⑪ オートスポーツ誌50年の歴史を彩った ドライバー50選 総番付について
年間50本の自動車の記事を書き込む目標が、今のところ10本…。月に1~2本がやっとになってしまった……。そこで目標を半分の25本に下げて、何とかその数字は必達したい。(数字ありきで何だか粗製濫造になりそうだが)
さて自動車に限らずだが、話題を現代(リアルタイム)に戻すと、どうしても話がシビアになりがちだ。そこで少しだけ過去に遡り、軽め(のつもり)の話題を1つ。
雑誌「オートスポーツ」(当然日本版の)が創刊50周年を迎えた2013年、その半世紀を振り返る「オートスポーツ・メモリーズ ぼくらのレーシングデイズ1963-2013」(以下引用①)という特別号を刊行した。

その中で、「オートスポーツ50年の歴史を彩った ドライバー50選 総番付」を発表している。『50周年にちなんで選んでみました 1963~2013年の日本のレーシングドライバー50傑 異論反論はご遠慮ください!ひろ~い心で、笑って読んでいただければ幸いです』という、何とも楽しい企画で、世のモータースポーツファンならば、その番付と選定理由を見ながらあーでもない、こーでもないと、いくらでも楽しめるような企画だ。(以下、この記事を引用①とする。例によって引用部分は青字で、引用元は全て文末にまとめて記載した。また文中敬称略とさせていただく。)
1.ゴメンナサイ
だがこの企画は、誰が選んでも異論が出る話で、今回の選者の林信次氏と遠藤俊幸氏が、のっけからいきなり弁明に務めているのがおもしろい。(引用①)
『林:マシン編と違って、こっちは人が相手だけにシビアでした。
遠藤:まず、最初に謝っておきましょう。ゴメンナサイ。
林:「レーシングカーも運転できない奴が偉そうに何言ってんだ」って声が湧きそうだけど、今回の番付編成会議はあくまで読者目線、長年のレースファンの視点なんだよね。横綱審議委員会というか、演芸評論家のノリで。
遠藤:そうです。公式なレース経験が僅かでもある人は、この番付のず~っと下の方に位置してしまうわけで、当事者としてむしろ不自然かなと。それよりも、あえてレース経験ゼロのふたりがグランドスタンドから評価するみたいな。
林:お金を払って見ている(いた)んだから、きちんと評価させてもらうってことだよね。だから選考基準のひとつは、いかに我々観客を楽しませてくれたか、インパクトを与えてくれたか、あるいは期待させてくれたか。
遠藤:(中略)でもこの番付って、1カ月後に同じふたりで選んでも変わるんですよね、きっと。引退したドライバーでも、なんかその時の「時節柄」で評価が変わる。だからこれはあくまで2013年の6月のある日の番付ってことで、全面的にご容赦いただきたい。
林:必死に弁明しています(笑)。』
なかなか面白い選者の方々です。かつては三栄書房系よりカーグラ(当時は二玄社)系の方がマニアックだったが、立場はとうに入れ替わってしまった。
こうして出来上がった番付表(1963~2013.06時点)は下のようだが、なかなか味わいある結果?で、だいたい共感できる内容だと自分は思うがみなさんはいかがでしょうか?
なおこの選者たちにならい自分も、以下の雑文で普段の運転すらロクでもないレベルの底辺の身分でありながらエラソーにアアダコウダと天下のレーシングドライバーを批評する非礼を先にお詫びしておく。ゴメンナサイ!
2.番付表発表(選者;林信次氏と遠藤俊幸氏。2013.06時点)

この番付について、東の正横綱が“日本一速い男”星野一義であることに異論をとなえる人は少ないだろう。もちろん、西の正横綱の中島悟の立場からすると『~ただ、あの言葉はちょっと違うんじゃないの?と言いたかったね。だって5年も6年も僕がチャンピオンを取っているのに、なんであっちが日本一なのって(笑い)。』(引用②)となるだろうが。

https://www.scoopnest.com/ja/user/suzuka_event/572019279148662784-vs-srsf-f1jp-sformula
しかし『レースの本場、英国のオートスポーツ誌が創刊50周年「モータースポーツの歴史を変えた50人」に、日本人唯一のドライバーとして選ばれ、星野が参戦しなかったのはグランプリ最大の損失、と書かれた。』(引用③)という事実は重い。世界の中でも見る人はしっかりと見ていた、ということなのだろう。
日本のF3000シリーズに参戦し、1993年は最終戦まで当時46歳の星野一義と壮絶なチャンピオン争いを演じ、惜しくもチャンピオンを逃したエディー・アーバインは、その経験から星野に一目置くようになった。彼はF1初優勝時のレース後記者会見で以下のように語ったそうだ。(以下引用⑥)
『「ここに来るまでの道のりは簡単ではありませんでした。私は日本でレースをしていた時にミスターホシノというグレートドライバーと激しくバトルをしました。彼はとても速いだけではなく、勝利を掴む為の精神力が素晴らしくいつも見習い、そして中々勝たせてもらえませんでした。このような時期があったからこそ今の私がありミスターホシノに感謝しています」と話し、同じレースで表彰台を飾り同時期に日本で同じレースを戦っていたハインツ・ハラルド・フィレンツェンが会見時に頷いていた。』そのため、欧州などのジャーナリストが「ホシノとは何者だ?」と日本人ジャーナリストに聞きまわったという逸話がある。
また『~鈴鹿の日本GPの際、某誌が当時の帝王、ミハエル・シューマッハに日本人ドライバーとの対談取材を申し込んだ時のこと、シューマッハが「相手がホシノでなければ、その依頼は受けない」と言ったのもよく知られている逸話だ。』(引用⑤)
星野の盟友として長年支えてきた金子豊氏(星野の義弟でホシノインパル元副社長、故人)は『~もちろん走る者として悔しい思いはあるし、「なんで中嶋が」って僕の前では何回も泣いてます。でも国内で戦った外国人ドライバーたちが「星野こそF1に来るべきドライバーだった」って言ってくれている。そんな声がせめてもの慰めになっているんじゃないでしょうか』と語っていた。(引用②)ホンダの厚遇を得てF1へのステップアップを果たした中島とは、海外のレーシングドライバーたちの見る目も違っていたというべきだろう。
さて、星野の話を始めるとあまりにも話題が豊富過ぎて、終わりが見えなってしまう。じきに“二代目日本一早い男”だった本山哲についても触れたくなるし。ただ星野についてはすでに多くの出版物で語りつくされていることもあり、このブログで星野を語るのはここで止めて、この番付表の下の方にも目を通してみる。
この番付表を見渡して、もし一般的な視点から“異論”が出るとすれば、しいて言えば、メーカー系の括りで言えば、たとえばプリンス/日産勢では、1966年の日本グランプリをプリンスR380で制した砂子儀一の名前が見当たらない(地味だった都平健二もそうだが)。またトヨタ勢では、チームトヨタ(トヨタワークス)のキャプテン役を長年務め、黎明期のトヨタのレーシング部門の構築にも功績があった細谷四方洋の名前がなく、マツダ勢からは、マツダオート東京の立場で、長年ル・マン24時間に挑戦し続けて、マツダのル・マン制覇の露払い役を果たした寺田陽次郎の名前もない。代わりに?久木留博之と武智俊憲の名前がそれぞれ選ばれている。所属企業に対しての貢献度でなく、あくまでレーシングドライバーとしての資質に重きを置いた結果なのだろう。ちなみに久木留について細谷は、チームキャプテンの立場から『久木留は天才でした。足回りが少し壊れたくらいでも、平気でクルマを乗りこなしてしまう。そういう意味ではあまりテストには向かない男でした。』と評していた。(引用④)
またもし2019年8月版を作り直せば当然ながら、インディー500を制した佐藤琢磨の横綱昇進は間違いないところだ。

https://www.as-web.jp/overseas/127163
ル・マン24時間と世界耐久選手権を2年連続で制覇した中嶋一貴はメーカー(トヨタ)の力によるところ大とは言うものの、やはり大幅な昇進は間違いないだろう。

https://response.jp/article/2019/05/05/322000.html
番付の話はこれくらいにして次回から、この番付表の上位に君臨する、星野、中島世代より前の、その各々の時代に、実力No.1を誇った日産ワークスの名手たちにスポットを当て、自分なりに思うところを軽めに論じてみたい。予定では、日産3羽ガラスと呼ばれた高橋国光(クニさん)、北野元(キタさん)、黒沢元治(ガンさん)の3人と、この3人と星野をつなぐ世代に位置した長谷見昌弘について、とりあげる予定だ。

http://vital.sakura.ne.jp/NISSAN%20SKYLINE%20KGC10%20HP/sakurai.html
さて各記事のまとめ方だが、その人の現在に至る歴史(伝記)まで書くつもりはなく、そのドライバーの、代表的なレースだと自分が思うものを一つ取り上げて、そこを多角的に掘り下げてみたい。それで何か見えてくるものがあるのか、実際に書き進まないとわからないが。またレースなので必ずレーシングカーとのかかわりが出てくるわけだが、設計者(メーカー)目線でなく、あくまでも個人としてのレーサー目線を重視してまとめてみたい。そのため生(ナマ)の声として、本人の雑誌インタビュー記事の引用が多くなる予定だ。なお引用した書物は、入手できるものはほとんど全て購入して、実際に確認した(その本が、本の中でさらに引用していた場合等は除く)ことも追記しておく。
それではまず、3羽ガラスの中でも番付が一番上の、横綱“高橋国光”から話を始めたいが、クニさんの代表的なレースとして、R380-Ⅱで生沢徹のポルシェ906とデッドヒートを演じた第4回日本グランプリをとりあげる予定だ。ただ物事は連続して起きているため、第4回GPを語るためには、微妙に関連していく第1回、2回、3回GPに先に触れてから、横綱クニさんの話を始めたい(目標達成のため記事の件数を稼ぎたいためでもあるが!)。
以下引用先
①:「オートスポーツ・メモリーズ ぼくらのレーシングデイズ1963-2013」(2013.08)三栄書房
②:「星野一義 がむしゃらフォーミュラ編」Racing on(2014.01)三栄書房
③:「CARトップ」(2019.09号)交通タイムス社
④:「古の日本グランプリ」Racing on(2013.05)三栄書房
⑤:「星野一義ファンブック」(2017.04)モーターマガジン社
⑥:「星野一義氏の思い出5」 https://urochiiko.exblog.jp/20189619/
さて自動車に限らずだが、話題を現代(リアルタイム)に戻すと、どうしても話がシビアになりがちだ。そこで少しだけ過去に遡り、軽め(のつもり)の話題を1つ。
雑誌「オートスポーツ」(当然日本版の)が創刊50周年を迎えた2013年、その半世紀を振り返る「オートスポーツ・メモリーズ ぼくらのレーシングデイズ1963-2013」(以下引用①)という特別号を刊行した。

その中で、「オートスポーツ50年の歴史を彩った ドライバー50選 総番付」を発表している。『50周年にちなんで選んでみました 1963~2013年の日本のレーシングドライバー50傑 異論反論はご遠慮ください!ひろ~い心で、笑って読んでいただければ幸いです』という、何とも楽しい企画で、世のモータースポーツファンならば、その番付と選定理由を見ながらあーでもない、こーでもないと、いくらでも楽しめるような企画だ。(以下、この記事を引用①とする。例によって引用部分は青字で、引用元は全て文末にまとめて記載した。また文中敬称略とさせていただく。)
1.ゴメンナサイ
だがこの企画は、誰が選んでも異論が出る話で、今回の選者の林信次氏と遠藤俊幸氏が、のっけからいきなり弁明に務めているのがおもしろい。(引用①)
『林:マシン編と違って、こっちは人が相手だけにシビアでした。
遠藤:まず、最初に謝っておきましょう。ゴメンナサイ。
林:「レーシングカーも運転できない奴が偉そうに何言ってんだ」って声が湧きそうだけど、今回の番付編成会議はあくまで読者目線、長年のレースファンの視点なんだよね。横綱審議委員会というか、演芸評論家のノリで。
遠藤:そうです。公式なレース経験が僅かでもある人は、この番付のず~っと下の方に位置してしまうわけで、当事者としてむしろ不自然かなと。それよりも、あえてレース経験ゼロのふたりがグランドスタンドから評価するみたいな。
林:お金を払って見ている(いた)んだから、きちんと評価させてもらうってことだよね。だから選考基準のひとつは、いかに我々観客を楽しませてくれたか、インパクトを与えてくれたか、あるいは期待させてくれたか。
遠藤:(中略)でもこの番付って、1カ月後に同じふたりで選んでも変わるんですよね、きっと。引退したドライバーでも、なんかその時の「時節柄」で評価が変わる。だからこれはあくまで2013年の6月のある日の番付ってことで、全面的にご容赦いただきたい。
林:必死に弁明しています(笑)。』
なかなか面白い選者の方々です。かつては三栄書房系よりカーグラ(当時は二玄社)系の方がマニアックだったが、立場はとうに入れ替わってしまった。
こうして出来上がった番付表(1963~2013.06時点)は下のようだが、なかなか味わいある結果?で、だいたい共感できる内容だと自分は思うがみなさんはいかがでしょうか?
なおこの選者たちにならい自分も、以下の雑文で普段の運転すらロクでもないレベルの底辺の身分でありながらエラソーにアアダコウダと天下のレーシングドライバーを批評する非礼を先にお詫びしておく。ゴメンナサイ!
2.番付表発表(選者;林信次氏と遠藤俊幸氏。2013.06時点)

この番付について、東の正横綱が“日本一速い男”星野一義であることに異論をとなえる人は少ないだろう。もちろん、西の正横綱の中島悟の立場からすると『~ただ、あの言葉はちょっと違うんじゃないの?と言いたかったね。だって5年も6年も僕がチャンピオンを取っているのに、なんであっちが日本一なのって(笑い)。』(引用②)となるだろうが。

https://www.scoopnest.com/ja/user/suzuka_event/572019279148662784-vs-srsf-f1jp-sformula
しかし『レースの本場、英国のオートスポーツ誌が創刊50周年「モータースポーツの歴史を変えた50人」に、日本人唯一のドライバーとして選ばれ、星野が参戦しなかったのはグランプリ最大の損失、と書かれた。』(引用③)という事実は重い。世界の中でも見る人はしっかりと見ていた、ということなのだろう。
日本のF3000シリーズに参戦し、1993年は最終戦まで当時46歳の星野一義と壮絶なチャンピオン争いを演じ、惜しくもチャンピオンを逃したエディー・アーバインは、その経験から星野に一目置くようになった。彼はF1初優勝時のレース後記者会見で以下のように語ったそうだ。(以下引用⑥)
『「ここに来るまでの道のりは簡単ではありませんでした。私は日本でレースをしていた時にミスターホシノというグレートドライバーと激しくバトルをしました。彼はとても速いだけではなく、勝利を掴む為の精神力が素晴らしくいつも見習い、そして中々勝たせてもらえませんでした。このような時期があったからこそ今の私がありミスターホシノに感謝しています」と話し、同じレースで表彰台を飾り同時期に日本で同じレースを戦っていたハインツ・ハラルド・フィレンツェンが会見時に頷いていた。』そのため、欧州などのジャーナリストが「ホシノとは何者だ?」と日本人ジャーナリストに聞きまわったという逸話がある。
また『~鈴鹿の日本GPの際、某誌が当時の帝王、ミハエル・シューマッハに日本人ドライバーとの対談取材を申し込んだ時のこと、シューマッハが「相手がホシノでなければ、その依頼は受けない」と言ったのもよく知られている逸話だ。』(引用⑤)
星野の盟友として長年支えてきた金子豊氏(星野の義弟でホシノインパル元副社長、故人)は『~もちろん走る者として悔しい思いはあるし、「なんで中嶋が」って僕の前では何回も泣いてます。でも国内で戦った外国人ドライバーたちが「星野こそF1に来るべきドライバーだった」って言ってくれている。そんな声がせめてもの慰めになっているんじゃないでしょうか』と語っていた。(引用②)ホンダの厚遇を得てF1へのステップアップを果たした中島とは、海外のレーシングドライバーたちの見る目も違っていたというべきだろう。
さて、星野の話を始めるとあまりにも話題が豊富過ぎて、終わりが見えなってしまう。じきに“二代目日本一早い男”だった本山哲についても触れたくなるし。ただ星野についてはすでに多くの出版物で語りつくされていることもあり、このブログで星野を語るのはここで止めて、この番付表の下の方にも目を通してみる。
この番付表を見渡して、もし一般的な視点から“異論”が出るとすれば、しいて言えば、メーカー系の括りで言えば、たとえばプリンス/日産勢では、1966年の日本グランプリをプリンスR380で制した砂子儀一の名前が見当たらない(地味だった都平健二もそうだが)。またトヨタ勢では、チームトヨタ(トヨタワークス)のキャプテン役を長年務め、黎明期のトヨタのレーシング部門の構築にも功績があった細谷四方洋の名前がなく、マツダ勢からは、マツダオート東京の立場で、長年ル・マン24時間に挑戦し続けて、マツダのル・マン制覇の露払い役を果たした寺田陽次郎の名前もない。代わりに?久木留博之と武智俊憲の名前がそれぞれ選ばれている。所属企業に対しての貢献度でなく、あくまでレーシングドライバーとしての資質に重きを置いた結果なのだろう。ちなみに久木留について細谷は、チームキャプテンの立場から『久木留は天才でした。足回りが少し壊れたくらいでも、平気でクルマを乗りこなしてしまう。そういう意味ではあまりテストには向かない男でした。』と評していた。(引用④)
またもし2019年8月版を作り直せば当然ながら、インディー500を制した佐藤琢磨の横綱昇進は間違いないところだ。

https://www.as-web.jp/overseas/127163
ル・マン24時間と世界耐久選手権を2年連続で制覇した中嶋一貴はメーカー(トヨタ)の力によるところ大とは言うものの、やはり大幅な昇進は間違いないだろう。

https://response.jp/article/2019/05/05/322000.html
番付の話はこれくらいにして次回から、この番付表の上位に君臨する、星野、中島世代より前の、その各々の時代に、実力No.1を誇った日産ワークスの名手たちにスポットを当て、自分なりに思うところを軽めに論じてみたい。予定では、日産3羽ガラスと呼ばれた高橋国光(クニさん)、北野元(キタさん)、黒沢元治(ガンさん)の3人と、この3人と星野をつなぐ世代に位置した長谷見昌弘について、とりあげる予定だ。

http://vital.sakura.ne.jp/NISSAN%20SKYLINE%20KGC10%20HP/sakurai.html
さて各記事のまとめ方だが、その人の現在に至る歴史(伝記)まで書くつもりはなく、そのドライバーの、代表的なレースだと自分が思うものを一つ取り上げて、そこを多角的に掘り下げてみたい。それで何か見えてくるものがあるのか、実際に書き進まないとわからないが。またレースなので必ずレーシングカーとのかかわりが出てくるわけだが、設計者(メーカー)目線でなく、あくまでも個人としてのレーサー目線を重視してまとめてみたい。そのため生(ナマ)の声として、本人の雑誌インタビュー記事の引用が多くなる予定だ。なお引用した書物は、入手できるものはほとんど全て購入して、実際に確認した(その本が、本の中でさらに引用していた場合等は除く)ことも追記しておく。
それではまず、3羽ガラスの中でも番付が一番上の、横綱“高橋国光”から話を始めたいが、クニさんの代表的なレースとして、R380-Ⅱで生沢徹のポルシェ906とデッドヒートを演じた第4回日本グランプリをとりあげる予定だ。ただ物事は連続して起きているため、第4回GPを語るためには、微妙に関連していく第1回、2回、3回GPに先に触れてから、横綱クニさんの話を始めたい(目標達成のため記事の件数を稼ぎたいためでもあるが!)。
以下引用先
①:「オートスポーツ・メモリーズ ぼくらのレーシングデイズ1963-2013」(2013.08)三栄書房
②:「星野一義 がむしゃらフォーミュラ編」Racing on(2014.01)三栄書房
③:「CARトップ」(2019.09号)交通タイムス社
④:「古の日本グランプリ」Racing on(2013.05)三栄書房
⑤:「星野一義ファンブック」(2017.04)モーターマガジン社
⑥:「星野一義氏の思い出5」 https://urochiiko.exblog.jp/20189619/