵工廠が主体となって行う事となる。『大阪砲兵工廠が分解と組み立ての反復で各部分の構造などの研究』(引用③P81)を行ない、『分解したシュナイダーの部品の詳細なスケッチから図面をおこし』(引用③P81)ていった。なおその後、ルノーやイギリスのソニークラフト、ドイツのガッケナウも参考用に輸入されたが、軍用トラックとしての視点では、シュナイダー製と並びガッケナウ製の評価も高かったという。
6.1-2当初は、馬に代わる位置づけではなかった
 誤解する人も少ないと思うが、念のためここで記しておくと、前回の記事で記したように、当時の日本の国家予算の規模と、国産自動車(輸入車をトレースした国産車がようやく産声をあげた頃で、“産業”と呼べる遥か以前の段階だった)の実力からすれば当然だが、陸軍が軍用トラックの検討を始めたころの段階では、馬と代えるものという位置づけではなかった。
少し時代を遡り、明治初期の陸軍の、物資の輸送(兵站)の事情を調べてみると、『馬車より人力が重視されていた。これは当時の日本の道路事情による。馬車の通行が可能な道路は幹線道路でさえ限られていた。後に陸軍が行った実験では、幅の狭い道路ばかりのために、馬車輸送より人力輸送の方が速かったことさえあった』(④P131)という。
 その後も長い間、人力が主力だった。1891年には、二輪馬車の採用の可否が検討されたが、採用見送りの結論が出された。(④P136)日本は欧米と違い馬車の時代がなかったため、道路整備が遅れていたことも足を引っ張った。そして日露戦争も近いころになってようやく、二輪馬車、四輪馬車などの改良や制式化がおこなわれたという。(④P138)
同時にそのころから、自動車(軍用トラック)についての研究も始まるのだが、別の背景として、馬自体が、諸外国に比べて質・量共に大きく劣るという問題もあったようだ。世界史的に見れば『19世紀末から20世紀初頭の軍隊では、機動力や兵站面で軍馬が重要な位置を占めていた』(⑤P13)が、日本は馬匹による輸送力が劣っていたため、その一環としても自動車の研究に着手したという。(体格が貧弱な上に気性が荒いという、軍馬としては“最低”だった日本の馬の実態について、文末の≪備考6≫に小文字で記しておく。)
6.2陸軍自ら、軍用トラックの試作に乗り出す
 陸軍砲兵工廠における試験と研究の結果,技術審査部は陸軍が開発する軍用トラック(当時軍用自動車貨物と呼称)の性能,大きさ等を決定し,自らその製造に乗り出すことにした。
 なぜ外部に発注しなかったか言えば、当時の陸軍歩兵工廠は、『設備はもちろんのこと、技術者も工員も選りすぐりの優秀な人材が集められていた。当時、日本は官主導で近代化が図られており、民間の製造業のどこよりも進んだ技術をもっていた』(引用②P81)からで、自身の工廠以上に、適当な委託先が無かったからであった。前回の記事で記したタクリ―号がようやく産声をあげたばかりの頃の時代の話だ。
下の(表1)(Web➊P36より転記、「雇用規模からみた工場ランキング(1902年)」を参考までに。)
1B
(ちなみに陸軍における自動車の歴史としては、(⑬P40)によれば、ノーム社のトラックを購入する10年ぐらい前に、陸軍幼年学校で、オールズモビル “カーヴドダッシュ”を購入していたようだという。(オールズモビル “カーヴドダッシュ”はフォードT型以前に世界初の大量生産方式を採用したといわれたクルマ。馬一頭と軽量馬車を合せた値段が500ドル前後だった当時、650ドルという価格と巧みな宣伝で、ベストセラーカーとなった。下の写真と以下の文はwikiよりコピー『1905年に流った歌In My Merry Oldsmobileの楽譜の表紙に描かれた オールズモビル・カーブドダッシュとそれに乗った男女。』
2B - コピー
(さらに下も余談だがこの時代に陸軍は飛行機も、フランスから輸入したファルマン機をもとに、軍用トラックと同様『見よう見まねで』(引用③P81)飛行機をコピーして内製した。下は国産軍用機飛行機第1号の「陸軍会式一号機」画像はwikiより。)
3B
 話を戻すが軍用トラックの性能仕様は、全備重量4トン,積載量1トン半以上,馬力 30馬力以上,最高時速 16km/hと定められ、内製すべく大阪砲兵工廠と東京砲兵工廠に発注される。
こうして1911年5月、大阪工廠で国産の「軍用貨物車第1号」が完成、「甲号・自動貨車」と命名された。(下の写真のトラックです)
AB
https://seez.weblogs.jp/.a/6a0128762cdbcb970c0240a4ab05b0200b-200wi
 引き続き6月に、第2号自動貨車(トラック)が、東京砲兵工廠でも完成し、東西の両工廠製の合計4輛の国産軍用トラックは東京の青山練兵場(今の明治神宮外苑)で公式試験を行なった上、将来の自動車に対する方針を決定することとなった。なお大阪工廠で完成した車両2台を東京に送る際、試験を兼ねて自走させたが、『当時の日本は街道でも、自動車の通行は困難を極め』(引用⑤P19)、移動に15日間を要したという。
(ちなみに大阪砲兵工廠は、大阪城の東側に広がる広大な敷地に、最盛期は最大64,000名の工員を擁したアジア最大規模の軍需工場だったという。下はwikiより、当時は軍事機密だったため、その全容を示した写真が少ないため、規模の大きさを地図で示しておく。
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なお下記アドレス(三井住友トラスト不動産)に、当時の貴重な絵葉書のカラーの画像がある。本当はそちらを貼りたかったが転載不可と明記されていたのでさらに興味ある方は訪問してみてください。
https://smtrc.jp/town-archives/city/osaka/index.html)

 ここで陸軍は,総合的な調査研究を行なうための調査機関、「軍用自動車調査委員会」を 陸軍省内に発足させて(1912.06),本格的な輸送の機械化と輸送兵器の開発を推進する。
この軍用自動車調査委員会において,内地,満州の地形において、軍用トラックの性能試験を行ない,各種のデータを収集し,先行するイギリス,フランス,ドイツなどの軍用自動車補助法を調査研究し,日本への適用とその実施方法等、具体的な検討を始める。
6.3第一次世界大戦(青島戦)で軍用トラックが活躍
 そのさなかに、第一次大戦が勃発する。陸軍は早速、ドイツの青島海軍基地を攻撃するために工廠で作った軍用トラックに砲弾を輸送させ,兵站戦を維持させた。その時の状況について、以下(①、②、③、⑤、⑦)等よりダイジェストに記す。
 1914年第一次世界大戦が始まると,日本は当時の日英同盟関係 から、連合国側の一員として参戦する。そしてドイツが所有していた中国の青島要塞を攻撃,砲火で打ち砕いた。その際の重砲弾の運搬で見せた働きが,兵站作戦における軍事的利用と、輸送兵器としての軍用トラックの新しい役割についての認識を深めさせる。(下の写真はwiki“青島の戦い”より、ドイツ軍の「青島要塞を砲撃する四五式二十糎榴弾砲」。この青島の戦いについて、(⑤P202)より引用『陸軍における自動車運用の歴史と言う観点では、青島攻略戦は初の実戦ということでも、また戦場での自動車の有用性を確認できたという点でも無視できない。しかし、投入された自動車班は小規模なもので、自動車の実戦テストの意味合いも強かった。したがって兵站作戦全体では、取るに足らない存在であったのもまた事実であった。』あくまで試験的な運用であったということのようだ。)
6B
 以下の2枚の写真は、第一次大戦の主戦場であったヨーロッパ大陸で、自動車による迅速な大量輸送がその威力を発揮した代表的な戦いであった、「マルヌの戦い」と、「ヴェルダンの戦い」について写したものだ。
(下は「マルヌの戦い」で動員された、パリのタクシー(ルノーAG-1型)の隊列。1914年ドイツ軍がパリに迫ったが、タクシー600台が夜間に6,000人の兵士を前線まで運び、ドイツ軍を押し返すことに成功した。鉄道に頼らぬ高速移動手段の重要性が示された。ちなみに1914年時点の日本全国の自動車の総保有台数は1,066台に過ぎなかった。)
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https://topwar.ru/uploads/posts/2015-05/1430502636_marnskie-taksi-na-hodu.jpeg
(下は1916年の「ヴェルダン要塞の攻防戦」のもの。補給路は鉄道が1本と狭い道路1本だけで、鉄道で運ばれた物資を前線まで運ぶのが自動車部隊の役目だったという。連合軍は3,500台もの自動車を動員して、補給線を維持することに成功した。そして『「フランス軍がドイツ軍に勝ったのはフランスのトラックがドイツの鉄道に勝っていたからである」と言われるほど勝利に決定的な要因となった。こうした効果は直ちに各国に知られたが、日本もその例外ではなかった。』(⑥P47)下のフランス軍のトラックの隊列の画像はブログ「「ヴェルダンの戦い」この戦いから大規模な消耗戦が始まりました」よりコピーさせていただいた。http://kamesennin2.info/?p=3129
日本も前述の「軍用自動車調査委員会」が、第一次大戦における各国の軍用車の状況を調査すべく、イギリス、イタリア、フランス、ロシア等に武官を派遣しており、前線で大量に消費される弾薬の輸送のために、自動車が欠かせないことを認識していった。(⑤P24))

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http://kamesennin2.info/wp-content/uploads/2018/05/4abe222c425880367a80e2f1a836c882-300x169.png
6.4第一次世界大戦の教訓と陸軍の「総力戦構想」
 このあたりで、日本の自動車産業の“育ての親”役を担った、戦前の日本陸軍の基本戦略であった「総力戦構想」について、多少なりとも触れておかねばならないだろう。超メンド~な話になりそうなので全く気が進まないが(書いていて、“苦痛”以外何物でもなかった!)、今回の一連の記事のメインタイトルを、日本の自動車産業の育ての親が陸軍だとした以上、ここは避けては通れない・・ 
正直なところ、不勉強でよく知らなかった事だが、日本陸軍には、総力戦となった第一次世界大戦における欧州での戦況を基に、来るべき世界大戦に備えて総力戦体制を築くという明確な戦略思想があった。そしてそれを実現するための遠大かつ合理的な全体計画の中の一環として、自動車も位置付けられていたようなのだ。しかし、ここ半年以上ウンウン唸りながら「総力戦構想」と自動車のかかわりについて記そうと試みたが、いつものように?考えれば考えるほど迷路に嵌ってしまい、正直なところよくわからなかった。ただせっかく書いたのだし、その部分についてはあくまで参考(不出来な試作品なので、読むのを飛ばしてもらった方が良い?)程度に小文字で末の備考欄の方に≪備考7≫として文記しておく。こちらの本文ではそれら備考欄に記した内容を踏まえたうえで、満州事変(1931年)勃発により状況が大きく変化する以前の、陸軍にとっての自動車(産業)の位置づけについて、ほとんど“日本史の検証”みたいな上に私見だらけだが、より概要的に考察を試みたい。なお、この記事の趣旨からしても、総力戦構想自体の“是非”(評価)については検証していくつもりは毛頭ないことを追記しておく。ただし、総力戦構想がもたらした“結果”の一断面ぐらいは、6.4-4で記しておきたい。
6.4-1-1何より痛かった、幕末の金(ゴールド)の流出
 備考欄には何度も記したが、陸軍が次の世界大戦(=第二次世界大戦)で想定した総力戦においては、国力そのものが問われる戦いとなる。しかし≪備考7≫をお読みいただければわかると思うが、西欧列強諸国に追いつこうと必死だったが、何から何まで著しく劣る当時の日本の状況からすれば、そのための準備(=総力戦が予想された、来るべき第二次世界大戦に対する国防)は、気の遠くなるようなものだったに違いない。
(表2「明治33年(日露戦争の4年前)の各国のGNPと軍事費」)
(下表は1900年(日露戦争の4年前)の各国のGNPを比較したもの。西欧列強諸国に比べると著しい差があった。そして日露戦争の戦費は当時の国家予算の8年分に相当したという、巨額なものだった。⑧P85の表を基に転記して記した。)
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≪備考7≫では話を自動車に関連した工業分野に限定して記したが、ここではより広い視点に立ち、国家財政の面から見ていきたい。
“自動車史”というよりも“日本史”になってしまうが、明治維新以降の日本の国家財政は、幕末に金と銀の交換比率の違いをつかれた、欧米への金の大流出があり、せっかくの“黄金の国ジパング”だった日本は、金(ゴールド)という国冨が失われてしまった。(引用Web❷「アメリカ南北戦争は日本の金が」を以下参考までに。
『日米修好通商条約の第五条に「金銀等価交換」がある。当時、江戸においては金貨1枚を銀貨4枚と交換できた。つまり金の価値は銀の価値の4倍である。いっぽう世界の相場は約15倍であった。金1枚に対して銀15枚も必要だった。それまで鎖国をしている日本にとって世界相場などどうでもよかった。ほとんどが国内で流通していたのだから。ハリスはそこに目をつけた。「日本の金は安い!」と。なんと世界相場の4分の1なのだから。マルコ・ポーロのいう「黄金の国ジパング」は本当だったのだ。方法はこうだ。まず日本にメキシコ銀貨を大量に持ち込み、これを金貨(慶長小判)と交換する。次に大英帝国に割譲されたばかりの香港へこの金貨を持ち込み、ふたたびメキシコ銀貨に交換する。1 : 4 で交換してもらったものを1 : 15 で交換し直すのだから約4倍に増える。ボロ儲けである。ハリスはリンカーンの部下であった。
もうけたカネは着服もしただろうが、大いに政府の軍資金となった。その規模ははかりしれない。経済的には南部より格下だった北部に日本のゴールドがもたらした功績はすさまじい。形勢を逆転させ、一気に軍事的優位に立った。たった2万人足らずの兵を220万人まで増やし、期間銃や大砲などの最新兵器をそろえた。4年ものあいだ南軍と戦い、これに勝利。敗戦した南軍の費用支払いも代替した。さらには広大なアラスカをロシアから購入した。』
日本の保有していた金(ゴールド)のおよそ8割が流出し、そのうちアメリカに流れた分の金だけで、南北戦争時の北軍側の戦費が賄われたうえに、アラスカまで買ったのだという。さらに“往復ビンタ”のように、戊辰戦争時に、その余った中古の武器を買う羽目に陥ってしまった。)

そのため、スタート時点から国家の運営を外国からの借金に大きく依存する体質となってしまった。世界の政治経済の根幹を成す、もっとも重要な要素が、金融通貨制度であることは言うまでもない。世界がまさに金本位制の時代を迎えようとしていた中で、金を大量に保有していた日本と日本人は、本当は豊かな国としてスタートが切れたはずなのに、何とも悔しい思いだ。(下の図はアンティークコイン.JPさんの「金本位制、銀本位制と景気循環」よりコピーさせていただいた、わかりやすい図だ。
https://www.antiquecoin.jp/trivia/business_cycle.html )

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https://www.antiquecoin.jp/img-bana/business_cycle-bana_pc.png
 日露戦争(1904~1905)では何とか勝利に持ち込めたものの賠償金の獲得まで至らず、逆に巨額な戦費の借金を米欧のユダヤ人資本家から背負ったため、財政面ではさらに苦境にあえぐ結果となった。(下は有名な日露戦争の構図 出典compact.digi2.jp )
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(下の写真はアメリカの金融資本家のジョイコブ・シフ。写真と以下の文はwikiよりコピー『高橋是清の求めに応じて日露戦争の際に日本の戦時国債を購入した。』以下はWebの❸より、金融資本家側からみたマネーゲームとしての日露戦争を解説した文を長文だが引用させていただく
『日本海海戦の勝利につながった同盟国英国と友好国アメリカの支援については既に述べましたが、ここではその資金に関して述べたいと思います。日露戦争遂行のための日本国債を外国金融機関に購入してもらうため、欧州行脚した高橋是清については良く知られています。特に米国クーン・ローブ銀行のジェイコブ・シフが日本外債の購入を積極的に支援してくれたため、高橋は軍資金の調達に大成功したと言われています。ジェイコブ(ヘブライ語ではヤコブ)・シフはロスチャイルドの米国総支配人で全米ユダヤ人協会会長でもあり、ロシアで迫害されているユダヤ人のために日本を応援したと言われています。それもあるでしょうが、やはりこれは投資です。
 パリ・ロスチャイルドは既にロシアに大量の投資をしており、ロンドン・米国ロスチャイルドは日本に投資する。戦争の両方に投資するのは彼らの常套手段です。アメリカ独立戦争でも同じことをしています。簡単に言えば二つの国や勢力に戦争をさせて両方に大金を貸付け、買った方からは金利と成功報酬、負けた方からは担保である領土を取るのが彼らのビジネスです。』
 なお総力戦構想や統制経済体制について調べていくと、社会主義色が強いため、多くの歴史書でコミンテルンの工作による影響との指摘が多々あったが、そもそもロシア革命を裏から支援して、共産ソ連を誕生させたのも、ロマノフ王朝を倒したかった(=中央銀行(=その国の通貨発行権を持つ国債金融資本家たちの私有物)の設置を拒んでいた。さらにロマノフ王朝の財宝も奪いたかった(❸より要約))国境を越えた金融資本家たちだ。幕末の日本に対して、幕府側をフランスのロスチャイルド家が、薩長側をイギリスのロスチャイルド家が背後から応援したのと同じ構図で、“両建て”でやっていただけで、根っこをたどればそもそもどれも同じのはずなのだ(私見です)。)

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6.4-1-2すべてが足りない中で自動車の位置づけは総体的に低かった
下表はブログ“日本近代史の授業中継”さん(以下Web❹として引用)http://jugyo-jh.com/nihonsi/ の記事「大正政変と第一次世界大戦」よりコピーさせていただいた(出典;帝国書院「図説日本史通覧」p234)。軍事費だけでなく、巨額な国債の償還費が重くのしかかる。それ以外(残りもの?)では明治政府が重点をおいた鉄道・電信のインフラ整備とともに、産業基盤の整備として製鉄所の拡張にも何とか予算を割り当てているのが目立つ。ただこの表を見れば、他までは手が回らなかった状況は、おおよそ察しがつく。
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 第一次大戦中は戦争特需で一時的に潤い、貿易収支も黒字に転換したが、1920年3月、バブルがはじけ、戦後恐慌に突入、関東大震災(1923年)もあり、1920年代は総じて不景気な時代となった。
 何度も記すが欧米に対して約100年遅れてスタートした当時の日本は、大きな基金となるはずだった金(ゴールド)を失ったため、少ない国家予算の中でやりくりして、それでも何とか追いつこうと必死だった。しかし育成すべき産業はあまりに多く、当然ではあるがまずは鉄鋼等の基盤産業の整備に力が注がれ、自動車産業にたどり着くまでにはまだまだ、時間が必要だった。
6.4-2陸・海軍共に、航空機産業の育成が急務だった
 戦前の国家予算の中で突出していた軍用費の中でも、第一次大戦後の陸軍にとって最優先すべき兵器として、第一次大戦で実戦に登場し、目覚ましい活躍をした航空機の出現があった。そして航空機は陸軍のみならず海軍からしても軍艦の国産化とともに、最重要な兵器と認識された。総力戦構想についていろいろと調べていくと、当時の日本の軍部が第一次大戦での航空機の活躍に大きな衝撃を受けたことがわかる。何度も記すが、陸軍は自動車産業を軽視したわけではけっしてなかったが、来るべき第二次大戦への備え(国防)であった総力戦構想の中で、主要な兵器となる航空機や軍艦に比べれば、直接的な兵器でないこともあり、相対的に位置づけが低くなるのもやむを得なかった。
 このような国家としての意向に従い民間企業の側も、たとえば“国家と共に歩む”ことを社是とする三菱財閥の中核企業で、当時の日本の民間企業の中で最も優れた工業技術力を誇った三菱造船所(及び後の三菱重工/航空機)も、軍艦や航空機の開発に全力で取り組んだが、フォードとGMの日本進出以降ハードルがさらに高くなり、巨額の投資が必要な上にリスクの高い自動車産業に本格進出することはなかった。
 このことは概ね、戦前を通して言えることだと思う(以下私見です)が、陸・海軍の方針として、もっとも頼りにしていた(国防が目的なのだから、優れた武器を作る力のある企業が大事にされるのが道理だ)民間企業の三菱は、最重要兵器である飛行機に全力を注ぐべきで、陸軍目線で言えば飛行機の次は、時には自動車以上に戦車だった。いわば傍流であった自動車産業への三菱の本格進出を、軍側は長い期間、本気では望んでいなかったように思える。参考までに初期の三菱財閥の、自動車に対しての取り組みについて≪備考10≫で記しておく。(写真と文は“時事ドットコムニュース”さんより
https://www.jiji.com/jc/v2?id=20110803end_of_pacifi_war_17『米軍が1944年にサイパン島で捕獲し、米本土に持ち帰ってテストした零戦52型[米国立公文書館提供]【時事通信社】』この時代の多くの工学系の学生たちの夢は、航空機の開発に携わることだった。そのため航空機産業に突出して優秀な頭脳が集まり、当時の日本の工業技術水準からすると、部分的にせよ、ほとんど“奇跡”のようなことが起こった。いわゆる“ヒコーキ少年”が多かった時代でもあった。)

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https://www.jiji.com/news/handmade/special/feature/v2/photos/20110803end_of_pacifi_war/00896505_310.jpg
 慎重だった.三菱がようやく“本気モード”に変わったのは、心変わりした陸軍/商工省が軍事国家の強権で強引に仕立てた「自動車製造事業法」行きバスの第一便が、トヨタと日産だけを乗せて発車寸前になった頃だった。乗り遅れまいとあわてて飛び乗ろうとしたが、最初に誘われた時に躊躇したのが災いして乗車拒否されてしまった。『~商工省の自動車政策は一言でいえば日本の自動車産業は日産、トヨタで充分である。三菱は自動車に手を出すなということであった。「ふそうの歩み134頁」』(⑧205) 時すでに遅かったのだ。

※【7/26追記】 上記を裏付けるような内容が、最近入手した本(「日本自動車工業史座談会記録集」(自動車工業振興会;以下引用㉞)の中に記述されていたので、追記しておきたい。㉞の中の「第3回座談会「自動車工業史よもやま話」― 大正末期~昭和10年前後 ―」という、1958年8月15日に行われた座談会における、伊藤久雄の証言だ。伊藤は後の“その6”の記事で記すことになるが、陸軍の立場から、商工省の革新官僚であった岸信介、小金義照らと連携して、自動車製造事業法を強力に推進した、その立役者だ。
 なおこの座談会の趣旨として冒頭に『~自動車工業の歴史の裏話しということでございますから、思い切ったことをお聞かせねがいたいと思います。なお、この記録は、すぐには発表せずに、適当な時期がくるまで自動車工業会の金庫に凍結しておくことにいたしたいと存じます。』との発言があり、事実この書物が世に出たのは(といっても非売品だった)この座談会の15年後のことで、約束は守られたようだ。
 そして伊藤は、当時の自工会会長であった日産自動車浅原社長以下、島秀雄、原乙未生ら錚々たるメンバーが集まった席で、相当思い切った、あの当時の陸軍としての“本音”を発言している。(以下㉞P64)
『陸軍の側からいうと、大きな自動車工場を持つことによって、将来飛行機の製造に移ることを考えていました。そのために、自動車工場を確保することが先決問題でした。このことは外国でも同様であって、第一次大戦の際にもそのような経験があったからです。そのようなわけで、この問題を軽々に扱ったのでは、後に飛行機の製造に進むときに困る、自動車だけの問題ならたいしたことはないが、飛行機への思惑がからむために大きな問題になったのであります。それで、自動車を純国産で育てることが本筋であり、またできないことではないという見解で、しばらくは、商工省と意見が一致しなかったと思います。』
 ㉞は、日本の戦前の自動車工業史を記した、あらゆる書物が参考にするほど有名な記録集だが、この発言内容は衝撃的だ(しかし何故か、ほとんど注目されていない)。自動車産業を育てようとする目的(目標)はけっして一つではなく、多層的に存在したのだろうが、陸軍にとっての自動車産業は、第一義的には、航空機のためのシャドーファクトリー(非常時の 軍需転換工場;この記事の“備考12”参照)であったと告白しているのだ!伊藤は先に記したように、自動車製造事業法の立法化にもっとも功績があったと、世に認められている人物であるが、その伊藤の『自動車だけの問題ならたいしたことはない』という発言に、自工会側の出席者は思わず絶句したことだろう!当然商工省側はまた別の主目的もあっただろうが、この伊藤の発言は自分が直感的に思った、上記の項(6.4-2陸・海軍共に、航空機産業の育成が急務だった)が正しかったことを証明してくれていると思う。

6.4-3激動する昭和期の自動車産業
 国内の自動車産業を取り巻く状況について、陸軍の総力戦構想を軸に第一次大戦後の状況を概観してみたい。詳しくは次回の記事(“その4”)で詳しく記す予定だが、関東大震災を一つのきっかけとしてフォードとGMが日本に進出し、国内の自動車市場は急拡大した一方で、追って進出したクライスラーも含め米3社(ビッグスリー)の植民地と化した。そのためこの記事の次の7項以降で記すが、産声を上げたばかりの国産自動車会社は、軍用自動車補助法の保護の下でかろうじて生き延びていくしか方法がなかった。そしてこの外資3社による市場の独占を、当時は陸軍も、やむを得ぬものとして半ば容認していた。市場の急拡大により有事の際の必要数が、フォードとシヴォレーのトラックにより当面確保されたからだ。
 しかし満州事変の前後から、日本を取り巻く内外の情勢が大きく変化していく。それと連動して、上記の三菱のところでも触れたが、総力戦構想の中における自動車産業の位置づけに変化が起きる。
日本包囲網が形成されて、次第に孤立していった日本は、総力戦構想に基づき自給自足体制を築くべく、資源を求めて大陸への侵攻を拡大していく。しかし広大な大陸では長い兵站線の維持のため、今までよりも大量の軍用車が必要だった。そのことは熱河作戦で多数投入された、フォードとシヴォレーによる自動車部隊の活躍で証明された。陸軍省整備局を中心とした、大陸政策の中心に自動車産業を据えたいという思惑もあり、いわゆる“大衆車”クラス(=“大衆車”といってもフォード、シヴォレー級の3000ccクラス)の国産軍を、総力戦構想に基づき大量生産を行い自給自足体制を築くべしという、高いハードルを伴う、強い意志を示す。
 さらに陸軍と連携した商工省の“革新官僚”(←wiki等を参照してください)達による、軍の威光を借りて統制経済を一気に進め、自動車を重化学工業育成の柱に据えたいという全体構想と重なってくる。ここで遂に日本でも自動車が、今までの“脇役”から一転して“主役”に躍り出る。そして「自動車製造事業法」が制定されて大量生産を前提とした自動車産業の育成に大きな力が注がれることになる。(詳細は後の記事の“その6”“あたりで記すことになるが、「自動車製造事業法」の許可企業となるためには、米の2強とまともにぶつかる大衆車クラスの乗用車とトラックを大量生産する事が前提という高い関門が設けられた。いくら巨大な外資系を「国防」を名目に排斥するからと言われても、財閥を含む多くの企業がしり込みする中で、水面下で軍と商工省と連携しつつ、”絶妙なタイミング“で舞台に登場したのがトヨタだった。今のペースだとその辺を書き込むのは年末ごろ?下の画像はオランダのローマン博物館に所蔵されている、トヨタ初の量産乗用車のトヨダAA型。世界で唯一の現存車と言われている、歴史的に大変重要なクルマだ。画像と以下の文もwikiからダイジェスト『太平洋戦争末期に満州国に侵攻してきたソビエト連邦軍により接収され、大戦終結後にウラジオストックからシベリアの農夫の手に渡ったとみられる。改造個所は多くみられるが、トヨタ博物館の調査によりAA型であることが確認された。』やはりレプリカにはみられない独特な存在感を放つ。)
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 そして戦時体制に移行すると乗用車生産は打ち切られ、軍用車のみが残る。陸軍、商工省と、市場に参入した日産、トヨタの計画通り、「国防」の名の下で米国の自動車メーカーは次第に排除されていき、国産“大衆車”は強大なアメリカ勢と戦わずして、国内市場を独占していくことになる。
 しかし何度も記すが、激動の昭和の時代の、“その時” が来るまで、自動車産業に対して、大きな国家予算が割り当てられることは、けっしてなかった。
 話を元に戻し、自動車は以上のように相対的に低い位置づけの中ではあったが、それでも少ない予算の中から何とか割り振り、効率的に軍用トラックを調達し、あわせて日本に自動車産業を興すために、次の7項以下で記述する、陸軍による日本初の自動車振興策が実施されていく事になる。
6.4-4「総力戦構想」の“わからなさ”
6.4-4-1永田鉄山の「国防に関する欧州戦の教訓」(1920年講演)
6項の最後として、陸軍軍政家としての本流を歩み、日本の総力戦体制の構築を主導していった永田鉄山が、来るべき総力戦(第二次世界大戦)において、兵器としての飛行機がいかに決定的な働きを示すか、それを予見するような記述があったので、以下例によって長くなるが参考までに転記しておきたい。
第一次大戦のさなかに武官として現地に派遣されていた永田は、総力戦の実体と連合国及びドイツの戦争遂行の過程をつぶさに観察した。その中で、自動車が示した役割についても注目し、限られた国家予算の中で、何とか自動車産業を育成しようと力を注いだ事でも知られている。そんな永田の総力戦構想と、自動車との育成に尽力した過程については≪備考8≫に参考までに記しておく。しかし当時の陸軍において、自動車に対しての理解の深かったそんな永田ですら、第一次大戦における飛行機の活躍については、衝撃的だったようだ。以下より(引用⑨P64)(主に永田鉄山「国防に関する欧州戦の教訓」と題する講演(1920年)における発言からの引用)より
『永田の言及は多岐にわたるが、注目したいのは飛行機に関するものである。第一次世界大戦中、飛行機の機能や運用は飛躍的な進歩を遂げた。その進歩の様子は「三ヶ月ごとに確信を経る」もので、戦争終結後一年も経たずして大西洋横断飛行を成し遂げている。
「かような有様であるから、帝国が他国に宣戦を布告した暁には、その当日からただちに東京大阪はもちろん九州北部の工業地や呉・佐世保の軍港は先もってこれら悪魔の襲来を受ける運命を有つことになったのである。不幸もし日本がかかる立場にたったとすれば、それは、じつに一大事である。市街は焼かれ、工場も破壊され、隧道や鉄橋も爆破され、動員・輸送・軍需品補給等の軍事行動が著しく阻害されるのみならず、一般人民は家を焼かれ、食需を断たれ、たちまち生存上の大危機に逢着せねばならぬのである。家屋が木造であり隧道橋梁等の術工物の比較的多い帝国はとくに他国に比し甚大の惨禍を覚悟せねばならぬのである。」(永田鉄山「国防に関する欧州戦の教訓」と題する講演(1920)より)
 この論考が書かれた二十五年後、わが国はここにある通りの被害を受け、敗戦を迎える。もちろん昭和10(1935)年に殺害される(注;「相沢事件」参照)永田が日本の敗戦を知るはずもない。これだけ状況が一致するということは、永田の見識はもちろんだが、日本の国情と新兵器の進歩について知識のある者であれば、ある程度は必然の結果として浮かび上がることだったのかもしれない。
 飛行機は、遠隔にある内地を戦地と同様の脅威にさらし、さらには戦線の飛躍的拡大をもたらした。戦争の形態を一変させたのである。』
(以上引用⑨)
 以上の1920年時点での永田の講演の内容を自分なりに解釈して重要なポイントを2点記すと、
・総力戦構想の中で今後、航空機産業の育成が重要視されるだろうことと、
・第一次大戦の戦訓から、首都東京(当時は帝国の首都として、“帝都”と名乗っていた)をはじめとする航空機による空爆からの本土防衛を、当時から重要課題としていたことがうかがえる。
 そして25年後の1945年3月10日、まさに予見されたように、上記の永田の言葉を借りれば“悪魔の襲来”、史上最大規模の大空襲(俗に下町大空襲とも言うらしい)が首都東京を襲った。
 はじめに記したように、この記事で総力戦構想の評価をするつもりは毛頭ないが、その本来の目的は国民の生命財産を守る、国防であったはずなので、その結果については、東京大空襲を一例として記しておきたい。
6.4-4-2「国防」がおろそかにされた東京大空襲
 東京大空襲は、焼死、窒息死、水死、凍死など、たった2時間余りで10万人以上を殺すような、空爆としては世界史で後にも先にもない、空前絶後の殺戮だった。“評論家”たちの書いている事からは良くわからないので、この空襲の、庶民の皮膚感覚からの実際の証言を、以下(Web❺)産経新聞「戦後70年~大空襲・証言」より引用
https://www.sankei.com/affairs/news/150310/afr1503100004-n3.html
『隅田川の対岸を見ると、神田や両国、本所、深川あたりまで一面炎上していました。火の旋風というのだろうか、直径で30メートルほど、高さ40メートルぐらいの火柱が、7本か8本立っており、ゴーゴーと音を立てて燃えている様を呆然(ぼうぜん)として眺めていたのを覚えています。
 相変わらずB29は低空で飛び交っているんだけど、迎撃する日本の戦闘機は全然おらず、高射砲も沈黙していました。「なんで反撃しないんだろう」と思いましたね。
 悠々と飛ぶB29の銀色の胴体は、地上の炎が映って真っ赤でした。その赤い腹から焼夷弾が落ちてくると、さらに地上の炎が大きくなってね。あれは赤い悪魔だった。』
永田の予見通りに赤い“悪魔”の襲来だった。(下の画像と文はwikiより『焦土と化した東京。本所区松坂町、元町(現在の墨田区両国)付近で撮影されたもの。右側にある川は隅田川、手前の丸い屋根の建物は両国国技館。』
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 “超空の要塞”と呼ばれたB29だが、東京下町空爆はP51等の護衛機なしの超低空侵入という、大胆不敵な作戦で行われた。しかも上記の一般庶民からの「なんで反撃しないんだろう」という直観的な証言のように、日本陸・海軍機ともに、なぜか反撃らしい反撃を行わず、見過ごした。しかもB29による爆撃は、一切の武装を外した機体(12.7mm機関銃×12、20mm機関砲×1と機銃弾8,000発全て取り外していた)から行われたのだ!よほどの確証が得られなければ、護衛の戦闘機なしの超低空侵攻でしかも“丸腰”は、なかなかできない決断だったはずだ。
 そもそもその目的の大元は、国防だったはずの総力戦構想の、中でも帝都防衛は何にもまして最重要な課題だったはずだ。なぜならばそれは当時の言葉で言えば、国体(皇居)を守ることと同義語だからだ。しかし実際には、けっして戦力の問題ではなく、自由に侵略させたとすら疑いたくなるような(そんなことはなかったと信じたいが)惨憺たる結果となった。東京大空襲を巡っての、日米双方の行動を、総力戦構想の中で早くから首都東京への空爆を予見していた永田鉄山はあの世で、いかに想ったであろうか。
(下の画像はwikiより、「テニアン島の飛行場から次々と出撃するB-29」。お互い決死の戦いだったバトル・オブ・ブリテンとは大違いの、東京大空襲の状況の奇怪さは、wikiや一般の歴史書からは全く伝わってこない。以下(Web❻)ブログ“おととひの世界”さんより引用
https://ameblo.jp/karajanopoulos1908/entry-12587230470.html
『「~B 29は高いところを飛んでくるので どうしようもなかった」とかね ウソ八百ですよ 特に最初の3月10日東京大空襲 ほとんどが超低空侵入だった(中略)日本側はほとんど撃ってこなかった なぜなら帝都東京を守る高射砲 他所に運んでいて出払いほとんど残っていなかったから B 29超低空侵入爆撃隊 やりたい放題になってしまった その結果都民が犠牲になった 明らかに大日本帝国陸海軍 ヘッドクォーターの責任です 誰の命令だったのか? よくわからない』) なかなか出てこない情報だが、迎え撃つはずの日本側もどうやら“丸腰”だった・・・

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(さらに(Web❼)“長州新聞”さんより写真と文を引用
https://www.chosyu-journal.jp/heiwa/1134
『東京空襲にも不可解な点がいくつもある。例えば、空襲直前に警戒警報を解除している。広島、長崎での原爆投下も直前になって警戒警報を解除し、みんなが安心して表に出てきたときに投下されている。あれは軍中枢が協力しなければできないことだ。300機をこえるB29の接近に気づかないわけがないが、物量で太刀打ちできないとはいえ、まともな反撃すらせずに米軍のやりたい放題を開けて通している。(中略)「暗闇のなかであれほど緻密な爆撃がどうしてできたのか?」という疑問も多く語られていた。「目標から外す目印のために誰かが下から光を当てていた」と証言する人もいた。(中略)東京大空襲の経験は語れないできた。意図的に抹殺されて、慰霊碑も何もない。』・・・・・
 このブログは、犬のぼんちゃんと自動車の話題のブログで、戦争ジャンルを扱うつもりは全くないので詳細は記さないが、真珠湾攻撃時の山本五十六の売国奴的で奇怪な行動は今では広く知られているが(ちなみに山本は“偽装死”したあと、84歳まで生きていたと、自衛隊元陸将補の池田整治氏は語っている。連合国側にとっての最大級の功労者なのだから、あり得ない話ではないだろう。)この東京大空襲も調べれば調べるほど、不可解なことだらけだ。こうなるとやはり、当時の日本の(上記(Web❻)ブログ“おととひの世界”さん言うところの)“ヘッドクォーター”たちが第二次大戦を、本気で勝とうと思って、戦いを指揮していたのかという素朴な疑問に、どうしてもぶち当たらざるを得ない。下の地図と文も長州新聞さんよりコピー『東京大空襲の焼失地域を示した「帝都近傍図」(1945年、日本地図株式会社製作)』焼失を免れた皇居、財閥本部、官僚機構の温存を、いったん脇に置くにしても、ごく常識的に考えれば、戦争において本来真っ先に狙われてしかるべき軍施設までが何故か多くが無傷で残ったそうだ。下町の庶民に対しては無差別爆撃だったのに・・日米双方ともにいったい、なにを“目標”として戦っていたのだろうか。)

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https://www.chosyu-journal.jp/wp-content/uploads/2020/03/8cb6d37134933e54d988361ab052eda4-768x502.jpg
 以上は確かに東京大空襲という一例に過ぎない。「総力戦構想」の本来的な目的は「国防」にあり、中でも皇居のある首都防衛は、もっとも重大な任務だったはずだ。しかし結果から判断すれば、当時の日米双方とも、その行動は謎だらけだ。(以上、私見でした、)
6.4-4-3戦後の高度経済成長をけん引した「総力戦構想」
 しかしその一方で、「総力戦構想」を経済政策面から見た場合、これも結果から判断すれば、戦後の日本経済の高度経済成長に多大な貢献を果たしたと思う。もちろん、上記の東京大空襲に見られるような、戦時中の庶民の尊い犠牲の上に成り立っていたこともけっして忘れてはならないが。(以下も多少私見が混じっています。)
 1930年代後半の日本は、統制経済下で構築された諸制度に従い、商工省を旗振り役に、ひたすら産業基盤の整備に努めた。しかし戦後の日本は占領下を経た後も、実は意外にも、その理念も含めてほぼそのままの体制が引き継がれていた。確かに軍部は占領軍の手で解体されたが、商工省(終戦時は軍需省だった)が通商産業省(以下通産省と略)へと看板を書き換えたが、戦前からの経済政策を継続させた。最終的な目標こそ「高度経済成長」へと切り替わったが、通産省の主導で行われたそれら産業政策は、戦後のある時期までは十分有効に機能した。もちろん自動車産業もまた、その例外ではなかった(この一連の記事の最後の“その6”“その7”で記す予定”)。『日本経済に「終戦」はなかった』(⑩P15)。 そして“総力戦”は戦後もその高いテンションを維持しつつ継続されたのだ。
 別の角度から一例として、企業経営面でみても『商工大臣(1941.10~)として岸が手がけたのは、かつて企画院(=国家総動員体制の中枢機関)原案にあった「資本と経営の分離」を、具体的な制度として実行していく事であった』(⑪P113)。当時としてはかなり大胆な改革だったはずだが、先に記したように戦時体制下故に強権的に実行できた諸制度は、それらを手がけた官僚機構共々戦後も(軍部以外は)生き続けた。そして「資本と経営の分離」は短期的な株主利益よりも、長期的な企業の成長を視野に入れた計画的な設備投資を重視する、日本独特の「日本株式会社」へと発展していく。戦前の「総力戦構想」が結果として、戦後の経済大国ニッポンの誕生に、多大な貢献を果たしたこともまた事実なのだ。(野口悠紀雄言うところの「1940年体制」⑩、㉚。)
 さらに、この記事の主題の“産業”とは離れるので細かくは触れないが、総力戦構想には、国民を総動員するための、さまざまな社会政策も含まれていた。それらはむしろ社会主義的な色彩が強く、土地制度改革や社会保険制度の整備まで含まれていたが、その流れもまた、戦後の日本に継承された。超格差社会の中で育った今の若い人たちからは想像できないかもしれないが、一億総中流化して「世界で最も成功した社会主義国」(ゴルバチョフの言葉だったらしい)
https://kakuyomu.jp/works/1177354054882211066/episodes/1177354054882258373
と称賛された戦後の一時期までの(今から思えば懐かしい、良き時代だった…)輝かしい、全盛期の日本の姿も実は、戦時経済体制のもとで築かれた諸制度を基に築き上げられたものだったのだ。
 またまた大きく脱線してしまった。この続きはさらに大きく脱線(転落?)するので、文末の≪備考10≫に小文字で記すことにする。
それにしても「国防」よりも「戦後の経済成長」に役立った総力戦構想はやはり、わからないことだらけだ・・・。脱線続きなので次項からは“事務的”に話を進める。

7. 「軍用自動車補助法」と軍用トラックの国産化
<7項概要> 第一次大戦の、実戦におけるトラックの価値を認めた陸軍は、限られた予算内で戦時における軍用トラックの必要量を確保する手段として、欧州諸国にならい民間のトラック所有者に補助金を出して援助する代わりに、戦時に軍用車として徴用することにした。この制度は第一次大戦の前に欧州で実施されていたが、日本のものは主に、フランスで制定された方式を手本にしたようだ(⑧P84に拠る。ドイツのものを手本にしたという本もあるが③P83)。
 そしてそのトラックの製造については、陸軍の工廠で自ら製作に乗り出すことは断念し、代わりに作る能力のありそうな民間企業を選定して、軍の要求する仕様にあったトラックに製造補助金を与えて作らせ、育成していくことにした。
 こうして「軍用自動車補助法」が制定されて、製造/購買/維持に対しての補助金の支給がはじめられたが、同法は日本初の自動車産業政策と言われている。そしてこのことは同時に、本来の自動車の所管官庁ではない陸軍が、国内自動車産業の保護育成に乗り出すことでもあった。
(この項はネット上で閲覧できる論文である「戦前期日本自動車産業の確立と海外展開(上)」(上山邦雄、以下引用Web❽P45)と、「日本自動車産業と総力戦体制の形成」(大場四千男、以下引用Web❾-1P158)及び②+③+⑥+⑧+⑫+wiki等を主に簡単にまとめた。
7.1「軍用自動車補助法」の概要
 1918年3月、「軍用自動車補助法」が成立する。その概要を箇条書きにして簡単に記すと以下の通り。
(1)トラックを軍が直ちに購入するのではなく、平時においては民間車として使用し、有事の際に徴用する方式が採られた。
(2)軍用輸送車の整備という目的から、助成の対象となった車種は自動貨車(トラック)のほか、応用自動車と呼ばれるトラック派生車両またはトラックへの転用が容易な車両に限られた。
(3)民間での普及を促進するための補助金が、製造者及び所有者に対しても製造・購入・維持(5年間分の維持費も補助対象)の各段階で交付される。ちなみに製造補助金額は(甲種(積載量1~1,5トン)トラック1台 1,500円、乙種(同1.5トン以上)トラック 2,000円で、この補助金で製造されたトラックは、“保護自動車”と呼ばれた。
(4)国産化推進のため、保護自動車として認定されるためには,重要部品の製作,その他部品も許可を受けたものを除き内地製品の使用が義務付けられた。また対象となる製造者は外国の株主などを認めない純日本企業に限られた。
(5)補助金を受けられる企業には、鋳物・鍛造・組立・測定・試験の可能な設備が求められた。さらに工場内に一定の資格を有する技師を配置することも義務付けた。
(6)“軍用保護自動車”として認定されるためには、厳格な走行テストを合格せねばならない。
 以下、補足説明として追記していく。
(2)の、製造者に対して行う、国の定める規格に準拠し、合格した軍用保護自動車に対する製造補助金の交付は、参考にしたドイツ,フランス,イギリス等の法律には無かった制度で、日本独自の大きな特徴だった。なぜそこまで踏み込んだかといえば、欧州諸国と比べて、そもそも自動車産業の基盤が無きに等しかったからで、以下(⑥P48)からの引用で、その背景も含めて、もう少し詳しく説明しておく
『~その法が制定された当時はそれらの国(注;同種の法律の実行でヨーロッパ諸国が日本より先行していた)でトラックの生産は非常に少なかったため、トラックの製造を奨励する意味合いも有していた。例えば、ドイツにおいては法の制定年である1908年には11社が180台の軍用車を製造したが、その台数は全トラックの28%であった。
しかしその後は、軍事予算の制約によって対象数が限られる一方で、民間用トラックが増加したため、軍用車の比率は低下した。1914年の開戦当時、ドイツにおいて軍用車は1,150台だったのに対して民間トラックは1.5万台、フランスではそれぞれ1,200台、1万台であった。しかも、上述のように、大戦中の経験から、軍用車だけでなくタクシーなどの民間車輛も軍事的な価値が認められるようになったため、大戦後には同法の意味が事実上なくなったのである。
ところが、当時の日本では、それらの国が補助法を制定する時期よりも自動車の製造・利用が一層遅れていたために、民間に製造や使用を刺激するこの法を制定する根拠は十分に存在していたのである。』
さらに(⑤P24)からも引用。
『~有事に1000台、2000台の自動車が必要でも、それを実現するには一大事業だったわけである。さらに当時の自動車は高価な機械であり、それを1000台購入しようとすれば、国家予算の1%近くになった。このように平時から陸軍が大量の自動車を保有するのは経済的負担が大きすぎた。』
(表3:自動車保有台数の推移(1913~1930):⑫P19より転記)
下表の保有台数の推移を見れば一目瞭然だが、同法成立当時(1918年)の日本の自動車の保有台数は、全体でも4,533台と、欧米に比べると著しく小さかった。そのうえ欧米同様に、トラックよりも乗用車が主体だったため、トラックの保有台数の合計でたった209台という、信じがたいほどの少なさだった。一方その当時のアメリカでは、フォード モデルT型による“革命”が進行中だった。この辺の事情については、息抜きとして≪備考11≫として備考欄に記しておく。
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以下はまとまりがないが、さらに補足を、バラバラと追記していく。
㋐ (2)についてさらに補足すると、軍の大陸での使用を考慮して、日本国内の民間用としては大きい(大きすぎる)4トン級(積載量1.5トン)以上のトラックおよびその応用車の生産と利用を重視していたが、この国内市場との需要のミスマッチが、後の話になるが、同法の適応車が伸びなかった原因の一つとなった。
㋑ 1台当りの製造補助金の額は『10年代のアメリカ車、とくにレパブリックや、GMCを対象としてそのコストの差を補填させるために決められた』(⑥P84)という。すなわち輸入車のレパブリックや、GMCの価格(約5,000円)と砲兵工廠で割り出した製造コスト(約7,000円)との差額2,000円が製造補助金額となった。
㋒ 一方『使用者に対する補助金は、馬車利用とトラック使用との維持費の差を補填させるためであり、購入補助金として1,000円まで、また維持費として年間300円を5年間支給することになった。』(⑥P50)
㋓ ( 5)は1924年の改定で、1年に100台以上生産できる規模の設備を有しているものに限定となり、さらにハードルが上げられた。後の8.3-1で陸軍が『将来的に見て、保護自動車メーカーが三つぐらいあることが望ましいと考えていた』(③P105)ことを記したがその一方で、『そもそも陸軍としては、修理の必要などから、多数のメーカーが少量生産することを好まなかった』(⑥P80)こともあり、結局3社で“打ち止め”となった。
㋔ (6)の軍用保護自動車に対する資格試験は、運行試験とともに、5分の1勾配の登坂試験等が求められ、当時の国産車の水準では厳しい内容だった。しかしその立ちはだかる厳格な試練が結果として、国産車の性能/品質の向上に役立ったと言われている。
㋕ 陸軍にとって自動車産業を育成することは、第一次大戦の欧州での戦訓(=欧米諸国では多くの自動車製造工場が航空機エンジンを生産した)から、近代兵器として育成すべき最優先の分野であった航空機産業をバックアップすることを意味していた。現代と違い当時は自動車と飛行機の技術的な関連性が高かったため、いわゆる「シャドーファクトリー構想」(=「戦時における工場の軍需転換)も意識していたと思われる。(関連≪備考12≫)
㋖ 「軍用自動車補助法」は「軍需工業動員法」と同時に成立しており、早くも総力戦構想の一環であったと捉えることができる。(≪備考7≫等参照)
㋗ 国産車でなく輸入車で調達すれば、製造補助分だけ予算が節約できる。法案の審議の過程で『当然ながら、議員からはその質問が出された。これに対しては(陸軍は)輸入途絶の可能性よりは、国内工業を奨励するためにと答えた』(⑥P50)という。
㋘ 同様に、当時の日本でそもそもトラックの製造が可能かという質問に対しては『陸軍工廠での製造の経験から発電機、点火具、気化器、ベアリング以外には国内で十分製造可能』との認識をしめしていた。
㋙ なお上記(3)(4)などを根拠に、同法は自動車産業確立を目的とした、世界初のローカル・コンテント法であったとの指摘もある(⑧P13、P84、P116。ただし⑧以外にはそのような記載は見当たらなかったことも追記しておく。)。
さらにこれは参考程度の話だが、(Web❿P32)に『日本初の自動車産業政策といわれる「軍用自動車補助法」の草案たる「軍用自動車奨励法」が(1914年に)起案された』という記述もあったが、この「軍用自動車奨励法」なるものの内容も調べきれずに結局不明でした。
7.2軍用トラックの試作を民間に委託
 「軍用自動車補助法」についての具体的な内容を先に記してしまったが、工廠内で軍用トラックを継続的に内製(生産)することを断念した陸軍は、軍用自動車補助法による支援と並行して、自動車産業に進出する民間会社の育成にも、自ら乗り出すことにした。時期的には同法が施行される(1918年)直前(1917年)のころのようだ。以下は主に(①P14、③P82)等を参考にした。
 まず最初のステップとして、砲兵工廠が製作した、シュナイダー社製を基にした軍用保護自動車の試作を民間委託し、その様子(反応)を見つつ候補選びを行うことにした。この時選定された企業は、三菱の神戸造船所、川崎造船所(神戸川崎財閥の)、発動機製造(ダイハツ)、島津製作所、東京瓦斯電気工業、奥村電気商会(京都にあった電気機械メーカー)などで、地域の分布からすれば明らかに“西高東低”の分布だった。大阪砲兵工廠の果たした役割が大きかったようなのでその影響もあったのだろうか(私見です)。
 先に記したように、依頼先の企業の選択の基準は、陸軍のお眼鏡にかなう大企業に限られていたため、『橋本益治郎の「快進社」(8.3項で記す)のような零細企業は、技術的に優れていても、最初から相手にすべき企業ではなかった』(引用③P82)。
 また⑥によれば国会での法案審議の過程で陸軍は『軍用車製造に参入が予想されるのは、東京では東京瓦斯電気、東京飛行機自動車製作所、名古屋では熱田車輛製造、大阪では日本兵器製造、日本汽車製造、神戸では川崎造船所を掲げ、その他東京の日本自動車や快進社は能力に欠けている』(⑥P50)と答弁していたという。大企業偏重の選別で、自動車製作のパイオニア的な存在だった、快進社のような、ベンチャー色の強い企業まで育てていこうという気持ちはなかったようだ。ただ当時は大企業にとっても、自動車産業への進出はバクチ的な行いとみなされていただろう。
 またそもそも、なぜ民間企業に製造をまかせたかについては、当時の工廠が、戦争特需で手いっぱいで、自動車を生産する余裕が無かったことも一因だったようだ。
 話を戻し、このうちの発動機製造(大阪),瓦斯電(東京),川崎造船所(神戸),奥村電気商会(京都),三菱神戸造船所の5社を民間自動車製造指導工場に指定して1918年,軍用4トン自動貨車の製造を委託した。
 ただし試作車の委託といっても一からつくらせるものでなく、『設計図と材料をはじめとして、エンジンなどの主要部品も最終的な仕上げだけ残した形で支給、経験を積んだ監督官のもとで図面どおりに組み立てる』(引用①P14、③P84;発動機製造、瓦斯電、川崎造船所の例)という、文字通り手取り足取りのものだったらしい。
 それでも試作を完成させたのは三菱の神戸造船所、川崎造船所(神戸)、発動機製造、東京瓦斯電気工業の4社だけだった(③P85)という記述と、『東京、大阪、神戸、京都の機械、造船、自動車、電機車両等の代表的製造会社八社ほどを選定し、東京瓦斯電と同様な勧奨を行い、それらのうち七社が、その試作を完成したと云われている』(⑧P57)という記述があり、実際に何社が完成まで漕ぎつけたのか、判然としないところもある。『法案の制定過程では数社の候補を予想していた』(⑥P79)というが、陸軍側の思惑と違い、受動的な捉え方をした企業が多かった事は間違いないようだ。
ただその中で、東京瓦斯電気工業だけは他社と違い、自動車メーカーとして参入する良い機会であるという、積極的な姿勢をみせた(8.1項で記す)。

8.「軍用保護自動車」の誕生
<8項概要> 6項と7項では、陸軍が軍用自動車保護法をもって、軍用トラックの生産と保有を促進させるに至った経緯を、その背景と合わせて、主に陸軍目線で見てきた。この8項では視点を変えて、同法を頼りに自動車産業を興そうとした民間企業側の視線で見ていきたい。
  第一次大戦は日本に戦争特需をもたらし、主に重化学工業分野がその恩恵を受けた。そして戦争特需で資本力を得た企業の中に、大戦終結後の軍需急減を見越して、成長分野と目された自動車産業への進出を試みる企業家が現れた。
このうち、東京瓦斯電気工業(後の日野自動車のルーツ)は当初から明快に軍用保護自動車メーカーを目指したが、東京石川島造船所(いすゞ自動車のルーツ)はウーズレー(英国)を国産化する形で乗用車生産からスタートした。
 一方商業都市大阪の風土の中から誕生した実用自動車製造と、よりベンチャー企業的立場だった快進社の2社も乗用車の製造からスタートしたが、競争力のない国産乗用車の需要は、当時の日本ではほとんどなかった。結局両社は統合し、ダット自動車製造(日産自動車のルーツのひとつ)となり、おなじく乗用車に見切りをつけた石川島共々、生き残りをかけて軍用保護自動車メーカーへと転身していく。こうして大戦後の慢性的な不況と、フォード、GMの日本進出(次回の“その4”の記事で詳しく記す予定)という荒波の中で、乗用車生産を志すものたちが次々と挫折していく中で、陸軍向けの僅かな軍用車の需要を糧に、この3社で市場を分け合いながら、かろうじて生き延びていくこととなった。
8.1東京瓦斯電気工業の辿った道(日野自動車のルーツ)
8.1-1第一次大戦の特需で自動車産業に進出(マントルから自動車へ)

 (この項は、引用①、②,③、⑤、⑭等を元にまとめた。)
 明治の文明開化の時代、ガス灯はその象徴の一つだった。1910年に設立された東京瓦斯工業(以下瓦斯電と略す)は、ガス器具の製造を行う会社で、主な製品は、ガス灯の発光体として使われるマントルという部品(=ガス灯の火炎の外周に設置される発光体)であった。(詳しくは下の「ガス灯のあかりについて」Web⓫の説明をご覧ください。
http://www.city.kawasaki.jp/kawasaki/cmsfiles/contents/0000026/26446/08takahashi.pdf
⓫には黎明期の瓦斯電についても記されているので参考までに。それによると『何かに、東京瓦斯電気工業株式会社は東京ガスの機械部門が独立して会社になったと書かれていることがありますが、実は全く違い、マントルを作るために設立された独立した会社です。』とのことで、名前から連想すると、東京ガスと関係がありそうだが、実際はそうではなかったようだ。)

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https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn%3AANd9GcSRydgo_WzYK2UoEBUNppDrdxOGViSC92aihbJymamKPDQ4xAlf&usqp=CAU
 やがてガス灯の代わりに次第に電灯が使われるようになると、1913年に社名を東京瓦斯電気工業(社名が長いのでこの記事でもそうしているが、愛称である“瓦斯電”と呼ばれることが多い。)と改め、多角化を進め電気製品の部門にも進出したが、後発の憂き目で苦戦を強いられたという。
 しかし第一次世界大戦が勃発すると、状況が一変する。以下(⑭P26)より『そこに降って沸いたのが第一次大戦で、ガス電は奇跡的な好景気に見舞われるのである。その理由は、こつこつと研究開発の結果得られていた高品質のマントルの急増と、付帯事業として励んでいたガス計量器の技術であった。すなわち開戦後まもなく大阪砲兵工廠経由で砲弾の信管の大量発注がロシアから舞い込んだのである。』
ここで「信管」についての説明を引き続き(⑭P26)より『信管とは砲弾に取り付けられる部品で、発射されるまでは絶対に爆発されてはならず、発射時の加速度で完全装置が外され飛翔体に火道を起爆薬につなげ、当たったら今度は爆発させなければならない装置で、いわば精密機械である。ガス計量器で培った精密加工技術が認められたのである。』以下は㉔P89より『当時、軍需品とくに兵器と名のつくものを民間で生産し輸出したのは瓦斯電ただ1社だった。もちろん技術的には大阪砲兵工廠の指導を受けたのではあったが爆弾信管の部品「活機体」200万個という大量を生産した。』信管の大量受注で莫大な利益を得た同社は『日本の陸海軍からも、さらに信管以外に小火器なども受注』する(⑭P26)。こうして軍需関連の工作、産業機械メーカーとして社業を急速に拡大させていった。
 そして膨大な利益の投資先として、社長の松方五郎(=松方正義の五男)は早くから自動車製造事業への進出に関心を持っていた。信管の納入で信頼のあった大阪砲兵工廠から、4トン自動貨車の試作の打診があったのは軍用自動車補助法が施行される前年の1917年のことで、『この動き(注;軍用自動車補助法)をいち早く察知した松方五郎は既にこの制度を利用し、自動車産業に打って出ようという決意を固め』ていた。(⑭P26)
(下は日野オートプラザに展示されている松方五郎の肖像画。ブログ“オーロラ特急ノスタルジック旅日記” さんよりコピーさせていただいた。)
https://blog.goo.ne.jp/aurora2014/e/a6c572fbb070d20f0aed29a2d41bb42e)

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 さらに追記すると、このように決断の早かった背景として、軍用自動車の製造に乗り出す以前から行っていた輸入車の販売事業も好調で、自動車の商売に自信を深めていたこともあったようだ。⑥P55より『~とくに、18年にはアメリカのリパブリック・トラックのシャシーを輸入し、東京市街自動車(青バス)にトラックやバスとして大量に販売した。その後も官庁を中心に相当の販売実績を維持し、19年下半期には全輸入車販売の3分の1以上を占めるようになった』という。1/3以上とはかなりのシェアだ。さらに後の軍用保護トラック制作時にベース車として参考にしたリパブリック社製トラックも、自社で輸入販売していた。信管を通じての大阪砲兵工廠との付き合いの深さもあり、陸軍からの依頼で同じく試作車を作った他社よりも、自動車産業へ参入する下地はより大きかったようだ。
そして『このときに瓦斯電は、トラックの試作だけでなく、並行して軍用自動車補助法に合致した自動車の制作も同時に進行するという意向を示した。補助法が施行されて手がけるのでは、完成までに時間が掛かりすぎるので、少しでも早くスタートさせることが好ましいと判断したのである。こうした姿勢は、軍用トラックの国産化を進める大阪砲兵工廠にとっても歓迎すべきことであった。』(引用③P86)陸軍とは、あうんの呼吸だったのだろう。
 自動車産業へ参入するため1917年、新工場を東京・大森に建設すると同時に自動車製造部(内燃機関部という記述もあるという⑭P25)を設立するという手回しの良さだった。(下は瓦斯電、大森工場の様子。)
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http://www5e.biglobe.ne.jp/~iwate/vehicle/extra/primer/coach/catalogue/200_chassis_maker_02.jpg
 しかし『問題は、瓦斯電に自動車に詳しい技術者がいなかったことだ。』(引用③P86)!そこで外車輸入で当時最大手だった大倉財閥系の日本自動車(株)で、技師長としてボディー架装部門を統括していた星子勇を自動車部長として招聘する。(下の画像と、文はJSAE自動車殿堂「大倉喜七郎」より引用『喜七郎氏のフィアット100馬力と米国人パット・マース氏の飛行機の競走、数秒の差で喜七郎氏のフィアットが勝ったと報じられた。1911(明治44)年)』そしてこのフィアットの整備を入念に行ったのが星子であった。(③P29)ただし『マース飛行士が自動車に花を持たせてくれた』という当時の関係者の証言も残されているという。(③P29)
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 そして瓦斯電は星子に自動車部門の責任を託し、軍用自動貨車の試作に乗り出していった。星子勇については、この記事の≪備考12≫「瓦斯電のシャドーファクトリー構想について」のところに記した。
8.1-2軍用保護自動車第1号の誕生と、その後の“暗黒の10年間”
 陸軍大阪砲兵工廠からの試作依頼は、シュナイダー社の軍用トラックを参考にしたモデルだったが、星子は並行して別のトラックの設計を行った。『いささか旧式化しつつあったシュナイダーに飽き足らず自ら新鋭のトラックを設計、その開発を同時に開始した。』(⑭P27)同社で輸入も手掛けていた、アメリカのリパブリック社製トラックを参考にしつつ、独自の設計を取り入れたTGE-A型である。(下の写真はそのTGE-A型。砲兵工廠のベース車に比べてチェーンドライブからシャフトドライブに、ブロックタイヤからソリッドタイヤへと、一歩進歩した設計となった。TGEとは、瓦斯電の英文名 "Tokyo Gas & Electric Inc." のイニシャルからとっている。尚ベースとなった、リパブリック製トラックのエンジンは、アメリカの有名なエンジン専門メーカーのコンチネンタル社製(モデルC型)のものだった。(⑮P93))
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https://meisha.co.jp/wp-content/uploads/2018/05/a851c4242d976f103082aa91e8825ad4-e1540607784337.jpg
 そして1918年(注;権威あるJSAEの自動車殿堂の方を尊重したが、1919年3月という記述もある?③P93、❽P43、❾-1P160。だが⑭も1918年と記述。1918年度(会計年度)のこと?不明)に、軍用自動車補助法の審査試験に合格し,同法の初適用を受けた。もっとも熱心に軍用トラックの開発に取り組んでいた瓦斯電の合格を望んでいたのは軍部も同様で、さらに陸軍にとっては、3月末までに合格しなければ年度の予算を返上しなければならないという役所的な事情もあったようだ(③P94)。
 しかし保護自動車に認定されても、実際には陸軍以外の民間で、購入するところは少なく、しかも不具合も多く、クレームで返品されたものも多かったようだ。
(以下、前回の記事の5.2-5項、タクリ―号についての「エンジンを作ることの難しさ」というところで、黎明期の瓦斯電の自動車制作の苦闘を例に出して記したが、その部分を、再録なので今回は小文字で記しておく。
『~軍用保護自動車第1号で、最初の国産量産トラックといわれる瓦斯電のTGE-A型では、たとえば『エンジン関係の鋳物の加工がうまくいかず、倉庫にお釈迦のシリンダーが山のようにあった』(③P92)という。そしてその努力が何とか報われて軍の試験に合格して、瓦斯電のトラックは晴れて軍用自動車補助法に基づく軍用保護自動車の認可第1号として、1919年に20台“量産”された。初の国産“量産”トラックの誕生だ。しかし出来上がったクルマの出来は、『検定試験に合格したのは瓦斯電だけだったから、制式自動貨車の発注が集中、つくると軍に納入されるために、世間では「瓦斯電の軍用自動車」と呼ばれるほどだった。しかし、実際につくられたトラックは、トラブルが絶えないものだった。なかには、まったく走りだすことができないものもあった。実際、自動車メーカーになるのは大変だった。』(③P94)自動車は、その国全般の工業技術水準を表す鏡とも言われているが、それが当時の日本の工業水準の実態だったのだ。(下の画像は、ブログ「超快速やまや」さんよりコピーさせていただいた。「日本陸軍に納入されたTGE-A型トラック」“やまや”さんによれば、前がTGE-A型で、後ろはシュナイダー型トラックだそうです。)https://ameblo.jp/hbk0225/entry-12186728725.html

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https://stat.ameba.jp/user_images/20160803/00/hbk0225/b4/06/j/o0480036013713558041.jpg?caw=800
 その後も、1922年に製造されたTGE-G型1.5トン積みトラックは11台生産されて民間に販売されたが、すぐにトラブル続出して全車返品になったという。』)
 ライセンス生産に頼ったわけでなく、まさに『製造技術より製品が先』(⑥P57)だった瓦斯電にとっては、生みの苦しみの時期だったに違いない。
 陸軍向けの生産台数も、『1919年(大正8年)に33台が納入され、翌1920年には22台、1921年には28台だった。それが1922年になるとわずか3台にまで減っている。』(③P95) 不況下で『陸・海軍ともに予算が減り、軍納の車の数は非常に少なく』(⑧P165)なった。
 さらに追い討ちをかけたのが関東大震災で、瓦斯電の受けた被害総額は100万円に及ぶものだったという(③P96)。『関東大震災でガス田は軍用自動車の生産を一時停止していた。』(⑧P165)こうして『同社の経営は 1920年頃から悪化していき,1922年下期には一挙に 1,400万円余りの損失を計上し,資本金を 2,000万円から 600万円に減資せざるを得ないという状況に追い込まれた。』(Web❽P43)そして最盛期には3,000人を超えた従業員数も、800人まで減らさざるを得なかった(③P96)。ちなみに日野自動車の社史ではこの時代を『暗黒の10年間』と称しているらしい(Web❽P51)。
 松方はいよいよ事業再編を迫られる。しかしそんな苦しい経営環境の中で、『星子を中心とする自動車部は倹約しながらも活動を維持することが決まったのは、自動車にひとかたならぬ情熱を示す松方社長が根強い反対論を抑え込んだ結果だった。
それには、陸軍から依頼された航空機用エンジンの開発という後押しもあった。航空機用ガソリンエンジンに関する知識をもった日本の技術者は多くなく、星子の持つエンジン技術を生かすことができるものだった。』
(③P96)という。陸軍の総力戦構想からすれば、航空機関連でテコ入れすることは、合理的な判断だったと思える。瓦斯電を、三菱、川崎、後の中島を補完する、練習機用エンジンを中心とした企業として位置づけたかったのだろうか(私見です)。瓦斯電の航空機用エンジンの取り組みについては、≪備考12≫を参照ください。
『この自動車の不振に対し、かろうじて航空機発動機(星形80型、100型)の製造(月産15台)とその利益で支えられていた。』(⑧P165)という。航空機用エンジン部門は、1931年には自動車部から独立し、瓦斯電自動車部を支える大きな柱と成長していった。
 一方自動車事業自体はその後も厳しい状況が続いたが、1927年のTGE-GP型ではヘッドライトが電気式になり、電動式スターターも採用されて、後期型にはディスクホイールに空気タイヤにもなり(⑭P7要約)、『民間向けの他、軍用車として直接軍からの注文も急速に増え』(Web⓮P161)ていったという。
さらに1930年誕生したL型は『航空エンジンの指導に使用される特殊架装をした軍用車の受注も多かった。』(①P21)
(下の写真はTGE-L型のダンプカーで、ブログ「光雄☆工機 @mitsuwo117」さんよりコピーさせていただいた。
https://twitter.com/mitsuwo117/status/839390387693203456 )
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 このL型について①P21より引用を続ける。『1930年(昭和5年)にL型が完成(注;⑭P30、⑧P165によれば1928年と書かれているが、Web⓮では1930年だ?)、それまでのトラックより技術的に進んだものになり、信頼性の面でもましなものになった』(①P21))。辛口のコメントだが、実際のところ瓦斯電に限らずこの時代になると、各社の国産トラックは、主要な使用先である軍からも、性能/品質的ではそれほど不満が出ることはなかったようだ(⑥P84等)。10年にも及んだ苦闘がようやく、実を結びつつあったのだ。ただし『もちろん、その国産車が部品まで国産化したわけではなかった。(中略)電装品・気化器・軸受けなどの部品には輸入品が使われていた。』(⑥P84)こともまた事実だった。
 しかし、これも瓦斯電に限らないが、民間向けは補助金を頼りに、手作りを主体とした細々とした生産規模では、外国製トラックと価格で対抗していくのは無理な相談だった。苦難の道は満州事変以降に、陸軍から軍用車の注文が本格的に増え始めるまで続いた。
 その後の瓦斯電については後の記事の“その5”と“その6”で記すが、戦時体制が進むとともに、松方や星子が長年描いた、その壮大な夢が、いよいよ実を結びそうになる。しかし次第に “ミニ三菱重工化” していく中で、瓦斯電に食指を伸ばした日産コンツェルン率いる鮎川の手で、グループはやがて解体される運命にあった。
 なお1931年、宮内省買い上げを記念してブランド名を「チヨダ」と改称している。(下の写真は、軍用保護自動車第1号となった、瓦斯電のTGE-A型トラックのレプリカ。日野オートプラザに展示されている。同車は国内初の量産型トラックとされている。)
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8.2東京石川島造船所の辿った道(いすゞ自動車のルーツ)
8.2-1第一次大戦の特需で自動車産業に進出(造船業から自動車へ)
 (この項も、引用①、③、⑤、⑯等を元にまとめた。)
 幕末の水戸藩主、徳川斉昭が幕府の命を受け、江戸隅田川河口の石川島に造船所を設立したことに端を発する石川島造船所(以下石川島と略す)は、洋式帆走軍艦旭日丸,日本人によって設計、建造された蒸気軍艦千代田形など多くの艦船を建造した。幕末を代表する造船所として、日本の近代化に大きな功績を残した。(下の絵はwikiより、日本で建造された最初期の西洋式軍艦のひとつ、軍艦旭日丸)
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 明治維新後は官営となるが、1876年に日本初の民間造船所として再発足する。(下の画像はガスミュージアム「渋沢栄一の足跡をたどる「版画にみる近代事業の風景」展さんよりコピーさせていただいた、1901年頃の石川島造船所の図。なぜ“ガスミュージアム”なのかといえば、東京ガスも設立時、渋沢栄一が係わった企業の一つだったからだそうだ。
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000365.000021766.html

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https://prtimes.jp/i/21766/365/resize/d21766-365-918927-3.jpg
 渋沢栄一と石川島造船所との係わりだが、1876年に東京石川島造船所の創立委員として関わり、株式会社になった時の初代社長に就く。そして1929年、東京石川島造船所の自動車工場が石川島自動車製作所として独立した際に、初代社長に就任するのが栄一の三男の渋沢正雄で、それ以前から、数多くの会社に係わり多忙な父に代わり、自動車系は正男が経営を主導していたようだ。)
 当時の日本の造船業界は造船奨励法(1896~1919年)の影響もあり、三菱造船所、川崎造船所および大阪鉄工所の三強による寡占状態にあったが、第1次世界大戦の造船・海運ブームにより、石川島造船所も注文が殺到して莫大な利益を得た(①P22)。
(表4:「東京石川島造船所の収益推移」(Web❾-1P160)より転記)
下表の売上高、利益の推移を見れば、石川島が得た戦争特需がいかに莫大なものだったかがわかる。
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 しかし、『軍需産業でよくいわれるのは「満腹状態か空腹状態しかなく、ちょうど良い腹具合のときはない」』(③P66)そうで、戦後の空腹期に備えて、特需で得た利益の新たな投資先として選ばれたのが、瓦斯電と同じように自動車製造だった。
 1916年に自動車部門を設立し、1910年代の東京ではフィアットとウーズレーが最も売れていたことから、両社に提携条件について打診する。契約条件が有利だったことや(フィアットは100万円と、20万円高かったらしい)、マリンエンジンとの関係性もあり、1918年11月、ウーズレーとの提携契約を結ぶ。これがいすゞ自動車の歴史の起点とされている。『契約期間は10年、契約金額は80万円といわれている。』(①P23)同年12月にはのちに自動車部門の技術リーダーとなる石井信太郎ら6名がイギリスに派遣されて技術習得にあたった。
 1920年、石川島は東京・深川に自動車工場を建設し、自動車製造にとりかかるが、瓦斯電と違うところは、乗用車製造から始めた点だ。ここで軍用保護自動車への道を歩まなかった理由を知りたいところだが、その点をハッキリと記したものが見当たらなかった。一つ影響を与えた点を想像すれば、石川島造船所は本業が造船業だったため、分類上は海軍系の企業になり、大阪砲兵工廠との関係が深かった瓦斯電のような陸軍系寄りの企業でなかった点も影響したと思うが、何とも言えない。
 話を戻すが、ようやく完成させたものの、予想以上に原価が高くなり『1台当たりの原価は1万数千円になった。当時同じクラスのアメリカのビュイックやハドソンが日本では6000~7000円という価格だったので、赤字覚悟で価格を1万円にした。
(下は石川島製のウーズレーA9型乗用車。完成したのは1922年12月、大晦日未明のことだったという。しかし当時の舶来品信仰もあり、ウーズレーならぬ“ウリズレー”という声もあったという。)
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『売却先の多くは渋沢栄一の縁故で仕方なく購入した人たちだったが、トラブルもあり、価格も高く不評』(①P23)で、乗用車では商売のめどが立てられなかった。そのため『「日本の現状ではまだ国産乗用車などに手を付けるべきではない,という結論に到達し,間もなくその製造は中止された」(いすゞ自動車株式会社『いすゞ自動車史』1957年26頁)』(Web⓬P38)(下は当時の深川分工場の様子)
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 しかし多額の設備投資をした上に、ウーズレーと交わした契約で、契約金の残りを毎年8,000ポンド(当時の価値で約8万円)払わなければならなかったという。撤退も容易ではなかった。しかし幸いなことに、ウーズレーとの契約で、乗用車2車種(A9型、E3型)以外に、トラック(CP型)の製造権も持っていた。
8.2-2軍用保護自動車への転身と国産“スミダ”へ
『切羽詰まった自動車部門を統括する渋沢正雄取締役は、自動車開発責任者である石井信太郎をともなって、東京三宅坂にある陸軍の本省に赴いた。』(③P98)保護自動車の製造を申し出たのだ。
 この路線変更は陸軍からも歓迎された。保護自動車の普及を見込んで多額の補助金支出を予算化していた陸軍省だったが、思惑どおりに民間業者がトラックを買ってくれないという現実に直面して、多額の予算を大蔵省へ返納せざるを得なくなり、新規参入企業を望んでいたという(Web⓭32-07)。頼りにしていた瓦斯電の経営自体が不安定で、その影響もあってか生産の面でも、性能/品質の面でも問題を抱えていたし、次項で記す橋本増治郎率いるダットは、陸軍とは肌合いが違う企業だった。石川島は早速CP型保護トラックの製造に取りかかった。
 ところが、このCP型の図面と実物2台を輸入した年の9月、関東大震災に見舞われて工場は大損害を受けて、せっかくの図面と実車を失ってしまった。『しかし輸入された2台のうち1台が東京乗合自動車(青バス)に貸し出されており、これが震災を免れていた。
『この背景として、石川島造船所の支援を続けている渋沢栄一と東京市街自動車の渡辺良介社長との密接な関係があった。
「ウーズレー・トラックが保護自動車の資格を取ったら、30台を採用する」という約束がふたりの間で交わされ、走行テスト用に貸与されていたのだった。』
(Web⓮32-18)このクルマを借り受けて分解するところから、CP型トラックの製造が再開された。((⑯P5)結局工場を移転し,この工場を東京石川島造船所と改称し,苦心の末、1924年3月20にようやく完成させた。その技術支援のために『小石川にあった陸軍砲兵工廠や築地にあった海軍造兵工廠からも応援の技術者が(⑧P118によれば7~8名も)駆けつけた』(①P24)という。陸軍向けの軍用トラックに海軍からの応援は異例だったはずだが、石川島は造船業なので、海軍との関係がそれほど深かったのだろう。
 そして『陸軍の自動車関係者は、何がなんでも完成して検定試験に合格してもらわなくてはと考えていた』
(③P100)という。それだけ期待も大きかったようだが、ここでも例によって年度末なので、予算執行の期限が迫っていたという役所の事情もあったらしい。(③P100)『かろうじてパスはしたが,綱渡りだった。というのは 24年3月末が審査の締め切りだったが,審査対象の2台が完成したのが3月20 日午前零時。代々木で定地検査を受けたあと関東北部の各地で 7日間運行試験をやり最後は東京に戻り米大使館近くの江戸見坂の急こう配の登坂試験をパスして3月28日資格検定証書を下附された(いすゞ自動車株式会社『いすゞ自動車史』28‒29 頁)。』(Web⓬P39)
 石川島にしても瓦斯電にしても、初期の技術水準では、軍用保護自動車の試験に、ようやく合格したというのが実力だった。
(下は東京石川島造船所が生産した「ウーズレーCP型トラック(1924年式)。こちらはレプリカでなく、国立科学博物館より返還された生産第一号車をレストアしたもので、実走行可能な状態に保たれ、経済産業省から近代化産業遺産に認定されている。)
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 1927年9月、次第に地力をつけてきた石川島はウーズレーと交渉して提携を解消し、新しく”スミダ”というブランドで独自の設計の自動車作りを始める。このころにはちなみにウーズレーとの提携解消の交渉は、難航が予想されたので、交渉は渋沢栄一が直々に行ない、円満に解除できたそうだ。(Web⓮32-18)
 1929年5月には石川島造船所から自動車部門が分離し、石川島自動車製作所が誕生する。『社長には自動車部を率いてきた渋沢正雄が就任、陸軍中将で自動車行政の中心人物だった能村磐夫が取締役に就任している。』(③P157)分社させた一つの理由として、造船所の方が海軍からの仕事が中心だったため、陸軍からの受注が中心となる自動車部門を分離させたのだという。陸/海軍が犬猿の仲であるという、日本固有の事情があったようだ。(①P25等)その後の石川島造船所の方は現在のIHIとなり、さらに大きく発展していくことはみなさんご存知の通りだ。
 そして1929年に自社開発したA4型(4気筒;40馬力)、A6型(6気筒;64馬力)エンジンを搭載したスミダL型は、燃費・出力両面で好評を得たという。A4、A6両エンジンはボア×ストロークを同一にした、今でいうところのモジュラーエンジンだったようだ。
(下の写真はいすゞ自動車のHP(https://www.isuzu.co.jp/museum/tms/2017/history/)より
1929年型スミダL型トラックのイラスト画。このL型あたりの時期に、瓦斯電、ダットとともに3社の軍用保護トラックは、自動車としての一定の水準に到達したのではないかと思われる。)

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(下は、石川島自動車製作所製の昭和7年式(1932年)スミダM型バス。この塗装は東京乗合自動車株式会社(通称“青バス”)の車両だ。なお“スミダ”という呼称は、工場の横を流れる隅田川にちなみ、どんなに時代が変わっても留まることなく流れ続けたいという願いが込められて名付けられた。現存する実走可能な最古の国産バスとして、経済産業省の「近代化産業遺産」に認定されている。)
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http://mysty.sakura.ne.jp/sblo_files/mysty/image/DSC03739.JPG
 そして『その生産台数は,大正15年 160台、昭和2年179台、3年244台に達し、その年の国内生産の 65、59、そして,70パーセントを占め,最大の国産車メーカーとして発達した。』(Web❾-2P143)こうして石川島は、先輩格の瓦斯電を凌ぐ、名実ともに当時の日本を代表する4輪自動車メーカーへと成長していく。
(表5:「軍用保護車の適用台数及び軍用メーカーの生産台数の推移(1918~1930)」⑥P181より転記)
下表の、軍用自動車メーカー3社の生産台数の推移をみると、他の2社に比べて石川島の生産台数が安定して多かったことがわかる。
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 ところで上の表に見られるように、後発の石川島が、瓦斯電を明確に凌いだ理由を、ハッキリと書いたものが見当たらなかった。第一次大戦後の不況や、フォード、GMの日本進出は両社に均しく影響を与えたはずだ。自分なりに想像すれば、技術面でみればウーズレーからの直接の技術指導で得た、自動車製造ノウハウがあり、完成度の面で1日の長があったのだろうか。また先に記した青バス(東京市街(後の“乗合”)自動車)に対しての営業に見られるように、当時の経済界を代表する人物であった渋沢栄一の後押しも大きかったように思える。
一方瓦斯電側の不振はやはり、元々の企業規模に比べて、急速に戦線を拡大し過ぎて、力が分散してしまった(自動車、航空機用エンジン以外にも工作機械、兵器、計器、紡績機械、火薬など手広く、自動車+航空機部門だけに絞っていればもっと楽だった?)ことが主因だろうか。また主力行の弱さも一因だったろうか。(以下wikiより要約、メインバンクだった第15銀行が1927年の昭和金融恐慌で事実上倒産してしまい、以後経営再建の途上にあった。ちなみに同行は有力華族の出資により成立した銀行なので、世上「華族銀行」と呼ばれたというが、代表者であった松方巌公爵(元首相松方正義の長男、松方五郎の兄弟)は責任を取り私財の大半を放出の上、爵位を返上したという。松方五郎とも微妙な関係だっただろう。下の写真もwikiより、第十五銀行本店の写真。ちなみに石川島の方はご存じのとおり第一銀行(現在のみずほ銀行)だ。)
追加
 以上は想像なので、ここではその原因は“不明”としておく。
 しかしそんな、当時の国内“トップメーカー”たる石川島ですら、厳しい経営環境下にあった事に、違いはなかった。以下(Web❽P51)より『同社は,軍用保護自動車,純軍用特殊車,バスなどの製造を続けていったが,業績を悪化させていった。その「主な理由はフォード,シボレーの米国車攻勢と,加えて軍用保護自動車が欧州大戦後の軍縮と国家財政の緊縮により,軍方面の企図する生産計画台数に,一定程度の制約を伴ったこと」にあるといわれており,その点はダット自動車製造や東京瓦斯電にも共通する事態であった。』
 上記❽の見解は“一般的(常識的)”なものだ。が、しかし⑥によれば石川島、瓦斯電ともに、その経営内容をさらに細かくみていくと、20年代後半の両社の経営不振は、自動車部門が主因ではなかったという。『~こうした生産台数の制約は両社における自動車部門の採算が合わなかったことを意味するものではなかった。むしろ、両社にとって自動車部門は主力部門の赤字を埋める役割を果たしていた。従って、両社にとって自動車部門の設備拡張のためには、主力部門での回復を期待するより、それを独立させて外部資本の調達を図ることが手っ取り早い側面があった。1929年の石川島の自動車部独立はまさにその意味から実施されたと思われる。』(⑥P87)と、一般と違った見方を示している。ちなみに(⑧P143、Web❾-2P143)にも同様の趣旨の記載がある。この件に関して、少なくとも石川島に関して言えば、20年代後半は、自動車ではなく主力の造船部門の不調の方が、経営全体の足を引っ張っていたことは、確かなように思える。上の表のように自動車の受注はコンスタントで、軍需主体なので一定の利益は確保されていたのではと思われる(多少想像が混じっています)。
 ただ自動車部の独立については先に記したように、陸/海軍の仲の悪さゆえに陸軍向けと海軍向けを分離させるという、日本独特の商慣習も影響したように思える。(以下参考までに、中島飛行機の航空機用エンジンを巡る対応について、(⑰P183)より引用『~陸軍と海軍はお互いに縄張り意識が強く、航空機の技術進化のためにお互い協力するどころか、対抗意識をむき出しにした。同じエンジンでも陸軍と海軍では名称が違うものとして扱い、同じ工場でつくることを嫌ったためだった。(中略)同じような生産設備を別々にととのえるのは全くのムダである。しかし、理屈をこねていても通用する相手ではなかったのだろう。』下の写真は“陸軍向け”の航空機エンジン工場として当時(1938年3月完成)最先端を誇った、中島飛行機武蔵野工場の全景。画像は三井住友トラスト不動産より。
https://smtrc.jp/town-archives/city/kichijoji/p02.html
また、ダイムラー・ベンツ社からDB601航空機用エンジンをライセンス生産する際に、陸/海軍で別々に契約して導入し、ヒトラーから「日本の陸海軍は仇同士か」と言われたのは有名な話だ。)

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https://smtrc.jp/town-archives/city/kichijoji/images/02-01-01.jpg
 それにしても、日本の自動車史にこれだけ大きな足跡を残した、渋沢正雄の写真をネットで探してみても、なぜか見当たらないのであった。そこで、「墓守たちが夢のあと」というブログの、谷中霊園に眠る渋沢正雄のお墓の写真が見つかったので、お墓の写真とその説明文をコピーさせていただいた。https://ameblo.jp/mintaka65/entry-12489553389.html
『渋沢栄一の三男・渋沢正雄は、大正4年(1915)に東京帝国大学法科大学経済学科を卒業し第一銀行に入行しますが、2年後には退行し、実業家として一族の会社経営に関わって行きます。石川島自動車・昭和鋼管社長や石川島造船専務を務め、昭和5年(1930)には「株式会社石川島飛行機製作所」を創立し初代社長に就任。(第2代社長は兄の武之助)。その他、秩父鉄道・日本製鉄・日満鉄鋼販売・日本鋼材販売の各社長並びに常務など多くの企業に重役として名を連ねています。90代で現在も活躍されているエッセイストの鮫島純子氏は渋沢正雄の娘だそうです。』ちなみに渋沢正雄は瓦斯電の松方五郎とともに、のちのこの記事の“その5”と“その6”でも“引き続き活躍”する予定だ!
追加5
https://stat.ameba.jp/user_images/20190703/08/mintaka65/a5/88/j/o1332100014490010371.jpg?caw=800
8.3ダット自動車製造の辿った道(日産自動車の源流)
 国産自動車製作のパイオニアの一人として、その開発に心血を注いだ橋本増治郎率いる快進社は、乗用車の販売不振に苦しんだ末に、軍用保護自動車の製造に乗り出す。しかし橋本と陸軍との間で軋轢が生じてしまう。
一方、商都大阪の風土の中から、久保田鉄工所の出資を中心に、小型乗用車の製造に名乗りを上げた実用自動車製造も、同じく販売不振に陥り苦境に立たされたが、生き残りのため両社は手を結び、ダット自動車製造として、軍用保護自動車メーカーとしての新たな道を歩んでいく。のちの日産自動車の前身の誕生である。(下は日本の自動車産業のパイオニアの一人であった、橋本増治郎。画像はwikiより)
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 以下、両社の苦難の足跡を、③、⑱、⑲、❽、❾-1、⓰、⓱、wiki、JSAE自動車殿堂からのダイジェストで辿っていく。
8.3-1快進社(DAT号)の橋本増治郎が辿った苦難の道
 橋本増治郎は東京工業学校(現・東京工業大学)機械科を首席で卒業後、数年の社会経験を積んだのち、農商務省海外実業練習生となり、1902年(明治35年)に渡米、ニューヨーク州オーバン市の蒸気機関製造工場で働く。1905年日露戦争勃発により帰国するが、その直前に重要な出来事があった。以下(引用⑱P85)『日露戦争により明治38年に帰国する直前には、キャデラックやリンカーンの生みの親で、「大量生産の巨匠」ヘンリー・フォードに対し「機械技術の巨匠」と呼ばれたヘンリー・リーランドに面会する機会があったという。米国自動車業界では製造技術をベースに、互換部品や流れ作業による大量生産システムを誕生させつつあった。その光景が橋本の生涯を決定づけたことになろう。』
 帰国後は東京砲兵工廠技術将校として機関銃の改良を行い、軍事功労章を受ける。そして日露戦争後に勤務した越中島鉄工所が経営不振で、九州炭鉱汽船に買収されたことが大きな転機となる。ここで九州炭鉱汽船社長の田健治郎と、役員で土佐の有力政治家の子息である竹内明太郎(吉田茂の実兄)と出会い、九州炭鉱汽船崎戸炭鉱所長として有望な炭坑の鉱脈を探り当てる。
 ここまでざっと足跡を辿っただけでも、橋本が並みのエンジニアでなかった事はわかる。1,200円の功労金を受け取った橋本は退社する。
 1911年(明治44年)、竹内の尽力により吉田茂の所有する東京麻布の土地を借りて工場を作り、快進社自働車工場を創業した。140坪の借地に建坪37坪の工場で、従業員は橋本を加えて 7名というささやかな規模からのスタートだったが、その資金(当初8,700円)を援助したのが先の田健治郎、竹内明太郎と青山祿郎の 3氏であった。こうして外国車の輸入組立販売のかたわら、国産乗用車つくりをはじめる。
『橋本の挑戦は、単に適当なクルマをコピーして国内で作るのではなく、エンジンの使用を決めてボディの大きさもそれにフィットしたサイズにするところから出発している。海外のクルマと同じものを国産技術でつくることさえ容易ではなかったが、橋本にとっては、それでは国産技術の確立にはならないと判断していたから、さらに困難な技術にチャレンジしたのであった。』(③P38)国際水準を目指して水冷直列4気筒エンジン搭載の、日本の道路事情に合わせた小型車乗用車の開発に乗り出したのだ。
『しかし、設計したエンジンを実際にカタチにすることは、とんでもなくむずかしいことだった。自動車の部品には鋳物が多く使われているが、多くの技術者が苦労したのが、エンジンのシリンダーブロックの鋳造である。』(③P38)
 自動車エンジン用鋳物の製作で苦労することは、戦前の日本で国産車つくりを志す人たちにとって共通の、大きなハードルであった。『早くから工業が発達したアメリカでは、外注先に設計図を示せば、シリンダーブロックなどの鉄製品をつくる技術が確立しており、そのための質の良い材料の入手も困難ではなかった。日本では造船や鉄道車両などに適した材料は作られていたが、ほとんど使用されないに等しい自動車関係に適した材料は作られていなかった。』(③P39)
 当時の日本では複雑な形状のシリンダーブロックを鋳造する技術がなく、試作第1号車は試運転まで行えず失敗作で終わる。結局直列4気筒エンジンはあきらめて、シンプルな鋳物制作で済むV型2気筒エンジンに変更して、翌1914年、試作第2号車を完成させた。
以下(Web⓰)より『このエンジンはV型組み付け2気筒と呼ばれるもので、1気筒ごと鋳造されたシリンダーブロックを2つあわせたものだったとされる。横一列に2気筒ぶん鋳造する技術が当時は確立されていなかったようだ。 トランスミッションなどで使われたギア類はニッケル鋼を丸棒で輸入し、これを熱処理し、一個ずつ機械加工を施しつくったという。当時のクルマの例に漏れず、梯子型フレームのボディを架装するタイプ。ホイール、リム、マグネトー、スパークプラグ、ベアリング類などのユニットはみな輸入品。ラジエター、キャブレターなどは工場内で自作している。前照灯はアセチレンガスによるランプである。』
(下の写真はその、V型2気筒10馬力エンジンを搭載したダット号(DAT CAR)完成の記念写真でgazooよりコピー。右端でカンカン帽をかぶっているのが橋本。タクリ―号とは違い、エンジン、車体とも国産であった。DATは橋本の協力者の田、青山、竹内のイニシャルを組み合わせた名前で、脱兎(だっと)の意味も込められていた。このダット号は東京大正博覧会に出品され、銅杯を獲得する。)
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 1915年、V型でなく直列2気筒エンジン搭載の試作3号車、ダット31型では『2気筒ぶんひとつのブロック(モノブロック)である。鋳造は外注ではあったが、ようやく2気筒ぶんの鋳造技術が確立された。』(Web⓰)
こうして着実に技術レベルを向上させていった1916年、当初めざした技術目標であった、直列4気筒エンジンを搭載したダット41型が完成する。以下も(Web⓰)より『モノブロック直列4気筒エンジンにすることで、出力が15馬力に達した。しかもセルスターター付きでバッテリー点火、ギアは前進4段後進1段という当時としては先進的な機構を備えている。
前席に2名、後席に5名の計7人乗車の本格的乗用車である。4気筒エンジンとしてはフォードのモデルTに8年遅れ、セルスターターはキャデラックに7年遅れではあるが、日本人の手によって造られた純ジャパニーズカーとしては、世界レベルに達していたといっていい。』(写真はダット41型。1922年には平和記念東京博覧会で金牌を受賞した。)
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https://clicccar.com/wp-content/uploads/2015/10/01-300x222.jpg
 この41型の完成を見て橋本は自社技術に自信を得て、その製造へと乗りだすことになる。以下(Webの❽P42)『1918年 8月には株式会社快進社創立事務所が設置され,資本金 60万円で,北豊島郡長崎村に本社ならびに工場を新設して,操業が開始されていった。機械設備として,クランク軸研磨盤,円筒研磨盤,グリーソンのベベル・ギア歯切盤など,当時で最も進歩した専用工作機を含め 20数台余りを輸入新設したという。従業員数は,最盛期には 50名ないし 60名を抱え,当時としては画期的な規模であった。こうしてダット 41型乗用車の製造を目指して操業が開始されたが販売はふるわず,1919年以降,完成したのは 4~5台にとどまったという。』
『だからといってすぐに買い手がつくという情勢ではなかった。日本人にあったサイズのクルマであるといっても、輸入されるアメリカ車に比べて小さいことは、それだけ高級感のないクルマであると思う人が多かった。この当時は、舶来品のほうが優れているという先入観を持つ人が多く、自動車メーカーとしての前途に光明を見つけるのはむずかしいことだった。』(③P42)
 販売不振とともに、製造の方も困難だったようだ。『生産台数不振の重たる理由は、国産の自動車用部品の入手難にあった。鋳造部品の質はもちろん、電気コードがやっと国産化された状況では、自動車製造は容易ではなかった。』(引用⑤P22)
8.3-2快進社(橋本増治郎)と陸軍の確執
 結局販売不振に苦しんだ末に、のちの石川島と同様に、軍用自動車保護法に望みを託すことになる。
 制定当初、軍用自動車補助法は積載量1トン以上のトラックを補助対象としていたが、1921年に改正され(9.2-1参照=対象車両の積載量が民間需要の多い軽量型の3/4トン車も適用となる。鍛造部品の外注を認める。一定の資格を有する技師の配置の義務付けは撤廃)、その内容はあきらかに、当初は相手にしなかったダット側に譲歩し、その参入を即すものだった。瓦斯電の行く末に不安を感じ始めていた陸軍としても不本意ながら?歩み寄らざるを得なかったのだ。
 それもあってか快進社は、ダット41型に改良を加え、1922年、陸軍の検定を受けることになった。しかし橋本と陸軍はお互い、どうしても噛み合わないところがあり、この申請では、ボルト・ナットが陸軍の規格に合わず、不合格とされてしまった。以下橋本の憤懣やるかたない思いを綴るので長くなるが、(③P102)より引用する。
『他のところはあまり問題なく直せるにしても、ボルトとナットに関しては、橋本は譲る気持ちは毛頭なかった。軍用ねじは、どのような経緯で決められたのか、独特のサイズになっていて一般の手に入るものにはなっていなかった。緊急の場合は、すぐに手に入るものでなくてはならず、そのために橋本は欧米先進国で一般化しているSAE規格に合致したボルトとナットを使用していたのだ。したがって、これで審査に不合格となるのは理解に苦しむと、橋本は厳重に抗議した。しかし、担当者は橋本の言い分に耳を傾けなかった。橋本のところのような小規模な工場で保護自動車をつくるのはふさわしくないという意識にも支配されていたと思われる。
 橋本は、軍部の反省をうながすために「陸軍大臣にその責任ありや」という論文を発表するなどして、ボルトとナットに関する陸軍の不合理さを追求した。さらに、提出中だったダット41型トラックの検定許可申請を取り下げる手段に出た。こうした橋本の行動は新聞などにも取り上げられ、話題になったようだ。
 橋本にしてみれば、まだ大企業が自動車づくりに乗り出す前から、苦労を重ねて自動車の国産化に取り組み、ようやく性能の良いものに作り上げることができたのに、ねじ規格が決められたものになっていないからと、橋本の長年の努力を全く認めない態度にガマンできなかったに違いない。(中略)
 ボルトとナットに関しては、どう見ても橋本の主張に分があることは、誰の目にも明らかだった。陸軍は1924年(大正13年)になって、橋本の主張するとおりにねじ規格をあらためた。
 3年近い月日を陸軍との意味があるとは思われない交渉に費やし、ダット41型トラックが保護自動車として合格したのは1924年(大正13年)のことだった。』
 (下の写真はダット号41型750kg積甲種軍用保護自動車検定合格車。確かに3年は長かった。)
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http://www.mikipress.com/m-base/img/1924_DAT41_750kgTruck_G00000145.jpg
 以下も(引用③P101)より
『「東京瓦斯電気工業」と「東京石川島造船所」自動車部に続いて、軍用保護トラックに認定されたのが橋本益治郎の「改進社」のダット41型であった。しかし、企業としての規模が異なることもあって、前記2社とは異なる展開となっている。それは、公官庁が大企業の方しか向いていないことを如実に示すものだった。零細企業などは相手にしないという態度で、橋本のところはしばらく翻弄され続けた。(中略)陸軍は、瓦斯電や石川島からは、軍用保護トラックを買い上げるなどしているが、橋本のところから購入するつもりはなかったようだし、瓦斯電や石川島のような設備を持っていないことも、橋本の泣き所であった。』石川島の軍用保護トラック分野への参入で再び情勢が後戻りしてしまった。その後も“いじめ”が続いたようだが、陸軍側もそれでも、あとの9.2-2で記すように、徐々に歩み寄りもみせていたようだ。
 こうして経営不振は続き、関東大震災後には米国車の販売急伸で決定的な打撃を受け1925年 7月、株式会社快進社を解散し,合資会社ダット自動車商会へと組織を編成替えした。営業目的は軍用保護自動車製造とはしていたが,主に試験的なバス営業を活動内容とすることになった。(❽P42)
8.3-3快進社と実用自動車製造の合併でダット自動車製造の誕生
 しかしここで、橋本と快進社にようやく、局面打開に向けての一筋の光明が差し始める。『将来的に見て、保護自動車メーカーが三つぐらいあることが望ましいと考えていた』(③P105)という陸軍の能村元中将(のちに石川島自動車の取締役に就任する)の斡旋があり、同じく苦境に立たされて生き残り策を模索していた、大阪の「実用自動車製造」との合併が画策された。
「ダット」のもつ技術力(実用自動車では小型のV2気筒エンジンしか実績がなかった)+軍用保護自動車認定という実績(看板)+「実用自動車製造」のもつ設備と資金力+久保田鉄工がバックにいるという、陸軍と商売するうえで決定的に重要な信用力を結び付けようとする動きだった。橋本は自動車事業を継続させるためには、この提案を受け入れざるを得ないと苦渋の決断をする。
 1926年9月、ダット自動車商会と、実用自動車製造は合併して、ダット自動車製造が誕生する。社長には久保田鉄工所者主の久保田健四郎が就任し、橋本は専務取締役に納まったが、実質的には実用自動車製造による、ダットの吸収に近い形となった。
8.3-4実用自動車製造の辿った、同じく苦難の道
 冒頭から引用で、手抜きで恐縮だが、実用自動車製造の特色を良く現わしているので(③P70)より『石川島造船が自動車の生産のために本格的な生産設備を整えて参入したのと同様に、莫大な投資をして自動車の生産に乗り出したのが、大阪の「実用自動車製造」である。大阪の産業界の有力な企業が寄り集まって出資して設立されたものであるが、首都東京を本拠地として中央を意識する石川島とはその狙いなどに違いが見られたのは、庶民の街であり、商業都市として栄えた大阪を本拠地にしていたことによる。』
 米国人ウィリアム・R・ゴーハムは、大正8~9年(1919~20)に3輪自動車の開発に成功、そのクルマが大阪の街を走る姿を目にした久保田篤次郎(久保田鉄工所社長久保田権四郎の女婿)が興味を抱いたことから話は始まる。
(下の写真が久保田の目にした3輪乗用車で、運転する櫛引弓人と横に窮屈そうに乗るのがウィリアム・R・ゴーハム。このクルマは俗に“クシカー(号)”と呼ばれている。名前の所以は京都の興行師、櫛引弓人の名前からで、日本で世話になり、片足が不自由だった櫛引のためにゴ―ハムがハーレーダビッドソンの部品を使って作り、贈ったものが発端だった。なおゴ―ハムは、国際情勢が緊迫していく中で、悩んだ末、1941年5月、日本に帰化した。日本名を合波武克人という。)
http://www.jahfa.jp/wp/wp-content/uploads/2013/01/2013-william.pdf

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http://www.oppama-garage.jp/Docu0007
 人力車に動力をつけたような安くて便利な乗り物があれば、輸入車と競合することなく普及するのではないかと考えた篤次郎は、ゴーハムの権利を 10万円で買い取り、自動車製造に乗りだした。会社は久保田権四郎を社長として、当時としては巨額の100万円という資金を投じて設立され,ゴーハムも設計主任者として招聘された。設計変更を加えた前一輪,後二輪の幌型自動三輪乗用車の試作に着手し,1920年 6月頃には試運転を実施し,月産 50台を目標に製造に乗りだした。(下の写真がゴルハム式3輪実用自動車で、その生産台数は乗用車型とトラック型の合計で約 150台に達したという。)
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http://www.oppama-garage.jp/Docu0008
 大阪市西区の埋立地に建設された工場の設備はゴ―ハムらアメリカ人がレイアウトしたもので、米国式の最新式機械を使用した、建坪1,300坪に及ぶ当時の日本で最新最大の自動車工場となった。当時の国産車で技術上のネックとなる『シリンダーブロックの鋳物は、外人技術者の指導を受けるとともに、自分たちでもいろいろと工夫して、質の良い材料により強靭なものをつくることができるようになった』(③P75)という。(工場にずらりと並ぶゴ―ハム式3輪車。最盛期には250名が働いていたという。)
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http://www.oppama-garage.jp/Docu0009
『販売準備が整って店頭に新車が並ぶと、ショールームを訪れた人々から賞賛の声が押し寄せたが、試乗した人の中から横転事故が発生した。それも一度だけでなく度々あって、3輪構造の弱点がもろに出て評判を落とした。』(Web⓭-3)(下の画像はゴーハム式4輪車のトラック型。3輪型は狭い後輪トレッドが災いしてカーブで転倒し不評だったため、4輪タイプに作り替えたものだが、三輪の面影を残してハンドルが1本バーだった。乗用車型はタクシーとしても活躍したという。)
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http://www.mikipress.com/m-base/img/1921_%E3%82%B4%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%83%A0%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AFG00000119.jpg
 1923年(大正12年)に登場したリラー号は、久保田鉄工から派遣されてゴ―ハムの助手として働き、後にダットサンで主任技師となり活躍する後藤敬義が改良を加えたもので、ゴルハム式はホイールベース/トレッドが1828/914mmと小型だったが、リラー号は2133/965mmと大型化された。ディファレンシャルを装着しリヤシャフトをシャフトドライブする、丸ハンドル式の本格的な4輪自動車に生まれ変わった。(下の写真はリラ―号。日本の道路事情を考えた実用的な4人乗り小型4輪車として、後のダットサンのコンセプトにも大きな影響を与えた。DATとともに日産車の直接のルーツとなったモデルとも言われている。)
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https://nissan-heritage-collection.com/NEWS/uploadFile/p08-01.jpg
 4輪型の生産台数は、初期型のゴルハム式が約100台、リラー号と名づけられた丸ハンドル型が約200台製造されたが、この量産規模では、フォードの横浜組立車が1,700円のところ、箱型が2,000円、幌型が1,700円と割高だった。当然ながら経営が苦しくなる一方で、先に8.3-3で記したようにダットとの合併で、軍用保護自動車を活路に生き残りを図ることになる。
(下はブログ“復活ブルーバード”さんよりhttp://u14sss22ltd.fc2web.com/datsun1.html
まさに超「レア・アイテム リラー号のカタログ」)
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http://u14sss22ltd.fc2web.com/liragou.jpg

(⑧P145)より引用する。『久保田篤次郎は、これら両社の合併が陸軍の自動車政策の一環である点について次のように指摘する。「能村磐夫さんから「今からはじめたのではたいへんだ。橋本増次郎がダット自動車で軍用車の資格を得たが、設備がないということだから、一緒になったらどうか」という勧告を受けました。それでダット自動車と実用自動車とが合併したのであります。」』 けっして目立たないのだが、日本の自動車史の中で、久保田鉄工所と久保田篤次郎、権四郎は重要な役割を果たしてきた。(久保田篤次郎の顔写真をネットで探そうとしてもなかなか出てこないのだが、下の「新経営研究会」というブログの「元アメリカ日産自動車 社長 片山 豊氏」という記事の中の写真に見ることが出来たのでコピーさせていただいた。『ダットサン完成1号車を囲む日産自動車創業時中心メンバー1935年 左から鮎川義介、浅原源七、山本惣治、久保田篤次郎』) 思いをつなげて、小型車ダットサンの量産型の完成を見届けたのだ。
http://www.shinkeiken.com/pub/aniv/03.html
追加4
http://www.shinkeiken.com/shuppan/images/30th_03kan_1_4.gif

 なお,リラー号まで設計に関わったゴーハムは,1922年に同社を退社し,鮎川義介率いる戸畑鋳物株式会社に移動していった。
8.3-5軍用保護自動車メーカーとしての新たな道
 こうして、実用自動車製造とダット自動車商会は統合されて、ダット自動車製造が誕生し、ダット51型がつくられる。以下、(③P106)より引用を続ける。
『「ダット自動車製造」となって最初の自動車としてつくられたダット51型は、41型の改良ということで、とくに陸軍の検定審査を受けることなく保護自動車として認定された。陸軍も「改進社」時代の軋轢を引きずらずに、ダット自動車に対して協力的になっていた。』
 大阪の有力財界人をバックにした旧実用自動車側の信用力がついたため(今までのようなイヤガラセもなくなり?)、ようやく陸軍からも買い上げられるようになり、経営的にも一息がつけた。石川島と瓦斯電が首都東京の企業なのに対して、新生ダットが関西の大阪の企業だったことも、勢力分布的に幸いしたのではないだろうか(想像です)。(下の写真はダット51型保護自動車。1~1.5トン積みとなり、③P106によれば1927~29の間に106台生産されたという。だが台上試験装置の方にも興味が沸く。(以下引用⑲P67)『本格的な試験装置による自動車性能試験としては本邦初のもの(中略)で、床下の直径約1400mmの回転ドラム上に、各自動車の動輪を載せて動力を測定しているところ』の、『牽引力試験風景』らしい。試験装置は隈部一雄帝大助教授(当時。後に戦後、トヨタ自動車副社長に就任)が自ら設計した。依頼主は陸軍のようで、軍用保護自動車3社と、白楊社のオートモ号を比較試験した。今でいうところの“馬力測定用シャシーダイナモ”の元祖のようだ。)
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http://yo-motor.asablo.jp/blog/img/2011/08/02/195428.jpg
 しかし“ダット(DAT)”の社名は残ったが、その意味するところは後に、支援者3名を意味するところから、製品としての自動車の特徴を表現する、Durable(耐久性がある)、Attractive(魅力的な)、Trustworthy(信頼できる)、に改められた。

9.軍用自動車補助法の、その後の変遷
<9項概要>
この記事の最後として、軍用自動車補助法の変遷を辿りながら、その間に起こった、同法を取り巻く内外の情勢変化を記した上で、まとめを書いて(ようやく!)この記事の終わりにする。
 軍用自動車補助法の改正は度々行われたが、そのうちの1921年、1924年、1929年、1930年、1931年、1932年の6回の改正について、改定内容と、背景、陸軍が意図したところを簡単に記す。
 しかしその前に、軍用自動車補助法実施後から、最初の大きな改正のあった1921年までの、3年間の状況を確認しておく。
9.1見込みを大きく下回った、その原因
 まず初めに、陸軍が当初計画していた、民間に保有させて有事に徴用する保護トラックの予定台数を確認しておく。この記事をまとめる上で③と共にもっとも多くを頼った本の⑥によれば『軍は年間300~350台を適応して5年間に1,700台の車輛を民間に保有させる計画だったと思われる』(⑥P80)という。法案の審議過程における陸軍の答弁によると『将来戦争が起きた場合を必要台数は4,000台と想定されたが、その半分弱を調達する方針だった』(⑥P50)ようだ。しかし8.2の(表5)の実績表をご覧いただければわかるが(たとえば1918~1921年の生産合計で89台)、その目標を大きく下回ってしまった。
しかし、『1917年現在、トラックの保有台数が約2,000台であり、しかもそのうちこの軍用車の規格に合うのは30~40台に過ぎなかったことを考えると、この計画は相当の大規模のものだった。』(⑥P50)1,700台という数字自体、元々大胆なものだったことも事実のようだ。以下、大幅未達に終わった理由をいくつか掲げておく。
(A)そもそも甲/乙級トラックの需要が乏しかった
『当時の日本には三トントラック(注;3トンは車両総重量で、積載量は1~1.5トンの“甲”種トラック)や四トントラック(同、1.5トン積以上の“乙”種トラック)の需要は乏しかった。実際、国会審議の中で、「民間では三トンでも大きすぎる。二トン以下も含めるべきではないか」との意見も出たが、陸軍は「軍の要求性能を満たさない」とこれを一蹴している。』(⑤P27)とのことで、その目標台数は市場調査をもとに算出されたものではなかった。『陸軍としては軍用車は火砲の輸送も可能な四トントラックの能力が望ましかった』(⑤P27)が、このクラスの比較的大型のトラックは、当時の日本の道路事情もあり、実際の需要は少なかった。
(B)当初予想の製造コスト達成が厳しかった
製造補助金の額は7.1㋑で記したようなロジックで算出されたが、実際には『ほとんどの部品を内製することが求められた状況で、工廠なみの原価で製造することは難しかったのである。』(⑥P54)必要な設備投資と、市場での販売予想台数、及び緊縮財政下での軍用車の見込み台数から、採算が合わずに、市場参入を断念した企業もあったようだ。
(C)瓦斯電が経営危機に陥った
8.1-2で記したように、当時唯一軍用保護自動車を製造していた頼みの瓦斯電が、第一次大戦後の反動の不況下でこの時期経営危機にあり、車両の製造も開発もままならなかった。
(D)軍縮になり予算不足となった
そもそも『軍用の規格に合格するすべての車輛に補助金を与えるものではなかった。その車両の中で、毎年の予算の枠内で補助金を受ける車両台数が限定されていたのである。』(⑥P51)法制化を検討していた時期は第一次大戦中で好景気だったが、何度も記しているが戦後は長い不況に突入し、財政難で軍縮となった。従い5年で1,700台分の予算の確保は元々厳しい情勢となったが、上記(A)(B)(C)の理由から実需がさらに大きく下回り、この時期にこの問題が、顕在化することはなかった。
そのほかにも、当時の日本人の舶来品志向や、申請手続きの煩雑さ等もあっただろうが、以上のような諸問題を抱えた中で、以後の改正が行われていく事になる。
9.2軍用自動車補助法の改正の経過
 この項は(⑥と⑧)を元にまとめた。
9.2-1 1921年の改正
ⅰ.対象車両の積載量を民需の多い3/4トンに拡大(従来は1トンから)
ⅱ.製造補助金を最大3,000円に増額(従来は2,000円)
ⅲ.鍛造部品の外注を認める。
ⅳ.工場内に一定の資格を有する技師を配置する条項を撤廃する。
→ⅰ、ⅲ、ⅳは上記(C)(A)(B)に対しての対応策で、陸軍にとっては誠に不本意ながらも?瓦斯電以外で当時唯一参入の可能性があった、ダットの新規参入を明らかに念頭に置いた内容だった。ダットもそれに応えようとするが、相性の悪い?両者のその後の顛末は、8.3-1を参照ください。ちなみに石川島はこの時点では、乗用車も完成しておらず、陸軍としてはこの時期、DATに託すしかなかった。
ⅱは(B)を受けての処置で、瓦斯電での経験値から当初の予想よりも製造コストが高くつくことに対しての改正だった(⑥P79)。
9.2-2 1923年の改正
ⅴ.輸入可能部品に鍛造部品が追加となる。
ⅵ.螺子の規格が廃止される。
→ⅴは石川島、ダットの両社ともに、国産鍛造部品の調達に苦労しており、そのための対応(特に石川島の新規参入を即す)だった。
ⅵは言うまでもなく、ダットの橋本との確執の結果であった(8-3-2参照)。
9.2-3 1924年の改正
ⅶ.100台/年以上製造できる規模の設備を有していることが、条件として付け加えられる。
→石川島もダットも1924年に軍用保護自動車の検定に合格し、瓦斯電に続き軍用自動車補助法の許可会社となった。先にも記したとおり陸軍は『将来的に見て、保護自動車メーカーが三つぐらいあることが望ましいと考えていた』(③P105)。しかしその一方で、『そもそも陸軍としては、修理の必要などから、多数のメーカーが少量生産することを好まなかった』(⑥P80)。その“目標”が達成されたため、3社で“打ち止め”することを意図して、これ以上の新規参入に対してのハードルが一気に上げられた。後に陸軍と商工省は3社の統合に動くことになる(“その5”の記事で記す予定)。
9.2-4 1929年の改正
ⅷ.製造補助金を大幅減額した。(1921年との比較で:甲《積載量3/4~1トン》1,500→900円、乙《1~1.5トン》2,000→1,200円、丙《1.5トン以上》3,000→1,800円)
9.2-5 1930年の改正
ⅸ. 製造補助金をさらに減額した。(1929年との比較で:甲900→400円、乙1,200→750円、丙1,800→1,200円)
ⅹ.補助金対象に6輪車を追加した。(甲1,400円、乙1,750円、丙2,200円)
9.2-6 1931年の改正
ⅺ.甲《積載量3/4~1トン》を補助金の対象から外し、他の製造補助金をさらに減額した。(1930年との比較で4輪車:乙750→150円、丙1,200→200円。6輪車:乙1,750→1,000円、丙2,200→1,500円)
9.2-7 1932年の改正
ⅻ.製造補助金をさらに減額した。(6輪車:乙1,000→700円、丙1,500→1,000円)
→1929~1932年の改正は傾向として同じ流れにあるためまとめてみていくが、4輪車の製造補助金は、甲が廃止され、乙と丙も150~200円と、トラック1台の単価からみれば、ほとんど意味をなさない程度の金額まで減らされてしまった。さらにその後1936年の改正では、乙もその対象から外されてしまうことになる。民間との共用を考慮した、後方支援用トラックの補助金は大幅に減っていき、代わりに前線で使用する6輪車が補助金の対象に加わり、以後は6輪車へと特化して、民需から大きくかけ離れていった。関東大震災(1923年9月)以降に国内の自動車市場で起きた、大きな変化に伴う結果だった。
9.3フォード、GMの進出で急拡大した日本の自動車市場
次回の記事(“その4”)で詳しく記す予定だが、以降はフォード、GMの日本進出が、陸軍と軍用自動車補助法、及び保護自動車3社に与えた影響部分だけに限定して、記しておきたい。まず両社の日本進出について、その概要だけ記しておく。
関東大震災を大きなきっかけとして、まずフォードが横浜でノックダウン生産を開始して(1925年2月)、ライバルのGMも後に続き大阪で同じくノックダウン生産に追随した(1927年4月)。両社は全国に展開した販売網を通じて、大量生産故の低価格と月賦販売を武器に、熾烈な販売競争を繰り広げていった。その結果、タクシー、トラック、バスなどの新たな営業用需要を開拓し、日本の自動車市場は急速に拡大していった。そして先に7.1で示した表(表3:自動車保有台数の推移)に示したように、トラックの保有台数も急速に拡大していった。次に両社の進出が、保護自動車3社に与えた影響から見ていく。
9.4 保護自動車3社に与えた影響
まず初めに、フォードとGMの組立台数を含む表を示す。
(表6:「日本フォードと日本GMの経営成績(1925~1934)」(㉑P30より転記))
この表と、8.2項の終わりの方で記した、国産軍用自動車メーカー3社の生産台数の表(表5)を比較すればその差は歴然となるが、たとえば1929年の石川島、瓦斯電、DATの生産台数はそれぞれ205台、58台、19台に過ぎないのに対して、すでに日本進出を果たした同年のフォードとGMの日本における組立台数は10,674台、15,745台と、あくまで生産台数を尺度にした場合だが、優に100倍くらいの開きがあった。しかも両社の本国アメリカでの生産台数はそれぞれ1,316,286台、1,271,72台と、さらにその100倍ぐらいの台数を生産していたのだから、規模が違い過ぎた。
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 しかしそんな中でも、日本の保護自動車3社も、陸軍の厳格な検査もあり次第に鍛えられていき(『陸軍の検査を通るのが6割ぐらいだった』(㉒P59))、8.1-2や8.2-2で記したように1920年代後半にはある一定レベルの性能/品質には達していたようだ。『~他の調査でも国産車の品質は「実用上何等の不備なし」とされており、実際に軍用車として使用していた軍から性能問題についてそれほど指摘されることはなかった。』(⑥P84)という。
 そのため民間向けの販売が伸びなかった主因は、性能・品質以上に、生産規模の違いによる販売価格にあったようだ。『例えば、27年当時のダットの3/4トン積トラックの価格は5,000円であったが、製造補助金1,500円、購買補助金1,000円によって実際の購買価格は2,500円(シャシーのみでは2,100円)となっていた。ところが、当時の1トン積フォードのトラック・シャシーの販売価格は1,240~1,390円であった。すなわち、20年代後半には、補助金を入れても外国車に対する国産車の価格は割高となっていたのである。』(⑥P85)しかもフォードとGMが日本に持ち込んだ月賦販売を利用すれば、顧客は頭金を500円程度支払えば購入できたのだ。(⑤P37等)
 ⑥からの引用が続くが、保護自動車3社の『1925~30年間の軍への納入台数と補助金適用台数=民間への販売台数の比率は約半分ずつであった。しかも後者は各市の電気局が中心であり、純粋な民間企業は少数であった。要するに、3社の生産車輛は軍需を中心とし、市電や一部民間企業の営業用乗合自動車として使われるにすぎなかったのである。』(⑥P83)
 手作りの域を出ない国産車と、巨額な工場設備と製品開発費を投じた大量生産の(既述のように生産規模が台数ベースでは約×1万倍も違った)フォード/シヴォレーと比較すれば、いかに補助金分で嵩上げさせても、同じ土俵での競争は無理な相談だった。
既に青息吐息の国内3社に、外資勢に対抗するための新たな設備投資の余力などあろうはずがなかった。こうして国産3社は、軍用車以外は、輸入車と競合し難い特殊用途の車両や官需向けのバスなどの限られた市場に逃げ込むしかなかった。しかも(表6)の示すように米の2社は日本市場で大きな利益を上げていた。まだまだ余裕十分だったのだ。この圧倒的な地力の差には、国産3社だけでなく車両開発に深く関わってきた陸軍も、嘆息するしかなかったに違いない。
 販売台数の大差の要因は価格だけではなく、関東大震災の影響、販売網やアフターサービスの差、月賦販売の導入、さらにフォードとGMによる馬力競争の影響などさらに細かくみていく必要があるが、それらは以後の記事の“その4”と“その5”で記していく。
 次に米2社の進出が陸軍及び軍用自動車補助法に与えた影響を記し、最後にまとめをしたうえでこの記事を(なんとか)終えたいがその前に、官側の新たな動きとして、この時代に商工省と鉄道省が誕生したことも触れておきたい。
 商工省は1925年に農商務省を分割して設立され、商工業の奨励・統制を担った国家機関で(wikiより)、自動車産業を所管する官庁となった。関東大震災後の復興需要で、黒字基調だった国際収支が赤字に転じた上に、ノックダウン生産のための部品輸入の急増等が原因で、貿易収支の急激な悪化が問題となっていた(『1922年に700万円に過ぎなかった自動車・部品の輸入額が28年には3,000万円を超え、そのままいけば1億円を突破するものと予想されていた。』⑥P108)という。国産品奨励運動が盛んになる中で、国内の自動車産業の保護&育成に、以降は商工省が前面に立ち、関わっていくことになる(“その5”以降の記事で記す予定)。
 一方鉄道省も1920年に新しく設置された省で、1928年からは今まで逓信省が担っていた自動車などの他の陸上交通部門も管轄することとなった(wikiより)。鉄道技術は自動車に先行して、すでに世界水準に達していたが、鉄道省はその育成の過程で得た知見とその自信を、自動車産業にも活かそうと試みる。まずは省営バスの発注を足掛かりに、自動車産業育成に対しても、商工省と連携しつつ、主に技術分野で深く関わっていく事になる(こちらも“その5”以降の記事で記す予定)。こうして、経済産業省と国土交通省が両輪となり自動車行政を進める、現在に至る体制が形作られていった。
 なお陸軍(省)の方も、軍需品増産の政策立案とその実施のため、1926年に整備局(統制、動員の2課)が設置されたことも追記しておく。ちなみに初代動員課長は永田鉄山であった。
9.5 陸軍及び軍用自動車補助法に与えた影響
 何度も繰り返すが、軍用自動車補助法とは、「日本陸軍が有事に徴用する予定の自動車について、その製造者及び所有者に対して補助金を交付することを定めていた法律」(wikiより要約)であり、その第一の目的は、同法が参考にした欧州諸国の補助法と同様に、日本陸軍が有事に徴用する予定の自動車の確保であった。
 しかし欧州と違っていたのは、日本には当時自動車産業というもの自体が事実上存在しなかったため、軍用トラックの発注と製造補助金と通じて、陸軍自らが自動車産業育成に手をつけなければならなかった点にあった。しかし、9.1で見てきたとおり、量の確保も自動車産業育成も共に、はかばかしい成果を上げられないでいた。時代は不況下の軍縮の時代だった。この時期の『陸軍内部では、緊縮財政により軍需予算が減っているのに、民間の自動車メーカーを育成するために予算を使うのは良くないという意見が出ていた。射撃訓練のための軽機関銃さえ購入する予算がないのに何ごとか、という声が大きくなってきていた。』(③P154)という。予算も無い中で、陸軍の立場も、その陸軍内における自動車の立場も、後年のような強いものではなかったのだ。
 そんな手詰まり感のあったちょうどその頃に、フォードとGMの日本進出が始まろうとしていた。しかし巨大な自動車メーカーである米2社の進出は、軍用自動車保護法が持つ、副次的な目的であった、国内自動車産業の保護/育成の面からすれば、相反する結果をもたらすだろうことは、目に見えていた。
9.6 フォードとGMの日本進出を反対しなかった陸軍
以下は(⑤P36)より引用する。
『ここで注目すべきは、軍用自動車補助法を提出した日本陸軍も、フォードやGMの工場進出に反対しなかったという事実である。日本陸軍も自軍の装備品は国産が望ましいと考えていたにせよ、より重要なのは高性能な軍用車を必要な数だけ確保する点にあった。つまり当時の日本陸軍は、有事の必要数量さえ確保できるなら、それが国産車であるか輸入車であるかについて、特別なこだわりはなかったのである。』
 陸軍はフォードとGMの日本進出により、いわゆる“大衆車クラス”(=何度も言うが、3000cc級の積載量1~1.5トン級)のトラックの民間での普及を内心期待したのだろう。そして9.2で見てきたとおり、恐らくは陸軍の予想を超える勢いで、国内市場は一気に活性化されていき、それに応じて民間のトラックの保有台数も大きく増加していった。以下(⑳P137)より引用
『~フォードで鮮明な印象を与えられたのは、一流新聞に、そのころ珍しいトラックの1ページ広告を掲載したことだった。今になって回顧すると、なぜトラックであり、1ページ広告だったのか。一因は、年ごとに強まってくる軍需景気時代到来の予感、産業界全体が、増大する物資流通への考え始めていた時代相を、いち早くつかんでの訴求ではなかったか。』
(⑤P36)の引用を続ける。『~そして数の確保では、フォードとGMの工場進出は、陸軍の期待に応えていた。国産車が年産400台前後だった1928年、これら工場の生産数は両社合わせて二万台を超えていた。力の差は圧倒的だった。』 こうして陸軍は労せずして、有事の際に民間から徴用する、後方支援用の1~1.5トン積クラスのトラックの必要台数を確保できたのだ。ただし国産車ではなく、外交上次第に難しい関係になりつつあった米国製の、ノックダウン生産車であったが・・・。
 以下、この記事を作成するうえで多くを頼った、⑥のP83からこの問題の“まとめ”として引用する。
『法の制定時は、輸入車と国産車を問わず、トラックの保有台数は非常に少なかったため、国産メーカーの奨励と軍用自動車の確保といった問題に相反するものではなかった。しかし、国内軍用車メーカーの不振にも拘わらず、輸入・国内組立の外国車によってトラックが急激に増加すると、どちらを重視すべきかという選択に直面せざるを得なかったのである。
 そして、当時の軍縮ムードによる予算節約、国内メーカーの消極性などを考えると、民間との共用の自動車は外国車に委ねつつ、軍用専門の自動車のみに補助金を与え、その生産を確保する方針を採ったと考えられる。』

 もう1点、陸軍の軌道修正の“背中を押した”?出来事に、先に記した商工省の誕生があった。軍用自動車補助法の実施が、国産車の奨励と自動車産業の育成という、自動車産業政策としての側面を持っていたために、今までは陸軍が前面に立ち、その旗振り役を演じてきた。
 しかし官僚機構内での役割分担として、商工省が自動車産業振興のための行政を行うことになったため、陸軍はその役目から“解放”された。そして台数が必要となる後方支援用トラックは当面フォードとシヴォレーに任せて、陸軍が開発に関わる軍用車両は、前線で使用する際に重用する6輪車に特化させるのであった。(ブログ“独歩”さん http://doppo.moritrial.com/?eid=162280 よりコピーさせていただいた、趣のある下の写真は『祖父が昭和初期に運送業を営んでいた。セピア色の写真はそのころの初代トラックでシボレー1-1/2噸トラック。「昭和12年2月27日 京都駅前にて」と記されている。』そうだ。シヴォレーのトラックは大阪組立だったせいもあり『大阪、奈良、京都、滋賀、兵庫を中心に販売した』(㉓P8)という。)
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9.7陸軍が重用した六輪軍用自動車
 しつこいようだがこの記事全体の“まとめ”をする前に、新たに保護自動車のカテゴリーに加わり、六輪自動車についても、(⑤P46、③P156)等を参考に、ここで簡単に触れておく。
 前記のように1930年の法改正で、財政難から製造/購買補助金の減額と、3/4~1トントラックが除外される一方で、保護自動車に六輪車が追加された。
 陸軍の六輪自動車といえば、後の九四式が有名だが(後の記事の“その5”あたりで記す予定)、正式化される前から、石川島(スミダ)や瓦斯電(チヨダ)などが六輪車を製造し、陸軍に納入していた。後部2軸の6輪車は積載量の多さや、不整地でも履帯(キャタピラー)を装着すれば一定の走破性が期待できた。6輪車は保護自動車3社の中でも石川島が得意としていたようだ。元はウーズレーにあったものにヒントを得て試作したのが始まりだったそうだ。(③P156)下の写真はブログ「陸軍主要兵器写真館」さんよりコピーさせていただいた「石川島P型「九二式高射砲牽引車」」。
http://www.pon.waiwai-net.ne.jp/~m2589igo/cgi-bin/bunnkanrikugun5syaryourui.html?newwindow=true

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https://www.pon.waiwai-net.ne.jp/~m2589igo/cgi-bin/92sikikenninnjidoukasya.JPG
いっぽう瓦斯電のTGE-N型6輪車はモーリス(英)のものを参考にしたようだ。(⑧P176)(下の画像は“みつを工機P”on Twitter:さん https://twitter.com/mitsuwo117 よりコピーさせていただいた。)
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 これらの六輪軍用トラックは、戦前の陸軍の軍用トラックのいわば最終型として、後の“その5”の記事で記す予定の「九四式六輪自動貨車」として結実することになる。(下の画像は「ファインモールド社製模型の「1/35 九四式六輪自動貨車 箱型運転台」の完成品。ヤオフクに出品されていたものをコピーさせていただいた。「九四式六輪自動貨車」は、小型車ダットサンやダイハツ/マツダのオート三輪(“その5”の記事で記す予定)、戦中~戦後を通じて官民一体で地道な改良が続けられ、朝鮮特需の際に両社を倒産の危機から救ったトヨタ(KB型)/日産(180型)の軍用トラック(“その6”と“その7”で記す予定)とともに、戦前の日本を代表するクルマではなかったかと思う。ちなみに1台だけあげるとすれば、一般的にはダットサンだろうが、個人的にはこの九四式だ。『九四式6輪自動貨車については、それを鹵獲し、テストした米軍側の評価が残っている。米軍からみれば、九四式6輪自動貨車は出力重量比の低さが問題視されている(米軍の同クラスの軍用トラックは七十~九十馬力前後)ものの、信頼性は高いと評価されていた。事実、日本陸軍が長い兵站線を戦ったノモンハン事変でも、自動車隊の中心は九四式6輪自動貨車であった。』(⑤P75)その実直な姿そのままに、黎明期で、苦労ばかり多かった中で何とか歯を食いしばり、必死に生き残った石川島、瓦斯電、ダットの3社の文字通り“血と汗と涙の結晶”のようなクルマで、関係の方々の苦労がおもわず思い浮かんでしまう。)
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9.8 この記事のまとめ
 今まで延々と、「軍用自動車補助法」と陸軍を軸に、この時代の日本車(~1930年頃迄)巡る様々な動きをみてきたが、この最後の“まとめ”では、この記事の主要なテーマである「軍用自動車補助法」についての個人的な感想(=当然ながら全文まったくの私見です!)を書いて終えたい。

「軍用自動車補助法」が審議され、立法化されたのは第一次世界大戦の最中で、日本は戦争特需に沸き、好景気の真っ只中にあった。しかし少ない予算で、有事に民間から徴用するトラックの必要台数の確保と、自動車産業の育成を合わせて図るという二兎を追う、いささか虫のいい法案だったことも事実だった。そして民間から徴用するトラックの、5年間で1,700台という計画台数は、市場調査の結果から割り出されたものではなかった。陸軍側の軍用に徴用する必要台数から算出されたもので、当時の市場の実態と工業技術の水準からすれば、当初から、意あって力足らずに終わる可能性を十分秘めていた。
 同法は1918年5月から施行されたが、1920年3月には戦後恐慌に突入し、日本はその後長い不況となり、軍縮の時代を迎える。限られた軍事費の中で、当時の陸軍の認識では、直接の兵器でない自動車の位置づけは低かった。当初の好況期に立案された予算でさえ、目標台数達成のためには不十分な規模だったが、予算の圧縮でさらに縮小されていった。
 一方、自動車産業の育成も狙った同法に対して、民間企業の側の目からはどのように映っただろうか。
 陸軍が瓦斯電以外に参入を期待したメーカーの中には、たとえば発動機製造(ダイハツ)、川崎造船所、三菱神戸造船所という、有力メーカー3社の名前があった。
 発動機製造は、国産エンジンを開発する目的で、当時の大阪高等工業学校(現在の大阪大学工学部)の学者や技術者が中心となり、大阪の財界も協力して興された会社で、エンジンの技術開発や生産で実績があり、既に定評がある会社だった。自動車を作る上では瓦斯電よりも実力は明らかに上で、陸軍内で軍用車の試作を担当した大阪砲兵工廠と同じ、地元大阪ということもあり、陸軍は内心期待していたようだ。しかし結局、“一歩”踏み出すことはなかった。当時各種エンジンの生産で手いっぱいで、余力がなかったことが理由とされているが、陸軍の計画があまりに楽観的で採算が合わず、リスクが大きすぎると判断したからではないだろうか。
 一方三菱神戸造船所と川崎造船所の両社は、三菱/川崎財閥の中核企業として、6.2の(表1)にみられるように、当時の日本の民間製造業の中でトップ2の実力を誇っていた。造船所はこの時代の日本が誇る先進企業で、その中では原動機から工作機械まで自製していた。両社ともに一時は独自に試作車まで製作し、自動車産業進出のための具体的な検討を行ったことも事実だ。
 しかし両財閥ともに、国防を考えれば海軍はなにより軍艦であり、さらに陸/海軍ともに当時急速にクローズアップされてきた航空機が最優先で、軍用トラックの優先順位は低い(=予算配分が少ない)ことを直ちに認識した。利益を生むだけの財政支援も期待できない上に、肝心の陸軍自身も、実力のある両社に対しては、当時亜流の自動車よりも、国防の要となる可能性の高い航空機産業への参入の方を、より強く期待した。
 発動機製造を含む3社共に、結局のちには、自動車産業に進出することになるのだが、この時点では、瓦斯電や石川島、ダットほどの、自動車産業に対して格別な思い入れはなかった。あくまでも企業として冷静な判断(自動車を生産するための、新たな設備投資をしても、採算がとれない)を優先させたのだった。
 実際にその後、瓦斯電、石川島、ダットが歩んだ、軍用保護自動車メーカーとしてのいばらの道のことを思えば、3社ともそれが正解だったと、この当時は思っただろう。予算削減で軍用トラックの発注量も少なかっただけでなく、巨大な自動車メーカーとして世界に君臨していたフォードとGMが、ノックダウン生産を行うためのアジアの拠点として、日本を選択したからだ。
 そして国内3社にとっての頼みの綱だったはずの陸軍も、あえて異を唱えなかったのだ。こうして2社に追従したクライスラーを含む、今や死語となったが、巨大な“ビッグスリー“の上陸で、日本の自動車市場はまたたくまに席巻され、植民地化されていった。
 しかし、軍用自動車補助法の旗振り役でありながら、成果が出せず、打開策も見いだせないまま窮地に陥った当時の陸軍を救い出したのも、皮肉なことにフォードとGM(シヴォレー)だった。
 米車の進出で自動車市場は一気に活性化され、タクシーやトラックの営業車需要が新たに開拓されていった。その結果トラックの保有台数は大きく増加し、陸軍が有事の際に徴用する、後方支援用トラックの確保が一気に解決したのだ。ただし米国製のトラックに頼ってであったが。自給自足を旨とする総力戦構想からすれば矛盾のある話であったが、当時米国はまだ、敵国とは見なされなかったし、そもそも背に腹は代えられない状況だったのだ。
 陸軍が米国車の上陸に敢えて反対しなかった理由が、この事態までを予見したからなのか、それとも自動車行政に自信を失いかけた中で、当時の世相(“上陸”を歓迎ムードだった)に逆らうことを遠慮したのか、あるいはその両方だったのか、今となってはよくわからない。そのような視点で書かれた日本の自動車史がほとんどないからだ(⑥と、その影響を受けたと思われる⑤ぐらい?)。いずれにしても、国内自動車産業育成という見地からすれば、陸軍が距離を置き始めたことは明らかだった。
 さらに商工省の誕生により、自動車産業育成という大役から降板し、以後は商工省を後押しする形で引き続き、自動車行政に深く関わっていく事になる。

 最後の最後に、この「軍用自動車補助法」とこの時期の陸軍が、自動車産業育成に果たした、歴史的評価について、確認してみたい。一般的には『~しかし,コスト的,品質的に欧米車に劣る日本車が同法によって競争優位を獲得したということは決してなく,国家的保護によって,何とか生き残るメーカーがあったという程度の効果を果たしたと理解するべきであろう。』(引用Web❽P47)というあたりが多い。実際その通りだと思うが、個人的な心情からすると、同法と日本陸軍と国産3社を、もう一歩、前向きに評価したい気がする。
 確かに同法は、市場分析と予算の裏付けも十分無い中で、たぶんに“願望”や“勢い”で作られた法案だったように思える。しかし1910年代の日本の実情を思えば、理性的な判断だけでは、自動車産業育成策など、そうそう立案できるものではなかったことも事実だった。世界を見渡せば、量産アメリカ車の背中ははるか彼方で、ますます遠ざかろうとしており、たとえ”見切り発車”でも、その”決断”は早い方が良かったのだ。
 一方企業の側も、瓦斯電、石川島及びダットの保護自動車3社は、上記(Web❽)などの指摘のように、同法及び陸軍の下支えがあって初めて、苦しい経営を乗り切れたのは事実だ。
 しかし3社の側も、軍用保護自動車としての事業が、国を支える事業であるというプライドを胸に、脱落せずに必死に耐え忍んできた。そして厳しい環境下で陸軍の期待に応えるべ努力した末に、1930年を迎える頃にはついに、性能・品質面で、自動車としての一通りの水準まで引き上げることが出来た。もちろん量産型ではなく、主要な部品も輸入に頼っていたようだが、それでも短期間に、大きな進歩を果たしたと思う。
 同法を巡っては、たとえば当時の国情を考えれば小型車の振興に力を注ぐべきだった等々の議論があるのも事実だが、日本の自動車産業史の全体を見渡せば、この「軍用自動車補助法」と日本陸軍の果たした役割の大きさに、あらためて気づくことだろうと思う。

 以上、ようやく“その3”の記事を書き終えることができた。次の“その4”は、フォードとGMの日本進出で、たぶんこの記事ほどは複雑にならないはずで、7月中にはアップしたい。

引用、参考元一覧 (本)
①:「国産トラックの歴史」中沖満+GP企画センター(2005.10)グランプリ出版
②:「軍用自動車入門」高橋昇(2000.04)光人社NF文庫
③:「苦難の歴史 国産車づくりの挑戦」桂木洋二(2008.12)グランプリ出版
④:「太平洋戦争のロジスティクス」林譲治(2013.12)学研パブリッシング
⑤:「日本軍と軍用車両」林譲治(2019.09)並木書房
⑥:「日本自動車工業史―小型車と大衆車による二つの道程」呂寅満(2011.02)東京大学出版会
⑦:「大日本帝国の真実」武田知宏(2011.12)彩図社
⑧:「日本自動車産業の成立と自動車製造事業法の研究」大場四千男(2001.04)信山社
⑨:「永田鉄山と昭和陸軍」岩井秀一郎(2019.07)祥伝社新書
⑩:「1940年体制 さらば戦時経済」(増補版)野口悠紀雄(2010.12)東洋経済新報社
⑪:「日本株式会社の昭和史 官僚支配の構造」NHK取材班(1995.06)創元社
⑫:「企業家活動でたどる日本の自動車産業史」法政大学イノベーション・マネジメントセンター 宇田川勝・四宮正親編著(2012.03)白桃書房
⑬:「明治の自動車」佐々木烈(1994.06)日刊自動車新聞社
⑭:「日野自動車の100年」鈴木孝(2010.09)三樹書房
⑮:「20世紀のエンジン史」鈴木孝(2001.10)三樹書房
⑯:「いすゞ自動車のすべて」カミオン特別編集(2012.05)芸文社
⑰:「歴史の中の中島飛行機」桂木洋二(2002.04)グランプリ出版
⑱:「写真でみる 昭和のダットサン」責任編集=小林彰太郎(1995.12)二玄社
⑲:「20世紀の国産車」鈴木一義 (2000.05)三樹書房
⑳:「ニッポンのクルマ20世紀」(2000)神田重己他 八重洲出版
㉑:「日本の自動車産業経営史」宇田川勝(2013.10)文眞堂
㉒:「日本陸海軍はロジスティクスをなぜ軽視したのか」谷光太郎 (2016.05)パンダ・パブリッシング
㉓:「日本のトラック・バス トヨタ、日野、プリンス、ダイハツ、くろがね編」小関和夫(2007.01)三樹書房
㉔:「読む年表 日本の歴史」渡辺昇一(2015.01)ワック株式会社
㉕:「昭和陸軍の軌跡」川田稔(2011.12)中公新書
㉖:「浜口雄幸と永田鉄山」川田稔(2009.04)講談社選書メチエ
㉗:「永田鉄山 昭和陸軍「運命の男」」早坂隆(2015.06)文春新書
㉘:「永田鉄山と昭和陸軍」岩井秀一郎(2019.07)祥伝社新書
㉙:「太平洋戦争のロジスティクス」林譲治(2013.12)学研パブリッシング
㉚:「戦後日本経済史」野口悠紀雄(2008.01)新潮選書
㉛:「自動車用エンジンの性能と歴史」岡本和理(1991.07)グランプリ出版
㉜:「悪と徳と 岸信介と未完の日本」福田和也(2015.08)扶桑社文庫
㉝:「岸信介証言録」原彬久(2014.11)中公文庫

㉞:「日本自動車工業史座談会記録集」 (1973.09)自動車工業振興会

引用、参考元一覧 (Web)
➊:「戦前のオート三輪車とプレモータリゼーション」箱田昌平
https://www.i-repository.net/contents/outemon/ir/106/106070306.pdf
❷:「アメリカ南北戦争は日本の金が」ブログ“東京イラスト写真日誌”さん
http://www.irashadiary.com/2014/05/06/20140506/」
❸:「海戦勝利の要因は何だったのか」ある公認会計士の戦史研究 チャンネル日本
  http://www.jpsn.org/essay/acct_warhist/12370/
❹:「日本近現代史の授業中継」ブログ 大正政変と第一次世界大戦
http://jugyo-jh.com/nihonsi/jha_menu-2/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E6%94%BF%E5%A4%89%E3%81%A8%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6/
❺:産経新聞「戦後70年~大空襲・証言」
https://www.sankei.com/affairs/news/150310/afr1503100004-n3.html
❻:ブログ“おととひの世界”
https://ameblo.jp/karajanopoulos1908/entry-12587230470.html
❼:“長州新聞”「記者座談会 語れなかった東京大空襲の真実」
https://www.chosyu-journal.jp/heiwa/1134
❽「戦前期日本自動車産業の確立と海外展開(上)」上山邦雄
http://libir.josai.ac.jp/il/user_contents/02/G0000284repository/pdf/JOS-02872072-3703.pdf
❾-1:「日本自動車産業と総力戦体制の形成(一)」大場四千男 北海学園学術情報リポジトリ
http://hokuga.hgu.jp/dspace/bitstream/123456789/3484/1/p145-173%E5%A4%A7%E5%A0%B4%E5%9B%9B%E5%8D%83%E7%94%B7.pdf
❾-2:「日本自動車産業と総力戦体制の形成(二)」大場四千男 北海学園学術情報リポジトリ
http://hokuga.hgu.jp/dspace/bitstream/123456789/3637/1/P123-153.%e5%a4%a7%e5%a0%b4%e5%9b%9b%e5%8d%83%e7%94%b7%e5%85%88%e7%94%9f.pdf
❿::「道路運送車両法 ―その成立の歴史と背景―」小川秀貴 経営戦略研究 Vol. 6
https://kwansei-ac.jp/iba/assets/pdf/journal/studies_in_BandA_2012_p29-41.pdf
⓫:「東京ガスの歴史とガスのあるくらし」高橋豊 川崎市役所 企業の歴史と産業遺産⑤
http://www.city.kawasaki.jp/kawasaki/cmsfiles/contents/0000026/26446/08takahashi.pdf
⓬:「日本で自動車はどう乗られたのか」小林英夫 アジア太平洋討究
https://core.ac.uk/download/pdf/46895065.pdf
⓭-1:「32-07.国産車発展小史⑩~石川島造船所その2~」クルマの歴史300話 蜷田晴彦
http://ninada.blog.fc2.com/blog-category-40-3.html
⓭-2:「32-18.国産車発展小史⑫~石川島造船所その3~」クルマの歴史300話 蜷田晴彦
http://ninada.blog.fc2.com/blog-date-201702.html
⓭-3:「33.昭和時代の始まり」クルマの歴史300話 蜷田晴彦
http://ninada.blog.fc2.com/blog-category-41-3.html
⓮:「瓦斯電から日野自動車へ」家本潔 (インタビュアー鈴木孝)(JSAE)
https://www.jsae.or.jp/~dat1/interview/interview4.pdf
⓯「戦前期における自動車工業の技術発展」関,権
https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/10406/1/ronso1250500150.pdf
⓰:「みなさん!知ってますCAR?」「ダットサンのルーツ」広田民郎
https://seez.weblogs.jp/car/2008/08/
⓱:日産ヘリテージ・コレクション「実用自動車とリラー号」
https://nissan-heritage-collection.com/NEWS/publicContents/index.php?page=6
⓲:「第一次世界大戦の衝撃 ―日本と総力戦―」相澤淳 防衛研究所戦史部
http://www.nids.mod.go.jp/event/proceedings/symposium/pdf/1999/sympo_j1999_2.pdf
⓳:「「昭和日本陸軍の歴史」
https://ncode.syosetu.com/n7245fs/
⓴:「「叛骨の宰相 岸信介」北康利より」 ブログ“読書は心の栄養”
https://ameblo.jp/yoshma/entry-11925185903.html
《21》あなたは知っているか?「T型フォード」と「初代 iPhone」が転回したマーケティングの歴史」
https://markezine.jp/article/detail/28030


備考
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≪備考6≫質&量共に劣っていた日本の軍馬
 多少余談になるが、当時の日本の軍馬は世界基準で見た場合、質(能力)の面でかなり劣っていたようだ。以下(⑤P13)より引用『日本陸軍の軍用車について考えるときに忘れてならないのは、日本陸軍が抱えていた軍馬の問題である。十九世紀末から二十世紀初頭の軍隊では、機動力や兵站面で軍馬が重要な位置を占めていた。だが日本陸軍は、その質と数の両面でその所要を満たせないでいた。』(下の画像はwikiより「幕府陸軍のフランス式騎兵」)
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そのため日露戦争では、軍馬の不足から輸送力の主役は人間であったという。また当時の日本の軍馬は、性格が荒い上に馬体は貧弱で『その後の義和団事件などでも日本の軍馬は、馬体が小さいわりに従順さに欠け、諸外国から「日本軍は馬に似た猛獣を使用している」と嘲笑されるありさまだった』そうだ。
ただこのことは、馬に対しての接し方が、元来が野蛮な肉食系人種である?西欧人のように家畜(=奴隷)扱いでなく、草食系の温和な日本の社会では共生すべき生き物であったことも一因だったのではないだろうか(まったくの私見(偏見)です)。
その後、軍馬としてみた質の面では30年以上かけて徐々に品種改良されていったようだが、(引用㉒P57)によれば、国産軍用トラックの生産力/性能ともに中途半端に終わった日本は結局、太平洋戦争終結まで馬による輸送に多くを頼ったとしている。
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http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/h/hibi159/20150402/20150402020332.jpg
しかし話が脱線するが、軍馬としての能力が劣る中でも、日露戦争において日本陸軍はそれを補う画期的な戦術を編み出し、ロシア軍と戦ったという。以下は手元にあった入門書的な日本史の本の(㉔P208)「奉天会戦」より長文だが引用
『~世界最強と目されるロシアのコサック騎兵に比べ、日本の騎兵はまことに見劣りがした。何しろ徳川三百年の間、騎兵を用いる必要がなかったから、騎兵の運用は明治になって西欧から大急ぎで学んだばかりだし、馬もあわててオーストラリアから輸入して育成したものだった。日露戦争当時の世界中の人々が日本の勝利に耳を疑ったのも無理のない話であった。
そんな状況下にあって日本の騎兵の創始者、秋山好古が考えたのは、いわば逆転の発想であった。騎兵での戦いでは日本人がコサックに勝てるわけがない。だから、コサック兵が現れたらただちに馬から降りて、従で馬ごとなぎ倒してしまおうと彼は考えたのである。これは騎兵の存在理由を根本から覆す発想である。(中略)
さらに秋山将軍は、当時ヨーロッパで発明されたばかりで、「悪魔的兵器」と言われながらもその威力が戦場では未知数であった「機関銃」を採用した。黒溝台における会戦で、日本騎兵の機関銃の前にコサック騎兵は次々と倒され、なす術もなかった。(中略)その結果、最終決戦となった明治三十八年三月の奉天会戦の戦場では、とうとうコサックは前線に現れなかった。機関銃は世界最強のコサックを封じ込めてしまったのである。(中略)
世界の人々にとって、日本軍の勝利はまるで奇跡を見ているかのようであったと思われる。戦争が終わり、真実が分かっととき、それまで世界中で「陸軍の華」と呼ばれた騎兵は、世界の陸軍から急速に消滅することになった。どんなに機動力があっても、機関銃の連射の前には何の力もないことが明らかになったからである。そこで、機関銃に負けない機動力を持つものとして、十年後の第一次大戦で、欧州の戦場に戦車が登場してくることになった。』

しかし上記㉔の記述のうち、機関銃の話の裏をとろうと確認のため、wiki等ネットで検索すると、『ロシア軍の装備する当時の最新兵器の機関銃により、敵陣を攻撃する歩兵の突撃隊にたびたび大損害を被った』(wiki)等、逆の印象を受けるような記述も多数あり、良くわかりません?自分は機関銃には興味が無いので!興味を持たれた方は、ご自身でネット検索してみてください。「機関銃」は本題から離れるのでこれ以上の検索は止めるが、日露戦争は、双方が歩兵用火器として機関銃を本格的に使用した世界初の戦いだったというのは事実のようだ。
さらに(㉔P211)より追記する。『日露戦争における陸軍の司令官たちはみな実戦で学び、鍛えられた人たちばかりであった。大東亜戦争において、教科書どおりの戦法を繰り返して何ら学ぶところのなかった士官学校出のエリート軍人たちが多かったのとは、大いに違うと言わざるを得ない。』機関銃については横わからないけれど、ここは皆さん同感なのではないでしょうか。
兵站の話に戻し、話がさらに大きく脱線するが後の第二次大戦で、圧倒的な工業力で世界をリードしたアメリカは、日本より遥かに余裕があり思想も進んでいたようで、馬やトラックを“飛び越えて”第二次大戦において輸送用飛行機で物資を空輸するという“贅沢”なことを考えた。以下(引用㉒P64)より『日本陸海軍の特色は、攻撃力偏重であった。攻撃を重視するあまり、その攻撃力を支える諸々の機能(ロジスティクス)を軽視する。戦闘機は、直接的に敵艦隊を攻撃するものではないから不要だとする意見すら有力だったこともある。戦闘機は、単座急降下爆撃機にかえるべきだ、という意見も強かった。(中略)
 戦闘機無用論があるくらい攻撃力重視の雰囲気の中で、ロジスティクス関連の飛行機を開発したり、飛行機を使ってのロジスティクスを研究してみようという動きは日本軍の中では起こらなかった。(中略)これは工業力の差以前に航空ロジスティクスへの理解の差といってよかろう。』
(太平洋戦争における陸軍の主力軍用輸送機、三菱一〇〇式輸送機は輸送乗員19名で507機が生産された。九七式重爆撃機(キ21)の胴体部分を改設計し、制作された。下の絵は一〇〇式輸送機とほぼ同型のMC-20-I型。「古典航空機電脳博物館」さんよりコピーさせていただいた。)
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https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn%3AANd9GcQpEf2a00k0QFkxNygC_jsm4ELIVXDlHlQHvagpNQHLUaifxLj2
(下はジュラルミンの波形が特徴的なドイツのユンカースJU-52型輸送機。日本の一〇〇式とほぼ同性能だったが10倍近い約4,800機も生産された。『ドイツ空軍の兵士たちからは、Tante Ju(タンテ・ユー=「ユーおばさん」の意)と呼ばれ親しまれ』(wiki)、ドイツの空挺師団戦力には欠かせぬ存在だった。)
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(下はアメリカのダグラスC47型輸送機。画像はwikiより。DC-3型の軍用輸送機型で、各タイプを合わせて合計1万機以上生産された。ノルマンディー上陸作戦や、アジアの奥地作戦で活躍し、アメリカ軍欧州戦域総司令官だったドワイト・D・アイゼンハワー(後の大統領の)は、“第二次世界大戦を勝利に導いた兵器”として、「バズーカ」、「ジープ」「原子爆弾」そして「C-47輸送機」の4つを挙げたことからも、空輸による輸送が果たした役割の大きさは分かる。「"Four things won the Second World War-the bazooka, the Jeep, the atom bomb, and the C-47 Gooney Bird."」)

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≪備考7≫日本陸軍の総力戦構想について
第一次世界大戦において日本は、ドイツ領だった青島、グアム、サイパンを取り、信託統治領として領有した。日清戦争後に台湾を領土とし(下関条約)、日露戦争で樺太の半分と満州権益を得て、さらに1910年には韓国を併合していた。当時の日本はこれらの外地(植民地)をもって自らを“帝国”と名乗っていた。(下の地図の赤い部分が日本の領土で、地図はブログ「我が郷は足日木の垂水のほとり」さんよりコピー)
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https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/f8/3e60eebafd6ac14fd5f5b7e9447da700.png
南洋諸島まで拡張した“大日本帝国”陸軍には、再三記すが来るべき世界大戦に備えて総力戦体制を築くという壮大な戦略目標があり、それを実現するための明確な計画が存在していた。そして自動車もその中の一部として、位置付けられていた。
そこで以下の≪備考7-1≫で総力戦構想に至った経緯を大まかな点を記したうえで、続く≪備考7-2≫でそのための課題として、工業分野の中でも自動車産業に関係してくる部分をピックアップして、自動車と総力戦構想の関連について、概要の作成を試みた。主に参考にした本は、陸軍軍政家としての本流を歩み、総力戦体制の構築を主導した永田鉄山(永田鉄山については次の≪備考8≫で記す)について主に記された(⑧、㉕、㉖、㉗、㉘、㉙)及びそのアマゾンカスタマーレビュー(安直ですが!)、さらに(Web❾-2、⓲)等だ。しかし泥縄式の勉強では到底理解できなかったことは、本文に記したとおりです。(下の絵は東京市ヶ谷にあった陸軍参謀本部(1922年に書かれた絵)。画像は“ジャパンアーカイブス”さんより。陸軍を統括していた機関は、陸軍省(軍政担当)・参謀本部(軍令担当)・教育総監部(教育担当)の3機関だった。士官学校出のエリートたちを頂点とした、戦前の日本でもっとも巨大な官僚機構でもあった日本陸軍の組織については以下のブログ「公文書に見る日米交渉」を参照ください。
https://www.jacar.go.jp/nichibei/reference/index16.html)

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https://jaa2100.org/entry/detail/029490.html
≪備考7-1≫第一次世界大戦の教訓
第一次世界大戦は、1914年7月から18年11月まで、4年半近くに及んだ長期化と、あらゆる物的人的資源をつぎ込むという総力戦化で、戦争当初の予想をはるかに超える過酷な戦争となった。
(下の図と以下の文はブログ「昭和日本陸軍の歴史」https://ncode.syosetu.com/n7245fs/
さん(Web⓳)よりコピーさせていただいた。『1914年(大正3年)7月から1918年11月まで、4年半近くの長期にわたってつづいたこの戦争は、戦死者900万人、負傷者2,000万人という、それまでの戦争とは比べ物にならないほど未曾有の規模の犠牲者と破壊をもたらす凄惨な戦争となった。』
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日本の戦闘範囲は、ドイツの武装商船の拠点となっている南太平洋で、ドイツが租借していた南洋諸島の制圧と、同じくドイツが租借していた、東南アジア屈指の良港であった青島への攻撃でごく限定的なものであった。しかし陸軍は早くから、第一次大戦の主戦場であった欧州にも武官を派遣して、その実態調査に当たらせていた。
『日本陸軍は、ヨーロッパを中心に繰り広げられていた第一次大戦の戦訓調査について、戦争勃発の翌年の 1915 年に早くも「臨時軍事調査委員会」を設置してその調査を開始し、戦争半ば過ぎの 1917 年後半にはその総力戦的様相を「国家総動員」という言葉で捉えるようになっていた。』(Web⓲P17)
『陸軍は大正4年(1915)に臨時軍事調査委員会を発足させ,第一次世界大戦のヨーロッパ諸国における経済力戦を調査させた。委員会はその調査報告書として大正6年(1917)1月に「参戦諸国の陸軍に就て」を発行し,航空機,重火器,車輌(戦車・軍用自動車)等を中心にする総力戦の実態を報告した。さらに,陸軍は砲兵少佐鈴村吉一をヨーロッパに派遣し,各国の軍需工業の実態とその動員体制をも調査させた。この結果,彼は,大正6年9月に「全国動員計画必要ノ議」を提案するに至る。』(Web❾-2P129)
欧州で総力戦の実体と連合国及びドイツの戦争遂行の過程をつぶさに見て、大きな衝撃を受けた陸軍の中堅幕僚たちは、第一次世界大戦終結後の国家戦略の構想に取り組み始める。
『そうした総力戦研究の成果は、戦争終結後の 1920 年に『国家総動員に関する意見』という報告書等にまとめられ、純軍事的分野のみの対応に限定されない総力戦への対応策が陸軍部内で種々検討されていくことになった。』(Web⓲17)という。
その『国家総動員に関する意見』を策定したのが、前記の永田鉄山で、理論的に体系化されたその論文は、のちの総力戦体制構築のためのたたき台となっていく。(≪備考8≫参照)

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https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/dd/35131bf604536ff42a05c1a9c062b949.jpg
≪備考7-2≫総力戦構想の課題(工業分野)
≪備考7-2-1≫前書き(言い訳?)

従来の国軍は、その国力に応じた短期(1〜2年)の戦争を想定して規模や装備が定められており、それが世界共通のあり方であった。しかし国家総力戦となった第一次大戦では、国家が国力のすべて、軍事力のみならず経済力や技術力、科学力、政治力、思想面の力を平時の体制とは異なる戦時の体制で運用して争う戦争となった。
『総力戦体制構築のためにまず問題となるのが、莫大な国力を消費する長期の消耗戦を戦うために必要な経済力をどのように育成していくかであった。国内の資源が乏しく、工業生産力等もいまだ主要列強に劣る日本にとって、これは大きな問題であった。』(Web⓲P17)再三記すが西欧先進諸国に比べて、長期の総力戦を戦う上で、何から何まで足りなかったのが当時の日本だった。
以下は経済/工業分野に於いて、総力戦構想なのであくまで“陸軍目線(=「将来の戦争に備え、国を守るためには、国家総動員体制の構築が必要」とする価値判断)”から見た主な課題の中でも、自動車分野(=これも陸軍目線なので対象は乗用車でなく主に軍用トラック)に直接/間接に関わってくる部分に限定して抽出し、≪備考7-2-3≫で箇条書きで簡潔にまとめてみた。しかし何度も記すが表面的な理解のため自分のものになっておらず、いかにも寄せ集め的になってしまった。ただ本題に入る前に前書きばかりが長くなるが、この時代(=この項は主に大正デモクラシー期を想定。後の戦乱の昭和より前の時代)の時代背景を先にしるしておく。
≪備考7-2-2≫その時代背景
戦争特需の反動による不況と、1918年のシベリア出兵に対しての批判で、昭和(当然戦前の)と違い厭戦気分が高まっていた。さらにロシア帝国が滅び、外的脅威が弱まったことも相まって、軍縮への要求が高まる、陸軍にとっては逆風の世相の中で行われたものであったことも追記しておく。1922年にワシントン会議(下の写真はその模様で、画像は“国際IC日本協会”さんよりコピーさせていただいた)が開催され、軍縮条約で主力艦(戦艦)の保有制限が合意された。陸軍においても山梨軍縮・宇垣軍縮が進み「軍縮の時代」が始まった。以下(㉕)より引用
『1920年代の陸軍主流をなしていた宇垣一成は、長期の総力戦への対処として軍の機械化と国家総動員の必要を主張しており、その点では永田と同様であった。だが、基本戦略としてワシントン体制を前提に米英との衝突はあくまでも避けるべきとの観点にたっており、主にソ連との戦争を念頭に、中国本土が含まれないかたちでの、日本・朝鮮・満蒙・東部シベリアを範域とする自給自足圏を考えていた。それは、資源上からも厳密な意味での自給自足体制たりえず、不足軍需物資は米英などからの輸入による方向を想定していた。したがって、中国本土については米英と強調して経済的な発展を図るべきであるとの姿勢であった。米英ともに中国本土には強い利害関心をもっていたからである。』(㉕P81))
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http://iofc.jp/wp-content/uploads/2015/03/960829bc901f2850fa2a35e214f1cf53-300x184.png
冗長な前置きばかりだがもう1点、上記の説明ともかぶってくるが、この時代の陸軍の軍戦備構想がけっして一枚岩でなかった説明として、(㉚P78)より引用しておく。『(前略)相反する考え方があったのである。一方は「平時から大規模な戦力を持っておき、戦時になったら短期間で敵国を打ち破ろう」という構想をもっていた。工業力の貧弱な日本は長期戦に耐えられないという認識からの構想である。だが他方で「長期戦は想定せねばならないし、そのためには国内の工業基盤を整備して、長期で大量の軍需動員に備えるべきだ」という考えを持つ軍人たちもいた。』後者が「総力戦構想」といえるが、その延長線上で、自給自足体制の確立を目指し、大陸へと戦線を拡大し軍拡の道を歩む事にもつながっていったと思う。
≪備考7-2-3≫総力戦構想と自動車の関係
本題に戻り、先にも記したがいかにも“寄せ集め”の感が拭えないが!以下は箇条書きで自分なりにまとめてみた。
㊀.
長期間の総力戦を戦い抜くためには資源の自給自足体制の確立が大前提となる。そのため資源を求めて資源調査と、中国大陸における軍事行動を伴う資源確保が画策されていくことになる。このことは外交上のフリーハンドを得るためにも必要と考えられていた。
㊁.工業分野に於いては基礎的な目標としてまず、産業振興のための基盤整備として、西欧列強に大きく劣る鉄鋼や化学、機械工業等の重化学工業を自立させることがまず前提となる。そのため各種国産補助法に基づく出資/援助等を行ない、基盤産業の保護/育成を推進していく。(たとえば1917年の「製鉄業奨励法」等。Web❾-2P130等参照)
.㊁と並行して、長期戦を戦うために、近代兵器(航空機、軍艦、軍用自動車、戦車等)を大量生産し、自給自足体制を確立させる必要となる。また敵国と有利に戦う上では量だけでなく、兵器自体の性能(質)が決定的な要素となる。そのためには人材育成等も含め、工業技術力全般の大幅なレベルアップも必要となる。
. 当時の日本の限られた条件下で、㊁、㊂を実現するために、生産設備・物資・資源・人材を効率的に配置する、国家主導による計画/統制経済が構想されていく。
.関連して、動員時の統一的使用が可能なよう工業製品の規格統一を図ること、軍需品の大量生産に適するよう生産・流通組織の効率化と大規模化を目指すことになる。
.別の視点から見れば工業分野に於ける総力戦構想とは、戦時と平時の生産力のギャップを埋め平時から戦時のための工業動員に備える(平時も準戦時体制に置く)為のものと捉えることも出来る(⑧P31等参考)。
.上記㊅と関連して、陸軍にとって自動車産業を育成することは、第一次大戦の戦訓から、近代兵器として育成すべき最優先の分野であった航空機産業を、平時からバックアップすることを意味していた。現代と違い当時は自動車と飛行機の技術的な関連性が高かったため、いわゆる「シャドーファクトリー構想」(=「戦時における工場の軍需転換」)を意識していた。(関連≪備考12≫)
.産業界側からみると、第一次大戦は一方で日本に戦争特需をもたらし、主に重化学工業分野がその恩恵を受けた。上記の政府の施策と相まって日本が農業国から工業国へ、さらに軽工業から重化学工業へと産業構造を変化させるためのきっかけをもたらした。それらは自動車産業を成立させるための産業基盤が徐々に整備されていくことを意味していた。(下表はブログ「世界の歴史まっぷ」さん
https://sekainorekisi.com/の記事「大戦景気」よりトリミングしてコピー)
11J
https://mk0sekainorekisr2s2b.kinstacdn.com/wp-content/uploads/2019/10/e401b187de3e4dd0084edbd66393ceb0.png
,戦争特需で資本力を得た企業の中に、大戦終結後の軍需急減を見越して、将来の成長分野と目された自動車産業への進出を試みる企業家が現れた。本文の方の8項で記すが陸軍による「軍用自動車補助法」を足掛かりに、東京瓦斯電気工業(日野自動車のルーツ)と東京石川島造船所(同じくいすゞ自動車のルーツ)、そしてダット自動車製造(同じく日産自動車のルーツ)製の軍用保護自動車が誕生することとなる。

こうして日本陸軍は、本文の7項で記す「軍用自動車補助法」と同時に成立した「軍需工業動員法」から、その後1936年の第二次総動員計画の策定~1938年の「国家総動員法」成立に至るまで、延々と16~18年費やして総力戦構想を具体化していくこととなる(Web❾-1P157等参考)。下の画像はwikiより、『国家総動員法成立を報じる新聞 1938年(昭和13年)』)
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 そして日本の自動車産業も、総力戦構想に基づく戦時下の統制経済の下で、外資を排除した中で確立されていく。トヨタの自動車事業のスタートが1936年の「自動車製造事業法」とリンクして確立されていったことは良く知られているが、以下(⑩P4)より引用
『ダワー(Dower,1993)は、つぎのことを指摘している。①日本の自動車メーカー11社のうち、純粋な戦後産はホンダ1社にすぎない。②残る10社のうち、トヨタ、日産、いすゞの三社は、軍用トラック・メーカーとして戦時期に発展した。③他の七社においても、自動車生産は、戦時中の軍用機や戦車生産からのスピンオフであるケースが多い。』←厳密に言えば本田宗一郎がホンダ創業前に設立した東海精機は軍需依存の企業だったし(航空機用ピストンリングを生産。戦後トヨタに売却してその資金でオートバイに進出)、逆に商人の足的な存在だった、オート三輪から自動車産業に進出したダイハツとマツダも、起業時は確かに海軍との関係が深かったが、オート三輪に冷たかった戦時体制はむしろ逆風だった(のちの記事の“その5”あたりで記す予定)が、概ねまとを得た指摘だったように思える。
さらに本文の方で書いたように、自動車産業のみならず、戦後の日本経済自体も、野口悠紀雄が⑩で“1940年体制”(=『戦後日本経済史を読み解く視座として、戦後経済の礎は、1940年前後に導入された制度にある』以上⑩に対してのアマゾンカスタマーレビューより引用!)と喝破したように、戦時下の総力戦体制は敗戦後も戦後の経済体制の中に色濃く残り、やはり“総力戦”のようだった戦後の高度成長期を支えていくこととなった。(本文の方の6.4-4-3もしくは⑩あたりをお読みください。以上の考えには私見が混じっています。)


≪備考8≫永田鉄山と総力戦構想について
 陸軍の“統制派”のリーダーとして、総力戦体制構築のために邁進しつつも志半ばにして相沢事件で斬殺された(1935.08)永田鉄山の人となりについてはwiki等ネットを検索すれば多数出てくるので詳しくはそれらを参照してください。永田の目指した経済体制は当然ながら、統制経済を念頭に置いた構想だった。ちなみに永田が率いた陸軍の派閥の「統制派」という名称は、「経済統制を推進」する集団であるところから、そう呼ばれたという説もあるようだ。永田については、その功績(功罪)についても賛否両論あるようだがその点にもここでは触れない。ただ軍政家として本流を歩み、「陸軍創設以来の逸材」などと評されることもあった永田だが、それゆえに敵が多かったのは確かなようだ。
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以下は長文となるが総力戦構想について、私見が混じらないよう(これ以上迷路に嵌らないよう?)にするため!≪備考8-1≫では永田について書かれた代表的な本のいくつか(㉕、㉖、㉗、㉘)からそのまま引用して、永田の考えた総力戦構想の中から、ここでも自動車分野に関連しそうな部分について抽出を試みた。さらに≪備考8-2≫では黎明期の自動車産業の確立のために、財政面で制約が大きい中でも力を注いだ永田についての記述が(㉒、㉗)等に記載されていたので引用し、紹介しておく。
≪備考8-1≫永田鉄山の総力戦研究
 第一次大戦をはさんだ計6年間、軍事調査などのために欧州に派遣された永田は、次の戦争が軍事力だけでなく経済、産業、教育、宣伝など全ての国力を投じる長期戦になると予見した。さらに「戦争不可避論」の立場から、次の世界大戦は必ず来る筈だと読んでいた。(事実第2次世界大戦は日本軍が当初期待した「短期決戦」にはならず、永田の予想した総力戦、長期戦となった。下の画像はブログ、“五十四にして天命を知る”さんよりコピーさせていただいた、諏訪湖に近い公園、高島公園にある、永田鉄山陸軍中将(死後昇進)の銅像)
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そしてその時代に、国家が生き残るための方策として、資源確保と工業力育成と軍備の機械化と国家総動員体制の整備がカギとなると認識する。再三記すが1920年、「国家総動員に関する意見」を記し、日本における国家総動員研究の第一人者的な立場の軍人となった。以下は(㉘P56)より引用
『永田にとっての第一次世界大戦の大きな教訓は、戦争の新しい形態である「国家総力戦」(以下、総力戦)に入った事だった。飛行機、戦車、毒ガスなど、続々と導入された新兵器への関心もあったが、それ以上に戦争の性質そのものを変えてしまった総力戦に、強い関心を持った。
 第一次世界大戦はあらゆる点で、それまでの戦争とは異なっていた。軍隊と軍隊とが戦うだけではなく、国家のあらゆるものを動員し、遂行しなければならない戦争、それが総力戦である。機械化した戦争は軍隊のみで行うものではなく、膨大な物資の供給を支えるために国民を総動員しなければならない。言わば、国家の「体力」をどれだけ投入できるかにかかっている。そうなると、戦場と銃後が別々ではなくなり、一般市民の生活にも戦争は直結してくる。戦争の様相ははげしく変化したのである。
 欧州は曲がりなりにも、この総力戦を経験している。いっぽう、日本は前述のように部分的に参戦しただけで、この新しい戦争の形態を理解しているとは言い難かった。』
(以上㉘P56)
そして再三記すが永田は臨時軍事調査委員として論文「国家総動員に関する意見」(1920年)をまとめ上げる。既述のように総力戦体制の必要性について理論的に論じた、その後の日本の針路に大きな影響を及ぼすことになる論文だった。
ただし何度も途中で話の腰を折るが、誤解を招かないように追記しておくと、7-1で既述のように、陸軍は第一次大戦の主戦場であった欧州に早くから武官を派遣するなど、実態調査を行っていた。そしてその研究結果を踏まえた、総力戦体制を実現させるための第一歩となる法案となった軍需工業動員法が、永田の論文発表の2年前に、既に成立していた。
軍需工業動員法について、以下ネットのコトバンクより引用するが、既に総力戦のための準備を意識した法案であることが確認できる。『戦時体制下では,軍需生産を増強するために国家が民間工場を動員し得ることを定めた法律(1918年)。軍需品工場の国家管理,軍需生産関係会社の軍需会社指定,監督契約に基づく軍需品工場の監督などを規定した。1937年日中戦争が勃発(ぼっぱつ)すると本法が適用されたが,1938年国家総動員法の施行により廃止』以下はwikiより『軍需工業動員法は原敬から「一夜作りのものにて不備杜撰」と酷評されたように、未消化な法律だったが総力戦準備を目的とした調査・立法・実施のための機関が政府内に設置された意義は大きかった』
そして自動車産業との関連においてもこの記事の本文の方の7項で記した軍用自動車補助法(1918年)が、この軍需工業動員法と同時に、いわばセットとして成立している(⑧P13参照)。後の時代の「自動車製造事業法」(1936年成立、後の記事の“その6”で記す予定)が陸軍及び、その当時は統制経済下で陸軍の統制派と協調した岸信介ら“革新官僚”たちが主導権を握っていた商工省が主導した、総力戦遂行のための国家(産業)総動員体制の下に組み込まれた法案であったことは広く知られている。しかしこの記事の本文の7項で記す、時期的に永田の論文(1920年)の2年前に成立した軍用自動車補助法(1918年)も既に、総力戦構想を意識した、その構想とリンクさせた法案であったことを追記しておく。
例によって脱線続きだが話しを永田の総力戦構想論に戻し、以下(㉕P67)より引用。
『(前略)今後、近代工業国間の戦争は不可避的に国家総力戦となり、同時にまた第一次世界大戦と同様、その勢力圏の錯綜や国際的な同盟提携など国際的な政治経済関係の複雑化によって、長期にわたる世界戦争となっていくことが予想された。
 永田は、大戦によって戦争の性質が大きく変化したことを認識していた。すなわち、戦車・飛行機などの「新兵器」の出現と、その大規模な使用による機械戦への移行、通信・交通機関の革新による戦争規模の飛躍的拡大、それらを支える膨大な軍需物資の必要、これらによって、戦争が、陸海軍のみならず「国家社会の各方面」にわたって、戦争遂行のための動員すなわち「国家総動員」をおこなう、国家総力戦となったとみていた。
 そして、今後、先進国間の戦争は、勢力圏の錯綜や国際的な同盟提携など国際的な政治経済関係の複雑化によって、世界大戦を誘発すると想定していた。そこから永田は将来への用意として、次のように、国家総力戦遂行のための必要性を主張する。
 これまでのように常備軍と戦時軍動員計画だけで戦時武力を構成し、これを運用するのみでは「現代国防の目的」は達せられない。さらに進んで、「戦争力化」しうる「人的物的有形無形一切の要素」を統合し組織的に運用しなければならない。したがって、そのような「国家総動員」の準備計画なくしては、「最大の国家戦争力」の発揮を必要とする現代の国防は成り立たない、と。つまり、大戦における欧米の総動員経験の検討からして、戦時の準備計画のみならず平時における国家総動員のための準備と計画が欠かせないというのである。』

以上のような永田の国家総動員論を(㉖)より要約すると、『「国家が利用しうる有形無形人的物的のあらゆる資源」を組織的に結合し、それを動員・運用することによって、「最大の国家戦争力」を実現させようとするものであった。そのために平時からその準備をおこない、戦時に「軍の需要を満たす」とともに、「国民の生活を確保」するよう必要な計画を策定しておかなければならないとされる。』(㉖P111)
 永田の国家総動員論は、国民/産業/財政/精神動員などからなっていたが、このうち自動車に関連してくる“産業動員”について、以下(㉕P69)より抜粋する。
『兵器など軍需品および必須の民需品の生産・配分のため、生産設備・物資・資源を計画的に配置することである。それに関連して、動員時の統一的使用が可能なよう工業製品の規格統一を図ること、軍需品の大量生産に適するよう生産・流通組織の大規模化を推進すべきこと、などが主張されている。永田は産業組織の大規模化・高度化は、国家総動員のうえで有利なだけでなく、平時における工業生産力の上昇、国民経済の国際競争力の強化にもつながるとみていた。』
 以上は“産業動員”の大枠の部分だが、さらに焦点を絞り、同じ機械工業分野として、自動車にも関連してくる部分としては、(㉕P72)
『~このように永田は、大戦における兵器の機械化、機械戦への意向も意識しており、それへの対応が国防上必須のことだと認識していた。またそれらの指摘は、日本軍の旧来の肉弾白兵戦主義、精神主義への批判を内包するものでもあった。
 だが、このような軍備の機械化・高度化を図るためには、それらを開発・生産する科学技術と工業生産力を必要とする。ことに戦車、航空機、各種火砲とその砲弾など、膨大な軍需品を供給するために、「いかに大なる工業力を要するか」は、容易に想像しうるところである。すべての工業は軍需品の生産のために、ことごとく転用可能である。したがって、一般に「工業の発展すると否とは国防上重大な関係」がある。そう永田は考えていた。機械化兵器や軍需物資の大量生産の必要を重視していたのである。
 では、日本の現状は、そのような観点からして、どうであろうか。
 まず、飛行機、戦車など最新鋭兵器の保有量そのものについてみると、永田によれば、大戦休戦時、飛行機は、フランス3,200機、イギリス2,000機、ドイツ2,650機などに対して、日本約100機、欧州各国と日本との格差は、二十倍から三十倍である。その後も日本の航空界全体の現状は、「列強に比し問題にならぬほど遅れて居る」状況にあり、じつに「遺憾の極み」だという。戦車は、1932年(昭和7年)初頭の段階でも、アメリカ1,000両、フランス1,500両、ソ連500両などに対して、日本40両とされる。その格差は歴然としている。』
(~㉕P73)
 (㉕P73)から続ける『このように永田は、欧米列強との深刻な工業生産力格差を認識し、工業力の「貧弱」な現状は、国家総力戦遂行能力において大きな問題があると考えていた。したがって、「工業力の助長・化学工芸の促進」が必須であり、国防の見地からして重要な工業生産、とりわけ「機械工業」などの発展に努力すべきとしていた。そしてそれには、「国際分業」を前提とした対外的な経済・技術交流の活発化によって工業生産力の増大、科学技術の進展を図り、さらに「国富を増進」させなければならないという。
 だが他方、永田は、戦時への移行プロセスにさいしては、国防資源の「自給自足」体制が確立されねばならないという考えであった。とりわけ不足原料資源の確保が、天然資源の少ない日本においては、最も重要なこととされた。』

 こうして鉄鋼等の基盤産業がある程度整備された後に、総合機械工業である自動車産業も「自給自足」体制の確立を目指していく事になる。以下は論文なので固い文章なのは当然なのだが(Web❾-1P154)より引用、
『第一次世界大戦は総力戦を中心とする戦略思想と総動員体制の確立を陸海軍の新しい重要課題にさせ,我が国の資本主義を重化学工業段階と国家経済主義へ発展させ,その中心産業として自動車産業を確立させる契機となったのである。』
ただし❾-1と若干ニュアンスが異なるが私見として何度も記すと、後の動乱の昭和の時代に、大陸侵攻が本格化し、226事件以降軍部が主導権を握り、総力戦構想に基づく軍事国家体制が確立される以前の日本では、自動車産業を国が全面的に支えるような体制が敷かれることはなかったこともまた、事実であったと思う。

≪備考8-2≫自動車産業育成に努めた永田鉄山
 上記のようにやたらと“守備範囲”が広かった永田だが、彼が主導した自動車産業振興(ただし軍用トラックとして)を目指したより具体的な行動について、以下(㉗P92)より引用していく。
『永田は国内の自動車産業の発展を目的として、国産自動車の増産を積極的に促す体制を整えた。既に、軍用自動車補助法という法律が、大正七年(1918年)三月に公布されていた。(中略)
 しかし、昭和期にはいると、経費削減といった観点から、陸軍省内でもこの法律に対する批判が大きくなり、同制度の廃止を求める声や、他省に管轄を移す案などが検討されるようになった。こうした中で、永田はこの制度の重要性を強調、同制度の維持どころか更なる拡充を主張し、日本の自動車産業を強固に育成する道を切り開いた。軍用トラックの有用性を認識していた永田は、有事の際に輸入が滞る場合を考慮し、国産化を促進するよう努めたのである。(中略)
 永田は国内企業が団結して共存していく必要性を訴え、各社の社長を招き、この点について意見交換する場を設けた。永田は陸軍側の実務の代表者として、細かな折衝にも自ら進んで対応した。このような整備局動員課の取り組みが、その後の自動車各社の協力体制へと繋がった。以降、各社の合併や共同出資が次々と実現していくが、その基礎となる土壌を作ったのは誰あろう永田であった。
 日本の自動車産業は、その揺籃期において斯かる軍部の指導があって発展を遂げた。これは永田の大きな功績の一つと言えるであろう。
 現在に至る日本の自動車業界の世界的な隆盛の陰には、永田の存在があったのである。』

この項のまとめとして、(㉒P57)より引用して終わりにしたい
『近代化推進者が凶刃に倒れる
 昭和の陸軍で最も期待されたリーダーをあげよと問われれば、ほぼ10人中10人があげた名前が永田鉄山である。不幸にして軍務局長時代、相沢三郎中佐の凶刃に倒れた。
 もし永田が凶刃に倒れることなく、長く陸軍の中枢にいたならば、明治期の山形有朋と比べられるような昭和陸軍の大実力者となっていただろうという人も多い。山形は日本陸軍の創設に深く関わった。永田はその日本陸軍の中興の祖として、日本陸軍の近代化を推し進める巨人となっただろう、というのである。彼は頭脳明晰で、しかも人間的魅力もあり、横死直後は、部下が半分冗談まぎれに戒名を「鉄山院殿合理適正大居士」と奉ったほど合理性を重んじる思考や態度をとるのが常だった。
 永田は青年将校時代、第一次大戦開戦直前のドイツに語学研修に派遣され、開戦とともに急遽帰国を命ぜられる。
 その後、ふたたび大戦下のヨーロッパへ軍事研究員として派遣され、デンマークとスウェーデンに二年間滞在し、戦況の推移やドイツ軍の状況を研究した。帰国後は、臨時軍事調査委員会の委員として、第一次大戦で顕在化した国家総動員の研究に没頭した。そして、第一次大戦直後のヨーロッパの状況を知るため、オーストリアとスイスへ駐在武官として派遣された。人類はじまって以来の未曽有の大戦争であった第一次大戦の開戦直前・戦時中・終戦直後の三度にわたるヨーロッパ駐在による大戦の経験と研究は、永田をして日本有数の第一次大戦研究家たらしめた。永田は、長期・大消耗をともなう近代戦の何たるかを身をもって体験し、軍の近代化のみならず、国民精神や交通も含めた産業全体の国家総動員の必要性を痛感した。
 臨時軍事調査委員として、一九二〇年(大正九年)永田が執筆した「国家総動員ニ関スル意見」は、その後の国家総動員関連法案や政府施策の基礎となった。陸軍省では軍需品増産の政策立案とその実施のため、一九二六年(大正十五年)整備局(統制、動員の二課)を新設した。
 整備局は、近代戦に備えて、陸軍としての軍事資材の開発・製造・調達に関する基本政策を担当した。
 初代動員課長は永田中佐である。
 動員課長の永田が最も力を入れたのは、国産自動車工業の確立であった。第一次大戦を体験した永田にとって、自動車は陸軍の近代化に無くてはならぬものだった。』

そして永田の想いはその配下の伊藤久雄に引き継がれていく。(㉒P59)の引用を続ける。
『~陸軍で軍需品の開発・製造・調達に関する基本政策を担当していたのは、初代課長の永田鉄山(二代目課長は東条英機)の思想を引き継ぐ動員課(一九三六年:昭和一一年八月に、戦備課と改称)で、国産自動車工業の育成に情熱を燃やしていた。動員課の伊藤久雄少佐は一九三五年(昭和一〇年)九月、陸軍省の意見をまとめた「自動車工業確立ニ関スル経過」を作成した。』伊藤久雄については、後の記事(“その6”あたりで)で記すことにする。
(永田は自動車製造保護法成立の前年に、同じ陸軍の皇道派の刺客による凶刃にあえなく倒れてしまったが、その志は、直属の部下であった伊藤に引き継がれたのだと思いたい(もう少し具体的な証拠があると、話がまとまりやすかったが、探せませんでした)。下の写真は文春オンライン「「太平洋戦争を止められた」エリート軍人・永田鉄山は本当に歴史を変えることができたのか」
https://bunshun.jp/articles/-/13286 よりコピーさせていただいた。)

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≪備考9≫自動車産業進出に消極的だった三菱財閥
よく言われている事だが、自動車産業に必要な資本力と技術力を兼ね備えていた大財閥の中でも、とりわけ機械/重工業分野で力のあった三菱が、自動車産業への進出に慎重であった事について、記しておく。以下は「戦前期における自動車工業の技術発展」関,権著(引用Web⓯P490)より。
『周知のとおり,自動車工業は巨額の資本と高度の技術を要する総合機械工業であるため,大企業による量産体制が必要不可欠である。当時,最もその能力を備えたのは旧財閥であったが,1日財閥は自動車工業への進出にあまり積極的ではなかった。(中略)
例えぱ,三菱重工業は1917年にすでに自動車の試作を始めた。その神戸造船所では,イタリア・フィアット社のA型自動車をモデルにして試作を開始し,1918年に第1号車を完成した。』
(フィアットは三菱本社の副社長が使用していたものだったという。)
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『この三菱A型はボールベアリングなど一部の部晶を除けば、エンジン,シャシー,ボディーなどを自製し,その実用性が認められた数少ない乗用車であった。また1918年の軍用自動車補助法の施行とともに,軍用トラックを4台試作し,1920年に完成した。このような成果を収めながら,三菱は1921年に自動車工業から撤退してしまった.確かに,当時自動車工業を発展する技術的・市場的基盤が十分整っていなかった。しかし同じ悪条件に置かれながら,三菱よりはるかに小規模の資本をもって自動車生産を継続した企業がいくつか存在していた。快進社や白楊社などがそれである.またその後の日産自動車やいすジ自動車,およびトヨタ自動車のいずれもきわめて苦しい環境の中で生き残ったのである。』(下の写真は、愛知県・岡崎市にある、三菱 オートギャラリーに展示されている、三菱A型のレプリカ。三菱A型は、1917年夏に試作が開始され1918年11月に完成。1921年までに計22台が生産された。まとまった数量を見込みで生産・販売された三菱A型は、日本初の量産乗用車(のひとつ)と言われている。(300台生産した7.5-1のオートモ号の方を、日本最初の量産乗用車だとする説もある。)しかし制作に携わったスタッフも多くはなく、『三菱の大プロジェクトとしての取り組みではないといえるだろう』引用⑦P62)社運を賭けたようなプロジェクトとは全く違ったようだ。しかしそこは、当時製造業分野では実力No.1の人材豊富な“大三菱”のやることだったので、たとえ片手間仕事でも、当時の国産車としては出来の良い仕事ぶりだったようだ。
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 一方神戸川崎財閥も、大阪砲兵工廠からの要請を受けて、川崎造船所が当初は積極的に対応し、トラック(制式自動貨車)の試作車を完成させた。並行して「アメリカからパッカード製のトラックも輸入して分解、これをもとにして10台分の部品を製造、エンジンは1基が試運転をするところまで進んだ(⑦P85)という。しかしその後すぐに、自動車よりも航空機を優先させる方針へと変わったため、瓦斯電のように量産化まで進まなかった。
当時最も力のあった旧財閥系企業の中でも自動車にもっとも近かった両社の冷静な判断(消極姿勢)が、戦前の自動車工業の発展を遅らせた、一つの要因だとの指摘も多い。

≪備考10≫総力戦構想の“わからなさ”(その2)
≪備考10-1≫戦前と戦後の断絶はなかった(岸信介)

本文の6.4-3の続きです。この時代の日本を代表する官僚/政治家であり、戦時統制経済体制を主導した岸信介(下の写真はwikiより)は広く知られているように、自動車製造事業法を手がけて、自動車産業の発展に多大な貢献を果たした(後の“その6”の記事で記す予定)。しかし自動車はその業績の一端に過ぎなかった。軍事体制下で“国防”の名のもとに強権的に、革新的な政策の実行が可能だった当時の状況を『むしろ岸は、戦争を、日本の産業、経済、社会を変革する、絶好の機会ととらえたのである。』(引用㉜P195)
戦後政界に復帰後は、自ら基盤を築いた産業政策はもっぱら古巣の通産省(当時)に任せて、安全保障政策などの外交に注力したが、戦後の業績として忘れてならないのは、社会保障制度の基礎を作った点だ。『岸が社会保障の充実という点でも目覚ましい成果を上げた政治家であることはあまり知られていない。昭和33年12月に国民健康保険法の改正を行って国民皆保険とし、昭和34年4月、最低賃金法と国民年金法の制定を行ったことは、国民生活の安定に大きく寄与した。これらは中小企業減税などを通じて中小企業育成に力を入れていた岸の経済政策の最後の総仕上げでもあった。最低賃金法によって中小企業と大企業との賃金格差は縮小され、国民年金法により、これまで公的年金の恩恵にあずかれなかった農漁業従事者や中小企業や自営業にも年金が支給される形になった。(「叛骨の宰相 岸信介」北康利より)』以上ブログ“読書は心の栄養”さん(Web⓴)より引用。
総力戦構想について調べていくと、どうしても岸信介までたどり着いてしまう。岸は「岸信介証言録」(引用㉝P448)の対談の中で、個人的な考えでは、非常に印象に残る言葉を残している。対談者(原彬久)のそうすると戦前と戦後の間には、岸さんにおいては断絶というものはないのですね。』との問いに、『おそらく断絶はない。』と答えている。上記の社会保障制度の充実はほんの一例に過ぎないが、戦前から、岸の目指すところであった(“断絶”はなかった)のだろう。

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≪備考10-2≫世界的な事件で偶然に起こることはない(フランクリン・ルーズベルト)
ここで海外に目を向ければ、日米で対比し、岸がこの時代の日本側の、経済分野の実務責任者の代表格ならば、対戦国であったアメリカを代表する政治家は、ニューディール政策や第二次大戦を主導したフランクリン・ルーズベルト大統領に他ならないだろう。(下の写真はwikiより)
そのルーズベルトも以下のような名言を残している。『世界的な事件は偶然に起こることは決してない。そうなるように前もって仕組まれていたと、私はあなたに賭けてもいい。』
(In politics, nothing happens by accident. If it happens, you can bet it was planned that way.)
“あなたに賭けてもいい”と挑発的に言うぐらいなのだから、大恐慌から第二次大戦まで、文字通り身をもって体験し、表と裏を知り尽くしたものとして、よほどの確信があったのだろう。
以下は私見というよりも、“妄想”もしくは“陰謀論”だと思ってください。なので、インボーロン嫌いの方は読まないでください。
上のルーズベルトの残した言葉を重くとらえて、そのまま素直に解釈すれば、世界的な事件は、けっして“偶然”には起きないのだから、第二次大戦の連合国の勝利も、その後の朝鮮の動乱を経て米ソの冷戦体制が築かれる過程も、予め計画されていたことになる。国家の枠組みを超えた、我々下々のものたちにはわからない、そのような“力”が確かに存在するのだと、ルーズベルトは言いたかったのだと思える(まったくの私見です)。

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≪備考10-3≫戦後の高度経済成長は、予め計画された事だったのか?
以下もますます私見というか、妄想が続く。仮にもし、ルーズベルトの言うとおりだとしたら、日本が辿った敗戦~戦後復興~高度経済成長のプロセスもまた、偶然ではなく予め世界史の中の一部として計画されたものだったことになる。
日本が爆発的な経済成長を遂げた戦後の一時期、アメリカの企業は日本の企業に対して概して寛容で、最新の技術を惜しげもなく供与したという。一例として戦後の自動車業界にとって世界に向けての大きな挑戦となり、一般的には日本が独力で達成したかの如く喧伝されることも多い、マスキー法への挑戦も『~米国市場に自動車を供給しようとする会社は、マスキー法に適合する車の開発状況についての年次報告をEPAに提供することが義務付けられていた。この中にはGMの報告ももちろん含まれていた。これらの報告は集まると膨大な量になったが、すべて公開されたので、これも重要な技術情報源となった。
こうした風潮の中では新しい発明、考案の特許はそれぞれの企業の工業所有権であったけれども、売買は好意的に行われ、日本車に使用された装置や部品にはGMのオリジナルになるものが多数あった。』
(㉛P155)実際にはGMの基礎研究の成果に拠る部分も多かったという。歴史に埋もれているが、日本の自動車産業の今日の発展も、アメリカに助けられた事例も多かったのだ。
戦前~戦後と連綿と続いた“総力戦”の成果が、戦後の日本の高度経済成長であることは確かだと思う。しかしさらにその大枠として、戦後の日本を大きく成長させようとする強い“意志”が、様々な形を通して働いた結果でもあり、焼け野原からスタートした日本(人)だけの力では、けっしてなかっただろうことも、冷静に受け止めるべきだと思う。
話を戻す。こうして日本の総力戦構想も全体の中の小さな一部分として、歴史の大きなうねりの中へと飲み込まれ、変質していったのだと思う。この論理の行きつく先は、戦後の日本の自動車産業の驚異的な成長も、予定された出来事となってしまうが、もし仮にそうであれば、そのための準備が本格的に始まった時期はやはり「自動車製造事業法」成立前の、満州事変~満州国建国のあたりだろうか。
「戦前も戦後も断絶無く続いていた」という、上記の、岸信介がさりげなく残した言葉の裏に隠された真意が、やはり気になるところだ。(以上再三記すが、まったくの私見です。“総力戦構想”に関わると、予想通り迷路に嵌ってしまうようだ・・・)


≪備考11≫モデルTのインパクトは文字通り革命的だった(Webマーケティングガイド“MarkeZine”より)
重苦しい内容が続いたので、息抜きの意味もあり、ブログ「マーケジン」さん(Web《21》
)の記事を紹介させていただく。アメリカではT型フォードの大量生産が始まり、馬車から自動車へ急激な変化を遂げた。以下の2枚の写真は「MarkeZine(マーケジン)」さんの、「あなたは知っているか?「T型フォード」と「初代 iPhone」が転回したマーケティングの歴史」より、以下文もコピーさせていただいた。
https://markezine.jp/article/detail/28030
『モデルTのインパクトは、文字通り、革命的だった。ここに1900年のニューヨーク5番街の写真がある。』
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https://mz-cdn.shoeisha.jp/static/images/article/28030/28030_01.jpg
『上の写真の中に1台だけ自動車が走っている。わかるだろうか? つぎに、1913年の同じニューヨーク5番街の写真。 ここでは、1台だけ馬車が映っている。』
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https://mz-cdn.shoeisha.jp/static/images/article/28030/28030_02.jpg
『1900年と1913年。この間に何があったのか? 説明は不要だろう。1907年のモデルTが世界を変えマスマーケティング開始の鐘を鳴らしたのだ。』アメリカは馬車がそのまま自動車(多くはT型フォードに)に入れ替わったのであった。
ちなみに日本はどうだったかというと、下は「昭和10年代ごろの銀座の風景を撮影した古写真」車の影はない。
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http://blog-imgs-26.fc2.com/b/e/s/besankosyashin/20080309102333.jpg
 同じく下は「昭和14年の新宿大通り」ジャパンアーカイブズさんより。)
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⑧P27に記載の表から、軍用自動車補助法が施行される前年で、第一次大戦の最中の1917年における各国の自動車保有台数を確認すると、日本が6千台(内訳;一般車5,700台、軍用自動車300台)なのに対して、米国は日本の約1,000倍の600万台強、英国は120倍、ドイツは28倍、フランスは38倍という大差であった。


≪備考12≫瓦斯電のシャドーファクトリー構想について
8.1項の関連となるが、瓦斯電の技術部門を統率した星子勇は、松方五郎の全面的な支持を得て、自動車にとどまらず、航空機用エンジンにも力を注いだ。(下の写真は星子勇。『星子は、日本の自動車史にあって触れられることが比較的少ないものの、最初に自動車工学をしっかり学んだ技術者として記憶されていい人物である。』(③P28)『「ガソリン発動機自動車」という著作があり、欧米で自動車技術の研修を受けており、この当時の日本にあっては数少ない優れた技術者であった。』(③P87)日本自動車の経営者であった大倉喜七郎は、才能があり自動車に情熱を注ぐ星子に期待して、農商務省の海外実業練習生に選抜させるなどして、本場英/米の自動車技術を研修させていた。)
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欧州の特に