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⑱ 日本の自動車産業の“育ての親”は日本陸軍だった?(戦前の日本自動車史;その3) 軍用自動車補助法と、軍用保護自動車3社について

⑱ 日本の自動車産業の“育ての親”は日本陸軍だった?(戦前の日本自動車史;その3) 軍用自動車補助法と、軍用保護自動車3社について(日本陸軍の果たした役割;その1)

(いつものように以下文中敬称略とさせていただき、直接の引用箇所は青字で区別して記した。また考える上で参考にしたものも含め出来るだけすべて、参考文献として文末にその一覧を記載した。なお今回から、本とネット情報は別に分類した。オリジナルに勝るものはないので興味のある方はぜひ元ネタ方を確認してみてください。)
 この記事(戦前の日本自動車史;その3)は、日本陸軍が主導し、日本最初の自動車産業振興策となった軍用自動車補助法(1918年)について、その背景も含め記す(6,7項)。
 そして次の8項では、自動車産業を取り巻く当時の厳しい情勢の中で、同法により軍用自動車メーカーとしてかろうじて生き延びていった、国産自動車3社(東京瓦斯電気工業、東京石川島造船所、ダット自動車製造⇒それぞれ日野自動車、いすゞ自動車、日産自動車の源流となる)の、年代でいえば満州事変以降の、戦乱の昭和期になる前の1930年ごろまでの、苦難の足跡を辿る。
そして最後の9項では、軍用自動車補助法のその後の変遷を辿りながら、その間に起こった、同法を取り巻く内外の情勢変化を記していく。

6.軍用トラックを求めた日本陸軍と「総力戦構想」
<6項概要> 日露戦争の戦訓で輸送力に劣ることを痛感した日本陸軍は、当時の民間企業より優れた技術を誇った陸軍砲兵工廠で、自ら軍用トラックの試作に乗り出す。完成したトラックはただちに、第一次大戦に投入されて(“青島の戦い”)、実績を示し、自信を深める。さらに総力戦となった第一次大戦に対しての研究を通じて、来るべき第二次世界大戦に備えるための、総力戦構想が陸軍内で検討されていく。そして自動車もその時々の総力戦構想の中で位置づけられていき、その結果は「軍用自動車補助法」や、後の「自動車製造事業法」(←“その6”の記事で記す予定)として結実していった。
6.1-1陸軍が軍用トラックの研究を始める
 日本陸軍が自動車に対して関心を持つようになったのは、日露戦争のさなかの1904年であったという。『~ロシア軍との戦いは、輸送力の戦いでもあった。日露戦争では、兵站輸送は主に馬匹で行われたが、輸送路が長くなればなるほど補給は困難を極めた。荒野を行く補給ルートはまさに道なき道の泥濘悪路で人馬ともに疲労の極に達し、敵の襲撃による被害も大きく、それが戦局に影響して重大な局面を迎える事さえあった。そういった苦い経験から自動車に対する関心が高まったのである。』(①P11)
 日露戦争に勝利した結果、ポーツマス講和条約により、日本は樺太・南満州・朝鮮の植民地を支配することとなった。陸軍は上記のような日露戦争の戦訓から、広大な大陸戦線においては、従来の人馬だけに頼った輸送に限界があることを痛感した。そしてフランスに駐在していた武官ら陸軍青年将校たちが、自動車を研究する必要性を強く主張したこともあり、自動車導入についての検討を始める。(主に②P11)
1907年、自動車に関する調査研究命令が発せられ、これを受けて1908年、フランスのノーム・オートモビル社製トラック2台を購入し、東京・青森間の試験運行を行った。『自動車が通ることを考えた道路などあるはずもなく、走行テストには工兵隊が随伴して、通れないところは道を広げ、橋を架けるなど地元の人たちの協力を得ながらの走行テスト』(引用③P81)だったそうだ。
 翌年1909年、同じくフランスのシュナイダー社(スナイドル社=フランスの総合武器メーカー)のトラック2台を入手し、東京・盛岡間の運航試験を実施する。走行試験の結果、シュナイダー製の方が性能優秀だったといい、この車両をコピーすることにした。そしてその作業は大阪砲兵工廠が主体となって行う事となる。『大阪砲兵工廠が分解と組み立ての反復で各部分の構造などの研究』(引用③P81)を行ない、『分解したシュナイダーの部品の詳細なスケッチから図面をおこし』(引用③P81)ていった。なおその後、ルノーやイギリスのソニークラフト、ドイツのガッケナウも参考用に輸入されたが、軍用トラックとしての視点では、シュナイダー製と並びガッケナウ製の評価も高かったという。
6.1-2当初は、馬に代わる位置づけではなかった
 誤解する人も少ないと思うが、念のためここで記しておくと、前回の記事で記したように、当時の日本の国家予算の規模と、国産自動車(輸入車をトレースした国産車がようやく産声をあげた頃で、“産業”と呼べる遥か以前の段階だった)の実力からすれば当然だが、陸軍が軍用トラックの検討を始めたころの段階では、馬と代えるものという位置づけではなかった。
少し時代を遡り、明治初期の陸軍の、物資の輸送(兵站)の事情を調べてみると、『馬車より人力が重視されていた。これは当時の日本の道路事情による。馬車の通行が可能な道路は幹線道路でさえ限られていた。後に陸軍が行った実験では、幅の狭い道路ばかりのために、馬車輸送より人力輸送の方が速かったことさえあった』(④P131)という。
 その後も長い間、人力が主力だった。1891年には、二輪馬車の採用の可否が検討されたが、採用見送りの結論が出された。(④P136)日本は欧米と違い馬車の時代がなかったため、道路整備が遅れていたことも足を引っ張った。そして日露戦争も近いころになってようやく、二輪馬車、四輪馬車などの改良や制式化がおこなわれたという。(④P138)
同時にそのころから、自動車(軍用トラック)についての研究も始まるのだが、別の背景として、馬自体が、諸外国に比べて質・量共に大きく劣るという問題もあったようだ。世界史的に見れば『19世紀末から20世紀初頭の軍隊では、機動力や兵站面で軍馬が重要な位置を占めていた』(⑤P13)が、日本は馬匹による輸送力が劣っていたため、その一環としても自動車の研究に着手したという。(体格が貧弱な上に気性が荒いという、軍馬としては“最低”だった日本の馬の実態について、文末の≪備考6≫に小文字で記しておく。)
6.2陸軍自ら、軍用トラックの試作に乗り出す
 陸軍砲兵工廠における試験と研究の結果,技術審査部は陸軍が開発する軍用トラック(当時軍用自動車貨物と呼称)の性能,大きさ等を決定し,自らその製造に乗り出すことにした。
 なぜ外部に発注しなかったか言えば、当時の陸軍歩兵工廠は、『設備はもちろんのこと、技術者も工員も選りすぐりの優秀な人材が集められていた。当時、日本は官主導で近代化が図られており、民間の製造業のどこよりも進んだ技術をもっていた』(引用②P81)からで、自身の工廠以上に、適当な委託先が無かったからであった。前回の記事で記したタクリ―号がようやく産声をあげたばかりの頃の時代の話だ。
下の(表1)(Web➊P36より転記、「雇用規模からみた工場ランキング(1902年)」を参考までに。)
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(ちなみに陸軍における自動車の歴史としては、(⑬P40)によれば、ノーム社のトラックを購入する10年ぐらい前に、陸軍幼年学校で、オールズモビル “カーヴドダッシュ”を購入していたようだという。(オールズモビル “カーヴドダッシュ”はフォードT型以前に世界初の大量生産方式を採用したといわれたクルマ。馬一頭と軽量馬車を合せた値段が500ドル前後だった当時、650ドルという価格と巧みな宣伝で、ベストセラーカーとなった。下の写真と以下の文はwikiよりコピー『1905年に流った歌In My Merry Oldsmobileの楽譜の表紙に描かれた オールズモビル・カーブドダッシュとそれに乗った男女。』
2B - コピー
(さらに下も余談だがこの時代に陸軍は飛行機も、フランスから輸入したファルマン機をもとに、軍用トラックと同様『見よう見まねで』(引用③P81)飛行機をコピーして内製した。下は国産軍用機飛行機第1号の「陸軍会式一号機」画像はwikiより。)
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 話を戻すが軍用トラックの性能仕様は、全備重量4トン,積載量1トン半以上,馬力 30馬力以上,最高時速 16km/hと定められ、内製すべく大阪砲兵工廠と東京砲兵工廠に発注される。
こうして1911年5月、大阪工廠で国産の「軍用貨物車第1号」が完成、「甲号・自動貨車」と命名された。(下の写真のトラックです)
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https://seez.weblogs.jp/.a/6a0128762cdbcb970c0240a4ab05b0200b-200wi
 引き続き6月に、第2号自動貨車(トラック)が、東京砲兵工廠でも完成し、東西の両工廠製の合計4輛の国産軍用トラックは東京の青山練兵場(今の明治神宮外苑)で公式試験を行なった上、将来の自動車に対する方針を決定することとなった。なお大阪工廠で完成した車両2台を東京に送る際、試験を兼ねて自走させたが、『当時の日本は街道でも、自動車の通行は困難を極め』(引用⑤P19)、移動に15日間を要したという。
(ちなみに大阪砲兵工廠は、大阪城の東側に広がる広大な敷地に、最盛期は最大64,000名の工員を擁したアジア最大規模の軍需工場だったという。下はwikiより、当時は軍事機密だったため、その全容を示した写真が少ないため、規模の大きさを地図で示しておく。
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なお下記アドレス(三井住友トラスト不動産)に、当時の貴重な絵葉書のカラーの画像がある。本当はそちらを貼りたかったが転載不可と明記されていたのでさらに興味ある方は訪問してみてください。
https://smtrc.jp/town-archives/city/osaka/index.html)

 ここで陸軍は,総合的な調査研究を行なうための調査機関、「軍用自動車調査委員会」を 陸軍省内に発足させて(1912.06),本格的な輸送の機械化と輸送兵器の開発を推進する。
この軍用自動車調査委員会において,内地,満州の地形において、軍用トラックの性能試験を行ない,各種のデータを収集し,先行するイギリス,フランス,ドイツなどの軍用自動車補助法を調査研究し,日本への適用とその実施方法等、具体的な検討を始める。
6.3第一次世界大戦(青島戦)で軍用トラックが活躍
 そのさなかに、第一次大戦が勃発する。陸軍は早速、ドイツの青島海軍基地を攻撃するために工廠で作った軍用トラックに砲弾を輸送させ,兵站戦を維持させた。その時の状況について、以下(①、②、③、⑤、⑦)等よりダイジェストに記す。
 1914年第一次世界大戦が始まると,日本は当時の日英同盟関係 から、連合国側の一員として参戦する。そしてドイツが所有していた中国の青島要塞を攻撃,砲火で打ち砕いた。その際の重砲弾の運搬で見せた働きが,兵站作戦における軍事的利用と、輸送兵器としての軍用トラックの新しい役割についての認識を深めさせる。(下の写真はwiki“青島の戦い”より、ドイツ軍の「青島要塞を砲撃する四五式二十糎榴弾砲」。この青島の戦いについて、(⑤P202)より引用『陸軍における自動車運用の歴史と言う観点では、青島攻略戦は初の実戦ということでも、また戦場での自動車の有用性を確認できたという点でも無視できない。しかし、投入された自動車班は小規模なもので、自動車の実戦テストの意味合いも強かった。したがって兵站作戦全体では、取るに足らない存在であったのもまた事実であった。』あくまで試験的な運用であったということのようだ。)
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 以下の2枚の写真は、第一次大戦の主戦場であったヨーロッパ大陸で、自動車による迅速な大量輸送がその威力を発揮した代表的な戦いであった、「マルヌの戦い」と、「ヴェルダンの戦い」について写したものだ。
(下は「マルヌの戦い」で動員された、パリのタクシー(ルノーAG-1型)の隊列。1914年ドイツ軍がパリに迫ったが、タクシー600台が夜間に6,000人の兵士を前線まで運び、ドイツ軍を押し返すことに成功した。鉄道に頼らぬ高速移動手段の重要性が示された。ちなみに1914年時点の日本全国の自動車の総保有台数は1,066台に過ぎなかった。)
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https://topwar.ru/uploads/posts/2015-05/1430502636_marnskie-taksi-na-hodu.jpeg
(下は1916年の「ヴェルダン要塞の攻防戦」のもの。補給路は鉄道が1本と狭い道路1本だけで、鉄道で運ばれた物資を前線まで運ぶのが自動車部隊の役目だったという。連合軍は3,500台もの自動車を動員して、補給線を維持することに成功した。そして『「フランス軍がドイツ軍に勝ったのはフランスのトラックがドイツの鉄道に勝っていたからである」と言われるほど勝利に決定的な要因となった。こうした効果は直ちに各国に知られたが、日本もその例外ではなかった。』(⑥P47)下のフランス軍のトラックの隊列の画像はブログ「「ヴェルダンの戦い」この戦いから大規模な消耗戦が始まりました」よりコピーさせていただいた。http://kamesennin2.info/?p=3129
日本も前述の「軍用自動車調査委員会」が、第一次大戦における各国の軍用車の状況を調査すべく、イギリス、イタリア、フランス、ロシア等に武官を派遣しており、前線で大量に消費される弾薬の輸送のために、自動車が欠かせないことを認識していった。(⑤P24))

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http://kamesennin2.info/wp-content/uploads/2018/05/4abe222c425880367a80e2f1a836c882-300x169.png
6.4第一次世界大戦の教訓と陸軍の「総力戦構想」
 このあたりで、日本の自動車産業の“育ての親”役を担った、戦前の日本陸軍の基本戦略であった「総力戦構想」について、多少なりとも触れておかねばならないだろう。超メンド~な話になりそうなので全く気が進まないが(書いていて、“苦痛”以外何物でもなかった!)、今回の一連の記事のメインタイトルを、日本の自動車産業の育ての親が陸軍だとした以上、ここは避けては通れない・・ 
正直なところ、不勉強でよく知らなかった事だが、日本陸軍には、総力戦となった第一次世界大戦における欧州での戦況を基に、来るべき世界大戦に備えて総力戦体制を築くという明確な戦略思想があった。そしてそれを実現するための遠大かつ合理的な全体計画の中の一環として、自動車も位置付けられていたようなのだ。しかし、ここ半年以上ウンウン唸りながら「総力戦構想」と自動車のかかわりについて記そうと試みたが、いつものように?考えれば考えるほど迷路に嵌ってしまい、正直なところよくわからなかった。ただせっかく書いたのだし、その部分についてはあくまで参考(不出来な試作品なので、読むのを飛ばしてもらった方が良い?)程度に小文字で末の備考欄の方に≪備考7≫として文記しておく。こちらの本文ではそれら備考欄に記した内容を踏まえたうえで、満州事変(1931年)勃発により状況が大きく変化する以前の、陸軍にとっての自動車(産業)の位置づけについて、ほとんど“日本史の検証”みたいな上に私見だらけだが、より概要的に考察を試みたい。なお、この記事の趣旨からしても、総力戦構想自体の“是非”(評価)については検証していくつもりは毛頭ないことを追記しておく。ただし、総力戦構想がもたらした“結果”の一断面ぐらいは、6.4-4で記しておきたい。
6.4-1-1何より痛かった、幕末の金(ゴールド)の流出
 備考欄には何度も記したが、陸軍が次の世界大戦(=第二次世界大戦)で想定した総力戦においては、国力そのものが問われる戦いとなる。しかし≪備考7≫をお読みいただければわかると思うが、西欧列強諸国に追いつこうと必死だったが、何から何まで著しく劣る当時の日本の状況からすれば、そのための準備(=総力戦が予想された、来るべき第二次世界大戦に対する国防)は、気の遠くなるようなものだったに違いない。
(表2「明治33年(日露戦争の4年前)の各国のGNPと軍事費」)
(下表は1900年(日露戦争の4年前)の各国のGNPを比較したもの。西欧列強諸国に比べると著しい差があった。そして日露戦争の戦費は当時の国家予算の8年分に相当したという、巨額なものだった。⑧P85の表を基に転記して記した。)
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≪備考7≫では話を自動車に関連した工業分野に限定して記したが、ここではより広い視点に立ち、国家財政の面から見ていきたい。
“自動車史”というよりも“日本史”になってしまうが、明治維新以降の日本の国家財政は、幕末に金と銀の交換比率の違いをつかれた、欧米への金の大流出があり、せっかくの“黄金の国ジパング”だった日本は、金(ゴールド)という国冨が失われてしまった。(引用Web❷「アメリカ南北戦争は日本の金が」を以下参考までに。
『日米修好通商条約の第五条に「金銀等価交換」がある。当時、江戸においては金貨1枚を銀貨4枚と交換できた。つまり金の価値は銀の価値の4倍である。いっぽう世界の相場は約15倍であった。金1枚に対して銀15枚も必要だった。それまで鎖国をしている日本にとって世界相場などどうでもよかった。ほとんどが国内で流通していたのだから。ハリスはそこに目をつけた。「日本の金は安い!」と。なんと世界相場の4分の1なのだから。マルコ・ポーロのいう「黄金の国ジパング」は本当だったのだ。方法はこうだ。まず日本にメキシコ銀貨を大量に持ち込み、これを金貨(慶長小判)と交換する。次に大英帝国に割譲されたばかりの香港へこの金貨を持ち込み、ふたたびメキシコ銀貨に交換する。1 : 4 で交換してもらったものを1 : 15 で交換し直すのだから約4倍に増える。ボロ儲けである。ハリスはリンカーンの部下であった。
もうけたカネは着服もしただろうが、大いに政府の軍資金となった。その規模ははかりしれない。経済的には南部より格下だった北部に日本のゴールドがもたらした功績はすさまじい。形勢を逆転させ、一気に軍事的優位に立った。たった2万人足らずの兵を220万人まで増やし、期間銃や大砲などの最新兵器をそろえた。4年ものあいだ南軍と戦い、これに勝利。敗戦した南軍の費用支払いも代替した。さらには広大なアラスカをロシアから購入した。』
日本の保有していた金(ゴールド)のおよそ8割が流出し、そのうちアメリカに流れた分の金だけで、南北戦争時の北軍側の戦費が賄われたうえに、アラスカまで買ったのだという。さらに“往復ビンタ”のように、戊辰戦争時に、その余った中古の武器を買う羽目に陥ってしまった。)

そのため、スタート時点から国家の運営を外国からの借金に大きく依存する体質となってしまった。世界の政治経済の根幹を成す、もっとも重要な要素が、金融通貨制度であることは言うまでもない。世界がまさに金本位制の時代を迎えようとしていた中で、金を大量に保有していた日本と日本人は、本当は豊かな国としてスタートが切れたはずなのに、何とも悔しい思いだ。(下の図はアンティークコイン.JPさんの「金本位制、銀本位制と景気循環」よりコピーさせていただいた、わかりやすい図だ。
https://www.antiquecoin.jp/trivia/business_cycle.html )

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https://www.antiquecoin.jp/img-bana/business_cycle-bana_pc.png
 日露戦争(1904~1905)では何とか勝利に持ち込めたものの賠償金の獲得まで至らず、逆に巨額な戦費の借金を米欧のユダヤ人資本家から背負ったため、財政面ではさらに苦境にあえぐ結果となった。(下は有名な日露戦争の構図 出典compact.digi2.jp )
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(下の写真はアメリカの金融資本家のジョイコブ・シフ。写真と以下の文はwikiよりコピー『高橋是清の求めに応じて日露戦争の際に日本の戦時国債を購入した。』以下はWebの❸より、金融資本家側からみたマネーゲームとしての日露戦争を解説した文を長文だが引用させていただく
『日本海海戦の勝利につながった同盟国英国と友好国アメリカの支援については既に述べましたが、ここではその資金に関して述べたいと思います。日露戦争遂行のための日本国債を外国金融機関に購入してもらうため、欧州行脚した高橋是清については良く知られています。特に米国クーン・ローブ銀行のジェイコブ・シフが日本外債の購入を積極的に支援してくれたため、高橋は軍資金の調達に大成功したと言われています。ジェイコブ(ヘブライ語ではヤコブ)・シフはロスチャイルドの米国総支配人で全米ユダヤ人協会会長でもあり、ロシアで迫害されているユダヤ人のために日本を応援したと言われています。それもあるでしょうが、やはりこれは投資です。
 パリ・ロスチャイルドは既にロシアに大量の投資をしており、ロンドン・米国ロスチャイルドは日本に投資する。戦争の両方に投資するのは彼らの常套手段です。アメリカ独立戦争でも同じことをしています。簡単に言えば二つの国や勢力に戦争をさせて両方に大金を貸付け、買った方からは金利と成功報酬、負けた方からは担保である領土を取るのが彼らのビジネスです。』
 なお総力戦構想や統制経済体制について調べていくと、社会主義色が強いため、多くの歴史書でコミンテルンの工作による影響との指摘が多々あったが、そもそもロシア革命を裏から支援して、共産ソ連を誕生させたのも、ロマノフ王朝を倒したかった(=中央銀行(=その国の通貨発行権を持つ国債金融資本家たちの私有物)の設置を拒んでいた。さらにロマノフ王朝の財宝も奪いたかった(❸より要約))国境を越えた金融資本家たちだ。幕末の日本に対して、幕府側をフランスのロスチャイルド家が、薩長側をイギリスのロスチャイルド家が背後から応援したのと同じ構図で、“両建て”でやっていただけで、根っこをたどればそもそもどれも同じのはずなのだ(私見です)。)

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6.4-1-2すべてが足りない中で自動車の位置づけは総体的に低かった
下表はブログ“日本近代史の授業中継”さん(以下Web❹として引用)http://jugyo-jh.com/nihonsi/ の記事「大正政変と第一次世界大戦」よりコピーさせていただいた(出典;帝国書院「図説日本史通覧」p234)。軍事費だけでなく、巨額な国債の償還費が重くのしかかる。それ以外(残りもの?)では明治政府が重点をおいた鉄道・電信のインフラ整備とともに、産業基盤の整備として製鉄所の拡張にも何とか予算を割り当てているのが目立つ。ただこの表を見れば、他までは手が回らなかった状況は、おおよそ察しがつく。
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 第一次大戦中は戦争特需で一時的に潤い、貿易収支も黒字に転換したが、1920年3月、バブルがはじけ、戦後恐慌に突入、関東大震災(1923年)もあり、1920年代は総じて不景気な時代となった。
 何度も記すが欧米に対して約100年遅れてスタートした当時の日本は、大きな基金となるはずだった金(ゴールド)を失ったため、少ない国家予算の中でやりくりして、それでも何とか追いつこうと必死だった。しかし育成すべき産業はあまりに多く、当然ではあるがまずは鉄鋼等の基盤産業の整備に力が注がれ、自動車産業にたどり着くまでにはまだまだ、時間が必要だった。
6.4-2陸・海軍共に、航空機産業の育成が急務だった
 戦前の国家予算の中で突出していた軍用費の中でも、第一次大戦後の陸軍にとって最優先すべき兵器として、第一次大戦で実戦に登場し、目覚ましい活躍をした航空機の出現があった。そして航空機は陸軍のみならず海軍からしても軍艦の国産化とともに、最重要な兵器と認識された。総力戦構想についていろいろと調べていくと、当時の日本の軍部が第一次大戦での航空機の活躍に大きな衝撃を受けたことがわかる。何度も記すが、陸軍は自動車産業を軽視したわけではけっしてなかったが、来るべき第二次大戦への備え(国防)であった総力戦構想の中で、主要な兵器となる航空機や軍艦に比べれば、直接的な兵器でないこともあり、相対的に位置づけが低くなるのもやむを得なかった。
 このような国家としての意向に従い民間企業の側も、たとえば“国家と共に歩む”ことを社是とする三菱財閥の中核企業で、当時の日本の民間企業の中で最も優れた工業技術力を誇った三菱造船所(及び後の三菱重工/航空機)も、軍艦や航空機の開発に全力で取り組んだが、フォードとGMの日本進出以降ハードルがさらに高くなり、巨額の投資が必要な上にリスクの高い自動車産業に本格進出することはなかった。
 このことは概ね、戦前を通して言えることだと思う(以下私見です)が、陸・海軍の方針として、もっとも頼りにしていた(国防が目的なのだから、優れた武器を作る力のある企業が大事にされるのが道理だ)民間企業の三菱は、最重要兵器である飛行機に全力を注ぐべきで、陸軍目線で言えば飛行機の次は、時には自動車以上に戦車だった。いわば傍流であった自動車産業への三菱の本格進出を、軍側は長い期間、本気では望んでいなかったように思える。参考までに初期の三菱財閥の、自動車に対しての取り組みについて≪備考10≫で記しておく。(写真と文は“時事ドットコムニュース”さんより
https://www.jiji.com/jc/v2?id=20110803end_of_pacifi_war_17『米軍が1944年にサイパン島で捕獲し、米本土に持ち帰ってテストした零戦52型[米国立公文書館提供]【時事通信社】』この時代の多くの工学系の学生たちの夢は、航空機の開発に携わることだった。そのため航空機産業に突出して優秀な頭脳が集まり、当時の日本の工業技術水準からすると、部分的にせよ、ほとんど“奇跡”のようなことが起こった。いわゆる“ヒコーキ少年”が多かった時代でもあった。)

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https://www.jiji.com/news/handmade/special/feature/v2/photos/20110803end_of_pacifi_war/00896505_310.jpg
 慎重だった.三菱がようやく“本気モード”に変わったのは、心変わりした陸軍/商工省が軍事国家の強権で強引に仕立てた「自動車製造事業法」行きバスの第一便が、トヨタと日産だけを乗せて発車寸前になった頃だった。乗り遅れまいとあわてて飛び乗ろうとしたが、最初に誘われた時に躊躇したのが災いして乗車拒否されてしまった。『~商工省の自動車政策は一言でいえば日本の自動車産業は日産、トヨタで充分である。三菱は自動車に手を出すなということであった。「ふそうの歩み134頁」』(⑧205) 時すでに遅かったのだ。

※【7/26追記】 上記を裏付けるような内容が、最近入手した本(「日本自動車工業史座談会記録集」(自動車工業振興会;以下引用㉞)の中に記述されていたので、追記しておきたい。㉞の中の「第3回座談会「自動車工業史よもやま話」― 大正末期~昭和10年前後 ―」という、1958年8月15日に行われた座談会における、伊藤久雄の証言だ。伊藤は後の“その6”の記事で記すことになるが、陸軍の立場から、商工省の革新官僚であった岸信介、小金義照らと連携して、自動車製造事業法を強力に推進した、その立役者だ。
 なおこの座談会の趣旨として冒頭に『~自動車工業の歴史の裏話しということでございますから、思い切ったことをお聞かせねがいたいと思います。なお、この記録は、すぐには発表せずに、適当な時期がくるまで自動車工業会の金庫に凍結しておくことにいたしたいと存じます。』との発言があり、事実この書物が世に出たのは(といっても非売品だった)この座談会の15年後のことで、約束は守られたようだ。
 そして伊藤は、当時の自工会会長であった日産自動車浅原社長以下、島秀雄、原乙未生ら錚々たるメンバーが集まった席で、相当思い切った、あの当時の陸軍としての“本音”を発言している。(以下㉞P64)
『陸軍の側からいうと、大きな自動車工場を持つことによって、将来飛行機の製造に移ることを考えていました。そのために、自動車工場を確保することが先決問題でした。このことは外国でも同様であって、第一次大戦の際にもそのような経験があったからです。そのようなわけで、この問題を軽々に扱ったのでは、後に飛行機の製造に進むときに困る、自動車だけの問題ならたいしたことはないが、飛行機への思惑がからむために大きな問題になったのであります。それで、自動車を純国産で育てることが本筋であり、またできないことではないという見解で、しばらくは、商工省と意見が一致しなかったと思います。』
 ㉞は、日本の戦前の自動車工業史を記した、あらゆる書物が参考にするほど有名な記録集だが、この発言内容は衝撃的だ(しかし何故か、ほとんど注目されていない)。自動車産業を育てようとする目的(目標)はけっして一つではなく、多層的に存在したのだろうが、陸軍にとっての自動車産業は、第一義的には、航空機のためのシャドーファクトリー(非常時の 軍需転換工場;この記事の“備考12”参照)であったと告白しているのだ!伊藤は先に記したように、自動車製造事業法の立法化にもっとも功績があったと、世に認められている人物であるが、その伊藤の『自動車だけの問題ならたいしたことはない』という発言に、自工会側の出席者は思わず絶句したことだろう!当然商工省側はまた別の主目的もあっただろうが、この伊藤の発言は自分が直感的に思った、上記の項(6.4-2陸・海軍共に、航空機産業の育成が急務だった)が正しかったことを証明してくれていると思う。

6.4-3激動する昭和期の自動車産業
 国内の自動車産業を取り巻く状況について、陸軍の総力戦構想を軸に第一次大戦後の状況を概観してみたい。詳しくは次回の記事(“その4”)で詳しく記す予定だが、関東大震災を一つのきっかけとしてフォードとGMが日本に進出し、国内の自動車市場は急拡大した一方で、追って進出したクライスラーも含め米3社(ビッグスリー)の植民地と化した。そのためこの記事の次の7項以降で記すが、産声を上げたばかりの国産自動車会社は、軍用自動車補助法の保護の下でかろうじて生き延びていくしか方法がなかった。そしてこの外資3社による市場の独占を、当時は陸軍も、やむを得ぬものとして半ば容認していた。市場の急拡大により有事の際の必要数が、フォードとシヴォレーのトラックにより当面確保されたからだ。
 しかし満州事変の前後から、日本を取り巻く内外の情勢が大きく変化していく。それと連動して、上記の三菱のところでも触れたが、総力戦構想の中における自動車産業の位置づけに変化が起きる。
日本包囲網が形成されて、次第に孤立していった日本は、総力戦構想に基づき自給自足体制を築くべく、資源を求めて大陸への侵攻を拡大していく。しかし広大な大陸では長い兵站線の維持のため、今までよりも大量の軍用車が必要だった。そのことは熱河作戦で多数投入された、フォードとシヴォレーによる自動車部隊の活躍で証明された。陸軍省整備局を中心とした、大陸政策の中心に自動車産業を据えたいという思惑もあり、いわゆる“大衆車”クラス(=“大衆車”といってもフォード、シヴォレー級の3000ccクラス)の国産軍を、総力戦構想に基づき大量生産を行い自給自足体制を築くべしという、高いハードルを伴う、強い意志を示す。
 さらに陸軍と連携した商工省の“革新官僚”(←wiki等を参照してください)達による、軍の威光を借りて統制経済を一気に進め、自動車を重化学工業育成の柱に据えたいという全体構想と重なってくる。ここで遂に日本でも自動車が、今までの“脇役”から一転して“主役”に躍り出る。そして「自動車製造事業法」が制定されて大量生産を前提とした自動車産業の育成に大きな力が注がれることになる。(詳細は後の記事の“その6”“あたりで記すことになるが、「自動車製造事業法」の許可企業となるためには、米の2強とまともにぶつかる大衆車クラスの乗用車とトラックを大量生産する事が前提という高い関門が設けられた。いくら巨大な外資系を「国防」を名目に排斥するからと言われても、財閥を含む多くの企業がしり込みする中で、水面下で軍と商工省と連携しつつ、”絶妙なタイミング“で舞台に登場したのがトヨタだった。今のペースだとその辺を書き込むのは年末ごろ?下の画像はオランダのローマン博物館に所蔵されている、トヨタ初の量産乗用車のトヨダAA型。世界で唯一の現存車と言われている、歴史的に大変重要なクルマだ。画像と以下の文もwikiからダイジェスト『太平洋戦争末期に満州国に侵攻してきたソビエト連邦軍により接収され、大戦終結後にウラジオストックからシベリアの農夫の手に渡ったとみられる。改造個所は多くみられるが、トヨタ博物館の調査によりAA型であることが確認された。』やはりレプリカにはみられない独特な存在感を放つ。)
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 そして戦時体制に移行すると乗用車生産は打ち切られ、軍用車のみが残る。陸軍、商工省と、市場に参入した日産、トヨタの計画通り、「国防」の名の下で米国の自動車メーカーは次第に排除されていき、国産“大衆車”は強大なアメリカ勢と戦わずして、国内市場を独占していくことになる。
 しかし何度も記すが、激動の昭和の時代の、“その時” が来るまで、自動車産業に対して、大きな国家予算が割り当てられることは、けっしてなかった。
 話を元に戻し、自動車は以上のように相対的に低い位置づけの中ではあったが、それでも少ない予算の中から何とか割り振り、効率的に軍用トラックを調達し、あわせて日本に自動車産業を興すために、次の7項以下で記述する、陸軍による日本初の自動車振興策が実施されていく事になる。
6.4-4「総力戦構想」の“わからなさ”
6.4-4-1永田鉄山の「国防に関する欧州戦の教訓」(1920年講演)
6項の最後として、陸軍軍政家としての本流を歩み、日本の総力戦体制の構築を主導していった永田鉄山が、来るべき総力戦(第二次世界大戦)において、兵器としての飛行機がいかに決定的な働きを示すか、それを予見するような記述があったので、以下例によって長くなるが参考までに転記しておきたい。
第一次大戦のさなかに武官として現地に派遣されていた永田は、総力戦の実体と連合国及びドイツの戦争遂行の過程をつぶさに観察した。その中で、自動車が示した役割についても注目し、限られた国家予算の中で、何とか自動車産業を育成しようと力を注いだ事でも知られている。そんな永田の総力戦構想と、自動車との育成に尽力した過程については≪備考8≫に参考までに記しておく。しかし当時の陸軍において、自動車に対しての理解の深かったそんな永田ですら、第一次大戦における飛行機の活躍については、衝撃的だったようだ。以下より(引用⑨P64)(主に永田鉄山「国防に関する欧州戦の教訓」と題する講演(1920年)における発言からの引用)より
『永田の言及は多岐にわたるが、注目したいのは飛行機に関するものである。第一次世界大戦中、飛行機の機能や運用は飛躍的な進歩を遂げた。その進歩の様子は「三ヶ月ごとに確信を経る」もので、戦争終結後一年も経たずして大西洋横断飛行を成し遂げている。
「かような有様であるから、帝国が他国に宣戦を布告した暁には、その当日からただちに東京大阪はもちろん九州北部の工業地や呉・佐世保の軍港は先もってこれら悪魔の襲来を受ける運命を有つことになったのである。不幸もし日本がかかる立場にたったとすれば、それは、じつに一大事である。市街は焼かれ、工場も破壊され、隧道や鉄橋も爆破され、動員・輸送・軍需品補給等の軍事行動が著しく阻害されるのみならず、一般人民は家を焼かれ、食需を断たれ、たちまち生存上の大危機に逢着せねばならぬのである。家屋が木造であり隧道橋梁等の術工物の比較的多い帝国はとくに他国に比し甚大の惨禍を覚悟せねばならぬのである。」(永田鉄山「国防に関する欧州戦の教訓」と題する講演(1920)より)
 この論考が書かれた二十五年後、わが国はここにある通りの被害を受け、敗戦を迎える。もちろん昭和10(1935)年に殺害される(注;「相沢事件」参照)永田が日本の敗戦を知るはずもない。これだけ状況が一致するということは、永田の見識はもちろんだが、日本の国情と新兵器の進歩について知識のある者であれば、ある程度は必然の結果として浮かび上がることだったのかもしれない。
 飛行機は、遠隔にある内地を戦地と同様の脅威にさらし、さらには戦線の飛躍的拡大をもたらした。戦争の形態を一変させたのである。』
(以上引用⑨)
 以上の1920年時点での永田の講演の内容を自分なりに解釈して重要なポイントを2点記すと、
・総力戦構想の中で今後、航空機産業の育成が重要視されるだろうことと、
・第一次大戦の戦訓から、首都東京(当時は帝国の首都として、“帝都”と名乗っていた)をはじめとする航空機による空爆からの本土防衛を、当時から重要課題としていたことがうかがえる。
 そして25年後の1945年3月10日、まさに予見されたように、上記の永田の言葉を借りれば“悪魔の襲来”、史上最大規模の大空襲(俗に下町大空襲とも言うらしい)が首都東京を襲った。
 はじめに記したように、この記事で総力戦構想の評価をするつもりは毛頭ないが、その本来の目的は国民の生命財産を守る、国防であったはずなので、その結果については、東京大空襲を一例として記しておきたい。
6.4-4-2「国防」がおろそかにされた東京大空襲
 東京大空襲は、焼死、窒息死、水死、凍死など、たった2時間余りで10万人以上を殺すような、空爆としては世界史で後にも先にもない、空前絶後の殺戮だった。“評論家”たちの書いている事からは良くわからないので、この空襲の、庶民の皮膚感覚からの実際の証言を、以下(Web❺)産経新聞「戦後70年~大空襲・証言」より引用
https://www.sankei.com/affairs/news/150310/afr1503100004-n3.html
『隅田川の対岸を見ると、神田や両国、本所、深川あたりまで一面炎上していました。火の旋風というのだろうか、直径で30メートルほど、高さ40メートルぐらいの火柱が、7本か8本立っており、ゴーゴーと音を立てて燃えている様を呆然(ぼうぜん)として眺めていたのを覚えています。
 相変わらずB29は低空で飛び交っているんだけど、迎撃する日本の戦闘機は全然おらず、高射砲も沈黙していました。「なんで反撃しないんだろう」と思いましたね。
 悠々と飛ぶB29の銀色の胴体は、地上の炎が映って真っ赤でした。その赤い腹から焼夷弾が落ちてくると、さらに地上の炎が大きくなってね。あれは赤い悪魔だった。』
永田の予見通りに赤い“悪魔”の襲来だった。(下の画像と文はwikiより『焦土と化した東京。本所区松坂町、元町(現在の墨田区両国)付近で撮影されたもの。右側にある川は隅田川、手前の丸い屋根の建物は両国国技館。』
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 “超空の要塞”と呼ばれたB29だが、東京下町空爆はP51等の護衛機なしの超低空侵入という、大胆不敵な作戦で行われた。しかも上記の一般庶民からの「なんで反撃しないんだろう」という直観的な証言のように、日本陸・海軍機ともに、なぜか反撃らしい反撃を行わず、見過ごした。しかもB29による爆撃は、一切の武装を外した機体(12.7mm機関銃×12、20mm機関砲×1と機銃弾8,000発全て取り外していた)から行われたのだ!よほどの確証が得られなければ、護衛の戦闘機なしの超低空侵攻でしかも“丸腰”は、なかなかできない決断だったはずだ。
 そもそもその目的の大元は、国防だったはずの総力戦構想の、中でも帝都防衛は何にもまして最重要な課題だったはずだ。なぜならばそれは当時の言葉で言えば、国体(皇居)を守ることと同義語だからだ。しかし実際には、けっして戦力の問題ではなく、自由に侵略させたとすら疑いたくなるような(そんなことはなかったと信じたいが)惨憺たる結果となった。東京大空襲を巡っての、日米双方の行動を、総力戦構想の中で早くから首都東京への空爆を予見していた永田鉄山はあの世で、いかに想ったであろうか。
(下の画像はwikiより、「テニアン島の飛行場から次々と出撃するB-29」。お互い決死の戦いだったバトル・オブ・ブリテンとは大違いの、東京大空襲の状況の奇怪さは、wikiや一般の歴史書からは全く伝わってこない。以下(Web❻)ブログ“おととひの世界”さんより引用
https://ameblo.jp/karajanopoulos1908/entry-12587230470.html
『「~B 29は高いところを飛んでくるので どうしようもなかった」とかね ウソ八百ですよ 特に最初の3月10日東京大空襲 ほとんどが超低空侵入だった(中略)日本側はほとんど撃ってこなかった なぜなら帝都東京を守る高射砲 他所に運んでいて出払いほとんど残っていなかったから B 29超低空侵入爆撃隊 やりたい放題になってしまった その結果都民が犠牲になった 明らかに大日本帝国陸海軍 ヘッドクォーターの責任です 誰の命令だったのか? よくわからない』) なかなか出てこない情報だが、迎え撃つはずの日本側もどうやら“丸腰”だった・・・

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(さらに(Web❼)“長州新聞”さんより写真と文を引用
https://www.chosyu-journal.jp/heiwa/1134
『東京空襲にも不可解な点がいくつもある。例えば、空襲直前に警戒警報を解除している。広島、長崎での原爆投下も直前になって警戒警報を解除し、みんなが安心して表に出てきたときに投下されている。あれは軍中枢が協力しなければできないことだ。300機をこえるB29の接近に気づかないわけがないが、物量で太刀打ちできないとはいえ、まともな反撃すらせずに米軍のやりたい放題を開けて通している。(中略)「暗闇のなかであれほど緻密な爆撃がどうしてできたのか?」という疑問も多く語られていた。「目標から外す目印のために誰かが下から光を当てていた」と証言する人もいた。(中略)東京大空襲の経験は語れないできた。意図的に抹殺されて、慰霊碑も何もない。』・・・・・
 このブログは、犬のぼんちゃんと自動車の話題のブログで、戦争ジャンルを扱うつもりは全くないので詳細は記さないが、真珠湾攻撃時の山本五十六の売国奴的で奇怪な行動は今では広く知られているが(ちなみに山本は“偽装死”したあと、84歳まで生きていたと、自衛隊元陸将補の池田整治氏は語っている。連合国側にとっての最大級の功労者なのだから、あり得ない話ではないだろう。)この東京大空襲も調べれば調べるほど、不可解なことだらけだ。こうなるとやはり、当時の日本の(上記(Web❻)ブログ“おととひの世界”さん言うところの)“ヘッドクォーター”たちが第二次大戦を、本気で勝とうと思って、戦いを指揮していたのかという素朴な疑問に、どうしてもぶち当たらざるを得ない。下の地図と文も長州新聞さんよりコピー『東京大空襲の焼失地域を示した「帝都近傍図」(1945年、日本地図株式会社製作)』焼失を免れた皇居、財閥本部、官僚機構の温存を、いったん脇に置くにしても、ごく常識的に考えれば、戦争において本来真っ先に狙われてしかるべき軍施設までが何故か多くが無傷で残ったそうだ。下町の庶民に対しては無差別爆撃だったのに・・日米双方ともにいったい、なにを“目標”として戦っていたのだろうか。)

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https://www.chosyu-journal.jp/wp-content/uploads/2020/03/8cb6d37134933e54d988361ab052eda4-768x502.jpg
 以上は確かに東京大空襲という一例に過ぎない。「総力戦構想」の本来的な目的は「国防」にあり、中でも皇居のある首都防衛は、もっとも重大な任務だったはずだ。しかし結果から判断すれば、当時の日米双方とも、その行動は謎だらけだ。(以上、私見でした、)
6.4-4-3戦後の高度経済成長をけん引した「総力戦構想」
 しかしその一方で、「総力戦構想」を経済政策面から見た場合、これも結果から判断すれば、戦後の日本経済の高度経済成長に多大な貢献を果たしたと思う。もちろん、上記の東京大空襲に見られるような、戦時中の庶民の尊い犠牲の上に成り立っていたこともけっして忘れてはならないが。(以下も多少私見が混じっています。)
 1930年代後半の日本は、統制経済下で構築された諸制度に従い、商工省を旗振り役に、ひたすら産業基盤の整備に努めた。しかし戦後の日本は占領下を経た後も、実は意外にも、その理念も含めてほぼそのままの体制が引き継がれていた。確かに軍部は占領軍の手で解体されたが、商工省(終戦時は軍需省だった)が通商産業省(以下通産省と略)へと看板を書き換えたが、戦前からの経済政策を継続させた。最終的な目標こそ「高度経済成長」へと切り替わったが、通産省の主導で行われたそれら産業政策は、戦後のある時期までは十分有効に機能した。もちろん自動車産業もまた、その例外ではなかった(この一連の記事の最後の“その6”“その7”で記す予定”)。『日本経済に「終戦」はなかった』(⑩P15)。 そして“総力戦”は戦後もその高いテンションを維持しつつ継続されたのだ。
 別の角度から一例として、企業経営面でみても『商工大臣(1941.10~)として岸が手がけたのは、かつて企画院(=国家総動員体制の中枢機関)原案にあった「資本と経営の分離」を、具体的な制度として実行していく事であった』(⑪P113)。当時としてはかなり大胆な改革だったはずだが、先に記したように戦時体制下故に強権的に実行できた諸制度は、それらを手がけた官僚機構共々戦後も(軍部以外は)生き続けた。そして「資本と経営の分離」は短期的な株主利益よりも、長期的な企業の成長を視野に入れた計画的な設備投資を重視する、日本独特の「日本株式会社」へと発展していく。戦前の「総力戦構想」が結果として、戦後の経済大国ニッポンの誕生に、多大な貢献を果たしたこともまた事実なのだ。(野口悠紀雄言うところの「1940年体制」⑩、㉚。)
 さらに、この記事の主題の“産業”とは離れるので細かくは触れないが、総力戦構想には、国民を総動員するための、さまざまな社会政策も含まれていた。それらはむしろ社会主義的な色彩が強く、土地制度改革や社会保険制度の整備まで含まれていたが、その流れもまた、戦後の日本に継承された。超格差社会の中で育った今の若い人たちからは想像できないかもしれないが、一億総中流化して「世界で最も成功した社会主義国」(ゴルバチョフの言葉だったらしい)
https://kakuyomu.jp/works/1177354054882211066/episodes/1177354054882258373
と称賛された戦後の一時期までの(今から思えば懐かしい、良き時代だった…)輝かしい、全盛期の日本の姿も実は、戦時経済体制のもとで築かれた諸制度を基に築き上げられたものだったのだ。
 またまた大きく脱線してしまった。この続きはさらに大きく脱線(転落?)するので、文末の≪備考10≫に小文字で記すことにする。
それにしても「国防」よりも「戦後の経済成長」に役立った総力戦構想はやはり、わからないことだらけだ・・・。脱線続きなので次項からは“事務的”に話を進める。

7. 「軍用自動車補助法」と軍用トラックの国産化
<7項概要> 第一次大戦の、実戦におけるトラックの価値を認めた陸軍は、限られた予算内で戦時における軍用トラックの必要量を確保する手段として、欧州諸国にならい民間のトラック所有者に補助金を出して援助する代わりに、戦時に軍用車として徴用することにした。この制度は第一次大戦の前に欧州で実施されていたが、日本のものは主に、フランスで制定された方式を手本にしたようだ(⑧P84に拠る。ドイツのものを手本にしたという本もあるが③P83)。
 そしてそのトラックの製造については、陸軍の工廠で自ら製作に乗り出すことは断念し、代わりに作る能力のありそうな民間企業を選定して、軍の要求する仕様にあったトラックに製造補助金を与えて作らせ、育成していくことにした。
 こうして「軍用自動車補助法」が制定されて、製造/購買/維持に対しての補助金の支給がはじめられたが、同法は日本初の自動車産業政策と言われている。そしてこのことは同時に、本来の自動車の所管官庁ではない陸軍が、国内自動車産業の保護育成に乗り出すことでもあった。
(この項はネット上で閲覧できる論文である「戦前期日本自動車産業の確立と海外展開(上)」(上山邦雄、以下引用Web❽P45)と、「日本自動車産業と総力戦体制の形成」(大場四千男、以下引用Web❾-1P158)及び②+③+⑥+⑧+⑫+wiki等を主に簡単にまとめた。
7.1「軍用自動車補助法」の概要
 1918年3月、「軍用自動車補助法」が成立する。その概要を箇条書きにして簡単に記すと以下の通り。
(1)トラックを軍が直ちに購入するのではなく、平時においては民間車として使用し、有事の際に徴用する方式が採られた。
(2)軍用輸送車の整備という目的から、助成の対象となった車種は自動貨車(トラック)のほか、応用自動車と呼ばれるトラック派生車両またはトラックへの転用が容易な車両に限られた。
(3)民間での普及を促進するための補助金が、製造者及び所有者に対しても製造・購入・維持(5年間分の維持費も補助対象)の各段階で交付される。ちなみに製造補助金額は(甲種(積載量1~1,5トン)トラック1台 1,500円、乙種(同1.5トン以上)トラック 2,000円で、この補助金で製造されたトラックは、“保護自動車”と呼ばれた。
(4)国産化推進のため、保護自動車として認定されるためには,重要部品の製作,その他部品も許可を受けたものを除き内地製品の使用が義務付けられた。また対象となる製造者は外国の株主などを認めない純日本企業に限られた。
(5)補助金を受けられる企業には、鋳物・鍛造・組立・測定・試験の可能な設備が求められた。さらに工場内に一定の資格を有する技師を配置することも義務付けた。
(6)“軍用保護自動車”として認定されるためには、厳格な走行テストを合格せねばならない。
 以下、補足説明として追記していく。
(2)の、製造者に対して行う、国の定める規格に準拠し、合格した軍用保護自動車に対する製造補助金の交付は、参考にしたドイツ,フランス,イギリス等の法律には無かった制度で、日本独自の大きな特徴だった。なぜそこまで踏み込んだかといえば、欧州諸国と比べて、そもそも自動車産業の基盤が無きに等しかったからで、以下(⑥P48)からの引用で、その背景も含めて、もう少し詳しく説明しておく
『~その法が制定された当時はそれらの国(注;同種の法律の実行でヨーロッパ諸国が日本より先行していた)でトラックの生産は非常に少なかったため、トラックの製造を奨励する意味合いも有していた。例えば、ドイツにおいては法の制定年である1908年には11社が180台の軍用車を製造したが、その台数は全トラックの28%であった。
しかしその後は、軍事予算の制約によって対象数が限られる一方で、民間用トラックが増加したため、軍用車の比率は低下した。1914年の開戦当時、ドイツにおいて軍用車は1,150台だったのに対して民間トラックは1.5万台、フランスではそれぞれ1,200台、1万台であった。しかも、上述のように、大戦中の経験から、軍用車だけでなくタクシーなどの民間車輛も軍事的な価値が認められるようになったため、大戦後には同法の意味が事実上なくなったのである。
ところが、当時の日本では、それらの国が補助法を制定する時期よりも自動車の製造・利用が一層遅れていたために、民間に製造や使用を刺激するこの法を制定する根拠は十分に存在していたのである。』
さらに(⑤P24)からも引用。
『~有事に1000台、2000台の自動車が必要でも、それを実現するには一大事業だったわけである。さらに当時の自動車は高価な機械であり、それを1000台購入しようとすれば、国家予算の1%近くになった。このように平時から陸軍が大量の自動車を保有するのは経済的負担が大きすぎた。』
(表3:自動車保有台数の推移(1913~1930):⑫P19より転記)
下表の保有台数の推移を見れば一目瞭然だが、同法成立当時(1918年)の日本の自動車の保有台数は、全体でも4,533台と、欧米に比べると著しく小さかった。そのうえ欧米同様に、トラックよりも乗用車が主体だったため、トラックの保有台数の合計でたった209台という、信じがたいほどの少なさだった。一方その当時のアメリカでは、フォード モデルT型による“革命”が進行中だった。この辺の事情については、息抜きとして≪備考11≫として備考欄に記しておく。
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以下はまとまりがないが、さらに補足を、バラバラと追記していく。
㋐ (2)についてさらに補足すると、軍の大陸での使用を考慮して、日本国内の民間用としては大きい(大きすぎる)4トン級(積載量1.5トン)以上のトラックおよびその応用車の生産と利用を重視していたが、この国内市場との需要のミスマッチが、後の話になるが、同法の適応車が伸びなかった原因の一つとなった。
㋑ 1台当りの製造補助金の額は『10年代のアメリカ車、とくにレパブリックや、GMCを対象としてそのコストの差を補填させるために決められた』(⑥P84)という。すなわち輸入車のレパブリックや、GMCの価格(約5,000円)と砲兵工廠で割り出した製造コスト(約7,000円)との差額2,000円が製造補助金額となった。
㋒ 一方『使用者に対する補助金は、馬車利用とトラック使用との維持費の差を補填させるためであり、購入補助金として1,000円まで、また維持費として年間300円を5年間支給することになった。』(⑥P50)
㋓ ( 5)は1924年の改定で、1年に100台以上生産できる規模の設備を有しているものに限定となり、さらにハードルが上げられた。後の8.3-1で陸軍が『将来的に見て、保護自動車メーカーが三つぐらいあることが望ましいと考えていた』(③P105)ことを記したがその一方で、『そもそも陸軍としては、修理の必要などから、多数のメーカーが少量生産することを好まなかった』(⑥P80)こともあり、結局3社で“打ち止め”となった。
㋔ (6)の軍用保護自動車に対する資格試験は、運行試験とともに、5分の1勾配の登坂試験等が求められ、当時の国産車の水準では厳しい内容だった。しかしその立ちはだかる厳格な試練が結果として、国産車の性能/品質の向上に役立ったと言われている。
㋕ 陸軍にとって自動車産業を育成することは、第一次大戦の欧州での戦訓(=欧米諸国では多くの自動車製造工場が航空機エンジンを生産した)から、近代兵器として育成すべき最優先の分野であった航空機産業をバックアップすることを意味していた。現代と違い当時は自動車と飛行機の技術的な関連性が高かったため、いわゆる「シャドーファクトリー構想」(=「戦時における工場の軍需転換)も意識していたと思われる。(関連≪備考12≫)
㋖ 「軍用自動車補助法」は「軍需工業動員法」と同時に成立しており、早くも総力戦構想の一環であったと捉えることができる。(≪備考7≫等参照)
㋗ 国産車でなく輸入車で調達すれば、製造補助分だけ予算が節約できる。法案の審議の過程で『当然ながら、議員からはその質問が出された。これに対しては(陸軍は)輸入途絶の可能性よりは、国内工業を奨励するためにと答えた』(⑥P50)という。
㋘ 同様に、当時の日本でそもそもトラックの製造が可能かという質問に対しては『陸軍工廠での製造の経験から発電機、点火具、気化器、ベアリング以外には国内で十分製造可能』との認識をしめしていた。
㋙ なお上記(3)(4)などを根拠に、同法は自動車産業確立を目的とした、世界初のローカル・コンテント法であったとの指摘もある(⑧P13、P84、P116。ただし⑧以外にはそのような記載は見当たらなかったことも追記しておく。)。
さらにこれは参考程度の話だが、(Web❿P32)に『日本初の自動車産業政策といわれる「軍用自動車補助法」の草案たる「軍用自動車奨励法」が(1914年に)起案された』という記述もあったが、この「軍用自動車奨励法」なるものの内容も調べきれずに結局不明でした。
7.2軍用トラックの試作を民間に委託
 「軍用自動車補助法」についての具体的な内容を先に記してしまったが、工廠内で軍用トラックを継続的に内製(生産)することを断念した陸軍は、軍用自動車補助法による支援と並行して、自動車産業に進出する民間会社の育成にも、自ら乗り出すことにした。時期的には同法が施行される(1918年)直前(1917年)のころのようだ。以下は主に(①P14、③P82)等を参考にした。
 まず最初のステップとして、砲兵工廠が製作した、シュナイダー社製を基にした軍用保護自動車の試作を民間委託し、その様子(反応)を見つつ候補選びを行うことにした。この時選定された企業は、三菱の神戸造船所、川崎造船所(神戸川崎財閥の)、発動機製造(ダイハツ)、島津製作所、東京瓦斯電気工業、奥村電気商会(京都にあった電気機械メーカー)などで、地域の分布からすれば明らかに“西高東低”の分布だった。大阪砲兵工廠の果たした役割が大きかったようなのでその影響もあったのだろうか(私見です)。
 先に記したように、依頼先の企業の選択の基準は、陸軍のお眼鏡にかなう大企業に限られていたため、『橋本益治郎の「快進社」(8.3項で記す)のような零細企業は、技術的に優れていても、最初から相手にすべき企業ではなかった』(引用③P82)。
 また⑥によれば国会での法案審議の過程で陸軍は『軍用車製造に参入が予想されるのは、東京では東京瓦斯電気、東京飛行機自動車製作所、名古屋では熱田車輛製造、大阪では日本兵器製造、日本汽車製造、神戸では川崎造船所を掲げ、その他東京の日本自動車や快進社は能力に欠けている』(⑥P50)と答弁していたという。大企業偏重の選別で、自動車製作のパイオニア的な存在だった、快進社のような、ベンチャー色の強い企業まで育てていこうという気持ちはなかったようだ。ただ当時は大企業にとっても、自動車産業への進出はバクチ的な行いとみなされていただろう。
 またそもそも、なぜ民間企業に製造をまかせたかについては、当時の工廠が、戦争特需で手いっぱいで、自動車を生産する余裕が無かったことも一因だったようだ。
 話を戻し、このうちの発動機製造(大阪),瓦斯電(東京),川崎造船所(神戸),奥村電気商会(京都),三菱神戸造船所の5社を民間自動車製造指導工場に指定して1918年,軍用4トン自動貨車の製造を委託した。
 ただし試作車の委託といっても一からつくらせるものでなく、『設計図と材料をはじめとして、エンジンなどの主要部品も最終的な仕上げだけ残した形で支給、経験を積んだ監督官のもとで図面どおりに組み立てる』(引用①P14、③P84;発動機製造、瓦斯電、川崎造船所の例)という、文字通り手取り足取りのものだったらしい。
 それでも試作を完成させたのは三菱の神戸造船所、川崎造船所(神戸)、発動機製造、東京瓦斯電気工業の4社だけだった(③P85)という記述と、『東京、大阪、神戸、京都の機械、造船、自動車、電機車両等の代表的製造会社八社ほどを選定し、東京瓦斯電と同様な勧奨を行い、それらのうち七社が、その試作を完成したと云われている』(⑧P57)という記述があり、実際に何社が完成まで漕ぎつけたのか、判然としないところもある。『法案の制定過程では数社の候補を予想していた』(⑥P79)というが、陸軍側の思惑と違い、受動的な捉え方をした企業が多かった事は間違いないようだ。
ただその中で、東京瓦斯電気工業だけは他社と違い、自動車メーカーとして参入する良い機会であるという、積極的な姿勢をみせた(8.1項で記す)。

8.「軍用保護自動車」の誕生
<8項概要> 6項と7項では、陸軍が軍用自動車保護法をもって、軍用トラックの生産と保有を促進させるに至った経緯を、その背景と合わせて、主に陸軍目線で見てきた。この8項では視点を変えて、同法を頼りに自動車産業を興そうとした民間企業側の視線で見ていきたい。
  第一次大戦は日本に戦争特需をもたらし、主に重化学工業分野がその恩恵を受けた。そして戦争特需で資本力を得た企業の中に、大戦終結後の軍需急減を見越して、成長分野と目された自動車産業への進出を試みる企業家が現れた。
このうち、東京瓦斯電気工業(後の日野自動車のルーツ)は当初から明快に軍用保護自動車メーカーを目指したが、東京石川島造船所(いすゞ自動車のルーツ)はウーズレー(英国)を国産化する形で乗用車生産からスタートした。
 一方商業都市大阪の風土の中から誕生した実用自動車製造と、よりベンチャー企業的立場だった快進社の2社も乗用車の製造からスタートしたが、競争力のない国産乗用車の需要は、当時の日本ではほとんどなかった。結局両社は統合し、ダット自動車製造(日産自動車のルーツのひとつ)となり、おなじく乗用車に見切りをつけた石川島共々、生き残りをかけて軍用保護自動車メーカーへと転身していく。こうして大戦後の慢性的な不況と、フォード、GMの日本進出(次回の“その4”の記事で詳しく記す予定)という荒波の中で、乗用車生産を志すものたちが次々と挫折していく中で、陸軍向けの僅かな軍用車の需要を糧に、この3社で市場を分け合いながら、かろうじて生き延びていくこととなった。
8.1東京瓦斯電気工業の辿った道(日野自動車のルーツ)
8.1-1第一次大戦の特需で自動車産業に進出(マントルから自動車へ)

 (この項は、引用①、②,③、⑤、⑭等を元にまとめた。)
 明治の文明開化の時代、ガス灯はその象徴の一つだった。1910年に設立された東京瓦斯工業(以下瓦斯電と略す)は、ガス器具の製造を行う会社で、主な製品は、ガス灯の発光体として使われるマントルという部品(=ガス灯の火炎の外周に設置される発光体)であった。(詳しくは下の「ガス灯のあかりについて」Web⓫の説明をご覧ください。
http://www.city.kawasaki.jp/kawasaki/cmsfiles/contents/0000026/26446/08takahashi.pdf
⓫には黎明期の瓦斯電についても記されているので参考までに。それによると『何かに、東京瓦斯電気工業株式会社は東京ガスの機械部門が独立して会社になったと書かれていることがありますが、実は全く違い、マントルを作るために設立された独立した会社です。』とのことで、名前から連想すると、東京ガスと関係がありそうだが、実際はそうではなかったようだ。)

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https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn%3AANd9GcSRydgo_WzYK2UoEBUNppDrdxOGViSC92aihbJymamKPDQ4xAlf&usqp=CAU
 やがてガス灯の代わりに次第に電灯が使われるようになると、1913年に社名を東京瓦斯電気工業(社名が長いのでこの記事でもそうしているが、愛称である“瓦斯電”と呼ばれることが多い。)と改め、多角化を進め電気製品の部門にも進出したが、後発の憂き目で苦戦を強いられたという。
 しかし第一次世界大戦が勃発すると、状況が一変する。以下(⑭P26)より『そこに降って沸いたのが第一次大戦で、ガス電は奇跡的な好景気に見舞われるのである。その理由は、こつこつと研究開発の結果得られていた高品質のマントルの急増と、付帯事業として励んでいたガス計量器の技術であった。すなわち開戦後まもなく大阪砲兵工廠経由で砲弾の信管の大量発注がロシアから舞い込んだのである。』
ここで「信管」についての説明を引き続き(⑭P26)より『信管とは砲弾に取り付けられる部品で、発射されるまでは絶対に爆発されてはならず、発射時の加速度で完全装置が外され飛翔体に火道を起爆薬につなげ、当たったら今度は爆発させなければならない装置で、いわば精密機械である。ガス計量器で培った精密加工技術が認められたのである。』以下は㉔P89より『当時、軍需品とくに兵器と名のつくものを民間で生産し輸出したのは瓦斯電ただ1社だった。もちろん技術的には大阪砲兵工廠の指導を受けたのではあったが爆弾信管の部品「活機体」200万個という大量を生産した。』信管の大量受注で莫大な利益を得た同社は『日本の陸海軍からも、さらに信管以外に小火器なども受注』する(⑭P26)。こうして軍需関連の工作、産業機械メーカーとして社業を急速に拡大させていった。
 そして膨大な利益の投資先として、社長の松方五郎(=松方正義の五男)は早くから自動車製造事業への進出に関心を持っていた。信管の納入で信頼のあった大阪砲兵工廠から、4トン自動貨車の試作の打診があったのは軍用自動車補助法が施行される前年の1917年のことで、『この動き(注;軍用自動車補助法)をいち早く察知した松方五郎は既にこの制度を利用し、自動車産業に打って出ようという決意を固め』ていた。(⑭P26)
(下は日野オートプラザに展示されている松方五郎の肖像画。ブログ“オーロラ特急ノスタルジック旅日記” さんよりコピーさせていただいた。)
https://blog.goo.ne.jp/aurora2014/e/a6c572fbb070d20f0aed29a2d41bb42e)

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 さらに追記すると、このように決断の早かった背景として、軍用自動車の製造に乗り出す以前から行っていた輸入車の販売事業も好調で、自動車の商売に自信を深めていたこともあったようだ。⑥P55より『~とくに、18年にはアメリカのリパブリック・トラックのシャシーを輸入し、東京市街自動車(青バス)にトラックやバスとして大量に販売した。その後も官庁を中心に相当の販売実績を維持し、19年下半期には全輸入車販売の3分の1以上を占めるようになった』という。1/3以上とはかなりのシェアだ。さらに後の軍用保護トラック制作時にベース車として参考にしたリパブリック社製トラックも、自社で輸入販売していた。信管を通じての大阪砲兵工廠との付き合いの深さもあり、陸軍からの依頼で同じく試作車を作った他社よりも、自動車産業へ参入する下地はより大きかったようだ。
そして『このときに瓦斯電は、トラックの試作だけでなく、並行して軍用自動車補助法に合致した自動車の制作も同時に進行するという意向を示した。補助法が施行されて手がけるのでは、完成までに時間が掛かりすぎるので、少しでも早くスタートさせることが好ましいと判断したのである。こうした姿勢は、軍用トラックの国産化を進める大阪砲兵工廠にとっても歓迎すべきことであった。』(引用③P86)陸軍とは、あうんの呼吸だったのだろう。
 自動車産業へ参入するため1917年、新工場を東京・大森に建設すると同時に自動車製造部(内燃機関部という記述もあるという⑭P25)を設立するという手回しの良さだった。(下は瓦斯電、大森工場の様子。)
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http://www5e.biglobe.ne.jp/~iwate/vehicle/extra/primer/coach/catalogue/200_chassis_maker_02.jpg
 しかし『問題は、瓦斯電に自動車に詳しい技術者がいなかったことだ。』(引用③P86)!そこで外車輸入で当時最大手だった大倉財閥系の日本自動車(株)で、技師長としてボディー架装部門を統括していた星子勇を自動車部長として招聘する。(下の画像と、文はJSAE自動車殿堂「大倉喜七郎」より引用『喜七郎氏のフィアット100馬力と米国人パット・マース氏の飛行機の競走、数秒の差で喜七郎氏のフィアットが勝ったと報じられた。1911(明治44)年)』そしてこのフィアットの整備を入念に行ったのが星子であった。(③P29)ただし『マース飛行士が自動車に花を持たせてくれた』という当時の関係者の証言も残されているという。(③P29)
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 そして瓦斯電は星子に自動車部門の責任を託し、軍用自動貨車の試作に乗り出していった。星子勇については、この記事の≪備考12≫「瓦斯電のシャドーファクトリー構想について」のところに記した。
8.1-2軍用保護自動車第1号の誕生と、その後の“暗黒の10年間”
 陸軍大阪砲兵工廠からの試作依頼は、シュナイダー社の軍用トラックを参考にしたモデルだったが、星子は並行して別のトラックの設計を行った。『いささか旧式化しつつあったシュナイダーに飽き足らず自ら新鋭のトラックを設計、その開発を同時に開始した。』(⑭P27)同社で輸入も手掛けていた、アメリカのリパブリック社製トラックを参考にしつつ、独自の設計を取り入れたTGE-A型である。(下の写真はそのTGE-A型。砲兵工廠のベース車に比べてチェーンドライブからシャフトドライブに、ブロックタイヤからソリッドタイヤへと、一歩進歩した設計となった。TGEとは、瓦斯電の英文名 "Tokyo Gas & Electric Inc." のイニシャルからとっている。尚ベースとなった、リパブリック製トラックのエンジンは、アメリカの有名なエンジン専門メーカーのコンチネンタル社製(モデルC型)のものだった。(⑮P93))
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 そして1918年(注;権威あるJSAEの自動車殿堂の方を尊重したが、1919年3月という記述もある?③P93、❽P43、❾-1P160。だが⑭も1918年と記述。1918年度(会計年度)のこと?不明)に、軍用自動車補助法の審査試験に合格し,同法の初適用を受けた。もっとも熱心に軍用トラックの開発に取り組んでいた瓦斯電の合格を望んでいたのは軍部も同様で、さらに陸軍にとっては、3月末までに合格しなければ年度の予算を返上しなければならないという役所的な事情もあったようだ(③P94)。
 しかし保護自動車に認定されても、実際には陸軍以外の民間で、購入するところは少なく、しかも不具合も多く、クレームで返品されたものも多かったようだ。
(以下、前回の記事の5.2-5項、タクリ―号についての「エンジンを作ることの難しさ」というところで、黎明期の瓦斯電の自動車制作の苦闘を例に出して記したが、その部分を、再録なので今回は小文字で記しておく。
『~軍用保護自動車第1号で、最初の国産量産トラックといわれる瓦斯電のTGE-A型では、たとえば『エンジン関係の鋳物の加工がうまくいかず、倉庫にお釈迦のシリンダーが山のようにあった』(③P92)という。そしてその努力が何とか報われて軍の試験に合格して、瓦斯電のトラックは晴れて軍用自動車補助法に基づく軍用保護自動車の認可第1号として、1919年に20台“量産”された。初の国産“量産”トラックの誕生だ。しかし出来上がったクルマの出来は、『検定試験に合格したのは瓦斯電だけだったから、制式自動貨車の発注が集中、つくると軍に納入されるために、世間では「瓦斯電の軍用自動車」と呼ばれるほどだった。しかし、実際につくられたトラックは、トラブルが絶えないものだった。なかには、まったく走りだすことができないものもあった。実際、自動車メーカーになるのは大変だった。』(③P94)自動車は、その国全般の工業技術水準を表す鏡とも言われているが、それが当時の日本の工業水準の実態だったのだ。(下の画像は、ブログ「超快速やまや」さんよりコピーさせていただいた。「日本陸軍に納入されたTGE-A型トラック」“やまや”さんによれば、前がTGE-A型で、後ろはシュナイダー型トラックだそうです。)https://ameblo.jp/hbk0225/entry-12186728725.html

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https://stat.ameba.jp/user_images/20160803/00/hbk0225/b4/06/j/o0480036013713558041.jpg?caw=800
 その後も、1922年に製造されたTGE-G型1.5トン積みトラックは11台生産されて民間に販売されたが、すぐにトラブル続出して全車返品になったという。』)
 ライセンス生産に頼ったわけでなく、まさに『製造技術より製品が先』(⑥P57)だった瓦斯電にとっては、生みの苦しみの時期だったに違いない。
 陸軍向けの生産台数も、『1919年(大正8年)に33台が納入され、翌1920年には22台、1921年には28台だった。それが1922年になるとわずか3台にまで減っている。』(③P95) 不況下で『陸・海軍ともに予算が減り、軍納の車の数は非常に少なく』(⑧P165)なった。
 さらに追い討ちをかけたのが関東大震災で、瓦斯電の受けた被害総額は100万円に及ぶものだったという(③P96)。『関東大震災でガス田は軍用自動車の生産を一時停止していた。』(⑧P165)こうして『同社の経営は 1920年頃から悪化していき,1922年下期には一挙に 1,400万円余りの損失を計上し,資本金を 2,000万円から 600万円に減資せざるを得ないという状況に追い込まれた。』(Web❽P43)そして最盛期には3,000人を超えた従業員数も、800人まで減らさざるを得なかった(③P96)。ちなみに日野自動車の社史ではこの時代を『暗黒の10年間』と称しているらしい(Web❽P51)。
 松方はいよいよ事業再編を迫られる。しかしそんな苦しい経営環境の中で、『星子を中心とする自動車部は倹約しながらも活動を維持することが決まったのは、自動車にひとかたならぬ情熱を示す松方社長が根強い反対論を抑え込んだ結果だった。
それには、陸軍から依頼された航空機用エンジンの開発という後押しもあった。航空機用ガソリンエンジンに関する知識をもった日本の技術者は多くなく、星子の持つエンジン技術を生かすことができるものだった。』
(③P96)という。陸軍の総力戦構想からすれば、航空機関連でテコ入れすることは、合理的な判断だったと思える。瓦斯電を、三菱、川崎、後の中島を補完する、練習機用エンジンを中心とした企業として位置づけたかったのだろうか(私見です)。瓦斯電の航空機用エンジンの取り組みについては、≪備考12≫を参照ください。
『この自動車の不振に対し、かろうじて航空機発動機(星形80型、100型)の製造(月産15台)とその利益で支えられていた。』(⑧P165)という。航空機用エンジン部門は、1931年には自動車部から独立し、瓦斯電自動車部を支える大きな柱と成長していった。
 一方自動車事業自体はその後も厳しい状況が続いたが、1927年のTGE-GP型ではヘッドライトが電気式になり、電動式スターターも採用されて、後期型にはディスクホイールに空気タイヤにもなり(⑭P7要約)、『民間向けの他、軍用車として直接軍からの注文も急速に増え』(Web⓮P161)ていったという。
さらに1930年誕生したL型は『航空エンジンの指導に使用される特殊架装をした軍用車の受注も多かった。』(①P21)
(下の写真はTGE-L型のダンプカーで、ブログ「光雄☆工機 @mitsuwo117」さんよりコピーさせていただいた。
https://twitter.com/mitsuwo117/status/839390387693203456 )
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 このL型について①P21より引用を続ける。『1930年(昭和5年)にL型が完成(注;⑭P30、⑧P165によれば1928年と書かれているが、Web⓮では1930年だ?)、それまでのトラックより技術的に進んだものになり、信頼性の面でもましなものになった』(①P21))。辛口のコメントだが、実際のところ瓦斯電に限らずこの時代になると、各社の国産トラックは、主要な使用先である軍からも、性能/品質的ではそれほど不満が出ることはなかったようだ(⑥P84等)。10年にも及んだ苦闘がようやく、実を結びつつあったのだ。ただし『もちろん、その国産車が部品まで国産化したわけではなかった。(中略)電装品・気化器・軸受けなどの部品には輸入品が使われていた。』(⑥P84)こともまた事実だった。
 しかし、これも瓦斯電に限らないが、民間向けは補助金を頼りに、手作りを主体とした細々とした生産規模では、外国製トラックと価格で対抗していくのは無理な相談だった。苦難の道は満州事変以降に、陸軍から軍用車の注文が本格的に増え始めるまで続いた。
 その後の瓦斯電については後の記事の“その5”と“その6”で記すが、戦時体制が進むとともに、松方や星子が長年描いた、その壮大な夢が、いよいよ実を結びそうになる。しかし次第に “ミニ三菱重工化” していく中で、瓦斯電に食指を伸ばした日産コンツェルン率いる鮎川の手で、グループはやがて解体される運命にあった。
 なお1931年、宮内省買い上げを記念してブランド名を「チヨダ」と改称している。(下の写真は、軍用保護自動車第1号となった、瓦斯電のTGE-A型トラックのレプリカ。日野オートプラザに展示されている。同車は国内初の量産型トラックとされている。)
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8.2東京石川島造船所の辿った道(いすゞ自動車のルーツ)
8.2-1第一次大戦の特需で自動車産業に進出(造船業から自動車へ)
 (この項も、引用①、③、⑤、⑯等を元にまとめた。)
 幕末の水戸藩主、徳川斉昭が幕府の命を受け、江戸隅田川河口の石川島に造船所を設立したことに端を発する石川島造船所(以下石川島と略す)は、洋式帆走軍艦旭日丸,日本人によって設計、建造された蒸気軍艦千代田形など多くの艦船を建造した。幕末を代表する造船所として、日本の近代化に大きな功績を残した。(下の絵はwikiより、日本で建造された最初期の西洋式軍艦のひとつ、軍艦旭日丸)
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 明治維新後は官営となるが、1876年に日本初の民間造船所として再発足する。(下の画像はガスミュージアム「渋沢栄一の足跡をたどる「版画にみる近代事業の風景」展さんよりコピーさせていただいた、1901年頃の石川島造船所の図。なぜ“ガスミュージアム”なのかといえば、東京ガスも設立時、渋沢栄一が係わった企業の一つだったからだそうだ。
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000365.000021766.html

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 渋沢栄一と石川島造船所との係わりだが、1876年に東京石川島造船所の創立委員として関わり、株式会社になった時の初代社長に就く。そして1929年、東京石川島造船所の自動車工場が石川島自動車製作所として独立した際に、初代社長に就任するのが栄一の三男の渋沢正雄で、それ以前から、数多くの会社に係わり多忙な父に代わり、自動車系は正男が経営を主導していたようだ。)
 当時の日本の造船業界は造船奨励法(1896~1919年)の影響もあり、三菱造船所、川崎造船所および大阪鉄工所の三強による寡占状態にあったが、第1次世界大戦の造船・海運ブームにより、石川島造船所も注文が殺到して莫大な利益を得た(①P22)。
(表4:「東京石川島造船所の収益推移」(Web❾-1P160)より転記)
下表の売上高、利益の推移を見れば、石川島が得た戦争特需がいかに莫大なものだったかがわかる。
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 しかし、『軍需産業でよくいわれるのは「満腹状態か空腹状態しかなく、ちょうど良い腹具合のときはない」』(③P66)そうで、戦後の空腹期に備えて、特需で得た利益の新たな投資先として選ばれたのが、瓦斯電と同じように自動車製造だった。
 1916年に自動車部門を設立し、1910年代の東京ではフィアットとウーズレーが最も売れていたことから、両社に提携条件について打診する。契約条件が有利だったことや(フィアットは100万円と、20万円高かったらしい)、マリンエンジンとの関係性もあり、1918年11月、ウーズレーとの提携契約を結ぶ。これがいすゞ自動車の歴史の起点とされている。『契約期間は10年、契約金額は80万円といわれている。』(①P23)同年12月にはのちに自動車部門の技術リーダーとなる石井信太郎ら6名がイギリスに派遣されて技術習得にあたった。
 1920年、石川島は東京・深川に自動車工場を建設し、自動車製造にとりかかるが、瓦斯電と違うところは、乗用車製造から始めた点だ。ここで軍用保護自動車への道を歩まなかった理由を知りたいところだが、その点をハッキリと記したものが見当たらなかった。一つ影響を与えた点を想像すれば、石川島造船所は本業が造船業だったため、分類上は海軍系の企業になり、大阪砲兵工廠との関係が深かった瓦斯電のような陸軍系寄りの企業でなかった点も影響したと思うが、何とも言えない。
 話を戻すが、ようやく完成させたものの、予想以上に原価が高くなり『1台当たりの原価は1万数千円になった。当時同じクラスのアメリカのビュイックやハドソンが日本では6000~7000円という価格だったので、赤字覚悟で価格を1万円にした。
(下は石川島製のウーズレーA9型乗用車。完成したのは1922年12月、大晦日未明のことだったという。しかし当時の舶来品信仰もあり、ウーズレーならぬ“ウリズレー”という声もあったという。)
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『売却先の多くは渋沢栄一の縁故で仕方なく購入した人たちだったが、トラブルもあり、価格も高く不評』(①P23)で、乗用車では商売のめどが立てられなかった。そのため『「日本の現状ではまだ国産乗用車などに手を付けるべきではない,という結論に到達し,間もなくその製造は中止された」(いすゞ自動車株式会社『いすゞ自動車史』1957年26頁)』(Web⓬P38)(下は当時の深川分工場の様子)
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 しかし多額の設備投資をした上に、ウーズレーと交わした契約で、契約金の残りを毎年8,000ポンド(当時の価値で約8万円)払わなければならなかったという。撤退も容易ではなかった。しかし幸いなことに、ウーズレーとの契約で、乗用車2車種(A9型、E3型)以外に、トラック(CP型)の製造権も持っていた。
8.2-2軍用保護自動車への転身と国産“スミダ”へ
『切羽詰まった自動車部門を統括する渋沢正雄取締役は、自動車開発責任者である石井信太郎をともなって、東京三宅坂にある陸軍の本省に赴いた。』(③P98)保護自動車の製造を申し出たのだ。
 この路線変更は陸軍からも歓迎された。保護自動車の普及を見込んで多額の補助金支出を予算化していた陸軍省だったが、思惑どおりに民間業者がトラックを買ってくれないという現実に直面して、多額の予算を大蔵省へ返納せざるを得なくなり、新規参入企業を望んでいたという(Web⓭32-07)。頼りにしていた瓦斯電の経営自体が不安定で、その影響もあってか生産の面でも、性能/品質の面でも問題を抱えていたし、次項で記す橋本増治郎率いるダットは、陸軍とは肌合いが違う企業だった。石川島は早速CP型保護トラックの製造に取りかかった。
 ところが、このCP型の図面と実物2台を輸入した年の9月、関東大震災に見舞われて工場は大損害を受けて、せっかくの図面と実車を失ってしまった。『しかし輸入された2台のうち1台が東京乗合自動車(青バス)に貸し出されており、これが震災を免れていた。
『この背景として、石川島造船所の支援を続けている渋沢栄一と東京市街自動車の渡辺良介社長との密接な関係があった。
「ウーズレー・トラックが保護自動車の資格を取ったら、30台を採用する」という約束がふたりの間で交わされ、走行テスト用に貸与されていたのだった。』
(Web⓮32-18)このクルマを借り受けて分解するところから、CP型トラックの製造が再開された。((⑯P5)結局工場を移転し,この工場を東京石川島造船所と改称し,苦心の末、1924年3月20にようやく完成させた。その技術支援のために『小石川にあった陸軍砲兵工廠や築地にあった海軍造兵工廠からも応援の技術者が(⑧P118によれば7~8名も)駆けつけた』(①P24)という。陸軍向けの軍用トラックに海軍からの応援は異例だったはずだが、石川島は造船業なので、海軍との関係がそれほど深かったのだろう。
 そして『陸軍の自動車関係者は、何がなんでも完成して検定試験に合格してもらわなくてはと考えていた』
(③P100)という。それだけ期待も大きかったようだが、ここでも例によって年度末なので、予算執行の期限が迫っていたという役所の事情もあったらしい。(③P100)『かろうじてパスはしたが,綱渡りだった。というのは 24年3月末が審査の締め切りだったが,審査対象の2台が完成したのが3月20 日午前零時。代々木で定地検査を受けたあと関東北部の各地で 7日間運行試験をやり最後は東京に戻り米大使館近くの江戸見坂の急こう配の登坂試験をパスして3月28日資格検定証書を下附された(いすゞ自動車株式会社『いすゞ自動車史』28‒29 頁)。』(Web⓬P39)
 石川島にしても瓦斯電にしても、初期の技術水準では、軍用保護自動車の試験に、ようやく合格したというのが実力だった。
(下は東京石川島造船所が生産した「ウーズレーCP型トラック(1924年式)。こちらはレプリカでなく、国立科学博物館より返還された生産第一号車をレストアしたもので、実走行可能な状態に保たれ、経済産業省から近代化産業遺産に認定されている。)
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 1927年9月、次第に地力をつけてきた石川島はウーズレーと交渉して提携を解消し、新しく”スミダ”というブランドで独自の設計の自動車作りを始める。このころにはちなみにウーズレーとの提携解消の交渉は、難航が予想されたので、交渉は渋沢栄一が直々に行ない、円満に解除できたそうだ。(Web⓮32-18)
 1929年5月には石川島造船所から自動車部門が分離し、石川島自動車製作所が誕生する。『社長には自動車部を率いてきた渋沢正雄が就任、陸軍中将で自動車行政の中心人物だった能村磐夫が取締役に就任している。』(③P157)分社させた一つの理由として、造船所の方が海軍からの仕事が中心だったため、陸軍からの受注が中心となる自動車部門を分離させたのだという。陸/海軍が犬猿の仲であるという、日本固有の事情があったようだ。(①P25等)その後の石川島造船所の方は現在のIHIとなり、さらに大きく発展していくことはみなさんご存知の通りだ。
 そして1929年に自社開発したA4型(4気筒;40馬力)、A6型(6気筒;64馬力)エンジンを搭載したスミダL型は、燃費・出力両面で好評を得たという。A4、A6両エンジンはボア×ストロークを同一にした、今でいうところのモジュラーエンジンだったようだ。
(下の写真はいすゞ自動車のHP(https://www.isuzu.co.jp/museum/tms/2017/history/)より
1929年型スミダL型トラックのイラスト画。このL型あたりの時期に、瓦斯電、ダットとともに3社の軍用保護トラックは、自動車としての一定の水準に到達したのではないかと思われる。)

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(下は、石川島自動車製作所製の昭和7年式(1932年)スミダM型バス。この塗装は東京乗合自動車株式会社(通称“青バス”)の車両だ。なお“スミダ”という呼称は、工場の横を流れる隅田川にちなみ、どんなに時代が変わっても留まることなく流れ続けたいという願いが込められて名付けられた。現存する実走可能な最古の国産バスとして、経済産業省の「近代化産業遺産」に認定されている。)
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 そして『その生産台数は,大正15年 160台、昭和2年179台、3年244台に達し、その年の国内生産の 65、59、そして,70パーセントを占め,最大の国産車メーカーとして発達した。』(Web❾-2P143)こうして石川島は、先輩格の瓦斯電を凌ぐ、名実ともに当時の日本を代表する4輪自動車メーカーへと成長していく。
(表5:「軍用保護車の適用台数及び軍用メーカーの生産台数の推移(1918~1930)」⑥P181より転記)
下表の、軍用自動車メーカー3社の生産台数の推移をみると、他の2社に比べて石川島の生産台数が安定して多かったことがわかる。
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 ところで上の表に見られるように、後発の石川島が、瓦斯電を明確に凌いだ理由を、ハッキリと書いたものが見当たらなかった。第一次大戦後の不況や、フォード、GMの日本進出は両社に均しく影響を与えたはずだ。自分なりに想像すれば、技術面でみればウーズレーからの直接の技術指導で得た、自動車製造ノウハウがあり、完成度の面で1日の長があったのだろうか。また先に記した青バス(東京市街(後の“乗合”)自動車)に対しての営業に見られるように、当時の経済界を代表する人物であった渋沢栄一の後押しも大きかったように思える。
一方瓦斯電側の不振はやはり、元々の企業規模に比べて、急速に戦線を拡大し過ぎて、力が分散してしまった(自動車、航空機用エンジン以外にも工作機械、兵器、計器、紡績機械、火薬など手広く、自動車+航空機部門だけに絞っていればもっと楽だった?)ことが主因だろうか。また主力行の弱さも一因だったろうか。(以下wikiより要約、メインバンクだった第15銀行が1927年の昭和金融恐慌で事実上倒産してしまい、以後経営再建の途上にあった。ちなみに同行は有力華族の出資により成立した銀行なので、世上「華族銀行」と呼ばれたというが、代表者であった松方巌公爵(元首相松方正義の長男、松方五郎の兄弟)は責任を取り私財の大半を放出の上、爵位を返上したという。松方五郎とも微妙な関係だっただろう。下の写真もwikiより、第十五銀行本店の写真。ちなみに石川島の方はご存じのとおり第一銀行(現在のみずほ銀行)だ。)
追加
 以上は想像なので、ここではその原因は“不明”としておく。
 しかしそんな、当時の国内“トップメーカー”たる石川島ですら、厳しい経営環境下にあった事に、違いはなかった。以下(Web❽P51)より『同社は,軍用保護自動車,純軍用特殊車,バスなどの製造を続けていったが,業績を悪化させていった。その「主な理由はフォード,シボレーの米国車攻勢と,加えて軍用保護自動車が欧州大戦後の軍縮と国家財政の緊縮により,軍方面の企図する生産計画台数に,一定程度の制約を伴ったこと」にあるといわれており,その点はダット自動車製造や東京瓦斯電にも共通する事態であった。』
 上記❽の見解は“一般的(常識的)”なものだ。が、しかし⑥によれば石川島、瓦斯電ともに、その経営内容をさらに細かくみていくと、20年代後半の両社の経営不振は、自動車部門が主因ではなかったという。『~こうした生産台数の制約は両社における自動車部門の採算が合わなかったことを意味するものではなかった。むしろ、両社にとって自動車部門は主力部門の赤字を埋める役割を果たしていた。従って、両社にとって自動車部門の設備拡張のためには、主力部門での回復を期待するより、それを独立させて外部資本の調達を図ることが手っ取り早い側面があった。1929年の石川島の自動車部独立はまさにその意味から実施されたと思われる。』(⑥P87)と、一般と違った見方を示している。ちなみに(⑧P143、Web❾-2P143)にも同様の趣旨の記載がある。この件に関して、少なくとも石川島に関して言えば、20年代後半は、自動車ではなく主力の造船部門の不調の方が、経営全体の足を引っ張っていたことは、確かなように思える。上の表のように自動車の受注はコンスタントで、軍需主体なので一定の利益は確保されていたのではと思われる(多少想像が混じっています)。
 ただ自動車部の独立については先に記したように、陸/海軍の仲の悪さゆえに陸軍向けと海軍向けを分離させるという、日本独特の商慣習も影響したように思える。(以下参考までに、中島飛行機の航空機用エンジンを巡る対応について、(⑰P183)より引用『~陸軍と海軍はお互いに縄張り意識が強く、航空機の技術進化のためにお互い協力するどころか、対抗意識をむき出しにした。同じエンジンでも陸軍と海軍では名称が違うものとして扱い、同じ工場でつくることを嫌ったためだった。(中略)同じような生産設備を別々にととのえるのは全くのムダである。しかし、理屈をこねていても通用する相手ではなかったのだろう。』下の写真は“陸軍向け”の航空機エンジン工場として当時(1938年3月完成)最先端を誇った、中島飛行機武蔵野工場の全景。画像は三井住友トラスト不動産より。
https://smtrc.jp/town-archives/city/kichijoji/p02.html
また、ダイムラー・ベンツ社からDB601航空機用エンジンをライセンス生産する際に、陸/海軍で別々に契約して導入し、ヒトラーから「日本の陸海軍は仇同士か」と言われたのは有名な話だ。)

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https://smtrc.jp/town-archives/city/kichijoji/images/02-01-01.jpg
 それにしても、日本の自動車史にこれだけ大きな足跡を残した、渋沢正雄の写真をネットで探してみても、なぜか見当たらないのであった。そこで、「墓守たちが夢のあと」というブログの、谷中霊園に眠る渋沢正雄のお墓の写真が見つかったので、お墓の写真とその説明文をコピーさせていただいた。https://ameblo.jp/mintaka65/entry-12489553389.html
『渋沢栄一の三男・渋沢正雄は、大正4年(1915)に東京帝国大学法科大学経済学科を卒業し第一銀行に入行しますが、2年後には退行し、実業家として一族の会社経営に関わって行きます。石川島自動車・昭和鋼管社長や石川島造船専務を務め、昭和5年(1930)には「株式会社石川島飛行機製作所」を創立し初代社長に就任。(第2代社長は兄の武之助)。その他、秩父鉄道・日本製鉄・日満鉄鋼販売・日本鋼材販売の各社長並びに常務など多くの企業に重役として名を連ねています。90代で現在も活躍されているエッセイストの鮫島純子氏は渋沢正雄の娘だそうです。』ちなみに渋沢正雄は瓦斯電の松方五郎とともに、のちのこの記事の“その5”と“その6”でも“引き続き活躍”する予定だ!
追加5
https://stat.ameba.jp/user_images/20190703/08/mintaka65/a5/88/j/o1332100014490010371.jpg?caw=800
8.3ダット自動車製造の辿った道(日産自動車の源流)
 国産自動車製作のパイオニアの一人として、その開発に心血を注いだ橋本増治郎率いる快進社は、乗用車の販売不振に苦しんだ末に、軍用保護自動車の製造に乗り出す。しかし橋本と陸軍との間で軋轢が生じてしまう。
一方、商都大阪の風土の中から、久保田鉄工所の出資を中心に、小型乗用車の製造に名乗りを上げた実用自動車製造も、同じく販売不振に陥り苦境に立たされたが、生き残りのため両社は手を結び、ダット自動車製造として、軍用保護自動車メーカーとしての新たな道を歩んでいく。のちの日産自動車の前身の誕生である。(下は日本の自動車産業のパイオニアの一人であった、橋本増治郎。画像はwikiより)
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 以下、両社の苦難の足跡を、③、⑱、⑲、❽、❾-1、⓰、⓱、wiki、JSAE自動車殿堂からのダイジェストで辿っていく。
8.3-1快進社(DAT号)の橋本増治郎が辿った苦難の道
 橋本増治郎は東京工業学校(現・東京工業大学)機械科を首席で卒業後、数年の社会経験を積んだのち、農商務省海外実業練習生となり、1902年(明治35年)に渡米、ニューヨーク州オーバン市の蒸気機関製造工場で働く。1905年日露戦争勃発により帰国するが、その直前に重要な出来事があった。以下(引用⑱P85)『日露戦争により明治38年に帰国する直前には、キャデラックやリンカーンの生みの親で、「大量生産の巨匠」ヘンリー・フォードに対し「機械技術の巨匠」と呼ばれたヘンリー・リーランドに面会する機会があったという。米国自動車業界では製造技術をベースに、互換部品や流れ作業による大量生産システムを誕生させつつあった。その光景が橋本の生涯を決定づけたことになろう。』
 帰国後は東京砲兵工廠技術将校として機関銃の改良を行い、軍事功労章を受ける。そして日露戦争後に勤務した越中島鉄工所が経営不振で、九州炭鉱汽船に買収されたことが大きな転機となる。ここで九州炭鉱汽船社長の田健治郎と、役員で土佐の有力政治家の子息である竹内明太郎(吉田茂の実兄)と出会い、九州炭鉱汽船崎戸炭鉱所長として有望な炭坑の鉱脈を探り当てる。
 ここまでざっと足跡を辿っただけでも、橋本が並みのエンジニアでなかった事はわかる。1,200円の功労金を受け取った橋本は退社する。
 1911年(明治44年)、竹内の尽力により吉田茂の所有する東京麻布の土地を借りて工場を作り、快進社自働車工場を創業した。140坪の借地に建坪37坪の工場で、従業員は橋本を加えて 7名というささやかな規模からのスタートだったが、その資金(当初8,700円)を援助したのが先の田健治郎、竹内明太郎と青山祿郎の 3氏であった。こうして外国車の輸入組立販売のかたわら、国産乗用車つくりをはじめる。
『橋本の挑戦は、単に適当なクルマをコピーして国内で作るのではなく、エンジンの使用を決めてボディの大きさもそれにフィットしたサイズにするところから出発している。海外のクルマと同じものを国産技術でつくることさえ容易ではなかったが、橋本にとっては、それでは国産技術の確立にはならないと判断していたから、さらに困難な技術にチャレンジしたのであった。』(③P38)国際水準を目指して水冷直列4気筒エンジン搭載の、日本の道路事情に合わせた小型車乗用車の開発に乗り出したのだ。
『しかし、設計したエンジンを実際にカタチにすることは、とんでもなくむずかしいことだった。自動車の部品には鋳物が多く使われているが、多くの技術者が苦労したのが、エンジンのシリンダーブロックの鋳造である。』(③P38)
 自動車エンジン用鋳物の製作で苦労することは、戦前の日本で国産車つくりを志す人たちにとって共通の、大きなハードルであった。『早くから工業が発達したアメリカでは、外注先に設計図を示せば、シリンダーブロックなどの鉄製品をつくる技術が確立しており、そのための質の良い材料の入手も困難ではなかった。日本では造船や鉄道車両などに適した材料は作られていたが、ほとんど使用されないに等しい自動車関係に適した材料は作られていなかった。』(③P39)
 当時の日本では複雑な形状のシリンダーブロックを鋳造する技術がなく、試作第1号車は試運転まで行えず失敗作で終わる。結局直列4気筒エンジンはあきらめて、シンプルな鋳物制作で済むV型2気筒エンジンに変更して、翌1914年、試作第2号車を完成させた。
以下(Web⓰)より『このエンジンはV型組み付け2気筒と呼ばれるもので、1気筒ごと鋳造されたシリンダーブロックを2つあわせたものだったとされる。横一列に2気筒ぶん鋳造する技術が当時は確立されていなかったようだ。 トランスミッションなどで使われたギア類はニッケル鋼を丸棒で輸入し、これを熱処理し、一個ずつ機械加工を施しつくったという。当時のクルマの例に漏れず、梯子型フレームのボディを架装するタイプ。ホイール、リム、マグネトー、スパークプラグ、ベアリング類などのユニットはみな輸入品。ラジエター、キャブレターなどは工場内で自作している。前照灯はアセチレンガスによるランプである。』
(下の写真はその、V型2気筒10馬力エンジンを搭載したダット号(DAT CAR)完成の記念写真でgazooよりコピー。右端でカンカン帽をかぶっているのが橋本。タクリ―号とは違い、エンジン、車体とも国産であった。DATは橋本の協力者の田、青山、竹内のイニシャルを組み合わせた名前で、脱兎(だっと)の意味も込められていた。このダット号は東京大正博覧会に出品され、銅杯を獲得する。)
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https://gazoo.com/pages/contents/article/car_history/150605_1/03.jpg

 1915年、V型でなく直列2気筒エンジン搭載の試作3号車、ダット31型では『2気筒ぶんひとつのブロック(モノブロック)である。鋳造は外注ではあったが、ようやく2気筒ぶんの鋳造技術が確立された。』(Web⓰)
こうして着実に技術レベルを向上させていった1916年、当初めざした技術目標であった、直列4気筒エンジンを搭載したダット41型が完成する。以下も(Web⓰)より『モノブロック直列4気筒エンジンにすることで、出力が15馬力に達した。しかもセルスターター付きでバッテリー点火、ギアは前進4段後進1段という当時としては先進的な機構を備えている。
前席に2名、後席に5名の計7人乗車の本格的乗用車である。4気筒エンジンとしてはフォードのモデルTに8年遅れ、セルスターターはキャデラックに7年遅れではあるが、日本人の手によって造られた純ジャパニーズカーとしては、世界レベルに達していたといっていい。』(写真はダット41型。1922年には平和記念東京博覧会で金牌を受賞した。)
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https://clicccar.com/wp-content/uploads/2015/10/01-300x222.jpg
 この41型の完成を見て橋本は自社技術に自信を得て、その製造へと乗りだすことになる。以下(Webの❽P42)『1918年 8月には株式会社快進社創立事務所が設置され,資本金 60万円で,北豊島郡長崎村に本社ならびに工場を新設して,操業が開始されていった。機械設備として,クランク軸研磨盤,円筒研磨盤,グリーソンのベベル・ギア歯切盤など,当時で最も進歩した専用工作機を含め 20数台余りを輸入新設したという。従業員数は,最盛期には 50名ないし 60名を抱え,当時としては画期的な規模であった。こうしてダット 41型乗用車の製造を目指して操業が開始されたが販売はふるわず,1919年以降,完成したのは 4~5台にとどまったという。』
『だからといってすぐに買い手がつくという情勢ではなかった。日本人にあったサイズのクルマであるといっても、輸入されるアメリカ車に比べて小さいことは、それだけ高級感のないクルマであると思う人が多かった。この当時は、舶来品のほうが優れているという先入観を持つ人が多く、自動車メーカーとしての前途に光明を見つけるのはむずかしいことだった。』(③P42)
 販売不振とともに、製造の方も困難だったようだ。『生産台数不振の重たる理由は、国産の自動車用部品の入手難にあった。鋳造部品の質はもちろん、電気コードがやっと国産化された状況では、自動車製造は容易ではなかった。』(引用⑤P22)
8.3-2快進社(橋本増治郎)と陸軍の確執
 結局販売不振に苦しんだ末に、のちの石川島と同様に、軍用自動車保護法に望みを託すことになる。
 制定当初、軍用自動車補助法は積載量1トン以上のトラックを補助対象としていたが、1921年に改正され(9.2-1参照=対象車両の積載量が民間需要の多い軽量型の3/4トン車も適用となる。鍛造部品の外注を認める。一定の資格を有する技師の配置の義務付けは撤廃)、その内容はあきらかに、当初は相手にしなかったダット側に譲歩し、その参入を即すものだった。瓦斯電の行く末に不安を感じ始めていた陸軍としても不本意ながら?歩み寄らざるを得なかったのだ。
 それもあってか快進社は、ダット41型に改良を加え、1922年、陸軍の検定を受けることになった。しかし橋本と陸軍はお互い、どうしても噛み合わないところがあり、この申請では、ボルト・ナットが陸軍の規格に合わず、不合格とされてしまった。以下橋本の憤懣やるかたない思いを綴るので長くなるが、(③P102)より引用する。
『他のところはあまり問題なく直せるにしても、ボルトとナットに関しては、橋本は譲る気持ちは毛頭なかった。軍用ねじは、どのような経緯で決められたのか、独特のサイズになっていて一般の手に入るものにはなっていなかった。緊急の場合は、すぐに手に入るものでなくてはならず、そのために橋本は欧米先進国で一般化しているSAE規格に合致したボルトとナットを使用していたのだ。したがって、これで審査に不合格となるのは理解に苦しむと、橋本は厳重に抗議した。しかし、担当者は橋本の言い分に耳を傾けなかった。橋本のところのような小規模な工場で保護自動車をつくるのはふさわしくないという意識にも支配されていたと思われる。
 橋本は、軍部の反省をうながすために「陸軍大臣にその責任ありや」という論文を発表するなどして、ボルトとナットに関する陸軍の不合理さを追求した。さらに、提出中だったダット41型トラックの検定許可申請を取り下げる手段に出た。こうした橋本の行動は新聞などにも取り上げられ、話題になったようだ。
 橋本にしてみれば、まだ大企業が自動車づくりに乗り出す前から、苦労を重ねて自動車の国産化に取り組み、ようやく性能の良いものに作り上げることができたのに、ねじ規格が決められたものになっていないからと、橋本の長年の努力を全く認めない態度にガマンできなかったに違いない。(中略)
 ボルトとナットに関しては、どう見ても橋本の主張に分があることは、誰の目にも明らかだった。陸軍は1924年(大正13年)になって、橋本の主張するとおりにねじ規格をあらためた。
 3年近い月日を陸軍との意味があるとは思われない交渉に費やし、ダット41型トラックが保護自動車として合格したのは1924年(大正13年)のことだった。』
 (下の写真はダット号41型750kg積甲種軍用保護自動車検定合格車。確かに3年は長かった。)
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http://www.mikipress.com/m-base/img/1924_DAT41_750kgTruck_G00000145.jpg
 以下も(引用③P101)より
『「東京瓦斯電気工業」と「東京石川島造船所」自動車部に続いて、軍用保護トラックに認定されたのが橋本益治郎の「改進社」のダット41型であった。しかし、企業としての規模が異なることもあって、前記2社とは異なる展開となっている。それは、公官庁が大企業の方しか向いていないことを如実に示すものだった。零細企業などは相手にしないという態度で、橋本のところはしばらく翻弄され続けた。(中略)陸軍は、瓦斯電や石川島からは、軍用保護トラックを買い上げるなどしているが、橋本のところから購入するつもりはなかったようだし、瓦斯電や石川島のような設備を持っていないことも、橋本の泣き所であった。』石川島の軍用保護トラック分野への参入で再び情勢が後戻りしてしまった。その後も“いじめ”が続いたようだが、陸軍側もそれでも、あとの9.2-2で記すように、徐々に歩み寄りもみせていたようだ。
 こうして経営不振は続き、関東大震災後には米国車の販売急伸で決定的な打撃を受け1925年 7月、株式会社快進社を解散し,合資会社ダット自動車商会へと組織を編成替えした。営業目的は軍用保護自動車製造とはしていたが,主に試験的なバス営業を活動内容とすることになった。(❽P42)
8.3-3快進社と実用自動車製造の合併でダット自動車製造の誕生
 しかしここで、橋本と快進社にようやく、局面打開に向けての一筋の光明が差し始める。『将来的に見て、保護自動車メーカーが三つぐらいあることが望ましいと考えていた』(③P105)という陸軍の能村元中将(のちに石川島自動車の取締役に就任する)の斡旋があり、同じく苦境に立たされて生き残り策を模索していた、大阪の「実用自動車製造」との合併が画策された。
「ダット」のもつ技術力(実用自動車では小型のV2気筒エンジンしか実績がなかった)+軍用保護自動車認定という実績(看板)+「実用自動車製造」のもつ設備と資金力+久保田鉄工がバックにいるという、陸軍と商売するうえで決定的に重要な信用力を結び付けようとする動きだった。橋本は自動車事業を継続させるためには、この提案を受け入れざるを得ないと苦渋の決断をする。
 1926年9月、ダット自動車商会と、実用自動車製造は合併して、ダット自動車製造が誕生する。社長には久保田鉄工所者主の久保田健四郎が就任し、橋本は専務取締役に納まったが、実質的には実用自動車製造による、ダットの吸収に近い形となった。
8.3-4実用自動車製造の辿った、同じく苦難の道
 冒頭から引用で、手抜きで恐縮だが、実用自動車製造の特色を良く現わしているので(③P70)より『石川島造船が自動車の生産のために本格的な生産設備を整えて参入したのと同様に、莫大な投資をして自動車の生産に乗り出したのが、大阪の「実用自動車製造」である。大阪の産業界の有力な企業が寄り集まって出資して設立されたものであるが、首都東京を本拠地として中央を意識する石川島とはその狙いなどに違いが見られたのは、庶民の街であり、商業都市として栄えた大阪を本拠地にしていたことによる。』
 米国人ウィリアム・R・ゴーハムは、大正8~9年(1919~20)に3輪自動車の開発に成功、そのクルマが大阪の街を走る姿を目にした久保田篤次郎(久保田鉄工所社長久保田権四郎の女婿)が興味を抱いたことから話は始まる。
(下の写真が久保田の目にした3輪乗用車で、運転する櫛引弓人と横に窮屈そうに乗るのがウィリアム・R・ゴーハム。このクルマは俗に“クシカー(号)”と呼ばれている。名前の所以は京都の興行師、櫛引弓人の名前からで、日本で世話になり、片足が不自由だった櫛引のためにゴ―ハムがハーレーダビッドソンの部品を使って作り、贈ったものが発端だった。なおゴ―ハムは、国際情勢が緊迫していく中で、悩んだ末、1941年5月、日本に帰化した。日本名を合波武克人という。)
http://www.jahfa.jp/wp/wp-content/uploads/2013/01/2013-william.pdf

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http://www.oppama-garage.jp/Docu0007
 人力車に動力をつけたような安くて便利な乗り物があれば、輸入車と競合することなく普及するのではないかと考えた篤次郎は、ゴーハムの権利を 10万円で買い取り、自動車製造に乗りだした。会社は久保田権四郎を社長として、当時としては巨額の100万円という資金を投じて設立され,ゴーハムも設計主任者として招聘された。設計変更を加えた前一輪,後二輪の幌型自動三輪乗用車の試作に着手し,1920年 6月頃には試運転を実施し,月産 50台を目標に製造に乗りだした。(下の写真がゴルハム式3輪実用自動車で、その生産台数は乗用車型とトラック型の合計で約 150台に達したという。)
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http://www.oppama-garage.jp/Docu0008
 大阪市西区の埋立地に建設された工場の設備はゴ―ハムらアメリカ人がレイアウトしたもので、米国式の最新式機械を使用した、建坪1,300坪に及ぶ当時の日本で最新最大の自動車工場となった。当時の国産車で技術上のネックとなる『シリンダーブロックの鋳物は、外人技術者の指導を受けるとともに、自分たちでもいろいろと工夫して、質の良い材料により強靭なものをつくることができるようになった』(③P75)という。(工場にずらりと並ぶゴ―ハム式3輪車。最盛期には250名が働いていたという。)
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http://www.oppama-garage.jp/Docu0009
『販売準備が整って店頭に新車が並ぶと、ショールームを訪れた人々から賞賛の声が押し寄せたが、試乗した人の中から横転事故が発生した。それも一度だけでなく度々あって、3輪構造の弱点がもろに出て評判を落とした。』(Web⓭-3)(下の画像はゴーハム式4輪車のトラック型。3輪型は狭い後輪トレッドが災いしてカーブで転倒し不評だったため、4輪タイプに作り替えたものだが、三輪の面影を残してハンドルが1本バーだった。乗用車型はタクシーとしても活躍したという。)
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http://www.mikipress.com/m-base/img/1921_%E3%82%B4%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%83%A0%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AFG00000119.jpg
 1923年(大正12年)に登場したリラー号は、久保田鉄工から派遣されてゴ―ハムの助手として働き、後にダットサンで主任技師となり活躍する後藤敬義が改良を加えたもので、ゴルハム式はホイールベース/トレッドが1828/914mmと小型だったが、リラー号は2133/965mmと大型化された。ディファレンシャルを装着しリヤシャフトをシャフトドライブする、丸ハンドル式の本格的な4輪自動車に生まれ変わった。(下の写真はリラ―号。日本の道路事情を考えた実用的な4人乗り小型4輪車として、後のダットサンのコンセプトにも大きな影響を与えた。DATとともに日産車の直接のルーツとなったモデルとも言われている。)
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https://nissan-heritage-collection.com/NEWS/uploadFile/p08-01.jpg
 4輪型の生産台数は、初期型のゴルハム式が約100台、リラー号と名づけられた丸ハンドル型が約200台製造されたが、この量産規模では、フォードの横浜組立車が1,700円のところ、箱型が2,000円、幌型が1,700円と割高だった。当然ながら経営が苦しくなる一方で、先に8.3-3で記したようにダットとの合併で、軍用保護自動車を活路に生き残りを図ることになる。
(下はブログ“復活ブルーバード”さんよりhttp://u14sss22ltd.fc2web.com/datsun1.html
まさに超「レア・アイテム リラー号のカタログ」)
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http://u14sss22ltd.fc2web.com/liragou.jpg

(⑧P145)より引用する。『久保田篤次郎は、これら両社の合併が陸軍の自動車政策の一環である点について次のように指摘する。「能村磐夫さんから「今からはじめたのではたいへんだ。橋本増次郎がダット自動車で軍用車の資格を得たが、設備がないということだから、一緒になったらどうか」という勧告を受けました。それでダット自動車と実用自動車とが合併したのであります。」』 けっして目立たないのだが、日本の自動車史の中で、久保田鉄工所と久保田篤次郎、権四郎は重要な役割を果たしてきた。(久保田篤次郎の顔写真をネットで探そうとしてもなかなか出てこないのだが、下の「新経営研究会」というブログの「元アメリカ日産自動車 社長 片山 豊氏」という記事の中の写真に見ることが出来たのでコピーさせていただいた。『ダットサン完成1号車を囲む日産自動車創業時中心メンバー1935年 左から鮎川義介、浅原源七、山本惣治、久保田篤次郎』) 思いをつなげて、小型車ダットサンの量産型の完成を見届けたのだ。
http://www.shinkeiken.com/pub/aniv/03.html
追加4
http://www.shinkeiken.com/shuppan/images/30th_03kan_1_4.gif

 なお,リラー号まで設計に関わったゴーハムは,1922年に同社を退社し,鮎川義介率いる戸畑鋳物株式会社に移動していった。
8.3-5軍用保護自動車メーカーとしての新たな道
 こうして、実用自動車製造とダット自動車商会は統合されて、ダット自動車製造が誕生し、ダット51型がつくられる。以下、(③P106)より引用を続ける。
『「ダット自動車製造」となって最初の自動車としてつくられたダット51型は、41型の改良ということで、とくに陸軍の検定審査を受けることなく保護自動車として認定された。陸軍も「改進社」時代の軋轢を引きずらずに、ダット自動車に対して協力的になっていた。』
 大阪の有力財界人をバックにした旧実用自動車側の信用力がついたため(今までのようなイヤガラセもなくなり?)、ようやく陸軍からも買い上げられるようになり、経営的にも一息がつけた。石川島と瓦斯電が首都東京の企業なのに対して、新生ダットが関西の大阪の企業だったことも、勢力分布的に幸いしたのではないだろうか(想像です)。(下の写真はダット51型保護自動車。1~1.5トン積みとなり、③P106によれば1927~29の間に106台生産されたという。だが台上試験装置の方にも興味が沸く。(以下引用⑲P67)『本格的な試験装置による自動車性能試験としては本邦初のもの(中略)で、床下の直径約1400mmの回転ドラム上に、各自動車の動輪を載せて動力を測定しているところ』の、『牽引力試験風景』らしい。試験装置は隈部一雄帝大助教授(当時。後に戦後、トヨタ自動車副社長に就任)が自ら設計した。依頼主は陸軍のようで、軍用保護自動車3社と、白楊社のオートモ号を比較試験した。今でいうところの“馬力測定用シャシーダイナモ”の元祖のようだ。)
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http://yo-motor.asablo.jp/blog/img/2011/08/02/195428.jpg
 しかし“ダット(DAT)”の社名は残ったが、その意味するところは後に、支援者3名を意味するところから、製品としての自動車の特徴を表現する、Durable(耐久性がある)、Attractive(魅力的な)、Trustworthy(信頼できる)、に改められた。

9.軍用自動車補助法の、その後の変遷
<9項概要>
この記事の最後として、軍用自動車補助法の変遷を辿りながら、その間に起こった、同法を取り巻く内外の情勢変化を記した上で、まとめを書いて(ようやく!)この記事の終わりにする。
 軍用自動車補助法の改正は度々行われたが、そのうちの1921年、1924年、1929年、1930年、1931年、1932年の6回の改正について、改定内容と、背景、陸軍が意図したところを簡単に記す。
 しかしその前に、軍用自動車補助法実施後から、最初の大きな改正のあった1921年までの、3年間の状況を確認しておく。
9.1見込みを大きく下回った、その原因
 まず初めに、陸軍が当初計画していた、民間に保有させて有事に徴用する保護トラックの予定台数を確認しておく。この記事をまとめる上で③と共にもっとも多くを頼った本の⑥によれば『軍は年間300~350台を適応して5年間に1,700台の車輛を民間に保有させる計画だったと思われる』(⑥P80)という。法案の審議過程における陸軍の答弁によると『将来戦争が起きた場合を必要台数は4,000台と想定されたが、その半分弱を調達する方針だった』(⑥P50)ようだ。しかし8.2の(表5)の実績表をご覧いただければわかるが(たとえば1918~1921年の生産合計で89台)、その目標を大きく下回ってしまった。
しかし、『1917年現在、トラックの保有台数が約2,000台であり、しかもそのうちこの軍用車の規格に合うのは30~40台に過ぎなかったことを考えると、この計画は相当の大規模のものだった。』(⑥P50)1,700台という数字自体、元々大胆なものだったことも事実のようだ。以下、大幅未達に終わった理由をいくつか掲げておく。
(A)そもそも甲/乙級トラックの需要が乏しかった
『当時の日本には三トントラック(注;3トンは車両総重量で、積載量は1~1.5トンの“甲”種トラック)や四トントラック(同、1.5トン積以上の“乙”種トラック)の需要は乏しかった。実際、国会審議の中で、「民間では三トンでも大きすぎる。二トン以下も含めるべきではないか」との意見も出たが、陸軍は「軍の要求性能を満たさない」とこれを一蹴している。』(⑤P27)とのことで、その目標台数は市場調査をもとに算出されたものではなかった。『陸軍としては軍用車は火砲の輸送も可能な四トントラックの能力が望ましかった』(⑤P27)が、このクラスの比較的大型のトラックは、当時の日本の道路事情もあり、実際の需要は少なかった。
(B)当初予想の製造コスト達成が厳しかった
製造補助金の額は7.1㋑で記したようなロジックで算出されたが、実際には『ほとんどの部品を内製することが求められた状況で、工廠なみの原価で製造することは難しかったのである。』(⑥P54)必要な設備投資と、市場での販売予想台数、及び緊縮財政下での軍用車の見込み台数から、採算が合わずに、市場参入を断念した企業もあったようだ。
(C)瓦斯電が経営危機に陥った
8.1-2で記したように、当時唯一軍用保護自動車を製造していた頼みの瓦斯電が、第一次大戦後の反動の不況下でこの時期経営危機にあり、車両の製造も開発もままならなかった。
(D)軍縮になり予算不足となった
そもそも『軍用の規格に合格するすべての車輛に補助金を与えるものではなかった。その車両の中で、毎年の予算の枠内で補助金を受ける車両台数が限定されていたのである。』(⑥P51)法制化を検討していた時期は第一次大戦中で好景気だったが、何度も記しているが戦後は長い不況に突入し、財政難で軍縮となった。従い5年で1,700台分の予算の確保は元々厳しい情勢となったが、上記(A)(B)(C)の理由から実需がさらに大きく下回り、この時期にこの問題が、顕在化することはなかった。
そのほかにも、当時の日本人の舶来品志向や、申請手続きの煩雑さ等もあっただろうが、以上のような諸問題を抱えた中で、以後の改正が行われていく事になる。
9.2軍用自動車補助法の改正の経過
 この項は(⑥と⑧)を元にまとめた。
9.2-1 1921年の改正
ⅰ.対象車両の積載量を民需の多い3/4トンに拡大(従来は1トンから)
ⅱ.製造補助金を最大3,000円に増額(従来は2,000円)
ⅲ.鍛造部品の外注を認める。
ⅳ.工場内に一定の資格を有する技師を配置する条項を撤廃する。
→ⅰ、ⅲ、ⅳは上記(C)(A)(B)に対しての対応策で、陸軍にとっては誠に不本意ながらも?瓦斯電以外で当時唯一参入の可能性があった、ダットの新規参入を明らかに念頭に置いた内容だった。ダットもそれに応えようとするが、相性の悪い?両者のその後の顛末は、8.3-1を参照ください。ちなみに石川島はこの時点では、乗用車も完成しておらず、陸軍としてはこの時期、DATに託すしかなかった。
ⅱは(B)を受けての処置で、瓦斯電での経験値から当初の予想よりも製造コストが高くつくことに対しての改正だった(⑥P79)。
9.2-2 1923年の改正
ⅴ.輸入可能部品に鍛造部品が追加となる。
ⅵ.螺子の規格が廃止される。
→ⅴは石川島、ダットの両社ともに、国産鍛造部品の調達に苦労しており、そのための対応(特に石川島の新規参入を即す)だった。
ⅵは言うまでもなく、ダットの橋本との確執の結果であった(8-3-2参照)。
9.2-3 1924年の改正
ⅶ.100台/年以上製造できる規模の設備を有していることが、条件として付け加えられる。
→石川島もダットも1924年に軍用保護自動車の検定に合格し、瓦斯電に続き軍用自動車補助法の許可会社となった。先にも記したとおり陸軍は『将来的に見て、保護自動車メーカーが三つぐらいあることが望ましいと考えていた』(③P105)。しかしその一方で、『そもそも陸軍としては、修理の必要などから、多数のメーカーが少量生産することを好まなかった』(⑥P80)。その“目標”が達成されたため、3社で“打ち止め”することを意図して、これ以上の新規参入に対してのハードルが一気に上げられた。後に陸軍と商工省は3社の統合に動くことになる(“その5”の記事で記す予定)。
9.2-4 1929年の改正
ⅷ.製造補助金を大幅減額した。(1921年との比較で:甲《積載量3/4~1トン》1,500→900円、乙《1~1.5トン》2,000→1,200円、丙《1.5トン以上》3,000→1,800円)
9.2-5 1930年の改正
ⅸ. 製造補助金をさらに減額した。(1929年との比較で:甲900→400円、乙1,200→750円、丙1,800→1,200円)
ⅹ.補助金対象に6輪車を追加した。(甲1,400円、乙1,750円、丙2,200円)
9.2-6 1931年の改正
ⅺ.甲《積載量3/4~1トン》を補助金の対象から外し、他の製造補助金をさらに減額した。(1930年との比較で4輪車:乙750→150円、丙1,200→200円。6輪車:乙1,750→1,000円、丙2,200→1,500円)
9.2-7 1932年の改正
ⅻ.製造補助金をさらに減額した。(6輪車:乙1,000→700円、丙1,500→1,000円)
→1929~1932年の改正は傾向として同じ流れにあるためまとめてみていくが、4輪車の製造補助金は、甲が廃止され、乙と丙も150~200円と、トラック1台の単価からみれば、ほとんど意味をなさない程度の金額まで減らされてしまった。さらにその後1936年の改正では、乙もその対象から外されてしまうことになる。民間との共用を考慮した、後方支援用トラックの補助金は大幅に減っていき、代わりに前線で使用する6輪車が補助金の対象に加わり、以後は6輪車へと特化して、民需から大きくかけ離れていった。関東大震災(1923年9月)以降に国内の自動車市場で起きた、大きな変化に伴う結果だった。
9.3フォード、GMの進出で急拡大した日本の自動車市場
次回の記事(“その4”)で詳しく記す予定だが、以降はフォード、GMの日本進出が、陸軍と軍用自動車補助法、及び保護自動車3社に与えた影響部分だけに限定して、記しておきたい。まず両社の日本進出について、その概要だけ記しておく。
関東大震災を大きなきっかけとして、まずフォードが横浜でノックダウン生産を開始して(1925年2月)、ライバルのGMも後に続き大阪で同じくノックダウン生産に追随した(1927年4月)。両社は全国に展開した販売網を通じて、大量生産故の低価格と月賦販売を武器に、熾烈な販売競争を繰り広げていった。その結果、タクシー、トラック、バスなどの新たな営業用需要を開拓し、日本の自動車市場は急速に拡大していった。そして先に7.1で示した表(表3:自動車保有台数の推移)に示したように、トラックの保有台数も急速に拡大していった。次に両社の進出が、保護自動車3社に与えた影響から見ていく。
9.4 保護自動車3社に与えた影響
まず初めに、フォードとGMの組立台数を含む表を示す。
(表6:「日本フォードと日本GMの経営成績(1925~1934)」(㉑P30より転記))
この表と、8.2項の終わりの方で記した、国産軍用自動車メーカー3社の生産台数の表(表5)を比較すればその差は歴然となるが、たとえば1929年の石川島、瓦斯電、DATの生産台数はそれぞれ205台、58台、19台に過ぎないのに対して、すでに日本進出を果たした同年のフォードとGMの日本における組立台数は10,674台、15,745台と、あくまで生産台数を尺度にした場合だが、優に100倍くらいの開きがあった。しかも両社の本国アメリカでの生産台数はそれぞれ1,316,286台、1,271,72台と、さらにその100倍ぐらいの台数を生産していたのだから、規模が違い過ぎた。
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 しかしそんな中でも、日本の保護自動車3社も、陸軍の厳格な検査もあり次第に鍛えられていき(『陸軍の検査を通るのが6割ぐらいだった』(㉒P59))、8.1-2や8.2-2で記したように1920年代後半にはある一定レベルの性能/品質には達していたようだ。『~他の調査でも国産車の品質は「実用上何等の不備なし」とされており、実際に軍用車として使用していた軍から性能問題についてそれほど指摘されることはなかった。』(⑥P84)という。
 そのため民間向けの販売が伸びなかった主因は、性能・品質以上に、生産規模の違いによる販売価格にあったようだ。『例えば、27年当時のダットの3/4トン積トラックの価格は5,000円であったが、製造補助金1,500円、購買補助金1,000円によって実際の購買価格は2,500円(シャシーのみでは2,100円)となっていた。ところが、当時の1トン積フォードのトラック・シャシーの販売価格は1,240~1,390円であった。すなわち、20年代後半には、補助金を入れても外国車に対する国産車の価格は割高となっていたのである。』(⑥P85)しかもフォードとGMが日本に持ち込んだ月賦販売を利用すれば、顧客は頭金を500円程度支払えば購入できたのだ。(⑤P37等)
 ⑥からの引用が続くが、保護自動車3社の『1925~30年間の軍への納入台数と補助金適用台数=民間への販売台数の比率は約半分ずつであった。しかも後者は各市の電気局が中心であり、純粋な民間企業は少数であった。要するに、3社の生産車輛は軍需を中心とし、市電や一部民間企業の営業用乗合自動車として使われるにすぎなかったのである。』(⑥P83)
 手作りの域を出ない国産車と、巨額な工場設備と製品開発費を投じた大量生産の(既述のように生産規模が台数ベースでは約×1万倍も違った)フォード/シヴォレーと比較すれば、いかに補助金分で嵩上げさせても、同じ土俵での競争は無理な相談だった。
既に青息吐息の国内3社に、外資勢に対抗するための新たな設備投資の余力などあろうはずがなかった。こうして国産3社は、軍用車以外は、輸入車と競合し難い特殊用途の車両や官需向けのバスなどの限られた市場に逃げ込むしかなかった。しかも(表6)の示すように米の2社は日本市場で大きな利益を上げていた。まだまだ余裕十分だったのだ。この圧倒的な地力の差には、国産3社だけでなく車両開発に深く関わってきた陸軍も、嘆息するしかなかったに違いない。
 販売台数の大差の要因は価格だけではなく、関東大震災の影響、販売網やアフターサービスの差、月賦販売の導入、さらにフォードとGMによる馬力競争の影響などさらに細かくみていく必要があるが、それらは以後の記事の“その4”と“その5”で記していく。
 次に米2社の進出が陸軍及び軍用自動車補助法に与えた影響を記し、最後にまとめをしたうえでこの記事を(なんとか)終えたいがその前に、官側の新たな動きとして、この時代に商工省と鉄道省が誕生したことも触れておきたい。
 商工省は1925年に農商務省を分割して設立され、商工業の奨励・統制を担った国家機関で(wikiより)、自動車産業を所管する官庁となった。関東大震災後の復興需要で、黒字基調だった国際収支が赤字に転じた上に、ノックダウン生産のための部品輸入の急増等が原因で、貿易収支の急激な悪化が問題となっていた(『1922年に700万円に過ぎなかった自動車・部品の輸入額が28年には3,000万円を超え、そのままいけば1億円を突破するものと予想されていた。』⑥P108)という。国産品奨励運動が盛んになる中で、国内の自動車産業の保護&育成に、以降は商工省が前面に立ち、関わっていくことになる(“その5”以降の記事で記す予定)。
 一方鉄道省も1920年に新しく設置された省で、1928年からは今まで逓信省が担っていた自動車などの他の陸上交通部門も管轄することとなった(wikiより)。鉄道技術は自動車に先行して、すでに世界水準に達していたが、鉄道省はその育成の過程で得た知見とその自信を、自動車産業にも活かそうと試みる。まずは省営バスの発注を足掛かりに、自動車産業育成に対しても、商工省と連携しつつ、主に技術分野で深く関わっていく事になる(こちらも“その5”以降の記事で記す予定)。こうして、経済産業省と国土交通省が両輪となり自動車行政を進める、現在に至る体制が形作られていった。
 なお陸軍(省)の方も、軍需品増産の政策立案とその実施のため、1926年に整備局(統制、動員の2課)が設置されたことも追記しておく。ちなみに初代動員課長は永田鉄山であった。
9.5 陸軍及び軍用自動車補助法に与えた影響
 何度も繰り返すが、軍用自動車補助法とは、「日本陸軍が有事に徴用する予定の自動車について、その製造者及び所有者に対して補助金を交付することを定めていた法律」(wikiより要約)であり、その第一の目的は、同法が参考にした欧州諸国の補助法と同様に、日本陸軍が有事に徴用する予定の自動車の確保であった。
 しかし欧州と違っていたのは、日本には当時自動車産業というもの自体が事実上存在しなかったため、軍用トラックの発注と製造補助金と通じて、陸軍自らが自動車産業育成に手をつけなければならなかった点にあった。しかし、9.1で見てきたとおり、量の確保も自動車産業育成も共に、はかばかしい成果を上げられないでいた。時代は不況下の軍縮の時代だった。この時期の『陸軍内部では、緊縮財政により軍需予算が減っているのに、民間の自動車メーカーを育成するために予算を使うのは良くないという意見が出ていた。射撃訓練のための軽機関銃さえ購入する予算がないのに何ごとか、という声が大きくなってきていた。』(③P154)という。予算も無い中で、陸軍の立場も、その陸軍内における自動車の立場も、後年のような強いものではなかったのだ。
 そんな手詰まり感のあったちょうどその頃に、フォードとGMの日本進出が始まろうとしていた。しかし巨大な自動車メーカーである米2社の進出は、軍用自動車保護法が持つ、副次的な目的であった、国内自動車産業の保護/育成の面からすれば、相反する結果をもたらすだろうことは、目に見えていた。
9.6 フォードとGMの日本進出を反対しなかった陸軍
以下は(⑤P36)より引用する。
『ここで注目すべきは、軍用自動車補助法を提出した日本陸軍も、フォードやGMの工場進出に反対しなかったという事実である。日本陸軍も自軍の装備品は国産が望ましいと考えていたにせよ、より重要なのは高性能な軍用車を必要な数だけ確保する点にあった。つまり当時の日本陸軍は、有事の必要数量さえ確保できるなら、それが国産車であるか輸入車であるかについて、特別なこだわりはなかったのである。』
 陸軍はフォードとGMの日本進出により、いわゆる“大衆車クラス”(=何度も言うが、3000cc級の積載量1~1.5トン級)のトラックの民間での普及を内心期待したのだろう。そして9.2で見てきたとおり、恐らくは陸軍の予想を超える勢いで、国内市場は一気に活性化されていき、それに応じて民間のトラックの保有台数も大きく増加していった。以下(⑳P137)より引用
『~フォードで鮮明な印象を与えられたのは、一流新聞に、そのころ珍しいトラックの1ページ広告を掲載したことだった。今になって回顧すると、なぜトラックであり、1ページ広告だったのか。一因は、年ごとに強まってくる軍需景気時代到来の予感、産業界全体が、増大する物資流通への考え始めていた時代相を、いち早くつかんでの訴求ではなかったか。』
(⑤P36)の引用を続ける。『~そして数の確保では、フォードとGMの工場進出は、陸軍の期待に応えていた。国産車が年産400台前後だった1928年、これら工場の生産数は両社合わせて二万台を超えていた。力の差は圧倒的だった。』 こうして陸軍は労せずして、有事の際に民間から徴用する、後方支援用の1~1.5トン積クラスのトラックの必要台数を確保できたのだ。ただし国産車ではなく、外交上次第に難しい関係になりつつあった米国製の、ノックダウン生産車であったが・・・。
 以下、この記事を作成するうえで多くを頼った、⑥のP83からこの問題の“まとめ”として引用する。
『法の制定時は、輸入車と国産車を問わず、トラックの保有台数は非常に少なかったため、国産メーカーの奨励と軍用自動車の確保といった問題に相反するものではなかった。しかし、国内軍用車メーカーの不振にも拘わらず、輸入・国内組立の外国車によってトラックが急激に増加すると、どちらを重視すべきかという選択に直面せざるを得なかったのである。
 そして、当時の軍縮ムードによる予算節約、国内メーカーの消極性などを考えると、民間との共用の自動車は外国車に委ねつつ、軍用専門の自動車のみに補助金を与え、その生産を確保する方針を採ったと考えられる。』

 もう1点、陸軍の軌道修正の“背中を押した”?出来事に、先に記した商工省の誕生があった。軍用自動車補助法の実施が、国産車の奨励と自動車産業の育成という、自動車産業政策としての側面を持っていたために、今までは陸軍が前面に立ち、その旗振り役を演じてきた。
 しかし官僚機構内での役割分担として、商工省が自動車産業振興のための行政を行うことになったため、陸軍はその役目から“解放”された。そして台数が必要となる後方支援用トラックは当面フォードとシヴォレーに任せて、陸軍が開発に関わる軍用車両は、前線で使用する際に重用する6輪車に特化させるのであった。(ブログ“独歩”さん http://doppo.moritrial.com/?eid=162280 よりコピーさせていただいた、趣のある下の写真は『祖父が昭和初期に運送業を営んでいた。セピア色の写真はそのころの初代トラックでシボレー1-1/2噸トラック。「昭和12年2月27日 京都駅前にて」と記されている。』そうだ。シヴォレーのトラックは大阪組立だったせいもあり『大阪、奈良、京都、滋賀、兵庫を中心に販売した』(㉓P8)という。)
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9.7陸軍が重用した六輪軍用自動車
 しつこいようだがこの記事全体の“まとめ”をする前に、新たに保護自動車のカテゴリーに加わり、六輪自動車についても、(⑤P46、③P156)等を参考に、ここで簡単に触れておく。
 前記のように1930年の法改正で、財政難から製造/購買補助金の減額と、3/4~1トントラックが除外される一方で、保護自動車に六輪車が追加された。
 陸軍の六輪自動車といえば、後の九四式が有名だが(後の記事の“その5”あたりで記す予定)、正式化される前から、石川島(スミダ)や瓦斯電(チヨダ)などが六輪車を製造し、陸軍に納入していた。後部2軸の6輪車は積載量の多さや、不整地でも履帯(キャタピラー)を装着すれば一定の走破性が期待できた。6輪車は保護自動車3社の中でも石川島が得意としていたようだ。元はウーズレーにあったものにヒントを得て試作したのが始まりだったそうだ。(③P156)下の写真はブログ「陸軍主要兵器写真館」さんよりコピーさせていただいた「石川島P型「九二式高射砲牽引車」」。
http://www.pon.waiwai-net.ne.jp/~m2589igo/cgi-bin/bunnkanrikugun5syaryourui.html?newwindow=true

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https://www.pon.waiwai-net.ne.jp/~m2589igo/cgi-bin/92sikikenninnjidoukasya.JPG
いっぽう瓦斯電のTGE-N型6輪車はモーリス(英)のものを参考にしたようだ。(⑧P176)(下の画像は“みつを工機P”on Twitter:さん https://twitter.com/mitsuwo117 よりコピーさせていただいた。)
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 これらの六輪軍用トラックは、戦前の陸軍の軍用トラックのいわば最終型として、後の“その5”の記事で記す予定の「九四式六輪自動貨車」として結実することになる。(下の画像は「ファインモールド社製模型の「1/35 九四式六輪自動貨車 箱型運転台」の完成品。ヤオフクに出品されていたものをコピーさせていただいた。「九四式六輪自動貨車」は、小型車ダットサンやダイハツ/マツダのオート三輪(“その5”の記事で記す予定)、戦中~戦後を通じて官民一体で地道な改良が続けられ、朝鮮特需の際に両社を倒産の危機から救ったトヨタ(KB型)/日産(180型)の軍用トラック(“その6”と“その7”で記す予定)とともに、戦前の日本を代表するクルマではなかったかと思う。ちなみに1台だけあげるとすれば、一般的にはダットサンだろうが、個人的にはこの九四式だ。『九四式6輪自動貨車については、それを鹵獲し、テストした米軍側の評価が残っている。米軍からみれば、九四式6輪自動貨車は出力重量比の低さが問題視されている(米軍の同クラスの軍用トラックは七十~九十馬力前後)ものの、信頼性は高いと評価されていた。事実、日本陸軍が長い兵站線を戦ったノモンハン事変でも、自動車隊の中心は九四式6輪自動貨車であった。』(⑤P75)その実直な姿そのままに、黎明期で、苦労ばかり多かった中で何とか歯を食いしばり、必死に生き残った石川島、瓦斯電、ダットの3社の文字通り“血と汗と涙の結晶”のようなクルマで、関係の方々の苦労がおもわず思い浮かんでしまう。)
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9.8 この記事のまとめ
 今まで延々と、「軍用自動車補助法」と陸軍を軸に、この時代の日本車(~1930年頃迄)巡る様々な動きをみてきたが、この最後の“まとめ”では、この記事の主要なテーマである「軍用自動車補助法」についての個人的な感想(=当然ながら全文まったくの私見です!)を書いて終えたい。

「軍用自動車補助法」が審議され、立法化されたのは第一次世界大戦の最中で、日本は戦争特需に沸き、好景気の真っ只中にあった。しかし少ない予算で、有事に民間から徴用するトラックの必要台数の確保と、自動車産業の育成を合わせて図るという二兎を追う、いささか虫のいい法案だったことも事実だった。そして民間から徴用するトラックの、5年間で1,700台という計画台数は、市場調査の結果から割り出されたものではなかった。陸軍側の軍用に徴用する必要台数から算出されたもので、当時の市場の実態と工業技術の水準からすれば、当初から、意あって力足らずに終わる可能性を十分秘めていた。
 同法は1918年5月から施行されたが、1920年3月には戦後恐慌に突入し、日本はその後長い不況となり、軍縮の時代を迎える。限られた軍事費の中で、当時の陸軍の認識では、直接の兵器でない自動車の位置づけは低かった。当初の好況期に立案された予算でさえ、目標台数達成のためには不十分な規模だったが、予算の圧縮でさらに縮小されていった。
 一方、自動車産業の育成も狙った同法に対して、民間企業の側の目からはどのように映っただろうか。
 陸軍が瓦斯電以外に参入を期待したメーカーの中には、たとえば発動機製造(ダイハツ)、川崎造船所、三菱神戸造船所という、有力メーカー3社の名前があった。
 発動機製造は、国産エンジンを開発する目的で、当時の大阪高等工業学校(現在の大阪大学工学部)の学者や技術者が中心となり、大阪の財界も協力して興された会社で、エンジンの技術開発や生産で実績があり、既に定評がある会社だった。自動車を作る上では瓦斯電よりも実力は明らかに上で、陸軍内で軍用車の試作を担当した大阪砲兵工廠と同じ、地元大阪ということもあり、陸軍は内心期待していたようだ。しかし結局、“一歩”踏み出すことはなかった。当時各種エンジンの生産で手いっぱいで、余力がなかったことが理由とされているが、陸軍の計画があまりに楽観的で採算が合わず、リスクが大きすぎると判断したからではないだろうか。
 一方三菱神戸造船所と川崎造船所の両社は、三菱/川崎財閥の中核企業として、6.2の(表1)にみられるように、当時の日本の民間製造業の中でトップ2の実力を誇っていた。造船所はこの時代の日本が誇る先進企業で、その中では原動機から工作機械まで自製していた。両社ともに一時は独自に試作車まで製作し、自動車産業進出のための具体的な検討を行ったことも事実だ。
 しかし両財閥ともに、国防を考えれば海軍はなにより軍艦であり、さらに陸/海軍ともに当時急速にクローズアップされてきた航空機が最優先で、軍用トラックの優先順位は低い(=予算配分が少ない)ことを直ちに認識した。利益を生むだけの財政支援も期待できない上に、肝心の陸軍自身も、実力のある両社に対しては、当時亜流の自動車よりも、国防の要となる可能性の高い航空機産業への参入の方を、より強く期待した。
 発動機製造を含む3社共に、結局のちには、自動車産業に進出することになるのだが、この時点では、瓦斯電や石川島、ダットほどの、自動車産業に対して格別な思い入れはなかった。あくまでも企業として冷静な判断(自動車を生産するための、新たな設備投資をしても、採算がとれない)を優先させたのだった。
 実際にその後、瓦斯電、石川島、ダットが歩んだ、軍用保護自動車メーカーとしてのいばらの道のことを思えば、3社ともそれが正解だったと、この当時は思っただろう。予算削減で軍用トラックの発注量も少なかっただけでなく、巨大な自動車メーカーとして世界に君臨していたフォードとGMが、ノックダウン生産を行うためのアジアの拠点として、日本を選択したからだ。
 そして国内3社にとっての頼みの綱だったはずの陸軍も、あえて異を唱えなかったのだ。こうして2社に追従したクライスラーを含む、今や死語となったが、巨大な“ビッグスリー“の上陸で、日本の自動車市場はまたたくまに席巻され、植民地化されていった。
 しかし、軍用自動車補助法の旗振り役でありながら、成果が出せず、打開策も見いだせないまま窮地に陥った当時の陸軍を救い出したのも、皮肉なことにフォードとGM(シヴォレー)だった。
 米車の進出で自動車市場は一気に活性化され、タクシーやトラックの営業車需要が新たに開拓されていった。その結果トラックの保有台数は大きく増加し、陸軍が有事の際に徴用する、後方支援用トラックの確保が一気に解決したのだ。ただし米国製のトラックに頼ってであったが。自給自足を旨とする総力戦構想からすれば矛盾のある話であったが、当時米国はまだ、敵国とは見なされなかったし、そもそも背に腹は代えられない状況だったのだ。
 陸軍が米国車の上陸に敢えて反対しなかった理由が、この事態までを予見したからなのか、それとも自動車行政に自信を失いかけた中で、当時の世相(“上陸”を歓迎ムードだった)に逆らうことを遠慮したのか、あるいはその両方だったのか、今となってはよくわからない。そのような視点で書かれた日本の自動車史がほとんどないからだ(⑥と、その影響を受けたと思われる⑤ぐらい?)。いずれにしても、国内自動車産業育成という見地からすれば、陸軍が距離を置き始めたことは明らかだった。
 さらに商工省の誕生により、自動車産業育成という大役から降板し、以後は商工省を後押しする形で引き続き、自動車行政に深く関わっていく事になる。

 最後の最後に、この「軍用自動車補助法」とこの時期の陸軍が、自動車産業育成に果たした、歴史的評価について、確認してみたい。一般的には『~しかし,コスト的,品質的に欧米車に劣る日本車が同法によって競争優位を獲得したということは決してなく,国家的保護によって,何とか生き残るメーカーがあったという程度の効果を果たしたと理解するべきであろう。』(引用Web❽P47)というあたりが多い。実際その通りだと思うが、個人的な心情からすると、同法と日本陸軍と国産3社を、もう一歩、前向きに評価したい気がする。
 確かに同法は、市場分析と予算の裏付けも十分無い中で、たぶんに“願望”や“勢い”で作られた法案だったように思える。しかし1910年代の日本の実情を思えば、理性的な判断だけでは、自動車産業育成策など、そうそう立案できるものではなかったことも事実だった。世界を見渡せば、量産アメリカ車の背中ははるか彼方で、ますます遠ざかろうとしており、たとえ”見切り発車”でも、その”決断”は早い方が良かったのだ。
 一方企業の側も、瓦斯電、石川島及びダットの保護自動車3社は、上記(Web❽)などの指摘のように、同法及び陸軍の下支えがあって初めて、苦しい経営を乗り切れたのは事実だ。
 しかし3社の側も、軍用保護自動車としての事業が、国を支える事業であるというプライドを胸に、脱落せずに必死に耐え忍んできた。そして厳しい環境下で陸軍の期待に応えるべ努力した末に、1930年を迎える頃にはついに、性能・品質面で、自動車としての一通りの水準まで引き上げることが出来た。もちろん量産型ではなく、主要な部品も輸入に頼っていたようだが、それでも短期間に、大きな進歩を果たしたと思う。
 同法を巡っては、たとえば当時の国情を考えれば小型車の振興に力を注ぐべきだった等々の議論があるのも事実だが、日本の自動車産業史の全体を見渡せば、この「軍用自動車補助法」と日本陸軍の果たした役割の大きさに、あらためて気づくことだろうと思う。

 以上、ようやく“その3”の記事を書き終えることができた。次の“その4”は、フォードとGMの日本進出で、たぶんこの記事ほどは複雑にならないはずで、7月中にはアップしたい。

引用、参考元一覧 (本)
①:「国産トラックの歴史」中沖満+GP企画センター(2005.10)グランプリ出版
②:「軍用自動車入門」高橋昇(2000.04)光人社NF文庫
③:「苦難の歴史 国産車づくりの挑戦」桂木洋二(2008.12)グランプリ出版
④:「太平洋戦争のロジスティクス」林譲治(2013.12)学研パブリッシング
⑤:「日本軍と軍用車両」林譲治(2019.09)並木書房
⑥:「日本自動車工業史―小型車と大衆車による二つの道程」呂寅満(2011.02)東京大学出版会
⑦:「大日本帝国の真実」武田知宏(2011.12)彩図社
⑧:「日本自動車産業の成立と自動車製造事業法の研究」大場四千男(2001.04)信山社
⑨:「永田鉄山と昭和陸軍」岩井秀一郎(2019.07)祥伝社新書
⑩:「1940年体制 さらば戦時経済」(増補版)野口悠紀雄(2010.12)東洋経済新報社
⑪:「日本株式会社の昭和史 官僚支配の構造」NHK取材班(1995.06)創元社
⑫:「企業家活動でたどる日本の自動車産業史」法政大学イノベーション・マネジメントセンター 宇田川勝・四宮正親編著(2012.03)白桃書房
⑬:「明治の自動車」佐々木烈(1994.06)日刊自動車新聞社
⑭:「日野自動車の100年」鈴木孝(2010.09)三樹書房
⑮:「20世紀のエンジン史」鈴木孝(2001.10)三樹書房
⑯:「いすゞ自動車のすべて」カミオン特別編集(2012.05)芸文社
⑰:「歴史の中の中島飛行機」桂木洋二(2002.04)グランプリ出版
⑱:「写真でみる 昭和のダットサン」責任編集=小林彰太郎(1995.12)二玄社
⑲:「20世紀の国産車」鈴木一義 (2000.05)三樹書房
⑳:「ニッポンのクルマ20世紀」(2000)神田重己他 八重洲出版
㉑:「日本の自動車産業経営史」宇田川勝(2013.10)文眞堂
㉒:「日本陸海軍はロジスティクスをなぜ軽視したのか」谷光太郎 (2016.05)パンダ・パブリッシング
㉓:「日本のトラック・バス トヨタ、日野、プリンス、ダイハツ、くろがね編」小関和夫(2007.01)三樹書房
㉔:「読む年表 日本の歴史」渡辺昇一(2015.01)ワック株式会社
㉕:「昭和陸軍の軌跡」川田稔(2011.12)中公新書
㉖:「浜口雄幸と永田鉄山」川田稔(2009.04)講談社選書メチエ
㉗:「永田鉄山 昭和陸軍「運命の男」」早坂隆(2015.06)文春新書
㉘:「永田鉄山と昭和陸軍」岩井秀一郎(2019.07)祥伝社新書
㉙:「太平洋戦争のロジスティクス」林譲治(2013.12)学研パブリッシング
㉚:「戦後日本経済史」野口悠紀雄(2008.01)新潮選書
㉛:「自動車用エンジンの性能と歴史」岡本和理(1991.07)グランプリ出版
㉜:「悪と徳と 岸信介と未完の日本」福田和也(2015.08)扶桑社文庫
㉝:「岸信介証言録」原彬久(2014.11)中公文庫

㉞:「日本自動車工業史座談会記録集」 (1973.09)自動車工業振興会

引用、参考元一覧 (Web)
➊:「戦前のオート三輪車とプレモータリゼーション」箱田昌平
https://www.i-repository.net/contents/outemon/ir/106/106070306.pdf
❷:「アメリカ南北戦争は日本の金が」ブログ“東京イラスト写真日誌”さん
http://www.irashadiary.com/2014/05/06/20140506/」
❸:「海戦勝利の要因は何だったのか」ある公認会計士の戦史研究 チャンネル日本
  http://www.jpsn.org/essay/acct_warhist/12370/
❹:「日本近現代史の授業中継」ブログ 大正政変と第一次世界大戦
http://jugyo-jh.com/nihonsi/jha_menu-2/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E6%94%BF%E5%A4%89%E3%81%A8%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6/
❺:産経新聞「戦後70年~大空襲・証言」
https://www.sankei.com/affairs/news/150310/afr1503100004-n3.html
❻:ブログ“おととひの世界”
https://ameblo.jp/karajanopoulos1908/entry-12587230470.html
❼:“長州新聞”「記者座談会 語れなかった東京大空襲の真実」
https://www.chosyu-journal.jp/heiwa/1134
❽「戦前期日本自動車産業の確立と海外展開(上)」上山邦雄
http://libir.josai.ac.jp/il/user_contents/02/G0000284repository/pdf/JOS-02872072-3703.pdf
❾-1:「日本自動車産業と総力戦体制の形成(一)」大場四千男 北海学園学術情報リポジトリ
http://hokuga.hgu.jp/dspace/bitstream/123456789/3484/1/p145-173%E5%A4%A7%E5%A0%B4%E5%9B%9B%E5%8D%83%E7%94%B7.pdf
❾-2:「日本自動車産業と総力戦体制の形成(二)」大場四千男 北海学園学術情報リポジトリ
http://hokuga.hgu.jp/dspace/bitstream/123456789/3637/1/P123-153.%e5%a4%a7%e5%a0%b4%e5%9b%9b%e5%8d%83%e7%94%b7%e5%85%88%e7%94%9f.pdf
❿::「道路運送車両法 ―その成立の歴史と背景―」小川秀貴 経営戦略研究 Vol. 6
https://kwansei-ac.jp/iba/assets/pdf/journal/studies_in_BandA_2012_p29-41.pdf
⓫:「東京ガスの歴史とガスのあるくらし」高橋豊 川崎市役所 企業の歴史と産業遺産⑤
http://www.city.kawasaki.jp/kawasaki/cmsfiles/contents/0000026/26446/08takahashi.pdf
⓬:「日本で自動車はどう乗られたのか」小林英夫 アジア太平洋討究
https://core.ac.uk/download/pdf/46895065.pdf
⓭-1:「32-07.国産車発展小史⑩~石川島造船所その2~」クルマの歴史300話 蜷田晴彦
http://ninada.blog.fc2.com/blog-category-40-3.html
⓭-2:「32-18.国産車発展小史⑫~石川島造船所その3~」クルマの歴史300話 蜷田晴彦
http://ninada.blog.fc2.com/blog-date-201702.html
⓭-3:「33.昭和時代の始まり」クルマの歴史300話 蜷田晴彦
http://ninada.blog.fc2.com/blog-category-41-3.html
⓮:「瓦斯電から日野自動車へ」家本潔 (インタビュアー鈴木孝)(JSAE)
https://www.jsae.or.jp/~dat1/interview/interview4.pdf
⓯「戦前期における自動車工業の技術発展」関,権
https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/10406/1/ronso1250500150.pdf
⓰:「みなさん!知ってますCAR?」「ダットサンのルーツ」広田民郎
https://seez.weblogs.jp/car/2008/08/
⓱:日産ヘリテージ・コレクション「実用自動車とリラー号」
https://nissan-heritage-collection.com/NEWS/publicContents/index.php?page=6
⓲:「第一次世界大戦の衝撃 ―日本と総力戦―」相澤淳 防衛研究所戦史部
http://www.nids.mod.go.jp/event/proceedings/symposium/pdf/1999/sympo_j1999_2.pdf
⓳:「「昭和日本陸軍の歴史」
https://ncode.syosetu.com/n7245fs/
⓴:「「叛骨の宰相 岸信介」北康利より」 ブログ“読書は心の栄養”
https://ameblo.jp/yoshma/entry-11925185903.html
《21》あなたは知っているか?「T型フォード」と「初代 iPhone」が転回したマーケティングの歴史」
https://markezine.jp/article/detail/28030


備考
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≪備考6≫質&量共に劣っていた日本の軍馬
 多少余談になるが、当時の日本の軍馬は世界基準で見た場合、質(能力)の面でかなり劣っていたようだ。以下(⑤P13)より引用『日本陸軍の軍用車について考えるときに忘れてならないのは、日本陸軍が抱えていた軍馬の問題である。十九世紀末から二十世紀初頭の軍隊では、機動力や兵站面で軍馬が重要な位置を占めていた。だが日本陸軍は、その質と数の両面でその所要を満たせないでいた。』(下の画像はwikiより「幕府陸軍のフランス式騎兵」)
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そのため日露戦争では、軍馬の不足から輸送力の主役は人間であったという。また当時の日本の軍馬は、性格が荒い上に馬体は貧弱で『その後の義和団事件などでも日本の軍馬は、馬体が小さいわりに従順さに欠け、諸外国から「日本軍は馬に似た猛獣を使用している」と嘲笑されるありさまだった』そうだ。
ただこのことは、馬に対しての接し方が、元来が野蛮な肉食系人種である?西欧人のように家畜(=奴隷)扱いでなく、草食系の温和な日本の社会では共生すべき生き物であったことも一因だったのではないだろうか(まったくの私見(偏見)です)。
その後、軍馬としてみた質の面では30年以上かけて徐々に品種改良されていったようだが、(引用㉒P57)によれば、国産軍用トラックの生産力/性能ともに中途半端に終わった日本は結局、太平洋戦争終結まで馬による輸送に多くを頼ったとしている。
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http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/h/hibi159/20150402/20150402020332.jpg
しかし話が脱線するが、軍馬としての能力が劣る中でも、日露戦争において日本陸軍はそれを補う画期的な戦術を編み出し、ロシア軍と戦ったという。以下は手元にあった入門書的な日本史の本の(㉔P208)「奉天会戦」より長文だが引用
『~世界最強と目されるロシアのコサック騎兵に比べ、日本の騎兵はまことに見劣りがした。何しろ徳川三百年の間、騎兵を用いる必要がなかったから、騎兵の運用は明治になって西欧から大急ぎで学んだばかりだし、馬もあわててオーストラリアから輸入して育成したものだった。日露戦争当時の世界中の人々が日本の勝利に耳を疑ったのも無理のない話であった。
そんな状況下にあって日本の騎兵の創始者、秋山好古が考えたのは、いわば逆転の発想であった。騎兵での戦いでは日本人がコサックに勝てるわけがない。だから、コサック兵が現れたらただちに馬から降りて、従で馬ごとなぎ倒してしまおうと彼は考えたのである。これは騎兵の存在理由を根本から覆す発想である。(中略)
さらに秋山将軍は、当時ヨーロッパで発明されたばかりで、「悪魔的兵器」と言われながらもその威力が戦場では未知数であった「機関銃」を採用した。黒溝台における会戦で、日本騎兵の機関銃の前にコサック騎兵は次々と倒され、なす術もなかった。(中略)その結果、最終決戦となった明治三十八年三月の奉天会戦の戦場では、とうとうコサックは前線に現れなかった。機関銃は世界最強のコサックを封じ込めてしまったのである。(中略)
世界の人々にとって、日本軍の勝利はまるで奇跡を見ているかのようであったと思われる。戦争が終わり、真実が分かっととき、それまで世界中で「陸軍の華」と呼ばれた騎兵は、世界の陸軍から急速に消滅することになった。どんなに機動力があっても、機関銃の連射の前には何の力もないことが明らかになったからである。そこで、機関銃に負けない機動力を持つものとして、十年後の第一次大戦で、欧州の戦場に戦車が登場してくることになった。』

しかし上記㉔の記述のうち、機関銃の話の裏をとろうと確認のため、wiki等ネットで検索すると、『ロシア軍の装備する当時の最新兵器の機関銃により、敵陣を攻撃する歩兵の突撃隊にたびたび大損害を被った』(wiki)等、逆の印象を受けるような記述も多数あり、良くわかりません?自分は機関銃には興味が無いので!興味を持たれた方は、ご自身でネット検索してみてください。「機関銃」は本題から離れるのでこれ以上の検索は止めるが、日露戦争は、双方が歩兵用火器として機関銃を本格的に使用した世界初の戦いだったというのは事実のようだ。
さらに(㉔P211)より追記する。『日露戦争における陸軍の司令官たちはみな実戦で学び、鍛えられた人たちばかりであった。大東亜戦争において、教科書どおりの戦法を繰り返して何ら学ぶところのなかった士官学校出のエリート軍人たちが多かったのとは、大いに違うと言わざるを得ない。』機関銃については横わからないけれど、ここは皆さん同感なのではないでしょうか。
兵站の話に戻し、話がさらに大きく脱線するが後の第二次大戦で、圧倒的な工業力で世界をリードしたアメリカは、日本より遥かに余裕があり思想も進んでいたようで、馬やトラックを“飛び越えて”第二次大戦において輸送用飛行機で物資を空輸するという“贅沢”なことを考えた。以下(引用㉒P64)より『日本陸海軍の特色は、攻撃力偏重であった。攻撃を重視するあまり、その攻撃力を支える諸々の機能(ロジスティクス)を軽視する。戦闘機は、直接的に敵艦隊を攻撃するものではないから不要だとする意見すら有力だったこともある。戦闘機は、単座急降下爆撃機にかえるべきだ、という意見も強かった。(中略)
 戦闘機無用論があるくらい攻撃力重視の雰囲気の中で、ロジスティクス関連の飛行機を開発したり、飛行機を使ってのロジスティクスを研究してみようという動きは日本軍の中では起こらなかった。(中略)これは工業力の差以前に航空ロジスティクスへの理解の差といってよかろう。』
(太平洋戦争における陸軍の主力軍用輸送機、三菱一〇〇式輸送機は輸送乗員19名で507機が生産された。九七式重爆撃機(キ21)の胴体部分を改設計し、制作された。下の絵は一〇〇式輸送機とほぼ同型のMC-20-I型。「古典航空機電脳博物館」さんよりコピーさせていただいた。)
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https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn%3AANd9GcQpEf2a00k0QFkxNygC_jsm4ELIVXDlHlQHvagpNQHLUaifxLj2
(下はジュラルミンの波形が特徴的なドイツのユンカースJU-52型輸送機。日本の一〇〇式とほぼ同性能だったが10倍近い約4,800機も生産された。『ドイツ空軍の兵士たちからは、Tante Ju(タンテ・ユー=「ユーおばさん」の意)と呼ばれ親しまれ』(wiki)、ドイツの空挺師団戦力には欠かせぬ存在だった。)
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(下はアメリカのダグラスC47型輸送機。画像はwikiより。DC-3型の軍用輸送機型で、各タイプを合わせて合計1万機以上生産された。ノルマンディー上陸作戦や、アジアの奥地作戦で活躍し、アメリカ軍欧州戦域総司令官だったドワイト・D・アイゼンハワー(後の大統領の)は、“第二次世界大戦を勝利に導いた兵器”として、「バズーカ」、「ジープ」「原子爆弾」そして「C-47輸送機」の4つを挙げたことからも、空輸による輸送が果たした役割の大きさは分かる。「"Four things won the Second World War-the bazooka, the Jeep, the atom bomb, and the C-47 Gooney Bird."」)

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≪備考7≫日本陸軍の総力戦構想について
第一次世界大戦において日本は、ドイツ領だった青島、グアム、サイパンを取り、信託統治領として領有した。日清戦争後に台湾を領土とし(下関条約)、日露戦争で樺太の半分と満州権益を得て、さらに1910年には韓国を併合していた。当時の日本はこれらの外地(植民地)をもって自らを“帝国”と名乗っていた。(下の地図の赤い部分が日本の領土で、地図はブログ「我が郷は足日木の垂水のほとり」さんよりコピー)
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https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/f8/3e60eebafd6ac14fd5f5b7e9447da700.png
南洋諸島まで拡張した“大日本帝国”陸軍には、再三記すが来るべき世界大戦に備えて総力戦体制を築くという壮大な戦略目標があり、それを実現するための明確な計画が存在していた。そして自動車もその中の一部として、位置付けられていた。
そこで以下の≪備考7-1≫で総力戦構想に至った経緯を大まかな点を記したうえで、続く≪備考7-2≫でそのための課題として、工業分野の中でも自動車産業に関係してくる部分をピックアップして、自動車と総力戦構想の関連について、概要の作成を試みた。主に参考にした本は、陸軍軍政家としての本流を歩み、総力戦体制の構築を主導した永田鉄山(永田鉄山については次の≪備考8≫で記す)について主に記された(⑧、㉕、㉖、㉗、㉘、㉙)及びそのアマゾンカスタマーレビュー(安直ですが!)、さらに(Web❾-2、⓲)等だ。しかし泥縄式の勉強では到底理解できなかったことは、本文に記したとおりです。(下の絵は東京市ヶ谷にあった陸軍参謀本部(1922年に書かれた絵)。画像は“ジャパンアーカイブス”さんより。陸軍を統括していた機関は、陸軍省(軍政担当)・参謀本部(軍令担当)・教育総監部(教育担当)の3機関だった。士官学校出のエリートたちを頂点とした、戦前の日本でもっとも巨大な官僚機構でもあった日本陸軍の組織については以下のブログ「公文書に見る日米交渉」を参照ください。
https://www.jacar.go.jp/nichibei/reference/index16.html)

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https://jaa2100.org/entry/detail/029490.html
≪備考7-1≫第一次世界大戦の教訓
第一次世界大戦は、1914年7月から18年11月まで、4年半近くに及んだ長期化と、あらゆる物的人的資源をつぎ込むという総力戦化で、戦争当初の予想をはるかに超える過酷な戦争となった。
(下の図と以下の文はブログ「昭和日本陸軍の歴史」https://ncode.syosetu.com/n7245fs/
さん(Web⓳)よりコピーさせていただいた。『1914年(大正3年)7月から1918年11月まで、4年半近くの長期にわたってつづいたこの戦争は、戦死者900万人、負傷者2,000万人という、それまでの戦争とは比べ物にならないほど未曾有の規模の犠牲者と破壊をもたらす凄惨な戦争となった。』
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日本の戦闘範囲は、ドイツの武装商船の拠点となっている南太平洋で、ドイツが租借していた南洋諸島の制圧と、同じくドイツが租借していた、東南アジア屈指の良港であった青島への攻撃でごく限定的なものであった。しかし陸軍は早くから、第一次大戦の主戦場であった欧州にも武官を派遣して、その実態調査に当たらせていた。
『日本陸軍は、ヨーロッパを中心に繰り広げられていた第一次大戦の戦訓調査について、戦争勃発の翌年の 1915 年に早くも「臨時軍事調査委員会」を設置してその調査を開始し、戦争半ば過ぎの 1917 年後半にはその総力戦的様相を「国家総動員」という言葉で捉えるようになっていた。』(Web⓲P17)
『陸軍は大正4年(1915)に臨時軍事調査委員会を発足させ,第一次世界大戦のヨーロッパ諸国における経済力戦を調査させた。委員会はその調査報告書として大正6年(1917)1月に「参戦諸国の陸軍に就て」を発行し,航空機,重火器,車輌(戦車・軍用自動車)等を中心にする総力戦の実態を報告した。さらに,陸軍は砲兵少佐鈴村吉一をヨーロッパに派遣し,各国の軍需工業の実態とその動員体制をも調査させた。この結果,彼は,大正6年9月に「全国動員計画必要ノ議」を提案するに至る。』(Web❾-2P129)
欧州で総力戦の実体と連合国及びドイツの戦争遂行の過程をつぶさに見て、大きな衝撃を受けた陸軍の中堅幕僚たちは、第一次世界大戦終結後の国家戦略の構想に取り組み始める。
『そうした総力戦研究の成果は、戦争終結後の 1920 年に『国家総動員に関する意見』という報告書等にまとめられ、純軍事的分野のみの対応に限定されない総力戦への対応策が陸軍部内で種々検討されていくことになった。』(Web⓲17)という。
その『国家総動員に関する意見』を策定したのが、前記の永田鉄山で、理論的に体系化されたその論文は、のちの総力戦体制構築のためのたたき台となっていく。(≪備考8≫参照)

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https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/dd/35131bf604536ff42a05c1a9c062b949.jpg
≪備考7-2≫総力戦構想の課題(工業分野)
≪備考7-2-1≫前書き(言い訳?)

従来の国軍は、その国力に応じた短期(1〜2年)の戦争を想定して規模や装備が定められており、それが世界共通のあり方であった。しかし国家総力戦となった第一次大戦では、国家が国力のすべて、軍事力のみならず経済力や技術力、科学力、政治力、思想面の力を平時の体制とは異なる戦時の体制で運用して争う戦争となった。
『総力戦体制構築のためにまず問題となるのが、莫大な国力を消費する長期の消耗戦を戦うために必要な経済力をどのように育成していくかであった。国内の資源が乏しく、工業生産力等もいまだ主要列強に劣る日本にとって、これは大きな問題であった。』(Web⓲P17)再三記すが西欧先進諸国に比べて、長期の総力戦を戦う上で、何から何まで足りなかったのが当時の日本だった。
以下は経済/工業分野に於いて、総力戦構想なのであくまで“陸軍目線(=「将来の戦争に備え、国を守るためには、国家総動員体制の構築が必要」とする価値判断)”から見た主な課題の中でも、自動車分野(=これも陸軍目線なので対象は乗用車でなく主に軍用トラック)に直接/間接に関わってくる部分に限定して抽出し、≪備考7-2-3≫で箇条書きで簡潔にまとめてみた。しかし何度も記すが表面的な理解のため自分のものになっておらず、いかにも寄せ集め的になってしまった。ただ本題に入る前に前書きばかりが長くなるが、この時代(=この項は主に大正デモクラシー期を想定。後の戦乱の昭和より前の時代)の時代背景を先にしるしておく。
≪備考7-2-2≫その時代背景
戦争特需の反動による不況と、1918年のシベリア出兵に対しての批判で、昭和(当然戦前の)と違い厭戦気分が高まっていた。さらにロシア帝国が滅び、外的脅威が弱まったことも相まって、軍縮への要求が高まる、陸軍にとっては逆風の世相の中で行われたものであったことも追記しておく。1922年にワシントン会議(下の写真はその模様で、画像は“国際IC日本協会”さんよりコピーさせていただいた)が開催され、軍縮条約で主力艦(戦艦)の保有制限が合意された。陸軍においても山梨軍縮・宇垣軍縮が進み「軍縮の時代」が始まった。以下(㉕)より引用
『1920年代の陸軍主流をなしていた宇垣一成は、長期の総力戦への対処として軍の機械化と国家総動員の必要を主張しており、その点では永田と同様であった。だが、基本戦略としてワシントン体制を前提に米英との衝突はあくまでも避けるべきとの観点にたっており、主にソ連との戦争を念頭に、中国本土が含まれないかたちでの、日本・朝鮮・満蒙・東部シベリアを範域とする自給自足圏を考えていた。それは、資源上からも厳密な意味での自給自足体制たりえず、不足軍需物資は米英などからの輸入による方向を想定していた。したがって、中国本土については米英と強調して経済的な発展を図るべきであるとの姿勢であった。米英ともに中国本土には強い利害関心をもっていたからである。』(㉕P81))
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冗長な前置きばかりだがもう1点、上記の説明ともかぶってくるが、この時代の陸軍の軍戦備構想がけっして一枚岩でなかった説明として、(㉚P78)より引用しておく。『(前略)相反する考え方があったのである。一方は「平時から大規模な戦力を持っておき、戦時になったら短期間で敵国を打ち破ろう」という構想をもっていた。工業力の貧弱な日本は長期戦に耐えられないという認識からの構想である。だが他方で「長期戦は想定せねばならないし、そのためには国内の工業基盤を整備して、長期で大量の軍需動員に備えるべきだ」という考えを持つ軍人たちもいた。』後者が「総力戦構想」といえるが、その延長線上で、自給自足体制の確立を目指し、大陸へと戦線を拡大し軍拡の道を歩む事にもつながっていったと思う。
≪備考7-2-3≫総力戦構想と自動車の関係
本題に戻り、先にも記したがいかにも“寄せ集め”の感が拭えないが!以下は箇条書きで自分なりにまとめてみた。
㊀.
長期間の総力戦を戦い抜くためには資源の自給自足体制の確立が大前提となる。そのため資源を求めて資源調査と、中国大陸における軍事行動を伴う資源確保が画策されていくことになる。このことは外交上のフリーハンドを得るためにも必要と考えられていた。
㊁.工業分野に於いては基礎的な目標としてまず、産業振興のための基盤整備として、西欧列強に大きく劣る鉄鋼や化学、機械工業等の重化学工業を自立させることがまず前提となる。そのため各種国産補助法に基づく出資/援助等を行ない、基盤産業の保護/育成を推進していく。(たとえば1917年の「製鉄業奨励法」等。Web❾-2P130等参照)
.㊁と並行して、長期戦を戦うために、近代兵器(航空機、軍艦、軍用自動車、戦車等)を大量生産し、自給自足体制を確立させる必要となる。また敵国と有利に戦う上では量だけでなく、兵器自体の性能(質)が決定的な要素となる。そのためには人材育成等も含め、工業技術力全般の大幅なレベルアップも必要となる。
. 当時の日本の限られた条件下で、㊁、㊂を実現するために、生産設備・物資・資源・人材を効率的に配置する、国家主導による計画/統制経済が構想されていく。
.関連して、動員時の統一的使用が可能なよう工業製品の規格統一を図ること、軍需品の大量生産に適するよう生産・流通組織の効率化と大規模化を目指すことになる。
.別の視点から見れば工業分野に於ける総力戦構想とは、戦時と平時の生産力のギャップを埋め平時から戦時のための工業動員に備える(平時も準戦時体制に置く)為のものと捉えることも出来る(⑧P31等参考)。
.上記㊅と関連して、陸軍にとって自動車産業を育成することは、第一次大戦の戦訓から、近代兵器として育成すべき最優先の分野であった航空機産業を、平時からバックアップすることを意味していた。現代と違い当時は自動車と飛行機の技術的な関連性が高かったため、いわゆる「シャドーファクトリー構想」(=「戦時における工場の軍需転換」)を意識していた。(関連≪備考12≫)
.産業界側からみると、第一次大戦は一方で日本に戦争特需をもたらし、主に重化学工業分野がその恩恵を受けた。上記の政府の施策と相まって日本が農業国から工業国へ、さらに軽工業から重化学工業へと産業構造を変化させるためのきっかけをもたらした。それらは自動車産業を成立させるための産業基盤が徐々に整備されていくことを意味していた。(下表はブログ「世界の歴史まっぷ」さん
https://sekainorekisi.com/の記事「大戦景気」よりトリミングしてコピー)
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https://mk0sekainorekisr2s2b.kinstacdn.com/wp-content/uploads/2019/10/e401b187de3e4dd0084edbd66393ceb0.png
,戦争特需で資本力を得た企業の中に、大戦終結後の軍需急減を見越して、将来の成長分野と目された自動車産業への進出を試みる企業家が現れた。本文の方の8項で記すが陸軍による「軍用自動車補助法」を足掛かりに、東京瓦斯電気工業(日野自動車のルーツ)と東京石川島造船所(同じくいすゞ自動車のルーツ)、そしてダット自動車製造(同じく日産自動車のルーツ)製の軍用保護自動車が誕生することとなる。

こうして日本陸軍は、本文の7項で記す「軍用自動車補助法」と同時に成立した「軍需工業動員法」から、その後1936年の第二次総動員計画の策定~1938年の「国家総動員法」成立に至るまで、延々と16~18年費やして総力戦構想を具体化していくこととなる(Web❾-1P157等参考)。下の画像はwikiより、『国家総動員法成立を報じる新聞 1938年(昭和13年)』)
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 そして日本の自動車産業も、総力戦構想に基づく戦時下の統制経済の下で、外資を排除した中で確立されていく。トヨタの自動車事業のスタートが1936年の「自動車製造事業法」とリンクして確立されていったことは良く知られているが、以下(⑩P4)より引用
『ダワー(Dower,1993)は、つぎのことを指摘している。①日本の自動車メーカー11社のうち、純粋な戦後産はホンダ1社にすぎない。②残る10社のうち、トヨタ、日産、いすゞの三社は、軍用トラック・メーカーとして戦時期に発展した。③他の七社においても、自動車生産は、戦時中の軍用機や戦車生産からのスピンオフであるケースが多い。』←厳密に言えば本田宗一郎がホンダ創業前に設立した東海精機は軍需依存の企業だったし(航空機用ピストンリングを生産。戦後トヨタに売却してその資金でオートバイに進出)、逆に商人の足的な存在だった、オート三輪から自動車産業に進出したダイハツとマツダも、起業時は確かに海軍との関係が深かったが、オート三輪に冷たかった戦時体制はむしろ逆風だった(のちの記事の“その5”あたりで記す予定)が、概ねまとを得た指摘だったように思える。
さらに本文の方で書いたように、自動車産業のみならず、戦後の日本経済自体も、野口悠紀雄が⑩で“1940年体制”(=『戦後日本経済史を読み解く視座として、戦後経済の礎は、1940年前後に導入された制度にある』以上⑩に対してのアマゾンカスタマーレビューより引用!)と喝破したように、戦時下の総力戦体制は敗戦後も戦後の経済体制の中に色濃く残り、やはり“総力戦”のようだった戦後の高度成長期を支えていくこととなった。(本文の方の6.4-4-3もしくは⑩あたりをお読みください。以上の考えには私見が混じっています。)


≪備考8≫永田鉄山と総力戦構想について
 陸軍の“統制派”のリーダーとして、総力戦体制構築のために邁進しつつも志半ばにして相沢事件で斬殺された(1935.08)永田鉄山の人となりについてはwiki等ネットを検索すれば多数出てくるので詳しくはそれらを参照してください。永田の目指した経済体制は当然ながら、統制経済を念頭に置いた構想だった。ちなみに永田が率いた陸軍の派閥の「統制派」という名称は、「経済統制を推進」する集団であるところから、そう呼ばれたという説もあるようだ。永田については、その功績(功罪)についても賛否両論あるようだがその点にもここでは触れない。ただ軍政家として本流を歩み、「陸軍創設以来の逸材」などと評されることもあった永田だが、それゆえに敵が多かったのは確かなようだ。
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以下は長文となるが総力戦構想について、私見が混じらないよう(これ以上迷路に嵌らないよう?)にするため!≪備考8-1≫では永田について書かれた代表的な本のいくつか(㉕、㉖、㉗、㉘)からそのまま引用して、永田の考えた総力戦構想の中から、ここでも自動車分野に関連しそうな部分について抽出を試みた。さらに≪備考8-2≫では黎明期の自動車産業の確立のために、財政面で制約が大きい中でも力を注いだ永田についての記述が(㉒、㉗)等に記載されていたので引用し、紹介しておく。
≪備考8-1≫永田鉄山の総力戦研究
 第一次大戦をはさんだ計6年間、軍事調査などのために欧州に派遣された永田は、次の戦争が軍事力だけでなく経済、産業、教育、宣伝など全ての国力を投じる長期戦になると予見した。さらに「戦争不可避論」の立場から、次の世界大戦は必ず来る筈だと読んでいた。(事実第2次世界大戦は日本軍が当初期待した「短期決戦」にはならず、永田の予想した総力戦、長期戦となった。下の画像はブログ、“五十四にして天命を知る”さんよりコピーさせていただいた、諏訪湖に近い公園、高島公園にある、永田鉄山陸軍中将(死後昇進)の銅像)
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そしてその時代に、国家が生き残るための方策として、資源確保と工業力育成と軍備の機械化と国家総動員体制の整備がカギとなると認識する。再三記すが1920年、「国家総動員に関する意見」を記し、日本における国家総動員研究の第一人者的な立場の軍人となった。以下は(㉘P56)より引用
『永田にとっての第一次世界大戦の大きな教訓は、戦争の新しい形態である「国家総力戦」(以下、総力戦)に入った事だった。飛行機、戦車、毒ガスなど、続々と導入された新兵器への関心もあったが、それ以上に戦争の性質そのものを変えてしまった総力戦に、強い関心を持った。
 第一次世界大戦はあらゆる点で、それまでの戦争とは異なっていた。軍隊と軍隊とが戦うだけではなく、国家のあらゆるものを動員し、遂行しなければならない戦争、それが総力戦である。機械化した戦争は軍隊のみで行うものではなく、膨大な物資の供給を支えるために国民を総動員しなければならない。言わば、国家の「体力」をどれだけ投入できるかにかかっている。そうなると、戦場と銃後が別々ではなくなり、一般市民の生活にも戦争は直結してくる。戦争の様相ははげしく変化したのである。
 欧州は曲がりなりにも、この総力戦を経験している。いっぽう、日本は前述のように部分的に参戦しただけで、この新しい戦争の形態を理解しているとは言い難かった。』
(以上㉘P56)
そして再三記すが永田は臨時軍事調査委員として論文「国家総動員に関する意見」(1920年)をまとめ上げる。既述のように総力戦体制の必要性について理論的に論じた、その後の日本の針路に大きな影響を及ぼすことになる論文だった。
ただし何度も途中で話の腰を折るが、誤解を招かないように追記しておくと、7-1で既述のように、陸軍は第一次大戦の主戦場であった欧州に早くから武官を派遣するなど、実態調査を行っていた。そしてその研究結果を踏まえた、総力戦体制を実現させるための第一歩となる法案となった軍需工業動員法が、永田の論文発表の2年前に、既に成立していた。
軍需工業動員法について、以下ネットのコトバンクより引用するが、既に総力戦のための準備を意識した法案であることが確認できる。『戦時体制下では,軍需生産を増強するために国家が民間工場を動員し得ることを定めた法律(1918年)。軍需品工場の国家管理,軍需生産関係会社の軍需会社指定,監督契約に基づく軍需品工場の監督などを規定した。1937年日中戦争が勃発(ぼっぱつ)すると本法が適用されたが,1938年国家総動員法の施行により廃止』以下はwikiより『軍需工業動員法は原敬から「一夜作りのものにて不備杜撰」と酷評されたように、未消化な法律だったが総力戦準備を目的とした調査・立法・実施のための機関が政府内に設置された意義は大きかった』
そして自動車産業との関連においてもこの記事の本文の方の7項で記した軍用自動車補助法(1918年)が、この軍需工業動員法と同時に、いわばセットとして成立している(⑧P13参照)。後の時代の「自動車製造事業法」(1936年成立、後の記事の“その6”で記す予定)が陸軍及び、その当時は統制経済下で陸軍の統制派と協調した岸信介ら“革新官僚”たちが主導権を握っていた商工省が主導した、総力戦遂行のための国家(産業)総動員体制の下に組み込まれた法案であったことは広く知られている。しかしこの記事の本文の7項で記す、時期的に永田の論文(1920年)の2年前に成立した軍用自動車補助法(1918年)も既に、総力戦構想を意識した、その構想とリンクさせた法案であったことを追記しておく。
例によって脱線続きだが話しを永田の総力戦構想論に戻し、以下(㉕P67)より引用。
『(前略)今後、近代工業国間の戦争は不可避的に国家総力戦となり、同時にまた第一次世界大戦と同様、その勢力圏の錯綜や国際的な同盟提携など国際的な政治経済関係の複雑化によって、長期にわたる世界戦争となっていくことが予想された。
 永田は、大戦によって戦争の性質が大きく変化したことを認識していた。すなわち、戦車・飛行機などの「新兵器」の出現と、その大規模な使用による機械戦への移行、通信・交通機関の革新による戦争規模の飛躍的拡大、それらを支える膨大な軍需物資の必要、これらによって、戦争が、陸海軍のみならず「国家社会の各方面」にわたって、戦争遂行のための動員すなわち「国家総動員」をおこなう、国家総力戦となったとみていた。
 そして、今後、先進国間の戦争は、勢力圏の錯綜や国際的な同盟提携など国際的な政治経済関係の複雑化によって、世界大戦を誘発すると想定していた。そこから永田は将来への用意として、次のように、国家総力戦遂行のための必要性を主張する。
 これまでのように常備軍と戦時軍動員計画だけで戦時武力を構成し、これを運用するのみでは「現代国防の目的」は達せられない。さらに進んで、「戦争力化」しうる「人的物的有形無形一切の要素」を統合し組織的に運用しなければならない。したがって、そのような「国家総動員」の準備計画なくしては、「最大の国家戦争力」の発揮を必要とする現代の国防は成り立たない、と。つまり、大戦における欧米の総動員経験の検討からして、戦時の準備計画のみならず平時における国家総動員のための準備と計画が欠かせないというのである。』

以上のような永田の国家総動員論を(㉖)より要約すると、『「国家が利用しうる有形無形人的物的のあらゆる資源」を組織的に結合し、それを動員・運用することによって、「最大の国家戦争力」を実現させようとするものであった。そのために平時からその準備をおこない、戦時に「軍の需要を満たす」とともに、「国民の生活を確保」するよう必要な計画を策定しておかなければならないとされる。』(㉖P111)
 永田の国家総動員論は、国民/産業/財政/精神動員などからなっていたが、このうち自動車に関連してくる“産業動員”について、以下(㉕P69)より抜粋する。
『兵器など軍需品および必須の民需品の生産・配分のため、生産設備・物資・資源を計画的に配置することである。それに関連して、動員時の統一的使用が可能なよう工業製品の規格統一を図ること、軍需品の大量生産に適するよう生産・流通組織の大規模化を推進すべきこと、などが主張されている。永田は産業組織の大規模化・高度化は、国家総動員のうえで有利なだけでなく、平時における工業生産力の上昇、国民経済の国際競争力の強化にもつながるとみていた。』
 以上は“産業動員”の大枠の部分だが、さらに焦点を絞り、同じ機械工業分野として、自動車にも関連してくる部分としては、(㉕P72)
『~このように永田は、大戦における兵器の機械化、機械戦への意向も意識しており、それへの対応が国防上必須のことだと認識していた。またそれらの指摘は、日本軍の旧来の肉弾白兵戦主義、精神主義への批判を内包するものでもあった。
 だが、このような軍備の機械化・高度化を図るためには、それらを開発・生産する科学技術と工業生産力を必要とする。ことに戦車、航空機、各種火砲とその砲弾など、膨大な軍需品を供給するために、「いかに大なる工業力を要するか」は、容易に想像しうるところである。すべての工業は軍需品の生産のために、ことごとく転用可能である。したがって、一般に「工業の発展すると否とは国防上重大な関係」がある。そう永田は考えていた。機械化兵器や軍需物資の大量生産の必要を重視していたのである。
 では、日本の現状は、そのような観点からして、どうであろうか。
 まず、飛行機、戦車など最新鋭兵器の保有量そのものについてみると、永田によれば、大戦休戦時、飛行機は、フランス3,200機、イギリス2,000機、ドイツ2,650機などに対して、日本約100機、欧州各国と日本との格差は、二十倍から三十倍である。その後も日本の航空界全体の現状は、「列強に比し問題にならぬほど遅れて居る」状況にあり、じつに「遺憾の極み」だという。戦車は、1932年(昭和7年)初頭の段階でも、アメリカ1,000両、フランス1,500両、ソ連500両などに対して、日本40両とされる。その格差は歴然としている。』
(~㉕P73)
 (㉕P73)から続ける『このように永田は、欧米列強との深刻な工業生産力格差を認識し、工業力の「貧弱」な現状は、国家総力戦遂行能力において大きな問題があると考えていた。したがって、「工業力の助長・化学工芸の促進」が必須であり、国防の見地からして重要な工業生産、とりわけ「機械工業」などの発展に努力すべきとしていた。そしてそれには、「国際分業」を前提とした対外的な経済・技術交流の活発化によって工業生産力の増大、科学技術の進展を図り、さらに「国富を増進」させなければならないという。
 だが他方、永田は、戦時への移行プロセスにさいしては、国防資源の「自給自足」体制が確立されねばならないという考えであった。とりわけ不足原料資源の確保が、天然資源の少ない日本においては、最も重要なこととされた。』

 こうして鉄鋼等の基盤産業がある程度整備された後に、総合機械工業である自動車産業も「自給自足」体制の確立を目指していく事になる。以下は論文なので固い文章なのは当然なのだが(Web❾-1P154)より引用、
『第一次世界大戦は総力戦を中心とする戦略思想と総動員体制の確立を陸海軍の新しい重要課題にさせ,我が国の資本主義を重化学工業段階と国家経済主義へ発展させ,その中心産業として自動車産業を確立させる契機となったのである。』
ただし❾-1と若干ニュアンスが異なるが私見として何度も記すと、後の動乱の昭和の時代に、大陸侵攻が本格化し、226事件以降軍部が主導権を握り、総力戦構想に基づく軍事国家体制が確立される以前の日本では、自動車産業を国が全面的に支えるような体制が敷かれることはなかったこともまた、事実であったと思う。

≪備考8-2≫自動車産業育成に努めた永田鉄山
 上記のようにやたらと“守備範囲”が広かった永田だが、彼が主導した自動車産業振興(ただし軍用トラックとして)を目指したより具体的な行動について、以下(㉗P92)より引用していく。
『永田は国内の自動車産業の発展を目的として、国産自動車の増産を積極的に促す体制を整えた。既に、軍用自動車補助法という法律が、大正七年(1918年)三月に公布されていた。(中略)
 しかし、昭和期にはいると、経費削減といった観点から、陸軍省内でもこの法律に対する批判が大きくなり、同制度の廃止を求める声や、他省に管轄を移す案などが検討されるようになった。こうした中で、永田はこの制度の重要性を強調、同制度の維持どころか更なる拡充を主張し、日本の自動車産業を強固に育成する道を切り開いた。軍用トラックの有用性を認識していた永田は、有事の際に輸入が滞る場合を考慮し、国産化を促進するよう努めたのである。(中略)
 永田は国内企業が団結して共存していく必要性を訴え、各社の社長を招き、この点について意見交換する場を設けた。永田は陸軍側の実務の代表者として、細かな折衝にも自ら進んで対応した。このような整備局動員課の取り組みが、その後の自動車各社の協力体制へと繋がった。以降、各社の合併や共同出資が次々と実現していくが、その基礎となる土壌を作ったのは誰あろう永田であった。
 日本の自動車産業は、その揺籃期において斯かる軍部の指導があって発展を遂げた。これは永田の大きな功績の一つと言えるであろう。
 現在に至る日本の自動車業界の世界的な隆盛の陰には、永田の存在があったのである。』

この項のまとめとして、(㉒P57)より引用して終わりにしたい
『近代化推進者が凶刃に倒れる
 昭和の陸軍で最も期待されたリーダーをあげよと問われれば、ほぼ10人中10人があげた名前が永田鉄山である。不幸にして軍務局長時代、相沢三郎中佐の凶刃に倒れた。
 もし永田が凶刃に倒れることなく、長く陸軍の中枢にいたならば、明治期の山形有朋と比べられるような昭和陸軍の大実力者となっていただろうという人も多い。山形は日本陸軍の創設に深く関わった。永田はその日本陸軍の中興の祖として、日本陸軍の近代化を推し進める巨人となっただろう、というのである。彼は頭脳明晰で、しかも人間的魅力もあり、横死直後は、部下が半分冗談まぎれに戒名を「鉄山院殿合理適正大居士」と奉ったほど合理性を重んじる思考や態度をとるのが常だった。
 永田は青年将校時代、第一次大戦開戦直前のドイツに語学研修に派遣され、開戦とともに急遽帰国を命ぜられる。
 その後、ふたたび大戦下のヨーロッパへ軍事研究員として派遣され、デンマークとスウェーデンに二年間滞在し、戦況の推移やドイツ軍の状況を研究した。帰国後は、臨時軍事調査委員会の委員として、第一次大戦で顕在化した国家総動員の研究に没頭した。そして、第一次大戦直後のヨーロッパの状況を知るため、オーストリアとスイスへ駐在武官として派遣された。人類はじまって以来の未曽有の大戦争であった第一次大戦の開戦直前・戦時中・終戦直後の三度にわたるヨーロッパ駐在による大戦の経験と研究は、永田をして日本有数の第一次大戦研究家たらしめた。永田は、長期・大消耗をともなう近代戦の何たるかを身をもって体験し、軍の近代化のみならず、国民精神や交通も含めた産業全体の国家総動員の必要性を痛感した。
 臨時軍事調査委員として、一九二〇年(大正九年)永田が執筆した「国家総動員ニ関スル意見」は、その後の国家総動員関連法案や政府施策の基礎となった。陸軍省では軍需品増産の政策立案とその実施のため、一九二六年(大正十五年)整備局(統制、動員の二課)を新設した。
 整備局は、近代戦に備えて、陸軍としての軍事資材の開発・製造・調達に関する基本政策を担当した。
 初代動員課長は永田中佐である。
 動員課長の永田が最も力を入れたのは、国産自動車工業の確立であった。第一次大戦を体験した永田にとって、自動車は陸軍の近代化に無くてはならぬものだった。』

そして永田の想いはその配下の伊藤久雄に引き継がれていく。(㉒P59)の引用を続ける。
『~陸軍で軍需品の開発・製造・調達に関する基本政策を担当していたのは、初代課長の永田鉄山(二代目課長は東条英機)の思想を引き継ぐ動員課(一九三六年:昭和一一年八月に、戦備課と改称)で、国産自動車工業の育成に情熱を燃やしていた。動員課の伊藤久雄少佐は一九三五年(昭和一〇年)九月、陸軍省の意見をまとめた「自動車工業確立ニ関スル経過」を作成した。』伊藤久雄については、後の記事(“その6”あたりで)で記すことにする。
(永田は自動車製造保護法成立の前年に、同じ陸軍の皇道派の刺客による凶刃にあえなく倒れてしまったが、その志は、直属の部下であった伊藤に引き継がれたのだと思いたい(もう少し具体的な証拠があると、話がまとまりやすかったが、探せませんでした)。下の写真は文春オンライン「「太平洋戦争を止められた」エリート軍人・永田鉄山は本当に歴史を変えることができたのか」
https://bunshun.jp/articles/-/13286 よりコピーさせていただいた。)

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≪備考9≫自動車産業進出に消極的だった三菱財閥
よく言われている事だが、自動車産業に必要な資本力と技術力を兼ね備えていた大財閥の中でも、とりわけ機械/重工業分野で力のあった三菱が、自動車産業への進出に慎重であった事について、記しておく。以下は「戦前期における自動車工業の技術発展」関,権著(引用Web⓯P490)より。
『周知のとおり,自動車工業は巨額の資本と高度の技術を要する総合機械工業であるため,大企業による量産体制が必要不可欠である。当時,最もその能力を備えたのは旧財閥であったが,1日財閥は自動車工業への進出にあまり積極的ではなかった。(中略)
例えぱ,三菱重工業は1917年にすでに自動車の試作を始めた。その神戸造船所では,イタリア・フィアット社のA型自動車をモデルにして試作を開始し,1918年に第1号車を完成した。』
(フィアットは三菱本社の副社長が使用していたものだったという。)
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『この三菱A型はボールベアリングなど一部の部晶を除けば、エンジン,シャシー,ボディーなどを自製し,その実用性が認められた数少ない乗用車であった。また1918年の軍用自動車補助法の施行とともに,軍用トラックを4台試作し,1920年に完成した。このような成果を収めながら,三菱は1921年に自動車工業から撤退してしまった.確かに,当時自動車工業を発展する技術的・市場的基盤が十分整っていなかった。しかし同じ悪条件に置かれながら,三菱よりはるかに小規模の資本をもって自動車生産を継続した企業がいくつか存在していた。快進社や白楊社などがそれである.またその後の日産自動車やいすジ自動車,およびトヨタ自動車のいずれもきわめて苦しい環境の中で生き残ったのである。』(下の写真は、愛知県・岡崎市にある、三菱 オートギャラリーに展示されている、三菱A型のレプリカ。三菱A型は、1917年夏に試作が開始され1918年11月に完成。1921年までに計22台が生産された。まとまった数量を見込みで生産・販売された三菱A型は、日本初の量産乗用車(のひとつ)と言われている。(300台生産した7.5-1のオートモ号の方を、日本最初の量産乗用車だとする説もある。)しかし制作に携わったスタッフも多くはなく、『三菱の大プロジェクトとしての取り組みではないといえるだろう』引用⑦P62)社運を賭けたようなプロジェクトとは全く違ったようだ。しかしそこは、当時製造業分野では実力No.1の人材豊富な“大三菱”のやることだったので、たとえ片手間仕事でも、当時の国産車としては出来の良い仕事ぶりだったようだ。
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 一方神戸川崎財閥も、大阪砲兵工廠からの要請を受けて、川崎造船所が当初は積極的に対応し、トラック(制式自動貨車)の試作車を完成させた。並行して「アメリカからパッカード製のトラックも輸入して分解、これをもとにして10台分の部品を製造、エンジンは1基が試運転をするところまで進んだ(⑦P85)という。しかしその後すぐに、自動車よりも航空機を優先させる方針へと変わったため、瓦斯電のように量産化まで進まなかった。
当時最も力のあった旧財閥系企業の中でも自動車にもっとも近かった両社の冷静な判断(消極姿勢)が、戦前の自動車工業の発展を遅らせた、一つの要因だとの指摘も多い。

≪備考10≫総力戦構想の“わからなさ”(その2)
≪備考10-1≫戦前と戦後の断絶はなかった(岸信介)

本文の6.4-3の続きです。この時代の日本を代表する官僚/政治家であり、戦時統制経済体制を主導した岸信介(下の写真はwikiより)は広く知られているように、自動車製造事業法を手がけて、自動車産業の発展に多大な貢献を果たした(後の“その6”の記事で記す予定)。しかし自動車はその業績の一端に過ぎなかった。軍事体制下で“国防”の名のもとに強権的に、革新的な政策の実行が可能だった当時の状況を『むしろ岸は、戦争を、日本の産業、経済、社会を変革する、絶好の機会ととらえたのである。』(引用㉜P195)
戦後政界に復帰後は、自ら基盤を築いた産業政策はもっぱら古巣の通産省(当時)に任せて、安全保障政策などの外交に注力したが、戦後の業績として忘れてならないのは、社会保障制度の基礎を作った点だ。『岸が社会保障の充実という点でも目覚ましい成果を上げた政治家であることはあまり知られていない。昭和33年12月に国民健康保険法の改正を行って国民皆保険とし、昭和34年4月、最低賃金法と国民年金法の制定を行ったことは、国民生活の安定に大きく寄与した。これらは中小企業減税などを通じて中小企業育成に力を入れていた岸の経済政策の最後の総仕上げでもあった。最低賃金法によって中小企業と大企業との賃金格差は縮小され、国民年金法により、これまで公的年金の恩恵にあずかれなかった農漁業従事者や中小企業や自営業にも年金が支給される形になった。(「叛骨の宰相 岸信介」北康利より)』以上ブログ“読書は心の栄養”さん(Web⓴)より引用。
総力戦構想について調べていくと、どうしても岸信介までたどり着いてしまう。岸は「岸信介証言録」(引用㉝P448)の対談の中で、個人的な考えでは、非常に印象に残る言葉を残している。対談者(原彬久)のそうすると戦前と戦後の間には、岸さんにおいては断絶というものはないのですね。』との問いに、『おそらく断絶はない。』と答えている。上記の社会保障制度の充実はほんの一例に過ぎないが、戦前から、岸の目指すところであった(“断絶”はなかった)のだろう。

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≪備考10-2≫世界的な事件で偶然に起こることはない(フランクリン・ルーズベルト)
ここで海外に目を向ければ、日米で対比し、岸がこの時代の日本側の、経済分野の実務責任者の代表格ならば、対戦国であったアメリカを代表する政治家は、ニューディール政策や第二次大戦を主導したフランクリン・ルーズベルト大統領に他ならないだろう。(下の写真はwikiより)
そのルーズベルトも以下のような名言を残している。『世界的な事件は偶然に起こることは決してない。そうなるように前もって仕組まれていたと、私はあなたに賭けてもいい。』
(In politics, nothing happens by accident. If it happens, you can bet it was planned that way.)
“あなたに賭けてもいい”と挑発的に言うぐらいなのだから、大恐慌から第二次大戦まで、文字通り身をもって体験し、表と裏を知り尽くしたものとして、よほどの確信があったのだろう。
以下は私見というよりも、“妄想”もしくは“陰謀論”だと思ってください。なので、インボーロン嫌いの方は読まないでください。
上のルーズベルトの残した言葉を重くとらえて、そのまま素直に解釈すれば、世界的な事件は、けっして“偶然”には起きないのだから、第二次大戦の連合国の勝利も、その後の朝鮮の動乱を経て米ソの冷戦体制が築かれる過程も、予め計画されていたことになる。国家の枠組みを超えた、我々下々のものたちにはわからない、そのような“力”が確かに存在するのだと、ルーズベルトは言いたかったのだと思える(まったくの私見です)。

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≪備考10-3≫戦後の高度経済成長は、予め計画された事だったのか?
以下もますます私見というか、妄想が続く。仮にもし、ルーズベルトの言うとおりだとしたら、日本が辿った敗戦~戦後復興~高度経済成長のプロセスもまた、偶然ではなく予め世界史の中の一部として計画されたものだったことになる。
日本が爆発的な経済成長を遂げた戦後の一時期、アメリカの企業は日本の企業に対して概して寛容で、最新の技術を惜しげもなく供与したという。一例として戦後の自動車業界にとって世界に向けての大きな挑戦となり、一般的には日本が独力で達成したかの如く喧伝されることも多い、マスキー法への挑戦も『~米国市場に自動車を供給しようとする会社は、マスキー法に適合する車の開発状況についての年次報告をEPAに提供することが義務付けられていた。この中にはGMの報告ももちろん含まれていた。これらの報告は集まると膨大な量になったが、すべて公開されたので、これも重要な技術情報源となった。
こうした風潮の中では新しい発明、考案の特許はそれぞれの企業の工業所有権であったけれども、売買は好意的に行われ、日本車に使用された装置や部品にはGMのオリジナルになるものが多数あった。』
(㉛P155)実際にはGMの基礎研究の成果に拠る部分も多かったという。歴史に埋もれているが、日本の自動車産業の今日の発展も、アメリカに助けられた事例も多かったのだ。
戦前~戦後と連綿と続いた“総力戦”の成果が、戦後の日本の高度経済成長であることは確かだと思う。しかしさらにその大枠として、戦後の日本を大きく成長させようとする強い“意志”が、様々な形を通して働いた結果でもあり、焼け野原からスタートした日本(人)だけの力では、けっしてなかっただろうことも、冷静に受け止めるべきだと思う。
話を戻す。こうして日本の総力戦構想も全体の中の小さな一部分として、歴史の大きなうねりの中へと飲み込まれ、変質していったのだと思う。この論理の行きつく先は、戦後の日本の自動車産業の驚異的な成長も、予定された出来事となってしまうが、もし仮にそうであれば、そのための準備が本格的に始まった時期はやはり「自動車製造事業法」成立前の、満州事変~満州国建国のあたりだろうか。
「戦前も戦後も断絶無く続いていた」という、上記の、岸信介がさりげなく残した言葉の裏に隠された真意が、やはり気になるところだ。(以上再三記すが、まったくの私見です。“総力戦構想”に関わると、予想通り迷路に嵌ってしまうようだ・・・)


≪備考11≫モデルTのインパクトは文字通り革命的だった(Webマーケティングガイド“MarkeZine”より)
重苦しい内容が続いたので、息抜きの意味もあり、ブログ「マーケジン」さん(Web《21》
)の記事を紹介させていただく。アメリカではT型フォードの大量生産が始まり、馬車から自動車へ急激な変化を遂げた。以下の2枚の写真は「MarkeZine(マーケジン)」さんの、「あなたは知っているか?「T型フォード」と「初代 iPhone」が転回したマーケティングの歴史」より、以下文もコピーさせていただいた。
https://markezine.jp/article/detail/28030
『モデルTのインパクトは、文字通り、革命的だった。ここに1900年のニューヨーク5番街の写真がある。』
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『上の写真の中に1台だけ自動車が走っている。わかるだろうか? つぎに、1913年の同じニューヨーク5番街の写真。 ここでは、1台だけ馬車が映っている。』
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『1900年と1913年。この間に何があったのか? 説明は不要だろう。1907年のモデルTが世界を変えマスマーケティング開始の鐘を鳴らしたのだ。』アメリカは馬車がそのまま自動車(多くはT型フォードに)に入れ替わったのであった。
ちなみに日本はどうだったかというと、下は「昭和10年代ごろの銀座の風景を撮影した古写真」車の影はない。
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 同じく下は「昭和14年の新宿大通り」ジャパンアーカイブズさんより。)
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⑧P27に記載の表から、軍用自動車補助法が施行される前年で、第一次大戦の最中の1917年における各国の自動車保有台数を確認すると、日本が6千台(内訳;一般車5,700台、軍用自動車300台)なのに対して、米国は日本の約1,000倍の600万台強、英国は120倍、ドイツは28倍、フランスは38倍という大差であった。


≪備考12≫瓦斯電のシャドーファクトリー構想について
8.1項の関連となるが、瓦斯電の技術部門を統率した星子勇は、松方五郎の全面的な支持を得て、自動車にとどまらず、航空機用エンジンにも力を注いだ。(下の写真は星子勇。『星子は、日本の自動車史にあって触れられることが比較的少ないものの、最初に自動車工学をしっかり学んだ技術者として記憶されていい人物である。』(③P28)『「ガソリン発動機自動車」という著作があり、欧米で自動車技術の研修を受けており、この当時の日本にあっては数少ない優れた技術者であった。』(③P87)日本自動車の経営者であった大倉喜七郎は、才能があり自動車に情熱を注ぐ星子に期待して、農商務省の海外実業練習生に選抜させるなどして、本場英/米の自動車技術を研修させていた。)
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欧州の特に英/独では、航空機用エンジンは、自動車メーカーが手がけることが多かったが、日本では瓦斯電だけが例外だった。以下引用③P97『日本では自動車の国産化が遅れていることもあって、航空機用エンジンは、自動車用エンジンの技術をベースにすることがなく、中島でも三菱でも、それとは別に独自に開発が進められた。その点では、星子のように自動車の技術を生かして航空機用エンジンまで手がけるのは珍しいケースであった。』
自動車産業の基盤自体が定まらない当時、星子は何故、リスキーな航空機分野へ踏み入れようとしたのだろうか。そのきっかけは、日本自動車在職時代に大倉喜七郎の計らいで、農商務省の海外実業練習生として留学したときの、『イギリスとアメリカにおけるシャドウファクトリーの活動を目のあたりにした体験』(⑭P53)にあったという。
『トラック製造を目的として出発した会社が何故航空機に手を出し、我が国初の航空エンジンを作るに至ったのか?それは来るべき戦時のシャドウファクトリー(軍需転換工場)としての技術蓄積が国家のために必要、という技師星子勇の信念によるものだった。』(⑭P17) そしてこの信念は、星子が瓦斯電に入社した当時から持ち続けていたものだったという。(⑭P53))
 日本陸軍に限らずどこの国の軍部も、戦時に備えるための準備として、シャドーファクトリーを構想するが、星子は民間の立場でいながら国家的な見地に立ち、『将来予測される戦争において、自動車会社はシャドウファクトリー(戦時軍需転換工場)として航空機製造技術を会得しておかなければならない』⑭冒頭)、と考えて、自身が係わった瓦斯電において終始一貫、その思想を実践していった。
しかし星子のそうした信念を十分理解して、経営の苦しい時代も支持した、経営者の松方五郎もまた偉かったのだと思う。ただ松方にとっては、自身が執念を燃やしながらも終始経営の苦しかった自動車事業を下支えるものとして、また幾分かは株主たちに対しての”言い訳”の材料としても、航空機エンジン事業を考えていたかもしれない(私見です)。
 以下からは瓦斯電の航空機事業の歴史を、おもに⑭と③を参考に記す。
瓦斯電では1917年(大正6年)に早くも航空機エンジンに取り組みはじめたという。『星子が入社してガス電はトラックの生産と同時に、ダイムラー水冷直列100馬力(74KW)航空エンジンの製造(ライセンス)を開始、1918年、陸軍の受領試験にパスし、若干台が納入された』⑭P40
その実績をかわれて引き続き陸軍から、フランスのル・ローン社製星形回転式エンジンの国産化を果たし、実績を重ねていった。(下の写真はそのエンジンを積んだ、陸軍甲式3型練習機(ニューポール24型の国産化)の着色写真で、ブログ“インターネット航空雑誌ヒコーキ雲”さんの「ニューポール型飛行機と飛行将校の来場」をコピーさせていただいた。)
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http://dansa.minim.ne.jp/OldHis-Mil-TaishoRikugun-Inoue-09.jpg
そして1928年には国産航空機エンジンを独自に完成させた。『国産航空エンジン第1号となる』(⑭)“神風(しんぷう)エンジンの完成である。このエンジンは国内で設計された航空機用エンジンとしては初の量産型エンジンであったという。(下は神風エンジンを搭載した、瓦斯電KR2小型旅客機の模型。)
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http://db.yamahaku.pref.yamaguchi.lg.jp/script/shuzo_img/705b.jpg
1930年には空冷星型9気筒の「天風(てんぷう)」エンジンを開発、九三式中間練習機に搭載された。(下は93式中間練習機(赤とんぼ)の模型。
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https://hobby-armada.com/images/gallery/95/02b.jpg
初風(はつかぜ)又はハ47エンジンは、ドイツの練習機用小型エンジン「ヒルト HM 504A」を日本でライセンス生産する予定だったものが、ヒルト社設計の巧緻複雑さから、日本での製造運用に適合すべく瓦斯電(後に日立航空機)で設計に大変更を施した結果、ヒルトとは事実上、別物となった発動機であった(wikiより)。
(下の画像の、陸軍4式基本練習機(キ-86)は、初風エンジンを搭載していた。画像は「中田CG工房」さんよりコピーさせて頂いた。http://gunsight.jp/c/Flying-3D.htm
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http://gunsight.jp/c/image4/ki86-s.jpg
以下はかなり長いが、初風エンジンについて、⑭の著者が書き起こした?と思われるマニアックな解説文を、wikiからのコピー『ヒルトHM504は、機体への搭載性を配慮した倒立式空冷直列4気筒という独特のレイアウトを採っていたが、クランクシャフトは高精度だが製作に技術力を要する組立式、ベアリング類は精密なローラーベアリングを多用するなど、航空用としては小型のエンジンながらも、ドイツの高度な工作技術を前提とした複雑な設計が用いられていた。この設計をそのまま日本で実現しようとすれば、やはりローラーベアリングを多用し高度精密加工されたダイムラー・ベンツDB601の国産化同様、極めて困難な事態が予想された。
このため瓦斯電では自社制作の練習機用エンジンにつき、ヒルトの空冷倒立4気筒レイアウトのみを踏襲、クランクシャフトは一般的な一体鍛造、ベアリング類も当時一般的なメタルによる平軸受で済ませるなど、日本での現実的な生産性・整備性に重点を置いた設計に改変した。しかし、動弁系はヒルトがシングルカムシャフトのOHVで浅いターンフロー燃焼室だったのに対し、より高度なツインカムOHVと半球型燃焼室によるクロスフローレイアウトを採用して吸排気・燃焼効率を向上、なおかつ低オクタンガソリンでも問題なく運用できるよう図った。更に倒立エンジンで問題になりがちな潤滑システムは、ドライサンプ方式を導入して万全を期した。これらの手堅い手法で性能確保に努めた結果、結果的にはヒルトに比してわずかな重量・体積増で、これに比肩しうるスペックの信頼性あるエンジンを完成させた。』
(下は日野オートプラザに展示されている、初風(ハ11型)航空機エンジン。燃費が良い上に、燃料に70オクタンの低質ガソリンを使えるため、太平洋戦争末期の状況でも重宝されたという。(wiki)当時の日本の運用状況を考えて実用性を重視し、大幅に設計変更をされたエンジンだったようだ。)
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https://stat.ameba.jp/user_images/20160805/02/hbk0225/99/4a/j/o0480036013715218021.jpg?caw=800
『ガス電の航空機が常に戦闘機とか爆撃機などでは無く、それ以外の低出力分野をターゲットに置いたことはシャドウファクトリーとしても、企業戦略としても適切であった。』(⑭P54))
瓦斯電は世界航続距離記録を樹立した航研機の、設計から製造まで関わったことでも有名だ。
しかし航研機制作の挑戦にも、シャドーファクトリー構想を存続させるための意図が隠されていたそうだ。『急激な進歩を遂げる航空機技術に対し、ともすれば取り残される危機を、たまたま航研機のプロジェクトで救われ、極めて有効活用出来たことは僥倖であった。』(⑭P54))
(下は八王子の日野オートプラザに展示されている、航研機の模型(1/5)。
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ちなみに航研機の偉業は国民を湧き立たせたが、開発を主導した東京帝大航空研究所の富塚教授は冷静だったという。以下は⑮P175よりこれも長いが引用『ところで、長距離専用の航研機、専用のエンジン、そして専用のガソリンを粒々辛苦のすえ調達、華々しく達成した世界記録はその翌年、その前年に完成していたイタリアのサボイア・マルケッティSM82型爆撃機を長距離連絡用としたSM82PD型に、いとも簡単に破られてしまった。世界水準に到達したと思ったのは幻影にすぎなかった事は、やがて突入した太平洋戦争での貧弱な日本の爆撃機で明らかになるのである。しかもこの戦争のさなか、1942年には日伊連絡飛行としてこの飛行機は東京の福生に飛来している。このような事は富塚教授はあらかじめ看破していた。「どうして長距離機であるかと言うと(世界記録を目標とする飛行機が)、日本で手をつけても比較的可能性が高かったからで、他の高度や速度の記録となると高性能エンジンの入手不如意であるため、日本では普及し難い。しかし長距離ならイタリアなどの如き二流国がよくやっていることでありエンジンも特殊高性能のものは必ずしも要しない、小修整で燃料経済を計ればすむ」と言われていた。
時、日本はやっと二流国に到達したのであったのである。』
ちなみに『世界記録樹立時の燃料、潤滑油搭載重量は4578kg、乗員を含めた全備重量9000kgの51%を占めた。』(⑭P18)という。)
(下はイタリアの輸送機、サボイア・マルケッティSM.82“カングーロ”輸送機のプラモデルの絵。機首と左右の主翼に合計3機のエンジンを搭載した独特のスタイルをしている。
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http://img21.shop-pro.jp/PA01344/023/product/115438040.jpg?cmsp_timestamp=20170324121840
 話を戻すと、こうして星子が瓦斯電において取り組んだ、航空機産業事業とシャドーファクトリー構想は、第二次大戦の軍事生産体制の下で、充分な実績を残した。その結果は何よりも、下表の「瓦斯電+日立航空機(瓦斯電航空部の後継)」の数字が雄弁に語っている。
(表7:「第二次大戦における日本の航空エンジンおよび航空機の各社別生産数」⑭P54の表を転記)
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 なお瓦斯電については、実は軍用保護自動車以外にも、イギリスのハンバーと提携して小型乗用車を製造するという、興味深い計画もあったようだ。(⑥P86の「東京瓦斯電の経営推移」の表の1920年6月~11月の項に記載がある。)星子と、たぶん松方も念願するところは、本当はトラック以上に乗用車生産だったようだ。(Web⓮P169)に『~昔、星子さんからじかに伺った言葉で、それは日本が近代国家になるには自動車工業を定着させねばならないと言うことで、星子さんは1918年瓦斯電自動車部創設以来、軍用車主体に進んできたが本心は、中産階級を指向した小型乗用車の量産が念願だったのだと思います。』という記述がある。資本力が足りずに叶わなかったが、のちの「自動車製造事業法」のチャンスを逸したときは心底悔やんだだろうし、戦後の日野ルノーや、コンテッサは、星子や松方の意志が、脈々と受け継がれた結果だともいえそうだ。

⑰ 日本の自動車産業の“育ての親”は日本陸軍だった?(戦前日本の自動車史;その2)国産自動車の始まり、“山羽式蒸気自動車””タクリ―号”そして ”国末号”

⑰ 日本の自動車産業の“育ての親”は日本陸軍だった?(戦前日本の自動車史;その2)
国産自動車の始まり、“山羽式蒸気自動車””タクリ―号”そして ”国末号”


5.国産自動車の始まり、“山羽式蒸気自動車”、”タクリ―号”、そして ”国末号”
(いつものように以下文中敬称略とさせていただき、引用箇所は青字で記すこととする。)
 自動車が日本に初めて持ち込まれたのはいつだったのか。諸説があり、有名な話ではサンフランシスコの在留邦人会が、当時の皇太子(後の大正天皇)のご成婚記念に献上した電気自動車が日本に最初に上陸した自動車であったというものがある。
 もう一つ有名な説として、当時のアメリカの代表的な蒸気自動車として輸入されたロコモビルが最初だったというものもある。
 しかし黎明期の日本自動車史の研究において、第一人者のように思われる佐々木烈(その功績により2014年自動車殿堂入りとなった)によれば、明治31年(1898年)に、フランス人技師のデブネが持ち込んだパナール・ルヴァッソールが最初であったという。(引用①P6←以下、引用もしくは参考にした本及びwebのブログ、論文等は順番に番号をふって文末に記す)
(下は在日フランス人画家、ビゴーの有名な風刺画で、初めての自動車を見て驚く当時の人々の様子を描いたもの。ブログ「クルマの絵本ライブラリー」さんの「日本の道を最初に走ったクルマ」(引用②)という記事よりコピーさせていただいた。)
https://ehonkuruma.blog.fc2.com/blog-entry-461.html?sp
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https://blog-imgs-24.fc2.com/e/h/o/ehonkuruma/0217_2.jpg
ちなみにこの“日本に初めて持ち込まれた最初の自動車”、パナール・ルヴァッソールについて、上記ブログの記事に、検証されていった過程が要領よく記されていたため、これ以上の説明は無駄なので止めにする!ぜひそちらの優れた一文の方を訪問して確認してください!(早くも自信喪失?)
(下の写真はやはり(引用②)よりコピーさせていただいた、「フランスで発見された日本最初の自動車の写真」。なお同ブログの別の記事には、2輪車(オートバイ)であれば『それに先立つ2年前、1896年(明治29年)1月19日に皇居前で「石油発動自転車」なるものが試運転されている。』との記述もあることを追記しておく。下記のアドレスです。
https://ehonkuruma.blog.fc2.com/blog-entry-109.html)
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https://blog-imgs-57.fc2.com/e/h/o/ehonkuruma/130829_2.jpg
なおさらに異論として、1897年に、横浜在住のアメリカ人が蒸気自動車を持ち込んだという説もあるらしいので、参考までに追記しておく(㉑P9による)。今後も新たな歴史的事実が“発掘”される可能性も、無くはないものと思われる。)

 そして20世紀にはいると、皇族や財閥、大政治家といった限られた富裕層の間で、欧米の自動車がごく少数輸入され、使用されていった。
 より一般の人たちに、自動車という存在が認知されるきっかけとなったのは、1903年に大阪で開催された第 5回内国勧業博覧会であったとされている。そしてこの博覧会をひとつのきっかけとして、国産自動車第1号である、山羽式蒸気自動車が誕生することになる。(下の画像は「ジャパンアーカイブス」さんより、第 5回内国勧業博覧会の会場風景。)
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https://jaa2100.org/assets_c/2016/11/20161128090127-4b7215ae9d2b7f2eba1c531125f7ea5e24e5985a-thumb-autox404-52730.jpg
 そこでその後のすべての国産自動車の出発点となった、この純国産の蒸気自動車誕生物語について、記していきたい。

5.1国産自動車第1号は山羽式蒸気自動車(1904年)
5.1-1山羽式蒸気自動車誕生の物語
 以下の山羽式蒸気自動車誕生の物語は、広く知られている話だが、(③P56、④P45、⑤P37、⑥P5、⑦、⑧、⑨、⑩)を主に参考にして記した。((下の山羽式蒸気自動車の模型の画像はJSAEよりコピー。ちなみに1900年当時のアメリカの、ニューヨーク、シカゴ、ボストンの三大都市で自動車は2370台登録されていたが、そのうちの過半数の1170台は蒸気自動車だったという。しかも残りの800台は電気自動車で、ガソリン車は少数派の、たった400台に過ぎなかったという。(④P38))
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https://www.jsae.or.jp/autotech/photos/2-1-1.jpg
 岡山在住の実業家、森房造と楠健太郎は、1903年春に大阪で開催された第5回内國勧業博覧会場でデモ走行した、蒸気バスとガソリンバスに感銘し、二人の地元、岡山市内で乗合馬車に代わるバス事業を始めようと思い立つ。ちなみにこの博覧会におけるデモ走行は日本人に大きな衝撃を与えたようで、乗合馬車を自動車に置き換えようとする動きが日本各地で続出した。(①P69)では『博覧会以後、わずか半年の間に名古屋、岡崎、岐阜、京都、舞鶴、岡山、広島、山口、東京、横浜、富山、長岡、仙台で計画され、まさにわが国の自動車時代の到来を思わせるものがあった。そうした意味では、わが国の自動史にとってこの大阪博覧会は、まさに一時代を画す出来事であった。』と記されている。
 しかし森たちは、輸入自動車の価格が8000円すると聞いて購入を断念し、代わりに大胆にも内製しようとする!二人は即実行に移して翌日大阪市内の工場を探索し、中根鉄工所というところに内金を払い発注するも、相手は口先だけで誠意なく、製作はいっこうにはかどらなかった。
 そこでその鉄工所はあきらめて、人づてに地元、岡山で工場動力用の蒸気機関や発電機、モーターなどの修理製作を営む、山羽電機工場の山羽虎夫を紹介される。森たちは横須賀海軍造船所、逓信電気試験所などで学んだ山羽の技術を見込んで、蒸気式乗合い自動車の製作を依頼するのであった。
 今まで自動車を見たことすらなかった山羽は、実物を見るために神戸の輸入商ニッケル商会の通訳であった実兄の山中鯤太郎を訪ね、そこで扱っていた電気(ガソリンという記述もある)自動車と蒸気自動車の実物を細部にわたって調べ、さらに同社で自動車に詳しい社員(マンシンという名のイタリア人)から解説文や図面による指導を受ける。
 1903年9月に帰郷してからも各種外国文献を読み研究しつつ、いよいよ設計図の製作に取りかかる。1904年 3月に独力で蒸気エンジンの組み立てを完了させて,翌1904年4月、僅か7カ月で試作車を完成させたのであった。
 以下(⑩)より引用『車体は木製、溶接技術の不足をろうで補い、当時の輸入車が搭載していた石油焚きのフラッシュ・ボイラーを水管式に加工し、エンジンをミッドシップに置いてチェーンで後車軸を駆動するなど、随所に自社製作で対応するための創意と工夫が施されていました。』
(下の画像はトヨタ産業技術記念館より、たった1枚だけ残されている貴重な証拠写真だ。『1904年5月7日の完成試走時の記念写真で、車上の人物は注文主の森房造夫妻と子息』(④P47)だという。大勢乗っているが10人乗りだったので定員以内です。)
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http://www.tcmit.org/reading/kids/car08-a.html
 以下は(④P47)より『前輪のサスペンションは車輪にリーフ・スプリング(板バネ)とコイル・スプリングの伴用を付け、タイヤはスポークリムにソリッド・ゴムタイヤである。方向舵(ハンドル)は人物手前の車軸に接続しているように見える棒状のものだろうか。現在のハンドルのように丸くない舵棒タイプと考えられる。見る限り、基本的な構造は現在の自動車と同じである。』
以下は(⑩)より『試運転でもエンジンは快適に作動したそうです。しかし、空気入りタイヤを作る技術が当時はなく、ゴムを丸めてリムに巻きつけたソリッドタイヤでは耐久性と安全性に大きな問題があり、ついに実用化されることはありませんでした。』蒸気機関の作動原理については、新橋~横浜間の蒸気汽車の開通から30年後のことで、当時すでに周知の事実だったが、問題はボイラーやエンジン部分の製作だった。溶接の技術がなかったので、全部ネジ止めにして、ロウ付けで対処したようだ。
 試運転の詳しい模様について、(⑪P16)より『この自動車の試運転の模様について、「日本自動車工業史稿」では大要次のように述べている。
『予定の九時になると県の内務部長、検査担当官の立会いのもとに、山羽氏の運転で爆音と共に試運転のスタートが切られた。沿道の両側からは拍手と歓声が沸き起こった。自動車は荒神町を北に向かってゆるやかに滑り出し、次第に速度を増して群衆の立ち並ぶ街を西大寺町に向けて疾走し、見る見るうちに姿は小さくなっていった。これこそ日本で最初に作られ、ねじ一本まで山羽氏の苦心の汗がにじむ、記念すべき純国産の自動車である。』
いかにも誇らし気に書かれている。
試運転ではタイヤの不具合で車輪から外れかかりながらも、どうにか6km(10km?という記述もある)ほど走行したが、それ以上の試走は断念したという。
さらに(③P46)では、地元岡山に現地取材を試みて、地元の長老から貴重な証言を得ている。(③)は1978年刊行なので、関係者の取材が間に合ったのだろう。『「たいへんな評判じゃったな。古いことで記憶は薄らいでいるが、自動車が走るちゅうて、大勢の人が道ばたにならんで待つんだが、なかなかやってこない。そのうちに遠くの方から「来た来た」という声が伝わる。かなり速かったように思いましたが、ずいぶん音は大きかったようだ。」』当時の臨場感が伝わる話だ。
貧弱な設備(『足踏旋盤 2台と若干の工具ぐらい』(⑤P38)で苦心しながら、ねじ一本に至るまで内製した、正真正銘の“純国産品”で固めたこの山羽式蒸気自動車は、堂々たる純国産自動車の第1号車であったと日本車史的にも“認定”されている。当時の悪路の走行に耐えられず、実用性がなかったため車両は後に解体されたが、言い伝えによれば蒸気エンジンはその後船舶に搭載されて、30年ほど使い続けられたという。(下の写真はJASAEと同じトヨタ博物館の模型。)
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https://www.toyota.co.jp/Museum/kandayori/backnumber/magazine60/magazine60_1.pdf
5.1-2山羽式蒸気自動車と、“中根式”蒸気自動車
 ところが・・・、黎明期の日本の自動車史を再検証するかのように、労作「日本自動車史」(⑫)や「明治の輸入車」(①)等を著した佐々木烈によれば『余りにも不明な点が多すぎる』という。以下(⑫P108)より引用を続ける。『残された1枚の写真を見ても、自動車というには余りにも粗製乱造すぎる。強いて言えば、時間的余裕が無くて組み立てただけ、とも受け取れる。
 エンジン、クランクシャフト、ボイラー、バーナー、自動エア・ポンプ、ガバナー、差動装置、ブレーキ、タイヤに至るまで、どれか1つでも不完全だったら自動車は動かない。
 タイヤがダメになって京橋が渡れなかったとか、蒸気汽缶の改良資金がなく試作の継続を断念した、とも言われているが、果たして山羽蒸気自動車は本当に6キロ走ったのだろうか。
すでに記念碑が建っている人の業績に対していろいろと疑問を投じるのは、筆者として心苦しいが、国産第一号車という、わが国の自動車史にとっての最重要課題である。
 修正しなくてはならないものは修正して、より真実なるものを後世に伝えなければならない。それが歴史家の使命であり責任である。』

 ここから(⑫)では、佐々木氏による膨大な手間をかけただろう解明作業がはじまるのだが、さらに興味があり&正確に確認したい方はぜひ同書を手に取り直接確認いただきたい。ここではそのごく一部だけを抜粋し、疑問点を列記させていただければ、
・「蒸気自動車の製作依頼のあった当時、山羽は自動車を見たことすらなかった」
⇒「当時1905年(明治38年)8月に特許をとって売り出したモーターバイク「特許山羽式自動車」の研究をすでに始めていた。1903年(明治36年)4月には2馬力の石油発動機を販売しており、山羽への依頼はそれらの知識を見込んだものだった。」(⑫P117)
・「わずか7ヶ月で何から何まで山羽がすべて自製したことになっている。」
⇒「足踏旋盤2台とハンマー、スパナーだけで、年末年始を含めた数カ月間で、全部作るのは常識的に考えて不可能だ。」(⑫P115)
・「中根鉄工所というところに内金を払い発注するも相手は口先だけで誠意なく、製作はいっこうにはかどらなかった。」
⇒「中根鉄工所とは契約解除の件で訴訟になったが、途中まで蒸気自動車を製作していた。」(⑫P115)以下(⑫P112)より『この中根鉄工所であるが、まったく作るあてがないのに引き受けるとは思われないので、いろいろ調べてみると、』中根鉄工所が明治36年11月1日の大阪日日新聞に掲載した“中根式蒸気自動車“の新聞広告が、佐々木氏の調査により”発掘“された。
画像はジャパンアーカイブズさん https://jaa2100.org/entry/detail/052626.htmlより
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・「この“中根式蒸気自動車”を、依頼を受けた山羽はとにかく組み立てて完成させようとした。」(⑫P119)そして「中根鉄工所は結局山羽に協力することになった。」(⑫P113)
 なおこれも、ものすごく不思議なことだが、佐々木によると、歴史的な国産第1号自動車の試運転について、県の内務部長、検査担当官の立会いのもとに行った『試運転当日の山陽新報を調べたが、山羽蒸気自動車に関する記事はどこにもなかった。日時が間違っているのかと思い、前後数か月を見たが、後日談も報道されていない。』という。
 惜しむらくは佐々木氏が取材を本格化させたころには、たぶん直接の関係者の多くがすでにお亡くなりになっていたりしたため、(③P46)などの直接の証言とどう符合するのか(あるいはそれらの証言をどう考えるのか)、時代的に確認しようがなかったことだろう。
 ただ山羽虎夫自身については、瓦斯電が自動車事業に参入する際(たぶん次回の記事で記すことになる予定)にまず初めに、技術顧問として山羽の招へいを試みた(しかし山羽が固辞した)という事実(③P47等)からしても、黎明期の日本の自動車界においては単なる町の発明家にとどまらない実力を持った技術者として、評価されていたのだと思う。
 佐々木は(⑫P122)において、山羽の残した功績について、こうも述べている。『国産車という定義も厳密には難しいし、明治時代に外国の部品を使わずに出来た国産車はおそらくないだろう。ただ、特許という点を見ると、明治38年の山羽虎夫のモーターバイク、39年の仁礼兼氏のトラック、43年の吉岡護の三輪乗用車などが、国産車としては、それぞれの部門で最初といえるのではなかろうか。』
 山羽式蒸気自動車の項の締めとして、国立科学博物館の研究員である鈴木一義の㉔P45より引用して終わりにしたい。『山羽氏の蒸気自動車は実物も残らず、実用になったか等、成功談には疑問もあるが、幕末のエピソードと同じく、国産車として日本の道に轍を刻んだと思いたい。』
 確かに、果たして6キロもの“長距離”を走れたのかは疑問も残るし今となってはわからない(正直6kmはかなり怪しい?←私見です)。しかし、この“山羽式(山羽/中根式?)蒸気自動車”が純国産4輪自動車の第1号として、郷土岡山の大地を踏みしめるかのように、確かに走り(動き?)始めたのだと、自分もそのように考えます。
(下は岡山市に立つ山羽虎夫の銅像。)
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https://gyokuzan.typepad.jp/.a/6a0134861d5550970c01b8d282b198970c-320wi
(ここからは余談と言うか蛇足になるが、“国産自動車第1号”は確かに山羽式蒸気自動車であるが、『じつをいうとこれより以前に広い意味での「自動車」をつくろうと試みた日本人は数多くいた。』(③P59)という。“国産車”としての括りからは多少離れるので、文末の≪備考1≫に、日本最初の二輪自動車の組立を行ったという庄島の柴義彦について、参考までに記しておく。)

5.2国産ガソリン自動車第1号はタクリ―号(1907年)
5.2-1吉田真太郎の歩んだ道

 前記の山羽式蒸気自動車同様、世に広く語られている、タクリ―号誕生の物語は、(⑤P38、⑭P19、③P59、⑧、⑭、⑮、⑯)等を参考に記した。(下の写真はトヨタ博物館に展示されている1/5スケールの模型。)
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 東京/銀座で自転車販売店、双輪商会を営む吉田真太郎は、1901年(1902年との記述もある(③))に自転車の仕入れと商業視察を兼ねて渡米した際に、自動車を見てすっかり感動し、帰国の際に2基のエンジン(水平対向2気筒12馬力と18馬力エンジン)とシャシーを持ち帰る。日本で自動車ビジネスを展開しようと考えたのであろう。(ここで一言追記しておくと、当時の日本では自転車は高価な乗り物で、時代の先端を行く商品を扱う格の高い商いだったとのことで、単なる町の自転車屋さんではなかったようだ。さらに吉田真太郎自身も父親(吉田寅松)は土木業者として当時有名で、横浜をはじめ全国で大規模工事をいくつも手がけていたという。そして夫人は勅撰の貴族院議員であり東京府知事や枢密顧問官を歴任した三浦安の娘だった。(③P60、⑫P70等)による。)
 その後吉田は幸運にも、ウラジオストックで無線電信製作の職工として働いた経験のある内山駒之助と運命的に出会い(双輪商会と内山が務めていた逓信省電気試験所が目と鼻のところにあった(①P167))、雇い入れる。
 そしてオートバイと3輪乗用車の輸入販売のためにオートモビル商会を設立し、並行して自動車の修理も始める。輸入車の修理やメンテを通して自動車の構造に対して理解を深めていった二人は、吉田がアメリカから持ち帰ったエンジン(小さい12馬力の方)とシャシーを元に1902年7月、1台の自動車を完成させた。これは日本で最初に組立てられた4輪自動車と言われている。しかし格好も出来もお粗末だったようで、ほどなく解体されたという。(⑤P38)
 吉田と内山が手掛けた第2号車は広島の顧客からの依頼によるもので、独自の車体の12人乗りのバスの製作に乗り出す。エンジン(18馬力の大きい方)とシャシーは吉田が持ち帰ったアメリカ製のものを使い、ケヤキ製の重い車体は名古屋の鉄道車両メーカーに特注して、生来の器用さをもった腕の立つ職人であった内山が、苦心の末に架装し組み上げて、ようやく完成させた。しかし車重が重すぎてタイヤが持たず、うまく走らなかったようだが、この車が組立式だったが日本最初のバス(前記の山羽式より前)とされている。(下の画像はブログ、「みなさん!知ってますCAR?」広田民郎」さんブログよりコピーさせていただいた。ちなみに内山が自分で運転して運んだとされているが、広島に入ってから乗馬車の関係者から脅迫されたという逸話が残っている。(⑭P21))
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https://seez.weblogs.jp/.a/6a0128762cdbcb970c022ad37689bb200c-200wi
 こうした実績を踏まえて1904年、オートモビル商会は東京京橋区木挽町のより広い工場に引っ越して、東京自動車製作所を設立した。同社は日本最初の自動車会社と言われているが、その運営には当時“日本屈指の趣味人”と言われ、”日本の自動車レースと自動車文化を先駆“したとして自動車殿堂にも選ばれたほどの自動車通であった、大倉喜七郎の財政的な支援があったという。(大倉喜七郎については以下「自動車殿堂」を参照ください。下の、明治41(1908)年夏に撮影されたという画像もコピーさせていただいたが、運転席に座るのが大倉喜七郎で、後部座席は右より伊藤博文、有栖川宮威仁親王、韓国皇太子殿下という豪華メンバーだった。(①P108))
http://www.jahfa.jp/wp/wp-content/uploads/2018/12/2018-okura.pdf
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5.2-2タクリ―号誕生のきっかけ(有栖川宮、大倉喜七郎との出会い)
 そんな東京自動車製作所の顧客の一人に大倉と親しく、“自動車の宮様”と言われた有栖川宮威仁親王殿下がいた。以下、タクリ―号誕生秘話を、自工会「日本自動車工業口述記録集」の座談会より引用((⑭P21)からの引用の引用となる)
『座談会で警視庁出身の原田は「それについては面白い話があります。有栖川宮と大倉喜七郎さん、吉田真太郎、内山駒之助両氏がお供をして鎌倉にドライブされたとき、途中で車が故障して宮様は車を降りられました。そのとき宮様が内山氏に「日本で自動車はできないか」と尋ねられました。内山氏は「できますよ」と答えたときに、吉田氏が心配して内山氏の袖を引いたそうですが、間に合いません。宮様はそれではということで製作奨励金として1万円を出されました。吉田氏はいまさらできないともいえず、これがきっかけで吉田、内山氏の国産車への製作への歩みがはじまり、明治40年春完成したのがタクリ―号です」と。
 この話を「私も聞いています」とこのとき発言しているのが、のちに吉田・内山と関係を持つことになる石澤愛三である。つまり、吉田には自動車製作をするつもりがなかったのに、つくることになったわけだ。同時代に自動車に関係した二人が証言しているのだから事実だろう。』
この有名なエピソードは、上記のように当時の自動車事情を客観的に、もっとも良く知る立場にいた警視庁の原田九郎の証言もあるので、信憑性があるようだ。
 吉田には元々国産のガソリン自動車製作の野心があったはずだが、修理やメンテ、さらに前記のバスなどの制作の過程で、周辺産業が育っていない日本で“国産ガソリン自動車第1号”と名乗るにふさわしいクルマを作ることの困難さも十分認識していたはずだ。しかし内山が有栖川宮に「できますよ」(ちなみに「お作り申しあげる」と述べたと、多くの書では書かれている)と返答したので、宮様はその心意気を褒めて、製作奨励金を出すと話が進み、引くに引けぬ立場に追い込まれた、とされている。
5.2-3国産初のガソリン自動車、タクリ―号の誕生
 こうして有栖川宮殿下の奨励を受けた二人は、大倉喜七郎からの財政支援もありその製作に取り掛かる。そして1年数ヶ月の苦難の末の1907年 4月、吉田/内山としては3作目のガソリン自動車を完成させる。正式(警視庁への登録)には“国産吉田号”という名称だったが、ガタクリ走ることからいつのことやら“タクリー号”と呼ばれるようになったいきさつはよく知られている話だ。(下の写真はJSAEより。『明治40年12月2日撮影の写真。有栖川宮が完成したタクリ―号で徳川慶喜邸を訪ねた際のもので、乗車左が有栖川宮で右が徳川昭武氏』(④P59))
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https://www.jsae.or.jp/autotech/photos/1-1-1.jpg
 そして肝心かなめのエンジンだが『吉田眞太郎がアメリカから持って帰ったエンジンはすでに試作1号車と広島へ運んだバスとで使ってしまっていたから、この有栖川宮家に納める乗用車のエンジンはいうまでもなく内山駒之助が自ら設計し、自ら完成したものだ。ただし、そのアメリカ製を手本にしたらしく、ボア101.6mm、ストローク113.3mmの水平対向2気筒型。排気量は1837cc、12馬力。』『ジョンソン型ガバナー式のスピードメーターと磁器を使ったプラグはアメリカ製を使ったほかはすべて国産。ガソリン自動車としての国産第1号車の資格は十分に備わる。』(③P65)という。(ちなみにこの③=「国産自動車100年の軌跡(三栄書房)」は、JSAE(日本自動車技術会)の“日本の自動車技術330選”において、山羽式とタクリ―号ともに、参考文献として掲げている。下の写真は初の国産自動車「吉田式」の製作者、吉田真太郎。画像は日本自動車殿堂より。)
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http://www.jahfa.jp/wp/wp-content/uploads/2011/01/2011-yoshida.pdf
 以上の記述のように、タクリ―号は日本車の歴史の中で、初の国産ガソリン自動車であると広く認知されている。そして有栖川宮殿下からは「ことのほかのよい出来」だとお褒めの言葉を頂いたという(③P63)。またこの車は宮家への納入のため『ボディ木骨は芝白金・間宮製作所、内張りは芝琴平町・木下製作所、塗装は築地・秋葉塗製所などいずれも当時の宮内省御用馬車職であった。』⑰という。以下は(③P63)より
『有栖川宮殿下、国産自動車お買い上げ、の報はたちまち業界内外に大きな反響を呼んだ。とくに刺激されたのは当時の上流階級と呼ばれる貴顕紳士。東京自動車製作所の自動車は聞けば成績も優秀と聞く。宮殿下の間接的なご奨励、ご推薦もあって東京自動車製作所へはそれから続々と注文が入ってきた。内山駒之助はこうしていきつくひまもなく自動車づくりに忙殺されることになる。そして1907年(明治40年)から翌年にかけて、宮家納入の第1号車を含めて10台もの自動車を完成させたのだ。』1年程の間に10台(台数も8台、14台等諸説ある)も作るとは、当時としては驚くべき成果だ。(≪備考2≫に、1908年当時日本にあった46台の車の内訳を参考までに記しておく。”吉田式”の占める比重の大きさがわかる。)
5.2-4当時の自動車として十分な性能があった
 さらにタクリ―号は“成績優秀”であったとされるが、はたしてその性能は如何ほどだったのか。以下(③P65)より引用
『1907年(明治40年)8月1日、麹町の有栖川邸と多摩川日野の渡しとの間、往復48kmのドライブ会が行われた。宮殿下の35馬力ダラックを先頭に渋沢栄一のハンバーがこれに続いて都合10台の参加。(写真(一部トリミングした)と文はブログ「国立歩記」さんよりコピーさせていただいた。http://kunitachiaruki.jp/?p=8057
『有栖川宮殿下とダラック号 明治41年8月1日の遠乗り会、甲州街道上にて、ハンドルは殿下、外側白服は吉田真太郎』
(④P58)の記述では『懇意を得た有栖川宮から、ダラック号のような大きい自動車は日本の狭い道には不都合なので、もう少し小さい自動車を製作できないかとご下命があった』とあるが、確かにタクリー号と比較すると、大型だ。ちなみに別の書では、真夏の暑い日だったと記されている。)

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 引用を続ける。『中には当代きっての自動車マニアといわれた大倉喜七郎の60馬力フィアット7人乗り大型車や三越呉服店の10馬力クレメントというトラックも含まれていたが、注目すべきは中上川次郎吉、森村市左衛門、日比谷平左衛門らの所有する3台のタクリ―号だ。というのは、このドライブ会が国産初のガソリン車完成を記念する意味と輸入外国車との比較テストという目的をもっていたからだ。吉田眞太郎、内山駒之助の両人も一行に随行したが、宮殿下は途中でタクリ―号にも試乗されるなど終始ご熱心な様子で、この日本最初ともいうべきドライブ会はつつがなく終了した。国産ガソリン車の性能とくに外国車に伍しての信頼性はここに立証されたことになり、日本の自動車史上特筆大書すべきビッグ・イベントであった。』日本で初めて作ったことになる自動車用のエンジン&シャシーは驚くべき完成度であったことになる。
タクリ―号が自動車先進国の欧米製の自動車と比べても、多少ガタクリと異音を発するものの、遜色ない性能と信頼性を有していたことは驚異的なことだ。吉田と内山の二人は、(④P58)『当時、曲がりなりにも自動車製作の経験を持つ工場は他になく、有栖川宮や富豪らの持つ自動車修理などを一手に引き受け』てきた。その過程で学んだものが多かったものと考えられている。
(下の写真のトヨタ博物館の模型からは、外観はダラック号の影響が感じられる。)
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https://www.toyota.co.jp/Museum/kandayori/backnumber/magazine60/magazine60_1.pdf.
5.2-5エンジンを作ることの難しさ
 ところで・・・ 上記のタクリ―号誕生の物語を、今までお読みいただいた皆さんの頭の中にも、自分と同じく疑問符がいくつか(???ぐらい)つくのではないだろうか。この歴史(一般に“公式”とされているもの)を信じるならば、たとえコピーにせよ十分な試作研究期間もなくいきなり作ったガソリンエンジン&シャシーが、実績ある輸入車と互角の性能をいきなり発揮して、実用性も耐久性も十分あったことになる。多少ガタクリする音さえ目(耳)をつぶれば。しかも短期間の間に10台(③によれば。①では8台、⑳では最終的に17台)も作ったのだ。
 しかしこの記事(その②)のあとに、次回以降の記事から延々と綴ることになるが、工業全般のレベルが低かった戦前の日本においては、内山らとは比べものにならないほどの技術と体制で挑んだダットにせよ、瓦斯電にせよ石川島にせよ、さらには黎明期のトヨタや日産に至るまで、たとえコピー技術であったとしても、その時代の外国製自動車と互角の性能で、信頼性も十分な国産自動車など、そうそうできるものではなかったのだ。(≪備考3≫に、日本の自動車産業成立が遅れた一つの理由として、周辺の産業が育っていなかった⇒“馬車産業”と“自転車産業”が無かった点について、追記しておく。)
 一例として掲げれておくと、タクリ―号の約10年後のクルマで、後に記す、軍用保護自動車第1号で、最初の国産量産トラックといわれる瓦斯電のTGE-A型では、たとえば『エンジン関係の鋳物の加工がうまくいかず、倉庫にお釈迦のシリンダーが山のようにあった』(⑭P92)という。それでも『このトラックが検定試験に合格しなければ星子(注;橋本益治郎と並び当時の日本で数少ない優れた自動車技術者とされている)は瓦斯電を辞める決意をしていた。多くの人たちが不眠不休で取り組んで、自分の身体のことなど考慮するいとまがなく、目的に向かって突き進んだ。』(⑭P93)不退転の決意で取り組んだ結果だったのだ。
 そしてその努力が何とか報われて軍の試験に合格して、瓦斯電のトラックは晴れて軍用自動車補助法に基づく軍用保護自動車の認可第1号として、1919年に20台“量産”された。初の国産“量産”トラックの誕生だ。しかし出来上がったクルマの出来は、『検定試験に合格したのは瓦斯電だけだったから、制式自動貨車の発注が集中、つくると軍に納入されるために、世間では「瓦斯電の軍用自動車」と呼ばれるほどだった。しかし、実際につくられたトラックは、トラブルが絶えないものだった。なかには、まったく走りだすことができないものもあった。実際、自動車メーカーになるのは大変だった。』(⑭P94)自動車は、その国全般の工業技術水準を表す鏡とも言われているが、それが当時の日本の工業水準の実態だったのだ。
その後も、1922年に製造されたTGE-G型1.5トン積みトラックは11台生産されて民間に販売されたが、すぐにトラブル続出して全車返品になったという。(⑭P96)
5.2-6果たしてエンジンまで内製だったのか
 ところが・・・、例えばこの時代の自動車づくりで最大の難関となるエンジンの製作に関して『内山は、この時代の苦労した話を原田などによく話をしていたようなのに、エンジンをつくり上げた際の苦労は語っていないようだ。』(⑭P24)という。こうなるとやはり、自分のようないかにド素人でも大きな疑問が浮かび上がらざるを得ない。タクリ―号は果たして本当に、東京自動車製作所製の、国産エンジン(さらに言えばシャシーまでも)を搭載していたのだろうかという、素朴な疑問だ。
 確かに前記(5.1-2)の佐々木氏の言葉のように『国産車という定義も厳密には難しいし、明治時代に外国の部品を使わずに出来た国産車はおそらくない』のも事実だ。
 しかし、自動車の“魂”そのものであるエンジンが、どこまで国産品であったかどうかは、タクリ―号が国産ガソリン自動車第1号であるとされている以上、いずれどこかでハッキリとさせておかねばならない課題ではないかと思う。
(そこは素通りするのが大人のルールで、つっつくのは “ヤボな話” なのかもしれないが、この問題について、自動車の歴史を記した本やwebや論文ではどのように扱っていたのか、興味深いので手持ちの資料やwebの上位検索からいくつかピックアップしてみたので、参考までに≪備考4≫に記しておく。)
 しかしここは、黎明期の日本車の歴史検証においては何度も記すが、たぶん第一人者だと思われる、佐々木烈がどのように記しているのかを、全体を判断するうえで重視したい。(①)より一部を抜粋させていただけば、『内山氏が新しい双輪商会大阪支店から岡田商会(注;フォードモデルA型を輸入して現品があった)に3カ月間行き来して、カタログや修理用の仕様書をスケッチした可能性は高いと見てよかろう。
それどころか、筆者は東京自動車製作所がこのフォードを購入して、エンジンなどをばらして参考にした可能性が高いと見ている。』
・・・
5.2-7タクリ―号(国産吉田号)と、“国産ちどり号”
 さらに(①P90)より大幅に略しつつ引用を続けるが、詳しくはぜひ、同書を手に取り直接確認してみてください。
『(前略)先の記事と写真は、東京自動車製作所がフォードN型を販売していたことを示唆するものである。と同時に、同所が国産自動車を製造したとする従来の説にも大きな疑問を投げ掛ける極めて重要な記事だと思える。
 前項のフォードA型でも言及したが、東京自動車製作所とフォード車は深い関わりあいが有ったことがわかる。
 さらに穿った見方をすれば、東京自動車製作所では輸入したフォードを国産車として販売していたのではないか、という疑問も湧いてくる。
 というのは、この疑問を裏付けるような広告もあるからだ。(中略)
 二つの記事から判断する限り、東京自動車製作所は大量にフォードN型を輸入して、それを「ちどり号」として販売する計画だったと思われるのである。
 勿論、フォードN型が国産ちどり号であるという確証はないが、少なくとも上記の事情を勘案するならば、その可能性は非常に高い。』
(下の写真はフォードN型。確かにそういう目で見てしまうと、先入観からか、一部の “吉田式”に似ているように感じるのは気のせい?)
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 ここで“正史”と異なる部分もあるが、吉田真太郎の歩んだ、国産自動車作りのパイオニアとしての苦闘の歴史を、佐々木の労作である(⑫P71)より振り返ってみる。
『双輪商会が販売した米国製デートン号(注;自転車)の売れ行きは好調で、たちまち銀座の日米商会や横浜の石川商会、大阪の角商会と覇を競うほどの勢いで成長し、大阪の淀屋橋に支店をつくり、店員武村鶴吉をアメリカに派遣して出張所を開設するほどであった。
 真太郎はその後自動車の販売を企画して銀座3丁目5番地に自動車販売部を設け、明治37年(1904年)1月に渡米、乗用車や乗合自動車3台の見本をもって帰国する。』①P70には、乗用車はアンドリュース商会と韓国人に売り、乗合自動車は改造して38年に広島で乗合自動車業を始めた杉本岩吉らに売った。』
(⑫P70)には、山羽式のところで記した、1903年の大阪博覧会を契機に、乗合自動車の需要が高まったことも睨んだ渡米だったとの記述もある。
(⑫P73)の引用を続ける。『彼が自動車を改造して販売したのはこれが初めてであったが、広島では馬車屋の妨害などで失敗し、満足に代金が支払われなかったり、明治40年(注;1907年)にフォードN型を改造した「ちどり号」の販売不振や、蒸気式トラックを輸入して始めた運送業(自動車運輸株式会社)の失敗などで、有栖川宮殿下から国産車製造の要請を受けた頃にはすでに経営状態は火の車であった。』
 販売不振だった国産「ちどり号」のその後の行く末が気になるところだが、苦闘の末に生み出された、“国産吉田式”タクリ―号も、限られた“国産車需要”が一巡すると行き詰り、結局大倉喜七郎の救済を仰ぐ結果となる。ちなみに『帰国してタクリ―号の製作を身近で見ていた大倉が、これを購入したとか乗り回したとかの記録もない。5台ものクルマをヨーロッパから持ち帰ったのだから、それ以上は必要ないといえばそれまでだが、大倉はタクリ―号に何の言及も残していない。』と、“タクリ―号の物語”については一定の距離を置いていたようだ。
 話を戻すが、佐々木の考察した結果を裏付けるかのような重要な証言もある。先にも引用した自工会「日本自動車工業口述記録集」の座談会における、当時東京・警視庁で自動車取締を担当していた原田九郎の証言だ。
 警察(内務省)はこの当時の日本の路上を走る全ての自動車を把握していたという。エリート内務官僚にして『当時自動車通として有名』(①P201)だったとされる原田の証言は重く、充分な客観性もあり、いわば決定的な証言(この時代の証言の中でリトマス紙役?)だと言えると思う。
以下(⑭P23)から『~エンジンまで国産化したという資料もあるが、先の座談会での原田の発言では「タクリ―号はエンジンは輸入したものです」というのに続いて「わたくしは(明治)39年から警視庁にいました、そのころ吉田氏の車が本当の国産であるという記憶がありません」と語っている。』また同じ座談会で、大倉により東京自動車製作所に派遣されていた石澤愛三は『「エンジンやミッションは、恐らく吉田さんが米国から輸入したものを使った、と思う」と述べている。』
 さらに(⑪P23)によれば、『しかし自動車の歴史に詳しい自動車工業振興会の小磯勝直・資料室長は「関係者の間で話し合った結果、タクリ―号がガソリン車の国産第一号ということで一致した。現在ではこれが定説となっている」と述べている。』とのことで、どうやら“大人の判断”が下されたようだ。
 佐々木は以下のようにも記している。『そう言えば、ガソリン国産車第一号を製作した吉田真太郎、内山駒之助にしても自分から、どういう方法でつくった、こういう苦労があった、という談義をしていない。周囲が騒いであれこれ作り上げてしまったのである。』(⑫P124)

 様々に尾ひれがついて語られている中で、あくまで“私見”として想像(例によって全くの妄想)すれば、有栖川宮側からの依頼は、自動車整備を通じて懇意にしていた吉田の苦境に対しての暖かい、救済的な意味合いもあったように思える。
 さらに想像を広げれば、有栖川宮、大倉、そして吉田という、『当時のわが国自動車界を代表する3人』(①P108)の間では、吉田を支援する形で、当時の日本の工業水準では純国産車の製作は到底叶わずとも、それに至る第一歩として、輸入したシャシーとエンジンを使い実用に耐えうる初の国産ガソリン自動車を作ることにより、歴史のコマを少しでも前に進めたかったように思える。そして3人の偉大な先駆者たちのその思いは、内山駒之助の努力もあり国産吉田式タクリ―号として結実し、その目的は充分達成されたようにも思う。タクリ―号が黎明期の日本車の文化を築いた功績はけっして褪せることはなく、これからも不滅だと個人的には思います。
 吉田真太郎と東京自動車製作所のその後だが、当時の舶来品信仰の中で敢えて国産車を買おうという客層は限られていたため、需要が一巡すると自動車製造は途絶え、ますます苦境に陥る。経営再建のため大倉から送り込まれた石澤愛三の主導で1909年に大日本自動車製造会社へと改組され、自動車制作の道を閉ざされた吉田と内山は失意のうちに退社していくことになる。翌年には日本自動車合資会社に改組され、この日本自動車はその後、三井物産と並ぶ大手輸入自動車販売会社として育っていく。それ以降の吉田と内山が歩んだ道については割愛させていただく。
5.2-8国産車史において、“タクリ―号”と“国末号”で役割分担すべきでは?(まったくの私見)
 ここからは余談です。さらに全くの私見として、定番の日本自動車史に僭越ながら意見を申せば、タクリ―号の、“市販された国産ガソリン自動車第一号”という称号と、明治の日本の文明文化に果たした偉大な功績はそのままに、エンジンとシャシーまで内製だったという無理やり背負わされた“重荷”(過積載状態?)を外してやり、フォード製をもとに仕上げた(?我々一般人には未公開だが、有名なクルマだけに資料は残されていたはずで、佐々木他在野の研究者たちによる地道な検証の成果もあり、自工会や自技会、国立科学博物館やトヨタ博物館などでは先刻承知で、すでに確認済みだろう)車だと訂正して、「“純”国産の市販ガソリン自動車」という看板のうちの、“純”という一文字だけ外してあげて、重圧から解放させてやるべきではないかと思う。
 日本のガソリン車の原点ともいえるタクリ―号の成り立ちを、こんな“あやふや”なまま放置しておいては、せっかく誇るべき国産車の歴史があるのに、外国からみれば最近の日本の役所みたいに?やっぱり“記録を捏造する国”だと、不当に低く扱われるだけだろう。
 ここまで言う理由(ワケ)が一つある。次項で記す、タクリ―号(1907年)から僅か2年後の1909年4月、“純国産自動車”とうたっても大丈夫そうな?“国末(くにまつ)号”が、さらに同年8月には宮田製作所の“旭号”も堂々と控えているからだ。(仮に国松号がこけても大丈夫だ!)元号も変わったこのあたりで心機一転、日本車の公式の歴史を訂正して、両者(車)の間で、役割分担したらいかがだろうかと思うからだ。 
 このタクリ―号について、自動車史家である桂木洋二と、国立科学博物館研究官の鈴木一義の言葉を記しておく。
『~だからといって、タクリ―号が歴史的価値がないといっているのではない。日本の自動車史初期の活動として、記録に残すべき価値のあるものであることに変わりなない。』(⑭P25)
『二人(注;吉田と内山)は以後も自動車の世界に留まったようだが、彼らもまた早すぎた人であり、本邦初ガソリン自動車製造の恩人としての待遇はなかった。』(④P58)
そしてこの記事を作るにあたり多くを頼った佐々木烈の言葉で締めとしたい。
『国産自動車第1号の製作者として吉田真太郎の名は日本自動車史に燦然と輝いている。
明治時代に国産車をつくった人は何人かいるが、そのほとんどが試作車程度のものであったが、彼の吉田式は当時の欧米車と比較しても性能において遜色なかった。(中略)
ガタクリ走るから「タクリ―号」だ、などと悪い俗称を付けられたが、明治41年末までにこれだけ優秀な国産車を8台も製作したということは実に驚異的なことである。』(⑫P67)
『そう言えば、ガソリン国産車第一号を製作した吉田真太郎、内山駒之助にしても自分から、どういう方法でつくった、こういう苦労があった、という談義をしていない。周囲が騒いであれこれ作り上げてしまったのである。』(
⑫P124)

5.3純国産ガソリン自動車“国末号”と“旭号”の誕生(1909年)
 純国産のガソリン自動車第1号の国末(くにまつ)号と、数か月の差で第2号車となった旭号誕生の物語は、(③P67、⑤P38、⑭P43(以上国末号)、P49(旭号))等をダイジェストとして記す。まずは国末号から。
5.3-1純国産ガソリン自動車第1号、“国末号”の誕生(1909年4月)
 国末号誕生の舞台となった東京の山田鉄工所は、手堤金庫の当時トップメーカーであった国末金庫店の下請け板金工場で、その経営者である山田米太郎は、腕の良い板金職人だった。山田はタクリ―号のボディ制作の下請けをしたことがきっかけで、自動車に興味を持つ。
 その後、縁があって第19代横綱常陸山がアメリカから持ち帰った単気筒の中古車(車種は不明)を修理し、つぶさに検分する機会を得る。(下の写真は横綱常陸山のクルマで国末1号のモデルとなったもの。)

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 そして大胆にもこれなら自分でも作れそうだと思い!親会社の国末金庫店主の国末良吉に相談したところ、進取の気概のある国末は快く3,000円の資金提供を申し出た。こうして常陸山の輸入したクルマを日本人向けに、きっちりと1/2スケールに小型化して国産化を試みたのが、“国末1号”であった。
 しかし各部の寸法を1/2にすると、エンジンの排気量は1/8になってしまいパワー不足になる!等、根本的な問題をいくつか抱え込み、せっかく完成しても動かなかった。
 山田らは原因がつかめないまま半年間が過ぎたが、ここで林茂木との出会いがあり、事態が好転する。林は当時の日本の技術の最先端にあった呉海軍工廠造機部で腕を磨いた後に大志を抱いて上京し、芝浦製作所に就職予定であったが、林の技術にほれ込んだ山田に懇願されて、国末号の完成を手伝うことになる。
 こうして半年後の2009年4月、林の手腕により何とか動くところまで完成させた。(下の写真は国末1号車。)
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 以下(⑭P46)より『エンジンの鋳物は外注であるが、ボディやシャシーは山田と、そこで働く人たちによって製作された。タクリ―号につぐ早い時期の完成であるから、日本でできない部品の一部を輸入に頼ったものの、エンジンを含めての国産車としては、これが第1号であると思われる。』
 自動車製作に引きずり込まれた?林は引き続き4人乗り2気筒自動車の制作に取り掛かり翌1910年、国末2号車を完成させる。(下の写真は国末2号車。)
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 そして同年末までに3,4号車も完成させる。以下も⑭P46より『タイヤはフランスのミシュランから購入した以外は、ほとんど国産部品でつくられたといわれている。エンジンのシリンダーブロックの鋳造は、橋本(注;ダット自動車製造の橋本益治郎。次回の記事で記す予定。)の場合と同じように苦労している。当時の事情をよく知り、山田米次郎とも親交のあった警視庁の原田は、「シリンダーの鋳物から吹いたのですが、200台吹いて7台しかものにならなかった記録があります。」と前章で紹介した「日本自動車工業口述記録集」の座談会で述べている。そのまえに「これはエンジンからすべて国産です。(後略)」』と語っているという。
 客観的な立場にあって、当時日本で使われていた自動車のすべてを把握していた、警視庁の原田九郎が断言しているので、国末号がエンジン等主要な部品が内製の、純国産車であったことは間違いないだろう。
 その後の国末号だが、自動車事業を本格化させる計画が、国末良吉,山田米太郎,そして新たに神戸の回船問屋として手広く貿易や海運業を営む後藤勝造が大口出資者として加わり討議され、その後藤を中心として1911年、東京自働車製作所が創立される。(非常に紛らわしいのだが、吉田真太郎の設立した「東京自動車製作所」とは“動”と“働”の字が違う)
 東京自働車製作所は,敷地面積 330坪の新工場に移転し、1914年には54名の組織となり、明治末年から大正初期にかけての日本の自動車関連の企業としては、最大規模であった。
 2気筒エンジンをふたつ繋いで直列4気筒にしたより大型の乗用車(“東京カー”というモダンな?名前で呼ばれた)もつくられたが乗用車の販売は不振だった。『合計6台作られたようだが、その多くは出資者や関係者が使用した』(⑭P47)という。そのためバス,トラックの生産へと転換を図ったが,結局採算がとれず、事業は打ち切りとなってしまった。1915年までの5年間で、合計30台近くの生産であったという。
5.3-2純国産ガソリン自動車第2号、“旭号”の誕生(1909年8月)
 宮田のブランドは、我々一般には自転車や消火器でなじみ深いが、初代宮田栄助が東京の木挽町で創業した銃の製造工場(宮田製銃工場)が始まりで、日清戦争では大量の宮田銃が使用されたという。その一方で、自転車を修理したことがきっかけで1893年、銃製造で培った技術を生かして国産第一号自転車の試作車を完成させて、自転車製造に進出する。1901年に狩猟法改正により猟銃の売上げが激減したため銃生産を止めて、軍需から民需主体の企業へと転換を図り、1902年に自転車製造専業の宮田製作所となる。(以上主にwikiより。)
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(上の写真は「自転車の歴史探訪」ブログの、「宮田の試作第1号車」記事よりコピーさせていただいた。http://www.eva.hi-ho.ne.jp/ordinary/JP/rekishi/rekishi35.html
この写真は一般に、“明治23年製銃所時代に試作した日本初の安全型自転車”と呼ばれているもののようだが、同記事によれば、宮田が自転車に進出した時期はwiki等で一般に言われているよりももう少し後年にずれる可能性も高いようだ。自転車の世界の話なのでここでは深追いせず、詳しくはぜひ直接上記ブログを参照願います。)

 自動車の開発に乗り出したのは、2代目宮田栄助の時代からで1907年、東京高等工業学校(現東工大)教授の根岸政一教授や、技術教育を受けた技術者数人の指導を仰ぎながら試作を開始した。町の発明家的な強い思いと、素封家たちによる財政支援で作り上げた山羽式やタクリ―号、国末号の場合と比べると、より企業ベースの組織的な取り組みで、技術的にもプロフェッショナルな体制だった。(下の写真は二代目・宮田栄助。なお栄助の弟の彦之助は東京高等工業学校で根岸教授のもとで機械工学を学んだという。画像はNTTコムウェアブログより)
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 以下(⑭P50)より『エンジンも国産であるといわれ、空冷水平対向2気筒をコピーに近いかたちでつくったと思われる。「日本自動車工業史稿」によれば「タイヤ以外は全部品を製作したといわれ、国産車と呼んで差し支えあるまい」とある。また「白揚社」の豊川順弥(注;日本初の(本格的な)量産乗用車(wiki)、オートモ号を生んだ。後の“その4”の記事で紹介する予定。)もこの旭1号は、「エンジンからミッションまですべて国産で、正式には「旭号2人乗り四輪小型自動車」と呼ばれました。根岸博士が設計した立派なものです」と語っている。豊川は、実際に試作に関与した技術者たちと直接的な交流を持っており、日本人に合うクルマとして設計したことも含めて、高く評価している。』(下は旭号四輪小型自動車。⑭P50よりコピーさせていただいた。)
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 宮田製作所ではその後も1911年に、参考として購入したイギリス製エンジンを用いた旭号第 2号車を完成したのち、独自設計の水冷直列2気筒エンジンを搭載した、旭3号4人乗りを完成させる。この車は大正博覧会に出品されて、当時としては大型の50馬力エンジンを搭載した16人乗りバスを出品した、東京自働車製作所の国末号と並び銀碑を獲得した。(下は旭3号四人乗り。内装は革張りだった。④P69よりコピーさせていただいた。④によれば真紅の旭号自動車を、朝香宮殿下もお買い上げになったという。)
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 その後も宮田製作所では、散発的に自動車の試作を行ったが、本業の自転車の生産が国内外向けに盛況となり余力がなくなり、自動車制作を断念した。宮田は一時、オートバイの世界で名を成すが、以後の歴史については割愛する。
 なお上述以外にも、国産車の取り組みとして、『~これらの先駆的な自動車製造の試みに加えて,1911年に斑目鉄工所主の桜井藤太郎が国産自動車を製造したともいわれており,1907年から 10年にかけて米山利之助・芳賀五郎による乗用車の試作があったともいわれる。その他,明治年間の繁多商会主範多龍太郎による蒸気自動車の試作,1908年の三田機械製作所によるガソリン乗用車の試作,1911年の東京電灯株式会社による電気自動車の試作など,真偽は必ずしも明らかではないとのことであるが,20世紀初頭に,多くの先覚者による自動車製造への取り組みがなされた。』(⑤P39)とされていることも最後に記しておく。

5項のまとめ
 山羽式蒸気自動車の山羽虎夫に始まり、タクリ―号の吉田真太郎、内山駒之助、そして国末号、旭号といった、国産車の歴史の原点となった、先駆者たちの取り組みについて、その足跡を辿ってみた。個々についてはそれぞれの項で検証を試みたが、輸入車をスケッチし、分解し、そのシャシーとエンジンを流用したり、複製したり参考にしたり苦労を重ねて、何とか“国産車”と呼べるものを作り上げた。しかし資本力もない上に、周囲の状況も十分整わず、結局行き詰まり挫折してしまった。このうち、宮田製作所による旭号の試みは、企業としての組織的な取り組みであったが、当時の環境下で自動車事業を商業ベースに乗せるのは困難であり、試作車のみで終わった。
 しかし自動車の保有台数が、東京府下で60台程度(1909年)にすぎなかったこの時代に、困難な状況の中で数々の試みがなされたことと、国産車の歴史の駒を着実に進めたその功績は、日本の自動車史の中でけっして消えることはないと思う。

 以下は1910年頃までのこの時代の、日本の自動車を取り巻く世界について、もう少し概説的に記して、この記事の終わりとしたい。主に参考にした本は、⑱、㉓、㉔です。
 欧米先進諸国では馬車を中心とした道路輸送時代を経た後で、馬車を“馬なし車”として、自転車を動力付き自転車に置き換えていく形で、自動車の市場が自然と形成されていった。
 しかし日本はもともと、車輪の付いた乗り物を必要としない社会だったため、自動車に対しての社会的ニーズ自体が乏しかった。
 市場の面から見れば、当時の自動車はきわめて高価で、ごく一部の富裕層に需要は限られた。日本社会全般の所得水準も低く、自動車上陸から10年以上経過した1910年に至っても、その保有台数は全国でたった121台を数えるに過ぎなかった。(次の記事“その3”で記す予定の、軍需(軍用トラック)もまもなく加わるが、その台数もけっして多くはなかった。)
 さらに≪備考3≫で記したように技術面では、自動車を製造するために必要な、基盤となる技術が脆弱だったため、日本における自動車作りは困難を極めた。
 一方限られた国家予算の中で、交通機関の整備としては、まず鉄道建設と造船能力の増強に重点を置き、自動車と道路整備に対しての優先順位は低かった(≪備考5≫参照)。自動車産業は振興すべき産業分野と見なされず、国からのアシストもないままに、半ば放置されていた。
 しかしそのような、自動車にとって厳しい環境下で、自動車の機能に着目し、研究を始めた国家機関があった。それは当時交通を所轄する逓信省や土木を所轄する内務省でなく、日本陸軍であった。日露戦争における戦訓から、輸送力の改善のために軍用トラックの研究に着手し、やがて日本初の自動車産業政策である軍用自動車補助法として結実していく。次の記事”その3“からいよいよ”本題”に入っていくが、そうした日本陸軍の果たした役割(パート1)を軸にして、軍用トラックメーカーとして何とか生き残っていった、黎明期の自動車メーカーの活動を見ていきたい。

※【7/24追記】 戦前の日本の自動車史を語るうえで欠かせない資料として、「日本自動車工業史稿」(全3巻;日本自動車工業会)と、「日本自動車工業史座談会記録集」(自動車工業振興会;以下引用㉖)というものがある。いずれも当時非売品として関係者に配布されたもののようだが、遅ればせながら前者はそのコピー版を「日本二輪史研究会」さんから、後者はネットの古本で最近入手できた。このうち㉖では上の記事でも引用したように、当時の真実を知る関係者が集まり座談会を行っているのだが、興味深い内容だったので、上記を補完するうえで追記しておきたい。
 まずこの座談会の開催の趣旨として冒頭に『本日の座談会の目的は史実を確かめることと、国産ガソリン自動車第1号のタクリー号ができて今年でちょうど50年になりますので~その当時ご関係のあった方々にお集まりいただき~お話の内容を一つの史実として残しておきたい』と明言されている。その席に集まった方々は、豊川順彌(後に“その4”の記事で記す国産小型乗用車を製造する「白楊社」を作る)、原田九郎(タクリー号の時代は警視庁)、蒔田鉄司(「白楊社」から後に‎「日本内燃機(くろがね)」を作る)、石沢愛三(大倉組からタクリー号を製造した「東京自動車製作所」の経営立て直し役で派遣される)ら、そうそうたる顔ぶれだ。
そして警視庁の技官(東大工学部卒)として、タクリー号の中身をよく知る原田は、上記本文にしるしたように、『タクリー号はエンジンは輸入したものです。』『わたくしは39年から警視庁にいました。その頃吉田氏の車が本当の国産であるという記憶がありません。』と発言したうえにさらに『エンジンを作っていないことは確かです。』『(1号車の)後にもエンジンを輸入しています。』と何度も“念押し”し、座談会出席者もその事実を認め、その一方で「国末号」と「旭号」はエンジンを含めて“国産”だと、これも皆さん同意したうえで、しかし以下のような”判定”を下している。
『原田 そうむずかしく史実を探求しなくてもよいではありませんか。
 豊川 
(明治)42年には宮田製作所の旭号ができています。それが完全に国産です。しかし売るだけの数ができたかどうかは別です。
 原田 吉田さんが作ったタクリー号は日本の自動車の草分けで、わが国の自動車界に貢献したことは一番大きいと思います。ほかのものは途中で落伍したり、こわれたりしてそれほど貢献しておりません。そういう意味でタクリー号を推して差し支えないと思います。貢献度の多いものを推薦すればよいのです。その意味でタクリー号は日本自動車業界の先駆であると云ってよいと思います。
 司会 みなさんのご賛同を得られればよいと思います。
 石沢・蒔田・豊川 結構です。』
 石沢 明治42年(1909年)に警視庁の登録62台のうち、ヨーロッパのものが40台程度、アメリカのものは10台でした。国産車は9台です。そのうち8台は吉田さんが作ったものです。これは41年4月に登録しております。そのへんのことを考えますと差し支えないと存じます。
 司会 みなさんのご賛同を得ましたので、タクリー号を国産車第1号といたします。
 司会 それでは次に移ります。~ 』
(㉖P16)
 がーん!・・・
 しかし自分もこの記事で記したように、心情的には理解できる面もある。
 だがこの本が出版されたのは1973年だったが、座談会自体は、昭和32年(1957年)4月5日という大昔(ちなみに自分が生まれる前!)に行われたもので、日本車が輸出市場を通して“世界デビュー”を果たす遥か以前の話だった。1957年の日本車の生産台数はたったの18.2万台(うち乗用車が4.7万台)で輸出は6.6万台に過ぎず、対外的に気にする必要もなかったため、このような村社会的な“ローカルルール”でも問題なかったのだろう。 しかし、世界の自動車産業界をリードするようになって久しい今の日本の立場で、このような“インチキ”(ハッキリ言ってしまえば)を今でも引きずっているのは、世界基準ではもはや通用しないばかりか、大きな不審を招きかねない話だと思う。
 やはりまことに僭越ながら、上記の“5.2-8”で記したように、国産車史において、自動車社会/文化の面で多大な貢献を果たした”タクリー号”と、ハードウェアとして国産第1号だった“国末号(もしくは旭号)”で役割分担すべき時期に達したのではないかと、思わざるを得ません。いかがなものでしょうか。

引用、参考元一覧
①:「明治の自動車」佐々木烈(1994.06)日刊自動車新聞社
②:ブログ「クルマの絵本ライブラリー」「日本の道を最初に走ったクルマ」https://ehonkuruma.blog.fc2.com/blog-entry-461.html?sp
③:「国産車100年の軌跡」別冊モーターファン(モーターファン400号/三栄書房30周年記念)高岸清他(1978.10)三栄書房
④:「20世紀の国産車」鈴木一義 (2000.05)三樹書房
⑤:「戦前期日本自動車産業の確立と海外展開(上)」上山邦雄
http://libir.josai.ac.jp/il/user_contents/02/G0000284repository/pdf/JOS-02872072-3703.pdf
⑥:「日本のトラック・バスートヨタ・日野・プリンス・ダイハツ・くろがね編」小関和夫
(2007.01)三樹書房
⑦:ブログ「紀行歴史遊学」「6km走った手作り自動車」  https://gyokuzan.typepad.jp/blog/2017/06/%E5%B1%B1%E7%BE%BD%E8%99%8E%E5%A4%AB.html
⑧:gazoo「自動車誕生から今日までの自動車史(前編)」
https://gazoo.com/article/car_history/130530_1.html
⑨:日本の自動車技術330選「山羽式蒸気バス」日本自動車技術会
https://www.jsae.or.jp/autotech/2-1.php
⑩:日本の産業遺産「山羽式蒸気自動車」コベルコ科研
https://www.kobelcokaken.co.jp/tech_library/pdf/no45/a2.pdf
⑪:「自動車に生きた男たち」刀祢館正久(1986.01)新潮社
⑫:「日本自動車史」佐々木烈 (2004.03)三樹書房
⑬:「クルマの歴史300話」28-09蜷田晴彦
http://ninada.blog.fc2.com/blog-category-36-4.html
⑭:「苦難の歴史 国産車づくりの挑戦」桂木洋二(2008.12)グランプリ出版
⑮:「みなさん!知ってますCAR?」2018.11.01広田民郎
https://seez.weblogs.jp/car/2018/11/index.html
⑯:日本の自動車技術330選 「タクリ―号」日本自動車技術会
https://www.jsae.or.jp/autotech/1-1.php
⑰:「販売を目的として生産された国産車は「タクリー号」が最初である。」北九州イノベーションギャラリー
http://kigs.jp/db/history.php?nid=2727&PHPSESSID=8ab6d96e143c47cdec3a2f9f7
⑱:「ニッポンのクルマ20世紀」(2000)神田重己他 八重洲出版
⑲:「だんぜんおもしろいクルマの歴史」堺憲一(2013.03)NTT出版
⑳:「自動車の世紀」折口透(1997.09)岩波新書
㉑:「日本軍と軍用車両」林譲治(2019.09)並木書房
㉒:「自動車産業の歴史と現状 工業化への道のり」(独)環境再生保全機構
https://www.erca.go.jp/yobou/taiki/siryou/siryoukan/pdf/W_A_005.pdf
㉓:「日本自動車工業史―小型車と大衆車による二つの道程」呂寅満(2011.02)東京大学出版会
㉔:「自動車産業の興亡」牧野勝彦(2003.10)日刊自動車新聞社
㉕:「大正~昭和戦前期の自動車政策にみる標準化・規格化」高木晋一郎(人文社会科学研究科 研究プロジェクト報告書 第217集)
https://core.ac.uk/download/pdf/97061095.pdf
㉖:「「日本自動車工業史座談会記録集」 (1973.09)自動車工業振興会

備考
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≪備考1≫
組立式の国産2輪自動車は山羽式より前からあった

 ここでからは余談になるが、“国産自動車第1号”は確かに山羽式蒸気自動車であるが、『じつをいうとこれより以前に広い意味での「自動車」をつくろうと試みた日本人は数多くいた。』(③P59)という。下の写真(引用③P59よりコピーさせていただいた)の広島の柴義彦という人物もその一人で、1898年ごろ(1901年という説もある?)、日本最初の二輪自動車の組立を行ったという。以下物語調でわかりやすく記されている(引用⑬)より『~神戸在住のマンチーニという外人(注;なんと奇遇?なことに山羽虎夫のところで出てくる外人”マンシン“と同一人物!)が商用で下関までオートバイで行くことになりました。途中、広島県を通り過ぎ庄島(しょうしま)という所に立ち寄った時、止まっているオートバイを見て興味を抱いたのが第5師団の高官の息子で柴 義彦(しま・よしひこ)という若者でした。彼は見知らぬ外人に向かって、このオートバイをどこで入手したのかと質問しました。そして外人から、神戸に橋本商会という自転車屋をあり、ここがオートバイ部品を輸入していることを知りました。行動力のある柴は神戸の橋本商店に行き、イギリス製オートバイの部品を注文しました。これが到着すると、自分でオートバイを組み立ててみたら、立派に走ったという話があります』もっとも③や⑬によれば『この時期に日本人によって組み立てられたオートバイは40台以上あった』(⑬)とのことで、柴のものがはたして第1号であったかどうか、これもまた定かではないようだが、確認されているものとして、柴義彦が、日本の2輪組立自動車第1号製作者と認定?されているようだ。)
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≪備考2≫
1908年末の警視庁管内自動車総数46台の内訳

(『日本自動車殿堂、初の国産自動車「吉田式」の製作者 吉田 真太郎』より引用)
http://www.jahfa.jp/wp/wp-content/uploads/2011/01/2011-yoshida.pdf
『明治41年(1908年)末の警視庁管内自動車総数は46台で、内訳は、皇族では有栖川宮殿下の2台、大隈重信、渋沢栄一、大倉喜七、古川虎之助、日比谷平左衛門ら実業家が15台、商店では三井呉服店の2台と亀屋鶴五郎が1台、外国人ではジェー・エス・レフロイやデー・エー・スコット、チャールス・エス・シュルツらが8台、陸軍省が2台、新聞社では報知社が2台、会社では帝国運輸自動車が13台、大日本ビール1台である。
 これを製造国別でみると、フランス製18台、英国製12台、国産吉田式8台、アメリカ製4台、イタリア製とドイツ製が各2台で、フランス製18台の内13台は帝国運輸自動車のトラックであり、実業家の15台中の7台と大日本ビールの1台は吉田式国産車である。
 吉田式国産車が当時の自動車界にあっていかに主要な地位を占めていたかがわかる。』



≪備考3≫
日本の自動車産業成立が遅れた、一つの理由(周辺の産業が育っていなかった)⇒“馬車産業”と“自転車産業”が無かった

 そもそも江戸時代以前の日本においては、車輪の付いた乗り物が普及していなかったという根本的な問題もあった。欧米諸国では、馬車を中心とした道路輸送時代を経たあとで、鉄道や自動車の時代が始まったのに対し、日本は幕末から明治にかけてほとんど同時期にそれらすべての導入がいきなり始まった。そのため自動車の周辺産業として事前に「馬車産業」と「自転車産業」というものが、まったく存在していなかったことも大きなハンデとなったという。(日本で車輪付きとなると、牛車か山車で、人が乗る乗り物はなかった。下は川越まつりの山車)
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以下多少脇道に逸れるが、補足として、引用㉑P28より記す。
『欧米で、かくも短期間に多数の企業が自動車生産に参入できたのは、その前史として、馬車産業と自転車産業の発達があった。(下は1880年代の銀座通り。東京に路面電車が走る明治36年(1903年)以前の風景)
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https://blog-imgs-57.fc2.com/e/h/o/ehonkuruma/130829_7.jpg
 こうした産業が先行して存在したため、工作機械や関連部品、素材(鉄板など)などの周辺産業の蓄積がすでにできていた。これは日本の自動車発明家や起業家が、自動車製造を試みても、常に部品の入手で苦労したのとは対照的だった。
 日本の場合、馬車も自転車も自動車もほとんど並行して産業がスタートしたために、先行する産業の蓄積がなく、相互に頼るべき周辺産業を欠いていた。結果として、日本の自動車産業は部品を内製するために、大規模な設備投資をするか、海外から部品を購入するしかなかった。輸入部品は高価だったが、国産よりは低コストである反面、輸入依存を続ければ、周辺産業が育たないというジレンマがあった。』

 自動車産業が成立するための、技術的な基盤について、以下㉔P61から、もう少し詳しく見ていく。
『~自動車は幅広い産業分野の素材・部品を使うが、製鉄、鋳造、鍛造、機械加工、電気、ゴム、工作機械などの技術分野が未発達で、自動車を量産する支持基盤が未完成だった。(中略)フォード社も初期には、エンジンや車体は専門メーカーから購入してアッセンブリーのみをするメーカーだった。自動車を生産する基盤は80%できていたとみてよい。
 それに対し、その当時の日本では機械・加工産業は極めて弱体で、政府が主導し育成した鉄鋼業・造船業・鉄道車輛製造業・繊維機械製造業は別として、民需製品では自転車産業や簡単な農業機械産業、初歩的な家電産業のみであった。したがって自動車の開発者は自分で鋳物を作り、工作機械までも自分で作らなければならなかった。自動車を生産するための基盤は10%程度で、90%は奮励刻苦努力し自力で達成しなければならなかった。鉄鋼製品も貧弱で外板の薄板も生産されていないため手叩きで延ばすしかなく、精密鍛造・鋳造の技術もなく、各種合金もなく、国産タイヤはすぐバーストして使えなかった。当時、日本は玩具屋雑貨を見よう見真似で作り輸出していたが、日本製品は安かろう悪かろうですぐに壊れるとの海外での評判であった。そのような工業水準で自動車を作るのは無理だった。』

 しかし本題からそれるが、その一方で、周辺の部品産業が育っておらず、国産の自動車を量産するためには自動車会社側がその育成まで乗り出さなければならなかったことが、戦後の日本の自動車産業の特徴の一つとなった、系列の部品メーカーと一心同体の強固な関係を築く、“ピラミッド状の垂直的分業システム”を確立することへとつながった、との見方もある。以下ネットの「自動車産業の歴史と現状 工業化への道のり」環境再生保全機構HP(引用㉒)より、
『1935年以降、自動車大量生産時代が到来、それにふさわしい自動車部品工業を必要としました。ところが、自動車産業のすそ野が未発達のため、自動車メーカー自らによる部品メーカーへの技術指導、質的向上などの育成が図られました。こうした事情から両者の間に相互信頼にもとづく緊密な関係が生まれました。戦後になると関係がさらに深まり、品質の高い製品をつくりだす源泉として、システム化したメーカー=部品・素材企業という「日本的生産システムの原型」を形成していったといわれています。』もっとも日本株式会社的な、部品メーカーとの密接な関係を基にした下請分業構造も、今は瓦解しつつあるところだが。


≪備考4≫
自動車の歴史を記した本やwebや論文では、タクリ―号のエンジン/シャシーをどのように扱っていたのか

 いささか興味本位ではあるが、参考までに手持ちの資料やwebの上位検索からいくつかピックアップしてみたので備考欄に記しておく。その表現の中に、立場の違いは微妙に感じられる。総じて「関係者の間で話し合った結果、タクリ―号がガソリン車の国産第一号ということで一致した。現在ではこれが定説となっている」(5.2-7参照;((⑪P23))とする事実が、重くのしかかっているように思える。
(1)『いうまでもなく内山駒之助が自ら設計し、自ら完成したもの』→「国産車100年の軌跡」別冊モーターファン(モーターファン400号/三栄書房30周年記念)高岸清他(1978)三栄書房(引用③)
(2)『鋳物、機械加工、板金などをすべて自分たちの手で行うか、外注生産したと言われる純国産車』→「ニッポンのクルマ20世紀」神田重己他(2000)八重洲出版(引用⑱)
(3)『エンジンも国産化されたという記述もみられるが、アメリカから輸入されたものを分解して組み上げられたと思われる。』→「苦難の歴史 国産車づくりの挑戦」桂木洋二(2008.12)グランプリ出版(引用⑭)
(4)『「明治の輸入車」や「トヨタ博物館紀要No4」では、最初に組み立てたものや当時神戸に輸入されたほぼ同じ構造のフォード・モデルA(1903)を参考に、国産化したのではと推定している。』→「20世紀の国産車」鈴木一義 (2000)三樹書房(引用④)
(5)『エンジンも車台も、すべて一台の旋盤で、アメリカ車のスケッチを参考にして作り上げられた。』→「だんぜんおもしろいクルマの歴史」堺憲一(2013)NTT出版(引用⑲)
(6)『エンジンもシャシーもすべてたった1台の旋盤で作り上げようとしたわけで、今日なら無謀のそしりは免れないところだろう。』→「自動車の世紀」折口透(1997)岩波新書(引用⑳)
以下はWebで公開されているもの
(7)『(エンジンは)自工会の図面ではエンジンはハイネス車用であり、トヨタ博物館の写真ではフォードA型とみなされる。輸入エンジンは12.18hpの2台、3台目(注;タクリ―号)からは自家製 タクリー号は自家製のシャシーである。シャシーはフォードA型と同じ』
「日本の自動車技術330選」日本自動車技術会 
https://www.jsae.or.jp/autotech/1-1.php
(8)『エンジンは1837ccの水平対向2気筒で、出力は12馬力だった。模倣の域を出なかったものの、曲がりなりにも日本人が自力で製造したガソリン自動車といえる。』→gazoo 「オートモ号の真実」(webCGもほぼ同じ内容)
https://gazoo.com/article/car_history/140718_1.html
(9)『内山氏は、ダラック号のボディと、米フォード「A型」のエンジンをベースに、タイヤ、バッテリー、プラグ等の輸入品を使い、熟練鋳物師の指導も受け、試行錯誤を重ね、1年数ヶ月後の 1907年に日本最初のガソリン自動車を完成させます。』→「日本の自動車史 第1章 日本の自動車産業の夜明け(1) 」住商アビーム自動車総合研究所
https://www.sc-abeam.com/sc/?p=942
(10)『エンジンやトランスミッションは輸入品ではあったが、A型フォードをお手本にして、日本人の手でつくり上げられた木骨鉄板構造の乗用車である。』→「 みなさん!知ってますCAR?」広田民郎(2019)
https://seez.weblogs.jp/car/2019/04/01/index.html
(11)『1907年に一部の部晶(電装晶)を除いて国産第1号(タクリー号)ガソリン自動車を完成した。』戦前期における自動車工業の技術発展(2001)関権 一橋大学大学院
https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/10406/1/ronso1250500150.pdf
(12)『エンジンやトランスミッションはアメリカから輸入し、主としてボディを製作したものである。現在では実物は残っていないが、資料は少なくないし、模型は作られて公開されている。』産業技術史資料情報センターの、産業技術史資料データベース「タクリー号ガソリンエンジン乗用車」
http://sts.kahaku.go.jp/

(写真は“モデルA型”。T型フォードの後継車として登場する“A型フォード”と名前は紛らわしい。)
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≪備考5≫
当時の日本の交通における、鉄道・海運・自動車の役割

 この時代の日本の交通体系全体の中では、鉄道が圧倒的優位で、自動車はごく限られた、趣味的な世界に限られていた。以下はweb上で公開されている「大正~昭和戦前期の自動車政策にみる標準化・規格化」(引用㉕P62)より。
『その頃、鉄道は既に2回の「鉄道熱」期を経て、官設鉄道と五大私鉄をはじめとする大規模私鉄による幹線鉄道網がほぼ完成し、それに接続する主要な地方鉄道路線の開通が相次いでいた。鉄道事業者間の旅客・貨物の連帯輸送や列車の直通運転も全国規模で実施されており、鉄道は明治初期の新橋-横浜間開通から二十余年にして陸上長距離輸送における圧倒的優位な地位を占めていた。
また、三菱系の日本郵船と住友系の大阪商船を中心に沿岸海運航路が発達し、鉄道熱期までに全国的な航路網が整備されていたが、幹線鉄道網が整備されると、鉄道と競合する航路では次第に鉄道に輸送シェアを奪われていった。
一方、短距離の荷物輸送には牛馬が広く用いられ、鉄道の端末輸送には水運が重要な役割を担っていた。
高コストで非効率な自動車は、高付加価値商品の短距離輸送(三井呉服店など)、或いは社会的地位の高い家庭での送迎(大隈重信など)といったように、活躍の場が極めて限定されていた。』
(下は「銀座通り(大正7年)天下堂デパートの界隈(8丁目)。」ジャパンアーカイブズさんより。東京では早くから定着した、市電だけが目立つ。)

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     - 以上 -

⑯ 日本の自動車産業の“育ての親”は日本陸軍だった? (戦前日本の自動車史;その1) 日本の自動車産業の“生みの親”と“育ての親”

⑯ 日本の自動車産業の“育ての親”は日本陸軍だった?(戦前日本の自動車史;その1)日本の自動車産業の“生みの親”と“育ての親”

1.日本の自動車産業の“生みの親”と“育ての親”
 しばらく記事の更新が途絶えてしまい、もうずいぶん昔の話になってしまったが、前回の自動車記事(⑮ 中島飛行機とプリンスにまつわる”よもやま話”)の最後の方に、中島飛行機が育てた優秀な技術者たちの新たな活躍の場となったのが、戦後の自動車産業だったことを記した。
 文字通り当時の日本の頭脳と言えたエリート技術者たちは、中島“直系”であるスバルや、中島エンジン部隊の色の濃かったプリンス以外にもホンダなど各社に拡散していき、戦後の自動車産業の一時期を裏から支える“育ての親”的な役割を演じ、その発展に大きく寄与した。
 このことはよく知られた事実だが、中島系と広く知られているスバル、プリンス以外については、年月とともに歴史の中にかき消されがちで、そのごく一端だけでも、主に前間孝則氏の著作を基にして、このブログで書き残しておきたいと思った。
それではまずはトヨタから~ と、書き始めようと思ったが(実はほとんど書き終えているのだが)、その前にまたまた恒例の?脱線(しかも今回は大脱線)をします。思わず出てきた“育ての親”という言葉から、ふと思ったことを先に、書き記しておきたい。
 それは、日本の自動車産業にとっての“生みの親”と、“育ての親”は誰だったか、という問題だ。
 この考察は始めると、長~い話になってしまうのだが、しかし“生みの親”については、多くの人(ただし日本人にとって?)が納得する人物が二人いるのは承知の通りだ。

2.日本の自動車産業の生みの親、豊田喜一郎と鮎川義介
 日本の自動車産業の“生みの親”としての功績は、やはりこの2名が突出しているだろう。
鮎川義介と豊田喜一郎。
 以下は「20世紀の自動車」鈴木一義著(引用①P91)より(←引用元は番号順に文末にまとめて一覧で記載しています。また引用箇所は青字にしています。)『当時の状況でこの事業に乗り出したのは膨大な、設備投資と赤字を支える資本をもち、蛮勇と先見の紙一重を行き来できる人物であったに違いない。(中略)戦時下ゆえに確立可能であったトヨタ、日産、そして昭和16年(1941年)に許可会社となったヂーゼル自動車工業(現いすゞ自動車)3社の量産体制は、昭和16年に最高4万3878台(商工省調べ)を生産するに至った。それは自動車産業の今日の繁栄を築く財産として、戦後に残ったのである。』全体像を簡潔かつ的確に言い表していると思う。(画像はwikiより、上から鮎川義介と豊田喜一郎。ちなみに二人とも、東京帝大機械工学科卒業の、当時の日本で最高レベルの知能をもったエンジニアでもあった。)
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 このふたりが舞台に躍り出る以前の、戦前の日本の自動車市場は、フォードとGMのノックダウン生産車でほぼ独占された、アメリカ車による植民地状態だった。以下、当ブログの記事で度々引用している「日本における自動車の世紀」(桂木洋二著)より引用する(以下引用②P10)
『トヨタとニッサンが自動車メーカーとして活動を開始するのは、フォードが日本に上陸した8年後の1933年である。それまでの国産自動車メーカーと違っていたのは、どちらも乗用車を量産することを前提にしていたことで、フォードとGMによる独占状態に風穴を開けようとする動きだった。トヨタの場合は豊田喜一郎が、ニッサンの場合は鮎川義介が、その動きを強力に推進した。このときに、この二人が立ち上がらなければ、日本の自動車産業の現在は違ったものとなっていただろう。
 当時の日本は、軍事力を高めることが優先され、工業技術はバランスのとれた発達をしておらず、自動車の周辺技術も欧米の水準に比較すると低いと言わざるを得なかった。
それだけに、膨大な資金と人材を投入して自動車の事業に乗り出すのは、とんでもない冒険であり、周囲の反対を押し切らなくては始められない事だった。装置産業の代表ともいうべき自動車産業が成立するには、大量生産することが前提で、豊富な資金を投入できる実力があり、高い技術力を獲得する必要があった。したがって、この時期に自動車産業に手を出すには、非常にリスクの大きいことと思われた。三井や三菱といった財閥企業でさえ、しり込みする分野だったが、だからこそ、ニッサンの鮎川義介も、トヨタの豊田喜一郎も、日本に自動車産業を確立させようと決心したのだった。』
(下は完成間近の戦前のトヨタ挙母工場全景。昭和12年9月に着工、13年11月3日に竣工し、以降この日が創立記念日となった。良く知られているように挙母町は、のちに豊田市へと名前が変わった。)
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https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/text/taking_on_the_automotive_business/chapter2/section4/images/l01_02_04_03_img02.jpg
 二人の苦難に満ちた足跡とその偉大な功績についてはすでに語り尽くされているので、(夏か秋ごろ?記す“その6”の記事でその一端を紹介する予定)ここでは割愛する。余談だがこの二人は実は親戚同士であったという。『二人の夫人は従姉妹(高島屋飯田家)で、(中略)豊田家と鮎川家はお互い近親感はあっても、ライバルとして相手を打ち負かそうという意識はなかったようだ。しかし、それは豊田家と鮎川家のことであり、それぞれの組織の従業員の意識は同じではなかったのは確かである。』以上同じく引用②P13より。確かに戦前においては“つばぜり合い”程度はあったが、共存共栄であったように思う。それも後の記事で記すことにする。

3.“戦後派”を代表する本田宗一郎
 しかし、大半の日本人からみた、日本自動車産業史の“通史”としてはたぶん納得いくであろう?この人選も、世界基準ではまた違った見方もあるかもしれない。日本の自動車が“世界史”に躍り出たのは戦後しばらくたってからで、その時点ではすでに、この二人が残したものはあっても実際に活躍する場面はなかった。また自動車の欧米市場への切り込み役は、メイド・イン・ジャパンのホンダを筆頭としたオートバイからで、
(下はアメリカ・ホンダが展開した有名な「YOU MEET THE NICEST PEOPLE ON A HONDA」(すばらしき人ホンダに乗る)キャンペーンのポスター。オートバイを、黒の革ジャンを着たラフな男の乗り物という限定したイメージから広げていった。)
https://www.honda.co.jp/50years-history/challenge/1959establishingamericanhonda/page08.html
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 やはり、2輪GP制覇が与えた影響も大きかっただろう。(下の写真はホンダのGPマシン、RC162に乗る高橋国光(#100)。1961年の第2戦西ドイツGP 250㏄クラススタート直前の光景だが、高橋はこのレースで日本人初優勝の快挙を成し遂げる。)
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 そして欧米人の目からみるとやはり、下の写真のような満面笑みの「ソーイチロー・ホンダ」が放つ、強烈なオーラにたどり着くようだ。
(下は本田宗一郎)
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 1986年、ガソリン自動車そのものの“生みの親”であるダイムラー・ベンツ社は、自動車誕生100周年を記念して、一大イベントを開催した。その壮大なセレモニーに招待された、小林彰太郎と並び日本を代表するモータージャーナリストである徳大寺有恒は、その時の模様を以下のように綴っている。(「ぼくの日本自動車史」徳大寺有恒;引用③P365)
『~おそらくあんなに世界の自動車工業のトップが集まった例は他にない。巨大で、寒い競技場のようなホールの正面壇上には、錚々たるメンバーが勢ぞろいしていた。豊田英二さんの隣はGMのロジャー・スミス、さらにその隣はフォードのピーターセン、日産の中川さん、三菱の舘さん、ホンダも会長が来ていたし、ロールス・ロイスの会長も、ルノーの総裁もやってきた。(中略)そのVIPたちの横には、歴代のF1のワールドチャンピオンがずらりと十何人か並んでいた。すごいパーティーなのだ。
セレモニーはだらだらだらだらと三時間続いた。ニキ・ラウダの司会で、テレビ同時中継で自動車100年の歴史を寸劇やらVTRなどで延々と綴るというものである。最初の部分がやたらと長かった。それはカール・ベンツがクリスマスも迫った冬のある日、試作車を走らせようとして、エンジンがなかなかかからず、かみさんと一緒にプシュン、プシュンと押し掛けするシーンであった。その部分を本物のクルマを使った寸劇にして、フィルムに撮ってあるのだ。
それは何度も奥さんと一緒に試みながら、最後にはエンジンがかかるという、とても有名で感動的な話なのだが、そこの部分がやけに長いのである。
(下の画像は『ベンツ夫妻の挑戦「じどうしゃのはつめい」カールベンツ(絵本)』ブログ「クルマノエホン」よりコピー))
https://ehonkuruma.blog.fc2.com/blog-entry-330.html
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メルツェデスとしてはこの自動車の誕生シーンは見せたいところだろうと思うのだが、あまりに延々とやっているので、参加者はみんなウンザリしてしまった。』
『結局そのドラマは途中で中断されてしまう。ダイムラー社の偉い人が、さすがに「おまえ、ふざけんな」ということで、やめさせたのである。

(下はカールベンツのモトールヴァーゲン(最初の三輪自動車))
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https://www.mercedes-benz.jp/brand/magazine/story/imgs/vol_01/photo3.jpg
それから自動車の歴史が順々に紹介されて、最後の三十分ほどになってようやく六十年代に達する。そうすると、ぼくたち日本からの参加者もちょっとはおもしろくなる。そこで「日本車の台頭」というタイトルが出た。おお、と思ったら、本田さんのあのにこやかな眼鏡をかけたちょっとにやけた顔が、どーんとスクリーンいっぱいにアップになった。それが三秒続いて、それで終わり。次は「アメリカの安全問題」というのだ。トヨタもニッサンも、日本のお歴々はさぞかしガッカリしたことだろう。
そのときぼくは、本田さんはつくづく日本自動車界のシンボルなのだなあと思った。日本では違うかもしれないが、世界の認識としてはそうなのだ。』
 (下は本田宗一郎と、その名参謀役として、宗一郎とホンダの経営を支え続けた藤澤武夫。二人の関係について、『経営学者の伊丹敬之は、演劇における演出家と役者の関係になぞらえて、「藤沢が経営の大きなシナリオを書き、体制をつくり、資源の手当てをする。本田が、そのシナリオの中心にある技術開発を存分に切り回し、そしてシナリオ全体の主役としてみごとにリーダーとしての役割を果たした。」と表現している。』(引用④P95))
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https://d1uzk9o9cg136f.cloudfront.net/f/16783342/rc/2018/05/10/59b83f40f2242330f569e861765b666bf4998284_xlarge.jpg
 トヨタや日産の関係者をさしおき、アメリカの自動車殿堂入りを、最初に果たした日本人も本田宗一郎だった。世界基準に照らし合わせれば戦前の日本の自動車産業は、規模と質の両面から見て、その力は、取るに足らずとなれば、ソニーと並ぶ戦後派日本企業の代表であり、戦後の日本の自動車業界を代表する“顔”としてはやはり、本田宗一郎(+裏方のすべてを仕切り支えた藤澤武夫の名コンビ)なのだろう。
 以下は本田のHP「本田・藤澤両トップ退任、川島社長就任」(引用⑤とする)より引用。二人で交わされた引退を巡っての短い言葉のやりとりの中に、二人三脚であったそのすべてが凝縮されている、
『退任が決まった後のある会合で、藤澤は本田と顔を合わせた。当時の様子を藤澤は、1973年8月の『退陣のごあいさつ』の中で、次のように触れている。
――ここへ来いよ、と(本田さんに)目で知らされたので、一緒に連れ立った。
「まあまあだな」
と言われた。
「そう、まあまあさ」
と答えた。
「幸せだったな」
と言われた。
「本当に幸せでした。心からお礼を言います」
と言った私に、
「おれも礼を言うよ。良い人生だったな」
とのことで引退の話は終わりました――。』

https://www.honda.co.jp/50years-history/challenge/1973companyleaders/page06.html
 個人的な意見からすれば、戦後の日本の自動車産業をけん引した数々の偉人たちの中で、憤死した喜一郎の意志を継ぎ、石田退三/神谷正太郎らとともに戦後のトヨタの成長の基盤を築き、第二の創業者だったとも言えると思う豊田英二も、本田宗一郎と並ぶ存在であったと思うが、(本田宗一郎に比べれば、地味ではあるけれども、その功績により日本人として2番目に、アメリカの自動車殿堂入りを果たした。)
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 しかし戦前の礎がなければ、戦後の今日の日本の自動車産業の隆盛はそもそもなかった。それを思えば、戦前/戦後の通史として考えれば“生みの親”はやはり、豊田喜一郎と、鮎川義介とするのが妥当と言えるのではないかと、個人的には思う。
 だが末はいくら優秀な子供でも、自立するまでは誰かの手を借りねば生き抜くことはできない。それでは“育ての親”は、いったい誰だったのか?

4.一番の“育ての親”は、日本陸軍だった!?
 今日の日本の自動車産業の繁栄は、個々の企業活動による長年の努力と実績の積重ねの結果に違いない。しかし、いくら企業やその経営者たちが励んでも、戦前から戦後のある時期までは、日米の自動車産業の規模と力量の差はいかんともしがたいほどの大差があった。なにせ戦後の1970年頃に至っても、GMの売上高は日本の国家予算ぐらいの規模があったのだ。
 敗戦後も、国力のすべてが失われた中で、ヨチヨチ歩きの子供(当時の日本の自動車産業)が独り立ちして自活できるまでは、巨像に踏みつぶされないよう、誰かが保護・育成してやる必要があった。
 そんな日本の自動車産業の“育ての親”的な役目を果たしたものは、一人ではなかった。だが戦後の繁栄の結果から逆算して判断すれば、日本陸軍(陸軍省)が、その最大の功労者であったと思う(私見です)。
 戦時体制という錦の旗のもとで、内外からの圧力や工作にけっして屈することなく、陸軍と統制経済実施で歩調を合わせた商工省と共に"国防"を理由に有無を言わさず、外国の巨大自動車資本(フォードとGM)を日本から徹底排除することで、量産自動車メーカーとしてみれば世界基準ではまったく競争力を欠いていたトヨタと日産による二大メーカー体制を、強引に成立させた。
 そのため重要な起点となったはずの戦後のスタート時点で、戦前の日本市場で圧倒的優位にあり、なおかつ戦勝(占領)国側であったGMとフォードは、戦前の陸軍の工作の結果、手掛かりとなる基盤を日本から失ってしまっていた。
 そして戦前の“守護神”役であった日本陸軍なき後の戦後体制においては、商工省が通産省となって引き続き、日本の自動車産業確立のために徹底擁護を貫き、内外の情勢を考えればむしろ“正論”とも言えた“乗用車不要論”を抑え、難しい運営を強いられたであろう占領下においても、その間隙を縫って果敢に保護育成政策を実行し、強力に支援し続けた。
 さらに戦前においては陸軍/商工省以外でも、内務省が庶民の足としていわば自発的に誕生したオート三輪を無免許や税制上の優遇を認めて奨励した結果、小型四輪車を定着させたダットサン共々日本独特の小型車市場が形成されていった。そしてその市場が戦後に入り通産省の国民車構想などと絡まりながら紆余曲折を経て、日本独自の軽自動車へとさらに発展を遂げていくことになる。こうしてトヨタ、日産以外に、戦前からオート三輪を出発点としたダイハツ、マツダや、軽自動車への進出で量産体制を築いた旧中島飛行機系のスバルや、二輪からスタートした戦後派のホンダやスズキ等が、四輪自動車メーカーとして育っていった。
 陸軍向けの軍用トラックや、商工省/鉄道省による標準自動車や省営バス等、当初は官需を中心に育成されていったいすゞ、日野、ふそうなどトラックメーカー共々、戦後の日本の自動車産業の基盤はこうして確立されていった。

 これらの事実はよく知られてはいると思うが、なにせトヨタ、日産、そして後にトラックのいすゞが加わり三大自動車メーカーの体制をつくった自動車製造事業法から数えても80年以上昔の話で、今日の自動車産業の繁栄の前に、ともすればかき消されがちだ。
 創業者系もしくは、最近はともかく過去にはワンマン型の経営者が多く、独立心が強く、自力で知恵を絞り現場で汗を流し、ベンチャー魂旺盛な企業家達が多かった日本の自動車産業界にとっては、国の保護下にあった過去など負の時代の“鬱陶しい昔話”として、今さら振り返りたくないのかもしれない。
 それに日本陸軍は敗戦とともに霧散してしまい、さらに戦後に入り、個人的には一方的な見方に思える“陸軍悪玉・海軍善玉論”が世論に植え付けられてしまい、日本史の中で“悪役”とされてしまった陸軍が、自動車産業の最大の後見人であったなどという事実は都合も悪かったのだろう。
 また戦後の”育ての親”であった通産省の自動車政策も、自動車産業が成長軌道に乗ると、せっかく子供が成人して、親離れをして外界に旅立とうとしているのに、時には親元に無理やり引き留めようとしているかのようで、次第に空回りすることも多くなり、充分機能しないように思える場面が目立っていった。
(たとえば、通産省が特定産業振興臨時措置法案で新規参入を封じようとした時、本田宗一郎がこの方針にかみつき、一升瓶片手に通産省に直談判に行ったのは有名な話だ。下は今日でも「会社の名前と商品(ブランド)の名前が同じ」お二人、現代の日本の自動車業界を代表する“顔”である豊田社長と鈴木会長の対談の様子)
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https://www.youtube.com/watch?v=pBoz48UjiQk

 戦後、独り立ちを果たしたあとの日本の自動車産業にとって、結果から判断してもっとも有益だった自動車産業政策は、多少皮肉な面もあるが、自動車環境行政として実施された、環境庁/運輸省(いずれも当時)による53年排出ガス規制(いわゆる“日本版マスキー法”)であったように思える(私見です)。
 自動車メーカーに対しては、段階的に実施するなど一定の配慮を示しつつも、マスキー法のいわば”本家”だった米国はじめ世界が挫折していく中で諦めることなく、限界に近い排ガス規制値の目標を掲げ続けて、それを達成させた。そして当時の行政側は、規制値を段階的に強化していく過程で、この排ガス規制が自動車産業に対しての、産業振興政策にもなる事を理解していたに違いない。自動車業界に対してより高度な技術開発を即し、結果的にその技術力は大きく底上げされて、日本の自動車産業は一気に世界水準に達することが出来た。当時の通産省の“過保護的な?”施策よりも、その後の日本車の、世界に対しての競争力と自信の源泉となったようにも思える。(下の写真と以下の文は本田のHPより、『1973年3月19日にワシントンの農務省ホールで行われたEPA公聴会〔写真提供 伊達たすく氏〕。1973年3月19日、EPAの公聴会がワシントンで開催された。これはマスキー法を予定通り実施するか否かを決めるため、自動車メーカーからの証言を聞くものであった。この公聴会で、1975年規制を達成可能と証言したのは、Hondaと東洋工業(現、マツダ)だけであった。(中略)公聴会の結果、(“本家”アメリカの)マスキー法の実施は延期されることに決定した。』排出ガス規制をクリアする=生き残りを賭けるというという高いハードルが、メーカー間の熾烈な技術開発競争を生み、その“試練”が、後に日本車の高い競争力をもたらした。)
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https://www.honda.co.jp/50years-history/challenge/1972introducingthecvcc/page06.html
 
 さらに別の側面からみれば、建設省(当時)による、自民党の建設族議員を巻き込みながら政治力を駆使して強力に推進した、インフラ整備としての道路行政も、“育ての親”としての貢献度は高かったと思う。クルマにとって肝心要である走る道がなければ、本格的な普及期は迎えられない。実施に当たっては多少ダーティーな側面もあっただろうが、全国に高速道路網が完備されたからこそ、日本車に欠けていた高速走行性能も次第に改善されていった。(下の写真は建設省の官僚として田中角栄とタッグを組み、戦後の日本の自動車産業の繁栄を裏から支え、“「道路三法」と「道路公団」の父”と呼ばれた石破二朗。田中角栄と共に間違いなく、自動車産業の“育ての親”の一人であったと思う。画像はwikiより。ちなみに首相候補の一人と言われている石破茂の父親だ。追記すれば、日本車の操安性や超高速走行性能等、基本性能を鍛え上げた点で、鈴鹿サーキットを建設した本田宗一郎はこの面でも偉人だった。)
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 しかししつこいようだが、戦前/戦後初期のもっとも保護すべき重要な時期に、陸軍&商工省/通産省の保護政策により“外敵”!?から身を守ることにより生き延び、戦後も成長の過程のある段階までは、通産省の産業政策も効果があり、今日の自動車産業の繁栄をもたらしたのは事実だ。
 もちろん、逆もまたしかりで、いくら国が保護に回っても、企業側の自助努力と独立心がなければ、構想倒れで中身の無いままで終わってしまっていただろう。日本の自動車産業の今日の繁栄は、官/民の両輪が噛み合った結果、はじめてもたらされたものだったと思う。実際にトヨタと日産による日本の自動車産業の確立は、陸軍/商工省との“合作”以外何物でもなかった。とくにトヨタの場合は日産以上に、その色が濃かったと思う。

 この、“育ての親”というキーワードが自分の頭の中で次第に膨らんでいき、まだ書きかけの記事が中途半端に3~4編も残っているのに、どうしても先にこの問題の決着を付けてしまいたくなった。
 今まで日本の自動車産業の“生みの親”の視点からは、多くのメディアでさまざまな切り口から語られてきた。しかし従来語られることが少なかった“育ての親”の視点から、今日の日本の自動車産業が、官民合作の結果として成立していった過程を、どうしても書き残したくなってしまった。
 そこで戦後の結果から逆算して、最大の立役者だったと思う(何度も記すけれど私見です)日本陸軍(陸軍省)を中心に、商工省/内務省/鉄道省など官側の“育ての親”たちの果たした役割を軸に、日本の自動車産業史を振り返ってみることにした。
期間としては、国産自動車第一号とされる、山羽式蒸気自動車の誕生(1904年)から始まり、戦後はクラウン登場(1955年)以降はすでに語り尽くされているので、その直前ぐらいまでで区切るとしても、全体としては相当なボリューム(=たぶん読む側からすればダラダラと長いだけでしょう!)になる予定だ。
 実はここ半年間ぐらい、まずは全体の構想を固めねばとウ~ウ~考えながら、練ってきたのだが、このままのペースだといつまでたってもゴールが見えないので、今月から1~2ヶ月に一本ぐらいのペースで、見切り発車気味だがともかく記事としてアップしていくことにした。(たぶん“その7”ぐらいまで続き、書き終えるのは秋~年末ごろ?)

 なお今回から始まる一連の記事で引用させていただいた多くのジャーナリスト、研究者、ブログ主の方々に深く感謝します。引用した箇所の情報や考え方に少しでも興味のある方は、ぜひ元ネタを訪れるなり原本を手にして、さらに探求してみてください。この記事がそのための契機となり、結果としてガイダンス的な役割を果たせれば幸いです。
(いつものように敬称略とさせていただく。引用箇所は青字で記すことで区別し、すべての引用もしくは参照先は番号をふって文末にまとめて記載し、画像のコピペ先も写真の下に記載してある。今回から新たに、本と論文に関しては引用/参考箇所のページまで明記するようにした。例によって全くの個人的な見解については極力“私見”だと明記しておく。何度も記すが、引用文と写真の引用箇所に少しでも興味のある方はこれをきっかけにぜひとも、オリジナルである原書を読むなりブログを尋ねるなりしてみてください。ちなみに引用した本は全て実際に購入したものです(古本が多かったけれども)。個人的には、このテーマの記事は、もっと勉強した後、いずれ改めて書き直したい。今回の記事はそのための準備の、“試作の試作”程度のつもりで書いたものであることをお断りしておく。)

 それではまず第一回目(その2)として、日本で最初の自動車産業政策と言われる、日本陸軍による「軍用自動車補助法」から~、と話を始める前に、官側が自動車産業の育成に乗り出す前の、いわば“自動車発明家”の時代であるが、国産自動車の起点となった重要な2台である、国産自動車第1号とされる山羽式蒸気自動車と、国産ガソリン自動車第1号のタクリ―号誕生の話から(記事⑰、“その2”として)始めてみたい。

引用元一覧
①:「20世紀の国産車」鈴木一義 (2000.05)三樹書房
②:「日本における自動車の世紀」桂木洋二(1999.08)グランプリ出版
③:「ぼくの日本自動車史」徳大寺有恒(2011.06)草思社文庫
④:「日本の自動車産業経営史」宇田川勝(2013.10)分眞堂
⑤:「本田・藤澤両トップ退任、川島社長就任」ホンダ・ホームページ
https://www.honda.co.jp/50years-history/challenge/1973companyleaders/page06.html

⑮ 中島飛行機とプリンスにまつわる”よもやま話”

 “誉”エンジンの影
 さて、前回の記事⑭の4項と7項で私見ながら、“R38X計画”を立案したのは中川良一で、少なくとも1962年時点ですでに、その全体像が頭の中にあったことを記した。またR38×計画の主軸を成すものは中川らしくエンジン戦略で(7項)、技術的な根幹をなすものは中島飛行機時代のエンジン開発を通して得た設計、試作、チューニング技術と、苦い教訓も踏まえた実戦的ノウハウだったと記してきた(前回の記事⑭に10/25に新たに追記した10項参照)。
 さらにこれも私見として付け加えれば、中川にとっては戦前、誉搭載の戦闘機で無念にも果たせなかった、世界の頂点に向けてのリベンジもあったのではとも推測し、記した。
 しかしまだまだ出てきそうだと、ここからさらに深堀しようとすると、このテーマは幅が広く奥も深くて手に余る。(下は、国際基督教大学(中島飛行機三鷹研究所の跡地にたてられた)の敷地で見つかった、陸軍初のジェット戦闘機、“火龍”のエンジンの排気ノズルとみられる部品。何が出てくるかわからず、やっぱり奥が深い?朝日新聞より)
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https://www.asahi.com/articles/ASKCS65CZKCSUTIL061.html
 いくつかの書物(主に前間孝則氏(IHIでジェットエンジンの設計に携わったのち、ノンフィクション作家になった方で、当時の関係者一人一人を直接訪問取材してまとめている点で信頼がおけると思う)の著作等)を手掛かりに、自分なりに“採掘”を試みたが、力足らずで途中で挫折してしまった。
 ただやはり、戦前の中島飛行機の在り方が、戦後のプリンス自動車に大きく影響を及ぼしていることだけは確かなようだと感じた。特に、旧中島系でもいわば“本家”筋の富士重工(スバル)と違い、荻窪を中心としたエンジン系に特化した技術者達が中心となったプリンス自動車にはやはり、その象徴的な存在であった “誉” の影が色濃くつきまとうことも・・・。
(下は群馬県太田市に建つ、中島知久平の像 wikiより)
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「エンジン設計のキーポイント探求」(岡本和理氏著)
 ところがこれらの調べを進めていく中で、前記の前間氏の著書においても、氏が“誉”エンジンについての検証を行う上で参考にした、岡本和理氏著の私家版(非売品として、当時関係者のみに配られたようだ)「エンジン設計のキーポイント探求」(以下引用①)という、優れた研究レポートが、ありがたいことに、現在ネット上で、(無償で)公開されていることがわかった(ただし図表は省かれている)。さすがに直リンクまでは貼らないが、「荻窪FG会」さんという、旧プリンス~日産荻窪系のエンジン関係OBの方が運営されているサイトで公開されている。
https://ogikubofgkai.web.fc2.com/index.html
 まず上記の、そのサイトに訪問いただき、礼儀として、他の記事も興味深いのでぜひご覧いただいたうえで、“昔のことを話そうかい”というところから、閲覧してください。一般に公開していただいている、荻窪FG会さんに深く感謝します。
(下は日産村山工場跡地にある、“プリンスの丘公園”)
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http://yamaden-ltd.co.jp/yamaden_blog/wp/headoffice/23053.html
 著者(岡本和理)のプロフィールだが、中川良一より3歳年下で、昭和16年東京大学工学部航空学科(原動機専修)卒業。昭和17年陸軍航空技術研究所荻窪出張所に配属され中島飛行機設計部で航空エンジンの設計に従事する。戦後プリンス自動車ではエンジン、シャシー、電装補機の開発、村山工場の建設等に従事。日産と合併後は機関設計部長、中央研究所排気研究部長歴任、日産工機の代表取締役社長まで勤めあげた。(以上のプロフィールは②より引用)エンジン設計者としても高名な方だ。
中島飛行機時代は“誉”のトラブル調査やその対策、さらには“誉”より出力を高めた2450馬力を狙う“ハ44”エンジンの、主にシリンダーとピストンの設計を担当した。
(中島製“ハ44”エンジンを搭載する立川 キ-94-II 試作高高度防空戦闘機)
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https://www.1999.co.jp/image/10611214/10/1
 このレポートの存在は、航空機マニアの間ではかなり知られている事かもしれないが、自動車マニアでご存知の方は少ないと思う。しかし実際に在籍された岡本氏のレポートを読めば、“誉”を生んだ中島飛行機と、さらには自動車ファンの特にスカG党には関心が深いであろうプリンス自動車について、今までにない新たな理解が得られることと思う。
この優れたレポートについて、自分が何かコメントする余地はないが、そこで内容についてではなく、岡本氏本人と、レポートをまとめる上でのスタンスについて、以下補足しておく。
 戦前戦後の日本の技術史とそれに携わった数多くの技術者に直接取材をした、前記の前間孝則によれば、『これまで私は、多くの著名な技術者たちにインタビューしてきたが、彼らの話は年齢が加わるにつれて、過去を美化しがちになる。開発過程で起こった失敗よりも、成功して技術を進化させた話のほうにウェイトを置きがちになる。失敗話を赤裸々に語ってもらうには、なかなか難しい面もある。
 日本の企業組織や学会などでは、ともすれば“なあなあ主義”で失敗やトラブルをうやむやにし、責任も曖昧にして、過去も水に流しがちだが、岡本はそうではない。身内に対しても容赦ない。
』(引用②)と、数多くの取材経験の中から、岡本の印象を語っている。そして『中島には根本的な欠陥があった。私は、この問題を死ぬまでにあきらかにしないといかんと思っています』(引用③)という、中島飛行機とプリンス自動車、それとスカG伝説についても、中には美化して書かれたものもある中で、このレポートは内に厳しいスタンスで書かれたものだ。岡本の死の半年前に発刊された、まさに渾身の遺作であったことを感じるこのレポートは、それほど長文でもないので、ともかくぜひお読みいただければと、言う他はない。(個人的には今回の記事で、世のカーマニアにこのレポートの存在を紹介できたことだけで、意義があったと思っています!)

 さて、中島飛行機について、これ以上の深堀をあきらめ、さらに深読みを希望の方々には、引用⓵をお読みいただくとして、ここから本題に入り、一転して私見(想像、思い込み)の多い、軽めの妄想話を進めてみたい。
この記事をまとめていく中で、“誉”とプリンスにマツワルちょっと気になった(というか、思いついてしまった)話題”を3つばかり記したい。
(以下は例によって敬称略とさせていただく。なお引用箇所は青字で明記し、引用もしくは参照先は番号をふって文末にまとめて記載し、画像のコピペ先は写真の下に記載してある。なお全くの個人的な見解(いつものように“妄想”レベルのものも含む)については極力“私見”だと明記したので気に障る方は無視して読み飛ばしてください。また、文と写真の引用箇所に少しでも興味のある方はこの一文をきっかけにぜひとも、オリジナルである原書を買うなりブログを尋ねるなりしてみてください!)

2つのキーワードから考える、中島飛行機とプリンス自動車について
 ここでは、戦前と戦後に中川良一が発した2つの言葉、「100オクタン価燃料を供給できないは約束違反」と、「業界の申し合わせを守ったのだから負けても仕方がない」をキーワードに、中島飛行機とプリンス自動車について自分なりに考えてみたい。一見二つとも、多少無責任な言葉にも感じられるが、当時の中島飛行機とプリンス自動車と、それらを取り巻く世界を解き明かす上で、象徴的な言葉だと思えたからだ。 
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(上は荒涼とした、現在の村山工場跡地。日刊スポーツより)
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Ⅰ.「100オクタン価燃料を供給できないは約束違反」から思う、“油(あぶら)”で負けた戦いについて
前者の言葉は、中島飛行機の“誉”エンジンにまつわる話だ。
海軍から一方的に、100オクタン価ガソリンから87~91価ガソリンに落とし、潤滑油の質も落とすとの指示が出された時、(以下、引用③)
中川は驚きであった。「そんなバカな!1年半前、和田廠長は私に対して「潤滑油も買い置きがあるから、アメリカの一番良質なものを使ってよい。世界最高の技術を使い、最も高級な材料、燃料、潤滑油を使って高性能を出したまえと約束したではないか」
中川は当時を振り返ってあらためて語った。
「あきらかに約束違反ですよ。100オクタン価の燃料で回したエンジンはきれいに回ったんです。」
』 
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https://aoghs.org/wp-content/uploads/2014/12/Eythel-Avgas-AOGHS.jpg
“誉”にまつわる話で必ず引き合いに出される、有名な100オクタン価燃料の話だが、ここは中川一人が責められる話ではまったくなく、むしろ東京帝大を出てたった3年半の、生真面目だが当然ながら世情に疎く視野も狭い当時の中川に、“誉”エンジンの設計主任という大役を担わせるという、常識では考えられない、中島飛行機の特異な開発体制や企業体質、軍部との特殊な関係、さらには戦前の日本の工業界全般の蓄積の薄さ等が問題の根幹で、この部分は(引用①)他、多くの本に記されており、ここでは説明を省略する。
(・・・省略しようと思ったが、しかし、帝大工学部卒業者を極端に優遇し、時には新卒者をいきなり設計主任に抜擢するような人事など、今の常識ではたぶんイメージがわかないだろう。そこでこの記事の文末に【参考】として、中島飛行機の成り立ちとその開発体制について、多少の補足説明を(小文字で)追記した。さらに興味のあるマニアックな方はそちらもご覧ください。)
 話を続けるが、企業側のみならず、性能至上主義で“誉”を推した軍部(海軍)の無定見さや無責任さにも問題があるだろうと思うが、この部分も前間氏の③ほか、多数に書かれており、やはり省略する。
 しかし理由はともあれ一番の犠牲者が、結果的に不具合だらけのエンジンを押しつけられて戦わざるを得なかった前線の兵士たちだった事は確かだ。
 そんな日本の状況に対して、当時(今もだが)石油を独占する石油メジャーを有し、自動車産業も古くから発展していた米英では、戦前~戦中も石油燃料の研究を着々と進めていた。ただこの話を推し進めていけば、そもそも“アメリカ(とイギリス)と戦争するんじゃなかった”まで話が辿り着いてしまうのだが。(以下引用④)
歴史家たちの中では、「ブリテンの戦い」で英国軍が勝利したのはテトラエチル鉛のおかげだ、と断言する者もいる。
(下は、アメリカの一般のガソリンスタンドのポンプに貼り付けられた、テトラエチル鉛添加を示す表示。Wikiより)
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 テトラエチル鉛は1921年にアメリカ・GM社のチャールズ・ケタリングの元で働いていたトーマス・ミジリーにより、エンジンのノッキングを防ぐアンチノック剤として開発された。そして1924年にGMとスタンダード石油との合弁事業"エチル ガソリン コーポレーション"がその供給元となった。(以上、主にwikiより)元々は石油メーカーではなく、戦前のGMの研究所から生まれた技術だったのだ。当時のGMの、すそ野の広い技術開発の底力を思い知らされる。
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https://www.si.com/vault/issue/40768/1
再び④の引用を続ける。
テトラエチル鉛を添加したガソリンがマーリン・エンジンの性能を著しく向上させたからだ。確かに図2(注;ここでは図はありません)のグラフに示されているように、“奇跡的な”添加剤のおかげでガソリンのオクタン価が大きく上昇し、その結果マーリン・エンジンの出力も大きく向上しているのがわかる。
もっともこのテトラエチル鉛は、肺や皮膚粘膜から容易に吸収され毒性が強く、後に鉛化合物による大気汚染が問題となった。
(下の写真の、メチャカッコイイ“プリマス スーパーバード”はCSの“ディスカバリーチャンネル”の番組“クラシックカーコレクション”でも紹介されていた個体で、航空機の離陸時の排ガスを測定するために排ガス測定装置を積み、飛行機と並走(後ろを追走か?)させて使用されていたそうだ。番組では確か“(航空燃料に含まれる)鉛公害の調査”とかいっていた。詳細は不明です。)
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https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/blog/000/038/417/150/38417150/p1.jpg?ct=9635fd7af590 (話を戻す)
 また触媒式排ガス浄化装置の性能低下を招くこともあり、日本は世界に先駆けて自動車用ガソリンの無鉛化が進められた。そして1986年、世界で初めて自動車用ガソリンの完全無鉛化が達成された。官主導で世界でもっとも厳しい排ガス規制を世界に先駆けて実施し、民が見事にそれに答えて成し遂げた成果で、ここに至って日本の自動車産業とそれを取り巻く世界(社会)の総合力がついてきたことが世界に証明された。(この時代、「牛込柳町鉛中毒事件」とか、「石神井南中学校光化学スモッグ事件」とか、今から思えば多少不可思議な事件もあった公害問題だったが、結果的に日本の空もきれいになったことだし、ここではあまり深く考えないことにする。
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https://imgcp.aacdn.jp/img-a/800/auto/aa/gm/article/1/9/7/7/2/5/201707051509/pixta_30616197_M.jpg
 話を第二次大戦中に戻し、④より引用を続ける。
また、マーリンが約2倍の出力を発揮するようになったのは、ロールス・ロイスの優秀なエンジニアたちが、新しく改良されたガソリンに順応するようにエンジンの開発を重ねたからだという点も強調しておきたい。』(下はタミヤ模型のパッケージ)
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https://www.tamiya.com/japan/products/61035/index.html
 ここで、戦後本田技研で、F1プロジェクト(第一期)を主導した中村良夫の述懐を(引用⑤)
昭和十九年(1944)の夏、日本軍が撃墜した欧米の航空機のエンジンを陸軍技研で分解調査した時だった。
 世界のトップを走る航空機エンジンメーカーの英ロールス・ロイス社が設計した傑作エンジン、マリン61型と、B29用エンジンの米サイクロン3350の現物をはじめて目にし、分解調査を担当した。ともに傑作と評判高いエンジンで、日本ではとても不可能な技術がふんだんに盛り込まれていた。
マリン61型は見るからに美しく、戦時中で未熟練工も大勢動員されて生産されたにもかかわらず、日本では考えられないほどの精密加工でピカピカに磨かれており、「魔性のような妖気」をたたえ、まるで「工芸品あるいは芸術品」を見ているかのようであった。またタンデム(串型)二段式の機械式駆動過給機を備えていて、出力とりわけ高空性能を飛躍的に向上させていた。
』(下はマーリン・エンジン搭載の木製機体の双発爆撃機、デ・ハビランド モスキート。下の写真はwikiより カラーだが1943年撮影のものだそうだ。)
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以下は引用⑥より
日本では「誉」の出力向上に、水やメタノールの吸気噴射のような小手先の手段で切り抜けようとしていた。(中略)それにひきかえ、「マーリン」は正面から出力向上に挑み、二段過給機によって大幅な馬力アップを果たし、高空での性能を飛躍的に高めている。さらに、日本がいっこうに完成できない排気タービン加給にも取り組み、ものにしていた。
 中村を驚かせたのはそれだけではなかった。彼が検分した「マーリン」61型が、開発した本家のロールス・ロイス製でなく、アメリカの自動車メーカーのパッカード社製であったことだ。
(下はパッカード社製マーリン・エンジンを搭載した、ノースアメリカン P-51D マスタング。画像はタミヤ模型より。戦後、零戦の堀越二郎技師は「マーリン・エンジンを選択出来るのは機体設計者の夢」と語ったという。)
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https://www.1999.co.jp/image/10144924/30/1
いかに高級車を生産してきたとはいえ、航空機では技術水準が違うばかりか、生産や技術の性格も違う。にもかかわらず、アメリカの自動車メーカーが、その技術を完全にこなして、自動車の量産技術でもって大量生産すらしていたのである。
 16万台近く生産されたマーリンエンジンのうち、1/3近い約55000台がアメリカのパッカード製だったという。パッカードは当時、イギリスのロールス・ロイスと対比される、アメリカを代表する高級車だった。(パッカードについては、自動車の⑨の記事“デューセンバーグとオーバーン、コード(その終焉まで)”でふれているが、小林彰太郎曰く、(V12は)アメリカのクラシックカー中の白眉だと評していた。下はその1934年製Packard Twelve)
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https://assets.bauer-wolke.co.uk/imagegen/p/800/600/s3/digital-cougar-assets-uk/MomoAds/2019/07/12/142347/82176_1.jpg
しかしパッカードには元々、航空機エンジンの経験もあったが、大衆車のイギリスフォードの工場でも約34000台造られたという事実も何気にすごいことだと思う。(下はイギリスフォードの小型大衆車、モデルC)
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https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcR9qKkQYj8lDUh5X7rCevGhYl2YWICBUsR9ecHis77e1bKskk12
下の写真は4発重爆撃機、コンソリデーテッドB24Eを大量生産するフォードのウィローラン工場。文と写真はwikiより。『~製造はコンソリデーテッド社のサンディエゴ工場およびフォートワースの他、ダグラス・エアクラフト社のタルサ工場、フォード・モーター社のウィローラン工場、ノースアメリカン社のダラス工場で作られた。特にフォード社は、他の航空機会社の生産能力が1日1機であったのに対して、24時間体制によって1時間1機のB-24を生産した!(遠くの方がかすんで見える。)
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※あまりにもすさまじい写真を目にしたので、多少大きめにして追加しておきます(11/21)。以下の写真と文は「品場諸友さん」よりコピーさせていただいた。‏@shinabamorotomo https://twitter.com/shinabamorotomo/status/915750001631928320
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B24の生産を指揮した(させられた)のは、ヘンリー・フォードの息子のエドゼル・フォードだったそうだ。
エドセルが社長だった40年。欧州では戦争が始まり、フォードも軍用機の委託生産を模索し始めます。30年前後には航空機部門を持ち、トライモーターを生産した経験は有るとはいえ(下はフォード・トライモーター)
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33年には撤退していたフォード。ゼロからの立ち上げになるので最初の候補は単発機P-40だったのですが…(下はP40)
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社長を退いても権勢を奮う偏屈親父は事もあろうに超大物、四発重爆コンソリデーテッドB-24の生産を決断してしまいます。ホンダが突然ジャンボジェットの生産を始めるような話で、どったんばったん大騒ぎ! まず工場をひとつB-24の為に建て直すというところからスタート。
当然量産大好きヘンリーが作る工場は半端じゃなかった。43年8月に遂に最初の機体がラインアウトした工場は、24時間操業でなんと月産600機というバケモノ工場だった。

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そしてこのバケモノを決定からたった2年で作り上げる大事業を陣頭指揮したのが、あの「エドセル・フォード」だったのです。
フォードの工場からボロボロ出て来る四発重爆や、ヘンリー・カイザーの造船所から2700隻も出て来た輸送船の群れを見て「こんな国と戦争するとはなんと無謀な!」という気持ちは判る。

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・・・・・全く同感です。
B-24の生産数はアメリカ陸軍航空隊向けとしては最多の18,431機(諸説あり)が終戦直前まで生産され、(中略)第二次世界大戦中に生産された米軍機の中で最多となる。』4発の重爆撃機が最多生産とは恐ろしい。(下はハセガワのプラモデルのB24J)
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http://www.hasegawa-model.co.jp/hsite/wp-content/uploads/2014/02/E29p.jpg
一方GMは社長のビル・ヌードセン(W.S.Knudsen)がルーズベルト大統領に任命されて 1942 年から1945 年までアメリカ陸軍省の軍需生産局長官としてアメリカ全産業の軍需生産計画を指揮した。ちなみに1940 年~ 1944 年にかけてGMの軍需契約高は 138 億ドルで全米第 1 位、フォードのそれは 50 億ドルで第 3 位、クライスラーは 34 億ドルで第 8 位であった。(下の写真はwikiより。いかにも整然とした、P-39 エアラコブラの生産ライン。一方日本の航空機の工場は・・・貼るの止めておきます。)
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https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/83/Airacobra_P39_Assembly_LOC_02902u.jpg/375px-Airacobra_P39_Assembly_LOC_02902u.jpg

 話を戻す。昭和天皇は「日米戦争は油で始まり油で終わったようなもの」というお言葉を残されたが(昭和天皇独白録)、レーシング・エンジン的な性格の、カリカリなチューニングエンジンであった “誉” も結局、“油”(だけではもちろんないが、いわば“象徴”として)で終わってしまった。

Ⅱ.「業界の申し合わせだから負けても仕方がない」、から思うこと
(⑦より引用)『中川は今回のレースは、「業界の申し合わせがあり、それを忠実に守ったのだから、たとえ負けたとしてもしかたがないだろう」』と考えた。
 この言葉はプリンス自動車時代の中川良一が発した(あるいは思った)とされる、第1回日本GPにおけるプリンスの対応のもので、これまた何度も語られる、有名な話だ。ただこの時の中川はプリンス自動車の技術陣を率いる取締役で、戦前の先の100オクタン云々の話の時とは立場が大きく変わった。中川は超甘くというか、この判断が及ぼす影響を深く考えなかったが、結果的に、プリンスの命運を悪い方に導いたことは確実だ。この問題は中川の考え次第で、社内はどうにでもなったと思える話ゆえ、こちらは責任重大だったと思う(私見ですが、結果的に多くのプリンス関係者がその後、苦難の道を歩まされたのも事実)。
以下、超長い話になってしまったが、順を追って確認しつつ、途中日産との合併問題を経て最後にⅡの話題の続きの話として、Ⅲ項の、もし第1回日本GPに勝利していたらプリンスの将来はどう変わったのかという、タラレバの雑談を軽くしてみたい。
 なお、Ⅲ項の“タラレバ”は、前提条件が架空なので当然ながら全編夢物語の妄想話なので、生真面目なプリンスファン、中島飛行機ファン、コアなスカGファンは見ないでパスしてください。
 まずはプリンス(中川)が負けても仕方がないと思った、1963年5月開催の第1回日本GPの中で、前年の秋フルモデルチェンジしたばかりのプリンスの看板車種、グロリアが出場したC-VIクラスのレースにスポットをあてて、もう一度当時の状況を確認してみたい。(下は1962年10月にフルモデルチェンジして2代目モデルに移行した、プリンス グロリア)
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https://b-cles.jp/car/wp-content/uploads/2014/12/nissan_gloria_1963_S41D_1.jpg
なおこのブログの前々回の記事、“第1回日本グランプリ(1963年)“トヨタの一人勝ち”をお読みでない方はぜひそちらを先にお読みください。

1. 第1回日本グランプリの、C-VIクラス レースを振り返る 
1.1僅差だったトヨタの勝利
(⑦より引用)『中川は今回のレースは、「業界の申し合わせがあり、それを忠実に守ったのだから、たとえ負けたとしてもしかたがないだろう」』と考えた。
 第1回日本GPは前々回のブログ記事のタイトル通り“トヨタが一人勝ち”した。確かに結果を見ればその通りだったが、たとえばトヨタ(クラウン)、ニッサン(セドリック)、プリンス(グロリア)、いすゞ(ベレル)という4社(4台)がぶつかった、国内乗用車メーカーにとってはメインレースともいうべきC-VIクラスのレースについて詳しくみていくと、20周レースで1位の多賀弘明のトヨタクラウンと、2位のいすゞベレル(K.D.スウィッシャー)の差は4.5秒という僅差であった(wikiより)。(下は1位多賀弘明と左が2位の米軍人K.D.スウィッシャー)
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http://www.motorsport-japan.com/msjf/up_img/news/WUNe3qMmFPNk/2017030913292503.jpg
先の記事で参考にした⑧より引用
問題は、有力なライバルがいるコロナとクラウンの出場するレースだ。出場を希望するドライバーを応援するだけでなく、速そうなドライバーを積極的に見つけることになった。レース出場を目指してサーキットに走りに来ている中から、多賀弘明と式場壮吉が選ばれた。(中略)結果として式場はコロナで、多賀はクラウンで優勝したから、この起用は見事にあたったことになる。
このふたりの巧みなドライビングがなければ、トヨタ車の優勝はむずかしかったといっていい。コロナは性能のいいボグゾールに苦しめられ、クラウンもいすゞのベレルをわずかに抑えての勝利だった。
』(惜しくも2位に終わったいすゞベレルの力走。)
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https://car-l.co.jp/wp-content/uploads/2019/03/617-31-768x484.jpg
つまり紙一重の勝利で、クルマの仕上がりでは、トヨタといすゞはかなり拮抗していたということだ。
1.2大久保力の語るレース界の状況
 当時のレース界を取り巻く状況は、その時代の“空気”までは、当事者でないとわからない。そんな雰囲気を伝える記事として、大久保力(レーシングドライバーとして第1回日本GPに出場)へのインタビューを通じて日本のレース史を語る、「マイ・ワンダフル サーキット」というwebがあり、その中に第1回日本GPの雰囲気をよく伝える記事があり、以下長いがそこから引用させていただく。(引用⑨)
https://f1-stinger2.com/special/mwc/chapter02/talk28/
~そうですね、ニッサンは、まあ中間派ぐらいのスタンスだったでしょう。1963年のレースについては、トヨタ、プリンス、日野自動車、富士重工、そしてスズキ、こういった面々が積極参戦派だったと見ていいと思います
―― ははあ、そういう意味では、グランプリ二日目の最終レースだった1600~2000ccのツーリングカーというのが(中略)日本の“歴史的な自動車レース”の象徴というべきクラスになったのが、それでしたね。ここには、トヨタ、いすゞ、ニッサン、プリンスというメーカーがエントリー。国産の最上級車は何なのかという“覇権”をかけてのレースとなりました。
(中略)
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https://blog-imgs-11-origin.fc2.com/s/i/n/since1957/C-6s.jpg
―― 各社を代表するようなセダンが、ということでも?
そうです、タマが豊富なクラスでした。先行しているトヨペット・クラウンとプリンスのスカイライン、グロリア。そして遅れて参入したセドリックと、同じく高級車市場に新登場のいすゞベレル。当初の“メーカー不参入”の約束などどこへ行ったかのようなテスト風景がサーキットを賑わし、スポーツ紙誌や週刊誌がその様子を報道しました。
トヨタの工場内では、サーキットの一部を模したコースを急造して、そこでテストをしているとか、グロリアは車重が重いし、ドディオン・アクスルのリアサスペンションはコーナーリングがいいのでタイヤが保たない等々。本当なのかハズレなのか、こういうパドックでの噂話は、もう誰にも止められない(笑)」
……かと思えば、トレーニング中から意外と速かった最後発のいすゞベレルが優勝候補に浮上したり。
』(下は奮闘するベレル。)
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https://motorz.jp/race/60361/
1.3クラウンに迫ったいすゞベレル
 見た目からしても(ごく大人しいセダンなので)、当時もダークホース的な存在に映ったいすゞベレルは、ヒルマンの国産化から学んだノウハウをもとに生まれた、いすゞ初のオリジナル乗用車だった。最後発としてクラウン、セドリック、スカイライン/グロリアといった強力なライバルがひしめく市場に切り込もうと、相当気合の入った取り組みで挑んだ心情は十分に理解できる。しかし元来真面目な会社だけに、レースに対する考え方は、トヨタとは違っていたようだ。以下引用⑧より
いすゞでも、レーシングチームをつくって積極的に準備したが、レースの宣伝効果を考えるより、レースそのものに対する関心の方が強い感じで、トヨタとは取り組む姿勢でかなりの違いがみられた。』本来いすゞにみられるような、メーカーとして生真面目な対応こそが、プリンスの取り組むべき姿勢だったと思うが。
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https://i1.wp.com/s-kuruma.com/wp-content/uploads/2019/01/BELLE%E3%80%80035.jpg?fit=750%2C505&ssl=1
プリンスが“積極参戦派だった?という記述はさておいても、第1回日本グランプリについて、上記の大久保力の記述と、“スカイライン神話”で語られてきた“伝説”と、ニュアンスが異なる点がいくつかある。以下4つ(1.4~1.7)の視点から振り返ってみたい。
1.4国内のレース(日本GP)を見下して、やる気が出なかった
当ブログの前の記事⑭の「7. R38×計画は、中川良一の描いた “地上の夢” だったのか」を確認いただければと思うが、第1回日本GPの前年(1962年)に、中川は櫻井をカバン持ちに従えてヨーロッパ視察旅行に出かけており、そこで本場ヨーロッパのF1ベルギーGPを観戦し大感動して、櫻井に“R38X”構想を熱く語っている。その印象が鮮烈な中で、それに比べてすべてが日本初のため、手探りの、大きな草レースみたいな日本GPは、“いずれは6ℓT/C付き1000馬力”と思っていた中川にとって、あまりにギャップが大きかったようだ。
そのため、本来率先すべき立場の中川が「こんなちっちゃなレースでは、力の入れようがないと、ややバカにしていた」(引用⑦)ため、本来自動車メーカーとして行うべきライバルの情報収集やその対応を怠ったからではないだろうか。ちなみに「追憶の日本グランプリ」というブログの、第1回日本GP編で以下のような記述がある。(引用⑩)
http://www.mmjp.or.jp/60srace/1963JAPANGP.html
レース中、ドライバーのW.レイク(注;グロリアに乗り9位だった)はラジオを聴きながら走ったという。ストレートではアクセルを目一杯踏んでもスピードは思うように上がらず、退屈であったからだろうが、当時オプション設定されることが多かったラジオをつけたままレースに出場したことは、プリンスがいかに性能向上を図らなかったかの証明になるだろう。』メーカーのやる気のなさがドライバーに乗り移ったかのようだ。
 これに対して同じ外人ドライバーでも、いすゞが雇ったのは気合の入った腕利きで、『在日米軍のK・スウィッシャー中佐が駆るベレルが派手なドリフト走行でトップのクラウンをドライブする多賀 弘明を追いかけます。そして、優勝こそできなかったものの3位以下に大差をつけての準優勝を果たした』(引用⑪)との記述があり、メーカーの真剣な取り組みがドライバーにも乗り移ったかのようだった。トヨタまでとは言わないが、中川がいすゞ並みに、レースに対して真面目な姿勢を示していれば、プリンスの将来は変わっていた、重要なレースだったと思う(私見です)。
1.5レース前の情報収集を怠った
 上の“やる気のなさ”に関連するが、“伝説”では、『レースの日も迫り、各メーカーのチームは出走車を鈴鹿サーキットに持ち込んで、練習をはじめた。そこでタイムを計ってみると、トヨタの車などに比べ、プリンス車は明らかにタイムが大きく下回った。そこで初めて、他社が出走車を大幅に改造していることがわかったのである。』(引用⑦)となる。直前までライバルの動向をほとんど知らなかったというスタンスなのだ。
 しかし大久保は、当初の“メーカー不参入”の約束などどこへ行ったかのようなテスト風景がサーキットを賑わし、スポーツ紙誌や週刊誌がその様子を報道し、トヨタの工場内では、サーキットの一部を模したコースを急造して、そこでテストをしているとか、トレーニング中から意外と速かった最後発のいすゞベレルが優勝候補に浮上したり等々、本当なのかハズレなのか、噂話でもちきりだったと述べている。(下は本文に直接関係ないが、かわいらしい画像なので、第1回GPでスバル360とスズキフロンテのガチンコ勝負!ちなみにトヨタ以上に力を入れたのが、2輪でチューニング技術の経験があったスズキだったらしい)
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http://s3-ap-northeast-1.amazonaws.com/images.motorz.jp/wp-content/uploads/2018/06/02221432/42.jpg
 あくまで憶測(まったくの想像)でしかないが、当時実際にはかなり大っぴらに、ライバル同士の情報は漏れていたのではないか。たとえばプリンスチームの生沢と、トヨタの式場と、いすゞの浅岡は親友同士で(この前々回の記事の第2回日本GPを参照)、プリンスが早くから情報をとる気であれば、いくらでもとれたはずだ。
1.6C-VIクラスは量産メーカーの“覇権”をかけての戦いだった
 また大久保証言では、C-VIクラスのレースが、クラウン、スカイラインとグロリア、セドリックと、高級車市場に新登場のいすゞベレルが出場する、いわば“日本の“歴史的な自動車レース”の象徴というべきクラスのレース“で、各社を代表するようなセダンが揃った、国産の最上級車は何なのかという“覇権”をかけての戦いのレースだったと述べている。再三記しているがプリンスにとっては、前年秋にフルモデルチェンジしたばかりの看板車種、グロリアが出場するレースだ。(話は逸れるが、この角度から見るとGMのシヴォレー・コルヴェアの影響が強く感じられる。しかしグロリアに限らず、世界の多くの車がそのデザインに影響を受けた。)
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https://b-cles.jp/car/wp-content/uploads/2014/12/nissan_gloria_1962_S40_3.jpg
(下は一世を風靡した“フラットデッキスタイル”の創始車、シヴォレー・コルヴェア)
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http://www.carstyling.ru/Static/SIMG/420_0_I_MC_jpg_W/resources/classic/1960_Chevrolet_Corvair_500_Sedan.jpg?0D06911456E0A01BE5B100F9A66A3730
当時世間一般では重要な位置づけのレースとして認識されていたのだろう。“伝説”からはそのような印象はうかがえない。
1.7悔やまれる、石橋会長に事前に対応を相談しなかったこと
 この点も、一般常識に照らし合わせてみた場合、不思議な点だ。“スカイライン伝説”の多くの記述からは、技術部門のトップの中川と、オーナーの石橋が日本GPへの対応策を、事前に十分話し合っていたようにみえないのだ。前々回の記事とも重複するが、レース後の出来事を、順を追ってもう少し詳しく見ていきたい。
 第1回日本GPの責任者として、メインスタンドの観客席から観戦していた中川は惨敗後、(以下引用⑦)
いざ結果が出てみると、自分たちがあまりにお人よしであったことを思い知らされた。惨めな思いの中で、「こんなことなら、なりふりかまわず、本腰を入れておけばよかった」と悔やまずにはいられなかった。
第一回日本グランプリ開催の話しがあったとき、F1の迫力をまざまざと見せつけられて返ってきただけに(注;前の記事の7項参照)、「こんなちっちゃなレースでは、力の入れようがない」と、ややバカにしていたところがあったのだ。

 ここから話が大きく脱線するが、「ディリィ・ニュース・エィジェンシィ(DNA)」さんのブログを紹介させていただく。前の記事の7項で記した、中川と櫻井が観戦した1962年F1ベルギーグランプリと同年に行われた、1962年F1モナコグランプリの動画が、驚くばかりの鮮明な画像でアップされている。まさに必見だ!
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http://i.gzn.jp/img/2018/05/21/monaco-gp-1962/00.jpg
同ブログより引用させていただく(引用⑫)
1975年以前に撮影されたレースの映像はあまり多く残っておらず、特に経年劣化でフィルムがダメになってしまうので、高品質なものはとても貴重といわれています。そんな中、1962年に行われたF1モナコGPに関しては、車載カメラの映像を含めてレース前後の様子を収めた高画質映像が残されています。
下がアドレスです。解説付きなのでぜひこちらに訪問してから、動画をご覧ください。
https://dailynewsagency.com/2018/05/07/monaco-grand-prix-1962-high-hfg/
(ちなみに動画の直リンクは以下です。)
https://www.youtube.com/watch?v=sCv-dIFGcd0
なおこの動画は、『この映像は西ドイツで1962年に公開された観光映画「地中海の休日」の一部。帆船フライング・クリッパー号の乗組員たちが地中海航海で立ち寄った国々の観光名所などを描くもので、モナコは立ち寄った先の一部として登場しています。』とのことだ。
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https://dnaimg.com/2018/05/07/monaco-grand-prix-1962-high-hfg/title.jpg
公開されている映像はトータルで6分52秒あり、表彰式と、レースに勝利したブルース・マクラーレンによるウィニングランまで収められています。』下は同レースに優勝したブルース・マクラーレン(クーパー・クライマックス)のウィニング・ラン。
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https://dnaimg.com/2018/05/07/monaco-grand-prix-1962-high-hfg/012.jpg
何度も記すが、“必見”です。

 話を本題に戻すと、繰り返しになるがこのような“本場”の自動車レースに魅せられた結果、技術者としては日本というローカルな世界の、草レースの延長のような低レベルのレースでは、腕の振るいようがないと認識していたのだろう。
しかし“現実”の世界に戻ると、『東京に戻った中川は、翌日、会長の石橋正二郎から呼びつけられた。京橋にあるブリヂストン本社の社長室に入るなり、怒鳴り飛ばされた。(写真は石橋正二郎。)
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http://c.nishinippon.co.jp/photolibrary/images/13126.jpg
「なんだあのレースのザマは。日ごろ「技術のプリンス」を口にしながら、恥ずかしくないのか」
中川は自動車工業会での申し合わせ事項について説明し、自分たちはフェアにやったのだと主張したが、どのような事情があろうと、負けは負け、苦しい言い訳でしかなかった。
「一体、君はなにをしているのだ。いくら車に手を加えないといっても、そのままレースに出るなんて、とんでもない。それが自動車工業会の申し合わせとでもいうのか。それをまにうけて惨敗するとは、なにごとだ。そんな甘い商売をやるものは、どこにもいないぞ」
』(以上引用⑦)
このあと中川が、石橋会長の前で翌年のGPでのリベンジを誓うという、ここも、スカイライン伝説誕生の中の、重要な場面に続く。
 しかしやはり摩訶不思議な話で、プリンスのオーナー経営者であった石橋正二郎会長に、第1回日本グランプリという、誇り高き中島飛行機出身の技術者としての想いとは別に、量産自動車メーカーにとって、本来重視すべき日本初の本格的なレースへの対応(というか、“仕事”)を、中川らが事前に充分に説明し、相談しつつ対応したという形跡が、上記の会話から感じられない。正直なところ、普通の会社組織ではあり得ない話だ。(ここで問題になるのは、中川ら旧中島系の実務を担った経営陣と、石橋の人間関係の“溝”だが、話が複雑になるのでその点は深追いしないでおく。)
 あくまで“タラレバ”の話になるが、仮にもし事前に、充分相談しつつ対処していれば、その後のプリンス自動車の歴史は変わっていたと思われる。後述するがいくつかの書物で、第1回日本GPに対する対応の不始末で、オーナーの石橋がプリンス自動車に愛想をつかしたという証言があるからだ。
 しかしその話に移る前に、回り道になるがここで、プリンスに大きな影響を及ぼした中島飛行機の経営理念についてと、自動車産業に熱意を示す資本家であると同時に、今流に言えば“カーガイ”でもあったのだが(たぶん)、スカG伝説の中では中川らの“敵役”として語られることの多い、石橋正二郎の経歴についても、ここで簡単に触れておきたい。

2. 中島飛行機の経営理念と、石橋正二郎の想い
2.1軍需に根差した中島飛行機の経営理念
 中島飛行機について、話が複雑すぎるので、あまり深入りしたくはないから短く記すが、中川が入社し育った、中島飛行機の経営理念は、中島知久平の次の言葉で示されている『経営の根本義は良い品を作ることにある。いかにそろばんに妙を得ても製品が粗悪では工場はつぶれる。これはあらゆる製造業に通ずる鉄則であり、特に飛行機を造ることに営々として性能の優れたものを生産しておりさえすれば、営利は無視しても自然に大をなすことができる』(引用⑫)に表される。
(下は1937年、東京―ロンドン間飛行で当時の世界最速記録を樹立した朝日新聞社の訪欧機“神風号”。後に陸軍に九七式指令部偵察機として制式採用されるキ-15の試作2号機を、朝日新聞社が譲り受けた。機体は三菱でエンジンが中島製「寿」3型改。)
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http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/cl-pln5/260KAMIKAZE.html
 端的に言えば、良い(性能の優れた)製品(プリンスに置き換えればクルマ)を作れば営利を無視しても自然と経営は成せるというもので、戦前の軍を相手にした商売が前提に成り立つものだった。そのため、実力を無視した軍の、たとえば“技術至上主義”の海軍の、その時々の要求を、リスクを顧みず従順に従った結果、試作で終わったものも多かったが、世間一般とは無関係に、今風に言えば、軍産複合体の内部の出来事として内々に処理が行えた。
 岡本和理の言葉を借りれば、『経営方針については、会社自体が中島知久平の意向を反映して、「利益を上げることは目的ではなく、技術能力をはるかに超える高性能エンジンの開発が要求された」という事情がある』(引用③)となり、行きつく果てが、“誉”の悲劇へとつながった。
(下はもっとも初期から誉エンジンを搭載した、海軍空技廠 陸上爆撃機 銀河。銀河設計陣の一人であった三木忠直は戦後、純然たる平和産業をと考え、国鉄鉄道車両技術者に転身。初代の新幹線車両、新幹線0系電車の先端のデザインを設計したことで知られる。そしてその新幹線の開発に、銀河の胴体形態をデザインとして流用したという。Wikiより)
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https://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/cl-pln3/images4/FR048.jpg
(下は同じく三木が設計に関わった、特攻機の桜花)
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https://i.ytimg.com/vi/5lCA4Wrmq3U/hqdefault.jpg
(悲しいかな“銀河”より同じ三木が係わった“桜花”の方が、後のシンカンセンのイメージに似ている?プロペラが無い分そう見えるだけ?)
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http://old-staff.cocolog-nifty.com/blog/photos/uncategorized/2008/12/15/001.jpg
 話を戻す。しかし戦後の民需中心の世の中にかわった後も、中川ら技術系出身者で多くが占められたプリンス自動車の経営陣には、その“技術至上主義”のDNAは色濃く受け継がれたのだと思う。
 自分たちの世界で考えた“性能の良い自動車”を目指したので、技術優先主義が貫かれ、実際の自動車を買う、一般大衆がどのレベルにあり何を欲するかとは無関係になりがちであった。また同じプリンスの仲間の、それら一般庶民と直接対峙する販社の(営業)現場を思いやる視点では、物事を考えられなかったのだと思う。
2.2大衆は日本グランプリに勝利したクルマが、性能が上だと信じた
 しかし当時の日本の一般庶民たちの、たとえば第1回日本GPを例に引けば、そもそも『自動車レースがどういうもので、一般のユーザーに渡る市販車と出走車がどれほど違うものか、ほとんど知らされていなかった時代である。一般の人々は、レースの優劣がそのまま市販車の性能の優劣をあらわしていると受け取ったのである。』(引用⑦)というレベルのものだった。
 日本グランプリ=日本のレースの最高峰なのだと単純に図式化し、このレースで勝利したクルマこそが、他車より優れた最高のクルマであるという、トヨタ自販の宣伝文句が、一般の人たちにはそのまま通用した時代だったのだ。(下は、第1回日本GPの、鈴なりの観客席。何もが手探りで始まったレースだったが、2日間での観客数はなんと23万人!人々は初めての自動車レースに熱狂した。)
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 プリンス車の販売現場にいた方々の、苦難と屈辱が思いやられる。
 何度も記すが、“V12 48バルブの6ℓT/C付き1000馬力”のレーシングカーで本場のレーシングシーンで世界の名車を相手に戦う姿まで思い描いていた中川と、当時の日本の庶民との認識のギャップは大きかった。

※トヨタ自販の“作戦”に影響を与えた?GMのモータースポーツ戦略(11/12追記)
この記事の3つ前の記事「第1回日本グランプリ(1963年)“トヨタの一人勝ち”」に、「2.トヨタ自販の“作戦”に影響を与えた?GMのモータースポーツ戦略」という記事を付け加えた。概容は、この時期GMがモータースポーツ分野で仕掛けた策略が、トヨタの第1回日本GPへの対応に影響を与えたのではないかという仮説(というか、自分が考えて自分以外誰も言っていない説=妄想?)だ。
当時アメリカの自動車業界内でルール違反だった、プライベーターに対してのメーカー(GMのシヴォレーとポンティアック部門)支援を水面下で強力に行い、その結果のNASCARシリーズでの圧勝が、販売面で大きな成果をもたらした、というもので、時期的にも日本GPのほんの1~2年程度前の出来事だった。
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https://cdn.hswstatic.com/gif/144_61-22.jpg
そして、日本の自動車産業の”お手本”である、大GMの戦果をまのあたりにして、トヨタ自販もモータースポーツによるマーケティング戦略という見地から、第1回日本GPへの対応で、GMのとった策略を参考にしたのではなかろうかという記事で、興味ある方はそちらをご覧ください。この説はあくまで仮説だが、もし一理あるとするならば、GM同様一般大衆にクルマを売って利益を出すということに、トヨタは早くから一番熱心に研究していたのだろう。そうした一つ一つの積み重ねが、徳大寺有恒氏の言葉を借りれば『顧客心理をマーケティングできる(現場(ユーザーというべきか)の欲求を吸い上げる)「技術力」がトヨタにはあった』となるのだろうが、えげつなさを別とすれば、経営的な観点からすればやはり、一枚も二枚も上手だったということなのだろう。

2.3自動車産業に夢を描いた実業家&カーガイであった石橋正二郎
 ここで中島飛行機の話題から、プリンス自動車の会長で、そのオーナー経営者であり、スカG伝説の中では敵役的な扱いも多い、石橋正二郎(以下正二郎と略す)に話題を移す。
 良く知られた話だが、正二郎は、石炭の鉱夫のためにゴム底つきの足袋(地下足袋)の考案者だ。
http://www.1242.com/lf/articles/132451/?cat=life&feat=suzukianju
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http://www.mo-hawaii.com/hilo/wp-content/uploads/sites/493/000712.jpg
このゴム足袋からゴム靴、荷馬車のタイヤへと進み、やがてブリヂストンタイヤを創業する。そして自動車用タイヤや各種ゴム製品、さらには自転車、オートバイ、そして自動車と事業を拡大させていったが、軍需主体だった中島飛行機と違い、多くは一般大衆相手の商売で財を成した大実業家であった。
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https://mainichi.jp/articles/20160904/ddm/008/020/063000c
 そして正二郎はプリンス自動車を通じて、多大なリスクを覚悟の上で。自動車事業に情熱をそそぐ事業家でもあった。
 旧中島飛行機系の技術を土台としたプリンスを、世界に通用する性能を誇る日本の誇りとなるような自動車のメーカーとして育て上げ、トヨタや日産と一味違うブランドとして確立しようと目指していたはずだ。しかしあくまで、一般の人々の視野の範囲の、高性能車というブランドなのだろう。(写真は1956年型プリンス セダン(AISH-V型)ブログ“中島飛行機の残滓を継ぎて”さんより)
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https://minkara.carview.co.jp/userid/949539/blog/c854654/
 そもそもプリンス自動車工業の社名自体が、1952年に当時の皇太子殿下(皇太子明仁親王殿下)が正式に皇太子となった儀式「立太子礼」にちなんで名づけられたものだ。下のプリンス車を前にした写真(wikiより)はあまりに有名なもの。当時の日本人の憧れそのものの光景だったろう。
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https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/22/Crown_Prince_Akihito_and_Princess_Suga_in_front_of_the_Prince_Sedan_AISH-II_in_1954.jpg
下は、愛車スカイラインにお乗りになられる皇太子明仁親王殿下の姿。プリンス車は宮内庁に多数納入され、各宮家にも愛用されていた。皇室御用達の自動車会社であったのだ。そしてそれは、正二郎の売り込みの成果でもあったのだろう。
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https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/photo/000/003/440/635/3440635/p8.jpg?ct=b1a81ab7ac36
さらに下の写真はご存知、日産・プリンスロイヤル。ロールス・ロイス等に代わる御料車としてプリンスが受注し、納入は吸収合併後になったが、元々受注した立場を尊重して“プリンス”の名前が残されることになった。御料車にも日産は関心があったという。
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https://pbs.twimg.com/media/CGlmoXHUIAE543U.jpg:large
 話を戻せば、大金持ちでありながら、叩き上げで庶民感覚も十分に理解できたはずの正二郎は、当然ながら、日本で最初の本格的な自動車レースへの期待も、内心大きかったに違いない。
以下カーグラの記事⑬より引用
ブリヂストンの石橋正二郎氏は、美術品の大コレクターとして著名だが、自動車愛好家であったことはあまり知られていない。(下はブリヂストン美術館(現アーティゾン美術館)所蔵の、クロード・モネ『黄昏、ヴェネツィア』1908年。画像はwikiより)
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(アメデオ・モディリアーニ『若い農夫』1918年頃 油彩/カンヴァス。同じくブリヂストン美術館(現アーティゾン美術館)所蔵)
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https://www.polamuseum.or.jp/special/modigliani_2014/modigliani_in_paris/img/index/sect_04_intro_img_04.jpg
大正元年(1911年)、早くもアメリカ中級車のスチュードベーカーを購入し、当時石橋家の主製品だったお座敷足袋の宣伝に使ったりしたという。九州に何台も車がなかったころの話だから、よほど先進的な頭脳の持ち主だったのだろう。昭和になり、タイヤ製造業に進出して数年たったころ、久留米工場の一隅で、同社の技術者に自動車を研究させたこともあった。少数輸入されたハノマーク“コミスブロート”(1924~1928にドイツで量産された単気筒500ccリアエンジン片輪駆動の軽便車)をコピーしたもので、ご子息の幹一郎氏は実際に乗った記憶があると伺った。戦後プリンス自動車の前身に投資し、自動車事業に進出する下地は、ごく早い時期に芽生えていたとみられる。(下は、ハノマーク“コミスブロート”(1925)。ちなみにコミスブロートとは、軍隊パンのことだという。画像はwikiより)
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https://de.wikipedia.org/wiki/Hanomag_2/10_PS
昭和10年ごろ、㈱ブリヂストンは大阪のGMにライン装着用タイヤを納入する際、同社は見返りとしてGMからキャディラック、ビュイック・リムジン、およびラサールを購入した。また翌年には、日本フォードと同様な契約を結んだ時、“流線形”という言葉を日本で一気に広めた1936年リンカーン・ゼファーを1台購入した。(中略)正二郎氏は、このV12気筒リンカーンを特に愛されたようで、戦時中もずっと使われた。
(下は石橋正二郎が創立5年目の1936年に購入し愛用したリンカーン ゼファーの実車。)
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https://blasto.c.blog.so-net.ne.jp/blog/_images/blog/_3de/BLASTO/4040101.jpg
タイヤ事業進出とほぼ同時期の、かなり早い時期から自動車事業へ関心を示すとともに、一個人としても年季の入ったカーマニアであり、当時の日本ではごく稀な、オーナードライバーであったようだ。
いわゆる飛行機屋として純粋に育った中川ら旧中島出身の技術者たちと比べて、自動車全般に対してより幅広い見識と、キャリアの持ち主であったと思われる。今風に言えば、カーガイだった大先輩の正二郎に対して、いささか礼を欠いていたようにも思えてくる。
そして正二郎の怒りは、大衆に対してのわかりやすいメッセージであった日本GP勝利という、重大な商機を逸したこととともに、なぜもっと率直に相談しなかったのかという思いもあっての、二重の怒りだったのではなかろうか。(想像(妄想)の域は出ないが。)
2.4第1回日本GP惨敗で決心したプリンス売却
 そしてこの大惨敗に対しての怒りが、前掲の岡本の(①)他いくつかの書やネット情報で、プリンスの経営を断念し、他社への売却を決心させたと記されている。スカイライン伝説で半ば美談のように語り継がれる、第2回GPでのリベンジ云々とは別の側面で、プリンス自動車の経営面からみれば、重大な出来事だったのだ。以下岡本の①より引用。
第1回日本自動車GPレース(1963年5月)のプリンスチーム惨敗により石橋正二郎はプリンス自動車の経営を断念し、身売りの準備を始めたと思われる。』以下は、桂木洋二著「日本における自動車の世紀」(引用⑭)より
販売の低迷は、不景気など外的な要因よりも首脳陣の経営の舵取りに原因があると、石橋は考えたようだ。グロリアのモデルチェンジに見られる車両開発のあり方に対する不信、第1回日本グランプリレースに対するバカ正直な態度で販売拡張のチャンスを失ったことに対する失望などが引き金になり、彼らの経営に不安を抱いた。石橋が自分で経営を切り盛りするには歳を取りすぎていたのも原因だったかもしれない。(注;1892年生まれてあった。)』
 この一文では、正二郎の年齢面での不安にも触れているが、それについては3.3等で後述する。
(下は、「宮本三郎《石橋正二郎氏像》1969-70年 油彩・カンヴァス」)
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https://casabrutus.com/wp-content/uploads/2017/04/0423bridgestone02_666.jpg
さらに①には、以下のような記述もある。
~企画関係の仕事をして会社上層部に接していた沖島光也は「プリンス荻窪の思い出」に“私のプリンス時代”と題する投稿に次のように書いている。
 “なぜ、あんなに第2回GPに力が入ったかは最近になって分った。第1回GPのあと中川さんはプリンスの成績不良で始末書をかいたのだそうである。(中略)第2回GPは予算も潤沢で開発部門の全力が傾注されたのは、実は石橋会長の命令があったからであった。あのとき、おかしなことにBSタイヤはプリンスを断りトヨタと提携した。やむなくプリンスは英国ダンロップからレースタイヤを輸入した。結果は問題なかったのだが察するにそのころから、石橋会長はプリンスの身売りを考えていたのではないかと思う。技術部門の強いことを強調したかった理由があった。それでレースに発破をかけたのではないかと思われる。これは想像である。その後石橋会長はレースについて関心すら示さなかった。”

 この文章で、私見も混じるが重要なポイントが3点あると思う。
 1つ目は、翌年の第2回日本GP必勝を“命令”したのが実は、石橋正二郎本人であったということだ。世の“スカイライン伝説”が見落としている視点だ。確かに技術陣がいくら世間知らずでその屈辱から翌年のGPでリベンジに燃えても、オーナーの石橋が潤沢な(当時のプリンスとしては、だろうが)予算をつけて初めて企業は動き出す。そして中川に始末書を書かせて、その責任者として第2回日本GPに必勝を誓わせた。
 2つ目は、「その後石橋会長はレースについて関心すら示さなかった。」というくだりだ。よほど愛想をつかし、いよいよプリンスの経営に見切りをつけて、以降は純粋に“ビジネス”だけで手仕舞いをはじめたターニングポイントだったように見えてくる。売却を念頭に、“技術のプリンス”をアピールし、付加価値(箔?)をつける算段だったのだろう。
 そして3つ目は、第2回GP用レーシングタイヤの供給でBSタイヤは身内のプリンスを断りトヨタと独占提携した、というくだりだ。この件は「激闘 ‘60年代の日本グランプリ」(引用⑧)でも触れており、以下引用する。
(トヨタの)第二回グランプリへ向けての準備としてまず行われたのが、トヨタテストコース内に鈴鹿サーキットに似たコースをつくることだった。S字コーナーやヘヤピンカーブをはじめ、鈴鹿と同じコーナーのあるコースに仕立て、そこで思い切りドライバーにトレーニングさせようという作戦であった。相当な予算をとらないとできることではない。また、レースで大切なタイヤに関しては、他社より有利な立場にたつため、ブリヂストンとレーシングタイヤの独占契約を結んだ。よかれと思ってしたことだったが、他のメーカーはイギリスのダンロップタイヤなど、高価なタイヤを金を惜しまず輸入して装着したために、これは裏目に出た形となった。』この時代、世界レベルでは国産タイヤの性能はまだまだ劣っており、トヨタの思惑とは別に、結果的にプリンス側に有利に働いたのだが、いくらなんでも、そこまで深謀遠慮ではなかっただろう。(画像は1969年発表のBS初期のレーシング・タイヤ、RA-100のカタログ。モータープレス藤原よしおのモータープレスさんよりコピーさせていただいた。)
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タイヤメーカーと、自動車メーカーを両立させるという困難さと同時に、後述する合併交渉を視野に入れた動きの一環であったとみることもできる。
 ここでまたまた話が膨らんでしまうが、プリンス自動車を語る上で避けて通れない、日産とプリンスとの合併(NP合併)に至る過程について、簡単に触れておきたい。
これまた厄介な問題だが、この“事件?”は戦後の日本経済(企業)史を研究するうえで、重要なテーマの一つになっているようで、ネットでも検索すればたくさん出てくる。そこでそれらと手持ちの本を参考に、石橋正二郎(石橋家)からの視点を中心にして、次の3項でみていく。

3.プリンスと日産の合併について
3.1プリンスと日産の合併について、公の理由

 素直に考えれば、当時の日本の二大自動車メーカーであるトヨタ(クラウンとコロナ)と日産(セドリックとブルーバード)と、主力車種がまともにぶつかるプリンス(グロリアとスカイライン)は、両社からすれば邪魔な競争相手であったことは間違いない。(写真はライバル同士の上から順番に、プリンス グロリアと、トヨタ クラウンと、日産セドリック。第1回日本GP開催年の1963年頃で。)
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http://www.asahi-net.or.jp/~rf7k-inue/izen/no-9/guro-2/guro-1.jpg
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http://www.asahi-net.or.jp/~rf7k-inue/izen/no-11/rs41/rs41-1.jpg
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http://s3-ap-northeast-1.amazonaws.com/images.motorz.jp/wp-content/uploads/2018/05/07225200/60460_obk.jpg
(こうして見比べると、グロリアが見た目一番エグイ。ちなみにこの2代目グロリアは、元々シンプルだった外観イメージを、クロームメッキを塗りたくることで正二郎がようやく市販OKを出したと言われているが、確かに日本人感覚で、高級感はあった(当時の子供心でも)。一方セドリックは、他の2車がモデルチェンジ直後なこともあり、この時期で比べると古臭く見える。そして2代目クラウンは初代の“オリエンタル”なムードと違い、この時期の3台で見比べる限りもっともクリーンだ。お手本と言われた、フォード ファルコンの影響もあったのだろうか。)
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http://productioncars.com/send_file.php/ford_falcon_2door_sedan_blue_1961.jpg
(もう一度、見比べてみる。フロントグリルがトヨタの“T”をかたち作る。このクラウンはなかなか良いデザインだ。今のクラウンよりセンスがイイ?!)
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(なお、セドリックも1965年に2代目に進化した。410ブルーバードに次ぐピニンファリーナデザイン第2弾だ。)
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https://meisha.co.jp/wp-content/uploads/2019/03/129-5p01-1.jpg
(今改めて見ると、さすがにピニンファリーナで、その落ち着いた、上品な美しさは際立つ。個人的好みでは410は正直イマイチだが、この2代目セドリック(の初期型)は文句なく素晴らしいデザインだと思う。イギリスのアッパーミドルクラスのウーズレーかライレーあたりの新型上級セダンといっても十分通用しそうだ。ただ日本の市場向けではおとなし(上品)すぎたか?いっそのこと、オースチン時代に日産と関係があったBMC(BLMC)で、ライレーかウーズレーブランドのラージクラスセダン用として、ノックダウン生産でもしたらよかったと思うぐらいの出来に思えるが、ドーデショー?)
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話を戻す。
 プリンスの経営権を握るブリヂストンからすれば、最大のお得意様であるはずの両社との円満な関係は築きがたく、特に営業の現場では、タイヤ商売がやり難かったことは想像に難くない。プリンス売却を考えるうえで、誰もが分かりやすい、もっとも大きな理由だ。(以下引用⑮より)
正二郎の死後、息子の幹一郎(当時ブリヂストンタイヤ会長)は、「やはりわたしたちタイヤ会社からすると、プリンス自動車が成長すればするほど、お得意先から睨まれたんですよ。社内では声なき声がごうごうと上がっていた。でも父は無視していました。それでも結局(合併に)踏み切った」と、タイヤメーカーが自動車会社を所有する事の支障が、合併の動機であったことを、はっきりと語っている。プリンスの元経営幹部は、「ある自動車の購買担当から、実際に警告書を受け取った」と幹一郎から聞いたことがあるとも話している。』 “警告書”とは穏やかでない。
ここで“警告”を発せられても、BSタイヤの代替品がなければOKだろうが、ネットの“フィアット500大作戦!!”というブログで、「日産とプリンス 合併の裏で Part3 プリンスを手放した石橋正二郎の思惑 日本クルマ事情 PRINCE」という記事があり、その中で当時BSを脅かすライバルとして横浜ゴムが手強かったとの記載がある。けっして予断を許さない状況だったようだ。以下引用させていただく(引用⑯)
https://gianni-agnelli.hatenadiary.org/entry/20130210/1360499406
特に現実の問題として、石橋の心境を支配したのは、横浜ゴムである。(中略)当時は、競争が激化、巨大化する自動車メーカーに対し、ブリヂストンが子会社としてプリンスという特定の自動車メーカーを持っていると、やがてプリンスのライバルメーカーから取引停止をうけるおそれがあった。
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https://www.bridgestone.co.jp/corporate/history/story/images/img_story_16.jpg
 一方横浜ゴムは、現在こそ、ブリヂストンに大きく水をあけられているが、かつての横浜ゴムは、ブリヂストンなど足元にも及ばない優秀企業であった。1917年にBFグッドリッチとの合弁でできた会社である。グッドリッチの技術を背景に、飛ぶ鳥を落とす勢いで成長した企業である。それが、経営者が政治に足を入れるとか、学閥偏重などといったクダラナイことで、業績が急降下で悪化したのだ。
 それでもグッドリッチは当時、34%の株式を保有する大株主であった。資本自由化が実現すると、「横浜グッドリッチ」と改称され、両者の関係は再び緊密化するおそれがある。それを思うと、天下のブリヂストンでも、うかうかとしていられない。石橋はプリンスを手放すことによって、本来のタイヤメーカーにもどり、くまなく日本中の自動車メーカーと手を結ぶことが、経営者の取るべき道だと知ったのであろう。
』(下はヨコハマタイヤの懐かしい昭和のキャラクター「スマイレージ」マーク。今見るとちょっと不気味だ。)
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https://retrox.biz/wp-content/uploads/imgs/7/2/72183aec-s.png
このタイヤメーカーでありながら自動車メーカーも抱え込むという微妙で危険な立ち位置に加えて、横浜ゴムという、BSの足元を脅かす強力なライバルの存在がより一層、危機感を高めたに違いない。(下は「2キロに1店ブリヂストン」の、懐かしい昔の広告)
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https://www.bridgestone.co.jp/corporate/history/story/05_05.html
次にBSのメインバンクであり、正二郎の後ろ盾的な存在であった住友銀行は、この状況をどうみていたのか、その証言を確認する。
3.2ブリヂストンのメインバンク、住友銀行の視点
 石橋正二郎と親しく、日産・プリンス合併を支援した堀田庄三元住友銀行頭取が、石橋の死後に出版された「追想録」の中で、以下のように綴っている。(引用⑦)
石橋さんとの思い出は数々あるがその中で特に忘れられないのはプリンスの問題である。(中略)プリンスは技術陣が優秀なことから製品の品質も極めて高く、充分生き残れる資格はあったが、自動車を本命にすればタイヤが売れなくなるという二者択一の運命に立って、遂にタイヤを残すことに決意された。いろいろ相手は会ったが結局日産と合併ということになった。(中略)
(しかし)日産とプリンスの合併理由は「BSのタイヤが売り難くなったので手放す」ではまずいので、当時資本の自由化で強大な米国企業が日本に進出してくるからその対抗策として企業規模を拡大すべきであるとの方針で、通産省が企業の統合合併に対して特別援助する法律を作っていたのでその方針に乗る形をとって合併することになった。
自動車とタイヤの両立の難しさを語っているが、表向きは通産省の産業政策に乗った形をとった旨、語っている。
ここでは銀行側の本音は(当然)語っていないが、当時の住友銀行は、バブル期の“イトマン”“金屏風事件”のころのイケイケ超拡大路線(しかしやがて深みに嵌まり、当時某山〇組の年頭祝賀会で住友銀行は傘下に堕ちたと豪語され、その信用が失墜した)以降とは真逆な、大違いの時代だった。
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https://1.bp.blogspot.com/-XJNxgKYyYnw/WUdYnxuubxI/AAAAAAABE9s/wR35ae151xU5IgABJylrO6KbU374IV4QQCLcBGAs/s500/hinamatsuri_byoubu_gold.png
“住銀の法皇”と呼ばれた堀田頭取が君臨した時代で、堅実かつ慎重(“ガメツイ”とか“逃げの住友”など陰口もされたが)な姿勢を崩さなかった時代だ。「プリンスは~充分生き残れる資格はあった」と語っているが、銀行家としての本心はどうだっただろうか。
いかにBSが後ろ盾とはいえ、国内競争の激化と外資の攻勢(当時は日本の自動車産業の将来に対して、先が見えない不安があった)を前に、村山工場への多額の投資に対する回収の不安も頭をよぎっただろう。
(下の図は、ネットにあった、「プリンス自動車 - 外山保/石橋正二郎」より引用(⑰)させていただいた、“中央線沿線に工場を配置したプリンス自動車”の図。自動車がカネのかかる設備産業であることを物語る。後の日産との合併時に、興銀出身の川又社長は銀行家的な発想で、高度成長下の都内の地価の上昇が見込め、その資産価値も評価したという。)
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巨額の設備投資が必要な自動車産業は、マツダの面倒だけで手いっぱいだったのではないだろうか。(想像ですがたぶん。私見です)。
(下は村山工場跡地の“プリンスの丘公園”にある、「スカイラインGT-R発祥の地」という碑)
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3.3プリンスと日産の合併について、石橋(家)側の事情 (歳には勝てなかった…)
 ここで合併問題について、さらに視点を変えて、石橋“家”のファミリービジネスという切り口でみてみたい。
プリンス経営を断念した理由の筆頭とされる、3,1で記したタイヤ事業と自動車事業の共存が難しいという矛盾はしかし、急に沸き起こった話ではない。そもそも石橋正二郎が自動車事業に進出した時点で前提だった話だ。
そんな“理屈”を超えた部分で、石橋正二郎個人の、自動車産業への大きな野望が、生来の“カーガイ”としての自動車に対する思いと相まって、プリンスへの多額の投資を支えてきたはずだ。3.1で既述したことと矛盾するが、正二郎の行動を辿ってみると、そのように感じる。
 国内市場に限らずプリンスが世界に向けて大きく飛躍しさえすれば、自動車産業の規模の大きさを考えれば、タイヤ事業に支障をきたそうとも、自動車事業をやり抜こうとするぐらいの覚悟があったはずだ。もともとリスク(爆弾?)を抱えこんだ、大きな賭けだったのだ。(下は1960年頃のトヨタ元町工場全景。当時業界に先駆けていち早く月産1万台体制を確立した。)
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https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/text/entering_the_automotive_business/chapter1/section1/images/l02_01_01_01_img06.jpg
 だがそんな“危険な賭け”の一方で、前記の2.4でも触れたが、正二郎には1889年生まれ(日産との合併当時(1966年)77歳)で、当時の常識で立派な“老人”だった。今のように一般勤労者が70(最近の説では90?)まで無理やり働かされる時代ではなかった。なんびとも乗り越えられない大きな問題が立ちはだかっていたのだ。
 時間的に差し迫った中で、自身の築いた膨大な事業を息子世代に引き継ぐにあたり、自動車事業の抱える巨大なリスクもそのまま継承させるのか。
 それよりも自身が種をまいた拡大路線を、ここで自ら大ナタを振るい整理縮小しておく。そして重要な話だが、プリンスの売却益をファミリー内にしっかりと確保したうえで、核となるBSのタイヤを中心としたゴム事業に特化する。石橋家のファミリービジネスをいかに永続させ繁栄させるかが、何よりも火急かつ重要な課題となっていったのではと想像される。
 その辺の事情について、以下ネット上でPDFファイルで一般公開されている「NP合併についての一考察 山田徹氏による」という論文で、石橋家固有の問題として掘り下げて記されている。以下引用(⑮)させていただく。
file:///C:/Users/hirokun/Downloads/KJ00004862637%20(1).pdf
さらに石橋側の事情について、留意すべき点がある。石橋正二郎(1889年生まれ)は地下足袋製造からスタートして日本一のタイヤメーカーに育て上げた創業経営者であるが、1961年はじめて株式を公開、翌年には東証一部上場をはたし、63年には社長職を息子幹一郎(1920年生まれ)に譲って会長職に退くなど、高齢対策も考えてか、着々と次世代への地固めを進めている。NP合併の翌年にはブリヂストンサイクル社のオートバイ事業も撤退している。』(下は、ブリヂストン サイクル(自転車)に保存されているBS製オートバイ)
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https://www.pref.saitama.lg.jp/potabiyori/saitama/5557/saitama0004.html
しかも幹一郎はどちらかというと文化人タイプで、事業拡大には必ずしも向いてないとも見られていた(正二郎健在の1973年、幹一郎は53歳で早くも会長職に退く)。
(下はポール・セザンヌ 「サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール」1904-06年頃 油彩・カンヴァス ブリヂストン美術館所蔵)
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https://casabrutus.com/wp-content/uploads/2017/04/0423bridgestone08_666.jpg
このような事情をみると、正二郎にとってはプリンスの始末にもまた次世代のための事業整理、本業回帰、現代流にいうならばコアビジネスへの選択と集中の判断が強く働いたと考えられる。その意味では、所有経営者の資本の論理、経営の論理に基づく賢明且つ合理的な意思決定であったということができる。しかし、このような事情を表面に出すことはできず、通産省の行政方針に便乗して「国家的見地」に終始したとみてよいだろう。
 この一文で驚くことがあり、またまた本題と逸れてしまうが「1961年はじめて株式を公開、翌年には東証一部上場をはたし~」というくだりで、それまではBSが非上場の企業だったことだ!
 それはさておき、石橋正二郎としては、表向きの理由以外に、このような自身の年齢からくる問題で、合併を急いだ事情があったようだ。そして今日の、世界最大のタイヤメーカーとしてのブリヂストンの姿を見れば、正二郎の決断は、BSとしても石橋家としても正しかったというべきなのだろう。(下は“世界最大の(大きさの)タイヤ”(当時))
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3.4この項(3項)のまとめ
 例によってダラダラになってきたので、3項についてここで、箇条書きで今までのまとめをしておく。
 石橋正二郎がプリンス自動車の他車との合併による売却を決断した理由は、自動車/タイヤ事業の最適化としての側面と、石橋家としての事業(資産)の存続の、両面(バランス)から考える必要があると思える。(参考①、⑭、⑮他。なおその解釈は、例によって私見の部分も多いです。)
(1)事業の最適化としての側面からは、元々矛盾をはらむブリヂストンのタイヤ事業と、プリンスの自動車事業の共存は、ライバルとしての横浜ゴムの存在もあり厳しさを増し、次第に困難になりつつあった。(3.1等参考)
(2)しかし正二郎個人の想いは元々、タイヤ事業に多少の犠牲を伴っても、プリンス自動車が大きく発展していけばそれで良しと、考えていたと思う。しかし現実は期待通りにはいかず、経営が成り立たぬところまでは至らないまでも、厳しい競争の下で販売不振であった。(多分に私見が混じっている)(下は、貿易自由化を伝える日経新聞の記事(1960.06.24付))
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https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/text/entering_the_automotive_business/chapter1/section2/images/l02_01_02_02_img01.jpg
(3)そして販売不振の原因について正二郎は、NP合併時の表向きの理由とされた外的要因以上に、第1回日本GPへの中川の甘い対応にみられるがごとく、実務を担当するプリンス経営陣の経営センスのなさに起因すると考えていた。(1.6、2.2、2.4等参考)
(4)個人としての正二郎の問題は、すでに高齢であることで、大きなリスクを抱え込む上記の諸問題を、自ら采配を振るい経営にあたるには歳をとり過ぎていた(再三記すが当時は今の常識より、早めにお年寄り=引退していた)。(2.4、3.3等参考)
(5)一方石橋“家”の側面としては、事業後継者の幹一郎が文化人タイプの温厚な人柄(常識人)で、百戦錬磨の辣腕経営者であった正二郎の引退後に、上記(1)(2)の“爆弾”を抱え込むような困難な事態に、対処できそうにないと思われた。(3.3等参考)
(6)葛藤し揺れ動いていた正二郎はついに、プリンスの存続が困難だと決断した。主な理由はタイヤと自動車の共存の困難さと、プリンスの経営力の無さと、何より年齢の問題で、これ以上プリンスに投資し続けて資産を失う不安が急に大きくなった。その不安を決定付けたのが、第1回日本GPに対する中川の世間知らずでバカ正直な対応であった。(2.4等参考)
(7)同様にグロリアのモデルチェンジ(1962.10)の際の不信感(①を参照してください)もあり、長い間気持ちが揺れ動き、踏ん切りがつかなかったが、ここでようやく気持ちの決着がつく。(多分に憶測が混じっている)
(8)話は遡るが、BSのメインバンクの住友銀行から専務の、小川秀彦を社長に向かい入れた(1959年)ことは、合併への布石でもあった。当時一般的に、企業間の合併は、銀行が仲介するのが常識的であった。
(9)しかし住銀はトヨタとの“出禁”等の問題もあり(4項で後述)銀行任せにはできず、プリンスの合併問題も正二郎自らの主導で行うこととし、事業清算後は後継者の幹一郎はじめ、BS経営陣に託すことにした。(2.4、3.3等参照)
(10)合併問題の具体的な“手順”については次の4項で記すが、第2回日本GPに向けて、技術トップの中川に必勝を誓わせてハッパをかけ、予算も潤沢に与え、GPに圧勝することで“技術のプリンス”という、合併交渉の際の“セールスポイント”つくりに動く。これは実際に後の日産との交渉で効果を発揮した。一方でトヨタにBSのレーシングタイヤを独占供給したことも、合併への布石であった。(2.4及び後述する4項等参照)
(11)しかし以上のような“舞台裏”はけっして晒すことなく、資本自由化を前に当時通産省が推進した自動車業界再編計画に乗り、表向きの大義名分を得て、日産との合併(石橋からすればプリンス=自動車事業から手を引き売却=石橋家として利益を確保する)に踏み切った。(以上、3項のまとめ、終わり)

 最後にⅢ項で、もしプリンスが第1回日本GP(のT-Ⅵ/T-Ⅴクラスのレース)に優勝していたらどう変わったかというタラレバの話をしようと思うが、その前にシツコイがもう1点、一般に言われているプリンスと日産の合併の経緯を駆け足で辿りながら、自分の感覚的(直観的)にみてここだけは少し違うのではないかと思う妄想話を、その前に記しておきたい。

4.合併交渉にあたり、石橋正二郎にとっての“鬼門”と、その落とし所について
 ここからはプリンスと日産の合併の経緯を簡単に辿りながら、自分が思うに世間一般で言われている“定説”と、この部分だけは少し“ニュアンス的に”、違うのではないかと思う点を重点的に記したい。
ただしこのNP合併については、経済史のテーマとして真面目に研究されている方も多々おられると思うし、これから突っつく話題は全体から見れば些細な問題ともいえる。それに自分は手持ちの本とネット検索で上っ面をなぞる程度に軽~く調べただけで、全く直観的に感じた(=ということは毎度のことながら“妄想”レベル)話を記したに過ぎず、以下の話の信ぴょう性は限りなく薄いかもしれない話だということをまず明記してから、話を進める。
一般には石橋正二郎がプリンスの合併先(嫁入り先)として考えたのが、一にマツダでこれは同じ住友銀行系列であり、二に業界トップのトヨタ、三にナンバー2の日産であったと言われている。そしてそれが実際の交渉の順番であったことも間違いない。
(下は交渉相手だった松田恒次東洋工業社長。三輪自動車メーカーだった東洋工業を四輪自動車メーカーに育て上げた。)
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さらにその順番が、正二郎にとっての“本音”の部分でも、プリンス合併相手の優先順位でもあったように記述されているが、その解釈はどうだろうか?と多少疑問に思う(でも自分が本やネットで見た限りそう言っている人はいない!!ただし十分調べたわけではないので何とも言えない)。
ここではプリンス側で合併交渉を主導した、石橋正二郎と、その後ろ盾であり、BSのメインバンクであった住友銀行の視点と言うか、その思惑も加味して、プリンスの合併候補とされた3社について自分なりに再考することで、プリンスの合併問題を見ていきたい。
4.1第1候補とされたマツダ(東洋工業)について。
 マツダ(ちなみに当時は東洋工業)が第1候補とされた理由は、メインバンクが同じ住友銀行だからという“縁”があったことだ。この感覚は、今の若い世代には理解しがたいだろうが、昭和の戦後の良き時代の日本は多くは銀行が核となり、三井、三菱、住友、芙蓉、一勧、三和の6つの企業集団が企業社会を支配していた。(植木等の映画のような、今となればうらやましい、サラリーマン全盛時代だ)
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https://i1.wp.com/shiseiweb.com/wp-content/uploads/2017/05/kutabaremusekinin.png?fit=610%2C247&ssl=1
そして企業間の合併交渉は、メインバンクやグループ内の重鎮が、“仲人役”を演じるのが常であった。当時はそれだけ重みがあった。そしてマツダのオーナー社長である松田常次と住友銀行の堀田頭取の信頼関係も厚かったようだ。⑯のサイトから引用すると『住友銀行頭取の堀田庄三は、経営者としての松田恒次を特に高く評価していた。』という。
しきたり的な意味合いからも、マツダが第一優先であったことは間違いないだろう。それと両社は主力車種がほぼかち合わないという利点もあった。
この“縁談”は、正二郎も納得した上で、まったくの銀行主導だったと思われるので、マツダに関しては以下、正二郎目線でなく、以下は住友銀行の視点から確認してみたい。
合併するなら、自分のところより弱い会社とはしない。強い会社、たとえば日産自動車となら考えてもよい」と松田恒次は語ったと言われている。』(引用⑯)
マツダについては、一族のオーナー社長であった松田常次と住友銀行はもともと密に連絡をとりあっていたはずなので、松田社長の意向について、住銀は当然ながら、正式な合併交渉前から、ある程度事前に感触はつかんでいたはずだ(←この部分はまったくの想像に過ぎません)。いかにメインバンクの薦めといえどもマツダ側はプリンスとは元々消極的であったことはわかっていたはずで、しかし当時の商慣習に従い、メインバンクの果たす役割の一環としてマツダを第1優先として、仲介の労をとったのだと思う。
だが実現性という観点からは当初から、あまり高くなかったように思える(まったくの私見(妄想?)です)。
(下は(下はhttp://kairou38.livedoor.blog/archives/18140512.htmlより「ロータリーエンジン開発の提携交渉のためドイツへ旅立つ恒次一行(1960年)=「松田恒次追想録」から」)
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 ここでさらに、住銀の“本音”はどうだったか、私見がますます多く(ひどく)なるが、さらに突っ込みたい。
 まずこの時代の住友銀行の慎重姿勢からして、合併後の企業体を強力に引っ張らねばならぬ立場になるはずの、松田社長が乗り気でなければ深追いはせず、銀行主導で強引にまとめるつもりまではなかっただろう。
 確かにプリンスには社長まで送り込んだが、それは正二郎の後ろ盾(銀行の論理でストレートに解釈すれば、正二郎という個人保証(担保)があった)があればこそ、であろう。(下は1964年の東京モーターショーに出品された、マツダ コスモロータリー。ロータリー路線に邁進しようとしていた。)
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その上、いくら製品群が比較的かち合わないとは言え、企業風土が全く違ううえ、マツダ+プリンスという(当時は“弱者連合”の感覚だったのでは?)、資本自由化を前にとても盤石とは言い難い体制で、トヨタや日産、さらには巨大な外資に対抗しうるかと言えば、銀行としても自信が持てなかったのではないだろうか。成長していくためには、巨大な設備投資が継続して必要とされる自動車産業に対して、住銀の本音はマツダだけでおなかがいっぱい状態だったのではなかろうか。
以上のことから、今と違い当時の商慣習では重きをなした、双方の銀行系列が同じという自然な流れで、仁義の上からも(何せ広島が相手の交渉です!)
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礼儀として、マツダが合併交渉の第一優先だったことは当然な話だ。しかしマツダはオーナー社長の松田社長の意向次第であり、それを超えて、銀行主導でリスクを背負うつもりなど毛頭なかった。そしてここが全くの妄想部分なのだが、繰り返すが、住銀は日ごろの付き合いから、マツダからの返事は予め予想できたはずだ。
 ならば、寄らば大樹の陰で、次に記すトヨタか日産とくっつけて、対プリンスの資金の回収と当座の利益の確保、そして、住銀としての新たな商流の開拓(トヨタと日産双方とも住銀との関係は薄かった)を目指した方が得策と、考えていたように思える(私見です)。
あるいはさらに想像すれば、プリンスとの交渉を“エサ”に、険悪なトヨタとの関係修復などという甘い期待すらあったかもしれない。結果は“エサ”とは全く認定されなかったようだったが。
 つまりマツダは確かに第一優先の候補先であったが、住銀の視線からみても、最初から本命ではなり得なかった?(再三繰り返すが第一印象でそう考えただけで十分に調べた結果でなくまったくの私見で、こんなこと言ってる人もいない?)。
4.2トヨタと日産両社との良好な関係維持が不可欠だった
 トヨタと日産については、こんどは石橋正二郎の視点から、まず重要となる“前提条件”からみてみたい。
プリンス売却後に石橋(一族)にとって、なによりも重要な、存続企業となるブリヂストンのタイヤの商売の今後を考えれば、圧倒的なシェアを誇る、業界のトップ企業のトヨタと、ナンバー2の日産の、ここが重要なポイントだが、片方(1社)でなく“双方”(2社)と、いかに良好な関係を保ちつつ、プリンス売却交渉を円満に終えるかが最大の課題だったと思う(これまた私見です)。
交渉(手順)を一歩間違えれば、感情的にも取り返しがつかなくなる。しかも足元では横浜ゴムの攻勢が勢いを増す中での話だ。タイヤ事業を維持、発展させていくためには、まずはこの両社との円満な関係維持が不可欠だからだ。
 しかしここで、№1のトヨタとの“縁談”の前に大きく立ちはだかったのが、BSのメインバンクで、石橋の後ろ盾でもあり、プリンスの経営にも関与していた(専務の小川英彦をプリンス社長に派遣)住友銀行(堀田頭取)とトヨタの仲が、きわめて険悪だったことだ。(画像は大阪の住友銀行本店の写真。Wikiより)
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4.3トヨタから出入り禁止だった住友銀行
 この“出禁”は、あまりにも有名すぎる話だが、プリンスの合併(売却)先を決めていく中で、きわめて重要な話だと思う。以下長文だが、まずは出禁の経緯についてwikiより(引用⑱)
『~戦後の1950年、ドッジ・ラインに伴うデフレにより、トヨタ自動車(当時・トヨタ自動車工業)は経営危機に陥った。『トヨタの倒産は東海地方の経済に危機的状況をもたらす』と判断した日本銀行名古屋支店長・高梨壮夫(のちに日銀理事)の斡旋により、帝国銀行(のちの三井銀行→さくら銀行)・東海銀行(後のUFJ銀行)を中心とする銀行団の緊急融資の条件として、販売強化のためにトヨタ自動車販売株式会社が設立される再建策が決定された。』(下の画像は日建新聞より、トヨタを救った日本銀行名古屋支店。)
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しかし、当時、帝銀・東海と共に主力銀行の一つであった住友銀行(当時は大阪銀行)は、「機屋に貸せても、鍛冶屋には貸せない」とにべもなく峻拒、貸出金の回収に走り取引を打ち切った。(下は旧豊田自働織布工場を再生したトヨタ産業技術記念館の繊維機械館)
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https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-8b-5b/stradivarius_stradivarius/folder/202801/40/14862440/img_0_m?1468229577
当時、トヨタとの取引銀行は都市銀行・地方銀行含め25行あったが、取引を断絶したのは住銀のみである。(中略)
そして住銀との交渉過程や労働争議での心労がたたったのか、豊田(章一郎)は1952年3月に急逝した。
その後、朝鮮戦争勃発による特需景気をきっかけに、トヨタ自動車は順調に経営再建を果たし日本を代表する製造業となった。
』(下は朝鮮特需で米軍に納入したトヨタBM型トラック)
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https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-1a-57/lcbj42004906/folder/741057/58/27923558/img_0_m?1541373902
『また、帝銀の支援をきっかけにトヨタは三井グループ入りすることになる(中略)。反面、取引を断絶した住銀に対しては、石田退三や歴代のトヨタ社長が取引再開を許さず、加えて名古屋を中心とする東海経済界では「住銀はいざとなったら頼りにならない」との風評が広がり、同地で住銀が苦戦する遠因となった。』この一件から、名古屋経済圏にとどまらず全国規模で「逃げの住友」(住銀=悪どい!)との風評がよりいっそう定まったのはご存知の通りだ。
 しかも輪をかけて最悪なことに、時のプリンス自動車の小川社長が、トヨタの経営危機の際に、当時住銀名古屋支店長として融資を断った張本人だったということだ。以下wiki⑱より続ける。
『なおトヨタの経営危機から15年後の1965年、当時業界6位で経営危機に瀕していたプリンス自動車に対して、同社のメインバンクである住銀の頭取・堀田庄三は専務・小川秀彦をプリンス自動車社長に派遣し、トヨタへの救済合併と取引再開を画策した。しかし、当時のトヨタ会長・石田退三は「鍛冶屋の私どもでは不都合でしょうから」とこれを拒否している。15年前の経営危機の際、喜一郎が緊急融資に駆けずり回る中、「機屋に貸せても、鍛冶屋には貸せない」と言い放ったのが、他ならぬ当時の住銀名古屋支店長・小川であり、融資担当常務・堀田であった(プリンス自動車は1966年、日産自動車に吸収された)。』(tumuzo
‏@tumuzoさんより写真と文をコピー 「赤煉瓦の外壁とノコギリ屋根の廃工場。繊維の街なので織物工場だったのかな。かつてはガチャマン景気で湧いた街。(愛知県一宮市)」)
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⑱の引用を続ける。『トヨタ自動車と住友銀行との取引再開が本格化するのは、三井銀行の後身さくら銀行との合併により三井住友銀行(存続会社は住銀)が発足してからである。ただし、SMBC発足の際には、トヨタに対しかなりの根回しがなされた。』SMBC発足後も取引窓口は、旧三井銀出身者に限ったとの情報もあるぐらいで、その傷跡は深い。
4.4最初から無理筋だったトヨタとの“縁談”
 ここでプリンスとの交渉の経緯を、トヨタ側からの証言からも引用する。これもまたまた超有名な本だが、石田退三と並ぶトヨタ中興の祖の豊田英二が、日経新聞に連載された私の履歴書をまとめた本の「決断」(引用⑲)から当時の合併の模様を引用する。(下の豊田英二の画像は、時事ドットコムより)
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資本自由化が刻一刻と近づくにつれ、国内でも業界再編成の機運が盛り上がってきた。最初にトヨタに持ち込まれたのがプリンス自動車との合併話。これは東京オリンピックがあった三十九年に石橋正二郎さん(元ブリヂストン会長)が持ち込んで来た。石橋さんはさすが事業家で、初めから「プリンスを引き受けてほしい」と切り込んできた。当時再編成といえば合併が当たり前という空気だった。
 ここで明記されているのは、三十九年というから、第2回日本GPの開催年(1964年)に、トヨタとの合併交渉を行っていたということだ。第2回GPでトヨタに従順な姿勢で、レーシングタイヤの独占供給を行った理由の一端が窺える。
再三記すが、当時企業間の合併話は、銀行間で取り持つのが一般的だったと言われていたが、この話は石橋が直接持ち込んで来たとある。しかし⑮によれば、堀田頭取と石橋の二人で石田会長を訪ねたとされているが、前記のwikiにあるように、住友銀行(特にたぶん堀田頭取)は“出入り禁止”状態だったので、銀行は仲介の役に立たず、石橋本人が主導したのだろう。
(なおトヨタへの打診は、その後再度(翌年の1965年で日産との交渉の3か月前?)桜内通産相を介しても行われたようだ。)引き続き⑲より引用を続ける。
プリンスとの話はトヨタの方から断ったが、石橋さんはその辺はきちんとしており、「トヨタと縁がなければ、他のメーカーにもっていかざるを得ない」と言っていた。われわれが断った時点で日産自動車と合併することはある程度予測できたし、事実その通りになった。
4.5トヨタ中興の祖、石田退三会長の拒絶
 トヨタ側は、トヨタ自工会長の石田退三、同社長の中川不器男、同副社長の豊田英二、トヨタ自販社長の神谷正太郎のトヨタ首脳陣の4人で慎重に協議をしたという。
 トヨタとの“縁談”が不調に終わった理由として一般的には、プリンスの販社の抱えていた巨額の赤字や、それに関連するがトヨタは救済的な話は引き受けない(自分の城は自分で守れ!がポリシー)、独禁法の問題、神谷の主張した販社同士の融合の難しさ等、様々と言われている。
 しかしそれ以前の感情的な問題として、当時のトヨタ首脳陣の気持ちからすれば「織屋(豊田紡績)に貸せても鍛冶屋(トヨタ自動車)には貸せない!」と言い放った小川が社長を務め、その時の融資担当常務だった堀田が頭取となって持ち込んだ縁談話が、実を結ぶことは難しかったのではなかろうか。(下は石田退三会長(当時))
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この時期(1960年代中盤)のトヨタ自動車の首脳部は、ほんの10数年前に、倒産の土俵際まで追い込まれ、俵一枚で踏みとどまり、のし上ってきたツワモノ揃いだ。
 そしてここで、長年にわたりトヨタグループを率いた番頭格の石田退三会長が、創業者の豊田章一郎の無念の思いを代弁するかの如く、上記wikiにあるように万感の思いを込めて「鍛冶屋(トヨタ自動車)の私どもでは不都合でしょうから」と切り返した話は有名過ぎる(ドラマにもなった?見てないので不明だが)話だ。
 この時期4人の首脳のなかでも、その実績からして発言権(拒否権)が大きかったと思われる石田退三の意志が、とりわけ強固だったように思える。名古屋独特の(根に持つ?)風土とも相まって、昔気質の石田からすれば、過去に受けた仕打ちをビジネスライクに、易々と水に流す気など、さらさらなかったに違いない(私見が混じっています)。
(12/21追記;最近読んだ本に、上記を裏付けるかのようなエピソードがあったので記しておく)『石田退三の)ひ孫の石田泰正は2006年冬、退三が住んでいた愛知県刈谷市の実家の地下室で、住友銀から退三あてに届いた歳暮や中元が手つかずのまま積み上げられているのを見つけている。父親からは「頭取クラスが退三におわびに来た」と聞いていたが、退三のわだかまりは終生、消えなかったのだ。』(引用㉖)
 しかしその一方で、『トヨタはその恩義を忘れない。高梨(注;トヨタが倒産の危機に瀕した当時、日銀名古屋支店長として救済に尽力した高梨壮夫)が日銀を退くと、東京トヨペット会長に迎える。喜一郎の後任としてトヨタ社長となった石田退三(故人)は、「日銀に足を向けて寝ちゃいかんよ」と、喜一郎の長男章一郎に助言している。章一郎は最近まで、日銀名古屋支店長が代わるたびに会食の席を設けてきた。』(㉖)という。なおこれは雑談の部類だが、石田の人柄を物語るエピソードを『泰正が知るトヨタ社長としての退三も、無駄遣いには厳しい。大阪の出張先で河原にござを敷いて弁当を食べていた。トヨタの経理部にいた一人娘の夫が社の経費で飲食しているとのうわさを聞くと、娘を離婚させたほどだ。』(㉖)!さすが中日新聞社らしい、地元密着型の良い記事だと思うが、倒産寸前から辛くも復活を遂げたその教訓を、生涯忘れることはなかったのだろう。
(下はトヨタの救世主となった高梨壮夫。のちに日本自動車連盟(JAF)の初代会長にもなったという。画像は中日新聞社より。)
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4.6住友銀行との関係を重視した正二郎 
 しかしその一方、住友銀行側を率いた堀田頭取としても、この時代を代表する銀行家の一人として、確固たるポリシーがあり、そうそう譲れない価値観だったに違いない。トヨタとの合併交渉が行われた60年代半ば時点では、現代と違い経済界に於ける地位は住友銀行の方が格上だったはずで、その分プライドも高かったはずだ。(下は19年もの間、住友銀行の頭取をつとめ、“住友銀行の法皇”と呼ばれた堀田庄三頭取)
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https://www.nikkan.co.jp/articles/view/00372004
話が少し逸れるが以下⑰より引用。
1965年5月31日にプリンス自動車(石橋正二郎・会長)は日産自動車との合併の覚書に調印し、日産として生き残る方針を決断した。日経新聞は一面記事で「日産・プリンスが合併」と報道し、自動車産業の業界再編の先駆事例として注目され、自動車業界を初めて一面記事で本格的に報道したニュースとなった。』ここで本文より驚くのが、日産・プリンスの合併問題が “自動車業界を初めて一面記事で本格的に報道したニュースとなった” というくだりで、現代とは大違いの、当時の自動車業界の日本経済における地位を如実に語っている。
 話がさらに脱線するが、住友銀行ほどではなかったにせよ、戦後のトヨタ危機の際には三菱銀行も消極的だったという。以下「S-PROJECT 学習のすすめ」さんの記事「世界のトヨタに学ぶ 挫折に心折るな!信念と志があれば失敗は失敗ではない」より引用⑳http://sproject.jp/ 
三菱銀行(現三菱東京UFJ銀行)は、トヨタの倒産危機の時に再建案に消極的だったと伝えられている。最終的に再建案に同調するが、これがたたった。三菱銀行のトヨタとの取引は、海外決済などに限られていた時期が続いた。三菱銀行がトヨタと本格的に取引を始めるのは、旧三和銀行、旧東京三菱銀行との再編を経て、トヨタを主力取引先とする旧東海銀行が三菱東京UFJ銀行になってからだ。』という。(下はwikiより、1950年代の三菱銀行本店)
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話を戻す。
 しかしプリンス側に住銀から社長として送り込まれた小川の人選は、実は住銀主導ではなく、住友銀行久留米支店長時代、深い親交を結んだ正二郎の推しだったという経緯があったようだ(⑯による)。
正二郎からすれば人物本位の人選で、ただ信頼がおけたからにすぎなかったのかもしれない。しかし元々住銀から社長を受け入れた理由の一つに、将来の売却交渉を進める場合の仲介役としての重要な役割があったはずだ。だが対トヨタで考えれば、小川の起用はどうみても、トヨタ何するものぞと、ケンカを売っているようなもので、決定的な障害になるだろうことは十分理解していたはずだ。
だが1959年当時の正二郎は、3項で記したとおり、まだ自動車事業への夢と野望も大きく、プリンスへの野心も売却も、いずれも確たる気持ちが持てず、気持ちが揺れ動いていたのだろうと想像する(=“想像”なので、当然私見です。ただ人間必ずしも、合理的な判断だけで行動しているわけではないし、正二郎もそうだったと思う)。
 正二郎の本音の部分では、独立系企業集団として、自らの事業を築き上げた過程で、やはり住友銀行との信頼関係維持が最優先で、表面上はともかく、対トヨタ以上に住銀の立場を尊重し、優先していたように見える。それだけ堀田頭取&小川と正二郎の間で、厚い絆で結ばれていたのだろうし、当時の企業にとって、メインバンクは命綱だったのだろう。(またまた私見です。)
 ここまでみてくると、NP合併の中で表向きの“定説”として確定している、合併の第一候補がマツダ(東洋工業)で、第二候補がトヨタで第三候補が日産というのは確かなのだろうが、3社のなかでの実際の“落としどころ”(いわば“本命”)は最初から、消去法的に考えれば、やはり日産だったように、思えてならない。(再三書いておきますが、充分研究したわけでも全くなく、軽~く調べただけのまったくの印象(思い付き)で書いているだけなので、どうか軽~く受け止めてください。)
4.7トヨタやマツダより障害の少なかった日産との合併交渉
 こうして(実は意味のあった?)回り道をしつつ結局、日産との合併交渉に至るのだが、日産との交渉は、世評言われている“史実”通りだと思うので省略する。
 何よりも日産(川又会長)にはプリンスと合併したい理由があったし、当時の常識では大きな障害とされていた、日産(興銀)とプリンス(住銀)でメインバンクが違うという点も、正二郎が政治力を発揮して関係者(桜内通産相、日産川又社長、住銀堀田頭取、興銀中山頭取、そして正二郎)を集め、国を巻き込んだ大舞台を用意し決着をはかった。(下は、今の感覚からすると、違和感のある当時の新聞記事のタイトル。かつて6大企業(銀行)グループの系列はそれほど強固だったのだ。)
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 ここではNP合併のまとめとして、ネット上の「プリンス自動車 - 外山保/石橋正二郎」の記事(引用⑰)より、日経新聞(1965/06/01)P4「早まる自動車業界の再編成」から引用させていただく。
https://database-meian.jp/tse/7201b.html
自動車業界は31日、日産自動車とプリンス自動車の両者が1966年末までをメドに合併するとの方針を発表したことに伴って、業界再編成は新局面を迎える見通しである。1962年12月、通産省の産業構造調査会乗用車政策特別小委員会が乗用車の自由化を目前にして、集中生産体制の確立、メーカーの提携合併を基本方針として打ち出して以来、久しく関心を集めてきた自動車業界の再編成はこの合併計画の具体化によって、いよいよ大手メーカーによる寡占化に向かい、本格的な幕開けを迎えたわけである。
日産自動車については業界第1位のトヨタ自動車との格差はいっこうに縮まらず、現状のままではむしろそれがますます広がる恐れが強く、この辺で合併のような思い切った手を打つ必要があったこと、またプリンス自動車については乗用車中心という自由化に弱い企業体質をもっているうえ、販売網も他社に比べ見劣りのすることから、ここ当分はともかく、長い目でみて現勢力でやっていくことに不安があった

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4.8なぜ日産の前にトヨタと交渉したのか。交渉上手だった石橋正二郎
 それではなぜ、困難を極めることを承知で、元々本命(だったと思える=何度も繰り返すがまったくの私見)だった日産の前に、なぜトヨタと交渉したか、だが、先の豊田英二の本の中の、正二郎の言葉の中に、そのヒントがあると思う。⑲より再録すると、
石橋さんはさすが事業家で、初めから「プリンスを引き受けてほしい」と切り込んできた。当時再編成といえば合併が当たり前という空気だった。プリンスとの話はトヨタの方から断ったが、石橋さんはその辺はきちんとしており、「トヨタと縁がなければ、他のメーカーにもっていかざるを得ない」と言っていた。われわれが断った時点で日産自動車と合併することはある程度予測できたし、事実その通りになった。
 あらためて振り返れば、ここはさすがに、正二郎は交渉上手だったと思う。
 ここで、マツダと住銀の話は脇におき、トヨタと日産に話を絞り、正二郎(プリンス)&BSの視点から以下、要点をまとめると、まずプリンスとの合併交渉については、
《1》4.3~4.5で記したとおり住銀も小川社長も絡む上に、BSは住銀との関係も断てない(そのつもりも元々ない)ため、トヨタとの合併交渉が実を結ぶ可能性はごく低かった。
《2》一方4.7で記したとおり、日産との合併交渉は障害もあったが日産(川又社長)自身が前向きなため解決は可能で、可能性が高かった。(下は時事ドットコムニュースより、「日産・プリンス合併 正式合併で調印する川又克二日産自動車社長(右)と石橋正二郎プリンス自動車工業会長」)
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https://www.jiji.com/jc/d2?p=mos10002-01703899&d=004soc
《3》しかし先に4.2項で記したとおりBSにとってはプリンス売却後も、トヨタと日産の両社と良好な関係を保つことが、タイヤ商売の上では何より重要だった。(つまり2社“両立”させることが必要。)
《4》そこで交渉の手順として、日産の前に業界No.1企業のトヨタを優先させて、いきなり直球で「プリンスを引き受けてほしい」と断られるのを覚悟の“ダメモト”の交渉を行う。
並行して第2回日本GPへのBSレーシングタイヤの独占供給などのサービスも行い誠意を尽くす。そして予想通り『プリンスとの話はトヨタの方から断った』とトヨタ側から断ってくる。
《5》ここで、その言葉を“待ってました”とばかりに正二郎は「トヨタと縁がなければ、他のメーカーにもっていかざるを得ない」と切り返し、トヨタに日産との交渉を行うための “仁義” をきる。
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言外に “トヨタさんを優先したが、そちらさんが断ったのであっしらプリンスとしては生きるためやむを得ず、話を日産にもっていかざるござんせん” と仁義を切り、ここで日産との交渉を始める上での”免罪符“を得る。(画像はフリーソフト いらすとやさんより)
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《6》さらにトヨタの頭の石田会長からは「鍛冶屋(トヨタ自動車)の私どもでは不都合でしょうから」という“名セリフ”まで飛び出して、トヨタ陣営一同、溜飲が下がる。しかし正二郎&BS陣営からすればこれで少なからず、ガス抜きをしてもらったことになる。(下もいらすとやさんより)
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《7》またトヨタとの交渉決裂の後、日産との合併会社の正式な発足まで十分な時間的な猶予があり、トヨタは対抗手段が打てた。合併発表から正式調印までの1年近くの間に、ネガティブキャンペーンで不安感が漂うプリンス車ユーザーの切り崩しを行い、社内引き締めの材料にも利用できた。
 つまるところ、NP合併は、日産にとってもトヨタにとっても、そんなに悪い話にはならなかった。たぶんBSも2社(日産は問題ないにして特にトヨタ)から“根に持たれる”ことにはならず、この難局を無事乗り切った。正二郎の交渉の手順が正しかったからだろう。(2020.01.03追記;当時市場が拡大中だったことも大きかっただろう。)
もちろん(無事売り抜けた)石橋家や住銀にとっても悪い話ではなかった。正二郎にとっての誤算は、日産の川又会長が途中でごねて、合併比率が変更されたことと、プリンスの車名を残せなかったことぐらいだろうか。(以上、私見でした。)

Ⅲ.もしプリンスが第1回日本GPに優勝していたら、歴史はどう変わったか
 さていよいよと言うかようやくこの記事の“本題?”です。もし仮に中川良一が第1回日本グランプリに対して終始見下すことなく、途中で他社動向の変化にヤバイと気づき、石橋正二郎に相談しつつ遅ればせながらも対応し、激戦のT-Ⅵ/T-Vクラスレース(グロリアとスカイラインのクラス)でトヨタといすゞを辛くも何とか抑えきり、仮にプリンス車が勝利したとする。そうなったら、その後の“歴史”はどう転がっていったか、想像してみた。
当然ながら、以下の物語?は全てフィクションで、いちいち“私見だが”とかことわりがきは書かないが全編妄想話です(わかりやすく、“正史”に対しての“異史”としておく)。ではまずは手短に“事務的”(面白みのない)な部分から始めます。

1.中川の描いた“地上の夢”、R38Xが世界に羽ばたいた!
1.1企業業績に対する影響

 “正史”では第1回日本GPの惨敗で、プリンス車の販売が大きく落ち込み苦境に陥ったという。しかし“異史”では当然ながらその勝利を大々的に広告宣伝し、販売は落ち込むどころか逆方向のプラス側に転じた。(下の第2回日本GP後の広告、“プリンス圧勝”のように)
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巨額の費用を投じた村山工場の稼働率はアップし、販売現場ではGPに負けたための苦しい値引き販売も減り、その両面から利益率が向上した。そして合併時に問題となった販社の赤字の縮小にも貢献した。
1.2NP合併に対しての影響
 中身はともかく、大筋の内容は変わらなかった。今まで見てきたように、第1回日本GPの惨敗は、合併へのトリガーにはなっても、それが主因ではなかったからだ。“異史”においても、相手はやはり日産だったが、合併比率(“正史”では日産とプリンスの合併比率が1対2から交渉途中で1対2.5に変更されてしまう)は結局1対2以内で納まる。その比率UPの分だけ、合併後のプリンス側従業員の肩身の狭い思いは軽減された。
そして目に見える成果として何よりも大きかったのは、“プリンス”のブランドが、石橋正二郎との約束通り、当面残されることになった点だ。(”正史”では反故にされてしまった。しかし”異史”でも従業員にとって、下の写真のような場面は結局、変わらなかったか?)
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1.3 市販車への影響
 “異史”における大きな成果の一つが、プリンスのエンジン技術の集大成として、BMWを手本とし、当時の日本の量産エンジンの中でも屈指の高性能エンジンといわれた、プリンス製4気筒G15/G18エンジンの、日産系車種への採用であった。
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 両社で重複した設備投資等のタイミングの問題もあり(日産はトランスファーマシンを導入済みだった)難しい決断を要したが、ここは合併比率のUPが力となり、最後は性能本位で日産系エンジン(L16/L14)に代わり選択された。そして1960年代の国産量産車を代表する名車の、ブルーバード510にも搭載されて、全世界でより一層の好評を得る。(下の510ブルーバードは性能、品質、価格、耐久性のバランスで、世界基準を超えた最初の日本車だった(この510の評価は“正史”です。念のため)。)
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(ラリーでも大活躍し、ついに1970年のサファリラリーに総合優勝を果たす。ホンダのF1での勝利を除けば、日本の量産車で初の世界的な自動車レースの制覇だった。(これもそのまま“正史”です。)
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 そして“異史”においては存続することになったプリンスのブランドは、後述するR38×シリーズの国際レースへの参戦と並行して、海外戦略面を強化する。日産ブランドのブルーバード510の名声に相乗りする形で、海外市場ではブルーバードの上位車種として、より硬派でスポーティー路線の、プアマンズBMW的なイメージで売り出されることになった。
ここで量産車部門でのレース活動にも触れておくと、ラリーは日産(ダットサン)が受け持ったが、ツーリングカーレースはサニー(日産)とスカイラインGT-R(ハコスカ)の分担となり、特にスカイラインGT-RはスカG(輸出用は6気筒L24型搭載)の輸出市場開拓を目指して、本場欧州のツーリングカー選手権(グループ2)に2000GT-Rで勇躍参戦する。
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当時の本場のレースのライバルは、BMW2800CS、
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フォード カプリ RS2600(写真はレース仕様)
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オペル コモドーレ(この時期のオペルは実に繊細で美しいデザインだった。)
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そして大迫力の、メルセデスベンツ300SEL6.3(レース仕様)など、歴史的に見ても手強い相手が揃っていた。
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当時の白熱した“本場”グループ2ツーリングカーレースの光景です。
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 しかし国内レースでは2ℓで十分だったが、国際レースの舞台では世界の強豪相手に、パワー不足で苦戦を続けた。
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 この苦しい局面を打開すべく、スカGの国内セールスの好調をバックに力をつけた櫻井らが、(“正史”におけるスカイライン2000GTの時のように!)大排気量化したエンジンに乗せ換えて、有り余るパワーでライバルを圧倒すべく、S20エンジンの拡大版の新型“S30”(3ℓ直6DOHC24バルブエンジン)エンジン搭載案をぶち上げる!
 国内に比べて不調だった海外セールスに活を入れるべしという米国日産の後押しもあり、4代目(ケンメリ)スカG(ちなみに“異史”におけるベーシックな輸出バージョンはSOHCのL30を旧プリンス陣営の手で軽くチューニングして搭載していた)デビューのタイミングでついに実現する。歴史に残るモンスターマシン、スカイライン“3000”GT-R誕生の瞬間だった!!
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 そして1973年シーズン到来とともに高橋国光、北野元、黒沢元治、長谷見昌弘らの腕利きとともにヨーロッパのサーキットを転戦し暴れまわり、BMW、フォード、オペル、メルセデス・ベンツら世界の強敵たちと死闘を繰り広げるのであった!!・・・・・(そこにマツダロータリーも3ロータで??)
(まだまだこの先(続き)が長いが、あまり妄想がすぎるとスカG、プリンス党からイーカゲンな話ばかりやめろとブーイングが出そうなので、この辺でおしまいにします。)
1.4 レース活動への影響
1.4.1 R380でル・マン24時間&世界スポーツカー選手権へ
 話の展開上、ツーリングカーレースの話が先に出てしまったが、元々の流れはR38Xを主題としていたのでレース活動はいよいよ、ここからが(ようやく!)本題だ。
 まずは時計の針を戻し、第1回日本GPで勝ち、中川良一が石橋正二郎会長に、レースの報告に行く場面から、この“ドラマ”(“異史”)は始まる。
 ここで中川は得意満面になり、思わず(前の記事⑭の7項で記した)“R38×構想”の想いを熱く語る。この話について正二郎は以前、中川からそれとなく聞いていた話でその時は“流して”いたが、今回は、その言葉を捉えて離さなかった。
 今まで述べてきたように、正二郎の合併(売却)の腹はすでに固まっており、そのためには国内の大きな草レース的レベルだった第1回日本GPの勝利だけではアピールが弱い。売りである“技術のプリンス”のセールスポイントをさらに“盛る”必要性を感じていたところだったのだ。 
 そこでここは中川構想に乗り、手始めにR38×構想のスタートとなる、2ℓ直6プロトタイプのR380の開発を命じ、まずはルマン24時間レース参戦を目標に掲げる。国内よりもむしろ世界に目を向けて、プリンスの持つ技術力を示すことになったのだ!(ちなみに翌年開催の第2回日本GPのGT-Ⅱクラス(1001〜2000cc)には量産義務(最低100台)の規定があり、R380は出場できなかった。)
この思わぬ展開に、中川が驚喜したことは言うまでもない!これによりR38Xシリーズの開発は“正史”より実質、1年前倒しでスタートしたことになる。
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 なお同選手権はヨーロッパが主舞台なため、ジャック・ブラバム&ロン・トーラナックのシャシーコンストラクター、モーターレーシング・ディベロップメント(MRD)に全面的な協力を仰ぐこととなった(裏だけでなく両社の関係を公けにして;前の記事の9項参照)。MRDはフォーミュラが主体だったため、かち合わずにお互いメリットがあったのだ。
 以後はほぼ、中川の“R38X構想”通りに、1965年からルマン24時間レースに出場し、1966年から世界スポーツカー選手権に参戦を果たす。しかし世界の壁は厚く、2ℓクラスにはポルシェという強敵が立ちはだかり、善戦はするものの、日本GPのような“地の利”もいかせず、残念ながら目立った戦績を残せなかった。(ちなみに国内の日本GPの戦績は、結果的には大筋変わらなかった。)
1.4.2 R382(スポーツカーバージョン)で国際メイクス選手権、制覇に挑む
 結果が出せずに低迷したプリンス陣営はここで一念発起し、1969年シーズンに向けて、大きな賭けに出る。国際メイクス(メーカー)選手権の、“スポーツカー(クラス)”の生産公認に必要な連続12月間の最低生産台数が50台から25台へ引き下げられたのを受けて、それまでのプロトタイプのカテゴリーから、排気量の大きい(5ℓ)スポーツカークラス(グループ5仕様;今までと違い総合優勝狙いとなる)への挑戦を高らかに宣言したのだ!
 そしてMRDと共同で5ℓV12のGRX-1エンジン搭載のグループ5仕様(クローズドボディ)の“プリンスR382”を25台生産、FIAの公認を得る。1969年のスポット参戦を得て、いよいよ1970年シーズン、ポルシェ917とフェラーリ512の一騎打ちに割って入る、三つ巴の戦いが始まったのだ!!(下はグループ5の公認を受けるため、ずらりと並ぶ、ポルシェ917)
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下はポルシェ917とフェラーリ512
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 しかしこのときすでに日産自動車本体は、モータースポーツへの出費の多さに音をあげつつあった。しかも戦績も不振で、耐久レースへの経験不足も相まって、掛け声とは裏腹に1970年シーズンは1勝も挙げられず、社内での発言力も急速に勢いをなくしていった。
 中川のR38X構想では、6ℓT/C付1000馬力のグループ7のR383/4で、トヨタと同様Can-Amシリーズ参戦計画もあったが、排ガス規制強化で人材を割かねばならぬ必要もあり、結局1970年シーズンを最後に、前記のツーリングカーレースを除き、ワークスとしての活動をいったん中止する。(1971年シーズンは、プライベーターの支援を主体に行った。)
1.4.3 ”栄光のル・マン”
 ご存知スティーヴ・マックイーンが企画・主演した映画“栄光のル・マン”の中でも、東洋からの新参の挑戦者として、急遽短いながらもエピソードが盛り込まれ、プリンスの知名度をより一層高めた。映画の中で中川良一に似せたキャラを三船敏郎が、櫻井眞一郎役を石原裕次郎がそれぞれ演じた。
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 実際に撮影の行われた1970年のル・マン24時間に出場したプリンスワークスの、3羽ガラス(高橋国光、北野元、黒沢元治)と長谷見昌弘も撮影に協力した。中でもマックイーンは北野元のキャラを気に入り、そのため映画の中でも急遽“役”を作り、北野が”ニヒルなサムライをイメージした”、日本人レーサー役を演じることとなったという。
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下は日産が全面的に協力した1970年の石原プロ映画、「栄光への5000キロ」(富士スピードウエイにて)
左から横山達、北野元、石原裕次郎の各氏
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1.4.4 1971年ワトキンスグレン1000km、国際メイクス選手権最終戦
 鳴り物入りで登場した、5ℓV12のプリンスR382(グループ5仕様)が出場できる最後のシーズンとなった翌1971年、国際メイクス選手権最終戦のワトキンスグレン1000km(アメリカ)に、プリンスワークスは久々の出場を果たす。“異史”における” スカG伝説”では櫻井が辞表を胸に最後の1戦への参戦を、川又社長に直訴した結果だというが、実際にはアメリカ開催のレースということで、米国日産の片山豊社長の猛プッシュが効いたらしい。
 このラストチャンスにプリンスは、高橋/黒沢組と北野/長谷見組の精鋭2台のワークスR382を送り込んだ。そしてレースでは高橋/黒沢組が上位陣のトラブルもあり僅差で逃げ切り、最終戦で見事勝利を飾り、R38Xシリーズの有終の美を飾った。(下は“正史”でこのレースを制した、アルファ・ロメオT33/3)
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1.4.5 1973年スパ・フランコルシャン24時間レース ヨーロッパツーリングカー選手権
 1.3で既述の通り、期待のモンスターマシン、スカイライン“3000”GT-Rを投入した73年シーズンで、ついに大きな勝利の瞬間がやってきた。ツーリングカーレースの最高峰、スパ・フランコルシャン24時間耐久レースで、北野/長谷見組の3000GT-Rが激戦の末2台の強敵、BMW3.0CSLと、
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フォードカプリRS2600を下し、
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ついに勝利の栄冠を勝ち得るのだ!しかし排ガス規制対応もいよいよ火急を要す中での海外レースへの傾注に、社内の批判はいよいよ高まった。
1973年シーズンも終わり、プリンスワークスはついに海外活動休止を宣言し、ここに一時代を築いた、中川+櫻井による“Rの時代”は終わりを遂げることとなった。
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 次に、第2回日本GPにおける“スカイライン神話”を生むきっかけとなった、あの伝説のレースは“異史”ではどう変わっただろうか。次項で探ってみたい。

2.第2回日本グランプリ “神話” のゆくえ
2.1 R-380は出場できなかった
 ここでこのブログの前の前の⑬の記事、「第2回日本グランプリ(1964年)“スカイライン神話の誕生”」を振り返ると、“正史”では、「プリンスは3種目制覇を狙って、主力車種のスカイライン1500(T-Ⅴクラス)、グロリア(T-Ⅵクラス)に加えて、メインレースであるスポーツカー部門(GT-IIクラス)に秘密兵器のスカイライン2000GTをエントリーした。」となる。
 そこで単純に考えて、“異史”においても、メインレースであるGT-Ⅱクラスのレースに、生まれたてのR380が出場できれば何ら問題なかった。しかしことはそう都合良く運ばなかった。GT-Ⅱクラスに出場するためには、最低100台クルマを作り上げねばならない。経験のないR380は成り立ちからして、スカイラインGTのような突貫作業では作れないので、これはいくらなんでもハードルが高すぎて無理だろう。出費を考えても、ポルシェ904は過去の実績があればこそ、はじめて100台作り、高価なスポーツカーを全世界相手に売れるのだ。
2.2 “スカG神話の誕生”は(T-Ⅴクラス)、(T-Ⅵクラス)レースで圧勝できるか次第
 次に、主力車種のスカイライン1500(T-Ⅴクラス)、グロリア(T-Ⅵクラス)が出場する第2回日本GPの、2つのレースの当時の状況を再度確認してみてみたい。
気になるのは前年の“異史”における第1回日本GPを振りかえれば、プリンスの誇る中島飛行機伝来の高いチューニング技術をもってしても、グロリアは6気筒モデルの登場前で、スカイラインに至っては末期モデルだったこともあり、両レースとも辛勝だったのだ。(下は“正史”の第1回GPに出場したスカイライン。見た目からして古臭い。ドライバーは生沢徹。)
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 仮に国内セールスにもっとも影響するこれら2つのレースに、第2回日本GPで十分圧勝できる目星をつけていれば、“正史”のようにGT-Ⅱクラスに新たにスカイラインGTを作り上げてまで参戦しないだろう。“異史”ではすでに、世界(海外)を目指し始めていたからだ。
またこのクラスにプリンスは、元々該当する量産車の無かった(下の写真の、少量生産車のラグジュアリーカー、“スカイライン スポーツ”もすでに生産終了していた。国産車で言えばGT-Ⅱクラスは“フェアレディ”のクラスだった。)
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https://gazoo.com/catalog/maker/PRINCE/SUKAIRAIN_SUPOTSU/
 しかし両レースで勝つかどうかもわからないような状況まで追いつめられていれば、あるいは“正史”におけるスカGという“隠し玉”を用意したかもしれない。
 そこで、第2回日本グランプリにおいて、主力車種であるスカイライン(T-Ⅴクラス)、グロリア(T-Ⅵクラス)が出場した両レースの状況について、当時トヨタチームに所属し、ライバルの立場からプリンス車を見ていた徳大寺有恒(杉江博愛)の目を通して、状況を確認する。
2.3第2回日本GP(T-Ⅵクラス)、グロリアの圧勝だった
第2回日本GPは1964年5月開催で、その前年の1963年6月に、6気筒の“グロリア スーパー6”がデビューしている。
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このスーパー6用GR7型6気筒SOHCエンジンのパワーが、どのくらい絶大なものだったかは、当時のレース界を知る徳大寺有恒が著書で語っている。(グロリアが上位を陣取る第2回日本GPのT-Ⅵクラスのスタートの光景)
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グロリアがいかに高性能だったかは、第二回日本グランプリに登場した6気筒グロリアが同クラスの他車をまったく問題としなかったことでよくわかる。セドリックなど、おそらく最高速度で20km/h以上の差をつけられていたはずである。サーキット上のグロリアはどこでもいつでも、好きなようにライバルを抜き去ることができた。まさに「誉」ここに蘇るというやつである。』(引用㉑)と記していることからわかる。当時の同クラスの国産車比較ではブッチギリの存在だったのだ。
結果はまさに下のとおりだった。
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では、T-Ⅴクラスではどうだっただろうか。

2.4第2回日本GP(T-クラス)、同じくスカイラインのぶっちぎりだった
 スカイラインも前年の1963年9月に、フルモデルチェンジしていた。
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 この新型スカイラインがまた圧倒的に強かった。第2回日本GPでは1~8位までを独占し、まさに圧勝だった。
 これは驚くべき話だが、当時トヨタチームの一員としてコロナでこのレースを戦った徳大寺はなんと、プリンスワークスの生沢に頼んで後日こっそりと、練習中にワークススカイラインを運転させてもらったという!その時の印象を以下引用㉒より。
『~いくら友人とはいえ、ライバルチームのドライバーにステアリングを託すなど今では考えられないだろうが、実際に僕はドライブしたのである。(下は当時の生沢と杉江)
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 乗ってみて驚いた。エンジンは平凡なOHVシングルキャブにもかかわらずよく回るし、ハンドリングも軽快で、全体のバランスがすばらしかった。』(スカイラインが上位を独占した第2回日本GPのT-Ⅴクラスのスタートの光景)
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車本来の素性の良さとともに、今までみてきたように、中島飛行機伝来のチューニング技術も威力を発揮したのだろう。
 以上のように、当時のプリンス量産車の高性能さは国内では抜群なものがあり、他車(社)は全くつけ入るスキがなかったと言っていいだろう。
 となると敢えて、下の写真のクルマを作って、GT-Ⅱレースに繰り出す必要もなかったと思う。
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2.5第1回日本GPの惨敗があって、“スカG伝説”は生まれた
 さて、ここまで長い間、延々とみてきた、以下が結論になる。
 もし仮に、中川良一が第1回日本GPを見下すことなく真面目に対応し、C-VIクラス(グロリア)とC-Vクラス(スカイライン)で勝利していたならば、対第2回日本GP用に、スカイラインGTは生まれなかった可能性が高い。そうなると皮肉なことに、あの“スカイライン神話(伝説)”も生まれなかったことになる。
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http://ah5243.blog72.fc2.com/blog-entry-83.html?sp
 だがもし仮に、”異史”のように、国際レースの舞台で華々しく戦っていれば、新たな形での ”スカイライン/プリンス伝説(神話)” が誕生していたかもしれなかった。
 しかし第1回日本GPの惨敗も含め、それらすべてが、“運命のいたずら”だったのだろうか。
 と、迷走した話に無理やりオチをつけて、“ⅡとⅢ”の話をこの辺で終わりにしたい。

Ⅳ.“ 誉”エンジンと、初代スカイラインGT-R(S20エンジン)について
最後に短い小ネタを。
 “誉”について、いろいろ調べていく中で、多くの方々が指摘している結論めいたものとして、「零戦などに積まれた定評ある栄エンジン(14気筒)のボア×ストロークはそのままに18気筒化し、回転数、ブースト圧をあげて工夫を凝らしてチューンアップした、レーシング・エンジン的な性格の、デリケートさ(取り扱いの難しさ)があった」エンジンだということだ。誉のベースとなった栄エンジンの約1.3倍の排気量で約2倍の出力を狙ったのだからどうしてもそうなるのだろう。
 アメリカの同時代の2000馬力級エンジンと比べても、“誉20型”のリッター当たり出力が、55.8馬力なのに対して、同じ空冷二列星形18気筒エンジンで、陸軍の爆撃機向きのエンジンといわれたライト社の“R3350は、1943年実戦投入の“R3350-23”で39.6馬力、(下はR3350×4発のB29)
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http://blog-imgs-34.fc2.com/n/a/b/nabe3rr/Boeing_B-29.jpg
 より小径で戦闘機向きと言われたP&W社製“ダブルワスプR2800”も1939年型で43.5馬力に過ぎなかった。(下はR2800エンジン。Wikiより)
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誉はダントツで、ハイチューン・エンジンだったのだ。
 そこで思い出すことが一つある。初代スカイラインGT-R(レース仕様でなく市販車)の“気難しさ”だ。(下は見事に整備された、GT-R用S20エンジンの一例)
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https://plaza.rakuten.co.jp/edigi/diary/200602080003/
 といっても、自分は当時カーグラのテスト記事を追っていただけで、ごく限られた情報の中から受けた印象に過ぎないのだが、以下スカイライン ハードトップ2000GT-R(レギュラー仕様)を谷田部でフルテストした、当時のカーグラの記事より抜粋する。(引用㉓)
『~顧みると、GT-Rに関する限りわれわれはどうもついていなかったということができる。1969年春GT-Rセダンがデビューした直後、直ちに谷田部に持ち込んだが(リポートはC/G90号)、エンジンの不調で5速より4速の方がスピードの出る始末だったし、クラッチ・スリップのため加速テストを中止せざるを得なかった。数日後に修理なったGT-Rを再び借りたところ、何たることか東京は3月としては気象台はじまって以来という大雪に見舞われ、あたらGT-Rは2日間、30cmの積雪に埋もれてしまったのである。(中略)
 前記のように、以前GT-Rセダンを谷田部に持ち込んだ際は、エンジンの整備不十分のため高速域でパワーが出ず、最高速は179.55km/hにとどまった。以来、GT-Rの実力を確認することが、C/G読者に対するわれわれの公約であったし、筆者自身にとってもひとつの執念のようなものとなったのである。
 今回の谷田部テストは、理想に近い条件の下で行うことができた。車の整備状態は完全であり、気象も快晴、ほとんど無風、低温高湿度で申し分ない。
(中略)
 結局、フライング1kmの平均は185.56km/h、5.5kmのラップ平均は風の影響が多少出て184.01km/hであった。これはうえに説明した理由で、レギュラーGT-Rの実力と考えられるが、率直に言ってわれわれの期待を若干下回る者であった。
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 確かにGT-Rは、たとえばファミリアロータリーみたいに直線だけが取り柄のクルマではなかったが、この”若干”低い数値には、読者も失望を通り越して、戸惑いを覚えたものだった。
 そしてこの初代スカイラインGT-Rのエンジン、S20型こそ、あのR380に積まれたGR8型の直系エンジンであることは、言うまでもない。まさに中川の息のかかった、最後のエンジンと言ってよいだろう。思わず“誉”と“S20”をオーバーラップさせてしまった。
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https://carview.yahoo.co.jp/news/market/20190612-10418337-carview/5/#contents
 この記事の約20年後、R32 GTRが出たころ、カーグラは“スカイラインGT-R OLD&NEWという特集を組んだ。その中で小林彰太郎は、「GT-Rに嫌われたぼく」という題の一文を寄せている。(引用㉔)
GT-R(PCG10)とぼくはどうも相性がよくないらしい。それが新車だった当時、何度日産広報から借りてテストしても完調ではなく、また調子がよいときには雪が降ったりして、谷田部で満足すべきデータを採れたためしがなかった。』という文章で始まるのだが、このGT-R特集の中で、“ミスターGT-R”と名乗る四国在住のGTR愛好家が、自身の“改良”GTRを持ち込み、CGのテストに供した。昔のCGデータが不満で仕方がなかったという氏の持ち込んだクルマはまるで別物のようによく走ったそうで、『ぼく(小林)が参ったというと、今夜の酒は美味いでしょうなあと、さも愉快そうに白い歯を見せた。』そうだ。このGT-R愛好家氏の心情はよくわかる。
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 当時のカーグラのテストも、今から読み返せば、雪に災いされた面もあったようだし、思いのほか低速でも粘る、かなりフレキシブルなエンジンだったようだ。全般的に“神経質”そうなクルマだという先入観があったのは、最高速の低さから受けた印象からだったように思える。
 なおGT-Rハードトップのテスト車両は、低圧縮比のレギュラー・ガソリン仕様(ハイオクVerの160馬力に対して155馬力)で、『実際のパワーダウンは5Hp以上のものがあったといわれるから、これが実力だろうとわれわれは慰め合った』(㉔)という。当時“低鉛ガソリン”(92オクタン程度)と呼ばれていた。
 それにしてもこの、オクタン価が低いから性能が出なかったと言う話は、誉みたいで何やら因縁めく。(こじつけ過ぎ? Ⅳ項終わり。)

【参考】
以下の文章は、ほとんどが前間孝則氏著の「悲劇の発動機「誉」(引用③)と、+桂木洋二氏の「歴史の中の中島飛行機」(引用㉕)から引用させていただいた。興味のある方はぜひ原書で確認願います。技術論の部分は省いているが、中島知久平という、時代が生んだ偉人とその会社について、理解の一助になれば幸いだ。
自分から一言だけ付け加えれば、中島が育てた優秀な技術者たちの恩恵をもっとも授かったのが、戦後の自動車産業であろう。そのことの一端を、次回の⑯番目の記事で記しておきたいと思っている。なお、文中に挿入したイラストと機種の解説の多くは、「中島飛行機 物語」よりコピーさせていただいた。感謝します。(下記のwebです。)
http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/nakajima/naka-cont.html

日本の飛行機王、中島知久平
『戦前の軍需企業としての主要航空機メーカーの歴史を見ると、航空機の機体あるいはエンジン分野への進出はほとんどが』大正期である。それも、巨大財閥系化か、あるいはそれに近い企業集団として確固たる経営の基盤をもっている企業がほとんどである。
 それらの大企業は、日本の陸海軍が、航空機先進国である欧米諸国が軍用機に力を入れはじめたことに追随しようとしているのを見定めて、「これは将来、航空機が事業として発展する」と見込んでこの分野への進出を決め、社内に新たな一部門として新設している。
 ところが中島飛行機だけは異色である。創業者の中島知久平は、海軍の技術士官として将来を嘱望されながら三十三歳の若さで軍人を辞して、細々とながら航空機機体の製作会社を立ち上げた。知久平の熱い志からはじまった会社で、今にいう脱サラのベンチャービジネスだった。
(日本の飛行機王、中島知久平。画像はwikiより)
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 群馬県の片田舎の農家出身だった知久平が、航空機の将来性に賭け、同地近くに飛行機研究所を立ち上げたのが大正六(1917)年。その後は政府の空軍力増強という時代の追い風に乗って急発展を遂げ、一代で二五万人(昭和二十年時点)を擁するまでの巨大企業を築き上げることになる。
 知久平は後に社長を辞して、代議士となって大政党の政友会のリーダーとなり、近衛内閣の時に鉄道大臣も経験した。それでも社内では「大社長」と呼ばれて実質的なトップとして君臨し、第二次大戦の敗戦を迎えるまでワンマン体制を敷いた。中島飛行機について語るとき、また「誉」エンジンに着目するとき、彼を抜きにして語れない。
 知久平の考え方は、中島飛行機の経営理念や軍部とのつながり方、新機種の開発戦略や設計思想、人材配置などすべてにわたり、すみずみまで深く浸透していた。知久平は絶対的存在であり、中島飛行機という企業に、また、「誉」に、直接的あるいは間接的にさまざまな影を投げかけている。
 日本において国を代表するような一大企業を築き上げた一連の創業者を思い浮かべても、その経験が元軍人で大物政治家でもあったという例はきわめてめずらしい。その点においても知久平は稀有な存在であり、また異色の存在でもあった。
 また巨大航空機メーカーを一代で築き上げたことで、知久平はいつしか「日本の航空機王」と呼ばれるようになる。』
中島知久平の信条
『そんな知久平の真骨頂は、その時代時代において、誰にもまして、先を見通しながら大胆な賭けをともなう決断を行い、その目的に向かって旺盛な行動力で突き進んでいく姿勢であろう。その時代の常識的な見方には目もくれず、危ぶむ周囲の意見や批判にもほとんど耳を貸すことなく、自信満々、あるいは自信過剰なまでの泰然とした姿勢で臨む。徹底的なプラス思考である。
たしかに「創業は衆に諮らず」との格言もあるが、周囲の人々は彼の行動を見て、「はたしてこの人物はリスクというものを考慮に入れているのだろうか」と疑いたくなるほどであったという。』
航空機専業の巨大軍需企業
『航空機専業メーカーで、大きく発展を遂げた企業といえば、日本の航空100年の歴史において中島飛行機一社のみであった。
 軍用機専業メーカーとしての中島飛行機の成功は、知久平の特異な資質を抜きには語れない。
 その第一は、民生品の事業では考えられないほど大胆というか向こう見ずなまでの決断力である。第二は、資金調達能力であり、第三は、軍および政府への食い込みによるコネクションづくりのうまさであった。
 知久平は、政治力の不足を痛感していた。明治の時代から、政界や軍部に深く食い込んで「国家とともに歩んできた」総合メーカーの三菱など財閥系企業と比べれば、明白である。それゆえ、より軍部との密接な関係を強め、政商一体の経営体制を築こうとした。
 戦前の航空機メーカーが生産する航空機はほとんどが軍用機であって、いわゆる軍需企業である。このため、市場原理で動く民生品を生産する民間企業とはおのずと行動様式や経営の性格が異なる。
 現在の日本には軍需専門の巨大企業は存在しない。それだけに、今の時代の巨大企業トップの行動基準から、経営者としての中島知久平に迫ろうとしても、その真髄を捉えることは難しいだろう。しかも、中島飛行機は他の航空機メーカーと違って、航空機専業のメーカーであった。三菱や川崎、石川島などの航空機メーカーはいずれも総合重機械工業であって、航空機生産は数ある事業部門の一つでしかない。』
中島知久平の経営理念
『常日頃から知久平は次のような経営信条を口にしていた。
「経営の根本義は良い品を作ることにある。いかにそろばんに妙を得ても製品が粗悪では工場はつぶれる。これはあらゆる製造業に通ずる鉄則であり、特に飛行機を造ることに営々として性能の優れたものを生産しておりさえすれば、営利は無視しても自然に大をなすことができる」(佐久間一郎伝)
 このような経営姿勢は軍を相手の受注競争では有利に働くが、マイナス面も多くあった。
 他社と比べて、できるだけ陸海軍双方からの要望や要求に沿うかたちでの新鋭機開発が行われるために、無理強いされて容易に試作されがちで、その数もやたら増えて、失敗作が目立っていた。』
日本の航空史;外国機の模倣期⦅1915~1931年頃⦆
『一般に戦前日本の航空史を区分すると、明治末から大正四(1915)年頃までの欧米機輸入時代を「揺籃期」と呼んでいる。中島飛行機が創業をスタートさせた大正五(1915)年頃から、昭和六(1931)年頃までを「外国機の模倣期」と呼んでいる。
(下は、陸軍九一式戦闘機。空冷9気筒「中島ジュピター」7型450馬力を搭載していた。)
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http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/cl-pln6/images8/Army91F2.jpg
 海軍航空技術廠の大築志夫技術士官はこの「模倣期」について次のように記している。
「海軍の試作計画は昭和六、七年頃迄は確固独立のものではなく、漠然とした要求-設計技術が十分にできておらなかったために、実現可能範囲と作戦上の要求とを、はっきり検討することができなかった-に基き、そのタイプモデルを外国の既成機にも求め、これをやや日本的に改造して要求を決める程度であった。そしてこの頃は作戦的に要求の酷似している米国から購入することが最も多かった』(「日本航空学術史」「海軍航空技術研究機関の活動」)
(下は、中島 三式2号 艦上戦闘機。中島ジュピター7 450馬力搭載。)
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http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/cl-pln10/2007cl/images/NAKAJIMA-Ty3.JPG
日本の航空史;自主開発政策による自立期⦅1932~1945年⦆
 昭和六年九月、満州事変が勃発して戦闘が拡大、日本は国際的な非難を浴びて孤立化の道を歩み、軍事情勢が緊迫化するなか、陸海軍は航空機の自主開発政策を推し進めることになるが、これ以降を「自立期」と呼んでいる。
 だが、自主開発による自立化とはいっても、急に実現できるわけではない。実際は、評価の高い外国機の技術導入によるライセンス生産がますますさかんとなって、その数を増していた。それら外国の機体やエンジンを模倣したり、異なるメーカーの数機種のいいところだけを真似て国産機を設計し、生産する方式が主流だった。
 いつの時代でも、技術は一足飛びに飛躍するものではない。自主開発といっても、なにもかもが新しくて、独創的な自前技術ですべて設計することなど、あり得ない。外国のメーカーも多かれ少なかれ、世界で発表されている評価の高い製品の技術を盗んだり真似したり、あるいはそれをベースにして独自の技術も盛り込んで発展させて新機種を開発する。
 ただし日本ほど極端ではない。みずからの伝統やオリジナリティも大事にしていたし、独創性を重んじる風土があってプライドもあった。それが工業先進国と後発国の違いであり、モノづくりに対する伝統や文化の違いである。
 日本が軍用機の性能面で航空機先進国に追いついたとされるのは、昭和十年代に開発された海軍の九六式艦上戦闘機や
(下は、中島製“寿”エンジン搭載の三菱 九六式二号艦上戦闘機)
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https://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/cl-pln10/2005cl/images/Mitsubishi_Type96F.jpg
陸軍の九七式戦闘機(下は同じく中島製“寿”エンジン搭載の中島 九七式戦闘機)
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https://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/cl-pln6/images8/97F-3.jpg
あたりであるといわれている。(下は、中島97式艦上攻撃機。ハセガワのプラモデルの絵)
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https://www.imgmsplus.com/item/56000/56979.jpg
 とはいえ、航空機産業を支える部品や材料、電気、化学分野などの周辺工業はまだ十分に育っておらず、またその裾野は狭くて基盤は第二次大戦の終わりまで脆弱であった。』

東京帝大工学部卒の若手技術者に多大な期待をかけた
『中島知久平は、みずからの技術知識あるいはモノづくりのセンスの不十分さを自覚するとともに、日本の航空技術の水準の低さも認識していた。その思いもあってか、帝国大学で最新の工学を学んできた新卒者に過大な期待をかけ、ことのほか優遇した。
 この志向は、伝統も歴史もある財閥系あるいは総合重工業(造船業)傘下の航空機メーカーである三菱や川崎などよりもはるかに強く、際立っていた。
 日本のトップ企業である三菱重工などには、東京帝国大学工学部も含めた主要な帝国大学工学部卒などの優秀な技術者がごろごろいた。
(上から順番に、三菱の 零式艦上戦闘機と、九六式陸上攻撃機と、一式陸上攻撃機。絵はいずれもハセガワのプラモデルのもの)
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http://www.hasegawa-model.co.jp/hsite/wp-content/uploads/2014/02/jt42pk.jpg
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http://www.hs-tamtam.co.jp/media/catalog/product/cache/1/image/1200x/040ec09b1e35df139433887a97daa66f/4/9/4967834021037_2.jpg
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それに引き換え、中島飛行機の創業時のメンバーをみると、飛行機の製作を担当した栗原金吾がただ一人、大正四(1915)年三月、東北帝国大学専門部機械科を卒業していた。あとの幹部はいずれも低い学歴で、いわば現場の叩き上げであった。大正十年代前半まで、中島飛行機は規模も小さく、世間の評価も知名度も高くはなかったため、帝国大学卒業者を採用することができなかったのである。
 知久平自身、海軍機関学校卒で、帝国大学工学部のような高度な工学教育を受けたわけではない。こうしたコンプレックスもあってか、帝国大学の工学教育をやたら理想化して高く評価していた。」
『また、一日も早く航空機先進国に追いつきたいとの思いから出た知久平の方針でもあった。優秀な新入社員に大きな権限を与えて思う存分に力を発揮させて能力を伸ばし、総合メーカーに打ち勝っていこうとしたのである。
 中島飛行機では、帝大工学部卒業者の多くが設計部に配属された。航空機の優劣を決める決定的な要素は設計にあると見ていたからだ。これは知久平が海軍時代に身につけた、日本海軍の特徴である技術至上主義、性能第一主義に基づいていた。
 帝大工学部卒業者を優遇しての技術優先、設計重視、性能第一主義を打ち出したのだった。こうした考え方は、知久平のワンマン体制によって社内に徹底されていたため、事務系の従業員のあきらめも含めた嫉妬を生み、社内組織あるいは経営上のひずみまで生じさせることになるが、それもまた中島飛行機らしさであった。』
(画像は、東京帝国大学航空研究所の長距離飛行用実験機の“航研機” 製作は東京瓦斯電気工業(日野自動車の前身)による)
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http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/img-photo/KOKEN01m.jpg
『しかし、エンジン自主開発に関しての中島飛行機のやり方は、かなり特殊なものということができる。中島知久平がエンジン自主開発の大号令をかけたのは1926年(大正15年)のことだった。そして、設計主任にはその春に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業したばかりの田中正利を任命した。中島飛行機は、優秀な若い技術者にどしどしチャンスを与え、進取の気性に富んでいるのが伝統であるといわれたが、そのもとをつくったのは当然のことながら中島知久平だった。中島飛行機は設計がオールマイティであるという思想が流れており、貴重な存在である大学出の技術者はほとんど設計にまわされた。若い技術者に仕事を任せ、責任と誇りを持たせるのが中島知久平のやり方だった。』(引用㉕)
『中島飛行機に初めての学卒者が入社したのは大正十三(1924)年。そのときの従業員数は三百人ほどに膨らんでいた。この年、入社したのは吉田孝雄で東京帝国大学航空科卒業(第二回卒)では民間会社就職第一号であった。
 着任初日の大歓迎ぶりは滑稽なほど盛大なもので、吉田が東武鉄道で工場の最寄りの駅となる大田に到着すると、駅前には会社の幹部ら一同がずらりと並んで出迎え、加えて太田の住民までが提灯行列で歓迎の意を表したのである。帝国大学工学部卒業者に対する期待はそれほど大きかったのだ。
 吉田は当時を、「航空科出身なら、飛行機のことはなんでも知っているだろう」と思われ、面食らったという。
 だが、日本の帝国大学の工学系は、理論ばかり教えることで有名である。大学を卒業したばかりの新入社員は、理論でいっぱいの頭でっかちであり、実際的な飛行機づくりモノづくりに関してはほとんど素人にすぎないだけに、彼らは困惑して数々の失敗や珍事を生み出すことになる。
 海軍航空本部や航空技術廠の部員で、戦時中は四年間ほどドイツに駐在していたこともある巌谷英一元技術中佐は「航空技術の全貌」のなかで反省を込めて記している。
「海軍の航空技術廠は(中略)高性能に憧れ、所謂性能偏重方針を固執し、研究者設計者に非ざれば、技術者に非ずの風潮を生じ、遂にはこれが大学の学生にまで影響して、現場軽視の弊風が官民の航空工業に根強く植え付けられた。「設計偏重」の中島知久平も同様であった。』
『中島飛行機のエンジン部門には、昭和二(1927)年に帝国大学卒が二人入社した。その後は「昭和恐慌」による不況の時代が長引いて、毎年一名ずつになったが、航空機生産が急増してくる昭和十一(1936)年には一挙に増えて、中川良一ら四名が入社した。翌年はさらに六名に増えたが、七割は東京帝大だった。ちなみに、昭和十三年以降の学卒の採用人数は一挙に増えて二十名近くにもなった。入社して最初の三年間は毎年十五円の昇給があり、その後は十円ずつになり、八年すると課長になるのが慣例となっていた。大学も学部も中川と同期で中島飛行機に入社した水谷は語った。
「中島飛行機はなんでも好きな仕事をやらせてくれ、明るくて自由な雰囲気があり、三菱や東京瓦斯電気より給料も良かったので、伝統あるこの二社よりも人気が高かった。」
 東京帝大機械工学科の求人掲示板には「成績二番までのもの一名」と貼り出されたという。優秀な学生を集めることができ、その意味では知久平の戦略は功を奏していたといえるが、半面、中島飛行機の“事務屋”からは「うちの会社では、技術屋でなければ社員ではない」といったひがみや妬みをかっていたという。
 東京帝国大学機械科を卒業してわずか三年半ほどしかたっていない中川を主任設計者として、海軍がすべてを賭けたといわれる「誉」エンジンの開発をまかせたのであるが、こうした決定は中島飛行機では別にめずらしいことではなかった。」
(下は中島 B6N 艦上攻撃機 天山。中島製“護”と、後に三菱の“火星”エンジンが搭載された。)
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http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/cl-pln6/images8/Tenzan1.jpg

なお参考までに、ある資料によれば、昭和13年頃、東京近辺の工学部機械専攻の卒業生は、東工大が25人、東大が85人、あと早稲田、日大を合わせても合計で150人ぐらいしかいなかったという。
以上



― 以下引用元一覧 ―
①:「エンジン設計のキーポイント探求」岡本和理 (私家版 非売品) 引用先は「荻窪FG会」さん https://ogikubofgkai.web.fc2.com/index.html
②:「自動車用エンジンの性能と歴史」岡本和理(1991.07)グランプリ出版
③:「悲劇の発動機「誉」」前間孝則(2015.04)草思社文庫
④:「ガソリンに添加するテトラエチル鉛開発の歴史」モーターファン・イラストレーテッド(2012.08)三栄書房
⑤:「技術者たちの敗戦」前間孝則(2013.08)草思社文庫
⑥:「「マン・マシンの昭和伝説 航空機から自動車へ 上」前間孝則(1996.02)講談社文庫
⑦:「マン・マシンの昭和伝説 航空機から自動車へ 下」前間孝則(1993.07)講談社
⑧:「激闘 ‘60年代の日本グランプリ」桂木洋二(1995.05)グランプリ出版
⑨:「マイ・ワンダフル・サーキットⅡ 鈴鹿から世界へ」web
https://f1-stinger2.com/special/mwc/chapter02/talk28/
⑩:「“追憶の日本グランプリ”日本モーター・スポーツ史の夜明け」web
http://www.mmjp.or.jp/60srace/1963JAPANGP.html
⑪:「かつて『三大自動車メーカー』と呼ばれていたいすゞが描いた夢とは?フルサイズセダンのベレルを知っていますか?」web Motorz
https://motorz.jp/race/60361/
⑫:「1962年のF1モナコグランプリを70mmフィルムで記録した超高画質カラー映像」webディリィ・ニュース・エィジェンシィ(DNA)
https://dailynewsagency.com/2018/05/07/monaco-grand-prix-1962-high-hfg/
⑬:「石橋家に伝わる車」カーグラフィック 二玄社
⑭:「日本における自動車の世紀」桂木洋二(1999.08)グランプリ出版
⑮:「NP合併についての一考察」山田徹 経営研究 第15巻第2号(平成13年12月)
file:///C:/Users/hirokun/Downloads/KJ00004862637%20(1).pdf
⑯:「日産とプリンス 合併の裏で Part3 プリンスを手放した石橋正二郎の思惑」ブログ“フィアット500大作戦!!”
https://gianni-agnelli.hatenadiary.org/entry/20130210/1360499406
⑰:「プリンス自動車 - 外山保/石橋正二郎」
https://database-meian.jp/tse/7201b.html
⑱:「住友銀行 - トヨタ自動車との確執」wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8F%E5%8F%8B%E9%8A%80%E8%A1%8C
⑲:「決断(業界再編⓵フォード、プリンス)」豊田英二 (2000.11)日経ビジネス人文庫
⑳:「S-PROJECT 学習のすすめ 世界のトヨタに学ぶ」
http://sproject.jp/」
㉑:「ぼくの日本自動車史」徳大寺有恒(2011.06)草思社文庫
㉒:「間違いじゃなかったクルマ選び」徳大寺有恒(2009.10)二玄社
㉓:「ROAD TESTニッサン スカイライン ハードトップ 2000GT-R」カーグラフィック 二玄社
㉔:「GT-Rに嫌われたぼく 小林彰太郎」カーグラフィック 二玄社
㉕:「歴史のなかの中島飛行機」桂木洋二(2002.04)グランプリ出版
㉖:「時流の先へ トヨタの系譜」中日新聞経済部編 (2015.04)中日新聞社


⑭ 第3回日本グランプリ(1966年)               再び“プリンス(R380)対ポルシェ(906;カレラ6)”

第3回日本グランプリは、本来ならば1965年5月に鈴鹿で開催される予定だったが、JAFと鈴鹿サーキットの交渉が金額&メンツ等で決裂したため、1年のブランクの後の1966年、舞台を富士スピードウェイに移しての開催となった。
まずは概要から、主に引用⓵とwikiよりまとめた。でも動画をご覧いただくのが手っ取り早いので、リンクをはっておきます。「第3回日本グランプリの動画」
https://www.youtube.com/watch?v=FQWjSlB8f4I
(以下は例によって敬称略、引用箇所は青字で、引用もしくは参照先は番号をふって文末にまとめて記載し、画像のコピペ先は写真の下に記載。なお全くの個人的な見解(いつものように“妄想”レベルのものも含む)についてはあくまで“私見”だと明記してあるので気に障る方は無視して読み飛ばしてください。なお、引用箇所に少しでも興味のある方はぜひともオリジナルである原書を買ってお読みください。)

1.レースの概要
第3回日本GPから、今まで車種・排気量ごとに細かく分けていたレース方式を廃止して、60周(360km)のグランプリはメインレースに一本化し、サポートレースは特殊ツーリングとグランドツーリングの2レースだけで、レースは1日で行われることになった。
グループ6カーによるメインレースは、プリンスは国産初のプロトタイプレーシングカーのR380を4台(生沢徹、砂子儀一、横山達、大石秀夫)投入。
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https://www3.nissan.co.jp/crossing/jp/exhibition_vehicle_10.html
トヨタはヤマハと共同開発した2000GTのプロトタイプをレース仕様に改造。
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https://www.webcartop.jp/2017/06/115280/2
日産は前哨戦の全日本クラブマンレースに続き、6気筒DOHCエンジン(これもトヨタ2000GT以前にヤマハと協業したもの)を搭載するフェアレディS(北野元)で参戦した。
外国車に乗るプライベーター勢の中では、滝進太郎のポルシェ906が注目された。第2回大会のGTクラスでポルシェ・904にプリンス・スカイラインGTが敗れたことからR380が誕生したという経緯があり、ポルシェ対プリンスの再対決に関心が集まった。(下はポルシェ906)
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https://octane.jp/articles/detail/2182
 レースは生沢のR380のリードで始まったが、2周目に砂子のR380が生沢を抜いてトップに立ち、マシンの不調でペースが上がらない生沢は数周にわたり滝の906を執拗にブロックし、チームメイトの砂子を逃がす役割を務めた。
滝は6周目にようやく生沢をかわすと砂子を追い上げ、25周目にトップに立った。8秒ほどリードして31周目にピットインしたが、この給油作業のロスタイムが勝敗に大きく影響した。滝のチームはプライベートチームの悲しさで、ポリタンクから給油したため約55秒を要したのに対し、37周目にピットインした砂子はプリンス陣営が準備した秘密兵器、“重力式スピード給油装置”の効果で15秒たらずで作業終了。ピットワークでトップを奪い返してコースに復帰した。この40秒の差を取り戻すべく滝は猛迫するのだが、42周最終コーナーでオイルに乗りスピン、ガードレールへとクラッシュしてしまう。生沢は46周目にギアトラブルでストップ。最終コーナーからピットまでマシンを押して戻る生沢に対して、健闘を讃える拍手とブロック走行を非難する罵声が浴びせられた。
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画像はwikiより
 砂子は独走状態で60周を走破して優勝した。プリンスワークスは1、2、4位という好成績を収めた。3位は無給油作戦を実行した細谷四方洋(トヨタ)。予選ポールポジションの北野(日産)はエンジントラブルでリタイアした。
日本初の本格的なレーシングカーとなったプリンスR380は、性能面ではポルシェ906に劣っていたが、チームプレーや給油を含むピットワーク、それに豊富な練習量で補い、ワークスとプライベーターの総合力の差が結果に表れた。この時すでにプリンス自動車は日産自動車に吸収合併されることが決まっており、プリンスとしての最後の大舞台を勝利で締めくくった。下は懐かしいプリンスのマーク。
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https://minkara.carview.co.jp/userid/1054261/blog/38603719/
 前回の第2回日本GPで確執のあった生沢と砂子だが、この第3回GPで生沢はマシンの不調もあり首位の砂子を逃がすためのブロック役という、地味なチームプレイに徹した。このことについて砂子は『~私は表彰台の真ん中で幸せを噛みしめた。そしてチームプレーに徹し、ブロック役という、言わば憎まれ役に回ってくれた生沢氏にも感謝した。』と語っている。(引用①)

2.勝敗の分かれ目
 上記のように、勝敗を決したのはレース途中の20ℓの給油時間であった。ここでプリンス陣営の開発した秘密兵器?“重力式スピード給油装置”について補足説明すると『このレースのレギュレーションでは、2ℓクラスのマシーンの場合、燃料タンクの容量が100ℓに制限されたため、給油を行わずに完走するには3.6km/ℓ以上の燃費が要求される計算になる。R380の燃費は、2分04秒台で約3km/ℓ、12~13秒台まで落とせば給油せずに完走できる見込みはあったが、ポルシェ906という強敵の存在を考えるととてもここまでは落せず、結局レース途中に燃料を補給することに決め、給油時間を短縮する方法が検討された。
レギュレーションではまた、ポンプ類による燃料の圧送を禁止していた。そこでプリンスの技術陣は、ピットの天井近くの高い位置にタンクを配置し、そこから太いホースを通じてマシーンのタンクに燃料を注入する、いわゆる重力式の給油装置を製作し、さらに給油の練習を重ねるなどして、結果的にこの周到な準備がレースで大いに物をいうことになったのである。』
(引用②)非常に泥臭い戦術だが、費用対効果は大きかった!
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https://www.chubu-jihan.com/subaru/news_list.php?page=contents&id=314&block=2
 ちなみに『この作戦はトップシークレットで、サーキットでは練習せずに荻窪工場内でこっそり行われていた。なんと私(注;生沢とともにプリンスのワークスドライバーのエース格だった砂子儀一)がこの給油装置を知ったのは日本グランプリ決勝当日のドライバーミーティングの時というぐらい、極秘作戦だった』(引用①)そうだ。

3.プリンス陣営の“秘策”(ただし未遂に終わる)
 プリンス陣営はこれとは別に、対ポルシェ優勝阻止で大胆不敵な作戦も考えていた。以下③より引用。
『「何としてもポルシェ906を購入せよ」
プリンスR380プロジェクトの一員だった武井道男にあまり気乗りしない命が伝えられたのは1966年の春のことだった。5月に迫った第3回日本グランプリに向け、万全の体制を整えていたプリンスチームにとって、ポルシェ906参戦のニュースは悪夢以外の何物でもない。かつてスカイラインGTのデビューウィンを904に阻止され、ポルシェの底力を思い知らされた記憶はトラウマとなって疼いているのである。(中略)三和自動車経由で906を注文したのは滝進太郎。カレラ6こそはプライベーターがワークスに一泡吹かせる秘密兵器にほかならない。
(下は906に乗る滝進太郎)
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https://octane.jp/articles/detail/2182
「それをプリンスが買って、レースに出走させないというのだから無茶な話ですよ。ポルシェの知り合いに訊いてみましたが、結局、時間切れで906はタキレーシングの手に渡ることになりました。」(武井)』(下の写真はポルシェ906がライバルとして意識した、フェラーリ ディーノ206(2ℓのV6。世界基準では当然ながらライバルはR380ではなくフェラーリだった。)
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http://www.vistanet.co.jp/museum/f206s.html
 これはなかなか、ウルトラC級の作戦だ!目的は出場阻止と同時に、その後のポルシェ製レーシングカーの基礎を築いた傑作、906の調査もあっただろう。下の写真はフェルディナント・ポルシェとふたりの孫。右が若き日に906をデザインし先ごろ亡くなったフェルディナント・ピエヒ。
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https://clicccar.com/2019/09/12/910949/
ちなみに904に比べて906で大きく進化したのは空力特性で、以下③より引用
『906のカウルデザインにはピエヒによってK理論が採用されています。これは高さと長さの比が1:6のときにもっとも空気抵抗が小さいという理論で、飛行機の設計に用いられていたものです。906はK理論を最初に採用したレーシングカーで、それまでいかに空気抵抗を小さくするかだけに注意が向けられていたのを、ダウンフォースによる操縦安定性を加味した意味で画期的といえるでしょうね』(前記の武井氏)
 話は脱線して、ここからは余談(私見)になるが、60年代の日本グランプリについて、第1回と第2回GPでトヨタ自販が仕掛けた(主に)対プリンスつぶしの作戦があまりに鮮烈かつ効果抜群だったので、“トヨタはプリンス(ニッサン)陣営に比べて裏で汚い手を使う”という風評があるが、その後のGPの経過をたどれば、自分は実際のところ、五十歩百歩だったと思う(個人の見解です)。
 正確に記せば、第1、2回GPについては確かにトヨタ自販はそう(汚い手を使った)だったが、トヨタのレース分野の担当が自販からトヨタ自工主導に移った第3回GP以降について言えば、立場が逆転したと思う。68年GP(注;68年GPから開催数から年度表記に変わった)の3ℓトヨタ7に対抗するため、5.5ℓシヴォレーエンジンを搭載したニッサンR381シヴォレーや、69年GPの5ℓトヨタ7に対抗するため+1000ccの余裕(まるでサニーがカローラに販売面で+100ccの差で劣勢に立たされた、意趣返しのように)を持たせた6ℓR382など、確かにルール違反ではないが、T対Nのガチンコ勝負を期待していたファン目線からすれば、ニッサン(旧プリンス主導)陣営の“だまし討ち”的な、手段を選ばず勝ちに行く姿勢の方に余裕の無さというか、あさましさを感じた。(下はニッサンR381シヴォレー)
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https://mjlab.ko-co.jp/e161171.html
 まったくの偏見で言えば、第2回GPのいきなりのポルシェ904登場などは、まるで推理小説みたいな知的なゲーム感覚が感じられるが、R381やR382については、シテヤラレタというよりも、むしろ軍隊的な奇襲作戦のように感じてしまう。櫻井は68年GPのR381について、苦し気に『逃げるわけにはいかない』からと弁明していたようだが(引用⑤)、いくら5ℓV12の内製GRX-1エンジンが間に合わないからといっても、なにか他に策は考えられなかったのだろうか。
 そこで自分なりに代替案をだせば?(後出しジャンケンみたいなイー加減な話ですが!)たとえばR380(68年GP向けなのでR381世代のバージョン)と同時代に、本場の世界スポーツカー選手権でポルシェ910と同じ2ℓクラスで戦ったアルファロメオのティーポ33がある。当初2000ccバージョン(ちなみにV8)でデビューしたが、後に2500ccバージョンも追加した。下の写真の車もそうだ。
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https://www.girardo.com/available/1968-alfa-romeo-tipo-33-2-daytona_0/
さらにその後3ℓバージョンに進化し、王者ポルシェ908の牙城まで迫るのだが、(下の写真はそのtipo33/3.1971年のメイクス選手権ではブランズハッチ、タルガフローリオ、ワトキンスグレンと3勝を挙げ、他にも2位2回、3位3回と安定した強さを見せ、ポルシェに次ぐシリーズ2位の座に就いた。)
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https://www.webcartop.jp/2017/06/121898/3
R380も2.5ℓバージョンでも作り(5ℓV12の片割れだと考えれば、そんなに難しくはなかったはずだとド素人判断では思うのだが?まして先行開発だと思えば無駄にもならず??…)、3ℓのトヨタ7に対抗すれば、トヨタとニッサンのドライバーの腕の差(言うまでもなく日産勢が圧倒的に有利だった)+3ℓトヨタ7の出来の悪さを考えれば十分良い勝負になったと思うのだが。
68年日本GPバージョンのR381は例えていうならば、中島飛行機製の機体に、アメリカのP&W製エンジン(誉(中島飛行機)の技術的な流れからすればカーチス・ライト社になろうがエンジンの製造をやめてしまったので)でも積んだかのようで、“エンジンこそ命”だったプリンスからすれば“魂”を譲り渡した抜け殻のようだ。それにトヨタ7より500cc少ない排気量で打ち破ってこそ、うたい文句の“技術のニッサン(プリンス)”を証明できたはずだ。これではトヨタ陣営目線で言えば、第2回GPでポルシェ904の登場に思わず櫻井が叫んだ“あんなことが許されるなら技術の競争など無意味になってしまう。やることが汚いぞ!”に他ならないと思うのだが。(飛び道具的な二分割ウィングがパタパタと動くことで視覚的に騙されてしまう?)
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https://a248.e.akamai.net/autoc-one.jp/image/images/1580369/034_o.jpg
繰り返し引用される逸話として、トヨタのモータースポーツ史の語り部でもある細谷四方洋が、当時の豊田英二社長に「トヨタもベンツとかのエンジン買って搭載しますか」と軽く言ったところ「トヨタがレースを行うのは技術の開発と蓄積を行うのが目的。将来はガラスとタイヤを除きすべての部品を自前で作る」とビシッと返されたという有名な話があるが、ニッサン陣営(の特に旧プリンス系)は二の句が継げない言葉だろう。ただ“櫻井一家”にも苦しい事情があったようだ。以下はR382の時の話だが、⑩より引用。
『~予選では三車(注;R382と5ℓトヨタ7とポルシェ917(4.5ℓ))とも横並びで、勝者はわからないといわれた。だが、日産の川又克二社長からは、二位はない、絶対に優勝しろ、といわれていたから、勝つしか道は残されていなかったのである。そこで櫻井たちは何度も対応策を協議した。
 みんな気が気でなかったが、櫻井は同僚や部下たちにも知らせず、用意周到に対応策を講じていた。考えた作戦は、R382のエンジン排気量を引き上げ、パワーで押し切ることだ。』

 余談になるが自動車レースは当時は今以上に、勝負の結果が販売に結びついたため、経営トップからのプレッシャーはどこの国でも同じようだった。フェラーリの買収話が破談となり、自社開発で巨費を投じてル・マン24時間レースに挑戦したものの2年連続で惨敗したフォード帝国の最高経営責任者、ヘンリー・フォード2世が、部下たちに投じたメッセージもなかなか強烈だった。(以下引用⑫)
1965年の夏の終わり、ヘンリー2世は各部署のトップに1枚のカードを送った。
彼らは、初めてそのカードを見たときの衝撃を忘れない。
カードにはル・マンのステッカーが貼られ、短いメッセージが添えられていた。
                       「勝ったほうが身のためだ」
                                 ヘンリー・フォード2世  
』 
このメッセージが功を奏したのかわからぬが、フォードは翌1966年から4年連続でル・マンを制することになる。(下はヘンリー・フォード2世(ヘンリー・フォードの孫、エドゼル・フォードの息子。))
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 話を戻し、このあたりのお家の事情と、宗旨替えせざるを得なかった櫻井の真意(の推測)も含め、R381以降とトヨタ7、そして両陣営の“幻のCAN-AM参戦計画”も合わせてこの記事の2つ後(たぶん?)の、“北野元編”でより詳しく触れる予定だ。以上、私見だらけの余談でした。

4.プリンス(ニッサン)R38×シリーズの“生みの親”
 今回の記事の一連のテーマは、チームやマシンが主役ではなく、あくまで “ドライバー目線”でレースを語ることだが、この第3回日本GPに関してだけは、ドライバーよりも主役はやはり、打倒ポルシェ904を目標に国産初の本格的なレーシングカーとして登場し、ワークスの強みがあったにせよ、昨年の雪辱を果たし見事優勝したプリンスR380そのものであろう。
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https://www.imgrum.pw/tag/princer380a1
当初のターゲットは第2回GPを制したポルシェ904であったが、日本GPが1年延期となり、その間に出てきた後継機種のポルシェ906との競合となってしまったため、906との性能比較では劣勢だったが、日本人がゼロから作り上げた、本格的な国産レーシングカー1号車としてみれば、そのプロフェッショナルな出来栄えは、同時期のホンダF1マシンのRA271/RA272(画像は64年のRA271、wikiより)とともに、高く評価されてしかるべきだと思う。
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これは私見だが、1970年に日本GPが中止となるまでの、プリンス/ニッサン、トヨタが日本GPを舞台にもっとも激しく激突し戦った、あの時代の数々の国産レーシングカーのなかでも、第3回日本GPに勝利した初代プリンスR380こそ、もっとも意義のあるクルマ(その意味での名車。ただし国内で戦ったマシンという限定付きで。限定ナシとなればやはり、1965年のF1シーズン最終戦のメキシコGPで優勝したホンダRA272か。画像はRA272でwikiより)だったと思う。(異論もあると思いますが。)。
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少なくとも同じ時点で、トヨタやニッサンでは実現不可能な仕事を成し遂げたと思う。そしてその開発の実務的な取りまとめ役は言うまでもなく、類稀なる情熱で“チーム櫻井(櫻井一家)”を引っ張った櫻井眞一郎で、やはりその功績は大きい。(下は”育ての親”?櫻井眞一郎)
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http://since1957.blog130.fc2.com/blog-entry-24.html
 このR380については、ほぼ同時に語られる“櫻井眞一郎伝説”とともに、すでに語り尽くされた感もあり、第2回日本GP編が長くなりすぎたこともあったので、第3回日本グランプリは自動車雑誌の記事をベースに、軽~くまとめて終える予定だった。なにせイーカゲン急がないと、本題の“日産三羽烏”のまだ誰にもたどり着いていないので!
ところが、改めていろいろと調べていくうちに、どうも自動車系のメディアはプリンス(ニッサン)R38×伝説の “源流” まで辿らずに語っている気がしてきた。(以下は私見です)
 R38×伝説の、本当の立役者は、表の看板役として、マスメディア及びニッサン自身に宣伝のため半ば祭り上げられたようにも感じられる櫻井眞一郎ではなく、やはりどうみても当時プリンス自動車の技術部門の責任者として櫻井に指示して作らせた、中川良一常務本人のように自分には思える。この後から記すが、R380の成り立ちを簡単に記せば、中島飛行機時代のエンジン開発の魂が色濃く宿るDOHC4バルブのレーシングエンジンを、ブラバムの協力を得て製作したシャシーに載せたものと言える(これも私見です)。この件については、この記事の7項で詳しく触れたいが、R38×計画を通じて、プリンス自動車の技術と、そしてエンジン設計者としての自らの力を、日本と世界に向けて示したいというのが、中川の構想ではなかったかと思う(これまた私見です)。(下は”生みの親”?中川良一)
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https://minkara.carview.co.jp/userid/1949099/blog/37642366/
 それでは話を戻してまずは手始めに、自動車雑誌が語る範囲で、プリンスR380が成功したポイントを自分なりに手短にまとめてみる。例によって参考にした本から引用する形となるが、興味ある方はぜひ、実際に買ってお読みください。

- R380成功のポイント -
5.中島飛行機の“魂”が宿っていた
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https://nissangallery.jp/ghq/r380-1_201807/
 プリンスでR380の開発がプリンス自工内でスタートしたのは、正式には1964年初夏の役員会だが、実質的には第2回日本GPに惜敗した直後の1964年5月に、打倒ポルシェ904の戦闘モードにすでに入っていた櫻井らの手によって、きわめて迅速に動き始めていた。思い返せば1964年といえば戦後から数えてまだ19年目のことである。プリンス自動車は旧立川飛行機系(機体分野)と、旧中島飛行機系(の原動機部門)を源流としていたが、主流派は原動機部門のように感じられる。中島は戦時中は日本最大級の規模(一説には25万人以上!)を誇り、日本の産業界の叡智の結晶とも言えた。そしてプリンスR380開発の時代には、航空機産業を支えた技術者たちの血流が、まだ脈々とたぎっていた。(下は中島飛行機の“栄”エンジン)
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http://stella55.cocolog-nifty.com/blog/2006/10/post_a3d5.html
 彼らは、サーキットを疾走する戦闘機のようなレーシングカー作りに、思いの丈をぶつけた。以下、時折トヨタと対比を行いながら見ていきたい。④より引用する。
『~同じ時期につくられたレーシングカーとしては、やはりプリンスR380だけが頭抜けたポテンシャルであった。これは第二回日本グランプリで、スカイライン2000GTがポルシェ904に敗れたことによって、つくられることになったものだった。2000GTを開発した技術者にとって、同じ土俵の上での勝負なら望むところであるのに、ヨーロッパから格上のマシンを急遽取り寄せて、前に立ちはだかったことに対する反発が強かった。よし、それならポルシェ904に負けないマシンをつくってやろうということになった。第一回グランプリでもトヨタにしてやられ、さらに第二回でもトヨタ自販がバックアップして出場したポルシェに苦杯をなめさせられたことが、プリンスの技術者の闘争心を大いに刺激したのである。』(打倒904!櫻井の下で一丸となる)
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http://www.sportwagen.fr/guide-porsche-904-carrera-gts.html
引用を続ける。『中島飛行機を前身にもつプリンス自動車は、こうした目標ができれば全社が一丸となって進む会社であった。敵との戦いに性能で勝つことが求められる戦闘機の開発・製造のためにつくられた会社だった中島飛行機は、終戦によって分断され、自動車メーカーとしては富士重工とプリンス自動車に別れることになったが、プリンスには多くの航空技術者がおり、戦時中の技術者魂が脈々と受け継がれていた。終戦から20年近くたった当時、車両開発の首脳陣はそうした技術者によって占められていた。
会社の規模がトヨタやニッサンよりはるかに小さかったにもかかわらず、トヨタやニッサンができなかった本格的なレーシングカーにいちはやく取り組んだのは、生産者の開発と同時に進行させる、いってみれば特命プロジェクトであったからだ。このため、開発の中心となる櫻井眞一郎たちは、二人前の働きをしなくてはならなかった。しかし、戦時中に一刻も早く敵にうち勝つ戦闘機の開発が至上命令であったように、こうした困難にたち向かうことが、真の技術者であるという思いが強かったのであろう。

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http://since1957.blog130.fc2.com/blog-category-4.html
自動車メーカーがみずから出場するレースは、サーキットという限定されたところでスピードを競う、戦闘そのものである。技術者を動員した平和時の戦争であるといっていい。プリンスは、それを戦うための組織としては、もっとも適したムードをもっていた。これこそが、プリンス自動車の強みであった。』
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:R380_(1966)jpg
 戦後、翼を失った旧中島飛行機系の技術者たちが数多く残ったプリンスにとっては、日本グランプリは久々の、血湧き肉躍る、活躍の舞台と映ったのだろう。そして誉エンジンの設計者であった中川良一率いるプリンス技術陣にとって、航空機造りの“魂”が宿っていたのはやはりエンジンにおいてであった。それについては、次項で述べたいがその前にここで、ヒコーキ屋(しかも機体側よりエンジン寄り)でなく生い立ちから自動車屋であったトヨタとの対比をしておく。
 日本GPへの対応が、営業戦略上の視点からのトヨタ自販主導から、本来の自工主導に戻ったが、しかし自工側は企業経営の全体の中の位置づけとして距離を置き、冷静に判断していた。以下引用④
『64年のトヨタは乗用車生産台数が18万台を超え、2位のニッサンに1万台以上の差をつけてトップメーカーとなっていた。クラウン、コロナ、パブリカのいずれもが好調で、ベストセラーであるブルーバードに対してコロナは差をつけられていたが、65年にRT40という1500ccの斬新なスタイルであるコロナにモデルチェンジして、ブルーバードをしのぐ売れ行きを示した。(写真はコロナ(RT40)発表会の様子)
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https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/text/entering_the_automotive_business/chapter1/section1/item4.html
トヨタは4年サイクルとなるモデルチェンジと、新しいモデルの開発に全力投球していた。新しい工場を建設し、設備投資にも積極的だった。67年にはサニーと大衆クラスで激突することになるカローラを発売し、68年にはコロナの上級車種としてマークⅡが発売される。これらの開発もこのころ佳境に入っていた。(下は初代カローラ)
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https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/text/entering_the_automotive_business/chapter1/section3/item1.html
量産車とはなり得ないスポーツカーの開発に人材をさくのは、トヨタのポリシーではなかった。そこで、河野二郎をチーフとするレース部門が主導権をとり、ヤマハの技術を利用することになったのである。』
 トヨタにも適任の人材がいなかったわけではない。ただしエンジンではなくシャシーだが。(また設計技術者数はトヨタ全体のキャパに比べ不足気味ではあったようだが。)たとえば戦時中立川飛行機で、試作高高度防空戦闘機“キ94”の設計主務をつとめた長谷川龍雄のような、航空機畑出身のエース級設計者もいた。
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http://karen.saiin.net/~buraha/ki-94.html
しかしトヨタは長谷川に、量産車の初代トヨエース、初代クラウンに関わらせたのち、主査(開発責任者)として初代パブリカ、(下の画像はパブリカと、それに影響を与えたと言われるBMW700)
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https://www.goo-net.com/magazine/105741.html
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https://www.conceptcarz.com/images/BMW/BMW-700-Image-0008-800.jpg
その派生車種のスポーツ800(画像は「トヨタスポーツ800 hashtag on Twitter」より。ちなみに長谷川によれば、日本の量産車で初めて風洞実験を行ったクルマだそうだ。長谷川の作ではもっとも、元飛行機屋の作らしい。)、
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初代カローラ等、トヨタの重要車種の開発の重責を担わせたが、レース部門には関与させなかった。
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上の画像はシンプルで合理的なデザインが清々しい初代トヨエース。長谷川が主査としてまとめた。https://tanken.com/tricar.html
企業体質の違いが、レースに対する“気合”の差を生んでいたのだろう。

6.中島飛行機のエンジン技術が活かされた
 トヨタは手っ取り早い方法として、2輪用レーシングエンジンで実績のあるヤマハとの提携の道を選んだが、プリンスには当時まだ、中島飛行機時代に培ったエンジン技術が温存されていたため、敢然と自社開発の道を選んだ。そのためのポイントと思える点を3点掲げてみる。

6.-1 4バルブDOHCの採用
以下⑤より引用する。
『R380に搭載されたエンジンは2ℓ直列6気筒のGR8である。目標はリッター100馬力。(注;ポルシェ904の180馬力に対して200馬力)いまでは当たり前の4バルブDOHCヘッドだが、ようやくOHCが一般化しつつあった昭和39年という時代を考えれば、その先進性は特筆ものといえるだろう。』以下は②より引用
『動弁方式はDOHC4バルブ、多球形燃焼室と、革新的な点こそないが、当時としては最高レベルのメカニズムが盛り込まれた。』(写真はGR8型エンジン)
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https://motorz.jp/race/17695/
今では当たり前のように軽乗用車にも積まれている技術だが、DOHCで気筒あたり4バルブエンジンは当時、レーシングカーでもごく少なかった。
下の写真はR380と同様、旧中島飛行機系エンジン技術も宿っていた(番外編その2で記す)、12気筒4バルブエンジン採用のホンダRA271(1964年)のリアビュー(wikiより)
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第3回日本GPで、R380の前に立ちはだかったポルシェ906は911系の水平対向6気筒SOHCであった。それでも210馬力は出ていたが。

6.-2 中島飛行機の高い試作、チューニング技術があった
 エンジンを含む自社製レーシングカーの開発を成功に導くためには、やはり大元である高度で複雑な構造のエンジンを、机上の設計レベルだけでなく、実際に試作してチューニングを行い、実戦用としての性能を引き出せるか否かにかかってくると思う。そしてR380で何が一番すごかったかと言えば、当時の先端技術を詰め込んだエンジンを、短期間で実際にレーシングカー用としてモノにしてしまった点ではなかったかと思う(私見です)。
以下⑥より引用。
『(GR8の)設計が始まったのは64年9月で、翌年1月に実験部に引き渡された、当時の印象を古平(注;エンジン実験部所属で社員ドライバー)は次のように語る。
「さすがに元・航空機メーカーの技術はすごいと思いましたよ。DOHCを作ると言って、本当に作ってしまったんだから」。』
当時の日本の量産車の状況を思えば、まったく同感です。そしてこの離れ技を可能にしたのは、中島飛行機伝来の、軍用機用エンジン製作のために、現場に蓄積されてきた、試作・チューニング技術だったようだ。以下⑦より引用
『R380を操縦した経験のあるドライバーは今でもGR8の性能と信頼性を絶賛する。なぜあの時代、きわめて短時間のうちにそれほど優れたレーシングエンジンを作り上げることができたのだろうか。中村(注;GR8の動弁系の設計を担当した中村哲夫)はこう言い切る。「設計だけでエンジンは速くなりません。DOHCはプリンスが先駆者だったんですが、他のメーカーに先駆けて技術レベルの高いモノを開発できたのは、やはり試作の力だったんだと思います。中島飛行機ゆずりの施策の技術、職人芸ですよ。しかも若い会社だったから、会社に入って2年、3年の若手が好き勝手やっていて開発が速かった。その若さを、軍用機エンジンを作っていたころから現場にあった職人芸が支えた結果なんですよ。」』
引用⑥より、牛島氏(注;GR8のエンジン設計に携わった牛島孝)の証言
『カムシャフトはチェーン駆動ではなく、耐久性に勝るギア駆動にしました。目標の1万回転には届かず、最終的に9000回点ほどで古平 勝君に引き渡したと記憶しています。』
牛島からエンジンを引き継いだ古平はチューニングに必要な多くのパーツをすぐに開発し、図面に「R」の印を押して製造ラインに持ち込んでいる。この判があれば量産車部品の製造ラインを止め、最優先でレース部品を作ってくれたからだ。』
『こうして古平はGR8を最終的に1万2000回転、220馬力以上のエンジンに仕上げている。これは設計した牛島が想定した以上の性能だった。』

ここでまた、トヨタとの対比をおこなえば、R380より後の、1967年春に開発計画がスタートした、トヨタ初の本格的なレーシングカーである、3ℓの初代トヨタ7は、経験がないため冒険を避け手堅く、気筒あたり2バルブのDOHCであったが、その後パワー不足に悩まされることになる。(下の写真は3ℓトヨタ7のレプリカ。トヨタ自身の手で全て破棄されてしまったため現車は1台も存在しないと言われている。)
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https://pbs.twimg.com/media/DFUOacXUwAEZdJC.jpg:large

6.-3 直6レイアウト採用。
この時代のレーシングエンジンにおいてもすでに、2ℓ級で直6レイアウトをとる例は少なかった。以下②より。
『気筒配列には、基本構想で述べたように直列6気筒が選ばれた。理由は、高回転まで回せることや振動面で有利などの長所に加えて、それまでG7型で慣れ親しんでおり、そのノウハウが活かせるためであった。初めて本格的なレース用エンジンを手がけることになった榊原は渡欧中、当時はまだ新興のエンジンチューナーであったコスワース・エンジニアリングを訪れた際、直列6気筒のチューニングの難しさを指摘されたが、市販車への将来的なフィードバックも考えて、あえてこのレイアウトでの開発に取り組んだという。』そして『革新的な点こそないが、当時としては最高レベルのメカニズムが盛り込まれた。』
プリンスは1963年6月、高級車グロリアに、戦後日本初の直列6気筒SOHCエンジン、G7型を搭載した“グロリア スーパー6”(下の写真)を追加した。R380を市販車とつながりがあるものとしたかった意図は理解できる。
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https://gazoo.com/catalog/maker/PRINCE/GURORIA/196301/990000807/
以下は⑤より
『同じ6気筒ならV型にした方がクランクシャフトが短い分、高回転には有利なはずだが、青地康夫が率いるエンジン開発チームは7ベアリングによって見事に直6の弱点を克服してみせた。
「10000回転以上回しました。そこが飛行機屋で、振動を抑えるベアリングをどこに何個入れるかをずいぶん検討したものです」(櫻井)』


7.R38×計画は、中川良一の描いた “地上の夢” だったのか
 ただこの、直6採用について、中川良一が以下のような、非常に気になる?証言を残している。この言葉から、自分なりにさらに“妄想”を広げてみた。(引用⑥)
『~実は1962年に櫻井は技術担当役員である中川良一の鞄持ちという名目でヨーロッパに随行していた。この時、ふたりはF1ベルギーグランプリを観戦しており、(ちなみにこのレースはジム・クラークのF1初勝利だった。マシンは下の写真のロータス25・クライマックスV8)
http://gita.holy.jp/img2/P20170115d.jpg
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ホテルに戻ると中川は深夜に櫻井の部屋に電話し、「オレが12気筒48バルブのエンジンを作ってやるから、おまえはシャシーを作れ」と熱く語ったという。』
⑧でも同様な、さらに具体的で驚くべき証言があり引用する。『車は二人乗りのGTカーがいいだろう。チュ-ンアップ・エンジンは水冷V型の十二気筒で四弁(48バルブ)がいいかもしれん……。これなら六リッターで千馬力くらいはらくにでるだろう。ロールス・ロイスもダイムラー・ベンツもそうだが、飛行機用エンジンをそのまま搭載するんだから、日本ではおれが一番向いているのは間違いない』
!!! 1969年の6ℓのR382ですら日本GP当時600馬力がやっとだと言われていたので、この時代(1962年)に6ℓで1000馬力を楽に達成するためには誰が考えても当然、ターボチャージャー付が前提だろう。
(まさか中島飛行機時代、ターボチャージャーは”鬼門”だったから、スーパーチャージャーで行く!ということはなかろうが。 下はターボチャージャー付プラット・アンド・ホイットニーR2800エンジンを積んだ、リパブリックP47 サンダーボルト)
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https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/718Lgko7ZtL._SL1378_.jpg
(下の写真は、陸軍中島キ-87試作高々度戦闘機。中島製エンジンはターボチャージャー付だったが、タービン自身の耐熱性不足などのため、予定の性能を発揮できず、試作で終わった。)
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https://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/nakajima/Ki87Spec.html
 そうなると、1962年の時点で早くも、直6のR380からスタートして、6ℓV12、48バルブのR382(1969年)をさらに飛び超して、1970年のニュートヨタ7同様、ターボチャージャー付になると言われていたR383(1970年用)やR384(1971年用)ぐらいまでの構想が、中川の頭の中にはハッキリと描かれていたことになる!(下は、ずらりと並ぶR38シリーズ)
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https://scontent-cdt1-1.cdninstagram.com/v/t51.2885-15/e35/42310070_277872192852124_2618826705152415283_n.jpg?_nc_ht=scontent-cdt1-1.cdninstagram.com&se=7&oh=f7a922ebd7e53dd38971ed16ea8f7b50&oe=5E0D14BC&ig_cache_key=MTg4MTk5MjUzODEzNzQ4MTA4OQ%3D%3D.2
 我々日本のモータースポーツファンは1970年の夏、日本GPの中止が唐突に決定された(日産の敵前逃亡?私見です)後に公開された、5ℓで800馬力以上と言われたニュートヨタ7ターボに、日本のレーシングカーも遂にここまで来たかという感慨とともに、その完成された、危険な香りのする妖しい美しさに、何か異次元なクルマが舞い降りてきたかのような、不思議な感覚を味わったものだった。(画像はwikiより)
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しかしこの話が事実なら(もちろん“捏造”などではなく、事実なんだろうと思うが)、それから8年さかのぼること1962年の時点で、トヨタのさらに上を行く、6ℓ1000馬力の構想を、中川は温めたことになる。驚くほかない。
 この大構想の実現のためにはまずベースとなる、直6、2ℓDOHC気筒あたり4バルブのレーシングエンジンをモノにすることが大事だ。それさえモノにできれば、国内レースを制した後にルマン&スポーツカー世界選手権(自動車の耐久選手権)でまずはポルシェと戦いクラス優勝を狙う。あるいは量産義務のないプロトタイプクラス狙いか?ニッサンR380がルマン出場を検討していたことは有名な話だが、下記の octane誌(のweb版)によればプリンスR380時代にすでにルマン出場を目指していたらしい。
https://octane.jp/articles/detail/2163/2/1/1 より以下引用。」
『~実のところプリンスはひそかにルマンを目指していた。そのため、1965年4月から45日間にわたり193馬力にチューンされたS54CR1台と三名のスタッフを欧州に派遣している。クロスフロー化され193馬力のパワーを得たS54をカルネナンバーで欧州を走らせ、なかでも入念にルマンのコースで計時とデータ取りを行なっている。』(下はS54スカイラインGT-Bのノーマル車)
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https://meisha.co.jp/wp-content/uploads/2018/05/55ec1b2ca92d6519958efb17228f7614-e1540610222661.jpg
『帰国後、そのデータはR380でルマンに挑戦する際の検討に用いられ、机上計算で最適のギア比などが求められている。後々もプリンスが得意としたコース走行シミュレーションである。そうした検討のさなか、突然おこったのが日産との合併。これによりルマン参戦は叶わぬ夢となった。』
 さらに次のステップとして、直6を2基組み合わせる形でV12,48バルブ6ℓの高出力のレーシングエンジンへとつなげていく。当時排気量無制限かつ量産義務規定もなかったGTプロトタイプクラスで、大胆にも打倒フェラーリ!を目指し、国際マニュファクチャラーズ選手権の年間総合優勝と、ルマン24時間制覇だったに違いない。(下はプロトタイプ部門の1966年式の美しいフェラーリP4と、)
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http://www.bingosports.co.jp/news/detail_131.html
(その下は1966年、ついにフェラーリを下し、念願のルマン制覇を成し遂げたフォードGT40.この年から69年まで四連覇を成し遂げる。)
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https://gazoo.com/article/car_history/170210_1.html
 そしてそれを実現させるための秘密兵器が、第二次大戦中、中島飛行機の“誉”でついに果たせなかった、あの“ターボチャージャー”なのだろう。(しかもツインターボの構想だろうか?)
(下は連合艦隊司令長官山本五十六大将搭乗の一式陸上攻撃機の撃墜に成功した、双発ターボチャージャー付エンジン搭載のロッキードP38)
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中島飛行機時代に無念にも、“誉”エンジン付きの戦闘機で果たせなかった単座戦闘機における世界頂点の座を、地上を走る戦闘機たるR38×を武器に、モータースポーツの分野で今度こそ世界王座を目指す算段だったのか?(下は中川が中島飛行機時代に設計した誉エンジンを搭載した本土決戦機、陸軍四式戦闘機“疾風”)
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https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13199671163
 ここで脱線というか、一服する。
 これからさらに、“誉”(=戦前の中川及び中島飛行機、創業者の中島知久平を語る事になる)とR38×(=戦後の中川及びプリンス自動車とそのモータースポーツ活動を語る事に繋がる)との関係性を深堀しようとしても、元々“誉”自体が賛否両論あるのはご存知の通りで、迷路に嵌るだけのように思える。
それにそもそもこのブログは、犬(ぼんちゃん)がメイン+自動車のブログで、飛行機を扱うブログではなくこれ以上手を広げるつもりも毛頭ない。
ただこの記事をまとめていく中で、“誉”とプリンスにマツワルちょっと気になった事を思いついてしまったので、本編とは別に、この頁の終わりに“番外編”をもうけて、軽~く、話を二つばかり記して、中途半端にこの“命題?”を終わらせることにする。当然ながら、独断と偏見に満ちた妄想話になると思うので!陰謀論?に全く興味ない方は無視して、どうか興味のある方のみあくまで“余談”程度としてご覧ください!(下はR382用の、GRX-3エンジン)
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https://minkara.carview.co.jp/userid/210141/blog/37384331/
 ここで話を戻すが、中川はレーシングカー用エンジンのチューニング技術において、内に秘めた自信があり十分勝算ありと踏んだようだ。⑧より引用
『レース用エンジンのポイントとなるエンジンの吸気効率を上げるとか、クランクシャフトを磨くとか、吸入ポートの設計などでは、かつて「栄」「誉」をともに研究し、つくりあげてきた戸田泰明博士がいる。戦前、アメリカやヨーロッパのエンジンを調べたが、われわれの方が立派なものができていた。結局は戦争でだめになったが、そうしたきめ細かいことをやるのは、世界でもわれわれのグループが一番だ』(下記画像は“古典航空機電脳博物館”さんより、力強く上昇する疾風)
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https://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/cl-pln/FR047.html
(下は同じく誉エンジン搭載の、川西 局地戦闘機 紫電改。ハセガワのプラモデルのパッケージ)
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http://www.hasegawa-model.co.jp/hp/catalog/st_series/st33/index.html

 しかしここでまた、話の腰を折ることになるが、レーシングエンジンの世界ではその後、大きな技術革新があった。フォード・コスワースDFVエンジンの登場(1966年)だ。写真はDFVの透視図。)
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https://gazoo.com/article/car_history/150403_1.html
(以下wikiより)F2 用に開発した直4 ,1.6ℓ の「 FVA(Four Valve type A)」エンジンを結合してF1用に V8,3ℓ 化したものを「Double Four Valve」の頭文字を取り「DFV」としたのだが、『ダックワースはマルチバルブの考察を更に進め、バルブ挟み角の小さいペントルーフ型燃焼室による高圧縮化・急速燃焼と、シリンダー内の縦の渦流(タンブル流)を利用した充填効率の向上により、レーシングエンジンで高出力と低燃費を両立させる事に初めて成功、これを DFV に適用した。』
(写真はマクラーレンM23に搭載されたDFVエンジン。Wikiより)
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DFVエンジンの登場により、レーシングエンジンは車両全体のパッケージングの一部として、軽量コンパクトかつ高出力、低燃費であるという、一段ハイレベルなスペックが求められるようになった。そしてレーシングカーは次第に、空力特性が重要視されるようになっていく。(下はロータス72フォード コスワースDFV)
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https://www.webcg.net/articles/gallery/35456
 当初の中川の頭の中にあった、いかにもエンジン設計者らしい思想の、 “はじめにエンジンありき” の、いわばエンジンパワーでぶっちぎろうという思想は、当時としてはハイスペックだがオーソドックスな(大きくなる)直6の4バルブDOHCのGR8エンジン搭載のR380が、ポルシェ904~910相手に戦った1960年代の2ℓクラスのレーシングカーの世界では、まだ何とかギリギリ通用したレイアウトだった。(下はニッサンR380-Ⅱと、)
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https://pbs.twimg.com/media/DTr-ID1VwAAAkXV.jpg
(ポルシェ910)
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https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/25/06739ef91f21a41421cc2c84d66783e9.jpg
限界的な小型化設計だったがゆえに信頼性不足に悩まされた“誉”エンジンの反動もあってか、GR8エンジンは戦中のアメリカの航空機エンジンみたいに、無理な小型化は行われず設計されており、事実R380のエンジンは高い信頼性を誇り、ニッサン/プリンスのワークスレーサーたちの信頼も厚かった。だがその半面、大きさと重量面ではどうしても、大きなハンディキャップを背負うこととなった。(画像はこれも“古典航空機電脳博物館”さんよりコピーさせていただいた。有名な“我ニ追イツクグラマン無シ”の電文で知られる、誉エンジン搭載の艦上偵察機「彩雲」)
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https://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/cl-pln/saiun.html
しかし1970年代に入るとすぐに、軽量コンパクトな直4エンジンのコスワースやBMWを用いたレーシングカーが出現、席巻していった。(画像はのちに日本のGCシリーズでも大活躍したシェブロンB19)
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https://www.oldracingcars.com/chevron/b19/
その直6の延長線上の設計で、中川の構想した直6×2のV12、48バルブのGRXシリーズを載せたレーシングカーでは、世界基準ではすでにその大きさ故に滅びた恐竜のごとく、時代遅れになりつつあった(のだと思う。まったくの私見です)。(画像はR382wikiより)
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下は、手前がプリンスR380用に開発されたGR8エンジン。奥がGRX-3。
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https://web.motormagazine.co.jp/_ct/17194286
だがそれも、中川の元々の構想自体が(少なくとも)1962年という、あまりに早すぎたからなのだろう。
 ちなみにここでGRX-3エンジンについて、トヨタ(+ヤマハ)との対比をおこなえば、これも私見だが、プリンス/ニッサン勢に絶えず遅れをとり劣勢だったトヨタ陣営は、5ℓトヨタ7のエンジン設計で、当時最新トレンドであったコスワースDFVをお手本とした軽量コンパクトでハイパワーなエンジンをものにした。これに対して冒険せずに、R380世代の古典的な設計のままで留まったニッサン(実質は旧プリンス)のレーシングエンジンとの比較で、技術レベルはついに、(少なくともコンセプト上は)逆転したと思う。投下した資金量も、トヨタの方が明らかに多かったと思うが、すでに中島飛行機時代の遺産を使い果たしたこともあり、プリンス/ニッサンは進化の幅が少なかったと思う。(全くの私見です。下は5ℓトヨタ7のエンジン)
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http://f1-web-gallery.sakura.ne.jp/cn21/pg104.html
ただ実際のレースとなれば、ドライバーの腕の差(日産側が圧倒的に有利)もあるのでどっちに転ぶかわからないが。(下の写真は1969年の日本CAN-AMに鮒子田寛のドライブで出場したマクラーレン・トヨタ。マクラーレンの市販シャシー(M12)にトヨタ7の5ℓエンジン搭載。当時の内製シャシーとの出来の差故に参考とし、翌年のターボ世代のニュートヨタ7に影響を与えたと言われる。鮒子田はトヨタ製シャシー剛性の低さ、ステアリングの重さを指摘し、「マクラーレンのシャシーだったら69年の日本GPで勝てたと思うと述べており、エンジンの差ではなかったと指摘していた。細谷四方洋も「正直に言うと、5リッターモデル(注;トヨタ内製シャシーの)よりも走りやすかったですね(笑)。非常に完成されたマシーンという印象を受けました」と語っている(wikiより)。)
マクラーレンで”学習”し、新たにエース級の設計者(田中堯)を投入し、過去膨大な資金を投じてきた成果がようやく出始めた結果、70年時点ではシャシー性能も追いつき追い越せの勢いだったように思う。(私見です。)
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https://web.motormagazine.co.jp/_ct/17085805
以上、私見と言うか、まったくの妄想でした。R381以降については、日産3羽ガラスの北野元の記事であらためて詳しく触れる予定です。
以下、R380のエンジン以外の部分は手短に片づけて終わりにしたい!

8.エンジン以外は即戦力目指し、実戦的なアプローチをとった
 エンジンに対しては、プリンス技術陣の“魂”であったため妥協なしで、あくまで“内製”にこだわったが、そのエンジンを載せる、マシン全体の構築に関しては即戦力を目指し、こだわりを捨てて、現実路線に徹して主に海外からの外部調達を頼った。上記、7項の中川の言葉の続きとして、⑥から引用する。
『~こうした背景もあってプリンスはイギリスのコンストラクターに関する知識とつてを持っていた。そのため櫻井がフレームの購入を要請した時、上層部はすぐにブラバムとロータスを推薦している。』
この“上層部”とはやはり、開発部門トップの中川のことだろう。エンジンさえ自力で作ることができれば、シャシーはイギリス製の定評あるレーシングカー専業メーカー(ブラバムかロータス)から調達し、(下の写真はブラバムBT8)
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http://stat.ameba.jp/user_images/ee/77/10069789879.jpg
トランスミッション、ブレーキ等の主要部品類もレーシングカー用として実績のあるメーカー品を調達し組付けて、ボディはこれもフェラーリ(R380の場合250LMあたりを参考にした?ちなみに250LMは今では美術品としてきわめて高価で2015年8月に1760万ドル(当時約21.6億円)で落札されたとのこと)
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https://www.autocar.jp/news/2018/09/02/302629/5/
や宿敵!ポルシェ(同じくポルシェ904<似ているがR380の写真ではない!>)
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http://car.bau-haus.com/?p=1789
あたりを見よう見まねで形を作り(失礼(私見です)!東大の宇宙航空研究所の風洞も用いられたようだが、ポルシェ906のように何か理論的な裏付けがあって形づくられたわけではなさそう?(これも私見です))、あとは櫻井の剛腕で全体を取り纏められるのでなんとかなると目論んだのだろう(これまた私見です)。こうして国産初の、自社製レーシングカーが1台完成する。中川らがそのための事前のリサーチと調達準備を行っていたからこそ、迅速に動けたのだろう。以下②より
『R380の開発がスタートする直前の64年6月、田中設計部長はエンジン設計課の課長であった榊原雄二とヨーロッパへ飛んだ。出張の目的は、キャブレターやタイヤなど部品の調達と、レース関連企業を訪れて当時の最新のレース技術を視察することだった。イギリスではコンストラクター(ロータス/ブラバム)、エンジンチューナー(コスワース)、部品メーカー(ダンロップ/ガーリング/ボルグ・ワーナー)などを訪問して回り、イタリアではボローニャにあるウェバーの本社を訪れて、スカイラインGTの生産に必要なキャブレターを買い付けた。』実に手回しがいい。
以下⑤より引用。
『レーシングマシンの開発において、コントラクターの実力の程はいかに適切な部品を集められるかで判断される。R380の場合、トランスミッションはヒューランド、ブレーキはガーリング、クラッチはボルグ&ベック、ダンパーはアームストロングを使用しているが、いずれも世界の一級品と呼ばれる逸品揃いで、当時のプリンス技術陣の選択眼と交渉能力には驚かされる。』
そして上記6.2で紹介した、エンジン分野における試作能力の高さは、エンジン以外の分野の特殊部品の製作や組付けや、改良においても、中島飛行機時代から引き継いだ試作部門の力が威力を発揮したようだ。⑤より引用『「プリンスは中島、立川飛行機で育った腕利きの作り手が揃っていましたから、スペースフレーム制作にしても、歪の出ない溶接の順序といった職人技はどこにも負けなかった』と櫻井は語る。』
ここでトヨタとの対比をすれば、第3回日本GP(1966年)の2年後の、’68日本GP用にトヨタ初の本格的なレーシングカーとして送り出された3ℓトヨタ7は、ヤマハとの共同開発であったが、試作にあたり経験不足に悩まされた。以下⑨より引用
『415S(注;3ℓトヨタ7の開発コード)の1号機は67年12月26日に完成しているが、磐田工場(注;ヤマハの工場)でわずかな距離の試運転を受けただけで深刻な問題が発生した。ブラインドハンドリベットで留めたアルミパネルが、振動で緩んだり抜け落ちたりしたため、フレーム自体の強度が著しく低下したのである。このリベットはトヨタがヤマハに持ち込んで来たものであったが、使用には幾分の慣れを必要とし扱いを間違えるとそのような問題の起こる代物であった。(下の画像は3ℓトヨタ7)
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https://toyotagazooracing.com/archive/ms/jp/F1archive/experience/features/2004/toyota7/index.html
多くの細かい構造物で形成されているこのフレームで、これらを繋ぐリベットに問題があるとなれば、その影響はボディ全体におよび深刻な影響となる。リベットの打ち直しやサイズアップ、さらには接着剤の応用など、ありとあらゆる方法で手直しをしたものの、この問題の抜本的な解決にはいたらなかった。』
そしてブラバムでは、足回り研究用としてF2用のBT10を購入した。(写真はBT10)
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https://www.flickr.com/photos/tim0854/43086324932
 話をR380に戻す。②によると、ブラバム訪問時に、レーシング・スポーツカーのBT8Aも間近で見る機会があったそうだが、『そして帰国後、R380の開発が本格的にスタートすると、前例が全くない車種だけに、ヨーロッパの似たようなマシーンを参考にしようということからこのBT8Aが輸入され、結局そのスペースフレームがR380の1号車のフレームのベースとして使用されることになる。』そしてここで、R380開発の指揮を執った櫻井が、先進的な技術で知られたロータスでなく、手堅い設計思想のブラバムを選択したことが、エンジンの開発の成功とともに、R380を成功に導く大きな要因となったと思う。そこで次に、櫻井のレーシングカー開発における思想からみてみたい。

9.櫻井の堅実な設計思想と、ブラバムの協力
④より引用『プリンスの場合は、ポルシェ904に負けない性能のクルマをつくる、という明確な目標を立ててスタートした。中心となって設計を進めた櫻井眞一郎には強い信念があった。パワーウェイトレシオをよくすることはおろそかにはできないが、エンジンのパワーを支えるシャシー性能がすぐれていることが最も重要であるというものだ。シャシー性能よりエンジンパワーの方が上回っていると、マシンをコントロールすることが難しくなる。マシンの安全性を確保するためには、シャシー性能が勝っているマシンにしなければならないというのが、櫻井のクルマづくりの原点であった。
当時生産車はモノコックフレームが主流になりつつあり、これを応用すれば軽量化が図れるが、それよりも信頼性が高いパイプフレームを採用することにした。このほうがサスペンションアームをしっかりと固定できるし、フレームの補強が容易である。モノコック構造のものは、まだどこに応力が集中するかわからないところがあった。最初のR380は、たまたま研究用に購入したブラバム製の2シーターカー用スペースフレームを流用して作られた。』

以下②から引用するが、櫻井が、当時戦績では優勢であったロータスでなく、ブラバムを選んだ理由として『ロータスはフレームを構成するパイプの本数が少なく、ドライバーに危険に思え、冷たい感じを受けた。一方ブラバムはパイプが多く、ドライバーの安全を優先した、人間重視の感じがしたから』と語ったそうだ。(写真はブラバムBT8のライバルのロータス23)
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https://en.wikipedia.org/wiki/Lotus_23
⑥からも引用『「私は優れたエンジニアでありながら、冷たい性格のコーリン・チャップマン(ロータスのオーナー)ではなく、ロン・トーラナックのいるブラバムを選びました。」チャップマンが冷たい男だというのは事実で、当時F1に参戦していたホンダの中村良夫は、契約ドライバーが事故死しても平然としている彼の冷たさに怒りを覚えたという。
櫻井が選んだブラバムのロン・トーラナックは、実直な技術者でプリンスの要請を快く受け入れている。そして参戦するレースやエンジンの排気量などを尋ね、ブラバムBT8Aの鋼管フレームを推奨した。』
(写真はブラバムBT8)
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https://en.wheelsage.org/brabham/bt8/pictures/v0fqaw/
さらに驚くべきことに、御大ジャック・ブラバムがR380のセッティングに協力し、何度も来日したようなのだ!!下記の動画、「1966 プリンス R380 櫻井真一郎が語る【Best MOTORing】」の4分40~50秒あたりです。
https://www.youtube.com/watch?v=Y9R8aXFLycI
(下の写真はジャック・ブラバムと設計者のロン・トーラナック)
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https://i.pinimg.com/736x/40/f4/60/40f4607b46fb8f2679f11cd78ea69f17.jpg
動画のナレーションをそのまま引用すれば、『~ちなみに、プリンスとブラバムの親交は深く、ジャック・ブラバムは村山テストコースでプリンスのマシンを何度も試乗したという。』
言うまでもなくジャック・ブラバムはF1世界王座に3度輝いた名手中の名手だ。ブラバム(MRD)とはただ単に、シャシーを売り買いしただけでなく、R380の評価と調整に、世界最高レベルでのアドバイス付きだったわけで、ある時期のブラバムとプリンスはパートナーの立場に近かった?R380の国産プロトタイプレーシングカーとしての成功の影に、ブラバムの強力なサポートがあったことは間違いなさそうだ。この時点で、プリンスR380の、少なくともある一定レベル以上の成功は約束されたようなものだ(私見です)。(下は1959,60年と、二年連続でF1を制した、ミッドシップのクーパーT53)
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http://livedoor.blogimg.jp/mkz/imgs/d/b/dbde53ee.jpg
 その後同郷出身のロン・トーラナックと共に、シャシーコンストラクターのモーターレーシング・ディベロップメント (MRD) を設立。1966(ジャック・ブラバム)、1967(デニス・ハルム)と2年年連続F1王座に輝いた。(下の写真はデニス・ハルム(マシンの中)とジャック・ブラバム)
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http://blog.livedoor.jp/markzu/archives/51870978.html
 なおこの時期のブラバム(ジャック・ブラバムと設計者のロン・トーラナック)は、商売を通じて日本とのつながりが深くなっていた。(以下は主にwikiより)とりわけホンダとの関係は強く、1966年のF2ではホンダ製エンジンを搭載したマシンで、ジャック・ブラバム、デニス・ハルムの2人の手により開幕11連勝を達成。最終戦ではジャック・ブラバムが2位となり惜しくもシーズン全勝は逃すものの、圧倒的な強さを見せた。(写真は1966年のF2を席巻したブラバム・ホンダ BT18)
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https://www.honda.co.jp/sou50/Hworld/Hall/4rrace/345.html
またこの頃、鈴鹿サーキットがフォーミュラカーを日本に普及させようと、ブラバム製フォーミュラマシンを大量購入した。このマシンは後にプライベーターに放出され、日本のフォーミュラレース振興に貢献する。ホンダ関係にも用事があったハズで、それもあって来日していたのだろうか。
 ホンダのF1を主導していたのは中村良夫で、ロータスとの間では大きな軋轢があった。以下wikiより。
『(F1に)当初ホンダはエンジンサプライヤーとして参戦する予定だったのである。フェラーリとBRMは自社製エンジンを使っているため除外、ブラバムとロータスとクーパーにしぼられそのうちのブラバムにほぼ内定。ブラバムのシャシーに載せることを前提にエンジンの熟成が進められた。
1963年秋、ロータスのコーリン・チャップマンが急きょ来日、ホンダ本社に訪れこう言った。「2台走らせるロータス・25のうち1台はクライマックスエンジンを載せるが、もう1台にホンダを載せたい。場合によってはジム・クラークにドライブさせてもいい」と。(下の写真はコーリン・チャップマンを載せてビクトリーランするジム・クラークのロータス 25)
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https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/userstorage/000/035/201/039/1ee5126c62.jpg?ct=a84b84b29280
これを機にコンストラクターはブラバムからロータスに変更され、エンジン開発もロータス・25にあわせて行われた。ところが1964年2月、チャップマンから電報が届いた。「2台ともクライマックスエンジンでやる。ホンダのエンジンは使えなくなった。あしからず」というものだった。となると自社でシャシーを造るしか道はなくフルコンストラクターとして参戦することになった。』コーリン・チャップマンは、ギリギリのタイミングまでひっぱったうえでキャンセルし、他のチームがホンダエンジンを使えないように画策した。ホンダは急遽、シャシーを内製化して参戦することとなった。(下はF1デビュー戦の1964年ドイツGPのホンダRA271(ドライバーはロニー・バックナム))
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https://ehonkuruma.blog.fc2.com/blog-entry-446.html
中村良夫は1940年4月に東京帝国大学工学部航空学科(原動機專修)卒業後、中島飛行機に入社したが、その時の上司が、中川良一だったという。仮に二人は連絡を取り合ったならば、中村の助言がブラバムの選択に影響を与えた可能性があった??(証拠のない、全くの憶測です。)
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https://selfieus.com/tag/%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B9%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A%E5%B7%A5%E6%A5%AD

10.GR8エンジンの源流は、コベントリークライマックスエンジンにあったのか?(10/25追記)
 この⑭の記事を書き終えて、今は次の⑮の記事を書いている途中だが、GT-R用のS20エンジンについての調べ物をしているなかで、手持ちの雑誌で新しい情報に出くわした。書き上げたあとから気付くことをいちいち追記していったらキリが無くなるので普段はやらないけれど、この情報だけは追記しておく。情報元は一時復刊したが、すぐにまた休刊となってしまったモーターファン(イラストレーテッドでない方の、2016.10号)の、「<再録>MFロード・テスト 日産スカイライン2000GT-R」という記事の中の一部分だ(引用⑪とする)。ちなみにこの記事の構成は、1969年6月号のスカイラインGT-Rのロード・テスト記事(大学の先生方や日産の設計者たち;田中次郎、岡本和理、榊原雄二、櫻井眞一郎各氏も出席して、テスト結果を踏まえた座談会を行っている)を、50年近くあとの現代の技術者の目で、こちらも座談会形式であらためて検証する、という内容だ。
見逃せない内容だったため、その一部を引用させていただく。興味のある方はぜひ本書で確認ください。
   S20型エンジン
エンジン設計者 第2回GPで前月の64年6月に、座談も行っている田中次郎さんらがヨーロッパに視察に出かけ、そのときの印象を踏まえてR380の開発に先立ちブラバムBT8A(2座オープン・グループ6カー)を輸入、R380の1号車(R380-1)はそのシャシーナンバーSC-9-64のチューブラーフレームそのものを改造して使ったということなんですが。
シャシー設計者 サスもですか。
エンジン設計者 アームは新製したようですが形状はそのまま、アルミホイールまで流用したようです。海外のサイトでは「R380はBT8AのRebodied」と断じているものさえありました。「プリンス/ニッサン-R380/R381/R382/R383」(檜垣和夫著 二玄社刊注;この記事でも②として引用している)という本の34ページには「ギヤボックス(ヒューランドHD5型)もBT8Aのものを流用した可能性が高い」と書いてあります。ということになるとエンジンはどうなんだろうと。海外の研究サイトによるとプリンスが購入したSC-9-64に搭載されていたのは2ℓのコベントリークライマックス。おそらくFPF(1957年設計のレーシングエンジン、直4・2弁DOHC、1.5~2.8ℓ)だろうということで、断面図や外観図を探して見てみたら、第一印象としてR380用に設計されたGR8型とかなり似ているなと。滅多なことは言えませんが、純粋な私見では、「やったな」って感じでした。

文中のエンジン設計者氏は、この事実を”発見”したとき思わず”ビンゴ!”って叫んだことでしょう。上記でも引用されていた本の②でも『(注;GR8エンジンの設計を担当した榊原雄二)は次にボア・ストロークの検討に取りかかり、当時世界有数のレーシング・エンジンのメーカーであったコヴェントリー・クライマックスが行った実験において、ストローク/ボア比(以下S/B比)の最適値が0.76であるという報告を参考にし、最終的に82.0×63.0mm(総排気量1996cc、S/B比は0.768)と決定した。』という記述もある。手持ちのグロリア用G7型6気筒を、レース用エンジンに仕立て直すのが難しいと分かった時、やはりベースとなるエンジンが必要だったのだろう。(上の写真は、Coventry climax 2.5ltr FPF エンジンで、下はプリンスR380用GR8型エンジン)
GR1.png
(写真はhttps://crosthwaiteandgardiner.com/index.phpより)
GR2.png
(写真はhttps://nissangallery.jp/wp-content/uploads/2016/01/20151107_ghq_304-640x480.jpgより) 引用を続ける。
『(中略)GR8とFPFが似ていると言ったのは設計の基本ポイントです。直4→直6、2弁→4弁と形式もボアスト比もまったく違うんですが、例えばヘッドはどちらも吸排気カム室をヘッドと左右別体の2階建てにしてバルブ挟角と直角にマウント、左右カムカバーは別々です。カム駆動はギヤですが、その特徴的な配列の設計も非常に似ています。
――うーん。
エンジン設計者 座談の中にベアリングキャップの話が出てきますが、メインベアリングキャップを下からだけでなく横からもボルトで締結するサイドボルト式を併用、これもFPFと同じ形式です。あとエンジン前方にウォーターポンプを配置して前方から冷却水を入れて排気側の側面に抜く設計、ドライサンプのオイルパンにぶら下げたスカベンジポンプをワイドスパンの脚で支える設計なんかもそっくりです。
シャシー設計者 まあサスとフレームを改造して使ったくらいですからねえ。
エンジン設計者 第2回GPの直後の64年初夏に設計を始めて65年4月には初号機が完成、しかもG7型とはほとんど共通点がない。
自動車設計者 そういう指摘はこれまでどこかで出たことはありますか。
エンジン設計者 少なくとも自分は聞いたことがないです。今回両方のエンジンの写真や図版を比較して気がつきました。
――68年GPのR381なんかムーンチューンのシボレーV8を買ってきて積んじゃったくらいですからね。「勝つためには手段は問わない」という空気はあったでしょう。
(以上⑪より、後略)』
 この一文を読んで自分なりに感じたこと(感想文?)の第1点目は、この時代のプリンス自動車のエンジン(と設計者たち)には、中島飛行機時代の苦い教訓が十分に生かされていたという点だ。中島飛行機の航空機用エンジンは大きくは、ブリストル社(英)とカーチス・ライト社(米)からの技術導入で始まり、基本技術は両社の流れのなかにあったが、後の自主開発エンジンでは、両エンジンのもつ真のノウハウを会得するに至らないまま、異なる設計思想のエンジンの折衷型(=いいとこどり)エンジンを目指して、それがトラブルと性能不足の原因につながったとの貴重な教訓があった。
 プリンス自動車のエンジン部門の前身の富士精密が、初代プリンス セダン用エンジン(FG4A型)を開発するとき、新山専務が中島飛行機時代の経験(失敗)から、オーナーだった石橋正二郎所有のプジョー202のエンジンをそっくり真似ろと指示したのは有名な話だ。
 またグロリアスーパー6用の、プリンス初の6気筒エンジン開発に当たっても、『当時はまだOHVの時代で、OHCも6気筒も日本にないためベンツの6気筒OHCを参考にしました。こうして完成したのがG7型で、プリンスの独自技術で開発したエンジンではありませんでした』(⑥より、GR8のエンジン設計に携わった牛島孝談)と正直に語っている。しかしこのとき得られた直6エンジン開発の知見は、”某FPFエンジン”を参考に、直6、4バルブ化したエンジンを仕立て直す時、貴重なノウハウとなっていたに違いない。時間の無かったGR8エンジン開発に当たっては、真似するところはそっくり真似して、中途半端な妥協はしないのが”プリンス流”なのだろう。写真はG7型エンジン。(wikiより)
GR3.png
 第2点目は、そっくり真似したところはあったにしても、それでもこれだけ短時間に最新鋭のレーシングエンジンをモノにしてしまうのだから、プリンスにはやはり当時の日本の同業他社には無い、中島飛行機伝来の高度なエンジン設計、試作、それにチューニング技術があったということだ。
 そして第3点目は、プリンスはやるときは中途半端なマネはせず、なりふり構わず勝ちにいくという点だ。このひたすら実戦的で割り切った姿勢が、ドライバー陣の力量の差と相まって、日本グランプリでトヨタを圧倒し続けた理由だったのだろう。
 まとめれば?GR8エンジンの“源流”を辿れば、あるいはコベントリークライマックス社製エンジン(FPF型)に行きつくかもしれないけれど、中島飛行機時代に培った技術と教訓、そして“プリンス自動車の魂”は確かに息づいていると思ったが、如何でしょうか。(以上10/25追記)

さて第3回日本GPがこれで終わり、いよいよ本題の(ようやく!)、国光(“ニッサン”R380-Ⅱ)×生沢(ポルシェ906)の舞台となる、第4回日本GPへと話が進めることにする。
(番外編は追って書込みます。

― 引用元 ―
①:「クルマ界 歴史の証人」プリンス―日産ワークスドライバー 砂子儀一 PART Ⅴ」ベストカー 講談社ビーシー
②:「プリンス/ニッサンR380/R381/R382/R383」檜垣和夫(2009.08)二玄社
③:「時代を移すスーパーメカの系譜 ポルシェ906」モーターファン・イラストレーテッド(2007.05)三栄書房
④:「激闘 ‘60年代の日本グランプリ」桂木洋二(1995.05)グランプリ出版
⑤:「レーシングカーのテクノロジー」モーターファン・イラストレーテッド(2010.01)三栄書房
⑥:「スカイラインGT-Rストーリー&ヒストリー」(2019.04)モーターマガジン社
⑦:「古の日本グランプリPartⅡ」Racing on(2014.05)三栄書房
⑧:「マン・マシンの昭和伝説 航空機から自動車へ 上」前間孝則(1996.02)講談社文庫
⑨:「トヨタ7 その開発から撤退まで」ノスタルジックヒーロー(2007.06)芸文社
⑩:「スカイラインを超えて “伝説のクルマ屋”櫻井眞一郎の見た夢」片岡英明(2012.03)PHP研究所
⑪:「<再録>MFロード・テスト 日産スカイライン2000GT-R」モーターファン(2016.10号)三栄書房
⑫:「フォードVSフェラーリ 伝説のル・マン」A・Jベイム著(赤井邦彦、松島三恵子訳)(2010.09)祥伝社

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マルプーのぼんちゃん

Author:マルプーのぼんちゃん
【ぼんちゃん】
推定年齢12歳(2020年6月現在)ぐらいの、オスのマルプー犬のぼんちゃん。年より若く見える。マルプーではちょっと稀な“キレカワ系”💛 性格は、おとなしくてやさしくて人懐っこくて庶民的?でも対犬ではかなり臆病。散歩だけはたくさん(1日1~3時間ぐらい)させてもらっている。選択の余地なく、毎日おっさんの面倒をみている。
【おっさん】
推定年齢60歳+のシガナイ初老の独身オヤジ。ひょんなことからぼんちゃんと2人で暮らすことになったが、おかげさまで日々シアワセに暮らしている。

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