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⑬ 第2回日本グランプリ(1964年)“スカイライン神話の誕生”

あのスカイライン神話が誕生した第2回日本グランプリは、あるいは日本の自動車レース史上もっとも有名なレースなのかもしれない。レース翌日のスポーツ紙の一面は、「泣くなスカイライン、鈴鹿の華」という大見出しが踊ったという。そして『レースを見たこともない人もスカイラインという名前を覚えた。以来、スカイラインは日本で一番浪花節の似合う車となった』(引用①)
ちなみにスカイラインGTにちなんで命名された、“羊の皮をかぶった狼”というフレーズは、東京新聞の記者の命名だったそうだ。
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https://minkara.carview.co.jp/image.aspx?src=https%3a%2f%2fcdn.snsimg.carview.co.jp%2fminkara%2fblog%2f000%2f032%2f695%2f233%2f32695233%2fp1.jpg%3fct%3d8aa663e023cb
それにしてもなぜあれほどまでに、日本中が盛り上がったのだろうか。
このレースが開催された1964年は言うまでもなく、東京オリンピックが開催された年だ。新幹線が走りだし、自動車の世界でも前年の名神高速の開通に続き、東京では首都高速の建設が進み、高速道路時代を迎えようとしていた。まさに欧米に追い付き、追い越せという機運が日本中で高まったその時に、ドイツの高性能車の代表格であるポルシェに、国産のスカイラインが追いつき、一瞬にせよ追い越したという構図がピッタリはまったのだろう。 (以下は例によって敬称略、引用箇所は青字で、引用もしくは参照先は番号をふって文末にまとめて記載し、画像のコピペ先は写真の下に記載。なお全くの個人的な見解についてはあくまで“私見”だと明記してある。たぶんこの記事については“私見”が増えそうです。
まずは、雪辱に燃えるプリンス側の視点で見てみたい。
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https://www.weibo.com/ttarticle/p/show?id=2309404316017575753825&mod=zwenzhang?comment=1

1.必勝体制で挑んだプリンス
第2回日本グランプリに向けて、ベース車両の性能で勝るプリンスの技術者たちは、まともに競争したら他のメーカーチームに負けるはずがないと自負していたので、前年の失敗をバネに必勝態勢で臨んだ。その中心となったのは車両開発では櫻井真一郎、走行実験では青地康夫で、この体制は後の日産と合併後もそのまま引き継がれた。
プリンスは3種目制覇を狙って、主力車種のスカイライン1500(T-Ⅴクラス)、グロリア(T-Ⅵクラス)に加えて、メインレースであるスポーツカー部門(GT-IIクラス)に秘密兵器のスカイライン2000GTをエントリーした。
GT-Ⅱクラスを制するためには、1500ccのスカイラインではパワー不足だし、グロリアは高性能な6気筒エンジンは魅力でも、大柄なため鈍重だった。
そこで櫻井は、1500ccのスカイラインのボディを、フロントタイヤ後方で切ってホイールベースを200mm延長してグロリアの6気筒エンジンを載せた。そしてそこに高価なウェーバーのキャブレターを3個取り付けてパワーアップした。ちなみにこのウェーバーは、櫻井がアメリカに行ったときに、これを付ければ速くなるんじゃないかと思い、買ってきて研究したのが発端だったそうだ。当時は1ドル360円の時代で外貨の持ち出しが制限されていたから、自分のニコンのカメラを現地で売って用立てしたとのことだ。(参考②)GT-IIクラスにエントリーするためには、最低100台の生産が義務付けられていたので、プリンスはイタリア製の高価なキャブを300個も輸入したことになる。(下はスカイラインGTの日本GP仕様。櫻井がポルシェ904との戦いを、“エイとダックスフンドの戦い”と言った意味がわかる)
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https://car.watch.impress.co.jp/docs/news/1014119.html
 スカイラインとグロリアは、下馬評通りそれぞれのレースで圧勝した。スカイラインはコロナを全く寄せつけず、グロリアも食い下がるトヨタのエース、式場壮吉のクラウンを3位に退けて優勝した。この第2回日本グランプリで、前年のトヨタのように、レースで勝ったといえるのは、今度は実力を発揮したプリンスだった。(下は復元された第2回日本GP仕様のグロリアで、さすが当時の“高級車”らしくなかなかカッコイイ)
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https://car.watch.impress.co.jp/img/car/docs/1186/945/html/013_o.jpg.html
そしてメインレースであるGT-Ⅱクラスでも、優勝間違いなしとふんだプリンス陣営の前に突然立ちはだかったのが、当時バリバリの市販レーシングカーとして限定販売された、ポルシェ904だった。(やはりスカイラインと比べれば重心の低さが際立つ。そのスペックは空冷DOHC水平対向4気筒1,966cc、180PS/7,200rpmエンジンを搭載、優れた空力と軽量ボディ(650kg)で、最高速度は260-262km/hを記録したという。)
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https://matome.naver.jp/odai/2137152377534366101
しかもこれを手に入れて出場したのがトヨタ・チームに所属し、そのエース格の式場壮吉だったのだ。
以下③より引用する。

2.突然、ポルシェ904の登場
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http://www.mooneyes.co.jp/wildman/2012/0811/3406
『トヨタが、勢いに乗るプリンスチームの出鼻をくじく作戦で、このポルシェ904の購入資金を出したというウワサは、レース前からあった。最初からそうした作戦を立てたわけではないだろうが、レベルの違うスポーツカーでさっそうとレースを走りたいと考えた式場のプランに乗り、トヨタ自販がバックアップしたというのが真相であろう。プリンスに名をなさせるよりは、ポルシェ904がそのレースで勝った方が、間接的にトヨタの利益となることは自明の理だ。レースが宣伝の場として有効であることを良く知っているトヨタ自販のレース担当者が、そのくらいの計算ができないはずはない。』
この思わぬ展開にプリンス陣営はどういう思いだったか。櫻井の次の一言に代表されるだろう。『櫻井は「やることが汚いぞ」と思ったという。』(引用④)プリンス陣営からすれば、『昨年の惨敗で売れ行きが急降下していたスカイラインが復活できるかどうか、この一戦にかかっていた。』(当時櫻井の下で開発に携わった島田勝利氏⑤)という瀬戸際だったわけで、別段レギュレーション違反でもなんでもないのだが、心情的には理解できる。
以下③から引用を続ける。『この式場のポルシェ904が、予選の走行中にクラッシュし、
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http://www.mooneyes.co.jp/wildman/2012/0811/3406
徹夜の修理の末にようやくグリッドに並びスタートにこぎつけた。』

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http://www.mooneyes.co.jp/wildman/2012/0811/3406
決勝の朝、名古屋の修理工場から鈴鹿まで自走させて戻るとき、渋滞で遅れそうになったが、たまたま居合わせた白バイが先導してくれて間に合ったという、有名なエピソードもある。
だがこのエピソードも、プリンス陣営の目線では『決勝当日、名古屋を発った904ですが、名四国道は大渋滞。このままでは、鈴鹿に辿り着く頃には、レースが終わってしまいます。そこに、白バイが登場。鈴鹿まで先導を頼むと、到着は何とスタート4分前。ところが、本来ならばこれでもDNS。リタイヤ扱いです。プリンス陣営は、激しく抗議します。主役の奇跡的な再登場。まるで、ドラマの様な筋書きに観客は大熱狂。それもあって、904の決勝出場が許可されます。』(引用⑥)となってしまうのだが。
病み上がりとはいえ、さすがにポルシェ904は速かった。特に加速性能で大差があったという(②)。しかし一度だけ生沢徹のスカイライン2000GTがトップに立った。(その“ドラマ”は後述する)
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https://genroq.jp/2019/02/16613/
『こうしたレースのドラマが話題となり、逆にポルシェに敗れて2位となったスカイライン2000GTは名車と呼ばれるようになり、そのイメージが次のモデルとなるスカイラインGTRに受け継がれる。このポルシェ904とスカイライン2000GTの走ったスポーツカーレースが、第二回グランプリレースのハイライトであった。』(③)
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http://www.mooneyes.co.jp/wildman/2012/0811/3406
今の時代、ここは、動画を実際にごらんいただくのが一番だろう。 「第2回日本グランプリレース「プリンス勝利の記録」」
https://www.youtube.com/watch?v=sNl7RSjfDlE

③の引用を続ける。『ツーリングカーを改造したスカイライン]2000GTの健闘ぶりは日本人の半官びいきにぴったりのものだった。もしポルシェ904の出場がなかったら、スカイライン2000GTは、楽々と優勝できたものの、これほど注目されなかったことは確かだ。スカイライン神話は、逆にポルシェ904の出場によって、トヨタがバックアップしてつくられたということもできる。考えてみれば皮肉なことである。』
余談だが、レース当時のポルシェ904の貴重な写真のいくつかをコピぺさせていただいたweb(引用⑦)によれば、その後このクルマは『秋田のコレクターのもとにあった904は美しくれストアされ、ナンバーも取得しロードバージョンとして素敵な余生を送っていました。』とのことだ。904までは、このあとのモデルの906(カレラ6)以降と違い、一般路上で実用にも使えた。この歴史的な名車は、果たして今も日本にあるのだろうか。
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http://www.mooneyes.co.jp/wildman/2012/0811/3406

3.ポルシェ904出場は“トヨタの陰謀”だったか?
さて③の自動車史家、桂木氏も指摘した、“トヨタ陰謀説”については、たとえばレース専門誌(Racing onやオートスポーツ)などもトヨタ関与説をとっている(たとえばRacing onは『式場本人はいまだ否定しているが、対プリンス用にトヨタが手配したというのが定説になっている』(引用⑧)、“60年代レーシングカーのすべて”(引用⑨)では『式場壮吉の個人エントリーだったが、プリンスの勝利を阻止したいトヨタの積極的な支援があったと言われる』というスタンスだ。)
ただこの“トヨタ関与説”の中にも諸説あり、たとえば大久保力氏は自著で(引用⑩)『いかにレースに出す車が無いといっても、大トヨタともあろうものが、そんなセコイ手を使う筈もなく、いつまでもそう思われるのは甚だ迷惑だろう。当時のメーカーは、参考とする外国車があれば何でも買い入れて研究したし、最新技術の車が発売されればいち早く購入したものである。AJAJ元会長の池田英三氏(注;当時トヨタチームと関係が深かった)は、かつて「トヨタという会社は実に色々な車を買ってテストしているが、一体どういう車を造ろうとしているのか、全く解らない」と語っていた如く、他社に見られない多種のテスト車があったようだ。そういったメーカーだから、トヨタはパブリカのエンジンが空冷であるように、ポルシェの高性能空冷エンジンスポーツカーがでれば、絶好のテスト車として購入するのは当然で、たまたまレース間近の時期に輸入したメーカーの実験車を、式場が借り受けるのは珍しいことではない。』としており、こちらはむしろ逆に、より“トヨタ主導”に傾いた見解となる。
もちろんその一方で、日本のモータージャーナリストの第一人者で、生真面目な性格で“陰謀論”のたぐいを嫌う小林彰太郎氏の「いずれも根も葉もない噂に過ぎない」(wiki)と言うような反論もある。
しかしここはやはり、式場氏自らの言葉に耳を傾けるべきだろう。式場氏は77歳で亡くなる9年前(2007年)に、1冊まるごとこのレースのことを扱った「日本の名レース100選、‘64 第2回日本GP」(引用⑪)発刊の際にロングインタビューに応じている。様々に尾ひれがつきつつ語られているその伝説に自ら終止符をうつべく、いわば“決定版”にするつもりで受けたインタビューのように感じられた。なおこの記事は、後にweb上でも公開されている。詳しくはそちらを確認してください。
https://note.mu/kanekohirohisa/n/nf52264b2172d (下の画像もwebよりコピー)
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以下長いが、その記事から以下抜粋する。

4.式場自らが語る “43年目の真実”
『「あれは、第1回からトヨタと約束していたんです。“トヨタが出場する予定のないGTやスポーツカーレースには、トヨタ以外のクルマで個人エントリーしても構わない”って」
第2回日本グランプリのGT-2レースについて記した書物や記事の多くでは、“式場の904カレラGTSは、プリンス・スカイラインGTを負かしたくとも対抗するクルマのないトヨタが式場に買い与えたものだという説がある”という記述が必ずなされている。
「ああ、産業スパイ小説まがいの話は、僕もよく聞きましたね」
 購入資金がトヨタから出されたことを否定するのもバカバカしいといった口調で、式場は続ける。
「904を買って僕が第2回に出る話のキッカケは、実は第1回が開催される前からあったんです」
 ええっ!? でも、904カレラGTSが発表されたのは、第1回日本グランプリが終了してからのはずだ。
「僕はオンボロの1500スーパーに乗っていたでしょう。ポルシェのクラブを作ろうという話はずいぶん前から出ていて、僕ともうひとりの若い仲間が連絡を取り合って始めました。でも、ほとんどのメンバーは中年以上の方々でしたよ。初代の会長を大川又三郎さんという日本信託銀行の頭取にお願いしてね。で、第1回グランプリに、招待選手ということでハンシュタインが来ることになった」
フシュケ・フォン・ハンシュタインは、当時のポルシェのレーシング部門の監督だ。レーシングドライバー出身で、1938年に距離を短縮して行われたミッレミリアにBMW328で優勝している。1956年には、ポルシェ550スパイダーでタルガフローリオでも勝利を収めている。
「できたてホヤホヤのポルシェクラブですから、当時の僕らにしてみればハンシュタインは“ポルシェの神様”なんですよ。レースの前後で食事会をしたり、講演会で話してもらったり、大歓迎したんです。西ドイツへ帰国する日も、羽田空港まで送っていきました」
 式場は、羽田までの道中おそるおそる願いごとを切り出した。
「できたら、僕は来年の第2回グランプリにポルシェで出場したいんです。今回の鈴鹿でハンシュタインさんが乗られた356のカレラ2000GSのような、レースに勝てるようなクルマを中古でも構いませんのでお世話願えないでしょうか」
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https://genroq.jp/2019/01/14936/maina-min/
ポルシェ356B 2000GS カレラGTは、水平対向4気筒DOHC 1966cc 175hpで、確かにこれぐらいの性能でも十分だっただろう。
『ハンシュタインは、一瞬、言葉を飲み込んでから答えた。「今ここでは言えないんだけれども、カレラ2000GSよりもスゴくいいクルマを造っているんだ。帰国したら、それについての情報を送ってあげるよ」
体よく断れたかと、ちょっとガッカリした。
「やっぱり厚かましかったかなと反省していたら、すぐに手紙が来ました。“カレラ2000GSの中古を探すこともできるけれど、このクルマは100台作る予定だから、ちょっと待ってみたらどうか?” それが、904だったんですよ」
手紙には、904カレラGTSのプラスチックボディの軽さを強調するために、ふたりのメカニックがボディをつかんで持ち上げている写真が同封されていた。
「そのシーズンの『Automobile Year』に掲載されているのと同じ写真ですよ。言葉も出ないほどビックリして、値段を聞くためにすぐに三和自動車に飛んでいきました」
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http://takumi-yoshida901.way-nifty.com/start/images/DSC05334.40Kai.JPG
当時のポルシェの輸入総代理店である三和自動車は、904カレラGTSがホモロゲーションを取得するために100台以上生産され、一般に売り出すGTカテゴリーのクルマであることを伝える広告を『カーグラフィック』誌に掲載した。
「確か、571万円じゃなかったかな?」
式場が金額を思い出したと同時に、編集を担当する林信次が当該号のコピーを取り出した。ぴたり571万円である。
「ワハハハハハハッ。憶えているもんですね。当時の571万円はとても高価ですけど、内容を考えれば、僕は安いと思ったんだ。356SCにスライディングルーフを付けると250万円ぐらいだったから、2倍ちょっとで最新鋭のポルシェのレーシングマシンが買えるんだから。904までが、言葉の本来の意味での“GT”ですね。サーキットまで自走して、プラグとタイヤを変えてレースを戦えるクルマだった。この次の906となると完全なレーシングカーになっちゃって、自走はできません。フェラーリの250LMも自走できない」(下は”空からやってきました”という、当時の三和自動車の広告)
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https://www.weibo.com/ttarticle/p/show?id=2309404316017575753825&mod=zwenzhang?comment=1
ハンシュタインからの手紙は、全部で4通来た。最初の手紙以外は、途中から電報に代わった。
「アメリカ行きの3台のうちの1台を、僕に都合してくれたんだそうです」
うまく行く時には、何でもうまく運ぶもので、式場の904カレラGTSでの第2回日本グランプリ参戦に、パンナムがスポンサーに付いた。ボーイング707のカーゴ便で、904カレラGTSは羽田空港に到着した。
(中略)
「5月1日の2日目の予選で、まさかのクラッシュをしたんです。電報に書かれていた通り、ペダル位置を調整するピアノ線が切れて、ペダルが手前に押し出されてきた。エンジン回転が上がると同時に、クラッチも切れた。ノーブレーキでスピンしながら、1コーナーに突っ込んでガードレールにクラッシュです。プラスチックボディって、ショックを上手に吸収するんですね」
904カレラGTSがクラッシュした瞬間、プリンスチームのピットから「やった!」という歓声が上がって狂喜しているのを、『カーグラフィック』誌編集長の小林彰太郎は、「苦々しい思いで聞きながら」現場に急行したという。
フロントフェンダーは破れ、ボンネットが外れて、オイルクーラーも垂れ下がった。絶望的な状態の904カレラGTSは名古屋の藤井正行氏の工場に運ばれ、藤井氏とメカニックたちの二晩にわたる徹夜の奮闘で修復がなされた。藤井氏は、『カーグラフィック』誌に「ポルシェ904を修理して」という手記を発表している。
プリンスチームのエースとして、このレースでも式場と一戦交えることになっていた生沢徹が修復作業を手伝ったのも、この時代の彼ららしいエピソードだ。ライバルである前に、友人だからだ。(中略)
「3日の決勝の朝、名古屋から鈴鹿まで、修復できた904で自走しなくちゃならなかったのですが、渋滞で遅れそうになった。居合わせた白バイが先導してくれて、間に合ったんです」
〈もうスタート4分前、グリッドに並んだ他の車はエンジンを止めてシンと静まり返っているところへ、辛くも間に合ったポルシェがスレスレで滑り込んだ時には、敵も味方もなく、恩讐を越えた嵐のような拍手が渦巻いた。〉(『カーグラフィック』誌64年7月号)』

ここで式場のインタビューを中断して、名古屋で行った修理について、藤井氏の手記ではないが、当時ポルシェの輸入代理店だった三和自動車の広告にたびたび登場して有名だった、“Yメカ”こと吉岡晶氏が当時の状況を語っている記事があったので引用する。(引用⑫)
『あれはねぇ、僕がビリヤードをやってた時ですよ。どうやってかわからないけど会社から呼び出しがあってね。工具も何も持たないで夜行に乗ったんだ。新幹線がまだ走ってないころだったからね。現場にいた連中にはバラせるだけバラしとけっていって。名古屋に藤井さん(藤井正行氏)ていう修理屋さんがいてね。この人はもともとフルート奏者で、好きでフルートを直したりとか、そんなことをしていた人なんだけど、そこへ車を持ち込んでさ。工具も貸してもらって。あの頃はFRPなんてホンダのバイクにしか使われてなくて、そう簡単には手に入らないんですよ。頼んでも手に入らないから、できるだけ使わないようにしてね。木綿の布なら何とか代わりになるだろうってんで、藤井さんに着物があれば貸してくれないかって頼んで浴衣をもらったんだね。結局丸一日で直したかな。レースの1~2時間前に出来上がって、名古屋市内から自走で鈴鹿に向かったんだ。』この、修理に浴衣を使ったというのも有名なエピソードだ。⑫の証言を続ける。
『庄野川を渡ったあたりで式場さんに運転を代わったんだ。そこへちょうど白バイが来て、これがなかったらレースが始まりませんねっていって先導してくれることになったんだ。着いたのがレースの何十分前だったかな。走りながらフロントのカウルが浮いてるのに気づいたんだけど、もう時間ないじゃない。みんなテープ貸してくれないんだよ。それで知ってる連中を見つけて、むこうでひと騒ぎしてこいって言ったんだ。みんながそっちに気をとられてる隙にJAFのガムテープを借りて、直したんだ』
と生々しく語っている。ただ式場のインタビュー内容を裏付ける内容だ。ちなみに下の写真で、レース直前の車検チェックを受ける中、“Yメカニック”が寝転んで、ガムテープを使い応急処理をしている姿が映し出されている。
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http://www.mooneyes.co.jp/wildman/2012/0811/3406
参考までに“トヨタ陰謀説”についてY氏はこの記事で、
『式場さんが買ったのかねぇ。僕はダイハツかトヨタがスポンサーだったと思うんだけど。その頃、両方とも一生懸命に空冷のエンジンを作りたがってたからねぇ。あの後もいろんなメーカーの人が会社に来ましたよ。トヨタとかニッサンの人とか。買ってくれたわけじゃないけれど、あっちこっちの寸法調べたり覗き込んだりしてね。特にカレラ6はよく見に来てたな』と語っている。カーグラは、“真実を確認するには、まだ少しの時間の猶予が必要なようである”と結んでいた。話を式場のインタビュー(⑪)に戻す。
『決勝レースがスタートすると、冒頭で式場が語ったように、904カレラGTSとスカイラインGTでは、レースにはならなかった。GTとはいえ、競技用に作られたミッドシップカーと、1500ccクラスの乗用車をストレッチし、半ば強引に2000ccの6気筒を押し込んだ特殊なクルマとでは勝負になるはずがない。
「藤井さんをはじめとして、みんなの協力で修復できましたけど、真っ直ぐ走らなかったし、タイヤの状態だって悪かったんです。904の本来の実力の半分も出せていなかった。それでも勝てたのは、本来だったら同じカテゴリーで競い合わないはずのクルマ同士だからです」
(中略)
「ハンシュタインは、東洋の島国・日本で行われた第1回日本グランプリを自ら走ってみて、この国でもやがてモータースポーツが盛んになるに違いないと確信したのではないでしょうか。ポルシェクラブもできて、関心だって高い。だったら、1台都合してやってもいいじゃないかって思ってくれたんでしょう。運も良かったんです」

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http://since1957.blog130.fc2.com/blog-entry-43.html

ここからは全くの私見です。式場がこの(おそらく最後の)インタビューを通して本当に言いたかったことは、ポルシェ904で日本GPに出場した動機は、けっして某メーカー主導などという “どす黒い” 話が前提であったわけではなく、その発端は、ハンシュタインとの交渉の過程でポルシェ904という当時世界で100台限定発売の最新鋭のレーシングマシンが奇跡的に手に入りそうになったので、そいつで日本GPのメインレースに出走して、(当然トヨタ以外の、という注釈付きだが、)国内ワークス勢をぶっちぎってやりたいという、自動車レース大好きの若者(当時まだ25歳だった!)の、熱い気持ちだったことを、後世まで誤解なく伝えたかったのではあるまいか。
ただ式場は同時にトヨタ・チームの一員だったので、いかに契約に縛られないとはいえ、904での出場にあたっては当然事前にトヨタと相談し、たぶん式場の側から提案し、見返りに資金援助の申し入れをしたのだろう。確かに571万円は、式場からすれば全額払えない額ではなかったと思う。しかし、このブログの年初に、自動車欄に書き込んだ “②幻の“ロータス・ヨーロッパ ロータリー ゼロ” をぜひ参照いただきたいが、この当時式場とその盟友の杉江(徳大寺)は大志を抱く、野心ある若者で、このすぐ後に、レーシングメイトを設立したように、国内自動車メーカーの意向に左右されない、独立した存在になることを夢見ていた(と思う)。お金はいくらあっても、邪魔にならない状況だったはずだ。一方この取引でトヨタ陣営が得られる対価は、スカイラインのGP制覇阻止と、空冷エンジン&レーシングカー研究用に、入手困難な904を検分できることで、2度おいしいような、文句ない取引だっただろう。
それにしても、たぶん当時トヨタと交わした約束を守るため、終生否定で貫き通し、変わることのなかった氏の言動の中に、”男のダンディズム”を感じるのは、ひいき目過ぎるだろうか。 (ちなみに式場氏の奥様は、歌手の欧陽菲菲さんです。)
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https://www.nikkansports.com/sports/news/1650014.html
次にトヨタサイドから、“正史”以外の情報は出ているか、確認してみた。

5.トヨタ関係者からの証言
黎明期のトヨタのレーシングヒストリーについては、チームトヨタのキャプテン格であった細谷四方洋氏が、当時の生きた証人として、トヨタのレース活動の“正史”を語るいわば“語り部”的な役割を長年はたしてきた。しかし氏の発言は当然ながら、会社に忠誠をつくし、その立場を十二分に踏まえたうえでの発言であるため、中には肝心なポイントが見えてこないものもある。細谷氏に限らず当然ながらトヨタ関係者の間では、暗黙のかん口令が敷かれているはずで、“証拠”となる証言は、レース前からヒソヒソ話では多々あったようだが、記録に残る文字情報ではなかなか出てこない。
ところがwikiの情報で、当時のトヨタ製品企画室工長(チーフメカニック)がそれとなく“匂わせている”との情報があり、そこでその貴重な歴史的証言を確認してみた。
ノスタルジックヒーロー誌の「トヨタ2000GTを支えたメカニックたち いまだから話そう。いいたい放題座談会」という、サブタイトルからも何やら期待の持てそうな記事だ。(引用⑬)
『トヨタ2000GT』に関して今までは設計者、ドライバー、監督などが発言してきた。今回はその裏方ともいうべきメカニックたちに本音を語ってもらった。深読みすれば、当時のメーカーの姿勢やドライバーの本質が浮かび上がってくるはず。ぜひ、一度ではなく二度読んでいただきたいトークである。』という、かなりマニアックな内容だ(文のまとめは片岡英明氏)。
ちなみに出席者が8名(平博氏、高橋敏之氏、都築憲司氏、堀尾幸雄氏、中村武彦氏、内藤宏氏、栗谷正彦氏、鵜飼好文氏の8名)というかなり大掛かりな座談会で、この座談会当時で既に約30年前の話なので、もうそろそろ時効?だろうと、みなさん率直に語っている。この中で(どなたかは伏せるが)、司会役(たぶん片岡氏)の“トヨタ2000GTは’64年秋から本格的な開発が始まったそうですが、このプロジェクトの前は社内でどんな仕事についていたのでしょうか”との問いに、“某氏”が以下のような、なかなか興味深い発言を残している。
『トヨタ2000GTの前にもいろいろな車を担当しましたね。このころはパブリカ700の試作車を手がけ、運行試験を行っています。新車ができると、役員がお伊勢参りに行くのでメカニックが随行するんです。あの当時はおおらかな時代で、豊田英二さん(現トヨタ自動車名誉会長)や豊田章一郎さん(現経団連会長)がときどき一緒に運行試験にされていました。私は第1回日本GPは、エンジンの供給を担当していました。第2回日本GPからサーキットに行くようになりました。このときは式場壮吉さんの助っ人でした。大切なポルシェ904GTSを壊されないように、コースに陣取って監視していました。(編集部注 当時ポルシェ904GTSはトヨタが輸入したと噂された)』
さらっと述べているがきわめて重要な証言だ。トヨタにとっては研究目的を兼ねた貴重な個体でもあったことが、行間からわかる。
なお本題とは離れるが参考までに、座談会でのメカニックたちのトヨタ系ドライバー評は、
『田村三夫さんはプロ中のプロで、常に飄々としていましたね。メカニック連中にもっとも好かれていたドライバーです。みんなから“みっちゃん”と呼ばれ、慕われていました。走りのセンスも冴えていた。』
『浮谷さんは、チームの中でブレーキングポイントをもっとも奥にとっていたんです。速く走ろうとする執念は凄かった。
しかし、あの船橋サーキットのCCCレースは感激したな。(中略)あのアクシデントの後、勝てるとは思いませんでした。』
『津々見友彦さんは、他のドライバーより遅れて日産からトヨタ・チームに入ってきたので不利だったと思いますよ。マシンに恵まれなかったけど、人間的にはとてもいい人ですね。
津々見さんは努力派のドライバーですよ。速く走ろうと、常に努力していました。』
『鮒子田さんは慎重なドライバーでしたね。みんなから、“京都のボンボン”と呼ばれ、レースの駆け引きがうまかったですね。
商売人としてのセンスもありました。よく気配りする人でしたね。トヨタの中では浮谷か鮒子田か、といわれた時代もありました。物事の先を常に考えて行動していました。』
『細谷四方洋さんはチームの中で一番早めにブレーキングするんです。だから練習中のタイムはそれほど速くない。でも、ここ一番(編集部注 契約更改時)というときは非常に速い。
とくに河野さん(注;開発リーダー)が見ているときは速かった。最速タイムをたたきだすんですよ。
私たちが唸るほど頑張っちゃうんですね。』

トヨタ・チームを現場で支えた人たちの正直な感想として、“某氏の発言”も十分信用できる情報だと思われる。
次の話題は、このレースで最大の見せ場で、スカイライン伝説の始まりとなった、一瞬だけでも式場のポルシェ904を、生沢のスカイラインGTが抜いたという、その“真相”について。

6.スカイラインがポルシェを抜いた、神話誕生の瞬間
この問題のシーンは、gazooの記事がよくまとまっていたので以下引用(⑭)
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http://since1957.blog130.fc2.com/blog-entry-43.html
『3番目のポジションからスタートした904は瞬発力を生かして1コーナーでトップに立ち、生沢 徹の乗るカーナンバー41のスカイラインGTが必死に追いすがった。周回を重ねても、2台の差は思ったほどには広がらない。904は外面は修復できたものの、クラッシュによるシャシーの損傷は完全には直っておらず、直進すらできない状態だったのだ。
そして7周目、大事件が発生する。ホームストレートに戻ってきた生沢のスカイラインGTが、後ろにポルシェ904を従えていたのだ。国産車が世界最先端のスポーツカーを抜いたという光景を目の当たりにし、グランドスタンドの観客は総立ちになった。次の周で式場は生沢を抜き返し、最終的には大差をつけて優勝した。それでも、一瞬でもスカイラインがポルシェを抜いたという事実は観客の脳裏に焼き付けられ、伝説となって語り継がれていくことになる。
圧倒的な性能差にもかかわらずスカイラインがポルシェの前に出たことは、さまざまな臆測を呼んだ。いわゆる密約説である。レーシングドライバーたちはライバルでありつつも仲間意識を持っていて、生沢、式場を含め、浮谷東次郎、杉江博愛(後の徳大寺有恒)らは仲のよい友人だった。生沢に頼まれて式場がわざと先に行かせたという話がまことしやかにささやかれた。実際、レース前にそんな会話があったことは両人が認めている。しかし、それはただの冗談で、実際には周回遅れのトライアンフTR-4を抜きあぐねていた式場のスキを突き、生沢がトップを奪い取ったのだった。ただ、すぐに抜き返せるのにホームストレートを過ぎるまで待ったという側面はあったらしい。』

ここで神話を誕生させた生沢と、再び式場氏にも登場いただき、その“真実”を直接語ってもらおう。
雑誌 NAVIの記事より引用する。(⑮)「GT-Rが蘇らせた3人“式場壮吉”“生沢徹“”杉江博愛“の青春」を紹介する。「スカイライン神話を直接的につくりあげた神々、式場壮吉、生沢徹、そしてそれを影で見守った杉江博愛(徳大寺有恒)の3人がここに再開、スカイライン神話をよみがえらせたGT-R(R32)を箱根で走らせる」という面白い企画だ。3人は過去を振り返り、懐かし気にその“真相”を語っている。
『~ 3人の話は日本のモータースポーツの黎明期への回想へと自然に向かっていく。スカイライン神話誕生の瞬間に、若き3人は立ち会っていた。』
式場 ~ でもね、このGT-Rにはただただ、たまげましたよ。僕がね、1周我慢してテツに前を走らせてやった成果が、今、これを生んでるんだから(笑)。
生沢 あの1周がなかったら、スカイラインGTはなかったんだから。
杉江 でも何で、あんなことになっちゃったの?
生沢 あの女のドライバーがいなかったら。
杉江 テツは、「チャンスがあったら、俺に1周、前走らせて」って前から言っていたんだよな。で、ほんとうにそのチャンスができたんだ。
式場 それはヘヤピンで起こったのね。前がウロウロしてるわけよ。それで、前、女性だから、俺が待っていたわけ。そしたら、こいつが内側からビュッと先に行ったんだ。でもね、スプーンの出口のところまではテツの後ろにピッタリ付いていたの。あそこでアクセル踏めば先に行けるの。でも、1周待とうと思ってね。
杉江 それでグランドスタンドをテツが下ってきたからね。
式場 そのおかげでスカイラインがここまで来たんだ。
生沢 日産から表彰されていいよ(笑)。
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https://matome.naver.jp/odai/2137152377534366101
杉江 いや、ふたりともそうは思ってないんだけどさ、ホント、あの事件てのは大変な事件だよ。でも、テツは、どっかでスピンして3位になっちゃったじゃない。
生沢 違う。砂子にぶつけられちゃったの(笑)。
式場 いろいろ出てくるね(笑)。表彰台に乗っかって、オープンカーでコースを1周パレードしていると、観客席から「式場、お前、次は国産車に絶対乗れよ」(笑)。「分かりましたあ」とか言ってさ(笑)。なんかテツは1位取ったみたいなんだよ。
生沢 だけど最終コーナー降りて行く時、スタンドが総立ちになったもんね。だって起こり得ないことが起きたから。
杉江 あのレースは楽しかったな。
式場 あの時は杉江がピットマネージャーやってくれてたんだよね。サインボードも出してくれて。それからテツが優勝した時も、彼がやったんだよな。スポンサー集めもやって。
生沢 日本のノイバウアー(戦後、メルセデスのレース全盛時代を築いた名監督)ですよ(笑)。』

この話に出てくる、“前をウロウロ走っている女性ドライバー”について、より生々しい証言が、「帰ってきたTETSU “プロローグから終焉まで”」というブログ(以下引用⑯)にあるのでその部分を引用する。
『生沢:レース前に、頼む1周だけトップやらせてよって…、やってたのね!冗談だよ!(笑)
本心は、勝とうと思っているけど、どっちにしても車のレベルが違って、まともに行ったら行っちゃうから、1周だけ・…(笑)。
式場:それは、ずいぶん頭にこびりついてたんですがね、まあ、女性のドライバーの…、今思うと信じられない人がこのレースに出てたんですよ。TR-4(イギリスの名門スポーツカーのトライアンフTR-4のこと)かなんかで・・・。
生沢:仮免練習中みたいなさ…。(笑)
(注;ちなみにこのトライアンフTR-4で出場した紅一点、塚本♡子女史について、“スカイライン伝説誕生の、影の大根役〇”という風評もあるらしい…)
式場:その人に・・・、2周したら、あっという間に追いついちゃったんですよね。
生沢:遅いんだよね。2周で1周遅れだよ!
式場:その方が、ヘアピンに出てきちゃったんで、僕がそこでどっち行くのかわかんないんで、一瞬躊躇してたら、そうしてたら徹が内側からダーと抜いてって・・・。
生沢:それからはもう、1周だけでもトップと思うからさ…。
式場:徹は、バックミラーも見ずにプラクティスのような走りで、全然バックミラーも見ない。正直言って、スプーンのアウトで抜けたんですけど、抜けたんだけど、いやこりゃ~、あいつも言ってたから、1周徹の後ついてこうかと……。そしたらメインストレートで観客が立ってるのよね。
生沢:観客の…、あの当時シケインないでしょ、カシオトライアングル?何しろ、あそこから全開で降りてくるわけね、正面にスクリーンみたいに観客席が見えるのよ、ワァーッて立ってるのが見えるんだよね。それこそこんな感じよ!(生沢が笑顔でピースサインをする)
式場:ずっとピッタシ…、ずっと我慢して、すると後ろが迫ってくるわけですよね。ヘアピンからスプーンで今度は前行かせてもらおうと、そっから、今度は、真面目に行こうと…。結果的には、もう徹のスカイラインGTを褒め上げる結果になりましたよね、私は。(笑)
生沢:というか、あれが日本の自動車工業界の曙だよね!!(誇らしげなTETSU!)』

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https://minkara.carview.co.jp/userid/360315/blog/37947790/
式場と生沢による“神話誕生”のまとめとして、当時二人をもっとも近いところから見ていた、徳大寺(杉江)さんの以下の言葉で要約されていると思う(引用①)。『当時、私は式場壮吉君のピット責任者をやっていた。式場君と生沢君はレースを通じて仲がよかった。このレースを走る前も、生沢君が「式場、もしも俺が抜いたら1周ぐらいトップを譲れよ」と冗談を言っていたのを思い出す。予想外にも式場君は周回遅れのクルマに手間取ったところを生沢君に抜かれたが、すぐに抜き返すこともできた。ところが、しばし華を持たせたというのが真相だ。実際、式場君はその後軽々とスカイラインを抜き去った。しかし、17万人が詰めかけた鈴鹿サーキットのファンはそうはとらえなかった。』

7.生沢と砂子の確執
話を戻す。最近は便利な世の中で?この式場、生沢、杉江(徳大寺)氏による、「第2回日本グランプリの真実」という動画があり、貼っておく。
https://www.youtube.com/watch?v=DkA2g8t0yUs
この動画の中で式場は、「誰がみても勝たねばならないというプレッシャーが大変だった」と語っている。確かにそうだったろう。それとNAVIの記事でも語っている事だが、生沢はこの動画の中で、生沢がなぜ3位になったかについて「砂子にぶつけられたからだ。チーム側から“ホールド(そのまま順位をキープ)”のサインが出たので無理せずに走っていたら、砂子がガン、ガン、ガンとぶつけてきて、押し出されてしまいコースアウトしてしまった」と悔し気に語っている。
ただ当ブログの趣旨としては、できるだけ公平にと思い、砂子氏側に立った“反論?”も載せておきたい。ベストカー誌の「クルマ界 歴史の証人」(引用⑰)で、当時同じプリンスのワークスドライバーでありながら、生沢とはスタンスの違った砂子儀一は以下のように語っている。生粋のワークスドライバーの気概が窺える。
『必勝態勢で臨んだ鈴鹿の地で突如現れた強敵
第1回日本グランプリでの惨敗という汚名を返上するために、準備万端で臨んだ私たちプリンスチーム。もちろん目指すはT-Ⅵクラスのグロリア、T-Ⅴクラスのスカイライン1500、そしてメインレースとも言えるGT-ⅡクラスのスカイラインGTによる「3クラス制覇である。」とくに7台のスカイラインGTで戦うことになるGT-Ⅱクラスでの勝利は、是が非でも手に入れなければならなかったのだ。(中略)櫻井眞一郎氏に厳命を下した中川良一氏も、1週間前から四日市のステーションホテルに泊まりこんで最高指揮官として臨む程であるから、現場にはお祭り気分などはなかった。当然のようにライバルの各メーカーも今回はワークス体制を作り上げ、全精力をつぎ込んできた。(中略)そんな中で私はT-Ⅵクラスに臨んだのだが、グロリアのエンジントラブルでリタイヤしていた。このレースでは、ほかのメーカーのクルマにガンガン当てに来られ、それだけでも「今回は様子が違うな」と怖さを感じるほどだった。話によれば「砂子をつぶせ」などといった指令まで出ていたという。事実、身の危険を感じるようなことがたまにあったので、私はボディガードを雇ったぐらいだった。少々物騒な話まで飛び出すほどにプリンスの下馬評は高く、有形無形のプレッシャーを受けざるを得なかったわけである。』

メーカー間の戦いが次第にエスカレートしていった様子がうかがい知れる。そしていよいよ問題の、GT-Ⅱレースだ。
『だがメインレースであるGT-Ⅱクラスには、練習走行で日本車として初めて2分50秒の壁を破ったスカイラインGTという強力なマシンがあると自負していた。周囲からは本番での上位独占は間違いないと見られていたし、チームの士気もかなり高かった。
 ところが、そんな我々の元に衝撃的な情報がもたらされた。なんとトヨタワークスであるはずの式場壮吉氏が個人参戦という形でポルシェ904を持ち込んで走るというのである。(中略)このポルシェの参戦には、今もっていろいろな話がある。GT-Ⅱクラスに有力なマシンを持たなかったトヨタが金を出して式場氏にポルシェ904を与えたとか、研究用のマシンを貸したとか、その噂はにぎやかだ。勝利確実と言われ、下馬評のもっとも高かったプリンスのドライバーである私にすれば、この904の参戦はトヨタによるスカイラインGT潰しによるものだと思っている。
 だがポルシェ904は予選中にクラッシュし、大きなダメージを負った。中には喜ぶ者もいたが、徹夜の修復作業を経て本戦に挑んできた。手負いの状態とはいえ、相手は純粋なレーシングマシンであり、侮ることなどもちろんできるわけがない。
 そしてついにレースがスタートした。予選3位だった式場氏が一気に加速し、第1コーナーまでにトップに立つと、それを予選1位のカーナンバー41、スカイラインGTの生沢徹氏が追い、それに続いて予選2位だったカーナンバー39の私が追従するという展開となった。(中略)そして迎えた7周目のことだった。生沢氏は遅いクルマに手こずる式場氏と、その遅いクルマともども、2台をまとめてヘヤピン手前で抜き去ったのである。そのままトップに躍り出た生沢氏が、ポルシェ904を従えてホームストレートに現れたのだから、メインスタンドの観客は総立ちとなり、大歓声を送るわけだ。3位だった私は、その様子をずっと後ろから見ていたわけであり、会場の異様な盛り上がりは走りながらでも感じることができたのだ。
 後に語られる“スカイライン伝説誕生の瞬間”などと言われる場面である。この時、私は「さすが生沢!これでプリンスは勝てる!」と思ったのだ。そして私もレーサーであるから、黙って見ていたわけではない。このままポルシェを追いかけ、生沢氏に続いて抜き去ってやろうとさえ思い、どんどん追い上げていった。
ところがスプーンコーナーを立ち上がった時、信じられない光景が起きたのだ。生沢氏は式場氏に、まるで道を譲るかのように抜かせたのである。私に言わせれば“抜かせてあげた”という印象だった。後に生沢氏は「実力の差は明らかであり、スポーツ精神にのっとってどいたのだ」と言っている。だが、私はポルシェを追いかける様子をなかなか見せないその走りを目にした時、“生沢はレースを放棄した”と思ったのだ。
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https://clicccar.com/2014/11/20/277882/
よく考えれば、生沢氏と式場氏は普段から六本木などで遊んでいた仲間のような関係であったことは誰もが知っていた。もちろんやっかみなどで言っているのではないが、私たちのような庶民派レーサーとは、少しばかり違った生活をしていた人達である。そんな友人関係がある故に、ふたりの間には「話ができていたのだ」と思ったのである。もちろんだからと言ってレースを放棄することなど、私には納得できるはずがない。第一、性能差こそ大きいとはいえ、この鈴鹿でスカイラインGTがポルシェ904と比べてそれほど遅いとも感じていなかったのだ。
そんな自信があるからこそ、とにかく先行する2台を追い上げるだけであった。実はその自信には根拠があった。このレースでは私のクルマの方が生沢氏のクルマより仕上がりが良く、速かったのだ。
そこでプリンスに勝利をもたらすためには、まず生沢氏を抜かなくてはならないと思うのは道理である。さらにもう1点、式場氏の最速ラップは2分48秒4であるのに対して、私は2分48秒9であり、ふたりの間に大きなタイム差などはなかったのだ。私は「これなら勝負できる!」と思った。
 そこで「どけ、どけ!お前が行かないなら俺が行く」と、ボディを左右に振って私は生沢氏に意思表示をした。だが、私にはなかなか先を譲ってくれないのである。そんなイライラした状態で走りを続け、ついにダンロップブリッジのところまできたときだ。私は“とにかく先に行かせてくれ”という意思を表すために、しかたなく生沢氏の後ろからマシンをぶつけて合図した。すると彼は少し驚いた様子を見せ、姿勢を乱した。そこを狙ってなんとか抜いて前に出て、式場のポルシェの追い上げを始めたのだが、すでにレースが後半戦に入った12周目であった。そして16周目、私はポルシェに次いで約10秒遅れの2位、そして私よりさらに約10秒遅れで生沢氏が3位でゴールした。このタイム差では確かに完敗と言われても仕方がないし、私の中には悔しさが残った。』

砂子からすれば、同じプリンス陣営でいながら、式場と厚い絆で結ばれていることを隠さない生沢の行動は不審に思えただだろう。以下は私見です。
ただ仮に式場のポルシェ904を、砂子のスカイラインGTが二番手で本気になって追いかけていたら、あのスカイライン神話はけっして生まれなかったのではないだろうか。盟友である生沢だからこそ“高速ランデブー走行”を二人で楽しみつつ、かつ観客も喜ばせつつも、気心の知れた生沢だからこそブロックせずに1周だけ抜かせてやったのであり、砂子が相手ならそんな“粋な演出”なしに、見せ場を作らすこともなく、手加減せずに安全圏に逃げこんでいたことだろう。式場はトヨタのエース格であり、そのテクニックは定評があるところだ。
「日本の名レース100選 ‘64 第2回日本GP」(引用⑨)に、このレースを報じたオートスポーツ誌の再録があり、砂子と生沢のレース直後のインタビュー記事があるがそれぞれ「でも、10周過ぎあたりから、どうもエンジンの力がなくなった」(砂子)、「後半、エンジンの力が出なくて……」(生沢)と語っており、スカイラインGTはレース後半息切れ状態だったことがわかる。原因はわからないが。いかに手負いのポルシェ904とはいえ、生沢の言うようにそもそもポテンシャルが違いすぎる(いくら病み上がり状態とはいえ、空気抵抗もパワー/ウェイトレシオも違いすぎる)ので、追いつき追い越すのも無理だったと思う(以上、全くの私見でした)。
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https://www.webcartop.jp/2016/05/42012

8.そして日本GPはワークス同士の戦いへと変貌していった
ここからもまったくの私見が続く。
また砂子は、“生沢氏と式場氏は普段から六本木などで遊んでいた仲間のような関係で、私たちのような庶民派レーサーとは、少しばかり違った生活をしていた”と(多少憎々し気に?)語っているが、生沢と砂子の確執の背景として、第1回日本GPにおけるトヨタの勝利が、販促効果として大成功をおさめた結果、日本GPという舞台が、形を変えたメーカー同士の激烈な販促活動の場へと変貌してしまったことも影響していると思う。
ワークスという巨大な会社組織の一員として、会社の看板を背負い戦いの最前線に立つ、企業戦士であることを第一義に考える砂子。なにせ今と違い、高度成長の真っ只中だ。
しかし組織にすべてを渡したくない、一人の自動車競走好きの独立したレーサーとしての気概を何とか持ち続けていきたい、そして企業の枠を超えた友情も大切にしたいという、式場や生沢との立場の違いが浮き彫りにされているような気がする。
そんな板挟みの中で、その圧力に押しつぶされそうになりながらも、日本グランプリという大舞台で、ポルシェ904の力で思いっきり横一直線に駆け抜けてやりたいと考えたのが、式場と生沢、そして二人の“ノイバウアー”役だった杉江(徳大寺)ではなかったのだろうか。

前記のNAVIの記事⑮)で、当時の生沢や式場、杉江らの世界を「GT-Rが蘇らせた3人“式場壮吉”“生沢徹“”杉江博愛“の青春」で語っている。
『プロローグ
ビンテージ・クラブ
11月だというのに生暖かい夜。それほど遅くない時間。杉江博愛(注;徳大寺有恒氏の本名)は飯倉片町の交差点の地下道を谷町方面へ向かって歩いていた。暗闇から金髪のパンク少女がヌッと顔を出す。六本木の日常風景。地下道の階段を一段一段登ると、目の前にピザレストラン、ニコラスがあった。
― 溜まり場にしていたというニコラスは、昔からここにあったんですか。
杉江 違う。あそこにあったんだ。
 杉江は振り返って、飯倉方町の交差点、首都高速2号線の陸橋の下あたりを指す。
杉江 2階建か3階建の古い洋館で、暗い小っちゃい扉だった。そこを開けると赤い絨毯で、アメリカナイズされた場所だったな。
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http://montorio.seesaa.net/article/111437096.html
 杉江は目の前のニコラスの扉を開ける。
杉江 内装は同じなんだよ。キャンティの空き瓶が並べてあって。60年から63~64年くらいまでここに入りびたってた。63年ごろ高速道路の下にあったニコラスがなくなって、それから3年ぐらい後にこの店が出来たんだと思う。
― その時の仲間が、式場壮吉さんと生沢徹さんなんですね。
杉江 そう。式場壮吉、生沢徹、ミッキー・カーチス、浅岡重輝、津々見友彦、三保敬太郎、福沢幸男、くろすとしゆき、石津祐介(石津謙介の次男)というのが溜まるわけだ、ここへ。
― その時はまだ、みなさんレーシング・ドライバーじゃなかったんですよね。
杉江 真っただ中だよ。石津君が三菱に、浅岡とミッキーがいすゞに、テツがプリンスに、俺と式場君がトヨタに、三保さんが日産に。でも、みんなチームを超えて仲がよかったね。
― じゃあ、それ以前からみんな知り合いだったんですね。
杉江 そう。お揃いの真っ赤なブレザーつくったよ。ビンテージ・クラブって行ってさ
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https://clicccar.com/2014/11/20/277882/
(中略)
― どうしてみんなレーシング・ドライバーになっちゃったんですか。
杉江 鈴鹿で最初のレースが開かれるっていうんで、オートバイレースだったんだけど、みんなで見に行ったわけ。カッコいいクルマ、連ねてね。土砂降りの雨でさ、みんな泥の中に靴を無くして来た(笑)、それで、ここへ帰ってきてさ、「おい、レースやろうよ」って。
― でもみんなワークスドライバーになれちゃったっていうのはスゴイですね。
杉江 バカな暴走族だもの、俺たち。走り屋。なんかね、当時はみんな急に思い立つんだよ。「これから湘南へ行ってこようか」なんて、4~5台連ねて行ったりとか、湘南で走り屋に会って友達になったりとかさ。
― 翌日のことは考えてなかったんですか。
杉江 なかったなあ。だってね、鈴鹿に練習に行く時だって、夕方土曜日、ここ(ニコラス)か、日比谷の三信ビルの中にあったピータースっていうレストランに集まるわけ。それで軽くメシ食って、7時か8時頃出て、東海道を走っていく。鈴鹿の正門に着くのが朝の6時。それからひと寝入りして、9時ごろ起きて、タイヤ交換して、午前中の走行会走って、また仮眠して、午後の走行会走って、夕方5時頃向こうを出る。そうすると月曜日の朝5時頃東京に着くわけだよ。それからみんな仕事してたもの。
― 六本木族っていう自覚はあったんですか。
杉江 なかったよ。六本木は好きだったけれどね。』

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http://montorio.seesaa.net/article/111437096.html

第2回日本GPのまとめを、⑪より部分的に引用して終わりにしたい。
『日本初の本格的レーシングコースとして誕生した鈴鹿サーキット。その最初の4輪レースは、全員が無知な新人だった。ところが一年後、状況は一変する。
トヨタはクラウン/コロナ/パブリカ、ニッサンはセドリック/フェアレディ/ブルーバード、プリンスはグロリア/スカイラインGT/スカイライン1500、いすゞはベレル/ベレットGT、ベレット、三菱はコルト1000、マツダはキャロル600/キャロル360、日野はコンテッサ、本田はS600、スズキはスズライトをそれぞれ送り込んだ。64年2月に乗用車生産を始めたばかりのダイハツを除けば、当時存在した国内の全自動車(乗用車)メーカーがワークス体制で臨んだ一戦ということになる。後にも先にも国内レース史上、唯一の事例。そうやって大幅にレベルアップした第2回日本GPは、確かに充実して面白い内容を持ってはいた。しかしこの時点で、メーカー主導の国内レースという路線が敷かれてしまったのもまた事実。
国内レース界はここで一気に加速に入る。ゴールがどこにあるかは誰も知らない。それでも走り続けるのが60年代の勢いだった。』

なかなか本題の、高橋国光編までたどり着けない。そこで次回の第3回日本GPは大幅にはしょる予定です。

― 引用元 ―
① :「秋の徳大寺スペシャル スカイラインの今と昔を語る」ベストカー 講談社ビーシー
② :「追悼 櫻井眞一郎氏」三本和彦 ベストカー 講談社ビーシー
③ :「激闘 ‘60年代の日本グランプリ」桂木洋二(1995.05)グランプリ出版
④ 「スカイラインGT-Rストーリー&ヒストリー」(2019.04)モーターマガジン社
⑤ :「歴史の証言 R380シリーズ開発者 嶋田勝利PART2」ベストカー 講談社ビーシー
⑥ :「スバルの兄弟分、プリンス自動車の歴史。」
https://chubu-jihan.com/subaru/news_list.php?page=contents&id=314&block=1
⑦ :「WILDMAN'S BLOG」http://www.mooneyes.co.jp/wildman/2012/0811/3406
⑧ :「古の日本グランプリPartⅡ」Racing on(2014.05)三栄書房
⑨ :「60年代レーシングカーのすべて」(2018.02)三栄書房
⑩ :「サーキット燦燦」大久保力(2005.02)三栄書房
⑪ :「日本の名レース100選、‘64 第2回日本GP」(H19.05)三栄書房
⑫ :「独り歩きした逸話」カーグラフィック 二玄社
⑬ :「トヨタ2000GTを支えたメカニックたち」ノスタルジックヒーロー(1996.04)芸文社
⑭ :「日本グランプリ――そして伝説へ(1964年)」
https://gazoo.com/article/car_history/140509_1.html
⑮ :「GT-Rが蘇らせた3人“式場壮吉”“生沢徹“”杉江博愛“の青春」NAVI 二玄社
⑯ :「帰ってきたTETSU “プロローグから終焉まで”」
https://www.ne.jp/asahi/60srace/models/Tetsu2.html
⑰ :「歴史の証人 プリンス―日産ワークスドライバー 砂子儀一 PART Ⅳ」ベストカー 講談社ビーシー

⑫ 第1回日本グランプリ(1963年)“トヨタの一人勝ち”

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http://since1957.blog130.fc2.com/blog-entry-34.html
第1回から第3回までの、日本グランプリについて、プリンスとトヨタの戦いを中心に振り返り、それから本題である第4回GPへとつなげておきたい。(以下はwiki、⓵、②、③を参考にまとめた)
1.レースの概要
 1962年に日本で最初の本格的なレーシングコースの鈴鹿サーキットが、本田技研により完成し、その鈴鹿で1963年5月に「第1回日本グランプリ自動車レース大会」が開催された。このレースが日本における本格的な自動車レースの始まりとなった。第2回GPまでは市販車を改造したツーリングカーやグランドツーリングカーを中心に、排気量ごとにクラス分けして行われた。
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https://www.honda.co.jp/50years-history/challenge/1962suzuka/page04.html
 第1回日本グランプリは、開催するサーキットも主宰するクラブもホンダ色の強いものとなり、その流れに反発した日本自動車工業会では、拘束力こそなかったものの、このレースにメーカーとしては協力しないという申し合わせを行っていた。

 ところが、販売の神様、神谷正太郎率いるトヨタ自販(当時トヨタはまだ自工と自販は分離されていた時代で、都合が良かった)の宣伝部は、レースに勝つことが、クルマの宣伝に大きな効果があると、着目していた。レースへの参加を自粛したのは自動車工業会というメーカー側の団体であり、トヨタ自販は販社なので拘束されないという独自の解釈で、自工とのあうんの呼吸で自販主導の下で、勝つための取り組みを積極的に行い、中途半端な対応の他社を完全にリードした。
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https://gazoo.com/article/car_history/140509_1.html
 当時はトヨタに限らず2輪のレースでノウハウのあるスズキ以外、どこの4輪メーカーも自動車レースに対してのノウハウは持ち合わせていなかった。そこで性能アップのために2輪のチューニングで実績のあった山田輪盛館に協力を依頼し、レース出場を目指して練習に来ているドライバーの中から群を抜いた速さをみせていた多賀弘明、式場壮吉らと契約し出場させた。結果として式場はコロナで、多賀はクラウンで出場し、それぞれ接戦を制して優勝し、このふたりの巧みなドライビングがなければ、トヨタ車の優勝は難しかったといわれたので、この起用は見事に当たった。
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http://www.mmjp.or.jp/60srace/1963JAPANGP.html
 9レースのうち3レースは外国車が勝ち、トヨタ以外で国産車が優勝したのは、スズキのフロンテと日野コンテッサ、日産フェアレディだけだった。これに対してパブリカ、コロナ、クラウンという主力車種すべてでレースを制覇したトヨタは、レース後すぐに各地のディーラーに“トヨタ車、グランプリに優勝”という垂れ幕を大きく掲げ、アピールした。
 そして優勝車がパレードして各販売店を訪れ、グランプリに優勝したのは、トヨタ車の性能が良いからだという印象を一般に植え付けた。さらに新聞やテレビなどで大々的なキャンペーンを繰り広げた結果、販売は軒並み伸び、セールスマンの意気もあがった。このトヨタの巧みな戦略に、他社は指をくわえて見ているしかなかった。

 このトヨタの策略に、もっとも大きな痛手を受けたのは、トヨタ、日産より技術志向が強く、明確に高級/高性能車路線を歩み、明らかにベース車の性能が勝っていたはずのプリンスであった。
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https://octane.jp/articles/detail/2101
 当時プリンスの技術陣を率いていたのは、中島飛行機で、太平洋決戦機の期待を一身に背負う、2000馬力級(100オクタン燃料使用時)発動機“誉”の主任設計者であった中川良一常務であった。
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https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nakajima_Homare_at_London_Sceience_Museum02.JPG
 中川はレースが近づくころ、各メーカーが鈴鹿にレースカーを持ち込んでテストを開始する中で、パワーの劣るはずの他メーカーのクルマに、いとも容易に抜かれる様を見て、敗北を確信する。しかし同時に、自工会の申し合わせ事項を遵守したのだから、敗北も致し方なしと考えていた(!ナイーブ過ぎた?引用③)。大惨敗に終わったレースの翌日東京に戻った中川は、当時プリンスの経営権を握っていた石橋正二郎会長に呼びつけられ、激しく叱責される。一方惨敗のショックから、鈴鹿からの帰途に脳貧血で倒れた小川社長は、中川らはビジネスの基本をわきまえていないと、始末書をとった。中川は翌年の雪辱を石橋の前で誓う他なかった。
以下、自動車史家の桂木洋二氏による優れた分析の一文を①より引用する。
『トヨタ以外のメーカーの多くはプリンスと同じような思いをしたといっていい。これを挽回するためには、翌年の第二回グランプリレースでがんばる以外に方法はなかった。各メーカーは、それぞれにレースを戦う組織を作り、真っ向からレースに取り組むこととなる。その取り組みは、各社とも生き残りをかけての挑戦といっても大げさでないものだった。
 結果として、そうした取り組みが日本の自動車技術のレベルアップに貢献することになったが、レースがクルマの宣伝や企業のイメージアップにきわめて効果のあるものという認識が、メーカーの中に強く定着することになった。
 初めてのレースの熱狂と、未成熟な時代の主力量産車のレースでの勝利がPR効果を発揮できる絶妙のタイミングは、トヨタに幸運をもたらしたということができる。
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http://file.magni.blog.shinobi.jp/5bfbf7d8.jpeg
 これ以降のグランプリレースは、メーカーチームの主導で行われることになるが、レースに出場したメーカーはいずれも、第一回のトヨタがおさめた成功を目指して戦うことになる。しかし、それはもはや幻でしかなかった。レースで勝つことが企業のイメージアップにつながるものの、クルマの販売に直接むすびつくことは次第になくなっていく。レースの勝利における宣伝効果の大きさと、それによる販売の増進を求めても所詮はむなしい幻影であったが、第一回日本グランプリの強烈な印象故に、その後もその幻影を追い求めたのであった。ほかならぬトヨタ自身もその例外ではなかった。』


2.トヨタ自販の“作戦”に影響を与えた?GMのモータースポーツ戦略(11/12追記)
 第1回日本グランプリにおいて、トヨタ自販がとったこの戦術というか、販売戦略について、そのヒントを与えた可能性が考えられる(私見です)、自動車の“本場”アメリカにおいて、GMとフォードの間で生じたモータースポーツを巡っての争いを記した本を偶然読んだ。以前古本屋で購入したまま未読だった、「フォードVSフェラーリ 伝説のル・マン」A・Jベイム著(赤井邦彦他訳;以下引用④)という本の中に書かれていた、ごく短い一文だったが、時代的にも第1回日本GPのほんの数年前の出来事だ。
トヨタは初代クラウンで大胆にもアメリカ輸出を試みたり、通産省の“国民車構想”との絡みでフォードとの合併会社設立の交渉も行われた(1960~61年頃で、結局破談に終わったが)ぐらいで、アメリカの自動車産業の動向は絶えずウォッチしていたはずだ。
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https://kuruma-news.jp/photo/97111#photo7
そのアメリカにおけるモータースポーツを利用したGMとフォードの販売戦略に、クルマを売ることにかけては国内最強の、トヨタ自販が無関心なはずはなかったと思う(でも今までこのような視点で書かれたものが見当たらないので、あくまで想像です)。以下長文になるが④より引用しつつ、参考意見として記しておきたい。(下は2016年、デイトナ500マイルレースを初制覇したトヨタカムリ)
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https://toyotagazooracing.com/pages/contents/jp/nascar/release/2016/16nascar01_2.jpg
~1961年2月27日月曜日の朝、デトロイト郊外の住宅地に住む自動車業界の重役たちは、玄関先に新聞が落ちる音で目覚めた。「デトロイト・ニュース」紙は全国紙だったが、自動車業界紙でもあり、ゴシップ新聞でもあった。(中略)
スポーツ欄にはデイトナ500(注;訳文では“インディ500”となっているが明らかに間違いなので以下訂正して記す)の特集記事が掲載されていた。フロリダの有名なサンダードームの約4kmのコースを平均時速約240.7kmというデイトナ史上最速のスピードで走ったポンティアックのマーヴィン・パンチが、日曜日のデイトナ500で優勝を飾っていた。
コラムニストのドク・グリーンのコメントの中に、彼らは興味深い情報を発見した。
ヨーロッパのレース界では、優勝は直接売上に結びつく。実に単純な理由がクルマを選ぶ動機に繋がるからだ。たとえば、ル・マン24時間耐久レースで5台のフェラーリが上位入賞を果たすとする。すると、過酷なレースに勝ち残ったフェラーリが“買うべき車”となるわけだ。
「うちも、それでうまくいった」と、優勝した車をスポンサーしたデトロイトのポンティアック・ディーラーのビル・パッカーは語る。
「バンキー・クヌッドセンが1957年にポンティアック部門を引き継いだ当時も、ポンティアックはまあまあ良い車だったが、高齢の女性向けの車という評判が根強かった。おばあちゃんには最高ってね。その後、ストックカー・レースで良い成績をおさめ始めると、ほんの数年であっという間に売上が伸びたんだ。」

下はデイトナ500マイルを制したポンティアック。
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http://www.cruisenewsonline.com/SpringDaytonaShow2004/60PontiacDaytona500Win.jpg
引用を続ける。『当時、ストックカー・レースはデトロイトには無関係であるはずだった。自動車メーカーのレースへの出資に対する禁止令があったからだ。1950年代後半のアメリカの自動車メーカーは、広告を通して、一般のドライバーに公道でスピードを出すことを奨励していると非難されていた。
 また当時、フォード、GM、クライスラーは、顧客確保のためにより大きなエンジンを開発し、「馬力競争」を続けていた。強力なエンジンが冷戦に対するデトロイトの答えだったのだ。
 NASCAR(National Association for Stock Car Auto Racing)と呼ばれる日曜日のレース・シリーズにクルマを出場させることで、自動車メーカーは自分たちのクルマをアピールしていた。
 スピードの戦いと市場争いの関係を、アメリカ政府は快く思わなかった。1957年、アメリカ連邦議会は自動車製造者協会に、「安全に関する決議」の作成を要求した。この規約により、デトロイトの自動車メーカーは「エンジンサイズ、トルク、馬力、もしくは、スピードを連想させる競技会での加速性能あるいは性能」を宣伝しないことに合意した。
 しかし、それでも「デトロイト・ニュース」紙のドク・グリーンのコラムには、1961年のデイトナ500に自動車メーカーの有力者の団体がやってきたと書かれていた。
「あなたが目にする重役たちは、たまたまテキサスかダビュークかどこかに行く途中に通りがかっただけ、もしくは見なかったことにしなければならない。彼らの言うこともすべてオフレコだ」
 ある大物がこのように語ったと書かれている。
「親会社からの協力なしにレースに出場するのは、へその緒のない赤ん坊を産もうとするようなものだ。不可能に等しい」
 その夏にはGMのレースへの投資は周知の事実となっていた。シボレーは船舶用機関プロジェクトの名目でレースへの投資を行っていた。ポンティアックにも独自の秘密プロジェクトがあった。
「奴らはズルをしている」と、ヘンリー2世
(注;ヘンリー・フォード2世=創業者の孫でフォードの最高経営責任者)はアイアコッカ(注;リー・アイアコッカ=当時フォードの副社長でマスタングの生みの親)に言った。
「我々も何か手を打たなければ」
 しかし、ヘンリー2世はレースに資金を投じることを拒否した。評判を落とすことを恐れたのだ。彼は自動車製造協会の会長であり、安全に関する決議も彼の裁量で行ったことだ。
 アイアコッカのフォード初年度である1961年の終わりには、ポンティアックとシボレーがNASCARの52戦中、41勝で優勝を収めていた。
 その年のGM市場は急成長を遂げた。ポンティアックは、その年の新車の売上が36年の歴史において最高額に達したことを報告した。
 4月にはシボレーがリッチモンド、コロンビア、グリーンビル、ウィンストンセーラムのレースに優勝、同じ31日間にシボレーは、記録的な月間売上を達成した。
下の写真はダン・ガーニーの1961年シヴォレーインパラ(なかなかカッコイイ)
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https://s.yimg.com/ny/api/res/1.2/Knw1Y4qRhCAdoucQwUhvhw--/YXBwaWQ9aGlnaGxhbmRlcjt3PTEyNDI7aD02OTguNjI1/https://s.yimg.com/uu/api/res/1.2/pU9l6SJtmK01Zq6H2PFg.w--~B/aD0xMDgwO3c9MTkyMDtzbT0xO2FwcGlkPXl0YWNoeW9u/http://media.zenfs.com/en-US/homerun/autoclassics_668/b3606174acf9e863066d7efd80bddd8f
「ヘンリー・フォードの全盛期のティン・リジー(モデルT)以来、市場をこれほどまで独占したクルマはなかった」と、「ニューズウィーク」誌はレポートした。
「先週、アメリカのショールームから出てきた車の3台のうち2台はシボレーだった。」
 グラスハウスの廊下に不安感が漂い始めた。これほど急激にマーケットシェアが大きく変化したのは、ヘンリー2世が社長になって初めてのことだった。
 フォードの重役たちは、地元の若者たちが街頭で、街に合法なスピード競争用のコースを作って欲しいとでもパレードを行っていることを新聞で知った。
 子どもたちはスピードを求めていた。そして、ゼネラルモーターズは最もホットなエンジンを作っていた。
 4月27日、ヘンリー2世はゼネラルモーターズのジョン・F・ゴードン社長に手紙をしたためた。
「短期的には現在シボレーやポンティアックが提供しているような高性能車を開発するつもりだ」と、彼は書いた。
「我が社の製品の競争力を維持するためには、実行しなければならないことだと考えている。長期的には、さらに満足のいく合意を自動車業界の他のメンバーと取りつけたいと思っている」
 ヘンリー2世がその手紙の返事を受け取ることはなかった。

 その後ヘンリー・フォード2世は“安全決議”から手を引くと宣言(1962.06.11)、いわば宣戦布告したかたちで1963年のデイトナ500マイルレースに新開発の427立方インチ(7ℓ)のパワフルなエンジンを搭載したフォード ギャラクシー500を投入した。
 一方『対外的には反レース派を貫いていたゼネラルモーターズは、安全に関する決議を支持する決断を下した。しかしプライベート・チームとしてシボレーで出場するスモーキー・ヤニックは、デトロイトから資金を得ていると関係者は信じていた。すべては偽装であると。』(➃より)結局この戦いで今度はフォードが、デイトナ500初制覇を果たす。
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 フォードのモータースポーツ戦略はさらに加速し、アメリカ国内レースにおいてはインディー500制覇へとつらなり、ついには世界戦略として、フォードGTでのル・マン24時間制覇へと目標を広げていった。(下は初優勝した1966年のル・マン24時間)
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レース活動と並行して、第二次世界大戦以降に出生したいわゆるベビーブーマー世代向けのスポーティーな中型車のマスタングを市場に投入し、大ヒットさせたのはご存知の通りだ。
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 一方「安全に関する決議を支持する決断を下した」ため表立った活動ができなかったGMは、ジム・ホールのシャパラルという“窓口”を通して、その有り余る技術開発力の一端を披露していった。(下は“怪鳥”シャパラル2Eと、“ファンカー”の2J。ちなみに古今東西のあらゆるレーシングカーの中で自分が一番好きなのが2Jだ。いつかこのブログの中で、シャパラル特集をやってみたい。)
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 本題と逸れてしまうのでフォードとGMの話題はここで止めるが、この時期の、モータースポーツを巡る日米の構図は「自動車製造者協会における“安全に関する決議”(アメリカ)」と、「日本自動車工業会は、日本GPにメーカーとしての参加を自粛する(日本)」という足かせ(業界内での約束事)があった中での出来事で、よく似ていた。
 そんな中でGM(シヴォレーとポンティアック部門)が仕掛けた、水面下での強力なメーカー支援によるNASCARシリーズでの圧勝が、風下の実車の販売にも絶大な効果をもたらした。時間軸ではアメリカの方が先行していたため、GMの大戦果をまのあたりにして、トヨタ自販もモータースポーツによるマーケティング戦略という見地から、対日本GP対策のため、GMの戦略に着目したのではないだろうか。
シヴォレーは“船舶用機関プロジェクト”という苦しい名目だったようだが、トヨタは工販分離を逆手に取り、自工と切り離した自販主導という名目でレースへの投資を行なえた(と、拡大解釈した)。裏工作であったが、当時世界最強の、あのGMで行った戦略なのだからと、トヨタの背中を後押しした?
 全くの想像だがどうも自分には、当時日本の自動車業界のお手本であった、海の向こうのアメリカでの出来事が、このレースに対するトヨタの戦略に影響を与えたような気がしてならない(以上、何度も書くが私見でした)。
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参考の動画を掲げておきます。ちなみに二日にわたって行われたレースには20万人を超す観客が押し寄せ、TV中継もされたという。
「TOYOTA  MOTORSPORTS  HISTORY 2」
https://www.youtube.com/watch?v=fjVUsc3zJcY
いよいよ次はあの、“スカイライン伝説”を生んだ第2回日本グランプリです。

引用元
①:「激闘 ‘60年代の日本グランプリ」桂木洋二(1995.05)グランプリ出版
②:「日本における自動車の世紀」桂木洋二(1999.08)グランプリ出版
③:「スバルの兄弟分、プリンス自動車の歴史」
https://www.chubu-jihan.com/subaru/news_list.php?page=contents&id=314&block=1
➃:「フォードVSフェラーリ 伝説のル・マン」A・Jベイム著(赤井邦彦、松島三恵子訳)(2010.09)祥伝社

⑪ オートスポーツ誌50年の歴史を彩った ドライバー50選 総番付について

 年間50本の自動車の記事を書き込む目標が、今のところ10本…。月に1~2本がやっとになってしまった……。そこで目標を半分の25本に下げて、何とかその数字は必達したい。(数字ありきで何だか粗製濫造になりそうだが)
 さて自動車に限らずだが、話題を現代(リアルタイム)に戻すと、どうしても話がシビアになりがちだ。そこで少しだけ過去に遡り、軽め(のつもり)の話題を1つ。
 雑誌「オートスポーツ」(当然日本版の)が創刊50周年を迎えた2013年、その半世紀を振り返る「オートスポーツ・メモリーズ ぼくらのレーシングデイズ1963-2013」(以下引用①)という特別号を刊行した。
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 その中で、「オートスポーツ50年の歴史を彩った ドライバー50選 総番付」を発表している。『50周年にちなんで選んでみました 1963~2013年の日本のレーシングドライバー50傑 異論反論はご遠慮ください!ひろ~い心で、笑って読んでいただければ幸いです』という、何とも楽しい企画で、世のモータースポーツファンならば、その番付と選定理由を見ながらあーでもない、こーでもないと、いくらでも楽しめるような企画だ。(以下、この記事を引用①とする。例によって引用部分は青字で、引用元は全て文末にまとめて記載した。また文中敬称略とさせていただく。)

1.ゴメンナサイ
 だがこの企画は、誰が選んでも異論が出る話で、今回の選者の林信次氏と遠藤俊幸氏が、のっけからいきなり弁明に務めているのがおもしろい。(引用①)
『林:マシン編と違って、こっちは人が相手だけにシビアでした。
遠藤:まず、最初に謝っておきましょう。ゴメンナサイ。
林:「レーシングカーも運転できない奴が偉そうに何言ってんだ」って声が湧きそうだけど、今回の番付編成会議はあくまで読者目線、長年のレースファンの視点なんだよね。横綱審議委員会というか、演芸評論家のノリで。
遠藤:そうです。公式なレース経験が僅かでもある人は、この番付のず~っと下の方に位置してしまうわけで、当事者としてむしろ不自然かなと。それよりも、あえてレース経験ゼロのふたりがグランドスタンドから評価するみたいな。
林:お金を払って見ている(いた)んだから、きちんと評価させてもらうってことだよね。だから選考基準のひとつは、いかに我々観客を楽しませてくれたか、インパクトを与えてくれたか、あるいは期待させてくれたか。
遠藤:(中略)でもこの番付って、1カ月後に同じふたりで選んでも変わるんですよね、きっと。引退したドライバーでも、なんかその時の「時節柄」で評価が変わる。だからこれはあくまで2013年の6月のある日の番付ってことで、全面的にご容赦いただきたい。
林:必死に弁明しています(笑)。』

 なかなか面白い選者の方々です。かつては三栄書房系よりカーグラ(当時は二玄社)系の方がマニアックだったが、立場はとうに入れ替わってしまった。
 こうして出来上がった番付表(1963~2013.06時点)は下のようだが、なかなか味わいある結果?で、だいたい共感できる内容だと自分は思うがみなさんはいかがでしょうか?
 なおこの選者たちにならい自分も、以下の雑文で普段の運転すらロクでもないレベルの底辺の身分でありながらエラソーにアアダコウダと天下のレーシングドライバーを批評する非礼を先にお詫びしておく。ゴメンナサイ!
2.番付表発表(選者;林信次氏と遠藤俊幸氏。2013.06時点)
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 この番付について、東の正横綱が“日本一速い男”星野一義であることに異論をとなえる人は少ないだろう。もちろん、西の正横綱の中島悟の立場からすると『~ただ、あの言葉はちょっと違うんじゃないの?と言いたかったね。だって5年も6年も僕がチャンピオンを取っているのに、なんであっちが日本一なのって(笑い)。』(引用②)となるだろうが。
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https://www.scoopnest.com/ja/user/suzuka_event/572019279148662784-vs-srsf-f1jp-sformula
 しかし『レースの本場、英国のオートスポーツ誌が創刊50周年「モータースポーツの歴史を変えた50人」に、日本人唯一のドライバーとして選ばれ、星野が参戦しなかったのはグランプリ最大の損失、と書かれた。』(引用③)という事実は重い。世界の中でも見る人はしっかりと見ていた、ということなのだろう。
 日本のF3000シリーズに参戦し、1993年は最終戦まで当時46歳の星野一義と壮絶なチャンピオン争いを演じ、惜しくもチャンピオンを逃したエディー・アーバインは、その経験から星野に一目置くようになった。彼はF1初優勝時のレース後記者会見で以下のように語ったそうだ。(以下引用⑥)
『「ここに来るまでの道のりは簡単ではありませんでした。私は日本でレースをしていた時にミスターホシノというグレートドライバーと激しくバトルをしました。彼はとても速いだけではなく、勝利を掴む為の精神力が素晴らしくいつも見習い、そして中々勝たせてもらえませんでした。このような時期があったからこそ今の私がありミスターホシノに感謝しています」と話し、同じレースで表彰台を飾り同時期に日本で同じレースを戦っていたハインツ・ハラルド・フィレンツェンが会見時に頷いていた。』そのため、欧州などのジャーナリストが「ホシノとは何者だ?」と日本人ジャーナリストに聞きまわったという逸話がある。
 また『~鈴鹿の日本GPの際、某誌が当時の帝王、ミハエル・シューマッハに日本人ドライバーとの対談取材を申し込んだ時のこと、シューマッハが「相手がホシノでなければ、その依頼は受けない」と言ったのもよく知られている逸話だ。』(引用⑤)
星野の盟友として長年支えてきた金子豊氏(星野の義弟でホシノインパル元副社長、故人)は『~もちろん走る者として悔しい思いはあるし、「なんで中嶋が」って僕の前では何回も泣いてます。でも国内で戦った外国人ドライバーたちが「星野こそF1に来るべきドライバーだった」って言ってくれている。そんな声がせめてもの慰めになっているんじゃないでしょうか』と語っていた。(引用②)ホンダの厚遇を得てF1へのステップアップを果たした中島とは、海外のレーシングドライバーたちの見る目も違っていたというべきだろう。
 さて、星野の話を始めるとあまりにも話題が豊富過ぎて、終わりが見えなってしまう。じきに“二代目日本一早い男”だった本山哲についても触れたくなるし。ただ星野についてはすでに多くの出版物で語りつくされていることもあり、このブログで星野を語るのはここで止めて、この番付表の下の方にも目を通してみる。
 この番付表を見渡して、もし一般的な視点から“異論”が出るとすれば、しいて言えば、メーカー系の括りで言えば、たとえばプリンス/日産勢では、1966年の日本グランプリをプリンスR380で制した砂子儀一の名前が見当たらない(地味だった都平健二もそうだが)。またトヨタ勢では、チームトヨタ(トヨタワークス)のキャプテン役を長年務め、黎明期のトヨタのレーシング部門の構築にも功績があった細谷四方洋の名前がなく、マツダ勢からは、マツダオート東京の立場で、長年ル・マン24時間に挑戦し続けて、マツダのル・マン制覇の露払い役を果たした寺田陽次郎の名前もない。代わりに?久木留博之と武智俊憲の名前がそれぞれ選ばれている。所属企業に対しての貢献度でなく、あくまでレーシングドライバーとしての資質に重きを置いた結果なのだろう。ちなみに久木留について細谷は、チームキャプテンの立場から『久木留は天才でした。足回りが少し壊れたくらいでも、平気でクルマを乗りこなしてしまう。そういう意味ではあまりテストには向かない男でした。』と評していた。(引用④)
 またもし2019年8月版を作り直せば当然ながら、インディー500を制した佐藤琢磨の横綱昇進は間違いないところだ。
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https://www.as-web.jp/overseas/127163
ル・マン24時間と世界耐久選手権を2年連続で制覇した中嶋一貴はメーカー(トヨタ)の力によるところ大とは言うものの、やはり大幅な昇進は間違いないだろう。
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https://response.jp/article/2019/05/05/322000.html
 番付の話はこれくらいにして次回から、この番付表の上位に君臨する、星野、中島世代より前の、その各々の時代に、実力No.1を誇った日産ワークスの名手たちにスポットを当て、自分なりに思うところを軽めに論じてみたい。予定では、日産3羽ガラスと呼ばれた高橋国光(クニさん)、北野元(キタさん)、黒沢元治(ガンさん)の3人と、この3人と星野をつなぐ世代に位置した長谷見昌弘について、とりあげる予定だ。
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http://vital.sakura.ne.jp/NISSAN%20SKYLINE%20KGC10%20HP/sakurai.html
 さて各記事のまとめ方だが、その人の現在に至る歴史(伝記)まで書くつもりはなく、そのドライバーの、代表的なレースだと自分が思うものを一つ取り上げて、そこを多角的に掘り下げてみたい。それで何か見えてくるものがあるのか、実際に書き進まないとわからないが。またレースなので必ずレーシングカーとのかかわりが出てくるわけだが、設計者(メーカー)目線でなく、あくまでも個人としてのレーサー目線を重視してまとめてみたい。そのため生(ナマ)の声として、本人の雑誌インタビュー記事の引用が多くなる予定だ。なお引用した書物は、入手できるものはほとんど全て購入して、実際に確認した(その本が、本の中でさらに引用していた場合等は除く)ことも追記しておく。
 それではまず、3羽ガラスの中でも番付が一番上の、横綱“高橋国光”から話を始めたいが、クニさんの代表的なレースとして、R380-Ⅱで生沢徹のポルシェ906とデッドヒートを演じた第4回日本グランプリをとりあげる予定だ。ただ物事は連続して起きているため、第4回GPを語るためには、微妙に関連していく第1回、2回、3回GPに先に触れてから、横綱クニさんの話を始めたい(目標達成のため記事の件数を稼ぎたいためでもあるが!)。
以下引用先
①:「オートスポーツ・メモリーズ ぼくらのレーシングデイズ1963-2013」(2013.08)三栄書房
②:「星野一義 がむしゃらフォーミュラ編」Racing on(2014.01)三栄書房
③:「CARトップ」(2019.09号)交通タイムス社
④:「古の日本グランプリ」Racing on(2013.05)三栄書房
⑤:「星野一義ファンブック」(2017.04)モーターマガジン社
⑥:「星野一義氏の思い出5」 https://urochiiko.exblog.jp/20189619/

プロフィール

マルプーのぼんちゃん

Author:マルプーのぼんちゃん
【ぼんちゃん】
推定年齢10歳ぐらいの、オスのマルプー犬のぼんちゃん。年より若く見える。マルプーではちょっと稀な“キレカワ系”💛 性格は、おとなしくてやさしくて人懐っこくて庶民的?でも対犬ではかなり臆病。散歩だけはたくさん(1日1~3時間ぐらい)させてもらっている。選択の余地なく、毎日おっさんの面倒をみている。
【おっさん】
推定年齢60歳くらいのシガナイ初老の独身オヤジ。ひょんなことからぼんちゃんと2人で暮らすことになったが、おかげさまで日々シアワセに暮らしている。

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