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⑫ 第1回日本グランプリ(1963年)“トヨタの一人勝ち”

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http://since1957.blog130.fc2.com/blog-entry-34.html
第1回から第3回までの、日本グランプリについて、プリンスとトヨタの戦いを中心に振り返り、それから本題である第4回GPへとつなげておきたい。(以下はwiki、⓵、②、③を参考にまとめた)
1.レースの概要
 1962年に日本で最初の本格的なレーシングコースの鈴鹿サーキットが、本田技研により完成し、その鈴鹿で1963年5月に「第1回日本グランプリ自動車レース大会」が開催された。このレースが日本における本格的な自動車レースの始まりとなった。第2回GPまでは市販車を改造したツーリングカーやグランドツーリングカーを中心に、排気量ごとにクラス分けして行われた。
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https://www.honda.co.jp/50years-history/challenge/1962suzuka/page04.html
 第1回日本グランプリは、開催するサーキットも主宰するクラブもホンダ色の強いものとなり、その流れに反発した日本自動車工業会では、拘束力こそなかったものの、このレースにメーカーとしては協力しないという申し合わせを行っていた。

 ところが、販売の神様、神谷正太郎率いるトヨタ自販(当時トヨタはまだ自工と自販は分離されていた時代で、都合が良かった)の宣伝部は、レースに勝つことが、クルマの宣伝に大きな効果があると、着目していた。レースへの参加を自粛したのは自動車工業会というメーカー側の団体であり、トヨタ自販は販社なので拘束されないという独自の解釈で、自工とのあうんの呼吸で自販主導の下で、勝つための取り組みを積極的に行い、中途半端な対応の他社を完全にリードした。
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https://gazoo.com/article/car_history/140509_1.html
 当時はトヨタに限らず2輪のレースでノウハウのあるスズキ以外、どこの4輪メーカーも自動車レースに対してのノウハウは持ち合わせていなかった。そこで性能アップのために2輪のチューニングで実績のあった山田輪盛館に協力を依頼し、レース出場を目指して練習に来ているドライバーの中から群を抜いた速さをみせていた多賀弘明、式場壮吉らと契約し出場させた。結果として式場はコロナで、多賀はクラウンで出場し、それぞれ接戦を制して優勝し、このふたりの巧みなドライビングがなければ、トヨタ車の優勝は難しかったといわれたので、この起用は見事に当たった。
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http://www.mmjp.or.jp/60srace/1963JAPANGP.html
 9レースのうち3レースは外国車が勝ち、トヨタ以外で国産車が優勝したのは、スズキのフロンテと日野コンテッサ、日産フェアレディだけだった。これに対してパブリカ、コロナ、クラウンという主力車種すべてでレースを制覇したトヨタは、レース後すぐに各地のディーラーに“トヨタ車、グランプリに優勝”という垂れ幕を大きく掲げ、アピールした。
 そして優勝車がパレードして各販売店を訪れ、グランプリに優勝したのは、トヨタ車の性能が良いからだという印象を一般に植え付けた。さらに新聞やテレビなどで大々的なキャンペーンを繰り広げた結果、販売は軒並み伸び、セールスマンの意気もあがった。このトヨタの巧みな戦略に、他社は指をくわえて見ているしかなかった。

 このトヨタの策略に、もっとも大きな痛手を受けたのは、トヨタ、日産より技術志向が強く、明確に高級/高性能車路線を歩み、明らかにベース車の性能が勝っていたはずのプリンスであった。
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https://octane.jp/articles/detail/2101
 当時プリンスの技術陣を率いていたのは、中島飛行機で、太平洋決戦機の期待を一身に背負う、2000馬力級(100オクタン燃料使用時)発動機“誉”の主任設計者であった中川良一常務であった。
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https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nakajima_Homare_at_London_Sceience_Museum02.JPG
 中川はレースが近づくころ、各メーカーが鈴鹿にレースカーを持ち込んでテストを開始する中で、パワーの劣るはずの他メーカーのクルマに、いとも容易に抜かれる様を見て、敗北を確信する。しかし同時に、自工会の申し合わせ事項を遵守したのだから、敗北も致し方なしと考えていた(!ナイーブ過ぎた?引用③)。大惨敗に終わったレースの翌日東京に戻った中川は、当時プリンスの経営権を握っていた石橋正二郎会長に呼びつけられ、激しく叱責される。一方惨敗のショックから、鈴鹿からの帰途に脳貧血で倒れた小川社長は、中川らはビジネスの基本をわきまえていないと、始末書をとった。中川は翌年の雪辱を石橋の前で誓う他なかった。
以下、自動車史家の桂木洋二氏による優れた分析の一文を①より引用する。
『トヨタ以外のメーカーの多くはプリンスと同じような思いをしたといっていい。これを挽回するためには、翌年の第二回グランプリレースでがんばる以外に方法はなかった。各メーカーは、それぞれにレースを戦う組織を作り、真っ向からレースに取り組むこととなる。その取り組みは、各社とも生き残りをかけての挑戦といっても大げさでないものだった。
 結果として、そうした取り組みが日本の自動車技術のレベルアップに貢献することになったが、レースがクルマの宣伝や企業のイメージアップにきわめて効果のあるものという認識が、メーカーの中に強く定着することになった。
 初めてのレースの熱狂と、未成熟な時代の主力量産車のレースでの勝利がPR効果を発揮できる絶妙のタイミングは、トヨタに幸運をもたらしたということができる。
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http://file.magni.blog.shinobi.jp/5bfbf7d8.jpeg
 これ以降のグランプリレースは、メーカーチームの主導で行われることになるが、レースに出場したメーカーはいずれも、第一回のトヨタがおさめた成功を目指して戦うことになる。しかし、それはもはや幻でしかなかった。レースで勝つことが企業のイメージアップにつながるものの、クルマの販売に直接むすびつくことは次第になくなっていく。レースの勝利における宣伝効果の大きさと、それによる販売の増進を求めても所詮はむなしい幻影であったが、第一回日本グランプリの強烈な印象故に、その後もその幻影を追い求めたのであった。ほかならぬトヨタ自身もその例外ではなかった。』


2.トヨタ自販の“作戦”に影響を与えた?GMのモータースポーツ戦略(11/12追記)
 第1回日本グランプリにおいて、トヨタ自販がとったこの戦術というか、販売戦略について、そのヒントを与えた可能性が考えられる(私見です)、自動車の“本場”アメリカにおいて、GMとフォードの間で生じたモータースポーツを巡っての争いを記した本を偶然読んだ。以前古本屋で購入したまま未読だった、「フォードVSフェラーリ 伝説のル・マン」A・Jベイム著(赤井邦彦他訳;以下引用④)という本の中に書かれていた、ごく短い一文だったが、時代的にも第1回日本GPのほんの数年前の出来事だ。
トヨタは初代クラウンで大胆にもアメリカ輸出を試みたり、通産省の“国民車構想”との絡みでフォードとの合併会社設立の交渉も行われた(1960~61年頃で、結局破談に終わったが)ぐらいで、アメリカの自動車産業の動向は絶えずウォッチしていたはずだ。
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https://kuruma-news.jp/photo/97111#photo7
そのアメリカにおけるモータースポーツを利用したGMとフォードの販売戦略に、クルマを売ることにかけては国内最強の、トヨタ自販が無関心なはずはなかったと思う(でも今までこのような視点で書かれたものが見当たらないので、あくまで想像です)。以下長文になるが④より引用しつつ、参考意見として記しておきたい。(下は2016年、デイトナ500マイルレースを初制覇したトヨタカムリ)
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https://toyotagazooracing.com/pages/contents/jp/nascar/release/2016/16nascar01_2.jpg
~1961年2月27日月曜日の朝、デトロイト郊外の住宅地に住む自動車業界の重役たちは、玄関先に新聞が落ちる音で目覚めた。「デトロイト・ニュース」紙は全国紙だったが、自動車業界紙でもあり、ゴシップ新聞でもあった。(中略)
スポーツ欄にはデイトナ500(注;訳文では“インディ500”となっているが明らかに間違いなので以下訂正して記す)の特集記事が掲載されていた。フロリダの有名なサンダードームの約4kmのコースを平均時速約240.7kmというデイトナ史上最速のスピードで走ったポンティアックのマーヴィン・パンチが、日曜日のデイトナ500で優勝を飾っていた。
コラムニストのドク・グリーンのコメントの中に、彼らは興味深い情報を発見した。
ヨーロッパのレース界では、優勝は直接売上に結びつく。実に単純な理由がクルマを選ぶ動機に繋がるからだ。たとえば、ル・マン24時間耐久レースで5台のフェラーリが上位入賞を果たすとする。すると、過酷なレースに勝ち残ったフェラーリが“買うべき車”となるわけだ。
「うちも、それでうまくいった」と、優勝した車をスポンサーしたデトロイトのポンティアック・ディーラーのビル・パッカーは語る。
「バンキー・クヌッドセンが1957年にポンティアック部門を引き継いだ当時も、ポンティアックはまあまあ良い車だったが、高齢の女性向けの車という評判が根強かった。おばあちゃんには最高ってね。その後、ストックカー・レースで良い成績をおさめ始めると、ほんの数年であっという間に売上が伸びたんだ。」

下はデイトナ500マイルを制したポンティアック。
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http://www.cruisenewsonline.com/SpringDaytonaShow2004/60PontiacDaytona500Win.jpg
引用を続ける。『当時、ストックカー・レースはデトロイトには無関係であるはずだった。自動車メーカーのレースへの出資に対する禁止令があったからだ。1950年代後半のアメリカの自動車メーカーは、広告を通して、一般のドライバーに公道でスピードを出すことを奨励していると非難されていた。
 また当時、フォード、GM、クライスラーは、顧客確保のためにより大きなエンジンを開発し、「馬力競争」を続けていた。強力なエンジンが冷戦に対するデトロイトの答えだったのだ。
 NASCAR(National Association for Stock Car Auto Racing)と呼ばれる日曜日のレース・シリーズにクルマを出場させることで、自動車メーカーは自分たちのクルマをアピールしていた。
 スピードの戦いと市場争いの関係を、アメリカ政府は快く思わなかった。1957年、アメリカ連邦議会は自動車製造者協会に、「安全に関する決議」の作成を要求した。この規約により、デトロイトの自動車メーカーは「エンジンサイズ、トルク、馬力、もしくは、スピードを連想させる競技会での加速性能あるいは性能」を宣伝しないことに合意した。
 しかし、それでも「デトロイト・ニュース」紙のドク・グリーンのコラムには、1961年のデイトナ500に自動車メーカーの有力者の団体がやってきたと書かれていた。
「あなたが目にする重役たちは、たまたまテキサスかダビュークかどこかに行く途中に通りがかっただけ、もしくは見なかったことにしなければならない。彼らの言うこともすべてオフレコだ」
 ある大物がこのように語ったと書かれている。
「親会社からの協力なしにレースに出場するのは、へその緒のない赤ん坊を産もうとするようなものだ。不可能に等しい」
 その夏にはGMのレースへの投資は周知の事実となっていた。シボレーは船舶用機関プロジェクトの名目でレースへの投資を行っていた。ポンティアックにも独自の秘密プロジェクトがあった。
「奴らはズルをしている」と、ヘンリー2世
(注;ヘンリー・フォード2世=創業者の孫でフォードの最高経営責任者)はアイアコッカ(注;リー・アイアコッカ=当時フォードの副社長でマスタングの生みの親)に言った。
「我々も何か手を打たなければ」
 しかし、ヘンリー2世はレースに資金を投じることを拒否した。評判を落とすことを恐れたのだ。彼は自動車製造協会の会長であり、安全に関する決議も彼の裁量で行ったことだ。
 アイアコッカのフォード初年度である1961年の終わりには、ポンティアックとシボレーがNASCARの52戦中、41勝で優勝を収めていた。
 その年のGM市場は急成長を遂げた。ポンティアックは、その年の新車の売上が36年の歴史において最高額に達したことを報告した。
 4月にはシボレーがリッチモンド、コロンビア、グリーンビル、ウィンストンセーラムのレースに優勝、同じ31日間にシボレーは、記録的な月間売上を達成した。
下の写真はダン・ガーニーの1961年シヴォレーインパラ(なかなかカッコイイ)
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https://s.yimg.com/ny/api/res/1.2/Knw1Y4qRhCAdoucQwUhvhw--/YXBwaWQ9aGlnaGxhbmRlcjt3PTEyNDI7aD02OTguNjI1/https://s.yimg.com/uu/api/res/1.2/pU9l6SJtmK01Zq6H2PFg.w--~B/aD0xMDgwO3c9MTkyMDtzbT0xO2FwcGlkPXl0YWNoeW9u/http://media.zenfs.com/en-US/homerun/autoclassics_668/b3606174acf9e863066d7efd80bddd8f
「ヘンリー・フォードの全盛期のティン・リジー(モデルT)以来、市場をこれほどまで独占したクルマはなかった」と、「ニューズウィーク」誌はレポートした。
「先週、アメリカのショールームから出てきた車の3台のうち2台はシボレーだった。」
 グラスハウスの廊下に不安感が漂い始めた。これほど急激にマーケットシェアが大きく変化したのは、ヘンリー2世が社長になって初めてのことだった。
 フォードの重役たちは、地元の若者たちが街頭で、街に合法なスピード競争用のコースを作って欲しいとでもパレードを行っていることを新聞で知った。
 子どもたちはスピードを求めていた。そして、ゼネラルモーターズは最もホットなエンジンを作っていた。
 4月27日、ヘンリー2世はゼネラルモーターズのジョン・F・ゴードン社長に手紙をしたためた。
「短期的には現在シボレーやポンティアックが提供しているような高性能車を開発するつもりだ」と、彼は書いた。
「我が社の製品の競争力を維持するためには、実行しなければならないことだと考えている。長期的には、さらに満足のいく合意を自動車業界の他のメンバーと取りつけたいと思っている」
 ヘンリー2世がその手紙の返事を受け取ることはなかった。

 その後ヘンリー・フォード2世は“安全決議”から手を引くと宣言(1962.06.11)、いわば宣戦布告したかたちで1963年のデイトナ500マイルレースに新開発の427立方インチ(7ℓ)のパワフルなエンジンを搭載したフォード ギャラクシー500を投入した。
 一方『対外的には反レース派を貫いていたゼネラルモーターズは、安全に関する決議を支持する決断を下した。しかしプライベート・チームとしてシボレーで出場するスモーキー・ヤニックは、デトロイトから資金を得ていると関係者は信じていた。すべては偽装であると。』(➃より)結局この戦いで今度はフォードが、デイトナ500初制覇を果たす。
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 フォードのモータースポーツ戦略はさらに加速し、アメリカ国内レースにおいてはインディー500制覇へとつらなり、ついには世界戦略として、フォードGTでのル・マン24時間制覇へと目標を広げていった。(下は初優勝した1966年のル・マン24時間)
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レース活動と並行して、第二次世界大戦以降に出生したいわゆるベビーブーマー世代向けのスポーティーな中型車のマスタングを市場に投入し、大ヒットさせたのはご存知の通りだ。
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 一方「安全に関する決議を支持する決断を下した」ため表立った活動ができなかったGMは、ジム・ホールのシャパラルという“窓口”を通して、その有り余る技術開発力の一端を披露していった。(下は“怪鳥”シャパラル2Eと、“ファンカー”の2J。ちなみに古今東西のあらゆるレーシングカーの中で自分が一番好きなのが2Jだ。いつかこのブログの中で、シャパラル特集をやってみたい。)
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 本題と逸れてしまうのでフォードとGMの話題はここで止めるが、この時期の、モータースポーツを巡る日米の構図は「自動車製造者協会における“安全に関する決議”(アメリカ)」と、「日本自動車工業会は、日本GPにメーカーとしての参加を自粛する(日本)」という足かせ(業界内での約束事)があった中での出来事で、よく似ていた。
 そんな中でGM(シヴォレーとポンティアック部門)が仕掛けた、水面下での強力なメーカー支援によるNASCARシリーズでの圧勝が、風下の実車の販売にも絶大な効果をもたらした。時間軸ではアメリカの方が先行していたため、GMの大戦果をまのあたりにして、トヨタ自販もモータースポーツによるマーケティング戦略という見地から、対日本GP対策のため、GMの戦略に着目したのではないだろうか。
シヴォレーは“船舶用機関プロジェクト”という苦しい名目だったようだが、トヨタは工販分離を逆手に取り、自工と切り離した自販主導という名目でレースへの投資を行なえた(と、拡大解釈した)。裏工作であったが、当時世界最強の、あのGMで行った戦略なのだからと、トヨタの背中を後押しした?
 全くの想像だがどうも自分には、当時日本の自動車業界のお手本であった、海の向こうのアメリカでの出来事が、このレースに対するトヨタの戦略に影響を与えたような気がしてならない(以上、何度も書くが私見でした)。
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参考の動画を掲げておきます。ちなみに二日にわたって行われたレースには20万人を超す観客が押し寄せ、TV中継もされたという。
「TOYOTA  MOTORSPORTS  HISTORY 2」
https://www.youtube.com/watch?v=fjVUsc3zJcY
いよいよ次はあの、“スカイライン伝説”を生んだ第2回日本グランプリです。

引用元
①:「激闘 ‘60年代の日本グランプリ」桂木洋二(1995.05)グランプリ出版
②:「日本における自動車の世紀」桂木洋二(1999.08)グランプリ出版
③:「スバルの兄弟分、プリンス自動車の歴史」
https://www.chubu-jihan.com/subaru/news_list.php?page=contents&id=314&block=1
➃:「フォードVSフェラーリ 伝説のル・マン」A・Jベイム著(赤井邦彦、松島三恵子訳)(2010.09)祥伝社

プロフィール

マルプーのぼんちゃん

Author:マルプーのぼんちゃん
【ぼんちゃん】
推定年齢12歳(2020年6月現在)ぐらいの、オスのマルプー犬のぼんちゃん。年より若く見える。マルプーではちょっと稀な“キレカワ系”💛 性格は、おとなしくてやさしくて人懐っこくて庶民的?でも対犬ではかなり臆病。散歩だけはたくさん(1日1~3時間ぐらい)させてもらっている。選択の余地なく、毎日おっさんの面倒をみている。
【おっさん】
推定年齢60歳+のシガナイ初老の独身オヤジ。ひょんなことからぼんちゃんと2人で暮らすことになったが、おかげさまで日々シアワセに暮らしている。

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