③カーグラに掲載された自動車広告について
③カーグラに掲載された広告について
今年は50本の自動車記事をUPする!という高い?目標を掲げて、1月6日に“その②”をUPしてからはや一ヶ月が経とうとしているが、なかなかその③が書けないでいた。その言い訳だがこの間、分かったことが2つあった。
(1)そもそも文章を書くのが億劫&苦手だったことが改めて分かった!
(2)今、50年間ため込んできたバラバラ(雑誌本体はジャマなので“解体”処分済み)の自動車雑誌の記事(主にCGとNAVI)を、これから残り48本記事を“量産”するため整理中だ。ところが、当然残したものと思い込んでいた記事の多くを、実際には捨ててしまっていた。
(1)は今さらの話だが、(2)は大きな痛手だ。実はこれから“自動車その③”の記事を「カーグラに掲載された自動車広告について」というテーマで書こうと思っているのだが、かつてカーグラに連続シリーズモノで掲載されていた、スバル(当時は富士重工)の、マニアックだけれど分かりやすくイラストで解説されていたボクサーエンジンの話シリーズ(正式な広告のタイトルも忘れた)をメインに紹介しようと思っていた。しかし保存していたつもりがどうやら途中で捨ててしまったらしく、自分の頭の中には”存在“していてもさすがに”現物“がなければ、記事が書けない。それでもネットで探せばあるのではと甘く考えていたが、ざっと調べた限りでは、この一連のシリーズのスバルの広告は見当たらなかった。記憶ではたとえば、一般的には”フラット12“と言われていたフェラーリのエンジンは、厳密には180度V12であることなどを、素人にもわかりやすくイラストで解説していた。(結局、yahoo知恵袋で…(画像も、涙))
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13184795363

考えてみればこの50年の間に、行って帰った分も含めれば6回引っ越ししており、広告は記事に比べて“下”に見た時期があったようで、ほとんど処分してしまったようだ。う~なんという取り返しのつかないことを…。
広告から話が逸れるが、スバルは飛行機のイラストのカレンダーで長年(41年も続いたらしい)定評があり、方向的には少し被るものがあった?
(画像https://car.watch.impress.co.jp/img/car/docs/726/261/html/01.jpg.html)

それでも(かつての)スバルの優れた広告で、もう一つ紹介しようと思っていたものは辛くも保存されていた。それはシルクロードを軸として世界の遺跡を撮り続けた世界的写真家(wikiより)の並河萬里氏が、撮影取材用にレオーネ4WDを愛用していたことから生まれたコラボで、スキャナーでどれだけ表現されるか怪しいが、『サンクチュアリ・オブ・ザ・ワールド、トルコ・イスタンブール トプカプ宮殿前、永い永い旅へ。』と題した美しい写真をまずはご覧いただきたい。

『~ここイスタンブールの、ボスポラス海峡を見下ろすアパートで、シリア行きの準備が行われている。日本から持ってきた一台のクルマも総チェック中だ。窓から見える空はあくまでも碧い。シリアの灼熱の空はどんな色をしているだろうか。』
ネットで検索したところ、『写真家 並河萬里氏(1931-2006)は、1977年から1979年の23ヶ月間イスタンブールを拠点として、特別仕様のスバル・レオーネ4WDを駆ってシルクロードを全方向に延十万キロを走破して撮影取材を敢行しました。』という記事があった。(画像もコピー。スバル系ラリーストの高岡祥郎氏を中心に改造を加えたらしい。)
https://minkara.carview.co.jp/userid/2145439/blog/41952906/

もう一つ、『シリア・ラサファ地方 シリア砂漠の遊牧民と、遊牧民は嘲笑った。』の記事より。

『~200頭はいるかと思われるラクダの大群と会う。遊牧民のグループが引き連れているらしい。男、女、子供、みな強烈な原色の衣装をしている。このグループは幸いにも戦闘的な民族でなかった。~ どこ迄行くのか、とグループの若者がたずねる。パルミュラと答えると、とたんに真剣な顔をしてしゃべりだした。つまり、気違い沙汰だと言うことらしい。自動車は故障する。ラクダは故障しない。砂漠の唯一の頼りはラクダだけだと言う。その親切な忠告は、なぜか私の心にしみた。しかしいま、私たちはこの車に生命を預けるしか方法はない。~』
今見ても、スバルのブランドイメージを高める、良い広告だったと思う。
またまた広告の話が逸れるが、同じような「原住民と自動車」をテーマにした構図の、全く別の記事からの写真も一枚。サファリラリーを制した日産(ダットサン)240Zとアフリカの原住民。当時のカーグラに掲載された、J.Pキャロン氏の写真です。(並河さんのより、ちょっとわざとらしいけれど?)

確かに広告も玉石混交だが、下手な雑誌記事よりはるかに時代を表す場合もある。
スバルの広告とともに、ぜひ紹介したかったのが、ある時期のカーグラの終わりの方の“定位置”に陣取った、並行輸入業者“オートロマン”の広告だが、なんとこれもすべて捨ててしまっていた…。
以下、当時の“雰囲気”をよく伝えた、ネットのブログ「M2的な毎日」さんから引用します(画像もコピー)。
http://blog.livedoor.jp/hd1978/archives/51848221.html
『~しかし、オートロマンの広告ほど、インパクトの有った写真とコピーを備えたものは、その後は現れていないと僕は思う。オートロマンが存在していた当時、毎月1日になると、本屋さんに飛び込んで、「カー・グラフィック」誌を手に取り、クルマのレポートはそっちのけで、まず後半に載っているオートロマンの広告を読み、一番後ろに載っているミツワ自動車の広告を読み、最初の方に載っている、小林彰太郎編集長のコラムを読み、ポール・フレール氏のコラムを読んでから、テストレポートを読んでいた。~』

三上は~した、と断じる、かなり濃いめで、危ない大人のキャラの三上祥一社長率いる“オートロマン”(前社名は日本フェリックス)は、横浜に構える“シーサイド モータース”
https://blogs.yahoo.co.jp/butoboso0217/35152322.html
とともに、スーパーカーの時代の聖地として君臨していた。
自分はスーパーカーブームより一つ前の世代だが、当時なぜ、正規代理店でなく、並行輸入業者が“聖地”だったかについて、小林彰太郎さんがカーグラで語っている。
『~70年代に入ってからも、いわゆるスーパーカーは正規輸入よりは、並行輸入の方が圧倒的に数が多かったんだけど、ありがたいことに、我々にはコレクターの方たちが協力してくださった。浮谷東次郎(1965年に事故死した伝説のレーシングドライバー)のご父君、洸次郎さんはランボルギーニがお好きで、コレクター仲間の市川人世さんという方とふたりで、競うようにしてスーパーカーを購入されていたんです。で、新しいクルマが入ると、ふたりでやってきては僕に乗ってみろって。本当にありがたい話ですね。』
『並行輸入が多かった理由?うーん、正規代理店が少なかったのもそうだけど、納期まで時間がかかったんでしょう。でも、並行輸入なら2週間で入ってくる。たとえば、SSSA(横浜のシーサイド・モーター)には実車のストックがあったし。そこが彼らの強みだった。それにホラ、ああいう方たちはガマンができない。『欲しい』ってなったら、明日にでも手に入れたい。子供と同じなんだね(笑)。SSSA、あとは田園調布のオートロマンか。~』
ブログで見つけた、「~ シーサイド物語 ~」より引用します。
http://www.castel-dino.com/president/seaside_003/main.html
『~浮谷さんとは、知らない人が多いかもしれないが、伝説のレーサーと言われた浮谷東次郎のお父さんだ。千葉県市川の裕福な家庭に育った、東次郎さんは、船橋サーキットで、数々の名勝負を演じ、将来有望なレーサーと呼ばれたが、鈴鹿サーキットで練習中に死亡した。勿論、お父さんも無類のカーマニアで、私がお会いしたのは、74年まだビル建設のために仮社屋だった倉庫兼事務所に、シルバーのマセラティボーラを、雨の中乗ってこられた時だった。今思えば、当時はまだこの手の車は、ほんの一握りの裕福なカーマニアしか、持てない時代だったのだろう。』(写真は浮谷洸次郎氏がワンオーナーで新車から愛用されたランボルギーニです。)http://castelauto.blog.fc2.com/blog-date-201305.html

今よりもさらに、スーパーカーは別世界の乗り物だったのだ。
今年は50本の自動車記事をUPする!という高い?目標を掲げて、1月6日に“その②”をUPしてからはや一ヶ月が経とうとしているが、なかなかその③が書けないでいた。その言い訳だがこの間、分かったことが2つあった。
(1)そもそも文章を書くのが億劫&苦手だったことが改めて分かった!
(2)今、50年間ため込んできたバラバラ(雑誌本体はジャマなので“解体”処分済み)の自動車雑誌の記事(主にCGとNAVI)を、これから残り48本記事を“量産”するため整理中だ。ところが、当然残したものと思い込んでいた記事の多くを、実際には捨ててしまっていた。
(1)は今さらの話だが、(2)は大きな痛手だ。実はこれから“自動車その③”の記事を「カーグラに掲載された自動車広告について」というテーマで書こうと思っているのだが、かつてカーグラに連続シリーズモノで掲載されていた、スバル(当時は富士重工)の、マニアックだけれど分かりやすくイラストで解説されていたボクサーエンジンの話シリーズ(正式な広告のタイトルも忘れた)をメインに紹介しようと思っていた。しかし保存していたつもりがどうやら途中で捨ててしまったらしく、自分の頭の中には”存在“していてもさすがに”現物“がなければ、記事が書けない。それでもネットで探せばあるのではと甘く考えていたが、ざっと調べた限りでは、この一連のシリーズのスバルの広告は見当たらなかった。記憶ではたとえば、一般的には”フラット12“と言われていたフェラーリのエンジンは、厳密には180度V12であることなどを、素人にもわかりやすくイラストで解説していた。(結局、yahoo知恵袋で…(画像も、涙))
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13184795363

考えてみればこの50年の間に、行って帰った分も含めれば6回引っ越ししており、広告は記事に比べて“下”に見た時期があったようで、ほとんど処分してしまったようだ。う~なんという取り返しのつかないことを…。
広告から話が逸れるが、スバルは飛行機のイラストのカレンダーで長年(41年も続いたらしい)定評があり、方向的には少し被るものがあった?
(画像https://car.watch.impress.co.jp/img/car/docs/726/261/html/01.jpg.html)

それでも(かつての)スバルの優れた広告で、もう一つ紹介しようと思っていたものは辛くも保存されていた。それはシルクロードを軸として世界の遺跡を撮り続けた世界的写真家(wikiより)の並河萬里氏が、撮影取材用にレオーネ4WDを愛用していたことから生まれたコラボで、スキャナーでどれだけ表現されるか怪しいが、『サンクチュアリ・オブ・ザ・ワールド、トルコ・イスタンブール トプカプ宮殿前、永い永い旅へ。』と題した美しい写真をまずはご覧いただきたい。

『~ここイスタンブールの、ボスポラス海峡を見下ろすアパートで、シリア行きの準備が行われている。日本から持ってきた一台のクルマも総チェック中だ。窓から見える空はあくまでも碧い。シリアの灼熱の空はどんな色をしているだろうか。』
ネットで検索したところ、『写真家 並河萬里氏(1931-2006)は、1977年から1979年の23ヶ月間イスタンブールを拠点として、特別仕様のスバル・レオーネ4WDを駆ってシルクロードを全方向に延十万キロを走破して撮影取材を敢行しました。』という記事があった。(画像もコピー。スバル系ラリーストの高岡祥郎氏を中心に改造を加えたらしい。)
https://minkara.carview.co.jp/userid/2145439/blog/41952906/

もう一つ、『シリア・ラサファ地方 シリア砂漠の遊牧民と、遊牧民は嘲笑った。』の記事より。

『~200頭はいるかと思われるラクダの大群と会う。遊牧民のグループが引き連れているらしい。男、女、子供、みな強烈な原色の衣装をしている。このグループは幸いにも戦闘的な民族でなかった。~ どこ迄行くのか、とグループの若者がたずねる。パルミュラと答えると、とたんに真剣な顔をしてしゃべりだした。つまり、気違い沙汰だと言うことらしい。自動車は故障する。ラクダは故障しない。砂漠の唯一の頼りはラクダだけだと言う。その親切な忠告は、なぜか私の心にしみた。しかしいま、私たちはこの車に生命を預けるしか方法はない。~』
今見ても、スバルのブランドイメージを高める、良い広告だったと思う。
またまた広告の話が逸れるが、同じような「原住民と自動車」をテーマにした構図の、全く別の記事からの写真も一枚。サファリラリーを制した日産(ダットサン)240Zとアフリカの原住民。当時のカーグラに掲載された、J.Pキャロン氏の写真です。(並河さんのより、ちょっとわざとらしいけれど?)

確かに広告も玉石混交だが、下手な雑誌記事よりはるかに時代を表す場合もある。
スバルの広告とともに、ぜひ紹介したかったのが、ある時期のカーグラの終わりの方の“定位置”に陣取った、並行輸入業者“オートロマン”の広告だが、なんとこれもすべて捨ててしまっていた…。
以下、当時の“雰囲気”をよく伝えた、ネットのブログ「M2的な毎日」さんから引用します(画像もコピー)。
http://blog.livedoor.jp/hd1978/archives/51848221.html
『~しかし、オートロマンの広告ほど、インパクトの有った写真とコピーを備えたものは、その後は現れていないと僕は思う。オートロマンが存在していた当時、毎月1日になると、本屋さんに飛び込んで、「カー・グラフィック」誌を手に取り、クルマのレポートはそっちのけで、まず後半に載っているオートロマンの広告を読み、一番後ろに載っているミツワ自動車の広告を読み、最初の方に載っている、小林彰太郎編集長のコラムを読み、ポール・フレール氏のコラムを読んでから、テストレポートを読んでいた。~』

三上は~した、と断じる、かなり濃いめで、危ない大人のキャラの三上祥一社長率いる“オートロマン”(前社名は日本フェリックス)は、横浜に構える“シーサイド モータース”
https://blogs.yahoo.co.jp/butoboso0217/35152322.html
とともに、スーパーカーの時代の聖地として君臨していた。
自分はスーパーカーブームより一つ前の世代だが、当時なぜ、正規代理店でなく、並行輸入業者が“聖地”だったかについて、小林彰太郎さんがカーグラで語っている。
『~70年代に入ってからも、いわゆるスーパーカーは正規輸入よりは、並行輸入の方が圧倒的に数が多かったんだけど、ありがたいことに、我々にはコレクターの方たちが協力してくださった。浮谷東次郎(1965年に事故死した伝説のレーシングドライバー)のご父君、洸次郎さんはランボルギーニがお好きで、コレクター仲間の市川人世さんという方とふたりで、競うようにしてスーパーカーを購入されていたんです。で、新しいクルマが入ると、ふたりでやってきては僕に乗ってみろって。本当にありがたい話ですね。』
『並行輸入が多かった理由?うーん、正規代理店が少なかったのもそうだけど、納期まで時間がかかったんでしょう。でも、並行輸入なら2週間で入ってくる。たとえば、SSSA(横浜のシーサイド・モーター)には実車のストックがあったし。そこが彼らの強みだった。それにホラ、ああいう方たちはガマンができない。『欲しい』ってなったら、明日にでも手に入れたい。子供と同じなんだね(笑)。SSSA、あとは田園調布のオートロマンか。~』
ブログで見つけた、「~ シーサイド物語 ~」より引用します。
http://www.castel-dino.com/president/seaside_003/main.html
『~浮谷さんとは、知らない人が多いかもしれないが、伝説のレーサーと言われた浮谷東次郎のお父さんだ。千葉県市川の裕福な家庭に育った、東次郎さんは、船橋サーキットで、数々の名勝負を演じ、将来有望なレーサーと呼ばれたが、鈴鹿サーキットで練習中に死亡した。勿論、お父さんも無類のカーマニアで、私がお会いしたのは、74年まだビル建設のために仮社屋だった倉庫兼事務所に、シルバーのマセラティボーラを、雨の中乗ってこられた時だった。今思えば、当時はまだこの手の車は、ほんの一握りの裕福なカーマニアしか、持てない時代だったのだろう。』(写真は浮谷洸次郎氏がワンオーナーで新車から愛用されたランボルギーニです。)http://castelauto.blog.fc2.com/blog-date-201305.html

今よりもさらに、スーパーカーは別世界の乗り物だったのだ。