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⑦デューセンバーグとミラー(アメリカンレーシングカー)

⑥の続きです。(う~、最近書き込むのがますます億劫になってきた・・・)
ここでアメリカの誇りであるデューセンバーグの、レーシングカーとしての歴史と、当時その最大のライバルであったミラーの歴史を簡単にたどってみる。
情報は主にwikiと、「浅井貞彦氏のAtoZ」、
http://www.mikipress.com/m-base/2017/05/post-88.html
「蜷田晴彦氏のクルマの歴史300話」
http://ninada.blog.fc2.com/
「嗚呼 デューセンバーグ」
http://psycross.com/blog2/?p=698
及びカーグラの記事等々よりダイジェストして簡単に辿る。詳しくは原文を参照ください。(画像もそれらよりコピーさせていただきました。)
【デューセンバーグの歴史(レーシングカー編)】
デューセンバーグという名車を世に送り出した人物の名は、フレッド&オーガスト・デューセンバーグという。ふたりは3つ違いの兄弟で、アイオワ州在住のドイツ移民の子孫であった。兄弟は、少年時代からの機械好きが高じて最初に小さな自転車工房を開いた。20世紀初頭の頃である。
高性能のレース用自転車の製作とレースそのものにのめり込んでいく傍らで、新時代の乗り物であったガソリンエンジン自動車に心を奪われていくこととなった。やがて独学で自動車設計の技術を習得し、スポーツカーを作るために1913年、ミネソタ州セントポールでデューセンバーグ・モーター社を設立した。そして兄弟は、舶用エンジンとレーシングカーの設計製作を開始した。
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第一次大戦がはじまると、アメリカが参戦する前年の1916年に、ニュージャージー州エリザベスに移転。合衆国政府と練習機用エンジン納入の契約を交わした。
練習機エンジン製造の実績を買われたデューセンバーグにフランスの高級車ブガッティが開発した、H型16気筒(並列16気筒=直列8気筒を2基、共通のクランクケースの上に並べたもの)900馬力の航空エンジンの国産化という難題が舞い込む。当時アメリカ政府(空軍)は大戦に参戦するため緊急に大型航空機のエンジンを必要としていた。内外のプランを検討した結果、ヨーロッパに派遣した視察団が持ち帰ったブガッティH16型エンジンを採用し、チャールスB.キングがアメリカでの生産に適するように設計変更した“ブガッティ・キング・エンジン”が、エリザベス工場で生産されることとなった。
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デューセンバーグは苦心の末に、ブガッティエンジンの国産化を成し遂げたものの、生産が軌道に乗った途端に終戦。わずか40基の航空エンジンを生産したのみに終わった。
一説によるとこのブガッティH16型航空エンジンのバルブメカニズムをデザインしたと言われるのがスイス生まれの有名な設計家のエルネスト・アンリで、
https://blogs.yahoo.co.jp/zbh91167b503/7905743.html
GPプジョーエンジンなどレーシングエンジンの設計者である。
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https://plaza.rakuten.co.jp/takamino09/diary/200511190000/
結果としてこの空軍プロジェクトとのかかわりは、デューセンバーグのその後のレーシングエンジンの設計に大きな影響を与えたとも言われている。
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河口湖自動車博物館所蔵のH16エンジンのプレートは明らかに「ニュージャージーのエリザベス工場で造られたことを示している。

一方航空エンジンと並行して、大戦中もレース活動は続けられた。
ここでアメリカの自動車レースの象徴であるインディ500の、創成期のころの状況だが、1911年に始まったこのレースの初期に活躍したブランドは、マーモン、ビュイック、マーサー、ナショナルなどアメリカ勢だったが、たちまちのうちにフランスのプジョー、ドラージュ、ドイツのメルセデス、イタリアのフィアットが大西洋を越えて押し掛けてきた。デューセンバーグがインディに参戦を始めた当時の状況だ。
まず1914年、デューセンバーグはエディ・リッケンバッカー(のちのインディアナポリス・スピードウェイ社の社長!)をドライバーとしてインディ500に初参戦、この時は10位に終わったものの、その後デューセンバーグは1924年、1925年そして1927年にインディ500を制覇している。(1922年はデューセンバーグのシャシーでミラー製のエンジン車の勝利だった。)
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そして兄弟のドイツ人の血はついにヨーロッパのGPレースへの挑戦を思い立たせた。
1921年7月、ル・マンのサルテ・サーキットで開催されたフランスGPに参戦したアメリカ人ジミー・マーフィーの乗るデューセンバーグが、3段ギアボックスのハンディにもかかわらず、直列8気筒のあふれるばかりのパワーと強力な油圧ブレーキの威力で、バロー、サンビーム、フィアットらの本場ヨーロッパ勢を圧倒、アメリカ車として初の優勝を成し遂げたのだ。(この後アメリカ車がヨーロッパで勝利したのはダン・ガーニー率いるイーグル・ウェスレークによる1967年のイギリスGPにおける勝利で、46年後の事だった。)
https://news.yahoo.co.jp/byline/tsujinohiroshi/20180116-00080527/
ちなみにこの時代までは、インディとヨーロッパのレギュレーションが同じだったので、相互に行き来できた。

【ハリー・ミラーと、そのレーシングカー】
デューセンバーグの話はここでいったん置き、発端はデューセンバーグとかかわりがありながら、その後アメリカン・レーシングカーの世界でデューセンバーグをしのぐ存在となった、ミラーについて、触れておく。
(画像は以下から、以下の文はカーグラ、gazoo、ホンダのミラーの記事その他より編集)
http://www.milleroffy.com/
https://gazoo.com/article/car_history/170224_1.html
https://en.wikipedia.org/wiki/Harry_Miller_(auto_ra
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1875年にウィスコンシン州で生まれたハリー・ミラーは、19歳でロサンゼルスに移住すると、メカニックとして働いた経験を生かし、独学で機械工学を身につけ、次第に高度な機械の開発に熱中するようになってきた。キャブレターの改良に取り組み、1909年に特許を取得し、キャブレター事業は拡大していく。
そしてデューセンバーグのH16型航空エンジンのキャブレターと燃料ポンプを受注、ミラーと工場長のオッフェンハウザーはその設計をつぶさに学んだ。
彼のキャブレター事業のレース面への関与は、最初は整備と修理から始まった。
彼の店で整備されていたデューセンバーグとプジョーのエンジンを含む複数のエンジン設計に触発されて開発された、排気量4.7リッターのOHC4バルブを備えた直列4気筒エンジンは、各地のレースやバーニー・オールドフィールドの速度記録挑戦車に用いられ、レース業界で知られるようになってきた。
そして3リッター規格フォーミュラに向けて、ミラーはDOHC4バルブ直列8気筒車の開発に取り掛かったが、設計開始が遅かったため、このエンジン搭載車のデビューはデューセンバーグにと遅れ、1922年にずれ込んでいた。
しかしデューセンバーグのエースドライバーであるジミー・マーフィーは、エンジンに関してはデューセンバーグ製よりミラー製の方を評価していた。
彼は1922年のインディ500に、前年のACF・GPで優勝した後,買い取って自分の物としたデューセンバーグのシャシーに、ミラー製の直列8気筒エンジンを搭載するレース専用車で出場することにした。
一方マーフィーと並ぶ、当時のアメリカの2強で、先輩レーサーであったトミー・ミルトンも、自身が製作した特製シャシーにミラー製エンジンを搭載するレース専用車で出場することにした。そしてこの年はマーフィーが勝利した。
このミラー製3リッターDOHC直列8気筒エンジンは高い評価を受け、計183基が販売されている。
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そしてその後、ミラーは次第にデューセンバーグを圧倒、インディ他のアメリカのレースで無数の勝利を重ねていった。
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特に1.5ℓレギュレーション時代の“91”は無敵で、1926年から1929年のほとんどのアメリカのレースの勝利を独占した。
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1929年、レースの本場ヨーロッパに持ち込まれた2台の91はモンザGPにエンター、ラップレコードを更新するなどその速さで驚かせた。
この2台は3台のタイプ43ブガッティと交換の形でエットール・ブガッティに譲り渡される。そしてブガッティはこのミラーをモールスハイムの自社の工場に運び、当時設計中のDOHCエンジンの参考にした。以下、「浅井貞彦氏のAtoZ」より(画像もコピー)
『< Type51 GP/Type51A GP >  1931-35 40台 
1930年ブガッティは「Type50」で、長年エットーレが拘(こだわ)ってきた美しい形を守るための「SOHC」を捨てて、遂により効率の良い「DOHC」を採用した。そのきっかけとなったのは1929年9月のモンツァGPに参加するためアメリカからやって来た「ミラー」が資金難となり手放す事になった際、ブガッティが「T-43」3台+帰りの旅費と引き換えに8気筒DOHC 1.5リッター・レーシングカー2台を手に入れた事だった。このエンジンは同じ1.5リッターながらブガッティT-35Bの120~130hpに対して40 %も上回る馬力を引き出しており、そろそろアンダーパワーを感じていたブガッティに大きなヒントを与えた。そして1年半後には「T-51」のツインカム・エンジンとして登場する事になった。
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8気筒 DOHC スーパーチャージャー付きで「Type51」は1991ccと2262cc,「Type51A」は1493ccとこのシリーズには3種の排気量があり160~180hpの出力は大いに戦闘力を増した。この車はモナコGP、チュニスGPの優勝をはじめ、目覚ましい活躍で全盛期を築いた。』

ここで、ブガッティのH16型エンジンを学ぶことから始めたミラーが、今度はブガッティに技術で返す、一つの環が出来上がったのであった。
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上の写真のように、ミラー車は、高い品質に裏打ちされた、まるで精巧な時計のようなDOHC8気筒4バルブエンジンの“精密感”がものすごい。
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話を当時のインディ500に戻す。
世界大戦後のインディ500の、第7回から1930年の第18回大会までの優勝車と優勝ドライバーの一覧は下のとおりだが、第10回以降はミラーとデューセンバーグによる2強時代に突入し、しかもミラー優位の状況がわかる。(蜷田晴彦氏のクルマの歴史300話、より)
【回数】 【年次】   【優勝車(ドライバー)】
◎第 7回 1919年:プジョー(ハワード・ウィルコックス)
◎第 8回 1920年:フロンテナック(ガストン・シボレー)
◎第 9回 1921年:フロンテナック(トミー・ミルトン)
◎第10回1922年:ミラー+デューセンバーグ(ジミー・マーフィー)
◎第11回1923年:ミラー(トミー・ミルトン)
◎第12回1924年:デューセンバーグ(コラム+ボイヤー)
◎第13回1925年:デューセンバーグ(ピーター・デ・パオロ)
◎第14回1926年:ミラー(フランク・ロックハート)
◎第15回1927年:デューセンバーグ(ジョージ・サウダース)
◎第16回1928年:ミラー(ルー・メイヤー)
◎第17回1929年:ミラー(レイ・キーチ)
◎第18回1930年:サマーズ・ミラー(ビリー・アーノルド)
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ミラーは写真からも、当時のレーシングカーの中で際立って、高品質に見える。

ちなみにここでまたまた横道にそれるが、第一次世界大戦による中断を挟んで、ヨーロッパ車に屈辱的な5連敗を重ねてきたアメリカ車が、ようやくにして優勝カップを手に入れることができたのが1920年の、実はデューセンバーグでもミラーでもなく、ガストン・シボレー駆るフロンテナック車で、このクルマを設計したのはガストンの兄のルイス・シボレーであった。
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現在GMの最量販ブランドの“シボレー”を創業したルイス・シボレーその人だ。
もともとレーサー上がりのルイス・シボレーには経営の才覚が全くなく、自分の仲間と信じていたビリー・デュラントに会社を乗っ取られ、再びレーサーに戻っての優勝であった。
フロンテナック・モーター・コーポレーション(Frontenac Motor Corporation)は、ルイス・シボレー、ガストン・シボレーとの共同設立によるレーシングコンストラクターで、ルイスは1915年にシボレー・モーター・カンパニーを去り、インディ500レースに復帰した。初年度はコーネリアンに乗ったが、翌年の1916年には自分たちの設計による車両に乗った。
会社名の“フロンテナック”は17世紀にフランスがアメリカ北部に植民地を作った際の統率者の名前である。フロンテナックのレースカーは1916年、1917年に活躍したが、第一次世界大戦で一時レースが中断し、その再開から1921年のシボレー兄弟引退の年まで再び活躍した。(ガストンが前年1920年にビバリーヒルズで行われたレースで事故死していた。)

話を戻すが、ミラー独占に近いこの状況に対して、いかにしてインディ500を国民的行事に育成できるかを、常に考え続けていた、インディアナポリス・スピードウェイのオーナーである、エディ・リッケンバッカーは、レース参戦メーカーが少なくなっている現状に危機感を抱くようになり、市販車を改造するストックカーが出場しやすくなることを考えた。
そこで、レース規格を改訂して、エンジン排気量制限を6リッターまで引き上げる一方でスーパーチャージャーの使用を禁止し、レース専用車を排除する目的でメカニック同乗制度を復活させた。
こうして生まれることになった市販車ベースのレーシングカーは、のちにがらくたを意味する“ジャンク・フォーミュラ”と呼ばれるようになるが、リッケンバッカーの意図に反して、ミラーの強さは揺らぐことなく、アメリカの自動車レースはミラーのひとり勝ち時代を迎えるのであった。インディ500を走るマシンの4分の3以上がミラーのエンジンを搭載していたこともあったという。さらにミラーは前輪駆動のレーシングカーを設計するなどの野心的な挑戦を続け、数々のスピード記録を樹立した。
結局ミラーは、インディに1923,26,28,29,30,31,32,33,34年と9回優勝、うち28年からは7年連続の勝利となった。
また1920年代から1930年代にかけて、ミラー製舶用エンジンはスピードボートの世界でも数多くの勝利と世界記録を樹立した。
だが志高く、常に最良のレーシングエンジンの開発を心がけてきたミラーだったが、多くの例にもれず、商売と両立することは難しかった。ミラーつぶしともいえる“ジャンク・フォーミュラ”発足に失望し、さらに大恐慌のあおりを受けて、1933年、ミラー社は倒産してしまう。
その後のミラーだが、工場を手放したのち、のちにあの有名な、安全を重視した画期的な乗用車、通称タッカー・トーピードの量産を目指し挫折したプレストン・トマス・タッカーとともに、Miller and Tucker、Incを作り、ヘンリー・フォードの援助を得てミラーとフォードが共同で手がけた、“フォード・ミラーV8”を完成させる(1935年)。ミラーが設計した市販車ベースのマシン(“セミストック”と呼ばれる)に、フォード製の3.6リッターV8ユニットを搭載。前輪駆動、四輪独立懸架、着座位置の低いボディが注目を集めた。
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さらに1939-41年にはガルフ・オイルのスポンサーシップのもと6気筒3ℓ、ミッドエンジンの4輪駆動車をインディに走らせたが、いずれも成績は振るわなかった。
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なお、エグゼクティヴ・プロデューサーがジョージ・ルーカス、監督はフランシス・フォード・コッポラという豪華メンバーによる製作で映画になった、タッカーと彼の“タッカー・トーペード”だが、実はその先進的なアイデアの多くがハリーのアイデアであったとも言われている。
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1943年にミラーが亡くなると、タッカーはミラーの未亡人が葬儀代を払うのを助けたという。
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一方、ミラーの工場長であったフレッド・オッフェンハウザーは、破産したハリー・ミラーから工場や設備、設計図などを買い取り独立、ミラーの事業を実質的に継承していった。ミラー工場以来の盟友の設計者レオ・グーゼンとともに、ミラーが設計した船舶用エンジンをベースに改良を加えた直列4気筒エンジンを製作、アメリカのレース界で大きな成功を収めた。この名機、オッフェンハウザーエンジンはその後、親しみを込めて“オッフィー”と呼ばれて、60年代前半までインディ・カーの世界で圧倒的なシェアを占め、数多くの勝利を掲げていく。
続く⑧では脱線続きで、オッフィーエンジンと、インディで優勝寸前まで迫ったタービンカーについてごく簡単に触れて、その後⑨でデューセンバーグの結末について、まとめる予定です。

⑥デューセンバーグがアメ車史上最高価格を更新!

デューセンバーグがアメ車史上最高価格を更新!
2018年8月24日、場所はカリフォルニアのペブルビーチで行われたグッディング&カンパニー主催のクラッシックカーオークション会場でのことだ。
『数百人が詰めかけ、えも言われぬ緊張感と高揚感に包まれた会場が、一瞬静まり返る。
「トゥエンティ・ミリオン・ダラーズ!ソールド!!」コンダクターのひと際大きな掛け声とともにハンマーが振り下ろされると、全員が立ち上がり地響きのような歓声と拍手が巻き起こった。』

『手数料を含め2200万ドル(およそ24億8000万円)。それはまた、オークションでのアメリカ車の最高取引価格が更新された瞬間でもあった。』(Vmagazineより)
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競り落とされたのは1935年製のデューセンバーグ モデルSSJ。今回はこの車にまつわる話をしたい。
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自分が偶然、このデューセンバーグ モデルSSJそのものの写真&記事を初めて目にしたのは、カーグラの1969年8月号(たぶん、表紙は捨ててしまったので)で、今から50年近く前のことだった。カーグラは1969年8月号から、当時小学5年生だった自分が、少ないオコヅカイの中から意を決して定期購読し始めた。初めて自分で買った自動車雑誌にのっていたデューセンバーグの記事を見た瞬間が、クラッシックカーというものを初めて意識してみた瞬間でもあった。
長いけれども、そのカーグラの記事より抜粋する。ここで書かれた高島鎮雄さんの文章に、クラシックカ―について、右も左もまったくわからぬ自分は魅かれていった。(*部分は省略箇所)
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『今日では、映画スターがあまりいい車を乗り回さなくなったようである。*しかし第二次大戦前、それも1930年代の初めまではそうではなかった。スターは文字通り銀幕のヒーローでありヒロインであり、富豪であり、大衆と交わることなく上流階級に住み、そこの空気を呼吸していた。』
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https://es.wikipedia.org/wiki/Duesenberg_J
『彼らはその名声と富とを象徴するかのようにまるで宮殿のような大邸宅に住み、贅を尽くしたカスタムコーチワークの超高級車を乗り回していたのである。』
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http://racingcar.ready.jp/wp-content/uploads/2015/07/1934-Duesenberg-J-Walker-LaGrande-C.C.-Convertible-Coupe.jpg
『*なんといっても1930年代の初期にハリウッドスターたちにもっとも愛用された車はデューセンバーグであったろう。今思いつくままに、デューシーのオーナーだったスターの名を拾ってみても、クラーク・ゲイブル、ゲイリー・クーパー、タイロン・パワーがいる。』
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https://en.wikipedia.org/wiki/Duesenberg_Model_J
『*しかも“Mighty Duzy”は男性の中でも特に男性的なスターの専有物だったかと言えばそうでもなく、スウェーデン生まれのグラマー、グレタ・ガルボはフェルナンデス・エ・ダランに2万5000ドルでキャブリオレ・ボディを作らせたモデルJを乗り回していたし、メイ・ウェストはボーマン・シュワルツ・ボデイのコンヴァーティブル・クーペを持っていた。』
ちなみにフォードモデルAが450ドルぐらいだったころの時代の話だ。下の写真は珍しくボディをロンドンのガーニー・ナッティングが架装したもの。
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下の写真は2013年公開の「華麗なるギャッツビー」の劇中で、ディカプリオの愛車として登場するモデルJ
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【2020.08.15追記】 この下の黄色のクルマ、「シーザー・ブログ2」さんによると、
https://ameblo.jp/caesar2222/entry-12610159708.html?frm=theme
『この個体自体は、1983年に作ったレプリカで 映画のために購入したんだけど、エンジンは、FORDだし、知ってると盛り上がれない』・・・モデルJに似せて作ったレプリカだったようです。訂正します。

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『デューセンバーグにはアメリカのスターや富豪と同時に、幾多のギャングスターたちもその早い逃げ足とすごみのあるスタイルにほれ込んで乗った。』
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『そればかりでない。ヨーロッパではスペインのキング・アルフォンゾⅧ、イタリアのキング・ヴィクトル・エマニュエル、ユーゴスラビアのクイーン・マリー、ルーマニアのプリンス・ニコラスといった王侯も愛用していた。』 ウィンザー公も所有していたという情報もある。迫力あるルックスは、王侯貴族の方々にも人気があったようだ。
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上の写真は総体銀色に塗られているSJ
https://minkara.carview.co.jp/userid/2258614/blog/m201705/
『*中でも、デューセンバーグといえばまず思いおこされるのはゲイリー・クーパーとクラーク・ゲイブルのふたりであろう。ともに他界して過去の人となったこのふたりは、ある意味ではライバル同士であったかもしれないが、実際にはまったく性格を異にしていた。しかし、たった一つだけ、このふたりに共通していたのはともに車好きで、しかもデューセンバーグに傾倒していたということである。デューセンバーグをクーパーはまちがいなく3台持っていたし、ゲイブルも少なくとも2台は持っていたはずだ。』
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1930年、ゲイリー・クーパーとモデルJ
https://heritagemuseumsandgardens.org/automobile/1930-duesenberg-model-j-derham-tourster/
これはクラーク・ゲイブルのモデルJ
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『しかもふたりは、全部で470台そこそこしか作られなかったJシリーズ、さらにそのうちでも36台しか作られなかったSJの中でも特に珍しい、2台しか作られなかった珍しいモデルを1台ずつ所有していたのである。それがここに紹介する1936年のウルトラショート・ホイールベースのSSJ(Short Supercharged J)である。』
特にこの終わりの箇所の、畳みかけるような“特別なもの感”がものすごい。この記事を読んだのはまだ小学5年生。しかしいかにクラシックカーの知識ゼロの無知なコドモでも、この車が特別レアなクルマであることぐらいはわかる。
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この、凄みのある、ワルなルックスのクルマをひとめ見た時、小学5年生は、はたして何を連想したのだろうか?
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答えは、当時大人気で自分も映画館で見たディズニーアニメ「101匹わんちゃん大行進」に出てくる悪役、“クルエラ・ド・ヴィル”の乗る恐ろしいクルマであった!
ご承知の通り、映画自体はダルメシアンの賢い犬が主人公だ。
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https://www.youtube.com/watch?v=5_vtYsZ6wpk
以下、「【ツムツム】クルエラのスキル」さんより
http://xn--dckvbl4bao4a0nb4msf7190e85ub914c.com/201601/Cruella_skill.html
『『101匹わんちゃん』に登場する非情な悪女で、本名は『クルエラ・ド・ヴィル』。有名なデザイナーですが、目的のためには手段を択ばない性格で、ダルメシアンの子犬たちから毛皮を剥ぎ取ってコートを作ろうと企んでおり、手下のジャスパーとホーレスに命じて子犬を誘拐させます。』
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https://shinshin2323.blog.so-net.ne.jp/upload/detail/m_2014-07-04_145059.jpg.html
この“クルエラ”、今見ても怖そうなルックスだ。
これが、たとえばトヨタ博物館所蔵のSJのような、温和なルックスならば、連想もまた違っていたかもしれない。
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しかしこの“クルエラ”おばさん、今では一部で人気のキャラらしい。
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話を戻して1969年当時の日本においてアメ車は、ほんの数年前まで役所のバックヤードに米軍払い下げの50年代のアメ車の公用車がたくさん残されていたが、当時の高率な輸入関税もあり、それらも国産のクラウンやセドリックに置き換えられ、米軍基地周辺はいざ知らず、ハイヤーとかを除けば、アメ車自体を見る機会はグッと少なくなっていた。まして戦前のアメ車を見るのは皆無に近かった。つまり、実車のクラシックカーを映画以外で見たことがなかったのだ。
一般の日本人に、クラシックカーを見る機会が初めて与えられたのは、1971年に開催されたクラシックカーの展示会、「世界クラシックカー・フェスティバル」が初めてではなかっただろうか。
1400台という膨大な収拾を誇る、当時世界最大の自動車博物館、ネヴァタ州リノのハーラーズ・オートモビル・コレクションより選ばれた30台が、はるばる太平洋を渡って東洋の島国までやってきたのだ。
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https://minkara.carview.co.jp/userid/1710370/blog/30583035/
東京晴海、名古屋、大阪で開催されたが、カーグラが後援(たぶん)していたこともあり、自分も晴海に見に行った(入場料はそれなりに高かった記憶がある)。
ただハーラーズのクルマは、カーグラで以前から指摘していた通り、完璧なレストレーションが高じて磨き込みにやりすぎ感があり、せっかくの“実車”なのにリアリティーに欠ける点が多少あった。(大きなプラモデル感があった。)
この“来日”した30台の中に、デューセンバーグも含まれていた。
『赤いSJスピードスターのカットアウトを開き、タイヤを鳴らして恋人の家の玄関に乗りつけることは、当時の若者の見果てぬ夢だった』とは、小林彰太郎さんの名文句で、まさにその真紅なSJスピードスターだったのだが、たまたまこの車は当時のカーグラの記事のように『フェンダーはいささかモダーンに低すぎるし、上細りのウィンドシールドはデューセンバーグらしからぬ。』『軽い失望を味あわされた。』とデューセンバーグらしからぬ押し出しの弱い、魅力薄な車だったと正直に告白していた。
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※年間50本の目標達成のため、せこく記事を小分けにします!以下、その⑦に続きます。

プロフィール

マルプーのぼんちゃん

Author:マルプーのぼんちゃん
【ぼんちゃん】
推定年齢12歳(2020年6月現在)ぐらいの、オスのマルプー犬のぼんちゃん。年より若く見える。マルプーではちょっと稀な“キレカワ系”💛 性格は、おとなしくてやさしくて人懐っこくて庶民的?でも対犬ではかなり臆病。散歩だけはたくさん(1日1~3時間ぐらい)させてもらっている。選択の余地なく、毎日おっさんの面倒をみている。
【おっさん】
推定年齢60歳+のシガナイ初老の独身オヤジ。ひょんなことからぼんちゃんと2人で暮らすことになったが、おかげさまで日々シアワセに暮らしている。

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