⑱ 日本の自動車産業の“育ての親”は日本陸軍だった?(戦前の日本自動車史;その3) 軍用自動車補助法と、軍用保護自動車3社について
⑱ 日本の自動車産業の“育ての親”は日本陸軍だった?(戦前の日本自動車史;その3) 軍用自動車補助法と、軍用保護自動車3社について(日本陸軍の果たした役割;その1)
(いつものように以下文中敬称略とさせていただき、直接の引用箇所は青字で区別して記した。また考える上で参考にしたものも含め出来るだけすべて、参考文献として文末にその一覧を記載した。なお今回から、本とネット情報は別に分類した。オリジナルに勝るものはないので興味のある方はぜひ元ネタ方を確認してみてください。)
この記事(戦前の日本自動車史;その3)は、日本陸軍が主導し、日本最初の自動車産業振興策となった軍用自動車補助法(1918年)について、その背景も含め記す(6,7項)。
そして次の8項では、自動車産業を取り巻く当時の厳しい情勢の中で、同法により軍用自動車メーカーとしてかろうじて生き延びていった、国産自動車3社(東京瓦斯電気工業、東京石川島造船所、ダット自動車製造⇒それぞれ日野自動車、いすゞ自動車、日産自動車の源流となる)の、年代でいえば満州事変以降の、戦乱の昭和期になる前の1930年ごろまでの、苦難の足跡を辿る。
そして最後の9項では、軍用自動車補助法のその後の変遷を辿りながら、その間に起こった、同法を取り巻く内外の情勢変化を記していく。
6.軍用トラックを求めた日本陸軍と「総力戦構想」
<6項概要> 日露戦争の戦訓で輸送力に劣ることを痛感した日本陸軍は、当時の民間企業より優れた技術を誇った陸軍砲兵工廠で、自ら軍用トラックの試作に乗り出す。完成したトラックはただちに、第一次大戦に投入されて(“青島の戦い”)、実績を示し、自信を深める。さらに総力戦となった第一次大戦に対しての研究を通じて、来るべき第二次世界大戦に備えるための、総力戦構想が陸軍内で検討されていく。そして自動車もその時々の総力戦構想の中で位置づけられていき、その結果は「軍用自動車補助法」や、後の「自動車製造事業法」(←“その6”の記事で記す予定)として結実していった。
6.1-1陸軍が軍用トラックの研究を始める
日本陸軍が自動車に対して関心を持つようになったのは、日露戦争のさなかの1904年であったという。『~ロシア軍との戦いは、輸送力の戦いでもあった。日露戦争では、兵站輸送は主に馬匹で行われたが、輸送路が長くなればなるほど補給は困難を極めた。荒野を行く補給ルートはまさに道なき道の泥濘悪路で人馬ともに疲労の極に達し、敵の襲撃による被害も大きく、それが戦局に影響して重大な局面を迎える事さえあった。そういった苦い経験から自動車に対する関心が高まったのである。』(①P11)
日露戦争に勝利した結果、ポーツマス講和条約により、日本は樺太・南満州・朝鮮の植民地を支配することとなった。陸軍は上記のような日露戦争の戦訓から、広大な大陸戦線においては、従来の人馬だけに頼った輸送に限界があることを痛感した。そしてフランスに駐在していた武官ら陸軍青年将校たちが、自動車を研究する必要性を強く主張したこともあり、自動車導入についての検討を始める。(主に②P11)
1907年、自動車に関する調査研究命令が発せられ、これを受けて1908年、フランスのノーム・オートモビル社製トラック2台を購入し、東京・青森間の試験運行を行った。『自動車が通ることを考えた道路などあるはずもなく、走行テストには工兵隊が随伴して、通れないところは道を広げ、橋を架けるなど地元の人たちの協力を得ながらの走行テスト』(引用③P81)だったそうだ。
翌年1909年、同じくフランスのシュナイダー社(スナイドル社=フランスの総合武器メーカー)のトラック2台を入手し、東京・盛岡間の運航試験を実施する。走行試験の結果、シュナイダー製の方が性能優秀だったといい、この車両をコピーすることにした。そしてその作業は大阪砲兵工廠が主体となって行う事となる。『大阪砲兵工廠が分解と組み立ての反復で各部分の構造などの研究』(引用③P81)を行ない、『分解したシュナイダーの部品の詳細なスケッチから図面をおこし』(引用③P81)ていった。なおその後、ルノーやイギリスのソニークラフト、ドイツのガッケナウも参考用に輸入されたが、軍用トラックとしての視点では、シュナイダー製と並びガッケナウ製の評価も高かったという。
6.1-2当初は、馬に代わる位置づけではなかった
誤解する人も少ないと思うが、念のためここで記しておくと、前回の記事で記したように、当時の日本の国家予算の規模と、国産自動車(輸入車をトレースした国産車がようやく産声をあげた頃で、“産業”と呼べる遥か以前の段階だった)の実力からすれば当然だが、陸軍が軍用トラックの検討を始めたころの段階では、馬と代えるものという位置づけではなかった。
少し時代を遡り、明治初期の陸軍の、物資の輸送(兵站)の事情を調べてみると、『馬車より人力が重視されていた。これは当時の日本の道路事情による。馬車の通行が可能な道路は幹線道路でさえ限られていた。後に陸軍が行った実験では、幅の狭い道路ばかりのために、馬車輸送より人力輸送の方が速かったことさえあった』(④P131)という。
その後も長い間、人力が主力だった。1891年には、二輪馬車の採用の可否が検討されたが、採用見送りの結論が出された。(④P136)日本は欧米と違い馬車の時代がなかったため、道路整備が遅れていたことも足を引っ張った。そして日露戦争も近いころになってようやく、二輪馬車、四輪馬車などの改良や制式化がおこなわれたという。(④P138)
同時にそのころから、自動車(軍用トラック)についての研究も始まるのだが、別の背景として、馬自体が、諸外国に比べて質・量共に大きく劣るという問題もあったようだ。世界史的に見れば『19世紀末から20世紀初頭の軍隊では、機動力や兵站面で軍馬が重要な位置を占めていた』(⑤P13)が、日本は馬匹による輸送力が劣っていたため、その一環としても自動車の研究に着手したという。(体格が貧弱な上に気性が荒いという、軍馬としては“最低”だった日本の馬の実態について、文末の≪備考6≫に小文字で記しておく。)
6.2陸軍自ら、軍用トラックの試作に乗り出す
陸軍砲兵工廠における試験と研究の結果,技術審査部は陸軍が開発する軍用トラック(当時軍用自動車貨物と呼称)の性能,大きさ等を決定し,自らその製造に乗り出すことにした。
なぜ外部に発注しなかったか言えば、当時の陸軍歩兵工廠は、『設備はもちろんのこと、技術者も工員も選りすぐりの優秀な人材が集められていた。当時、日本は官主導で近代化が図られており、民間の製造業のどこよりも進んだ技術をもっていた』(引用②P81)からで、自身の工廠以上に、適当な委託先が無かったからであった。前回の記事で記したタクリ―号がようやく産声をあげたばかりの頃の時代の話だ。
下の(表1)(Web➊P36より転記、「雇用規模からみた工場ランキング(1902年)」を参考までに。)

(ちなみに陸軍における自動車の歴史としては、(⑬P40)によれば、ノーム社のトラックを購入する10年ぐらい前に、陸軍幼年学校で、オールズモビル “カーヴドダッシュ”を購入していたようだという。(オールズモビル “カーヴドダッシュ”はフォードT型以前に世界初の大量生産方式を採用したといわれたクルマ。馬一頭と軽量馬車を合せた値段が500ドル前後だった当時、650ドルという価格と巧みな宣伝で、ベストセラーカーとなった。下の写真と以下の文はwikiよりコピー『1905年に流った歌In My Merry Oldsmobileの楽譜の表紙に描かれた オールズモビル・カーブドダッシュとそれに乗った男女。』)

(さらに下も余談だがこの時代に陸軍は飛行機も、フランスから輸入したファルマン機をもとに、軍用トラックと同様『見よう見まねで』(引用③P81)飛行機をコピーして内製した。下は国産軍用機飛行機第1号の「陸軍会式一号機」画像はwikiより。)

話を戻すが軍用トラックの性能仕様は、全備重量4トン,積載量1トン半以上,馬力 30馬力以上,最高時速 16km/hと定められ、内製すべく大阪砲兵工廠と東京砲兵工廠に発注される。
こうして1911年5月、大阪工廠で国産の「軍用貨物車第1号」が完成、「甲号・自動貨車」と命名された。(下の写真のトラックです)

https://seez.weblogs.jp/.a/6a0128762cdbcb970c0240a4ab05b0200b-200wi
引き続き6月に、第2号自動貨車(トラック)が、東京砲兵工廠でも完成し、東西の両工廠製の合計4輛の国産軍用トラックは東京の青山練兵場(今の明治神宮外苑)で公式試験を行なった上、将来の自動車に対する方針を決定することとなった。なお大阪工廠で完成した車両2台を東京に送る際、試験を兼ねて自走させたが、『当時の日本は街道でも、自動車の通行は困難を極め』(引用⑤P19)、移動に15日間を要したという。
(ちなみに大阪砲兵工廠は、大阪城の東側に広がる広大な敷地に、最盛期は最大64,000名の工員を擁したアジア最大規模の軍需工場だったという。下はwikiより、当時は軍事機密だったため、その全容を示した写真が少ないため、規模の大きさを地図で示しておく。

なお下記アドレス(三井住友トラスト不動産)に、当時の貴重な絵葉書のカラーの画像がある。本当はそちらを貼りたかったが転載不可と明記されていたのでさらに興味ある方は訪問してみてください。
https://smtrc.jp/town-archives/city/osaka/index.html)
ここで陸軍は,総合的な調査研究を行なうための調査機関、「軍用自動車調査委員会」を 陸軍省内に発足させて(1912.06),本格的な輸送の機械化と輸送兵器の開発を推進する。
この軍用自動車調査委員会において,内地,満州の地形において、軍用トラックの性能試験を行ない,各種のデータを収集し,先行するイギリス,フランス,ドイツなどの軍用自動車補助法を調査研究し,日本への適用とその実施方法等、具体的な検討を始める。
6.3第一次世界大戦(青島戦)で軍用トラックが活躍
そのさなかに、第一次大戦が勃発する。陸軍は早速、ドイツの青島海軍基地を攻撃するために工廠で作った軍用トラックに砲弾を輸送させ,兵站戦を維持させた。その時の状況について、以下(①、②、③、⑤、⑦)等よりダイジェストに記す。
1914年第一次世界大戦が始まると,日本は当時の日英同盟関係 から、連合国側の一員として参戦する。そしてドイツが所有していた中国の青島要塞を攻撃,砲火で打ち砕いた。その際の重砲弾の運搬で見せた働きが,兵站作戦における軍事的利用と、輸送兵器としての軍用トラックの新しい役割についての認識を深めさせる。(下の写真はwiki“青島の戦い”より、ドイツ軍の「青島要塞を砲撃する四五式二十糎榴弾砲」。この青島の戦いについて、(⑤P202)より引用『陸軍における自動車運用の歴史と言う観点では、青島攻略戦は初の実戦ということでも、また戦場での自動車の有用性を確認できたという点でも無視できない。しかし、投入された自動車班は小規模なもので、自動車の実戦テストの意味合いも強かった。したがって兵站作戦全体では、取るに足らない存在であったのもまた事実であった。』あくまで試験的な運用であったということのようだ。)

以下の2枚の写真は、第一次大戦の主戦場であったヨーロッパ大陸で、自動車による迅速な大量輸送がその威力を発揮した代表的な戦いであった、「マルヌの戦い」と、「ヴェルダンの戦い」について写したものだ。
(下は「マルヌの戦い」で動員された、パリのタクシー(ルノーAG-1型)の隊列。1914年ドイツ軍がパリに迫ったが、タクシー600台が夜間に6,000人の兵士を前線まで運び、ドイツ軍を押し返すことに成功した。鉄道に頼らぬ高速移動手段の重要性が示された。ちなみに1914年時点の日本全国の自動車の総保有台数は1,066台に過ぎなかった。)

https://topwar.ru/uploads/posts/2015-05/1430502636_marnskie-taksi-na-hodu.jpeg
(下は1916年の「ヴェルダン要塞の攻防戦」のもの。補給路は鉄道が1本と狭い道路1本だけで、鉄道で運ばれた物資を前線まで運ぶのが自動車部隊の役目だったという。連合軍は3,500台もの自動車を動員して、補給線を維持することに成功した。そして『「フランス軍がドイツ軍に勝ったのはフランスのトラックがドイツの鉄道に勝っていたからである」と言われるほど勝利に決定的な要因となった。こうした効果は直ちに各国に知られたが、日本もその例外ではなかった。』(⑥P47)下のフランス軍のトラックの隊列の画像はブログ「「ヴェルダンの戦い」この戦いから大規模な消耗戦が始まりました」よりコピーさせていただいた。http://kamesennin2.info/?p=3129
日本も前述の「軍用自動車調査委員会」が、第一次大戦における各国の軍用車の状況を調査すべく、イギリス、イタリア、フランス、ロシア等に武官を派遣しており、前線で大量に消費される弾薬の輸送のために、自動車が欠かせないことを認識していった。(⑤P24))

http://kamesennin2.info/wp-content/uploads/2018/05/4abe222c425880367a80e2f1a836c882-300x169.png
6.4第一次世界大戦の教訓と陸軍の「総力戦構想」
このあたりで、日本の自動車産業の“育ての親”役を担った、戦前の日本陸軍の基本戦略であった「総力戦構想」について、多少なりとも触れておかねばならないだろう。超メンド~な話になりそうなので全く気が進まないが(書いていて、“苦痛”以外何物でもなかった!)、今回の一連の記事のメインタイトルを、日本の自動車産業の育ての親が陸軍だとした以上、ここは避けては通れない・・
正直なところ、不勉強でよく知らなかった事だが、日本陸軍には、総力戦となった第一次世界大戦における欧州での戦況を基に、来るべき世界大戦に備えて総力戦体制を築くという明確な戦略思想があった。そしてそれを実現するための遠大かつ合理的な全体計画の中の一環として、自動車も位置付けられていたようなのだ。しかし、ここ半年以上ウンウン唸りながら「総力戦構想」と自動車のかかわりについて記そうと試みたが、いつものように?考えれば考えるほど迷路に嵌ってしまい、正直なところよくわからなかった。ただせっかく書いたのだし、その部分についてはあくまで参考(不出来な試作品なので、読むのを飛ばしてもらった方が良い?)程度に小文字で末の備考欄の方に≪備考7≫として文記しておく。こちらの本文ではそれら備考欄に記した内容を踏まえたうえで、満州事変(1931年)勃発により状況が大きく変化する以前の、陸軍にとっての自動車(産業)の位置づけについて、ほとんど“日本史の検証”みたいな上に私見だらけだが、より概要的に考察を試みたい。なお、この記事の趣旨からしても、総力戦構想自体の“是非”(評価)については検証していくつもりは毛頭ないことを追記しておく。ただし、総力戦構想がもたらした“結果”の一断面ぐらいは、6.4-4で記しておきたい。
6.4-1-1何より痛かった、幕末の金(ゴールド)の流出
備考欄には何度も記したが、陸軍が次の世界大戦(=第二次世界大戦)で想定した総力戦においては、国力そのものが問われる戦いとなる。しかし≪備考7≫をお読みいただければわかると思うが、西欧列強諸国に追いつこうと必死だったが、何から何まで著しく劣る当時の日本の状況からすれば、そのための準備(=総力戦が予想された、来るべき第二次世界大戦に対する国防)は、気の遠くなるようなものだったに違いない。
(表2「明治33年(日露戦争の4年前)の各国のGNPと軍事費」)
(下表は1900年(日露戦争の4年前)の各国のGNPを比較したもの。西欧列強諸国に比べると著しい差があった。そして日露戦争の戦費は当時の国家予算の8年分に相当したという、巨額なものだった。⑧P85の表を基に転記して記した。)

≪備考7≫では話を自動車に関連した工業分野に限定して記したが、ここではより広い視点に立ち、国家財政の面から見ていきたい。
“自動車史”というよりも“日本史”になってしまうが、明治維新以降の日本の国家財政は、幕末に金と銀の交換比率の違いをつかれた、欧米への金の大流出があり、せっかくの“黄金の国ジパング”だった日本は、金(ゴールド)という国冨が失われてしまった。(引用Web❷「アメリカ南北戦争は日本の金が」を以下参考までに。
『日米修好通商条約の第五条に「金銀等価交換」がある。当時、江戸においては金貨1枚を銀貨4枚と交換できた。つまり金の価値は銀の価値の4倍である。いっぽう世界の相場は約15倍であった。金1枚に対して銀15枚も必要だった。それまで鎖国をしている日本にとって世界相場などどうでもよかった。ほとんどが国内で流通していたのだから。ハリスはそこに目をつけた。「日本の金は安い!」と。なんと世界相場の4分の1なのだから。マルコ・ポーロのいう「黄金の国ジパング」は本当だったのだ。方法はこうだ。まず日本にメキシコ銀貨を大量に持ち込み、これを金貨(慶長小判)と交換する。次に大英帝国に割譲されたばかりの香港へこの金貨を持ち込み、ふたたびメキシコ銀貨に交換する。1 : 4 で交換してもらったものを1 : 15 で交換し直すのだから約4倍に増える。ボロ儲けである。ハリスはリンカーンの部下であった。
もうけたカネは着服もしただろうが、大いに政府の軍資金となった。その規模ははかりしれない。経済的には南部より格下だった北部に日本のゴールドがもたらした功績はすさまじい。形勢を逆転させ、一気に軍事的優位に立った。たった2万人足らずの兵を220万人まで増やし、期間銃や大砲などの最新兵器をそろえた。4年ものあいだ南軍と戦い、これに勝利。敗戦した南軍の費用支払いも代替した。さらには広大なアラスカをロシアから購入した。』日本の保有していた金(ゴールド)のおよそ8割が流出し、そのうちアメリカに流れた分の金だけで、南北戦争時の北軍側の戦費が賄われたうえに、アラスカまで買ったのだという。さらに“往復ビンタ”のように、戊辰戦争時に、その余った中古の武器を買う羽目に陥ってしまった。)
そのため、スタート時点から国家の運営を外国からの借金に大きく依存する体質となってしまった。世界の政治経済の根幹を成す、もっとも重要な要素が、金融通貨制度であることは言うまでもない。世界がまさに金本位制の時代を迎えようとしていた中で、金を大量に保有していた日本と日本人は、本当は豊かな国としてスタートが切れたはずなのに、何とも悔しい思いだ。(下の図はアンティークコイン.JPさんの「金本位制、銀本位制と景気循環」よりコピーさせていただいた、わかりやすい図だ。
https://www.antiquecoin.jp/trivia/business_cycle.html )

https://www.antiquecoin.jp/img-bana/business_cycle-bana_pc.png
日露戦争(1904~1905)では何とか勝利に持ち込めたものの賠償金の獲得まで至らず、逆に巨額な戦費の借金を米欧のユダヤ人資本家から背負ったため、財政面ではさらに苦境にあえぐ結果となった。(下は有名な日露戦争の構図 出典compact.digi2.jp )

(下の写真はアメリカの金融資本家のジョイコブ・シフ。写真と以下の文はwikiよりコピー『高橋是清の求めに応じて日露戦争の際に日本の戦時国債を購入した。』以下はWebの❸より、金融資本家側からみたマネーゲームとしての日露戦争を解説した文を長文だが引用させていただく
『日本海海戦の勝利につながった同盟国英国と友好国アメリカの支援については既に述べましたが、ここではその資金に関して述べたいと思います。日露戦争遂行のための日本国債を外国金融機関に購入してもらうため、欧州行脚した高橋是清については良く知られています。特に米国クーン・ローブ銀行のジェイコブ・シフが日本外債の購入を積極的に支援してくれたため、高橋は軍資金の調達に大成功したと言われています。ジェイコブ(ヘブライ語ではヤコブ)・シフはロスチャイルドの米国総支配人で全米ユダヤ人協会会長でもあり、ロシアで迫害されているユダヤ人のために日本を応援したと言われています。それもあるでしょうが、やはりこれは投資です。
パリ・ロスチャイルドは既にロシアに大量の投資をしており、ロンドン・米国ロスチャイルドは日本に投資する。戦争の両方に投資するのは彼らの常套手段です。アメリカ独立戦争でも同じことをしています。簡単に言えば二つの国や勢力に戦争をさせて両方に大金を貸付け、買った方からは金利と成功報酬、負けた方からは担保である領土を取るのが彼らのビジネスです。』 なお総力戦構想や統制経済体制について調べていくと、社会主義色が強いため、多くの歴史書でコミンテルンの工作による影響との指摘が多々あったが、そもそもロシア革命を裏から支援して、共産ソ連を誕生させたのも、ロマノフ王朝を倒したかった(=中央銀行(=その国の通貨発行権を持つ国債金融資本家たちの私有物)の設置を拒んでいた。さらにロマノフ王朝の財宝も奪いたかった(❸より要約))国境を越えた金融資本家たちだ。幕末の日本に対して、幕府側をフランスのロスチャイルド家が、薩長側をイギリスのロスチャイルド家が背後から応援したのと同じ構図で、“両建て”でやっていただけで、根っこをたどればそもそもどれも同じのはずなのだ(私見です)。)

6.4-1-2すべてが足りない中で自動車の位置づけは総体的に低かった
下表はブログ“日本近代史の授業中継”さん(以下Web❹として引用)http://jugyo-jh.com/nihonsi/ の記事「大正政変と第一次世界大戦」よりコピーさせていただいた(出典;帝国書院「図説日本史通覧」p234)。軍事費だけでなく、巨額な国債の償還費が重くのしかかる。それ以外(残りもの?)では明治政府が重点をおいた鉄道・電信のインフラ整備とともに、産業基盤の整備として製鉄所の拡張にも何とか予算を割り当てているのが目立つ。ただこの表を見れば、他までは手が回らなかった状況は、おおよそ察しがつく。

第一次大戦中は戦争特需で一時的に潤い、貿易収支も黒字に転換したが、1920年3月、バブルがはじけ、戦後恐慌に突入、関東大震災(1923年)もあり、1920年代は総じて不景気な時代となった。
何度も記すが欧米に対して約100年遅れてスタートした当時の日本は、大きな基金となるはずだった金(ゴールド)を失ったため、少ない国家予算の中でやりくりして、それでも何とか追いつこうと必死だった。しかし育成すべき産業はあまりに多く、当然ではあるがまずは鉄鋼等の基盤産業の整備に力が注がれ、自動車産業にたどり着くまでにはまだまだ、時間が必要だった。
6.4-2陸・海軍共に、航空機産業の育成が急務だった
戦前の国家予算の中で突出していた軍用費の中でも、第一次大戦後の陸軍にとって最優先すべき兵器として、第一次大戦で実戦に登場し、目覚ましい活躍をした航空機の出現があった。そして航空機は陸軍のみならず海軍からしても軍艦の国産化とともに、最重要な兵器と認識された。総力戦構想についていろいろと調べていくと、当時の日本の軍部が第一次大戦での航空機の活躍に大きな衝撃を受けたことがわかる。何度も記すが、陸軍は自動車産業を軽視したわけではけっしてなかったが、来るべき第二次大戦への備え(国防)であった総力戦構想の中で、主要な兵器となる航空機や軍艦に比べれば、直接的な兵器でないこともあり、相対的に位置づけが低くなるのもやむを得なかった。
このような国家としての意向に従い民間企業の側も、たとえば“国家と共に歩む”ことを社是とする三菱財閥の中核企業で、当時の日本の民間企業の中で最も優れた工業技術力を誇った三菱造船所(及び後の三菱重工/航空機)も、軍艦や航空機の開発に全力で取り組んだが、フォードとGMの日本進出以降ハードルがさらに高くなり、巨額の投資が必要な上にリスクの高い自動車産業に本格進出することはなかった。
このことは概ね、戦前を通して言えることだと思う(以下私見です)が、陸・海軍の方針として、もっとも頼りにしていた(国防が目的なのだから、優れた武器を作る力のある企業が大事にされるのが道理だ)民間企業の三菱は、最重要兵器である飛行機に全力を注ぐべきで、陸軍目線で言えば飛行機の次は、時には自動車以上に戦車だった。いわば傍流であった自動車産業への三菱の本格進出を、軍側は長い期間、本気では望んでいなかったように思える。参考までに初期の三菱財閥の、自動車に対しての取り組みについて≪備考10≫で記しておく。(写真と文は“時事ドットコムニュース”さんより
https://www.jiji.com/jc/v2?id=20110803end_of_pacifi_war_17『米軍が1944年にサイパン島で捕獲し、米本土に持ち帰ってテストした零戦52型[米国立公文書館提供]【時事通信社】』この時代の多くの工学系の学生たちの夢は、航空機の開発に携わることだった。そのため航空機産業に突出して優秀な頭脳が集まり、当時の日本の工業技術水準からすると、部分的にせよ、ほとんど“奇跡”のようなことが起こった。いわゆる“ヒコーキ少年”が多かった時代でもあった。)

https://www.jiji.com/news/handmade/special/feature/v2/photos/20110803end_of_pacifi_war/00896505_310.jpg
慎重だった.三菱がようやく“本気モード”に変わったのは、心変わりした陸軍/商工省が軍事国家の強権で強引に仕立てた「自動車製造事業法」行きバスの第一便が、トヨタと日産だけを乗せて発車寸前になった頃だった。乗り遅れまいとあわてて飛び乗ろうとしたが、最初に誘われた時に躊躇したのが災いして乗車拒否されてしまった。『~商工省の自動車政策は一言でいえば日本の自動車産業は日産、トヨタで充分である。三菱は自動車に手を出すなということであった。「ふそうの歩み134頁」』(⑧205) 時すでに遅かったのだ。
※【7/26追記】 上記を裏付けるような内容が、最近入手した本(「日本自動車工業史座談会記録集」(自動車工業振興会;以下引用㉞)の中に記述されていたので、追記しておきたい。㉞の中の「第3回座談会「自動車工業史よもやま話」― 大正末期~昭和10年前後 ―」という、1958年8月15日に行われた座談会における、伊藤久雄の証言だ。伊藤は後の“その6”の記事で記すことになるが、陸軍の立場から、商工省の革新官僚であった岸信介、小金義照らと連携して、自動車製造事業法を強力に推進した、その立役者だ。
なおこの座談会の趣旨として冒頭に『~自動車工業の歴史の裏話しということでございますから、思い切ったことをお聞かせねがいたいと思います。なお、この記録は、すぐには発表せずに、適当な時期がくるまで自動車工業会の金庫に凍結しておくことにいたしたいと存じます。』との発言があり、事実この書物が世に出たのは(といっても非売品だった)この座談会の15年後のことで、約束は守られたようだ。
そして伊藤は、当時の自工会会長であった日産自動車浅原社長以下、島秀雄、原乙未生ら錚々たるメンバーが集まった席で、相当思い切った、あの当時の陸軍としての“本音”を発言している。(以下㉞P64)
『陸軍の側からいうと、大きな自動車工場を持つことによって、将来飛行機の製造に移ることを考えていました。そのために、自動車工場を確保することが先決問題でした。このことは外国でも同様であって、第一次大戦の際にもそのような経験があったからです。そのようなわけで、この問題を軽々に扱ったのでは、後に飛行機の製造に進むときに困る、自動車だけの問題ならたいしたことはないが、飛行機への思惑がからむために大きな問題になったのであります。それで、自動車を純国産で育てることが本筋であり、またできないことではないという見解で、しばらくは、商工省と意見が一致しなかったと思います。』
㉞は、日本の戦前の自動車工業史を記した、あらゆる書物が参考にするほど有名な記録集だが、この発言内容は衝撃的だ(しかし何故か、ほとんど注目されていない)。自動車産業を育てようとする目的(目標)はけっして一つではなく、多層的に存在したのだろうが、陸軍にとっての自動車産業は、第一義的には、航空機のためのシャドーファクトリー(非常時の 軍需転換工場;この記事の“備考12”参照)であったと告白しているのだ!伊藤は先に記したように、自動車製造事業法の立法化にもっとも功績があったと、世に認められている人物であるが、その伊藤の『自動車だけの問題ならたいしたことはない』という発言に、自工会側の出席者は思わず絶句したことだろう!当然商工省側はまた別の主目的もあっただろうが、この伊藤の発言は自分が直感的に思った、上記の項(6.4-2陸・海軍共に、航空機産業の育成が急務だった)が正しかったことを証明してくれていると思う。
6.4-3激動する昭和期の自動車産業
国内の自動車産業を取り巻く状況について、陸軍の総力戦構想を軸に第一次大戦後の状況を概観してみたい。詳しくは次回の記事(“その4”)で詳しく記す予定だが、関東大震災を一つのきっかけとしてフォードとGMが日本に進出し、国内の自動車市場は急拡大した一方で、追って進出したクライスラーも含め米3社(ビッグスリー)の植民地と化した。そのためこの記事の次の7項以降で記すが、産声を上げたばかりの国産自動車会社は、軍用自動車補助法の保護の下でかろうじて生き延びていくしか方法がなかった。そしてこの外資3社による市場の独占を、当時は陸軍も、やむを得ぬものとして半ば容認していた。市場の急拡大により有事の際の必要数が、フォードとシヴォレーのトラックにより当面確保されたからだ。
しかし満州事変の前後から、日本を取り巻く内外の情勢が大きく変化していく。それと連動して、上記の三菱のところでも触れたが、総力戦構想の中における自動車産業の位置づけに変化が起きる。
日本包囲網が形成されて、次第に孤立していった日本は、総力戦構想に基づき自給自足体制を築くべく、資源を求めて大陸への侵攻を拡大していく。しかし広大な大陸では長い兵站線の維持のため、今までよりも大量の軍用車が必要だった。そのことは熱河作戦で多数投入された、フォードとシヴォレーによる自動車部隊の活躍で証明された。陸軍省整備局を中心とした、大陸政策の中心に自動車産業を据えたいという思惑もあり、いわゆる“大衆車”クラス(=“大衆車”といってもフォード、シヴォレー級の3000ccクラス)の国産軍を、総力戦構想に基づき大量生産を行い自給自足体制を築くべしという、高いハードルを伴う、強い意志を示す。
さらに陸軍と連携した商工省の“革新官僚”(←wiki等を参照してください)達による、軍の威光を借りて統制経済を一気に進め、自動車を重化学工業育成の柱に据えたいという全体構想と重なってくる。ここで遂に日本でも自動車が、今までの“脇役”から一転して“主役”に躍り出る。そして「自動車製造事業法」が制定されて大量生産を前提とした自動車産業の育成に大きな力が注がれることになる。(詳細は後の記事の“その6”“あたりで記すことになるが、「自動車製造事業法」の許可企業となるためには、米の2強とまともにぶつかる大衆車クラスの乗用車とトラックを大量生産する事が前提という高い関門が設けられた。いくら巨大な外資系を「国防」を名目に排斥するからと言われても、財閥を含む多くの企業がしり込みする中で、水面下で軍と商工省と連携しつつ、”絶妙なタイミング“で舞台に登場したのがトヨタだった。今のペースだとその辺を書き込むのは年末ごろ?下の画像はオランダのローマン博物館に所蔵されている、トヨタ初の量産乗用車のトヨダAA型。世界で唯一の現存車と言われている、歴史的に大変重要なクルマだ。画像と以下の文もwikiからダイジェスト『太平洋戦争末期に満州国に侵攻してきたソビエト連邦軍により接収され、大戦終結後にウラジオストックからシベリアの農夫の手に渡ったとみられる。改造個所は多くみられるが、トヨタ博物館の調査によりAA型であることが確認された。』やはりレプリカにはみられない独特な存在感を放つ。)

そして戦時体制に移行すると乗用車生産は打ち切られ、軍用車のみが残る。陸軍、商工省と、市場に参入した日産、トヨタの計画通り、「国防」の名の下で米国の自動車メーカーは次第に排除されていき、国産“大衆車”は強大なアメリカ勢と戦わずして、国内市場を独占していくことになる。
しかし何度も記すが、激動の昭和の時代の、“その時” が来るまで、自動車産業に対して、大きな国家予算が割り当てられることは、けっしてなかった。
話を元に戻し、自動車は以上のように相対的に低い位置づけの中ではあったが、それでも少ない予算の中から何とか割り振り、効率的に軍用トラックを調達し、あわせて日本に自動車産業を興すために、次の7項以下で記述する、陸軍による日本初の自動車振興策が実施されていく事になる。
6.4-4「総力戦構想」の“わからなさ”
6.4-4-1永田鉄山の「国防に関する欧州戦の教訓」(1920年講演)
6項の最後として、陸軍軍政家としての本流を歩み、日本の総力戦体制の構築を主導していった永田鉄山が、来るべき総力戦(第二次世界大戦)において、兵器としての飛行機がいかに決定的な働きを示すか、それを予見するような記述があったので、以下例によって長くなるが参考までに転記しておきたい。
第一次大戦のさなかに武官として現地に派遣されていた永田は、総力戦の実体と連合国及びドイツの戦争遂行の過程をつぶさに観察した。その中で、自動車が示した役割についても注目し、限られた国家予算の中で、何とか自動車産業を育成しようと力を注いだ事でも知られている。そんな永田の総力戦構想と、自動車との育成に尽力した過程については≪備考8≫に参考までに記しておく。しかし当時の陸軍において、自動車に対しての理解の深かったそんな永田ですら、第一次大戦における飛行機の活躍については、衝撃的だったようだ。以下より(引用⑨P64)(主に永田鉄山「国防に関する欧州戦の教訓」と題する講演(1920年)における発言からの引用)より
『永田の言及は多岐にわたるが、注目したいのは飛行機に関するものである。第一次世界大戦中、飛行機の機能や運用は飛躍的な進歩を遂げた。その進歩の様子は「三ヶ月ごとに確信を経る」もので、戦争終結後一年も経たずして大西洋横断飛行を成し遂げている。
「かような有様であるから、帝国が他国に宣戦を布告した暁には、その当日からただちに東京大阪はもちろん九州北部の工業地や呉・佐世保の軍港は先もってこれら悪魔の襲来を受ける運命を有つことになったのである。不幸もし日本がかかる立場にたったとすれば、それは、じつに一大事である。市街は焼かれ、工場も破壊され、隧道や鉄橋も爆破され、動員・輸送・軍需品補給等の軍事行動が著しく阻害されるのみならず、一般人民は家を焼かれ、食需を断たれ、たちまち生存上の大危機に逢着せねばならぬのである。家屋が木造であり隧道橋梁等の術工物の比較的多い帝国はとくに他国に比し甚大の惨禍を覚悟せねばならぬのである。」(永田鉄山「国防に関する欧州戦の教訓」と題する講演(1920)より)
この論考が書かれた二十五年後、わが国はここにある通りの被害を受け、敗戦を迎える。もちろん昭和10(1935)年に殺害される(注;「相沢事件」参照)永田が日本の敗戦を知るはずもない。これだけ状況が一致するということは、永田の見識はもちろんだが、日本の国情と新兵器の進歩について知識のある者であれば、ある程度は必然の結果として浮かび上がることだったのかもしれない。
飛行機は、遠隔にある内地を戦地と同様の脅威にさらし、さらには戦線の飛躍的拡大をもたらした。戦争の形態を一変させたのである。』(以上引用⑨)
以上の1920年時点での永田の講演の内容を自分なりに解釈して重要なポイントを2点記すと、
・総力戦構想の中で今後、航空機産業の育成が重要視されるだろうことと、
・第一次大戦の戦訓から、首都東京(当時は帝国の首都として、“帝都”と名乗っていた)をはじめとする航空機による空爆からの本土防衛を、当時から重要課題としていたことがうかがえる。
そして25年後の1945年3月10日、まさに予見されたように、上記の永田の言葉を借りれば“悪魔の襲来”、史上最大規模の大空襲(俗に下町大空襲とも言うらしい)が首都東京を襲った。
はじめに記したように、この記事で総力戦構想の評価をするつもりは毛頭ないが、その本来の目的は国民の生命財産を守る、国防であったはずなので、その結果については、東京大空襲を一例として記しておきたい。
6.4-4-2「国防」がおろそかにされた東京大空襲
東京大空襲は、焼死、窒息死、水死、凍死など、たった2時間余りで10万人以上を殺すような、空爆としては世界史で後にも先にもない、空前絶後の殺戮だった。“評論家”たちの書いている事からは良くわからないので、この空襲の、庶民の皮膚感覚からの実際の証言を、以下(Web❺)産経新聞「戦後70年~大空襲・証言」より引用
https://www.sankei.com/affairs/news/150310/afr1503100004-n3.html
『隅田川の対岸を見ると、神田や両国、本所、深川あたりまで一面炎上していました。火の旋風というのだろうか、直径で30メートルほど、高さ40メートルぐらいの火柱が、7本か8本立っており、ゴーゴーと音を立てて燃えている様を呆然(ぼうぜん)として眺めていたのを覚えています。
相変わらずB29は低空で飛び交っているんだけど、迎撃する日本の戦闘機は全然おらず、高射砲も沈黙していました。「なんで反撃しないんだろう」と思いましたね。
悠々と飛ぶB29の銀色の胴体は、地上の炎が映って真っ赤でした。その赤い腹から焼夷弾が落ちてくると、さらに地上の炎が大きくなってね。あれは赤い悪魔だった。』永田の予見通りに赤い“悪魔”の襲来だった。(下の画像と文はwikiより『焦土と化した東京。本所区松坂町、元町(現在の墨田区両国)付近で撮影されたもの。右側にある川は隅田川、手前の丸い屋根の建物は両国国技館。』)

“超空の要塞”と呼ばれたB29だが、東京下町空爆はP51等の護衛機なしの超低空侵入という、大胆不敵な作戦で行われた。しかも上記の一般庶民からの「なんで反撃しないんだろう」という直観的な証言のように、日本陸・海軍機ともに、なぜか反撃らしい反撃を行わず、見過ごした。しかもB29による爆撃は、一切の武装を外した機体(12.7mm機関銃×12、20mm機関砲×1と機銃弾8,000発全て取り外していた)から行われたのだ!よほどの確証が得られなければ、護衛の戦闘機なしの超低空侵攻でしかも“丸腰”は、なかなかできない決断だったはずだ。
そもそもその目的の大元は、国防だったはずの総力戦構想の、中でも帝都防衛は何にもまして最重要な課題だったはずだ。なぜならばそれは当時の言葉で言えば、国体(皇居)を守ることと同義語だからだ。しかし実際には、けっして戦力の問題ではなく、自由に侵略させたとすら疑いたくなるような(そんなことはなかったと信じたいが)惨憺たる結果となった。東京大空襲を巡っての、日米双方の行動を、総力戦構想の中で早くから首都東京への空爆を予見していた永田鉄山はあの世で、いかに想ったであろうか。
(下の画像はwikiより、「テニアン島の飛行場から次々と出撃するB-29」。お互い決死の戦いだったバトル・オブ・ブリテンとは大違いの、東京大空襲の状況の奇怪さは、wikiや一般の歴史書からは全く伝わってこない。以下(Web❻)ブログ“おととひの世界”さんより引用
https://ameblo.jp/karajanopoulos1908/entry-12587230470.html
『「~B 29は高いところを飛んでくるので どうしようもなかった」とかね ウソ八百ですよ 特に最初の3月10日東京大空襲 ほとんどが超低空侵入だった(中略)日本側はほとんど撃ってこなかった なぜなら帝都東京を守る高射砲 他所に運んでいて出払いほとんど残っていなかったから B 29超低空侵入爆撃隊 やりたい放題になってしまった その結果都民が犠牲になった 明らかに大日本帝国陸海軍 ヘッドクォーターの責任です 誰の命令だったのか? よくわからない』) なかなか出てこない情報だが、迎え撃つはずの日本側もどうやら“丸腰”だった・・・

(さらに(Web❼)“長州新聞”さんより写真と文を引用
https://www.chosyu-journal.jp/heiwa/1134
『東京空襲にも不可解な点がいくつもある。例えば、空襲直前に警戒警報を解除している。広島、長崎での原爆投下も直前になって警戒警報を解除し、みんなが安心して表に出てきたときに投下されている。あれは軍中枢が協力しなければできないことだ。300機をこえるB29の接近に気づかないわけがないが、物量で太刀打ちできないとはいえ、まともな反撃すらせずに米軍のやりたい放題を開けて通している。(中略)「暗闇のなかであれほど緻密な爆撃がどうしてできたのか?」という疑問も多く語られていた。「目標から外す目印のために誰かが下から光を当てていた」と証言する人もいた。(中略)東京大空襲の経験は語れないできた。意図的に抹殺されて、慰霊碑も何もない。』・・・・・
このブログは、犬のぼんちゃんと自動車の話題のブログで、戦争ジャンルを扱うつもりは全くないので詳細は記さないが、真珠湾攻撃時の山本五十六の売国奴的で奇怪な行動は今では広く知られているが(ちなみに山本は“偽装死”したあと、84歳まで生きていたと、自衛隊元陸将補の池田整治氏は語っている。連合国側にとっての最大級の功労者なのだから、あり得ない話ではないだろう。)この東京大空襲も調べれば調べるほど、不可解なことだらけだ。こうなるとやはり、当時の日本の(上記(Web❻)ブログ“おととひの世界”さん言うところの)“ヘッドクォーター”たちが第二次大戦を、本気で勝とうと思って、戦いを指揮していたのかという素朴な疑問に、どうしてもぶち当たらざるを得ない。下の地図と文も長州新聞さんよりコピー『東京大空襲の焼失地域を示した「帝都近傍図」(1945年、日本地図株式会社製作)』焼失を免れた皇居、財閥本部、官僚機構の温存を、いったん脇に置くにしても、ごく常識的に考えれば、戦争において本来真っ先に狙われてしかるべき軍施設までが何故か多くが無傷で残ったそうだ。下町の庶民に対しては無差別爆撃だったのに・・日米双方ともにいったい、なにを“目標”として戦っていたのだろうか。)

https://www.chosyu-journal.jp/wp-content/uploads/2020/03/8cb6d37134933e54d988361ab052eda4-768x502.jpg
以上は確かに東京大空襲という一例に過ぎない。「総力戦構想」の本来的な目的は「国防」にあり、中でも皇居のある首都防衛は、もっとも重大な任務だったはずだ。しかし結果から判断すれば、当時の日米双方とも、その行動は謎だらけだ。(以上、私見でした、)
6.4-4-3戦後の高度経済成長をけん引した「総力戦構想」
しかしその一方で、「総力戦構想」を経済政策面から見た場合、これも結果から判断すれば、戦後の日本経済の高度経済成長に多大な貢献を果たしたと思う。もちろん、上記の東京大空襲に見られるような、戦時中の庶民の尊い犠牲の上に成り立っていたこともけっして忘れてはならないが。(以下も多少私見が混じっています。)
1930年代後半の日本は、統制経済下で構築された諸制度に従い、商工省を旗振り役に、ひたすら産業基盤の整備に努めた。しかし戦後の日本は占領下を経た後も、実は意外にも、その理念も含めてほぼそのままの体制が引き継がれていた。確かに軍部は占領軍の手で解体されたが、商工省(終戦時は軍需省だった)が通商産業省(以下通産省と略)へと看板を書き換えたが、戦前からの経済政策を継続させた。最終的な目標こそ「高度経済成長」へと切り替わったが、通産省の主導で行われたそれら産業政策は、戦後のある時期までは十分有効に機能した。もちろん自動車産業もまた、その例外ではなかった(この一連の記事の最後の“その6”“その7”で記す予定”)。『日本経済に「終戦」はなかった』(⑩P15)。 そして“総力戦”は戦後もその高いテンションを維持しつつ継続されたのだ。
別の角度から一例として、企業経営面でみても『商工大臣(1941.10~)として岸が手がけたのは、かつて企画院(=国家総動員体制の中枢機関)原案にあった「資本と経営の分離」を、具体的な制度として実行していく事であった』(⑪P113)。当時としてはかなり大胆な改革だったはずだが、先に記したように戦時体制下故に強権的に実行できた諸制度は、それらを手がけた官僚機構共々戦後も(軍部以外は)生き続けた。そして「資本と経営の分離」は短期的な株主利益よりも、長期的な企業の成長を視野に入れた計画的な設備投資を重視する、日本独特の「日本株式会社」へと発展していく。戦前の「総力戦構想」が結果として、戦後の経済大国ニッポンの誕生に、多大な貢献を果たしたこともまた事実なのだ。(野口悠紀雄言うところの「1940年体制」⑩、㉚。)
さらに、この記事の主題の“産業”とは離れるので細かくは触れないが、総力戦構想には、国民を総動員するための、さまざまな社会政策も含まれていた。それらはむしろ社会主義的な色彩が強く、土地制度改革や社会保険制度の整備まで含まれていたが、その流れもまた、戦後の日本に継承された。超格差社会の中で育った今の若い人たちからは想像できないかもしれないが、一億総中流化して「世界で最も成功した社会主義国」(ゴルバチョフの言葉だったらしい)
https://kakuyomu.jp/works/1177354054882211066/episodes/1177354054882258373
と称賛された戦後の一時期までの(今から思えば懐かしい、良き時代だった…)輝かしい、全盛期の日本の姿も実は、戦時経済体制のもとで築かれた諸制度を基に築き上げられたものだったのだ。
またまた大きく脱線してしまった。この続きはさらに大きく脱線(転落?)するので、文末の≪備考10≫に小文字で記すことにする。
それにしても「国防」よりも「戦後の経済成長」に役立った総力戦構想はやはり、わからないことだらけだ・・・。脱線続きなので次項からは“事務的”に話を進める。
7. 「軍用自動車補助法」と軍用トラックの国産化
<7項概要> 第一次大戦の、実戦におけるトラックの価値を認めた陸軍は、限られた予算内で戦時における軍用トラックの必要量を確保する手段として、欧州諸国にならい民間のトラック所有者に補助金を出して援助する代わりに、戦時に軍用車として徴用することにした。この制度は第一次大戦の前に欧州で実施されていたが、日本のものは主に、フランスで制定された方式を手本にしたようだ(⑧P84に拠る。ドイツのものを手本にしたという本もあるが③P83)。
そしてそのトラックの製造については、陸軍の工廠で自ら製作に乗り出すことは断念し、代わりに作る能力のありそうな民間企業を選定して、軍の要求する仕様にあったトラックに製造補助金を与えて作らせ、育成していくことにした。
こうして「軍用自動車補助法」が制定されて、製造/購買/維持に対しての補助金の支給がはじめられたが、同法は日本初の自動車産業政策と言われている。そしてこのことは同時に、本来の自動車の所管官庁ではない陸軍が、国内自動車産業の保護育成に乗り出すことでもあった。
(この項はネット上で閲覧できる論文である「戦前期日本自動車産業の確立と海外展開(上)」(上山邦雄、以下引用Web❽P45)と、「日本自動車産業と総力戦体制の形成」(大場四千男、以下引用Web❾-1P158)及び②+③+⑥+⑧+⑫+wiki等を主に簡単にまとめた。
7.1「軍用自動車補助法」の概要
1918年3月、「軍用自動車補助法」が成立する。その概要を箇条書きにして簡単に記すと以下の通り。
(1)トラックを軍が直ちに購入するのではなく、平時においては民間車として使用し、有事の際に徴用する方式が採られた。
(2)軍用輸送車の整備という目的から、助成の対象となった車種は自動貨車(トラック)のほか、応用自動車と呼ばれるトラック派生車両またはトラックへの転用が容易な車両に限られた。
(3)民間での普及を促進するための補助金が、製造者及び所有者に対しても製造・購入・維持(5年間分の維持費も補助対象)の各段階で交付される。ちなみに製造補助金額は(甲種(積載量1~1,5トン)トラック1台 1,500円、乙種(同1.5トン以上)トラック 2,000円で、この補助金で製造されたトラックは、“保護自動車”と呼ばれた。
(4)国産化推進のため、保護自動車として認定されるためには,重要部品の製作,その他部品も許可を受けたものを除き内地製品の使用が義務付けられた。また対象となる製造者は外国の株主などを認めない純日本企業に限られた。
(5)補助金を受けられる企業には、鋳物・鍛造・組立・測定・試験の可能な設備が求められた。さらに工場内に一定の資格を有する技師を配置することも義務付けた。
(6)“軍用保護自動車”として認定されるためには、厳格な走行テストを合格せねばならない。
以下、補足説明として追記していく。
(2)の、製造者に対して行う、国の定める規格に準拠し、合格した軍用保護自動車に対する製造補助金の交付は、参考にしたドイツ,フランス,イギリス等の法律には無かった制度で、日本独自の大きな特徴だった。なぜそこまで踏み込んだかといえば、欧州諸国と比べて、そもそも自動車産業の基盤が無きに等しかったからで、以下(⑥P48)からの引用で、その背景も含めて、もう少し詳しく説明しておく
『~その法が制定された当時はそれらの国(注;同種の法律の実行でヨーロッパ諸国が日本より先行していた)でトラックの生産は非常に少なかったため、トラックの製造を奨励する意味合いも有していた。例えば、ドイツにおいては法の制定年である1908年には11社が180台の軍用車を製造したが、その台数は全トラックの28%であった。
しかしその後は、軍事予算の制約によって対象数が限られる一方で、民間用トラックが増加したため、軍用車の比率は低下した。1914年の開戦当時、ドイツにおいて軍用車は1,150台だったのに対して民間トラックは1.5万台、フランスではそれぞれ1,200台、1万台であった。しかも、上述のように、大戦中の経験から、軍用車だけでなくタクシーなどの民間車輛も軍事的な価値が認められるようになったため、大戦後には同法の意味が事実上なくなったのである。
ところが、当時の日本では、それらの国が補助法を制定する時期よりも自動車の製造・利用が一層遅れていたために、民間に製造や使用を刺激するこの法を制定する根拠は十分に存在していたのである。』さらに(⑤P24)からも引用。
『~有事に1000台、2000台の自動車が必要でも、それを実現するには一大事業だったわけである。さらに当時の自動車は高価な機械であり、それを1000台購入しようとすれば、国家予算の1%近くになった。このように平時から陸軍が大量の自動車を保有するのは経済的負担が大きすぎた。』
(表3:自動車保有台数の推移(1913~1930):⑫P19より転記)
下表の保有台数の推移を見れば一目瞭然だが、同法成立当時(1918年)の日本の自動車の保有台数は、全体でも4,533台と、欧米に比べると著しく小さかった。そのうえ欧米同様に、トラックよりも乗用車が主体だったため、トラックの保有台数の合計でたった209台という、信じがたいほどの少なさだった。一方その当時のアメリカでは、フォード モデルT型による“革命”が進行中だった。この辺の事情については、息抜きとして≪備考11≫として備考欄に記しておく。

以下はまとまりがないが、さらに補足を、バラバラと追記していく。
㋐ (2)についてさらに補足すると、軍の大陸での使用を考慮して、日本国内の民間用としては大きい(大きすぎる)4トン級(積載量1.5トン)以上のトラックおよびその応用車の生産と利用を重視していたが、この国内市場との需要のミスマッチが、後の話になるが、同法の適応車が伸びなかった原因の一つとなった。
㋑ 1台当りの製造補助金の額は『10年代のアメリカ車、とくにレパブリックや、GMCを対象としてそのコストの差を補填させるために決められた』(⑥P84)という。すなわち輸入車のレパブリックや、GMCの価格(約5,000円)と砲兵工廠で割り出した製造コスト(約7,000円)との差額2,000円が製造補助金額となった。
㋒ 一方『使用者に対する補助金は、馬車利用とトラック使用との維持費の差を補填させるためであり、購入補助金として1,000円まで、また維持費として年間300円を5年間支給することになった。』(⑥P50)
㋓ ( 5)は1924年の改定で、1年に100台以上生産できる規模の設備を有しているものに限定となり、さらにハードルが上げられた。後の8.3-1で陸軍が『将来的に見て、保護自動車メーカーが三つぐらいあることが望ましいと考えていた』(③P105)ことを記したがその一方で、『そもそも陸軍としては、修理の必要などから、多数のメーカーが少量生産することを好まなかった』(⑥P80)こともあり、結局3社で“打ち止め”となった。
㋔ (6)の軍用保護自動車に対する資格試験は、運行試験とともに、5分の1勾配の登坂試験等が求められ、当時の国産車の水準では厳しい内容だった。しかしその立ちはだかる厳格な試練が結果として、国産車の性能/品質の向上に役立ったと言われている。
㋕ 陸軍にとって自動車産業を育成することは、第一次大戦の欧州での戦訓(=欧米諸国では多くの自動車製造工場が航空機エンジンを生産した)から、近代兵器として育成すべき最優先の分野であった航空機産業をバックアップすることを意味していた。現代と違い当時は自動車と飛行機の技術的な関連性が高かったため、いわゆる「シャドーファクトリー構想」(=「戦時における工場の軍需転換)も意識していたと思われる。(関連≪備考12≫)
㋖ 「軍用自動車補助法」は「軍需工業動員法」と同時に成立しており、早くも総力戦構想の一環であったと捉えることができる。(≪備考7≫等参照)
㋗ 国産車でなく輸入車で調達すれば、製造補助分だけ予算が節約できる。法案の審議の過程で『当然ながら、議員からはその質問が出された。これに対しては(陸軍は)輸入途絶の可能性よりは、国内工業を奨励するためにと答えた』(⑥P50)という。
㋘ 同様に、当時の日本でそもそもトラックの製造が可能かという質問に対しては『陸軍工廠での製造の経験から発電機、点火具、気化器、ベアリング以外には国内で十分製造可能』との認識をしめしていた。
㋙ なお上記(3)(4)などを根拠に、同法は自動車産業確立を目的とした、世界初のローカル・コンテント法であったとの指摘もある(⑧P13、P84、P116。ただし⑧以外にはそのような記載は見当たらなかったことも追記しておく。)。
さらにこれは参考程度の話だが、(Web❿P32)に『日本初の自動車産業政策といわれる「軍用自動車補助法」の草案たる「軍用自動車奨励法」が(1914年に)起案された』という記述もあったが、この「軍用自動車奨励法」なるものの内容も調べきれずに結局不明でした。
7.2軍用トラックの試作を民間に委託
「軍用自動車補助法」についての具体的な内容を先に記してしまったが、工廠内で軍用トラックを継続的に内製(生産)することを断念した陸軍は、軍用自動車補助法による支援と並行して、自動車産業に進出する民間会社の育成にも、自ら乗り出すことにした。時期的には同法が施行される(1918年)直前(1917年)のころのようだ。以下は主に(①P14、③P82)等を参考にした。
まず最初のステップとして、砲兵工廠が製作した、シュナイダー社製を基にした軍用保護自動車の試作を民間委託し、その様子(反応)を見つつ候補選びを行うことにした。この時選定された企業は、三菱の神戸造船所、川崎造船所(神戸川崎財閥の)、発動機製造(ダイハツ)、島津製作所、東京瓦斯電気工業、奥村電気商会(京都にあった電気機械メーカー)などで、地域の分布からすれば明らかに“西高東低”の分布だった。大阪砲兵工廠の果たした役割が大きかったようなのでその影響もあったのだろうか(私見です)。
先に記したように、依頼先の企業の選択の基準は、陸軍のお眼鏡にかなう大企業に限られていたため、『橋本益治郎の「快進社」(8.3項で記す)のような零細企業は、技術的に優れていても、最初から相手にすべき企業ではなかった』(引用③P82)。
また⑥によれば国会での法案審議の過程で陸軍は『軍用車製造に参入が予想されるのは、東京では東京瓦斯電気、東京飛行機自動車製作所、名古屋では熱田車輛製造、大阪では日本兵器製造、日本汽車製造、神戸では川崎造船所を掲げ、その他東京の日本自動車や快進社は能力に欠けている』(⑥P50)と答弁していたという。大企業偏重の選別で、自動車製作のパイオニア的な存在だった、快進社のような、ベンチャー色の強い企業まで育てていこうという気持ちはなかったようだ。ただ当時は大企業にとっても、自動車産業への進出はバクチ的な行いとみなされていただろう。
またそもそも、なぜ民間企業に製造をまかせたかについては、当時の工廠が、戦争特需で手いっぱいで、自動車を生産する余裕が無かったことも一因だったようだ。
話を戻し、このうちの発動機製造(大阪),瓦斯電(東京),川崎造船所(神戸),奥村電気商会(京都),三菱神戸造船所の5社を民間自動車製造指導工場に指定して1918年,軍用4トン自動貨車の製造を委託した。
ただし試作車の委託といっても一からつくらせるものでなく、『設計図と材料をはじめとして、エンジンなどの主要部品も最終的な仕上げだけ残した形で支給、経験を積んだ監督官のもとで図面どおりに組み立てる』(引用①P14、③P84;発動機製造、瓦斯電、川崎造船所の例)という、文字通り手取り足取りのものだったらしい。
それでも試作を完成させたのは三菱の神戸造船所、川崎造船所(神戸)、発動機製造、東京瓦斯電気工業の4社だけだった(③P85)という記述と、『東京、大阪、神戸、京都の機械、造船、自動車、電機車両等の代表的製造会社八社ほどを選定し、東京瓦斯電と同様な勧奨を行い、それらのうち七社が、その試作を完成したと云われている』(⑧P57)という記述があり、実際に何社が完成まで漕ぎつけたのか、判然としないところもある。『法案の制定過程では数社の候補を予想していた』(⑥P79)というが、陸軍側の思惑と違い、受動的な捉え方をした企業が多かった事は間違いないようだ。
ただその中で、東京瓦斯電気工業だけは他社と違い、自動車メーカーとして参入する良い機会であるという、積極的な姿勢をみせた(8.1項で記す)。
8.「軍用保護自動車」の誕生
<8項概要> 6項と7項では、陸軍が軍用自動車保護法をもって、軍用トラックの生産と保有を促進させるに至った経緯を、その背景と合わせて、主に陸軍目線で見てきた。この8項では視点を変えて、同法を頼りに自動車産業を興そうとした民間企業側の視線で見ていきたい。
第一次大戦は日本に戦争特需をもたらし、主に重化学工業分野がその恩恵を受けた。そして戦争特需で資本力を得た企業の中に、大戦終結後の軍需急減を見越して、成長分野と目された自動車産業への進出を試みる企業家が現れた。
このうち、東京瓦斯電気工業(後の日野自動車のルーツ)は当初から明快に軍用保護自動車メーカーを目指したが、東京石川島造船所(いすゞ自動車のルーツ)はウーズレー(英国)を国産化する形で乗用車生産からスタートした。
一方商業都市大阪の風土の中から誕生した実用自動車製造と、よりベンチャー企業的立場だった快進社の2社も乗用車の製造からスタートしたが、競争力のない国産乗用車の需要は、当時の日本ではほとんどなかった。結局両社は統合し、ダット自動車製造(日産自動車のルーツのひとつ)となり、おなじく乗用車に見切りをつけた石川島共々、生き残りをかけて軍用保護自動車メーカーへと転身していく。こうして大戦後の慢性的な不況と、フォード、GMの日本進出(次回の“その4”の記事で詳しく記す予定)という荒波の中で、乗用車生産を志すものたちが次々と挫折していく中で、陸軍向けの僅かな軍用車の需要を糧に、この3社で市場を分け合いながら、かろうじて生き延びていくこととなった。
8.1東京瓦斯電気工業の辿った道(日野自動車のルーツ)
8.1-1第一次大戦の特需で自動車産業に進出(マントルから自動車へ)
(この項は、引用①、②,③、⑤、⑭等を元にまとめた。)
明治の文明開化の時代、ガス灯はその象徴の一つだった。1910年に設立された東京瓦斯工業(以下瓦斯電と略す)は、ガス器具の製造を行う会社で、主な製品は、ガス灯の発光体として使われるマントルという部品(=ガス灯の火炎の外周に設置される発光体)であった。(詳しくは下の「ガス灯のあかりについて」Web⓫の説明をご覧ください。
http://www.city.kawasaki.jp/kawasaki/cmsfiles/contents/0000026/26446/08takahashi.pdf
⓫には黎明期の瓦斯電についても記されているので参考までに。それによると『何かに、東京瓦斯電気工業株式会社は東京ガスの機械部門が独立して会社になったと書かれていることがありますが、実は全く違い、マントルを作るために設立された独立した会社です。』とのことで、名前から連想すると、東京ガスと関係がありそうだが、実際はそうではなかったようだ。)

https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn%3AANd9GcSRydgo_WzYK2UoEBUNppDrdxOGViSC92aihbJymamKPDQ4xAlf&usqp=CAU
やがてガス灯の代わりに次第に電灯が使われるようになると、1913年に社名を東京瓦斯電気工業(社名が長いのでこの記事でもそうしているが、愛称である“瓦斯電”と呼ばれることが多い。)と改め、多角化を進め電気製品の部門にも進出したが、後発の憂き目で苦戦を強いられたという。
しかし第一次世界大戦が勃発すると、状況が一変する。以下(⑭P26)より『そこに降って沸いたのが第一次大戦で、ガス電は奇跡的な好景気に見舞われるのである。その理由は、こつこつと研究開発の結果得られていた高品質のマントルの急増と、付帯事業として励んでいたガス計量器の技術であった。すなわち開戦後まもなく大阪砲兵工廠経由で砲弾の信管の大量発注がロシアから舞い込んだのである。』
ここで「信管」についての説明を引き続き(⑭P26)より『信管とは砲弾に取り付けられる部品で、発射されるまでは絶対に爆発されてはならず、発射時の加速度で完全装置が外され飛翔体に火道を起爆薬につなげ、当たったら今度は爆発させなければならない装置で、いわば精密機械である。ガス計量器で培った精密加工技術が認められたのである。』以下は㉔P89より『当時、軍需品とくに兵器と名のつくものを民間で生産し輸出したのは瓦斯電ただ1社だった。もちろん技術的には大阪砲兵工廠の指導を受けたのではあったが爆弾信管の部品「活機体」200万個という大量を生産した。』信管の大量受注で莫大な利益を得た同社は『日本の陸海軍からも、さらに信管以外に小火器なども受注』する(⑭P26)。こうして軍需関連の工作、産業機械メーカーとして社業を急速に拡大させていった。
そして膨大な利益の投資先として、社長の松方五郎(=松方正義の五男)は早くから自動車製造事業への進出に関心を持っていた。信管の納入で信頼のあった大阪砲兵工廠から、4トン自動貨車の試作の打診があったのは軍用自動車補助法が施行される前年の1917年のことで、『この動き(注;軍用自動車補助法)をいち早く察知した松方五郎は既にこの制度を利用し、自動車産業に打って出ようという決意を固め』ていた。(⑭P26)
(下は日野オートプラザに展示されている松方五郎の肖像画。ブログ“オーロラ特急ノスタルジック旅日記” さんよりコピーさせていただいた。)
https://blog.goo.ne.jp/aurora2014/e/a6c572fbb070d20f0aed29a2d41bb42e)

さらに追記すると、このように決断の早かった背景として、軍用自動車の製造に乗り出す以前から行っていた輸入車の販売事業も好調で、自動車の商売に自信を深めていたこともあったようだ。⑥P55より『~とくに、18年にはアメリカのリパブリック・トラックのシャシーを輸入し、東京市街自動車(青バス)にトラックやバスとして大量に販売した。その後も官庁を中心に相当の販売実績を維持し、19年下半期には全輸入車販売の3分の1以上を占めるようになった』という。1/3以上とはかなりのシェアだ。さらに後の軍用保護トラック制作時にベース車として参考にしたリパブリック社製トラックも、自社で輸入販売していた。信管を通じての大阪砲兵工廠との付き合いの深さもあり、陸軍からの依頼で同じく試作車を作った他社よりも、自動車産業へ参入する下地はより大きかったようだ。
そして『このときに瓦斯電は、トラックの試作だけでなく、並行して軍用自動車補助法に合致した自動車の制作も同時に進行するという意向を示した。補助法が施行されて手がけるのでは、完成までに時間が掛かりすぎるので、少しでも早くスタートさせることが好ましいと判断したのである。こうした姿勢は、軍用トラックの国産化を進める大阪砲兵工廠にとっても歓迎すべきことであった。』(引用③P86)陸軍とは、あうんの呼吸だったのだろう。
自動車産業へ参入するため1917年、新工場を東京・大森に建設すると同時に自動車製造部(内燃機関部という記述もあるという⑭P25)を設立するという手回しの良さだった。(下は瓦斯電、大森工場の様子。)

http://www5e.biglobe.ne.jp/~iwate/vehicle/extra/primer/coach/catalogue/200_chassis_maker_02.jpg
しかし『問題は、瓦斯電に自動車に詳しい技術者がいなかったことだ。』(引用③P86)!そこで外車輸入で当時最大手だった大倉財閥系の日本自動車(株)で、技師長としてボディー架装部門を統括していた星子勇を自動車部長として招聘する。(下の画像と、文はJSAE自動車殿堂「大倉喜七郎」より引用『喜七郎氏のフィアット100馬力と米国人パット・マース氏の飛行機の競走、数秒の差で喜七郎氏のフィアットが勝ったと報じられた。1911(明治44)年)』そしてこのフィアットの整備を入念に行ったのが星子であった。(③P29)ただし『マース飛行士が自動車に花を持たせてくれた』という当時の関係者の証言も残されているという。(③P29)。

そして瓦斯電は星子に自動車部門の責任を託し、軍用自動貨車の試作に乗り出していった。星子勇については、この記事の≪備考12≫「瓦斯電のシャドーファクトリー構想について」のところに記した。
8.1-2軍用保護自動車第1号の誕生と、その後の“暗黒の10年間”
陸軍大阪砲兵工廠からの試作依頼は、シュナイダー社の軍用トラックを参考にしたモデルだったが、星子は並行して別のトラックの設計を行った。『いささか旧式化しつつあったシュナイダーに飽き足らず自ら新鋭のトラックを設計、その開発を同時に開始した。』(⑭P27)同社で輸入も手掛けていた、アメリカのリパブリック社製トラックを参考にしつつ、独自の設計を取り入れたTGE-A型である。(下の写真はそのTGE-A型。砲兵工廠のベース車に比べてチェーンドライブからシャフトドライブに、ブロックタイヤからソリッドタイヤへと、一歩進歩した設計となった。TGEとは、瓦斯電の英文名 "Tokyo Gas & Electric Inc." のイニシャルからとっている。尚ベースとなった、リパブリック製トラックのエンジンは、アメリカの有名なエンジン専門メーカーのコンチネンタル社製(モデルC型)のものだった。(⑮P93))

https://meisha.co.jp/wp-content/uploads/2018/05/a851c4242d976f103082aa91e8825ad4-e1540607784337.jpg
そして1918年(注;権威あるJSAEの自動車殿堂の方を尊重したが、1919年3月という記述もある?③P93、❽P43、❾-1P160。だが⑭も1918年と記述。1918年度(会計年度)のこと?不明)に、軍用自動車補助法の審査試験に合格し,同法の初適用を受けた。もっとも熱心に軍用トラックの開発に取り組んでいた瓦斯電の合格を望んでいたのは軍部も同様で、さらに陸軍にとっては、3月末までに合格しなければ年度の予算を返上しなければならないという役所的な事情もあったようだ(③P94)。
しかし保護自動車に認定されても、実際には陸軍以外の民間で、購入するところは少なく、しかも不具合も多く、クレームで返品されたものも多かったようだ。
(以下、前回の記事の5.2-5項、タクリ―号についての「エンジンを作ることの難しさ」というところで、黎明期の瓦斯電の自動車制作の苦闘を例に出して記したが、その部分を、再録なので今回は小文字で記しておく。
『~軍用保護自動車第1号で、最初の国産量産トラックといわれる瓦斯電のTGE-A型では、たとえば『エンジン関係の鋳物の加工がうまくいかず、倉庫にお釈迦のシリンダーが山のようにあった』(③P92)という。そしてその努力が何とか報われて軍の試験に合格して、瓦斯電のトラックは晴れて軍用自動車補助法に基づく軍用保護自動車の認可第1号として、1919年に20台“量産”された。初の国産“量産”トラックの誕生だ。しかし出来上がったクルマの出来は、『検定試験に合格したのは瓦斯電だけだったから、制式自動貨車の発注が集中、つくると軍に納入されるために、世間では「瓦斯電の軍用自動車」と呼ばれるほどだった。しかし、実際につくられたトラックは、トラブルが絶えないものだった。なかには、まったく走りだすことができないものもあった。実際、自動車メーカーになるのは大変だった。』(③P94)自動車は、その国全般の工業技術水準を表す鏡とも言われているが、それが当時の日本の工業水準の実態だったのだ。(下の画像は、ブログ「超快速やまや」さんよりコピーさせていただいた。「日本陸軍に納入されたTGE-A型トラック」“やまや”さんによれば、前がTGE-A型で、後ろはシュナイダー型トラックだそうです。)https://ameblo.jp/hbk0225/entry-12186728725.html

https://stat.ameba.jp/user_images/20160803/00/hbk0225/b4/06/j/o0480036013713558041.jpg?caw=800
その後も、1922年に製造されたTGE-G型1.5トン積みトラックは11台生産されて民間に販売されたが、すぐにトラブル続出して全車返品になったという。』)
ライセンス生産に頼ったわけでなく、まさに『製造技術より製品が先』(⑥P57)だった瓦斯電にとっては、生みの苦しみの時期だったに違いない。
陸軍向けの生産台数も、『1919年(大正8年)に33台が納入され、翌1920年には22台、1921年には28台だった。それが1922年になるとわずか3台にまで減っている。』(③P95) 不況下で『陸・海軍ともに予算が減り、軍納の車の数は非常に少なく』(⑧P165)なった。
さらに追い討ちをかけたのが関東大震災で、瓦斯電の受けた被害総額は100万円に及ぶものだったという(③P96)。『関東大震災でガス田は軍用自動車の生産を一時停止していた。』(⑧P165)こうして『同社の経営は 1920年頃から悪化していき,1922年下期には一挙に 1,400万円余りの損失を計上し,資本金を 2,000万円から 600万円に減資せざるを得ないという状況に追い込まれた。』(Web❽P43)そして最盛期には3,000人を超えた従業員数も、800人まで減らさざるを得なかった(③P96)。ちなみに日野自動車の社史ではこの時代を『暗黒の10年間』と称しているらしい(Web❽P51)。
松方はいよいよ事業再編を迫られる。しかしそんな苦しい経営環境の中で、『星子を中心とする自動車部は倹約しながらも活動を維持することが決まったのは、自動車にひとかたならぬ情熱を示す松方社長が根強い反対論を抑え込んだ結果だった。
それには、陸軍から依頼された航空機用エンジンの開発という後押しもあった。航空機用ガソリンエンジンに関する知識をもった日本の技術者は多くなく、星子の持つエンジン技術を生かすことができるものだった。』(③P96)という。陸軍の総力戦構想からすれば、航空機関連でテコ入れすることは、合理的な判断だったと思える。瓦斯電を、三菱、川崎、後の中島を補完する、練習機用エンジンを中心とした企業として位置づけたかったのだろうか(私見です)。瓦斯電の航空機用エンジンの取り組みについては、≪備考12≫を参照ください。
『この自動車の不振に対し、かろうじて航空機発動機(星形80型、100型)の製造(月産15台)とその利益で支えられていた。』(⑧P165)という。航空機用エンジン部門は、1931年には自動車部から独立し、瓦斯電自動車部を支える大きな柱と成長していった。
一方自動車事業自体はその後も厳しい状況が続いたが、1927年のTGE-GP型ではヘッドライトが電気式になり、電動式スターターも採用されて、後期型にはディスクホイールに空気タイヤにもなり(⑭P7要約)、『民間向けの他、軍用車として直接軍からの注文も急速に増え』(Web⓮P161)ていったという。
さらに1930年誕生したL型は『航空エンジンの指導に使用される特殊架装をした軍用車の受注も多かった。』(①P21)
(下の写真はTGE-L型のダンプカーで、ブログ「光雄☆工機 @mitsuwo117」さんよりコピーさせていただいた。
https://twitter.com/mitsuwo117/status/839390387693203456 )

このL型について①P21より引用を続ける。『1930年(昭和5年)にL型が完成(注;⑭P30、⑧P165によれば1928年と書かれているが、Web⓮では1930年だ?)、それまでのトラックより技術的に進んだものになり、信頼性の面でもましなものになった』(①P21))。辛口のコメントだが、実際のところ瓦斯電に限らずこの時代になると、各社の国産トラックは、主要な使用先である軍からも、性能/品質的ではそれほど不満が出ることはなかったようだ(⑥P84等)。10年にも及んだ苦闘がようやく、実を結びつつあったのだ。ただし『もちろん、その国産車が部品まで国産化したわけではなかった。(中略)電装品・気化器・軸受けなどの部品には輸入品が使われていた。』(⑥P84)こともまた事実だった。
しかし、これも瓦斯電に限らないが、民間向けは補助金を頼りに、手作りを主体とした細々とした生産規模では、外国製トラックと価格で対抗していくのは無理な相談だった。苦難の道は満州事変以降に、陸軍から軍用車の注文が本格的に増え始めるまで続いた。
その後の瓦斯電については後の記事の“その5”と“その6”で記すが、戦時体制が進むとともに、松方や星子が長年描いた、その壮大な夢が、いよいよ実を結びそうになる。しかし次第に “ミニ三菱重工化” していく中で、瓦斯電に食指を伸ばした日産コンツェルン率いる鮎川の手で、グループはやがて解体される運命にあった。
なお1931年、宮内省買い上げを記念してブランド名を「チヨダ」と改称している。(下の写真は、軍用保護自動車第1号となった、瓦斯電のTGE-A型トラックのレプリカ。日野オートプラザに展示されている。同車は国内初の量産型トラックとされている。)

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/e5/20d29cf356bfc874e694d933ef849b25.jpg
8.2東京石川島造船所の辿った道(いすゞ自動車のルーツ)
8.2-1第一次大戦の特需で自動車産業に進出(造船業から自動車へ)
(この項も、引用①、③、⑤、⑯等を元にまとめた。)
幕末の水戸藩主、徳川斉昭が幕府の命を受け、江戸隅田川河口の石川島に造船所を設立したことに端を発する石川島造船所(以下石川島と略す)は、洋式帆走軍艦旭日丸,日本人によって設計、建造された蒸気軍艦千代田形など多くの艦船を建造した。幕末を代表する造船所として、日本の近代化に大きな功績を残した。(下の絵はwikiより、日本で建造された最初期の西洋式軍艦のひとつ、軍艦旭日丸)

明治維新後は官営となるが、1876年に日本初の民間造船所として再発足する。(下の画像はガスミュージアム「渋沢栄一の足跡をたどる「版画にみる近代事業の風景」展さんよりコピーさせていただいた、1901年頃の石川島造船所の図。なぜ“ガスミュージアム”なのかといえば、東京ガスも設立時、渋沢栄一が係わった企業の一つだったからだそうだ。
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000365.000021766.html

https://prtimes.jp/i/21766/365/resize/d21766-365-918927-3.jpg
渋沢栄一と石川島造船所との係わりだが、1876年に東京石川島造船所の創立委員として関わり、株式会社になった時の初代社長に就く。そして1929年、東京石川島造船所の自動車工場が石川島自動車製作所として独立した際に、初代社長に就任するのが栄一の三男の渋沢正雄で、それ以前から、数多くの会社に係わり多忙な父に代わり、自動車系は正男が経営を主導していたようだ。)
当時の日本の造船業界は造船奨励法(1896~1919年)の影響もあり、三菱造船所、川崎造船所および大阪鉄工所の三強による寡占状態にあったが、第1次世界大戦の造船・海運ブームにより、石川島造船所も注文が殺到して莫大な利益を得た(①P22)。
(表4:「東京石川島造船所の収益推移」(Web❾-1P160)より転記)
下表の売上高、利益の推移を見れば、石川島が得た戦争特需がいかに莫大なものだったかがわかる。

しかし、『軍需産業でよくいわれるのは「満腹状態か空腹状態しかなく、ちょうど良い腹具合のときはない」』(③P66)そうで、戦後の空腹期に備えて、特需で得た利益の新たな投資先として選ばれたのが、瓦斯電と同じように自動車製造だった。
1916年に自動車部門を設立し、1910年代の東京ではフィアットとウーズレーが最も売れていたことから、両社に提携条件について打診する。契約条件が有利だったことや(フィアットは100万円と、20万円高かったらしい)、マリンエンジンとの関係性もあり、1918年11月、ウーズレーとの提携契約を結ぶ。これがいすゞ自動車の歴史の起点とされている。『契約期間は10年、契約金額は80万円といわれている。』(①P23)同年12月にはのちに自動車部門の技術リーダーとなる石井信太郎ら6名がイギリスに派遣されて技術習得にあたった。
1920年、石川島は東京・深川に自動車工場を建設し、自動車製造にとりかかるが、瓦斯電と違うところは、乗用車製造から始めた点だ。ここで軍用保護自動車への道を歩まなかった理由を知りたいところだが、その点をハッキリと記したものが見当たらなかった。一つ影響を与えた点を想像すれば、石川島造船所は本業が造船業だったため、分類上は海軍系の企業になり、大阪砲兵工廠との関係が深かった瓦斯電のような陸軍系寄りの企業でなかった点も影響したと思うが、何とも言えない。
話を戻すが、ようやく完成させたものの、予想以上に原価が高くなり『1台当たりの原価は1万数千円になった。当時同じクラスのアメリカのビュイックやハドソンが日本では6000~7000円という価格だったので、赤字覚悟で価格を1万円にした。
(下は石川島製のウーズレーA9型乗用車。完成したのは1922年12月、大晦日未明のことだったという。しかし当時の舶来品信仰もあり、ウーズレーならぬ“ウリズレー”という声もあったという。)

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『売却先の多くは渋沢栄一の縁故で仕方なく購入した人たちだったが、トラブルもあり、価格も高く不評』(①P23)で、乗用車では商売のめどが立てられなかった。そのため『「日本の現状ではまだ国産乗用車などに手を付けるべきではない,という結論に到達し,間もなくその製造は中止された」(いすゞ自動車株式会社『いすゞ自動車史』1957年26頁)』(Web⓬P38)(下は当時の深川分工場の様子)

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しかし多額の設備投資をした上に、ウーズレーと交わした契約で、契約金の残りを毎年8,000ポンド(当時の価値で約8万円)払わなければならなかったという。撤退も容易ではなかった。しかし幸いなことに、ウーズレーとの契約で、乗用車2車種(A9型、E3型)以外に、トラック(CP型)の製造権も持っていた。
8.2-2軍用保護自動車への転身と国産“スミダ”へ
『切羽詰まった自動車部門を統括する渋沢正雄取締役は、自動車開発責任者である石井信太郎をともなって、東京三宅坂にある陸軍の本省に赴いた。』(③P98)保護自動車の製造を申し出たのだ。
この路線変更は陸軍からも歓迎された。保護自動車の普及を見込んで多額の補助金支出を予算化していた陸軍省だったが、思惑どおりに民間業者がトラックを買ってくれないという現実に直面して、多額の予算を大蔵省へ返納せざるを得なくなり、新規参入企業を望んでいたという(Web⓭32-07)。頼りにしていた瓦斯電の経営自体が不安定で、その影響もあってか生産の面でも、性能/品質の面でも問題を抱えていたし、次項で記す橋本増治郎率いるダットは、陸軍とは肌合いが違う企業だった。石川島は早速CP型保護トラックの製造に取りかかった。
ところが、このCP型の図面と実物2台を輸入した年の9月、関東大震災に見舞われて工場は大損害を受けて、せっかくの図面と実車を失ってしまった。『しかし輸入された2台のうち1台が東京乗合自動車(青バス)に貸し出されており、これが震災を免れていた。
『この背景として、石川島造船所の支援を続けている渋沢栄一と東京市街自動車の渡辺良介社長との密接な関係があった。
「ウーズレー・トラックが保護自動車の資格を取ったら、30台を採用する」という約束がふたりの間で交わされ、走行テスト用に貸与されていたのだった。』(Web⓮32-18)このクルマを借り受けて分解するところから、CP型トラックの製造が再開された。((⑯P5)結局工場を移転し,この工場を東京石川島造船所と改称し,苦心の末、1924年3月20にようやく完成させた。その技術支援のために『小石川にあった陸軍砲兵工廠や築地にあった海軍造兵工廠からも応援の技術者が(⑧P118によれば7~8名も)駆けつけた』(①P24)という。陸軍向けの軍用トラックに海軍からの応援は異例だったはずだが、石川島は造船業なので、海軍との関係がそれほど深かったのだろう。
そして『陸軍の自動車関係者は、何がなんでも完成して検定試験に合格してもらわなくてはと考えていた』(③P100)という。それだけ期待も大きかったようだが、ここでも例によって年度末なので、予算執行の期限が迫っていたという役所の事情もあったらしい。(③P100)『かろうじてパスはしたが,綱渡りだった。というのは 24年3月末が審査の締め切りだったが,審査対象の2台が完成したのが3月20 日午前零時。代々木で定地検査を受けたあと関東北部の各地で 7日間運行試験をやり最後は東京に戻り米大使館近くの江戸見坂の急こう配の登坂試験をパスして3月28日資格検定証書を下附された(いすゞ自動車株式会社『いすゞ自動車史』28‒29 頁)。』(Web⓬P39)
石川島にしても瓦斯電にしても、初期の技術水準では、軍用保護自動車の試験に、ようやく合格したというのが実力だった。
(下は東京石川島造船所が生産した「ウーズレーCP型トラック(1924年式)。こちらはレプリカでなく、国立科学博物館より返還された生産第一号車をレストアしたもので、実走行可能な状態に保たれ、経済産業省から近代化産業遺産に認定されている。)

https://scontent-lga3-1.cdninstagram.com/v/t51.2885-15/e35/66413395_164316001287263_2909364113633828498_n.jpg?_nc_ht=scontent-lga3-1.cdninstagram.com&_nc_cat=111&oh=ee29bb3d424f8e94e60b230940ce2f55&oe=5E81CE92
1927年9月、次第に地力をつけてきた石川島はウーズレーと交渉して提携を解消し、新しく”スミダ”というブランドで独自の設計の自動車作りを始める。このころにはちなみにウーズレーとの提携解消の交渉は、難航が予想されたので、交渉は渋沢栄一が直々に行ない、円満に解除できたそうだ。(Web⓮32-18)
1929年5月には石川島造船所から自動車部門が分離し、石川島自動車製作所が誕生する。『社長には自動車部を率いてきた渋沢正雄が就任、陸軍中将で自動車行政の中心人物だった能村磐夫が取締役に就任している。』(③P157)分社させた一つの理由として、造船所の方が海軍からの仕事が中心だったため、陸軍からの受注が中心となる自動車部門を分離させたのだという。陸/海軍が犬猿の仲であるという、日本固有の事情があったようだ。(①P25等)その後の石川島造船所の方は現在のIHIとなり、さらに大きく発展していくことはみなさんご存知の通りだ。
そして1929年に自社開発したA4型(4気筒;40馬力)、A6型(6気筒;64馬力)エンジンを搭載したスミダL型は、燃費・出力両面で好評を得たという。A4、A6両エンジンはボア×ストロークを同一にした、今でいうところのモジュラーエンジンだったようだ。
(下の写真はいすゞ自動車のHP(https://www.isuzu.co.jp/museum/tms/2017/history/)より
1929年型スミダL型トラックのイラスト画。このL型あたりの時期に、瓦斯電、ダットとともに3社の軍用保護トラックは、自動車としての一定の水準に到達したのではないかと思われる。)

(下は、石川島自動車製作所製の昭和7年式(1932年)スミダM型バス。この塗装は東京乗合自動車株式会社(通称“青バス”)の車両だ。なお“スミダ”という呼称は、工場の横を流れる隅田川にちなみ、どんなに時代が変わっても留まることなく流れ続けたいという願いが込められて名付けられた。現存する実走可能な最古の国産バスとして、経済産業省の「近代化産業遺産」に認定されている。)

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そして『その生産台数は,大正15年 160台、昭和2年179台、3年244台に達し、その年の国内生産の 65、59、そして,70パーセントを占め,最大の国産車メーカーとして発達した。』(Web❾-2P143)こうして石川島は、先輩格の瓦斯電を凌ぐ、名実ともに当時の日本を代表する4輪自動車メーカーへと成長していく。
(表5:「軍用保護車の適用台数及び軍用メーカーの生産台数の推移(1918~1930)」⑥P181より転記)
下表の、軍用自動車メーカー3社の生産台数の推移をみると、他の2社に比べて石川島の生産台数が安定して多かったことがわかる。

ところで上の表に見られるように、後発の石川島が、瓦斯電を明確に凌いだ理由を、ハッキリと書いたものが見当たらなかった。第一次大戦後の不況や、フォード、GMの日本進出は両社に均しく影響を与えたはずだ。自分なりに想像すれば、技術面でみればウーズレーからの直接の技術指導で得た、自動車製造ノウハウがあり、完成度の面で1日の長があったのだろうか。また先に記した青バス(東京市街(後の“乗合”)自動車)に対しての営業に見られるように、当時の経済界を代表する人物であった渋沢栄一の後押しも大きかったように思える。
一方瓦斯電側の不振はやはり、元々の企業規模に比べて、急速に戦線を拡大し過ぎて、力が分散してしまった(自動車、航空機用エンジン以外にも工作機械、兵器、計器、紡績機械、火薬など手広く、自動車+航空機部門だけに絞っていればもっと楽だった?)ことが主因だろうか。また主力行の弱さも一因だったろうか。(以下wikiより要約、メインバンクだった第15銀行が1927年の昭和金融恐慌で事実上倒産してしまい、以後経営再建の途上にあった。ちなみに同行は有力華族の出資により成立した銀行なので、世上「華族銀行」と呼ばれたというが、代表者であった松方巌公爵(元首相松方正義の長男、松方五郎の兄弟)は責任を取り私財の大半を放出の上、爵位を返上したという。松方五郎とも微妙な関係だっただろう。下の写真もwikiより、第十五銀行本店の写真。ちなみに石川島の方はご存じのとおり第一銀行(現在のみずほ銀行)だ。)

以上は想像なので、ここではその原因は“不明”としておく。
しかしそんな、当時の国内“トップメーカー”たる石川島ですら、厳しい経営環境下にあった事に、違いはなかった。以下(Web❽P51)より『同社は,軍用保護自動車,純軍用特殊車,バスなどの製造を続けていったが,業績を悪化させていった。その「主な理由はフォード,シボレーの米国車攻勢と,加えて軍用保護自動車が欧州大戦後の軍縮と国家財政の緊縮により,軍方面の企図する生産計画台数に,一定程度の制約を伴ったこと」にあるといわれており,その点はダット自動車製造や東京瓦斯電にも共通する事態であった。』
上記❽の見解は“一般的(常識的)”なものだ。が、しかし⑥によれば石川島、瓦斯電ともに、その経営内容をさらに細かくみていくと、20年代後半の両社の経営不振は、自動車部門が主因ではなかったという。『~こうした生産台数の制約は両社における自動車部門の採算が合わなかったことを意味するものではなかった。むしろ、両社にとって自動車部門は主力部門の赤字を埋める役割を果たしていた。従って、両社にとって自動車部門の設備拡張のためには、主力部門での回復を期待するより、それを独立させて外部資本の調達を図ることが手っ取り早い側面があった。1929年の石川島の自動車部独立はまさにその意味から実施されたと思われる。』(⑥P87)と、一般と違った見方を示している。ちなみに(⑧P143、Web❾-2P143)にも同様の趣旨の記載がある。この件に関して、少なくとも石川島に関して言えば、20年代後半は、自動車ではなく主力の造船部門の不調の方が、経営全体の足を引っ張っていたことは、確かなように思える。上の表のように自動車の受注はコンスタントで、軍需主体なので一定の利益は確保されていたのではと思われる(多少想像が混じっています)。
ただ自動車部の独立については先に記したように、陸/海軍の仲の悪さゆえに陸軍向けと海軍向けを分離させるという、日本独特の商慣習も影響したように思える。(以下参考までに、中島飛行機の航空機用エンジンを巡る対応について、(⑰P183)より引用『~陸軍と海軍はお互いに縄張り意識が強く、航空機の技術進化のためにお互い協力するどころか、対抗意識をむき出しにした。同じエンジンでも陸軍と海軍では名称が違うものとして扱い、同じ工場でつくることを嫌ったためだった。(中略)同じような生産設備を別々にととのえるのは全くのムダである。しかし、理屈をこねていても通用する相手ではなかったのだろう。』下の写真は“陸軍向け”の航空機エンジン工場として当時(1938年3月完成)最先端を誇った、中島飛行機武蔵野工場の全景。画像は三井住友トラスト不動産より。
https://smtrc.jp/town-archives/city/kichijoji/p02.html
また、ダイムラー・ベンツ社からDB601航空機用エンジンをライセンス生産する際に、陸/海軍で別々に契約して導入し、ヒトラーから「日本の陸海軍は仇同士か」と言われたのは有名な話だ。)

https://smtrc.jp/town-archives/city/kichijoji/images/02-01-01.jpg
それにしても、日本の自動車史にこれだけ大きな足跡を残した、渋沢正雄の写真をネットで探してみても、なぜか見当たらないのであった。そこで、「墓守たちが夢のあと」というブログの、谷中霊園に眠る渋沢正雄のお墓の写真が見つかったので、お墓の写真とその説明文をコピーさせていただいた。https://ameblo.jp/mintaka65/entry-12489553389.html
(『渋沢栄一の三男・渋沢正雄は、大正4年(1915)に東京帝国大学法科大学経済学科を卒業し第一銀行に入行しますが、2年後には退行し、実業家として一族の会社経営に関わって行きます。石川島自動車・昭和鋼管社長や石川島造船専務を務め、昭和5年(1930)には「株式会社石川島飛行機製作所」を創立し初代社長に就任。(第2代社長は兄の武之助)。その他、秩父鉄道・日本製鉄・日満鉄鋼販売・日本鋼材販売の各社長並びに常務など多くの企業に重役として名を連ねています。90代で現在も活躍されているエッセイストの鮫島純子氏は渋沢正雄の娘だそうです。』)ちなみに渋沢正雄は瓦斯電の松方五郎とともに、のちのこの記事の“その5”と“その6”でも“引き続き活躍”する予定だ!

https://stat.ameba.jp/user_images/20190703/08/mintaka65/a5/88/j/o1332100014490010371.jpg?caw=800
8.3ダット自動車製造の辿った道(日産自動車の源流)
国産自動車製作のパイオニアの一人として、その開発に心血を注いだ橋本増治郎率いる快進社は、乗用車の販売不振に苦しんだ末に、軍用保護自動車の製造に乗り出す。しかし橋本と陸軍との間で軋轢が生じてしまう。
一方、商都大阪の風土の中から、久保田鉄工所の出資を中心に、小型乗用車の製造に名乗りを上げた実用自動車製造も、同じく販売不振に陥り苦境に立たされたが、生き残りのため両社は手を結び、ダット自動車製造として、軍用保護自動車メーカーとしての新たな道を歩んでいく。のちの日産自動車の前身の誕生である。(下は日本の自動車産業のパイオニアの一人であった、橋本増治郎。画像はwikiより)

以下、両社の苦難の足跡を、③、⑱、⑲、❽、❾-1、⓰、⓱、wiki、JSAE自動車殿堂からのダイジェストで辿っていく。
8.3-1快進社(DAT号)の橋本増治郎が辿った苦難の道
橋本増治郎は東京工業学校(現・東京工業大学)機械科を首席で卒業後、数年の社会経験を積んだのち、農商務省海外実業練習生となり、1902年(明治35年)に渡米、ニューヨーク州オーバン市の蒸気機関製造工場で働く。1905年日露戦争勃発により帰国するが、その直前に重要な出来事があった。以下(引用⑱P85)『日露戦争により明治38年に帰国する直前には、キャデラックやリンカーンの生みの親で、「大量生産の巨匠」ヘンリー・フォードに対し「機械技術の巨匠」と呼ばれたヘンリー・リーランドに面会する機会があったという。米国自動車業界では製造技術をベースに、互換部品や流れ作業による大量生産システムを誕生させつつあった。その光景が橋本の生涯を決定づけたことになろう。』
帰国後は東京砲兵工廠技術将校として機関銃の改良を行い、軍事功労章を受ける。そして日露戦争後に勤務した越中島鉄工所が経営不振で、九州炭鉱汽船に買収されたことが大きな転機となる。ここで九州炭鉱汽船社長の田健治郎と、役員で土佐の有力政治家の子息である竹内明太郎(吉田茂の実兄)と出会い、九州炭鉱汽船崎戸炭鉱所長として有望な炭坑の鉱脈を探り当てる。
ここまでざっと足跡を辿っただけでも、橋本が並みのエンジニアでなかった事はわかる。1,200円の功労金を受け取った橋本は退社する。
1911年(明治44年)、竹内の尽力により吉田茂の所有する東京麻布の土地を借りて工場を作り、快進社自働車工場を創業した。140坪の借地に建坪37坪の工場で、従業員は橋本を加えて 7名というささやかな規模からのスタートだったが、その資金(当初8,700円)を援助したのが先の田健治郎、竹内明太郎と青山祿郎の 3氏であった。こうして外国車の輸入組立販売のかたわら、国産乗用車つくりをはじめる。
『橋本の挑戦は、単に適当なクルマをコピーして国内で作るのではなく、エンジンの使用を決めてボディの大きさもそれにフィットしたサイズにするところから出発している。海外のクルマと同じものを国産技術でつくることさえ容易ではなかったが、橋本にとっては、それでは国産技術の確立にはならないと判断していたから、さらに困難な技術にチャレンジしたのであった。』(③P38)国際水準を目指して水冷直列4気筒エンジン搭載の、日本の道路事情に合わせた小型車乗用車の開発に乗り出したのだ。
『しかし、設計したエンジンを実際にカタチにすることは、とんでもなくむずかしいことだった。自動車の部品には鋳物が多く使われているが、多くの技術者が苦労したのが、エンジンのシリンダーブロックの鋳造である。』(③P38)
自動車エンジン用鋳物の製作で苦労することは、戦前の日本で国産車つくりを志す人たちにとって共通の、大きなハードルであった。『早くから工業が発達したアメリカでは、外注先に設計図を示せば、シリンダーブロックなどの鉄製品をつくる技術が確立しており、そのための質の良い材料の入手も困難ではなかった。日本では造船や鉄道車両などに適した材料は作られていたが、ほとんど使用されないに等しい自動車関係に適した材料は作られていなかった。』(③P39)
当時の日本では複雑な形状のシリンダーブロックを鋳造する技術がなく、試作第1号車は試運転まで行えず失敗作で終わる。結局直列4気筒エンジンはあきらめて、シンプルな鋳物制作で済むV型2気筒エンジンに変更して、翌1914年、試作第2号車を完成させた。
以下(Web⓰)より『このエンジンはV型組み付け2気筒と呼ばれるもので、1気筒ごと鋳造されたシリンダーブロックを2つあわせたものだったとされる。横一列に2気筒ぶん鋳造する技術が当時は確立されていなかったようだ。 トランスミッションなどで使われたギア類はニッケル鋼を丸棒で輸入し、これを熱処理し、一個ずつ機械加工を施しつくったという。当時のクルマの例に漏れず、梯子型フレームのボディを架装するタイプ。ホイール、リム、マグネトー、スパークプラグ、ベアリング類などのユニットはみな輸入品。ラジエター、キャブレターなどは工場内で自作している。前照灯はアセチレンガスによるランプである。』
(下の写真はその、V型2気筒10馬力エンジンを搭載したダット号(DAT CAR)完成の記念写真でgazooよりコピー。右端でカンカン帽をかぶっているのが橋本。タクリ―号とは違い、エンジン、車体とも国産であった。DATは橋本の協力者の田、青山、竹内のイニシャルを組み合わせた名前で、脱兎(だっと)の意味も込められていた。このダット号は東京大正博覧会に出品され、銅杯を獲得する。)

https://gazoo.com/pages/contents/article/car_history/150605_1/03.jpg
1915年、V型でなく直列2気筒エンジン搭載の試作3号車、ダット31型では『2気筒ぶんひとつのブロック(モノブロック)である。鋳造は外注ではあったが、ようやく2気筒ぶんの鋳造技術が確立された。』(Web⓰)
こうして着実に技術レベルを向上させていった1916年、当初めざした技術目標であった、直列4気筒エンジンを搭載したダット41型が完成する。以下も(Web⓰)より『モノブロック直列4気筒エンジンにすることで、出力が15馬力に達した。しかもセルスターター付きでバッテリー点火、ギアは前進4段後進1段という当時としては先進的な機構を備えている。
前席に2名、後席に5名の計7人乗車の本格的乗用車である。4気筒エンジンとしてはフォードのモデルTに8年遅れ、セルスターターはキャデラックに7年遅れではあるが、日本人の手によって造られた純ジャパニーズカーとしては、世界レベルに達していたといっていい。』(写真はダット41型。1922年には平和記念東京博覧会で金牌を受賞した。)

https://clicccar.com/wp-content/uploads/2015/10/01-300x222.jpg
この41型の完成を見て橋本は自社技術に自信を得て、その製造へと乗りだすことになる。以下(Webの❽P42)『1918年 8月には株式会社快進社創立事務所が設置され,資本金 60万円で,北豊島郡長崎村に本社ならびに工場を新設して,操業が開始されていった。機械設備として,クランク軸研磨盤,円筒研磨盤,グリーソンのベベル・ギア歯切盤など,当時で最も進歩した専用工作機を含め 20数台余りを輸入新設したという。従業員数は,最盛期には 50名ないし 60名を抱え,当時としては画期的な規模であった。こうしてダット 41型乗用車の製造を目指して操業が開始されたが販売はふるわず,1919年以降,完成したのは 4~5台にとどまったという。』
『だからといってすぐに買い手がつくという情勢ではなかった。日本人にあったサイズのクルマであるといっても、輸入されるアメリカ車に比べて小さいことは、それだけ高級感のないクルマであると思う人が多かった。この当時は、舶来品のほうが優れているという先入観を持つ人が多く、自動車メーカーとしての前途に光明を見つけるのはむずかしいことだった。』(③P42)
販売不振とともに、製造の方も困難だったようだ。『生産台数不振の重たる理由は、国産の自動車用部品の入手難にあった。鋳造部品の質はもちろん、電気コードがやっと国産化された状況では、自動車製造は容易ではなかった。』(引用⑤P22)
8.3-2快進社(橋本増治郎)と陸軍の確執
結局販売不振に苦しんだ末に、のちの石川島と同様に、軍用自動車保護法に望みを託すことになる。
制定当初、軍用自動車補助法は積載量1トン以上のトラックを補助対象としていたが、1921年に改正され(9.2-1参照=対象車両の積載量が民間需要の多い軽量型の3/4トン車も適用となる。鍛造部品の外注を認める。一定の資格を有する技師の配置の義務付けは撤廃)、その内容はあきらかに、当初は相手にしなかったダット側に譲歩し、その参入を即すものだった。瓦斯電の行く末に不安を感じ始めていた陸軍としても不本意ながら?歩み寄らざるを得なかったのだ。
それもあってか快進社は、ダット41型に改良を加え、1922年、陸軍の検定を受けることになった。しかし橋本と陸軍はお互い、どうしても噛み合わないところがあり、この申請では、ボルト・ナットが陸軍の規格に合わず、不合格とされてしまった。以下橋本の憤懣やるかたない思いを綴るので長くなるが、(③P102)より引用する。
『他のところはあまり問題なく直せるにしても、ボルトとナットに関しては、橋本は譲る気持ちは毛頭なかった。軍用ねじは、どのような経緯で決められたのか、独特のサイズになっていて一般の手に入るものにはなっていなかった。緊急の場合は、すぐに手に入るものでなくてはならず、そのために橋本は欧米先進国で一般化しているSAE規格に合致したボルトとナットを使用していたのだ。したがって、これで審査に不合格となるのは理解に苦しむと、橋本は厳重に抗議した。しかし、担当者は橋本の言い分に耳を傾けなかった。橋本のところのような小規模な工場で保護自動車をつくるのはふさわしくないという意識にも支配されていたと思われる。
橋本は、軍部の反省をうながすために「陸軍大臣にその責任ありや」という論文を発表するなどして、ボルトとナットに関する陸軍の不合理さを追求した。さらに、提出中だったダット41型トラックの検定許可申請を取り下げる手段に出た。こうした橋本の行動は新聞などにも取り上げられ、話題になったようだ。
橋本にしてみれば、まだ大企業が自動車づくりに乗り出す前から、苦労を重ねて自動車の国産化に取り組み、ようやく性能の良いものに作り上げることができたのに、ねじ規格が決められたものになっていないからと、橋本の長年の努力を全く認めない態度にガマンできなかったに違いない。(中略)
ボルトとナットに関しては、どう見ても橋本の主張に分があることは、誰の目にも明らかだった。陸軍は1924年(大正13年)になって、橋本の主張するとおりにねじ規格をあらためた。
3年近い月日を陸軍との意味があるとは思われない交渉に費やし、ダット41型トラックが保護自動車として合格したのは1924年(大正13年)のことだった。』 (下の写真はダット号41型750kg積甲種軍用保護自動車検定合格車。確かに3年は長かった。)

http://www.mikipress.com/m-base/img/1924_DAT41_750kgTruck_G00000145.jpg
以下も(引用③P101)より
『「東京瓦斯電気工業」と「東京石川島造船所」自動車部に続いて、軍用保護トラックに認定されたのが橋本益治郎の「改進社」のダット41型であった。しかし、企業としての規模が異なることもあって、前記2社とは異なる展開となっている。それは、公官庁が大企業の方しか向いていないことを如実に示すものだった。零細企業などは相手にしないという態度で、橋本のところはしばらく翻弄され続けた。(中略)陸軍は、瓦斯電や石川島からは、軍用保護トラックを買い上げるなどしているが、橋本のところから購入するつもりはなかったようだし、瓦斯電や石川島のような設備を持っていないことも、橋本の泣き所であった。』石川島の軍用保護トラック分野への参入で再び情勢が後戻りしてしまった。その後も“いじめ”が続いたようだが、陸軍側もそれでも、あとの9.2-2で記すように、徐々に歩み寄りもみせていたようだ。
こうして経営不振は続き、関東大震災後には米国車の販売急伸で決定的な打撃を受け1925年 7月、株式会社快進社を解散し,合資会社ダット自動車商会へと組織を編成替えした。営業目的は軍用保護自動車製造とはしていたが,主に試験的なバス営業を活動内容とすることになった。(❽P42)
8.3-3快進社と実用自動車製造の合併でダット自動車製造の誕生
しかしここで、橋本と快進社にようやく、局面打開に向けての一筋の光明が差し始める。『将来的に見て、保護自動車メーカーが三つぐらいあることが望ましいと考えていた』(③P105)という陸軍の能村元中将(のちに石川島自動車の取締役に就任する)の斡旋があり、同じく苦境に立たされて生き残り策を模索していた、大阪の「実用自動車製造」との合併が画策された。
「ダット」のもつ技術力(実用自動車では小型のV2気筒エンジンしか実績がなかった)+軍用保護自動車認定という実績(看板)+「実用自動車製造」のもつ設備と資金力+久保田鉄工がバックにいるという、陸軍と商売するうえで決定的に重要な信用力を結び付けようとする動きだった。橋本は自動車事業を継続させるためには、この提案を受け入れざるを得ないと苦渋の決断をする。
1926年9月、ダット自動車商会と、実用自動車製造は合併して、ダット自動車製造が誕生する。社長には久保田鉄工所者主の久保田健四郎が就任し、橋本は専務取締役に納まったが、実質的には実用自動車製造による、ダットの吸収に近い形となった。
8.3-4実用自動車製造の辿った、同じく苦難の道
冒頭から引用で、手抜きで恐縮だが、実用自動車製造の特色を良く現わしているので(③P70)より『石川島造船が自動車の生産のために本格的な生産設備を整えて参入したのと同様に、莫大な投資をして自動車の生産に乗り出したのが、大阪の「実用自動車製造」である。大阪の産業界の有力な企業が寄り集まって出資して設立されたものであるが、首都東京を本拠地として中央を意識する石川島とはその狙いなどに違いが見られたのは、庶民の街であり、商業都市として栄えた大阪を本拠地にしていたことによる。』
米国人ウィリアム・R・ゴーハムは、大正8~9年(1919~20)に3輪自動車の開発に成功、そのクルマが大阪の街を走る姿を目にした久保田篤次郎(久保田鉄工所社長久保田権四郎の女婿)が興味を抱いたことから話は始まる。
(下の写真が久保田の目にした3輪乗用車で、運転する櫛引弓人と横に窮屈そうに乗るのがウィリアム・R・ゴーハム。このクルマは俗に“クシカー(号)”と呼ばれている。名前の所以は京都の興行師、櫛引弓人の名前からで、日本で世話になり、片足が不自由だった櫛引のためにゴ―ハムがハーレーダビッドソンの部品を使って作り、贈ったものが発端だった。なおゴ―ハムは、国際情勢が緊迫していく中で、悩んだ末、1941年5月、日本に帰化した。日本名を合波武克人という。)
http://www.jahfa.jp/wp/wp-content/uploads/2013/01/2013-william.pdf

http://www.oppama-garage.jp/Docu0007
人力車に動力をつけたような安くて便利な乗り物があれば、輸入車と競合することなく普及するのではないかと考えた篤次郎は、ゴーハムの権利を 10万円で買い取り、自動車製造に乗りだした。会社は久保田権四郎を社長として、当時としては巨額の100万円という資金を投じて設立され,ゴーハムも設計主任者として招聘された。設計変更を加えた前一輪,後二輪の幌型自動三輪乗用車の試作に着手し,1920年 6月頃には試運転を実施し,月産 50台を目標に製造に乗りだした。(下の写真がゴルハム式3輪実用自動車で、その生産台数は乗用車型とトラック型の合計で約 150台に達したという。)

http://www.oppama-garage.jp/Docu0008
大阪市西区の埋立地に建設された工場の設備はゴ―ハムらアメリカ人がレイアウトしたもので、米国式の最新式機械を使用した、建坪1,300坪に及ぶ当時の日本で最新最大の自動車工場となった。当時の国産車で技術上のネックとなる『シリンダーブロックの鋳物は、外人技術者の指導を受けるとともに、自分たちでもいろいろと工夫して、質の良い材料により強靭なものをつくることができるようになった』(③P75)という。(工場にずらりと並ぶゴ―ハム式3輪車。最盛期には250名が働いていたという。)

http://www.oppama-garage.jp/Docu0009
『販売準備が整って店頭に新車が並ぶと、ショールームを訪れた人々から賞賛の声が押し寄せたが、試乗した人の中から横転事故が発生した。それも一度だけでなく度々あって、3輪構造の弱点がもろに出て評判を落とした。』(Web⓭-3)(下の画像はゴーハム式4輪車のトラック型。3輪型は狭い後輪トレッドが災いしてカーブで転倒し不評だったため、4輪タイプに作り替えたものだが、三輪の面影を残してハンドルが1本バーだった。乗用車型はタクシーとしても活躍したという。)

http://www.mikipress.com/m-base/img/1921_%E3%82%B4%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%83%A0%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AFG00000119.jpg
1923年(大正12年)に登場したリラー号は、久保田鉄工から派遣されてゴ―ハムの助手として働き、後にダットサンで主任技師となり活躍する後藤敬義が改良を加えたもので、ゴルハム式はホイールベース/トレッドが1828/914mmと小型だったが、リラー号は2133/965mmと大型化された。ディファレンシャルを装着しリヤシャフトをシャフトドライブする、丸ハンドル式の本格的な4輪自動車に生まれ変わった。(下の写真はリラ―号。日本の道路事情を考えた実用的な4人乗り小型4輪車として、後のダットサンのコンセプトにも大きな影響を与えた。DATとともに日産車の直接のルーツとなったモデルとも言われている。)

https://nissan-heritage-collection.com/NEWS/uploadFile/p08-01.jpg
4輪型の生産台数は、初期型のゴルハム式が約100台、リラー号と名づけられた丸ハンドル型が約200台製造されたが、この量産規模では、フォードの横浜組立車が1,700円のところ、箱型が2,000円、幌型が1,700円と割高だった。当然ながら経営が苦しくなる一方で、先に8.3-3で記したようにダットとの合併で、軍用保護自動車を活路に生き残りを図ることになる。
(下はブログ“復活ブルーバード”さんよりhttp://u14sss22ltd.fc2web.com/datsun1.html
まさに超「レア・アイテム リラー号のカタログ」)

http://u14sss22ltd.fc2web.com/liragou.jpg
(⑧P145)より引用する。『久保田篤次郎は、これら両社の合併が陸軍の自動車政策の一環である点について次のように指摘する。「能村磐夫さんから「今からはじめたのではたいへんだ。橋本増次郎がダット自動車で軍用車の資格を得たが、設備がないということだから、一緒になったらどうか」という勧告を受けました。それでダット自動車と実用自動車とが合併したのであります。」』 けっして目立たないのだが、日本の自動車史の中で、久保田鉄工所と久保田篤次郎、権四郎は重要な役割を果たしてきた。(久保田篤次郎の顔写真をネットで探そうとしてもなかなか出てこないのだが、下の「新経営研究会」というブログの「元アメリカ日産自動車 社長 片山 豊氏」という記事の中の写真に見ることが出来たのでコピーさせていただいた。『ダットサン完成1号車を囲む日産自動車創業時中心メンバー1935年 左から鮎川義介、浅原源七、山本惣治、久保田篤次郎』) 思いをつなげて、小型車ダットサンの量産型の完成を見届けたのだ。
http://www.shinkeiken.com/pub/aniv/03.html

http://www.shinkeiken.com/shuppan/images/30th_03kan_1_4.gif
なお,リラー号まで設計に関わったゴーハムは,1922年に同社を退社し,鮎川義介率いる戸畑鋳物株式会社に移動していった。
8.3-5軍用保護自動車メーカーとしての新たな道
こうして、実用自動車製造とダット自動車商会は統合されて、ダット自動車製造が誕生し、ダット51型がつくられる。以下、(③P106)より引用を続ける。
『「ダット自動車製造」となって最初の自動車としてつくられたダット51型は、41型の改良ということで、とくに陸軍の検定審査を受けることなく保護自動車として認定された。陸軍も「改進社」時代の軋轢を引きずらずに、ダット自動車に対して協力的になっていた。』
大阪の有力財界人をバックにした旧実用自動車側の信用力がついたため(今までのようなイヤガラセもなくなり?)、ようやく陸軍からも買い上げられるようになり、経営的にも一息がつけた。石川島と瓦斯電が首都東京の企業なのに対して、新生ダットが関西の大阪の企業だったことも、勢力分布的に幸いしたのではないだろうか(想像です)。(下の写真はダット51型保護自動車。1~1.5トン積みとなり、③P106によれば1927~29の間に106台生産されたという。だが台上試験装置の方にも興味が沸く。(以下引用⑲P67)『本格的な試験装置による自動車性能試験としては本邦初のもの(中略)で、床下の直径約1400mmの回転ドラム上に、各自動車の動輪を載せて動力を測定しているところ』の、『牽引力試験風景』らしい。試験装置は隈部一雄帝大助教授(当時。後に戦後、トヨタ自動車副社長に就任)が自ら設計した。依頼主は陸軍のようで、軍用保護自動車3社と、白楊社のオートモ号を比較試験した。今でいうところの“馬力測定用シャシーダイナモ”の元祖のようだ。)

http://yo-motor.asablo.jp/blog/img/2011/08/02/195428.jpg
しかし“ダット(DAT)”の社名は残ったが、その意味するところは後に、支援者3名を意味するところから、製品としての自動車の特徴を表現する、Durable(耐久性がある)、Attractive(魅力的な)、Trustworthy(信頼できる)、に改められた。
9.軍用自動車補助法の、その後の変遷
<9項概要>この記事の最後として、軍用自動車補助法の変遷を辿りながら、その間に起こった、同法を取り巻く内外の情勢変化を記した上で、まとめを書いて(ようやく!)この記事の終わりにする。
軍用自動車補助法の改正は度々行われたが、そのうちの1921年、1924年、1929年、1930年、1931年、1932年の6回の改正について、改定内容と、背景、陸軍が意図したところを簡単に記す。
しかしその前に、軍用自動車補助法実施後から、最初の大きな改正のあった1921年までの、3年間の状況を確認しておく。
9.1見込みを大きく下回った、その原因
まず初めに、陸軍が当初計画していた、民間に保有させて有事に徴用する保護トラックの予定台数を確認しておく。この記事をまとめる上で③と共にもっとも多くを頼った本の⑥によれば『軍は年間300~350台を適応して5年間に1,700台の車輛を民間に保有させる計画だったと思われる』(⑥P80)という。法案の審議過程における陸軍の答弁によると『将来戦争が起きた場合を必要台数は4,000台と想定されたが、その半分弱を調達する方針だった』(⑥P50)ようだ。しかし8.2の(表5)の実績表をご覧いただければわかるが(たとえば1918~1921年の生産合計で89台)、その目標を大きく下回ってしまった。
しかし、『1917年現在、トラックの保有台数が約2,000台であり、しかもそのうちこの軍用車の規格に合うのは30~40台に過ぎなかったことを考えると、この計画は相当の大規模のものだった。』(⑥P50)1,700台という数字自体、元々大胆なものだったことも事実のようだ。以下、大幅未達に終わった理由をいくつか掲げておく。
(A)そもそも甲/乙級トラックの需要が乏しかった
『当時の日本には三トントラック(注;3トンは車両総重量で、積載量は1~1.5トンの“甲”種トラック)や四トントラック(同、1.5トン積以上の“乙”種トラック)の需要は乏しかった。実際、国会審議の中で、「民間では三トンでも大きすぎる。二トン以下も含めるべきではないか」との意見も出たが、陸軍は「軍の要求性能を満たさない」とこれを一蹴している。』(⑤P27)とのことで、その目標台数は市場調査をもとに算出されたものではなかった。『陸軍としては軍用車は火砲の輸送も可能な四トントラックの能力が望ましかった』(⑤P27)が、このクラスの比較的大型のトラックは、当時の日本の道路事情もあり、実際の需要は少なかった。
(B)当初予想の製造コスト達成が厳しかった
製造補助金の額は7.1㋑で記したようなロジックで算出されたが、実際には『ほとんどの部品を内製することが求められた状況で、工廠なみの原価で製造することは難しかったのである。』(⑥P54)必要な設備投資と、市場での販売予想台数、及び緊縮財政下での軍用車の見込み台数から、採算が合わずに、市場参入を断念した企業もあったようだ。
(C)瓦斯電が経営危機に陥った
8.1-2で記したように、当時唯一軍用保護自動車を製造していた頼みの瓦斯電が、第一次大戦後の反動の不況下でこの時期経営危機にあり、車両の製造も開発もままならなかった。
(D)軍縮になり予算不足となった
そもそも『軍用の規格に合格するすべての車輛に補助金を与えるものではなかった。その車両の中で、毎年の予算の枠内で補助金を受ける車両台数が限定されていたのである。』(⑥P51)法制化を検討していた時期は第一次大戦中で好景気だったが、何度も記しているが戦後は長い不況に突入し、財政難で軍縮となった。従い5年で1,700台分の予算の確保は元々厳しい情勢となったが、上記(A)(B)(C)の理由から実需がさらに大きく下回り、この時期にこの問題が、顕在化することはなかった。
そのほかにも、当時の日本人の舶来品志向や、申請手続きの煩雑さ等もあっただろうが、以上のような諸問題を抱えた中で、以後の改正が行われていく事になる。
9.2軍用自動車補助法の改正の経過
この項は(⑥と⑧)を元にまとめた。
9.2-1 1921年の改正
ⅰ.対象車両の積載量を民需の多い3/4トンに拡大(従来は1トンから)
ⅱ.製造補助金を最大3,000円に増額(従来は2,000円)
ⅲ.鍛造部品の外注を認める。
ⅳ.工場内に一定の資格を有する技師を配置する条項を撤廃する。
→ⅰ、ⅲ、ⅳは上記(C)(A)(B)に対しての対応策で、陸軍にとっては誠に不本意ながらも?瓦斯電以外で当時唯一参入の可能性があった、ダットの新規参入を明らかに念頭に置いた内容だった。ダットもそれに応えようとするが、相性の悪い?両者のその後の顛末は、8.3-1を参照ください。ちなみに石川島はこの時点では、乗用車も完成しておらず、陸軍としてはこの時期、DATに託すしかなかった。
ⅱは(B)を受けての処置で、瓦斯電での経験値から当初の予想よりも製造コストが高くつくことに対しての改正だった(⑥P79)。
9.2-2 1923年の改正
ⅴ.輸入可能部品に鍛造部品が追加となる。
ⅵ.螺子の規格が廃止される。
→ⅴは石川島、ダットの両社ともに、国産鍛造部品の調達に苦労しており、そのための対応(特に石川島の新規参入を即す)だった。
ⅵは言うまでもなく、ダットの橋本との確執の結果であった(8-3-2参照)。
9.2-3 1924年の改正
ⅶ.100台/年以上製造できる規模の設備を有していることが、条件として付け加えられる。
→石川島もダットも1924年に軍用保護自動車の検定に合格し、瓦斯電に続き軍用自動車補助法の許可会社となった。先にも記したとおり陸軍は『将来的に見て、保護自動車メーカーが三つぐらいあることが望ましいと考えていた』(③P105)。しかしその一方で、『そもそも陸軍としては、修理の必要などから、多数のメーカーが少量生産することを好まなかった』(⑥P80)。その“目標”が達成されたため、3社で“打ち止め”することを意図して、これ以上の新規参入に対してのハードルが一気に上げられた。後に陸軍と商工省は3社の統合に動くことになる(“その5”の記事で記す予定)。
9.2-4 1929年の改正
ⅷ.製造補助金を大幅減額した。(1921年との比較で:甲《積載量3/4~1トン》1,500→900円、乙《1~1.5トン》2,000→1,200円、丙《1.5トン以上》3,000→1,800円)
9.2-5 1930年の改正
ⅸ. 製造補助金をさらに減額した。(1929年との比較で:甲900→400円、乙1,200→750円、丙1,800→1,200円)
ⅹ.補助金対象に6輪車を追加した。(甲1,400円、乙1,750円、丙2,200円)
9.2-6 1931年の改正
ⅺ.甲《積載量3/4~1トン》を補助金の対象から外し、他の製造補助金をさらに減額した。(1930年との比較で4輪車:乙750→150円、丙1,200→200円。6輪車:乙1,750→1,000円、丙2,200→1,500円)
9.2-7 1932年の改正
ⅻ.製造補助金をさらに減額した。(6輪車:乙1,000→700円、丙1,500→1,000円)
→1929~1932年の改正は傾向として同じ流れにあるためまとめてみていくが、4輪車の製造補助金は、甲が廃止され、乙と丙も150~200円と、トラック1台の単価からみれば、ほとんど意味をなさない程度の金額まで減らされてしまった。さらにその後1936年の改正では、乙もその対象から外されてしまうことになる。民間との共用を考慮した、後方支援用トラックの補助金は大幅に減っていき、代わりに前線で使用する6輪車が補助金の対象に加わり、以後は6輪車へと特化して、民需から大きくかけ離れていった。関東大震災(1923年9月)以降に国内の自動車市場で起きた、大きな変化に伴う結果だった。
9.3フォード、GMの進出で急拡大した日本の自動車市場
次回の記事(“その4”)で詳しく記す予定だが、以降はフォード、GMの日本進出が、陸軍と軍用自動車補助法、及び保護自動車3社に与えた影響部分だけに限定して、記しておきたい。まず両社の日本進出について、その概要だけ記しておく。
関東大震災を大きなきっかけとして、まずフォードが横浜でノックダウン生産を開始して(1925年2月)、ライバルのGMも後に続き大阪で同じくノックダウン生産に追随した(1927年4月)。両社は全国に展開した販売網を通じて、大量生産故の低価格と月賦販売を武器に、熾烈な販売競争を繰り広げていった。その結果、タクシー、トラック、バスなどの新たな営業用需要を開拓し、日本の自動車市場は急速に拡大していった。そして先に7.1で示した表(表3:自動車保有台数の推移)に示したように、トラックの保有台数も急速に拡大していった。次に両社の進出が、保護自動車3社に与えた影響から見ていく。
9.4 保護自動車3社に与えた影響
まず初めに、フォードとGMの組立台数を含む表を示す。
(表6:「日本フォードと日本GMの経営成績(1925~1934)」(㉑P30より転記))
この表と、8.2項の終わりの方で記した、国産軍用自動車メーカー3社の生産台数の表(表5)を比較すればその差は歴然となるが、たとえば1929年の石川島、瓦斯電、DATの生産台数はそれぞれ205台、58台、19台に過ぎないのに対して、すでに日本進出を果たした同年のフォードとGMの日本における組立台数は10,674台、15,745台と、あくまで生産台数を尺度にした場合だが、優に100倍くらいの開きがあった。しかも両社の本国アメリカでの生産台数はそれぞれ1,316,286台、1,271,72台と、さらにその100倍ぐらいの台数を生産していたのだから、規模が違い過ぎた。

しかしそんな中でも、日本の保護自動車3社も、陸軍の厳格な検査もあり次第に鍛えられていき(『陸軍の検査を通るのが6割ぐらいだった』(㉒P59))、8.1-2や8.2-2で記したように1920年代後半にはある一定レベルの性能/品質には達していたようだ。『~他の調査でも国産車の品質は「実用上何等の不備なし」とされており、実際に軍用車として使用していた軍から性能問題についてそれほど指摘されることはなかった。』(⑥P84)という。
そのため民間向けの販売が伸びなかった主因は、性能・品質以上に、生産規模の違いによる販売価格にあったようだ。『例えば、27年当時のダットの3/4トン積トラックの価格は5,000円であったが、製造補助金1,500円、購買補助金1,000円によって実際の購買価格は2,500円(シャシーのみでは2,100円)となっていた。ところが、当時の1トン積フォードのトラック・シャシーの販売価格は1,240~1,390円であった。すなわち、20年代後半には、補助金を入れても外国車に対する国産車の価格は割高となっていたのである。』(⑥P85)しかもフォードとGMが日本に持ち込んだ月賦販売を利用すれば、顧客は頭金を500円程度支払えば購入できたのだ。(⑤P37等)
⑥からの引用が続くが、保護自動車3社の『1925~30年間の軍への納入台数と補助金適用台数=民間への販売台数の比率は約半分ずつであった。しかも後者は各市の電気局が中心であり、純粋な民間企業は少数であった。要するに、3社の生産車輛は軍需を中心とし、市電や一部民間企業の営業用乗合自動車として使われるにすぎなかったのである。』(⑥P83)
手作りの域を出ない国産車と、巨額な工場設備と製品開発費を投じた大量生産の(既述のように生産規模が台数ベースでは約×1万倍も違った)フォード/シヴォレーと比較すれば、いかに補助金分で嵩上げさせても、同じ土俵での競争は無理な相談だった。
既に青息吐息の国内3社に、外資勢に対抗するための新たな設備投資の余力などあろうはずがなかった。こうして国産3社は、軍用車以外は、輸入車と競合し難い特殊用途の車両や官需向けのバスなどの限られた市場に逃げ込むしかなかった。しかも(表6)の示すように米の2社は日本市場で大きな利益を上げていた。まだまだ余裕十分だったのだ。この圧倒的な地力の差には、国産3社だけでなく車両開発に深く関わってきた陸軍も、嘆息するしかなかったに違いない。
販売台数の大差の要因は価格だけではなく、関東大震災の影響、販売網やアフターサービスの差、月賦販売の導入、さらにフォードとGMによる馬力競争の影響などさらに細かくみていく必要があるが、それらは以後の記事の“その4”と“その5”で記していく。
次に米2社の進出が陸軍及び軍用自動車補助法に与えた影響を記し、最後にまとめをしたうえでこの記事を(なんとか)終えたいがその前に、官側の新たな動きとして、この時代に商工省と鉄道省が誕生したことも触れておきたい。
商工省は1925年に農商務省を分割して設立され、商工業の奨励・統制を担った国家機関で(wikiより)、自動車産業を所管する官庁となった。関東大震災後の復興需要で、黒字基調だった国際収支が赤字に転じた上に、ノックダウン生産のための部品輸入の急増等が原因で、貿易収支の急激な悪化が問題となっていた(『1922年に700万円に過ぎなかった自動車・部品の輸入額が28年には3,000万円を超え、そのままいけば1億円を突破するものと予想されていた。』⑥P108)という。国産品奨励運動が盛んになる中で、国内の自動車産業の保護&育成に、以降は商工省が前面に立ち、関わっていくことになる(“その5”以降の記事で記す予定)。
一方鉄道省も1920年に新しく設置された省で、1928年からは今まで逓信省が担っていた自動車などの他の陸上交通部門も管轄することとなった(wikiより)。鉄道技術は自動車に先行して、すでに世界水準に達していたが、鉄道省はその育成の過程で得た知見とその自信を、自動車産業にも活かそうと試みる。まずは省営バスの発注を足掛かりに、自動車産業育成に対しても、商工省と連携しつつ、主に技術分野で深く関わっていく事になる(こちらも“その5”以降の記事で記す予定)。こうして、経済産業省と国土交通省が両輪となり自動車行政を進める、現在に至る体制が形作られていった。
なお陸軍(省)の方も、軍需品増産の政策立案とその実施のため、1926年に整備局(統制、動員の2課)が設置されたことも追記しておく。ちなみに初代動員課長は永田鉄山であった。
9.5 陸軍及び軍用自動車補助法に与えた影響
何度も繰り返すが、軍用自動車補助法とは、「日本陸軍が有事に徴用する予定の自動車について、その製造者及び所有者に対して補助金を交付することを定めていた法律」(wikiより要約)であり、その第一の目的は、同法が参考にした欧州諸国の補助法と同様に、日本陸軍が有事に徴用する予定の自動車の確保であった。
しかし欧州と違っていたのは、日本には当時自動車産業というもの自体が事実上存在しなかったため、軍用トラックの発注と製造補助金と通じて、陸軍自らが自動車産業育成に手をつけなければならなかった点にあった。しかし、9.1で見てきたとおり、量の確保も自動車産業育成も共に、はかばかしい成果を上げられないでいた。時代は不況下の軍縮の時代だった。この時期の『陸軍内部では、緊縮財政により軍需予算が減っているのに、民間の自動車メーカーを育成するために予算を使うのは良くないという意見が出ていた。射撃訓練のための軽機関銃さえ購入する予算がないのに何ごとか、という声が大きくなってきていた。』(③P154)という。予算も無い中で、陸軍の立場も、その陸軍内における自動車の立場も、後年のような強いものではなかったのだ。
そんな手詰まり感のあったちょうどその頃に、フォードとGMの日本進出が始まろうとしていた。しかし巨大な自動車メーカーである米2社の進出は、軍用自動車保護法が持つ、副次的な目的であった、国内自動車産業の保護/育成の面からすれば、相反する結果をもたらすだろうことは、目に見えていた。
9.6 フォードとGMの日本進出を反対しなかった陸軍
以下は(⑤P36)より引用する。
『ここで注目すべきは、軍用自動車補助法を提出した日本陸軍も、フォードやGMの工場進出に反対しなかったという事実である。日本陸軍も自軍の装備品は国産が望ましいと考えていたにせよ、より重要なのは高性能な軍用車を必要な数だけ確保する点にあった。つまり当時の日本陸軍は、有事の必要数量さえ確保できるなら、それが国産車であるか輸入車であるかについて、特別なこだわりはなかったのである。』
陸軍はフォードとGMの日本進出により、いわゆる“大衆車クラス”(=何度も言うが、3000cc級の積載量1~1.5トン級)のトラックの民間での普及を内心期待したのだろう。そして9.2で見てきたとおり、恐らくは陸軍の予想を超える勢いで、国内市場は一気に活性化されていき、それに応じて民間のトラックの保有台数も大きく増加していった。以下(⑳P137)より引用
『~フォードで鮮明な印象を与えられたのは、一流新聞に、そのころ珍しいトラックの1ページ広告を掲載したことだった。今になって回顧すると、なぜトラックであり、1ページ広告だったのか。一因は、年ごとに強まってくる軍需景気時代到来の予感、産業界全体が、増大する物資流通への考え始めていた時代相を、いち早くつかんでの訴求ではなかったか。』
(⑤P36)の引用を続ける。『~そして数の確保では、フォードとGMの工場進出は、陸軍の期待に応えていた。国産車が年産400台前後だった1928年、これら工場の生産数は両社合わせて二万台を超えていた。力の差は圧倒的だった。』 こうして陸軍は労せずして、有事の際に民間から徴用する、後方支援用の1~1.5トン積クラスのトラックの必要台数を確保できたのだ。ただし国産車ではなく、外交上次第に難しい関係になりつつあった米国製の、ノックダウン生産車であったが・・・。
以下、この記事を作成するうえで多くを頼った、⑥のP83からこの問題の“まとめ”として引用する。
『法の制定時は、輸入車と国産車を問わず、トラックの保有台数は非常に少なかったため、国産メーカーの奨励と軍用自動車の確保といった問題に相反するものではなかった。しかし、国内軍用車メーカーの不振にも拘わらず、輸入・国内組立の外国車によってトラックが急激に増加すると、どちらを重視すべきかという選択に直面せざるを得なかったのである。
そして、当時の軍縮ムードによる予算節約、国内メーカーの消極性などを考えると、民間との共用の自動車は外国車に委ねつつ、軍用専門の自動車のみに補助金を与え、その生産を確保する方針を採ったと考えられる。』
もう1点、陸軍の軌道修正の“背中を押した”?出来事に、先に記した商工省の誕生があった。軍用自動車補助法の実施が、国産車の奨励と自動車産業の育成という、自動車産業政策としての側面を持っていたために、今までは陸軍が前面に立ち、その旗振り役を演じてきた。
しかし官僚機構内での役割分担として、商工省が自動車産業振興のための行政を行うことになったため、陸軍はその役目から“解放”された。そして台数が必要となる後方支援用トラックは当面フォードとシヴォレーに任せて、陸軍が開発に関わる軍用車両は、前線で使用する際に重用する6輪車に特化させるのであった。(ブログ“独歩”さん http://doppo.moritrial.com/?eid=162280 よりコピーさせていただいた、趣のある下の写真は『祖父が昭和初期に運送業を営んでいた。セピア色の写真はそのころの初代トラックでシボレー1-1/2噸トラック。「昭和12年2月27日 京都駅前にて」と記されている。』そうだ。シヴォレーのトラックは大阪組立だったせいもあり『大阪、奈良、京都、滋賀、兵庫を中心に販売した』(㉓P8)という。)

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9.7陸軍が重用した六輪軍用自動車
しつこいようだがこの記事全体の“まとめ”をする前に、新たに保護自動車のカテゴリーに加わり、六輪自動車についても、(⑤P46、③P156)等を参考に、ここで簡単に触れておく。
前記のように1930年の法改正で、財政難から製造/購買補助金の減額と、3/4~1トントラックが除外される一方で、保護自動車に六輪車が追加された。
陸軍の六輪自動車といえば、後の九四式が有名だが(後の記事の“その5”あたりで記す予定)、正式化される前から、石川島(スミダ)や瓦斯電(チヨダ)などが六輪車を製造し、陸軍に納入していた。後部2軸の6輪車は積載量の多さや、不整地でも履帯(キャタピラー)を装着すれば一定の走破性が期待できた。6輪車は保護自動車3社の中でも石川島が得意としていたようだ。元はウーズレーにあったものにヒントを得て試作したのが始まりだったそうだ。(③P156)下の写真はブログ「陸軍主要兵器写真館」さんよりコピーさせていただいた「石川島P型「九二式高射砲牽引車」」。
http://www.pon.waiwai-net.ne.jp/~m2589igo/cgi-bin/bunnkanrikugun5syaryourui.html?newwindow=true

https://www.pon.waiwai-net.ne.jp/~m2589igo/cgi-bin/92sikikenninnjidoukasya.JPG
いっぽう瓦斯電のTGE-N型6輪車はモーリス(英)のものを参考にしたようだ。(⑧P176)(下の画像は“みつを工機P”on Twitter:さん https://twitter.com/mitsuwo117 よりコピーさせていただいた。)

https://pbs.twimg.com/media/C6YdERVU0AEL74h.jpg:small)
これらの六輪軍用トラックは、戦前の陸軍の軍用トラックのいわば最終型として、後の“その5”の記事で記す予定の「九四式六輪自動貨車」として結実することになる。(下の画像は「ファインモールド社製模型の「1/35 九四式六輪自動貨車 箱型運転台」の完成品。ヤオフクに出品されていたものをコピーさせていただいた。「九四式六輪自動貨車」は、小型車ダットサンやダイハツ/マツダのオート三輪(“その5”の記事で記す予定)、戦中~戦後を通じて官民一体で地道な改良が続けられ、朝鮮特需の際に両社を倒産の危機から救ったトヨタ(KB型)/日産(180型)の軍用トラック(“その6”と“その7”で記す予定)とともに、戦前の日本を代表するクルマではなかったかと思う。ちなみに1台だけあげるとすれば、一般的にはダットサンだろうが、個人的にはこの九四式だ。『九四式6輪自動貨車については、それを鹵獲し、テストした米軍側の評価が残っている。米軍からみれば、九四式6輪自動貨車は出力重量比の低さが問題視されている(米軍の同クラスの軍用トラックは七十~九十馬力前後)ものの、信頼性は高いと評価されていた。事実、日本陸軍が長い兵站線を戦ったノモンハン事変でも、自動車隊の中心は九四式6輪自動貨車であった。』(⑤P75)その実直な姿そのままに、黎明期で、苦労ばかり多かった中で何とか歯を食いしばり、必死に生き残った石川島、瓦斯電、ダットの3社の文字通り“血と汗と涙の結晶”のようなクルマで、関係の方々の苦労がおもわず思い浮かんでしまう。)

https://auctions.c.yimg.jp/images.auctions.yahoo.co.jp/image/dr000/auc0103/users/7/5/2/7/kyokko2009-img800x604-1585490286fxkrxj20132.jpg
9.8 この記事のまとめ
今まで延々と、「軍用自動車補助法」と陸軍を軸に、この時代の日本車(~1930年頃迄)巡る様々な動きをみてきたが、この最後の“まとめ”では、この記事の主要なテーマである「軍用自動車補助法」についての個人的な感想(=当然ながら全文まったくの私見です!)を書いて終えたい。
「軍用自動車補助法」が審議され、立法化されたのは第一次世界大戦の最中で、日本は戦争特需に沸き、好景気の真っ只中にあった。しかし少ない予算で、有事に民間から徴用するトラックの必要台数の確保と、自動車産業の育成を合わせて図るという二兎を追う、いささか虫のいい法案だったことも事実だった。そして民間から徴用するトラックの、5年間で1,700台という計画台数は、市場調査の結果から割り出されたものではなかった。陸軍側の軍用に徴用する必要台数から算出されたもので、当時の市場の実態と工業技術の水準からすれば、当初から、意あって力足らずに終わる可能性を十分秘めていた。
同法は1918年5月から施行されたが、1920年3月には戦後恐慌に突入し、日本はその後長い不況となり、軍縮の時代を迎える。限られた軍事費の中で、当時の陸軍の認識では、直接の兵器でない自動車の位置づけは低かった。当初の好況期に立案された予算でさえ、目標台数達成のためには不十分な規模だったが、予算の圧縮でさらに縮小されていった。
一方、自動車産業の育成も狙った同法に対して、民間企業の側の目からはどのように映っただろうか。
陸軍が瓦斯電以外に参入を期待したメーカーの中には、たとえば発動機製造(ダイハツ)、川崎造船所、三菱神戸造船所という、有力メーカー3社の名前があった。
発動機製造は、国産エンジンを開発する目的で、当時の大阪高等工業学校(現在の大阪大学工学部)の学者や技術者が中心となり、大阪の財界も協力して興された会社で、エンジンの技術開発や生産で実績があり、既に定評がある会社だった。自動車を作る上では瓦斯電よりも実力は明らかに上で、陸軍内で軍用車の試作を担当した大阪砲兵工廠と同じ、地元大阪ということもあり、陸軍は内心期待していたようだ。しかし結局、“一歩”踏み出すことはなかった。当時各種エンジンの生産で手いっぱいで、余力がなかったことが理由とされているが、陸軍の計画があまりに楽観的で採算が合わず、リスクが大きすぎると判断したからではないだろうか。
一方三菱神戸造船所と川崎造船所の両社は、三菱/川崎財閥の中核企業として、6.2の(表1)にみられるように、当時の日本の民間製造業の中でトップ2の実力を誇っていた。造船所はこの時代の日本が誇る先進企業で、その中では原動機から工作機械まで自製していた。両社ともに一時は独自に試作車まで製作し、自動車産業進出のための具体的な検討を行ったことも事実だ。
しかし両財閥ともに、国防を考えれば海軍はなにより軍艦であり、さらに陸/海軍ともに当時急速にクローズアップされてきた航空機が最優先で、軍用トラックの優先順位は低い(=予算配分が少ない)ことを直ちに認識した。利益を生むだけの財政支援も期待できない上に、肝心の陸軍自身も、実力のある両社に対しては、当時亜流の自動車よりも、国防の要となる可能性の高い航空機産業への参入の方を、より強く期待した。
発動機製造を含む3社共に、結局のちには、自動車産業に進出することになるのだが、この時点では、瓦斯電や石川島、ダットほどの、自動車産業に対して格別な思い入れはなかった。あくまでも企業として冷静な判断(自動車を生産するための、新たな設備投資をしても、採算がとれない)を優先させたのだった。
実際にその後、瓦斯電、石川島、ダットが歩んだ、軍用保護自動車メーカーとしてのいばらの道のことを思えば、3社ともそれが正解だったと、この当時は思っただろう。予算削減で軍用トラックの発注量も少なかっただけでなく、巨大な自動車メーカーとして世界に君臨していたフォードとGMが、ノックダウン生産を行うためのアジアの拠点として、日本を選択したからだ。
そして国内3社にとっての頼みの綱だったはずの陸軍も、あえて異を唱えなかったのだ。こうして2社に追従したクライスラーを含む、今や死語となったが、巨大な“ビッグスリー“の上陸で、日本の自動車市場はまたたくまに席巻され、植民地化されていった。
しかし、軍用自動車補助法の旗振り役でありながら、成果が出せず、打開策も見いだせないまま窮地に陥った当時の陸軍を救い出したのも、皮肉なことにフォードとGM(シヴォレー)だった。
米車の進出で自動車市場は一気に活性化され、タクシーやトラックの営業車需要が新たに開拓されていった。その結果トラックの保有台数は大きく増加し、陸軍が有事の際に徴用する、後方支援用トラックの確保が一気に解決したのだ。ただし米国製のトラックに頼ってであったが。自給自足を旨とする総力戦構想からすれば矛盾のある話であったが、当時米国はまだ、敵国とは見なされなかったし、そもそも背に腹は代えられない状況だったのだ。
陸軍が米国車の上陸に敢えて反対しなかった理由が、この事態までを予見したからなのか、それとも自動車行政に自信を失いかけた中で、当時の世相(“上陸”を歓迎ムードだった)に逆らうことを遠慮したのか、あるいはその両方だったのか、今となってはよくわからない。そのような視点で書かれた日本の自動車史がほとんどないからだ(⑥と、その影響を受けたと思われる⑤ぐらい?)。いずれにしても、国内自動車産業育成という見地からすれば、陸軍が距離を置き始めたことは明らかだった。
さらに商工省の誕生により、自動車産業育成という大役から降板し、以後は商工省を後押しする形で引き続き、自動車行政に深く関わっていく事になる。
最後の最後に、この「軍用自動車補助法」とこの時期の陸軍が、自動車産業育成に果たした、歴史的評価について、確認してみたい。一般的には『~しかし,コスト的,品質的に欧米車に劣る日本車が同法によって競争優位を獲得したということは決してなく,国家的保護によって,何とか生き残るメーカーがあったという程度の効果を果たしたと理解するべきであろう。』(引用Web❽P47)というあたりが多い。実際その通りだと思うが、個人的な心情からすると、同法と日本陸軍と国産3社を、もう一歩、前向きに評価したい気がする。
確かに同法は、市場分析と予算の裏付けも十分無い中で、たぶんに“願望”や“勢い”で作られた法案だったように思える。しかし1910年代の日本の実情を思えば、理性的な判断だけでは、自動車産業育成策など、そうそう立案できるものではなかったことも事実だった。世界を見渡せば、量産アメリカ車の背中ははるか彼方で、ますます遠ざかろうとしており、たとえ”見切り発車”でも、その”決断”は早い方が良かったのだ。
一方企業の側も、瓦斯電、石川島及びダットの保護自動車3社は、上記(Web❽)などの指摘のように、同法及び陸軍の下支えがあって初めて、苦しい経営を乗り切れたのは事実だ。
しかし3社の側も、軍用保護自動車としての事業が、国を支える事業であるというプライドを胸に、脱落せずに必死に耐え忍んできた。そして厳しい環境下で陸軍の期待に応えるべ努力した末に、1930年を迎える頃にはついに、性能・品質面で、自動車としての一通りの水準まで引き上げることが出来た。もちろん量産型ではなく、主要な部品も輸入に頼っていたようだが、それでも短期間に、大きな進歩を果たしたと思う。
同法を巡っては、たとえば当時の国情を考えれば小型車の振興に力を注ぐべきだった等々の議論があるのも事実だが、日本の自動車産業史の全体を見渡せば、この「軍用自動車補助法」と日本陸軍の果たした役割の大きさに、あらためて気づくことだろうと思う。
以上、ようやく“その3”の記事を書き終えることができた。次の“その4”は、フォードとGMの日本進出で、たぶんこの記事ほどは複雑にならないはずで、7月中にはアップしたい。
引用、参考元一覧 (本)
①:「国産トラックの歴史」中沖満+GP企画センター(2005.10)グランプリ出版
②:「軍用自動車入門」高橋昇(2000.04)光人社NF文庫
③:「苦難の歴史 国産車づくりの挑戦」桂木洋二(2008.12)グランプリ出版
④:「太平洋戦争のロジスティクス」林譲治(2013.12)学研パブリッシング
⑤:「日本軍と軍用車両」林譲治(2019.09)並木書房
⑥:「日本自動車工業史―小型車と大衆車による二つの道程」呂寅満(2011.02)東京大学出版会
⑦:「大日本帝国の真実」武田知宏(2011.12)彩図社
⑧:「日本自動車産業の成立と自動車製造事業法の研究」大場四千男(2001.04)信山社
⑨:「永田鉄山と昭和陸軍」岩井秀一郎(2019.07)祥伝社新書
⑩:「1940年体制 さらば戦時経済」(増補版)野口悠紀雄(2010.12)東洋経済新報社
⑪:「日本株式会社の昭和史 官僚支配の構造」NHK取材班(1995.06)創元社
⑫:「企業家活動でたどる日本の自動車産業史」法政大学イノベーション・マネジメントセンター 宇田川勝・四宮正親編著(2012.03)白桃書房
⑬:「明治の自動車」佐々木烈(1994.06)日刊自動車新聞社
⑭:「日野自動車の100年」鈴木孝(2010.09)三樹書房
⑮:「20世紀のエンジン史」鈴木孝(2001.10)三樹書房
⑯:「いすゞ自動車のすべて」カミオン特別編集(2012.05)芸文社
⑰:「歴史の中の中島飛行機」桂木洋二(2002.04)グランプリ出版
⑱:「写真でみる 昭和のダットサン」責任編集=小林彰太郎(1995.12)二玄社
⑲:「20世紀の国産車」鈴木一義 (2000.05)三樹書房
⑳:「ニッポンのクルマ20世紀」(2000)神田重己他 八重洲出版
㉑:「日本の自動車産業経営史」宇田川勝(2013.10)文眞堂
㉒:「日本陸海軍はロジスティクスをなぜ軽視したのか」谷光太郎 (2016.05)パンダ・パブリッシング
㉓:「日本のトラック・バス トヨタ、日野、プリンス、ダイハツ、くろがね編」小関和夫(2007.01)三樹書房
㉔:「読む年表 日本の歴史」渡辺昇一(2015.01)ワック株式会社
㉕:「昭和陸軍の軌跡」川田稔(2011.12)中公新書
㉖:「浜口雄幸と永田鉄山」川田稔(2009.04)講談社選書メチエ
㉗:「永田鉄山 昭和陸軍「運命の男」」早坂隆(2015.06)文春新書
㉘:「永田鉄山と昭和陸軍」岩井秀一郎(2019.07)祥伝社新書
㉙:「太平洋戦争のロジスティクス」林譲治(2013.12)学研パブリッシング
㉚:「戦後日本経済史」野口悠紀雄(2008.01)新潮選書
㉛:「自動車用エンジンの性能と歴史」岡本和理(1991.07)グランプリ出版
㉜:「悪と徳と 岸信介と未完の日本」福田和也(2015.08)扶桑社文庫
㉝:「岸信介証言録」原彬久(2014.11)中公文庫
㉞:「日本自動車工業史座談会記録集」 (1973.09)自動車工業振興会
引用、参考元一覧 (Web)
➊:「戦前のオート三輪車とプレモータリゼーション」箱田昌平
https://www.i-repository.net/contents/outemon/ir/106/106070306.pdf
❷:「アメリカ南北戦争は日本の金が」ブログ“東京イラスト写真日誌”さん
http://www.irashadiary.com/2014/05/06/20140506/」
❸:「海戦勝利の要因は何だったのか」ある公認会計士の戦史研究 チャンネル日本
http://www.jpsn.org/essay/acct_warhist/12370/
❹:「日本近現代史の授業中継」ブログ 大正政変と第一次世界大戦
http://jugyo-jh.com/nihonsi/jha_menu-2/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E6%94%BF%E5%A4%89%E3%81%A8%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6/
❺:産経新聞「戦後70年~大空襲・証言」
https://www.sankei.com/affairs/news/150310/afr1503100004-n3.html
❻:ブログ“おととひの世界”
https://ameblo.jp/karajanopoulos1908/entry-12587230470.html
❼:“長州新聞”「記者座談会 語れなかった東京大空襲の真実」
https://www.chosyu-journal.jp/heiwa/1134
❽「戦前期日本自動車産業の確立と海外展開(上)」上山邦雄
http://libir.josai.ac.jp/il/user_contents/02/G0000284repository/pdf/JOS-02872072-3703.pdf
❾-1:「日本自動車産業と総力戦体制の形成(一)」大場四千男 北海学園学術情報リポジトリ
http://hokuga.hgu.jp/dspace/bitstream/123456789/3484/1/p145-173%E5%A4%A7%E5%A0%B4%E5%9B%9B%E5%8D%83%E7%94%B7.pdf
❾-2:「日本自動車産業と総力戦体制の形成(二)」大場四千男 北海学園学術情報リポジトリ
http://hokuga.hgu.jp/dspace/bitstream/123456789/3637/1/P123-153.%e5%a4%a7%e5%a0%b4%e5%9b%9b%e5%8d%83%e7%94%b7%e5%85%88%e7%94%9f.pdf
❿::「道路運送車両法 ―その成立の歴史と背景―」小川秀貴 経営戦略研究 Vol. 6
https://kwansei-ac.jp/iba/assets/pdf/journal/studies_in_BandA_2012_p29-41.pdf
⓫:「東京ガスの歴史とガスのあるくらし」高橋豊 川崎市役所 企業の歴史と産業遺産⑤
http://www.city.kawasaki.jp/kawasaki/cmsfiles/contents/0000026/26446/08takahashi.pdf
⓬:「日本で自動車はどう乗られたのか」小林英夫 アジア太平洋討究
https://core.ac.uk/download/pdf/46895065.pdf
⓭-1:「32-07.国産車発展小史⑩~石川島造船所その2~」クルマの歴史300話 蜷田晴彦
http://ninada.blog.fc2.com/blog-category-40-3.html
⓭-2:「32-18.国産車発展小史⑫~石川島造船所その3~」クルマの歴史300話 蜷田晴彦
http://ninada.blog.fc2.com/blog-date-201702.html
⓭-3:「33.昭和時代の始まり」クルマの歴史300話 蜷田晴彦
http://ninada.blog.fc2.com/blog-category-41-3.html
⓮:「瓦斯電から日野自動車へ」家本潔 (インタビュアー鈴木孝)(JSAE)
https://www.jsae.or.jp/~dat1/interview/interview4.pdf
⓯「戦前期における自動車工業の技術発展」関,権
https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/10406/1/ronso1250500150.pdf
⓰:「みなさん!知ってますCAR?」「ダットサンのルーツ」広田民郎
https://seez.weblogs.jp/car/2008/08/
⓱:日産ヘリテージ・コレクション「実用自動車とリラー号」
https://nissan-heritage-collection.com/NEWS/publicContents/index.php?page=6
⓲:「第一次世界大戦の衝撃 ―日本と総力戦―」相澤淳 防衛研究所戦史部
http://www.nids.mod.go.jp/event/proceedings/symposium/pdf/1999/sympo_j1999_2.pdf
⓳:「「昭和日本陸軍の歴史」
https://ncode.syosetu.com/n7245fs/
⓴:「「叛骨の宰相 岸信介」北康利より」 ブログ“読書は心の栄養”
https://ameblo.jp/yoshma/entry-11925185903.html
《21》あなたは知っているか?「T型フォード」と「初代 iPhone」が転回したマーケティングの歴史」
https://markezine.jp/article/detail/28030
備考
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≪備考6≫質&量共に劣っていた日本の軍馬
多少余談になるが、当時の日本の軍馬は世界基準で見た場合、質(能力)の面でかなり劣っていたようだ。以下(⑤P13)より引用『日本陸軍の軍用車について考えるときに忘れてならないのは、日本陸軍が抱えていた軍馬の問題である。十九世紀末から二十世紀初頭の軍隊では、機動力や兵站面で軍馬が重要な位置を占めていた。だが日本陸軍は、その質と数の両面でその所要を満たせないでいた。』(下の画像はwikiより「幕府陸軍のフランス式騎兵」)

そのため日露戦争では、軍馬の不足から輸送力の主役は人間であったという。また当時の日本の軍馬は、性格が荒い上に馬体は貧弱で『その後の義和団事件などでも日本の軍馬は、馬体が小さいわりに従順さに欠け、諸外国から「日本軍は馬に似た猛獣を使用している」と嘲笑されるありさまだった』そうだ。
ただこのことは、馬に対しての接し方が、元来が野蛮な肉食系人種である?西欧人のように家畜(=奴隷)扱いでなく、草食系の温和な日本の社会では共生すべき生き物であったことも一因だったのではないだろうか(まったくの私見(偏見)です)。
その後、軍馬としてみた質の面では30年以上かけて徐々に品種改良されていったようだが、(引用㉒P57)によれば、国産軍用トラックの生産力/性能ともに中途半端に終わった日本は結局、太平洋戦争終結まで馬による輸送に多くを頼ったとしている。

http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/h/hibi159/20150402/20150402020332.jpg
しかし話が脱線するが、軍馬としての能力が劣る中でも、日露戦争において日本陸軍はそれを補う画期的な戦術を編み出し、ロシア軍と戦ったという。以下は手元にあった入門書的な日本史の本の(㉔P208)「奉天会戦」より長文だが引用
『~世界最強と目されるロシアのコサック騎兵に比べ、日本の騎兵はまことに見劣りがした。何しろ徳川三百年の間、騎兵を用いる必要がなかったから、騎兵の運用は明治になって西欧から大急ぎで学んだばかりだし、馬もあわててオーストラリアから輸入して育成したものだった。日露戦争当時の世界中の人々が日本の勝利に耳を疑ったのも無理のない話であった。
そんな状況下にあって日本の騎兵の創始者、秋山好古が考えたのは、いわば逆転の発想であった。騎兵での戦いでは日本人がコサックに勝てるわけがない。だから、コサック兵が現れたらただちに馬から降りて、従で馬ごとなぎ倒してしまおうと彼は考えたのである。これは騎兵の存在理由を根本から覆す発想である。(中略)
さらに秋山将軍は、当時ヨーロッパで発明されたばかりで、「悪魔的兵器」と言われながらもその威力が戦場では未知数であった「機関銃」を採用した。黒溝台における会戦で、日本騎兵の機関銃の前にコサック騎兵は次々と倒され、なす術もなかった。(中略)その結果、最終決戦となった明治三十八年三月の奉天会戦の戦場では、とうとうコサックは前線に現れなかった。機関銃は世界最強のコサックを封じ込めてしまったのである。(中略)
世界の人々にとって、日本軍の勝利はまるで奇跡を見ているかのようであったと思われる。戦争が終わり、真実が分かっととき、それまで世界中で「陸軍の華」と呼ばれた騎兵は、世界の陸軍から急速に消滅することになった。どんなに機動力があっても、機関銃の連射の前には何の力もないことが明らかになったからである。そこで、機関銃に負けない機動力を持つものとして、十年後の第一次大戦で、欧州の戦場に戦車が登場してくることになった。』
しかし上記㉔の記述のうち、機関銃の話の裏をとろうと確認のため、wiki等ネットで検索すると、『ロシア軍の装備する当時の最新兵器の機関銃により、敵陣を攻撃する歩兵の突撃隊にたびたび大損害を被った』(wiki)等、逆の印象を受けるような記述も多数あり、良くわかりません?自分は機関銃には興味が無いので!興味を持たれた方は、ご自身でネット検索してみてください。「機関銃」は本題から離れるのでこれ以上の検索は止めるが、日露戦争は、双方が歩兵用火器として機関銃を本格的に使用した世界初の戦いだったというのは事実のようだ。
さらに(㉔P211)より追記する。『日露戦争における陸軍の司令官たちはみな実戦で学び、鍛えられた人たちばかりであった。大東亜戦争において、教科書どおりの戦法を繰り返して何ら学ぶところのなかった士官学校出のエリート軍人たちが多かったのとは、大いに違うと言わざるを得ない。』機関銃については横わからないけれど、ここは皆さん同感なのではないでしょうか。
兵站の話に戻し、話がさらに大きく脱線するが後の第二次大戦で、圧倒的な工業力で世界をリードしたアメリカは、日本より遥かに余裕があり思想も進んでいたようで、馬やトラックを“飛び越えて”第二次大戦において輸送用飛行機で物資を空輸するという“贅沢”なことを考えた。以下(引用㉒P64)より『日本陸海軍の特色は、攻撃力偏重であった。攻撃を重視するあまり、その攻撃力を支える諸々の機能(ロジスティクス)を軽視する。戦闘機は、直接的に敵艦隊を攻撃するものではないから不要だとする意見すら有力だったこともある。戦闘機は、単座急降下爆撃機にかえるべきだ、という意見も強かった。(中略)
戦闘機無用論があるくらい攻撃力重視の雰囲気の中で、ロジスティクス関連の飛行機を開発したり、飛行機を使ってのロジスティクスを研究してみようという動きは日本軍の中では起こらなかった。(中略)これは工業力の差以前に航空ロジスティクスへの理解の差といってよかろう。』(太平洋戦争における陸軍の主力軍用輸送機、三菱一〇〇式輸送機は輸送乗員19名で507機が生産された。九七式重爆撃機(キ21)の胴体部分を改設計し、制作された。下の絵は一〇〇式輸送機とほぼ同型のMC-20-I型。「古典航空機電脳博物館」さんよりコピーさせていただいた。)

https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn%3AANd9GcQpEf2a00k0QFkxNygC_jsm4ELIVXDlHlQHvagpNQHLUaifxLj2
(下はジュラルミンの波形が特徴的なドイツのユンカースJU-52型輸送機。日本の一〇〇式とほぼ同性能だったが10倍近い約4,800機も生産された。『ドイツ空軍の兵士たちからは、Tante Ju(タンテ・ユー=「ユーおばさん」の意)と呼ばれ親しまれ』(wiki)、ドイツの空挺師団戦力には欠かせぬ存在だった。)

(下はアメリカのダグラスC47型輸送機。画像はwikiより。DC-3型の軍用輸送機型で、各タイプを合わせて合計1万機以上生産された。ノルマンディー上陸作戦や、アジアの奥地作戦で活躍し、アメリカ軍欧州戦域総司令官だったドワイト・D・アイゼンハワー(後の大統領の)は、“第二次世界大戦を勝利に導いた兵器”として、「バズーカ」、「ジープ」「原子爆弾」そして「C-47輸送機」の4つを挙げたことからも、空輸による輸送が果たした役割の大きさは分かる。「"Four things won the Second World War-the bazooka, the Jeep, the atom bomb, and the C-47 Gooney Bird."」)

≪備考7≫日本陸軍の総力戦構想について
第一次世界大戦において日本は、ドイツ領だった青島、グアム、サイパンを取り、信託統治領として領有した。日清戦争後に台湾を領土とし(下関条約)、日露戦争で樺太の半分と満州権益を得て、さらに1910年には韓国を併合していた。当時の日本はこれらの外地(植民地)をもって自らを“帝国”と名乗っていた。(下の地図の赤い部分が日本の領土で、地図はブログ「我が郷は足日木の垂水のほとり」さんよりコピー)

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/f8/3e60eebafd6ac14fd5f5b7e9447da700.png
南洋諸島まで拡張した“大日本帝国”陸軍には、再三記すが来るべき世界大戦に備えて総力戦体制を築くという壮大な戦略目標があり、それを実現するための明確な計画が存在していた。そして自動車もその中の一部として、位置付けられていた。
そこで以下の≪備考7-1≫で総力戦構想に至った経緯を大まかな点を記したうえで、続く≪備考7-2≫でそのための課題として、工業分野の中でも自動車産業に関係してくる部分をピックアップして、自動車と総力戦構想の関連について、概要の作成を試みた。主に参考にした本は、陸軍軍政家としての本流を歩み、総力戦体制の構築を主導した永田鉄山(永田鉄山については次の≪備考8≫で記す)について主に記された(⑧、㉕、㉖、㉗、㉘、㉙)及びそのアマゾンカスタマーレビュー(安直ですが!)、さらに(Web❾-2、⓲)等だ。しかし泥縄式の勉強では到底理解できなかったことは、本文に記したとおりです。(下の絵は東京市ヶ谷にあった陸軍参謀本部(1922年に書かれた絵)。画像は“ジャパンアーカイブス”さんより。陸軍を統括していた機関は、陸軍省(軍政担当)・参謀本部(軍令担当)・教育総監部(教育担当)の3機関だった。士官学校出のエリートたちを頂点とした、戦前の日本でもっとも巨大な官僚機構でもあった日本陸軍の組織については以下のブログ「公文書に見る日米交渉」を参照ください。
https://www.jacar.go.jp/nichibei/reference/index16.html)

https://jaa2100.org/entry/detail/029490.html
≪備考7-1≫第一次世界大戦の教訓
第一次世界大戦は、1914年7月から18年11月まで、4年半近くに及んだ長期化と、あらゆる物的人的資源をつぎ込むという総力戦化で、戦争当初の予想をはるかに超える過酷な戦争となった。
(下の図と以下の文はブログ「昭和日本陸軍の歴史」https://ncode.syosetu.com/n7245fs/
さん(Web⓳)よりコピーさせていただいた。『1914年(大正3年)7月から1918年11月まで、4年半近くの長期にわたってつづいたこの戦争は、戦死者900万人、負傷者2,000万人という、それまでの戦争とは比べ物にならないほど未曾有の規模の犠牲者と破壊をもたらす凄惨な戦争となった。』)

日本の戦闘範囲は、ドイツの武装商船の拠点となっている南太平洋で、ドイツが租借していた南洋諸島の制圧と、同じくドイツが租借していた、東南アジア屈指の良港であった青島への攻撃でごく限定的なものであった。しかし陸軍は早くから、第一次大戦の主戦場であった欧州にも武官を派遣して、その実態調査に当たらせていた。
『日本陸軍は、ヨーロッパを中心に繰り広げられていた第一次大戦の戦訓調査について、戦争勃発の翌年の 1915 年に早くも「臨時軍事調査委員会」を設置してその調査を開始し、戦争半ば過ぎの 1917 年後半にはその総力戦的様相を「国家総動員」という言葉で捉えるようになっていた。』(Web⓲P17)
『陸軍は大正4年(1915)に臨時軍事調査委員会を発足させ,第一次世界大戦のヨーロッパ諸国における経済力戦を調査させた。委員会はその調査報告書として大正6年(1917)1月に「参戦諸国の陸軍に就て」を発行し,航空機,重火器,車輌(戦車・軍用自動車)等を中心にする総力戦の実態を報告した。さらに,陸軍は砲兵少佐鈴村吉一をヨーロッパに派遣し,各国の軍需工業の実態とその動員体制をも調査させた。この結果,彼は,大正6年9月に「全国動員計画必要ノ議」を提案するに至る。』(Web❾-2P129)
欧州で総力戦の実体と連合国及びドイツの戦争遂行の過程をつぶさに見て、大きな衝撃を受けた陸軍の中堅幕僚たちは、第一次世界大戦終結後の国家戦略の構想に取り組み始める。
『そうした総力戦研究の成果は、戦争終結後の 1920 年に『国家総動員に関する意見』という報告書等にまとめられ、純軍事的分野のみの対応に限定されない総力戦への対応策が陸軍部内で種々検討されていくことになった。』(Web⓲17)という。
その『国家総動員に関する意見』を策定したのが、前記の永田鉄山で、理論的に体系化されたその論文は、のちの総力戦体制構築のためのたたき台となっていく。(≪備考8≫参照)

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/dd/35131bf604536ff42a05c1a9c062b949.jpg
≪備考7-2≫総力戦構想の課題(工業分野)
≪備考7-2-1≫前書き(言い訳?)
従来の国軍は、その国力に応じた短期(1〜2年)の戦争を想定して規模や装備が定められており、それが世界共通のあり方であった。しかし国家総力戦となった第一次大戦では、国家が国力のすべて、軍事力のみならず経済力や技術力、科学力、政治力、思想面の力を平時の体制とは異なる戦時の体制で運用して争う戦争となった。
『総力戦体制構築のためにまず問題となるのが、莫大な国力を消費する長期の消耗戦を戦うために必要な経済力をどのように育成していくかであった。国内の資源が乏しく、工業生産力等もいまだ主要列強に劣る日本にとって、これは大きな問題であった。』(Web⓲P17)再三記すが西欧先進諸国に比べて、長期の総力戦を戦う上で、何から何まで足りなかったのが当時の日本だった。
以下は経済/工業分野に於いて、総力戦構想なのであくまで“陸軍目線(=「将来の戦争に備え、国を守るためには、国家総動員体制の構築が必要」とする価値判断)”から見た主な課題の中でも、自動車分野(=これも陸軍目線なので対象は乗用車でなく主に軍用トラック)に直接/間接に関わってくる部分に限定して抽出し、≪備考7-2-3≫で箇条書きで簡潔にまとめてみた。しかし何度も記すが表面的な理解のため自分のものになっておらず、いかにも寄せ集め的になってしまった。ただ本題に入る前に前書きばかりが長くなるが、この時代(=この項は主に大正デモクラシー期を想定。後の戦乱の昭和より前の時代)の時代背景を先にしるしておく。
≪備考7-2-2≫その時代背景
戦争特需の反動による不況と、1918年のシベリア出兵に対しての批判で、昭和(当然戦前の)と違い厭戦気分が高まっていた。さらにロシア帝国が滅び、外的脅威が弱まったことも相まって、軍縮への要求が高まる、陸軍にとっては逆風の世相の中で行われたものであったことも追記しておく。1922年にワシントン会議(下の写真はその模様で、画像は“国際IC日本協会”さんよりコピーさせていただいた)が開催され、軍縮条約で主力艦(戦艦)の保有制限が合意された。陸軍においても山梨軍縮・宇垣軍縮が進み「軍縮の時代」が始まった。以下(㉕)より引用
『1920年代の陸軍主流をなしていた宇垣一成は、長期の総力戦への対処として軍の機械化と国家総動員の必要を主張しており、その点では永田と同様であった。だが、基本戦略としてワシントン体制を前提に米英との衝突はあくまでも避けるべきとの観点にたっており、主にソ連との戦争を念頭に、中国本土が含まれないかたちでの、日本・朝鮮・満蒙・東部シベリアを範域とする自給自足圏を考えていた。それは、資源上からも厳密な意味での自給自足体制たりえず、不足軍需物資は米英などからの輸入による方向を想定していた。したがって、中国本土については米英と強調して経済的な発展を図るべきであるとの姿勢であった。米英ともに中国本土には強い利害関心をもっていたからである。』(㉕P81))

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冗長な前置きばかりだがもう1点、上記の説明ともかぶってくるが、この時代の陸軍の軍戦備構想がけっして一枚岩でなかった説明として、(㉚P78)より引用しておく。『(前略)相反する考え方があったのである。一方は「平時から大規模な戦力を持っておき、戦時になったら短期間で敵国を打ち破ろう」という構想をもっていた。工業力の貧弱な日本は長期戦に耐えられないという認識からの構想である。だが他方で「長期戦は想定せねばならないし、そのためには国内の工業基盤を整備して、長期で大量の軍需動員に備えるべきだ」という考えを持つ軍人たちもいた。』後者が「総力戦構想」といえるが、その延長線上で、自給自足体制の確立を目指し、大陸へと戦線を拡大し軍拡の道を歩む事にもつながっていったと思う。
≪備考7-2-3≫総力戦構想と自動車の関係
本題に戻り、先にも記したがいかにも“寄せ集め”の感が拭えないが!以下は箇条書きで自分なりにまとめてみた。
㊀.長期間の総力戦を戦い抜くためには資源の自給自足体制の確立が大前提となる。そのため資源を求めて資源調査と、中国大陸における軍事行動を伴う資源確保が画策されていくことになる。このことは外交上のフリーハンドを得るためにも必要と考えられていた。
㊁.工業分野に於いては基礎的な目標としてまず、産業振興のための基盤整備として、西欧列強に大きく劣る鉄鋼や化学、機械工業等の重化学工業を自立させることがまず前提となる。そのため各種国産補助法に基づく出資/援助等を行ない、基盤産業の保護/育成を推進していく。(たとえば1917年の「製鉄業奨励法」等。Web❾-2P130等参照)
㊂.㊁と並行して、長期戦を戦うために、近代兵器(航空機、軍艦、軍用自動車、戦車等)を大量生産し、自給自足体制を確立させる必要となる。また敵国と有利に戦う上では量だけでなく、兵器自体の性能(質)が決定的な要素となる。そのためには人材育成等も含め、工業技術力全般の大幅なレベルアップも必要となる。
㊃. 当時の日本の限られた条件下で、㊁、㊂を実現するために、生産設備・物資・資源・人材を効率的に配置する、国家主導による計画/統制経済が構想されていく。
㊄.関連して、動員時の統一的使用が可能なよう工業製品の規格統一を図ること、軍需品の大量生産に適するよう生産・流通組織の効率化と大規模化を目指すことになる。
㊅.別の視点から見れば工業分野に於ける総力戦構想とは、戦時と平時の生産力のギャップを埋め平時から戦時のための工業動員に備える(平時も準戦時体制に置く)為のものと捉えることも出来る(⑧P31等参考)。
㊆.上記㊅と関連して、陸軍にとって自動車産業を育成することは、第一次大戦の戦訓から、近代兵器として育成すべき最優先の分野であった航空機産業を、平時からバックアップすることを意味していた。現代と違い当時は自動車と飛行機の技術的な関連性が高かったため、いわゆる「シャドーファクトリー構想」(=「戦時における工場の軍需転換」)を意識していた。(関連≪備考12≫)
㊇.産業界側からみると、第一次大戦は一方で日本に戦争特需をもたらし、主に重化学工業分野がその恩恵を受けた。上記の政府の施策と相まって日本が農業国から工業国へ、さらに軽工業から重化学工業へと産業構造を変化させるためのきっかけをもたらした。それらは自動車産業を成立させるための産業基盤が徐々に整備されていくことを意味していた。(下表はブログ「世界の歴史まっぷ」さん
https://sekainorekisi.com/の記事「大戦景気」よりトリミングしてコピー)

https://mk0sekainorekisr2s2b.kinstacdn.com/wp-content/uploads/2019/10/e401b187de3e4dd0084edbd66393ceb0.png
㊈,戦争特需で資本力を得た企業の中に、大戦終結後の軍需急減を見越して、将来の成長分野と目された自動車産業への進出を試みる企業家が現れた。本文の方の8項で記すが陸軍による「軍用自動車補助法」を足掛かりに、東京瓦斯電気工業(日野自動車のルーツ)と東京石川島造船所(同じくいすゞ自動車のルーツ)、そしてダット自動車製造(同じく日産自動車のルーツ)製の軍用保護自動車が誕生することとなる。
こうして日本陸軍は、本文の7項で記す「軍用自動車補助法」と同時に成立した「軍需工業動員法」から、その後1936年の第二次総動員計画の策定~1938年の「国家総動員法」成立に至るまで、延々と16~18年費やして総力戦構想を具体化していくこととなる(Web❾-1P157等参考)。下の画像はwikiより、『国家総動員法成立を報じる新聞 1938年(昭和13年)』)

そして日本の自動車産業も、総力戦構想に基づく戦時下の統制経済の下で、外資を排除した中で確立されていく。トヨタの自動車事業のスタートが1936年の「自動車製造事業法」とリンクして確立されていったことは良く知られているが、以下(⑩P4)より引用
『ダワー(Dower,1993)は、つぎのことを指摘している。①日本の自動車メーカー11社のうち、純粋な戦後産はホンダ1社にすぎない。②残る10社のうち、トヨタ、日産、いすゞの三社は、軍用トラック・メーカーとして戦時期に発展した。③他の七社においても、自動車生産は、戦時中の軍用機や戦車生産からのスピンオフであるケースが多い。』←厳密に言えば本田宗一郎がホンダ創業前に設立した東海精機は軍需依存の企業だったし(航空機用ピストンリングを生産。戦後トヨタに売却してその資金でオートバイに進出)、逆に商人の足的な存在だった、オート三輪から自動車産業に進出したダイハツとマツダも、起業時は確かに海軍との関係が深かったが、オート三輪に冷たかった戦時体制はむしろ逆風だった(のちの記事の“その5”あたりで記す予定)が、概ねまとを得た指摘だったように思える。
さらに本文の方で書いたように、自動車産業のみならず、戦後の日本経済自体も、野口悠紀雄が⑩で“1940年体制”(=『戦後日本経済史を読み解く視座として、戦後経済の礎は、1940年前後に導入された制度にある』以上⑩に対してのアマゾンカスタマーレビューより引用!)と喝破したように、戦時下の総力戦体制は敗戦後も戦後の経済体制の中に色濃く残り、やはり“総力戦”のようだった戦後の高度成長期を支えていくこととなった。(本文の方の6.4-4-3もしくは⑩あたりをお読みください。以上の考えには私見が混じっています。)
≪備考8≫永田鉄山と総力戦構想について
陸軍の“統制派”のリーダーとして、総力戦体制構築のために邁進しつつも志半ばにして相沢事件で斬殺された(1935.08)永田鉄山の人となりについてはwiki等ネットを検索すれば多数出てくるので詳しくはそれらを参照してください。永田の目指した経済体制は当然ながら、統制経済を念頭に置いた構想だった。ちなみに永田が率いた陸軍の派閥の「統制派」という名称は、「経済統制を推進」する集団であるところから、そう呼ばれたという説もあるようだ。永田については、その功績(功罪)についても賛否両論あるようだがその点にもここでは触れない。ただ軍政家として本流を歩み、「陸軍創設以来の逸材」などと評されることもあった永田だが、それゆえに敵が多かったのは確かなようだ。

https://bunshun.ismcdn.jp/mwimgs/f/6/1500wm/img_f60d45b4fc004e1a020ea7cd88317b
以下は長文となるが総力戦構想について、私見が混じらないよう(これ以上迷路に嵌らないよう?)にするため!≪備考8-1≫では永田について書かれた代表的な本のいくつか(㉕、㉖、㉗、㉘)からそのまま引用して、永田の考えた総力戦構想の中から、ここでも自動車分野に関連しそうな部分について抽出を試みた。さらに≪備考8-2≫では黎明期の自動車産業の確立のために、財政面で制約が大きい中でも力を注いだ永田についての記述が(㉒、㉗)等に記載されていたので引用し、紹介しておく。
≪備考8-1≫永田鉄山の総力戦研究
第一次大戦をはさんだ計6年間、軍事調査などのために欧州に派遣された永田は、次の戦争が軍事力だけでなく経済、産業、教育、宣伝など全ての国力を投じる長期戦になると予見した。さらに「戦争不可避論」の立場から、次の世界大戦は必ず来る筈だと読んでいた。(事実第2次世界大戦は日本軍が当初期待した「短期決戦」にはならず、永田の予想した総力戦、長期戦となった。下の画像はブログ、“五十四にして天命を知る”さんよりコピーさせていただいた、諏訪湖に近い公園、高島公園にある、永田鉄山陸軍中将(死後昇進)の銅像)

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そしてその時代に、国家が生き残るための方策として、資源確保と工業力育成と軍備の機械化と国家総動員体制の整備がカギとなると認識する。再三記すが1920年、「国家総動員に関する意見」を記し、日本における国家総動員研究の第一人者的な立場の軍人となった。以下は(㉘P56)より引用
『永田にとっての第一次世界大戦の大きな教訓は、戦争の新しい形態である「国家総力戦」(以下、総力戦)に入った事だった。飛行機、戦車、毒ガスなど、続々と導入された新兵器への関心もあったが、それ以上に戦争の性質そのものを変えてしまった総力戦に、強い関心を持った。
第一次世界大戦はあらゆる点で、それまでの戦争とは異なっていた。軍隊と軍隊とが戦うだけではなく、国家のあらゆるものを動員し、遂行しなければならない戦争、それが総力戦である。機械化した戦争は軍隊のみで行うものではなく、膨大な物資の供給を支えるために国民を総動員しなければならない。言わば、国家の「体力」をどれだけ投入できるかにかかっている。そうなると、戦場と銃後が別々ではなくなり、一般市民の生活にも戦争は直結してくる。戦争の様相ははげしく変化したのである。
欧州は曲がりなりにも、この総力戦を経験している。いっぽう、日本は前述のように部分的に参戦しただけで、この新しい戦争の形態を理解しているとは言い難かった。』(以上㉘P56)
そして再三記すが永田は臨時軍事調査委員として論文「国家総動員に関する意見」(1920年)をまとめ上げる。既述のように総力戦体制の必要性について理論的に論じた、その後の日本の針路に大きな影響を及ぼすことになる論文だった。
ただし何度も途中で話の腰を折るが、誤解を招かないように追記しておくと、7-1で既述のように、陸軍は第一次大戦の主戦場であった欧州に早くから武官を派遣するなど、実態調査を行っていた。そしてその研究結果を踏まえた、総力戦体制を実現させるための第一歩となる法案となった軍需工業動員法が、永田の論文発表の2年前に、既に成立していた。
軍需工業動員法について、以下ネットのコトバンクより引用するが、既に総力戦のための準備を意識した法案であることが確認できる。『戦時体制下では,軍需生産を増強するために国家が民間工場を動員し得ることを定めた法律(1918年)。軍需品工場の国家管理,軍需生産関係会社の軍需会社指定,監督契約に基づく軍需品工場の監督などを規定した。1937年日中戦争が勃発(ぼっぱつ)すると本法が適用されたが,1938年国家総動員法の施行により廃止』以下はwikiより『軍需工業動員法は原敬から「一夜作りのものにて不備杜撰」と酷評されたように、未消化な法律だったが総力戦準備を目的とした調査・立法・実施のための機関が政府内に設置された意義は大きかった』
そして自動車産業との関連においてもこの記事の本文の方の7項で記した軍用自動車補助法(1918年)が、この軍需工業動員法と同時に、いわばセットとして成立している(⑧P13参照)。後の時代の「自動車製造事業法」(1936年成立、後の記事の“その6”で記す予定)が陸軍及び、その当時は統制経済下で陸軍の統制派と協調した岸信介ら“革新官僚”たちが主導権を握っていた商工省が主導した、総力戦遂行のための国家(産業)総動員体制の下に組み込まれた法案であったことは広く知られている。しかしこの記事の本文の7項で記す、時期的に永田の論文(1920年)の2年前に成立した軍用自動車補助法(1918年)も既に、総力戦構想を意識した、その構想とリンクさせた法案であったことを追記しておく。
例によって脱線続きだが話しを永田の総力戦構想論に戻し、以下(㉕P67)より引用。
『(前略)今後、近代工業国間の戦争は不可避的に国家総力戦となり、同時にまた第一次世界大戦と同様、その勢力圏の錯綜や国際的な同盟提携など国際的な政治経済関係の複雑化によって、長期にわたる世界戦争となっていくことが予想された。
永田は、大戦によって戦争の性質が大きく変化したことを認識していた。すなわち、戦車・飛行機などの「新兵器」の出現と、その大規模な使用による機械戦への移行、通信・交通機関の革新による戦争規模の飛躍的拡大、それらを支える膨大な軍需物資の必要、これらによって、戦争が、陸海軍のみならず「国家社会の各方面」にわたって、戦争遂行のための動員すなわち「国家総動員」をおこなう、国家総力戦となったとみていた。
そして、今後、先進国間の戦争は、勢力圏の錯綜や国際的な同盟提携など国際的な政治経済関係の複雑化によって、世界大戦を誘発すると想定していた。そこから永田は将来への用意として、次のように、国家総力戦遂行のための必要性を主張する。
これまでのように常備軍と戦時軍動員計画だけで戦時武力を構成し、これを運用するのみでは「現代国防の目的」は達せられない。さらに進んで、「戦争力化」しうる「人的物的有形無形一切の要素」を統合し組織的に運用しなければならない。したがって、そのような「国家総動員」の準備計画なくしては、「最大の国家戦争力」の発揮を必要とする現代の国防は成り立たない、と。つまり、大戦における欧米の総動員経験の検討からして、戦時の準備計画のみならず平時における国家総動員のための準備と計画が欠かせないというのである。』
以上のような永田の国家総動員論を(㉖)より要約すると、『「国家が利用しうる有形無形人的物的のあらゆる資源」を組織的に結合し、それを動員・運用することによって、「最大の国家戦争力」を実現させようとするものであった。そのために平時からその準備をおこない、戦時に「軍の需要を満たす」とともに、「国民の生活を確保」するよう必要な計画を策定しておかなければならないとされる。』(㉖P111)
永田の国家総動員論は、国民/産業/財政/精神動員などからなっていたが、このうち自動車に関連してくる“産業動員”について、以下(㉕P69)より抜粋する。
『兵器など軍需品および必須の民需品の生産・配分のため、生産設備・物資・資源を計画的に配置することである。それに関連して、動員時の統一的使用が可能なよう工業製品の規格統一を図ること、軍需品の大量生産に適するよう生産・流通組織の大規模化を推進すべきこと、などが主張されている。永田は産業組織の大規模化・高度化は、国家総動員のうえで有利なだけでなく、平時における工業生産力の上昇、国民経済の国際競争力の強化にもつながるとみていた。』
以上は“産業動員”の大枠の部分だが、さらに焦点を絞り、同じ機械工業分野として、自動車にも関連してくる部分としては、(㉕P72)
『~このように永田は、大戦における兵器の機械化、機械戦への意向も意識しており、それへの対応が国防上必須のことだと認識していた。またそれらの指摘は、日本軍の旧来の肉弾白兵戦主義、精神主義への批判を内包するものでもあった。
だが、このような軍備の機械化・高度化を図るためには、それらを開発・生産する科学技術と工業生産力を必要とする。ことに戦車、航空機、各種火砲とその砲弾など、膨大な軍需品を供給するために、「いかに大なる工業力を要するか」は、容易に想像しうるところである。すべての工業は軍需品の生産のために、ことごとく転用可能である。したがって、一般に「工業の発展すると否とは国防上重大な関係」がある。そう永田は考えていた。機械化兵器や軍需物資の大量生産の必要を重視していたのである。
では、日本の現状は、そのような観点からして、どうであろうか。
まず、飛行機、戦車など最新鋭兵器の保有量そのものについてみると、永田によれば、大戦休戦時、飛行機は、フランス3,200機、イギリス2,000機、ドイツ2,650機などに対して、日本約100機、欧州各国と日本との格差は、二十倍から三十倍である。その後も日本の航空界全体の現状は、「列強に比し問題にならぬほど遅れて居る」状況にあり、じつに「遺憾の極み」だという。戦車は、1932年(昭和7年)初頭の段階でも、アメリカ1,000両、フランス1,500両、ソ連500両などに対して、日本40両とされる。その格差は歴然としている。』(~㉕P73)
(㉕P73)から続ける『このように永田は、欧米列強との深刻な工業生産力格差を認識し、工業力の「貧弱」な現状は、国家総力戦遂行能力において大きな問題があると考えていた。したがって、「工業力の助長・化学工芸の促進」が必須であり、国防の見地からして重要な工業生産、とりわけ「機械工業」などの発展に努力すべきとしていた。そしてそれには、「国際分業」を前提とした対外的な経済・技術交流の活発化によって工業生産力の増大、科学技術の進展を図り、さらに「国富を増進」させなければならないという。
だが他方、永田は、戦時への移行プロセスにさいしては、国防資源の「自給自足」体制が確立されねばならないという考えであった。とりわけ不足原料資源の確保が、天然資源の少ない日本においては、最も重要なこととされた。』
こうして鉄鋼等の基盤産業がある程度整備された後に、総合機械工業である自動車産業も「自給自足」体制の確立を目指していく事になる。以下は論文なので固い文章なのは当然なのだが(Web❾-1P154)より引用、
『第一次世界大戦は総力戦を中心とする戦略思想と総動員体制の確立を陸海軍の新しい重要課題にさせ,我が国の資本主義を重化学工業段階と国家経済主義へ発展させ,その中心産業として自動車産業を確立させる契機となったのである。』
ただし❾-1と若干ニュアンスが異なるが私見として何度も記すと、後の動乱の昭和の時代に、大陸侵攻が本格化し、226事件以降軍部が主導権を握り、総力戦構想に基づく軍事国家体制が確立される以前の日本では、自動車産業を国が全面的に支えるような体制が敷かれることはなかったこともまた、事実であったと思う。
≪備考8-2≫自動車産業育成に努めた永田鉄山
上記のようにやたらと“守備範囲”が広かった永田だが、彼が主導した自動車産業振興(ただし軍用トラックとして)を目指したより具体的な行動について、以下(㉗P92)より引用していく。
『永田は国内の自動車産業の発展を目的として、国産自動車の増産を積極的に促す体制を整えた。既に、軍用自動車補助法という法律が、大正七年(1918年)三月に公布されていた。(中略)
しかし、昭和期にはいると、経費削減といった観点から、陸軍省内でもこの法律に対する批判が大きくなり、同制度の廃止を求める声や、他省に管轄を移す案などが検討されるようになった。こうした中で、永田はこの制度の重要性を強調、同制度の維持どころか更なる拡充を主張し、日本の自動車産業を強固に育成する道を切り開いた。軍用トラックの有用性を認識していた永田は、有事の際に輸入が滞る場合を考慮し、国産化を促進するよう努めたのである。(中略)
永田は国内企業が団結して共存していく必要性を訴え、各社の社長を招き、この点について意見交換する場を設けた。永田は陸軍側の実務の代表者として、細かな折衝にも自ら進んで対応した。このような整備局動員課の取り組みが、その後の自動車各社の協力体制へと繋がった。以降、各社の合併や共同出資が次々と実現していくが、その基礎となる土壌を作ったのは誰あろう永田であった。
日本の自動車産業は、その揺籃期において斯かる軍部の指導があって発展を遂げた。これは永田の大きな功績の一つと言えるであろう。
現在に至る日本の自動車業界の世界的な隆盛の陰には、永田の存在があったのである。』
この項のまとめとして、(㉒P57)より引用して終わりにしたい
『近代化推進者が凶刃に倒れる
昭和の陸軍で最も期待されたリーダーをあげよと問われれば、ほぼ10人中10人があげた名前が永田鉄山である。不幸にして軍務局長時代、相沢三郎中佐の凶刃に倒れた。
もし永田が凶刃に倒れることなく、長く陸軍の中枢にいたならば、明治期の山形有朋と比べられるような昭和陸軍の大実力者となっていただろうという人も多い。山形は日本陸軍の創設に深く関わった。永田はその日本陸軍の中興の祖として、日本陸軍の近代化を推し進める巨人となっただろう、というのである。彼は頭脳明晰で、しかも人間的魅力もあり、横死直後は、部下が半分冗談まぎれに戒名を「鉄山院殿合理適正大居士」と奉ったほど合理性を重んじる思考や態度をとるのが常だった。
永田は青年将校時代、第一次大戦開戦直前のドイツに語学研修に派遣され、開戦とともに急遽帰国を命ぜられる。
その後、ふたたび大戦下のヨーロッパへ軍事研究員として派遣され、デンマークとスウェーデンに二年間滞在し、戦況の推移やドイツ軍の状況を研究した。帰国後は、臨時軍事調査委員会の委員として、第一次大戦で顕在化した国家総動員の研究に没頭した。そして、第一次大戦直後のヨーロッパの状況を知るため、オーストリアとスイスへ駐在武官として派遣された。人類はじまって以来の未曽有の大戦争であった第一次大戦の開戦直前・戦時中・終戦直後の三度にわたるヨーロッパ駐在による大戦の経験と研究は、永田をして日本有数の第一次大戦研究家たらしめた。永田は、長期・大消耗をともなう近代戦の何たるかを身をもって体験し、軍の近代化のみならず、国民精神や交通も含めた産業全体の国家総動員の必要性を痛感した。
臨時軍事調査委員として、一九二〇年(大正九年)永田が執筆した「国家総動員ニ関スル意見」は、その後の国家総動員関連法案や政府施策の基礎となった。陸軍省では軍需品増産の政策立案とその実施のため、一九二六年(大正十五年)整備局(統制、動員の二課)を新設した。
整備局は、近代戦に備えて、陸軍としての軍事資材の開発・製造・調達に関する基本政策を担当した。
初代動員課長は永田中佐である。
動員課長の永田が最も力を入れたのは、国産自動車工業の確立であった。第一次大戦を体験した永田にとって、自動車は陸軍の近代化に無くてはならぬものだった。』
そして永田の想いはその配下の伊藤久雄に引き継がれていく。(㉒P59)の引用を続ける。
『~陸軍で軍需品の開発・製造・調達に関する基本政策を担当していたのは、初代課長の永田鉄山(二代目課長は東条英機)の思想を引き継ぐ動員課(一九三六年:昭和一一年八月に、戦備課と改称)で、国産自動車工業の育成に情熱を燃やしていた。動員課の伊藤久雄少佐は一九三五年(昭和一〇年)九月、陸軍省の意見をまとめた「自動車工業確立ニ関スル経過」を作成した。』伊藤久雄については、後の記事(“その6”あたりで)で記すことにする。
(永田は自動車製造保護法成立の前年に、同じ陸軍の皇道派の刺客による凶刃にあえなく倒れてしまったが、その志は、直属の部下であった伊藤に引き継がれたのだと思いたい(もう少し具体的な証拠があると、話がまとまりやすかったが、探せませんでした)。下の写真は文春オンライン「「太平洋戦争を止められた」エリート軍人・永田鉄山は本当に歴史を変えることができたのか」
https://bunshun.jp/articles/-/13286 よりコピーさせていただいた。)

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≪備考9≫自動車産業進出に消極的だった三菱財閥
よく言われている事だが、自動車産業に必要な資本力と技術力を兼ね備えていた大財閥の中でも、とりわけ機械/重工業分野で力のあった三菱が、自動車産業への進出に慎重であった事について、記しておく。以下は「戦前期における自動車工業の技術発展」関,権著(引用Web⓯P490)より。
『周知のとおり,自動車工業は巨額の資本と高度の技術を要する総合機械工業であるため,大企業による量産体制が必要不可欠である。当時,最もその能力を備えたのは旧財閥であったが,1日財閥は自動車工業への進出にあまり積極的ではなかった。(中略)
例えぱ,三菱重工業は1917年にすでに自動車の試作を始めた。その神戸造船所では,イタリア・フィアット社のA型自動車をモデルにして試作を開始し,1918年に第1号車を完成した。』(フィアットは三菱本社の副社長が使用していたものだったという。)

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『この三菱A型はボールベアリングなど一部の部晶を除けば、エンジン,シャシー,ボディーなどを自製し,その実用性が認められた数少ない乗用車であった。また1918年の軍用自動車補助法の施行とともに,軍用トラックを4台試作し,1920年に完成した。このような成果を収めながら,三菱は1921年に自動車工業から撤退してしまった.確かに,当時自動車工業を発展する技術的・市場的基盤が十分整っていなかった。しかし同じ悪条件に置かれながら,三菱よりはるかに小規模の資本をもって自動車生産を継続した企業がいくつか存在していた。快進社や白楊社などがそれである.またその後の日産自動車やいすジ自動車,およびトヨタ自動車のいずれもきわめて苦しい環境の中で生き残ったのである。』(下の写真は、愛知県・岡崎市にある、三菱 オートギャラリーに展示されている、三菱A型のレプリカ。三菱A型は、1917年夏に試作が開始され1918年11月に完成。1921年までに計22台が生産された。まとまった数量を見込みで生産・販売された三菱A型は、日本初の量産乗用車(のひとつ)と言われている。(300台生産した7.5-1のオートモ号の方を、日本最初の量産乗用車だとする説もある。)しかし制作に携わったスタッフも多くはなく、『三菱の大プロジェクトとしての取り組みではないといえるだろう』引用⑦P62)社運を賭けたようなプロジェクトとは全く違ったようだ。しかしそこは、当時製造業分野では実力No.1の人材豊富な“大三菱”のやることだったので、たとえ片手間仕事でも、当時の国産車としては出来の良い仕事ぶりだったようだ。

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一方神戸川崎財閥も、大阪砲兵工廠からの要請を受けて、川崎造船所が当初は積極的に対応し、トラック(制式自動貨車)の試作車を完成させた。並行して「アメリカからパッカード製のトラックも輸入して分解、これをもとにして10台分の部品を製造、エンジンは1基が試運転をするところまで進んだ(⑦P85)という。しかしその後すぐに、自動車よりも航空機を優先させる方針へと変わったため、瓦斯電のように量産化まで進まなかった。
当時最も力のあった旧財閥系企業の中でも自動車にもっとも近かった両社の冷静な判断(消極姿勢)が、戦前の自動車工業の発展を遅らせた、一つの要因だとの指摘も多い。
≪備考10≫総力戦構想の“わからなさ”(その2)
≪備考10-1≫戦前と戦後の断絶はなかった(岸信介)
本文の6.4-3の続きです。この時代の日本を代表する官僚/政治家であり、戦時統制経済体制を主導した岸信介(下の写真はwikiより)は広く知られているように、自動車製造事業法を手がけて、自動車産業の発展に多大な貢献を果たした(後の“その6”の記事で記す予定)。しかし自動車はその業績の一端に過ぎなかった。軍事体制下で“国防”の名のもとに強権的に、革新的な政策の実行が可能だった当時の状況を『むしろ岸は、戦争を、日本の産業、経済、社会を変革する、絶好の機会ととらえたのである。』(引用㉜P195)
戦後政界に復帰後は、自ら基盤を築いた産業政策はもっぱら古巣の通産省(当時)に任せて、安全保障政策などの外交に注力したが、戦後の業績として忘れてならないのは、社会保障制度の基礎を作った点だ。『岸が社会保障の充実という点でも目覚ましい成果を上げた政治家であることはあまり知られていない。昭和33年12月に国民健康保険法の改正を行って国民皆保険とし、昭和34年4月、最低賃金法と国民年金法の制定を行ったことは、国民生活の安定に大きく寄与した。これらは中小企業減税などを通じて中小企業育成に力を入れていた岸の経済政策の最後の総仕上げでもあった。最低賃金法によって中小企業と大企業との賃金格差は縮小され、国民年金法により、これまで公的年金の恩恵にあずかれなかった農漁業従事者や中小企業や自営業にも年金が支給される形になった。(「叛骨の宰相 岸信介」北康利より)』以上ブログ“読書は心の栄養”さん(Web⓴)より引用。
総力戦構想について調べていくと、どうしても岸信介までたどり着いてしまう。岸は「岸信介証言録」(引用㉝P448)の対談の中で、個人的な考えでは、非常に印象に残る言葉を残している。対談者(原彬久)の『~そうすると戦前と戦後の間には、岸さんにおいては断絶というものはないのですね。』との問いに、『おそらく断絶はない。』と答えている。上記の社会保障制度の充実はほんの一例に過ぎないが、戦前から、岸の目指すところであった(“断絶”はなかった)のだろう。

≪備考10-2≫世界的な事件で偶然に起こることはない(フランクリン・ルーズベルト)
ここで海外に目を向ければ、日米で対比し、岸がこの時代の日本側の、経済分野の実務責任者の代表格ならば、対戦国であったアメリカを代表する政治家は、ニューディール政策や第二次大戦を主導したフランクリン・ルーズベルト大統領に他ならないだろう。(下の写真はwikiより)
そのルーズベルトも以下のような名言を残している。『世界的な事件は偶然に起こることは決してない。そうなるように前もって仕組まれていたと、私はあなたに賭けてもいい。』
(In politics, nothing happens by accident. If it happens, you can bet it was planned that way.)“あなたに賭けてもいい”と挑発的に言うぐらいなのだから、大恐慌から第二次大戦まで、文字通り身をもって体験し、表と裏を知り尽くしたものとして、よほどの確信があったのだろう。
以下は私見というよりも、“妄想”もしくは“陰謀論”だと思ってください。なので、インボーロン嫌いの方は読まないでください。
上のルーズベルトの残した言葉を重くとらえて、そのまま素直に解釈すれば、世界的な事件は、けっして“偶然”には起きないのだから、第二次大戦の連合国の勝利も、その後の朝鮮の動乱を経て米ソの冷戦体制が築かれる過程も、予め計画されていたことになる。国家の枠組みを超えた、我々下々のものたちにはわからない、そのような“力”が確かに存在するのだと、ルーズベルトは言いたかったのだと思える(まったくの私見です)。

≪備考10-3≫戦後の高度経済成長は、予め計画された事だったのか?
以下もますます私見というか、妄想が続く。仮にもし、ルーズベルトの言うとおりだとしたら、日本が辿った敗戦~戦後復興~高度経済成長のプロセスもまた、偶然ではなく予め世界史の中の一部として計画されたものだったことになる。
日本が爆発的な経済成長を遂げた戦後の一時期、アメリカの企業は日本の企業に対して概して寛容で、最新の技術を惜しげもなく供与したという。一例として戦後の自動車業界にとって世界に向けての大きな挑戦となり、一般的には日本が独力で達成したかの如く喧伝されることも多い、マスキー法への挑戦も『~米国市場に自動車を供給しようとする会社は、マスキー法に適合する車の開発状況についての年次報告をEPAに提供することが義務付けられていた。この中にはGMの報告ももちろん含まれていた。これらの報告は集まると膨大な量になったが、すべて公開されたので、これも重要な技術情報源となった。
こうした風潮の中では新しい発明、考案の特許はそれぞれの企業の工業所有権であったけれども、売買は好意的に行われ、日本車に使用された装置や部品にはGMのオリジナルになるものが多数あった。』(㉛P155)実際にはGMの基礎研究の成果に拠る部分も多かったという。歴史に埋もれているが、日本の自動車産業の今日の発展も、アメリカに助けられた事例も多かったのだ。
戦前~戦後と連綿と続いた“総力戦”の成果が、戦後の日本の高度経済成長であることは確かだと思う。しかしさらにその大枠として、戦後の日本を大きく成長させようとする強い“意志”が、様々な形を通して働いた結果でもあり、焼け野原からスタートした日本(人)だけの力では、けっしてなかっただろうことも、冷静に受け止めるべきだと思う。
話を戻す。こうして日本の総力戦構想も全体の中の小さな一部分として、歴史の大きなうねりの中へと飲み込まれ、変質していったのだと思う。この論理の行きつく先は、戦後の日本の自動車産業の驚異的な成長も、予定された出来事となってしまうが、もし仮にそうであれば、そのための準備が本格的に始まった時期はやはり「自動車製造事業法」成立前の、満州事変~満州国建国のあたりだろうか。
「戦前も戦後も断絶無く続いていた」という、上記の、岸信介がさりげなく残した言葉の裏に隠された真意が、やはり気になるところだ。(以上再三記すが、まったくの私見です。“総力戦構想”に関わると、予想通り迷路に嵌ってしまうようだ・・・)
≪備考11≫モデルTのインパクトは文字通り革命的だった(Webマーケティングガイド“MarkeZine”より)
重苦しい内容が続いたので、息抜きの意味もあり、ブログ「マーケジン」さん(Web《21》
)の記事を紹介させていただく。アメリカではT型フォードの大量生産が始まり、馬車から自動車へ急激な変化を遂げた。以下の2枚の写真は「MarkeZine(マーケジン)」さんの、「あなたは知っているか?「T型フォード」と「初代 iPhone」が転回したマーケティングの歴史」より、以下文もコピーさせていただいた。
https://markezine.jp/article/detail/28030
『モデルTのインパクトは、文字通り、革命的だった。ここに1900年のニューヨーク5番街の写真がある。』

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『上の写真の中に1台だけ自動車が走っている。わかるだろうか? つぎに、1913年の同じニューヨーク5番街の写真。 ここでは、1台だけ馬車が映っている。』

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『1900年と1913年。この間に何があったのか? 説明は不要だろう。1907年のモデルTが世界を変えマスマーケティング開始の鐘を鳴らしたのだ。』アメリカは馬車がそのまま自動車(多くはT型フォードに)に入れ替わったのであった。
ちなみに日本はどうだったかというと、下は「昭和10年代ごろの銀座の風景を撮影した古写真」車の影はない。

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同じく下は「昭和14年の新宿大通り」ジャパンアーカイブズさんより。)

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⑧P27に記載の表から、軍用自動車補助法が施行される前年で、第一次大戦の最中の1917年における各国の自動車保有台数を確認すると、日本が6千台(内訳;一般車5,700台、軍用自動車300台)なのに対して、米国は日本の約1,000倍の600万台強、英国は120倍、ドイツは28倍、フランスは38倍という大差であった。
≪備考12≫瓦斯電のシャドーファクトリー構想について
8.1項の関連となるが、瓦斯電の技術部門を統率した星子勇は、松方五郎の全面的な支持を得て、自動車にとどまらず、航空機用エンジンにも力を注いだ。(下の写真は星子勇。『星子は、日本の自動車史にあって触れられることが比較的少ないものの、最初に自動車工学をしっかり学んだ技術者として記憶されていい人物である。』(③P28)『「ガソリン発動機自動車」という著作があり、欧米で自動車技術の研修を受けており、この当時の日本にあっては数少ない優れた技術者であった。』(③P87)日本自動車の経営者であった大倉喜七郎は、才能があり自動車に情熱を注ぐ星子に期待して、農商務省の海外実業練習生に選抜させるなどして、本場英/米の自動車技術を研修させていた。)

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欧州の特に英/独では、航空機用エンジンは、自動車メーカーが手がけることが多かったが、日本では瓦斯電だけが例外だった。以下引用③P97『日本では自動車の国産化が遅れていることもあって、航空機用エンジンは、自動車用エンジンの技術をベースにすることがなく、中島でも三菱でも、それとは別に独自に開発が進められた。その点では、星子のように自動車の技術を生かして航空機用エンジンまで手がけるのは珍しいケースであった。』
自動車産業の基盤自体が定まらない当時、星子は何故、リスキーな航空機分野へ踏み入れようとしたのだろうか。そのきっかけは、日本自動車在職時代に大倉喜七郎の計らいで、農商務省の海外実業練習生として留学したときの、『イギリスとアメリカにおけるシャドウファクトリーの活動を目のあたりにした体験』(⑭P53)にあったという。
『トラック製造を目的として出発した会社が何故航空機に手を出し、我が国初の航空エンジンを作るに至ったのか?それは来るべき戦時のシャドウファクトリー(軍需転換工場)としての技術蓄積が国家のために必要、という技師星子勇の信念によるものだった。』(⑭P17) そしてこの信念は、星子が瓦斯電に入社した当時から持ち続けていたものだったという。(⑭P53))
日本陸軍に限らずどこの国の軍部も、戦時に備えるための準備として、シャドーファクトリーを構想するが、星子は民間の立場でいながら国家的な見地に立ち、『将来予測される戦争において、自動車会社はシャドウファクトリー(戦時軍需転換工場)として航空機製造技術を会得しておかなければならない』⑭冒頭)、と考えて、自身が係わった瓦斯電において終始一貫、その思想を実践していった。
しかし星子のそうした信念を十分理解して、経営の苦しい時代も支持した、経営者の松方五郎もまた偉かったのだと思う。ただ松方にとっては、自身が執念を燃やしながらも終始経営の苦しかった自動車事業を下支えるものとして、また幾分かは株主たちに対しての”言い訳”の材料としても、航空機エンジン事業を考えていたかもしれない(私見です)。
以下からは瓦斯電の航空機事業の歴史を、おもに⑭と③を参考に記す。
瓦斯電では1917年(大正6年)に早くも航空機エンジンに取り組みはじめたという。『星子が入社してガス電はトラックの生産と同時に、ダイムラー水冷直列100馬力(74KW)航空エンジンの製造(ライセンス)を開始、1918年、陸軍の受領試験にパスし、若干台が納入された』⑭P40
その実績をかわれて引き続き陸軍から、フランスのル・ローン社製星形回転式エンジンの国産化を果たし、実績を重ねていった。(下の写真はそのエンジンを積んだ、陸軍甲式3型練習機(ニューポール24型の国産化)の着色写真で、ブログ“インターネット航空雑誌ヒコーキ雲”さんの「ニューポール型飛行機と飛行将校の来場」をコピーさせていただいた。)

http://dansa.minim.ne.jp/OldHis-Mil-TaishoRikugun-Inoue-09.jpg
そして1928年には国産航空機エンジンを独自に完成させた。『国産航空エンジン第1号となる』(⑭)“神風(しんぷう)エンジンの完成である。このエンジンは国内で設計された航空機用エンジンとしては初の量産型エンジンであったという。(下は神風エンジンを搭載した、瓦斯電KR2小型旅客機の模型。)

http://db.yamahaku.pref.yamaguchi.lg.jp/script/shuzo_img/705b.jpg
1930年には空冷星型9気筒の「天風(てんぷう)」エンジンを開発、九三式中間練習機に搭載された。(下は93式中間練習機(赤とんぼ)の模型。

https://hobby-armada.com/images/gallery/95/02b.jpg
初風(はつかぜ)又はハ47エンジンは、ドイツの練習機用小型エンジン「ヒルト HM 504A」を日本でライセンス生産する予定だったものが、ヒルト社設計の巧緻複雑さから、日本での製造運用に適合すべく瓦斯電(後に日立航空機)で設計に大変更を施した結果、ヒルトとは事実上、別物となった発動機であった(wikiより)。
(下の画像の、陸軍4式基本練習機(キ-86)は、初風エンジンを搭載していた。画像は「中田CG工房」さんよりコピーさせて頂いた。http://gunsight.jp/c/Flying-3D.htm

http://gunsight.jp/c/image4/ki86-s.jpg
以下はかなり長いが、初風エンジンについて、⑭の著者が書き起こした?と思われるマニアックな解説文を、wikiからのコピー『ヒルトHM504は、機体への搭載性を配慮した倒立式空冷直列4気筒という独特のレイアウトを採っていたが、クランクシャフトは高精度だが製作に技術力を要する組立式、ベアリング類は精密なローラーベアリングを多用するなど、航空用としては小型のエンジンながらも、ドイツの高度な工作技術を前提とした複雑な設計が用いられていた。この設計をそのまま日本で実現しようとすれば、やはりローラーベアリングを多用し高度精密加工されたダイムラー・ベンツDB601の国産化同様、極めて困難な事態が予想された。
このため瓦斯電では自社制作の練習機用エンジンにつき、ヒルトの空冷倒立4気筒レイアウトのみを踏襲、クランクシャフトは一般的な一体鍛造、ベアリング類も当時一般的なメタルによる平軸受で済ませるなど、日本での現実的な生産性・整備性に重点を置いた設計に改変した。しかし、動弁系はヒルトがシングルカムシャフトのOHVで浅いターンフロー燃焼室だったのに対し、より高度なツインカムOHVと半球型燃焼室によるクロスフローレイアウトを採用して吸排気・燃焼効率を向上、なおかつ低オクタンガソリンでも問題なく運用できるよう図った。更に倒立エンジンで問題になりがちな潤滑システムは、ドライサンプ方式を導入して万全を期した。これらの手堅い手法で性能確保に努めた結果、結果的にはヒルトに比してわずかな重量・体積増で、これに比肩しうるスペックの信頼性あるエンジンを完成させた。』(下は日野オートプラザに展示されている、初風(ハ11型)航空機エンジン。燃費が良い上に、燃料に70オクタンの低質ガソリンを使えるため、太平洋戦争末期の状況でも重宝されたという。(wiki)当時の日本の運用状況を考えて実用性を重視し、大幅に設計変更をされたエンジンだったようだ。)

https://stat.ameba.jp/user_images/20160805/02/hbk0225/99/4a/j/o0480036013715218021.jpg?caw=800
『ガス電の航空機が常に戦闘機とか爆撃機などでは無く、それ以外の低出力分野をターゲットに置いたことはシャドウファクトリーとしても、企業戦略としても適切であった。』(⑭P54))
瓦斯電は世界航続距離記録を樹立した航研機の、設計から製造まで関わったことでも有名だ。
しかし航研機制作の挑戦にも、シャドーファクトリー構想を存続させるための意図が隠されていたそうだ。『急激な進歩を遂げる航空機技術に対し、ともすれば取り残される危機を、たまたま航研機のプロジェクトで救われ、極めて有効活用出来たことは僥倖であった。』(⑭P54))
(下は八王子の日野オートプラザに展示されている、航研機の模型(1/5)。

ちなみに航研機の偉業は国民を湧き立たせたが、開発を主導した東京帝大航空研究所の富塚教授は冷静だったという。以下は⑮P175よりこれも長いが引用『ところで、長距離専用の航研機、専用のエンジン、そして専用のガソリンを粒々辛苦のすえ調達、華々しく達成した世界記録はその翌年、その前年に完成していたイタリアのサボイア・マルケッティSM82型爆撃機を長距離連絡用としたSM82PD型に、いとも簡単に破られてしまった。世界水準に到達したと思ったのは幻影にすぎなかった事は、やがて突入した太平洋戦争での貧弱な日本の爆撃機で明らかになるのである。しかもこの戦争のさなか、1942年には日伊連絡飛行としてこの飛行機は東京の福生に飛来している。このような事は富塚教授はあらかじめ看破していた。「どうして長距離機であるかと言うと(世界記録を目標とする飛行機が)、日本で手をつけても比較的可能性が高かったからで、他の高度や速度の記録となると高性能エンジンの入手不如意であるため、日本では普及し難い。しかし長距離ならイタリアなどの如き二流国がよくやっていることでありエンジンも特殊高性能のものは必ずしも要しない、小修整で燃料経済を計ればすむ」と言われていた。
時、日本はやっと二流国に到達したのであったのである。』ちなみに『世界記録樹立時の燃料、潤滑油搭載重量は4578kg、乗員を含めた全備重量9000kgの51%を占めた。』(⑭P18)という。)
(下はイタリアの輸送機、サボイア・マルケッティSM.82“カングーロ”輸送機のプラモデルの絵。機首と左右の主翼に合計3機のエンジンを搭載した独特のスタイルをしている。

http://img21.shop-pro.jp/PA01344/023/product/115438040.jpg?cmsp_timestamp=20170324121840
話を戻すと、こうして星子が瓦斯電において取り組んだ、航空機産業事業とシャドーファクトリー構想は、第二次大戦の軍事生産体制の下で、充分な実績を残した。その結果は何よりも、下表の「瓦斯電+日立航空機(瓦斯電航空部の後継)」の数字が雄弁に語っている。
(表7:「第二次大戦における日本の航空エンジンおよび航空機の各社別生産数」⑭P54の表を転記)

なお瓦斯電については、実は軍用保護自動車以外にも、イギリスのハンバーと提携して小型乗用車を製造するという、興味深い計画もあったようだ。(⑥P86の「東京瓦斯電の経営推移」の表の1920年6月~11月の項に記載がある。)星子と、たぶん松方も念願するところは、本当はトラック以上に乗用車生産だったようだ。(Web⓮P169)に『~昔、星子さんからじかに伺った言葉で、それは日本が近代国家になるには自動車工業を定着させねばならないと言うことで、星子さんは1918年瓦斯電自動車部創設以来、軍用車主体に進んできたが本心は、中産階級を指向した小型乗用車の量産が念願だったのだと思います。』という記述がある。資本力が足りずに叶わなかったが、のちの「自動車製造事業法」のチャンスを逸したときは心底悔やんだだろうし、戦後の日野ルノーや、コンテッサは、星子や松方の意志が、脈々と受け継がれた結果だともいえそうだ。
(いつものように以下文中敬称略とさせていただき、直接の引用箇所は青字で区別して記した。また考える上で参考にしたものも含め出来るだけすべて、参考文献として文末にその一覧を記載した。なお今回から、本とネット情報は別に分類した。オリジナルに勝るものはないので興味のある方はぜひ元ネタ方を確認してみてください。)
この記事(戦前の日本自動車史;その3)は、日本陸軍が主導し、日本最初の自動車産業振興策となった軍用自動車補助法(1918年)について、その背景も含め記す(6,7項)。
そして次の8項では、自動車産業を取り巻く当時の厳しい情勢の中で、同法により軍用自動車メーカーとしてかろうじて生き延びていった、国産自動車3社(東京瓦斯電気工業、東京石川島造船所、ダット自動車製造⇒それぞれ日野自動車、いすゞ自動車、日産自動車の源流となる)の、年代でいえば満州事変以降の、戦乱の昭和期になる前の1930年ごろまでの、苦難の足跡を辿る。
そして最後の9項では、軍用自動車補助法のその後の変遷を辿りながら、その間に起こった、同法を取り巻く内外の情勢変化を記していく。
6.軍用トラックを求めた日本陸軍と「総力戦構想」
<6項概要> 日露戦争の戦訓で輸送力に劣ることを痛感した日本陸軍は、当時の民間企業より優れた技術を誇った陸軍砲兵工廠で、自ら軍用トラックの試作に乗り出す。完成したトラックはただちに、第一次大戦に投入されて(“青島の戦い”)、実績を示し、自信を深める。さらに総力戦となった第一次大戦に対しての研究を通じて、来るべき第二次世界大戦に備えるための、総力戦構想が陸軍内で検討されていく。そして自動車もその時々の総力戦構想の中で位置づけられていき、その結果は「軍用自動車補助法」や、後の「自動車製造事業法」(←“その6”の記事で記す予定)として結実していった。
6.1-1陸軍が軍用トラックの研究を始める
日本陸軍が自動車に対して関心を持つようになったのは、日露戦争のさなかの1904年であったという。『~ロシア軍との戦いは、輸送力の戦いでもあった。日露戦争では、兵站輸送は主に馬匹で行われたが、輸送路が長くなればなるほど補給は困難を極めた。荒野を行く補給ルートはまさに道なき道の泥濘悪路で人馬ともに疲労の極に達し、敵の襲撃による被害も大きく、それが戦局に影響して重大な局面を迎える事さえあった。そういった苦い経験から自動車に対する関心が高まったのである。』(①P11)
日露戦争に勝利した結果、ポーツマス講和条約により、日本は樺太・南満州・朝鮮の植民地を支配することとなった。陸軍は上記のような日露戦争の戦訓から、広大な大陸戦線においては、従来の人馬だけに頼った輸送に限界があることを痛感した。そしてフランスに駐在していた武官ら陸軍青年将校たちが、自動車を研究する必要性を強く主張したこともあり、自動車導入についての検討を始める。(主に②P11)
1907年、自動車に関する調査研究命令が発せられ、これを受けて1908年、フランスのノーム・オートモビル社製トラック2台を購入し、東京・青森間の試験運行を行った。『自動車が通ることを考えた道路などあるはずもなく、走行テストには工兵隊が随伴して、通れないところは道を広げ、橋を架けるなど地元の人たちの協力を得ながらの走行テスト』(引用③P81)だったそうだ。
翌年1909年、同じくフランスのシュナイダー社(スナイドル社=フランスの総合武器メーカー)のトラック2台を入手し、東京・盛岡間の運航試験を実施する。走行試験の結果、シュナイダー製の方が性能優秀だったといい、この車両をコピーすることにした。そしてその作業は大阪砲兵工廠が主体となって行う事となる。『大阪砲兵工廠が分解と組み立ての反復で各部分の構造などの研究』(引用③P81)を行ない、『分解したシュナイダーの部品の詳細なスケッチから図面をおこし』(引用③P81)ていった。なおその後、ルノーやイギリスのソニークラフト、ドイツのガッケナウも参考用に輸入されたが、軍用トラックとしての視点では、シュナイダー製と並びガッケナウ製の評価も高かったという。
6.1-2当初は、馬に代わる位置づけではなかった
誤解する人も少ないと思うが、念のためここで記しておくと、前回の記事で記したように、当時の日本の国家予算の規模と、国産自動車(輸入車をトレースした国産車がようやく産声をあげた頃で、“産業”と呼べる遥か以前の段階だった)の実力からすれば当然だが、陸軍が軍用トラックの検討を始めたころの段階では、馬と代えるものという位置づけではなかった。
少し時代を遡り、明治初期の陸軍の、物資の輸送(兵站)の事情を調べてみると、『馬車より人力が重視されていた。これは当時の日本の道路事情による。馬車の通行が可能な道路は幹線道路でさえ限られていた。後に陸軍が行った実験では、幅の狭い道路ばかりのために、馬車輸送より人力輸送の方が速かったことさえあった』(④P131)という。
その後も長い間、人力が主力だった。1891年には、二輪馬車の採用の可否が検討されたが、採用見送りの結論が出された。(④P136)日本は欧米と違い馬車の時代がなかったため、道路整備が遅れていたことも足を引っ張った。そして日露戦争も近いころになってようやく、二輪馬車、四輪馬車などの改良や制式化がおこなわれたという。(④P138)
同時にそのころから、自動車(軍用トラック)についての研究も始まるのだが、別の背景として、馬自体が、諸外国に比べて質・量共に大きく劣るという問題もあったようだ。世界史的に見れば『19世紀末から20世紀初頭の軍隊では、機動力や兵站面で軍馬が重要な位置を占めていた』(⑤P13)が、日本は馬匹による輸送力が劣っていたため、その一環としても自動車の研究に着手したという。(体格が貧弱な上に気性が荒いという、軍馬としては“最低”だった日本の馬の実態について、文末の≪備考6≫に小文字で記しておく。)
6.2陸軍自ら、軍用トラックの試作に乗り出す
陸軍砲兵工廠における試験と研究の結果,技術審査部は陸軍が開発する軍用トラック(当時軍用自動車貨物と呼称)の性能,大きさ等を決定し,自らその製造に乗り出すことにした。
なぜ外部に発注しなかったか言えば、当時の陸軍歩兵工廠は、『設備はもちろんのこと、技術者も工員も選りすぐりの優秀な人材が集められていた。当時、日本は官主導で近代化が図られており、民間の製造業のどこよりも進んだ技術をもっていた』(引用②P81)からで、自身の工廠以上に、適当な委託先が無かったからであった。前回の記事で記したタクリ―号がようやく産声をあげたばかりの頃の時代の話だ。
下の(表1)(Web➊P36より転記、「雇用規模からみた工場ランキング(1902年)」を参考までに。)

(ちなみに陸軍における自動車の歴史としては、(⑬P40)によれば、ノーム社のトラックを購入する10年ぐらい前に、陸軍幼年学校で、オールズモビル “カーヴドダッシュ”を購入していたようだという。(オールズモビル “カーヴドダッシュ”はフォードT型以前に世界初の大量生産方式を採用したといわれたクルマ。馬一頭と軽量馬車を合せた値段が500ドル前後だった当時、650ドルという価格と巧みな宣伝で、ベストセラーカーとなった。下の写真と以下の文はwikiよりコピー『1905年に流った歌In My Merry Oldsmobileの楽譜の表紙に描かれた オールズモビル・カーブドダッシュとそれに乗った男女。』)

(さらに下も余談だがこの時代に陸軍は飛行機も、フランスから輸入したファルマン機をもとに、軍用トラックと同様『見よう見まねで』(引用③P81)飛行機をコピーして内製した。下は国産軍用機飛行機第1号の「陸軍会式一号機」画像はwikiより。)

話を戻すが軍用トラックの性能仕様は、全備重量4トン,積載量1トン半以上,馬力 30馬力以上,最高時速 16km/hと定められ、内製すべく大阪砲兵工廠と東京砲兵工廠に発注される。
こうして1911年5月、大阪工廠で国産の「軍用貨物車第1号」が完成、「甲号・自動貨車」と命名された。(下の写真のトラックです)

https://seez.weblogs.jp/.a/6a0128762cdbcb970c0240a4ab05b0200b-200wi
引き続き6月に、第2号自動貨車(トラック)が、東京砲兵工廠でも完成し、東西の両工廠製の合計4輛の国産軍用トラックは東京の青山練兵場(今の明治神宮外苑)で公式試験を行なった上、将来の自動車に対する方針を決定することとなった。なお大阪工廠で完成した車両2台を東京に送る際、試験を兼ねて自走させたが、『当時の日本は街道でも、自動車の通行は困難を極め』(引用⑤P19)、移動に15日間を要したという。
(ちなみに大阪砲兵工廠は、大阪城の東側に広がる広大な敷地に、最盛期は最大64,000名の工員を擁したアジア最大規模の軍需工場だったという。下はwikiより、当時は軍事機密だったため、その全容を示した写真が少ないため、規模の大きさを地図で示しておく。

なお下記アドレス(三井住友トラスト不動産)に、当時の貴重な絵葉書のカラーの画像がある。本当はそちらを貼りたかったが転載不可と明記されていたのでさらに興味ある方は訪問してみてください。
https://smtrc.jp/town-archives/city/osaka/index.html)
ここで陸軍は,総合的な調査研究を行なうための調査機関、「軍用自動車調査委員会」を 陸軍省内に発足させて(1912.06),本格的な輸送の機械化と輸送兵器の開発を推進する。
この軍用自動車調査委員会において,内地,満州の地形において、軍用トラックの性能試験を行ない,各種のデータを収集し,先行するイギリス,フランス,ドイツなどの軍用自動車補助法を調査研究し,日本への適用とその実施方法等、具体的な検討を始める。
6.3第一次世界大戦(青島戦)で軍用トラックが活躍
そのさなかに、第一次大戦が勃発する。陸軍は早速、ドイツの青島海軍基地を攻撃するために工廠で作った軍用トラックに砲弾を輸送させ,兵站戦を維持させた。その時の状況について、以下(①、②、③、⑤、⑦)等よりダイジェストに記す。
1914年第一次世界大戦が始まると,日本は当時の日英同盟関係 から、連合国側の一員として参戦する。そしてドイツが所有していた中国の青島要塞を攻撃,砲火で打ち砕いた。その際の重砲弾の運搬で見せた働きが,兵站作戦における軍事的利用と、輸送兵器としての軍用トラックの新しい役割についての認識を深めさせる。(下の写真はwiki“青島の戦い”より、ドイツ軍の「青島要塞を砲撃する四五式二十糎榴弾砲」。この青島の戦いについて、(⑤P202)より引用『陸軍における自動車運用の歴史と言う観点では、青島攻略戦は初の実戦ということでも、また戦場での自動車の有用性を確認できたという点でも無視できない。しかし、投入された自動車班は小規模なもので、自動車の実戦テストの意味合いも強かった。したがって兵站作戦全体では、取るに足らない存在であったのもまた事実であった。』あくまで試験的な運用であったということのようだ。)

以下の2枚の写真は、第一次大戦の主戦場であったヨーロッパ大陸で、自動車による迅速な大量輸送がその威力を発揮した代表的な戦いであった、「マルヌの戦い」と、「ヴェルダンの戦い」について写したものだ。
(下は「マルヌの戦い」で動員された、パリのタクシー(ルノーAG-1型)の隊列。1914年ドイツ軍がパリに迫ったが、タクシー600台が夜間に6,000人の兵士を前線まで運び、ドイツ軍を押し返すことに成功した。鉄道に頼らぬ高速移動手段の重要性が示された。ちなみに1914年時点の日本全国の自動車の総保有台数は1,066台に過ぎなかった。)

https://topwar.ru/uploads/posts/2015-05/1430502636_marnskie-taksi-na-hodu.jpeg
(下は1916年の「ヴェルダン要塞の攻防戦」のもの。補給路は鉄道が1本と狭い道路1本だけで、鉄道で運ばれた物資を前線まで運ぶのが自動車部隊の役目だったという。連合軍は3,500台もの自動車を動員して、補給線を維持することに成功した。そして『「フランス軍がドイツ軍に勝ったのはフランスのトラックがドイツの鉄道に勝っていたからである」と言われるほど勝利に決定的な要因となった。こうした効果は直ちに各国に知られたが、日本もその例外ではなかった。』(⑥P47)下のフランス軍のトラックの隊列の画像はブログ「「ヴェルダンの戦い」この戦いから大規模な消耗戦が始まりました」よりコピーさせていただいた。http://kamesennin2.info/?p=3129
日本も前述の「軍用自動車調査委員会」が、第一次大戦における各国の軍用車の状況を調査すべく、イギリス、イタリア、フランス、ロシア等に武官を派遣しており、前線で大量に消費される弾薬の輸送のために、自動車が欠かせないことを認識していった。(⑤P24))

http://kamesennin2.info/wp-content/uploads/2018/05/4abe222c425880367a80e2f1a836c882-300x169.png
6.4第一次世界大戦の教訓と陸軍の「総力戦構想」
このあたりで、日本の自動車産業の“育ての親”役を担った、戦前の日本陸軍の基本戦略であった「総力戦構想」について、多少なりとも触れておかねばならないだろう。超メンド~な話になりそうなので全く気が進まないが(書いていて、“苦痛”以外何物でもなかった!)、今回の一連の記事のメインタイトルを、日本の自動車産業の育ての親が陸軍だとした以上、ここは避けては通れない・・
正直なところ、不勉強でよく知らなかった事だが、日本陸軍には、総力戦となった第一次世界大戦における欧州での戦況を基に、来るべき世界大戦に備えて総力戦体制を築くという明確な戦略思想があった。そしてそれを実現するための遠大かつ合理的な全体計画の中の一環として、自動車も位置付けられていたようなのだ。しかし、ここ半年以上ウンウン唸りながら「総力戦構想」と自動車のかかわりについて記そうと試みたが、いつものように?考えれば考えるほど迷路に嵌ってしまい、正直なところよくわからなかった。ただせっかく書いたのだし、その部分についてはあくまで参考(不出来な試作品なので、読むのを飛ばしてもらった方が良い?)程度に小文字で末の備考欄の方に≪備考7≫として文記しておく。こちらの本文ではそれら備考欄に記した内容を踏まえたうえで、満州事変(1931年)勃発により状況が大きく変化する以前の、陸軍にとっての自動車(産業)の位置づけについて、ほとんど“日本史の検証”みたいな上に私見だらけだが、より概要的に考察を試みたい。なお、この記事の趣旨からしても、総力戦構想自体の“是非”(評価)については検証していくつもりは毛頭ないことを追記しておく。ただし、総力戦構想がもたらした“結果”の一断面ぐらいは、6.4-4で記しておきたい。
6.4-1-1何より痛かった、幕末の金(ゴールド)の流出
備考欄には何度も記したが、陸軍が次の世界大戦(=第二次世界大戦)で想定した総力戦においては、国力そのものが問われる戦いとなる。しかし≪備考7≫をお読みいただければわかると思うが、西欧列強諸国に追いつこうと必死だったが、何から何まで著しく劣る当時の日本の状況からすれば、そのための準備(=総力戦が予想された、来るべき第二次世界大戦に対する国防)は、気の遠くなるようなものだったに違いない。
(表2「明治33年(日露戦争の4年前)の各国のGNPと軍事費」)
(下表は1900年(日露戦争の4年前)の各国のGNPを比較したもの。西欧列強諸国に比べると著しい差があった。そして日露戦争の戦費は当時の国家予算の8年分に相当したという、巨額なものだった。⑧P85の表を基に転記して記した。)

≪備考7≫では話を自動車に関連した工業分野に限定して記したが、ここではより広い視点に立ち、国家財政の面から見ていきたい。
“自動車史”というよりも“日本史”になってしまうが、明治維新以降の日本の国家財政は、幕末に金と銀の交換比率の違いをつかれた、欧米への金の大流出があり、せっかくの“黄金の国ジパング”だった日本は、金(ゴールド)という国冨が失われてしまった。(引用Web❷「アメリカ南北戦争は日本の金が」を以下参考までに。
『日米修好通商条約の第五条に「金銀等価交換」がある。当時、江戸においては金貨1枚を銀貨4枚と交換できた。つまり金の価値は銀の価値の4倍である。いっぽう世界の相場は約15倍であった。金1枚に対して銀15枚も必要だった。それまで鎖国をしている日本にとって世界相場などどうでもよかった。ほとんどが国内で流通していたのだから。ハリスはそこに目をつけた。「日本の金は安い!」と。なんと世界相場の4分の1なのだから。マルコ・ポーロのいう「黄金の国ジパング」は本当だったのだ。方法はこうだ。まず日本にメキシコ銀貨を大量に持ち込み、これを金貨(慶長小判)と交換する。次に大英帝国に割譲されたばかりの香港へこの金貨を持ち込み、ふたたびメキシコ銀貨に交換する。1 : 4 で交換してもらったものを1 : 15 で交換し直すのだから約4倍に増える。ボロ儲けである。ハリスはリンカーンの部下であった。
もうけたカネは着服もしただろうが、大いに政府の軍資金となった。その規模ははかりしれない。経済的には南部より格下だった北部に日本のゴールドがもたらした功績はすさまじい。形勢を逆転させ、一気に軍事的優位に立った。たった2万人足らずの兵を220万人まで増やし、期間銃や大砲などの最新兵器をそろえた。4年ものあいだ南軍と戦い、これに勝利。敗戦した南軍の費用支払いも代替した。さらには広大なアラスカをロシアから購入した。』日本の保有していた金(ゴールド)のおよそ8割が流出し、そのうちアメリカに流れた分の金だけで、南北戦争時の北軍側の戦費が賄われたうえに、アラスカまで買ったのだという。さらに“往復ビンタ”のように、戊辰戦争時に、その余った中古の武器を買う羽目に陥ってしまった。)
そのため、スタート時点から国家の運営を外国からの借金に大きく依存する体質となってしまった。世界の政治経済の根幹を成す、もっとも重要な要素が、金融通貨制度であることは言うまでもない。世界がまさに金本位制の時代を迎えようとしていた中で、金を大量に保有していた日本と日本人は、本当は豊かな国としてスタートが切れたはずなのに、何とも悔しい思いだ。(下の図はアンティークコイン.JPさんの「金本位制、銀本位制と景気循環」よりコピーさせていただいた、わかりやすい図だ。
https://www.antiquecoin.jp/trivia/business_cycle.html )

https://www.antiquecoin.jp/img-bana/business_cycle-bana_pc.png
日露戦争(1904~1905)では何とか勝利に持ち込めたものの賠償金の獲得まで至らず、逆に巨額な戦費の借金を米欧のユダヤ人資本家から背負ったため、財政面ではさらに苦境にあえぐ結果となった。(下は有名な日露戦争の構図 出典compact.digi2.jp )

(下の写真はアメリカの金融資本家のジョイコブ・シフ。写真と以下の文はwikiよりコピー『高橋是清の求めに応じて日露戦争の際に日本の戦時国債を購入した。』以下はWebの❸より、金融資本家側からみたマネーゲームとしての日露戦争を解説した文を長文だが引用させていただく
『日本海海戦の勝利につながった同盟国英国と友好国アメリカの支援については既に述べましたが、ここではその資金に関して述べたいと思います。日露戦争遂行のための日本国債を外国金融機関に購入してもらうため、欧州行脚した高橋是清については良く知られています。特に米国クーン・ローブ銀行のジェイコブ・シフが日本外債の購入を積極的に支援してくれたため、高橋は軍資金の調達に大成功したと言われています。ジェイコブ(ヘブライ語ではヤコブ)・シフはロスチャイルドの米国総支配人で全米ユダヤ人協会会長でもあり、ロシアで迫害されているユダヤ人のために日本を応援したと言われています。それもあるでしょうが、やはりこれは投資です。
パリ・ロスチャイルドは既にロシアに大量の投資をしており、ロンドン・米国ロスチャイルドは日本に投資する。戦争の両方に投資するのは彼らの常套手段です。アメリカ独立戦争でも同じことをしています。簡単に言えば二つの国や勢力に戦争をさせて両方に大金を貸付け、買った方からは金利と成功報酬、負けた方からは担保である領土を取るのが彼らのビジネスです。』 なお総力戦構想や統制経済体制について調べていくと、社会主義色が強いため、多くの歴史書でコミンテルンの工作による影響との指摘が多々あったが、そもそもロシア革命を裏から支援して、共産ソ連を誕生させたのも、ロマノフ王朝を倒したかった(=中央銀行(=その国の通貨発行権を持つ国債金融資本家たちの私有物)の設置を拒んでいた。さらにロマノフ王朝の財宝も奪いたかった(❸より要約))国境を越えた金融資本家たちだ。幕末の日本に対して、幕府側をフランスのロスチャイルド家が、薩長側をイギリスのロスチャイルド家が背後から応援したのと同じ構図で、“両建て”でやっていただけで、根っこをたどればそもそもどれも同じのはずなのだ(私見です)。)

6.4-1-2すべてが足りない中で自動車の位置づけは総体的に低かった
下表はブログ“日本近代史の授業中継”さん(以下Web❹として引用)http://jugyo-jh.com/nihonsi/ の記事「大正政変と第一次世界大戦」よりコピーさせていただいた(出典;帝国書院「図説日本史通覧」p234)。軍事費だけでなく、巨額な国債の償還費が重くのしかかる。それ以外(残りもの?)では明治政府が重点をおいた鉄道・電信のインフラ整備とともに、産業基盤の整備として製鉄所の拡張にも何とか予算を割り当てているのが目立つ。ただこの表を見れば、他までは手が回らなかった状況は、おおよそ察しがつく。

第一次大戦中は戦争特需で一時的に潤い、貿易収支も黒字に転換したが、1920年3月、バブルがはじけ、戦後恐慌に突入、関東大震災(1923年)もあり、1920年代は総じて不景気な時代となった。
何度も記すが欧米に対して約100年遅れてスタートした当時の日本は、大きな基金となるはずだった金(ゴールド)を失ったため、少ない国家予算の中でやりくりして、それでも何とか追いつこうと必死だった。しかし育成すべき産業はあまりに多く、当然ではあるがまずは鉄鋼等の基盤産業の整備に力が注がれ、自動車産業にたどり着くまでにはまだまだ、時間が必要だった。
6.4-2陸・海軍共に、航空機産業の育成が急務だった
戦前の国家予算の中で突出していた軍用費の中でも、第一次大戦後の陸軍にとって最優先すべき兵器として、第一次大戦で実戦に登場し、目覚ましい活躍をした航空機の出現があった。そして航空機は陸軍のみならず海軍からしても軍艦の国産化とともに、最重要な兵器と認識された。総力戦構想についていろいろと調べていくと、当時の日本の軍部が第一次大戦での航空機の活躍に大きな衝撃を受けたことがわかる。何度も記すが、陸軍は自動車産業を軽視したわけではけっしてなかったが、来るべき第二次大戦への備え(国防)であった総力戦構想の中で、主要な兵器となる航空機や軍艦に比べれば、直接的な兵器でないこともあり、相対的に位置づけが低くなるのもやむを得なかった。
このような国家としての意向に従い民間企業の側も、たとえば“国家と共に歩む”ことを社是とする三菱財閥の中核企業で、当時の日本の民間企業の中で最も優れた工業技術力を誇った三菱造船所(及び後の三菱重工/航空機)も、軍艦や航空機の開発に全力で取り組んだが、フォードとGMの日本進出以降ハードルがさらに高くなり、巨額の投資が必要な上にリスクの高い自動車産業に本格進出することはなかった。
このことは概ね、戦前を通して言えることだと思う(以下私見です)が、陸・海軍の方針として、もっとも頼りにしていた(国防が目的なのだから、優れた武器を作る力のある企業が大事にされるのが道理だ)民間企業の三菱は、最重要兵器である飛行機に全力を注ぐべきで、陸軍目線で言えば飛行機の次は、時には自動車以上に戦車だった。いわば傍流であった自動車産業への三菱の本格進出を、軍側は長い期間、本気では望んでいなかったように思える。参考までに初期の三菱財閥の、自動車に対しての取り組みについて≪備考10≫で記しておく。(写真と文は“時事ドットコムニュース”さんより
https://www.jiji.com/jc/v2?id=20110803end_of_pacifi_war_17『米軍が1944年にサイパン島で捕獲し、米本土に持ち帰ってテストした零戦52型[米国立公文書館提供]【時事通信社】』この時代の多くの工学系の学生たちの夢は、航空機の開発に携わることだった。そのため航空機産業に突出して優秀な頭脳が集まり、当時の日本の工業技術水準からすると、部分的にせよ、ほとんど“奇跡”のようなことが起こった。いわゆる“ヒコーキ少年”が多かった時代でもあった。)

https://www.jiji.com/news/handmade/special/feature/v2/photos/20110803end_of_pacifi_war/00896505_310.jpg
慎重だった.三菱がようやく“本気モード”に変わったのは、心変わりした陸軍/商工省が軍事国家の強権で強引に仕立てた「自動車製造事業法」行きバスの第一便が、トヨタと日産だけを乗せて発車寸前になった頃だった。乗り遅れまいとあわてて飛び乗ろうとしたが、最初に誘われた時に躊躇したのが災いして乗車拒否されてしまった。『~商工省の自動車政策は一言でいえば日本の自動車産業は日産、トヨタで充分である。三菱は自動車に手を出すなということであった。「ふそうの歩み134頁」』(⑧205) 時すでに遅かったのだ。
※【7/26追記】 上記を裏付けるような内容が、最近入手した本(「日本自動車工業史座談会記録集」(自動車工業振興会;以下引用㉞)の中に記述されていたので、追記しておきたい。㉞の中の「第3回座談会「自動車工業史よもやま話」― 大正末期~昭和10年前後 ―」という、1958年8月15日に行われた座談会における、伊藤久雄の証言だ。伊藤は後の“その6”の記事で記すことになるが、陸軍の立場から、商工省の革新官僚であった岸信介、小金義照らと連携して、自動車製造事業法を強力に推進した、その立役者だ。
なおこの座談会の趣旨として冒頭に『~自動車工業の歴史の裏話しということでございますから、思い切ったことをお聞かせねがいたいと思います。なお、この記録は、すぐには発表せずに、適当な時期がくるまで自動車工業会の金庫に凍結しておくことにいたしたいと存じます。』との発言があり、事実この書物が世に出たのは(といっても非売品だった)この座談会の15年後のことで、約束は守られたようだ。
そして伊藤は、当時の自工会会長であった日産自動車浅原社長以下、島秀雄、原乙未生ら錚々たるメンバーが集まった席で、相当思い切った、あの当時の陸軍としての“本音”を発言している。(以下㉞P64)
『陸軍の側からいうと、大きな自動車工場を持つことによって、将来飛行機の製造に移ることを考えていました。そのために、自動車工場を確保することが先決問題でした。このことは外国でも同様であって、第一次大戦の際にもそのような経験があったからです。そのようなわけで、この問題を軽々に扱ったのでは、後に飛行機の製造に進むときに困る、自動車だけの問題ならたいしたことはないが、飛行機への思惑がからむために大きな問題になったのであります。それで、自動車を純国産で育てることが本筋であり、またできないことではないという見解で、しばらくは、商工省と意見が一致しなかったと思います。』
㉞は、日本の戦前の自動車工業史を記した、あらゆる書物が参考にするほど有名な記録集だが、この発言内容は衝撃的だ(しかし何故か、ほとんど注目されていない)。自動車産業を育てようとする目的(目標)はけっして一つではなく、多層的に存在したのだろうが、陸軍にとっての自動車産業は、第一義的には、航空機のためのシャドーファクトリー(非常時の 軍需転換工場;この記事の“備考12”参照)であったと告白しているのだ!伊藤は先に記したように、自動車製造事業法の立法化にもっとも功績があったと、世に認められている人物であるが、その伊藤の『自動車だけの問題ならたいしたことはない』という発言に、自工会側の出席者は思わず絶句したことだろう!当然商工省側はまた別の主目的もあっただろうが、この伊藤の発言は自分が直感的に思った、上記の項(6.4-2陸・海軍共に、航空機産業の育成が急務だった)が正しかったことを証明してくれていると思う。
6.4-3激動する昭和期の自動車産業
国内の自動車産業を取り巻く状況について、陸軍の総力戦構想を軸に第一次大戦後の状況を概観してみたい。詳しくは次回の記事(“その4”)で詳しく記す予定だが、関東大震災を一つのきっかけとしてフォードとGMが日本に進出し、国内の自動車市場は急拡大した一方で、追って進出したクライスラーも含め米3社(ビッグスリー)の植民地と化した。そのためこの記事の次の7項以降で記すが、産声を上げたばかりの国産自動車会社は、軍用自動車補助法の保護の下でかろうじて生き延びていくしか方法がなかった。そしてこの外資3社による市場の独占を、当時は陸軍も、やむを得ぬものとして半ば容認していた。市場の急拡大により有事の際の必要数が、フォードとシヴォレーのトラックにより当面確保されたからだ。
しかし満州事変の前後から、日本を取り巻く内外の情勢が大きく変化していく。それと連動して、上記の三菱のところでも触れたが、総力戦構想の中における自動車産業の位置づけに変化が起きる。
日本包囲網が形成されて、次第に孤立していった日本は、総力戦構想に基づき自給自足体制を築くべく、資源を求めて大陸への侵攻を拡大していく。しかし広大な大陸では長い兵站線の維持のため、今までよりも大量の軍用車が必要だった。そのことは熱河作戦で多数投入された、フォードとシヴォレーによる自動車部隊の活躍で証明された。陸軍省整備局を中心とした、大陸政策の中心に自動車産業を据えたいという思惑もあり、いわゆる“大衆車”クラス(=“大衆車”といってもフォード、シヴォレー級の3000ccクラス)の国産軍を、総力戦構想に基づき大量生産を行い自給自足体制を築くべしという、高いハードルを伴う、強い意志を示す。
さらに陸軍と連携した商工省の“革新官僚”(←wiki等を参照してください)達による、軍の威光を借りて統制経済を一気に進め、自動車を重化学工業育成の柱に据えたいという全体構想と重なってくる。ここで遂に日本でも自動車が、今までの“脇役”から一転して“主役”に躍り出る。そして「自動車製造事業法」が制定されて大量生産を前提とした自動車産業の育成に大きな力が注がれることになる。(詳細は後の記事の“その6”“あたりで記すことになるが、「自動車製造事業法」の許可企業となるためには、米の2強とまともにぶつかる大衆車クラスの乗用車とトラックを大量生産する事が前提という高い関門が設けられた。いくら巨大な外資系を「国防」を名目に排斥するからと言われても、財閥を含む多くの企業がしり込みする中で、水面下で軍と商工省と連携しつつ、”絶妙なタイミング“で舞台に登場したのがトヨタだった。今のペースだとその辺を書き込むのは年末ごろ?下の画像はオランダのローマン博物館に所蔵されている、トヨタ初の量産乗用車のトヨダAA型。世界で唯一の現存車と言われている、歴史的に大変重要なクルマだ。画像と以下の文もwikiからダイジェスト『太平洋戦争末期に満州国に侵攻してきたソビエト連邦軍により接収され、大戦終結後にウラジオストックからシベリアの農夫の手に渡ったとみられる。改造個所は多くみられるが、トヨタ博物館の調査によりAA型であることが確認された。』やはりレプリカにはみられない独特な存在感を放つ。)

そして戦時体制に移行すると乗用車生産は打ち切られ、軍用車のみが残る。陸軍、商工省と、市場に参入した日産、トヨタの計画通り、「国防」の名の下で米国の自動車メーカーは次第に排除されていき、国産“大衆車”は強大なアメリカ勢と戦わずして、国内市場を独占していくことになる。
しかし何度も記すが、激動の昭和の時代の、“その時” が来るまで、自動車産業に対して、大きな国家予算が割り当てられることは、けっしてなかった。
話を元に戻し、自動車は以上のように相対的に低い位置づけの中ではあったが、それでも少ない予算の中から何とか割り振り、効率的に軍用トラックを調達し、あわせて日本に自動車産業を興すために、次の7項以下で記述する、陸軍による日本初の自動車振興策が実施されていく事になる。
6.4-4「総力戦構想」の“わからなさ”
6.4-4-1永田鉄山の「国防に関する欧州戦の教訓」(1920年講演)
6項の最後として、陸軍軍政家としての本流を歩み、日本の総力戦体制の構築を主導していった永田鉄山が、来るべき総力戦(第二次世界大戦)において、兵器としての飛行機がいかに決定的な働きを示すか、それを予見するような記述があったので、以下例によって長くなるが参考までに転記しておきたい。
第一次大戦のさなかに武官として現地に派遣されていた永田は、総力戦の実体と連合国及びドイツの戦争遂行の過程をつぶさに観察した。その中で、自動車が示した役割についても注目し、限られた国家予算の中で、何とか自動車産業を育成しようと力を注いだ事でも知られている。そんな永田の総力戦構想と、自動車との育成に尽力した過程については≪備考8≫に参考までに記しておく。しかし当時の陸軍において、自動車に対しての理解の深かったそんな永田ですら、第一次大戦における飛行機の活躍については、衝撃的だったようだ。以下より(引用⑨P64)(主に永田鉄山「国防に関する欧州戦の教訓」と題する講演(1920年)における発言からの引用)より
『永田の言及は多岐にわたるが、注目したいのは飛行機に関するものである。第一次世界大戦中、飛行機の機能や運用は飛躍的な進歩を遂げた。その進歩の様子は「三ヶ月ごとに確信を経る」もので、戦争終結後一年も経たずして大西洋横断飛行を成し遂げている。
「かような有様であるから、帝国が他国に宣戦を布告した暁には、その当日からただちに東京大阪はもちろん九州北部の工業地や呉・佐世保の軍港は先もってこれら悪魔の襲来を受ける運命を有つことになったのである。不幸もし日本がかかる立場にたったとすれば、それは、じつに一大事である。市街は焼かれ、工場も破壊され、隧道や鉄橋も爆破され、動員・輸送・軍需品補給等の軍事行動が著しく阻害されるのみならず、一般人民は家を焼かれ、食需を断たれ、たちまち生存上の大危機に逢着せねばならぬのである。家屋が木造であり隧道橋梁等の術工物の比較的多い帝国はとくに他国に比し甚大の惨禍を覚悟せねばならぬのである。」(永田鉄山「国防に関する欧州戦の教訓」と題する講演(1920)より)
この論考が書かれた二十五年後、わが国はここにある通りの被害を受け、敗戦を迎える。もちろん昭和10(1935)年に殺害される(注;「相沢事件」参照)永田が日本の敗戦を知るはずもない。これだけ状況が一致するということは、永田の見識はもちろんだが、日本の国情と新兵器の進歩について知識のある者であれば、ある程度は必然の結果として浮かび上がることだったのかもしれない。
飛行機は、遠隔にある内地を戦地と同様の脅威にさらし、さらには戦線の飛躍的拡大をもたらした。戦争の形態を一変させたのである。』(以上引用⑨)
以上の1920年時点での永田の講演の内容を自分なりに解釈して重要なポイントを2点記すと、
・総力戦構想の中で今後、航空機産業の育成が重要視されるだろうことと、
・第一次大戦の戦訓から、首都東京(当時は帝国の首都として、“帝都”と名乗っていた)をはじめとする航空機による空爆からの本土防衛を、当時から重要課題としていたことがうかがえる。
そして25年後の1945年3月10日、まさに予見されたように、上記の永田の言葉を借りれば“悪魔の襲来”、史上最大規模の大空襲(俗に下町大空襲とも言うらしい)が首都東京を襲った。
はじめに記したように、この記事で総力戦構想の評価をするつもりは毛頭ないが、その本来の目的は国民の生命財産を守る、国防であったはずなので、その結果については、東京大空襲を一例として記しておきたい。
6.4-4-2「国防」がおろそかにされた東京大空襲
東京大空襲は、焼死、窒息死、水死、凍死など、たった2時間余りで10万人以上を殺すような、空爆としては世界史で後にも先にもない、空前絶後の殺戮だった。“評論家”たちの書いている事からは良くわからないので、この空襲の、庶民の皮膚感覚からの実際の証言を、以下(Web❺)産経新聞「戦後70年~大空襲・証言」より引用
https://www.sankei.com/affairs/news/150310/afr1503100004-n3.html
『隅田川の対岸を見ると、神田や両国、本所、深川あたりまで一面炎上していました。火の旋風というのだろうか、直径で30メートルほど、高さ40メートルぐらいの火柱が、7本か8本立っており、ゴーゴーと音を立てて燃えている様を呆然(ぼうぜん)として眺めていたのを覚えています。
相変わらずB29は低空で飛び交っているんだけど、迎撃する日本の戦闘機は全然おらず、高射砲も沈黙していました。「なんで反撃しないんだろう」と思いましたね。
悠々と飛ぶB29の銀色の胴体は、地上の炎が映って真っ赤でした。その赤い腹から焼夷弾が落ちてくると、さらに地上の炎が大きくなってね。あれは赤い悪魔だった。』永田の予見通りに赤い“悪魔”の襲来だった。(下の画像と文はwikiより『焦土と化した東京。本所区松坂町、元町(現在の墨田区両国)付近で撮影されたもの。右側にある川は隅田川、手前の丸い屋根の建物は両国国技館。』)

“超空の要塞”と呼ばれたB29だが、東京下町空爆はP51等の護衛機なしの超低空侵入という、大胆不敵な作戦で行われた。しかも上記の一般庶民からの「なんで反撃しないんだろう」という直観的な証言のように、日本陸・海軍機ともに、なぜか反撃らしい反撃を行わず、見過ごした。しかもB29による爆撃は、一切の武装を外した機体(12.7mm機関銃×12、20mm機関砲×1と機銃弾8,000発全て取り外していた)から行われたのだ!よほどの確証が得られなければ、護衛の戦闘機なしの超低空侵攻でしかも“丸腰”は、なかなかできない決断だったはずだ。
そもそもその目的の大元は、国防だったはずの総力戦構想の、中でも帝都防衛は何にもまして最重要な課題だったはずだ。なぜならばそれは当時の言葉で言えば、国体(皇居)を守ることと同義語だからだ。しかし実際には、けっして戦力の問題ではなく、自由に侵略させたとすら疑いたくなるような(そんなことはなかったと信じたいが)惨憺たる結果となった。東京大空襲を巡っての、日米双方の行動を、総力戦構想の中で早くから首都東京への空爆を予見していた永田鉄山はあの世で、いかに想ったであろうか。
(下の画像はwikiより、「テニアン島の飛行場から次々と出撃するB-29」。お互い決死の戦いだったバトル・オブ・ブリテンとは大違いの、東京大空襲の状況の奇怪さは、wikiや一般の歴史書からは全く伝わってこない。以下(Web❻)ブログ“おととひの世界”さんより引用
https://ameblo.jp/karajanopoulos1908/entry-12587230470.html
『「~B 29は高いところを飛んでくるので どうしようもなかった」とかね ウソ八百ですよ 特に最初の3月10日東京大空襲 ほとんどが超低空侵入だった(中略)日本側はほとんど撃ってこなかった なぜなら帝都東京を守る高射砲 他所に運んでいて出払いほとんど残っていなかったから B 29超低空侵入爆撃隊 やりたい放題になってしまった その結果都民が犠牲になった 明らかに大日本帝国陸海軍 ヘッドクォーターの責任です 誰の命令だったのか? よくわからない』) なかなか出てこない情報だが、迎え撃つはずの日本側もどうやら“丸腰”だった・・・

(さらに(Web❼)“長州新聞”さんより写真と文を引用
https://www.chosyu-journal.jp/heiwa/1134
『東京空襲にも不可解な点がいくつもある。例えば、空襲直前に警戒警報を解除している。広島、長崎での原爆投下も直前になって警戒警報を解除し、みんなが安心して表に出てきたときに投下されている。あれは軍中枢が協力しなければできないことだ。300機をこえるB29の接近に気づかないわけがないが、物量で太刀打ちできないとはいえ、まともな反撃すらせずに米軍のやりたい放題を開けて通している。(中略)「暗闇のなかであれほど緻密な爆撃がどうしてできたのか?」という疑問も多く語られていた。「目標から外す目印のために誰かが下から光を当てていた」と証言する人もいた。(中略)東京大空襲の経験は語れないできた。意図的に抹殺されて、慰霊碑も何もない。』・・・・・
このブログは、犬のぼんちゃんと自動車の話題のブログで、戦争ジャンルを扱うつもりは全くないので詳細は記さないが、真珠湾攻撃時の山本五十六の売国奴的で奇怪な行動は今では広く知られているが(ちなみに山本は“偽装死”したあと、84歳まで生きていたと、自衛隊元陸将補の池田整治氏は語っている。連合国側にとっての最大級の功労者なのだから、あり得ない話ではないだろう。)この東京大空襲も調べれば調べるほど、不可解なことだらけだ。こうなるとやはり、当時の日本の(上記(Web❻)ブログ“おととひの世界”さん言うところの)“ヘッドクォーター”たちが第二次大戦を、本気で勝とうと思って、戦いを指揮していたのかという素朴な疑問に、どうしてもぶち当たらざるを得ない。下の地図と文も長州新聞さんよりコピー『東京大空襲の焼失地域を示した「帝都近傍図」(1945年、日本地図株式会社製作)』焼失を免れた皇居、財閥本部、官僚機構の温存を、いったん脇に置くにしても、ごく常識的に考えれば、戦争において本来真っ先に狙われてしかるべき軍施設までが何故か多くが無傷で残ったそうだ。下町の庶民に対しては無差別爆撃だったのに・・日米双方ともにいったい、なにを“目標”として戦っていたのだろうか。)

https://www.chosyu-journal.jp/wp-content/uploads/2020/03/8cb6d37134933e54d988361ab052eda4-768x502.jpg
以上は確かに東京大空襲という一例に過ぎない。「総力戦構想」の本来的な目的は「国防」にあり、中でも皇居のある首都防衛は、もっとも重大な任務だったはずだ。しかし結果から判断すれば、当時の日米双方とも、その行動は謎だらけだ。(以上、私見でした、)
6.4-4-3戦後の高度経済成長をけん引した「総力戦構想」
しかしその一方で、「総力戦構想」を経済政策面から見た場合、これも結果から判断すれば、戦後の日本経済の高度経済成長に多大な貢献を果たしたと思う。もちろん、上記の東京大空襲に見られるような、戦時中の庶民の尊い犠牲の上に成り立っていたこともけっして忘れてはならないが。(以下も多少私見が混じっています。)
1930年代後半の日本は、統制経済下で構築された諸制度に従い、商工省を旗振り役に、ひたすら産業基盤の整備に努めた。しかし戦後の日本は占領下を経た後も、実は意外にも、その理念も含めてほぼそのままの体制が引き継がれていた。確かに軍部は占領軍の手で解体されたが、商工省(終戦時は軍需省だった)が通商産業省(以下通産省と略)へと看板を書き換えたが、戦前からの経済政策を継続させた。最終的な目標こそ「高度経済成長」へと切り替わったが、通産省の主導で行われたそれら産業政策は、戦後のある時期までは十分有効に機能した。もちろん自動車産業もまた、その例外ではなかった(この一連の記事の最後の“その6”“その7”で記す予定”)。『日本経済に「終戦」はなかった』(⑩P15)。 そして“総力戦”は戦後もその高いテンションを維持しつつ継続されたのだ。
別の角度から一例として、企業経営面でみても『商工大臣(1941.10~)として岸が手がけたのは、かつて企画院(=国家総動員体制の中枢機関)原案にあった「資本と経営の分離」を、具体的な制度として実行していく事であった』(⑪P113)。当時としてはかなり大胆な改革だったはずだが、先に記したように戦時体制下故に強権的に実行できた諸制度は、それらを手がけた官僚機構共々戦後も(軍部以外は)生き続けた。そして「資本と経営の分離」は短期的な株主利益よりも、長期的な企業の成長を視野に入れた計画的な設備投資を重視する、日本独特の「日本株式会社」へと発展していく。戦前の「総力戦構想」が結果として、戦後の経済大国ニッポンの誕生に、多大な貢献を果たしたこともまた事実なのだ。(野口悠紀雄言うところの「1940年体制」⑩、㉚。)
さらに、この記事の主題の“産業”とは離れるので細かくは触れないが、総力戦構想には、国民を総動員するための、さまざまな社会政策も含まれていた。それらはむしろ社会主義的な色彩が強く、土地制度改革や社会保険制度の整備まで含まれていたが、その流れもまた、戦後の日本に継承された。超格差社会の中で育った今の若い人たちからは想像できないかもしれないが、一億総中流化して「世界で最も成功した社会主義国」(ゴルバチョフの言葉だったらしい)
https://kakuyomu.jp/works/1177354054882211066/episodes/1177354054882258373
と称賛された戦後の一時期までの(今から思えば懐かしい、良き時代だった…)輝かしい、全盛期の日本の姿も実は、戦時経済体制のもとで築かれた諸制度を基に築き上げられたものだったのだ。
またまた大きく脱線してしまった。この続きはさらに大きく脱線(転落?)するので、文末の≪備考10≫に小文字で記すことにする。
それにしても「国防」よりも「戦後の経済成長」に役立った総力戦構想はやはり、わからないことだらけだ・・・。脱線続きなので次項からは“事務的”に話を進める。
7. 「軍用自動車補助法」と軍用トラックの国産化
<7項概要> 第一次大戦の、実戦におけるトラックの価値を認めた陸軍は、限られた予算内で戦時における軍用トラックの必要量を確保する手段として、欧州諸国にならい民間のトラック所有者に補助金を出して援助する代わりに、戦時に軍用車として徴用することにした。この制度は第一次大戦の前に欧州で実施されていたが、日本のものは主に、フランスで制定された方式を手本にしたようだ(⑧P84に拠る。ドイツのものを手本にしたという本もあるが③P83)。
そしてそのトラックの製造については、陸軍の工廠で自ら製作に乗り出すことは断念し、代わりに作る能力のありそうな民間企業を選定して、軍の要求する仕様にあったトラックに製造補助金を与えて作らせ、育成していくことにした。
こうして「軍用自動車補助法」が制定されて、製造/購買/維持に対しての補助金の支給がはじめられたが、同法は日本初の自動車産業政策と言われている。そしてこのことは同時に、本来の自動車の所管官庁ではない陸軍が、国内自動車産業の保護育成に乗り出すことでもあった。
(この項はネット上で閲覧できる論文である「戦前期日本自動車産業の確立と海外展開(上)」(上山邦雄、以下引用Web❽P45)と、「日本自動車産業と総力戦体制の形成」(大場四千男、以下引用Web❾-1P158)及び②+③+⑥+⑧+⑫+wiki等を主に簡単にまとめた。
7.1「軍用自動車補助法」の概要
1918年3月、「軍用自動車補助法」が成立する。その概要を箇条書きにして簡単に記すと以下の通り。
(1)トラックを軍が直ちに購入するのではなく、平時においては民間車として使用し、有事の際に徴用する方式が採られた。
(2)軍用輸送車の整備という目的から、助成の対象となった車種は自動貨車(トラック)のほか、応用自動車と呼ばれるトラック派生車両またはトラックへの転用が容易な車両に限られた。
(3)民間での普及を促進するための補助金が、製造者及び所有者に対しても製造・購入・維持(5年間分の維持費も補助対象)の各段階で交付される。ちなみに製造補助金額は(甲種(積載量1~1,5トン)トラック1台 1,500円、乙種(同1.5トン以上)トラック 2,000円で、この補助金で製造されたトラックは、“保護自動車”と呼ばれた。
(4)国産化推進のため、保護自動車として認定されるためには,重要部品の製作,その他部品も許可を受けたものを除き内地製品の使用が義務付けられた。また対象となる製造者は外国の株主などを認めない純日本企業に限られた。
(5)補助金を受けられる企業には、鋳物・鍛造・組立・測定・試験の可能な設備が求められた。さらに工場内に一定の資格を有する技師を配置することも義務付けた。
(6)“軍用保護自動車”として認定されるためには、厳格な走行テストを合格せねばならない。
以下、補足説明として追記していく。
(2)の、製造者に対して行う、国の定める規格に準拠し、合格した軍用保護自動車に対する製造補助金の交付は、参考にしたドイツ,フランス,イギリス等の法律には無かった制度で、日本独自の大きな特徴だった。なぜそこまで踏み込んだかといえば、欧州諸国と比べて、そもそも自動車産業の基盤が無きに等しかったからで、以下(⑥P48)からの引用で、その背景も含めて、もう少し詳しく説明しておく
『~その法が制定された当時はそれらの国(注;同種の法律の実行でヨーロッパ諸国が日本より先行していた)でトラックの生産は非常に少なかったため、トラックの製造を奨励する意味合いも有していた。例えば、ドイツにおいては法の制定年である1908年には11社が180台の軍用車を製造したが、その台数は全トラックの28%であった。
しかしその後は、軍事予算の制約によって対象数が限られる一方で、民間用トラックが増加したため、軍用車の比率は低下した。1914年の開戦当時、ドイツにおいて軍用車は1,150台だったのに対して民間トラックは1.5万台、フランスではそれぞれ1,200台、1万台であった。しかも、上述のように、大戦中の経験から、軍用車だけでなくタクシーなどの民間車輛も軍事的な価値が認められるようになったため、大戦後には同法の意味が事実上なくなったのである。
ところが、当時の日本では、それらの国が補助法を制定する時期よりも自動車の製造・利用が一層遅れていたために、民間に製造や使用を刺激するこの法を制定する根拠は十分に存在していたのである。』さらに(⑤P24)からも引用。
『~有事に1000台、2000台の自動車が必要でも、それを実現するには一大事業だったわけである。さらに当時の自動車は高価な機械であり、それを1000台購入しようとすれば、国家予算の1%近くになった。このように平時から陸軍が大量の自動車を保有するのは経済的負担が大きすぎた。』
(表3:自動車保有台数の推移(1913~1930):⑫P19より転記)
下表の保有台数の推移を見れば一目瞭然だが、同法成立当時(1918年)の日本の自動車の保有台数は、全体でも4,533台と、欧米に比べると著しく小さかった。そのうえ欧米同様に、トラックよりも乗用車が主体だったため、トラックの保有台数の合計でたった209台という、信じがたいほどの少なさだった。一方その当時のアメリカでは、フォード モデルT型による“革命”が進行中だった。この辺の事情については、息抜きとして≪備考11≫として備考欄に記しておく。

以下はまとまりがないが、さらに補足を、バラバラと追記していく。
㋐ (2)についてさらに補足すると、軍の大陸での使用を考慮して、日本国内の民間用としては大きい(大きすぎる)4トン級(積載量1.5トン)以上のトラックおよびその応用車の生産と利用を重視していたが、この国内市場との需要のミスマッチが、後の話になるが、同法の適応車が伸びなかった原因の一つとなった。
㋑ 1台当りの製造補助金の額は『10年代のアメリカ車、とくにレパブリックや、GMCを対象としてそのコストの差を補填させるために決められた』(⑥P84)という。すなわち輸入車のレパブリックや、GMCの価格(約5,000円)と砲兵工廠で割り出した製造コスト(約7,000円)との差額2,000円が製造補助金額となった。
㋒ 一方『使用者に対する補助金は、馬車利用とトラック使用との維持費の差を補填させるためであり、購入補助金として1,000円まで、また維持費として年間300円を5年間支給することになった。』(⑥P50)
㋓ ( 5)は1924年の改定で、1年に100台以上生産できる規模の設備を有しているものに限定となり、さらにハードルが上げられた。後の8.3-1で陸軍が『将来的に見て、保護自動車メーカーが三つぐらいあることが望ましいと考えていた』(③P105)ことを記したがその一方で、『そもそも陸軍としては、修理の必要などから、多数のメーカーが少量生産することを好まなかった』(⑥P80)こともあり、結局3社で“打ち止め”となった。
㋔ (6)の軍用保護自動車に対する資格試験は、運行試験とともに、5分の1勾配の登坂試験等が求められ、当時の国産車の水準では厳しい内容だった。しかしその立ちはだかる厳格な試練が結果として、国産車の性能/品質の向上に役立ったと言われている。
㋕ 陸軍にとって自動車産業を育成することは、第一次大戦の欧州での戦訓(=欧米諸国では多くの自動車製造工場が航空機エンジンを生産した)から、近代兵器として育成すべき最優先の分野であった航空機産業をバックアップすることを意味していた。現代と違い当時は自動車と飛行機の技術的な関連性が高かったため、いわゆる「シャドーファクトリー構想」(=「戦時における工場の軍需転換)も意識していたと思われる。(関連≪備考12≫)
㋖ 「軍用自動車補助法」は「軍需工業動員法」と同時に成立しており、早くも総力戦構想の一環であったと捉えることができる。(≪備考7≫等参照)
㋗ 国産車でなく輸入車で調達すれば、製造補助分だけ予算が節約できる。法案の審議の過程で『当然ながら、議員からはその質問が出された。これに対しては(陸軍は)輸入途絶の可能性よりは、国内工業を奨励するためにと答えた』(⑥P50)という。
㋘ 同様に、当時の日本でそもそもトラックの製造が可能かという質問に対しては『陸軍工廠での製造の経験から発電機、点火具、気化器、ベアリング以外には国内で十分製造可能』との認識をしめしていた。
㋙ なお上記(3)(4)などを根拠に、同法は自動車産業確立を目的とした、世界初のローカル・コンテント法であったとの指摘もある(⑧P13、P84、P116。ただし⑧以外にはそのような記載は見当たらなかったことも追記しておく。)。
さらにこれは参考程度の話だが、(Web❿P32)に『日本初の自動車産業政策といわれる「軍用自動車補助法」の草案たる「軍用自動車奨励法」が(1914年に)起案された』という記述もあったが、この「軍用自動車奨励法」なるものの内容も調べきれずに結局不明でした。
7.2軍用トラックの試作を民間に委託
「軍用自動車補助法」についての具体的な内容を先に記してしまったが、工廠内で軍用トラックを継続的に内製(生産)することを断念した陸軍は、軍用自動車補助法による支援と並行して、自動車産業に進出する民間会社の育成にも、自ら乗り出すことにした。時期的には同法が施行される(1918年)直前(1917年)のころのようだ。以下は主に(①P14、③P82)等を参考にした。
まず最初のステップとして、砲兵工廠が製作した、シュナイダー社製を基にした軍用保護自動車の試作を民間委託し、その様子(反応)を見つつ候補選びを行うことにした。この時選定された企業は、三菱の神戸造船所、川崎造船所(神戸川崎財閥の)、発動機製造(ダイハツ)、島津製作所、東京瓦斯電気工業、奥村電気商会(京都にあった電気機械メーカー)などで、地域の分布からすれば明らかに“西高東低”の分布だった。大阪砲兵工廠の果たした役割が大きかったようなのでその影響もあったのだろうか(私見です)。
先に記したように、依頼先の企業の選択の基準は、陸軍のお眼鏡にかなう大企業に限られていたため、『橋本益治郎の「快進社」(8.3項で記す)のような零細企業は、技術的に優れていても、最初から相手にすべき企業ではなかった』(引用③P82)。
また⑥によれば国会での法案審議の過程で陸軍は『軍用車製造に参入が予想されるのは、東京では東京瓦斯電気、東京飛行機自動車製作所、名古屋では熱田車輛製造、大阪では日本兵器製造、日本汽車製造、神戸では川崎造船所を掲げ、その他東京の日本自動車や快進社は能力に欠けている』(⑥P50)と答弁していたという。大企業偏重の選別で、自動車製作のパイオニア的な存在だった、快進社のような、ベンチャー色の強い企業まで育てていこうという気持ちはなかったようだ。ただ当時は大企業にとっても、自動車産業への進出はバクチ的な行いとみなされていただろう。
またそもそも、なぜ民間企業に製造をまかせたかについては、当時の工廠が、戦争特需で手いっぱいで、自動車を生産する余裕が無かったことも一因だったようだ。
話を戻し、このうちの発動機製造(大阪),瓦斯電(東京),川崎造船所(神戸),奥村電気商会(京都),三菱神戸造船所の5社を民間自動車製造指導工場に指定して1918年,軍用4トン自動貨車の製造を委託した。
ただし試作車の委託といっても一からつくらせるものでなく、『設計図と材料をはじめとして、エンジンなどの主要部品も最終的な仕上げだけ残した形で支給、経験を積んだ監督官のもとで図面どおりに組み立てる』(引用①P14、③P84;発動機製造、瓦斯電、川崎造船所の例)という、文字通り手取り足取りのものだったらしい。
それでも試作を完成させたのは三菱の神戸造船所、川崎造船所(神戸)、発動機製造、東京瓦斯電気工業の4社だけだった(③P85)という記述と、『東京、大阪、神戸、京都の機械、造船、自動車、電機車両等の代表的製造会社八社ほどを選定し、東京瓦斯電と同様な勧奨を行い、それらのうち七社が、その試作を完成したと云われている』(⑧P57)という記述があり、実際に何社が完成まで漕ぎつけたのか、判然としないところもある。『法案の制定過程では数社の候補を予想していた』(⑥P79)というが、陸軍側の思惑と違い、受動的な捉え方をした企業が多かった事は間違いないようだ。
ただその中で、東京瓦斯電気工業だけは他社と違い、自動車メーカーとして参入する良い機会であるという、積極的な姿勢をみせた(8.1項で記す)。
8.「軍用保護自動車」の誕生
<8項概要> 6項と7項では、陸軍が軍用自動車保護法をもって、軍用トラックの生産と保有を促進させるに至った経緯を、その背景と合わせて、主に陸軍目線で見てきた。この8項では視点を変えて、同法を頼りに自動車産業を興そうとした民間企業側の視線で見ていきたい。
第一次大戦は日本に戦争特需をもたらし、主に重化学工業分野がその恩恵を受けた。そして戦争特需で資本力を得た企業の中に、大戦終結後の軍需急減を見越して、成長分野と目された自動車産業への進出を試みる企業家が現れた。
このうち、東京瓦斯電気工業(後の日野自動車のルーツ)は当初から明快に軍用保護自動車メーカーを目指したが、東京石川島造船所(いすゞ自動車のルーツ)はウーズレー(英国)を国産化する形で乗用車生産からスタートした。
一方商業都市大阪の風土の中から誕生した実用自動車製造と、よりベンチャー企業的立場だった快進社の2社も乗用車の製造からスタートしたが、競争力のない国産乗用車の需要は、当時の日本ではほとんどなかった。結局両社は統合し、ダット自動車製造(日産自動車のルーツのひとつ)となり、おなじく乗用車に見切りをつけた石川島共々、生き残りをかけて軍用保護自動車メーカーへと転身していく。こうして大戦後の慢性的な不況と、フォード、GMの日本進出(次回の“その4”の記事で詳しく記す予定)という荒波の中で、乗用車生産を志すものたちが次々と挫折していく中で、陸軍向けの僅かな軍用車の需要を糧に、この3社で市場を分け合いながら、かろうじて生き延びていくこととなった。
8.1東京瓦斯電気工業の辿った道(日野自動車のルーツ)
8.1-1第一次大戦の特需で自動車産業に進出(マントルから自動車へ)
(この項は、引用①、②,③、⑤、⑭等を元にまとめた。)
明治の文明開化の時代、ガス灯はその象徴の一つだった。1910年に設立された東京瓦斯工業(以下瓦斯電と略す)は、ガス器具の製造を行う会社で、主な製品は、ガス灯の発光体として使われるマントルという部品(=ガス灯の火炎の外周に設置される発光体)であった。(詳しくは下の「ガス灯のあかりについて」Web⓫の説明をご覧ください。
http://www.city.kawasaki.jp/kawasaki/cmsfiles/contents/0000026/26446/08takahashi.pdf
⓫には黎明期の瓦斯電についても記されているので参考までに。それによると『何かに、東京瓦斯電気工業株式会社は東京ガスの機械部門が独立して会社になったと書かれていることがありますが、実は全く違い、マントルを作るために設立された独立した会社です。』とのことで、名前から連想すると、東京ガスと関係がありそうだが、実際はそうではなかったようだ。)

https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn%3AANd9GcSRydgo_WzYK2UoEBUNppDrdxOGViSC92aihbJymamKPDQ4xAlf&usqp=CAU
やがてガス灯の代わりに次第に電灯が使われるようになると、1913年に社名を東京瓦斯電気工業(社名が長いのでこの記事でもそうしているが、愛称である“瓦斯電”と呼ばれることが多い。)と改め、多角化を進め電気製品の部門にも進出したが、後発の憂き目で苦戦を強いられたという。
しかし第一次世界大戦が勃発すると、状況が一変する。以下(⑭P26)より『そこに降って沸いたのが第一次大戦で、ガス電は奇跡的な好景気に見舞われるのである。その理由は、こつこつと研究開発の結果得られていた高品質のマントルの急増と、付帯事業として励んでいたガス計量器の技術であった。すなわち開戦後まもなく大阪砲兵工廠経由で砲弾の信管の大量発注がロシアから舞い込んだのである。』
ここで「信管」についての説明を引き続き(⑭P26)より『信管とは砲弾に取り付けられる部品で、発射されるまでは絶対に爆発されてはならず、発射時の加速度で完全装置が外され飛翔体に火道を起爆薬につなげ、当たったら今度は爆発させなければならない装置で、いわば精密機械である。ガス計量器で培った精密加工技術が認められたのである。』以下は㉔P89より『当時、軍需品とくに兵器と名のつくものを民間で生産し輸出したのは瓦斯電ただ1社だった。もちろん技術的には大阪砲兵工廠の指導を受けたのではあったが爆弾信管の部品「活機体」200万個という大量を生産した。』信管の大量受注で莫大な利益を得た同社は『日本の陸海軍からも、さらに信管以外に小火器なども受注』する(⑭P26)。こうして軍需関連の工作、産業機械メーカーとして社業を急速に拡大させていった。
そして膨大な利益の投資先として、社長の松方五郎(=松方正義の五男)は早くから自動車製造事業への進出に関心を持っていた。信管の納入で信頼のあった大阪砲兵工廠から、4トン自動貨車の試作の打診があったのは軍用自動車補助法が施行される前年の1917年のことで、『この動き(注;軍用自動車補助法)をいち早く察知した松方五郎は既にこの制度を利用し、自動車産業に打って出ようという決意を固め』ていた。(⑭P26)
(下は日野オートプラザに展示されている松方五郎の肖像画。ブログ“オーロラ特急ノスタルジック旅日記” さんよりコピーさせていただいた。)
https://blog.goo.ne.jp/aurora2014/e/a6c572fbb070d20f0aed29a2d41bb42e)

さらに追記すると、このように決断の早かった背景として、軍用自動車の製造に乗り出す以前から行っていた輸入車の販売事業も好調で、自動車の商売に自信を深めていたこともあったようだ。⑥P55より『~とくに、18年にはアメリカのリパブリック・トラックのシャシーを輸入し、東京市街自動車(青バス)にトラックやバスとして大量に販売した。その後も官庁を中心に相当の販売実績を維持し、19年下半期には全輸入車販売の3分の1以上を占めるようになった』という。1/3以上とはかなりのシェアだ。さらに後の軍用保護トラック制作時にベース車として参考にしたリパブリック社製トラックも、自社で輸入販売していた。信管を通じての大阪砲兵工廠との付き合いの深さもあり、陸軍からの依頼で同じく試作車を作った他社よりも、自動車産業へ参入する下地はより大きかったようだ。
そして『このときに瓦斯電は、トラックの試作だけでなく、並行して軍用自動車補助法に合致した自動車の制作も同時に進行するという意向を示した。補助法が施行されて手がけるのでは、完成までに時間が掛かりすぎるので、少しでも早くスタートさせることが好ましいと判断したのである。こうした姿勢は、軍用トラックの国産化を進める大阪砲兵工廠にとっても歓迎すべきことであった。』(引用③P86)陸軍とは、あうんの呼吸だったのだろう。
自動車産業へ参入するため1917年、新工場を東京・大森に建設すると同時に自動車製造部(内燃機関部という記述もあるという⑭P25)を設立するという手回しの良さだった。(下は瓦斯電、大森工場の様子。)

http://www5e.biglobe.ne.jp/~iwate/vehicle/extra/primer/coach/catalogue/200_chassis_maker_02.jpg
しかし『問題は、瓦斯電に自動車に詳しい技術者がいなかったことだ。』(引用③P86)!そこで外車輸入で当時最大手だった大倉財閥系の日本自動車(株)で、技師長としてボディー架装部門を統括していた星子勇を自動車部長として招聘する。(下の画像と、文はJSAE自動車殿堂「大倉喜七郎」より引用『喜七郎氏のフィアット100馬力と米国人パット・マース氏の飛行機の競走、数秒の差で喜七郎氏のフィアットが勝ったと報じられた。1911(明治44)年)』そしてこのフィアットの整備を入念に行ったのが星子であった。(③P29)ただし『マース飛行士が自動車に花を持たせてくれた』という当時の関係者の証言も残されているという。(③P29)。

そして瓦斯電は星子に自動車部門の責任を託し、軍用自動貨車の試作に乗り出していった。星子勇については、この記事の≪備考12≫「瓦斯電のシャドーファクトリー構想について」のところに記した。
8.1-2軍用保護自動車第1号の誕生と、その後の“暗黒の10年間”
陸軍大阪砲兵工廠からの試作依頼は、シュナイダー社の軍用トラックを参考にしたモデルだったが、星子は並行して別のトラックの設計を行った。『いささか旧式化しつつあったシュナイダーに飽き足らず自ら新鋭のトラックを設計、その開発を同時に開始した。』(⑭P27)同社で輸入も手掛けていた、アメリカのリパブリック社製トラックを参考にしつつ、独自の設計を取り入れたTGE-A型である。(下の写真はそのTGE-A型。砲兵工廠のベース車に比べてチェーンドライブからシャフトドライブに、ブロックタイヤからソリッドタイヤへと、一歩進歩した設計となった。TGEとは、瓦斯電の英文名 "Tokyo Gas & Electric Inc." のイニシャルからとっている。尚ベースとなった、リパブリック製トラックのエンジンは、アメリカの有名なエンジン専門メーカーのコンチネンタル社製(モデルC型)のものだった。(⑮P93))

https://meisha.co.jp/wp-content/uploads/2018/05/a851c4242d976f103082aa91e8825ad4-e1540607784337.jpg
そして1918年(注;権威あるJSAEの自動車殿堂の方を尊重したが、1919年3月という記述もある?③P93、❽P43、❾-1P160。だが⑭も1918年と記述。1918年度(会計年度)のこと?不明)に、軍用自動車補助法の審査試験に合格し,同法の初適用を受けた。もっとも熱心に軍用トラックの開発に取り組んでいた瓦斯電の合格を望んでいたのは軍部も同様で、さらに陸軍にとっては、3月末までに合格しなければ年度の予算を返上しなければならないという役所的な事情もあったようだ(③P94)。
しかし保護自動車に認定されても、実際には陸軍以外の民間で、購入するところは少なく、しかも不具合も多く、クレームで返品されたものも多かったようだ。
(以下、前回の記事の5.2-5項、タクリ―号についての「エンジンを作ることの難しさ」というところで、黎明期の瓦斯電の自動車制作の苦闘を例に出して記したが、その部分を、再録なので今回は小文字で記しておく。
『~軍用保護自動車第1号で、最初の国産量産トラックといわれる瓦斯電のTGE-A型では、たとえば『エンジン関係の鋳物の加工がうまくいかず、倉庫にお釈迦のシリンダーが山のようにあった』(③P92)という。そしてその努力が何とか報われて軍の試験に合格して、瓦斯電のトラックは晴れて軍用自動車補助法に基づく軍用保護自動車の認可第1号として、1919年に20台“量産”された。初の国産“量産”トラックの誕生だ。しかし出来上がったクルマの出来は、『検定試験に合格したのは瓦斯電だけだったから、制式自動貨車の発注が集中、つくると軍に納入されるために、世間では「瓦斯電の軍用自動車」と呼ばれるほどだった。しかし、実際につくられたトラックは、トラブルが絶えないものだった。なかには、まったく走りだすことができないものもあった。実際、自動車メーカーになるのは大変だった。』(③P94)自動車は、その国全般の工業技術水準を表す鏡とも言われているが、それが当時の日本の工業水準の実態だったのだ。(下の画像は、ブログ「超快速やまや」さんよりコピーさせていただいた。「日本陸軍に納入されたTGE-A型トラック」“やまや”さんによれば、前がTGE-A型で、後ろはシュナイダー型トラックだそうです。)https://ameblo.jp/hbk0225/entry-12186728725.html

https://stat.ameba.jp/user_images/20160803/00/hbk0225/b4/06/j/o0480036013713558041.jpg?caw=800
その後も、1922年に製造されたTGE-G型1.5トン積みトラックは11台生産されて民間に販売されたが、すぐにトラブル続出して全車返品になったという。』)
ライセンス生産に頼ったわけでなく、まさに『製造技術より製品が先』(⑥P57)だった瓦斯電にとっては、生みの苦しみの時期だったに違いない。
陸軍向けの生産台数も、『1919年(大正8年)に33台が納入され、翌1920年には22台、1921年には28台だった。それが1922年になるとわずか3台にまで減っている。』(③P95) 不況下で『陸・海軍ともに予算が減り、軍納の車の数は非常に少なく』(⑧P165)なった。
さらに追い討ちをかけたのが関東大震災で、瓦斯電の受けた被害総額は100万円に及ぶものだったという(③P96)。『関東大震災でガス田は軍用自動車の生産を一時停止していた。』(⑧P165)こうして『同社の経営は 1920年頃から悪化していき,1922年下期には一挙に 1,400万円余りの損失を計上し,資本金を 2,000万円から 600万円に減資せざるを得ないという状況に追い込まれた。』(Web❽P43)そして最盛期には3,000人を超えた従業員数も、800人まで減らさざるを得なかった(③P96)。ちなみに日野自動車の社史ではこの時代を『暗黒の10年間』と称しているらしい(Web❽P51)。
松方はいよいよ事業再編を迫られる。しかしそんな苦しい経営環境の中で、『星子を中心とする自動車部は倹約しながらも活動を維持することが決まったのは、自動車にひとかたならぬ情熱を示す松方社長が根強い反対論を抑え込んだ結果だった。
それには、陸軍から依頼された航空機用エンジンの開発という後押しもあった。航空機用ガソリンエンジンに関する知識をもった日本の技術者は多くなく、星子の持つエンジン技術を生かすことができるものだった。』(③P96)という。陸軍の総力戦構想からすれば、航空機関連でテコ入れすることは、合理的な判断だったと思える。瓦斯電を、三菱、川崎、後の中島を補完する、練習機用エンジンを中心とした企業として位置づけたかったのだろうか(私見です)。瓦斯電の航空機用エンジンの取り組みについては、≪備考12≫を参照ください。
『この自動車の不振に対し、かろうじて航空機発動機(星形80型、100型)の製造(月産15台)とその利益で支えられていた。』(⑧P165)という。航空機用エンジン部門は、1931年には自動車部から独立し、瓦斯電自動車部を支える大きな柱と成長していった。
一方自動車事業自体はその後も厳しい状況が続いたが、1927年のTGE-GP型ではヘッドライトが電気式になり、電動式スターターも採用されて、後期型にはディスクホイールに空気タイヤにもなり(⑭P7要約)、『民間向けの他、軍用車として直接軍からの注文も急速に増え』(Web⓮P161)ていったという。
さらに1930年誕生したL型は『航空エンジンの指導に使用される特殊架装をした軍用車の受注も多かった。』(①P21)
(下の写真はTGE-L型のダンプカーで、ブログ「光雄☆工機 @mitsuwo117」さんよりコピーさせていただいた。
https://twitter.com/mitsuwo117/status/839390387693203456 )

このL型について①P21より引用を続ける。『1930年(昭和5年)にL型が完成(注;⑭P30、⑧P165によれば1928年と書かれているが、Web⓮では1930年だ?)、それまでのトラックより技術的に進んだものになり、信頼性の面でもましなものになった』(①P21))。辛口のコメントだが、実際のところ瓦斯電に限らずこの時代になると、各社の国産トラックは、主要な使用先である軍からも、性能/品質的ではそれほど不満が出ることはなかったようだ(⑥P84等)。10年にも及んだ苦闘がようやく、実を結びつつあったのだ。ただし『もちろん、その国産車が部品まで国産化したわけではなかった。(中略)電装品・気化器・軸受けなどの部品には輸入品が使われていた。』(⑥P84)こともまた事実だった。
しかし、これも瓦斯電に限らないが、民間向けは補助金を頼りに、手作りを主体とした細々とした生産規模では、外国製トラックと価格で対抗していくのは無理な相談だった。苦難の道は満州事変以降に、陸軍から軍用車の注文が本格的に増え始めるまで続いた。
その後の瓦斯電については後の記事の“その5”と“その6”で記すが、戦時体制が進むとともに、松方や星子が長年描いた、その壮大な夢が、いよいよ実を結びそうになる。しかし次第に “ミニ三菱重工化” していく中で、瓦斯電に食指を伸ばした日産コンツェルン率いる鮎川の手で、グループはやがて解体される運命にあった。
なお1931年、宮内省買い上げを記念してブランド名を「チヨダ」と改称している。(下の写真は、軍用保護自動車第1号となった、瓦斯電のTGE-A型トラックのレプリカ。日野オートプラザに展示されている。同車は国内初の量産型トラックとされている。)

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/e5/20d29cf356bfc874e694d933ef849b25.jpg
8.2東京石川島造船所の辿った道(いすゞ自動車のルーツ)
8.2-1第一次大戦の特需で自動車産業に進出(造船業から自動車へ)
(この項も、引用①、③、⑤、⑯等を元にまとめた。)
幕末の水戸藩主、徳川斉昭が幕府の命を受け、江戸隅田川河口の石川島に造船所を設立したことに端を発する石川島造船所(以下石川島と略す)は、洋式帆走軍艦旭日丸,日本人によって設計、建造された蒸気軍艦千代田形など多くの艦船を建造した。幕末を代表する造船所として、日本の近代化に大きな功績を残した。(下の絵はwikiより、日本で建造された最初期の西洋式軍艦のひとつ、軍艦旭日丸)

明治維新後は官営となるが、1876年に日本初の民間造船所として再発足する。(下の画像はガスミュージアム「渋沢栄一の足跡をたどる「版画にみる近代事業の風景」展さんよりコピーさせていただいた、1901年頃の石川島造船所の図。なぜ“ガスミュージアム”なのかといえば、東京ガスも設立時、渋沢栄一が係わった企業の一つだったからだそうだ。
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000365.000021766.html

https://prtimes.jp/i/21766/365/resize/d21766-365-918927-3.jpg
渋沢栄一と石川島造船所との係わりだが、1876年に東京石川島造船所の創立委員として関わり、株式会社になった時の初代社長に就く。そして1929年、東京石川島造船所の自動車工場が石川島自動車製作所として独立した際に、初代社長に就任するのが栄一の三男の渋沢正雄で、それ以前から、数多くの会社に係わり多忙な父に代わり、自動車系は正男が経営を主導していたようだ。)
当時の日本の造船業界は造船奨励法(1896~1919年)の影響もあり、三菱造船所、川崎造船所および大阪鉄工所の三強による寡占状態にあったが、第1次世界大戦の造船・海運ブームにより、石川島造船所も注文が殺到して莫大な利益を得た(①P22)。
(表4:「東京石川島造船所の収益推移」(Web❾-1P160)より転記)
下表の売上高、利益の推移を見れば、石川島が得た戦争特需がいかに莫大なものだったかがわかる。

しかし、『軍需産業でよくいわれるのは「満腹状態か空腹状態しかなく、ちょうど良い腹具合のときはない」』(③P66)そうで、戦後の空腹期に備えて、特需で得た利益の新たな投資先として選ばれたのが、瓦斯電と同じように自動車製造だった。
1916年に自動車部門を設立し、1910年代の東京ではフィアットとウーズレーが最も売れていたことから、両社に提携条件について打診する。契約条件が有利だったことや(フィアットは100万円と、20万円高かったらしい)、マリンエンジンとの関係性もあり、1918年11月、ウーズレーとの提携契約を結ぶ。これがいすゞ自動車の歴史の起点とされている。『契約期間は10年、契約金額は80万円といわれている。』(①P23)同年12月にはのちに自動車部門の技術リーダーとなる石井信太郎ら6名がイギリスに派遣されて技術習得にあたった。
1920年、石川島は東京・深川に自動車工場を建設し、自動車製造にとりかかるが、瓦斯電と違うところは、乗用車製造から始めた点だ。ここで軍用保護自動車への道を歩まなかった理由を知りたいところだが、その点をハッキリと記したものが見当たらなかった。一つ影響を与えた点を想像すれば、石川島造船所は本業が造船業だったため、分類上は海軍系の企業になり、大阪砲兵工廠との関係が深かった瓦斯電のような陸軍系寄りの企業でなかった点も影響したと思うが、何とも言えない。
話を戻すが、ようやく完成させたものの、予想以上に原価が高くなり『1台当たりの原価は1万数千円になった。当時同じクラスのアメリカのビュイックやハドソンが日本では6000~7000円という価格だったので、赤字覚悟で価格を1万円にした。
(下は石川島製のウーズレーA9型乗用車。完成したのは1922年12月、大晦日未明のことだったという。しかし当時の舶来品信仰もあり、ウーズレーならぬ“ウリズレー”という声もあったという。)

http://blog-imgs-110.fc2.com/k/a/n/kannoeizan/20170723095646a92.jpg
『売却先の多くは渋沢栄一の縁故で仕方なく購入した人たちだったが、トラブルもあり、価格も高く不評』(①P23)で、乗用車では商売のめどが立てられなかった。そのため『「日本の現状ではまだ国産乗用車などに手を付けるべきではない,という結論に到達し,間もなくその製造は中止された」(いすゞ自動車株式会社『いすゞ自動車史』1957年26頁)』(Web⓬P38)(下は当時の深川分工場の様子)

https://gazoo.com/pages/contents/article/car_history/150731_1/05.jpg
しかし多額の設備投資をした上に、ウーズレーと交わした契約で、契約金の残りを毎年8,000ポンド(当時の価値で約8万円)払わなければならなかったという。撤退も容易ではなかった。しかし幸いなことに、ウーズレーとの契約で、乗用車2車種(A9型、E3型)以外に、トラック(CP型)の製造権も持っていた。
8.2-2軍用保護自動車への転身と国産“スミダ”へ
『切羽詰まった自動車部門を統括する渋沢正雄取締役は、自動車開発責任者である石井信太郎をともなって、東京三宅坂にある陸軍の本省に赴いた。』(③P98)保護自動車の製造を申し出たのだ。
この路線変更は陸軍からも歓迎された。保護自動車の普及を見込んで多額の補助金支出を予算化していた陸軍省だったが、思惑どおりに民間業者がトラックを買ってくれないという現実に直面して、多額の予算を大蔵省へ返納せざるを得なくなり、新規参入企業を望んでいたという(Web⓭32-07)。頼りにしていた瓦斯電の経営自体が不安定で、その影響もあってか生産の面でも、性能/品質の面でも問題を抱えていたし、次項で記す橋本増治郎率いるダットは、陸軍とは肌合いが違う企業だった。石川島は早速CP型保護トラックの製造に取りかかった。
ところが、このCP型の図面と実物2台を輸入した年の9月、関東大震災に見舞われて工場は大損害を受けて、せっかくの図面と実車を失ってしまった。『しかし輸入された2台のうち1台が東京乗合自動車(青バス)に貸し出されており、これが震災を免れていた。
『この背景として、石川島造船所の支援を続けている渋沢栄一と東京市街自動車の渡辺良介社長との密接な関係があった。
「ウーズレー・トラックが保護自動車の資格を取ったら、30台を採用する」という約束がふたりの間で交わされ、走行テスト用に貸与されていたのだった。』(Web⓮32-18)このクルマを借り受けて分解するところから、CP型トラックの製造が再開された。((⑯P5)結局工場を移転し,この工場を東京石川島造船所と改称し,苦心の末、1924年3月20にようやく完成させた。その技術支援のために『小石川にあった陸軍砲兵工廠や築地にあった海軍造兵工廠からも応援の技術者が(⑧P118によれば7~8名も)駆けつけた』(①P24)という。陸軍向けの軍用トラックに海軍からの応援は異例だったはずだが、石川島は造船業なので、海軍との関係がそれほど深かったのだろう。
そして『陸軍の自動車関係者は、何がなんでも完成して検定試験に合格してもらわなくてはと考えていた』(③P100)という。それだけ期待も大きかったようだが、ここでも例によって年度末なので、予算執行の期限が迫っていたという役所の事情もあったらしい。(③P100)『かろうじてパスはしたが,綱渡りだった。というのは 24年3月末が審査の締め切りだったが,審査対象の2台が完成したのが3月20 日午前零時。代々木で定地検査を受けたあと関東北部の各地で 7日間運行試験をやり最後は東京に戻り米大使館近くの江戸見坂の急こう配の登坂試験をパスして3月28日資格検定証書を下附された(いすゞ自動車株式会社『いすゞ自動車史』28‒29 頁)。』(Web⓬P39)
石川島にしても瓦斯電にしても、初期の技術水準では、軍用保護自動車の試験に、ようやく合格したというのが実力だった。
(下は東京石川島造船所が生産した「ウーズレーCP型トラック(1924年式)。こちらはレプリカでなく、国立科学博物館より返還された生産第一号車をレストアしたもので、実走行可能な状態に保たれ、経済産業省から近代化産業遺産に認定されている。)

https://scontent-lga3-1.cdninstagram.com/v/t51.2885-15/e35/66413395_164316001287263_2909364113633828498_n.jpg?_nc_ht=scontent-lga3-1.cdninstagram.com&_nc_cat=111&oh=ee29bb3d424f8e94e60b230940ce2f55&oe=5E81CE92
1927年9月、次第に地力をつけてきた石川島はウーズレーと交渉して提携を解消し、新しく”スミダ”というブランドで独自の設計の自動車作りを始める。このころにはちなみにウーズレーとの提携解消の交渉は、難航が予想されたので、交渉は渋沢栄一が直々に行ない、円満に解除できたそうだ。(Web⓮32-18)
1929年5月には石川島造船所から自動車部門が分離し、石川島自動車製作所が誕生する。『社長には自動車部を率いてきた渋沢正雄が就任、陸軍中将で自動車行政の中心人物だった能村磐夫が取締役に就任している。』(③P157)分社させた一つの理由として、造船所の方が海軍からの仕事が中心だったため、陸軍からの受注が中心となる自動車部門を分離させたのだという。陸/海軍が犬猿の仲であるという、日本固有の事情があったようだ。(①P25等)その後の石川島造船所の方は現在のIHIとなり、さらに大きく発展していくことはみなさんご存知の通りだ。
そして1929年に自社開発したA4型(4気筒;40馬力)、A6型(6気筒;64馬力)エンジンを搭載したスミダL型は、燃費・出力両面で好評を得たという。A4、A6両エンジンはボア×ストロークを同一にした、今でいうところのモジュラーエンジンだったようだ。
(下の写真はいすゞ自動車のHP(https://www.isuzu.co.jp/museum/tms/2017/history/)より
1929年型スミダL型トラックのイラスト画。このL型あたりの時期に、瓦斯電、ダットとともに3社の軍用保護トラックは、自動車としての一定の水準に到達したのではないかと思われる。)

(下は、石川島自動車製作所製の昭和7年式(1932年)スミダM型バス。この塗装は東京乗合自動車株式会社(通称“青バス”)の車両だ。なお“スミダ”という呼称は、工場の横を流れる隅田川にちなみ、どんなに時代が変わっても留まることなく流れ続けたいという願いが込められて名付けられた。現存する実走可能な最古の国産バスとして、経済産業省の「近代化産業遺産」に認定されている。)

http://mysty.sakura.ne.jp/sblo_files/mysty/image/DSC03739.JPG
そして『その生産台数は,大正15年 160台、昭和2年179台、3年244台に達し、その年の国内生産の 65、59、そして,70パーセントを占め,最大の国産車メーカーとして発達した。』(Web❾-2P143)こうして石川島は、先輩格の瓦斯電を凌ぐ、名実ともに当時の日本を代表する4輪自動車メーカーへと成長していく。
(表5:「軍用保護車の適用台数及び軍用メーカーの生産台数の推移(1918~1930)」⑥P181より転記)
下表の、軍用自動車メーカー3社の生産台数の推移をみると、他の2社に比べて石川島の生産台数が安定して多かったことがわかる。

ところで上の表に見られるように、後発の石川島が、瓦斯電を明確に凌いだ理由を、ハッキリと書いたものが見当たらなかった。第一次大戦後の不況や、フォード、GMの日本進出は両社に均しく影響を与えたはずだ。自分なりに想像すれば、技術面でみればウーズレーからの直接の技術指導で得た、自動車製造ノウハウがあり、完成度の面で1日の長があったのだろうか。また先に記した青バス(東京市街(後の“乗合”)自動車)に対しての営業に見られるように、当時の経済界を代表する人物であった渋沢栄一の後押しも大きかったように思える。
一方瓦斯電側の不振はやはり、元々の企業規模に比べて、急速に戦線を拡大し過ぎて、力が分散してしまった(自動車、航空機用エンジン以外にも工作機械、兵器、計器、紡績機械、火薬など手広く、自動車+航空機部門だけに絞っていればもっと楽だった?)ことが主因だろうか。また主力行の弱さも一因だったろうか。(以下wikiより要約、メインバンクだった第15銀行が1927年の昭和金融恐慌で事実上倒産してしまい、以後経営再建の途上にあった。ちなみに同行は有力華族の出資により成立した銀行なので、世上「華族銀行」と呼ばれたというが、代表者であった松方巌公爵(元首相松方正義の長男、松方五郎の兄弟)は責任を取り私財の大半を放出の上、爵位を返上したという。松方五郎とも微妙な関係だっただろう。下の写真もwikiより、第十五銀行本店の写真。ちなみに石川島の方はご存じのとおり第一銀行(現在のみずほ銀行)だ。)

以上は想像なので、ここではその原因は“不明”としておく。
しかしそんな、当時の国内“トップメーカー”たる石川島ですら、厳しい経営環境下にあった事に、違いはなかった。以下(Web❽P51)より『同社は,軍用保護自動車,純軍用特殊車,バスなどの製造を続けていったが,業績を悪化させていった。その「主な理由はフォード,シボレーの米国車攻勢と,加えて軍用保護自動車が欧州大戦後の軍縮と国家財政の緊縮により,軍方面の企図する生産計画台数に,一定程度の制約を伴ったこと」にあるといわれており,その点はダット自動車製造や東京瓦斯電にも共通する事態であった。』
上記❽の見解は“一般的(常識的)”なものだ。が、しかし⑥によれば石川島、瓦斯電ともに、その経営内容をさらに細かくみていくと、20年代後半の両社の経営不振は、自動車部門が主因ではなかったという。『~こうした生産台数の制約は両社における自動車部門の採算が合わなかったことを意味するものではなかった。むしろ、両社にとって自動車部門は主力部門の赤字を埋める役割を果たしていた。従って、両社にとって自動車部門の設備拡張のためには、主力部門での回復を期待するより、それを独立させて外部資本の調達を図ることが手っ取り早い側面があった。1929年の石川島の自動車部独立はまさにその意味から実施されたと思われる。』(⑥P87)と、一般と違った見方を示している。ちなみに(⑧P143、Web❾-2P143)にも同様の趣旨の記載がある。この件に関して、少なくとも石川島に関して言えば、20年代後半は、自動車ではなく主力の造船部門の不調の方が、経営全体の足を引っ張っていたことは、確かなように思える。上の表のように自動車の受注はコンスタントで、軍需主体なので一定の利益は確保されていたのではと思われる(多少想像が混じっています)。
ただ自動車部の独立については先に記したように、陸/海軍の仲の悪さゆえに陸軍向けと海軍向けを分離させるという、日本独特の商慣習も影響したように思える。(以下参考までに、中島飛行機の航空機用エンジンを巡る対応について、(⑰P183)より引用『~陸軍と海軍はお互いに縄張り意識が強く、航空機の技術進化のためにお互い協力するどころか、対抗意識をむき出しにした。同じエンジンでも陸軍と海軍では名称が違うものとして扱い、同じ工場でつくることを嫌ったためだった。(中略)同じような生産設備を別々にととのえるのは全くのムダである。しかし、理屈をこねていても通用する相手ではなかったのだろう。』下の写真は“陸軍向け”の航空機エンジン工場として当時(1938年3月完成)最先端を誇った、中島飛行機武蔵野工場の全景。画像は三井住友トラスト不動産より。
https://smtrc.jp/town-archives/city/kichijoji/p02.html
また、ダイムラー・ベンツ社からDB601航空機用エンジンをライセンス生産する際に、陸/海軍で別々に契約して導入し、ヒトラーから「日本の陸海軍は仇同士か」と言われたのは有名な話だ。)

https://smtrc.jp/town-archives/city/kichijoji/images/02-01-01.jpg
それにしても、日本の自動車史にこれだけ大きな足跡を残した、渋沢正雄の写真をネットで探してみても、なぜか見当たらないのであった。そこで、「墓守たちが夢のあと」というブログの、谷中霊園に眠る渋沢正雄のお墓の写真が見つかったので、お墓の写真とその説明文をコピーさせていただいた。https://ameblo.jp/mintaka65/entry-12489553389.html
(『渋沢栄一の三男・渋沢正雄は、大正4年(1915)に東京帝国大学法科大学経済学科を卒業し第一銀行に入行しますが、2年後には退行し、実業家として一族の会社経営に関わって行きます。石川島自動車・昭和鋼管社長や石川島造船専務を務め、昭和5年(1930)には「株式会社石川島飛行機製作所」を創立し初代社長に就任。(第2代社長は兄の武之助)。その他、秩父鉄道・日本製鉄・日満鉄鋼販売・日本鋼材販売の各社長並びに常務など多くの企業に重役として名を連ねています。90代で現在も活躍されているエッセイストの鮫島純子氏は渋沢正雄の娘だそうです。』)ちなみに渋沢正雄は瓦斯電の松方五郎とともに、のちのこの記事の“その5”と“その6”でも“引き続き活躍”する予定だ!

https://stat.ameba.jp/user_images/20190703/08/mintaka65/a5/88/j/o1332100014490010371.jpg?caw=800
8.3ダット自動車製造の辿った道(日産自動車の源流)
国産自動車製作のパイオニアの一人として、その開発に心血を注いだ橋本増治郎率いる快進社は、乗用車の販売不振に苦しんだ末に、軍用保護自動車の製造に乗り出す。しかし橋本と陸軍との間で軋轢が生じてしまう。
一方、商都大阪の風土の中から、久保田鉄工所の出資を中心に、小型乗用車の製造に名乗りを上げた実用自動車製造も、同じく販売不振に陥り苦境に立たされたが、生き残りのため両社は手を結び、ダット自動車製造として、軍用保護自動車メーカーとしての新たな道を歩んでいく。のちの日産自動車の前身の誕生である。(下は日本の自動車産業のパイオニアの一人であった、橋本増治郎。画像はwikiより)

以下、両社の苦難の足跡を、③、⑱、⑲、❽、❾-1、⓰、⓱、wiki、JSAE自動車殿堂からのダイジェストで辿っていく。
8.3-1快進社(DAT号)の橋本増治郎が辿った苦難の道
橋本増治郎は東京工業学校(現・東京工業大学)機械科を首席で卒業後、数年の社会経験を積んだのち、農商務省海外実業練習生となり、1902年(明治35年)に渡米、ニューヨーク州オーバン市の蒸気機関製造工場で働く。1905年日露戦争勃発により帰国するが、その直前に重要な出来事があった。以下(引用⑱P85)『日露戦争により明治38年に帰国する直前には、キャデラックやリンカーンの生みの親で、「大量生産の巨匠」ヘンリー・フォードに対し「機械技術の巨匠」と呼ばれたヘンリー・リーランドに面会する機会があったという。米国自動車業界では製造技術をベースに、互換部品や流れ作業による大量生産システムを誕生させつつあった。その光景が橋本の生涯を決定づけたことになろう。』
帰国後は東京砲兵工廠技術将校として機関銃の改良を行い、軍事功労章を受ける。そして日露戦争後に勤務した越中島鉄工所が経営不振で、九州炭鉱汽船に買収されたことが大きな転機となる。ここで九州炭鉱汽船社長の田健治郎と、役員で土佐の有力政治家の子息である竹内明太郎(吉田茂の実兄)と出会い、九州炭鉱汽船崎戸炭鉱所長として有望な炭坑の鉱脈を探り当てる。
ここまでざっと足跡を辿っただけでも、橋本が並みのエンジニアでなかった事はわかる。1,200円の功労金を受け取った橋本は退社する。
1911年(明治44年)、竹内の尽力により吉田茂の所有する東京麻布の土地を借りて工場を作り、快進社自働車工場を創業した。140坪の借地に建坪37坪の工場で、従業員は橋本を加えて 7名というささやかな規模からのスタートだったが、その資金(当初8,700円)を援助したのが先の田健治郎、竹内明太郎と青山祿郎の 3氏であった。こうして外国車の輸入組立販売のかたわら、国産乗用車つくりをはじめる。
『橋本の挑戦は、単に適当なクルマをコピーして国内で作るのではなく、エンジンの使用を決めてボディの大きさもそれにフィットしたサイズにするところから出発している。海外のクルマと同じものを国産技術でつくることさえ容易ではなかったが、橋本にとっては、それでは国産技術の確立にはならないと判断していたから、さらに困難な技術にチャレンジしたのであった。』(③P38)国際水準を目指して水冷直列4気筒エンジン搭載の、日本の道路事情に合わせた小型車乗用車の開発に乗り出したのだ。
『しかし、設計したエンジンを実際にカタチにすることは、とんでもなくむずかしいことだった。自動車の部品には鋳物が多く使われているが、多くの技術者が苦労したのが、エンジンのシリンダーブロックの鋳造である。』(③P38)
自動車エンジン用鋳物の製作で苦労することは、戦前の日本で国産車つくりを志す人たちにとって共通の、大きなハードルであった。『早くから工業が発達したアメリカでは、外注先に設計図を示せば、シリンダーブロックなどの鉄製品をつくる技術が確立しており、そのための質の良い材料の入手も困難ではなかった。日本では造船や鉄道車両などに適した材料は作られていたが、ほとんど使用されないに等しい自動車関係に適した材料は作られていなかった。』(③P39)
当時の日本では複雑な形状のシリンダーブロックを鋳造する技術がなく、試作第1号車は試運転まで行えず失敗作で終わる。結局直列4気筒エンジンはあきらめて、シンプルな鋳物制作で済むV型2気筒エンジンに変更して、翌1914年、試作第2号車を完成させた。
以下(Web⓰)より『このエンジンはV型組み付け2気筒と呼ばれるもので、1気筒ごと鋳造されたシリンダーブロックを2つあわせたものだったとされる。横一列に2気筒ぶん鋳造する技術が当時は確立されていなかったようだ。 トランスミッションなどで使われたギア類はニッケル鋼を丸棒で輸入し、これを熱処理し、一個ずつ機械加工を施しつくったという。当時のクルマの例に漏れず、梯子型フレームのボディを架装するタイプ。ホイール、リム、マグネトー、スパークプラグ、ベアリング類などのユニットはみな輸入品。ラジエター、キャブレターなどは工場内で自作している。前照灯はアセチレンガスによるランプである。』
(下の写真はその、V型2気筒10馬力エンジンを搭載したダット号(DAT CAR)完成の記念写真でgazooよりコピー。右端でカンカン帽をかぶっているのが橋本。タクリ―号とは違い、エンジン、車体とも国産であった。DATは橋本の協力者の田、青山、竹内のイニシャルを組み合わせた名前で、脱兎(だっと)の意味も込められていた。このダット号は東京大正博覧会に出品され、銅杯を獲得する。)

https://gazoo.com/pages/contents/article/car_history/150605_1/03.jpg
1915年、V型でなく直列2気筒エンジン搭載の試作3号車、ダット31型では『2気筒ぶんひとつのブロック(モノブロック)である。鋳造は外注ではあったが、ようやく2気筒ぶんの鋳造技術が確立された。』(Web⓰)
こうして着実に技術レベルを向上させていった1916年、当初めざした技術目標であった、直列4気筒エンジンを搭載したダット41型が完成する。以下も(Web⓰)より『モノブロック直列4気筒エンジンにすることで、出力が15馬力に達した。しかもセルスターター付きでバッテリー点火、ギアは前進4段後進1段という当時としては先進的な機構を備えている。
前席に2名、後席に5名の計7人乗車の本格的乗用車である。4気筒エンジンとしてはフォードのモデルTに8年遅れ、セルスターターはキャデラックに7年遅れではあるが、日本人の手によって造られた純ジャパニーズカーとしては、世界レベルに達していたといっていい。』(写真はダット41型。1922年には平和記念東京博覧会で金牌を受賞した。)

https://clicccar.com/wp-content/uploads/2015/10/01-300x222.jpg
この41型の完成を見て橋本は自社技術に自信を得て、その製造へと乗りだすことになる。以下(Webの❽P42)『1918年 8月には株式会社快進社創立事務所が設置され,資本金 60万円で,北豊島郡長崎村に本社ならびに工場を新設して,操業が開始されていった。機械設備として,クランク軸研磨盤,円筒研磨盤,グリーソンのベベル・ギア歯切盤など,当時で最も進歩した専用工作機を含め 20数台余りを輸入新設したという。従業員数は,最盛期には 50名ないし 60名を抱え,当時としては画期的な規模であった。こうしてダット 41型乗用車の製造を目指して操業が開始されたが販売はふるわず,1919年以降,完成したのは 4~5台にとどまったという。』
『だからといってすぐに買い手がつくという情勢ではなかった。日本人にあったサイズのクルマであるといっても、輸入されるアメリカ車に比べて小さいことは、それだけ高級感のないクルマであると思う人が多かった。この当時は、舶来品のほうが優れているという先入観を持つ人が多く、自動車メーカーとしての前途に光明を見つけるのはむずかしいことだった。』(③P42)
販売不振とともに、製造の方も困難だったようだ。『生産台数不振の重たる理由は、国産の自動車用部品の入手難にあった。鋳造部品の質はもちろん、電気コードがやっと国産化された状況では、自動車製造は容易ではなかった。』(引用⑤P22)
8.3-2快進社(橋本増治郎)と陸軍の確執
結局販売不振に苦しんだ末に、のちの石川島と同様に、軍用自動車保護法に望みを託すことになる。
制定当初、軍用自動車補助法は積載量1トン以上のトラックを補助対象としていたが、1921年に改正され(9.2-1参照=対象車両の積載量が民間需要の多い軽量型の3/4トン車も適用となる。鍛造部品の外注を認める。一定の資格を有する技師の配置の義務付けは撤廃)、その内容はあきらかに、当初は相手にしなかったダット側に譲歩し、その参入を即すものだった。瓦斯電の行く末に不安を感じ始めていた陸軍としても不本意ながら?歩み寄らざるを得なかったのだ。
それもあってか快進社は、ダット41型に改良を加え、1922年、陸軍の検定を受けることになった。しかし橋本と陸軍はお互い、どうしても噛み合わないところがあり、この申請では、ボルト・ナットが陸軍の規格に合わず、不合格とされてしまった。以下橋本の憤懣やるかたない思いを綴るので長くなるが、(③P102)より引用する。
『他のところはあまり問題なく直せるにしても、ボルトとナットに関しては、橋本は譲る気持ちは毛頭なかった。軍用ねじは、どのような経緯で決められたのか、独特のサイズになっていて一般の手に入るものにはなっていなかった。緊急の場合は、すぐに手に入るものでなくてはならず、そのために橋本は欧米先進国で一般化しているSAE規格に合致したボルトとナットを使用していたのだ。したがって、これで審査に不合格となるのは理解に苦しむと、橋本は厳重に抗議した。しかし、担当者は橋本の言い分に耳を傾けなかった。橋本のところのような小規模な工場で保護自動車をつくるのはふさわしくないという意識にも支配されていたと思われる。
橋本は、軍部の反省をうながすために「陸軍大臣にその責任ありや」という論文を発表するなどして、ボルトとナットに関する陸軍の不合理さを追求した。さらに、提出中だったダット41型トラックの検定許可申請を取り下げる手段に出た。こうした橋本の行動は新聞などにも取り上げられ、話題になったようだ。
橋本にしてみれば、まだ大企業が自動車づくりに乗り出す前から、苦労を重ねて自動車の国産化に取り組み、ようやく性能の良いものに作り上げることができたのに、ねじ規格が決められたものになっていないからと、橋本の長年の努力を全く認めない態度にガマンできなかったに違いない。(中略)
ボルトとナットに関しては、どう見ても橋本の主張に分があることは、誰の目にも明らかだった。陸軍は1924年(大正13年)になって、橋本の主張するとおりにねじ規格をあらためた。
3年近い月日を陸軍との意味があるとは思われない交渉に費やし、ダット41型トラックが保護自動車として合格したのは1924年(大正13年)のことだった。』 (下の写真はダット号41型750kg積甲種軍用保護自動車検定合格車。確かに3年は長かった。)

http://www.mikipress.com/m-base/img/1924_DAT41_750kgTruck_G00000145.jpg
以下も(引用③P101)より
『「東京瓦斯電気工業」と「東京石川島造船所」自動車部に続いて、軍用保護トラックに認定されたのが橋本益治郎の「改進社」のダット41型であった。しかし、企業としての規模が異なることもあって、前記2社とは異なる展開となっている。それは、公官庁が大企業の方しか向いていないことを如実に示すものだった。零細企業などは相手にしないという態度で、橋本のところはしばらく翻弄され続けた。(中略)陸軍は、瓦斯電や石川島からは、軍用保護トラックを買い上げるなどしているが、橋本のところから購入するつもりはなかったようだし、瓦斯電や石川島のような設備を持っていないことも、橋本の泣き所であった。』石川島の軍用保護トラック分野への参入で再び情勢が後戻りしてしまった。その後も“いじめ”が続いたようだが、陸軍側もそれでも、あとの9.2-2で記すように、徐々に歩み寄りもみせていたようだ。
こうして経営不振は続き、関東大震災後には米国車の販売急伸で決定的な打撃を受け1925年 7月、株式会社快進社を解散し,合資会社ダット自動車商会へと組織を編成替えした。営業目的は軍用保護自動車製造とはしていたが,主に試験的なバス営業を活動内容とすることになった。(❽P42)
8.3-3快進社と実用自動車製造の合併でダット自動車製造の誕生
しかしここで、橋本と快進社にようやく、局面打開に向けての一筋の光明が差し始める。『将来的に見て、保護自動車メーカーが三つぐらいあることが望ましいと考えていた』(③P105)という陸軍の能村元中将(のちに石川島自動車の取締役に就任する)の斡旋があり、同じく苦境に立たされて生き残り策を模索していた、大阪の「実用自動車製造」との合併が画策された。
「ダット」のもつ技術力(実用自動車では小型のV2気筒エンジンしか実績がなかった)+軍用保護自動車認定という実績(看板)+「実用自動車製造」のもつ設備と資金力+久保田鉄工がバックにいるという、陸軍と商売するうえで決定的に重要な信用力を結び付けようとする動きだった。橋本は自動車事業を継続させるためには、この提案を受け入れざるを得ないと苦渋の決断をする。
1926年9月、ダット自動車商会と、実用自動車製造は合併して、ダット自動車製造が誕生する。社長には久保田鉄工所者主の久保田健四郎が就任し、橋本は専務取締役に納まったが、実質的には実用自動車製造による、ダットの吸収に近い形となった。
8.3-4実用自動車製造の辿った、同じく苦難の道
冒頭から引用で、手抜きで恐縮だが、実用自動車製造の特色を良く現わしているので(③P70)より『石川島造船が自動車の生産のために本格的な生産設備を整えて参入したのと同様に、莫大な投資をして自動車の生産に乗り出したのが、大阪の「実用自動車製造」である。大阪の産業界の有力な企業が寄り集まって出資して設立されたものであるが、首都東京を本拠地として中央を意識する石川島とはその狙いなどに違いが見られたのは、庶民の街であり、商業都市として栄えた大阪を本拠地にしていたことによる。』
米国人ウィリアム・R・ゴーハムは、大正8~9年(1919~20)に3輪自動車の開発に成功、そのクルマが大阪の街を走る姿を目にした久保田篤次郎(久保田鉄工所社長久保田権四郎の女婿)が興味を抱いたことから話は始まる。
(下の写真が久保田の目にした3輪乗用車で、運転する櫛引弓人と横に窮屈そうに乗るのがウィリアム・R・ゴーハム。このクルマは俗に“クシカー(号)”と呼ばれている。名前の所以は京都の興行師、櫛引弓人の名前からで、日本で世話になり、片足が不自由だった櫛引のためにゴ―ハムがハーレーダビッドソンの部品を使って作り、贈ったものが発端だった。なおゴ―ハムは、国際情勢が緊迫していく中で、悩んだ末、1941年5月、日本に帰化した。日本名を合波武克人という。)
http://www.jahfa.jp/wp/wp-content/uploads/2013/01/2013-william.pdf

http://www.oppama-garage.jp/Docu0007
人力車に動力をつけたような安くて便利な乗り物があれば、輸入車と競合することなく普及するのではないかと考えた篤次郎は、ゴーハムの権利を 10万円で買い取り、自動車製造に乗りだした。会社は久保田権四郎を社長として、当時としては巨額の100万円という資金を投じて設立され,ゴーハムも設計主任者として招聘された。設計変更を加えた前一輪,後二輪の幌型自動三輪乗用車の試作に着手し,1920年 6月頃には試運転を実施し,月産 50台を目標に製造に乗りだした。(下の写真がゴルハム式3輪実用自動車で、その生産台数は乗用車型とトラック型の合計で約 150台に達したという。)

http://www.oppama-garage.jp/Docu0008
大阪市西区の埋立地に建設された工場の設備はゴ―ハムらアメリカ人がレイアウトしたもので、米国式の最新式機械を使用した、建坪1,300坪に及ぶ当時の日本で最新最大の自動車工場となった。当時の国産車で技術上のネックとなる『シリンダーブロックの鋳物は、外人技術者の指導を受けるとともに、自分たちでもいろいろと工夫して、質の良い材料により強靭なものをつくることができるようになった』(③P75)という。(工場にずらりと並ぶゴ―ハム式3輪車。最盛期には250名が働いていたという。)

http://www.oppama-garage.jp/Docu0009
『販売準備が整って店頭に新車が並ぶと、ショールームを訪れた人々から賞賛の声が押し寄せたが、試乗した人の中から横転事故が発生した。それも一度だけでなく度々あって、3輪構造の弱点がもろに出て評判を落とした。』(Web⓭-3)(下の画像はゴーハム式4輪車のトラック型。3輪型は狭い後輪トレッドが災いしてカーブで転倒し不評だったため、4輪タイプに作り替えたものだが、三輪の面影を残してハンドルが1本バーだった。乗用車型はタクシーとしても活躍したという。)

http://www.mikipress.com/m-base/img/1921_%E3%82%B4%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%83%A0%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AFG00000119.jpg
1923年(大正12年)に登場したリラー号は、久保田鉄工から派遣されてゴ―ハムの助手として働き、後にダットサンで主任技師となり活躍する後藤敬義が改良を加えたもので、ゴルハム式はホイールベース/トレッドが1828/914mmと小型だったが、リラー号は2133/965mmと大型化された。ディファレンシャルを装着しリヤシャフトをシャフトドライブする、丸ハンドル式の本格的な4輪自動車に生まれ変わった。(下の写真はリラ―号。日本の道路事情を考えた実用的な4人乗り小型4輪車として、後のダットサンのコンセプトにも大きな影響を与えた。DATとともに日産車の直接のルーツとなったモデルとも言われている。)

https://nissan-heritage-collection.com/NEWS/uploadFile/p08-01.jpg
4輪型の生産台数は、初期型のゴルハム式が約100台、リラー号と名づけられた丸ハンドル型が約200台製造されたが、この量産規模では、フォードの横浜組立車が1,700円のところ、箱型が2,000円、幌型が1,700円と割高だった。当然ながら経営が苦しくなる一方で、先に8.3-3で記したようにダットとの合併で、軍用保護自動車を活路に生き残りを図ることになる。
(下はブログ“復活ブルーバード”さんよりhttp://u14sss22ltd.fc2web.com/datsun1.html
まさに超「レア・アイテム リラー号のカタログ」)

http://u14sss22ltd.fc2web.com/liragou.jpg
(⑧P145)より引用する。『久保田篤次郎は、これら両社の合併が陸軍の自動車政策の一環である点について次のように指摘する。「能村磐夫さんから「今からはじめたのではたいへんだ。橋本増次郎がダット自動車で軍用車の資格を得たが、設備がないということだから、一緒になったらどうか」という勧告を受けました。それでダット自動車と実用自動車とが合併したのであります。」』 けっして目立たないのだが、日本の自動車史の中で、久保田鉄工所と久保田篤次郎、権四郎は重要な役割を果たしてきた。(久保田篤次郎の顔写真をネットで探そうとしてもなかなか出てこないのだが、下の「新経営研究会」というブログの「元アメリカ日産自動車 社長 片山 豊氏」という記事の中の写真に見ることが出来たのでコピーさせていただいた。『ダットサン完成1号車を囲む日産自動車創業時中心メンバー1935年 左から鮎川義介、浅原源七、山本惣治、久保田篤次郎』) 思いをつなげて、小型車ダットサンの量産型の完成を見届けたのだ。
http://www.shinkeiken.com/pub/aniv/03.html

http://www.shinkeiken.com/shuppan/images/30th_03kan_1_4.gif
なお,リラー号まで設計に関わったゴーハムは,1922年に同社を退社し,鮎川義介率いる戸畑鋳物株式会社に移動していった。
8.3-5軍用保護自動車メーカーとしての新たな道
こうして、実用自動車製造とダット自動車商会は統合されて、ダット自動車製造が誕生し、ダット51型がつくられる。以下、(③P106)より引用を続ける。
『「ダット自動車製造」となって最初の自動車としてつくられたダット51型は、41型の改良ということで、とくに陸軍の検定審査を受けることなく保護自動車として認定された。陸軍も「改進社」時代の軋轢を引きずらずに、ダット自動車に対して協力的になっていた。』
大阪の有力財界人をバックにした旧実用自動車側の信用力がついたため(今までのようなイヤガラセもなくなり?)、ようやく陸軍からも買い上げられるようになり、経営的にも一息がつけた。石川島と瓦斯電が首都東京の企業なのに対して、新生ダットが関西の大阪の企業だったことも、勢力分布的に幸いしたのではないだろうか(想像です)。(下の写真はダット51型保護自動車。1~1.5トン積みとなり、③P106によれば1927~29の間に106台生産されたという。だが台上試験装置の方にも興味が沸く。(以下引用⑲P67)『本格的な試験装置による自動車性能試験としては本邦初のもの(中略)で、床下の直径約1400mmの回転ドラム上に、各自動車の動輪を載せて動力を測定しているところ』の、『牽引力試験風景』らしい。試験装置は隈部一雄帝大助教授(当時。後に戦後、トヨタ自動車副社長に就任)が自ら設計した。依頼主は陸軍のようで、軍用保護自動車3社と、白楊社のオートモ号を比較試験した。今でいうところの“馬力測定用シャシーダイナモ”の元祖のようだ。)

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しかし“ダット(DAT)”の社名は残ったが、その意味するところは後に、支援者3名を意味するところから、製品としての自動車の特徴を表現する、Durable(耐久性がある)、Attractive(魅力的な)、Trustworthy(信頼できる)、に改められた。
9.軍用自動車補助法の、その後の変遷
<9項概要>この記事の最後として、軍用自動車補助法の変遷を辿りながら、その間に起こった、同法を取り巻く内外の情勢変化を記した上で、まとめを書いて(ようやく!)この記事の終わりにする。
軍用自動車補助法の改正は度々行われたが、そのうちの1921年、1924年、1929年、1930年、1931年、1932年の6回の改正について、改定内容と、背景、陸軍が意図したところを簡単に記す。
しかしその前に、軍用自動車補助法実施後から、最初の大きな改正のあった1921年までの、3年間の状況を確認しておく。
9.1見込みを大きく下回った、その原因
まず初めに、陸軍が当初計画していた、民間に保有させて有事に徴用する保護トラックの予定台数を確認しておく。この記事をまとめる上で③と共にもっとも多くを頼った本の⑥によれば『軍は年間300~350台を適応して5年間に1,700台の車輛を民間に保有させる計画だったと思われる』(⑥P80)という。法案の審議過程における陸軍の答弁によると『将来戦争が起きた場合を必要台数は4,000台と想定されたが、その半分弱を調達する方針だった』(⑥P50)ようだ。しかし8.2の(表5)の実績表をご覧いただければわかるが(たとえば1918~1921年の生産合計で89台)、その目標を大きく下回ってしまった。
しかし、『1917年現在、トラックの保有台数が約2,000台であり、しかもそのうちこの軍用車の規格に合うのは30~40台に過ぎなかったことを考えると、この計画は相当の大規模のものだった。』(⑥P50)1,700台という数字自体、元々大胆なものだったことも事実のようだ。以下、大幅未達に終わった理由をいくつか掲げておく。
(A)そもそも甲/乙級トラックの需要が乏しかった
『当時の日本には三トントラック(注;3トンは車両総重量で、積載量は1~1.5トンの“甲”種トラック)や四トントラック(同、1.5トン積以上の“乙”種トラック)の需要は乏しかった。実際、国会審議の中で、「民間では三トンでも大きすぎる。二トン以下も含めるべきではないか」との意見も出たが、陸軍は「軍の要求性能を満たさない」とこれを一蹴している。』(⑤P27)とのことで、その目標台数は市場調査をもとに算出されたものではなかった。『陸軍としては軍用車は火砲の輸送も可能な四トントラックの能力が望ましかった』(⑤P27)が、このクラスの比較的大型のトラックは、当時の日本の道路事情もあり、実際の需要は少なかった。
(B)当初予想の製造コスト達成が厳しかった
製造補助金の額は7.1㋑で記したようなロジックで算出されたが、実際には『ほとんどの部品を内製することが求められた状況で、工廠なみの原価で製造することは難しかったのである。』(⑥P54)必要な設備投資と、市場での販売予想台数、及び緊縮財政下での軍用車の見込み台数から、採算が合わずに、市場参入を断念した企業もあったようだ。
(C)瓦斯電が経営危機に陥った
8.1-2で記したように、当時唯一軍用保護自動車を製造していた頼みの瓦斯電が、第一次大戦後の反動の不況下でこの時期経営危機にあり、車両の製造も開発もままならなかった。
(D)軍縮になり予算不足となった
そもそも『軍用の規格に合格するすべての車輛に補助金を与えるものではなかった。その車両の中で、毎年の予算の枠内で補助金を受ける車両台数が限定されていたのである。』(⑥P51)法制化を検討していた時期は第一次大戦中で好景気だったが、何度も記しているが戦後は長い不況に突入し、財政難で軍縮となった。従い5年で1,700台分の予算の確保は元々厳しい情勢となったが、上記(A)(B)(C)の理由から実需がさらに大きく下回り、この時期にこの問題が、顕在化することはなかった。
そのほかにも、当時の日本人の舶来品志向や、申請手続きの煩雑さ等もあっただろうが、以上のような諸問題を抱えた中で、以後の改正が行われていく事になる。
9.2軍用自動車補助法の改正の経過
この項は(⑥と⑧)を元にまとめた。
9.2-1 1921年の改正
ⅰ.対象車両の積載量を民需の多い3/4トンに拡大(従来は1トンから)
ⅱ.製造補助金を最大3,000円に増額(従来は2,000円)
ⅲ.鍛造部品の外注を認める。
ⅳ.工場内に一定の資格を有する技師を配置する条項を撤廃する。
→ⅰ、ⅲ、ⅳは上記(C)(A)(B)に対しての対応策で、陸軍にとっては誠に不本意ながらも?瓦斯電以外で当時唯一参入の可能性があった、ダットの新規参入を明らかに念頭に置いた内容だった。ダットもそれに応えようとするが、相性の悪い?両者のその後の顛末は、8.3-1を参照ください。ちなみに石川島はこの時点では、乗用車も完成しておらず、陸軍としてはこの時期、DATに託すしかなかった。
ⅱは(B)を受けての処置で、瓦斯電での経験値から当初の予想よりも製造コストが高くつくことに対しての改正だった(⑥P79)。
9.2-2 1923年の改正
ⅴ.輸入可能部品に鍛造部品が追加となる。
ⅵ.螺子の規格が廃止される。
→ⅴは石川島、ダットの両社ともに、国産鍛造部品の調達に苦労しており、そのための対応(特に石川島の新規参入を即す)だった。
ⅵは言うまでもなく、ダットの橋本との確執の結果であった(8-3-2参照)。
9.2-3 1924年の改正
ⅶ.100台/年以上製造できる規模の設備を有していることが、条件として付け加えられる。
→石川島もダットも1924年に軍用保護自動車の検定に合格し、瓦斯電に続き軍用自動車補助法の許可会社となった。先にも記したとおり陸軍は『将来的に見て、保護自動車メーカーが三つぐらいあることが望ましいと考えていた』(③P105)。しかしその一方で、『そもそも陸軍としては、修理の必要などから、多数のメーカーが少量生産することを好まなかった』(⑥P80)。その“目標”が達成されたため、3社で“打ち止め”することを意図して、これ以上の新規参入に対してのハードルが一気に上げられた。後に陸軍と商工省は3社の統合に動くことになる(“その5”の記事で記す予定)。
9.2-4 1929年の改正
ⅷ.製造補助金を大幅減額した。(1921年との比較で:甲《積載量3/4~1トン》1,500→900円、乙《1~1.5トン》2,000→1,200円、丙《1.5トン以上》3,000→1,800円)
9.2-5 1930年の改正
ⅸ. 製造補助金をさらに減額した。(1929年との比較で:甲900→400円、乙1,200→750円、丙1,800→1,200円)
ⅹ.補助金対象に6輪車を追加した。(甲1,400円、乙1,750円、丙2,200円)
9.2-6 1931年の改正
ⅺ.甲《積載量3/4~1トン》を補助金の対象から外し、他の製造補助金をさらに減額した。(1930年との比較で4輪車:乙750→150円、丙1,200→200円。6輪車:乙1,750→1,000円、丙2,200→1,500円)
9.2-7 1932年の改正
ⅻ.製造補助金をさらに減額した。(6輪車:乙1,000→700円、丙1,500→1,000円)
→1929~1932年の改正は傾向として同じ流れにあるためまとめてみていくが、4輪車の製造補助金は、甲が廃止され、乙と丙も150~200円と、トラック1台の単価からみれば、ほとんど意味をなさない程度の金額まで減らされてしまった。さらにその後1936年の改正では、乙もその対象から外されてしまうことになる。民間との共用を考慮した、後方支援用トラックの補助金は大幅に減っていき、代わりに前線で使用する6輪車が補助金の対象に加わり、以後は6輪車へと特化して、民需から大きくかけ離れていった。関東大震災(1923年9月)以降に国内の自動車市場で起きた、大きな変化に伴う結果だった。
9.3フォード、GMの進出で急拡大した日本の自動車市場
次回の記事(“その4”)で詳しく記す予定だが、以降はフォード、GMの日本進出が、陸軍と軍用自動車補助法、及び保護自動車3社に与えた影響部分だけに限定して、記しておきたい。まず両社の日本進出について、その概要だけ記しておく。
関東大震災を大きなきっかけとして、まずフォードが横浜でノックダウン生産を開始して(1925年2月)、ライバルのGMも後に続き大阪で同じくノックダウン生産に追随した(1927年4月)。両社は全国に展開した販売網を通じて、大量生産故の低価格と月賦販売を武器に、熾烈な販売競争を繰り広げていった。その結果、タクシー、トラック、バスなどの新たな営業用需要を開拓し、日本の自動車市場は急速に拡大していった。そして先に7.1で示した表(表3:自動車保有台数の推移)に示したように、トラックの保有台数も急速に拡大していった。次に両社の進出が、保護自動車3社に与えた影響から見ていく。
9.4 保護自動車3社に与えた影響
まず初めに、フォードとGMの組立台数を含む表を示す。
(表6:「日本フォードと日本GMの経営成績(1925~1934)」(㉑P30より転記))
この表と、8.2項の終わりの方で記した、国産軍用自動車メーカー3社の生産台数の表(表5)を比較すればその差は歴然となるが、たとえば1929年の石川島、瓦斯電、DATの生産台数はそれぞれ205台、58台、19台に過ぎないのに対して、すでに日本進出を果たした同年のフォードとGMの日本における組立台数は10,674台、15,745台と、あくまで生産台数を尺度にした場合だが、優に100倍くらいの開きがあった。しかも両社の本国アメリカでの生産台数はそれぞれ1,316,286台、1,271,72台と、さらにその100倍ぐらいの台数を生産していたのだから、規模が違い過ぎた。

しかしそんな中でも、日本の保護自動車3社も、陸軍の厳格な検査もあり次第に鍛えられていき(『陸軍の検査を通るのが6割ぐらいだった』(㉒P59))、8.1-2や8.2-2で記したように1920年代後半にはある一定レベルの性能/品質には達していたようだ。『~他の調査でも国産車の品質は「実用上何等の不備なし」とされており、実際に軍用車として使用していた軍から性能問題についてそれほど指摘されることはなかった。』(⑥P84)という。
そのため民間向けの販売が伸びなかった主因は、性能・品質以上に、生産規模の違いによる販売価格にあったようだ。『例えば、27年当時のダットの3/4トン積トラックの価格は5,000円であったが、製造補助金1,500円、購買補助金1,000円によって実際の購買価格は2,500円(シャシーのみでは2,100円)となっていた。ところが、当時の1トン積フォードのトラック・シャシーの販売価格は1,240~1,390円であった。すなわち、20年代後半には、補助金を入れても外国車に対する国産車の価格は割高となっていたのである。』(⑥P85)しかもフォードとGMが日本に持ち込んだ月賦販売を利用すれば、顧客は頭金を500円程度支払えば購入できたのだ。(⑤P37等)
⑥からの引用が続くが、保護自動車3社の『1925~30年間の軍への納入台数と補助金適用台数=民間への販売台数の比率は約半分ずつであった。しかも後者は各市の電気局が中心であり、純粋な民間企業は少数であった。要するに、3社の生産車輛は軍需を中心とし、市電や一部民間企業の営業用乗合自動車として使われるにすぎなかったのである。』(⑥P83)
手作りの域を出ない国産車と、巨額な工場設備と製品開発費を投じた大量生産の(既述のように生産規模が台数ベースでは約×1万倍も違った)フォード/シヴォレーと比較すれば、いかに補助金分で嵩上げさせても、同じ土俵での競争は無理な相談だった。
既に青息吐息の国内3社に、外資勢に対抗するための新たな設備投資の余力などあろうはずがなかった。こうして国産3社は、軍用車以外は、輸入車と競合し難い特殊用途の車両や官需向けのバスなどの限られた市場に逃げ込むしかなかった。しかも(表6)の示すように米の2社は日本市場で大きな利益を上げていた。まだまだ余裕十分だったのだ。この圧倒的な地力の差には、国産3社だけでなく車両開発に深く関わってきた陸軍も、嘆息するしかなかったに違いない。
販売台数の大差の要因は価格だけではなく、関東大震災の影響、販売網やアフターサービスの差、月賦販売の導入、さらにフォードとGMによる馬力競争の影響などさらに細かくみていく必要があるが、それらは以後の記事の“その4”と“その5”で記していく。
次に米2社の進出が陸軍及び軍用自動車補助法に与えた影響を記し、最後にまとめをしたうえでこの記事を(なんとか)終えたいがその前に、官側の新たな動きとして、この時代に商工省と鉄道省が誕生したことも触れておきたい。
商工省は1925年に農商務省を分割して設立され、商工業の奨励・統制を担った国家機関で(wikiより)、自動車産業を所管する官庁となった。関東大震災後の復興需要で、黒字基調だった国際収支が赤字に転じた上に、ノックダウン生産のための部品輸入の急増等が原因で、貿易収支の急激な悪化が問題となっていた(『1922年に700万円に過ぎなかった自動車・部品の輸入額が28年には3,000万円を超え、そのままいけば1億円を突破するものと予想されていた。』⑥P108)という。国産品奨励運動が盛んになる中で、国内の自動車産業の保護&育成に、以降は商工省が前面に立ち、関わっていくことになる(“その5”以降の記事で記す予定)。
一方鉄道省も1920年に新しく設置された省で、1928年からは今まで逓信省が担っていた自動車などの他の陸上交通部門も管轄することとなった(wikiより)。鉄道技術は自動車に先行して、すでに世界水準に達していたが、鉄道省はその育成の過程で得た知見とその自信を、自動車産業にも活かそうと試みる。まずは省営バスの発注を足掛かりに、自動車産業育成に対しても、商工省と連携しつつ、主に技術分野で深く関わっていく事になる(こちらも“その5”以降の記事で記す予定)。こうして、経済産業省と国土交通省が両輪となり自動車行政を進める、現在に至る体制が形作られていった。
なお陸軍(省)の方も、軍需品増産の政策立案とその実施のため、1926年に整備局(統制、動員の2課)が設置されたことも追記しておく。ちなみに初代動員課長は永田鉄山であった。
9.5 陸軍及び軍用自動車補助法に与えた影響
何度も繰り返すが、軍用自動車補助法とは、「日本陸軍が有事に徴用する予定の自動車について、その製造者及び所有者に対して補助金を交付することを定めていた法律」(wikiより要約)であり、その第一の目的は、同法が参考にした欧州諸国の補助法と同様に、日本陸軍が有事に徴用する予定の自動車の確保であった。
しかし欧州と違っていたのは、日本には当時自動車産業というもの自体が事実上存在しなかったため、軍用トラックの発注と製造補助金と通じて、陸軍自らが自動車産業育成に手をつけなければならなかった点にあった。しかし、9.1で見てきたとおり、量の確保も自動車産業育成も共に、はかばかしい成果を上げられないでいた。時代は不況下の軍縮の時代だった。この時期の『陸軍内部では、緊縮財政により軍需予算が減っているのに、民間の自動車メーカーを育成するために予算を使うのは良くないという意見が出ていた。射撃訓練のための軽機関銃さえ購入する予算がないのに何ごとか、という声が大きくなってきていた。』(③P154)という。予算も無い中で、陸軍の立場も、その陸軍内における自動車の立場も、後年のような強いものではなかったのだ。
そんな手詰まり感のあったちょうどその頃に、フォードとGMの日本進出が始まろうとしていた。しかし巨大な自動車メーカーである米2社の進出は、軍用自動車保護法が持つ、副次的な目的であった、国内自動車産業の保護/育成の面からすれば、相反する結果をもたらすだろうことは、目に見えていた。
9.6 フォードとGMの日本進出を反対しなかった陸軍
以下は(⑤P36)より引用する。
『ここで注目すべきは、軍用自動車補助法を提出した日本陸軍も、フォードやGMの工場進出に反対しなかったという事実である。日本陸軍も自軍の装備品は国産が望ましいと考えていたにせよ、より重要なのは高性能な軍用車を必要な数だけ確保する点にあった。つまり当時の日本陸軍は、有事の必要数量さえ確保できるなら、それが国産車であるか輸入車であるかについて、特別なこだわりはなかったのである。』
陸軍はフォードとGMの日本進出により、いわゆる“大衆車クラス”(=何度も言うが、3000cc級の積載量1~1.5トン級)のトラックの民間での普及を内心期待したのだろう。そして9.2で見てきたとおり、恐らくは陸軍の予想を超える勢いで、国内市場は一気に活性化されていき、それに応じて民間のトラックの保有台数も大きく増加していった。以下(⑳P137)より引用
『~フォードで鮮明な印象を与えられたのは、一流新聞に、そのころ珍しいトラックの1ページ広告を掲載したことだった。今になって回顧すると、なぜトラックであり、1ページ広告だったのか。一因は、年ごとに強まってくる軍需景気時代到来の予感、産業界全体が、増大する物資流通への考え始めていた時代相を、いち早くつかんでの訴求ではなかったか。』
(⑤P36)の引用を続ける。『~そして数の確保では、フォードとGMの工場進出は、陸軍の期待に応えていた。国産車が年産400台前後だった1928年、これら工場の生産数は両社合わせて二万台を超えていた。力の差は圧倒的だった。』 こうして陸軍は労せずして、有事の際に民間から徴用する、後方支援用の1~1.5トン積クラスのトラックの必要台数を確保できたのだ。ただし国産車ではなく、外交上次第に難しい関係になりつつあった米国製の、ノックダウン生産車であったが・・・。
以下、この記事を作成するうえで多くを頼った、⑥のP83からこの問題の“まとめ”として引用する。
『法の制定時は、輸入車と国産車を問わず、トラックの保有台数は非常に少なかったため、国産メーカーの奨励と軍用自動車の確保といった問題に相反するものではなかった。しかし、国内軍用車メーカーの不振にも拘わらず、輸入・国内組立の外国車によってトラックが急激に増加すると、どちらを重視すべきかという選択に直面せざるを得なかったのである。
そして、当時の軍縮ムードによる予算節約、国内メーカーの消極性などを考えると、民間との共用の自動車は外国車に委ねつつ、軍用専門の自動車のみに補助金を与え、その生産を確保する方針を採ったと考えられる。』
もう1点、陸軍の軌道修正の“背中を押した”?出来事に、先に記した商工省の誕生があった。軍用自動車補助法の実施が、国産車の奨励と自動車産業の育成という、自動車産業政策としての側面を持っていたために、今までは陸軍が前面に立ち、その旗振り役を演じてきた。
しかし官僚機構内での役割分担として、商工省が自動車産業振興のための行政を行うことになったため、陸軍はその役目から“解放”された。そして台数が必要となる後方支援用トラックは当面フォードとシヴォレーに任せて、陸軍が開発に関わる軍用車両は、前線で使用する際に重用する6輪車に特化させるのであった。(ブログ“独歩”さん http://doppo.moritrial.com/?eid=162280 よりコピーさせていただいた、趣のある下の写真は『祖父が昭和初期に運送業を営んでいた。セピア色の写真はそのころの初代トラックでシボレー1-1/2噸トラック。「昭和12年2月27日 京都駅前にて」と記されている。』そうだ。シヴォレーのトラックは大阪組立だったせいもあり『大阪、奈良、京都、滋賀、兵庫を中心に販売した』(㉓P8)という。)

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9.7陸軍が重用した六輪軍用自動車
しつこいようだがこの記事全体の“まとめ”をする前に、新たに保護自動車のカテゴリーに加わり、六輪自動車についても、(⑤P46、③P156)等を参考に、ここで簡単に触れておく。
前記のように1930年の法改正で、財政難から製造/購買補助金の減額と、3/4~1トントラックが除外される一方で、保護自動車に六輪車が追加された。
陸軍の六輪自動車といえば、後の九四式が有名だが(後の記事の“その5”あたりで記す予定)、正式化される前から、石川島(スミダ)や瓦斯電(チヨダ)などが六輪車を製造し、陸軍に納入していた。後部2軸の6輪車は積載量の多さや、不整地でも履帯(キャタピラー)を装着すれば一定の走破性が期待できた。6輪車は保護自動車3社の中でも石川島が得意としていたようだ。元はウーズレーにあったものにヒントを得て試作したのが始まりだったそうだ。(③P156)下の写真はブログ「陸軍主要兵器写真館」さんよりコピーさせていただいた「石川島P型「九二式高射砲牽引車」」。
http://www.pon.waiwai-net.ne.jp/~m2589igo/cgi-bin/bunnkanrikugun5syaryourui.html?newwindow=true

https://www.pon.waiwai-net.ne.jp/~m2589igo/cgi-bin/92sikikenninnjidoukasya.JPG
いっぽう瓦斯電のTGE-N型6輪車はモーリス(英)のものを参考にしたようだ。(⑧P176)(下の画像は“みつを工機P”on Twitter:さん https://twitter.com/mitsuwo117 よりコピーさせていただいた。)

https://pbs.twimg.com/media/C6YdERVU0AEL74h.jpg:small)
これらの六輪軍用トラックは、戦前の陸軍の軍用トラックのいわば最終型として、後の“その5”の記事で記す予定の「九四式六輪自動貨車」として結実することになる。(下の画像は「ファインモールド社製模型の「1/35 九四式六輪自動貨車 箱型運転台」の完成品。ヤオフクに出品されていたものをコピーさせていただいた。「九四式六輪自動貨車」は、小型車ダットサンやダイハツ/マツダのオート三輪(“その5”の記事で記す予定)、戦中~戦後を通じて官民一体で地道な改良が続けられ、朝鮮特需の際に両社を倒産の危機から救ったトヨタ(KB型)/日産(180型)の軍用トラック(“その6”と“その7”で記す予定)とともに、戦前の日本を代表するクルマではなかったかと思う。ちなみに1台だけあげるとすれば、一般的にはダットサンだろうが、個人的にはこの九四式だ。『九四式6輪自動貨車については、それを鹵獲し、テストした米軍側の評価が残っている。米軍からみれば、九四式6輪自動貨車は出力重量比の低さが問題視されている(米軍の同クラスの軍用トラックは七十~九十馬力前後)ものの、信頼性は高いと評価されていた。事実、日本陸軍が長い兵站線を戦ったノモンハン事変でも、自動車隊の中心は九四式6輪自動貨車であった。』(⑤P75)その実直な姿そのままに、黎明期で、苦労ばかり多かった中で何とか歯を食いしばり、必死に生き残った石川島、瓦斯電、ダットの3社の文字通り“血と汗と涙の結晶”のようなクルマで、関係の方々の苦労がおもわず思い浮かんでしまう。)

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9.8 この記事のまとめ
今まで延々と、「軍用自動車補助法」と陸軍を軸に、この時代の日本車(~1930年頃迄)巡る様々な動きをみてきたが、この最後の“まとめ”では、この記事の主要なテーマである「軍用自動車補助法」についての個人的な感想(=当然ながら全文まったくの私見です!)を書いて終えたい。
「軍用自動車補助法」が審議され、立法化されたのは第一次世界大戦の最中で、日本は戦争特需に沸き、好景気の真っ只中にあった。しかし少ない予算で、有事に民間から徴用するトラックの必要台数の確保と、自動車産業の育成を合わせて図るという二兎を追う、いささか虫のいい法案だったことも事実だった。そして民間から徴用するトラックの、5年間で1,700台という計画台数は、市場調査の結果から割り出されたものではなかった。陸軍側の軍用に徴用する必要台数から算出されたもので、当時の市場の実態と工業技術の水準からすれば、当初から、意あって力足らずに終わる可能性を十分秘めていた。
同法は1918年5月から施行されたが、1920年3月には戦後恐慌に突入し、日本はその後長い不況となり、軍縮の時代を迎える。限られた軍事費の中で、当時の陸軍の認識では、直接の兵器でない自動車の位置づけは低かった。当初の好況期に立案された予算でさえ、目標台数達成のためには不十分な規模だったが、予算の圧縮でさらに縮小されていった。
一方、自動車産業の育成も狙った同法に対して、民間企業の側の目からはどのように映っただろうか。
陸軍が瓦斯電以外に参入を期待したメーカーの中には、たとえば発動機製造(ダイハツ)、川崎造船所、三菱神戸造船所という、有力メーカー3社の名前があった。
発動機製造は、国産エンジンを開発する目的で、当時の大阪高等工業学校(現在の大阪大学工学部)の学者や技術者が中心となり、大阪の財界も協力して興された会社で、エンジンの技術開発や生産で実績があり、既に定評がある会社だった。自動車を作る上では瓦斯電よりも実力は明らかに上で、陸軍内で軍用車の試作を担当した大阪砲兵工廠と同じ、地元大阪ということもあり、陸軍は内心期待していたようだ。しかし結局、“一歩”踏み出すことはなかった。当時各種エンジンの生産で手いっぱいで、余力がなかったことが理由とされているが、陸軍の計画があまりに楽観的で採算が合わず、リスクが大きすぎると判断したからではないだろうか。
一方三菱神戸造船所と川崎造船所の両社は、三菱/川崎財閥の中核企業として、6.2の(表1)にみられるように、当時の日本の民間製造業の中でトップ2の実力を誇っていた。造船所はこの時代の日本が誇る先進企業で、その中では原動機から工作機械まで自製していた。両社ともに一時は独自に試作車まで製作し、自動車産業進出のための具体的な検討を行ったことも事実だ。
しかし両財閥ともに、国防を考えれば海軍はなにより軍艦であり、さらに陸/海軍ともに当時急速にクローズアップされてきた航空機が最優先で、軍用トラックの優先順位は低い(=予算配分が少ない)ことを直ちに認識した。利益を生むだけの財政支援も期待できない上に、肝心の陸軍自身も、実力のある両社に対しては、当時亜流の自動車よりも、国防の要となる可能性の高い航空機産業への参入の方を、より強く期待した。
発動機製造を含む3社共に、結局のちには、自動車産業に進出することになるのだが、この時点では、瓦斯電や石川島、ダットほどの、自動車産業に対して格別な思い入れはなかった。あくまでも企業として冷静な判断(自動車を生産するための、新たな設備投資をしても、採算がとれない)を優先させたのだった。
実際にその後、瓦斯電、石川島、ダットが歩んだ、軍用保護自動車メーカーとしてのいばらの道のことを思えば、3社ともそれが正解だったと、この当時は思っただろう。予算削減で軍用トラックの発注量も少なかっただけでなく、巨大な自動車メーカーとして世界に君臨していたフォードとGMが、ノックダウン生産を行うためのアジアの拠点として、日本を選択したからだ。
そして国内3社にとっての頼みの綱だったはずの陸軍も、あえて異を唱えなかったのだ。こうして2社に追従したクライスラーを含む、今や死語となったが、巨大な“ビッグスリー“の上陸で、日本の自動車市場はまたたくまに席巻され、植民地化されていった。
しかし、軍用自動車補助法の旗振り役でありながら、成果が出せず、打開策も見いだせないまま窮地に陥った当時の陸軍を救い出したのも、皮肉なことにフォードとGM(シヴォレー)だった。
米車の進出で自動車市場は一気に活性化され、タクシーやトラックの営業車需要が新たに開拓されていった。その結果トラックの保有台数は大きく増加し、陸軍が有事の際に徴用する、後方支援用トラックの確保が一気に解決したのだ。ただし米国製のトラックに頼ってであったが。自給自足を旨とする総力戦構想からすれば矛盾のある話であったが、当時米国はまだ、敵国とは見なされなかったし、そもそも背に腹は代えられない状況だったのだ。
陸軍が米国車の上陸に敢えて反対しなかった理由が、この事態までを予見したからなのか、それとも自動車行政に自信を失いかけた中で、当時の世相(“上陸”を歓迎ムードだった)に逆らうことを遠慮したのか、あるいはその両方だったのか、今となってはよくわからない。そのような視点で書かれた日本の自動車史がほとんどないからだ(⑥と、その影響を受けたと思われる⑤ぐらい?)。いずれにしても、国内自動車産業育成という見地からすれば、陸軍が距離を置き始めたことは明らかだった。
さらに商工省の誕生により、自動車産業育成という大役から降板し、以後は商工省を後押しする形で引き続き、自動車行政に深く関わっていく事になる。
最後の最後に、この「軍用自動車補助法」とこの時期の陸軍が、自動車産業育成に果たした、歴史的評価について、確認してみたい。一般的には『~しかし,コスト的,品質的に欧米車に劣る日本車が同法によって競争優位を獲得したということは決してなく,国家的保護によって,何とか生き残るメーカーがあったという程度の効果を果たしたと理解するべきであろう。』(引用Web❽P47)というあたりが多い。実際その通りだと思うが、個人的な心情からすると、同法と日本陸軍と国産3社を、もう一歩、前向きに評価したい気がする。
確かに同法は、市場分析と予算の裏付けも十分無い中で、たぶんに“願望”や“勢い”で作られた法案だったように思える。しかし1910年代の日本の実情を思えば、理性的な判断だけでは、自動車産業育成策など、そうそう立案できるものではなかったことも事実だった。世界を見渡せば、量産アメリカ車の背中ははるか彼方で、ますます遠ざかろうとしており、たとえ”見切り発車”でも、その”決断”は早い方が良かったのだ。
一方企業の側も、瓦斯電、石川島及びダットの保護自動車3社は、上記(Web❽)などの指摘のように、同法及び陸軍の下支えがあって初めて、苦しい経営を乗り切れたのは事実だ。
しかし3社の側も、軍用保護自動車としての事業が、国を支える事業であるというプライドを胸に、脱落せずに必死に耐え忍んできた。そして厳しい環境下で陸軍の期待に応えるべ努力した末に、1930年を迎える頃にはついに、性能・品質面で、自動車としての一通りの水準まで引き上げることが出来た。もちろん量産型ではなく、主要な部品も輸入に頼っていたようだが、それでも短期間に、大きな進歩を果たしたと思う。
同法を巡っては、たとえば当時の国情を考えれば小型車の振興に力を注ぐべきだった等々の議論があるのも事実だが、日本の自動車産業史の全体を見渡せば、この「軍用自動車補助法」と日本陸軍の果たした役割の大きさに、あらためて気づくことだろうと思う。
以上、ようやく“その3”の記事を書き終えることができた。次の“その4”は、フォードとGMの日本進出で、たぶんこの記事ほどは複雑にならないはずで、7月中にはアップしたい。
引用、参考元一覧 (本)
①:「国産トラックの歴史」中沖満+GP企画センター(2005.10)グランプリ出版
②:「軍用自動車入門」高橋昇(2000.04)光人社NF文庫
③:「苦難の歴史 国産車づくりの挑戦」桂木洋二(2008.12)グランプリ出版
④:「太平洋戦争のロジスティクス」林譲治(2013.12)学研パブリッシング
⑤:「日本軍と軍用車両」林譲治(2019.09)並木書房
⑥:「日本自動車工業史―小型車と大衆車による二つの道程」呂寅満(2011.02)東京大学出版会
⑦:「大日本帝国の真実」武田知宏(2011.12)彩図社
⑧:「日本自動車産業の成立と自動車製造事業法の研究」大場四千男(2001.04)信山社
⑨:「永田鉄山と昭和陸軍」岩井秀一郎(2019.07)祥伝社新書
⑩:「1940年体制 さらば戦時経済」(増補版)野口悠紀雄(2010.12)東洋経済新報社
⑪:「日本株式会社の昭和史 官僚支配の構造」NHK取材班(1995.06)創元社
⑫:「企業家活動でたどる日本の自動車産業史」法政大学イノベーション・マネジメントセンター 宇田川勝・四宮正親編著(2012.03)白桃書房
⑬:「明治の自動車」佐々木烈(1994.06)日刊自動車新聞社
⑭:「日野自動車の100年」鈴木孝(2010.09)三樹書房
⑮:「20世紀のエンジン史」鈴木孝(2001.10)三樹書房
⑯:「いすゞ自動車のすべて」カミオン特別編集(2012.05)芸文社
⑰:「歴史の中の中島飛行機」桂木洋二(2002.04)グランプリ出版
⑱:「写真でみる 昭和のダットサン」責任編集=小林彰太郎(1995.12)二玄社
⑲:「20世紀の国産車」鈴木一義 (2000.05)三樹書房
⑳:「ニッポンのクルマ20世紀」(2000)神田重己他 八重洲出版
㉑:「日本の自動車産業経営史」宇田川勝(2013.10)文眞堂
㉒:「日本陸海軍はロジスティクスをなぜ軽視したのか」谷光太郎 (2016.05)パンダ・パブリッシング
㉓:「日本のトラック・バス トヨタ、日野、プリンス、ダイハツ、くろがね編」小関和夫(2007.01)三樹書房
㉔:「読む年表 日本の歴史」渡辺昇一(2015.01)ワック株式会社
㉕:「昭和陸軍の軌跡」川田稔(2011.12)中公新書
㉖:「浜口雄幸と永田鉄山」川田稔(2009.04)講談社選書メチエ
㉗:「永田鉄山 昭和陸軍「運命の男」」早坂隆(2015.06)文春新書
㉘:「永田鉄山と昭和陸軍」岩井秀一郎(2019.07)祥伝社新書
㉙:「太平洋戦争のロジスティクス」林譲治(2013.12)学研パブリッシング
㉚:「戦後日本経済史」野口悠紀雄(2008.01)新潮選書
㉛:「自動車用エンジンの性能と歴史」岡本和理(1991.07)グランプリ出版
㉜:「悪と徳と 岸信介と未完の日本」福田和也(2015.08)扶桑社文庫
㉝:「岸信介証言録」原彬久(2014.11)中公文庫
㉞:「日本自動車工業史座談会記録集」 (1973.09)自動車工業振興会
引用、参考元一覧 (Web)
➊:「戦前のオート三輪車とプレモータリゼーション」箱田昌平
https://www.i-repository.net/contents/outemon/ir/106/106070306.pdf
❷:「アメリカ南北戦争は日本の金が」ブログ“東京イラスト写真日誌”さん
http://www.irashadiary.com/2014/05/06/20140506/」
❸:「海戦勝利の要因は何だったのか」ある公認会計士の戦史研究 チャンネル日本
http://www.jpsn.org/essay/acct_warhist/12370/
❹:「日本近現代史の授業中継」ブログ 大正政変と第一次世界大戦
http://jugyo-jh.com/nihonsi/jha_menu-2/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E6%94%BF%E5%A4%89%E3%81%A8%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6/
❺:産経新聞「戦後70年~大空襲・証言」
https://www.sankei.com/affairs/news/150310/afr1503100004-n3.html
❻:ブログ“おととひの世界”
https://ameblo.jp/karajanopoulos1908/entry-12587230470.html
❼:“長州新聞”「記者座談会 語れなかった東京大空襲の真実」
https://www.chosyu-journal.jp/heiwa/1134
❽「戦前期日本自動車産業の確立と海外展開(上)」上山邦雄
http://libir.josai.ac.jp/il/user_contents/02/G0000284repository/pdf/JOS-02872072-3703.pdf
❾-1:「日本自動車産業と総力戦体制の形成(一)」大場四千男 北海学園学術情報リポジトリ
http://hokuga.hgu.jp/dspace/bitstream/123456789/3484/1/p145-173%E5%A4%A7%E5%A0%B4%E5%9B%9B%E5%8D%83%E7%94%B7.pdf
❾-2:「日本自動車産業と総力戦体制の形成(二)」大場四千男 北海学園学術情報リポジトリ
http://hokuga.hgu.jp/dspace/bitstream/123456789/3637/1/P123-153.%e5%a4%a7%e5%a0%b4%e5%9b%9b%e5%8d%83%e7%94%b7%e5%85%88%e7%94%9f.pdf
❿::「道路運送車両法 ―その成立の歴史と背景―」小川秀貴 経営戦略研究 Vol. 6
https://kwansei-ac.jp/iba/assets/pdf/journal/studies_in_BandA_2012_p29-41.pdf
⓫:「東京ガスの歴史とガスのあるくらし」高橋豊 川崎市役所 企業の歴史と産業遺産⑤
http://www.city.kawasaki.jp/kawasaki/cmsfiles/contents/0000026/26446/08takahashi.pdf
⓬:「日本で自動車はどう乗られたのか」小林英夫 アジア太平洋討究
https://core.ac.uk/download/pdf/46895065.pdf
⓭-1:「32-07.国産車発展小史⑩~石川島造船所その2~」クルマの歴史300話 蜷田晴彦
http://ninada.blog.fc2.com/blog-category-40-3.html
⓭-2:「32-18.国産車発展小史⑫~石川島造船所その3~」クルマの歴史300話 蜷田晴彦
http://ninada.blog.fc2.com/blog-date-201702.html
⓭-3:「33.昭和時代の始まり」クルマの歴史300話 蜷田晴彦
http://ninada.blog.fc2.com/blog-category-41-3.html
⓮:「瓦斯電から日野自動車へ」家本潔 (インタビュアー鈴木孝)(JSAE)
https://www.jsae.or.jp/~dat1/interview/interview4.pdf
⓯「戦前期における自動車工業の技術発展」関,権
https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/10406/1/ronso1250500150.pdf
⓰:「みなさん!知ってますCAR?」「ダットサンのルーツ」広田民郎
https://seez.weblogs.jp/car/2008/08/
⓱:日産ヘリテージ・コレクション「実用自動車とリラー号」
https://nissan-heritage-collection.com/NEWS/publicContents/index.php?page=6
⓲:「第一次世界大戦の衝撃 ―日本と総力戦―」相澤淳 防衛研究所戦史部
http://www.nids.mod.go.jp/event/proceedings/symposium/pdf/1999/sympo_j1999_2.pdf
⓳:「「昭和日本陸軍の歴史」
https://ncode.syosetu.com/n7245fs/
⓴:「「叛骨の宰相 岸信介」北康利より」 ブログ“読書は心の栄養”
https://ameblo.jp/yoshma/entry-11925185903.html
《21》あなたは知っているか?「T型フォード」と「初代 iPhone」が転回したマーケティングの歴史」
https://markezine.jp/article/detail/28030
備考
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≪備考6≫質&量共に劣っていた日本の軍馬
多少余談になるが、当時の日本の軍馬は世界基準で見た場合、質(能力)の面でかなり劣っていたようだ。以下(⑤P13)より引用『日本陸軍の軍用車について考えるときに忘れてならないのは、日本陸軍が抱えていた軍馬の問題である。十九世紀末から二十世紀初頭の軍隊では、機動力や兵站面で軍馬が重要な位置を占めていた。だが日本陸軍は、その質と数の両面でその所要を満たせないでいた。』(下の画像はwikiより「幕府陸軍のフランス式騎兵」)

そのため日露戦争では、軍馬の不足から輸送力の主役は人間であったという。また当時の日本の軍馬は、性格が荒い上に馬体は貧弱で『その後の義和団事件などでも日本の軍馬は、馬体が小さいわりに従順さに欠け、諸外国から「日本軍は馬に似た猛獣を使用している」と嘲笑されるありさまだった』そうだ。
ただこのことは、馬に対しての接し方が、元来が野蛮な肉食系人種である?西欧人のように家畜(=奴隷)扱いでなく、草食系の温和な日本の社会では共生すべき生き物であったことも一因だったのではないだろうか(まったくの私見(偏見)です)。
その後、軍馬としてみた質の面では30年以上かけて徐々に品種改良されていったようだが、(引用㉒P57)によれば、国産軍用トラックの生産力/性能ともに中途半端に終わった日本は結局、太平洋戦争終結まで馬による輸送に多くを頼ったとしている。

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しかし話が脱線するが、軍馬としての能力が劣る中でも、日露戦争において日本陸軍はそれを補う画期的な戦術を編み出し、ロシア軍と戦ったという。以下は手元にあった入門書的な日本史の本の(㉔P208)「奉天会戦」より長文だが引用
『~世界最強と目されるロシアのコサック騎兵に比べ、日本の騎兵はまことに見劣りがした。何しろ徳川三百年の間、騎兵を用いる必要がなかったから、騎兵の運用は明治になって西欧から大急ぎで学んだばかりだし、馬もあわててオーストラリアから輸入して育成したものだった。日露戦争当時の世界中の人々が日本の勝利に耳を疑ったのも無理のない話であった。
そんな状況下にあって日本の騎兵の創始者、秋山好古が考えたのは、いわば逆転の発想であった。騎兵での戦いでは日本人がコサックに勝てるわけがない。だから、コサック兵が現れたらただちに馬から降りて、従で馬ごとなぎ倒してしまおうと彼は考えたのである。これは騎兵の存在理由を根本から覆す発想である。(中略)
さらに秋山将軍は、当時ヨーロッパで発明されたばかりで、「悪魔的兵器」と言われながらもその威力が戦場では未知数であった「機関銃」を採用した。黒溝台における会戦で、日本騎兵の機関銃の前にコサック騎兵は次々と倒され、なす術もなかった。(中略)その結果、最終決戦となった明治三十八年三月の奉天会戦の戦場では、とうとうコサックは前線に現れなかった。機関銃は世界最強のコサックを封じ込めてしまったのである。(中略)
世界の人々にとって、日本軍の勝利はまるで奇跡を見ているかのようであったと思われる。戦争が終わり、真実が分かっととき、それまで世界中で「陸軍の華」と呼ばれた騎兵は、世界の陸軍から急速に消滅することになった。どんなに機動力があっても、機関銃の連射の前には何の力もないことが明らかになったからである。そこで、機関銃に負けない機動力を持つものとして、十年後の第一次大戦で、欧州の戦場に戦車が登場してくることになった。』
しかし上記㉔の記述のうち、機関銃の話の裏をとろうと確認のため、wiki等ネットで検索すると、『ロシア軍の装備する当時の最新兵器の機関銃により、敵陣を攻撃する歩兵の突撃隊にたびたび大損害を被った』(wiki)等、逆の印象を受けるような記述も多数あり、良くわかりません?自分は機関銃には興味が無いので!興味を持たれた方は、ご自身でネット検索してみてください。「機関銃」は本題から離れるのでこれ以上の検索は止めるが、日露戦争は、双方が歩兵用火器として機関銃を本格的に使用した世界初の戦いだったというのは事実のようだ。
さらに(㉔P211)より追記する。『日露戦争における陸軍の司令官たちはみな実戦で学び、鍛えられた人たちばかりであった。大東亜戦争において、教科書どおりの戦法を繰り返して何ら学ぶところのなかった士官学校出のエリート軍人たちが多かったのとは、大いに違うと言わざるを得ない。』機関銃については横わからないけれど、ここは皆さん同感なのではないでしょうか。
兵站の話に戻し、話がさらに大きく脱線するが後の第二次大戦で、圧倒的な工業力で世界をリードしたアメリカは、日本より遥かに余裕があり思想も進んでいたようで、馬やトラックを“飛び越えて”第二次大戦において輸送用飛行機で物資を空輸するという“贅沢”なことを考えた。以下(引用㉒P64)より『日本陸海軍の特色は、攻撃力偏重であった。攻撃を重視するあまり、その攻撃力を支える諸々の機能(ロジスティクス)を軽視する。戦闘機は、直接的に敵艦隊を攻撃するものではないから不要だとする意見すら有力だったこともある。戦闘機は、単座急降下爆撃機にかえるべきだ、という意見も強かった。(中略)
戦闘機無用論があるくらい攻撃力重視の雰囲気の中で、ロジスティクス関連の飛行機を開発したり、飛行機を使ってのロジスティクスを研究してみようという動きは日本軍の中では起こらなかった。(中略)これは工業力の差以前に航空ロジスティクスへの理解の差といってよかろう。』(太平洋戦争における陸軍の主力軍用輸送機、三菱一〇〇式輸送機は輸送乗員19名で507機が生産された。九七式重爆撃機(キ21)の胴体部分を改設計し、制作された。下の絵は一〇〇式輸送機とほぼ同型のMC-20-I型。「古典航空機電脳博物館」さんよりコピーさせていただいた。)

https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn%3AANd9GcQpEf2a00k0QFkxNygC_jsm4ELIVXDlHlQHvagpNQHLUaifxLj2
(下はジュラルミンの波形が特徴的なドイツのユンカースJU-52型輸送機。日本の一〇〇式とほぼ同性能だったが10倍近い約4,800機も生産された。『ドイツ空軍の兵士たちからは、Tante Ju(タンテ・ユー=「ユーおばさん」の意)と呼ばれ親しまれ』(wiki)、ドイツの空挺師団戦力には欠かせぬ存在だった。)

(下はアメリカのダグラスC47型輸送機。画像はwikiより。DC-3型の軍用輸送機型で、各タイプを合わせて合計1万機以上生産された。ノルマンディー上陸作戦や、アジアの奥地作戦で活躍し、アメリカ軍欧州戦域総司令官だったドワイト・D・アイゼンハワー(後の大統領の)は、“第二次世界大戦を勝利に導いた兵器”として、「バズーカ」、「ジープ」「原子爆弾」そして「C-47輸送機」の4つを挙げたことからも、空輸による輸送が果たした役割の大きさは分かる。「"Four things won the Second World War-the bazooka, the Jeep, the atom bomb, and the C-47 Gooney Bird."」)

≪備考7≫日本陸軍の総力戦構想について
第一次世界大戦において日本は、ドイツ領だった青島、グアム、サイパンを取り、信託統治領として領有した。日清戦争後に台湾を領土とし(下関条約)、日露戦争で樺太の半分と満州権益を得て、さらに1910年には韓国を併合していた。当時の日本はこれらの外地(植民地)をもって自らを“帝国”と名乗っていた。(下の地図の赤い部分が日本の領土で、地図はブログ「我が郷は足日木の垂水のほとり」さんよりコピー)

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/f8/3e60eebafd6ac14fd5f5b7e9447da700.png
南洋諸島まで拡張した“大日本帝国”陸軍には、再三記すが来るべき世界大戦に備えて総力戦体制を築くという壮大な戦略目標があり、それを実現するための明確な計画が存在していた。そして自動車もその中の一部として、位置付けられていた。
そこで以下の≪備考7-1≫で総力戦構想に至った経緯を大まかな点を記したうえで、続く≪備考7-2≫でそのための課題として、工業分野の中でも自動車産業に関係してくる部分をピックアップして、自動車と総力戦構想の関連について、概要の作成を試みた。主に参考にした本は、陸軍軍政家としての本流を歩み、総力戦体制の構築を主導した永田鉄山(永田鉄山については次の≪備考8≫で記す)について主に記された(⑧、㉕、㉖、㉗、㉘、㉙)及びそのアマゾンカスタマーレビュー(安直ですが!)、さらに(Web❾-2、⓲)等だ。しかし泥縄式の勉強では到底理解できなかったことは、本文に記したとおりです。(下の絵は東京市ヶ谷にあった陸軍参謀本部(1922年に書かれた絵)。画像は“ジャパンアーカイブス”さんより。陸軍を統括していた機関は、陸軍省(軍政担当)・参謀本部(軍令担当)・教育総監部(教育担当)の3機関だった。士官学校出のエリートたちを頂点とした、戦前の日本でもっとも巨大な官僚機構でもあった日本陸軍の組織については以下のブログ「公文書に見る日米交渉」を参照ください。
https://www.jacar.go.jp/nichibei/reference/index16.html)

https://jaa2100.org/entry/detail/029490.html
≪備考7-1≫第一次世界大戦の教訓
第一次世界大戦は、1914年7月から18年11月まで、4年半近くに及んだ長期化と、あらゆる物的人的資源をつぎ込むという総力戦化で、戦争当初の予想をはるかに超える過酷な戦争となった。
(下の図と以下の文はブログ「昭和日本陸軍の歴史」https://ncode.syosetu.com/n7245fs/
さん(Web⓳)よりコピーさせていただいた。『1914年(大正3年)7月から1918年11月まで、4年半近くの長期にわたってつづいたこの戦争は、戦死者900万人、負傷者2,000万人という、それまでの戦争とは比べ物にならないほど未曾有の規模の犠牲者と破壊をもたらす凄惨な戦争となった。』)

日本の戦闘範囲は、ドイツの武装商船の拠点となっている南太平洋で、ドイツが租借していた南洋諸島の制圧と、同じくドイツが租借していた、東南アジア屈指の良港であった青島への攻撃でごく限定的なものであった。しかし陸軍は早くから、第一次大戦の主戦場であった欧州にも武官を派遣して、その実態調査に当たらせていた。
『日本陸軍は、ヨーロッパを中心に繰り広げられていた第一次大戦の戦訓調査について、戦争勃発の翌年の 1915 年に早くも「臨時軍事調査委員会」を設置してその調査を開始し、戦争半ば過ぎの 1917 年後半にはその総力戦的様相を「国家総動員」という言葉で捉えるようになっていた。』(Web⓲P17)
『陸軍は大正4年(1915)に臨時軍事調査委員会を発足させ,第一次世界大戦のヨーロッパ諸国における経済力戦を調査させた。委員会はその調査報告書として大正6年(1917)1月に「参戦諸国の陸軍に就て」を発行し,航空機,重火器,車輌(戦車・軍用自動車)等を中心にする総力戦の実態を報告した。さらに,陸軍は砲兵少佐鈴村吉一をヨーロッパに派遣し,各国の軍需工業の実態とその動員体制をも調査させた。この結果,彼は,大正6年9月に「全国動員計画必要ノ議」を提案するに至る。』(Web❾-2P129)
欧州で総力戦の実体と連合国及びドイツの戦争遂行の過程をつぶさに見て、大きな衝撃を受けた陸軍の中堅幕僚たちは、第一次世界大戦終結後の国家戦略の構想に取り組み始める。
『そうした総力戦研究の成果は、戦争終結後の 1920 年に『国家総動員に関する意見』という報告書等にまとめられ、純軍事的分野のみの対応に限定されない総力戦への対応策が陸軍部内で種々検討されていくことになった。』(Web⓲17)という。
その『国家総動員に関する意見』を策定したのが、前記の永田鉄山で、理論的に体系化されたその論文は、のちの総力戦体制構築のためのたたき台となっていく。(≪備考8≫参照)

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/dd/35131bf604536ff42a05c1a9c062b949.jpg
≪備考7-2≫総力戦構想の課題(工業分野)
≪備考7-2-1≫前書き(言い訳?)
従来の国軍は、その国力に応じた短期(1〜2年)の戦争を想定して規模や装備が定められており、それが世界共通のあり方であった。しかし国家総力戦となった第一次大戦では、国家が国力のすべて、軍事力のみならず経済力や技術力、科学力、政治力、思想面の力を平時の体制とは異なる戦時の体制で運用して争う戦争となった。
『総力戦体制構築のためにまず問題となるのが、莫大な国力を消費する長期の消耗戦を戦うために必要な経済力をどのように育成していくかであった。国内の資源が乏しく、工業生産力等もいまだ主要列強に劣る日本にとって、これは大きな問題であった。』(Web⓲P17)再三記すが西欧先進諸国に比べて、長期の総力戦を戦う上で、何から何まで足りなかったのが当時の日本だった。
以下は経済/工業分野に於いて、総力戦構想なのであくまで“陸軍目線(=「将来の戦争に備え、国を守るためには、国家総動員体制の構築が必要」とする価値判断)”から見た主な課題の中でも、自動車分野(=これも陸軍目線なので対象は乗用車でなく主に軍用トラック)に直接/間接に関わってくる部分に限定して抽出し、≪備考7-2-3≫で箇条書きで簡潔にまとめてみた。しかし何度も記すが表面的な理解のため自分のものになっておらず、いかにも寄せ集め的になってしまった。ただ本題に入る前に前書きばかりが長くなるが、この時代(=この項は主に大正デモクラシー期を想定。後の戦乱の昭和より前の時代)の時代背景を先にしるしておく。
≪備考7-2-2≫その時代背景
戦争特需の反動による不況と、1918年のシベリア出兵に対しての批判で、昭和(当然戦前の)と違い厭戦気分が高まっていた。さらにロシア帝国が滅び、外的脅威が弱まったことも相まって、軍縮への要求が高まる、陸軍にとっては逆風の世相の中で行われたものであったことも追記しておく。1922年にワシントン会議(下の写真はその模様で、画像は“国際IC日本協会”さんよりコピーさせていただいた)が開催され、軍縮条約で主力艦(戦艦)の保有制限が合意された。陸軍においても山梨軍縮・宇垣軍縮が進み「軍縮の時代」が始まった。以下(㉕)より引用
『1920年代の陸軍主流をなしていた宇垣一成は、長期の総力戦への対処として軍の機械化と国家総動員の必要を主張しており、その点では永田と同様であった。だが、基本戦略としてワシントン体制を前提に米英との衝突はあくまでも避けるべきとの観点にたっており、主にソ連との戦争を念頭に、中国本土が含まれないかたちでの、日本・朝鮮・満蒙・東部シベリアを範域とする自給自足圏を考えていた。それは、資源上からも厳密な意味での自給自足体制たりえず、不足軍需物資は米英などからの輸入による方向を想定していた。したがって、中国本土については米英と強調して経済的な発展を図るべきであるとの姿勢であった。米英ともに中国本土には強い利害関心をもっていたからである。』(㉕P81))

http://iofc.jp/wp-content/uploads/2015/03/960829bc901f2850fa2a35e214f1cf53-300x184.png
冗長な前置きばかりだがもう1点、上記の説明ともかぶってくるが、この時代の陸軍の軍戦備構想がけっして一枚岩でなかった説明として、(㉚P78)より引用しておく。『(前略)相反する考え方があったのである。一方は「平時から大規模な戦力を持っておき、戦時になったら短期間で敵国を打ち破ろう」という構想をもっていた。工業力の貧弱な日本は長期戦に耐えられないという認識からの構想である。だが他方で「長期戦は想定せねばならないし、そのためには国内の工業基盤を整備して、長期で大量の軍需動員に備えるべきだ」という考えを持つ軍人たちもいた。』後者が「総力戦構想」といえるが、その延長線上で、自給自足体制の確立を目指し、大陸へと戦線を拡大し軍拡の道を歩む事にもつながっていったと思う。
≪備考7-2-3≫総力戦構想と自動車の関係
本題に戻り、先にも記したがいかにも“寄せ集め”の感が拭えないが!以下は箇条書きで自分なりにまとめてみた。
㊀.長期間の総力戦を戦い抜くためには資源の自給自足体制の確立が大前提となる。そのため資源を求めて資源調査と、中国大陸における軍事行動を伴う資源確保が画策されていくことになる。このことは外交上のフリーハンドを得るためにも必要と考えられていた。
㊁.工業分野に於いては基礎的な目標としてまず、産業振興のための基盤整備として、西欧列強に大きく劣る鉄鋼や化学、機械工業等の重化学工業を自立させることがまず前提となる。そのため各種国産補助法に基づく出資/援助等を行ない、基盤産業の保護/育成を推進していく。(たとえば1917年の「製鉄業奨励法」等。Web❾-2P130等参照)
㊂.㊁と並行して、長期戦を戦うために、近代兵器(航空機、軍艦、軍用自動車、戦車等)を大量生産し、自給自足体制を確立させる必要となる。また敵国と有利に戦う上では量だけでなく、兵器自体の性能(質)が決定的な要素となる。そのためには人材育成等も含め、工業技術力全般の大幅なレベルアップも必要となる。
㊃. 当時の日本の限られた条件下で、㊁、㊂を実現するために、生産設備・物資・資源・人材を効率的に配置する、国家主導による計画/統制経済が構想されていく。
㊄.関連して、動員時の統一的使用が可能なよう工業製品の規格統一を図ること、軍需品の大量生産に適するよう生産・流通組織の効率化と大規模化を目指すことになる。
㊅.別の視点から見れば工業分野に於ける総力戦構想とは、戦時と平時の生産力のギャップを埋め平時から戦時のための工業動員に備える(平時も準戦時体制に置く)為のものと捉えることも出来る(⑧P31等参考)。
㊆.上記㊅と関連して、陸軍にとって自動車産業を育成することは、第一次大戦の戦訓から、近代兵器として育成すべき最優先の分野であった航空機産業を、平時からバックアップすることを意味していた。現代と違い当時は自動車と飛行機の技術的な関連性が高かったため、いわゆる「シャドーファクトリー構想」(=「戦時における工場の軍需転換」)を意識していた。(関連≪備考12≫)
㊇.産業界側からみると、第一次大戦は一方で日本に戦争特需をもたらし、主に重化学工業分野がその恩恵を受けた。上記の政府の施策と相まって日本が農業国から工業国へ、さらに軽工業から重化学工業へと産業構造を変化させるためのきっかけをもたらした。それらは自動車産業を成立させるための産業基盤が徐々に整備されていくことを意味していた。(下表はブログ「世界の歴史まっぷ」さん
https://sekainorekisi.com/の記事「大戦景気」よりトリミングしてコピー)

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㊈,戦争特需で資本力を得た企業の中に、大戦終結後の軍需急減を見越して、将来の成長分野と目された自動車産業への進出を試みる企業家が現れた。本文の方の8項で記すが陸軍による「軍用自動車補助法」を足掛かりに、東京瓦斯電気工業(日野自動車のルーツ)と東京石川島造船所(同じくいすゞ自動車のルーツ)、そしてダット自動車製造(同じく日産自動車のルーツ)製の軍用保護自動車が誕生することとなる。
こうして日本陸軍は、本文の7項で記す「軍用自動車補助法」と同時に成立した「軍需工業動員法」から、その後1936年の第二次総動員計画の策定~1938年の「国家総動員法」成立に至るまで、延々と16~18年費やして総力戦構想を具体化していくこととなる(Web❾-1P157等参考)。下の画像はwikiより、『国家総動員法成立を報じる新聞 1938年(昭和13年)』)

そして日本の自動車産業も、総力戦構想に基づく戦時下の統制経済の下で、外資を排除した中で確立されていく。トヨタの自動車事業のスタートが1936年の「自動車製造事業法」とリンクして確立されていったことは良く知られているが、以下(⑩P4)より引用
『ダワー(Dower,1993)は、つぎのことを指摘している。①日本の自動車メーカー11社のうち、純粋な戦後産はホンダ1社にすぎない。②残る10社のうち、トヨタ、日産、いすゞの三社は、軍用トラック・メーカーとして戦時期に発展した。③他の七社においても、自動車生産は、戦時中の軍用機や戦車生産からのスピンオフであるケースが多い。』←厳密に言えば本田宗一郎がホンダ創業前に設立した東海精機は軍需依存の企業だったし(航空機用ピストンリングを生産。戦後トヨタに売却してその資金でオートバイに進出)、逆に商人の足的な存在だった、オート三輪から自動車産業に進出したダイハツとマツダも、起業時は確かに海軍との関係が深かったが、オート三輪に冷たかった戦時体制はむしろ逆風だった(のちの記事の“その5”あたりで記す予定)が、概ねまとを得た指摘だったように思える。
さらに本文の方で書いたように、自動車産業のみならず、戦後の日本経済自体も、野口悠紀雄が⑩で“1940年体制”(=『戦後日本経済史を読み解く視座として、戦後経済の礎は、1940年前後に導入された制度にある』以上⑩に対してのアマゾンカスタマーレビューより引用!)と喝破したように、戦時下の総力戦体制は敗戦後も戦後の経済体制の中に色濃く残り、やはり“総力戦”のようだった戦後の高度成長期を支えていくこととなった。(本文の方の6.4-4-3もしくは⑩あたりをお読みください。以上の考えには私見が混じっています。)
≪備考8≫永田鉄山と総力戦構想について
陸軍の“統制派”のリーダーとして、総力戦体制構築のために邁進しつつも志半ばにして相沢事件で斬殺された(1935.08)永田鉄山の人となりについてはwiki等ネットを検索すれば多数出てくるので詳しくはそれらを参照してください。永田の目指した経済体制は当然ながら、統制経済を念頭に置いた構想だった。ちなみに永田が率いた陸軍の派閥の「統制派」という名称は、「経済統制を推進」する集団であるところから、そう呼ばれたという説もあるようだ。永田については、その功績(功罪)についても賛否両論あるようだがその点にもここでは触れない。ただ軍政家として本流を歩み、「陸軍創設以来の逸材」などと評されることもあった永田だが、それゆえに敵が多かったのは確かなようだ。

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以下は長文となるが総力戦構想について、私見が混じらないよう(これ以上迷路に嵌らないよう?)にするため!≪備考8-1≫では永田について書かれた代表的な本のいくつか(㉕、㉖、㉗、㉘)からそのまま引用して、永田の考えた総力戦構想の中から、ここでも自動車分野に関連しそうな部分について抽出を試みた。さらに≪備考8-2≫では黎明期の自動車産業の確立のために、財政面で制約が大きい中でも力を注いだ永田についての記述が(㉒、㉗)等に記載されていたので引用し、紹介しておく。
≪備考8-1≫永田鉄山の総力戦研究
第一次大戦をはさんだ計6年間、軍事調査などのために欧州に派遣された永田は、次の戦争が軍事力だけでなく経済、産業、教育、宣伝など全ての国力を投じる長期戦になると予見した。さらに「戦争不可避論」の立場から、次の世界大戦は必ず来る筈だと読んでいた。(事実第2次世界大戦は日本軍が当初期待した「短期決戦」にはならず、永田の予想した総力戦、長期戦となった。下の画像はブログ、“五十四にして天命を知る”さんよりコピーさせていただいた、諏訪湖に近い公園、高島公園にある、永田鉄山陸軍中将(死後昇進)の銅像)

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そしてその時代に、国家が生き残るための方策として、資源確保と工業力育成と軍備の機械化と国家総動員体制の整備がカギとなると認識する。再三記すが1920年、「国家総動員に関する意見」を記し、日本における国家総動員研究の第一人者的な立場の軍人となった。以下は(㉘P56)より引用
『永田にとっての第一次世界大戦の大きな教訓は、戦争の新しい形態である「国家総力戦」(以下、総力戦)に入った事だった。飛行機、戦車、毒ガスなど、続々と導入された新兵器への関心もあったが、それ以上に戦争の性質そのものを変えてしまった総力戦に、強い関心を持った。
第一次世界大戦はあらゆる点で、それまでの戦争とは異なっていた。軍隊と軍隊とが戦うだけではなく、国家のあらゆるものを動員し、遂行しなければならない戦争、それが総力戦である。機械化した戦争は軍隊のみで行うものではなく、膨大な物資の供給を支えるために国民を総動員しなければならない。言わば、国家の「体力」をどれだけ投入できるかにかかっている。そうなると、戦場と銃後が別々ではなくなり、一般市民の生活にも戦争は直結してくる。戦争の様相ははげしく変化したのである。
欧州は曲がりなりにも、この総力戦を経験している。いっぽう、日本は前述のように部分的に参戦しただけで、この新しい戦争の形態を理解しているとは言い難かった。』(以上㉘P56)
そして再三記すが永田は臨時軍事調査委員として論文「国家総動員に関する意見」(1920年)をまとめ上げる。既述のように総力戦体制の必要性について理論的に論じた、その後の日本の針路に大きな影響を及ぼすことになる論文だった。
ただし何度も途中で話の腰を折るが、誤解を招かないように追記しておくと、7-1で既述のように、陸軍は第一次大戦の主戦場であった欧州に早くから武官を派遣するなど、実態調査を行っていた。そしてその研究結果を踏まえた、総力戦体制を実現させるための第一歩となる法案となった軍需工業動員法が、永田の論文発表の2年前に、既に成立していた。
軍需工業動員法について、以下ネットのコトバンクより引用するが、既に総力戦のための準備を意識した法案であることが確認できる。『戦時体制下では,軍需生産を増強するために国家が民間工場を動員し得ることを定めた法律(1918年)。軍需品工場の国家管理,軍需生産関係会社の軍需会社指定,監督契約に基づく軍需品工場の監督などを規定した。1937年日中戦争が勃発(ぼっぱつ)すると本法が適用されたが,1938年国家総動員法の施行により廃止』以下はwikiより『軍需工業動員法は原敬から「一夜作りのものにて不備杜撰」と酷評されたように、未消化な法律だったが総力戦準備を目的とした調査・立法・実施のための機関が政府内に設置された意義は大きかった』
そして自動車産業との関連においてもこの記事の本文の方の7項で記した軍用自動車補助法(1918年)が、この軍需工業動員法と同時に、いわばセットとして成立している(⑧P13参照)。後の時代の「自動車製造事業法」(1936年成立、後の記事の“その6”で記す予定)が陸軍及び、その当時は統制経済下で陸軍の統制派と協調した岸信介ら“革新官僚”たちが主導権を握っていた商工省が主導した、総力戦遂行のための国家(産業)総動員体制の下に組み込まれた法案であったことは広く知られている。しかしこの記事の本文の7項で記す、時期的に永田の論文(1920年)の2年前に成立した軍用自動車補助法(1918年)も既に、総力戦構想を意識した、その構想とリンクさせた法案であったことを追記しておく。
例によって脱線続きだが話しを永田の総力戦構想論に戻し、以下(㉕P67)より引用。
『(前略)今後、近代工業国間の戦争は不可避的に国家総力戦となり、同時にまた第一次世界大戦と同様、その勢力圏の錯綜や国際的な同盟提携など国際的な政治経済関係の複雑化によって、長期にわたる世界戦争となっていくことが予想された。
永田は、大戦によって戦争の性質が大きく変化したことを認識していた。すなわち、戦車・飛行機などの「新兵器」の出現と、その大規模な使用による機械戦への移行、通信・交通機関の革新による戦争規模の飛躍的拡大、それらを支える膨大な軍需物資の必要、これらによって、戦争が、陸海軍のみならず「国家社会の各方面」にわたって、戦争遂行のための動員すなわち「国家総動員」をおこなう、国家総力戦となったとみていた。
そして、今後、先進国間の戦争は、勢力圏の錯綜や国際的な同盟提携など国際的な政治経済関係の複雑化によって、世界大戦を誘発すると想定していた。そこから永田は将来への用意として、次のように、国家総力戦遂行のための必要性を主張する。
これまでのように常備軍と戦時軍動員計画だけで戦時武力を構成し、これを運用するのみでは「現代国防の目的」は達せられない。さらに進んで、「戦争力化」しうる「人的物的有形無形一切の要素」を統合し組織的に運用しなければならない。したがって、そのような「国家総動員」の準備計画なくしては、「最大の国家戦争力」の発揮を必要とする現代の国防は成り立たない、と。つまり、大戦における欧米の総動員経験の検討からして、戦時の準備計画のみならず平時における国家総動員のための準備と計画が欠かせないというのである。』
以上のような永田の国家総動員論を(㉖)より要約すると、『「国家が利用しうる有形無形人的物的のあらゆる資源」を組織的に結合し、それを動員・運用することによって、「最大の国家戦争力」を実現させようとするものであった。そのために平時からその準備をおこない、戦時に「軍の需要を満たす」とともに、「国民の生活を確保」するよう必要な計画を策定しておかなければならないとされる。』(㉖P111)
永田の国家総動員論は、国民/産業/財政/精神動員などからなっていたが、このうち自動車に関連してくる“産業動員”について、以下(㉕P69)より抜粋する。
『兵器など軍需品および必須の民需品の生産・配分のため、生産設備・物資・資源を計画的に配置することである。それに関連して、動員時の統一的使用が可能なよう工業製品の規格統一を図ること、軍需品の大量生産に適するよう生産・流通組織の大規模化を推進すべきこと、などが主張されている。永田は産業組織の大規模化・高度化は、国家総動員のうえで有利なだけでなく、平時における工業生産力の上昇、国民経済の国際競争力の強化にもつながるとみていた。』
以上は“産業動員”の大枠の部分だが、さらに焦点を絞り、同じ機械工業分野として、自動車にも関連してくる部分としては、(㉕P72)
『~このように永田は、大戦における兵器の機械化、機械戦への意向も意識しており、それへの対応が国防上必須のことだと認識していた。またそれらの指摘は、日本軍の旧来の肉弾白兵戦主義、精神主義への批判を内包するものでもあった。
だが、このような軍備の機械化・高度化を図るためには、それらを開発・生産する科学技術と工業生産力を必要とする。ことに戦車、航空機、各種火砲とその砲弾など、膨大な軍需品を供給するために、「いかに大なる工業力を要するか」は、容易に想像しうるところである。すべての工業は軍需品の生産のために、ことごとく転用可能である。したがって、一般に「工業の発展すると否とは国防上重大な関係」がある。そう永田は考えていた。機械化兵器や軍需物資の大量生産の必要を重視していたのである。
では、日本の現状は、そのような観点からして、どうであろうか。
まず、飛行機、戦車など最新鋭兵器の保有量そのものについてみると、永田によれば、大戦休戦時、飛行機は、フランス3,200機、イギリス2,000機、ドイツ2,650機などに対して、日本約100機、欧州各国と日本との格差は、二十倍から三十倍である。その後も日本の航空界全体の現状は、「列強に比し問題にならぬほど遅れて居る」状況にあり、じつに「遺憾の極み」だという。戦車は、1932年(昭和7年)初頭の段階でも、アメリカ1,000両、フランス1,500両、ソ連500両などに対して、日本40両とされる。その格差は歴然としている。』(~㉕P73)
(㉕P73)から続ける『このように永田は、欧米列強との深刻な工業生産力格差を認識し、工業力の「貧弱」な現状は、国家総力戦遂行能力において大きな問題があると考えていた。したがって、「工業力の助長・化学工芸の促進」が必須であり、国防の見地からして重要な工業生産、とりわけ「機械工業」などの発展に努力すべきとしていた。そしてそれには、「国際分業」を前提とした対外的な経済・技術交流の活発化によって工業生産力の増大、科学技術の進展を図り、さらに「国富を増進」させなければならないという。
だが他方、永田は、戦時への移行プロセスにさいしては、国防資源の「自給自足」体制が確立されねばならないという考えであった。とりわけ不足原料資源の確保が、天然資源の少ない日本においては、最も重要なこととされた。』
こうして鉄鋼等の基盤産業がある程度整備された後に、総合機械工業である自動車産業も「自給自足」体制の確立を目指していく事になる。以下は論文なので固い文章なのは当然なのだが(Web❾-1P154)より引用、
『第一次世界大戦は総力戦を中心とする戦略思想と総動員体制の確立を陸海軍の新しい重要課題にさせ,我が国の資本主義を重化学工業段階と国家経済主義へ発展させ,その中心産業として自動車産業を確立させる契機となったのである。』
ただし❾-1と若干ニュアンスが異なるが私見として何度も記すと、後の動乱の昭和の時代に、大陸侵攻が本格化し、226事件以降軍部が主導権を握り、総力戦構想に基づく軍事国家体制が確立される以前の日本では、自動車産業を国が全面的に支えるような体制が敷かれることはなかったこともまた、事実であったと思う。
≪備考8-2≫自動車産業育成に努めた永田鉄山
上記のようにやたらと“守備範囲”が広かった永田だが、彼が主導した自動車産業振興(ただし軍用トラックとして)を目指したより具体的な行動について、以下(㉗P92)より引用していく。
『永田は国内の自動車産業の発展を目的として、国産自動車の増産を積極的に促す体制を整えた。既に、軍用自動車補助法という法律が、大正七年(1918年)三月に公布されていた。(中略)
しかし、昭和期にはいると、経費削減といった観点から、陸軍省内でもこの法律に対する批判が大きくなり、同制度の廃止を求める声や、他省に管轄を移す案などが検討されるようになった。こうした中で、永田はこの制度の重要性を強調、同制度の維持どころか更なる拡充を主張し、日本の自動車産業を強固に育成する道を切り開いた。軍用トラックの有用性を認識していた永田は、有事の際に輸入が滞る場合を考慮し、国産化を促進するよう努めたのである。(中略)
永田は国内企業が団結して共存していく必要性を訴え、各社の社長を招き、この点について意見交換する場を設けた。永田は陸軍側の実務の代表者として、細かな折衝にも自ら進んで対応した。このような整備局動員課の取り組みが、その後の自動車各社の協力体制へと繋がった。以降、各社の合併や共同出資が次々と実現していくが、その基礎となる土壌を作ったのは誰あろう永田であった。
日本の自動車産業は、その揺籃期において斯かる軍部の指導があって発展を遂げた。これは永田の大きな功績の一つと言えるであろう。
現在に至る日本の自動車業界の世界的な隆盛の陰には、永田の存在があったのである。』
この項のまとめとして、(㉒P57)より引用して終わりにしたい
『近代化推進者が凶刃に倒れる
昭和の陸軍で最も期待されたリーダーをあげよと問われれば、ほぼ10人中10人があげた名前が永田鉄山である。不幸にして軍務局長時代、相沢三郎中佐の凶刃に倒れた。
もし永田が凶刃に倒れることなく、長く陸軍の中枢にいたならば、明治期の山形有朋と比べられるような昭和陸軍の大実力者となっていただろうという人も多い。山形は日本陸軍の創設に深く関わった。永田はその日本陸軍の中興の祖として、日本陸軍の近代化を推し進める巨人となっただろう、というのである。彼は頭脳明晰で、しかも人間的魅力もあり、横死直後は、部下が半分冗談まぎれに戒名を「鉄山院殿合理適正大居士」と奉ったほど合理性を重んじる思考や態度をとるのが常だった。
永田は青年将校時代、第一次大戦開戦直前のドイツに語学研修に派遣され、開戦とともに急遽帰国を命ぜられる。
その後、ふたたび大戦下のヨーロッパへ軍事研究員として派遣され、デンマークとスウェーデンに二年間滞在し、戦況の推移やドイツ軍の状況を研究した。帰国後は、臨時軍事調査委員会の委員として、第一次大戦で顕在化した国家総動員の研究に没頭した。そして、第一次大戦直後のヨーロッパの状況を知るため、オーストリアとスイスへ駐在武官として派遣された。人類はじまって以来の未曽有の大戦争であった第一次大戦の開戦直前・戦時中・終戦直後の三度にわたるヨーロッパ駐在による大戦の経験と研究は、永田をして日本有数の第一次大戦研究家たらしめた。永田は、長期・大消耗をともなう近代戦の何たるかを身をもって体験し、軍の近代化のみならず、国民精神や交通も含めた産業全体の国家総動員の必要性を痛感した。
臨時軍事調査委員として、一九二〇年(大正九年)永田が執筆した「国家総動員ニ関スル意見」は、その後の国家総動員関連法案や政府施策の基礎となった。陸軍省では軍需品増産の政策立案とその実施のため、一九二六年(大正十五年)整備局(統制、動員の二課)を新設した。
整備局は、近代戦に備えて、陸軍としての軍事資材の開発・製造・調達に関する基本政策を担当した。
初代動員課長は永田中佐である。
動員課長の永田が最も力を入れたのは、国産自動車工業の確立であった。第一次大戦を体験した永田にとって、自動車は陸軍の近代化に無くてはならぬものだった。』
そして永田の想いはその配下の伊藤久雄に引き継がれていく。(㉒P59)の引用を続ける。
『~陸軍で軍需品の開発・製造・調達に関する基本政策を担当していたのは、初代課長の永田鉄山(二代目課長は東条英機)の思想を引き継ぐ動員課(一九三六年:昭和一一年八月に、戦備課と改称)で、国産自動車工業の育成に情熱を燃やしていた。動員課の伊藤久雄少佐は一九三五年(昭和一〇年)九月、陸軍省の意見をまとめた「自動車工業確立ニ関スル経過」を作成した。』伊藤久雄については、後の記事(“その6”あたりで)で記すことにする。
(永田は自動車製造保護法成立の前年に、同じ陸軍の皇道派の刺客による凶刃にあえなく倒れてしまったが、その志は、直属の部下であった伊藤に引き継がれたのだと思いたい(もう少し具体的な証拠があると、話がまとまりやすかったが、探せませんでした)。下の写真は文春オンライン「「太平洋戦争を止められた」エリート軍人・永田鉄山は本当に歴史を変えることができたのか」
https://bunshun.jp/articles/-/13286 よりコピーさせていただいた。)

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≪備考9≫自動車産業進出に消極的だった三菱財閥
よく言われている事だが、自動車産業に必要な資本力と技術力を兼ね備えていた大財閥の中でも、とりわけ機械/重工業分野で力のあった三菱が、自動車産業への進出に慎重であった事について、記しておく。以下は「戦前期における自動車工業の技術発展」関,権著(引用Web⓯P490)より。
『周知のとおり,自動車工業は巨額の資本と高度の技術を要する総合機械工業であるため,大企業による量産体制が必要不可欠である。当時,最もその能力を備えたのは旧財閥であったが,1日財閥は自動車工業への進出にあまり積極的ではなかった。(中略)
例えぱ,三菱重工業は1917年にすでに自動車の試作を始めた。その神戸造船所では,イタリア・フィアット社のA型自動車をモデルにして試作を開始し,1918年に第1号車を完成した。』(フィアットは三菱本社の副社長が使用していたものだったという。)

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『この三菱A型はボールベアリングなど一部の部晶を除けば、エンジン,シャシー,ボディーなどを自製し,その実用性が認められた数少ない乗用車であった。また1918年の軍用自動車補助法の施行とともに,軍用トラックを4台試作し,1920年に完成した。このような成果を収めながら,三菱は1921年に自動車工業から撤退してしまった.確かに,当時自動車工業を発展する技術的・市場的基盤が十分整っていなかった。しかし同じ悪条件に置かれながら,三菱よりはるかに小規模の資本をもって自動車生産を継続した企業がいくつか存在していた。快進社や白楊社などがそれである.またその後の日産自動車やいすジ自動車,およびトヨタ自動車のいずれもきわめて苦しい環境の中で生き残ったのである。』(下の写真は、愛知県・岡崎市にある、三菱 オートギャラリーに展示されている、三菱A型のレプリカ。三菱A型は、1917年夏に試作が開始され1918年11月に完成。1921年までに計22台が生産された。まとまった数量を見込みで生産・販売された三菱A型は、日本初の量産乗用車(のひとつ)と言われている。(300台生産した7.5-1のオートモ号の方を、日本最初の量産乗用車だとする説もある。)しかし制作に携わったスタッフも多くはなく、『三菱の大プロジェクトとしての取り組みではないといえるだろう』引用⑦P62)社運を賭けたようなプロジェクトとは全く違ったようだ。しかしそこは、当時製造業分野では実力No.1の人材豊富な“大三菱”のやることだったので、たとえ片手間仕事でも、当時の国産車としては出来の良い仕事ぶりだったようだ。

https://drivetribe.imgix.net/EL6788RiSDG0siEXPW9kjw
一方神戸川崎財閥も、大阪砲兵工廠からの要請を受けて、川崎造船所が当初は積極的に対応し、トラック(制式自動貨車)の試作車を完成させた。並行して「アメリカからパッカード製のトラックも輸入して分解、これをもとにして10台分の部品を製造、エンジンは1基が試運転をするところまで進んだ(⑦P85)という。しかしその後すぐに、自動車よりも航空機を優先させる方針へと変わったため、瓦斯電のように量産化まで進まなかった。
当時最も力のあった旧財閥系企業の中でも自動車にもっとも近かった両社の冷静な判断(消極姿勢)が、戦前の自動車工業の発展を遅らせた、一つの要因だとの指摘も多い。
≪備考10≫総力戦構想の“わからなさ”(その2)
≪備考10-1≫戦前と戦後の断絶はなかった(岸信介)
本文の6.4-3の続きです。この時代の日本を代表する官僚/政治家であり、戦時統制経済体制を主導した岸信介(下の写真はwikiより)は広く知られているように、自動車製造事業法を手がけて、自動車産業の発展に多大な貢献を果たした(後の“その6”の記事で記す予定)。しかし自動車はその業績の一端に過ぎなかった。軍事体制下で“国防”の名のもとに強権的に、革新的な政策の実行が可能だった当時の状況を『むしろ岸は、戦争を、日本の産業、経済、社会を変革する、絶好の機会ととらえたのである。』(引用㉜P195)
戦後政界に復帰後は、自ら基盤を築いた産業政策はもっぱら古巣の通産省(当時)に任せて、安全保障政策などの外交に注力したが、戦後の業績として忘れてならないのは、社会保障制度の基礎を作った点だ。『岸が社会保障の充実という点でも目覚ましい成果を上げた政治家であることはあまり知られていない。昭和33年12月に国民健康保険法の改正を行って国民皆保険とし、昭和34年4月、最低賃金法と国民年金法の制定を行ったことは、国民生活の安定に大きく寄与した。これらは中小企業減税などを通じて中小企業育成に力を入れていた岸の経済政策の最後の総仕上げでもあった。最低賃金法によって中小企業と大企業との賃金格差は縮小され、国民年金法により、これまで公的年金の恩恵にあずかれなかった農漁業従事者や中小企業や自営業にも年金が支給される形になった。(「叛骨の宰相 岸信介」北康利より)』以上ブログ“読書は心の栄養”さん(Web⓴)より引用。
総力戦構想について調べていくと、どうしても岸信介までたどり着いてしまう。岸は「岸信介証言録」(引用㉝P448)の対談の中で、個人的な考えでは、非常に印象に残る言葉を残している。対談者(原彬久)の『~そうすると戦前と戦後の間には、岸さんにおいては断絶というものはないのですね。』との問いに、『おそらく断絶はない。』と答えている。上記の社会保障制度の充実はほんの一例に過ぎないが、戦前から、岸の目指すところであった(“断絶”はなかった)のだろう。

≪備考10-2≫世界的な事件で偶然に起こることはない(フランクリン・ルーズベルト)
ここで海外に目を向ければ、日米で対比し、岸がこの時代の日本側の、経済分野の実務責任者の代表格ならば、対戦国であったアメリカを代表する政治家は、ニューディール政策や第二次大戦を主導したフランクリン・ルーズベルト大統領に他ならないだろう。(下の写真はwikiより)
そのルーズベルトも以下のような名言を残している。『世界的な事件は偶然に起こることは決してない。そうなるように前もって仕組まれていたと、私はあなたに賭けてもいい。』
(In politics, nothing happens by accident. If it happens, you can bet it was planned that way.)“あなたに賭けてもいい”と挑発的に言うぐらいなのだから、大恐慌から第二次大戦まで、文字通り身をもって体験し、表と裏を知り尽くしたものとして、よほどの確信があったのだろう。
以下は私見というよりも、“妄想”もしくは“陰謀論”だと思ってください。なので、インボーロン嫌いの方は読まないでください。
上のルーズベルトの残した言葉を重くとらえて、そのまま素直に解釈すれば、世界的な事件は、けっして“偶然”には起きないのだから、第二次大戦の連合国の勝利も、その後の朝鮮の動乱を経て米ソの冷戦体制が築かれる過程も、予め計画されていたことになる。国家の枠組みを超えた、我々下々のものたちにはわからない、そのような“力”が確かに存在するのだと、ルーズベルトは言いたかったのだと思える(まったくの私見です)。

≪備考10-3≫戦後の高度経済成長は、予め計画された事だったのか?
以下もますます私見というか、妄想が続く。仮にもし、ルーズベルトの言うとおりだとしたら、日本が辿った敗戦~戦後復興~高度経済成長のプロセスもまた、偶然ではなく予め世界史の中の一部として計画されたものだったことになる。
日本が爆発的な経済成長を遂げた戦後の一時期、アメリカの企業は日本の企業に対して概して寛容で、最新の技術を惜しげもなく供与したという。一例として戦後の自動車業界にとって世界に向けての大きな挑戦となり、一般的には日本が独力で達成したかの如く喧伝されることも多い、マスキー法への挑戦も『~米国市場に自動車を供給しようとする会社は、マスキー法に適合する車の開発状況についての年次報告をEPAに提供することが義務付けられていた。この中にはGMの報告ももちろん含まれていた。これらの報告は集まると膨大な量になったが、すべて公開されたので、これも重要な技術情報源となった。
こうした風潮の中では新しい発明、考案の特許はそれぞれの企業の工業所有権であったけれども、売買は好意的に行われ、日本車に使用された装置や部品にはGMのオリジナルになるものが多数あった。』(㉛P155)実際にはGMの基礎研究の成果に拠る部分も多かったという。歴史に埋もれているが、日本の自動車産業の今日の発展も、アメリカに助けられた事例も多かったのだ。
戦前~戦後と連綿と続いた“総力戦”の成果が、戦後の日本の高度経済成長であることは確かだと思う。しかしさらにその大枠として、戦後の日本を大きく成長させようとする強い“意志”が、様々な形を通して働いた結果でもあり、焼け野原からスタートした日本(人)だけの力では、けっしてなかっただろうことも、冷静に受け止めるべきだと思う。
話を戻す。こうして日本の総力戦構想も全体の中の小さな一部分として、歴史の大きなうねりの中へと飲み込まれ、変質していったのだと思う。この論理の行きつく先は、戦後の日本の自動車産業の驚異的な成長も、予定された出来事となってしまうが、もし仮にそうであれば、そのための準備が本格的に始まった時期はやはり「自動車製造事業法」成立前の、満州事変~満州国建国のあたりだろうか。
「戦前も戦後も断絶無く続いていた」という、上記の、岸信介がさりげなく残した言葉の裏に隠された真意が、やはり気になるところだ。(以上再三記すが、まったくの私見です。“総力戦構想”に関わると、予想通り迷路に嵌ってしまうようだ・・・)
≪備考11≫モデルTのインパクトは文字通り革命的だった(Webマーケティングガイド“MarkeZine”より)
重苦しい内容が続いたので、息抜きの意味もあり、ブログ「マーケジン」さん(Web《21》
)の記事を紹介させていただく。アメリカではT型フォードの大量生産が始まり、馬車から自動車へ急激な変化を遂げた。以下の2枚の写真は「MarkeZine(マーケジン)」さんの、「あなたは知っているか?「T型フォード」と「初代 iPhone」が転回したマーケティングの歴史」より、以下文もコピーさせていただいた。
https://markezine.jp/article/detail/28030
『モデルTのインパクトは、文字通り、革命的だった。ここに1900年のニューヨーク5番街の写真がある。』

https://mz-cdn.shoeisha.jp/static/images/article/28030/28030_01.jpg
『上の写真の中に1台だけ自動車が走っている。わかるだろうか? つぎに、1913年の同じニューヨーク5番街の写真。 ここでは、1台だけ馬車が映っている。』

https://mz-cdn.shoeisha.jp/static/images/article/28030/28030_02.jpg
『1900年と1913年。この間に何があったのか? 説明は不要だろう。1907年のモデルTが世界を変えマスマーケティング開始の鐘を鳴らしたのだ。』アメリカは馬車がそのまま自動車(多くはT型フォードに)に入れ替わったのであった。
ちなみに日本はどうだったかというと、下は「昭和10年代ごろの銀座の風景を撮影した古写真」車の影はない。

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同じく下は「昭和14年の新宿大通り」ジャパンアーカイブズさんより。)

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⑧P27に記載の表から、軍用自動車補助法が施行される前年で、第一次大戦の最中の1917年における各国の自動車保有台数を確認すると、日本が6千台(内訳;一般車5,700台、軍用自動車300台)なのに対して、米国は日本の約1,000倍の600万台強、英国は120倍、ドイツは28倍、フランスは38倍という大差であった。
≪備考12≫瓦斯電のシャドーファクトリー構想について
8.1項の関連となるが、瓦斯電の技術部門を統率した星子勇は、松方五郎の全面的な支持を得て、自動車にとどまらず、航空機用エンジンにも力を注いだ。(下の写真は星子勇。『星子は、日本の自動車史にあって触れられることが比較的少ないものの、最初に自動車工学をしっかり学んだ技術者として記憶されていい人物である。』(③P28)『「ガソリン発動機自動車」という著作があり、欧米で自動車技術の研修を受けており、この当時の日本にあっては数少ない優れた技術者であった。』(③P87)日本自動車の経営者であった大倉喜七郎は、才能があり自動車に情熱を注ぐ星子に期待して、農商務省の海外実業練習生に選抜させるなどして、本場英/米の自動車技術を研修させていた。)

http://www.jahfa.jp/wp/wp-content/uploads/2017/01/2010-hoshiko.jpg
欧州の特に英/独では、航空機用エンジンは、自動車メーカーが手がけることが多かったが、日本では瓦斯電だけが例外だった。以下引用③P97『日本では自動車の国産化が遅れていることもあって、航空機用エンジンは、自動車用エンジンの技術をベースにすることがなく、中島でも三菱でも、それとは別に独自に開発が進められた。その点では、星子のように自動車の技術を生かして航空機用エンジンまで手がけるのは珍しいケースであった。』
自動車産業の基盤自体が定まらない当時、星子は何故、リスキーな航空機分野へ踏み入れようとしたのだろうか。そのきっかけは、日本自動車在職時代に大倉喜七郎の計らいで、農商務省の海外実業練習生として留学したときの、『イギリスとアメリカにおけるシャドウファクトリーの活動を目のあたりにした体験』(⑭P53)にあったという。
『トラック製造を目的として出発した会社が何故航空機に手を出し、我が国初の航空エンジンを作るに至ったのか?それは来るべき戦時のシャドウファクトリー(軍需転換工場)としての技術蓄積が国家のために必要、という技師星子勇の信念によるものだった。』(⑭P17) そしてこの信念は、星子が瓦斯電に入社した当時から持ち続けていたものだったという。(⑭P53))
日本陸軍に限らずどこの国の軍部も、戦時に備えるための準備として、シャドーファクトリーを構想するが、星子は民間の立場でいながら国家的な見地に立ち、『将来予測される戦争において、自動車会社はシャドウファクトリー(戦時軍需転換工場)として航空機製造技術を会得しておかなければならない』⑭冒頭)、と考えて、自身が係わった瓦斯電において終始一貫、その思想を実践していった。
しかし星子のそうした信念を十分理解して、経営の苦しい時代も支持した、経営者の松方五郎もまた偉かったのだと思う。ただ松方にとっては、自身が執念を燃やしながらも終始経営の苦しかった自動車事業を下支えるものとして、また幾分かは株主たちに対しての”言い訳”の材料としても、航空機エンジン事業を考えていたかもしれない(私見です)。
以下からは瓦斯電の航空機事業の歴史を、おもに⑭と③を参考に記す。
瓦斯電では1917年(大正6年)に早くも航空機エンジンに取り組みはじめたという。『星子が入社してガス電はトラックの生産と同時に、ダイムラー水冷直列100馬力(74KW)航空エンジンの製造(ライセンス)を開始、1918年、陸軍の受領試験にパスし、若干台が納入された』⑭P40
その実績をかわれて引き続き陸軍から、フランスのル・ローン社製星形回転式エンジンの国産化を果たし、実績を重ねていった。(下の写真はそのエンジンを積んだ、陸軍甲式3型練習機(ニューポール24型の国産化)の着色写真で、ブログ“インターネット航空雑誌ヒコーキ雲”さんの「ニューポール型飛行機と飛行将校の来場」をコピーさせていただいた。)

http://dansa.minim.ne.jp/OldHis-Mil-TaishoRikugun-Inoue-09.jpg
そして1928年には国産航空機エンジンを独自に完成させた。『国産航空エンジン第1号となる』(⑭)“神風(しんぷう)エンジンの完成である。このエンジンは国内で設計された航空機用エンジンとしては初の量産型エンジンであったという。(下は神風エンジンを搭載した、瓦斯電KR2小型旅客機の模型。)

http://db.yamahaku.pref.yamaguchi.lg.jp/script/shuzo_img/705b.jpg
1930年には空冷星型9気筒の「天風(てんぷう)」エンジンを開発、九三式中間練習機に搭載された。(下は93式中間練習機(赤とんぼ)の模型。

https://hobby-armada.com/images/gallery/95/02b.jpg
初風(はつかぜ)又はハ47エンジンは、ドイツの練習機用小型エンジン「ヒルト HM 504A」を日本でライセンス生産する予定だったものが、ヒルト社設計の巧緻複雑さから、日本での製造運用に適合すべく瓦斯電(後に日立航空機)で設計に大変更を施した結果、ヒルトとは事実上、別物となった発動機であった(wikiより)。
(下の画像の、陸軍4式基本練習機(キ-86)は、初風エンジンを搭載していた。画像は「中田CG工房」さんよりコピーさせて頂いた。http://gunsight.jp/c/Flying-3D.htm

http://gunsight.jp/c/image4/ki86-s.jpg
以下はかなり長いが、初風エンジンについて、⑭の著者が書き起こした?と思われるマニアックな解説文を、wikiからのコピー『ヒルトHM504は、機体への搭載性を配慮した倒立式空冷直列4気筒という独特のレイアウトを採っていたが、クランクシャフトは高精度だが製作に技術力を要する組立式、ベアリング類は精密なローラーベアリングを多用するなど、航空用としては小型のエンジンながらも、ドイツの高度な工作技術を前提とした複雑な設計が用いられていた。この設計をそのまま日本で実現しようとすれば、やはりローラーベアリングを多用し高度精密加工されたダイムラー・ベンツDB601の国産化同様、極めて困難な事態が予想された。
このため瓦斯電では自社制作の練習機用エンジンにつき、ヒルトの空冷倒立4気筒レイアウトのみを踏襲、クランクシャフトは一般的な一体鍛造、ベアリング類も当時一般的なメタルによる平軸受で済ませるなど、日本での現実的な生産性・整備性に重点を置いた設計に改変した。しかし、動弁系はヒルトがシングルカムシャフトのOHVで浅いターンフロー燃焼室だったのに対し、より高度なツインカムOHVと半球型燃焼室によるクロスフローレイアウトを採用して吸排気・燃焼効率を向上、なおかつ低オクタンガソリンでも問題なく運用できるよう図った。更に倒立エンジンで問題になりがちな潤滑システムは、ドライサンプ方式を導入して万全を期した。これらの手堅い手法で性能確保に努めた結果、結果的にはヒルトに比してわずかな重量・体積増で、これに比肩しうるスペックの信頼性あるエンジンを完成させた。』(下は日野オートプラザに展示されている、初風(ハ11型)航空機エンジン。燃費が良い上に、燃料に70オクタンの低質ガソリンを使えるため、太平洋戦争末期の状況でも重宝されたという。(wiki)当時の日本の運用状況を考えて実用性を重視し、大幅に設計変更をされたエンジンだったようだ。)

https://stat.ameba.jp/user_images/20160805/02/hbk0225/99/4a/j/o0480036013715218021.jpg?caw=800
『ガス電の航空機が常に戦闘機とか爆撃機などでは無く、それ以外の低出力分野をターゲットに置いたことはシャドウファクトリーとしても、企業戦略としても適切であった。』(⑭P54))
瓦斯電は世界航続距離記録を樹立した航研機の、設計から製造まで関わったことでも有名だ。
しかし航研機制作の挑戦にも、シャドーファクトリー構想を存続させるための意図が隠されていたそうだ。『急激な進歩を遂げる航空機技術に対し、ともすれば取り残される危機を、たまたま航研機のプロジェクトで救われ、極めて有効活用出来たことは僥倖であった。』(⑭P54))
(下は八王子の日野オートプラザに展示されている、航研機の模型(1/5)。

ちなみに航研機の偉業は国民を湧き立たせたが、開発を主導した東京帝大航空研究所の富塚教授は冷静だったという。以下は⑮P175よりこれも長いが引用『ところで、長距離専用の航研機、専用のエンジン、そして専用のガソリンを粒々辛苦のすえ調達、華々しく達成した世界記録はその翌年、その前年に完成していたイタリアのサボイア・マルケッティSM82型爆撃機を長距離連絡用としたSM82PD型に、いとも簡単に破られてしまった。世界水準に到達したと思ったのは幻影にすぎなかった事は、やがて突入した太平洋戦争での貧弱な日本の爆撃機で明らかになるのである。しかもこの戦争のさなか、1942年には日伊連絡飛行としてこの飛行機は東京の福生に飛来している。このような事は富塚教授はあらかじめ看破していた。「どうして長距離機であるかと言うと(世界記録を目標とする飛行機が)、日本で手をつけても比較的可能性が高かったからで、他の高度や速度の記録となると高性能エンジンの入手不如意であるため、日本では普及し難い。しかし長距離ならイタリアなどの如き二流国がよくやっていることでありエンジンも特殊高性能のものは必ずしも要しない、小修整で燃料経済を計ればすむ」と言われていた。
時、日本はやっと二流国に到達したのであったのである。』ちなみに『世界記録樹立時の燃料、潤滑油搭載重量は4578kg、乗員を含めた全備重量9000kgの51%を占めた。』(⑭P18)という。)
(下はイタリアの輸送機、サボイア・マルケッティSM.82“カングーロ”輸送機のプラモデルの絵。機首と左右の主翼に合計3機のエンジンを搭載した独特のスタイルをしている。

http://img21.shop-pro.jp/PA01344/023/product/115438040.jpg?cmsp_timestamp=20170324121840
話を戻すと、こうして星子が瓦斯電において取り組んだ、航空機産業事業とシャドーファクトリー構想は、第二次大戦の軍事生産体制の下で、充分な実績を残した。その結果は何よりも、下表の「瓦斯電+日立航空機(瓦斯電航空部の後継)」の数字が雄弁に語っている。
(表7:「第二次大戦における日本の航空エンジンおよび航空機の各社別生産数」⑭P54の表を転記)

なお瓦斯電については、実は軍用保護自動車以外にも、イギリスのハンバーと提携して小型乗用車を製造するという、興味深い計画もあったようだ。(⑥P86の「東京瓦斯電の経営推移」の表の1920年6月~11月の項に記載がある。)星子と、たぶん松方も念願するところは、本当はトラック以上に乗用車生産だったようだ。(Web⓮P169)に『~昔、星子さんからじかに伺った言葉で、それは日本が近代国家になるには自動車工業を定着させねばならないと言うことで、星子さんは1918年瓦斯電自動車部創設以来、軍用車主体に進んできたが本心は、中産階級を指向した小型乗用車の量産が念願だったのだと思います。』という記述がある。資本力が足りずに叶わなかったが、のちの「自動車製造事業法」のチャンスを逸したときは心底悔やんだだろうし、戦後の日野ルノーや、コンテッサは、星子や松方の意志が、脈々と受け継がれた結果だともいえそうだ。