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㉒ダットサン他,戦前小型四輪車の歴史 ≪日本の自動車産業の“育ての親”は日本陸軍だった?戦前日本の自動車史(その7)≫

※この記事は書きかけです。

 この記事(17項)では戦前日本の小型四輪車の歴史を記す。
 早い話が、戦前の国民車的な存在であった「ダットサン」について、主に記す記事だが、今回の記事ではその「ダットサン」を、以下の3つの視点から、多面的に辿ってみたい。
・1つは、久保田鉄工所系の「実用自動車製造」による「ゴルハム式三輪車」から発展した小型四輪車の「リラー号」から始まり、「ダット自動車製造」時代を経て「日産自動車」の小型車「ダットサン」へと至った、その製品の成長過程を辿る、一般的な歴史だ。(17.1項、17.2項、17.4項で記す。)
・2つ目は、初の量産型国産四輪車「ダットサン」の誕生と不可分な存在にある、日産コンツェルン創業者、鮎川義介による自動車産業への進出と、量産車ダットサン誕生へと至ったその過程の歴史だ。(17.3項)
・3番目は、適応除外の「特殊自動車」枠から始まった四輪の豆自動車が、日本固有の「無免許許可小型四輪車」として、法規の変遷とともに市場を形成していくその過程を、ダット自動車製造製の「ダットソン」誕生の直前頃まで簡単に辿った。(17.5-1項)
 最後の(17.5-2、-3項)では、戦前のダットサンの全盛時に、そのライバルとして立ちはだかった「オオタ」他、同時代の小型四輪車のいくつかを簡単に記した。
※なお今回の「小型四輪車」の記事では、戦前の国産小型車として取り上げられる機会の多い「白揚社」の「オートモ号」(13.1項参照)や、生産台数は多かった「日本内燃機」の「くろがね四起(九五式小型乗用車)」軍用車両(15.6-20項参照)のように、法規上の優遇処置の適用を考慮しなかった「小型車」は除外した。

 戦前の日本車のなかでも、オールド・ダットサンはもっとも人気があり、コアなマニアも多い。ということは、このブログの「戦前日本の自動車史」の記事で、もっとも読まれる可能性が高いということになる。
 しかし、このへそ曲がり気味の一連の記事では、戦前のオート三輪車史(その6の記事)のような、今まで語られることが少なかった日陰的な?存在であった日本車の歴史を記すことに、力を注いできた。ダットサンについては詳しくて面白い情報が、ネットや文献ですでにあふれている。この記事で新たに付け加えるような情報はほとんどない。という、後ろ向きな言い訳をしつつ、話を始めるが、いつものように、引用文は区別して青字で記すとともに引用元はすべて明記し、巻末にまとめて記してある。前回からだが写真解説部分も区別し、緑文字で区別した。なお引用した本はすべて実際に購入したものだ。また文中敬称略とさせていただく。

 まず初めに、戦前日本の小型四輪車の歴史を記すうえで、なぜダットサンが中心なのかという点だが、下表をご覧いただければその理由が分かる。数字は京三号のみ(㉖P217)、それ以外は(⑤P245)から引用した。このうちくろがね(日本内燃機)は軍用車両の「くろがね四起」(1,300cc)で、無免許小型車の枠外なので参考用だ。小型四輪車の国内市場が一応確立した時期の、市場におけるダットサンの存在感は圧倒的だったのだ。
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 上の表には参考までに、オート三輪界のトップ2、ダイハツとマツダの数字も載せたが、小型四輪車全体では、(台数ベースでは)オート三輪より市場規模が小さかったにもかかわらず、ダットサンの生産台数はダイハツ+マツダの台数を超える勢いだったのだ。
ということで今回の記事(17項)では、戦前のダットサンの歴史に重点を置き、それ以外の小型四輪車については簡単に記すのみとしたい。

17.1実用自動車製造の小型車 「リラー号」と「ダットソン」
「ダットサン」のルーツを辿れば、橋本増治郎が創業した東京の「快進社」(8.3.1~3項参照)と、久保田鉄工所の久保田権四郎を中心とした関西財界人が興した大阪の「実用自動車製造」(8.3.4,5項及び15.3項参照)が合併して、1926年に誕生した「ダット自動車製造」に辿り着く。この2社がダットサンのいわば“生みの親”になるが、“育ての親”はもちろん戸畑鋳物を振り出しに巨大な新興財閥、日産コンツェルンを築いた一代の企業家、鮎川義介だ。
 ここで当記事の過去記事からの抜粋で、まずは“生みの親”である両社の歴史をあらためて振り返っておきたい。詳しくは過去の記事及び各引用先をご覧ください。
(参考までにwebで手軽に検索できる情報として、たとえば「「みなさん!知ってますCAR?」「ダットサンのルーツ」広田民郎」https://seez.weblogs.jp/car/2008/05/index.html を紹介しておく。これから記す自分のブログの記事みたいにまわりくどく無く?率直でわかりやすい内容です。)

17.1-1快進社のダット号と橋本増治郎について
 まず「快進社」の創業者、橋本増治郎について。東京工業学校(現・東京工業大学)機械科を首席で卒業後、数年の社会経験を積んだのち、農商務省海外実業練習生となり1902年に渡米する。キャデラックやリンカーンの生みの親で、「機械技術の巨匠」と呼ばれたヘンリー・リーランドに面会する機会もあったという。渡米中の体験から、日本でも自動車産業を興すことの重要性を胸に抱きつつ帰国する。
 帰国後は東京砲兵工廠技術将校として機関銃の改良を行い、軍事功労章を受ける。日露戦争後に勤務した九州炭鉱汽船で社長の田健治郎と、役員で土佐の有力政治家の子息である竹内明太郎(吉田茂の実兄)と出会い、九州炭鉱汽船崎戸炭鉱所長として有望な炭坑の鉱脈を探り当てる。
 さらに月日は飛ぶが、後に『ダット41号を完成させた後の約2年間は、北陸で新たな工場建設の指揮にあたっていた。株式会社小松製作所(現在のコマツ。竹内鉱業株式会社として明治26年創設。創業者は竹内明太郎。DAT名のTの由来者)の出発点となった石川県の小松鉄工所の技術的な礎は、じつは増次郎が築いた』(③-1、P169)のだという。
 こうして自動車以外の足跡をざっと辿るだけでも、橋本が傑出したエンジニアだった事はわかる。九州炭鉱汽船より1,200円の功労金を受け取った橋本は退社し、いよいよ自動車製作に乗り出す。
 1911年(明治44年)、竹内の尽力により吉田茂の所有する東京麻布の土地を借りて工場を作り、快進社自働車工場を創業する。そして数々の苦労の末に、独自の設計・製作による、水冷直列4気筒エンジンを搭載したダット(DAT)41型を完成させる。
(「ダット(DAT)」は橋本の協力者の田、青山、竹内のイニシャルを組み合わせた名前で、脱兎(だっと)の意味も込められていた。1921年の東京平和記念博覧会で金牌授与の栄誉を受けた(web〈4〉)。下のダット41型の画像は以下より引用
http://www.nissan-global.com/JP/HISTORY/firsthalf.html)

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https://clicccar.com/uploads/2015/10/01-300x222.jpg
『モノブロック直列4気筒エンジンにすることで、出力が15馬力に達した。しかもセルスターター付きでバッテリー点火、ギアは前進4段後進1段という当時としては先進的な機構を備えている。前席に2名、後席に5名の計7人乗車の本格的乗用車である。4気筒エンジンとしてはフォードのモデルTに8年遅れ、セルスターターはキャデラックに7年遅れではあるが、日本人の手によって造られた純ジャパニーズカーとしては、世界レベルに達していたといっていい。』(〈web〉1))
この41型の完成を見て橋本は自社技術に自信を得て、その製造へと乗りだすことになるのだが、しかし販売は不振で1919年以降,完成したのは 4~5台(web〈3〉P42)にとどまったという。
 日本の道路事情に合わせた小型乗用車だったが、『日本人にあったサイズのクルマであるといっても、輸入されるアメリカ車に比べて小さいことは、それだけ高級感のないクルマであると思う人が多かった。この当時は、舶来品のほうが優れているという先入観を持つ人が多く、自動車メーカーとしての前途に光明を見つけるのはむずかしいことだった。』(②P42)
結局販売不振に苦しんだ末に、同じく乗用車生産からスタートした石川島と同様に、軍用自動車保護法に望みを託すことになる。しかし改進社には設備等で、陸軍の軍需企業として受け入れられる体制は整っておらず、橋本と陸軍との間にも確執が生じてしまい、ことは思惑通りに運ばなかった。以下(②P101)より
『「東京瓦斯電気工業」と「東京石川島造船所」自動車部に続いて、軍用保護トラックに認定されたのが橋本増治郎の「改進社」のダット41型であった。しかし、企業としての規模が異なることもあって、前記2社とは異なる展開となっている。それは、公官庁が大企業の方しか向いていないことを如実に示すものだった。零細企業などは相手にしないという態度で、橋本のところはしばらく翻弄され続けた。(中略)陸軍は、瓦斯電や石川島からは、軍用保護トラックを買い上げるなどしているが、橋本のところから購入するつもりはなかったようだし、瓦斯電や石川島のような設備を持っていないことも、橋本の泣き所であった。』この間の経緯は8.3-2項を参照して下さい。こうして経営不振は続き、関東大震災後には米国車の販売急伸で決定的な打撃を受ける。1925年 7月、株式会社快進社を解散し,試験的なバス営業等を行う合資会社ダット自動車商会へと業務縮小を行ない、かろうじて生き延びるだけとなる。

17.1-2実用自動車製造のゴルハム式3/4輪車について
 実用自動車製造の創業の過程を、冒頭から手抜きで、(③-2、P170)から引用する。
『そもそも実用自動車製造は、前述のようにゴルハム号の特許を高額で購入し製造販売する目的で、大正8年(1919年)12月に発足した会社だった。当初は久保田鉄工所の創業者、久保田権四郎(1870~1959)が社長を兼務していたが、実際は娘婿にあたる久保田篤次郎が立案した事業計画の下に、久保田鉄工所はじめ、以下の関西鉄鋼界の豪商たちが参集し、合計100万円を投資していた。大正8年当時の100万円といえば、現在ならば50億から100億円に相当する。久保田権四郎(久保田鉄工所)34万円、津田勝五郎(津田鋼材社長)30万円、芝川英助(貿易商)30万円~ これらの出資者たちは、第一次大戦(大正3~8年)期の関西産業界の非常な好景気を受け、潤沢な資金を備えていたわけだ。』
 瓦斯電と石川島が自動車事業に参入したのと、出資者たちの元の動機はだいたい同じで、第一次大戦中に巨利を得た日本の産業界/企業家たちだが、戦争終結後、景気が減退し、経済が縮小することは目に見えていた。余力のあるうちに共同で、自動車というリスクはあるが未開拓の成長分野へ投資し、進出をはかろうとしたのだ。「ゴルハム式三輪車」誕生のいきさつと、その“関係者”で仕掛け人であった“稀代の大興行師”、櫛引弓人(くしびきゆみんど)及び設計者、ウィリアム・ゴーハムについての詳細はここでは省略する(15.3項参照)。
(下は日産ヘリテージコレクションに展示されていた「実用自動車製造」製の最初のクルマ、「ゴルハム式三輪車」のスケールモデルで、画像は以下よりコピー。
https://www.automesseweb.jp/2020/06/22/422105/2 見るからにバランスが悪い。その上、本格的な幌を装着すると、視界も悪かったという。

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https://www.automesseweb.jp/wp-content/uploads/2020/06/AMW_HaradaRyo_1920_Gorham-shiki-Three-wheelerScale-Model_IMG_5717_1.jpg
 ゴルハム式三輪車は『ヨーロッパ、特にフランスで1910-20年ごろに大いに流行したサイクルカーの一種』(①P37)で、『さほど画期的な設計だったわけではない』(③-3)のだが、実用自動車製造ではゴルハム号の特許及びその製造権に気前良く、10万円(今の価値では5~10億円)支払い、ゴーハムを月給1,000円という高給(当時、巡査の月給が35円ぐらいだっただろうという;④P79)で技師長として迎える。久保田権史郎と娘婿の久保田篤次郎父子はじめ関西財界人たちは、ゴルハム式三輪車でどのような絵(夢?)を描いたのか、以下(③)の考察を元に記す。
 まずゴルハム号の地元、大阪の市場の状況だが、当時、東京と比べて自動車の普及が遅れていた。『この時期は、まだ大阪府内全体の自動車保有台数が、わずか612台にすぎなかった(大正8年12月内務省調査)。東京府の登録台数3000台と比較して、約五分の一の数であった。これは大阪の道路事情が良くなかったことに起因している。道幅が狭く、そのため人力車の数は東京よりもむしろ多かった。』(③-2、P172)
 この時代の大阪は特に、四輪の自動車の市場が小さかった。当時すでに、フロントカー型の三輪自転車にスミスホイールモーターを付けた、初期のオート三輪が、荷物を積んで市中を走りはじめていたはずだが(15項参照)、荷物輸送よりも、当時東京よりも多かったという、人力車からのステップアップを狙った(キャッチフレーズは「人力車代用車」だった)のだ。
(下の写真は大阪ではないが、大正時代の名古屋駅前の光景で、客待ちの「韋駄天人力車」の車夫たちが並んでいる。画像http://network2010.org/article/1100 よりコピーした。)
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http://network2010.org/contents/files/serialization/01hirokoji/04_07_01.jpg
 しかし『異様にもてはやされたゴルハム実用三輪車の実力はどうだったのだろうか。(中略)いざ発売してみると、あまりに前フォークが弱く、カーブでよく転倒し、そのため評判を落とした。(中略)あまりに不安定なので、急きょ大正10年末(1921年末)に四輪への設計変更を行い、平和記念東京博覧会の開催中に幌型四輪乗用車として売り出したが、もはや悪評を覆すことはできなかった』(③-3、P175)という。自動車としての機能面で、ほとんど致命的とも思える欠陥を抱えていたのだ。
三輪から四輪への設計変更は、せっかく『天皇御料車の先導用に警視庁に納入したものの、テストの途中でひっくりかえり「大目玉をくらった」事件』(③-2、P173)が契機だったという。ゴーハムは自らの名を付けた「ゴルハム号」の販売直後に実用自動車を去り、鮎川義介の戸畑鋳物へと去っていたので、この三輪→四輪化は、ゴーハムの助手格だった若い後藤敬義(久保田系でなく津田系の大阪製鉄(津田鋼材)という鉄鋼会社出身の技術者)が中心となり実施された。
(下は「ゴルハム式四輪トラック」で三樹書房 http://www.mikipress.com/books/pdf/668.pdf よりコピーさせていただいた。急遽四輪化したため、三輪型同様に右後輪のチェーン駆動で、操向機構もティラーハンドルのままだった。
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(下は乗用車タイプのスケールモデルで、ゴルハム式を4輪化したことがわかる。350cc程度でも十分だったように見えるが・・・。日産ヘリテージコレクションからのコピーだ。)
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https://www.nissan-global.com/EN/HERITAGE/img/modelDetail/uploader/data/en/Web/1317104763101051288.jpg
 南恩加島工場は先進的な『本邦初のマスプロ自動車工場』(⑬P72)で、月産30~50台を想定し、ヤナセ(当時は梁瀬自動車)の協力を得るなど強力な販売網も組織したが、ゴルハム号は結局、3年間で約250台(三輪型150台、四輪型100台)製造するのがやっとだった。ゴルハム号のまとめとして、またまた(③-2)より引用させて頂く。
『ゴルハム号三輪自動車の製造事業は大失敗に終わっていた。(中略)結局のところ、大阪の実用自動車製造には、南恩加島工場の立派な設備と、若い日本人技術者達が、売れないゴルハム号と、膨大な赤字と共に残されたのである。 普通ならば、巨額な損失を生んだために会社は倒産、工場も売却となるケースだが、親会社の久保田鉄工所をはじめ、大阪鉄鋼界の強力な後ろ盾を得ていた実用自動車製造は、奇しくもそのまま存続していく。(中略)
 苦況に突入した実用自動車製造を立て直したのは、大正11年(1922年)より専務取締役を務めた久保田篤次郎と、技師長の後藤敬義の両名であった。』
(③-2、P170~P173)
 実は1919~21年の初めにかけて、久保田権四郎・篤次郎父子は商売の種を求めて長期にわたり欧米各地を回っており、創業当初の実用自動車製造は、『通称津田勝と恐れられた大阪随一の鉄商、津田勝五郎が実は中心的な経営者となっていた』(③-2、P171)という。しかしこの惨状により、義父の権四郎に『実用自動車製造に行って後始末しろと、厳しく命令され』て(本人談(3-2、P174))、元々のプランナーであった久保田篤次郎が責任を取らされる形で、専務取締役として経営立て直しに奮闘することになるのだ。
 こうして親会社の久保田鉄工所をはじめ発動機製造(ダイハツ)や戸畑鋳物などの下請け工場として糊口をしのぎつつも、小型乗用車を諦めずに、次の「リラー号」を誕生させる。

17.1-3リラー号の誕生
 リラー号はエンジンこそ空冷V型2気筒のゴルハム式を踏襲(初期型は926ccのままだったが後期型はボアアップして1,087ccに拡大)したが、デフを備えて後車軸をシャフトドライブする本格的な四輪自動車の体裁を整えた。もちろん丸ハンドルで、車体寸法も大型化(ゴルハム式のホイールベース/トレッドが1,828/914mmに対し、リラー号は2,133/965mm)された。
(下の写真はクボタのホームページより、当時のカタログで、リラーとはライラック(藤の花)の意味で、淡い藤色のボディカラーがトレードマークだったという。)
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https://www.kubota.co.jp/museum/img/history/1890_1926/h_photo_0113.jpg
 しかし横浜の日本フォード社のKD方式による組立台数は1926年に8,677台(ちなみに本国ではT型モデルの最末期で落ち込んだがそれでも1,629,184台と桁違いだった)に達し、『T型フォード4人乗りの東京標準価格が1700円だった当時、それは幌型1750円、箱型2,000円もしたから、当然ながら苦戦を強いられた。』(①P39)((⑤P73)によれば『1925~26年頃フォードの5人乗り幌型の価格は1,475円』であったという。)
 結局リラー号は1922年末~1926年の間に約200台(②P78、③-2、P175、④P80。①P39で150台、⑤P191では250台)生産されたにとどまった。
(以下からの3台はすべて、日産の日産ヘリテージコレクションに展示されている、リラー号のスケールモデルで、日産自動車のHPからコピーした。ゴルハム式3輪/4輪と比べると、だいぶ自動車“らしく”なったが、やはりサイクルカー風だ。下は前期型の2人乗りロードスターだが、後方に1席分のランブルシートがつく。他に3(4)人乗車型と貨物用タイプが用意されていた。
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https://www.nissan-global.com/EN/HERITAGE/img/modelDetail/uploader/data/en/Web/1317103875972034851.jpg
(下はその貨物用タイプで、ワイヤーホイールでなく、ディスクタイプなので後期型だ。)
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下の写真も後期型のスケールモデルで、幌型のフェートン型だ。下の日産HPにあるリラー号はラジエターがメッキされているが、こちらは塗装されていて、形状も多少異なる。藤色の車体が鮮やかだ。
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https://www.nissan-global.com/EN/HERITAGE/img/modelDetail/uploader/data/en/Web/1317104270350022102.jpg
(「リラー号」について最後に追記すれば、初歩的な部分で不明な点がある。肝心なエンジン排気量の情報が確定していないのだ。たとえば日産のホームページではリラー号(下の写真だが、ディスクホイールタイプなので後期型だ)は1,260ccとしているが、
https://nissan-heritage-collection.com/NEWS/publicContents/index.php?page=6

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https://nissan-heritage-collection.com/NEWS/uploadFile/p08-01.jpg
三樹書房の下記や、「轍をたどる」国産小型自動車のあゆみ」岩立喜久雄(③-2)では1,087cc(後期型の場合。初期型は926cc)としているのだ。
http://www.mikipress.com/books/pdf/649.pdf
 不明確だからか、大人の対応なのか、意図的に?排気量を記載しない文献も多い。とりあえず今回は、一連の記事作成の上でたいへんお世話になっている「轍をたどる」の記載にならった(日産のHPでなく!)。しかし当然ながらもっとも資料が豊富な“本家”の日産自動車が1,260ccだと、自社のホームページで堂々とうたっている、その根拠があるはずで、本当のところはどちらなのでしょうか。)


17.1-4「実用自動車製造」+「ダット自動車商会」=「ダット自動車製造」の誕生
 8.3-3項で記した内容と重複し、ほとんどそのコピーになってしまうが、共に苦境に立たされて生き残り策を模索していた「実用自動車製造」と「ダット自動車商会」にようやく、一筋の光明が差し始める。後にはまた陸軍の方針が変わるのだが、この当時は『将来的に見て、保護自動車メーカーが三つぐらいあることが望ましいと考えていた』(③P105)という陸軍の能村元中将(のちの「自動車工業㈱」社長)の斡旋があり、両社の合併による打開策が俎上に上がってきたのだ。
「ダット」のもつ軍用保護自動車認定という実績(看板)+「実用自動車製造」のもつ設備+久保田鉄工所の傘下企業であるという、陸軍と商売するうえで重要な信用力を結び付けようとする動きだった。
 1926年、ダット自動車商会と、実用自動車製造は合併して、ダット自動車製造が誕生する。社長には久保田鉄工所社主の久保田健四郎が就任し、橋本増次郎と久保田篤次郎が専務取締役に納まったが、実質的には実用自動車製造による、ダットの吸収だった。(1926年9月「ダット自動車製造」を設立し、「実用自動車製造」を吸収、12月に「ダット自動車商会」を吸収し合併完了;(web〈2〉。)
 主な製造品目のダット製トラックの製造・開発の拠点も大阪に移る。「DAT」の意味するところも、Durable(頑丈)、Attractive(魅力的)、Trustworthy(信頼性)という略称に置き換えられた。以下、(②P106)より引用を続ける。
『「ダット自動車製造」となって最初の自動車としてつくられたダット51型は、41型の改良ということで、とくに陸軍の検定審査を受けることなく保護自動車として認定された。陸軍も「改進社」時代の軋轢を引きずらずに、ダット自動車に対して協力的になっていた。』
 大阪の有力財界人をバックにした旧実用自動車側の信用力がついたためようやく陸軍からも買い上げられるようになり、ダット51型保護自動車は(②P106)によれば1927~29の間に106台生産されたという。『明治以来苦節16年、国産自動車製造の草分けとしてその身を捧げてきた橋本の偉業は、自分を身売りする形となったこの時点で、終着点を迎えていたことになる。まもなく橋本は自ら同社を退職し、東京に引き揚げ、小さな私設研究所を開く。その姿は殉難の士のようでもあった。』(③-4、P169)
ダット61型保護自動車以降は橋本に代わり後藤敬義が主体となり設計・開発に取り組んでいく。
(下表は(③-4、P169~170)の記述等を基に作成した、快進社系のダット号の足跡を記した表だ。ちなみに(⑥P89)では小型車ダット91型に先立つ最初の小型試作車をダット「81型?」としている。そうなると繰り上がって71型が試作6輪車ということになる。(⑥P87))
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軍用トラック以外にも、フォードとシヴォレーのサービス部品も製造したという。(⑧P30)こうして経営的にようやく、一息ついたところで、久保田篤次郎や橋本増治郎、後藤敬義らダット自動車製造の首脳陣は次なる一手を考える。
しかしここで、瓦斯電や石川島のように、安定した需要が期待できる、陸軍向けの軍需関連特殊車輌の拡充などへと向かわないところが、「実用自動車製造」と「快進社」の合弁企業という成り立ちの違いからであった。リラー号の後継として、さらに小さいがより本格的な小型乗用車の製作に挑戦するのだ。

17.2小型車ダットサンの誕生
 この項ではダットサンの定番本として「写真でみる 昭和のダットサン」(責任編集;小林彰太郎)(引用①)と、「轍をたどる(国産小型自動車のあゆみ(19))」岩立喜久雄(引用③-4)を主に参考にしつつ記す。
 まず初めに「ゴルハム式3輪車」という欠陥車?の製造・販売からスタートしたために出鼻をくじかれて、続くリラー号も販売不振に終わった、苦い教訓を経て、次はいかなるコンセプトの乗用車を作ろうとしたのか。具体的に、どのような市場を狙ったのか。ここでは当時の“生きた市場”の空気を伝聞や推測でなく、幼少期とはいえ直接肌で感じとっていた、小林彰太郎、五十嵐平達両氏の記述を参考に記したい。

17.2-1オースティン・セブンの与えた影響
 誤解のないように最初に記しておくが、戦後日産がオースティン(A40/A50)のライセンス生産を行ったことも相まってか、ハードウェアとしての戦前のダットサンがオースティン・セブン(Austin 7)のコピーだという説が、本国の英国を中心に一時流布されたというが、十分参考にしたとは思われるものの、次項で記すが事実に反する。
 しかし小型四輪車としての全体の製品コンセプトとして、オースティン・セブンという存在が戦前のダットサンに、もっとも大きな影響を与えたクルマであることは間違いないようだ。当時の日本の小型車市場の状況を、五十嵐平達の筆による(⑦-2、P34)から長文だが以下、引用する。
『~こんな意味で日本人に忘れられぬ車がオールド・ダットサンと、そのライバルであったオースティン・セブンである。この場合ライバルといっても台数の上ではオースティンはダットサンの1/100にも達していなかったと思われるが、そもそもダットサンの生まれた理由がこのオースティン・セブンにあったといえるのだから、この少数派のオースティンの存在はダットサンにとってライバルに相当するものであった。(中略)
 1923年に現れたこの画期的な小型車は、それ迄小型な車は自転車並みと思われていた不完全を全く変えてしまったのであった。イギリスではこれ以前の小型車をサイクルカーと呼び、一種の軽便自動車として区別していたのが、このセブン以降はライトカーとして一般普通車と同じ仲間へ入れるようになったのであった。要するにオースティン・セブンは普通の車と同じ実用価値を持った小型車であり、特に性能と信頼性をエコノミックな意味からバランスを完成したクルマであった。』

小林彰太郎によれば『セブンはひと口に言えば“小さな大型”であった。つまり、本質的には大型車のスケールを縮小し、簡素かつ軽量にしたものであった。』(⑦P29)
 実用自動車製造の「ゴルハム式三輪車」 は典型的なサイクルカーだったが、ゴルハム式実用自動車の926ccに対してセブンは747.5ccと、排気量こそ小さかったものの、普通車並みの4気筒で、自動車としては全体的に遥かにリファインされていた。
(下の画像はwikiからで「Austin Seven 1922」とあるので、プロトタイプだろうか。不明です。)
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以下も引き続き、(⑦P34)から引用する。
『当時のモータリゼイションが公共的なバスやタクシーにより始まったばかりの日本では、先ずフォードT型の普及が約束されていたが、それでもようやく一般庶民のなかにもオーナードライバーを夢見る傾向が現われ、特に町のお医者さんが自家用の人力車をこの小型車へ替える可能性は大きかった。そしてこのような小さな市場ではあったがこのオースティン・セブンは日本に輸入しても売れる目安がつくようになったので、多分大正末期の関東大震災以降、急激な自動車普及の一環として京浜、阪神地区へその姿を現したのであった。』
 この一連の「戦前日本の自動車史」の記事の中で何度も記してきたことだが(たとえば12項等参照)、フォードやGMのKD生産車を筆頭に圧倒的なコストパフォーマンスで、黎明期の国産車を、完膚無きまでに打ちのめしたアメリカ車が、戦前の日本の町中を走る自動車の大半を占めていた。当時は自動車≒アメリカ車で、しかも大雑把にいえば、そのうちの3/4が横浜製フォードと大阪製シヴォレーだったのだが、クルマの種別としては、自家用車はごく少なく、乗用車はフォード、シヴォレーを中心としたタクシーや、官庁や企業向けの社用車、それにハイヤーが主体だった。人力車に代わり、都市部の中産階級では、当時円タクと呼ばれたアメ車のタクシーの利用が一般化し始めて、その下の大多数の庶民層もイザという時は利用するようになっていく。
(「大大阪の表玄関大阪駅(昭和10年頃)」客待ちの円タクがずらりと並ぶ。見たところ人力車は見当たらない。画像は以下のブログより)https://www.asocie.jp/archives/osaka/umeda/index.html)
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https://www.asocie.jp/archives/osaka/umeda/image/image021.jpg
(戦前の日本は「タクシー(円タク)モータリゼーション」だった。下は「大阪の円タク村/アサヒグラフ」画像はブログ「昭和からの贈りもの」よりコピーさせていただいた。http://syowakara.com/05syowaC/05history/historyS11.htm 同ブログより『円タクブームのこの頃、ブームを物語るように円タク村が大阪東郊区に建設されます。5万坪の草地を開拓して出来た村は、150戸の文化住宅に家族1300人が住み、タクシーのガレージ、修理工場、共同市場、共同耕作地なども備えた一大部落です。』1936年のことだったという。)
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http://syowakara.com/05syowaC/05history/11/HS110603taxi.jpg
「ゴルハム式三輪車」の企画段階で当初漠然と意図した、旅客運送業としての人力車代替えの需要はKD生産のアメ車の円タクが握っていくのだが、遥かに小さな市場ながらも、主に開業医など、人力車を自家用に所有する富裕層がおり、オースティン・セブンはそこをターゲットにしたようだ。引用を続ける。
『この頃の相手は国産ゴルハム3輪車、オートモ号、及びフランスのシトロエン10馬力なでであったが、オースティンの普通車並みの乗心地や信頼性は数年の間に市場を独占してしまったし、他の車が最も圧力を受けた国内組立のフォードに対しても、その独自のメリットを持って自己の存在を守り通したのであった。』
 1920年代に芽生えつつあったが、まだ小さかったオーナードライバー市場を、オースティン・セブンが席巻してしまったようだ。この層は自家用人力車のステップアップとして、「普通の車と同じ実用価値を持った小型車」を求めたようだ。小型ながらも大型車の縮小版で、優れた総合性能と、高い信頼性を誇ったセブンだったからこそ、フォードやシヴォレーにも対抗できたのだろう。個人が身銭を切って買うクルマとして、オースティン・セブンが持つ1922年~1939年の間に約29万台生産された舶来品の量産車で、自動車の本場、米・独・仏でもライセンス生産されていたという“社会的な信用”は重要で、たぶん性能で対抗できたはずのオートモ号には、それが備わっていないと感じられたのかもしれない。輸入ディーラーが老舗の日本自動車(大倉財閥系)だったことも信頼感を与えた要素の一つだっただろうか。
(下の画像はwikiより、「1926 Austin 7 Box saloon」さきに“医者向けのオーナードライバー市場”と記したが、(⑨P26)によれば当時の医者の往診時は、2ドア・サルーンのオースティンに『まず医師が後席に乗り込み、看護婦が黒いかばんを膝に載せて、ちょこんと隣に座った。』フロントシートに座る運転手は別にいて、診察中は外で『退屈顔で待っていた』そうだ。)
(下の1926年製「Austin Seven Chummy」の画像は以下のサイトよりコピーさせていただいた。 https://www.prewarcar.com/290860-austin-seven-chummy
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https://images.prewarcar.com/pics/r2w-1200x800-caradverts/290860/290860-1565674249-6809228.jpg)
(⑦P34)からの引用を続ける。
『この頃のオースティンは日本国内価格がフォードの2/3位であったから、決して安い車ではなかったが、小型で狭い道を走れ、置き場所も不自由なく、しかも走行経費は絶対的に安上がりであったわけで、フォード以外にもこの種の車が成長する市場が存在し、しかもそれが日本の風土にピタリである事を示したのが、外ならぬオースティンであったといえるだろう。であるから32年より発売されたダットサンが、このオースティンを見て企画された事は歴史的にも理解できるのである。』関連した引用として、以下は(①P19)の小林の記述より
『当時小型車市場を握っていたのは、断然英国製のオースティンである。輸入したシャシーに、日本の小型車規格の狭いボディを載せたオースティンは、東京でも頻繁に見ることができた。その多くは開業医で、住宅地に黒塗りのセヴンが停まっていれば、まずその家に重病人がいると知れた。わが家の近くにもそんな家があって、毎日のようにオースティンが往診に来ていた。
 そのうちに路上で見るダットサンの数がめっきり増えた。横浜工場の量産が順調に進んだからで、資料によると昭和12年には、8353台という多数がラインオフしている。ダットサンが目指したのは、新しいオーナードライバー層だったから、日産の販売網はいろいろ手を尽くして市場開拓に苦心したらしい。』

 時代が先に行ってしまったので話を戻す。二輪車のハーレーの空冷V2気筒エンジンを参考にしたエンジンを搭載した(野蛮な?)サイクルカーであった「ゴルハム式三輪車」と、そこから発展した「リラー号」に対して、オースティン・セブンが開拓し、徐々に芽生えつつあったオーナードライバー市場の取り込みを目標に、より本格的な小型四輪車を作ろうと、水冷4気筒のオースティン・セブンを全体としては「ベンチマーク的存在」(wikiの表現を引用)として、その開発計画は、『後藤敬義の談話などを総合すると、昭和3年(1928年)』(①P40)にスタートした。
そして『後藤がのちに語ったところによると、最初は実際に750ccエンジンを試作した』(①P41)と言われている。後述するようにコピー元のエンジンが750ccであったので、基本的な性能確認もあり、750ccエンジンを最初に試作したのは間違いないだろう。しかし次に記すオート三輪業界を巡る新たな動きを受けて、計画の早い段階で、より小型の500ccエンジンの検討を始めたものと思われる。

17.2-2小型自動車500cc時代の流れに乗る
 詳しくは15.5-18~15.5-30項をぜひご覧いただきたいが、以下略して記すと、ダット自動車製造が後にダットサンとなる小型車の開発に着手したころ、特に地元の大阪を中心地として、特殊自動車適応を受けた350cc以下のオート三輪が、無免許で乗れて、税金も安い(例えば、1935年の東京府において自家用乗用車の年間税額は、18㏋(課税馬力)以下が72.5円、10㏋以下が59円だったが、小型車は12.4円にすぎなかった)上に車庫不要、小回りも効き荷物もたくさん積める便利な乗り物として、急速に普及していた。
(下の画像は戦前の、繁盛した商店の店先で、以下よりコピーさせていただいた。https://www.nihondo.net/aboutus/histry.html)
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https://www.nihondo.net/aboutus/images/syodai.jpg
 1930年頃にオート三輪が何台ぐらい保有されていたのか、当時の正確な台数は、不明のようだが、おおよその台数として、『実際、三輪車業者の間では、1930年頃の三輪車保有台数が、京阪神に4,000台、京浜に3,000台、その他1,000台の合計8,000台に達しているとみなされていた。この数字はやや誇張されている可能性があるとはいえ、すでに小型車の中で三輪車が中心的な地位を占めるようになったことを示している。』(⑤P126)
 エンジンは輸入品が多かったにせよ、ほぼすべてが国内製造だ。国産小型乗用車のリラー号(合計で200台程度)や、オートモ号の生産台数(同じく300台近く)及び輸入車のオースティン・セブンの台数(正確な数字は不明だが)と比較しても、とてつもない数字であることが分かる。保護自動車(3社合計で年間250~400台程度)も含め、従来の国産四輪車の世界の“常識”とはおよそかけ離れた新しい流れで、しかもその熱い勢いはさらに加速しつつあったのだ。
 オート三輪車の市場の急拡大の過程で、メーカー間の競争の激化と、より多くの荷物を積むため、違法改造車が横行していたが、1929年末に大阪府が実施した大車両検査ですべてが公となる。というか、ほとんどが違法車であることが判明(たとえば届け出時8尺の全長が9~10尺に伸びていた!)してしまうのだ。
 その一方で、身に覚えのある?三輪車の製造業者側でも対抗策として、それ以前から業界団体を結成し、規格改定を求める陳情を、所管する内務省警保局に対して行なっていた。
『望むべく主な改正点については、小野梧弌(JAPエンジンの輸入元、東西モーター株式会社社長)が、次のような趣旨書を用意していた。「馬力を五馬力(ないしは単気筒まで)と拡張する。車両寸法は九尺、幅四尺とする。変速機は三速までとする。これを大阪東京の両組合の陳情書と合わせて、三者が団結し、内務省警保局へ提出した。』(③-5、P167)JAPエンジンは三馬力(350cc)時代、最大多数派であった英国製の輸入品だ。
 その結果、排気量500cc以下、全長/全幅も2.8m/1.2m以下まで拡大され、変速機、積載量、最高速度制限が撤廃された。その内容は、東西モータース小野梧弌がまとめた趣旨書に概ね沿った内容であった。
内務省の担当官であった警保局の小野寺技手は『~それまではエンジンが350ccであって、昭和5年まで認めていたのは、大体が小野梧弌さんのエンジンでした。』(⑧P75)と後に語っており、最大の検討課題であるエンジンに関しては常識的な判断で、500ccのJAPエンジンを搭載した場合を基準に考えたようだ。下は参考までに、戦前の小型自動車規格の変遷を示した表だ。時代はまさに三馬力から五馬力時代への移行期であったのだ。
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オート三輪市場の“熱い風”を小型四輪車の市場に取り込みたかった
 こうした大阪を震源地とする熱い動きに、地元関西の有力企業である久保田鉄工所を親会社とするダット自動車製造が、指をくわえて見ている筈はなかった。たとえば実用自動車製造時代の初期のリラー号の時代に、自動車取締令からの適応除外を求めて内務省宛に、代表取締役久保田権四郎名で願い書を送っている。1924年某月とのことで、法規の動向には早くから関心を寄せていたのだ。(詳しくは③-2、P175~P176参照してください。『特殊自動車と認むるに能はず、ただし乙種免許でよい』との回答を得ている。)
『内務省認可の小型自動車の排気量が350ccから500ccに引き上げられたのは、昭和5年(1930年)2月からだったが、後藤と久保田(篤次郎)の両氏も当然ながら、その動きはキャッチしていた。取締令の改定(排気量拡大)は、昭和4年大阪の三輪業界の陳情によって大きく進展したものであり、おそらく後藤らも関西の部品工場を通じて情報を共有していたに違いない。』(③-4、P170)
 オースティン・セブンが持っていた価値観=「普通の車と同じ実用価値を持った小型車」=「小さな大型」の実現のため、設計担当者の立場として後藤は『理想的には750ccを希望』(①P41)していたが、350ccでは実現不可能だが500ccあればなんとか、「小さな大型」が成立すると睨んでいた。
 しかしその一方で、規程が750ccまで拡大されてしまうと、『わが国の小型車市場に着々と地歩を固めつつあった~強敵オースティンまで恩恵を蒙ることになり、後発のダット自動車側は断然不利になる。これを恐れた同社経営陣は、無試験免許の枠拡大を500ccに止めるよう、当局に強く働きかけたといわれる。』(①P41)
 350ccからいきなり750ccまで拡大させるという、関係者である後藤敬義が生前語っていたその働きかけが、どの程度強い陳情であったかは不明だが、そのような動きがあれば、強敵オースティンを排除したうえで、特典の多い内務省認可の小型四輪車となるために、久保田側は750cc化阻止に当然動いたと思われる。関連して(⑨P28)に『オースチン輸入代理店、日本自動車㈱の背後には、実業界の大立て者大倉喜七郎男爵が控えていた』との記述もある。オート三輪業界とは別の次元で、内務省に対して、大倉喜七郎と久保田(権四郎と篤次郎)の駆け引きもあったのかもしれないが、詳細は不明だ。日本自動車はこの頃すでに、のちに「日本内燃機(くろがね)」となる自社製JACエンジン搭載のオート三輪、“ニューエラ号”の製造を、同社大森工場の車両部門で行っていた(15.6項参照)。オート三輪の業界にも足を踏み込んでいたのだ。
 いずれにしても500ccエンジンの試作は1929年の秋から始めて、省令発布の前月の1930年1月には早くも最初のエンジンを完成させるという早業だった。(③-4、P170)(ちなみに①P40では1929年末に試作エンジン完成とある。)続いてはハードウェアとしてのダットサンの特徴に移る。

17.2-3参考にしたエンジンはベンジャミン(フランス)
 戦前の国産車ではエンジンの設計製作が最大の課題であったので、前回の記事の統制型ディーゼル・エンジンのような、ごく限られた例外を除き、手本となる何らかのコピー元があった。そしてよく知られている話だが、戦前のダットサンのエンジンは、フランスのベンジャミン(benjamin)というサイクルカーがそれにあたったと、関係者自身の証言(久保田篤次郎と後藤敬義)ですでに明らかにされている。
『さて(リラー号に代わる小型車の)研究試作を進めるうちに、後藤君から試作車のエンジンを4気筒にしたいとの提案が出ました。しかし私はいまから4気筒の研究をしたのでは時間もかかるし金もかかると判断し、フランスのベンジャミンという小型車を買って、そのエンジンをスケッチすることにしました。ですから最初のダットソンのエンジンはベンジャミンそっくりであります。』(①P42、久保田篤次郎の証言)当時としては賢明な判断だったのだろう。京都にあったベンジャミン車を買い取ったのだという。『オースチン(英)セブン(747cc)はすでに大阪でも多く走っていたため、あえて敬遠したのかもしれない。』(③-4、P172)岩立氏のこの推測も当たっていそうな気がする。
(小林彰太郎の考察によればベンジャミンのなかでもおそらく1921/23年のB型またはC型で、水冷4気筒SV751cc(54×82mm)エンジンを搭載していた。下の写真は1922年製の「Benjamin Type B」で、以下のサイトよりコピーさせていただいた。
https://magazine.derivaz-ives.com/superlight-cyclecars-from-the-1920s-which-are-accessible-and-yet-fun/

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https://magazine.derivaz-ives.com/content/images/2022/02/1_Benjamin-Type-B-1.jpg
 ところがこのクルマのエンジンは実は同じフランスの大手自動車メーカーで、『1921年に出現したプジョー・クァドリレットの設計をそっくり模倣したものだという。』(①P43)!
(下はその1921-22年 プジョー・タイプ161 クァドリレット(Peugeot Type 161 Quadrilette)で、画像は以下よりコピーさせていただいた。https://patrimoineautomobile.com/peugeot-type-161-quadrilette/
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https://i0.wp.com/patrimoineautomobile.com/wp-content/uploads/2020/12/peugeot-quadrilette-161-1921-1.jpg?ssl=1
4気筒SVの667cc(50×85mm)エンジンを積み、車重僅か345kgの軽量車だった。このシリーズは5年間に12,000台以上量産されたプジョーの成功作だった。(①P43他参考)
 ところがここから話がさらに複雑化するが、『かのオースティン・セヴンも、元をただせばこのプジョー・クァドリレットのエンジンを大いに参考にしたふしが見られる。したがって、1929/30年のダットサンも、1922年のオースティンも、エンジンに関する限り同じルーツから出たと言っても差し支えないのである。』(①P43)!せっかくオースティン・セブンと被らないよう、意図的に“外した”?つもりだったのに、巡り巡って“大当たり”を喰らってしまったのか。しかし安心あれ、結果として『ダットサンとオースティンのエンジンはまったく別の設計であり、なにひとつ共通点はない』(①P43)。よかった!さらに『エンジンを除けばどこにもベンジャミンから直接学んだと思われる技術的特徴は見当たらない』(①P43)のだという。
 はなしが脱線したが、DATの500cエンジンは4気筒SV495cc(54×54mm)というスクエアで、ロングストローク型が主流の『当時としては非常に異例』(①P47)であったが、先に記したようにベンジャミンのエンジンが、4気筒SV751cc(54×82mm)であったので、急いで新法規に適応させるため、そのままショートストローク化したようなエンジンだったようだ。

17.2-4 当時500ccエンジンで4気筒は異例だった
 しかし世界的に見ても、500ccという小排気量で4気筒エンジンは当時異例だった。下表は500cc時代の主要な国産オート三輪用エンジンだが、用途が全く違うとはいえ、すべて単気筒だ。後の750cc時代に入っても、業界のトップメーカーだったダイハツは単気筒で押し通し、成功したくらいだ。乗用車用なので単気筒はともかく、2気筒(V型や水平対向型)の選択肢はなかったのか。4気筒化を強く主張したのは後藤敬義だったといわれている。後藤のその“思い”を代弁した(③-4、P171)より引用する。
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『後藤が望んだ4気筒案の根拠は次の2つだ。まずDAT61型の設計改良の経験を通して、後藤は2400ccエンジンで54㏋(1ℓ当たり21.6㏋)の実馬力を得ることに成功していた。もともと軍用保護自動車として採用時のDAT61型は35㏋と見られていたが、ベンチテストで約1.5倍の出力を出したことで、相応の手応えを掴んでいたのだろう。実車500kg程度の、内務省許可の小型自動車ならば、実馬力が7~8㏋あれば十分だ。500ccでも高回転型の4気筒であれば、さらに出力が得られる。アルミピストンにジュラルミン鍛造のコンロッドを使用すれば、4000rpmは回ると考えていた。』(③-4、P171)
 シリンダーブロックもヘッドもすべて鋳鉄製なのに、コンロッドが“ジュラルミン鍛造”だという“謎”について、(①P48)では『あまり例のない設計で~甚だ不可解というべき』なのだが、『おそらく採用した理由は、参考にしたベンジャミンのエンジンがそうだったということであろう』としている。正確なところは不明だが、きわめて異例な設計だったことは確かだ。(③-4P172)から引用を続ける。
『また同時に後藤らは、高級感のある小型自動車を市場に送り出したいとも望んでいた。芽生え始めたばかりの国産四輪自動車(MSAやコンビン号など)のエンジンは、単気筒か、せいぜい2気筒にすぎず、市場から実用的な乗用車として注目されるのは、オートバイに毛が生えたようなサイクルカーの類ではなく、水冷の4気筒、四輪ブレーキ付きといった本格的な仕様が不可欠と見込んでいた。またその胸中には、4年前の大正15年4月に後藤が自らハンドルを握り参加した、大阪東京間機関無停止定時間運転競技会での苦い経験があったかもしれない。あのノンストップレースで、リラー号(V型2気筒)は、東京のオートモ号(4気筒)に惨敗していた。』
 750ccのオースティン・セブンのもつ『“小さな大型” ~ つまり、本質的には大型車のスケールを縮小し、簡素かつ軽量にした』(⑦P29)という“世界観”を、特典の多い内務省認可の小型車規程内の500ccで実現しようとしたのが500cc(五馬力)ダットサンの基本的なコンセプトで、そのためには4気筒エンジンは必須であった。なおここで指摘のある、大阪~東京ノンストップ競技でリラー号は、ハーレーのコピーに端を発する狭角45°V2型エンジンが発する振動に起因するエンジントラブルに泣かされたという。(②P172)
 以上のように、“500cc版のオースティン・セブン”が、狙いだったとすれば、『これは筆者(注;小林彰太郎さん)の推察であるが、ダットサンを設計する上で、実際に身近に置き、技術上もっとも参考にしたのは、やはりオースティン・セヴンだったと考えるのが自然に思われる。それも、数百台規模で輸入された英国製ではなく、少数ながら入ってきた1930~31年型アメリカン・オースティンを入手し、設計の参考にしたのではないだろうか。そう推定した根拠を以下に示す。まず外観から。~(後略)』(①P43)と、以下省略するが、小林さんは具体的な根拠を示し、解説するのだが、それはあくまでも目標とすべき基準としてであって、既述のようにエンジンはもとより、たとえばシャシーのフレーム形状等もオースティン・セブンとはまったく異なる(①P47)。詳しくは本書をお読みください。
『~ 以上は長年にわたり筆者が抱いていた疑念なのだが、最近になってこれがほぼ事実であること確信するに至った。』(①P44)日産自動車広報資料室で、ダット自動車製造の大阪工場内で撮影されたと思われる1930/31年アメリカン・オースティンのロードスターの写真が最近(といっても、この本「写真でみる昭和のダットサン」が出版されたのは1995年12月です)“発掘”されたという。小林さんの長年の研究の成果と、日本を代表するモータージャーナリストとしての海外にむけての情報発信力で、現在ではwikiでも『実際はフランスの「ベンジャミン」1922年型が主たる参考で、「セブン」は先行したベンチマーク的存在』(「オースチン・7」の項)だったと正確に記されている。
(ここでは紹介しないが、(①P48)に“発掘”されたその写真が掲載されている。また(⑱P17)に、イギリスのビューリー・ナショナル・ミュージアムの一角に展示されている、750cc時代のダットサン(1935年製の14型)の写真があるが、博物館の説明内容には『サー・ハーバート・オースチンによって輸入され、特許権侵害の可能性を調べたが問題なく、そのまま登録されることなく保管された』と記されているという。下は「1931 American Austin Roadster」の写真で以下のサイトより。レストア前だが、かえって“アメリカンな雰囲気”が出ていると思い、選びました。https://car-from-uk.com/sale.php?id=22043&country=us)
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https://car-from-uk.com/ebay/carphotos/full/ebay203333.jpg
 以上、当初の意図とは外れて、のっけからかなりまわりくどい話になってしまったが、以下からは脱輪しないように?戦前のオート三輪以来お世話になりっぱなしの、月刊オールド・タイマー(八重洲出版)連載記事、岩立喜久雄氏の「轍をたどる」国産小型自動車のあゆみ」の「750cc時代の小型四輪車」(③-6)中のP175から書き写した表をもとに順番に、①と③の記述を主な参考にしつつ、手短に淡々と記します。さっそく(①P40、③-4、P172)をもとに以下記す。
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17.2-5 試作1号車の完成
 先述のように1929年末~1930年1月ごろに完成した水冷4気筒495ccの試作エンジンを載せたシャシーが、1930年5月に完成する。同年8月初旬には手製のボディを架装して試作1号車が完成する。
『この試作1号車というのは、後期型リラーをベースとしたシャシーに、水冷4気筒再度バルブ495ccの新エンジン/3段ギアボックスを搭載したものだったと、後藤敬義はのちに語っている。』(①P40)

17.2-6 一万マイル耐久試験の敢行
 そして素早いことに、1930年10月には大阪府を通して、内務省小型自動車としての登録を終えるのだが、『ただしその時点でも久保田は、過去の苦い経験から、本格的な発売には慎重を期した。』(③-4、P172)ここでいったん冷静になり、客観的な立場として、豊国自動車(のちにダットサンの関西総発売元になる)社長、梅村四郎(梁瀬商会出身の販売の第一人者)に助言を求める。
『その梅村から「もしトラブルなしで一万マイル走れたら、必ず成功する」と奨励されたことから、久保田と後藤はそれを実証するため、1万マイル(16,000km)の長距離運行試験を決行する。』(③-4、P172)オースティン・セブンに対抗するために、あるいはサイクルカーとは違い一人前の乗用車としての品質を認知させるために、まず耐久性を示せ、ということのようだ。
 後藤敬義、甲斐島衛両名の運転で1930年12月、恩加島工場を出発、東京~大阪間(当時の東海道は片道620km)の往復をくり返し、1931年1月、33日間を擁して無事成功させる。(③-4、P172。①P40では春ごろ実施とある。)
(下の写真は「gazoo」https://gazoo.com/feature/gazoo-museum/car-history/14/06/06_1/
よりコピーさせていただいたが、(①P40)にある『おそらくこれが1号車と思われる』という写真と同じもの(ただし左右裏焼?)で、『シャシーフレームは最後期型リラー号を短縮するなど改造したものらしい。2号車以降とはまったく別物』(①P40)だという。①によれば1万マイル運行試験もこの車輛で行ったようだ。『左ハンドル型で、奇妙に小さいドアも左側にしか付いていない』(①P41))と書かれているが・・・

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https://gazoo.com/pages/contents/article/car_history/140606_1/12_l.jpg
(下の写真は(②;「苦難の歴史 国産車づくりの挑戦」桂木洋二、P174)よりコピーさせていただいた、『1万6000キロ走行テストを敢行した、箱根時のひとこま。』ベアシャシーに近い状態にした2人乗りで後方に燃料とスペアタイヤなどの部品、工具類を積んでいた。(③-4、P169他参考)『16インチで幅の細いタイヤの耐久性がなくパンクが多かったものの、たいした故障もなくテストを完了した。~ このとき出たいくつかの問題点を改良して新しい試作車が完成』(②P174)することになる。)
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17.2-7ダット91型試作車の完成
『後藤らは、リラー号をベースとした試作車に続き、新規格に合致したまったく新たな小型車を設計した。これがダット91型と呼ばれるプロトタイプで、ダットサンの直接の祖である。』(①P41)耐久試験を好成績で終えたのを受けて久保田は、その直後にダット91型にダットソン(Datson)という車名をつける。『ユニバーサルジョイントやリアアクスルなどの部品はダット号のものを使用した』(②P175)ことで、『敬意をこめてDATの息子(SON)としたという。また当時のフォード製のトラクターがフォードソンだったことにもあやかっていた。』(③-4、P172)
(下はオールド・ダットサンの世界では有名な写真で『完成直後に大阪工場の正門前で記念撮影したものらしい。これが2号車か3号車』(①P44)という。アルミボディの右ハンドル、単座シート車だ。量産型(ダット10型以降)以前は左/右ハンドルの両方があったが、量産型の500cc時代(10、11型)は左ハンドルとなる。『おそらく法規上は1人乗りなので、歩道側にドアがあった方が便利だと思ったのだろう。』(①P45)『そして左ドアならば、左側にシートを配置した方が乗りやすい。そのために左ハンドルとなったものだろう。ただしそのような使い勝手ばかりを優先させていたわけではなく、「一人乗り」仕様の法令を遵守する姿勢を強調したようにも思える。』(③-4、P173)乗員制限が撤廃された750cc時代の12型以降は右ハンドルになった。(以下の2枚の画像は三樹書房の下記ブログよりコピーさせていただいた。http://www.mikipress.com/books/pdf/665.pdf)
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(下の画像は『1931年(昭和6年)の年末、まず大阪で発売されたときのカタログ』(①P47)の表紙で、上の写真と同じ試作車輛と思われる「ダット91型」のイラスト画だ。
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 下もそのカタログ中のもので、https://kurubee.jp/hobby/10958.html よりコピーさせて
いただいた。まだ社名もダットソンだが、この後すぐに「ダットサン」に改称する。)

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17.2-8「ダットソン」市販型の完成(10型)
 1931年8月、『市販型のダットソンの一号車が完成し、その記念すべき車体番号1番は、四国在住の医者に販売したという。』(③-4、P172)当初意図した、オースティン・セブンの市場の片隅を侵食できたということだろうか。引用を続ける。『残念ながらその写真は残っていないようだ。ダットソン一号車の発売時期は、昭和6年(1931年)10月頃であったと考えられる。』(③-4、P173)
(下の写真はhttps://kurubee.jp/hobby/11011.html よりコピーさせていただいたもので、同じ写真が(①P47)で『ごく初期の生産型の1例』と紹介されている。①と③では若干見解が異なるが、(③-4、P172)に従えば、『同年8月に完成した一号車に近い最初期の一台。~ ダット91型の試作車と比べると左ハンドルの左一枚ドアなのが特徴。このボディは大阪市此花区の豊国自動車か、あるいは日本自動車大阪支店に外注して架装したもの。大阪製ボディの特徴はエンジンフードの再度ルーバーが横向きで、左1枚ドアであった。~ 法規上は一人乗りだが、後部座席(2座)用のスペースを確保しており、実質は3人乗りに変更できた』。なお『この時代、小型車の標準形式は世界的にオープン4座だった』(①P50)という。
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17.2-9「ダットサン自動車商会」の助言による商品改良(11型)
 まったく新しい小型四輪車であったダットソンを市販化にあたり、さらなる資金投入が必要とされた中で、次の(17.3項)で詳しく触れるが1931年8月、久保田鉄工所系企業だった「ダット自動車製造」は、自動車事業への進出を計画していた鮎川義介率いる戸畑鋳物の傘下企業へと移行する。
 この17.2項では500cc時代の製品の流れを記すのみとするが、それに伴い販売体制が大幅に拡充されて、『翌年の1932年(昭和7年)4月に、銀座にある「戸畑鋳物」のショールームの一角に販売会社となる「ダットサン自動車商会」が設立された。どのくらいの需要が見込めるか不明だったが、自動車販売のプロとしてヤナセ自動車にいた吉崎良造をスカウトして運営に当たらせている。』(⑩P45)
 そして大阪の地で誕生した『ダットソン号をさらに洗練させて、世に広めた最初の功労者は、東京の吉崎良造であった。』(③-4、P174)首都圏はこの「ダットサン自動車商会」が、関西地区は「豊国自動車」などが販売を担当するようになる。
(下も有名な写真で、1932年型ダットサン11型ロードスターに乗る松竹スターの水の江瀧子。『(1932年)10月8日から東京劇場(築地)で上演したレビュー「大東京」(報知新聞の懸賞当選作)に、ダットサンに乗った松竹の水の江瀧子が登場し好評を博した。ダットサン自動車商会が行った秀逸な宣伝のひとつであり、写真は銀座の同商会前での運転練習した際に写した。』(③-4、P174))画像は「くるびー」https://kurubee.jp/hobby/10958.html
からコピーさせていただいた。水の江瀧子というと、我々世代はNHK番組「ジェスチャー」の紅組キャプテンの印象が強かったが、戦前は「男装の麗人」として国民的なスターだったという。Wikiで調べるまで知らなかったが、戦後は映画プロデューサーとしても日活の黄金時代を支えたようだ。余談でした。)

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17.2-10「ダットソン」から「ダットサン」へ
 吉崎が果たした大きな功績について、以下も(③-4)の引用ばかりで恐縮だが、文章力に大きな差があり、自分が書くより説得力あるので、引用を続ける。
『ダットソンの車名をダットサンに改名させたのも吉崎だったという。大阪から送られてきた全車のエンブレムを、DATSONのOをヤスリで削り、Uに見せて販売した。その後は大阪側の型録もダットサンの表記に変わっていく。』戦前の国内自動車界で陸軍が重用するなど重きをなした「ハドソン」だが、輸入元の日本自動車が、「ハドソン」の”ソン”が気になり、「ハドスン」と改称したことに習ったようだ。(12.14項参照) 引用を続ける。
『「明治の人力車、大正の自転車、昭和のダットサン」の宣伝文句も、吉崎の筆によるものだ。少し前のニューエラ号の「明治の舶来、昭和の国産」と共に時代を反映する名作となったのである。』(③-4、P175)
(下の「1932年に発売された最初のダットサンである10型のカタログ」の画像も三樹書房の下記ブログよりコピーさせていただいた。http://www.mikipress.com/books/pdf/665.pdf 小さくて見難いが、「明治の人力車、大正の自転車、昭和のダットサン」と確かに記されており、「10型」の時代にすでに、“改名”が行われたことが判る。)
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 前掲の表や、上のカタログにあるように、ダットサンは初期の10型の時代から、セダン、フェートン、ロードスター、貨物タイプなどのボディバリエーションを有していた。この時代のボディはすべて外注で、その展開を主導したのは、吉崎が日本GMから引き抜いた田中常三郎だった。以下も(③-4)の引用を続ける。
『大阪製のボディを架装したのは~3台のみであり、~4台目以降は、吉崎に賛同し同商会に入った田中常三郎が、梁瀬自動車の芝浦工場へ持ち込み、すべて改装を行った。全幅が1.2mしかなかったこの時代のものは、カーブでよく横転したため、左一枚のドアでは、左側に倒れると外に出られなくなり、まず田中が左右2枚ドアに直した。そればかりでなく、だいぶ垢抜けたスタイルに次々と変身させ、人気を集め、2人乗りから、3人乗り、4人乗りへと発展させていった。』(③-4、P174)
(下の写真は「ジャパンアーカイブズ」さんhttps://jaa2100.org/entry/detail/041453.html
よりコピーさせていただいた、1932年型の11型フェートンと思われるイラスト画だ。なお、10型と11型の識別点だが、上記の右側にもドアが付いたこと以外では『ルーバーが縦型になったこと、ラジエターバッジが付いたことなど』(①P50)が主な点だ。
こうして田中常三郎の手で改良が施されて、ダットサンは次第に実用的でハイカラなものに変わっていく。田中は梁瀬時代に、アメリカのビュイックの工場で実地訓練を受けており、GMは日本進出にあたり、ボディ関係の製作現場の監督として田中を引き抜きその任に当たらせるなど、経験は豊富だった。後に日産横浜工場が稼働すると、田中は車体生産に関する責任者に就任する。(⑪P42)

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 しかし、吉崎や田中らが、拡販のための数々の手段を講じたにもかかわらず、前掲の表にあるように、500cc時代のダットサンは、販売に苦戦した。法規上で一人乗りという制約があり、実質的には二人乗り以上としたものの、『巡査の姿が見えたときには隣のシートに座っている人は見えないようにしたほうが良いと、セールスマンが心得を話して購入してもらったという。~ 小さくて窮屈な室内のダットサンに興味を示す人は少なかったようだ。』(⑩P45)
500cc時代の乗車定員だが、(③-9、P175)によると、『内務省警保局の考え方が、三馬力時代の当初には「運転者のみ」であったものが、業者の申し出に応じ、いつのまにか「運転者以外一人乗り」と微妙に変化していた~ これが各都道府県に届くとなるとまた見解に相違が出た。』のだという。いずれにしても売り難かったことは確かだろう。
 しかしこれらの積極的な販促策は、直ちに販売増には結び付かなかったものの、人々の間で小型四輪車=ダットサンと結び付くきっかけを与えていく。750cc時代に入り乗員制限も撤廃されると、次第にその成果をあげはじめて、文字通り「昭和のダットサン」の途へとつながっていくのだ。
(下の写真は、1932年製のダットサン11型フェートンで、(①P6)で『現在生き残っている最も古いダットサン』で、『信じられないほどよい状態にあり、もちろんよく走る』と紹介されていた個体だ。①の出版された1995年当時は東京のY氏の個人所有だったが、現在の所有者について、以下の写真と文はブログ「フィアット500大作戦!!」さんより引用させていただく。https://gianni-agnelli.hatenadiary.org/entry/20150528/1432821330
(『~ 伝え聞くところによれば、「貴重な現存する最古の11型」であり保存状態も良好だったようだ。遺族は礼儀としてというか、当然買ってくれるだろうと考え日産に声をかけたのだが、値段で折り合いがつかなかったそうな。いろいろあってトヨタ博物館が引き取るに到った経緯のようだ。遺族が日産に提示した買い取り料は数百万という良心的なものだったようだが、そんな金額ならゴーン会長のポケットマネーで楽に買うことが出来ただろう。予算など日産には事情があったのだろうが、会社にとって大切なものであろう「現存する最古のダットサン」を手に入れるチャンスを逃してしまったのは事実である。』・・・・・日本車の歴史を語る上で重要極まりない、かけがいのない貴重なこの1台は、現在トヨタ博物館に常設展示されている。トヨタ博物館全体の価値が高まったのは間違いないだろう。このクルマのプレートには「ダット自動車製造株式會社」の文字が記されている(①P7に写真がある)。ちなみに日産が保存している一番古いダットサンは、750cc時代の12型で、そちらのプレートは「戸畑鋳物株式會社自動車部」だ(①P9写真参照)。)

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 次の750cc時代にこのまま入る前に、ここで鮎川義介によるダット自動車製造買収に至る経緯を記しておきたい。

17.3 日産自動車のダットサンへ
 時は少し遡り、17.2-5~8項辺りの、ダットソンの初期の試作車が出来上がったころに戻る。計画時の原価の試算では『1000円の価格で月10台程度の販売で採算がとれる見込みだったが』(⑪P21)、出来上がった試作車は、当初の計画よりもアメリカ製の輸入部品の使用が多くなり、目論見よりも製造コストがかさんでいた。製造・販売へと移行させるためには製造設備の一部更新など新たな設備投資が必要となり、販売面では目標台数を増やすか、価格の引き上げが必要な状況だった。
『親会社である「久保田鉄工所」ではためらいがあった。これまで注ぎ込んだ資金の回収すら目処が立っておらず、ここで新しく注ぎ込んでも、それが生きるかどうか分からないと思われたからだ。』(②P175)
 前回記事の16.3-1項で記したように、久保田鉄工所を率いる久保田権四郎は、自動車事業の芽をつぶさないように、今まで辛抱強く支えてきたが、これ以上、好転は期待できまいと、すでに見切っていた。
 鋳物部品(戸畑鋳物)や特殊鋼(安来製鋼)の納入でダットと取引があった鮎川義介率いる戸畑鋳物に、ダット自動車製造に対して資本参加を申し入れる。
 一方、自動車産業の将来性を確信し、国内軍用保護自動車3社をはじめ、日本フォード、日本GMなどに対しての自動車用鋳物品等の納入などを通じて、着々と準備を進めつつ、参入の機会を窺っていた鮎川義介は、この申し入れに応じ、腹心の山本惣治を役員に送り込む。
『1931(昭和6)年6月、戸畑鋳物は定款の事業目的に自動車工業の製造を加え、同年8月、久保田鉄工所傘下のダット自動車製造の株式の大半を買収し、同社の経営権を獲得した。』(⑫P93) 実質的には『戸畑鋳物と久保田との間で石油発動機事業と自動車事業の交換を行う形になった』(⑬P74)ことも既述の通りだ。(15.3-12項)
 この申し入れは鮎川の方からだったという説もあり(戸畑鋳物の営業部長、山本惣治が試作1、2号車を見て興味を持ち、鮎川に伝えられたという。山本が中継役を果たしたことは確かなようだ)、前回の記事(16.3-1項)ではその説を採ったが、いずれにしても久保田鉄工所は、所有株式一切を戸畑鋳物に譲渡して、10年以上に及んだ自動車事業から撤退する。
(下の写真と以下の引用は「農研機構」のHPより、大正14年(1925年)の『農業用小型発動機比較審査』に出品されたトバタ(戸畑)農耕発動機(2型式(2Hp、4Hp)のいずれか)で『第一次審査、第二次審査を通過し最終審査で両型式とも優良と判定されている。』不思議な縁なのだが、実用自動車製造から戸畑鋳物に移ったウイリアム・ゴーハムが、トバタ石油発動機の開発に従事した。ちなみに『20年代にこの分野において代表的なメーカーは戸畑鋳物、久保田鉄工所、大阪発動機製造などであるが、いずれも小型車に参入することになる。』(⑤P42)https://www.naro.affrc.go.jp/org/brain/iam/DGArchives/01.html
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https://www.naro.affrc.go.jp/org/brain/iam/DGArchives/images/01/img544.jpg

 この17.3項では鮎川義介による、ダット自動車製造買収に至る経緯を簡単に振り返りたいが、wikiで「鮎川義介」をご覧いただければ一目瞭然だが、今の日本(人)では全くあり得ないような、とてつもないスケールをもった人物だ。今回の記事では鮎川の数々の業績のなかで、その一部に過ぎない自動車事業の、その中のさらに一部の小型四輪車事業の話題を重点に記す。鮎川にとっては“本命”だった、当時“大衆車クラス”と呼ばれていた、フォード、シヴォレー級への展開については次回(その8)の記事で記す予定だが、それよりも一回り大きい、中型トラック分野については前回の記事(16.3項)を参照されたい。

(鮎川の話題に入る前に、何度か記してきたのでクドイと言われそうだが、ここで今まで延々と記してきた戦前日本の自動車史(その1~7まで)を振り返った時に、個人的な印象として、もっとも違和感を覚えるのは、久保田権四郎・久保田篤次郎父子及び、企業としての久保田鉄工所が日本の自動車史の中で果した偉大な役割に対しての、過小評価であると思う。もっとも自分も、月刊オールド・タイマー誌(八重洲出版)の連載記事『「轍をたどる」国産小型自動車のあゆみ」岩立喜久雄著』に出会うまで、そのような“気づき”はなかったのだが。
15.3-11項をもう一度再録しておくが、戦前に於いては、運転免許などで優遇処置が得られる特殊自動車か、陸軍が主導した軍用保護自動車(自動車製造事業法後はその許可会社に指定されるか)のどちらかしか、生き残る道はなかった(③-7、P176参考)。実用自動車製造 ~ ダット自動車製造は幾多の苦難の末についに、その二つの道の両方にたどりついた。
あきらめずに、数知れない困難を乗り越えて、最後には無免許運転可の小型自動車、ダット“ソン”まで何とか誕生させたのは、もちろん多くの自動車の歴史書で持ち上げられている通り、開発や製造技術で貢献した、後藤敬義や、ウイリアム・R・ゴーハムらの貢献もあったが、本質的にはやはり、経営を主導した久保田篤次郎の功績であり、自身は途中で乗り気ではなくなったものの、娘婿が主導した会社を一定のケリがつくまで清算させずに、支え続けた、久保田鉄工所率いる久保田権四郎の忍耐と、度量の大きさだったのだと思う。
もし常識的に、途中であきらめていたら、その後の日本車の歴史は大きく変わっていたはずだ。再録になるが、久保田鉄工所による自動車事業のまとめとして、岩立氏の(③-2、P169)から引用する。
『 ~ つまり大正8年の一号車ゴルハム三輪自動車に始まり、やがて昭和6年のダット号5馬力小型四輪自動車(水冷4気筒495cc)に至るまでの一連の国産先駆車の研究開発は、久保田鉄工所傘下の実用自動車製造が独自に挑戦し、途中、大正15年には、東京における自動車製造の草分けだったダット自動車商会をも吸収合併して、ダット自動車製造株式会社と改称しながら、これらパイオニア車の製造販売を敢行していったものだ。その実用自動車製造の苦節10年の研究成果であった虎の子のダット5馬力が完成した直後の昭和6年に、同社をそっくり吸収合併したのが戸畑鋳物であり、その戸畑鋳物の後身が、現在の日産自動車(昭和9年設立)だったわけだ。すなわちゴルハム号から、ダットサンの1号車となったダット5馬力までの設計製造に挑んだのは、戸畑鋳物ではなく、久保田鉄工所系の実用自動車製造株式会社だったのである。』追記すれば、岩立喜久雄氏の労作、『「轍をたどる」国産小型自動車のあゆみ」』がより多くの人の目にとまるように、単行本として出版されることを切に期待したい。
(下の久保田篤次郎の写真も、(③-2、P177)からスキャンさせて頂いた。)
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17.3-1 鮎川義介と日産コンツェルン
 この「戦前日本の自動車史」の冒頭部分で、日本の自動車産業の“生みの親”の代表格が「豊田喜一郎」と「鮎川義介」の二人で、一方“育ての親”の代表が「日本陸軍」(と「商工省」)であったと記した。そこがこの一連の記事の骨格となる部分だ。
 鮎川義介(あいかわ(あゆかわ)よしすけ(ぎすけ)⇒『正式な読み方は「あいかわ よしすけ」で、鮎川本人が外国企業と交わした契約書にはそのようにサインしている』(⑭P7)というが、一般的には「あゆかわ」と読まれるケースも多い)は、日本の自動車史を記すうえで最重要人物の一人なのだが、ダットサンの話に限定する前に、鮎川が戦前歩んだ道と、日産コンツェルン生成の過程について、今回の記事のこの場で簡単に確認しておきたい。
 この話題の関連で今回入手した資料の中でもっとも詳しかったのは、鮎川と日産コンツェルンの研究の第一人者ではないかと思う、宇田川勝氏の⑭(「日産の創業者 鮎川義介」(吉川弘文館))だったが、このブログを読んで頂ける多くの方々の利便性を考えればやはりネットなので、ここでは安直にwikiを元に、+なるべくweb上で読める宇田川氏の論文その他からの引用で補足していく。
ところが、この項をあらかた書き終わった後に見つけたのだが!(web17)=『「鮎川義介 我が道を往く」松野浩二 鳳陽会(山口大学経済学部同窓会)』が鮎川義介及び戦前の日産史について、相当詳しく書き込まれている。これから自分が記す内容よりもはるかに詳細な上に、まとまっており、これから記すこの項の存在意義自体が問われるが?詳しく正確な情報を知りたい方はぜひ(web17)や、本の⑭の方を、ご一読してください。ただテキトーに知りたい人?はこの項(17.3-1)を、ダットサンの話題だけ知れば十分だという人は、この項は飛ばして、17.3-2項から読んでください。それではまず安直に、wikiの引用から始める。

17.3-1.1華麗なる閨閥(濃密な長州人脈)
『明治13年(1880年)、旧長州藩士・鮎川弥八(第10代当主)を父とし、明治の元勲・井上馨の姪を母として山口県吉敷郡大内村(現在の山口市大内地区)に生まれた。』(wiki)
 生活は貧乏士族の典型だった(①P101)という。しかし長州ファイブの一人で明治の元勲の一人、井上薫が大叔父であり、その後援を得て早くから事業に乗り出すことができたことは広く知られているが、『岸信介、佐藤栄作も親戚』(web6)だったという。岸と松岡洋右は親戚だったというので、有名な「満州の弐キ参スケ」(にキさんスケ)のうちの”さんスケ”の方は元々つながりがあったことになる。
 長州藩(萩藩)の狭い一角から、日本を動かす重要人物が数多く輩出したことは、日本史の謎の一つだが、しかし鮎川の人脈というか血脈はそれだけにとどまらない。強力な支援者であった『井上の世話で』(web11、P150)、姉妹たちも有力な事業家に嫁いだ結果、華麗な閨閥を築くことになるのだ。
(下の鮎川義介の写真は「国立国会図書館」よりコピーした。ちなみに12,13歳のころ、父が神父に感化され、家長の一存で家族の猛反対を押し切り一家で洗礼を受けたというが、その後、父が『神父と仲たがいしたので仏教に戻った(web17-2)そうだ。その神父が「フランス人宣教師・ビリヨン神父」(1843-1932)で、この神父はあのナポレオンの側近という名門の出でありながら辺鄙な地での「低処高思」な生き方を貫き、その後の鮎川の人生に大きな影響を与えたという。“日本資本主義の父”渋沢栄一(1840-1931)にもフランス語を教えている」(web14要約)という“謎の宣教師?”だが、鮎川もこの牧師から早くからフランス語訛りの英語を教わっていたため、後の渡米生活中にも語学にさほど苦労しなかったという。)
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 その閨閥について、話を続ける。『弟の政輔は藤田財閥の一門、藤田小四郎の養子になってその家を継いだ。長姉すみは、三菱の大番頭だった木村久寿弥太に嫁ぎ、妹ふじは九州財閥の貝島太市に嫁ぎ、妹きよは久原房之助の妻となった。』(web7)
 井上の鮎川に対する肩の入れようはよほどのもので、長州出身の逸材として、早くからその将来を見込んでいたようだ。ちなみに鉱山系事業で有名な藤田、久原両家だけでなく貝島家も「筑豊の炭鉱王」と呼ばれていたそうで、鮎川の親族は鉱山事業との関連が深かった。
 鮎川義介のこうした『濃密な長州人脈』(web6)の中でも、特に久原房之助が義弟(といっても10歳以上年長)になったことで、後に日産コンツェルンを築く大きなチャンスが生まれることになる。余談だが、豊田喜一郎とも親戚同士(『二人の夫人は従姉妹』(高島屋飯田家))(⑪P13)であったという。以下(wiki)からの引用に戻る。
『山口県立山口尋常中学校、旧制山口高等学校を経て、1903年(明治36年)に東京帝国大学工科大学機械科を卒業。芝浦製作所に入社。身分を明かさない条件で日給48銭の職工となる。』
 以下補足すると、エンジニアへの道を勧めたのは井上馨で、東大へは、麻布の井上邸で書生生活を送りながら通った。大学卒業後は(西郷隆盛から)「三井の番頭」と揶揄された、井上が勧める三井財閥入りを断り、職工として芝浦製作所(後の東芝=三井系)へ入社するが、その動機を以下(web〈9〉P9)より引用する。
『~ 井上家の書生をしている時に見聞した財界人の行動には裏表があり、とても尊敬できず、そうした人たちの下で働くよりも、将来独立して事業を営みたい、そのためには、現場の経験が是非とも必要であると、いうことにあった。このように、名よりも実を取るという合理的な思考方法や、先ず自分で身をもって実際に経験するという態度は、その後、鮎川の事業経営の中に一貫して生かされていくことになる。』
 ちなみに『当時は、東京帝大の卒業生は約300名、工学部は全科合わせても100名足らずの貴重な存在で、』(⑪P15)エリート中のエリートだったわけだが、早くから独立心が旺盛だったようだ。なお芝浦製作所入社への労をとったのも井上だった。以下、wikiの引用を続ける。
『その後、当時の技術はすべて西欧の模倣であったので、西欧の状況を体験すべく渡米。約1年強を可鍛鋳鉄工場(グルド・カプラー社)で労務者として働く。』(wiki)以下補足する。
 芝浦製作所時代、週末に東京近郊の工場を70~80箇所も見学して回ったという。そこで鮎川が得た結論は、『わが国の工業技術は外国からの直輸入によるものか、またはその模倣にすぎない、ということであった。日本に居ては、最新の技術に接することは不可能であると悟った鮎川は、職工生活三年目に入った明治三八年九月、芝浦製作所を退社し、アメリカに渡って実地に工業技術を修得しようと考えた。鮎川の関心は、鋼管と可鍛鋳鉄の製造技術の修得にあった。この二つの分野は、工場見学を通じて、わが国工業界の弱点であり、かつ将来有望な事業分野であることを見て取ったからであった。』(web〈9〉P10)実に計画的な人生設計だ。
 こうして『井上馨の口利きで、三井家から、三井物産ニューヨーク支店長岩原謙三宛に招介状を出して』もらうなどの便宜を受けつつ渡米し、『三井物産と取引のあったバッファロー市外のグルド・カプラー社に見習工として採用された。』(以上もweb〈9〉P10)補足すると『可鍛鋳鉄とは鋳造した後に、熱処理を施して炭素分を減らすか黒鉛化して、加工可能性を豊富に持たせた鋳鉄のこと。肉薄で強いため、機械部品に使われ、現在の主たる用途は自動車産業である。』(web8)
 なおグルド・カプラー社は『エリー湖畔にあり、対岸は自動車の町デトロイト』(⑪P15)で、当時のアメリカのこの地域では『ちょうど自動車産業が勃興しつつある時期』(⑩P32)にあたり、活況に満ちていた。工場主の息子の自動車に同乗しドライブを楽しむなど(⑪P15)、自動車及び自動車産業というものに、強いインパクトを受けたようだ。
 アメリカで最新の可鍛鋳鉄の製造技術と、合理的な工場運営手法等を学び、帰国するが、日米で前後4年、自ら職工生活を送った体験から、日本人は白人労働者に比べて体力に劣るが、手先の器用さ、動作の機敏、コツの活用等で勝り、労働能力ではけっして劣らない。しかも賃金は米国の五分の一程度なので、適切な事業展開さえ行なえば、輸入品を駆逐し、輸出も可能な製品を生み出せることも可能だという確信を持つに至る。(web〈9〉P11参考)このことは20年後、起業した可鍛鋳鉄事業で自ら実証してみせることになる。
(下の写真は①P103よりスキャンさせていただいた、『アメリカの鋳物工場で実習中の鮎川義介。』鋳物産業の現場は典型的な3Kだ。
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 以下(wiki)の引用に戻る。

17.3-1.2戸畑鋳物の設立
『1910年(明治43年)、井上馨の支援を受けて福岡県遠賀郡戸畑町(現・北九州市戸畑区)に戸畑鋳物株式会社(現日立金属)を創立。マレブル(黒芯可鍛鋳鉄)継手を製造。 継手の表面が瓢箪のように滑らかであってほしいという思いを込めて「瓢箪印」をトレードマークにし、ヒット製品となる。』以下も(web〈9〉を参考に補足する。
 鮎川から帰京の報告を受けた井上は、これまでの鮎川の努力と可鍛鋳鉄の将来性を認め、事業化に向けての協力を約束する。戸畑鋳物の資本金30万円は、井上馨侯の肝いりで、『東京藤田家・貝島家からの各一〇万円、三井家からの五万円と鮎川個人の出資分五万円からなっていた。また、工場敷地は、貝島家の所有地一万五〇〇〇坪を借受けたものであった。』(web〈9〉P11)
(下の写真は戸畑鋳物の工場の全景で、下記のブログより。https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12177482585.html
戸畑鋳物について、鮎川自身の言葉によれば、それは『「一本の糸がきれることなく」続いていく日産コンツェルンの始まりであった。』(web14)
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https://stat.ameba.jp/user_images/20160705/11/shimonose9m/18/7f/j/o0470031213689815197.jpg?caw=800
 以下も(web〈9〉P13)より。『このように、恵まれた環境の中で発足した戸畑鋳物は、明治四五年(1912年)四月から、わが国最初の黒心可鍛鋳鉄の生産を開始した。しかし、創業期の苦しみは、鮎川義介においても例外ではなかった。』以下は(web5)より
『自ら主任技術者となって可鍛鋳鉄工場を開業した。製造も販売も手探りの当初、鮎川義介は会社存続のため資金繰り忙殺され、海軍へ納品した六インチ砲弾が全部不合格になるといった失態も演じたが、~ この間、株主が揃って追加出資を渋るなか藤田小太郎(長州人で藤田財閥を築いた藤田伝三郎の甥)の未亡人藤田文子だけが増資を快諾してくれ、これで窮地を脱した鮎川義介は生涯藤田文子を井上馨と並ぶ恩人と敬った。』
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 販路の開拓に苦心し、経営危機脱出を賭けて、海軍演習用砲弾の製造を引き受けるが、逆に大損失を出してしまい、破産やむなしというところまで追い込まれたが、上記のように、東京藤田家の40万円全額融資によって救われたという。(web〈9〉P13)ちなみに海軍演習用砲弾の製造に失敗した際には、その製造担当者に代わって自ら原因を究明し、その製造を成功させたという。(⑯P222) 以下もweb〈9〉P14)より
『このように、親類縁者の援助によってかろうじて経営を維持していた戸畑鋳物にとって、第一次大戦の勃発は、経営的自立を達成する機会を与えた。戦争の影響は、外国品の輸入杜絶、国内需要の急増という形で現われ、戸畑鋳物の販路も次第に拡大し、大正三年下期には、操業以来初めて利益を計上した。』
 下の図は(web〈9〉P14と⑭P34)の表を折れ線グラフ化したものだ。戸畑鋳物が第一次大戦に救われた状況とともに、大戦後も着実に成長を遂げ、利益を出しつづけていた様子が分かる。以下(web17-3)より、『好景気に踊る世間に背を向けて、「戦争の後には地震(不況の意味だと(web17)では解釈しているが)が来る」と事業の拡張を抑制し、売掛債権の回収に全力を注ぎ、戦後、その豊富な資金で設備の合理化、企業の買収を進めた鮎川の慧眼と行動力は賛辞を呈するに値する。』
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『さて、軍需景気の波に乗り成長を続ける鮎川義介と戸畑鋳物は、可鍛鋳鉄への電気炉の導入、農業用・工業用・船舶用の石油発動機製造、電線製造などへ技術分野を広げつつ、帝国鋳物・木津川製作所・安来製鋼所・東京製作所・東亜電機などを次々傘下に収め業容を急拡大、人材と資金の機動的な運用を図り戸畑鋳物グループの組織効率を高めるべく持株会社「共立企業」を設立し系列企業群を再編した。』(web5)
 電気炉の導入で焼鈍時間の短縮と品質の向上を図り、合わせて製品の多角化も推進した。(⑫P92参考)
 特に反射炉から電気炉に切り替えた効果が大きく、焼鈍日数を従来の反射炉の7~10日から一挙に30時間の短縮し、欧米の工業先進国をしのぐ生産性を達成、製造コストを大幅に低減させた。そして、電気炉製造法は可鍛鋳鉄の品質も向上させて、戸畑鋳物は海軍省、鉄道院の指定工場となった。(⑭P35、①P102)
 性能・品質が大きく向上した結果、輸入品との競争にも打ち勝ち、中でもひょうたん印の鉄管継手は競争力抜群で、日本の鉄鋼関連製品で初めて欧米進出を果たし『本邦初の快挙として大きく報道された。』(①P102)(下の画像は日立金属のHPよりコピーさせていただいた。同社は戸畑鋳物の直系企業だが、日立グループの事業再編により外資系に売却されるようだ。)
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『こうして、アメリカでの労働者生活を通じて鮎川が目指した可鍛鋳鉄製品の国産化とその輸出は、二十年の歳月をかけて見事に実現されたのである。』(⑭P36)
 ここまでは戸畑鋳物を中心とした展開だが、日産コンツェルンは戸畑鋳物が大拡大を遂げて誕生したわけでは無い。次に記す、久原鉱業の再建が、鮎川が日産コンツェルンを形成する上で、決定的な役割を果たすことになる。まずは概要を、以下(wiki)より

17.3-1.3久原鉱業の再建
『1928年(昭和3年)、義弟・久原房之助の経営する久原鉱業の社長に就任し、同社を日本産業(日産)と改称。久原鉱業は、当時は、第一次世界大戦後の恐慌と久原の政界入りで経営破綻に瀕していた。立憲政友会の田中義一(元陸軍大将)らの再建の懇請に鮎川は渋々応じた。会社を持株会社に変更し、公開持株会社として傘下に、日産自動車・日本鉱業(同年12月、日本産業株式会社に社名変更)・日立製作所・日産化学・日本油脂・日本冷蔵・日本炭鉱・日産火災・日産生命など多数の企業を収め、日産コンツェルンを形成。 1929年(昭和4年) 戸畑鋳物東京製作所(深川)を新設し自動車用マレブル鋳鉄製造開始。同年4月24日、日本産業の鉱業部門が分離独立、日本鉱業株式会社を設立。』
wikiらしく簡潔で要領よく纏められているが、以下からも主に(web〈9〉;『日産財閥形成過程の経営史的考察』宇田川勝)を元に補足していく。詳しくはぜひ原文を確認してください。(下の写真は久原房之介(左)と鮎川義介だが、久原はいかにも“生臭そう”だ。画像は以下のブログより。http://www.shunko.jp/shunko/enkaku/enkaku.html)
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http://www.shunko.jp/shunko/enkaku/images/enkaku01.gif
 まず「鉱山王」と呼ばれた義弟の久原(くはら)房之助率いる久原財閥については(web17-3と4)が一番詳しいが、以下は超簡略版として(wiki、web11、⑭P73他)を元に要約すると、まず房之助の父、庄三郎は養子入りしたため久原姓を名乗っているが、藤田財閥の創始者、藤田伝三郎の実兄で、藤田組は伝三郎の3兄弟(藤田伝三郎・藤田鹿太郎・久原庄三郎)で経営されていた。房之介も藤田組の後ろ盾である井上薫の命により、叔父の藤田組に入社するが、閉山処理で赴任した秋田県の小坂鉱山を、新技術の導入と、主要産品を銀から銅へ転換する等の改革により蘇らせて、逆に大きく業績を伸ばす。
 1905年、分与金を手に藤田組と分かれた房之介は、茨城県の小鉱山だった赤沢銅山(後に日立鉱山と改称)を買収して久原鉱業所を創業、短期間で「日本の四大銅山」(足尾鉱山、別子鉱山、小坂鉱山、日立鉱山)のひとつに数えられるまでに発展させた。なお日立鉱山で使用する機械の修理製造部門から発展したのが、小平浪平率いる日立製作所だ。(下の日立鉱山の画像はhttps://blog.hitachi-net.jp/archives/51672836.html よりコピーした。)
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 第一次世界大戦の活況のもとで、最新式の採掘・精錬技術の導入と、全国各地の銅山を積極的に買収した結果、急膨張を遂げる。後発の不利をよそに、1918年までに国内と朝鮮に31ヵ所の非鉄金属鉱山を保有し、『わが国の金の四十%、銀の五十%、銅の三十%を産出する非鉄金属業界のトップ企業に発展した』(⑭P74)というからまさしく“鉱山王”と呼ぶに相応しい。鉱山事業を担保に積極果敢に事業の多角化を図り短期間で一大財閥を形成する。ついには、あの鈴木商店にも比肩し得る規模に達したという。
 しかし、大戦後の反動恐慌で一気に転落、1926年には主力である久原鉱業自体の産銅事業の不振と、傘下の久原商会の投機取引失敗により、破綻寸前まで追い込まれる。ちなみに頼るべき井上薫は1915年にすでに亡くなっていた。
(「鉱山王」としての久原房之介について、ネットで調べていくと、自分が日本の鉱山についていかに無知であったかがよく分かった。たとえば自分が知らなかった大金山に、大分県日田市の「鯛生金山」(たいおきんざん)というものがあった。明治時代に発見された比較的新しい金鉱山で、一時期(1926~1928年)久原鉱業に経営を委任されていたが、この鉱山の全盛期の金産出量はあの佐渡金山を上回り、「東洋一の大金山(黄金郷)」と謳われたという。山坑道の総延長は 110km、地下500mにも達する竪坑が5本も掘られ、従事者3,000人を抱えていたそうだ。下は「鯛生金山地底博物館」のHPより、その「坑道断面図」で、当然、奥行き方向も深い。東京タワーとの比較で、いかにすさまじい規模で、深く掘り進んでいたかがわかる。)
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 ここに至り、wikiにあるように、鮎川や久原と同じ長州人脈で次期総理大臣候補の立憲政友会、田中義一らは、久原の親族でもある鮎川に再建を託すが、鮎川は当初、断る気でいたという。
実は『鮎川は一九一二年の久原鉱業株式会社創立時から取締役に就任していたが、同社の経営には参画していなかった。』(⑭P69)しかしその後、製鉄所建設を巡ってのいきさつ(ここでは省くが⑭他参照してください)があり、『「久原と私との間に思想の断層を発見したので、将来事業を共にすまいと決し」(鮎川「私の履歴書」)、』1918年1月に久原鉱業の取締役を辞任していた。(以上⑭P70)
 しかし、『田中の再三の説得と義兄で三菱合資総理事であった木村久寿弥太のいま久原鉱業が破綻すれば「三菱にも飛び火するし、日本中が大騒ぎになる。なんとしても食い止めるべきだ」(⑭P77)との説得で、結局引き受けざるを得なかった。以下も詳細は略すが、『弟政輔の養子先である東京・藤田家や妹フシの嫁ぎ先である貝島家など、井上馨につながる親族に援助を頼って当座をしのいだ。』(web11、P147)
(下表は(⑭P76)の表より作成した「久原鉱業の債務整理資金」の提供者を示したグラフで、全体金額(\20,722,159.ただし帳簿価格)に対して貝島家が実に7割もの、当時の貨幣価値からすれば気の遠くなるような、膨大としか言いようのない資金(\14,007,234.)を拠出している。今までの記事の中で、30万円(16.5.3-1)とか40万(16.5-6)で“大金”だとしてきた感覚すると“別世界”の金額で、どうもスケール感が合わない。ただこの資金提供がなかったら、この時点で久原鉱業は破綻して、後の鈴木商店の破綻の時のような大きな社会問題に発展しただろうことは間違いない。以下もっとも詳しく書かれている(web17-4)より引用。
『照査の結果、払込資本2500万円の6割相当の穴があいていることがわかった。「これじゃ助からん」と思ったが、貝島太一が久原の監査役をしていることを知り、貝島家を動かしてみることにしたところ、貝島家は思い切った決断をした。
「一族協議の結果、貝島は井上侯に恩返しするつもりで、稼働中の炭鉱と住宅だけを残して、未稼働の鉱区はもとより各家の別荘、土地、有価証券、現金等合わせて簿価1400万円のものを提供するが、以後久原とは縁を切る」と申し出た。~ この結果、久原の骨董品を含めて2500万円の穴を埋めることができた。』
鮎川は当時貝塚家の顧問代理(注;貝塚家の家憲の一項に「貝塚家顧問は永代、井上家の当主をもってする」というものがあった)を引き受けていた(詳細は⑭P70参照)。
 井上薫のおかげで貝島家は事業に成功したのだからその報いとして、井上から全幅の信頼を得ていた鮎川にすべてを託し、惜しげもなく差し出したようでもあるが、(⑯P86)によれば解釈が少々異なり、『貝塚家が膨大な資産を提出した裏には、同家から井上勝之助家、とくに顧問代理の鮎川を排斥する意図があった。』としている。一時苦しかった貝塚家は鮎川の主導した経営改革によって復興し、その基盤を確かなものにしたというが、その時のやり方がドラスティックだったが故に、一族の中に反発するものも少なくなかったという。
 しかし問題の種を作った久原房之介自身は、一切の関係事業との絶縁を声明後、政界で暗躍(真偽は不明だが226事件の黒幕とも一部では言われている)するのだから、その全体の関係というか構図は、なんだかよくわからない部分が多い。なお下表の田村市郎は久原房之介の次兄、斎藤幾太は長兄だ。)
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 話を進める。こうして鮎川の主導で『1927年2月の金融恐慌発生直前に債務整理を行い、世間では鈴木商店より先だと言われていた久原鉱業の破産を回避させた』(⑭P78)という。鮎川が男を上げたことは言うまでもないが、客観的に見れば、この件に関してだけ言えば、やはり貝塚家の貢献がもっとも大きいように思える。続きは(web9、P22)より、
『そして、昭和二年(1927年)六月、一応の整理終了を機に、鮎川は、同社取締役に、さらに年度末の同三年(1928年)三月、久原房之助に代わって、社長に就任し、名実ともに久原系事業の経営全権を掌握した。~ 鮎川は、債務整理を推進する一方、多角経営による業績の安定化、持株会社構想実現の伏線としての関係会社投資の増大を主眼とする、以下のような経営再編に着手している。』債務整理について(web17-4)によれば、『まず、久原グループのなかで、どうしようもない会社を「合同肥料」に抱き込んで蓋をし、健康部門と戸畑鋳物を併せ再編成した』のだという。
 経営再編の具体的な中身は、(web9)によれば「電力部門の分離」,「石炭部門兼営」,「所有株式の放出」,「資本金徴収」,「関係会社への投資の増大」だった。社外投資総額は下表で示すように、1927年の上期と下期の間で約二倍に増加している。詳しくは(web9、P22)を参照してください。
 さらにこの表に関連して追記すれば、『それまで同社株を有していなかった久原鉱業は、同三年(1928年)三月には戸畑鋳物の全株式二〇万株の約三分の一に当たる六万株を所有し、共立企業に代わって筆頭株主になり、戸畑鋳物は、同社傘下の有力会社の一つになる。したがって、久原鉱業の持株会社移行への諸条件は、すでに熟していた、とも考えられる。』(web9、P25)
 より規模の大きい久原鉱業を母体とする、鮎川主導による持株会社構想を実現させるための布石を打っていたとも考えられる。
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引用ばかりで恐縮だが、以下も(web9、P23)より。
『このように、久原鉱業は、鮎川の指揮の下で着々と内部整備を実施していった。しかし、金融恐慌の真只中で、強力な金融力の背景もなく、しかも同業他社に比して生産・加工・販売の一貫体制を欠き、その上、傘下各事業も沈倫しているという、久原鉱業の経営を軌道に乗せることは、至難であった。とくに、鮎川の企図する多角経営による経営安定、ならびにこれに伴う新事業への進出には、さらに多額の資金を必要としたが、当時の状況の下では、その調達は不可能であった。』
 久原財閥の再建から日産コンツェルンがスタートした初めの数年は、途中で世界大恐慌も始まる昭和の大恐慌期と重なる。最悪の経済環境下で、鮎川の描く遠大な構想を実現させるためには、資金難の解消が前提だった。

17.3-1.4日産コンツェルンの誕生
 その抜本的な打開案として、打ち出された策が、久原鉱業の公開持株会社構想だった。独立系の新興財閥であった久原財閥は元々、依存すべき有力な金融機関を持たず、資金調達を株式の公開に求めていた。下表に示すように、1916年の資本金3,000万円への増資を機に、プレミアム付で株式を公開して以来、株主数は増加し、1927年下期には15,200名に達し、株式の分散は著しく進んでいた。(web9、P24要約)当時としては珍しい株主構成だったのだ。
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『ここに着目した鮎川は、共立企業での経験を生かして、久原鉱業を持株会社に改組し、そして、持株会社自体の株式を公開することによって一般大衆の資金を吸収し、これによって金融梗塞下に萎靡沈滞した経営を一挙に復興させ、さらに進んで傘下各事業を拡張しようとした。』(web9、P25要約)そのための第一ステップとして『鮎川の狙いは久原鉱業の大衆株主を日本産業株主に移行させ、同時に久原財閥の傘下企業を日本産業の統括管理下に置くことにあった。』(⑭P80)
 公開持株会社構想実現のために、1928年12月の株主総会で、次の三点を骨子とする改革案を提出する。
(1) 久原鉱業を傘下企業の統括持株会社にする。
(2) 同社の株式を公開する。
(3) 社名を久原なる私人名を避けて「日本産業」に改称する。
 以上の3議案の承認を得て、『久原鉱業から日本産業への社名変更わずか四カ月後の昭和四年(1929年)四月、その主要資産たる鉱業部門の事業を分離して、資本金五〇〇〇万円の日本鉱業株式会社を創立し、日産は、その全株式を保有して他日公開する機会を持った。鮎川の新構想実施当時の日産の保有株式とその投資額は、第七表(下表)の通りであった。』
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 こうして久原財閥は、公開持株会社日本産業(通称、日産)を頂点とする日産コンツェルンとして再編成された。久原財閥の中核企業だった久原鉱業は日本産業に改組され、現業部門は新設の日本鉱業に引き継がれ、日本産業は本社機構として、株式市場から広く資金を仰ぎながら傘下企業の日本鉱業・日立製作所・日立電力・戸畑鋳物等の管理や新事業の開拓に専念する持株会社とした。(以上web9、13、⑫P93他参考)

 本拠地を満州国に移すまでの鮎川と日産コンツェルンの歩みについて、以下(⑫)からの引用で先に要約する。
『昭和恐慌時に出発した日産コンツェルンの経営は、傘下企業の不振もあって困難を極めた。しかし、1931年9月の満州事変の勃発、同年12月の金輸出再禁止措置を契機に日本経済が長期不況から脱出して再び成長軌道に乗ると、傘下企業は立ち直り、日本産業の株価も上昇した。そうした機会の出現を待っていた鮎川は日本産業設立時に構想した大衆資金に依拠する日産コンツェルンの形成を図るために、傘下企業の株式をプレミアム付きで公開して巨額の株式売却差益を入手し、さらに株価高騰の日本産業株式と既存会社株式の交換による既存企業の吸収合併を中心とするコングロマリット的拡大戦略を積極的に展開して急成長を遂げ、1937年までに住友を抜いて三井、三菱両財閥に次ぐ企業集団を形成した。』(⑫P93)
 遂には三井、三菱といった旧財閥と並ぶ、一大企業集団にまで発展するのだが、以下からは(web12、P65)と⑭からの引用で、その鍵となった資金調達面に主にスポットを当てた、日産コンツェルンの形成過程について補足する。
『日本産業は,当初,総投資額の約 7 割を鉱山部門(久原鉱業の鉱山部門を引き継いで設立された日本鉱業)に投下していたので,当時の世界恐慌の煽りを受けて昭和 5 年(1930年)上期以降5期連続の無配を余儀なくされる状況に追い込まれた』(web12、P65)
 鮎川と日産コンツェルンの歩みは、「戦前日本の自動車史」どころか、「戦前の日本史」全体にもかかわる話になるが、上記の鉱山部分への重点投資は、世間では世界恐慌のあおりで経営難に陥っていた日本鉱業に対しての『累積債務の隠蔽工作であるとみなされた。大衆資金を動員してコンツェルン経営を実践するという鮎川のビジネスモデルは当時の財界の通念とはかけはなれており』(⑭P81)、市場の理解が得られず、逆に大きな批判を浴びせられたという。
 既述の通り「鉱山王」、久原房之介の久原財閥を引き継いだ、この当時の日本産業の中核企業は日本鉱業だった。そして下記(web12)によると同社は「金,銀,銅の全国産出高の約 3 割を占めていた」という。
 鮎川は久原や藤田家など自らの親族が長年その経営に携わり、激しい浮き沈みを経験してきた鉱山事業というものが、外部要因により、その資産価値を大きく変動させることを誰よりも熟知していたはずだ。苦境の時代にも諦めずに維持し続けて、やがて来るであろう「激動の時代」の新たな大波の到来に、期待をよせていたのではないだろうか。(私見です。)
(web17-4)によると『このころ鮎川は「日本の産金量は、金の買上げ値段に比例する」という論文を書き、高橋是清蔵相に意見具申したところ、深く頷いた蔵相は、即座に金の値上げを実行した』という。ひたすら“待つ”だけでなく、自らその波を引き寄せる努力(この件がそうだとは一切言っていないが、局面打開のため、結果としては、際どいケースもあるいはあったのかもしれない?まどろっこしい言いまわしになるが)をも行ったようだ。(web12、P65)からの引用に戻る。
『昭和 6 年の満州事変以後の景気回復過程のなかで,同社の業績は急激に好転するに至った。というのは,傘下の日本鉱業は,金,銀,銅のそれぞれに於いて全国産出高の約 3 割を占めており,金輸出再禁止措置,政府の金買い上げ価格の引き上げ等を背景に大幅に業績が回復したからであった。こうした状況を受けて日本産業の株価は,昭和5 年に一時12 円にまで下落したが,その後急騰して昭和9年には145.6 円を付けるまでになった。』ちなみに額面50円の株です。下は(web17-1)の数字をグラフ化した、1929年下期~1932年下期の日産の純利益推移のグラフで、いったん水面下に沈んだが、1931年に起こった2つの外部要因によりV字回復した様子が分かる。
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 世の批判に耐えつつひたすらビジネスチャンスの到来を待ち、満州事変の勃発(1931年9月)と金輸出再禁止処置(1931年12月)により、金融市場で「錬金術」を展開する機会をついにとらえたのだ。(web12、P65)からの引用を続ける。
『このような状況を背景に,日本産業は,「公開持株会社日本産業の機能と機構をフルに活用した多角化戦略を展開した。即ち,「満州事変以降の株式ブームに乗っての傘下子会社株式のプレミアム付き公開・売出し→その直後の親・子会社株式の株主割当による未払込資本金の徴収と増資→プレミアムや払込資本金の新事業分野への投下,あるいはそれらの資金を利用しての,また株価の高騰している日本産業株式との交換を通じての既存企業の吸収合併→日本産業株主の増大→同社の払込資本金の徴収と増資……」といった循環過程の中でコングロマリット的企業集団を急成長させていったのである。』
『鮎川は「私の発明である」と主張しているが、今日の言葉で言えば、それはM&A戦略、コングロマリット操作、企業再生ファンドなどの「複合経営戦略」と呼ぶべきものであった。』
(⑭P83)
(下表は⑭P86の表をもとに作成。総株主数51,804名のうち、持株数が1~499株のいわゆる“大衆株主”(50,783名)の持株が全体株式数の51.8%と過半数以上を占め、鮎川の思惑通り見事に、大衆からの資金取込みに成功した。なお30,000株以上は7名(8.6%)だ。)
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『その結果,日産コンツェルンは,久原財閥から引き継いだ日本鉱業,日立製作所といった企業に加えて,日本水産,日産自動車,日本化学工業,日本油脂,等の多角的分野で有力企業を擁する一大コンツェルンを形成したのである。昭和 7 年から 12 年にかけて日本産業の払込資本金は 5250 万円から 1億 9837万円へ,収入は179 万円から1570 万円へ,内配当収入は157 万円から1355 万円へと増大し,その結果,「日産コンツェルンは三井,三菱両財閥につぐ一大企業集団」となった。』(web12、P65)
(日産コンツェルンの成功は、上記でいう「複合経営戦略」の所産であったが、別の側面から見ると、それは今まで見てきたように『その戦略展開に鮎川義介の親族各家が協力した結果でもあった。日本水産に結集した水産関連会社は田村家(注;創業者の田村市郎は久原房之介の実兄)、日産火災海上保険(旧社名日本火災傷害保険)は貝塚家、日立製作所に吸収合併された国産工業(一九三五年に戸畑鋳物が社名変更)、日本蓄音器商会(日本コロムビア)、日本ビクターは東京藤田家が、それぞれ筆頭株主の会社であった。親族各家は鮎川の要請に応じてこれらの会社を日本産業株式取得を条件に日産コンツェルン傘下に移行させたのである。~ 同コンツェルンは久原・鮎川の親族各家の事業活動の集合体という側面を有していたと言える。』(⑭P90)下の表は日立のHPよりコピーした。因みに⑫P94にも「日産コンツェルン組織図(1937年6月)」として同じ表がある。)https://www.hitachihyoron.com/jp/column/gf/vol10/index.html
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 さらに別の一面として、(web12、P65)の引用を続ける。『同時に日産コンツェルンは「確かに重化学工業を中心とする企業集団であったが,他の新興財閥にみられない水産,保険などの事業を経営しており,既成財閥の特徴とされる,いわゆる『八百屋式』コンツェルンの様相を呈していた」ことも,その事業構成上の特質とされた。』
(下表(太字が日産系企業)のような、日立製作所の躍進は、前回記事の(16.3-5項)で記した「日産による瓦斯電の解体」の効果も大きかったようだ。どこに書かれていたかは忘れたが、日立製作所を率いていた小平浪平が瓦斯電の吸収を強く要望していたという理由が分かる。なお「国産工業」は、「戸畑鋳物」が社名変更したものだ。グループ再編のなかでその後日立製作所と合併し、戦後の1956年、旧国産工業系の5工場が分離独立して「日立金属」となる。(web17-5参考)
さらに☆2022.11.12追記:日立による軍需企業、瓦斯電吸収の経緯については、「1930年代の電機企業にみる重工業企業集団形成と軍需進出」(吉田正樹)=web29が詳しい。ぜひ一読してみてください。file:///C:/Users/Kohase/Downloads/AN00234698-19960400-00698117.pdf)
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 満州事変以降、日銀引き受けによる巨額な財政出動により、軍事予算の大膨張(1930年には約5億円と米の1/3、英の1/2程度だった軍事費が1931年から急拡大し、日中戦争開戦の1937年には50億円と十倍増して英米の軍事費を上回るほどに膨張、1940年には遂に100億円を超えた(以上web5による))が行われていく中で、日産も軍事予算の獲得のため、革新官僚や一部軍部との連携に乗り、兵器を含む重化学工業分野を拡大させていく(ここでは省略するが、一例としてこのブログの記事の16.3-5項参照)。
 日産はいわゆる「新興財閥」の中の筆頭格で、試しに「新興財閥」という言葉をネットで検索すると『三井・三菱などの明治以来の旧財閥に対し、満州事変前後から軍部と結んで台頭してきた財閥。日産・日窒・森・日曹・理研などの各コンツェルン』(goo国語辞書)と、真っ先に「日産」の名前が出てくる。
 しかし、2つ上の表が示すように、満業移行前の日産コンツェルンの陣容は、「共同漁業」(日本水産)、「中央火災海上」(日産火災海上)、「日本蓄音器商会」(日本コロンビア)、「日本ビクター」、さらには日産自動車の「小型車ダットサン」の事業など、民需が主体の業種も多く傘下に抱えるなど、(web12)の指摘のように、他の新興財閥のように極端に軍需に特化していたわけでもなかった。(web12、P65)からの引用に戻る。
『このように日本産業は,短期間に三井,三菱に匹敵する大コンツェルンを形成したわけであるが,公開持株会社であるがゆえのジレンマもまた持っていた。』鮎川は旧大財閥に対しての対抗心を、表向きも隠さなかった。そんな鮎川と日本産業に向けて、旧財閥側からの攻撃も当然ながら半端なく強かっただろう。

17.3-1.5満州への移転と撤退
 日本産業が満州国政府と関東軍の要請を受ける形で、本社を満州国首都、新京に移し、社名を「満州重工業開発株式会社」(満業)と改め、鮎川がその初代総裁に就任し、その重工業部門を満州へ移転していく以降については、今回の「小型車ダットサン」の記事を書くうえでは、記す必要性が薄い。そこで満州への展開の部分は次の(その8)の記事に関連してくるのでそちらでより詳しく記すことにして、この項では以下の概要的な(web12、P74中の一文;「新興財閥-日産を中心に-」宇田川勝,安岡重明編,『日本の財閥』からの再引用)と(web5)からの引用で、鮎川義介と戦前の日産コンツェルンの歩みについての記述を終えたい。
『日本産業の株式市場を利用した急膨張は,その後徐々に翳りをみせ,プレミアム稼ぎの減少を補うための借入金の増大や同社の高株価を利用した合併政策の困難化等の事態が発生した。さらに追い討ちをかけるように昭和12年に入ると,戦時体制の一環として臨時租税増徴法,北支事件〔変〕特別税等の政策が実施され,子会社並びに持株会社に対して特別税が課されることになった。』(web12、P74)
 日産の成功に倣う形で、旧財閥が傘下の有力企業の株式公開を一斉に行ったため、株式相場が急落し、株式ブームは去る。さらに増税が追い討ちをかけて、旧大財閥と違い、傘下に金融機関をもたない日産コンツェルンは、資金調達に苦しみ始める。(下の二つの表は(⑯P69)の表をグラフ化したものだ。)
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(下表のように、日本産業の借入先金融機関は分散していた。その中でも政府系金融機関の興銀の比重が大きいのは新興財閥に共通していた傾向だったのだろう。)
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『こうした苦境の折に,当時の満州国から極めて有利な条件で産業誘致の話が持ち込まれ,日産はその本拠地を昭和12年(1937年)11月20日に満州国へ移し,満州国法人となって会社名も「満州重工業開発」となったのである。』(web12、P74)
 満業(満州重工業開発株式会社)は満州国法人の国策会社として、「満州産業開発五ヵ年計画」の遂行機関となるのだが、満州と満業をユダヤ(河豚計画)/アメリカからの資本・技術の導入で大きく発展させたかった鮎川と、軍部との考えは同床異夢に近かった。鮎川は真剣に、『技術や資本で提携関係を結んでアメリカとの関係を深めれば、戦争などという馬鹿げた事態を防げると信じていた』(⑩P38)ようなのだ。(下の画像は以下よりコピーで、
https://iccs.aichi-u.ac.jp/database/postcard/manzhou/category-39/entry-2478/
(web17-1)に、ほぼ同じアングルの写真が「満州重工業株式会社(満業)の本社が置かれた満州国新京の大同大街」として紹介されている。手前の白っぽいビルは百貨店で、その奥の三階?の塔がある薄茶色の建物に入居していたようだ。道路の幅は70~100mもあり、電柱はなく、地下埋め込みだったという。)
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(下の写真は「満州重工業開発株式会社」(略して「満業」)の首脳陣で、中央の黒っぽい服の人物が鮎川総裁だ。満業の資本金総額は4.4億円と、日本産業時代に比し倍額増資されたが、増資分は「満州国」政府が出資した。半官半民の国策会社となったのだ。)
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 満業を展開していく上で、鮎川にとって大きな誤算だったのは、よく知られている日本を取り巻く国際情勢の悪化とともに、朝鮮との国境に近い満州東南部の、“東辺道”(現在の吉林省の東南部一帯)と呼ばれていた地域の地下資源の埋蔵量が、事前の予想を大きく下回ったことだったという。
 鮎川の構想では、謳い文句では製鉄で有名なドイツの「ザール」地域と肩を並べ、当時『「東洋のザール」と呼ばれていた東辺道地域の地下資源を開発し、それを既設の鞍山・本渓湖地域の鉱工業や鴨緑江水系の電源開発と有機的に結合させれば、南満州地域に世界的規模の重化学工業地帯を建設可能であると考えていた。』(⑭P120)
 ところが満業成立直後に実施した、日本の非鉄金属のトップ企業で、傘下の日本鉱業技術陣による東辺道地域の資源調査結果と、その後、地質鉱物学の権威で、元アメリカ政府鉱山局長のフォースター・ベイン博士を招いて実施した、東辺道地域を含む全満州の詳細な資源調査結果は、鮎川の期待を大きく裏切るものだった。
 実は東辺道の資源開発こそ、「満州産業開発五ヵ年計画」の中軸をなすもので、鮎川は東辺道の地下に眠るとされていた、膨大な資源を誘い水にして外資導入を図ろうと計画していたのだという。
 日産コンツェルン生成の重要なポイントは、中核企業である日本鉱業の持つ金鉱山資源を呼び水とし、大衆をターゲットにしたいわば「金(ゴールド)資源担保型」による資金調達を、そのスタートとしたことだ。同じように満業の場合でも、東辺道の膨大な石炭・鉄鉱石等地下鉱物資源を担保にして(「石炭・鉄鉱石資源担保型」)、外資が抱く満州への投資に対しての不安感を拭い、米/ユダヤ系資本の資金導入をはかり、その後連鎖的に発展させようと画策したのだ(多少私見です)。
 ところが事前に流布されていた、満鉄や満州国による資源調査結果を鵜呑みにした結果、肝心な地下資源量に大きな見込み違い(資源(担保)不足による信用力の低下)が生じてしまい、全体計画の破綻に拍車がかかっていく。
 下のグラフは(⑭P112)の表「満業の産業別投資推計」をグラフ化したものだが、今回の記事の調べを行う以前に自分が漠然とイメージしていた満業=重化学工業(鮎川は「重工業王」とも呼ばれていた)、と単細胞的に考えていたイメージとはだいぶ異なっている。『要するに、満業の満州産業開発投資の大半は各種鉱山、鉄鋼、軽金属などの基礎資材部門に向けられており、日本産業の満州移転時の主眼であった飛行機、自動車などの機械工業部門への投資ウェイトは大きくなかったのである。』(⑭P112))
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 満業事業を取りまく経営環境の悪化のなかで、失望した鮎川は撤退を決意する。以下(web5)より引用する。
『専横を強める関東軍を見限った鮎川義介は1939年には満州撤退の検討を始め、日産傘下の日本食糧工業(日本水産)取締役の白洲次郎らと話すうち欧州戦争はドイツ敗北・英仏勝利と確信した。ミッドウェー敗戦を知らない日本国民が未だ戦勝気分に沸く1942年、鮎川義介は満州からの全面撤退を決断し、各事業部門を国内と満州に分割再編したうえで満州重工業開発総裁を辞任し資本を引上げた。膨大な設備投資を重ねた満州からの撤退は大きな痛みを伴ったが、鮎川義介の間一髪の大英断により日産は破滅を免れ資本と事業基盤の国内温存に成功、第二次大戦後も事業活動を継続した日産自動車・日立製作所・日本鉱業(JXホールディングス)の各企業グループは高度経済成長で大発展を遂げ、日本水産・ニチレイ・損害保険ジャパン・日本興亜損害保険・日油などを連ね日産・日立グループを形成した。』
 ひとくちで“撤退”といっても、“超難物”の関東軍が相手なので容易なはずはなく、鮎川だからこそなし得たことだと思う。さらにタラレバだが、東辺道地域の資源が仮に本当に“東洋のザール”であったならば、未練が残り、あるいは逃げ遅れてしまったかもしれない。(下の写真はwikiより「鞍山の昭和製鋼所」で、一時満業傘下にあったが、戦後は接収されて『鞍山鋼鉄公司の新称で1949年から再稼働となり、現行の鞍山鋼鉄集団に至る。』(wiki))
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(下の写真と以下からの文は(web15)はてなブログ「書痴の廻廊」からコピーさせていただいた。「この写真が撮られたのは、「昭和十九(1944)年十月十五日、東京紀尾井町の鮎川義介の屋敷に於いて」で、鮎川によれば『僕は当時内閣の顧問をしていたから、政府の高官連中の苦悩の程は察するに余りあった。そこで、一夕連中を当時紀尾井町の拙宅に招いて、日ごろの労をねぎらう意味でご馳走したことがある。』下の記念写真?は『その「ご馳走」の席に招かれた面々というわけだ。左端から順々に名を挙げてゆくと、中島知久平、重光葵、南次郎、松平恒雄、岡田啓介、広田弘毅、鮎川義介、近衛文麿、木戸幸一、小磯国昭、鈴木貫太郎、伊藤文吉、米内光政の計十三名。錚々たる顔ぶれといっていい。現役の内閣総理大臣に外務大臣、海相に宮内大臣と、日本を動かす男ども、その大半がずらりと並ぶ。』
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https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/S/Sanguine-vigore/20200426/20200426170908.jpg
((web15)からの引用を続ける。『この「豪華メンバー」をもてなすべく腕をふるうは、もちろん初代銀座久兵衛、今田寿治その人である。彼の力量を遺憾なく発揮させるため、鮎川も骨折りを厭わなかった。日水社員を総動員し、北は函館東は勿来、西は松江に南は別府に至るまで、算盤勘定を度外視して良質なタネを掻き集めさせたものという。
ついでながら触れておくと、冒頭に掲げた面子のうち、戦後戦犯容疑を受けたのは、中島知久平、重光葵、南次郎、広田弘毅、鮎川義介、近衛文麿、木戸幸一、小磯国昭の計八人と、実に半数を超えている。巣鴨プリズンで合うたびごとに寿司の味を懐かしがったという噺にも、おのずから信憑性が増してくるというものだ。』
 以下はまったくの私見だが、最近の某宗教団体の話もそうだが、現在日本史のあらゆる分野でデクラスが進行中で、米内光政や山本五十六(=偽装工作により戦後も生き続けていたとの証言もある)など、「海軍の首脳=善玉」という刷り込みもいずれひっくり返されるのではないかと思う。真珠湾攻撃の最初から英米の計画の共犯者として“内側”に居たので、戦犯にはならずに済んだだけなのではないだろうか。

 1942年12月、満業総裁を辞任し帰国後の鮎川は、上記のように東條英機内閣の顧問も務めるなどしたため、戦後はA級戦犯容疑で投獄されて日産への経営復帰は叶わなかったが、鮎川が久原や久保田らから引き継ぎ、大きく発展させた企業群は日本に残り、戦後の高度経済成長の波に乗り、力強い成長をとげていく。
(下表は(⑯P82)の表を転記させていただいた。1946年の数字は、戦後、「財閥指定時」のもので、日産コンツェルン傘下企業の払込資本金合計額(17億9166万円)は、三井財閥(34億9166万円)、三菱財閥(31億1673万円)、住友財閥(19億2183万円)に次ぐものだった。満州への移転と撤退という、大きな痛みを伴った上で達成した数字だ。満業移行以後の、戦時体制下の日産コンツェルンは、他の財閥同様に、重化学工業分野への膨張が顕著だが、とりわけ『「時局」に適合しえた日立製作所と日本鉱業の二大会社の急成長を通じて達成されたということができよう。』(⑯P83)
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 下は以前、16.3-9項で掲げた、「ヂーゼル自動車工業」(たぶん設立時)の株主構成だが、ここでも戦時体制下に於いては、日立製作所が機械工業分野での日産系の中核企業であったことが判る。
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(下は「戦争と人間:山本薩男監督(日活)」のBD版のジャケットだ。3部作の超大作だが、この映画で描かれている「五代財閥」が「日産コンツェルン」をモデルとしていることは広く知られている(原作者の五味川純平は満業傘下の昭和製鋼所に勤務していた)。だが財閥当主の「伍代由介」という“人間モデル”は鮎川義介ではなく、戦後の石坂泰三(東芝社長のあと、高度成長期に経団連会長を務め“財界総理”と謳われた)をイメージしたものだったようだ。知りませんでした。(下の評論のP75参照)
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/20676/1/kokusainihongaku_11_2_65.pdf
http://www4.airnet.ne.jp/tomo63/taidanninngennno3.html

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https://movies-pctr.c.yimg.jp/dk/movies/poster-images/133168_01.jpg?w=312&h=297&fmt=webp&q=90
 以下からは“本題”に戻り、鮎川義介の、自動車事業進出に的を絞り記していく。

17.3-2 鮎川義介によるダットサンの量産化
 正直なところ、前項については全体のスケールがあまりに大きすぎて、“視界不良”に終わったが、話題を小型車ダットサンに絞れば、大筋で不明な点は少なく、話がスッキリとしてくる。
 アメリカで修業時代の鮎川は、デトロイトの対岸の工場で働きながら、アメリカの自動車産業勃興期の活況を肌で感じつつ、『将来、自動車工業が機械産業の中核に位置することを確信した。』(⑫P92)
 帰国後しばらくは、起業した戸畑鋳物の立ち上げに忙殺されるが、鮎川自身の言葉によると、自動車事業に進出しようと最初に試みた時期は1920年だったという(⑩P33、雑誌「モーターファン」インタビュー記事による)。可鍛鋳鉄事業の国産化に成功し、大戦後の反動不況も乗り切り、ようやくひと段落したころだったのだろう。

17.3-2.1自動車部品から始める
 しかし事業化に向けて、メインバンクの三井銀行他に相談したところ、時期尚早だと猛反対される。第一次大戦の特需を得て自動車産業に進出した東京の瓦斯電と大阪の久保田系の実用自動車製造が、当初の思惑が大きく外れて苦境に立たされていた頃のことだ。ちなみに三井財閥の最高顧問格だった大叔父の井上薫はすでに没していた。
『そこで、鮎川は迂回作戦をとり、まず自動車部品事業に進出して技術と経験を積み、それから本体の自動車工業に着手する計画を立てた。』(⑫P92)
まず実用自動車製造をクビになった直後のウィリアム・ゴーハムを、自動車事業に向けた技術面でのアドバイザー役として、高給で雇い入れる。鮎川とゴーハムは、以前から面識があったようだ。
戸畑鋳物時代のゴーハムは、各種自動車部品をはじめ農業・漁業用の石油発動機(トバタ石油発動機)、さらには炭坑用に使用するトロッコの車輪(⑩P33)などの製品化にも携わるが、その後も『窮地を救ってくれた鮎川に感謝する気持ちをもち続けて』(⑩P34)、日産時代に移ってからも終始、鮎川の事業に協力し続けた。
(下の写真は「日本自動車殿堂」より日産自動車 横浜工場の建設現場の写真で、左側から5人目(立っている人物で数えると4人目)の大柄の人物が、ウィリアム・ゴーハムだ。https://www.jahfa.jp/wp/wp-content/uploads/2013/01/2013-william.pdf )
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 この頃の鮎川の心境を現す言葉としては、以下のような言葉が残されている。
『戸畑鋳物は鋳物では日本一だが、船舶用小型発動機や水道管の継手のようなものを造っていたのでは、会社としてこれ以上発展しない。自動車エンジンを主体として自動車関係に入るのがよい』(「日本自動車工業史口述記録集(自動車工業振興会編;1975)」)
 自動車部品事業としては、『昭和初期までに自動車製造に必要な鋳鋼品、マリアブル部品(戸畑鋳物)、特殊鋼(安来製鋼所)、電装部品(東亜電機製作所)塗料(不二塗料製造所)などを、戸畑鋳物とその関連会社で生産する体制を整えた。』(⑫P92)東亜電機でディストリビューターやイグニッションコイルを、安来製鋼所では自動車用の鋼鈑を作り始める。地味だが着実な取り組みだった。
 これらの工場で製造された自動車部品は、石川島、瓦斯電、ダット自動車製造の国内3社などに納入されたが、1929年からは戸畑鋳物「東京工場」を開設、日本フォードや日本GM向けにマリアブル(可鍛鋳鉄)部品の納入を開始した。『戸畑鋳物は鮎川の高度な経営判断からフォード車のキングピンやエンジンなどの重要部品を積極的に請け負い、』(③-9、P172)フォードとGMに部品として採用されたということは、戸畑のマリアブル製品が工業製品として、世界水準にあったという証でもあった。
(下の戸畑鋳物「東京工場全景」(江東区深川越中島)画像は以下より、https://aucview.aucfan.com/yahoo/q1046947838/)
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https://auctions.c.yimg.jp/images.auctions.yahoo.co.jp/image/dr000/auc0304/users/2a93348826e760e8a5872026728da29bfe88a26e/i-img1200x788-1649646484kzdo7l167839.jpg
以下は(⑤P169)より
『戸畑鋳物では29年からGMとフォードにもマリアブル部品を納入していたが、それは「舶来品に劣らない優良な品質のものでなおかつ価格はそれ以上でない」という外国メーカーの納入条件を満たしていたためであった。そして、30年代に入ってその納入部品の種類や量を急増させていった。こうした経験から、日産は後述する小型車生産と共に部品生産を通じて、大衆車への段階的な参入を計画することになる。』
 前項(17.3-1)を飽きずにお読みいただいた方にはわかると思うが、久原財閥の再建に取り組み始めた1926年以降の鮎川は、まさに怒涛のような日々だっただろう。そのなかの一部の取り組みとして堅実に行われてきた、自動車事業への進出計画だが、その動きが本格化するのは、本体の日本産業の収益がV字反転し始めて、自動車事業の本格的な展開のために必要な、膨大な資金調達の目途が徐々に見え始めた1931年半ばごろからだった。

17.3-2.2ダット自動車製造の買収
 ここで17.3項の冒頭部分と話がつながる。その部分を要約し再録すると、久保田鉄工所系のダット自動車製造がリラー号の後継として試作した小型車ダットソンは、計画時の試算では『1000円の価格で月10台程度の販売で採算がとれる見込みだったが』(⑪P21)、目論見よりも製造コストが嵩んだ上に、製造・販売へと移行させるためには新たな投資が必要となった。
 親会社である久保田鉄工所の総帥、久保田権四郎は、軍用保護トラックの製造権利を持つ東京のダット自動車と合併しても、軍縮予算下で期待したほど効果が上がらず、相変わらず投資資金回収の目途が立たない中で、新たな投資にためらいがあった。そこで鋳物部品等の納入でダットと取引のあった鮎川義介の戸畑鋳物に、ダット自動車製造に対して資本参加を申し入れる。鮎川が以前から、自動車メーカーになることに意欲的だったことを、久保田も承知していたのだろう。
 以下も手抜きで再録になるが、自動車用鋳物品等の納入などを通じて、着々と準備を進めつつ、参入の機会を窺っていた鮎川義介は、この申し入れに応じ、まず100万円が出資されて(⑪P21)、腹心の山本惣治を役員として送り込み、ダットの内部状況の確認を行う。その後の判断は素早かった。
『1931(昭和6)年6月、戸畑鋳物は定款の事業目的に自動車工業の製造を加え、同年8月、久保田鉄工所傘下のダット自動車製造の株式の大半を買収し、同社の経営権を獲得した。』(⑫P93) 実質的には『戸畑鋳物と久保田との間で石油発動機事業と自動車事業の交換を行う形になった』(⑬P74)ことも既述の通りだ。(15.3-12項)
 こうして『大阪にある工場とクルマの製造権、さらには技術陣を含めた数百人の従業員すべてが鮎川の傘下に入り、ダットソン製造のメドがたったのである。』(⑩P45)
 17.2-9項、17.2-10項で記したように、販売にあたっては「ダットサン自動車商会」を設立し、梁瀬商会から引き抜いた吉崎良造に拡販にあたらせるなど必要な手立てを素早く打つ。しかし鮎川の描く壮大な自動車製造事業の構想からすれば、当初「月10台程度の販売」が目標計画だったダットサンは、『自動車の製造販売のプラクティス』(②P175)程度にすぎなかった。以下、小林彰太郎の記した(①P51)より。

17.3-2.3ターゲットはあくまで“大衆車”(フォード/シヴォレー級)
『だが鮎川の自動車産業に関する構想は確かに雄大なものであった。たかだか年間数百台のダットサン製造など、彼の眼中にはなかった。当面は小型車ダットサンの生産と並行して、フォード、シボレー用のアクスルシャフト、スプリング・ブラケット、ハブなどの部品を製作し、日本フォード、日本GMに納入して、自動車産業の経験を積む。しかるのちに、アメリカ式量産システムにより、フォード、シボレーに対抗できる普通サイズ乗用車を、年間2万台規模で量産すること、これが鮎川の真の目標だったのである。』
 何度も記してきたが当時の日本では「自動車≒アメリカ車」で、しかもそのうちの約3/4はフォード/シヴォレー(GM)のKD生産車(3リッター級のいわゆる“大衆車”と呼ばれていた)だった。
③からの引用で何度も記したが、戦前の日本に於いては、運転免許などで優遇処置が得られる特殊自動車か、陸軍が主導した軍用保護自動車(自動車製造事業法後はその許可会社に指定されるか)のどちらかしか、生き残る道はなかった(③-7、P176参考)。しかし鮎川の目標は小型車ダットサンを年間数百台程度作ることでも、当時3社合計で年間250~400台程度の軍用保護自動車を地味に作ることでもなかった。
 第三の新たな道として、『鮎川義介は自動車産業開拓に際して、日本に進出している「アメリカのビッグスリーのどらかと提携することを起業の基本戦略としていた」(日本自動車工業史座談会記録集)』(⑭P44)
 日本フォードと日本GMが開拓した、戦前日本の自動車市場のボリュームゾーンであり、当時の日本では、陸軍/商工省や大財閥も直接“かかわることを恐れた”、大衆車市場をターゲットに据えたのだ。
 米2社の力を借りて部品製造から始めて大衆車の国産化を行い、その次のステップとして、自社製国産車による自動車産業の確立を図ろうとしたのだ。『大衆車の国産化においても、日産の戦略が唯一の現実的な方法とみなされていた。』(⑤P216)下表の国内市場の状況をみれば、その意味合いが分かる。表中の米2社の台数は、日本国内のKD生産台数だが、本国では、さらに×100倍ぐらいの台数を生産していた。その背中ははるか彼方にあったのだ。(たとえばフォードは1929年に約195万台を生産。)
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17.3-2.4国産自動車会社の大合同に動く
 鮎川のここからの行動は、前回の記事(16.3-1~16.3-5項)で触れた、国産3社の統合とリンクしていく。詳しくはそちらか、さらに詳しくは主な元ネタの(⑤、⑩、⑪、⑫、⑰)あたりを直接ご覧いただきたいが!ここでも全体の流れだけは簡単に追っておく。
ジリ貧だった国産軍用保護自動車3社(石川島、瓦斯電、ダット)の統合が、陸軍省と商工省主導の下で明確に方向づけられたのは、「自動車工業確立調査委員会」(1931.06発足)の前あたりからだったが、鮎川がダットの経営権を取得したあたりから、同委員会を舞台に、両省主導による斡旋が本格化する。
 3社合同案に直ちに賛成した鮎川は、『ダットを国に差し出すつもりで、交渉のテーブルについた』(⑪P22)。そして日本フォード、日本GMの両外資系企業が国内の自動車市場を支配している中で、自動車国産化を達成するためには国産メーカーを大同団結させて、強力な国産メーカーを育成し、早期に量産システムを構築する必要があると強く主張する。
『三社が合併した会社の首脳になることは、日本の自動車業界を手中にすることを意味した。鮎川に大きなチャンスが訪れたといっていい。』(⑪P22)
 しかし、1932年12月、林桂陸軍省整備局長を立会人として、3社の間で仮契約が成立したものの、『すぐに腰くだけになった。』(⑪P22)
 仮契約の翌日、瓦斯電側から、メインバンクの十五銀行の都合により合併に参加できずとの一方的な申し出があり、鮎川の描いた自動車産業界の大合同を基軸とする自動車国産化構想はスタートから躓く。
 翌年3月に石川島とダットの2社合弁による新会社「自動車工業株式会社」が先行して誕生するが、陸軍・商工省の意向を踏まえて、軍用保護自動車と標準型式自動車(16.2項参照)の生産に集中し、鮎川が要望する大衆車クラスの乗用車/トラックの生産が見送られてしまう。(瓦斯電の自動車部門が合流し、「東京自動車工業」として3社統合を果たすのはさらに4年後の1937年で、ここでは略すが16.3-4、-5項参照)
 石川島とダットの合併の具体的な中身だが、ダット側としては大阪の工場を現物出資したかったが、石川島はそれらを(大型のミリングマシン1台以外)無価値と判断していた。石川島側が欲しかったのは、ダットの軍用トラックの製造権だけで、施設などは不要だった。そのため少し複雑だが、ダットの工場は戸畑鋳物が買い取り、機械設備等の評価額に該当する70万円でダットが増資株を引き受けることで、両社が合併することになった。『結果としては「ダット」が「石川島」に吸収合併』される形となった。(⑪P22他参考)
 もともとこの業界自体が設備過剰気味だったのだろう。ダットの大阪工場は「戸畑鋳物自動車部」(1933年3月設置(⑫P95)、(⑱P8)では2月)の帰属となり、同部は山本惣治取締役を部長に、久保田篤次郎取締役を製造担当として発足するが、肝心の小型車ダットサンの製造権は契約上、新会社の「自動車工業」に移ってしまっていた。
 しかし同社に小型乗用車を造る意思は全くなかったため、戸畑鋳物は自動車工業に対して『ダットサンの製造・販売権の譲渡を申し入れた。その結果、1933年9月、両社の間にダットサンとその部品に関する製造および販売権一切を、ダット自動車製造と石川島自動車製作所の同年2月にさかのぼって戸畑鋳物が自動車工業から無償で譲り受ける契約が成立した。』(⑫P55)
 鮎川の関心はすでに、後述するGMとの交渉に移っていたので、未練は少なかったようだが、山本惣治や久保田篤次郎、吉崎良造らは小型車ダットサンの事業に愛着を持ち始めており、鮎川に権利奪還を働きかけた結果のようだ。この結果、「自動車工業」に出向していた浅原源七や後藤敬義ら旧ダットの技術陣も「戸畑鋳物自動車部」に戻り(⑩P49)、こうして空白期間を経たのちに、ダットサンは元の鞘に収まった。
 以上の結末は、鮎川側からすれば、なんとも中途半端なものだったが、しかし鮎川はこの一連の交渉の過程で、それを補って余りある大きな手掛かりをつかむ。日本GMから商工省宛に、国産3社の合同に合流したい旨、打診があったのだ。
当時の『GMは進出国の自動車国産化政策が明示されると、生き残り戦略としてその政策に協力し、あるいは現地メーカーと提携する戦略を採っていた。』(⑭P45)
 同じ情報を掴んでいたフォードは、GMと違い日本フォードに対して大規模な設備投資を行い、製造工場の建設による現地生産方式に移行することによって日本国内に定着をはかろうとするのだが(引用⑳、NHK「ドキュメント昭和3 アメリカ車上陸を阻止せよ」等参照)、その方法は違えども、両社共に大きな利益を上げていた日本市場から、将来排除される可能性を恐れたのだ。
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 商工省による国産3社合同案は、陸軍の意向も大きく影響していたため、GMのこの申し出は一蹴される。しかしGM側のこの打診は、フォードかGMとの提携を前提にした国産自動車産業の確立を熱望していた鮎川からすると、『そのチャンスが向こうからやってきた』(②P196)ことになる。鮎川は国策に頼る方針を改めて、自らの力で道を切り開く決意を固める。
 1933年2月、鮎川は極秘裏に『日本GMの「日本化」を主眼とする』(⑰P31)提携についての申し入れを行い、GMもそれに応じる。以下は鮎川の「決意表明」となる重要なポイントなので(⑫P93)から長文引用する。

17.3-2.5「自動車製造株式会社」の設立
『日本産業は、1931年1月、所有する日本鉱業株式のうち15万株、同年10月、日立製作所株式のうち10万株をプレミアム付きで公開し、これによって巨額の株式売却益金を獲得した。その直後、鮎川は戸畑鋳物の幹部を集め、つぎのように語った。
「1千万円という金が手に入った。よくいえば天から授かったようなもので無くしても惜しくはない。ほんとうはこの金を借金の整理に回せばよいのだが、そうしなくとも日本産業の計画に支障をきたすことはない。そこでその金を戸畑鋳物に注ぎ込んでかねての考えどおり田舎の鋳物会社から自動車部品会社に転向することにしたい。というのは幸か不幸か三井、三菱の財閥が自動車工業に手を出そうとしていないし、住友も傍観している。われわれ野武士が世に出る近道は、いま自動車をやることにおいてはほかにない。」(自動車工業振興会編《1975》P96)』

 当時の日産コンツェルン全体の状況については、前項(17.3-1項)を確認されたいが、この後で記す、日本GMとの交渉の具体的な進展があり、いよいよ大勝負の時を迎えたのだ。
 ここで追記すれば、(web17-1)他の指摘では、鮎川の事業展開の特徴の一つとして、旧財閥の支配権の確立していなかった分野を狙ったとあり、自動車産業はまさにそれに当てはまるが、その後の新天地、満州への展開なども含め、旧財閥に対しての対抗心を隠さない一方で、旧財閥を極力刺激しないように、リスキーなことは承知で、違う土俵で戦おうとしていたようだ。

 1933年8月(日産のHPによれば10月)、戸畑鋳物は横浜市神奈川区守屋(新子安の湾岸埋立地で現横浜工場敷地)に約2万坪の敷地を入手する((⑫P96)。
 1933年12月26日、「戸畑鋳物自動車部」を分離させて、「自動車製造株式会社」を設立、新会社の社長には鮎川本人が就任する。日産自動車ではこの日を創立記念日としている。資本金は「1千万円」(出資比率は「戸畑鋳物」40%、「日本産業」60%)(⑩P47))で、ただちに横浜工場建設に着手する。
 この会社の設立の目的は、GMとの提携後の受け皿の予定だったとともに、自動車製造事業法制定の動きを、鮎川がすでに察知していたからでもあった。(⑰P51)
 そしてこのような矢継ぎ早の展開は、GMとの交渉が順調に推移した結果に他ならない。順番からすればここで、横浜工場立上げについて触れることになるが、一連のGMとの交渉を先に記し、工場の方は後回しにする(17.3-2.8項で記す)。以下鮎川(日産)とGMとの交渉の経過を簡単にたどる。

17.3-2.6「GMとの提携交渉(第1次)」の決裂と、「日産自動車」の誕生
 本題に入る前に、GMが対外進出する際の、一般的なその手法について、過去の記事の11.11項からの抜粋で再確認しておく。
まずフォードとGMの海外進出方法の違いだが、フォードが100パーセント子会社方式で、いわゆる“フォーディズム”を押し通す新会社を新たに立ち上げていくのに対して、GMは多くの場合、相手国の自動車メーカーに資本参加して、後に子会社化する手法をとった。たとえば対英進出の際は1925年にボクスホールを、1929年には当時ドイツ最大の自動車会社であったアダム・オペルを買収し、欧州の拠点とした。
 そのため日本の場合も、適当な提携先があればその方法も考慮に入れたはずだが、今まで延々とみてきたように、GMの検討段階で、日本で大量生産体制を確立した自動車メーカーは無く、そのため日本進出は単独で行わざるを得なかった。
 しかし、陸軍を中心に排外的な産業政策を日本が検討し始めると、その対抗策として日本GMでも本来の現地主義に立ち戻るのだが、この時GMは、国産3社の統合計画へ参加すべきか、それとも『三井・三菱・住友・日産といった財閥と手を組むべきか』(⑳P90)で迷っていたという。
 一方この記事で今まで見てきたように、日本でも、鮎川義介率いる当時の日産は、大衆車(=当時のフォード、シヴォレー)クラスの乗用車/トラックの大量生産を志向し、日本の自動車工業が自立するためには、外資との提携が不可欠であると、一貫して考え続けてきた。こうして軍部の圧力を感じ始めたGMと、後にはフォードも、日本における“受け皿”として、鮎川の日産と接触していくことになる。
 しかし次の記事(その8)で記すが、GMの日本化の動きは、フォードの本格的な工場着工計画とともに陸軍の強い警戒心をよんでしまい、排外的な自動車製造事業法を早急かつ強引に生みだそうとする逆のパワーを生むという、多少やぶ蛇的な結果も招いてしまうのだが、今回の記事では日産-GMの合併交渉のみを記し、より厳しい対立を引き起こすフォードとの合併交渉は次回の記事で記すことにする。
 話を戻し、先に記したように、日産-日本GMとの交渉は1933年2月からスタートし、初めに「日本GMの日本化はGM本社にもその意思がある」ことを確認したのち、鮎川と日本GM専務のK.A.メイとの間で話し合いは頻繁に行われた。
 鮎川の、日本GM/フォード向けの大規模な部品製造会社設立の構想に対して『GM側は関心を示した。鮎川の新会社がGMと特別な関係になることが望ましかったからである。鮎川は、どのメーカーにも部品を供給するニュートラルな会社にするつもりだったが、GMが望むなら株の過半数を所有することができる権利を認めた。』(⑪P24)
 1933年9月23日、両社の提携に関する草案が鮎川とメイによって署名された。日本GMの経営権を握ることになる日産側への51%の株式譲渡時期は、5年後を目処とした。商工大臣(この時期は松本烝治と町田忠治)も自由貿易論者であったので、この提携に理解を示していた。既述のようにその3か月後に鮎川は「自動車製造株式会社」を設立することになる。
 その後、日産が取得することになる日本GMの株の売価を巡る折衝(当初GM側の主張の600円を退け日産の求めた400円で決着)等、かなりタフな交渉期間を経て、1934年4月26日に、以下の内容を骨子とした正式契約が成立する。
『(1)GMは日本GMの株式の49%を日産に譲渡する。(2)日産は前年設立した自動車製造(この後、日産自動車と改称)株式49%をGMに渡す、という子会社株式の相互持合いを主内容とする提携契約が成立した。』(⑰P31)
『これにより、将来的にはゼネラルモーターズのシボレー国産化を図ることが可能になり、日本の自動車メーカーとしては最初に車両、生産、販売という三拍子が揃う可能性が大きくなったのである。』
(⑪P48)大財閥もなし得なかった、歴史的な計画案だったのだ。
 商工省からは『日産-GM,Cooperationハ至極結構ナリ』との言質を、工務局長の竹内可吉からとり、大蔵省外国為替管理部長からも非公式に送金許可を得て(以上⑰P31)、三和銀行から800万円を借り入れて、GMに払い込もうとしたその直前に、陸軍が『ニッサンと日本GMの提携に不快感を表明し、待ったがかかった。』(以上⑪P25)
 「自動車製造㈱」の株式をGMが過半数近く握ることを、『外国資本を利するもの』であるとストップをかけたのだ。(以上⑩P48、⑪P25)
 主導権を握れていない陸軍の「不快感」表明という、感情論を含む判断により、鮎川&日産は『土壇場ではしごを外された格好になった』(⑩P49)のだ。
 当初GMとの提携の受け皿の予定だった『「自動車製造」が「日産自動車」に改称されたのは、日本GMとの交渉が暗礁に乗り上げた直後の1934年6月の事で、この改名はGMとの提携が不成立に終わったことと関係があるだろう。』(⑪P26)資本金は同じ1,000万円だったが、戸畑鋳物の所有株式分を日本産業が買い取り、全額日本産業の出資会社となった。その背景として、戸畑鋳物の本社首脳陣(村上正輔社長ら)がリスキーな自動車事業の拡大に反対していたという事情もあったようだ。(⑰P51)
(下の画像は日経ビジネス(下のweb)よりコピーした「日産自動車の系譜図」
https://business.nikkei.com/atcl/NBD/19/special/00074/?SS=imgview&FD=-1299436387)
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https://cdn-business.nikkei.com/atcl/NBD/19/special/00074/g1.jpg?__scale=w:1000,h:715,q:100&_sh=02d0e90270
 鮎川は実は、『GM側の要求があれば、ダットサンの組立と販売権を日本GMに譲渡することを約束している。日本GMという大魚を釣るためには、小型乗用車のことは眼中になかったようで、』その内容も契約に盛り込まれていた(⑪P25)。
 最初の構想では、横浜工場は部品製造工場の予定であったが、陸軍の横槍により、見通しの暗くなったGMとの提携交渉の経緯を踏まえ、計画変更を余儀なくされて、小型車ダットサンの量産工場として立ち上げることとなる。(17.3-2.8項参照)
(ご承知のように「ダットサン」というブランド名は、1981年に一度廃止されたのちに、カルロス・ゴーン時代の2012年に、新興国向けの廉価車のサブブランドとして寂しい復活を果たすが、今年(2022年)に入り、ブランド廃止が正式に発表された。
しかし戦前、「ダットサン」の運命が最初の育ての親である鮎川義介の掌中にあったこの時期にも、上記のようにその存続が、何度か危うい立場に立たされていた。さらにその後、戦後の混乱期にも、『ダットサンの製造権が欲しいという人がいて、危うく売り渡すところだったという。』(⑩P97参照)
 下の写真は1971年のサファリラリーにおける“ダットサン”240Zの雄姿。1970年秋のRACラリー(英)で5位デビューを果たし、翌1971年のサファリラリーでは、前年(1970年)の名車、510ブルーバードによる総合&チーム優勝に続き、再び総合優勝とチーム賞を獲得する。画像は「名車文化研究所」よりコピーさせていただいた。
https://meisha.co.jp/?p=16434&utm_source=sotoshiru )
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(下の写真はラリーの最高峰、1972年のモンテカルロラリーに3位入賞を果たした、日産ラリーチームのエース、ラウノ・アルトーネン/ジャン・トッド(その後国際自動車連盟(FIA)9代目会長まで昇り詰める)組のダットサン240Z。翌年1973年のサファリラリーでは、この年から始まったWRC(FIA世界ラリー選手権)で日本車初のWRC総合優勝とチーム賞も獲得する。
世界のひのき舞台で、ポルシェ911、フォードエスコートRS、ルノーアルピーヌ、ランチア、サーブ、プジョーなどと同じ土俵で堂々と闘うタフな「ダットサン」の姿に、日本人のカーマニアは皆、日本車もとうとうここまで来たかという感慨と共に、当時の日本の自動車界で通用していた「技術の日産」という言葉を、感じとったものだ。画像は「ラリージャパン」よりコピーさせていただいた。https://rally-japan.jp/wrc/legend-car/legend-car-515/

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(冬のモンテのような氷結路のレースでは、重量級FRは不利だと言われていた中での3位入賞だった。あまりに誇らしいので、もう一枚貼っておく。今から50年前の話だ。モンテ仕様とサファリ仕様ではフォグランプの位置が違っていた。因みに優勝は本命だったRRのルノー・アルピーヌ勢が全滅したため、ランチアのエース、サンドロ・ムナーリの駆るランチア・フルビア・クーペHF(FF)だった。画像は(auto sport web)より。)
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 「第1次日産-日本GM提携交渉」に話を戻す。『こうした陸軍省のかたくなな態度に接しても、GMはこの提携に希望を持ち、交渉の継続を求めた。』(⑰P32)その後の経過を、以下(⑫と⑰)からの引用で記す。
『鮎川は陸軍省の同意が得られなければ提携成立は不可能であることをGM側に伝え、譲歩を求めた。その結果、1934年10月、GM本社は日本産業が提示したつぎの提携案に同意した。
‘1)日本GM株式の51%を日本産業が即時取得する。
‘2)日産自動車全株式をGMが希望するならばGM本社ではなく日本産業が経営権を取得する日本GMに所有させる。
‘3)日本産業は提携成立後5年以内に日産自動車株式の51%を日本GMから買い戻す権利を保有する。
この3点は、陸軍省が日産-GMの提携成立要件として強く主張したものであった。』
(⑫P100)
 しかし、GMとフォードを日本から完全に駆逐せねば、国産自動車工業確立の機会を失い、産業及び国防上重要な欠陥を生ずることになると頑なに信じる陸軍省の同意が得られず(⑩P48)、『日産-GM提携交渉は1934年12月に解消された。』(⑫P101、⑰P32)
 以上が「第1次日産-GM提携交渉」の顛末となるが、その半年後、両社の間で再び「第2次交渉」が開始される。小型車ダットサンの話を記す上で、第2次交渉の経緯は必要性が薄く、次の(その8)の記事に先延ばししようとも思ったが、行きがかり上、この記事のこの場で簡単に記しておく。

17.3-2.7「GMとの提携交渉(第2次)」が再度決裂
 日米関係が一段と険しさを増す中で、日産-GMの提携交渉が、『「自動車工業法要綱」の閣議決定が確実となった1935年6月頃から、今度はGM側の要求により』(⑰P32)開始される。日産コンツェルンについての研究家、宇田川勝は、1935年8月の「自動車工業法要綱」の閣議決定を境にして、日産-GMの提携交渉を、「第1次段階」と「第2次段階」に分けている(⑰P31)。その「日産-GMの第2次提携交渉」について、以下も(⑫と⑰)からの引用を元に記す。
 頑迷な陸軍の対応を背景に、容易な妥協では解決できないと判断した鮎川は、GM側に強硬姿勢をもって対応した。強気の背景には、次項(17.3-2.8項)で記す、当初の思惑と違い小型車ダットサンの量産車工場となった横浜工場で、国産四輪車の量産・販売に日本で初めて成功し、軌道に乗せた自信もあった。
 下図はGMとの第2次提携交渉を行った1935年の国産自動車のメーカー別生産台数の内訳で、(⑱P231)の表、他を基に作成した。4輪車の分野では、台数ベースでは日産(ダットサン)が圧倒的な存在であったとともに、オート三輪も含めた総生産台数ベースでは、この1935年時点の「国産車」は、オート三輪と小型4輪車という民需主体の「750cc以下の無免許許可自動車」が主流だったことがわかる。(⑪P26)によれば、GMとの交渉決裂の理由の一つに、この頃になると日産内部にも、営業部門の責任者だった山本惣治らを中心に『ダットサンの製造販売を中心にやっていくべきだ』という意見が根強くあり、鮎川もそれを無視できなくなってきたからだという。)
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 話を戻す。鮎川は、もしGMが提携の実現を本当に望むのであれば、単なる資本提携でなく、日本GMと日産自動車の合併による新会社を設立し、その新会社を自動車製造事業法にもとづいて制定される許可会社とすべきであると主張する。そして現時点であれば、それが可能であると強調した。(⑰P32+⑫P102)その根拠として、
『この時点では、まだ商工省は自動車製造事業法による許可会社の少なくとも1社は外国資本との提携を認める姿勢をとっていたからである。』(⑰P32)
 1935年10月1日、鮎川はGM輸出会社役員H.Bフィリップスを伴い吉野信次商工事務次官を訪ね、その点の確認を行っている。岸信介工務局長も当時は同意見だった。(⑰P33)
 仮に自動車製造事業法が制定されれば、最悪の場合日本撤退を避けられないという危機感から、日本GM側が大幅に譲歩し、鮎川のその主張を受け入れる。
 交渉は比較的順調に進み、1935年10月末には日本GMと日産自動車の合併による新会社設立案も大筋で合意に達した。
 しかし翌11月、合併契約作成に入るとGMの本社側が突然態度を翻す。
 合併時の日産の資産評価等5つの項目を掲げて不満を表明し、日産の反論には直接回答せずに、新会社設立の最終交渉をニューヨークの本社で行いたい旨、提案してきた。
 1936年1月、日本産業取締役浅原源七と日産自動車取締役久保田篤次郎を派遣して行った最終交渉の結末について、(⑧P62)の座談会記録集に、浅原自身の証言が残されている。以下長文引用する。
『そのときのゼネラル・モータース本社の考えは「日本の軍部は国産車の生産を確立したいという考えを強く持っている。しかもドイツにおいては,ヒットラーがオペルの工場を接収した直後であり,日本における合弁会社もオペルと同じ運命をたどるのではないか」という懸念と,投資に対する不信感とのために,合弁会社の設立を見合わせることになったものと思われます。
 そのようなわけで、ニューヨークで合併会社の設立が不可能であるとの確証を得たので、両社の共同声明をニューヨークで行いました。それによりますと、日本に合併会社を作ることは、いまは適当な時期でないから、この計画は将来に延期したい、という趣旨のものでした。』

(下はPinterestより、「The Columbus Circle in New York City, 1930」の写真で、浅原と久保田はこのビルに向かい、交渉に挑んだのだろうか。)
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 wikiで当時のオペルについて調べると『GMはナチスの圧力で権利を放棄し、』とあるが、(web18、P148)や(⑲P230)でさらに確認すると、ドイツでナチス政府が樹立されると、その企業支配を排除する政策を次々と打ち出し、詳細は略すがオペル社は『民族資本系国産車メーカーに編成替え』させられてしまったとある。
 GM側からすれば、当初よりも大幅に不利な条件となった上に、大規模な投資が必要となり、そのうえ陸軍の一貫した厳しい姿勢からすれば、オペルの二の舞で、投資に対する安全性が保障されない、だから当面見合わせたい、というのが浅原の証言の趣旨だ。
さらに追記すれば、GM本社が「1935年11月」というタイミングで態度を翻した背景として、自動車製造事業法立法化を巡ってのアメリカ国務省と日本政府の折衝の結果が影響を与えていた。以下(⑳、⑤)を元に記す。
 1935年8月の「自動車工業法要綱」の閣議決定を受けて、自動車製造事業法の制定及び施行へと急ぐ日本政府に対して、同年11月、アメリカ国務省はこの法案が「日米通商航海条約」に違反するとし、駐日アメリカ大使館を通じて日本外務省に抗議を行う。
 これに対して日本政府は「国防(ナショナル・ディフェンス)」という理由を盾に、諒解を求めるのだが、アメリカ国務省は『これに異をとなえることは、~ 日米両国間の、いっそう深刻な対立につながる恐れ』があるとし、そのため、1935年11月というこのタイミングでは『これ以上深入りすることを避けた。アメリカ政府としては“ウェイト・アンド・シー(wait and see)”-静観する、という態度に出たのである。』(以上⑳P150)
 本件につき、事前に国務省と十分協議したであろうGM本社側もこうして、しばらく“静観する”ことにしたのだ。(⑧P62)からの引用を続ける。
『ところが、日本ゼネラル・モータースとの合併会社が不調に終わった直後に、自動車製造事業法が発布されることが決ったので、日本産業は日産自動車株式会社をして、同法による許可会社の申請を急いで出させることになりました。
 このように、3社合併の話は急転して、まるで筋合いの違ったものになりました。また、日産自動車は外車との提携から一転して、純国産車を造ることになったのであります。」
(⑧P62)
 実は浅原と久保田は『渡米に際して、鮎川からもう1つの使命を与えられていた。それは、GMとの交渉が不調に終わった場合、自動車製造事業法の許可会社申請に必要な大衆車設計図と、その量産に必要な機械設備一式を買い付けることであった。自動車製造事業法の許可を受けるためには、750cc以上の車種を生産しなければならなかったからである。』(⑫P102)
 陸軍・商工省の立案した国策に則った、シヴォレー+フォードの混成型大衆車の量産に動き、同法適用のための先手を打った豊田(トヨタ)の動向を踏まえてのことだが、ここからあとの話は、次の(その8)の記事で記すことにする。
 以下からは多少余談になる。先にオペルはナチス政権により『民族資本系国産車メーカーに編成替え』されていったとwikiから引用したが、さらにwikiを読み進むと、オペルの工場がドイツ政府に実際に接収されたのは、第二次世界大戦勃発後の1940年で、日産-GMとの最後の交渉の5年近くも後のことだった。裏を返せば、『ドイツでは、べつにアメリカの会社があってもいいではないか、それを自分たちはフルに活用すればいい、戦争がはじまったらそれを接収してしまえばいい、という考えです。日本でもそういう考えも一時はあったようです。』(⑳P218;宇田川氏談)
 設備投資させた後に外資を追い払っても、工場まで持って帰るわけでは無いという、割り切った(老獪な)考え方はしかし、純血主義?に徹した日本陸軍では受け入れられなかったのだ。
戦前日本の試作小型車に影響を与えた「オペルオリンピア」と「カデット」
 余談を続ける。下の写真のオペルの小型車「カデット」(Ope l Kadett)の生産も打ち切られるのだが、プレス型や設計図などは保管されていたため、ドイツの敗戦後、生産設備はソ連に運び去られ、戦後ソ連で「モスクヴィッチ((Moskvitch)=モスクワっ子の意味)・400/420」として生産されて、東側の世界で“有効活用”された。
(ちなみに「カデット」とは(士官候補生)意味で、オペルの上級車「カピテーン」(艦長)や「アドミラル」(提督)と同じく、海軍の職位を表していた。画像は以下のブログよりコピーした。https://www.favcars.com/opel-kadett-4-door-limousine-k38-1938-40-images-55335
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https://img.favcars.com/opel/kadett/opel_kadett_1938_images_1_b.jpg
(当時のオペルは『民族資本系国産車メーカーに編成替え』されたというが、その外観からは、小さいながらもGM車らしい雰囲気がただよう。上の写真の1938年型の初代カデット(K38型;4気筒SV1,073cc)と、(17.4-7項)の1938年型ダットサンと見比べてれば、排気量(大きさ)の違いはあるものの、自動車としての機能の差は見た目からも明らかで、このクルマならば小型タクシー用途でも、十分実用的だっただろう。実際、当時大需要者として一定の影響力のあったタクシー業界は、『小型車の規格をさらに1,200ccまで拡大し、小型タクシーの許可を求めるようになった』(⑤P215)という。
自動車製造事業法(1936年5月29日に公布)が、大衆車(フォード、シヴォレー級=3ℓ級)がターゲットなはずなのに敢えて750cc以上と、下の排気量からカバーしたその理由は、以前の記事(15.6-17項)でも記したが、オースティン対策ももちろんあっただろうが、この時代になるとそれ以上に、英国フォードやこのオペルのような米資本系の欧州子会社製の、より近代的な設計の小型量産車の排除を意識した結果だという。(⑲P236参考)
 実際wikiにも、『1940年前後にトヨタ自動車・日産自動車がいずれもオリンピア(カデットと同じオペルの一つ上のクラス;4気筒OHV1,488cc)の影響を感じさせる小型乗用車を次々に試作するなど、勃興期にあった日本の自動車技術にも影響を及ぼした』と記されている。石油資源の節約もあり、3,000cc級の“大衆車”は乗用車用途では日本ではムダに大きすぎることが次第にわかってきたのだろう。
 下の写真は「カデット」→「オリンピア」のさらに上位の、1939年型「オペル カピテーン」で、2.5リッター6気筒なので、当時の日本のいわゆる“大衆車”よりも小ぶりだが、日本ならば要人向けの公用車としても十分通用する、堂々たる車格だ。画像は以下よりコピーしたが、どうやら映画のワンシーンらしい。
 https://www.imcdb.org/v407375.html)
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https://www.imcdb.org/i407375.jpg
(さらにまったくの余談だが、オペルと日産自動車について、ネット上で面白いエピソードがあったので、ここで紹介する。JSAEのインタビュー(web19:「戦前の日産自動車(株)の車両開発」鍋谷正利)のなかで記されている逸話で、当時の日産自動車の、あの!久保田篤次郎常務が会社の通勤にオペル(カデットだったようだ)で通っていたのだが、鍋谷氏ら日産の開発陣はそのクルマを当然社用車だと思い込み、久保田氏の海外出張中にそのオペルをスケッチしようと分解・再組み立てを行ったのだが、あとで自家用車だとわかったのだという!平謝りに謝ったそうだが、後の車両開発に大いに役立ったそうだ。17.3-2.7
仮に戦時体制に突入せずに、ダットサンの生産を中止しなかったら、次のモデルチェンジの際には、オペルのカデットあたりを強く意識した設計になっていたのではないだろうか。ダットサンと係わりの深かった久保田篤次郎の愛車だったことを考え合わせればなおさらそのように思えるのだが。下のカタログはいつもこの記事でお世話になっているブログ「ポルシェ356Aカレラ」さん(web22-2)よりコピーさせていただいた、こちらは(たぶん商工省・陸軍省がオペル以上に警戒した?)「1935年 英国フォード「テン」本カタログ」だ。4気筒SV 1172ccだから、カデットとほぼ同クラスだ。

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17.3-2.8横浜工場の稼働と日本初の量産体制の確立
 ここで先送りにしていた、日産自動車(着工当時は「自動車製造株式会社」だったが)横浜工場の着工と稼働について触れておく。
 1933年8月(日産のHPによれば10月)、戸畑鋳物は横浜市神奈川区守屋(新子安の湾岸埋立地で現横浜工場敷地)に約2万坪の敷地を入手する((⑫P96)。
 そして同年12月、横浜工場建設に踏み切るのだが、既述の通り当初の構想では、当時進展していたGMとの提携を前提とした、大規模な部品製造工場の創設だった。
ここでも本題に入る前に、くどいようだが日産横浜工場建設にあたり鮎川が当初目論んだことを、再度確認しておきたい。以下(⑰)より引用。
『鮎川の計画によれば、5年間でシボレー部品の50%、フォード部品の30%の国産化を実現し、同時にダットサンの年間5,000台生産体制を予定していた。そして、鮎川は5年間で自動車製造技術を習得し、人材を育成したのち、本来の目的である大衆車の製造に進もうと考えた。自動車部品の国産化とダットサンの大量生産は、鮎川の自動車国産化計画において、困難な目標に近づくための迂回戦略として位置づけられていたのである。』(⑰P50)
 周回遅れ中だった日本の自動車産業を一気に確立するために、鮎川が現実的かつ最善な方法だと考えて、実行しようとしていた重要なポイントになるので、次項でまとめて、(⑤P191、P216)、(③-6、P173)等を参考に、少し突っこんで解説を試みる。

17.3-2.9鮎川の構想した「日本の自動車産業の確立策」(多少私見)
 まず当時、自動車を所管する官庁だった商工・陸軍・鉄道各省など官側が考えていた、自動車産業振興策について、前回記事(16.2-2項)の「商工省標準型式自動車」(=大きさはフォードやシヴォレーの“大衆車”より少し大きい中型トラック級)を事例に、再録で以下確認する。
「商工省・陸軍省と実務面を支えた鉄道省が標準型式自動車で目論んだことは、アッセンブリメーカーの統合+自動車部品の外注化・国産化という合理的な分業生産体制による、国産自動車工業の確立で、後の自動車製造事業法による、トヨタ、日産を担いで、フォード、シヴォレーのKD生産車に対抗するという“本番”に先立ち、TXシリーズはそのための試行(模索、予行演習?)というか、その出発点だったとも、言えるかもしれない。」
 そのため、「商工省標準型式自動車」の「実際の設計と試作にあたって鉄道省側が特に留意した点は、輸入部品依存体質を改めさせ、国産品に代替えさせることと、JIS及び国際規格に極力適合させる設計を行ったことだった。」
補足すれば、当時のメーカー側の立場に立てば、陸軍側から高い品質を求められていたので、軍用保護自動車では性能の劣る国産部品の使用は控えていた面もあったのだ。以上のように、自分の私見も交えて前回記事で記した。

 フォードとGMのKD生産車による国内市場支配を横目で見ながら、日本の自動車産業を確立するためには、市場の論理をいったん脇に置けば、生産規模の拡大(メーカーの統合による量産体制の確立)と、自動車部品の国産化を成し遂げることが、“肝” の部分であることが、官民ともに、次第にわかってきた。もちろん、自動車部品の国産化の前提として、自動車向けの素材や工作機械等の質の向上など、産業基盤全般の底上げが必要であり、そう単純な話ではないのだが。
 アメリカの自動車産業勃興期の状況を現地で目のあたりにした鮎川は、早くから“肝”となる技術の一つである自動車用マリアブル(可鍛鋳鉄)部品の国産化事業を立ち上げるなど、米2社の日本進出以前から、そのことを十分理解し、自ら率先して行動を起こしてきた。 
 しかし「日本の自動車産業の確立」という目的自体は、陸軍・商工両省と同じでも、鮎川のプランははるかに現実的かつ具体的なものだった。
 統制経済体制に移行し、政策の支柱部分を担った陸軍の論理では、GM・フォード等外資との提携は国策上(陸軍の視点に立てば「国防上」)考慮せず、市場の論理は重要視されなかった。あくまで供給側の論理に立ち、国産車を“大きく背伸び”させつつ、外資を排除していけば、最初は見切り発車気味に思えても、その間に官民一丸となり改善に取り組めば、次第に何とか立ち上がると甘く判断した。
 その結果、『ほとんど無から有を生ぜしめるような形で、』(⑳P72;岸信介談)“大衆車”を量産するための自動車工業を立ち上げることになるのだが、結局時間切れで未完成品のまま戦場に投入された、トヨタや日産のトラックを運悪くあてがわれた兵士達は、出発に際して水杯を交わす事態に陥った。戦場の兵站線確保が本来の目的だったはずの陸軍の大衆車政策は、肝心な戦争遂行の上では失敗で、大きな犠牲を払ったと言わざるを得ない。
 これに対して鮎川の自動車産業確立策は、官側よりもはるかに、国内自動車市場を含めた現実世界を見据えたアプローチだった。
 鮎川の冷静な判断では、『当時の日本の状況から考えたらすぐには国産化は無理』(⑳P218)であり、国産化が可能な水準まで引き上げるために、官側のようにGM/フォードを恐れずに、逆に懐に入りその力を最大限借りて、周辺技術を習得し、その差を埋めていきながら『それまでの外国メーカー向けの部品生産を拡大させる段階を経て完成車生産に行くという漸新的な計画であった。』(⑤P216)
 市場での直接対決を避ける(クラスを違えた「商工省標準車」のように(16.2-4項参照))訳でも、徹底排除(自動車製造事業法)するのとも違い、外資との協力姿勢を保ちながらも、『外国メーカーへの納入部品を増加させていくと、「5年もたてば和製の部品で全部の完成車ができあがる」(引用「日産自動車三十年史」P40)と見たのである。この戦略からGMとの提携交渉がはじまった』(⑤P216)。やがてシヴォレーの完全国産化が自然と実現できると踏んだのだ。
 さらにフォード/GM車と市場が被らない小型車『ダットサンの年間5,000台生産体制』を確立することにも大きな意味があった。
鮎川と日産の首脳陣は『小型自動車は形こそ小さいが主たる機構はほとんど大型車と同様であるから、(小型車で日産が独自に経験を積むことは)、進んで大型自動車の制作に転換するのに最も容易、且つ安全なる方策である』(⑤P192)(日産自動車、田中常三郎(17.2-10項参照)の証言)と考えていた。
「大衆車向けの部品製造」と、「日産独自の小型車の量産化」という、「二本立て」の戦略で得た知見の合わせ技により、シヴォレーの国産化のさらに次の段階では、日産自動車の自社開発の“大衆車”を市場に投入しようと構想していたのだ。鮎川(や、次の(その8)の記事で記す豊田喜一郎)のような、ずば抜けて頭のいい人は、やはり常人とは考えるスケールが違う。
 ここで、この一連の記事の“〆”の部分で、度々引用した(「轍をたどる」国産小型自動車のあゆみ」岩立喜久雄)より、今回の記事でも以下、引用させていただく。
『日本の自動車業界において誰よりも先見の明があり、また巨大企業グループを支配していた鮎川は、日本GMと提携を結び、やがて経営権を得てシボレーを一手に国産化する遠大な計画を進めていた。当時もっとも高度で現実的な計画だったのだが、これは陸軍によって阻止される。陸軍と商工省は昭和11年に自動車製造事業法を制定し、日本フォードと日本GMを国外へ排除してしまった。 極東一の自動車量産工場として昭和9年(1934年)に完成した日産自動車の横浜工場も、当初はダットサンのための工場ではなかった。』(③-6、P173)

 「戦前~戦中」という期間の、歴史の括りの中で考えた場合、この時期の日産の鮎川の壮大な計画が、「誰よりも先見の明があり、~当時もっとも高度で現実的な計画だった」という岩立氏の見解に自分もまったく同意です。切迫した時局と陸軍の度重なる阻止に直面したために、全般に時間が不足気味になってしまったことも事実だったが。
 ただその一方で、これも今まで何回か記してきたが、現実の歴史の複雑怪奇なところは、戦後世界一まで上りつめた、日本の自動車産業全体の歴史として俯瞰した場合、陸軍・商工省革新官僚が戦前に主導し、一部からは「天下の悪法」とさえ呼ばれた「自動車製造事業法」立法化をはじめとする数々の施策が、結果としては、戦後の国産自動車産業保護振興策として機能したこともまた確かだったのだ。
 “潔癖症”の日本陸軍がGMとフォードを早くから徹底排除した日本と違い、『ドイツは戦争中にフォード、GMを接収しますが、戦争が終わると両社とも再び活動を開始する。しかし日本には帰る足場がなかった。この差は大きい』(⑳P229;宇田川勝談)
GHQ占領下という、きわめて脆弱な基盤の上にたった、戦後初期のトヨタ・日産両社にとっては、このことが決定的な保護政策につながった。さらに戦前の統制経済体制下で陸軍・商工省革新官僚がうった数々の布石は、戦後通産省がその政策を引き継ぎ、一時期迄の日本の自動車産業の保護・育成策として、有効に作用した。
「戦前の国防」が最大の目的だったはずが、国防よりも「戦後の経済成長」の方に役立ち、後から考えれば、「結果オーライ」となっていく。
戦前の国家社会主義的な統制経済体制 ⇒敗戦 ⇒戦後の復興 ⇒高度経済成長(ゴルバチョフから「最も成功した社会主義国」(一億総中流化社会)と呼ばれた)までが、あたかも一つの「セット」としてプラニングされたかのような、謎の展開に至るのだ。

 ということで、例によって本題よりも前置きが長くなってしまったが、ここから前項(17.3-2.8)の横浜工場建設の話に戻り、以下(⑪、⑫、⑰)を参考(引用)して記す。

 まず横浜工場建設にあたっての基本方針として、『その範をアメリカに求め、主要機械設備を同国から輸入し、当時のアメリカの自動車工場で実施されていた生産方式の導入を計画した。』
 この計画実施のために、『プレス・鍛造用機械、その他工作機械類200台、それに付随する切削工具をアメリカから輸入するために三菱商事を一手買付け業者に指定し、同時にゴーハムをアメリカに派遣して、これらの機械類の選定と招聘する外国人技術者の人選に当たらせた。』(以上⑰P50)
 実際に輸入された機械類の80%は中古で、新品の購入は20%だった。当時アメリカは不況で、中小の自動車メーカーが倒産していたため、比較的安価に揃えられたという。(⑪P32)とはいうものの中古機械だったため、『そのオーバーホール、セッティングには多大な苦労があった』(⑬P74)ようだが、ゴーハムがアメリカから連れてきた優秀な技術者の指揮により、工場内に整然とレイアウトされていった。
『同時に、外国人技術者は、日本人技術者、工員に対して機械の操作と時間研究法による作業動作の把握、標準時間の設定方法などの工程管理技法を実地に指導した。』(⑰P51)量産工場を目指し作業内容はマニュアル化されて、『リミット・ゲージを用いて部品間の互換性を維持した。』(⑤P191)
 1934年になると、大阪の旧ダットの工場から後藤ら技術陣や工場従業員も横浜に移ってきたが、『大阪工場は当座、鋳物工場として存続』(⑬P74)していたという。
 こうして1935年4月、『わが国最初のシャシーからボディーまで一貫生産による年間5,000台の生産能力を持つ ~自動車工場を完成させた。』(⑫P96)
(下の写真は日産自動車HPより、(横浜)工場は、日本で最初にベルトコンベアーを導入した近代的な量産工場でした』ベルトコンベアーは70mだったという。(⑭P42))
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https://www.nissan-global.com/JP/PLANT/KIDS/ABOUT/IMAGES/img_01_04.jpg
 工場規模は1935年時点で敷地6.5万坪(⑤P191)まで拡張されて、その中には『機械工場、熱処理工場、組立工場、材料倉庫、車体工場、鍛造冶金工場、さらには事務所など』(⑪P34)が整然と配置された。『日産(戸畑鋳物)は参入当時から四輪車企業としては群を抜いて大規模な設備を保有し、~ 当時の大手三輪車企業あるいは軍用車メーカーよりも先進的であった。』(⑤P191)以下は(⑫P96)より引用する。
『横浜工場が本格稼働した2年後の1937年4月までにダットサンの累計生産は1万台に達した。年間5,000台の生産体制確立を目指した鮎川の計画は、2年目で早くも実現されたのである。ただしその一方で、』下表に見られるように、『自動車部品の生産はダットサンの量産化が予想を超えて進行したこともあって、計画通りには進捗しなかった。』多難だった今までの経緯を思えば、やむを得ないことだったと思います。
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 以上で「ダットサンの育ての親」である鮎川義介を通して、量産車としてのダットサン誕生までの経緯を記した17.3項は終わりで、次項(17.4項)は17.2項の続きでクルマ自体の話題に戻る。750cc時代に移行後の歴史を(今度こそ!)簡単に記して、戦前のダットサンの歴史を終えたい。だがその前に、1933年に無免許許可車の規格改正があり、750ccまで規制緩和されたその経緯を最初に触れておきたい。ただこの部分は、前々回の記事の(15.6-12~17項)と完全にダブり、そちらで長々と書いたので、詳しくはそちらをお読みいただくこととし、今回はダットサンに大きくかかわる部分のみ抜粋して記すこととしたい。

17.4-1小型自動車規格改訂(500⇒750cc)はダットサン有利に決着
 1933年、自動車取締令が改正され(公布が8月18日、施行が11月1日から;(③-8、P173))、それに伴い再度小型自動車規格が改訂された。車体寸法は変更なかった(長さ 2.80m、幅 1.20m、高さ 1.80m)が、排気量は750cc以下(4ストローク。2ストロークの場合は500cc)、出力4.5KW以下まで拡大された。さらに乗車人員の制限も撤廃されたため、四輪乗用車で四人乗りが可能になった。そしてこの改訂は、オート三輪以上に、小型四輪車のダットサンにもっとも恩恵が大きかった。
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 先にダット自動車製造が、オースティン・セブンの無試験免許適応を阻止するため、500ccにこだわったことを記したが、逆の立場からみた場合、セブンは750ccだったからこの制度の恩恵を享受できなかった(17.2-2項参照)。オート三輪の業界内では、各業者とも概ね同じ訴えであったので、この法規改正を巡っては、ダットサン対オースティンの第2ラウンドになるのだが、ここでは三輪の業界団体などからの陳情等を元に、(③-8)を参考書に、全体の流れを確認していく。
 まず初めの動きとして『芽生え始めたばかりの国産エンジンの製造業者達が会合を開き、次の2点の要望を内務省に陳情した。』その2点とは、「排気量750ccへの拡大」と、「乗用人員制限の撤廃」だった。
 その陳情を受けて内務省は1932年10月25日、改正案を事前に公表し、広く社会から意見を求めた!『内務省が公布の半年以上前に改正案の全文を公表するのも異例であった。当時の内務省による自動車行政は思いのほか民主的だったのである。』(③-8、P172)確かに、今のパブリックコメントみたいだが、現代のように形式的なものではなく、戦前なのにもっとオープンで民主主義的な姿勢だ。
 この内務省による事前公開もあり、東京で業界団体が正式に結成され、内務省の改正案に対してさらに「自動車税の減税」と「全長2.8mを3.0mに拡大」の2点を陳情している。ということは、内務省が事前公開した改正案では、750cc化と乗用人員制限の撤廃は含まれていたが、全長は2.8mのままで、変更なかったようだ。
 特に車体寸法に関しては、オート三輪メーカーの「日本内燃機」(くろがね)とオースティン・セブンの販売会社を抱える、大倉喜七郎男爵率いる大倉財閥系が、拡大を強く要望していた。一方日産コンツェルン系のダットサン側(「戸畑鋳物」⇒「自動車製造」の頃)は現状維持を主張して対立し、結局後者の意見が通る。以下も引用を続ける。『全長2.8m、全幅1.2m、全高1.6mはダットサンがギリギリ収まる大きさだった。オースチンはフェンダーを加工して幅を詰めたりしてなんとか対応していたが、1933年からはシャシーが6インチ長くなり改造できる範囲では無くなってしまった。』実際オースティンを2800mm以下に改造することはまず不可能だった(①P116)。そこで生産中止となったショートシャシーをまとめて特注し、それに日本の法規に収まるボディを国内で架装すると言う方法が考え出されたという。
 なお、この自動車取締令改定のタイミングで、法規上の「自動車の定義」が、「自動車とそれ以外(=「特殊自動車」(特殊な自動車)」から「普通・小型・特殊自動車」の三分類に変更される(詳しくは15.6-13参照;オート三輪やダットサンなどは「小型自動車」に分類)。
 それに合わせて運転免許制度も改訂されて、従来「運転手免許」だったものが、「運転免許」に代わり、「普通免許、特殊免許、小型免許」の三分類に変更された。小型免許に関しては、従来のいわゆる無免許運転可の特典を考慮して、無試験で申請許可制とし、利便性を維持した(「無免許運転制度」⇒「無試験運転制度」へ)。
 しかし1936年からは教習所の10時間技能証明書を提出して学科の口頭試問をパスしないと免許が交付されないように強化されて、次第に「無試験」ではなくなっていく。ただ免許取得可能な年齢は、普通免許と特殊免許は18歳からだったが、小型免許は16歳からで、ここでも利便性を保てた。この辺も詳しくは(15.6-14項)を参照してください。
 話を戻し、ダットサン対オースティンの、小型車の法規を巡っての戦いは、ダットサン側の主張の方が多く受け入れられたが、それは国産の小型四輪車の産業を振興させたいという、国家(この場合陸軍省を除く、主に商工省と内務省)としての意思も働いたのだろう。
 ここから先は下表に従い、1933年の“12型”から、戦前最後の1938年の“17型”までの各モデルについて、その変遷を記していくが、この部分は、日本のオールドカーの一番人気のオールドダットサンの世界の中でも、もっとも親しまれてきた部分で、web上でも情報があふれているはずなので(調べていませんがたぶん)、この記事では簡単に記し、戦前のダットサンについての項を終わりにしたい。
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17.4-2新規格(750cc)対応のダットサン「12型」(1933年)
 この記事の(17.3-2項)の冒頭で、「話題を(製品としての)小型車ダットサンに絞れば、大筋で不明な点は無く、話がスッキリとしてくる」と記したが、しかしこの「12型」だけは例外で、なんだかスッキリしない。その原因は2つあると思う。
 1番目の原因は下の写真の、日産自動車が昔から保管している「1933年型ダットサン12型フェートン(748cc型(日産自動車の表記)。747.5/747/745ccなどの表記もあるが、要は750cc規制時代エンジンの初搭載車)」 における“歴史改ざん”問題で、日産自動車自身が、このクルマの履歴を長いあいだ、下の写真のプレートにあるように(1932年製500ccの)「ダットサン1号車」だと偽ってきたことに端を発する。(画像は「名車文化研究所」からコピーさせて頂いた。https://meisha.co.jp/?p=11847)
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https://meisha.co.jp/wp-content/uploads/2019/11/176-1P01-1.jpg
そのことが尾を引いて、日本車の歴史で最も権威があるハズの「日本の自動車技術330選」(自動車技術会(web21))では、この写真のクルマのことを「1932年ダットサン 11型フェートン(747cc)」であると、相当矛盾のある表記を行っているし、「2011年日本自動車殿堂 歴史車(web4)」では「1932年ダットサン12型フェートン(495cc)」だと、さらに“異なった解釈”を行っているのだ。(2022年10月時点の話です。)
 しかし、(17.2-10項)で紹介したように、このクルマより明らかに古い、「戸畑鋳物㈱」が買収後の「ダット自動車製造㈱」時代の「1932年ダットサン11型フェートン(495cc)」が実在する(しかも近年、トヨタ博物館に収まった!)ため、当の日産自動車自身も、「日産に残る最も古いモデルである」と徐々にニュアンスを変えていく。
そして今では公式の見解として、『日産自動車が創業した1933 (昭和8)年12 月当時に製造されていた日産最古のモデル(=1933年型ダットサン12型フェートン(748cc型)』であるという、かなりまわりくどい表現ながらも、正しい歴史に軌道修正したのは何よりの話だ。(以上の“言い回し”は下記「日産ヘリテージ コレクション」より引用
https://nissan-heritage-collection.com/DETAIL/index.php?id=1 )
 しかし“本家”に途中で梯子を外された結果、一般人がweb上で戦前のダットサンの歴史を調べる際に、wikiや日産HPとともにもっとも引用すると思われる、上記の2つの“権威筋”が取り残されてしまったのだ。
 この2つの団体が国内に基盤を置く自動車メーカーの立場に配慮するのは当然で、そんなに野暮の事を言うつもりは毛頭ない。ただ90年近くも前の戦前の日本車の歴史に対してまでも、その時々の事情で“ローカルルール”を適用した結果の“負の遺産”を、いつもでも“継承”し放置しておくことは良くない。特に両webサイトが外国から検索されるケースも多いだろうことを考慮に入れれば、日産及び日本の自動車産業界全体にとっても、マイナスでしかないと思う。(5.2-8項)に記した「タクリ―号」の件もそうだが、せめて戦前の日本車の歴史については、一切の忖度なく公正中立な立場で、より正しい日本車の歴史の記述を行ってほしいと思います。(以上、まったくの個人的な意見です。)
 なお日産の現在の「公式見解」にも、かなりの“注釈”が必要で、(17.3-2.5項)に記したように、1933年12月26日、「戸畑鋳物自動車部」を本体の「戸畑鋳物㈱」から分離させて「自動車製造㈱」を設立、現在の「日産自動車」では確かにこの日を創立記念日としているので、上記の日産の表現で間違いではないのだが、厳密にはこの「自動車製造㈱」がその後1934年6月に改称し、ここで初めて「日産自動車㈱」が誕生する(同時に「日本産業」全額出資に変更している(17.3-2.6項参照))。さらに追記すれば、日産保管の実車の製造プレートには「自動車製造㈱」ではなく、それ以前の「戸畑鋳物㈱自動車部」製と刻印されている。(①P9に写真あり)
 こんなややこしい解釈を、後々まで延々と行うことになるのであれば、(17.2-10項)で写真を紹介した、個人所有だったが程度が良い上に、リーゾナブルな価格で日産に優先購入権があったとされている、大変貴重な「1932年製ダットサン11型フェートン(495cc)」を買い取っておけば、「現存するもっとも古いダットサン」の一言の説明で終わったと思うのだが・・・。
 次に2番目の理由だが、(17.3-2.4項)で記したのでその経緯は再録しないが、この時期のダットサンは、その存在自体が、半年ぐらい宙に浮いてしまい、消滅の危機さえあったという、非常に危うい状況にあり、1933年秋(10月?)の「12型」登場の前あたりが、ちょうどその混乱期にあたった。しかも前項で記したように500→750cc時代への移行時期とも重なったので、後の歴史の記述に多少の混乱が生じても、ある程度はやむを得なかったと思う。

以下からは「12型」のクルマ自体について、①と⑫を参考に「11型」との比較で記すが、基本的には法規対応によるエンジン排気量のアップ(495cc→748cc)と狭いながらも4人乗車になった事以外、「11型」と同じだった。細かい違いは①と㉑によれば、「外寸は変わらなかったが(2.8×1.2m)、ホイールベースを若干(1918mmに)伸ばし4人乗り仕様になり、右ハンドルでドアは前開き。セダンはディスクタイプホイールとなる。」ただ日産の保存車のドアは後ろ開きのようだが。
 その登場時期だが、(①P54)に『同年(1933年)秋に発表された1933年12型はエンジンを745cc12㏋/3600rpmに換装し~』と記されているが、法規改正((公布が1933年8月18日、施行が11月1日)とのタイムラグがない。(17.2-3項)で既述のように、750ccのエンジンの試作は既に終えていたという裏事情があったにせよ、混乱期にありながら迅速な対応だ。事前に入手していた情報に確信を得ていたのだろう。さらに追記すれば、ダットサンとオースティン・セヴンの両エンジンを分解調査して比較した(web20)P32のレポートによると、『オースチンセブンのエンジンのボア径およびストローク径が同一であり,シリンダピッチも同じ』だというので、基本設計はベンジャミンエンジンベースを踏襲したとはいえ(17.2-3項参照)、750cc版エンジンの市販化にあたり、やはりオースティンのエンジンも改めて参考にしたと言えそうだ。ボア×ストロークはスクエア(54×54mm)からロングストローク化(56×76mm)されたので、排気量UPとともに、スペック上はより扱いやすいエンジンになったように思える。
(誤解のないように追記しておくと、ダットサンの1933年の生産台数が202台にすぎないのだから、この日産自動車の保存車も、きわめて貴重な個体であるのは間違いない。なお下記のブログ(ペン・オンライン)によると、『この個体は「フェアレディZの父」として知られる故片山豊が1950年代に探し出し、レストアしたもの』だそうだ。下の画像も同ブログよりコピーさせて頂いた。https://www.pen-online.jp/article/006683.html
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https://s3-ap-northeast-1.amazonaws.com/statics.pen-online.jp/image/upload/news/vmagazine11/vmagazine11_NkUlJXE.jpg

17.4-3「ハート型グリルの」ダットサン「13型」(1934-1935年前期)
 「13型」以降の戦前のダットサン車の歴史に不明な点は無く、web上にも多くの情報がすでにあるが(たぶん)、「13型」から戦前最後の「17型」までの解説は、①からの丸写しに近い形で記していく。
『1934年9月に発表されたダットサン13型は過渡期的なモデルである。1934年当時は横浜工場がフル稼働する以前であったから、13型の部品製作・加工は、大阪工場と横浜工場で並行して行われていた。そのため、13型の完成シャシーには、時期により大阪製と横浜製があったと思われる。』(①P55)
 補足すれば、「13型」の時代は実用自動車製造以来の大阪工場から、量産のために建設中だった横浜工場への移行期にあたった。1934年に大阪の旧ダットの工場から後藤ら技術陣や工場従業員も横浜に移動してくる。こうして「13型」以降は車両開発の拠点が大阪から横浜に移るのだが、既述のように『大阪工場は当座、鋳物工場として存続』(⑬P74)していたようだ。(以上17.3-2.8項参照)
 以下、機構的な特徴を(①P55)の要約で引用すると、「13型」は機構的には「12型」を踏襲しており、エンジンも「12型」と同一だが、『シャシーはホイールベース、後トレッドをそれぞれ僅かに広げ、ボディも全長を5インチ延長した。因みに設計はなおインチ規格で行われていた。』という。
 この「13型」の特徴は何と言っても外観で、角形に露出したラジエターに代わり、傾斜したハート型のグリルが付いた点だ。『この通称“ハート型グリル”は、1932年の英国製小型フォード、8㏋モデルYに初めて現われ、翌1933年には米国製フォードV8に採用されて以降、全世界のメーカーが競って真似たデザインである。』(①P55)
(下の画像はいわゆる“ベビー・フォード”と呼ばれた英国フォードの小型車(933cc)モデルY(8㏋)で、これは1933年モデルだ。以下五十嵐平達による解説を(㉒)より
『この頃のダットサンはフォードのスタイルを踏襲していたが、これは世界的にも言えたことで、フォードのグレゴリーが1932年のイギリス・フォードYのためにハート型グリル付きのファッション的流線型は、その評判が良いことから米本国のV8モデルにも1933年型として採用され、それ以降世界の自動車スタイルにハート型グリルの時代を残すまでに普及した』(㉒P247)自動車デザイン史に「ハート型グリルの時代」というものがあったようだ。ちなみに「13型」からエンジンルーバーに傾斜が付くが、下の写真を見ると、これもフォードからの影響だったようだ。画像は以下よりコピーした。https://classiccarcatalogue.com/FORD_GB_1933.html )

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https://classiccarcatalogue.com/F/Ford%20gb%201933%208HP-Model-Y-TudorSaloon.jpg
(下の画像は1年遅れで「ハート型グリル」を採用した、アメリカ本国の1933年型フォード クーペ。画像は以下よりコピーした。
https://www.pinterest.jp/pin/531847037239544541/ )

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https://i.pinimg.com/originals/a1/c4/c8/a1c4c8119a65e650b788579c21c2ea09.jpg
(さらに下の画像は、(㉒)で五十嵐平達が『GMのハーリー・アール以外の殆どのデザイナーがハート型を志向したなかで、(本家のフォード以外で)一番魅力的に仕上がっていたのがシトロエン7CVから11CVへのスタイルであったと思う』とした、シトロエン7CVのクーペだ。画像は以下のサイトよりコピーした。https://www.citroenorigins.jp/ja/cars/traction-7 )
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https://www.citroenorigins.jp/sites/default/files/styles/1600/public/traction_faux_cabrio_62_1620x1000_2.png?itok=g17j6Ovf
(ところで肝心のダットサン「13型」の写真だが、webで検索しても、なぜか「大阪・交通博物館」にかつて展示されていたという、あまり程度がよくないクルマの写真しか出てこない。そこで(①P65)の「13型ロードスター」の写真をスキャンさせていただいた。ロードスターとフェートンのドアが後ろ開きの点も、「13型」の特徴の一つだった。
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17.4-4横浜工場で量産された初のダットサン「14型」(1935年-1936年前期)
 1935年春にデビューしたダットサン「14型」は、(17.3-2.8項)で記した横浜工場の稼働の時期と重なる。『それまで梁瀬自動車、日本自動車、大阪の豊国自動車に外注していたボディを自製し、その他機械加工、鍛造、板金加工などをも内製に転換した。』(⑤P193)
 シャシー/ボディの一貫生産体制を確立し、製造台数は一気に(3,800台/1935年)に達した。少数ながら輸出が始まったのも「14型」からだ(①P72)。(⑤P193)からの引用を続ける。
『日産は母体の戸畑鋳物がマテリアル(可鍛鋳鉄)の老舗であったし、特殊鋼・電装品・塗料などを製造する企業を傘下に抱えていたので、材料および部品調達の面でも他の企業より有利な立場にあった。』国産車の量産体制を日本で初めて確立するにあたり、過去鮎川が打った数々の布石が生きてきたのだ。
(下の写真は日産自動車のHPより、『横浜工場でのダットサンオフライン式の様子』1935年4月12日、「14型」ダットサンセダンが横浜工場の全長70mのコンベアラインに乗り、ラインオフした。左から四人目が鮎川義介だ。その左隣(左から三人目)が浅原源七、その隣が山本惣治、左端は久保田篤次郎だろうか(推測です)。)
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https://www.nissan-global.com/JP/img/80th/top/tail03-sp.png
 GMとの交渉が決裂し、思惑とは異なり当面ダットサンを主力とせざるを得なかった鮎川と日産首脳陣は、その拡販に力を注ぐ。
『ダットサンは販売促進ポリシーの点でも新しかった。~ ダットサンの主な顧客は、オーナードライバーや小売店店主などである。各販売店では運転講習会やユーザーによる遠乗り会を催す一方、女学校を卒業したての知的な女性を募ってデモンストレーターを養成、上・中流家庭を訪問させてご婦人のダットサン・ユーザー獲得に努めたりもした。大都市に、ダットサン専門の運転教習所が出来たのもこのころである。』(①P53)
(下の写真は有名なもので、「松竹歌劇団の舞台に登場したダットサンと“男装の麗人”水之江滝子」当時の日産の宣伝課には、「Z-car(フェアレディZ)の父」として1998年、日本人として4人目の米国自動車殿堂(Automotive Hall of Fame)入りを果たす片山豊ら、気鋭の人材がおり、斬新な企画を次々と行った。下の画像は下記ブログの「ミスターKの功績」より。ハート型グリルで兎のマスコット付きなので、「14型」ロードスターと思われる。)
https://car-l.co.jp/2020/07/18/35585/)
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https://car-l.co.jp/wp-content/uploads/2020/07/1120-3-768x612.jpg?v=1594960444
(下の写真も有名なもので、「多摩川で優勝のダットサン・レーサー(トロフィーには{商工大臣賞}とある)」。画像は上と同じく「CAR&レジャー」よりコピーさせて頂いた。https://car-l.co.jp/2016/03/08/3927/ 
以下、このレーシングカーの誕生のいきさつだが、1936年6月、多摩川河畔に建設された玉川スピードウェイを舞台に日本初の本格的な自動車レースが、報知新聞主催で3万人以上の大観衆を集めて開催される。この中で「商工省大臣カップ・レース」と称された小型車レースに出場したダットサンが、ライバルでワークス仕立てのオオタに惨敗を喫する。
主な敗因は、ダットサン側の出場車が、生産型を軽度にチューンした程度のほぼノーマルに近い、アマチュアの参加者だったためだが、たまたま子供を連れて観戦していた鮎川は激怒し、次回(同年10月25日)の第2回レースに優勝するよう厳命する。日産技術陣は白紙から僅か4カ月で、スーパーチャージャー付4気筒DOHCエンジンの純レーシングカーを作り上げ、同レースに雪辱を果たす(ちなみにオオタは出場せず)(①P85~P96とが詳しい)。
なお、どの文献に記されていたかは忘れたが、第1回レースでオオタに敗れた悪影響が、ダットサンの販売に現れたという。鮎川/ダットサン側からすれば、『外国車一辺倒の当時のわが国の社会で、国産車でもこれだけ行えるのだということを、レースによって立証したかったに相違ない』(①P87)という大義名分ともに、レースの細かい裏事情を知らない一般大衆に向けての、企業防衛的な活動でもあったのかもしれない。なおまったくの余談ながら、(①P85~P96)と(㉔P61~P72)は記述がかなり似通っているのに、著者名が違う(㉔は小林彰太郎、①が有賀次郎)が、後者は小林さんのペンネームだそうだ。)

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 話を戻し、以下は(①56)よりハードウェアとしての「14型」の特徴を転記する。
『14型からダットサンは初めて根本的な機構変更を受けた。基本的な設計は変わらないが、13型に比べて細部はかなり異なる。まずエンジンは全面的に設計変更を受け、排気量が戦後まで連綿と続く722cc(55mm×76mm)型になった。吸・排気系も改良され、出力は15㏋/3600rpmに向上した。』
 補足すれば、ボア径を縮めて748cc⇒722ccへの変更は、当時のエンジンはシリンダー壁の摩耗が激しく、ボーリングを定期的に行うのが当たり前で、そのたびにシリンダー径が大きくなり、1回のボーリングで750ccをオーバーしてしまうためにとられた処置だった。(⑪P43参考)
(オールドダットサンのなかでも量産体制に入った「14型」以降になると、netの画像も急に増えてくる。下は日産自動車保有の1935年型ロードスターで、画像は日産ギャラリーより。兎のマスコットが付くのも「14型」特徴だが、言うまでもなく“ダット”⇒“脱兎”⇒“兎が走る”をイメージしたものだ。日産の工業デザイナーで、戦後「フライングフェザー」や「フジキャビン」を生む富谷龍一がデザインした。)
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(富谷は兎のスケッチのため、上野動物園へ行くが“珍種”ばかりだったそうで、結局兎を(なぜか?)たくさん飼っていたという久原房之介の白金の豪邸(今の「八芳園!」)でスケッチしたという。(①P114参考)下のお洒落な画像は以下よりコピーさせて頂いた。https://ganref.jp/m/forging/portfolios/photo_detail/2758012
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(下はその室内だ。ちなみに(⑦P32)によれば、当時の銀座のプレイボーイの資格は、ライカ、手風琴、ダットサンの3つを持っていることだったそうです。画像は以下よりコピーした。https://car-moby.jp/article/automobile/nissan/phaeton/history-6/)
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①の引用に戻る。『シャシーでは、ホイールベース、トレッドともさらに若干拡大された。最大の変更点は、前輪の横置き板バネの位置で、前車軸の後方から前方に移されたことである。これ以前のダットサンは、前輪回りジオメトリー設計に初歩的なミスがあり、悪路などで大きく上下動すると前車軸、ステアリング・リンクの動きが干渉し合い、横振れを起こしてついには転覆する悪癖があった。これが、ジオメトリーの変更とフリクション・ディスク型ダンパーの採用によって、大幅に改善されたのである。』((①P56)
 今でいえばかなり深刻な欠陥だった。それとは逆に、戦前のダットサンが対オースティン・セブンで明確に勝っていたのはブレーキ性能で、『鋳鉄製ドラム(オースティンは最後期の37年までプレス製)の径は大きく、~当時の日産の資料によれば、50km/hから14mで停止するから、これは現代の車に近い。オースティンについては正確にわからないが、経験的にはこの倍くらいの制動距離』(⑦P27)を要したという。
(下は1935年製の「14型」のフェートンで、上の日産保有のロードスター同様程度が良いが、トヨタ博物館の所有車だ。画像はgazooよりコピーした。「14型」は「13型」と外観はよく似ているが、プレス成型のためボディの曲面が確かにリファインされた。ヘッドライトも曲面レンズの砲弾型になり、ハート型のグリルはやや縦長で、バーの数も多くなった。(①P69、㉑P9参考)まったくの個人的な好みで言えば、オールド・ダットサンのなかで、この「14型」のフェートンと次のセダンのデザインが一番好きだ。
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(下の2枚の画像は「14型」セダンで、画像は日産ギャラリーより。『14型のボディには、乗用車3種(セダン、ロードスター、フェートン)と商用車2種(14T型トラック、パネルバン)が揃っていた。』価格はセダン1,900円、フェートン1,800円、ロードスター1,750円、トラック1640円で、量産により「13型」に比べて価格引き下げが断行された。たとえば「13型」のセダンは1,975円、フェートンは1,850円だった。(①P57、P66、㉑P7参考))
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(下は後ろ姿で、この「14型」の時代では、小型自動車の規格内の全長2.8m以内に抑えるために、スペアタイヤはボディ内に埋め込む形状になっている。4人乗りのセダンを規制値内に収めるのは苦労があったようだ。だがバンパー分は除いても良いことになり、取り外し式にして規制をクリヤーさせている。)
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(下は同型車のカタログで、画像は「ジャパンアーカイブス」さんの「ダットサン14型」よりhttps://jaa2100.org/entry/detail/052660.html)
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(下の写真もカタログのコピーだが、facebookの「【にっちゃん資料室】第1回」よりコピーさせて頂いた、「14型」のセダンだ。
https://www.facebook.com/NissanJP/posts/975376245815889/?_rdr 横浜工場に本格的なプレスマシンを導入したといっても、セダンのルーフ用鋼鈑を打ち抜くまでの大型プレスマシンはまだなく、下のカタログのイラストの色の違いでわかるように、戦前のダットサンのセダンの『ルーフは鋼板ではなく防水布が張られており、それは遮音、防振に役立った。』(①P12)

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https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcTU-X3SUuatmNtwhdIeBuVFDoQaUBoTtv19cA&usqp=CAU
(余談になるが、ちょうどダットサン「14型」とちょうど同じ頃に、アメリカで起こった、自動車の屋根部分の金属化について、以前(12.16項「戦前アメリカ車の革新性その1(ターレット・トップについて)」)の記事を再録しておく。
『1920年代の末頃にアメリカ車の車体形式の主流が全鋼製のセダンになってからも、屋根だけは木骨時代の名残で布地をタールで塗り固めたものであった。これは木骨時代の防水構造が残ってしまったものであった。しかしGMフィッシャーは1934年12月に発表した35年型全乗用車、即ちキャディラック、ビュイック、オールズモビル、ポンティアック、シヴォレーにオールスチール“ターレット・トップ”を採用した。これはスチールのボディ骨格を、スカットルからリアウィンドーまでプレス成型の1枚鋼板で覆ってしまうものである。今日では当たり前すぎてちっとも面白くないかもしれないが、当時としては見た目のスマートさ、生産性、剛性(即ち安全性でもある)の向上などすべての面で画期的なものであった。』この頃のアメ車のなかでも特に、GM系自動車の技術力は圧倒的だったのだ。下の画像は以下より。https://www.atticpaper.com/proddetail.php?prod=1935-turret-top-cadillac-ad

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https://www.atticpaper.com/prodimages/090610_A/turrettop.jpg
(自分はこの一連の記事の(その4の後編)を書くため調べる前までは、戦前の多くのセダン型の自動車の屋根が、「木骨時代の名残で布地をタールで塗り固めたもの」であることを、恥ずかしながら知りませんでした。戦前のダットサンのボディが木骨に鉄板パネルを被せる構造で、セダンの屋根が防水布であっても、当時の常識では大きく劣っていたわけではなかったが、その点、トヨタ初の乗用車、「トヨダAA型」(1936年)は『キャビンのルーフをオールスチール製のターレットトップ(1枚ものの屋根)』(JSAE)にしており、GM(フィッシャー・ボディ)のように大型のプレスマシンで打ち抜いていたわけではもちろんなかったはずだが、当時としてはかなり進歩的な構造を採用したことになる。(https://www.jsae.or.jp/autotech/1-7.php) なお(①P114)に富谷龍一氏の回想として、日産横浜工場がダットサンのシャシーフレームの長大なサイドメンバー成形用に、米国クリアリング社製1,500トンのプレスマシンを導入し、富谷氏がデザインした1枚プレス用のラジエターグリルを、ワンプレスで打ち抜いた様子を語っている。下の雰囲気のある写真は「トヨタ自動車創業の地、豊田自動織機自動車部旧試作工場(現 愛知製鋼(株)刈谷工場)でのトヨダAA型乗用車」画像はgazooより。
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https://gazoo.com/pages/contents/article/event/170519/1.jpg

17.4-5「キャデラック型グリル」のダットサン「15型」(1936年-1937年前期)
①からの丸写しで恐縮だが、「15型」についての小林彰太郎さんの解説を引用する。
『ダットサンは年々着実に改良を受けてきたが、1936年後期型として現れた15型に至って、戦前のいわゆるオールド・ダットサンは、技術的にもスタイリング上でもほぼ成熟の域に達したといえる。』
(下の「15型」ロードスターの写真は、以下のブログより。https://minkara.carview.co.jp/userid/149144/car/46368/106417/1/photo.aspx#title 「15型」以降の写真のクルマは、バンパー付きでスペアタイヤが飛び出すが、その理由は『これら装備品が「小型車寸法枠外」となったため』(㉑P9)だ。)
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https://cdn.snsimg.carview.co.jp/carlife/images/UserCarPhoto/106417/p1.jpg?ct=484373bdffe4
 引用に戻る。『722ccエンジンは圧縮比を5.2から5.4に上げ、出力を16㏋/3600rpmに高めた。~ プロペラシャフト両端部にある十字型Uジョイントは短命で、ダットサンのアキレス腱と言われたが、これも15型から強化された。』(①P57)
「15型」のデザインについて、『15型のボディ・スタイリングは、明らかにGMのハーリー・アール調(自動車スタイリング研究家の五十嵐平達氏によれば、特に1934年のラサール)に範を求めたと見られ、細部まで神経のよく行き届いた成功作といえよう。』(①P57)
(下の「ダットサン15型フェートン」は、日産ヘリテージコレクションの所蔵車で、画像もコピーした。ちなみに個人的な好みで言えば、自分は「14型」の繊細な感じの方がより好みだが、多くの人が、オールドダットサンでイメージする姿は、この「15型」~「17型」だろう。確かにデザインの完成度が高く、凝縮された力強さが感じられる。実際にクルマを購入する側の目から見れば、より頼もしく感じられたのかもしれない。販売台数の伸びからしても、日本の市場でも好評だったことは間違いないのだろう。
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https://nissan-heritage-collection.com/CMS/IMAGES/car/2400/003.jpg
(下は「15型」ダットサンがモチーフにした、1934年型の「LaSalle sedan」で、画像は下記サイトよりコピーした。http://carstylecritic.blogspot.com/2018/04/lasalle-1933-to-1934-redesign.html
GMのブランド戦略のなかで誕生した「ラ・サール」の解説を、安直だがwiki+「yahoo知恵袋」より『1928年からは(キャディラックの)兄弟ブランドである「ラ・サール」を設立し、年々豪華さを増してゆくキャデラックより内外装の装飾を簡略化した廉価なモデルを発売することで、新たなユーザー層の獲得を狙った』、『キャデラックがお贈りする、ちょっと安く、肩の力を抜いたヨーロッパ風デザインの新ブランド」って感じです』

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https://4.bp.blogspot.com/-G-1p8FfwZHs/WhM9SEXGa0I/AAAAAAAAYUs/SdRqpzP8-ssF8Pf8nfCHBa70kc3xNicmACLcBGAs/s1600/1934%2BLaSalle%2BSedan%2B-%2Bfor%2Bsale%2Bpic.png
(下の2枚も1934年型「LaSalle Convertible Coupe」で、画像は下記サイトよりコピーした。さすがに流麗且つ、力感みなぎるデザインだ。https://www.conceptcarz.com/vehicle/z13444/lasalle-series-350.aspx
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https://www.conceptcarz.com/images/LaSalle/34-LaSalle-50_Fltwd-DV-14-PBC_t030.jpg
日本車とは別世界だ。
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https://www.conceptcarz.com/images/LaSalle/34-LaSalle-50_Fltwd-DV-14-PBC_t031-800.jpg

17.4-6販売の主力はトラックだった “ダットラ”の祖先「14T?型」「15T型」「17T型」(1935年-1944年))
 「ラ・サール」が誕生したアメリカの自動車社会とは背景が全く違う、当時の日本の社会のなかでは、ダットサンの販売台数は、セダンやフェートン、ロードスターなどの乗用車系よりも、下表のようにトラック系の方が多かった。『現実にダットサンを営業面で支えたのは、全国の中小企業や小規模商店などで、自転車やリヤカーに代わって重宝がられた“ダットラ”だったのである。』(①P60)この17.4-6項で戦前のダットサン・トラックについて、まとめて記しておきたい。
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 引用を続ける。『初期のダットサン・トラックは、乗用車と共通のシャシーに外注のピックアップあるいはパネルバンを架装したものだった。これが1936年になると、初めてトラック専用シャシーが現われ』た。(以上①P60)
トラック専用型シャシーの誕生は「14型」からだ。以下の引用は(⑩P51)より
『一九三四年一二月には従来からある「ダットサン自動車販売』を乗用車専用の販売店にして、新たに「ダットサントラック販売」というトラックの販売会社を設立した。日産の販売店が日本全国に張り巡らされ、販売とサービスの体制がつくられた。』トラックの拡販に向けて、一層の力を注ぐようになる。1937年2月には、両販社は「日産自動車販売」として再び統合されるが、販売の主力はトラックへと移行していた。
(話が前項の「14型」の時代に遡ってしまうが、下の写真はハート型グリルの『1935年型ダットサンのライトバンを横浜の本社正面に置いて撮影されたもの』(㉒)だ。背後に14型と思われるフェートンが10台ほど並んでいる。初期の14型パネルバンと思われる(①では「14T型」と記している)が、この時期は大阪と横浜の双方で組まれていたから、あるいは大阪製13型かもしれないという。ボディも外注と思われ、過渡期(初期)型であることは間違いない。(以上①P80要約)
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https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcT6BoDIVUI9sxUwlmOl-CJsQ-wU8iOIaYP7TFkzvzcUwDCgIyI5-9Y_kuszbhfAUVgf7oI&usqp=CAU
(“ショートケーキの生みの親”、銀座の洋菓子店「コロンバン」では、『皇室や宮内省への納品には、日産自動車が130台だけ生産した、当時としては珍しいダットサントラック14型を2台購入して使用していたそうです。』以上の文面と下の写真は、以下よりコピーした。https://news.line.me/detail/oa-preciousnews/36dc0d2682ce ただ写真のクルマはなんとなく、「14型」というよりも、フロントグリルの形状からは「15T型」(もしくは「17T型」)のようにも見えてしまうのだが、自分の見当違い?上の写真の初期型「14型」ベースのパネルバンと、下の「コロンバン」のトラックのボンネットの長さを比べれば明らかだが、後者の方はトラック専用シャシーで、荷室長を稼ぐために『同時期の乗用車に比べ極端にボンネットが短く、その分乗員は前に出され、立ったハンドルを抱え込んで運転しなければならない。荷物優先の』(①P82)設計だった。これに対して上の写真のシャシーは、トラック専用型ではないように(自分には)見える。
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https://scdn.line-apps.com/stf/linenews-issue-1728/rssitem-11576740/9bf06da18ca91217297e8415cec3a0fc9ac6f161.jpg
(下は日産自動車が保存している、「ダットサン14型 トラック」(1935年型)で、画像は以下よりコピーした。https://twitter.com/kousagisan_z/status/1215980706385416194 乗用車系よりもボンネット長の短い、明らかに14型のトラック用シャシー車だ。非常に些細な(ドーデモイーヨーナ)点だが、①では14型のトラック系シャシーのクルマを「14T型」としていたが、日産では“T”と謳っていない。後に示すが、「15T型」と「17T型」ではトラック系を“T”と謳っており、手持ちでもっとも古い資料の(㉖P137~P141)に「ダットサン小型自動車の製造系譜」というものがあるが、そちらでも日産と同様だ。①の認識違いなのだろうか?)
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https://twitter.com/kousagisan_Z/status/1215980706385416194/photo/3
(その車内で、やはり窮屈そうだ。画像は「日産ギャラリーフォトギャラリー」より)
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https://i0.wp.com/nissangallery.jp/wp-content/uploads/2018/08/20180803_ghq_085.jpg?resize=640%2C360&ssl=1
 1936年の「15T型」からは、シャシーだけでなく、ボディまで載ったトラック完成車として一貫生産されるようになる。エンジンは乗用車に準ずるが、シャシーは専用型として各部が強化される。フレーム部が強化され、後ろのバネは枚数を増し、タイヤも6プライになった。最終減速比は標準型で6.5だったが、最大500kgの荷物を積んで急坂を上る際に備えて、オプション型では8.66に引き下げられた。ボディにはパネルバンと一方開きピックアップがあった。(以上①P60、P83参考)
(以下からの「15T型」の3枚の写真は、いつもお世話になっている、ブログ「ポルシェ356Aカレラ」さん(web22-1)よりコピーさせて頂いた。)
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https://stat.ameba.jp/user_images/20141015/23/porsche356a911s/53/bd/j/t02200293_0800106713099288293.jpg?caw=800
 下の「ライトバン」型のカタログの文面には『【生きた廣告 移動する店舗】『美術的な色彩と意匠 印象的な可愛ゆき姿 街から街へ お店の商品とノレンとを暗示しながら スピードとスマイルとを振撒きながら 忠実な達者な配達車』と記されているそうだ。
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https://stat.ameba.jp/user_images/20141015/23/porsche356a911s/dd/9e/j/t02200165_0800060013099288291.jpg?caw=800
(「お店の商品とノレンとを暗示しながら」の、まさに「走る広告塔」だ。なお国産品奨励のなかで、ダットサンは警察や陸軍,逓信省などでも使用されていた。適当な写真が無かったので貼りませんが。)
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https://stat.ameba.jp/user_images/20141015/23/porsche356a911s/76/5f/j/t02200165_0800060013099302580.jpg?caw=800
 ところで、①など戦前のダットサンを扱った歴史書では「15T型」トラックが、『戦前最後の“ダットラ”』(①P81)だとしていたものがあったが、どうやら1938年モデルで『17T型』トラックというものが、存在していたようだ。
(下のヤオフクに出品されたhttps://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/o1050077493 の当時のカタログを見ると、確かに「17T型ダットサン トラック」と書かれている。)
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https://auctions.c.yimg.jp/images.auctions.yahoo.co.jp/image/dr000/auc0305/users/fb05aba95a2dd33123ba08380933e0b64370212b/i-img1200x900-1651396415rnoc9i105789.jpg 「日産ヘリテージコレクション」(下記サイト)でも、『ダットサントラック17T型は、15T型(1936年発売)の後を受けて1938年に登場』としている。https://nissan-heritage-collection.com/DETAIL/index.php?id=251
(以下の2枚の写真は日産が保存している「17T型」トラック(1938年)だ。)
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https://nissan-heritage-collection.com/CMS/IMAGES/car/2400/251.jpg
(17.3-2項の冒頭で、製品としての戦前のダットサンについて、「不明な点はない」などと書いてしまったが、書き進んでいくうちに、ごく細かい点では不明な点も出てくる。①だけで書き進んでは不安になり、古本で同じく定番本の㉔を購入し確認してみた。日本の代表的な自動車史家である五十嵐氏の「オールド・ダットサンの研究」が記されていたからだが、①の小林彰太郎氏と全体の基調は同じものの、トラック系の記述は若干異なり、小林が「戦前のトラック系は「15T」最後で、「17T」はない代わりに「14T」があった」としているのに対して、五十嵐は『「15T」系には社内呼称として、「16T」、「17T」もあった』(㉔P39)としている。些細なことだし、日産自動車が決めれば良い問題だと思えるのだが、日産自動車に対しての希望として、「日産ヘリテージコレクション」の“学術研究?”などの一環として、ハードウェアとしての戦前のオールド・ダットサンと、その“前史”としてリラー号(ゴルハム号を含め資料により排気量の記述がマチマチ)の、正しい歴史と体系を、型式/年代別に分けて、一度解説してもらえると、混乱がなくなり大変ありがたいのだが。過去のさりげない訂正にもなるし。ネットの時代なので、情報配信に、たいした経費もかからないだろう。下の写真は「日産ギャラリーフォトギャラリー」より、)
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https://i0.wp.com/nissangallery.jp/wp-content/uploads/2014/11/20141112_ghq_154.jpg?resize=640%2C480&ssl=1
オート三輪でなく“ダットラ”を選ぶ理由
 それにしても、ダットサンの“T(トラック)型”はボンネット・室内長を限界まで詰めるなど、相当頑張ってはいるのだが、それでも上の写真の荷台を見ても、全長(このクルマの場合、バンパー部分を含めて3,020mm)に制約があるため、荷室は広くはない。純粋に“荷物運搬車”の機能として、たとえば同じ750ccの小型自動車規格のオート三輪と比較した場合(以下㉓P77参考)、最小回転半径は小回りが利くオート三輪の2.40~3.40mに対して、大径タイヤを履いたダットサンは5.20m(ちなみにオオタは4.75m)というから格段に劣り、当時の日本の狭い街並みの中で、『小規模運送用車両としてこれは不適格である。』(㉓P77)(ちなみに同じ著者の(web23、P88)では最小回転半径を『“ダットサン”(4,120mm)、“オオタ”(4,723mm)』としており、年代によって違っている?)
 一方エンジンも、以下も(㉓P77)の略で記すが、たとえば750cc級3輪車の代表格、“くろがね”のVツイン731cc型エンジンとの比較で、くろがね側はフラットで扱いやすいトルク特性を誇ったが、ダットサンの722cc4気筒エンジンは高出力狙いで、『典型的な高回転低トルク型機関である。Vツイン機関の貨物自動車用原動機としての優位性は歴然としていた。』(㉓P77)ダットサンエンジンのトルクピークは3.75kg・m/2,000rpm、パワーピークは15HP/3,600rpmであったが、この回転数でのトルクは 2.98kg・mへと急激な落込みを示していたという(web23、P131)。しかも価格は、一概には言えないがオート三輪の×1.5倍ぐらいしていたようだ。
(下の写真は戦前のオート三輪の代表車種と言える、ダイハツHD型のバーズアイビューだが、荷物運搬に徹した潔い姿だ。)
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https://green.ap.teacup.com/hourou2009/timg/middle_1315991301.jpg
 それでもダットサンはトラック分野に限定しても、下表にみられるように、戦前のオート三輪メーカーのトップ2であり、トラックとしてのコストパフォーマンスでは大きく勝っていたダイハツとマツダの三輪トラックに対して、市場では十分伍して戦った。
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 オ-ト三輪には望み難い、「走る広告塔」としての効用以外の要素として、同時代を学生で過ごした五十嵐平達によれば、当時、以下に記すような“空気”があったという。
『~ その頃、大人になったら自動車を持とうなんて考えてる中学生は、公表したら精神鑑定されかねない世情ではあったが、私の夢はダットサンに向いていた。そして最も注目していたのがライトバンであった。ぜいたくがしたいのではない、運転がしたいんだと思う少年にとって、中小企業の社長さん級が自分で運転している社用のライトバンは何とも魅力的であったし、当時の庶民が自家用車を持つ手段としての姿がそこにはあった。~ 非常時に世間から非難されずに自家用車に乗りたい庶民の気持ちを、日産は知っていたらしいのである。』(⑦-2)
 戦前のダットサンの華やかな広告宣伝活動に、その一端が示されているように、「大正デモクラシー」の延長のような自由主義的なムードも、当時たぶん残っていたのだ。しかし日中戦争に突入し、自家用車を所有し乗り回す事自体、憚る雰囲気がどんどん醸し出されていったのだろう。そんな時代背景のなかで、オート三輪ではなく、“ダットラ”に乗ることは、本当は自分で乗用車に乗りたかった人たちの、ささやかな、自由の表現でもあったのだ。
『乗用車は1938年度をもって生産を中止するが、ダットサン・トラックは主として軍需用にその後も生産続行され、最後は1944年に及んだ。』(①P61)
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https://pbs.twimg.com/media/DhzIczFU8AEJiog?format=jpg&name=small

17.4-7「15型」の小変更型だった「16型」(1937年-1938年前期)と「17型」(1938年)
 再び乗用車系に話を戻す。以下も、(①P58)からのほぼ丸写しです。
「ハートグリル」で登場した「13型」の1934年以降、日産は早くもアメリカ流に、年々細かいモデルチェンジを繰り返す手法を取り入れていた。1937年にデビューした「16型」は機構的には「15型」と変わらず、主な変更はボディ細部の意匠だった。『16型からグリルはいっそう繊細なデザインになり、エンブレムとマスコットの変更を受けた。セダンのドアは後ろ開きのままだが、オープンモデルと新型クーペは前ヒンジに変更され、安全性を高めた。』(①P58)以上のような小変更なので、「16型」については、ネットで拾った写真だけ貼っておく。
(下は日産が保管している「日産ギャラリーフォトギャラリー」より、16型フェートンだ。)
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https://i0.wp.com/nissangallery.jp/wp-content/uploads/2021/04/20201127_ghq_053.jpg?resize=640%2C360&ssl=1
(同形車の当時のカタログから、「福山自動車時計博物館」のツイッターより)
https://twitter.com/facm_0849228188/status/1352134647560376323
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https://pbs.twimg.com/media/EsO9uWaVgAEZLog?format=jpg&name=medium
(下はトヨタ博物館所蔵の16型セダンだ。16型の外観上の特徴である、グリル中央のクロームメッキのバーがわかる。)
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https://i.pinimg.com/736x/71/34/39/713439d220486649ee67df2a101ad3a0--old-cars-japanese-cars.jpg
(下の16型ロードスターのカタログはブログ「ポルシェ356Aカレラ」さん(web22-3)よりコピーした。ドアは前ヒンジに変更された。)
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https://stat.ameba.jp/user_images/20131127/00/porsche356a911s/82/98/j/t02200165_0800060012762308460.jpg?caw=800
「16型」の目玉は下の写真のスタイリッシュなクーペだ。「16型」クーペは、『15型クーペよりも全体に丸みを増し、フェンダーはステップなしで前後は独立している。ドア窓はサッシュ式であり、ハンドルは楕円形の窪みに埋め込まれるなど、なかなか凝ったディテールを持った野心作であった。』(①P58)画像は以下よりコピーした。https://minkara.carview.co.jp/userid/582478/blog/34533176/)
(下の日産保管のクーペの塗装色の、ブルー系の淡いグレーが、当時の標準塗装色だった。なお「16型」のクーペは、石川県小松市の「日本自動車博物館」にも展示されているが、総生産台数は約200台といわれているようなので、いずれも貴重な個体だ。
https://www.motorcar-museum.jp/about/featured/feat-2f/ )
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https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/userstorage/000/019/626/043/258344845f.jpg
 クーペの解説を(①P58)からの引用で続ける。『これらの特徴は、当時少数ながらドイツから輸入され、日産でも購入したに違いない、1936年オペル・オリンピアから直接学んだことは明白である。』
(下の1936年型オペル・オリンピアの画像は以下よりコピーした。確かに全体的にエッジの立った、シャープなイメージは似通う。既述のようにオリンピアは、戦時下に試作されたトヨタや日産の多くの小型車のモデルになったクルマだ。https://12vshop.jimdofree.com/modelle-sondermodelle/opel-olympia/)
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https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=450x10000:format=jpg/path/sa64097db8e45f43c/image/iceeb6c36cb23b72c/version/1358520481/www-12vshop-jimdo-com-opel-olympia.jpg
(下の16型クーペのカタログもブログ「ポルシェ356Aカレラ」さん(web22-3)よりコピーした。クーペは「10型」、「11型」、「12型」時代からあったが、「13型」と「14型」には設定がなかった。「15型」から再登場するものの「17型」では再び廃止されてしまう。以下参照。https://nissan-heritage-collection.com/DETAIL/index.php?id=278
「16型」ダットサンが登場した1937年は、戦前のダットサンの生産台数のピーク(8,353台)の年だった。1937年7月から日中戦争が始まり、もはや「クーペ」が許容されない時代に突入していくのだ。)

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https://stat.ameba.jp/user_images/20131127/22/porsche356a911s/ef/0c/j/t02200165_0800060012763197841.jpg?caw=800
 続いて「17型」ダットサンの時代に移る。「17型」は、『ごく細かい点を除けば、機構的には16型を踏襲して、戦時のため乗用車生産が禁止される1938年8月まで生産が続行された。ラジエター・グリルの意匠だけは改められ、中央にボディと共色に塗装された太いバーが通り、エンブレムもその上に付いた。これはスタイリングよりも、実用上の必要から行われた変更と思われる。』(①P58)
 この時代は65オクタン程度の低質なガソリンなどが原因で、寒い冬の朝などはスターターではエンジンのかかりが悪く、クランクバーをバンパーとグリルの下部に設けられた穴に差し込んで、ガラガラ回してかけるのが日課だったという。その時に構造的に弱いグリルを損傷させる場合があり、その対策もあって、太い縦バーを通したのではないかと(①P58)では推察している。なお(㉑P9)では、機構面でバッテリーの6V⇒12V化を行ったと記しているが、(①)ではそのような記述がなかったことを追記しておく。
(下の写真は「日産ヘリテージコレクション」より、日産が保存している「17型」セダンだ。https://nissan-heritage-collection.com/DETAIL/index.php?id=6 5枚上の写真の「16型」セダンと外観上の比較をすると、「16型」はグリル中央にクロームメッキのバーが走るが、「17型」はボディと同色の、より太めの縦バーが入る点が異なる。写真では分かり難いが。)
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https://nissan-heritage-collection.com/CMS/IMAGES/car/2400/006.jpg
「17型」ダットサンの時代にも、乗用車系にはセダン、フェートン、ロードスターがあったが、実際には上の写真のクルマのように『ほとんどが黒か濃紺のセダンになった。ガソリンの配給は僅か5ガロン(18ℓ)/月に減ったから、大型車を休ませて専らダットサンを使う人が増えた。』(①P77)小型タクシー用としても重宝がられたという。先に記したように、1938年度をもって、乗用車の生産は中止される(トラックの生産は1944年まで継続)。
『そしてついにガソリンの使用が禁止されたのちには、木炭や薪などを蒸し焼きする釜を背負い、平ギアのセカンドをヒーヒーいわせながら、オールド・ダットサンは健気に走り続けたのであった。』(①P60)
 戦前の量産型ダットサンのまとめとして、最後も(①P61)から引用で終えたい。
『オールド・ダットサンは、当時の外国車、例えばオースティン・セヴンなどに比べると、品質・性能とも格段に劣り、故障も多かったのは事実である。しかし各部はよくバランスがとれており設計者の。想定した用途と限界を弁えて使いさえすれば、意外に長持ちし、それなりに役立つ昭和初期の国民車だったのである。』

 ハードウェアとしてみた場合、オールド・ダットサンは基本設計の古さから、上記のようにその性能に限界があったのも事実で、フルモデルチェンジが待たれていた。
 仮に陸軍の強引な横槍が入らずに、日産とGMとの提携がそのまま実現していれば、仮定の話なので以下は、あまり意味のない妄想になるが、小型車ダットサンの次のモデルは、(17.3-2.7項)の余談の所で記したように、「オペル カデット」(1,073cc)をベースに、日本市場向けに日産側でアレンジしたものになっただろうか。小型車の法規も、“国民車・ダットサン”に合致させるように変わっただろうか?オペルカデットからは、学ぶべき点が多かっただろうし、日産が次のステップで、独自の大衆車を造る際にも、大いに参考になったと思う。

17.5戦前のダットサンのライバル、オオタ他の小型四輪車について
 ようやく?戦前のダットサンの項が終わったので、次にその最大のライバルだったオオタをはじめ、その他のいくつかのメーカーについても触れて、この記事を終えたいが、この記事の冒頭で記したように、戦前の小型四輪車の世界では、ダットサンの存在が圧倒的に大きく、それ以外のメーカーについてはごく簡単に記すのみとしたい。

17.5-1ダットサン、オオタ以前の小型四輪車の歴史を簡単に振り返る
 だがここで、いきなりオオタ自動車の話に移る前に、ダットサンやオオタのような量産型が登場する以前の、戦前の国産小型四輪車の過去の歴史を、簡単に振り返っておく。
 ただしここで言う“小型車”とは、自動車取締令の適用除外を受けた「特殊自動車」として始まり、量産型ダットサンの登場で花開いた750cc規制の「小型自動車」(17.4-1項参照)へと至る、日本固有の法規上の小型四輪車(この項ではオート三輪は除く)の系譜のことで、オートモ号(諸説あるが945cc~1,800cc)や、リラー号(同様に926cc~1,260cc)などのような、法規上の優遇処置の適用を考慮しなかった小型車は除外する。
 前置きが長くなったが、この17.5-1項は前々回の記事「戦前日本のオート三輪史」から四輪に関連する部分を抜粋し、簡略化したものだ。引用元はすべて明記してあるので(=といってもほぼすべて、「轍をたどる」国産小型自動車のあゆみ」岩立喜久雄 月刊オールド・タイマー(八重洲出版)の連載記事からです)さらに興味のある方はこの貴重な労作を、ぜひ直接手に取り確認してください。
(※この項は年代的には、本来一番初めに来るべきなのだが、このような超マイナーな話題を最初に持ってくると、以降の本題であるダットサンの部分が読まれなくなるので、後方に持っていきました!)

17.5-1-1「自動車取締令」が発布(1919.01)
1919年(大正8年)1月11日、それまで地方ごとに異なっていた自動車規制が全国統一されて、内務省の省令第一号として「自動車取締令」が発布される
 その背景として『大正7年(1918年)末の自動車数(内務省調べ)は、全国で4万5千台を数え、この中には専業のお抱えや営業運転手だけでなく、新たなオーナードライバーも芽生え、自動車の種類も多様に膨らんでいた。そこで必要となったのが全国的に統一された取締令だったわけである。』(③-10、P172)(※前々回の記事の15.2項の引用。自動車取締令の基本的な考え方については(15.2-1~4項)を参考)
 この法令により、日本で初めて「自動車」という存在が定義づけられるが、『そしてこのオートバイ並みの無免許運転許可扱いが受けられる自動車を「特殊自動車」と呼んで、やや漠然と示した。』
メリットが大きかった「特殊自動車」
 しかしこの「特殊自動車」適用を受けると、無免許運転扱い以外にも『~最低限この2項目、すなわち最高速度(16マイル=25.6km/h)と交通事故の対処、またこれらに違反した場合の罰則規定が適用されるだけだったのである。』(③-10、P174)非常にシンプルな内容で、こうなると軽車輛の製造/販売業者にとっては、「特殊自動車」として認定されるか否かが、重要なポイントとなったのだ。
やや曖昧だった「特殊自動車」の定義
 だが以上のように、やや曖昧な定義からスタートしたため、この後「特殊自動車」として許容される車両の仕様は、社会情勢の変化を配慮しつつ、『内務省警保局と車輛製造業者や販売業者との間で、また地方長官や警視庁も含めた三つ巴の』(③-5、P164)、真摯な確認のなかで、『その都度、地方庁と内務省との間で通牒を交わし、小さな改正を重ねていった。』(③-3、P171)
 いささか“不透明”な決着方法でもあったが、日本の自動車社会が、まだ手探りの発展途上の段階にあり、小型車の方向も明確に定まっていない中で、関連する法規が、このような“弾力的な運用”に頼るのも、やむを得かったと思う。
(※この記事では省略するが、内務省・警保局の若手担当官として全体の調整役を果たし、国産小型車の発展を縁の下から支えたのが小野寺季六だった。戦前日本の自動車史を記す上で、欠かせない人物だったと思う。小野寺のことを記した15.5-28と15-5-29項及び、戦前の小型車を巡っての内務省による一連の施策が、私見ながら同じく旧内務省系の戦後の警察が、「電動アシスト自転車」の市場形成を“アシスト”した例と似ている?という15-5-30項記事は、この一連の記事の中でも特に読んでもらいたい部分です。
 下の写真は、後述する「警山第104号通牒」以前に、最初から「特殊自動車」として認定された、「オートペッド」で、アメリカ製の155ccエンジン付きキックスクーターだ。最近流行りの電動キックボードみたいだが、輸入元の中央貿易はこれに「自動下駄」のニックネームをつけて売り出した。しかし後述するスミスモーターホイールと違って、これはウケなかったようだ。当時の日本人の嗜好からすれば、「実用的」とは言い難い乗り物だったが、運転免許が不要との判断は頷ける。

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https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcRJF-flBnfjObWLfYo6DdxjX3Nt3PcCF27CzA&usqp=CAU

 以下からは、四輪車の分野に限定して、小型車の法規の変遷の中で、新たな時代を切り開いた、エポックメイキングな出来事だと自分が感じた(=自動車史の定説ではなく、あくまで個人的な意見というか、「「轍をたどる」岩立喜久雄(月刊オールド・タイマー・八重洲出版)」の、一連の連載記事を読んだ上での“感想”に近い)、3つの出来事を取り上げながら、その大まかな歴史をたどっていく。最初の歴史的な出来事は、下の写真のクルマから派生する。(以下からは前々回記事の15.1項のダイジェストです。)
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17.5-1.2スミスモーター系の車両が「特殊自動車」のお墨付きを得る(1921年12月)
 このクルマはアメリカ製の輸入車で「スミスフライヤー」(岩立氏曰く“走るスノコ板”)という。その動力源は、上の写真では見難いが、真ん中後方の“第5輪”?部分の「スミスモーターホイール」で、日本ではトヨタ(豊田喜一郎)が、自動車産業に乗り出すにあたり、最初に分解・研究したエンジンとして広く知られている。
 この「スミスモーターホイール」は当初複数の商社から輸入されていたが、最終的に大阪・西区の中央貿易㈱が、東洋一手販売元の権利を獲得する。そして二輪/三輪自転車用の、便利な後付けエンジンとして宣伝し、大量に販売する。
『大正7年(1918年)の夏にはすでに一千台を売りつくし、3度目となる次の荷着を待ちながら、その人気の高さを巧妙に宣伝し続けた』(③-10、P171)というから、その人気のほどがうかがえる。4サイクル単気筒201cc、2.5㏋ほどの小馬力のエンジンだった。下は通常の2輪自転車に動力輪として取りおうじとしては付けた例だが、この組み合わせは、一見してわかるように、駆動時のバランスが悪い。
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「オート三輪の始祖」の誕生
 やはり運命的な出会いだったと言うべきか、フロントカー型の三輪自転車との相性が、もっともよかったようだ。今回の記事では三輪の話はしない予定だったが、ジャンルは違うとはいえオート三輪の進化と発展の上に相乗りした形で、小型四輪車は発展して行った側面があるので、その“原点”の部分だけはこの項でも確認しておきたい。
 下の写真は(③-10、P171)からのコピーで、中央貿易ではなく、日本自動車の雑誌広告(雑誌「モーター」1917年11月号)だが、確かにこの広告には、関西や東京で一時期普及していたという「フロントカー型三輪自転車」の左側後輪に、「スミスモーターホイール」を装着する形で、「初期のオート三輪」と呼べるものが、自発的に誕生していった、その証拠が示されている。
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 下はスミスモーターの輸入元の中央貿易が、自社製の完成車として販売した、同じくフロントカー型の「オートサンリン」の写真だ。後輪左側にハッキリと、スミスモーターホイールが取りつけられている様子が分かる。
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 話を4つ上の写真の補助駆動輪付き四輪車、「スミスフライヤー」に戻す。この「スミスモーター」を原動機とした軽車両の「スミスフライヤー」や、1~2つ上の写真の「オートサンリン」の類を、通常の自動車と同列で扱うべきか、議論が巻き起こる。
『はたして特殊自動車として扱って良いものかどうか?という疑問でまず物議をかもしたのが、先のスミスフライヤーであった。スミスフライヤーのような豆自動車は、通常の自動車と同じ扱いには出来ない、と考えるものが多数現れた。これに対して内務省は、大正10年(1921年)12月22日、警保局長付けで各都道府県庁宛てに次のような通牒(書面で通知すること)を送った。』(③-10、P174)
「構造簡易、操縦亦容易にして、普通自動車に比し交通上の危険も寡少」(警山第104号通牒)
『その書面の別紙として、スミスフライヤー、オートサンリン ~ サイクロモビルの図を示し、『これらスミスモーター系の簡便な車両は、前出の取締令第33条の「特殊自動車」にあてはまると決めた。つまりこの時点から、スミスフライヤーとオートサンリン(この時点ではまだスミスモーター付きのフロントカーだった)は、全国的にオートバイ並みの取り扱いが許されるようになったわけだ。
 大阪の中央貿易によるスミスモーターの販売は、「小型自動車に関する件通牒」と呼ばれるこの省令によってさらに弾みがついた。前述のように大正6年(1917年)からすでに東京や大阪ではスミスモーター付きのフロントカーが自然発生的に出現し、商店の配達などに使用されていたわけだが、この通牒、警山第104号以降は「免状(運転免許)不要」のお墨付きで売ることができるようになったのである。』
(③-10、P174)
 スミスフライヤーは、本国のアメリカでは1922年当時で125ドル~150ドル(ちなみに同年のT型フォード(4気筒2,896cc)の価格は標準のツーリングモデルで355ドル)で販売されていたというが、下の写真からはアメリカでの使われ方がなんとなくイメージできる。
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 ところが、この超小型車が日本に持ち込まれると、紳士の乗り物へと変身するのだ。スミスモーターホイールの輸入元である中央貿易自身の手で、『黒塗のボディが被せられ~、さらに幌まで装備する~今日これらの写真を見ると、いい大人が子供用のペダルカーに座っているようで、いささか滑稽に映るが、当時の皆さんはじつに真剣だったのである。』(③-10、P172)
(下の写真は(③-10)=「轍をたどる」国産小型自動車のあゆみ」岩立喜久雄(月刊オールド・タイマー(2006.08八重洲出版)連載記事「スミスモーターと特殊自動車」、P173)からスキャンさせて頂いた。
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国産ボディを架装した小型乗用車の始祖、「フライヤー」
以下も(③-11)より引用。
『オートバイと同様に無免許で運転できて、駐車場が不要であり、税金もオートバイ並み(地方によって大きく異なるが)としたこの適用除外制度は、大正時代のユーザーにとって絶大な利点を生んでいた。当時はさほどに車税が高額であり、運転免許の取得も困難で、とどのつまりは業務用でもなければ、自動車の所有など、まだ雲の上の空夢であった。写真のように気取って豆自動車に乗った日本人は、「オーナードライバー」という概念すら湧かなかった時代に、これを楽しもうとした、ごく一部のモーターマニアだったのである。』(③-11、P175)
 前々回の記事で延々と記したように、戦前のオート三輪の歴史を辿っていくと、買う側が求めたものは一貫していて、無免許等の特典はそのまま維持しつつ、よりたくさんの、重い荷物を、安い購入費と維持費で運ぶ、業務用の道具としてであった。そして戦後の復興期に大型化を果たし、日本独特の乗り物へと更に進化を遂げたオート三輪は、同級の四輪トラックを圧倒し、その目的においてひとつの頂点に達する。
 しかし、オート三輪と同じ「特殊自動車」枠から発し、小型四輪車の始祖となったこの「フライヤー」号は、三輪系とは全く趣が異なる、オーナードライバー向けのサイクルカーとしてスタートした。当時の日本でこの車に乗っていた人は確かに、本当の自動車趣味人だったのかもしれない。
 当記事の編者の独断と偏見で、「スミスモーターホイール」を駆動輪としたアメリカ製豆自動車「スミスフライヤー」の“スノコ板”の上に、日本人の機微を十分理解した「スミスモーターホイール」の輸入元、大阪の中央貿易が、フォーマルなボディを架装した「フライヤー」号を、国産小型車四輪車の変遷を記す上で、最初のエポックメイキングな出来事(クルマ)とさせていただく。
(下の画像も、中央貿易が架装した格調高い?車体を載せた、「フライヤー」号の後ろ姿で、(③-11)、P175の画像をスキャンさせていただいた。)
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「スミスモーターホイール」が国産小型車誕生の引き金を引いた
17.5-1.2項のまとめとして、岩立氏の(③-10、P170)から引用させていただく。
『大正期の日本にモータリングの波を押し広めたのがスミスモーターホイールであった。まだモーターが有産階級の専用物であった時代の日本の自動車社会に、小さな風穴を空けたのが、わずか201ccのモーターホイールだったのである。
 その風穴はのちに国産小型自動車を発生させる引き金となり、自動車取締令の上に意外な影響を残すことになる。例えばもし日本でスミスモーターホイールの人気がなかったら、戦後の軽自動車の車両規格は生じていなかったといっても過言ではないだろう。』

 以上がガソリンエンジン(内燃機関)を動力源とする、「特殊自動車」認定された小型四輪車の歴史の始まりだが、実はそれ以前に、「特殊自動車」認定を受けた小型四輪車があったという!?(以下も前々回の記事の15.4-19、20項の、ほとんどコピーです。)

17.5-1.3スミスモーター車よりも先にEVが特殊自動車認定されていた!(1921年4月)
 スミスフライヤーや、フロントカー式の荷物運搬用オート三輪等、スミスモーター系の簡便な車両が、「警山第104号」で特殊自動車として認定された、その8ヶ月前の1921年4月28日付けの、「警視第90号」(「電気自転車に関する取締令適用に関する件通牒」)で、ドイツから輸入された電気式サイクルカー、「スラビー・ベルリンガ―」(「Slaby-Beringer electric car」=1919~1923年にかけて、ベルリンのスラビー博士が考案し、製造された、下の写真のクルマ、が、「電気自転車」(「自動車」でない)として、特殊自動車認定されていたという。
(画像は以下より https://timelineimages.sueddeutsche.de/slaby-beringer-elektrowagen-1919_00243886 )
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https://timelineimages.sueddeutsche.de/T/slaby-beringer-elektrowagen-1919_00243886_p_259868.jpg
 その経緯を例によって、岩立氏の(③-12)からの引用で確認する。
『この電気式サイクルカーが、大正10年(1921年)頃よりエスビー(S.B.)の略称で、日本で販売されたという記録が数多く残っている。輸入台数は300台に上ったとする記述もあるが、その数字の根拠は定かではない。』本当に300台だとしたら大変な台数だ。
 参考までに(㉕P141)によれば、このエスビーを『これから本格的に販売しようという矢先、不幸なことに関東大震災が起こって、』その被害は『不幸にも横浜にあった輸入電気自転車が約600台ほど焼失した』と、当時の業界紙が報じていたという記述がある。
 関東大震災により壊滅した市電網の臨時代替用として、東京市電局がフォードから緊急輸入して仕立て上げた「円太郎バス」の約800台が、画期的な台数だったと言われた時代だ。300台でも驚きだが、さらに600台となるとほとんど信じがたいような数字だ。(ちなみに参考までに、下記資料によると、EV「テスラ・モデルS」の2015~2020年の輸入台数総計が1,826台だ。もっと多い気がしていたが。https://www.businessinsider.jp/post-251790 )
 だが具体的な台数はともかく、今日我々が想像する以上の台数のEVが、当時の日本に輸入されていたことは、どうやら間違いなさそうだ。(③-12)から引用を続ける。
『エスビー車の東洋総代理店を務めたのは「日独電気自転車商会」であった。(中略) この会社が起こしたエスビー電気車販売と無免許運転許可願に対する内務省警保局よりの回答が、警視第90号(大正10年4月28日付)となったわけだ。』(③-12、P172)
 さらに丸写しを続ける。『警視第90号の内容を簡単にいうと、「エスビー電気車の外観は普通自動車と似ているが、操縦はむしろ自転車よりも簡単で(左手一本のレバーハンドルで操舵した)、特別な練習も不要であり、最高速度が10km/h以下と交通上の危険も少ないようだ。したがってこの自転車は、自動自転車(オートバイ)と同様に特殊自動車として扱ってよろしい」との通達だった。』(③-12、P172)
 この前例があったので、警山第104号の文中に『当省令自動車取締令の適用に付いては、本年四月二十八日警視第九十号を以て申進置候電気自転車と同様、特殊自動車として…』という一節が書き加えられる結果となったのだ。なお輸入元は自動自転車と称したが、『自転車式のペダルはなく、そのため語義からすれば電気自動車でもよかったはずだ。』(③-12、P172)ただ内務省としては自転車の表現の方が、認可する上で、都合がよかったかもしれない。
(ドイツ製の電気式サイクルカー、スラビー・ベルリンガ―の画像は以下(アウディ メディアセンター)よりコピーさせて頂いた。なぜアウディなのか、実はその後、DKW(アウディの前身)に買収されてしまうのだ。)
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https://audimediacenter-a.akamaihd.net/system/production/media/7880/images/59fbfe793fd8aa080b541751f56b0edb9504dd67/HI110055_full.jpg?1581998763
純国産小型EVの先駆、「タウンスター号」
 そしてエスビー車が特殊自動車認定を受けた2年後の1923年、同車を参考にした国産の車体に、日本電池㈱(現GSユアサ)製の国産「ジ―エス」蓄電池と、黒崎電機製作所製の電動機を組み合わせた純国産電動車、「タウンスター」号が、大阪の瀬川製作所の手で誕生する。
(下の写真も(③-12、P168)「轍をたどる」国産小型自動車のあゆみ」岩立喜久雄「国産電気自動車と特殊自動車の始まり」と同じものだが、(web24、P5)よりコピーさせて頂いた、「1923年、国産タウンスター号TSG/TSH型」)
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以下も(web24、P5)より引用
『エスビー電動車を模倣した形で国産の電動車が販売された。これはタウンスター(TS 電動車)と呼ばれ、大阪の瀬川製作所が製造した。瀬川製作所はエスビー社の輸入にも携わっていたということであるのでエスビー電動車をかなり参考にしたものとは考えられる。』
 そしてこの「タウンスター」号も、1924年12月24日、内務省より特殊自動車としての認可を得ている(③-1、P175参照)。
『大阪で生まれたタウンスター号は、ここに紹介した型録と写真、文書を残して歴史の闇に消えた。不成功に終わった多くのモデルの一つではあるが、草創期の国産小型自動車、とくに国産電気自動車の先駆であったことは事実である。』以下は(③-12、P175)
(下の写真と以下の文面も(web24、P6)よりコピーさせて頂いた、日本電池の創業者である二代目『島津源蔵が運転するタウンスター』(web24、P6)。だが、同じ写真で(㉕P138)では『エス・ビー電気自転車に乗る日本電池株式会社島津源蔵(「日本電池100年史」より)』と記されてある。ちなみに岩立氏の考証によれば、『瀬川の手が加わった改造車か、あるいはエスビーを模した試作だったのではないだろうか』(③-12、P174)と推測している。詳しくは(③-12)をお読みください。)
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 国産小型車四輪車の変遷を辿る上で、「フライヤー」号の登場の次に、エポックメイキングな出来事として、当時大量に輸入され、「フライヤー」号に先駆けて、初の小型四輪車として特殊自動車認定を受けたドイツ製小型EV「エスビー」号と、車体はその模倣ながら、革新的な蓄電池製造法(「易反応性鉛粉製造法」というそうです)を発明した、二代目島津源蔵率いる日本電池製のGS蓄電池と、国産モーターを搭載した純国産小型EVの先駆、「タウンスター」号の、2台のEVの登場を掲げておく。

17.5-1.4「横山式コンビンリヤカー/サイクルカー」が切り開いた道
 話題をガソリン(内燃機関)エンジン車に戻す。
 元々は適用除外制度から始まった、特殊自動車だが、無免許で乗れて、税金も安い上に車庫不要、小回りも効き荷物も積める便利の乗り物で、急速に普及し始める。しかしそうなるとやはり、より大きな荷物を積み、強力な登坂力を求めたくなるのが人情だ。
スミスモーター(201cc)の低出力に飽き足らない需要者の声を受けて、製造業者側は内務省警保局に働きかけ行い、スミスモーターに代わる、より強力なオートバイ用エンジンの、法規適用を求めていく。
 特殊自動車の行政を司る内務省側も上記の事情は十分承知していた。しかし当時オート三輪業界への参入障壁が低かった中で、内務省警保局の立場としては、一部の不届きな業者を排除し、市場の無秩序な拡大を防ぐことで、既存の交通体系を安全に維持していくことの方を優先する。
 現在一般的には、「特殊自動車」というよりも、「無免許三輪車」とよばれていることも多いこの制度は、内務省側の視点に立てば、『無免許で乗れる車というよりは検査に合格した車という意味合いが強かった』(⑤P122)のだという。
『その際に、もっとも重視されたのは道路交通の視点から見て、一定以上の性能を持っているかどうかであった。』(⑤P122)
 一部の怪しげな、特殊自動車の申請者(15.4-13項参照)を排除する意味合いが強かったようだ。そのため内務省はこの、ままこみたいな微妙な立場の、この「特殊な自動車」の普及拡大に、当初は慎重な姿勢を示した。⑤から引用を続ける。
『無免許車の許可が車輛ごとでなく、検査に合格した製造業者に下されたことも、車両の性能を重視する発想からきたものであったと思われる。というのは、車両検査の際には車体自体だけでなく、製造業者が検査車輛以上の性能を備えた車両を持続的に供給できるかどうかについても調べており、後述するように、三輪車の性能が問題にならなくなる30年にはこの方法が変更されたからである。』(⑤P122)
認証試験の始まり(「青写真時代」)
 そのため所管の内務省警保局は、製造業者側の思惑とは裏腹に、特殊自動車の認証手続きをより厳密化し、審査(認可)のハードルを引き上げる方向に動く。
 ある不心得な許可申請をひとつの契機に(15.4-13項参照)、内務省警保局が行なう、特殊自動車の認証手続きに変更があったのは1924年以降のことだった。
 申請(許可願い)の際には『必ず詳細な構造説明書と共に、設計図の青焼きの添付が義務づけられた。のちに三輪自動車業界の開拓者達は、この3馬力時代、5~6年間のことを「青写真時代」と呼んで懐古したが、青写真が申請上、必要不可欠となった時代をさしたものだ。』(③-3、P170)しかも、書類審査だけでは終らなくなった。
 書面による審査と共に、『特殊自動車の製造者からの出願に対しては、とうとう一台ずつ車両を持参させ、実地試験を行うこととした。つまり認証試験の始まりである。そして審査に合格した車両については、車両名、製造者名、仕様を明記し、青写真を添付して、全国の各地方庁へ「この種の車両に対しては無免許運転を許す」と一々通牒するようになった。現在の型式認定の原型に近いものだ。』(③-3、P171)
 一方の製造業者側も『内務省警保局からの認証を得るため、万事これに従い、また内務省警保局も真摯に各車を審査していた。』(④-11、P171)交通体系全体に支障が起きないよう、官民が協力して、特殊自動車の性能確保に努めていたわけだ。
 そういった、内務省と製造業者の間で、真剣なやりとりが行なわれていた中で、次に記す、神戸自転車業界の祖と呼ばれた有力業者、横山商会の横山利蔵と、内務省警保局の担当官、小野寺季六の間で行われた一連の折衝は、国産小型車の歴史を記すうえで特筆すべき出来事となった。(以下は前々回の記事の15.4-14項~15.4-18項の簡略版のコピーだ。小型四輪車の歴史からすれば“前哨戦”であった、リヤカー式オート三輪の話から始めるが、元ネタはこの項“も”、岩立氏による③-11と③-13です。詳しくはぜひそちらをご覧ください。)
「横山式コンビンリヤカー」が切り開いた道
 この項の主人公の、神戸の横山利蔵率いる横山商会は、『明治30年創業の自転車輸入業の老舗で、大正8年(1919年)5月に株式会社横山商会と組織変更後は、オートバイ及び部品の輸入、また国産自転車部品の輸出を行った。』ちなみに商標名の「コンビン」は、「Convincible(確信できる)」の略だったそうだ。
横山はまず、ビリヤス自動自転車で、自動車業界に進出を果たす。イギリス製のビリヤスエンジン(247cc及び342cc;15.4-26~29項参照)を搭載したオートバイで、『フレームなどの車体は阪神地方で製作した、いわば半国産車であった。』当時、車両価格を抑えるためにしばしば行われた手法だったという。(以上③-13、P170)
『自転車部品メーカーが数多く点在した阪神地区ならではの背景が見えてくる。英社系自転車輸入業の草分けだった横山商会は、自転車フレームなど部品工場との関係が深く、そのため逸早く三輪車の製造に手が届き、コンビンリヤカーの販売に至ったものだ。』(③-13、P170)
 こうして二輪だけでなく、三輪のコンビンリヤカーの販売にも商売を広げるが、その過程で、『愛知県知事より内務省警保局長にあてた、「自動車取締令適応に関する件」とする、コンビンリヤカー三輪車に対する照会』(1925年8月13日付)が行なわれる。
コンビンリヤカーは特殊自動車とは認めがたく候(1925年10月)
 たまたま愛知県内で走っていたコンビンリヤカーについて、愛知県より内務省警保局宛てに、特殊自動車と扱って良いかの照会だったらしいが、これに対して内務省は1925年10月10日付けで「自動車取締令に関する件回答」として、概略以下の内容の通牒を発した。
『コンビンリヤカーは、これまでの前例、オートサンリンやアイザワ号(15.4-12項参照)などと比べて、排気量が半馬力、全長が四寸、全幅が二寸オーバーしているため、無免許運転許可の特殊自動車とは認められない、との明確な回答であった。また愛知県からの照会には、構造書の写しがあるのみで、肝心な構造図面や操縦法説明書の添付がなく、これでは判定しがたいとした。』(③-13、P170)
コンビンリヤカーは特殊自動車として取扱い相成度候(1926年1月)
(③-13)からの丸写しで恐縮だが、以下からも引用させていただく。
『右の愛知県と内務省とのやりとりをはたして察知したものかどうか、神戸の横山利蔵はすぐさま大正14年(1925年)9月24日付けで内務大臣あての陳情書を送っている。』(③-13、P170)
 横山は内務省から正式にNGの回答が出る前に動いている。内務省とはこの件で折衝があっただろうし、事前に感触をつかんでいたのだろう。内務省宛てで、コンビンリヤカーを特殊自動車として扱ってほしい旨の陳情書を行ったがその内容は、(③-11、P171)によれば、用意周到なものだったという。以下ダイジェストで記すが、詳しくはぜひ元ネタの方をご確認してください。
 用意した書類だが、添付を指摘された構造図面や操縦法説明書は当然ながら、大阪工業試験所による試験成績書と、三宮警察署による速力証明書まで揃えて提出した。構造書に記載のスペックも、エンジンは同じビリヤス製ながら、排気量が半馬力オーバーしているという指摘を受けて(見越して)342cc型(3馬力半)から、247cc型(2馬力半)型に変更している。車体寸法も全長8尺、全幅3尺、変速機は前進2段等、内務省の“前例主義”を見越して、過去の無免許許可車(アイザワ号など)にほぼ収まるスペックであった。
 この“反撃”に対して内務省警保局は、1925年11月14日付けの通牒で、三宮警察署の速力証明には、試験環境データ等が欠けている旨、兵庫県知事宛てに通知する。かなりの“お役所仕事”的な対応にも思えるが、ただ今まで見てきたように、元々オート三輪系の特殊自動車の発端は、自動車取締令の解釈を巡っての特例処置の扱いから始まった。その後“拡大解釈”を繰り広げつつ、市場と共に成長していくことになるのだが、内務省側としても、要所要所で厳格な審査を行うことで、一定の歯止めをかけておきたかった気持ちは理解できる。以下(③-13、P171)から引用する。
『なんとも厳密なお仕事ではあるが、これを受け取った横山利蔵は、また一念発起したことだろう、翌月12月8日、再度周到な実地試験を施行し、警保局の疑問にすべて沿った試験結果を、兵庫県知事を通して回答した。』
その試験結果を受領した内務省警保局は、1926年1月25日付けで、横山式コンビンリヤカーを、特殊自動車として扱う旨の通牒を発した。
 コンビン号よりも以前に、ビリヤス系エンジン搭載車の先例が、阪神地区で、いや全国でも発生していた可能性は高いが、内務省警保局と相対して正式に認可を得た先覚者は神戸の横山利蔵であった。こうして三馬力半時代の車輛規格は、横山利蔵のビリヤス系リヤカーによって露払いが行なわれ、大きな前例となっていくのである。(③-13、P170+P171)
(下の「コンビンリヤカー」の画像は(③-13、P175)よりスキャンさせて頂いた。)
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四輪の「コンビンサイクルカー」も特殊自動車として認定される(1925年12月)
 しかし横山利蔵の功績は、これに留まらなかった。以下も(③-11、P175)より引用する。
『さて神戸の横山利蔵は、前述の三輪コンビンリヤカーと同時に、じつは四輪のコンビンサイクルカーも制作していた。いわばコンビン号の四輪版であった。ビリヤスの2馬力半、247ccを搭載したこの豆自動車は、輸入エンジンを利用した国産サイクルカー(四輪)として初めて、特殊自動車の認可を得ることになる。』以下『難路を超えた申請の経緯』を、(③-11、P175~P177)を元に簡略にして記すが、何度も記すが詳しくはぜひ原文を参照して下さい。
 まず横山が四輪版の豆自動車、コンビンサイクルカーを作った背景だが、その7年ほど前、アメリカから輸入された例の“走るスノコ板”、スミスフライヤーに、輸入元の中央貿易が見た目は立派な和製ボディをかぶせた豆自動車「フライヤー」号が、意外なヒットとなったことがあったと考えられる。(17.5-1.4項参照)
『このとき横山はフライヤーと同じ車体寸法で、同じような体裁の豆自動車を製作すれば、(スミスフライヤーのように)適用除外が受けられると判断したのだろう。つまりフライヤーの後釜を狙った国内制作車がコンビンサイクルカーだったわけだ。』(③-11、P175)スミスエンジンでなく、より出力のあるビリヤスエンジンでの適用除外突破を狙ったのだ。
 ところがこの横山の試みに対して、今度は内務省でなく、なんと横山の地元、兵庫県と神戸市警察が『横山利蔵と内務省の間に分け入って、特殊自動車の承認をふさぎとめようとした』のだという!
 その反対理由だが、当時『兵庫県下では「これら除外の」特殊自動車による事故が度々起こり始め、警察は手を焼いていた』という、これも地元警察の立場からすれば、至極もっともな理由があったようだ。(以上③-11、P176)
 既述のように、当時の特殊自動車の認可の可否は、内務省警保局と車輛製造業者や販売業者だけでなく『地方長官や警視庁も含めた三つ巴のやりとり』(③-5、P164)で決定されていた。地方長官や警察は、地場産業振興のため好意的に受け取る場合だけでなく、その逆に出る場合もあり、コンビンサイクルカーの場合、後者だったようだ。
 その後の途中経過は省略するが、内務省警保局は『じっさいに横山のコンビンサイクルカーを東京へ持参させ(恐らくは皇居前広場周辺において)実地試験を行う』③-11、P176)という、厳密な審査を行った結果、例の『普通自動車と比べて、簡便かつ安全であるからよいだろうとする』、スミスフライヤーの際と同じ理由付けで、内務省警保局は、1925年12月20日付けで、横山式コンビンサイクルカーを、特殊自動車として扱う旨の通牒を発した。

以下まとめとして、(③-11、P177)より引用する。
横山が開けた小さな風穴は、豆粒のまま終わらず、その後大きく広がっていった
『以上のように横山式コンビンサイクルカーは、3馬力時代の四輪乗用車の認可においても先鞭をつけることになった。やがてコンビン号の後を追いかけて、3馬力、5馬力時代の三輪・四輪乗用車が次々と出願され、のちの750cc時代の小型四輪自動車の土台が、徐々に築かれていく。コンビン号自体も、昭和7年には、500cc時代の小型乗用車へと進化していた。
 横山利蔵がここで開けた小さな風穴は、けっして豆粒のまま終わらず、大きく広がっていったのである。』
(③-11、P177)
 下の写真がその「ヨコヤマ コンビン サイクルカー」で、今日の目から見れば正直なところ、チープなアッセンブルカーの一例にしか見えない。しかし“自動車史”を記す上で、何に重きを置くかの優先順位は、単純に技術の優劣や販売台数の序列だけではないと思う。3馬力時代の小型四輪乗用車の新たな道を切り開いた先駆者として、このちっぽけなサイクルカーの誕生を、まったくの私見だが、3番目にエポックメイキングな出来事だとしたい。
(写真は「轍をたどる」国産小型自動車のあゆみ」「三馬力時代のビリヤス系三輪と四輪」(1925~1929)岩立喜久雄 月刊オールド・タイマー(2007.06、№.94、八重洲出版)」(③-11)のP168の写真をスキャンさせて頂いた。
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その後の経過を(③-3、P173)から補足すると、
『 ~ 3馬力以内という特殊自動車の規定が、いつのまにか3馬力半以内とすり変わる地方例が出た。結局のところ2衝程のビリヤスについても、3馬力半(342cc)までが特殊自動車として認められるようになる。嚆矢となった横山式コンビンリヤカー(247cc)は、一番槍ゆえに少々割を食ったかたちだ。この3馬力時代のことを、3馬力半時代と呼ぶ例(地方令から)があったのも、右のような理由だったのである。』
 再三記してきたが、特殊自動車の定義自体がもともと、やや曖昧なものだった。そのため認証仕様の詳細部分は、実態と照合しつつ『逐次問題提起され、修正されていった』(③-13、P168)。(内務省からすれば身内の)地方の裁量権を行使されて、後方から弾が飛んでくることもある。内務省警保局担当官の小野寺らは、これらの苦い教訓を、次の5馬力時代、次の次の750cc時代の認可仕様に生かしていくことになる。
 下は「特殊自動車3馬力時代の代表的なエンジン」の表で、いずれも輸入モノだ。横山のコンビンリヤカーが先鞭をつけた形で、スミスモーターに代わり、よりパワフルなオートバイ用のビリヤスエンジン搭載のリヤカーが主流となっていくが、その後すぐ後に、同じくイギリス製のJAPエンジン時代が次に到来する。
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500cc/750cc時代の小型四輪各社について
 例によってかなり長めになってしまった。ここからようやく、ダットサンやオオタが登場する500cc時代の小型四輪車の話になる。初めから(③-6、P166)の丸写しで恐縮です。
『無免許運転が認められた特殊自動車の部類に属する先駆的な国産小型四輪自動車については、古く三馬力(350cc)時代より、横山式コンビン号(大正14年;1925年)などの草分けが登場していた。昭和5年の五馬力(500cc)時代に進むと、以下の小型四輪各車が出現した。』
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引用を続ける。『~各車の多くは、この時代に勃興した三輪自動車用の輸入エンジンを流用した、手作りのアッセンブル(組立)車であった。未だ旧態依然のサイクルカー的な、一人乗りないしは二人乗りの乗用車が多く、実用に耐え得る運搬車の類は少なかった。』(③-6、P166)
 上表にある横山商会(横山式コンビン号)ついては前項で、モーター商会(MSA号)については(15.4-27項)を参照いただきたい。
『だが昭和8年に入ると、三輪業界全体の低迷を受けて、小型四輪の製作工場も激減した。』(③-6、P166)
 昭和恐慌と、フォード/シヴォレーのKD生産車との圧倒的な競争力の差で、1933年の時点では、『五馬力時代に登場した四輪各車は、すでにその多くが姿を消していたのである。』
 下表は(③-6、P170)の記述を元に列記した表だが、アッセンブル(組立)車の時代が既に終わりを告げた1936,7年頃になると、上表からの“生き残り組”はダットサン、オオタ、京三及び筑波(企業母体は異なるがローランドの後継として)だけだった。
 以下も前々回記事の(15.4-11項)の再録だが、たとえば、JAPエンジン(3馬力)時代に栄え、上表にも名前のある、MSA号で有名な東京のモーター商会(15.4-27項参照)の企業規模は、1932年1月の統計では、従業員数が12名にすぎず、同時期の中小自転車部品製造企業より小さかった。『これは、同社がエンジンだけでなくほかの部品もほとんど製造しておらず、組立のみを行ったことを意味し、こうした状況は半国産企業に共通していたと思われる。』(⑤P142)日産横浜工場が、日本初の自動車量産工場として本格稼働を始めると、量産規模の敷居が高くなり、小型四輪車市場に於いては、小規模メーカーのほとんどが淘汰されてしまう。
 ダイハツについては既に記したので(15.7-27項参照)、残りのオオタ、京三及び筑波(ローランド/みずほ)の3社について簡単に記して、今回の記事を終えたい。それではまず初めに、オオタ自動車から。(ちなみに下表の「国益号」は、3馬力オート三輪時代に全盛を誇った「ウェルビー号」(15.4-33項参照)の名称変更だ。詳しくは(③-15、P170~P171)を参照されたい。)
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17.5-2戦前のダットサンのライバル、オオタについて
 オオタ自動車と「オオタ」号についてはwikiがかなり詳しいし、内容も充実している。そこで超手抜きだがwikiをコピーしてさらに簡略化し(=この記事中のオオタ車解説の存在価値がほとんどなくなるが!)、+若干の補足をしておく。

17.5-2-1創業者の太田祐雄について
 茨城県出身の太田祐雄(1886年 - 1956年)は小学校卒業後、酒造家に奉公に出されたが、生来の機械好きと手先の器用さから、蔵の主人に見込まれて酒造工場の機械化に手腕を発揮した。長じて21歳で上京し、芝浦製作所で工員として本格的な工作技術を身に着けた。
 1910年からは、元軍人の男爵・伊賀氏広による飛行機開発研究を手伝った。しかし伊賀の飛行機開発は、試作機の横転事故で太田祐雄が負傷するなど失敗続きで、テストを繰り返しても飛行することができず、1912年初頭に伊賀は航空機開発断念に追い込まれた。
(まったくの余談というか、興味本位になるが、この「伊賀男爵」(伊賀氏広)という人物がかなり面白い。失敗に終わった伊賀のプロジェクトに関わった、太田はじめ関係者も痛手を被ったが、『伊賀男爵のほうは、さらに無念だった。「伊賀式飛ばず」の新聞記事を見た土佐の古老達は親族会議を開き、御家の将来のためと家督を嫡出に譲り謹慎させられてしまう。~(さらにいろいろとあり)~ ついには隠居を余儀なくされた』(③-14、P169)。しかしその後立ち直ったようで、wikiによれば「日本デイゼル」の設立に参加、設立後は営業部長を務めたという。画像は以下のブログの「板橋の鳥人・伊賀氏広」第三話より http://akatsuka-tokumaru.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/index.html。)
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http://akatsuka-tokumaru.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2008/03/13/1.jpg
 1912年6月、伊賀が開発用に所有していた足踏み旋盤を譲受し、これを元手として巣鴨郊外に個人経営の「太田工場」を開業する。太田工場では、教材用の小型発動機、模型飛行機、さらにオートバイ用ピストンやピストンリングの製造を行なった。

17.5-2-2最初の試作車、「OS号」の完成
 1917年には東京市神田区の柳原河岸に工場を移転、自動車や船舶用エンジン修理を本業とする傍らで小型自動車の試作に取り組む。
 1918年には友人・矢野謙治らが『イギリスの雑誌などを参考に、約950ccの水冷4気筒OHVを設計し、その図面を太田の所へ持ち込み、試作してみることを勧めた。これが太田の1号車、OS号に搭載するエンジンとなる。』(③-14、P173)
 1919年、矢野らが設計したエンジンを、太田は独力で完成させて、シャシーも製作し、ボディを架装しないままのベアシャシーに座席のみを取り付けて東京-日光間往復を敢行した。オートモ号、リラー号や後のダットの場合もそうだったが、この時代の真っ当な小型自動車の開発者たちは、実路による耐久試験という関門を自らに課していたのだ。
 その後、資金難から計画は頓挫しかけたが、資金協力者が現れて、1922年、試作シャシーに4座カブリオレボディを架装し、最初のオオタ車となる試作車「OS号」(OHV4気筒965cc9馬力・全長2895mm・車両重量570kg)がようやく完成、公式に登録されてナンバープレートも取得した。
 1923年、OS号を市販のため生産化すべく、出資者を集めて「国光自動車」を設立したが、同年9月1日の関東大震災で工場設備が全焼、自動車生産計画は頓挫した。OS号は祐雄の処女作で1台のみの試作車ではあったが、完成度は一定水準に達しており、祐雄自身が常用して、1933年(昭和8年)までの10年余りで約6万マイル(約96,500km)を走破した。
(以下からの2枚の画像は、「タマチ工業」のHPよりコピーした。https://tamachi.jp/about/history.php 下は「OS号」の写真だ。名前の由来はO=太田、S=祐(すけ)雄の姓名から名付けられた。)
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https://tamachi.jp/about/images/history-img1922.jpg

17.5-2-3小型車市場への再挑戦
(以下もwikiの簡略版で恐縮です。)1930年、神田岩本町に工場を移転、個人経営の太田工場を再開業して再起を目指す。そしてダット自動車製造と同様に、小型車の規則改定(350cc⇒500cc)の動きを受けて、水冷直列2気筒サイドバルブ484cc・5馬力(法規制の出力制限による公称)の「N-5」型エンジンを開発、OS号の4気筒エンジンを元に半分にしたようなものであったが、このエンジンは1930年の博覧会に出品され、海軍に参考購入されている。
 翌1931年、N-5エンジンを搭載した四輪小型トラックを試作、再度自動車開発に乗り出した。もっとも経営は相変わらず苦しく、すぐに市販自動車を市場に提供できる態勢にはなかったため、太田工場ではエンジンの単体販売および開発を優先した。

17.5-2-4 750ccオオタ車の完成
(またまたwiki参考で恐縮です。)祐雄は困難な状況の中で、小型車の規制緩和を見越して、やはり水冷直列式サイドバルブ型だがより上級クラスの4気筒エンジン開発を進める。
 1932年には748ccのN-7型と897ccのN-9型を完成させる。いずれもN-5に比べて重量増大を僅かで抑えつつ排気量・出力の大きな4気筒エンジンとして成立させており、祐雄の意欲を伺わせるものであった。N-7エンジンはほどなく排気量を736ccに縮小したが、戦後まで排気量拡大・強化モデルを生みながら生産される。
 1933年、750ccへの規定改定を見越し、750cc級N-7型エンジン搭載の小型自動車市販化に取り組む。梯子形フレームとリーフスプリングによる前後固定軸、機械式4輪ドラムブレーキという保守的設計のシャーシをベースとして、当時の常道として貨物車(トラックおよびバン)が製作されたほか、4人乗り乗用車も試作された。
 1933年8月、自動車取締規則が再度改定されて、同年11月以降、無免許運転許可車両の上限が750ccに拡大された。これと相前後して完成したオオタ750cc車は、太田工場での小規模生産ではあったが、1933年中からトラック・バンをメインとして市販を開始する。500kg積みのトラック・バン(カタログではそれぞれ「運搬車」「配給車」と称した)の他、4人乗りの2ドアセダンおよびフェートン、2人乗りロードスターがラインナップされた。これらはすべて小型車規格の全長2.8mに収められていたが、他にバンには小型モデルとパーツを共用しながら荷室を長くした全長3.03mの「中型配給車」もあり、このタイプのみ規格外で自動車運転免許を要した。初期の課税前価格は、トラック1,750円、セダン以外の乗用モデルと標準バンが1,850円、セダンが2,080円であった。
 750ccオオタの市販化に至ってからも、慢性的な資金不足は続き、太田祐雄個人の経営に過ぎない零細な太田工場の生産体制強化を困難としていた。当時の従業員は15人程度という町工場レベルで、1933年から1935年までのオオタ車累計生産台数は、貨物車と乗用車を合計しても160台に満たなかった。

17.5-2-5高速機関工業の設立
(相変わらずwikiです)この「太田工場」に出資することで飛躍の機を与えたのが、自動車産業進出を目論んだ三井財閥であった。これは太田祐雄の協力者の一人である藤野至人の熱心な尽力によるものである。
 当初、三井側はオオタにさほど関心を持っていなかったが、鮎川義介が日産自動車を発足させ、新興財閥「日産コンツェルン」として伸長しつつあったことが、方針転換のきっかけとなったと言われる。三井ではダットサンとオオタの両車を実地に比較し、品質面でもダットサンを凌駕するものであることを確認してから、出資に踏み切った。なお(⑪P45)によれば『(三井家の)三井高尚が個人的に応援したのが実情で、例外的な三井の資本参加だった。』との記述もあることを追記しておく。
 1934年から三井物産がオオタ車の販売代理店業務を開始し、続く1935年4月3日、三井は資本金100万円を投じて「高速機関工業㈱」を設立、「太田工場」の業務を承継し、園山芳造を代表取締役専務に送り込んだ。祐雄は取締役技術部長、野口豊は同じく取締役工務部長に就任した。
 高速機関工業は直ちに生産設備の拡張に着手し、翌1936年4月・東京市品川区東品川に、グリーソンの歯切機などアメリカやドイツから輸入した最新の工作機械を備えた、年産3,000台の能力を持つ新工場を竣工させ、従業員は一挙に250人に増えた。
(新会社は1935年に設立したが、新工場の建設が遅れたため、量産体制が整い、その披露式が行われたのは1936年6月29日だった。(㉖P226)だが下の写真の工場の様子からすると、日産横浜工場との規模の違いは歴然としている。年産3,000台という数字は、自動車製造事業法の許可会社となるための一つの基準で、実際は『月産100台規模の工場』(⑩P52)だったのだろうか。)
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 太田祐雄の長男・祐一は当時のヨーロッパ製新型車の斬新な設計に強い影響を受け、オオタ乗用車の設計を進歩的なものに改めていく。
(下は河口湖自動車博物館所蔵の、1937年型オオタOD型トラックで、画像は以下のブログより。https://minkara.carview.co.jp/userid/142472/blog/14472540/)
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 1937年型オオタ乗用車OD型には、換気性を良くするノンドラフトベンチレーション(三角窓)と、剛性を高めるX型クロスメンバー入りフレームが与えられていた。ボディは2ドアスタンダードセダン・デラックスセダン(ピラーレス構造)・フェートン・ロードスター・カブリオレと5種類も用意され、梁瀬自動車(現・ヤナセ)で外注製作された(梁瀬は「高速機関工業」に出資もしていた)が、デザインは祐一自身によるものだ。
(下は個人所有の1936年OD型フェートンで、画像はwebCGより。wikiではオオタを「当時の国産車の中では飛びぬけてモダンでスタイリッシュであった。」と絶賛しているが、個人的な好みでは、ダットサンのデザイン&配色の方が若干好きです。現存する個体が少ないので何とも言えないが。
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(以下の2枚の写真は下記のブログより https://minkara.carview.co.jp/summary/13069/58687/ 
 下は1937年のOD型フェートンだろうか。以下(②P178)より『~それでも、オオタ号が小型四輪車として存在感を示すことができたのは、性能的に優れていたからである。』後述するように、1938年からは航空機部品の下請け工場に転換されられてしまうので、戦前のオオタ車の量産期間はごく短かった。よりヨーロッパ調のように見える、完成度の高そうな1937年型の乗用車を見たかったが、現存しない?のが惜しまれる。)

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(wikiの丸写しを続ける。)とはいえ当時の日本では部品産業や工作技術も未発達であり、オオタ乗用車も2ベアリング・サイドバルブ式エンジン・4輪固定軸式サスペンション・木骨構造のボディ・前後機械式ブレーキという、トラックと大差ないスペックのままであった。1930年代後期の国際水準には到底追いついておらず、祐一は後年「不本意な製品であった」と回想している。
 またライバルであった日産自動車の「ダットサン」と比較すると、三井財閥の支援をもってしても生産規模には依然として大差があった(両車の最盛期であった1937年の年間生産台数は、オオタの960台に対し、ダットサンは8,752台で、文字どおり桁違いであった)。凝った設計による高い生産コストもあってオオタ小型乗用車の市場規模は自ずと限られたものとなり、販売の主力はあくまでトラックであった。
 一方日本のモータースポーツ原始期の1930年代後半にはモーターレースでも名をはせた。太田祐雄はモータースポーツ創成期から強い関心を抱き関与し続けたが、オオタ製のレース車はダットサンを凌駕していた。
(1936年6月に開催された日本最初の自動車レース(第1回全国自動車競走大会)の小型乗用車クラスのレースで、オオタはダットサンを破り勝利する(関連17.4-4項)。左側の「ブルーバレット号」が優勝車で、ドライバーは太田祐一だ。)
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 戦時経済体制に移行しつつあった1937年、資本が三井物産から立川飛行機に移り、航空機部品や消火装置の製造がメインとなっていく。『高速機関工業は年産能力3,000台という触れ込みであったが、新工場の完成が翌年にずれ込んだうえ、1938年からは石川島造船所系の立川飛行機の下請け部品製造に転換させられたため、“オオタ”は戦前期遂に量産されぬまま終わった。』(⑬P75)戦後のオオタ車については省略する。

17.5-3京三号と、筑波号(ローランド/みずほ)について
 ダットサン、オオタ以外の小型四輪車として、「京三号」、「ローランド/みずほ/筑波号」以外にも、ライト自動車製造の「スピリット号」、「ライト号」や、大阪の「国益号」、さらには三井物産造船部が試作した「やしま号」などにも触れたかったが、長くなったので掲記の2つを記して、今回の記事を終わりたい。

17.5-3.1京三製作所による「京三号」トラック
 まずは「京三号」を生んだ、「京三製作所」は有名な会社だが、wiki他より要約する。
 1917年、芝浦製作所の技術者であった小早川常雄(創業者)が、東京神田淡路町に東京電機工業として創立し、医療用電気機器、電気機械器具等の製造販売を開始する。その後、「京三製作所」と改名し(「京三」は京橋の京と三十間堀の三から付けられた社名)、本社および工場を鶴見区平安町に移す。
 交通信号機をはじめとする交通インフラ設備の製造販売をメインに活発に活動していくが、電気関係の製品を得意としていた関係で、1928年頃から、同社の数キロ先の横浜市子安海岸でKD生産が始まった日本フォードを始め自動車メーカーに対して、テールランプ、マフラー、電気ホーン、燃料計、配電器、付属品のレンチなどの自動車部品の納入を行っていく。この自動車部品事業への進出が、自社製小型車「京三号」誕生の伏線となっていく。以下からは(③-9、P173)、(㉖P214~P219)等を参考に記した。

17.5-3.1-1「京三号」(500cc試作型)の完成
『フォードからの発注部品が増えるに従い、自社ブランドの小型自動車の可能性を模索するようになった』(③-9、P173)京三製作所は、1930年10月、規制緩和のあった500cc小型車市場の、ただし市場で主流のオート三輪ではなく、四輪の(乗用車でなく)トラックの試作に乗り出す。この方針は終始一貫していた。
そしてその設計は『当時フォード車の車体(ボディ)メーカーとして最有力だった後藤車体製造株式会社(東京芝浦)の後藤久苗の元でバスなどのコーチを製作していた持本福松が京三製作所へ移って行ったものだ。』(③-9、P173)持本福松は東京市電気局で「円太郎バス」の製作に関係したのち、後藤車体に転じた技術者で、(web23、P52~P55)によれば、なかなか優れた技術者であったようだ。
 1931年11月には『同型の見本車五台を製作し、その企業化が社内で検討され、製造方針が決定されるとともに、引き続いて若干の台数が製造された。』(㉖P215)
 同年12月には販社の「京三自動車商会」が発足し、翌1932年3月から上野公園湖畔の産業館で開催された第4回発明博覧会に出品し、初めて一般公開された。(③-9、P173)
 ただし『この時点ではまだ車体寸法が五馬力規格に収まっておらず、内務省の認可は得ていなかったようだ。正式な販売は後のこととなる。』(③-9、P173)
 500cc時代の京三号はまだ試作の域を出ず、水冷単気筒エンジンが非力なこともあり売れず、Vツインエンジンを開発し、商品力を大きくUPした次の750cc時代から、販売が本格化する。
(以下の「京三号」の3枚の写真はすべて「京三製作所」のHP(web25)よりコピーした。下の500cc時代の京三号は、確かに少々大柄に見える。)
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https://www.kyosan.co.jp/images/company/pagePhoto_history_01.jpg

17.5-3.1-2改良型「京三号」(750cc量販型)の完成
 1932年1月、新規開発のVツイン750ccエンジンを積んだ改良型の「京三号」が完成する。持本福松が設計を主導したこのエンジンは、(web23)の考察によれば、同じVツインでも、たとえば蒔田鉄司設計のくろがね(日本内燃機)の、ハーレー模倣から派生した空冷狭角45°Vツインとの比較で、振動面他で有利な水冷90°Vツイン型を採用した、当時の日本では珍しいオリジナル性の感じられるエンジンだったようだ。この車種を本格的に量産させることに取り組む。
(下は1938年型というので750cc時代の最終型の「京三号」だ。)
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https://www.kyosan.co.jp/images/company/pagePhoto_history_03.jpg
 1937年6月には「トヨタ自動車工業㈱」、「太陽商会」の出資を得て、「京三自動車商会」を三社共同出資の「京豊自動車工業㈱」と改称、かつ増資して資本金1,000万円とした。この増資によって横浜市鶴見区市場町に新工場が建設され、同年12月には「㈱京三製作所」本体から京三号ならびに小型部品製造部門を分離し、その部門を「京豊自動車工業㈱」に移譲し、独立して生産が行われるようになる。(以上㉖P216)
(web23、P55)には『京豊自動車工業とは電装品に関して京三の協力を仰いだトヨタ自動車工業と京三自動車商会、大洋商会との共同出資により 1937 年、設立に到った会社であった』という記述があり、同社の役員には、豊田喜一郎が名を連ねていた。(㉖P216)
 現在の京三製作所のHPには、『昭和9年(1934年)、当時の株式会社豊田自動織機製作所(後のトヨタ自工)研究時代の発足から協力し、~』という記述があり、トヨタの製品ラインナップになかった、750cc以下の小型車の製造部門と、大衆車用を含む電装部品分野において、両社は協力関係を築いたようだ。
 以上のように、本格的な量産体制構築に向けて、手を打ってきたのだが、しかし時すでに遅し、1937年の日中戦争開始以降、使用燃料、生産資材の節約等の理由から、小型車生産に対して軍部から圧力がかかり、生産困難な状況に陥り、1938年 8月、「京三号」は生産中止を決定する。(㉖P217)によれば1931~1938年の間に生産された「京三号」は総計で、約2,050台とのことでオオタにほぼ匹敵する、かなりの台数だ。そのほとんどが750cc型だったという。
(下は京三製作所の手で近年レストアなった、「京三号」1937年型だ。質実剛健だが、外観からは完成度は高そうな雰囲気が感じられる。)
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https://www.kyosan.co.jp/images/company/img_gallery_03.jpg

17.5-3-2前輪駆動小型四輪車の先駆、筑波号(ローランド/みずほ号)
 前項の「京三号」が、地味で質実剛健な小型四輪トラックだったとすれば、この項で記す日本初の前輪駆動小型四輪車、ローランド/みずほ/筑波号はその正反対の華々しさで、『五馬力時代の東京で最も話題になった四輪の一つ』(③-9、P173)だった。
 生産台数はもっとも台数の多かった750cc型の「筑波号」でも、オオタや京三号の1/10にも満たなない130台程度にすぎなかったが、派手な活動だったためか残された資料も豊富で、以下(③-9、P173~P175)を基調に、(㉘P496~P499)、(㉖P237~P248)、(㉚P117~P121)及びwebの(26)などを主な参考にしつつ記す。

17.5-3-2.1生みの親、川真田和汪について
 まずは、ローランド/みずほ/筑波号誕生の立役者、川真田和汪(かずお(かずおみ?);本名は③-9、P174によれば川真田和夫?)について。1901年(明治34年)徳島県生まれで、幼いころ一家で朝鮮の京城(現在のソウル)に移り住む。冬の凍結路をバイクで走りまわり、『この「練習」が、後に日本のオートレース史に残る“逆ハン”走行を生み出したことは、当時の彼とて夢にも思わなかったに違いない。』(web26)
 本土に戻ってからは、神戸のオートバイ店で修業の後に1922年、21歳でオートバイ競走会に出走し、以後7年間、主にハーレーに乗りトップレーサーとして大活躍する。(③-9、P174参考。他の資料では履歴が若干異なる。)
 華やかな選手生活の一方で、次のステップのために独学で内燃機関の勉強も始めていた。川真田が最初に志したのはオートバイの製造だったらしい。この時期に、黎明期の日本の自動車工学の権威で、東大機械科で豊田喜一郎の同窓でもあった、東大助教授隈部一雄の知遇を得たようだ。
 しかし1929年頃、アメリカの有名な前輪駆動車、コードL29と出会い、魅了される。自分で2年ほど乗り回し、バラして、組み立ててまた乗るということを繰り返しつつ、次第にコード車を参考にした、小型の前輪駆動車の構想を思い描く。(㉚P117+③、P174)
(下の画像はhttps://www.supercars.net/blog/1929-cord-l-29/ より、低重心でスタイリッシュな前輪駆動車、1929年製のコードL29だ。このクルマに関しては、以前当ブログで記事にしたのでそちらを参照されたい。http://marupoobon.com/blog-entry-139.html
直列8気筒4,934 cc 125 ㏋エンジン(同じ企業グループ内のライカミング製)のアメリカンサイズのクルマだ。)

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https://supercars.net/blog/wp-content/uploads/2016/03/1929_Cord_L291.jpg
(でもやはりコードと言えば、次の810/812の方がメチャクチャかっこいい。画像は以下より。
https://www.autoevolution.com/news/money-can-buy-you-cord-automobile-trademarks-they-re-for-sale-86932.html )
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https://s1.cdn.autoevolution.com/images/news/money-can-buy-you-cord-automobile-now-its-for-sale-86932_1.jpg

17.5-3-2.2「ローランド号」試作車の完成
 1930年7月、意を決して名古屋市南区の「高内製作所」の工場を借り受けて、その開発に着手、工場主の内藤正一らとともに試作に没頭し、1年後の1931年7月に『まだ世界に類例の少ない小型前輪駆動車、「ローランド号」の試作一台を完成した。しかし、さらに研究を要する余地と改造の必要があり、改めてモデル車五台と部品五十台分を製作し、同年11月上野で開催された自動車市場博覧会へ試作五台中のフェートン、スポーツカー、ライトバンの三種を出品し一般から多大の賞賛を博した。その一台は東大助教授隈部一雄工学博士の推薦により、高松宮殿下の御買上の栄に浴したが、都合で一時研究製作を中止せねばならなくなった。』(㉘P497)以下からは(③-9、P175)から要約する。
 川真田は1931年4月以降、東京に住居を移し「ローランド自動車商会」を設立して出資者を募る活動を行うが、時代は昭和恐慌期で、事業化にまで至らなかった。
『前輪駆動という先進性だけが話題を呼び、一時的に注目されたが、そのじつ堅実な内容ではなく、販売できる完成度とはかなり隔たりがあったのである。』(③-9、P175)ローランド自動車商会は突然解散し、ローランド号が内務省の小型車の許可をじっさい受けていたかどうか、定かでないという。(③-9、P175)
(下はその「自動車市場博覧会」に展示した『ローランド号とローランド自動車商会の関係者達。向かって左から2人目が川真田和夫。~ 写真は完成したばかりの一人乗りロードスターで、ドアは左側一枚のみ。』(③-9、P172)画像は(web26:「トヨモーターヒストリー NO1」)よりコピーさせて頂いた。)
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(下の画像も(web26)より、「ローランド号と開発スタッフ(昭和6年・東京都芝浦:ヤナセガレージの前にて)で、右端が設計者の川真田和汪、2人おいた4番目が東京帝大の隈部一雄」車体製造はヤナセへの外注だったのだろうか?)
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 以下からは川真田と共に、試作車ローランド号の事実上の共同開発者であった内藤正一について、(③-9、P175)を要約して記す。

17.5-3-2.3エンジン製作者の内藤正一について
 内藤正一は若くして、鋳造技術を身につけて頭角を現し、三菱内燃機㈱向けの部品製作でさらに技術を磨きつつ1923年、24歳の若さで独立し「高内製作所」(後に「みずほ自動車製作所」と改称)を起こす。
 ここでいったん本題からは逸れるが、内藤は後に四輪よりも、オートバイの世界で有名になる。大阪の「中川幸四郎商店」(⇒二輪のアリエル(英)の関西総販売元だったが、1934年頃インディアン(米)350cc輸入エンジンを、アリエル型国産フレームに載せた独自のバイク「キャブトン号オートバイ」を製作)からの依頼で、アリエルのコピーエンジン(400~550cc)を製作、そのエンジンが「キャブトン号」に搭載された。戦前の生産台数は600台だったという。内藤は『名古屋地方の小型エンジンメーカーの先駆であり、また第一人者でもあった』(③-9、P174)のだ。
 戦後は中川幸四郎商店のキャブトン号の製造権を引き取り、疎開先だった愛知県犬山市南山に新たな工場をおこして、キャブトン号オートバイを製造した。(③-9、P175)
『最盛期は1953年(昭和28年)で年間生産台数2万台、資本金1億円、従業員800余名と陸王、メグロと並ぶ大型オートバイメーカーに急成長した。』(web28)内藤は「メグロ」、「陸王」と並ぶあの有名ブランド、戦後の「キャブトン号」オートバイの製作者だったのだ。(1956年に倒産。)
(下の画像は以下のブログ「キャブトンマフラーの元祖!」https://geek-japan.jp/?p=561 よりコピーさせて頂いた。キャブトンの名前の由来『「Come And Buy To Osaka Nakagawa」の頭文字をとってCABTON。日本語訳すると、大阪の中川幸四郎商店まで買いに来てや!』(同ブログより引用)も有名な話です。)
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https://i0.wp.com/geek-japan.jp/wp-content/uploads/2016/10/IMG_0674.jpg?w=1500&ssl=1
 話を戻し、ローランド号と、次項で記す「みずほ号」が搭載した、狭角26°空冷Vツイン495ccエンジンは、岩立喜久雄氏によれば、『英車マチレス、シルバーアロー号のコピーだったと考える』(③-9、P175)と、写真を示して論証している。
 しかしこれには異論があり、(web23、P87)で坂上茂樹氏は『その機関は 26°V型 2 気筒水冷で、最大出力 18HP/4,000rpm.、潤滑はドライサンプであったと伝えられているが、事実としてツインは誤り、かつ、挟み角 25°のV型 4 気筒ではなかったかと想われる。』としている。何らかの確かな根拠があって、そのような説を唱えていると思うのだが(ちなみに前者は2009.02、後者は2014.04の日付なので、前者の内容を踏まえての上だと思われる)、この記事では、エンジンを製作した内藤正一のオートバイ系のキャリアから推して、岩立氏の説の方を「正」ではないか、としておくが、何とも言えません。

17.5-3-2.4内藤正一による「みずほ号」の製造販売
 前前項で記したように、解散したローランド自動車商会では、50台分の部品を用意していた。『川真田らの計画が頓挫した後、その残部品を引き取ったのが、ローランドの共同開発者で、エンジン製作者も務めた内藤正一(1899~1960)であった。内藤は自らの高内自動車工業合資会社で再びこれを組み立て、みずほ号と改称して、名古屋地方で販売しようと試みた。』(③-9、P175)
 しかし、以下も(③-9、P175)の要約となるが、二人乗り(運転者+1人)仕様車で無免許運転許可願いを愛知県に申請するが、一人乗り仕様に座席を変更しないと製造許可が下りなかった。『内務省警保局の考え方が、三馬力時代の当初には「運転者のみ」であったものが、業者の申し出に応じ、いつのまにか「運転者以外一人乗り」と微妙に変化していた~ これが各都道府県に届くとなるとまた見解に相違が出た。』(③-9、P175)
 再三記したが、特殊自動車の認可の可否は、内務省警保局と車輛製造業者や販売業者だけでなく『地方長官や警視庁も含めた三つ巴のやりとり』(③-5、P164)の中で決定されてきた。地方長官や警察の“裁量権”は、法規の明文化が進むにつれて、次第に限定されていくが、みずほ号の許可申請のケースでは、好意的に受け取られなかったようだ。
『しかし、一人乗りでは売れるはずもなく、内藤は食い下がったものの、やがて暗礁に乗り上げてしまった。またしても内藤のみずほ号は、ほとんど売れずに終わったのである。~ 内藤正一は昭和8年(1933年)頃、みずほ自動車製作所と改称し、エンジン専門工場の道に戻っていった。』(③-9、P175)こうして四輪は諦めて、二輪の「キャブトン号」の道へとつながっていくのだ。
(しかし内務省の許可をじっさい受けていたかどうか、定かでなかった(③-9、P175)という「ローランド号」と違い、「みずほ号」は一人乗りの小型車として、内務省の認可を受けて、少数ながら正式に市販された。その事実は大きい。ローランド号の生産台数が20台だと、いろいろな文献で書かれているが、みずほ号の台数分が含まれていたように思える。「ローランド号」と「みずほ号」は明確に区別すべきだと思い、Web上で写真が探したが適当なものを見つけられなかったので、みずほ号の写真を、(③-9、P174;「轍をたどる」国産小型自動車のあゆみ」岩立喜久雄「五馬力時代の小型四輪自動車(1930~1933)」(月間オールドタイマー2009.02、№.104)の画像からスキャンさせて頂いた。
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17.5-3-2.5ローランド号の750cc改良版の実現に奔走
 内藤がローランド号の残務処理の一環として、みずほ号の製造販売に向けて奔走している『一方、川真田和汪はそのころ、いっそう改良を加えた750cc型の前輪駆動式小型車の設計を完了してその図面を東京丸ビルの汽車製造株式会社東京支店へ持ち込んで生産化の希望を訴えた。』(㉚、P117)以下は川真田和汪という人物のキャラクターについて(㉛P23)より 『積極的にいろいろな人物に近づき、知己となって活動の幅を広げていくタイプだった。』
 川真田の“交友関係”の幅広さと、その行動力には驚くばかりだ。上記の汽車製造株式会社の件も、東大隈部助教授の紹介だったという。以下(㉖P238)より、
『さらに、川真田氏は翌昭和七年(1932年)四月頃から約二カ月間にわたり、しばしば㈱石川島自動車製作所を訪れ、渋沢正雄社長や三宮五郎、楠木直道の両氏など上層幹部に会うなどして、いわば新ローランド号前輪駆動車の企業化を実現したいと希望した。
 また、一方では川真田氏が政界の鳩山一郎先生から、若干の資金援助を受けていた関係から、鳩山先生と友人関係にあった前記渋沢社長との話合いもあり、かつ汽車製造㈱の常務取締役東京支店長佐々木和三郎氏が、軍用自動車の関係から、前記三宮五郎氏と顔見知りの間柄にあり、双方乗り気になってその企業化の話し合いが軌道に乗りかけた。』

 こうしてローランド号の750cc新規格小型車版、「筑波号」の製造のために誕生したのが、「東京自動車製造株式会社」(※似たような会社名が多いが、16.3-4項の「東京自動車工業㈱」や、17.3-2.5項の「自動車製造㈱」とは全くの別の会社だ。念のため)で、「汽車製造株式会社」(大阪発祥の鉄道車輛製造工場)と「自動車工業株式会社」(16.3-3項、17.3-2.4項参照、石川島自動車の後身)が共同出資した、資本金30万円の会社だった。
 一方販売面では、汽車製造㈱の株式の全株を、大倉喜七郎が保有していた関係で、日本自動車系ディーラーの昭和自動車が総代理店となった。(㉖P239)
 よくぞここまで漕ぎつけたと感嘆するしかないが、川真田和汪の、持って生まれた才覚と言うほかない。しかし「自動車工業㈱」はほぼ同時期に、17.3-2.4項で記したように、小型車ダットサンの製造権を「戸畑鋳物」に無償譲渡しているのだから、『まことに不可解な企業行動と言わねばなるまい。』(㉓P76)大倉財閥系としても、日本内燃機(くろがね)との関係が微妙だったはずだ。
 なんだか、大阪で実用自動車製造が設立された時に、「博覧会キング」と呼ばれた稀代の大興行師、櫛引弓人(くしびきゆみんど)が“演出”にかかわったことで、クシカーやゴーハムに対して、実力以上の価値が付加された時のことを思い出してしまう。(15.3-3項「稀代の興行師、櫛引弓人が魔法をかけた?」参照)
 ただし大規模な投資を強いた実用自動車製造の時と違い、「東京自動車製造㈱」の成り立ちは、工場は東京城東区砂町にあった汽車製造の旧自動車工場を借用し、製造は後述するように完全なアッセンブル(組立)車だったため遥かに現実的で、『同社の陣容は 30 人程の小所帯に過ぎなかった』(web23、P87)という。この合理的な外注依存方式は、川真田の企業ポリシーでもあったようで、戦後大成功をおさめた二輪の「トヨモーター」の事業でも踏襲されることになる。
 しかし川真田の頭の中では、筑波号の市販車が工場からラインオフする前に、すでに次のプロジェクトが走り出していたようだ。『どうやら川真田は自分が中心になってつくったクルマの権利をあちこちに移譲したようで、自身で自動車を生産していく計画はなかったようだ。』(②P179)1932~33年の2年間、汽車製造㈱内で設計や試作に携わっただけで、『特許ならびに製造権を、新会社(注;東京自動車製造㈱)に移譲してどことなく去っていった。』(㉖P244+P239)
(下の写真の「筑波号」も(web26)からコピーさせて頂いたもので、ラジエターグリルは流行のハート型になったが、当時は「ハート型グリルの時代」(17.4-3項参照)だったのだ。)
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 筑波号の開発には、「自動車工業㈱」と「汽車製造㈱」の両社も一時的に参加したものの、『筑波号の原型はあくまでローランド号五馬力であり、ローランド号の特許等を継承して設計したものだ。』(③-15、P173)
 1934年に1号車が完成し、同年9月に前述の東京自動車製造㈱が発足するが、大きな変更点は、エンジンが750cc版になり、V2気筒から4気筒化(水冷狭角25°V型4気筒SV736cc)されたことだ。この変更は4気筒だったダットサンやオオタへの対抗もあっただろうか。以下(web23、P87)より、
『“筑波”ないし“ツクバ”の最も重要な機関・変速機(トランスアクスル)の製造は二輪車メーカー、目黒製作所に委託された。~もっとも、コードL-29 張りの“ツクバ”の前輪駆動機構は高コストであった上、お手本と同様、構造的欠陥を抱えていたらしく、130 台ばかりを販売した時点でその製造は打切りとなった。台数のほとんどは乗用車であったが、少数のトラックもこれに含まれていた。』
 当時目黒製作所では、自社製のオートバイとともに、他社向けのギアボックスや部品、オート三輪用のエンジンも供給していた。(16.5-5.16項参照)
 さらに(㉚P118)、(web27;JSAE)によれば、エンジンの製造も目黒製作所に託され、ボディは脇田ボディ(後の帝国ボディ)、4輪独立サスペンションを備えたフレームはプレス工業、ピストンは親会社の自動車工業、ラジエターは日本ラジエター製と、徹底して外注製作に頼り、『SKFのベアリングと初期に使ったゼニスのキャブレターだけが輸入品だった。』(㉚P118))
(下の画像はレストアなった、1937年製の「筑波号」セダンで、トヨタ博物館に展示されている。画像はhttp://www.faust-ag.jp/lifestyle/lifestyle054.php より。
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(話は余談気味になるが、ローランド号誕生の過程で不明なのが、トヨタ(というか、豊田喜一郎)との関係だ。(⑩P52)に以下のような記述がある。
『~ トヨタでも、小型車に興味を示し、ヨーロッパに行った際に学友であり顧問であった隈部一雄が、コンパクトなドイツのDKW車を購入し、それをもとに開発の準備が始められている。しかし、開発が軌道に乗る前に乗用車の生産に制限が加えられてプロジェクトは中止された。トヨタに出入りしていたオートバイライダーだった川真田和汪がつくった小型乗用車のローランド号は、当時としては珍しい前輪駆動車であるのは、このDKWを手本にしたものだからであろう。』(㉗P187)にも、ローランド号の試作について、コードL29に加えて『DKWフロントも参考にしながら~』という記述がある。
(下の写真は、前々回のオート三輪の記事の15.4-7項からの転載で、以下のブログからコピーした。https://dkwautounionproject.blogspot.com/2017/07/framo.html 
1928年製のDKW三輪車の宣伝コピー(ドイツ本国向けの)で、DKW製2ストロークエンジンを前輪上部に取り付け、チェーンで前輪を駆動していた。同形車は日本にもかなりの台数が輸入されて好評を博したという。低重心設計のため、日本製のオート三輪よりコーナリング時の安定性が高く、逓信省が郵便車に採用したほどだ。その鋼板フレーム構造は、後のマツダ製オート三輪の設計に影響を与えたといわれている。オート三輪の世界では、DKW製の前輪駆動型三輪車は、日本でも早くから知られた存在だった。)

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https://2.bp.blogspot.com/-68g8t90qWno/Uu5EHNy5FzI/AAAAAAAAdEY/lR_-Hq4Gy-I/s640/Framo+-1928.jpg)
(下は名古屋市内にあった株式会社水野鉄工所が戦前に生産した、前輪駆動方式のユニークなオート三輪「水野式自動三輪車(1937年製)」で、前輪の左にエンジンとトランスミッションを、右にラジエターと燃料タンクを配置していた。戦前に約3,000台作ったというから相当な台数だ。ミズノの地元の愛知県内では、最盛期はマツダより販売台数が多くダイハツに次いで2位だったという。画像はトヨタ博物館より。機構が四輪のように複雑化しないオート三輪の世界では、戦前は前輪駆動がけっして珍しくなかったのだ。詳しくは15.8-29項「東海地区が激戦だった」を参照してください。)
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(下の画像は「1932 DKW Front F1」で、「1931年から1942年のあいだ~アウディの工場で、合計25万台以上のDKW Frontシリーズモデル(第1世代のF1から最終型のF8まで)が生産」(以上Audi Japan Press Center)されたというから、大ヒット作だ。2ストローク横置き直列2気筒584 ccエンジンを搭載した前輪駆動車だ。前項で記したように、トヨタは小型四輪車に対しては、京三製作所の「京三号」に出資しているのだが、隈部/川真田そして豊田喜一郎の3人の頭の中には、500/750cc級3/4輪小型車の一つの理想像として、DKWのことが、イメージされていたのだろうか。画像は以下より。https://www.flickr.com/photos/geralds_1311/3847200425)
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☆2022.11.13追記:ここのところ、次のブログ記事のための下調べをしているところだが、トヨタ自動車のHPの“トヨタ自動車75年史”に、「EA型小型乗用車の試作」として、『1936(昭和11)年、東京帝大工学部助教授の隈部一雄がドイツで購入した小型乗用車DKW(前輪駆動車)が、芝浦の研究所に届けられた。豊田自動織機製作所自動車部では、この車を分解・スケッチして、図面を作成することとし、豊田英二がエンジンを、池永羆が足まわりやその他を担当した。そして、1937年6月ごろから刈谷の自動車組立工場の一角で、EA型小型乗用車として試作に取りかかった。~(その後1940年に)EA型小型乗用車10台の試作車が完成した。』と記されていた。2ストローク2気筒、584cc18㏋エンジンを搭載していた。
https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/text/taking_on_the_automotive_business/chapter2/section5/item8.html
下の写真はそのEA型小型乗用車のシャシーを利用した小型電気自動車ということで、同じくトヨタHPからコピーした。
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https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/text/taking_on_the_automotive_business/chapter2/section5/images/l01_02_05_08_img07.jpg
あらためてトヨタの社史も確認してみると(トヨタ自動車30年史;P160)同様に記されており、「~小型乗用車の技術保存の意味もあって、昭和15年ころには、上海工場で」これら小型乗用車の試作、研究がつづけられた。」とある。これら試作車と「ハネダ」との関連は不明だ。
 さらに川真田とトヨタ(喜一郎)との関係について追記すると、豊田喜一郎を描いた伝記小説(豊田喜一郎 夜明けへの挑戦:木本正次著(学陽書房刊文庫版)P136)に『~喜一郎は、一そう足繫く東京や仙台に通った。東京では、隈部を顧問に、いよいよ車種の決定へと急いでいたし、また部品では~川真田和汪というパーツの専門家を相談役として、その案内で部品工場という部品工場を調べ歩いた。』という一節がある(P150にも川真田関連の記載あり)。1934年のこととして記してあり、その協力関係が「筑波号」プロジェクトの離脱直後からであったことがうかがえる。以上、追記終わり。

((web26-2)を読むと、隈部を介した豊田喜一郎と川真田の三者の絆の深さが判る。豊田と隈部は『東京帝大機械工学科の同期生であり、共同で卒論を書いた仲』(web26-2)であり、隈部は戦後トヨタ自動車の副社長に就任している。
筑波号のプロジェクトから離れ、『どことなく去っていった』(㉖P244)川真田だったが、その後、当時池貝鉄工所に勤めていた和井田次郎と組んで、東京蒲田の梅屋敷に、「ハネダ・モータース社」を設け、2サイクル2気筒エンジンの開発に取り組む。
 そして、『石井某氏の注文で、その「ハネダ」エンジンを使って、純レーサーを作ってくれと頼まれ、前輪駆動式の「ハネダ」純レーサー一台を完成させる。そのボディは総ジュラルミン製で、~ きわめて優秀なレーサーであった。』(㉖P245)
 注文主の石井某氏は、例の1937年10月25日に開催されたレース(17.4-4項及び17.5-2-5項参照)に、自分ではなくトップレーサーとしての腕を持つ川真田に出場するよう勧め、川真田は『乗りたくなかったが止むなく出場』(㉖P245)したのだという。
(川真田自ら「夢の小法師」と名付けたそのレーシングカーの画像(二つ下の写真です)と以下の文章のコピー元は⇒です。https://twitter.com/racerssugo/status/1187690937083809792
『鬼才·川真田和汪氏が1937年に設計·製作した「夢の小法師」です。水冷2ストローク2気筒エンジンを前輪駆動シャーシに搭載、ボディは総ジュラルミン製です。川真田氏自らの運転で多摩川サーキットのレースに出場、ダットサンより速く走り予選1位。レース界に衝撃を与えました。』1回走るとオイルを抜いて、掃除に手間取り決勝は棄権したという。(㉖P245)整備性に難があったようだ。オオタも棄権した本レースでは、社を挙げて必勝態勢で挑んだダットサンが勝利したのは既述の通りだが、日産陣営からすれば冷や汗ものの展開だっただろう。
 以下の想像は、まったくの“邪推”だと言われそうだが、自分には戦後の第2回日本グランプリで、プリンスの圧勝が確実視されたレースに、いきなりトヨタ自販が裏から手配したポルシェ904が登場した時の“仕掛け”とイメージがダブる。
(このブログの記事の13.7項及び、「⑬ 第2回日本グランプリ(1964年)“スカイライン神話の誕生”」http://marupoobon.com/blog-entry-176.html の記事を参照。「プリンスも宣戦布告し、スカイラインGTを投入」するが、いきなりそこにバリバリのレーシングカー、「伏兵、ポルシェ904が登場」するのだ)。

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https://www.weibo.com/ttarticle/p/show?id=2309404316017575753825&mod=zwenzhang?comment=1
 川真田はその後、トヨタ自動車工業研究所嘱託勤務となり、戦後を迎えることになる。
 ここからは戦後の話になり、以下からは(web26-2)の要約だが、豊田喜一郎は、戦前にも小型三輪車を考えていたが、戦後GHQの統制の枠外となっていた小型三輪自動車の設計を川真田のグループに依頼、『川真田は三人乗りの小型FFライトバンを頭に描き、2サイクル2気筒600ccで車名を「HANEDA」と決めていた。』しかし1947年に自動車の生産統制が緩和され、トヨタは隈部が設計したトヨペットSA型の生産に踏み切り、川真田の設計した三輪乗用車は製作されることなく終わってしまった、という。
((㉖P248)によると「ハネダ」エンジンは『かなり多数のエンジンを製造した』とあるので、「ハネダ・モータース社」の“本業”が「ハネダ」エンジンの製造販売だったのは間違いない。
 しかし、以下は想像だが、川真田による戦前の、2ストローク2気筒エンジン及び前輪駆動の小型車、「ハネダ」の開発は、官民一体の体制で“大衆車”の立上げに奮闘中な上に、統制経済体制下で身動きの取れなかった本体のトヨタの外側におき、豊田喜一郎と隈部共に高い将来性を感じていた、3/4輪小型車の先行開発を担う、別働隊的な役割をも兼ねていたようにも思えるのだが、如何だろうか。)

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https://pbs.twimg.com/media/EHuGi_iVUAA6_xg?format=jpg&name=4096x4096
 川真田和汪の、自動車の世界に於ける最大の偉業は、戦前当時としては異端だった、これら一連の小型前輪駆動四輪車の開発ではなく、戦後の混乱の中の二輪車の世界にあった。「トヨモーター」という、バイクモーターから発したオートバイメーカーを立ち上げて、オートバイの定番書の(㉙P109)に『~ホンダカブの出る前は全国のトップメーカーではなかったかと思う。~ 一時はトヨタ自動車よりも利益が多かったと噂された』と記されるほどの隆盛を、短い期間だったにせよ、築き上げたことだ。(下の画像は(web26)より)
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https://pds.exblog.jp/pds/1/201908/31/92/a0386392_16051746.jpg
 詳しくはその盛衰を記した(web26):「トヨモーターと天才ライダー川真田和汪」(上の画像も同ブログより)+(㉙P109~P110)あたりをご覧ください。個人的には(web26)のトヨモーターの話の方が、多少モヤモヤ感が残るローランド/筑波号あるいはハネダなど、一連の前輪駆動小型車の開発よりも、明快な話なので面白いと感じました。
(下の画像は以下のブログより、『荷物を積んで走るトヨモーター』 戦争というスクラップアンドビルドがあって、なんだかこの記事の振り出しの「スミスモーター」の時代(17.5-1.2項参照)に戻ったみたいだ。http://as-ao.cocolog-nifty.com/blog/2018/06/post-0f1e.html
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http://as-ao.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2018/06/29/dsc03387.jpg


― 引用元一覧 ―
② :「写真でみる 昭和のダットサン」責任編集=小林彰太郎(1995.12)二玄社
②:「苦難の歴史 国産車づくりの挑戦」桂木洋二(2008.12)グランプリ出版

③:「轍をたどる」国産小型自動車のあゆみ」岩立喜久雄 月刊オールド・タイマー(八重洲出版)連載記事 ※以下「月刊オールド・タイマー(八重洲出版)」」を略
‘③-1:「三馬力時代特殊自動車の興隆(1925~1930)」(2007.12、№.97)
‘③-2:「西のリラー 東のオートモ(前編)」(2007.08、№.95)
‘③-3:「小型四輪乗用車の始まり」(2007.04、№.93)
‘③-4:「ダット号五馬力の登場」(2009.08、№.107)
‘③-5:「五馬力時代の自動三輪車(1930~1933)」(2008.02、№.98)
‘③-6:「750cc時代の小型四輪車」(その1、1933~1937)(2010.08、No113)
‘③-7:「西のリラー 東のオートモ(後編)」(2007.10、№.96)
‘③-8:「五馬力時代から750cc時代へ(1930~1933)」(2010.04、№.111)
‘③-9:「五馬力時代の小型四輪自動車(1930~1933)」(2009.02、№.104)
‘③-10:「スミスモーターと特殊自動車」(2006.08、№.89)
‘③-11:「三馬力時代のビリヤス系三輪と四輪」(1925~1929)」(2007.06、№.94)
‘③-12:「国産電気自動車と特殊自動車の始まり」(2006.10、№.90)
‘③-13:「大型リヤカーの足跡とビリヤスエンジンの輸入」(2007.02、№.92)
‘③-14:「オオタ号五馬力の登場」(2009.04、№.105)
‘③-15:「750cc時代の小型四輪車」(その2、1936~1938)(2011.04、No117)

'④:「国産車100年の軌跡」別冊モーターファン(モーターファン400号/三栄書房30周年記念)高岸清他(1978.10)三栄書房
‘⑤:「日本自動車工業史―小型車と大衆車による二つの道程」呂寅満(2011.02)東京大学出版会
‘⑥:「20世紀の国産車」鈴木一義 (2000.05)三樹書房
‘⑦:「1928 オースティン対1936 ダットサン」小林彰太郎 カーグラフィックの記事(二玄社)
‘⑦-2:「  〃  」「オースティン/ダットサン覚え書」五十嵐平達( 〃 )
‘⑧:「日本自動車工業史座談会記録集」自動車工業振興会(1973.09)
‘⑨:「小林彰太郎の日本自動車社会史」小林彰太郎(2011.06)講談社ビーシー
‘⑩:「企業風土とクルマ 歴史検証の試み」桂木洋二(2011.05)グランプリ出版
‘⑪:「日本における自動車の世紀」桂木洋二(1999.08)グランプリ出版
'⑫:「企業家活動でたどる日本の自動車産業史」法政大学イノベーション・マネジメントセンター 宇田川勝・四宮正親編著(2012.03)白桃書房
‘⑬:「鉄道車輛工業と自動車工業」坂上茂樹(2005.01)日本経済評論社
‘⑭:「日産の創業者 鮎川義介」宇田川勝(2017.03)吉川弘文館
‘⑮:「日本のディーゼル自動車」」坂上茂樹(1988.01)日本経済評論社
‘⑯:「日本財閥経営史 新興財閥」宇田川勝(1984.07)日本経済新聞社
‘⑰:「日本の自動車産業経営史」宇田川勝(2013.10)文眞堂
‘⑱:「ダットサン 歴代のモデルたちとその記録」浅井貞彦(2011.08)三樹書房
‘⑲:「日本自動車産業の成立と自動車製造事業法の研究」大場四千男(2001.04)信山社
‘⑳:「ドキュメント昭和3 アメリカ車上陸を阻止せよ」NHK取材班=編 (1986.06)角川書店
‘㉑:「(“僕のダットサンパラダイス”記事の中の)「オールドダットサン入門」月刊オールド・タイマー(八重洲出版)(2008.06、No.100)
‘㉒:「一枚の写真から(ダットサン14T型ライトバン)」五十嵐平達(CG88-03、P247)二玄社
‘㉓:「鉄道車輛工業と自動車工業」坂上茂樹(2005.01)日本経済評論社
‘㉔:「ダットサンの50年」別冊CG(1983年5月)二玄社
‘㉕:「日本自動車史Ⅱ」佐々木烈(2005.05)三樹書房
‘㉖:「日本自動車工業史稿 3巻」(昭和6年~終戦編)(1969.05)自動車工業会 「日本二輪史研究会」コピー版
‘㉗:「世界と日本のFF車の歴史」武田隆(2009.05)グランプリ出版
‘㉘:「日本自動車工業史稿 2巻」(大正~昭和6年編)(1967.02)自動車工業会 ※「日本二輪史研究会」コピー版
‘㉙:「日本のオートバイの歴史」富塚清(2004.06 新訂版第2刷)三樹書房
‘㉚:「国産車100年の軌跡」別冊モーターファン(モーターファン400号/三栄書房30周年記念)高岸清他(1978.10)三栄書房
‘㉛:「小型・軽トラック年代記」桂木洋二(2020.03)グランプリ出版

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web〈18〉:「快進社 ダット號(脱兎號)から、実用自動車製造、戸畑鋳物自動車部 小史」トヨタスポーツな気分
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file:///C:/Users/Kohase/Downloads/AN00234698-19960400-00698117.pdf

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マルプーのぼんちゃん

Author:マルプーのぼんちゃん
【ぼんちゃん】
推定年齢12歳(2020年6月現在)ぐらいの、オスのマルプー犬のぼんちゃん。年より若く見える。マルプーではちょっと稀な“キレカワ系”💛 性格は、おとなしくてやさしくて人懐っこくて庶民的?でも対犬ではかなり臆病。散歩だけはたくさん(1日1~3時間ぐらい)させてもらっている。選択の余地なく、毎日おっさんの面倒をみている。
【おっさん】
推定年齢60歳+のシガナイ初老の独身オヤジ。ひょんなことからぼんちゃんと2人で暮らすことになったが、おかげさまで日々シアワセに暮らしている。

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