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‘㉑ 戦前の国産トラックの歴史(後編) ≪日本の自動車産業の“育ての親”は日本陸軍だった?戦前日本の自動車史(その6)≫

※この記事は書きかけです。

この記事「戦前の国産トラックの歴史(後編)」は(その3)の続編で、戦前の国産トラック/バスの歴史の後編になる。ちなみにダットサンを中心とした小型四輪車は次回の(その7)で、そして最後の(その8)で、自動車製造事業法成立とトヨタ、日産の大衆車について記し、「戦前日本の自動車史」もようやく完結する予定だ。
だが前回の、戦前のオート三輪と違い、今回の分野は、すでに多くの方々が記されていて、不明な点もほとんどなく、その歴史も既に「確定」しているはずだ。この記事もそれらを元にダイジェストにして記すだけなので、前回よりも手短に済ませる予定だったが、ところがそう簡単には終わらず、毎度のことながらダラダラと長編になってしまった。
 まず初めに、前編の“その3”を記したのが2年前で、書いた自分すらもすでに忘れかけているので!前回記事の戦前のオート三輪以外の国産の自動車史を振り返りながら、最初に要約でまとめておく。

日本車の歴史、これまでのおさらい
 まず欧米先進諸国と日本との、自動車市場/産業の形成過程の違いだが、西欧社会ではそもそも馬車を中心とした道路輸送時代があり、その馬車を“馬なし車”に、自転車を動力付き自転車に置き換えていく形で、自動車の市場と産業が自然と形成されていった。
 しかし日本はもともと、クルマを排除した社会だったため、“馬なし車”としての自動車の、社会的ニーズ自体が、そもそも乏しかった。
 その上、日本社会全般の所得水準も低く、その一方で自動車は当初きわめて高価だったので、需要はごく一部の富裕層に限られた。
 そのため自動車の国内上陸から10年以上経過した1910年に至っても、その保有台数は全国でたった121台を数えるに過ぎず、自動車の市場規模はごく小さかった。
 このように、国産の自動車作りを志すパイオニアたちにとっては、厳しい環境下にあったが、それでもこの道の開拓者たちは、輸入車を分解・スケッチし、そのシャシーとエンジンを流用したり(=たとえばフォードN/Aモデルの主要パーツを流用し、10台ぐらい(諸説ある)“量産”した、“準国産ガソリン車”の「タクリー号」(5.2項参照))や、複製したり参考にしたり苦労を重ねて、何とか“純国産車”と呼べるクルマが誕生する(=「国末号」と「旭号」(5.3項参照))。しかし資本力もない上に、周囲の状況も整わず、結局行き詰まり挫折していく。
 当時の限られた国家予算の中で、交通機関の整備としては、まず鉄道建設と造船能力の増強に重点を置き、自動車と道路整備に対しての優先順位は低かった。自動車産業は振興すべき産業分野と見なされず、国からの支援もないままに、半ば放置されていく。

 その代わり、狭隘な日本の道路事情に適応させた、日本人が創意工夫して作り上げたミニマムサイズのクルマである人力車が、民間を主体に急速に普及していく。1896年(明治29年)に約20万台という保有台数は、人口200人当たり1台の人力車が普及していたことになる。明治の日本人にとって、クルマ=人力車であり、その面では日本もクルマ社会であったのだ。この人力車やのちの自転車、リヤカーなどの普及が、その後のオート三輪や小型車隆盛の基となっていく。
(昭和初期の時点で日本の自転車保有台数はフランス・イギリスに次いで世界第三位、生産量はドイツに次いで世界第二位であった。戦前の末期には、特に都市部では一,二世帯に一台の普及率を示していたという。自転車は庶民が所有し、自分で動かして乗る、日本で初めてのクルマだった。)
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 普通四輪自動車に話を戻す。しかし、日露戦争の戦訓で輸送力に劣ることを痛感した日本陸軍が、国防上の見地から、トラックに注目し、自らの陸軍砲兵工廠で、軍用トラックの試作に乗り出す。民間企業より優れた技術を誇った砲兵工廠以外に、この当時は適当な委託先が無かったからであった。完成したトラックはただちに、第一次大戦に投入されて(“青島の戦い”)、実績を示し、自信を深める。
 さらに総力戦となった第一次大戦の研究を通じて、来るべき第二次世界大戦に備えるための、”総力戦構想”が陸軍内で検討されていく。そして自動車もその時々の総力戦構想の中で位置づけられていき、その結果は「軍用自動車補助法」や、のちの「自動車製造事業法」(←“その8”の記事で記す予定)として結実していくことになる。
 少し話を戻し、陸軍は、限られた予算内で戦時における軍用トラックの必要量を確保する手段として、民間のトラック所有者に補助金を出して援助するのと引き換えに、戦時に軍用車として徴用することを目論む。平時から陸軍が大量の自動車を保有するのは経済的負担が大き過ぎたのが理由だが、結果的に国産四輪車を支援する国家機関が、ついに現れたことになる。
1918年3月、「軍用自動車補助法」が成立する。国産軍用トラックの生産を促進するために製造者と保有者の双方に対して補助金を交付するもので,“軍用保護自動車”として認定されるためには、厳格な走行テストを合格することが条件となった。この製造業者に対して行う、国の定める規格に準拠し、合格した軍用保護自動車に対する製造補助金の交付は、法律作成時に参考にしたドイツ,フランス,イギリス等の補助制度には無かったものであった。
 欧州諸国と比べて、そもそも自動車産業の基盤が無きに等しかったからで、同法は後の、商工省主導の自動車産業施策よりも先行した、日本初の自動車産業政策と言われ、その後の日本の自動車産業が、軍主導で発展する端緒が築かれた。
 同法は1918年5月から施行されたが、1920年3月には戦後恐慌に突入し、日本はその後長い不況に入り、軍縮の時代を迎える。圧縮された軍事予算の中で、直接の兵器でない自動車の位置づけは低かった。当初の好況期に立案された予算でさえ、目標台数達成のためには不十分な規模だったが、予算の圧縮でさらに縮小されていく。
 一方この間に、フォードとGMの日本進出があり、新たな営業車の需要が開拓されていった結果、日本の自動車市場は急速に拡大し、トラックの保有台数も急増していく。
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 巨大な自動車メーカーである米2社の進出は、軍用自動車保護法が持つ、副次的な目的であった、国内自動車産業の保護/育成の面からすれば、相反する結果をもたらすだろうことは、目に見えていた。しかし陸軍は巨大外資の“上陸”に、異議を唱えることはなかったという。同法の主目的である、高性能な軍用車を必要な数だけ確保する点においては、皮肉なことに達成されたので、予算も乏しく、国産自動車メーカーの育成に苦しむ中で、あえて目をつぶることにしたのだ。
 以上は陸軍側から見た視点だが、受け手である民間企業側は同法をどうとらえたのか。

 この当時の機械工業分野における国内民間企業の中で、実力No1とNo2は、三菱造船所と川崎造船所であった。三菱/神戸川崎両財閥の旗艦企業として、資本力と技術力があり、当時の国内先端技術であった大規模な造船所を有し、その中では原動機から工作機械まで自製していた。
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 しかし両財閥企業ともに、陸/海軍の国防としての優先事項は攻撃兵器としての軍艦であり、当時急速にクローズアップされた航空機の方で、軍用トラックの優先順位は低い(=予算配分が少ない)ことも直ちに認識した。日本を代表する実力のもち主の両社に対しては、陸軍も海軍も、自動車よりも、国防上の要となる航空機産業の方に、注力してほしいと考えていた節があった。
 そして自動車産業に対して格別の思い入れまではなかったこともあり、両社のこの時点での進出は実現せずに終わる。
(下の写真はジャパンアーカイブズさんより、『「【1918年】丸の内(大正7年)▷大戦景気の沸く丸の内ビジネス街(馬場崎門通)」右側の塔のある建物は東京商工会議所ビル、手前に向かって三菱5号館、同4号館、同1号館、左側は同3号館、古川鉱業ビル、三菱2号館』いわゆる“三菱村”と呼ばれている場所の、始まりの頃の写真だ。)
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 結局既存の一流財閥のなかで、同法を頼りに、新たに自動車産業を興そうとするものはなかった。しかし第一次大戦の戦争特需で大きな資本力を得た企業の中で、大戦終結後の需要急減を見越して、成長分野と目された自動車産業への進出を試みる企業家が現れる。
 このうち、東京瓦斯電気工業(以下“瓦斯電”と略。後の日野自動車のルーツ)は当初から明快に軍用保護自動車メーカーを目指したが、東京石川島造船所(以下“石川島”と略。後に石川島自動車製作所として分離。いすゞ自動車のルーツ)はウーズレー(英国)を国産化する形で乗用車生産からスタートした。
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 瓦斯電は苦労の末に審査試験に合格し,同法の初適用を受けた。しかし保護自動車に認定されても、実際には陸軍以外の民間で、購入するところは少なく、頼りの陸軍の発注量も、予算圧縮のなかで十分ではなく、たちまち苦境に陥る。
 石川島も、苦労の末にウーズレーの国産化を果たした。しかし『売却先の多くは渋沢栄一の縁故で仕方なく購入した人たちだったが、トラブルもあり、価格も高く不評』(①、P23)で、結局乗用車の生産中止を余儀なくされる。
 一方、他に本業がなく、十分な資本力のない中でスタートした橋本増治郎率いる東京の快進社と、商都大阪の風土の中で、久保田鉄工所をはじめとする有力な関西企業が中心となって設立した実用自動車製造も、ターゲットは異なったものの当初は乗用車生産からそれぞれスタートした。
 しかし価格競争力のない国産乗用車の需要は、ほとんどなく、紆余曲折を経て結局両社は統合し、ダット自動車製造(以下“ダット”と略。日産自動車のルーツのひとつ)となり、おなじく乗用車に見切りをつけた石川島共々、生き残りをかけて軍用保護自動車メーカーへと転身していく。フォードとGMの進出により国内の自動車市場は急成長を遂げるが、生産規模の圧倒的な違いにより、性能・品質と、特に価格面において差があまりに大きく、市場拡大の恩恵に授かれなかった。
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 当時の日本では自動車=アメリカ車のことだったのだ。(1920年代後半で、国内3社合計で年間約250~400台程度の生産台数に対し、米2社の日本での販売台数は、2社合計で約2万台程度、しかも日本で大きな利益を上げていた。ちなみに本国ではフォード単独で約195万台(1929年)と、桁違いの規模だった。)
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こうして大戦後の慢性的な不況と、フォード、GMの日本進出という荒波の中で、乗用車生産を志すものたちが次々と挫折していく中で、陸軍向けの僅かな軍用車の需要をベースとして、フォードとGMを中心としたアメリカ社以外の、狭い国内市場をこの3社で分かち合いながら、国産四輪自動車はかろうじて生き延びていくこととなった。
 1930年ごろまでのダイジェストの最後として、“その3”記事で、「軍用自動車補助法」に対してのまとめとして自分が書いた部分を要約し、再録しておく。
「~確かに同法は、市場分析と予算の裏付けも十分無い中で、たぶんに“願望”や“勢い”で作られた法案だったように思える。しかし1910年代の日本の実情を思えば、理性的な判断だけでは、自動車産業育成策など、そうそう立案できるものではなかったことも事実だった。世界を見渡せば、量産アメリカ車の背中ははるか彼方で、ますます遠ざかろうとしており、たとえ”見切り発車”でも、その”決断”は早い方が良かったのだ。
 一方企業の側も、瓦斯電、石川島及びダットの保護自動車3社は、~同法及び陸軍の下支えがあって初めて、苦しい経営を乗り切れたのは事実だ。
 しかし3社の側も、軍用保護自動車としての事業が、国を支える事業であるというプライドを胸に、脱落せずに必死に耐え忍んできた。そして厳しい環境下で陸軍の期待に応えるべく努力した末に、1930年を迎える頃にはついに、性能・品質面で、自動車としての一通りの水準まで引き上げることが出来た。もちろん量産型ではなく、主要な部品も輸入に頼っていたようだが、それでも短期間に、大きな進歩を果たしたと思う。
 同法を巡っては、たとえば当時の国情を考えれば小型車の振興に力を注ぐべきだった等々の議論があるのも事実だが、日本の自動車産業史の全体を見渡せば、この「軍用自動車補助法」と日本陸軍の果たした役割の大きさに、あらためて気づくことだろうと思う。』
以下はトヨタの社史(⑩P30)より引用する。
『関東大震災以後、外車攻勢のあらしが激しくなってからは、揺籃期にあった国産自動車メーカーにとって、あらしを避けるための“避難港”として、大きな役割を果たしたのである。』(下は「1917年 陸軍制式四トン屯自動貨車 (5台製造) 。瓦斯電社内呼称A型」以下のブログより。https://hinosamurai.org/contribution/KOREO_SHIREBA_HINO-TSU.html)
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 確かに小型車の振興策も必要だったが、どちらか一方ではなく両方とも必要で、それは「軍用自動車補助法」とは別に行うべき課題だったように思える(私見です)。
 ということで、過去を振り返り確認したので、ここから前に進みたい。なおいつものように、引用文は区別して青字で記すとともに引用元はすべて明記し、巻末にまとめて記してある。ちなみにいつものように、引用した本はすべて実際に購入した。また文中敬称略とさせていただく。

16.軍用保護自動車3社のたどった道
 圧倒的な力の差がある米2社との戦いは勝負にならず、頼みの陸軍からも、軍縮の時代に「無い袖は振れぬ」とばかりに冷たく距離を置かれてしまう。このような四面楚歌のなかで、危機感を強めた国産自動車メーカー3社はその存続をかけて団結し、政府機関に対して国産自動車支援の働きかけを強める。

危機感を募らせる国産3社と、国産自動車愛好運動
 以下(②P145)より『国産自動車メーカーの3社は,軍用トラックの生産を拡大しながら,米2社に対抗して自動車生産を確立すべく昭和2年(=1927年)に国産品愛用運動を推進し,政府に国産自動車産業の確立を要請した。』
 名門出身の石川島の渋沢正雄社長や、瓦斯電の松方五郎社長(松方正義の五男)、そしてダットの久保田権四郎社長らが、国産自動車工業振興の運動を推進し,政府,議会、軍に働きかけ,奔走したというが、なかでもその先頭に立ち、大きく旗を振ったのは、あの渋沢栄一(~1931年11月没なので、まだ存命中だった)の三男であった、渋沢正雄であったという。陸軍の伊藤久雄は、(③、P46)の座談会のなかで、以下のように語っている。
『自動車の歴史で大事なことは、昭和4年(=1929年)頃に渋沢正雄さんが,国産工業振興の運動を盛んに行なって、それがもとになって自動車工業が浮かび上がってきたことであります。渋沢さんは国産工業振興を国会にはたらきかけ,ついで自動車工業をとりあげたたことは、自動車の歴史において銘記すべきことであります。』自動車製造事業法成立の立役者による証言に従い、この、戦前日本の自動車史の記事の中でも渋沢正雄の功績を、ここに明記しておく。
渋沢や、松方らによるこの運動は、貿易収支の急激な悪化が問題となり、国産品愛用運動を推進していた商工省側の思惑とも重なり、やがて具体的な施策へとつながっていく。(②P145、③、①P28などを参照。)
 今回の記事(その6)では以下順番に、国産車振興策として商工省が行った政策(16.1項)、産業の合理化を試みた、商工省標準型式自動車の制定(16.2項)と、3社の統合(16.3項)、国産バスの発展に貢献した鉄道省(のちの運輸省)の省営バス(16.4項)、及び国産商用車のエンジン開発に多大な貢献を果たした陸軍によるディーゼル統制エンジンの確立(16.5項)、の順番に記していく。まず初めに、商工省による、国内自動車産業振興策について。

16.1商工省主導による自動車産業振興策
 1925年に農商務省を分割して設立された、商工省内では、アメリカ製自動車部品(ノックダウン生産だったので)の輸入急増に危機感を強めていく。関東震災後の復興需要で、黒字基調だった国際収支が赤字に転じた上に、自動車部門の赤字拡大が、貿易収支のさらなる悪化を招いていた。『1922年に700万円に過ぎなかった自動車・部品の輸入額が28年には3,000万円を超え、そのままいけば1億円を突破するものと予想されていた。』(④P108)という。下表のように、実際にはそこまではいかなかったようだが。
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 国産品奨励運動が盛り上がる一方で、陸軍による軍用自動車補助法を軸とした自動車メーカーに対する支援策が、手詰まり感を見せ始めていた。そこで、陸軍に代わり本来の所管である商工省が前面に立ち、国際収支の改善と、自動車産業の保護&育成のために、自動車行政に積極的に関与していくことになった。
 この時期の商工省の自動車政策の主目的は、貿易収支の悪化に歯止めをかけることだった。『日本の貿易全体で見れば、自動車関連の輸入は微々たるものだった。3000万円を超えた一九二八年ですら、全体の1.47%に過ぎなかった。だが急激な輸入超過の拡大傾向は、政府としても看過できなかった。』(⑧P38)そして11.9項の表で示したように、自動車部品の低関税率と人件費の安さもあり、米2社は日本の事業で大きな利益を上げていた。
国内自動車市場がアメリカ製自動車に占有されていくなかで、陸軍・鉄道両省の意向も踏まえつつ、現実的かつ即効性のある施策として、商工省主導で標準型式自動車の規格を制定し,生産基盤を強固にするため国産3社の合併合同を推進することとなった。以下は例によって多くを引用に依存しているので、正しくはオリジナルの方をぜひ確認いただきたい。
 まず商工省は、すでに1926年に、諮問機関として「国産振興委員会」を設置し、国産振興のための調査・審議を行わせていた。そこでは9分野について振興策が策定されたが、その中に自動車工業も含まれており、ここから商工省の自動車政策がスタートしていく。以下、商工省標準型式自動車として結実する過程を、順に追っていく。

16.1-1「国産振興委員会」が解決策を即す
 1929年9月、政府(浜口雄幸内閣の俵孫一商工大臣)は国産振興委員会に対して、3つの産業(「自動車工業」、「アルミ」、「合成硫安」)を確立させるための具体策を諮問した。『「自動車産業の振興は国際貸借の改善と主要産業の振興のための緊急課題」というのが商工省の認識』(⑧P40)で、振興すべき3つの産業のなかに自動車産業が選ばれたのは、前記の、渋沢らによる国産保護自動車3社の政府への働きかけが実を結んだ結果でもあった。

16.1-2「自動車工業確立調査委員会」が具体策を打ち出す
 これに対して委員会は1930年5月、商工大臣あてに答申を提出した。結論から先に言えば「適当なる助成の方策を講じれば、日本での自動車工業の確立は困難ではない」とし、5つの具体策を提案した。詳細は省くので興味のある方は(②P146、④P148)等を参照されたいが、特に注目すべき点は、『製造方法は分業に依ることとし、各部分につき精密なる規格を定め、自動車工場及びその関係工場を一体系の下に統制する。』(②P146)と、統制経済体制に向けて、一歩踏み込んだ記載がなされた点だ。
『いわゆる標準車が、単なる自動車の規格にとどまるものではなく、自動車産業の再編・効率化まで含んでいたことだ。~従来のような民間の自主性に期待するものではなく、「国による統制」が答申に含まれていることも見逃せない。そして一九三一年四月、有事を意識した重要産業の企業連合化を促進する重要産業統制法が公布される。~自動車産業の統制色が強まるのは避けられなかった(この四か月後に満州事変が勃発することになる)。』(⑧P41)
 この後、戦前の日本の自動車メーカーが戦時経済体制の下で、商工・陸軍両省の強力な行政指導により、自動車生産がトヨタ、日産、いすゞ(東京自動車工業)の3社に絞り込まれていったのはご承知の通りだ。
ただし、後述するが、「自動車工業確立調査委員会」の審議の過程を追った(web(3))の論文を読むと、既得権のある企業側の論理としてだが、国産軍用保護トラック3社の側も、官による、上からの強力な“統制”を望んでいた節もうかがえる。
 また「自動車工業の確立は困難ではない」とした、その根拠であるが、16.4項で記す鉄道省向け省営バスの設計に際して、その開発を主導した菅健次郎らが実施した、国産車の性能試験の結果があった。
 石川島のスミダL型、瓦斯電のTGE-L型、ダットのダット61型の3台を定地試験、運行試験の後に分解検査して、走行性能、実用走行性、各部分の構造・耐久性に対する評価を総合的に判定する内容で(⑰P53)、1930年2月答申が出された。結果は「外国車の中位」にあると判断され「多少の欠点を補正せば足るとの結論に到達し」、これが商工省標準型式自動車誕生に向けての、技術的な基盤を与えた。(㉓P9+②P173+③P40+⑰P53。なお実際の試験内容については⑳P166~178にかなり詳しい記述がある。)
 話を戻し、1931年6月、上記の答申内容を踏まえ、第二次若槻次郎内閣の商工大臣桜内幸雄は、自動車工業を確立するための施策を実施するために”自動車工業確立調査委員会”を発足させ、検討を命じる。同委員会では十分な調査研究を行なうとともに,標準型式自動車を試作して,国産車の性能を確認することとなった。
 委員会のメンバーは以下(②P147)より引用 『委員会は,東京帝国大学教授斯波忠三郎(男爵)を委員長とし,国産3社の社長渋沢正雄,松方五郎,久保田権四郎,及び各関係省庁(内務・大蔵・海軍・鉄道・商工省),さらに陸軍省整備局長林 桂,陸軍自動車学校長飯田恒次郎,兵器局長植村東彦等の計 18名のメンバーで構成された。』
 1931年7月の第一回総会の後に、3つの特別委員会(「標準型式自動車の開発」、「生産と販売体制」、「政府の保護政策に関して」)を設けて審議を行った。その中で委員会全体を“標準型式構想”へとリードしたのは、陸軍省整備局長林桂と、鉄道省工作局の朝倉希一であったという。(②P147)
 以下は(⑤P160+①P30+②P148+⑥P34等)を適当に混ぜ合わせて!記した。
 この委員会は、1932年3月まで審議を続けて、報告書が提出され、新しい国産トラック・バスの方向性が打ち出された。このときの結論が、その後の自動車メーカーの将来を大きく左右するものとなった。その内容はおおよそ次のとおりである。
(1)トラックやバスなどで3社が協力して単一車種にしぼって大量に生産することでコスト削減を図る。
(2)フォード(当時3,360cc)やシヴォレー(3,180cc)のライバル車になるのを避けて、それよりひとまわり大きい積載量1.5t、2tの中級クラスとし、エンジン排気量も4,000ccクラス(たとえばGMC4,220cc、ホワイト4,880cc)にする。
(3)生産から販売まで3社が組織的に協力して年間1,000台以上の生産を目標にする。
(4)将来的には乗用車の生産も考慮するものの、トラックやバスで十分な経験を積んでからにする。
(5)政府は、製造奨励金の交付、官庁での使用励行、所得税・営業税等の課税の減免処置、関税の改正等の保護奨励を行う。
これにより、軍用保護自動車メーカー3社は、合併する方向を確認した。狭い市場で3社共存はいかにも効率が悪く、『各メーカーが勝手につくっていたのでは、いつまでも欧米に追いつくことができないという認識が背景にあった』(⑤P161)。問題は製造技術よりも、量産による規模の経済性が発揮できていない点にあるとしたのだ。商工省はこれ以降、同調する陸軍とともに、製造と販売の統合に向けての働きかけを強めていくのだが、3社の統合については(16.3項)で記す。以下、さらに補足すると、
(2)をより具体的に記せば、“商工省標準型式自動車”と称するトラック2種とバス3種の合計5車種が決定された。
(5)により、自動車部品の税率が引き上げられ、一方で製造奨励金(1台当たり300円程度)の交付を行うこととした。
上記の(1)、(3)などでは統制経済色が色濃いものの決して背伸びした内容ではない。(2)、(4)などはフォードなどのいわゆる“大衆車”との正面衝突を避けるなど、当時の日本の自動車市場の現実を見据えた手堅い施策だった。
しかし、後の自動車製造事業法と違い“堅実”な一方で、最大のボリュームゾーンであった“大衆車”市場を避けたために、同クラスは引き続き海外メーカーに市場を委ねられることとなった。さらに以下のような指摘も一部にあることを追記しておく。『その後にトヨタと日産がそのクラスへ参入することを容易にした側面があった。結果として後発メーカーのトヨタと日産に漁夫の利をさらわれることになったのだ。』(①P30)しかし当時の保護自動車3社の内情からすれば、そこまでの余力は到底なかったし、そこはやはり、外資との“直接対決”により生じるリスクを極力回避した代償として、やむを得なかったのではないだろうか。

16.2商工省標準型式自動車の開発
 上記の方針にしたがって、標準型式自動車を試作することとなった。1932年 6月、瓦斯電、石川島、ダット自動車製造の国産3社の間で、協同組合法に基づき標準車の生産調整、補助金の割り当てを行うため「国産自動車組合」を結成し3社カルテルが成立し、経営基盤の確立策がとられた。(⑥P35参考)
試作や試験は、調査委員会の審議の趣旨に沿った形で、1931年9月から先行していたが、以降は同組合に対して、標準型式自動車の試作が委託されることとなった。

16.2-1鉄道省のノウハウを得て開発を行う
 標準型式自動車の共同設計及び試作は、国産3社の技術者に加えて、鉄道省と陸軍の技官が加わり、各メーカーの役割分担が決められた。
 鉄道省のかかわりの背景という点について、東京自動車工業の統制型ディーゼルエンジンの開発を主導し、「日本の自動車用ディーゼルエンジンの育ての親」と言われる伊藤正男(いすゞ自動車専務)は、(⑰、P54)で以下のように語っている。
『小生は、民間三社(石川島、瓦斯電、ダット)は口にこそ出さないが、意見の対立した時の中立のアンパイヤーとして鉄道省の方を向かい入れたのではないかと思います。~ 当時省営バスやトラックの注文主であり、しかも官庁として最も強い技術集団であった鉄道省が仲裁役をかねた委員として加えたと思われます(これは飽くまでも小生の推定です。)
 それに技術者としてほとんどが帝大出身者でしたから権威があったでしょう。』

敗戦当時、日本の国鉄はGHQから極めて高く評価されたという(⑰P3)。その一方で自動車は『小型車とオート3輪を除けば、日本車の設計は外国車の模倣に過ぎない』(⑰P3)と手厳しく断じられたのだが、鉄道省は戦前の国産車よりも格上だった日本の鉄道技術を主導し、自動車分野においても、後の16.4項で記す国産の省営バス開発で実力を示したこともあり、呉越同舟のなかで、高い立場からモノが言えたのだろう。以下は(web2)より引用
『標準形式自動車の製作・設計の拠点は、汐留駅近くの鉄道省の工場に置かれ、そこでは、アメリカから輸入したダッチやGMCなどのサンプルの貨物自動車4台に、日本でも大量に走っているフォードやGMの乗用車2台を加え、これら6台を最終的には分解し徹底的に調べ上げたという。』それらのデータも参考にしながら、標準形式自動車の仕様決めと開発が進められた。(③P38)には、瓦斯電の小西晴二の『鉄道の研究所の施設をよく使わせていただきました。それで早く設計ができた』という証言も残されている。試験設備も技術も、自動車よりレベルが上だったのだろう。
標準型式自動車の共同設計は,国産3社の技師陣である楠木直道(石川島;後にいすゞ自動車社長),小西晴二(ガス電;後に日野自動車専務),後藤敬養(ダット;後に日産ディーゼル社長)と鉄道省車輛課の島秀雄、そして陸軍上西甚蔵等によって行なわれたのだが、『当初メーカー3社の思惑もあり、なかなか作業が進展しなかったという。それを若輩の島がうまく取りまとめていくことで、次第に皆の信頼を得るようになり、このプロジェクトは島を中心に回りだす。』(web2)『主導的役割を演じたのは鉄道省であった。島秀雄技師(後の国鉄技師長)一派の技術陣がその設計を指導したものである』」(「ふそうの歩み」=⑮P47)という、この組合に加わっていない三菱関係者による客観的な証言もある。以下は(②P149)より
『商工省標準型式自動車を具体化させるに当っては,鉄道省の車輌生産方式が大きな役割を果した。当時,共同設計,共同生産のノウハウは,国産3社,商工省において標準型式自動車の製造に応用するほど蓄積されていず,鉄道省車輌課に負うところが大きかったのである。』『(鉄道省)技師朝倉希一は「標準設計は鉄道でほとんど出来ている」「そこでこの委員会(自動車工業確立調査)はその標準設計にすぐ持って行った」と述べている。』(②P147)

16.2-2開発を主導したのは鉄道省+石川島自動車だった
 そして各メーカーにとって、重要となる、エンジン等主要部品の各社ごとの設計分担だが、『㈠ 石川島がエンジン(X型と称される),㈡ 鉄道省がフレーム,ステアリング,ボンネット,ロード・スプリング,㈢ ダット自動車がクラッチ,プロペラシャフト,トランスミッション,㈣ ガス電がホイール・ブレーキ,フロントアクスル,リアアクスル等を担当し,共同生産組合方式を採用した。』(②P150)
 鉄道省の国産トラック3社に対しての技術評価は、たぶん公平なものと思われるので、この結果を一言で言うならば、石川島の完勝で、当時はすでに撤退気味だったダットはともかく、石川島の長年のライバルであった瓦斯電に対してのこの評価は、瓦斯電全体の経営が悪化していた中で、なお多角経営を維持していた中から生じた、自動車部門へのしわ寄せの結果ではないかと思える。(個人的な想像です。なにせ星子勇以下のごく少数の技術陣で、保護自動車の傍ら、『ル・ローン、サルムソン、ベンツ航空国産エンジンの国産化、ニューポール戦闘機(甲式4型戦闘機)の生産を行い、一九二八年には日本初の国産航空エンジン神風(しんぷう)を完成した。無謀とも見える果敢なチャレンジ』(㉑P9)!を行っており、その上でさらに、陸軍からの依頼の各種特殊車両の製作も行っていたのだ。)
 ちなみに標準車用X型エンジンのシリンダーブロックは、ダットの大阪工場で吹いたとのことで(③P82)、陰ながら“鋳物の久保田”の実力を示したという。
 なお、石川島の楠木は東京帝大工学部機械科でウエスト賞を受賞した秀才ながら石川島の自動車部に身を投じるという『決意の人』(⑰P54)(当時としては、奇特な人?)であったが、鉄道省の島は同じ賞を2度受賞した、その1年後輩だったという。『標準型式車の設計に当って、島は「大体楠木さんと二人で相談して何もかも定めればよい様な調子になってしまった」と述懐している』(⑰P54)
 実際の設計と試作にあたって鉄道省側が特に留意した点は、輸入部品依存体質を改めさせ、国産品に代替えさせることと、JIS及び国際規格に極力適合させる設計を行ったことだった。
 さらに鉄道省の技術ノウハウですごい点は、先行して行った3社のトラックの分解調査の段階で『鉄道省大井工場の設備でTGE(瓦斯電)を製造した場合の製造原価見積りを行った』(⑳P174)ことだ。
 当然ながら商工省標準車の際にも、鉄道省側で推定製造原価を算出し、『その内容を、試運転成績発表会の席上、3社の首脳者に示して考慮を求めたのであった。この原価では到底できないとは表向きの話であったが、裏の方では案外良い見積もりとして刺激を受けたらしく、自動車工業が保護自動車なる象牙の塔からでていく気運となった』(⑳P190)と、鉄道省の朝倉希一が記している。
 商工省・陸軍省と実務面を支えた鉄道省が標準型式自動車で目論んだことは、アッセンブリメーカーの統合+自動車部品の外注化・国産化という合理的な分業生産体制による、国産自動車工業の確立で、後の自動車製造事業法による、トヨタ、日産を担いで、フォード、シヴォレーのKD生産車に対抗するという“本番”に先立ち、TXシリーズはそのための試行(模索、予行演習?)というか、その出発点だったとも、言えるかもしれない。
(「新幹線の生みの親」として、あまりにも有名な島秀雄だが、厳しめなwikiの評によれば、「個別事案のディレクターとしてよりも80系電車開発や新幹線計画のような、大局的な視点を求められるグランドプラン実現のプロデューサーとしての技量を発揮した点で評価すべき人物と言える」と評されている。
商工省標準型式自動車は、個別部分の設計について、今の “自動車屋”の目で見ると、欧米の時流をもっと積極的に取り入れるべきだったとの意見もnetなどでは散見される。島は元来“自動車好き”だったというが、“自動車屋”ではなく、畑違いだったこともあり、後に指摘されているような、多少の問題点も生じさせたかもしれない。しかし全体としてみると、「大局的な視点を求められるグランドプラン実現のプロデューサー」としての島の力量が十分に発揮された仕事だったように思える。『このTX型自動車は戦後日本の自動車産業の礎となり、その発展がトラック輸送の拡大に繋がり、鉄道輸送を脅かす。鉄道技術の頂点を極めることになる人物が、鉄道輸送を脅かす種を蒔いたというのも技術史上の興味深い事実であろう。』(⑲P182)(下は、「新幹線の試験車両の前で(島秀雄、写真右)」)
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https://emira-t.jp/app/wp-content/uploads/2017/02/Ejin_001_03.jpg
 
16.2-3「商工省標準型式自動車」(TX型、BX型)の完成
 こうして完成したTX、BXシリーズの仕様について、web(2)=ベストカーweb、(②P150)、(⑤P161)等を参考にし記す。
エンジンは石川島製の1機種に統一して、シャシーはホイールベース長/積載量の違いで(トラック2車種;TX35型がホイールベース長3.5m、1.5t積み(地方一般用)・TX40が4m、2t積み(都市及び近郊用))、乗員数(バス3車種;23,32,40人乗り)でバリエーション展開をはかった。ちなみにフォードやシヴォレーのトラックと差別化するためにホイールベースが圧倒的に長かった。トラックとバスはフレームをわずかに変更した程度で、シャシーとエンジンはほとんど共通だった。
 石川島が担当したエンジンは、X型エンジンと称されたが、コスト低減を狙って、それまでの石川島製A6型エンジンに比べ、材料および工作法を大量生産向きにしたものであった。
 ちなみにA6型エンジンは、アメリカ製のエンジンをスケッチあるいはコピーしたもので、クライスラーの乗用車用エンジンだという説(③P80)と、同じくアメリカのエンジン専業メーカーであるブダ社製だという2つの説がある(⑳P170)。余談だが、16.4-4項で触れる、チヨダS型の100㏋エンジンも、ブダ社製エンジンを参考にしたといわれており(②P176)、当時アメリカのエンジンメーカーであったブダ(Buda)と、ウォーケシャ( Waukesha)という2社が、今のカミンズ、キャタピラーと同じようなポジションにあったらしい。X型も同じく、ブダ社製エンジンを参考にしたといわれている(⑳P185)。
 直列6気筒SVで、排気量はA6型の4,070ccより大きい4,390cc、出力は用途によって45~65㏋/1,500~2,800rpmとし、X型エンジンと命名された。このX型エンジンは1932年に完成。シリンダボディ、クランクケース上半部を一体鋳造した。
そしてここが重要なポイントだが、『材料・電 装品・計器類に至るまで全て国産品を使用し、国産自動車工業の基礎を確立した』(web(1))ことだ。
 なお車幅は、国内の自動車通行可能な道路の80%以上が幅員2間以下という事情を考慮し、地方一般用のTX35型とBX35型の車幅を、おおよそ1間(1818mm)に収めたという。下表が5車種の仕様一覧だ。なお、商工省で標準車の制度関係に携わった宮田応義によれば、1934年まで生産されたこの5車種だけを、「商工省標準形式自動車」と称し、それ以降の生産車は、商工省標準車の改造設計による自動車で、慣例上、標準車とは称さないことになっている(⑦P12)
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 開発の経過について、以下web(2)を参考。
 1931年9月、商工省標準形式自動車の試作が開始され、1932年年3月、5車種9台(各車種2台、BX45のみ1台)が完成。1カ月間、約1000kmにおよぶ性能試験の結果を活かしてTX35、TX40、BX40の各1台を再試作し、第二次試作車として1932年11月完成した。
さらに東京、神奈川、静岡にわたる悪路の多いコースで運行試験を繰り返し、不具合個所を改修し、外観にも改善を加えて1933年8月完成した。ただここで悩ましいのが、商工省標準型式自動車として認定された年が、資料によって異なる点で、(①P30)、(⑤P161)では1934年3月としているが、資料によっては1933年3月としているところもある。この記事では一応、前者としておく。(下はTX40型標準型式トラック。JSAE日本の自動車技術330選より。“TX40”のTはトラック、Xはエンジンで、40はホイールベース長4mを表している。)
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https://www.jsae.or.jp/autotech/photos/3-5-1.jpg
 この標準車は、自動車工業(次項で記すが、石川島自動車製作所がダット自動車製造を吸収合併して1933年3月に創立された会社)と瓦斯電の両社で製造され、同じ車両でありながら両社の従来の呼称である「スミダ」、「ちよだ」として販売されるのは適当ではないとの判断から、1934年の量産開始を機に、伊勢の五十鈴川にちなんで「いすゞ」と命名された。もちろん、これが後の「いすゞ自動車」の社名の由来である。次項で記すが1937年、両社を併合した東京自動車工業が創立され、「スミダ」および「ちよだ」の生産は中止となり、替わって「いすゞ」の名称が全車両に冠せられるようになる。
 かくして「いすゞ」は、自動車工業ならびに瓦斯電によって量産に移ることになったわけだが(ダットが抜けた経緯は次の16.3項で記す)、後述する販売不振と、満州事変後の日本の自動車工業界の成り行きから、両社とも軍用車の生産に重点が置かれたため、商工省標準形式自動車(上記表中の5車種)としては1934年までに750台が生産されただけに終わった。
 しかしいすゞTX(とBX)は、これ以降も改良が続けられ、戦後のいすゞ5~6tトラックへと発展していくことになる。それらは16.5項で記す、陸軍のディーゼル統制エンジンとの組合せで、日本を代表する近代的で世界に通用するトラックの出発点となった。(下の写真は(web(2)より、上の写真と同様、TX40型と思われるが、時代は少し後年のもののようだ。)
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https://img.bestcarweb.jp/wp-content/uploads/sites/4/2022/04/14123702/66e091bc2d19932de79e174ad215915d20.jpg
(下の写真はweb(15)よりコピーさせていただいた、1937年モデルのいすゞBX40型観光バス仕様のカタログ。綺麗なイラストだ。)
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https://stat.ameba.jp/user_images/20140906/17/porsche356a911s/87/d2/j/t02200165_0800060013058274316.jpg?caw=800
もう一枚、下は1939年型のTX40型トラックだ。(㉖P2に掲載されている。)
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https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcR_Dj7hYZaQognHlMXyCmn5YL7TGwCzYoGYMg&usqp=CAU

16.2-4「商工省標準型式自動車」の果たした役割
 ここで「商工省標準型式自動車」をどう評価すべきか、まとめてみたい。
評価のポイントとしては、自動車の場合、“売れたか売れないか(=市場で評価され受け入れられたか)”が重要だが、その点では、タイミングの悪さも災いしたが“失敗作”であったと言わざるを得ない。
 まず当初の計画では、生産初年度が1932年であったが、運悪く?満州事変(1931.9~1933.5)と重なってしまい、軍用車両の製造を優先させた結果、標準形式自動車の事業に力を注げない状況が生まれてしまった。試作の遅れが生じた上に、『陸軍では標準車の結果をみないと、使えるかどうかわからぬと態度を保留していた』(⑦P14)ため、この時点では標準形式自動車の軍用車としての採用を控えたからだ。台数を稼ぐうえでは、もっとも大きな痛手であった。
(しかしTX40に若干の改造を加えて1937年、九七式四輪自動貨車として、後に陸軍から正式採用される。九七式に先行し、標準車の部品を最大限に活用してつくられ、日本陸軍を代表する軍用車両となった、九四式六輪自動貨車とともに、標準車政策はその後、十分に活かされていく。下の写真はブログ「自己満足日記」さんより、ハセガワの1/48プラモデルの、九七式四輪自動貨車(TX40)と、後ろ向きは田宮製のくろがね四起だ。
https://blog.goo.ne.jp/kurakin1220/e/c71691fdd97a33dc9fa5edfd825b99b6
 なお九七式自動貨車はガソリンエンジンの四輪なので、陸軍の運用上では六輪と違い、後方での輸送任務となり、その前年に自動車製造事業法が公布されていたので、本来ならばトヨタと日産の大衆車のトラックが担う分野だ。しかし1937年7月の盧溝橋事件をきっかけに日中戦争がはじまり、この時点ではトヨタと日産の生産量がまだ十分立ち上がっていなかったため、ピンチヒッター的に標準車を軍用化して戦場に送る必要があったのだという(⑧P77)。ちなみに「自動貨車」はモータートラックを直訳した陸軍用語だ。)
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https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/98/c4da75a0185e8967bffb1b141f502d65.jpg
話を戻し、商工省はやむを得ず予算を繰越し、翌1933年度に両社合わせて150台の製造に着手させたが、最優先の軍需に追われて部品の調達もままならなかった。しかも『なかなか思うようには売れず、~米国車レオの値段よりも安くして、東京市営バスへ納めた次第であった。』←(⑦P10)によれば市営バスに「ほとんど全部」。しかし(③P39)によれば「そのうちの50台は無理に」と微妙に異なるが、いずれにしても市営バスに押し込み販売して“消化”したようだ。
その後、満州の同和自動車工業(当時満州にあった国策自動車会社)向けの、満州移出用の300台分の部品(注;販社の「共同国産自動車」(16.3-3項参照)が、満洲国の建国と共に旧奉天軍閥が所有していた奉天造兵廠を接収し,「同和自動車」を設立し,ここを拠点に日本から300 台分の部品を送り CKD 生産を行ったという(web(18)P44))も含めても、先に記したように『商工省の補助金から推定すると750台』(④P164、⑦P12)製造しただけで終わり、1934年には製造が打ち切られた。計画では年産1,000台×5年=5,000台だったのだから、大幅な未達だ。
 このように標準形式自動車の生産は不調に終わったが、満州事変の勃発は皮肉なことに、石川島(自動車工業)と、瓦斯電にとっては幸いし、この間全般に受注は順調であった。
 特にミニ三菱重工業的な、総合重工業企業のような展開をみせていた瓦斯電の場合、今まで自動車以外の他部門の不振が全体の足を大きく引っ張り、経営難に陥っていたが(次項で記す)、1933~34年頃からは軍需の拡大により、標準車の不振にもかかわらず経営内容は一気に好転し、石川島ともども設備投資の増強へと進んでいく。(④P165)(下の画像は“尼崎市立地域研究史料館”さんhttp://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/
より「愛國第三(姫路)裝甲自動車の勇姿」。“愛国(海軍の場合は”報国“)何号”という名称は、国民の献金で兵器や車両を購入する国防献品制度により献納されたもので、「愛国三姫路号」は第十師団管区内の兵庫県から献納された車両という。(web27)によれば瓦斯電製の、ちよだGSW型装甲自動車(九二式装甲車)で、約200生産されたというから当時としては相当な台数だ。ようは忙しかったのだ。)

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http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/Uploads/Postcard/PC0000000172/PC0000000172_640px.jpg
 このように標準車の不振は、満州事変という、外的な要因に大きく作用されたが、④によれば、標準車の商品企画自体にも要因があったと分析している。詳しくは本書を確認いただきたいが、その販売戦略は、『~ まず標準車が20人乗り以上のバス部門において基盤を確保し、さらに1.5トン級の大衆トラック部門の一部を獲得するかにかかっていた。』(④P154)
 特に20人乗り以上のバス部門において市場を確保できるかが重要だったが、『当初大きな期待を寄せられていたバスでも大衆車と大型車に挟まれる結果になったのである。そのため、標準車は鉄道省が「政策的」に購入するに留まった。こうした標準車政策の失敗の結果、1935年中の国産車の保有台数は全体の0.6%にすぎなくなった。』(④P161)官民あげて取り組んだ、標準車の登場にもかかわらず、国産車のシェアはますます低下してしまったのだ。
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 標準車にとって頼みの省営バスは、国産車で統一していたが、当時はまだ路線数が少なく、購入台数もけっして多くはなかった。『(戦前で)最大であった1936年の購入台数は164台であり、当時の保有台数も431台に過ぎなかったのである。』(④P160)
ちなみに(④P161)の表によると、1930~1935年の省営バスの購入は合計で268台で、この市場を、16.4項で記すが新規参入組の、ふそう(三菱)と六甲(川崎)を含む4社(この時点でダットは撤退)で分け合っていたのだ。
 しかもその中で、標準車より出力の大きい、大型バスの方を、より重用したため、標準車は「大型車に挟まれる結果になった」のだが、これについても16.4項の省営バスの項で説明する。
 参考までに1934年9月の調査によると、当時のバスの全保有台数は20,171台で、大衆車のフォードとシヴォレーなどの小型バスの割合が圧倒的に多かった(④P159)。下表は、国鉄沿線の市営バスの使用状況で、国産バスは東京市以外では、京都市と神戸市で僅かに使用されていただけだ。省営バスとならび、国産バスの販路として期待される市営バスにおいても、大半はシヴォレーとフォード(特にシヴォレー)が、使用されていたことが分かる。
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この要因の一つとして、シヴォレー、フォードなどいわゆる“大衆車”の上級移行もあった。11.13項で詳しく記したが、1920年代後半ごろから、フォードとシヴォレーは本国で熾烈な馬力競争を展開し、フォードに例をとれば、1920年代半ばのT型フォードの時代は20㏋だったのが、1939年のV8では90㏋に達し、たった10数年の間に実に×4.5の馬力にパワーアップしていた。同じ“大衆車”という変わらぬ括りながら、たとえばトラックでは1t級から、実質的には、1.5~2t級へと、積載量は上級移行を果たしていた。下からの突き上げも激しかったのだ。
 さらに価格面だが、下表は1935年時点での、バスではなくトラックの価格表だが、やはりフォードとシヴォレーが、相対的に割安であったことがわかる。これだけ価格差があると、いかに市営交通といえども、国産品を率先して採用するわけにはいかなかったようだ。
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この結果、たとえばトヨタ自動車のHPの社史(web(4)=75年史)では、商工省標準型式自動車に対して、『しかし、商工省の計画は2年後に破綻し、この自動車国産化構想も実を結ばなかった。』と、手厳しい評価を下している。

 しかし戦前の陸軍と商工省による自動車政策で、悩ましい点は、その政策の実施段階では、必ずしも民需と合致せず、目論見通りの成果をあげられなくても、第二次世界大戦の敗戦を挟み、戦後の日本の自動車産業の発展まで枠を広げて考えると、あとから見れば実は重要な布石になっていて、高く評価すべき政策となり、結果オーライであった、という例が多いのだ。商工省標準型式自動車も、後述する陸軍が主導したディーゼル化路線(16.5項)と、省営バスの開発(16.4項)などとの合わせ技で、結果としては戦後の国産大型トラック・バスの発展に大きな貢献を果たしたと思う。ただその点については、この記事の最後の、まとめの項で記したい(と、いったん問題を先送りする!)。

16.3商工省/陸軍主導による軍用3社の合併
16.2項で記したように、「自動車工業確立調査委員会」における議論の結果を踏まえ、商工省と陸軍省は、石川島、瓦斯電、ダットの国産トラック3社を統合する意向であったが,その実現までには複雑な経過をたどった。
先に概要を示せば、ダットの大阪工場は1931年 8月に戸畑鋳物に買収されており,石川島と営業権を中心とするダットとの間で 1933年 3月、合併が成立し、自動車工業株式会社が誕生する。残る瓦斯電は、単独での生き残りを模索していたが、1937年 4月に東京自動車工業株式会社の創立により、ようやく3社の合併が実現することになった(下の表を参照)。
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以下からはより詳細に、その経緯をたどっていきたいが、その前に、多少雑談めいた話から始めたい。

16.3-1藤沢正雄(石川島)と久保田権四郎(ダット)の心境の変化
 企業の統廃合の話になると、関係する会社のトップである、渋沢正雄(石川島)、松方五郎(瓦斯電)、久保田権四郎(ごんしろう、ダット)そして鮎川義介(日産)の4人が、どのように考え、決断していったかに、大きくは懸かってくる。
 3社統合が明確に方向づけられたのは、「自動車工業確立調査委員会」(1931.06発足)の前あたりからだが、国産3社の社長が委員となった同委員会について、(web(3)P6)によると、久保田(ダット)だけは権四郎本人ではなく、専務取締役で娘婿でもあった久保田篤次郎の代理出席であったという。自動車事業の芽をつぶさないように、今まで辛抱強く支えてきたが、これ以上、好転は期待できないと、すでに見切っていたようだ。
 一方、自動車産業の将来性を確信し、参入する機会を窺っていた鮎川義介は久保田権四郎のダットに資本参加を申し入れ、久保田はこれに応じる(1931.06)。さらに同年8月、所有株式一切を戸畑鋳物に譲渡して、10年以上にわたる自動車事業から撤退する。(⑫、P83)
 だが久保田は1933年、今度はその戸畑鋳物から、競合先だった同社の発動機部門を逆に引き取ることにする。『「トバタ発動機」を得たことで、久保田鉄工所機械部の販売台数は大幅に増加し~1935(昭和10)年には発動機部門の売上高が、久保田鉄工所・久保田鉄工所機械部の二社合計売上高の15%を初めて超え、内燃機が鉄管と並ぶ久保田の基軸商品となったことを物語っていた。』(⑫、P140)自動車事業をきっぱりとあきらめたが、発動機部門はやがてディーゼルエンジンの商品化へと進み、久保田の事業を支えていく。詳しくは前回記事の15.3-12項を参照してください。
(下は久保田(現クボタ)のHPより、1938年に本格稼働の“東洋一の発動機専門工場”と称された堺工場で、「コンベヤーシステムは自動車会社を除くと、国内民間企業では初の採用」だったという。)
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 一方、瓦斯電と大きな差こそなかったものの、業界のトップ企業であった石川島自動車の渋沢社長は、同委員会の議論のなかで、自ら一歩踏み込み、『生産統制なくして販売統制は実現しないとの持論を展開しつつ、政府の方針が「明瞭」にされるのであれば、既存 3 社を「一個ノ株式会社ノ如キモノニシタイ気持ハアル」と企業合同に意欲をみせた』(web(3)P17)という。
 いざ3社統合ともなれば、各社の利害調整は難しく、実際には難航することになるのだが、文字通り“茨の道”を歩み続けてきた国産保護自動車の側からも、「国による統制」を望んでいた面もあった。(②P115)によれば、『「いすゞ自動車史」(昭和32年)では、「陸軍省兵器局の永田鐵山大佐あたりから(統合を)盛んにすすめられた」(四五頁)と指摘している』そうで、陸軍との歩調も合っていた。
 だが統制経済体制下で陸軍や商工省が描く、自動車行政に従うことは、企業の自主性を失いかねない側面がある。しかし藤沢正雄(石川島)の受容的なその姿勢の裏には、どうやら渋沢家としての事情があったようだ。父、渋沢栄一の死後(1931.11没)、一族に残された数ある事業(トヨタの社史の⑩P31では「渋沢財閥」との記述がある)のなかで、自動車よりも製鉄業を重視するという決断を下したことが影響していたようだ。以下(web5;2021年7月28日付ダイヤモンドオンライン)から要約する。
藤沢正雄は東大を卒業後、父が創設した日本最古の銀行である第一銀行への入行を皮切りに、渋沢貿易、富士製鋼、石川島造船所、石川島自動車、石川島飛行機など、渋沢財閥傘下の企業で重役を歴任するが、父の死の翌年(1932年)、製鉄業以外の関係会社の役職を全て辞任する。『製鉄業に専念することを決めたのは、~ 親父がやって失敗した製鉄業を、一生の仕事として国家に奉仕しようと考えているのである」という。偉大な父に対する尊敬の念と、その遺志を継ぐ強い思いに突き動かされていたようだ。』(web5)
 詳しくは(web5)をお読みいただきたいが、この記事が、85年以上前の1935年12月21日号の同じ「ダイヤモンド」誌の、藤沢正雄へ実際にインタビューした記事を基に書き起こされているという事実が、何気にすごい。
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 この記事には、そこまで記されていないが、生前の父、渋沢栄一や、その当時渋沢家の当主であった渋沢敬三(戦後蔵相を務め、新円切り替えと預金封鎖でも有名)とも相談の上での決断だっただろうと思う。
 これ以降の戦前の石川島自動車は、陸軍と商工省の意向に従いながら、過大なリスクは避けつつ、国策企業への道を歩んでいく。
 このように、4人の経営者のうち、1人は撤退し、1人は距離を置きつつ、概ね国策に従っていくかたちをとるのだが、残りの2人は必ずしもそのようにはならなかった。次項からは、瓦斯電とその社長である松方五郎と、日産の鮎川義介の確執を軸に、当時の自動車業界再編をみていきたい。

16.3-2鮎川義介の「自動車産業合同論」
 さきに記したように、ダットの経営権を取得した鮎川だが、陸軍の斡旋で始まった3社合同案に直ちに賛成する。後の記事で記すことになるが、一連の交渉のなかで、日本GMが加わる意思があるこが明らかになった以降は、一段と熱をおびて交渉にあたることになる。このGMの件は結局身を結ばなかった(“その8”で記す予定、今回の“その6”の記事では外資系と乗用車、大衆車系の交渉を極力除外して記していく)。以下は(⑬P99、⑭P54を主に+⑤P195)を基に記す。
鮎川は、日本フォード、日本GMの両外資系企業が自動車市場を支配している中で、自動車国産化を達成するためには国産メーカーを大同団結させて、強力な国産メーカーを育成し、早期に量産システムを構築する必要があると考えていた。さらに鮎川には、3社合同のイニシアチブをとることで、政府が進める自動車工業確立策に影響力を行使したいという思惑もあった。

16.3-3松方五郎(瓦斯電)との確執と「自動車工業」の誕生
 1932年9月から3社合同の話し合いが開始され、鮎川の登場に他の2社が警戒感を強め、対立する一幕もあったが、同年12月、林桂陸軍省整備局長を立会人として、渋沢正雄(石川島)、松方五郎(瓦斯電)、鮎川義介(ダット)3社長による3社合同の仮契約を締結するに至った。
 ところが仮契約を締結したその翌日、瓦斯電側から、メインバンクの十五銀行が昭和恐慌による破綻のための整理中だが、当社の工場が融資の担保に入っており、自動車部の資産を分離して新会社に持ち込むことが技術的にむずかしいため合併に参加できずとの、一方的な申し出がある。
鮎川は松方の申し出に当然不満であったが、1933年3月、石川島自動車製作所とダット自動車製造の2社間での合併を先行させて、「自動車工業株式会社」が誕生する。なお(㉓P10)にその際に『三井、三菱、住友の各財閥より資本参加を求め、』(⑦P10)という記述があることも、追記しておく。
 鮎川主導による自動車産業合同論に強く反発する松方であったが、自動車工業との共同出資による販売会社、「協同国産自動車」の設立にはさすがに合意し、標準形式自動車の販売に当たることとなった。これにより従来の「国産自動車組合」は解散となった。
 しかし、この自動車工業会社の成立後、鮎川の自動車産業界の大合同を基軸とする自動車国産化構想は大きく後退することになる。自動車工業会社に瓦斯電が参加しなかったことに加えて、同社は軍用保護自動車と標準型式自動車の生産に集中し、鮎川が要望する乗用車生産が見送られたからだ。

16.3-4「日産自動車」の誕生
 しかしその直後、日本GMが商工省あてに、当社も合流したい旨申し出があったという情報をキャッチする。鮎川はそこで方針を変えて、『政府補助という他力本願の考えを棄て」、日産コンツェルンの「自力をもって(自動車工業)確立に邁進する」決意を固めた。』(⑭P55)
 なお、自動車工業株式会社では小型車の製造を行わないため、交渉の結果、ダットサンの製造権は戸畑鋳物に譲渡されることになる。この小型車の件は次の記事の(その7)で細かく記すが、概略だけを先に記せば、再び小型車ダットサンの製造・販売権を取り戻すと、戸畑鋳物の出資で、「自動製造株式会社」(似たような名前が多いが、「自動車工業」とは別の会社)を設立する(1933年)。この自動車製造㈱が、GMとの提携が成立した際の受け皿となるはずであった(⑤P196)。1934年には「日産自動車株式会社」に社名変更し、自ら小型車ダットサンの大量生産に乗り出すこととなる。一方大衆車(注;何度も記すがフォード、シヴォレー級=3ℓクラス)の量産に関してはGMとの直接提携交渉に乗り出すのだが、それ以降の“大衆車”の話はいずれ(その8)で記すことにする。日産はその後、紆余曲折を得たのちに、これも後の(その8)で記すが自動車製造事業法の許可申請を行い、1936年9月、トヨタと共に許可会社となる。しかしそれだけでは飽き足らなかった。(下の写真はブログhttps://tanken.com/nissan.html より、「丸の内の日産館(本社)」
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https://tanken.com/nissan17.jpg

16.3-4「東京自動車工業」の誕生でトラック3社の合同を果たす
 鮎川は『再び自動車産業界の合同論を唱え、行動を開始した。鮎川の狙いは、合同によって自動車産業界における競争激化を回避するとともに、日産自動車の生産体制を拡充することにあった。鮎川は前回の国産3社の合同問題の際、表面に出過ぎて周囲の反発を買ったことを考慮して、今回は小川郷太郎商工大臣のブレーンで、松村菊勇自動車工業会社社長と親しい朝倉毎日(当時、衆議院議員)を仲介者として話を進める方針をとった。』(⑭P56)
 その後の日産、自動車工業、瓦斯電の間における交渉の経緯は陸軍/商工省/関東軍などの思惑や、鮎川が別途進めてきた外資との提携交渉や満州進出も絡み複雑に交差して、詳細に記すと長文になるのと、不明な点多いため(たとえば②P158~161、⑭P56~60等を参照されたい。より詳しくは瓦斯電再建の功労者で元常務の内山直が記した「瓦斯電を語る」(1938年発行)や、いすゞと日野の社史を読み込む必要がありそうだ。)略して結果だけ記せば、紆余曲折を経て、『単独で設備を整える気概をみせ合併を渋った』(web(8)P46)瓦斯電も、日産による自動車工業との統合案を阻止すべくついに折れて、自動車工業と瓦斯電の自動車部がついに合併し、東京自動車工業が誕生する(1937年4月)。さらに同年9月、販売会社の協同国産自動車を吸収合併し、生産・販売を一貫して行うメーカーとなった。ここにようやく、軍用保護自動車3社の統合が実現したことになるが、ここでもまた、鮎川が目論んだ、日産を含む大合同は阻止されたことになる。

16.3-5日産による瓦斯電の解体
 ここに至り、ついに挫折したかに見えたが、『だが、鮎川は自動車産業界の合同策を断念しなかった。』(⑭P57)! 引き続き東京自動車工業と日産との合併を画策するのだ。
 下の東京自動車工業設立時の、株主構成表をご覧いただきたいが、自動車工業側の株主が合併以前に既に分散していたため、約50%の株式を、瓦斯電が握ることになった。東京自動車工業というと、我々(というか、自分だけの単なる思い込みだった?)は先入観から、一貫して石川島(渋沢財閥)色が強いように思っていたが、この項の冒頭で記したように、渋沢正雄(渋沢財閥)はすでに、自動車から鉄鋼産業へと軸足を移し、社長も第一銀行出身の加納友之助に譲っていた。そしてこの株主構成表をみれば、松方五郎からすればここにきていよいよ、勝負の時を迎えていたのだろう。
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 以下は瓦斯電から戦後、日野自動車の副社長になる家本潔に対してのJSAEインタビュー(web6)からの引用で、瓦斯電側からみた、東京自動車工業設立の経緯について、以下のように記している。
『1936年商工省は国産自動車工業確立のため、自動車工業の大規模化を狙った「自動車製造事業法」を公布しました。年間3千台作れれば5年間税金免除というもので、瓦斯電の自動車生産量では合併の避けられないものでした。
 しかし瓦斯電は航空機も作っていた大きな組織で、そう簡単にはいかず次のような過程を経ます。
 1937年4月、松方社長は「東京自動車工業」と言う新会社を設立、同9月に瓦斯電自動車部と合併、同11月にこの「東京自動車工業」が「自動車工業」(前石川島自動車製作所、現・いすゞ自動車の前身)を合併しました。』
(web6P164)先に記したことと年月が合わないのだが!ここで記されているように、東京自動車工業は元々、瓦斯電側が自動車自工を合併するための準備として設立した会社で、創設時の主導権は、明らかに瓦斯電側が握っていた。『飽くまでも自動車工業株式会社との対等合併を主張して止まぬ瓦斯電』(⑨P31)の松方五郎は、自動車産業に対して一貫して大きな野心を抱いていた。(下の写真はhttps://blog.goo.ne.jp/aurora2014/e/a6c572fbb070d20f0aed29a2d41bb42eよりコピーさせていただいた、「日野オートプラザ」に掲げてある、松方正義の肖像画。)
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 こうして松方の長年の野望がついに、叶えられそうになったのだが、しかしこの時、東京瓦斯電機工業の大株主であった十五銀行の、自動車事業に対しての投資スタンスは、大きく揺らいでいた。
 この合併の結果を見て鮎川義介は、今度は東京自動車工業の株式の約半分を所有する瓦斯電そのものを買収することで、東京自動車工業をも掌中に治めるという、大胆な戦略に打って出る!
 そのためのステップとしてまず、瓦斯電のメインバンクの十五銀行(=有力華族の出資により成立した銀行で、世上「華族銀行」と呼ばれていた。しかし1927年(昭和2年) 昭和金融恐慌により経営破綻し、再建途上で当時経営が苦しく、自行の整理資金のねん出のために、株価が高騰していた瓦斯電の株式の一括購入先を探していた。(概要wiki+⑭P58より))に対して接近を試みる。東京瓦斯電気工業の株式全体の51%を十五銀行が握っていたからだ。
 鮎川は単身、十五銀行頭取西野元を訪ね、瓦斯電と東京自動車工業抜きで秘密裏に交渉を行う。『実は瓦斯電工株の値上りは今が天井であり、而も同社生産力拡充のために二倍半増資が必要だとされているその資金を賄うことは現在の整理銀行である十五にとっては殆ど不可能に近い、早晩瓦斯電工は大きな財閥に譲渡しなければ成らぬ立場にあったのである』(web38)
 1938年4月、満業(=満州重工業開発株式会社の略称で、日産コンツェルンの持株会社である日本産業を満洲に移転・改組させて設立された。陸軍(関東軍)の要請を受けて、満州国内の鉱工業を一元的に統制することを目的としていたが、後にその計画は挫折した。この当時は鮎川が総裁を務めていた。(以上概要wikiより))傘下の日立製作所が、十五銀行所有の瓦斯電の株式買収に成功する。上記のように十五銀行側は、瓦斯電株は『今が天井』(web38)で売り時だと判断したのだ。(下の画像はwikiより十五銀行本店。現在の中央区銀座八丁目にあったという。)
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 ちなみにこの当時の瓦斯電だが、(その3)の記事で説明した“暗黒の時代”とはうって変わって、日本全体が戦時体制下に移行しつつあった中で、航空機及びその発動機、自動車、戦車等の軍需製品の生産を行う、時世にマッチした花形企業として、日の出の勢いだったのだ。(たとえば“その3”の記事の「≪備考12≫瓦斯電のシャドーファクトリー構想について」や、(web(7))等、参照してください。)
『鮎川義介は東京自動車が軍用トラックを製造する最大の国策会社として発足したことから、満業の影響下に東京自動車を置き、軍用トラックを同和自動車へ供給させようと考えた。』(②P193)鮎川は日・満で展開する日産コンツェルン全体として、自動車産業の規模拡大と、今後ますます成長が期待される、航空機産業を含む軍需製品の拡充という、二兎を追ったのだ。
 しかし当時の日本では強引な買収戦略は『事態があきらかになると、東京自動車工業、とくに瓦斯電の松方五郎社長は強く反発した。そして松方は両社の事業と関連の深い陸軍省兵器局に鮎川らの行動に不満であることを伝え、善処を求めた。』(⑬P105)
『また政府自体においても自動車工業に関して内地と満洲との間に摩擦を生ずるような虞れがありはしないかを心配していた』(web38)
 こうして陸軍省の介入により、日立が株式の過半を押さえた瓦斯電が所有する東京自動車の株式のうちの半数を、陸軍の意を受けて調停役として登場した、日本高周波重工業(注;当時特殊鋼のメーカーとして急成長を遂げ、同社会長の砂田重政は政友会の幹事長でもあり、陸軍を含め各方面に顔が広かったようだ)に譲渡するよう要請される。
 そしてここでも紆余曲折を経た末に(②P158~161や⑭P58,9にざっくりと書かれている)、鮎川はその要請(陸軍省による半ば「命令」だったのだろう)を受け入れる一方で、日立製作所による東京瓦斯電気工業(=自動車を除いた部分)の合併という果実を手に入れる(1939年5月)。
 さらにこの間の経緯で複雑だったのは、(web(8))や⑮、(web(7))などを読む限りでは、満州に展開する関東軍が、商工省及び本土の陸軍省の政策とは対立する、満州国独自の自動車行政を展開しようとしていたことだ。『複雑な過程であるが想像するに、関東軍の思うままに動く会社にしたかったのであろう。』(web(8)P45)
 そのため瓦斯電も、この後記す三菱重工業も、そして日産自身もその後、『軍と政治に激しく翻弄され』(web(8)P46)ていく結末となる。
さらに☆2022.11.12追記:日立による軍需企業、瓦斯電吸収の経緯については、「1930年代の電機企業にみる重工業企業集団形成と軍需進出」(吉田正樹)=web45が詳しい。ぜひ一読してみてください。file:///C:/Users/Kohase/Downloads/AN00234698-19960400-00698117.pdf)
(しかしここまでチラッとだけ見てきただけでも、ここに深入りしようとすると複雑怪奇で、そもそも『満州国』なるものの実態がいまだに解明されていない(と、自分には思える。デクラス待ち?)中で、この辺はさらっと流して、代わりに満州の街並みの写真を何枚か貼り付けてお茶を濁したい。(下は以下のwebより「建国からわずか12年で首都新京などの大都市は、東洋のパリと呼ばれるほどの美しい街になりました。」https://nezu3344.com/blog-entry-3683.html)
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https://blog-imgs-118.fc2.com/n/e/z/nezu621/20180227100119e21.jpg
(「奉天駅」引用先http://www.fadecard.com/2017/05/blog-post.html)
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(「大連市の大広場」引用先http://tanosimi.bunka.main.jp/?eid=1104248)
写真を見ても、日本人がつくったようには見えないのだが・・・

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(「1937年、鮎川義介(右)と松岡洋右」 引用先は「2011年日本自動車殿堂」より)
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 話を戻し、瓦斯電の自動車部は、東京自動車工業とすでに合併していたので、この結果瓦斯電は解体され、航空部が日立航空機、兵器部門は日立兵器、工作機械が日立工機、計器部門は東京機器工業(現トキコ)となり、火薬部は日本窒素に売却される。鮎川は『日立製作所及びガス電の航空機部門を満州の航空機製造へ動員し、航空機工業を確立しようと全力を注いだ。』(②P194)アグレッシブに活動し二兎を追った鮎川は、最後に一兎は掴んだのであった。
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 瓦斯電は、松方の気宇壮大な構想のもとに事業の手を広げ、軍需を核とした多角化路線を展開していったが、軍靴の音が次第に大きく鳴り響く中で、ついに花開く時を迎えようとしていた、その矢先の解体であった。『瓦斯電は三菱重工業の規模を小さくし、昭和初期にコンツェルン化への発展を秘めていたが、結局、解体されてしまう。しかし、瓦斯電自動車部はその後東京自動車工業から分離され、日野重工業として発足し、中級車の主流を形成し、今日に至っている。』(②P161)ちなみに(web7)には『尚おこれに伴って瓦斯電の復興に功あった内山直氏以下の十五銀行系の重役は退陣し、松方社長は日立より瓦斯電株の一部を譲受ける高周波重工業のバックで留任するはずである』と記されており、事実、東京自動車工業の初代社長に留任している・・・。ちなみに副社長は旧自動車工業出身の新井源水だった。
 話を戻すが、合併なった東京自動車工業は、陸軍からの大量発注で、既存の大森、鶴見の工場では生産能力が間に合わなくなった。そこで元々は瓦斯電が自動車製造事業法の許可の申請用に用地買収していた(②P159)という、川崎大師河原下殿町(4万坪)に、自動車工場を急遽建設した。さらに東京府南多摩郡日野町(20万坪)にも陸軍向けの特殊車両(キャタピラ付きの)用工場を建設し、こちらに旧瓦斯電系の技術陣が集結する。戦後になり前者がいすゞ自動車の川崎工場、後者が日野自動車の日野工場へと発展していったことはご存じの通りだ。

ディーゼル自動車産業、統合への道
 話が前後するが、自動車製造事業法によるトヨタと日産の許可会社への指定と、トラック3社の統合を果たした商工省は、自動車行政の次のターゲットとしてディーゼルエンジンの統制型の指定に取り組む。陸軍が主導した、自動車用国産ディーゼルエンジンの開発と、軍用車のディーゼル化の過程については、あとの16.5項で記すので詳細は割愛するが、『これは指定された統制型ディーゼルエンジンを一社の下で大量生産し、さらに、自動車製造事業法の許可会社に指定されることを意味した。このため、自社のディーゼルエンジンが統制型に指定されるかどうかはその企業の命運を左右するものとなるのである。』(②P198)
 後の16.5項で触れる三菱、東京自工、池貝、新潟鉄工所、新興の日本デイゼル以外にも、この記事では省略するが日立、神戸製鋼(1935年)、川崎車輛、(1937年)など有力企業が続々と名乗りを上げて、ディーゼル技術の開発競争を繰り広げた。
統制経済体制下の商工省と陸軍省の狙いは、各社のディーゼル技術を結集させて、ディーゼル自動車の製造を、許可会社の一社に独占的に行なわせることであり、技術競争に勝ちあがること=自動車会社になれるチャンスだと、各社は感じ取っていた。
 結論から先に書けば、東京自動車工業の技師、伊藤正男が設計したディーゼルエンジンを統制型エンジンと指定し(16.5項参照)、技術情報を全面開示させる一方で、他の4社(三菱、池貝、川崎、日立)にも東京自動車工業に対して、自社のディーゼル自動車用の製造設備と技術を供出させる。そして東京自動車工業を母体として、4社にも出資させたうえで、あらたに「ヂーゼル自動車工業株式会社」と改称し、1941年4月30日創業される。
 このヂーゼル自動車工業は、ディーゼル車の製造を一元的に行う会社として、自動車製造事業法に基づく三番目の許可会社となった。(正確に言うと、1941年4月9日付けで東京自動車工業の段階で、許可会社に指定されていた)。こうして、国のお墨付きの、トヨタ、日産、いすゞという「御三家」が誕生するが、しかしその過程で、ディーゼルエンジンの分野で、過去もっとも多くの実績を誇ってきた三菱(重工)が、許可会社への指定をめぐって陸軍・商工省と激しく対峙していく。以下、その対立の経緯をみていきたいが、主に(②、⑮、⑳、⑦)等を基に記した。

16.3-7三菱の本格参入を巡って、陸軍・商工省と対立
 16.5項で記す内容と被るが、商工省と陸軍省は、国内ディーゼルエンジン業界の事情聴取を、以下の8社(東京自動車工業、三菱重工業、池貝自動車、神戸製鋼所、新潟鐵工所、久保田鉄工所、川崎車輛、日立製作所)に対して行う(久保田も入っている!ちなみに(⑦P88)では9社とあるが)。その中で、東京自動車、三菱、池貝、川崎、日立の5社がそれぞれ単独で、本格的なディーゼルエンジンの量産化に乗り出す姿勢を示したため、陸軍・商工両省が直接、ディーゼル自動車業界の再編に乗り出す。
 日中戦争の拡大に伴い、軍用自動車の製造に追われる東京自動車工業の生産台数は、自動車製造事業法の許可会社の条件である年産3,000台規模を上回って生産され始めていた。同社は軍用規格車を製造する会社であったため、同法による制約を受けず『資材割当でも販路でも軍需ということで別格扱いされて』(⑨P107)いたが、自動車産業に対する一元管理の実現のため、機は熟したとばかりに、『陸軍省整備局及び陸軍自動車学校は、東京自動車をディーゼル自動車の許可会社として申請することを要請し、商工省の行政指導を求めた。
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こうした東京自動車の事業法への申請の動きに対し、三菱重工業もディーゼル自動車を大量生産すべく事業法への申請に取り組むのである。』(②P201)
上記の業界に対してのヒアリングが行われたのは(⑦P88)によれば1940年末とのことだが、以下1930年初頭まで遡り、三菱の自動車事業への取り組みについて、追って行く。

三菱の自動車事業への取り組み
今まで自動車事業は“ご法度”であった三菱だったが(この一連の記事の13.3項「大財閥も動けなかった」や、6.4-3項及び(備考9)「自動車産業進出に消極的だった三菱財閥」などを参照してください)、後の16.4-2、16.4-5項で記すが、1930年代に入ると三菱重工は、当時の造船不況対策の一環として、鉄道省の誘いを受けてバス製造に乗り出す。しかし「不景気で苦しんでいたときでもあり,それに官庁相手の仕事でもあるから」(③P71;三菱神戸、大井上談)というのが理由の、慎重なスタートだった。
 その後商工省と陸軍は、フォードとGM(シヴォレー)の独占状態だった“大衆車”市場で対抗する国産車メーカーを育成すべく、自動車製造事業法の立法化に取り組むが、その検討段階で、その実力からして、もっとも期待された三菱に対して真っ先に打診を行なう。
しかし真っ当に考えれば、巨大な米2社に対抗するにはあらゆる面でリスクが大き過ぎるため、当面自動車事業はバス製造とし、航空機部門の拡充等を理由に、自動車事業への本格的な進出を躊躇う。しかしこの「企業としての冷静な判断」が陸軍側の心証からすると「冷たいそぶり」として映り、後に遺恨を残す結果を招いてしまう。
 だが立法化の過程で、自動車製造事業法が実際に施行されると、年間三千台以上の自動車製造が許可制となることが明らかとなる。自動車メーカーは国策会社(=許可会社)として保護育成され、5 年間所得税、営業収益税などの免除等“特典”も多く、省営バスをぼちぼち作る程度ならともかく、量産自動車メーカーとして存立するためには、許可会社の指定を受ける事が必須となってしまったのだ。
 この事態を受けて三菱は態度を翻すことになるが、しかし1936年9月、陸軍と商工省はトヨタ、日産の2社だけを、対フォード、GMの大衆車級のトラックと乗用車をターゲットとした許可会社として指定する。国内最大の、いわゆる“大衆車”の市場はこうして閉じられてしまったのだ。
 そのため三菱が許可会社として指定を受けられる=自動車会社となるための、残された可能性は、大衆車より一クラス大きい中型クラス以上の、トラック/バス分野のみとなる。
 もともと乗用車よりもトラック/バス志向だった三菱の思惑とも合致するのだが、しかしこの分野には、陸軍・商工省が時間をかけて育成中の、自動車工業(東京自動車工業)がすでに存在していた。
 このように陸軍・商工両省と三菱は、こと自動車分野に関しては、なかなか「嚙み合わない」関係だったのだ。

 次の16.4項、16.5項で記すように三菱は、黎明期の国内のディーゼル自動車の分野では、池貝と並び先行メーカーであったが、こうした一連の流れを受けて、中型以上のトラックのディーゼル化を推し進める陸軍の政策に則り、ディーゼル車によって、自動車製造事業法の許可会社の指定を受けるべく、本腰を入れて、自動車事業に取り組み始める。さすがに日本を代表する企業である大三菱重工のやることだけあって、その計画は具体的だった。以下(②P201~P206)と⑮を要約して記すが、詳しくはぜひ本書②、⑮、⑳、⑦等を確認してください。
 まず三菱重工内の自動車事業は、造船所系自動車部(神戸)と、航空機系の東京機器製作所(大井)の自動車部の2系統に分かれていたが、1937年それらを統合し、東京機器製作所の下に一元化する。ただしこの間の事情としては、戦時体制下に入り『神戸造船所が行っていた艦船製造や陸上機器・プラントの製造も多忙を極め』、(㉕P6)神戸が手狭になっていたという事情もあったようだ。
 そして自動車事業のための新たな拠点として、東京の下丸子に5万坪の土地を購入し、1937年3月、許可会社としての基準をクリアーすべく、年3,000台規模の一貫生産工場の建設を開始する。この下丸子工場の着工は、東京自動車の川崎工場着工とほぼ同時期の動きだ。同工場での主な生産予定車種は、アメリカのダッジ(=フォードやシヴォレーより少し大きい)の2トン積トラックをモデルとした大衆車向2トン積ディーゼルトラック(後述する「5,000円トラック」)であった。
 さらに同年7月、当時「世界最高」の高速ディーゼルエンジンと謳われた、ザウラー社(スイス)のエンジンをライセンス導入することになり、提携契約が調印される(16.5-2-3項参照)。
 東京自動車工業の需要先とかぶらない、満州国の関東軍、満鉄を主なターゲットとし、下丸子工場を満州向け自動車の生産工場と位置付けた。陸軍省と一定の距離を置き、独自の自動車政策を展開中の満州国(関東軍)並びに、自動車行政で主導権を握れず不満を募らす鉄道省との連携を強く感じさせるものだ。
 ここで「5,000円トラック」について、以下「ふそうの歩み」(⑮P63)より引用する。『十一年(1936年)の初め神戸造船所はダッジ2トン積トラックK32V型1両を購入、これをモデルとして大衆向二トン積ディーゼルトラックTD35型の試作を計画した。エンジンは予燃焼室式SHT4型50馬力を用い、年産3,000台、売価5,000円を目標とした。俗に「5,000円トラック」と称し、早速製作に着手したが、自動車事業の東京移管に伴い、本車も未完のまま東京に移された。東京機器製作所丸子工場で完成を見たのは十三年(1938年)に入ってからだった。一年有余にわたる実用試験を経て、十五年(1940年)には改造型YB40型二両の製作を開始、エンジンはSHT4型4気筒60馬力を搭載した。十六年(1941年)には完成を見た』
(下の写真のトラックはそのYB40型だが、上記のように商工省・陸軍省の自動車行政(標準車路線)と対立する車種になるので、本土向けではなく、満州国(関東軍)及び満鉄向けで計画されたものだった。しかし後述するように、内外の情勢の変化と、陸軍省・商工省×鉄道省・関東軍の対立、さらには満鉄はその後、大陸向けにより大型のトラックを欲したため、次に記すが、計画はすぐに破綻していく運命にあった。)
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 ところが、1937年7月に勃発した、盧溝橋事件を発端とする日中戦争が『三菱重工業と東京自動車の立場を逆転させ、さらに三菱重工業のディーゼル車製造から撤廃させる思わぬ帰結へ導いた。』(②P202)しばらく同書からの引用を続ける。
日中戦争の勃発により、戦車の大量配備が至上命令となる。そうなると当然のように『陸軍省は戦車の生産工場として三菱に大きな期待』(②P202)をかけた。そしてこの機をとらえて陸軍省は、丸子工場の竣工を待たずして、戦車を生産する陸軍の管理工場に指定してしまう(1938年3月)。
 丸子工場が戦車の量産工場へ転換されるなかで、思惑の異なる陸軍省と関東軍の間で激しい交渉が展開され、三菱は陸軍と満州国のあいだにたたされて苦慮したという。
(『丸子工場の跡地にはいま、高層マンションが建っています。多摩川土手のサイクリングロードは桜並木になっていて、毎年3月下旬から4月の頭にかけてお花見を楽しむ家族連れでにぎわっています。三菱重工業の「碑」に目を止める人はいません。』画像と文は以下のブログより。かつては戦車の工場だった場所だ。https://www.shifukunohitotoki.net/entry/2021/03/29/215603)
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 そのため三菱は、川崎(といっても鹿島田のあたり)に約11万坪の土地を購入し、新たな工場を建設し、陸/海軍向けの舟艇用ディーゼルエンジンの需要を満たすとともに、自動車事業をあきらめず、引き続き関東軍、満州、省営バス向けの自動車の量産を試みようとする。海軍向けの装備の生産は、陸軍省に対しての牽制にもなっただろう。しかし陸軍省・商工省の決意は固かった。以下(②P202)より引用する。
『下丸子工場が戦車工場へ転換され、ディーゼル自動車の製造を縮小すると、陸軍省は、軍の要求するディーゼル自動車を大量生産することを東京自動車に求めた。三菱重工業のディーゼル自動車製造の技術を東京自動車へ供出させるディーゼル自動車工業の再編成が陸軍省、商工省によって立案されるのである。すなわち、「陸軍としては三菱が戦車に転ずれば、自動車はいすゞ(東京自動車工業)をおいてほかならない(後略)」』
 16.5項で記すが、東京自動車工業(いすゞ)はディーゼルに関しては最後発組であったが、手堅い技術戦略と、長年の自動車製造で培った、旧石川島系のエンジン技術者たちがその実力をいかんなく発揮して(といってもディーゼルエンジンの設計・開発に当ったのは、実質は若手技師の伊藤正男ただ一人だったようだが!)、世界的にみてもオリジナル性のある、優れた燃焼室のデザインを確立していた。
 日本の国情に合った、自動車用ディーゼルエンジンとしてのその性能では、三菱を含むすべての国内先行企業のものをすでに凌駕して、当時の世界水準にいち早く到達した。このことは日本の自動車技術史で画期的な、初めての出来事だと思う(多少、私見が入っています)。しかし後発組ゆえに実績の面では、この時点では三菱や池貝などとまだ開きがあった。
 そこでこれも16.5で記すが、陸軍省の斡旋による、ボッシュとの技術提携による燃料噴射ポンプの「ヂーゼル機器」の設立で、燃料ポンプの製造実績のない東京自動車工業に対して、ディーゼルの中枢部分の技術を補完する。さらに東京自工の優れたディーゼルエンジン技術を標準設計として認定し、他社にもその技術を共有させる一方で、三菱などの“ディーゼルの先輩企業”からも、ディーゼルエンジン製造の設備と技術の供出を強要し、商工省と陸軍省はあくまでも、東京自動車工業一社のもとに、国産ディーゼル自動車の製造を集中させようと試みるのだ。
 ここで話の年代が、16.3-8項の冒頭に記した、国内ディーゼル企業へのヒアリングの場面へとつながる。
参入を断念しつつあった他社と違い、満州と鉄道省を盾に、陸軍・商工省の圧力に屈しなかった三菱重工との対立の、その決着の舞台は『ディーゼルエンジンの統制型とその製造会社の指定は、商工省自動車技術委員会ディーゼル自動車専門委員会に委ねられた。』(②P203)
 「商工省自動車技術委員会」とは『商工省、内務省、陸軍省、鉄道省、企画院の担当者、メーカーの技術責任者約25名により国産自動車技術の向上を目指す施策が議論された』(⑳P295)委員会だ。
中でもメーカーにとって重要なことは、『商工省自動車技術委員会は統制エンジン型式を決め、型式別にその製作担当会社も決められた』((②P204)日産の浅原源七の記。浅原は翌1942年から日産社長を務める)場でもあったことだ。
 ガソリン機関では1ℓ(日産)、1.5ℓ(日産)、2.5ℓ(トヨタ)、3.5ℓ(トヨタと日産)、4.5ℓ(東京自工)の5機種、ディーゼル機関では5ℓ(東京自工)がすでに決定されていた。多くは陸軍がすでに制式採用していたものや、トヨタ、日産の既存車種であったが(以上⑳P295、㉔P79)、8ℓ級ディーゼルエンジンに関しては、全くの新設計として、「商工省自動車技術委員会」の下の、「大型ヂーゼル自動車仕様 作成専門委員会」における結論に、その決定が委ねられたのだ。

16.3-8「三菱は自動車に手を出すな!(商工省)」(「国策トアラバ致シ方ナシ」(三菱))
 詳しくは(②P204)や(⑳P295~P309)を確認いただくとして、以下省略して記すと、その会議は1941年3月21日から24日にかけて行われ、『この委員会の討議に4日を費やしたことは、いかに熱心に議論されたかを、推察することができます』(③P114)と、この委員会の幹事を務めていた商工省の技師、寺澤市兵衛(ちなみに『当時、商工省の機械課には四、五人しかいなかった。その中で~正式な技師は寺沢市兵衛さん(元自動車工業振興会専務理事)しかいなかった。寺沢さんが一人で日本中の機械産業の元締めをしていた。』と、豊田英二著の「決断」文庫版P68に記されている)が後に語っているように、四日間に渡り白熱した議論が展開された。
 議論の焦点は、その時、満州国向けに三菱が量産を計画していた、8リッター級ディーゼル自動車に対しての指定の可否であったようだ。
『三菱重工のメンバーは委員会での東京自動車案を覆すため鉄道省、満鉄と協議を重ね、商工省、陸軍省、東京自動車側と対立した。このため、会議の冒頭、鉄道省技師小林英雄は、星子案(東京自動車工業案)に対し意見書を提出し、委員会で審議することを提案した。この意見書は、東京自動車と三菱重工業を統制型エンジンの製造会社に指定することを中心に次の四点にわっていた。』(②P204)その4点とは、②によれば概略以下の通り。
‘〈1〉東京自動車と三菱の両社に製作させて、
‘〈2〉両社の技術を取り入れた同一車の試作を命じ、厳重なる試験を行い評価し、
‘〈3〉両社の技術の公開並びに相互交換を行うこと、さらに、
‘〈4〉『鉄道省提出の仕様書は鉄道省省営自動車及び満鉄の大陸向CT20型の使用実績に基づいて作成したもので、大いに自信を持っている』(②P204)と申し添えた。当日の詳しい議事の内容は(⑳P295~P309)に記されているので、ぜひご覧ください。以下も省略版の(②P205)より引用、
『三菱重工業が大型のふそう号を鉄道省省営バスへ、耐寒長距離輸送用大型バス・トラックのCT20型を満鉄へ供給し、八リットルディーゼル自動車の最大メーカであったが、東京自動車は昭和十六年(1941年)当時八リットルディーゼルトラックを製造していなかった。こうした大型ディーゼル製造を背景とする三菱重工業のメンバーは鉄道省、満鉄と共に八リットルディーゼルエンジンの統制型指定とその製造許可会社となることを主張した。』
 先記のように、商工省自動車技術委員会で統制エンジン型式を指定する基準として、過去の実績を追認することも多かったようで、三菱/鉄道省側は大型省営バスでの実績(三菱神戸予燃焼室式;SHT6型(7.27ℓ)の後継のY6100AD型(8.55ℓ))と、後述する満州向けCT20型大型トラック(ザウラー直噴式;CT1D型(7.98ℓ))の実績を強調する。使用実績面では東京自工を含む三菱以外の他社には、8ℓ級ディーゼルエンジン車の、目立った実績がなかったのだ。
 しかしこれら三菱(と鉄道省)側の主張するところで、個人的な意見だが“弱さ”を感じさせる点は、世界の自動車用ディーゼルエンジンの黎明期(実用的なディーゼル自動車が初めて誕生したのが1923,4年頃;16.5-2-2項参照)で、各社のエンジン性能がまだ安定していなかった中で、肝となる燃焼室設計の開発競争で、先行メーカーであったはずの三菱が、後発の東京自動車工業にリードを許してしまった点だ。(16.5項参照)そのため三菱の8ℓ級エンジン、Y6100AD型を商工省統制エンジンとして採用させるためには、「〈3〉両社の技術の公開並びに相互交換を行うこと」により、エンジンの燃焼室の設計を、技術優位にあった東京自工の伊藤方式に習う必要があったのだ。
 実績面では、Y6100ADは(⑮P55)によれば神戸時代に数台、東京に移ってから約40台で、『今次戦争前は生産というよりもむしろ地味な試作と改造の繰り返しだった。』統制前の三菱の予燃焼室型ディーゼルは、東京自工以外の他社と同様、技術的に未完であったのだ。
(⑦P89)によれば、陸軍・商工省のディーゼル業界再編案は、『当局案として有力な方策は一社を中心として、他の四社が製造設備と技術をそれぞれ参加させるか、ないしは主要部門につき分業的にその会社を許可会社に指定するかの二案』だったという。仮に東京自工が手にした予燃焼室式ディーゼルエンジンの燃焼技術を、三菱重工が掌中に収めていたならば、たとえば重工から自動車部門を分社させるなど分業化して、新川崎の工場を8ℓディーゼル車の生産工場として、4番目の許可会社として認定されるという三菱側の主張を、当局は抑えることができなかったのではないだろうか(私見です)。
一方ザウラーエンジン系を使ったCT20型の全体の設計思想は、確かに大陸での使用を十分考慮された車体であったようだが、しかし途中でその計画は頓挫して、満州に20台((web28)P290によれば23台)を送り出しただけで終わっていた(⑳P65)。
 満州での使用実績として謳うことができたものは、実際にはイタリアのOM社(フィアットの子会社)製の輸入のトラックだった。CT20型の代わりとしてOM社のディーゼルトラック輸入し、満州国産の大豆とバーター取引するという三菱商事(満州国の大連・奉天支店が主導(⑮P89))が描いたスケールの大きい商談で、当初の計画では1,400台輸入の計画だったが、欧州戦勃発のため485台で終わった(⑮P65。同じ⑮P109で400台、P122で300台と諸説ある)。このトラックはCT20型と同じようにザウラー式直噴エンジンのライセンス生産品を積んでいたが、8ℓ級(CT1D型)より小型のCRID型(4-110×140;5.32ℓ)エンジン搭載車だった(⑮P65)。
話を戻し、商工省は、三菱と鉄道省によるこれらの意見を退け、エンジン排気量のアップ(東京自工案よりストロークを伸ばして7.98ℓ→8.55ℓ;このスペックは三菱の予燃焼室式Y6100AD型と同じ)以外、概ね東京自動車工業の原案通りに決定する。(⑳P295~P309参照)
 ディーゼルエンジンの仕様・性能を決める上で鍵となるエンジンの燃焼室の設計も、今までの実績を踏まえて統制型のいすゞ式(何度も記すが東京自工の技師、伊藤正男設計によるもの)が採用されて、東京自動車工業にその設計を委ねられることになる。(16.5-4.3項参照)
 商工省は東京自動車、三菱重工業、日立製作所、池貝自動車、川崎車輛の社長を商工省に招集し、これら5社のディーゼル自動車の製造設備と技術を供出し、ヂーゼル自動車工業㈱を設立したい旨を説明し、各社長に協力を要請する。
この要請に対し、三菱重工社長郷古潔は、満鉄向けにディーゼル自動車を製造したい旨懇願するが、『陸軍トモ協議ノ上決定セシ事』と述べ、三菱重工業の申出を拒否した。
 三菱は『国策トアラバ致シ方ナシ』と苦渋の決断で、商工省の要請(命令)を受け入れる。(三菱重工業社長、郷古潔(ごうこきよし)。太平洋戦争時の東條内閣顧問も務めた。画像は「盛岡市公式ホームページ」より)
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 こうして『満州向けふそう車の生産は十六年(1941年)をもってついに打ち切られた。』(以上②P205)以下三菱関係者の切々とした声を綴った、「ふそうの歩み」(⑮P134)から引用する。
『商工省(当時)との間にいろいろなやりとりがあった。三菱は満鉄のトラックや省営バスを造りたい、満鉄は輸送用に大型トラックを持ちたいのであったが、商工省の自動車政策は一言にしていえば日本の自動車産業は日産、トヨタで十分である。三菱は自動車に手を出すなということであった。』
 戦時下の統制経済体制において、陸軍と商工省が三菱に期待をかけた分野は、自動車ではなかった。当時の折衝の様子を直接知る三菱重工業の技師、佐竹義利によるこの最後の一節は、多くの自動車史の中で語り継がれている「名言」として、今日に残っている。
(上記のように陸軍・商工省との間の過去のいきさつも多少は影響を与えたかもしれぬが、しかしそれ以上に、戦時体制下という緊迫した時局が陸軍に、そのような判断をさせたのだと思う。
 日本における「三菱は自動車に手を出すな」と同じような事例は、実は同じ枢軸国側であり、ディーゼルの本家でもあるドイツでも見られた。1937年、MANのディーゼルエンジンが軍用トラック用制式エンジンに選定され、MAN以外の約10社でも製造されるようになった。同様に戦車用エンジンもマイバッハ(日本と違いガソリンエンジンだったが)に集中させるが、両社の選定はドイツにおけるエンジン分野のエース、『ダイムラー・ベンツの航空発動機部門への全力集中』(⑳P229)が大きな要因だったといわれている。
優れた機体や、艦船まで手掛ける三菱重工業の日本における当時の比重は、ドイツにおけるダイムラー・ベンツ以上だっただろう。WWIIでは航空機の性能が生命線だったのだ。(どれも重要だが相対的に、自動車や、さらには戦車よりも)。
さらに私見を追記すれば、そもそも当時の状況で、仮に三菱が自動車に力を注げば、陸軍のみならず海軍からも、有無を言わさぬ強烈な横やりが入ったのではなかろうか(まったくの想像ですが)『戦時中はその高い技術力を発揮し、戦艦武蔵、戦闘機零戦などを製造した三菱重工は、各種製品の増産に追われ、製作所、工場の膨張、増加を終戦まで続けていくことになった。終戦時における生産拠点は31工場に達し、1939年には約10万人だった従業員も終戦時には40万人に達していた。』(㉕P6)海軍からすれば、“自動車なんぞにうつつを抜かずに?”せっせと戦闘機でも作れ!のたった一言で終わったのではないだろうか。
下の写真はドイツにおいて「全力集中」した産物である、ダイムラー・ベンツの航空機用エンジン、DB601型で、日本でも川崎航空機・愛知航空機の両社がライセンス生産での国産化を図ったが、しかし、以下はあまりにも有名な話だが、『加工技術や材質の制約からどうしてもドイツ本国並みの工作精度や量産を達成できず、搭載する機体の実戦投入に支障をきたす重大事態まで生じた。』(wikiより)

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https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/none/path/s98bb3f4b5c92158e/image/if0b6d3896f329868/version/1596706275/image.jpg
(多少余談となるが、以下もwikiを参考に、日立航空機(前身は解体された瓦斯電の航空機部門;16.3-5項参照)製航空機エンジンの「初風」について。ドイツの練習機用小型エンジン「ヒルト HM 504A」を日本でライセンス生産する予定だったものが、ヒルト社設計の巧緻複雑さから、日本での製造運用に適合すべく設計に大変更を施した結果、ヒルトとは事実上、別物のエンジンとなった。以下もwikiより、『ヒルトHM504は、機体への搭載性を配慮した倒立式空冷直列4気筒という独特のレイアウトを採っていたが、クランクシャフトは高精度だが製作に技術力を要する組立式、ベアリング類は精密なローラーベアリングを多用するなど、航空用としては小型のエンジンながらも、ドイツの高度な工作技術を前提とした複雑な設計が用いられていた。この設計をそのまま日本で実現しようとすれば、やはりローラーベアリングを多用し高度精密加工されたダイムラー・ベンツ DB 601の国産化同様、極めて困難な事態が予想された。』
そこで、瓦斯電/日立航空機のエンジニアたちは、当時の日本の工業技術の水準に合わせて『ヒルトの空冷倒立直列4気筒レイアウトのみを踏襲、クランクシャフトは一般的な一体鍛造、ベアリング類も当時一般的なメタルによる平軸受で済ませるなど、日本での現実的な生産性・整備性に重点を置いた設計に改変した。しかし、動弁系はヒルトがシングルカムシャフトのOHVで浅いターンフロー燃焼室だったのに対し、より高度なツインカムOHVと半球型燃焼室によるクロスフローレイアウトを採用して吸排気・燃焼効率を向上、なおかつ低オクタンガソリンでも問題なく運用できるよう図った。更に倒立エンジンで問題になりがちな潤滑システムは、ドライサンプ方式を導入して万全を期した。これらの手堅い手法で性能確保に努めた結果、結果的にはヒルトに比してわずかな重量・体積増で、これに比肩しうるスペックの信頼性あるエンジンを完成させた。』(以上wikiより)
後述する旧石川島系による予燃焼室式の統制型エンジンや、この旧瓦斯電系による「初風」エンジンの開発などは、軍用保護自動車時代から苦労を重ねつつ、陸軍などに技術開発の挑戦の機会を与えてもらいながら、地道にその蓄積を行ってきた結果の産物であったと思う。
根が“自動車屋”であった両社の技術陣は、最前線で国防を支える立場に立たされた三菱や中島飛行機の技術者みたいな「日本のエース」とはけっしてなりえなかったが、その分絶えず、理想よりも現実と向き合わされてきた。下の写真はその「初風」エンジンを搭載した、日本海軍 二式陸上初歩練習機「紅葉」

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http://www.hobbyshop-sunny.co.jp/models/images/cmr/208.jpg
 話を戻し、「ふそうの歩み」(⑮P134)の佐竹義利の引用を続ける。
『~結局国鉄や満鉄のあと押しも空しく、当時の国際情勢や物動計画、商工省の自動車政策などに押し切られて希望は容れられず、ひいては「CT20」の注文も立ち消えになってしまった。当時、満州の悪路と寒気には普通のトラックではフレームが折れたりして満足に使える車がないというところに、満鉄が大陸の長距離輸送用に最適として三菱の大型車を担いだ理由があった。』
この、度々出てくる“CT20”型だが、商工省標準車の上のクラスの、8リッター級ディーゼルエンジンを積んだトラックだった。『これより先、十四年(1939年)には関東軍から陸軍省を経てCT20型車(技術提携先のザウラーCTID型エンジン(7.98ℓ100㏋ディーゼル)搭載)300両の生産命令を受けていた。この命令受領で関係者一同大いに張り切ったのである』しかし、関東軍と満鉄(鉄道省)を後ろ盾としたこの計画は、満州国内でも波紋を呼んだと思われる。『その結果満州の自動車生産を巡って鮎川義介の満州重工業計画と対立を深めることになった。』((web13)P152)結局、『その所要資材調達は遂に本省の認めるところとならず、十五(1940年)、十六(1941年)、二年間にわたる努力もむなしく水泡に帰し実現不能に終わった』(⑮P65)。
 そしてこのトラックの開発は、次項の国産省営バス誕生の立役者の菅健次郎が、どうやら関与していたようだ。以下も(⑮P96)より、『満州国の建国と共に陸上交通は大きく取り上げられたが、国土は広く自動車への期待度は非常に大きかった。ただ道路はきわめて貧しく道なき荒野を走ることすら多いので、日産などの国産車、フォード、シボレー等の米国車は全く顧みられず、専ら強力堅牢なベンツ等欧州産の大型車が輸入されていたのであるが、関東軍は有事の際の輸入の杜絶を考慮して現体制からの脱出を企画し、自動車部を創設したのである。而して自動車部長は国鉄バスの創設者であり、初代自動車課長であった菅健次郎氏であった。外車全盛時代に全数国産車を以て国鉄バスを開業した先駆者であり、神戸造船所にホワイトをモデルとしてふそうバスの開発を慫慂(しょうよう)したのは、ほかならぬ氏であったことは、もう知らぬ人が多いのではなかろうか。』難しい(読めない!)漢字が並ぶ文章で、転記が大変だったが!省営バスにおける確かな実績から、三菱に満州国向けの、堅牢なシャシーに余裕のあるエンジンを載せた大型ディーゼルトラックを作らせたかった気持ちは伝わってくる。
(しかし、このCT20型トラックの写真をネットで検索しても、残念ながら出てこなかった。そこで下は、(①;「国産トラックの歴史」P53)の写真をスキャンさせていただいた。その印象は自分にも、戦前の『従来の「ふそう」に比し全く面目を一新したもの』(⑮P133)のように見える。
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しかしネットで写真が1枚も見当たらないとは、歴史は残酷だ。実用面では搭載エンジンを、ザウラーの直噴ディーゼル(CT1D型)から、自社の予燃焼室型Y6100ADをベースに、さらに統制型エンジンの燃焼室の仕様に置き換えることが前提条件になっただろうが、あの菅健次郎に厳しく鍛えられたはずの、このトラックが満州の広大な大地で活躍する姿を見てみたかった。
下はCT20型とは対極の立場にあった、1939年というから東京自動車工業時代の、いすゞTX40型トラックのカタログで、ブログ「ポルシェ356Aカレラ」(web15)からコピーさせていただいた。そしてカタログの文面には、以下のように高らかに謳われている。
『いすゞは政府当局が慎重審議2ヶ年有余の研究の結果制定した本邦唯一無二の国策自動車車輛である。』

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https://stat.ameba.jp/user_images/20140906/17/porsche356a911s/da/15/j/t02200165_0800060013058270779.jpg?caw=800

16.3-9「ヂーゼル自動車工業」の誕生と、「日野重工業」の設立
 16.3-6項で最初に結論を書いてしまったが、東京自動車工業はトヨタ、日産に次ぎ、1941年4月9日付けで製造事業法に基づく三番目の許可会社となった。
そして東京自動車を改組し、先述の「商工省自動車技術委員会ディーゼル自動車専門委員会」で決定された、5ℓと8ℓ級のディーゼルエンジンに関連する製造設備と技術を、三菱重工業、川崎車輛、池貝自動車などに供出させる。そのうえで1941年4月30日、新たに「ヂーゼル自動車工業株式会社」と改称し、三菱を含む協力企業にも経営に参加させて、統制型エンジンの大量生産体制を確立した。下表は「ヂーゼル自動車工業」の株主構成表だ。
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(しかしこの株主構成からも、やはり意外な印象を受ける。東京自動車工業の株主構成表の時と同じことなのだが、「ヂーゼル自動車工業」⇒「戦後のいすゞ自動車」なので、自分が抱いていたイメージからすると=「第一銀行(後の第一勧銀、みずほ)系企業」だが、この株主構成からすると、「帝国生命保険」以外は、その要素が薄い。GHQの開放政策で、戦後どのような過程を経て、「六大企業集団」が形成されていったのか、自動車産業を題材に、いつか調べてみたい。ただず~っと先の話になると思うし、ブログで紹介するようなネタでも全くないが。下はwikiより、「第一銀行本店」の写真だが、「第一銀行」自体は、渋沢栄一が創立した「第一国立銀行」が元なのだから、同じく渋沢が関わったいすゞが戦後、同銀行系の集団に属することは、元の鞘に納まっただけなので道理にかなっているだが。)
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なお商工省は認可の際に、戦車等の陸軍向け兵器工場であった日野製造所は分離すべしとの条件を付けたが、これは陸軍省からの要請でもあった。1942年5月、「日野重工業株式会社へと分離し、瓦斯電系の技術と人材を継承しつつ、陸軍の監督下に置かれる。
(下の写真は日野自動車HPより、陸軍向けの装軌車両専門工場として、ヂーゼル自工からの分離を果たした「日野重工業株式会社 全景」)
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https://www.hino.co.jp/corp/img/about_us/milestones/img_milestones_1942.jpg
(余談になるが、「軍用自動車入門」という文庫本を読むとよくわかるが、瓦斯電は陸軍向けの、実に多種多様な特殊車両の製作にかかわってきた。陸軍からすれば日野重工業は身内のような、気が許せる企業だったのだろう。下は自動車ではないが、『きわめてゲリラ的ではあったが~枢軸側として初めてアメリカ本土を爆撃した』(⑯、P48)、零式小型水上機(の「ウイングクラブ」製1/32ダイキャストモデル。)。Wikiでも『これは、大戦中のみならず現在にいたるまで軍用機がアメリカ本土の攻撃に成功した唯一の事例と言われている』と記されているが、なぜ⑯=「日野自動車の100年」に記されているかといえば、そのエンジンは、日立航空機製の「天風」12型 で、16.3-5項と、“その3”の記事の「≪備考12≫瓦斯電のシャドーファクトリー構想について」を参照していただきたいが、元々は瓦斯電航空機部製であった。ちなみに、本題がまったく逸れてしまうが、この米本土爆撃は自分には“マンデラエフェクト”案件で、自分の前の世界線では“風船爆弾”だけだった・・・
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https://auctions.c.yimg.jp/images.auctions.yahoo.co.jp/image/dr000/auc0304/users/5458ac89779ece00624534028199ed7ff5489cc4/i-img1000x667-1649325400mdmvif8248.jpg
(さらに余談が続く。一方石川島といえばやはり、ジェットエンジンが有名だ。「ネ20」は、敗戦間際の1945年に開発され、日本で初めて実用段階に達したターボジェットエンジンだ。ほぼ同時に試作された中島の特殊攻撃機橘花へ搭載され、1945年8月7日、初飛行に成功した。ドイツの軸流式ターボジェットエンジンBMW 003を参考として作られたが、コピーではなく、日本が独自に研究を続けていた噴流式発動機の研究を基に、海軍航空技術廠(空技廠)と石川島重工業が軍民一丸となって開発したものだった。(以上wikiを要約、下の画像もwikiより)
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(ところが!自分が今まで長いあいだ勘違いしていたのは、上のジェットエンジンはてっきり1924年に造船所本体から分離した石川島飛行機製作所が開発したものだと思っていたことだ。実際には本体の石川島造船所(海軍系)→石川島重工という流れで製作されたものでした。さらに、石川島飛行機が1936年に改称したのが、立川飛行機だということも、すっかり忘れていた!ということは石川島が、プリンス自動車の源流の一つでもあった訳だ。立川飛行機といえば、後にトヨタで活躍した長谷川龍雄が設計主務だったキ94-Ⅱ試作高高度戦闘機が有名だが、これは未完に終わっているので、ここでは石川島飛行機時代の設計で、多数使用された陸軍の練習機(赤とんぼ)を掲げておく。しかもエンジンは瓦斯電製だ。石川島は、もともとは、あの渋沢栄一がつくった会社だし、松方五郎率いる瓦斯電は当時、『さむらい技術者養成所』!という綽名がつけられていたそうで(⑰P54)、両社とも会社の規模以上に志が高い企業だったことは確かだ。下は「ニチモ 1/48 日本陸軍九五式一型乙中間練習機 赤とんぼ」のパッケージです。 )
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16.4鉄道省の省営バスによる国産バスの普及
 まず先に(⑱P13、②P120、P151、wiki)等を基に、鉄道省によるバス事業である、省営バスについての概要を記す。
国鉄が自らの手でバス事業を行うきっかけは、1922年に鉄道敷設法が大幅改正されて、全国に膨大な数の鉄道建設予定が立てられたからだといわれている。しかも、それらの予定線の大半が、鉄道としては採算の合わないローカル線であった。
そこでこれら、輸送量の少ない地域においては、当面は鉄道の補助・代行機関として、既設の道路を利用して自動車運輸事業を行うべきという意見が提起される。
鉄道省はこれを機会にバス事業への進出を企画すべく、1929年8月、省内に「自動車交通網調査会」を設置する。調査委員会は、国鉄自動車運輸の基本方針として、以下を中心に答申した。
・乗合自動車(以下バスと略)業務を開始し、バスを新しい交通運輸網として位置付ける。
・バスを運行する道路網の整備と建設とを行い、道路行政を推進する。
・幹線鉄道と地方鉄道間を連絡させ,或いは、補充させ観光開発を行なう等に省営バスを利用し、発展させる。
・省営バスは国産バスを使用し、国産奨励の国策を担う。
そして別紙として、鉄道の将来建設のうち自動車で代行できるもの,採算の取れない既存の地方鉄道で自動車に代行させるものを合わせ 82路線、4,896kmが、省営バスの経営する路線として示された。
 調査会の答申を受けて、鉄道省は国鉄自身が鉄道輸送の一環として、自動車運輸事業を行うことを決定した。こうして「鉄道省営乗合自動車」=略して「省営バス」(戦後、国鉄が誕生後は「国鉄バス」)が誕生する。
 この時、答申内容に沿い、日本の自動車産業を育成し、自立させることを目的に、使用する車両は国産自動車とする方針も決定された。16.1-1項で記した「国産振興委員会」の答申とも連携した動きで、国産車に軍用保護自動車以外の市場を提供することになる。こうして1930年、第1号路線として東海道線の岡崎駅-中央線岐阜県下の多治見駅間と、一部高蔵駅の支線で(65.8km)、その運行が開始された。
 開業から5年後の1935年には35路線、路線延長は1765kmに達し、377台の省営自動車で運行を行った。ちなみに戦後の1947年には4923km の路線を全国に展開するほどに、大幅に拡大していくことになる。

以下、上記概要の内容を補足する。まず、鉄道省によるバス業への介入の目的は、表向きは、全国に膨大な数の鉄道建設予定が立てられた結果、バス事業で代替することであったが、実は鉄道省としては他にも2点、目的があった。
1点目は、鉄道の衰退を防ぐため、『鉄道との競争を調整し、バス業の統制』(④P159)を行うことだ。((web3)P148)によると、『鉄道省は,国鉄に対する自動車の影響調査を大正 15年に行なった結果,国鉄沿線では1日当り旅客で 14,483人,貨物で 2,003トンが自動車に取られ,減少となっていた。自動車の輸送革命が短距離及び中距離輸送を事業とする地方鉄道の経営をかなり圧迫し始めたのである。同じ時期の別の調査に依れば,私鉄を含めた「全国の民営自動車交通運輸事業が,すでに 50km以内の貨物運輸面において 40パーセント,旅客運輸では 10パーセントほど国鉄の輸送分野を浸蝕していた」』のだという。
 自動車による輸送革命が起きて、短距離及び中距離輸送を事業とする地方鉄道の経営が、バスにより圧迫され始めたため、小規模業者が乱立していたバス業の営業許可権を鉄道大臣が管轄することを主な内容とする「自動車交通事業法」を制定し(1933年10月から実施)、許認可権を行使することにより、鉄道事業者の保護を意図したのだった。
2点目は、1点目とも多少関連するが、省営バス事業は、より積極的な意味において、『国政レベルでの諸事情を勘案しながら、鉄道とバスを一体のものとして全国公共交通網構築を図ったものとみることができる。』((web11)P49)鉄道とバス事業を一体化させて、鉄道省自らが、陸上輸送の総合経営を行うことを意図したのだ。以下も(web11)からの引用で記すが、正しくは原文をお読みください。
 既述のように省営バスのすべての路線は、鉄道の建設予定線との関係をもっていた。そのため路線の選定は、・鉄道の先行または代行・短絡・培養・補助(これらを路線開設の「四原則」という)を基準にして行われ、『これはすなわち、省営自動車はあくまでも、本業たる鉄道事業の延長上にある、という建前で、民間事業者の反発を牽制する対外的な公式見解であった。
しかし、その後の省営自動車事業の展開はこの通りではなく、鉄道の補助的存在から徐々に脱し、独自の発展を遂げ独自の地位を確立していった。青森県十和田湖周辺や、千葉県南房総方面の観光開発、群馬県草津温泉や栃木県塩原温泉などへの積極的な路線展開はその好例である。当局は、のちに「四原則」に「重要観光路線」を加えている。』
((web11)P49)その領域を、徐々に拡大させていったのだ。
 この拡張路線は、国が復興を急ぐ戦後の混乱期において、さらに強力に推進されていく。
米軍車両の払い下げ等、『GHQ の意向も受けて、貨客の輸送改善に取り組み、各地に進出して輸送規模を拡大』(web11)P49)していく。しかしこの状況は、民間の自動車事業者(バス、トラック業者)からすれば、『鉄道当局は、自動車事業全般の監督権を掌握しており、一方で自動車事業を監督しながら、他方で自らそれを経営しているという状況であったため、圧倒的に官に有利な状態』((web11)P49)の中で、行われたため、民業圧迫だとして、官民の間で激しい対立が起きたという。この混乱は、1949年の日本国有鉄道発足をもって、一応の決着をみるまで続いたそうだが、戦後の話になるので、ここまでとしたい。(さらに詳しくは(web11)を確認してください。下は16.4-3項で後述する、ふそうのBD46型省営ディーゼルエンジンバスで、「重要観光路線」にはこんなにオシャレなセミデッカータイプも投入されたようだ。この貴重な画像は、 “―前略、道ノ上より-”さん(web12)からコピーさせていただいた。)
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https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/userstorage/000/028/617/446/27bbdfd8f3.jpg?ct=dd001e9393e5

 さらに補足を続ける。話題を変えて、省営バス事業における、日本の自動車産業の育成という観点からより細かく見ると、『省営バスに国産車のみを使用し、市営などの公営バス業に国産車使用を奨励する方針をもっており、さらに外国車に不利なバス規格を定めることによって、国産バスの増加をもたらす可能性を持っていた。』(④P159)
 このうち、市営交通の国産バス奨励については、16.2-4項でみたとおり、その影響は軽微だった。
また「外国車に不利なバス規格」とは、具体的には「自動車交通事業法」と同時に実施されることになった「旅客自動車設備規定」により、「低床式バス」の使用を強制したことにあった。
 しかしこの制度の実施に当たって、バス業者や輸入商が猛反対したため、『発令された規程の附則には、規程の前に使われているバスの場合は基準に適さなくても使用可能としてなり、さらに実際の適用は3年後になった。すなわち、実際の施行は1936年10月からとなった』(④P159)。
 当初フォードやシヴォレーのバスは、トラックのシャシーを流用していたので、「低床式バス」の規定に適合していなかったが、3年後の『それまでには大衆車のバスもすでにその基準を満たすように改良され、』(④P159)国産バスに有利に働くことはなかった。
(下の写真は(web(9))からの引用で、『東浦自動車工場が1937年に作成した暑中見舞いはがきの写真。シボレーのシャーシに東浦で低床式ボディを架装しています。』確かに腰高のトラック用シャシーの流用ではなく、低床式になっている。)
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http://www5e.biglobe.ne.jp/~iwate/vehicle/extra/primer/coach/catalogue/200_body_maker_01.jpg
 そして残る、省営バスに国産車のみを使用した点だが、16.2-4項で記したとおり、当時は省営バスの創成期で、路線数がまだ少なく、購入台数もけっして多くはなかった。『(戦前で)最大であった1936年の購入台数は164台であり、当時の保有台数も431台に過ぎなかったのである。』(④P160) ちなみにこれも16.2-4項で記したが、1934年9月の調査によると、当時のバスの全保有台数は20,171台で、大衆車のフォードとシヴォレーなどの小型バスの割合が圧倒的に多かった(④P159)。
この431台は6年間の総発注量で、参入を即した4社のメーカー数で割れば、1社あたりの発注量は、今の感覚からすれば正直、”たいした台数ではない“という印象を受ける。しかもこの台数の中で、後述するように新規開発まで強いていたことを考えればなおさらだ。
 だが省営バス計画のスタート当時は、石川島も瓦斯電も、倒産の瀬戸際まで追い込まれていた苦しい“暗黒の時代”であった。『鉄道省は省営バスを始めるときに、渋沢さん、橋本さん、松方さんなどから、本腰を入れてやるのかと、真剣につめよられました。』(③P70;当時鉄道省自動車局勤務の小野盛次の談)
そして、『我々(注;鉄道省)が(省営バスの)注文を発すると、翌日は第一銀行(注;石川島のメインバンク)や、十五銀行(注;瓦斯電のメインバンク)から行員の方が来られて本當に注文したか、と問い-注文したと答えると、然らば融資しましょうと云う様な次第で』(②P177)あったという。
 発注側の鉄道省は、その発注権限を盾に、世界的な水準まで導いた鉄道車輛開発を通じて会得したノウハウを、省営バスの開発にも展開した。鉄道技術者と自動車メーカーが合同で技術開発を行い、陸軍のある意味では“過保護自動車”的?な側面もあった国産自動車会社を、技術的に厳しく鍛え上げていった。
 そしてその活動の中心人物となったのが、国鉄バスの創始者と呼ばれた、菅健次郎であり、技術的な実務を担ったのは、島秀雄らであった。当時の日本の傑出したテクノクラートとして、相当高いレベルで指導を行ったことが想像される。以下からは、主に菅の活動を通じて、省営バスの発展を見ていくこととする。
(下は滋賀県甲賀市水口町にある「菅健次郎君頌徳碑」。写真と文は(web10)「バスに関する記念碑」より以下引用『地元水口(注;滋賀県甲賀市水口町)出身の管健次郎(かんけんじろう)氏の頌徳碑。管氏は鉄道省に就職し、省営自動車創設の重責を担い、欧米での研究の後、省営自動車路線を開通させました。特に滋賀県では全国3番目の省営バス路線である亀草線(亀山~草津間)を1932年に開通させました。しかし、1946年4月に52歳の若さで病死したことから、翌月にこの碑が建てられたようです。裏面には40人に及ぶ発起人の名前が書かれています。』)
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16.4-1中型省営バスの開発(瓦斯電と石川島)
 概要で記した、1922年の鉄道敷設法の大幅改正を受けて、鉄道省はこれを契機に自動車の輸送革命に対応すべく,省内の運輸局での検討を開始する。若手技師、菅健次郎が、1927年から二年半にわたり、米・独を中心に交通運輸事情の調査留学を行い、帰国後『アメリカでの輸送革命を目のあたりにして菅健次郎は ~ その対応として省営バス事業を早期に確立することが鉄道省の緊急課題であり、陸上交通機関の総合経営を鉄道省の戦略として打ち樹てるべきである』(②P167)と具申する。
 そして運輸局長久保田敬一は,「自動車交通網調査会」の答申と、菅の報告を基にして省営バスの事業を組織し,さらに,国産の省営バスの開発を技師菅健次郎に命じる。(以上②等参考)
 こうして菅健次郎の調査結果が、その後の省営バス事業に大きな影響を与えていくことになり、菅自身も、その指導的立場に立つ。菅は省営バスの発注を通じて国産自動車産業を育てるべく、使命感に燃えて『国産自動車工業、とりわけ中級車を主要車種とする国産自動車工業を発展させるために、~省営バスを全国に蜘蛛の網の目の如く張り巡らし、その中核に国産中級バスを据え、国産中級自動車工業を確立することに全力を注ぐのである。』(②P169)のだが、菅の自動車に込めた思いについては、長くなるのでここでは省略する。(興味のある方は、たとえば②P166~P178等参照してください。)
 菅はまず初めに、国産車の実力を確認するために、16.1-2項で既に記したが、その性能試験を実施した。瓦斯電のTGE-L型、石川島のスミダL型、ダットのダット61型の3台を、定地試験、運行試験の後に分解検査して、走行性能、実用走行性、各部分の構造・耐久性に対する評価を総合的に判定し(⑰P53)、1930年2月答申が出された。結果は多少“盛って”いたかもしれないが「外国車の中位」にあると判断され「多少の欠点を補正せば足るとの結論に到達し」、これが省営バスを国産車で賄うための、技術的な根拠を示すとともに、商工省標準型式自動車誕生に向けての、技術的な基盤を与えたことも既述のとおりだ。
菅は試験結果を踏まえて、ダットを除いたTGE-L型とスミダL型の2台を選定する際、それぞれのメーカー宛に以下の購入条件を示す。
『(軍用)保護自動車よりは一廻り小さい中級自動車に改造することを要請し、その上で三つの条件を提示した。』(②P173)その条件とは、(一)バス専用シャシーの開発、(二)低床式にする、(三)流線型のボディデザインを取り入れる、以上の3点であった。
 さらに菅は、『陸軍の規格を落として値段を安くし、アメリカの自動車に対抗せしめる様に』(②P174)と、コストを度外視しがちな陸軍と違い市場におけるコストパフォーマンスも考慮に入れた。これら、菅の意図したことを一言でいえば、「軍用トラックから、商用バスへの転換」になろうか。
 一方受け手側の、瓦斯電と石川島も、こうした菅の求めに応じ、少ない経営資源(開発余力)をやりくりしつつ、専用設計部分が多かったであろう、鉄道省向け省営バスの開発に積極的に取り組んだ。
 こうして石川島のスミダ LB型低床バスと瓦斯電の TGE-L(MP)型低床バスが、省営バスとして新たに完成したが、コストを抑えた反動として、菅によれば『最初から「頑丈さに不安」を内包していた。』(②P174)という。
 岡多線のスタート時点で、鉄道省は17台のバスを用意したが、その内訳は、瓦斯電が14台、石川島が3台だった。(しかし他の資料では、当初の規模はバス7両・トラック10台であったという記述もあり、スタート時点では17台用意できなかった可能性が高い。)
この発注量の差だが、(②P174)に、『菅健次郎は石川島自動車製造所へ行って、渋沢正雄所長、石井信太朗工場長の前でスミダ-L型について「強度が足らないので、省営自動車としては不向きだと思ふが」と問い詰め、「条件付で購入」する』という記述があり、険しい道の連続だったという省営バス創業当時の路線使用においては、特に石川島が開発した低床バスの方に、強度面でより多くの不安を抱えていたようだ。
 また、「条件付で購入」という部分だが、「故障に備えた修理、保守、サービス体制を予め作りあげておく」ことで、これは両社に適応されて、瓦斯電は瀬戸に、石川島は岡崎に常駐の技術員を派遣することとなった。(以上(②P174))
このように、『最初から「頑丈さに不安」』(②P174)を抱えつつも1930年12月、最初のバス路線である岡崎―多治見間 65.8kmは、 国産バスの使用でスタートを切った。
 しかし菅の悪い予感は的中し、実際に日本の険しい山間路に投入されると、国産バスはたちまち馬脚を現すことになった。『六ヵ月も経たない内に全部のフレームが破損し』『岡多線(岡山-多治見間)に使った「17台の内、1台ぐらいしか動く日がなかった」という惨憺たる有様となった。』(②P174)
 だがこの惨状にもめげずに菅らは毎週対策会議を開き、部品サプライヤーまで巻き込んだ横断的組織を作り、不具合の改善に取り組んだ結果、『其の結果、͡此の岡多線の自動車は、今日即ち昭和五年の十二月十五日から、此の十七年の十二月迄、満十二年間、走り続け五十万粁を突破して尚使用に耐え得る事を証明したのであります。』(②P175)と言えるような、見違えるほどのバスに生まれ変わったという。一般に、省営バスの認定試験は、陸軍の認定試験よりさらに厳しかったといわれている。鉄道省によって、軍用“保護”自動車メーカーは厳しく鍛えられたのだ。
このような技術面での実践的なノウハウは商工省にはなく、後の商工省標準型式自動車や、自動車製造事業法の制定時に、商工省の施策をバックアップする形で生かされていく。
(下の写真は瓦斯電のTGE-MP型省営バス。公式の説明として、「「国鉄バス第1号車」として保存されている最初期の国産バス。鉄道省が岡崎~多治見間に初めてバスを運行したときの7台のうちの1台」とあるので、岡多線のスタート時点では、バスは7台だったようだ。窓にはカーテンがあるなど、かなりのデラックス仕様に見える。ボディ架装は、芝浦の脇田自動車工業(後の帝国自動車→日野車体)が行い、石川島の方は、横浜の倉田鉄工所だった。木骨構造でなく、鉄骨鉄張り構造で(web14)、車体メーカー側としても挑戦だっただろう。悪路対策で、スペアタイヤは2本もついている。
なおエンジンは、従来のトラック用のL型(4気筒4.4ℓ)ではなく、新たに開発されたもので、『日本初の6シリンダーで4.7リッターのP型に換装』(⑯P10)した。アメリカのグラハム・ペイジ社のエンジンを取り寄せ、スケッチして設計したもの(②P152)だと言われている(ということは、後の日産の大衆車は、経営が苦しくなったグラハム・ページ社工場設備と技術を図面ごと購入し作ったものなので、“兄弟”という間柄になる?)が、石川島より気合が入っていたようだ。このバスは自動車だけれども1969年、“鉄道記念物”に指定されている。もともとは東京の「交通博物館」に展示されていたが、大宮の「鉄道博物館」を経て、現在では名古屋市にある「リニア・鉄道館」に移されたそうだ。さらに余談だが、超多角経営の瓦斯電は、会社名から連想すると、電車もやっていそうだが?『鉄道車両では王子電気、京王、横浜市電などに車輌を製造しています。』やはり!作っていたのだった。(以下の画像は中日新聞よりhttps://plus.chunichi.co.jp/blog/ito/article/264/5923/)

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そして貴重なその車内の様子。当時としては豪華仕様だったのだろう。
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大型/小型省営バスの開発(三菱と川崎の参入)
 鉄道省による日本全国規模の省営バス網運行の第一段階(岡多線と、翌年の三山線(三田尻-山口間)は、瓦斯電及び石川島が開発した中型バス(後述する商工省標準型式自動車)を使用して展開された。
しかし3線目の第二段階の展開では『主に急坂・悪路の山間地帯を走るため,強馬力,かつ耐久力のある大型バス,或いは小型バスの国産車の導入が望まれた。』((web13)P150)
 第一段階の運用実績と、次の営業予定線の亀草線(亀山―草津間)は、難所といわれた鈴鹿峠越えなどがあることから、より強力なエンジンを備えたバスと、狭い山間路において取り回しの良い小型バスの両方が必要とされたのだ。Wikiには「最初の3線は試験路」と書かれており、予めの計画で、最初にひととおり、試しておきたかったのかもしれない。
(下はブログ「押し鉄列伝;戦前D氏の視察帳」より、「関駅 関西本線 鈴鹿峠・関地蔵院-昭和9年8月17日(金)」という戦前の駅スタンプで『関駅のスタンプには、東海道の関宿の寺と、険しい鈴鹿峠を登る自動車が描かれている。この自動車は省営バス(のちの国鉄バス)だそうで、峠を越えて草津駅まで行っていたらしい。』
http://nonban.travel.coocan.jp/stamp/guest-d/dnote02.html)
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http://nonban.travel.coocan.jp/stamp/guest-d/d2/d19340817-seki.jpg
 このうち運行実績を基に故障原因を詳細に分析した菅は、その原因の多くを、中型バスの馬力不足に見出し(②P175)、より高出力の大型バスの導入を計画する。
 だが鉄道省と菅は、新たなカテゴリーである大型バスの試作を、大型バスは三菱造船所に、小型バスは川崎車両(1932年に川崎造船所から独立)という新規参入組に、それぞれ依頼する。その頃、瓦斯電と石川島は『陸軍の発注する六輪車と戦車のガソリンエンジンの開発に忙殺され、』(②P176)開発余力に乏しかったのだ。
 三菱も川崎も鉄道省からすれば、“本業”の鉄道事業の分野で、もともと関係が深かっただろうし、機械/重工業分野で、当時の日本を代表する実力を誇ったこの両社を、自動車製造の舞台へと、登場させようとしたのだ。
 そして三菱財閥も、神戸川崎財閥も、この誘いに応じて、省営バスの開発を契機に自動車分野へ再参入する。この時は大財閥の造船部門としても、自動車に進出したい理由があったのだ。(この16.4-2項で記すべきことは、((web13)P150~151)にまとまっており、以下からもそちらを参考に記すが、当然オリジナルの方が“正”なので、ぜひそちらの方をご覧ください。という言い訳をして、((web13)P150)からさっそく手抜きでコピーさせていただく!)
『当時,造船業界は大正 11年(1922年)のワシントン海軍軍縮条約による主力戦艦(八八艦隊)と航空母艦の保有量制限(日本 31万 5,000トン)のため主力艦の整備,縮小を余儀なくされ,さらに,昭和5年(1930年)のロンドン海軍軍縮条約での補助艦保有量制限(日本 10万 8,400トン,対米比 6.02割)を受け,深刻な不況に襲われ,川崎造船,石川島造船の再建問題を生じさせていた。三菱神戸造船所も,同様に,不況対策を余儀なくされていた。これら造船所は,自動車産業への進出とその拡大を再建策の中心課題としていたが,神戸造船所も同様の動機から自動車生産に取組むのである。大井上博は,「不景気で苦しんでいたときでもあり,それに官庁相手の仕事でもあるからということで始め」(③P71)たと三菱重工業の自動車進出について明らかにする。』
 補足すれば、戦前の日本を代表する、機械・重工業メーカーであった、三菱造船所(1934年に造船と航空機が合併し三菱重工業になる)と川崎造船所の自動車産業との最初のかかわりについては、この一連の記事の“その3”の記事で記してある。国による国産車製作の最初の取り組みであった、陸軍による軍用トラックの国産化プロジェクトに、両社とも当然の如く声がかかり、それぞれ取り組んだが、その時は艦船や航空機の方に注力すべしと判断し、試験的な段階で撤退した。そしてこの判断はたぶん、国の意向とも歩調が合っていたのだ。
 しかし時代は変わり、外資のノックダウン生産の拡大により、自動車は日本の社会全般に浸透し、鉄道から自動車輸送へと、輸送革命が起こりつつあった。造船不況対策とともに、両社ともにこのままでは時代の変遷に取り残されてしまうという、危機感もあったと思う。このタイミングでの鉄道省からのこの導きは、自動車産業への再参入の時期を見計らっていた両社にとって、絶好の機会が与えられたことになる。

16.4-2三菱造船所による大型省営バスの開発
 三菱造船所は、この期待に応えるべく、『今度こそ三菱も本格的に自動車の生産を開始するのだと力を入れ、』(⑮P44)取り組む。製作を担当したのは『蒸気機関車、電気機関車、ディーゼル機関車、ロードローラ等を担当する、俗に「車屋」と称せられる車輛専門の部門』(⑮P48)だった。
 1931年、大型バス研究のための参考用として、3台のバスシャシー(アメリカのGMC(=いわゆる「イエローコーチ」、WX型5,400cc)、ホワイト(65A型6,500cc)、スイス、ザウラー(3BNPL型6,130cc)、いずれもガソリン100㏋エンジンを搭載)を購入し、ほぼ一年に及ぶ綿密な分解調査を行う。(⑮P48) その結果、『性能では最も日本に適していると考えられるホワイトをべースにし、これにGMCの多量生産性と、サウラーの登坂性能とを併せ備えさせることを狙いとして、「三菱B46型乗合自動車」仕様の骨子をまとめた』(②P48)というが、当然、菅の意向を重視した結果だっただろう。
 OHV6気筒7,010cc、100㏋という、ホワイト製エンジンをベースに新開発された強力なエンジンを搭載した、B 46型大型バス用試作シャシー第1号が完成したのは、1932年5月であった。東大の隈部一雄助教授の指導の下に、当時日本国内では数少なかった完全舗装道路であった、阪神自動車道で性能試験を繰り返し、(②P49)。「鉄道省C型乗合自動車」(ふそう号)として、省営バスに採用される。こうして三菱もようやく、自動車メーカーの仲間入りを果たした。(下の「ふそう第1号車・B46型乗合自動車」のイラストは三菱ふそうのHPより。)
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https://www.mitsubishi-fuso.com/oa/jp/corporate/history/images/70th01_03.jpg
(ちなみに「ふそう(扶桑)」という名称は、社内公募によって選ばれたものだが、その由来は「古くより中国の言葉で「東海日出る国に生じる神木」を指し、日本の別称としても使われ、実在する扶桑の木は扶桑花(ぶっそうげ)と呼ばれ、一般にはハイビスカスの名で知られている」そうです。なおB46型の、 “46”という数字はホイールベース長(4.6m)を表している。鉄道省の購入価格は、8,800円(ただしバス車体は省が別発注で、日本車両や川崎車輛で架装されたという(㉓P10))で『精一杯の値段で買ってくれた』が、『その製造原価は物凄いばかりに嵩んでいた。試作に続く生産も10台とか15台とかいうような単位では製造原価など議論の対象にはなり得ない性質のものであったろう。』鉄道省と交わした「使用年数6年、走行距離30万kmを保証する」という契約時の足枷にも、後に苦しめられることになる。大型船舶や舶用エンジンとは勝手が違う世界で、この教訓も、後の丸子/川崎工場という量産志向の工場建設へとつながっていく。下の美しい画像は(web12)よりコピーさせていただいた。)
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https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/userstorage/000/028/617/444/abc7209b5c.jpg?ct=18d750141d37

16.4-3川崎車両による小型省営バスの開発
 一方、三菱と同じく、造船を主体とする川崎財閥も、同じく造船不況対策の一環もあり、鉄道車両製造部門である川崎車両において小型バスの開発に積極的に取り組む。しかし川崎の省営バスについては、手持ちの資料が(②P154、P176)以外ほとんどないため、詳しく記せないが、やはりアメリカのホワイト(61型)をモデルにした60馬力の6気筒 KW 43型バス(六甲号)を完成させ、省営バスとして鉄道省に納入する。(下の写真はその姿だが、(鉄道P60)によれば、三菱も大型のみならず、同じくホワイト(61型)をベースに、小型省営バスをつくり納入したという。)
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https://www.khi.co.jp/corporate/history/img/002_im04.jpg
 川崎車両はさらに、省営バスの開発を契機に軍用自動車の開発へと手を広げ、1932年から 36年の間に、トラック、バス、乗用車を合計 240台、軍用制式自動貨車を 30台を製造した(web(16)P54)とあるが、(web17)では『1927年(昭和2年)に陸軍88式自動車に着手、川崎造船所兵庫工場車両部が担当、翌年に川崎車輛となる。1932年(昭和7年)に「六甲号」と命名、自動車3700台を生産し』また『(合計で?)4190台を生産した』、とも書かれている。(⑰P62)でも同じく『乗用車、トラック、バス490台、軍用制式トラック3,700台』だ。
4,000台以上とは当時としては相当大きな数字だが、(⑧P76)には『三七年から四二年までの間に同社が製造した軍用正式自動貨車は3670台』と記されており、37年以降に生産が急増したとすれば、辻褄が合う。陸軍向けの軍用車両の受注で生産台数が急増したのだろう。日本陸軍を代表する軍用トラックである、九四式六輪自動貨車は、車輛開発を行った石川島、瓦斯電、その後の東京自動車、ヂーゼル自動車とは別に、川崎車輛もその生産の一翼を担っていた。
 下表は、戦前の省営バスのメーカー別生産台数だが、付随自動車を含めると六甲の台数が意外に?多かったことがわかる。川崎は技術力もあるので、エンジンの内製も行ったが、総じて『自動車の領域では完成車組立に進出した』((web⑲)P29)という印象が強い。そのように割り切った分、戦車等特殊車両を除く一般の自動車の生産台数としてみた場合、正確には不明だが、労多くして途中で挫折した(させられた)車種の多かった戦前の三菱よりも川崎の方が、明らかに台数は多かったように思う(たぶん)。
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(「六甲号」は乗用車もあり、高級乗用車として宮家などに納入したという(川崎重工HPより)。下のやたらとオシャレに見えるクルマは、六甲号乗用車のカタログの表紙(web17)より、以下の文共々コピーさせていただいた。『アールデコ調で描かれているが、松方幸次郎が絵画コレクター(松方コレクション)だったため、欧州調にデザインしたのであろう。』川崎造船所の初代社長だった松方幸次郎は、松方正義の三男だそうで、そうなると瓦斯電の松方五郎とは兄弟ということになる(?)もっともwebで調べると、松方正義は15男11女と!子宝に恵まれたようだ!)
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http://www.mikipress.com/m-base/2017/05/post-89.html
(下の着色加工した写真は川崎車輛が製作した流線形の弾丸列車で、南満州鉄道が世界に誇った「あじあ号」の雄姿を、「満鉄アジア号を復元してみました」さん(https://blog.goo.ne.jp/sfkarasu)よりコピーさせていただいた。見事な写真なので3枚連続してコピーさせていただいた。)
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https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/88/0a9e502627101d834ec0f179ad08fd01.jpg
(この記事(その6)のあとの記事(その8)で記す予定の自動車製造事業法立法化の過程を扱った「NHKドキュメント昭和」(㉘P66)より以下引用『今でこそ世界に冠たる日本の機械工業だが、当時はわずかに「造船と汽車製造とが世界に伍していけるだけで、多に見るべきものがない。それで自動車の育成が早道だと考えた。」(日本自動車工業史座談会記録集における、自動車製造事業法立法化に尽力した小金義照の発言) 戦前、鉄道技術は一級の水準に達していたのだ。)
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(この記事の本題とは多少逸れるが、「あじあ号」の写真を埋めるためについでといっては何だが、当時の陸軍・商工省がなぜ自動車が早道だと考えられたのか、(㉘P66)より引用を続ける。『自動車を国産化したいという、軍部の強い要請がまず第一にあげられる。同時に、産業政策の立場から見て、五千を超す部品を組み合わせ生産される自動車は、鉄鋼・工作機械・電気機器・ベアリング・ガラス・ゴム・塗料・繊維等々、裾野の広大な関連産業がなくては成り立たない。自動車は、多くの分野に波及する総合的な基幹産業なのである。このことは、アメリカの自動車が占めていた地位を見ても明らかである。およそ半世紀にわたって、自動車産業は最大の産業として、GNP(国民総生産)の20%を占め君臨していた。さらに日本でも、目下、自動車輸出が他を圧倒する最大の稼ぎ頭に成長したことを考え合わせれば、容易にうなずける。こうして半世紀前、自動車をてこに、日本の産業を振興しようというアイデアが生まれたのであった。』このころのNHKドキュメント番組は見ごたえ十分だった。それに引き換え、今は・・・ )
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 商工省工務局長に就任した岸信介は工政課長の小金に『俺とお前とで、二つだけやらねばならぬ仕事がある。歴代局長ができなかったこと。一つは、化学肥料の国産化。もう一つ、いつでも立ち消えになる自動車製造事業法。この二つは仕上げよう』(㉘P65)と語ったという。
(話を戻し、しかし川崎はその後、既述のように、戦時統制経済の下で陸軍省と商工省の介入により、国防の要であった航空機に特化するよう命令があり、自動車分野からは撤退させられてしまう。自動車向けの残存部品と設備一式を東京自動車工業(いすゞ)に譲渡することになるのだが、つまりいすゞと川重はもともと戦前から結びつきがあったのだ。もっとも半ば強引に、統合させられた結果だったのだが。下の写真は戦後の製品なので、本記事と直接関係は無いけれど、いすゞのバスシャシーに川崎航空機の車体を載せていた時代の代表的な観光バス、通称“オバQ”の写真。丸っこいボディに大きな正面マスク形状からそう呼ばれていた。この愛嬌ある姿は自分もそうだが、年配の自動車好きの人の脳裏に、今も焼き付いていると思う。(下はBH20型)
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https://stat.ameba.jp/user_images/20140913/18/porsche356a911s/1c/08/j/t02200165_0800060013065355944.jpg?caw=800
 話を省営バスに戻す。周囲に常に波乱を巻き起こしつつも、前へ前へと進む菅健次郎の省営バスの構想は、さらに第三段階へと進む。

16.4-4省営バスの改良(チヨダとスミダの高出力化)
 鉄道省による省営バス開発の、第三段階の主眼は、第一段階の運用実績における経験と反省を踏まえて、さらなる改善策を施すことになった。繰り返しになるが、菅は『岡多線、三山線での省営バス(L型)の故障原因について詳細な統計を取り、その分析をした結果、これまでのTGE-L、スミダL型の馬力不足に故障の原因を求めたからである。』(②P175)
 そこで菅は『L型の75馬力エンジンを新しい100馬力エンジンへと変え、開発すべくガス電と石川島自動車と交渉したが、「アワヤ、決裂かと思いお互い袂を分かつ」状態に陥った』(②P176)という。
 これも先に記したが、省営バスの開発スタート当時と情勢が変わりこの時期、瓦斯電も石川島も、満州事変勃発による陸軍からの特需があったうえに、「商工省標準型式自動車」のプロジェクトまで抱えており、開発陣はすでに手一杯であった。商工省標準車の出力サイズを大きく超えたエンジンの新規開発を、できれば避けたかったが、しかし両社ともに開発のやりくりをしながら鉄道省(菅)の求めに応じ、新たに大型の100馬力エンジンを開発した。『それぞれちよだ(TGEを変更する)S型、スミダR型とし、省営バスに採用され、三菱重工業の扶桑と共に、高馬力・大型化(36名乗りバス)の国産中級車として発展した。』(②P176)(下の写真はいすゞプラザのスミダR型のパネル。みんカラ“凌志のページ”さんよりコピーさせていただいた 
https://minkara.carview.co.jp/userid/589818/blog/m201706/)
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https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/userstorage/000/038/213/928/517c27b236.jpg?ct=93d4a772e83e

16.4-5省営バスのディーゼル化を推進する
 さらに省営バスが日本の自動車産業に果たしたもう一つの功績として、ディーゼルエンジンバスの採用を進めた点があげられる。なぜディーゼル化を推進したか、その理由について、((web13)P152)に要領よく纏められているので手抜きでそのまま引用させていただく!
『省営バスは悪路と急坂を主とする山間地方を走るために,整備された道路を走るよりもガソリンの消費量が多く,その対策を不可欠とされていた。当時,ヂィーゼル・オイルはガソリンの約4分の1の安い値段であり,ヂィーゼル化すれば,燃費は4分の1で済んだ。その上,ガソリンは揮発性が高く,蒸発する量も多かった。また,昭和恐慌期のため,輸入超過による外貨不足が日増しに大きくなっていた。石油の輸入を抑制し,節約することは,国の燃料対策としても重大問題であった。菅健次郎は,技術上,経営上,ガソリンエンジンをヂィーゼルエンジンに替えて省営バスの効率化,燃費節約を図るため,三菱神戸造船所の大井上博にヂィーゼルエンジン車の開発を依頼した。大井上博は,商工省の研究奨励金を受けて,昭和 10年に予燃焼室式ヂィーゼルエンジン(SHT6)を完成させ,11年に省営バスに納入した。』
 以下、多少補足すると、省営バスのルートは険しい道が多く、ガソリンエンジンのバスでは、1ℓ当2.5kmぐらいしか走らなかったという。(③P72)バス運行の燃費費用の節減とともに、既述のように当時の日本は、貿易収支の赤字で苦しんでいた。鉄道省としては国策の一環としても、燃料の節約をはかるため、国産車メーカーにディーゼルエンジンの開発に取組ませたのだ。
 そしてここでも、大型省営バスの開発で実績を積み、ディーゼルエンジンの開発で先行していた三菱に、ディーゼルバスの開発を要請する。既述のように当時三菱グループ内では、ディーゼルエンジンの開発を、造船所の自動車部(神戸)と、航空機の東京機器製作所(大井)の自動車部の2系統で行っていたが、省営バスに引き続き造船所が担当となった。商工省から「工業研究奨励金」(九千円)も得て、予燃焼室式ディーゼルエンジン(SHT6)を完成させて、このエンジンを搭載した省営ディーゼルバスを納入した。鉄道省による省営ディーゼルバスはその後、石川島、瓦斯電、川崎車両にも発注されることになる。(下はBD46型省営ディーゼルエンジンバスで、日本バス協会からのコピーだが、16.4項の最初に載せた、イラストのクルマと配色が違うが同型車だろうか?)
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 自動車用ディーゼルエンジン取り組みとしては省営バスよりもはるかに大規模だった、陸軍を中心とした取り組みについては、次の16.5項で記すが、客観性の高い、戦後の米軍のレポートで、惨憺たる評価だった日本車のなかで、『ただ 1 つ,ディーゼル車が戦争直後から性能・コストにおいて世界水準をゆくようになったのは,政府主導による研究開発によるもの』((web20)P14)であると評価されていた。
 自動車は元々、その国の産業の総合力が試される上に、6.4.1-2項で記したように明治維新後の戦前の日本では、「すべてが足りない中で自動車の位置づけは総体的に低かった」。国家全体としてみれば、自動車以外に、他にやるべきことがたくさんあったのだ。そんな切ない事情の中で育った戦前の日本車だが、それでも唯一、世界の第一線の技術水準に到達した、日本のディーゼルエンジン車の発展過程について、陸軍による施策を軸に次項でみていきたい。
(再三記すが、三菱はディーゼルエンジンの開発を、造船所の自動車部(神戸)の予燃焼室系と、航空機の東京機器製作所の自動車部の直噴系の2系統で行っていたが、両者の事業統合後は『この直列噴射式と予燃焼室式とは、その優劣をめぐり優雅に表現すれば切磋琢磨、泥臭くいえば主流派争い的で、』(⑮P115)後の16.5-2項で記すように主流は自社型直噴及びザウラー直噴エンジンを展開した後者であった。統合の結果、神戸系の大井上が総責任者になるのだが、『この間、神戸系予燃焼室式機関はどちらかと言えば守勢に回り、大井上氏の強い意見によって一応の命脈を保ちえたような立場に置かれたように伝えられているのである。』以上(⑳P207)(⑳P207)より引用を続ける。『しかし、後述するように時流が予燃焼室式に傾く中で、この神戸系予燃焼室式機関にもようやく陽が当たり、代表格のY6100型は商工省8.55ℓ自動車用統制ディーゼル機関のモデルのひとつとなった。のみならず、戦後同機はDB系機関として改良を重ね、昭和40年近くまで三菱大型自動車用主力機関としての地位を』保った。
下の写真は、その三菱のY6100AD型ディーゼルエンジン(1938年)。戦後DB系と改称され、長く使用されたエンジンと同一排気量の予燃焼室式8,550ccエンジンだったが、燃焼室のデザインは自社仕様から、途中で東京自動車工業の伊藤正男の手になる統制型エンジン仕様を参考に、設計が改められた(ハズだ)。)

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16.5陸軍主導による国産ディーゼルエンジンの開発
 まずは((web13)P151+P31)等を基に、この項の概要を先に記す。
 日本の陸・海軍は,大正末期からの世界的なディーゼルエンジンの発達と燃料対策を背景にしてディーゼルエンジンを艦船,戦車,自動車等に搭載させ,軍備の近代化を図ろうとしていた。
陸軍は1923年、戦車の国産化を計画し,その実施を試み,ガソリンエンジンと並んでディーゼルエンジンを研究し,三菱航空機にその試作を発注した。三菱は,1933年に八九式戦車用のディーゼルエンジン(A6120VD型)を開発する。
しかしその後陸軍は、ディーゼルエンジンの開発をさらに加速させるため、発注方式を改め、実績重視による分散発注方式から、企業間の熾烈な技術競争を伴う、競争試作方式に転換させる。
 たとえばガ ソリンエンジンだった94式6輪自動貨車を、ディーゼル化する際に、その試作を三菱(東京),池貝,新潟鉄工,神戸製鋼,東京自動車,川崎の6社による競争試作として行い、試作の完成が遅れた東京自動車などを尻目に、先行した池貝製エンジン(4HSD10X型)が受注を獲得する。
(下図参照。原本は(⑳P20)だが、web上で同書の一部分は一般公開されており、ここでは(web13);「本邦高速ディーゼル工業史の教訓」山岡茂樹著の、P31より転記とさせていただいた。)
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 しかしその池貝製エンジンをさらに代替えする、商工省標準型式車用ガソリンエンジン(スミダX型)の本格的な後継となる「自動車用統制発動機」の座は、三菱(神戸系と東京系の2機種)、東京自動車(いすゞ)、日立、神鋼による5基のディーゼルエンジンによる競争試作となり、東京自動車製いすゞエンジン(DA40型)が勝ち取る。
 そして熾烈な競争試作時代の、一連の技術開発競争に完勝したのは、伊藤正男設計による東京自動車(いすゞ)の予燃焼室式のディーゼルエンジンであった。以降はそのエンジンを標準設計とし、シリーズ化されて、それら「統制型エンジン」を軸とした、国内の車両用ディーゼルエンジンとその産業の一元化が図られていく。
 何度も記してきたが、陸軍省と商工省は当時一貫して、東京自動車工業を中心とした、国内ディーゼル自動車産業の一元管理を目指してきたが、東京自動車はその要となる、自動車用ディーゼルエンジン技術における比較優位でその期待に応え、両省の政策の正当性に対しての、客観的な論拠を与える結果となった。
 ただし、技術開発競争の時代は、陸軍の下で行われた企業間のフェアな戦いではあったが、16.5-6項で記す、ディーゼルエンジンの心臓部である燃料噴射ポンプの国産化のため、ボッシュの技術導入に導くなど(ヂーゼル機器の設立)、陸軍が外部からバックアップしつつ、東京自動車工業を軸に据えた統制策を予め描き、進めてきたことも見逃せない。

 以上が概要だが、ここから本題に入る前に、(web21)からの引用で、日本における初期にディーゼルエンジンの導入の歴史についても箇条書き的に、ごく簡単に触れておきたい。
☆1907年、日本石油が1台輸入した(33PSの単気筒ディーゼル機関)。これが本邦初のディーゼル機関と推定され、同社の石油採掘用機械部門であった新潟鉄工所が、この機関をもとにディーゼル機関の研究を始める。(web21)にはここまでしか書かれていないが、(㉑P9)には『日本のディーゼルエンジン研究は、一九〇七年、横須賀海軍工廠によるズルツァー60㏋によるものが嚆矢と言われている』という記述があるので、海軍が関与していたかもしれない。
☆一方、三菱重工業は1912年頃からディーゼル機関の調査研究を開始し、1917年、三菱神戸で独自の設計によるディーゼル機関を完成し、三菱名古屋に納入した。これがわが国で製作された最初のディーゼル機関とされている。この機関は(web21)の写真からすると、定置式のようだが、舶用として最初に製作されたものは、1919年の新潟鉄工製が最初とのことだ。
☆その間、海外からの技術導入が進み、『ほぼ15年間で延べ15社が製造権の取得を果している。』((web21)P7)契約先は三菱(神戸/横浜)、新潟鐵工以外は川崎造船、神戸製鋼及び日本海軍などで、海外の提携先は(Sulzer)、(MAN)、(Vickers)、(B&W)など、この世界のお馴染みの名前が並ぶ。
 いずれもほとんどがマリンエンジンで、初期は潜水艦向けが目立つが、『この頃日本海軍では、潜水艦の主機として、ガソリン機関からディーゼル機関への転換を決定し、欧州メーカーとの提携を推進していた』((web21)P7)ことが影響しているようだ。以下の歴史は省略するが、日本におけるディーゼルエンジンの実際の導入は舶用の、それも潜水艦用として始まったということは、日本海軍が重要な役割を果たしてきたことがわかる。
 一方、陸上の乗り物用の国産高速ディーゼルエンジンの開発も、陸軍による戦車用エンジンの開発が、その嚆矢となった。そして陸軍によるディーゼルエンジンの開発とその発達に中心的役割を果したのは,「戦車のエキスパート」と言われた原乙未生(とみお)であった。
 次項からは、統制型エンジンとして完成に至るその過程を、三菱、東京自動車、池貝の個別の企業の活動と、陸軍のディーゼル化政策を交差させながら、たどっていきたい。
(ここでディーゼルエンジンの世界におけるもっとも入り口の、「基礎用語」を確認しておくと、エンジン回転数によってディーゼルエンジンは、「低速」(300rpm以下)、「中速」(300~1000rpm)、「高速」(それ以上)という3つに分類されるようだ。一般に舶用の主機としては低/中速ディーゼルが、自動車、鉄道車両、戦車等特殊車両、高速艇等には高速ディーゼルエンジンが用いられる。従い以下の国産ディーゼルエンジンの歴史は、その中の一部のジャンルである、「戦前の自動車用 国産高速ディーゼルエンジンの歴史」を辿ることになる。下の写真は、新潟鉄工所の「日本初の舶用ディーゼルエンジン」だ。
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16.5-1陸軍による戦車用ディーゼルエンジンの開発
 この記事を、戦車のような“特殊車両”まで広げてしまうと拡散し過ぎてしまう恐れがあるが、軍用トラックに、どうしても関連する部分があるので、なるべく簡単に、触れておく。以下(⑧P119~P126)と、wikiを基に記すが、戦車全体でなく、あくまで自動車用ディーゼルエンジンに与えた影響の部分だけに、注目していきたい。
 まず当時の時代背景として、1925年に行われた、「宇垣軍縮」による陸軍の近代化計画がある。4個師団を削減する代わりに、人員削減によって得られた財源を軍備の機械化に充てようとするもので、『主な近代化の内容として戦車連隊、各種軍学校などの新設、それらに必要なそれぞれの銃砲、戦車等の兵器資材の製造、整備に着手した。』(wikiより)戦車の導入もその一環であったが、後に陸軍の自動車政策に大きな影響を与えることになる「陸軍自動車学校」もこの時に開設されている。
 さて、最初の国産戦車の設計にあたったのは、陸軍技術本部車輌班の原乙未生大尉(当時)以下16名の人員で、車輌班が1925年2月より仕様をまとめ、6月に設計を開始、その発注先には当時の脆弱な国内自動車産業でなく、官営の陸軍造兵廠大阪工廠が選ばれた。鋼板供給は神戸製鋼所、車体組立は汽車製造株式会社が担当したほか、阪神地区の民間工場が動員され、これら関連企業との協力の下で製作が進められた。(以上wikiwandより)そして1927年2月、国産の「試製第一号戦車」が完成する。富士演習場で野外試験を行った結果、予想以上の性能を示し、これ以降、戦車を国産品で賄う道筋を作る。(下の画像もwikiより)
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 輸送時等を考慮して小型軽量化された、実用量産型である八九式中戦車も、同じく陸軍大阪工廠の手で試作され、1929年4月に制式化されたが、量産はその改修型も含め、民間企業である三菱航空機が担うことになった。エンジンは、ダイムラー式100㏋航空機用ガソリンエンジンを修正して搭載した。(下の写真はwikiより、「ノモンハン事件における八九式中戦車と戦車兵。」日本初その八九式中戦車の、ガソリンエンジン版(甲型)のエンジン担当は瓦斯電で、量産化にあたり実用性を重んじて、オリジナルのSOHCをOHVに変更したという。(写真の戦車はディーゼル版の乙型?))
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 しかし陸軍は、八九式中戦車の開発当初から、同戦車のディーゼル化を視野に入れていたという。1928~1930年にかけて、欧州に駐在し、戦車及びディーゼルエンジン関係の研究を行い帰国した原乙未生は、1931年、三菱に八九式戦車に搭載する戦車用空冷ディーゼルエンジンの試作研究を依頼する。(③P88)。⑳P120では1930年ごろから開発されはじめたとの記述がある)。
『当時の日本のエース』(⑳P146)的存在であった三菱航空機が、八九式中戦車(乙型)用のディーゼルエンジン(A6120VD型)の量産目途をたてたのが、1933年ごろのことだった。八九式戦車は生産終了の1939年までに404台が生産されたという。このA6120VD型エンジンについては、16.5-2項で記す。
(下の写真は「八九式中戦車公表写真集 上 ~知られたるわれ等の新鋭戦車 (奥州つはもの文庫/国本戦車塾)」という本の、表紙部分の写真をトリミングさせていただいた。
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(さらに遡るが、陸軍は「試製第一号戦車」の製作にかかる以前の『1923年に戦車の国産化を検討していたときに、ディーゼルエンジンを研究し、その試作を三菱重工業の大井工場に発注』(⑧P125)していたという。あくまで研究用の試作であったと思われるが、この頃はようやく、ドイツでダイムラー・ベンツ(当時はベンツ)が予燃焼室式エンジンを、またMANが渦流室式エンジンを開発し、実用的なディーゼルエンジンを積んだトラックが初めて開発された時期で、自動車用ディーゼルのまさに黎明期だった。下の写真は(webCG)より『ベンツの4気筒ディーゼルエンジンを搭載したトラック(1923年)』見方によっての違いか、1924年とする本も多いので、1923~4年頃としておく。)
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 次項でwikiなどネットの情報をダイジェストにしてさらに、原乙未生ら、陸軍軍人がいかなる理由でディーゼルの、しかも戦車用には空冷タイプにこだわったのかを記すが、陸戦での主力兵器である戦車がディーゼル化されれば、前線で使用する車輛は運用上、同じくディーゼル化するのが道理となる。こうして日本陸軍は、前線で用いる車輛(主に三菱、旧瓦斯電、石川島系が製造)は後述する「統制型ディーゼルエンジン」搭載車に統一し、後方使用を主とする大衆車型のトラック(トヨタ、日産が製造;いずれこの記事の“その8”で記す予定)はガソリンエンジンへと二分されることになった。しかし戦況の悪化もあり、実態としては『自動車隊の車両なども、前線と後方でのトラックの棲み分けをする余裕もなく、稼働する車両を使わざるを得ないのが実情だった』(⑧P70)ようだ。

陸軍はなぜ戦車用として空冷ディーゼルにこだわったのか
 ディーゼル化の狙いはいくつかあったが、16.4-5項で記した省営バスのディーゼル化の時と同様、一般的な理由として、燃料製造の歩留まりの面でガソリンより軽油が有利で、石油の輸入を抑制し,国際収支の悪化を防ぐことにあった。軽油は備蓄が容易な点でも便利だった。さらに言えば、貴重なガソリンはなるべく航空機用に充てたかったのだろう。
 そしてもう一点、今からすると違和感があるが、『当時ディーゼル自動車工業と人造石油製造事業とのリンクが真剣に考えられていた』(⑳P196)のだという。実際に1937年、「人造石油製造事業法」なるものが制定されたが、人造石油をガソリン相当に改質するよりも、ディーゼル油にする方が低コストで有利だったようだ。
 一方ディーゼル化をエンジン側で見れば、燃費が良いので航続距離が長い(同じ航続距離を狙うならタンクを小型化できる)ことや、自己点火方式のため点火用の電気系統が不要な点でも有利だった。
 しかし陸軍の場合は『それ以上に大きな理由は、被弾時の抗堪性にあった。外国からの輸入戦車がガソリンエンジンのため、発火事故が起きていたことを陸軍は重く見ていたのだ。』(⑧P125)ディーゼル燃料の軽油は引火点が高い(ガソリンが-43℃に対し、軽油は40〜70℃、重油は60〜100℃)ので、攻撃や事故で損傷した際に火災になりにくく、実際にノモンハン事件では火炎瓶攻撃により炎上するガソリンエンジン装備のソ連軍戦車が続出したという。
 しかし発火事故の根本原因について(wiki)では『元をただせば当時の部品の精度やシーリングやパッキングの技術が未熟で、燃料漏れが日常茶飯事だった』と手厳しく指摘している。以下この点をさらに詳しくyahoo知恵袋!の(web30-1)によると『燃料タンクに被弾すると炎上してしまうのは、ガソリンも軽油も同じです。戦車の燃料火災にはもう一種類あり、これは燃料配管の継ぎ目などからガス洩れ程度に洩れた燃料がエンジンルームに貯まって爆発的に火災を起こす現象。そもそも当時の技術水準ではアメリカ以外、防止出来ず、さらに戦車は不整地を走ることや、砲撃や爆撃などで大きな衝撃を受けることから、余計に燃料配管を損傷しやすくなる訳で。この、フツーに戦車を使っていれば起こる燃料洩れ火災は、ガソリンなら重大事故になるが、軽油なら白煙を上げる程度で済む。これが日ソの重視した火災の予防策としてのディーゼルを選択した理由です。』
 日本が戦車用にガソリンエンジンを放棄したのは、ガソリンもれ火災に嫌気がしたことが原因のようだ。ちなみにドイツ軍のガソリンエンジン戦車は『エンジンルームの空気の通りの悪い戦車では、一時間おきに点検することで換気していました。』(web30-2)さすがアメリカの工業力の底力には、当時のドイツも及ばなかった。
 また空冷化のメリットだが、冷却水の調達が難しい大陸内陸部や寒冷地での運用を考慮したためで(その反面、『寒冷地仕様に開発されたため、南方では、オーバーヒート気味』(web31)だったとの指摘もあるが・・・)、日本の戦車の主戦場は、北満地区など飲み水の確保にも苦労する地域があり、ディーゼル化による燃料火災防止と同等の利点だと考えられたという。
 エンジンの構造上のメリットは、冷却ファンを除く冷却装置の不要等、構造単純化によるメインテナンスの容易さや、当時の水冷ディーゼルにつきものの、シリンダヘッドガスケット吹き抜けによる冷却系トラブルを避けたかった面もあったようだ。(⑨P58)(下の写真は三菱重工業のHP「三菱高速ディーゼル史料室」より、「世界初の戦車用空冷ディーゼル(A6120VD型機関)」)
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 一方ディーゼル化のデメリットとしては、潤滑油を多く消費し、排煙、騒音、振動が大きくなり、また始動が難しく、冬の満州では車体の下に穴を掘りそこで焚き火をしてエンジンを温めて始動させていたという。さらにガソリンエンジンに比べて同一馬力あたりで、ディーゼルはどうしても大きく重くなり、特に戦車用だと狭い居住性、薄い装甲、貧弱な武装、走行性能の悪化など、燃費向上による燃料タンクが小型化できること以外、様々な面で制約を多くした。そのためバージョンアップのための改修も、車体側に余裕が少ないため、大幅な改善や能力向上ができない結果に終わったとの指摘もある。
 また空冷化のデメリットとして、『大型空冷機関の一般的短所たるバルブシート、シリンダヘッド、シリンダボディー等各部の熱変形量の過大とそれに起因する機密保持性の悪さは温度特性が相対的に高いディーゼル化には一層大きな困難を与える。』(⑳P228)高めの各部温度による耐久性や性能面で不利だったようだ。(㉑P20)
(下は八九式中戦車に大きな影響を与えたという「ヴィッカースC型中戦車」。しかし日本での輸入後の予備試験中に、エンジンから漏れた気化ガソリンに引火し、火災事故を起こした(③P88参照)ことでも、その後の日本の戦車開発の方向性に、影響を及ぼした。画像と以下の文はwikiからコピーした。『当時は工作精度やパッキンの問題から、パイプの継ぎ目などエンジンから気化燃料が漏れるのは当たり前のことであった。このことが「戦闘車輌にガソリンエンジンは危険である」という認識を生み、後に開発される日本戦車にディーゼルエンジンが採用された原因の1つになった』)
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 この話にはさらに後日談もあり、『焼損したMk.Cは三菱内燃機名古屋製作所芝浦分工場~に持ち込まれ、三ヶ月掛けて修理された。こうした実績を陸軍に買われ、三菱は八九式軽戦車を始めとする日本の戦車の生産に携わるようになった。』(wiki)日本の戦車=三菱の、最初の機会も与えたのだ。
(下はファインモールド社製のプラモデル「帝国陸軍 九七式中戦車 新砲塔 チハ 前期車台 」で、『「97式中戦車」の火力向上型として新設計の大型砲塔を搭載した「97式中戦車改」を再現』したものだそうです。八九式戦車の後継であった、九七式中戦車に搭載するエンジンは池貝との試作競争の末、採用となった三菱製の6気筒空冷直噴ディーゼル、「SA1200VD型」で、三菱の車両用高速ディーゼルについては、次項でまとめて記す。)

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16.5-2三菱の自動車用ディーゼルエンジンの開発
 戦前の三菱グループで、ディーゼルエンジンの製造と開発を行っていたのは、もちろん、「三菱重工業」(以下三菱重工と略)だが、三菱重工は1934年、「三菱造船所」と「三菱航空機」が合併して誕生した。しかし「三菱航空機」は元々「三菱造船所」から、1920年「三菱内燃機」として分離されたもので、1928年に改称し「三菱航空機」と名乗るようになった。
 なぜこのような話から始めるかといえば、先記のように三菱の自動車用高速ディーゼルエンジン開発は、三菱重工が誕生して、自動車事業が、東京大田区の下丸子の新拠点で一体化される以前は、「三菱造船所」の神戸と、「三菱内燃機/航空機」の東京(大井)の両拠点で別々に行っていたからだ。
 下表は(⑮P90)からの転記で、1939年頃までの、三菱の所要な高速ディーゼルエンジンの試作・生産表だが、主力は、戦車用エンジン開発を核とした、「三菱内燃機/航空機」系であったことがわかる。
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 この表は1939年で途絶えるが、それ以降は概ね、統制型エンジンへの吸収の過程をたどることになる。以下、上記の表に概ね従いつつ、戦前の三菱の、自動車用高速ディーゼルエンジンの歴史をたどっていきたい。

16.5-2-1三菱直噴ディーゼルエンジンの開発
 先に、1923年の時点で、陸軍より戦車用としてのディーゼルエンジン研究依頼があった(⑧P125)という記述があったが、三菱の高速ディーゼルエンジンの本格的な取り組みはもう少し後で、上の表の「三菱・直接噴射式」という部分からだった。
 1930年、三菱航空機本社(名古屋)に、渋谷常務直轄の設計室が設置されてから本格的な開発がスタートし、設計室主任の成田豊治の下で、潮田勢吉が中心となり、試作研究のための設計が開始された(⑮P72)。
 次項で記すように、高速ディーゼルの場合、燃焼室と燃料噴射ポンプの形式が重要だが、『当時採用に決定したのは、直接噴射式・円盤形燃焼室とオープン・ノズル型噴射弁であった。』(⑮P72)直噴でバルブ配置はSOHC式であった。
オープン・ノズル式の採用の根拠は、東大航空研究所教授中西不二夫の解析に依 拠した((web26)P1、⑨P27)という。この頃すでに『ボッシュ製のポンプが、大容量伝送品と共に市販されかかった時期ではあったが、』自社技術(成田豊治の考案による成田式噴射ポンプ・カム・プロフィルに関する特許があった)があったので、内製することになった(⑮P73)。上記の表をみれば、「三菱・直接噴射式」のバリエーションは多いが、燃焼室回り等、基本的な構成は同じだったようだ(⑳P120)。
 しかし『今から考えてみると、この形式の欠点は、非常に簡単、単純な構造のオープン・ノズルの採用と、燃料噴射ポンプの吐出弁との関連で、噴射後、所謂「後滴(ナハトロップフェン)」現象を伴って、運転に際し、排気が完全にクリアにならない点であった。』(⑮P72)その他、信頼性、整備性等の問題も色々とあったようだ(⑳等参照してください)。一方長所としては直噴式のため、燃費が良かった点にあったという(⑮P72、P99)。
 そしてこの「三菱・直接噴射式」ディーゼルは、当時の三菱の幅広い取引関係から、以下のようにバリエーション展開されていった。エンジンのスペックは、上記表を参照ください。
 まずこのエンジン系列の柱は、陸軍の戦車用ディーゼルエンジン用であり、八九式中戦車(乙型)、九五式軽戦車用の(空冷のA6120VD型)が、三菱関係者の証言によれば『終戦までにおよそ2100台製作』(③P91)したというから当時としては相当な台数だ。そしてこのエンジンは『三菱の他、神鋼、新潟でも製造された』(⑳P146)という。2,100台が他社生産分も含んだ台数なのかはわからなかった。
 次に海/陸軍の船舶用としては、海軍「内火艇」(=内燃機関(エンジン)を動力とする船艇の総称)用として(480MD型)が、陸軍「上陸用舟艇」用としては、(4気筒の460MD型、6気筒の680MD型)が生産された。
 さらに鉄道省向け鉄道車両用として、戦車用の(A6120VD型)の水冷版の(6100VD型)と、上の表中にはないがその直列8気筒版の(8150VD型;⑳P118によれば19.5ℓ)が生産された。戦後三菱は、国鉄動車用ディーゼル機関の分野でなぜか存在感が薄かったが、戦前の国鉄(省線)の動車での採用順でいえば戦後主力の発注先であった新潟鉄工所、神鋼造機、ダイハツディーゼル等よりも、やはり三菱が早かった。(⑳P118)ただし(web35)の池貝の項で『ディーゼル機関車のエンジンを製作し、八幡製鉄所に納入(国産ディーゼル機関車製作の先鞭となる)』とあり、機関車全体で見れば池貝の方が早かったか。
「三菱・直接噴射式」高速ディーゼルエンジンのまとめとして、マイバッハ(Maybach;独)に類似という説もあるが(⑳P141にその出典の記載あり)、三菱航空機の航空発動機技術を基礎にした、当時の日本では希少な、自社技術を基に開発された独特なもので(⑳P15、P118等。三菱独自設計なので次項の表「各種燃焼方式の創草及び日本のメーカーとの関連」には含まれない)、『本系統は本格的に開発、量産された最初の国産高速ディーゼル機関』(⑳P122)であった。(他の説として、日本で製作された高速ディーゼルの、単純に開発時期だけで判断すれば、『制作の年代は諸説あって必ずしも正確ではないが、一九三〇年頃の池貝が最初のようである』(㉒P261)、『池貝鉄工も高速ディーゼルとしては同時期に開発しており共に(注;三菱と池貝が)日本初と言える』(⑯P35)としている本もある。)
 しかし『自動車用、舶用の650AD、660MDなどはとも角、6100VD、8150VD等大型のエンジンになると、クランク軸の破損、ピストン、ピストンリング等の焼付、軸承メタルの事故等続発し、~1台1台が試作エンジンの域を脱しない時代が続いた』(⑮P101)という内部情報もあり、その苦労がうかがえる。
 当時、陸軍向けの舶用(680MD)を実際に運転させた経験を持つ、「日本における自動車用ディーゼルエンジンの育ての親」と呼ばれる伊藤正男(16.5-3項で記す)は「いざ始動してみるとすさまじいディーゼルノックと共に白煙もうもうたる状況である。伊藤は驚く半面、当時のポンポン船から押し計れば高速ディーゼルとはこんなモノなのかな、」(⑨P27)との感想を抱いたという。
 高速ディーゼルの黎明期故に、実験機関的性格が強く(⑳P121)、運用上の問題点も多々あったようだが、それでも陸軍の上陸用舟艇用エンジンなどは、ダイハツ(当時は発動機製造)、久保田、赤阪鐵工、ヤンマー(当時は「山岡発動機」)等でも量産されるなど、同時期の国内他社エンジン(池貝や新潟)との相対的な比較でいえば、『それらは高速ディーゼル技術の未発展という全般的状況の中でやはり相当信頼できる水準に達していたもの、との評価を与えておく事ができよう。』(⑳P122)

 以下からは本題の自動車用ディーゼルエンジンの話に絞ると、開発された順番は、戦車用が先というわけでは無かったようで、(⑮P72)の記述では、最初に手掛けたのが海軍向けの(480MD型)で、自動車用の(450AD型)も同じタイミング(三菱重工のHPの記述からするとこちらの完成が先か)で開発されたようだ。小型エンジンである自動車用は先行試作的意味合いもあった?((下の写真は三菱重工のHP「三菱高速ディーゼル史料室」より、「日本初の高速ディーゼルエンジン(1931年)」(450AD型機関)」))
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 そして同エンジンは『昭和6年(1931年)秋、陸軍自動車学校から貸与された英国・ソニークロフト製トラックに搭載して、運行、実用試験が行われた。
この450ADが他のエンジンメーカーあるいは自動車メーカーに魁けて、国産第一号自動車用ディーゼルエンジンとなったわけである。』
(⑮、P74)と、誇らしく記されている。((web29)P120)などには、「回った、回ったというけれども」どのようなレベルで走行できたのか不明だとの指摘もあるが、ここは素直に受け取りたい。
 この記事のテーマからすれば主題である、肝心の自動車用のディーゼルエンジンは、戦車用や船舶用と違い当初から確たる市場があったというよりも、当時はパイロット的に陸軍や民間バス会社等で使ってもらいながら、その動向を探る段階であったようだ。
自動車用ディーゼルエンジンについて、(⑮)から続けると、(450AD型)試作の経験から、『若干シリンダ容量の少ないエンジンの方が、騒音、振動も少なく、且つ販路も多い』(⑮P74)との判断から、(445AD型)が試作されて、GMのトラックに搭載して運行試験を行った。同エンジンは、満州国の鉄路総局の先駆車(=治安の悪い満州では、列車の運行の前に装甲武装した先駆車を走られ、安全を確認していたそうだ)用として納入された。
 さらに6気筒版の(650AD)も作られて、新発足した三菱重工初代会長用車であり、ときにはロールス・ロイス以上に格式が高いフランスの最高級車、イスパノ・スイザのエンジンを、なんとこの6気筒ディーゼルに換装して、PRに努めたのだという!
この(445AD型)と(650AD型)は、陸軍自動車学校研究部により、再三のテストが実施されて、たとえば「九四式六輪自動貨車」(当時三菱の神戸造船所でも組み立てていたという)に(650AD型)を搭載したり、瓦斯電製の「ちよだ」に(445AD型)を搭載するなどして、トライを重ねた。(⑮P93)また(650AD型)の方は満鉄向けのバスにも搭載されたという。
 いずれにしても自動車用としての台数は、多くはなかったと思われるが、自動車分野では後発組で、陸軍・商工省の自動車政策の本流に乗りあぐんでいた三菱は、ディーゼル技術を活路として、陸軍始め満州国(満鉄、関東軍)などにも手を広げようとしていた様子がうかがえる。

16.5-2-2 1930年代の高速ディーゼルエンジン技術の流れ
 ここで三菱の話題からわき道に逸れるが、1930年代の、自動車用高速ディーゼルエンジン界の全体像を把握するため、当時の技術的な潮流について、(⑳P88~P90)やnetの情報を基に、ごく簡単に触れておきたい。ド素人の上に技術音痴の自分が解説するのもキツイ話だが、これ以降に記す内容を理解し易くするためには、ここで先に確認しておくことがどうしても必要だと思うからだ。詳しくは(⑳)の本書及びnetで検索してみてください。
 まずいくつか前提を記しておくと、当時ディーゼルの先進国は、発祥の地である欧州だが、その高速ディーゼルエンジン技術の肝となる部分は、『狭い燃焼室内で短時間に行われる燃焼を制御する必要があり、従って燃料の噴霧性状と空気とのミキシングに関する微妙かつ経験的な工夫の積み重ねが必要であった』(⑳P7)。そのため燃焼室の形式及びその設計と噴射系ユニット(噴射ポンプとノズル等)の性能(その設計製作技術)が鍵となる(たぶん)。
 燃焼室の形式の違いを大雑把に言えば、現在主流の「直噴式」(DI:Direct Injection、燃料を主燃焼室に直接噴射)と、「副室式」(IDI:Indirect Injection、燃焼室が主室と副室に分かれ、副燃焼室に燃料を噴く形式)に大別される。その副室式はさらに「予燃焼室式」(Pre-combustion chamber type、副室は主燃焼室容積の25~45%程度と小さく着火装置のような役目を果たし、燃焼が柔らかく、シリンダ内の最高圧力も低い)と「渦流室式」(swirl chamber type、予燃焼室式より大きい副室内に強い渦流を発生させ、燃焼を促進させようとする方式)、さらにこの時代には「空気室式」(燃焼室とは別に空気溜を設ける)というものもあったそうだ。詳しくはnet(たとえば(web25)等)で検索してください。下の画像はweb「自動車用語辞典」https://clicccar.com/2019/10/18/919445/より。
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https://clicccar.com/uploads/2019/10/glossary_injection_indirect_01-20191011190921.jpg
 以下ヨーロッパの主要企業/研究所における変遷をごく手短に辿る。
 まず『ディーゼル界きっての老舗MAN(Maschinenfabrik Augsburg-Nürnberg=「アウクスブルク・ニュルンベルク機械工場」の意味だそう)』(独)は『このクラスの高速ディーゼルに直噴式及び空気室式燃焼室を用いていた。』そしてMAN空気室式は『一時、高速機関に適していると考えられたものであるが、それ程長くは続いていない。』(⑳P89)しかし「MAN空気室式」は下表で示すように日本でも多くの追従者を生むことになる。(下の見事なフルトレーラー車は1932年当時、『世界最強ディーゼルトラック、MAN S1H6』の雄姿。6気筒140㏋エンジンを搭載していたという。画像と説明内容は
http://www.gruzovikpress.ru/article/2503-man-truck-bus-ag-gruzoviki-emaen-stoletniy-yubiley/ より。しかし同記事の機械翻訳によれば、『1931年にはトラックとバスのシャシーは184台しか生産されず、翌年には144台しか生産されず、1933年には生産台数がほぼ半分に減少した。』という、信じがたいような状況だが、(⑮P131)に、ディーゼルトラックの生産は『ベンツ、ヘンシェルなどの工場でも月産50~60台といわれ、』という記述があるので、ディーゼルの本家であるドイツの名門企業と言えども、生産の実情はこの程度だったようだ。
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http://www.gruzovikpress.ru/article/2503-man-truck-bus-ag-gruzoviki-emaen-stoletniy-yubiley/Images/19.jpg
 一方同じく名門ダイムラー・ベンツ(当時はベンツ)は、「予燃焼室式」に専念し、改良を加えながら戦後も長く、この方式に固執し続ける。(ダイムラー・ベンツは乗用車用として、マイルドな燃焼の予燃焼式を延々と使い続けた。下は1999年のE 200 CDIだが、乗用車用としてはこの時代になってようやく、直噴ディーゼルを受け入れるのだ。)
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https://img.favcars.com/mercedes-benz/e-klasse/mercedes-benz_e-klasse_1999_images_10_b.jpg
 自動車用ディーゼルエンジンで古くから名高いスイスのザウラー(Saurer=「ザウラー」と「サウラー」の2つの表記があるが、引用箇所以外は「ザウラー」と記す)は、『自社改良アクロタイプの予燃焼室的な空気室式から直接噴射式に移行したようである。』(⑳P89)次項で記すが、八九式の後継となる九七式中戦車用エンジンを開発するにあたり、三菱はこのザウラー直噴式を当時世界最良の高速ディーゼルエンジンと評価して、自社開発から「サウラー副渦流直接噴射方式」技術の導入へと切り替えを行う。(下の画像はwikiより、本国スイスの山岳路で使われた、ザウラーのバス(1,930年)。Wikiによれば日本でも箱根登山用バスとして、ホワイト(米)を導入した「富士屋自働車」に対して「箱根登山鉄道の自動車部門では、富士屋自働車に対抗して、スイス製の高級車であるサウラーが導入された。~五十嵐平達は「活躍した場所から考えても、1930年代の遊覧バスを代表する1台」であるとしている。」ザウラーは当時、高級バスのブランドとしても有名だったようだ。)
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 しかし、1930年代前半に限れば、高速ディーゼルエンジン技術に旋風を巻き起こしたのは、ドイツ勢ではなく、『当時内燃機関の燃焼解析の権威として知られ』(⑳P89)、リカルド研究所を創始したイギリス人研究者、ハリー・リカルド(Harry Ricardo=これも「リカルド」と「リカード」と、表記が分かれるが、引用箇所を除き「リカルド」と表記しておく)による、「リカルド・コメット燃焼室」の誕生だったという。(⑳P89)
『コメットというのは彼がAEC(Associated Equipment Co.英)と協力して開発した小型高速ディーゼル機関用のいわゆる渦流室式燃焼室に与えられた称号である。』(⑳P89)
 AECディーゼルの燃焼室の性能改善の中から1931年8月に誕生したこの「リカルド・コメット燃焼室」は、AEC製の従前のエンジン(前述の直噴移行前のザウラー式燃焼室の改良型)に比べて、『85~90馬力に低迷していた出力が一挙に130馬力へと向上したというからその効果は目を見張らせるものがあった。~ 当然世界がこのコメット燃焼室に注目し、ライセンシーはたちまちのうちに世界各国30~40社に達した。』(下の画像はhttps://ricardo100.com/ より、AECのロンドンバスで使用されたのが始まりという。)
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https://cdn.ricardo.com/ricardo100/media/media/home/comet-combustion-chamber-mob.png
⑳の引用を続ける『~しかしディーゼル技術の発展のなかで、この勢いも長くは続かない。改良された予燃焼室式が巻き返し、更には直噴式が発展するなどして渦流室式機関の分布はより小型のものへと進む。』(⑳P90)こうしたディーゼル技術の本場、ヨーロッパにおける激動の世界は、当然のことながら日本国内で高速ディーゼルに参入を試みていた企業のエンジン開発にも強い影響を与えていくことになる。下表は((web19)P26及び⑳P16)からの転記させていただいたもので『欧州企業の各種燃焼方式及び日本企業との係わりを示す』表だ。先行3社(三菱、池貝、新潟)以外のも、さまざまなルーツを持つ多数の有力企業の名前が連なる。そして上記の「改良された予燃焼室式が巻き返し~」の中に、我が日本の自動車工業/東京自動車工業による、伊藤式燃焼室が名を連ねることになるのだ。
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 次に燃料噴射ポンプについて、適当な資料がないので、さらに大雑把な話になってしまうが、ご承知のようにディーゼルエンジンは1892年にルドルフ・ディーゼルが発明(1893年に特許取得)したが、高圧縮比の機関をつくる技術が確立されておらず、1897年にいたって製作された。この機関は側弁式で、燃料は、高圧空気でシリンダー内に噴射される空気噴射式であった。(下はwikiより「ルドルフ・ディーゼルの1893年の特許証書」)
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 定置式や舶用などに比べて、ディーゼル自動車の実用化は遅れたが、その理由は大量生産方式が定着した廉価なガソリン自動車との競争に絶えず晒されてきたことと、技術面では『初期のディーゼルエンジンは燃料噴射に圧縮空気を用いており(空気噴射式)、そのために空気圧縮機を備えなければならず、車載に適した小型ディーゼルエンジンの開発は困難であった。結果、実際にディーゼル自動車が市販されたのはガソリン自動車よりも遅い1920年代で、無気噴射式(燃料を噴く)の高速ディーゼルエンジンの実用化がキーとなった。』(wiki)
 自動車用高速ディーゼルに不可欠な存在となる、無気噴射式の燃料噴射システムの量産を1930年頃からいち早く確立し、今日に至るまで自動車用ディーゼルエンジンの世界に裏から君臨するのがご存じボッシュだ。『特にロバート・ボッシュ社における無気噴射装置の最産化は噴射系のコンパクト化・簡素化、噴射量制御の正確さという点について各メーカー が抱えていた技術的陰路の打開となり、標準的なポッシュ製品の使用を前提とした各社各様の燃焼室形式の出現という些かチグハグな現象をまねいた。』(⑳P7)
 以下は㉑より引用『ディーゼルエンジンが自動車用としてようやく一般化したのは、ガソリンエンジンと類似な燃料噴射ポンプがロバートボッシュ社により完成、それを備えたベンツ280D(注;260Dの誤記?)が発売された一九三六年以降で、以後各種燃焼室の乱出は百花繚乱、覇を競ったが、ヨーロッパと全く時を同じくして日本の各社によっても、この百花が見られたことは特筆に値する。これは、陸軍によるディーゼルエンジン採用が契機である。』(㉑P31)(トラック用よりも一段と高いレベルの快適性や実用性が要求される、乗用車に対してのディーゼルエンジンの世界初搭載は1933年にシトロエンが制作したロザリエ(Rosalie)や、プジョー(1922年に試験走行に成功、1936年に量産に踏み切る(㉒P165))などのフランス勢が先行したが、初の“実用的な”ディーゼル乗用車はベンツ260D型(1936年)であると広く認知されている。もちろん、ボッシュの燃料噴射ポンプを搭載している。)
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(余談になるが(㉒=「20世紀のエンジン史」P323~P329)によれば、当時のドイツの先鋭的なエンジン技術を象徴するかのような存在であったユンカースも、ボッシュと同時期に同じようなコンセプトの燃料噴射ポンプの開発を行っており、両者はほとんど同じ構造であったという。
ユンカースのエンジンと言えば一般に、ジェット戦闘機メッサーシュミットMe262に搭載され、『世界で初めて実戦投入されたターボジェットエンジン、かつ世界で初めて実用化した軸流式ターボジェットエンジン』(wiki)であるユモ004型(Junkers Jumo 004)や、レシプロ戦闘機フォッケウルフFw190D-9やTa152に搭載されたユモ213型エンジンが有名だが、

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https://www.asisbiz.com/il2/Ta-152/152H-JG301/images/Focke-Wulf-Ta-152H1-Stab-JG301-Green-9-Willi-Reschke-WNr-150168-Germany-Apr-1945-0A.jpg
実はディーゼルエンジンでも高い技術力を誇り、特に一部のディーゼルマニアの間では、航空機用ディーゼルエンジンの開発(とその挫折)で知られているのだ(㉒に詳しい)。
この時代にすでに排気タービン過給器とインタークーラーを装備して!出力は880馬力まで高められていたユモ207A直噴ディーゼルエンジン(水冷上下対向直列6気筒12ピストン(1シリンダー内に2つの向かい合うピストンを持つ「対向エンジン」)を2基搭載し、与圧室を備えたユンカースJu 86Pは1940年夏から実戦配備された。当時の連合国軍戦闘機が飛行できなかった高度12,000m以上での作戦行動が可能で、第二次世界大戦の初期に高々度爆撃機・偵察機として成功を収めた、航空機用ディーゼルエンジンの歴史に残る機体となった(以上wikiより抜粋)。下は後継機のR型で、翼端を延長し(32m)、高高度性能も更に改善を加えて高度15,000m目指したが、試作に終わったという。その機体からはやはり、高高度偵察機らしい印象を受ける。なおエンジンも強化されていたが、一連の航空機用ユモ直噴ディーゼルエンジンは、最大出力付近の運転を続けるとトラブルも多かったようだ。また当時ドイツはレアアースも不足しており、ターボの開発にも苦労していたという。以上wiki+(web(30-3))参考)

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 日本の話に戻し、国内有力企業がディーゼルエンジンの開発に「百花繚乱、覇を競った」時代は、さまざまな形式の自社製噴射ポンプが内製された。『池貝式、新潟式、三菱成田式ポンプは1930年代前半の代表作であった。それ以降も各社各様の考案になる国内特許が取得された』((web19)P28)。 ((web19)P27)にその一覧『表- 4;「ボッシュポンプの特許をクリアしようとして取得された主な特許・実用新案」』があり、たくさんあって面倒なので書き写しませんが!興味のある方はぜひ参照してください。各社の涙ぐましい努力の跡が垣間見れます。)
 しかし、たとえば上述のユンカースのような技術開発力&それを支えるドイツのような産業基盤を持ち合わせていない当時の日本の産業界では、ディーゼルの基幹部品である燃料噴射装置の開発とその生産を、ボッシュの特許を回避しつつ行うことは、困難を極めた。『結局この内,戦後まで持ち堪えたのは三菱岡村式』((web19)P28)だけだったという。この状況は自社のディーゼルエンジンの開発にも暗い影を落とし、『自分のところの噴射装置と自分のところで設計したエンジン、どっちが悪いのかわからんような結果がずいぶんあった』(⑨P47)そうだ。(なお、ボッシュ製品をそのままコピーしなかった理由として、ライセンスの問題以上に、加工精度、耐久性(材質)等の立ち遅れの可能性があるとの指摘がある(⑳P141)ことも追記しておく。)
 しかしここで疑問が生じるが、当時高性能が知られているボッシュの燃料噴射ポンプがすでに量産され、市販されていたのだから(1930年には生産累計1万台を超え、1934年には累計10万台に達したという(⑳P261))、素直に輸入品のボッシュ製品を採用すれば良さそうなものだが、当時はそのようにいかない事情があった。軍事的な見地から、噴射系の国産技術化が求められたのだという。(⑳P15)ディーゼルエンジンの心臓部である燃料噴射システムが、海外からの輸入に頼ることを、主要な発注先であった陸軍が問題視していたようなのだ。
 それともう一点、製造者側の経済的な観点からも、ボッシュ製品の採用がためらわれる理由があった。非常に高価だったのだ。『ボッシュポンプの価格は非常に高くトラック1台のそれにほぼ匹敵する1台約1800円にも達したというから、いくら頑張って国産ディーゼル車輛を作っても輸入ポンプの値段によって国産化の旨味も何も無くなってしまうわけである。』(⑳P261)
(ちなみに年代によっても変わるが、(④P157)の、「普通車の価格現況(1935年)」という表によると、当時のトラック・シャシーの価格はフォード/シヴォレー(1~1.5t積)が3,230/3.275円、ダッジ(1.5~2t積)4,330円、いすゞTX40(2t積)5,800円、軍用保護六輪車が8,000円と記されている。トラック1台分というほどではないが、ダットサン(1935年当時、概ね1,800円ぐらい)が買える金額だ。)ここまで高価な製品を大量に輸入する事態ともなれば、貿易収支の悪化を招く点からも問題になっただろう。
 しかし、いくら頑張って類似の国産品を作ってみてもボッシュ製品の性能に到底追いつけなかった。この状況を打破するため陸軍も国産品の開発を見切り、ボッシュ式燃料噴射システムのライセンス導入に動くのである。
1937年に「日独伊三国防共協定」が結ばれ、日独の関係が強化される流れの中にあり、ドイツ製のボッシュの採用については「国防上の理由」という障害は薄れた。交渉にあたった東京自動車工業にボッシュ側が提示した2つ条件のうちの1つは、「ヒトラー総統の許可が下りること」だったという。陸軍による強力なバックアップを前提とした話だったのだ。こうして1939年、日独両国政府の承認の下、「ヂーゼル機器株式会社」が誕生することとなる(より細かくは、後の16.5-6項に記す)。

16.5-2-3ザウラー複渦流直噴式エンジンの導入
 話を戻す。三菱が主契約となりその開発と生産を担った、八九式中戦車の後継である、九七式中戦車の開発が具体的な計画として動き出したのは、1936年7月だった。16.5-2-1の、自社開発の三菱直噴ディーゼルの項で見てきたように、戦車の引き合いは大型案件で、三菱は十分な予備研究を行いつつ、その受注のため必勝態勢で臨んだ。まず九七式中戦車の開発経緯について、手抜きでwikiからの引用で記す。
『新型中戦車の開発に当たっては速度性能、車体溶接の検討、~防御性能の向上が求められたが、当時の道路状況、架橋資材その他の状況から車両重量増が最大のネックとなった。重量増を忍び性能の充実を求める声と、防御・速度性能を忍んでも重量の逓減を優先する意見の双方があり、双方のコンセプトに沿った車両を試作し比較試験することとなった。陸軍技術本部は、前者を甲案(後のチハ車。予定重量13.5トン)、後者を乙案(後のチニ車、予定重量10トン)として設計を開始した。』
 両案の違いを『ひと言で表わせば、第一案は八九式中戦車の発展型、第二案は九五式軽戦車の強化型となろう。』(⑧P140)しかし事前に意見調整ができず、両案の競争試作にもつれ込む事態に至ったのだ。こうして重量型の(チハ車)を三菱重工業が、軽量型の(チニ車)は大阪砲兵工廠が試作する。下表は、両案の概要について、(⑧P140)の表を転記させていただいた。
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 この表を見れば両案の性能差は明らかだが、限られた予算内であれば、軽戦車の方が数量を多くそろえることができるし(たとえば八九式中戦車は8万円で九五式戦車は5万円だった)、当時の諸外国の戦車の性能(1936年のソ連の歩兵戦車T26や初期のドイツの3号戦車、1937年のアメリカ陸軍のM1戦車)と比べても、第二案でも「歩兵戦車」という視点で見れば、カタログスペックで見る限り、この時点では劣っていたわけではなかった。(⑧P141参考)。ちなみに第二案を編成動員課である参謀本部が、第一案を軍務局軍事課がそれぞれ支持した。後に独ソの戦いなどを契機に戦車が大型化するのは、第二次世界大戦中のことであったのだ。)
そしてこの決着は、1937年の日華事件勃発とその拡大により決着を見る。「臨時軍事費特別会計法」(「第二次世界大戦以前の日本において行われていた特別会計の1つで、戦争における大日本帝国陸軍及び大日本帝国海軍の作戦行動に必要な経費を一般会計から切り離して、戦争の始期から終期までを1会計年度とみなして処理された。」wikiより)の公布により、『資材整備のために予算を流用したために、議論の前提となっていた予算の制約がなくなり、第一案の戦車を量産することが可能となった』(⑧P144)のだ。
 この結末は三菱にとっては一見、万々歳の結果であったようにみえるが、まだそうとも言い切れなかった。実は第一案(チハ車)は『2両試作されており、一方は三菱サウラー複渦流直噴機関搭載車、他方は池貝の渦流蓄熱式機関搭載車であった』のだ。(⑳P147)車体側は決着したが、エンジン側は台上及び実車試験による決着に持ち越されることになった。
 こうして陸軍主導による重量級車輛のディーゼル化政策のなかで、その技術及び生産体制の統制化を巡る第一段階の幕が、切って落とされた。以下(②P15)より引用
『九七式中戦車のディーゼルエンジンを巡る池貝自動車製造と三菱重工業業との対立、統制型五ℓ、八ℓのディーゼルエンジンを巡るいすゞ自動車(ヂーゼル自動車工業)と三菱重工業業との競争開発とその指定争いは国産自動車工業の成立とその発展を左右するほどのものとなる。』次項で、九七式中戦車搭載のエンジンを巡っての、池貝との戦いを制するための決定打として採用された、三菱によるザウラー複渦流直噴式エンジンの導入の経緯について記す。

16.5-2-4採用なったが、問題も多かった三菱ザウラーエンジン
『昭和10年(1935年)の秋、A640ADの設計に取り掛かった頃であったが、山下奉文将軍を長とする訪欧ミッションが組織され、主としてドイツに滞在して調査した。ミッションの主目的は「ソビエト陸軍の戦車の数量、配備に対して、我陸軍は如何に対処するか」であった。』(⑮P84)具体的には八九式中戦車の後継を如何にすべきかが、この調査団の重要なテーマで、陸軍の戦車のエキスパートであった、原乙未生が同行したのはもちろんだが、三菱からも「三菱・直接噴射式」開発の中心人物であった潮田勢吉も同行した。実務的には原と潮田が主となり、調査・研究を行っただろうことは想像に難くない。
そして『潮田はミッションの現地解散後、欧州各国における高速ディーゼル・エンジンの調査をしたが、特に技術的に進んでいると見られていたスイスのアルボンにあるサウラー社を訪問、帰朝後その結果を本店渋谷常務に報告した。』(⑮P84)
 ザウラーの「複渦流直噴式エンジン」は『当時、世界最高と評判をとっていたもの』(⑨P80)で、陸軍は次期主力戦車に「世界最高」の高速ディーゼルエンジンを搭載したかっただろうし、三菱も戦車受注に必勝態勢で挑みたかったのだ。以下も(⑮P83)より
『昭和11年(1936年)三月、見本エンジンを輸入して研究することとなった。最初に見本として選ばれたのは、ドイツからのヘンシェル(空気室式)とベンツ(予燃焼室式)、スイスからサウラーのCRD(直接噴射式)の三基であった。さらに同年七月にはドイツのマギルス製のディーゼル・トラック・シャシ(エンジンは予燃焼室式)を購入して研究した。これ等欧州からの輸入の見本エンジンの比較調査の結果、特に我々が興味を持ったのはサウラーであった。』以下はザウラー「複渦流直噴式エンジン」の特徴を、(⑮、P83)より引用。
『その燃焼室はピストンの頂部に設けられ、断面は尖端の切れた逆ハート型で、その形と二個の吸気弁につけたシュラウドとで、自転しながら公転する的な渦流を起こす、所謂、複渦流方式の直接噴射式であった。~ 全体的に、我々にとって、以って範となすに足る設計であったので、引き続き、CRD(シリンダ径105ミリ)より更にシリンダ径の小さいCCD(85ミリ)も入手して研究を続行した。CCDの特徴はシリンダ径の小さいことから、当時としては、破格的と考えられていた最高回転数3,000回転毎分まで運転できることであった。~ 勿論、CRD、CCD共に性能は抜群であった。』その精緻なエンジンは、三菱のエンジニアたちを魅了したようだ。
 こうして他社製エンジンとの比較検討を行なったうえで、三菱はザウラーの「複渦流直噴式エンジン」の技術導入の断をくだす。それは同時に、自社開発品であった「三菱直噴エンジン」にいったん見切りをつけたことでもあった。(ただし同シリーズのエンジンは、後に新設された川崎工場で、陸軍上陸用舟艇用水冷機関として継続生産された(⑳P148)。)
 1937年、設計主任大井上博他をザウラー社に派遣し、技術提携と、ライセンス生産の契約を締結する(1937年7月)。1937年3月には下丸子工場を着工していたので、戦車用とともに、将来ザウラー製エンジンを搭載したディーゼルエンジンのトラックを量産することも見越しての決断だっただろう。こうして三菱内部では『大筋としては、省営バスには神戸流エンジンで、陸軍向及び満州向にはサウラー式トラック及びバスで、ということで新設の丸子工場の設備その他が考えられた。』(⑮P85)主流はザウラー式へと大きくシフトしたのだ。九七式中戦車の試作車両が三菱の工場で完成したのは、1937年6月だった。
 さて本題である、三菱ザウラーエンジン×池貝の「渦流蓄熱式」エンジン対決の結末について、そのジャッジを行った陸軍の原自身の言葉を記す。以下(③P89)より、
『この両方(注;三菱と池貝)のエンジンができあがって、ベンチ試験の結果はともに良好で、次いで97式戦車に搭載して試験をした結果もよかったのであります。』どうやら出力自体は、池貝の方が上回っていたとの情報もある。引用を続ける。『ところが、東京から大阪までの長距離運行試験を行ったときに、両方のエンジンの機能の差が現れました。
 池貝のエンジンは非常に煙が出るのであります。それは不完全燃焼の煙ではなく、モービル・オイルが燃える煙なのです。大阪に着くまで車の上からモービル油を補充しながら運行するありさまで、大量のモービルを消費しました。そのようなことで、池貝の今井さんは、もっと研究する必要のあることを認められて、差し当り三菱のサウラー式エンジンを採用することになったのであります。』

 池貝のエンジンは激しいオイル上がりを生じ、潤滑油を過度に浪費すると判断されて、三菱のザウラー式に軍配が上がったのだが、『このトラブルはスカート・リングの使用をもって回避し得る性質のものだったとも言われているが、~日華事変勃発という情勢が陸軍にも池貝にも手直しのいとまを与えなかったわけである。』(⑳P151)時局はそれだけ切迫していたのだ。
 なお主力戦車用エンジンという、大型商談に敗れた池貝はしかし、陸軍から別の発注(九七式軽装甲車用空冷ディーゼルエンジン)を得て、しっかりとフォローを受けていた。
 さて、この三菱サウラー複渦流直噴式エンジン(SA12200VD型;空冷V12-120×160、170㏋/2000rpm)の実際の実力はどうだったのか。端的に言えば、以下(⑨P101)より引用。
『噴射系がデリケートで調整が難しく、その耐久性にも欠ける嫌いがあった。動力性能においても公称200PSの筈が、実力は170PS程度に止まり、しかも、白煙、黒煙が甚だしいという問題を抱えていた。』
wikiによればさらに、『耐久性を考慮した場合の出力は、140馬力に制限された』という。噴射系のトラブル等(例えばザウラー式は噴射圧が高く、長時間使用するとタイマー、そのほかの伝導装置に摩耗を生じて、噴射時期が遅れ、著しく出力低下をきたすという((web22)P67))ため、結局最大出力を抑えるという方法を取らざるを得なかったようだ。(web32)
 黒煙の問題は当時としては決定的ともいえる、深刻な事態を引き起こす。『ある年の観兵式で戦車行進の折、黒煙を吐くチハ車(注;九七式中戦車)をご覧になった天皇陛下から「あれはなんだ」とのお言葉があり、』(⑳P349)その対策で上を下への大騒ぎになったという。
 当然のことながら大問題となり、『結局、いすゞのエンジンを使えということになったという、』((web22)P74)また聞きのまた聞きの話と断ってはいるが、こうなってしまうと、いかに大三菱の力をもってしても、取り返しのつかない大きな壁になったと思われる。
 さらにエンジン音も爆音と言えるほどのもので(web32)、乗用車ではないとはいえ、戦車でも作戦上、爆音は困りものだっただろう。また寒冷時の始動性にも問題があったという。(⑳P349)その上複雑な分、価格も高かったという(⑳P349、wiki)。整備性の面でも、
『チェンブロックや他車の動力を用いたエンジン釣出しが頻々と行われたのも車載状態での整備性が悪かったからに他ならない。又、ローラータペットを用いた4弁式というのも、こなれた技術とは言えない。そして何よりも直噴方式自体が未完成の技術であった。』(⑨P101)戦場の兵卒には使いこなせない技術だった。他にも軽合金を多用するなど特殊な造りとなっていた(⑳P336)。ガスケットはドイツのラインツ社製のもので、国産化に努めたが成功しなかったなどの問題もあったようだ。(⑮P86)、(⑨P102) (下図は、論文『デコンプとその使用法について』坂上茂樹のP9、図5 より、「三菱Saurer複過流直噴 SA12200VD型機関」(docsplayer.net 経済学雑誌117巻4号.ren - PDF 無料ダウンロードより、)
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https://docsplayer.net/docs-images/88/114576963/images/9-0.jpg
 さらにこのエンジンは、三菱以外に日立でも製造されたが、『制作されたエンジンは細部の仕様・部品が異なるという事態が生じた。また異なる燃料噴射装置(三菱製エンジンは三菱製かボッシュ製、日立製エンジンは日立製の燃料噴射装置を使用)が取り付けられていると互換性は無く、損傷戦車の使えるパーツをつなぎ合わせての再生が望めない。これらは補給、補充が不足がちな日本軍にとって大きな問題になった。』(wiki)
不具合リストは続くがあとは省略する。これらの多くは次項の「統制型一〇〇式エンジン」としてモジュラー生産される際の貴重な教訓となった。『当時、世界最高と評判をとっていた』エンジンだったが、当時の日本は高度な工業製品を支える土台の部分が脆弱で、ザウラーのように正式なライセンス生産品でも劣化品しか作れなかったようだ。(次項の、工作機械の箇所を参考)
 これに対して東京自動車工業の設備で生産することを前提として開発された、『伊藤(注;東京自動車工業技師、伊藤正男設計)の予燃焼室式エンジンは若干、燃費に劣る点はあるものの、騒音が低い割に出力が高く、機械的信頼性に富み、作り易く、修理し易い構造を特徴としていた。排気色が薄いことも長所の一つであった。噴射系の寿命も直噴式より長かった。その上、直噴式と異なり予燃焼室式エンジンは粗悪な燃料にもよく耐えた。』(⑨P102)性能は燃費以外、すべてにまさっていた。両エンジンのこれらの優劣点は、戦車用、自動車用などの用途に限らず共通していただろうことはもちろんだ。
(下はブログ「重整備の詳細 & Technical waste」さんhttps://minkara.carview.co.jp/userid/339422/blog/44325715/ からコピーさせていただいた「統制型一〇〇式発動機」の写真で、V12なのでたぶん、三菱ザウラーの後継機として、東京自動車工業の予燃焼式燃焼室と技術共有を図った「統制型一〇〇式 三菱AC」と思われる。)
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https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/userstorage/000/055/128/486/3fdd12f653.jpg?ct=318a55f047f3
 こうして陸軍は、次期主力戦車用エンジンとして、性能重視で選んだつもりが、製造上の難易度が高いため、日本で製造すると所期の性能が得られず、扱いがデリケートなザウラー直噴式から、よりシンプルな構造ながら性能で勝るうえに、粗悪な燃料等タフな環境にも耐える統制型予燃焼式の採用へと傾いていく。以下は三菱関係者の証言だ。
『戦時中、特に戦車、車両も、燃料事情、取扱い性、整備性を考え、燃費の犠牲はあったものの、当時としては信頼性の高い予室式へと大勢は傾いていたわけです。』((web28)P292) 
陸軍、原乙未生の話に戻す。
『サウラー式エンジンはよかったのでありますが、その後三菱は自発的に新しいエンジンを開発しました。このエンジンをサウラー式と置き換えて、主力戦車のメインエンジンになったのであります。』あくまで三菱側から“自発的行動だったと、穏やかな口調で語っているが、陸軍側の政策に従い、後に15.5-4項で記す、100式統制発動機(ザウラー式とまったく同一排気量の空冷V12エンジン)への置き換えを行った結果、出力は170㏋/1800rpmから240㏋/2000rpmへと向上し、なお余裕があったという。(⑨P102)
 ここで「三菱サウラー複渦流直噴式エンジン」について、まとめておきたいが、まず大枠としてみれば、『旧日本陸軍が世界に先駆けて機甲車両の全面ディーゼル化方針を打ち出し、三菱、池貝等各社がこれに向かって邁進した姿勢そのものは高く評価されねばならない』(⑳P157)。
 しかし、ザウラー式に関して言えば、高い理想を掲げてはみたものの、現実的な視点から見ると、『まるで航空機発動機のような』(⑨P101)、精緻でデリケートなこの直噴エンジンは、当時の日本の工業界全般の技術水準では受け入れ難いものだったようだ。さらに燃料事情の悪化も直噴エンジンには逆風となった。以下はwikiより、『戦況により十分な試験研究がなされないまま制式化され、信頼性を十分に持たせることができなかった。』
 まとめの最後(〆)として、戦後、三菱自工のトラック・バス技術センター所長を務めた(1981~1985年)山田剛仁が、JSAEインタビューの中で、8ℓ級統制型エンジンのベースエンジンの一つとなった自社製のY6100AD(予燃焼室型8.55ℓ)の発展形として昭和24年(1949年)に後誕生したDB型エンジンが、昭和41年(1966年)までの17年間、同一排気量のままでその出力を100㏋から220㏋(ただし過給機付き)まで向上させながら、三菱ふそうの大型トラック・バスの主力エンジンの座を守り通したと語ったのち、以下のように率直に語っている。
『戦後のディーゼルは専ら予室式からスタートでありました。これは戦時中の直噴式の苦い経験と、当時の燃料の質からみて当然の方向であったと思いますし、また、比較的高度な精密さと、デリケートな調整を必要とする直噴式が活躍できる土壌もまだ形成されていなかったためだと思います。』((web28)P291)戦前に大きな教訓を得て、戦後のエンジン開発に活かせたのだ。
(下の写真は、『わが国最初の2軸大型キャブオーバー型として登場したのが8t積のT380型で、ボンネットT330型をベースにして1959年9月から生産開始、荷台長は1000mmも長い6000mmになった。』(㉓P120) 1938年に誕生したY6100AD型100㏋エンジンに端を発するDB31A型エンジンを搭載し、Y6100と同一排気量の予燃焼室式8,550ccエンジンだったが、戦後の絶え間ぬ改良によりこの当時、165㏋を発していた。画像はhttps://twitter.com/bananu73/status/1393146303345881088よりコピーさせて頂いた。)
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https://pbs.twimg.com/media/E1VzHp4UUAAuLvc?format=jpg&name=4096x4096
 さてようやく残る話題はあと2つ、「統制型エンジン」と「ヂーゼル機器」、「日本デイゼル」誕生の経緯を記すだけとなったが、その前に、黎明期の日本の中/高速ディーゼルエンジン界で名を馳せた、池貝鉄工についても、ここで簡単に触れておきたい。

16.5-2-5池貝鉄工所をはじめ、黎明期の国産高速ディーゼルについて
 この項は(web(19)、⑳、③及び(web(23))などからの引用で記すが、③を除けばいずれも山岡茂樹による著作で、山岡氏の一連の著作は、今回の記事を記すうえでもっとも多くを頼りました。この場を借りて改めて感謝するとともに、当然のことながらオリジナル版の方が正確な情報なので、ぜひそちらを(特に⑳=「日本のディーゼル自動車」を)参照してください。また(web(19)と⑳の内容は重複する(前者が簡略版)が、この記事の読者の方々の利便性を考えて、本(⑳)よりも簡単に閲覧できるweb情報を優先して引用した。
 まず(web(19)のP28~P30の内容を基に作成した下の簡単な表をご覧いただきたいが、1930年代という日本の高速ディーゼルエンジンの黎明期に、この業界に参入しエンジン開発に取り組んだ主な企業の一覧表だ。厳密にいえばたとえば瓦斯電も兵器企業としての性格を持つなど、単純には線引き出来ない部分もあるが、概略なものだと理解いただきたい。それぞれの燃焼室の形式は、(⑰P88)から引用した。また久保田鉄工所や山岡発動機(ヤンマー)、発動機製造(ダイハツ)など、主に三菱のライセンス生産に従事した企業は除いてあるが、『様々なルーツを有するメーカー群が様々な領域における練成を経た後,ついに木格的な自動車用・車輛用高速ディーゼル機関の領域に到逹するという発展経路を示していた』((web(19)P30)ことがわかる。
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 この表中の企業のうち、三菱系や、東京自動車系は別に記すので、それ以外だと戦後の日本のディーゼル自動車における影響度合いからすれば、日産ディーゼル(後のUDトラックス)の前身にあたる日本デイゼル工業が最も重要だが、同社については後の、ヂーゼル機器設立の項に関連して(167.5-7項)で記すことになるので、それ以外の企業の活動については大幅に省略して、代表して池貝鉄工(後に池貝自動車)の1社のみ、記すこととする。
 その理由として、後に東京自動車工業が台頭する以前には、池貝が三菱、新潟鉄工所とともに、「日本の高速ディーゼルの先行3社」という、重要な位置を占めていた事とともに、(web19)による見解では、小型・中/高速ディーゼルへと至る日本企業の技術的な変遷は、池貝鉄工の活動の軌跡を辿ることで、その多くが把握できるようなのだ。以下も((web19)P19)より、
『小形ディーゼルには固有の困難があり出現も遅い事、大形・中形機関技術から小形高速ディーゼルヘの途とガソリン機関技術からの参入、という2大参入経路があった事、無気噴射技術の確立が極めて重要であった事、これら全てを一企業史の中に凝縮させている例として池貝鉄工所(以下池貝)発動機部の歩みに勝る索材はなく、しかも、それによって又世界的な技術の流れとの比較も可能になるのである。』
 以下、自分が拙い説明文を記していくよりも、山岡氏の((web19)P21)から書き写した、池貝鉄工発動機部(後の池貝自動車)の歴史を綴った表(一部省略しているのでその簡略版だが)をご覧いただいた方が、理解が早いだろう。この表をご覧いただいたうえで、引き続き、主に(web19)からの次の引用文をお読みください。
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 池貝鉄工所(現在は「株式会社 池貝」。1970年代以降、数度の経営不振、再建、中華人民共和国の上海電気集団総公司の傘下を経て現在は台湾の友嘉実業集団傘下の非上場会社となった。)は、明治時代に日本の工作機械の父と言われた池貝庄太郎によって設立された老舗企業だ。国産初の旋盤、ディーゼルエンジン量産、最初期のNC加工工作機械製造など、日本近代製造業の歴史に名を刻む企業でもある。(以上wikiより)
(下は池貝のHPより「国産 旋盤 1号機」で、「機械遺産第53号」として国立科学博物館に展示されているようだ。また第一次大戦中に、池貝式8フィート旋盤5台をイギリスに、次いでロシア向け8フィート旋盤75台を輸出したが、これが日本の工作機械の初輸出だったという。(web35)
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http://www.ikegai.co.jp/02tech/images/02.jpg
(またまた脱線するが、今回池貝についてnetで検索したなかで、以下のような記事に出くわした。(web(30-4))、(web33)によると、1938年満州国政府は、池貝鉄工所の現地子会社、「満州機械工業会社」に同国の工作機械工業を一元的に統制させることにしたという。池貝鉄工所の工作機械技術を利用して、本土に比べて遅れていた機械工業の底上げを狙ったもののようだが、満州の工作機械製作を事実上池貝鉄工所が独占するものこととなり、満州重工業の重工業独占と共に注目を集めたという。当時の池貝鉄工所の存在の大きさがうかがえる。下の写真は(web33)からのコピーです。)
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 しかしその一方で、戦前の日本の機械工業の大きなネックは、素材の品質と、国産工作機械の性能の低さだったと、多くの本で記されている。1940年、ABCD包囲網によりアメリカが工作機械の対日輸出許可制(事実上の禁止)を通告したため、日本は性能で大きく劣る国産工作機械のみで軍需産業を支え、太平洋戦争を戦う事態に陥ってしまう。以下((web30);「戦前のエンジン技術」)より引用
『日本のエンジンは、同一部品の大量生産品ではなくて製造工作機の精度が無いのでピストンなど高温高圧を封じ込めながら稼動する部分は、一ピストンずつ熟練工員がやすりで少しずつ削って合わせる手作業で作られていました。国産機械の摺動面磨耗は米国製品の十数倍で、わずか1,2ヶ月で精度が急速に低下した。精密な歯車などは米国製の輸入機械でしか作れずドリルなども外国制ドリルが楽々と開ける穴を和製ドリルでは数倍の時間がかかり次々に折損した(奥村正二、月間紙「バウンダリー」連載(専門は技術史)旋盤などの簡単なものは国産できたが、歯切板、フライス板などの高級工作機械は模倣すらできなかった』という。 以下(web34)より引用
『昭和11年(1936年)豊田自動車を訪問した寺内陸軍大臣と豊田喜一郎のこの会話は当時の政治家が如何に工作機械に対する見識がなかったかのエピソードとして未だに語り草になっている』という。
・陸軍大臣:「将来自動車はいくらでも要るからドンドン作ってもらいたい」
・豊田:「現在、私の工場でもいくらでも作りたいと思っておりますが、自動車を作る工作機械の大部分外国から輸入しております。外国から輸入出来なくなりましたら自動車を増産するにも出来ませんから、自動車や飛行機を保護奨励するより工作機械を保護奨励して頂きたい」
・陸軍大臣:「そんなものなら早く作ったらよいではないか」』

対する日産の鮎川義介がアドルフ・ヒトラーに面会した際に(1940年3月)、ヒトラーから『貴方の国が如何に努めてみても、我がドイツのような工作機械は作れないだろう。~』(web(30-5))と言われたという。
(自動車会社が製造ラインを立ち上げようとしたとき、歯車を外注でもしない限り設備としてなくてはならないのが、アメリカのグリーソン社(Gleason Corporation)の歯車加工設備だ。ドイツにもクリンゲルンベルグ(Klingelnberg)という有名メーカーがあるが、仮に歯車製造を外注しても、受入検査用に歯車試験機ぐらいは必要だろう。下はwikiより、ハイポイドギヤの図だが、そもそもグリーソンが開発したもので、ハイポイドギヤ自体がグリーソン社の商標登録品だ。)
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 話を池貝のエンジン部門に戻す。自家動力用の4馬力スチームエンジンを皮切りに内燃機関分野に進出、以来『財閥系重機メーカーをさしおいて据付石油発動機、ガス機関、舶用石油機関・注水式焼玉発動機・空気噴射式ディーゼル機関・無水式焼玉機関・無気噴射式ディーゼル機関等、中速機関国産化に次々と先鞭をつけて来た。加えて同社は大正5(1916)年以来、ガソリン機関製造を契機として高速機関の分野にも地歩を固めていた。(⑳P207)
(web35)の池貝鉄工の歴史年表をみれば、池貝が日本の内燃機関の歴史において、絶えず先陣を切ってきたことがわかる。
そしてもう一点、上の表が、示している重要なことがある。以下も((web19)P19)より、
『一時期,池貝によって代表された漁船用、小形舟艇用、自動車用、車輛用等日本の中・高速ディーゼル技術が空気噴射式の採用、無気噴射式の採用、高速ディーゼルにおける渦流室式の採用等についてズルツァ、ボーラー、ドイツ、オーバーヘンスリーなど、西欧メーカー製品の純然たる模倣によって成立した事を示す。』
 無気噴射式ディーゼルエンジンの開発の頃までは、正式な技術導入を伴わない、海外先進国の有力な製品に強く影響を受けた(≒模倣品)ものだったようだ。(もう一方の代表格である、新潟鉄工所は中速ディーゼルに関しては正式な技術導入を行った。((web19))
 しかしそうした長年の技術の蓄積があり、陸/海軍などから依頼を受けた高速ディーゼルエンジンの研究の過程で、次第に池貝独自の技術が編み出されていく。その開発を主導したのは、海軍で舶用ディーゼルの研究を行った後に、池貝に転じた今井武雄らによってであった。
 池貝が高速ディーゼルに手を染めるきっかけは、海軍の内火艇用石油発動機のディーゼを鉄道車両用高速ディーゼル機関であった。(③P118)そして『陸軍は,このヂィーゼルエンジンを自動車に搭載することを勧告し,その改善を命じた。』((web13)P152)
 リカルド・コメット型の渦流室式燃焼室を持つ試作エンジンの実験の中で、渦流室の容積を変えるために鉄片を挿入した結果、良好な性能が得られたことがきっかけで、焼金を備えた「池貝式渦流蓄熱式燃焼室」が誕生する。さらにはボッシュの特許を回避するために「池貝式燃料ポンプ」が考案されて、それぞれ特許を得る。(以上③P118)こうして池貝は独特の、渦流室式高速ディーゼルエンジン技術を持つに至ったのだ。
 自動車用の4気筒ディーゼルエンジンが完成すると、そのエンジンはピアース・アロー(Pierce-Arrow)の2~3t積のトラックに搭載されてテスト走行を行う。1934年だったから三菱の3年遅れということになるが、それでも2番手だ。
同年12月には『陸軍は三菱東京と池貝のディーゼル車を駆って東京-盛岡間運行試験を行っている。この時は三菱車の自家製ポンプが1回破損した。(③P118)』三菱はザウラー式導入前で、この時点では、三菱に一歩先行した印象を与える記述だ。『この結果と直接対応するわけでもなかろうが、昭和12年(1937年)、陸軍94式軽六輪トラック用制式ディーゼル機関として初の自動車用制式ディーゼルとなったのは、この4HSD10の後裔である。』(⑳P217)この件は後述する。
 国内有力企業が続々と名乗りを上げる中だったが、先行者としてノウハウの蓄積があり、アドバンテージのあったこの時期の池貝鉄工は、強豪ひしめく日本の高速ディーゼルエンジン界の最前線に立っただろうか。同年6月には『自動車部からディーゼル自動車を中心とした別会社、池貝自動車製造㈱が独立』する(⑳P337)終わってみれば短い間であったが、1937年は、池貝のディーゼルエンジンが、大きく輝いた瞬間だった。
(戦後の1951年に株式上場廃止に至った池貝自動車製造は、高度成長の到来を待つことも叶わず1952 年 12 月、小松製作所へと吸収合併された。コマツの川崎工場は、元々は池貝が1936年に、主に陸軍向けの自動車工場として建てたものだ。その時期からすれば、九七式中戦車用エンジン受注の野心も当然あったのだろう。しかしそのコマツ川崎工場自体も今はない。下の写真は「川崎工場全景空撮の歴史(1976年コマツ川崎OB会)」 http://www.komakawaobkai.sakuraweb.com/ よりコピーさせていただいた。工場の隙間を埋め尽くすかのように、黄色く見える部分が、コマツの巨大な建機だ。狭い構内をボヤボヤ歩いていると、巨大な建機の下敷きにされそうになる?!)
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http://www.komakawaobkai.sakuraweb.com/kawakou1976.jpg
 ここでもう一度、16.5項冒頭の表をご覧いただきたいが、同年(1937年)、陸軍自動車学校研究部(陸軍では戦車は原乙未生ら、陸軍省技術本部だが、自動車は陸軍技術学校が所管だった)の技師福川秀夫(後に陸軍技術大佐、戦後はJARI副理事長)は九四式軽六輪トラックのディーゼル化へ向けた水冷4気筒エンジンの試作及び供試品提出を、『当時のディーゼルメーカー全てに競争試作を呼び掛けた』(⑨P79)。陸軍の高速ディーゼルエンジンの統制化に向けた、大競争時代の幕はこの年、切って下ろされたのだ。
この呼びかけに、三菱重工業、池貝鉄工、新潟鉄工、神戸製鋼、東京自動車工業及び川崎車輛の6社が応じ、エンジンの試作に手間取り時間切れで未納に終わり敗退した東京自動車工業をはじめ、準備不足気味の他社を尻目に、先行メーカーとして機敏に対応した池貝の「蓄熱渦流式エンジン」、4HSD10XE型エンジンが選ばれる。栄えある『我国初の軍用自動車用制式ディーゼル機関となった』のだ。(⑳P212)この結果東京自動車工業は自社製のトラック用に、池貝仕様のエンジンを作らされるという屈辱を、しばらくの間、味わう羽目に陥るのだ。(下の図は((web23)P9)図7より、「池貝 4HSDD10XE ディーゼル機関」)
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https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcR-7rHkEjFC3dbKn_qVh7sH86jxvzwLExEnkA&usqp=CAU
(前項で記したように、九七式中戦車搭載エンジンを巡る三菱との戦いに敗れた池貝に対する救済処置として、陸軍は九七式軽装甲車(いわゆる“豆タンク”)用空冷エンジンを、単独発注する。この決定も1937年だ。『同車は他社分担分を含め、「相当数」600 両前後製造されたようであり、派生車型も少なくなかった』((web23)P26)というから池貝としても良い商売だっただろう。
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 しかし、(web23)の評者によれば、九七式系装甲車に搭載された、AHSD10XE型より一回り大きい空冷版の兄弟エンジンは、後年の研究によれば『「蓄熱式」とは形容し難いごくありきたりの渦流室を有する気筒頭と気筒胴とが一体に鋳造された如何にも苦し紛れの設計を体現する空冷ディーゼルであった。』((web23)P27)と、かなり厳しい評価だ。「池貝=“渦流蓄熱式”」というのは誤ったイメージであった?同論文から引用を続けると、池貝特許の自慢の「池貝式ポンプ」も、『~如何にもボッシュの特許回避を目的として開発されましたと言いたげなシロモノであった。然しながら、デリバリーバルブや噴射量調節用補助プランジャに切られたリードなどはボッシュ B 型そのものであり、よくこの程度で特許回避が出来た(?)ものである。』((web23)P18)さらに『噴射ポンプには Bosch B 型と池貝式とが併用された。池貝機関には池貝式ポンプというのは誤った先入主である。』((web23)P17)実際には池貝エンジンにも、自社製でなく性能や耐久性で勝る、ボッシュ製ポンプを搭載していた場合の方が多かった?
 ただこの項に掲げた二つの表が示しているとおり、池貝は日本の中/高速小型ディーゼルの世界で、絶えず先陣を切って未開の道を開いてきたが、陸軍からの大きな需要を前に新規参入してきた、資本力と技術力に勝る強力なライバル企業と対抗するために、精一杯の背伸びをした結果であったのだと理解すべきかと思う。多少、虚勢を張ったかもしれないけれども。
池谷のエンジン技術をリードした今井武雄は、戦後(1969年3月)の自工会主催の座談会で、当時の状況を振り返り、『統制エンジンになってからは、全くよくなりました。』(③P126)と、率直に語っている。(上と下の2枚の画像は「戦車のようで戦車じゃない 戦車の代わりに歩兵を助けた“豆戦車”「九四式軽装甲車」」
(https://www.excite.co.jp/news/article/Trafficnews_112447/?p=4)より、
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 池貝のエンジン部門にとって、たぶん最良の年であった1937年が終わりを告げると、16.5項の表が示すように、あっという間に東京自動車工業(いすゞ)の時代がやってくる。統制エンジンを巡る一連の戦いは同社の完勝となり、池貝自動車製の自主開発エンジンも、次第に統制型エンジンに置き換えられていき、その過程で自社の技術開発力も、徐々に失われていったようだ。同じくいすゞ系の統制型エンジンの前に完敗を喫した、後の三菱ふそうや日野自動車の技術陣のように、戦後その屈辱をバネに、逆に大きく跳ね返すような力は生まれなかった。
『戦時体制下において同社は陸軍造兵廠の管理下に置かれ、一時期三菱重工業の系列下に編入されたりもした。~こうした過程で同社は~ガソリン同車開発以来の、更にはディーゼル同車やディーゼルバスの分野でも開拓されかけていた鉄道省との関係を失う羽目に陥る。』“国鉄一家”の恨みは恐ろしいのだ。三菱も、戦後は国鉄の動車の世界から疎遠となり、新たにダイハツディーゼルなどが台頭してくる。引用を続ける。
『そして戦後、池貝自動車は極めて中途半端な境涯に取り残され、苦難の道を歩まざるを得なくなる。』(⑳P357)戦時体制下の時代の流れで、陸軍向けの軍需関連に特化していった池貝だが、そのことが裏目に出て、戦後それらの需要を一気に失ってしまう。
 その一方で、三菱、池貝とともに国産高速ディーゼルの先行3社の一角を占めていた新潟鉄工所は、そのディーゼルエンジンの『適応領域は鉄道車両分野に限定され、自動車や戦車には目立った進出を行っていない。』(⑳P127)地道な道を歩む『新潟では量産工場としての自動車工業に参入することは企業規模から見て不利と判断したようである。』(⑳P217)
 同社製の自動車用ディーゼルエンジンは、ある時点では、なかなか侮りがたい性能を示したようだ。たとえば1937年の陸軍自動車学校からのディーゼル乗用車用エンジンの競争試作は、三菱東京/神戸、新潟鉄工所、神戸製鋼、東京自動車で争われ、最終の三次テストまで勝ち残ったのは新潟と東京自動車の2社だった。結局敗退してしまうのだが(⑨P83)。しかし深入りすることはなく、『むしろ同社の高速ディーゼル機関においてはLH8X及びLH6Xを基盤とする国鉄同車用制式ディーゼル機関DMH17、DMF13への濃いつながりばかりが際立っているのである。』(⑳P218)
 戦前からの布石が生きて、国鉄一家の御用達企業の一つとなった新潟鉄工所と、孤立無援になった池谷自動車は戦後、こうして明暗を分ける結果となった。(国鉄形気動車の定番ディーゼルエンジンとなるDMH17型は1951年から製造が始まり、改良を続けながら一般形気動車から特急形気動車まで幅広く採用されたという。ちなみにその名称は、DMがディーゼルエンジン (Diesel Motor)、Hは8気筒で(アルファベットの8番目)、17は総排気量が17ℓであることを表すそうです。下の写真は千葉県の小湊線、五井駅に停車中のキハ205(1964年に製造)で、DMH17型を搭載した現役車輛だ!写真は(https://plaza.rakuten.co.jp/wasabikuma322/diary/201901230000/)より。)
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(下は新潟鉄工所が開発を主導した、DMH17C型ディーゼルエンジン(180㏋)で、まだ現役とのことだ。当時としては優れた設計だった統制式発動機系の技術は、陸軍が強く関与したからか採用されなかったが、性能はともかく、少なくとも丈夫なエンジンだったことだけは確かだったようだ。画像と文は「気動車王国千葉」を支えた DMH17 形ディーゼルエンジン」よりコピーさせていただいた。DMH17シリーズは『全国で総計1万数千台も製造され昭和 40 年代末までのほとんどの気動車に搭載された、日本を代表する鉄道用エンジンです。』http://www2.chiba-muse.or.jp/www/SCIENCE/contents/1518491068713/simple/057.pdf
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(池貝の話題の余談だが、上の表中の「焼玉エンジン」という言葉を久しぶりに目にして、もはや忘れかけていた「ポンポン船」の発する、どこか長閑なエンジン音の記憶が急に蘇ってきた。この表を書き写す作業をしなければ、あるいはもう、一生思い返すことはなかったかもしれない。
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上下2枚の写真と以下の文はhttp://toyokonakayama.web.fc2.com/tabi2.html よりコピーさせていただいた。『焼玉エンジンを知っている方は、どのくらいいるでしょうか、昭和35年位までは焼玉エンジンを搭載した船がポンポンポンと音を立てながら走って行くのうを見たことがあるでしょう。今ではもう博物館しか見る事はできないでしょう。
焼玉機関とは、ディーゼル機関と良く似ていて、シリンダー内に燃料を噴射して自己着火により燃焼させますが圧縮比を高くできないためシリンダー頭部に焼玉を入れる部屋を作り玉を入れバーナーで予熱して燃料に着火する燃焼機関です。記憶の元で思い出しながら図を書いてみました。下の図(焼玉エンジンの構造図)です。』焼玉エンジンは、「セミディーゼル」という言い方もされてきたようだ。①の赤い部分がその「焼玉」だ。

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 池貝や新潟や赤阪鐵工など上昇志向のある企業は、焼玉エンジンから早々に卒業し、ディーゼルへと移行したが、戦後の日本では全国各地に、中小の焼玉エンジンメーカーがあったようだ。下は「ジャパンアーカイブス」より、「1947年(昭和22年)、漁船用焼玉機関エンジン」の広告だ。
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 この項の最後に、誤解のないように記しておきたい。池貝自動車製造は1952 年 12 月、小松製作所へと吸収合併されてしまうが、本体の池貝鉄工所は現在、「台湾の工作機械大手の友嘉実業集団(FFG)」のグループ企業「株式会社池貝」として、「工作機械・産業機械の製造、子会社を通じてディーゼルエンジンの販売を行う機械メーカー」として健在だ。大型工作機械を得意としているようで、現在も盛んに活動を続けている。2005年に分社化された子会社の「池貝ディーゼル」は、MAN社との提携により日本でMAN社の船舶用エンジンをライセンス輸入販売、メンテナンス等を行っている。(以上、池貝のHP他より)
(下の写真はwikiより練習船「日本丸 (初代)」」(ちなみに同名の船が各種存在する)から、横浜のみなとみらいにある、「日本丸メモリアルパークで総帆展帆した日本丸」。以下の説明文は池貝のHPより、『日本丸のエンジンは、焼玉エンジンを作っていた池貝鉄工所(現 池貝)が開発の依頼を受け、池貝鉄工所の川口工場では何度も何度も試作品が作られました。やっと完成したエンジンは、日本初の舶用大型ディーゼルエンジンとなり、1984年9月まで日本丸の中で54年間にわたって活躍し、航走距離は、98万5475海里(182万5100㎞)にのぼり、世界一の稼動年数記録を打ち立てました。その稼動時間54年2月20日4時間7は、船舶用エンジンとしては世界一と認定され、1988年版ギネスブックに記録されました。』あくなき挑戦を続けた池貝の偉大な足跡を、今日に伝えている。)
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16.5-3陸軍と東京自動車工業主導による統制型ディーゼルエンジンシリーズの確立
 まずはwikiの書き写しに近いが、この項の概略を記す。
 統制型ディーゼルエンジンは、陸軍省技術本部の原乙未生(当時中佐)を中心として1930年代後半から計画され、1939年(昭和14年)~1940年(昭和15年)に車両用高速ディーゼル機関の共通仕様が陸軍省(軍需用)により、1941年(昭和16年)には商工省(民需用)により策定された。その目的は性能、生産効率の向上、ならびに部品補給の効率化を達成しつつ、併せてコストも下げることで、それまで各社各様だったエンジンの仕様を、ボア、ストローク、燃焼室形式を統一した共通のエンジン規格として制定した。(以上wiki参考)
 ここで統制型ディーゼルエンジンに集約される前の状況を確認しておく。前項で掲げた表が示すように、当時自動車用高速ディーゼルエンジンに参入した企業は錚々たる顔ぶれで、それぞれが己の信じる燃焼室等の仕様を掲げて百花繚乱の如く、覇を競っていた。三菱に至っては同じ重工内でも直噴派(航空機系)と予燃焼室派(造船系)に分かれて競い合い、自社内ですら一本化できず、陸軍の競争試作の際には両派のエンジンを参加させたほどだ!各陣営とも、自社技術の優位性を示すための、プライドをかけた戦いを繰り広げていたのだ。
 先に16.3-6項で記したように、商工省と陸軍省は、国内ディーゼルエンジン業界の事情聴取を、8社(東京自動車工業、三菱重工、池貝自動車、神戸製鋼所、新潟鐵工所、久保田鉄工所、川崎車輛、日立製作所)に対して行ったが、そのうちの東京自動車、三菱、池貝、川崎、日立の5社がそれぞれ単独で、本格的なディーゼルエンジンの量産化に乗り出す姿勢を示していた。『技術統合に対する障害=高速ディーゼル各社が負けず劣らず有していた自己技術過信癖に抜本的な改革のナタを揮える者は当時陸軍をおいて他に無かった』(⑳P254)のは確かだが、陸軍はかかる状況下で、具体的にはどのような過程を経て、統制エンジンによる一本化まで辿り着いたのか。

 各社の基礎技術を磨く重要な役割を果たした、分散発注時代を経たのち、技術本部の原乙未生と自動車学校の福川秀夫を中心とする陸軍側は、そのエンジンの選定の際に、国内の(ほぼ)すべてのメーカーに陸軍の欲する仕様書を提示して、参加を希望するメーカー側に要求仕様に従った設計図と開発仕様書の提出を求めた。このうち燃焼室の形式等は指定せず、各社技術陣のプライドを尊重したうえで、その技術を同じ土俵の上で競わせた。陸軍側は内容を精査の上で承認図として認め、このうちの数社に実機を試作させ、優秀なエンジンを制式のものとして採用し、量産化させた。(②P15参考)
 4回にも及んだ試作競争時代の、その優劣を決める実機試験は、台上試験以外にも運行試験や寒地試験、代替燃料試験などが行われ、このうち運行試験は各社公開の下で行なわれたという。以下(⑮;「ふそうの歩み」P82)より、
『自動車学校の試作は、殆ど毎年、仕様が変わって発注されたが、その優劣判定はエンジン単独の台上試験もさることながら、路上運行試験の成績も大きな要素であった。それにはメーカーからも参加が許され、設計、現場双方から出張して故障にも備え、他社の様子も見るという具合であった。運行試験立会の際には各社別の乗用車を連ねて試験車の後を行列して追って行き、どの会社のエンジンは故障したとか、どこそこの登坂では何社のエンジンの排気が一番淡かったとか、濃かったのはどこであった等と話し合ったものである。当時この様な場合、よく顔を合わせたのがいすゞの前社長の荒牧寅雄氏、新潟コンバータの現相談役松本国男氏、池貝の宮田氏等であった。』この文面からもうかがえるが、その選定は、かなりオープンかつ公正に行われ、そのため各社とも、その結果には納得せざるを得なかったのだろう。以下は(⑳P254)より、
『そこへ到達するまでには技術導入の促進や競争試作指示を通じた階梯が慎重に設けられた。とりわけ競争の機会を十分に発動させ、そこから統制へと導いた過程は陸軍統制発動機が有する歴史的意義を一身に担うもの、と言えよう。』

 しかし陸軍がいくら、統制型ディーゼルエンジンの全体図を巧妙に描いても、受け手であるメーカー側が、その構想に相応しい性能のエンジンを作らねば、“絵に描いた餅”に終わってしまった。次から記す、東京自動車工業の優れたエンジンが誕生して初めて、その歴史的な評価を得られたのだ。下の表と、以下の解説も手抜きでwikiからの転記です。
『統制型ディーゼルエンジンは、4サイクル機関であり、基本的にはボア(内径)、ストローク(行径)、燃焼室形式を統一した一種のモジュラー構造を想定していた。軍用として直列4気筒・直列6気筒・直列8気筒とV型8気筒・V型12気筒のエンジンが製造されて、戦車などに搭載された。また主に民需用として単気筒・直列2気筒・直列4気筒・直列6気筒・直列8気筒の水冷エンジンも製造された。後に海軍の特殊潜航艇「海龍」の搭載機関としても使用された。
空冷・水冷の両バージョンがあり、戦車や装甲車両用としてはシロッコファン冷却による空冷式が、また牽引車や自動車用、民需用としては水冷式が一般に用いられた。統制型一〇〇式エンジンは、標準規格では6気筒で120馬力、12気筒で240馬力を発揮した。統制型一〇〇式エンジンに過給器を装備した試製エンジンは6気筒では150馬力、12気筒では300馬力を発揮した。過給器を装着することで約15~25%出力を向上させることが可能であり、各種試作されている。』

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Wikiの引用を続ける。『統制型ディーゼルエンジンの基となったのは自動車工業(1937年(昭和12年)に東京自動車工業、1941年(昭和16年)にヂーゼル自動車工業に改名。後のいすゞ自動車、日野重工業の前身)で伊藤正男らによって開発された予燃焼室式を採用したDA40型水冷6気筒ディーゼルエンジン、DD6型水冷6気筒ディーゼルエンジン、及び予燃焼室式のDA6型空冷6気筒ディーゼルエンジン、DA10型空冷6気筒ディーゼルエンジンなどである。特にDA40型は排気量5,100cc、出力85馬力と当時のディーゼルエンジンの中では優秀な性能であった。これらのエンジンをベースに開発された統制型ディーゼルエンジンの技術が各社に開示されることとなり、東京自動車工業、三菱重工業、池貝自動車、日立製作所、新潟鉄工所、興亜重工業、昭和内燃機、羽田精機などの企業が生産を担当した。』(以上wiki)
 自動車用は“本家”の東京自動車工業(ヂーゼル自動車工業)のみが製作することになったが、戦車用、牽引車用等その他の用途のエンジンは東京自工の伊藤正男の図面を基に各社が共同で図面を作成し、製造を行った。
 以下からは、ディーゼルエンジンに関しては後発組でありながらも、技術的に大躍進を遂げて、統制型ディーゼルエンジンのいわば、基盤技術を創り上げるに至った、東京自動車工業による戦前のディーゼルエンジンの開発の歴史を簡単に辿っていきたい。
(下はDA40型ディーゼルエンジン。画像はJSAEより。戦後も連綿と改良を加えながらも、復興期の日本の物流を、文字通りエンジン役として縁の下で支え続けた。戦前の日本の自動車技術を代表する名エンジンだったと思う。以下もJSAE日本の自動車技術330選(web39)より、『商工省からも統制型に指定され、軍用のみならず民需のトラック、バス用として戦中戦時期に日本を代表する量産型ディーゼルエンジンとなり、戦後も永らく輸送革新の主力として活躍し、排気量増、改良を繰り返し半世紀近い賞品寿命を保った。・いすゞディーゼルエンジンの源である。』いすゞの、というよりも、日本の高速ディーゼルエンジンの源でもあった。)
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https://www.jsae.or.jp/autotech/photos/10-2-1.jpg

16.5-3.1「ディーゼル機関研究委員会」の発足
 下表は「日本のディーゼル自動車」(引用⑳)のP279から転記(一部省略)したもので、自動車工業株式会社(何度も記したが石川島とダットの合併会社で実質的には石川島系。後に瓦斯電と合併して東京自動車工業、ヂーゼル自動車工業へとつながる)の技術陣によって開発され、統制型エンジンへと至る、主なディーゼルエンジンの系統図だ。以下からは大筋、この表に沿って説明していくが、その内容は(web22)、⑨と⑳の大幅な簡略版に過ぎないので、正確にはぜひそちらをご覧ください。
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 まずディーゼルエンジンの開発が本格スタートした、1934年頃の「自動車工業」(念のため、社名です)の、立ち位置を確認しておくと、いずれ瓦斯電と一体になるという大前提があったが、商工省と陸軍から唯一の国策の重量級トラックメーカーとして、いわばお墨付きをもらいつつあるところだった。しかしその一方で、陸軍が、重量車のディーゼル化を推し進めようとし始めていた中で、同社はこれまで、ディーゼルエンジンの研究に取り組んだことがなかった。
 そんな中で、国産高速ディーゼルエンジンの技術の底上げのため、『陸軍技術本部は幾つかのメーカーに各社が取り組み易いよう使用目的、サイズの異なる別個のテーマを与え、開発を即そうとしていた。』(⑨P59)
 既述のように中戦車では三菱重工業と池貝鉄工所、牽引車では瓦斯電(13t)、新潟鉄工所(8t)に対して開発目標を与える。そして自動車工業に対しては、『5t牽引車用空冷ディーゼルエンジンの開発という目標を提示する。』(⑨P58)
 上記のメーカーのうち、三菱と池貝、新潟の3社は、何度も記したが高速ディーゼルエンジン分野の国内先行メーカーで、瓦斯電も既に経験を積んでいた(⑯P31によれば、本格的に研究を開始したのが1930年ごろ、1933年にリカルド・コメット式渦流室式100㏋ディーゼルエンジンを完成させたとある)。さらに先行3社に加えて日立製作所、川崎車輛、神戸製鋼所などの有力企業が、自動車工業がガソリンエンジン車で築いた既得権益を、自らのディーゼル技術をもって打ち破るべく、その参入の機会を虎視眈々と窺っていたのだ。
 そのため陸軍からの5t牽引車の引き合いは、自動車工業としては『これはディーゼルに関しては後発の同社にすれば絶対に逃してはならない最初で最後の機会であった。』(⑳P227)国策のトラックメーカーとしてのお墨付きは、ガソリンエンジンのトラックに対してであって、ディーゼルに対してはこの段階では、何らの保証もなかったのだ。
 1933年(昭和8年)5月、自動車工業は、5t牽引車用空冷ディーゼルエンジン開発に向けての第一歩として、ベンツ(OM67型6-110×130、95㏋/2000rpm、予燃焼室式)、MAN(DO540型6-105×140、65㏋/1800rpm、空気室式)、ドルマン・リカルド(4JUR型4-102×130、85㏋/2000rpm、渦流室式)の3台のサンプル用エンジンを購入、ディーゼルエンジンのテストを開始し、翌1934年8月、台上及び分解試験を完了する。同年7月以降には、クルップ(M601型、空冷水平対向4-90×130、予燃焼室式)、オーベルヘンスリー(型式不詳4-90×130、蓄熱渦流室式)の試験も追加される。
 ここで注目すべきは、5台のサンプルエンジンのなかに、直噴型エンジンが1台も含まれていない点だ。しかも一連のテストは『自動車工業と陸軍技術本部車輛班との共同で実施された。』(⑳P227)とあるので、この選択には陸軍の意思も当然、反映されていたはずだ。理屈の上からは出力も高く、燃費も良い(ハズ)だが、当時は尖った特性のエンジンだった直噴式は、戦車用として三菱が先行して研究を行っていた。陸軍としては、自動車メーカーである自動車工業向けには、よりマイルドな特性を持ち、燃料性状に過敏でない副室式を割り当てたかったのかもしれない(ワカリマセン)。
 そして1934年7月27日、自動車工業二代目社長、加納友之助(第一銀行出身)の指示で、「ディーゼル機関研究委員会」が、三十万円という、当時としては破格の予算の裏付けを基に発足する。加納の思いは、面前の5t牽引車用空冷ディーゼルエンジン開発成功はもちろんのこと、それを足掛かりに、『日本自動車工業生き残りのために必要な体外競争力、及び資源の面から見た存立基盤という2つの制約条件に即して速やかにディーゼル自動車工業確立への展望を拓け、というものであった。』(⑳P227)
 かみ砕いて言えば(以下⑨P38、(web36)P3参考)、年産 500万台規模に達している大量生産のガソリン車ではアメリカ車に到底太刀打ちできないが、欧州で研究が始まったばかりの、発展途上の自動車用ディーゼルならば、追いつくことはあながち不可能とは言えない。日本の燃料問題の将来を考える上でも、我社(自動車工業)はディーゼルの研究に力を入れるべし、ということであった。
委員会のメンバーは、ウーズレー時代から技術部門を支えた取締役の石井信太郎委員長以下、楠木直道(後にいすゞ自動車2代目社長)、荒牧寅雄(〃4代目社長)、伊藤正男ら精鋭9名だった。
(下は自動車工業2代目社長、加納友之助。画像と以下の略歴はwikiなどより、「帝国大学法科大学を卒業後、1897年農商務省に入り参事官として商工局に勤務。1902年(明治35年)に政府委員として欧州各国を巡視。のち退官して住友銀行に入行、 東京支店支配人、本店支配人、常務取締役を歴任し、東海銀行(ただし有名な東海銀行とは別らしい)頭取に転ず。金融恐慌に際し同行が第一銀行に合併した際、その取締役に就任。その後自動車工業社長に転じる。」)
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「ディーゼル機関研究委員会」に込めた、加納友之助の“思い”は、いち民間企業のスケールを超えたものであったように感じられる。その職歴は農商務省の商工局という、商務省の前身からスタートしており、加納のその“思い”は、あるいは、日本の自動車産業をいかに確立するか、日夜腐心していた当時の商工省や陸軍と共有したうえでの“思い”だったのかもしれない。
トヨタ自動車のHPの「トヨタ自動車75年史」には「自動車工業確立ニ関スル各省協議会」という、商工省工務局主催の会合の様子が幾度か書かれているが、その中で豊田喜一郎、鮎川義介とともに、加納友之介(自動車工業社長)が度々意見を陳述したことを記している。
『結果的には、実際に自動車の量産を目指して工場建設に着手していた豊田自動織機製作所と、日産自動車が当初の許可会社に指定されることになる』(web37;「トヨタ自動車75年史」)のだが、自動車の大量生産を目指した工場建設など、当時の自動車工業の財政事情では、オーナー経営者でもない加納の立場では到底許されないけれども、ディーゼル技術の確立=世界に通用する日本のトラック産業の確立、という別のアプローチからの大志を胸に、サラリーマン経営者として、30万円という精一杯の予算を投じた。ここでケチらなかったことが、試行錯誤の連続だった後のエンジン開発に余裕が生まれ、成功に導く大きな要因となった。
 次項で記すが、その試行錯誤の末に、九十二式5t牽引車(乙)用エンジンのDA6型は十分な性能を示し、陸軍技術本部の審査を受けて、無事制式化されるのだが、『銀行屋上がりながらその慧眼によって日本の自動車工業が進むべき一つの途を指示した加納はDA6の完成を見届けた八月十四日(1936年)、在職のまま世を去った。』(⑨P70)
さて以下からは、上記の系統図に従い、統制型ディーゼルエンジン開発の立役者であった伊藤正男の証言(web22;「日本の自動車用ディーゼルエンジンの基礎を築いた設計者 伊藤正男」JSAEインタビュー」)+⑳、⑨を参考に記していきたい。

16.5-3.2 伊藤正男と「DA6型」空冷ディーゼルエンジンの開発
 まず始めに、伊藤正男の略歴をwiki等を参考に記すと、1932年に明治専門学校(現九州工業大学)工学部機械工学科卒業後、陸軍運輸部(広島県宇品)勤務(1年期限の臨時雇いだった)を経て、陸軍工兵中尉だった桜井一郎の口利きで、1933年12月、自動車工業に入社する。不況下で入社当初はここでも臨時傭員の待遇だったという。(⑨P33)
 しかし陸軍運輸部時代に、桜井の助手として陸軍上陸用舟艇用の三菱直噴ディーゼルエンジンの整備を担当していた((web22)P60)関係から、「ディーゼル機関研究委員会」の9人のメンバーの末席に加えられた。なにしろ、『当時、いすゞにおける唯一のディーゼルエンジン経験者』(⑨P57)であったのだ!
 さらに、これも信じがたい話だが、伊藤の『先輩連中は陸軍の要求する応用車、今日の言葉で表現すれば特装車の設計に追われていた。~外国製ディーゼルエンジンのテストがはじまった当初から、その任についたのは、荒牧、平岩、そして伊藤の僅か三名であった。』(⑨P55)しかも平岩は間もなくその任務から外れ、荒牧はディーゼルエンジン研究のための外遊準備に追われる中で、同じ設計部内の同僚として、当時の状況を知る三浦光男(後にいすゞ特装部長)の証言によれば、当時の自動車工業内で、実質的に『ディーゼルエンジンを開発したのは伊藤正男ただ一人ではないか』(⑨P55)と後に語っているのだ。
 しかし伊藤正男の側からすれば、潤沢な開発資金があるうえに、かなりの自由裁量も与えられた、理想に近い開発環境を手に入れたことになる。
 話を戻し、輸入エンジンのテストの結果から、ベンツの予燃焼室式が燃料に対してもっとも広い許容力を示し、MANの空気室式及び、オーベルヘンスリーの渦流蓄熱式の運転が静粛だったこと、逆にドルマンリカルド型渦流式は騒音が大きかったこと等がわかった。(⑳P229)伊藤は『運転の静粛さという点でMANの技術には「頭の下がる思い」だった』(⑨P57)と語っている。
 以上の試験結果を踏まえて、『MAN空気室式を模した単気筒、4及び6気筒空冷エンジンが試作されることになる。』(⑨P59)設計着手は1934年11月、図面を引いたのは荒牧だった。荒牧は「九四式四屯牽引車」用エンジンで、空冷をすでに手掛けていたので仕上がりは早かった。最初に完成したのは6気筒型の「ADL6」で、エンジンの火入れ式は1935年5月27日だった。(下の写真は「九四式4トン牽引車の整備風景。」V8の空冷ガソリンエンジンを搭載していた。陸軍による空冷ディーゼルの開発依頼は、ガソリン版ですでに空冷をこなしていたその実績をかわれた面もあった。画像は
http://www3.plala.or.jp/takihome/mixi/diary/1763941/979571.htmlより)

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http://www3.plala.or.jp/takihome/mixi/image/photo/789184291.jpg
 しかしそのエンジンは『負荷をかけていくと発煙し、出力が頭打ちになる状況に陥る。』原因究明のために新たに購入した『マイハック高速指圧器』という、エンジンのサイクル内の筒内圧変動が判る、最新の計測器の導入により、負荷運転中に圧力漏れが発生していたことを突き止める。この計測器を手にしたことが、その後の燃焼室の設計・開発に威力を発揮したようだ。ちなみに三菱の大井上はフォンボロ指圧器という、平均値型を使っていたという。(以上⑨P60)
 結局単気筒エンジンでの基礎実験からやり直すことになるが、悪戦苦闘の末の『最大の変更点はシリンダヘッドから副室を排除して構造を単純にし、熱変形が少なく、かつ冷却風の通りが良い形状とし、温度が高く熱変形の元凶となる副室をシリンダ上部に移したことである。』(⑨P62)そのためMANのような空気室式が成立しなくなり、渦流式と予燃焼式を比較し、予燃焼室を採用することになる。
 その後の開発ストーリーは、ここでは大半を省略するが、(web22)をはじめ、⑨や⑳に詳しいのでぜひ参照してください。以下は伊藤自身の言葉だ。
『シリンダーやシリンダーヘッドの熱変形にも随分悩まされましたし、所期の出力を得るために、スワールチャンバー(渦流室)でいくかプレチャンバー(予燃焼室)でいくか、あるいはまた、プレチャンバーの形、位置、角度などをどうしたらいいのか、試行錯誤の連続でした。』(⑨P68)
DA6の開発ストーリーにはやたらと「試行錯誤」という言葉が多くなるが!燃焼方式を予燃焼室式に切り替えるなど、試みられた燃焼室及びシリンダヘッドはなんと、「五、六十種類(荒牧)とも「何十種類も」(伊藤)」』(⑨P66)とも言われている。以下も伊藤の証言だ。(⑨P67)『我々の時代は、自分でエンジンをテストして、まずければまた事務所に戻って図面をひいて、それを機械現場の人に造ってもらって、また回してみるということの繰り返しでした。』
 今どきのように燃焼の可視化技術やシミュレーション技術などない中で、伊藤のようなセンスのある技術者が燃焼室内の燃焼状態をイメージさせながら、トライ&エラーを重ねつつ、解を求めていくしかないのだが、試行錯誤の結果の、試作部品のスクラップの山を前に、当然ながら現場は嫌がるはずだ。
『けれども(工作課員が嫌がるので設計課員である)私が試作伝票を持っていくとみんな喜んでやってくれました。私が鶴見の野球部のエースだったからなんです。』!現場のヒーローでもあったようだ。ただその分、貴重な休日が野球部の練習に削られてしまったようだが、このスピード感ある開発スタイルが、三菱他、他社にはなかった要素だったと思う。
 しかしその一方で、伊藤たち設計陣も「自動車屋」として、『出来る限り加工し易い、修理し易い設計を心掛けた。前もって生産技術担当者に教えを乞うことも一再ならずあった。』(⑨P73)後述する“競争試作時代”に圧勝した要因の一つとして、荒牧と伊藤は製品品質の差、ひいては生産技術の差を掲げている。他社は手仕上げだったが、自動車工業の試作品は精度が格段に高かったという(⑨P83)。(下の写真はいすゞ自動車のHPより、「空冷DA6/DA4型ディーゼルエンジン完成」)
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https://www.isuzu.co.jp/product/i_engine/industrial_engines/about/images/pic_da6_da4.png
 今日、伊藤正男がその偉大な功績から「日本のディーゼルエンジンの育ての親」と呼ばれている所以は、エンジン開発者として、生来のセンスの持ち主だったことがまずあったが、その潜在能力をフルに引き出せる環境にあったことが、自動車工業/東京自工&伊藤自身を成功へと導いた。
 その要素として、大枠としては、全体図を構想し、その成長を裏から支えつつ見守った陸軍側の支援があり、さらに前項で記した加納友之助社長ら首脳陣も陸軍・商工省と連携して大きな絵を描き、ヂーゼル機器の創設を含む全体の体制を整えたことがあった。
さらに伊藤自身の人徳もあったと思うが、上司の楠木、荒牧らだけでなく現場の支援も含めて、自動車工業社内での連携が良好だったことも、成功へと導いた、大きな要素だったと思う。サラリーマン経験者であれば、わかる話だと思いますが。
(伊藤正男の写真をネットで検索すると、「自動車用ディーゼルエンジンの育ての親」として没後、自動車殿堂に選ばれたときの、正装をしたかしこまった姿しか出てこない。ただ何か、イメージが違う気がして、ここでは⑨P164の写真をスキャンさせていただいた。昭和31年(1956年)、寛いで隣に座るのは岡本利雄(後のいすゞ自動車5代目社長)だ。)
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(下は「いすゞプラザ」に展示されている「スミダDA4型ディーゼルエンジン」。多少“化粧”ぐらいしているのかもしれないが、“商品”らしい外観だ。画像は「4Travel.JP」より)
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 こうして1936年3月、DA6型(6気筒)とDA4型(4気筒)空冷ディーゼルエンジンが完成する。DA6は九二式5t牽引車用エンジンとして陸軍技術本部の、DA4は九四式六輪自動貨車用エンジンとして陸軍自動車学校の審査を受けた。DA6は制式化され、DA4も試験にはパスするが、自動車用は水冷にするという、陸軍側の方針転換により、試作のみに終わる。(下はその、「九二式5t牽引車」画像は上の写真と同じ引用元で、「堅牢で信頼性が高く砲兵部隊では好評だった」と記されている。ちなみにDA6型エンジンの生産はダイハツ(当時は発動機製造)でも行ったという。(⑧P110))
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 戦後、原乙未生はDA6型を振り返り、『燃焼状況良く排気澄み、振動及び音響も大ならず。・・・・・実用および耐久性に於いて満足の結果を得、取扱操縦に何等支障なく又故障少なく信頼性も良好であった。』と記している。
 このままのペースでは当分終わらなくなるので、以降の“怒涛のエンジン開発”については極力、事務的に記していきたい。

16.5-3.3 「DC6型」水冷乗用車用ディーゼルエンジンの開発
 空冷のDA6型、DA4型を完成させた開発チーム(というか、伊藤)は、その発展型として水冷版のDB6、DB4型の開発に移行する。この頃、陸軍自動車学校研究部の福川秀夫が、九四式六輪自動貨車のディーゼル化に向けた水冷4気筒ディーゼルエンジンの試作及び供試品提出を三菱、池貝、新潟、川崎車輛及び東京自動車工業(※1937年4月に自動車工業は瓦斯電自動車部系と合併し、東京自動車工業に社名変更しているので、これ以降は東京自工と記す)に呼びかけていた。
 DB4型は1936年8月に試作し、『この時は予燃焼室式と渦流室式との対照実験用エンジンDE4を十三年(1938年)三月に試作する運びにまでなっていたのだが、』(⑨P79)時間切れで既述のように十二年(1937年)中にいつのまにか、池貝のエンジンが、制式化されてしまう。東京自工側とすれば、自社製6輪軍用トラック用の大事なエンジンだし、開発余力のない中とはいえ、腰を据えて開発しようとしていたのだろうか。しかし陸軍は東京自工の想定以上にディーゼル化を急いでいた。そのためDE4型に性能の劣る池貝製のエンジンを約一年間、作らされる羽目に陥る。(⑨P79)((web22)P75)
 しかもこの同時期に、東京自工はさらに2件のディーゼルエンジン開発案件を抱え込んでいた!一件目は1937年4月、陸軍技術本部から水冷ディーゼルエンジン付き6t牽引車を、それも年内に開発せよとの命令だ。(次項で記す。)
 2件目は、陸軍自動車学校研究部の福川からの引き合いで、1937年3月、前年デビューしたベンツ260Dに触発されて、乗用車用ディーゼルエンジンの試作呼びかけであった。福川は、当時のすべてのディーゼルメーカーに競争試作を呼び掛けた。しかも納期は同じく年内だ!だが東京自工内で『ディーゼル開発を行う能力を有するエンジニアは伊藤一人である。』(⑨P80)・・・
 優先順位は当然ながら、実績のある牽引車の方が高かったが、自動車学校からの自動車の引き合いも後々を考えれば無下には断れない。そこで260D用のベンツOM138型エンジンをデッドコピーして対応することに。ただしストロークを10mm伸ばしたうえで4気筒を6気筒化し、要求仕様を満たすことにした。基本はコピーなので別の設計者が対応していたが、計画出力(70㏋)に到達しない。原因は不明だ。しかも担当者が途中で召集されてしまい、東京自工は納期延伸願いを申し入れるが、『これに対して福川は「いすゞはディーゼル機関を作る能力なしと陸軍省に報告しなければならなくなるが、よいか」と一喝する。』!(⑨P81)結局伊藤が引き継ぐことに。
 原因究明に『万策尽きた伊藤はオリジナルよりも細長い、DA6に近い形状の三噴口型予燃焼室へ再設計を試み、テストしてみた。すると新エンジンDC6はアッサリと計画出力をマークしてしまう。』(⑨P81)滑り込みセーフで何とか間に合わせる。
 陸軍自動車学校は各社のエンジンそれぞれを三次にわたる試験に供した。参加メーカーは以下の通りで、池貝はトラック用及び戦車用エンジン開発に手一杯で参加せず。三菱は例によってダブル参加だ!
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 第三次試験は陸軍関係者だけで行われ、そこまで勝ち残ったのは東京自工の予燃焼室式と新潟鉄工所の渦流室式。満州での一カ月に及ぶ耐寒試験を仕上げとする一連の試験の結果、結局東京自工のエンジンが勝利する。しかしその後、陸軍の方針変更でこのDC6型は量産に至らなかったが、『このエンジンは次のエポック、5ℓ統制発動機を巡る戦いへの、いわば前奏曲をなすこととなったのである。』(⑨P83)無駄には終わらなかったのだ。

16.5-3.4 「DD6型」6t牽引車用水冷ディーゼルエンジンの開発
 上記DC6型と同一の短納期であった、6t牽引車用水冷ディーゼルは、5t牽引車等過去の実績から、東京自工への単独発注であった。しかし陸軍としても重要な車型であり、時間がない中でも伊藤は、それまでのディーゼルエンジンよりも何とかして優れたものを創りたいという強い思いで開発にあたったという。この項も以下引用ばかりで恐縮だが、(⑳P280)より引用する。
『特筆すべきは~垂直に立った予燃焼室を開発したことである。この形状及び配置は、設計者の伊藤正男氏に依れば:「燃焼室を垂直に、そしてできるだけシリンダの片方に片寄せて配置し、予燃焼室の下半は細長くしてできるだけ混合気の整流と過熱をよくし、噴口は予燃焼室の縦軸に対してできるだけ急激に方向を変えるように配置して、混合気の霧化を助長し、主燃焼室であるピストン頂部にも凹みを設けて、燃焼をよくするようにと考慮したものであるが、ディーゼルノックも低く、性能も予想以上の好成績が得られた』
 この“伊藤方式”の燃焼室について、世界基準で考えた場合、どのような位置づけになるのだろうか。自分にはまったくわからないので、以下も(⑨P87)の丸写しです。
『類例の多い直立、片寄せ型予燃焼室の一つであるマギルスとピストンヘッド上の主燃焼室をなす凹みの中にまで予燃焼室尖端噴口部を突き出させる伊藤の統制型予燃焼室とでは発想ないし燃焼機構に対する考え方が根本的に異なるのである。マギルスは元より、伊藤以外の予燃焼室は熱負荷を恐れる余り、主燃焼室に対して退いた、或いは逃げたスタンスを取るものばかりであった。確かに、「世界で初めて」かどうかについての証明は甚だ困難であるが、名も知れぬディーゼルエンジンなどというモノはまず無かろうから、ほぼ確実と見てよい。
そして、この時以来、伊藤の予燃焼室ないしその類似品の作品が内外に散見されるようになったことはより確実に示し得る事実である。』

 再び(⑳P281)の引用に戻る。
『このスミダDD6形機関のこの予燃焼室こそがやがて東京自工(ヂーゼル自工)の、そして戦時日本の高速ディーゼル界を支配したいすゞ統制型予燃焼室の嚆矢なのである。~何しろ、日本の主たるトラックメーカーが戦後などと言うのも愚かな昭和四十年代中盤まで、実に三十余年間、伊藤方式の予燃焼室に追随したという動かし難い歴史的事実が在るのだから。』
 戦後の復興期から高度成長期にかけて、国内市場が順調に拡大していく中で、中/重量クラスのトラック各社の業績は概して安定していた。ただし各社の乗用車部門を除けば、の話だが。2ストロークに特化せざるを得なかった日産ディーゼルを除き、本家のいすゞ以外の日野自動車も、三菱ふそうも等しく、「伊藤方式の予燃焼室」の恩恵を受け、その間に経営基盤を築くことができた。こうして基礎体力を蓄えた後に、その後各社は伊藤方式から脱却した、独自のエンジン路線を歩むことになるのだ。
『DD6型は1937年12月に完成、110㏋/1700rpmをマーク、勿論、陸軍のテストにも直ちに合格し、九八式6T牽引車のエンジンとして正式採用となった。』(⑨P89)(下の「九八式6t牽引車」の画像はhttps://twitter.com/zavety76/status/1225010941231845377よりコピーさせていただいた。)
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https://pbs.twimg.com/media/EQAc8xuXsAEs8Yu?format=jpg&name=900x900

16.5-3.5「DA40型」陸軍軍用トラック用統制ディーゼルエンジンの完成
 DC6型乗用車用ディーゼルエンジンを開発させた福川は『引き続き、三菱、日立、新潟、神鋼及びいすゞの各社にディーゼルエンジンの試作研究を命じていた。そして昭和一三年(1938年)三月、いすゞにはトラックにも乗用車にも使用可能なディーゼルエンジンを、という注文が発せられる。実はこの表現、余り適切ではないのだが、要するに商工省標準型式自動車用ガソリンエンジン、スミダX型の発展型GA40(6-90×115、72/2800)の代替機を開発せよ、という内容である。』(⑨P89)
「トラックにも乗用車にも使用可能なディーゼルエンジン」=「自動車用ディーゼルエンジン」を意味し、陸軍の自動車用ディーゼルエンジンとして制式採用されれば、当時陸軍と革新官僚が牛耳っていた商工省の自動車政策は連携していたので、⇒商工省標準車用ディーゼルエンジンとして、追って認定されることも容易に想像される。
 自動車製造事業法の制定により、いわゆる大衆車(=再三記すがフォード、シヴォレー級)クラスの自動車生産はトヨタと日産の2社で既にパイは閉じられていた。自動車産業へ参入を目論む残る企業からすれば、最後の可能性として感じただろう。
 しかし、陸軍による、ディーゼルエンジン技術/生産の統合に向けての“試作競争時代”もこの段階に至ると、東京自動車工業の技術的な優位はすでに明らかだった。
 元々陸軍と商工省は、東京自動車工業を重量級トラックメーカーとして育成してきたが、両省からすれば、ディーゼル技術を切り札に新規参入を目論んだ企業を同じ土俵で戦わせ、明確な技術の優劣をもって追随する他社にここで引導を渡し、重量級自動車を東京自動車工業に一本化できる、絶好の機会の到来にもなったのだ。
 この引き合いに対して、伊藤は自信作、DD6型の縮小版エンジン(=「ミニDD6」)でいけると直感したという。(⑨P90)伊藤の指導の下、設計を任された町田雅雄(元川崎航空機の技術者)により、1939年3月『DD6譲りの直立型予燃焼室』(⑳P285)を持つ高速軽量の水冷式ディーゼルエンジン、DA40型が完成した。陸軍自動車学校では、このエンジンを競争試作に参加した他社エンジンと比較し、最終的に三菱ザウラー(S650AD;6-90×13、80/2600)とDA40を買い上げ対象とした。
 この2台のエンジンを、数次にわたる運行試験や寒地試験、代替燃料試験などを行い、さらに従前の制式機関だった池貝のエンジン(4HSD10XE)やアメリカ製GM2サイクルディーゼルエンジン(おそらく3気筒の71型とのこと)との比較も行ったのち、1939年8月、DA40型を、5ℓ級の陸軍軍用トラック用統制ディーゼルエンジンとして採用する。(⑨P91)
(以下も⑨より引用『DA40系エンジンは元々サイズが手頃で、戦後、いすゞが得意とした5~6t車TX用パワーユニットとして好適であった。その上、当初からボアアップ、ストロークアップを考えた余裕ある設計にしてあったため、数次にわたる改修の結果、排気量は5.1ℓから6.4ℓまで増強され、85㏋から135㏋(無過給の場合)へと向上したかくてDA40系エンジンはロングセラーとなり、4気筒のDA70系等を含めた戦後の累計生産台数は721,300基に達し、自動車用として足かけ四一年、舶用に転換されたものを含めれば実に四四年間に及ぶ製品寿命を全うすることになる。』(⑨P92)下表をみれば、戦後の復興期にいすゞのディーゼルトラックが時代にマッチしていたことがわかる。しかしその後トラック市場は徐々に変化し、いすゞが得意とした5、6tクラスのボンネットトラックの市場は衰退し、2tクラスの小型と4t級の中型そして大型の、キャブオーバー型トラックの市場へと分離していくことになる。)
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(以下の写真と文は、この一連の記事で度々引用させていただいている、ブログ「ポルシェ356Aカレラ」さん(web15-2))より、「1958年 いすゞTXディーゼルトラック 専用カタログ」の表紙。『日本のボンネットバスの代表格がいすゞBXであるようにボンネットトラックと言えば、シェア50%を超えた登録台数の多さと柴犬を思わせる温もりのあるフロントマスクなどから日本人に最も郷愁を感じさせるのは1950年代のいすゞTXだろう。1960年代に入ると荷室有効スペースの広いキャブオーバー型トラックに押されボンネットトラックの需要が限定される時代となっていったのに対し、1950年代は未だボンネット・トラック黄金時代であった。その時代、ボンネットバスBXと同様に圧倒的な市場シェアを誇り日本中で見られたボンネット・トラックの代表車種がいすゞTXであったといえる。』)
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https://stat.ameba.jp/user_images/20150517/15/porsche356a911s/49/bb/j/t02200165_0800060013309610878.jpg?caw=800

16.5-4 技術統合への歩みと陸軍統制型100式統制発動機の完成
『1939年8月、陸軍が行ったDA40の統制発動機指定は、軍用ディーゼル全体の統制-陸軍100式統制発動機(昭和15年は皇紀2600年とされており、海軍では零式、陸軍では100式と称した。)への技術統合の始まりでもあった。』(⑨P100)
 のっけから引用文で恐縮だが!16.5項冒頭の表に示しているように、DA40型の、陸軍軍用トラック用統制ディーゼルエンジンへの指定をもって、試作競争の時代は終わりを告げて、次は16.5-3のwikiから引用の表のように、統制型ディーゼルエンジンシリーズ完成に向けての、統合の時代へと移る。
 その歩みを、主に東京自動車工業(の、伊藤正男が属する旧石川島系)側の視点で、ざっくりとみていきたい。

16.5-4.1旧瓦斯電系技術との統合
 技術統合でやっかいなのが、三菱の例を挙げるまでもなく、身内同士の統合だ。旧瓦斯電系の技術陣は当時、16.3-5項で記した、日産の鮎川による瓦斯電の解体という衝撃的な体験があり、その動揺とゴタゴタから、たぶん士気が落ちていたと思われる(これも想像ですが)時期だ。
 DA30型は旧瓦斯電系で開発された、空冷V12(120×160)渦流室式ディーゼルで、『潜航作業機と称する塹壕掘進車輛に搭載されるべきエンジン』(⑨P95)だった。伊藤が開発を引き継ぐことになったが、『渦流室周辺の冷却不良という根本的問題は如何ともし難く』1938年12月に完成したが、陸軍の立会検査にパスするのがやっとで、量産に至らず終わったという。(⑨96)
 DA20型(空冷6-135×170)も同じく旧瓦斯電系からの引継ぎで、『伐採機、伐掃機と称する特殊車両のエンジン』(⑨P97)だった。渦流式から予燃焼室型に変更し、難産の末、1939年9月完成したがこれも少量生産に終わる。
 瓦斯電系の技術者、家本潔が戦後の座談会でこれらのエンジン開発について当時を振り返り、『しかしいま考えますと、よく燃えないために、ピストンの焼きつきとかその他のことで数々の苦労をしました。~結局は予燃焼室式に直しましたが、燃焼の根本のところに、わけのわからない苦労をした印象が強く残っています。』(③P125)と語っている。
((web22)P80)の伊藤自身の言葉によれば、瓦斯電と自動車工業(旧石川島)が合併して東京自工が誕生した時、お互いの分担を取り決め、旧瓦斯電系は大森工場と日野工場で「キャタピラーもの」(軍用のトラクターと戦車)を、旧石川島系は川崎工場と鶴見工場で「ゴムタイヤ(車輪)のついたもの」(=自動車)を担当することになったが、旧瓦斯電系の渦流室式ディーゼルは家本の言葉にあるように、その当時、技術的に完成に至っておらず、「両方のディーゼルエンジンは伊藤が担当しろ」となったため、上記のようになったようだ。
 しかしこの後、すぐに、陸軍による統制エンジンがはじまり、伊藤の図面は公開されて標準設計となり、固有技術も含めノウハウのすべてが開示された。次に記すように、空冷6気筒の統制型エンジンは同じ社内ながらも瓦斯電系の大森工場が取りまとめを行なうなど、自然と技術統合されていったようだ。
(下の写真は戦後、すぐに誕生した有名な日野自動車のトレーラーバスで、当時の社長、大久保正二が、接収された工場内をわがもの顔で走り回る米軍のトレーラートラックをヒントに開発を命じ、日野重工業時代の空冷6気筒統制型の大型ディーゼルエンジン(DB52型)を利用して作り上げた。当時の法規では、トラックは全長7m・積載量5tという制約があったが、大久保が運輸大臣に直談判し、とりあえずの処置として認可を得て発売に踏み切った。エンジンはその後水冷化されるなど改良を重ね、都市部の通勤の足として大いに活躍した。(⑯P57参考)画像はhttps://www.excite.co.jp/news/article/Trafficnews_101923/より)
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16.5-4.2 DA50型・DB50型、水・空冷式100式統制発動機の誕生
 一方、瓦斯電系の引継ぎでなく、DA40型以降の旧石川島系開発エンジンについて、⑨と⑳を頼りに駆け足で辿っておく。
 1939年に開発されたDA10型は、DA6型空冷エンジンをストロークアップした(6-110×150)戦車用エンジンで、開発は順調に進み、同年5月に完成した。(⑨P96)
 続いてはDA50型の開発に移るのだが、このあたりでようやく、16.5-3の冒頭のwiki書き写しの「統制型一〇〇式発動機」誕生の経緯に繋がってくる。以下は(⑨P100)より
『原乙未生を長とする陸軍第四技術研究所は自動車、牽引車用に水冷の、戦車用には空冷のディーゼルエンジンを統制発動機としてシリーズ化しようと企画していた。この発動機統制に当り、陸軍は実績に鑑み、その燃焼方式をいすゞの、即ち伊藤の予燃焼室式に統一するという英断・…と言うよりは当たり前の判断を下す。選択の余地など無かったのである。』陸軍は伊藤が設計した東京自工のディーゼルエンジンを、統制発動機型としてファミリー展開することに決定したのだ。
 他社でも設計・製作されることになる、100式統制型の空・水冷エンジンの基本となるエンジン、DA50型の設計図も当然ながら、東京自工の伊藤が手掛けることになる。
 DD6のストロークを5mm延長した水冷エンジンのDA50型(6-120×160)は、陸軍からのお達しの1ヶ月という短納期で設計完了させて、各社に展開される。その図面が100式水冷エンジンの設計標準となった。DA50型の初号機は東京自工の大森工場で1940年4月に完成する。『水冷100式統制発動機の嚆矢である。』(以上⑨P104参考)
 一方空冷型の統制発動機は、陸軍は当初、DA10型(6-110×150)の160mmストローク型をイメージしていたようだが、水冷空冷相互間の部品共通化等の狙いから、水冷式と同じ120mmのボア系が選択される。『伊藤はボア110mmのDA10、ボア135mmのDA20の経験からボア120mmの空冷は間違いなくモノに出来ると踏んでいた。』陸軍担当者も同じ思いだった。
『DA10、DA20、そして出来上がったばかりのDA50を参考にした空冷6気筒100式統制発動機DB50の設計は、旧瓦斯電系の大森の設計課で取りまとめられ、試作エンジンは早くも十五年(1940年)五月に同工場で完成した。』(以上⑨P105参考)

16.5-4.3「商工省・自動車技術委員会」の場で8ℓ級統制エンジン(DA60型)の仕様が決定
 ここで陸軍とそれに同調した商工省の推進した「統制型一〇〇式発動機」について、wikiベースでなく自分なりに重要ポイントをもう一度確認しておくと、
«1»東京自動車工業(以下東京自工)の伊藤正男が設計・開発した予燃焼室式の燃焼室デザイン(ボッシュ製燃料噴射装置(ヂーゼル機器製)付)を標準設計とし、すべてのディーゼルエンジンの基本仕様を統一する。(海軍系は除く。)
採用理由は、競合の三菱ザウラー直噴、池貝渦流室式などと比較して、燃費は若干劣るが、騒音が低い割に出力が高く、機械的信頼性に富み、作り易く、修理し易い構造で、排気色は薄く、噴射系の寿命も直噴式より長く、さらに予燃焼室式エンジンは、粗悪な燃料にもよく耐えたからだ。(⑨P102参考)
«2»東京自工にその設計・製造ノウハウの全てを、統制型エンジンの製造を行う参加企業に対して開示させる。
«3»東京自工の設計を基に、生産性の向上及び部品補給の便を考慮しボア/ストローク寸法を限定した、モジュラー構造の「統制型一〇〇式発動機」シリーズを構築する。教育用の単気筒から特殊車両、戦車用V12に至る水/空冷の各エンジンを、参加企業で分担し、設計・製造を行う。
«4»参加企業は陸軍主催の「戦車部会」(後述)等で技術情報の共有を行う。
«5»軍用自動車を含むディーゼル自動車の設計・製造は、東京自工を母体に、競合他社(三菱重工業、日立製作所、池貝自動車、川崎車輛)にも資本出資と技術・生産設備の供出を行わせたうえで商号を「ヂーゼル自動車工業」(1941年4月30日)と改め、同社に一元化する。(=ヂーゼル自動車工業以外、ディーゼル“自動車”の製造は不可)
«6»それに先立ち1941年4月9日、東京自工をヂーゼル自動車の生産に特化した、自動車製造事業法に基づく3番目の許可会社として認定する。
 このうち、16.3-9項ですでに記したことと重複するが、陸軍省・商工省の上記の«5»と«6»の動きに、自動車事業への単独参入を目論む三菱が激しく反発する。
 当時三菱重工は、満州国向けの大陸型8ℓ級トラックの大型の引き合いを背景に、5ℓ級DA40型ですでに商工省統制型エンジンとしての資格を有する東京自工と共に、「商工省自動車技術委員会」の場で、自社のY6100型8.55ℓ予燃焼室式エンジン(16.4-5項参照)の燃焼室を、東京自工の伊藤設計の統制型に合わせた上で、商工省統制型発動機と認めさせることで、三菱も、8ℓ級のディーゼル自動車の生産会社として、自動車製造事業法の4番目の許可会社になるべく意欲を燃やしていたのだ。(自分なりの想像部分も、かなり含んでいます。)
 その決着を巡り、鉄道省や満鉄などユーザー側も巻き込んで、1941年3月21日~24日にかけて箱根を舞台に激しいやり取りが行われたという商工省自動車技術委員会と、その後の決着についてはすでに記したのでここではくり返さない。
 この委員会でそれ以外に特筆すべきと思われることは、この「商工省自動車技術委員会ディーゼル自動車専門委員会」の場で、8ℓ級ディーゼルエンジンの詳細仕様に至るまで決定されたことだ。(⑳P295~P309参考)そもそもこの会議の主題が「大型ディーゼル機関の仕様書作成」だったのだ。
 それともう一点、4日に及んだこの会議で纏められた仕様書に基づいて、作られることになるDA60型ディーゼルエンジンが、世界基準で見ても、けっしてコピーではない、十分オリジナル性のあるエンジンであり、かつその性能も世界の第一線にあった点が凄かったと思う。トヨタ(シヴォレー)、日産(グラハム・ページ)、ダットサン(ベンジャミン(仏))は言うに及ばず、石川島、瓦斯電、ふそうなどの中型トラック/バス系のガソリンエンジンも、ブタやホワイト(いずれも米)などからの影響の強いエンジンだったのだ。
 話を戻し、会議の場で、三菱・鉄道省側は(6-110×150、8.55ℓ)のY6100系のストローク長を主張し、東京自工・陸軍側の(6-110×140、7.98ℓ)案を退けたが、それ以外は概ね後者の主張に近い線で取りまとめられる。そしてその設計は当然ながら、『許可会社、ヂーゼル自工の設立も目前に控えていたから、その設計はいすゞに委ねられることになった。』(⑨P111)
 そのDA60型エンジンは、時局からか代用鋼を全面的に使用したうえで、設計は1941年10月に完了し、1942年8月、試作エンジンが完了する。この過程で、東京自工と三菱重工のお互いの技術ノウハウの交換も進んだのだろうか。(下は『1943年11月に完成した大型トラックTB60型。ステアリングは軽くするためにボールスクリュー式になっている。』(①P48)DA60型エンジン搭載の7t積トラックで、早い話が、三菱が夢見たCT20型と同じ市場を狙った、大陸(満州)向けの大型トラックだが、時すでに遅く量産に移されることはなかった。画像は(web15-3)より。)
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(下の写真と以下の文章は三樹書房http://www.mikipress.com/books/pdf/767.pdfより、
『ヂーゼル自動車工業TH20 鉱山用トラック(1943 年)現いすゞ自動車の 20トン積みの国産初のオフロード・ダンプトラックである。』同じ写真で同じ出版社(三樹書房)の最新刊(㉖P35)ではTH10型となっており、(⑨P113)でもTH10型となっているので、TH20ではなくTH10型の間違いだろう。海軍発注のTH10型鉱石運搬用20tダンプは、1943年12月に完成し、日窒鉱業向けの鉱石運搬用として活躍したという。総生産台数は17台だったというが、17台完成したのはシャシーまでで、資統制下の資材入手難で油圧ポンプが間に合わなくて架装できず,完成車は 10 台止まりだったようだ((web44)P68)。この重ダンプのエンジンもDA60型だった。結局、戦時中のDA60型エンジンの主な用途はトラックではなく、舶用エンジンであったという。)

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16.5-4.4陸軍主催「戦車部会」による各社技術の共有
 話を技術統合に戻す。「「統制型一〇〇式発動機」」に参加した企業は8社(1941年に東京自工から分離する日野重工業も含めれば9社)で、+陸軍相模造兵廠でも展開された。互換性のある、同じ部品を製造することが重要となる統制型エンジンの、企業間の情報共有は如何にして行ったのだろうか。以下も(⑨P101)より、
『陸軍第四技術研究所は戦車、自動車メーカーなどのスタッフが参加する「戦車部会」を主催し、各社の技術を公開させたうえで技術開発の方向付けを行っていた。』ここでも陸軍が、全体の“統制”を行っていたのだ。ちなみに陸軍第四技術研究所の所長は原乙未生中将だった。その会議の模様について、(⑳P287)
『各機種間の部品の互換性を持たせるために、部品の形状寸法はもちろん、仕上げの精度、はめ合いも統一するため、3カ年に20数回の打合せ会議が持たれた。会議はなごやかで、陸軍技師、上西甚蔵氏の好司会のもとで、各社を代表する技術者は常に協調的に打合せを行い、一致協力してことが運んだことは、いまでも記憶に新しい。』戦争の最中での会議で、この期に及んで、各社意地を張りあっても仕方がないというムードもあったのではないだろうか。

16.5-4.5三菱によるAL型4式中戦車用エンジンの開発
 統制型エンジンシリーズの最後に、四式中戦車用エンジンとして、三菱重工が1943年より開発設計を行い、1944年初頭に完成した三菱ALディーゼルエンジン(四式ディーゼルエンジン)についても簡単に触れておきたい。
既存の統制型エンジンの多気筒化を諦め、三菱重工が新規設計した大型ディーゼルエンジンで、燃焼室形状ならびに配置等は統制型のそれを踏襲したが、空冷3弁式V12気筒、(145×190)37.7ℓにより、従来の日本戦車のエンジンから大きく馬力も向上、列強の30トン台戦車の水準である400馬力オーバーを達成している。(原乙未生は自著『機械化兵器開発史』90頁にて、「4式V12エンジン(原文表記による)」を過給器無しで400hp、過給器を付けた試製エンジンを500hpとしている。)トランスミッションに日本戦車として初のシンクロメッシュを採用、操向装置にも初の油圧サーボを搭載している。これによってギヤチェンジや方向転換は日本の既存戦車と比較してもはるかに容易になり、また10日間をかけての実走試験でも大きな故障もなく、軽快な機動性を確保していたと伝わる。(以上、wiki他を参考。)
 東京自工系の伊藤正男設計の実績のある技術の上に、直噴系で高出力を追求した三菱が培ってきた技術を融合させた、戦前の日本の高速ディーゼルエンジン技術の、ひとつの到達点と言え、『統制型発動機の進化を表現する最高傑作であった。』(⑳P313)
(下図「四式中戦車の縦断面要領図(量産型図面もしくは三菱現存図面と言われるもの)」と以下の文はwikiより「四式中戦車の特筆すべき点は、それまでの国産戦車が基本的に歩兵支援用戦車として開発されたのと異なり、最初から対戦車戦闘を想定してつくられた本格的な戦車となったことである。しかしながら運用思想としては、単純に「敵の戦車が強力である」という思想に基づいたもので、戦車同士の大規模戦闘を意図したものではない。」)
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16.5-5項の最後に、1931~1945年の主な戦車・装甲車の生産台数の表を掲げておく。
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16.5-6「ヂーゼル機器」の設立(燃料噴射系装置の統合)
 この記事もようやく終わりが見えてきた!今まで見てきたとおり、日本では高速ディーゼルエンジンの開発を、各社が独自に競ってきたが、16.5-2.2でみてきたように、ディーゼルエンジンの基幹部品である燃料噴射系システムは、十分な性能の内製品を製造できず、国産高速ディーゼルの実用化において、大きな障害となっていた。
 このため、世界的にもっとも優秀とされていたボッシュ製のシステムを、国産ディーゼルエンジンの心臓部に、高価な輸入品よりもより廉価で搭載すべく、ライセンス導入に向けて官(陸軍省)民(東京自工他)が動くのだが、その経緯を、ボッシュ製品のライセンス導入という戦略的方針を早くから打ち立てた、自動車工業/東京自工の行動を通して、(⑳P261、②P195)等を参考に、以下簡単にみていきたい。
 まず16.5-3.1でみてきたように自動車工業は1934年7月、加納社長の指示で「ディーゼル機関研究委員会」が組織され、ディーゼルエンジンの開発をスタートさせるが、社の方針として当初から『楠木ら会社幹部がロバート・ボッシュ社製品の使用、更には同社からの燃料噴射装置に関する技術導入の断を下し』(⑨P47)ていたという。
自動車工業が最初に取り組んだディーゼルエンジンだった空冷DA6型の開発(16.5-3.2項参照)から一貫してその方針で貫かれた。そのため、噴射系システムの開発で手間取った他社を尻目に、エンジンの本体部分の開発に集中することが可能となり、一連の予燃焼室式ディーゼルエンジン開発を成功に導く要因の一つになった。
 また社長の加納友之介を通してその会社方針について、陸軍・商工省とも確認していたはずで、両省とも承知の上というよりも国策企業として、むしろその方針に則ったものだったようにも思える。
 対ボッシュとの交渉がいささか唐突にスタートしたのは1936年10月だった。ディーゼル技術の研究のため訪欧中の自動車工業、荒牧寅雄(戦後いすゞ自動車四代目社長)宛に、社長の新井源水(同年8月に急死した加納の後を引き継ぎ社長に就任)から『ボッシュと技術提携する交渉を行なえ』(③P96)と急報が入る。『日本ディーゼルの安達社長さんが、シベリア経由でドイツに向かったとの知らせがありました。そこで、私は急いでボッシュに行って、インジェクション・ポンプのライセンスについて交渉を始めました。』(③P96;荒牧談)「日本デイゼル工業」については次項で記すが、同社もボッシュとのライセンス契約締結を密かに狙っていたのだ。
 自動車工業側にとって幸いだったのは、ボッシュの日本総代理店のイリス商会ボッシュ部日本代表のツェーヘンダー氏がドイツにいたことで、最初の交渉自体は不調に終わったが、『ライセンシー側が三菱、池貝等のエンジンメーカーとの結合を図る事、ヒトラー総統の許可が下りる事、という2つの条件が整った暁には自動車工業を交渉相手として最優先するという約束が取り付けられた』(⑳P262)ボッシュとしても、インチキくさい自社製品の特許回避品が多数出回るよりも、日本市場が独占できれば旨味が大きいと考えただろう。1937年4月、瓦斯電と自動車工業の合併で東京自工が誕生し、ボッシュの提示した条件に一歩近づく。
 1938年2月、ボッシュより東京自工宛に契約交渉に応ずる旨連絡が入る。交渉は直ちに始まったが、東京自工に加えて『相手としてもう一社、有力なエンジンメーカーを加える事』(⑳P262)という条件も提示されたため、東京自工側は三菱もこの計画に抱き込もうとするが、ここから先で、⑳・(web22)と、②・③とでは、三菱側のスタンスが異なって記されている。
 前者では東京自工副社長の新井源水と、当時三菱重工の常務だった郷古潔が一高の同期生の友人であった関係から両者を中心に両社は交渉を行い、『東京自工・三菱重工を軸とするライセンシー側の統合体制に目途がつけられた。』(⑳P262)
 この結論部分は同じなのだが、そこに至る過程として、②、③では、そもそも東京自工一社では『ボッシュ社への技術提携料とライセンス料の四十万円を即座に調達できなかった。』(②P197)という問題があったと指摘している。資金が足りなかったのだ。
 そのため東京自工側は商工省、陸軍省に資金調達の支援を求めるのだが、『これを受けて陸軍技術本部の原乙未生は、ディーゼルエンジンメーカの共同会社を設立し、ボッシュ燃料噴射ポンプの大量生産を行う計画を樹て、メーカにその出資を要請した。』(②P197)
 ところがこの計画に対して、資金力のある三菱重工の元良信太郎(高名な造船技術者で(③P110)の原乙未生の証言では社長としているが、この時点では常務?で1943年から郷古の会長就任後の社長就任では?)は、三菱が全額出資して『一手にボッシュポンプを製造し、ディーゼルエンジンの生産に本格的に乗り出したいと希望を表明した。』!(②P197)(③P110)
 しかしそれでは、陸軍と商工省が国策として東京自動車工業を育成している中で、日本のディーゼルエンジンの根幹部分を、今度は三菱に握られてしまう事態に陥るため、陸軍がさらに介入し、『新会社の「イニシアチブはいすゞと三菱がとって、社長は両社から交代で出す」ことを提案した。』(②P197)実際にはさらに、東京自工の新井と三菱重工の郷古がその水面下で、実務的な裏交渉を行ない、決着点を探ったのだろうか。詳細は不明だが、三菱側が全額出資の申し出を行ったことは確かだろう。
 1938年8月、覚書を締結し日本側は仮調印し、同年12月、ドイツ側も正式に調印する。ヒトラー総統の承認を得るために、陸軍側の働きかけも当然あっただろう。全体としてみれば、陸軍主導の下、その意を受けて、東京自工が実務面を担当したように思える。
 こうして1939年7月、「ヂーゼル機器株式会社」が誕生する。以下はその株主構成だが、ヂーゼル自動車工業の最大株主であった日立製作所は出資しなかった。(その経緯はここでは省略するが、③P110に記されている。)
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(ディーゼルエンジンの世界で、ボッシュの存在がいかに大きいか、その一端を、デンソーでコモンレール式燃料噴射システム開発の統括リーダーを約10 年間(1994 年-2003 年)」務めた伊藤昇平が、JSAE エンジンレビュー誌の依頼で記した「私のコモンレール開発物語(1994 年-2003 年)」(web42)の冒頭で語っている。以下引用させていただくが、その“雰囲気”がよく伝わる文章だ。
『(前略)ある日,部長から席に呼ばれ「おい,今度の BOSCH 来社時に,向こうから恒例の技術プレゼンがあるので君も聞きなさい。」と言われた。
当時,年 1 回ライセンス契約のため,BOSCH 社ディーゼル事業部のマネージメントが来社していた。その際,彼らから「最新の技術動向のプレゼン」があるので,聞いて勉強しろということであった。狭い応接室に 20 人程壁に張り付いた状態で,マネージメントのプレゼンを随行者の通訳者が,「上から目線」の「尊大」な説明の仕方をしていた。「見下された」説明を次長職以下は立ったままで,メモを取りながら聞いていた光景は今でも忘れない。所謂「ダンスパーティーの壁の染み」状態であった。「いつか”あいつら”を見返してみせる!(現在では不適切な表現ではあるが,その時の思いを正確に伝えるために用いたことをご容赦願いたい)」と”負け犬の遠吠え”に似た「何故か悔しい思い」だけが強く残った。』
 随分昔のことだが、「実はディーゼルエンジンの性能の50%は、燃料噴射装置の性能で決まる」という言葉を、某社のエンジン開発担当者から聞き、衝撃を受けたことがあった。デンソーのコモンレール式燃料噴射システムのプロトタイプ(アメリカのスパイ偵察機というか、ロックバンドの名前みたいな“U2”と言う名で当時呼ばれていた)が、そのメーカーのテストベンチで回っていたころだったか、その前だったか、話をお聞きした正確な時期は忘れてしまったが。
 以下はド素人の感想だが、伊藤正男による予燃焼室式エンジンの改良は、戦後の貢献も含めれば、戦前の日本の自動車技術開発のなかで突出した、偉大な功績としか言いようがないが、しかしだからといって、世界のディーゼルエンジンの技術史のなかで、激震を与える類(たぐい)のものではなかったと思う。当時の日本の工業水準全般を思えば当然で、致し方ないことだったのだが。
 だがディーゼルエンジン技術の“本丸”である、ボッシュの技術に初めて先行したという意味で、1995年、デンソー(当時は日本電装)が、日野自動車とのコラボで開発した「世界初のコモンレール式燃料噴射システム」搭載車(下の写真の“ライジングレンジャー”)の市販と、それに続く三菱ふそうの量産大型トラックへの搭載は、世界のディーゼル車の世界に、日本発の衝撃を与えたのではないかと思う。)

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さてこの記事もようやく最後まで辿り着いた。この項で「日本デイゼル工業」もボッシュとのライセンス契約締結を狙っていた、と記した。戦後の「民生デイゼル工業」⇒「日産ディーゼル工業」⇒「UDトラックス」(途中省略したが)へと至る、同社の誕生の経緯と戦前の活動について、記しておきたい。

16.5-7「日本デイゼル工業」の誕生
 まず月並みだが、UDトラックスのHPから、同社の創業時について引用する。
『すべては、創業者 安達堅造の「時世の要求する自動車」を作りたい、というビジョンから始まった。~ 創業者の安達堅造(1880-1942)は、1927年に欧州の産業界を視察した際、このディーゼル車に注目した。安達は「ディーゼルエンジンは、馬力、燃料消費量など多くの点でガソリンエンジンに優れている」と記録に残している。』この事実上の創業者、安達堅造という人物について、(web43)より引用する。
『1901年(明治 34 年)、陸軍士官学校の第 13 期卒業生で、1924 年 12 月の退任まで偵察将校として活躍、退任時は航空兵中佐であった。安達は航空機界に造詣が深く、退役後の 1927年、欧州航空界を視察する機会を得た。その際、日本の航空機が欧米列強と比較して遅れている実態を目の当たりにし、自らが航空界の発展に尽力することを決意する。現地調査では、ドイツの航空機、エンジンメーカー、ユンカース社の飛行機が優れていることに着眼し、帰国後は陸軍の要請で三菱航空機がユンカース社と技術導入契約に尽力するなどユンカース社航空機の導入に活躍した。』(下の安達堅造の写真は、UD TrucksのFacebook よりコピーさせていただいた。
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 16.5-2-2項で紹介した、ユンカースの航空機用ディーゼルエンジンに魅せられた人達は、当時世界中に多かった。(㉒に詳しい)航空業界に造詣が深かったということは、安達もその一人だったのかもしれない。
 以下、日本デイゼル工業から鐘淵デイゼル工業に至る、戦前の同社の概略の歴史について記していくが、創業時のストーリー(創業の目的)に関してだけは、『残念ながら当時の資料が乏しく』(㉗P4)、詳しい(突っこんだ)情報は、webでも本でも見つけられなかった。
 ただそれ以外について、特に不明な点はないので、まずは⑦(「日本自動車工業史稿 3巻」P278~P297)、㉗、③、①、(web41)、(wab40)等を参考にアウトラインを記し、最後に憶測部分ばかりになってしまうが、同社創業時の不明な部分を自分なりに想像して補い、この記事(その6)を終わりにしたい。

 まず上記の安達の履歴の中で、三菱航空機の社名が出てくるが、日本デイゼル工業は、ディーゼル自動車の製造を目的とし、まずはディーゼルエンジンを製造するため、安達堅造と、元三菱航空機名古屋製作所長松本辰三郎の両名が中心となり、資本金600万円で1935年12月に創立した会社だ。ちなみに本社は東京丸の内の三菱二一号館だったようだ。しかし(⑦P284)では、『松本氏は日本デイゼル工業㈱に関し、三菱との間に資本投下などの関係はほとんどなかったといわれている。』と記しているが、今回創業時の株主構成表等、それを裏付ける資料が見つけられなかったので、何とも言えないところだ。(下の写真はwikiより「三菱21号館」。当時の住所は「東京府東京市麹町区有楽町1-1」)
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 会社設立の当面の目標とされた、ディーゼルエンジンの製造だが、16.5-2-5の最初の表に記したように、有力メーカーが多数、すでに参入済みのなかで、これといった母体のない、ベンチャー企業的な日本デイゼル工業は、如何成る勝算をたてたのか。以下(⑦)参考にまとめた。
 安達、松本両氏はユンカースの日本代理店(ホッケス・ウント・コッホ商会)経由で、ユンカース航空機用ディーゼルの特許をベースにした自動車向けエンジンが、クルップで製造されていること、さらに同商会の斡旋で、そのクルップ・ユンカースエンジンの一部の特許権が約300万円で手に入ることがわかり、他社製のディーゼルエンジンと明確に差別化できる、同エンジンのライセンス生産により、国内先行メーカーに十分対抗可能だと踏んだと推察される。(⑦P284参考)以上が、一般的に考えられるところだ。
(⑦;「日本自動車工業史稿 3巻」(自工会編纂)P285)では追い打ちをかけるように、『同社発足のいきさつについて、述べなければならない事項である限り、このように考える以外に、道のないことを改めて付言する。』と、後述するような余計な詮索は無用だと?くぎを刺している。
(③P132)によると、安達と懇意だったという陸軍の原乙未生は、ユンカースとの技術提携の前に訪れた安達に対して、難しいエンジンだと多少忠告めいた批判をしたそうだが、『そのとき安達さんは、平凡なものでは進歩がない、特異なものだからやるのです、とえらい勢い』だったという。
 創業の翌年、埼玉の川口市に21,000坪の工場用地を取得し、輸入品の工作機械の手配とともに、工場建設に着手する。肝心のクルップ・ユンカース製ディーゼルエンジンのライセンス契約も獲得し(1936年11月に本契約成立;①P50)、いよいよクルップのトラック国産化のために、本格的な活動を開始する。
 1936年11月に、クルップからモデル車輛となるトラック2台(2気筒型と、3気筒型各1台)が輸入されて、テスト走行の結果は良好だった。
 1937年2月に簡野信行(航空研究所出身?)が入社するなど技術陣の陣容を整えて、簡野らをクルップ社に派遣し技術習得に努める。一方クルップからは3名の技師を招聘し、技術指導にあたらせたせるなど着々と生産準備を進めていく。
 川口工場の建設も進み1937年11月末に本館事務所が落成し、東京丸の内にあった本社事務室の大部分が移転し、工場部分も完成していく。
 工場では当初は、ドイツからノックダウン部品を輸入し、その組み立てから稼働させていったが、1938年11月末に、2サイクル対向ピストン式2気筒の、クルップ・ユンカースエンジンのライセンス生産品「ND1型(鐘淵と社名変更後には「KD2型」と呼称変更)」の国産初号機が完成する。
 だがその後の生産は、けっして順調とは言えなかった。その理由の一つに『外貨不足の影響を受け、ユンカース社へのライセンス料、特殊工作機械の支払いで送金できたのは半分ぐらいであり、このため操業に入れなかった。』(②P209)さらに、『残りを国内で手当てしたのですが、その頃は工作機械メーカーは手一杯の注文を受けておったために、工場建設がだいぶ遅れた』(③P110)ことがあったという。翌1939年のエンジン生産は、2気筒型9台、3気筒型(「ND2型」(鐘淵時代は「KD3型」)2台に終わった(③P129)。
 一方車輛側だが、最初のトラックの試作車は1939年11月に完成し、3,000kmに及ぶ走行試験を実施、その性能と耐久性を実証するが、この間に経営面では赤字が累積し、トラック1号機が完成した翌月の12月、創業者の安達は業績不振の責任を取って辞任する。(①P50)
 一時は大阪砲兵工廠からの砲弾の加工や、中島飛行機から星型エンジンのコンロッドの生産等を請け負うなどで、当座の窮状をしのいだという。そしてこの頃から、繊維業をベースにした新興企業、鐘紡紡績との提携の模索が始まったようだ。
(下の写真はUD社のHPより、2気筒60㏋エンジン(ND1⇒KD2)搭載のLD3型トラックで、鐘淵デイゼル工業時代からは、TT6型と改称された。ボア径85mm固定で、3気筒型(KD3)は90㏋、4気筒型(KD4)はロスが小さくなり+5㏋の125㏋の出力が引き出せた。さらにボア径100mmと大きい165㏋エンジン(KD5)も追加されて、戦時中は南方の井戸掘り用に使われたという。(以上③P130))
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https://www.udtrucks.com/japan/-/media/images/project/udtrucks/international/about-ud/our-brand/history/1955-image1-857x524.jpg?h=524&w=857&hash=10C6EB0DF21128D90607A81F18BEB2B7
 1940年11月、重工業分野へのシフトを模索していた鐘淵紡績の子会社、鐘紡実業が経営権を取得する。そして1942年12月には、「日本デイゼル工業」から「鐘淵デイゼル工業」へと社名変更され、経営は次第に軌道に乗る。
 エンジンの国産化は、1940年ぐらいまでは、粗形材やポンプはドイツからの輸入に頼っていたが、1941年からは、難物だったポンプも含めて内製化を果たし、国産化を達成する。((web41)P42)
 こうしてエンジン生産は順調に伸びていき、1941年に161台、1941年に361台、1942年に427台、1944年には603台の生産を達成することになる。(①P50)
 トラック生産の方は1940年から2気筒型(「LD3型」、後に「TT6型」)の生産を開始する。3気筒型トラック(「TT9型」)の生産は1941年からだ。生産台数については、各文献でバラつきがあるが、たとえば(①P51)では2気筒型108台、3気筒型が73台の合計181台で、((web40)P116)に掲げてある表からすると1942~44年の3年間でそれぞれ70台と53台なので、いずれにしても総計でも200台以下だったようだ。
 ちなみの車輛全体としてみた場合で、もっとも国産化が難しかった部分は、変速機だったという。クルップではZF社からアセンブリー品を購入していたようで、その部分は図面や工作機械が入手できず、社内で歯車の勉強をしつつ、苦労の末に、新規の変速機の設計製作を成し遂げたという。(以上(web40)P114)
 1942年、創業者の安達堅造が亡くなり、同年、陸海軍の管理工場となる。また鐘紡との提携によって、主力の川口工場(ディーゼルエンジン及びトラックを製造)以外に、繊維系の鐘紡の工場の転用として新たに隅田工場(舶用ディーゼルエンジン)、神根工場(ブルドーザーやトラクター)、城東工場(神根の分工場としてブルドーザー)、市川工場(発電機)の4か所が、生産拠点として拡充される。(㉗P5参考) そして敗戦を迎える。
(以下の写真と文章は、三樹書房のサイトより引用させていただいた。http://www.mikipress.com/books/pdf/767.pdf
『鐘淵デイゼル工業 7.5トン押均機(1943 年)〈日産ディーゼル所蔵写真(平野宏氏提供)〉性能が良いブルドーザと評価が高い。独ユンカース社特許に基づく3 気筒垂直対向ピストンエンジン90 馬力を搭載して、重量は 10.3トンである。この他に 5トン、15トンの押均機があった。戦時中は鐘淵紡績の工場で約 150 台が製造され、戦後も一時生産されたが占領軍(GHQ)により生産中止させられている。押均機は海軍の呼称である。』陸軍は統制型エンジンの時代で、トラック生産が思うに任せず、何とかして活路を見いだそうとして取り組んだブルドーザーの製造だったが、評判が良かったようだ。ちなみにブルドーザーのことを陸軍は「排土機」、海軍は「押均機」と、ここでも呼び方が異なっていた。
『その頃、ブルドーザーを作ったのは小松製作所と私の方だけだったのですが、』(㉚P131;阿知波二郎談)元来小松は陸軍色が強かったため、海軍用押均機の製作は,鐘淵デイゼルが主体となり製造したようだ。((web44)P71)戦後、コマツや日立建機のような企業形態になった方向性もあり得たようだ。)

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日本デイゼル工業は海軍系企業だった
 ここで『残念ながら当時の資料が乏しく』(㉗P4)、『創立の頃のことはわかりません。書いたものによりますと、戦争中ですから怪しげな書類ばかりであります。』((③の1969年3月25日の座談会で阿知波二郎(1942年日本デイゼル工業に入社、座談会当時日産ディーゼル工業専務)の談)という、同社創業時のいきさつについて、③、⑳、⑦、②などの記述を手掛かりに、自分なりに考察してみたい。しかし多分に“想像”を含んでおり、まったくの的外れである可能性も十分ある。あくまで、みなさんの周りにもきっといるであろう、無責任なド素人の“町の歴史研究家”が、自己満足で講釈を垂れる「歴史の推理」の一つに過ぎないものだと理解いただきたい。
 以下からは、手がかりとしていくつか残されている情報の「点」を、自分なりに「線」でつないでいくが、再三記すが軽―く、流し読みしてください。
 まず(⑦P283)によれば、創業時の同社の定款の中の営業品目の1番目として、「ディーゼル発動機の製造販売、ならびにこれに付随する機械器具の製造販売」を掲げている。このうち、“これに付随する機械器具の製造販売”⇒“ボッシュの燃料噴射装置の製造販売”を、すでに念頭に置いていたようにも推測できる。
 前項で記したように、「日本デイゼルの安達社長が、インジェクション・ポンプのライセンスの契約締結を狙って、シベリア経由でボッシュに向かった」(③P96)のは創業の翌年、1936年10月頃だ。
 間一髪の差で機先を制することができた、当時陸軍が後ろ盾の自動車工業の荒牧は、『先口の私との約束を守って、ボッシュは安達さんの申し入れを断りました。やむなく安達さんは方針を変えて、ベルリン南方のテッサウ市にあるユンカース・ディーゼル社に行かれ、その製作権を契約して持ち帰られたのであります。私もこのユンカース・ディーゼル工場を見ておりますが、このエンジンはインジェクション・ポンプが個々のインジェクション・ユニットに分かれているので、単独のポンプはいらない仕組みになっています。安達さんはボッシュ・ポンプのライセンスが得られなかったために、ポンプのいらないユンカースのディーゼル・エンジンを、日本に普及する計画を立てられたものと思います。』(③P97)と語っている。1936年11月に本契約成立、とあるので、その足で、急いでクルップ・ユンカースに向かったのだろう。
(上記は(③P97)=「日本自動車工業史座談会記録集」という、自工会(正確には「自動車工業振興会」)による“公式”の歴史記録集に納められた、1969年3月5日の座談会における、当時いすゞ自動車の副社長だった荒牧寅雄の発言だ。この翌年社長に就任し、その後GMとの提携交渉等を行うことになる人物が、しかもこの座談会には原乙未生、福川国三らかつての陸軍関係者や、三菱重工関係者も同席の上での発言なので、立場上言葉に気を遣いつつも、凡そ確かな内容の発言だったと思う。下は③P87からスキャンさせていただいた、その時の座談会の様子で、中央が原乙未生、手前に寺澤市兵衛、奥が荒牧寅雄だ。)
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(⑳P241)に記述のある、『~軍用ディーゼル機関等の製造がその目的だった。そして、そのためにはボッシュの噴射ポンプをライセンス生産する事が第一と考え、直ちに接触を開始した。』のは事実だと思う。安達・松本両氏による創業時の構想当初から、実はボッシュ製燃料噴射装置のライセンス獲得が、最大の目的だった可能性があるのだ。百歩譲って、少なくとも上記の出来事があった時点では、一般に創業の目的だったとされている、クルップ・ユンカースエンジンのライセンス獲得よりも、優先順位が高かったことは間違いない。
 もう一点、これはどこにも記されていなかったことだが、そもそも「日本デイゼル工業」という社名自体が自分には気にかかる。以下からはさらに、自分の想像(妄想)部分が多くなるので、そのように理解いただければ幸いだ。
 どこかに書いてあったが(どこだか忘れたが)、戦前の日本では「ディーゼル」の表記を、陸軍系が「ヂーゼル」なのに対して、海軍系は「デイゼル」と表記する習わしがあったという。
 自動車は通常陸上で使用するし、陸軍の軍用車需要が大きいので、戦前の日本で自動車製造を志す企業は、「ヂーゼル機器」や「ヂーゼル自動車工業」のように陸軍系の表記に合わせるのが通例だ。
 たとえば「自動車工業」の前身、「石川島自動車製作所」は、1929年5月に「東京石川島造船所」から自動車部門を分離させたものだが、分社の理由の一つは、造船所の方が海軍からの仕事が中心だったため、陸軍からの受注が中心となる自動車部門を分離させたのだという。(8.2-2項参照)大手は別として戦前の軍需関連企業は、“旗色不鮮明”では難しかったのだ。
 ちなみに三菱も、16.5-2-1項の“三菱直噴エンジンの開発”で、三菱航空機本社に、渋谷常務直轄の設計室が設置されて本格的な開発がスタートしたと記したが、その渋谷常務の下ではさらに、海軍関係と陸軍関係では担当が分かれていたような記述もある。(⑮P71)上層部の意思決定も、一枚岩ではなかったのかもしれない。
 「日本デイゼル工業」は当時の常識的には、「日本ヂーゼル工業」と名乗るべきなのに、敢えてそうしなかったのは、この会社の創立時点ですでに、陸軍/商工省寄りであるはずの自動車業界の中にあって敢えて、海軍の旗を高く、明確に掲げていたからだと思う。例によって推測だが、当時の日本の社会では「日本デイゼル工業」という企業は、そのようにとらえられていたと思う。
 陸軍出身の安達だが、陸軍の自動車界隈には今まで見てきたとおり、実力のある大手企業がすでにひしめいており、自動車に関しては未開拓に近かった海軍を後ろ盾に頼った方が、ゼロからスタートするベンチャー企業にとって、狙い目であり可能性も大きいと考えたのではないだろうか。
 もし仮にそうだとすれば、「日本デイゼルの安達社長が、インジェクション・ポンプのライセンスの契約締結を狙って、シベリア経由でボッシュに向かった」目的が、その経歴からドイツに人脈を持つ安達(と松本)が、当時犬猿の仲で有名だった陸軍を出し抜こうと画策した海軍の意を受けて、高速型ディーゼルエンジンの心臓部分であるボッシュの噴射系装置のライセンス獲得交渉に向かったのではないか、という疑念が生まれてくる。
 日本海軍の後ろ盾でもなければ、誕生したばかりで実績も何もないベンチャー企業がボッシュに交渉に向かっても、門前払い同然だっただろうから、陸軍も自動車工業もあれほど慌てる必要などなかったのだ。
 さらに言えばその計画に、間接的だったとは思うが三菱が一枚かんでいたことも、あり得ない話ではないと思う。
 安達がボッシュに向かった1936年10月ごろといえば、陸軍省・商工省主導による自動車製造事業法の施行により、トヨタと日産が許可会社に認定された(1936年9月)直後だ。この後に否応もなく想定される、両省主導によるディーゼル車の一本化政策に対しての強い反発と、ボッシュのライセンス権を陸軍・商工省色の強い自動車工業に独占させない為に、海軍と三菱の思惑が一致し、その流れにくさびを打ち込もうとした可能性も十分あり得たと思う。
 実際、それから2年も経たないが、前項で記したヂーゼル機器設立の経緯の中で、大三菱の組織の中の一部の重役が、当時どのように考えていたのか、その痕跡が残っている。陸軍の斡旋に対して、三菱が全額出資して『一手にボッシュポンプを製造し、ディーゼルエンジンの生産に本格的に乗り出したいと希望を表明』(②P197)しているのだ。
(以上は何度も何度も記すが、まったくの憶測です。綺麗に纏められた下図は、ダイムラー・ベンツのDB601エンジンのライセンス生産の際の購入経緯で「航空機に見る日本陸海軍の確執」という、以下のブログ記事よりコピーさせていただいた。
http://soranokakera.lekumo.biz/tesr/2014/08/post-71f2.html
ヒトラーから「日本の陸海軍は仇同士か」と呆れられたのは有名な話だ。なにせ戦前の日本では、陸軍と海軍は別の目的のそれぞれの戦争を戦っていたのだ。(ちなみにDB601購入の実際の経緯はもっと複雑だったとの意見もあるので下記に乗せておきます。
https://carview.yahoo.co.jp/ncar/catalog/bmw/series_1_hatchback/chiebukuro/detail/?qid=11134718241)

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http://soranokakera.lekumo.biz/tesr/images/2014/08/03/db601.jpg
 しつこいようだが状況証拠?を、さらにいくつか掲げておくと、(⑦P91)に1941年、『海軍関係の自動車工業団体を作ろうとの話が出て、前記菅原氏(横浜の極東特殊自動車)が中心となり、鐘淵デイゼル工業㈱の社長榊春寿氏を会長として、海工会と呼ぶ団体が、銀座の三共㈱の二階に成立した。その事務所は当時鐘淵デイゼル工業㈱の東京事務所があったからである。』との記述がある。同社と海軍との深い結びつきがうかがえるが、いずれにせよ、統制型エンジンの流れと全くかけ離れた2ストロークのユンカース式ディーゼルを選択した時点で、陸軍と疎遠になることは避けられないことだった。
 陸軍の原乙未生は先の(③P96)の座談会で『このエンジンは難しいものですから、戦車関係では採用しませんでしたが、陸軍の燃料廠などはポンプ用に買い上げたようです。』と語っており、陸軍側は、既述のように同社の苦境時に、大阪砲兵工廠からの砲弾の下請け加工の仕事を回すなど、陸軍OBの立ち上げた企業に対して、それなりに気には掛けていたようだが。
 同じ③の座談会で阿知波二郎は『私の方ではトラックも造りましたが、それは全部海軍の施設本部に納めています。』(③P131)と語っている(((web40)P116)では『満州方面と海軍施設本部』としている)。
 以上、日本デイゼルと海軍との結びつきについて、想像しつつ記してきたが、UDのOBの方の中には、創業当初の経緯について、ここで記したような“憶測”ではなく、詳しく正確な情報をお持ちの方も多数おられると思う。そのあたりから漏れ伝わってくる情報が、同社の歴史を扱った既存の自動車の歴史書に於いても、反映されているとありがたかった。
― 以上 ―
※この記事のまとめ部分は、もう少し時間をおいてから追記します。


㉑の引用元(本)
①:「国産トラックの歴史」中沖満+GP企画センター(2005.10)グランプリ出版
②:「日本自動車産業の成立と自動車製造事業法の研究」大場四千男(2001.04)信山社
③:「日本自動車工業史座談会記録集」自動車工業振興会(1973.09)
④:「日本自動車工業史―小型車と大衆車による二つの道程」呂寅満(2011.02)東京大学出版会
⑤:「苦難の歴史 国産車づくりの挑戦」桂木洋二(2008.12)グランプリ出版
⑥:「日本の自動車産業 企業者活動と競争力」四宮正親(1998.09)日本経済評論社
⑦:「日本自動車工業史稿 3巻」(昭和6年~終戦編)(1969.05)自動車工業会 「日本二輪史研究会」コピー版
⑧:「日本軍と軍用車両」林譲治(2019.09)並木書房
⑨:「伊藤正男 トップエンジニアと仲間たち」坂上茂樹(1998.03)日本経済評論社
⑩:「トヨタ自動車30年史」トヨタ自動車工業株式会社社史編集委員会(1967.12)トヨタ自動車工業株式会社
⑪:「西のリラー 東のオートモ(前編)」「轍をたどる」国産小型自動車のあゆみ」岩立喜久雄 月刊オールド・タイマー(2007.08、№.95)(八重洲出版)
⑫:「「久保田権四郎 国産化の夢に挑んだ関西発の職人魂」沢井実(2017.12)PHP研究所」
⑬:「企業家活動でたどる日本の自動車産業史」法政大学イノベーション・マネジメントセンター 宇田川勝・四宮正親編著(2012.03)白桃書房
⑭:「日本の自動車産業経営史」宇田川勝(2013.10)文眞堂
⑮:「ふそうの歩み」三菱自動車工業株式会社 東京自動車製作所(1977.09)
⑯:「日野自動車の100年」鈴木孝(2010.09)三樹書房
⑰:「鉄道車輛工業と自動車工業」坂上茂樹(2005.01)日本経済評論社
⑱:「日本のバス年代記」鈴木文彦(1999.11)グランプリ出版
⑲:「太平洋戦争のロジスティクス」林譲治(2013.12)学研パブリッシング
⑳:「日本のディーゼル自動車」」坂上茂樹(1988.01)日本経済評論社
㉑:「ディーゼルエンジンの挑戦」鈴木孝(2003.07)三樹書房
㉒:「20世紀のエンジン史」鈴木孝(2001.12)三樹書房
㉓:「日本のトラック・バス いすゞ・日産/日産ディーゼル・三菱/三菱ふそう・マツダ・ホンダ編」小関和夫(2007.04)三樹書房
㉔:「日本における自動車の世紀」桂木洋二(1999.08)グランプリ出版
㉕:「三菱ふそうのすべて」カミオン特別編集(2011.05)芸文社
㉖:「いすゞトラック図鑑 1924-1970」筒井幸彦(2021.06)三樹書房
㉗:「UDトラックスのすべて」カミオン特別編集(2013.05)芸文社
㉘:「ドキュメント昭和3 アメリカ車上陸を阻止せよ」NHK取材班=編 (1986.06)角川書店

Webの引用元
Web(1):「いすゞTX40型トラック」日本の自動車技術330選 JSAE
https://www.jsae.or.jp/autotech/3-5.php
Web(2):「日本の自動車産業はトラックから始まった!! 国内基幹産業の礎を築いたいすゞの一大プロジェクトとは?」fullload web
https://fullload.bestcarweb.jp/feature/359335
web(3):「自動車工業の確立と「統制」-1930 年代初頭における政策構想の一側面-」加 藤健太
file:///C:/Users/Kohase/Downloads/01_%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%81%A5%E5%A4%AA%20(2).pdf
web(4):「第7項 「自動車製造事業法」の許可会社に指定」トヨタ自動車75年史(トヨタ自動車HP)
https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/text/taking_on_the_automotive_business/chapter2/section2/item7.html
web(5):「渋沢栄一の三男・正雄が語った「親父が失敗した製鉄業に専念する理由」」ダイヤモンドオンライン
https://diamond.jp/articles/-/277816
web(6):「瓦斯電から日野自動車へ」家本潔JSAEインタビュー
https://www.jsae.or.jp/~dat1/interview/interview4.pdf
web(7):「自動車工業を満業系資本で独占 (上・下)東京瓦斯電工を支配」満州日日新聞 1938.5.12-1938.5.13 (昭和13)(神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫)
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00063513&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1
web(8):「飛行機を量産したトラック会社と星子勇」鈴木孝
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsmetsd/2006/0/2006_43/_pdf
web(9):「ボディメーカーの歴史」岩手県のバス、その頃
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web(10):「バスに関する記念碑「菅健次郎君頌徳碑」」岩手県のバス、その頃
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web(44)「外地の機械化施工」岡本直樹
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web(45):「1930年代の電機企業にみる重工業企業集団形成と軍需進出」(吉田正樹)=
file:///C:/Users/Kohase/Downloads/AN00234698-19960400-00698117.pdf)

プロフィール

マルプーのぼんちゃん

Author:マルプーのぼんちゃん
【ぼんちゃん】
推定年齢12歳(2020年6月現在)ぐらいの、オスのマルプー犬のぼんちゃん。年より若く見える。マルプーではちょっと稀な“キレカワ系”💛 性格は、おとなしくてやさしくて人懐っこくて庶民的?でも対犬ではかなり臆病。散歩だけはたくさん(1日1~3時間ぐらい)させてもらっている。選択の余地なく、毎日おっさんの面倒をみている。
【おっさん】
推定年齢60歳+のシガナイ初老の独身オヤジ。ひょんなことからぼんちゃんと2人で暮らすことになったが、おかげさまで日々シアワセに暮らしている。

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