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ふだんのぼんちゃん(その43)

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手(足?)がかわいい~

ふだんのぼんちゃん(その41)

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かゆいなぁを、上から見たところ。

ふだんのぼんちゃん(その40)

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やたらと顔が大きく見えますが、実際は小顔です。

選択の余地なく・・・(その13)

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(おっさんが聞き耳たててるから、オチオチ寝言も言えない・・・)

ふだんのぼんちゃん(その39)

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かゆいなぁ・・・
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スッキリ満足~
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ふだんのぼんちゃん(その38)

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いつものぼんちゃんです。
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ふだんのぼんちゃん(その37)

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ウォーミングアップ!
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隅っこが落ち着くみたい
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「猫や犬には「魂」が見える?(ぼんちゃんも??)

当ブログの“犬のページ”は、ぼんちゃんの写真をペタペタ貼り付けて、それに短いコメント?を添えるだけだが、たまには毛色の違ったものとして、今、犬好き猫好きの方々の間で話題になっている(たぶん)記事を紹介する。ただ内容からして“その他”ジャンルとして紹介します!
“世界の裏側ニュース”さんより、「猫や犬には「魂」が見える?人間には見えないものが見えていることが科学的に確認される」より、以下引用(例によって引用部分は青字にしています。引用先の方をぜひ確認ください)。
https://ameblo.jp/wake-up-japan/entry-12450527170.html
https://www.higgypop.com/news/can-pets-see-ghosts/
『あなたの犬や猫には、あなたには見えないものが見えている、と感じたことはありませんか?新しい研究によれば、その考えは正しかったようです。その研究によると、猫や犬、その他の哺乳類には紫外線が見えているため、(ヒトとは)まったく異なった世界が開けている、ということです。』
『人間は赤から紫の可視光線が見えていますが、紫外線はその範囲を超えた波長です。人間の目には、紫外線が網膜まで到達しないようにブロックしているレンズがあります。以前は、ほとんどの哺乳類には人間と同様のレンズがあると考えられていました。
科学者らは猫や犬、猿、パンダやハリネズミ、フェレットなどの死んだ哺乳類のレンズを調べました。レンズを通過して網膜まで到達する光の範囲を調べることで、これまで紫外線を見る能力がないと思われていた一部の哺乳類には、実は紫外線が見えていたという結論が導かれたのです』

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同記事によれば、イギリスのロンドン大学シティ校の生物学者数名が数年前に実験を行い、人間は網膜の構造上、見ることができない紫外線やその他のいくつかの光線を、犬や猫はそれを視覚としてみることができるということを、証明しているとのことだ。
この事実から、話はさらに奥へと進んでいく。
『しかしこの現象に関しては、抽象的な思考の領域にまで食い込む、もっと深い何かがあると私は考えています。』
『私は妹と一緒に、ペットの猫にそこに居ないものが見えているかどうかを確認する実験を行ったことがあります。猫たちは、私たちには見えないものに向かって手を出したり、鳴き声を出したり、あるいは威嚇や変な音を出すことがあります。』
『猫のそういった行動が最も強く起きたのは、私の祖父が他界した直後のことでした。ダブル・スタッフという名前の我が家の猫は、空中を叩くように動き、とても変な鳴き声を出し、そして部屋中を何かを追うかのように走っては、空中にジャンプしようとし、天井にあるこの「何か」を見つめていたのです。
それはまるで、魂か実在物の一種が天井辺りに浮かんでいて、猫だけがそれを見ることができたかのようでした。』

ここに書かれている事は、今まで自分がぼんちゃんと暮らしてきた中で、思い当たるふしがある。
マレではあるけれど、ぼんちゃんが部屋の中の一点を見つめ、野太い声で“わん”と一声吠えることがある。興奮したり嬉しかったりしたとき以外、ぼんちゃんはむやみに吠える犬ではなく、その場合でも連続して“わんわん”と吠えるのだが、威嚇するように、しかもぼんちゃんとしては珍しい低い声で?一声吠えるということは尋常ではない。
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自分は最初、ストレスでも溜まっているのかなと思ったが、その後観察して、ぼんちゃんは一点の何かに向かって吠えていることから、自分には見えない何かに向かって吠えていると、密かに思っていた。上記の記事はこのことを裏付ける。ぼんちゃんには自分(ちなみに霊感力はほぼ無いです)には見えない世界が見えているのだ。
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さらに、人間と動物との関係について、まったくハタケの違う本だが、佐藤優さんと副島隆彦さんの対談本「激変する世界を先読みする」で、本書は高評価のAmazonレビューにあるように、素晴らしい内容なのだが、
https://www.amazon.co.jp/%E6%BF%80%E5%A4%89%E3%81%99%E3%82%8B%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%82%92%E5%85%88%E8%AA%AD%E3%81%BF%E3%81%99%E3%82%8B-%E5%89%AF%E5%B3%B6-%E9%9A%86%E5%BD%A6/dp/453726201X
その文末の方で、動物(本書の場合は猫)と人間(副島さんと佐藤さんご自身)との関係について、その思いを熱く語っている。
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見た目どう見てもイカツイお二人が、猫について熱く語りあっているのが、失礼ながら、何だかとてもユーモラスでもあるのだが、以下引用させていただく。(途中はかなり強引に省略しているので、興味のある方はぜひ本書を買ってお読みください。)
『(副島)~人間は、牛とか豚とか鳥とかを大量に殺して、何百億頭も死ぬほど食べてきた。動物をいっぱい食用にして殺してきた。それなのに、自分だけは長生きしたい、と言います。人間様だからです。これを人権、ヒューマン・ライツと言います。
なんでヒューマン・ライツで、人間ばかりがそんなに尊いのか。いい加減にしろ、と私も本気で思いますよ。』
『(副島)私は15年ぐらい前にウールーという猫を飼っていました。交通事故でバーンとはねられて死んじゃった。奥さんに「あなたが外に出すからよ」とワーワー叱られました。
そのウールーちゃん(heureu フランス語でハッピーの意味)と私が、じっと、にらみ合いをしていた時に私に向って言いました。
「よくも去勢しやがって、このキチガイ猿。覚えとけ。そのうちにキチガイ猿の時代は終わる。俺たちの時代が、また来るんだよ」と、本当に私に言いました。私ははっきりと聞き取りました。
(佐藤)面白いですね。』
『(副島)猫には猫の賢さがあって、私は猫からいっぱい学んでいます。猫は人間より賢いです。
(佐藤)私も人間よりも猫の方を信頼しています。人間との間で確立した信頼関係は、猫と比べると脆い。
私が特捜に逮捕されて一番つらかったのは、信頼していた外務省の上司や同僚が、検察に迎合して、私を陥れる供述をしたことを供述調書で読んだ時です。彼らは私に悪意を持っていたわけではない。でも、検察の圧力にさらされると、迎合してしまう。
この経験から、私の猫に対する信頼感は増大しました。猫が検察庁に行って調書を書いて、署名、指印とかはしません。だから、やはり猫の方が信頼できる。
猫からは人間を裏切ることはありません。人間が猫を捨てたりして、裏切ることはあります。人間は何をやるか、わかりませんから。
(副島)だから、人間はキチガイ猿だって……。』

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実はこの一文が、この対談本のエンディングでもあるのだが、人類としての進化の最先端に近い?お二人のような境地には自分はまだ達していないが、このことも、ぼんちゃんと暮らしていて、思い当たることはある。
ある晩ぼんちゃんの寝言で夜中に目覚めたことがあったが、ぼんちゃんの寝言に聞き耳をたてていると、たまに、人間の言葉のように思えてしまうことがある。ただ副島さんのように、“進化”を遂げていないため、その内容を聞き取ることはできていないが。もっとも最近は、寝言を何とか聞き取ろうと、あまりにそばで聴き耳をたてるので、気配を察したぼんちゃんに嫌がられ、別の場所に逃げられてしまうのだが。
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またぼんちゃんと公園に散歩に出かけたある時、幼い子供が近寄り、自分の家で飼っている犬の××ちゃんは本当は人間なんだよと、教えてくれたことがあった。物事を素直に受け止めるのに子供には、わかっているのだろう。
因みにスピリチュアル系のサイトでほとんど唯一、自分が参考にしている、希野正幸さんのブログによれば、人類が今の三次元から五次元に進化を果たしたとき、犬や猫と会話できるようになるとのことだった。しかし金(ゴールド)はその時、ただの金属になるそうです……。

⑨デューセンバーグとオーバーン、コード(その終焉まで)

デューセンバーグとオーバーン、コード(その終焉まで)
さて、デューセンバーグについての話題を早く終わりにしないと、新しい話題に進めない。そこで
「乗り物ライター矢吹明紀の好きなモノ」さん、
https://ameblo.jp/akiyabuki/entry-10505226335.html
「クルマの歴史300話」さん
http://ninada.blog.fc2.com/blog-category-43.html
「M-BASE」さん、
http://www.mikipress.com/m-base/2017/05/post-88.html
http://www.mikipress.com/m-base/2017/06/55-2.html
「嗚呼 デューセンバーグ」さん、
http://psycross.com/blog2/?p=698,
その⑥で引用した高島静雄さんによるモデルSSJの記事他カーグラの記事、gazoo、wiki等を基に、それらをごちゃまぜにしてつなぎ合わせて!かなりのやっつけ仕事だが最後(倒産)まで、何とかまとめてみた。いつものように、そのまま引用した部分は青字で書いています。詳しくはオリジナル(引用元)の方をぜひ参照してください。

(その⑦の前半部分(デューセンバーグのパート)の続きです。)大戦が終わるとデューセンバーグ社はインディ500の地元、インディアナ州インディアナポリスに移転した。第一次世界大戦中、アメリカ政府向けに苦労して航空機エンジンの生産を軌道に乗せたデューセンバーグだが、戦争が終結すると政府からの注文は途絶えてしまった。
レース専用車の生産だけでは利益が期待できないので、デューセンバーグ兄弟は市販車の開発を進め、1920年12月のニューヨーク・ショーで初の乗用車、“モデルA”がデビューする。アルミニューム合金ピストンを採用して、最高出力100HPを発揮する排気量4.2リッター、直列8気筒SOHCという、当時のレーシングカーさながらの高性能エンジンを搭載した、高級乗用車だ。
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このクルマが採用した直列8気筒エンジンは当時のアメリカでは珍しく、また世界初の4輪油圧ブレーキ採用など最新技術の塊ともいえるクルマの誕生を、自動車ジャーナリストたちは一斉に取り上げた。
しかし1922年のジミー・マーフィーによるインディ500における初勝利等、すばらしいレース成績や数々のスピード記録を誇るデューセンバーグであったが、期待に反してモデルAの売れゆきはかんばしくなかった。残念なことにスタイリングが平凡で、そのポテンシャルに相応しいものとは言えず、その価格も、高級車の定番であるパッカードでさえ5000ドル前後で買える時代に6500ドルと極めて高価だったから、その後5年間造られたが、ビジネス的には成功とはいえなかった。
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不振の一因として、ヨーロッパの顧客は、レース専用車としての優秀性が、高い技術水準を象徴するものと受け止めるのに対して、高価なモデルA(当時のアメリカで2番目に高価な車種だという、wikiの記述もある)を買えるような裕福なアメリカ人にとっては、デューセンバーグのレースにおける輝かしい戦績が、さしたるステイタスとは映らなかったかららしい。
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確かに地味な外観だ。
多額な投資をして開発したクルマが売れないので、航空機用エンジンの生産で蓄積した資金もたちまち底をつき、経営不振に陥り、ついに銀行管理を受ける羽目に陥った。
しかし1926年、コード社・オーバーン社など複数の自動車メーカーを経営していた実業家エレット・ロバン・コードが救いの手を差し伸べる。デューセンバーグ兄弟の才能を高く評価していた氏は、合併吸収する事なく株式の大半を取得し傘下に収める事で会社を存続させた。そして自ら社長に就いたが、デューセンバーグ兄弟は会社に残って技術部門の責任者の役割を継続することになった。
新社長のコードが最初に下した決断は、モデルAよりもっと豪華な、もっとスタイルがよい新型車を開発するよう、兄弟に指示を出すことであった。第一次大戦後、アメリカ合衆国は世界一の大国として繁栄のるつぼにあり、時代の動きに敏感なコードが企画したのは、今まで例を見ない高級車造りであった。そして1928年、歴史に残る名車「デューセンバーグ・モデルJ」が誕生した。                                        
ここでいったん脇道にそれて、デューセンバーグを買収し、オーバーン/コード/デューセンバーグ(俗にA-C-Dと称する)帝国(多少大げさ?)を築いた業家、エレット・ロバン・コードについて、紹介しておく。
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「クルマの歴史300話」さんの、「26-03.自動車の歴史:アメリカ編49~エレット・コードの登場~」
http://ninada.blog.fc2.com/blog-entry-914.html
及び「M-BASE」さんの「第18回 アメリカ車 :序章(6)1929~1937年コード・フロントドライブ」
http://www.mikipress.com/m-base/2013/05/18.html
等からダイジェストにして以下引用しています。詳しくは原文の方をお読みください。まずはA-C-D帝国の始まりの、オーバーンの話から。
フランクとモーリスというエッカート兄弟が、19世紀の最後の年にインディアナ州オーバーン市という田舎町でオーバーン自動車会社(町の名前が由来、以下オーバーン社)を創業した。
オーバーンの新車価格は1千ドル台の半ばから2千ドルの間で、同クラスのビュイックよりやや高めという設定で、フォード/T型が400ドル以下で買え、600ドルも出せばシボレーのオーナーになれる時代にあって、オーバーンは安くもなく、どこといって目立った特徴がなかったためオーバーン社の経営は次第に行き詰まり、結局シカゴの投資家グループに買い取られることになった。
そしてその投資家グループから、オーバーンの建て直しを依頼されたのは、当時“スーパー・セールスマン”と呼ばれていた、エレット・ロバン・コードという青年実業家であった。
コードは、「会社の再建に成功したら、オーバーン社の社長にする」という約束を投資家から取り付けて、再建に取り掛かった。
総支配人に就任したこのスーパー・セールスマンは早速、不良在庫のオーバーン車を再塗装してニッケルプレートでアトラクティブなクルマに仕立て直すという荒業で見事完売し、たちまち会社経営を軌道に乗せた。
そして32歳のコードが約束通りオーバーン社の社長に就くと、8気筒エンジンを載せる新型車の開発を命じ、1926年、オーバーン/8-88ができあがった。
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http://www.significantcars.com/cars/1928auburn/
このクルマにはコードの車に対するモットーである「外観が美しく、性能の高い車は売れる」に基づく、魅力的なアピアランス満載の車であった。
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この8-88がディーラーで展示されると注文が殺到するようになり、オーバーン車のビジネスは軌道に乗り始めて、エレット・コードが目ざす“コード帝国”の野望は、その第一歩を踏み出すことができたのである。
見事に復活したオーバーンでは好調な販売が続くモデル/8-88に改良が加えられ、ツインキャブレターを装着して馬力アップを図った、オーバーン/8-115が市販された。
このシリーズの中に、ラジエターの上部に連続するサイドラインを持ち、急傾斜したV字型風防を付けて、細長くつきだしたテールを特徴とし、センターロック式ワイヤーホイールが付けられている “スピードスター”とネーミングされた派手なクルマがあった。
オーバーン/8-115スピードスターは速そうなスタイルをしているだけでなく、実際の走行性能もすばらしく、デイトナでは時速174km/hを記録した。
さらに、アトランチックシティでの24時問耐久レースで平均時速137km/hで3,300キロを走破するなど、ストックカーレースの記録を次々と書き換えた。
ド派手なルックスだ。
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そして押し出しの強い、重厚感もある。
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我々一般人が、“クラシック・カー”でイメージするそのものだ。
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しかしオーバーンの代名詞は、なんといっても“ボートテイル・スピードスター”だ。
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アメリカの景気が頂点を迎えた1929年の頃、大衆向けブランドのオーバーンと、百万長者向けのデューセンバークのビジネス、それに加えてエンジンサプライヤーとして業界に存在感を誇示していたライカミング社を傘下にして得意満面だったコード社長は新しいプロジェクトをスタートさせる準備に邁進していた。
この新型車には、オーバーンとデューセンバークの中間のポジションを担う役割があった。
そして、どうせ造るならユニークなものをと考えたコードがたどり着いたのが、フロントホイールドライブ(FWD)であった。ミラー製のFWD低重心レースカーにいたく感心したコードは、“あの”ハリー・ミラーと5年間の契約を結び、給料と販売したクルマに対しロイヤルティーの支払いを約束した。そして開発のチーフエンジニアとして、以前フレッド・デューセンバーグと仕事をしていたヴァン・ランスト(Cornelius W. Van Ranst)を起用する。
こうして125HPという圧倒的なパワーを引き出す、コード傘下のライカミング製直列8気筒エンジンを搭載する前輪駆動車づくりは順調に進んだ。
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上下の画像もM-BASEさんよりコピー
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最初の生産試作車が完成したのは1929年3月で、生産は1929年6月から開始され、コード/L29として直ちに発表されたが、ディーラーでは在庫がないのを心配して、正式発表が8月最後の週になってしまった。コード発表後3日間に150万人がショールームを訪れ、9月5日までに3000台の受注を果たしたと言う。価格はカブリオレで3295ドルであったが、3000ドル以上する高価格車がこれほど多く受注したのは当時の新記録であった。
そして1929年10月以降、パリおよびロンドン・ショーをはじめ、欧州の主要都市で発表会を催し、1930年の前半6ヵ月間に、主にスタイリングの美しさに対して39の賞を受賞している。
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https://twitter.com/tmusacar/status/822460018507194368?lang=de
購入者のリストには日本のPrince Yamashina(山階宮武彦王:やましなのみや たけひこおう、ではないか?)の名前もあったとのこと。1931年12月の生産中止までに5010台が生産され、その内4429台が米国で販売され、残りは欧州を中心に輸出された。
しかしこの野心的なメカニズムはまだ熟成不足で、しかもコードにとって不運だったのは、発売直後の1929年10月24日にアメリカを襲った大恐慌で、不況の風が、3095~3295ドルと高価なコードの息の根を止めてしまった。
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低重心の佇まいが美しい。
さらに量販車種であるオーバーン車の売り上げも急激に落ち込み、1930年の年間販売台数は、ACDブランドを合わせても1万4千台に過ぎなかった。
追い詰められたコードは、販売中の全てのモデルの生産を打ち切り、オーバーン/モデル8-98の1種類に絞り、これを短期間に集中して販売するという大胆な策に打って出た。
モデル8-98のボディーデザインは大胆ではあったが、決して行きすぎてはいなかった。
その上、エンジンとシャシーの性能も安定しており、価格を含めた総合的な商品力が高かったため人気が回復し、コード社長が打った手は絶妙な一手となった。
そして工場は再び活気が蘇り、不況のさなかにあってもオーバーン車の年間販売台数は2万8千台と、コード社創業以来最高の数字を達成したのである。
しかしその成功に酔いしれたコードはさらに、大きな賭けに出た。“モデル8-98”の成功で気持ちが高ぶっていたコード社長は、新たにV型12気筒エンジンを搭載する、オーバーン/V12スピードスターを開発し、競争相手と比較して安価な価格設定で高級車市場を切り崩そうと企てたのだ。
高級車市場では、GM傘下のキャディラック、同じくフォードのリンカーンという両巨頭に加えて、パッカード、ピアスアロー、マーモンといった名門ブランドがひしめき、 V型12気筒あるいはV型16気筒という巨大エンジンを搭載して、ハイパワーと豪華さを競い合っていた。
キャディラックが3495ドル、リンカーン4700ドル、ピアスアロー3450ドルの時代に、排気量6,400ccV12気筒のオーバーン2パッセンジャークーペはわずか975ドルの超安値をひっさげて切り込んでいったのだ。
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https://www.simeonemuseum.org/collection/1933-auburn-v12-12-165-boattail-speedster/
しつこいがオーバーンといえばやはり、“ボートテイル・スピードスター”だ。
“V12スピードスター”は多くのスピード記録を樹立し、1932年と1933年と2年連続してストックカー・チャンピオンとなった。
しかしこの新参者の高性能車は、目の肥えたユーザーたちの気を引くことはできなかった。この価格ではそのプレスティッジが疑われ、却って高級車の顧客を引き寄せることができなかった。
オーバーン/モデル8-98とオーバーン/V12スピードスターは、共に売り上げ台数が低下の一途をたどり、1932年にはオーバーン車の売り上げ台数が僅か6千台にまで減少してしまった。
この結果、コード社は100万ドル近い赤字を計上し、1933年になると経営状況はさらに悪化していった。
1934年に入るとコード社長は突然イギリスに転居してしまった。
この背景として、合衆国のあちこちで富豪の子どもたちの誘拐が頻発したという事情もあるにはあったが、自らの名前を冠した会社の経営不振もその大きな動機の一つであったことは間違いないだろう。コード社長がイギリス転居後に、コード社の経営の実務を担当したのがデューセンバーク車の総支配人を務めていたハロルド・エームスであり、オーバーンの責任者を兼ねことになった。
オーバーンとコードのその後だが、いったん生産中止したコードだったが、FWD車への情熱は断ちがたく、そして完成したのが1936年型コード810、1937年型コード812であった。しかしその誕生の経緯はいささか複雑だったようだ。
1929年に弱冠25歳で、オーバーン社のチーフ・デザイナーとして迎えられたゴードン・ビューリグは、コード社長との取り決めに従いオーバーンとデューセンバーグの両ブランドの仕事をこなしていた。
1934年、大恐慌に影響で売れ行きの落ちたデューセンバーグのグレードを落とした、“ベイビー・デューセンバーグ”をつくろうと考えたコード社長は、才能あふれるビューリグに、新車のデザインをするよう命じたのだ。
そしてビューリグが描き上げた設計図には、今まで誰も目にしたことのない、超モダーンなスタイルの車が描かれていた。なにしろボンネットは棺桶の形をしていて、ヘッドライトはフェンダーの中へと姿を消していたのだ。
全体はファストバックのセダン・ボデーの後輪駆動車として設計され、オーバーンのシャシーを使って試作車づくりが始まった。
しかしベイビー・デューセンバーグの試作モックアップが完成する前に、ビューリグはオーバーンの方の仕事に戻ることになり、V12スピードスターの設計を担当することとなった。
そして一年後、ベイビー・デューセンバーグのプロジェクトに戻ってみると、なんと自分が設計したクルマは前輪駆動車に変わっていて、しかもブランドはデューセンバーグではなくコードで市販されることに変わっていたのだ!
そして、コード/モデル810と命名された新型車が、1935年11月開催のニューヨーク・モーターショーで発表された。
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その外観は来場者から大好評を博し、専門家の投票で、このショーの最も美しいクルマに選ばれた。ラジエターはエンジンルームの内部に収められ、リトラクタブル・ヘッドランプは世界初。ライトを開けたところも愛嬌があっていい。
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当時の流行であった流線形スタイルに迎合しない、直線を活かしたスタイリングが見事であった。
因みにこの投票結果の次点はパッカード/モデル120であり、リンカーン/ゼファーは6位、クライスラー/エアフローは9位という結果であった。
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ところが、コード/モデル810を実際売り出してみると、市場の反応は予想外に厳しかった。
その原因の一つは価格設定にあり、4ドアセダンの1,995ドルから始まり2ドア・フェートンの2,195ドルという価格は、ビュイックやクライスラーよりずっと高価で、キャデラック/V8の最廉価版より300ドルも高かった。
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(セダンで152センチという車高はフルサイズのアメリカ車の中では最も低く、その低いボデーラインと目を見張る外観ゆえ“モデル810”は本来、個性を求める人々のためのクルマであり、量販を狙うのは最初から無理があったとの記述もある。)
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コード810/812のパワーユニットは、アルミ製シリンダーヘッドを持つ、ライカミングの4733cc V型8気筒Lヘッド125馬力であったが、後にスーパーチャージャー付の仕様が追加された。シュバイツァー・カミンズ(Schwitzer-Cummins)社製スーパーチャージャーによって125馬力⇒170馬力に強化されたが、実馬力は最高195馬力に達したらしい。価格はモデルにより異なるが自然吸気モデルより365~515ドル高かった。
一方オーバーンの方だが、コード810/812と全く同時期に、コードと同じくゴードン・ビューリグのデザインによる迫力あり、かつスタイリッシュな850/851/852というモデルが誕生する。
同門のコード812と、オーバーン852の雄姿。
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https://www.classicandsportscar.com/news/csc-features/cord-812s-vs-auburn-851-speedster-%E2%80%93-the-american-civility-war
エンジンはV12でなく、傘下のライカミング製直列8気筒は、スーパーチャージャーの威力で150馬力まで高められ、高低二段に切り替えられるコロンビア・デュアル・レシオ・アクスルにより、時速100マイル以上が保証された。オーバーン/851スピードスターと、翌年開発された改良版である852が顧客に届けられる時には、走行テストで最高時速が100マイル以上を出したことを示す飾り板がダッシュボードの上に付けられていた。
しかし不況下で、アメリカの自動車産業は淘汰の時代の真っただ中で、851と852の売れ行きも,いっこうにはかばかしくなかった。
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オーバーン スピードスターと言えばやっぱり赤系統がイメージカラーだ。
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ボート・テイルの後姿が美しい。
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ボート・テイルばかりだ。“ハンケチより小さい”という幌を備えたスピードスターは、戦前の東京にも1台あった(当時のオーナーはY氏という彫刻家だそう)。ちなみにオーバーンV12のコンバーティブル・クーペも1台、戦前の東京にあったという。
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しかしボート・テイルでない仕様も、30年代後半のアメ車らしい素朴な感じがしてなかなかいい。
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オーバーン・コード・デューセンバーグ(A-C-D)は奮戦むなしく1937年、その幕を閉じた。直接の原因は大恐慌であるが、その一言では言い尽くせない部分があり、ここではカーグラの記事(「特集1930年代のアメリカ車」)が、1930年代当時のアメリカの自動車産業を取り巻く環境を簡潔に総括しており、それを引用させていただく。
『1930年代を自動車産業というマクロ的な視野から見ると、それはメーカーの巨大化と寡占化の進行した時代と言える。フォード、ジェネラル・モータース、クライスラーという巨大組織の種はすでに1930年代以前にまかれていたが、この時代を通じて着々とビックスリーへの坂道を登っていった。それはこの時代の技術革新が技術陣の組織力と、それ以上に膨大な費用を必要としたこと、さらにターレットトップに代表される新形式のボディが、より大きなプレスをはじめとする大規模な生産施設を要求し、少量生産車の採算をむずかしくしたからである。
その上大恐慌の結果マーケットは失われ、ファッション商品への転換も思うにまかせず、オーバーン、コード、デューセンバーグ、フランクリン、ロコモビル、マーモン、ピアレス、ピアース・アロー、ロールス・ロイス(スプリングフィールド(注;アメリカ工場製))といった超高級車や好事家向けの特色ある車はこの年代のうちに次々と消滅していった。1930年代のアメリカで、自動車は真の耐久消費財に脱皮したのである。』

まったくの私見だが、1930年代のアメリカ製量産車(特にGM製)ほど、その当時のアメリカ以外の他国の量産車と、技術力はもちろん総合的な力で、大きな差が開いた事はなかったのではないだろうか(それこそB29とその他の軍用機の違いみたいに)。この時代のアメリカ量産車によって、現代の自動車の基礎が固まっていった。ちなみに自分は1930年代のアメリカ車の大ファンというか、尊敬しており、どれだけ凄かったのか、いずれこのブログで紹介してみたいと思う。
下は1938年のキャディラック60スペシャル(デザインは後にGMデザインを率いるビル・ミッチェルで出世作)。現代の3ボックスセダンの基本形を築いた車として、トヨタ博物館でも所蔵されているほど有名な車だが、内面に秘めた先進性が結果としてその外観に現れたのではなかろうか。
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A-C-Dに話を戻すと、ビッグ3の攻勢に対抗するための抜本的なモデルチェンジを行うことができず、最後はスーパーチャージャーの威力に頼ったが、結局1938年まで生き延びることはできなかった。この時、「スーパーチャージャーを付けた車は消滅する」という、アメリカ自動車界のジンクスが生まれたのである。

ここからしばらく話が脱線していく。アメリカ人には戦後世代にも“ボート・テイル”好きがおり、その代表格が、ハーリー・アールの後を継ぎ、GMのデザイン部門を率いた巨匠、ビル・ミッチェルではないだろうか。
彼の代表作の一つであるビュイック リヴィエラ(1971年)や、
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シボレー・コルベット スティングレイ(1963年)にもボート・テイルの面影があり、好みが良く現れている。
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もっともBMWのデザイナーである、永島譲二氏は、このスティングレイは実は、アルファロメオ “ディスコ・ヴォランテ”(カロッツェリア・トゥーリング作)の影響が強いのではと語っておりましたが。
https://www.fcagroup.jp/press-office/550/
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ただビル・ミッチェル氏、ボート・テイル好きが高じて、そのモチーフを、フロント・ノーズ側にも使っているような?(“ボート・ノーズ”??)自分だけの、かなり強引な解釈かもしれないが。これは1973~75年のポンティアック グランダム。
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グランダムのデザインについては、1939,40年のラサール(同じGM)との近似性を指摘する声もあった。
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下は1940年のリンカーン コンチネンタル(初代)。こちらはフォード陣営だが、フロント部のデザインは似ている。この車をデザインした当時のフォード社スタイリング部長のユージン・グレゴリーは、ミシガン湖でのボート遊びが趣味だったそうで、明らかにモーターボート的な魅力をデザインの中に取り入れている。(やっぱり“ボート・ノーズ”か!?)
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下は、ビル・ミッチェルの引退作となった、ポンティアック “ファントム”(Pontiac Phantom
1977年)だが(脇に立つのはビル・ミッチェル氏本人)、フロント部については、グランダムと同じデザインモチーフのようにも思える。
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妖しい美しさを放つ車で、何枚か写真を貼り付けておく。
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当時のカーグラの記事から引用すれば、『フェンダーを取り巻くソーチック風のクロームが特徴。プロファイルは30年代の高級車のものだし、全体のイメージも現代のドリームカーというより、明らかに戦前に描かれたドリームカーのそれである。』とし『特にパリのソーチック(注;フランスの有名なコーチビルダー)の影響は否定できない』としつつも『ファンタムと名付けられたこの車は、だがミッチェルにとっても100%完璧な車とはいえまい。いかなる芸術家にとってもミッチェルの夢、ヴィジョン、心情を100%具現化することはできなかったのである。しかし、このクーペはミッチェルがこれまでGMを通じて世界の車に与えてきた影響と、ミッチェルの好みとを立派に具現化している。』と結んでいる。さすがにこの当時のカーグラの記事らしい、的を得た評だ。(text=K.E.ludvigsen)
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ポンティアック グランプリのシャシーを使った習作だったようだ。それにしても現代の目で見ても、古びた感じがしない。早いもので40年以上前の作品なのだが。さすがという他ない。
https://cardesignnews.com/articles/concept-car-of-the-week/2017/05/1977-pontiac-phantom-madam-x
ここでさらにさらに脱線を。このビル・ミッチェル引退作、黒い塗装で“Phantom”と名乗る試作車だと、どうしても、“同じファントム”という名の、1937年のファントム・コーセア(Phantom・corsair)を連想してしまう。(ビル・ミッチェル氏は憤慨するかもしれないが?)
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こちらの方は、妖しいが、怪しいに代わる?時代がかった宇宙船というか、深海魚のようなユーモラスな要素も入るが。この“異形”の車を紹介したカーグラの記事の冒頭を抜粋すると、『今から36年前の1937年の夏のある日、アメリカ ネヴァタ州の砂漠にいずことも知れぬ天体から 1隻の宇宙船が舞い降りた。この宇宙船、人類に危害を加えることなく、ただ小さな夢と希望だけを残して、またいずこへともなく飛び去った(T.)』
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ガマガエルのようにも見えるこのクルマ、何と奇遇なことに、コードと関係があるのだ!以下、誕生の経緯をM-BASEさんによる説明を、貴重なカタログのコピーとともにコピーさせていただく。
http://www.mikipress.com/m-base/2013/05/18.html
『これは1938年にコード810/812のコンポーネンツを使って1台だけ造られたファントム・コルセア(Phantom Corsair)のカタログ。世界最大級の食品メーカーでトマトケチャップのパイオニア「ハインツ(H.J. Heinz)」一族の御曹司でカー・スタイリストであったラスト・ハインツ(Rust Heinz)がデザインし、コーチビルダーのボーマン&シュヴァルツ(Bohman & Schwartz)の協力を得て製作された。1939年のニューヨーク世界博に出展し、1万2500ドルで限定販売する予定であったが、1939年7月、彼は自動車事故によって25歳の若さで急逝してしまい、プロジェクトも中止となってしまった。アンダーフレームはクロームモリブデン鋼、アッパーフレームは航空機用合金のチューブで、これに合金のアウターパネルを取り付けている。エンジンはスーパーチャージャー付き192馬力を積み、最高速度は185km/hに達した。ドアはプッシュボタンにより電動で開閉するなど先進的な仕掛けがたっぷり採り入れられていた。塗色は黒であったが、見栄えを良くするため、また、このカタログおよび宣伝写真撮影のため、水性塗料で明るい色が上塗りされている。』
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確かに色の効果で不気味さは随分緩和されている。
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オリジナルは当然真っ黒で、念のいったことに、全てのガラスに当時としてはほとんど装着例がないモークガラスが採用されていたとのこと。
空気抵抗を減らすために徹底した流線型ボディで、フェンダーもヘッドライトもサイドステップもドアノブすらない、いわゆる突出した部分は一切無かった。ドアの開閉は電池ボタン式であったというから驚きだ。全高はわずかに58インチ(147cm)。現代のレベルではむしろ高い方だが、当時は有り得ないレベルの低さだった。車内は意外に広く、定員は6名とのこと。
正面から見たところ。視界は悪そうだ。“世界で最もゴシックな車”なる称号もネット上ではあったが、当時のカーグラの記事では『正面から見ると、どんな神経をもってしても美しくはないだろう』と手厳しい。フロントシートは4人(一人はドライバーの外側に)座れるほど幅広いそうだ。
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しかし口の悪い?当時のカーグラも、下の側面観については、「ファンタム・コーセアで最も美しいのは、疑う余地もなくこのプロファイルだ」と持ち上げている。「極端に小さいウィンドーを大きくすると、初期のポルシェに非常によく似ている。」とも記していた。
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さらにシツコイが、このクルマも実は“ボート・テイル”みたいだった!?いやいやそんなことは全くなく、当時の飛行機をイメージした流線形を追求した結果なのだろう。
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さらにさらに、脇道に逸れるがここで、ファントム・コーセア絡みで一人の男を登場させておきたい。ミスター500ことアンディ・グラナテリだ。のちにインディの名物男となりSTPオイルトリートメントのCEOまで昇りつめたが、当時はまだ新進気鋭のレースカーエンジニアだった。以下、「乗り物ライター矢吹明紀の好きなモノ」さんの記事から引用する。
https://ameblo.jp/akiyabuki/entry-10067494128.html
『その名はアンディ・グラナテリ。新進気鋭のレースカーエンジニアだった彼はハインツのオーダーを受けてコードのエンジンに対してハイレベルなスーパーチャージャーチューンを実施する。もともとコード810のライカミング製289cu:in(4.7リッター)サイドバルブV8エンジンにはオプションでスーパーチャージャーチューンが用意されていたのだが、その最高出力はNAの125hpに対して170hpというもの。グラナテリはこれを実用性を損なうこと無く190hpにまで高めたのである。なおグラナテリは戦後になると「NOVI」という個性的な4輪駆動レースカーと共にインディ500を戦い、同時にSTPブランドによって膨大な財をなすこととなるのだが、それはまた別の物語である。』
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実はこのブログで近々、インディ史上最もセンセーショナルな出来事として“ミスター500”ことアンディ・グラナテリ率いるSTPチームがインディ500に持ち込んだ、ガスタービンエンジンのレーシングカー、“STP-パクストン・ターボカー”について、簡単に紹介しようと思っており、余分な事ながらその伏線としてここに記しておいた。

同じく余談ながら、コード810/812の魅力は、その美しいボディデザインに尽きると言っていいだろう。そこで倒産したコードから、ボディプレス型を購入し、普通の後輪駆動車に仕立て直して安価に販売しようとの試みがあった。こうして出来上がった車が、ハップモビル スカイラークである。
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ずいぶんと印象が変わった。前輪駆動のコードより背の高い、ごくふつうの車になった。
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庶民的な車に変身した。
以下、M-BASEさんによる記事を転記する。下のカタログコピーもM-BASEさんです。
http://www.mikipress.com/m-base/2013/05/18.html
『1939年型ハップモビル・スカイラーク(Hupmobile Skylark)のカタログ。キャッチコピーに「若者のクルマ」とあるように、ハップ・モーター社(Hupp Motor Car Corp.)がコードのボディープレス型を4万5000ドルで購入し、安価なクルマを提供しようという試み。デザインはリンカーン・ゼファーをデザインしたジョン・ジャーダ(John Tjaarda)。ホイールベースをコードより10in短い115in(2921mm)として、エンジンはハップの4018cc直列6気筒101馬力を積み、駆動方式は平凡なFRを採用。価格は1145ドル。ところが、ほとんどハンドメードで35台造ったところで資金が欠乏してストップ。救いの手を差し伸べたのがグラハム・ペイジ・モーターズ社(Graham-Paige Motors Corp.)で、ボディーの生産を受け持ち、その代りグラハムブランドでも販売するという契約を結んだ。しかし、1940年型291台、1941年型は1095ドルに値下げされたが僅か28台生産され、ハップ・モーター社は1940年7月、乗用車の生産を中止した。』
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親しみが持てるデザインだ。
下の写真は、グラハム ハリウッド。
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こちらの説明もM-BASEさんから引用する。『外観はハップと同じだが、エンジンはグラハムの3572cc直列6気筒93馬力とスーパーチャージャー付き120馬力が設定されていた。コンバーティブルはプロトタイプが2台造られただけで、実際に生産されたのはハップと同様の4ドアセダンであった。1941年型ではエンジンの出力が自然吸気95馬力、スーパーチャージャー付き124馬力に強化され、価格は968ドルと1065ドルであった。生産台数は1940年型、1941年型合わせて1859台。グラハム・ペイジ・モーターズ社は1940年9月に乗用車の生産を中止した。』
グラハム ハリウッドで画像を検索すると何故か、改造して車高を下げているクルマがやたらと多い。
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ハップモビル版の方もそうだが。
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でもローダウンがよく似合う。
こちらの方は敷居の低い、今も昔も、若者(気だけが若いオッサンも含む)向けの車だったのでしょう。(本音を言うと、個人的にはA-C-Dよりこれらの方が、好感持てます!大きさも手ごろそうだし、こんなクルマ1台欲しいなぁ、でも現実は夢の夢の、そのまた夢ぐらいなのだが・・・)

ついでにさらに余談を。コードはL29や810~812で前輪駆動を採用したが、この時代、このコードやミラーが前輪駆動に傾倒していたのは知っていたが、ごく限られた世界での動きだと思っていた。しかし、ブログM-BASEさんによれば、当時、アメリカのメジャーな自動車メーカーでも密かに検討していたらしい(初めて知りました)。参考までにこちらの情報も以下、コピーさせていただきます。
http://www.mikipress.com/m-base/2013/05/18.html
『当時、米国の自動車メーカーはFF車にご執心であり、GMはミラーを2台購入し、創設者の息子クリフ・デュラント(Cliff Durant)が中心となってFFプロジェクトを進めていたし、パッカードはミラーとコンサルタント契約を結んでいた。コードを開発したヴァン・ランストは1930年1月にクライスラーに移籍してFFプログラムに参画するが、クライスラーがFFへの興味をなくすと、パッカードに移り、V12気筒FFの開発に参画している。ラックストン(Ruxton)は1929~30年にかけて450台ほどのFF車を生産している。
 米国におけるFFの歴史は1906年のクリスティー(Christie)に始まり、1916年ホーマー・ローリン(Homer Laughlin)、1917年フロントモービル(Frontmobile)など1930年以前に少なくとも10社ほどがFF車に挑戦しているが、いずれも試作の域を脱していなかった。』


それではやっと本題に戻り、最後にデューセンバーグのモデルJ及びSJについて、触れて(ようやく!)終わりとしたい。この冒頭部分はカーグラの高島静雄さんの記事がベースです。
デューセンバーグの経営権を握った青年実業家のコードは、戦後7年間の平和と繁栄の結果、ヨーロッパからの豪華車の輸入が急増しているのに気づいていた。そこでみずからパフォーマンス、サイズ、ルックス、品質などの点でいかなる車にも凌駕しえない“The finest thing on four wheet”を作る決意を固めた。
こうして2年の設計期間を経てアメリカが経済恐慌に突入する直前の1928年12月にニューヨーク・サロンで発表されたのが、130年になんなんとする世界の自動車の歴史の中でも最も大きく豪華で、強力で早く、しかも高価な車の一つ、デューセンバーグ・モデルJであった。
それはまさに“狂乱の20年代(Roaring Twenties)”を象徴する、他を圧する超高級車として君臨することになった。
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この「アメリカで一番大きく、高速で、高価で、品質の良い」という、“スーパー・セールスマン”らしい、わかりやすい記号性が、モデルJ成功の要因であろうが、実はフレッドとオージーのデューセンバーグ兄弟は元々、モデルAの後継として、ブガッティやベントレーの影響を受けた、新車種(モデルX=試作車を12台作ったという)の開発を行っていた。特に弟のフレッドの方は小型車を作りたがっていたという記述も残っているが、コードはそれらを撤回させて、兄フレッドを新会社の技術担当副社長に、弟のオージーをアシスタント・チーフエンジニアに据えて開発に当たらせた。
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https://rmsothebys.com/en/auctions/gc19/the-guyton-collection/lots/r0023-1927-duesenberg-model-x-dual-cowl-phaeton-by-locke/750655
https://www.google.com/search?q=Duesenberg%E3%80%80X&hl=ja&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=0ahUKEwjDp4nox4HiAhWMabwKHb4jA2AQ_AUIDigB&biw=1536&bih=754#imgrc=iKvBBquKoNBD9M:
上の写真がモデルX(1927年)。直列8気筒で排気量が約5.3リッター(322in³)とJより一回り小さかった。外観もモデルAに似て地味だ。
いずれにしてもモデルJは、コード氏なくしては誕生し得なかった車であった事は間違いない。
そのモデルJのエンジンだが、当時はレーシングカーにしか採用されていなかったDOHCが採用され、気筒あたり4つのバルブを備えた直列8気筒で、このあたりはGPやインディで培ったノウハウを持つ、まさにデューセンバーグの面目躍如たるところだが、排気量7リッターという大排気量で、265馬力を誇った。
(ちなみにこの“公称265馬力という数字に疑問を抱く人もいるようだが。)
ショート・ホイールベース版のベア・シャシーだけでも約2トンあり、豪華な架装を施した車重はおよそ3トンにも達したが、それでも時速192km/hという高速で引っ張ったのだから、パワフルなことは確かだ。またこのエンジンは加速力もすさまじく、停止状態から時速160km/hに達するまでわずか21秒しかかからなかったという。まさしく当時のスーパーカーであった。
シャシー自体はオーソドックスなラダーフレームで、デューセンバーグはこのエンジンを搭載したシャシーのみを生産し、ボディは当時アメリカに存在した多くのコーチビルダーにゆだねられた。以下はカーグラの高島さんの文章からの引用です。
『~ただしデューセンバーグは、これらコーチビルダーに腕を競いあわせはしたが、ヨーロッパへ送られた約100台を除いては完全にデューセンバーグのコントロール下においた。顧客の注文やコーチビルダーの暴走で、デューセンバーグの品位と名声が傷つけられるのを防いでいたのだ。
デューセンバーグではこのために有名なダーハム・カスタム・ボディ・カンパニーの社長、フィリップ・A・ダーハムをボディ・エンジニアに任命していた。そして彼のもとにあって1929年から31年までチーフ・デザイナーを務めたのが、後にコード810などをデザインした、ゴードン・M・ビューリグであった。
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デューセンバーグのカタログには、各コーチビルダーから提出されたデザインの中から選ばれた多くのボディスタイルが載っており、通常顧客はその中から好みのものを選ぶようになっていたが、それでも細部に至るまでまったく同じものができることはまれであった。
特殊なものも顧客がコーチビルダーに直接注文することはできず、デューセンバーグのボディ・デザイン・デパートメントが受注し、デザインからフィニッシュまでの各段階で詳細にチェックしながら制作させたのである。
ボディ製作でもっとも多かったのは、150台以上を製作したパサネダのウォルター・M・マーフィー・カンパニーで、次はボーマン・アンド・シュワルツ、他はブラン、ホルブリック、ウィロビー、ジャドキンス、ロック、ダーハム、ディートリッヒ、ロールストン(後ロールソン)、ル・バロン、ウェイクマン・アメリカなでであった。
またデューセンバーグのデザインでボディを他社が製作、内装と仕上げのみをデューセンバーグ自身が行ったものは、“ラ・グランデ”と総称された。むろんこれらのすべてがカタログに名をつらねていたわけではなく、1932年を例にとれば、ダーハム、ル・バロン、ロールストン、マーフィー、ウィロビー、ジャドキンスなどがその栄に浴していた。』

ちなみに価格はシャシーのみで8500ドルといわれ(1932年に9500ドルに上がり、2年後には6500ドルに下がったが、最後の35~37年には再び8500ドルに戻った)、完成車は2万ドル近くに達した。A型フォードの価格がおよそ500ドル程度の時代である。
モデルJとSJの画像はその⑥でたくさんコピペして貼り付けたので、ここでは2枚だけ貼り付けます。画像はwallpaperest.comより
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その⑥でも紹介した、アメリカLAのピーターソン自動車博物館所蔵の銀色のSJ。
https://carnny.jp/2601 よりコピー。
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さらに1932年には、モデルJにスーパーチャージャーを追加したさらなる高性能バージョンの、モデルSJを追加した。その誕生の背景について、蜷田晴彦氏はブログ、「クルマの歴史300話」の、“デューセンバーグの光と影”編で、少し意外な事実を明らかにしている。当時書かれた文章を元にした、アメリカ自動車業界のナマの証言として、以下引用させていただく。
http://ninada.blog.fc2.com/blog-entry-1202.html
『“ビッグ3”の攻勢にさらされたこの時代、全ての独立系自動車メーカーの経営は存続基盤を揺るがされる状況に追い込まれていた。野心家のエレット・コード社長が率いるコード社も同様であったが、デューセンバーグ車だけは例外であった。
世界大恐慌の時代に入って以降も、デューセンバーグ/モデルJの売れ行きは衰えることを知らず、このような高額車がなぜ成功をおさめているのかは不思議な気がしないわけではない。デューセンバーグを買うような顧客たちは、株式市場の崩壊などという些細なことには動じない人間ばかりかも知れない。
したがって、エレット・コード社長が、売れ筋のモデルJより、もっと贅を凝らした新型“モデルSJ”を開発し、昨年発表したのもあながち不思議とは言えない。』

モデルJシリーズが生きた時代は、大恐慌の影響で市場が急速に萎み、アメリカの自動車産業全体が急速に、ビッグ3に収斂していった時代であった。そのビッグ3の高級車を代表する、キャディラックの最高級車として1930年に登場した“V16”について、「クルマの歴史300話」さんでは、以下のように報じている(一部引用させていただきます)。
http://ninada.blog.fc2.com/category42-1.html
『GM社のプレミアム・クラスを担当するキャデラックがV型16気筒エンジンを搭載した〈キャデラック/V16〉を市場に投入したのはブラック・サーズデーからわずか数ヶ月後のことであった。7,400cc(452立方インチ)という大排気量で165HPというハイパワーをたたき出すエンジンゆえに、キャデラック/V16はデューセンバーグ/モデルJに次いで、合衆国では2番目にパワフルなクルマとして登場した。
このクルマは、インチ表示の排気量にちなんで“モデル452”という愛称が付けられ、昨年1月のニューヨーク・モーターショーで発表された。
キャデラック/V16には、どんな顧客の要望も受け入れられるように、コーチビルダーであるフリートウッド製54タイプのボデーがカタログ化されている。
その販売価格は5,350ドルの2座席ロードスターに始まり、9,700ドルの5~7人乗り4ドアセダンまで幅広い。新型プリムスが10台以上買えるこのような高級車が本当に何台売れるのかに現在注目が集まっている。』

デューセンバーグの価格は、ビッグ3のリーダーたるGMの高級車キャディラックの中でも、最高級車として登場したV16型の、優に2倍以上で、幸いにもその影響が薄かったのかもしれない。
そしてよくよく考えれば“意外”でも何でもないのかもしれないが、世界大恐慌下では、“小金持ち”は淘汰されていったが、デューセンバーグを購入するような、本当の金持ちは、ダメージがより少なかったのかもしれない。
ここでは繰り返さないが、その⑥で記したように、デューセンバーグは他のどんなクルマよりもハリウッドの映画スターに愛され、ギャングスターから欧州の王侯貴族に至るまで、孤高の超高級車としてのイメージ(ブランド)を確立しつつあったようだ。
こうして大恐慌の真っただ中の1932年に、デューセンバーグは320hpを発生するスーパーチャージャー仕様を追加し、モデルSJと呼ばれた。(+2250ドル高だった。)
ここでモデルSJのスペックを再確認しておくと、シャシーは3900mm(L)、3620mm(S)の2種と、2台だけ3180mm(SS)のスペシャル・バージョンがあった。この2台のうちの1台が、その⑥で紹介したSSJだ。
エンジンはDOHC 直列8気筒、4バルブ95×121 6882ccはモデルJと同じだが、スーパーチャージャーを付けたことで265hp/4250rpm から320hp/4750rpまで強化された。機械式のスーパーチャージャーは、フルスロットル時のみ作動するメルセデスと違って、常時エンジンの回転の6倍のスピードで回転していた。この装置をエンジンの右下に付けたので排気管を床下に出すスペースが無くなり、排気はボンネット側部から飛び出したクロームメッキのチューブから排出される構造となっていたが、これがデザイン上のポイントとなり、豪華かつ新鮮に映ったようだ。いわば力の象徴として、SJシリーズの大きな特徴となった。
最高速度はトップ・ギアで208km/h、セカンドでも167km/hが可能で、3トン近い車を17秒で時速160km/hまで加速出来た。
因みにモデルSJの出力だが、後期モデルはさらにチューンアップされて、400馬力に達していたとの記載もある。当ブログのその⑥で紹介した、ペブルビーチで行われたクラッシックカーオークションで、約24億円で落札されたSSJも、400馬力と公表されている。
しかし1937年、デューセンバーグはコードの破産によって消滅を余儀なくされた。総生産台数ははっきりしないが、481台とも490台とも言われている。製作年度はモデルJが1928~37年、モデルSJが1932~37年で、両モデルは一連の中でランダムに造られている。
現在でも、デューセンバーグ車の全生産台数の半数以上が、コンクールコンディションと共に熱心なファンの元で大切に維持保存されているようだ。

ところで、デューセンバーグ/モデルJ/SJについて、このクルマ(モデルJ)の試乗記が、古いカーグラにあった(「世界にクラシックカーを追う」)。Sono-graphicシリーズという、クラシックカーの名車の音がレコードで聴けるという企画モノがあり、その取材で、当時のカニングハム・ミュージアムにあったモデルJの、実際の路上における印象を、小林彰太郎さんが語っているので、下引用する。
『~カニングハムさん(=ブルックス・カニングハム氏、※参照)は実に天真爛漫な、少年がそのまま成長したような人柄で、われわれの頼みを何でも快く承諾し、片端から車を引っ張り出してくれた。ここでわれわれはSono-graphicのために、ブガッティ・ロワイヤル、1930年キャディラックV16、パッカードV12、デューセンバーグJの4台を取材しただけでなく、ベントレー8ℓ、1913年GPプジョー、1957年のシヴォレー・エンジン付スカラブ・スポーツカーなどにも、カニングハムさんの運転で乗ることができた。』そうそうたる顔ぶれだ。話は続く。
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『Sonographicのために4台選んだアメリカのクラシックの中、最も感銘を受けたのは1933年パッカードV12であった。十数年前、36年のスーパーエイト・リムジーンで箱根を走ったことがあり、当時のアメリカ車の水準をはるかに抜いたハンドリングと強力なブレーキ、洗練された走行に感心したが、V12はいっそうすばらしい。アメリカのクラシックカー中の白眉であろう。』パッカードにいたく感銘し、ほめたたえている。下の写真は、パッカード トウェルヴ(1933年)。
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肝心のデューセンバーグはどうだったのか。
『これに対して、デューセンバーグはとうてい公称275㏋のパワーは感じられず、大いに失望させられた。ハンドルもトラック並みに重いことが、横に乗っただけでも感じられた。』小林さんの印象はかなり悪かったようなのだ。
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この記事を久しぶりに読み、思わず連想したことは、カーグラにおける初代スカイラインGT-Rのロードテストのことだ。今から50年以上前に、バリバリのレース用エンジンをデチューンしてそのまま積んだ破格のセダンであったGT-Rを、ロードテストのため谷田部に持ち込んだ小林さん達は、残念なことにクルマが本調子でなく散々な結果に終わり、続いてハードトップ版の時には、当時出たての“無鉛ガソリン仕様”(=当時はパワーダウンが激しかった)だったためもあり、やはり本領発揮できずにテストを終えた。小林さんは「GT-Rに嫌われた」と言っていたが、言外にロードゴーイング・レーサー特有のデリケートさもうかがえた。
デューセンバーグは今から実に90年以上前!の設計の、GT-R同様4バルブDOHCだった訳で、この時はベストな状態ではなかったのではと、思ったりもしたのだが、記事の転記を続ける。
『カニングハムさんが大変なミリオネアであったことは、学生時代にデューセンバーグを買うため、インディアナの工場へ行ったということでも知れる。試運転のときブレーキがロックして溝へ落ちたので恐れをなし、その足でパッカードへ行って主任設計者ヴィンセントの運転するプロトタイプ・スーパーエイトで100mph出したという。すっかり感心した彼はその場でフェートンを買い、お兄さんはロードスターを、同行した医者の友人はリムジーンを買い、3台あったプロトタイプをみんな買い占めてしまった。(中略)普通の人がこんなことを言えばキザに聞こえるが、カニングハムさんは全く子供のように天真爛漫なのでちっともそんな気はしないのだ。』
下の写真は、当時小林彰太郎氏が乗ったと思われる、1933年パッカードトウェルヴ。
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デューセンバーグだが、メーカー整備済みの新車でも駄目だった?車全体のバランスが悪かったのだろうか。不明です。ちなみにその⑥で紹介した、24億円のSSJも以前は、カニングハムさんの所有であった。
※https://en.wikipedia.org/wiki/Briggs_Cunningham
それではデューセンバーグの記事の最後は、カーグラの高島静雄さんの文を転記して終わりとする。
『オーバーン・コード・デューセンバーグ社は他の高級車メーカーと同じく大恐慌を直接の原因として、1930年代半ばに経営不能に陥り、デューセンバーグも37年に数々の伝説を残してその短い生涯を閉じたのであった。それは必要を超えてあまりにぜいたくで、強力で速く、高価であり、もはや2度とこのような車が作られることはあるまいが、しかしそれは人類が自動車に求める夢を究極的な形で具現化した一つのモニュメントとして、自動車の歴史が存続する限り語り継がれていくだろう。』
モデルJの誕生から90年以上経ち、現代でも復活を遂げたブガッティのような、超高級車は存在するが、見る人に思わず夢をいだかせる、その存在の華やかさにおいては、デューセンバーグの足元にも及ばないであろう。
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ようやくデューセンバーグが終わったので、次回の自動車編は久しぶりに、現代に戻ります。

プロフィール

マルプーのぼんちゃん

Author:マルプーのぼんちゃん
【ぼんちゃん】
推定年齢12歳(2020年6月現在)ぐらいの、オスのマルプー犬のぼんちゃん。年より若く見える。マルプーではちょっと稀な“キレカワ系”💛 性格は、おとなしくてやさしくて人懐っこくて庶民的?でも対犬ではかなり臆病。散歩だけはたくさん(1日1~3時間ぐらい)させてもらっている。選択の余地なく、毎日おっさんの面倒をみている。
【おっさん】
推定年齢60歳+のシガナイ初老の独身オヤジ。ひょんなことからぼんちゃんと2人で暮らすことになったが、おかげさまで日々シアワセに暮らしている。

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