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⑯ 日本の自動車産業の“育ての親”は日本陸軍だった? (戦前日本の自動車史;その1) 日本の自動車産業の“生みの親”と“育ての親”

⑯ 日本の自動車産業の“育ての親”は日本陸軍だった?(戦前日本の自動車史;その1)日本の自動車産業の“生みの親”と“育ての親”

1.日本の自動車産業の“生みの親”と“育ての親”
 しばらく記事の更新が途絶えてしまい、もうずいぶん昔の話になってしまったが、前回の自動車記事(⑮ 中島飛行機とプリンスにまつわる”よもやま話”)の最後の方に、中島飛行機が育てた優秀な技術者たちの新たな活躍の場となったのが、戦後の自動車産業だったことを記した。
 文字通り当時の日本の頭脳と言えたエリート技術者たちは、中島“直系”であるスバルや、中島エンジン部隊の色の濃かったプリンス以外にもホンダなど各社に拡散していき、戦後の自動車産業の一時期を裏から支える“育ての親”的な役割を演じ、その発展に大きく寄与した。
 このことはよく知られた事実だが、中島系と広く知られているスバル、プリンス以外については、年月とともに歴史の中にかき消されがちで、そのごく一端だけでも、主に前間孝則氏の著作を基にして、このブログで書き残しておきたいと思った。
それではまずはトヨタから~ と、書き始めようと思ったが(実はほとんど書き終えているのだが)、その前にまたまた恒例の?脱線(しかも今回は大脱線)をします。思わず出てきた“育ての親”という言葉から、ふと思ったことを先に、書き記しておきたい。
 それは、日本の自動車産業にとっての“生みの親”と、“育ての親”は誰だったか、という問題だ。
 この考察は始めると、長~い話になってしまうのだが、しかし“生みの親”については、多くの人(ただし日本人にとって?)が納得する人物が二人いるのは承知の通りだ。

2.日本の自動車産業の生みの親、豊田喜一郎と鮎川義介
 日本の自動車産業の“生みの親”としての功績は、やはりこの2名が突出しているだろう。
鮎川義介と豊田喜一郎。
 以下は「20世紀の自動車」鈴木一義著(引用①P91)より(←引用元は番号順に文末にまとめて一覧で記載しています。また引用箇所は青字にしています。)『当時の状況でこの事業に乗り出したのは膨大な、設備投資と赤字を支える資本をもち、蛮勇と先見の紙一重を行き来できる人物であったに違いない。(中略)戦時下ゆえに確立可能であったトヨタ、日産、そして昭和16年(1941年)に許可会社となったヂーゼル自動車工業(現いすゞ自動車)3社の量産体制は、昭和16年に最高4万3878台(商工省調べ)を生産するに至った。それは自動車産業の今日の繁栄を築く財産として、戦後に残ったのである。』全体像を簡潔かつ的確に言い表していると思う。(画像はwikiより、上から鮎川義介と豊田喜一郎。ちなみに二人とも、東京帝大機械工学科卒業の、当時の日本で最高レベルの知能をもったエンジニアでもあった。)
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 このふたりが舞台に躍り出る以前の、戦前の日本の自動車市場は、フォードとGMのノックダウン生産車でほぼ独占された、アメリカ車による植民地状態だった。以下、当ブログの記事で度々引用している「日本における自動車の世紀」(桂木洋二著)より引用する(以下引用②P10)
『トヨタとニッサンが自動車メーカーとして活動を開始するのは、フォードが日本に上陸した8年後の1933年である。それまでの国産自動車メーカーと違っていたのは、どちらも乗用車を量産することを前提にしていたことで、フォードとGMによる独占状態に風穴を開けようとする動きだった。トヨタの場合は豊田喜一郎が、ニッサンの場合は鮎川義介が、その動きを強力に推進した。このときに、この二人が立ち上がらなければ、日本の自動車産業の現在は違ったものとなっていただろう。
 当時の日本は、軍事力を高めることが優先され、工業技術はバランスのとれた発達をしておらず、自動車の周辺技術も欧米の水準に比較すると低いと言わざるを得なかった。
それだけに、膨大な資金と人材を投入して自動車の事業に乗り出すのは、とんでもない冒険であり、周囲の反対を押し切らなくては始められない事だった。装置産業の代表ともいうべき自動車産業が成立するには、大量生産することが前提で、豊富な資金を投入できる実力があり、高い技術力を獲得する必要があった。したがって、この時期に自動車産業に手を出すには、非常にリスクの大きいことと思われた。三井や三菱といった財閥企業でさえ、しり込みする分野だったが、だからこそ、ニッサンの鮎川義介も、トヨタの豊田喜一郎も、日本に自動車産業を確立させようと決心したのだった。』
(下は完成間近の戦前のトヨタ挙母工場全景。昭和12年9月に着工、13年11月3日に竣工し、以降この日が創立記念日となった。良く知られているように挙母町は、のちに豊田市へと名前が変わった。)
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https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/text/taking_on_the_automotive_business/chapter2/section4/images/l01_02_04_03_img02.jpg
 二人の苦難に満ちた足跡とその偉大な功績についてはすでに語り尽くされているので、(夏か秋ごろ?記す“その6”の記事でその一端を紹介する予定)ここでは割愛する。余談だがこの二人は実は親戚同士であったという。『二人の夫人は従姉妹(高島屋飯田家)で、(中略)豊田家と鮎川家はお互い近親感はあっても、ライバルとして相手を打ち負かそうという意識はなかったようだ。しかし、それは豊田家と鮎川家のことであり、それぞれの組織の従業員の意識は同じではなかったのは確かである。』以上同じく引用②P13より。確かに戦前においては“つばぜり合い”程度はあったが、共存共栄であったように思う。それも後の記事で記すことにする。

3.“戦後派”を代表する本田宗一郎
 しかし、大半の日本人からみた、日本自動車産業史の“通史”としてはたぶん納得いくであろう?この人選も、世界基準ではまた違った見方もあるかもしれない。日本の自動車が“世界史”に躍り出たのは戦後しばらくたってからで、その時点ではすでに、この二人が残したものはあっても実際に活躍する場面はなかった。また自動車の欧米市場への切り込み役は、メイド・イン・ジャパンのホンダを筆頭としたオートバイからで、
(下はアメリカ・ホンダが展開した有名な「YOU MEET THE NICEST PEOPLE ON A HONDA」(すばらしき人ホンダに乗る)キャンペーンのポスター。オートバイを、黒の革ジャンを着たラフな男の乗り物という限定したイメージから広げていった。)
https://www.honda.co.jp/50years-history/challenge/1959establishingamericanhonda/page08.html
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https://cdn-image.as-web.jp/2018/08/01161153/2180801-supercub_005H-660x440.jpg
 やはり、2輪GP制覇が与えた影響も大きかっただろう。(下の写真はホンダのGPマシン、RC162に乗る高橋国光(#100)。1961年の第2戦西ドイツGP 250㏄クラススタート直前の光景だが、高橋はこのレースで日本人初優勝の快挙を成し遂げる。)
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https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn%3AANd9GcS9271aYX_Jho4BdjtPvv3cPVPsMxi2HyKEyHP4_RGWbhTQdAO1
 そして欧米人の目からみるとやはり、下の写真のような満面笑みの「ソーイチロー・ホンダ」が放つ、強烈なオーラにたどり着くようだ。
(下は本田宗一郎)
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http://www.g-rexjapan.co.jp/ishikawahironobu/wp-content/uploads/2017/09/souichiro.jpg
 1986年、ガソリン自動車そのものの“生みの親”であるダイムラー・ベンツ社は、自動車誕生100周年を記念して、一大イベントを開催した。その壮大なセレモニーに招待された、小林彰太郎と並び日本を代表するモータージャーナリストである徳大寺有恒は、その時の模様を以下のように綴っている。(「ぼくの日本自動車史」徳大寺有恒;引用③P365)
『~おそらくあんなに世界の自動車工業のトップが集まった例は他にない。巨大で、寒い競技場のようなホールの正面壇上には、錚々たるメンバーが勢ぞろいしていた。豊田英二さんの隣はGMのロジャー・スミス、さらにその隣はフォードのピーターセン、日産の中川さん、三菱の舘さん、ホンダも会長が来ていたし、ロールス・ロイスの会長も、ルノーの総裁もやってきた。(中略)そのVIPたちの横には、歴代のF1のワールドチャンピオンがずらりと十何人か並んでいた。すごいパーティーなのだ。
セレモニーはだらだらだらだらと三時間続いた。ニキ・ラウダの司会で、テレビ同時中継で自動車100年の歴史を寸劇やらVTRなどで延々と綴るというものである。最初の部分がやたらと長かった。それはカール・ベンツがクリスマスも迫った冬のある日、試作車を走らせようとして、エンジンがなかなかかからず、かみさんと一緒にプシュン、プシュンと押し掛けするシーンであった。その部分を本物のクルマを使った寸劇にして、フィルムに撮ってあるのだ。
それは何度も奥さんと一緒に試みながら、最後にはエンジンがかかるという、とても有名で感動的な話なのだが、そこの部分がやけに長いのである。
(下の画像は『ベンツ夫妻の挑戦「じどうしゃのはつめい」カールベンツ(絵本)』ブログ「クルマノエホン」よりコピー))
https://ehonkuruma.blog.fc2.com/blog-entry-330.html
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https://blog-imgs-34.fc2.com/e/h/o/ehonkuruma/110826_3.jpg
メルツェデスとしてはこの自動車の誕生シーンは見せたいところだろうと思うのだが、あまりに延々とやっているので、参加者はみんなウンザリしてしまった。』
『結局そのドラマは途中で中断されてしまう。ダイムラー社の偉い人が、さすがに「おまえ、ふざけんな」ということで、やめさせたのである。

(下はカールベンツのモトールヴァーゲン(最初の三輪自動車))
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https://www.mercedes-benz.jp/brand/magazine/story/imgs/vol_01/photo3.jpg
それから自動車の歴史が順々に紹介されて、最後の三十分ほどになってようやく六十年代に達する。そうすると、ぼくたち日本からの参加者もちょっとはおもしろくなる。そこで「日本車の台頭」というタイトルが出た。おお、と思ったら、本田さんのあのにこやかな眼鏡をかけたちょっとにやけた顔が、どーんとスクリーンいっぱいにアップになった。それが三秒続いて、それで終わり。次は「アメリカの安全問題」というのだ。トヨタもニッサンも、日本のお歴々はさぞかしガッカリしたことだろう。
そのときぼくは、本田さんはつくづく日本自動車界のシンボルなのだなあと思った。日本では違うかもしれないが、世界の認識としてはそうなのだ。』
 (下は本田宗一郎と、その名参謀役として、宗一郎とホンダの経営を支え続けた藤澤武夫。二人の関係について、『経営学者の伊丹敬之は、演劇における演出家と役者の関係になぞらえて、「藤沢が経営の大きなシナリオを書き、体制をつくり、資源の手当てをする。本田が、そのシナリオの中心にある技術開発を存分に切り回し、そしてシナリオ全体の主役としてみごとにリーダーとしての役割を果たした。」と表現している。』(引用④P95))
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https://d1uzk9o9cg136f.cloudfront.net/f/16783342/rc/2018/05/10/59b83f40f2242330f569e861765b666bf4998284_xlarge.jpg
 トヨタや日産の関係者をさしおき、アメリカの自動車殿堂入りを、最初に果たした日本人も本田宗一郎だった。世界基準に照らし合わせれば戦前の日本の自動車産業は、規模と質の両面から見て、その力は、取るに足らずとなれば、ソニーと並ぶ戦後派日本企業の代表であり、戦後の日本の自動車業界を代表する“顔”としてはやはり、本田宗一郎(+裏方のすべてを仕切り支えた藤澤武夫の名コンビ)なのだろう。
 以下は本田のHP「本田・藤澤両トップ退任、川島社長就任」(引用⑤とする)より引用。二人で交わされた引退を巡っての短い言葉のやりとりの中に、二人三脚であったそのすべてが凝縮されている、
『退任が決まった後のある会合で、藤澤は本田と顔を合わせた。当時の様子を藤澤は、1973年8月の『退陣のごあいさつ』の中で、次のように触れている。
――ここへ来いよ、と(本田さんに)目で知らされたので、一緒に連れ立った。
「まあまあだな」
と言われた。
「そう、まあまあさ」
と答えた。
「幸せだったな」
と言われた。
「本当に幸せでした。心からお礼を言います」
と言った私に、
「おれも礼を言うよ。良い人生だったな」
とのことで引退の話は終わりました――。』

https://www.honda.co.jp/50years-history/challenge/1973companyleaders/page06.html
 個人的な意見からすれば、戦後の日本の自動車産業をけん引した数々の偉人たちの中で、憤死した喜一郎の意志を継ぎ、石田退三/神谷正太郎らとともに戦後のトヨタの成長の基盤を築き、第二の創業者だったとも言えると思う豊田英二も、本田宗一郎と並ぶ存在であったと思うが、(本田宗一郎に比べれば、地味ではあるけれども、その功績により日本人として2番目に、アメリカの自動車殿堂入りを果たした。)
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https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcRAX3PBKXjQfHc7Zqq5jq7yW4H6AgFI-uJ2nS7HdcG_5aQS9Ej7&s
 しかし戦前の礎がなければ、戦後の今日の日本の自動車産業の隆盛はそもそもなかった。それを思えば、戦前/戦後の通史として考えれば“生みの親”はやはり、豊田喜一郎と、鮎川義介とするのが妥当と言えるのではないかと、個人的には思う。
 だが末はいくら優秀な子供でも、自立するまでは誰かの手を借りねば生き抜くことはできない。それでは“育ての親”は、いったい誰だったのか?

4.一番の“育ての親”は、日本陸軍だった!?
 今日の日本の自動車産業の繁栄は、個々の企業活動による長年の努力と実績の積重ねの結果に違いない。しかし、いくら企業やその経営者たちが励んでも、戦前から戦後のある時期までは、日米の自動車産業の規模と力量の差はいかんともしがたいほどの大差があった。なにせ戦後の1970年頃に至っても、GMの売上高は日本の国家予算ぐらいの規模があったのだ。
 敗戦後も、国力のすべてが失われた中で、ヨチヨチ歩きの子供(当時の日本の自動車産業)が独り立ちして自活できるまでは、巨像に踏みつぶされないよう、誰かが保護・育成してやる必要があった。
 そんな日本の自動車産業の“育ての親”的な役目を果たしたものは、一人ではなかった。だが戦後の繁栄の結果から逆算して判断すれば、日本陸軍(陸軍省)が、その最大の功労者であったと思う(私見です)。
 戦時体制という錦の旗のもとで、内外からの圧力や工作にけっして屈することなく、陸軍と統制経済実施で歩調を合わせた商工省と共に"国防"を理由に有無を言わさず、外国の巨大自動車資本(フォードとGM)を日本から徹底排除することで、量産自動車メーカーとしてみれば世界基準ではまったく競争力を欠いていたトヨタと日産による二大メーカー体制を、強引に成立させた。
 そのため重要な起点となったはずの戦後のスタート時点で、戦前の日本市場で圧倒的優位にあり、なおかつ戦勝(占領)国側であったGMとフォードは、戦前の陸軍の工作の結果、手掛かりとなる基盤を日本から失ってしまっていた。
 そして戦前の“守護神”役であった日本陸軍なき後の戦後体制においては、商工省が通産省となって引き続き、日本の自動車産業確立のために徹底擁護を貫き、内外の情勢を考えればむしろ“正論”とも言えた“乗用車不要論”を抑え、難しい運営を強いられたであろう占領下においても、その間隙を縫って果敢に保護育成政策を実行し、強力に支援し続けた。
 さらに戦前においては陸軍/商工省以外でも、内務省が庶民の足としていわば自発的に誕生したオート三輪を無免許や税制上の優遇を認めて奨励した結果、小型四輪車を定着させたダットサン共々日本独特の小型車市場が形成されていった。そしてその市場が戦後に入り通産省の国民車構想などと絡まりながら紆余曲折を経て、日本独自の軽自動車へとさらに発展を遂げていくことになる。こうしてトヨタ、日産以外に、戦前からオート三輪を出発点としたダイハツ、マツダや、軽自動車への進出で量産体制を築いた旧中島飛行機系のスバルや、二輪からスタートした戦後派のホンダやスズキ等が、四輪自動車メーカーとして育っていった。
 陸軍向けの軍用トラックや、商工省/鉄道省による標準自動車や省営バス等、当初は官需を中心に育成されていったいすゞ、日野、ふそうなどトラックメーカー共々、戦後の日本の自動車産業の基盤はこうして確立されていった。

 これらの事実はよく知られてはいると思うが、なにせトヨタ、日産、そして後にトラックのいすゞが加わり三大自動車メーカーの体制をつくった自動車製造事業法から数えても80年以上昔の話で、今日の自動車産業の繁栄の前に、ともすればかき消されがちだ。
 創業者系もしくは、最近はともかく過去にはワンマン型の経営者が多く、独立心が強く、自力で知恵を絞り現場で汗を流し、ベンチャー魂旺盛な企業家達が多かった日本の自動車産業界にとっては、国の保護下にあった過去など負の時代の“鬱陶しい昔話”として、今さら振り返りたくないのかもしれない。
 それに日本陸軍は敗戦とともに霧散してしまい、さらに戦後に入り、個人的には一方的な見方に思える“陸軍悪玉・海軍善玉論”が世論に植え付けられてしまい、日本史の中で“悪役”とされてしまった陸軍が、自動車産業の最大の後見人であったなどという事実は都合も悪かったのだろう。
 また戦後の”育ての親”であった通産省の自動車政策も、自動車産業が成長軌道に乗ると、せっかく子供が成人して、親離れをして外界に旅立とうとしているのに、時には親元に無理やり引き留めようとしているかのようで、次第に空回りすることも多くなり、充分機能しないように思える場面が目立っていった。
(たとえば、通産省が特定産業振興臨時措置法案で新規参入を封じようとした時、本田宗一郎がこの方針にかみつき、一升瓶片手に通産省に直談判に行ったのは有名な話だ。下は今日でも「会社の名前と商品(ブランド)の名前が同じ」お二人、現代の日本の自動車業界を代表する“顔”である豊田社長と鈴木会長の対談の様子)
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https://www.youtube.com/watch?v=pBoz48UjiQk

 戦後、独り立ちを果たしたあとの日本の自動車産業にとって、結果から判断してもっとも有益だった自動車産業政策は、多少皮肉な面もあるが、自動車環境行政として実施された、環境庁/運輸省(いずれも当時)による53年排出ガス規制(いわゆる“日本版マスキー法”)であったように思える(私見です)。
 自動車メーカーに対しては、段階的に実施するなど一定の配慮を示しつつも、マスキー法のいわば”本家”だった米国はじめ世界が挫折していく中で諦めることなく、限界に近い排ガス規制値の目標を掲げ続けて、それを達成させた。そして当時の行政側は、規制値を段階的に強化していく過程で、この排ガス規制が自動車産業に対しての、産業振興政策にもなる事を理解していたに違いない。自動車業界に対してより高度な技術開発を即し、結果的にその技術力は大きく底上げされて、日本の自動車産業は一気に世界水準に達することが出来た。当時の通産省の“過保護的な?”施策よりも、その後の日本車の、世界に対しての競争力と自信の源泉となったようにも思える。(下の写真と以下の文は本田のHPより、『1973年3月19日にワシントンの農務省ホールで行われたEPA公聴会〔写真提供 伊達たすく氏〕。1973年3月19日、EPAの公聴会がワシントンで開催された。これはマスキー法を予定通り実施するか否かを決めるため、自動車メーカーからの証言を聞くものであった。この公聴会で、1975年規制を達成可能と証言したのは、Hondaと東洋工業(現、マツダ)だけであった。(中略)公聴会の結果、(“本家”アメリカの)マスキー法の実施は延期されることに決定した。』排出ガス規制をクリアする=生き残りを賭けるというという高いハードルが、メーカー間の熾烈な技術開発競争を生み、その“試練”が、後に日本車の高い競争力をもたらした。)
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https://www.honda.co.jp/50years-history/challenge/1972introducingthecvcc/page06.html
 
 さらに別の側面からみれば、建設省(当時)による、自民党の建設族議員を巻き込みながら政治力を駆使して強力に推進した、インフラ整備としての道路行政も、“育ての親”としての貢献度は高かったと思う。クルマにとって肝心要である走る道がなければ、本格的な普及期は迎えられない。実施に当たっては多少ダーティーな側面もあっただろうが、全国に高速道路網が完備されたからこそ、日本車に欠けていた高速走行性能も次第に改善されていった。(下の写真は建設省の官僚として田中角栄とタッグを組み、戦後の日本の自動車産業の繁栄を裏から支え、“「道路三法」と「道路公団」の父”と呼ばれた石破二朗。田中角栄と共に間違いなく、自動車産業の“育ての親”の一人であったと思う。画像はwikiより。ちなみに首相候補の一人と言われている石破茂の父親だ。追記すれば、日本車の操安性や超高速走行性能等、基本性能を鍛え上げた点で、鈴鹿サーキットを建設した本田宗一郎はこの面でも偉人だった。)
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 しかししつこいようだが、戦前/戦後初期のもっとも保護すべき重要な時期に、陸軍&商工省/通産省の保護政策により“外敵”!?から身を守ることにより生き延び、戦後も成長の過程のある段階までは、通産省の産業政策も効果があり、今日の自動車産業の繁栄をもたらしたのは事実だ。
 もちろん、逆もまたしかりで、いくら国が保護に回っても、企業側の自助努力と独立心がなければ、構想倒れで中身の無いままで終わってしまっていただろう。日本の自動車産業の今日の繁栄は、官/民の両輪が噛み合った結果、はじめてもたらされたものだったと思う。実際にトヨタと日産による日本の自動車産業の確立は、陸軍/商工省との“合作”以外何物でもなかった。とくにトヨタの場合は日産以上に、その色が濃かったと思う。

 この、“育ての親”というキーワードが自分の頭の中で次第に膨らんでいき、まだ書きかけの記事が中途半端に3~4編も残っているのに、どうしても先にこの問題の決着を付けてしまいたくなった。
 今まで日本の自動車産業の“生みの親”の視点からは、多くのメディアでさまざまな切り口から語られてきた。しかし従来語られることが少なかった“育ての親”の視点から、今日の日本の自動車産業が、官民合作の結果として成立していった過程を、どうしても書き残したくなってしまった。
 そこで戦後の結果から逆算して、最大の立役者だったと思う(何度も記すけれど私見です)日本陸軍(陸軍省)を中心に、商工省/内務省/鉄道省など官側の“育ての親”たちの果たした役割を軸に、日本の自動車産業史を振り返ってみることにした。
期間としては、国産自動車第一号とされる、山羽式蒸気自動車の誕生(1904年)から始まり、戦後はクラウン登場(1955年)以降はすでに語り尽くされているので、その直前ぐらいまでで区切るとしても、全体としては相当なボリューム(=たぶん読む側からすればダラダラと長いだけでしょう!)になる予定だ。
 実はここ半年間ぐらい、まずは全体の構想を固めねばとウ~ウ~考えながら、練ってきたのだが、このままのペースだといつまでたってもゴールが見えないので、今月から1~2ヶ月に一本ぐらいのペースで、見切り発車気味だがともかく記事としてアップしていくことにした。(たぶん“その7”ぐらいまで続き、書き終えるのは秋~年末ごろ?)

 なお今回から始まる一連の記事で引用させていただいた多くのジャーナリスト、研究者、ブログ主の方々に深く感謝します。引用した箇所の情報や考え方に少しでも興味のある方は、ぜひ元ネタを訪れるなり原本を手にして、さらに探求してみてください。この記事がそのための契機となり、結果としてガイダンス的な役割を果たせれば幸いです。
(いつものように敬称略とさせていただく。引用箇所は青字で記すことで区別し、すべての引用もしくは参照先は番号をふって文末にまとめて記載し、画像のコピペ先も写真の下に記載してある。今回から新たに、本と論文に関しては引用/参考箇所のページまで明記するようにした。例によって全くの個人的な見解については極力“私見”だと明記しておく。何度も記すが、引用文と写真の引用箇所に少しでも興味のある方はこれをきっかけにぜひとも、オリジナルである原書を読むなりブログを尋ねるなりしてみてください。ちなみに引用した本は全て実際に購入したものです(古本が多かったけれども)。個人的には、このテーマの記事は、もっと勉強した後、いずれ改めて書き直したい。今回の記事はそのための準備の、“試作の試作”程度のつもりで書いたものであることをお断りしておく。)

 それではまず第一回目(その2)として、日本で最初の自動車産業政策と言われる、日本陸軍による「軍用自動車補助法」から~、と話を始める前に、官側が自動車産業の育成に乗り出す前の、いわば“自動車発明家”の時代であるが、国産自動車の起点となった重要な2台である、国産自動車第1号とされる山羽式蒸気自動車と、国産ガソリン自動車第1号のタクリ―号誕生の話から(記事⑰、“その2”として)始めてみたい。

引用元一覧
①:「20世紀の国産車」鈴木一義 (2000.05)三樹書房
②:「日本における自動車の世紀」桂木洋二(1999.08)グランプリ出版
③:「ぼくの日本自動車史」徳大寺有恒(2011.06)草思社文庫
④:「日本の自動車産業経営史」宇田川勝(2013.10)分眞堂
⑤:「本田・藤澤両トップ退任、川島社長就任」ホンダ・ホームページ
https://www.honda.co.jp/50years-history/challenge/1973companyleaders/page06.html

プロフィール

マルプーのぼんちゃん

Author:マルプーのぼんちゃん
【ぼんちゃん】
推定年齢12歳(2020年6月現在)ぐらいの、オスのマルプー犬のぼんちゃん。年より若く見える。マルプーではちょっと稀な“キレカワ系”💛 性格は、おとなしくてやさしくて人懐っこくて庶民的?でも対犬ではかなり臆病。散歩だけはたくさん(1日1~3時間ぐらい)させてもらっている。選択の余地なく、毎日おっさんの面倒をみている。
【おっさん】
推定年齢60歳+のシガナイ初老の独身オヤジ。ひょんなことからぼんちゃんと2人で暮らすことになったが、おかげさまで日々シアワセに暮らしている。

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