⑭ 第3回日本グランプリ(1966年) 再び“プリンス(R380)対ポルシェ(906;カレラ6)”
第3回日本グランプリは、本来ならば1965年5月に鈴鹿で開催される予定だったが、JAFと鈴鹿サーキットの交渉が金額&メンツ等で決裂したため、1年のブランクの後の1966年、舞台を富士スピードウェイに移しての開催となった。
まずは概要から、主に引用⓵とwikiよりまとめた。でも動画をご覧いただくのが手っ取り早いので、リンクをはっておきます。「第3回日本グランプリの動画」
https://www.youtube.com/watch?v=FQWjSlB8f4I
(以下は例によって敬称略、引用箇所は青字で、引用もしくは参照先は番号をふって文末にまとめて記載し、画像のコピペ先は写真の下に記載。なお全くの個人的な見解(いつものように“妄想”レベルのものも含む)についてはあくまで“私見”だと明記してあるので気に障る方は無視して読み飛ばしてください。なお、引用箇所に少しでも興味のある方はぜひともオリジナルである原書を買ってお読みください。)
1.レースの概要
第3回日本GPから、今まで車種・排気量ごとに細かく分けていたレース方式を廃止して、60周(360km)のグランプリはメインレースに一本化し、サポートレースは特殊ツーリングとグランドツーリングの2レースだけで、レースは1日で行われることになった。
グループ6カーによるメインレースは、プリンスは国産初のプロトタイプレーシングカーのR380を4台(生沢徹、砂子儀一、横山達、大石秀夫)投入。

https://www3.nissan.co.jp/crossing/jp/exhibition_vehicle_10.html
トヨタはヤマハと共同開発した2000GTのプロトタイプをレース仕様に改造。

https://www.webcartop.jp/2017/06/115280/2
日産は前哨戦の全日本クラブマンレースに続き、6気筒DOHCエンジン(これもトヨタ2000GT以前にヤマハと協業したもの)を搭載するフェアレディS(北野元)で参戦した。
外国車に乗るプライベーター勢の中では、滝進太郎のポルシェ906が注目された。第2回大会のGTクラスでポルシェ・904にプリンス・スカイラインGTが敗れたことからR380が誕生したという経緯があり、ポルシェ対プリンスの再対決に関心が集まった。(下はポルシェ906)

https://octane.jp/articles/detail/2182
レースは生沢のR380のリードで始まったが、2周目に砂子のR380が生沢を抜いてトップに立ち、マシンの不調でペースが上がらない生沢は数周にわたり滝の906を執拗にブロックし、チームメイトの砂子を逃がす役割を務めた。
滝は6周目にようやく生沢をかわすと砂子を追い上げ、25周目にトップに立った。8秒ほどリードして31周目にピットインしたが、この給油作業のロスタイムが勝敗に大きく影響した。滝のチームはプライベートチームの悲しさで、ポリタンクから給油したため約55秒を要したのに対し、37周目にピットインした砂子はプリンス陣営が準備した秘密兵器、“重力式スピード給油装置”の効果で15秒たらずで作業終了。ピットワークでトップを奪い返してコースに復帰した。この40秒の差を取り戻すべく滝は猛迫するのだが、42周最終コーナーでオイルに乗りスピン、ガードレールへとクラッシュしてしまう。生沢は46周目にギアトラブルでストップ。最終コーナーからピットまでマシンを押して戻る生沢に対して、健闘を讃える拍手とブロック走行を非難する罵声が浴びせられた。

画像はwikiより
砂子は独走状態で60周を走破して優勝した。プリンスワークスは1、2、4位という好成績を収めた。3位は無給油作戦を実行した細谷四方洋(トヨタ)。予選ポールポジションの北野(日産)はエンジントラブルでリタイアした。
日本初の本格的なレーシングカーとなったプリンスR380は、性能面ではポルシェ906に劣っていたが、チームプレーや給油を含むピットワーク、それに豊富な練習量で補い、ワークスとプライベーターの総合力の差が結果に表れた。この時すでにプリンス自動車は日産自動車に吸収合併されることが決まっており、プリンスとしての最後の大舞台を勝利で締めくくった。下は懐かしいプリンスのマーク。

https://minkara.carview.co.jp/userid/1054261/blog/38603719/
前回の第2回日本GPで確執のあった生沢と砂子だが、この第3回GPで生沢はマシンの不調もあり首位の砂子を逃がすためのブロック役という、地味なチームプレイに徹した。このことについて砂子は『~私は表彰台の真ん中で幸せを噛みしめた。そしてチームプレーに徹し、ブロック役という、言わば憎まれ役に回ってくれた生沢氏にも感謝した。』と語っている。(引用①)
2.勝敗の分かれ目
上記のように、勝敗を決したのはレース途中の20ℓの給油時間であった。ここでプリンス陣営の開発した秘密兵器?“重力式スピード給油装置”について補足説明すると『このレースのレギュレーションでは、2ℓクラスのマシーンの場合、燃料タンクの容量が100ℓに制限されたため、給油を行わずに完走するには3.6km/ℓ以上の燃費が要求される計算になる。R380の燃費は、2分04秒台で約3km/ℓ、12~13秒台まで落とせば給油せずに完走できる見込みはあったが、ポルシェ906という強敵の存在を考えるととてもここまでは落せず、結局レース途中に燃料を補給することに決め、給油時間を短縮する方法が検討された。
レギュレーションではまた、ポンプ類による燃料の圧送を禁止していた。そこでプリンスの技術陣は、ピットの天井近くの高い位置にタンクを配置し、そこから太いホースを通じてマシーンのタンクに燃料を注入する、いわゆる重力式の給油装置を製作し、さらに給油の練習を重ねるなどして、結果的にこの周到な準備がレースで大いに物をいうことになったのである。』(引用②)非常に泥臭い戦術だが、費用対効果は大きかった!

https://www.chubu-jihan.com/subaru/news_list.php?page=contents&id=314&block=2
ちなみに『この作戦はトップシークレットで、サーキットでは練習せずに荻窪工場内でこっそり行われていた。なんと私(注;生沢とともにプリンスのワークスドライバーのエース格だった砂子儀一)がこの給油装置を知ったのは日本グランプリ決勝当日のドライバーミーティングの時というぐらい、極秘作戦だった』(引用①)そうだ。
3.プリンス陣営の“秘策”(ただし未遂に終わる)
プリンス陣営はこれとは別に、対ポルシェ優勝阻止で大胆不敵な作戦も考えていた。以下③より引用。
『「何としてもポルシェ906を購入せよ」
プリンスR380プロジェクトの一員だった武井道男にあまり気乗りしない命が伝えられたのは1966年の春のことだった。5月に迫った第3回日本グランプリに向け、万全の体制を整えていたプリンスチームにとって、ポルシェ906参戦のニュースは悪夢以外の何物でもない。かつてスカイラインGTのデビューウィンを904に阻止され、ポルシェの底力を思い知らされた記憶はトラウマとなって疼いているのである。(中略)三和自動車経由で906を注文したのは滝進太郎。カレラ6こそはプライベーターがワークスに一泡吹かせる秘密兵器にほかならない。(下は906に乗る滝進太郎)

https://octane.jp/articles/detail/2182
「それをプリンスが買って、レースに出走させないというのだから無茶な話ですよ。ポルシェの知り合いに訊いてみましたが、結局、時間切れで906はタキレーシングの手に渡ることになりました。」(武井)』(下の写真はポルシェ906がライバルとして意識した、フェラーリ ディーノ206(2ℓのV6。世界基準では当然ながらライバルはR380ではなくフェラーリだった。)

http://www.vistanet.co.jp/museum/f206s.html
これはなかなか、ウルトラC級の作戦だ!目的は出場阻止と同時に、その後のポルシェ製レーシングカーの基礎を築いた傑作、906の調査もあっただろう。下の写真はフェルディナント・ポルシェとふたりの孫。右が若き日に906をデザインし先ごろ亡くなったフェルディナント・ピエヒ。

https://clicccar.com/2019/09/12/910949/
ちなみに904に比べて906で大きく進化したのは空力特性で、以下③より引用
『906のカウルデザインにはピエヒによってK理論が採用されています。これは高さと長さの比が1:6のときにもっとも空気抵抗が小さいという理論で、飛行機の設計に用いられていたものです。906はK理論を最初に採用したレーシングカーで、それまでいかに空気抵抗を小さくするかだけに注意が向けられていたのを、ダウンフォースによる操縦安定性を加味した意味で画期的といえるでしょうね』(前記の武井氏)
話は脱線して、ここからは余談(私見)になるが、60年代の日本グランプリについて、第1回と第2回GPでトヨタ自販が仕掛けた(主に)対プリンスつぶしの作戦があまりに鮮烈かつ効果抜群だったので、“トヨタはプリンス(ニッサン)陣営に比べて裏で汚い手を使う”という風評があるが、その後のGPの経過をたどれば、自分は実際のところ、五十歩百歩だったと思う(個人の見解です)。
正確に記せば、第1、2回GPについては確かにトヨタ自販はそう(汚い手を使った)だったが、トヨタのレース分野の担当が自販からトヨタ自工主導に移った第3回GP以降について言えば、立場が逆転したと思う。68年GP(注;68年GPから開催数から年度表記に変わった)の3ℓトヨタ7に対抗するため、5.5ℓシヴォレーエンジンを搭載したニッサンR381シヴォレーや、69年GPの5ℓトヨタ7に対抗するため+1000ccの余裕(まるでサニーがカローラに販売面で+100ccの差で劣勢に立たされた、意趣返しのように)を持たせた6ℓR382など、確かにルール違反ではないが、T対Nのガチンコ勝負を期待していたファン目線からすれば、ニッサン(旧プリンス主導)陣営の“だまし討ち”的な、手段を選ばず勝ちに行く姿勢の方に余裕の無さというか、あさましさを感じた。(下はニッサンR381シヴォレー)

https://mjlab.ko-co.jp/e161171.html
まったくの偏見で言えば、第2回GPのいきなりのポルシェ904登場などは、まるで推理小説みたいな知的なゲーム感覚が感じられるが、R381やR382については、シテヤラレタというよりも、むしろ軍隊的な奇襲作戦のように感じてしまう。櫻井は68年GPのR381について、苦し気に『逃げるわけにはいかない』からと弁明していたようだが(引用⑤)、いくら5ℓV12の内製GRX-1エンジンが間に合わないからといっても、なにか他に策は考えられなかったのだろうか。
そこで自分なりに代替案をだせば?(後出しジャンケンみたいなイー加減な話ですが!)たとえばR380(68年GP向けなのでR381世代のバージョン)と同時代に、本場の世界スポーツカー選手権でポルシェ910と同じ2ℓクラスで戦ったアルファロメオのティーポ33がある。当初2000ccバージョン(ちなみにV8)でデビューしたが、後に2500ccバージョンも追加した。下の写真の車もそうだ。

https://www.girardo.com/available/1968-alfa-romeo-tipo-33-2-daytona_0/
さらにその後3ℓバージョンに進化し、王者ポルシェ908の牙城まで迫るのだが、(下の写真はそのtipo33/3.1971年のメイクス選手権ではブランズハッチ、タルガフローリオ、ワトキンスグレンと3勝を挙げ、他にも2位2回、3位3回と安定した強さを見せ、ポルシェに次ぐシリーズ2位の座に就いた。)

https://www.webcartop.jp/2017/06/121898/3
R380も2.5ℓバージョンでも作り(5ℓV12の片割れだと考えれば、そんなに難しくはなかったはずだとド素人判断では思うのだが?まして先行開発だと思えば無駄にもならず??…)、3ℓのトヨタ7に対抗すれば、トヨタとニッサンのドライバーの腕の差(言うまでもなく日産勢が圧倒的に有利だった)+3ℓトヨタ7の出来の悪さを考えれば十分良い勝負になったと思うのだが。
68年日本GPバージョンのR381は例えていうならば、中島飛行機製の機体に、アメリカのP&W製エンジン(誉(中島飛行機)の技術的な流れからすればカーチス・ライト社になろうがエンジンの製造をやめてしまったので)でも積んだかのようで、“エンジンこそ命”だったプリンスからすれば“魂”を譲り渡した抜け殻のようだ。それにトヨタ7より500cc少ない排気量で打ち破ってこそ、うたい文句の“技術のニッサン(プリンス)”を証明できたはずだ。これではトヨタ陣営目線で言えば、第2回GPでポルシェ904の登場に思わず櫻井が叫んだ“あんなことが許されるなら技術の競争など無意味になってしまう。やることが汚いぞ!”に他ならないと思うのだが。(飛び道具的な二分割ウィングがパタパタと動くことで視覚的に騙されてしまう?)

https://a248.e.akamai.net/autoc-one.jp/image/images/1580369/034_o.jpg
繰り返し引用される逸話として、トヨタのモータースポーツ史の語り部でもある細谷四方洋が、当時の豊田英二社長に「トヨタもベンツとかのエンジン買って搭載しますか」と軽く言ったところ「トヨタがレースを行うのは技術の開発と蓄積を行うのが目的。将来はガラスとタイヤを除きすべての部品を自前で作る」とビシッと返されたという有名な話があるが、ニッサン陣営(の特に旧プリンス系)は二の句が継げない言葉だろう。ただ“櫻井一家”にも苦しい事情があったようだ。以下はR382の時の話だが、⑩より引用。
『~予選では三車(注;R382と5ℓトヨタ7とポルシェ917(4.5ℓ))とも横並びで、勝者はわからないといわれた。だが、日産の川又克二社長からは、二位はない、絶対に優勝しろ、といわれていたから、勝つしか道は残されていなかったのである。そこで櫻井たちは何度も対応策を協議した。
みんな気が気でなかったが、櫻井は同僚や部下たちにも知らせず、用意周到に対応策を講じていた。考えた作戦は、R382のエンジン排気量を引き上げ、パワーで押し切ることだ。』
余談になるが自動車レースは当時は今以上に、勝負の結果が販売に結びついたため、経営トップからのプレッシャーはどこの国でも同じようだった。フェラーリの買収話が破談となり、自社開発で巨費を投じてル・マン24時間レースに挑戦したものの2年連続で惨敗したフォード帝国の最高経営責任者、ヘンリー・フォード2世が、部下たちに投じたメッセージもなかなか強烈だった。(以下引用⑫)
『1965年の夏の終わり、ヘンリー2世は各部署のトップに1枚のカードを送った。
彼らは、初めてそのカードを見たときの衝撃を忘れない。
カードにはル・マンのステッカーが貼られ、短いメッセージが添えられていた。
「勝ったほうが身のためだ」
ヘンリー・フォード2世 』
このメッセージが功を奏したのかわからぬが、フォードは翌1966年から4年連続でル・マンを制することになる。(下はヘンリー・フォード2世(ヘンリー・フォードの孫、エドゼル・フォードの息子。))

話を戻し、このあたりのお家の事情と、宗旨替えせざるを得なかった櫻井の真意(の推測)も含め、R381以降とトヨタ7、そして両陣営の“幻のCAN-AM参戦計画”も合わせてこの記事の2つ後(たぶん?)の、“北野元編”でより詳しく触れる予定だ。以上、私見だらけの余談でした。
4.プリンス(ニッサン)R38×シリーズの“生みの親”
今回の記事の一連のテーマは、チームやマシンが主役ではなく、あくまで “ドライバー目線”でレースを語ることだが、この第3回日本GPに関してだけは、ドライバーよりも主役はやはり、打倒ポルシェ904を目標に国産初の本格的なレーシングカーとして登場し、ワークスの強みがあったにせよ、昨年の雪辱を果たし見事優勝したプリンスR380そのものであろう。

https://www.imgrum.pw/tag/princer380a1
当初のターゲットは第2回GPを制したポルシェ904であったが、日本GPが1年延期となり、その間に出てきた後継機種のポルシェ906との競合となってしまったため、906との性能比較では劣勢だったが、日本人がゼロから作り上げた、本格的な国産レーシングカー1号車としてみれば、そのプロフェッショナルな出来栄えは、同時期のホンダF1マシンのRA271/RA272(画像は64年のRA271、wikiより)とともに、高く評価されてしかるべきだと思う。

これは私見だが、1970年に日本GPが中止となるまでの、プリンス/ニッサン、トヨタが日本GPを舞台にもっとも激しく激突し戦った、あの時代の数々の国産レーシングカーのなかでも、第3回日本GPに勝利した初代プリンスR380こそ、もっとも意義のあるクルマ(その意味での名車。ただし国内で戦ったマシンという限定付きで。限定ナシとなればやはり、1965年のF1シーズン最終戦のメキシコGPで優勝したホンダRA272か。画像はRA272でwikiより)だったと思う。(異論もあると思いますが。)。

少なくとも同じ時点で、トヨタやニッサンでは実現不可能な仕事を成し遂げたと思う。そしてその開発の実務的な取りまとめ役は言うまでもなく、類稀なる情熱で“チーム櫻井(櫻井一家)”を引っ張った櫻井眞一郎で、やはりその功績は大きい。(下は”育ての親”?櫻井眞一郎)

http://since1957.blog130.fc2.com/blog-entry-24.html
このR380については、ほぼ同時に語られる“櫻井眞一郎伝説”とともに、すでに語り尽くされた感もあり、第2回日本GP編が長くなりすぎたこともあったので、第3回日本グランプリは自動車雑誌の記事をベースに、軽~くまとめて終える予定だった。なにせイーカゲン急がないと、本題の“日産三羽烏”のまだ誰にもたどり着いていないので!
ところが、改めていろいろと調べていくうちに、どうも自動車系のメディアはプリンス(ニッサン)R38×伝説の “源流” まで辿らずに語っている気がしてきた。(以下は私見です)
R38×伝説の、本当の立役者は、表の看板役として、マスメディア及びニッサン自身に宣伝のため半ば祭り上げられたようにも感じられる櫻井眞一郎ではなく、やはりどうみても当時プリンス自動車の技術部門の責任者として櫻井に指示して作らせた、中川良一常務本人のように自分には思える。この後から記すが、R380の成り立ちを簡単に記せば、中島飛行機時代のエンジン開発の魂が色濃く宿るDOHC4バルブのレーシングエンジンを、ブラバムの協力を得て製作したシャシーに載せたものと言える(これも私見です)。この件については、この記事の7項で詳しく触れたいが、R38×計画を通じて、プリンス自動車の技術と、そしてエンジン設計者としての自らの力を、日本と世界に向けて示したいというのが、中川の構想ではなかったかと思う(これまた私見です)。(下は”生みの親”?中川良一)

https://minkara.carview.co.jp/userid/1949099/blog/37642366/
それでは話を戻してまずは手始めに、自動車雑誌が語る範囲で、プリンスR380が成功したポイントを自分なりに手短にまとめてみる。例によって参考にした本から引用する形となるが、興味ある方はぜひ、実際に買ってお読みください。
- R380成功のポイント -
5.中島飛行機の“魂”が宿っていた

https://nissangallery.jp/ghq/r380-1_201807/
プリンスでR380の開発がプリンス自工内でスタートしたのは、正式には1964年初夏の役員会だが、実質的には第2回日本GPに惜敗した直後の1964年5月に、打倒ポルシェ904の戦闘モードにすでに入っていた櫻井らの手によって、きわめて迅速に動き始めていた。思い返せば1964年といえば戦後から数えてまだ19年目のことである。プリンス自動車は旧立川飛行機系(機体分野)と、旧中島飛行機系(の原動機部門)を源流としていたが、主流派は原動機部門のように感じられる。中島は戦時中は日本最大級の規模(一説には25万人以上!)を誇り、日本の産業界の叡智の結晶とも言えた。そしてプリンスR380開発の時代には、航空機産業を支えた技術者たちの血流が、まだ脈々とたぎっていた。(下は中島飛行機の“栄”エンジン)

http://stella55.cocolog-nifty.com/blog/2006/10/post_a3d5.html
彼らは、サーキットを疾走する戦闘機のようなレーシングカー作りに、思いの丈をぶつけた。以下、時折トヨタと対比を行いながら見ていきたい。④より引用する。
『~同じ時期につくられたレーシングカーとしては、やはりプリンスR380だけが頭抜けたポテンシャルであった。これは第二回日本グランプリで、スカイライン2000GTがポルシェ904に敗れたことによって、つくられることになったものだった。2000GTを開発した技術者にとって、同じ土俵の上での勝負なら望むところであるのに、ヨーロッパから格上のマシンを急遽取り寄せて、前に立ちはだかったことに対する反発が強かった。よし、それならポルシェ904に負けないマシンをつくってやろうということになった。第一回グランプリでもトヨタにしてやられ、さらに第二回でもトヨタ自販がバックアップして出場したポルシェに苦杯をなめさせられたことが、プリンスの技術者の闘争心を大いに刺激したのである。』(打倒904!櫻井の下で一丸となる)

http://www.sportwagen.fr/guide-porsche-904-carrera-gts.html
引用を続ける。『中島飛行機を前身にもつプリンス自動車は、こうした目標ができれば全社が一丸となって進む会社であった。敵との戦いに性能で勝つことが求められる戦闘機の開発・製造のためにつくられた会社だった中島飛行機は、終戦によって分断され、自動車メーカーとしては富士重工とプリンス自動車に別れることになったが、プリンスには多くの航空技術者がおり、戦時中の技術者魂が脈々と受け継がれていた。終戦から20年近くたった当時、車両開発の首脳陣はそうした技術者によって占められていた。
会社の規模がトヨタやニッサンよりはるかに小さかったにもかかわらず、トヨタやニッサンができなかった本格的なレーシングカーにいちはやく取り組んだのは、生産者の開発と同時に進行させる、いってみれば特命プロジェクトであったからだ。このため、開発の中心となる櫻井眞一郎たちは、二人前の働きをしなくてはならなかった。しかし、戦時中に一刻も早く敵にうち勝つ戦闘機の開発が至上命令であったように、こうした困難にたち向かうことが、真の技術者であるという思いが強かったのであろう。

http://since1957.blog130.fc2.com/blog-category-4.html
自動車メーカーがみずから出場するレースは、サーキットという限定されたところでスピードを競う、戦闘そのものである。技術者を動員した平和時の戦争であるといっていい。プリンスは、それを戦うための組織としては、もっとも適したムードをもっていた。これこそが、プリンス自動車の強みであった。』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:R380_(1966)jpg
戦後、翼を失った旧中島飛行機系の技術者たちが数多く残ったプリンスにとっては、日本グランプリは久々の、血湧き肉躍る、活躍の舞台と映ったのだろう。そして誉エンジンの設計者であった中川良一率いるプリンス技術陣にとって、航空機造りの“魂”が宿っていたのはやはりエンジンにおいてであった。それについては、次項で述べたいがその前にここで、ヒコーキ屋(しかも機体側よりエンジン寄り)でなく生い立ちから自動車屋であったトヨタとの対比をしておく。
日本GPへの対応が、営業戦略上の視点からのトヨタ自販主導から、本来の自工主導に戻ったが、しかし自工側は企業経営の全体の中の位置づけとして距離を置き、冷静に判断していた。以下引用④
『64年のトヨタは乗用車生産台数が18万台を超え、2位のニッサンに1万台以上の差をつけてトップメーカーとなっていた。クラウン、コロナ、パブリカのいずれもが好調で、ベストセラーであるブルーバードに対してコロナは差をつけられていたが、65年にRT40という1500ccの斬新なスタイルであるコロナにモデルチェンジして、ブルーバードをしのぐ売れ行きを示した。(写真はコロナ(RT40)発表会の様子)

https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/text/entering_the_automotive_business/chapter1/section1/item4.html
トヨタは4年サイクルとなるモデルチェンジと、新しいモデルの開発に全力投球していた。新しい工場を建設し、設備投資にも積極的だった。67年にはサニーと大衆クラスで激突することになるカローラを発売し、68年にはコロナの上級車種としてマークⅡが発売される。これらの開発もこのころ佳境に入っていた。(下は初代カローラ)

https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/text/entering_the_automotive_business/chapter1/section3/item1.html
量産車とはなり得ないスポーツカーの開発に人材をさくのは、トヨタのポリシーではなかった。そこで、河野二郎をチーフとするレース部門が主導権をとり、ヤマハの技術を利用することになったのである。』
トヨタにも適任の人材がいなかったわけではない。ただしエンジンではなくシャシーだが。(また設計技術者数はトヨタ全体のキャパに比べ不足気味ではあったようだが。)たとえば戦時中立川飛行機で、試作高高度防空戦闘機“キ94”の設計主務をつとめた長谷川龍雄のような、航空機畑出身のエース級設計者もいた。

http://karen.saiin.net/~buraha/ki-94.html
しかしトヨタは長谷川に、量産車の初代トヨエース、初代クラウンに関わらせたのち、主査(開発責任者)として初代パブリカ、(下の画像はパブリカと、それに影響を与えたと言われるBMW700)

https://www.goo-net.com/magazine/105741.html

https://www.conceptcarz.com/images/BMW/BMW-700-Image-0008-800.jpg
その派生車種のスポーツ800(画像は「トヨタスポーツ800 hashtag on Twitter」より。ちなみに長谷川によれば、日本の量産車で初めて風洞実験を行ったクルマだそうだ。長谷川の作ではもっとも、元飛行機屋の作らしい。)、

初代カローラ等、トヨタの重要車種の開発の重責を担わせたが、レース部門には関与させなかった。

上の画像はシンプルで合理的なデザインが清々しい初代トヨエース。長谷川が主査としてまとめた。https://tanken.com/tricar.html
企業体質の違いが、レースに対する“気合”の差を生んでいたのだろう。
6.中島飛行機のエンジン技術が活かされた
トヨタは手っ取り早い方法として、2輪用レーシングエンジンで実績のあるヤマハとの提携の道を選んだが、プリンスには当時まだ、中島飛行機時代に培ったエンジン技術が温存されていたため、敢然と自社開発の道を選んだ。そのためのポイントと思える点を3点掲げてみる。
6.-1 4バルブDOHCの採用
以下⑤より引用する。
『R380に搭載されたエンジンは2ℓ直列6気筒のGR8である。目標はリッター100馬力。(注;ポルシェ904の180馬力に対して200馬力)いまでは当たり前の4バルブDOHCヘッドだが、ようやくOHCが一般化しつつあった昭和39年という時代を考えれば、その先進性は特筆ものといえるだろう。』以下は②より引用
『動弁方式はDOHC4バルブ、多球形燃焼室と、革新的な点こそないが、当時としては最高レベルのメカニズムが盛り込まれた。』(写真はGR8型エンジン)

https://motorz.jp/race/17695/
今では当たり前のように軽乗用車にも積まれている技術だが、DOHCで気筒あたり4バルブエンジンは当時、レーシングカーでもごく少なかった。
下の写真はR380と同様、旧中島飛行機系エンジン技術も宿っていた(番外編その2で記す)、12気筒4バルブエンジン採用のホンダRA271(1964年)のリアビュー(wikiより)

第3回日本GPで、R380の前に立ちはだかったポルシェ906は911系の水平対向6気筒SOHCであった。それでも210馬力は出ていたが。
6.-2 中島飛行機の高い試作、チューニング技術があった
エンジンを含む自社製レーシングカーの開発を成功に導くためには、やはり大元である高度で複雑な構造のエンジンを、机上の設計レベルだけでなく、実際に試作してチューニングを行い、実戦用としての性能を引き出せるか否かにかかってくると思う。そしてR380で何が一番すごかったかと言えば、当時の先端技術を詰め込んだエンジンを、短期間で実際にレーシングカー用としてモノにしてしまった点ではなかったかと思う(私見です)。
以下⑥より引用。
『(GR8の)設計が始まったのは64年9月で、翌年1月に実験部に引き渡された、当時の印象を古平(注;エンジン実験部所属で社員ドライバー)は次のように語る。
「さすがに元・航空機メーカーの技術はすごいと思いましたよ。DOHCを作ると言って、本当に作ってしまったんだから」。』当時の日本の量産車の状況を思えば、まったく同感です。そしてこの離れ技を可能にしたのは、中島飛行機伝来の、軍用機用エンジン製作のために、現場に蓄積されてきた、試作・チューニング技術だったようだ。以下⑦より引用
『R380を操縦した経験のあるドライバーは今でもGR8の性能と信頼性を絶賛する。なぜあの時代、きわめて短時間のうちにそれほど優れたレーシングエンジンを作り上げることができたのだろうか。中村(注;GR8の動弁系の設計を担当した中村哲夫)はこう言い切る。「設計だけでエンジンは速くなりません。DOHCはプリンスが先駆者だったんですが、他のメーカーに先駆けて技術レベルの高いモノを開発できたのは、やはり試作の力だったんだと思います。中島飛行機ゆずりの施策の技術、職人芸ですよ。しかも若い会社だったから、会社に入って2年、3年の若手が好き勝手やっていて開発が速かった。その若さを、軍用機エンジンを作っていたころから現場にあった職人芸が支えた結果なんですよ。」』
引用⑥より、牛島氏(注;GR8のエンジン設計に携わった牛島孝)の証言
『カムシャフトはチェーン駆動ではなく、耐久性に勝るギア駆動にしました。目標の1万回転には届かず、最終的に9000回点ほどで古平 勝君に引き渡したと記憶しています。』
牛島からエンジンを引き継いだ古平はチューニングに必要な多くのパーツをすぐに開発し、図面に「R」の印を押して製造ラインに持ち込んでいる。この判があれば量産車部品の製造ラインを止め、最優先でレース部品を作ってくれたからだ。』
『こうして古平はGR8を最終的に1万2000回転、220馬力以上のエンジンに仕上げている。これは設計した牛島が想定した以上の性能だった。』
ここでまた、トヨタとの対比をおこなえば、R380より後の、1967年春に開発計画がスタートした、トヨタ初の本格的なレーシングカーである、3ℓの初代トヨタ7は、経験がないため冒険を避け手堅く、気筒あたり2バルブのDOHCであったが、その後パワー不足に悩まされることになる。(下の写真は3ℓトヨタ7のレプリカ。トヨタ自身の手で全て破棄されてしまったため現車は1台も存在しないと言われている。)

https://pbs.twimg.com/media/DFUOacXUwAEZdJC.jpg:large
6.-3 直6レイアウト採用。
この時代のレーシングエンジンにおいてもすでに、2ℓ級で直6レイアウトをとる例は少なかった。以下②より。
『気筒配列には、基本構想で述べたように直列6気筒が選ばれた。理由は、高回転まで回せることや振動面で有利などの長所に加えて、それまでG7型で慣れ親しんでおり、そのノウハウが活かせるためであった。初めて本格的なレース用エンジンを手がけることになった榊原は渡欧中、当時はまだ新興のエンジンチューナーであったコスワース・エンジニアリングを訪れた際、直列6気筒のチューニングの難しさを指摘されたが、市販車への将来的なフィードバックも考えて、あえてこのレイアウトでの開発に取り組んだという。』そして『革新的な点こそないが、当時としては最高レベルのメカニズムが盛り込まれた。』
プリンスは1963年6月、高級車グロリアに、戦後日本初の直列6気筒SOHCエンジン、G7型を搭載した“グロリア スーパー6”(下の写真)を追加した。R380を市販車とつながりがあるものとしたかった意図は理解できる。

https://gazoo.com/catalog/maker/PRINCE/GURORIA/196301/990000807/
以下は⑤より
『同じ6気筒ならV型にした方がクランクシャフトが短い分、高回転には有利なはずだが、青地康夫が率いるエンジン開発チームは7ベアリングによって見事に直6の弱点を克服してみせた。
「10000回転以上回しました。そこが飛行機屋で、振動を抑えるベアリングをどこに何個入れるかをずいぶん検討したものです」(櫻井)』
7.R38×計画は、中川良一の描いた “地上の夢” だったのか
ただこの、直6採用について、中川良一が以下のような、非常に気になる?証言を残している。この言葉から、自分なりにさらに“妄想”を広げてみた。(引用⑥)
『~実は1962年に櫻井は技術担当役員である中川良一の鞄持ちという名目でヨーロッパに随行していた。この時、ふたりはF1ベルギーグランプリを観戦しており、(ちなみにこのレースはジム・クラークのF1初勝利だった。マシンは下の写真のロータス25・クライマックスV8)
http://gita.holy.jp/img2/P20170115d.jpg
l
ホテルに戻ると中川は深夜に櫻井の部屋に電話し、「オレが12気筒48バルブのエンジンを作ってやるから、おまえはシャシーを作れ」と熱く語ったという。』
⑧でも同様な、さらに具体的で驚くべき証言があり引用する。『車は二人乗りのGTカーがいいだろう。チュ-ンアップ・エンジンは水冷V型の十二気筒で四弁(48バルブ)がいいかもしれん……。これなら六リッターで千馬力くらいはらくにでるだろう。ロールス・ロイスもダイムラー・ベンツもそうだが、飛行機用エンジンをそのまま搭載するんだから、日本ではおれが一番向いているのは間違いない』
!!! 1969年の6ℓのR382ですら日本GP当時600馬力がやっとだと言われていたので、この時代(1962年)に6ℓで1000馬力を楽に達成するためには誰が考えても当然、ターボチャージャー付が前提だろう。
(まさか中島飛行機時代、ターボチャージャーは”鬼門”だったから、スーパーチャージャーで行く!ということはなかろうが。 下はターボチャージャー付プラット・アンド・ホイットニーR2800エンジンを積んだ、リパブリックP47 サンダーボルト)

https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/718Lgko7ZtL._SL1378_.jpg
(下の写真は、陸軍中島キ-87試作高々度戦闘機。中島製エンジンはターボチャージャー付だったが、タービン自身の耐熱性不足などのため、予定の性能を発揮できず、試作で終わった。)

https://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/nakajima/Ki87Spec.html
そうなると、1962年の時点で早くも、直6のR380からスタートして、6ℓV12、48バルブのR382(1969年)をさらに飛び超して、1970年のニュートヨタ7同様、ターボチャージャー付になると言われていたR383(1970年用)やR384(1971年用)ぐらいまでの構想が、中川の頭の中にはハッキリと描かれていたことになる!(下は、ずらりと並ぶR38シリーズ)

https://scontent-cdt1-1.cdninstagram.com/v/t51.2885-15/e35/42310070_277872192852124_2618826705152415283_n.jpg?_nc_ht=scontent-cdt1-1.cdninstagram.com&se=7&oh=f7a922ebd7e53dd38971ed16ea8f7b50&oe=5E0D14BC&ig_cache_key=MTg4MTk5MjUzODEzNzQ4MTA4OQ%3D%3D.2
我々日本のモータースポーツファンは1970年の夏、日本GPの中止が唐突に決定された(日産の敵前逃亡?私見です)後に公開された、5ℓで800馬力以上と言われたニュートヨタ7ターボに、日本のレーシングカーも遂にここまで来たかという感慨とともに、その完成された、危険な香りのする妖しい美しさに、何か異次元なクルマが舞い降りてきたかのような、不思議な感覚を味わったものだった。(画像はwikiより)

しかしこの話が事実なら(もちろん“捏造”などではなく、事実なんだろうと思うが)、それから8年さかのぼること1962年の時点で、トヨタのさらに上を行く、6ℓ1000馬力の構想を、中川は温めたことになる。驚くほかない。
この大構想の実現のためにはまずベースとなる、直6、2ℓDOHC気筒あたり4バルブのレーシングエンジンをモノにすることが大事だ。それさえモノにできれば、国内レースを制した後にルマン&スポーツカー世界選手権(自動車の耐久選手権)でまずはポルシェと戦いクラス優勝を狙う。あるいは量産義務のないプロトタイプクラス狙いか?ニッサンR380がルマン出場を検討していたことは有名な話だが、下記の octane誌(のweb版)によればプリンスR380時代にすでにルマン出場を目指していたらしい。
https://octane.jp/articles/detail/2163/2/1/1 より以下引用。」
『~実のところプリンスはひそかにルマンを目指していた。そのため、1965年4月から45日間にわたり193馬力にチューンされたS54CR1台と三名のスタッフを欧州に派遣している。クロスフロー化され193馬力のパワーを得たS54をカルネナンバーで欧州を走らせ、なかでも入念にルマンのコースで計時とデータ取りを行なっている。』(下はS54スカイラインGT-Bのノーマル車)

https://meisha.co.jp/wp-content/uploads/2018/05/55ec1b2ca92d6519958efb17228f7614-e1540610222661.jpg
『帰国後、そのデータはR380でルマンに挑戦する際の検討に用いられ、机上計算で最適のギア比などが求められている。後々もプリンスが得意としたコース走行シミュレーションである。そうした検討のさなか、突然おこったのが日産との合併。これによりルマン参戦は叶わぬ夢となった。』
さらに次のステップとして、直6を2基組み合わせる形でV12,48バルブ6ℓの高出力のレーシングエンジンへとつなげていく。当時排気量無制限かつ量産義務規定もなかったGTプロトタイプクラスで、大胆にも打倒フェラーリ!を目指し、国際マニュファクチャラーズ選手権の年間総合優勝と、ルマン24時間制覇だったに違いない。(下はプロトタイプ部門の1966年式の美しいフェラーリP4と、)

http://www.bingosports.co.jp/news/detail_131.html
(その下は1966年、ついにフェラーリを下し、念願のルマン制覇を成し遂げたフォードGT40.この年から69年まで四連覇を成し遂げる。)

https://gazoo.com/article/car_history/170210_1.html
そしてそれを実現させるための秘密兵器が、第二次大戦中、中島飛行機の“誉”でついに果たせなかった、あの“ターボチャージャー”なのだろう。(しかもツインターボの構想だろうか?)
(下は連合艦隊司令長官山本五十六大将搭乗の一式陸上攻撃機の撃墜に成功した、双発ターボチャージャー付エンジン搭載のロッキードP38)

中島飛行機時代に無念にも、“誉”エンジン付きの戦闘機で果たせなかった単座戦闘機における世界頂点の座を、地上を走る戦闘機たるR38×を武器に、モータースポーツの分野で今度こそ世界王座を目指す算段だったのか?(下は中川が中島飛行機時代に設計した誉エンジンを搭載した本土決戦機、陸軍四式戦闘機“疾風”)

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13199671163
ここで脱線というか、一服する。
これからさらに、“誉”(=戦前の中川及び中島飛行機、創業者の中島知久平を語る事になる)とR38×(=戦後の中川及びプリンス自動車とそのモータースポーツ活動を語る事に繋がる)との関係性を深堀しようとしても、元々“誉”自体が賛否両論あるのはご存知の通りで、迷路に嵌るだけのように思える。
それにそもそもこのブログは、犬(ぼんちゃん♡)がメイン+自動車のブログで、飛行機を扱うブログではなくこれ以上手を広げるつもりも毛頭ない。
ただこの記事をまとめていく中で、“誉”とプリンスにマツワルちょっと気になった事を思いついてしまったので、本編とは別に、この頁の終わりに“番外編”をもうけて、軽~く、話を二つばかり記して、中途半端にこの“命題?”を終わらせることにする。当然ながら、独断と偏見に満ちた妄想話になると思うので!陰謀論?に全く興味ない方は無視して、どうか興味のある方のみあくまで“余談”程度としてご覧ください!(下はR382用の、GRX-3エンジン)

https://minkara.carview.co.jp/userid/210141/blog/37384331/
ここで話を戻すが、中川はレーシングカー用エンジンのチューニング技術において、内に秘めた自信があり十分勝算ありと踏んだようだ。⑧より引用
『レース用エンジンのポイントとなるエンジンの吸気効率を上げるとか、クランクシャフトを磨くとか、吸入ポートの設計などでは、かつて「栄」「誉」をともに研究し、つくりあげてきた戸田泰明博士がいる。戦前、アメリカやヨーロッパのエンジンを調べたが、われわれの方が立派なものができていた。結局は戦争でだめになったが、そうしたきめ細かいことをやるのは、世界でもわれわれのグループが一番だ』(下記画像は“古典航空機電脳博物館”さんより、力強く上昇する疾風)

https://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/cl-pln/FR047.html
(下は同じく誉エンジン搭載の、川西 局地戦闘機 紫電改。ハセガワのプラモデルのパッケージ)

http://www.hasegawa-model.co.jp/hp/catalog/st_series/st33/index.html
しかしここでまた、話の腰を折ることになるが、レーシングエンジンの世界ではその後、大きな技術革新があった。フォード・コスワースDFVエンジンの登場(1966年)だ。写真はDFVの透視図。)

https://gazoo.com/article/car_history/150403_1.html
(以下wikiより)F2 用に開発した直4 ,1.6ℓ の「 FVA(Four Valve type A)」エンジンを結合してF1用に V8,3ℓ 化したものを「Double Four Valve」の頭文字を取り「DFV」としたのだが、『ダックワースはマルチバルブの考察を更に進め、バルブ挟み角の小さいペントルーフ型燃焼室による高圧縮化・急速燃焼と、シリンダー内の縦の渦流(タンブル流)を利用した充填効率の向上により、レーシングエンジンで高出力と低燃費を両立させる事に初めて成功、これを DFV に適用した。』
(写真はマクラーレンM23に搭載されたDFVエンジン。Wikiより)

DFVエンジンの登場により、レーシングエンジンは車両全体のパッケージングの一部として、軽量コンパクトかつ高出力、低燃費であるという、一段ハイレベルなスペックが求められるようになった。そしてレーシングカーは次第に、空力特性が重要視されるようになっていく。(下はロータス72フォード コスワースDFV)

https://www.webcg.net/articles/gallery/35456
当初の中川の頭の中にあった、いかにもエンジン設計者らしい思想の、 “はじめにエンジンありき” の、いわばエンジンパワーでぶっちぎろうという思想は、当時としてはハイスペックだがオーソドックスな(大きくなる)直6の4バルブDOHCのGR8エンジン搭載のR380が、ポルシェ904~910相手に戦った1960年代の2ℓクラスのレーシングカーの世界では、まだ何とかギリギリ通用したレイアウトだった。(下はニッサンR380-Ⅱと、)

https://pbs.twimg.com/media/DTr-ID1VwAAAkXV.jpg
(ポルシェ910)

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/25/06739ef91f21a41421cc2c84d66783e9.jpg
限界的な小型化設計だったがゆえに信頼性不足に悩まされた“誉”エンジンの反動もあってか、GR8エンジンは戦中のアメリカの航空機エンジンみたいに、無理な小型化は行われず設計されており、事実R380のエンジンは高い信頼性を誇り、ニッサン/プリンスのワークスレーサーたちの信頼も厚かった。だがその半面、大きさと重量面ではどうしても、大きなハンディキャップを背負うこととなった。(画像はこれも“古典航空機電脳博物館”さんよりコピーさせていただいた。有名な“我ニ追イツクグラマン無シ”の電文で知られる、誉エンジン搭載の艦上偵察機「彩雲」)

https://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/cl-pln/saiun.html
しかし1970年代に入るとすぐに、軽量コンパクトな直4エンジンのコスワースやBMWを用いたレーシングカーが出現、席巻していった。(画像はのちに日本のGCシリーズでも大活躍したシェブロンB19)

https://www.oldracingcars.com/chevron/b19/
その直6の延長線上の設計で、中川の構想した直6×2のV12、48バルブのGRXシリーズを載せたレーシングカーでは、世界基準ではすでにその大きさ故に滅びた恐竜のごとく、時代遅れになりつつあった(のだと思う。まったくの私見です)。(画像はR382wikiより)

下は、手前がプリンスR380用に開発されたGR8エンジン。奥がGRX-3。

https://web.motormagazine.co.jp/_ct/17194286
だがそれも、中川の元々の構想自体が(少なくとも)1962年という、あまりに早すぎたからなのだろう。
ちなみにここでGRX-3エンジンについて、トヨタ(+ヤマハ)との対比をおこなえば、これも私見だが、プリンス/ニッサン勢に絶えず遅れをとり劣勢だったトヨタ陣営は、5ℓトヨタ7のエンジン設計で、当時最新トレンドであったコスワースDFVをお手本とした軽量コンパクトでハイパワーなエンジンをものにした。これに対して冒険せずに、R380世代の古典的な設計のままで留まったニッサン(実質は旧プリンス)のレーシングエンジンとの比較で、技術レベルはついに、(少なくともコンセプト上は)逆転したと思う。投下した資金量も、トヨタの方が明らかに多かったと思うが、すでに中島飛行機時代の遺産を使い果たしたこともあり、プリンス/ニッサンは進化の幅が少なかったと思う。(全くの私見です。下は5ℓトヨタ7のエンジン)

http://f1-web-gallery.sakura.ne.jp/cn21/pg104.html
ただ実際のレースとなれば、ドライバーの腕の差(日産側が圧倒的に有利)もあるのでどっちに転ぶかわからないが。(下の写真は1969年の日本CAN-AMに鮒子田寛のドライブで出場したマクラーレン・トヨタ。マクラーレンの市販シャシー(M12)にトヨタ7の5ℓエンジン搭載。当時の内製シャシーとの出来の差故に参考とし、翌年のターボ世代のニュートヨタ7に影響を与えたと言われる。鮒子田はトヨタ製シャシー剛性の低さ、ステアリングの重さを指摘し、「マクラーレンのシャシーだったら69年の日本GPで勝てたと思うと述べており、エンジンの差ではなかったと指摘していた。細谷四方洋も「正直に言うと、5リッターモデル(注;トヨタ内製シャシーの)よりも走りやすかったですね(笑)。非常に完成されたマシーンという印象を受けました」と語っている(wikiより)。)
マクラーレンで”学習”し、新たにエース級の設計者(田中堯)を投入し、過去膨大な資金を投じてきた成果がようやく出始めた結果、70年時点ではシャシー性能も追いつき追い越せの勢いだったように思う。(私見です。)

https://web.motormagazine.co.jp/_ct/17085805
以上、私見と言うか、まったくの妄想でした。R381以降については、日産3羽ガラスの北野元の記事であらためて詳しく触れる予定です。
以下、R380のエンジン以外の部分は手短に片づけて終わりにしたい!
8.エンジン以外は即戦力目指し、実戦的なアプローチをとった
エンジンに対しては、プリンス技術陣の“魂”であったため妥協なしで、あくまで“内製”にこだわったが、そのエンジンを載せる、マシン全体の構築に関しては即戦力を目指し、こだわりを捨てて、現実路線に徹して主に海外からの外部調達を頼った。上記、7項の中川の言葉の続きとして、⑥から引用する。
『~こうした背景もあってプリンスはイギリスのコンストラクターに関する知識とつてを持っていた。そのため櫻井がフレームの購入を要請した時、上層部はすぐにブラバムとロータスを推薦している。』
この“上層部”とはやはり、開発部門トップの中川のことだろう。エンジンさえ自力で作ることができれば、シャシーはイギリス製の定評あるレーシングカー専業メーカー(ブラバムかロータス)から調達し、(下の写真はブラバムBT8)

http://stat.ameba.jp/user_images/ee/77/10069789879.jpg
トランスミッション、ブレーキ等の主要部品類もレーシングカー用として実績のあるメーカー品を調達し組付けて、ボディはこれもフェラーリ(R380の場合250LMあたりを参考にした?ちなみに250LMは今では美術品としてきわめて高価で2015年8月に1760万ドル(当時約21.6億円)で落札されたとのこと)

https://www.autocar.jp/news/2018/09/02/302629/5/
や宿敵!ポルシェ(同じくポルシェ904<似ているがR380の写真ではない!>)

http://car.bau-haus.com/?p=1789
あたりを見よう見まねで形を作り(失礼(私見です)!東大の宇宙航空研究所の風洞も用いられたようだが、ポルシェ906のように何か理論的な裏付けがあって形づくられたわけではなさそう?(これも私見です))、あとは櫻井の剛腕で全体を取り纏められるのでなんとかなると目論んだのだろう(これまた私見です)。こうして国産初の、自社製レーシングカーが1台完成する。中川らがそのための事前のリサーチと調達準備を行っていたからこそ、迅速に動けたのだろう。以下②より
『R380の開発がスタートする直前の64年6月、田中設計部長はエンジン設計課の課長であった榊原雄二とヨーロッパへ飛んだ。出張の目的は、キャブレターやタイヤなど部品の調達と、レース関連企業を訪れて当時の最新のレース技術を視察することだった。イギリスではコンストラクター(ロータス/ブラバム)、エンジンチューナー(コスワース)、部品メーカー(ダンロップ/ガーリング/ボルグ・ワーナー)などを訪問して回り、イタリアではボローニャにあるウェバーの本社を訪れて、スカイラインGTの生産に必要なキャブレターを買い付けた。』実に手回しがいい。
以下⑤より引用。
『レーシングマシンの開発において、コントラクターの実力の程はいかに適切な部品を集められるかで判断される。R380の場合、トランスミッションはヒューランド、ブレーキはガーリング、クラッチはボルグ&ベック、ダンパーはアームストロングを使用しているが、いずれも世界の一級品と呼ばれる逸品揃いで、当時のプリンス技術陣の選択眼と交渉能力には驚かされる。』
そして上記6.2で紹介した、エンジン分野における試作能力の高さは、エンジン以外の分野の特殊部品の製作や組付けや、改良においても、中島飛行機時代から引き継いだ試作部門の力が威力を発揮したようだ。⑤より引用『「プリンスは中島、立川飛行機で育った腕利きの作り手が揃っていましたから、スペースフレーム制作にしても、歪の出ない溶接の順序といった職人技はどこにも負けなかった』と櫻井は語る。』
ここでトヨタとの対比をすれば、第3回日本GP(1966年)の2年後の、’68日本GP用にトヨタ初の本格的なレーシングカーとして送り出された3ℓトヨタ7は、ヤマハとの共同開発であったが、試作にあたり経験不足に悩まされた。以下⑨より引用
『415S(注;3ℓトヨタ7の開発コード)の1号機は67年12月26日に完成しているが、磐田工場(注;ヤマハの工場)でわずかな距離の試運転を受けただけで深刻な問題が発生した。ブラインドハンドリベットで留めたアルミパネルが、振動で緩んだり抜け落ちたりしたため、フレーム自体の強度が著しく低下したのである。このリベットはトヨタがヤマハに持ち込んで来たものであったが、使用には幾分の慣れを必要とし扱いを間違えるとそのような問題の起こる代物であった。(下の画像は3ℓトヨタ7)

https://toyotagazooracing.com/archive/ms/jp/F1archive/experience/features/2004/toyota7/index.html
多くの細かい構造物で形成されているこのフレームで、これらを繋ぐリベットに問題があるとなれば、その影響はボディ全体におよび深刻な影響となる。リベットの打ち直しやサイズアップ、さらには接着剤の応用など、ありとあらゆる方法で手直しをしたものの、この問題の抜本的な解決にはいたらなかった。』
そしてブラバムでは、足回り研究用としてF2用のBT10を購入した。(写真はBT10)

https://www.flickr.com/photos/tim0854/43086324932
話をR380に戻す。②によると、ブラバム訪問時に、レーシング・スポーツカーのBT8Aも間近で見る機会があったそうだが、『そして帰国後、R380の開発が本格的にスタートすると、前例が全くない車種だけに、ヨーロッパの似たようなマシーンを参考にしようということからこのBT8Aが輸入され、結局そのスペースフレームがR380の1号車のフレームのベースとして使用されることになる。』そしてここで、R380開発の指揮を執った櫻井が、先進的な技術で知られたロータスでなく、手堅い設計思想のブラバムを選択したことが、エンジンの開発の成功とともに、R380を成功に導く大きな要因となったと思う。そこで次に、櫻井のレーシングカー開発における思想からみてみたい。
9.櫻井の堅実な設計思想と、ブラバムの協力
④より引用『プリンスの場合は、ポルシェ904に負けない性能のクルマをつくる、という明確な目標を立ててスタートした。中心となって設計を進めた櫻井眞一郎には強い信念があった。パワーウェイトレシオをよくすることはおろそかにはできないが、エンジンのパワーを支えるシャシー性能がすぐれていることが最も重要であるというものだ。シャシー性能よりエンジンパワーの方が上回っていると、マシンをコントロールすることが難しくなる。マシンの安全性を確保するためには、シャシー性能が勝っているマシンにしなければならないというのが、櫻井のクルマづくりの原点であった。
当時生産車はモノコックフレームが主流になりつつあり、これを応用すれば軽量化が図れるが、それよりも信頼性が高いパイプフレームを採用することにした。このほうがサスペンションアームをしっかりと固定できるし、フレームの補強が容易である。モノコック構造のものは、まだどこに応力が集中するかわからないところがあった。最初のR380は、たまたま研究用に購入したブラバム製の2シーターカー用スペースフレームを流用して作られた。』
以下②から引用するが、櫻井が、当時戦績では優勢であったロータスでなく、ブラバムを選んだ理由として『ロータスはフレームを構成するパイプの本数が少なく、ドライバーに危険に思え、冷たい感じを受けた。一方ブラバムはパイプが多く、ドライバーの安全を優先した、人間重視の感じがしたから』と語ったそうだ。(写真はブラバムBT8のライバルのロータス23)

https://en.wikipedia.org/wiki/Lotus_23
⑥からも引用『「私は優れたエンジニアでありながら、冷たい性格のコーリン・チャップマン(ロータスのオーナー)ではなく、ロン・トーラナックのいるブラバムを選びました。」チャップマンが冷たい男だというのは事実で、当時F1に参戦していたホンダの中村良夫は、契約ドライバーが事故死しても平然としている彼の冷たさに怒りを覚えたという。
櫻井が選んだブラバムのロン・トーラナックは、実直な技術者でプリンスの要請を快く受け入れている。そして参戦するレースやエンジンの排気量などを尋ね、ブラバムBT8Aの鋼管フレームを推奨した。』(写真はブラバムBT8)

https://en.wheelsage.org/brabham/bt8/pictures/v0fqaw/
さらに驚くべきことに、御大ジャック・ブラバムがR380のセッティングに協力し、何度も来日したようなのだ!!下記の動画、「1966 プリンス R380 櫻井真一郎が語る【Best MOTORing】」の4分40~50秒あたりです。
https://www.youtube.com/watch?v=Y9R8aXFLycI
(下の写真はジャック・ブラバムと設計者のロン・トーラナック)

https://i.pinimg.com/736x/40/f4/60/40f4607b46fb8f2679f11cd78ea69f17.jpg
動画のナレーションをそのまま引用すれば、『~ちなみに、プリンスとブラバムの親交は深く、ジャック・ブラバムは村山テストコースでプリンスのマシンを何度も試乗したという。』
言うまでもなくジャック・ブラバムはF1世界王座に3度輝いた名手中の名手だ。ブラバム(MRD)とはただ単に、シャシーを売り買いしただけでなく、R380の評価と調整に、世界最高レベルでのアドバイス付きだったわけで、ある時期のブラバムとプリンスはパートナーの立場に近かった?R380の国産プロトタイプレーシングカーとしての成功の影に、ブラバムの強力なサポートがあったことは間違いなさそうだ。この時点で、プリンスR380の、少なくともある一定レベル以上の成功は約束されたようなものだ(私見です)。(下は1959,60年と、二年連続でF1を制した、ミッドシップのクーパーT53)

http://livedoor.blogimg.jp/mkz/imgs/d/b/dbde53ee.jpg
その後同郷出身のロン・トーラナックと共に、シャシーコンストラクターのモーターレーシング・ディベロップメント (MRD) を設立。1966(ジャック・ブラバム)、1967(デニス・ハルム)と2年年連続F1王座に輝いた。(下の写真はデニス・ハルム(マシンの中)とジャック・ブラバム)

http://blog.livedoor.jp/markzu/archives/51870978.html
なおこの時期のブラバム(ジャック・ブラバムと設計者のロン・トーラナック)は、商売を通じて日本とのつながりが深くなっていた。(以下は主にwikiより)とりわけホンダとの関係は強く、1966年のF2ではホンダ製エンジンを搭載したマシンで、ジャック・ブラバム、デニス・ハルムの2人の手により開幕11連勝を達成。最終戦ではジャック・ブラバムが2位となり惜しくもシーズン全勝は逃すものの、圧倒的な強さを見せた。(写真は1966年のF2を席巻したブラバム・ホンダ BT18)

https://www.honda.co.jp/sou50/Hworld/Hall/4rrace/345.html
またこの頃、鈴鹿サーキットがフォーミュラカーを日本に普及させようと、ブラバム製フォーミュラマシンを大量購入した。このマシンは後にプライベーターに放出され、日本のフォーミュラレース振興に貢献する。ホンダ関係にも用事があったハズで、それもあって来日していたのだろうか。
ホンダのF1を主導していたのは中村良夫で、ロータスとの間では大きな軋轢があった。以下wikiより。
『(F1に)当初ホンダはエンジンサプライヤーとして参戦する予定だったのである。フェラーリとBRMは自社製エンジンを使っているため除外、ブラバムとロータスとクーパーにしぼられそのうちのブラバムにほぼ内定。ブラバムのシャシーに載せることを前提にエンジンの熟成が進められた。
1963年秋、ロータスのコーリン・チャップマンが急きょ来日、ホンダ本社に訪れこう言った。「2台走らせるロータス・25のうち1台はクライマックスエンジンを載せるが、もう1台にホンダを載せたい。場合によってはジム・クラークにドライブさせてもいい」と。(下の写真はコーリン・チャップマンを載せてビクトリーランするジム・クラークのロータス 25)

https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/userstorage/000/035/201/039/1ee5126c62.jpg?ct=a84b84b29280
これを機にコンストラクターはブラバムからロータスに変更され、エンジン開発もロータス・25にあわせて行われた。ところが1964年2月、チャップマンから電報が届いた。「2台ともクライマックスエンジンでやる。ホンダのエンジンは使えなくなった。あしからず」というものだった。となると自社でシャシーを造るしか道はなくフルコンストラクターとして参戦することになった。』コーリン・チャップマンは、ギリギリのタイミングまでひっぱったうえでキャンセルし、他のチームがホンダエンジンを使えないように画策した。ホンダは急遽、シャシーを内製化して参戦することとなった。(下はF1デビュー戦の1964年ドイツGPのホンダRA271(ドライバーはロニー・バックナム))

https://ehonkuruma.blog.fc2.com/blog-entry-446.html
中村良夫は1940年4月に東京帝国大学工学部航空学科(原動機專修)卒業後、中島飛行機に入社したが、その時の上司が、中川良一だったという。仮に二人は連絡を取り合ったならば、中村の助言がブラバムの選択に影響を与えた可能性があった??(証拠のない、全くの憶測です。)

https://selfieus.com/tag/%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B9%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A%E5%B7%A5%E6%A5%AD
10.GR8エンジンの源流は、コベントリークライマックスエンジンにあったのか?(10/25追記)
この⑭の記事を書き終えて、今は次の⑮の記事を書いている途中だが、GT-R用のS20エンジンについての調べ物をしているなかで、手持ちの雑誌で新しい情報に出くわした。書き上げたあとから気付くことをいちいち追記していったらキリが無くなるので普段はやらないけれど、この情報だけは追記しておく。情報元は一時復刊したが、すぐにまた休刊となってしまったモーターファン(イラストレーテッドでない方の、2016.10号)の、「<再録>MFロード・テスト 日産スカイライン2000GT-R」という記事の中の一部分だ(引用⑪とする)。ちなみにこの記事の構成は、1969年6月号のスカイラインGT-Rのロード・テスト記事(大学の先生方や日産の設計者たち;田中次郎、岡本和理、榊原雄二、櫻井眞一郎各氏も出席して、テスト結果を踏まえた座談会を行っている)を、50年近くあとの現代の技術者の目で、こちらも座談会形式であらためて検証する、という内容だ。
見逃せない内容だったため、その一部を引用させていただく。興味のある方はぜひ本書で確認ください。
『 S20型エンジン
エンジン設計者 第2回GPで前月の64年6月に、座談も行っている田中次郎さんらがヨーロッパに視察に出かけ、そのときの印象を踏まえてR380の開発に先立ちブラバムBT8A(2座オープン・グループ6カー)を輸入、R380の1号車(R380-1)はそのシャシーナンバーSC-9-64のチューブラーフレームそのものを改造して使ったということなんですが。
シャシー設計者 サスもですか。
エンジン設計者 アームは新製したようですが形状はそのまま、アルミホイールまで流用したようです。海外のサイトでは「R380はBT8AのRebodied」と断じているものさえありました。「プリンス/ニッサン-R380/R381/R382/R383」(檜垣和夫著 二玄社刊注;この記事でも②として引用している)という本の34ページには「ギヤボックス(ヒューランドHD5型)もBT8Aのものを流用した可能性が高い」と書いてあります。ということになるとエンジンはどうなんだろうと。海外の研究サイトによるとプリンスが購入したSC-9-64に搭載されていたのは2ℓのコベントリークライマックス。おそらくFPF(1957年設計のレーシングエンジン、直4・2弁DOHC、1.5~2.8ℓ)だろうということで、断面図や外観図を探して見てみたら、第一印象としてR380用に設計されたGR8型とかなり似ているなと。滅多なことは言えませんが、純粋な私見では、「やったな」って感じでした。』
文中のエンジン設計者氏は、この事実を”発見”したとき思わず”ビンゴ!”って叫んだことでしょう。上記でも引用されていた本の②でも『彼(注;GR8エンジンの設計を担当した榊原雄二)は次にボア・ストロークの検討に取りかかり、当時世界有数のレーシング・エンジンのメーカーであったコヴェントリー・クライマックスが行った実験において、ストローク/ボア比(以下S/B比)の最適値が0.76であるという報告を参考にし、最終的に82.0×63.0mm(総排気量1996cc、S/B比は0.768)と決定した。』という記述もある。手持ちのグロリア用G7型6気筒を、レース用エンジンに仕立て直すのが難しいと分かった時、やはりベースとなるエンジンが必要だったのだろう。(上の写真は、Coventry climax 2.5ltr FPF エンジンで、下はプリンスR380用GR8型エンジン)

(写真はhttps://crosthwaiteandgardiner.com/index.phpより)

(写真はhttps://nissangallery.jp/wp-content/uploads/2016/01/20151107_ghq_304-640x480.jpgより) 引用を続ける。
『(中略)GR8とFPFが似ていると言ったのは設計の基本ポイントです。直4→直6、2弁→4弁と形式もボアスト比もまったく違うんですが、例えばヘッドはどちらも吸排気カム室をヘッドと左右別体の2階建てにしてバルブ挟角と直角にマウント、左右カムカバーは別々です。カム駆動はギヤですが、その特徴的な配列の設計も非常に似ています。
――うーん。
エンジン設計者 座談の中にベアリングキャップの話が出てきますが、メインベアリングキャップを下からだけでなく横からもボルトで締結するサイドボルト式を併用、これもFPFと同じ形式です。あとエンジン前方にウォーターポンプを配置して前方から冷却水を入れて排気側の側面に抜く設計、ドライサンプのオイルパンにぶら下げたスカベンジポンプをワイドスパンの脚で支える設計なんかもそっくりです。
シャシー設計者 まあサスとフレームを改造して使ったくらいですからねえ。
エンジン設計者 第2回GPの直後の64年初夏に設計を始めて65年4月には初号機が完成、しかもG7型とはほとんど共通点がない。
自動車設計者 そういう指摘はこれまでどこかで出たことはありますか。
エンジン設計者 少なくとも自分は聞いたことがないです。今回両方のエンジンの写真や図版を比較して気がつきました。
――68年GPのR381なんかムーンチューンのシボレーV8を買ってきて積んじゃったくらいですからね。「勝つためには手段は問わない」という空気はあったでしょう。(以上⑪より、後略)』
この一文を読んで自分なりに感じたこと(感想文?)の第1点目は、この時代のプリンス自動車のエンジン(と設計者たち)には、中島飛行機時代の苦い教訓が十分に生かされていたという点だ。中島飛行機の航空機用エンジンは大きくは、ブリストル社(英)とカーチス・ライト社(米)からの技術導入で始まり、基本技術は両社の流れのなかにあったが、後の自主開発エンジンでは、両エンジンのもつ真のノウハウを会得するに至らないまま、異なる設計思想のエンジンの折衷型(=いいとこどり)エンジンを目指して、それがトラブルと性能不足の原因につながったとの貴重な教訓があった。
プリンス自動車のエンジン部門の前身の富士精密が、初代プリンス セダン用エンジン(FG4A型)を開発するとき、新山専務が中島飛行機時代の経験(失敗)から、オーナーだった石橋正二郎所有のプジョー202のエンジンをそっくり真似ろと指示したのは有名な話だ。
またグロリアスーパー6用の、プリンス初の6気筒エンジン開発に当たっても、『当時はまだOHVの時代で、OHCも6気筒も日本にないためベンツの6気筒OHCを参考にしました。こうして完成したのがG7型で、プリンスの独自技術で開発したエンジンではありませんでした』(⑥より、GR8のエンジン設計に携わった牛島孝談)と正直に語っている。しかしこのとき得られた直6エンジン開発の知見は、”某FPFエンジン”を参考に、直6、4バルブ化したエンジンを仕立て直す時、貴重なノウハウとなっていたに違いない。時間の無かったGR8エンジン開発に当たっては、真似するところはそっくり真似して、中途半端な妥協はしないのが”プリンス流”なのだろう。写真はG7型エンジン。(wikiより)

第2点目は、そっくり真似したところはあったにしても、それでもこれだけ短時間に最新鋭のレーシングエンジンをモノにしてしまうのだから、プリンスにはやはり当時の日本の同業他社には無い、中島飛行機伝来の高度なエンジン設計、試作、それにチューニング技術があったということだ。
そして第3点目は、プリンスはやるときは中途半端なマネはせず、なりふり構わず勝ちにいくという点だ。このひたすら実戦的で割り切った姿勢が、ドライバー陣の力量の差と相まって、日本グランプリでトヨタを圧倒し続けた理由だったのだろう。
まとめれば?GR8エンジンの“源流”を辿れば、あるいはコベントリークライマックス社製エンジン(FPF型)に行きつくかもしれないけれど、中島飛行機時代に培った技術と教訓、そして“プリンス自動車の魂”は確かに息づいていると思ったが、如何でしょうか。(以上10/25追記)
さて第3回日本GPがこれで終わり、いよいよ本題の(ようやく!)、国光(“ニッサン”R380-Ⅱ)×生沢(ポルシェ906)の舞台となる、第4回日本GPへと話が進めることにする。
(番外編は追って書込みます。
― 引用元 ―
①:「クルマ界 歴史の証人」プリンス―日産ワークスドライバー 砂子儀一 PART Ⅴ」ベストカー 講談社ビーシー
②:「プリンス/ニッサンR380/R381/R382/R383」檜垣和夫(2009.08)二玄社
③:「時代を移すスーパーメカの系譜 ポルシェ906」モーターファン・イラストレーテッド(2007.05)三栄書房
④:「激闘 ‘60年代の日本グランプリ」桂木洋二(1995.05)グランプリ出版
⑤:「レーシングカーのテクノロジー」モーターファン・イラストレーテッド(2010.01)三栄書房
⑥:「スカイラインGT-Rストーリー&ヒストリー」(2019.04)モーターマガジン社
⑦:「古の日本グランプリPartⅡ」Racing on(2014.05)三栄書房
⑧:「マン・マシンの昭和伝説 航空機から自動車へ 上」前間孝則(1996.02)講談社文庫
⑨:「トヨタ7 その開発から撤退まで」ノスタルジックヒーロー(2007.06)芸文社
⑩:「スカイラインを超えて “伝説のクルマ屋”櫻井眞一郎の見た夢」片岡英明(2012.03)PHP研究所
⑪:「<再録>MFロード・テスト 日産スカイライン2000GT-R」モーターファン(2016.10号)三栄書房
⑫:「フォードVSフェラーリ 伝説のル・マン」A・Jベイム著(赤井邦彦、松島三恵子訳)(2010.09)祥伝社
まずは概要から、主に引用⓵とwikiよりまとめた。でも動画をご覧いただくのが手っ取り早いので、リンクをはっておきます。「第3回日本グランプリの動画」
https://www.youtube.com/watch?v=FQWjSlB8f4I
(以下は例によって敬称略、引用箇所は青字で、引用もしくは参照先は番号をふって文末にまとめて記載し、画像のコピペ先は写真の下に記載。なお全くの個人的な見解(いつものように“妄想”レベルのものも含む)についてはあくまで“私見”だと明記してあるので気に障る方は無視して読み飛ばしてください。なお、引用箇所に少しでも興味のある方はぜひともオリジナルである原書を買ってお読みください。)
1.レースの概要
第3回日本GPから、今まで車種・排気量ごとに細かく分けていたレース方式を廃止して、60周(360km)のグランプリはメインレースに一本化し、サポートレースは特殊ツーリングとグランドツーリングの2レースだけで、レースは1日で行われることになった。
グループ6カーによるメインレースは、プリンスは国産初のプロトタイプレーシングカーのR380を4台(生沢徹、砂子儀一、横山達、大石秀夫)投入。

https://www3.nissan.co.jp/crossing/jp/exhibition_vehicle_10.html
トヨタはヤマハと共同開発した2000GTのプロトタイプをレース仕様に改造。

https://www.webcartop.jp/2017/06/115280/2
日産は前哨戦の全日本クラブマンレースに続き、6気筒DOHCエンジン(これもトヨタ2000GT以前にヤマハと協業したもの)を搭載するフェアレディS(北野元)で参戦した。
外国車に乗るプライベーター勢の中では、滝進太郎のポルシェ906が注目された。第2回大会のGTクラスでポルシェ・904にプリンス・スカイラインGTが敗れたことからR380が誕生したという経緯があり、ポルシェ対プリンスの再対決に関心が集まった。(下はポルシェ906)

https://octane.jp/articles/detail/2182
レースは生沢のR380のリードで始まったが、2周目に砂子のR380が生沢を抜いてトップに立ち、マシンの不調でペースが上がらない生沢は数周にわたり滝の906を執拗にブロックし、チームメイトの砂子を逃がす役割を務めた。
滝は6周目にようやく生沢をかわすと砂子を追い上げ、25周目にトップに立った。8秒ほどリードして31周目にピットインしたが、この給油作業のロスタイムが勝敗に大きく影響した。滝のチームはプライベートチームの悲しさで、ポリタンクから給油したため約55秒を要したのに対し、37周目にピットインした砂子はプリンス陣営が準備した秘密兵器、“重力式スピード給油装置”の効果で15秒たらずで作業終了。ピットワークでトップを奪い返してコースに復帰した。この40秒の差を取り戻すべく滝は猛迫するのだが、42周最終コーナーでオイルに乗りスピン、ガードレールへとクラッシュしてしまう。生沢は46周目にギアトラブルでストップ。最終コーナーからピットまでマシンを押して戻る生沢に対して、健闘を讃える拍手とブロック走行を非難する罵声が浴びせられた。

画像はwikiより
砂子は独走状態で60周を走破して優勝した。プリンスワークスは1、2、4位という好成績を収めた。3位は無給油作戦を実行した細谷四方洋(トヨタ)。予選ポールポジションの北野(日産)はエンジントラブルでリタイアした。
日本初の本格的なレーシングカーとなったプリンスR380は、性能面ではポルシェ906に劣っていたが、チームプレーや給油を含むピットワーク、それに豊富な練習量で補い、ワークスとプライベーターの総合力の差が結果に表れた。この時すでにプリンス自動車は日産自動車に吸収合併されることが決まっており、プリンスとしての最後の大舞台を勝利で締めくくった。下は懐かしいプリンスのマーク。

https://minkara.carview.co.jp/userid/1054261/blog/38603719/
前回の第2回日本GPで確執のあった生沢と砂子だが、この第3回GPで生沢はマシンの不調もあり首位の砂子を逃がすためのブロック役という、地味なチームプレイに徹した。このことについて砂子は『~私は表彰台の真ん中で幸せを噛みしめた。そしてチームプレーに徹し、ブロック役という、言わば憎まれ役に回ってくれた生沢氏にも感謝した。』と語っている。(引用①)
2.勝敗の分かれ目
上記のように、勝敗を決したのはレース途中の20ℓの給油時間であった。ここでプリンス陣営の開発した秘密兵器?“重力式スピード給油装置”について補足説明すると『このレースのレギュレーションでは、2ℓクラスのマシーンの場合、燃料タンクの容量が100ℓに制限されたため、給油を行わずに完走するには3.6km/ℓ以上の燃費が要求される計算になる。R380の燃費は、2分04秒台で約3km/ℓ、12~13秒台まで落とせば給油せずに完走できる見込みはあったが、ポルシェ906という強敵の存在を考えるととてもここまでは落せず、結局レース途中に燃料を補給することに決め、給油時間を短縮する方法が検討された。
レギュレーションではまた、ポンプ類による燃料の圧送を禁止していた。そこでプリンスの技術陣は、ピットの天井近くの高い位置にタンクを配置し、そこから太いホースを通じてマシーンのタンクに燃料を注入する、いわゆる重力式の給油装置を製作し、さらに給油の練習を重ねるなどして、結果的にこの周到な準備がレースで大いに物をいうことになったのである。』(引用②)非常に泥臭い戦術だが、費用対効果は大きかった!

https://www.chubu-jihan.com/subaru/news_list.php?page=contents&id=314&block=2
ちなみに『この作戦はトップシークレットで、サーキットでは練習せずに荻窪工場内でこっそり行われていた。なんと私(注;生沢とともにプリンスのワークスドライバーのエース格だった砂子儀一)がこの給油装置を知ったのは日本グランプリ決勝当日のドライバーミーティングの時というぐらい、極秘作戦だった』(引用①)そうだ。
3.プリンス陣営の“秘策”(ただし未遂に終わる)
プリンス陣営はこれとは別に、対ポルシェ優勝阻止で大胆不敵な作戦も考えていた。以下③より引用。
『「何としてもポルシェ906を購入せよ」
プリンスR380プロジェクトの一員だった武井道男にあまり気乗りしない命が伝えられたのは1966年の春のことだった。5月に迫った第3回日本グランプリに向け、万全の体制を整えていたプリンスチームにとって、ポルシェ906参戦のニュースは悪夢以外の何物でもない。かつてスカイラインGTのデビューウィンを904に阻止され、ポルシェの底力を思い知らされた記憶はトラウマとなって疼いているのである。(中略)三和自動車経由で906を注文したのは滝進太郎。カレラ6こそはプライベーターがワークスに一泡吹かせる秘密兵器にほかならない。(下は906に乗る滝進太郎)

https://octane.jp/articles/detail/2182
「それをプリンスが買って、レースに出走させないというのだから無茶な話ですよ。ポルシェの知り合いに訊いてみましたが、結局、時間切れで906はタキレーシングの手に渡ることになりました。」(武井)』(下の写真はポルシェ906がライバルとして意識した、フェラーリ ディーノ206(2ℓのV6。世界基準では当然ながらライバルはR380ではなくフェラーリだった。)

http://www.vistanet.co.jp/museum/f206s.html
これはなかなか、ウルトラC級の作戦だ!目的は出場阻止と同時に、その後のポルシェ製レーシングカーの基礎を築いた傑作、906の調査もあっただろう。下の写真はフェルディナント・ポルシェとふたりの孫。右が若き日に906をデザインし先ごろ亡くなったフェルディナント・ピエヒ。

https://clicccar.com/2019/09/12/910949/
ちなみに904に比べて906で大きく進化したのは空力特性で、以下③より引用
『906のカウルデザインにはピエヒによってK理論が採用されています。これは高さと長さの比が1:6のときにもっとも空気抵抗が小さいという理論で、飛行機の設計に用いられていたものです。906はK理論を最初に採用したレーシングカーで、それまでいかに空気抵抗を小さくするかだけに注意が向けられていたのを、ダウンフォースによる操縦安定性を加味した意味で画期的といえるでしょうね』(前記の武井氏)
話は脱線して、ここからは余談(私見)になるが、60年代の日本グランプリについて、第1回と第2回GPでトヨタ自販が仕掛けた(主に)対プリンスつぶしの作戦があまりに鮮烈かつ効果抜群だったので、“トヨタはプリンス(ニッサン)陣営に比べて裏で汚い手を使う”という風評があるが、その後のGPの経過をたどれば、自分は実際のところ、五十歩百歩だったと思う(個人の見解です)。
正確に記せば、第1、2回GPについては確かにトヨタ自販はそう(汚い手を使った)だったが、トヨタのレース分野の担当が自販からトヨタ自工主導に移った第3回GP以降について言えば、立場が逆転したと思う。68年GP(注;68年GPから開催数から年度表記に変わった)の3ℓトヨタ7に対抗するため、5.5ℓシヴォレーエンジンを搭載したニッサンR381シヴォレーや、69年GPの5ℓトヨタ7に対抗するため+1000ccの余裕(まるでサニーがカローラに販売面で+100ccの差で劣勢に立たされた、意趣返しのように)を持たせた6ℓR382など、確かにルール違反ではないが、T対Nのガチンコ勝負を期待していたファン目線からすれば、ニッサン(旧プリンス主導)陣営の“だまし討ち”的な、手段を選ばず勝ちに行く姿勢の方に余裕の無さというか、あさましさを感じた。(下はニッサンR381シヴォレー)

https://mjlab.ko-co.jp/e161171.html
まったくの偏見で言えば、第2回GPのいきなりのポルシェ904登場などは、まるで推理小説みたいな知的なゲーム感覚が感じられるが、R381やR382については、シテヤラレタというよりも、むしろ軍隊的な奇襲作戦のように感じてしまう。櫻井は68年GPのR381について、苦し気に『逃げるわけにはいかない』からと弁明していたようだが(引用⑤)、いくら5ℓV12の内製GRX-1エンジンが間に合わないからといっても、なにか他に策は考えられなかったのだろうか。
そこで自分なりに代替案をだせば?(後出しジャンケンみたいなイー加減な話ですが!)たとえばR380(68年GP向けなのでR381世代のバージョン)と同時代に、本場の世界スポーツカー選手権でポルシェ910と同じ2ℓクラスで戦ったアルファロメオのティーポ33がある。当初2000ccバージョン(ちなみにV8)でデビューしたが、後に2500ccバージョンも追加した。下の写真の車もそうだ。

https://www.girardo.com/available/1968-alfa-romeo-tipo-33-2-daytona_0/
さらにその後3ℓバージョンに進化し、王者ポルシェ908の牙城まで迫るのだが、(下の写真はそのtipo33/3.1971年のメイクス選手権ではブランズハッチ、タルガフローリオ、ワトキンスグレンと3勝を挙げ、他にも2位2回、3位3回と安定した強さを見せ、ポルシェに次ぐシリーズ2位の座に就いた。)

https://www.webcartop.jp/2017/06/121898/3
R380も2.5ℓバージョンでも作り(5ℓV12の片割れだと考えれば、そんなに難しくはなかったはずだとド素人判断では思うのだが?まして先行開発だと思えば無駄にもならず??…)、3ℓのトヨタ7に対抗すれば、トヨタとニッサンのドライバーの腕の差(言うまでもなく日産勢が圧倒的に有利だった)+3ℓトヨタ7の出来の悪さを考えれば十分良い勝負になったと思うのだが。
68年日本GPバージョンのR381は例えていうならば、中島飛行機製の機体に、アメリカのP&W製エンジン(誉(中島飛行機)の技術的な流れからすればカーチス・ライト社になろうがエンジンの製造をやめてしまったので)でも積んだかのようで、“エンジンこそ命”だったプリンスからすれば“魂”を譲り渡した抜け殻のようだ。それにトヨタ7より500cc少ない排気量で打ち破ってこそ、うたい文句の“技術のニッサン(プリンス)”を証明できたはずだ。これではトヨタ陣営目線で言えば、第2回GPでポルシェ904の登場に思わず櫻井が叫んだ“あんなことが許されるなら技術の競争など無意味になってしまう。やることが汚いぞ!”に他ならないと思うのだが。(飛び道具的な二分割ウィングがパタパタと動くことで視覚的に騙されてしまう?)

https://a248.e.akamai.net/autoc-one.jp/image/images/1580369/034_o.jpg
繰り返し引用される逸話として、トヨタのモータースポーツ史の語り部でもある細谷四方洋が、当時の豊田英二社長に「トヨタもベンツとかのエンジン買って搭載しますか」と軽く言ったところ「トヨタがレースを行うのは技術の開発と蓄積を行うのが目的。将来はガラスとタイヤを除きすべての部品を自前で作る」とビシッと返されたという有名な話があるが、ニッサン陣営(の特に旧プリンス系)は二の句が継げない言葉だろう。ただ“櫻井一家”にも苦しい事情があったようだ。以下はR382の時の話だが、⑩より引用。
『~予選では三車(注;R382と5ℓトヨタ7とポルシェ917(4.5ℓ))とも横並びで、勝者はわからないといわれた。だが、日産の川又克二社長からは、二位はない、絶対に優勝しろ、といわれていたから、勝つしか道は残されていなかったのである。そこで櫻井たちは何度も対応策を協議した。
みんな気が気でなかったが、櫻井は同僚や部下たちにも知らせず、用意周到に対応策を講じていた。考えた作戦は、R382のエンジン排気量を引き上げ、パワーで押し切ることだ。』
余談になるが自動車レースは当時は今以上に、勝負の結果が販売に結びついたため、経営トップからのプレッシャーはどこの国でも同じようだった。フェラーリの買収話が破談となり、自社開発で巨費を投じてル・マン24時間レースに挑戦したものの2年連続で惨敗したフォード帝国の最高経営責任者、ヘンリー・フォード2世が、部下たちに投じたメッセージもなかなか強烈だった。(以下引用⑫)
『1965年の夏の終わり、ヘンリー2世は各部署のトップに1枚のカードを送った。
彼らは、初めてそのカードを見たときの衝撃を忘れない。
カードにはル・マンのステッカーが貼られ、短いメッセージが添えられていた。
「勝ったほうが身のためだ」
ヘンリー・フォード2世 』
このメッセージが功を奏したのかわからぬが、フォードは翌1966年から4年連続でル・マンを制することになる。(下はヘンリー・フォード2世(ヘンリー・フォードの孫、エドゼル・フォードの息子。))

話を戻し、このあたりのお家の事情と、宗旨替えせざるを得なかった櫻井の真意(の推測)も含め、R381以降とトヨタ7、そして両陣営の“幻のCAN-AM参戦計画”も合わせてこの記事の2つ後(たぶん?)の、“北野元編”でより詳しく触れる予定だ。以上、私見だらけの余談でした。
4.プリンス(ニッサン)R38×シリーズの“生みの親”
今回の記事の一連のテーマは、チームやマシンが主役ではなく、あくまで “ドライバー目線”でレースを語ることだが、この第3回日本GPに関してだけは、ドライバーよりも主役はやはり、打倒ポルシェ904を目標に国産初の本格的なレーシングカーとして登場し、ワークスの強みがあったにせよ、昨年の雪辱を果たし見事優勝したプリンスR380そのものであろう。

https://www.imgrum.pw/tag/princer380a1
当初のターゲットは第2回GPを制したポルシェ904であったが、日本GPが1年延期となり、その間に出てきた後継機種のポルシェ906との競合となってしまったため、906との性能比較では劣勢だったが、日本人がゼロから作り上げた、本格的な国産レーシングカー1号車としてみれば、そのプロフェッショナルな出来栄えは、同時期のホンダF1マシンのRA271/RA272(画像は64年のRA271、wikiより)とともに、高く評価されてしかるべきだと思う。

これは私見だが、1970年に日本GPが中止となるまでの、プリンス/ニッサン、トヨタが日本GPを舞台にもっとも激しく激突し戦った、あの時代の数々の国産レーシングカーのなかでも、第3回日本GPに勝利した初代プリンスR380こそ、もっとも意義のあるクルマ(その意味での名車。ただし国内で戦ったマシンという限定付きで。限定ナシとなればやはり、1965年のF1シーズン最終戦のメキシコGPで優勝したホンダRA272か。画像はRA272でwikiより)だったと思う。(異論もあると思いますが。)。

少なくとも同じ時点で、トヨタやニッサンでは実現不可能な仕事を成し遂げたと思う。そしてその開発の実務的な取りまとめ役は言うまでもなく、類稀なる情熱で“チーム櫻井(櫻井一家)”を引っ張った櫻井眞一郎で、やはりその功績は大きい。(下は”育ての親”?櫻井眞一郎)

http://since1957.blog130.fc2.com/blog-entry-24.html
このR380については、ほぼ同時に語られる“櫻井眞一郎伝説”とともに、すでに語り尽くされた感もあり、第2回日本GP編が長くなりすぎたこともあったので、第3回日本グランプリは自動車雑誌の記事をベースに、軽~くまとめて終える予定だった。なにせイーカゲン急がないと、本題の“日産三羽烏”のまだ誰にもたどり着いていないので!
ところが、改めていろいろと調べていくうちに、どうも自動車系のメディアはプリンス(ニッサン)R38×伝説の “源流” まで辿らずに語っている気がしてきた。(以下は私見です)
R38×伝説の、本当の立役者は、表の看板役として、マスメディア及びニッサン自身に宣伝のため半ば祭り上げられたようにも感じられる櫻井眞一郎ではなく、やはりどうみても当時プリンス自動車の技術部門の責任者として櫻井に指示して作らせた、中川良一常務本人のように自分には思える。この後から記すが、R380の成り立ちを簡単に記せば、中島飛行機時代のエンジン開発の魂が色濃く宿るDOHC4バルブのレーシングエンジンを、ブラバムの協力を得て製作したシャシーに載せたものと言える(これも私見です)。この件については、この記事の7項で詳しく触れたいが、R38×計画を通じて、プリンス自動車の技術と、そしてエンジン設計者としての自らの力を、日本と世界に向けて示したいというのが、中川の構想ではなかったかと思う(これまた私見です)。(下は”生みの親”?中川良一)

https://minkara.carview.co.jp/userid/1949099/blog/37642366/
それでは話を戻してまずは手始めに、自動車雑誌が語る範囲で、プリンスR380が成功したポイントを自分なりに手短にまとめてみる。例によって参考にした本から引用する形となるが、興味ある方はぜひ、実際に買ってお読みください。
- R380成功のポイント -
5.中島飛行機の“魂”が宿っていた

https://nissangallery.jp/ghq/r380-1_201807/
プリンスでR380の開発がプリンス自工内でスタートしたのは、正式には1964年初夏の役員会だが、実質的には第2回日本GPに惜敗した直後の1964年5月に、打倒ポルシェ904の戦闘モードにすでに入っていた櫻井らの手によって、きわめて迅速に動き始めていた。思い返せば1964年といえば戦後から数えてまだ19年目のことである。プリンス自動車は旧立川飛行機系(機体分野)と、旧中島飛行機系(の原動機部門)を源流としていたが、主流派は原動機部門のように感じられる。中島は戦時中は日本最大級の規模(一説には25万人以上!)を誇り、日本の産業界の叡智の結晶とも言えた。そしてプリンスR380開発の時代には、航空機産業を支えた技術者たちの血流が、まだ脈々とたぎっていた。(下は中島飛行機の“栄”エンジン)

http://stella55.cocolog-nifty.com/blog/2006/10/post_a3d5.html
彼らは、サーキットを疾走する戦闘機のようなレーシングカー作りに、思いの丈をぶつけた。以下、時折トヨタと対比を行いながら見ていきたい。④より引用する。
『~同じ時期につくられたレーシングカーとしては、やはりプリンスR380だけが頭抜けたポテンシャルであった。これは第二回日本グランプリで、スカイライン2000GTがポルシェ904に敗れたことによって、つくられることになったものだった。2000GTを開発した技術者にとって、同じ土俵の上での勝負なら望むところであるのに、ヨーロッパから格上のマシンを急遽取り寄せて、前に立ちはだかったことに対する反発が強かった。よし、それならポルシェ904に負けないマシンをつくってやろうということになった。第一回グランプリでもトヨタにしてやられ、さらに第二回でもトヨタ自販がバックアップして出場したポルシェに苦杯をなめさせられたことが、プリンスの技術者の闘争心を大いに刺激したのである。』(打倒904!櫻井の下で一丸となる)

http://www.sportwagen.fr/guide-porsche-904-carrera-gts.html
引用を続ける。『中島飛行機を前身にもつプリンス自動車は、こうした目標ができれば全社が一丸となって進む会社であった。敵との戦いに性能で勝つことが求められる戦闘機の開発・製造のためにつくられた会社だった中島飛行機は、終戦によって分断され、自動車メーカーとしては富士重工とプリンス自動車に別れることになったが、プリンスには多くの航空技術者がおり、戦時中の技術者魂が脈々と受け継がれていた。終戦から20年近くたった当時、車両開発の首脳陣はそうした技術者によって占められていた。
会社の規模がトヨタやニッサンよりはるかに小さかったにもかかわらず、トヨタやニッサンができなかった本格的なレーシングカーにいちはやく取り組んだのは、生産者の開発と同時に進行させる、いってみれば特命プロジェクトであったからだ。このため、開発の中心となる櫻井眞一郎たちは、二人前の働きをしなくてはならなかった。しかし、戦時中に一刻も早く敵にうち勝つ戦闘機の開発が至上命令であったように、こうした困難にたち向かうことが、真の技術者であるという思いが強かったのであろう。

http://since1957.blog130.fc2.com/blog-category-4.html
自動車メーカーがみずから出場するレースは、サーキットという限定されたところでスピードを競う、戦闘そのものである。技術者を動員した平和時の戦争であるといっていい。プリンスは、それを戦うための組織としては、もっとも適したムードをもっていた。これこそが、プリンス自動車の強みであった。』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:R380_(1966)jpg
戦後、翼を失った旧中島飛行機系の技術者たちが数多く残ったプリンスにとっては、日本グランプリは久々の、血湧き肉躍る、活躍の舞台と映ったのだろう。そして誉エンジンの設計者であった中川良一率いるプリンス技術陣にとって、航空機造りの“魂”が宿っていたのはやはりエンジンにおいてであった。それについては、次項で述べたいがその前にここで、ヒコーキ屋(しかも機体側よりエンジン寄り)でなく生い立ちから自動車屋であったトヨタとの対比をしておく。
日本GPへの対応が、営業戦略上の視点からのトヨタ自販主導から、本来の自工主導に戻ったが、しかし自工側は企業経営の全体の中の位置づけとして距離を置き、冷静に判断していた。以下引用④
『64年のトヨタは乗用車生産台数が18万台を超え、2位のニッサンに1万台以上の差をつけてトップメーカーとなっていた。クラウン、コロナ、パブリカのいずれもが好調で、ベストセラーであるブルーバードに対してコロナは差をつけられていたが、65年にRT40という1500ccの斬新なスタイルであるコロナにモデルチェンジして、ブルーバードをしのぐ売れ行きを示した。(写真はコロナ(RT40)発表会の様子)

https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/text/entering_the_automotive_business/chapter1/section1/item4.html
トヨタは4年サイクルとなるモデルチェンジと、新しいモデルの開発に全力投球していた。新しい工場を建設し、設備投資にも積極的だった。67年にはサニーと大衆クラスで激突することになるカローラを発売し、68年にはコロナの上級車種としてマークⅡが発売される。これらの開発もこのころ佳境に入っていた。(下は初代カローラ)

https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/text/entering_the_automotive_business/chapter1/section3/item1.html
量産車とはなり得ないスポーツカーの開発に人材をさくのは、トヨタのポリシーではなかった。そこで、河野二郎をチーフとするレース部門が主導権をとり、ヤマハの技術を利用することになったのである。』
トヨタにも適任の人材がいなかったわけではない。ただしエンジンではなくシャシーだが。(また設計技術者数はトヨタ全体のキャパに比べ不足気味ではあったようだが。)たとえば戦時中立川飛行機で、試作高高度防空戦闘機“キ94”の設計主務をつとめた長谷川龍雄のような、航空機畑出身のエース級設計者もいた。

http://karen.saiin.net/~buraha/ki-94.html
しかしトヨタは長谷川に、量産車の初代トヨエース、初代クラウンに関わらせたのち、主査(開発責任者)として初代パブリカ、(下の画像はパブリカと、それに影響を与えたと言われるBMW700)

https://www.goo-net.com/magazine/105741.html

https://www.conceptcarz.com/images/BMW/BMW-700-Image-0008-800.jpg
その派生車種のスポーツ800(画像は「トヨタスポーツ800 hashtag on Twitter」より。ちなみに長谷川によれば、日本の量産車で初めて風洞実験を行ったクルマだそうだ。長谷川の作ではもっとも、元飛行機屋の作らしい。)、

初代カローラ等、トヨタの重要車種の開発の重責を担わせたが、レース部門には関与させなかった。

上の画像はシンプルで合理的なデザインが清々しい初代トヨエース。長谷川が主査としてまとめた。https://tanken.com/tricar.html
企業体質の違いが、レースに対する“気合”の差を生んでいたのだろう。
6.中島飛行機のエンジン技術が活かされた
トヨタは手っ取り早い方法として、2輪用レーシングエンジンで実績のあるヤマハとの提携の道を選んだが、プリンスには当時まだ、中島飛行機時代に培ったエンジン技術が温存されていたため、敢然と自社開発の道を選んだ。そのためのポイントと思える点を3点掲げてみる。
6.-1 4バルブDOHCの採用
以下⑤より引用する。
『R380に搭載されたエンジンは2ℓ直列6気筒のGR8である。目標はリッター100馬力。(注;ポルシェ904の180馬力に対して200馬力)いまでは当たり前の4バルブDOHCヘッドだが、ようやくOHCが一般化しつつあった昭和39年という時代を考えれば、その先進性は特筆ものといえるだろう。』以下は②より引用
『動弁方式はDOHC4バルブ、多球形燃焼室と、革新的な点こそないが、当時としては最高レベルのメカニズムが盛り込まれた。』(写真はGR8型エンジン)

https://motorz.jp/race/17695/
今では当たり前のように軽乗用車にも積まれている技術だが、DOHCで気筒あたり4バルブエンジンは当時、レーシングカーでもごく少なかった。
下の写真はR380と同様、旧中島飛行機系エンジン技術も宿っていた(番外編その2で記す)、12気筒4バルブエンジン採用のホンダRA271(1964年)のリアビュー(wikiより)

第3回日本GPで、R380の前に立ちはだかったポルシェ906は911系の水平対向6気筒SOHCであった。それでも210馬力は出ていたが。
6.-2 中島飛行機の高い試作、チューニング技術があった
エンジンを含む自社製レーシングカーの開発を成功に導くためには、やはり大元である高度で複雑な構造のエンジンを、机上の設計レベルだけでなく、実際に試作してチューニングを行い、実戦用としての性能を引き出せるか否かにかかってくると思う。そしてR380で何が一番すごかったかと言えば、当時の先端技術を詰め込んだエンジンを、短期間で実際にレーシングカー用としてモノにしてしまった点ではなかったかと思う(私見です)。
以下⑥より引用。
『(GR8の)設計が始まったのは64年9月で、翌年1月に実験部に引き渡された、当時の印象を古平(注;エンジン実験部所属で社員ドライバー)は次のように語る。
「さすがに元・航空機メーカーの技術はすごいと思いましたよ。DOHCを作ると言って、本当に作ってしまったんだから」。』当時の日本の量産車の状況を思えば、まったく同感です。そしてこの離れ技を可能にしたのは、中島飛行機伝来の、軍用機用エンジン製作のために、現場に蓄積されてきた、試作・チューニング技術だったようだ。以下⑦より引用
『R380を操縦した経験のあるドライバーは今でもGR8の性能と信頼性を絶賛する。なぜあの時代、きわめて短時間のうちにそれほど優れたレーシングエンジンを作り上げることができたのだろうか。中村(注;GR8の動弁系の設計を担当した中村哲夫)はこう言い切る。「設計だけでエンジンは速くなりません。DOHCはプリンスが先駆者だったんですが、他のメーカーに先駆けて技術レベルの高いモノを開発できたのは、やはり試作の力だったんだと思います。中島飛行機ゆずりの施策の技術、職人芸ですよ。しかも若い会社だったから、会社に入って2年、3年の若手が好き勝手やっていて開発が速かった。その若さを、軍用機エンジンを作っていたころから現場にあった職人芸が支えた結果なんですよ。」』
引用⑥より、牛島氏(注;GR8のエンジン設計に携わった牛島孝)の証言
『カムシャフトはチェーン駆動ではなく、耐久性に勝るギア駆動にしました。目標の1万回転には届かず、最終的に9000回点ほどで古平 勝君に引き渡したと記憶しています。』
牛島からエンジンを引き継いだ古平はチューニングに必要な多くのパーツをすぐに開発し、図面に「R」の印を押して製造ラインに持ち込んでいる。この判があれば量産車部品の製造ラインを止め、最優先でレース部品を作ってくれたからだ。』
『こうして古平はGR8を最終的に1万2000回転、220馬力以上のエンジンに仕上げている。これは設計した牛島が想定した以上の性能だった。』
ここでまた、トヨタとの対比をおこなえば、R380より後の、1967年春に開発計画がスタートした、トヨタ初の本格的なレーシングカーである、3ℓの初代トヨタ7は、経験がないため冒険を避け手堅く、気筒あたり2バルブのDOHCであったが、その後パワー不足に悩まされることになる。(下の写真は3ℓトヨタ7のレプリカ。トヨタ自身の手で全て破棄されてしまったため現車は1台も存在しないと言われている。)

https://pbs.twimg.com/media/DFUOacXUwAEZdJC.jpg:large
6.-3 直6レイアウト採用。
この時代のレーシングエンジンにおいてもすでに、2ℓ級で直6レイアウトをとる例は少なかった。以下②より。
『気筒配列には、基本構想で述べたように直列6気筒が選ばれた。理由は、高回転まで回せることや振動面で有利などの長所に加えて、それまでG7型で慣れ親しんでおり、そのノウハウが活かせるためであった。初めて本格的なレース用エンジンを手がけることになった榊原は渡欧中、当時はまだ新興のエンジンチューナーであったコスワース・エンジニアリングを訪れた際、直列6気筒のチューニングの難しさを指摘されたが、市販車への将来的なフィードバックも考えて、あえてこのレイアウトでの開発に取り組んだという。』そして『革新的な点こそないが、当時としては最高レベルのメカニズムが盛り込まれた。』
プリンスは1963年6月、高級車グロリアに、戦後日本初の直列6気筒SOHCエンジン、G7型を搭載した“グロリア スーパー6”(下の写真)を追加した。R380を市販車とつながりがあるものとしたかった意図は理解できる。

https://gazoo.com/catalog/maker/PRINCE/GURORIA/196301/990000807/
以下は⑤より
『同じ6気筒ならV型にした方がクランクシャフトが短い分、高回転には有利なはずだが、青地康夫が率いるエンジン開発チームは7ベアリングによって見事に直6の弱点を克服してみせた。
「10000回転以上回しました。そこが飛行機屋で、振動を抑えるベアリングをどこに何個入れるかをずいぶん検討したものです」(櫻井)』
7.R38×計画は、中川良一の描いた “地上の夢” だったのか
ただこの、直6採用について、中川良一が以下のような、非常に気になる?証言を残している。この言葉から、自分なりにさらに“妄想”を広げてみた。(引用⑥)
『~実は1962年に櫻井は技術担当役員である中川良一の鞄持ちという名目でヨーロッパに随行していた。この時、ふたりはF1ベルギーグランプリを観戦しており、(ちなみにこのレースはジム・クラークのF1初勝利だった。マシンは下の写真のロータス25・クライマックスV8)
http://gita.holy.jp/img2/P20170115d.jpg
l

ホテルに戻ると中川は深夜に櫻井の部屋に電話し、「オレが12気筒48バルブのエンジンを作ってやるから、おまえはシャシーを作れ」と熱く語ったという。』
⑧でも同様な、さらに具体的で驚くべき証言があり引用する。『車は二人乗りのGTカーがいいだろう。チュ-ンアップ・エンジンは水冷V型の十二気筒で四弁(48バルブ)がいいかもしれん……。これなら六リッターで千馬力くらいはらくにでるだろう。ロールス・ロイスもダイムラー・ベンツもそうだが、飛行機用エンジンをそのまま搭載するんだから、日本ではおれが一番向いているのは間違いない』
!!! 1969年の6ℓのR382ですら日本GP当時600馬力がやっとだと言われていたので、この時代(1962年)に6ℓで1000馬力を楽に達成するためには誰が考えても当然、ターボチャージャー付が前提だろう。
(まさか中島飛行機時代、ターボチャージャーは”鬼門”だったから、スーパーチャージャーで行く!ということはなかろうが。 下はターボチャージャー付プラット・アンド・ホイットニーR2800エンジンを積んだ、リパブリックP47 サンダーボルト)

https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/718Lgko7ZtL._SL1378_.jpg
(下の写真は、陸軍中島キ-87試作高々度戦闘機。中島製エンジンはターボチャージャー付だったが、タービン自身の耐熱性不足などのため、予定の性能を発揮できず、試作で終わった。)

https://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/nakajima/Ki87Spec.html
そうなると、1962年の時点で早くも、直6のR380からスタートして、6ℓV12、48バルブのR382(1969年)をさらに飛び超して、1970年のニュートヨタ7同様、ターボチャージャー付になると言われていたR383(1970年用)やR384(1971年用)ぐらいまでの構想が、中川の頭の中にはハッキリと描かれていたことになる!(下は、ずらりと並ぶR38シリーズ)

https://scontent-cdt1-1.cdninstagram.com/v/t51.2885-15/e35/42310070_277872192852124_2618826705152415283_n.jpg?_nc_ht=scontent-cdt1-1.cdninstagram.com&se=7&oh=f7a922ebd7e53dd38971ed16ea8f7b50&oe=5E0D14BC&ig_cache_key=MTg4MTk5MjUzODEzNzQ4MTA4OQ%3D%3D.2
我々日本のモータースポーツファンは1970年の夏、日本GPの中止が唐突に決定された(日産の敵前逃亡?私見です)後に公開された、5ℓで800馬力以上と言われたニュートヨタ7ターボに、日本のレーシングカーも遂にここまで来たかという感慨とともに、その完成された、危険な香りのする妖しい美しさに、何か異次元なクルマが舞い降りてきたかのような、不思議な感覚を味わったものだった。(画像はwikiより)

しかしこの話が事実なら(もちろん“捏造”などではなく、事実なんだろうと思うが)、それから8年さかのぼること1962年の時点で、トヨタのさらに上を行く、6ℓ1000馬力の構想を、中川は温めたことになる。驚くほかない。
この大構想の実現のためにはまずベースとなる、直6、2ℓDOHC気筒あたり4バルブのレーシングエンジンをモノにすることが大事だ。それさえモノにできれば、国内レースを制した後にルマン&スポーツカー世界選手権(自動車の耐久選手権)でまずはポルシェと戦いクラス優勝を狙う。あるいは量産義務のないプロトタイプクラス狙いか?ニッサンR380がルマン出場を検討していたことは有名な話だが、下記の octane誌(のweb版)によればプリンスR380時代にすでにルマン出場を目指していたらしい。
https://octane.jp/articles/detail/2163/2/1/1 より以下引用。」
『~実のところプリンスはひそかにルマンを目指していた。そのため、1965年4月から45日間にわたり193馬力にチューンされたS54CR1台と三名のスタッフを欧州に派遣している。クロスフロー化され193馬力のパワーを得たS54をカルネナンバーで欧州を走らせ、なかでも入念にルマンのコースで計時とデータ取りを行なっている。』(下はS54スカイラインGT-Bのノーマル車)

https://meisha.co.jp/wp-content/uploads/2018/05/55ec1b2ca92d6519958efb17228f7614-e1540610222661.jpg
『帰国後、そのデータはR380でルマンに挑戦する際の検討に用いられ、机上計算で最適のギア比などが求められている。後々もプリンスが得意としたコース走行シミュレーションである。そうした検討のさなか、突然おこったのが日産との合併。これによりルマン参戦は叶わぬ夢となった。』
さらに次のステップとして、直6を2基組み合わせる形でV12,48バルブ6ℓの高出力のレーシングエンジンへとつなげていく。当時排気量無制限かつ量産義務規定もなかったGTプロトタイプクラスで、大胆にも打倒フェラーリ!を目指し、国際マニュファクチャラーズ選手権の年間総合優勝と、ルマン24時間制覇だったに違いない。(下はプロトタイプ部門の1966年式の美しいフェラーリP4と、)

http://www.bingosports.co.jp/news/detail_131.html
(その下は1966年、ついにフェラーリを下し、念願のルマン制覇を成し遂げたフォードGT40.この年から69年まで四連覇を成し遂げる。)

https://gazoo.com/article/car_history/170210_1.html
そしてそれを実現させるための秘密兵器が、第二次大戦中、中島飛行機の“誉”でついに果たせなかった、あの“ターボチャージャー”なのだろう。(しかもツインターボの構想だろうか?)
(下は連合艦隊司令長官山本五十六大将搭乗の一式陸上攻撃機の撃墜に成功した、双発ターボチャージャー付エンジン搭載のロッキードP38)

中島飛行機時代に無念にも、“誉”エンジン付きの戦闘機で果たせなかった単座戦闘機における世界頂点の座を、地上を走る戦闘機たるR38×を武器に、モータースポーツの分野で今度こそ世界王座を目指す算段だったのか?(下は中川が中島飛行機時代に設計した誉エンジンを搭載した本土決戦機、陸軍四式戦闘機“疾風”)

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13199671163
ここで脱線というか、一服する。
これからさらに、“誉”(=戦前の中川及び中島飛行機、創業者の中島知久平を語る事になる)とR38×(=戦後の中川及びプリンス自動車とそのモータースポーツ活動を語る事に繋がる)との関係性を深堀しようとしても、元々“誉”自体が賛否両論あるのはご存知の通りで、迷路に嵌るだけのように思える。
それにそもそもこのブログは、犬(ぼんちゃん♡)がメイン+自動車のブログで、飛行機を扱うブログではなくこれ以上手を広げるつもりも毛頭ない。
ただこの記事をまとめていく中で、“誉”とプリンスにマツワルちょっと気になった事を思いついてしまったので、本編とは別に、この頁の終わりに“番外編”をもうけて、軽~く、話を二つばかり記して、中途半端にこの“命題?”を終わらせることにする。当然ながら、独断と偏見に満ちた妄想話になると思うので!陰謀論?に全く興味ない方は無視して、どうか興味のある方のみあくまで“余談”程度としてご覧ください!(下はR382用の、GRX-3エンジン)

https://minkara.carview.co.jp/userid/210141/blog/37384331/
ここで話を戻すが、中川はレーシングカー用エンジンのチューニング技術において、内に秘めた自信があり十分勝算ありと踏んだようだ。⑧より引用
『レース用エンジンのポイントとなるエンジンの吸気効率を上げるとか、クランクシャフトを磨くとか、吸入ポートの設計などでは、かつて「栄」「誉」をともに研究し、つくりあげてきた戸田泰明博士がいる。戦前、アメリカやヨーロッパのエンジンを調べたが、われわれの方が立派なものができていた。結局は戦争でだめになったが、そうしたきめ細かいことをやるのは、世界でもわれわれのグループが一番だ』(下記画像は“古典航空機電脳博物館”さんより、力強く上昇する疾風)

https://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/cl-pln/FR047.html
(下は同じく誉エンジン搭載の、川西 局地戦闘機 紫電改。ハセガワのプラモデルのパッケージ)

http://www.hasegawa-model.co.jp/hp/catalog/st_series/st33/index.html
しかしここでまた、話の腰を折ることになるが、レーシングエンジンの世界ではその後、大きな技術革新があった。フォード・コスワースDFVエンジンの登場(1966年)だ。写真はDFVの透視図。)

https://gazoo.com/article/car_history/150403_1.html
(以下wikiより)F2 用に開発した直4 ,1.6ℓ の「 FVA(Four Valve type A)」エンジンを結合してF1用に V8,3ℓ 化したものを「Double Four Valve」の頭文字を取り「DFV」としたのだが、『ダックワースはマルチバルブの考察を更に進め、バルブ挟み角の小さいペントルーフ型燃焼室による高圧縮化・急速燃焼と、シリンダー内の縦の渦流(タンブル流)を利用した充填効率の向上により、レーシングエンジンで高出力と低燃費を両立させる事に初めて成功、これを DFV に適用した。』
(写真はマクラーレンM23に搭載されたDFVエンジン。Wikiより)

DFVエンジンの登場により、レーシングエンジンは車両全体のパッケージングの一部として、軽量コンパクトかつ高出力、低燃費であるという、一段ハイレベルなスペックが求められるようになった。そしてレーシングカーは次第に、空力特性が重要視されるようになっていく。(下はロータス72フォード コスワースDFV)

https://www.webcg.net/articles/gallery/35456
当初の中川の頭の中にあった、いかにもエンジン設計者らしい思想の、 “はじめにエンジンありき” の、いわばエンジンパワーでぶっちぎろうという思想は、当時としてはハイスペックだがオーソドックスな(大きくなる)直6の4バルブDOHCのGR8エンジン搭載のR380が、ポルシェ904~910相手に戦った1960年代の2ℓクラスのレーシングカーの世界では、まだ何とかギリギリ通用したレイアウトだった。(下はニッサンR380-Ⅱと、)

https://pbs.twimg.com/media/DTr-ID1VwAAAkXV.jpg
(ポルシェ910)

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/25/06739ef91f21a41421cc2c84d66783e9.jpg
限界的な小型化設計だったがゆえに信頼性不足に悩まされた“誉”エンジンの反動もあってか、GR8エンジンは戦中のアメリカの航空機エンジンみたいに、無理な小型化は行われず設計されており、事実R380のエンジンは高い信頼性を誇り、ニッサン/プリンスのワークスレーサーたちの信頼も厚かった。だがその半面、大きさと重量面ではどうしても、大きなハンディキャップを背負うこととなった。(画像はこれも“古典航空機電脳博物館”さんよりコピーさせていただいた。有名な“我ニ追イツクグラマン無シ”の電文で知られる、誉エンジン搭載の艦上偵察機「彩雲」)

https://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/cl-pln/saiun.html
しかし1970年代に入るとすぐに、軽量コンパクトな直4エンジンのコスワースやBMWを用いたレーシングカーが出現、席巻していった。(画像はのちに日本のGCシリーズでも大活躍したシェブロンB19)

https://www.oldracingcars.com/chevron/b19/
その直6の延長線上の設計で、中川の構想した直6×2のV12、48バルブのGRXシリーズを載せたレーシングカーでは、世界基準ではすでにその大きさ故に滅びた恐竜のごとく、時代遅れになりつつあった(のだと思う。まったくの私見です)。(画像はR382wikiより)

下は、手前がプリンスR380用に開発されたGR8エンジン。奥がGRX-3。

https://web.motormagazine.co.jp/_ct/17194286
だがそれも、中川の元々の構想自体が(少なくとも)1962年という、あまりに早すぎたからなのだろう。
ちなみにここでGRX-3エンジンについて、トヨタ(+ヤマハ)との対比をおこなえば、これも私見だが、プリンス/ニッサン勢に絶えず遅れをとり劣勢だったトヨタ陣営は、5ℓトヨタ7のエンジン設計で、当時最新トレンドであったコスワースDFVをお手本とした軽量コンパクトでハイパワーなエンジンをものにした。これに対して冒険せずに、R380世代の古典的な設計のままで留まったニッサン(実質は旧プリンス)のレーシングエンジンとの比較で、技術レベルはついに、(少なくともコンセプト上は)逆転したと思う。投下した資金量も、トヨタの方が明らかに多かったと思うが、すでに中島飛行機時代の遺産を使い果たしたこともあり、プリンス/ニッサンは進化の幅が少なかったと思う。(全くの私見です。下は5ℓトヨタ7のエンジン)

http://f1-web-gallery.sakura.ne.jp/cn21/pg104.html
ただ実際のレースとなれば、ドライバーの腕の差(日産側が圧倒的に有利)もあるのでどっちに転ぶかわからないが。(下の写真は1969年の日本CAN-AMに鮒子田寛のドライブで出場したマクラーレン・トヨタ。マクラーレンの市販シャシー(M12)にトヨタ7の5ℓエンジン搭載。当時の内製シャシーとの出来の差故に参考とし、翌年のターボ世代のニュートヨタ7に影響を与えたと言われる。鮒子田はトヨタ製シャシー剛性の低さ、ステアリングの重さを指摘し、「マクラーレンのシャシーだったら69年の日本GPで勝てたと思うと述べており、エンジンの差ではなかったと指摘していた。細谷四方洋も「正直に言うと、5リッターモデル(注;トヨタ内製シャシーの)よりも走りやすかったですね(笑)。非常に完成されたマシーンという印象を受けました」と語っている(wikiより)。)
マクラーレンで”学習”し、新たにエース級の設計者(田中堯)を投入し、過去膨大な資金を投じてきた成果がようやく出始めた結果、70年時点ではシャシー性能も追いつき追い越せの勢いだったように思う。(私見です。)

https://web.motormagazine.co.jp/_ct/17085805
以上、私見と言うか、まったくの妄想でした。R381以降については、日産3羽ガラスの北野元の記事であらためて詳しく触れる予定です。
以下、R380のエンジン以外の部分は手短に片づけて終わりにしたい!
8.エンジン以外は即戦力目指し、実戦的なアプローチをとった
エンジンに対しては、プリンス技術陣の“魂”であったため妥協なしで、あくまで“内製”にこだわったが、そのエンジンを載せる、マシン全体の構築に関しては即戦力を目指し、こだわりを捨てて、現実路線に徹して主に海外からの外部調達を頼った。上記、7項の中川の言葉の続きとして、⑥から引用する。
『~こうした背景もあってプリンスはイギリスのコンストラクターに関する知識とつてを持っていた。そのため櫻井がフレームの購入を要請した時、上層部はすぐにブラバムとロータスを推薦している。』
この“上層部”とはやはり、開発部門トップの中川のことだろう。エンジンさえ自力で作ることができれば、シャシーはイギリス製の定評あるレーシングカー専業メーカー(ブラバムかロータス)から調達し、(下の写真はブラバムBT8)

http://stat.ameba.jp/user_images/ee/77/10069789879.jpg
トランスミッション、ブレーキ等の主要部品類もレーシングカー用として実績のあるメーカー品を調達し組付けて、ボディはこれもフェラーリ(R380の場合250LMあたりを参考にした?ちなみに250LMは今では美術品としてきわめて高価で2015年8月に1760万ドル(当時約21.6億円)で落札されたとのこと)

https://www.autocar.jp/news/2018/09/02/302629/5/
や宿敵!ポルシェ(同じくポルシェ904<似ているがR380の写真ではない!>)

http://car.bau-haus.com/?p=1789
あたりを見よう見まねで形を作り(失礼(私見です)!東大の宇宙航空研究所の風洞も用いられたようだが、ポルシェ906のように何か理論的な裏付けがあって形づくられたわけではなさそう?(これも私見です))、あとは櫻井の剛腕で全体を取り纏められるのでなんとかなると目論んだのだろう(これまた私見です)。こうして国産初の、自社製レーシングカーが1台完成する。中川らがそのための事前のリサーチと調達準備を行っていたからこそ、迅速に動けたのだろう。以下②より
『R380の開発がスタートする直前の64年6月、田中設計部長はエンジン設計課の課長であった榊原雄二とヨーロッパへ飛んだ。出張の目的は、キャブレターやタイヤなど部品の調達と、レース関連企業を訪れて当時の最新のレース技術を視察することだった。イギリスではコンストラクター(ロータス/ブラバム)、エンジンチューナー(コスワース)、部品メーカー(ダンロップ/ガーリング/ボルグ・ワーナー)などを訪問して回り、イタリアではボローニャにあるウェバーの本社を訪れて、スカイラインGTの生産に必要なキャブレターを買い付けた。』実に手回しがいい。
以下⑤より引用。
『レーシングマシンの開発において、コントラクターの実力の程はいかに適切な部品を集められるかで判断される。R380の場合、トランスミッションはヒューランド、ブレーキはガーリング、クラッチはボルグ&ベック、ダンパーはアームストロングを使用しているが、いずれも世界の一級品と呼ばれる逸品揃いで、当時のプリンス技術陣の選択眼と交渉能力には驚かされる。』
そして上記6.2で紹介した、エンジン分野における試作能力の高さは、エンジン以外の分野の特殊部品の製作や組付けや、改良においても、中島飛行機時代から引き継いだ試作部門の力が威力を発揮したようだ。⑤より引用『「プリンスは中島、立川飛行機で育った腕利きの作り手が揃っていましたから、スペースフレーム制作にしても、歪の出ない溶接の順序といった職人技はどこにも負けなかった』と櫻井は語る。』
ここでトヨタとの対比をすれば、第3回日本GP(1966年)の2年後の、’68日本GP用にトヨタ初の本格的なレーシングカーとして送り出された3ℓトヨタ7は、ヤマハとの共同開発であったが、試作にあたり経験不足に悩まされた。以下⑨より引用
『415S(注;3ℓトヨタ7の開発コード)の1号機は67年12月26日に完成しているが、磐田工場(注;ヤマハの工場)でわずかな距離の試運転を受けただけで深刻な問題が発生した。ブラインドハンドリベットで留めたアルミパネルが、振動で緩んだり抜け落ちたりしたため、フレーム自体の強度が著しく低下したのである。このリベットはトヨタがヤマハに持ち込んで来たものであったが、使用には幾分の慣れを必要とし扱いを間違えるとそのような問題の起こる代物であった。(下の画像は3ℓトヨタ7)

https://toyotagazooracing.com/archive/ms/jp/F1archive/experience/features/2004/toyota7/index.html
多くの細かい構造物で形成されているこのフレームで、これらを繋ぐリベットに問題があるとなれば、その影響はボディ全体におよび深刻な影響となる。リベットの打ち直しやサイズアップ、さらには接着剤の応用など、ありとあらゆる方法で手直しをしたものの、この問題の抜本的な解決にはいたらなかった。』
そしてブラバムでは、足回り研究用としてF2用のBT10を購入した。(写真はBT10)

https://www.flickr.com/photos/tim0854/43086324932
話をR380に戻す。②によると、ブラバム訪問時に、レーシング・スポーツカーのBT8Aも間近で見る機会があったそうだが、『そして帰国後、R380の開発が本格的にスタートすると、前例が全くない車種だけに、ヨーロッパの似たようなマシーンを参考にしようということからこのBT8Aが輸入され、結局そのスペースフレームがR380の1号車のフレームのベースとして使用されることになる。』そしてここで、R380開発の指揮を執った櫻井が、先進的な技術で知られたロータスでなく、手堅い設計思想のブラバムを選択したことが、エンジンの開発の成功とともに、R380を成功に導く大きな要因となったと思う。そこで次に、櫻井のレーシングカー開発における思想からみてみたい。
9.櫻井の堅実な設計思想と、ブラバムの協力
④より引用『プリンスの場合は、ポルシェ904に負けない性能のクルマをつくる、という明確な目標を立ててスタートした。中心となって設計を進めた櫻井眞一郎には強い信念があった。パワーウェイトレシオをよくすることはおろそかにはできないが、エンジンのパワーを支えるシャシー性能がすぐれていることが最も重要であるというものだ。シャシー性能よりエンジンパワーの方が上回っていると、マシンをコントロールすることが難しくなる。マシンの安全性を確保するためには、シャシー性能が勝っているマシンにしなければならないというのが、櫻井のクルマづくりの原点であった。
当時生産車はモノコックフレームが主流になりつつあり、これを応用すれば軽量化が図れるが、それよりも信頼性が高いパイプフレームを採用することにした。このほうがサスペンションアームをしっかりと固定できるし、フレームの補強が容易である。モノコック構造のものは、まだどこに応力が集中するかわからないところがあった。最初のR380は、たまたま研究用に購入したブラバム製の2シーターカー用スペースフレームを流用して作られた。』
以下②から引用するが、櫻井が、当時戦績では優勢であったロータスでなく、ブラバムを選んだ理由として『ロータスはフレームを構成するパイプの本数が少なく、ドライバーに危険に思え、冷たい感じを受けた。一方ブラバムはパイプが多く、ドライバーの安全を優先した、人間重視の感じがしたから』と語ったそうだ。(写真はブラバムBT8のライバルのロータス23)

https://en.wikipedia.org/wiki/Lotus_23
⑥からも引用『「私は優れたエンジニアでありながら、冷たい性格のコーリン・チャップマン(ロータスのオーナー)ではなく、ロン・トーラナックのいるブラバムを選びました。」チャップマンが冷たい男だというのは事実で、当時F1に参戦していたホンダの中村良夫は、契約ドライバーが事故死しても平然としている彼の冷たさに怒りを覚えたという。
櫻井が選んだブラバムのロン・トーラナックは、実直な技術者でプリンスの要請を快く受け入れている。そして参戦するレースやエンジンの排気量などを尋ね、ブラバムBT8Aの鋼管フレームを推奨した。』(写真はブラバムBT8)

https://en.wheelsage.org/brabham/bt8/pictures/v0fqaw/
さらに驚くべきことに、御大ジャック・ブラバムがR380のセッティングに協力し、何度も来日したようなのだ!!下記の動画、「1966 プリンス R380 櫻井真一郎が語る【Best MOTORing】」の4分40~50秒あたりです。
https://www.youtube.com/watch?v=Y9R8aXFLycI
(下の写真はジャック・ブラバムと設計者のロン・トーラナック)

https://i.pinimg.com/736x/40/f4/60/40f4607b46fb8f2679f11cd78ea69f17.jpg
動画のナレーションをそのまま引用すれば、『~ちなみに、プリンスとブラバムの親交は深く、ジャック・ブラバムは村山テストコースでプリンスのマシンを何度も試乗したという。』
言うまでもなくジャック・ブラバムはF1世界王座に3度輝いた名手中の名手だ。ブラバム(MRD)とはただ単に、シャシーを売り買いしただけでなく、R380の評価と調整に、世界最高レベルでのアドバイス付きだったわけで、ある時期のブラバムとプリンスはパートナーの立場に近かった?R380の国産プロトタイプレーシングカーとしての成功の影に、ブラバムの強力なサポートがあったことは間違いなさそうだ。この時点で、プリンスR380の、少なくともある一定レベル以上の成功は約束されたようなものだ(私見です)。(下は1959,60年と、二年連続でF1を制した、ミッドシップのクーパーT53)

http://livedoor.blogimg.jp/mkz/imgs/d/b/dbde53ee.jpg
その後同郷出身のロン・トーラナックと共に、シャシーコンストラクターのモーターレーシング・ディベロップメント (MRD) を設立。1966(ジャック・ブラバム)、1967(デニス・ハルム)と2年年連続F1王座に輝いた。(下の写真はデニス・ハルム(マシンの中)とジャック・ブラバム)

http://blog.livedoor.jp/markzu/archives/51870978.html
なおこの時期のブラバム(ジャック・ブラバムと設計者のロン・トーラナック)は、商売を通じて日本とのつながりが深くなっていた。(以下は主にwikiより)とりわけホンダとの関係は強く、1966年のF2ではホンダ製エンジンを搭載したマシンで、ジャック・ブラバム、デニス・ハルムの2人の手により開幕11連勝を達成。最終戦ではジャック・ブラバムが2位となり惜しくもシーズン全勝は逃すものの、圧倒的な強さを見せた。(写真は1966年のF2を席巻したブラバム・ホンダ BT18)

https://www.honda.co.jp/sou50/Hworld/Hall/4rrace/345.html
またこの頃、鈴鹿サーキットがフォーミュラカーを日本に普及させようと、ブラバム製フォーミュラマシンを大量購入した。このマシンは後にプライベーターに放出され、日本のフォーミュラレース振興に貢献する。ホンダ関係にも用事があったハズで、それもあって来日していたのだろうか。
ホンダのF1を主導していたのは中村良夫で、ロータスとの間では大きな軋轢があった。以下wikiより。
『(F1に)当初ホンダはエンジンサプライヤーとして参戦する予定だったのである。フェラーリとBRMは自社製エンジンを使っているため除外、ブラバムとロータスとクーパーにしぼられそのうちのブラバムにほぼ内定。ブラバムのシャシーに載せることを前提にエンジンの熟成が進められた。
1963年秋、ロータスのコーリン・チャップマンが急きょ来日、ホンダ本社に訪れこう言った。「2台走らせるロータス・25のうち1台はクライマックスエンジンを載せるが、もう1台にホンダを載せたい。場合によってはジム・クラークにドライブさせてもいい」と。(下の写真はコーリン・チャップマンを載せてビクトリーランするジム・クラークのロータス 25)

https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/userstorage/000/035/201/039/1ee5126c62.jpg?ct=a84b84b29280
これを機にコンストラクターはブラバムからロータスに変更され、エンジン開発もロータス・25にあわせて行われた。ところが1964年2月、チャップマンから電報が届いた。「2台ともクライマックスエンジンでやる。ホンダのエンジンは使えなくなった。あしからず」というものだった。となると自社でシャシーを造るしか道はなくフルコンストラクターとして参戦することになった。』コーリン・チャップマンは、ギリギリのタイミングまでひっぱったうえでキャンセルし、他のチームがホンダエンジンを使えないように画策した。ホンダは急遽、シャシーを内製化して参戦することとなった。(下はF1デビュー戦の1964年ドイツGPのホンダRA271(ドライバーはロニー・バックナム))

https://ehonkuruma.blog.fc2.com/blog-entry-446.html
中村良夫は1940年4月に東京帝国大学工学部航空学科(原動機專修)卒業後、中島飛行機に入社したが、その時の上司が、中川良一だったという。仮に二人は連絡を取り合ったならば、中村の助言がブラバムの選択に影響を与えた可能性があった??(証拠のない、全くの憶測です。)

https://selfieus.com/tag/%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B9%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A%E5%B7%A5%E6%A5%AD
10.GR8エンジンの源流は、コベントリークライマックスエンジンにあったのか?(10/25追記)
この⑭の記事を書き終えて、今は次の⑮の記事を書いている途中だが、GT-R用のS20エンジンについての調べ物をしているなかで、手持ちの雑誌で新しい情報に出くわした。書き上げたあとから気付くことをいちいち追記していったらキリが無くなるので普段はやらないけれど、この情報だけは追記しておく。情報元は一時復刊したが、すぐにまた休刊となってしまったモーターファン(イラストレーテッドでない方の、2016.10号)の、「<再録>MFロード・テスト 日産スカイライン2000GT-R」という記事の中の一部分だ(引用⑪とする)。ちなみにこの記事の構成は、1969年6月号のスカイラインGT-Rのロード・テスト記事(大学の先生方や日産の設計者たち;田中次郎、岡本和理、榊原雄二、櫻井眞一郎各氏も出席して、テスト結果を踏まえた座談会を行っている)を、50年近くあとの現代の技術者の目で、こちらも座談会形式であらためて検証する、という内容だ。
見逃せない内容だったため、その一部を引用させていただく。興味のある方はぜひ本書で確認ください。
『 S20型エンジン
エンジン設計者 第2回GPで前月の64年6月に、座談も行っている田中次郎さんらがヨーロッパに視察に出かけ、そのときの印象を踏まえてR380の開発に先立ちブラバムBT8A(2座オープン・グループ6カー)を輸入、R380の1号車(R380-1)はそのシャシーナンバーSC-9-64のチューブラーフレームそのものを改造して使ったということなんですが。
シャシー設計者 サスもですか。
エンジン設計者 アームは新製したようですが形状はそのまま、アルミホイールまで流用したようです。海外のサイトでは「R380はBT8AのRebodied」と断じているものさえありました。「プリンス/ニッサン-R380/R381/R382/R383」(檜垣和夫著 二玄社刊注;この記事でも②として引用している)という本の34ページには「ギヤボックス(ヒューランドHD5型)もBT8Aのものを流用した可能性が高い」と書いてあります。ということになるとエンジンはどうなんだろうと。海外の研究サイトによるとプリンスが購入したSC-9-64に搭載されていたのは2ℓのコベントリークライマックス。おそらくFPF(1957年設計のレーシングエンジン、直4・2弁DOHC、1.5~2.8ℓ)だろうということで、断面図や外観図を探して見てみたら、第一印象としてR380用に設計されたGR8型とかなり似ているなと。滅多なことは言えませんが、純粋な私見では、「やったな」って感じでした。』
文中のエンジン設計者氏は、この事実を”発見”したとき思わず”ビンゴ!”って叫んだことでしょう。上記でも引用されていた本の②でも『彼(注;GR8エンジンの設計を担当した榊原雄二)は次にボア・ストロークの検討に取りかかり、当時世界有数のレーシング・エンジンのメーカーであったコヴェントリー・クライマックスが行った実験において、ストローク/ボア比(以下S/B比)の最適値が0.76であるという報告を参考にし、最終的に82.0×63.0mm(総排気量1996cc、S/B比は0.768)と決定した。』という記述もある。手持ちのグロリア用G7型6気筒を、レース用エンジンに仕立て直すのが難しいと分かった時、やはりベースとなるエンジンが必要だったのだろう。(上の写真は、Coventry climax 2.5ltr FPF エンジンで、下はプリンスR380用GR8型エンジン)

(写真はhttps://crosthwaiteandgardiner.com/index.phpより)

(写真はhttps://nissangallery.jp/wp-content/uploads/2016/01/20151107_ghq_304-640x480.jpgより) 引用を続ける。
『(中略)GR8とFPFが似ていると言ったのは設計の基本ポイントです。直4→直6、2弁→4弁と形式もボアスト比もまったく違うんですが、例えばヘッドはどちらも吸排気カム室をヘッドと左右別体の2階建てにしてバルブ挟角と直角にマウント、左右カムカバーは別々です。カム駆動はギヤですが、その特徴的な配列の設計も非常に似ています。
――うーん。
エンジン設計者 座談の中にベアリングキャップの話が出てきますが、メインベアリングキャップを下からだけでなく横からもボルトで締結するサイドボルト式を併用、これもFPFと同じ形式です。あとエンジン前方にウォーターポンプを配置して前方から冷却水を入れて排気側の側面に抜く設計、ドライサンプのオイルパンにぶら下げたスカベンジポンプをワイドスパンの脚で支える設計なんかもそっくりです。
シャシー設計者 まあサスとフレームを改造して使ったくらいですからねえ。
エンジン設計者 第2回GPの直後の64年初夏に設計を始めて65年4月には初号機が完成、しかもG7型とはほとんど共通点がない。
自動車設計者 そういう指摘はこれまでどこかで出たことはありますか。
エンジン設計者 少なくとも自分は聞いたことがないです。今回両方のエンジンの写真や図版を比較して気がつきました。
――68年GPのR381なんかムーンチューンのシボレーV8を買ってきて積んじゃったくらいですからね。「勝つためには手段は問わない」という空気はあったでしょう。(以上⑪より、後略)』
この一文を読んで自分なりに感じたこと(感想文?)の第1点目は、この時代のプリンス自動車のエンジン(と設計者たち)には、中島飛行機時代の苦い教訓が十分に生かされていたという点だ。中島飛行機の航空機用エンジンは大きくは、ブリストル社(英)とカーチス・ライト社(米)からの技術導入で始まり、基本技術は両社の流れのなかにあったが、後の自主開発エンジンでは、両エンジンのもつ真のノウハウを会得するに至らないまま、異なる設計思想のエンジンの折衷型(=いいとこどり)エンジンを目指して、それがトラブルと性能不足の原因につながったとの貴重な教訓があった。
プリンス自動車のエンジン部門の前身の富士精密が、初代プリンス セダン用エンジン(FG4A型)を開発するとき、新山専務が中島飛行機時代の経験(失敗)から、オーナーだった石橋正二郎所有のプジョー202のエンジンをそっくり真似ろと指示したのは有名な話だ。
またグロリアスーパー6用の、プリンス初の6気筒エンジン開発に当たっても、『当時はまだOHVの時代で、OHCも6気筒も日本にないためベンツの6気筒OHCを参考にしました。こうして完成したのがG7型で、プリンスの独自技術で開発したエンジンではありませんでした』(⑥より、GR8のエンジン設計に携わった牛島孝談)と正直に語っている。しかしこのとき得られた直6エンジン開発の知見は、”某FPFエンジン”を参考に、直6、4バルブ化したエンジンを仕立て直す時、貴重なノウハウとなっていたに違いない。時間の無かったGR8エンジン開発に当たっては、真似するところはそっくり真似して、中途半端な妥協はしないのが”プリンス流”なのだろう。写真はG7型エンジン。(wikiより)

第2点目は、そっくり真似したところはあったにしても、それでもこれだけ短時間に最新鋭のレーシングエンジンをモノにしてしまうのだから、プリンスにはやはり当時の日本の同業他社には無い、中島飛行機伝来の高度なエンジン設計、試作、それにチューニング技術があったということだ。
そして第3点目は、プリンスはやるときは中途半端なマネはせず、なりふり構わず勝ちにいくという点だ。このひたすら実戦的で割り切った姿勢が、ドライバー陣の力量の差と相まって、日本グランプリでトヨタを圧倒し続けた理由だったのだろう。
まとめれば?GR8エンジンの“源流”を辿れば、あるいはコベントリークライマックス社製エンジン(FPF型)に行きつくかもしれないけれど、中島飛行機時代に培った技術と教訓、そして“プリンス自動車の魂”は確かに息づいていると思ったが、如何でしょうか。(以上10/25追記)
さて第3回日本GPがこれで終わり、いよいよ本題の(ようやく!)、国光(“ニッサン”R380-Ⅱ)×生沢(ポルシェ906)の舞台となる、第4回日本GPへと話が進めることにする。
(番外編は追って書込みます。
― 引用元 ―
①:「クルマ界 歴史の証人」プリンス―日産ワークスドライバー 砂子儀一 PART Ⅴ」ベストカー 講談社ビーシー
②:「プリンス/ニッサンR380/R381/R382/R383」檜垣和夫(2009.08)二玄社
③:「時代を移すスーパーメカの系譜 ポルシェ906」モーターファン・イラストレーテッド(2007.05)三栄書房
④:「激闘 ‘60年代の日本グランプリ」桂木洋二(1995.05)グランプリ出版
⑤:「レーシングカーのテクノロジー」モーターファン・イラストレーテッド(2010.01)三栄書房
⑥:「スカイラインGT-Rストーリー&ヒストリー」(2019.04)モーターマガジン社
⑦:「古の日本グランプリPartⅡ」Racing on(2014.05)三栄書房
⑧:「マン・マシンの昭和伝説 航空機から自動車へ 上」前間孝則(1996.02)講談社文庫
⑨:「トヨタ7 その開発から撤退まで」ノスタルジックヒーロー(2007.06)芸文社
⑩:「スカイラインを超えて “伝説のクルマ屋”櫻井眞一郎の見た夢」片岡英明(2012.03)PHP研究所
⑪:「<再録>MFロード・テスト 日産スカイライン2000GT-R」モーターファン(2016.10号)三栄書房
⑫:「フォードVSフェラーリ 伝説のル・マン」A・Jベイム著(赤井邦彦、松島三恵子訳)(2010.09)祥伝社