⑧インディーにおける“オッフィー”エンジンについて
⑧インディーにおける“オッフィー”エンジンについて
(困った~、大したボリュームでもないのに、書くのがどんどん億劫になっていく・・・)
もともとデューセンバーグの話題から始めたのに、その“本題”が終わらないうちに横道に逸れっぱなしだが、⑦のミラーの続きでその後継者的な立場で、アメリカのモータースポーツ界において、ミラー以上の大成功を収めた、オッフェンハウザーエンジン(通称“オッフィー”エンジン)についても、簡単に記しておく。
以下の文は、桧垣和夫氏著の「インディー500」(二玄社)、

「乗り物ライター矢吹明紀の好きなモノ」さん、
https://ameblo.jp/akiyabuki/entry-10065712928.html
「S.A.Cサイバーパンク親父」さん
https://plaza.rakuten.co.jp/nishiono/diary/201706040001/
「TUGARUYA 津軽屋PJ日記」さん
https://tugaruya1.exblog.jp/20407536/
及びホンダのHP等を参考にしました。
まず最初に、“オッフィー”エンジンを語る上で、その誕生のきっかけとなった、⑦でも触れたアメリカレース界における“ジャンク・フォーミュラ”時代について、その経緯を簡単にでも触れておかないと、当時の状況が呑み込めないと思う。
ジャンク・フォーミュラ時代を導いたのは、エディ・リッケンバッカーだ。⑦で既述のようにミラー製のエンジンが圧倒的強さを誇り、レース参戦メーカーが少なくなっていた1920年代後半のアメリカのレース界に対して、1927年からインディアナポリス・モーター・スピードウェイ社のオーナーに納まった、リッケンバッカーが、危機感を抱き始めたことが事の始まりだ。

因みにこの、エディ・リッケンバッカーという人物は、第一次大戦のアメリカの撃墜王で、国民的な英雄だったようだ。⑦で少し触れたがインディにも出場している。
「★撃墜王 エディ・リッケンバッカー★」参照、画像もコピー。
https://blogs.yahoo.co.jp/riorio1964/64026591.html
上記ブログによれば、有名なギターの“リッケンバッカー”も、エディの遠縁の従兄が作った会社で、撃墜王として有名だった"リッケンバッカー"ブランドを自分のギターメイカー名にしたそうだ。
話を戻し、リッケンバッカーは、インディ500をアメリカの国民的なイベントに押し上げるべく、収益面でも敷地内にゴルフコースを設けたり、レースイベントに数多くのスポンサーを集めるなど、その改革に取り組みを始めた。
そしてマシーンの画一化(ミラーによる寡占状態)とコストの上昇に危機感を抱いたリッケンバッカーは1930年、レギュレーションの大胆な改革を実施した。こうして生まれることになった市販車ベースのレーシングカーは、がらくたを意味する“ジャンク・フォーミュラ”と後に呼ばれるようになるのだが、以下、桧垣和夫氏著「インディー500」(二玄社)から、ジャンク・フォーミュラについての説明を引用する。
『1920年代のインディーでは、まさにミラー(5勝)とデューセンバーグ(3勝)の二強の時代であった。特に1923年以降、シングルシーターになってからは、出場者のかなりの割合をミラーが占め、当然レース結果も、1,2台を除いてミラーが上位を独占する状態が続いた。』
『~そこで、マシーンの多様化とコスト削減を狙って、市販車をベースにしたマシーン(セミストック)が出場できるようにレギュレーションを変更し、かつてのようなアメリカ国内の自動車メーカーの積極的な参加を即すことにした。』
『変更点の概要を説明すると、まずエンジンの排気量の上限が、366cu.in(6ℓ)以下と大幅に引き上げられ、その一方でレーシング・エンジンの使用を抑えるために、加給や1気筒当たり2個を超えるバルブが禁止された(ただし、後者は翌年から再び許可)。さらに1750ポンド(約795kg)という最低車重が初めて導入され、また市販車に近づける意味から、再びライティング・メカニックの同乗が義務付けられた。』
『市販車を強く意識したこのようなマシーンは、“ジャンク(がらくたの意)・フォーミュラ”と呼ばれた。』
こうして1930年から始まったジャンク・フォーミュラ誕生の背景には当然ながら、大恐慌に突入した当時のアメリカの世相の影響もあっただろう。因みにミラーの最高傑作である“91”(=1.5ℓ)の価格は、1920年代末にエンジン単体で5000ドル、後輪駆動車で1万ドル、前輪駆動車で1.5万ドルと明確な価格であった。フォードのモデルAが450ドルぐらいの時代の話だ。
しかし、このリッケンバッカーによる意欲的な改革にかかわらず、市販車ベース車(セミストック)は数多く出場したものの、レース結果では1932年のスチュードベーカーの3位が最上位で、結局ミラーの強さは揺らぐことなく、セミストック車は次第に姿を消していった。そして1937年をもって、“ジャンク・フォーミュラ”時代は終わりを遂げた。
だがこの間、表向きはミラー強しの状況は変わらなかったが、その中身を仔細に見れば、“ガラクタ(ジャンク)”に相応しく、カオスな状況を作り出したことも確かであった。
たとえばジャンク・フォーミュラ初年度の1930年のインディ出場車中、もっとも多かったのはやはり定番のミラー製エンジン車だったが、前年までの“91”型寡占状態とは様変わりで、そのエンジン仕様は混沌としていた。確かにレース結果だけをみれば、ミラーエンジンが上位4位を独占したが、1位と3位が8気筒、2位は4気筒、4位が16気筒とそのスペックはバラバラであった。

1930年のインディを制したミラー8気筒
https://autoweek.com/article/indy-100/19-young-billy-arnold-dominates-1930-indy-500
そしてこの年2位に入賞した、今までの“正統的な?”流れではけっして日の目を見ることがなかったであろう4気筒エンジンが、その後名機オッフィーエンジンへと発展を遂げていく。
別の視点で、今度はミラー工場側から、当時の状況を想像してみる。ただ以下の文は、オッフィーに関しての日本語の資料が少ないため、周辺の状況からの憶測(飛躍?)判断が多い点を了承ください。
⑦で既述のようにハリー・ミラー自身は、ミラーつぶしとも言えるジャンク・フォーミュラに失望し、東部に去ってしまった。そのためこの間、ミラーエンジンを死守したのは、工場長のフレッド・オッフェンハウザーと、1920年(CGの記載による。別の情報では1919年というものもある)にビュイックから移籍し、ミラーの右腕としてミラー流の設計ノウハウを習得した、レオ・グーセンの二人だった。

フレッド・オッフェンハウザー
http://www.semahof.com/Fred_Offenhauser_2014_Inductee

レオ・グーセン https://www.museumofamericanspeed.com/leogoossen.html
二人は、天才肌であくまで理想を追求したミラーと違い、才能は限られていた分、あくまで堅実に、現実主義を貫いた。
ジャンク・フォーミュラのレギュレーションでは、排気量6ℓが上限であったが、前年までのレギュレーションに準拠した傑作“91”はたった、1.5ℓに過ぎなかった。当然、ミラーエンジンユーザーの間で、そのジャンク・フォーミュラ対応策について混乱があったろう。初年度は4バルブ→2バルブ化も必要であったし。
従来路線の正統的?な、直列8気筒エンジンの改造版(しかも“99”より排気量が大きい分多少有利な一世代前の“122”ベース)では、排気量アップに限界があり、当初は2.5ℓが限界だった。
そのためオッフェンハウザーは顧客つなぎ止めからも、その要望に柔軟に対応し、無敵を誇った名機“91” (1.5ℓ)を2つ組み合わせた16気筒(V型でなく、並列に配置してクランクをギアで連結)3.3ℓという多気筒版も登場した。名機×2ならば性能は期待できると考えた?
さらに別の顧客(ビル・ホワイトだったらしい)からの要請で、上記とは反対の方向性で、ハリー・ミラーが1926年にマリン(ボート)レース用に開発し、活躍した直4、2.5ℓ2バルブを3ℓに拡大、ロードレース仕様に改造したエンジンも登場した。
オッフェンハウザーとレオ・グーセンの手で改造された、この直4エンジンは、元はマリン用として開発されたもののためきわめて堅牢なエンジンで、ロードレース用としては優れたトルク特性を持ち、性能、耐久性、フレキシビリティ、サービス性に優れた、高バランスのエンジンとなった。
このエンジンがジャンク初年度の1930年のインディで2位に入り、その後もコンスタントに上位に食い込み、1934年にはついに優勝(しかも4気筒が1~4位独占!)を飾る。ちなみにこの勝利は1920年のフロンテナック以来の直4エンジンの勝利であった。(1921~33年は直8。以後インディでは、1939,40年のマセラティ(直8)、1946年のスパークス(レオ・グーセン設計の直6)を除き、1964年まで直4の時代が続いた。そしてその間の勝利を独占したのが、オッフィーエンジン。)
なおこの直4エンジン優位は、1934年から導入された、燃料の総量規制(45ガロン)の影響も大きかった。
1933年、大恐慌下の不況もあり、ミラーの工場は倒産した。しかし⑦で既述のように、フレッド・オッフェンハウザーが工具、図面の権利を買い、レオ・グーセンら従業員の雇用を継続して生産を引き継いだ。たぶん事前に独立の準備を進めていたのだろう?
現実的な対応力に優れたオッフェンハウザーは、波乱にとんだジャンク・フォーミュラ時代に、ミラーエンジンユーザーの要求に柔軟に対応しつつ、多様なエンジンスペックの経験を積み、ついに当時のアメリカン・オープンホイール用エンジンとしての、最適解を探りあてた。
ただインディにおけるオッフィーの成功は、ミラーの遺産を引き継ぎつつも試行錯誤の末の努力の賜物であるとともに、いくつかの幸運にも恵まれた結果のように思える。先に掲げた、雌雄を決する重要な時期に4気筒に有利に働いた燃料総量規制(1934~36年)や、最大のライバルになるはずのデューセンバーグが高級市販車路線に変更した事、せっかくのセミストックだが、スチュードベーカー以外の量産車メーカーが本腰を入れなかった事や(フォードはハリー・ミラーと組んだ意欲的というか冒険的な車でエントリーしたが、1936年単年度の単発的(気まぐれ的?)な試みで終わり、60年代にみられたような腰を据えたものではなかった)、大不況下の資金不足で、新しいライバルエンジンが育ちにくい環境もあったと思われる。やはりインディ特有の、500マイル(約800km)という長いレース距離を全開で走るという過酷な状況が、生半可な完成度のマシーンを撥ね退けてしまったような気もする。
1934年、まずは手始めに、ミジェットレース用として、4気筒97 cu in (1.59 ℓ)の、オッフェンハウザーエンジンの製造を開始した。
そして1935年のインディ用として、前年に優勝したミラー4気筒エンジンとは別物の、レオ・グーセンが設計し直し、オッフェンハウザー工場で製作された直列4気筒、4バルブ220 cu in(3.6 ℓ)のレーシングエンジンが、ついに1,2位を独占した。
このオッフェンハウザー製の4気筒レーシングエンジンは、のちに通称“オッフィー”と呼ばれ、インディにおいて1935年から1976年まで41年間で27勝し、そのうち47年から64年まで18連勝という、いまだに破られることのない、長い栄光の歴史の、最初の一歩を印すのであった。

https://www.honda.co.jp/IRL/spcontents2010/hyakkajiten/hyakka/engin_history/index.html
<それにしても上記の、ホンダのHPにあるオッフィーエンジンに対する説明で、「消防自動車に積まれていたポンプの原動エンジンをベースに生まれた」云々というくだりは、どう考えても“マリンエンジン用をベースに生まれた”の間違いなのでは。消防ポンプはたぶん、コヴェントリー・クライマックスエンジン(クーパー・クライマックスが1959、60年と2年連続F1制覇した、あの有名なエンジンメーカー)のことではないかと。トヨタのHPならこんな初歩的な間違いを絶対におかさないと思いますが・・・。自らインディに参戦しているホンダとしてはみっともないから早急に(こっそりと)訂正しておいた方が良いと思います。>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9
第二次世界大戦後の1946年、フレッド・オッフェンハウザーは、オッフィーの製造権を、メイヤー・ドレイク・エンジニアリング(インディで3勝した名ドライバーのルイス・メイヤーと、彼のメカニックだったデイル・ドレイクが共同で設立したショップ)へと売り渡し、以降はメイヤー・ドレーク・オッフィーとして製造されることとなった。この時点でオッフィーの名が外れなかったのは、既にブランドとして確固たる地位を築いていたことが理由であった。
メイヤー・ドレークとなってからのオッフィーは、その後もレオ・グーセンが改良を推し進め、USACのレースカーレギュレーションが変わると共に、様々なバリエーションが追加されることとなった。
オッフィーには数種類のエンジンブロックが存在し、ボア、ストロークを多様に組合せて、顧客の要望に応じて様々な派生エンジンが作られていった。
そしてインディ500に代表される高速オーバルトラックから、アメリカ独特のダートのショートオーバルまで、非常に高い汎用性を持つ万能レースエンジンとして君臨した。
50年代にはいると、従来のキャブレターに代えて、高回転域での伸びの良い、ヒルボーン社製燃料噴射装置仕様が徐々に広まっていく。
ノンターボ時代末期の、排気量252cu:in(約4.13ℓ)仕様では、15:1という高圧縮比で、420hp(310 kW)/ 6,600rpmの出力をたたき出した。

上は、1962年のインディを制した、ロジャー・ウォードのワトソン・オッフィー。まだフロントエンジン車だ。http://www.mikipress.com/m-base/indy500/
オッフィーの標準的なバリエーションは下記の通りであった。
97 cu in (1.59 ℓ) - ミゼット・シリーズの規則対応。
220 cu in(3.6 ℓ) - AAA(後のUSAC)スプリントカー規則対応。
270 cu in(4.4 ℓ) - AAA規則のもとでのインディアナポリス500対応。
255 cu in(4.18 ℓ)-インディ(1930年代の燃料消費の規則の間)対応。
252 cu in(4.13 ℓ) - インディのUSAC規則対応。
168 cu in(2.75 ℓ) - インディのターボエンジンの排気量規則(1968年まで)対応。
159 cu in(2.61 ℓ) - インディ(1969年以降)のターボエンジンの排気量規則対応。
以下の文章は主に「「乗り物ライター矢吹明紀の好きなモノ」さん」からの引用が中心です。
その登場から20年以上に渡ってインディ500を含むUSACナショナルチャンピオンにおける最有力エンジンとして君臨し続けたオッフィーだが、巨大企業フォードの挑戦を受けて、その名声も1960年代の半ばになると次第に陰りか見えて来ることとなった。
1965年、F1王者で当代一のレーシングドライバーであったジム・クラーク+ロータス・フォードV8(インディ初のミド・エンジン車の勝利でもあった)に圧勝されてから、以後フォードエンジンの3連勝(1965~67年)を許し、名機オッフィーもこれまでかと思われた。

1965年のインディを制した、ジム・クラークのロータス38フォード
http://www.topnews.jp/2017/04/13/news/f1/156727.html
しかしオッフィーは、ターボチャージャー化で奇跡の大復活を遂げることとなる。
排気量をレギュレーション一杯の2.74リッターに落としたオッフィー168は、オッフィーの名前が与えられていたもののその設計は全面的に変更されていた。しかしその基本メカニズムはオッフィーそのものに他ならず、マリンエンジン用から発展していった堅牢なブロックも受け継いでいた。オッフィー、そしてミラーのDNAはしっかりと継承されていた。その上でターボ化の恩恵で、そのパワーは600hpオーバーを達成、本来の軽量コンパクトな構造とあいまって再びレースエンジンとして第一線に返り咲くこととなったのである。
オッフィーを搭載したレースカーは、1972年から1976年までインディ500において破竹の5連覇を記録する。特に1973年以降は、シリンダーヘッドを完全に新設計し直した狭角バルブアングルのDGSオッフィー159へと発展。その実測での最高出力はターボ仕様初期型と比較して50%も向上した950psオーバーに達することとなる。オッフィーのメリットはこのピークパワーが8000rpmから9200rpmまで持続するというフレキシビリティの高さであり、全開走行が必須だったインディ500で高く評価された理由の一つでもあった。

1972年のインディを制した、ペンスキーレーシングのマクラーレンM16Bオッフィー。ドライバーはマーク・ダナヒュー。
オッフィーはこの後も1970年代を通じて最強レースエンジンの名声をまさに欲しいままにした。しかしコスワースDFXに代表されるライバルの追撃は著しく、メイヤー・ドレーク・エンジニアリングはリファインが限界に達したことを理由に1979年12月を最後にオッフィーエンジン製作から撤退することとなった。原型の誕生から40年余り。数々の紆余曲折を経験しながらも、これほどの長期に渡って第一線で発展し続けたレーシングエンジンは、これからも存在しないのではないか。

オッフィーのインディ500における最後の優勝は、1976年、ジョニー・ラザフォードのマクラーレン・オッフィーであった。
最後に余談を一つ。60年代の初めに、フォードは打倒オッフィーを掲げ、ロータスと組み、インディ500挑戦を決意した。
そして研究用にオッフィー・エンジンを購入したのだが、しかしここで問題が起こった。天下の大フォードが、オッフェンハウザー・エンジンを分解できなかったのである!
この時フォードから呼ばれた男が、当時オッフィーのチューナーとして有名であった、日系2世の“チッキー”(ちび)こと、タケオ・ヒラシマ氏であった。死後の1998年に、アメリカのモータースポーツの殿堂入りを果たした、氏の数奇な人生については、以下を参照されたい。
https://note.mu/msugaya/n/nd2143485aac0
https://ameblo.jp/ootadoragonsato/entry-10548866672.html
http://sports.47news.jp/smp/sports/columns/CN/EN201605/EN2016051701001590.html
フォードは平島の手で分解された、オッフィー・エンジンのシリンダーヘッドをレース部門に持ち込みそれをコピーした。そしてこのエンジンが、既述のように1965年にインディ500を制し、オッフィー・エンジンの18回連続優勝記録を止めたのであるが、ここからが本題なのだが、エンジンについて全くのド素人の文系人間の自分からみても思うのだが、初歩的な話ですが、排気量252cu:in(約4.13ℓ)もあるのにたった4気筒で、しかも15:1という高圧縮比のレーシングエンジンたる、オッフィーエンジンの燃焼(室)っていったいどうなっているのかと、大フォードにしても興味深々だった?(インディがアルコール燃料使用ということも微妙に影響している??)すでに60年近く前の話で、ワカリマセンが、思わず想像しちゃいました。

https://www.uniquecarsandparts.com/indy_offenhauser.htm
本ブログの自動車のパートの次回は、インディにおけるタービン・カーを書こうと思ったけれども面倒そうなのでやっぱりやめて、次は最近ご無沙汰している犬のパートにしようと思っています。
(困った~、大したボリュームでもないのに、書くのがどんどん億劫になっていく・・・)
もともとデューセンバーグの話題から始めたのに、その“本題”が終わらないうちに横道に逸れっぱなしだが、⑦のミラーの続きでその後継者的な立場で、アメリカのモータースポーツ界において、ミラー以上の大成功を収めた、オッフェンハウザーエンジン(通称“オッフィー”エンジン)についても、簡単に記しておく。
以下の文は、桧垣和夫氏著の「インディー500」(二玄社)、

「乗り物ライター矢吹明紀の好きなモノ」さん、
https://ameblo.jp/akiyabuki/entry-10065712928.html
「S.A.Cサイバーパンク親父」さん
https://plaza.rakuten.co.jp/nishiono/diary/201706040001/
「TUGARUYA 津軽屋PJ日記」さん
https://tugaruya1.exblog.jp/20407536/
及びホンダのHP等を参考にしました。
まず最初に、“オッフィー”エンジンを語る上で、その誕生のきっかけとなった、⑦でも触れたアメリカレース界における“ジャンク・フォーミュラ”時代について、その経緯を簡単にでも触れておかないと、当時の状況が呑み込めないと思う。
ジャンク・フォーミュラ時代を導いたのは、エディ・リッケンバッカーだ。⑦で既述のようにミラー製のエンジンが圧倒的強さを誇り、レース参戦メーカーが少なくなっていた1920年代後半のアメリカのレース界に対して、1927年からインディアナポリス・モーター・スピードウェイ社のオーナーに納まった、リッケンバッカーが、危機感を抱き始めたことが事の始まりだ。

因みにこの、エディ・リッケンバッカーという人物は、第一次大戦のアメリカの撃墜王で、国民的な英雄だったようだ。⑦で少し触れたがインディにも出場している。
「★撃墜王 エディ・リッケンバッカー★」参照、画像もコピー。
https://blogs.yahoo.co.jp/riorio1964/64026591.html
上記ブログによれば、有名なギターの“リッケンバッカー”も、エディの遠縁の従兄が作った会社で、撃墜王として有名だった"リッケンバッカー"ブランドを自分のギターメイカー名にしたそうだ。
話を戻し、リッケンバッカーは、インディ500をアメリカの国民的なイベントに押し上げるべく、収益面でも敷地内にゴルフコースを設けたり、レースイベントに数多くのスポンサーを集めるなど、その改革に取り組みを始めた。
そしてマシーンの画一化(ミラーによる寡占状態)とコストの上昇に危機感を抱いたリッケンバッカーは1930年、レギュレーションの大胆な改革を実施した。こうして生まれることになった市販車ベースのレーシングカーは、がらくたを意味する“ジャンク・フォーミュラ”と後に呼ばれるようになるのだが、以下、桧垣和夫氏著「インディー500」(二玄社)から、ジャンク・フォーミュラについての説明を引用する。
『1920年代のインディーでは、まさにミラー(5勝)とデューセンバーグ(3勝)の二強の時代であった。特に1923年以降、シングルシーターになってからは、出場者のかなりの割合をミラーが占め、当然レース結果も、1,2台を除いてミラーが上位を独占する状態が続いた。』
『~そこで、マシーンの多様化とコスト削減を狙って、市販車をベースにしたマシーン(セミストック)が出場できるようにレギュレーションを変更し、かつてのようなアメリカ国内の自動車メーカーの積極的な参加を即すことにした。』
『変更点の概要を説明すると、まずエンジンの排気量の上限が、366cu.in(6ℓ)以下と大幅に引き上げられ、その一方でレーシング・エンジンの使用を抑えるために、加給や1気筒当たり2個を超えるバルブが禁止された(ただし、後者は翌年から再び許可)。さらに1750ポンド(約795kg)という最低車重が初めて導入され、また市販車に近づける意味から、再びライティング・メカニックの同乗が義務付けられた。』
『市販車を強く意識したこのようなマシーンは、“ジャンク(がらくたの意)・フォーミュラ”と呼ばれた。』
こうして1930年から始まったジャンク・フォーミュラ誕生の背景には当然ながら、大恐慌に突入した当時のアメリカの世相の影響もあっただろう。因みにミラーの最高傑作である“91”(=1.5ℓ)の価格は、1920年代末にエンジン単体で5000ドル、後輪駆動車で1万ドル、前輪駆動車で1.5万ドルと明確な価格であった。フォードのモデルAが450ドルぐらいの時代の話だ。
しかし、このリッケンバッカーによる意欲的な改革にかかわらず、市販車ベース車(セミストック)は数多く出場したものの、レース結果では1932年のスチュードベーカーの3位が最上位で、結局ミラーの強さは揺らぐことなく、セミストック車は次第に姿を消していった。そして1937年をもって、“ジャンク・フォーミュラ”時代は終わりを遂げた。
だがこの間、表向きはミラー強しの状況は変わらなかったが、その中身を仔細に見れば、“ガラクタ(ジャンク)”に相応しく、カオスな状況を作り出したことも確かであった。
たとえばジャンク・フォーミュラ初年度の1930年のインディ出場車中、もっとも多かったのはやはり定番のミラー製エンジン車だったが、前年までの“91”型寡占状態とは様変わりで、そのエンジン仕様は混沌としていた。確かにレース結果だけをみれば、ミラーエンジンが上位4位を独占したが、1位と3位が8気筒、2位は4気筒、4位が16気筒とそのスペックはバラバラであった。

1930年のインディを制したミラー8気筒
https://autoweek.com/article/indy-100/19-young-billy-arnold-dominates-1930-indy-500
そしてこの年2位に入賞した、今までの“正統的な?”流れではけっして日の目を見ることがなかったであろう4気筒エンジンが、その後名機オッフィーエンジンへと発展を遂げていく。
別の視点で、今度はミラー工場側から、当時の状況を想像してみる。ただ以下の文は、オッフィーに関しての日本語の資料が少ないため、周辺の状況からの憶測(飛躍?)判断が多い点を了承ください。
⑦で既述のようにハリー・ミラー自身は、ミラーつぶしとも言えるジャンク・フォーミュラに失望し、東部に去ってしまった。そのためこの間、ミラーエンジンを死守したのは、工場長のフレッド・オッフェンハウザーと、1920年(CGの記載による。別の情報では1919年というものもある)にビュイックから移籍し、ミラーの右腕としてミラー流の設計ノウハウを習得した、レオ・グーセンの二人だった。

フレッド・オッフェンハウザー
http://www.semahof.com/Fred_Offenhauser_2014_Inductee

レオ・グーセン https://www.museumofamericanspeed.com/leogoossen.html
二人は、天才肌であくまで理想を追求したミラーと違い、才能は限られていた分、あくまで堅実に、現実主義を貫いた。
ジャンク・フォーミュラのレギュレーションでは、排気量6ℓが上限であったが、前年までのレギュレーションに準拠した傑作“91”はたった、1.5ℓに過ぎなかった。当然、ミラーエンジンユーザーの間で、そのジャンク・フォーミュラ対応策について混乱があったろう。初年度は4バルブ→2バルブ化も必要であったし。
従来路線の正統的?な、直列8気筒エンジンの改造版(しかも“99”より排気量が大きい分多少有利な一世代前の“122”ベース)では、排気量アップに限界があり、当初は2.5ℓが限界だった。
そのためオッフェンハウザーは顧客つなぎ止めからも、その要望に柔軟に対応し、無敵を誇った名機“91” (1.5ℓ)を2つ組み合わせた16気筒(V型でなく、並列に配置してクランクをギアで連結)3.3ℓという多気筒版も登場した。名機×2ならば性能は期待できると考えた?
さらに別の顧客(ビル・ホワイトだったらしい)からの要請で、上記とは反対の方向性で、ハリー・ミラーが1926年にマリン(ボート)レース用に開発し、活躍した直4、2.5ℓ2バルブを3ℓに拡大、ロードレース仕様に改造したエンジンも登場した。
オッフェンハウザーとレオ・グーセンの手で改造された、この直4エンジンは、元はマリン用として開発されたもののためきわめて堅牢なエンジンで、ロードレース用としては優れたトルク特性を持ち、性能、耐久性、フレキシビリティ、サービス性に優れた、高バランスのエンジンとなった。
このエンジンがジャンク初年度の1930年のインディで2位に入り、その後もコンスタントに上位に食い込み、1934年にはついに優勝(しかも4気筒が1~4位独占!)を飾る。ちなみにこの勝利は1920年のフロンテナック以来の直4エンジンの勝利であった。(1921~33年は直8。以後インディでは、1939,40年のマセラティ(直8)、1946年のスパークス(レオ・グーセン設計の直6)を除き、1964年まで直4の時代が続いた。そしてその間の勝利を独占したのが、オッフィーエンジン。)
なおこの直4エンジン優位は、1934年から導入された、燃料の総量規制(45ガロン)の影響も大きかった。
1933年、大恐慌下の不況もあり、ミラーの工場は倒産した。しかし⑦で既述のように、フレッド・オッフェンハウザーが工具、図面の権利を買い、レオ・グーセンら従業員の雇用を継続して生産を引き継いだ。たぶん事前に独立の準備を進めていたのだろう?
現実的な対応力に優れたオッフェンハウザーは、波乱にとんだジャンク・フォーミュラ時代に、ミラーエンジンユーザーの要求に柔軟に対応しつつ、多様なエンジンスペックの経験を積み、ついに当時のアメリカン・オープンホイール用エンジンとしての、最適解を探りあてた。
ただインディにおけるオッフィーの成功は、ミラーの遺産を引き継ぎつつも試行錯誤の末の努力の賜物であるとともに、いくつかの幸運にも恵まれた結果のように思える。先に掲げた、雌雄を決する重要な時期に4気筒に有利に働いた燃料総量規制(1934~36年)や、最大のライバルになるはずのデューセンバーグが高級市販車路線に変更した事、せっかくのセミストックだが、スチュードベーカー以外の量産車メーカーが本腰を入れなかった事や(フォードはハリー・ミラーと組んだ意欲的というか冒険的な車でエントリーしたが、1936年単年度の単発的(気まぐれ的?)な試みで終わり、60年代にみられたような腰を据えたものではなかった)、大不況下の資金不足で、新しいライバルエンジンが育ちにくい環境もあったと思われる。やはりインディ特有の、500マイル(約800km)という長いレース距離を全開で走るという過酷な状況が、生半可な完成度のマシーンを撥ね退けてしまったような気もする。
1934年、まずは手始めに、ミジェットレース用として、4気筒97 cu in (1.59 ℓ)の、オッフェンハウザーエンジンの製造を開始した。
そして1935年のインディ用として、前年に優勝したミラー4気筒エンジンとは別物の、レオ・グーセンが設計し直し、オッフェンハウザー工場で製作された直列4気筒、4バルブ220 cu in(3.6 ℓ)のレーシングエンジンが、ついに1,2位を独占した。
このオッフェンハウザー製の4気筒レーシングエンジンは、のちに通称“オッフィー”と呼ばれ、インディにおいて1935年から1976年まで41年間で27勝し、そのうち47年から64年まで18連勝という、いまだに破られることのない、長い栄光の歴史の、最初の一歩を印すのであった。

https://www.honda.co.jp/IRL/spcontents2010/hyakkajiten/hyakka/engin_history/index.html
<それにしても上記の、ホンダのHPにあるオッフィーエンジンに対する説明で、「消防自動車に積まれていたポンプの原動エンジンをベースに生まれた」云々というくだりは、どう考えても“マリンエンジン用をベースに生まれた”の間違いなのでは。消防ポンプはたぶん、コヴェントリー・クライマックスエンジン(クーパー・クライマックスが1959、60年と2年連続F1制覇した、あの有名なエンジンメーカー)のことではないかと。トヨタのHPならこんな初歩的な間違いを絶対におかさないと思いますが・・・。自らインディに参戦しているホンダとしてはみっともないから早急に(こっそりと)訂正しておいた方が良いと思います。>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9
第二次世界大戦後の1946年、フレッド・オッフェンハウザーは、オッフィーの製造権を、メイヤー・ドレイク・エンジニアリング(インディで3勝した名ドライバーのルイス・メイヤーと、彼のメカニックだったデイル・ドレイクが共同で設立したショップ)へと売り渡し、以降はメイヤー・ドレーク・オッフィーとして製造されることとなった。この時点でオッフィーの名が外れなかったのは、既にブランドとして確固たる地位を築いていたことが理由であった。
メイヤー・ドレークとなってからのオッフィーは、その後もレオ・グーセンが改良を推し進め、USACのレースカーレギュレーションが変わると共に、様々なバリエーションが追加されることとなった。
オッフィーには数種類のエンジンブロックが存在し、ボア、ストロークを多様に組合せて、顧客の要望に応じて様々な派生エンジンが作られていった。
そしてインディ500に代表される高速オーバルトラックから、アメリカ独特のダートのショートオーバルまで、非常に高い汎用性を持つ万能レースエンジンとして君臨した。
50年代にはいると、従来のキャブレターに代えて、高回転域での伸びの良い、ヒルボーン社製燃料噴射装置仕様が徐々に広まっていく。
ノンターボ時代末期の、排気量252cu:in(約4.13ℓ)仕様では、15:1という高圧縮比で、420hp(310 kW)/ 6,600rpmの出力をたたき出した。

上は、1962年のインディを制した、ロジャー・ウォードのワトソン・オッフィー。まだフロントエンジン車だ。http://www.mikipress.com/m-base/indy500/
オッフィーの標準的なバリエーションは下記の通りであった。
97 cu in (1.59 ℓ) - ミゼット・シリーズの規則対応。
220 cu in(3.6 ℓ) - AAA(後のUSAC)スプリントカー規則対応。
270 cu in(4.4 ℓ) - AAA規則のもとでのインディアナポリス500対応。
255 cu in(4.18 ℓ)-インディ(1930年代の燃料消費の規則の間)対応。
252 cu in(4.13 ℓ) - インディのUSAC規則対応。
168 cu in(2.75 ℓ) - インディのターボエンジンの排気量規則(1968年まで)対応。
159 cu in(2.61 ℓ) - インディ(1969年以降)のターボエンジンの排気量規則対応。
以下の文章は主に「「乗り物ライター矢吹明紀の好きなモノ」さん」からの引用が中心です。
その登場から20年以上に渡ってインディ500を含むUSACナショナルチャンピオンにおける最有力エンジンとして君臨し続けたオッフィーだが、巨大企業フォードの挑戦を受けて、その名声も1960年代の半ばになると次第に陰りか見えて来ることとなった。
1965年、F1王者で当代一のレーシングドライバーであったジム・クラーク+ロータス・フォードV8(インディ初のミド・エンジン車の勝利でもあった)に圧勝されてから、以後フォードエンジンの3連勝(1965~67年)を許し、名機オッフィーもこれまでかと思われた。

1965年のインディを制した、ジム・クラークのロータス38フォード
http://www.topnews.jp/2017/04/13/news/f1/156727.html
しかしオッフィーは、ターボチャージャー化で奇跡の大復活を遂げることとなる。
排気量をレギュレーション一杯の2.74リッターに落としたオッフィー168は、オッフィーの名前が与えられていたもののその設計は全面的に変更されていた。しかしその基本メカニズムはオッフィーそのものに他ならず、マリンエンジン用から発展していった堅牢なブロックも受け継いでいた。オッフィー、そしてミラーのDNAはしっかりと継承されていた。その上でターボ化の恩恵で、そのパワーは600hpオーバーを達成、本来の軽量コンパクトな構造とあいまって再びレースエンジンとして第一線に返り咲くこととなったのである。
オッフィーを搭載したレースカーは、1972年から1976年までインディ500において破竹の5連覇を記録する。特に1973年以降は、シリンダーヘッドを完全に新設計し直した狭角バルブアングルのDGSオッフィー159へと発展。その実測での最高出力はターボ仕様初期型と比較して50%も向上した950psオーバーに達することとなる。オッフィーのメリットはこのピークパワーが8000rpmから9200rpmまで持続するというフレキシビリティの高さであり、全開走行が必須だったインディ500で高く評価された理由の一つでもあった。

1972年のインディを制した、ペンスキーレーシングのマクラーレンM16Bオッフィー。ドライバーはマーク・ダナヒュー。
オッフィーはこの後も1970年代を通じて最強レースエンジンの名声をまさに欲しいままにした。しかしコスワースDFXに代表されるライバルの追撃は著しく、メイヤー・ドレーク・エンジニアリングはリファインが限界に達したことを理由に1979年12月を最後にオッフィーエンジン製作から撤退することとなった。原型の誕生から40年余り。数々の紆余曲折を経験しながらも、これほどの長期に渡って第一線で発展し続けたレーシングエンジンは、これからも存在しないのではないか。

オッフィーのインディ500における最後の優勝は、1976年、ジョニー・ラザフォードのマクラーレン・オッフィーであった。
最後に余談を一つ。60年代の初めに、フォードは打倒オッフィーを掲げ、ロータスと組み、インディ500挑戦を決意した。
そして研究用にオッフィー・エンジンを購入したのだが、しかしここで問題が起こった。天下の大フォードが、オッフェンハウザー・エンジンを分解できなかったのである!
この時フォードから呼ばれた男が、当時オッフィーのチューナーとして有名であった、日系2世の“チッキー”(ちび)こと、タケオ・ヒラシマ氏であった。死後の1998年に、アメリカのモータースポーツの殿堂入りを果たした、氏の数奇な人生については、以下を参照されたい。
https://note.mu/msugaya/n/nd2143485aac0
https://ameblo.jp/ootadoragonsato/entry-10548866672.html
http://sports.47news.jp/smp/sports/columns/CN/EN201605/EN2016051701001590.html
フォードは平島の手で分解された、オッフィー・エンジンのシリンダーヘッドをレース部門に持ち込みそれをコピーした。そしてこのエンジンが、既述のように1965年にインディ500を制し、オッフィー・エンジンの18回連続優勝記録を止めたのであるが、ここからが本題なのだが、エンジンについて全くのド素人の文系人間の自分からみても思うのだが、初歩的な話ですが、排気量252cu:in(約4.13ℓ)もあるのにたった4気筒で、しかも15:1という高圧縮比のレーシングエンジンたる、オッフィーエンジンの燃焼(室)っていったいどうなっているのかと、大フォードにしても興味深々だった?(インディがアルコール燃料使用ということも微妙に影響している??)すでに60年近く前の話で、ワカリマセンが、思わず想像しちゃいました。

https://www.uniquecarsandparts.com/indy_offenhauser.htm
本ブログの自動車のパートの次回は、インディにおけるタービン・カーを書こうと思ったけれども面倒そうなのでやっぱりやめて、次は最近ご無沙汰している犬のパートにしようと思っています。