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⑲ 日本の自動車産業の“育ての親”は日本陸軍だった?フォードとGMの日本進出とその影響(戦前の日本自動車史;その4) 《- 前編 -》

⑲ 日本の自動車産業の“育ての親”は日本陸軍だった?フォードとGMの日本進出とその影響(戦前の日本自動車史;その4) 《- 前編 -》
(※この記事はまだ書きかけです。) 

この記事全体の概要
 この記事(戦前の日本自動車史;その4)の要約を最初に記しておく。1923年9月に起きた関東大震災後の復興が、日本における自動車普及の大きな契機となった。フォードは壊滅した市電網の臨時代替用として東京市電局からT型フォード800台の注文を受け、日本の自動車市場に注目する。日本側からの熱心な誘致もあり、横浜に工場を設けてノックダウン生産(以下KD生産と略)を開始する(1925年)。ライバルのGMもそれに続き大阪に大規模な工場を建てて、同じくKD生産を開始する(1927年)。
 前回の記事の“9-4”で記したように、産声を上げたばかりでまったくの手作り状態だった当時の国産車と比較して、生産台数で優に×1万倍ぐらいの大量生産を行っていた両社の進出により、以降の日本の自動車市場はアメリカ車による植民地と化していく。
 しかしその一方で、廉価で良質な自動車が、両社の販売網に乗せて全国に向けて販売されたことにより、営業車が中心だったとはいえ、大阪/東京における円タクの普及に代表されるように、一般の日本人に自動車という存在を広く認知させた。
 また産業面でみた場合でも、自動車部品産業の育成や、下請けとの分業関係は、その後のトヨタや日産による大量生産体制の原型を提示した。さらに両社が展開した近代的な販売システムやマーケティング手法は、戦後の日本の自動車産業発展のための礎となり、人材育成面での貢献と共に多大な貢献を果たした。
 なおこの記事の年代の“守備範囲”は、関東大震災から、満州事変が勃発して陸軍が外資の排除へと動く前までの時代とする。
(元ネタに対してのガイド役になれば幸いです)
(いつものように文中敬称略とさせていただき、直接の引用/箇所は青字で区別して記した。また考える上で参考にしたものや、写真の引用元まで含め、出来るだけすべての元ネタを記載している。この記事のたぶん8割以上が、それら参考文献に依存するものであり、そのため今回の記事は青字だらけになる予定だ。もちろん、オリジナルに勝ることはけっしてないので、この記事をきっかけに興味をもった方はぜひ元ネタの方を確認願いたい。この記事がそのためのガイド役を果たせれば幸いだ。
なお前回の記事の“主題”が陸軍だったため、やたらと重苦しくなってしまった反省もあり、今回は深く考えることはせずに、流れに任せて軽いノリ書いてある。また動画の紹介部分は緑色で区別した。)

10.関東大震災と、その影響
 戦前の日本の自動車史を大きくみていくと、関東大震災と、満州事変を契機に、大きな変貌を遂げていった。震災後の応急処置として、緊急輸入したフォード車が、その後の日本の自動車社会に大きな転機をもたらすこととなった。
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https://pbs.twimg.com/media/D9LnBQJU8AAR-wx?format=jpg&name=360x360
(上は震災後の銀座の様子で、出典は「米澤光司(BEのぶ)@昭和史家」さんです。同氏によれば『関東大震災 で被災した銀座通り。昭和20年の空襲後の写真も見たことがありますが、こっちの方がひどいかもしれません』とのことだ。
https://twitter.com/yonezawakouji/status/1140228046323982336 )


10.1関東大震災で東京の交通網が壊滅
 1923年9月1日正午2分前に起きた関東大震災は、首都東京に壊滅的な被害を与えた。
壊滅的被害だった関東大震災
 この地震により約190万人が被災し、死亡・行方不明者は10万人を超え、全壊した建物は10万余に達した。地震発生時刻が昼時だったため、とくに火災による被害が甚大で、全焼した家屋は20万以上に及び、死者の9割は火災が原因だったという。wikiによれば新聞各社の社屋も焼失し、『唯一残った東京日々新聞の9月2日付の見出しには「東京全市火の海に化す」』だった。(下の画像の出典は「Japan Web Magazine」さんの『関東大震災後の東京の風景』だ。
https://japan-web-magazine.com/1923-great-kanto-earthquake)
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https://japan-web-magazine.com/wp-content/uploads/2014/09/031-700x466.jpg
 庶民の足であった、関東一円の輸送網と輸送手段の被害も大きかった。『具体的な鉄道車輌の被害は 1,475両,破損 423両,そして,東京の市営電車は 779両及び自動車 458台を焼失したと言われている』(❶P163)。
(参考までに下の動画『カラー映像で蘇る東京の風景 Tokyo old revives in color』をぜひご覧ください。当時の東京の街の交通の主流が路面電車で、市民生活の中に溶け込んでいた様子が、この動画からうかえる
https://www.youtube.com/watch?v=Qndcio-NjYY&feature=emb_rel_end
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軍用保護自動車3社も甚大な損害を受けた
(下の曲がった線路の写真は「総武線、両国橋(現両国)~錦糸町の高架橋梁上の光景」(新潮社)より。ちなみに前回の記事で記した、軍用保護自動車3社の状況も気になるところだが、はたしてどうだったかというと…『関東大震災により東京石川島造船所深川分工場の設備、車両ともに全焼し、一時自動車製造中止の論も出たが、新佃島の本社事務所跡に移り製造を継続することになる。東京瓦斯電気工業は大手町の本社建物を全焼、大森工場で一部建物の倒壊あり。快進社は軍用自動車製作中災禍にあい、橋本氏の独立経営不可能となる。』という惨状であった(❷より)。
https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=6510&query=&class=&d=all&page=4 )
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https://www.shinchosha.co.jp/railmap/blog/images/24/1.jpg
以下(①P34)より引用『焦土と化した帝都で、人々はまず安否の連絡を取り合う情報手段と、離ればなれになってしまった人々の移動や安全な郊外へとのがれる交通機関が必要であった。勿論、ケガの手当ての為に医薬品と病院、食物と水等が緊急要請されたが、電話、電気、ガス、水道など中心部の発展した地区でも一切使えなく、まして郊外や外国との連絡にも困る状況だった。』
復興に自動車が活躍
 こんな悲惨な状況下で、機動力のある自動車の存在が、にわかにクローズアップされていく。たとえば『震災直後、わずか数台の消防自動車が、日本銀行などの主要建築物を火災から救った』(②P34)という。『「激震と共に交通機関を失った当時に在って、自動車は唯一の通信機関であり、又運輸機関」』(①P35)だったのだ。しかしその、頼みの綱だった自動車は元々台数が限られていたうえに、『警視庁登録の東京市内自動車5,800台のうち無事だったのは、2,900台で、半数が焼失してしまった。』(①P35)
 この国家的な非常事態に時の政府(山本権兵衛内閣)は迅速に動く。首都復興にあたらせるべく、新たに「帝都復興院」が設けられて、初代総裁に後藤新平(元鉄道院総裁・東京市長)が就任、さらに当時鉄道院に在籍し、戦後「新幹線の父」として大きな功績をあげた十河信二が経理局長として出向するなど各所から有能な人材が集められた。後藤は復興資金の捻出のため、“復興債”を発行する。必要なことではあったが後々これが財政上、大きな重荷となっていく。
 話を自動車に戻すが、応急の輸送網構築のため、全国から自動車が徴用されるとともに、トラックの緊急輸入の際に、輸入税の免税を行い、自動車部品、原動機の輸入税を半減する処置を行う等、台数が不足していたトラックの輸入奨励策も実行する。(③P251等)

10.2震災後の復旧で“円太郎バス”が活躍
 一方、震災で交通機能が崩壊した東京市は、東京市電(営業キロ数103.4km、1,000両を超える車両を保有していた(④P137))を管轄していた市電局の長尾半平局長が中心となり、市電復旧までの代替交通手段として、バスの導入を検討する。
東京市がバス導入を決断
 しかし納期も長い上に高価な大型のバスを大量調達するのは現実的でなかった。そこで短納期で廉価な上に丈夫なフォードT型のトラック仕様のシャシー(TT型)を大量(当初計画の1,000台から途中で800台に減るが)に輸入し、国内で簡易なバス用車体を架装することを検討する。納期は欧州車の納期が通常6か月なのに対して3か月で、1,800円程の輸入価格は、たとえば東京の民営の“青バス”の高級仕様のバスの12,000円に比べて大幅に安かった(①P39、④P139)。
東京市会で200万円の予算が認められてGOとなり、当時のフォードの日本代理店だった、セール・フレーザー商会はアメリカのフォード本社の、ヘンリーフォード社長宛に『T型フォード、トラックシャシー千台ヲオクラレタシ・・・』と打電する(①P36、②P34等)。そしてこの電信の内容に、フォード帝国に君臨する“自動車王”、ヘンリー・フォードが関心を示す。この時点でフォードはすでにヨーロッパ及び中南米への進出を果たし、アジア進出の拠点を模索している最中であった(③P252)。この自動車王に宛てた電信が、日本の自動車史に新たな展開を呼ぶことになるのだが(11.3項参照)、その前に、震災からの復興の過程で活躍した「円太郎バス」について主に①、⑤、④の本をもとにして記す。
円太郎バスの誕生
 東京市の描いた応急用の市バスのイメージは、T型フォードのトラック仕様であるTT型(エンジンはT型と同じだがホイールベースが長い、低速・重量仕様)のシャシーに木製フレームを付けた、アメリカでは主に牛乳配達用だったトラックをフォードから購入し、その上に日本国内の“ボディ屋”が、簡易な木枠のボディにコの字型の木製シートを付けて、11人乗車の簡易バスに仕立て上げるというものだ。しかし台数の多さと短納期で『中にはやっつけ仕事の業者も出現して』(Web❺-1)、日本側の作業のその出来映えは『粗製乱造の見本といえた。』(⑤P76)なかには『「(シャーシが日本に送られてきたときの)梱包の木箱を解体して車体の材料に使った」などという風聞までささやかれた』(wikiより)という!
完成したクルマを早速視察に来た、東京市電局の長尾局長は『余りのお粗末さを驚き、「これはひどい」と嘆いた』(①P38)と伝えられている。(下の写真はブログ「初心者のためのオートオークションの基礎知識」さんよりコピー  http://www.jp-autoauction.net/2015/05/26/entarou-bus/ ご覧のようにいかにも“やっつけ仕事”的で、バスというイメージからはほど遠いものだった。ただし急増したボディ業者の中からたとえば倉田ボディ(横浜)のような、その後優れたバスの車体業者に発展していったものもあったことを追記しておく。ちなみに当時の東京都市部の人口は約250万人だったという。)
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http://www.jp-autoauction.net/wp-content/uploads/2015/05/20150110_auc_001-300x229.png
 そして1924年1月18日、急ごしらえの市営乗合自動車は、二路線,巣鴨から白山,春日町,神保町,大手町から東京駅に行くコースと,渋谷から電車通りを日比谷から有楽町を経て東京駅までのコースから営業開始した。その後大塚駅から呉服橋間,新宿から東京駅間に広げ、3月16日からは当初予定の20系統全線が運行となった。
自動車が“邪魔もの”扱いから“市民の足”へと変化
そのオンボロぶりから、「円太郎バス」というあだ名を頂戴しながらも、予想以上の利用客がいたという(1日平均乗客数が54,000人だった(⑤P76))。当初は市電復興までの一時的な運航の予定だったが、『半年間の暫定措置として路線営業の認可を出した警視庁も、また路面電車復旧までを条件にして了承した市議会も、バスの人気ぶりを眼のあたりしたので、これらを撤回し』(Web❺-1)、8月からは20系統が9系統に縮小されたものの継続して営業された。こうして「円太郎バス」は東京市営バスの源流となり、行政側と東京市民の双方にバス(自動車)の利便性を認識させる事となった。自動車が“市民権”を得たのだ。(①P39等参考)
“円太郎バス”の名前の由来
 「円太郎バス」と呼ばれた由来について、「みんカラ」の「「円太郎バス」から始まった"日本の車"」(Web引用❸)と、(㊳P133)を参考に記しておく。明治初期の落語家、四代目橘家(たちばなや)円太郎が、東京市内を走っていた乗合馬車の御者の吹く警笛のマネを得意としていた。その、すっとぼけた調子はずれの声色芸は大いに受け、乗合馬車が「円太郎馬車」と呼ばれた。この乗合馬車とバスが形態面で類似していたことから、新聞記者が「円太郎バス」と名づけ、広く呼ばれるようになったという。東京日日新聞(毎日新聞の前身)の小坂新夫記者が命名者だったらしい(㉘P143)。
(下の写真のクルマは『現存する唯一の「円太郎バス」であり、現存する国内最古のバスでもある。東京市から払い下げを受けた柏学園が使用し、1955(昭和30)年に東京の交通博物館に寄贈され、長く同館に保存・展示されていた。交通博物館閉鎖のため、2007(平成19)年からは、鉄道博物館所蔵のもと、東京都交通局にて保管中である』(以上もWeb❸より)。内容が重複するが、㉚P108によれば『現在交通博物館に保存されている1台は戦後千葉県の特殊学校で発見されたものと聞くが、円太郎が払い下げられてから多少ボデーを改造されていて真のオリジナルな姿ではない。実際には運転席にドアは無く、側面は幌を張っていた』のだそうで、もっとみすぼらしかったようだ。下の写真自体は「M-BASE」さんの記事“フォード モデルT”
http://www.mikipress.com/m-base/2012/12/14.htmlよりコピーさせていただいた。)

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http://www.mikipress.com/m-base/img/05-14-13%201924%20%E5%86%86%E5%A4%AA%E9%83%8E%E3%83%90%E3%82%B9.jpg
トラックも活躍
 一方、鉄道省も寸断された鉄道貨物輸送の臨時対策として、トラックを緊急輸入した。以下(Web❶P163)より引用『~東京― 横浜線の再建策として GMC,フェデラル,マックのトラック計 100台を輸入し,貨物運輸業を開始した。この鉄道省のトラック運輸業は,輸入トラックの払下げを通して民間の貨物運輸業を発達させ,さらに,昭和5年の「省営バス」構想(注;次の記事の“その5”で記す予定)へ発達することになるのである。』横浜~芝浦間を船舶輸送に切り替えて、芝浦埠頭に陸揚げされた貨物をトラックで市内各方面に輸送したようだ。(⑥-1P20)円太郎バスと同様に、震災が一つの契機になり、トラック輸送の実用性が世に認められることとなった。
10.2項のまとめ
 以下(⑤P76)よりこの項((10.2)のまとめとして引用させていただく。『震災前の日本の道路は自動車に対して寛容ではなかった。(青バスは)日本で最初に女性車掌を採用するなどして奮戦したが、新参者の自動車は輸送機関として市電のような行政の庇護もなく、システムの出来ている荷車や荷馬車、舟運等にも対抗する術を持たなかったのである。交通規制も同様だった。(中略)自動車は道路の邪魔者とみなされていたのである。
その邪魔者が関東大震災によって、一躍主役に抜擢され、本来の実力が発揮された。以後、自動車は急速に輸送、交通機関として普及していくことになる。フォード車はその状況を的確に見抜いていたわけだ。』
(⑤P76))
こうした震災時の東京市と鉄道省の動きに刺激されて、その後各主要都市でバス路線を開設する所が相次ぐようになったという。
青バスについて
(下の写真の東京乗合自動車は、通称“青バス”と呼ばれ、東京市民に親しまれた。実際には青というより深緑色の車体で、窓下に白線を入れていた。なおバスガール=女性車掌は当時「職業婦人」の花形だった。『三越がデザインした制服が時代の先端を行くスタイルとして市民の評判を呼んだ。』(Web❺-1)青バスは震災後ただちに奉仕活動を行ったという。『ささやかな活動ではあったが、いち早く、自動車の輸送が始まった。通称「青バス」の東京乗合自動車㈱は、焼け残ったバスを新宿~四谷路線に集め、二日には無賃の奉仕運転を開始した。甲州街道沿いに焼塵の市内から徒歩で逃れる避難民への便宜を図ったのである。』(⑲P148))
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http://blog-imgs-46.fc2.com/n/a/m/namakenako/Koyo_Ishikawa_1.jpg
(青バスはその後、『昭和17年5月に交通の地域調整によって旧市内の路線交通事業を東京市が独占経営することになったので、多くのバス会社と共に市営バスへ接収統合されてしまったが、車体の緑色に白線は、その後の市営バスに用いられるようになった』という。(㉘P152)
以下の写真と文はブログ「岩手県のバス“その頃”」さんよりコピーさせていただいた、
http://www5e.biglobe.ne.jp/~iwate/vehicle/extra/coloring/c2.html
『東京乗合自動車の遊覧バス(はとバスの前身)で、既に黄色に白帯という明るいカラーに塗られ、人目を引いていました』という。写真のクルマもそうだが、車両はアメリカの高級バスメーカーである、ダイアモンドT社製のもので、青バスも同社のバスを用いていたようだ(㉘P153))

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http://www5e.biglobe.ne.jp/~iwate/vehicle/extra/coloring/post_card/1930s_01.jpg
郊外電車の発展(余談)
(このブログでは鉄道は原則扱わないのだが、10.2項の最後に郊外電車の写真を貼っておく。下の写真と文は「藤田加奈子さんのツイッター」よりコピーさせていただいた。
https://twitter.com/foujika/status/835828736058482689
『西尾克三郎『ライカ鉄道写真全集4』より「帝都電鉄(注;現・京王井の頭線)下り永福町行普通列車 東松原ー明大前 昭11/1936-8」。林野と農地のひろがる牧歌的な沿線風景だけれど、ぼつぼつ住宅が建ちはじめている。1930年代東京の郊外生活と私鉄沿線。』以下は(③P273)をもとに要約して記すが、関東大震災によって、市内人口の約60%が住居を失い、大部分が郊外に移住した結果、たとえば1921年(大正10年)と1930年(昭和5年)の間に東京の交通人口は大きく変化した。市電(路面電車)は約70%→35%へと大きく減少したが、省電(国電)は約19%→33%に、郊外電車(下の写真のような電車)は9%→20%に、そして乗合自動車(バス)は約2%→11%へと躍進した。東京の交通網も住環境も、震災を境に大きく変貌していったのだ。)

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https://pbs.twimg.com/media/C5l1oJ7VAAQL1g2?format=jpg&name=900x900
 脱線気味になってきたので、次に“本題”であるフォードの日本進出について話を進めたいがその前に、さらに本格的な脱線になりそうな予感だが?のちに輸入車業界の不動のNo.1企業となるヤナセの創業者、梁瀬長太郎による震災直後にGM製乗用車を実に2,000台という、東京市の円太郎バスを×2.5倍上回る、当時としては空前の規模の大量輸入について、触れておきたい。

10.3梁瀬によるGM製乗用車2,000台の緊急輸入の偉業
 不振だった三井物産のGM車輸入業務を引き継ぐ形で独立した梁瀬長太郎は、外遊中に関東大震災の報を聞き、当時乗船していた船の図書館で調査した結果、震災復興時には物より人の移動が優先し、トラックよりも乗用車が優先されるという結論に達する。そこで周囲の大反対を押し切ってGM製乗用車2,000台の輸入に踏み切り、プレミアム付きで即座に完売させる。そして震災復興を急ぐ国家の指導者たちの“足”をいち早く提供することで、その復興に大きな貢献を果たした。
震災直後に500台の乗用車を緊急輸入
 以下は①P26、④P136、⑥-1P117、⑧、㊵、Web❺-1、❻(特に主に❻←非常に詳しく書かれている、と①)等を参考にした。
梁瀬長太郎とヤナセについて
 梁瀬長太郎は1879年、群馬県に生まれ、1904年、東京高商(現在の一橋大学)を卒業後大阪商船(現商船三井)に入社したが、翌年三井物産に転じた。三井物産は1912年、GM傘下のビュイックの販売代理権を獲得し、機械部で輸入販売することになった。鉱油係主任だった梁瀬が担当するようになるのはその翌年からだった(Web❻)。しかし物産の期待通りに売れず、1914年に200万円もの累積赤字を計上し、軍用自動車以外の自動車販売から撤退することになってしまった(主にWeb❻、①P22、⑫P20)。『三井物産は輸入こそできても小売りはできず、(中略)中小企業で扱った方が適切であるとの結論に達し、自動車の取り扱いを停止することとなった。』(Web❻) (下はヤナセのHPより『梁瀬長太郎会長と次郎社長(1952年)』
https://www.yanase.co.jp/company/ajax/topic1945_2.asp)長太郎の長男として戦後その事業を引き継ぎ、中興の祖として、高級ブランド”ヤナセ“を確立させた梁瀬次郎は、アメリカ車の販売に寄与したとして、2004年に日本人としては5人目となる米国自動車殿堂入りを果たした。ちなみにまったくの余談だが、梁瀬次郎は非常に達筆で、日経新聞に執筆した“私の履歴書”はまるで連載小説みたいに読み物としても面白く書かれていて、毎日の連載を楽しみにしていた記憶がある。これも父親から受け継いだ血筋だったのだろうか。「じゃんけんぽん」(㊵)という本も、父と対立しつつもVWやメルセデス・ベンツの販売権獲得に見られるように、絶えず挑戦し続けた、戦後のヤナセの軌跡が平易な文章で綴られていている。自動車以外でも「いいものだけを世界から」と、アラジンのオイルヒーターや、ウエスティング・ハウスの家電なども記されており、あのころの懐かしい記憶が脳裏に蘇ってくる。)

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https://www.yanase.co.jp/company/img/history/ajax/img_topic1945_2.jpg
三井物産からの独立
 梁瀬は『かつて三井物産の常務取締役だった山本条太郎氏から、自動車販売の引き継ぎが打診される。「お前がやるのならば自分もできる限りの応援を惜しまない。資本も出してやろう」という言葉に元気づけられ、長太郎は独立を決心したのであった。』(Web❻P15)梁瀬は三井物産からの独立を決意し、同社の支援の下に、輸入自動車及び輸入鉱油類の一手販売権を引き継ぐ形で東京・日比谷に個人商店「梁瀬商会」を設立、ビュイックとキャディラックの輸入販売を始める。三井物産から『日比谷公園前の従来の店舗・工場を安く譲ってもらい、また、自動車のストック40台ほども、顧客に販売できた後に支払う条件で譲ってもらった。』(⑫P20)
 独立当初は第一次大戦勃発による戦争特需もあり、高級車ビュイックの販売が好調だったが、間もなく特需が終わり、戦後不況に突入すると在庫の山となり、たちまち苦境に陥った。
失意の中の欧米視察旅行
 そんな折、局面打開のヒントを求めて欧米への視察旅行に旅立った梁瀬は、アメリカからヨーロッパに渡り、『もう一度アメリカに寄りたいと乗船したフランスルアーブル港で日本の九月一日の大地震の情報を知った。船は出港、アメリカニューヨークに向かった』(①P23)。まるで図ったかのような絶妙なタイミングだった。船中では『日本の東京横浜では約三十万人の市民が焼け死ぬ大地震があった』(①P26)といった悲報で持ち切りだったという。
だがここで、梁瀬が並の人間と違うところは、船の図書館を利用して、災害復興の際に、トラックと乗用車のどちらが先に必要になるか、海外の文献を調べたのだという(ただし同行した梁瀬のニューヨーク駐在員に調べさせたのだが)。そして『ロンドンの大火やサンフランシスコの大地震のときには、まず乗用車が先に動いて、その後にトラックが売れることが分かった』(④P137)。『荷物が動くのは人の次であることが判明した。荷物は口がきけない。どこにいけと指令をするのは人である。』(㊵P42)
モノより人が先に動く
 そこでニューヨークに着いた梁瀬は直ちにGMに向かい、船中で得た「復興には物より人の移動が優先する」という信念に基づき敢然と、2,000台ものビュイックとシヴォレーの乗用車を、大量輸入しようと動く。
少し話が戻ってしまうが、アメリカと欧州へと旅立つ時、梁瀬は窮地に立たされていて、相当深刻な状況だったようだ。達筆な長男の梁瀬次郎が(㊵P39)で当時の父について以下のように綴っている。『~父は無一文になってしまったのだ。その時、父は心に「じゃんけんぽん」を決意した。とてもこのままでは会社は存続できない。会社の閉鎖解散を決意したが、このままでは何とも口惜しかったであろう。私財をすべて整理して、母を連れて生まれて初めて、一生の思い出にとアメリカ、欧州へ旅に出ることを考えた。本当の一か八かの心境であったろう。』失うものがほとんどなかったが故に、起死回生の2,000台という、一世一代の大勝負を打てた面もあったかもしれない。
一世一代の大勝負
しかしこの“大勝負”は他人からは理解が得られず、『GM社からは、「トラックならわかるが、乗用車のみを持っていくとは頭がおかしくなったのではないか」と言われ、注文を受け付けてくれなかったという。輸入手続きを依頼していた三井物産のニューヨーク支店も同様の反応であり、信用状を開設してくれなかった。』(Web❻P24)
あまりの大規模な輸入計画に本社と相談した結果『物産本社の常務安川雄之助には、梁瀬自動車の従来の在庫が未整理な状況を指摘され、新規輸入は見合わせるべきと判断された』(⑫P26)ようだ。
 しかしそこで諦めずに粘りに粘り、横浜正金銀行(外国為替銀行で東京銀行の前身。(Web❺-1)によれば梁瀬商会のメインバンクだったようだ)ニューヨーク支店で、乗用車の販売には絶対の自信ありと強く主張し、何とか信用状(L/C)を開いてもらい、ビュイックの四気筒モデルとシヴォレーの乗用車計2,000台出荷の了解を勝ち取る。(主にWeb❻、①P28)そして2,000台のうちの第一陣である500台(ちなみに④P137では1,000台となっているが?)の乗用車と共に日本に向けて出港する船に自ら乗り込み、意気揚々と帰国したのが震災から1月ほどの10月4日(5日と書かれたものもある)で、円太郎バス開業の3か月以上前という、他を圧する驚くべき早わざだった。
プレミアム付きで完売、大勝負に勝利
 瓦礫の中の首都東京では『すでに芝浦の工場他の在庫の山だった自動車はすべて売れ、新入荷の五百台も即刻売り切れ、残りの千五百台もすべて予約がつき、プレミアムが一台三百円も加わり、約六か月で二千台の乗用車は完売した。』(①P28)それでも先に記したように、東京の車の半数が焼失したため、『東京・横浜政財界の指導者たちにゆき渡らない台数だった』(①P29)のだという。梁瀬の目論見通り乗用車の需要が先行し、より常識的な判断で?トラックの輸入を重視した同業他社は震災直後、その販売に苦戦したという。梁瀬の商売人としての抜群の勘と先見の明、そして果敢な行動力には、ただただ感服する以外ない。
 しかしこの大ギャンブルを成功させるためには、二つの大きな関門を乗り越えねばならなかったはずだ。
(下の広告は1925年の梁瀬自動車の広告で、大衆車のシヴォレーよりも、高級車のビュィックの方が主力だったようだ。今も昔も変わらず、梁瀬は高級車販売が得意だった様子が伺える。下の画像は「ジャパンアーカーブス」さんよりコピーさせていただいた。)
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円太郎バス×5倍近い額の大規模輸入だった?
 それにしても、梁瀬が震災直後に輸入した2,000台という台数のもの凄さを読者に理解いただくために、当時の日本の自動車社会のスケールと照らし合わせながら、ここであらためて確認しておきたい。
 まず、東京市が廉価なフォードTT型を応急の市民の足として仕立てた、円太郎バスとの台数の比較だが、10.2項で見てきたように当初の1,000台の予定が予算削減でようやく800台(より正確に言えば、800台+応急車と練習車が80台あったので880台だったらしい(①P37))輸入できたに過ぎなかった。それでも当時の日本では画期的な、まとまった台数と言われていた。
 次に円太郎バスとの1台当たりの単価で比べると、梁瀬が輸入を目論んだ乗用車は、廉価なフォードより高価なビュイックと、シヴォレー(本国ではフォードとほぼ同級だったが)の乗用車だった。その頃の日本における販売価格はシヴォレーで3,000円、ビュイックの4気が5,000~5,500円程度であったという(⑧P133)。仕入れ価格ではまた違ってくるだろうが、均して大雑把に円太郎バス(国内で行ったボディの架装込みで1,800円ぐらい)の少なくとも2倍の単価だったとして、台数が2.5倍なのだから、単純に考えれば金額面では優に、2×2.5=5倍ぐらいの大規模だったはずなのだ。梁瀬の輸入は販売目的なので同一視はできないが、当時の常識からするとすさまじい規模の、莫大な金額が動いたことだけは間違いない。
当時の国内市場との台数比較
 最後に当時の国内自動車市場との比較だが、後の11.2の“表8”「全国統計車種10位までの台数(1924.12=震災の翌年)」の表を見ても、いちいち説明はしないが2,000台という台数の大きさは一目瞭然だし(ちなみに震災によって東京市内の自動車5,800台のうちの半数が焼失した(①P35)前年の1922年の日本の自動車登録台数は14,886台だったという(①P28))、さらに言えば、次項で述べる、フォードが鳴り物入りで横浜に組立工場を作り、初年の半年間にKD生産した台数が約3,400台で、その台数でも当時画期的な台数だといわれたものだったが、フォードの単価の安さからすれば販売価格ベースで見た金額規模は、たぶん梁瀬の輸入車の合計と等しいか、それ以下だったのではなかろうか。
円太郎バスに等しいほどの偉業だった
 ここから先に記す内容は、手元にある本やネットの情報等をざっと調べた限り、どこにも書かれていない内容なので、全てが私見(ほぼ妄想)な上に、後で思えば的外れな話だったり、“本命”の情報が出てきて大恥をかいて終わる可能性も十分あることをあらかじめ記しておく。
 また誤解を招かないよう、このことも最初に明記しておきたいが、自分は梁瀬長太郎が伝えた物語の信憑性を疑っているわけでは全くない。その偉大な成果も含め誇張はなく、すべて真実を語ったものだと信じている。それどころか自動車史の中で見ればかなり過小評価されており、自分の考えでは本当は円太郎バスに等しい、もっと高く評価されるべき偉業だったと考えている。
しかし、“違和感”も覚える
 しかしその成功談に、現代の感覚(と、自分が思っただけかもしれませんが)からするとどうしても、多少の“違和感”を感じてしまう。そしてその理由は、偉業達成のための大きな関門だったはずの、莫大な資金調達の過程と、異例な短納期に対しての説明を、省略したからではなかったかと思う。
 しかしこのことは、梁瀬側の問題というわけではなく、後の時代の大学の研究者の先生方や、歴史家たちが解説すべき課題ではなかったかと思う。
 この記事の二つ前の記事の、タクリー号のところでも記したが、歴史上の解釈は、時代の変遷とともに変わっていくものだろうと思う。そして梁瀬長太郎が今から約100年も前に、その成功談を語り始めたころには、不必要と思い敢えて語らなかった部分が、今となっては興味をそそられたりするものなのだ。そこで上記の二点について、自分なりに補足を試みたが、ただしその考察は、苦労して何か新たな資料を“発掘”して判明した結果ではなく、ほとんどが頭の中で描いた想像(妄想)にすぎないことを再度念押ししておく。 
資金調達の過程
 それではまず初めに、この取引を成立させるためにもっとも重要な要素であった、莫大な資金調達の過程について、もう一度考えてみたい。
 最初に結論から言えば、梁瀬はそこまで語っていないが、その金額の大きさと、横浜正金銀行の位置づけからして、梁瀬の計画に相乗りする形で、横浜正金を通じて国(国家)もその“意思”を示し、関東大震災復興支援の一環として、間接的な支援を行ったのではないかと、自分は直感的に思った(=繰り返し言うが“直感”なので、まったく私見)のだが、その点について、以下順番に推理していきたい。
 まず話の前提として、当時の梁瀬自動車(1920年に設立)は三井物産の代理店だったという事実がある(「自動車流通の経営史」で四宮正親氏の指摘によれば、「梁瀬自動車株式会社20年史」にそのように記載されているという)。ということは、GM車の購入は三井物産経由が正式なルートであり、物産の承認がなければ進められない話だった。
 その物産に拒否されたということは、GMとのダイレクトの取引が必要となる。GM側からすれば元々梁瀬自動車との取引は、梁瀬長太郎の商才と三井物産の信用(保証)によるものであり、三井物産の信用が得られないのであれば、商談成立のハードルはさらに一段とハードルが上がってしまったことになる。それでは梁瀬長太郎はいかなる打開策を考えたのか。
『~三井物産を諦めた長太郎は、次は梁瀬商会のメインバンクである横浜正金銀行に依頼した。最初は難色を示したニューヨーク支店長は、長太郎の熱意に負けてついに信用状開設に同意してくれた。こうして、発注したGM車が揃うと、日本向けに船積みされることになり(以下略)』以上は(Web❺-1)からで、他の資料もほぼ同様の内容だが、全体の流れは、ここに記されている要約通りの展開で間違いないように思える。そして三井物産に断られた以上、商談を成立させるための、もっとも重要なポイントが、横浜正金銀行の支援を得られるか否かであったことが、この文章からも明らかだ。
横浜正金銀行が商談の成否を握った
 ここで、横浜正金のニューヨーク支店長はL/C開設に『最初は難色を示した』という部分に注目したい。支店長側からすれば、銀行マンとしての常識的な判断で、梁瀬が持ち込んだ商談の規模と内容はきわめて危険な大バクチに映っただろうから、至極まっとうな反応だっただろう。
 正金は梁瀬のメインバンクだったという記述もあるので、日ごろから付き合いはあっただろうが、大財閥でもない(三井が後ろ盾だったが、既述のようにこの“賭け”に、三井物産は反対し支援しなかった)、第一次大戦後の反動による不況で、当時業績不振だった、一(いち)民間自動車輸入業者が一度に扱う規模(金額)としては、常識外れのものだと判断されたに違いない。
 いくら梁瀬から「モノよりヒトが先に動くのでトラックでなく乗用車を輸入する」のだと熱心に口説かれても俄かには信じがたい話で、巨大なリスクを感じとり、拒否反応を示したのは当然の話だ。再三言うが当時の梁瀬は『日本の会社が在庫山をなし、成績不良、倒産破産の寸前の時』(㊵P43)だったのだ。これは長男の次郎が語っていることなので間違いない。この悲惨な状態では“熱意に負けた”ので応じたとは思えない。
 しかしもともと、“いちニューヨーク支店の支店長”の判断で決済できるような規模の取引でなかったことも間違いなく、当然のように日本の横浜正金の経営陣に急ぎ報告し、決済の判断を仰いだはずだ。こうして商談の成否を決する舞台は、ニューヨークから離れる。
廃墟を前に立ちすくむ指導者たち
ここから場面を移し、横浜正金の経営陣や華族を含む(①の言葉を借りれば)“東京・横浜政財界の指導者たち”のいた、震災直後の東京/横浜の当時の状況をよくよく考えてみたい。10.1で記したように、震災で庶民が“足”であった市電を失ったように、“東京・横浜政財界の指導者たち”も同様に自動車という“足”を失い、廃墟の中で茫然と立ちすくんでいたはずだ。
後述するように、関東大震災当時の日本における乗用車はまだ、一部の特権階級と、大企業/役所等の社用車/公用車や、タクシー、ハイヤーを使う一部の人達のものだったが、このうち自動車を足代わりに使っていた(今風に言えば)“上級国民”たちは、自らの“足”を奪われて、不安な思いにかられていたはずだ。しかし復興のためには、まずこの人たちが立ち上がり、陣頭指揮をとらねば、先に進まないのも事実だった。
 さらに人としての本音を言えば“平民”の足の確保(円太郎バス)などより先に、まずは自分たちの足の確保を優先し、安心したかったに違いない。(このあたりの当時の日本の“エライ人”たちの性分を、高級車の商売を通じて梁瀬は熟知していて、そのイメージも補完されて「モノよりヒトが先」だと確信したのだと思う(私見です)。)
渡りに船だった梁瀬の輸入(モノより人が先!)
 そんな状況下で降ってわいたような、実にタイムリーな梁瀬による乗用車の大量輸入計画は、本来自分たち支配階級の側で、“足”の確保を早急に対策せねばならなかった時に、民間企業の側からありがたく提案してくれたわけで、まさに渡りに船の話だったに違いない。しかも段取りは梁瀬がすべてつけてくれる上に、国の予算から直接支出するわけでなく、横浜正金銀行のニューヨーク支店に命じて、梁瀬商会宛にL/Cを発行してやるだけでOKだったのだ。
 梁瀬の自動車輸入の計画が当時の支配階級側に、正金のルートだけから伝達されたのか、それとも先の引用文に“長太郎の熱意に負けてついに信用状開設に同意してくれた”というくだりがあるが、“長太郎の熱意”とは、高級車の取引を通じて一部の支配層と信頼関係を築いていたと思える長太郎の側から直接の働きかけもあった、とも想像できるが、今となってはよくわからないし、100年も前の話なのでもはや永遠にわからないかもしれない。しかしそれら一連の働きかけの中から、大局を見て、梁瀬の計画を支援しようと動いた人がきっと現れたのだと想像したい。そしてたぶんその方(方々?)こそが、この大事業を支えた影の立役者だったはずなのだ。(=別の言葉で言い換えれば、当時の「横浜正金銀行の金を右から左へ動かすことが出来た人」で、限られてくるはずだ。)もはや歴史に埋もれてしまい、どこの誰だかまったくわからないけれど。
国家的な事業に格上げされた?(私見)
 以上、しつこいようだが全編まったくの私見(想像というより妄想)ながらまとめると、梁瀬によるこの歴史的な大事業は言うまでもなく、あくまで梁瀬長太郎個人の発案によるものだったが、国の側からしても、その規模の大きさと公共性(震災で失った“上級国民向け”の足の確保という意味で)故に、震災時の復興策の一環として、横浜正金銀行を通して間接的に行う、半ば国家的な、関東大震災復興事業(今に例えれば緊急の「コロナ対策」みたいなもの?少し意味合いが違うか?)へと急遽“格上げ”され、決済されていったように、自分には思えてならない。
 一方GM側からすれば、横浜正金銀行の保証≒ほぼ(日本)国の保証と判断したに違いなく(ここもある意味核心部分だと思うのだが、当時の外国の企業からしてみればふつう、そのように判断すると思うのですが如何?)安心し、積極的に応じたのだと思う(以上、再三記すが私見でした)。
 この項(10.3-3)の最初に話を戻す。横浜正金のニューヨーク支店長は、同行首脳部からの返答から、梁瀬長太郎が熱心に説いた「震災時にはモノよりヒトが先に動く」の理論の正しさを、文字通り実感したことだろう。
超頑固者だった梁瀬長太郎(余談)
(下の画像はwikiよりコピー『旧:横浜正金銀行本店(現:神奈川県立歴史博物館)』横浜正金銀行は外国為替銀行として日銀の出先機関的な機能を果たし、皇族を含む当時の日本の支配層が深く関わっていた銀行だ。ここでさらに余談を記すが、梁瀬長太郎の「モノよりヒトが先に動く」理論についてだが、その後も『後に日本が満州事変以降、陸軍が戦争にはトラックが最重要との経験から、日本政府の方針が乗用車生産を停止して、軍用トラック一本の生産に切り替えた時、梁瀬長太郎は、「戦争は物が動くより先に、人が動かなければならない。(中略)トラック九台に対し、乗用車一台は不可欠なものである」と商工省の担当官に主張し、嫌われてしまった』(①P28)ほどだったという。相当意志が固い人物(筋金入りの頑固者!)だったようだ。)
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超特急の輸入がどうやって可能になったのか
 続いて自分が“違和感”を覚えた二つ目の話題に移る。GMと交渉スタート時に大きく揉めて、ロスタイムが生じた中で、日本への輸入がなんと約1ヶ月弱という、まさに常識破りの異例のハイスピードをどうやって達成したのか、その説明をなぜか、自分が調べた限りだが既存の歴史書が行っていない。そこでその過程を自分なりに想像してみたい。
当時の輸入車納期の常識
 まず初めに、当時の輸入車の納期の“常識”から、もう一度確認しておきたい。一般に自動車の輸入のための期間は早くても3ヶ月はかかり、価格の安さとともに、それが円太郎バスに大量生産車のフォードが選ばれた理由だったことは既述の通りだ(②P34等参考)。欧州車に至っては半年かかると言われていた時代だったが、ここでもう一度、円太郎バスの導入の経過をたどることで、実際に確認してみたい。
「十月二十五日にはセールフレーザー商会と千台の契約書が交わされた」(①P36)とあるので、その前から非公式な打診はあったにせよ、1923年10月25日ごろ、フォードに対して正式に発注されたと考えてよいだろう。ちなみに3ヶ月以内の納期の約束があったとされている(①P36)。そして実際に、『1924(大正十三)年の1月12日から2月22日まで数回に分かれて、約束の800台のシャシー他が横浜港に陸揚げされた』(①P38)というので、納期は約束通り、約3ケ月かかったことになる。これに対してほぼ同時期に行われた、梁瀬による最初の輸入の500台分のタイムスケジュールと比較してみたい。
異例の超特急だった納期
 1923年9月1日に梁瀬夫妻はフランスルアーブル港から、アメリカ行きの「パリ号」という客船に乗るが、(⑧P117)によれば『この航海は五日ばかりかかる航程だった』とあるので、アメリカ(ニューヨーク港)には9月5~6日前後に到着したのだろう。
 その後既述のような紆余曲折の交渉を経て、日本到着が10月4日(10月5日という記述もある(④P137)等)だったので、太平洋航路(サンフランシスコ→横浜の貨客船「天洋丸」で輸送した)の船への積み込み&航海の日数が仮に2週間ぐらいだったとすると、逆算すれば、9月20日前後までに、500台の車を用意しなければならなかったはずだ。しかも現代のような、自動車輸出用の専用船などないため、輸出梱包された状態に仕立てる時間も必要だったはずで、前項で記したように、初期の交渉でどのくらいの時間をロスしたかも不明だが、そのことも考え合わせれば、契約成立後、実質1週間ぐらいで、500台のクルマを調達したのではないだろうか(多くの“仮定”を含んだ上での“想像”の日数です)。だが果たしてどうやって、不可能を可能にしたのだろうか。
(下の画像と文は“AUTO CAR JAPAN”よりコピーさせて頂いた『1923(大正12)年、芝浦工場に陸揚げされるビュイック』https://www.autocar.jp/news/2018/04/04/281723/3/)
これは余談だが、第二次大戦前にも『(1938年型ビュイックを)戦争を予感した梁瀬長太郎氏が輸入車最後のチャンスに大量輸入してストックしておいたので、戦時中の公官庁では多く見られた車』(㉒P46)だったそうだ。

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https://www.autocar.jp/wp-content/uploads/2018/04/yanase200Mcars_180404_003.jpg
梁瀬とGMの証言
 ここであらためて、関連する梁瀬の証言を確認してみる。船便の手配については多くの文献が、鈴木商店が木材輸入用に用船した船に、無理を言って割り込ませたことを書き残しているが、肝心の500台もの乗用車を、猛スピードで調達した過程については一切触れていない。しかしこのことは、梁瀬とGMとの商売上の分担の違いが前提としてあり、梁瀬側はメーカーではないので、クルマの確保は当然ながらGM側の問題だったからだろう。よくよく考えてみれば当たり前だが、この問題は梁瀬側でなく、GM側の問題だったのだ。(逆に申せば、つまり既存の歴史/経営史の書は、梁瀬側から“与えられた”情報の範囲内でしか物事を見ないつもりらしい?)
 そこでGM側の証言?を確認してみると、梁瀬に対して『「私どもは、代金をいただく保証さえあれば、2,000台の供給は難しいことではありません~』(Web❺-1)というスタンスだったようだ。当初から一貫して、GM側が問題にしていたのは膨大な台数に対する梁瀬の支払い能力の方だった。震災の復興用だったため、梁瀬側が希望したであろう、ほとんど“即納”のような短納期の要望自体は、不可能などと、最初から言っていなかったようなのだ。
正規輸入では不可能だった?
しかし梁瀬のような、正規ディーラーによる一般的な輸入方式の、注文(GM側からすると受注)→工場生産→出荷の手順では到底ありえない短納期だったことは、フォードによる円太郎バスの事例から見ても明らかだ。それではこの“カラクリ”はいったい何だったのだろうか。そこでまたまた手探りで、自分なりに想像(例によってまったく独自の妄想だ!)してみたが、しかし、当時のアメリカの自動車産業の状況を考えれば、その答えは、意外に簡単だったかもしれない。
当時のアメリカは供給過剰で大量の在庫車であふれていた
 この時代のアメリカ車はすでに大量生産・大量消費時代に突入しており、かなりの供給過剰状態だったといわれている。たとえば1923年のシヴォレーの生産台数はすでに48.1万台にも達していたという(M-BASEによる。ちなみに同年のフォードの生産台数は200万台だった!)それに比べれば、梁瀬の輸入第一陣の500台はその約0.1%に過ぎなかった。アメリカの市場規模から見れば、それほど大量でもなかったのだ。
 また過剰在庫状態だったと思われる記述もいくつかあり、たとえば(⑬、P99)に以下のような記述がある。
『スローン(注;11.16参照)は、GM再建の重責を担った1924年頃、GMの生産計画のたて方が、販売の実態を踏まえてたてられたものではなく、そのために過剰在庫が発生してディーラー経営を圧迫していることに気づき、自らディーラーを歴訪してまわって、ディーラー経営の実態や在庫情報をつかむことの重要性、在庫以外にもディーラーの持つ市場やユーザー情報の重要性を強く認識した。』
(⑭、P10)にも、GMが日本進出の際、ディーラーになる条件として、売上報告を義務付けた理由として『~そのような対応の一環として、1924年の過剰在庫の発生を機会に採用された・・』と記されている。以下も(⑭、P12)からの引用だが、自動車の急激な普及を経て、この時期のアメリカは早くも『新車需要が頭打ちになり、それに代わって取替需用中心の市場構造へと変化した。~それは最終需要の如何にかかわらず、マーケティング諸手段すべてについて巨大な費用を投じて、大量に自動車を市場に押し込むことであった。』(⑭,P12)
シヴォレーとフォードの熾烈な戦いの中で(11.2-2参照)、しかしこの頃はまだマネージメントの手法が十分確立されておらず、適切な生産調整がなされていない中で、供給過多による乱売合戦(たぶん)の果てに、この当時、今でいうところのディーラー在庫車みたいなものが大量に積みあがっていた可能性が高い(わかりやすくいえば、今の日本の国道のバイパス沿いに大量に並んでいる新古車のような状況か?私見です)。
在庫車を調達した?(まったくの私見)
 GMとの交渉の過程で、それらの在庫の中からまとめて、たとえばGM本社からの斡旋で西海岸あたりのシヴォレーやビュイックのディーラーの在庫車から(太平洋航路の船に積むので都合がよいので)調達することだってできただろう。あるいはもっと正統的?に、メーカーのモータープールに、大量に“在庫”されていたものの中から買い取ったのかもしれない。どこの在庫の分を融通したかはまったくわからないが、いずれにせよ、クルマの台数自体は当時の日本と事情が全く違い、十分過ぎるぐらい、アメリカ本土には溢れかえっていたのだろう。
 以上のような自分が想像した調達の過程は、梁瀬のように“正規ディーラー”を謳う立場からすれば、イレギュラーな方法だったと思うが( “正規ディーラー”として看板を掲げているが故に、梁瀬側からは敢えて語らなかったか?ワカリマセン)、震災の復興のため、納期最優先の緊急対応だったので“非正規”な輸入方式もありえない話ではなかったと思う。
 さらに記しておきたいが、空前の超短納期を実現させた大きな理由がもう一つあったと思う。(㊵P48)に夫、梁瀬長太郎とニューヨークへ同道した梁瀬夫人の書記があるのでそこから引用する『ニューヨークに着いたときは、GMの重役たちまで多数に出迎えていただいた。だれもが日本の大惨事に心から同情を寄せてくださった。』
震災に同情したGM
 先に記したように、クルマは“アメリカのどこか”にすでにあったものと仮定した場合でも、実際の納期はGM側がどのくらい“気合を入れて”船積みのための残りの作業を行い、出荷できるかに、全てがかかっていた。そもそも梁瀬(日本)側からすれば、元々納期に対しての主導権などなく、GM側の対応次第だったはずなのだ。そしてGM側は大量受注で在庫が捌けるだけでなく、震災にいたく同情し、梁瀬との今までの信頼関係+自らニューヨークに乗り込み交渉するという熱意にもほだされて、復興の助けにもなればと全力で対応した結果、異例の短納期が実現したのだと思う(当然、まったくの私見です)。
 以上、在庫車を調達+GM側の厚意による全力対応でクリアーした、超短納期の“カラクリ”を想像してみた。最後に一言、一介のド素人のカーマニアが生意気なことを申せば、既存の自動車の歴史書は、円太郎バスの導入時の説明で、輸入車の納期は最短で3ケ月だとしておきながら(はっきりと明記していないものもあるが、すべての書がその前提で書かれている。自動車殿堂でも参考にされることの多い(㊲P100)が唯一納期1ヶ月ぐらいの印象を与える記述だったが、これは単なる事実誤認だと思う)、梁瀬が交渉スタートから1ヶ月を切る超短納期で大量輸入を果たせた理由について、誰もがなぜか説明を避けている。そのため、つじつまが合わなくなっており、今回の自分のように混乱する人が、これから先も出てくると思う。今回改めて確認したところ、手持ちの資料では唯一(⑫P26)が『~それでも梁瀬は~GMと再交渉し、ついにビュイックとシボレーの乗用車合計2,000台の“買取”契約を結んだ。』と、“買取”という言葉から、意訳すれば在庫車を買い取ったのではないかという微妙なニュアンスも伝わるが、その辺の事情を、推測でもよいのでもう少し、”有識者の方々”に説明してもらえるとありがたかった。
(下の画像は梁瀬長太郎がシヴォレーと共に乗船した「天洋丸」。浅野財閥系の東洋汽船が船主で三菱造船所が建造した。1908年、貨客船として太平洋航路に就航し『日本における貨客船のクラスにおいて初めて1万トンを超えたクラス、またタービン機関の使用を選択した最初のクラスとして、日本船舶史上の一大マイルストーンとなった』(wikiより)画期的な船だったようだ。東洋汽船の経営悪化後は日本郵船の所有が移った。
なお追記しておくと、フォード系ディーラーのエンパイヤ自動車の柳田によれば『震災の後始末から復興にいたるまでの活躍もトラックが中心だった』(⑫P35)と語っており、商売上はともかく、実務面ではトラックも大活躍したようだ。下の画像は「日本郵船歴史博物館」さんより、
https://museum.nyk.com/ship_history.html)

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https://museum.nyk.com/img/ship_history_img/tenyo_thumb.jpg
フォードとGMの対日政策にも影響
 大きく脱線したので話を戻すが、梁瀬長太郎のGM製乗用車の大量輸入について、さらにもう一点付け加えれば、この快挙が、のちのGMの日本進出の際の判断の一助になるとともに、次に記す、最大のライバルであったフォードの日本進出計画にも、さらなる刺激を与えたことも、たぶん間違いないことだろう。

11.フォードとGMの日本進出
 10.2からの続きです。関東大震災当時のフォードは、すでに欧州や中南米への工場進出を果し,その世界戦略の一環として、残された有力地であった東南アジアへの進出を模索中であった。その候補地としては当初中国大陸の上海が本命であったが、東京市からのTT型1,000台受注(最終的には800台)の電報を一つのきっかけとして、日本市場を改めて調査し、社主であるヘンリー・フォードは日本進出を決断する。そして震災の2年後の1925年、現法の「日本フォード自動車株式会社」を設立して横浜の地で、T型フォードのKD(ノックダウン)生産を開始する。こうして全国に展開したアメリカ流のディーラーシステムを通じて、廉価で丈夫で実用的な横浜製のフォード車が、日本中に浸透していく。
 そしてその2年後に、フォードの後を追い大阪に進出したライバルのGMとお互い競うように、営業車を中心とした、新たな需要を開拓しつつ、日本の社会を一気に自動車化させていく。しかしそれと同時に、今まで何度も記してきたが、日本の自動車市場はアメリカ車によって事実上独占されていく事態となった。

11.1自動車王”ヘンリー・フォードの偉大な功績について
 この記事は、戦前日本の自動車史(いわば“日本史”)なので“世界の自動車史”までは触れるつもりはない。しかし世界の自動車の歴史の中で、もっとも偉大な人物&自動車であったヘンリー・フォードとそのT型フォードを、さすがにスルーできないだろう。『カール・ベンツが自動車の産みの親であるなら、自動車の育ての親はヘンリー・フォード』(wikiより)だったのだ。そこでその偉大な功績を、(㉜P46)+(⑬P47)、(Web⓰)、wiki等から要約、引用しつつ、簡単に記しておく。まずは生い立ちから簡単に(㉜P46)より
その生い立ち
『ヘンリー・フォードは、1868年にデトロイト近郊の農村に生まれた。当時は電気もなく鉄道の駅も遠く、道路は原野を切り開いた泥道を1日に何時間も馬で歩く生活で、広い平原のなかに点在する農家が各々自給自足する生活だった。ヘンリーは都市の文化的な生活とは縁のない幼少時代を経験してきた。この経験が後の“安く頑丈な大衆車の提供”を企業理念とするフォードの社是となっていく。
ヘンリー・フォードはエジソン電気会社に勤め、電気工場の技師長になっていたが、1896年には個人の自宅の裏庭で試作していた1号車を完成させ、デトロイトの街を試走した。エンジンは5馬力で最高速は32km/hであった。2号車、3号車の試作でフォードの試作でフォードの才能がデトロイトの近辺で知られるようになった。』

 アイルランド系移民の農家の生まれだったが、両親は裕福で教養もあり、教育熱心であったという。敬虔なキリスト教徒の倫理観の中で育ち、荷馬車以外の交通手段もない中で、自給自足に近かった当時の農家の生活を、もっと豊かなものにしたいという気持ちが、後の自身の車作りに大きな影響を及ぼすこととなった。(下の写真はwikiより、フォード初の自作4輪自動車 "Ford Quadricycle"(1896年)。生誕の地のディアボーンには、後にフォードの巨大な工場が建てられて、フォードの城下町へと変貌していく。)
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 ここからは大幅に省略するが、結局自動車への情熱やみ難くエジソン電気会社を退社し(1898年)、自動車会社の勤務の後、出資を得て自動車会社を起業する(結局3度目の起業でようやく経営の全権を把握することになる;wikiより)。
モデルAからSまで
 そして1903年の『モデルA型から始まってアルファベット順に次々と新車を開発』(⑬P55)していくが、『フォード社が創業してから五年間、フォードが農民のための大衆車をつくるという夢は実を結ばなかった。なぜならそれは、当時の情勢を照らしてみると、いきなり大衆車の生産に入って いくのはリスクが大きすぎたからである。一つは、まだアメリカでも1900年代は、車は金持ちのためのものであり、高級車でないと売れなかったからである。』(⑬P54)『1905年のアメリカ全体の月産台数が2000台で上層階級のみが車を買えた時代で、誰も考えたことのない“大衆のために車を”といった理想を抱き、大量生産に進むのはその当時の常識では考えられないことであった。ヘンリー・フォードも勝算あっての行動ではなかったと思われる』(㉜P47)。(下の写真はモデルK型フォード(1906年)。6気筒40馬力エンジンを搭載した、ヘンリー・フォードが作った最も高級な車だったが、株主たちの意向で不本意ながら作ったものだった。ちなみにこのモデルK型も1台、日本に輸入されたという(⑨P89)。)
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https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn%3AANd9GcTvXjEpAc2S-eEFJw0DdO6HbALR0buThuerEw&usqp=CAU
 しかし株主の中から、フォードの提唱する大衆車路線を支持する声も現れて(有名なダッジ兄弟;㉜P47)1906年にモデルN型が発表される。『N型は後にT型の原型となったモデルだが、4気筒・18hp、2座席で価格は500ドルと世間が驚くほど安く、1906年には8728台を登録し一躍全米第一位となった。売価500ドルは厳密な原価生産の上で設定されたものでなく、ニューヨークショーで発表した後に全社を挙げてコストダウンに取り組んだ。こうしてヘンリー・フォードの理念・性格が社風になっていった。』(下の写真はヘンリー・フォード自ら乗るモデルモデルN型フォードで画像はwikiより。Web⓰によれば『~この頃から部分的な「流れ作業方式」が採用されていたものの、生産が需要に追いつかなかった。従来の生産方式に限界を感じたフォードは、大量生産に適した新型車を開発する。これがモデル「T」である。』としている。)
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モデルTの誕生
 こうしていよいよモデルT型フォードの誕生である。ベルトコンベア生産方式の導入に代表されるあまりにも有名な話の数々はWebでも多数検索ができるので省略させていただく!wikiやWeb⓰、Web⓱等を参照ください。ただその時代背景だけ、(㊶P11)より引用しておく『ヨーロッパで誕生した自動車は、アメリカで大衆化し、産業として発展した。アメリカで先に自動車が大衆化したのは、ヨーロッパよりも中産階級の量的な誕生が早かったからである。移民の国であるアメリカでは、ものづくりに関して、ヨーロッパのように技能に優れた職人に頼ることができなかったから、複雑な工業製品は、優秀な工作機械で各部品をしっかりとつくって、単純化した作業で組立てることで製品化した。それが大量生産を可能にした。このシステムを導入してクルマの大衆化に成功してフォードは大メーカーになった。』
20世紀でもっとも影響力のあった車
(かつて「20世紀でもっとも影響力のあった車に与えられた自動車賞「カー・オブ・ザ・センチュリー(Car of the Century : COTC)」という世界的な催しがあったが、栄えある第一位に選ばれたのもやはり、フォード モデルT型だった。異論はほとんどなかっただろう。『1920年の時点でフォードのモデルT型は、全アメリカの自動車の三分の二、全世界の半分を占めた』(⑬P76)といい、累計1,500万台を達成した。約100年近く前の話である。「自動車でなくフォード(T型)だ」、さらには「T型は絶対に追い越せない。なぜなら何台追い抜いても、先に別のT型が走っているからだ」と言うジョークが生まれたほどだから、T型の誕生は世界的な革命みたいなものだったのだろう。『1908年に発売したT型フォードに対する販売代理店の反応が残っている。ある代理店の代表は“夢を見ているのではないかと何度も目をこすった”と、また別の代理店は“これまで手にした自動車の中でもっとも偉大な創造物であり、この報道が出されたらフォード社には注文が殺到するであろう”と驚きの声を上げた。当時、アメリカ全体の月産台数が5000台であったときに、工場で1台も生産しないうちに代理店から1万5000台の注文が入った。』(㉜P33)そのため一時、受注を停止したほどだったという。(①P30参考)写真はその初期型のもので引用元は https://car-me.jp/articles/10534)
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https://dg24ae6szr1rz.cloudfront.net/photo/39bc528aaac362a65666e50993070b1b.jpg/w1100/tr/file
(モデルTについては紹介動画もたくさんアップされている。参考までにそのうちのいくつかを。下は「The Fifteen Millionth Ford Model T - Full Documentary | HVA」という動画で、
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https://www.youtube.com/watch?v=c8ObnK8RSU0
下は独特だったT型の運転の仕方の動画だ。「Ford Model T - How to Start & How to Drive」
https://www.youtube.com/watch?v=QxfHMtgg2d8&feature=emb_rel_end

話が前後してしまうが、当初850ドルで売り出されたT型は、当時のフォードのラインナップの中で高級車のK型(2,800ドル)と、小型の廉価車、N型(500ドル)の間を埋める、中間車種として位置付けられていた。余裕のある大きさだったことも、T型がアメリカで大成功した一因だろうか。)
偉大だったヘンリー・フォード&モデルTのまとめ
 この項(11.1)のまとめを、少し長くなるが㉜P49から引用する。
『 ~ ヘンリー・フォードの素晴らしい点は、これから先である。“自動車を大衆に”の理念の元に、コストが下がった分を価格値下げで顧客へ還元した。当時自動車は2000ドル以上したが、フォードはT型の価格を、発売時に950ドルと安く設定し、1915年には490ドル、1927年には290ドルに下げた。実に70%もの値下げになる。アメリカの自動車産業全体にベルトコンベアーシステムが導入されて価格が下がり、1910~1950年の間、世界の自動車生産台数の80~90%はアメリカで生産されてアメリカの黄金時代を築いた。』
下は「Ford Model T - 100 Years Later」という5分程度の短い動画だが、当時の生産ライン他の様子がわかる。https://youtu.be/S4KrIMZpwCY
㉜P50から続ける『ヘンリー・フォードの哲学は農人や労働者も買える自動車をつくることにあったが、自社の労働者が自分で作っている車を買える賃金を支払いたいとの考えで、当時自動車会社の労働者の賃金は日給2ドルであったのを、フォード社は1911年に労働者の賃金を5ドルに上げた。法律や労働者との団体交渉の結果でそうしたのではない。
 この決断は、T型フォードの長期生産計画を練っている間に生まれてきた。生産は倍々と増えて、1910年には3万4000台、1911年には7万8000台、1912年には16万8000台、1920年の目標は100万台と増加し新工場を建設しても原価は下がり利益は増大することがわかってきた。売価を下げて購入者には還元し、社員には賃上げすると、ヘンリー・フォードは決めた。社内でも会社が潰れると猛反対が出たが、ヘンリー・フォードは利益の適正配分、能率向上対策と考えていて、決めたことは決して動かさなかった。
 この発表は世界的に大反響を巻き起こし、偉大な人道主義的行為と称賛されたが、一方会社として自殺行為、社会主義者、狂気の沙汰などの非難も集中した。
 これらのフォードの決定がフォード社の事業の様相を一変し、大きな波及効果で米国全体の企業理念と社会風潮に革命をもたらし、今日のアメリカ式生産システムと自由主義経済・資本主義経済社会を確立することとなった。
(中略)
 賃上げ機運は燎原の火のごとくアメリカ全土に広がっていった。こうして好景気が到来し、大量生産システムが導入され、自動車の価格は下がり、さらに大量販売時代が到来する。アメリカの大衆文化はヘンリー・フォードが火付け人となって広がっていった、と言っても過言ではない。
 アメリカの自動車産業は1900~1980年にわたって世界一の自動車生産国として君臨し、とくに1910~1950年の間は世界の80~90%を占めていたが、その礎はヘンリー・フォードが作った。それまでの経営者は、製造したものはできる限り高く売り、労働者の賃金は極力抑え込み、できるだけ多くの利益を上げる、というのが常識だった。ヘンリー・フォードはこの常識をぶち壊した。』
(㉜P51)
資本家としては異質だったフォードの倫理観
(ヘンリー・フォードの倫理観は、たとえば他社が導入に積極的だった『オートローンについても、顧客が借金を抱える販売手法は長い目で見て消費者と国家経済を疲弊・荒廃させるとして強く抵抗した』(wiki)事からもわかる。T型の成功は、石油産業を始め鉄鋼、建設、サービス等、あらゆる産業分野を発展させ、他の資本家たちを潤したが、その一方でヘンリー・フォードの持つ保守的な倫理観は、金もうけ第一主義の他の資本家から見たら“危険思想”で、理解不能な“奇行”の持ち主とみなされていたのではないだろうか。以下(⑮P109)より『自動車は金持ちのための道具ではなく、自分と同じ出身の人たちが使うことで、それまでより恵まれた生活ができるようになることが、フォードにとって重要なことだった。彼はヒーローとなっても自分の出目のことを忘れはしなかったのだ。』下の写真は有名なチャップリンの映画「モダンタイムス」のユーチューブ動画「Charlie Chaplin - Modern Times (Trailer)」からのコピーだが、今から思えばこのハリウッド製の映画は、単純作業を呪う労働者以上に、内心ではフォードの倫理観を毛嫌いしていたはずの当時の産業/金融資本家+政治家たちがエールを送っていた(陰で支援していた?)ことが、透けて見えるように思える。後年フォードが日本から追い出された時、アメリカ政府が概して冷ややかだったことにもつながってくるような気もする。(チャップリンはその代弁者として使われた?まったくの想像です。)
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https://www.youtube.com/watch?v=GLeDdzGUTq0

11.2フォードと日本の自動車業界との係わり(工場進出以前)
 ここからは“日本史”に戻り、KD生産による“横浜製フォード”以前の時代の、日本の自動車社会とフォード製自動車との“浅からぬ”関係(因縁?)について記しておく。
 フォードの最初のプロダクション・モデルであった(初代)モデルA(注;1928年に、T型の後継車の2代目がデビューする)が誕生したのは、先に記したように1903年のことだったが、その2年後の1905年5月に初輸入された。(⑨P86)(下の画像はwikiより「1903年12月15日に掲載されたモデルAの(アメリカの)新聞広告」。のちに日本でT型の次にKD生産されたクルマも“A型”で、紛らわしいが戦前のフォードには、全く違う二つのA型が存在する。)
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 一方、日本車の歴史上“国産ガソリン自動車第一号”とされる、タクリー号(正式名称は“国産吉田式”)のその“生い立ち”は、一般的には『~自信を得た彼(注;内山駒之助)は、国産の部品でガソリン自動車を造ることを望んだ。そこに自動車好きで知られる有栖川宮威仁親王から開発を依頼される。機は熟したのだ。内山は1906年初頭から開発に着手し、1年以上かけて「国産吉田式自動車」を作り上げた。手本にしたのは、有栖川宮家が所有していた「ダラック」である。』(WebCGより引用(Web❼-1))とされている。
 しかし当ブログの(その2)の記事の“5.2”項で記したように、当時の日本の工業技術水準からすると、エンジン等の基幹部分をそう簡単に作れるものではなく、黎明期の日本自動車史に詳しい佐々木烈によれば(⑨P86)この日本に最初に輸入された『~(フォードA型を)購入して機械をばらして国産車第1号を製作した、と考えたほうがよいのではないだろうか。』と解釈している。
タクリー号とフォード
 タクリー号の1号車はフォード モデルAがベースだったようだが、『~その後計10台が製作された』(Web❼-1)(注;台数にも諸説ある)とされている、タクリー号こと一連の「国産吉田式自動車」の実態は、『エンジンやトランス・ミッション、電気系統、タイヤなどは、恐らく20台を輸入したこの「ちどり号」(=フォード モデルN型を輸入して「ちどり号」と称した)だったと考えられる』ようで、タクリー号を縁の下?から支えたのはどうやら、フォード車だったらしいのだ。
(下の写真のタクリー号はWebCGよりコピーさせていただいたが、確かに“上物”は、「ダラック」を手本に、独自に立派なものに作り変えているので、見た目は、上の写真のフォード モデルAがベースのようには、まったく見えない。ボディはまったく別モノとして独自に製作されたのだろう。)
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https://webcg.ismcdn.jp/mwimgs/4/4/730wm/img_447f4010cfadbc539fbfb8c748bc0dd8101549.jpg 
その辺の事情についてさらに興味のある方は、前々回記事(その2)をぜひ参照してください。)
セール・フレーザー時代に既に組立生産?
 話をT型フォードの時代に進めると、日本に最初に輸入したのは、当時経営多角化の一環として自動車販売にも手を染めていた製薬会社の三共(現在の、第一三共)だったが、1911年からは、セール・フレーザー(Sale&Frazer)商会に専売権が移り、そのもとで、エンパイヤ自動車商会、松永商店、秋口自動車などが代理店となり販売にあたり、日本にフォード車(T/TT型の時代)を普及させていく。しかし後述するが、フォード自らの日本進出を機に、セール・フレーザー商会は専売契約を破棄されてしまうことになる。
(表8:全国統計車種10位までの台数(1924年12月31日時点):⑨P282より転記))
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上記の表は、フォードが横浜の組立工場を稼働させる直前のものだが、圧倒的なコストパフォーマンスを誇ったT型の猛威は極東の日本にも及び、すでに乗用車でもトラックでも、日本市場において多数派をしめていたことがわかる。特に貨物車における突出ぶりが目を引くが、質実剛健なT型らしく、早くから営業用として信頼されていたようで、『ほとんど成功した業者がフォード党であったという程の好評であった。』(⑥-1,P431)そうだ。なおフォード車以外では、より高級なビュイックとハドソンの健闘が光るが、販売代理店の力(それぞれ梁瀬と、大倉系の日本自動車)によるところも大きかっただろう。
(余談だが、薬が本業の三共だがその後、陸軍の勧めもあり、アメリカの大型バイクのハーレーダビッドソンの、国内生産に乗り出す。ハーレーに正式に申し入れて、旧モデルの生産で日本国外に輸出しないことを条件に、ライセンス生産を正式に許可される。1933年から生産を開始し、1936年からは「陸王」と名乗る。下の写真はwikiより、戦後の「陸王VFD1200(1950年)」)
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一方“セール・フレーザー商会”とはいったいどんな会社だったのか、多少複雑な側面もあったらしいこの会社について以下のwebで紹介していたので、興味のある方に参考までに。http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/50632371.html 
 さらに追記すれば、セール・フレーザー商会が輸入していた時点ですでに、T型は簡単なKD形式で輸入されていたようだ。(⑥-1,P429、㉚P109)『フォードT型の販売で知られる東京丸の内のセールフレーザー株式会社は、大正12年9月の関東大震災で横浜の組立工場が罹災(りさい)して、大損害を受けたことが文献に伝えられ、すでに震災以前からフォードT型の組立を行っていたという証拠であり~』(⑥-1,P429)と記載されている。
フォード、進出以前にKD生産は既に行われていた
 ここでフォードの話題から脱線するが、気になる情報を追記しておく。以下(㉜P60)より引用『~当時、完成車の輸入関税が100%であったが部品は30%であったために、部品を輸入し組み立てられた台数も相当数あったが統計が残っていない。英のウーズレー車、米のデュラント社のスター(Star)車などで、完成車輸入台数に負けない台数であった模様である。』11.2の表8「全国統計車種10位までの台数(1924年12月31日時点)」に、スターとウーズレーがランクインしているが、それ以上の台数がKD生産されていたのだろうか。不明である。(㊲P96)に『真偽のほどは確かではないが、そのころの東京でよく売れていた外国車はイタリア製のフィアットとイギリス製のウーズレーであったという。そこで石川島造船所はそれぞれのメーカーと提携条件について折衝を開始した』という記載があるが、石川島との提携以前にウーズレーはKD形式で輸入され、販売されていたのだろうか?この件は調べきれなかった。さらに⑥-1によれば、『梁瀬自動車株式会社の場合でみると、大正9年芝浦工場完成後米国車シボレーなど、主力販売車種は部品ノックダウンで輸入され、同工場で組立てられたように理解される。また、昭和2年日本自動車株式会社は横浜市鶴見区守屋町に、米国製乗用車エセックスの組立工場を建設しその組立を行った。』(⑥-1P430)と記されている。たとえば梁瀬のように独自に車体製作が可能なくらいの力のある大手の輸入業者が、完成車輸入と部品輸入で関税に大きな差に目をつけて、簡易的なKD生産の形で販売していたとしても不思議ではないが、㉜の指摘のように具体的な台数等の記録があまり残されていないようだ。
スター(Star)車のKD生産
 ただスター(Star)車については今でも、比較的多くの情報が残されている。以下、日本車史の原本ともいえる(⑥-1)からの引用で紹介する。まずこのスターという車だが、GM創業者のW・Cデュラントが、GMを追い出された後に創業した会社で、いわゆるアッセンブル自動車であったが、エンジンはコンチネンタル社製で、ボディはフィッシャーボディという、定評あるメーカーのもので、廉価車だが信頼性が高かったという(⑥-1P136を要約)。以下も⑥-1,より引用『ひるがえって国内の情勢をみると、まだ自動車工業とまで言われるほどの段階に達せず、わずかに軍用保護自動車の製造が、若干行われている程度に過ぎず、アメリカからスターを部品の形で輸入し、安い日本の工賃でアッセンブルすれば米国よりも安くつき、販売上も有利につくに違いない。したがって、国内の自動車発展に役立つだろう。そして、一方では順次構成部品を類似の国内製に切り替えてゆけば、さらに安い車ができる。』(⑥-1,P136)至極まっとうな考えで、完成車と部品の輸入関税の差の大きさを考えれば、このように思い立った人がいても不思議ではない。スターの成り立ちがもともとアッセンブル・カーだったこともさらに好都合だったかもしれない。(⑥-1)からの引用を続ける。『日本の自動車工業の振興はこのような方法で国産化できようし、国内産業の振興策といえる。そのように考えた相羽氏はまず最初スターの輸入販売計画を立て、米国のデュラント会社と代理権契約を結び、~ 日米スター自動車会社を創立したのは、大正十一年(1922年)頃であった。』(⑥-1、P136)きちんと手順を踏んでいる。そして試験的な販売の結果、十分な感触が得られ、『今度は腹を決め』(⑥-1,P137)て、横浜と大阪に工場を構え、いよいよ組み立てを開始する。『~特に大正十三年(1924年)から十四年(1925年)にかけての頃は最盛期を迎え、国内で圧倒的に多く使われ、一時は国内販売界をリードした。』(⑥-1,P138)
その後のフォードやGMの日本進出や、さらに言えば、戦前の官側が考えた、国産車育成策をも先取りしたものとも言えそうだ。ここでこの、先見の明があった計画を実行した相羽有(たもつ)という人物に触れなければならないが、詳しく触れるとどんどん脱線するので避けたいが、黎明期の日本の飛行機の世界で名を馳せた人物だったようで、『若冠二十一歳の大正五年現羽田国際空港の位置に格納庫を設け、日本飛行学校と日本飛行機製作所を設立し、~(その地が)現羽田国際空港の発祥となった』(⑥-1,P135)という、大きな足跡を残した事のみ、ここでは触れておく。スターのその後だが、大資本を投じて日本に進出したフォードとGMのKD生産車に押されて、本国アメリカでも同様劣勢となった結果、『昭和初期にはすでにその扱い台数はわずかとなって』(⑥-1,P138)、この先駆的な試みも結局、清算されていった。(下のスター車の写真は、「HEMMINGS FEATURE」の記事「Durant's Star」よりコピーさせていただいた。
https://www.hemmings.com/stories/article/durants-star
この写真からも、シンプルなクルマであったことが伺える。
スターについては、下記の(日本語の)ブログでも紹介されている。参考までに。
https://ameblo.jp/retorotoys/entry-12625781785.html
https://seez.weblogs.jp/car/cat3843142/page/20/(web□33)

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https://img.hmn.com/900x0/stories/2018/08/474951.jpg
ウッディ好きなアメリカ人(余談)
(後編の12項の“アメ車のよもやま話”の方にいれるような内容だが、ステーションワゴンの国のアメリカで(以下㉙-2)『(アメリカで)初めてステーションワゴンを生産したのはスター(GMを追われたかのデュラントが生んだ大衆車)で、1923年のこととされている』そうだ。スターはステーションワゴンの生みの親でもあったようなのだ。『しかし、それ以前にも同様なものがあり、例えばモデルTフォードには1914年以来“デポ・ハック”と呼ばれるモデルがあった。それは低いボディと高い柱の上に載った屋根だけから成り、側面と後面には、普段はくるくると巻いてある幌を降ろすようになっていた。スターのステーションワゴンも低い木製ボディと屋根だけで、三方はオープンであったし、初めてステーションワゴンの名を用いた1929年のモデルAのそれも同様であった。それから間もなく三方にもガラスが入り、形としてステージコーチと混同されやすくなってしまったのだ。1935年にはシボレーが初の全鋼製ステーションワゴンを発売している。ステーションワゴンに似たものとして、ヨーロッパには主として狩猟用のシューティングブレークがあり、それから現在のエステートカーが生まれた。フランスでは今でも一部にブレークの名が残っている』(㉙-2)そうです。
下はアメリカのステーションワゴンの代表例として、1939年製フォードのウッディ ステーションワゴンの写真で、出典は以下ですhttps://dyler.com/posts/188/woodies-yachts-on-four-wheels。)
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https://assets.dyler.com/uploads/posts/188/images/3166/1939-ford-woodie.jpg
(しかしアメリカ人のウッディ好きは相当なもので、下の写真の1948年のクライスラー タウン&カントリー(「街にも田舎にも」という意味で名付けられたという)はコンバーティブルだが、木目の装飾をあしらっていた。画像の出典は以下より
https://www.conceptcarz.com/view/photo/456648,9118/1948-chrysler-town-and-country_photo.aspx)

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https://www.conceptcarz.com/images/Chrysler/48-Chrysler-TnC_Conv-DV-09_PBC_dt02-800.jpg
“国産”シンプレックス号について(余談)
(ここでさらにさらに、“余談”となるが、上記のスター車とは少し違う企てとして、大阪の財界人たちが設立した、オリエント自動車製造所が製造した”シンプレックス号”についても簡単に触れておく。以下(④P130)からの要約だが、同車は国内でも製造が容易なフレームなどは内製するが、難易度が格段に高いエンジンその他の基幹部品は海外からアセンブリで取り寄せて組み立てて、1台の車として完成させて、しかし当時堂々“国産車”として売り出されたという。なんだか某車を思い起こさせるが、『実際には成功しなかったものの、(当時は合理的な方法として)一部では注目されたものだ』(④P130)という。(下の写真は(④、P130)よりコピーさせていただいた。なおオリエント自動車製作所については(⑥-1,P493)にも記載がある。)
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13.1で記す、白楊社の活動と同じ時代の話だが、あくまで純国産にこだわった、オートモ号や、DATとは違った生き方で、それでも”国産自動車”として宣伝されていたそうだが、当時の日本の工業レベルを考えればそのような“分業方式”も、合理的な方法だとされていたという。(④P130より要約)

11.3東京市の大量購入で日本市場に注目する
 フォードの日本進出決定の経緯について、①、②、④、⑥-1とWebの❺-2、❶を主に参考にして以下記す。
10.2-1に記したように、フォードは東アジアの拠点として、当初は東京ではなく中国の上海を考えていた。上海は『国際的な大都会であり各国の租界もあって自動車の保有台数は東京などよりはるかに多かったからだ。』(㊲P102)さらに『中国の広大な国土と、潜在的な購買力を期待して』(②P36)のことだったが、ヘンリー・フォードに対して北京大学のジョセフ・ベイリーによって中国進出の説得工作が1920年6月に行われており、中国への関心を持った結果、すでに中国人留学生をデトロイトの工場で受け入れていた(①P53、⑭P4等)。さらにあの孫文も、フォード宛てに歓迎する旨の書簡を送っていたという記述もあり(⑭P6)、中国側からのアプローチ(工作?)は多角的に行われていたようだ。フォード自身も上海がアジアの拠点に相応しいと考え、ほぼ決まりかけていたが、『意外と注文が来ないのに、日本からは連日フォード車の注文電報が到着したことが再考のキッカケとなった。』(①P55)。
 前項の表8の、日本市場におけるT型フォードのシェアの大きさからすれば、東京市の円太郎バス以外からの注文も相次いだのだろう。結果的に震災が起爆剤となり自動車需要が一気に増えた。
以下(㊵P65)より『大正12年の関東大震災で自動車の価値が認められ、したがって需要が急激に伸長した。第一次モータリゼーションである。大正12年の関東大震災の時、1万2765台の保有台数が翌年の13年には2万4333台と倍増した。一年間で自動車の保有台数が倍増したのは、世界中かつてなかったことであり、これを見て、アメリカの自動車メーカーは日本市場を将来性のある国と高く評価して対日進出を積極的に考えた。』
以下(㊳P134)より引用『~結果として、大震災による自動車交通の認知、それに伴うフォード、GMの日本進出が、最終的には日本の自動車産業を育てたことになる。不幸中の幸いは、震災では打撃を受けたものの、第一次世界大戦で日本は戦勝国側の一員に連なって、ある程度の豊かさを得ていたことである。』
フォードで働いていた二人の日本人
 さらにヘンリー・フォードが再考しようと思ったきっかけは、当時同社で働いていた秋口久八(=秘書室で日本関係の仕事に従事していたが、『秋口の目的は、アメリカで自動車販売の知識を習得し、それによって東京での自動車の販売をすることであった。』(⑭P4))と、川崎正二郎(フォード氏お気に入りの運転手)という二人の日本人からの進言もあったようだ。(①、⑭等による)
 そして改めて検討した結果、当初の中国進出から、日本進出へと考えを改め、1924年の9月、フォードは日本に進出すべきか否かを最終判断するために、社内の海外市場調査員を日本に派遣する。ヘンリー・フォードがアジアの拠点として日本を選んだわけは、一つの要因ではなく、複合的に判断した結果だと思われる。その個々の理由について記す前に、当時のアメリカ政府が日本市場をどのように捉えていたか、商務省のレポートというものがあり、フォードも当然目を通したであろうその内容を、主に⑤からの引用で、簡単だが紹介しておく。

11.4アメリカ政府による日本の自動車市場の報告書(1918年商務省レポート)
 ここでまた話が逸れるが(⑤)に、アメリカ商務省が当時(1918年)日本の自動車市場/産業について、どのようにみていたのか、興味深い記事(⑤P70「海外から見た状況」)があったので、以下引用させていただく。
『1918年、米国商務省の海外地域担当局から、日本や中国、ハワイにおける米車販売、商習慣、国内メーカー、部品販売、商社などの状況も含めた詳細な市場報告分析書が出されている。日本にはもっとも多くのページが割かれ、その中に「Motor-car manufacturing in Japan」という項目がある。概略、「日本は自動車製造に意欲をもっているが、まだ本格的な製造を行う企業は少ない。いくつかの企業がこの業界への参入を希望しているが、どのような自動車を製作するのかはっきりしていない。おそらく、おそらく、日本の製造施設や技術、また狭隘(きょうあい)で未舗装だらけの道路事情を考えれば、大型車は欧米に任せるしかなく、日本にもっとも適した小型車も輸入車の組立になるだろう」と分析している。今さらながら、彼国の情報収集、分析力に驚く』と紹介している。 
 1918年といえば震災の5年前だが、第一次大戦の戦争特需で日本経済が活況だった頃だ。短文の⑤からだけではこのレポートの全容まで把握できないが、当時の日本の自動車市場について、厳しい(=冷静な)見方を示していたようだ。(②)に、日本フォードの中心人物として、現法を率いたベンジャミン・コップが、不安を胸に日本に向かう道中の、以下のような記述がある。
日本の自動車購買力は、せいぜい年間3,500台?
『日本に向かう船の中で、日本の自動車産業に関するアメリカ商務省の報告書を読んだ。恐ろしいほど悲観的な内容だった。なぜフォードは、こんな国に工場を建てたがるのだろうか、不思議でならなかった。しかし、サイは投げられたのだ。(マイラ・ウィルキンス「B・コップの聞き書き」)』(②P22)。
同じく(②)には『日本の自動車購買力は、せいぜい年間三千五百台という商務省の予想』(②P27)という記述もあるが、当然ながらこの商務省による悲観的なレポートを、フォードは目を通していたはずだ。

11.5フォードが日本への進出を選んだ理由
 それではヘンリー・フォードはいかなる動機で、日本への工場進出を決断したのだろうか。前振りが長くなったが次項で、①、②、④、⑩-1、⑪、⑭等を参考にその理由を記しておく。
(1)日本市場の拡大を見越した
以下⑪より引用『~これらのアメリカ・メーカーが日本での組立てを決定したのは、完成車より部品の関税が低かったという要因に加え、運搬費の節約が可能になったからであった。ところが、現地組立のメリットを活かすためには、本格的な大規模な工場を設立する必要がある。それを可能にするような市場規模に達していなかったために、それまで外国メーカーによる現地進出は行われていなかったのである。ただし、その市場規模の制約は固定的なものではなく、供給要因によって変化しうるものである。すなわち、低価格車の供給によって市場は拡大する可能性をもっていた。従って、1910年代のアメリカだけでなく、現地進出したヨーロッパでも、その可能性を現実化させたフォードが最も早く日本に進出を決めたことは、むしろ当然のことであったのである。』(⑪P89)
ヨーロッパの成功体験
ヘンリー・フォードにはこの頃すでに、本国アメリカはもとより、日本に先行して現地進出を果たしたヨーロッパにおける、フォード流のシステム(いわゆる“フォーディズム”と呼ばれるもの)の導入により、市場は拡大していくものだという、確たる成功体験があった。 
東京市からのまとまった発注や側近の日本人からの助言、震災後の復興で活気に満ちた日本の状況の報告の中から、日本の自動車市場に対しても、その“芽”を感じとったようだ。フォードが工場進出すれば日本市場も商務省のレポートを超えて活性化し、拡大していくはずだという、商売人としての勘(嗅覚)が働いたようだ。当時世界の自動車業界を半ば制覇していただけに、自らの直感に自信もあっただろう。そしてそんなフォードの予感が的中することは後述するとおりだ。以下は②の文末の座談会で、“(フォードからみて)日本は本当に魅力のある市場として映ったのか?”というNHK解説員の問いに対して、座談会に出席した宇田川勝法政大学教授(日本経営史専攻)は以下のように答えている。(②P212)
『当時のものを見ますと、震災後の再建のために自動車が大いに活躍している。そして工業力も中国に比べて高い。しかし販売組織などはまったくない、などと書かれている。こうしたところから、日本市場で自動車の需要がそうとう見込めると考えたようです。いろいろな点で未整備なことが、かえって将来性があると判断したのかもしれませんね。』
(2)“熱烈歓迎”ぶりがさらに背中を押した?
さらに④では、その方向転換の理由について、功成り名遂げたヘンリー・フォードの“心境の変化”という側面から解説しており、以下紹介する。
すでに歴史上の人物だった
T型の大成功で、すでに巨万の富と栄誉を掌中に収めたフォードは当時早くも、“自動車王”として教科書に載るような、歴史上の偉人となっていた。モデルTの成功以降『ヘンリー自身は車の設計を離れ、自分の大企業が生産に付随して年々もたらす膨大な利益を社会へ還元することなどに熱を入れていたらしい』(⑩-1P36)。そのため『このころになると利益追求だけでなく、名誉を求める意識が強くなっていたようで、日本への進出を日本人が歓迎していることが、アジア進出を上海ではなく、日本に変更した大きな理由であると思われる』(④P140)としている。
ヘンリー・フォードは11.1-2項で記したように、この時代の多くの金融/産業資本家たちとは違い、もともと、金もうけのために自動車事業を始めたわけではなかった。『ヘンリー自身の行動は最初から晩年まで、大衆のための実用機械としての車作り一本で、その目的は金もうけでもなければ、高級車作りでもない。ほんとうに役に立つ車を作れば必ず売れるという信念は彼の一生を通じて変わらず、それは株主への配当を第一義としたGMのライバル車、シヴォレーとの戦いで余すところなく示されていると思う。だがおもしろいことにヘンリーは世界屈指の大金持ちになってしまったのであった。』(⑩-1P6)
一方この時期にフォード(社)が直接/間接に接した日本(人)は、震災復興に向けて早くも、力強く立ちあがっていた。江戸の時代から何度も大火に襲われ、被災慣れしていた?当時の東京(人)の活気に満ちた様子や、フォードの組立工場進出を“熱烈歓迎”する模様が、東京駐在の稲田や、派遣された調査員から続々と打電されていた。
外国車に好意的だった日本人
 11.1-6で記すが当時の世論は『原価の高い国産車を製作するより、市場開放により高品質の外国車を輸入して廉価に使用する方が、あくまで有利であるとの考えから、国産車製作には批判的ながらも、外車輸入には概して好意的であった。』(⑭P7)これら前向きな情報の数々が、遅々として進まぬ中国進出計画に比べて、ヘンリー・フォードに好印象を与え、日本進出への後押しとなったことは間違いないだろう。その他の理由として、当時の中国が政情不安定だったことや(②P36)、前述の秋口久八らフォードと近い位置にいた日本人からの進言ももちろん影響を与えたであろう。
 なおフォードが中国から日本進出への方向転換を模索し始めた時期は、実際には震災後の早いころだったようだ。公式な調査員派遣(1924年9月)に先立つ1924年1月に東洋出張代表事務所を開設し、稲田久作(=ハワイ移民の子で、ハワイ大学卒業後、ハワイの銀行勤務の後、日本に帰国、浅野財閥系企業の浅野物産勤務を経てフォードに就職、現法設立後に日本フォードの販売部長となる(①P54)による)を雇い、日本進出にあたっての事前準備をスタートさせている。(①P56)
早い時期に日本進出を決断?
さらに(①P56)(⑫P35)や(Web❽、Web⓴-1)によると、フォード系のディーラーであったエンパイヤ自動車の柳田諒三による以下のような記述が残っている。『柳田がアメリカ企業各社と商談を行うなかで、フォードとの交渉では、彼にとって予期せぬ副産物があった。前掲エンパイヤ編によれば、柳田はそこで、フォードが日本市場の将来性への期待と、日本を拠点とした東南アジア市場進出の目的を持っており、近々日本にフォードの現地子会社が設立される―報を得た』(Web❽-1、P25)。柳田の渡米が1923年12月とされているので、ヘンリー・フォードの日本進出の腹は、調査員を派遣する前から、半ば固まっていたようだが、先に記したように1924年9月、最終的な決断を下すために、同社の二人の調査員(輸出部長のA・ロバーヂ、W・チェース(⑭P6))を日本に派遣し、確認させる。

11.6日本に調査員を派遣し、最終決断を下す
二人は帝国ホテルに陣取り約1か月間、前記の稲田や秋口の案内で現地調査にあたったが、東京の震災からの復興の予想以上の早さと、街を覆う日本人のエネルギーに圧倒されたという。自動車の通行量も予想以上に多く、二人のもとには有力者たちが連日面会を求め、皆口々に歓迎の意を表したという。
日本は有望
以下、(Web❶P165)より引用『調査報告の第1報は日本の自動車市場は良い条件に恵まれ,有望であると告げる。第2は,大市場の東京に近く,さらに,上海等の東南アジアへ輸出するのに便利な横浜に組立工場を建設すべきである,』というものであったという。以下は(Web❺-2)より
『デトロイトで電文を読んだフォード会長は、日本への進出を決断した。そして、「帝国ホテルのピーター・フランクスへ。電文を通して、東京の回復ぶりは理解した。日本市場における自動車の将来性を期待して、私は日本法人である日本フォード株式会社を設立することを決断した。ノックダウン車の生産をできるだけ速やかに開始したいので、組立工場をどこに、どれだけの規模で建設したらいいかのプランを至急作成するように」という返電を発信した。この電文を見たチームの面々は、工場建設プランをつくりあげるまでアメリカに帰国できないことを覚悟した。』 
Yokohama is the best
引用ばかりだが以下、NHKの優れたTV番組「ドキュメント昭和―世界への登場 第3集 アメリカ車上陸を阻止せよ~技術小国日本の決断~」(1986.09.09の放映(だったらしい)
https://www2.nhk.or.jp/archives/search/special/detail/?d=special019
の取材班が、フォード博物館の資料館の膨大な資料の山から“発掘”した報告書の要約を、(②P17)より引用する。
『日本は、自動車市場として良い条件に恵まれている。乗用車は、まだお抱え運転手付きだし、フォード車もほとんどタクシー用である。
ディーラー組織も、販売能力もまったくない。最大の難関は、厳しい運転免許規則で、地域によっても違うが、車が増えるにつれて改善されよう。
当面の計画は、横浜に(組立工場の)敷地を決めることだ。その敷地は(アメリカからの部品を運び込むために便利な)税関埠頭に近く(国内出荷のために)貨物駅にも近い必要がある。
セールスの50パーセント以上は横浜・東京で占められているので、商業的にも最高であり、目下この方向で努力している。』
NHKが発見した資料には“…Yokohama is the best location…”であると記されていたようだ(Web❿P77)。
既存の販売方法に厳しい認識
“ディーラー組織も、販売能力もまったくない”と、既存の販売方法に対しての厳しい認識が特に目立つが、こうしてフォードの日本進出が“正式”に決断され、横浜組立工場設置が実行に移されることになった。事前準備を進めていたため、その決断から半年も経たない1925年2月、日本フォード自動車株式会社(Ford Motor Company of Japan Ltd)設立された。資本金の400万円は全額アメリカ側の出資で,欧州、中南米諸国への資本進出と同様に 100パーセント主義が貫かれた。日本総支配人はW・チェースが、そして総支配人補佐が、のちに支配人となりその後の日本自動車史をたびたび賑わすことになる、ベンジャミン・コップが就任する。現法設立と同時に、横浜の緑町に設けた組立工場を直ちに稼働させて、1925 年 2 月から生産を開始し 準備期間を経て6 月から販売を開始する。

11.7フォードと結びついた当時の日本側の事情を整理する
 以上のように当時の日本とフォードはスムーズに結びつき、歓迎の中で日本進出を果たす。この項では既述の文と重複するが、フォード側ではなく日本側の視点に立ち、“円満”に結びついた当時の日本社会の各断面に分解し、さらに突っ込んでみていきたい。まずは一番大枠の“国家”という視点から見ていく。
国側の事情
 国内自動車産業の育成としてみた場合、前回の記事の「9.4 保護自動車3社に与えた影響」で記したように、当時ようやく産声を上げたばかりの国産車メーカーに対して、技術力も資本力も、販売力も何もかも、比較も無理なほどすべてにおいて、圧倒的な力量差があったフォードの進出が、壊滅的な打撃を与えるだろうことは明らかだった。
 しかしこれも前回の記事で延々と記したので説明は省略するが、この時点の日本としては、国として、そもそも自動車は優先して育成すべき産業分野とみなされておらず、さらに軍用自動車補助法をもって唯一、国内自動車産業の後ろ盾となっていた陸軍が、これも前回記事の9.5~9.8で記したような事情で異を唱えなかったため、国として反対の立場はとらなかった。
 さらに地方自治体も誘致合戦を展開していく中で、なし崩し的に?歓迎ムードを盛り上げていった。自動車部品の輸入急増による貿易収支の悪化等がきっかけで問題視されるのはもう少し後のことだ。
民間側の事情
 次に民間産業側だが、もっとも直接的な“被害”を被りそうなのは、前記のようにまだ自立していなかった自動車産業で、後篇の13.1項で記すオートモ号の白楊社と「軍用保護自動車3社」だっただろう。オートモ号については13.1項で記すが、ここでは保護自動車3社(石川島、瓦斯電、ダット)について、過去に何度も触れたのでごく簡単に記しておく。
 前回記事の“表5”をご覧いただければわもう一度、下に掲げておく。
 36B
 見ての通りで、フォードが調査員を派遣した1924年の「軍用保護自動車3社」の生産台数の合計はたったの26台で、自動車“産業”と呼ぶには憚るほどの小規模だった。予算も限られ、陸軍が次第に距離を置き始めた中で、“抵抗勢力”として力はけっして大きくはなかっただろう(多少私見です)。
 当時の日本の産業界で、各方面に対してもっとも影響力があった大財閥は、これも前回の記事で記したようにこの時期すでに、リスクの大きすぎる自動車産業への進出をあきらめており、当時の日米友好もありむしろ“歓迎”する側の方にまわっていた。
庶民の気持ち(“高かろう悪かろう”だった国産車)
 一方、一般大衆(世論)はどうだったかといえば、11.1-5でも記したように『原価の高い国産車を製作するより、市場開放により高品質の外国車を輸入して廉価に使用する方が、あくまで有利であるとの考えから、国産車製作には批判的ながらも、外車輸入には概して好意的であった』(⑭P7)。 “メイドインジャパン”は当時の一般人にとっても、“安かろう悪かろう”の代名詞だったが、自動車の場合はさらにその上をいき、 “高かろう悪かろう”だった!結局のところ『財界やユーザーは(中略)自由貿易のもと、アメリカの自動車会社同士で競争させたほうが、安くて良い車が手に入る。それが、昭和初期の日本での、自動車を巡る一般的な認識であった。』(②P40)自動車のような慎重に選択されるべき高額商品に対しては元来、舶来品趣向も強かっただろうし、さらに言えば、フォード進出当時は震災直後だったので、まずは復興が第一の目標で、人々は長期的な視点を持てる余裕もなかったのだろう。
フォードの進出に対して、当時の歓迎ぶりを表す記述として『工場が稼働してからは、それまでの日本にはなかった大規模な機械工場として評判になり、自動車工場の関係者はもとより皇族・政治家などの工場参観も相次いで行われた』(⑪P89)というものがあるが、この状況は緑町工場ではなく、子安工場完成後のことだろう。

11.8横浜緑町組立工場(仮工場)の稼働
 話を戻し11.6からの続きです。フォードは日本法人設立と同時の1925年2月に、今の神奈川県横浜市緑町(注;のちに『昭和二年に区制が敷かれ、西区緑町になった場所』(①P85)で、今の横浜市緑区の場所ではない)に設けたKD生産用の組立工場を稼働させている。11.5項と重複するが、フォードの海外進出に際しての基本的な考え方を示し、工場用地選びの過程を、①からの引用で以下確認しておく。
海外進出のセオリー
 まずフォードの海外進出の際のセオリーとして『「フォードの海外戦略(上)」(注;フランク・E.ヒル, マイラ・ウイルキンズ著の本)には、フォード社の外国における営業政策は、賃借した土地建物を使って営業することだった。もし事業が繁栄しなければ、場所を変えることも全事業を放棄することも簡単にできた。成功すれば(そこで上がった利益から土地を買い)工場を建設し、そこに永久的な基地を確立する、というしきたりだった。千九百二十年代の初期と中期にはヨーロッパにある四つのフォード会社は繁栄したので、自分の工場のために土地を買う処置をとった。(中略)これらの所有地は、いずれもその国の最大の市場に近い位置にあり、水深の深い海または川に面していた。」と記されている。』(①P56)
 そのためこのルール?に則り、組立工場の候補地は借地の工場であることを前提にして、
・最大の消費地であった首都東京に隣接する地であること、
・KD生産及び大陸への輸出も視野に入れて、海運の便があること、
・さらに生産後の輸送を考慮して、鉄道引き込み線の可能なことを条件とした。(以上①P57より)これらの条件で、駐在員の稲田が中心となり候補地を探すがなかなか見つからなかった。
緑町(仮)工場でKD生産を開始
しかし稲田が浅野物産時代に世話になった、浅野良三の斡旋で、横浜ドッグが経営不振で敷地の一部を借りられそうなことがわかった。(①P57)
 そして本社の承認を得て、フォードの組立工場は横浜市子安海岸(横浜市緑町4番地)にあった倉庫を借り受けて開設された。『フォード社日本進出は海外戦略方針のセオリー通りの立地を選択できた。横浜港に面した横浜船渠会社の空き倉庫に加えて、セメント床と波形トタン屋根を持った小屋を建てさせ、これらの小屋を含めて仮工場として借りることができた。そのうちに、より適切な用地を探すまでの間とした。』(①P58)
敷地面積約2,500坪、建坪約1,000坪ほどの、非常にこじんまりした工場だったが、1925年6月より販売が開始された初年度の生産は3,437台、翌1926年は8,677台と順調に拡大し、(まだ)左ハンドルのT型フォードの組立を行なっていった。
(下は「株式会社 日光社」さんよりコピーさせていただいた写真で、
https://ford-nikkosha.jp/company
/
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https://ford-nikkosha.jp/wp-content/uploads/2016/01/ford_yokohama_factory.jpg
同社のHPでは「日本フォード横浜子安工場」と紹介されているが、NHKドキュメント番組を本にまとめて角川書店から出版した②のP37で、「横浜緑町のフォード工場。子安に移るまでの短期間、ここで自動車を組み立てた」と紹介されているものと同じ写真のため、フォードの緑町(仮)工場の写真だと思われる。
見すぼらしい建屋だった緑町工場
『~横浜ドックと協定し、セメント床と波形トタン屋根をもった小屋を建てさせ、フォード車はこれらの小屋を賃借して仮工場』(⑭P7)としたものだったが、この、自動車工場というにはいかにも粗末で見すぼらしい外観を眺めていると、フォードは日本の自動車市場に対して、当初は“様子見”的なスタンスもあったのではないかという説にも、一定の信憑性を感じてしまう。以下参考(⑭P22)からの引用で、紹介しておく。
『フォードの意思決定に関して、「彼は人口と面積と、上海と香港を擁する志那に期待をかけていたが、その間に日本の自動車産業が整備されると、フォードの東亜計画に狂いを生じることになるので、とりあえず日本に東亜の一工場を設置することにした…」(尾崎正久「日本自動車史」1942年.P385)との記述がある。つまり、フォードの極東戦略の中心となるべき中国への進出を計画している間に、日本で自動車工業が展開されると、のちのちの同社の極東戦略上、将来の日本への市場進出において、極めて不都合な事態を招来することになる。したがって、まずはとりあえず、日本に進出してその市場を押さえておこうという意識がH.フォードにはあったのではないかとの推測も可能であろう。』
浜っ子に“ドッグ”と呼ばれ親しまれた横浜船渠(余談)
(さらにまったくの余談だが家主の横浜船渠について。浜っ子の間で『「ドッグ」という愛称で親しまれてきた』『この後昭和恐慌で決定的に弱り、三菱重工に合併されてしまう』(①P58)。下の写真と文はwikiよりコピーさせていただいた『横浜船渠全景(1935年以前の撮影)』で、『北米航路の中型客船氷川丸や大型客船秩父丸(後に鎌倉丸と改名)などを建造』した。現在その跡地が「横浜みなとみらい21」として再開発されたのはご存じの通りだ。)
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11.9子安新組立工場の稼働
 その後、本格的な工場を設けて日本進出を果たしたGMへの対抗と、需要増にこたえるために、20年間も生産されたT型に変わる全くの新型であったA型への切り替えのタイミングを機に、すぐ近くの横浜市神奈川区守屋町の埋め立て地に、より大規模で本格的な(敷地面積約11,000坪、建坪約5,000坪で、どうでもよい話だが、明治の末に守屋此助という人物が埋め立てた土地だそうです)子安新工場を建設して1928年末に移転を果たす。この新たな投資は、日本で十分な利益を得られた結果でもあっただろう。ただし実際にはA型の切り替え時に新工場稼働は間に合わず、A型の生産は緑町工場からスタートさせているようだ(①による)。なおT型時代は左ハンドルだったが、A型からは、日本の交通事情に適した右ハンドル型となった。ちなみに子安工場の生産台数は1929年に10,674台、1930年は10,620台であった。
(下は日本フォードの組立ラインの、KD生産の様子。なお、横浜市緑町の横浜ドック倉庫の仮(さらに借り)工場としていったんスタートし、その後、本格的な組立工場に移行していたという事実が抜け落ちている歴史書がいくつかある。その訳(ワケ)は①の指摘のように、多くの論文で参照されている、自工会の作成した「日本自動車工業史稿(2)」(⑥-1)が、その事実を誤認して記したからのようだ。)
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https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/text/taking_on_the_automotive_business/chapter2/section1/images/l01_02_01_02_img01.jpg
日本で大きな利益を上げていたフォードとGM
(下の写真は、緑町工場と違いいかにも整然とした、子安新工場の写真。当初から大規模だったGMの大阪工場への対抗心もあっただろうが、緑町工場設立時と違い、日本の自動車市場に対してのフォードの自信と期待が伺える。その自信は大きな利益で支えられていた。
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『操業当初から両社の収益は膨大な規模であり、フォードの場合、最初の2年間で資本金の回収ができたほどだった。』

(⑪、P90)下の(表9)をご覧いただければ、フォードとGMの利益率の高さがわかる。ちなみに子安工場の生産(組立)能力は、日産80台、月産2,400台であったという(⑪P91)。)

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20年ぶりの新型、モデルAの登場
1908に年Tを発売以来、ほとんど変更なしで通してきたフォードだが、シヴォレーとの熾烈な争いでついに対抗できなくなり、T型をあきらめて約20年ぶりに、まったく新しいモデルAを投入する。
このA型については、11.13項「フォードとシヴォレーの熾烈な戦い」でも記すことになるので重複してしまうが、ここでは戦前のフォード車に特に詳しい自動車の歴史研究家、五十嵐平達氏によるA型フォードの解説を(⑩-1P55)より引用しておく。
『フォード・モデルAは優れた車ではあったが、この車がシヴォレーの追い上げによって生まれたことは否定できず、ヘンリーとしては多くの妥協を余儀なくされたのが理解できる。それだけに、「自動車ではなくフォードだ」とまで形容されたモデルTに対して、モデルAは常識的な「自動車」であった。GMの前会長スローンはその回顧録の中でフォードとの競争(モデルTとの)に勝った最後の決定的は「箱型ボディ」にあったと信ずると書いているが、この新型モデルAはフォードの箱型ボディ対策としてBriggsとMurrayの両工場が専属とされ、GM直属のフィッシャー・ボディに対抗できるデザイン、技術、生産能力が用意されていた。(中略)モデルAは4年間に約500万台が生産されたが、シヴォレーとの競争はモデルTのころとは比較にならぬ激しいもので、ヘンリーをして彼の主義に反する毎年のモデルチェンジ(注;マイナーチェンジ)を行なわせるようになった。』
(下の写真はA型のトラックで、日本フォードが発行したカタログを(見事なイラスト画だ)、ブログ「ポルシェ356Aカレラ」(以下Web□21-1)さんからコピーさせて頂き、紹介しておく。KD生産された戦前のフォード車は、「横浜製」として、当時の日本人の間で親しまれた。)
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https://stat.ameba.jp/user_images/20140503/11/porsche356a911s/f1/eb/j/t02200165_0800060012928133976.jpg?caw=800
(下はきれいにレストアされた1928年製A型フォードのビデオです。参考までに。運転の方法もT型と違い一般的になっていた。以下は小林彰太郎による“日本の”A型の解説『当時タクシーといえばフォードかシボレーときまっていた。黒一色、19年間モデルチェンジなしに長期量産したT型の流れを継ぎ、1928年に出現したA型は依然として4気筒だった。スマートで静かな6気筒シボレーに対して“ガタフォード”と悪口をいわれたが、文字通り頑丈無比で、クルマ不足の戦争直後はトラックに改造され、健気にも最後のお勤めを果たした。』(㉝)ちなみにT型が『黒塗りを選んだのは、黒塗装が一番乾きが早く、作業効率が良かったから』(wiki)というのも有名な話だ。
https://www.youtube.com/watch?v=rT_GX_ufiJc&feature=emb_rel_end
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(下は1932年型V8スタンダード2ドア(画像はwikiより)。小林によれば、『廉価車として初めて強力なV8を送り出すと、人々のフォードを見る目が一変した』(㉝)という。シヴォレーの6気筒に対するフォードの回答だった。)V8については11.13項で記す。
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このように、フォードの日本進出はすぐに軌道に乗り『東洋市場,とりわけ,満州,上海を中心にかなりの台数を輸出し,東洋市場を確保した。』(Web❶P165)上海でなく日本の横浜を選択したが、大陸への輸出拠点という、重要な役目も果たすことになるのだ。この、日本の組立工場が大陸への輸出拠点だった点は、GMも同様で、同じく『満州、中国方面にかなりの台数を輸出した』(Web❶P165)という。
そこで次に、フォードに続き、2年遅れで日本へ“上陸”したGMの進出について話を移したいがその前に、フォードの日本進出が日本の社会全体に与えた影響について、長文になるが次の11.10項で、日本を代表する自動車史家(個人的な思いからすれば、)の五十嵐平達氏による一文を、㉚より抜粋して、予定よりダラダラと長くなってしまった“フォードの日本進出編”を終わりにしたい。

11.10日本人はフォードから“自動車”というものを学んだ
(以下のカーグラに投稿された五十嵐の文章が書かれた頃はたぶん1980年前後ごろ(約40年前で、ということは時代背景として、現在とは違いまだGM、フォードがいちおう、まだ勢いのあったころ)に書かれたものであることを追記しておく。)
『フォードが日本人と積極的なかかわり合いを持つようになるのは、何といっても関東大震災以降の資本進出によるものだが、フォードはGMより数年早く横浜に上陸してT型のノックダウンを始め、やがて予定通り子安工場にコンベアライン付工場を完成してA型の量産に入ったのが昭和3年12月のことである。GMが大阪に進出してきたのは昭和2年の事だから日本フォードは未だ仮工場で操業していた頃であった。フォードの新工場に設定された主コンベアラインは、チェーン駆動式で全長150ftその速度は最高12ft最低2ft9in/毎分で、日産能力200台であった。当時としてはそんなに売れるのかと心配する程の生産量をさばくため、フォードは基本的なところから計画していて先ずサービスパーツの在庫は当時で200万円といわれ、パーツデポーも設けられた他、サービススクールを開設して技術要員の養成から始めたのであった。この工場の落成式に当たりヘンリー・フォード氏から日本国民にたいする祝電が送られてきたが、それには自動車と言わず交通運輸と近代商業活動の関連の重要さを強調し、それは或る意味の進歩を促進するものだと説明されていた。面白いのはフォード氏の経験によれば自動車運輸の発展が道路建設を促進するというもので、日本で自動車が多く走るようになれば必ず国道も増長し日本の産業も発展するであろうと予言していたことである。現在公害問題が生ずるまでに発展した日本のモータリゼイションを見る時、このヘンリー・フォードの電文を思い出さずにはいられないのである。フォードはそれまでの日本人の自動車観を根本的に変えて、自動車は実用品であることを強調したが、それには低価格、下取制度、月賦販売などを導入し、一方で補給パーツを可能な限り国内発注して国産化したので、主要な鍛造品は例外として、当時は消耗品とされたフェンダーあたりは日本の下請けで造られていたし、一般工業の水準もフォードの検査基準に合わせて向上したので、陸軍などの試作車もフォードのパーツを流用する事は常識化される程となった。フォードのPR活動は自動車はどのように使えばペイするかを日本人へ教えることで、先ず先ず道路整備が良く、サービス施設の充分な都会の営業車から普及に手を付け、次が地方の国鉄駅のある都市から売り込んでいったが、格差の大きな当時の田舎には中古車という割安な商品を持って普及していった。このようにフォードは日本の事情をよく調査して年産約1万台をさばいていったのだが、その結果として、日本のモータリゼイションは都市集中型となり、一般国民は営業タクシーを共用の自家用車として車の利用に馴んでいった。後年自動車私有や運転技術の普及について特に遅れを見せた日本人の特徴は、このころ芽ばえていたともいえよう。20年前からの急速なモータリゼイションの発展に(注;先に記したようにこの記事は1980年ごろ?書かれたものだったと思う)強いアレルギー症状を見せた年齢層を考えれば、この歴史的現実は明らかなものといえるのである。日本人はフォードによって自動車を学んだと云って差し支えないが、当時のフォードは教科書的な構造であったともいえる。特に4気筒のA型こそは日本人の自動車入門に絶好の教材でもあった。そして1930年代のモダーンを都会へ持ち込んだのもアメリカの自動車であり、日本の風土と思考の中で都会の喫茶店あたりから入り込んできた近代デザインの尖兵は何といっても毎年モデルチェンジして街頭の75%を変化させるフォードとシボレーの流線形であり、当時のモダーンボーイをして、エロチシズムを感じさせるとつぶやかせる程に魅力的なスタイルと流行は、現在(注;=何度も記すが1980年ごろ)の国産新型車の一部にも表現されるようになったと思う。日本からフォードが撤退させたのは主に陸軍を中心とする外資系に対する圧力であったが、政治的なからめ手で国際常識からひんしゅくを買うような追い出し方をしたのも、当時の日本の外貨事情を考えれば理解できる。だが、その陸軍といえども中国大陸ではフォードを多用し、満州にはフォード更生工場を設ける程にフォードの真価のよき理解者であって、現在の日本人がこのフォードとの付き合いを忘れてしまったのか、知らぬのか、日本の自動車史の中でのウエイトがあまりにも少ないのは気がかりなことである。』(㉚P107)
フォードの真価をもっとも理解していたのは陸軍だった!?
 この文章から時代の空気を感じてもらいたかったので、長文で引用させていただいたが、歴史解釈上において?個人的に注目すべきだと思った箇所は、文末の方に記されている、陸軍とフォードの関係だ。陸軍は「フォードの真価のよき理解者」だったという箇所で、戦前氏が陸軍御用達のヂーゼル自動車工業に勤めていた経験があるだけにより説得力がある。当時フォードとGM(シヴォレー)の真価(実力)を日本で誰よりも、良く理解+研究していたのが実は、日本陸軍に他ならなかったということなのだろう。(私見ですが、たぶん。)
“砂漠の狐”ロンメルもフォードを高く評価していた(余談)
(下はフォード1938年式3トントラックの陸軍ヨコハマ生産型。そうは見えないけれども、プラモデルです。ちなみにタフなフォード車を『大戦中,アフリカ戦線で闘ったドイツの ロンメル(Rommel) 将軍はフォード( Ford) 社軍用トラックの性能をドイツのそれより高く評価した』(引用⑱P14)という。)
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https://dist.joshinweb.jp/emall/img/sm/JSN_C00001/middle/45/44032/4544032769116.jpg?impolicy=tp300)。
(ブログ“ディーゼルオート店”さんは『『円太郎バス』・T型フォードが日本の車基準になったのは間違いない。"全長4.62m×全幅1.58m"が、いわゆる「5ナンバー」サイズ』なのだと、指摘している。実際戦前の日本では“普通車”だと呼ばれていたが、その点でも、フォードの影響は絶大だった。
https://minkara.carview.co.jp/userid/405365/blog/c901808/p3/

フォードソン・トラクターの日本での使われ方(余談)
(下の写真はwikiwandより、フォードソン・トラクター(モデルF(Fordson Tractor model F)の写真で、農業専用だと思いきや、五十嵐によればなんと日本では『当時TT型(注;T型のトラックタイプ)は1トンか1トン半しか積めずそれ以上の重量物はこのフォードソンが夜間の路上をけん引して運搬した』(㉚P109)そうだ。(以下はwiki参照)フォードは『大衆車(T)・商用車(TT)・農業トラクター(F)という、それぞれに未開の巨大需要を擁していた市場の開拓・制覇に成功』し、一大自動車帝国を築く。フォードソン・トラクターは当時アメリカで圧倒的なシェアを誇った=1923年にはアメリカ国内のトラクター市場で77%のシェアを誇ったという。)
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11.11フォードに続きGMも日本に進出
 本国アメリカのみならず、世界の自動車市場でフォードと激しい覇権争いを繰り広げていたゼネラル・モーターズ(以下GM)は、フォードに遅れる事2年の1927年、大阪に日本ゼネラル・モーターズ株式会社を設立し、KD生産を開始(開業式は 4月)する。
 なお永年にわたり、世界最大の企業として産業界に君臨した、GMの歴史や偉大な功績についての全体像を記すことは、この記事ではほぼ省略させていただく。さらにGMの日本進出の経緯についても、“二番手”だということもありフォードと違い大幅に略して記す(このペースだと終わりが見えないので!)。とはいうものの、自動車会社という枠を超え、世界最大・最強の企業に育てあげたアルフレッド・P・スローン(Alfred P. Sloan, Jr.; 1875-1966)の功績については、11項の最後に触れておきたい。ちなみに自分の子供のころはまだ、GMの売上高が日本の国家予算(一般会計の方の)に匹敵する、と言われた時代だった。

11.12 GMの大阪組立工場の稼働
 GMの日本進出については、①と④+Web❺を中心に引用していく。以下①よりそのまま引用で、まずはGMのアジア戦略から。
中国(大陸)から徐々に軸足を移した
『GM社の海外戦略はすでに、世界四十二か国で工場生産され、ドイツ・イギリスは勿論、カナダ等へも工場進出し、アジア戦略でも、GM輸出会社がマニラ支店をして、フィリピン、中国、満州、蒙古、韓国、日本をテリトリーとして完成車及び一部組立車を輸出していた。GM輸出会社のクエードは1921(大正十)年にマニラ支店、1922年にはオフィスを上海に移し、さらに1925年11月東洋駐在員事務所を東京に移した。』(①P94)GMもフォードと同様に、中国から日本へと、徐々に軸足を移していった経過が読み取れて興味深い。
日本への進出はフォードへの対抗心もあった
 GMの日本進出は、世界市場でしのぎを削っていたフォードへの対抗心(東アジア市場をフォードに独占される懸念;(⑭P7)があったことは間違いない。また両社に共通することとして、フォーディズムに代表される大量生産体制が確立されコストダウンが進み、激しい販売競争が展開された結果、過剰生産・過剰在庫といった新たな問題が引き起こされた結果(㉛P105)、その“はけ口”を求めて海外へと進出していった面もあった。(関連;10.3、11.3他)
 さらにフォードの場合の円太郎バスのように、10.3で記したように、梁瀬による震災時の乗用車2,000台の大量販売も、GMの判断に影響を与えただろう。(関連;10.3)
シヴォレーの販売を伸ばしたかった?
 しかしその一方で上記11.2の“表8”を見れば一目瞭然だが、フォードの工場進出前の1924年末時点ですでに、日本国内におけるシヴォレーの販売台数がT型フォードに大きく水をあけられているうえに、同じGM内のより高級なビュイックよりも少ないという、大衆車より高級車が得意(熱心)だった梁瀬の販売スタイルに対しても何らかの手を打ちたかったのだと思う。
調査員を日本へ派遣
 しかし世界的な巨大企業にも関わらずヘンリー・フォードの個人企業的な色彩の強かった当時のフォード社と比べて、より近代的な経営理念(マネージメント)のもとに運営されていたGMにおいては④の指摘のように『日本に進出することの是非は、世界的な同社の経営戦略の中で考慮され、慎重に計画されたものだろう』(④P142)。この当時のGMの海外戦略については、①P102~105に詳しいが、長くなるので省略する。そして1925年4月、GMは日本進出打診を目的に、調査員(フィリップ・ハワード)を日本へ派遣する。以下も①より引用
GMも“熱烈歓迎”を受ける
 ハワードは『アメリカ大使館商務部の紹介で、政財界の名士を訪問し、ゼネラル・モータース日本工場設立の意思を披歴して回った。反響はフォード進出の後とのこともあり、大震災後の自動車時代到来の予兆も加わり、自動車販売への興味をひかれた東京・大阪の名士が続々と帝国ホテル滞在中のハワードの許を訪れ、GMの日本工場設置協力を申し出てくれた。』(①P95)フォードの時と同様に“熱烈歓迎”を受けて、前記のように上海にあったGM輸出会社の支店を東京に移し(1925.11)、工場設置の準備に入る。
 そして『1926年夏、ニューヨーク本社では、日本での組立生産を決断し、ハワード氏と十人のスタッフが来日して、扱い量と工場用地の調査手配をした。』(①P98)
激しい誘致合戦を大阪市が制す!
 横浜や大阪を筆頭に各地で激しい誘致合戦が展開されたが、なかでも熱心だったのが横浜市であったという。しかしフォードとの対抗上関東地方は避けて、その上で『大阪市が、4年間の市税の免除、工場建設に可及的便宜を図ることなど破格の好条件を提示し、誘致戦を制した。』(wikiwand.com日本ゼネラル・モータース他より)ちなみに大阪を中心とした戦前の阪神工業地帯の工業生産額は、昭和11年(1936年)で31.6億円となり、京浜工業地帯の25.45億円を上回っていた。とかく忘れられがちだが、戦前は軽工業が盛んだった関西が、工業規模で関東を上回っていたのだ。
中国市場への輸出を意識した選択
 さらにもう一つの理由として大阪の接待攻勢の成果ではなく?冷静な目で『GM側が大阪を選んだ理由には中国市場を考慮に入れていたからと言われる。大阪での組立車のうち半数は中国に輸出していた』(同じくwikiwand.com他)という。大陸への輸送が関東より近く、輸送コストの差もシビアに見ていたようだ。ただし、『東南アジア市場については、インドネシアにGMの組立工場があった(1936年時点)との記事もあり、日本GMの地域は、旧日本国の領土の範囲内に限られていた』(①P174)ようだ。
 1927年1月、日本ゼネラル・モータース株式会社が発足する。大阪の大正区鶴町にあった日本綿花の紡績工場と倉庫跡に新工場を建設し,4月からKD生産を開始する。
 GMは日本への工場進出を果たした年の1927年に、ついにフォードの販売台数を抜き、自動車の生産台数で世界最大手に躍り出た。それ以降2008年にトヨタに奪われるまで延々と、その地位に君臨していくことになるが、大阪の組立工場も世界No.1企業の海外工場に相応しい設備を誇っていた。
フォードより大規模だったGMの組立工場
(下の画像は日本GMの大阪工場の全景で、大阪市の南の端にある木津運河を利用して船舶が工場に横付けできる立地だった。テストコースまで備えており、フォードの緑町工場との規模の違いが一目瞭然だ。開業式の式典では大阪府知事が金色の鍵をもって工場の扉を開くという華々しいスタートを切ったそうだ(Web❺-3)。
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https://sapporo.gmj-dealer.jp/wp-content/uploads/sites/34/2017/06/1927.jpg
日本でもフルライン戦略を展開
 そして扱い車種も、本国アメリカで、フォードT型の単一車種の低価格車路線に、多車種展開で対抗したように、日本でも充実していた。シヴォレー、ポンティアック、オールズモビル、ビュイック、ラサールからキャディラックに至る米国車種に加えて、欧州子会社の英ボクスホールや独オペルなども取り揃え、さらにトラックもシヴォレー、GMCなど4車種と、フルラインアップを誇った。(下の画像と以下の文は、webCGより引用させていただいた。『1926年におけるGM傘下の乗用車ブランド。市場における“喰い合い”を解消することで、GMの代名詞でもあった豊富なラインナップはフォードにはない大きなアドバンテージとなった。』いわゆる“のフルライン戦略”を、日本でも展開した。)
https://www.webcg.net/articles/-/40663?page=3)
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https://webcg.ismcdn.jp/mwimgs/f/4/730wm/img_f48095f0c1c786bcbb0842d6684a3ffd308268.jpg
提携相手がなかったので単独進出だった
 話が戻ってしまうが、これも良く知られている話だがここで、当時のGMとフォードは対外進出する際に、異なる手法をとっていたことを記しておく。11.1-8で記したようにフォードは100パーセント子会社方式で、いわゆる“フォーディズム”を押し通す新会社を新たに立ち上げた。『単純化していえば、フォードの海外子会社は、本社から送られてくる「フォード聖書」(The Ford Bible)に従って行動した』(②P88)のだが、GMは多くの場合、相手国の自動車メーカーに資本参加して、後に子会社化する手法をとった。たとえば英国進出の際は1925年にボクスホールを、1929年には当時ドイツ最大の自動車会社であったアダム・オペルを買収した。『既に述べられているように、ヘンリー・フォードにとってはT型を売ることが海外戦略であったが、スローンは「最初にブランドありき」と発想し、クルマはその国情に合わせ、時代の変化に対応するようにモデルチェンジを繰り返すべきであるという思想を持っていた。』(Web❺-3)
 そのため日本の場合にも、適当な提携先があればそれも考慮に入れたはずだが、前回の記事で延々とみてきたように、GMの検討段階で、日本で大量生産体制を確立した自動車メーカーは無く、そのため日本進出は単独で行わざるを得なかった。
 しかし後に、この記事の“その6”で記していく予定だが、陸軍が中心となり排外的な産業政策を検討し始めると、その対抗策としてGM本来の『現地主義を日本でも採用すべく、日本ゼネラルモータース社に日本の自動車メーカーとの合弁計画を打診するのである』(Web❶P165)。
 一方日本でも、鮎川義介率いる当時の日産は、大衆車(=当時のフォード、シヴォレー)クラスの乗用車/トラックの大量生産を志向し、日本の自動車工業が自立するためには、外資との提携が不可欠であると、一貫して考え続けていた。こうして軍部の圧力を感じ始めたGMと、後にはフォードも、日本における“受け皿”として、鮎川と接触していくことになる。しかしフォードの本格的な工場着工計画とともに、これらの画策が裏目に出て陸軍の警戒感をよんでしまい、排外的な自動車製造事業法を早急かつ強引に生みだそうとする逆のパワーを生んでしまった。やぶ蛇的な結果に終わってしまったこれら合併交渉は、のちの“その6”の記事で詳細に記すことになる。以下もWebからの引用だが『GM社とフォード社の初期の洵外進出における基本的政策は,似通っているようで異なる。 GM社は事前の分析によって市場を質的に区分し,それぞれ異なる施策で対応した。対してフォード社は,一様な進出をおこない,何か逼迫した状況に遭遇した場合,それに対応するという策をとったのである。』(Web□34、P247)
“敵失”が幸いしたGMの日本進出
 話を戻して、GMはフォードに2年遅れての日本進出となったが『日本でそのハンディキャップを感じさせないで製造販売できたのは、ゼネラルモーターズが活動を始めるころは、フォードがT型からA型に切り替わる時期に当たり、アメリカから組立のためのフォードの部品がしばらくのあいだ途絶えたことも影響していた。』(④P143)その結果、11.13項で記すアメリカ本国同様『これで動揺したフォード車ディーラーの中にシボレーに鞍替えする所が出てくるという思わぬ幸運が舞い込む』(Web❺-3)こともあったようだ。ちなみにこのような動きは9か月新車の供給が途絶えたアメリカ本国でも同様で、『この間のデーラーの仕事は補給部品の販売だけとなり、大切なセールスマンはどんどん他社に引き抜かれてしまった』(⑩-1P57)といわれている。(㉚P109)に『~当時東京に設置されたメインデイラー4店(注;エンパイヤ自動車、松永商店、山田商会、秋口自動車)で、このうち大手の秋口は後にGM系にスカウトされてシボレー系となり話題となった』という記述があり驚いた。なんとフォードの日本進出に一役買ったあの秋口久八の販売会社が、シヴォレーに寝返ってしまったようなのだ!
最初から順調だった販売
 こうして、結果的にタイミングに恵まれたこともあり、GMの日本における組立台数は、前回の記事の“表6”にみられるように立ち上がりから順調に増えていき、1928年は15,491台、1929年には15,745台と、フォード(それぞれ10,674台と10,620台)を凌ぐほどになっていく。
(下の画像は度々の引用で恐縮だが、ブログ「ポルシェ356Aカレラ」さんのもので、『1933年 新シボレー 本カタログ』より、その室内(□21-2)。現代のJPN TAXI(ジャパンタクシー)と比較してもずいぶんゆったりとしている。(㉑P15)の描写によれば、広い後部の室内には補助席があったようで、当時のタクシーで『われわれ子供たちは、後席の前にある補助椅子にいつも座らされた。』小柄な日本人故に本格的なリムジンのように7人乗車が可能だったようだ。)
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https://stat.ameba.jp/user_images/20140510/17/porsche356a911s/e0/00/j/t02200165_0800060012936583869.jpg?caw=800

11.13フォードとシヴォレーの熾烈な戦い(アメリカ本国において)
 ここで“日本の自動車史”からは外れてしまうが、アメリカ本国で繰り広げられた、フォードとシヴォレーの大衆車市場を舞台にした熾烈な戦いについては、やはり触れておきたい。日本でも販売合戦が繰り広げられたが、本国の戦いはある意味で、その後の自動車の方向性を決定づけるものだった。以下全般には㉕、㉜、㉟-1(ちなみに㉟-1の記事を記した松尾良彦氏は初代フェアレディZのデザイナーだ)+(web□37:「GM社における大衆車市場への参入」という論文が非常に詳しい)+(web□38)で補足しつつ、それらの引用でつないでいくという超手抜きで!簡単にまとめておく。まず
当時のアメリカの状況について
(㉟-1)の引用からスタートする!『~改良はするがモデルチェンジはしないというのがフォード一世の方針で、このため原価償却に合わせてT型の価格はくる年ごとに下げられ、発表の10年後にはついに当初の価格の6割減まで値下げされた。これによってT型はアメリカ全土に普及、おかげでフォードは押しも押されぬ大企業へと成長した。』(㉟-1、P124)フォードはT型一本に絞り、生産技術の改革と量産効果でスタートの850ドルから1925年に290ドル(ツーリング型)までその価格は引き下げられて、圧倒的な競争力を誇った。
王者T型に挑んだシヴォレー 490型
 以下も(㉟-1)より引用。『一方のGMは商業主義的な車づくりを当初から推し進めた。フォードT型からの上級移行を考えているユーザーがターゲットであり、シボレーを売り出すにあたって、同社では見てくれのよさ、快適性の高さをおおいに強調した。このように、フォードにとっての自動車は、あくまで実用本位の<移動の道具>だったのに対して、GMにとっては<大衆に夢を与えるもの>だった。』(㉟-1、P124)
 以下からは、対T型フォード用にGMが最初に投入した490型の説明と、それに対してのフォードの対応策になる。まずはその尖兵となった、シヴォレー490型(1915(6?)~1922)について、『シヴォレーは1915年に、22年まで続く“490”という大衆車を出す。何とその名称はシヴォレー自身が仮想的に擬したモデルTフォードの価格(もちろんドル)であり、フォードは翌16年に460ドルに値下げしなければならなかった。』(㉕P159)
(下の写真はフォード反撃への狼煙となった490型で、トヨタ博物館所蔵のものだ(画像もgazooからの引用です。)。電気式のヘッドライト、セルフスターター付きと装備を充実させて、外装色も黒以外に赤、緑、青、黄なども選べた。)
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https://gazoo.com/catalog/car_img/7103/7103_o.jpg
(㉕-1,P159)より引用を続ける。しかし『~このようにシヴォレーは最初からフォードのライバルとして生まれたのだが、初めのうちはモデルTの量と品質は圧倒的で、まるで風車に立ち向かうドンキホーテだった。』期待の490型も当時絶好調のT型フォードの前に苦戦を強いられたのだ。以下(web□37、P120)より引用するが、結局490型も『登場後フォードとの正面きった競争は断念され,手ごろな価格での高級仕様を売りものとする製品戦略がとられた』という。T型に対抗するためには力不足だったようだ。
対抗馬としては力不足だった490型
 この490型について、スローンはかなり辛らつだった。以下は(web□37、P120)より補足する。『当時の副社長(23年以降の社長)のA.P.スローン (AlfredP.Sloan) は後の法廷証言で、1920年時点のシボレーががらくたであり,時のP.S.デュポン (PierrerS.duPont)社長はシボレーの名称変更を提案するほどだったと、述懐している。21年春の本社経営陣も,シボレーがフォードと真っ向から競争することは不可能である、との見解で一致していた』
(ちなみに当時のシヴォレーのラインナップは490型と、上位機種である下の写真のFB型の2本立てだったが、『FB型はキャディラック以外のGM 車種と競合する中価格帯にあり,低価格帯をねらうシボレー・ラインにはいかにも不釣合いな製品であった.』(web□37、P121)ようだ。画像は以下よりコピーした。確かに車格がかなり上位のクルマに見える。GM内部での製品ラインナップの整理がついていなかったのだ。
https://www.hemmings.com/stories/article/chevrolets-classic-1920-chevrolet-fb-50-touring)

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https://img.hmn.com/fit-in/900x506/filters:upscale()/stories/2018/07/41285.jpg
“抜本的な革新”を目指して空冷エンジン車を開発!
 1920年には倒産寸前の経営危機に陥ったが、GMに関心のあった巨大化学会社(デュポン財閥)のピエール・S・デュポンがGM創業者のW・Cデュラントを追い出してGMの実権を奪う。以下は(web□37、P120)より『1920年の経営危機の後,GM 社は企業再建のために製品 ・価格政策を見直す。全社的に打ち出された構想の基本は、製品政策では漸次的改良主義の徹底、価格政策では自社ライン間の競合を避けるための再設定にあった。だが,シボレー部門には例外的な方針が打ち出された。・大幅な低廉化 と・製品技術の抜本的な革新 が目指されたのである。 この決定は,シボレー・ラインの製品 一 競争力に対する絶望的認識を背景にしていた。』
 当時全世界に君臨していたT型に対抗するためには、生半可なクルマでは通用しないとの考えに至ったようだ。そして「大幅な低廉化と、製品技術の抜本的な革新」を目指した結論はなんと、研究所を率いていたチャールズ・ケタリングの推す、空冷エンジン採用だったのだ!
以下も(web□37、P121)『この帰結が技術革命戦略の採用,すなわち,GM 本社経営陣による執行委員会での「新しい革命的な種類の車によって低価格車分野に参入すべきである」との決議であった。(中略)目指した革新は空冷式の銅製エンジンであった(注;この空冷エンジンは空冷フィンとして銅板を使用していたのでそのように呼ばれていたらしい)。』イグニッションシステム、セルフスターター、電気式ヘッドライト等の数々の発明(製品化)で実績十分で、首脳部の信頼も厚かったであろうケタリングを信じてのことだったのだろうが、開発は難航し、大失敗作となってしまう。(下の画像はその空冷エンジン車。画像はwikiより。外観上はふつうの水冷エンジン車と変わらない印象だ。それにしてもシヴォレーが空冷エンジン車で躓くのは、コルヴェアが最初ではなかったようだ。ただしコルヴェアの場合は空冷エンジンが直接の原因ではなかったが。このクルマについては他のwebでは(web❺-4)等も参照ください。それによると、空冷エンジンは6気筒だったようで、さらに社長のピエール・S・デュポンも、どうやら入れ込んでいたようだ。)
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スローン体制下で立て直し、徐々にフォードを追い込む
 1923年、デュポンは社長を退き、アルフレッド・P・スローンを社長に据える。そして空冷エンジン車を断念させたスローンの指揮のもとに『マネージャーのウィリアム・S・ナットセン(1937-40年にGMの社長となる。)と、チーフ・エンジニアのオーモンド・E・ハントが1923年に登場させた“シューペリア”は、次第にモデルTを追い上げていった。』
生産台数でいえば、フォードのピークは1923年で、この年の年産は200万台を超えた。『こうしてGMとフォードの競争が始まった。頑固一徹のまじめなエンジニアであったフォード一世は<スタイリング>などという言葉は思いつきもしなかったが、GM中興の祖、アルフレッド・スローンは、それこそが商品を売るための有効な武器と考えていた。』(以上㉟-1、P124)後述するが、工場から続々と生産されてくる自動車を市場に押し込むため、デザイン力が活用されていく。
 フォードは、次第に防戦一方になっていく。ここからは、追われる側のフォードをみておきたい。
『(フォードの)その製品競争力の源泉はもっぱら値下げに求められていた。』(web□37、P109)1925年には、モデルTのツーリングモデルが290ドルという、歴史に残る最低価格が実現した。(下の画像は1924年のシヴォレー“シューペリア”シリーズFクーペ。黒一色塗られたT型と比べれば、スタイリッシュに見えたのだろう。大量に普及したT型フォードの乗り換え需要を見越してのGMのマーケティング戦略に、黒一色のT型に飽きたアメリカ人たちは、少し上の贅沢と変化を求め、嵌っていく。そしてT型も1925年にはついに、多色化に踏み切らざるを得なくなる。)
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フォードも革新的な中級車(“Xカー”)開発を断念 
以下も(web□37、P114)からの引用だが、ここで記されていたXカーの内容は手持ちで適当な資料がなく、時間をおいてあとでもう少し確認して補足しておきたい。
『この間もフォード社は単に手をこまねいていたわけではない。新車の開発も25年から急がれていた。まず,25-26年にかけては,1920年から試行されていた革命的中級車,Ⅹカーの開発が本格化された。同車には, 8つのシリンダがⅩ形に配列される工学上画期的とされる新エンジンが搭載 されるよう見込まれていた。しかし,この革命的技術開発はその構造的欠陥から26年 8月には断念されたのである。』結局空冷エンジンに手を染めたシヴォレーと同様、この野心的な計画のために貴重な時間をロスしてしまい、よりオーソドックスで、エドゼル・フォードのセンスで“デザインされた”A型投入のタイミングが遅れてしまった。フォード(ヘンリー・フォード)自身も偉大なるT型フォードの後継車作りに苦しんだのだ。
A型投入までに空白が生じる
 フォードのモデルAについては、11.9や12.4項とも重複してしまうが、アメリカ本国を舞台としたシヴォレーとの戦いを軸に、(web□37)から引用を続ける。『また,Ⅹエンジンの断念後はすぐに 4シリンダの新エンジン開発が着手された。T型からA型と名付けられた新車への移行は当初連続的に行なわれる予定であった。 しかし,周知のようにこのモデル ・チェンジにフォード社は苦しむ。A型車設計の完成が公言されるのは27年 8月10日であり, 1号エンジンの完成はさらに同年10月20日を待たねばならなかった。27年11月初旬には1号車が登場するが,この前後も製品設計は流動的なところが多かった。こうした製品設計の滞りに生産変更の遅滞が加勢し,同車のモデル ・チェンジには事実上1年半近くの期間が費やされたのである』(web□37、P114)。結局フォードのディーラーに9カ月間、新車の供給をできなかった。11.2-1でも引用したが『この間のデーラーの仕事は補給部品の販売だけとなり、大切なセールスマンはどんどん他社に引き抜かれてしまった』(⑩-1、P57)スローンがこの好機を逃すわけがなかっただろう。
息子エドゼルとの確執
 TからAへのチェンジが遅延した背景には、ヘンリー・フォードと息子のエドゼル・フォードとの対立もあったという。『このモデルAの開発でフォード父子ははじめてはげしく対立した、とソレンセンは書いているし、歴史的にもモデルAに現れたムードはエドゼルが勝ち取った部分であろうと思うのである。』と(⑩-1、P58)で五十嵐平達は記している。しかしA型のスタイリングが好評を得た結果、『ヘンリーはスタイルに関してはまったく口を出さなくなり、もともとアーチスト的性格だったエドゼルに一任されたのであった。モデルAのスタイリングはリンカーンをアイドルにしたもので(注釈の必要なしと思うがクルマのリンカーンをアイドルにした)、その表現はシンプルで魅力的であった。だがポリシイだけは逆にGMを啓発する結果となり、1932年型シヴォレーはキャディラックをアイドルにしたスタイリングで大成功をおさめたのであった。』(小林彰太郎は(㉖、P18)で『(T→Aの)この画期的なモデルチェンジに社運を賭したフォード社は、全世界で下取りしたT型をすべてスクラップ化した。これは日本でも同様だった』という。(この項全体は一応シヴォレーの方に属するので、ここはシヴォレー優先で、1932年型“ベビーキャディラック”シヴォレーの写真を。確かにやたらと華やかに見える。出典はwikiより)
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 フォードA型について最後に、ライバルであったGMのスローンは先に記したように(⑩-1、P58)『1928年にモデルAをはじめて見たころを懐想して、「流行に左右されない実用的な車というヘンリーの主義を再度具体化した立派な小型車と思った」』と評していたという。
スタイリングの重要性を深く理解していたスローン
 再びシヴォレー陣営に?話を戻す。先にも「GM中興の祖、アルフレッド・スローンは、スタイリングこそが商品を売るための有効な武器と考えていた。」と(㉟-1、P124)より引用したが、『特に1923年以来GMの社長の座にあるアルフレッド・P・スローンⅡ世が、1927年にハーリー・アールを起用してGMアート・アンド・カラー・セクション(現GMデザイン)を設けて、シヴォレーにデザインとカラーを与えてからの追い上げは急であった。たまりかねたフォードが1927年にモデルTを(既述のようにエドゼルのセンスでデザインされた)Aに切り替えると、そのギャップを突いてシヴォレーはトップに躍り出た。フォードは1929年と30年に首位を奪い返すが、以後は圧倒的なシヴォレーの優位が続き、フォードに抜かれるのはわずかに1935、57、59年のみということになる。』以上(㉕-1P159)
GMのマーケティング戦略(簡単に)
 以下はスローンによってこの時代に、試行錯誤しつつも次第に確立されていったマーケティング戦略についても、以下wikiからのコピーで簡単に触れておく『1920年代中期のGMのマーケティング戦略はさらに尖鋭化し、シャシーは前年型と共通でも、ボディデザインに年度ごとの新味を与える「モデルチェンジ政策」を用いて、在来型を意図的に陳腐化させることが行われるようになった。GMが打ち出したこの商品戦略は、競合他社も否応なしに取り入れざるを得なくなり、1970年代までアメリカの自動車は、1年ごとにボディデザインを変化させることが当然となった。』有名な「計画的陳腐化」とよばれているものだ。
 さらに(⑮P134)『これは、次第に無視することができなくなった中古市場でのクルマに対抗する狙いもあった。』という。たとえば1920年代のアメリカにおける『自動車新規販売台数にしめる下取りを伴わない販売の比率 (年平均)は,22-24年:70%、25-26年:55%、27-29年 :34%のようにこの間急低下している。』(web□37、P108)企業側の論理だけでいえば、旧製品を陳腐化させる必要があったのだ。
 しかし五十嵐は、毎年のモデルチェンジ(マイナーチェンジ)について『(フォード)モデルA以降の競争は完全にGMのペースで戦われるようになったが、それでもGMのスローンの手記によれば毎年のモデルチェンジはGMの意思ではなかったと書かれており、真の原因はフォードが哲学的にGMへ接近した相互関係で、モデルチェンジが年中行事化してしまったものと考えられる』(⑩-1P58)と、他者とは少し違った解釈を記している。)
箱型ボディがT型を追い詰めた(T型の弱点)
 GMを率いたアルフレッド・スローンはアメリカにおけるシヴォレーとT型フォードの戦いを総括して『「この競争における最後の決定的要素は、閉鎖型ボディであったと信ずる」(Sloan, 1964, p.160 邦訳p.207)』と記しているようだ。設計の古い『T型フォードは、元来オープン・カーとして設計されていたために、シャシーが軽く、重い全金属製閉鎖型ボディには不向き』という弱点を抱えていたからだった。以上と以下の部分は(web□38)より引用。『重い全金属製閉鎖型ボディは、T型にとってまさしく重荷となった。それでなくても、実質的な「モデル・チェンジ」で電装部品や内外装が追加されてきたことで、T型フォードは1~3年ごとに、どんどん重量が増えていたのである。これに全金属製ボディの重量まで加わって、もはや軽量を前提とした20馬力のエンジンでは合わなくなっていたのである。
高速道路の整備で高速化
引用を続ける『しかも、次第に道路が整備されてくると、舗装道路では、より大きな、かつスピードの出る車が求められるようになっていった。T型のように、エンジンの割には車体が重過ぎて、ノロノロとしか走れないような車は、格好が悪かった。確かに、20世紀初頭のように、悪路や道のない所を走らなくてはならないのであれば、軽量化が必要だったのだろうが、当時、既にそのような時代は終わりを告げようとしていたのである。こうなると、T型フォードは、他社製自動車と比べて性能面でかなり見劣りがすることになる。』(web□38)
以下は(web□37、P108)より『全米舗装道路距離は1921年の39万マイルから29年には66万マイルに拡張し、すでに1924年の交通事故死は23,600人にのぼっていた』そうです。高速道路網か拡張され、高速走行が日常化し、走行安定性や制動性能も求められるようになっていく。
馬力競争その1;(T→A型)で馬力が2倍に
元来が農民の足として開発され、巡航速度を60km/h程度と想定した、20㏋のT型では馬力不足だったため、フォードはA型投入時に40㏋に出力を大幅にアップさせた。しかしシヴォレーは新型フォードの出鼻をくじくため、対抗手段を用意していた。まず1928年型でアルミ・ピストン採用による高圧縮比・高出力化で、エンジン出力を大幅に向上させた(26→35㏋。なお高出力化に合わせて、シャシ・フレームの低重心化とホイールベースの延長も併せて行っている)。
馬力競争その2;満を持してシヴォレーがOHV6気筒を投入
 しかし本命は1929年モデルイヤーカーとして投入する。この年、満を持してOHVの直列6気筒モデルを投入するが(パワーは35→46㏋)、この“シックス”は早くから『シボレー事業部は6気筒エンジンの開発に着手した』(web□37、P126)という。『シボレー事業部は次のような周到な計画に基づいて,1929年の仕様変更部位をエンジンに絞っていた。スローンは 「1928年には,われわれは,-・-4輪ブレーキを取り付け,新しい6シリンダ・エンジンのために軸距を 4インチ長くした。 しかし,フォード氏が 4シリンダのA型車を投入する後の1929年まで新しいエンジンを温存した」と述べているのである』ちなみに6気筒タイプではコストを抑えるためアルミ・ピストンは鋳鉄製に戻されている。(web□37、P129)
馬力競争その3;フォードは大衆車市場に“途方もない”V8を投入
 しかしエンジンに関しては、受けて立つ側のフォードにも恐るべき秘策があった。『ヘンリーは、モデルAを発売したころすでに、次のV8エンジンを考えていた。これはモデルAの開発が急がれたので間に合わなかったらしいが、シヴォレーがシックスならことらはV8だ、といった対抗意識も感じられる。しかし低価格車にV8を採用するという、当時としては途方もない発想をもっていた』。(⑩-1、P72)
 複雑な形状となるV8エンジンを、鋳物で一体成形することは至難のわざとされてきた。しかし鋳物の得意なフォードは、鋳物製のクランクシャフト(鍛造が当たり前だったが鋳鉄に球状黒鉛を混ぜることで強度を確保した)とともにそれを成しとげて、大幅なコストダウンを達成したV8エンジンを大衆車市場に投入したのだ(㊻、P89等)。1932年モデルとしてデビューしたV-8はSVだったが65㏋を発揮し、その後1939年型では90㏋までパワーアップされて、戦後のフラッシュサイド型“ヤングフォード”(12.9-1項参照)の時代まで1953年型まで使われた。
 それにしてもアメリカ人はほんの10数年前まで、20㏋のT型に乗っていたが、1939年には×4.5倍の90㏋のV8フォードを乗りこなすことになったのだ!大衆車であるフォードのV8エンジン化は,その後の『アメリカ車がサイズを大きくするきっかけが作られた』(㊻、P90)ことでもあった。
 一方シヴォレーの“シックス”の方も『1929年のエンジン設計の基本は1953年まで維持された。』(web□37、P129)という。
 この欄の〆として五十嵐氏の(⑩-1、P72)より『このヘンリーのほんとうの、そして隠れたるベストセラーを搭載したフォードを、現在アメリカの愛好家たちは“ERRLY FORD V8”と呼んで懐かしんでいるが、4気筒に対して6気筒がなめらかなバランスのよさをもって、高級なフィーリングであったのに対し、V8フォードはまさに電気モーターのそれで、モダーンなフィーリングであった。そしてアメリカでは時のルーズベルト大統領以下、そのモーターを回す味を知らぬ者はいなかったのであろう。』(下の写真は、ルーズベルト大統領のプライベートカーであった、1936年型の“ERRLY FORD V8”( FDR's 1936 Ford Phaeton)で、画像は以下のサイトよりコピーさせて頂いた。
http://www.fdrlibraryvirtualtour.org/page11-01.asp
ハンドコントロールで操作できるように特別に改造されていて、ハイドパークにいるときはいつも運転するのを楽しんだという(機械翻訳によれば)。

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http://www.fdrlibraryvirtualtour.org/graphics/11-01/11-1-Phaeton_01.jpg)
GMのフルライン戦略
 以下(web□39、P47)を参考に、1920年代のGMのフルライン戦略について、最初に確認しておく。スローンの改革によりGM製品系列の再編と調整が終わり、その結果、各自動車事業部間で,それまで行われていた競争は,ほとんど見られなくなっていったという。そして技術や製造,販売面で,協力関係が打ち立てられていく。各事業部の関係が明確になり、キャディラック事業部が最高級車を売り,以下,順にビュイック,オークランド,オールズモビルと続き、シボレーは量産低価格車を受け持つ。
市場調査の結果、新ブランド“ポンティアック”を投入
 そして市場調査の結果、『シボレーとオールズとの中間クラスに大きな潜在市場』があると見たので,GMは1925 年に 6 気筒のポンティアック(Pontiac)を発売した。このポンティアックの開発で,GMの基本製品は事実上完成した。同社は『どんな財布にも,どんな目的にも適った車』を揃えるという目標に,近づきつつあったのである。」(web□39、P47)新ブランドであったポンティアックについて(web□37、P102)より補足しておく『,20年代後半のGM社の販売拡大に大きく寄与した車種では,シボレーのはかに25年秋に導入されたポンティアックがあげられる。同車の出荷台数は28年すでにビュイックに迫り,29年にはシボレーに次ぐ位置を占めた。そして,ポンティアックはシボレーとの部品共通化を図った GM 車初の本格的な姉妹車であった。』全くの新ブランドだったポンティアックの名前の由来だが、wikiによれば「デトロイトのネイティブ・アメリカンの「ポンティアック首長(Chief Pontiac)」」からとったのだという。余談だがシヴォレーとの姉妹車であったが故に、この記事の後篇の12.16項で記す「戦前アメリカ車の革新性(ニー・アクション)について」の、デュポネ式前輪独立懸架のトラブルに巻き込まれてしまう。(下の写真は1937年製のポンティアックだが、個人的な好みでは、この近辺の年代のGM系のアメリカ車がホント大好きです。画像は以下よりコピーさせていただいた。
https://www.hemmings.com/stories/article/sedan-of-steel-1937-pontiac-deluxe)

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https://img.hmn.com/fit-in/900x506/filters:upscale()/stories/2018/07/40484.jpg
シヴォレーでフォードに勝たねばならなかった理由(市場分析から)
 次に当時のアメリカ車市場の、価格帯別のシェアについて、以下も(web□39、)より確認しておく。『低価格車クラスの登録台数が1926年の60%から次第に上昇し,1934年には約 91%まで達しており,その後1938年には約 83%まで低下するとはいえ,アメリカ乗用車市場における950ドル未満の低価格車が圧倒的な構成比率を占めていることがわかる。そして低価格車クラスの中でも,さらに800ドル未満の下位低価格車では,27年の約44%をボトムとして次第に上昇し 1934年に約75%まで構成比率を高めていて,38 年でも 60%台を維持している。この事実は,乗用車市場の販売の圧倒的な構成部分が低価格車クラス,とくに 800 ドル未満の下位低価格車クラスであることを意味している。それと対極的に 2,000 ドル以上の高級車の登録比率は,最大時でも 5%に満たないことも分かる。この乗用車市場の 60-70%を占める圧倒的なボリュームゾーンである800ドル未満の低価格車クラスこそが,フォード車の独擅場となっているマーケットであった。』(web□39、P52).
いくらGMがフルラインナップ戦略による分厚い中/高級車群でフォードに迫りつつあっても、不況下で需要が下級車にシフトしたため、圧倒的なボリュームゾーンであった低価格車クラスのシヴォレーがフォードに勝たねばならなかったのだ。
シヴォレーの躍進でフォードとの業績が逆転
 そしてシヴォレーが躍進したことで、GM全体でシヴォレーの占めるボリュームが増えて、その結果GMに莫大な利益をもたらした。以下も(web□37)からの引用で見ていく。『事業部全体でのGM 社生産台数にしめるシボレー・ラインのシェアは20年の40%程度から27-28年には60%台半ば,29年は70%へと上昇したのである。シボレー事業部がGM社において主力事業部化していたことは,収益面からもうかがえる。(中略)GM社の5つの完成車事業部のうち稼ぎ頭がシボレー部門であるのは明白である。(中略)トラックも含むシボレーの税引前利益の5事業部合計にしめる割合は27-28年は50%台,29年には実に73%に達する。』(web□37、P102)量産効果というものが、いかに絶大な利益をもたらすかがわかる。さらに対フォードでも、『27-29年のシボレー事業部は平均して9000万ドルの税引前利益をあげていた。一方,フォード社の税引後収支は,22-25年:各年1億ドル前後の黒字、26年:7000万ドルの黒字、27-28年:両年合計で 1億ドルをゆうに越える欠損、29年9000万ドルの黒字、以上のように推移した。20年代終盤においてシボレーとフォードの収益性は明暗が鮮やかである』(web□37、P106)
(下は1928年製シヴォレー ロードスターです。画像の出典はhttps://thegarage.com.br/carro/1928-chevrolet-roadster/より。)
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https://i2.wp.com/thegarage.com.br/wp-content/uploads/2020/04/capa-chevrolet-roadster-1928.png?w=1500&ssl=1

11.14クライスラーの進出で“ビッグスリー”が揃い踏み
 話を日本に戻すが、さらにアメリカのいわゆる“ビッグスリー”(“デトロイトスリー”という呼び方もあった)の一翼を担う、クライスラーも日本進出を試みるが、ここは“3番手”ということもあるし!その経緯はさらに大幅に省略して記す。クライスラー(1928年にダッジ・ブラザース社を吸収し、大きくなった)は資本力の差からか、上位2社と違い『ゼネラルモーターズやフォードのように多額の資金を投入するのにためらいを見せた』(④P153)のだという。
安全自動車を中心に「共立自動車製作所」を設立
 結局、直接の資本進出は果たせなかったものの、クライスラー系で最も輸入台数の多かった、ダッジの代理店であった安全自動車率いる中谷保が中心となり1930年6月、4つのクライスラー代理店の共同出資で「共立自動車製作所」を設立する。鶴見と芝浦に組立工場を構えて年産 2,000台の能力を有し、ダッジ,クライスラー,プリマス、デソートのKD生産を開始する。以下①より引用
『協立自動車製作所の設立により、部品の関税率が低いのでクライスラー系各社のコストは大幅に低下し、フォード、GMの競争に加われるようになった。(中略)クライスラー社も、100%外国資本でなく、日本人経営で現地に溶け込む型での組立生産ができたことを喜んでいた。』(①P122)
こうして日本市場で、巨大な“ビッグスリー”が“揃い踏み”を果たし、本国同様に三つ巴の戦いを繰り広げることになる。
フォード対シヴォレーの戦いに巻き込まれるのを避けた?
 ただし、日本市場におけるクライスラー系の立ち位置としては『中級車を目標としてフォード、シヴォレーとの戦いは避けていた』(⑰-2,P46)ようだ。さらに追記すれば、フォードとシヴォレーの関係においても『横浜製のフォードは関東が縄張りで、大阪製のシヴォレーは関西というのは否定できない昔の市場でもあった。GM系は高級車市場に強く、シヴォレーの昭和ひと桁時代はタクシーよりもトラックに重点が置かれていたのが東京では感じられた。それがタクシーでもライバルとなった頃は戦時体制になってしまったのである。』(㉕-2)という五十嵐の記述があるが、横浜製フォードと大阪製シヴォレーの間ではその生産拠点から自然と縄張りがあり、二大消費地の関東と関西の棲み分け?がある程度、行われていた時期もあったのであろうか。仮にあったとしても初期だったと思うが、不明です。

11.15ビッグスリーの進出で自動車市場が急拡大(アメリカ車の黄金時代)
 ビッグスリーの揃い踏みの結果、日本の自動車市場は大きく拡大されていった。『日本国内供給は 1926年の 2,626台から 29年の 36,812台へと飛躍的な拡大を遂げたが,日本メーカーは技術的にも未熟な段階にあったため,国内市場は完全にフォードと GM に席巻されることとなった。』(⑨P48)そのため前回の記事からみてきたように、黎明期の日本の自動車産業とは、『(「軍用自動車補助法」の補助金を経営基盤にしてかろうじて生き永らえていく)トラックとバスと、(次回の記事で記す)3輪車、唯一の例外がダットサンとオオタであった』(㉗-2,P41)ことになるのだが、自動車製造事業法で国産車が“テコ入れ”され外国車が排除されてしまう前までの日本は、輸入組立車を中心としたアメリカ車の黄金時代であった。
全世界的だった“アメリカ車黄金時代”
 しかし排除されていったのは国産車だけではなく、『それまでいくらか日本市場に根を張っていたヨーロッパ車はたちまちにして駆逐され』(㊲P104)てしまった。
 さらに言えば、このアメ車黄金時代は何も日本に限った話ではなかった。『(1921~1940年の)この20年間はアメリカのフォードが創始したコンベアーによる大量生産システムと、それを模倣した強豪メーカー達の価格競争で価格が大幅に下がり、大衆への自動車の普及が進み、世界の自動車生産でアメリカは80~95%ものシェアを占め黄金時代を謳歌した。世界の自動車生産台数は1921年の162万台から1929年には年産536万台に達し、わずか8年間に生産台数は3.3倍にもなったが、そのほとんどはアメリカが占めていた。』(㉜P54)その背景を以下(⑬P112)より引用『アメリカの自動車王国の地位を決定的にした大量生産方式やマーケティング技術に影響されて、自動車発祥の地ヨーロッパもいろいろな形で近代産業への脱皮をはかるが、しかし何といったもこの時代は、世界的な大不況と国際貿易の縮小が、関税障壁や保護貿易主義とブロック経済化のために次々と起こって、その歯止めがかからない時代であった。そのためにヨーロッパの自動車市場も大きな影響を受け、潜在需要はありながらも、その発展は遅々として進まなかった。
結局ヨーロッパの自動車産業は、第二次大戦後の自由貿易体制・ガットIMF体制と、ヨーロッパ共同体の結成をみるまで、本格的な成長の機会には恵まれなかったのである。』
国と地域によって程度の差こそあれ、この時代は世界全体を見渡してみても、アメリカ車の黄金時代だったのだ。
自動車とは米車であって、時折見かける欧州車が外車
話を日本に戻し以下、11.1-10で記したことの補足になるが五十嵐によれば、『日本に住んでこの眼で見聞きした1930年代の米車というものは、現在のように米車=外車という感覚ではなく、自動車とは米車であって、時折見かける欧州車が外車といった感じ』(㉗-2,P41)であったという。
一例として『昭和12年夏、中国大陸で戦乱が起きた頃、カーキ色に塗られた37年生のフォードとシヴォレーが、長い長い貨車積で戦地へ送られていくのを、何度か見かけたが、金色の星のマークを付けた流線形に、外車という感じはしなかった。フォードは横浜製、シヴォレーは大阪製という先入観が、外車とか輸入車とかいうイメージとは程遠かった。』(㉗-2,P41)そうだ。当時の一般日本人にとって、国内組立で右ハンドルのフォードとシヴォレーは、ほとんど国産車並みのイメージで接していたようだ。
(下は1927年のシヴォレーの広告(岩手みちのく記念館所蔵)。フォードとGMが全国に販売網を整備したことで、日本全国の津々浦々まで、自動車販売戦線は拡大していった。その結果、全国的に自動車を目にする機会が増えたが、㉚を引用した11.1-8や12の冒頭で記すように、販売の主力はやはり都市部であった。)
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11.16 GMを世界最大の企業に育てたアルフレッド・P・スローン
“その後の自動車業界で働いてきた人々は、フォードとスローンが作った2本のレールの上を走っているに過ぎない”

 すでに11.13項でも触れてきたが、11項の最後に、GMという自動車メーカーを、世界最大・最強の企業に育て、君臨した、アルフレッド・P・スローンの偉大な功績について、もう一度触れておきたい。以下(㉜P54)からの引用で記しておく。
『1923年、アルフレッド・P・スローンが社長に就任すると大改革に着手した。
第1に組織面で軍隊方式を採用し、仕事はチームでやるものとして組織への忠誠と、命令への絶対服従を要求した。信賞必罰で、忠誠心も高く実績を挙げたものはどんどん昇進した。欧米社会では個人ベースで仕事が進んでいく。チームワーク、チームプレイには馴染んでいないが、スローン社長は強力に推進しGMの改革を進めた。
第2の改革はキャデラック、ビュイック、シボレーなどの事業を独立採算にし、GM本社を統合本部にしたことである。第3の改革は商品面での対フォード対策である。
(中略)アメリカ人は豊かになり贅沢と変化を求めるようになっていた。T型フォードには飽き飽きしていて、なにか新鮮で近代的な車を待つ気持ちになっていた。GMでは顧客心理を熟知したハリー・アールがスタイリングの責任者として就任し、スローン社長にスタイリングの重要性、モデルチェンジの効果などを進言し、新車を続々と投入しフォードの牙城に攻め込んでいった。(中略)
 GMのとった戦略は外装色と内装色を数多く用意し、外装デザインも毎年のように変更するモデルチェンジ政策である。外装デザインはフルスキンチェンジとマイナースキンチェンジがある。これを繰り返し、顧客は購入後数年すると自分の車が古臭いと感じはじめ、買い替えたい気持ちになっていく。以降世界中のメーカーがこの戦略を踏襲し、世界標準となった。商品ラインアップもフルライン政策を取り、高級車から大衆車まで、豊富な品揃えであらゆる階層の人々の要望に応えられるようにした。(中略)
 ヘンリー・フォードは“自動車を大衆へ”という哲学を追求し、燦然と輝く偉業を成し遂げた。アルフレッド・P・スローンは“大衆に合わせた自動車を”をスローガンとし、これまた偉業を成しとげた。フォードは生産技術で世界に革命をもたらし、スローンはマーケティング技術で世界に革命をもたらした。その後の自動車業界で働いてきた人々は、2人が作った2本のレールの上を走っているに過ぎない。(㉜P54)
 この一連の記事では文章の途中で強調文字にすることはないのだが、しかし㉜に記されていた、“その後の自動車業界で働いてきた人々は、2人が作った2本のレールの上を走っているに過ぎない”という言葉だけは名言で、太字で強調しておきたい。
 フォード(ヘンリー・フォード)とGM(アルフレッド・スローン)が敷いた路線から学びつつも、さらに独自の創意工夫を付け加えて、突き進んでいったのが戦後の日本の自動車産業で、そしてその基盤となった部分は、戦前のフォードとGMの工場進出によってもたらされたものだと言っても、言い過ぎではないと思う。
 これは私見でなく、多くの人がそのように語っている。ただそうなると「なんだ、育ての親は“陸軍”じゃなくてフォードとGMじゃないか!」と突っ込まれそうだが、世界レベルで“自動車産業”という大枠そのものを定義づけたのがフォードとGMで、日本の自動車産業も当然、その枠内にあったという意味なのだと思う。両社の進出で日本国内においても初めて「自動車産業の在り方」というお手本が示されて、そのお手本の上に乗っかり見切り発車的に日本の自動車産業を確立しようとしたのが、商工省、陸軍並びにトヨタと日産だったのだと思う。
(下は晩年のスローンが自ら著した、経営書の最高傑作と言われている世界的な名著、「My Years With General Motors」(邦題「GMとともに」以下(㊴P127)より『~自動車産業だけで、GNPのほぼ20%近くを占めるようになった。GMの社長・会長として君臨したスローンが引退した1955年は、自動車の販売台数が700万台を凌駕しアメリカ自動車産業のまさに「黄金時代」の絶頂期だった。』画像は⓮-1より引用させていただいた。)
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― ― ― ― ― 以下、後篇に続く ― ― ― ― ―

プロフィール

マルプーのぼんちゃん

Author:マルプーのぼんちゃん
【ぼんちゃん】
推定年齢12歳(2020年6月現在)ぐらいの、オスのマルプー犬のぼんちゃん。年より若く見える。マルプーではちょっと稀な“キレカワ系”💛 性格は、おとなしくてやさしくて人懐っこくて庶民的?でも対犬ではかなり臆病。散歩だけはたくさん(1日1~3時間ぐらい)させてもらっている。選択の余地なく、毎日おっさんの面倒をみている。
【おっさん】
推定年齢60歳+のシガナイ初老の独身オヤジ。ひょんなことからぼんちゃんと2人で暮らすことになったが、おかげさまで日々シアワセに暮らしている。

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