⑰ 日本の自動車産業の“育ての親”は日本陸軍だった?(戦前日本の自動車史;その2)国産自動車の始まり、“山羽式蒸気自動車””タクリ―号”そして ”国末号”
⑰ 日本の自動車産業の“育ての親”は日本陸軍だった?(戦前日本の自動車史;その2)
国産自動車の始まり、“山羽式蒸気自動車””タクリ―号”そして ”国末号”
5.国産自動車の始まり、“山羽式蒸気自動車”、”タクリ―号”、そして ”国末号”
(いつものように以下文中敬称略とさせていただき、引用箇所は青字で記すこととする。)
自動車が日本に初めて持ち込まれたのはいつだったのか。諸説があり、有名な話ではサンフランシスコの在留邦人会が、当時の皇太子(後の大正天皇)のご成婚記念に献上した電気自動車が日本に最初に上陸した自動車であったというものがある。
もう一つ有名な説として、当時のアメリカの代表的な蒸気自動車として輸入されたロコモビルが最初だったというものもある。
しかし黎明期の日本自動車史の研究において、第一人者のように思われる佐々木烈(その功績により2014年自動車殿堂入りとなった)によれば、明治31年(1898年)に、フランス人技師のデブネが持ち込んだパナール・ルヴァッソールが最初であったという。(引用①P6←以下、引用もしくは参考にした本及びwebのブログ、論文等は順番に番号をふって文末に記す)
(下は在日フランス人画家、ビゴーの有名な風刺画で、初めての自動車を見て驚く当時の人々の様子を描いたもの。ブログ「クルマの絵本ライブラリー」さんの「日本の道を最初に走ったクルマ」(引用②)という記事よりコピーさせていただいた。)
https://ehonkuruma.blog.fc2.com/blog-entry-461.html?sp

https://blog-imgs-24.fc2.com/e/h/o/ehonkuruma/0217_2.jpg
ちなみにこの“日本に初めて持ち込まれた最初の自動車”、パナール・ルヴァッソールについて、上記ブログの記事に、検証されていった過程が要領よく記されていたため、これ以上の説明は無駄なので止めにする!ぜひそちらの優れた一文の方を訪問して確認してください!(早くも自信喪失?)
(下の写真はやはり(引用②)よりコピーさせていただいた、「フランスで発見された日本最初の自動車の写真」。なお同ブログの別の記事には、2輪車(オートバイ)であれば『それに先立つ2年前、1896年(明治29年)1月19日に皇居前で「石油発動自転車」なるものが試運転されている。』との記述もあることを追記しておく。下記のアドレスです。
https://ehonkuruma.blog.fc2.com/blog-entry-109.html)

https://blog-imgs-57.fc2.com/e/h/o/ehonkuruma/130829_2.jpg
なおさらに異論として、1897年に、横浜在住のアメリカ人が蒸気自動車を持ち込んだという説もあるらしいので、参考までに追記しておく(㉑P9による)。今後も新たな歴史的事実が“発掘”される可能性も、無くはないものと思われる。)
そして20世紀にはいると、皇族や財閥、大政治家といった限られた富裕層の間で、欧米の自動車がごく少数輸入され、使用されていった。
より一般の人たちに、自動車という存在が認知されるきっかけとなったのは、1903年に大阪で開催された第 5回内国勧業博覧会であったとされている。そしてこの博覧会をひとつのきっかけとして、国産自動車第1号である、山羽式蒸気自動車が誕生することになる。(下の画像は「ジャパンアーカイブス」さんより、第 5回内国勧業博覧会の会場風景。)

https://jaa2100.org/assets_c/2016/11/20161128090127-4b7215ae9d2b7f2eba1c531125f7ea5e24e5985a-thumb-autox404-52730.jpg
そこでその後のすべての国産自動車の出発点となった、この純国産の蒸気自動車誕生物語について、記していきたい。
5.1国産自動車第1号は山羽式蒸気自動車(1904年)
5.1-1山羽式蒸気自動車誕生の物語
以下の山羽式蒸気自動車誕生の物語は、広く知られている話だが、(③P56、④P45、⑤P37、⑥P5、⑦、⑧、⑨、⑩)を主に参考にして記した。((下の山羽式蒸気自動車の模型の画像はJSAEよりコピー。ちなみに1900年当時のアメリカの、ニューヨーク、シカゴ、ボストンの三大都市で自動車は2370台登録されていたが、そのうちの過半数の1170台は蒸気自動車だったという。しかも残りの800台は電気自動車で、ガソリン車は少数派の、たった400台に過ぎなかったという。(④P38))

https://www.jsae.or.jp/autotech/photos/2-1-1.jpg
岡山在住の実業家、森房造と楠健太郎は、1903年春に大阪で開催された第5回内國勧業博覧会場でデモ走行した、蒸気バスとガソリンバスに感銘し、二人の地元、岡山市内で乗合馬車に代わるバス事業を始めようと思い立つ。ちなみにこの博覧会におけるデモ走行は日本人に大きな衝撃を与えたようで、乗合馬車を自動車に置き換えようとする動きが日本各地で続出した。(①P69)では『博覧会以後、わずか半年の間に名古屋、岡崎、岐阜、京都、舞鶴、岡山、広島、山口、東京、横浜、富山、長岡、仙台で計画され、まさにわが国の自動車時代の到来を思わせるものがあった。そうした意味では、わが国の自動史にとってこの大阪博覧会は、まさに一時代を画す出来事であった。』と記されている。
しかし森たちは、輸入自動車の価格が8000円すると聞いて購入を断念し、代わりに大胆にも内製しようとする!二人は即実行に移して翌日大阪市内の工場を探索し、中根鉄工所というところに内金を払い発注するも、相手は口先だけで誠意なく、製作はいっこうにはかどらなかった。
そこでその鉄工所はあきらめて、人づてに地元、岡山で工場動力用の蒸気機関や発電機、モーターなどの修理製作を営む、山羽電機工場の山羽虎夫を紹介される。森たちは横須賀海軍造船所、逓信電気試験所などで学んだ山羽の技術を見込んで、蒸気式乗合い自動車の製作を依頼するのであった。
今まで自動車を見たことすらなかった山羽は、実物を見るために神戸の輸入商ニッケル商会の通訳であった実兄の山中鯤太郎を訪ね、そこで扱っていた電気(ガソリンという記述もある)自動車と蒸気自動車の実物を細部にわたって調べ、さらに同社で自動車に詳しい社員(マンシンという名のイタリア人)から解説文や図面による指導を受ける。
1903年9月に帰郷してからも各種外国文献を読み研究しつつ、いよいよ設計図の製作に取りかかる。1904年 3月に独力で蒸気エンジンの組み立てを完了させて,翌1904年4月、僅か7カ月で試作車を完成させたのであった。
以下(⑩)より引用『車体は木製、溶接技術の不足をろうで補い、当時の輸入車が搭載していた石油焚きのフラッシュ・ボイラーを水管式に加工し、エンジンをミッドシップに置いてチェーンで後車軸を駆動するなど、随所に自社製作で対応するための創意と工夫が施されていました。』
(下の画像はトヨタ産業技術記念館より、たった1枚だけ残されている貴重な証拠写真だ。『1904年5月7日の完成試走時の記念写真で、車上の人物は注文主の森房造夫妻と子息』(④P47)だという。大勢乗っているが10人乗りだったので定員以内です。)

http://www.tcmit.org/reading/kids/car08-a.html
以下は(④P47)より『前輪のサスペンションは車輪にリーフ・スプリング(板バネ)とコイル・スプリングの伴用を付け、タイヤはスポークリムにソリッド・ゴムタイヤである。方向舵(ハンドル)は人物手前の車軸に接続しているように見える棒状のものだろうか。現在のハンドルのように丸くない舵棒タイプと考えられる。見る限り、基本的な構造は現在の自動車と同じである。』
以下は(⑩)より『試運転でもエンジンは快適に作動したそうです。しかし、空気入りタイヤを作る技術が当時はなく、ゴムを丸めてリムに巻きつけたソリッドタイヤでは耐久性と安全性に大きな問題があり、ついに実用化されることはありませんでした。』蒸気機関の作動原理については、新橋~横浜間の蒸気汽車の開通から30年後のことで、当時すでに周知の事実だったが、問題はボイラーやエンジン部分の製作だった。溶接の技術がなかったので、全部ネジ止めにして、ロウ付けで対処したようだ。
試運転の詳しい模様について、(⑪P16)より『この自動車の試運転の模様について、「日本自動車工業史稿」では大要次のように述べている。
『予定の九時になると県の内務部長、検査担当官の立会いのもとに、山羽氏の運転で爆音と共に試運転のスタートが切られた。沿道の両側からは拍手と歓声が沸き起こった。自動車は荒神町を北に向かってゆるやかに滑り出し、次第に速度を増して群衆の立ち並ぶ街を西大寺町に向けて疾走し、見る見るうちに姿は小さくなっていった。これこそ日本で最初に作られ、ねじ一本まで山羽氏の苦心の汗がにじむ、記念すべき純国産の自動車である。』いかにも誇らし気に書かれている。
試運転ではタイヤの不具合で車輪から外れかかりながらも、どうにか6km(10km?という記述もある)ほど走行したが、それ以上の試走は断念したという。
さらに(③P46)では、地元岡山に現地取材を試みて、地元の長老から貴重な証言を得ている。(③)は1978年刊行なので、関係者の取材が間に合ったのだろう。『「たいへんな評判じゃったな。古いことで記憶は薄らいでいるが、自動車が走るちゅうて、大勢の人が道ばたにならんで待つんだが、なかなかやってこない。そのうちに遠くの方から「来た来た」という声が伝わる。かなり速かったように思いましたが、ずいぶん音は大きかったようだ。」』当時の臨場感が伝わる話だ。
貧弱な設備(『足踏旋盤 2台と若干の工具ぐらい』(⑤P38)で苦心しながら、ねじ一本に至るまで内製した、正真正銘の“純国産品”で固めたこの山羽式蒸気自動車は、堂々たる純国産自動車の第1号車であったと日本車史的にも“認定”されている。当時の悪路の走行に耐えられず、実用性がなかったため車両は後に解体されたが、言い伝えによれば蒸気エンジンはその後船舶に搭載されて、30年ほど使い続けられたという。(下の写真はJASAEと同じトヨタ博物館の模型。)

https://www.toyota.co.jp/Museum/kandayori/backnumber/magazine60/magazine60_1.pdf
5.1-2山羽式蒸気自動車と、“中根式”蒸気自動車
ところが・・・、黎明期の日本の自動車史を再検証するかのように、労作「日本自動車史」(⑫)や「明治の輸入車」(①)等を著した佐々木烈によれば『余りにも不明な点が多すぎる』という。以下(⑫P108)より引用を続ける。『残された1枚の写真を見ても、自動車というには余りにも粗製乱造すぎる。強いて言えば、時間的余裕が無くて組み立てただけ、とも受け取れる。
エンジン、クランクシャフト、ボイラー、バーナー、自動エア・ポンプ、ガバナー、差動装置、ブレーキ、タイヤに至るまで、どれか1つでも不完全だったら自動車は動かない。
タイヤがダメになって京橋が渡れなかったとか、蒸気汽缶の改良資金がなく試作の継続を断念した、とも言われているが、果たして山羽蒸気自動車は本当に6キロ走ったのだろうか。
すでに記念碑が建っている人の業績に対していろいろと疑問を投じるのは、筆者として心苦しいが、国産第一号車という、わが国の自動車史にとっての最重要課題である。
修正しなくてはならないものは修正して、より真実なるものを後世に伝えなければならない。それが歴史家の使命であり責任である。』
ここから(⑫)では、佐々木氏による膨大な手間をかけただろう解明作業がはじまるのだが、さらに興味があり&正確に確認したい方はぜひ同書を手に取り直接確認いただきたい。ここではそのごく一部だけを抜粋し、疑問点を列記させていただければ、
・「蒸気自動車の製作依頼のあった当時、山羽は自動車を見たことすらなかった」
⇒「当時1905年(明治38年)8月に特許をとって売り出したモーターバイク「特許山羽式自動車」の研究をすでに始めていた。1903年(明治36年)4月には2馬力の石油発動機を販売しており、山羽への依頼はそれらの知識を見込んだものだった。」(⑫P117)
・「わずか7ヶ月で何から何まで山羽がすべて自製したことになっている。」
⇒「足踏旋盤2台とハンマー、スパナーだけで、年末年始を含めた数カ月間で、全部作るのは常識的に考えて不可能だ。」(⑫P115)
・「中根鉄工所というところに内金を払い発注するも相手は口先だけで誠意なく、製作はいっこうにはかどらなかった。」
⇒「中根鉄工所とは契約解除の件で訴訟になったが、途中まで蒸気自動車を製作していた。」(⑫P115)以下(⑫P112)より『この中根鉄工所であるが、まったく作るあてがないのに引き受けるとは思われないので、いろいろ調べてみると、』中根鉄工所が明治36年11月1日の大阪日日新聞に掲載した“中根式蒸気自動車“の新聞広告が、佐々木氏の調査により”発掘“された。
画像はジャパンアーカイブズさん https://jaa2100.org/entry/detail/052626.htmlより

・「この“中根式蒸気自動車”を、依頼を受けた山羽はとにかく組み立てて完成させようとした。」(⑫P119)そして「中根鉄工所は結局山羽に協力することになった。」(⑫P113)
なおこれも、ものすごく不思議なことだが、佐々木によると、歴史的な国産第1号自動車の試運転について、県の内務部長、検査担当官の立会いのもとに行った『試運転当日の山陽新報を調べたが、山羽蒸気自動車に関する記事はどこにもなかった。日時が間違っているのかと思い、前後数か月を見たが、後日談も報道されていない。』という。
惜しむらくは佐々木氏が取材を本格化させたころには、たぶん直接の関係者の多くがすでにお亡くなりになっていたりしたため、(③P46)などの直接の証言とどう符合するのか(あるいはそれらの証言をどう考えるのか)、時代的に確認しようがなかったことだろう。
ただ山羽虎夫自身については、瓦斯電が自動車事業に参入する際(たぶん次回の記事で記すことになる予定)にまず初めに、技術顧問として山羽の招へいを試みた(しかし山羽が固辞した)という事実(③P47等)からしても、黎明期の日本の自動車界においては単なる町の発明家にとどまらない実力を持った技術者として、評価されていたのだと思う。
佐々木は(⑫P122)において、山羽の残した功績について、こうも述べている。『国産車という定義も厳密には難しいし、明治時代に外国の部品を使わずに出来た国産車はおそらくないだろう。ただ、特許という点を見ると、明治38年の山羽虎夫のモーターバイク、39年の仁礼兼氏のトラック、43年の吉岡護の三輪乗用車などが、国産車としては、それぞれの部門で最初といえるのではなかろうか。』
山羽式蒸気自動車の項の締めとして、国立科学博物館の研究員である鈴木一義の㉔P45より引用して終わりにしたい。『山羽氏の蒸気自動車は実物も残らず、実用になったか等、成功談には疑問もあるが、幕末のエピソードと同じく、国産車として日本の道に轍を刻んだと思いたい。』
確かに、果たして6キロもの“長距離”を走れたのかは疑問も残るし今となってはわからない(正直6kmはかなり怪しい?←私見です)。しかし、この“山羽式(山羽/中根式?)蒸気自動車”が純国産4輪自動車の第1号として、郷土岡山の大地を踏みしめるかのように、確かに走り(動き?)始めたのだと、自分もそのように考えます。
(下は岡山市に立つ山羽虎夫の銅像。)

https://gyokuzan.typepad.jp/.a/6a0134861d5550970c01b8d282b198970c-320wi
(ここからは余談と言うか蛇足になるが、“国産自動車第1号”は確かに山羽式蒸気自動車であるが、『じつをいうとこれより以前に広い意味での「自動車」をつくろうと試みた日本人は数多くいた。』(③P59)という。“国産車”としての括りからは多少離れるので、文末の≪備考1≫に、日本最初の二輪自動車の組立を行ったという庄島の柴義彦について、参考までに記しておく。)
5.2国産ガソリン自動車第1号はタクリ―号(1907年)
5.2-1吉田真太郎の歩んだ道
前記の山羽式蒸気自動車同様、世に広く語られている、タクリ―号誕生の物語は、(⑤P38、⑭P19、③P59、⑧、⑭、⑮、⑯)等を参考に記した。(下の写真はトヨタ博物館に展示されている1/5スケールの模型。)

https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/userstorage/000/019/915/378/cb2ecc1afe.jpg
東京/銀座で自転車販売店、双輪商会を営む吉田真太郎は、1901年(1902年との記述もある(③))に自転車の仕入れと商業視察を兼ねて渡米した際に、自動車を見てすっかり感動し、帰国の際に2基のエンジン(水平対向2気筒12馬力と18馬力エンジン)とシャシーを持ち帰る。日本で自動車ビジネスを展開しようと考えたのであろう。(ここで一言追記しておくと、当時の日本では自転車は高価な乗り物で、時代の先端を行く商品を扱う格の高い商いだったとのことで、単なる町の自転車屋さんではなかったようだ。さらに吉田真太郎自身も父親(吉田寅松)は土木業者として当時有名で、横浜をはじめ全国で大規模工事をいくつも手がけていたという。そして夫人は勅撰の貴族院議員であり東京府知事や枢密顧問官を歴任した三浦安の娘だった。(③P60、⑫P70等)による。)
その後吉田は幸運にも、ウラジオストックで無線電信製作の職工として働いた経験のある内山駒之助と運命的に出会い(双輪商会と内山が務めていた逓信省電気試験所が目と鼻のところにあった(①P167))、雇い入れる。
そしてオートバイと3輪乗用車の輸入販売のためにオートモビル商会を設立し、並行して自動車の修理も始める。輸入車の修理やメンテを通して自動車の構造に対して理解を深めていった二人は、吉田がアメリカから持ち帰ったエンジン(小さい12馬力の方)とシャシーを元に1902年7月、1台の自動車を完成させた。これは日本で最初に組立てられた4輪自動車と言われている。しかし格好も出来もお粗末だったようで、ほどなく解体されたという。(⑤P38)
吉田と内山が手掛けた第2号車は広島の顧客からの依頼によるもので、独自の車体の12人乗りのバスの製作に乗り出す。エンジン(18馬力の大きい方)とシャシーは吉田が持ち帰ったアメリカ製のものを使い、ケヤキ製の重い車体は名古屋の鉄道車両メーカーに特注して、生来の器用さをもった腕の立つ職人であった内山が、苦心の末に架装し組み上げて、ようやく完成させた。しかし車重が重すぎてタイヤが持たず、うまく走らなかったようだが、この車が組立式だったが日本最初のバス(前記の山羽式より前)とされている。(下の画像はブログ、「みなさん!知ってますCAR?」広田民郎」さんブログよりコピーさせていただいた。ちなみに内山が自分で運転して運んだとされているが、広島に入ってから乗馬車の関係者から脅迫されたという逸話が残っている。(⑭P21))

https://seez.weblogs.jp/.a/6a0128762cdbcb970c022ad37689bb200c-200wi
こうした実績を踏まえて1904年、オートモビル商会は東京京橋区木挽町のより広い工場に引っ越して、東京自動車製作所を設立した。同社は日本最初の自動車会社と言われているが、その運営には当時“日本屈指の趣味人”と言われ、”日本の自動車レースと自動車文化を先駆“したとして自動車殿堂にも選ばれたほどの自動車通であった、大倉喜七郎の財政的な支援があったという。(大倉喜七郎については以下「自動車殿堂」を参照ください。下の、明治41(1908)年夏に撮影されたという画像もコピーさせていただいたが、運転席に座るのが大倉喜七郎で、後部座席は右より伊藤博文、有栖川宮威仁親王、韓国皇太子殿下という豪華メンバーだった。(①P108))
http://www.jahfa.jp/wp/wp-content/uploads/2018/12/2018-okura.pdf

5.2-2タクリ―号誕生のきっかけ(有栖川宮、大倉喜七郎との出会い)
そんな東京自動車製作所の顧客の一人に大倉と親しく、“自動車の宮様”と言われた有栖川宮威仁親王殿下がいた。以下、タクリ―号誕生秘話を、自工会「日本自動車工業口述記録集」の座談会より引用((⑭P21)からの引用の引用となる)
『座談会で警視庁出身の原田は「それについては面白い話があります。有栖川宮と大倉喜七郎さん、吉田真太郎、内山駒之助両氏がお供をして鎌倉にドライブされたとき、途中で車が故障して宮様は車を降りられました。そのとき宮様が内山氏に「日本で自動車はできないか」と尋ねられました。内山氏は「できますよ」と答えたときに、吉田氏が心配して内山氏の袖を引いたそうですが、間に合いません。宮様はそれではということで製作奨励金として1万円を出されました。吉田氏はいまさらできないともいえず、これがきっかけで吉田、内山氏の国産車への製作への歩みがはじまり、明治40年春完成したのがタクリ―号です」と。
この話を「私も聞いています」とこのとき発言しているのが、のちに吉田・内山と関係を持つことになる石澤愛三である。つまり、吉田には自動車製作をするつもりがなかったのに、つくることになったわけだ。同時代に自動車に関係した二人が証言しているのだから事実だろう。』この有名なエピソードは、上記のように当時の自動車事情を客観的に、もっとも良く知る立場にいた警視庁の原田九郎の証言もあるので、信憑性があるようだ。
吉田には元々国産のガソリン自動車製作の野心があったはずだが、修理やメンテ、さらに前記のバスなどの制作の過程で、周辺産業が育っていない日本で“国産ガソリン自動車第1号”と名乗るにふさわしいクルマを作ることの困難さも十分認識していたはずだ。しかし内山が有栖川宮に「できますよ」(ちなみに「お作り申しあげる」と述べたと、多くの書では書かれている)と返答したので、宮様はその心意気を褒めて、製作奨励金を出すと話が進み、引くに引けぬ立場に追い込まれた、とされている。
5.2-3国産初のガソリン自動車、タクリ―号の誕生
こうして有栖川宮殿下の奨励を受けた二人は、大倉喜七郎からの財政支援もありその製作に取り掛かる。そして1年数ヶ月の苦難の末の1907年 4月、吉田/内山としては3作目のガソリン自動車を完成させる。正式(警視庁への登録)には“国産吉田号”という名称だったが、ガタクリ走ることからいつのことやら“タクリー号”と呼ばれるようになったいきさつはよく知られている話だ。(下の写真はJSAEより。『明治40年12月2日撮影の写真。有栖川宮が完成したタクリ―号で徳川慶喜邸を訪ねた際のもので、乗車左が有栖川宮で右が徳川昭武氏』(④P59))

https://www.jsae.or.jp/autotech/photos/1-1-1.jpg
そして肝心かなめのエンジンだが『吉田眞太郎がアメリカから持って帰ったエンジンはすでに試作1号車と広島へ運んだバスとで使ってしまっていたから、この有栖川宮家に納める乗用車のエンジンはいうまでもなく内山駒之助が自ら設計し、自ら完成したものだ。ただし、そのアメリカ製を手本にしたらしく、ボア101.6mm、ストローク113.3mmの水平対向2気筒型。排気量は1837cc、12馬力。』『ジョンソン型ガバナー式のスピードメーターと磁器を使ったプラグはアメリカ製を使ったほかはすべて国産。ガソリン自動車としての国産第1号車の資格は十分に備わる。』(③P65)という。(ちなみにこの③=「国産自動車100年の軌跡(三栄書房)」は、JSAE(日本自動車技術会)の“日本の自動車技術330選”において、山羽式とタクリ―号ともに、参考文献として掲げている。下の写真は初の国産自動車「吉田式」の製作者、吉田真太郎。画像は日本自動車殿堂より。)

http://www.jahfa.jp/wp/wp-content/uploads/2011/01/2011-yoshida.pdf
以上の記述のように、タクリ―号は日本車の歴史の中で、初の国産ガソリン自動車であると広く認知されている。そして有栖川宮殿下からは「ことのほかのよい出来」だとお褒めの言葉を頂いたという(③P63)。またこの車は宮家への納入のため『ボディ木骨は芝白金・間宮製作所、内張りは芝琴平町・木下製作所、塗装は築地・秋葉塗製所などいずれも当時の宮内省御用馬車職であった。』⑰という。以下は(③P63)より
『有栖川宮殿下、国産自動車お買い上げ、の報はたちまち業界内外に大きな反響を呼んだ。とくに刺激されたのは当時の上流階級と呼ばれる貴顕紳士。東京自動車製作所の自動車は聞けば成績も優秀と聞く。宮殿下の間接的なご奨励、ご推薦もあって東京自動車製作所へはそれから続々と注文が入ってきた。内山駒之助はこうしていきつくひまもなく自動車づくりに忙殺されることになる。そして1907年(明治40年)から翌年にかけて、宮家納入の第1号車を含めて10台もの自動車を完成させたのだ。』1年程の間に10台(台数も8台、14台等諸説ある)も作るとは、当時としては驚くべき成果だ。(≪備考2≫に、1908年当時日本にあった46台の車の内訳を参考までに記しておく。”吉田式”の占める比重の大きさがわかる。)
5.2-4当時の自動車として十分な性能があった
さらにタクリ―号は“成績優秀”であったとされるが、はたしてその性能は如何ほどだったのか。以下(③P65)より引用
『1907年(明治40年)8月1日、麹町の有栖川邸と多摩川日野の渡しとの間、往復48kmのドライブ会が行われた。宮殿下の35馬力ダラックを先頭に渋沢栄一のハンバーがこれに続いて都合10台の参加。(写真(一部トリミングした)と文はブログ「国立歩記」さんよりコピーさせていただいた。http://kunitachiaruki.jp/?p=8057
『有栖川宮殿下とダラック号 明治41年8月1日の遠乗り会、甲州街道上にて、ハンドルは殿下、外側白服は吉田真太郎』
(④P58)の記述では『懇意を得た有栖川宮から、ダラック号のような大きい自動車は日本の狭い道には不都合なので、もう少し小さい自動車を製作できないかとご下命があった』とあるが、確かにタクリー号と比較すると、大型だ。ちなみに別の書では、真夏の暑い日だったと記されている。)

引用を続ける。『中には当代きっての自動車マニアといわれた大倉喜七郎の60馬力フィアット7人乗り大型車や三越呉服店の10馬力クレメントというトラックも含まれていたが、注目すべきは中上川次郎吉、森村市左衛門、日比谷平左衛門らの所有する3台のタクリ―号だ。というのは、このドライブ会が国産初のガソリン車完成を記念する意味と輸入外国車との比較テストという目的をもっていたからだ。吉田眞太郎、内山駒之助の両人も一行に随行したが、宮殿下は途中でタクリ―号にも試乗されるなど終始ご熱心な様子で、この日本最初ともいうべきドライブ会はつつがなく終了した。国産ガソリン車の性能とくに外国車に伍しての信頼性はここに立証されたことになり、日本の自動車史上特筆大書すべきビッグ・イベントであった。』日本で初めて作ったことになる自動車用のエンジン&シャシーは驚くべき完成度であったことになる。
タクリ―号が自動車先進国の欧米製の自動車と比べても、多少ガタクリと異音を発するものの、遜色ない性能と信頼性を有していたことは驚異的なことだ。吉田と内山の二人は、(④P58)『当時、曲がりなりにも自動車製作の経験を持つ工場は他になく、有栖川宮や富豪らの持つ自動車修理などを一手に引き受け』てきた。その過程で学んだものが多かったものと考えられている。
(下の写真のトヨタ博物館の模型からは、外観はダラック号の影響が感じられる。)

https://www.toyota.co.jp/Museum/kandayori/backnumber/magazine60/magazine60_1.pdf.
5.2-5エンジンを作ることの難しさ
ところで・・・ 上記のタクリ―号誕生の物語を、今までお読みいただいた皆さんの頭の中にも、自分と同じく疑問符がいくつか(???ぐらい)つくのではないだろうか。この歴史(一般に“公式”とされているもの)を信じるならば、たとえコピーにせよ十分な試作研究期間もなくいきなり作ったガソリンエンジン&シャシーが、実績ある輸入車と互角の性能をいきなり発揮して、実用性も耐久性も十分あったことになる。多少ガタクリする音さえ目(耳)をつぶれば。しかも短期間の間に10台(③によれば。①では8台、⑳では最終的に17台)も作ったのだ。
しかしこの記事(その②)のあとに、次回以降の記事から延々と綴ることになるが、工業全般のレベルが低かった戦前の日本においては、内山らとは比べものにならないほどの技術と体制で挑んだダットにせよ、瓦斯電にせよ石川島にせよ、さらには黎明期のトヨタや日産に至るまで、たとえコピー技術であったとしても、その時代の外国製自動車と互角の性能で、信頼性も十分な国産自動車など、そうそうできるものではなかったのだ。(≪備考3≫に、日本の自動車産業成立が遅れた一つの理由として、周辺の産業が育っていなかった⇒“馬車産業”と“自転車産業”が無かった点について、追記しておく。)
一例として掲げれておくと、タクリ―号の約10年後のクルマで、後に記す、軍用保護自動車第1号で、最初の国産量産トラックといわれる瓦斯電のTGE-A型では、たとえば『エンジン関係の鋳物の加工がうまくいかず、倉庫にお釈迦のシリンダーが山のようにあった』(⑭P92)という。それでも『このトラックが検定試験に合格しなければ星子(注;橋本益治郎と並び当時の日本で数少ない優れた自動車技術者とされている)は瓦斯電を辞める決意をしていた。多くの人たちが不眠不休で取り組んで、自分の身体のことなど考慮するいとまがなく、目的に向かって突き進んだ。』(⑭P93)不退転の決意で取り組んだ結果だったのだ。
そしてその努力が何とか報われて軍の試験に合格して、瓦斯電のトラックは晴れて軍用自動車補助法に基づく軍用保護自動車の認可第1号として、1919年に20台“量産”された。初の国産“量産”トラックの誕生だ。しかし出来上がったクルマの出来は、『検定試験に合格したのは瓦斯電だけだったから、制式自動貨車の発注が集中、つくると軍に納入されるために、世間では「瓦斯電の軍用自動車」と呼ばれるほどだった。しかし、実際につくられたトラックは、トラブルが絶えないものだった。なかには、まったく走りだすことができないものもあった。実際、自動車メーカーになるのは大変だった。』(⑭P94)自動車は、その国全般の工業技術水準を表す鏡とも言われているが、それが当時の日本の工業水準の実態だったのだ。
その後も、1922年に製造されたTGE-G型1.5トン積みトラックは11台生産されて民間に販売されたが、すぐにトラブル続出して全車返品になったという。(⑭P96)
5.2-6果たしてエンジンまで内製だったのか
ところが・・・、例えばこの時代の自動車づくりで最大の難関となるエンジンの製作に関して『内山は、この時代の苦労した話を原田などによく話をしていたようなのに、エンジンをつくり上げた際の苦労は語っていないようだ。』(⑭P24)という。こうなるとやはり、自分のようないかにド素人でも大きな疑問が浮かび上がらざるを得ない。タクリ―号は果たして本当に、東京自動車製作所製の、国産エンジン(さらに言えばシャシーまでも)を搭載していたのだろうかという、素朴な疑問だ。
確かに前記(5.1-2)の佐々木氏の言葉のように『国産車という定義も厳密には難しいし、明治時代に外国の部品を使わずに出来た国産車はおそらくない』のも事実だ。
しかし、自動車の“魂”そのものであるエンジンが、どこまで国産品であったかどうかは、タクリ―号が国産ガソリン自動車第1号であるとされている以上、いずれどこかでハッキリとさせておかねばならない課題ではないかと思う。
(そこは素通りするのが大人のルールで、つっつくのは “ヤボな話” なのかもしれないが、この問題について、自動車の歴史を記した本やwebや論文ではどのように扱っていたのか、興味深いので手持ちの資料やwebの上位検索からいくつかピックアップしてみたので、参考までに≪備考4≫に記しておく。)
しかしここは、黎明期の日本車の歴史検証においては何度も記すが、たぶん第一人者だと思われる、佐々木烈がどのように記しているのかを、全体を判断するうえで重視したい。(①)より一部を抜粋させていただけば、『内山氏が新しい双輪商会大阪支店から岡田商会(注;フォードモデルA型を輸入して現品があった)に3カ月間行き来して、カタログや修理用の仕様書をスケッチした可能性は高いと見てよかろう。
それどころか、筆者は東京自動車製作所がこのフォードを購入して、エンジンなどをばらして参考にした可能性が高いと見ている。』 ・・・
5.2-7タクリ―号(国産吉田号)と、“国産ちどり号”
さらに(①P90)より大幅に略しつつ引用を続けるが、詳しくはぜひ、同書を手に取り直接確認してみてください。
『(前略)先の記事と写真は、東京自動車製作所がフォードN型を販売していたことを示唆するものである。と同時に、同所が国産自動車を製造したとする従来の説にも大きな疑問を投げ掛ける極めて重要な記事だと思える。
前項のフォードA型でも言及したが、東京自動車製作所とフォード車は深い関わりあいが有ったことがわかる。
さらに穿った見方をすれば、東京自動車製作所では輸入したフォードを国産車として販売していたのではないか、という疑問も湧いてくる。
というのは、この疑問を裏付けるような広告もあるからだ。(中略)
二つの記事から判断する限り、東京自動車製作所は大量にフォードN型を輸入して、それを「ちどり号」として販売する計画だったと思われるのである。
勿論、フォードN型が国産ちどり号であるという確証はないが、少なくとも上記の事情を勘案するならば、その可能性は非常に高い。』(下の写真はフォードN型。確かにそういう目で見てしまうと、先入観からか、一部の “吉田式”に似ているように感じるのは気のせい?)

ここで“正史”と異なる部分もあるが、吉田真太郎の歩んだ、国産自動車作りのパイオニアとしての苦闘の歴史を、佐々木の労作である(⑫P71)より振り返ってみる。
『双輪商会が販売した米国製デートン号(注;自転車)の売れ行きは好調で、たちまち銀座の日米商会や横浜の石川商会、大阪の角商会と覇を競うほどの勢いで成長し、大阪の淀屋橋に支店をつくり、店員武村鶴吉をアメリカに派遣して出張所を開設するほどであった。
真太郎はその後自動車の販売を企画して銀座3丁目5番地に自動車販売部を設け、明治37年(1904年)1月に渡米、乗用車や乗合自動車3台の見本をもって帰国する。』①P70には、乗用車はアンドリュース商会と韓国人に売り、乗合自動車は改造して38年に広島で乗合自動車業を始めた杉本岩吉らに売った。』(⑫P70)には、山羽式のところで記した、1903年の大阪博覧会を契機に、乗合自動車の需要が高まったことも睨んだ渡米だったとの記述もある。
(⑫P73)の引用を続ける。『彼が自動車を改造して販売したのはこれが初めてであったが、広島では馬車屋の妨害などで失敗し、満足に代金が支払われなかったり、明治40年(注;1907年)にフォードN型を改造した「ちどり号」の販売不振や、蒸気式トラックを輸入して始めた運送業(自動車運輸株式会社)の失敗などで、有栖川宮殿下から国産車製造の要請を受けた頃にはすでに経営状態は火の車であった。』
販売不振だった国産「ちどり号」のその後の行く末が気になるところだが、苦闘の末に生み出された、“国産吉田式”タクリ―号も、限られた“国産車需要”が一巡すると行き詰り、結局大倉喜七郎の救済を仰ぐ結果となる。ちなみに『帰国してタクリ―号の製作を身近で見ていた大倉が、これを購入したとか乗り回したとかの記録もない。5台ものクルマをヨーロッパから持ち帰ったのだから、それ以上は必要ないといえばそれまでだが、大倉はタクリ―号に何の言及も残していない。』と、“タクリ―号の物語”については一定の距離を置いていたようだ。
話を戻すが、佐々木の考察した結果を裏付けるかのような重要な証言もある。先にも引用した自工会「日本自動車工業口述記録集」の座談会における、当時東京・警視庁で自動車取締を担当していた原田九郎の証言だ。
警察(内務省)はこの当時の日本の路上を走る全ての自動車を把握していたという。エリート内務官僚にして『当時自動車通として有名』(①P201)だったとされる原田の証言は重く、充分な客観性もあり、いわば決定的な証言(この時代の証言の中でリトマス紙役?)だと言えると思う。
以下(⑭P23)から『~エンジンまで国産化したという資料もあるが、先の座談会での原田の発言では「タクリ―号はエンジンは輸入したものです」というのに続いて「わたくしは(明治)39年から警視庁にいました、そのころ吉田氏の車が本当の国産であるという記憶がありません」と語っている。』また同じ座談会で、大倉により東京自動車製作所に派遣されていた石澤愛三は『「エンジンやミッションは、恐らく吉田さんが米国から輸入したものを使った、と思う」と述べている。』
さらに(⑪P23)によれば、『しかし自動車の歴史に詳しい自動車工業振興会の小磯勝直・資料室長は「関係者の間で話し合った結果、タクリ―号がガソリン車の国産第一号ということで一致した。現在ではこれが定説となっている」と述べている。』とのことで、どうやら“大人の判断”が下されたようだ。
佐々木は以下のようにも記している。『そう言えば、ガソリン国産車第一号を製作した吉田真太郎、内山駒之助にしても自分から、どういう方法でつくった、こういう苦労があった、という談義をしていない。周囲が騒いであれこれ作り上げてしまったのである。』(⑫P124)
様々に尾ひれがついて語られている中で、あくまで“私見”として想像(例によって全くの妄想)すれば、有栖川宮側からの依頼は、自動車整備を通じて懇意にしていた吉田の苦境に対しての暖かい、救済的な意味合いもあったように思える。
さらに想像を広げれば、有栖川宮、大倉、そして吉田という、『当時のわが国自動車界を代表する3人』(①P108)の間では、吉田を支援する形で、当時の日本の工業水準では純国産車の製作は到底叶わずとも、それに至る第一歩として、輸入したシャシーとエンジンを使い実用に耐えうる初の国産ガソリン自動車を作ることにより、歴史のコマを少しでも前に進めたかったように思える。そして3人の偉大な先駆者たちのその思いは、内山駒之助の努力もあり国産吉田式タクリ―号として結実し、その目的は充分達成されたようにも思う。タクリ―号が黎明期の日本車の文化を築いた功績はけっして褪せることはなく、これからも不滅だと個人的には思います。
吉田真太郎と東京自動車製作所のその後だが、当時の舶来品信仰の中で敢えて国産車を買おうという客層は限られていたため、需要が一巡すると自動車製造は途絶え、ますます苦境に陥る。経営再建のため大倉から送り込まれた石澤愛三の主導で1909年に大日本自動車製造会社へと改組され、自動車制作の道を閉ざされた吉田と内山は失意のうちに退社していくことになる。翌年には日本自動車合資会社に改組され、この日本自動車はその後、三井物産と並ぶ大手輸入自動車販売会社として育っていく。それ以降の吉田と内山が歩んだ道については割愛させていただく。
5.2-8国産車史において、“タクリ―号”と“国末号”で役割分担すべきでは?(まったくの私見)
ここからは余談です。さらに全くの私見として、定番の日本自動車史に僭越ながら意見を申せば、タクリ―号の、“市販された国産ガソリン自動車第一号”という称号と、明治の日本の文明文化に果たした偉大な功績はそのままに、エンジンとシャシーまで内製だったという無理やり背負わされた“重荷”(過積載状態?)を外してやり、フォード製をもとに仕上げた(?我々一般人には未公開だが、有名なクルマだけに資料は残されていたはずで、佐々木他在野の研究者たちによる地道な検証の成果もあり、自工会や自技会、国立科学博物館やトヨタ博物館などでは先刻承知で、すでに確認済みだろう)車だと訂正して、「“純”国産の市販ガソリン自動車」という看板のうちの、“純”という一文字だけ外してあげて(あるいは”準”国産車とするかして)、重圧から解放させてやるべきではないかと思う。
日本のガソリン車の原点ともいえるタクリ―号の成り立ちを、こんな“あやふや”なまま放置しておいては、せっかく誇るべき国産車の歴史があるのに、外国からみれば最近の日本の役所みたいに?やっぱり“記録を捏造する国”だと、不当に低く扱われるだけだろう。
ここまで言う理由(ワケ)が一つある。次項で記す、タクリ―号(1907年)から僅か2年後の1909年4月、“純国産自動車”とうたっても大丈夫そうな?“国末(くにまつ)号”が、さらに同年8月には宮田製作所の“旭号”も堂々と控えているからだ。(仮に国松号がこけても大丈夫だ!)元号も変わったこのあたりで心機一転、日本車の公式の歴史を訂正して、両者(車)の間で、役割分担したらいかがだろうかと思うからだ。
このタクリ―号について、自動車史家である桂木洋二と、国立科学博物館研究官の鈴木一義の言葉を記しておく。
『~だからといって、タクリ―号が歴史的価値がないといっているのではない。日本の自動車史初期の活動として、記録に残すべき価値のあるものであることに変わりなない。』(⑭P25)
『二人(注;吉田と内山)は以後も自動車の世界に留まったようだが、彼らもまた早すぎた人であり、本邦初ガソリン自動車製造の恩人としての待遇はなかった。』(④P58)
そしてこの記事を作るにあたり多くを頼った佐々木烈の言葉で締めとしたい。
『国産自動車第1号の製作者として吉田真太郎の名は日本自動車史に燦然と輝いている。
明治時代に国産車をつくった人は何人かいるが、そのほとんどが試作車程度のものであったが、彼の吉田式は当時の欧米車と比較しても性能において遜色なかった。(中略)
ガタクリ走るから「タクリ―号」だ、などと悪い俗称を付けられたが、明治41年末までにこれだけ優秀な国産車を8台も製作したということは実に驚異的なことである。』(⑫P67)
『そう言えば、ガソリン国産車第一号を製作した吉田真太郎、内山駒之助にしても自分から、どういう方法でつくった、こういう苦労があった、という談義をしていない。周囲が騒いであれこれ作り上げてしまったのである。』(⑫P124)
5.3純国産ガソリン自動車“国末号”と“旭号”の誕生(1909年)
純国産のガソリン自動車第1号の国末(くにまつ)号と、数か月の差で第2号車となった旭号誕生の物語は、(③P67、⑤P38、⑭P43(以上国末号)、P49(旭号))等をダイジェストとして記す。まずは国末号から。
5.3-1純国産ガソリン自動車第1号、“国末号”の誕生(1909年4月)
国末号誕生の舞台となった東京の山田鉄工所は、手堤金庫の当時トップメーカーであった国末金庫店の下請け板金工場で、その経営者である山田米太郎は、腕の良い板金職人だった。山田はタクリ―号のボディ制作の下請けをしたことがきっかけで、自動車に興味を持つ。
その後、縁があって第19代横綱常陸山がアメリカから持ち帰った単気筒の中古車(車種は不明)を修理し、つぶさに検分する機会を得る。(下の写真は横綱常陸山のクルマで国末1号のモデルとなったもの。)

そして大胆にもこれなら自分でも作れそうだと思い!親会社の国末金庫店主の国末良吉に相談したところ、進取の気概のある国末は快く3,000円の資金提供を申し出た。こうして常陸山の輸入したクルマを日本人向けに、きっちりと1/2スケールに小型化して国産化を試みたのが、“国末1号”であった。
しかし各部の寸法を1/2にすると、エンジンの排気量は1/8になってしまいパワー不足になる!等、根本的な問題をいくつか抱え込み、せっかく完成しても動かなかった。
山田らは原因がつかめないまま半年間が過ぎたが、ここで林茂木との出会いがあり、事態が好転する。林は当時の日本の技術の最先端にあった呉海軍工廠造機部で腕を磨いた後に大志を抱いて上京し、芝浦製作所に就職予定であったが、林の技術にほれ込んだ山田に懇願されて、国末号の完成を手伝うことになる。
こうして半年後の2009年4月、林の手腕により何とか動くところまで完成させた。(下の写真は国末1号車。)

以下(⑭P46)より『エンジンの鋳物は外注であるが、ボディやシャシーは山田と、そこで働く人たちによって製作された。タクリ―号につぐ早い時期の完成であるから、日本でできない部品の一部を輸入に頼ったものの、エンジンを含めての国産車としては、これが第1号であると思われる。』
自動車製作に引きずり込まれた?林は引き続き4人乗り2気筒自動車の制作に取り掛かり翌1910年、国末2号車を完成させる。(下の写真は国末2号車。)

そして同年末までに3,4号車も完成させる。以下も⑭P46より『タイヤはフランスのミシュランから購入した以外は、ほとんど国産部品でつくられたといわれている。エンジンのシリンダーブロックの鋳造は、橋本(注;ダット自動車製造の橋本益治郎。次回の記事で記す予定。)の場合と同じように苦労している。当時の事情をよく知り、山田米次郎とも親交のあった警視庁の原田は、「シリンダーの鋳物から吹いたのですが、200台吹いて7台しかものにならなかった記録があります。」と前章で紹介した「日本自動車工業口述記録集」の座談会で述べている。そのまえに「これはエンジンからすべて国産です。(後略)」』と語っているという。
客観的な立場にあって、当時日本で使われていた自動車のすべてを把握していた、警視庁の原田九郎が断言しているので、国末号がエンジン等主要な部品が内製の、純国産車であったことは間違いないだろう。
その後の国末号だが、自動車事業を本格化させる計画が、国末良吉,山田米太郎,そして新たに神戸の回船問屋として手広く貿易や海運業を営む後藤勝造が大口出資者として加わり討議され、その後藤を中心として1911年、東京自働車製作所が創立される。(非常に紛らわしいのだが、吉田真太郎の設立した「東京自動車製作所」とは“動”と“働”の字が違う)
東京自働車製作所は,敷地面積 330坪の新工場に移転し、1914年には54名の組織となり、明治末年から大正初期にかけての日本の自動車関連の企業としては、最大規模であった。
2気筒エンジンをふたつ繋いで直列4気筒にしたより大型の乗用車(“東京カー”というモダンな?名前で呼ばれた)もつくられたが乗用車の販売は不振だった。『合計6台作られたようだが、その多くは出資者や関係者が使用した』(⑭P47)という。そのためバス,トラックの生産へと転換を図ったが,結局採算がとれず、事業は打ち切りとなってしまった。1915年までの5年間で、合計30台近くの生産であったという。
5.3-2純国産ガソリン自動車第2号、“旭号”の誕生(1909年8月)
宮田のブランドは、我々一般には自転車や消火器でなじみ深いが、初代宮田栄助が東京の木挽町で創業した銃の製造工場(宮田製銃工場)が始まりで、日清戦争では大量の宮田銃が使用されたという。その一方で、自転車を修理したことがきっかけで1893年、銃製造で培った技術を生かして国産第一号自転車の試作車を完成させて、自転車製造に進出する。1901年に狩猟法改正により猟銃の売上げが激減したため銃生産を止めて、軍需から民需主体の企業へと転換を図り、1902年に自転車製造専業の宮田製作所となる。(以上主にwikiより。)

(上の写真は「自転車の歴史探訪」ブログの、「宮田の試作第1号車」記事よりコピーさせていただいた。http://www.eva.hi-ho.ne.jp/ordinary/JP/rekishi/rekishi35.html
この写真は一般に、“明治23年製銃所時代に試作した日本初の安全型自転車”と呼ばれているもののようだが、同記事によれば、宮田が自転車に進出した時期はwiki等で一般に言われているよりももう少し後年にずれる可能性も高いようだ。自転車の世界の話なのでここでは深追いせず、詳しくはぜひ直接上記ブログを参照願います。)
自動車の開発に乗り出したのは、2代目宮田栄助の時代からで1907年、東京高等工業学校(現東工大)教授の根岸政一教授や、技術教育を受けた技術者数人の指導を仰ぎながら試作を開始した。町の発明家的な強い思いと、素封家たちによる財政支援で作り上げた山羽式やタクリ―号、国末号の場合と比べると、より企業ベースの組織的な取り組みで、技術的にもプロフェッショナルな体制だった。(下の写真は二代目・宮田栄助。なお栄助の弟の彦之助は東京高等工業学校で根岸教授のもとで機械工学を学んだという。画像はNTTコムウェアブログより)

https://www.nttcom.co.jp/comzine/no111/long_seller/images/long_img01a.jpg
以下(⑭P50)より『エンジンも国産であるといわれ、空冷水平対向2気筒をコピーに近いかたちでつくったと思われる。「日本自動車工業史稿」によれば「タイヤ以外は全部品を製作したといわれ、国産車と呼んで差し支えあるまい」とある。また「白揚社」の豊川順弥(注;日本初の(本格的な)量産乗用車(wiki)、オートモ号を生んだ。後の“その4”の記事で紹介する予定。)もこの旭1号は、「エンジンからミッションまですべて国産で、正式には「旭号2人乗り四輪小型自動車」と呼ばれました。根岸博士が設計した立派なものです」と語っている。豊川は、実際に試作に関与した技術者たちと直接的な交流を持っており、日本人に合うクルマとして設計したことも含めて、高く評価している。』(下は旭号四輪小型自動車。⑭P50よりコピーさせていただいた。)

宮田製作所ではその後も1911年に、参考として購入したイギリス製エンジンを用いた旭号第 2号車を完成したのち、独自設計の水冷直列2気筒エンジンを搭載した、旭3号4人乗りを完成させる。この車は大正博覧会に出品されて、当時としては大型の50馬力エンジンを搭載した16人乗りバスを出品した、東京自働車製作所の国末号と並び銀碑を獲得した。(下は旭3号四人乗り。内装は革張りだった。④P69よりコピーさせていただいた。④によれば真紅の旭号自動車を、朝香宮殿下もお買い上げになったという。)

その後も宮田製作所では、散発的に自動車の試作を行ったが、本業の自転車の生産が国内外向けに盛況となり余力がなくなり、自動車制作を断念した。宮田は一時、オートバイの世界で名を成すが、以後の歴史については割愛する。
なお上述以外にも、国産車の取り組みとして、『~これらの先駆的な自動車製造の試みに加えて,1911年に斑目鉄工所主の桜井藤太郎が国産自動車を製造したともいわれており,1907年から 10年にかけて米山利之助・芳賀五郎による乗用車の試作があったともいわれる。その他,明治年間の繁多商会主範多龍太郎による蒸気自動車の試作,1908年の三田機械製作所によるガソリン乗用車の試作,1911年の東京電灯株式会社による電気自動車の試作など,真偽は必ずしも明らかではないとのことであるが,20世紀初頭に,多くの先覚者による自動車製造への取り組みがなされた。』(⑤P39)とされていることも最後に記しておく。
5項のまとめ
山羽式蒸気自動車の山羽虎夫に始まり、タクリ―号の吉田真太郎、内山駒之助、そして国末号、旭号といった、国産車の歴史の原点となった、先駆者たちの取り組みについて、その足跡を辿ってみた。個々についてはそれぞれの項で検証を試みたが、輸入車をスケッチし、分解し、そのシャシーとエンジンを流用したり、複製したり参考にしたり苦労を重ねて、何とか“国産車”と呼べるものを作り上げた。しかし資本力もない上に、周囲の状況も十分整わず、結局行き詰まり挫折してしまった。このうち、宮田製作所による旭号の試みは、企業としての組織的な取り組みであったが、当時の環境下で自動車事業を商業ベースに乗せるのは困難であり、試作車のみで終わった。
しかし自動車の保有台数が、東京府下で60台程度(1909年)にすぎなかったこの時代に、困難な状況の中で数々の試みがなされたことと、国産車の歴史の駒を着実に進めたその功績は、日本の自動車史の中でけっして消えることはないと思う。
以下は1910年頃までのこの時代の、日本の自動車を取り巻く世界について、もう少し概説的に記して、この記事の終わりとしたい。主に参考にした本は、⑱、㉓、㉔です。
欧米先進諸国では馬車を中心とした道路輸送時代を経た後で、馬車を“馬なし車”として、自転車を動力付き自転車に置き換えていく形で、自動車の市場が自然と形成されていった。
しかし日本はもともと、車輪の付いた乗り物を必要としない社会だったため、自動車に対しての社会的ニーズ自体が乏しかった。
市場の面から見れば、当時の自動車はきわめて高価で、ごく一部の富裕層に需要は限られた。日本社会全般の所得水準も低く、自動車上陸から10年以上経過した1910年に至っても、その保有台数は全国でたった121台を数えるに過ぎなかった。(次の記事“その3”で記す予定の、軍需(軍用トラック)もまもなく加わるが、その台数もけっして多くはなかった。)
さらに≪備考3≫で記したように技術面では、自動車を製造するために必要な、基盤となる技術が脆弱だったため、日本における自動車作りは困難を極めた。
一方限られた国家予算の中で、交通機関の整備としては、まず鉄道建設と造船能力の増強に重点を置き、自動車と道路整備に対しての優先順位は低かった(≪備考5≫参照)。自動車産業は振興すべき産業分野と見なされず、国からのアシストもないままに、半ば放置されていた。
しかしそのような、自動車にとって厳しい環境下で、自動車の機能に着目し、研究を始めた国家機関があった。それは当時交通を所轄する逓信省や土木を所轄する内務省でなく、日本陸軍であった。日露戦争における戦訓から、輸送力の改善のために軍用トラックの研究に着手し、やがて日本初の自動車産業政策である軍用自動車補助法として結実していく。次の記事”その3“からいよいよ”本題”に入っていくが、そうした日本陸軍の果たした役割(パート1)を軸にして、軍用トラックメーカーとして何とか生き残っていった、黎明期の自動車メーカーの活動を見ていきたい。
※【7/24追記】 戦前の日本の自動車史を語るうえで欠かせない資料として、「日本自動車工業史稿」(全3巻;日本自動車工業会)と、「日本自動車工業史座談会記録集」(自動車工業振興会;以下引用㉖)というものがある。いずれも当時非売品として関係者に配布されたもののようだが、遅ればせながら前者はそのコピー版を「日本二輪史研究会」さんから、後者はネットの古本で最近入手できた。このうち㉖では上の記事でも引用したように、当時の真実を知る関係者が集まり座談会を行っているのだが、興味深い内容だったので、上記を補完するうえで追記しておきたい。
まずこの座談会の開催の趣旨として冒頭に『本日の座談会の目的は史実を確かめることと、国産ガソリン自動車第1号のタクリー号ができて今年でちょうど50年になりますので~その当時ご関係のあった方々にお集まりいただき~お話の内容を一つの史実として残しておきたい』と明言されている。その席に集まった方々は、豊川順彌(後に“その4”の記事で記す国産小型乗用車を製造する「白楊社」を作る)、原田九郎(タクリー号の時代は警視庁)、蒔田鉄司(「白楊社」から後に「日本内燃機(くろがね)」を作る)、石沢愛三(大倉組からタクリー号を製造した「東京自動車製作所」の経営立て直し役で派遣される)ら、そうそうたる顔ぶれだ。
そして警視庁の技官(東大工学部卒)として、タクリー号の中身をよく知る原田は、上記本文にしるしたように、『タクリー号はエンジンは輸入したものです。』『わたくしは39年から警視庁にいました。その頃吉田氏の車が本当の国産であるという記憶がありません。』と発言したうえにさらに『エンジンを作っていないことは確かです。』『(1号車の)後にもエンジンを輸入しています。』と何度も“念押し”し、座談会出席者もその事実を認め、その一方で「国末号」と「旭号」はエンジンを含めて“国産”だと、これも皆さん同意したうえで、しかし以下のような”判定”を下している。
『原田 そうむずかしく史実を探求しなくてもよいではありませんか。
豊川 (明治)42年には宮田製作所の旭号ができています。それが完全に国産です。しかし売るだけの数ができたかどうかは別です。
原田 吉田さんが作ったタクリー号は日本の自動車の草分けで、わが国の自動車界に貢献したことは一番大きいと思います。ほかのものは途中で落伍したり、こわれたりしてそれほど貢献しておりません。そういう意味でタクリー号を推して差し支えないと思います。貢献度の多いものを推薦すればよいのです。その意味でタクリー号は日本自動車業界の先駆であると云ってよいと思います。
司会 みなさんのご賛同を得られればよいと思います。
石沢・蒔田・豊川 結構です。』
石沢 明治42年(1909年)に警視庁の登録62台のうち、ヨーロッパのものが40台程度、アメリカのものは10台でした。国産車は9台です。そのうち8台は吉田さんが作ったものです。これは41年4月に登録しております。そのへんのことを考えますと差し支えないと存じます。
司会 みなさんのご賛同を得ましたので、タクリー号を国産車第1号といたします。
司会 それでは次に移ります。~ 』(㉖P16)
がーん!・・・
しかし自分もこの記事で記したように、心情的には理解できる面もある。
だがこの本が出版されたのは1973年だったが、座談会自体は、昭和32年(1957年)4月5日という大昔(ちなみに自分が生まれる前!)に行われたもので、日本車が輸出市場を通して“世界デビュー”を果たす遥か以前の話だった。1957年の日本車の生産台数はたったの18.2万台(うち乗用車が4.7万台)で輸出は6.6万台に過ぎず、対外的に気にする必要もなかったため、このような村社会的な“ローカルルール”でも問題なかったのだろう。 しかし、世界の自動車産業界をリードするようになって久しい今の日本の立場で、このような“インチキ”(ハッキリ言ってしまえば)を今でも引きずっているのは、世界基準ではもはや通用しないばかりか、大きな不審を招きかねない話だと思う。
やはりまことに僭越ながら、上記の“5.2-8”で記したように、国産車史において、自動車社会/文化の面で多大な貢献を果たした”タクリー号”と、ハードウェアとして国産第1号だった“国末号(もしくは旭号)”で役割分担すべき時期に達したのではないかと、思わざるを得ません。いかがなものでしょうか。
引用、参考元一覧
①:「明治の自動車」佐々木烈(1994.06)日刊自動車新聞社
②:ブログ「クルマの絵本ライブラリー」「日本の道を最初に走ったクルマ」https://ehonkuruma.blog.fc2.com/blog-entry-461.html?sp
③:「国産車100年の軌跡」別冊モーターファン(モーターファン400号/三栄書房30周年記念)高岸清他(1978.10)三栄書房
④:「20世紀の国産車」鈴木一義 (2000.05)三樹書房
⑤:「戦前期日本自動車産業の確立と海外展開(上)」上山邦雄
http://libir.josai.ac.jp/il/user_contents/02/G0000284repository/pdf/JOS-02872072-3703.pdf
⑥:「日本のトラック・バスートヨタ・日野・プリンス・ダイハツ・くろがね編」小関和夫
(2007.01)三樹書房
⑦:ブログ「紀行歴史遊学」「6km走った手作り自動車」 https://gyokuzan.typepad.jp/blog/2017/06/%E5%B1%B1%E7%BE%BD%E8%99%8E%E5%A4%AB.html
⑧:gazoo「自動車誕生から今日までの自動車史(前編)」
https://gazoo.com/article/car_history/130530_1.html
⑨:日本の自動車技術330選「山羽式蒸気バス」日本自動車技術会
https://www.jsae.or.jp/autotech/2-1.php
⑩:日本の産業遺産「山羽式蒸気自動車」コベルコ科研
https://www.kobelcokaken.co.jp/tech_library/pdf/no45/a2.pdf
⑪:「自動車に生きた男たち」刀祢館正久(1986.01)新潮社
⑫:「日本自動車史」佐々木烈 (2004.03)三樹書房
⑬:「クルマの歴史300話」28-09蜷田晴彦
http://ninada.blog.fc2.com/blog-category-36-4.html
⑭:「苦難の歴史 国産車づくりの挑戦」桂木洋二(2008.12)グランプリ出版
⑮:「みなさん!知ってますCAR?」2018.11.01広田民郎
https://seez.weblogs.jp/car/2018/11/index.html
⑯:日本の自動車技術330選 「タクリ―号」日本自動車技術会
https://www.jsae.or.jp/autotech/1-1.php
⑰:「販売を目的として生産された国産車は「タクリー号」が最初である。」北九州イノベーションギャラリー
http://kigs.jp/db/history.php?nid=2727&PHPSESSID=8ab6d96e143c47cdec3a2f9f7
⑱:「ニッポンのクルマ20世紀」(2000)神田重己他 八重洲出版
⑲:「だんぜんおもしろいクルマの歴史」堺憲一(2013.03)NTT出版
⑳:「自動車の世紀」折口透(1997.09)岩波新書
㉑:「日本軍と軍用車両」林譲治(2019.09)並木書房
㉒:「自動車産業の歴史と現状 工業化への道のり」(独)環境再生保全機構
https://www.erca.go.jp/yobou/taiki/siryou/siryoukan/pdf/W_A_005.pdf
㉓:「日本自動車工業史―小型車と大衆車による二つの道程」呂寅満(2011.02)東京大学出版会
㉔:「自動車産業の興亡」牧野勝彦(2003.10)日刊自動車新聞社
㉕:「大正~昭和戦前期の自動車政策にみる標準化・規格化」高木晋一郎(人文社会科学研究科 研究プロジェクト報告書 第217集)
https://core.ac.uk/download/pdf/97061095.pdf
㉖:「「日本自動車工業史座談会記録集」 (1973.09)自動車工業振興会
備考
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
≪備考1≫
組立式の国産2輪自動車は山羽式より前からあった
ここでからは余談になるが、“国産自動車第1号”は確かに山羽式蒸気自動車であるが、『じつをいうとこれより以前に広い意味での「自動車」をつくろうと試みた日本人は数多くいた。』(③P59)という。下の写真(引用③P59よりコピーさせていただいた)の広島の柴義彦という人物もその一人で、1898年ごろ(1901年という説もある?)、日本最初の二輪自動車の組立を行ったという。以下物語調でわかりやすく記されている(引用⑬)より『~神戸在住のマンチーニという外人(注;なんと奇遇?なことに山羽虎夫のところで出てくる外人”マンシン“と同一人物!)が商用で下関までオートバイで行くことになりました。途中、広島県を通り過ぎ庄島(しょうしま)という所に立ち寄った時、止まっているオートバイを見て興味を抱いたのが第5師団の高官の息子で柴 義彦(しま・よしひこ)という若者でした。彼は見知らぬ外人に向かって、このオートバイをどこで入手したのかと質問しました。そして外人から、神戸に橋本商会という自転車屋をあり、ここがオートバイ部品を輸入していることを知りました。行動力のある柴は神戸の橋本商店に行き、イギリス製オートバイの部品を注文しました。これが到着すると、自分でオートバイを組み立ててみたら、立派に走ったという話があります』もっとも③や⑬によれば『この時期に日本人によって組み立てられたオートバイは40台以上あった』(⑬)とのことで、柴のものがはたして第1号であったかどうか、これもまた定かではないようだが、確認されているものとして、柴義彦が、日本の2輪組立自動車第1号製作者と認定?されているようだ。)

≪備考2≫
1908年末の警視庁管内自動車総数46台の内訳
(『日本自動車殿堂、初の国産自動車「吉田式」の製作者 吉田 真太郎』より引用)
http://www.jahfa.jp/wp/wp-content/uploads/2011/01/2011-yoshida.pdf
『明治41年(1908年)末の警視庁管内自動車総数は46台で、内訳は、皇族では有栖川宮殿下の2台、大隈重信、渋沢栄一、大倉喜七、古川虎之助、日比谷平左衛門ら実業家が15台、商店では三井呉服店の2台と亀屋鶴五郎が1台、外国人ではジェー・エス・レフロイやデー・エー・スコット、チャールス・エス・シュルツらが8台、陸軍省が2台、新聞社では報知社が2台、会社では帝国運輸自動車が13台、大日本ビール1台である。
これを製造国別でみると、フランス製18台、英国製12台、国産吉田式8台、アメリカ製4台、イタリア製とドイツ製が各2台で、フランス製18台の内13台は帝国運輸自動車のトラックであり、実業家の15台中の7台と大日本ビールの1台は吉田式国産車である。
吉田式国産車が当時の自動車界にあっていかに主要な地位を占めていたかがわかる。』
≪備考3≫
日本の自動車産業成立が遅れた、一つの理由(周辺の産業が育っていなかった)⇒“馬車産業”と“自転車産業”が無かった
そもそも江戸時代以前の日本においては、車輪の付いた乗り物が普及していなかったという根本的な問題もあった。欧米諸国では、馬車を中心とした道路輸送時代を経たあとで、鉄道や自動車の時代が始まったのに対し、日本は幕末から明治にかけてほとんど同時期にそれらすべての導入がいきなり始まった。そのため自動車の周辺産業として事前に「馬車産業」と「自転車産業」というものが、まったく存在していなかったことも大きなハンデとなったという。(日本で車輪付きとなると、牛車か山車で、人が乗る乗り物はなかった。下は川越まつりの山車)

https://www.sotoday.fun/wp-content/uploads/2017/10/d16379effb2fa625ab907ff797c9c732.jpg
以下多少脇道に逸れるが、補足として、引用㉑P28より記す。
『欧米で、かくも短期間に多数の企業が自動車生産に参入できたのは、その前史として、馬車産業と自転車産業の発達があった。(下は1880年代の銀座通り。東京に路面電車が走る明治36年(1903年)以前の風景)

https://blog-imgs-57.fc2.com/e/h/o/ehonkuruma/130829_7.jpg
こうした産業が先行して存在したため、工作機械や関連部品、素材(鉄板など)などの周辺産業の蓄積がすでにできていた。これは日本の自動車発明家や起業家が、自動車製造を試みても、常に部品の入手で苦労したのとは対照的だった。
日本の場合、馬車も自転車も自動車もほとんど並行して産業がスタートしたために、先行する産業の蓄積がなく、相互に頼るべき周辺産業を欠いていた。結果として、日本の自動車産業は部品を内製するために、大規模な設備投資をするか、海外から部品を購入するしかなかった。輸入部品は高価だったが、国産よりは低コストである反面、輸入依存を続ければ、周辺産業が育たないというジレンマがあった。』
自動車産業が成立するための、技術的な基盤について、以下㉔P61から、もう少し詳しく見ていく。
『~自動車は幅広い産業分野の素材・部品を使うが、製鉄、鋳造、鍛造、機械加工、電気、ゴム、工作機械などの技術分野が未発達で、自動車を量産する支持基盤が未完成だった。(中略)フォード社も初期には、エンジンや車体は専門メーカーから購入してアッセンブリーのみをするメーカーだった。自動車を生産する基盤は80%できていたとみてよい。
それに対し、その当時の日本では機械・加工産業は極めて弱体で、政府が主導し育成した鉄鋼業・造船業・鉄道車輛製造業・繊維機械製造業は別として、民需製品では自転車産業や簡単な農業機械産業、初歩的な家電産業のみであった。したがって自動車の開発者は自分で鋳物を作り、工作機械までも自分で作らなければならなかった。自動車を生産するための基盤は10%程度で、90%は奮励刻苦努力し自力で達成しなければならなかった。鉄鋼製品も貧弱で外板の薄板も生産されていないため手叩きで延ばすしかなく、精密鍛造・鋳造の技術もなく、各種合金もなく、国産タイヤはすぐバーストして使えなかった。当時、日本は玩具屋雑貨を見よう見真似で作り輸出していたが、日本製品は安かろう悪かろうですぐに壊れるとの海外での評判であった。そのような工業水準で自動車を作るのは無理だった。』
しかし本題からそれるが、その一方で、周辺の部品産業が育っておらず、国産の自動車を量産するためには自動車会社側がその育成まで乗り出さなければならなかったことが、戦後の日本の自動車産業の特徴の一つとなった、系列の部品メーカーと一心同体の強固な関係を築く、“ピラミッド状の垂直的分業システム”を確立することへとつながった、との見方もある。以下ネットの「自動車産業の歴史と現状 工業化への道のり」環境再生保全機構HP(引用㉒)より、
『1935年以降、自動車大量生産時代が到来、それにふさわしい自動車部品工業を必要としました。ところが、自動車産業のすそ野が未発達のため、自動車メーカー自らによる部品メーカーへの技術指導、質的向上などの育成が図られました。こうした事情から両者の間に相互信頼にもとづく緊密な関係が生まれました。戦後になると関係がさらに深まり、品質の高い製品をつくりだす源泉として、システム化したメーカー=部品・素材企業という「日本的生産システムの原型」を形成していったといわれています。』もっとも日本株式会社的な、部品メーカーとの密接な関係を基にした下請分業構造も、今は瓦解しつつあるところだが。
≪備考4≫
自動車の歴史を記した本やwebや論文では、タクリ―号のエンジン/シャシーをどのように扱っていたのか
いささか興味本位ではあるが、参考までに手持ちの資料やwebの上位検索からいくつかピックアップしてみたので備考欄に記しておく。その表現の中に、立場の違いは微妙に感じられる。総じて「関係者の間で話し合った結果、タクリ―号がガソリン車の国産第一号ということで一致した。現在ではこれが定説となっている」(5.2-7参照;((⑪P23))とする事実が、重くのしかかっているように思える。
(1)『いうまでもなく内山駒之助が自ら設計し、自ら完成したもの』→「国産車100年の軌跡」別冊モーターファン(モーターファン400号/三栄書房30周年記念)高岸清他(1978)三栄書房(引用③)
(2)『鋳物、機械加工、板金などをすべて自分たちの手で行うか、外注生産したと言われる純国産車』→「ニッポンのクルマ20世紀」神田重己他(2000)八重洲出版(引用⑱)
(3)『エンジンも国産化されたという記述もみられるが、アメリカから輸入されたものを分解して組み上げられたと思われる。』→「苦難の歴史 国産車づくりの挑戦」桂木洋二(2008.12)グランプリ出版(引用⑭)
(4)『「明治の輸入車」や「トヨタ博物館紀要No4」では、最初に組み立てたものや当時神戸に輸入されたほぼ同じ構造のフォード・モデルA(1903)を参考に、国産化したのではと推定している。』→「20世紀の国産車」鈴木一義 (2000)三樹書房(引用④)
(5)『エンジンも車台も、すべて一台の旋盤で、アメリカ車のスケッチを参考にして作り上げられた。』→「だんぜんおもしろいクルマの歴史」堺憲一(2013)NTT出版(引用⑲)
(6)『エンジンもシャシーもすべてたった1台の旋盤で作り上げようとしたわけで、今日なら無謀のそしりは免れないところだろう。』→「自動車の世紀」折口透(1997)岩波新書(引用⑳)
以下はWebで公開されているもの
(7)『(エンジンは)自工会の図面ではエンジンはハイネス車用であり、トヨタ博物館の写真ではフォードA型とみなされる。輸入エンジンは12.18hpの2台、3台目(注;タクリ―号)からは自家製 タクリー号は自家製のシャシーである。シャシーはフォードA型と同じ』
「日本の自動車技術330選」日本自動車技術会
https://www.jsae.or.jp/autotech/1-1.php
(8)『エンジンは1837ccの水平対向2気筒で、出力は12馬力だった。模倣の域を出なかったものの、曲がりなりにも日本人が自力で製造したガソリン自動車といえる。』→gazoo 「オートモ号の真実」(webCGもほぼ同じ内容)
https://gazoo.com/article/car_history/140718_1.html
(9)『内山氏は、ダラック号のボディと、米フォード「A型」のエンジンをベースに、タイヤ、バッテリー、プラグ等の輸入品を使い、熟練鋳物師の指導も受け、試行錯誤を重ね、1年数ヶ月後の 1907年に日本最初のガソリン自動車を完成させます。』→「日本の自動車史 第1章 日本の自動車産業の夜明け(1) 」住商アビーム自動車総合研究所
https://www.sc-abeam.com/sc/?p=942
(10)『エンジンやトランスミッションは輸入品ではあったが、A型フォードをお手本にして、日本人の手でつくり上げられた木骨鉄板構造の乗用車である。』→「 みなさん!知ってますCAR?」広田民郎(2019)
https://seez.weblogs.jp/car/2019/04/01/index.html
(11)『1907年に一部の部晶(電装晶)を除いて国産第1号(タクリー号)ガソリン自動車を完成した。』戦前期における自動車工業の技術発展(2001)関権 一橋大学大学院
https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/10406/1/ronso1250500150.pdf
(12)『エンジンやトランスミッションはアメリカから輸入し、主としてボディを製作したものである。現在では実物は残っていないが、資料は少なくないし、模型は作られて公開されている。』産業技術史資料情報センターの、産業技術史資料データベース「タクリー号ガソリンエンジン乗用車」
http://sts.kahaku.go.jp/
(写真は“モデルA型”。T型フォードの後継車として登場する“A型フォード”と名前は紛らわしい。)

http://psycross.com/blog2/wp-content/uploads/2015/02/buggy.jpg
≪備考5≫
当時の日本の交通における、鉄道・海運・自動車の役割
この時代の日本の交通体系全体の中では、鉄道が圧倒的優位で、自動車はごく限られた、趣味的な世界に限られていた。以下はweb上で公開されている「大正~昭和戦前期の自動車政策にみる標準化・規格化」(引用㉕P62)より。
『その頃、鉄道は既に2回の「鉄道熱」期を経て、官設鉄道と五大私鉄をはじめとする大規模私鉄による幹線鉄道網がほぼ完成し、それに接続する主要な地方鉄道路線の開通が相次いでいた。鉄道事業者間の旅客・貨物の連帯輸送や列車の直通運転も全国規模で実施されており、鉄道は明治初期の新橋-横浜間開通から二十余年にして陸上長距離輸送における圧倒的優位な地位を占めていた。
また、三菱系の日本郵船と住友系の大阪商船を中心に沿岸海運航路が発達し、鉄道熱期までに全国的な航路網が整備されていたが、幹線鉄道網が整備されると、鉄道と競合する航路では次第に鉄道に輸送シェアを奪われていった。
一方、短距離の荷物輸送には牛馬が広く用いられ、鉄道の端末輸送には水運が重要な役割を担っていた。
高コストで非効率な自動車は、高付加価値商品の短距離輸送(三井呉服店など)、或いは社会的地位の高い家庭での送迎(大隈重信など)といったように、活躍の場が極めて限定されていた。』(下は「銀座通り(大正7年)天下堂デパートの界隈(8丁目)。」ジャパンアーカイブズさんより。東京では早くから定着した、市電だけが目立つ。)

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- 以上 -
国産自動車の始まり、“山羽式蒸気自動車””タクリ―号”そして ”国末号”
5.国産自動車の始まり、“山羽式蒸気自動車”、”タクリ―号”、そして ”国末号”
(いつものように以下文中敬称略とさせていただき、引用箇所は青字で記すこととする。)
自動車が日本に初めて持ち込まれたのはいつだったのか。諸説があり、有名な話ではサンフランシスコの在留邦人会が、当時の皇太子(後の大正天皇)のご成婚記念に献上した電気自動車が日本に最初に上陸した自動車であったというものがある。
もう一つ有名な説として、当時のアメリカの代表的な蒸気自動車として輸入されたロコモビルが最初だったというものもある。
しかし黎明期の日本自動車史の研究において、第一人者のように思われる佐々木烈(その功績により2014年自動車殿堂入りとなった)によれば、明治31年(1898年)に、フランス人技師のデブネが持ち込んだパナール・ルヴァッソールが最初であったという。(引用①P6←以下、引用もしくは参考にした本及びwebのブログ、論文等は順番に番号をふって文末に記す)
(下は在日フランス人画家、ビゴーの有名な風刺画で、初めての自動車を見て驚く当時の人々の様子を描いたもの。ブログ「クルマの絵本ライブラリー」さんの「日本の道を最初に走ったクルマ」(引用②)という記事よりコピーさせていただいた。)
https://ehonkuruma.blog.fc2.com/blog-entry-461.html?sp

https://blog-imgs-24.fc2.com/e/h/o/ehonkuruma/0217_2.jpg
ちなみにこの“日本に初めて持ち込まれた最初の自動車”、パナール・ルヴァッソールについて、上記ブログの記事に、検証されていった過程が要領よく記されていたため、これ以上の説明は無駄なので止めにする!ぜひそちらの優れた一文の方を訪問して確認してください!(早くも自信喪失?)
(下の写真はやはり(引用②)よりコピーさせていただいた、「フランスで発見された日本最初の自動車の写真」。なお同ブログの別の記事には、2輪車(オートバイ)であれば『それに先立つ2年前、1896年(明治29年)1月19日に皇居前で「石油発動自転車」なるものが試運転されている。』との記述もあることを追記しておく。下記のアドレスです。
https://ehonkuruma.blog.fc2.com/blog-entry-109.html)

https://blog-imgs-57.fc2.com/e/h/o/ehonkuruma/130829_2.jpg
なおさらに異論として、1897年に、横浜在住のアメリカ人が蒸気自動車を持ち込んだという説もあるらしいので、参考までに追記しておく(㉑P9による)。今後も新たな歴史的事実が“発掘”される可能性も、無くはないものと思われる。)
そして20世紀にはいると、皇族や財閥、大政治家といった限られた富裕層の間で、欧米の自動車がごく少数輸入され、使用されていった。
より一般の人たちに、自動車という存在が認知されるきっかけとなったのは、1903年に大阪で開催された第 5回内国勧業博覧会であったとされている。そしてこの博覧会をひとつのきっかけとして、国産自動車第1号である、山羽式蒸気自動車が誕生することになる。(下の画像は「ジャパンアーカイブス」さんより、第 5回内国勧業博覧会の会場風景。)

https://jaa2100.org/assets_c/2016/11/20161128090127-4b7215ae9d2b7f2eba1c531125f7ea5e24e5985a-thumb-autox404-52730.jpg
そこでその後のすべての国産自動車の出発点となった、この純国産の蒸気自動車誕生物語について、記していきたい。
5.1国産自動車第1号は山羽式蒸気自動車(1904年)
5.1-1山羽式蒸気自動車誕生の物語
以下の山羽式蒸気自動車誕生の物語は、広く知られている話だが、(③P56、④P45、⑤P37、⑥P5、⑦、⑧、⑨、⑩)を主に参考にして記した。((下の山羽式蒸気自動車の模型の画像はJSAEよりコピー。ちなみに1900年当時のアメリカの、ニューヨーク、シカゴ、ボストンの三大都市で自動車は2370台登録されていたが、そのうちの過半数の1170台は蒸気自動車だったという。しかも残りの800台は電気自動車で、ガソリン車は少数派の、たった400台に過ぎなかったという。(④P38))

https://www.jsae.or.jp/autotech/photos/2-1-1.jpg
岡山在住の実業家、森房造と楠健太郎は、1903年春に大阪で開催された第5回内國勧業博覧会場でデモ走行した、蒸気バスとガソリンバスに感銘し、二人の地元、岡山市内で乗合馬車に代わるバス事業を始めようと思い立つ。ちなみにこの博覧会におけるデモ走行は日本人に大きな衝撃を与えたようで、乗合馬車を自動車に置き換えようとする動きが日本各地で続出した。(①P69)では『博覧会以後、わずか半年の間に名古屋、岡崎、岐阜、京都、舞鶴、岡山、広島、山口、東京、横浜、富山、長岡、仙台で計画され、まさにわが国の自動車時代の到来を思わせるものがあった。そうした意味では、わが国の自動史にとってこの大阪博覧会は、まさに一時代を画す出来事であった。』と記されている。
しかし森たちは、輸入自動車の価格が8000円すると聞いて購入を断念し、代わりに大胆にも内製しようとする!二人は即実行に移して翌日大阪市内の工場を探索し、中根鉄工所というところに内金を払い発注するも、相手は口先だけで誠意なく、製作はいっこうにはかどらなかった。
そこでその鉄工所はあきらめて、人づてに地元、岡山で工場動力用の蒸気機関や発電機、モーターなどの修理製作を営む、山羽電機工場の山羽虎夫を紹介される。森たちは横須賀海軍造船所、逓信電気試験所などで学んだ山羽の技術を見込んで、蒸気式乗合い自動車の製作を依頼するのであった。
今まで自動車を見たことすらなかった山羽は、実物を見るために神戸の輸入商ニッケル商会の通訳であった実兄の山中鯤太郎を訪ね、そこで扱っていた電気(ガソリンという記述もある)自動車と蒸気自動車の実物を細部にわたって調べ、さらに同社で自動車に詳しい社員(マンシンという名のイタリア人)から解説文や図面による指導を受ける。
1903年9月に帰郷してからも各種外国文献を読み研究しつつ、いよいよ設計図の製作に取りかかる。1904年 3月に独力で蒸気エンジンの組み立てを完了させて,翌1904年4月、僅か7カ月で試作車を完成させたのであった。
以下(⑩)より引用『車体は木製、溶接技術の不足をろうで補い、当時の輸入車が搭載していた石油焚きのフラッシュ・ボイラーを水管式に加工し、エンジンをミッドシップに置いてチェーンで後車軸を駆動するなど、随所に自社製作で対応するための創意と工夫が施されていました。』
(下の画像はトヨタ産業技術記念館より、たった1枚だけ残されている貴重な証拠写真だ。『1904年5月7日の完成試走時の記念写真で、車上の人物は注文主の森房造夫妻と子息』(④P47)だという。大勢乗っているが10人乗りだったので定員以内です。)

http://www.tcmit.org/reading/kids/car08-a.html
以下は(④P47)より『前輪のサスペンションは車輪にリーフ・スプリング(板バネ)とコイル・スプリングの伴用を付け、タイヤはスポークリムにソリッド・ゴムタイヤである。方向舵(ハンドル)は人物手前の車軸に接続しているように見える棒状のものだろうか。現在のハンドルのように丸くない舵棒タイプと考えられる。見る限り、基本的な構造は現在の自動車と同じである。』
以下は(⑩)より『試運転でもエンジンは快適に作動したそうです。しかし、空気入りタイヤを作る技術が当時はなく、ゴムを丸めてリムに巻きつけたソリッドタイヤでは耐久性と安全性に大きな問題があり、ついに実用化されることはありませんでした。』蒸気機関の作動原理については、新橋~横浜間の蒸気汽車の開通から30年後のことで、当時すでに周知の事実だったが、問題はボイラーやエンジン部分の製作だった。溶接の技術がなかったので、全部ネジ止めにして、ロウ付けで対処したようだ。
試運転の詳しい模様について、(⑪P16)より『この自動車の試運転の模様について、「日本自動車工業史稿」では大要次のように述べている。
『予定の九時になると県の内務部長、検査担当官の立会いのもとに、山羽氏の運転で爆音と共に試運転のスタートが切られた。沿道の両側からは拍手と歓声が沸き起こった。自動車は荒神町を北に向かってゆるやかに滑り出し、次第に速度を増して群衆の立ち並ぶ街を西大寺町に向けて疾走し、見る見るうちに姿は小さくなっていった。これこそ日本で最初に作られ、ねじ一本まで山羽氏の苦心の汗がにじむ、記念すべき純国産の自動車である。』いかにも誇らし気に書かれている。
試運転ではタイヤの不具合で車輪から外れかかりながらも、どうにか6km(10km?という記述もある)ほど走行したが、それ以上の試走は断念したという。
さらに(③P46)では、地元岡山に現地取材を試みて、地元の長老から貴重な証言を得ている。(③)は1978年刊行なので、関係者の取材が間に合ったのだろう。『「たいへんな評判じゃったな。古いことで記憶は薄らいでいるが、自動車が走るちゅうて、大勢の人が道ばたにならんで待つんだが、なかなかやってこない。そのうちに遠くの方から「来た来た」という声が伝わる。かなり速かったように思いましたが、ずいぶん音は大きかったようだ。」』当時の臨場感が伝わる話だ。
貧弱な設備(『足踏旋盤 2台と若干の工具ぐらい』(⑤P38)で苦心しながら、ねじ一本に至るまで内製した、正真正銘の“純国産品”で固めたこの山羽式蒸気自動車は、堂々たる純国産自動車の第1号車であったと日本車史的にも“認定”されている。当時の悪路の走行に耐えられず、実用性がなかったため車両は後に解体されたが、言い伝えによれば蒸気エンジンはその後船舶に搭載されて、30年ほど使い続けられたという。(下の写真はJASAEと同じトヨタ博物館の模型。)

https://www.toyota.co.jp/Museum/kandayori/backnumber/magazine60/magazine60_1.pdf
5.1-2山羽式蒸気自動車と、“中根式”蒸気自動車
ところが・・・、黎明期の日本の自動車史を再検証するかのように、労作「日本自動車史」(⑫)や「明治の輸入車」(①)等を著した佐々木烈によれば『余りにも不明な点が多すぎる』という。以下(⑫P108)より引用を続ける。『残された1枚の写真を見ても、自動車というには余りにも粗製乱造すぎる。強いて言えば、時間的余裕が無くて組み立てただけ、とも受け取れる。
エンジン、クランクシャフト、ボイラー、バーナー、自動エア・ポンプ、ガバナー、差動装置、ブレーキ、タイヤに至るまで、どれか1つでも不完全だったら自動車は動かない。
タイヤがダメになって京橋が渡れなかったとか、蒸気汽缶の改良資金がなく試作の継続を断念した、とも言われているが、果たして山羽蒸気自動車は本当に6キロ走ったのだろうか。
すでに記念碑が建っている人の業績に対していろいろと疑問を投じるのは、筆者として心苦しいが、国産第一号車という、わが国の自動車史にとっての最重要課題である。
修正しなくてはならないものは修正して、より真実なるものを後世に伝えなければならない。それが歴史家の使命であり責任である。』
ここから(⑫)では、佐々木氏による膨大な手間をかけただろう解明作業がはじまるのだが、さらに興味があり&正確に確認したい方はぜひ同書を手に取り直接確認いただきたい。ここではそのごく一部だけを抜粋し、疑問点を列記させていただければ、
・「蒸気自動車の製作依頼のあった当時、山羽は自動車を見たことすらなかった」
⇒「当時1905年(明治38年)8月に特許をとって売り出したモーターバイク「特許山羽式自動車」の研究をすでに始めていた。1903年(明治36年)4月には2馬力の石油発動機を販売しており、山羽への依頼はそれらの知識を見込んだものだった。」(⑫P117)
・「わずか7ヶ月で何から何まで山羽がすべて自製したことになっている。」
⇒「足踏旋盤2台とハンマー、スパナーだけで、年末年始を含めた数カ月間で、全部作るのは常識的に考えて不可能だ。」(⑫P115)
・「中根鉄工所というところに内金を払い発注するも相手は口先だけで誠意なく、製作はいっこうにはかどらなかった。」
⇒「中根鉄工所とは契約解除の件で訴訟になったが、途中まで蒸気自動車を製作していた。」(⑫P115)以下(⑫P112)より『この中根鉄工所であるが、まったく作るあてがないのに引き受けるとは思われないので、いろいろ調べてみると、』中根鉄工所が明治36年11月1日の大阪日日新聞に掲載した“中根式蒸気自動車“の新聞広告が、佐々木氏の調査により”発掘“された。
画像はジャパンアーカイブズさん https://jaa2100.org/entry/detail/052626.htmlより

・「この“中根式蒸気自動車”を、依頼を受けた山羽はとにかく組み立てて完成させようとした。」(⑫P119)そして「中根鉄工所は結局山羽に協力することになった。」(⑫P113)
なおこれも、ものすごく不思議なことだが、佐々木によると、歴史的な国産第1号自動車の試運転について、県の内務部長、検査担当官の立会いのもとに行った『試運転当日の山陽新報を調べたが、山羽蒸気自動車に関する記事はどこにもなかった。日時が間違っているのかと思い、前後数か月を見たが、後日談も報道されていない。』という。
惜しむらくは佐々木氏が取材を本格化させたころには、たぶん直接の関係者の多くがすでにお亡くなりになっていたりしたため、(③P46)などの直接の証言とどう符合するのか(あるいはそれらの証言をどう考えるのか)、時代的に確認しようがなかったことだろう。
ただ山羽虎夫自身については、瓦斯電が自動車事業に参入する際(たぶん次回の記事で記すことになる予定)にまず初めに、技術顧問として山羽の招へいを試みた(しかし山羽が固辞した)という事実(③P47等)からしても、黎明期の日本の自動車界においては単なる町の発明家にとどまらない実力を持った技術者として、評価されていたのだと思う。
佐々木は(⑫P122)において、山羽の残した功績について、こうも述べている。『国産車という定義も厳密には難しいし、明治時代に外国の部品を使わずに出来た国産車はおそらくないだろう。ただ、特許という点を見ると、明治38年の山羽虎夫のモーターバイク、39年の仁礼兼氏のトラック、43年の吉岡護の三輪乗用車などが、国産車としては、それぞれの部門で最初といえるのではなかろうか。』
山羽式蒸気自動車の項の締めとして、国立科学博物館の研究員である鈴木一義の㉔P45より引用して終わりにしたい。『山羽氏の蒸気自動車は実物も残らず、実用になったか等、成功談には疑問もあるが、幕末のエピソードと同じく、国産車として日本の道に轍を刻んだと思いたい。』
確かに、果たして6キロもの“長距離”を走れたのかは疑問も残るし今となってはわからない(正直6kmはかなり怪しい?←私見です)。しかし、この“山羽式(山羽/中根式?)蒸気自動車”が純国産4輪自動車の第1号として、郷土岡山の大地を踏みしめるかのように、確かに走り(動き?)始めたのだと、自分もそのように考えます。
(下は岡山市に立つ山羽虎夫の銅像。)

https://gyokuzan.typepad.jp/.a/6a0134861d5550970c01b8d282b198970c-320wi
(ここからは余談と言うか蛇足になるが、“国産自動車第1号”は確かに山羽式蒸気自動車であるが、『じつをいうとこれより以前に広い意味での「自動車」をつくろうと試みた日本人は数多くいた。』(③P59)という。“国産車”としての括りからは多少離れるので、文末の≪備考1≫に、日本最初の二輪自動車の組立を行ったという庄島の柴義彦について、参考までに記しておく。)
5.2国産ガソリン自動車第1号はタクリ―号(1907年)
5.2-1吉田真太郎の歩んだ道
前記の山羽式蒸気自動車同様、世に広く語られている、タクリ―号誕生の物語は、(⑤P38、⑭P19、③P59、⑧、⑭、⑮、⑯)等を参考に記した。(下の写真はトヨタ博物館に展示されている1/5スケールの模型。)

https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/userstorage/000/019/915/378/cb2ecc1afe.jpg
東京/銀座で自転車販売店、双輪商会を営む吉田真太郎は、1901年(1902年との記述もある(③))に自転車の仕入れと商業視察を兼ねて渡米した際に、自動車を見てすっかり感動し、帰国の際に2基のエンジン(水平対向2気筒12馬力と18馬力エンジン)とシャシーを持ち帰る。日本で自動車ビジネスを展開しようと考えたのであろう。(ここで一言追記しておくと、当時の日本では自転車は高価な乗り物で、時代の先端を行く商品を扱う格の高い商いだったとのことで、単なる町の自転車屋さんではなかったようだ。さらに吉田真太郎自身も父親(吉田寅松)は土木業者として当時有名で、横浜をはじめ全国で大規模工事をいくつも手がけていたという。そして夫人は勅撰の貴族院議員であり東京府知事や枢密顧問官を歴任した三浦安の娘だった。(③P60、⑫P70等)による。)
その後吉田は幸運にも、ウラジオストックで無線電信製作の職工として働いた経験のある内山駒之助と運命的に出会い(双輪商会と内山が務めていた逓信省電気試験所が目と鼻のところにあった(①P167))、雇い入れる。
そしてオートバイと3輪乗用車の輸入販売のためにオートモビル商会を設立し、並行して自動車の修理も始める。輸入車の修理やメンテを通して自動車の構造に対して理解を深めていった二人は、吉田がアメリカから持ち帰ったエンジン(小さい12馬力の方)とシャシーを元に1902年7月、1台の自動車を完成させた。これは日本で最初に組立てられた4輪自動車と言われている。しかし格好も出来もお粗末だったようで、ほどなく解体されたという。(⑤P38)
吉田と内山が手掛けた第2号車は広島の顧客からの依頼によるもので、独自の車体の12人乗りのバスの製作に乗り出す。エンジン(18馬力の大きい方)とシャシーは吉田が持ち帰ったアメリカ製のものを使い、ケヤキ製の重い車体は名古屋の鉄道車両メーカーに特注して、生来の器用さをもった腕の立つ職人であった内山が、苦心の末に架装し組み上げて、ようやく完成させた。しかし車重が重すぎてタイヤが持たず、うまく走らなかったようだが、この車が組立式だったが日本最初のバス(前記の山羽式より前)とされている。(下の画像はブログ、「みなさん!知ってますCAR?」広田民郎」さんブログよりコピーさせていただいた。ちなみに内山が自分で運転して運んだとされているが、広島に入ってから乗馬車の関係者から脅迫されたという逸話が残っている。(⑭P21))

https://seez.weblogs.jp/.a/6a0128762cdbcb970c022ad37689bb200c-200wi
こうした実績を踏まえて1904年、オートモビル商会は東京京橋区木挽町のより広い工場に引っ越して、東京自動車製作所を設立した。同社は日本最初の自動車会社と言われているが、その運営には当時“日本屈指の趣味人”と言われ、”日本の自動車レースと自動車文化を先駆“したとして自動車殿堂にも選ばれたほどの自動車通であった、大倉喜七郎の財政的な支援があったという。(大倉喜七郎については以下「自動車殿堂」を参照ください。下の、明治41(1908)年夏に撮影されたという画像もコピーさせていただいたが、運転席に座るのが大倉喜七郎で、後部座席は右より伊藤博文、有栖川宮威仁親王、韓国皇太子殿下という豪華メンバーだった。(①P108))
http://www.jahfa.jp/wp/wp-content/uploads/2018/12/2018-okura.pdf

5.2-2タクリ―号誕生のきっかけ(有栖川宮、大倉喜七郎との出会い)
そんな東京自動車製作所の顧客の一人に大倉と親しく、“自動車の宮様”と言われた有栖川宮威仁親王殿下がいた。以下、タクリ―号誕生秘話を、自工会「日本自動車工業口述記録集」の座談会より引用((⑭P21)からの引用の引用となる)
『座談会で警視庁出身の原田は「それについては面白い話があります。有栖川宮と大倉喜七郎さん、吉田真太郎、内山駒之助両氏がお供をして鎌倉にドライブされたとき、途中で車が故障して宮様は車を降りられました。そのとき宮様が内山氏に「日本で自動車はできないか」と尋ねられました。内山氏は「できますよ」と答えたときに、吉田氏が心配して内山氏の袖を引いたそうですが、間に合いません。宮様はそれではということで製作奨励金として1万円を出されました。吉田氏はいまさらできないともいえず、これがきっかけで吉田、内山氏の国産車への製作への歩みがはじまり、明治40年春完成したのがタクリ―号です」と。
この話を「私も聞いています」とこのとき発言しているのが、のちに吉田・内山と関係を持つことになる石澤愛三である。つまり、吉田には自動車製作をするつもりがなかったのに、つくることになったわけだ。同時代に自動車に関係した二人が証言しているのだから事実だろう。』この有名なエピソードは、上記のように当時の自動車事情を客観的に、もっとも良く知る立場にいた警視庁の原田九郎の証言もあるので、信憑性があるようだ。
吉田には元々国産のガソリン自動車製作の野心があったはずだが、修理やメンテ、さらに前記のバスなどの制作の過程で、周辺産業が育っていない日本で“国産ガソリン自動車第1号”と名乗るにふさわしいクルマを作ることの困難さも十分認識していたはずだ。しかし内山が有栖川宮に「できますよ」(ちなみに「お作り申しあげる」と述べたと、多くの書では書かれている)と返答したので、宮様はその心意気を褒めて、製作奨励金を出すと話が進み、引くに引けぬ立場に追い込まれた、とされている。
5.2-3国産初のガソリン自動車、タクリ―号の誕生
こうして有栖川宮殿下の奨励を受けた二人は、大倉喜七郎からの財政支援もありその製作に取り掛かる。そして1年数ヶ月の苦難の末の1907年 4月、吉田/内山としては3作目のガソリン自動車を完成させる。正式(警視庁への登録)には“国産吉田号”という名称だったが、ガタクリ走ることからいつのことやら“タクリー号”と呼ばれるようになったいきさつはよく知られている話だ。(下の写真はJSAEより。『明治40年12月2日撮影の写真。有栖川宮が完成したタクリ―号で徳川慶喜邸を訪ねた際のもので、乗車左が有栖川宮で右が徳川昭武氏』(④P59))

https://www.jsae.or.jp/autotech/photos/1-1-1.jpg
そして肝心かなめのエンジンだが『吉田眞太郎がアメリカから持って帰ったエンジンはすでに試作1号車と広島へ運んだバスとで使ってしまっていたから、この有栖川宮家に納める乗用車のエンジンはいうまでもなく内山駒之助が自ら設計し、自ら完成したものだ。ただし、そのアメリカ製を手本にしたらしく、ボア101.6mm、ストローク113.3mmの水平対向2気筒型。排気量は1837cc、12馬力。』『ジョンソン型ガバナー式のスピードメーターと磁器を使ったプラグはアメリカ製を使ったほかはすべて国産。ガソリン自動車としての国産第1号車の資格は十分に備わる。』(③P65)という。(ちなみにこの③=「国産自動車100年の軌跡(三栄書房)」は、JSAE(日本自動車技術会)の“日本の自動車技術330選”において、山羽式とタクリ―号ともに、参考文献として掲げている。下の写真は初の国産自動車「吉田式」の製作者、吉田真太郎。画像は日本自動車殿堂より。)

http://www.jahfa.jp/wp/wp-content/uploads/2011/01/2011-yoshida.pdf
以上の記述のように、タクリ―号は日本車の歴史の中で、初の国産ガソリン自動車であると広く認知されている。そして有栖川宮殿下からは「ことのほかのよい出来」だとお褒めの言葉を頂いたという(③P63)。またこの車は宮家への納入のため『ボディ木骨は芝白金・間宮製作所、内張りは芝琴平町・木下製作所、塗装は築地・秋葉塗製所などいずれも当時の宮内省御用馬車職であった。』⑰という。以下は(③P63)より
『有栖川宮殿下、国産自動車お買い上げ、の報はたちまち業界内外に大きな反響を呼んだ。とくに刺激されたのは当時の上流階級と呼ばれる貴顕紳士。東京自動車製作所の自動車は聞けば成績も優秀と聞く。宮殿下の間接的なご奨励、ご推薦もあって東京自動車製作所へはそれから続々と注文が入ってきた。内山駒之助はこうしていきつくひまもなく自動車づくりに忙殺されることになる。そして1907年(明治40年)から翌年にかけて、宮家納入の第1号車を含めて10台もの自動車を完成させたのだ。』1年程の間に10台(台数も8台、14台等諸説ある)も作るとは、当時としては驚くべき成果だ。(≪備考2≫に、1908年当時日本にあった46台の車の内訳を参考までに記しておく。”吉田式”の占める比重の大きさがわかる。)
5.2-4当時の自動車として十分な性能があった
さらにタクリ―号は“成績優秀”であったとされるが、はたしてその性能は如何ほどだったのか。以下(③P65)より引用
『1907年(明治40年)8月1日、麹町の有栖川邸と多摩川日野の渡しとの間、往復48kmのドライブ会が行われた。宮殿下の35馬力ダラックを先頭に渋沢栄一のハンバーがこれに続いて都合10台の参加。(写真(一部トリミングした)と文はブログ「国立歩記」さんよりコピーさせていただいた。http://kunitachiaruki.jp/?p=8057
『有栖川宮殿下とダラック号 明治41年8月1日の遠乗り会、甲州街道上にて、ハンドルは殿下、外側白服は吉田真太郎』
(④P58)の記述では『懇意を得た有栖川宮から、ダラック号のような大きい自動車は日本の狭い道には不都合なので、もう少し小さい自動車を製作できないかとご下命があった』とあるが、確かにタクリー号と比較すると、大型だ。ちなみに別の書では、真夏の暑い日だったと記されている。)

引用を続ける。『中には当代きっての自動車マニアといわれた大倉喜七郎の60馬力フィアット7人乗り大型車や三越呉服店の10馬力クレメントというトラックも含まれていたが、注目すべきは中上川次郎吉、森村市左衛門、日比谷平左衛門らの所有する3台のタクリ―号だ。というのは、このドライブ会が国産初のガソリン車完成を記念する意味と輸入外国車との比較テストという目的をもっていたからだ。吉田眞太郎、内山駒之助の両人も一行に随行したが、宮殿下は途中でタクリ―号にも試乗されるなど終始ご熱心な様子で、この日本最初ともいうべきドライブ会はつつがなく終了した。国産ガソリン車の性能とくに外国車に伍しての信頼性はここに立証されたことになり、日本の自動車史上特筆大書すべきビッグ・イベントであった。』日本で初めて作ったことになる自動車用のエンジン&シャシーは驚くべき完成度であったことになる。
タクリ―号が自動車先進国の欧米製の自動車と比べても、多少ガタクリと異音を発するものの、遜色ない性能と信頼性を有していたことは驚異的なことだ。吉田と内山の二人は、(④P58)『当時、曲がりなりにも自動車製作の経験を持つ工場は他になく、有栖川宮や富豪らの持つ自動車修理などを一手に引き受け』てきた。その過程で学んだものが多かったものと考えられている。
(下の写真のトヨタ博物館の模型からは、外観はダラック号の影響が感じられる。)

https://www.toyota.co.jp/Museum/kandayori/backnumber/magazine60/magazine60_1.pdf.
5.2-5エンジンを作ることの難しさ
ところで・・・ 上記のタクリ―号誕生の物語を、今までお読みいただいた皆さんの頭の中にも、自分と同じく疑問符がいくつか(???ぐらい)つくのではないだろうか。この歴史(一般に“公式”とされているもの)を信じるならば、たとえコピーにせよ十分な試作研究期間もなくいきなり作ったガソリンエンジン&シャシーが、実績ある輸入車と互角の性能をいきなり発揮して、実用性も耐久性も十分あったことになる。多少ガタクリする音さえ目(耳)をつぶれば。しかも短期間の間に10台(③によれば。①では8台、⑳では最終的に17台)も作ったのだ。
しかしこの記事(その②)のあとに、次回以降の記事から延々と綴ることになるが、工業全般のレベルが低かった戦前の日本においては、内山らとは比べものにならないほどの技術と体制で挑んだダットにせよ、瓦斯電にせよ石川島にせよ、さらには黎明期のトヨタや日産に至るまで、たとえコピー技術であったとしても、その時代の外国製自動車と互角の性能で、信頼性も十分な国産自動車など、そうそうできるものではなかったのだ。(≪備考3≫に、日本の自動車産業成立が遅れた一つの理由として、周辺の産業が育っていなかった⇒“馬車産業”と“自転車産業”が無かった点について、追記しておく。)
一例として掲げれておくと、タクリ―号の約10年後のクルマで、後に記す、軍用保護自動車第1号で、最初の国産量産トラックといわれる瓦斯電のTGE-A型では、たとえば『エンジン関係の鋳物の加工がうまくいかず、倉庫にお釈迦のシリンダーが山のようにあった』(⑭P92)という。それでも『このトラックが検定試験に合格しなければ星子(注;橋本益治郎と並び当時の日本で数少ない優れた自動車技術者とされている)は瓦斯電を辞める決意をしていた。多くの人たちが不眠不休で取り組んで、自分の身体のことなど考慮するいとまがなく、目的に向かって突き進んだ。』(⑭P93)不退転の決意で取り組んだ結果だったのだ。
そしてその努力が何とか報われて軍の試験に合格して、瓦斯電のトラックは晴れて軍用自動車補助法に基づく軍用保護自動車の認可第1号として、1919年に20台“量産”された。初の国産“量産”トラックの誕生だ。しかし出来上がったクルマの出来は、『検定試験に合格したのは瓦斯電だけだったから、制式自動貨車の発注が集中、つくると軍に納入されるために、世間では「瓦斯電の軍用自動車」と呼ばれるほどだった。しかし、実際につくられたトラックは、トラブルが絶えないものだった。なかには、まったく走りだすことができないものもあった。実際、自動車メーカーになるのは大変だった。』(⑭P94)自動車は、その国全般の工業技術水準を表す鏡とも言われているが、それが当時の日本の工業水準の実態だったのだ。
その後も、1922年に製造されたTGE-G型1.5トン積みトラックは11台生産されて民間に販売されたが、すぐにトラブル続出して全車返品になったという。(⑭P96)
5.2-6果たしてエンジンまで内製だったのか
ところが・・・、例えばこの時代の自動車づくりで最大の難関となるエンジンの製作に関して『内山は、この時代の苦労した話を原田などによく話をしていたようなのに、エンジンをつくり上げた際の苦労は語っていないようだ。』(⑭P24)という。こうなるとやはり、自分のようないかにド素人でも大きな疑問が浮かび上がらざるを得ない。タクリ―号は果たして本当に、東京自動車製作所製の、国産エンジン(さらに言えばシャシーまでも)を搭載していたのだろうかという、素朴な疑問だ。
確かに前記(5.1-2)の佐々木氏の言葉のように『国産車という定義も厳密には難しいし、明治時代に外国の部品を使わずに出来た国産車はおそらくない』のも事実だ。
しかし、自動車の“魂”そのものであるエンジンが、どこまで国産品であったかどうかは、タクリ―号が国産ガソリン自動車第1号であるとされている以上、いずれどこかでハッキリとさせておかねばならない課題ではないかと思う。
(そこは素通りするのが大人のルールで、つっつくのは “ヤボな話” なのかもしれないが、この問題について、自動車の歴史を記した本やwebや論文ではどのように扱っていたのか、興味深いので手持ちの資料やwebの上位検索からいくつかピックアップしてみたので、参考までに≪備考4≫に記しておく。)
しかしここは、黎明期の日本車の歴史検証においては何度も記すが、たぶん第一人者だと思われる、佐々木烈がどのように記しているのかを、全体を判断するうえで重視したい。(①)より一部を抜粋させていただけば、『内山氏が新しい双輪商会大阪支店から岡田商会(注;フォードモデルA型を輸入して現品があった)に3カ月間行き来して、カタログや修理用の仕様書をスケッチした可能性は高いと見てよかろう。
それどころか、筆者は東京自動車製作所がこのフォードを購入して、エンジンなどをばらして参考にした可能性が高いと見ている。』 ・・・
5.2-7タクリ―号(国産吉田号)と、“国産ちどり号”
さらに(①P90)より大幅に略しつつ引用を続けるが、詳しくはぜひ、同書を手に取り直接確認してみてください。
『(前略)先の記事と写真は、東京自動車製作所がフォードN型を販売していたことを示唆するものである。と同時に、同所が国産自動車を製造したとする従来の説にも大きな疑問を投げ掛ける極めて重要な記事だと思える。
前項のフォードA型でも言及したが、東京自動車製作所とフォード車は深い関わりあいが有ったことがわかる。
さらに穿った見方をすれば、東京自動車製作所では輸入したフォードを国産車として販売していたのではないか、という疑問も湧いてくる。
というのは、この疑問を裏付けるような広告もあるからだ。(中略)
二つの記事から判断する限り、東京自動車製作所は大量にフォードN型を輸入して、それを「ちどり号」として販売する計画だったと思われるのである。
勿論、フォードN型が国産ちどり号であるという確証はないが、少なくとも上記の事情を勘案するならば、その可能性は非常に高い。』(下の写真はフォードN型。確かにそういう目で見てしまうと、先入観からか、一部の “吉田式”に似ているように感じるのは気のせい?)

ここで“正史”と異なる部分もあるが、吉田真太郎の歩んだ、国産自動車作りのパイオニアとしての苦闘の歴史を、佐々木の労作である(⑫P71)より振り返ってみる。
『双輪商会が販売した米国製デートン号(注;自転車)の売れ行きは好調で、たちまち銀座の日米商会や横浜の石川商会、大阪の角商会と覇を競うほどの勢いで成長し、大阪の淀屋橋に支店をつくり、店員武村鶴吉をアメリカに派遣して出張所を開設するほどであった。
真太郎はその後自動車の販売を企画して銀座3丁目5番地に自動車販売部を設け、明治37年(1904年)1月に渡米、乗用車や乗合自動車3台の見本をもって帰国する。』①P70には、乗用車はアンドリュース商会と韓国人に売り、乗合自動車は改造して38年に広島で乗合自動車業を始めた杉本岩吉らに売った。』(⑫P70)には、山羽式のところで記した、1903年の大阪博覧会を契機に、乗合自動車の需要が高まったことも睨んだ渡米だったとの記述もある。
(⑫P73)の引用を続ける。『彼が自動車を改造して販売したのはこれが初めてであったが、広島では馬車屋の妨害などで失敗し、満足に代金が支払われなかったり、明治40年(注;1907年)にフォードN型を改造した「ちどり号」の販売不振や、蒸気式トラックを輸入して始めた運送業(自動車運輸株式会社)の失敗などで、有栖川宮殿下から国産車製造の要請を受けた頃にはすでに経営状態は火の車であった。』
販売不振だった国産「ちどり号」のその後の行く末が気になるところだが、苦闘の末に生み出された、“国産吉田式”タクリ―号も、限られた“国産車需要”が一巡すると行き詰り、結局大倉喜七郎の救済を仰ぐ結果となる。ちなみに『帰国してタクリ―号の製作を身近で見ていた大倉が、これを購入したとか乗り回したとかの記録もない。5台ものクルマをヨーロッパから持ち帰ったのだから、それ以上は必要ないといえばそれまでだが、大倉はタクリ―号に何の言及も残していない。』と、“タクリ―号の物語”については一定の距離を置いていたようだ。
話を戻すが、佐々木の考察した結果を裏付けるかのような重要な証言もある。先にも引用した自工会「日本自動車工業口述記録集」の座談会における、当時東京・警視庁で自動車取締を担当していた原田九郎の証言だ。
警察(内務省)はこの当時の日本の路上を走る全ての自動車を把握していたという。エリート内務官僚にして『当時自動車通として有名』(①P201)だったとされる原田の証言は重く、充分な客観性もあり、いわば決定的な証言(この時代の証言の中でリトマス紙役?)だと言えると思う。
以下(⑭P23)から『~エンジンまで国産化したという資料もあるが、先の座談会での原田の発言では「タクリ―号はエンジンは輸入したものです」というのに続いて「わたくしは(明治)39年から警視庁にいました、そのころ吉田氏の車が本当の国産であるという記憶がありません」と語っている。』また同じ座談会で、大倉により東京自動車製作所に派遣されていた石澤愛三は『「エンジンやミッションは、恐らく吉田さんが米国から輸入したものを使った、と思う」と述べている。』
さらに(⑪P23)によれば、『しかし自動車の歴史に詳しい自動車工業振興会の小磯勝直・資料室長は「関係者の間で話し合った結果、タクリ―号がガソリン車の国産第一号ということで一致した。現在ではこれが定説となっている」と述べている。』とのことで、どうやら“大人の判断”が下されたようだ。
佐々木は以下のようにも記している。『そう言えば、ガソリン国産車第一号を製作した吉田真太郎、内山駒之助にしても自分から、どういう方法でつくった、こういう苦労があった、という談義をしていない。周囲が騒いであれこれ作り上げてしまったのである。』(⑫P124)
様々に尾ひれがついて語られている中で、あくまで“私見”として想像(例によって全くの妄想)すれば、有栖川宮側からの依頼は、自動車整備を通じて懇意にしていた吉田の苦境に対しての暖かい、救済的な意味合いもあったように思える。
さらに想像を広げれば、有栖川宮、大倉、そして吉田という、『当時のわが国自動車界を代表する3人』(①P108)の間では、吉田を支援する形で、当時の日本の工業水準では純国産車の製作は到底叶わずとも、それに至る第一歩として、輸入したシャシーとエンジンを使い実用に耐えうる初の国産ガソリン自動車を作ることにより、歴史のコマを少しでも前に進めたかったように思える。そして3人の偉大な先駆者たちのその思いは、内山駒之助の努力もあり国産吉田式タクリ―号として結実し、その目的は充分達成されたようにも思う。タクリ―号が黎明期の日本車の文化を築いた功績はけっして褪せることはなく、これからも不滅だと個人的には思います。
吉田真太郎と東京自動車製作所のその後だが、当時の舶来品信仰の中で敢えて国産車を買おうという客層は限られていたため、需要が一巡すると自動車製造は途絶え、ますます苦境に陥る。経営再建のため大倉から送り込まれた石澤愛三の主導で1909年に大日本自動車製造会社へと改組され、自動車制作の道を閉ざされた吉田と内山は失意のうちに退社していくことになる。翌年には日本自動車合資会社に改組され、この日本自動車はその後、三井物産と並ぶ大手輸入自動車販売会社として育っていく。それ以降の吉田と内山が歩んだ道については割愛させていただく。
5.2-8国産車史において、“タクリ―号”と“国末号”で役割分担すべきでは?(まったくの私見)
ここからは余談です。さらに全くの私見として、定番の日本自動車史に僭越ながら意見を申せば、タクリ―号の、“市販された国産ガソリン自動車第一号”という称号と、明治の日本の文明文化に果たした偉大な功績はそのままに、エンジンとシャシーまで内製だったという無理やり背負わされた“重荷”(過積載状態?)を外してやり、フォード製をもとに仕上げた(?我々一般人には未公開だが、有名なクルマだけに資料は残されていたはずで、佐々木他在野の研究者たちによる地道な検証の成果もあり、自工会や自技会、国立科学博物館やトヨタ博物館などでは先刻承知で、すでに確認済みだろう)車だと訂正して、「“純”国産の市販ガソリン自動車」という看板のうちの、“純”という一文字だけ外してあげて(あるいは”準”国産車とするかして)、重圧から解放させてやるべきではないかと思う。
日本のガソリン車の原点ともいえるタクリ―号の成り立ちを、こんな“あやふや”なまま放置しておいては、せっかく誇るべき国産車の歴史があるのに、外国からみれば最近の日本の役所みたいに?やっぱり“記録を捏造する国”だと、不当に低く扱われるだけだろう。
ここまで言う理由(ワケ)が一つある。次項で記す、タクリ―号(1907年)から僅か2年後の1909年4月、“純国産自動車”とうたっても大丈夫そうな?“国末(くにまつ)号”が、さらに同年8月には宮田製作所の“旭号”も堂々と控えているからだ。(仮に国松号がこけても大丈夫だ!)元号も変わったこのあたりで心機一転、日本車の公式の歴史を訂正して、両者(車)の間で、役割分担したらいかがだろうかと思うからだ。
このタクリ―号について、自動車史家である桂木洋二と、国立科学博物館研究官の鈴木一義の言葉を記しておく。
『~だからといって、タクリ―号が歴史的価値がないといっているのではない。日本の自動車史初期の活動として、記録に残すべき価値のあるものであることに変わりなない。』(⑭P25)
『二人(注;吉田と内山)は以後も自動車の世界に留まったようだが、彼らもまた早すぎた人であり、本邦初ガソリン自動車製造の恩人としての待遇はなかった。』(④P58)
そしてこの記事を作るにあたり多くを頼った佐々木烈の言葉で締めとしたい。
『国産自動車第1号の製作者として吉田真太郎の名は日本自動車史に燦然と輝いている。
明治時代に国産車をつくった人は何人かいるが、そのほとんどが試作車程度のものであったが、彼の吉田式は当時の欧米車と比較しても性能において遜色なかった。(中略)
ガタクリ走るから「タクリ―号」だ、などと悪い俗称を付けられたが、明治41年末までにこれだけ優秀な国産車を8台も製作したということは実に驚異的なことである。』(⑫P67)
『そう言えば、ガソリン国産車第一号を製作した吉田真太郎、内山駒之助にしても自分から、どういう方法でつくった、こういう苦労があった、という談義をしていない。周囲が騒いであれこれ作り上げてしまったのである。』(⑫P124)
5.3純国産ガソリン自動車“国末号”と“旭号”の誕生(1909年)
純国産のガソリン自動車第1号の国末(くにまつ)号と、数か月の差で第2号車となった旭号誕生の物語は、(③P67、⑤P38、⑭P43(以上国末号)、P49(旭号))等をダイジェストとして記す。まずは国末号から。
5.3-1純国産ガソリン自動車第1号、“国末号”の誕生(1909年4月)
国末号誕生の舞台となった東京の山田鉄工所は、手堤金庫の当時トップメーカーであった国末金庫店の下請け板金工場で、その経営者である山田米太郎は、腕の良い板金職人だった。山田はタクリ―号のボディ制作の下請けをしたことがきっかけで、自動車に興味を持つ。
その後、縁があって第19代横綱常陸山がアメリカから持ち帰った単気筒の中古車(車種は不明)を修理し、つぶさに検分する機会を得る。(下の写真は横綱常陸山のクルマで国末1号のモデルとなったもの。)

そして大胆にもこれなら自分でも作れそうだと思い!親会社の国末金庫店主の国末良吉に相談したところ、進取の気概のある国末は快く3,000円の資金提供を申し出た。こうして常陸山の輸入したクルマを日本人向けに、きっちりと1/2スケールに小型化して国産化を試みたのが、“国末1号”であった。
しかし各部の寸法を1/2にすると、エンジンの排気量は1/8になってしまいパワー不足になる!等、根本的な問題をいくつか抱え込み、せっかく完成しても動かなかった。
山田らは原因がつかめないまま半年間が過ぎたが、ここで林茂木との出会いがあり、事態が好転する。林は当時の日本の技術の最先端にあった呉海軍工廠造機部で腕を磨いた後に大志を抱いて上京し、芝浦製作所に就職予定であったが、林の技術にほれ込んだ山田に懇願されて、国末号の完成を手伝うことになる。
こうして半年後の2009年4月、林の手腕により何とか動くところまで完成させた。(下の写真は国末1号車。)

以下(⑭P46)より『エンジンの鋳物は外注であるが、ボディやシャシーは山田と、そこで働く人たちによって製作された。タクリ―号につぐ早い時期の完成であるから、日本でできない部品の一部を輸入に頼ったものの、エンジンを含めての国産車としては、これが第1号であると思われる。』
自動車製作に引きずり込まれた?林は引き続き4人乗り2気筒自動車の制作に取り掛かり翌1910年、国末2号車を完成させる。(下の写真は国末2号車。)

そして同年末までに3,4号車も完成させる。以下も⑭P46より『タイヤはフランスのミシュランから購入した以外は、ほとんど国産部品でつくられたといわれている。エンジンのシリンダーブロックの鋳造は、橋本(注;ダット自動車製造の橋本益治郎。次回の記事で記す予定。)の場合と同じように苦労している。当時の事情をよく知り、山田米次郎とも親交のあった警視庁の原田は、「シリンダーの鋳物から吹いたのですが、200台吹いて7台しかものにならなかった記録があります。」と前章で紹介した「日本自動車工業口述記録集」の座談会で述べている。そのまえに「これはエンジンからすべて国産です。(後略)」』と語っているという。
客観的な立場にあって、当時日本で使われていた自動車のすべてを把握していた、警視庁の原田九郎が断言しているので、国末号がエンジン等主要な部品が内製の、純国産車であったことは間違いないだろう。
その後の国末号だが、自動車事業を本格化させる計画が、国末良吉,山田米太郎,そして新たに神戸の回船問屋として手広く貿易や海運業を営む後藤勝造が大口出資者として加わり討議され、その後藤を中心として1911年、東京自働車製作所が創立される。(非常に紛らわしいのだが、吉田真太郎の設立した「東京自動車製作所」とは“動”と“働”の字が違う)
東京自働車製作所は,敷地面積 330坪の新工場に移転し、1914年には54名の組織となり、明治末年から大正初期にかけての日本の自動車関連の企業としては、最大規模であった。
2気筒エンジンをふたつ繋いで直列4気筒にしたより大型の乗用車(“東京カー”というモダンな?名前で呼ばれた)もつくられたが乗用車の販売は不振だった。『合計6台作られたようだが、その多くは出資者や関係者が使用した』(⑭P47)という。そのためバス,トラックの生産へと転換を図ったが,結局採算がとれず、事業は打ち切りとなってしまった。1915年までの5年間で、合計30台近くの生産であったという。
5.3-2純国産ガソリン自動車第2号、“旭号”の誕生(1909年8月)
宮田のブランドは、我々一般には自転車や消火器でなじみ深いが、初代宮田栄助が東京の木挽町で創業した銃の製造工場(宮田製銃工場)が始まりで、日清戦争では大量の宮田銃が使用されたという。その一方で、自転車を修理したことがきっかけで1893年、銃製造で培った技術を生かして国産第一号自転車の試作車を完成させて、自転車製造に進出する。1901年に狩猟法改正により猟銃の売上げが激減したため銃生産を止めて、軍需から民需主体の企業へと転換を図り、1902年に自転車製造専業の宮田製作所となる。(以上主にwikiより。)

(上の写真は「自転車の歴史探訪」ブログの、「宮田の試作第1号車」記事よりコピーさせていただいた。http://www.eva.hi-ho.ne.jp/ordinary/JP/rekishi/rekishi35.html
この写真は一般に、“明治23年製銃所時代に試作した日本初の安全型自転車”と呼ばれているもののようだが、同記事によれば、宮田が自転車に進出した時期はwiki等で一般に言われているよりももう少し後年にずれる可能性も高いようだ。自転車の世界の話なのでここでは深追いせず、詳しくはぜひ直接上記ブログを参照願います。)
自動車の開発に乗り出したのは、2代目宮田栄助の時代からで1907年、東京高等工業学校(現東工大)教授の根岸政一教授や、技術教育を受けた技術者数人の指導を仰ぎながら試作を開始した。町の発明家的な強い思いと、素封家たちによる財政支援で作り上げた山羽式やタクリ―号、国末号の場合と比べると、より企業ベースの組織的な取り組みで、技術的にもプロフェッショナルな体制だった。(下の写真は二代目・宮田栄助。なお栄助の弟の彦之助は東京高等工業学校で根岸教授のもとで機械工学を学んだという。画像はNTTコムウェアブログより)

https://www.nttcom.co.jp/comzine/no111/long_seller/images/long_img01a.jpg
以下(⑭P50)より『エンジンも国産であるといわれ、空冷水平対向2気筒をコピーに近いかたちでつくったと思われる。「日本自動車工業史稿」によれば「タイヤ以外は全部品を製作したといわれ、国産車と呼んで差し支えあるまい」とある。また「白揚社」の豊川順弥(注;日本初の(本格的な)量産乗用車(wiki)、オートモ号を生んだ。後の“その4”の記事で紹介する予定。)もこの旭1号は、「エンジンからミッションまですべて国産で、正式には「旭号2人乗り四輪小型自動車」と呼ばれました。根岸博士が設計した立派なものです」と語っている。豊川は、実際に試作に関与した技術者たちと直接的な交流を持っており、日本人に合うクルマとして設計したことも含めて、高く評価している。』(下は旭号四輪小型自動車。⑭P50よりコピーさせていただいた。)

宮田製作所ではその後も1911年に、参考として購入したイギリス製エンジンを用いた旭号第 2号車を完成したのち、独自設計の水冷直列2気筒エンジンを搭載した、旭3号4人乗りを完成させる。この車は大正博覧会に出品されて、当時としては大型の50馬力エンジンを搭載した16人乗りバスを出品した、東京自働車製作所の国末号と並び銀碑を獲得した。(下は旭3号四人乗り。内装は革張りだった。④P69よりコピーさせていただいた。④によれば真紅の旭号自動車を、朝香宮殿下もお買い上げになったという。)

その後も宮田製作所では、散発的に自動車の試作を行ったが、本業の自転車の生産が国内外向けに盛況となり余力がなくなり、自動車制作を断念した。宮田は一時、オートバイの世界で名を成すが、以後の歴史については割愛する。
なお上述以外にも、国産車の取り組みとして、『~これらの先駆的な自動車製造の試みに加えて,1911年に斑目鉄工所主の桜井藤太郎が国産自動車を製造したともいわれており,1907年から 10年にかけて米山利之助・芳賀五郎による乗用車の試作があったともいわれる。その他,明治年間の繁多商会主範多龍太郎による蒸気自動車の試作,1908年の三田機械製作所によるガソリン乗用車の試作,1911年の東京電灯株式会社による電気自動車の試作など,真偽は必ずしも明らかではないとのことであるが,20世紀初頭に,多くの先覚者による自動車製造への取り組みがなされた。』(⑤P39)とされていることも最後に記しておく。
5項のまとめ
山羽式蒸気自動車の山羽虎夫に始まり、タクリ―号の吉田真太郎、内山駒之助、そして国末号、旭号といった、国産車の歴史の原点となった、先駆者たちの取り組みについて、その足跡を辿ってみた。個々についてはそれぞれの項で検証を試みたが、輸入車をスケッチし、分解し、そのシャシーとエンジンを流用したり、複製したり参考にしたり苦労を重ねて、何とか“国産車”と呼べるものを作り上げた。しかし資本力もない上に、周囲の状況も十分整わず、結局行き詰まり挫折してしまった。このうち、宮田製作所による旭号の試みは、企業としての組織的な取り組みであったが、当時の環境下で自動車事業を商業ベースに乗せるのは困難であり、試作車のみで終わった。
しかし自動車の保有台数が、東京府下で60台程度(1909年)にすぎなかったこの時代に、困難な状況の中で数々の試みがなされたことと、国産車の歴史の駒を着実に進めたその功績は、日本の自動車史の中でけっして消えることはないと思う。
以下は1910年頃までのこの時代の、日本の自動車を取り巻く世界について、もう少し概説的に記して、この記事の終わりとしたい。主に参考にした本は、⑱、㉓、㉔です。
欧米先進諸国では馬車を中心とした道路輸送時代を経た後で、馬車を“馬なし車”として、自転車を動力付き自転車に置き換えていく形で、自動車の市場が自然と形成されていった。
しかし日本はもともと、車輪の付いた乗り物を必要としない社会だったため、自動車に対しての社会的ニーズ自体が乏しかった。
市場の面から見れば、当時の自動車はきわめて高価で、ごく一部の富裕層に需要は限られた。日本社会全般の所得水準も低く、自動車上陸から10年以上経過した1910年に至っても、その保有台数は全国でたった121台を数えるに過ぎなかった。(次の記事“その3”で記す予定の、軍需(軍用トラック)もまもなく加わるが、その台数もけっして多くはなかった。)
さらに≪備考3≫で記したように技術面では、自動車を製造するために必要な、基盤となる技術が脆弱だったため、日本における自動車作りは困難を極めた。
一方限られた国家予算の中で、交通機関の整備としては、まず鉄道建設と造船能力の増強に重点を置き、自動車と道路整備に対しての優先順位は低かった(≪備考5≫参照)。自動車産業は振興すべき産業分野と見なされず、国からのアシストもないままに、半ば放置されていた。
しかしそのような、自動車にとって厳しい環境下で、自動車の機能に着目し、研究を始めた国家機関があった。それは当時交通を所轄する逓信省や土木を所轄する内務省でなく、日本陸軍であった。日露戦争における戦訓から、輸送力の改善のために軍用トラックの研究に着手し、やがて日本初の自動車産業政策である軍用自動車補助法として結実していく。次の記事”その3“からいよいよ”本題”に入っていくが、そうした日本陸軍の果たした役割(パート1)を軸にして、軍用トラックメーカーとして何とか生き残っていった、黎明期の自動車メーカーの活動を見ていきたい。
※【7/24追記】 戦前の日本の自動車史を語るうえで欠かせない資料として、「日本自動車工業史稿」(全3巻;日本自動車工業会)と、「日本自動車工業史座談会記録集」(自動車工業振興会;以下引用㉖)というものがある。いずれも当時非売品として関係者に配布されたもののようだが、遅ればせながら前者はそのコピー版を「日本二輪史研究会」さんから、後者はネットの古本で最近入手できた。このうち㉖では上の記事でも引用したように、当時の真実を知る関係者が集まり座談会を行っているのだが、興味深い内容だったので、上記を補完するうえで追記しておきたい。
まずこの座談会の開催の趣旨として冒頭に『本日の座談会の目的は史実を確かめることと、国産ガソリン自動車第1号のタクリー号ができて今年でちょうど50年になりますので~その当時ご関係のあった方々にお集まりいただき~お話の内容を一つの史実として残しておきたい』と明言されている。その席に集まった方々は、豊川順彌(後に“その4”の記事で記す国産小型乗用車を製造する「白楊社」を作る)、原田九郎(タクリー号の時代は警視庁)、蒔田鉄司(「白楊社」から後に「日本内燃機(くろがね)」を作る)、石沢愛三(大倉組からタクリー号を製造した「東京自動車製作所」の経営立て直し役で派遣される)ら、そうそうたる顔ぶれだ。
そして警視庁の技官(東大工学部卒)として、タクリー号の中身をよく知る原田は、上記本文にしるしたように、『タクリー号はエンジンは輸入したものです。』『わたくしは39年から警視庁にいました。その頃吉田氏の車が本当の国産であるという記憶がありません。』と発言したうえにさらに『エンジンを作っていないことは確かです。』『(1号車の)後にもエンジンを輸入しています。』と何度も“念押し”し、座談会出席者もその事実を認め、その一方で「国末号」と「旭号」はエンジンを含めて“国産”だと、これも皆さん同意したうえで、しかし以下のような”判定”を下している。
『原田 そうむずかしく史実を探求しなくてもよいではありませんか。
豊川 (明治)42年には宮田製作所の旭号ができています。それが完全に国産です。しかし売るだけの数ができたかどうかは別です。
原田 吉田さんが作ったタクリー号は日本の自動車の草分けで、わが国の自動車界に貢献したことは一番大きいと思います。ほかのものは途中で落伍したり、こわれたりしてそれほど貢献しておりません。そういう意味でタクリー号を推して差し支えないと思います。貢献度の多いものを推薦すればよいのです。その意味でタクリー号は日本自動車業界の先駆であると云ってよいと思います。
司会 みなさんのご賛同を得られればよいと思います。
石沢・蒔田・豊川 結構です。』
石沢 明治42年(1909年)に警視庁の登録62台のうち、ヨーロッパのものが40台程度、アメリカのものは10台でした。国産車は9台です。そのうち8台は吉田さんが作ったものです。これは41年4月に登録しております。そのへんのことを考えますと差し支えないと存じます。
司会 みなさんのご賛同を得ましたので、タクリー号を国産車第1号といたします。
司会 それでは次に移ります。~ 』(㉖P16)
がーん!・・・
しかし自分もこの記事で記したように、心情的には理解できる面もある。
だがこの本が出版されたのは1973年だったが、座談会自体は、昭和32年(1957年)4月5日という大昔(ちなみに自分が生まれる前!)に行われたもので、日本車が輸出市場を通して“世界デビュー”を果たす遥か以前の話だった。1957年の日本車の生産台数はたったの18.2万台(うち乗用車が4.7万台)で輸出は6.6万台に過ぎず、対外的に気にする必要もなかったため、このような村社会的な“ローカルルール”でも問題なかったのだろう。 しかし、世界の自動車産業界をリードするようになって久しい今の日本の立場で、このような“インチキ”(ハッキリ言ってしまえば)を今でも引きずっているのは、世界基準ではもはや通用しないばかりか、大きな不審を招きかねない話だと思う。
やはりまことに僭越ながら、上記の“5.2-8”で記したように、国産車史において、自動車社会/文化の面で多大な貢献を果たした”タクリー号”と、ハードウェアとして国産第1号だった“国末号(もしくは旭号)”で役割分担すべき時期に達したのではないかと、思わざるを得ません。いかがなものでしょうか。
引用、参考元一覧
①:「明治の自動車」佐々木烈(1994.06)日刊自動車新聞社
②:ブログ「クルマの絵本ライブラリー」「日本の道を最初に走ったクルマ」https://ehonkuruma.blog.fc2.com/blog-entry-461.html?sp
③:「国産車100年の軌跡」別冊モーターファン(モーターファン400号/三栄書房30周年記念)高岸清他(1978.10)三栄書房
④:「20世紀の国産車」鈴木一義 (2000.05)三樹書房
⑤:「戦前期日本自動車産業の確立と海外展開(上)」上山邦雄
http://libir.josai.ac.jp/il/user_contents/02/G0000284repository/pdf/JOS-02872072-3703.pdf
⑥:「日本のトラック・バスートヨタ・日野・プリンス・ダイハツ・くろがね編」小関和夫
(2007.01)三樹書房
⑦:ブログ「紀行歴史遊学」「6km走った手作り自動車」 https://gyokuzan.typepad.jp/blog/2017/06/%E5%B1%B1%E7%BE%BD%E8%99%8E%E5%A4%AB.html
⑧:gazoo「自動車誕生から今日までの自動車史(前編)」
https://gazoo.com/article/car_history/130530_1.html
⑨:日本の自動車技術330選「山羽式蒸気バス」日本自動車技術会
https://www.jsae.or.jp/autotech/2-1.php
⑩:日本の産業遺産「山羽式蒸気自動車」コベルコ科研
https://www.kobelcokaken.co.jp/tech_library/pdf/no45/a2.pdf
⑪:「自動車に生きた男たち」刀祢館正久(1986.01)新潮社
⑫:「日本自動車史」佐々木烈 (2004.03)三樹書房
⑬:「クルマの歴史300話」28-09蜷田晴彦
http://ninada.blog.fc2.com/blog-category-36-4.html
⑭:「苦難の歴史 国産車づくりの挑戦」桂木洋二(2008.12)グランプリ出版
⑮:「みなさん!知ってますCAR?」2018.11.01広田民郎
https://seez.weblogs.jp/car/2018/11/index.html
⑯:日本の自動車技術330選 「タクリ―号」日本自動車技術会
https://www.jsae.or.jp/autotech/1-1.php
⑰:「販売を目的として生産された国産車は「タクリー号」が最初である。」北九州イノベーションギャラリー
http://kigs.jp/db/history.php?nid=2727&PHPSESSID=8ab6d96e143c47cdec3a2f9f7
⑱:「ニッポンのクルマ20世紀」(2000)神田重己他 八重洲出版
⑲:「だんぜんおもしろいクルマの歴史」堺憲一(2013.03)NTT出版
⑳:「自動車の世紀」折口透(1997.09)岩波新書
㉑:「日本軍と軍用車両」林譲治(2019.09)並木書房
㉒:「自動車産業の歴史と現状 工業化への道のり」(独)環境再生保全機構
https://www.erca.go.jp/yobou/taiki/siryou/siryoukan/pdf/W_A_005.pdf
㉓:「日本自動車工業史―小型車と大衆車による二つの道程」呂寅満(2011.02)東京大学出版会
㉔:「自動車産業の興亡」牧野勝彦(2003.10)日刊自動車新聞社
㉕:「大正~昭和戦前期の自動車政策にみる標準化・規格化」高木晋一郎(人文社会科学研究科 研究プロジェクト報告書 第217集)
https://core.ac.uk/download/pdf/97061095.pdf
㉖:「「日本自動車工業史座談会記録集」 (1973.09)自動車工業振興会
備考
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≪備考1≫
組立式の国産2輪自動車は山羽式より前からあった
ここでからは余談になるが、“国産自動車第1号”は確かに山羽式蒸気自動車であるが、『じつをいうとこれより以前に広い意味での「自動車」をつくろうと試みた日本人は数多くいた。』(③P59)という。下の写真(引用③P59よりコピーさせていただいた)の広島の柴義彦という人物もその一人で、1898年ごろ(1901年という説もある?)、日本最初の二輪自動車の組立を行ったという。以下物語調でわかりやすく記されている(引用⑬)より『~神戸在住のマンチーニという外人(注;なんと奇遇?なことに山羽虎夫のところで出てくる外人”マンシン“と同一人物!)が商用で下関までオートバイで行くことになりました。途中、広島県を通り過ぎ庄島(しょうしま)という所に立ち寄った時、止まっているオートバイを見て興味を抱いたのが第5師団の高官の息子で柴 義彦(しま・よしひこ)という若者でした。彼は見知らぬ外人に向かって、このオートバイをどこで入手したのかと質問しました。そして外人から、神戸に橋本商会という自転車屋をあり、ここがオートバイ部品を輸入していることを知りました。行動力のある柴は神戸の橋本商店に行き、イギリス製オートバイの部品を注文しました。これが到着すると、自分でオートバイを組み立ててみたら、立派に走ったという話があります』もっとも③や⑬によれば『この時期に日本人によって組み立てられたオートバイは40台以上あった』(⑬)とのことで、柴のものがはたして第1号であったかどうか、これもまた定かではないようだが、確認されているものとして、柴義彦が、日本の2輪組立自動車第1号製作者と認定?されているようだ。)

≪備考2≫
1908年末の警視庁管内自動車総数46台の内訳
(『日本自動車殿堂、初の国産自動車「吉田式」の製作者 吉田 真太郎』より引用)
http://www.jahfa.jp/wp/wp-content/uploads/2011/01/2011-yoshida.pdf
『明治41年(1908年)末の警視庁管内自動車総数は46台で、内訳は、皇族では有栖川宮殿下の2台、大隈重信、渋沢栄一、大倉喜七、古川虎之助、日比谷平左衛門ら実業家が15台、商店では三井呉服店の2台と亀屋鶴五郎が1台、外国人ではジェー・エス・レフロイやデー・エー・スコット、チャールス・エス・シュルツらが8台、陸軍省が2台、新聞社では報知社が2台、会社では帝国運輸自動車が13台、大日本ビール1台である。
これを製造国別でみると、フランス製18台、英国製12台、国産吉田式8台、アメリカ製4台、イタリア製とドイツ製が各2台で、フランス製18台の内13台は帝国運輸自動車のトラックであり、実業家の15台中の7台と大日本ビールの1台は吉田式国産車である。
吉田式国産車が当時の自動車界にあっていかに主要な地位を占めていたかがわかる。』
≪備考3≫
日本の自動車産業成立が遅れた、一つの理由(周辺の産業が育っていなかった)⇒“馬車産業”と“自転車産業”が無かった
そもそも江戸時代以前の日本においては、車輪の付いた乗り物が普及していなかったという根本的な問題もあった。欧米諸国では、馬車を中心とした道路輸送時代を経たあとで、鉄道や自動車の時代が始まったのに対し、日本は幕末から明治にかけてほとんど同時期にそれらすべての導入がいきなり始まった。そのため自動車の周辺産業として事前に「馬車産業」と「自転車産業」というものが、まったく存在していなかったことも大きなハンデとなったという。(日本で車輪付きとなると、牛車か山車で、人が乗る乗り物はなかった。下は川越まつりの山車)

https://www.sotoday.fun/wp-content/uploads/2017/10/d16379effb2fa625ab907ff797c9c732.jpg
以下多少脇道に逸れるが、補足として、引用㉑P28より記す。
『欧米で、かくも短期間に多数の企業が自動車生産に参入できたのは、その前史として、馬車産業と自転車産業の発達があった。(下は1880年代の銀座通り。東京に路面電車が走る明治36年(1903年)以前の風景)

https://blog-imgs-57.fc2.com/e/h/o/ehonkuruma/130829_7.jpg
こうした産業が先行して存在したため、工作機械や関連部品、素材(鉄板など)などの周辺産業の蓄積がすでにできていた。これは日本の自動車発明家や起業家が、自動車製造を試みても、常に部品の入手で苦労したのとは対照的だった。
日本の場合、馬車も自転車も自動車もほとんど並行して産業がスタートしたために、先行する産業の蓄積がなく、相互に頼るべき周辺産業を欠いていた。結果として、日本の自動車産業は部品を内製するために、大規模な設備投資をするか、海外から部品を購入するしかなかった。輸入部品は高価だったが、国産よりは低コストである反面、輸入依存を続ければ、周辺産業が育たないというジレンマがあった。』
自動車産業が成立するための、技術的な基盤について、以下㉔P61から、もう少し詳しく見ていく。
『~自動車は幅広い産業分野の素材・部品を使うが、製鉄、鋳造、鍛造、機械加工、電気、ゴム、工作機械などの技術分野が未発達で、自動車を量産する支持基盤が未完成だった。(中略)フォード社も初期には、エンジンや車体は専門メーカーから購入してアッセンブリーのみをするメーカーだった。自動車を生産する基盤は80%できていたとみてよい。
それに対し、その当時の日本では機械・加工産業は極めて弱体で、政府が主導し育成した鉄鋼業・造船業・鉄道車輛製造業・繊維機械製造業は別として、民需製品では自転車産業や簡単な農業機械産業、初歩的な家電産業のみであった。したがって自動車の開発者は自分で鋳物を作り、工作機械までも自分で作らなければならなかった。自動車を生産するための基盤は10%程度で、90%は奮励刻苦努力し自力で達成しなければならなかった。鉄鋼製品も貧弱で外板の薄板も生産されていないため手叩きで延ばすしかなく、精密鍛造・鋳造の技術もなく、各種合金もなく、国産タイヤはすぐバーストして使えなかった。当時、日本は玩具屋雑貨を見よう見真似で作り輸出していたが、日本製品は安かろう悪かろうですぐに壊れるとの海外での評判であった。そのような工業水準で自動車を作るのは無理だった。』
しかし本題からそれるが、その一方で、周辺の部品産業が育っておらず、国産の自動車を量産するためには自動車会社側がその育成まで乗り出さなければならなかったことが、戦後の日本の自動車産業の特徴の一つとなった、系列の部品メーカーと一心同体の強固な関係を築く、“ピラミッド状の垂直的分業システム”を確立することへとつながった、との見方もある。以下ネットの「自動車産業の歴史と現状 工業化への道のり」環境再生保全機構HP(引用㉒)より、
『1935年以降、自動車大量生産時代が到来、それにふさわしい自動車部品工業を必要としました。ところが、自動車産業のすそ野が未発達のため、自動車メーカー自らによる部品メーカーへの技術指導、質的向上などの育成が図られました。こうした事情から両者の間に相互信頼にもとづく緊密な関係が生まれました。戦後になると関係がさらに深まり、品質の高い製品をつくりだす源泉として、システム化したメーカー=部品・素材企業という「日本的生産システムの原型」を形成していったといわれています。』もっとも日本株式会社的な、部品メーカーとの密接な関係を基にした下請分業構造も、今は瓦解しつつあるところだが。
≪備考4≫
自動車の歴史を記した本やwebや論文では、タクリ―号のエンジン/シャシーをどのように扱っていたのか
いささか興味本位ではあるが、参考までに手持ちの資料やwebの上位検索からいくつかピックアップしてみたので備考欄に記しておく。その表現の中に、立場の違いは微妙に感じられる。総じて「関係者の間で話し合った結果、タクリ―号がガソリン車の国産第一号ということで一致した。現在ではこれが定説となっている」(5.2-7参照;((⑪P23))とする事実が、重くのしかかっているように思える。
(1)『いうまでもなく内山駒之助が自ら設計し、自ら完成したもの』→「国産車100年の軌跡」別冊モーターファン(モーターファン400号/三栄書房30周年記念)高岸清他(1978)三栄書房(引用③)
(2)『鋳物、機械加工、板金などをすべて自分たちの手で行うか、外注生産したと言われる純国産車』→「ニッポンのクルマ20世紀」神田重己他(2000)八重洲出版(引用⑱)
(3)『エンジンも国産化されたという記述もみられるが、アメリカから輸入されたものを分解して組み上げられたと思われる。』→「苦難の歴史 国産車づくりの挑戦」桂木洋二(2008.12)グランプリ出版(引用⑭)
(4)『「明治の輸入車」や「トヨタ博物館紀要No4」では、最初に組み立てたものや当時神戸に輸入されたほぼ同じ構造のフォード・モデルA(1903)を参考に、国産化したのではと推定している。』→「20世紀の国産車」鈴木一義 (2000)三樹書房(引用④)
(5)『エンジンも車台も、すべて一台の旋盤で、アメリカ車のスケッチを参考にして作り上げられた。』→「だんぜんおもしろいクルマの歴史」堺憲一(2013)NTT出版(引用⑲)
(6)『エンジンもシャシーもすべてたった1台の旋盤で作り上げようとしたわけで、今日なら無謀のそしりは免れないところだろう。』→「自動車の世紀」折口透(1997)岩波新書(引用⑳)
以下はWebで公開されているもの
(7)『(エンジンは)自工会の図面ではエンジンはハイネス車用であり、トヨタ博物館の写真ではフォードA型とみなされる。輸入エンジンは12.18hpの2台、3台目(注;タクリ―号)からは自家製 タクリー号は自家製のシャシーである。シャシーはフォードA型と同じ』
「日本の自動車技術330選」日本自動車技術会
https://www.jsae.or.jp/autotech/1-1.php
(8)『エンジンは1837ccの水平対向2気筒で、出力は12馬力だった。模倣の域を出なかったものの、曲がりなりにも日本人が自力で製造したガソリン自動車といえる。』→gazoo 「オートモ号の真実」(webCGもほぼ同じ内容)
https://gazoo.com/article/car_history/140718_1.html
(9)『内山氏は、ダラック号のボディと、米フォード「A型」のエンジンをベースに、タイヤ、バッテリー、プラグ等の輸入品を使い、熟練鋳物師の指導も受け、試行錯誤を重ね、1年数ヶ月後の 1907年に日本最初のガソリン自動車を完成させます。』→「日本の自動車史 第1章 日本の自動車産業の夜明け(1) 」住商アビーム自動車総合研究所
https://www.sc-abeam.com/sc/?p=942
(10)『エンジンやトランスミッションは輸入品ではあったが、A型フォードをお手本にして、日本人の手でつくり上げられた木骨鉄板構造の乗用車である。』→「 みなさん!知ってますCAR?」広田民郎(2019)
https://seez.weblogs.jp/car/2019/04/01/index.html
(11)『1907年に一部の部晶(電装晶)を除いて国産第1号(タクリー号)ガソリン自動車を完成した。』戦前期における自動車工業の技術発展(2001)関権 一橋大学大学院
https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/10406/1/ronso1250500150.pdf
(12)『エンジンやトランスミッションはアメリカから輸入し、主としてボディを製作したものである。現在では実物は残っていないが、資料は少なくないし、模型は作られて公開されている。』産業技術史資料情報センターの、産業技術史資料データベース「タクリー号ガソリンエンジン乗用車」
http://sts.kahaku.go.jp/
(写真は“モデルA型”。T型フォードの後継車として登場する“A型フォード”と名前は紛らわしい。)

http://psycross.com/blog2/wp-content/uploads/2015/02/buggy.jpg
≪備考5≫
当時の日本の交通における、鉄道・海運・自動車の役割
この時代の日本の交通体系全体の中では、鉄道が圧倒的優位で、自動車はごく限られた、趣味的な世界に限られていた。以下はweb上で公開されている「大正~昭和戦前期の自動車政策にみる標準化・規格化」(引用㉕P62)より。
『その頃、鉄道は既に2回の「鉄道熱」期を経て、官設鉄道と五大私鉄をはじめとする大規模私鉄による幹線鉄道網がほぼ完成し、それに接続する主要な地方鉄道路線の開通が相次いでいた。鉄道事業者間の旅客・貨物の連帯輸送や列車の直通運転も全国規模で実施されており、鉄道は明治初期の新橋-横浜間開通から二十余年にして陸上長距離輸送における圧倒的優位な地位を占めていた。
また、三菱系の日本郵船と住友系の大阪商船を中心に沿岸海運航路が発達し、鉄道熱期までに全国的な航路網が整備されていたが、幹線鉄道網が整備されると、鉄道と競合する航路では次第に鉄道に輸送シェアを奪われていった。
一方、短距離の荷物輸送には牛馬が広く用いられ、鉄道の端末輸送には水運が重要な役割を担っていた。
高コストで非効率な自動車は、高付加価値商品の短距離輸送(三井呉服店など)、或いは社会的地位の高い家庭での送迎(大隈重信など)といったように、活躍の場が極めて限定されていた。』(下は「銀座通り(大正7年)天下堂デパートの界隈(8丁目)。」ジャパンアーカイブズさんより。東京では早くから定着した、市電だけが目立つ。)

https://jaa2100.org/assets_c/2015/12/img_5675871fc31439-thumb-autoxauto-38938.jpg
- 以上 -