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⑮ 中島飛行機とプリンスにまつわる”よもやま話”

 “誉”エンジンの影
 さて、前回の記事⑭の4項と7項で私見ながら、“R38X計画”を立案したのは中川良一で、少なくとも1962年時点ですでに、その全体像が頭の中にあったことを記した。またR38×計画の主軸を成すものは中川らしくエンジン戦略で(7項)、技術的な根幹をなすものは中島飛行機時代のエンジン開発を通して得た設計、試作、チューニング技術と、苦い教訓も踏まえた実戦的ノウハウだったと記してきた(前回の記事⑭に10/25に新たに追記した10項参照)。
 さらにこれも私見として付け加えれば、中川にとっては戦前、誉搭載の戦闘機で無念にも果たせなかった、世界の頂点に向けてのリベンジもあったのではとも推測し、記した。
 しかしまだまだ出てきそうだと、ここからさらに深堀しようとすると、このテーマは幅が広く奥も深くて手に余る。(下は、国際基督教大学(中島飛行機三鷹研究所の跡地にたてられた)の敷地で見つかった、陸軍初のジェット戦闘機、“火龍”のエンジンの排気ノズルとみられる部品。何が出てくるかわからず、やっぱり奥が深い?朝日新聞より)
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https://www.asahi.com/articles/ASKCS65CZKCSUTIL061.html
 いくつかの書物(主に前間孝則氏(IHIでジェットエンジンの設計に携わったのち、ノンフィクション作家になった方で、当時の関係者一人一人を直接訪問取材してまとめている点で信頼がおけると思う)の著作等)を手掛かりに、自分なりに“採掘”を試みたが、力足らずで途中で挫折してしまった。
 ただやはり、戦前の中島飛行機の在り方が、戦後のプリンス自動車に大きく影響を及ぼしていることだけは確かなようだと感じた。特に、旧中島系でもいわば“本家”筋の富士重工(スバル)と違い、荻窪を中心としたエンジン系に特化した技術者達が中心となったプリンス自動車にはやはり、その象徴的な存在であった “誉” の影が色濃くつきまとうことも・・・。
(下は群馬県太田市に建つ、中島知久平の像 wikiより)
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「エンジン設計のキーポイント探求」(岡本和理氏著)
 ところがこれらの調べを進めていく中で、前記の前間氏の著書においても、氏が“誉”エンジンについての検証を行う上で参考にした、岡本和理氏著の私家版(非売品として、当時関係者のみに配られたようだ)「エンジン設計のキーポイント探求」(以下引用①)という、優れた研究レポートが、ありがたいことに、現在ネット上で、(無償で)公開されていることがわかった(ただし図表は省かれている)。さすがに直リンクまでは貼らないが、「荻窪FG会」さんという、旧プリンス~日産荻窪系のエンジン関係OBの方が運営されているサイトで公開されている。
https://ogikubofgkai.web.fc2.com/index.html
 まず上記の、そのサイトに訪問いただき、礼儀として、他の記事も興味深いのでぜひご覧いただいたうえで、“昔のことを話そうかい”というところから、閲覧してください。一般に公開していただいている、荻窪FG会さんに深く感謝します。
(下は日産村山工場跡地にある、“プリンスの丘公園”)
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http://yamaden-ltd.co.jp/yamaden_blog/wp/headoffice/23053.html
 著者(岡本和理)のプロフィールだが、中川良一より3歳年下で、昭和16年東京大学工学部航空学科(原動機専修)卒業。昭和17年陸軍航空技術研究所荻窪出張所に配属され中島飛行機設計部で航空エンジンの設計に従事する。戦後プリンス自動車ではエンジン、シャシー、電装補機の開発、村山工場の建設等に従事。日産と合併後は機関設計部長、中央研究所排気研究部長歴任、日産工機の代表取締役社長まで勤めあげた。(以上のプロフィールは②より引用)エンジン設計者としても高名な方だ。
中島飛行機時代は“誉”のトラブル調査やその対策、さらには“誉”より出力を高めた2450馬力を狙う“ハ44”エンジンの、主にシリンダーとピストンの設計を担当した。
(中島製“ハ44”エンジンを搭載する立川 キ-94-II 試作高高度防空戦闘機)
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https://www.1999.co.jp/image/10611214/10/1
 このレポートの存在は、航空機マニアの間ではかなり知られている事かもしれないが、自動車マニアでご存知の方は少ないと思う。しかし実際に在籍された岡本氏のレポートを読めば、“誉”を生んだ中島飛行機と、さらには自動車ファンの特にスカG党には関心が深いであろうプリンス自動車について、今までにない新たな理解が得られることと思う。
この優れたレポートについて、自分が何かコメントする余地はないが、そこで内容についてではなく、岡本氏本人と、レポートをまとめる上でのスタンスについて、以下補足しておく。
 戦前戦後の日本の技術史とそれに携わった数多くの技術者に直接取材をした、前記の前間孝則によれば、『これまで私は、多くの著名な技術者たちにインタビューしてきたが、彼らの話は年齢が加わるにつれて、過去を美化しがちになる。開発過程で起こった失敗よりも、成功して技術を進化させた話のほうにウェイトを置きがちになる。失敗話を赤裸々に語ってもらうには、なかなか難しい面もある。
 日本の企業組織や学会などでは、ともすれば“なあなあ主義”で失敗やトラブルをうやむやにし、責任も曖昧にして、過去も水に流しがちだが、岡本はそうではない。身内に対しても容赦ない。
』(引用②)と、数多くの取材経験の中から、岡本の印象を語っている。そして『中島には根本的な欠陥があった。私は、この問題を死ぬまでにあきらかにしないといかんと思っています』(引用③)という、中島飛行機とプリンス自動車、それとスカG伝説についても、中には美化して書かれたものもある中で、このレポートは内に厳しいスタンスで書かれたものだ。岡本の死の半年前に発刊された、まさに渾身の遺作であったことを感じるこのレポートは、それほど長文でもないので、ともかくぜひお読みいただければと、言う他はない。(個人的には今回の記事で、世のカーマニアにこのレポートの存在を紹介できたことだけで、意義があったと思っています!)

 さて、中島飛行機について、これ以上の深堀をあきらめ、さらに深読みを希望の方々には、引用⓵をお読みいただくとして、ここから本題に入り、一転して私見(想像、思い込み)の多い、軽めの妄想話を進めてみたい。
この記事をまとめていく中で、“誉”とプリンスにマツワルちょっと気になった(というか、思いついてしまった)話題”を3つばかり記したい。
(以下は例によって敬称略とさせていただく。なお引用箇所は青字で明記し、引用もしくは参照先は番号をふって文末にまとめて記載し、画像のコピペ先は写真の下に記載してある。なお全くの個人的な見解(いつものように“妄想”レベルのものも含む)については極力“私見”だと明記したので気に障る方は無視して読み飛ばしてください。また、文と写真の引用箇所に少しでも興味のある方はこの一文をきっかけにぜひとも、オリジナルである原書を買うなりブログを尋ねるなりしてみてください!)

2つのキーワードから考える、中島飛行機とプリンス自動車について
 ここでは、戦前と戦後に中川良一が発した2つの言葉、「100オクタン価燃料を供給できないは約束違反」と、「業界の申し合わせを守ったのだから負けても仕方がない」をキーワードに、中島飛行機とプリンス自動車について自分なりに考えてみたい。一見二つとも、多少無責任な言葉にも感じられるが、当時の中島飛行機とプリンス自動車と、それらを取り巻く世界を解き明かす上で、象徴的な言葉だと思えたからだ。 
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(上は荒涼とした、現在の村山工場跡地。日刊スポーツより)
https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/img/201901210000026-w500_0.jpg

Ⅰ.「100オクタン価燃料を供給できないは約束違反」から思う、“油(あぶら)”で負けた戦いについて
前者の言葉は、中島飛行機の“誉”エンジンにまつわる話だ。
海軍から一方的に、100オクタン価ガソリンから87~91価ガソリンに落とし、潤滑油の質も落とすとの指示が出された時、(以下、引用③)
中川は驚きであった。「そんなバカな!1年半前、和田廠長は私に対して「潤滑油も買い置きがあるから、アメリカの一番良質なものを使ってよい。世界最高の技術を使い、最も高級な材料、燃料、潤滑油を使って高性能を出したまえと約束したではないか」
中川は当時を振り返ってあらためて語った。
「あきらかに約束違反ですよ。100オクタン価の燃料で回したエンジンはきれいに回ったんです。」
』 
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https://aoghs.org/wp-content/uploads/2014/12/Eythel-Avgas-AOGHS.jpg
“誉”にまつわる話で必ず引き合いに出される、有名な100オクタン価燃料の話だが、ここは中川一人が責められる話ではまったくなく、むしろ東京帝大を出てたった3年半の、生真面目だが当然ながら世情に疎く視野も狭い当時の中川に、“誉”エンジンの設計主任という大役を担わせるという、常識では考えられない、中島飛行機の特異な開発体制や企業体質、軍部との特殊な関係、さらには戦前の日本の工業界全般の蓄積の薄さ等が問題の根幹で、この部分は(引用①)他、多くの本に記されており、ここでは説明を省略する。
(・・・省略しようと思ったが、しかし、帝大工学部卒業者を極端に優遇し、時には新卒者をいきなり設計主任に抜擢するような人事など、今の常識ではたぶんイメージがわかないだろう。そこでこの記事の文末に【参考】として、中島飛行機の成り立ちとその開発体制について、多少の補足説明を(小文字で)追記した。さらに興味のあるマニアックな方はそちらもご覧ください。)
 話を続けるが、企業側のみならず、性能至上主義で“誉”を推した軍部(海軍)の無定見さや無責任さにも問題があるだろうと思うが、この部分も前間氏の③ほか、多数に書かれており、やはり省略する。
 しかし理由はともあれ一番の犠牲者が、結果的に不具合だらけのエンジンを押しつけられて戦わざるを得なかった前線の兵士たちだった事は確かだ。
 そんな日本の状況に対して、当時(今もだが)石油を独占する石油メジャーを有し、自動車産業も古くから発展していた米英では、戦前~戦中も石油燃料の研究を着々と進めていた。ただこの話を推し進めていけば、そもそも“アメリカ(とイギリス)と戦争するんじゃなかった”まで話が辿り着いてしまうのだが。(以下引用④)
歴史家たちの中では、「ブリテンの戦い」で英国軍が勝利したのはテトラエチル鉛のおかげだ、と断言する者もいる。
(下は、アメリカの一般のガソリンスタンドのポンプに貼り付けられた、テトラエチル鉛添加を示す表示。Wikiより)
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 テトラエチル鉛は1921年にアメリカ・GM社のチャールズ・ケタリングの元で働いていたトーマス・ミジリーにより、エンジンのノッキングを防ぐアンチノック剤として開発された。そして1924年にGMとスタンダード石油との合弁事業"エチル ガソリン コーポレーション"がその供給元となった。(以上、主にwikiより)元々は石油メーカーではなく、戦前のGMの研究所から生まれた技術だったのだ。当時のGMの、すそ野の広い技術開発の底力を思い知らされる。
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https://www.si.com/vault/issue/40768/1
再び④の引用を続ける。
テトラエチル鉛を添加したガソリンがマーリン・エンジンの性能を著しく向上させたからだ。確かに図2(注;ここでは図はありません)のグラフに示されているように、“奇跡的な”添加剤のおかげでガソリンのオクタン価が大きく上昇し、その結果マーリン・エンジンの出力も大きく向上しているのがわかる。
もっともこのテトラエチル鉛は、肺や皮膚粘膜から容易に吸収され毒性が強く、後に鉛化合物による大気汚染が問題となった。
(下の写真の、メチャカッコイイ“プリマス スーパーバード”はCSの“ディスカバリーチャンネル”の番組“クラシックカーコレクション”でも紹介されていた個体で、航空機の離陸時の排ガスを測定するために排ガス測定装置を積み、飛行機と並走(後ろを追走か?)させて使用されていたそうだ。番組では確か“(航空燃料に含まれる)鉛公害の調査”とかいっていた。詳細は不明です。)
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https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/blog/000/038/417/150/38417150/p1.jpg?ct=9635fd7af590 (話を戻す)
 また触媒式排ガス浄化装置の性能低下を招くこともあり、日本は世界に先駆けて自動車用ガソリンの無鉛化が進められた。そして1986年、世界で初めて自動車用ガソリンの完全無鉛化が達成された。官主導で世界でもっとも厳しい排ガス規制を世界に先駆けて実施し、民が見事にそれに答えて成し遂げた成果で、ここに至って日本の自動車産業とそれを取り巻く世界(社会)の総合力がついてきたことが世界に証明された。(この時代、「牛込柳町鉛中毒事件」とか、「石神井南中学校光化学スモッグ事件」とか、今から思えば多少不可思議な事件もあった公害問題だったが、結果的に日本の空もきれいになったことだし、ここではあまり深く考えないことにする。
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https://imgcp.aacdn.jp/img-a/800/auto/aa/gm/article/1/9/7/7/2/5/201707051509/pixta_30616197_M.jpg
 話を第二次大戦中に戻し、④より引用を続ける。
また、マーリンが約2倍の出力を発揮するようになったのは、ロールス・ロイスの優秀なエンジニアたちが、新しく改良されたガソリンに順応するようにエンジンの開発を重ねたからだという点も強調しておきたい。』(下はタミヤ模型のパッケージ)
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https://www.tamiya.com/japan/products/61035/index.html
 ここで、戦後本田技研で、F1プロジェクト(第一期)を主導した中村良夫の述懐を(引用⑤)
昭和十九年(1944)の夏、日本軍が撃墜した欧米の航空機のエンジンを陸軍技研で分解調査した時だった。
 世界のトップを走る航空機エンジンメーカーの英ロールス・ロイス社が設計した傑作エンジン、マリン61型と、B29用エンジンの米サイクロン3350の現物をはじめて目にし、分解調査を担当した。ともに傑作と評判高いエンジンで、日本ではとても不可能な技術がふんだんに盛り込まれていた。
マリン61型は見るからに美しく、戦時中で未熟練工も大勢動員されて生産されたにもかかわらず、日本では考えられないほどの精密加工でピカピカに磨かれており、「魔性のような妖気」をたたえ、まるで「工芸品あるいは芸術品」を見ているかのようであった。またタンデム(串型)二段式の機械式駆動過給機を備えていて、出力とりわけ高空性能を飛躍的に向上させていた。
』(下はマーリン・エンジン搭載の木製機体の双発爆撃機、デ・ハビランド モスキート。下の写真はwikiより カラーだが1943年撮影のものだそうだ。)
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以下は引用⑥より
日本では「誉」の出力向上に、水やメタノールの吸気噴射のような小手先の手段で切り抜けようとしていた。(中略)それにひきかえ、「マーリン」は正面から出力向上に挑み、二段過給機によって大幅な馬力アップを果たし、高空での性能を飛躍的に高めている。さらに、日本がいっこうに完成できない排気タービン加給にも取り組み、ものにしていた。
 中村を驚かせたのはそれだけではなかった。彼が検分した「マーリン」61型が、開発した本家のロールス・ロイス製でなく、アメリカの自動車メーカーのパッカード社製であったことだ。
(下はパッカード社製マーリン・エンジンを搭載した、ノースアメリカン P-51D マスタング。画像はタミヤ模型より。戦後、零戦の堀越二郎技師は「マーリン・エンジンを選択出来るのは機体設計者の夢」と語ったという。)
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https://www.1999.co.jp/image/10144924/30/1
いかに高級車を生産してきたとはいえ、航空機では技術水準が違うばかりか、生産や技術の性格も違う。にもかかわらず、アメリカの自動車メーカーが、その技術を完全にこなして、自動車の量産技術でもって大量生産すらしていたのである。
 16万台近く生産されたマーリンエンジンのうち、1/3近い約55000台がアメリカのパッカード製だったという。パッカードは当時、イギリスのロールス・ロイスと対比される、アメリカを代表する高級車だった。(パッカードについては、自動車の⑨の記事“デューセンバーグとオーバーン、コード(その終焉まで)”でふれているが、小林彰太郎曰く、(V12は)アメリカのクラシックカー中の白眉だと評していた。下はその1934年製Packard Twelve)
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https://assets.bauer-wolke.co.uk/imagegen/p/800/600/s3/digital-cougar-assets-uk/MomoAds/2019/07/12/142347/82176_1.jpg
しかしパッカードには元々、航空機エンジンの経験もあったが、大衆車のイギリスフォードの工場でも約34000台造られたという事実も何気にすごいことだと思う。(下はイギリスフォードの小型大衆車、モデルC)
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https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcR9qKkQYj8lDUh5X7rCevGhYl2YWICBUsR9ecHis77e1bKskk12
下の写真は4発重爆撃機、コンソリデーテッドB24Eを大量生産するフォードのウィローラン工場。文と写真はwikiより。『~製造はコンソリデーテッド社のサンディエゴ工場およびフォートワースの他、ダグラス・エアクラフト社のタルサ工場、フォード・モーター社のウィローラン工場、ノースアメリカン社のダラス工場で作られた。特にフォード社は、他の航空機会社の生産能力が1日1機であったのに対して、24時間体制によって1時間1機のB-24を生産した!(遠くの方がかすんで見える。)
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※あまりにもすさまじい写真を目にしたので、多少大きめにして追加しておきます(11/21)。以下の写真と文は「品場諸友さん」よりコピーさせていただいた。‏@shinabamorotomo https://twitter.com/shinabamorotomo/status/915750001631928320
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B24の生産を指揮した(させられた)のは、ヘンリー・フォードの息子のエドゼル・フォードだったそうだ。
エドセルが社長だった40年。欧州では戦争が始まり、フォードも軍用機の委託生産を模索し始めます。30年前後には航空機部門を持ち、トライモーターを生産した経験は有るとはいえ(下はフォード・トライモーター)
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33年には撤退していたフォード。ゼロからの立ち上げになるので最初の候補は単発機P-40だったのですが…(下はP40)
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社長を退いても権勢を奮う偏屈親父は事もあろうに超大物、四発重爆コンソリデーテッドB-24の生産を決断してしまいます。ホンダが突然ジャンボジェットの生産を始めるような話で、どったんばったん大騒ぎ! まず工場をひとつB-24の為に建て直すというところからスタート。
当然量産大好きヘンリーが作る工場は半端じゃなかった。43年8月に遂に最初の機体がラインアウトした工場は、24時間操業でなんと月産600機というバケモノ工場だった。

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そしてこのバケモノを決定からたった2年で作り上げる大事業を陣頭指揮したのが、あの「エドセル・フォード」だったのです。
フォードの工場からボロボロ出て来る四発重爆や、ヘンリー・カイザーの造船所から2700隻も出て来た輸送船の群れを見て「こんな国と戦争するとはなんと無謀な!」という気持ちは判る。

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・・・・・全く同感です。
B-24の生産数はアメリカ陸軍航空隊向けとしては最多の18,431機(諸説あり)が終戦直前まで生産され、(中略)第二次世界大戦中に生産された米軍機の中で最多となる。』4発の重爆撃機が最多生産とは恐ろしい。(下はハセガワのプラモデルのB24J)
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http://www.hasegawa-model.co.jp/hsite/wp-content/uploads/2014/02/E29p.jpg
一方GMは社長のビル・ヌードセン(W.S.Knudsen)がルーズベルト大統領に任命されて 1942 年から1945 年までアメリカ陸軍省の軍需生産局長官としてアメリカ全産業の軍需生産計画を指揮した。ちなみに1940 年~ 1944 年にかけてGMの軍需契約高は 138 億ドルで全米第 1 位、フォードのそれは 50 億ドルで第 3 位、クライスラーは 34 億ドルで第 8 位であった。(下の写真はwikiより。いかにも整然とした、P-39 エアラコブラの生産ライン。一方日本の航空機の工場は・・・貼るの止めておきます。)
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https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/83/Airacobra_P39_Assembly_LOC_02902u.jpg/375px-Airacobra_P39_Assembly_LOC_02902u.jpg

 話を戻す。昭和天皇は「日米戦争は油で始まり油で終わったようなもの」というお言葉を残されたが(昭和天皇独白録)、レーシング・エンジン的な性格の、カリカリなチューニングエンジンであった “誉” も結局、“油”(だけではもちろんないが、いわば“象徴”として)で終わってしまった。

Ⅱ.「業界の申し合わせだから負けても仕方がない」、から思うこと
(⑦より引用)『中川は今回のレースは、「業界の申し合わせがあり、それを忠実に守ったのだから、たとえ負けたとしてもしかたがないだろう」』と考えた。
 この言葉はプリンス自動車時代の中川良一が発した(あるいは思った)とされる、第1回日本GPにおけるプリンスの対応のもので、これまた何度も語られる、有名な話だ。ただこの時の中川はプリンス自動車の技術陣を率いる取締役で、戦前の先の100オクタン云々の話の時とは立場が大きく変わった。中川は超甘くというか、この判断が及ぼす影響を深く考えなかったが、結果的に、プリンスの命運を悪い方に導いたことは確実だ。この問題は中川の考え次第で、社内はどうにでもなったと思える話ゆえ、こちらは責任重大だったと思う(私見ですが、結果的に多くのプリンス関係者がその後、苦難の道を歩まされたのも事実)。
以下、超長い話になってしまったが、順を追って確認しつつ、途中日産との合併問題を経て最後にⅡの話題の続きの話として、Ⅲ項の、もし第1回日本GPに勝利していたらプリンスの将来はどう変わったのかという、タラレバの雑談を軽くしてみたい。
 なお、Ⅲ項の“タラレバ”は、前提条件が架空なので当然ながら全編夢物語の妄想話なので、生真面目なプリンスファン、中島飛行機ファン、コアなスカGファンは見ないでパスしてください。
 まずはプリンス(中川)が負けても仕方がないと思った、1963年5月開催の第1回日本GPの中で、前年の秋フルモデルチェンジしたばかりのプリンスの看板車種、グロリアが出場したC-VIクラスのレースにスポットをあてて、もう一度当時の状況を確認してみたい。(下は1962年10月にフルモデルチェンジして2代目モデルに移行した、プリンス グロリア)
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https://b-cles.jp/car/wp-content/uploads/2014/12/nissan_gloria_1963_S41D_1.jpg
なおこのブログの前々回の記事、“第1回日本グランプリ(1963年)“トヨタの一人勝ち”をお読みでない方はぜひそちらを先にお読みください。

1. 第1回日本グランプリの、C-VIクラス レースを振り返る 
1.1僅差だったトヨタの勝利
(⑦より引用)『中川は今回のレースは、「業界の申し合わせがあり、それを忠実に守ったのだから、たとえ負けたとしてもしかたがないだろう」』と考えた。
 第1回日本GPは前々回のブログ記事のタイトル通り“トヨタが一人勝ち”した。確かに結果を見ればその通りだったが、たとえばトヨタ(クラウン)、ニッサン(セドリック)、プリンス(グロリア)、いすゞ(ベレル)という4社(4台)がぶつかった、国内乗用車メーカーにとってはメインレースともいうべきC-VIクラスのレースについて詳しくみていくと、20周レースで1位の多賀弘明のトヨタクラウンと、2位のいすゞベレル(K.D.スウィッシャー)の差は4.5秒という僅差であった(wikiより)。(下は1位多賀弘明と左が2位の米軍人K.D.スウィッシャー)
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http://www.motorsport-japan.com/msjf/up_img/news/WUNe3qMmFPNk/2017030913292503.jpg
先の記事で参考にした⑧より引用
問題は、有力なライバルがいるコロナとクラウンの出場するレースだ。出場を希望するドライバーを応援するだけでなく、速そうなドライバーを積極的に見つけることになった。レース出場を目指してサーキットに走りに来ている中から、多賀弘明と式場壮吉が選ばれた。(中略)結果として式場はコロナで、多賀はクラウンで優勝したから、この起用は見事にあたったことになる。
このふたりの巧みなドライビングがなければ、トヨタ車の優勝はむずかしかったといっていい。コロナは性能のいいボグゾールに苦しめられ、クラウンもいすゞのベレルをわずかに抑えての勝利だった。
』(惜しくも2位に終わったいすゞベレルの力走。)
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https://car-l.co.jp/wp-content/uploads/2019/03/617-31-768x484.jpg
つまり紙一重の勝利で、クルマの仕上がりでは、トヨタといすゞはかなり拮抗していたということだ。
1.2大久保力の語るレース界の状況
 当時のレース界を取り巻く状況は、その時代の“空気”までは、当事者でないとわからない。そんな雰囲気を伝える記事として、大久保力(レーシングドライバーとして第1回日本GPに出場)へのインタビューを通じて日本のレース史を語る、「マイ・ワンダフル サーキット」というwebがあり、その中に第1回日本GPの雰囲気をよく伝える記事があり、以下長いがそこから引用させていただく。(引用⑨)
https://f1-stinger2.com/special/mwc/chapter02/talk28/
~そうですね、ニッサンは、まあ中間派ぐらいのスタンスだったでしょう。1963年のレースについては、トヨタ、プリンス、日野自動車、富士重工、そしてスズキ、こういった面々が積極参戦派だったと見ていいと思います
―― ははあ、そういう意味では、グランプリ二日目の最終レースだった1600~2000ccのツーリングカーというのが(中略)日本の“歴史的な自動車レース”の象徴というべきクラスになったのが、それでしたね。ここには、トヨタ、いすゞ、ニッサン、プリンスというメーカーがエントリー。国産の最上級車は何なのかという“覇権”をかけてのレースとなりました。
(中略)
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https://blog-imgs-11-origin.fc2.com/s/i/n/since1957/C-6s.jpg
―― 各社を代表するようなセダンが、ということでも?
そうです、タマが豊富なクラスでした。先行しているトヨペット・クラウンとプリンスのスカイライン、グロリア。そして遅れて参入したセドリックと、同じく高級車市場に新登場のいすゞベレル。当初の“メーカー不参入”の約束などどこへ行ったかのようなテスト風景がサーキットを賑わし、スポーツ紙誌や週刊誌がその様子を報道しました。
トヨタの工場内では、サーキットの一部を模したコースを急造して、そこでテストをしているとか、グロリアは車重が重いし、ドディオン・アクスルのリアサスペンションはコーナーリングがいいのでタイヤが保たない等々。本当なのかハズレなのか、こういうパドックでの噂話は、もう誰にも止められない(笑)」
……かと思えば、トレーニング中から意外と速かった最後発のいすゞベレルが優勝候補に浮上したり。
』(下は奮闘するベレル。)
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https://motorz.jp/race/60361/
1.3クラウンに迫ったいすゞベレル
 見た目からしても(ごく大人しいセダンなので)、当時もダークホース的な存在に映ったいすゞベレルは、ヒルマンの国産化から学んだノウハウをもとに生まれた、いすゞ初のオリジナル乗用車だった。最後発としてクラウン、セドリック、スカイライン/グロリアといった強力なライバルがひしめく市場に切り込もうと、相当気合の入った取り組みで挑んだ心情は十分に理解できる。しかし元来真面目な会社だけに、レースに対する考え方は、トヨタとは違っていたようだ。以下引用⑧より
いすゞでも、レーシングチームをつくって積極的に準備したが、レースの宣伝効果を考えるより、レースそのものに対する関心の方が強い感じで、トヨタとは取り組む姿勢でかなりの違いがみられた。』本来いすゞにみられるような、メーカーとして生真面目な対応こそが、プリンスの取り組むべき姿勢だったと思うが。
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https://i1.wp.com/s-kuruma.com/wp-content/uploads/2019/01/BELLE%E3%80%80035.jpg?fit=750%2C505&ssl=1
プリンスが“積極参戦派だった?という記述はさておいても、第1回日本グランプリについて、上記の大久保力の記述と、“スカイライン神話”で語られてきた“伝説”と、ニュアンスが異なる点がいくつかある。以下4つ(1.4~1.7)の視点から振り返ってみたい。
1.4国内のレース(日本GP)を見下して、やる気が出なかった
当ブログの前の記事⑭の「7. R38×計画は、中川良一の描いた “地上の夢” だったのか」を確認いただければと思うが、第1回日本GPの前年(1962年)に、中川は櫻井をカバン持ちに従えてヨーロッパ視察旅行に出かけており、そこで本場ヨーロッパのF1ベルギーGPを観戦し大感動して、櫻井に“R38X”構想を熱く語っている。その印象が鮮烈な中で、それに比べてすべてが日本初のため、手探りの、大きな草レースみたいな日本GPは、“いずれは6ℓT/C付き1000馬力”と思っていた中川にとって、あまりにギャップが大きかったようだ。
そのため、本来率先すべき立場の中川が「こんなちっちゃなレースでは、力の入れようがないと、ややバカにしていた」(引用⑦)ため、本来自動車メーカーとして行うべきライバルの情報収集やその対応を怠ったからではないだろうか。ちなみに「追憶の日本グランプリ」というブログの、第1回日本GP編で以下のような記述がある。(引用⑩)
http://www.mmjp.or.jp/60srace/1963JAPANGP.html
レース中、ドライバーのW.レイク(注;グロリアに乗り9位だった)はラジオを聴きながら走ったという。ストレートではアクセルを目一杯踏んでもスピードは思うように上がらず、退屈であったからだろうが、当時オプション設定されることが多かったラジオをつけたままレースに出場したことは、プリンスがいかに性能向上を図らなかったかの証明になるだろう。』メーカーのやる気のなさがドライバーに乗り移ったかのようだ。
 これに対して同じ外人ドライバーでも、いすゞが雇ったのは気合の入った腕利きで、『在日米軍のK・スウィッシャー中佐が駆るベレルが派手なドリフト走行でトップのクラウンをドライブする多賀 弘明を追いかけます。そして、優勝こそできなかったものの3位以下に大差をつけての準優勝を果たした』(引用⑪)との記述があり、メーカーの真剣な取り組みがドライバーにも乗り移ったかのようだった。トヨタまでとは言わないが、中川がいすゞ並みに、レースに対して真面目な姿勢を示していれば、プリンスの将来は変わっていた、重要なレースだったと思う(私見です)。
1.5レース前の情報収集を怠った
 上の“やる気のなさ”に関連するが、“伝説”では、『レースの日も迫り、各メーカーのチームは出走車を鈴鹿サーキットに持ち込んで、練習をはじめた。そこでタイムを計ってみると、トヨタの車などに比べ、プリンス車は明らかにタイムが大きく下回った。そこで初めて、他社が出走車を大幅に改造していることがわかったのである。』(引用⑦)となる。直前までライバルの動向をほとんど知らなかったというスタンスなのだ。
 しかし大久保は、当初の“メーカー不参入”の約束などどこへ行ったかのようなテスト風景がサーキットを賑わし、スポーツ紙誌や週刊誌がその様子を報道し、トヨタの工場内では、サーキットの一部を模したコースを急造して、そこでテストをしているとか、トレーニング中から意外と速かった最後発のいすゞベレルが優勝候補に浮上したり等々、本当なのかハズレなのか、噂話でもちきりだったと述べている。(下は本文に直接関係ないが、かわいらしい画像なので、第1回GPでスバル360とスズキフロンテのガチンコ勝負!ちなみにトヨタ以上に力を入れたのが、2輪でチューニング技術の経験があったスズキだったらしい)
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http://s3-ap-northeast-1.amazonaws.com/images.motorz.jp/wp-content/uploads/2018/06/02221432/42.jpg
 あくまで憶測(まったくの想像)でしかないが、当時実際にはかなり大っぴらに、ライバル同士の情報は漏れていたのではないか。たとえばプリンスチームの生沢と、トヨタの式場と、いすゞの浅岡は親友同士で(この前々回の記事の第2回日本GPを参照)、プリンスが早くから情報をとる気であれば、いくらでもとれたはずだ。
1.6C-VIクラスは量産メーカーの“覇権”をかけての戦いだった
 また大久保証言では、C-VIクラスのレースが、クラウン、スカイラインとグロリア、セドリックと、高級車市場に新登場のいすゞベレルが出場する、いわば“日本の“歴史的な自動車レース”の象徴というべきクラスのレース“で、各社を代表するようなセダンが揃った、国産の最上級車は何なのかという“覇権”をかけての戦いのレースだったと述べている。再三記しているがプリンスにとっては、前年秋にフルモデルチェンジしたばかりの看板車種、グロリアが出場するレースだ。(話は逸れるが、この角度から見るとGMのシヴォレー・コルヴェアの影響が強く感じられる。しかしグロリアに限らず、世界の多くの車がそのデザインに影響を受けた。)
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https://b-cles.jp/car/wp-content/uploads/2014/12/nissan_gloria_1962_S40_3.jpg
(下は一世を風靡した“フラットデッキスタイル”の創始車、シヴォレー・コルヴェア)
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http://www.carstyling.ru/Static/SIMG/420_0_I_MC_jpg_W/resources/classic/1960_Chevrolet_Corvair_500_Sedan.jpg?0D06911456E0A01BE5B100F9A66A3730
当時世間一般では重要な位置づけのレースとして認識されていたのだろう。“伝説”からはそのような印象はうかがえない。
1.7悔やまれる、石橋会長に事前に対応を相談しなかったこと
 この点も、一般常識に照らし合わせてみた場合、不思議な点だ。“スカイライン伝説”の多くの記述からは、技術部門のトップの中川と、オーナーの石橋が日本GPへの対応策を、事前に十分話し合っていたようにみえないのだ。前々回の記事とも重複するが、レース後の出来事を、順を追ってもう少し詳しく見ていきたい。
 第1回日本GPの責任者として、メインスタンドの観客席から観戦していた中川は惨敗後、(以下引用⑦)
いざ結果が出てみると、自分たちがあまりにお人よしであったことを思い知らされた。惨めな思いの中で、「こんなことなら、なりふりかまわず、本腰を入れておけばよかった」と悔やまずにはいられなかった。
第一回日本グランプリ開催の話しがあったとき、F1の迫力をまざまざと見せつけられて返ってきただけに(注;前の記事の7項参照)、「こんなちっちゃなレースでは、力の入れようがない」と、ややバカにしていたところがあったのだ。

 ここから話が大きく脱線するが、「ディリィ・ニュース・エィジェンシィ(DNA)」さんのブログを紹介させていただく。前の記事の7項で記した、中川と櫻井が観戦した1962年F1ベルギーグランプリと同年に行われた、1962年F1モナコグランプリの動画が、驚くばかりの鮮明な画像でアップされている。まさに必見だ!
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http://i.gzn.jp/img/2018/05/21/monaco-gp-1962/00.jpg
同ブログより引用させていただく(引用⑫)
1975年以前に撮影されたレースの映像はあまり多く残っておらず、特に経年劣化でフィルムがダメになってしまうので、高品質なものはとても貴重といわれています。そんな中、1962年に行われたF1モナコGPに関しては、車載カメラの映像を含めてレース前後の様子を収めた高画質映像が残されています。
下がアドレスです。解説付きなのでぜひこちらに訪問してから、動画をご覧ください。
https://dailynewsagency.com/2018/05/07/monaco-grand-prix-1962-high-hfg/
(ちなみに動画の直リンクは以下です。)
https://www.youtube.com/watch?v=sCv-dIFGcd0
なおこの動画は、『この映像は西ドイツで1962年に公開された観光映画「地中海の休日」の一部。帆船フライング・クリッパー号の乗組員たちが地中海航海で立ち寄った国々の観光名所などを描くもので、モナコは立ち寄った先の一部として登場しています。』とのことだ。
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https://dnaimg.com/2018/05/07/monaco-grand-prix-1962-high-hfg/title.jpg
公開されている映像はトータルで6分52秒あり、表彰式と、レースに勝利したブルース・マクラーレンによるウィニングランまで収められています。』下は同レースに優勝したブルース・マクラーレン(クーパー・クライマックス)のウィニング・ラン。
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https://dnaimg.com/2018/05/07/monaco-grand-prix-1962-high-hfg/012.jpg
何度も記すが、“必見”です。

 話を本題に戻すと、繰り返しになるがこのような“本場”の自動車レースに魅せられた結果、技術者としては日本というローカルな世界の、草レースの延長のような低レベルのレースでは、腕の振るいようがないと認識していたのだろう。
しかし“現実”の世界に戻ると、『東京に戻った中川は、翌日、会長の石橋正二郎から呼びつけられた。京橋にあるブリヂストン本社の社長室に入るなり、怒鳴り飛ばされた。(写真は石橋正二郎。)
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http://c.nishinippon.co.jp/photolibrary/images/13126.jpg
「なんだあのレースのザマは。日ごろ「技術のプリンス」を口にしながら、恥ずかしくないのか」
中川は自動車工業会での申し合わせ事項について説明し、自分たちはフェアにやったのだと主張したが、どのような事情があろうと、負けは負け、苦しい言い訳でしかなかった。
「一体、君はなにをしているのだ。いくら車に手を加えないといっても、そのままレースに出るなんて、とんでもない。それが自動車工業会の申し合わせとでもいうのか。それをまにうけて惨敗するとは、なにごとだ。そんな甘い商売をやるものは、どこにもいないぞ」
』(以上引用⑦)
このあと中川が、石橋会長の前で翌年のGPでのリベンジを誓うという、ここも、スカイライン伝説誕生の中の、重要な場面に続く。
 しかしやはり摩訶不思議な話で、プリンスのオーナー経営者であった石橋正二郎会長に、第1回日本グランプリという、誇り高き中島飛行機出身の技術者としての想いとは別に、量産自動車メーカーにとって、本来重視すべき日本初の本格的なレースへの対応(というか、“仕事”)を、中川らが事前に充分に説明し、相談しつつ対応したという形跡が、上記の会話から感じられない。正直なところ、普通の会社組織ではあり得ない話だ。(ここで問題になるのは、中川ら旧中島系の実務を担った経営陣と、石橋の人間関係の“溝”だが、話が複雑になるのでその点は深追いしないでおく。)
 あくまで“タラレバ”の話になるが、仮にもし事前に、充分相談しつつ対処していれば、その後のプリンス自動車の歴史は変わっていたと思われる。後述するがいくつかの書物で、第1回日本GPに対する対応の不始末で、オーナーの石橋がプリンス自動車に愛想をつかしたという証言があるからだ。
 しかしその話に移る前に、回り道になるがここで、プリンスに大きな影響を及ぼした中島飛行機の経営理念についてと、自動車産業に熱意を示す資本家であると同時に、今流に言えば“カーガイ”でもあったのだが(たぶん)、スカG伝説の中では中川らの“敵役”として語られることの多い、石橋正二郎の経歴についても、ここで簡単に触れておきたい。

2. 中島飛行機の経営理念と、石橋正二郎の想い
2.1軍需に根差した中島飛行機の経営理念
 中島飛行機について、話が複雑すぎるので、あまり深入りしたくはないから短く記すが、中川が入社し育った、中島飛行機の経営理念は、中島知久平の次の言葉で示されている『経営の根本義は良い品を作ることにある。いかにそろばんに妙を得ても製品が粗悪では工場はつぶれる。これはあらゆる製造業に通ずる鉄則であり、特に飛行機を造ることに営々として性能の優れたものを生産しておりさえすれば、営利は無視しても自然に大をなすことができる』(引用⑫)に表される。
(下は1937年、東京―ロンドン間飛行で当時の世界最速記録を樹立した朝日新聞社の訪欧機“神風号”。後に陸軍に九七式指令部偵察機として制式採用されるキ-15の試作2号機を、朝日新聞社が譲り受けた。機体は三菱でエンジンが中島製「寿」3型改。)
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http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/cl-pln5/260KAMIKAZE.html
 端的に言えば、良い(性能の優れた)製品(プリンスに置き換えればクルマ)を作れば営利を無視しても自然と経営は成せるというもので、戦前の軍を相手にした商売が前提に成り立つものだった。そのため、実力を無視した軍の、たとえば“技術至上主義”の海軍の、その時々の要求を、リスクを顧みず従順に従った結果、試作で終わったものも多かったが、世間一般とは無関係に、今風に言えば、軍産複合体の内部の出来事として内々に処理が行えた。
 岡本和理の言葉を借りれば、『経営方針については、会社自体が中島知久平の意向を反映して、「利益を上げることは目的ではなく、技術能力をはるかに超える高性能エンジンの開発が要求された」という事情がある』(引用③)となり、行きつく果てが、“誉”の悲劇へとつながった。
(下はもっとも初期から誉エンジンを搭載した、海軍空技廠 陸上爆撃機 銀河。銀河設計陣の一人であった三木忠直は戦後、純然たる平和産業をと考え、国鉄鉄道車両技術者に転身。初代の新幹線車両、新幹線0系電車の先端のデザインを設計したことで知られる。そしてその新幹線の開発に、銀河の胴体形態をデザインとして流用したという。Wikiより)
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https://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/cl-pln3/images4/FR048.jpg
(下は同じく三木が設計に関わった、特攻機の桜花)
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https://i.ytimg.com/vi/5lCA4Wrmq3U/hqdefault.jpg
(悲しいかな“銀河”より同じ三木が係わった“桜花”の方が、後のシンカンセンのイメージに似ている?プロペラが無い分そう見えるだけ?)
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http://old-staff.cocolog-nifty.com/blog/photos/uncategorized/2008/12/15/001.jpg
 話を戻す。しかし戦後の民需中心の世の中にかわった後も、中川ら技術系出身者で多くが占められたプリンス自動車の経営陣には、その“技術至上主義”のDNAは色濃く受け継がれたのだと思う。
 自分たちの世界で考えた“性能の良い自動車”を目指したので、技術優先主義が貫かれ、実際の自動車を買う、一般大衆がどのレベルにあり何を欲するかとは無関係になりがちであった。また同じプリンスの仲間の、それら一般庶民と直接対峙する販社の(営業)現場を思いやる視点では、物事を考えられなかったのだと思う。
2.2大衆は日本グランプリに勝利したクルマが、性能が上だと信じた
 しかし当時の日本の一般庶民たちの、たとえば第1回日本GPを例に引けば、そもそも『自動車レースがどういうもので、一般のユーザーに渡る市販車と出走車がどれほど違うものか、ほとんど知らされていなかった時代である。一般の人々は、レースの優劣がそのまま市販車の性能の優劣をあらわしていると受け取ったのである。』(引用⑦)というレベルのものだった。
 日本グランプリ=日本のレースの最高峰なのだと単純に図式化し、このレースで勝利したクルマこそが、他車より優れた最高のクルマであるという、トヨタ自販の宣伝文句が、一般の人たちにはそのまま通用した時代だったのだ。(下は、第1回日本GPの、鈴なりの観客席。何もが手探りで始まったレースだったが、2日間での観客数はなんと23万人!人々は初めての自動車レースに熱狂した。)
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https://lexus.jp/magazine/article/contents/83/module/20170824174233_24746096599e9179abf6c.jpg
 プリンス車の販売現場にいた方々の、苦難と屈辱が思いやられる。
 何度も記すが、“V12 48バルブの6ℓT/C付き1000馬力”のレーシングカーで本場のレーシングシーンで世界の名車を相手に戦う姿まで思い描いていた中川と、当時の日本の庶民との認識のギャップは大きかった。

※トヨタ自販の“作戦”に影響を与えた?GMのモータースポーツ戦略(11/12追記)
この記事の3つ前の記事「第1回日本グランプリ(1963年)“トヨタの一人勝ち”」に、「2.トヨタ自販の“作戦”に影響を与えた?GMのモータースポーツ戦略」という記事を付け加えた。概容は、この時期GMがモータースポーツ分野で仕掛けた策略が、トヨタの第1回日本GPへの対応に影響を与えたのではないかという仮説(というか、自分が考えて自分以外誰も言っていない説=妄想?)だ。
当時アメリカの自動車業界内でルール違反だった、プライベーターに対してのメーカー(GMのシヴォレーとポンティアック部門)支援を水面下で強力に行い、その結果のNASCARシリーズでの圧勝が、販売面で大きな成果をもたらした、というもので、時期的にも日本GPのほんの1~2年程度前の出来事だった。
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https://cdn.hswstatic.com/gif/144_61-22.jpg
そして、日本の自動車産業の”お手本”である、大GMの戦果をまのあたりにして、トヨタ自販もモータースポーツによるマーケティング戦略という見地から、第1回日本GPへの対応で、GMのとった策略を参考にしたのではなかろうかという記事で、興味ある方はそちらをご覧ください。この説はあくまで仮説だが、もし一理あるとするならば、GM同様一般大衆にクルマを売って利益を出すということに、トヨタは早くから一番熱心に研究していたのだろう。そうした一つ一つの積み重ねが、徳大寺有恒氏の言葉を借りれば『顧客心理をマーケティングできる(現場(ユーザーというべきか)の欲求を吸い上げる)「技術力」がトヨタにはあった』となるのだろうが、えげつなさを別とすれば、経営的な観点からすればやはり、一枚も二枚も上手だったということなのだろう。

2.3自動車産業に夢を描いた実業家&カーガイであった石橋正二郎
 ここで中島飛行機の話題から、プリンス自動車の会長で、そのオーナー経営者であり、スカG伝説の中では敵役的な扱いも多い、石橋正二郎(以下正二郎と略す)に話題を移す。
 良く知られた話だが、正二郎は、石炭の鉱夫のためにゴム底つきの足袋(地下足袋)の考案者だ。
http://www.1242.com/lf/articles/132451/?cat=life&feat=suzukianju
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http://www.mo-hawaii.com/hilo/wp-content/uploads/sites/493/000712.jpg
このゴム足袋からゴム靴、荷馬車のタイヤへと進み、やがてブリヂストンタイヤを創業する。そして自動車用タイヤや各種ゴム製品、さらには自転車、オートバイ、そして自動車と事業を拡大させていったが、軍需主体だった中島飛行機と違い、多くは一般大衆相手の商売で財を成した大実業家であった。
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https://mainichi.jp/articles/20160904/ddm/008/020/063000c
 そして正二郎はプリンス自動車を通じて、多大なリスクを覚悟の上で。自動車事業に情熱をそそぐ事業家でもあった。
 旧中島飛行機系の技術を土台としたプリンスを、世界に通用する性能を誇る日本の誇りとなるような自動車のメーカーとして育て上げ、トヨタや日産と一味違うブランドとして確立しようと目指していたはずだ。しかしあくまで、一般の人々の視野の範囲の、高性能車というブランドなのだろう。(写真は1956年型プリンス セダン(AISH-V型)ブログ“中島飛行機の残滓を継ぎて”さんより)
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https://minkara.carview.co.jp/userid/949539/blog/c854654/
 そもそもプリンス自動車工業の社名自体が、1952年に当時の皇太子殿下(皇太子明仁親王殿下)が正式に皇太子となった儀式「立太子礼」にちなんで名づけられたものだ。下のプリンス車を前にした写真(wikiより)はあまりに有名なもの。当時の日本人の憧れそのものの光景だったろう。
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https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/22/Crown_Prince_Akihito_and_Princess_Suga_in_front_of_the_Prince_Sedan_AISH-II_in_1954.jpg
下は、愛車スカイラインにお乗りになられる皇太子明仁親王殿下の姿。プリンス車は宮内庁に多数納入され、各宮家にも愛用されていた。皇室御用達の自動車会社であったのだ。そしてそれは、正二郎の売り込みの成果でもあったのだろう。
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https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/photo/000/003/440/635/3440635/p8.jpg?ct=b1a81ab7ac36
さらに下の写真はご存知、日産・プリンスロイヤル。ロールス・ロイス等に代わる御料車としてプリンスが受注し、納入は吸収合併後になったが、元々受注した立場を尊重して“プリンス”の名前が残されることになった。御料車にも日産は関心があったという。
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https://pbs.twimg.com/media/CGlmoXHUIAE543U.jpg:large
 話を戻せば、大金持ちでありながら、叩き上げで庶民感覚も十分に理解できたはずの正二郎は、当然ながら、日本で最初の本格的な自動車レースへの期待も、内心大きかったに違いない。
以下カーグラの記事⑬より引用
ブリヂストンの石橋正二郎氏は、美術品の大コレクターとして著名だが、自動車愛好家であったことはあまり知られていない。(下はブリヂストン美術館(現アーティゾン美術館)所蔵の、クロード・モネ『黄昏、ヴェネツィア』1908年。画像はwikiより)
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(アメデオ・モディリアーニ『若い農夫』1918年頃 油彩/カンヴァス。同じくブリヂストン美術館(現アーティゾン美術館)所蔵)
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https://www.polamuseum.or.jp/special/modigliani_2014/modigliani_in_paris/img/index/sect_04_intro_img_04.jpg
大正元年(1911年)、早くもアメリカ中級車のスチュードベーカーを購入し、当時石橋家の主製品だったお座敷足袋の宣伝に使ったりしたという。九州に何台も車がなかったころの話だから、よほど先進的な頭脳の持ち主だったのだろう。昭和になり、タイヤ製造業に進出して数年たったころ、久留米工場の一隅で、同社の技術者に自動車を研究させたこともあった。少数輸入されたハノマーク“コミスブロート”(1924~1928にドイツで量産された単気筒500ccリアエンジン片輪駆動の軽便車)をコピーしたもので、ご子息の幹一郎氏は実際に乗った記憶があると伺った。戦後プリンス自動車の前身に投資し、自動車事業に進出する下地は、ごく早い時期に芽生えていたとみられる。(下は、ハノマーク“コミスブロート”(1925)。ちなみにコミスブロートとは、軍隊パンのことだという。画像はwikiより)
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https://de.wikipedia.org/wiki/Hanomag_2/10_PS
昭和10年ごろ、㈱ブリヂストンは大阪のGMにライン装着用タイヤを納入する際、同社は見返りとしてGMからキャディラック、ビュイック・リムジン、およびラサールを購入した。また翌年には、日本フォードと同様な契約を結んだ時、“流線形”という言葉を日本で一気に広めた1936年リンカーン・ゼファーを1台購入した。(中略)正二郎氏は、このV12気筒リンカーンを特に愛されたようで、戦時中もずっと使われた。
(下は石橋正二郎が創立5年目の1936年に購入し愛用したリンカーン ゼファーの実車。)
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https://blasto.c.blog.so-net.ne.jp/blog/_images/blog/_3de/BLASTO/4040101.jpg
タイヤ事業進出とほぼ同時期の、かなり早い時期から自動車事業へ関心を示すとともに、一個人としても年季の入ったカーマニアであり、当時の日本ではごく稀な、オーナードライバーであったようだ。
いわゆる飛行機屋として純粋に育った中川ら旧中島出身の技術者たちと比べて、自動車全般に対してより幅広い見識と、キャリアの持ち主であったと思われる。今風に言えば、カーガイだった大先輩の正二郎に対して、いささか礼を欠いていたようにも思えてくる。
そして正二郎の怒りは、大衆に対してのわかりやすいメッセージであった日本GP勝利という、重大な商機を逸したこととともに、なぜもっと率直に相談しなかったのかという思いもあっての、二重の怒りだったのではなかろうか。(想像(妄想)の域は出ないが。)
2.4第1回日本GP惨敗で決心したプリンス売却
 そしてこの大惨敗に対しての怒りが、前掲の岡本の(①)他いくつかの書やネット情報で、プリンスの経営を断念し、他社への売却を決心させたと記されている。スカイライン伝説で半ば美談のように語り継がれる、第2回GPでのリベンジ云々とは別の側面で、プリンス自動車の経営面からみれば、重大な出来事だったのだ。以下岡本の①より引用。
第1回日本自動車GPレース(1963年5月)のプリンスチーム惨敗により石橋正二郎はプリンス自動車の経営を断念し、身売りの準備を始めたと思われる。』以下は、桂木洋二著「日本における自動車の世紀」(引用⑭)より
販売の低迷は、不景気など外的な要因よりも首脳陣の経営の舵取りに原因があると、石橋は考えたようだ。グロリアのモデルチェンジに見られる車両開発のあり方に対する不信、第1回日本グランプリレースに対するバカ正直な態度で販売拡張のチャンスを失ったことに対する失望などが引き金になり、彼らの経営に不安を抱いた。石橋が自分で経営を切り盛りするには歳を取りすぎていたのも原因だったかもしれない。(注;1892年生まれてあった。)』
 この一文では、正二郎の年齢面での不安にも触れているが、それについては3.3等で後述する。
(下は、「宮本三郎《石橋正二郎氏像》1969-70年 油彩・カンヴァス」)
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https://casabrutus.com/wp-content/uploads/2017/04/0423bridgestone02_666.jpg
さらに①には、以下のような記述もある。
~企画関係の仕事をして会社上層部に接していた沖島光也は「プリンス荻窪の思い出」に“私のプリンス時代”と題する投稿に次のように書いている。
 “なぜ、あんなに第2回GPに力が入ったかは最近になって分った。第1回GPのあと中川さんはプリンスの成績不良で始末書をかいたのだそうである。(中略)第2回GPは予算も潤沢で開発部門の全力が傾注されたのは、実は石橋会長の命令があったからであった。あのとき、おかしなことにBSタイヤはプリンスを断りトヨタと提携した。やむなくプリンスは英国ダンロップからレースタイヤを輸入した。結果は問題なかったのだが察するにそのころから、石橋会長はプリンスの身売りを考えていたのではないかと思う。技術部門の強いことを強調したかった理由があった。それでレースに発破をかけたのではないかと思われる。これは想像である。その後石橋会長はレースについて関心すら示さなかった。”

 この文章で、私見も混じるが重要なポイントが3点あると思う。
 1つ目は、翌年の第2回日本GP必勝を“命令”したのが実は、石橋正二郎本人であったということだ。世の“スカイライン伝説”が見落としている視点だ。確かに技術陣がいくら世間知らずでその屈辱から翌年のGPでリベンジに燃えても、オーナーの石橋が潤沢な(当時のプリンスとしては、だろうが)予算をつけて初めて企業は動き出す。そして中川に始末書を書かせて、その責任者として第2回日本GPに必勝を誓わせた。
 2つ目は、「その後石橋会長はレースについて関心すら示さなかった。」というくだりだ。よほど愛想をつかし、いよいよプリンスの経営に見切りをつけて、以降は純粋に“ビジネス”だけで手仕舞いをはじめたターニングポイントだったように見えてくる。売却を念頭に、“技術のプリンス”をアピールし、付加価値(箔?)をつける算段だったのだろう。
 そして3つ目は、第2回GP用レーシングタイヤの供給でBSタイヤは身内のプリンスを断りトヨタと独占提携した、というくだりだ。この件は「激闘 ‘60年代の日本グランプリ」(引用⑧)でも触れており、以下引用する。
(トヨタの)第二回グランプリへ向けての準備としてまず行われたのが、トヨタテストコース内に鈴鹿サーキットに似たコースをつくることだった。S字コーナーやヘヤピンカーブをはじめ、鈴鹿と同じコーナーのあるコースに仕立て、そこで思い切りドライバーにトレーニングさせようという作戦であった。相当な予算をとらないとできることではない。また、レースで大切なタイヤに関しては、他社より有利な立場にたつため、ブリヂストンとレーシングタイヤの独占契約を結んだ。よかれと思ってしたことだったが、他のメーカーはイギリスのダンロップタイヤなど、高価なタイヤを金を惜しまず輸入して装着したために、これは裏目に出た形となった。』この時代、世界レベルでは国産タイヤの性能はまだまだ劣っており、トヨタの思惑とは別に、結果的にプリンス側に有利に働いたのだが、いくらなんでも、そこまで深謀遠慮ではなかっただろう。(画像は1969年発表のBS初期のレーシング・タイヤ、RA-100のカタログ。モータープレス藤原よしおのモータープレスさんよりコピーさせていただいた。)
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タイヤメーカーと、自動車メーカーを両立させるという困難さと同時に、後述する合併交渉を視野に入れた動きの一環であったとみることもできる。
 ここでまたまた話が膨らんでしまうが、プリンス自動車を語る上で避けて通れない、日産とプリンスとの合併(NP合併)に至る過程について、簡単に触れておきたい。
これまた厄介な問題だが、この“事件?”は戦後の日本経済(企業)史を研究するうえで、重要なテーマの一つになっているようで、ネットでも検索すればたくさん出てくる。そこでそれらと手持ちの本を参考に、石橋正二郎(石橋家)からの視点を中心にして、次の3項でみていく。

3.プリンスと日産の合併について
3.1プリンスと日産の合併について、公の理由

 素直に考えれば、当時の日本の二大自動車メーカーであるトヨタ(クラウンとコロナ)と日産(セドリックとブルーバード)と、主力車種がまともにぶつかるプリンス(グロリアとスカイライン)は、両社からすれば邪魔な競争相手であったことは間違いない。(写真はライバル同士の上から順番に、プリンス グロリアと、トヨタ クラウンと、日産セドリック。第1回日本GP開催年の1963年頃で。)
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http://www.asahi-net.or.jp/~rf7k-inue/izen/no-9/guro-2/guro-1.jpg
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http://www.asahi-net.or.jp/~rf7k-inue/izen/no-11/rs41/rs41-1.jpg
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(こうして見比べると、グロリアが見た目一番エグイ。ちなみにこの2代目グロリアは、元々シンプルだった外観イメージを、クロームメッキを塗りたくることで正二郎がようやく市販OKを出したと言われているが、確かに日本人感覚で、高級感はあった(当時の子供心でも)。一方セドリックは、他の2車がモデルチェンジ直後なこともあり、この時期で比べると古臭く見える。そして2代目クラウンは初代の“オリエンタル”なムードと違い、この時期の3台で見比べる限りもっともクリーンだ。お手本と言われた、フォード ファルコンの影響もあったのだろうか。)
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http://productioncars.com/send_file.php/ford_falcon_2door_sedan_blue_1961.jpg
(もう一度、見比べてみる。フロントグリルがトヨタの“T”をかたち作る。このクラウンはなかなか良いデザインだ。今のクラウンよりセンスがイイ?!)
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https://kenntaro2.up.n.seesaa.net/kenntaro2/image/EFBC92E4BBA3E382AFE383A9E382A6E383B303.jpg?d=a2
(なお、セドリックも1965年に2代目に進化した。410ブルーバードに次ぐピニンファリーナデザイン第2弾だ。)
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https://meisha.co.jp/wp-content/uploads/2019/03/129-5p01-1.jpg
(今改めて見ると、さすがにピニンファリーナで、その落ち着いた、上品な美しさは際立つ。個人的好みでは410は正直イマイチだが、この2代目セドリック(の初期型)は文句なく素晴らしいデザインだと思う。イギリスのアッパーミドルクラスのウーズレーかライレーあたりの新型上級セダンといっても十分通用しそうだ。ただ日本の市場向けではおとなし(上品)すぎたか?いっそのこと、オースチン時代に日産と関係があったBMC(BLMC)で、ライレーかウーズレーブランドのラージクラスセダン用として、ノックダウン生産でもしたらよかったと思うぐらいの出来に思えるが、ドーデショー?)
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https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-9c-7c/humihirolam/folder/337579/73/22338273/img_0?1295734527
話を戻す。
 プリンスの経営権を握るブリヂストンからすれば、最大のお得意様であるはずの両社との円満な関係は築きがたく、特に営業の現場では、タイヤ商売がやり難かったことは想像に難くない。プリンス売却を考えるうえで、誰もが分かりやすい、もっとも大きな理由だ。(以下引用⑮より)
正二郎の死後、息子の幹一郎(当時ブリヂストンタイヤ会長)は、「やはりわたしたちタイヤ会社からすると、プリンス自動車が成長すればするほど、お得意先から睨まれたんですよ。社内では声なき声がごうごうと上がっていた。でも父は無視していました。それでも結局(合併に)踏み切った」と、タイヤメーカーが自動車会社を所有する事の支障が、合併の動機であったことを、はっきりと語っている。プリンスの元経営幹部は、「ある自動車の購買担当から、実際に警告書を受け取った」と幹一郎から聞いたことがあるとも話している。』 “警告書”とは穏やかでない。
ここで“警告”を発せられても、BSタイヤの代替品がなければOKだろうが、ネットの“フィアット500大作戦!!”というブログで、「日産とプリンス 合併の裏で Part3 プリンスを手放した石橋正二郎の思惑 日本クルマ事情 PRINCE」という記事があり、その中で当時BSを脅かすライバルとして横浜ゴムが手強かったとの記載がある。けっして予断を許さない状況だったようだ。以下引用させていただく(引用⑯)
https://gianni-agnelli.hatenadiary.org/entry/20130210/1360499406
特に現実の問題として、石橋の心境を支配したのは、横浜ゴムである。(中略)当時は、競争が激化、巨大化する自動車メーカーに対し、ブリヂストンが子会社としてプリンスという特定の自動車メーカーを持っていると、やがてプリンスのライバルメーカーから取引停止をうけるおそれがあった。
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https://www.bridgestone.co.jp/corporate/history/story/images/img_story_16.jpg
 一方横浜ゴムは、現在こそ、ブリヂストンに大きく水をあけられているが、かつての横浜ゴムは、ブリヂストンなど足元にも及ばない優秀企業であった。1917年にBFグッドリッチとの合弁でできた会社である。グッドリッチの技術を背景に、飛ぶ鳥を落とす勢いで成長した企業である。それが、経営者が政治に足を入れるとか、学閥偏重などといったクダラナイことで、業績が急降下で悪化したのだ。
 それでもグッドリッチは当時、34%の株式を保有する大株主であった。資本自由化が実現すると、「横浜グッドリッチ」と改称され、両者の関係は再び緊密化するおそれがある。それを思うと、天下のブリヂストンでも、うかうかとしていられない。石橋はプリンスを手放すことによって、本来のタイヤメーカーにもどり、くまなく日本中の自動車メーカーと手を結ぶことが、経営者の取るべき道だと知ったのであろう。
』(下はヨコハマタイヤの懐かしい昭和のキャラクター「スマイレージ」マーク。今見るとちょっと不気味だ。)
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このタイヤメーカーでありながら自動車メーカーも抱え込むという微妙で危険な立ち位置に加えて、横浜ゴムという、BSの足元を脅かす強力なライバルの存在がより一層、危機感を高めたに違いない。(下は「2キロに1店ブリヂストン」の、懐かしい昔の広告)
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https://www.bridgestone.co.jp/corporate/history/story/05_05.html
次にBSのメインバンクであり、正二郎の後ろ盾的な存在であった住友銀行は、この状況をどうみていたのか、その証言を確認する。
3.2ブリヂストンのメインバンク、住友銀行の視点
 石橋正二郎と親しく、日産・プリンス合併を支援した堀田庄三元住友銀行頭取が、石橋の死後に出版された「追想録」の中で、以下のように綴っている。(引用⑦)
石橋さんとの思い出は数々あるがその中で特に忘れられないのはプリンスの問題である。(中略)プリンスは技術陣が優秀なことから製品の品質も極めて高く、充分生き残れる資格はあったが、自動車を本命にすればタイヤが売れなくなるという二者択一の運命に立って、遂にタイヤを残すことに決意された。いろいろ相手は会ったが結局日産と合併ということになった。(中略)
(しかし)日産とプリンスの合併理由は「BSのタイヤが売り難くなったので手放す」ではまずいので、当時資本の自由化で強大な米国企業が日本に進出してくるからその対抗策として企業規模を拡大すべきであるとの方針で、通産省が企業の統合合併に対して特別援助する法律を作っていたのでその方針に乗る形をとって合併することになった。
自動車とタイヤの両立の難しさを語っているが、表向きは通産省の産業政策に乗った形をとった旨、語っている。
ここでは銀行側の本音は(当然)語っていないが、当時の住友銀行は、バブル期の“イトマン”“金屏風事件”のころのイケイケ超拡大路線(しかしやがて深みに嵌まり、当時某山〇組の年頭祝賀会で住友銀行は傘下に堕ちたと豪語され、その信用が失墜した)以降とは真逆な、大違いの時代だった。
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“住銀の法皇”と呼ばれた堀田頭取が君臨した時代で、堅実かつ慎重(“ガメツイ”とか“逃げの住友”など陰口もされたが)な姿勢を崩さなかった時代だ。「プリンスは~充分生き残れる資格はあった」と語っているが、銀行家としての本心はどうだっただろうか。
いかにBSが後ろ盾とはいえ、国内競争の激化と外資の攻勢(当時は日本の自動車産業の将来に対して、先が見えない不安があった)を前に、村山工場への多額の投資に対する回収の不安も頭をよぎっただろう。
(下の図は、ネットにあった、「プリンス自動車 - 外山保/石橋正二郎」より引用(⑰)させていただいた、“中央線沿線に工場を配置したプリンス自動車”の図。自動車がカネのかかる設備産業であることを物語る。後の日産との合併時に、興銀出身の川又社長は銀行家的な発想で、高度成長下の都内の地価の上昇が見込め、その資産価値も評価したという。)
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巨額の設備投資が必要な自動車産業は、マツダの面倒だけで手いっぱいだったのではないだろうか。(想像ですがたぶん。私見です)。
(下は村山工場跡地の“プリンスの丘公園”にある、「スカイラインGT-R発祥の地」という碑)
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3.3プリンスと日産の合併について、石橋(家)側の事情 (歳には勝てなかった…)
 ここで合併問題について、さらに視点を変えて、石橋“家”のファミリービジネスという切り口でみてみたい。
プリンス経営を断念した理由の筆頭とされる、3,1で記したタイヤ事業と自動車事業の共存が難しいという矛盾はしかし、急に沸き起こった話ではない。そもそも石橋正二郎が自動車事業に進出した時点で前提だった話だ。
そんな“理屈”を超えた部分で、石橋正二郎個人の、自動車産業への大きな野望が、生来の“カーガイ”としての自動車に対する思いと相まって、プリンスへの多額の投資を支えてきたはずだ。3.1で既述したことと矛盾するが、正二郎の行動を辿ってみると、そのように感じる。
 国内市場に限らずプリンスが世界に向けて大きく飛躍しさえすれば、自動車産業の規模の大きさを考えれば、タイヤ事業に支障をきたそうとも、自動車事業をやり抜こうとするぐらいの覚悟があったはずだ。もともとリスク(爆弾?)を抱えこんだ、大きな賭けだったのだ。(下は1960年頃のトヨタ元町工場全景。当時業界に先駆けていち早く月産1万台体制を確立した。)
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https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/text/entering_the_automotive_business/chapter1/section1/images/l02_01_01_01_img06.jpg
 だがそんな“危険な賭け”の一方で、前記の2.4でも触れたが、正二郎には1889年生まれ(日産との合併当時(1966年)77歳)で、当時の常識で立派な“老人”だった。今のように一般勤労者が70(最近の説では90?)まで無理やり働かされる時代ではなかった。なんびとも乗り越えられない大きな問題が立ちはだかっていたのだ。
 時間的に差し迫った中で、自身の築いた膨大な事業を息子世代に引き継ぐにあたり、自動車事業の抱える巨大なリスクもそのまま継承させるのか。
 それよりも自身が種をまいた拡大路線を、ここで自ら大ナタを振るい整理縮小しておく。そして重要な話だが、プリンスの売却益をファミリー内にしっかりと確保したうえで、核となるBSのタイヤを中心としたゴム事業に特化する。石橋家のファミリービジネスをいかに永続させ繁栄させるかが、何よりも火急かつ重要な課題となっていったのではと想像される。
 その辺の事情について、以下ネット上でPDFファイルで一般公開されている「NP合併についての一考察 山田徹氏による」という論文で、石橋家固有の問題として掘り下げて記されている。以下引用(⑮)させていただく。
file:///C:/Users/hirokun/Downloads/KJ00004862637%20(1).pdf
さらに石橋側の事情について、留意すべき点がある。石橋正二郎(1889年生まれ)は地下足袋製造からスタートして日本一のタイヤメーカーに育て上げた創業経営者であるが、1961年はじめて株式を公開、翌年には東証一部上場をはたし、63年には社長職を息子幹一郎(1920年生まれ)に譲って会長職に退くなど、高齢対策も考えてか、着々と次世代への地固めを進めている。NP合併の翌年にはブリヂストンサイクル社のオートバイ事業も撤退している。』(下は、ブリヂストン サイクル(自転車)に保存されているBS製オートバイ)
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https://www.pref.saitama.lg.jp/potabiyori/saitama/5557/saitama0004.html
しかも幹一郎はどちらかというと文化人タイプで、事業拡大には必ずしも向いてないとも見られていた(正二郎健在の1973年、幹一郎は53歳で早くも会長職に退く)。
(下はポール・セザンヌ 「サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール」1904-06年頃 油彩・カンヴァス ブリヂストン美術館所蔵)
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https://casabrutus.com/wp-content/uploads/2017/04/0423bridgestone08_666.jpg
このような事情をみると、正二郎にとってはプリンスの始末にもまた次世代のための事業整理、本業回帰、現代流にいうならばコアビジネスへの選択と集中の判断が強く働いたと考えられる。その意味では、所有経営者の資本の論理、経営の論理に基づく賢明且つ合理的な意思決定であったということができる。しかし、このような事情を表面に出すことはできず、通産省の行政方針に便乗して「国家的見地」に終始したとみてよいだろう。
 この一文で驚くことがあり、またまた本題と逸れてしまうが「1961年はじめて株式を公開、翌年には東証一部上場をはたし~」というくだりで、それまではBSが非上場の企業だったことだ!
 それはさておき、石橋正二郎としては、表向きの理由以外に、このような自身の年齢からくる問題で、合併を急いだ事情があったようだ。そして今日の、世界最大のタイヤメーカーとしてのブリヂストンの姿を見れば、正二郎の決断は、BSとしても石橋家としても正しかったというべきなのだろう。(下は“世界最大の(大きさの)タイヤ”(当時))
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3.4この項(3項)のまとめ
 例によってダラダラになってきたので、3項についてここで、箇条書きで今までのまとめをしておく。
 石橋正二郎がプリンス自動車の他車との合併による売却を決断した理由は、自動車/タイヤ事業の最適化としての側面と、石橋家としての事業(資産)の存続の、両面(バランス)から考える必要があると思える。(参考①、⑭、⑮他。なおその解釈は、例によって私見の部分も多いです。)
(1)事業の最適化としての側面からは、元々矛盾をはらむブリヂストンのタイヤ事業と、プリンスの自動車事業の共存は、ライバルとしての横浜ゴムの存在もあり厳しさを増し、次第に困難になりつつあった。(3.1等参考)
(2)しかし正二郎個人の想いは元々、タイヤ事業に多少の犠牲を伴っても、プリンス自動車が大きく発展していけばそれで良しと、考えていたと思う。しかし現実は期待通りにはいかず、経営が成り立たぬところまでは至らないまでも、厳しい競争の下で販売不振であった。(多分に私見が混じっている)(下は、貿易自由化を伝える日経新聞の記事(1960.06.24付))
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(3)そして販売不振の原因について正二郎は、NP合併時の表向きの理由とされた外的要因以上に、第1回日本GPへの中川の甘い対応にみられるがごとく、実務を担当するプリンス経営陣の経営センスのなさに起因すると考えていた。(1.6、2.2、2.4等参考)
(4)個人としての正二郎の問題は、すでに高齢であることで、大きなリスクを抱え込む上記の諸問題を、自ら采配を振るい経営にあたるには歳をとり過ぎていた(再三記すが当時は今の常識より、早めにお年寄り=引退していた)。(2.4、3.3等参考)
(5)一方石橋“家”の側面としては、事業後継者の幹一郎が文化人タイプの温厚な人柄(常識人)で、百戦錬磨の辣腕経営者であった正二郎の引退後に、上記(1)(2)の“爆弾”を抱え込むような困難な事態に、対処できそうにないと思われた。(3.3等参考)
(6)葛藤し揺れ動いていた正二郎はついに、プリンスの存続が困難だと決断した。主な理由はタイヤと自動車の共存の困難さと、プリンスの経営力の無さと、何より年齢の問題で、これ以上プリンスに投資し続けて資産を失う不安が急に大きくなった。その不安を決定付けたのが、第1回日本GPに対する中川の世間知らずでバカ正直な対応であった。(2.4等参考)
(7)同様にグロリアのモデルチェンジ(1962.10)の際の不信感(①を参照してください)もあり、長い間気持ちが揺れ動き、踏ん切りがつかなかったが、ここでようやく気持ちの決着がつく。(多分に憶測が混じっている)
(8)話は遡るが、BSのメインバンクの住友銀行から専務の、小川秀彦を社長に向かい入れた(1959年)ことは、合併への布石でもあった。当時一般的に、企業間の合併は、銀行が仲介するのが常識的であった。
(9)しかし住銀はトヨタとの“出禁”等の問題もあり(4項で後述)銀行任せにはできず、プリンスの合併問題も正二郎自らの主導で行うこととし、事業清算後は後継者の幹一郎はじめ、BS経営陣に託すことにした。(2.4、3.3等参照)
(10)合併問題の具体的な“手順”については次の4項で記すが、第2回日本GPに向けて、技術トップの中川に必勝を誓わせてハッパをかけ、予算も潤沢に与え、GPに圧勝することで“技術のプリンス”という、合併交渉の際の“セールスポイント”つくりに動く。これは実際に後の日産との交渉で効果を発揮した。一方でトヨタにBSのレーシングタイヤを独占供給したことも、合併への布石であった。(2.4及び後述する4項等参照)
(11)しかし以上のような“舞台裏”はけっして晒すことなく、資本自由化を前に当時通産省が推進した自動車業界再編計画に乗り、表向きの大義名分を得て、日産との合併(石橋からすればプリンス=自動車事業から手を引き売却=石橋家として利益を確保する)に踏み切った。(以上、3項のまとめ、終わり)

 最後にⅢ項で、もしプリンスが第1回日本GP(のT-Ⅵ/T-Ⅴクラスのレース)に優勝していたらどう変わったかというタラレバの話をしようと思うが、その前にシツコイがもう1点、一般に言われているプリンスと日産の合併の経緯を駆け足で辿りながら、自分の感覚的(直観的)にみてここだけは少し違うのではないかと思う妄想話を、その前に記しておきたい。

4.合併交渉にあたり、石橋正二郎にとっての“鬼門”と、その落とし所について
 ここからはプリンスと日産の合併の経緯を簡単に辿りながら、自分が思うに世間一般で言われている“定説”と、この部分だけは少し“ニュアンス的に”、違うのではないかと思う点を重点的に記したい。
ただしこのNP合併については、経済史のテーマとして真面目に研究されている方も多々おられると思うし、これから突っつく話題は全体から見れば些細な問題ともいえる。それに自分は手持ちの本とネット検索で上っ面をなぞる程度に軽~く調べただけで、全く直観的に感じた(=ということは毎度のことながら“妄想”レベル)話を記したに過ぎず、以下の話の信ぴょう性は限りなく薄いかもしれない話だということをまず明記してから、話を進める。
一般には石橋正二郎がプリンスの合併先(嫁入り先)として考えたのが、一にマツダでこれは同じ住友銀行系列であり、二に業界トップのトヨタ、三にナンバー2の日産であったと言われている。そしてそれが実際の交渉の順番であったことも間違いない。
(下は交渉相手だった松田恒次東洋工業社長。三輪自動車メーカーだった東洋工業を四輪自動車メーカーに育て上げた。)
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さらにその順番が、正二郎にとっての“本音”の部分でも、プリンス合併相手の優先順位でもあったように記述されているが、その解釈はどうだろうか?と多少疑問に思う(でも自分が本やネットで見た限りそう言っている人はいない!!ただし十分調べたわけではないので何とも言えない)。
ここではプリンス側で合併交渉を主導した、石橋正二郎と、その後ろ盾であり、BSのメインバンクであった住友銀行の視点と言うか、その思惑も加味して、プリンスの合併候補とされた3社について自分なりに再考することで、プリンスの合併問題を見ていきたい。
4.1第1候補とされたマツダ(東洋工業)について。
 マツダ(ちなみに当時は東洋工業)が第1候補とされた理由は、メインバンクが同じ住友銀行だからという“縁”があったことだ。この感覚は、今の若い世代には理解しがたいだろうが、昭和の戦後の良き時代の日本は多くは銀行が核となり、三井、三菱、住友、芙蓉、一勧、三和の6つの企業集団が企業社会を支配していた。(植木等の映画のような、今となればうらやましい、サラリーマン全盛時代だ)
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そして企業間の合併交渉は、メインバンクやグループ内の重鎮が、“仲人役”を演じるのが常であった。当時はそれだけ重みがあった。そしてマツダのオーナー社長である松田常次と住友銀行の堀田頭取の信頼関係も厚かったようだ。⑯のサイトから引用すると『住友銀行頭取の堀田庄三は、経営者としての松田恒次を特に高く評価していた。』という。
しきたり的な意味合いからも、マツダが第一優先であったことは間違いないだろう。それと両社は主力車種がほぼかち合わないという利点もあった。
この“縁談”は、正二郎も納得した上で、まったくの銀行主導だったと思われるので、マツダに関しては以下、正二郎目線でなく、以下は住友銀行の視点から確認してみたい。
合併するなら、自分のところより弱い会社とはしない。強い会社、たとえば日産自動車となら考えてもよい」と松田恒次は語ったと言われている。』(引用⑯)
マツダについては、一族のオーナー社長であった松田常次と住友銀行はもともと密に連絡をとりあっていたはずなので、松田社長の意向について、住銀は当然ながら、正式な合併交渉前から、ある程度事前に感触はつかんでいたはずだ(←この部分はまったくの想像に過ぎません)。いかにメインバンクの薦めといえどもマツダ側はプリンスとは元々消極的であったことはわかっていたはずで、しかし当時の商慣習に従い、メインバンクの果たす役割の一環としてマツダを第1優先として、仲介の労をとったのだと思う。
だが実現性という観点からは当初から、あまり高くなかったように思える(まったくの私見(妄想?)です)。
(下は(下はhttp://kairou38.livedoor.blog/archives/18140512.htmlより「ロータリーエンジン開発の提携交渉のためドイツへ旅立つ恒次一行(1960年)=「松田恒次追想録」から」)
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 ここでさらに、住銀の“本音”はどうだったか、私見がますます多く(ひどく)なるが、さらに突っ込みたい。
 まずこの時代の住友銀行の慎重姿勢からして、合併後の企業体を強力に引っ張らねばならぬ立場になるはずの、松田社長が乗り気でなければ深追いはせず、銀行主導で強引にまとめるつもりまではなかっただろう。
 確かにプリンスには社長まで送り込んだが、それは正二郎の後ろ盾(銀行の論理でストレートに解釈すれば、正二郎という個人保証(担保)があった)があればこそ、であろう。(下は1964年の東京モーターショーに出品された、マツダ コスモロータリー。ロータリー路線に邁進しようとしていた。)
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その上、いくら製品群が比較的かち合わないとは言え、企業風土が全く違ううえ、マツダ+プリンスという(当時は“弱者連合”の感覚だったのでは?)、資本自由化を前にとても盤石とは言い難い体制で、トヨタや日産、さらには巨大な外資に対抗しうるかと言えば、銀行としても自信が持てなかったのではないだろうか。成長していくためには、巨大な設備投資が継続して必要とされる自動車産業に対して、住銀の本音はマツダだけでおなかがいっぱい状態だったのではなかろうか。
以上のことから、今と違い当時の商慣習では重きをなした、双方の銀行系列が同じという自然な流れで、仁義の上からも(何せ広島が相手の交渉です!)
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礼儀として、マツダが合併交渉の第一優先だったことは当然な話だ。しかしマツダはオーナー社長の松田社長の意向次第であり、それを超えて、銀行主導でリスクを背負うつもりなど毛頭なかった。そしてここが全くの妄想部分なのだが、繰り返すが、住銀は日ごろの付き合いから、マツダからの返事は予め予想できたはずだ。
 ならば、寄らば大樹の陰で、次に記すトヨタか日産とくっつけて、対プリンスの資金の回収と当座の利益の確保、そして、住銀としての新たな商流の開拓(トヨタと日産双方とも住銀との関係は薄かった)を目指した方が得策と、考えていたように思える(私見です)。
あるいはさらに想像すれば、プリンスとの交渉を“エサ”に、険悪なトヨタとの関係修復などという甘い期待すらあったかもしれない。結果は“エサ”とは全く認定されなかったようだったが。
 つまりマツダは確かに第一優先の候補先であったが、住銀の視線からみても、最初から本命ではなり得なかった?(再三繰り返すが第一印象でそう考えただけで十分に調べた結果でなくまったくの私見で、こんなこと言ってる人もいない?)。
4.2トヨタと日産両社との良好な関係維持が不可欠だった
 トヨタと日産については、こんどは石橋正二郎の視点から、まず重要となる“前提条件”からみてみたい。
プリンス売却後に石橋(一族)にとって、なによりも重要な、存続企業となるブリヂストンのタイヤの商売の今後を考えれば、圧倒的なシェアを誇る、業界のトップ企業のトヨタと、ナンバー2の日産の、ここが重要なポイントだが、片方(1社)でなく“双方”(2社)と、いかに良好な関係を保ちつつ、プリンス売却交渉を円満に終えるかが最大の課題だったと思う(これまた私見です)。
交渉(手順)を一歩間違えれば、感情的にも取り返しがつかなくなる。しかも足元では横浜ゴムの攻勢が勢いを増す中での話だ。タイヤ事業を維持、発展させていくためには、まずはこの両社との円満な関係維持が不可欠だからだ。
 しかしここで、№1のトヨタとの“縁談”の前に大きく立ちはだかったのが、BSのメインバンクで、石橋の後ろ盾でもあり、プリンスの経営にも関与していた(専務の小川英彦をプリンス社長に派遣)住友銀行(堀田頭取)とトヨタの仲が、きわめて険悪だったことだ。(画像は大阪の住友銀行本店の写真。Wikiより)
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4.3トヨタから出入り禁止だった住友銀行
 この“出禁”は、あまりにも有名すぎる話だが、プリンスの合併(売却)先を決めていく中で、きわめて重要な話だと思う。以下長文だが、まずは出禁の経緯についてwikiより(引用⑱)
『~戦後の1950年、ドッジ・ラインに伴うデフレにより、トヨタ自動車(当時・トヨタ自動車工業)は経営危機に陥った。『トヨタの倒産は東海地方の経済に危機的状況をもたらす』と判断した日本銀行名古屋支店長・高梨壮夫(のちに日銀理事)の斡旋により、帝国銀行(のちの三井銀行→さくら銀行)・東海銀行(後のUFJ銀行)を中心とする銀行団の緊急融資の条件として、販売強化のためにトヨタ自動車販売株式会社が設立される再建策が決定された。』(下の画像は日建新聞より、トヨタを救った日本銀行名古屋支店。)
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しかし、当時、帝銀・東海と共に主力銀行の一つであった住友銀行(当時は大阪銀行)は、「機屋に貸せても、鍛冶屋には貸せない」とにべもなく峻拒、貸出金の回収に走り取引を打ち切った。(下は旧豊田自働織布工場を再生したトヨタ産業技術記念館の繊維機械館)
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当時、トヨタとの取引銀行は都市銀行・地方銀行含め25行あったが、取引を断絶したのは住銀のみである。(中略)
そして住銀との交渉過程や労働争議での心労がたたったのか、豊田(章一郎)は1952年3月に急逝した。
その後、朝鮮戦争勃発による特需景気をきっかけに、トヨタ自動車は順調に経営再建を果たし日本を代表する製造業となった。
』(下は朝鮮特需で米軍に納入したトヨタBM型トラック)
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『また、帝銀の支援をきっかけにトヨタは三井グループ入りすることになる(中略)。反面、取引を断絶した住銀に対しては、石田退三や歴代のトヨタ社長が取引再開を許さず、加えて名古屋を中心とする東海経済界では「住銀はいざとなったら頼りにならない」との風評が広がり、同地で住銀が苦戦する遠因となった。』この一件から、名古屋経済圏にとどまらず全国規模で「逃げの住友」(住銀=悪どい!)との風評がよりいっそう定まったのはご存知の通りだ。
 しかも輪をかけて最悪なことに、時のプリンス自動車の小川社長が、トヨタの経営危機の際に、当時住銀名古屋支店長として融資を断った張本人だったということだ。以下wiki⑱より続ける。
『なおトヨタの経営危機から15年後の1965年、当時業界6位で経営危機に瀕していたプリンス自動車に対して、同社のメインバンクである住銀の頭取・堀田庄三は専務・小川秀彦をプリンス自動車社長に派遣し、トヨタへの救済合併と取引再開を画策した。しかし、当時のトヨタ会長・石田退三は「鍛冶屋の私どもでは不都合でしょうから」とこれを拒否している。15年前の経営危機の際、喜一郎が緊急融資に駆けずり回る中、「機屋に貸せても、鍛冶屋には貸せない」と言い放ったのが、他ならぬ当時の住銀名古屋支店長・小川であり、融資担当常務・堀田であった(プリンス自動車は1966年、日産自動車に吸収された)。』(tumuzo
‏@tumuzoさんより写真と文をコピー 「赤煉瓦の外壁とノコギリ屋根の廃工場。繊維の街なので織物工場だったのかな。かつてはガチャマン景気で湧いた街。(愛知県一宮市)」)
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⑱の引用を続ける。『トヨタ自動車と住友銀行との取引再開が本格化するのは、三井銀行の後身さくら銀行との合併により三井住友銀行(存続会社は住銀)が発足してからである。ただし、SMBC発足の際には、トヨタに対しかなりの根回しがなされた。』SMBC発足後も取引窓口は、旧三井銀出身者に限ったとの情報もあるぐらいで、その傷跡は深い。
4.4最初から無理筋だったトヨタとの“縁談”
 ここでプリンスとの交渉の経緯を、トヨタ側からの証言からも引用する。これもまたまた超有名な本だが、石田退三と並ぶトヨタ中興の祖の豊田英二が、日経新聞に連載された私の履歴書をまとめた本の「決断」(引用⑲)から当時の合併の模様を引用する。(下の豊田英二の画像は、時事ドットコムより)
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資本自由化が刻一刻と近づくにつれ、国内でも業界再編成の機運が盛り上がってきた。最初にトヨタに持ち込まれたのがプリンス自動車との合併話。これは東京オリンピックがあった三十九年に石橋正二郎さん(元ブリヂストン会長)が持ち込んで来た。石橋さんはさすが事業家で、初めから「プリンスを引き受けてほしい」と切り込んできた。当時再編成といえば合併が当たり前という空気だった。
 ここで明記されているのは、三十九年というから、第2回日本GPの開催年(1964年)に、トヨタとの合併交渉を行っていたということだ。第2回GPでトヨタに従順な姿勢で、レーシングタイヤの独占供給を行った理由の一端が窺える。
再三記すが、当時企業間の合併話は、銀行間で取り持つのが一般的だったと言われていたが、この話は石橋が直接持ち込んで来たとある。しかし⑮によれば、堀田頭取と石橋の二人で石田会長を訪ねたとされているが、前記のwikiにあるように、住友銀行(特にたぶん堀田頭取)は“出入り禁止”状態だったので、銀行は仲介の役に立たず、石橋本人が主導したのだろう。
(なおトヨタへの打診は、その後再度(翌年の1965年で日産との交渉の3か月前?)桜内通産相を介しても行われたようだ。)引き続き⑲より引用を続ける。
プリンスとの話はトヨタの方から断ったが、石橋さんはその辺はきちんとしており、「トヨタと縁がなければ、他のメーカーにもっていかざるを得ない」と言っていた。われわれが断った時点で日産自動車と合併することはある程度予測できたし、事実その通りになった。
4.5トヨタ中興の祖、石田退三会長の拒絶
 トヨタ側は、トヨタ自工会長の石田退三、同社長の中川不器男、同副社長の豊田英二、トヨタ自販社長の神谷正太郎のトヨタ首脳陣の4人で慎重に協議をしたという。
 トヨタとの“縁談”が不調に終わった理由として一般的には、プリンスの販社の抱えていた巨額の赤字や、それに関連するがトヨタは救済的な話は引き受けない(自分の城は自分で守れ!がポリシー)、独禁法の問題、神谷の主張した販社同士の融合の難しさ等、様々と言われている。
 しかしそれ以前の感情的な問題として、当時のトヨタ首脳陣の気持ちからすれば「織屋(豊田紡績)に貸せても鍛冶屋(トヨタ自動車)には貸せない!」と言い放った小川が社長を務め、その時の融資担当常務だった堀田が頭取となって持ち込んだ縁談話が、実を結ぶことは難しかったのではなかろうか。(下は石田退三会長(当時))
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この時期(1960年代中盤)のトヨタ自動車の首脳部は、ほんの10数年前に、倒産の土俵際まで追い込まれ、俵一枚で踏みとどまり、のし上ってきたツワモノ揃いだ。
 そしてここで、長年にわたりトヨタグループを率いた番頭格の石田退三会長が、創業者の豊田章一郎の無念の思いを代弁するかの如く、上記wikiにあるように万感の思いを込めて「鍛冶屋(トヨタ自動車)の私どもでは不都合でしょうから」と切り返した話は有名過ぎる(ドラマにもなった?見てないので不明だが)話だ。
 この時期4人の首脳のなかでも、その実績からして発言権(拒否権)が大きかったと思われる石田退三の意志が、とりわけ強固だったように思える。名古屋独特の(根に持つ?)風土とも相まって、昔気質の石田からすれば、過去に受けた仕打ちをビジネスライクに、易々と水に流す気など、さらさらなかったに違いない(私見が混じっています)。
(12/21追記;最近読んだ本に、上記を裏付けるかのようなエピソードがあったので記しておく)『石田退三の)ひ孫の石田泰正は2006年冬、退三が住んでいた愛知県刈谷市の実家の地下室で、住友銀から退三あてに届いた歳暮や中元が手つかずのまま積み上げられているのを見つけている。父親からは「頭取クラスが退三におわびに来た」と聞いていたが、退三のわだかまりは終生、消えなかったのだ。』(引用㉖)
 しかしその一方で、『トヨタはその恩義を忘れない。高梨(注;トヨタが倒産の危機に瀕した当時、日銀名古屋支店長として救済に尽力した高梨壮夫)が日銀を退くと、東京トヨペット会長に迎える。喜一郎の後任としてトヨタ社長となった石田退三(故人)は、「日銀に足を向けて寝ちゃいかんよ」と、喜一郎の長男章一郎に助言している。章一郎は最近まで、日銀名古屋支店長が代わるたびに会食の席を設けてきた。』(㉖)という。なおこれは雑談の部類だが、石田の人柄を物語るエピソードを『泰正が知るトヨタ社長としての退三も、無駄遣いには厳しい。大阪の出張先で河原にござを敷いて弁当を食べていた。トヨタの経理部にいた一人娘の夫が社の経費で飲食しているとのうわさを聞くと、娘を離婚させたほどだ。』(㉖)!さすが中日新聞社らしい、地元密着型の良い記事だと思うが、倒産寸前から辛くも復活を遂げたその教訓を、生涯忘れることはなかったのだろう。
(下はトヨタの救世主となった高梨壮夫。のちに日本自動車連盟(JAF)の初代会長にもなったという。画像は中日新聞社より。)
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4.6住友銀行との関係を重視した正二郎 
 しかしその一方、住友銀行側を率いた堀田頭取としても、この時代を代表する銀行家の一人として、確固たるポリシーがあり、そうそう譲れない価値観だったに違いない。トヨタとの合併交渉が行われた60年代半ば時点では、現代と違い経済界に於ける地位は住友銀行の方が格上だったはずで、その分プライドも高かったはずだ。(下は19年もの間、住友銀行の頭取をつとめ、“住友銀行の法皇”と呼ばれた堀田庄三頭取)
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https://www.nikkan.co.jp/articles/view/00372004
話が少し逸れるが以下⑰より引用。
1965年5月31日にプリンス自動車(石橋正二郎・会長)は日産自動車との合併の覚書に調印し、日産として生き残る方針を決断した。日経新聞は一面記事で「日産・プリンスが合併」と報道し、自動車産業の業界再編の先駆事例として注目され、自動車業界を初めて一面記事で本格的に報道したニュースとなった。』ここで本文より驚くのが、日産・プリンスの合併問題が “自動車業界を初めて一面記事で本格的に報道したニュースとなった” というくだりで、現代とは大違いの、当時の自動車業界の日本経済における地位を如実に語っている。
 話がさらに脱線するが、住友銀行ほどではなかったにせよ、戦後のトヨタ危機の際には三菱銀行も消極的だったという。以下「S-PROJECT 学習のすすめ」さんの記事「世界のトヨタに学ぶ 挫折に心折るな!信念と志があれば失敗は失敗ではない」より引用⑳http://sproject.jp/ 
三菱銀行(現三菱東京UFJ銀行)は、トヨタの倒産危機の時に再建案に消極的だったと伝えられている。最終的に再建案に同調するが、これがたたった。三菱銀行のトヨタとの取引は、海外決済などに限られていた時期が続いた。三菱銀行がトヨタと本格的に取引を始めるのは、旧三和銀行、旧東京三菱銀行との再編を経て、トヨタを主力取引先とする旧東海銀行が三菱東京UFJ銀行になってからだ。』という。(下はwikiより、1950年代の三菱銀行本店)
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話を戻す。
 しかしプリンス側に住銀から社長として送り込まれた小川の人選は、実は住銀主導ではなく、住友銀行久留米支店長時代、深い親交を結んだ正二郎の推しだったという経緯があったようだ(⑯による)。
正二郎からすれば人物本位の人選で、ただ信頼がおけたからにすぎなかったのかもしれない。しかし元々住銀から社長を受け入れた理由の一つに、将来の売却交渉を進める場合の仲介役としての重要な役割があったはずだ。だが対トヨタで考えれば、小川の起用はどうみても、トヨタ何するものぞと、ケンカを売っているようなもので、決定的な障害になるだろうことは十分理解していたはずだ。
だが1959年当時の正二郎は、3項で記したとおり、まだ自動車事業への夢と野望も大きく、プリンスへの野心も売却も、いずれも確たる気持ちが持てず、気持ちが揺れ動いていたのだろうと想像する(=“想像”なので、当然私見です。ただ人間必ずしも、合理的な判断だけで行動しているわけではないし、正二郎もそうだったと思う)。
 正二郎の本音の部分では、独立系企業集団として、自らの事業を築き上げた過程で、やはり住友銀行との信頼関係維持が最優先で、表面上はともかく、対トヨタ以上に住銀の立場を尊重し、優先していたように見える。それだけ堀田頭取&小川と正二郎の間で、厚い絆で結ばれていたのだろうし、当時の企業にとって、メインバンクは命綱だったのだろう。(またまた私見です。)
 ここまでみてくると、NP合併の中で表向きの“定説”として確定している、合併の第一候補がマツダ(東洋工業)で、第二候補がトヨタで第三候補が日産というのは確かなのだろうが、3社のなかでの実際の“落としどころ”(いわば“本命”)は最初から、消去法的に考えれば、やはり日産だったように、思えてならない。(再三書いておきますが、充分研究したわけでも全くなく、軽~く調べただけのまったくの印象(思い付き)で書いているだけなので、どうか軽~く受け止めてください。)
4.7トヨタやマツダより障害の少なかった日産との合併交渉
 こうして(実は意味のあった?)回り道をしつつ結局、日産との合併交渉に至るのだが、日産との交渉は、世評言われている“史実”通りだと思うので省略する。
 何よりも日産(川又会長)にはプリンスと合併したい理由があったし、当時の常識では大きな障害とされていた、日産(興銀)とプリンス(住銀)でメインバンクが違うという点も、正二郎が政治力を発揮して関係者(桜内通産相、日産川又社長、住銀堀田頭取、興銀中山頭取、そして正二郎)を集め、国を巻き込んだ大舞台を用意し決着をはかった。(下は、今の感覚からすると、違和感のある当時の新聞記事のタイトル。かつて6大企業(銀行)グループの系列はそれほど強固だったのだ。)
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 ここではNP合併のまとめとして、ネット上の「プリンス自動車 - 外山保/石橋正二郎」の記事(引用⑰)より、日経新聞(1965/06/01)P4「早まる自動車業界の再編成」から引用させていただく。
https://database-meian.jp/tse/7201b.html
自動車業界は31日、日産自動車とプリンス自動車の両者が1966年末までをメドに合併するとの方針を発表したことに伴って、業界再編成は新局面を迎える見通しである。1962年12月、通産省の産業構造調査会乗用車政策特別小委員会が乗用車の自由化を目前にして、集中生産体制の確立、メーカーの提携合併を基本方針として打ち出して以来、久しく関心を集めてきた自動車業界の再編成はこの合併計画の具体化によって、いよいよ大手メーカーによる寡占化に向かい、本格的な幕開けを迎えたわけである。
日産自動車については業界第1位のトヨタ自動車との格差はいっこうに縮まらず、現状のままではむしろそれがますます広がる恐れが強く、この辺で合併のような思い切った手を打つ必要があったこと、またプリンス自動車については乗用車中心という自由化に弱い企業体質をもっているうえ、販売網も他社に比べ見劣りのすることから、ここ当分はともかく、長い目でみて現勢力でやっていくことに不安があった

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4.8なぜ日産の前にトヨタと交渉したのか。交渉上手だった石橋正二郎
 それではなぜ、困難を極めることを承知で、元々本命(だったと思える=何度も繰り返すがまったくの私見)だった日産の前に、なぜトヨタと交渉したか、だが、先の豊田英二の本の中の、正二郎の言葉の中に、そのヒントがあると思う。⑲より再録すると、
石橋さんはさすが事業家で、初めから「プリンスを引き受けてほしい」と切り込んできた。当時再編成といえば合併が当たり前という空気だった。プリンスとの話はトヨタの方から断ったが、石橋さんはその辺はきちんとしており、「トヨタと縁がなければ、他のメーカーにもっていかざるを得ない」と言っていた。われわれが断った時点で日産自動車と合併することはある程度予測できたし、事実その通りになった。
 あらためて振り返れば、ここはさすがに、正二郎は交渉上手だったと思う。
 ここで、マツダと住銀の話は脇におき、トヨタと日産に話を絞り、正二郎(プリンス)&BSの視点から以下、要点をまとめると、まずプリンスとの合併交渉については、
《1》4.3~4.5で記したとおり住銀も小川社長も絡む上に、BSは住銀との関係も断てない(そのつもりも元々ない)ため、トヨタとの合併交渉が実を結ぶ可能性はごく低かった。
《2》一方4.7で記したとおり、日産との合併交渉は障害もあったが日産(川又社長)自身が前向きなため解決は可能で、可能性が高かった。(下は時事ドットコムニュースより、「日産・プリンス合併 正式合併で調印する川又克二日産自動車社長(右)と石橋正二郎プリンス自動車工業会長」)
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https://www.jiji.com/jc/d2?p=mos10002-01703899&d=004soc
《3》しかし先に4.2項で記したとおりBSにとってはプリンス売却後も、トヨタと日産の両社と良好な関係を保つことが、タイヤ商売の上では何より重要だった。(つまり2社“両立”させることが必要。)
《4》そこで交渉の手順として、日産の前に業界No.1企業のトヨタを優先させて、いきなり直球で「プリンスを引き受けてほしい」と断られるのを覚悟の“ダメモト”の交渉を行う。
並行して第2回日本GPへのBSレーシングタイヤの独占供給などのサービスも行い誠意を尽くす。そして予想通り『プリンスとの話はトヨタの方から断った』とトヨタ側から断ってくる。
《5》ここで、その言葉を“待ってました”とばかりに正二郎は「トヨタと縁がなければ、他のメーカーにもっていかざるを得ない」と切り返し、トヨタに日産との交渉を行うための “仁義” をきる。
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言外に “トヨタさんを優先したが、そちらさんが断ったのであっしらプリンスとしては生きるためやむを得ず、話を日産にもっていかざるござんせん” と仁義を切り、ここで日産との交渉を始める上での”免罪符“を得る。(画像はフリーソフト いらすとやさんより)
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《6》さらにトヨタの頭の石田会長からは「鍛冶屋(トヨタ自動車)の私どもでは不都合でしょうから」という“名セリフ”まで飛び出して、トヨタ陣営一同、溜飲が下がる。しかし正二郎&BS陣営からすればこれで少なからず、ガス抜きをしてもらったことになる。(下もいらすとやさんより)
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《7》またトヨタとの交渉決裂の後、日産との合併会社の正式な発足まで十分な時間的な猶予があり、トヨタは対抗手段が打てた。合併発表から正式調印までの1年近くの間に、ネガティブキャンペーンで不安感が漂うプリンス車ユーザーの切り崩しを行い、社内引き締めの材料にも利用できた。
 つまるところ、NP合併は、日産にとってもトヨタにとっても、そんなに悪い話にはならなかった。たぶんBSも2社(日産は問題ないにして特にトヨタ)から“根に持たれる”ことにはならず、この難局を無事乗り切った。正二郎の交渉の手順が正しかったからだろう。(2020.01.03追記;当時市場が拡大中だったことも大きかっただろう。)
もちろん(無事売り抜けた)石橋家や住銀にとっても悪い話ではなかった。正二郎にとっての誤算は、日産の川又会長が途中でごねて、合併比率が変更されたことと、プリンスの車名を残せなかったことぐらいだろうか。(以上、私見でした。)

Ⅲ.もしプリンスが第1回日本GPに優勝していたら、歴史はどう変わったか
 さていよいよと言うかようやくこの記事の“本題?”です。もし仮に中川良一が第1回日本グランプリに対して終始見下すことなく、途中で他社動向の変化にヤバイと気づき、石橋正二郎に相談しつつ遅ればせながらも対応し、激戦のT-Ⅵ/T-Vクラスレース(グロリアとスカイラインのクラス)でトヨタといすゞを辛くも何とか抑えきり、仮にプリンス車が勝利したとする。そうなったら、その後の“歴史”はどう転がっていったか、想像してみた。
当然ながら、以下の物語?は全てフィクションで、いちいち“私見だが”とかことわりがきは書かないが全編妄想話です(わかりやすく、“正史”に対しての“異史”としておく)。ではまずは手短に“事務的”(面白みのない)な部分から始めます。

1.中川の描いた“地上の夢”、R38Xが世界に羽ばたいた!
1.1企業業績に対する影響

 “正史”では第1回日本GPの惨敗で、プリンス車の販売が大きく落ち込み苦境に陥ったという。しかし“異史”では当然ながらその勝利を大々的に広告宣伝し、販売は落ち込むどころか逆方向のプラス側に転じた。(下の第2回日本GP後の広告、“プリンス圧勝”のように)
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巨額の費用を投じた村山工場の稼働率はアップし、販売現場ではGPに負けたための苦しい値引き販売も減り、その両面から利益率が向上した。そして合併時に問題となった販社の赤字の縮小にも貢献した。
1.2NP合併に対しての影響
 中身はともかく、大筋の内容は変わらなかった。今まで見てきたように、第1回日本GPの惨敗は、合併へのトリガーにはなっても、それが主因ではなかったからだ。“異史”においても、相手はやはり日産だったが、合併比率(“正史”では日産とプリンスの合併比率が1対2から交渉途中で1対2.5に変更されてしまう)は結局1対2以内で納まる。その比率UPの分だけ、合併後のプリンス側従業員の肩身の狭い思いは軽減された。
そして目に見える成果として何よりも大きかったのは、“プリンス”のブランドが、石橋正二郎との約束通り、当面残されることになった点だ。(”正史”では反故にされてしまった。しかし”異史”でも従業員にとって、下の写真のような場面は結局、変わらなかったか?)
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1.3 市販車への影響
 “異史”における大きな成果の一つが、プリンスのエンジン技術の集大成として、BMWを手本とし、当時の日本の量産エンジンの中でも屈指の高性能エンジンといわれた、プリンス製4気筒G15/G18エンジンの、日産系車種への採用であった。
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 両社で重複した設備投資等のタイミングの問題もあり(日産はトランスファーマシンを導入済みだった)難しい決断を要したが、ここは合併比率のUPが力となり、最後は性能本位で日産系エンジン(L16/L14)に代わり選択された。そして1960年代の国産量産車を代表する名車の、ブルーバード510にも搭載されて、全世界でより一層の好評を得る。(下の510ブルーバードは性能、品質、価格、耐久性のバランスで、世界基準を超えた最初の日本車だった(この510の評価は“正史”です。念のため)。)
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(ラリーでも大活躍し、ついに1970年のサファリラリーに総合優勝を果たす。ホンダのF1での勝利を除けば、日本の量産車で初の世界的な自動車レースの制覇だった。(これもそのまま“正史”です。)
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 そして“異史”においては存続することになったプリンスのブランドは、後述するR38×シリーズの国際レースへの参戦と並行して、海外戦略面を強化する。日産ブランドのブルーバード510の名声に相乗りする形で、海外市場ではブルーバードの上位車種として、より硬派でスポーティー路線の、プアマンズBMW的なイメージで売り出されることになった。
ここで量産車部門でのレース活動にも触れておくと、ラリーは日産(ダットサン)が受け持ったが、ツーリングカーレースはサニー(日産)とスカイラインGT-R(ハコスカ)の分担となり、特にスカイラインGT-RはスカG(輸出用は6気筒L24型搭載)の輸出市場開拓を目指して、本場欧州のツーリングカー選手権(グループ2)に2000GT-Rで勇躍参戦する。
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当時の本場のレースのライバルは、BMW2800CS、
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フォード カプリ RS2600(写真はレース仕様)
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オペル コモドーレ(この時期のオペルは実に繊細で美しいデザインだった。)
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そして大迫力の、メルセデスベンツ300SEL6.3(レース仕様)など、歴史的に見ても手強い相手が揃っていた。
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当時の白熱した“本場”グループ2ツーリングカーレースの光景です。
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 しかし国内レースでは2ℓで十分だったが、国際レースの舞台では世界の強豪相手に、パワー不足で苦戦を続けた。
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 この苦しい局面を打開すべく、スカGの国内セールスの好調をバックに力をつけた櫻井らが、(“正史”におけるスカイライン2000GTの時のように!)大排気量化したエンジンに乗せ換えて、有り余るパワーでライバルを圧倒すべく、S20エンジンの拡大版の新型“S30”(3ℓ直6DOHC24バルブエンジン)エンジン搭載案をぶち上げる!
 国内に比べて不調だった海外セールスに活を入れるべしという米国日産の後押しもあり、4代目(ケンメリ)スカG(ちなみに“異史”におけるベーシックな輸出バージョンはSOHCのL30を旧プリンス陣営の手で軽くチューニングして搭載していた)デビューのタイミングでついに実現する。歴史に残るモンスターマシン、スカイライン“3000”GT-R誕生の瞬間だった!!
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 そして1973年シーズン到来とともに高橋国光、北野元、黒沢元治、長谷見昌弘らの腕利きとともにヨーロッパのサーキットを転戦し暴れまわり、BMW、フォード、オペル、メルセデス・ベンツら世界の強敵たちと死闘を繰り広げるのであった!!・・・・・(そこにマツダロータリーも3ロータで??)
(まだまだこの先(続き)が長いが、あまり妄想がすぎるとスカG、プリンス党からイーカゲンな話ばかりやめろとブーイングが出そうなので、この辺でおしまいにします。)
1.4 レース活動への影響
1.4.1 R380でル・マン24時間&世界スポーツカー選手権へ
 話の展開上、ツーリングカーレースの話が先に出てしまったが、元々の流れはR38Xを主題としていたのでレース活動はいよいよ、ここからが(ようやく!)本題だ。
 まずは時計の針を戻し、第1回日本GPで勝ち、中川良一が石橋正二郎会長に、レースの報告に行く場面から、この“ドラマ”(“異史”)は始まる。
 ここで中川は得意満面になり、思わず(前の記事⑭の7項で記した)“R38×構想”の想いを熱く語る。この話について正二郎は以前、中川からそれとなく聞いていた話でその時は“流して”いたが、今回は、その言葉を捉えて離さなかった。
 今まで述べてきたように、正二郎の合併(売却)の腹はすでに固まっており、そのためには国内の大きな草レース的レベルだった第1回日本GPの勝利だけではアピールが弱い。売りである“技術のプリンス”のセールスポイントをさらに“盛る”必要性を感じていたところだったのだ。 
 そこでここは中川構想に乗り、手始めにR38×構想のスタートとなる、2ℓ直6プロトタイプのR380の開発を命じ、まずはルマン24時間レース参戦を目標に掲げる。国内よりもむしろ世界に目を向けて、プリンスの持つ技術力を示すことになったのだ!(ちなみに翌年開催の第2回日本GPのGT-Ⅱクラス(1001〜2000cc)には量産義務(最低100台)の規定があり、R380は出場できなかった。)
この思わぬ展開に、中川が驚喜したことは言うまでもない!これによりR38Xシリーズの開発は“正史”より実質、1年前倒しでスタートしたことになる。
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 なお同選手権はヨーロッパが主舞台なため、ジャック・ブラバム&ロン・トーラナックのシャシーコンストラクター、モーターレーシング・ディベロップメント(MRD)に全面的な協力を仰ぐこととなった(裏だけでなく両社の関係を公けにして;前の記事の9項参照)。MRDはフォーミュラが主体だったため、かち合わずにお互いメリットがあったのだ。
 以後はほぼ、中川の“R38X構想”通りに、1965年からルマン24時間レースに出場し、1966年から世界スポーツカー選手権に参戦を果たす。しかし世界の壁は厚く、2ℓクラスにはポルシェという強敵が立ちはだかり、善戦はするものの、日本GPのような“地の利”もいかせず、残念ながら目立った戦績を残せなかった。(ちなみに国内の日本GPの戦績は、結果的には大筋変わらなかった。)
1.4.2 R382(スポーツカーバージョン)で国際メイクス選手権、制覇に挑む
 結果が出せずに低迷したプリンス陣営はここで一念発起し、1969年シーズンに向けて、大きな賭けに出る。国際メイクス(メーカー)選手権の、“スポーツカー(クラス)”の生産公認に必要な連続12月間の最低生産台数が50台から25台へ引き下げられたのを受けて、それまでのプロトタイプのカテゴリーから、排気量の大きい(5ℓ)スポーツカークラス(グループ5仕様;今までと違い総合優勝狙いとなる)への挑戦を高らかに宣言したのだ!
 そしてMRDと共同で5ℓV12のGRX-1エンジン搭載のグループ5仕様(クローズドボディ)の“プリンスR382”を25台生産、FIAの公認を得る。1969年のスポット参戦を得て、いよいよ1970年シーズン、ポルシェ917とフェラーリ512の一騎打ちに割って入る、三つ巴の戦いが始まったのだ!!(下はグループ5の公認を受けるため、ずらりと並ぶ、ポルシェ917)
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下はポルシェ917とフェラーリ512
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 しかしこのときすでに日産自動車本体は、モータースポーツへの出費の多さに音をあげつつあった。しかも戦績も不振で、耐久レースへの経験不足も相まって、掛け声とは裏腹に1970年シーズンは1勝も挙げられず、社内での発言力も急速に勢いをなくしていった。
 中川のR38X構想では、6ℓT/C付1000馬力のグループ7のR383/4で、トヨタと同様Can-Amシリーズ参戦計画もあったが、排ガス規制強化で人材を割かねばならぬ必要もあり、結局1970年シーズンを最後に、前記のツーリングカーレースを除き、ワークスとしての活動をいったん中止する。(1971年シーズンは、プライベーターの支援を主体に行った。)
1.4.3 ”栄光のル・マン”
 ご存知スティーヴ・マックイーンが企画・主演した映画“栄光のル・マン”の中でも、東洋からの新参の挑戦者として、急遽短いながらもエピソードが盛り込まれ、プリンスの知名度をより一層高めた。映画の中で中川良一に似せたキャラを三船敏郎が、櫻井眞一郎役を石原裕次郎がそれぞれ演じた。
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 実際に撮影の行われた1970年のル・マン24時間に出場したプリンスワークスの、3羽ガラス(高橋国光、北野元、黒沢元治)と長谷見昌弘も撮影に協力した。中でもマックイーンは北野元のキャラを気に入り、そのため映画の中でも急遽“役”を作り、北野が”ニヒルなサムライをイメージした”、日本人レーサー役を演じることとなったという。
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下は日産が全面的に協力した1970年の石原プロ映画、「栄光への5000キロ」(富士スピードウエイにて)
左から横山達、北野元、石原裕次郎の各氏
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1.4.4 1971年ワトキンスグレン1000km、国際メイクス選手権最終戦
 鳴り物入りで登場した、5ℓV12のプリンスR382(グループ5仕様)が出場できる最後のシーズンとなった翌1971年、国際メイクス選手権最終戦のワトキンスグレン1000km(アメリカ)に、プリンスワークスは久々の出場を果たす。“異史”における” スカG伝説”では櫻井が辞表を胸に最後の1戦への参戦を、川又社長に直訴した結果だというが、実際にはアメリカ開催のレースということで、米国日産の片山豊社長の猛プッシュが効いたらしい。
 このラストチャンスにプリンスは、高橋/黒沢組と北野/長谷見組の精鋭2台のワークスR382を送り込んだ。そしてレースでは高橋/黒沢組が上位陣のトラブルもあり僅差で逃げ切り、最終戦で見事勝利を飾り、R38Xシリーズの有終の美を飾った。(下は“正史”でこのレースを制した、アルファ・ロメオT33/3)
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1.4.5 1973年スパ・フランコルシャン24時間レース ヨーロッパツーリングカー選手権
 1.3で既述の通り、期待のモンスターマシン、スカイライン“3000”GT-Rを投入した73年シーズンで、ついに大きな勝利の瞬間がやってきた。ツーリングカーレースの最高峰、スパ・フランコルシャン24時間耐久レースで、北野/長谷見組の3000GT-Rが激戦の末2台の強敵、BMW3.0CSLと、
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フォードカプリRS2600を下し、
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ついに勝利の栄冠を勝ち得るのだ!しかし排ガス規制対応もいよいよ火急を要す中での海外レースへの傾注に、社内の批判はいよいよ高まった。
1973年シーズンも終わり、プリンスワークスはついに海外活動休止を宣言し、ここに一時代を築いた、中川+櫻井による“Rの時代”は終わりを遂げることとなった。
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 次に、第2回日本GPにおける“スカイライン神話”を生むきっかけとなった、あの伝説のレースは“異史”ではどう変わっただろうか。次項で探ってみたい。

2.第2回日本グランプリ “神話” のゆくえ
2.1 R-380は出場できなかった
 ここでこのブログの前の前の⑬の記事、「第2回日本グランプリ(1964年)“スカイライン神話の誕生”」を振り返ると、“正史”では、「プリンスは3種目制覇を狙って、主力車種のスカイライン1500(T-Ⅴクラス)、グロリア(T-Ⅵクラス)に加えて、メインレースであるスポーツカー部門(GT-IIクラス)に秘密兵器のスカイライン2000GTをエントリーした。」となる。
 そこで単純に考えて、“異史”においても、メインレースであるGT-Ⅱクラスのレースに、生まれたてのR380が出場できれば何ら問題なかった。しかしことはそう都合良く運ばなかった。GT-Ⅱクラスに出場するためには、最低100台クルマを作り上げねばならない。経験のないR380は成り立ちからして、スカイラインGTのような突貫作業では作れないので、これはいくらなんでもハードルが高すぎて無理だろう。出費を考えても、ポルシェ904は過去の実績があればこそ、はじめて100台作り、高価なスポーツカーを全世界相手に売れるのだ。
2.2 “スカG神話の誕生”は(T-Ⅴクラス)、(T-Ⅵクラス)レースで圧勝できるか次第
 次に、主力車種のスカイライン1500(T-Ⅴクラス)、グロリア(T-Ⅵクラス)が出場する第2回日本GPの、2つのレースの当時の状況を再度確認してみてみたい。
気になるのは前年の“異史”における第1回日本GPを振りかえれば、プリンスの誇る中島飛行機伝来の高いチューニング技術をもってしても、グロリアは6気筒モデルの登場前で、スカイラインに至っては末期モデルだったこともあり、両レースとも辛勝だったのだ。(下は“正史”の第1回GPに出場したスカイライン。見た目からして古臭い。ドライバーは生沢徹。)
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 仮に国内セールスにもっとも影響するこれら2つのレースに、第2回日本GPで十分圧勝できる目星をつけていれば、“正史”のようにGT-Ⅱクラスに新たにスカイラインGTを作り上げてまで参戦しないだろう。“異史”ではすでに、世界(海外)を目指し始めていたからだ。
またこのクラスにプリンスは、元々該当する量産車の無かった(下の写真の、少量生産車のラグジュアリーカー、“スカイライン スポーツ”もすでに生産終了していた。国産車で言えばGT-Ⅱクラスは“フェアレディ”のクラスだった。)
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https://gazoo.com/catalog/maker/PRINCE/SUKAIRAIN_SUPOTSU/
 しかし両レースで勝つかどうかもわからないような状況まで追いつめられていれば、あるいは“正史”におけるスカGという“隠し玉”を用意したかもしれない。
 そこで、第2回日本グランプリにおいて、主力車種であるスカイライン(T-Ⅴクラス)、グロリア(T-Ⅵクラス)が出場した両レースの状況について、当時トヨタチームに所属し、ライバルの立場からプリンス車を見ていた徳大寺有恒(杉江博愛)の目を通して、状況を確認する。
2.3第2回日本GP(T-Ⅵクラス)、グロリアの圧勝だった
第2回日本GPは1964年5月開催で、その前年の1963年6月に、6気筒の“グロリア スーパー6”がデビューしている。
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このスーパー6用GR7型6気筒SOHCエンジンのパワーが、どのくらい絶大なものだったかは、当時のレース界を知る徳大寺有恒が著書で語っている。(グロリアが上位を陣取る第2回日本GPのT-Ⅵクラスのスタートの光景)
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グロリアがいかに高性能だったかは、第二回日本グランプリに登場した6気筒グロリアが同クラスの他車をまったく問題としなかったことでよくわかる。セドリックなど、おそらく最高速度で20km/h以上の差をつけられていたはずである。サーキット上のグロリアはどこでもいつでも、好きなようにライバルを抜き去ることができた。まさに「誉」ここに蘇るというやつである。』(引用㉑)と記していることからわかる。当時の同クラスの国産車比較ではブッチギリの存在だったのだ。
結果はまさに下のとおりだった。
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では、T-Ⅴクラスではどうだっただろうか。

2.4第2回日本GP(T-クラス)、同じくスカイラインのぶっちぎりだった
 スカイラインも前年の1963年9月に、フルモデルチェンジしていた。
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 この新型スカイラインがまた圧倒的に強かった。第2回日本GPでは1~8位までを独占し、まさに圧勝だった。
 これは驚くべき話だが、当時トヨタチームの一員としてコロナでこのレースを戦った徳大寺はなんと、プリンスワークスの生沢に頼んで後日こっそりと、練習中にワークススカイラインを運転させてもらったという!その時の印象を以下引用㉒より。
『~いくら友人とはいえ、ライバルチームのドライバーにステアリングを託すなど今では考えられないだろうが、実際に僕はドライブしたのである。(下は当時の生沢と杉江)
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 乗ってみて驚いた。エンジンは平凡なOHVシングルキャブにもかかわらずよく回るし、ハンドリングも軽快で、全体のバランスがすばらしかった。』(スカイラインが上位を独占した第2回日本GPのT-Ⅴクラスのスタートの光景)
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車本来の素性の良さとともに、今までみてきたように、中島飛行機伝来のチューニング技術も威力を発揮したのだろう。
 以上のように、当時のプリンス量産車の高性能さは国内では抜群なものがあり、他車(社)は全くつけ入るスキがなかったと言っていいだろう。
 となると敢えて、下の写真のクルマを作って、GT-Ⅱレースに繰り出す必要もなかったと思う。
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2.5第1回日本GPの惨敗があって、“スカG伝説”は生まれた
 さて、ここまで長い間、延々とみてきた、以下が結論になる。
 もし仮に、中川良一が第1回日本GPを見下すことなく真面目に対応し、C-VIクラス(グロリア)とC-Vクラス(スカイライン)で勝利していたならば、対第2回日本GP用に、スカイラインGTは生まれなかった可能性が高い。そうなると皮肉なことに、あの“スカイライン神話(伝説)”も生まれなかったことになる。
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http://ah5243.blog72.fc2.com/blog-entry-83.html?sp
 だがもし仮に、”異史”のように、国際レースの舞台で華々しく戦っていれば、新たな形での ”スカイライン/プリンス伝説(神話)” が誕生していたかもしれなかった。
 しかし第1回日本GPの惨敗も含め、それらすべてが、“運命のいたずら”だったのだろうか。
 と、迷走した話に無理やりオチをつけて、“ⅡとⅢ”の話をこの辺で終わりにしたい。

Ⅳ.“ 誉”エンジンと、初代スカイラインGT-R(S20エンジン)について
最後に短い小ネタを。
 “誉”について、いろいろ調べていく中で、多くの方々が指摘している結論めいたものとして、「零戦などに積まれた定評ある栄エンジン(14気筒)のボア×ストロークはそのままに18気筒化し、回転数、ブースト圧をあげて工夫を凝らしてチューンアップした、レーシング・エンジン的な性格の、デリケートさ(取り扱いの難しさ)があった」エンジンだということだ。誉のベースとなった栄エンジンの約1.3倍の排気量で約2倍の出力を狙ったのだからどうしてもそうなるのだろう。
 アメリカの同時代の2000馬力級エンジンと比べても、“誉20型”のリッター当たり出力が、55.8馬力なのに対して、同じ空冷二列星形18気筒エンジンで、陸軍の爆撃機向きのエンジンといわれたライト社の“R3350は、1943年実戦投入の“R3350-23”で39.6馬力、(下はR3350×4発のB29)
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http://blog-imgs-34.fc2.com/n/a/b/nabe3rr/Boeing_B-29.jpg
 より小径で戦闘機向きと言われたP&W社製“ダブルワスプR2800”も1939年型で43.5馬力に過ぎなかった。(下はR2800エンジン。Wikiより)
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誉はダントツで、ハイチューン・エンジンだったのだ。
 そこで思い出すことが一つある。初代スカイラインGT-R(レース仕様でなく市販車)の“気難しさ”だ。(下は見事に整備された、GT-R用S20エンジンの一例)
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https://plaza.rakuten.co.jp/edigi/diary/200602080003/
 といっても、自分は当時カーグラのテスト記事を追っていただけで、ごく限られた情報の中から受けた印象に過ぎないのだが、以下スカイライン ハードトップ2000GT-R(レギュラー仕様)を谷田部でフルテストした、当時のカーグラの記事より抜粋する。(引用㉓)
『~顧みると、GT-Rに関する限りわれわれはどうもついていなかったということができる。1969年春GT-Rセダンがデビューした直後、直ちに谷田部に持ち込んだが(リポートはC/G90号)、エンジンの不調で5速より4速の方がスピードの出る始末だったし、クラッチ・スリップのため加速テストを中止せざるを得なかった。数日後に修理なったGT-Rを再び借りたところ、何たることか東京は3月としては気象台はじまって以来という大雪に見舞われ、あたらGT-Rは2日間、30cmの積雪に埋もれてしまったのである。(中略)
 前記のように、以前GT-Rセダンを谷田部に持ち込んだ際は、エンジンの整備不十分のため高速域でパワーが出ず、最高速は179.55km/hにとどまった。以来、GT-Rの実力を確認することが、C/G読者に対するわれわれの公約であったし、筆者自身にとってもひとつの執念のようなものとなったのである。
 今回の谷田部テストは、理想に近い条件の下で行うことができた。車の整備状態は完全であり、気象も快晴、ほとんど無風、低温高湿度で申し分ない。
(中略)
 結局、フライング1kmの平均は185.56km/h、5.5kmのラップ平均は風の影響が多少出て184.01km/hであった。これはうえに説明した理由で、レギュラーGT-Rの実力と考えられるが、率直に言ってわれわれの期待を若干下回る者であった。
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 確かにGT-Rは、たとえばファミリアロータリーみたいに直線だけが取り柄のクルマではなかったが、この”若干”低い数値には、読者も失望を通り越して、戸惑いを覚えたものだった。
 そしてこの初代スカイラインGT-Rのエンジン、S20型こそ、あのR380に積まれたGR8型の直系エンジンであることは、言うまでもない。まさに中川の息のかかった、最後のエンジンと言ってよいだろう。思わず“誉”と“S20”をオーバーラップさせてしまった。
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https://carview.yahoo.co.jp/news/market/20190612-10418337-carview/5/#contents
 この記事の約20年後、R32 GTRが出たころ、カーグラは“スカイラインGT-R OLD&NEWという特集を組んだ。その中で小林彰太郎は、「GT-Rに嫌われたぼく」という題の一文を寄せている。(引用㉔)
GT-R(PCG10)とぼくはどうも相性がよくないらしい。それが新車だった当時、何度日産広報から借りてテストしても完調ではなく、また調子がよいときには雪が降ったりして、谷田部で満足すべきデータを採れたためしがなかった。』という文章で始まるのだが、このGT-R特集の中で、“ミスターGT-R”と名乗る四国在住のGTR愛好家が、自身の“改良”GTRを持ち込み、CGのテストに供した。昔のCGデータが不満で仕方がなかったという氏の持ち込んだクルマはまるで別物のようによく走ったそうで、『ぼく(小林)が参ったというと、今夜の酒は美味いでしょうなあと、さも愉快そうに白い歯を見せた。』そうだ。このGT-R愛好家氏の心情はよくわかる。
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 当時のカーグラのテストも、今から読み返せば、雪に災いされた面もあったようだし、思いのほか低速でも粘る、かなりフレキシブルなエンジンだったようだ。全般的に“神経質”そうなクルマだという先入観があったのは、最高速の低さから受けた印象からだったように思える。
 なおGT-Rハードトップのテスト車両は、低圧縮比のレギュラー・ガソリン仕様(ハイオクVerの160馬力に対して155馬力)で、『実際のパワーダウンは5Hp以上のものがあったといわれるから、これが実力だろうとわれわれは慰め合った』(㉔)という。当時“低鉛ガソリン”(92オクタン程度)と呼ばれていた。
 それにしてもこの、オクタン価が低いから性能が出なかったと言う話は、誉みたいで何やら因縁めく。(こじつけ過ぎ? Ⅳ項終わり。)

【参考】
以下の文章は、ほとんどが前間孝則氏著の「悲劇の発動機「誉」(引用③)と、+桂木洋二氏の「歴史の中の中島飛行機」(引用㉕)から引用させていただいた。興味のある方はぜひ原書で確認願います。技術論の部分は省いているが、中島知久平という、時代が生んだ偉人とその会社について、理解の一助になれば幸いだ。
自分から一言だけ付け加えれば、中島が育てた優秀な技術者たちの恩恵をもっとも授かったのが、戦後の自動車産業であろう。そのことの一端を、次回の⑯番目の記事で記しておきたいと思っている。なお、文中に挿入したイラストと機種の解説の多くは、「中島飛行機 物語」よりコピーさせていただいた。感謝します。(下記のwebです。)
http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/nakajima/naka-cont.html

日本の飛行機王、中島知久平
『戦前の軍需企業としての主要航空機メーカーの歴史を見ると、航空機の機体あるいはエンジン分野への進出はほとんどが』大正期である。それも、巨大財閥系化か、あるいはそれに近い企業集団として確固たる経営の基盤をもっている企業がほとんどである。
 それらの大企業は、日本の陸海軍が、航空機先進国である欧米諸国が軍用機に力を入れはじめたことに追随しようとしているのを見定めて、「これは将来、航空機が事業として発展する」と見込んでこの分野への進出を決め、社内に新たな一部門として新設している。
 ところが中島飛行機だけは異色である。創業者の中島知久平は、海軍の技術士官として将来を嘱望されながら三十三歳の若さで軍人を辞して、細々とながら航空機機体の製作会社を立ち上げた。知久平の熱い志からはじまった会社で、今にいう脱サラのベンチャービジネスだった。
(日本の飛行機王、中島知久平。画像はwikiより)
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 群馬県の片田舎の農家出身だった知久平が、航空機の将来性に賭け、同地近くに飛行機研究所を立ち上げたのが大正六(1917)年。その後は政府の空軍力増強という時代の追い風に乗って急発展を遂げ、一代で二五万人(昭和二十年時点)を擁するまでの巨大企業を築き上げることになる。
 知久平は後に社長を辞して、代議士となって大政党の政友会のリーダーとなり、近衛内閣の時に鉄道大臣も経験した。それでも社内では「大社長」と呼ばれて実質的なトップとして君臨し、第二次大戦の敗戦を迎えるまでワンマン体制を敷いた。中島飛行機について語るとき、また「誉」エンジンに着目するとき、彼を抜きにして語れない。
 知久平の考え方は、中島飛行機の経営理念や軍部とのつながり方、新機種の開発戦略や設計思想、人材配置などすべてにわたり、すみずみまで深く浸透していた。知久平は絶対的存在であり、中島飛行機という企業に、また、「誉」に、直接的あるいは間接的にさまざまな影を投げかけている。
 日本において国を代表するような一大企業を築き上げた一連の創業者を思い浮かべても、その経験が元軍人で大物政治家でもあったという例はきわめてめずらしい。その点においても知久平は稀有な存在であり、また異色の存在でもあった。
 また巨大航空機メーカーを一代で築き上げたことで、知久平はいつしか「日本の航空機王」と呼ばれるようになる。』
中島知久平の信条
『そんな知久平の真骨頂は、その時代時代において、誰にもまして、先を見通しながら大胆な賭けをともなう決断を行い、その目的に向かって旺盛な行動力で突き進んでいく姿勢であろう。その時代の常識的な見方には目もくれず、危ぶむ周囲の意見や批判にもほとんど耳を貸すことなく、自信満々、あるいは自信過剰なまでの泰然とした姿勢で臨む。徹底的なプラス思考である。
たしかに「創業は衆に諮らず」との格言もあるが、周囲の人々は彼の行動を見て、「はたしてこの人物はリスクというものを考慮に入れているのだろうか」と疑いたくなるほどであったという。』
航空機専業の巨大軍需企業
『航空機専業メーカーで、大きく発展を遂げた企業といえば、日本の航空100年の歴史において中島飛行機一社のみであった。
 軍用機専業メーカーとしての中島飛行機の成功は、知久平の特異な資質を抜きには語れない。
 その第一は、民生品の事業では考えられないほど大胆というか向こう見ずなまでの決断力である。第二は、資金調達能力であり、第三は、軍および政府への食い込みによるコネクションづくりのうまさであった。
 知久平は、政治力の不足を痛感していた。明治の時代から、政界や軍部に深く食い込んで「国家とともに歩んできた」総合メーカーの三菱など財閥系企業と比べれば、明白である。それゆえ、より軍部との密接な関係を強め、政商一体の経営体制を築こうとした。
 戦前の航空機メーカーが生産する航空機はほとんどが軍用機であって、いわゆる軍需企業である。このため、市場原理で動く民生品を生産する民間企業とはおのずと行動様式や経営の性格が異なる。
 現在の日本には軍需専門の巨大企業は存在しない。それだけに、今の時代の巨大企業トップの行動基準から、経営者としての中島知久平に迫ろうとしても、その真髄を捉えることは難しいだろう。しかも、中島飛行機は他の航空機メーカーと違って、航空機専業のメーカーであった。三菱や川崎、石川島などの航空機メーカーはいずれも総合重機械工業であって、航空機生産は数ある事業部門の一つでしかない。』
中島知久平の経営理念
『常日頃から知久平は次のような経営信条を口にしていた。
「経営の根本義は良い品を作ることにある。いかにそろばんに妙を得ても製品が粗悪では工場はつぶれる。これはあらゆる製造業に通ずる鉄則であり、特に飛行機を造ることに営々として性能の優れたものを生産しておりさえすれば、営利は無視しても自然に大をなすことができる」(佐久間一郎伝)
 このような経営姿勢は軍を相手の受注競争では有利に働くが、マイナス面も多くあった。
 他社と比べて、できるだけ陸海軍双方からの要望や要求に沿うかたちでの新鋭機開発が行われるために、無理強いされて容易に試作されがちで、その数もやたら増えて、失敗作が目立っていた。』
日本の航空史;外国機の模倣期⦅1915~1931年頃⦆
『一般に戦前日本の航空史を区分すると、明治末から大正四(1915)年頃までの欧米機輸入時代を「揺籃期」と呼んでいる。中島飛行機が創業をスタートさせた大正五(1915)年頃から、昭和六(1931)年頃までを「外国機の模倣期」と呼んでいる。
(下は、陸軍九一式戦闘機。空冷9気筒「中島ジュピター」7型450馬力を搭載していた。)
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 海軍航空技術廠の大築志夫技術士官はこの「模倣期」について次のように記している。
「海軍の試作計画は昭和六、七年頃迄は確固独立のものではなく、漠然とした要求-設計技術が十分にできておらなかったために、実現可能範囲と作戦上の要求とを、はっきり検討することができなかった-に基き、そのタイプモデルを外国の既成機にも求め、これをやや日本的に改造して要求を決める程度であった。そしてこの頃は作戦的に要求の酷似している米国から購入することが最も多かった』(「日本航空学術史」「海軍航空技術研究機関の活動」)
(下は、中島 三式2号 艦上戦闘機。中島ジュピター7 450馬力搭載。)
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日本の航空史;自主開発政策による自立期⦅1932~1945年⦆
 昭和六年九月、満州事変が勃発して戦闘が拡大、日本は国際的な非難を浴びて孤立化の道を歩み、軍事情勢が緊迫化するなか、陸海軍は航空機の自主開発政策を推し進めることになるが、これ以降を「自立期」と呼んでいる。
 だが、自主開発による自立化とはいっても、急に実現できるわけではない。実際は、評価の高い外国機の技術導入によるライセンス生産がますますさかんとなって、その数を増していた。それら外国の機体やエンジンを模倣したり、異なるメーカーの数機種のいいところだけを真似て国産機を設計し、生産する方式が主流だった。
 いつの時代でも、技術は一足飛びに飛躍するものではない。自主開発といっても、なにもかもが新しくて、独創的な自前技術ですべて設計することなど、あり得ない。外国のメーカーも多かれ少なかれ、世界で発表されている評価の高い製品の技術を盗んだり真似したり、あるいはそれをベースにして独自の技術も盛り込んで発展させて新機種を開発する。
 ただし日本ほど極端ではない。みずからの伝統やオリジナリティも大事にしていたし、独創性を重んじる風土があってプライドもあった。それが工業先進国と後発国の違いであり、モノづくりに対する伝統や文化の違いである。
 日本が軍用機の性能面で航空機先進国に追いついたとされるのは、昭和十年代に開発された海軍の九六式艦上戦闘機や
(下は、中島製“寿”エンジン搭載の三菱 九六式二号艦上戦闘機)
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陸軍の九七式戦闘機(下は同じく中島製“寿”エンジン搭載の中島 九七式戦闘機)
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あたりであるといわれている。(下は、中島97式艦上攻撃機。ハセガワのプラモデルの絵)
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 とはいえ、航空機産業を支える部品や材料、電気、化学分野などの周辺工業はまだ十分に育っておらず、またその裾野は狭くて基盤は第二次大戦の終わりまで脆弱であった。』

東京帝大工学部卒の若手技術者に多大な期待をかけた
『中島知久平は、みずからの技術知識あるいはモノづくりのセンスの不十分さを自覚するとともに、日本の航空技術の水準の低さも認識していた。その思いもあってか、帝国大学で最新の工学を学んできた新卒者に過大な期待をかけ、ことのほか優遇した。
 この志向は、伝統も歴史もある財閥系あるいは総合重工業(造船業)傘下の航空機メーカーである三菱や川崎などよりもはるかに強く、際立っていた。
 日本のトップ企業である三菱重工などには、東京帝国大学工学部も含めた主要な帝国大学工学部卒などの優秀な技術者がごろごろいた。
(上から順番に、三菱の 零式艦上戦闘機と、九六式陸上攻撃機と、一式陸上攻撃機。絵はいずれもハセガワのプラモデルのもの)
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http://www.hasegawa-model.co.jp/hsite/wp-content/uploads/2014/02/jt42pk.jpg
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http://www.hs-tamtam.co.jp/media/catalog/product/cache/1/image/1200x/040ec09b1e35df139433887a97daa66f/4/9/4967834021037_2.jpg
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それに引き換え、中島飛行機の創業時のメンバーをみると、飛行機の製作を担当した栗原金吾がただ一人、大正四(1915)年三月、東北帝国大学専門部機械科を卒業していた。あとの幹部はいずれも低い学歴で、いわば現場の叩き上げであった。大正十年代前半まで、中島飛行機は規模も小さく、世間の評価も知名度も高くはなかったため、帝国大学卒業者を採用することができなかったのである。
 知久平自身、海軍機関学校卒で、帝国大学工学部のような高度な工学教育を受けたわけではない。こうしたコンプレックスもあってか、帝国大学の工学教育をやたら理想化して高く評価していた。」
『また、一日も早く航空機先進国に追いつきたいとの思いから出た知久平の方針でもあった。優秀な新入社員に大きな権限を与えて思う存分に力を発揮させて能力を伸ばし、総合メーカーに打ち勝っていこうとしたのである。
 中島飛行機では、帝大工学部卒業者の多くが設計部に配属された。航空機の優劣を決める決定的な要素は設計にあると見ていたからだ。これは知久平が海軍時代に身につけた、日本海軍の特徴である技術至上主義、性能第一主義に基づいていた。
 帝大工学部卒業者を優遇しての技術優先、設計重視、性能第一主義を打ち出したのだった。こうした考え方は、知久平のワンマン体制によって社内に徹底されていたため、事務系の従業員のあきらめも含めた嫉妬を生み、社内組織あるいは経営上のひずみまで生じさせることになるが、それもまた中島飛行機らしさであった。』
(画像は、東京帝国大学航空研究所の長距離飛行用実験機の“航研機” 製作は東京瓦斯電気工業(日野自動車の前身)による)
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『しかし、エンジン自主開発に関しての中島飛行機のやり方は、かなり特殊なものということができる。中島知久平がエンジン自主開発の大号令をかけたのは1926年(大正15年)のことだった。そして、設計主任にはその春に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業したばかりの田中正利を任命した。中島飛行機は、優秀な若い技術者にどしどしチャンスを与え、進取の気性に富んでいるのが伝統であるといわれたが、そのもとをつくったのは当然のことながら中島知久平だった。中島飛行機は設計がオールマイティであるという思想が流れており、貴重な存在である大学出の技術者はほとんど設計にまわされた。若い技術者に仕事を任せ、責任と誇りを持たせるのが中島知久平のやり方だった。』(引用㉕)
『中島飛行機に初めての学卒者が入社したのは大正十三(1924)年。そのときの従業員数は三百人ほどに膨らんでいた。この年、入社したのは吉田孝雄で東京帝国大学航空科卒業(第二回卒)では民間会社就職第一号であった。
 着任初日の大歓迎ぶりは滑稽なほど盛大なもので、吉田が東武鉄道で工場の最寄りの駅となる大田に到着すると、駅前には会社の幹部ら一同がずらりと並んで出迎え、加えて太田の住民までが提灯行列で歓迎の意を表したのである。帝国大学工学部卒業者に対する期待はそれほど大きかったのだ。
 吉田は当時を、「航空科出身なら、飛行機のことはなんでも知っているだろう」と思われ、面食らったという。
 だが、日本の帝国大学の工学系は、理論ばかり教えることで有名である。大学を卒業したばかりの新入社員は、理論でいっぱいの頭でっかちであり、実際的な飛行機づくりモノづくりに関してはほとんど素人にすぎないだけに、彼らは困惑して数々の失敗や珍事を生み出すことになる。
 海軍航空本部や航空技術廠の部員で、戦時中は四年間ほどドイツに駐在していたこともある巌谷英一元技術中佐は「航空技術の全貌」のなかで反省を込めて記している。
「海軍の航空技術廠は(中略)高性能に憧れ、所謂性能偏重方針を固執し、研究者設計者に非ざれば、技術者に非ずの風潮を生じ、遂にはこれが大学の学生にまで影響して、現場軽視の弊風が官民の航空工業に根強く植え付けられた。「設計偏重」の中島知久平も同様であった。』
『中島飛行機のエンジン部門には、昭和二(1927)年に帝国大学卒が二人入社した。その後は「昭和恐慌」による不況の時代が長引いて、毎年一名ずつになったが、航空機生産が急増してくる昭和十一(1936)年には一挙に増えて、中川良一ら四名が入社した。翌年はさらに六名に増えたが、七割は東京帝大だった。ちなみに、昭和十三年以降の学卒の採用人数は一挙に増えて二十名近くにもなった。入社して最初の三年間は毎年十五円の昇給があり、その後は十円ずつになり、八年すると課長になるのが慣例となっていた。大学も学部も中川と同期で中島飛行機に入社した水谷は語った。
「中島飛行機はなんでも好きな仕事をやらせてくれ、明るくて自由な雰囲気があり、三菱や東京瓦斯電気より給料も良かったので、伝統あるこの二社よりも人気が高かった。」
 東京帝大機械工学科の求人掲示板には「成績二番までのもの一名」と貼り出されたという。優秀な学生を集めることができ、その意味では知久平の戦略は功を奏していたといえるが、半面、中島飛行機の“事務屋”からは「うちの会社では、技術屋でなければ社員ではない」といったひがみや妬みをかっていたという。
 東京帝国大学機械科を卒業してわずか三年半ほどしかたっていない中川を主任設計者として、海軍がすべてを賭けたといわれる「誉」エンジンの開発をまかせたのであるが、こうした決定は中島飛行機では別にめずらしいことではなかった。」
(下は中島 B6N 艦上攻撃機 天山。中島製“護”と、後に三菱の“火星”エンジンが搭載された。)
mm169.png
http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/cl-pln6/images8/Tenzan1.jpg

なお参考までに、ある資料によれば、昭和13年頃、東京近辺の工学部機械専攻の卒業生は、東工大が25人、東大が85人、あと早稲田、日大を合わせても合計で150人ぐらいしかいなかったという。
以上



― 以下引用元一覧 ―
①:「エンジン設計のキーポイント探求」岡本和理 (私家版 非売品) 引用先は「荻窪FG会」さん https://ogikubofgkai.web.fc2.com/index.html
②:「自動車用エンジンの性能と歴史」岡本和理(1991.07)グランプリ出版
③:「悲劇の発動機「誉」」前間孝則(2015.04)草思社文庫
④:「ガソリンに添加するテトラエチル鉛開発の歴史」モーターファン・イラストレーテッド(2012.08)三栄書房
⑤:「技術者たちの敗戦」前間孝則(2013.08)草思社文庫
⑥:「「マン・マシンの昭和伝説 航空機から自動車へ 上」前間孝則(1996.02)講談社文庫
⑦:「マン・マシンの昭和伝説 航空機から自動車へ 下」前間孝則(1993.07)講談社
⑧:「激闘 ‘60年代の日本グランプリ」桂木洋二(1995.05)グランプリ出版
⑨:「マイ・ワンダフル・サーキットⅡ 鈴鹿から世界へ」web
https://f1-stinger2.com/special/mwc/chapter02/talk28/
⑩:「“追憶の日本グランプリ”日本モーター・スポーツ史の夜明け」web
http://www.mmjp.or.jp/60srace/1963JAPANGP.html
⑪:「かつて『三大自動車メーカー』と呼ばれていたいすゞが描いた夢とは?フルサイズセダンのベレルを知っていますか?」web Motorz
https://motorz.jp/race/60361/
⑫:「1962年のF1モナコグランプリを70mmフィルムで記録した超高画質カラー映像」webディリィ・ニュース・エィジェンシィ(DNA)
https://dailynewsagency.com/2018/05/07/monaco-grand-prix-1962-high-hfg/
⑬:「石橋家に伝わる車」カーグラフィック 二玄社
⑭:「日本における自動車の世紀」桂木洋二(1999.08)グランプリ出版
⑮:「NP合併についての一考察」山田徹 経営研究 第15巻第2号(平成13年12月)
file:///C:/Users/hirokun/Downloads/KJ00004862637%20(1).pdf
⑯:「日産とプリンス 合併の裏で Part3 プリンスを手放した石橋正二郎の思惑」ブログ“フィアット500大作戦!!”
https://gianni-agnelli.hatenadiary.org/entry/20130210/1360499406
⑰:「プリンス自動車 - 外山保/石橋正二郎」
https://database-meian.jp/tse/7201b.html
⑱:「住友銀行 - トヨタ自動車との確執」wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8F%E5%8F%8B%E9%8A%80%E8%A1%8C
⑲:「決断(業界再編⓵フォード、プリンス)」豊田英二 (2000.11)日経ビジネス人文庫
⑳:「S-PROJECT 学習のすすめ 世界のトヨタに学ぶ」
http://sproject.jp/」
㉑:「ぼくの日本自動車史」徳大寺有恒(2011.06)草思社文庫
㉒:「間違いじゃなかったクルマ選び」徳大寺有恒(2009.10)二玄社
㉓:「ROAD TESTニッサン スカイライン ハードトップ 2000GT-R」カーグラフィック 二玄社
㉔:「GT-Rに嫌われたぼく 小林彰太郎」カーグラフィック 二玄社
㉕:「歴史のなかの中島飛行機」桂木洋二(2002.04)グランプリ出版
㉖:「時流の先へ トヨタの系譜」中日新聞経済部編 (2015.04)中日新聞社

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マルプーのぼんちゃん

Author:マルプーのぼんちゃん
【ぼんちゃん】
推定年齢10歳ぐらいの、オスのマルプー犬のぼんちゃん。年より若く見える。マルプーではちょっと稀な“キレカワ系”💛 性格は、おとなしくてやさしくて人懐っこくて庶民的?でも対犬ではかなり臆病。散歩だけはたくさん(1日1~3時間ぐらい)させてもらっている。選択の余地なく、毎日おっさんの面倒をみている。
【おっさん】
推定年齢60歳くらいのシガナイ初老の独身オヤジ。ひょんなことからぼんちゃんと2人で暮らすことになったが、おかげさまで日々シアワセに暮らしている。

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